しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

November 2014

 リヒャルト・シュトラウスを楽しむには,また,「リヒャルト・シュトラウスを理解するには,彼の生きた時代背景を知らなくてはいけない」のだそうです。
 彼の時代には,ロマン主義はもう通用しなくなっていました。高雅な貴族社会は過去のものとなりつつあり、実利と戦争の時代が来ていたからです。リヒャルト・シュトラウス自身はそんな時代が嫌だったけれども,現実はしっかりと見つめていた上で,というか,そんな時代だからこそ,滅びゆくロマン主義の最後の燃えかすを,せめて豪華に彩って葬ろうと考えました。彼は,自分の作品で「これから来る時代より,これまでの時代のほうがすばらしかった」といいたかったのです。
 だから,「これまで栄華を誇ったハプスブルグ家を代表とするヨーロッパの王侯貴族社会が没落していく,その黄昏を予期したようなすばらしい芸術を作ったと考えて彼の音楽を聴きなおせば一興に値する」ということになるのです。

 では,結論です。
 リヒャルト・シュトラウスのよさとは
  ・・・・・・
 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
  ・・・・・・
ということなのです。
 なんだか,徳川幕府の幕引きに,勝海舟の「氷川夜話」を読むみたいなものですな,これでは。

 私は,これだけのことを調べたあとで,テレビで放映していたザルツブルグ音楽祭2014のオペラ「ばらの騎士」を見ました。そして感動しました。これはやっぱリすごい,と。それとともに,オペラといっても,これはだたの大衆演劇じゃあないか,とも思いました。物語としてとてもおもしろくて,3時間30分を越えるのに退屈しませんでした。でも,やはり,音楽は心に残りませんでした。このことはモーツアルトのオペラとは真逆です。
 たとえば,「魔笛」を見たあとなら,魔笛に出てきたアリア「鳥刺しパパゲーノ」を口ずさんだりできるでしょう。「ばらの騎士」ではそれができない…。
 しかし,そのことこそが,リヒャルト・シュトラウスの狙いだったのです。だから,彼のオペラ「ばらの騎士」にはアリアがありません。彼は,クラシック音楽なんて高尚なもんじゃないのですよ,没落する貴族と同じでね,音楽なんて現実のバックミュージックに過ぎないんですよ,とほくそ笑んでいるわけです。だから,こころに染みるわけがないのです。
 もっと大きな音を出したいのを我慢して,あるいは,自分の技功を出すときもなく,いつもこころに染みる音楽を期待されているオーケストラのメンバーが,たまには俺のうまいところを聴いてくれ,という欲求不満を解消してくれる音楽なのです。聴く側は,そうしたオーケストラのメンバーの腕自慢を適当に聞き流したり,ときには,ひいきのプレイヤーの技功に感動したりしながら,あるいは,なんとなくほかごとでも考えながら,娯楽音楽として,または,バックミュージックとして,まだ演奏してるわ,お上手ね,程度の聴き方でいいのです。
 そういった意味では,「英雄の生涯」と「最後の4つの歌」は,聴く側のこころに染みてしまうから,リヒャルト・シュトラウスの狙いがはずれているのです。

 こうして,私は調べたことが本当によくわかりました。やっと,私に,リヒャルト・シュトラウスがほほ笑んでくれたようです。ぜひ「ばらの騎士」を見てから,この文章を読まれることをお勧めします。そうすれば,とても納得していただけると思います。私自身がそうであったように。
魔笛2

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 愛知県稲沢市祖父江町の名産品は「ぎんなん」です。
 銀杏の樹はご存知イチョウ。
 冬になると,この地域には日本海からの北風が伊吹山を越えて吹いてきます。これを「伊吹おろし」とよんでいます。この伊吹おろしが吹きつけるために,防風林を兼ねて,古くから神社・仏閣・屋敷のまわりにイチョウが植えられてきたのだそうです。現在,イチョウの樹は10,000本以上あって,中には樹齢100年を越えるものも約100本あります。
 そこで,晩秋になると黄金色に染まったイチョウの立ち並んだ素晴らしい風景が一望できるというわけです。

 この時期,「そぶえイチョウ黄葉まつり」が開催されます。
 近年の町おこしブームも手伝って,年々規模が大きくなってきたこのおまつり,村の狭い道路には車が行き交い,無料のシャトルバスが運行されたりして,このときだけは,人があふれます。特に,今年は,11月下旬の3連休天候に恵まれたので,大変な賑わいでした。
 稲沢市祖父江町山崎にある祐専寺(ゆうせんじ)という古寺には,樹齢推定250年のイチョウがあって,山崎地区に植えられる品種の原木とされています。このお寺の周りには,たくさんの屋台が出て,お祭りムードを盛り上げるのも,また,日本の秋らしき風景です。
 私は,地元の日本料理店「とき」で,ぎんなんづくし御膳を味わうのです。

 イチョウは生きている化石ともいわれて,その起源は今から2億5,000万年前の古生代末2畳紀から中生代3畳紀にまでさかのぼり,中生代のジュラ紀から白亜紀にかけて最も繁栄した植物の一種でした。
 新生代に入り,氷河期を迎えて多くの植物とともにイチョウ属の多くもこの時代に絶滅しましたが,比較的暖かかった中国中部地域の物だけが絶滅を免れて,現代に生き残ったと考えられています。現在,イチョウは1科1属1種です。イチョウが日本に渡来した時期ははっきりしないのですが,中国から仏教の伝来とともに導入されたという事が定説となっています。

 ぎんなんの生産を目的とした栽培は祖父江町が最も古いとされていて,次第に大粒種の穂木が広まって,集落全体に普及していきました。
 イチョウの樹には,雄と雌があって,4月中下旬に雄花と雌花が別々の樹に咲き,風で花粉が運ばれて受粉しています。食用を目的に品種の選抜や淘汰が行われ,祖父江町内で栽培されている品種には金兵衛,久寿(きゅうじゅ),栄神(えいしん),藤九郎(とうくろう)などがあります。
 金兵衛は,粒は中粒でやや縦長の果形。貯蔵性が最も優れています。
 久寿は,粒は大粒で丸みのある果形。貯蔵性がやや劣ります。
 栄神は,粒は中粒でやや縦長の果形。貯蔵性に優れています。

 ぎんなんは,「ぎんなん割り器」というペンチのような道具があって,殻にヒビを入れてから紙の封筒に塩適量とともに入れ,封筒の口を折り畳んで電子レンジでチンします。ギンナンの殻がパンパンと弾ける音がしたらレンジを止めて,封筒をシャカシャカ振って塩と馴染ませれば出来上がりです。
 酒の肴として,おいしく頂けます。

 リヒャルト・シュトラウスは,もともと,「改革者」ではなく「保守的」な作曲家なのだそうです。だから、何かを新しく創始するということには関心がなくて,では何をしたかというと,「芸術性と娯楽性が両立するオペラ」を終わらせたという役割があったということだそううです。
 ワーグナーが楽劇を創始した後,後世の作曲家はオペラの作曲というものにとても悩んだのです。ちょうど,ベートーヴェンが交響曲を確立してしまった後のブラームスが交響曲の作曲に悩んだ,それと同じようなものです。

 当時の聴衆は,もはや、長い時間拘束されるワーグナーの楽劇に辟易していて,オペレッタやメルヘン・オペラなど,娯楽性の強いものに惹かれていきました。
 芸術性を突き詰めていった結果,一部の作曲家,たとえばシェーンベルクがたどり着いた先は「無調」だったのですが,しかし,無調なんていう小難しいことは,オペラの作曲にとっては真逆だし,また娯楽性,という観点からもこれほど厄介なものはないのです。その一方で,リヒャルト・シュトラウスは,当時,「ワーグナー以降のドイツ・オペラの継承者」とみなされていました。
 リヒャルト・シュトラウスに限らず,マーラーなども,また,小難しいシェーンベルクの方向性には批判的で,別の「芸術性」の模索を始めるわけです。それが,リヒャルト・シュトラウスの場合,オペラ「サロメ」や「エレクトラ」となっていったというわけです。
 このようにして,「芸術性」というものは,小難しい無調などに頼らずともできることを,彼は立証したわけです。

 しかし,当時の聴衆の興味は,それにも飽き足らず,さらに,ロココ(軽快で優美なもの。たとえばモーツァルトの「コシ・ファン・トッテ」),あるいはオペラ・ブッファ(娯楽性のあるオペラ。たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」)といったものに向いていったので,ワーグナーのオペラに対抗でき凌駕することさえできる「モーツァルト」らしさが,今度は,俄然,浮上してきたのでした。そこで,リヒャルト・シュトラウスは,不協和音,ロココ的様式,モーツァルト的な簡明さ,楽劇的な官能性,さらには,当時はやっていたウィンナ・ワルツなどの要素を咀嚼して,「ばらの騎士」を完成させて,圧倒的な成功をおさめたというわけです。
 このようにして,リヒャルト・シュトラウスは,「芸術性」と「娯楽性」が融合した最後のオペラを書いたのです。いってみれば,彼の作品をもって,「オペラの時代」を「終わらせちゃった」のです。

 さて,次回は,結論です。
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 ジョンソン・シティの帰りは,友人の親類を招いて,一族で,モンゴル料理店で会食をすることになった。
 こちらでは,こうしたときに,バイキング形式のレストランが人気で,今回私が連れて行ってもらったモンゴル料理店や,中華料理店などがある。
 場所は,サンアントニオの郊外だったのだが,帰宅の通勤ラッシュで,片側4車線のインターステイツは,あふれんばかりの車の洪水であった。最も渋滞するのは,日本でも同じように,2つの道路が合流するところで,それはすさまじい状態だった。それでも,のろのろと車は進み,やがて,再び,スピードを出して走れるようになった。
 車は,インターステイツを降りて,広い市街道路に入った。周りはレストラン街で,その一角にあったモンゴル料理のレストランの駐車場に車をとめた。

 こちらのレストランは,どこも店舗が大きくて駐車場が広いものだから,外見は小さく見えるのだが,中に入ってみると,日本では想像ができないほど広いものだ。壁には,大きなモンゴルの草原の絵があった。
 全員がそろうのをしばらく待った。最終的に,そこに,10人以上の人が集まった。
 食事は,バイキングで,フルーツやらデザートやらも自由に選べるのだが,メインディッシュとしては,麺類と野菜やお肉を好きなように選んで,それを店員に渡すと,料理してくれるというシステムであった。
 私も,見よう見まねで,好きなものをプレートに乗せて,店員に手渡した。
 店長らしき人は,もちろんモンゴル人であったが,私は,記念に一緒に写真を撮ろうと尋ねてみると,一旦奥に引っ込んで,料理をするときの帽子をかぶって現れた。このときに写した写真は,今,私の手元にある。

 こうして出てきた料理は,日本の焼きそばを想像してもらえばいいと思う。アジア人には,とても食べやすい料理であった。
 日本に帰ってから,モンゴル料理について調べてみた。
  ・・・・・・
 モンゴル料理は伝統的に,「赤い食べ物」(オラーン・イデー улаан идээ)と呼ばれる肉料理と,「白い食べ物」(ツァガーン・イデー цагаан идээ)と呼ばれる乳製品に大別されて,伝統的な遊牧の生活においては前者は冬季に,後者は夏季に食する季節サイクルを有する。主食として小麦や米が食べられるが,量的には肉が主食並みの量を占めることも多い。
  ・・・・・・
とあった。
 さらに,様々なメニューを調べてみると,火悶]面(ムンメン)というものが見つかった。
  ・・・・・・
 ムンメンとは,内モンゴルのバイノール地方(巴盟)の田舎料理で,大きな鍋に野菜や肉を煮込み,その汁の蒸気で蒸しあげ,最後に混ぜ合わせて作るのだそうだ。出来上がったものは,日本の焼きそば,焼きうどんのように見えるが,ムンメンの特徴はその歯ごたえで,蒸した麺のムチムチした食感は日本の麺にはないものだ。
  ・・・・・・
と書かれてあったので,私の食べたものは,これに違いない。
 しかし,今思い出しても,これは,ムンメンというよりも,焼きそばそのものであった。

 多くの人といろんな話をし,食欲も弾み,楽しいひとときであった。やがて,食事が終わり,同時に,この春の私のアメリカ旅行も終わりを告げることとなった。
 この旅でもいろいろなことがあったが,知らなかったことや知らなかったところへ行くことができて,とても有意義であった。
 明日は,早朝に空港に行き,日本に帰国することになるので,友人とも,今日でお別れであった。
 ホテルまで送ってもらって,また,再会を誓い,別れた。
 最後に,お土産として,テキサスワインをもらった。このワインは,日本に持って帰る途中で割れてしまうと困るので,この晩にホテルで飲み干してしまった。おいしいワインであった。

 管弦楽曲のよさがわからないということに対比して,リヒャルト・シュトラウスの歌曲や楽劇がすばらしいということは,多くの人が書いていました。たとえば,オペラ「ばらの騎士」は,優美なメロディーと,それに合ったベタベラなオーケストラが奏でられる楽しい作品です。オペラというと高尚なものに思えますが,「ばらの騎士」は,宝塚歌劇団のミュージカルみたいなものです。また,歌曲「4つの最後の歌」は,人間が作った音楽でもっとも美しいものといってもいいほどの超傑作です。
 このように,歌が入ると,リヒャルト・シュトラウスの音楽はまったく別人のように生き生きするのです。実際,リヒャルト・シュトラウスは,ワーグナーやモーツァルトと並ぶドイツのオペラ作曲家で,「オペラを聴かないでリヒャルト・シュトラウスを語るのはナンセンス」なのだそうです。

 そこで,次に,リヒャルト・シュトラウスのオペラについて調べてみました。 
 リヒャルト・シュトラウスのオペラには,あまり恰好のよい人物は出てきません。でも,「恰好のいい人物が,正義に燃えて,正しいことだけをする英雄譚だけを見て,人は満足するものなのでしょうか? リヒャルト・シュトラウスにしてみれば,そういうのは尊崇するワーグナーで最後にしていいと思ったのでしょう」ということでした。
 「リヒャルト・シュトラウスのオペラを聴くには,人間的な深い省察を鍛えるとよい」と書いてあるものもありました。人間には,弱い面や,よいときを懐かしむ心や,ずるがしこさ,妬み,そのほかにも,人と変わった面がたくさんあります。頭の中では,こうしたほうがうまくいくだろうとわかっていても,そのとおりにはなかなかできないものです。リヒャルト・シュトラウスは,そういう人間のマイナス面を単なるマイナスではなく,いかにも人間くさいおもしろさとして描いた人物なのだそうです。
 こうした話なら,私は納得できます。
 でも,この意見は,リヒャルト・シュトラウスのオペラの内容がおもしろいというもので,音楽がすばらしい,という答えではありません。

 リヒャルト・シュトラウスのオペラは,天才らしいセンスのいい作品多く,気張ってないところが好きだとか,ワーグナーが重いとか,イタリアもののオペラがダメとか,モーツァルトが子供っぽいと感じる人には丁度いいかも知れない,という意見もありました。
  ・・
 ウィーンに「ザッハトルテ」というお菓子があります。それは,コートのチョコレートが甘すぎて,毒のような味がするお菓子なのだそうです。それゆえに,大量の味のしないクリームをかけて食べるのだそうです。リヒャルト・シュトラウスの役割は,そのクリームであって,彼が包んでいるのは毒なのですが,だからこそ,その内側はとびきり甘くなくてはならないのですよ! といった面白いたとえもありました。
 これもまた,わかったようなわからないような,そんなお話でした。

 まだ続きます。
バラの騎士

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 ジョンソン大統領が大統領就任後も執務を行ったテキサスのホワイトハウスを見学して,そのあと,ジョンソン大統領の少年時代を過ごした家を見学した。
 小さな家であったが,部屋の中は,落ち着いた感じであった。
 私は,以前,カナダのプリンスエドワード島にある赤毛のアンで有名な,アンの家に行ったことがある。また,アトランタにある風と共に去りぬを書いたマーガレット・ミッチェルの家に行ったこともある。この家は,そういった家と共通する感じであった。 
 そのあとで,この生家とは道を挟んだ反対側にある,ジョンソン大統領とその妻,そして,一族の墓に行った。
 ジョンソン大統領は,この地を愛し,この地で生まれ,この地で生き,そして,この地に眠っているというわけなのである。
 このように,私は,不勉強で,行くまでほとんど知らなかったが,第36代アメリカ大統領とその家族を讃えた公園が,このサンアントニオ郊外の広大な敷地にあったのだった。

 あまり日本ではなじみがないが,もし,サンアントニオに出かける方があれば,ぜひ,訪ねてみられるとよいと思う。
 たとえは悪いかもしれないが,日本で,京都の明治天皇の伏見御陵に行くと,あまりの広大さに,日本で天皇というのがどういった位置づけのものであったのかを身をもって知るであろう。
 それと同じように,アメリカでの大統領という存在の大きさを感じるに違いない。
 場所は,100 E. Lady Bird Ln., Johnson City, 78636 Lyndon B. Johnson National Historical Park である。
 これまで紹介したように,公園に入ったら,まず,ビジターセンターで入場料を払い,展示や映画を見学する。そののち,車で敷地内を周ることになる。
 敷地内では,ジョンソン大統領が5歳から 大学入学まで過ごした少年時代の家や牧場を訪ねたり,「テキサスホワイトハウス」を見学することができる。ここにある牧場は,大統領の祖父が経営していた牧牛を中心とした会社の本社Johnson Settlemenでもある。
 このように,この公園は,ジョンソン大統領の墓地であるとともに,サンアントニオで人気の観光スポットとなっているのである。

interstellar 「インターステラー」(Interstellar)を見ました。
 長い映画でした。しかし,時空を移動する映画で2時間50分は,短いというべきか?
 私は,この映画を見ながら,若いころに読んだ「タウ・ゼロ」というSF小説を思い出していました。「タウ・ゼロ」という小説は,星間旅行をするうちに宇宙創成を越えてしまうという内容で,私は,夜,読みながら不思議な気持ちになったものです。それとともに,こりゃないぜ,とも思いました。物語が宇宙創成を越えてしまうなんて,やってはいけないことなのです。禁じ手です。
 下手な小説の結末に,すべて夢だったのさ,っていうのがありますが,「タウ・ゼロ」はそれと同じ次元でした。

 「インターステラ―」とは,星間移動のことです。
 この映画は,地球上の人類が滅亡の危機に瀕し,それを救うために,ホワイトホールを抜けて,別の惑星を探しに行く,というあらすじなのですが,あり得ない,というのと,時代設定があいまいで,物語が,手を広げすぎていて,収拾不可能,というそんな雰囲気の中を,物語は迷走していきます。私は,どうやって結末を描くのかとずっと心配していました。
 細かくいえば,この映画に出てくる星間飛行をする宇宙船が旧式で,現在,アメリカが火星に人類を送るためのオリオン宇宙船というのを開発中なのですが,その宇宙船でも,操縦室には,ディスプレイが三つあるだけ,というシンプルさなのに,この映画では,スペースシャトルの発想を出ていないし,人類が滅亡の危機に瀕しているという設定の地球の想定した年代がよくわからない,とか,まあ,そういうことが多々あって,見ていて混乱します。

 要するに,この映画では,実は,星間旅行も,人類の滅亡も,どうでもよくて,いいたいことは,人間の,というか,父娘の愛の強さ,とか,その真逆の,人間の醜さ,とか,そういうことなので,それには共感するところもたくさんあるのだけれど,物語の展開上,話が大きすぎてしまうので,そうした人間の心の葛藤が,ものすごくちっぽけなこだわりに思えてしまうわけなのです。
 そこがむずかしいところです。
 この物語で救いがあるとすれば,娘と再会する最後のシーン,です。しかし,私は,こういう映画は,「コンタクト」を越えられない,というか,確かに「コンタクト」だって,相当話に無理があるけれど,それでも,まだ,現実的であり,やはり,父娘の愛を描いていたのですが,そこには無理がなく,とても現実的だったと思うわけです。

 エンドクレジットによれば,この映画の舞台も,「天才スピヴィット」同様,カナダのアルバータ州でした。そうすると,どうしても,私は,おととい見た「天才スピヴィット」と対比してしまいます。「天才スピヴィット」の方が,ずっと夢がありました。
 なお,氷の惑星のシーンはアイスランドです。
 映画のスケールの大きいこともいいですが,やはり,ホワイトホールやらブラックホールやら,5次元空間やら,といわれてしまうと,私はそりゃやりすぎだ,と思って,一歩引いてしまいます。他の人にはおもしろいのかなあ…。
 映画を見終わって,外に出たとき,東の空に,美しくオリオン座が輝いていました。そのことが,逆に,私を現実に引き戻してくれました。
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 リヒャルト・シュトラウスのどこがいいのか,という問いに対して,最もよく書かれてあったのは,「(どこがいいのかわからないような)音楽を無理に楽しまなくていいんですよ」というものでした。
 しかし,それでは,答えになっていません。
 私が知りたいのは,「リヒャルト・シュトラウスの楽しみ方」ではなく,私がそのよさがさっぱりわからないのに,これだけ演奏される機会があるのは,きっとそのよさを認めている人がいるからなのでしょうから,「そのよさとは何か」を知りたい,ということだからなのです。そして,やっとのことで私が見つけた答えは,「そのチャラさがシュトラウスのよさです」というものでした。
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 この作曲家は,相当にいろんなことを考えて作曲をしていて,自筆譜などを見ると,「このパッセージはこういう意味」「このパッセージは××のメタファー」というような解説が山のように記載されているのだそうです。だから,そういう情報が載っている詳しい解説本などを見ると,理解を深めながら面白く聞くことができるということだそうです。
 さらに見つけた答えには,「彼の交響詩は,物語を自分の中である程度想定しないとどうしようもない」ということでした。でないと,ただ,ぼわぼわぼわぼわ暑いオケが鳴っているだけなのだそうです。でも,その答えの続きに,「だから,別に,オ-ケストラ曲を無理して聴く必要などない」と書かれてあっては,堂々めぐりです。
 これもやはり私の期待する答えではないのです。

 交響詩「ドン・キホーテ」などは,「完全に劇音楽(というかBGM)の流儀で書かれているから,そのまま映像を乗せることができる」のだそうですが,このことを知らないで聴くと,「ダラダラしたかと思うと急に曲想が変わるつかみ所のない曲としか思えません」ということでした。
 どうやら,リヒャルト・シュトラウスは,元祖「劇伴」作曲家であるようです。だから,リヒャルト・シュトラウスの管弦楽曲は,NHKの大河ドラマのバックに流れる音楽だけを聞くようなものです。つまり,リヒャルト・シュトラウスは,映像や歌曲・オペラのように,上に「何かが載って」いる状態で最高の力を発揮するので,オーケストラ作品だけを聴いても,それは,「中抜け」のおまんじゅうを食べていることに等しくて,「何とも内容のない,飽き飽きする音楽に感じても何の不思議もない」わけです。
 これらを読んでいくと,改めて,私と同じような意見が多いなあと思ったのです。だったら,なおさら,どうして,オーケストラ曲がこれほど演奏されるのでしょうか。このことは調べても調べてもわからず,なぞは深まるばかりでした。
 つまり,結局,納得のできる答えは見つからなかったわけです。
 何が偉大なのかわからないけれど,周りが怖がって持ち上げられている人っているじゃないですか。そんな感じですよ,これでは…。

 このお話はまだ続きます。
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 突然ですが,「天才スピヴェット」(The Young and Prodigious T.S. Spivet)という映画を見ました。
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 双子の弟が死んだ。バラバラになった家族の心を埋めるため,10歳の少年はアメリカ大陸横断という壮大な旅に出た-
  ・・・・・・
というのが,この映画のアピールです。先に結論を書きます。私にとって,最高に面白い映画でした!

 私は,この映画のことを全く知らず,昨晩の夕刊の全面広告で初めて知って,「アメリカ大陸横断」という言葉につられて,その日の晩に見にいきました。
 スピヴィッドは母親譲りの科学的思考のできる天才少年ですが,あまりの天才ぶりを周りが理解できず,しかも,双子の弟がある事件で死んでしまったことで,孤立感を深めていたのでした。
 ところが,彼の発明がスミソニアンで表彰されることになってしまって,そのことを家族に言い出せず,彼は表彰式が行われるスミソニアンまで家出を決意したのでした。そして,そこで起きた顛末は…,という映画だったのですが,映画の舞台がモンタナ州だということに,私は,まず,感激しました。
 ウソーッという感じでした。

 大陸横断鉄道(ノーザンパシフィック)の貨物列車にタダ乗りして,というあたりは,少し物語の展開に無理があるのですが,そんなことを超越して,映画に占める雄大なアメリカ大陸の風景は,モンタナ州から始まって,ワイオミング州,ネブラスカ州,と続きます。これを見るだけでも,価値がありました。私は,興奮のるつぼと化しました。ぜひ,この映像は3Dで!
 そして,スピヴィッドが到着するのは,シカゴ。このシカゴで起きる出来事が,また,素敵です。
 シカゴからは,ヒッチハイクで,無事,ワシントンDCにたどり着いたのですが…。そこで渦巻く大人社会とは?

 この映画は,ロードムービーであり,ファンタジーであり,古き良きアメリカの心の映画です。
 自分探しと,その底に流れる家族愛,そして,出てくる人たちは善人ばかり。科学的な洗練さや話題が,映画に味を添えています。
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 エンドクレジットを見ると,どうやら,ロケ地は,モンタナ州ではなく,モンタナ州から北に行ったカナダのアルバータ州ロングビュー(Longview, Alberta, Canada)であったようですが,それでも,私の第二のふるさとモンタナ州に見立てたその雄大さや,アメリカ北中部の田舎町の黄昏が旅情をそそりますし,行ったことのある私は,懐かしく思い出しました。
 きっと,この映画を一緒に見ていた多くもない観客の中で,あの風景を実際に体験した人は私だけだと思うのですが,他の人たちは,あのような景色をみて,どんな感想を持つのかな,と思ったことでした。
 私の大好きなすべてのこと満載の,素晴らしい映画でした。天才スピヴェット

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 「タグバナ。」という本を読みました。少し古い本ですが,元メジャーリーガーの田口壮さんが,メジャーリーガーとして活躍していたころにブログに綴った文章をまとめたものです。
 それがまた,面白すぎるというか,実際にメジャーリーガーとしてアメリカで生活した人しかわからないことが満載で,しかも,裏話だらけ。知らないことばかりでした。
 ということで,今日の写真は,田口壮さんが活躍したころのセントルイスの本拠地ブッシュスタジアムです。

 私は,以前から,知らないなりに,日本人のプレーヤーがメジャーリーガーとして活躍するには,イチロー選手や野茂投手のようなストイックさがあるか,松井秀樹選手のような運まで天が味方する大天才以外は,才能以上に,仲間に溶け込めるか,とか,アメリカで生活できるか,という才能が多分に必要なのだと思っていたのですが,私が思っていた以上にもっと大変なところのようです。
 さらに,奥さんの才能も必要で,球団のチャリティ活動に借り出され,旦那さんの人気や活躍に左右されて一喜一憂するその活動には頭が下がります。家族の人たちは,優勝したときにオープンカーに一緒に乗って手を振れるというような特典だけがあるわけではないのです。

 日米野球をやっていました。というかやっていたらしいです。先日テレビをつけたら放送していたので知りました。
 そこで,「NumberWeb」でスポーツライターの菊地慶剛さんが「日米野球,真剣勝負の度合いは? MLB選抜の陣容に見る,現実と理想。」という記事を読んでみました。
 内容は,
  ・・・・・・
●オールスター戦出場選手がほとんどいないMLB選抜。
●ギリギリまで選手が集まらない,人選の難航。
●MLB選手に大きい,人工芝球場への抵抗感。
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というものでした。
 実際,来日した全29選手で今年のオールスター戦に出場した選手は4人のみで投手陣に至ってはひとりもいないということです。

 私は,実際にアメリカで,日本にいるときは,日本のテレビでMLB中継をずっと見ているのですが,ほとんど休日もなく,連日ゲームで,しかも移動の距離さえ,日本の比ではない。そんな過酷な半年に及ぶスケジュールが終わって,彼らメジャーリーガーは今が一番リラックスできるオフなのです。こんなときに,日本に行きたいと考える選手は,よほど日本に興味があって,観光気分でやってくるか,あるいは,MLBで来年度の契約が危ういので日本に売り込みに来たかのどちらかで,それ以外にはいないと思います。
 かくいう私も,MLBを知らなかったころは,日米野球で来日するメジャーリーガーのプレイに一喜一憂したものですが,こうした現実を知ってしまった今となっては,日米野球で日本の球場に足を運ぶどころか,テレビでも見ようとも思わなくなりました。
 この記事の最後に,たとえ親善試合だったとしても,日本のファンが現役メジャーリーガーたちのプレーを生で観戦できる数少ない機会だから,こうして来日する機会があるのは大切だというようなことが書かれてありましたが,それに加えて,せめてメジャー選手が少しでも安心してプレーできる環境を用意するという意味で,日本にも開閉式の天然芝球場がつくられるようになれば状況は改善されるように思うのだが…。とこの記事は結んでありました。

 それは同感なのですが,日本は「野球場」であって,アメリカは「ボールパーク」なのです。また,日本では「野球道」であって,アメリカでは「ベースボールゲーム」なのです。一度でもアメリカでMLBをご覧になった人はおわかりだと思いますが,その魅了がまったく違います。そして,このことは,先日お亡くなりになった高倉健さんが主演した「メジャーリーガー」という映画を見ると,とてもよくわかるのです。
 だから,この似たようでまったく異質の世界で日本人プレーヤーが活躍するには,野球の能力ではないものが多分の要素を占めているということです。また,この日米野球で,このふたつの実力を比較すること自体,意味がないように思います。しかし,向井万起男さんが「大リーグが大好き!」で書かれていたように,日本にやってきたメジャーリーガーのプレイを一生懸命に見ている子供たちがいる限り,ときには,アメリカのスーパープレイヤーを日本に呼んで,本場のベースボールを見る機会をもつのは大切なことかもしれません。子供のころの私が,そうしてアメリカの素晴らしきベースボールを知ったように。

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 ジョンソンは,評価の分かれる大統領だろう。
 私には,単に,ドルショックとベトナム戦争を泥沼化しただけの無能な大統領,というイメージしかなかったし,あるいは,ケネディ大統領の暗殺の黒幕ではないか,とも思っていた。私の記憶にあるこの大統領の姿は,ドルショックの大きな見出しの下で苦悩する新聞紙上の写真の顔と,アポロ11号の中継で,ニール・アームストロング船長と電話で話をする姿であった。

 ところが,意外なことに,このジョンソン大統領は,アメリカで人気があるのだった。
 大統領自身は華やかさに欠けたけれども,1960年代のアメリカはアポロ計画に代表されるように「華やかな時代」だったのだ。
 実は,彼の業績は,内政にあったのだった。しかし,我々日本人は,そんなことは知らない。

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 リベラルとして知られたケネディ大統領に対して,南部テキサス州出身のジョンソン大統領は,当時,民主党の中では保守派と評されていたが,大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会」 (Great Society) 政策は、非常にリベラル色の強いものだった。
 政権初期には,公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに主導的役割を果たし,議会との関係が円滑でなかったケネディ大統領に比べて,巧みな議会工作でそれを可決させた。
 その他にも,内政においては達成した政治課題が多く,ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革,人権擁護を積極的に推進した政権となったのだった。
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 このように,彼は,社会政策の充実に力を注ぎ,偉大なる社会(Great Society)の実現のために,貧困撲滅(War on Poverty)政策,メディケア・メディケイド(高齢者・貧困者のための健康保険),人種・性別等を理由とする差別の禁止へ1964年公民権法(Civil Rights Act of 1964)の制定,黒人による投票権行使の確保,公立学校補助,低所得者への教育費補助など,多くの進歩的な政策を実現したのだった。

 さらに,経済的な成功もあった。特にケネディ政権が始めたケインズ政策を取り入れた「ニュー・エコノミクス」から,それを更に推進させた「経済発展段階説」で有名なロストウを新たに起用したことによって,失業率を1960年の5.8パーセントから,1968年にはなんと3.3パーセントにまで,毎年順調に減少させたのだった。
 経済学的には、膨大な軍事費と福祉支出による財政赤字を生んだことで,1971年には「ドル・ショック」を招いたのだけれども,このことも,国内経済にとっては致命傷とはならなかった。しかし,外交では,ケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ,国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。つまり,ドミノ理論と封じ込め政策の信奉者として,ベトナム派兵を大幅に増加し,ベトナム戦争をエスカレートさせ,戦争の泥沼に米国を引きずり込んだというのも否定できない事実であった。

 そのようにして,ベトナム戦争が大きく影を落とす中で,ジョンソンは2期目の出馬を途中でとりやめて,引退を決意したのだった。引退後に彼が戻ってきた場所は,彼が愛してやまない牧場(LBJ Ranch)であった。それが,この場所である。
 この牧場は,上院議員のときに,親戚(叔母)から譲り受けたもので,ジョンソンが子供の頃に,夏を過ごした思い出のつまった場所でもあった。引退後,ジョンソンは牧場経営に情熱を注ぎ,2,700エーカー(11平方キロ)の牧場には400頭の牛が飼育されていたという。
 実は,ジョンソン大統領は,ワシントンのホワイトハウスよりも,この地を好み,この牧場にある住居で,大統領在任中も執務も行っていたのだった。そこで,この地は,テキサス・ホワイトハウス(Texas White House)とよばれていた。ジョンソン大統領は,メディアでの自身の取り上げられ方に敏感だったので,自宅にはテレビが3台あって,常に3大ネットワークがフォローされていた。そして,ダイニングテーブルの席からもテレビが見えるように配置されていて,いつでも苦情が言えるように電話が取り付けられていた。
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 この国立歴史公園では,このジョンソン大統領が執務をしたテキサス・ホワイトハウスの内部を案内つきで見学することができた。ただし,写真を撮ることは許されなかった。
 また,庭には,当時使用したエアフォース・ワンが展示されていた。

 今年はリヒャルト・シュトラウスの生誕150年です。そこで,リヒャルト・シュトラウスについて書こうと思うのですが,残念ながら,「4つの最後の歌」と,しいていえば,交響詩「英雄の生涯」以外のリヒャルト・シュトラウスの音楽のよさが,私には全くわかりません。
 10年近くもNHK交響楽団の定期会員だったので,これまで結構多くのリヒャルト・シュトラウスの作品に接する機会がありました。リヒャルト・シュトラウスは,N響定期公演でも演奏される機会が非常に多いのです。また,リヒャルト・シュトラウスはアマチュアのオーケストラの演奏会でもよく演奏されます。
 私が全くよさがわからないのに,これだけ演奏されるのだから,きっと何か秘密があるのでしょう。そのよさを知りたいと,ずっと思ってきました。なので,ここで書くのは「リヒャルト・シュトラウスのよさとは何か」ということです。

 アマチュアのオーケストラをやっている友人に,どこがいいのかと聞いてみたことがあります。そこで話してくれたのは,リヒャルト・シュトラウスの曲は規模が大きいから,オーケストラのだれにも出番があるということと,音がよく鳴るから演奏していておもしろいいから,というのが答えでした。
 実際,リヒャルト・シュトラウスは,オーケストレーションに色彩感をもたらした作曲家として歴史的に評価されています。オーケストラの色彩感としては「幻想交響曲」などで知られるベルリオーズが筆頭に挙げられるのだそうですが,ベルリオーズの油絵の具べったりの色彩感に比べると,リヒャルト・シュトラウスは,小技の効いたカラー写真のような鮮明な色彩感という感じがして,その色彩感のテクニックは,20世紀作曲家のオーケストレーション技術に普遍的に取り込まれたと書かれてありました。
 しかし,そんなことは,曲に感動できるかどうかとは関係がないではありませんか。それに,だれにでも出番のある曲を演奏したいアマチュアならともかくも,プロのオーケストラでもこれほど多く取り上げられる理由にはならないではないかと,私には納得がいきませんでした。
 それに加えて,私は,リヒャルト・シュトラウスの曲は,「チャラい」というか,基本的には冒頭のインパクトしかないと思うのです。有名なのは,映画「2001年宇宙の旅」の冒頭で使われた,交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)です。冒頭部だけが最高にかっこよくて、そこだけに全力を尽くしちゃうので,あとはダラダラつまんないメロディーが続いていって,聞いていても,ただ音がきらびやかに鳴っているだけで,どこがいいのか,全くわかりませんし,心に染み入るものもありません。
 私は,冒頭以外にはほとんど旋律も思い出せないし,いつも眠たくなります。

 この曲に限らず,リヒャルト・シュトラウスというと,曲が始まる前に,ステージの上に所狭しと異常に多くの演奏家がのっているのを見ただけでげんなりとします。たいした曲でもないのに大げさな… と。調べて見ると,私と同じことを思っている人がいるようで,交響詩「ドン・ファン」などを例に,「あのうっとうしい盛り上がりと,意味の不明の音形の羅列,効果のない,一見上手そう見えて実は非常に無駄の多いオーケストレーション…」などという文章が書かれているから,私もそれを読んで,気を強くしました。
 そこで,私は,この,リヒャルト・シュトラウスのどこがいいのか,という問いに対する答えをいろいろと調べてみることにしました。
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 ずいぶんと走ってから,友人は,iPhoneをいじりはじめたが,郊外で,電波の入りが非常に悪いらしく,どんどんと不機嫌になっていくのがわかった。
 やがて,道を引き返しはじめた。単に,道を間違えた,ということなのであった。
 インターステイツ10を走って,わざわざ北西に行って,また,東に行かなくても,泊まっていたホテルの前の道ををそのまま北に走れば,ジョンソン・シティじゃないのかと私はずっと思っていた。
 私は,数日前にワイナリーに行ったときの道を覚えていたから,いったい今日はどこに行くのだろうとはじめは思ったが,何だ,単に道がわからなかっただけだったのかと落胆した。
 どうやら,この友人の頭の中には,地図というものがないらしい。私は,ふと,日本には「地図の読めない女の人,人の話を聞かない男の人」とかいったベストセラーがある,というような無礼なことを口走ってしまった。車内に冷たい空気が流れたことはいうまでもない。

 そんなこともあって,必要以上に時間をかけたけれど,どうにか,ジョンソン・シティに到着した。

  ・・・・・・ 
 リンドン・ジョンソンの父親はテキサス州の議員として活躍し,リンドンはその影響を受けて育った。
 高校卒業後,カリフォルニアで働いた後,南西テキサス州立教育大学(Southwest Texas State Teachers' College)に働きながら通い,1年休学してメキシコ移民の子供たちを教える経験もした。そして,大学卒業後は,高校教師を務めた後,地元選出のリチャード・クレバーグ(Richard Kleberg)の秘書に採用されて,ワシントンで知られるようになった。
 その後,若者に職業訓練と就業機会を与える全国青年局(National Youth Administration)のテキサス所長として地元に戻り,地元のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)下院議員の死去を受けて出馬し,当選した。2期目には上院選挙に出馬し,一度は敗れるものの,二度目の挑戦で当選。
 第2次大戦中は,海軍に志願し,パプアニューギニアの日本軍空軍基地攻撃に参加した。
 上院総務に選ばれて,黒人に参政権を付与する1958年公民権法(Civil Rights Act of 1957)やNASAの設立などに尽力した。
 1960年の大統領選挙で民主党の副大統領候補に選ばれて,ケネディーの大統領当選により副大統領に就任した。
 そんな中,1963年のケネディー大統領暗殺が、ジョンソンの運命を変えたのだった。
  ・・・・・・

 この,リンドン・B・ジョンソン国立歴史公園は,想像以上に立派なところであった。
 ここは,まず,ビジターハウスがあって,そこで,チェックインをして,車で,広大な敷地を回ることになる。それが,また,想像を絶する広さなのだった。
 私は,不勉強で,ジョンソン大統領が,ここテキサスの出身だということも知らなかったし,この大統領が,というよりも,アメリカでは,大統領という存在が,これほど偉大な位置づけになっているということも認識していなかった。しかも,もう,ずいぶんと前の大統領だというのに,この地を訪れる人が今だにずいぶんと多いことにも驚いた。
 敷地内にある道路に沿って走っていくと,教会があった。新しい教会であった。友人は,この国立歴史公園には来たことがあるが,この教会には入ったことがないと言った。教会の前の駐車場に車を停めると,ちょうど,ここを管理している人がいて,幸いなことに,教会の中に入れてくれた。ステンドグラスが美しい教会であった。
 その次に行ったのが,学校であった。この学校は,ジョンソン大統領が子供の頃に学んだ学校の建物を移築したものだということであった。内部も復元されていて,ガラス張りの観覧室から内部を見ることができた。ちょうど,別の観光客がいて,私が内部の写真を写そうとしていたら,ガラスから離れて写すと反射するから,レンズをガラスにくっつけて写真を写さなければいけないと,技術指導を受けてしまったのであった。

 私は,ドラマあらすじも知らず,単に思ったことを書いただけだったのですが,「軍師官兵衛」は予想以上に,私の思った通りの筋書きに進みました。晩年の救いのない秀吉も,予想通りというか予想以上というか。
 竹中直人さんが,上手だったこと! 1996年に演じたときより,格段に素晴らしかったです。それでも,晩年の秀吉の暗い時代,どう描いても見る気がなくなるのは当然で,視聴率もさえませんでした。気の毒です。このドラマのできが悪いのではなくて,歴史上の秀吉に責任があるのです。そして,いよいよこれからは,家康の天下取りがはじまるので,またおもしろくなります。寺尾聰さんの家康も素晴らしいです。どれだけ老獪さが発揮できるかが見どころです。
  ・・
 このドラマのいいところは,わかりやすいということにあります。
 史実では石田光成もあれだけのワルでバカとは思えないし,息子の黒田長政はもっと立派な人物だったと思います。でも,このドラマのような描き方をした方が,ドラマらしくわかりやすいわけです。脚本にそうした主張があるのがいいと思います。それに対して,主人公とはいえ,官兵衛は,策士というよりも,あまりに人がよすぎる人物に描かれているとは思いませんか? 私の予想では,きっと本物は政治家というよりも学者肌だったのでしょう。

 こうした時代の歴史ドラマは,日本人というのがどういう民族かということがとてもよくわかって,私にはおもしろいです。
 この時代,特に,明智光秀と石田光成というのは,敗者となったために,歴史上の評価が決まってしまったのが気の毒ですが,彼らも彼らなりに精いっぱい生きたのでしょう。「勝てば官軍」「勝ち馬に乗る」という言葉があるように,結果がわかっている今,こうした人物を評価しても仕方がないと思います。以前書いたように,私は,こうした敗者の心理をもっと描いたドラマがあってもいいのになあなあと思います。でも,人気が出るとは思えませんが…。
 それよりも,私は,今の日本は本質的に江戸時代と変わらないと思っているので,家康が勝利したことが現在の日本には本当によかったのかなあと,いつも考えてしまいます。

東照宮

DSCN1876DSCN1882DSCN1899DSCN1902DSCN1905☆9日目 3月21日(金)
 実質最後の1日になった。
 今回の旅行は,夏の東海岸のときより1日少ない。以前書いたように,アメリカを旅行するには,往復の移動時間を考えると,日程マイナス3日になる。だから,11日間の旅行であれば,観光に費やすことのできるのはわずか8日間でなる。
 若いころは,できるだけ長く旅をしたいと思っていたが,今は,長くても20日間くらいが適当かな,と思うようになった。どこへ行っても混み合い,しかも航空運賃の高い真夏は避けて,春と秋に20日間ずつアメリカ旅行を楽しみたいものだと思っている。
 旅行に必要なのは,往復の航空運賃と,日々の経費くらいのものだから,実は,そうした旅行をしたことのない人や団体ツアーでしか行ったことのない人には想像できないくらい安価で旅ができるのだ。

 きょうは,朝の9時に友人がホテルに迎えに来てくれることになっていた。
 連れて行ってくれるのは,ジョンソン・シティというところであった。
 ここは,先日連れて行ってもらった,友人が好きなジャーマンタウン(フレデリックスバーグ)の帰りにワイナリーに寄ったその近くなので,私には場所のおおよその見当はついていた。
 明日の帰国は,早朝の飛行機で,空港には朝の5時過ぎにはつかなければならない。そして,その前にハーツの営業所にレンタカーを返さなくてはならないが,ホテルからハーツの営業所までどのくらいかかるかわからなかった。
 そこで,ホテルで朝食をとった後,友人が来るには時間があったので,明日の朝の下見を兼ねて,ホテルから,ハーツの営業所まで車で行ってみることにした。
 営業所に着いてみると,そこは,ホテルからはほんの数分の場所であることがわかったから,明日の朝の心配はなくなった。そして,私の選択したホテルの場所が正解であったことが実証された。ただし,営業所は朝5時からの営業だったので,それでも私の乗る便にはぎりぎりの時間であった。

  サンアントニオから北に100キロメートルほど行ったところに,ジョンソン・シティという町がある。
 人口1,600人ほどのジョンソン・シティは,ブランコ郡(Blanco County)に属している。この町は,アメリカ第36代大統領のリンドン・ベインズ・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)の故郷であり,大統領が引退後に暮らしたところであり,現在は,その場所が,「リンドン・B・ジョンソン国立歴史公園」(Lyndon B. Johnson National Historical Park)として,保存,公開されている。

 ここには,ジョンソンの生家が復元され展示されているほかに,ゆかりの品の展示や,彼のこれまでの功績や歴史を映画などで学ぶ事ができる。
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 リンドン・ジョンソンは,父サミュエル・アーリー・ジョンソン・ジュニア (Samuel Ealy Johnson, Jr.)と母レベカ・ベインズ(Rebekah Baines)の長男として,1908年8月27日にテキサス州ストンウォール(Stonewall)に生まれた。
 1913年に,家族は,父方の祖父の従兄弟の名前をとったジョンソン・シティー(Johnson City)に引っ越した。少年時代を過ごした家や,父方の祖父の牧場跡も,歴史公園の一部となっている,ということであった。
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 友人が,午前9時ごろに到着したので,そのまま,車に乗り込んで出発した。
 また,きょうも,いつものように,インターステイツ10を北西に走って,1時間ほどで,ともかく,ジャーマンタウンであるフレデリックスバーグに到着した。すでに見慣れたフレデリックスバーグのメインストリートを通りすぎた。ここから,進路を東に走れば,ジョンソン・シティである。
 ところが,何がどうなったのか,車はそのまま,フレデリックスバーグから北に進み出した。だから,どんどんと何もない郊外に向かって走って行くことになった。私は,どこか,珍しいところにでも連れて行ってくれるのかなあ,と思って,何も言わずに,車に乗っていた。ところが…?

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 「ロゼッタ」(Rosetta space probe)は,2004年3月2日にフランス領ギアナから打ち上げられた欧州宇宙機関の彗星探査機です。
 当初の計画では,2003年1月12日に打ち上げられて,小惑星・大田原 (4979),小惑星・シワ (140) に接近,その後,ワータネン彗星へ到達する予定だったのですが,打ち上げロケットが爆発事故を起こしたことで,当初の予定が変更されて,目標がチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星へ変更されたものです。

 探査機は,予定通りに2014年8月にチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に到着し,11月12日に彗星の地表に着陸機「フィラエ」 (Philae) を投下,着陸に成功して人類史上初の「彗星に着陸した探査機」となって,写真を送ってきたのです。
 残念ながら,ハヤブサとは違い,この探査機は地球には帰還しません。

 この「ロゼッタ」,おもしろい話があります。
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 「ロゼッタ」がチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に向けて飛行中の2007年11月7日,「カタリナ・スカイサーベイ」によって,地球に接近中の地球近傍小惑星として誤って「発見」されちゃったのです。
 そして,この「新天体」は「2007VN84」と仮符号までつけられて,直径20メートルの天体が11月13日に地球から5,600キロメートルのところを通過するという予測が出されて,きわめて衝突リスクの高い天体となって大騒ぎになったという事件があったのです。

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 間が抜けた話です。

 着陸したチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67P Churyumov-Gerasimenko)は,クリム・チュリュモフとスヴェトラナ・ゲラシメンコが発見した,周期6.57年の周期彗星です。
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 1969年10月22日,アルマアタ天体物理研究所のスヴェトラナ・ゲラシメンコがコマス・ソラ彗星 (32P Comas Solá) を目標として撮影し,その写真を調べたキエフ大学のクリム・チュリュモフは,写真乾板の端近くに目的の彗星のような像を見つけました。チュリュモフはそれをコマス・ソラ彗星だと思いこんだのですが,後に詳細に調べると,その天体はコマス・ソラ彗星の予想位置から1.8度も離れていたことがわかりました。また,予想どおりの位置にコマス・ソラ彗星が写っていたので,最初に見つけた天体は新彗星であることが明らかになりました。
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 彗星の写真は,すでに,ハレー彗星が地球に接近した1986年に撮影されているので,彗星の核の姿を写真でとらえたのははじめてのことではなかったのですが,これだけ接近して,しかも,着陸したのははじめてのことだったので,今後,さまざまなな新発見が期待されます。
 それにしても,彗星というのは単なる汚れた雪だるまで,大きさもその組成も彗星によってさまざまだから,単に発見された位置と明るさから,太陽に接近したときの明るさを予報するのは不可能だなあと私は思います。
 そういえば,明るくなると期待されたアイソン彗星が太陽へ接近して消滅したことは,もう今から1年も前の出来事だったのです。

天橋立あまるべとっとりしんじこ

 昨年の秋は,いつまでも残暑が厳しく,突然寒くなって,過ごしやすい時期が全くありませんでした。それに比べて,今年は9月のはじめからずっと気持ちのよい時期が長く続きました。,台風以外はとてもよい天気です。
 こんな季節に思い出すのは,今から40年近く前,大学2年だったか3年だったかの秋に,生まれて初めてひとり旅をした時のことです。
 現在の大学は,7月に前期試験があって,8月9月と夏休みというところが多いのですが,当時は9月に前期試験があって,そのあとで,1週間程度の秋休みがありました。

 話は逸れますが,高等学校の教育がおかしくなってしまった最大の原因は共通一次試験です。
 共通一次試験,現在はセンター試験と名を変えましたが,これもまた日本らしい話で,名前を変えて問題をごまかすわけです。ともかく,その試験のために,高校は1月以降は授業にならず,学校祭や体育祭はもっともふさわしい10月や11月から暑い9月のはじめに移され,スポーツに芸術に一番充実した秋という季節を秋らしく過ごせなくなってしまいました。そして,大学もそのとばっちりを受けて2月以降は講義もできなくなるなど,さまざまな日程が変わってしまいました。
 共通一次試験などなかったころに大学生だった私は,そうした弊害もなく,秋休みがあったとうわけです。
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 その気持ちのよい秋に,一念発起して,生まれてはじめてのひとり旅に出ました。それは,アメリカをひとり旅する今の自分から考えると,なんと初々しいことでしょう。
 当時は周遊券というのがあって,これを使うと,周遊券の範囲内で普通電車なら乗り降り自由で,ある一定の期間旅行ができました。そこで,私が目指したのは,中国地方の周遊でした。

 まず,私が住んでいた名古屋から出発して,天橋立まで行きました。そのあとは,山陰地方を鳥取,松江,出雲,萩と巡りました。
 その旅で,余部鉄橋というものをはじめて知りました。鳥取砂丘も行きました。大山は山頂まで登りました。宍道湖に沈む絶品の夕日に感動しました。出雲大社にも参詣しました。萩の指月城をサイクリングしました。そして,秋吉台では,観光地でない洞窟の探検もしました。
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 山陰本線は単線で,普通電車は駅に着くたびに特急に追い越されるためにずいぶんと長い時間停車しました。泊ったのはユースホステルでした。いろんな人と知り合いました。失業中で日本を放浪している若者と仲よくなりました。また,ふたり連れで旅をしていた若い女性と仲よくなって一緒にヒッチハイクもしました。一見こわもてのおにいちゃんのオートバイにも乗せてもらいました。
 山口の近くの湯野温泉というところでは,民家のようなユースホステルに泊り,宿泊先の家庭の人たちと一緒に夕食をとりました。
 帰路は,広島から旅で余ったお金を払って贅沢に新幹線に乗って名古屋まで戻りました。このとき,ほとんど指定席が売り切れていて,やっと手に入れた座席は,おばさんたちの団体のど真ん中でした。

 今から考えると,たわいもない旅でしたが,当時の私には,地球の裏側に行くようなそんな冒険でした。今,本当に地球の裏側まで自由に旅をするようになっても,このときの旅は一生の思い出であり,私の宝物としてずっと心に残っています。
 若者よ旅に出よ! こうしたちょっとした冒険が,人生の宝物になるのです。
 秋になると今でも思い出すとてもすばらしい経験でした。

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 夜も遅くなってきて,スポーツ用品店を出てホテルまで送ってもらうことになった。
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 アメリカのホテルですごす平日の夜の時間は,NBCの「ザ・トゥナイト・ショー」が楽しみである。
 あまりよくアメリカを知らなかったころ,夜のホテルで適当にテレビを見ていて,いつもやっていたのが,ジェイ・レノの「ザ・トゥナイト・ショー」であった。これを見るとアメリカに来たなあ,と思ったことだった。 

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 「ザ・トゥナイト・ショー」(The Tonight Show)は,1954年からアメリカNBCで放送されている深夜のトーク番組である。結構有名なゲストが出て,司会者とおしゃべりを楽しむというもので,放送期間が全米のエンターテイメント番組で最長である。
 「ザ・トゥナイト・ショー」の司会は,これまで,スティーヴ・アレン,ジャック・パール,ジョニー・カーソン,ジェイ・レノ,コナン・オブライエンが務めた。この中では,30年続いたジョニー・カーソンが最長の司会者であった。
 2013年4月3日,NBCは司会にジミー・ファロンを起用することを発表した。そして,ソチオリンピック開催中の2014年2月17日から,「ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン」として放送が開始されて,これまでロサンゼルスだった収録地がニューヨークとなった。
 ジェーム・トーマス・"ジミー"・ファロン(James Thomas "Jimmy" Fallon)はアメリカ合衆国のテレビ司会者,コメディアン,俳優,歌手,ミュージシャン,プロデューサーである。
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 私が,アメリカ滞在で楽しみにしていたこの番組,この日のはじめのゲストは,なんと,私の大好きなビリー・ジョエルさんであった。
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 ウィリアム・マーティン・"ビリー"・ジョエル(William Martin "Billy" Joel)は、アメリカのニューヨーク州サウス・ブロンクス出身のロック歌手,ピアニスト,作曲家である。
 ポップで親しみやすいメロディ・ラインと,大都会に生活する人々を描いたメッセージ性の強い歌詞で1980年代にヒットを連発した。全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し,アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。
 代表曲には,「素顔のままで」「ストレンジャー」「オネスティ」などがある。
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 私は,「ニューヨークの想い」が大好きである。これがこうじてアメリカ旅行をするようになったようなものだ。この日の番組では,ビリー・ジョエルとジミー・ファロンの掛け合いが最高であった。「ザ・トゥナイト・ショー」は,よき司会者をえたと思った。

 次に登場したのは,チェルシー・クリントンさんであった。
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 チェルシー・ヴィクトリア・クリントン(Chelsea Victoria Clinton)は、第42代アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンとヒラリー・クリントン夫妻の長女(ひとり娘)である。
 2001年にスタンフォード大学を卒業。2003年にマッキンゼー・アンド・カンパニー入社。オックスフォード大学とコロンビア大学公衆衛生大学院より修士号を取得した。
 2010年,マーク・メズビンスキーと結婚した。
 ニューヨーク州ラインベックでの挙式の折り,ヴェラ・ウォンのデザインした象牙色でシルクのストラップドレスに9段,1.2メートル,230キロメートルの完全菜食主義ウェディングケーキ,大量の移動式トイレなど豪華な式となったが,あまりに度を越した乱痴気騒ぎに地元ラインベックの住民は激怒,後日,新郎新婦でワインボトルを配って謝罪に回ることになったという。
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DSCN1815DSCN1818DSCN1821DSCN1825DSCN1851DSCN1858 夕刻になって,食事に行くことになった。友人がぜひ私にサンアントニオに戻ってきてほしい,という理由は,このことであった。
 「The Grill at Leon Springs」というレストランが予約してあるということであった。
 このレストランは,サンアントニオから北西に,インターステイツ10を16キロメートルくらい行ったレオンスプリングスというところにあった。
 広い駐車場のある,結構な高級店であった。

 このレストランは,1800年代,駅馬車の停留所だった古い岩の建物が使用されている。レストランの内部はとても魅力的な雰囲気だった。レストランの内部はバーとダイニングルームにわかれていた。
 ダイニングルームは居心地のよい装飾が飾ってあった。別の部屋にはバーがあって,大勢のグループでパーティができるようになっていた。
 また,様々な口コミを読むと,ここは,ワインの知識の豊富なスタッフが大勢いるということである。

 友人と駐車場で待っていると,友人の親友という女性が現れた。
 サンアントニオの病院に勤めているお医者さんだといういうことであった。
 我々は,連れ添って,店内に入った。広い店内は,なかりゴージャスであった。
 私は,メニューを手渡されて困ってしまった。いったいどの程度のものを注文すればよいのであろうか,と思った。結局,お任せをしたら,ほどよいステーキ定食を注文してくれた。

 若いころ,アメリカを旅行しても,日本人の観光客が行くような「アメリカではチップをお払いください」と日本語の表示があるような,そんなレストランしか入る勇気がなかった。そのうち,現地に住む人たちが普通に外食するようなレストランに入りたいなあ,と思うようになった。そういうところでは,どのように注文するかとか,どのようにお金を支払うのか,とかいうことにとても興味があった。
 そうしたレストランも慣れっこになったが,それでもひとりで高級レストランというのは今でも入りづらいものである。だから,このレストランも,ひとり旅では行くこともないので,とてもうれしかった。
 いろいろと話が弾んで,とても楽しかった。このように,異国に来て,その国に住んでいる人に案内してもらうときに,こうした,自分ひとりではできない経験が一番うれしい。だから,もし,外国の友人が日本に訪ねてきたときには,名所・旧跡は我々と行動しなくても行くことができるから,むしろ,なかなか外国の人がひとりでは入れないようなレストランとか,あるいは,飲み屋とか,そうした我々にとって日常であるところに案内するほうが喜ばれるであろう。私がそうであるように。
  ・・
 こちらでこうした高級レストランで食事をすることなんてほとんどないが,高級レストランといっても,彼女たちは,持ってきたウェットテッシュを使って手を拭いていた。日本なら,おしぼりが出てくるところだ。なんだか,おかしかった。

 食事が終わって,次に,「バス・プロ・ショップス」というところへ連れて行ってもらった。
 バス・プロ・ショップス(Bass Pro Shops )とは,アウトドア用品の巨大小売店である。全米で約60店舗チェーン展開していて,スポーツ用品販売業としては世界第3位である。
 1970年代に,創業者のジョン・モリスが米国ミズーリ州で父親の経営する酒屋の裏で始めた釣り餌販売業が始まりだそうだ。
 店内に入ると,まず,その巨大さに度肝をぬかれた。
 店内は,商品のレイアウトやディスプレイにこだわっていて,巨大な滝や水槽,動物の剥製などが数多く飾られていて, 大自然の臨場感をかもしだしていた。そこにありとあらゆるアウトドア・スポーツ用品を取り揃えられていた。なんと,大型レジャーボートまで店内で販売されていた。大型レジャーボートなんて,ものすごく贅沢そうだけれど,値段を見ると,それほど高くなく,普通の人でも,手に入れられるほどであった。ハーバーといった施設が簡単に利用できる広いこの国では,マリンスポーツは日本人が思うよりも,ずっと手軽なレジャーなんだなと思った。
 ここにはまた,レストランや,ゲームセンター,それに,ギフトショップ,なんと実弾射撃場なども完備されていた。近ごろは,日本にも多くのスポーツ用品店が存在するが,これほど巨大で,何でもそろっているところは知らない,

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 湊かなえさんの「豆の上で眠る」を読みました。
  ・・・・・・
 行方不明になった姉。真偽の境界線から逃れられない妹。あなたの「価値観」を激しく揺さぶる究極の謎。私だけが間違っているの?  13年前に起こった姉の失踪事件。大学生になった今でも、妹の心には「違和感」が残り続けていた。押さえつけても亀裂から溢れ出てくる記憶。そして,訊ねられない問い。戻ってきてくれてとてもうれしい。だけど。ねえ,お姉ちゃん。あなたは本当に本物の万佑子ちゃんですか?
 待望の長編刊行!
  ・・・・・・
だそうです。

 湊かなえさんの小説は,「告白」以来,ほとんど読んだものですが,ちょっと重いことと,読後感が爽快でないことで,もういいや,と思って遠ざかっていましたが,この本は「宮崎美子のすずらん本屋堂」で作者さん自身が紹介していたので,久しぶりに読んでみました。
 いい意味で予想を裏切りました。何が一番よかったかというと,物語の展開が楽しみで,一気に読んでしまえるということでした。
  ・・
 きっと,この作者さんは,アイデア勝負だと思うのです。自分もそう思っているのだと思います。だから,日ごろからいろいろと考えていて,そうだ,と思いついたのでしょう。その後は,いかに無理なくあらすじを作っていくか,というところが腕の見せどころ。
 確かに少し無理はありますが,所詮小説,さすがにプロらしく仕上げました。
 「お姉ちゃん」と「万佑子ちゃん」の使いわけで,おおよそはじめから結末はわかるのですが,私は,ひょっとしたら,主人公の結衣子ちゃんこそ,実の家族でないのかと深読みしました…。ただし,前半部分で時間差のあるふたつのものがたりが頻繁に入れ替わるので少しざわざわすることだけが難点でした。

 作品の主題になっている事件のいくつかは,この小説の描かれていた時代に,実際新聞をにぎわしていました。小説でなく事実として,このような人生を送っている人が,実際,この世の中にはいるのです。
 歳をとってくると,これまで経験した様々なことが,果たして本当にあったことなのか,そうでなかったのかよくわからなくなってくることがままあります。実際に経験したときには深く感動したのに,そのことをすっかり忘れていて,昔の写真を見て,改めて思い出す。ということもひとつやふたつではありません。
 「事実」があって,そこに,「思い出」という服を着ているのが記憶に残る「現実」です。だから,そのどちらが欠けても,もどかしさが残ってしまいます。でも,それをうまく受け止めていかなければ,この先を生きることはとても大変なことになってしまうわけです。私は,これまでにも,そうしたことがわかっていない人をたくさん見てきたし,経験もしてきました。
 この作品に描かれた妹の結衣子さんも,もっと前向きに現実を受け止めたほうがいいと思うのですが,若きゆえにそれができないこだわりがあるのでしょう。

 それにしても,こういう作品は,女性作家にしか書けません。
 たとえば,相手を呼ぶのに,苗字でよぶか,名前でよぶか,さんづけでよぶか,ちゃんづけでよぶかということくらいでずいぶんのこだわりをもつのが女性だということを,多くの男は知りません。
 女性として生きるのはたいへんだなあと,こういう内容の小説を読むと,私は改めて思ってしまいます。
  ・・
 この本とよく似たアイデアを取り扱っている小説として,乾くるみさんの「イニシエーション・ラブ」があります。このアイデアは,人の心の複雑さと世の中の不条理さを描いているからこそ価値があるのであって,ミステリーとして書くだけなら,ネタが尽きているのです。作家さんも大変です。

 「インターステラー」(Interstellar)という映画が上映されます。
 雑誌「TIME」に特集があったので,それを読んで興味をもったのですが,雑誌の記事によると,
  ・・・・・・
 宇宙は果てしなく広がり,冷たく愛のかけらもない空間である。しかし,人類はこの宇宙に心を奪われてきました。「どうして,我々はここに存在するのか?」「宇宙はどのようにしてはじまったのか?」「宇宙の将来はどうなっていくのか?」
  ・・・・・・
とありました。
 映画「インターステラー」は,地球存亡の危機を乗り越えるために,宇宙飛行士と科学者が協力して人類が移住する未知の惑星を探すという内容の物語だそうです。
 監督のクリストファー・ノーランさんが,「SFは普通,現実の束縛から逃れるために使われるが,我々はその束縛を直視し,そのままの状態で,できるだけ極端な場所へ移動することを試みた」と語って, 科学的事実にできるだけ忠実に描こうとして,ワームホールを光が通過するシーンでは,ソーンの方程式をもとに,どのように見えるのかを計算・想定し,撮影された,ということだそうです。
 また,登場人物のセリフを通して,ジェシカ・チャステインさんが演じる人物が,方程式を解くことで,人生の喜びを感じていることで,科学と精神世界の共通性を暗示していたり,アン・ハサウェイさんが演じる人物は,アインシュタインの「宗教なき科学は説得力がなく,科学なき宗教は盲目である」という言葉を唱え続けたりと,ある種の宗教感も描かれています。

 しかし,この記事を読み,映画のホームページで予告編を見る限り,私は,この映画にほとんど興味を抱きませんでした。その理由のひとつは,この映画の時代背景がよくわからない,ということにあります。
 言い換えれば,古臭い。
 「セロ・グラビティ」(Gravity)では,スペースシャトルと宇宙ステーションが舞台だったから,それなりにリアル感があったのですが,今の時代は,少し前の時代以上に宇宙開発に関しては科学技術の限界が明白になってしまっていて,この映画のような星間旅行なんてありえない,と知っているからです。
 理由のふたつ目は,映画に描かれている価値観が,いつもと同じように,きわめてアメリカ臭いものだということがあります。それはこの映画に限ることではないのですが,これまでに上映された様々宇宙ものの映画で,すでにおおよそ描かれてしまっているからなのです。
  ・・
 では,内容はともかく,リアルな映像で見た人をうならせた「セロ・グラビティ」のような特撮は期待できるのでしょうか? 予告編を見る限りにおいては,それも疑問符が…。
 しかし,これらは,映画も見ていない私が単に感じたことだけなので,これらのことを織り込み済みで,私は映画を見てみたいと思います。

 将来,確実に人類が住む地球はなくなるのです。そのときに人類がどうなるか,という夢物語は現実になる日が来るのかもしれませんが,きっと,それよりも前に,人類は,戦争かウィルスで滅んでいることでしょう。この映画の記事の載った雑誌「TIME」の別の場所に,エボラ出血熱について書かれたものがあったことが,私を現実に引き戻して,この映画をさらに空事にしてしまったのが皮肉なことでした。Horsehead Nebula_2

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 のんびりと植物園を歩き,今日はすてきな1日になりそうであった。
 この後は,友人が知り合いと一緒に,私を夕食に招待するということであったが,まだ,時間が早かったこともあり,暑くてのどが渇いたので,ファーストフード店で,のどの渇きを癒やすことになった。

 友人が連れて行ってくれたのは,「SONIC」というところであった。「SONIC」は,日本では全くなじみがない。今回,サンアントニオに行って,この「SONIC」がやたらと多いのが気になって,どういうところがと聞いたら,連れて行ってくれたというわけであった。
 コンピュータで「SONIC」と入力して検索してみると,きっと,セガのサイトとか,文具メーカーとか,そういうものが出てくるけれど,ここでお話する「SONIC」はそうしたものではない。
 これだけ,日本語で情報がないというのは,全く日本でなじみがないということであろう。アメリカには,こうした,この国では当たり前なのに,日本人の全く知らないものが目につくことがよくある。
 こうしたとき,アメリカは近いようで,ものすごく遠い国だなあ,と思う。

 「Sonic, America's Drive-In」とでも入力すると,これから書く「SONIC」が表示される。
 「SONIC」とは,現在,店舗拡張展開中,つまり,アメリカで売り出し中のファーストフード店なのである。
 これまでのファーストフード店と何が違うかというと,このお店は,車を停めて店舗に入るとか,ドライブスルーをするというのが主な方法ではなくて,車を停めるブースごとに注文するマイクがあって,そこで注文すると店員がそれぞれの車に品物を持ってきてくることにある。
 つまり,ドライブスルーのように車を動かす必要がなく,お金も品物と引き替えに店員に支払って,あとは,停車した車の中で食事をする,ということなのだった。
 メニューは,いかにもアメリカという感じのカロリーいっぱいのハンバーガーとか,原色をしたソフトドリンクとか,そんなところであった。実際,このシステムは便利であった。なにせ,車から外に出なくてもいい。しかも,ドライブスルーだと,品物を買うことはできても,食べる場所がない。その欠点を補った商法なのである。
 一度,アメリカに行ったらお試しあれ。しかし,この方法は,日本でははやらないと私は思う。これは,ドライブシアターと同じである。

 ファーストフード店について書いたので,もう一つ目についた,「WHATABARGER」について書く。このハンバーガーチェーンは,1950年にテキサスで開店したもので,だから,テキサス州にやたらと店舗があった。メニューは,我々のよく知るマクドナルドとさほど違いはなく,しかし,マクドナルドよりも種類が多い。
 昨年の夏に行ったボストンにダンキンドーナッツがやたらと多かったのは,ダンキンドーナッツがボストン発祥だからであって,ファーストフードといっても,やはり,その土地ごとに,違ったチェーン店があるものだ。
 その中で,マクドナルドが全世界規模で店舗があるのは,すごいことには違いがない。ただし,日本でもそうだが,アメリカでも,近ごろはマクドナルドは業績が悪い。このことは,すでに,このブログにも書いたが,消費者のニーズを読み誤っているからなのであろう。とかく商売は難しいものだ。
  ・・
 きょうは,もうひとつおもしろいものを見たので,これについて書く。
 それは,サンアントニオに残る「世界最大のカウボーイブーツ」である。
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 1979年,アーティスト・ボブ ”ダディ-” ウェードは、ニューヨーク市に巨大なイグアナの像を設置して有名になった。これを聞いた首都ワシントンでは,首都にテキサススタイルの何かをシンボルにしようと,空地に巨大な何かを作るようにとボブに依頼した。そこで,ボブは,高さ40フィート,長さ30フィートのブーツを造った。それは,実際は世界最大のものではなかったのだが,現代のように情報がなかった時代のこと「世界最大のカーボーイブーツ」してアピールされたのだった。
 1年後に,このブーツはワシントンからサンアントニオのノーススターモールへ移された。
 しかし,当時、このモールは荒れ果てていた。
 ある日,ボブに電話がかかってきた。「あなたのブーツが燃えてきます」。実際は,ブーツが燃えていたのではなく,ホームレスがそのブーツの片方の中に住んでいて,料理をしていたものであった。面白いことに,そのことがきっかけとなって,このブーツは有名になったのだった。
 その後,このモールは高級店に様変わりしたのだが,驚くべきことに,ブーツはそのまま残されて,現在サックス・フィフス・アべニュー店の外に立っているのである。
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 先週の週末に,突然,日銀が「追加金融緩和」に踏み切ったのね。これがサプライズだったために,再び円安・株高になったわ。
 今の水準がかなりの円安だから,FXでドルを売りから入れば,100パーセントの確率で大もうけできるわよ。保障してもいい。株だって,もう,かなりの割高だから,短期ならともかく,長期で今株を買うなんていうのは,無謀に過ぎないわよ。その株に年金の運用をさせるというのだから無謀な話よね。こんな現在の相場の流れは、私のような素人でもわかりすぎるほどよくわかる。
  ・・
 そもそも,こんなことはそう長くは続かないわ。破れかけの布にパッチをあてるようなものだもの。
 実は,現在の株価や為替の相場って,単に,リーマンショック以前の水準に戻っただけなのよ。だから,これまでずっと評価額がマイナスだった人は,これでひとまず評価損がなくなって元に戻って一安心しているわけ。儲かったわけじゃなくて,含み損が消えたってことね。
 リーマンショック後の株安と円高の時に株やドルを手にした勇気のある幸運な人と,わけがわからずそのときにたまたま投資を始めた初心者だけが,現在大もうけをしたの。こうして目先のお金がちょっと増えた人が,その儲けでぜいたく品を少しくらい買っても,それは景気回復にはなっていないの。
 そんな報道につられてお金もないのに浪費している人もいるけど,そして,乗り遅れまいとしてこの時点で投資をはじめたり外貨を買ったりしている人もいるけど。そうした人だけが,いつも損するのね。懲りない世界だわ。

 ほんの1年前までの超円高,これは,アメリカが金融緩和をしたときに,それをしなかった民主党政権,いや日銀の政策ミスによるものなのだけど,そのときに書いてあった記事を覚えてる? 日本には円高を阻止する対策はないとか,この水準が今の世界の相場だって,もっともらしくアメリカと日本のマクドナルドの値段を比べたりしていたわ。
 そんなの正しくなかったじゃない。
 それに,あのときはギリシャは明日にでも国がつぶれるような報道がされていたけど,その後どうなったの?
 日本のマスコミは,その後のこともきちんと報道してほしいものだわ。
 そして,アメリカが金融緩和を終わらせた今になって,今度は,日本は何かの熱病に取りつかれたかのように,数年遅れで金融緩和策を行おうというのだから,悪い結果が見えすいている…。
 まるで,損すればするほど入れ込むギャンブル狂いのオヤジと同じね。やっていることは,高値で買って底値で売る下手な投資家のようなもの。バブル経済のときもそうだった。あのときの失敗で,日本は失われた20年とよばれるドン底になったのね。でも,マスコミも,あのときのことはすっかり忘れて,あるいは不勉強で,また,目先だけののもっともらしい分析を,専門家と称する人の話したことをもとに記事にしているわ。みなさん,今書いてある記事を保存して5年度に読んでみましょうね。

 そもそも,この先インフレにしてどうなるというのでしょう。インフレにしたって景気はよくならないわ。今やもう,高度経済成長の時代とは違うのよ。
 勘違いをしてはいけないのは,2パーセントずつインフレにすると10年で20パーセント物価があがるのではないのですよ。100円だったものが翌年は102円。その次の年は104円ではなくて,102円の2パーセント,つまり上昇率はどんどんと増えてくるのですよ。高等学校で習ったでしょう。等比数列なんです。
 それに,労働人口よりも老人の人口のほうが多いのよ。たとえ賃金上げても年金が下がるから負担だけが増えるわけね。だから,こういうことがわかっている頭のよい人は,将来はますます不安になるだけだから,賃上げをされたとしても,増えた分だけ貯蓄にまわすだけだろうし,この超高齢化社会の日本では,年金生活者はより節約するだけじゃないの。
 結局,物を高くすればしただけ物が売れなくなるわ。まして,ここで消費税をさらに上げればなお更よね。高度経済成長の時代とは違って,今や,しいて買わなければならないような欲しいものなんてないのだから…。

 「『物価を上昇させればデフレ心理からの転換が図れる』のではないのです。人は,雨が降って来たから傘をさすのであって,傘をさしたから雨が降るわけでもありませんし,傘を閉じたからといって晴れるわけでもありません」って,何かの記事に書いてあったわ。
 自民党政権は,昔のように様々な国家プロジェクトでさらに財政赤字を増やそうとしているけれど,それは時代錯誤。そんなことにお金を使うために消費税を上げたのではないはずよ。朝日新聞も消費税をあげろあげろと書いているけど,上げた分をどう使っているかをもっとちゃんと検証して報道すべきよ。
 週末の日銀が打ち出した「追加金融緩和」によって,一旦は円安・株高になったけれど,これでGPIFの資産配分の見直し,追加金融緩和と,日本が今持っている手持ちのカードは全て切った状況になってしまったらしいの。
 見かけ上の対策のメッキがはがれるのは時間の問題なんだけれど…。その先がたいへんなんだなあ。
 首相と日銀総裁は,後世,「平成の大失政」として名を残すことでしょうね。きっと。
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 ジャパニーズ・ティー・ガーデンを出て,友人は次にどこへ行きたいか,と聞いた。植物園か動物園だということだった。
 私は両方行こう,と言ったが,友人は,動物園はめちゃくちゃ広いと言った。どうも,彼女は植物園のほうに行きたいらしかった。そこで,それに同意して,次にわれわれが行ったのは,植物園であった。
  ・・・・・・
 サンアントニオ植物園は広さが32エーカー(13万平方メートル)あって,非営利の植物園である。
 植物園はジャパニーズガーデンから少し東に行ったとところにある。ちなみに,動物園は北の方向にあるが,どちらもこの広大な公園の中にある。
 この植物園は,ミセス・ジョセフ・マーフィーによって1940年代に発案されて,1960年代後半に行われた市の中心部の再開発計画によって建設されて,1976年7月21日に公開された。
 開園以降も,1988年にはエミリオが設計されたルシールハルセルガーデンが公開されたり,1992年には,サリバンキャリッジハウスが修復されたりと,整備されていった。
  ・・
 サリバンキャリッジハウスは,1896年に構築され,1988年にここに移転されたもので,正面玄関としての役割を果たしている。ここには,レストランやギフトショップ,オフィスだけでなく,イベントやミーティングルームもある。
  ・・・・・・

 ここで入園料を払って中に入ると,まず,おもちゃのひよこがいっぱい泳いでる噴水池があった。その向こうに,ルシールハルセルガーデンがあって,日本では珍しいさまざまな植物があった。
 ルシールハルセルガーデンは,中庭を囲む5つの気候特有の温室で構成されていて,温室の中では,高山植物,水生植物,サボテンや多肉植物,食虫植物,着生植物,シダやサトイモ,熱帯の果物,そしてソテツが育成されていた。
 友人が,自分の生まれ故郷の植物だといっていろいろと説明してくれた。
  ・・
 さらに行くと,日本庭園があった。ここの日本庭園は,先に行ったジャパニーズ・ティー・ガーデンとは違って,日本人に全く違和感のない完全な日本庭園であった。
 この日本庭園は,熊本市がサンアントニオの姉妹都市だということで整備されたもので,熊本市の水前寺公園や京都の桂離宮の庭園を模したものであるということだった。
 それにしても,こうした庭園の手入れは大変であろう。何事も作ることよりも維持することの方が大変だということは,歳をとった私にはとてもよくわかる。
 そのほかに,ガーデンズ・エントリー庭園,視覚障害者のための庭,ガーティーガーデン,ハーブガーデン,フォーマルベッド,ファウンテンプラザ,昔風の庭,観賞用グラスガーデン,ローズガーデン,聖なる庭,聖書の庭,日陰の庭,節水装置ガーデンがあった。
 どこも,きれいな花が咲き誇ったり,サボテンがあったりと,日本とは趣を異にした植物が楽しかった。植物園は広く,高台からは,サンアントニオの美しい風景を眺めることができた。さらに,ネイティブエリアや東テキサスのピネー(Piney)の森、テキサスヒルカントリー,サリバンキャリッジハウスもあって,どこかの森にでも迷い込んだかのようであった。

 私が行った3月は,こうした屋外の施設を楽しむのに,ちょうどよい季候であった。というか,もう,すでに暑かった。
 聞くところによると,夏は,来られたもんじゃないということであった。気温は華氏100度,つまり摂氏37度を越し,日本の夏以上になってしまうということである。もし,私の今回の旅行記のように,テキサス州を観光したいとお思いの人があれば,春や秋をおすすめします。

マンガンカルシウムクラスターシアノバクテリアエディアカラ生物群セレノシステイン

 「多くの偶然」とはなんだったのでしょうか?
  ・・・・・・
●第4段階
 まず,「酸素の生成」を考えてみます。
 生成された酸素と関係のある元素のひとつとして鉄があります。地球上になくてならない鉄は,その多くが縞状鉄鉱層として存在します。縞状鉄鋼層とは,ロッキー山脈に横たわるグランドキャニオンとかモニュメントバレーのような縞状の地層帯のことです。
 これらは,19億年前までに作られたものです。
 では,縞状鉄鉱層はどのようにしてつくられたのでしょうか。そこには,地球上の生命の誕生がかかわっているのです。
  ・・
●第5段階
 地球上に生命が誕生したことは大きな謎なのですが,きっと地球上のさまざまな化学反応からその予兆が生まれたのでしょう。そして,生命誕生の最初の主役になったのは,超新星爆発で作られた元素のひとつ「マンガン」なのです。
 生命が誕生するために必要な地球上の酸素は光合成でつくられたものですが,光合成をおこなうタンパク質は,30億年前にマンガンから偶然作られた「マンガンカルシウムクラスター」がもとになっているのです。
 この「マンガンカルシウムクラスター」こそ,光合成をおこなうために非常な優秀な光合成細菌だったのです。これが偶然その1です。
 「マンガンカルシウムクラスター」が地球上に生命が誕生した奇跡を担っているのです。
  ・・
●第6段階
 そして,地球上ではじめて「マンガンカルシウムクラスター」を使いはじめた細菌が「シアノバクテリア」でした。
 「シアノバクテリア」が光合成を行うことで,海水中に酸素が作られました。こうして作られた酸素は,海水に溶け切れなくなって,地上に大気を作っていったのです。そして,地上にも生命が誕生しました。やがて,「シアノバクテリア」は,植物の中では葉緑体となっていったのです。これが偶然その2です。
 また,海水の酸素は,これも海水中にあった鉄と結びつきました。それらは,水に溶けない酸化鉄となって海底に落下し,堆積しました。それが現在の縞状鉄鉱層なのです。
  ・・
●第7段階
 酸素と関係する元素のふたつ目はリンです。 
 人類の体内に1パーセントを占め,重要な働きをするリンは,現在は,地中の鉱物に含まれていて,海水には含まれていないのです。
 6億年前,先カンブリア時代に,生命が大型化と多様化を起こしました。これらをもたらした原因は,リンの増加によるものなのです。それが偶然その3です。
 「シアノバクテリア」によって酸素が作られた結果,大気中の二酸化酸素とメタンが減少して,地球が気温低下を起こし,「全球凍結」を起こしました。そののち,火山活動などで,再び気温が上昇しました。そのときに,氷が地表をけずったことで地球の土砂に含まれたリンは海水中に流れ出して,それを海水中の生物が体内に取り込んだのです。
 そのころに現れた生物が「エディアカラ生物群」です。そして,やがてカンブリア紀になるとさらに多様な生物が生まれて,海水中のリンは生物の中に取り込まれてしまいました。
  ・・
●第8段階
 鉄より重い元素は,超新星爆発ではできません。では,どのように作られたのか? それは現在でもよくわかっていません。しかし,こうすればできるだろう,という仮説があって,それが「R₋プロセス」とよばれるものです。「R-プロセス」で作られたであろう元素の中で,生命の維持に大切な元素として,セレンやモリブデンがあります。
 生物の進化には,「セレノシステイン」というセレンを含むアミノ酸の一種が大きく関わっています。「セレノシステイン」は下等な生物には存在せず,哺乳類や鳥,魚などの高等な生物だけが体内で生成することができます。生命を維持するために大切な酸素は,強い毒性をもつ活性酸素に替わってしまうので,これから身を守るために,この「セレノシステイン」が必要なのです。これが偶然その4です。
 また,初期の生命はRNAを使って遺伝子情報を交換していましたが,このRNAの鎖をつなぐ部分は不安定なリボースからできていて,その不安定さを守る元素がモリブデンなのです。これが偶然その5です。
  ・・・・・・

 ざっとこれらのことを取り上げただけでも,地球上の生命が今日に至るまでには、これほどの多くの偶然が作用していることがおわかりになることでしょう。
 皆さんは,これを知って,地球上に存在する生命は多くの偶然の産物だから,他の星には存在しないと思われますか? それとも,地球だけに生命がいるなどという考えは,人類が昔から犯している過ち,すなわち「宇宙の中心は地球だ」と同じことで,本当は,生命の誕生も特別なことではないから,宇宙には生命の存在する惑星がほかにもあるのだと思われますか?

☆ミミミ
171年ぶりに閏9月13日がやってきました。きょうは,「後の十三夜」のお月見です。
残念ながら曇りでしたが,少しだけお月様が顔をのぞかせたときに写しました。とにかく,見られてよかったです。

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 きょうは171年ぶりの「後の十三夜」です。美しい月が見られることを期待して,今日は生命誕生の謎について考えてみましょう。

 人間の体内には実に78種類の元素がありますが,これらは100億年以上前に宇宙でつくられたものです。つまり,人間は星屑で作られたといえるのです。たとえは,体内にはリンが1パーセント含まれているのですが,これは,体内で作られたものではなく,受け継いだものなのです。人間の体内では元素を作り出すことはできません。
  ・・・・・・
●第1段階
 宇宙は138億年前のビッグバンではじまりました。このとき宇宙にあったのは水素とヘリウムだけでした。そして,水素とヘリウムから巨大な星「ファーストスター」が誕生したのです。これが第一世代の星です。だから,第一世代の星は惑星を持つことはできませんでした。
 「ファーストスター」は,自らの重力で収縮し核融合を繰り返すことで,原子核に陽子と中性子が集まり,星の内部に鉄までの元素ができました。そしてついに,自らの収縮に耐えきれなくなって,超新星爆発を起こしました。
  ・・
●第2段階
 100億年以上前,超新星爆発で飛び散った鉄までの元素は,超新星により作られたブラックホールが出すジェットによって,ちょうどコーヒーに入れたミルクがかきまぜられたように,宇宙全体にばらまかれました。そして,再び,こうして宇宙にばらまかれた元素が集まって作られたのが,第2世代の星とその周りにまわる惑星です。

 われらの太陽系もそうして作られたものです。だから,地球も宇宙にばらまかれた元素から作られたもので,その地球上に誕生した生命もまた,宇宙にばらまかれた元素から作られたものです。
  ・・
●第3段階
 地球上に生命が存在するためには,「多くの偶然」がありました。
 だから,天文学者は,宇宙に多くの地球に似た惑星があるのだから,生命もまた珍しいものではないと考えているのに対して,生物学者は,「多くの偶然」がこの生命の誕生をもたらしたから,地球以外にはそう簡単に生命はいないと考えているわけなのです。
  ・・・・・・

 では,「多くの偶然」とはなんだったのでしょうか? こんなことに思いを巡らしながら,月を眺めるのも素敵かもしれません。
 今日の写真は,後の十三夜の1日前のものです。

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 タコベルを出て,きょうは,サンアントニオの公園に連れて行ってくれることになった。
 サンアントニオの北に,広大なブラッケンリッジ・パーク(Brackenridge Park)という公園がある。20分くらいかけて,ダウンタウンから北に向かい,公園に着いた。公園は,子供用の機関車が走っていたり,広い芝生があったりと,広大な都会のオアシスだった。そして,その公園の一角を占めていたのが,ジャパニーズ・ティー・ガーデンであった。
 このジャパニーズ・ティー・ガーデンは石灰岩採石場のあった場所に作られたという。かつてのセメント会社の煙突は今も立っていた。

  ・・・・・・
 この公園は,1917年,市の公園長官だったレイ·ランバートが採石場跡にオリエンタル風の庭園を作ることを計画し,市民に寄付を募って計画されたものである。
 庭の入り口にある鳥居はメキシコ生まれのアーティスト・ロドリゲスが作ったものである。
 1919年には,市の招待で,キミナナオという地元の日系アメリカ人アーティストがこの庭に移転してきた。彼らは,ランチやお茶ができる喫茶をここに開設したりしながら,庭を維持していたのだが,第二次世界大戦の勃発とともに反日感情が湧き上がり,退去させられてしまった。
  ・・
 それ以後は,何年もの間,庭園は落書きや破壊行為の対象となっていて,放置され荒廃してしまった。しかし,復興する資金もないので,市は庭を閉じようとした。しかし,地域社会や公園支持者は,公園を維持するためにさまざまな働きかけをしたのだった。
 やがて,1984年になると,へンリー・シスネロス市長は,キミナナオの子供たちと日本政府の代表の出席のもとで,元の「日本庭園」の名を回復させ,池や滝を復元するキャンペーンを開始した。
 ついに,2008年3月8日,公園は再開された。現在は,レストランも再開されて,サンアントニオ市民の憩いの場となっている。
  ・・・・・・
  
 駐車場には,すでに多くの車が停まっていたが,端の方に駐車できる場所があったので,車を停めて,ジャパニーズ・ティー・ガーデンへ向かった。
 小高い山のようになった入口には,石でできた中国風の鳥居があった。
 私は,上に書いたようなこの公園のいわれを,このときは,まだ知らなかったので,ここもまた,アメリカ人の考えた,ちょっと変な日本の庭園だなあ,と思った。
 なにせ,すべてが石が基調となっていたのだ。
 日本庭園では,石が重要な役割をしているのだが,この公園はそれとは全く異なる石の種類であり使い方であった。
 中国には行ったことがないかわらよくわからないが,中国風というものとともまた違った感じだろう,と思った。それでも,中は広く,丘の上にあった展望台からの景色は美しかった。

 この公園は,再興されてまだ間もないということで,ここまで整備するのにはさまざまな苦労があったことであろう。そして,日本では名前こそ知っていてもそれほどなじみがあると思えないサンアントニオに,こうした日本にちなんだ庭園があるということも,また,私には,驚きであった。
 庭園内の植物も,日本のものとは異なっていて,これを日本庭園と考えれば確かに奇妙であるけれど,和洋折衷のすばらしい芸術だと思えば,それなりに納得できるところであった。
 入口付近にあったレストランも賑わっていた。
 広い庭園をのんびりと散策してから駐車場に戻った。
 駐車場からは,庭園と反対側に芝生が広がっていて,子供用の機関車が走っていた。また,駐車場の端におかしなブタのモニュメントが見えた。

  ・・・・・・
 10月30日の朝日新聞の「論壇時評」で,高橋源一郎さんが,安田浩一さんのルポ「外国人『隷属』労働者」を取り上げていました。このルポでは,「外国人技能実習制度」は,実際には,外国人は単に「安価な労働」として取り扱われているにすぎない。とあって,外国人だから自由も人権も奪われても気にならない,という社会では,自由や人権も空語でしかないだろう。と締めくくってありました。
  ・・
 その隣の記事は,濱野智史さんの「イスラム国へ追い込む絶望」でした。イスラム国へ渡航計画を立てた男子大学生が,その動機として「別のフィクションに身を投じたい」と発言したことに対して,筆者が注目したいのは「別の」という表現でした。日本での就職活動は,確かに「フィクション」に満ちていて,就職戦線を勝ち抜くために,学生たちはありもしない志望動機を創作し,「御社にふさわしい人材」になるための演技を強いられるわけです。これはまさに”虚構”そのものではないか,と書かれていました。
 この記事に書かれてあることは,まさに,この国の現状,つまり本音そのものです。
 「おもてなし」といいながら,実はこころならずも単なるお節介をしてしまう人がいる。人の目が気になるときはいい子になって,人の目がないと,平気でごみを捨てる。自分より立場が上の人に対しては,従順を誓うくせに,自分の方が立場が上,と見なせば,徹底的に見下して,相手のことを考えない,つまり,人権を軽視する。入試で学力偏重をやめるためと称して面接を課しても,平等という名目で,その実は,質問内容も画一的に管理され,答える方も練習してきた内容を演技するだけ。
 これらが日本の姿なのです。だれかが家の中だけで威張っているおやじと同じだ,と言っていました。
  ・・
 それとは対照的に,「おやじのせなか」という連載に,大川豊さんのお父さんが取り上げられていました。
 大川豊さんのお父さんは「謎の自由人だった」のだそうです。
 「謎のおやじですね。どこに住んでいたのか。何をしていたのか。全然わからない。」から文章ははじまって,「多神教の神みたいなもんです。今の親子関係って『この人しかいない』っていう一神教だから苦しいんでしょうね。」と結んでありました。
 私はそんな自由人に最高にあこがれます。私の理想の姿です。
  ・・・・・・
 この日の新聞は,これら3つの記事を読むだけで十分でした。これらの記事を読んで,なんだか,私は,考えさせられるとともに,とても愉快になりました。

 人はどうして生きているんでしょう。
 私は,人生なんて,所詮死ぬまでの暇つぶしだと常々思っていますが,多くの人は,そこに意義を求めたり,価値観を求めて他人と競うから,難しく,話がややこしくなるのです。
 私が子供のころ,「偉かった人」は,生まれたときから偉かった人だと思っていたし,未来永劫も偉い人だと思っていました。しかし,歳をとってみると,昔私が「偉かった人」と思っていた人が,実はとんだ俗人であったり,悲惨な末期を迎えたり,あるいは,本当はたいして立派でなかったり,と,そんな実際の姿を知りました。そうしたことがわかってしまうと,まあ,そんな価値観はど~でもいいんじゃないの,と確信するに至りました。
  ・・
 狭い満員電車の中だけでも,座って寝ている人や,体が不自由でも席を譲ってもらえずに辛抱して立っている人や,人のことをつねに配慮している人や,まったく気にもとめていない人など,いろんな人がいるのだから,それを広い地球上で考えれば,このような人が,それこそ無数に生きているわけです。そうした人達がみんな幸せに生きることって,そりゃ不可能なことでしょう。
 私はそれを何とかしようとか,そんな傲慢なことは持ちあわせていません。しかし,ただひとつ思うのは,ちょっぴり相手の気持ちを考える余裕があって,ほんの少しずつみんなが自分の存在を遠慮すれば,それだけで,今よりずいぶん過ごしやすい社会になるんじゃないか,ということです。
 ひとりでも多くの人がそう思うのなら,それだけで少しはすてきな社会になると思うのです。
 そしてまた,欲張りな私は,そんな社会に住む「謎の自由人」にあこがれるのです。霞みを食べて生きるために。

◇◇◇
きょうは,文化の日。
組織には,叙勲の対象者を推薦するように文書がきます。それは,ある一定の年齢に達して,ある基準をみたす職歴がある人が対象になります。そして,そういう該当者がいれば,その人のことを全く知らない人が,推薦文を書きます。そして,叙勲が決まります。当然,組織に属さない自由人に,資格はありません。

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 前回会ったときは昼食抜きであったのに,友人は,なぜか今日は,はじめに昼食を取るのだと言った。ファーストフードはあまり好みではないそうだが,タコベルならいいという。
  ・・・・・・
 タコベル(Taco Bell)は,カリフォルニア州のアーバイン市に本社を置く大手ファストフードのチェーンで,タコス,ブリート,ナチョス,ケサディーヤなど,メキシコ料理風の食品を提供している。アメリカ合衆国やヨーロッパ,アジアに6500を超えるフランチャイズ店舗を経営していて,かつては日本にも店舗があったが、撤退した。
  ・・・・・・

 私は,アメリカで,どうしても,日本に店舗のないファーストフード店というのは,入るのに抵抗がある。昨年の夏,ダンキンドーナッツに行こうと思いながら,結局入ることができなかった。
 逆に,日本に来た外国人には,マクドナルドが気軽であるのだろうから,多くの外国人が利用している。
 現地のアメリカ人に,サークルKやデニーズが日本にもあるというと驚くが,こんな風に,当たり前そうで,お互い,よく知らないことも多いものだ。
 せっかくなので,誘いにのって,タコベルに行くことにした。到着した店は,半分がタコベル,半分がKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)であった。
 私にはタコベルのメニューがよくわからないものだから,いろいろと教えてもらうことにした。

 ここで,にわか知識を披露する。
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 タコス(TACOS)というのはトウモロコシのトルティーア(皮)をバリバリのUの字にしてその中に具を包んだもの,ブリトー(BURRITOS)というのは,フラワートルティーヤで具を巻いたものでもちもち,ゴルディタス(GORDITAS)はフラットブレッドを皮にして中にクリームやチーズ,レタスと肉を具にしたもの,チャルパス(CHALUPAS)はゴルディタスよりもさわやかでバリバリ感がある,そして,ナチェス(NACHES)とは,トルティーヤチップスをベースに溶かしたチーズをかけたものである。
 どれも,チーズたっぷりでスパイシイである。
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 こうしたメキシコ料理がお好きな人には申し訳ないが,多くの日本人の口に合うとは,私には思えない。それはきっと,外見がお好み焼きのような感じなのに,食べてみるとまったく味がちがうからなのではなかろうか。
 どういうことかというと,外見はお好み焼きのようなのであるけれど,ソース味がなくしかも冷たい,そんな感じである。あるいは,春巻きのようなのにチーズ味,しかも,黄色くてスライスしてあるから頭の中は卵焼きモードなのにチーズ味がする,というものである。
 だから,ハンバーガーとは違って,日本に進出してもなかなか成功しないのだろう。
 逆に考えれば,日本人がおいしいと思っていても,外国の人にはそう思えない食べ物もあるわけで,その理由は,食べ慣れていないということもあるだろうが,よく似た外観でまったく味の違うもの,というのが,結構大きな要素を占めているのでは… と私は想像する。
 そんなわけで,タコベル初体験の私であった。
 メキシコ料理とはいっても,ここはファーストフード店だから,正統なメキシコ料理とは違うであろう。しかし,私には,正直言って,タコベルよりはマクドナルド,マクドナルドよりも吉野家のほうが自分には合っていたなあ,というのが実感であった。

 このブログでいつも書いているように,この国の人は,自分たちのことをわかっていないというのが,一番の問題なのね。だから,理想高く目標は正しくても,それが達成できないわけだし,外国のシステムをそのまま真似してもうまくいかないわけ。
 簡単に言うと,自己がないから,つまり,自信がないから人と比べてばかりいる。そして,大義がわかっていないから,つまり,人生観や世界観がないから,真面目に夜遅くまで働いても働くその目的がわからない…。

 中央教育審議会が大学入試の選抜方法を改革する答申案をまとめたそうね。
 知識量を問う「従来型の学力」を測るテストから,知識を活用し自ら課題を解決できる能力を見る入試に改めるって書かれてあったわ。
 私はこのことは大賛成よ。
 今の高等学校の教育は,勉強を嫌いにするためにやっているようなもので,ほとんど役に立たない。高校出ても英語が使えるようになるわけでも古典が読めるようになるわけでもない。教師も,学生のときにそうした教育を受けて疑問を感じなかった人がなっただけだから,それを真似して,ドリル学習の答え合わせをすることと他人と競わせることしかできない。

 でもね,こうした改革をすると,高校の先生が何をするか,おおよそ予想がつくわ。
 たとえば,「英語については,TOEFLなどの民間試験の活用が求められた」と提言されているけど,このことに対して,これからの授業はいつも,TOEFLの練習ばかりになるわね。そして,毎回点数を表にしてできないと追試をするの。明けても暮れてもね。そういった塾も乱立するわね。
 その結果,TOEFLの成績はやたら高くとも,読み書き会話ができないという現状のままになるわ。

 たとえば,「志望理由書や面接,プレゼンテーション能力,集団討論,部活動の実績,資格試験の成績などを組みあわせて選抜する」なんていう提言も,それに対して,学校ではそういう練習ばかりするようになるわよ。
 今だって,推薦入試のために面接があるというと,お辞儀の仕方やら,想定質問やらを作って,まるで,お芝居をするみたいに何度も練習してるもの。受験生は面接で自分の意見なんて言っていないわよ。劇を演じているだけよ。
 部活動の実績を重視,っていえば,きっと,大会ごとにランクをつけて,事細かく調査書に記入するようになるわよ。評価の「平等」とかいう大義名分を掲げてね。
 そのうち,学校で行動するすべてのことも事細かく評価するようになるわよ。掃除を一生懸命やったとかクラス役員をどのくらいやったとかね。評価の基準を作ってね。
 その結果,生徒はすべての行動が評価の対象になり,学校は監視社会になるわ。だから,自分の意見を持たず,たえず人の評価を気にして,模範解答をさも自分の意見のように話す,社会に従順な若者だけが育っていくわ。まるで,温室栽培の均一品種のトマトのように。

 理想は正しくても,それを正しく生かそうとしない。これがこの国の人の特徴なの。
 だから,今だって,決められた時間数以外にやたらと補習をやったり,クラブ活動という名のもとに数学クラブとかいう名前をつけて実際は数学の授業をしたり,とか,要するにせこいのね。
 そんなんで大学へ入っても仕方がないのに,高等学校がやっているのは進学実績が欲しいだけだから,生徒のためじゃあなくて学校のためなのね。マスコミだって,大学進学実績の一覧表を週刊誌に載せて,そうした競争をあおっているわ。だって,マスコミに勤めている人たちだって,そうした受験指導を受けてきた人たちだからね。価値観は同じなのよ。
 だから,どう変えても結局は同じ。教師はさらに雑務に追われ,塾が繁盛し,生徒は意味のないことに疲弊するだけなの。

 今や,どこでもeラーニングができるのだから,大学なんて,希望者は全員入学させればいいのよ。そして,大学1年生はすべてeラーニングで在宅で学習させて,難しい定期試験やレポートを課せばいいのよ。すべて英語でね。そうすれば,自ずから,能力のない学生は卒業できないから,そのうち入学もしなくなるわ。しばらくは混乱するけどね。
 根本的に,入学することより何を学んで卒業するか,に目的が変わらない限り,何も改善しないわ。
 でも無理ね。この国は専門性をリスペクトしないから。経済学部出た人が法務大臣やってたくらいだから。うちわを配りながらね。
 この予想,当たるわよ。ここに書いたことをぜひ10年後に思い出してみてね。
 私は心からこの予想が外れることを祈っているけど…。

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