しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2015

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 夕食も終わったので,あとはのんびりとホテルで過ごすだけだ。私は,いつものように,部屋でテレビを見ながら,まず,明日泊まるホテルの予約をし,そのあとでブログの更新をした。
 デニーズもそうであったが,ホテルでも自由にwifiが使える。
 日本だと,使えると書いてあっても,特定の業者であったり,有線LANだったりするが,アメリカでは,どこでも問題なく無料でインターネットが接続できる。
 楽しかったこの日もこうして更けていく。
 旅先の夜は,時間が過ぎるのがゆっくりで好きだ。そこで,きょうは,何気ないアメリカの写真をお目にかけたいと思う。私も,旅なれてきて,こういった余裕がでてきた。

 今日の1番目の写真は,おなじみのガソリンスタンドである。
 昔は,無鉛か有鉛かという区別があったが,今は日本と変わらない。以前にも書いたが,この機械にクレジットカードを読ませても、日本で発行されたカードは,読み込んでくれない。そこで,お店に入って,バルブ番号と金額を言って,先に代金を払うわけである。そのあとで給油をすると,支払った値段だけガソリンを入れることができる。
 日本との違いは,給油をするノズルで,これを奥まで差し込んで固定し,レバーも固定するピンがついているのでそれを引っ掛けて自動で停止するまで待てばいい。
 日本でもセルフサービスがはじまったころ,私はアメリカと同じようにして失敗した経験がある。日本の機械は,ノズルはずっと手で持っていなくてはならないし、奥までノズルを入れてしまうと給油ができない。
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 2番目の写真のように,このとき私が入れたのは20ドル分のガソリンであった。
 表示の1段目は料金,2段目は量である。アメリカではリットルでなくガロンである。
 1ガロンは3.78541178 リットル,つまり,約3.8リットルで,この写真では,5.48ガロンだから,約20リットル入れたことになる。ガソリンの値段は,1リットル110円程度であったわけだ。現在は,もっと安くて,1リットル75円程度である。
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 3番目の写真は,ホテルの部屋に備えつけの電話である。この機種は大概どのホテルでも同じである。今は電話を使うことはめったにないが,アメリカでは市内通話は無料(complimentary)である。会社や役所で使われている電話は,いずれまた紹介しよう。
 ホテルの電話は、写真でわかるように,親切な説明が書いてある。この写真には,外線は9と書いてある。
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 そして,4番目の写真はエアコンである。この機種も大概どのホテルでも同じようなものである。ゴーゴーとうるさい音をたてる,日本人が見たら旧式のものである。
 どういうわけか,チェックインをして部屋に入ると,すでにこのクーラーが作動していて,中に入ると北極にいるようにギンギンに冷えていることが多い。
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 5番目は,ホテルの部屋にある目覚まし時計である。これも大概どのホテルでも同じである。
 私は,ホテルの値段とこの目覚ましの質が比例すると思っている。私が泊まるような安ホテルでは,時間があわせてないなどというのは普通の話で,壊れていることもままある。壊れていなければ,まず時計を合わせて,起きたい時間を設定しておくと,その時間でラジオがかかるわけだ。
 目覚まし時計を使わなくても,前に宿泊した人が尋常でない起床時間を設定してあるかどうかだけは確認する必要がある。でないと,夜中に突然鳴り出さないとも限らない。私はこのホテルの時計はまったく信用していないから,目覚まし時計を持っていくか,携帯電話やiPod-touchを使用する。

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 1+1は2です。3と答えれば,学校では間違いになります。しかし,実社会では,「納得するかどうか」が正解になります。これが実社会の基本原理です。だから,何かを契約するときは,説明をした後で「それでよろしいでしょうか?」と聞かれます。たとえ,1+1の答えが3であると説明されても,「それでよろしいです」と答えれば,それが正解となる,つまり,契約が成立するわけです。
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 世の中は,アベノミクスとかいって浮かれていますが,そもそも経済なんて,真剣に10年も付き合えば,よくなったり悪くなったりを繰り返しているだけだということがわかります。そして,それをさも毎日大事件のように取り上げてニュースにするから,詳しくない一般の人だけが動揺し,投資を煽られて一番損するというのが実社会のからくりです。
 「老後にいくら必要か」という本がたくさん出版されています。以前書きましたが,こういう本を買うような,そうしたムダなお金を使う人は,同じように他の事にもムダ使いをするから,結局,老後にもたくさんお金が必要なのです。だから,「賢く」なって,自分で考え判断することが最も大切なのですが,このことが最も難しいのです。そして,学校では学べません。こういうことは,教師と呼ばれる人が一番苦手としていることなのです。人生に必要なのは,知恵であって,学校で勉強するような知識(これを一般に学力といいます)ではありません。

 一例をあげてみましょう。
 「仕組み預金」というものがあります。さまざまなものがありますが,およそ次のようなものです。
 100万円を預けるとします。そして,預けた日の外貨の相場,たとえばオーストラリアドルの相場が,1ドル90円だとしたときに,5年後の決められた日のオーストラリアドルの相場が,1ドル90円以上ならば,それまでの5年間,たとえば3パーセントとかう高い金利の利息と元金を円で受け取ることができるのですが,1ドルが90円未満ならば,金利3パーセントともども,豪ドルで受け取る,というようなものです。
 今のように,定期預金にもほとんど金利がつかない時代には,一見,有利な預金のように思えます。しかし,こんなものを買う必要は全くないわけです。それは,結局のところ,100万円を,単に,その日に金利3パーセントのオーストラリアドルに変えて貯金したということに過ぎないわけだからですから。しかも,この仕組み貯金では,5年後にオーストラリアドルでもっていた方が有利なときは,わざわざ5年前の相場で日本円に換金して受け取り,その逆に,オーストラリアドルの方が損するときには,あえて損をするオーストラリアドルで受けとることになるわけです。受け取ってからそれを日本円に換金すれば,当然,損が出ます。しかし,その損害を被るのは,銀行ではなく,預けた人というわけです。つまり,銀行は,お客さんにリスクだけを負担させて,まったく損を被らないですむ,という代物なのです。
 一番の問題は,換金をする日がはじめから決まっているということなのです。だから,たまたまその日のレートがだけが低くても,そのレートで運命が決まってしまう,ということなのです。ものを買うとします。1日待てばバーゲンセールが始まるのに,事前に買う日を決めてしまうというようなものなのです。

 私は,今はこういったからくりはよくわかりますが,愚かだった若き頃は,そんなことも知らないで,この仕組み預金といういうものに手を出したことがあります。そして,大損しかけました。 
 私が手を出した仕組み預金は,結局,満期が来た時相場は下がっていて,外貨で受けとることになりました。私は,受け取った外貨をどうするか困りました。その時点で日本円に換金すれば大損です。銀行は,外貨貯金をするように薦めました。まさしくこういう流れが銀行の思うつぼなのです。
 しかし,そのころには知識を深めていた私は,それを断りました。銀行で外貨貯金をするのは,日本円に換金するときには手数料が高く,しかも,金利は相場より安く,銀行が破産しても保障はないのです。外貨を運用するなら,銀行の外貨貯金よりも,MMFやFXのほうがはるかに有利だからです。
 そこで,私は,外貨のまま別の金融機関に送金してもらい,MMFを購入しました。やがて,アベノミクスのおかげで外貨が高くなり,その時に私はそれを売って円に換金しました。そんなわけで,結局,仕組み貯金で得た利息とともにMMFでも利益が出たので,まったく損することもなく,むしろ大得して売り抜けることができました。

 金融など,すべてそんなものです。
 銀行に貯金をするというのは,銀行にお金を貸すということです。自分のお金を銀行に貸してあげるのに,貸す方がわざわざ足を運んで,しかも,自分のお金をおろすとき,つまり,お金を返してもらうときにまで,時間外だと手数料を払わなくちゃならない,これだけを考えても,銀行は見かけだけは親切で,実はお客を馬鹿にしていることがわかるでしょう。「せこい」わけです。
 老後の資金が不足している,だから,運用しなさい,と本に書いてあります。それは,そうした運用をすれば,金融機関が手数料を儲けることができるからです。ファイナンシャルプランナーは,そうした金融機関の客引きです。だから,庶民がそれで損をしても,彼らは損をしないからそんなこと知ったこっちゃないのです。「納得して」契約してもらえば,それでいいわけなのです。
 このごろは会社の「賃上げ」が話題になっているのですが,ベビーブーマー世代の給料の高かった人が定年退職して賃金の総額がかなり縮小したところに,若者の賃金を少しばかり上げても,社会全体の労働者のもらう賃金の総額は目減りしているのです。そして,老人のもらう年金も目減りしています。だから,景気がよくなるというのは誤解,こんなことを平気で報道しているから,騙されてはいけません。
 実社会は知恵比べです。1+1は2ではないのです。この最も大切なことは学校では学べません。

豪ドル

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 こんなように,道に迷いながら,どうにかスーパー8にチェックインをすることができた。ここは,空港に向かう広い道路に面したところで,道路の反対側にデニーズがあった。
 私は,ふたたびホテルを出て,デニーズに入った。
 私のアメリカ旅行中の夕食は,まあ,こんなものである。
 デニーズ(Denny's)は,年中無休の営業で,フルサービスを提供する全米最大規模のファミリーレストランチェーンで,店舗の大半は高速道路の出口の近くや郊外にある。
 日本にもあるから,アメリカにもあるのか,という人がいるが,こちらが先である。
 マクドナルド,スターバックス,セブンイレブン,サークルKなどなど,アメリカ人に日本にもあるというと,逆に驚かれる。日本にもアメリカのような巨大モールがあることを知らないアメリカ人は多いが,逆もまたしかりである。

 アメリカのデニーズは,カリフォルニア州レイクウッド(ロサンゼルス郊外)でハロルド・バトラーによって1953年に開業したもので,チェーン店は年々店舗数を増やし,1981年には1,000店を数えるまでになった。
 現在のデニーズの本拠地は,サウスカロライナ州スパータンバーグにあり,全米の49州と海外7か国で展開している。
 日本のデニーズは,セブン&アイ・フードシステムズがファミリーレストランチェーンとして運営している。当初は,1973年にイトーヨーカ堂が外食部門の一つとしてデニーズ本社とライセンス契約を結び始まったものであるが,1984年にアメリカ本社から名称と商標権を買い取り,アメリカ本社との提携関係を解消した。したがって,現在は,資本・業務関係は一切なく,ロゴマークも現行のアメリカ本社の看板商標と異なる古いタイプのものを使用し,メニュー内容も大幅に日本向けに改定されている。
 そんなわけで,日本のデニーズとは,似ているようであり違っているのだが,私のようなお金のないひとり旅には,夕食をとるのに手頃なのである。フリーwifiも繋がる。メニューには料理の写真も載っているので,注文もしやすい。
 アメリカのデニーズのホームページを検索すると,メニューがダウンロードできるので,これからアメリカ旅行をされる人は,こういうものに一度目を通されるといいと思う。
 以前は,レストランで食事をとるにも,日本とはいろいろな違いがあってとまどったが,年々いろいろと便利になってきて,今ではこのようにネットで「予習」ができるから,古いガイドブックを読むよりも,ネットでいろいろ調べることをおすすめする。

 メニューを元に,デニーズについて少し紹介してみよう。
 まず,レストランに入ると,店員さんが出てくるから,人数を言って,席に案内してもらう。このあたりは,日本と同じようにすればいい。アメリカは,どの席も禁煙である。
 席に着くと,飲み物を聞かれるから,「とりあえずのコーヒー」でも注文して,それから,メニューを見ながらオーダーするものを考える。少しすると,巨大なマグカップになみなみと注がれたコーヒーが出てくる。そして,日本より大きな入れ物に入ったクリームが4個も5個もついてくる。
 なお,このコーヒーはおかわり自由である(Free Refills)とメニューに書いてある。
 食事のメニューは日本とは違っているが,写真があるので,どうにでもなる。ただし,想像以上の量がある。
 たとえば「ALL-AMERICAN SLAM」という食べ物には,
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 Tree scrambled edds with Cheddar chees,two bacon strips and two sausage links,plus fresh browns and choice of bread.
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とあるように,食べ物の名前の下に説明があるから,それを見ながら選ぶのである。
 これは簡単な文章だからわかるであろう。もし,こんな普通の英語であっても知らない単語があるから意味がわからないというのなら,それは日本の英語教育が間違っているといわざるを得ない。高校卒業までまじめに勉強しても,デニーズで出てくる食べ物ひとつ意味すらわからない,ということだからである。
 なお,この日に私の注文したものは,「SANTA FE SKILLET」であった。
 食事が終われば,チェック(会計)をすればいい。日本と同じく出口で支払えるようになっているが,アメリカの普通のレストランと同じように,座席で係を呼んで「チェックプリーズ」というと請求書を持ってくるから,クレジットカードを係に渡す。しばらくすると,料金を印刷されたレシートとクレジットカードが戻ってくるから,そこにチップの金額を加えて合計を書き入れたレシートをテーブルに置いて店を出ればいいのだ。

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 こうなれば,もう,下手に道路を曲がると,さらに訳がわからなくなるから,私はそのままこの道を直進して,再びインターステイツ70の別のジャンクションまで行くことにした。
 大した広さの町でもないのに,すべてが広大なアメリカでは,行けどこ行けども市街地で,しかも,どんどん外は暗くなってきて,不安になってきた。
 しかし,私は,どうしようもなく走っていくと,この先インターステイツ70という道路標示が見つかった。それで少しは安心したが,しかし,道路標示に従って走って行っても,なかなかジャンクションに到着しない。こんなに先かな,と思ったころには,すっかり市街地は通り過ぎ,先には小高い山々が連なってきた。そんなころ,やっとジャンクションが見つかった。
 そこは,EXIT33だったから,私は,12キロメートルにわたって,市街地を迷っていたことになる。
 そうして再びインターステイツ70に入り,市街地を行き過ぎていたので,今度は西に向かってインターステイツ70を戻っていくと,空港にアクセスするEXIT31の手前の案内標示に,今晩宿泊するホテルであるスーパー8を見つけた。そこで,EXIT31で降りて,少し北に向かうと,道路の両側に,ラマダインやモーテル6といった全米チェーンのホテルが建ち並んていて,その先に空港が見えた。しかし,スーパー8はなく,そのまま空港まで行ってしまったのだった。
 空港の入口のロータリーでUターンをして,逆に戻り,インターステイツ70の高架をこえると,やっとスーパー8があった。こうして,私は,ヘタリながら,どうにかホテルにたどりつくことができたのだった。
 
 ホテルに無事着いたので,インターステイツの話題を続けよう。
 今日は,都市を中心に,どのようなインターステイツが乗り入れているかをみてみよう。
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●シカゴ
 シカゴには五大湖があるために,主要路線のうち,アメリカ大陸を南北に走るインターステイツ55,インターステイツ65と東西に走るインターステイツ80,インターステイツ90が集中して流入して北部の交通の要衝となっている。

 これは,シカゴがミシガン湖の湾奥に位置し水陸の交通の結節点であること,中西部へのゲートウェイとなる位置にあることによる。したがって,これまでずっとこの都会は鉄道や道路網のハブとなって発展してきたのだ。
 「母なる道」と呼ばれるルート66(Old US Highway Route 66)が,シカゴを起点としていることもまた,これを象徴している。
  ・・
●アトランタ
 南部の結節点アトランタでは,インターステイツ20とインターステイツ75が交差するだけでなく,インターステイツ85も通っている。インターステイツ85は,主要番号のインターステイツでありながら南北を縦貫せずに,ヴァージニア州のリッチモンド付近から南西に向かい,アトランタを通り,ここでインターステイツ75よりさらに西側に出て,アラバマ州でインターステイツ65と合流して終わる。
 インターステイツ85のアトランタ以南はインターステイツ75よりも西側を走り,西側のほうが小さい数であるという路線番号の割り振りのルールにも反している。本来ならば,フロリダ半島の東海岸を走るインターステイツ95と対になってフロリダ半島の西海岸に降りていくべきはずなのであるが,そこはインターステイツ75がマイアミまで通じてインターステイツ85の代役を果たす格好になっている。
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●ダラスとフォートワース
 テキサス州の大都市であるダラスとフォートワースは,航空路線のハブとして知られている。そしてまた,インターステイツ・ハイウェイ網でも主要な結節点となっている。
 インターステイツ20とインターステイツ35との交点であり,さらに,これにインターステイツ30とインターステイツ45の交点でもある。インターステイツ30はリトルロックとダラス間,インターステイツ45はヒューストンとダラス間を結ぶだけの路線で,ともに大陸横断・縦貫路線と言うよりは,完全にダラスを中心とした地域路線になっている。
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 このように,地図でアメリカ大陸を眺めてみると,どうしてその場所が大都会になったのか,とか,これまでの歴史がとてもよく分かる。そして,また,無機質だったインターステイツのドライブが魅力的になるであろう。
 単に,大陸横断といっても,このように,やはり,奥が深いのだ。

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 アメリカ旅行をするときは,なるべく持ち物を少なくするために,これまで持っていったカメラはニコンのクールピクスP330と予備のP300でした。
 ちょっと起動がのろいのですが,広角が24ミリからであることと暗いところがきれいに撮れるので愛用しています。このブログに載せているアメリカ旅行記の写真もそのカメラで写したものです。

 2013年の夏にイチローを見ようとニューヨークへ行きました。この時,スタジアムからイチローを少しでも大きく撮りたいなあ,と思ったことと,なるべく小さなカメラがいいなあ,ということで購入したのが,ニコン1J3と10ミリ~100ミリ(35ミリに換算して27ミリ~270ミリ)のズームレンズでした。
 しかし,このカメラは,独特な操作性で,今まで使っていたものとあまりに違うので,使いづらいカメラだなあ,と思いました。それで,結局,ニューヨークで使ったっきりしまいこんでいました。私と同じように使いにくいという意見がたくさんあるようです。
 しかし,せっかく購入したので,なんとかならないかと工夫して改めて使いはじめてみたら,意外や意外,これがとても使いやすくかわいいカメラなんです。近ごろこのブログに載せている写真のうち,星の写真以外の多くはこのカメラで写したものです。そこで,このカメラのよさを誰かがアピールしないと,カメラ君に気の毒なので,紹介してみることにしました。

 まず私がやったことは,グリップをつけたことです。J3には,純正のグリップがあります。これでずいぶんと持ちやすくなりましたし,バッテリーカバーが安易に開かなくなりました。次に,広角のズームレンズ6.7ミリ~13ミリ(35ミリに換算して18ミリ~35ミリ)を購入しました。そして,このカメラの「電池の持ちが悪い」を解消するために,予備の電池を2個購入しました。これで1日大丈夫です。
 広角ズームとグリップをつけてみるとかっこいいんです。ライカみたいです。
 このカメラ,ミラーレス一眼(ニコンはレンズ交換式アドバンストカメラといっています)の中でも撮像素子が1インチなので小さく軽いのです。グリップを付けるととても持ちやすいのです。これはものすごいウリなのに,あまり認識されていません。むしろ,撮像素子が小さいことをユーザーが欠点として指摘してしまうのがニコンらしいところです。

 最大の欠点である「操作性の悪さ」も誤解です。というか誤解されるようにニコンが仕組んでいます。実は「撮影モードダイヤル」が不要なのです。きっと技術者がスマートフォトセレクターとかスロービューとかモーションスナップショットとか,使いもしない機能を開発して,その顔を立てるためにこういうことになっているのでしょうが,このカメラの撮影モードダイヤルは,「クリエイティブモード」に固定してしまえばいいのです。あとの機能は使いません。しかし,固定しても撮影モードダイヤルが安易に動いてしまうのがまた次の欠点で,ロックが必要なのです。私は,動かないようにテープで張って固定してしまいました。そして,メニューボタンで測光モードをマルチパターン測光,フォーカスモードをシングルAF,AFエリアモードをオートエリアにします。最後に,「クリエイティブモード」なら,「ロータリーマルチセレクター」の上側を押すと,プログラムオート,シャッター優先オート,絞り優先オート,マニュアルなどに切り替えることができますから,プログラムオートに固定しておきます。これだけが初期設定で,今後変更しません。
 そうすれば,あとは,写したいときにスイッチを入れて,ちょっと凝りたいときだけ「次の操作」をして,シャッターを押すだけなんです。
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 「次の操作」というのは「ロータリーマルチセレクターの操作」のことです。
 セレクターは,右側を押すと露出補正が,左側を押すと連射モードを単射と1秒間何フレーム連射するかを選択できます。だから,風景を写す場合は右側を押して露出補正を,スポーツなど動きのあるものを写す場合は左側を押して1秒間何コマ連射するかを決めます。さらに,背景にボケの出る写真や水が流れるように写したいときは,絞りとシャッタースピードの組み合わせを変えるためにセレクターを回すのです。

 私は,J3がこんなに使いやすいカメラだとは思いもしませんでした。これまで起動ののろいクールピクスでいらいらしていたのがウソのようです。広角ズームだとクールピクスよりも画角が広いからアメリカの風景写真にピッタリですし,MLBを写すときは,望遠ズームにすれば270ミリの望遠になるわけで,小さくて海外旅行に持参するのにはもってこいのカメラだったのです。
 このカメラはバージョンアップされて,現在,J5になりましたが,撮影モードダイヤルにロックがないとかバッテリーカバーが容易に開いてしまうといった点は改善されていません。私は,ニコン1というカメラは,かわいくて使いやすいのに,既存の常識にとらわれてせっかくの操作性のよさをメーカーもユーザーもわかっていないから,まるで有能社員の能力を使いこなせていない頭の固い上司のような振る舞いをしていることを残念に思っています。

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 私は,インターステイツ70に戻って,グランドジャンクションを目指して,つまり,ユタ州からコロラド州をめざして,ひたすら夕日に背を向けて走って行った。
 今日の写真にあるように,すでに,ユタ州のメサが連なる岩山の景色は過ぎて,あたり一面の大草原になった。こういうところを走ると,本当にこの先に再び人が住む都会があるのかと心配にもなる。
 やがて,私は,ユタ州から州境を越えて,コロラド州に入った。
 雑な言い方をすれば,メサが遠くに見える赤茶けた大地や大草原の続くユタ州からコロラド州に入ると,突然,周りの山が近くなる。コロラド州の方が,雄大ではあるが,日本人にはなじみのある景色かもしれない。
 ロッキー山脈というと,標高の高い山々を山岳道路が通っているようなイメージかもしれないが,実は,山というよりもむしろ高原であって,どちらかというと,中部地方の伊那谷を走る中央自動車道よりも,九州地方の久住高原を走る道路に近い。スケールだけは,全く違うけれど…。

 コロラド州に入って約40キロメートル,次第にインターステイツ70のまわりに家々が見えてきた。そこが,グランドジャンクションであった。私がグランドジャンクションにホテルを予約した理由は,コロラド州は,この先,インターステイツ沿いには安価に宿泊できるホテルがない,と聞いたことによる。これを聞いたときは,その意味がよくわからなかったのだが,実際に行ってみて,それが正しいことを実感した。やはり,現地に住む人の言うことは聞くべきだ。
 私は,デンバーのクワ-ズフィールドで行われる明後日のMLBのデーゲームのチケットをもっていた。そこで,明日までに,デンバーに行くことにしていた。その途中のどこに宿泊するか,ということが今日の問題だったのだ。

 グランドジャンクション(Grand Junction)は,コロラド州のメサ郡にある郡庁所在地である。州都デンバー市の西南西400キロメートルにあり,人口は約6万人。
 コロラドリバーに,南からガニソンリバーが合流する所にある。
 名前のグランドはグランドリバーに由来し,1921年にグランドリバーはコロラドリバー上流に改名された。そして,ジャンクションはコロラドリバーとガニソンリバーが合流する所を意味している。
 グランドバレーとよばれる長さ50キロメートルのアーチ状のバレーの中間近くに位置し,果物の産地である。特徴ある谷とメサの連続であるコロラド国定記念物が市の西から見下ろしており,地域の大半は公有地に囲まれている。また,ブック断崖がグランドバレーの北側境界になっている。

 もう,日も暮れかけた頃に,私は,グランドジャンクションに着いた。あとは,ホテルにチェックインすればいい。夕食は,チェックインを済ませてからにしようと思った。
 ところが,ここでもまた,私の認識不足が露呈したのだった。
 グランドジャンクションなんていう小さな町は,着いてしまえば,インターステイツを降りて,すぐにホテルが見つかるものだと思っていた。こう書くとかなりいい加減に思われるが,私は,グランドジャンクションのホテルを予約したときに,一番わかりやすい空港の近くのホテルを予約した。そして,しっかりと,そこへアクセスするルートも確かめたのだった。
 私の調べたグーグルマップでは,グランドジャンクションという町は,町の中央を東西にインターステイツ70が横断し,町の中心でインターステイツを降りてそのまま北に走れば空港に着くというわかりやすい町で,それで私はすっかり安心していた。しかも,今,帰国後に地図を見ても,やはりそうなのである。
 ところが,実際に行ってみると, グランドジャンクションの市外から州道50がインターステイツ70と平行して走っていて,グランドジャンクションの市街地に入る手前で交差して,この州道が「インターステイツ70ビジネス」となり,「インターステイツ70」の2キロメートルくらい南を平行して走る一般道になるのだった。
 降りてはいけないのに,私は,この2つの道路が交差するジャンクションEXIT26で,インターステイツ70ビジネスに降りてしまったから,その先,一般道を走ることになってしまったのだった。
 その時点で,もう,私は,さっぱりどこを走っているかわからなくなった。

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 4月23日はとても暖かくて,というか暑いくらいの1日でした。プラネタリウムが見たくなって,久しぶりに名古屋市立科学館に行ってきました。
 着いたのはちょうどお昼。プラネタリウムのチケットは午前12時40分の残席がありましたが,「夢と感動の宇宙展」というのをやっていたことと,お昼を食べたかったので,その次の午後2時の予約を取りました。

 まず,レストランで,ブラックホールカレーとかいう名前のカレーライスを食べましたが,普通のカレーでした。そして,地下2階でやっていた「夢と感動の宇宙展」を見ました。
 以前書いたことがありますが,アメリカには,様々な都市に科学博物館があります。どこも規模が大きくて,それに比べると日本の科学館はとても小さいです。
 この日は,小学生や中学生がとてもたくさん訪れていて,ざわざわしていました。
 比べるのもなんですが,アメリカでは小学生や中学生のこうした社会見学では,きちんとガイドがいて,とても詳しく説明をしながら,館内を見学します。生徒たちも質問したり,ガイドに質問されたりと,きちんとした学習の場になっています。それに対して,この国では,なにやら書き込むようなプリントを持ってはいても,そんなものは形だけで,生徒たちは,自由気ままに歩きまわっています。というか,放任です。だから,休憩所でトランプやっているわ,やたらと展示物をいじっているわで,要するに,単に遊んでいるだけ…,引率の教師もほとんど展示に興味もなく,プリント学習には熱心でもこうした本当の勉強にはいい加減で,それがとても日本的でなさけないです。

 「夢と感動の宇宙展」では,宇宙服やら,月の石やら小規模ながら面白い展示がありましたが,ここも,オーディオガイドはあっても学習に来ていた生徒たちにはガイドがいるわけでもなし,生徒たちは全く興味を示さず,お絵かきをしていました。
 私は,アメリカの科学館で月の石や宇宙船はいやになるほど見たことがありますが,せっかくこれだけの展示をするのなら,なにかテーマがあって,きちんとしたガイドがいたりショーがあるべきでしょう。それでも,きっとゴールデンウィークは家族連れで満員になって人の頭を見ることになるのでしょう。

 それに比べて,ここのプラネタリウムは,人が説明をするし,内容があるので,好感が持てます。この日は,女性のスタッフがとても上手に説明をしていました。
 はじめに,名古屋の夜空くらいの明るい星空でこの日の夜空の丁寧な説明があって,その後,満天の星空にして,星座の説明と続きました。私が見に行く実際の空よりもずっとたくさんの星々…器械も新型のツアイスの特注品だけあって,とてもすばらしい星空でした。私は,毎月星見に行って実際の星空を見ているだけあって,星座の並びもとてもよくわかるし,よい復習になりました。
 その後,今月の特集である,ハップル宇宙望遠鏡のお話がありました。
 私にはとてもおもしろかったのですが,内容は少し難しいものでした。日本の教育では人の話を聞いて考えるという習慣が育たず,プリント学習しかしてこないので,頭をつかうようになると寝てしまうのが日本人です。ここでも寝ている人がたくさんいました。

 一番の収穫は,この日の晩,国際宇宙ステーション(ISS)を天頂付近で見ることとができるという情報を知ったことでした。私は,スペースシャトルが飛んでいる軌跡は見たことがありますが,国際宇宙ステーションは見たことがなかったので,とてもラッキーな情報でした。
 国際宇宙ステーションはずっと地球の周りをまわっているのですが,太陽の光を受けて日本の上空を飛んでいるタイミングというのは結構少なくて,見る機会がこれまでなかったのです。しかも,今晩がベストだとか。
 さっそく家に帰って,見てみることにしました。

 しかし,あいにく曇っていて,かろうじて月と金星と木星が見える,という状態。やがて,夜7時頃になって,ぎょしゃ座のカペラがうっすらと見えてきましたが,国際宇宙ステーションはこれまで見たことがないので,どういうものか想像がつきません。写真を写したいのですが,シャッタースピードも見当がつきません。
 そして,予報の時刻7時15分になりました。
 当然ですが,何の前触れもなく,ものすごく明るい,そう,金星よりも明るい丸い光が突然うす雲を通して見えてきました。ものすごくゆっくりと進んでいきます。私は,広角レンズに露出1秒で写していたのですが,これなら,望遠レンズでファインダーを覗きながら写すことができるなあ,と思いました。
 プラネタリウムがどんなに美しい星空を作り出しても本物にはかないません。国際宇宙ステーションが飛んでいるのを実際に見ることができたし,写真も写すことができて,あの,小さな光の中に人がいるなんて考えると,なんだか,とても感動しました。そして,不思議な気持ちがしました。
 すてきな1日になりました。

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  私は,これまで書いたように,キャニオンランズ国立公園とアーチーズ国立公園に行って,再び,インターステイツ70に戻ってきた。さあ,あとは,今日宿泊先であるグランドジャンクションまで,ひたすら走って行くいくだけであった。

 今日は,インターステイツについての話の続編として,アメリカ大陸を縦断するインターステイツを紹介する。アメリカでは大陸を南北に縦断するインターステイツは奇数番号5,15,……,95となっている。
 なお,インターステイツ45は短く,テキサス州のダラスからヒューストン,さらにガルベストンを通ってメキシコ湾岸まで走るテキサス州のみの道路,また,インターステイツ85は,北はアラバマ州モンゴメリーのインターステイツ65から分かれ,南端はバージニア州ピーターズバーグのインターステイツ95に接続,アトランタ,シャーロットなどの都市を経由する道路である。
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●インターステイツ5
 インターステイツ5は西海岸沿いを縦断する。北端はワシントン州のブレイン付近にあるカナダとの国境で,南端はカリフォルニア州のサンディエゴから数マイル南にあるメキシコとの国境である。その経由地点は,ワシントン州オリンピア,シアトル,タコマから,オレゴン州のポートランド,セイラム,ユージン,カリフォルニア州のサクラメント,ロサンセルス,サンディエゴなどのアメリカ合衆国西海岸にある主な大都市圏であるが,サンフランシスコは経由していない。サンフランシスコはインターステイツ5から西へおよそ80マイル(130キロメートル)離れた場所に位置している。
 私は,このインターステイツを利用して,かつて,ポートランドからカナダ国境まで行って,ここでカナダ国境を越えたことと,ロサンゼルスからサンディエゴを経由して,メキシコ国境を越えたことがある。
  ・・
●インターステイツ15
 今回走ったインターステイツ15は,北はモンタナ州のカナダ国境からヘレナ,ビュートと南下して,ユタ州のソルトレイクシティ,ネバダ州のラスベガス,そして,ロスアンゼルスを越え,サンディエゴまで達する。
 このインターステイツはとても走りやすい。私にはとてもなじみのあるインターステイツである。
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●インターステイツ25
 インターステイツ15の東を走るインターステイツ25は,ワイオミング州のバッファローでインターステイツ90から分岐して南下,ニューメキシコ州のラスクルーセスでインターステイツ10に合流する。
 このインターステイツは,ワイオミング州,コロラド州,およびニューメキシコ州を南北に通る主要な高速道路で,ワイオミング州のキャスパー,シャイアン,コロラド州のフォートコリンズ,デンバー,コロラドスプリングス,プエブロ,ニューメキシコ州のサンタフェ,アルバカーキ,ソコロ,およびラスクルーセスを通過する。
 私は,昨年の春に,この道路はサンタフェで通行した。サンタフェでこの道路が「N」字型に迂回していて,ノースがサウス方向だったり,サウスがノース方向だったりして迷ったことは,すでに,ブログに書いた。また,ニューメキシコ州のホワイトサンズからテキサス州のエルパソまでの少しの区間も走った。また,今回の旅では,デンバーから北にワイオミング州のシャイアンまで走ったが,このときのことは,この旅行記でこれから書く。
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●インターステイツ35
 インターステイツ35は,北はミネソタ州のラルースというスペリオル湖畔の町から南下して,ミネアポリス,アイオワ州のデモイン,カンザスシティ,オクラホマ,テキサス州のフォートワース,サンアントニオと経由して,メキシコ国境のラレドという町まで達する。
 私がアイオワ州のデモインから南にこの道を走ったときは,この道路の標示で,映画「マジソン郡の橋」のロケをしたフランチェスカハウスに行くことができたのだが,このことも,すでに,ブログに書いた。
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●インターステイツ55
 インターステイツ55は,シカゴから南下して,セントルイス,メンフィスと経由して,ルイジアナ州のニューオリンズに到達する。私はニューオリンズで,少しの距離だけ走ったことがある。ミシシッピ川に巨大な橋がかかっていて,その道路が,このインターステイツ55であった。
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●インターステイツ65
 インターステイツ65は,シカゴから南下して,インディアナポリス,ナッシュビルと経由して,アラバマ州の港町モビールまで55とほぼ平行に行く。私は,このインターステイツ65は走ったことがない(と思う)。
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●インターステイツ75
 インターステイツ75は,北はカナダ・オンタリオ州との国境のミシガン州スーセントマリーのスーセントマリー国際橋南詰から,デトロイト,シンシナティからアパラチア山脈の西側に沿ってチャタヌーガ,アトランタと経由して南はフロリダ州ハイアリアのフロリダ州道826「パルメット・エキスプレスウェイ」(Palmetto Expressway)まで続いている。インターステイツ75のマキナック橋は,ミシガン州を構成するふたつの半島,アッパー半島とロウアー半島を結ぶ吊り橋である。
 私は,この道は,アトランタからその北にあるチャタヌーガまでタクシーで走ったことがある。当時,今ほど旅慣れていなかった私が,HISでアトランタに予約してくれたはずのホテルが間違ってチャタヌーガだった,というのがその原因であった。本当に困った出来事であった。
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●インターステイツ95
 最後のインターステイツ95は,東海岸に沿って北はメイン州のカナダ国境から大西洋岸のフロリダ州のマイアミまでを結ぶインターステイツで,ボストン,ニューヨーク,フィラデルフィア,ボルチモア,ワシントンDCからマイアミまでの大都市を結んでいる。私は,2年前の夏に,この道を,ボストンから,メイン州のバンゴアまで走ったが,交通量の多い,また有料区間の多い道路であった。また,このインターステイツは,若い頃に,グレイハウンドでボストンからワシントンDCまでを走ったし,さらに,フロリダ州ではデイトナビーチからケープカナベラルのロケット打ち上げ基地までをレンタカーで走ったことがある。

C_2014Q2_Lovejoy_20150417starchartM51_2 M104_2 M83

 春4月は空の状態が悪いので素晴らしい星空を見るのはあきらめていたのですが,今年の異常気象が幸いして,冬のような天気になったので,先週末も星を見にいくことができました。きっとこれを読んでいる方は,そんな天気のよかった日があったのだろうかと思われるかもしれませんが,私が京都に旅行して奇跡的に晴れた4日と星を見に行った11日,17日だけは天気がよく,また,11日と17日は冬のように寒く,星見には最適でした。
 4月17日の深夜は安定した快晴だという確信があったので,朝から準備して,夕暮れには,すでに星を見る場所に到着しました。前回は,家から2時間30分もかかる山の上まで行きましたが,今回は1時間30分で行ける某牧場にしました。都会に近いだけ,西から南西の空が明るいのですが,視界が広く,地平線付近まで見ることができるので,今回の目的であるうみへび座のM83とケンタウルス座のNGC5128,そして,ω星団を写すにはぴったりの場所でした。

 西空には異様に明るい金星が輝いていました。さっそく,今回もラブジョイ彗星(C/2014Q2 Lovejoy)から写しました。前回から1週間しか過ぎていないのに,今回は,双眼鏡でも見るのがやっとで,なにか,急に暗くなったように感じました。今は彗星の近くに星雲や星団がないのが残念ですが,5月末になると北極星に大接近し,北極星と並んだ彗星を写すことができるので,今から楽しみです。
 その後,おおくま座の子持ち星雲M51と,カラス座のソンブレロ星雲M104を写しながら,時間が過ぎるのを待ちました。

 私は,前回,うみへび座のM83とケンタウルス座のNGC5128,ω星団を写そうとして失敗しました。からす座から南の星の配列がどうにもよくわからなかったからです。
 まず,うみへび座のM83銀河を探すのですが,この銀河を見つけるのには,本当に苦労します。こんなに低い高度のメシエ天体はあまりありません。また,近くに明るい星がないのです。うみへび座のγ星が唯一の頼りなのですが,それすら,どの星かよくわかりません。肉眼でやっと見つけて,今度は双眼鏡で視野に入れるのですが,今度は,星がたくさん見えすぎて,肉眼ではわかるのに双眼鏡の視野の中ではγ星がどれなのか見当がつきません。そんなわけで何度も考え込みながら,やっとのことで写せた時の喜びは格別でした。

 次はω星団です。
 ω星団と呼ばれるNGC5139は,ケンタウルス座にある大型の球状星団で,数少ない肉眼で見ることができる球状星団の中でも最大級,地球から1万7千光年の距離にあって,1千万個もの超高密度の星の集まりであると考えられています。17世紀に,ヨハン・バイエルが「ウラノメトリア」で,この天体にω星という符号を与えたために,現在もω星団と呼ばれています。メシエの観測地パリではω星団は地平線上に昇らないために,明るい星団でありながらメシエ天体としてリストアップされていないのです。日本では,カノーブスと同じくらいの高度しか昇らないので,よほど地平線まで開けたところでないと見ることができません。
 私は,半ばあきらめ気味にうみへび座のγ星の南にかろうじて見えたおおかみ座のι星のさらに南西の地平線すれすれにξ星が見えたので,まずそれを双眼鏡に入れて,そのまま地平線を這うように右に走らせると,なんと,視野の中にぼんやりと巨大な球状星団を見ることができました。
 思えば,この球状星団を知ったのは今から45年前。生まれてはじめて友人に誘われて徹夜で星見をしたときに,その友人がこの星団を必死に探していて知ったのです。このとき,おそらく友人はこの星団を見つけることが出来なかったはずです。そんなわけで,私にも45年越しの恋人というわけでした。
 この星団のもう少し南,地平線の下には南十字星があるのです。

 NGC5128も写せたのでしょうが,ω星団を見たことですっかり満足してしまって探す気がなくなって,また次回ということになってしまったのが残念でした。
 そんなことに夢中になっていたら,あっという間に深夜0時を過ぎて,土星とさそり座が昇ってきました。さそり座からへび座,へびつかい座,いて座にかけて数多くある球状星団が,私のめざすメシエ天体110制覇の最後の目標で,それは来月に残しておこうと思っていたのですが,すでに東の空にそれらが昇ってきたので,この日はさそり座のM4,へびつかい座のM107,M10,M12だけを写して,店じまいをすることにしました。簡単に撮り終えるつもりだったのに,M12がなかなか見つからず,少し苦労しました。
 これで,4月の星見は終了です。
 5月はアメリカへ行くので,5月の星見は,帰国後の5月20日以降になります。

NGC5139 

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 このようにして,私は,きょう,予定通りというか,予定以上というか,キャニオンランズ国立公園とアーチーズ国立公園のふたつの国立公園に行くことができたのだった。
  ・・
 もう夕暮れであった。あとは,できるだけ早くインターステイツ70に戻り,すでに予約しててあったグランドジャンクションという町のホテルに行くだけであった。
 が,国道191の帰り道にミルキャニオンとよばれる渓谷があることを「地球の歩き方」で知った。国道191を走り,マイルマーカー141の地点を過ぎて左折する。あとは3キロくらい走ると到着するのだという。そこには,1億5千万年前に堆積したアロザウルス,ステゴザウルスなどの恐竜の骨やら足跡が散在しているのだそうだ。
 近いので寄ってみようと思ったのだが、私は,そのマイルマーカー141が見つからない。どうやら見落としてしまったようだったので,断念した,というよりも,どうでもいいやという気持ちのほうが強かったのかもしれない。
 それにしても,マイルマーカー以外に何の標示もないわけだから,きっと大したところではあるまい。と,これはでは,イソップ物語の「キツネとブドウ」ではないか!

 結局,私は,その後,コロラド州へ行った帰りに延々と4時間も走り,ダイナソ国定公園に行くことになったのだから,こんな大したことのない(と思われる)ところはパスして正解だったのかもしれない。
 本に書いてなければ気にもならないところだ。しかし,ネットで調べたら,それでも行った人はいるようで,そこにはこんな記述がしてあった。曰く,
  ・・・・・・
 線路を越えて道は未舗装になり,小さな標識に従って進む。数分後,駐車場らしき場所で車を停める。国立公園でも国定公園でもないためか駐車場には他に1台も車が停まっておらず,建物も建っていない。
 未舗装路になってからは1台もすれ違うことがなかった。人気がないのだろうか?
 トレイルを歩きはじめる。化石のある部分に小さな標識が立っているのだが,標識に従って化石のある場所を探すのだが,ほとんど「これかなぁ?」といった感じではっきり化石と判別できたのはひとつぐらいしかなかった。
  ・・・・・・
 行かなくてよかった。

 来るときにも書いたように,国道191は,鉄道に沿って走っているから,時折,車窓からは貨物列車が眺められた。
 私は,その後も延々と走り,やっと,遠くにインターステイツ70が見えてきた。今日の最後の写真に「Grand Junction→」の道路標示が見えるがおわかりだろうか?こういう標示は,何か,とてもうれしいものだ。

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 きょうの1番目の写真のように,デビルズガーデンからの帰りを急いだ。来るときとは逆方向に走っているだけなのだが,とても風景が新鮮に思えた。デビルズガーデンから途中の三叉路までは,南東方向に進んでいくので,太陽が順光で,風景がとてもすばらしい色彩に輝いていた。 これが2番目の写真である。
 やがて,左折をすとデリケートアーチへと通じる三叉路に出会った。

 デリケートアーチ(Delicate Arch)には行かなかった,というか行けなかったが,ガイドブックから少し紹介してみよう。
 このアーチは,数あるアーチの中で,真打ちといわれるものだそうで,その完成されたアーチの姿は,オペラ座のステージに立つプリマドンナのごとく気品と荘厳さんを漂わせているのだという。
 ここに行くには,トレイルの2.4キロメートルの急勾配を片道1時間ほどかけて歩く必要がある。このトレイルは,まず小川を渡り,しばらくは草原を歩いているような気楽なトレイルなのだが,途中からは巨大な一枚岩の上を左側から回り込むように登るような感じになるという。そうして登り切ると,今度は,粒子の細かい砂場やら小さな岩がごろごろしたところがあって,やがて,幅の狭い断崖に出会う。
 そして,突然,壁が途切れるとデリケートアーチの姿が忽然と現れるのだそうだ。
 日没後,夕日に染まる姿が絶品だということなので,気力が残っていたらならば行くべきだったのかもしれない…。
 以前も書いたが,アメリカの国立公園のトレイルは行けば行くほど奥が深い。

 さて,先を急ごう。
 私は,車でどんどんと戻って行った。次第に,遠くに,はじめに行ったコートハウスタワーズが見えてきた。さらに車を走らせる。下り坂なので,さらに素晴らしい眺めであった。
 やがて,コートハウスタワーズに着いた。私は,巨石群を再び眺め,写真を写した。
 夕暮れで,東側にある巨石は美しい写真が写せるのだが,西側のものは逆光になるので,岩の黒さと空の白さのバランスが極端で,どうしようもない。
 上から3番目が,スリーゴシップス(Three Gossips)である。3本の岩が突き出て,まるで,人が3人寄って内緒話をしているかのように見えることから,この名がついた。
 そして,4番目の写真が,オルガン(The Organ)である。これは,本当にでかかった。真下まで行くと,その巨大さが実感できたのだが,巨大なビルよりもさらに大きなものであった。
 この場所には,他にも,バベルの塔(Tower of Babel),シープロック(Sheep Rock)などといった名のついた巨大な岩が数多く存在していた。

 アーチーズ国立公園は地下の岩塩層の上にあって,この岩塩層がアーチや尖塔の形成の主たる原因なのである。
 岩塩層は,この地域に流れ込んだ海水が蒸発したおよそ3億年前に堆積したものである。やがて,この岩塩層の表面下の動きが地表を形成し,地表の浸食は新しい岩石層をはがした。そして,これらの層は,長い期間をかけて,水が表面の割れ目やこれらの層の褶曲部に浸透し,氷が裂罅の中で形成されて大きくなり,周囲の岩に圧力を加え,粉々にした。
 その後,風が緩んだ欠片をきれいに吹き飛ばし,そこに薄い板が残ったが,風と水がこれらの薄い板を襲ったことで,多くの薄い板が倒れて,ちょょうどよい硬度とバランスをもつ他の薄い板が一部分を失いながらも生き残り,これらがアーチとなったのだった。

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 きょうは,思い出ネタです。
 ぼろぼろのお人形でも,大切にしている人にとってはかけがえのないものであったりするように,こういうものは,自分だけ感慨にふけっても,他の人には理解できません。
 そんなお話です。

 「月刊天文ガイド」という雑誌が創刊されたのは,1965年7月で,今年は,創刊50年だそうです。今は,図書館で読むだけで,買う気は全く起きないのないですが,子供のころは夢のいっぱいつまった宝物でした。
 私は,この雑誌が創刊されたときのことは知らず,はじめて手にしたのは1968年3月号でした。当時の小学校では,わたしの友達の間にはこの雑誌がブームになっていました。今でも,はじめて買った号のことはとてもよく覚えています。子供のころの記憶というのはすごいものです。
 同じく,「天文年鑑」も1968年にはじめて購入しました。
 そんなわけで,この2冊が私の原点です。

 それ以来,「天文年鑑」は今でもずっと購入していて,今年で48冊になりました。
 「月刊天文ガイド」は,私が買った号より古い数冊は,すでの購読していた友人から譲り受けたし,また,初めて自分で買って以来,20年以上にわたってずっと購読していたのですが,あまりの量の多さに,いつの日かすべて譲ってしまい,残念なことに,今は手元に1冊もありません。
 そのこと自体には未練はないのですが,1967年,1968年のころの数冊だけは残して置くべきだったと残念に思っていました。少年時代に大切にしていたものだけは,捨ててはいけません,というのが若者にぜひ伝えたい私の教訓です。そして老婆心です。

 「月刊天文ガイド」の,私にとって幻の創刊号は,一度は見たいとずっと思っていたのですが,数年前に,国会図書館で書庫から出していただいて閲覧する機会があって,ついにその夢を実現しました。でも,実現してしまうと,それだけのものでした。感想は,なんだか「子供の科学」という雑誌みたいだなあ,ということだけでした。
 それから50年。
 「月刊天文ガイド」は1980年頃までは,すごく人気のある雑誌で,多くの子供たちが購読していたように思うのですが,今では,すっかりオタク化してしまいました。これを読んでいる子供なんてほとんどいないと思います。今の「月刊天文ガイド」は,どんな読者をターゲットにしているのか,どんな記事を載せたいのか,私は疑問に思っています。「昔はよかったのに…」といった掲示板の書き込みをよく見かけます。

 近ごろ,私がはじめて買ったけれども今は手元になかった1968年3月号の古書がネットにあったので,入手しました。
 こんなもの,興味のない人にはどうでもよいものなのでしょうが,私には特別の本。これだけはどうしても欲しかったので,念願がかないました。
 改めて読んでみると,当時のことが再びよみがえってきました。そして,あのころにはわからなかった記事の内容が,今はとてもよくわかるのがおもしろいものだと思いました。広告に載っていた望遠鏡の写真のあのころは意味不明だった何かのレバーが,どんどんな働きをするものなのか,とか… も理解ができます。
 当時,この雑誌の値段は100円でした。現在は820円です。ただし,内容やページ数がずいぶんと違うので,単純に比較して物価が8倍になったというわけではありません。それよりも,当時の広告に載っている望遠鏡の値段を現在の同じ性能のものと比較すると,当時と比べて物価は4倍くらいになったと考えればいいかな,と思いました。
 投稿欄を見ると,購読者は小学生が多く,今とはまったく状況が違います。パソコンもスマホもない時代,あんな薄っぺらな雑誌だったのに,少年の無限の夢が詰まっていました。

 この雑誌で,一番記憶に残っているのは,日本光学(現ニコン)が新発売した口径8センチメートルの屈折赤道儀です。なにせ,そのころの私は何も知識がなかったので,他の会社のものとは全く異なる高価な値段設定や格調のある広告に,何か,まったく異質なものを感じました。当然,望遠鏡は買えないからカタログを集めていたのですが,他の会社ではカタログを請求するにも送料分の切手を同封と書かれていたのに,この会社だけは無料なのです。これひとつとっても,なんか,ものすごく別格なものを感じたものでした。
 ある日,デパートのメガネ売り場に実物が展示してあるのを見つけて,度肝を抜かれました。それは,雑誌の広告から想像していたのとは全く違った,とてつもなく大きな鉄の塊に見えたからです。

 当時と比べて,科学技術は格段に進歩しましたが,夢の大きさは,当時のほうがはるかに大きかったように思います。でも,もし,そのころに戻ることができても,当時の望遠鏡は使い勝手が悪く,性能も悪く,おそらくがっかりすることでしょう。また,雑誌の内容も,今と比較にならないくらい幼稚ですが,別の意味で,今のものずっと読み応えがあります。
 どうやら,社会や時代の進歩と個人の成長とはまったく違うもののようです。
 趣味というのはそういうものです。便利ならいい,高性能ならいい,というものではないのです。
 私は,この本を再び手にして,少年のころの夢を思い出しました。そして,また,今の自分が楽しいと思うことを1968年の頃の気持ちに戻って,再びやり直そうと思ったことでした。
 人生は,こうであるから,いつまでも楽しいです。

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 デビルズガーデンとは「悪魔の庭」という意味である。ここは,ものすごく広く,一番奥まで歩くと,1周11.5キロメートルで,約5時間かかる。
 もう,時間も午後6時近くであって,私は,ちょっと待てよ,と思った。
 いったいどこまで歩けばよいのであろう…。

 帰ってくる人に聞くと,絶対に行って損はないという。
 何かよくわからなかったが,ともかく,アーチーズ国立公園に行って,ここにあるランドスケープアーチ(Landscape Arch)へ行かねば,絶対に後悔すると思ったので,そこまでは行く決心をした。それでも,往復3.2キロメートル,約1時間の道のりであった。
 トレイルは,今日の写真にあるような感じの赤土の道が続いていた。

 トレイルを出発して,すぐにトンネルアーチ(tunnel Arch)とパイン・ツリー・アーチ(Pine Tree Arch)があった。パイン・ツリー・ツリー・アーチとは,アーチの窓の部分に小さな松の木が生えていることからそういう名がついているのだ。
 さらに,延々とトレイルを歩いていく。
 岩山が間近に迫って,その間に上ってきた月が見える。
 すごいことには違いがないが,たった2日で国立公園を四つ,日本に住む普通の人には一生出会えないような景色を見すぎたために,なんだか感動も麻痺しつつあったことと疲れで特に印象もない。ただ,多くの人が歩いていたのにつられて歩いていただけであった。

 やがて,遠くに「ランドスケープアーチ」が見えてきた。
 差し渡し89メートル,世界最大級のアーチである。
 このアーチは,最も細いところはわずか1.8メートルしかなく,近頃も何度も崩落があって,いつ崩れてもおかしくないのだそうだ。そう考えると,このアーチが無事なうちに見ることができて幸せだったというべきか。
 危険なので,真下まで行くことはできなかったが,近くの展望台から,その勇士を楽しむことができた。
 近くに沈みゆく太陽があったが,惜しむらくはアーチの間を沈むというロケーションではなかったことだった。

 デビルズガーデンは,この先,さらに奥まで歩いていくと,ウォールアーチ(Wall Arch),ナバホアーチ(Navajo Arch),ダブル・オー・アーチ(Double O Arch)と続くのだそうだ。そして,その向こうに,タワー状の岩ダークエンジェル(Dark Angel)へとさらに続く。
 そこからの帰路には,プリミティブ・トレイル(Primitive Trail)というワイルドなコースを歩くこともできるが,私は,さすがにランドスケープアーチより先にいく気持ちは失せてしまっていたから,ここで折り返すことにしたのだった。
 帰路,そのプリミティブ・トレイルから戻ってくる人たちに出会った。彼らは,どこまでもアグレッシブだ。この国で生きて行くには,これだけのバイタリティが必要なのだろう。
 バイタリティのない私は,目の前の月を眺めながら,来た道をへたりながら延々と歩いて,やっと駐車場に舞い戻ったのであった。

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 もう「お正月」でもないのですが,題名はそのまま。まだ,ラブジョイ彗星(C/2014Q2 Lovejoy)は明るく輝いています。そして,カシオペア座のδ星から北極星を目指して進んでいます。
  ・・
 4月。満月も過ぎ,また,星見の時期が来ました。
 流石に4月ともなると,山の雪も解け,私のようなノーマルタイヤのやる気のない天文ファンでも,星のきれいな山の上に満天の星空を見に行くことができるようになります。ただし,いつも書いているように,日本の春は,霞と黄砂とPM2.5が心配です そんな季節の到来ですが,今年は天気が悪い日々が続いています。先週末の土曜日4月11日は,久しぶりに青空が見えました。この天気は深夜1時くらいまでという天気予報でしたが,ちょうどその頃に月齢21の月が昇ってきますから,その時間まで星を見に行こうと,夕食を済ませて家を出ました。めざすは一路東へ,念願の山の上,私がもっとも大切にしている観測場所です。ちょっと遠いのが難で,家から2時間と少しかかります。

 行く途中,シカが車に引かれて道路でのたうちまわっていました。とてもかわいそうですがどうしようもありません。さらに行くと,道路を野ウサギが横切りました。しだれ桜が満開で,ライトアップされていました。そんな中をさらに進んで,やっと観測場所に到着。車から出ると,そこは満天の星空でした。農道のど真ん中。360度見渡せる山の上です。
 まず,望遠鏡の極軸を合わせて,さらに,望遠鏡にカメラを接続してピント合わせをしました。
 しし座に木星が見えているので,ピント合わせにとても助かります。木星の周りを回るガリレオ衛星がピント合わせのターゲットなのです。それにしても,一眼レフのライブビュー,普通は6等星なんて見えないのに,ガリレオ衛星だけは簡単に見えるのがいつも不思議です。

 カシオペア座が北西の空低く見えていました。そして,西の地平線にオリオン座が横たわっていました。しし座がほぼ天頂にあって,数か月前に比べて,ずいぶんと位置が変わっていました。北東には堂々と北斗七星があって,春の大曲線をたどると,うしかい座のアークトゥールス,おとめ座のスピカが輝いています。すっかり春の星空です。かみのけ座の星たちもとてもきれいで,溶け込みそうな星空でした。
 まず,双眼鏡を適当にカシオペア座のδ星から北極星に向かって動かすと,まだとても明るくラブジョイ彗星が視野に入ってきました。さすがに肉眼では無理ですが,まだまだ健在です。もう2か月も前にこの山の上で見ることができたのなら,きっともっと素晴らしかっただろうなと思いました。写真を写しましたが,かわいい尾が写りました。北極星に大接近する1か月後には,どのくらいの明るさで見ることができるでしょうか?

 今月は,これまで満足な写真が写せなかった北斗七星にあるM101回転花火銀河と,ろくぶんぎ座のスピンドル銀河とよばれるNGC3115,うみへび座の木星状星雲と呼ばれるNGC3242を写すことにしていましたので,順番に視野に入れて写真を撮りました。それがきょうの写真です。
 その後,うみへび座のM83,そして,南の空低くケンタウルス座のNGC5128,ω星団をなんとか写せないかな?と思っていたのですが,低空に雲があって,なかなかうまくいきませんでした。
 2か月ほど前は,おとめ座の銀河を写すのに苦労していたことを考えると,また,テーマがひとつ変わったように思いました。
 そのうち,だんだんと寒くなって,天気予報通り次第に雲が出てきたので,店じまいをすることにしました。星雲星団は逃げません。これから先,何年も写す機会があるから,あせる必要もありません。もう一度空を振り返ると,北東の空には,こと座のベガ,そして,東の地平線に土星が昇ってきました。その下にはさそり座があるのです。こうして,今年も,また,夏がやってくるのだなあと思いました。
 帰り道,シカが3頭,私の車の脇の森の中を歩いていました。この国も深夜だけは,自然が息を吹き返します。

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 ウィンドウズセクションを見終えて,来た道を戻って,今度は,最北端のデビスズガーデンに向かうことにした。 結局,このアーチーズ国立公園は,時間がないといいながら,全ての見所をまわることができた。それは,広いとは言っても,この国立公園が手ごろな広さであるからだった。
 デビスズガーデンへ向かう途中の道は,風景が一変して,今日の1番目の写真のような高原になってしまった。独特な色彩で気持ちがよい道路であった。このように,ここ,アーチーズ国立公園は,全体が赤茶けた大地なのではなく,数箇所の見所をこのような道路がつないているのである。そして,ここをドライブして眺める景観がすばらしいのである。

 途中に,ファイリーファーニス(Fiery Furnace)という場所があった。ファイリーファーニスとは,燃え立つ焦熱の地とでもいう意味である。
 それが2番目の写真である。
 灼熱の大地に鎮座まします岩の群像が独特な景観を見せているところであった。
 ここは,ちょっとした展望台があって,そこから眺める分には問題がないのであるが,展望台から奥に続くトレイルがある。しかし,このトレイルは,コースにほとんど目印がないのでひとりで行くと迷いやすく危険なのだそうだ。レンジャーツアーというのがあるので,トレイルを歩きたい人はそれに参加するのだそうだ。

 ファイリーファーニスを過ぎ,さらに走ると,目の前に,再び,巨大な岩山が迫ってきた。その道路の終点がデビルズガーデン(Devils Garden)で,さほど広くない駐車場と,道路沿いに駐車スペースがあった。ここが,アーチーズ国立公園の最北端である。
 ここは,駐車場に車をとめてから,かなり先までトレイルを歩かなければアクセスできないので,どうしようかかなり迷ったけれど,とりあえずは行ってみることにした。
 駐車場はすぐに満杯になるそうで,早朝に着くのがよいらしいのだが,私は,逆に,夕刻だったから,車を停めるスペースを確保するのにさほど問題はなかった。

 車から降りて,やる気満々の観光客が,めいめいトレイルを歩く準備をしていた。
 それにしても,アメリカ人というのは,どうしてこうも好奇心旺盛で,元気で,活動的なのか,といつも思う。
 私は,車は停めたものの,トレイルの入口にはまだかなり遠く,それに,ずいぶんとめげていたのだが,その場の雰囲気で,ともかく,トレイルを歩いて行くことにした。でないと,ここまで来た意味もない。
 そんな精神状態だったから,トレイルを歩いている途中で,カメラのバッテリーはなくなってしまうし,暑いし,散々であった。
 しかし,先にあったものは,素晴らしい景色なのであった。
 アメリカの国立公園は,もっともっと時間をかけて,体力をつけて観光しないといけないのだ。ああ。貧乏な年寄りには辛い。 

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 MLB(アメリカ大リーグ)が開幕しました。私は,今年6試合を見にいく予定なのですが,それまでは,しばしテレビ観戦です。
 先週の土曜日,ヤンキース対レッドソックスの一戦を見ていたのですが,延長19回。いつまでたっても終わりません。延長戦も11回くらいで勝負がつけばいいのですが,野球も将棋の持将棋と同じく,それを越え,深夜になり,選手が不足してきて,観客も残り少なくなってくると,退廃的なムードになってきます。こうなると,勝ち負けを決めるだけで,お金を取って見せるものではなくなってしまうようです。


 ところで,今年のMLBは,ヤンキースがひょっとしたら最下位では…,という評判なのですが,今年のメンバーを見ると,さもありなん,ひどすぎます。アレックス・ロドリゲスがチームリーダーでは,はじめっから勝てそうにありません。彼には,デレク・ジーターのような人望もありませんし,役不足です。きょうは,彼が弱小球団だったテキサス・レンジャースにいたときに私が写した写真を載せておきましょう。

 そんな弱いヤンキースを見ていたら,1995年から2000年までのヤンキース黄金期が懐かしくなりました。
 私は,はっきりいってヤンキースは嫌いです。というか,私は,権威主義的なものがすべてきらいです。しかし,それも強いからこそであって,こんなに弱くなってしまうと憎らしいほど強かった頃が懐かしくなります。
 あの頃はスター選手だらけ。-私は,幸運にもその頃のヤンキースの試合はずいぶんと見たのですが- 太平洋を渡ってでも見たいと思う選手が一杯いました。

  ・・・・・・
 ヤンキースの名選手であったベーブ・ルース,ルー・ゲーリッグ,ジョー・ディマジオ,ミッキー・マントルの伝説の4人を「ビッグ・フォー」と言います。それに対比して,この時代のスター選手だったデレク・ジーター,マリアノ・リベラ,ホルヘ・ポサダ,アンディ・ペティットの4選手を「コア・フォー」(Core Four)といいます。
 デレク・ジーター,マリアノ・リベラ選手についてはすでにブログに書いたことがあります。
 ホルヘ・ラファエル・ポサダ(Jorge Rafael Posada)選手は,プエルトリコ・サンフアン出身の捕手です。現役生活17年でオールスター出場5回を誇ります。2015年に背番号20がヤンキースの永久欠番に指定されました。私は,この選手をテレビで初めて見たとき,いかにもMLBの捕手っていう感じだなあと思ったのを覚えています。
 アンドルー・ユージーン・ペティット(Andrew Eugene "Andy" Pettitte)投手はメジャー通算256勝153敗,防御率3.85。ヤンキースでは219勝127敗,防御率3.94と活躍しました。背番号46は今夏に永久欠番に制定されます。
  ・・
 もうひとり忘れてならないのは,バーニー・ウィリアムス選手です。
 バーニー・ウィリアムス(Bernabe Williams Figueroa)選手は,プエルトリコサンフアン出身。現在は,なんとミュージシャンです。1991年から2006年までヤンキース一筋でプレーしたフランチャイズ・プレイヤーとして知られています。2015年に背番号51はヤンキースの永久欠番に指定されました。イチロー選手がヤンキースで背番号51を付けられなかった理由がこれでお分かりでしょう。
 この選手は,打っても走っても守ってもよしという素晴らしい選手でした。いかにもMLBの名選手の見本のような存在だと思いました。「コア・フォー」の一員と同じだけの功績があって,本当は「コア・ファイブ」なのですが,デビューが早かったことと,「フォー」ということであふれてしまっています。日本でも四天王とか三羽烏とかいう言葉があるのと同じです。
 それにしても,よくもこれだけの名選手が同年代に集まったものです。
  ・・・・・・

 ヤンキース以外にも,私がわざわざ太平洋を渡っても見に行きたいと思う選手は,以前はグレッグ・マダックス投手,ランディー・ジョンソン投手,マーク・マグワイア選手など大勢いました。日本人選手では,何と言っても,野茂英雄投手でした。今は,ミゲール・カブレラ選手,スティーブン・ストラスバーグ投手,日本人選手なら上原浩治投手,青木宣親選手ですが,往年に比べると個性のある選手が減ったようで残念です。
 ともかく,また,10月まで熱い戦いが始まりました。私には楽しい日々が続きます。

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ジーターとリベラ-ニューヨーク・ヤンキース
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 私は,ウィンドズセクション(Windows Section)に到着した。道の突き当たりに広い駐車場があって,多くの車が停まっていた。私も車を停めて,外に出た。
 この先に,アーチ状の岩が見えて,これぞ,アーチーズ国立公園だと思った。しかし,遠い。しかも,坂道である。
 ここへ来るまで,車窓からは,アーチ状の岩がいくつか,見えたり消えたりした。穴の空いた面に向かないと,単なる岩にしか見えないので,遠くにあるときには確かにアーチ状だったのに,角度が変わると,どこかに消えてしまったりして,あれ,あのアーチどこへいっちゃったのか? と思いながら走ったものだった。
 
 駐車場から,長いトレイルを歩いた。だいぶ疲れていて,いささかげんなりしていたが,今日の写真にあるように,歩いて近くにまで行かないと,どうしようもない。さらに,これだけの人が行くかららには,その向こうが気になった。
 暑い日だった。
 このアーチを,北の窓(North Window),南の窓(South Window)という。
 手前には,タレットアーチ(Turret Arch)というのがあって,そこに上って見ると,間に立つ岩を鼻として両目のように見えるから,別名をメガネ(Spectacles)とよぶのだそうだ。

 私は,他の観光客の行くのと同じように,北の窓に向かって歩いて行った。20分くらい歩いただろうか,やっと,アーチのあるところまで来た。そこから先を見ると,モニュメントバレー状の岩山と平原が延々と続いていて,絶景であった。
 その先にタレットアーチが,その遙かむこうの高台に見えた。もう,これ以上登る気も失せたので,そこへは行かなかったから,残念ながら,タレットアーチからの景観を語ることはできない。

 駐車場に戻って,「地球の歩き方」を見ると,反対側に,ダブルアーチ(Double Arch)というのがあるのだそうだ。これが,今日の4番目の写真である。
 駐車場からよくよく見ると,今行ってきたアーチの反対側,遙か先に,確かに,そのダブルアーチがあった。そこは,広い駐車場のはるか反対側であったが,そんな有名なところは見逃せない。疲れた体にむち打って,そこまで歩くことにした。
 早朝に雨が降ったらしく,駐車場のぐちゃぐちゃな歩道をかなり歩くと,やがて車道に出て,その向こうに,再び広い駐車場があって,それを越えたところが,このダブルアーチであった。
 多くの観光客が散策をしていて,このダブルアーチは,角度によって,様々な形に変化して見えた。時には,ダブルアーチというよりもトリプルアーチのようにも見えた。
  ・・
 ダブルアーチまで行ってしまったから,また,ずいぶんと歩いて,やっとのことで駐車場に戻った。車を出発させて,指示に従って走らせていくと苦労して歩いたダブルアーチが近づいてきて,先ほど越えた道路を通った。
 なんだ,こんなことなら,苦労して歩かなくても,こうして車で来ることができたのか,と少しがっかりしたのだった。

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 お花見の季節の土曜日,ひとり先に帰宅して残り9人もの大所帯が夕食を食べるなんて,不可能に違いないと思っていたので,どうしようかと途方にくれつつ,岡崎を西に向かって歩いて行くと,1軒のメキシコ料理店がありました。お店の名前は「Reina de Reina」でした。 ちなみに,Reinaとは女王のことだそうです。 

 お店はともかく,この時期に京都に来て,わざわざメキシコ料理でもないと一般の観光客は考えるだろう,そして,我々のようなインターナショナルなメンバーには似合ったお店であろうということで,きっと空席があるという期待をもって,入ることにしました。幸い,9人が座ることができる席が空いていました。
 後で知ったのですが,このお店,ネットで評判のよいお店でした。
 
 昨年,私はテキサス州サンアントニオに出かけて,メキシコ料理を食べました。その時のことはすでにブログに書きましたが,正直言って,私は,メキシコ料理は苦手です。噂では,何を頼んでも外観が違うだけで味は同じ… とかいう人もいます。
 トルティーヤだろうが,タコスだろうが,私にはさっぱりわかりませんので,ここは,外国の方に注文はお任せしました。
 先客さんの対応に忙しく,料理が出てくるのに時間がかかりましたが,楽しくおしゃべりをしていると,それほど気にならず,適当に注文してもらった料理を分けて,とてもおいしくいただくことができました。
 メキシコ料理といっても,やはり,アメリカで食べるメキシコ料理とは味が違い,きわめて日本人の口にあうような味付けでしたから,現地の人が食べると逆にどう思うのでしょう。感想を聞くのを忘れました。

 食事の後は,哲学の道を歩こうと思っていたのですが,なにせ,アメリカ人ペースというのは,時間にだらだらだから,予定通りにはすすみません。というか,日本人がせっかちすぎるのでしょう。そんなわけで,ずいぶんと時間が過ぎてしまったので,哲学の道はあきらめて,今日の最終コースとして,祇園白川の夜桜を見物することにしました。
 祇園白川,ものすごい人でした。
 空いているなあ,と思っていた今年の京都の花見客は,そのほとんどがこの場所に集まっていたかのようでした。それにしても,京都というのは日常と非日常がごったまぜになっていて,おとぎの国のような場所から一路変わるだけで,たんなる風俗街になってしまったり,観光客のまったくいない民家になってしまったりと,まことに不思議なところです。

 そして,最後に行ったのが,縁切り寺+縁結び寺として近頃売出し中の安井金毘羅宮。
 花見小路を南に歩いて,突き当りを左に行くとあります。
 御利益があるといいですね!
 こうして,ずっと天気が心配で,行くまではイマイチテンションの上がらなかったディープな京都の旅は,滞りなくしかも望外な素敵なものになりました。きっと,今年はこれからもいいことがたくさんありそうだ,と思いながら,家路につきました。
 我々が帰りの新幹線に乗ったあたりから,京都は雨が降り出したそうです。
 天気が心配なときは,テルテル坊主よりも,我々を雇うとよいかもしれませんよ。

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ひとつ書き忘れました。
エスカレータのどちら側に立つか? 元来は,東京方面は左,大阪方面は右でした。以前,テレビで,どこが境かを調べた番組があって,そのときは,東海道線を西に行くと,関ヶ原は左,醒ヶ井駅にはエスカレータがなくて,米原が両方,そして,その先が右,という結論でした。
しかし,今や,京都ははっきり左に変貌しました。まだ,大阪ははっきり右です。
ちなみに「エスカレータを歩かないでください」と近ごろは言われますが,日本でエスカレータを歩く習慣はそれほど古いものではなく,これは,イギリスの地下鉄のエスカレータで昔から行われていたものが,こりゃ便利だということでいつの間にか「輸入」されたものです。
私はなるべく階段を歩きます。だから,階段とエスカレータが併設されていれば問題はないのですが,エスカレータしか設置していないのに歩くな,というのは,むしろ設置者の側に問題があると思います。

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DSCN5922DSCN5924DSCN5929 アーチーズ国立公園を進む1本の道路を北に,三叉路に向かった。今日の1番目の写真がそれである。
 しばらくは,赤茶けた大地が続いているだけであったが,だんだんと,目の前は,別の岩山が見えてきた。ここは,アーチ状ではないが,有名な見逃せないポイントであった。2番目の写真がそれで,これをバランスロック(Balanced Rock)という。
 頂上に乗った岩が,今にもごろんと落ちてきそうな感じで乗っかっている。実は,乗っかっているのではなく,きちんとくっついているのだが,乗っかっているかのように見える。

 その右側にあるのは,バランスロックの赤ちゃんのような感じの岩だが,これを,Chip-Off-the-Old-Block というのだそうだ。こちらも,昔はバランスロックだったのだが,1976年の冬に,嵐のために崩れてしまったというということだ。
 そんなことを知ると,このバランスロックも,いつ崩れるかわからないではないか。
 近くまで行ってみたが,思った以上にでかい。もし,崩れたら,どういうことになるのか,心配になってきた。

 三叉路にバランスロックがあって,それを過ぎて少し行くと,右手に道が見えてきた。ここで右折すると,その先にウィンドズセクションに続いていくので,私も,ためらわず,そこを右に曲がった。
 目の前に走っていたのが,写真にあるように,キャンピングカーである。
 アメリカでは,国立公園の中の道路でも,道幅が広いから,こういった車もそのままそれを使って周遊をしている。しかし,「せこい」日本人の一員である私は,スピードも遅く,不安定なこういう車の後を走るのは気が進まない。
 今回も,どこで追い越そうかと想いながらずっと走っていたが,追い越す間もなく,目的地に到着してしまったのだった。

 ところで,映画「インディー・ジョーンズ~最後の聖戦~」の冒頭で,若き日のインディが描かれているが,ここで登場するのが,このアーチーズ国立公園のパークアベニュー,バランスロック,そして,このあと私が行くことになるダブルアーチなのである。

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 4月からはじまった連続テレビ小説「まれ」の主人公は「ゆめ」が大嫌いなのだそうです。安定した公務員が一番だとか? きっと,この物語は彼女が成長するにつれて「ゆめ」が大切なものだと知って,その「ゆめ」を追いかけていくいくことを描くのでしょう。
 NHKBSで朝ご覧になっている人はおわかりでしょうが,このドラマが気の毒なのは,その前に「あまちゃん」の再放送をやっていることです。すでに世の中では,「まれ」は「あまちゃん」のジェネリックドラマだという評判になっています。たしかに,「まれ」は「あまちゃん」と「ちゅらさん」を足して2で割って,ジェネリック価格にしたようなもの。それにあの魔女姫のナレーションがいけません。朝からあのテンションついていけません。戸田恵子さん,あの声色失敗ですよ!
 先に「あまちゃん」を見てしまったら,もうそれで満足してしまうから,そして,「あまちゃん」のテンポの速い展開と比較してしまうから,もういけません。私がアメリカドラマを見ているから大河ドラマのあまりに遅い展開についていけなく?(待っているのが面倒に)なったのと同じです。
 そういえば,「あまちゃん」も「ゆめ」がテーマのドラマでしたが,こちらはさらに上を行っていて,「ゆめ」を追いかけ挫折をくりかえしたのです。これだけでもドラマのステージ(格)が違います。

 ところで,自称「高等遊民」になりたい私は,若いころからの「ゆめ」を一歩ずつ実現しようといろいろと行動しているのですが,この春は,念願の樹齢1,500年を超すといわれる岐阜県旧根尾村(現本巣市根尾板所今村)の満開の薄墨桜を見ることができました。桜の木は数々あれど,あの一本の老木を見るために,日本中から人が集まるというのは,考えてみれば,ものすごいことです。あの貫録,同じ桜でも,家の近くの桜並木の「さくら」とは格が違うということに改めて驚きました。人もドラマも,なにもかも,やはり「格」があるのです。
 そして,あの老木も毎年花を咲かせることで,今でも「ゆめ」を見ているのかな,と思いました。

 「ゆめ」すら見れないドラマ「まれ」の気の毒な主人公「まれ」ですが,やはり,人生で大切なものは「知恵と夢と勇気」。だから,「ゆめ」はとても大切なのです。こんなことをしたいなあ,こんなところに行きたいなあ,こんなぶうになりたいなあという気持ちが,人生を支えます。きょうはそんな「ゆめ」のお話を書いています。
 私の「ゆめ」のひとつ「アメリカ合衆国50州制覇」の最後の1州と決めているのがハワイ州ですが,この「ゆめ」を実現したとき,ハワイの空港で「祝・アメリカ50州制覇」のボードを掲げて周りにいる人を巻き込んで記念写真を写したいものだと,つねづね考えています。そのハワイ州に着いたら行きたいのは,なんといってもマウナケアにある国立天文台・すばる望遠鏡。そこで,とはいっても,すばる望遠鏡は写真を写す器械ですから,そのドームの近くで,満天の星空が見られたらどんなに素敵なことでしょう。

 満天の星空といえば,ニュージーランドです。これまでに,オーストラリアで南十字星を見たことはあるのですが,子供の頃に学校で学んだ「人の数よりも羊のほうが多い」ニュージーランドでは,さらに美しい満天に広がる星空が見られるのです。その星空を見られる環境をいつまでも保存するという「ゆめ」を追いかけている日本の人もいます。南十字とマゼラン星雲…きっと,そうした星空を実際に眺めたとき,感動で涙が止まらないことでしょう。
 そして,もうひとつの「ゆめ」はオーロラ。
 オーロラも,これまでに北極上空で飛行機の機内から見たことはあるのですが,一度は地上から見てみたいものです。オーロラとは…地球が「ゆめ」を見ているのです。
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 このように,いくらでも「ゆめ」は広がってくるわけですが,そんな夢心地になるのも,今が心浮かれる春だからなのかもしれません。春は地球も生き物も「ゆめ」を見る季節なのでしょう。「まれ」も「あまちゃん」に圧倒されることなく,「ゆめ」に挑戦してもらいたいものです。
 人生,安定した公務員もいいけれど,やはり,はじけなきゃ。

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 我々が参加した「京都千年天文学街道」は,天文と関連の深い歴史上の人物のゆかりの地や京都の名所、天文施設を探訪するツアーで,NPO花山星空ネットワークが企画をしています。
 史跡を巡るだけではなく,望遠鏡で太陽や天体観測を行ったり,京都大学花山天文台の施設を巡るツアーなどがあって,最先端の天文学に触れることもできます。
 多くのコースがありますが,我々が参加したのは,「京大花山天文台ハイキング」コースでした。
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 このコースは,京都地下鉄東西線「御陵」(みささぎ)駅集合で,そこから花山天文台まで3キロメートル近くハイキングをします。ハイキングの途中では,まず元慶寺へ行って,花山天皇出家の陰謀と安倍晴明の関係について説明を受け,そのあと,アマチュア天文学の聖地・花山天文台で虹色の太陽光スペクトル・黒点観察するというものでした。
 予報では午後は雨でした。雨が降ったら大変だなあ,と思っていたのですが,すでに書いたように,奇跡的に雨が降らず,とはいっても,午後は曇ってきて,あいにく太陽観察はできませんでしたが,私の最も見学したかった口径45センチメートルの望遠鏡を見ることもできて,大いに感動しました。
 この口径45センチメートルの望遠鏡のことはすでにブログに書きましたが,ここで少し復習を。

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 花山天文台は,1929年に京都市東山にある標高234メートルの花山山頂に建設された天文台で,京都大学理学部に属しています。初代の花山天文台長であったのは,山本一清博士です。
 大正から昭和初期にかけて,1834年に生まれ1927年に亡くなったイギリスのG・カルバーが製作した反射鏡を乗せた望遠鏡が,関西に3台輸入されました。輸入された3台のうちの1台目は口径33センチメートルの反射望遠鏡で,京大の旧宇宙物理学教室に導入されました。この望遠鏡は現存しません。2台目は口径32センチメートルの反射望遠鏡で,これは倉敷市民天文台に今も残るもので,私は先日見てきました。そして,3台目が1927年に輸入され,創設されたこの花山天文台に設置され,後に数奇な運命をたどる口径46センチメートルですが,ここではふれません。
 ちょうど同じ頃に,クック製の口径30センチメートルの屈折望遠鏡も導入されました。それが,この現在の口径45センチメートルの望遠鏡なのです。
 この口径30センチメートルの望遠鏡は,1969年に,対物レンズをカールツァイス製の口径45センチメートルレンズに換装しました。当時のことゆえ現在のような高性能なレンズがなく,十分な性能を出すには長焦点が必要だったのですが,ドームの大きさが足りませんでした。そこで,反射鏡を2枚鏡筒の中に仕込んで光路を折り曲げ,独特の形の屈折望遠鏡にしたものです。この望遠鏡は今でも現役です。
 架台は,導入された当時のもので,モーターを使わず,地球の重力を味方にしてぶら下げたおもりの落下する力を利用して動かしています。
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 人間の知恵の塊のような姿をした望遠鏡だと思いました。

 口径45センチメートル望遠鏡のほかに,太陽観測用のシーロスタット望遠鏡も見学することができました。こうした,専門家の使用する器機を見学するのはほんとうによいものです。刺激になります。
 いろいろと詳しく説明をしていただいたスタッフの方々に感謝します。
 これで,私は,子供のころからあこがれていた三鷹の望遠鏡,飛騨の望遠鏡,岡山の望遠鏡ととともに,ここ花山の望遠鏡と,それらすべてをみることができました。
 さあ,残る夢は,ハワイ州マウナケア山頂のすばる望遠鏡ですが,これは,アメリカ合衆国50州制覇の最終州と決めているハワイ州に降り立つときにかなえたいと思っています。

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岡山から宇宙を見た③-倉敷天文台と本田實①
岡山から宇宙を見た③-倉敷天文台と本田實②
岡山から宇宙を見た③-倉敷天文台と本田實③
岡山から宇宙を見た③-倉敷天文台と本田實④

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 私はパークアベニューのトレイルを戻って,再び,車で舗装道路を進んだ。 きょうの1番目の写真の左側を走る道路がそれである。写真で見ると,日本の単なる山道のように見えるかもしれないが,実際は,片側1車線の舗装された快適な道路である。
 すでに書いたように,この国立公園は,州道191から北に入ったすぐのところにゲートがあり,そこから山道をくねくねと上っていくと,この場所に着く。そして,この道路が1本,国立公園の北に向かって30キロくらい続いていて,そこが三叉路になっていて,右に走るとウィンドセクションという見所へ行く。
 直進して,さらに10キロくらい進むとまた三叉路になっていて,右に走るとデリケートアーチという見所へ行く。
 直進して,さらに20キロくらい北西に行くと,最北端のデビルズガーデンという見所へ行くことができる。

 このように,この国立公園は,周回道路ではなく,1本の道路が枝分かれしながら続いていて,車さえあれば,容易に全てを見ることができるのだが,それぞれの見所は,駐車場に車を停めて,そこから歩く必要がある。
 ザイオン国立公園のように,便利なところではないから,夏とはいえ,それほど観光客はいないから,渋滞することもない。

 2番目の写真は,次の見所であるラ・サル・メサ・ビューポイント(La Sal Mths Viewpoint)。そこは,一面に続く赤茶けた大地であったが,神々しい雰囲気に包まれていた。
 かわいらしいフィンがひとつだけあった。遠くから見るとまったく想像できないが,間近に行くと,これだって,とんでもない大きささなのである。
 そして,その先は,3番目と4番めの写真コート・ハウス・タワーズ・ビューポイント(Courthouse Towers Viewpoint)であった。多くの車が駐車場に停って,景観を楽しんでいた。ここから多くのフィンを圧倒的な迫力で見ることのできるのだが,見学は帰りにして,私は先を急いだ。この場所の詳しい説明は,帰路で行うことにする。

 時刻は,かれこれ午後5時に近くなっていて,夕陽がまぶしかった。太陽の光が順光になるところで写真をとると,色が深く幾分露出不足になるが,くっきりとした写真を写すことができる。
 しかし,逆光になると,もういけない。どう露出を補正しても,うまく写すことができないのだ。
 私は,オートで写して,その結果かなりの露出不足にがっかりし,いろいろと露出補正を試みて撮り直すのだが,どう工夫をしても,満足できる写真が写せないのだった。きっと巨大なストロボが必要なのだろう。そんなわけで,今見ても,逆光のものは,やたらとたくさんの写真をうつしたのだけれど,お見せできるようなものがほとんどないのが残念である。

 旅行に持っていくカメラは,小さくて扱いやすくシャッターチャンスを逃さないものがよいのだが,実際に使ってみると,なかなか満足できるものが少なく,それぞれどこか不便な点がある。ネット上にはカメラ好きの人のさまざまな書き込みがあり,カメラ雑誌にもいろんな記事があるが,私は,それらの多くが,実体験から書いているのだろうか? と疑問を感じる。カタログ性能や他人の意見やらだけで書き込みをしているものも多いし,工夫をすればうまく写せるのに,使う側がそれを知らないこともよくある。これもまた,ドリル学習だけで大人になったこの国の人たちの悪しき影響なのであろう。これではメーカーも大変だが,使っていると,メーカーの人は本当にこのカメラを使ったことがあるのだろうか? という操作性のものも多々ある。
 そしてまた,アメリカを旅行すると,景色が雄大だから,日本では考えられないほどの広角レンズが欲しくなる。次回旅行をするときは,魚眼レンズか超広角レンズを持って行こうと思っているが,なかなか満足できる写真を残すのは難しいものである。

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 自称「おもてなし」の国日本を外国人が旅行をするときの問題点を忘れないうちに書いておきます。
 まず,コンビニのATMで現金を引き出そうとするとき,アメリカの銀行のキャッシュカードはセブンイレブンしか使えないのだそうです。もともと,この国はクレジットカードが使えない,あるいは使いにくい国なので,現金に換金することが必要なのです。アメリカなら現金などもっていなくてもカードだけで大丈夫なのですが…。日本のお札やコインも大きすぎます。
 ふたつ目は,外国人向けのJR乗り降り自由チケット「Japan Rail Pass」というのがあるのですが,新幹線は「こだま」しか乗れません。いかにも,親切を装って利用者の少ないこだまの稼働率を上げるのが目的,という腹黒さ,日本的です。そして,JRの無人駅の改札を通るにはインタフォンで連絡をする必要があるのですが,外国人にそんなことできるでしょうか?
 三つ目はフリーwifi が使えないことです。日本では街中は言うに及ばず,ホテルでも wifi フリーを売り物にしているところの多くでも有線しか使えません。アメリカでは考えられないことです。京都市内はやっとフリーの wifi が整備されましたが…。
 私は,ひとりでアメリカ旅行をすることが多いから,その逆に,この国に来た外国人にとってどんな点が障害なのかがとてもよくわかるのですが,この国に来て旅をすると,きっと「不便でせこい国」という印象しか持たないでしょう。これが日本人の精一杯考える自称「おもてなし」(私はいかにも上から目線のこの言葉が嫌いです)なのですが,きっと,これを読んでも,多くの人は,私が何を問題にしているかわからないことでしょう。その点アメリカはいいですよ。すべては金次第。わかりやすいです。

 閑話休題。
 この日,我々の一番の問題は食事でした。なにせ10人のグループが一緒に食事のできるような場所があるとは思えなかったからです。そこで,天気ならお弁当を買って,円山公園でお花見をしながら食べることにしていました。もし雨だったら,九条のイオンモールのフードコート。それくらいの覚悟でした。
 清水寺を出た我々は,流れに任せて,産寧坂,二年坂,一年坂と進み,やがて,ねねの道に到着しました。
 ここで,草わらびを食べたいというリクエストがあったので,有名な「洛匠」さんに入ることになりました。幸運にも,まだ早かったこともあり,この大人数が座ることができて,みんなで名物「草わらび」を所望しました。
 美味でしたって書くこと自体,当たり前で意味がないかな? 「花より草わらび」でした。
 これを昼食代わりにして,そこから,円山公園まで歩きました。
 円山公園の,これも有名なしだれ桜もまた満開。
 私がつい2週間前に行ったときは,全く咲いていなかったので,この景観の違いに驚きました。私は,この満開の桜はすでに見たことがあったのですが,今日はじめて来て,この美しい姿を見ることができた人たちは幸運だと思いました。
 そのあとは,都をどりでにぎわっている花見小路を少しだけ散策,雰囲気だけを味わった後,タクシーで蹴上まで行き,蹴上付近の桜を愛でて,東西線で「御陵」駅に…。無事,集合時間に到着することができました。
 いよいよ,この旅のメインイベント「京都千年天文学街道」の出発です。

◇◇◇
雪のお正月①-日本人の「せこさ」

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 2015年4月4日のお話です。
 私は,自他ともに認める「晴れ男」です。しかし,この春は,まったく自信がありませんでした。なにせ,4月に入ってからというもの,急に暖かくなって,というよりも,暑くなって,ほころび始めた桜はすぐに咲いてしまいました。朝,全く咲いていなかったのに,夕方には満開,というくらいの勢いでした。ところが,満開になった途端に,天気予報は,連日の雨,それどころか,強風。これでは,花見をするときもなく,花は散ってしまいます。まことに残念な年です。

 私は,4月4日に,多くの友人と一緒に「京都千年天文学街道」というツアーに参加して,京都大学の施設であり,日本最古の天文台である花山(かざん)天文台にハイキングをすることになっていました。心配だったのは,雨でした。その日が近づいても,相変わらず,天気予報は雨。まことにテンションは上がらず,やる気もなくなり,絶望的な気持になっていました。もう,晴れるなどという贅沢は言わず,雨が降っても小雨であることを祈っていました。しかし,心のどこかには,そんなに毎日雨が降り続くものだろうか… という希望的な望みを捨て去ることもできませんでした。
 実は,3月25日,大相撲大阪場所の千秋楽を見た私が翌日京都へ行ったのは,この日の下見を兼ねたものだったのですが,わずか2週間ほど前の京都は,桜の「さ」の字もないほど,つぼみも固く,この桜が咲いたらどんなにきれいだろかと,その時訪れていた人たちは,桜の季節にちっぴり早いその時期をうらやむ残念そうな会話をしていました。

 やがて,4月4日になりました。
 雨…どころか,青空さえ望める空に,私は震え上がりました。いくら「晴れ男」の私でも,ここまでの奇跡がありえるのでしょうか? というわけで,我々は春の京都を満喫すべく,新幹線に乗りました。
 予報が雨だったせいか,土曜日だというのに,人混みは予想以下で,京都駅のバス乗り場も,大勢の人が並んではいたものの,比較的楽にバスに乗車することができました。
 「京都千年天文学街道」ツアーの集合は,午後1時,地下鉄東西線の「御陵」駅なので,それまで時間がありました。まず,行ったのは,定番・清水寺。我々は,日本人5人とアメリカ人4人とパナマ人1人という総勢10人のインターナショナルだったのですが,そのうちのひとりが,以前清水寺でおみくじを引いて「凶」だったので,そのリベンジをするのだそうです。
  ・・
 五条坂のバス停で降りて,清水寺まで歩きました。それほど混み合ってもおらず,坂を登って山門に着きました。ここの桜は少しだけ早咲きなので,さすがに満開は過ぎていましたが,それでも,すばらしい景色に一同,感激しました。空は,雲が切れて青空でした。
 おみくじ… ですか? 「吉」だったそうですよ。

◇◇◇
春は京都。①-琵琶湖疏水・「ブラタモリ」のロケ地を歩く

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 いつものように,そこで,料金を払い… -そう,今これを書いていて知ったのだが,実は,キャニオンランズ国立公園とアーチーズ国立公園の共通パスというのがあるのだ。しまったことをした!- ゲートを越えて,道なりに岩山を上っていった。
 これもすでに書いたことだが,この国立公園を「たいしたことない」と思っていたのとは全く違って,その先がすごかったのだった。

 公園は,国道191の北側に広がり,公園内に全長35キロメートルにわたって舗装道路が続いていた。見学者はこの道路を走りながら景観を楽しみ,気に入ったところで車を停めて,そこからトレイルを歩くことになる。
 ビジターセンターからスイッチバックの急坂を上っていくと,まず目の前にあったのが,フィンとよばれる巨大なつい立て状の岩がビルのように立ち並んでる姿であった。このあたりを「パークアベニュー」という。パークアベニューというのは,ニューヨークのマンハッタンの目抜き通りの名である。つまり,ここでは,フィンが摩天楼であるわけだった。
 私は,いつものとおり不勉強だから,このアーチーズ国立公園というのは,岩がくりぬかれてアーチのようになっている景観が続いているものだと思い込んでいた。実際は,こうしたアーチのほかにも,モニュメントバレーのような,メサやフィンが赤茶けた大地に延々と続くところであった。そして,キャ二オンランズ国立公園とは,また一味違った雄大な国立公園であった。

 このパークアベニューからは,トレイルがずっと続いていて,歩いて行けば,最終地点は次の展望ポイントであるコートタワーズ展望台というところなのだそうだ。だから,ガイドでもいれば,車を次の展望ポイントまで持っていってそこで待っていてもらうのがいいとガイドブックには書かれてあったが,なにぶん,私はひとり旅なので,パークアベニューの駐車スペースに車を停めて,少しだけトレイルを歩くことにした。
 それが,きょうの一番下の写真である。
 舗装した道路から,赤茶けた土のトレイルをどんどん下っていくと,フィンがだんだんと大きくなって,目の前に迫ってくるのだ。
 以前行ったサウスダコタ州のバッドランド国立公園で歩いたトレイルと同じで,まさに,火星のような感じであった -火星には行ったことはないけれど-。
 その巨大さと迫力は,絶対に写真ではわからない。巨大ビルよりも大きいのだが,距離が遠いので,小さく見える。だから,近づくと,すごい勢いで迫ってくる。やはり,旅を体験しなくては,そのすごさはわからないのだ。
 それにしても,きょう1日で,これほどのど迫力を何度味わえばよいものだろうか。
 ユタ州の国立公園は,本当に凄すぎる。せっかく地球に生まれて,どんなに偉くなろうと金持ちになろうと,これを知らないなんていう選択肢はない。
  ・・
 このトレイル,さらに進むと,どんな景色が広がっていると思われるだろうか?
 フィンを通り過ぎると,その先は,メサ。まるで,グランドキャニオンのような景観が一面に広がっている。つまり,アーチーズ国立公園は,モニュメントバレーとグランドキャニオンを同時に体験できるところなのだ。

イミテーションゲーム

 映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(The Imitation Game)を見ました。
 この映画は,第二次世界大戦中に,ナチス・ドイツが用いていたローター式暗号機「エニグマ暗号」の解読に取り組み,のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスのアラン・チューリングの伝記「Alan Turing : The Enigma」を基にした映画です。
 私は,「エニグマ」といえば。エルガーの「エニグマ(謎)変奏曲」(Enigma Variations)を思い出すのですが,この映画の「エニグマ」というのは,まさに暗号の「謎」解きを意味しているのです。

 第二次世界大戦後の1951年,ベネディクト・カンバーバッチさんの演じるアラン・チューリングの家が荒らされ,取り調べを受けたチューリングが,ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧することから映画ははじまります。
  ・・・・・・
 イギリスがドイツに宣戦布告した1939年,チューリングは,アラステア・デニストン中佐(彼は無理解で無能な権力者-つまり不条理な人間社会-を演じています)の指揮の下,ナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成します。同僚を見下すチューリングは,はじめのうちはチームの協調性を欠いていたのですが,キーラ・ナイトレイさんの演じるケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラークという素敵な女性との交友の助けもあって,「クリストファー」と名づけられたチューリングの装置(後のコンピュータの原理となったもの)が暗号の解読に成功します。
 そして,この暗号解読によって,連合国は第2次世界大戦に勝利をおさめ,多くの人命を救うことになるのでした。
 しかし,戦後,チューリングは同性愛という「淫らな行為」を犯したとして有罪となり,やがて自殺をしてしまいます。こうして,第二次世界大戦の影の英雄であったアラン・チューリングは,歴史から抹消されてしまうのです。
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 この映画は,我々にさまざまな問題を投げかけています。そのひとつは,天才が無能な権力者から受ける世の中の不条理であり,もうひとつは同性愛に対する偏見,そして英雄であれば,そうした「当時の」反社会的行動が許されるのかという問題です。
 「当時の」社会規範を基準として,現代では許されてもその時代には犯罪となるという不条理…,私が以前書いたように「世の中の良識とか常識にも普遍性などない」のです。
 また,この映画は,先日見た「博士と彼女のセオリー」と相通じるものがあります。その映画もやはり,天才であるが故に受ける世の中の不条理を表していること,そして,きわめて魅力的な女優さんが「天才」である主人公のよき理解者を演じていること(これは映画としての戦略)です。

 「世のためになる立派な人間を,既成の価値観と無理解で抹消してしまう愚かな権力者」というこの世の不条理。こうした権力者は,所詮は「小役人」という評価を後世の歴史が下すのですが,それとともに,歴史は,権力者が現役である時は大衆がそれを時には熱狂的に支持する,ということも教えています。こうした映画を見て私が決意することは,自分は,決してそうした権力者を支持する人間の側だけにはなりたくないということです。

 この映画に流れる切なひとつの思想があります。それは,次の言葉です。
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 誰にも思いつかない人物が,誰にも思いつかないことをやってのけたりするんだよ。
  Sometimes it is the people no one imagines anything of who do the things that no one can imagine.

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「博士と彼女のセオリー」-素敵な大人のラブストーリー

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 ビジターセンターにも立ち寄りたかったのだが,あまり時間がなかったので断念して,ビジターセンターを通りすぎて,さらに北に進んでゲートを出て,さらにずっと北に走った。
 私は,このとき,まだ,デッド・ホース・ポイントに行こうかどうか迷っていた。しかし,どれだけ走ってもそこへ行く分岐がない。そろそろ道路標識があるかな,と思ってもなかなか現れず,こんなに先なのかな,きっと,見落としたのに違いない,でも,もういいや,とあきらめたころに,やっと,デッド・ホース・ポイントへ右折する道路標識を見つけた。

 しかし,そのときはすでにどうでもよくなってしまっていたので,私は,右折をせず,そのまま,国道191に向かって走って行った。
 来るとき,キャニオンランズ国立公園よりも遙か手前で,道路際に車を停めて,写真を撮っていた若者がいたのを思い出した。帰路,再びその場所を通ったとき,彼は,まだ,写真を写していたのだった。
 辺鄙な山里からふもとに降りたような感じであったころ,やっと,国道191まで戻った。時間は,すでに,午後4時近くであった。

 今晩泊まるのは,このあとさらにインターステイツ70に戻って,さらに1時間ほど東に走り,コロラド州に入ったところにあるグランドジャンクションという町のホテルであったが,すでに予約をしてあるので,よほど遅くならない限りは大丈夫であった。しかも,アーチーズ国立公園も,24時間開いているから,せっかくここまで来たのだから,アーチーズ国立公園にも行こうと,このとき決めたのだった。
 つけ加えると,アメリカは夏時間なので,午後4時といっても,実際は午後3時なのだ。

 私は,このように,キャニオンランズ国立公園に行ってから州道313を戻り,国道191に入り,モアブ方向に右折して,アーチーズ国立公園を目指した。
 アーチーズ国立公園のゲートは,国道191に面しているから,キャニオンランズ国立公園のような辺境という感じはしない。
 国道191から,道路標示にしたがって左折して,そのまま,公園のゲートに到着した。

 アーチーズ国立公園は,世界で一番たくさんの穴のあいた岩が集まったところで,面積はそれほど広くないのだが -それでも300平方キロメートルある-,そこに,約1,500ものアーチ型をした岩が点在している。
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 約2億5千万年前,この地方は大きな内海であったのだが,高温で乾燥していたために海水が蒸発して塩分が堆積した。そこにまた海水が流入して,を繰り返して,フィンが出来たのは,すでに述べたキャニオンランズ国立公園と同じである。
 このフィンが,酸の力と霜の影響で岩を崩し,穴をあけ,ひとたび穴があいていしまうと,岩が内部からくずれてくるのである。これが,この国立公園にみられるアーチ型の岩である。
 こうしたアーチの形成はいまも続いているのだ。
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 朝日新聞で4月1日から連載が始まった沢木耕太郎さんの「春に散る」は,
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 アメリカの国道1号線,ルート1は,カナダとの国境を一方の起点として南下し,… フロリダ半島のマイアミに至る長大な道路だ。しかし,マイアミが終点ではなく,道はさらに南に向かうことになる。
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からはじまっています。
 アメリカをドライブしていて感動するのは,やはり,夜明けや夕暮れのころの雄大な風景です。そこで,きょうは,この小説に出てくるルート1の本当の終点であるフロリダ州最南端,セブンマイル・ブリッジからの夜明けを,思い出話ととともにお送りします。

 私は,中学校に入学して,はじめてまじめに英語の勉強をはじめたのですが,当時は,今のように英語を聴く機会があるわけでもないし,英字新聞なんて難しくて読めないから,英語というのは,アメリカのホームドラマとともに,本当に未知のときめきの世界でした。
 そんなころに創刊されたのが「Asahi Weekly」という,初心者向けの英語学習新聞でした。その「Asahi Weekly」は今でも発行されているようです。私は,それを創刊号からしばらく購読しました。でも,英語の記事なんてほとんど読まず,読めず,写真やら旅行の記事だけを楽しんでいました。
 あるときフロリダ州の最南端の旅行記が載っていましたが,当時,同じアメリカといっても,西海岸とは違ってフロリダは遠く,そんなところまで旅行ができるというのは,まさに夢物語でした。それとともに,これまで想像もしなかったそんな世界があるんだなあということを知って,とても感動しました。
 それからずいぶん経ったころに,そのときのことを思い出して,当時は夢物語だったマイアミの国際空港についに降り立った私は,レンタカーを借りて一路南へセブンマイル・ブリッジを走り,キーウェストまで行くことにしました。
 このセブンマイル・ブリッジは,テレビのCM や映画にもよく出てくる有名なものです。

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 セブンマイル・ブリッジ(Seven Mile Bridge)は、フロリダ州にある全長約10キロメートルの橋で,フロリダ半島の南端からキーウエストへ走る国道1にかかっています。1979年から1982年にかけて建設されて,1982年5月24日に開通しました。
 マイアミから国道1を南下していくと,エバーグレーズ大湿地帯を抜けてカリブ海に達します。その先に小さな島々が鎖状に連なったフロリダ・キーズとよばれる島々があります。フロリダ・キーズにかかるのがこのセブンマイル・ブリッジで,この橋は,最南端のキーウェストまで通じています。
 橋は平行に2本架かっていますが,現在実際に車が通っているのは南側(大西洋側)の橋です。
 北側(メキシコ湾側)の橋は途中3か所で切断されています。この古い方の北側の橋は,1912年にヘンリー・フラグラーという人の指揮の元に造られた鉄道の橋でした。その後,この橋は1935年のハリケーン「Labor Day Hurricane」によって大きな被害を受けました。修復後は道路の橋として再開通しましたが,道路として使うには充分な幅がなかったので,1982年に南側に新しい橋が建設されたのです。古いほうの橋の切れている部分は,1982年に新しいセブンマイル・ブリッジが完成した際に切断されたものです。
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 私がキーウェストを訪れたその帰りは,早朝にホテルを出発してフロリダ半島に向かいました。その車窓からは,すばらしい夜明けが眺められました。カーラジオからはスペイン語の放送が流れ,島々にはヨットハーバーや別荘が立ち並んでいました。期待以上,想像以上のところでした。
 私がこの地を訪れた翌年,ハリケーンが襲い大惨事が起きました。私が行ったときに出会った多くのすてきな人たちの安否が,私は,今でも気がかりです。

フロリダ

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 4月。新しい年度になりました。私には,以前ブログに書いた「ある決意」がはじまる素晴らしい日でもあります。
 連続テレビ小説「マッサン」に出てきた言葉は「LIFE IS AN ADVENTURE」。重みのあるすてきな言葉です。そして,私の座右の銘は,それに習ったわけではないけれど,すでに書いたように「人生ははじけちゃおう」。そのために必要なのは「知恵と夢と勇気」なのです。
 ところで,このブログのタイトル「しない・させない・させられない」とは,「自分のしたくないことはしない,相手のしたくないことはさせない,自分のしたくないことはさせられない」という意味なのですが,これは,プライドが服を着ただけの人間の屑のような上司に出会ったおかげで仕事を辞めることができたときに,これからはこうして生きようと決めた言葉なのです。人生,あの男の真逆をすればいい,つまり反面教師なのです。

 と,そんなことを書いていて,別のことに思い当たりました。それは,私が悔しいことは,若いころにもっと時間をムダに使わなければよかったということなのです。「時間をムダに」… それは学生時代の,いわゆる「お勉強」のことです。
 これもすでに書いたことですが,日本の中等教育,つまり高等学校の教育はムダの塊です。といっても,理解してもらえないでしょうが,考えてみてください。高等学校で学んで役立ったことってどれほどあるでしょうか? それは,そもそも「勉強の目的が受験」などという間違った教育をしているからなのです。そんな国は世界でも稀(日本と韓国?)です。しかし,それがこの国の一般の常識になってしまっているから,それを疑問にも感じないし,教師だって,そういう教育を受けてきた人がまた同じことを繰り返してるだけだから,変わりようがないのです。挙げ句の果てには,受験勉強は自分を高めることができるから意義があるなどと言い出す始末です。そんなことが目的のために学問をするなんていうのは,学問に対して失礼です。
 本屋さんに並ぶ問題集と乱立する塾と大学合格者ランキングを売り物にする週刊誌…。本当に,こんなことでいいのでしょうか? この国は本当に変な国です。一体全体,国を上げてみんな何をしようとしているのでしょう?

 「なぜ漢文を勉強するのか」と「英語嫌いを作るだけの英語教育」についてはすでに書きましたので,今日は数学について考えてみます。
 「大学受験で出題される入試問題を解くような数学の勉強」なんて意味のないものです。西洋でそんな勉強をしている国はないのです。第一,日本のような入試問題自体がないのです。なんなら,ネットでアメリカの大学の数学の入試問題を探してみてください。
 特に,「文系といわれる人たちの勉強している日本の高等学校の数学」は,将来何の役にも立ちません(私は「数学が役に立たない」とは言っていませんよ)。では何のためにやっているかというと,ひとつには,それを教えている,いや,それしか教えられない人の食い扶持を確保するため,つまり飯のタネです。そして,もうひとつは,「あなたには数学を勉強する能力はないんだよ」と悟らせるためです。それだけなのです。
 では,「理系といわれる人たちの勉強している日本の高等学校の数学」はどうでしょうか。実は,この国が決めた高等学校卒業までに学ぶレベルの数学ではこの先どうにもならないのです。そんなレベルの勉強しかしてこなかったから,大学生が苦労しているのです。
 それは,英語に例えてみれば,現在形だけを教えて英語を話せ,というレベルにしか過ぎないのです。せめて,高等学校卒業までに,「電磁気学のマクスウェルの方程式」が理解できる程度のベクトル解析と複素関数と微分方程式くらいのレベルまでは教えておく必要があるのです。
 そんな時間がないですって? いや,時間などいくらでもあるのです。読めるようになるわけでもなく文化を学んでいるわけでもなく,所詮,助動詞の文法をやっているだけの古文や,1年もかけてしかも補習までやってくだらない数学の入試問題の演習をしているような時間がたくさんあるではないですか。

 今にして,私は,自分の若いころをもっと有意義に過ごしたかった… と思うのです。そのころはそんなことに気づかなかったから,いい子になって,本当にムダな勉強に多くの時間を使ってしまったように思います。高等学校で,もっとレベルの高い数学と,論文が読め議論ができる英語力と,そして,自活できる家庭科の知恵,それを学んでいれば,今,もっとはじけることができていたのです。
 いや,と自分に言い聞かせます。まだまだ遅くはない…。それを知ることができたことが進歩です。そして,私には,これからが(第2の)青春です。歳を経て,若いころの夢を実現できるようになった今,私には,まだまだやりたいことがいっぱいあるのです。
 それにしても,本当にいいのでしょうか,この国はいつまでもこんなことをしていて…。こんな教育,西洋では30年以上も昔のものですよ。

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「漢文脈と近代日本」-漢籍を訓読すること
英語嫌いを作るのが国策か-人材の海外流出を防ぐ?

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