しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2014

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 今年もあとわずか。新聞の読書欄には,毎週の書評にかわって,「この1年に出会った本」という特集が載っていて,書評委員さんたちが3冊ずつ本をあげています。
 毎年思うのですが,これらの本の題名をみても,まず,私が読んだものは存在しないし,おもしろそうなものはないし,何を目的にこうした特集をするのだろうといつも思います。それぞれの書評委員さんのプライドをひけらかすだけのようなものなのでしょうか。
 常々思うのですが,新聞の読書欄というのは,どういう読者を想定して本を選んでいるのか,私にはよくわかりません。専門書の紹介は一般紙にはそぐわないし…。それとは逆に,近所の本屋さんに行くと,置いてあるのは啓蒙書や新書,そして,雑誌ばかりで,私にはおもしろそうな本などほとんどありません。
 新書の類はすでに知っている内容ばかりだし,雑誌に至っては,いまやネットの方が情報が早く,時間つぶし以外に何の役にもたたず,お金を出してまで買いたいと思うものはほとんど見つかりません。雑誌というのは広告料で儲けているだけのカタログ誌なのでしょう。
 啓蒙書は,近年のNHKEテレと同じような,庶民をバカにしたような程度のものばかりです。本来,啓蒙書に書かれているような知識は,日本では中学校や高等学校といった中等教育が担うものなのでしょうが,この国の中等教育は,受験術と人間のランク付け以外には何もしていないから,まったく知識は身につかず,知的好奇心は育っていないので,こういう本があふれることになってしまうのでしょう。
 とまあ,年寄りの愚痴はともかく,自分への記録という意味で,私のこの1年に出会った本から3冊,ここに書いておくことにします。

 1冊目は,講談社ブルーバックスの「宇宙最大の爆発天体 ガンマ線バースト」。
 私は,この本を真剣に3回も読み直しました。ガンマ線バーストの正体は,残念ながら,結局,極超新星,つまり,超大質量の恒星が一生を終える時に極超新星となって爆発してブラックホールが形成されるときに起きるものである,というくらいのことしかわかっていなくて,それを1冊にするために,変に推理小説のように書かれていて説明が回りくどかったりしたのが,この本を3回も読むことになってしまった理由です。でも,おもしろい本でした。
  ・・

 2冊目は,技術評論社の知の扉シリーズから「素粒子論はなぜわかりにくいのか」。
 きっと,この本に書かれた解釈は,専門的に言えばかなり大胆なのでしょう。つまり,厳密さに欠け,危ういのです。であるからこそ,これまで専門書に書かれていたことが腑に落ちない人にはよくわかるのです。私にとって最も収穫だったのは,朝永振一郎さんの繰り込み理論というものがやっとどういうことか納得できた,という点にありました。それにしても,理論物理学というのは,結局のところ,何も語ってはくれない,というのが,私が長年勉強しての結論です。自然界には4つの力がある,といわれても,では,力ってそもそも何か? という疑問になっていくので,最後はわかるというより,より疑問が増えてくる,つまり,人間のもっている認識そのものが理解の限界になってしまうのです。
  ・・
 そして,3冊目は,東京書籍の「はるかなる野球大国をたずねて」。
 この本のことはすでに書きましたが,読みごたえあるすてきな本でした。

 今年は,読書をしたこと以外にも,随分と星も見たし,旅行もしたし,そんなわけで,昔から疑問に思っていたことが解決できたり,できなかったことがいろいろと達成できたりした実り多き1年になりました。

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 ここからが数奇な運命の第2章です。
 三五(あなない)教という宗教団体があります。当時この教団では,「天文と宗教は一如なり」という神託を受けて,天文を標榜する宗教活動を展開し,その流れの中で,68歳の山本博士は,三願の礼を以って教団に迎えられて,教団の手によって,天文台作りが行われたのだそうです。それは1956年のことでした。
 「アナナイ中央天文台」は,沼津市の小高い山に造営されたのですが,肝心の観測用の望遠鏡がなかったので,翌年,山本天文台にあった愛用の46センチメートル反射望遠鏡が移築されたということなのです。

 しかし,博士は,次第に教団の方針に懐疑的になっていきました。
 1958年の秋には,意見の相違が原因で,博士は滋賀県の実家に帰郷。そして,間もない半年後の1959年1月に逝去されてしまいました。70歳でした。
 問題は,教団に残された望遠鏡でした。こうして,さらに望遠鏡の流転が続きます。
 1960年12月までは,望遠鏡はアナナイ中央天文台にあったのだそうです。そして,どうやら,このころに,山本天文台に戻されたらしいのです。
 しかし,その2年後の1962年に,岐阜市の富田学園天文台に売却が決まり,機材の改修が行われ,翌1963年には富田学園に設置されました。まるで親を無くした子供が扶養先を求めてさまようかのようです。
 私が読んだ「富田学園天文台のカルバー望遠鏡」は,こうした経緯をたどったものだったのです。

 当時の富田学園天文台では,一晩に2つの彗星を発見したことで有名な森敬明(ひろあき)先生のもとでカルバー望遠鏡が使用されていたという記事を読んだことがありますが,巨大な望遠鏡に比べて,ドームが小さく,その性能が十分に発揮されなかったというようなことがかかれてありました。
 森先生は,家庭の事情で苦学され,このカルバー望遠鏡にあこがれて,この富田学園に勤務されたのですが,その当時の望遠鏡はボロボロで,修理を学校に願い出ても,「PR用でいい。観測できなくてもいい」と言われて愕然としたということです。こうした話は,「私の新彗星発見記」に載っています。
 森先生は,学校での活動に加え,自宅に作った観測所で,1975年10月5日に,森・佐藤・藤川彗星(C/1975T1)と鈴木・三枝・森彗星(C/1975T2)を発見しました。また,1984年11月には,レビー・ルデンコ彗星(C/1984V1)を独立に発見されました。

 望遠鏡の方ははじめっからそんな有様だったのですから,その後の運命は明らかです。予想通り,次第に望遠鏡は省みられなくなって,保管されるだけとなったのでした。日本の教育というものがどんな有様か,このエピソードだけでもお分かりになるでしょう。
 しかし,時が流れて,この望遠鏡に再び光が当たる日が来ました。 
 山本博士の遺愛品寄付移管事業が始まり,寄付同意を前提として,2011年にカルバー望遠鏡は再び花山天文台に戻ってきたのです。
 この望遠鏡が修復されて,再び,美しい星空を見せてくれる日を待ち続けたいと思います。

 とまあ,私の調べた限り,こんな状況でした。
 これは,倉敷天文台にあるカルバー望遠鏡のことではないのですが,同じころに輸入された望遠鏡の数奇な運命を知ることで,この望遠鏡も,単なる骨董としてではなく,特別な意味を持って見学ができるというものだと思います。
 日本には,こういった歴史的なさまざまなものが十分に保存されているとはいいがたい場合が多いものです。歴史がありすぎて,やりきれないという面もあるのでしょうが,私は,この国には学問に対するリスペクトがないというのが根本的な理由だと思います。残念なことです。
 そうした意味からも,倉敷天文台と本田實さんの貴重な遺品がこうして立派に保存され,また,見学できることは,たいへんすばらしいことだと思いました。

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 クレーター・オブ・ザ・ムーンの公園の中の周回道路を走った。
 ところどころに駐車場があって,そこに車を停めてトレイルを歩くことができるようになっていた。
 アメリカの国立公園は,どこもこんな感じなのだが,きちんと見学すると,どこもかしこも1日では足りない。ここも,ビジターセンターでレンジャーによるガイドツアーがあって,参加しないかと言われた。
 残念ながら,私は先を急がなくてはならなかったので,車で外周をまわることしかできなかった(=1番目の写真)。
 山あり谷ありで,外周道路は,なにか児童公園のゴーカートのコースのようであった。

 30分くらいこの公園にいたであろうか。その後,国道20&26に戻り,道なりに北東に進んでいった。
 やがて,アルコ(Arco)という町に着いた。この町の三叉路でを左に折れると国道93,そのまま北にこの国道93を走っていくと,モンタナ州のグレイシャー国立公園である。
 以前,モンタナ州に来た時はそれほど思わなかったが,アイダホ州やモンタナ州はなんとすてきなところであろうか。今回,しみじみそれを実感した。
 今日は,まず,このアルコという町の写真をご覧ください(=2番目の写真)。こんな小さな町でも,本当にすてきでしょう。
 以前にも書いたことがあるが,こういうのが「普通の」アメリカの町,アメリカの風景なのである。

 私は,そのまま右折をして国道20&26を南東に進んだ(=3番目の写真)。
 しばらく走っていくと,国道20と26はY字路で分かれて,国道20はそのまま東に,国道26は南東に進むところに来た。ここには,町はなかった(=4番目の写真)。
 どちらの道を走っても,インターステイツ15にぶつかるので,大した差があるわけではないが,距離の短い国道26に進路をとった(=5番目の写真)。
 あとは,まわりにな~んにもない一面の大地が続いているのもいつもと同じであった。
 
 今晩は,ソルトレイクシティの南のスプリングヴィレ(Springville)という町にホテルを予約してあった。
 大都会を経由するときは,車ならば,都会から少し離れたところにホテルをとるのが便利なのである。
 せっかくだから,時間があるだけ,途中の大都会ソルトレイクシティを市内観光しようと思った。そして,あまり遅くならないうちにホテルに到着したいものだと思っていた。
 ソルトレイクシティで帰宅の渋滞に巻き込まれると困るなあ,と思っていたが,考えてみれば今日は日曜日。その心配はなかった。

 もう一昨年の夏になるだろうか…。
 考えてみれば,年月の経つのは早いものだが,私は,そのとき,ノースダコタ州へ行った。このことは,すでにこのブログに書いたが,その旅のとき,行きの予約してあった飛行機がダブルブッキングで,別の便に変更になって,偶然,ソルトレイクシティを経由することになった。
 飛行機がソルトレイクシティの空港に到着して,広い空港の大きなガラス窓から見たソルトレイクシティの街並みはそれはきれいなものだった。また,着陸するときに機内の窓から見下ろしたソルトレイク湖は,延々と塩の平原が続き,それはそれは奇妙な風景であった。隣に座っていた女性が,思わず感嘆の声を上げた。そのときは,まさか,わずか2年後に,ソルトレイクシティに来ることができるなんて,私は思いもしなかったのだった。

 それにしても,どうして,アメリカはどこもこうも,こんなにすごいのだろうか。
 こんな風景を知ってしまうと,短い人生,狭い混雑した日本を旅したり,くだらない仕事をだらだらとするような暇はないではないか。商業主義に乗せられてつまらないモノを買ったりしてムダ遣いなどしないで,もっともっとアメリカを旅したい…。

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 2014年8月17日に発見されたラブジョイ彗星(C/2014Q2 Lovejoy)は,先週見たときには,はじめの予報よりずいぶんと明るく輝いていました。
 この今年のクリスマスの贈り物は,12月28日から29日にかけて,オリオン座の南にあるうさぎ座のM79という球状星団に近づきます。そして,来年の1月11日には4等星まで増光するという楽しい予想が出されています。

 都会に住む私は,家の庭で星を見ることができないので,どうしても空の暗いところまで行く必要があります。天気予報を入念にチェックして,雲がないという確信があれば,決行します。近ごろの天気予報は非常に精度がよくて,正確に雲の予想さえできるので助かります。
 予報では,あいにく,28日以降は天気がよくなくて,雨か雪ということで,一番条件がよさそうな26日の深夜に,再び見に行くことにしました。
 彗星は,まだ,球状星団からは少し離れてはいるのですが,180ミリの望遠レンズなら,彗星と星団を1枚の写真に収めることができることを確認しました。

 また,別の機会に書こうと思っていますが,私が星を見にいく場所は4,5箇所あります。それぞれの場所には,いろいろと問題があって,1箇所に絞れないのが残念なのですが,毎回,見るものの条件に一番あったところに行くことにしています。
 今回は,この彗星が見られるのが南の空低いというとを考慮して場所を決めました。そうそう,ひとつ書き忘れていましたが,一番大切なのは,場所よりも,月の光がないということです。その点では,ちょうど,今は新月なので問題はありませんでした。
 また,歳をとって,睡眠時間が少しですむようになったので,午前2時くらいまで星を見るのなら,見終わってから家に帰って,2時間程度仮眠すれば,次の日は朝から何の問題もありません。
 さすがに明け方の空を見にいくときだけは,あらかじめ仮眠をしてから出かけます。

 この日も,いつものように1時間半くらいかけて,観測場所に到着しました。
 さっそく望遠鏡を設置したのですが,そのころになると雲が出てきて,ついには北極星すら見えなくなってきました。しかし,長年の経験で,この日は,雲は,待っていれば切れる確信があったので,特にあせりもせず,準備を続けました。風が非常に強かったのですが,風が強いのは,夜露がつかないので,むしろ望ましいのです。寒さは,防寒着でなんとかなります。
 やがて,いつのまにか雲がなくなって快晴。南の空には美しくオリオン座が見られるようになりました。
 双眼鏡でなんとなくうさぎ座のあたりを見ていると,全く問題なく,視野の中に,ぼんやりとした彗星像が飛び込んできました。こんなに楽に彗星を見つけることができたのは,久しぶりのことでした。
 この彗星は,よほど明るいということなのです。
 前回見た12月20日に比べて,ここ1週間で彗星は非常に明るくなっていました。

 まず,180ミリの望遠レンズで彗星と球状星団を一緒に写真に収めました。もともとこの球状星団は小さくてさえないものなので,ほとんど恒星と区別がつかないのが残念ではあります。
 きょうの1番目の写真の白丸の中にあるのが球状星団で,彗星と同じ写真に収めることができました。そして,次に,いつものように,500ミリレンズで写しました。それが下の写真です。家に帰って確かめてみると,ずいぶんと長い尾が見えています。
 このように,この,望外に増光した彗星は,これから,もっともっと明るくなるので,期待が高まります。
 サプライズなクリスマスプレゼントになりました。C_2014Q2_Lovejoy_20141226

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 アイダホ州には,日本ではほとんど紹介されていないが,美しい火山岩の露頭が続いている場所がある。
 コロンビア川とその上流のスネーク川には,洪水玄武岩の分布地帯やカルデラがある。
 その中でも,「クレーター・オブ・ザ・ムーン」(Craters of the Moon National Monument and Preserve)とよばれる場所は,アメリカ本土では随一の第四紀完新世の玄武岩の噴出があった場所で,その第四紀火山岩の総量は1,600万平行キロメートルにのぼるという。

 国道26を走って行くと,スネーク川平原に,黒色の累々たる新鮮な玄武岩が現れてきて,それは,びっくりするくらいの驚きであった。すると右手に展望台があった。車が2,3台停められる駐車場があったので車を停めて車外に出た。
 見渡すと,あたりは一面,真っ黒な大地であった。宇宙飛行士が,月の景色と同じだと言ったという。「Apollo Astronauts Visited Craters of the Moon.」とでも入力するといろいろなサイトが見つかる。
 私は感動して見とれていたのだが,時々通るほかの車は,この展望台で車を停めずに走り去っていった。この先に,ビジターセンターがあるということは聞いて知っていたから,きっと,それらの車は,そのビジターセンターに行くのだろうと思った。私も車に戻って,ビジターセンターに向かった。
 しかし,後で思うに,この展望台からの眺めが一番雄大であった。

 国道26をさらに走って行くと,ビジターセンターへの入口があった。国道を右折して,しばらく走っていくと,ビジターセンターに到着した。ビジターセンターの駐車場に車を停めて,建物に入った。建物の中には,各種の展示や出版物が置かれてあったた。
 次に,ビジターセンターを出て,そこから,公園内の道路を走っていくと,周回道路にそって,月のような黒い大地の広がる景観を見て回ることができた。また,道路の所々に駐車場があって、そこからは徒歩でトレイルを歩いて回るできるようになっていた。
 真っ黒い大地は,どこも草はほとんど生えていなくて,溶岩や噴出物が露出していた。
 このあたりの岩石はほとんどが急冷のガラス質であり,これらは玄武岩であるということだ。これらは1万1,000年前から間欠的に2,000年前まで続いた噴出でできたものだということであった。

20190626171351895790_4db742169d1822771b1154958045f9bb (2)花山天文台2花山天文台山本天文台

 倉敷天文台のカルバー望遠鏡に関連して,「数奇な運命」をたどった別のカルバー望遠鏡のことを取り上げます。こういうお話は,「月刊天文ガイド」世代のわれわれには伝説というか,神話のようなものです。
 昭和30年代以前の日本には,現代とはまったく異なる不思議なお話があるものです。 

 「日本の天文台」という「月刊天文ガイド」の別冊があります。この本が出版された1972年当時,岐阜の富田学園という私立の学校に,「数奇な運命」をたどったカルバー製の46センチメートル反射望遠鏡があるという記事があったのですが,そのころの私には,数奇な運命という意味がわかりませんでした。
 余談ですが,この「月刊天文ガイド」の別冊は,現在,ある中古天体望遠鏡店のサイトで15,800円で売りに出ています。

 その「数奇な運命」とは,おおよそ次のようなものです。
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 大正から昭和初期にかけて,1834年に生まれ1927年に亡くなったイギリスのG・カルバーが製作した反射鏡を乗せた望遠鏡が,関西に3台輸入されました。
 カルバーは多産な鏡製作者で,生涯4,000枚ほどの鏡を磨いたそうですが,彼の磨いた鏡は,協力して仕事をしていたオッタウェイ(Ottaway)の作ったマウントに載せられて出荷されました。
 輸入された3台のうちの1台目は33センチメートル反射望遠鏡で,京大の宇宙物理学教室に導入されました。この望遠鏡は現存しませんが,後に反射鏡研磨の第一人者といわれるようになった,1904年に生まれ1932年に亡くなった中村要さんはこの鏡に心酔して,カルバーと文通しながら教えを請うたとされています。
 2台目は32センチメートル反射望遠鏡で,これが倉敷市民天文台に残るものです。
 そして,3台目が,数奇な運命をたどる46センチメートルのものです。
  ・・
 ここで,登場人物をひとり紹介しなくてはなりません。それは,日本の天文学の創生期の学者さんで,初代の花山天文台長であった山本一清博士です。花山天文台(かざんてんもんだい)というのは,1929年に,標高 234メートルの京都市東山にある花山山頂に建設された天文台で,京都大学理学部に属していました。
 カルバーの磨いた46センチメートルの反射鏡をのせた望遠鏡は,先に輸入された2台の33センチメートルの後を受けて,山本博士の手によって,1927年に輸入され,創設した花山天文台に設置されました。
 同じころ,クック製の30センチメートル屈折望遠鏡も導入されました。
 クック製の30センチメートル屈折望遠鏡のほうは,1969年に対物レンズをカールツァイス製の45センチメートルレンズに換装しました。当時のことゆえ現在のような高性能なフローライトやEDレンズがなく,アクロマートレンズで十分な色消しをするには長焦点が必要だったので,反射鏡を2枚鏡筒の中に仕込んで光路を折り曲げ,独特の形の屈折望遠鏡が完成しました。ということで,現在,30センチメートルのレンズは保存され,当時の架台だけが今なお現役で使用されています。
 ところが,この46センチメートル反射望遠鏡の輸入時に起きた会計処理の不明瞭が問題となって,1938年に博士は48歳のときに大学を退官することになってしまったのだそうです。こうして在野に下った博士は,それまで花山天文台を本部とした東亜天文学会の機能とともに,滋賀県田上(たなかみ)村の実家に私設天文台を設置して,そこにカルバー望遠鏡を移転し,活動を開始されたのでした。
  ・・・・・・

 東亜天文学会は,山本一清博士らによって,「天文学の発展のためには,官製のプロが中心の天文学フォーラムだけではなく,星に親しんでいるアマチュアからプロの天文学者までが協力する必要がある」という認識ではじまりました。東亜天文学会という名前は、発足当時,紙が配給統制品だったために配給を受けやすくするためにつけられたのもです。東亜天文学会は現在も活動していて,2012年に特定非営利活動法人となりました。
 田上天文台は,1955年に山本博士の名を冠して「山本天文台」となりましたが,今は建物が残るだけです。
 だから,若いころの私が知っていたのは,山本天文台という名と,そこにあった何か戦争中のような名前の東亜天文学会,そして,東亜天文学会の機関誌の「天界」くらいのもので,それらはいずれも「月刊天文ガイド」を読んでいた程度の星好きの子供には敷居の高いところでした。

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 朝食をすませて,早速,午前8時30ごろに家を出た。天気のよい日だった。
 家からマウンテンホームの市街地を抜けて,インターステイツのジャンクション93まで行った。
 はじめて乗ったトヨタ・プリウスは快調であった。これはまさに電気自動車である。
 ジャンクションでインターステイツ84に入らずに,そのまま北上していくと,その道が国道20であった。
 このさき道路は片側1車線で,ほとんど他の車とすれ違わなかった。少し走ると,瞬く間に市外地に出て,まわりにはほとんど家もなく,遠くに見える山並みは,以前行ったモンタナ州のそれを思い出させた。

 アイダホ州は,税金も安く,そのために,このあたりに大きな別荘を持つ有名人も数多くいるという。
 アーノルドシュワルツネッカー( Arnold Schwarzenegger),トム・ハンクス(Tom Hanks),ブルース・ウィリス(Bruce Willis)などである。
 しかし,このあたりは,昨年大規模な山火事があって,大変だったということだ。「Fire threatens celebrity resort homes in Idaho.」とでも入力して調べてみると詳しく出てくる。また,このあたりは,熊が出るとか,冬は豪雪で身動きできなくなる,というところなのだそうだ。

 乗り慣れていない車で走るのには,この道は絶好であった。そうして,私は,すぐに,プリウスになじむことができたのだった。
 国道20をまっすぐに進んでいくと,しばらくして,フェアフィールド(Fair Field)という小さな町に着いた。
 私は,飲み物も持たずに家を出てしまったので,ずっと,飲み物を買うことのできるお店を探していた。道路際に,こぎれいなドライブインを見つけたので,車を停めた。単なるガソリンスタンドではなく,レストランと土産物屋を兼ねた山小屋風の建物であった。
 凝った建物だったが,入口がよくわからなかった。はじめに入ろうとしたところは,従業員の入口であった。実は,その横に入口があったのだが,わかりづらく,ちょうど駐車場に人がいたので,私は,この店には何か飲み物は売っているか? と聞いたつもりだったのだが,けげんな顔をされた。後で考えてみると,私が聞いたのは,あなたは何か飲み物を持っているか? という意味であったので,聞かれた人はひどく戸惑っていたというわけであった。悪いことをした。

 ようやく入口を見つけて,中に入った。
 もちろん飲み物も売っていたし,食事をするところもあった。このあたりの見どころのパンフレットも置いてあった。この店を逃すとしばらくガソリンスタンドはないに違いない。私の車は,まだ出発したばかりだったので,ガソリンは満タンであったから大丈夫だったけれど,この先,アメリカをドライブするときは,ガソリンが半分なくなった時点で補給しないとえらいことになる。
 ペットボトルに入ったコークを買って店を出て,その後,さらに,国道20をすすんでいくと,やがて,道路は南西から北東に走る国道26と交差する地点に出た。左折すると国道は20は国道26と合流するのだ。
 私は左折して,そのまま合流した国道20&26を北東に道なりに走って行った。
 すると,突然,風景が変わった。

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 現在ラブジョイ彗星(C/2014Q2  Lovejoy)がオリオン座の南あたりに見えています(=1番目の写真)。予想よりも明るくて,双眼鏡を使えば,綿菓子のような姿を容易に見ることができます。
 …と書くと,混乱する人も多いと思います。というのは,昨年の今ごろもラブジョイ彗星を見ることができたからですが,それとは別の天体です。
 現在見ることのできるラブジョイ彗星は,このあと,12月28日にはうさぎ座のM79という球状星団に接近して同じ視野の中に輝き,その後オリオン座の東側をどんどんと北上して,来年1月11日ごろに最も明るくなります。
 連休中でもあり,非常に条件がよく,冬の代表的な星座オリオン座の隣にほうき星が輝くという素晴らしい写真を写すことができるかもしれません。

 彗星は発見した人の名前がつきます。とはいっても,近ごろは,天文台が大規模なサーベイをやって,主だったものは発見してしまうので,なかなかアマチュアが発見することは困難になってしまいました。
 そんな中で,この彗星を発見したテリー・ラブジョイ(Terry Lovejoy)さん(=2番目の写真)は,1966年生まれ,オーストラリアクイーンズランド州の情報技術者,つまりアマチュアの天文家です。

 彼がはじめに発見したのが「C/2007E2」(=3番目の写真)で,2007年3月27日に発見されました。その2か月後には2個目の「C/2007K5」。それは2007年5月26日のことでした。
 そして,彼の名を有名にした33個目の「C/2011W3」(=4番目の写真)。これは2011年12月2日に発見された彗星で,この彗星は肉眼ではっきり見えるくらいに明るくなったと同時に,太陽に極めて接近し生き延びた「サングレーザー」として話題となりました。
 太陽表面から13万キロメートルという極めて近い距離を通過したにもかかわらず,蒸発や衝突せずに生き残った彗星としても話題になりました。
 クリスマス・シーズンの南半球で明るく雄大な姿を見せて,「2011年クリスマスの大彗星 (The Great Christmas Comet of 2011) 」ともよばれています。残念ながら日本で見ることができなかったために,知らない人も多いと思いますが,南半球ではとんでもないことになっていました。
  ・・
 そして4個目が「C/2013R1」(
=5番目の写真)。この彗星が昨年見えていたものです。これは2013年9月7日に見つかった長周期彗星で,2013年11月1日には肉眼でも観察することができるようになって,2013年10月の上旬には,話題となったアイソン彗星よりも印象的な彗星となりました。この彗星は2013年12月22日に太陽に最も近づく近日点を迎え,太陽に地球と太陽の距離の0.81倍 まで接近しました。
 そのころは,アイソン彗星の話題で持ちきりで,私のようにアイソン彗星を見に行った人たちは「ついでに」見たら,こっちの方がよほど明るかった,という冷遇された彗星だったのですが,アイソン彗星が消滅したことで,一躍時の人(星?)となってしまったのでした。
 そして,今回のものが「C/2014Q2」。2014年8月17日に発見された彗星です。はじめの予報では8等星くらいということだったのですが,すでに6等星で輝いています。

 このように,これまでに発見した彗星は5個。彗星を7個発見した日本のアマチュア天文家・池谷薫さん同様,ラブジョイさんの発見した彗星は予想よりも明るくなるのです。また,池谷・関彗星のような「サングレーザー」を発見したことも似ています。
 冬の凍てつく夜空に輝く彗星。地上の煩わしさをのがれ,星を眺めるのもまた一興です。

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☆2日目 8月3日(日)
 きょうから,ドライブに出発する。長い道のりになりそうだ。
 今回は,レンタカーではなく,従姪のプリウスを借りることになった。
 今日はマウンテンホームから,ユタ州を南下する。とりあえずあすの目的地は,ザイオン国立公園と,ブライスキャニオン国立公園であった。

 私は,ロサンゼルスからラスベガスを通って,グランドキャニオン国立公園とモニュメントバレーには行ったことがあるが,それ以外の,グランドサークルと呼ばれるこの地の有名な国立公園にはまだ行ったことがなかった。
 行きたいなあ,とは思っていたが,これまで,その機会がなかった。しかし,こうして,今回,このようなきっかけでその地を訪れることができたことが,いつものように,なんだかとても不思議な気がする。

 以前にも書いたことだが,アメリカというところは,行けば行くほどさらに行きたいところが増えてくる。それに対して,日本の観光地は,行ってみても,規模が小さかったり,古びていたりと期待外れだった場所のほうが多い。だから,行けば行っただけ行きたいところが減っていく。
 私のように,これからもまだ,旅行をする機会がある者にとっても,行きたいところに全部行けるかな,という焦りが生まれてくるくらいだから,もし,定年退職後にアメリカ旅行に目覚めてしまった人がいたら,それは,悲劇に違いない。
 こうした「アメリカ沼」にはまるなら,若い人は1年でも早いほうがいい。そして,歳をとった人は,この魅力を知らない方がいい。知ってしまうと,むなしくなってしまうだろう…。

 昨日,ルートを決めるはじめの段階では,マウンテンホームからそのままインターステイツ84を東に走り,ユタ州でインターステイツ15に乗り換えて南下して,ソルトレイクシティを経由して目的地に向かうつもりであった。しかし,国道20,国道26という,インターステイツ84よりも少し北を楕円の上半分を描くように遠回りしてインターステイツ15に向かうと,その途中で,「クレイター・オブ・ザ・ムーン」という景勝地に行くことができることを知って,そこを経由することにしたのだった。

◇◇◇
なお,このブログでは,州間高速道路(Interstate Highway)をインターステーツ,U.S. Highwayを国道,U.S. State Highwayを州道とします。

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 本田實さんは,年少時から,京都大学の山本一清教授の指導を受けました。京都大学の日食観測隊に参加し,また,山本一清教授が開設した黄道光観測所の観測員となり,そののちに,倉敷天文台員となりました。
 書き忘れましたが,本田實さんの本職は,幼稚園の園長先生でした。
 本田實さんは,倉敷天文台で観測を続けていたのですが,やがて空が明るくなって観測ができなくなくなったので,山の中に別の観測所を建てて亡くなる間際まで,観測を続けていたそうです。


 私が見学した倉敷天文台の小さな建物には,階下に天文台の歴史と本田實さんの研究や功績を紹介した記念館がありました。そして,階段を上ると,この天文台で使われた望遠鏡が設置してありました。
 私たちは,まず,階下の記念館を見学しました。棚の中には,本田實さんが新天体を捜索するために撮影した多くの写真が収められていました。今ならディジタルデータに置き換わるものです。また,数多くのカメラやレンズも収められていました。
 当時としては最高級のものなのですが,これも,今となっては歴史的な資料としての価値しかありません。また,移動観測用の三鷹光器の赤道儀とそれに載せられたシュミット望遠鏡が2台,そして,日本光学(現・ニコン)の口径12センチメートルの双眼鏡がありました。

 陳列ケースには,新天体を発見したときに日本天文学会が授けるメダルが展示してありました。説明によると,本田實さんは,こうしたご褒美にはまったく興味がなかったのだそうです。亡くなったあとで机の中などを探し回って出てきたものだそうです。
 それにしても,現在のように,彗星や小惑星は天文台が大規模なサーベイで,また,小惑星は板垣さんのサーベイで根こそぎ発見してしまう時代には,本田實さんのやっていたような,こうした古きよき時代の楽しみはほどんと残っていないのです。
 仕方がないとはいえ,さびしいものです。

 この記念館は,私にとても興味深く,どれだけ見ても見飽きるものではありありませんでしたが,そろそろ階段を上がり,望遠鏡を見学することにしました。
 2階の望遠鏡で,一番大きなものは,カルバー製の32センチ反射望遠鏡でした。
 倉敷天文台の開設に当たって導入した観測設備として,このもっとも重要な望遠鏡はイギリスから輸入された中古品で,当時は国内最大クラスでした。
 このブログを書くにあたり調べていくと,日本に輸入されたカルバー製の望遠鏡には,「数奇な運命」があることがわかったので,次回からはそのことを紹介したいと思います。

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 国立天文台岡山観測所のある竹林寺山から下りて,倉敷に行きました。
 「倉敷天文台」は,私が小学生のときに星に興味をもったとき,山本天文台とともに「月刊天文ガイド」で知ったところです。その「倉敷天文台」が,なんと倉敷市内の美観地区の近くにあるということを,今回,私ははじめて知りました
 私と同年代の天文マニアは,雑誌から得た知識が多いと思うのですが,そうした雑誌が発行される以前にこうした趣味に打ち込んでいた人たちは,いったい,どういった方法で情報を手に入れていたのかな,と思うと,不思議な気がします。現在のように,インターネットでどんな情報でもすぐ手に入る時代とは違い,それは大変だったことでしょう。

 倉敷天文台は,一般の人が天体観測をすることができなかった大正時代,「広く一般に天文知識を普及するため」1926年に元倉敷町長の原澄治さんによって設立された日本最初の民間天文台です。
 クラボウの専務でもあった原澄治さんは,山本一清京大教授や,岡山県のアマチュア天文家である水野千里さんの「天文学の発展のためには、専門家でなくても天体観察ができる天文台が必要」だとする主張に啓発されて,倉敷天文台を設立するため出資したのだそうです。
  ・・
 当時の観測室の規模は,東西4.4メートル,南北5.3メートルで,1.1メートルのレンガ造りの基礎の上に,桁高2.2メートの木造下見張りの軸部が乗っていたということです。また,屋根は切妻,鉄板張りで,室内の歯車のついたハンドルを回転させることにより,屋根が破風の角度に沿って東西方向に滑り降りるように開くという非常に珍しい構造をもっていて,科学史上においても貴重な建物であったということです、
 2011年に国の登録有形文化財に登録されましたが,観測室の老朽化に伴って,本田實さんの生誕100年となる2013年に市が創立当時に近い姿でライフパーク倉敷に移築・復元を行いました。
 その本田實さんは,長年,倉敷天文台長を務め,生涯に,彗星12個,新星11個を発見した世界的な天文家です。「本田彗星」というのはあまりにも有名です。その後「関彗星」を発見した関勉さんも,本田實さんにあこがれて彗星捜索をはじめたといいます。
 いわば,アマチュア天文家の手塚治虫。昔の日本には,こうした偉人がどの分野にもいました。
 本田實さんが多くの「新しい星」を発見したのが,まさに,この倉敷天文台だったのです。

 現在,倉敷天文台は,曜日と時間を定めて,一般に公開されています。
 私は,美観地区からさほど遠くないこの場所に歩いていきました。一般に公開されているという時間だったのですが,鍵がかけられていて,係りの人もいませんでした。入口に,そうしたときは下記の番号に電話をしてください,と書かれてあったので電話をかけると,係りの人が出て,5分ほどお待ちください,といわれました。
 しばらくして,係りの女性が車で来て,厳重な鍵を開けてくれました。
 私は,こうして,念願の倉敷天文台の歴史的な望遠鏡や資料を目にすることができたのでした。

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 私が,マウンテンホームでお世話になった家の周りは,というか,マウンテンホームという町が全体的にそうであったが,アメリカのホームドラマででてくるような,そして,日本の子供向けの英語の絵本にでてくるような,そんな,きれいな,大きな,静かな住宅地がずっと続いていた。
 どの家も,大きなガレージやら,裏庭があって,ガレージには車が3台,乗用車とバンとRV車とかキャンピングカーとか,あるいは,ヨットとかがあって,裏庭にはブランコがあったりした。私が,夢にまで見たアメリカの住宅地そのものであった。
 このマウンテンホームには,小学校が3校,ジュニアハイスクール,ミドルスクール,ハイスクールが1校ずつあった。また,メインストリート沿いには,公園や銀行やレストランやらがあった。
 普通のアメリカの町,というところに行ってみたい人や経験してみたい人には,ぴったりの,典型的なアメリカの町であった。

 旅行中の夜は長い。
 テレビも見ないで,本も読まない夜がこんなにも長く,楽しいものだということを,旅行をすると思い出す。特に,夏にアメリカを旅行すると,サマータイムだから,日の暮れるのもおそいから,さらにずいぶんとのんびりできるのだ。
  ・・
 昨年の夏,ボストン郊外プリマスのホテルの前の海岸で夕日を眺めたときのことは一生忘れないだろう。これほど満ち足りた,時間のゆっくり過ぎるのを,私は,このとき初めて経験したのだった。
 この日も,そのときと同様に,夜がゆっくりと過ぎていったのだった。

 夕食後,まだ,外が明るかったので,散歩を兼ねて,家からのんびり南に歩いていくと,「Legacy Park」という大きな公園(広場)があった。ここは全面芝生に覆われていて,とてもきれいなところであった。なんでも,ここにはサッカー場が6面作れるのだということであった。また,冬になると,全面真っ白に覆われるのだいう。
 道路沿いを歩いているときはわからかったのだが,公園の向こう側には,きれいな池があったりして,住んでいる人の憩いの広場であった。しかも,ここもゴミひとつなく,すてきなところであった。
 帰宅して,あすからのドライブの計画を立てた。
 そんなふうにして,太平洋を越え,たどり着いたアイダホ州の第一日目が終わろうとしていた。
 満ち足りた,すてきな1日だった。
 

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 アイダホ州マウンテンホームは,人口14,000人あまりの美しい町である。治安もよい。
 このくらいの規模の町であれば,おおよそほとんどのものは手に入るし,とても住みやすいところである。この町に入るインターステイツ84のジャンクション93には大きなウォールマートがある。
  ・・
 この町の郊外には,アメリカ軍の空軍基地があるので,住民の多くは軍人や退役軍人である。
 まず私が驚いたのは,このウォールマートに,まるで,日用品を売るように銃を売っていたことであった。身分証明書があれば購入できるということである。とはいえ,町を少し出ると,大平原が広がっていて,熊やら,エルクやらが生息してる。銃はそのための必需品である。

 今回の旅は,ここマウンテンホームを拠点として,まず,明日から1週間ドライブに出る。
 アイダホ州からユタ州へインターステイツ15を南下して,有名な国立公園をいくつかめぐる。そのあと,インターステイツ70を西から東にデンバーまで行って,デンバーでコロラド・ロッキーズの野球を見る。そして,でデンバーから北上してワイオミング州に入り,ワイオミング州を東から西に走って,アイダホ州に戻る。
 マウンテンホームに戻ってからは,周辺でのんびりとすごす,というものであった。

 アイダホ州からの1週間のドライブは,距離にして5,000キロを越すと予想された。この春に行ったテキサス州とニューメキシコ州が恐るべき距離だと自分では思っていたが,それでも3,000キロであったから,出発する前には,そんなに走れるかしらと,少し心配であった。
 しかも,計画を立てている段階で,コロラド州から少しだけ東に足を伸ばせば,ネブラスカ州に行くことができることがわかった。このブログにいつも書いているように,私の旅行の目的のひとつにアメリカ合衆国50州制覇があって,これまでに行ったことがない州には,コロラド州とネブラスカ州が入っていたから,せっかくだから,たとえ1歩だけでもネブラスカ州に行ってみようと思った。
 これまでに行ったところで,今になって考えてみれば,ほんの1時間でも足を延ばせば行くことができたのに,これまでにそうしなかったために行く機会を逃してしまった州がいくつかあった。
 50州制覇という目標を達成するためには,そうした機会を逸することはきわめて後悔の残ることである。旅行をしているときは,またすぐに来ればいいと思うのだが,後になってみると,そう簡単に再び行くことなんてできないわけだ。そこで,今回は,ぜひとも,ネブラスカ州まで行って,州境で「WELCOME to NEBRASKA」のボード写真を撮りたいものだと思った。

 家に到着したのはその日の午後であった。通常,国内線に乗り換えて目的地に到着すると,すでに夜遅いことが多いから,こんなに時間の余裕のある旅ははじめてであった。そこで,きょうは明日からのドライブに備えてのんびりと過ごすことにした。
 それにしても、アメリカでこんなにのんびりとした時間を過ごすことだできるのだから,日本から近いのはいいことだ。この旅は,最高にすばらしい旅になると確信した。

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 飛行機の最後列に座っていたのが幸いして,到着後は一番後ろのタラップから,乗客の中で一番初めに地上に降りることができた。
 降り立ったのは,アイダホ州の州都ボイジーのローカル空港である。州都とはいえ,国際空港ではないから,素朴でのどかな空港であった。
 カバンは,飛行機に乗り込むときにタラップの横に置いてある荷物置き場に預けた人は,タラップ下の荷物置き場に置いてあって,そこから各自で荷物を取っていくのだが,私の様に,すでにカウンタで預けた人のものは,空港の建物のなかのバゲジクレイムから出てくるから,私はそのまま手ぶらで通路を通って空港の建物の中に入った。

 今回の旅は,私の従姪がアメリカ人と結婚して,アイダホ州のマウンテンホームというボイジーから車で30分ほどのところの町に住んでいて,そこを訪れることが目的であった。
 空港の建物に入ると,すでに,従姪が待っていてくれた。
 日本で会うのと違って,彼女がこうしたところに本当に住んでいるという事実が,なんか信じられなかった。
 そのまま1階に降りて,出口に面したバゲジクレイムに行って,カバンを受け取り -なにせ,小さな飛行機だから,カバンはすぐに出てきた- そのまま,何のチェックもなく,空港の建物を出た。
 空港は,日本のローカル空港,たとえば,熊本空港のような感じであった。
 空港に隣接したパーキングに停めてあった車に乗って,そのまま,一路インターステイツ84を南東に,マウンテンホームに向かった。インターステイツ84は制限時速80マイルであった。
 インターステイツ84は,車が多いということで,ボイジーの市街地では,現在2車線の道路を車線を増やすために工事中であった。なにせ,ボイジーには,話題になったエルビーダ・メモリーを買収したマイクロン・テクノロジーの本社があるのだ。インターステイツ84からは巨大な工場が見えた。

 のどかな風景を眺めながら,また,アメリカに来たんだなあ,と感慨にふけっていた。
 アメリカは大都会もいいけれど,私は,こうしたところが大好きだ。さらに,この春にはテキサス州へ,昨年の夏はメイン州などの北東部へ行ったけれど,私には,アイダホ州とかモンタナ州が,やはり最高である。ほんとうにいいところだ。
 やがて,30分くらいして,ふたたび町が見えてきた。この町がマウンテンホームであった。
 ジャンクションで降りて,市街地を進んだ。
 きれいな落ち着いた町であった。私が思っていたより,大きな町であった。
  ・・
 今は,グーグルアースなどで,町の様子は行かなくてもおよそわかる。だけれども,やはり,大きさというのは実際に行ってみないと実感がわかない。行った後で見てみると懐かしく思い出すことはできるけれど…。
 従姪が住んでる家とその周りは,私は子供のころに夢見たアメリカの家と町そのものだった。

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 美星天文台に行った翌日は「国立天文台岡山観測所」に行きました。
 岡山県の西にある竹林寺山の一角に,この国立天文台はあります。当地は晴天率が高く,標高372メートルの竹林寺山頂に位置しているため気流等が安定していて,光・赤外観測にはうってつけの場所であったため,1960年に東京大学東京天文台として開所しました。その後,1988年に現在の国立天文台岡山観測所として移行しました。

 昨晩の雨も上がり,天文台からは遠く瀬戸内海が眺められました。行き交う船も見えましたが,これほど眺めがよいのも珍しいことだそうです。また,雨上がりで空には雲が流れていたのですが,地形の関係で,天文台の近くに来ると雲が切れて晴れるのです。これがすごいことです。晴天率が高いというのはこういうことなのでしょう。ちょっと感動しました。
 隣接して,岡山天文博物館があります。ここは,模型・写真・パネルや映像等により,一般的な天文学と国立天文台岡山天体物理観測所の施設の構造・機能及び研究について説明されていて,晴天時には太陽の表面活動や黒点など身近な宇宙の観測もできるのだそうですが,あいにくこの日は休館でした。

 私がここで見たかったのは,この天文台のシンボル的存在・口径188センチメートル反射式望遠鏡の姿でした。ここは,国立の研究施設なので,一般に公開されているのはこの最大級の望遠鏡だけで,見学室からガラス越しにみることができます。
 見学室から見上げた188センチメートル反射式望遠鏡は,ニュートン焦点(現在は使われていない),カセグレン焦点,クーデ焦点の三つの焦点を持っていて,観測目的や観測装置によって使いわけられています。  
 現在もっとも多く利用されているのはクーデ焦点で,そこに置かれた高分散分光器での恒星の分光観測が精力的に行われているのだそうです。望遠鏡はイギリスのグラッブ・パーソンズ社製です。
 この国内最大の望遠鏡も,作られてからすでに50年。でもまだまだ現役です。改良に改良が重ねられ,学者さんの使う道具,という雰囲気満載でした。作られた当初は落ち着いたクリーム色だったのですが,近年、えらく派手な青色に塗りなおされました。どうしてこんな色になっちゃったんだろうと,その理由をお聞きしたかったのですが…。
 グラップ・パーソンズ社(Sir Howard Grubb, Parsons and Co. Ltd)は,イギリスのニューカッスル・アポン・タインを拠点とする天体望遠鏡や双眼鏡を製造・販売する会社です。トーマス・グラッブによって,グラッブ望遠鏡商会として1833年にダブリンで設立されました。今は天文台活動を停止し博物館となっているグリニッジ天文台用の観測機器なども製作しました。その後合併・買収を経て,現在はイギリスの大型望遠鏡メーカーとして,天体望遠鏡や双眼鏡の開発・販売を行っているのだそうです。

 この188センチメートル反射望遠鏡の他にも,この観測所には,日本光学(現・ニコン)が製造した国産1号機の91センチメートル反射式望遠鏡がありますが,2003年に運用を停止し,超広視野赤外線カメラへの改造が行われているということです。残念ながら,この望遠鏡は公開していないので見ることができませんが,写真で見た限り,私はかっこよくて大好きです。ぜひ一度実物を見てみたいものです。
 また,新しく50センチメートルの反射式望遠鏡がMITSuME望遠鏡として設置されました。この望遠鏡は,ガンマ線バースト観測専用の望遠鏡として,東京工業大学のグループと共同で運用を行っていて,完全自動制御によって,東京大学宇宙線研究所明野観測所の50センチメートル望遠鏡と共に連動観測が行われているのだそうです。
 さらに,京都大学,名古屋大学およびナノオプトニクス研究所との協力により,3.8メートルの新技術望遠鏡が計画されています。国内最大口径となる主鏡は日本の望遠鏡としてははじめての分割鏡方式となるそうです。

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 次に乗る飛行機は76人乗りのアラスカ航空の小さなプロペラ機であった。片側2席ずつで10列と9列,すべてがエコノミーシートという平等な乗り物であった。
 アメリカの小さなローカル機の常で,待合室を出て,滑走路の決められたところを飛行機まで歩き,タラップで乗り込む。ここでカバンを預ける人は飛行機の傍らに置かれてある荷物置き場に置いておくと,乗客が搭乗した後にその荷物が貨物室に運び込まれて,到着後も同じようにカバンを自分で取るというシステムになっている。事前にカウンタで預けたカバンはすでに飛行機に乗せられていて,到着後にバッゲジクレイムに流れ出てくる。
 はじめはそういうシステムもわからなかったので,自分のカバンがちゃんと飛行に乗せられてるのかな,と心配になることもあった。

 この飛行機にはハッチが前と後ろの2箇所あって,私の座席は一番後ろだったので,後ろのハッチから乗り込めばよかったのだが,私は後ろのハッチからも乗り込めることを知らず,前方のハッチから乗り込んで,狭い機内の通路をかき分けかき分け一番後ろまで歩くことになってしまった。
 観光バスのような狭い機内の一番後ろというのもおもしろいもので,その後ろは,ドリンクサービスのワゴンが1台と客室乗務員がいるだけであった。一番後ろに座って,前列のすべての乗客を見渡した。ほとんど場合,こういうローカル機には日本人など当然皆無であって,アイダホの素朴な住民ばかり(とは限らないだろうが)が,狭い機内にすし詰めの状態なのだが,そのことが,なにかとても不思議な気がした。
 私は乗り慣れているから平気であるけれど,生まれてはじめて旅行をした英語のわからない日本人がひとりでこういう状況に置かれたら,ものすごくさびしく不安な状況になるのにちがいない。

 スケジュール表にはポートランドからアイダホ州ボイジーまでは1時間と少しなのであるが,実際は時差があるので,所要時間はポートランドから2時間と少しであった。
 アメリカの国内線の数時間というのはものすごく短く感じるもので,3時間くらいのフライト時間であれば,東京・京都間の新幹線よりも長いのであるが,あっという間の気がするのだ。
 私は,すでにこのブログにも書いたように,昨年の秋に名古屋・熊本間を1時間と少々の時間ANAに乗ったのだが,これこそあっという間に着いてしまい,日本に国内線など必要なのだろうか,とそのとき思ったし,さらに,客室乗務員など不要ではないか,とさえ思った。
 そのとき,日本の飛行機はアメリカのそれに比べて異常にきれいで高級感あふれていたので,びっくりしたが,ドリンクサービスすら有料であったのにさらに驚いた。しかも,アメリカの国内線で満席でなかった経験など一度もないのだが,日本の国内線はガラガラであった。
 私は,機内がこんなに高級感あふれていなくてもいいから,ドリンクの1杯くらい配ってほしいと思った。
 一体,サービスとは何なのであろうか。
  ・・
 一番後ろの座席に座った私から後列2列のみが先にドリンクサービスを受けて,その後は,一番前から配られるという方法であった。
 以前,カナディアンエアに乗って,NHKの朝ドラで少しブームになった赤毛のアンのプリンスエドワード島に行ったとき,ドリンクサービスで出てきたスナックが小さなにんじんであったことに驚いたことがあったのを思い出した。さすがに,このときは,いつものDELTAと同じようにプリッツとピーナッツであったけれど…。
 いつものように,こんな感じで狭い機内でドリンクを飲んで,飲み終わって残った氷を口の中で溶かしているうちに,すぐに1時間以上の時間が過ぎて,やがて,飛行機は着陸態勢に入って,予定時刻にボイジーの空港に着陸したのだった。 

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 すばらしい本に出会いました。「はるかなる野球王国をたずねて」(田代学著)です。
 いつも書いているように,私は,MLB,というよりもマイナーリーグも含めてアメリカのプロ野球の大ファンです。日本の野球にはまったく興味がありません。この本は,そんな私のまさに理想とする本でした。

 「日本人がまだ知らないMLBがそこにあった」と帯に書いてありますが,私は,この本に書かれた場所には半分以上は行ったことがありますし,知っています。
 ただし,さすがにプロの記者が書くことです。内容が詳しく,興味があることだらけででした。
 私がこの本の中で,もっともおもしろいと思ったのは,ブルース・フローミングさんという元審判にインタビューした記事に書かれてあった日本とアメリカの審判の違いでした。いわく,「米国では審判も人間で,その判定も野球の一部」。
 一般に,仏教の影響が強い日本では,人は性善説に基づいていて,逆に,アメリカでは性悪説,そのこととこの考えかたは,矛盾しているようで,よくよく考えればそうでなく,また,今シーズン,MLBでは「チャレンジ」という制度が取り入れられて,審判の誤審をビデオ判定に持ち込むことができるようになったのですが,このこととも矛盾があるようでそうでない…と私には思えました。

 また,元ヤンキースの強打者バーニー・ウイリアムスさんの記事では,日本とアメリカのスポーツや音楽を取り巻く環境の違いが興味深く取り上げられていました。曰く,「日本では二兎を追う者は一兎をも得ずに対して,米国では,二足どころか三足,四足のわらじを履いた選手が生まれる」。
 私は,このバーニー・ウィリアムス選手は,とてもメジャーリーガーらしい選手だと思っていたのですが,引退後,今度はプロのミュージシャンとして活躍しているということを知って,驚きました。それに,この選手に敬意を表して,ヤンキースに移籍したイチローが背番号51を辞退したということを知りました。

 私は,この本を読んで,ますますMLBへの興味を深くしたことや,せっかく訪れていながら見逃してしまったところへ再び行ってみたいなあ,と思いました。それとともに,やはり行き着くのは,日本とアメリカでは人が生きるという意味や目的が根本的に違うということでした。
 それにしても,これだけ充実した本を作ることがどれほど大変であるかを考えると,この著書の抜群の取材力とともに,人間としても魅力がある人なんだなあ,と改めて感じざるを得ません。言われぬ苦労がたくさんあると思いますが,私にはうらやましい生き方です。DSC_1960

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 同じ飛行機に乗り合わせた学生さんたちは,ポートランドでホームステイをするようであった。私の隣に座っていた若者はオレゴンの出身だと言っていたので,彼も,ここが終着のようであった。
 そんなわけで,ここから国内線に乗り換える乗客は少なく,私は,バッゲジクレイムで一度カバンをピックアップして通関して,再び預けるのだが,デトロイトだとむしろ乗り換え客の方が多いから,流れに任せればよいのだけれど,その逆で,少し手間取った。
 ともかく,私は,もう一度カバンを預けて,身軽になって,国内線の出発するターミナルに向かった。

 ポートランドの空港はさほど広くないのだが,それでも,私の乗り換えるアイダホ州ボイジー行き飛行機の出発ゲートは,空港の一番端っこで,ずいぶんと距離があった。
 今度は76人乗りのプロペラ機である。搭乗ゲートというよりも,出口から外に出て,タラップで乗り込むのである。
 ゲートに着いたときには,私が乗る飛行機のひとつ前の便がまだ搭乗手続きに入っておらず,待合所には,人があふれていた。それにしても,このゲートはどこか田舎の電車の駅のようなところであった。
 待っている人たちも素朴そのものであった。私は,ものすごくうれしくなった。そして,この旅がとても楽しみになってきた。

 このブログにすでに旅行記を書いたように,私は,ここ数年で,ノースダコタ州ビスマルクの空港,サウスダコタ州ラピッドシティの空港などのローカル空港とか,ボストンのレーガン国際空港,ニューヨークのJFK国際空港,そして,テキサス州サンアントニオの空港など,さまざまな空港を利用したが,こうしたのどかな空港のほうがはるかに居心地がいい。そして楽しい。
 めったに日本人がいないこと,そして,乗客ののどかな感じがいい。これこそ,本当の古きよきアメリカという感じがするのだ。
 
 私は,ここで昼食をとることにした。この待合所の端に売店があったので,そこで,飲み物とサンドイッチを買った。その横に座席があったので,そこに陣取った。
 もちろんフリーでWifiが繋がって,私は,ここで,食事をしながら,さまざまなメールをおくったり,Facebookを更新したりしていた。売店の女性が座席の掃除に来て,私を見て微笑んだ。本当にいいところだ。
 Facebookにポートランドの空港の写真を載せたら,すぐに,ポートランドに住む友人から,ここに来るのなら連絡してくれればいいのに! という返事が来た。残念ながら,今回は,ポートランドは経由するだけだ。けれど,すっかりここの印象がよくて気に入ってしまった。私は,この時点で,来年もまたポートランドに来ることを決めたのだった。

マウント・セントへレンズマウント・フッドマウント・レーニアマウントアダムス

 私は,機内で,日本で見る機会のなかった「清州会議」という映画を,雑音で聞き取りにくい日本語のセリフを聴くのをあきらめて,英語の字幕で見ていた。それを見終わっても時間がたっぷりあったから,また,映画「ネブラスカ」を見た。この映画は,もう,何回見たことであろうか?
 「清須会議」は2012年に出版された三谷幸喜さんの小説を原作にして2013年11月に公開された日本の映画作品である。1582年に実際にあった出来事の清洲会議を元にしたもので,映画観客動員ランキングで初登場第1位となったそうだ。
 以前,このブログに書いたが,私にはおもしろくなかった。清須会議をネタに現代喜劇を書いたほうがいいと思った。
  ・・
 こんなふうにして,だらだらと過ごした9時間ほどのフライトは,非常に快適であった。
 やがて,太平洋を越えて窓からはマウントセントヘレンズ がきれいに見えてきた。隣の若者が,山の名前を私に告げた。

 マウントセントヘレンズ (Mount St. Helens) は,ワシントン州スカマニア郡にある活火山で,シアトルから南へ約150キロメートル,オレゴン州ポートランドから北東へ約80キロメートルの地点にあり,カスケード山脈の東部に位置している。
 マウントセントヘレンズから東に約50キロメートルの地点にはマウントアダムス,北東に約80キロメートルの地点にはマウントレイニー,南東に約100キロメートルの地点にはマウントフッドなど,周囲にははマウントセントヘレンズと兄弟関係にある火山が多数存在している。

 セントヘレンズという山の名は,18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍の航海士ジョージ・バンクーバーが,友人であった外交官の初代セントヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート (Alleyne FitzHerbert) にちなんで名づけたものである。
 このように,アメリカ西海岸が見えてきたころに機内から見える山々は本当に美しく,これを見るだけでも,太平洋を越えて来る価値があると思う。
  ・・
 こうして,私は,オレゴン州のポートランドに到着した。これなら,深夜の高速道路を走る長距離バスとたいして変わらないなあ,と思った。
 ポートランドは,以前,カナディアンロッキーに行ったときに,この空港を経由して,レンタカーを借りてカナダ国境を越えて往復したことがある。そのときは,帰国便までの時間が半日ほどあったので,少しの時間だけ市内観光をしたが,きれいな町であった。
 ポートランドの入国審査場は狭く,時間がかかるのがちょっと難点なので,私は,あの高校生の団体よりも先に検査場に急いだ。まだ,列は短くて,少し並んだだけで,入国審査は何なく終わった。
 これ以降,この旅では,帰国まで,私は,日本人の観光客をひとりも見なかったのだった。

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 美星天文台は,国内最大級である口径101センチメートルの反射望遠鏡を備えた公開天文台です。
 最高の星空を最高の条件で見ることができるように作られたこの天文台は,はじめて望遠鏡をのぞく人や家族づれでも気軽にスターウォッチングを楽しむことができるように,多くの観測会が開かれています。また, アマチュア天文家や高度な天体観測にも利用できるそうです。

 美星天文台のとなりには「美星スペースガードセンター」という別の天文台があるのですが,このふたつを混同している人がいるかもしれません。私も,今回訪れるまで混同していました。
 太陽系には,小惑星がたくさん存在していますし,地球の周りには,すでに使われなくなったロケットや人工衛星,このようなスペースデブリとよばれている宇宙ごみがたくさんあります。そんなものが地球に衝突してきたら大変です。美星スペースガードセンターは,小惑星とスペースデブリを専門的に観測する施設しては世界ではじめての施設です。
 財団法人日本宇宙フォーラムが2000年に岡山県美星町に建設し,実際の観測業務はNPO法人日本スペースガード協会が行っています。ここは小惑星の発見でも話題になります。

 この美星天文台に行ったとき,残念ながら雨が降っていて,夜間観望はできませんでしたが,望遠鏡は研究員の方の説明つきで見学することができました。
 ここの望遠鏡は,法月技研が作成しました。安価に高性能の望遠鏡が製作されたわけです。
 また,追尾用の回転軸は歯車ではなくベルトになっているとか,副鏡を回転することで,分光観測や写真撮影などの用途に簡単に設定を変えることができるなど,さまざまな工夫がなされていました。


 予算が少ない天文学者にとって,法月技研という存在は貴重でした。
  ・・・・・・
 法月技研は1912年に生まれ1995年に亡くなった静岡県焼津市生まれの望遠鏡製作者・法月惣次郎(のりづきそうじろう)さんが個人的に設立したもので,日本初のパラボラ式電波望遠鏡の製作をはじめ,約400台の望遠鏡を作りました。その多くは天文台・研究所・大学で使用されて,日本の天文学を支えました。
 「日本には、秘密の精密工場があるに違いない」と世界中の技術者に言わしめた天体望遠鏡製作の世界的権威でした。
  ・・・・・・

 私は,これまで数多くの天文台を見学したことがありますが,こうした公営の施設は,はじめは予算がつくのですが,それを維持していく十分な予算が確保できるとは限りません。このような施設の運営には,どこも苦労していると聞きます。私も本当にたいへんだろうなあと,見学するたびに実感します。
 私もよく参加する週末の観測会ですが,一般の人が月や惑星を見ても,結局それだけで終わってしまうのです,また,天文台の場所についても,空の暗いところは不便だし,便利なところは空が明るいし…。また,何か少し専門的な観測するするには,指導者が少ないことや,研究する内容があまりないないなど,問題山積です。
 このような一般市民に公開している多くの天文台の果たす役割とか活動について,もっと広く理解や検討がなされてもいいなあと思うのですが,天文雑誌でも取り上げられているのを読んだこともありません。
 むずかしいものです。

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 京都では,豊国廟へ行った後に,次に,本能寺まで歩いて行きました。現在の本能寺は寺町通りにあるのですが,多くの人が間違えているように,実は,本能寺の変があったところではありません。
 織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は寺域は東西150メートル,南北300メートルほどの広さで,四条西洞院から北に300メートルほど行った元本能寺町にありました。
 私が本能寺に行った理由は,秀吉の墓のあとは信長の墓だろう,それだけの理由でした。
 そのあとは,錦市場を通り,これもまた紅葉とはほとんど関係のない壬生まで歩いて行きました。
 ずいぶんと京都に行っているのですが,いつも同じところに行ってしまうので,意外と盲点があるのです。はずかしい話ですが,私は,壬生には行ったことがないのです。そこで,行ってみたというわけです。壬生というのは新撰組で有名なところです。

 紅葉真っ盛りの京都に行って,このように,ほとんど紅葉とは関係のないところを散策したにも関わらず,どこもかしこも紅葉が真っ赤で,京都の奥深さを実感した後,私は,在来線に乗って,そのまま西に向かい,その日は,兵庫県の「高砂」というおめでたい名前の小さな町に1泊しました。
 旅は,気ままに,こうでなければいけません。
 アメリカをふらりふらりと旅して以来,私にって旅とはこんな感じになってしまいました。
 ただし,日本国内を旅行しても,アメリカのようにどこでもクレジットカード,というわけにはいかず,現金を持っていないと不便だし,フリーWifiが使えないところが多く,ホテルでも,いまだにLANケーブルなのです。ほんとに遅れています。この国は。ストレスが溜まります。

 翌日の朝,再び在来線に揺られて,お昼に岡山に到着しました。
 岡山県には,多くの星を見る施設があります。星好きにとって,岡山は聖地なのです。
 今回は,このブログが縁で知り合いになった岡山県在住のNさんのおかげで,これらの施設を訪れることができました。
 いつも書いていることですが,私は,子供のころから,いつかはしてみたいなあ,行ってみたいなあ,と思っていたことが,このころになって,どんどんと実現しているのが,なんだか夢のようで,感激した毎日を過ごしています。
 今回の岡山の旅もまたそうでした。
 ということで,今回私が行った星に関する施設をいくつか紹介したいと思います。

 まず,行ったのは,「美星天文台」でした。いつか行きたいと思っていたところでした。
 美星町(びせいちょう)は岡山県西南部にあった町です。「あった」というのは,現在は,井原市だからです。天文家の間では日本ではじめて光害防止条例を施行・実施した街として知られています。
 なんたって名前がいいでしょう!
 美星という名前は,1954年6月1日に,小田郡美山村・堺村・宇戸村,川上郡日里村の4村が合併して町になったとき町内を流れる美山川と星田川の一字ずつから美星町と名付けられたということです。
 井原市美星町では,人工の光によって夜空が明るくなり,星が見えにくくなるのを防ぐために,「美しい星空を守る美星町光害防止条例」を全国に先がけて1989年に制定して,地球環境とその美しい星空を守っています。ちなみに,星の美しい日本の町として1番目は石垣島,2番目が美星町,そして3番目は長野県野辺山です。星を見るには,こうした星がきれいに見える場所を探すのが一苦労なのですが,このことは,また,別の機会に書きます。
 この天文台に向かう道路は,やたらと街灯が輝いているということもなく,星を見るには最高の場所だなあと思いました。それに,中国地方は,山が低く,空が開けているのが素敵です。私にはうらやましい限りでした。美星天文台の近くには道の駅のようなところがあって,夕食をとることができました。ちょうど,われわれが行ったときに,天文台長さんが夕食をとってみえました。

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 そんなこんなで,適当に時間をつぶしていたら,すぐに出発1時間前になってしまった。
 私の乗るデルタ642便はすでに搭乗手続き中であった。
 あわてて何も考えずに出国ゲートのセキュリティを通ると,そこは,デルタ便の出発する北ウィングではなく南ウィングであった。
 そんなわけで,今度は,空港内を,出発するゲートまで右往左往することになってしまったわけだった。

 ただ,南ウィングから北ウィングに行くだけなのに,表示がよくわからず,たどりつくのが大変であった。何が大切な表示なのかそうでないのかがハチャメチャなのであった。これもまた日本らしいことではあった。
 ともかく,走って走ってなんとかゲートに到着して,あわただしく機内に乗り込んだ。
 隣は,JETプログラムで日本の学校にALTとして派遣され,刑期,いや任期の5年を過ぎてアメリカに帰国する青年であった。なんでも,島根の小学校と中学校にいたのだという。英語を話す機会はほとんどなかったと言った。もう,日本はうんざりだという感じであった。
 彼は,機内ではずっとコンピュータで論文を仕上げていた。なんでも,帰国してMBAを取るのだという。好青年であった。私は,彼に,金持ちになれよ,と言った。競争社会アメリカで彼の成功を祈る。

 機内には,夏休みの短期ホームステイをするらしき高校生の集団が乗り込んでいた。
 彼女たちは集団でアメリカに来て,きっと,アメリカでもお友達と「日本語」を話し,お客様として,アメリカを体験するのであろう。聞くところによれば,結構高額なお金を払って参加するものらしい。
 新品のカバンやら服装やら… 親の苦労がしのばれる。
 オレゴン州は州を挙げてそうした学生のホストファミリーを引き受けているということである。
 そうした体験がどういう意味があるのかは知らない。ただし,こういう人たちが国の消費を支えていることだけは事実だ。ただし,こういうのは,ピアノを習うお嬢さま芸みたいなものだ。引率をしているらしき教員がふたりいた。彼らの方が生徒たちよりも機内で騒いでいて,少し迷惑だった。

 こんなふうに書いていると,なんだか,この旅は,不満だらけのように思われてしまうかもしれないが,基本的に,とても楽しい旅なのである。なにせ,成田空港までは,ずいぶんと時間の余裕もあって,いろんなハプニングを楽しんでいるようなところもあった。成田空港でも特に何をするでもなく,でも,時間を持て余すわけでもなく,これを旅慣れたというべきか,歳をとったというべきか…。
 乗り込んだ飛行機も,デルタ航空は,年々機内がきれいになってきていて気持ちがいい。
 ともかく,私は,今回も,こうして太平洋を越えたのだった。

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 成田エクスプレスの液晶車内表示を見ていたら,航空会社ごとのターミナルが表示された。しかし,こういう表示がされるという車内放送もなかったから,不親切極まりないことであった。これが日本の得意とするおもてなしである。つまり,必要な情報とそうでないものがめちゃくちゃなのである。
 表示は目まぐるしく替わり,その半分はCMだったから,自分の必要な情報を手に入れるのに,ずっと画面を見ている必要があった。一体,何がしたいのだろう…。そして,やっとのことでデルタ航空は第1ターミナルだということがわかった。

 そうこうして,やがて,定刻よりも40分ほど遅れて,第1ターミナルのある最終の成田空港駅に到着した。
 成田空港は,なぜか検問が厳しく,JRの駅を降りたところで,パスポートの検査があった。きっと,どこぞやの国の殿様気取りの独裁者が外国旅行から帰国するのであろう。ともかく空港に入って,狭いエスカレータを4階までずいぶんと昇った。
 そうして,やっと国際線の出発するターミナルに到着した。

 デルタの自動チェックインの器械が並んでいて,私は,パスポートとデルタのカードを使って,航空券を発券した。そして,小さなカバンを預けた。これだけで,出国の手続きは終了した。
 手続きが済むと,その先に,デルタのアメリカンエクスプレスゴールドカードの勧誘のカウンタがあって,ボールペンをくれるというので係員と話をしながら時間をつぶした。
 ちなみに,私は,デルタのマイレッジはニューヨークを往復できるくらい溜まっていて,アメリカンエクスプレスゴールドカードを持っている。
 成田エクスプレスが遅れたからといって,はじめから4時間の余裕を持って予定を立てていたから,遅れて到着しても,まだ,出発には3時間くらいの時間があった。
 レストランがあったので,昼食をとることにした。
 サンドイッチを食べながら,少しのんびりとして,その後,Faebookを更新したりしていた。
 近くにいた日本人の若者がモノを落としたので,「落としましたよ」と言ったら,「そんなこといわれなくてもわかっているワ,オレは忙しいんだ,いちいちうるさいなあ」とけんか腰に言われた。
 本当に,きょうはすべてどうかしている。これが日本か。

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  ・・・・・・
 時は流れ,1868年(慶応4年)になりました。
 明治天皇が大阪に行幸したとき,秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお寒心させる,国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛して,豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されました。
 そして,1875年(明治8年)には東山の地に社殿が建立されたのです。
 旧福岡藩主の黒田長成侯爵が中心となって境内の整備が行われて,1897年には神社境外地の阿弥陀ヶ峰山頂に伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建てられました。
 この工事の際に,土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見されました。
 遺骸は丁重に再埋葬されたということです。
  ・・・・・・

 この 「豊国廟」に登る石段は,なんと500段もあるということです。500段というのは並みの高さではありません。それに,私が行ったときは,さすがに晴れ男!京都に着いたときには昨晩から降り続いた雨もすっかり上がっていたのですが,まだ石段は濡れていて,もし,滑って転んだりすれば,ただ事ではすみません。
 登るのに,まず,100円払いました。私は,滑らないように慎重に一段一段登って行ったのですが,さすがに大変でした。18年という月日の長さをしみじみと感じました。きっと,今後,もう,登ることもありますまい。
 人は,権力というものを見せつけるには,こうした圧倒的な規模の建設物を作って拝め奉るもののようです。
 私には,こっけいに思えますが…。
 やがて,途中で何度やめようかと思いながら,ふらふらになって,私はなんとか山頂にたどり着きました。
 五輪塔の周りはひっそりとして,人影はありませんでした。遠くに,京都の町を見下ろすことができました。

 このように,秀吉は,今なお,阿弥陀ヶ峰山頂から京都の街を見守っているということなのですが,その見下ろしたところには,「耳塚」があり,遠く西には,朝鮮半島があります。
 「耳塚」というのは,秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)のうち,慶長の役で戦功の証として討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚です。
 いったい,権力病に冒され,晩節を汚した秀吉は,何を思い,この地に眠っているのでしょうか。

 「豊国廟」の帰り道,老夫婦が石段を見上げていました。もし,上がろうとするのなら,私はやめたほうがいいというつもりでしたが,彼らは上がってきませんでした。
 京都女子大の通学道には,土曜日だというのに,学生があふれていました。
 私は,喫茶店に入る勇気もなく,そのまま,この地をあとにしました。
 京都を訪れていた多くの人の中に,こうした場所があることを知っている人が何人いるのかな,と思いました。
 本当に,京都というのは,人の欲望やら何やら,すべてが渦巻くところです。

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 11月の終わり。連休の1週間後の週末は,混雑も少しは緩和されて,晩秋の日本を楽しむにはもってこいです。
 昨年のこの時期,私は九州へ行きました。もともとアイソン彗星を阿蘇山の外輪で見ようと思い立ったのですが,アイソン彗星は11月28日に消滅してしまいました。しかし,せっかく旅行を計画したので,九州の観光を楽しみました。このことは,すでにブログに書きました。
 そして,早くも1年が過ぎて,今年は岡山へ行くことにしました。その途中で立ち寄ったのが,紅葉まっさかりの京都,というわけです。
 京都の紅葉は,毎年出かけています。なので,今年は,特にどこへ行きたい,ということもなくて,思い立ったのが紅葉とはほとんど関係のない「豊国廟」でした。

 「豊国廟」というのは,豊臣秀吉の廟所です。
 ガイドブックにもほとんど書いてないので,あまり有名ではありません。
 1996年に放送された第35作目の大河ドラマ「秀吉」のオープニングで,日吉丸がこの豊国廟の石段を駆けあがるシーンがありましたが覚えておいででしょうか? 
 そのとき,少しだけ有名になりました。そこで,私は,その年の夏に一度そこへ行ってみたことがあります。
 えらく長い石段で,登るのに汗だくになりました。京都女子大学に近く,帰り道,女子大生御用達の喫茶店で,超ビッグなかき氷を食べたという思い出だけが残っています。
 そんなわけで,それ以外の記憶が薄れてしまったことと,今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」で,竹中直人さんが再び秀吉を演じたこともあって,急に思い出し,もう一度行ってみようと思ったわけです。

 この「豊国廟」について,少し書いてみますので,お付き合いください。
  ・・・・・・
 1598年(慶長3年)8月18日、秀吉は伏見城で亡くなりました。63歳でした。
 秀吉は,奈良の東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い,自身を「新八幡」として祀るように遺言したので,翌年の4月13日に,東山大仏,つまり方広寺の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されて,墳上には祠廟,山麓には社殿が建立されたのです。
 方広寺というのは,そう,あの「国家安康」の鐘で有名なお寺です。
 そして,4月16日,後陽成天皇から,秀吉自身の望みとは相違して,「正一位豊国乃大明神」の神階と神号を賜り,18日に遷宮式が行われて,その後しばらくは毎年盛大な祭礼が取り行われたということです。

 しかし,1615年(元和元年),豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向によって,豊国乃大明神の神号は剥奪され,方広寺の鎮守とすべく,秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と名を変えられて,以後仏式で祀ることと定められました。
 北政所のたっての願いで,社殿は残されたものの,以後,朽ち果てるままに放置されました。また,旧参道内には「新日吉神社」(いまひえじんじゃ)が遷せられて,豊国神社参拝の道も閉ざされました。
 こうして,哀れにも,豊臣氏の滅亡と共に,廟は破壊され,墳墓に弔する人もなく,空しく風雨にさらされてしまったのでした。ただし,秀吉の遺体そのものは霊屋とともに山頂に遺されました。
  ・・・・・・
 そんなわけで,昔の状態のまま現在に至っているというわけでもないのです。
 世の中など,何だってそんなものです。

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 成田エクスプレスの表示がないのには理由があるのだった。 
 駅の案内を聞いていると,どうやら,人身事故があって,湘南新宿ラインが不通であるらしい。したがって,成田エクスプレスの前に来なくてはならない電車さえも,まだ,品川に到着しておらず,しかも,ホームはたいした情報もなく,状況のわかならない乗客が途方に暮れていた。
 反対側のホームにも,特急が乗客を乗せたままずっと停車していたのだが,その電車が何行きなのかという表示も放送もなかった。その電車が成田エクスプレスではないから乗ってはいけないという放送だけが繰り返されていた。
 しかし,問題なのは,どの場所で事故があって,だから,現在どういう状況なのかが,東京の地理に疎い人にはさっぱりわからないということであった。私は途方に暮れていた。

 そうこうしているうちに,普通電車の成田空港行きが,突然,ホームに滑り込んできた。
 私は一瞬,それに乗ろうかと思った。そうすれば,成田に行くことができるであろう,と思った。が,止めた。しかし,その電車が出発してからも,状況はさっぱり変わらず,暑い中,いつ来るとも知れない成田エクスプレスをホームで待ちながら,先に行ってしまった普通電車に乗らなかったことを,私はずっと後悔していた。
 予定よりも30分以上も過ぎで,電車が動き出したという放送があった。しかし,5分もしないうちに,今度は,人が線路内に立ち入ったので,安全確認のために再び電車が停車している,という放送があった。

 きょうは,本当にどうかしている,と思った。
 予定なら,もう,とっくに成田空港に着いている時間に,私は,品川駅のホームで,暑い中を,いつ来るかもわからない電車を待っていた。成田は遠い。アメリカより遠い…。
 出発まで4時間の余裕があって本当によかったとも思ったが,最悪の場合,飛行機に乗り遅れたらどうするのだろうと思った。
 大した情報もないし,ホームには係員一人いないし,全く,この国は,近頃どうかしている。おもてなしも結構だけど,やたらと世界遺産を登録するのもいいけれど,肝心なことがいい加減なのだと思った。

 やがて,50分以上遅れて,やっと,成田エクスプレスがホームに到着した。
 乗り込んで,指定された席に着くと,放送があった。
 なんでも,半分の車両がこの事故で到着できないので,次の東京駅でそれを連結することができないから,予定の半分の車両で成田空港まで行くのだという。
 そんなわけで,座るべき座席をなくした乗客が東京駅から立ち席で乗り込んできた。
 このような状況だったのにもかかわらず,検札だけはしっかり来た。
 行きの新幹線は,NTT-SPOTが通じたので,ネットができた。成田エクスプレスの車内はNTT-SPOTが通じないので,ネットすらできなかった。

 やがて,成田空港には第2ターミナルがあるので,航空会社によって降りる駅が違うという放送があったが,どの航空会社がどのターミナルなのかという放送もなく,不親切極まりなかった。
 第一,そんなことは列車に乗るまで聞いたことも表示もなかった。
 再び,私は途方に暮れた。この国は,何が必要で,何が不要なのかという情報やインフラの整備がめちゃくちゃなのである。くだらないことにはやたらと丁寧だったり,サービス過剰だったり,注意事項だらけのうるさい車内放送があるのに,必要な情報は手に入らないのだ。
 私はこれで,日本を先進国だと自負する気持ちがわからない。これほどストレスが溜まり,不便な国がほかにあるのだろうか。成田まで着くのにすっかり疲れ果ててしまったのだった。

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☆1日目 8月2日(土)
 出発の日が来た。
 今回の旅は,まず,アイダホ州の州都ボイジーまで行く。
 ボイジーの近くのマウンテンホームという名前の町に従姪がアメリカ人と結婚して住んでいて,そこを訪れることが今回の旅の目的であった。しかし,私は,行くまで,ボイジーというところを全く知らなかった。

 春,サンアントニオから帰国したころ。いつものように,デルタ航空のサイトでボイジーまでのフライトを探すと,思っていたよりも簡単に,便利で,しかも安価なフライトがたくさん見つかってびっくりした。サンアントニオへ行く便を探していたときとはえらい違いであった。
 そこで選んだのが,行きは成田からオレゴン州ポートランド,ポートランドからボイジー,帰りはボイジーからシアトル,シアトルから成田という便であった。いつも利用する名古屋からデトロイトという時間ばかりかかる便に比べて,成田からポートランドやシアトルから成田というのは,飛行時間がはるかに短い。
 私は,これまでにも,成田からシアトル,とか,名古屋からポートランドとかいう便を利用したことがあるけれど,あっという間に着いてしまった,という印象が非常に強い。アメリカ上陸はシアトルかポートランドに限る,と思っているから,今回,ポートランドへ行く便があったことがとてもうれしかった。しかも,ポートランドでの乗り換え時間がたった2時間ほどだったので,これも助かる…。
 ということで,まるで,ちょっとそこまで,というくらいの気楽さで,旅に出たのだった。

 朝,9時3分,名古屋から新幹線に乗って,まず,品川に向かった。品川からは成田エクスプレスに乗り換えて,11時57分に成田に到着することになっていた。
 成田からの出発便は午後4時だったので,空港での待ち時間が4時間あった。何かあって電車が遅れないとも限らないし,予定通り着いたらそれはそれでゆっくりと昼食をとればいいと思っていた。
 この日,天気がはっきりしなかったけれど,新幹線の車内からは,ともかく,少しだけ富士山が見えて,予定通り,品川駅に到着。ところが,品川駅での乗り換えがよくわからないのだった。次に乗り換える成田エクスプレス21号の表示がどこにもないのであった。
 これでは,もし,日本語を解せない外国人がこの鉄道を利用しようとすればたいへんだなあ,と思った。
 そのときは,まだ,そんな些細なことを気にかけているだけであった。

 春に出かけたテキサス州とニューメキシコ州から帰国して4か月すぎて,季節は夏。私は,再び,アメリカに出かけた。この夏の旅も,本当に楽しかった。行く前の想像以上だった。
 今回行った場所は,地図に赤い丸と地名で示したところで,その間の移動に使った道路を赤い線で示した。州名で言えば,アイダホ州,ユタ州,コロラド州,ワイオミング州,それに,ちょっとだけのネブラスカ州だった。この地図には,併せて,これまでに行ったことがある場所を茶色で示してみた。それらはそれぞれ別の期間に行ったところであるが,こうして,同時に見て見ると,それらがとても近かったことに驚く。
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 改めて地図にしてみると,その場所に行くのに,どこから行くかということによって,きわめて印象が異なるのだなあ,と改めて思う。
 たとえば,グランドキャニオンに行くには,多くの人はラスベガスから東に向かう。私もそうだった。さらに,グランドキャニオンからモニュメントバレーまで行ったから,その時は,ずっと続く平原をパウエル湖を眺めながら走った記憶がある。もし,ブライスキャニオン国立公園から南に走ってモニュメントバレーまで行ったとしたら,まったく異なる印象を持つような気がする。
  ・・
 今回,ユタ州を走ってみて,ユタ州の景観はきわめて雄大で,道路も走りやすかったことから,もし,これからこれらの国立公園へ行かれる人,行く計画をしている人には,ロサンゼルスからラスベガスを経由するのではなく,ぜひとも,ソルトレイクシティから南下することを推薦したい。
 さらに言えば,こうした国立公園めぐりをする前に,ソルトレイクシティからインターステイツ15を南下して,途中でインターステイツ70に入って東に走り,デンバーまで走り抜けることをお勧めする。そうすれば,本当のアメリカの雄大さを肌で感じることができるであろう。 

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 BSジャパンで「昭和は輝いていた」という番組をやっているのですが,少し前に,宇宙開発をテーマにした特集をやっていました。
 そこで思い出したのですが,私が中学生の頃は,ちょうどアポロ11号の月着陸で世の中が盛り上がっていました。私たちの年代は,一番好奇心の強いこの時期に,このような世紀の大イベントがあったので,幸せでした。
 宇宙とアメリカにあこがれた少年少女は,こうして育ったのです。
 そう思うと,我々の世代は,東京オリンピックも,大阪万博も,札幌オリンピックも知っているし,ハレー彗星も見たし,どう考えても日本史上,一番幸せな年代だったのかもれしれません。

 今後,年金も減っていき,支給年齢も高くなっていくので,私よりも数年年上の「団塊の世代」は逃げ切り世代だと言われていますが,実は,彼らは,コンピュータ時代に乗り遅れ,学生時代は学園紛争,社会に出れば出世競争に明け暮れ,彼らの子供たちは就職の氷河期と,いまでこそ,年金を60歳から満額もらえる最後の世代ではあっても,我々の方がずっと幸せです。
 人差し指でワープロを打つのではなく,コンピュータも使いこなせますしね。

 話を本題に戻します。
 そのころ,私のまわりの悪がきは,こうした宇宙時代に感化されて,自分でロケットを飛ばそうと考えたのです。
 まずやったのは,ロケットについて書かれた専門書を,読めもしないのに読もうとしたことです。そこが,今頃の若者とはちがうんだなあ…。
 そして,どうやら,ロケットを飛ばすには,黒色火薬とかいう危険なものが必要であることがわかりました。
 現在は,「ペットボトルロケット」とかいうものがあって,水の力でロケットを飛ばすのだそうですが,我々は,そんなものは知りませんでした。しかし,さすがに,危険な黒色火薬には手を出しませんでした。
 そこで考えたのが,マッチです。すごいでしょう!

 頭薬(この頭薬はリンであるというのが通説ですが,それは間違っています)の塗ったマッチを先端から1センチくらいで切ります。それを頭薬のところにボンドを塗ってたくさん束ねて張り合わせるのです。すると,7本,19本,37本と束ねてみると,それぞれ正6角形になります。その束ねた中央の1本を抜き取って,全体をアルミ箔を張った紙(ノートの切れ端)で包み,抜き取ったところに小穴を開けてそこから火をつけると,煙が出ます。要するに煙が出るだけなのですが,その煙がその小さな穴から勢いよく噴出するので,飛ぶのですね。

 その束ね方の上手下手が腕の見せ所で,上手に束ねて,隙間にも頭薬を削ったものを所狭しと入れて,高性能のエンジン(と呼んでいました)をたくさん作るのです。後は,ノートの切れ端で,円柱形やら円すい形をつくって,ロケットの形にするわけです。
 ロシアのソユーズのように,これらをたくさん束ねたりと,いろいろな工夫をします。そして一挙に火をつけて発射すると,うまくいけば,数十キロも飛ぶのです。

 まあ,これが楽しくて,中学校2年生の夏休みは,まったく勉強をしないで,ロケットを作っては打ち上げていました。そのうちに,発射台を作ったり,多段式にしたり,先端に衛星まがいのものを載せてパラシュートで回収したりと,だんだんとエスカレートしていきました。
 所詮,マッチの煙だったし,いくらでも空き地のあった昔のことなので,とくに危険もありませんでした。
 それでも,ノートの切れ端をどのようにすれば,ロケットの先端の円錐形が作れるかとか考えるので,立体図形の勉強にもなりました。こうした職人芸的な作業は,器用さとかが必要なんだなあとか,そういう,学校で問題集をやっているだけではわからない本当の勉強を,一杯,身をもって体験しました。 

 アポロ宇宙船が月旅行をしていた頃は,私は,アメリカがやるのだから成功間違いなし,と思っていたのですが,今にして思うと,当時の技術者も,大変な苦労をしていたんだなあ,としみじみ感じます。そして,そうしたさまざまな技術の壁を打ち破って,あのような偉業をなしえた先人は本当に偉大だったんだなあ,と思います。

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 デトロイトから中部国際空港便は,いつもの通り,午後3時35分の出発なので,待ち時間が4時間あった。
 ちょうど昼食の時間であった。
 私は,今回も,デトロイトの「空」でちらしずしを食べることに決めていたから,躊躇なく「空」に行き,ちらしずしを注文した。ここのちらし寿司は全く日本のものとかわらない。
 お客さんは,日本人以外にもたくさんいるが,日本人で注文をしているものは,ほとんどがラーメンだった。

 後は,特に書くこともない。
 いつものように,空で日本と全く変わらないちらしずしを食べ,残りの時間は,特にすることもないから,広くもないデトロイトの空港で,時間が過ぎるのをだらだらと待った。
 A34は,デトロイト-名古屋便の搭乗ゲートである。この便は,さらに名古屋からマニラまで行く。
 そこで,このゲートの周りは,日本人よりもフィリピン人がたくさんいた。
 そういえば,ここに着いた,つい1週間と少し前には,この空港からの眺めは,一面の銀世界であった。しかし,わずか1週間と少ししか過ぎていないのに,全く雪はなく,窓からの景色は,春そのものであった。
 これも,いつものように,隣のゲートには,成田便が出発するゲートがあって,その待合所には,所在なげに,多くの日本人が座っていた。ここまで来ると,アメリカというよりも,まあ,日本と変わらない。
 もう,旅が終わったなあ,という残念な,でも,無事に終わったなあというある種の満足感が沸き起こることも,いつもと同じである。

 それにしても思うのは,これだけ多くの日本人が,それも毎日,太平洋を横断して,アメリカに来たり帰ったりしているわけなのだが,いったい,その目的は何なのだろうか,ということである。
 私の様に,なんの意味もなく,ただ,遊びに来ている人ってどのくらいいるのだろうか。そんな人は珍しくないのだろうか。
 ただ,観光地を少し離れてしまうと,本当に日本人はいなくなる。
 名古屋便に関していえば,名古屋からさらにマニラまで行くから,フィリピンまで搭乗する人が圧倒的に多いのだけれど,あれほど多くのフィリピン人がアメリカに行く理由は何なのだろうか。確かに,英語に関していえば,日本人よりもずっと優位には違いないが…。
 私は,いつも,そのことを不思議に思う。

 それに,日本人は他のアジアの人たちに比べて,アメリカに渡航する人の数が減少しているように思う。
 こうしてアメリカを旅してみて思うのは-アメリカといっても,場所によってずいぶんと様子は違うのだが-いずれにしても,どこへ行っても,日本国内を旅行することに比べれば,ずっと安価に,広々とした景色やら,MLBのようなダイナミックなスポーツを楽しむことができる。
 だから,本当は,行くのに少し時間はかかるけれども,もっと多くの日本人がアメリカの旅を楽しみたいと思っているはずなのである。
 おそらくは,東京ディズニーランドが人気なのも,ミニアメリカにあこがれているからなのだろう。
 しかし,問題は語学なのである。
 中学校からずっと勉強を強いられている(変な日本語です)のにもかかわらず,まったく,実用の域に達していない。それだけならともかくも,苦手意識だけは世界一なのである。きっと,多くの日本人が国外脱出をしてしまわないように,国を挙げて,学校教育で英語という名を借りて,受験文法を教え込み,苦手であるという意識を植え付けようとしているのに違いがない。近ごろでは,それだけではもの足らず,それをさらに小学校からに拡大しようとしているのだ。こうして,ますます英語嫌いが増産されるというわけだ。
  ・・
 そんなつまらないことを何となく考えていたら,あっという間に13時間が経って,中部国際空港に到着した。バッゲジクレイムでカバンが出てくるのを待っていると,係の女性職員たちが,待っている我々に,おかえりなさいませ,といって一列に並んで礼をしたのにはびっくりした。前回帰国したときはそんなことはなく,もっとラフに会話ができて楽しかった。きっと,上司が代わって,こういうわけのわからない躾を強要したのに違いがない。
 こういうことをおもてなしだと勘違いしている日本人が増えてきた。本当にどうかしている。もうそういうことはいい加減にしてくれ,と思った。

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☆10日目 3月22日(土)
 帰国する朝になった。
 実は,この日,飛行機の出発時間が7時15分とあまりに早く,私はずっと不安であった。ここで乗り遅れてしまうと,どうにもならなくなる。したがって,この日のために空港の近くにホテルを予約したのであり,ホテルの送迎サービスも半ば期待できずに,レンタカーを借りたままにしてあった。
 前日の晩は,目覚ましを三つ設定した。そこまで念入りに次の日に目が覚めるようにしたのに,ああ,なんということであろうか。
  ・・
 日本から海外にツアーで出かけるときなどで,空港には,出発時刻の3時間前に着くようにとか書かれてあったりするが,実際は,1時間くらいあれば十分である。ただし,大きな空港だと,出国時の検査に列ができていることがあって,最も時間のかかるのがこの場所である。
 アメリカでも,大都市の空港は鬼門である。その点,小都市のローカル空港は,日本のそれとほとんど変わらない。しかも,そこで出国できてしまうから,非常に楽である。

 私は,この朝,4時30分に起きることにした。そして,5時30分にチェックアウトをしようと思った。
 それが,朝,午前2時30分に目覚めた。私は,ベットの脇にあったホテルの目覚まし時計を見た。時刻は午前4時20分と表示されてあった。私は迂闊であった。これだけ目覚ましを設定しておきながら,最も信用ならないと思っていたホテルの目覚まし時計についてはなんの設定もしなかった。それどころか,時刻合わせすらしなかったのに,その時間を正確な時間だと思い,起床してしまったのだった。
 起きてしばらくして,まだ,夜中の2時30分すぎだと知った。しかし,ここで再び寝てしまうと,本当に寝過ごしてしまうと思った。私は,寝ることができなくなった。まあ,いいや,あとは帰りの機内で寝るだけだ,と思って,ずっと時間が経つのを何をするでもなく過ごすことになってしまった。

 そんな次第で,私は,午前2時30分から2時間も,何をするわけでもなく,でも,眠らないように我慢しながら,出発の荷造りをしたのだった。やがて,なんとか朝が来て,私は,チェックアウトをした。
 昨日予行練習をしたように,レンタカーを近くのハーツの営業所に運転していった。広いハーツの営業所は午前5時間からの営業であったけれども,こうしたレンタカーリターンがたくさんあるらしく,私の到着したのは5時前だったが,空港へ行くシャトルバスにはすでに運転手が待機していて,私が車を停めると,キーを差したままでレンタカーリターンはOKだと言った。
 そこでレンタカーを返却? して,私は,シャトルバスに乗り込んだ。
 シャトルバスの乗客は私ひとりであった。
 私がこれから日本に帰るのだというと,運転手の娘さんが,日本で英語のアシスタントティーチャーをしていたと言った。こちらに住む人で日本に行ったことがあるという人は,大概,こうした英語のアシスタントティーチャーと軍人くらいのものである。

 サンアントニオの空港はそれほど大きくないが,早朝だというのに,ターミナルはすでに多くの人でごった返していた。自動チェックインの機械を操作して,帰りのチケットを印刷し,カウンタに行ってカバンを預けた。
 セキュリティを済ませて,待合所に行った。
 ここで朝食をすまそうと思ってみると,ダンキンドーナッツがあった。このマサチューセッツ州に本社を持つダンキンドーナッツは,昨年の夏に行ったボストンに多くの店舗があったのだが,なんとなく入りそびれていたので,ここで,ダンキンドーナッツを食べることにした。
 結論を言うと,これは,日本のミスタードーナッツと何ら変わるものでなかった。
 そのうちに時間になって,私は機内に入った。 
  ・・
 まあ,そんなわけでいろいろあったけれど,無事にサンアントニオを離陸して,機内で3時間,時差が1時間あるので,午前11時すぎに,私は,デトロイトに到着した。

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