しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2015

明日は帰るだけなので,実質上,今日が最終日です。
今日のイベントはジャイアンツの野球を観戦することでした。
このサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地AT&T ボールパークは,イチローがオールスターゲームでランニングホームランを打ったところです。ライト側が海に面していて,特大のホームランは海に落ちます。また,ライト側は巨大なコカコーラとグローブのモニュメントがあります。
一度行きたかったのですが,ちょうど今年は,青木選手が活躍していたので,来ることにしました。まさか,故障者リストとは・・・。
球場に来る途中で,マーケットストリートのプライドのパレードに遭遇しました。サンフランシスコはダウンタウン全体めっちゃくちゃでした。バートはギュウギュウ詰めだし,ポリスに手錠をかけられてる奴いるし,ホームレス臭いし,ハダカ同然の若者一杯いるし。一応は秩序が保たれているのが不思議な感じさえしました。
サンフランシスコ・プライドは全米最大の同性愛者のお祭りだそうです。偶然,こんな日に遭遇するなんて,ビックリです。とはいえ,これはお祭りで,日本でいうなら,東北の夏祭りや徳島の阿波踊りのようなものです。街全体がお祭りで,テレビ中継もしていました。
そんな中,やっと球場に到着しました。それにしても美しい球場でした。AT&Tパークというだけあって,どこでもフリーwifiが通じました。
今日はハローキティデイでキティちゃんが始球式。人形ももらいました。
オークランドの最悪な球場とは全てが別世界でした。
こういう世界は体験しないとわかりません。
これで今回の旅行も終わりです。慌ただしい毎日でしたが、盛りだくさんの経験をしました。
とにかく、アイダホとサンフランシスコは違いすぎました。同じ国とは思えないくらいの違いでした。そして,そのどちらも日本で伝わる姿でありません。
明日の朝,シアトル乗り換えで帰国します。
今回も盛りだくさんの素晴らしい旅になりました。

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今日と明日,35年ぶりのサンフランシスコ観光です。35年も前にこの街の観光ができた自分に驚きです。今の自分には公共交通機関を使って都会を観光する自信がありませんが,ともかく,お上りさんよろしく,市内観光をすることにしました。
まず、ダウンタウンに出て,バスとケーブルカーに使える乗り放題チケットを購入しました。
そして,はじめに行ったのが,ゴールデンゲートブリッジ。わたってみることににしました。往復2時間かかりました。
次にフィッシャーマンズワーフでクラブ(カニ)の入ったクラブサンドを食べてから,1時間のサンフランシスコ湾内クルーズに乗りました。
霧のサンフランシスコといいますが全く霧はありませんでした。
そして,きょうのイベントはオペラです。サンフランシスコオペラで「フィガロの結婚」を見ます。 行く途中のシティホールのあたりはプライド(PRIDE)というお祭りでとんでもないことになっていました。トップレスの女性はいるし,素裸の男性はいるし,わけの分からない世界でした。
一本道路を隔てたオペラハウスではそれと全く違う素敵な世界を楽しむことができました。4時間近くあったのですが,あっという間でした。
最高の思い出がたくさんできた1日でした。

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1日目の夜が辛いのです。眠れない。いつもこのとき,もう二度と来るものかと思うのです。しかし,なんとか朝になると,気分はすっかりアメリカンで,日本に帰りたくないと思うのです。
今日は,お昼までのんびりして,午後1時過ぎのフライトでボイジーからソルトレイクシティを経由して,サンフランシスコに到着しました。
ボイジーからはロスアンゼルスを経由して来ることもできますが,私は,ロサンゼルスよりきれいで広いソルトレイクシティの空港の方が好きです。
ソルトレイクシティを経由したので,機内から奇妙なソルトレイク湖を見ることができました。
サンフランシスコはかなり涼しいと聞いていたのですが,到着してみると,快適な陽気でした。しかし,日が暮れたら急に冷え込みました。気温は15度くらいでしょうか,日本の3月と同じくらいです。
ホテルは,ダウンタウンがあまりに高価だったので,空港の近辺にしましたが,空港からのシャトルバスに乗るのに戸惑いました。
ホテルからはバート(BART)という乗り物でダウンタウンに行くことになります。
ホテル到着が午後5時でそのあと特にすることもなかったので,オークランドへ大リーグを見にいくことにしました。オークランド・アスレチックスのコロシアムはおそらく大リーグで最もひどいボールパークだと思うのですが,それがどういうものかを見たいという動機と30球団制覇が目的だけでした。
球場がひどいことに輪をかけて,まわりの環境もかなりのもので,私は今から30年前の退廃したアメリカを思い出しました。観客も,まあ,それに比例しておりました。よい子は行かない方がいいです。 ダウンタウンには,皮肉なことに最も素晴らしいといわれるジャイアンツの球場があります。私は,明後日行きます。

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成田出発までの時間を潰すのが大変でしたが,飛び立ってしまえば,あとは楽勝です。
シアトルまではわずか8時間30分。機内で夕食を済ませて寝ていたら着いてしまいました。というわけで,今回もあっという間に太平洋を横断し,私は再び,アメリカに入国をしました。
「アッ」(笑)
入国審査は自動化されていて,自分でパスポートを機械に読ませて写真を写して入国審査官にスタンプを押してもらって終了です。アメリカのパスポートを持った男の子を2人連れていたので,入国の審査官に誘拐じゃないよね? と冗談を言われました。
アメリカいいなあ。
シアトルからボイジーまでの乗り換えですが,前回はポートランドからの乗り換えだったので,シアトルからははじめての経験でした。
シアトル到着は,午前10時だったので成田を出発したときが,きょうの午後5時だから,出発したときよりも早く到着するという,タイムマシンも真っ青状態でした。
シアトルは快晴。景色が素晴らしく,いつ来てもいいところです。飛行機の窓からマウントレーニアが綺麗に見えました。
乗り換えて1時間30分でボイジーに到着しました。
ここまでくると,アメリカの雄大な大地が広がります。ボイジーは,昨年来たときと同様,落ち着いたところで,私は大好きです。雲ひとつない晴天で気温は35度ですが,湿度が低いので問題ありません。
私のいない日本はまさか大雨ではないでしょうね?

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先月の旅から帰国して1か月,まだ時差ボケも治らないまま今回のわずか6日間の旅に出発しました。
まず,昨年の夏に行ったアイダホ州ボイジーに行きます。夏休みで日本に来ていた従姪の子供たちの帰国に付き添うのです(これが所用)。
その後,35年ぶりのサンフランシスコへ寄って3日間観光します。
デルタ航空はサンフランシスコはハブ空港でないので,サンフランシスコへ行くには,何度か乗り換える必要があります。
きょうは,セントレア・中部国際空港から成田国際空港までANAの国内線,乗り換えてデルタ航空でシアトル,そして,ボイジーまで。
成田便の出発時間が異様に早くて,朝7時55分。ということで,初日の朝が非常に早いので,手ぶらで空港まで行くために,はじめて空港までカバンを送りました。JAL ABCという宅配で,1,960円でした。ちなみに,自宅からセントレアまででも成田まででも料金が同じ,というのがおもしろいところです。ちなみに,デルタゴールドカードは,帰りは無料で送れます。
そんなわけで,初日は,朝4時の起床。始発の名鉄電車に乗って,6時12分にセントレア到着。
しかし,早く成田に着いても,成田では待ち時間が6時間もあったのです。そこでどこか行くところがないかと調べて見つけたのは,航空科学博物館でした。
この博物館のことは,後日,詳しく書くことにしましょう。今日は写真だけです。
そんなわけで,今回の旅行LIVEの1日目は,成田国際空港からお届けしました。それにしても成田国際空港はわかりにくい空港です。
これから太平洋を渡ります。

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今年は,3回,太平洋を渡ることになりました。
1回目は5月でしたが,その旅のことは,すでに「特別編・2015春アメリカ旅行LIVE」として,ブログに書きました。
竜巻のシーズンに竜巻の起こる中南部のアメリカへ行くという,無知なるがゆえにそんな場所へ行ってしまった旅でしたが,自他ともに認める「晴れ男」の私は,竜巻をも沈め,到着前日までの荒れた天気が一転しましたが,逆に,私のいなくなった日本には季節外れの台風が襲うという,まさに神がかり的な出来事さえ起きました。
行きも帰りもフライトが遅れ,帰りには,余分に1泊するというハプニングまでつきました。
この旅の詳しいことは,現在,いつ終わるとも知れず? 書いている「2014夏アメリカ旅行記」が終わる(8月末には終わるんです! きっと)9月頃から,新たに「2015春アメリカ旅行記」として書いていく「予定」です。

そして,いよいよ2回目です。2回目は,きょう,6月25日に出発します。
わずか6日間の旅,というより,今回は所用で出かけるので,レジャーではないのですが,せっかく行くので,帰りに3日間だけサンフランシスコに行くことにしたという,いわばおまけつきの旅です。いやいや,誤解されてもいけませんが,所用といっても自称「高等遊民」の私ですから,もちろん仕事ではありません。35年ぶりのサンフランシスコ,果たして,どんな素敵なことが待っているのでしょうか…? わくわくします。
実は,私の行く6月末の週末は,全く知らなかったのですが,現地は「San Francisco Pride Festival」というお祭りだったのです! 私は,シーズンオフだとばかり思っていたのですが,とんだ間違いでした。わざわざこのお祭りを見るために,この時期のサンフランシスコを訪れる人も多いということで,一番問題になってしまったのは,宿泊するホテル探しでした。ここで詳しく書いてもいいのですが,それはまた後日のお楽しみ,ということにいたしましょう。
いつも同じことをしていても旅のおもしろさは見つかりません。今回も,また,新たなことにチャレンジしたいと思います。
では,行ってきます。

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 ほんの10分前には全くその兆候すらなかったのに,突然,雨が降ってきた。それも試合開始直前のことであった。私は,山岳地方の天気が変わりやすいように,この雨は一時的なものだろうと思った。それにしても,昨年行ったボストンでは,やっとの思いでチケットを購入したゲームが雨で中止になってしまうし,これでは,晴れ男失格ではないか。

 ダウンタウン同様,この球場も屋外でもフリーwifiがつながったので,アプリで天気予報を見ると,デンバー付近の雲の様子が明確に表示された。それによると,雨を降らす雲の一団が北西から押し寄せてきて,30分もすれば,再び晴れあがるようであった。
 私は,屋根のある立見席で昼食を取りながらこの天気予報を見ていたが,隣にいた人が,これは,今年の開幕ゲームと全く同じ状況だと言った。その時も,試合開始直前に雨が降り出して,すぐにやんだのだという。
 私は,彼に,アプリの天気予報を見せてあげた。

 やがて,場内放送がかかり,試合開始を30分遅らせる,というアナウンスがあった。そんなわけで,中止になるといった心配もなく,この一時的な雨は,しばしの休息となった。
 本当に30分もすると,あれだけ真っ暗だった空が晴れあがって,あれはいったいなんだったのだろうか,という快晴になった。
 試合が始まった。
 雨が降ったおかげで,レフト側の向こうには,ロッキー山脈が,美しく見えるようになった。

 試合は,いつものように,国歌の斉唱からはじまって,さまざまな演出があって盛り上がり,日本でいうところのゆるきゃらのような,被り物をした人がグランドでレースをしたり,まあ,どちらかといえば,アトラクションの合間に試合をしているような,そんな,雰囲気であった。被り物は,アトラクションが終わると,私の座っていたところの隣の通路を歩いて退場していったので,私の近くに多くのファンが押し寄せて,彼らを取り巻いていた。

 MLBを見るなら,よほど見たいプレイヤーでもいない限り,一番安価な座席のチケットを買って,最上段で見たほうがうんと楽しい。しかも,試合がはじまれば,指定席もあってないようなものだから,動き回って,いろんな場所から試合を楽しむといい。
 今回も,私はゲーム自体はどうでもよくて,雰囲気が楽しくて試合を見ているだけだったから,どっちが勝とうと負けようと関心もなくて,アメリカにいるんだなあ,という幸せを感じながら,のんびりと試合を見るつもりであった。が,実は,試合開始直前の雨が幸い? して,通路ごとにいるはずの係員がみんな引き上げてしまったから,このゲームでは試合開始前からすでに座席の指定などあってないようなものとなって,私は,値段の高い上席の空いているところに陣取って,試合観戦と相成った次第であった。

 そんなわけだから,試合の結果はほとんど記憶にないが,予想どおり,ロッキーズの惨敗に終わったような気がする。
 それにしても,ロッキーズ対カブスというのは,この年の最下位同士のどうでもよいゲームなのであったが,観客は,さらにそんなことはどうでもよくて,「ゲームを見ること=人生」を心から楽しんでいた。こういうのを見ると,やたらと勝つことにこだわっているヤンキースなど,最も愚かなことのように思えてくるのが,また,不思議なことである。
 人の生き方も,また,同じである。

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 私は,いつものように,球場のまわりを何度も歩きながら,探検をした。アメリカの球場は,どこも広いコンコースがあって,球場のまわりを1周できるのである。まだ試合開始前だったから,会員制のレストランの中も頼んだら見せてくれた。このように,この球場,ものすごく親切なのであった。私がこれまでに見たアメリカの20以上の球場の中でナンバーワンである。
 日本の,腹黒い,しかし,表面的だけのおもてなしとは別世界であった。
 さまざまな対応が温かく,本当に,この球場は,心から楽しむことができるところであった。

 これまで行った球場で,私が一番楽しかったのは,すでにブログに書いたが,ボストンのフェンウェイパークであった。シカゴのリグレーフィールドもおもしろかったが,フェンウェイパークにはかなわない。
 反対に,とてもデラックスでお金がかかっていることは実感できるが,ヤンキースタジアムは,金持ち相手の球場で,庶民には馴染めないところであった。
 いずれにしても,こうした球場でベースボールを見てしまうと,人工芝に屋根の開かないドーム,さらに,左右対称でおもしろみもなく,コンコースは狭く,遊びの精神に欠けていて,観客は鳴り物でどんちゃかどんちゃかとうるさく,風船ばかり何度も飛ばす日本の野球(場)には,たとえ1億円もらっても,私は行きたくない。

 場内に入ると,レフト後方にロッキー山脈が見えた。これがまたすばらしかった。
 この球場ができる前のはじめの2年間間借りしていた球場にはセンター後方に野球観戦用に増築した仮設スタンドがあったそうだが,その名残りとして,このクアーズ・フィールドには「ロックパイル」という名の観客席(=2番目の写真の中央左の上部が半円形になったスタンド)がある。私もここで見ようと思ったが,人気があって,売り切れであった。

 観客席は,いずれの階も伝統的な落ち着いた緑色に統一されているのだが,3階席20列目だけがチームカラーの紫色に塗ってある(=1番目の写真)。これは,この位置が,ちょうど標高1マイルの高さだからなのである。
 このように,標高の高いこの球場は気圧が低いために打球が飛びやすく,守っていても,フライやライナーがグ~ンと伸びてしまうのだそうだ。また,走ると足が速くなったと感じられるともいう。 
  ・・
 試合開始前,スタンドはどこも自由に入れたので,私は3塁側の内野スタンドの一番前で練習を見ていた。アメリカの球場にはバックネット以外には金網のネットなどという無粋なものはない。それに比べれば,日本の球場は,まるで檻である。
 ちょうどこの日の相手チームであるシカゴ・カブスの選手が練習中で,監督やらキャッチャーやらがスタンドのファンに気軽にサインをしていた。サインなどする気がない,という態度見え見えのヤンキースの選手とは全く違っていた。また,外野では背番号11をつけた藤川投手がランニングをしていたので,日本語で「がんばれー」と声をかけたらびっくりしていた。

 次第に観客増えてきた。
 外野側のコンコースでは,バーベキューをやっているし,1塁側の内野と外野の間にあるコンコースには,人気レストランの「マウンテンランチバー&グリル」があって,大変賑わっていた。また,3塁側内野には「ロッキーマウンテンオイスター」という名物フライ料理を出す売店があった。
 私も,お腹が空いてきたので,ちょっと分量の多いホットドッグとポテトとコーラを買って,昼食となった。といった感じで,試合前の楽しい時間もあっという間に過ぎて,やがて,試合開始の時間が近づいてきた。
 3塁側で練習をしていた藤川投手が,なにやら空を気にしはじめていた。先ほどまでは,とてもよい天気であったし,ここデンバーは雨の少ないところと聞いていたのに,なにやら,雲行きが怪しくなってきたようであった。
 見上げると,北西の空から真っ黒い雲がすごい勢いで向かってくるではないか。
 そして,まさに,試合開始直前,晴れ男の私に挑むかのように,突然,雨が降り出した。

  ・・・・・・
 He is peppy.
 He pants and pants.
 He is a timid man.
  ・・・・・・
 アメリカの幼稚園児が習う言葉の数々ですが,これらの意味がおわかりでしょうか?
 というと,こんな言葉は,受験に出ないから必要ない,という声が聞こえてきます。
 まさに,この国の人は,みんな受験病に侵されているから,「勉強=テストのため」。そうした価値観をもってしまっているので,人を意味のない「偏差値」で値踏みしたり,大学を,いや,何もかも「偏差値」でランク付けしたりすることが大好きです。

 リベラルで売る大手新聞社の出版する雑誌だって,結局は,それを書いている記者自体の学生時代の価値観の物差しが偏差値だったから,大好きな記事は高校別大学進学者一覧だし,どこかの塾の教師が書いた「偏差値」の低かった誰かさんが一流大学に入ったとかいう本を映画にしたものがはやったりと。では,それがいったい何なの? と言いたいものばかりです。
 広い大地には,山も湖も川も草原もあって,それらに上下はないのにもかかわらず,そびえる山々に序列をつけて「偏差値」という価値観を与えて,みんなが一段となって,脇道にそれず,少しでも高い山に向かって登って行くことだけがさも素晴らしいことのように信じ込ませて,そのためには辛抱が大切だと洗脳する。でも,山の上には何もないのです。だって,登らされた結果思うことは「ああ,これでもう登らなくてもいい」ということだけだから…。

 学生は,受験英語用の単語暗記集を買わされて,その本の単語を覚えるのがノルマになっているから,通学途中の電車の中で,小説を読んでいる学生はほとんど見ないのに必死に単語を覚えている…。そんな姿に私はぞっとします。
 高校生の買わされた受験英語用の単語暗記集なんて,過去の大学入試問題に出題された英文をコンピュータに入力して,単語を頻出順に並べなおしてリストアップしたものにすぎず,しかも,出題されたときの文脈とは関係なく,並べなおしたあとでその単語の意味をほぼ1対1でつけただけだから,そんなものを暗記しても,英語も読めないし使えない。ほとんど意味がないのです。
 第一,それまで耳で聞いたこともなければ本で読んだこともない単語なのに,それらを単にリストアップしたのものを順番に暗記しても,それは死んだ言葉に過ぎないのです。そんなことをするくらいなら,辞書をはじめっから読んだ方が用例も語源も載っているから,よほど効果的でしょう。

 教師も,生徒にそんなことを強いるよりも,アメリカの幼稚園児向けの番組でも見せたり,絵本でも読ませればいいのに,残念ながら,教える方にそんな実践的な英語力もないし,そうしたくても教室に設備もないという気の毒な状況です。
 小学校で英語といっても,小学生に英語を教える教師が育っていないから,所詮はリンゴの絵をみせて「apple」と言わせるようなことしかできないわけです。小学校で英語を必修にしたいのなら,国はきちんとお金を出して,教師を海外研修に出して,例えば,「単身で」アメリカの小学校に「生徒として」通わせるくらいのことをするべきなのです。国は不真面目です。
 かくして,この国には,「英語」と称したドリル学習と塾がさらに蔓延して,英語嫌いが増産されていくのです。

 このことは英語に限りません。
 近頃は,ろくに古文を読んだこともないのに,古語の単語暗記集まで買わせて,悪しき英語の真似をして古語の単語を覚えることまでノルマにしています。古典に限らず,歴史だろうが,地理だろうが,物理だろうが,生物だろうが,どの教科もワークブックだらけで,違いは教科の名前だけで,どの教科もドリルの穴埋めをやって提出することを「勉強」と称しているだけなのです。だから,生徒は,答えを見ながら「写経」をすることを勉強と思っているわけです。その結果,考えることをしないから,少しは知識は身についても知恵は身につきません。
 そんな「勉強」を強いる教師のほうは,ミジンコやゾウリムシを顕微鏡で見たこともないのに,生徒に与えたドリルを参考にしながらそれを模写してテスト問題に出題するわけだから,それは伝言ゲームと同じことで,どんどんと真実とは違ったものになってしまうのです。
 近年は,出版社が問題集をデータベース化したコンピュータソフトを購入して,そこから問題を選んで,それを並べなおしてテスト問題と称しているだけの教師もたくさんいます。
 そして,そのテストの結果で生徒を序列化していくのです。
 そんなことなら,eラーニングで十分なわけです。
 星の動きを教える教師に,本当の星空を見たことがありますか? と聞いてみれば,きっとその実態に愕然とすることでしょう。
 ドリル学習しかしていない学校では,本当のことは学べないのです。

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 ユニオン駅の周辺は,かつてデンバーの中心街として栄えた場所である。
 そのころのデンバーのことは知らないが,今から30年以上に行ったときのアメリカの大都市は,どこも,街の中心街がスラム化して,治安も悪かった。ニューヨークもサンフランシスコもロサンゼルスもそうであった。
 私は,憧れの大国アメリカのそういう姿を知って,どうにかならないのかなあ,と悲しくなった。

 それが,近年は,どこも,そうした,かつての退廃した中心街は,まず,ボールパークなどの集客施設を作り,そのまわりを栄えた時代の面影を残しながら再開発して,レストランやショッピング施設を整備,治安も回復して活気をよみがえらせているのだ。
 私の知る限り,それがなかなかうまくいっていないのはデトロイトであるが,アメリカ人のダイナミックさは,それもやがて克服するであろう。
 それに比べると,日本の駅前の惨状は悲劇的である。郊外に巨大なモールを作り客が逃げ,市内の駅前通りはどこも寂れて商店街は落書きの書かれたシャッター街と化してしまっている。

 アメリカの鉄道駅は改札がないから,ホームにまで自由に入ることができる。
 ちょうど,アムトラック(大陸横断鉄道)が到着する時間であったようで,多くの乗客が電車を待っていた。
 また,別のホームには市外に走る電車が客待ちをしていたところであった。
 広い駅舎はとても美しかった。
 まだ,工事中のところが若干残っていて,クアーズフィールドへ行くまで少し遠回りをする必要があったけれど,試合開始2時間前の開場の時間に,到着することができた。

  ・・・・・・
 クアーズフィールド(Coors Field)は,コロラド・ロッキーズ(Colorado Rochies)の本拠地である。
 コロラド・ロッキーズは1993年にナショナルリーグの拡張球団として誕生した。最初の2年間は,NFLデンバー・ブロンコスの当時の本拠地マイルハイ・スタジアムを間借りしていたが,1995年4月に誕生したのが,このクアーズフィールドであった。
 球場は,周辺の古い倉庫と同じ赤レンガと鉄道駅の敷地だったことにちなんだ鉄鋼を組み合わせた歴史を感じさせる構造になっていて,素晴らしい建物である。
  ・・・・・・

 アメリカの球場は,写真や中継で見る以上に,行ってみると,どこもものすごく豪華である。そして,観客の熱狂がものすごいものである。私は,MLBを観戦するときは開場と当時に中に入ることにしているが,そのころから,すでにものすごい盛り上がりであった。
 実は,コロラド・ロッキーズは,球団ができた当時は,けっこう強豪であったのだが,このところ,弱小球団になりさがっていて,ずっと,最下位を続けている。
 2012年に行ったミネソタ・ツインズもその頃は弱小球団であったが,そんな順位はファンには全く関係がなく,球場は熱狂的なファンであふれかえっていた。
 彼らはこのチームの現在の順位を知らないのではないのか,と錯覚するほどであった。

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 コロラド州議会議事堂を見学した私は,再び,16番ストリートモールを今度は北西に向かって歩いていった。きょうは,このあと,ダウンタウンをのんびり歩いて,クアーズフィールドでMLBを観戦するのである。

 私が昨日以来,ズボンのベルトを探していたのを覚えておいでであろうか? 海外旅行では,飛行機で座っていることが多いために,少し大きめのズボンをはいているのだが,搭乗時のセキュリテイチェックでベルトをはずす必要があるために,めんどうだから,ベルトをしていないのである。元来,私は,腕時計もしないし,できるだけ何も身につけたくない。さすがにアメリカの町歩きをするときはスニーカーを履いているが,機内ではサンダル(クロックス)である。
 しかし,今回は,少しズボンが緩すぎた。それで,ベルトを買おうとずっと思っていたのだが,その機会を逸していたというわけであった。

 紐でもなんでもよかったくらいだったのだが,そうしたものもなく,ついに,デンバーまで来てしまった。
 ストリートモールを歩いていたら,1軒のお土産屋さんがあったので,中に入った。
 さすがカーボーイの国アメリカ。結構な数の高級品のベルトが置いてあったので,意を決して(大げさだ),ここで,その中で最も高級でないベルトを購入することにした。そんな次第で,このときはじめて,私のお腹まわりに,それでもけっこうぜいたくなベルトがまかれたのであった。

 次に,コーヒーブレイクをすることにした。私が入ったのは,カリブーコーヒー(Caribou Coffee)というお店であった。
 カリブーコーヒーは,アメリカでスターバックスの次に大きなコーヒーショップである。ここのスローガンは,「Life is short. Stay awake for it.」 なのでだそうだ。
 このお店も屋外にテーブルとシートがあったので,そこで,のんびりとコーヒータイムを楽しんだ。
 驚いたのは,屋外でもフリーwifiがつながることであった。
 コーヒーを飲みながら街の様子を楽しんだあとは,再び街歩きである。アメリカの都会は広く美しく,人だらけでないので,こうした街歩きがとても楽しい。

 そのあと,さらに,ダウンタウンを北西に歩いて行った。
 ここは,ロードー地区というところである。
 ロードー地区(LoDo)には,ユニオンステーションがあって,ここから北東に歩いて行ったところに,メジャーリーグのコロラド・ロッキーズの本拠地クアーズフィールドがある。
 ロードー地区は,大掛かりな工事が行われていて,それもほぼ完成に近づいていて,昔からの美しい街並みが再現され,駅も当時の様子を残したまま,近代的な建物に蘇っていた。
 日本は歴史が古いのに,それを大切にせず,アメリカは歴史が新しいのにもかかわらず,それらを上手に再開発していることが,うらやましくあり,日本が情けなくもなる。

 若い人たちを見ると,時間が無限にあって,とても楽しそうで,私は少しだけうらやましいのですが,自分のその頃を思い出してみると,外見ほど,そうでもないようです。それは,将来に対する不安やら,自分に対する自信のなさやらで,若いころは,自己嫌悪の塊だったことを思い出すからです。今の自分が,もし若い頃の自分に会えたとしたら,なんて嫌な奴だと思うわけで,きっと,友達にはなれそうにありません。
 そんなこんなで私も歳を重ねて,何とか今まで生きてきました。自分はあのころより少しはマシになったのでしょうか?

 アラフォーといいますが,実際,35歳過ぎというのはとても大きな壁で,その頃の私は,現実には大したこともないのですが,何らかの得体の知れない責任が圧し掛かったような気がして,その重圧に押しつぶされそうになりました。
 しかし,本当に大変なのは,その10年後,「アラフィフ」なのでした。
 実は,人生,誰しもここが一番大変なのです。
 私のまわりの人たちにも,自分が病気,妻が病気,親の介護,などなど…,だれもかれも,それぞれがそれぞれの大変な何事かが起きています。それも重なって起きるのです。
 しかし,そんなこと若い人には分からないでしょうね。また,若いころに,将来,そんなことが起きるなんて分かる必要もないのかもしれません。

 といった世代をなんとか乗り越えることができると,どうやら,人は満ち足りた気持ちになれるものらしいのです。そして,その先には素晴らしい景色が見えるようになるものです。この年代の人が書いたエッセイなどを読むと,そのようなことが書いてあるので,それは多くの人にも同じなのでしょう。
 私のまわりを見渡してみると,実際は,アラフィフ…を過ぎると人は2極化するみたいなのです。
 その一方は,いつまでも雑念やらが捨てきれず脂ぎってぐずぐずしている人や組織の権威にしがみついている人,思いが遂げられず他人を妬ましく思っている人,あるいは,志なく生きてきて仕事以外にやることがなくなっちゃった人です。そして,もう一方は,すべてを乗り越えてしまって,人生を謳歌している人です。
 私の場合は,自分でも不思議なくらいに,生きていることが楽しくなりました。そして,いつも,なんて満ち足りた気持ちになれるのだ,と思える自分自身に驚きを感じています。
 それとともに,やりたいことだらけになりました。

  ・・・・・・
 日々咲く花々は美しく,よい香りがします。
 自然に接すると,風の音がやさしく聞えてきてきます。
 鳥たちのさえずりが心地よいです。
 満天の星空が,自分が宇宙の中のちっぽけな存在であることを確認させてくれて,溶け込みそうになります。
 これまでも聴きなれた音楽なのに,とりわけ心にしみいるようになります。
  ・・・・・・
 きっと,アラフィフを超えて生き抜くと,これまでのちっぽけな出来事でも,それらの積み重ねが自分の宝になって輝き出すのでしょう。
 1度の人生,アラフィフを過ぎたら自立して生きられるようになるべきで,いつまでもネクタイ締めて組織人間なんてやっていてはいけないぞって,つくづく思います。そうしなくていい自分を幸せに感じます。
  ・・・・・・
 私が思うつまらない人生は,定年まで組織人間として働くこと。ましてや,組織の管理職になること。さらには,定年を過ぎてもまだ組織にしがみついて働くこと。
 そして,人生で大切なのは,知恵と夢と勇気。
  ・・・・・・
 これが私のたどり着いた「高等遊民」になるための結論です。

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 やがて,私は,金色のドームがひときわ目だつコロラド州議会議事堂に到着した。この金色は純金である。
 この議会議事堂は,シビックセンターパークという広い芝生広場の一角にある。この広場を挟んで,西にはシティカウントリービルディングがあり,南にはデンバー美術館と図書館があり,東にコロラド州議会議事堂がある,というかそびえている。
 と文字で書いてはみたが,写真で見るように,実際は読んだだけでは想像できないほど広いところなのであった。
 どの州も,こんな感じなのである。これだけでも,この国の豊かさが実感できるというものだ。
 私は,34年前にはじめて首都ワシントンに行って,よくもまあ,こんなすごい国と戦争をしたのものだ,とあきれたのを覚えている。

 今日の1枚目の写真がコロラド州議会議事堂なのだが,シビックセンターパークからは東側にあたるから,早朝にはこの正面は逆光になるので,どうやってもうまく写真が写せない。
 そして,その正反対の方角の建物であるシティカウントリービルディングのほうは,とても美しく写真を写すことができる。
 私が行った日もそうであったが,この建物のまわりには,きれいな花が植えられていたり,そうした作業をしていたりして,むしろ,こちらの建物の方が存在感があり,美しかった。

 コロラド州議会議事堂に到着したのは,まだ9時前の早い時間だったので,確か,まだ早すぎて中に入れなかったように記憶している。
 そこで,入口でしばらく待っていた。
 日本でいえばこの州議会議事堂は県庁のようなものに思えるかもしれないが,正確にいえば,県庁でなく,アメリカは合衆国,いや,正しくは「合州国」だから,むしろ国会議事堂というべきだろう。
 そして,それぞれの州の議会議事堂は広く一般に公開されていて,自由に中に入ることができるし,見学ツアーも行われているから,観光で行く人も多い。

 そして,こちらの州議会議事堂の中はものすごく豪華で,一見の価値がある。
 内部が自由に見学できるということこそ,民主主義の国だということが実感できることなのだ。
 つまり,この建物は,特別な人たちの専有物ではなく,みんなのものなのだ。国民主権なのだ。そこが,国民から選ばれた人たちが国民より偉い(近頃は憲法より偉い-そのうち私は私は神だと言い出すであろう-)と錯覚しているえせ民主主義,実は殿様国家の日本とは根本的に違うところなのである。以前,愛知県に鈴木礼治という知事がいた。彼は引退するときに,県民ではなく県会議員に向かって辞めると表明した。これだけを見ても,根本的に考え違いをしていることがわかるであろう。

 やがて,コロラド州議会議事堂に入ることができる時間になったので,内に入った。
 ここの議会議事堂は,自由に入ることが出来るとはいっても,非常にセキュリティが厳しくて,空港並みの検査があった。
 まだ見学ツアーには時間があったので,私は,それに参加するのはあきらめ,セルフツアー(アメリカではツアーに参加せず自分で見学することをこういう)でまわることにした。
 3番目の写真は,州議会議事堂の建物の中にある州の最高裁判所である。
 アメリカの州議会は,ネブラスカ州を除いて連邦議会と同じように上院と下院の2院制で,それぞれの議会があり,さらに,このように,議会議事堂には州の最高裁判所も同じ建物の中にあることが多い。
 そして,使用していないときは,こうして自由に中に入って見学することができる。もちろん,議会開催中は傍聴もできる(私はワシントンでアメリカ連邦議会を傍聴したことがある)。
 その後,上の階に登ると,ドームのまわりの部屋に,この建物を作ったときの貴重な写真などが展示されている広い展示室があった。
 一番下の写真のように,建物の中はすべて大理石で作られていて,気品にあふれていた。

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 若いときは粋がって,話せもしないのにわかったようなふりをしてアメリカを旅行したものです。食事も日本食なんてアメリカで食べるものか,と思っていました。
 しかし,今は,その逆で,わからないということは,まだ向上する可能性があるということだし,食べたいものがあれば,別にこだわることはない,などなど,自由気ままなので,気楽です。
 ということで,日本食が食べられれば,それにチャレンジする,というのも,また,旅の醍醐味です。
 以前にも書きましたが,あえてつけ加えれば,私は,グルメではありませんから,食事ネタにはまったく自信がありませんのでご了承ください。
  ・・
 アメリカでも,たいていの町で中華料理を食べることができます。しかも,かなり安価です。
 それに比べて,日本料理は,そうしたお店があまりないことと,あっても一般に高級なので,値段を考えると,入るのに躊躇してしまいます。入口にメニューなんてありませんしね。

 5月に行ったリゾート地ミズーリ州ブランソンには,日本料理店が3軒もありました。
 その前日,オクラホマシティで,ホテルのまわりにはレストランの1件もなく,やっと見つけた得体のしれないお店で,訳のわからないモノが出てきて,不憫な夕食しかありつけなかった私は,いくらグルメではないとはいえ,この日だけはちょっと無理をしようと,そのうちの1件に入る決心をしました。

 入ってみると,そこはなかなかすてきなお店でした。
 写真にあるように,「ディナー・ボックス・スペシャル」というメニューがあって,おいしそうだったので,それを注文しました。
 なぜ,ご飯にお寿司に餃子が同居しているかは定かではなかったのですが,そこに,枝豆までもが確かな存在感を示し,てんぷらは美味で,さらに,白みそのお豆腐入りお味噌汁までがついているとあっては,日本で食べる仕出し弁当以上です。
 さすがに,ポテトチップスがなかったのが,救いでした…⁉
 私は,こうして素敵な夕食にありつけました。
 この夕食の値段は,だいたい16ドルくらいなので,円高の時なら1,200円くらい,今では2,000円くらいになってしまいます。さらに,チップが結構な額になるのを忘れてはいけません。

 アメリカでもお寿司は人気メニューです。
 魚は,もともと日本だって輸入品だから同じようなものですが,アメリカでお寿司を作るときの問題はお米とお酢らしいです。なかでも,お米が最大の問題で,これがおいしくない。きっと,日本のパック入りのお米のようなものをお寿司用として作って輸出したらいいのではないか,と思いますが,業者のかた,どなたかやってみませんか?
 そんなわけで,私のアメリカ旅行もだんだんとディープな世界に入り込んできて,そのうち,アメリカ国内日本料理店めぐり,とかに打ち込んでしまうかもしれません。
 何をやっても,底が深くておもしろいものです。そして,これもいつも書いていることですが,日本でのアメリカの情報は,同じようなものは山ほどあるのですが,少しそれを外れると,本当に全くといっていいほど,何の情報もないのです。が,そこがまた,おもしろいところです。だから,日本に伝わらないアメリカをを巡るのが,一番楽しい旅の姿なのでしょう。

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 この芸術センターには,ミュージカルをやっている劇場がたくさんあった。ニューヨークでいえば,ブロードウェイとでもいえる場所であろうか。
 まだ,朝早かったので,どこも劇場は閉まっていたが,周りを見渡すと,この一角はそうした文化街であった。

 デンバーのダウンタウンは,16番ストリートモール(16th Street Mall)を中心に,通りが北西から南東に,北東から南西に,碁盤の目のように走っている。
 この16番ストリートモールは,デンバーの代表的な通りで,並木道が美しい。
 市内は,フリー・モールライド(Free MallRide)とよばれるハイブリッドシャトルバスが走っているし,ライトレール(Light Rail)という市電も走っている。
 また,ダウンタウンにはフリーwifiも完備されていて,どこでもネットが接続できる。
 本当に素敵な町であった。

 アメリカでは,ミネアポリスも同じようであったけれど,このくらいの規模の都会のダウンタウンは,日本の同じくらいの人口の都市とは比べ物にならないほどすてきなところだ。
 東京のように人だらけではないし,車も多くなく,また,公共交通も無料だったりするし,治安もよいので,本当に楽しく歩き回ることができるのだ。また,屋外にはカフェなどもたくさんある。
 おまけに,自由に利用できるバイク(自転車)も完備させていて,その自転車の駐輪場も街の一角にある。

  私は,まず,劇場街を出て,16番ストリートモールを南東に10ブロックくらい歩いて,コロラド州議会議事堂に向かった。
 コロラド州議会議事堂は,ダウンタウンの南の端にある。
 議事堂までいく途中にコンペンションセンターがあって,このビルに寄り掛かるように巨大なクマの彫像がある。大きさは,ビルの3階くらいまであって,これが,デンバーのランドマーク的な存在なのだそうだ。

 とはいえ,デンバー市内の観光といっても,他のこうした規模の都会と同じように,見るべきところは,他の都市と同じように,美術館と科学博物館くらいのものだ。
 アメリカのどの都市にもあるのは,こうした美術館と科学博物館のほかには,シンフォニーホールと野球場とフットボール競技場とバスケットボールのアリーナである。 
 デンバーにも,デンバー美術館とデンバー自然科学博物館というものがあった。
 デンバー美術館は,コロラド州議会議事堂の南にあって,ネイティブアメリカン・アートのコレクションで有名なのだそうだ。しかし,特に,私の興味を引くようなものもなさそうだったので,行く気がしなかった。きっと,ものすごく大きな落ち着いた美術館であろう。
 デンバー自然科学博物館は,動物のはく製のジオラマとかプラネタリウムが人気だそうだが,なにせ,こちらのほうは,ダウンタウンから5キロメートルも離れていたので,行くことができなかった。
  ・・
 というわけで,デンバーのダウンタウンは,どうやら,デンバー州議会議事堂以外には,ウィンドウショッピングでもしながらのんびりと散策して,そのあと,MLBを見るのがもっとも私には合っているところのようだった。また,それだけで十分に幸せになれる街であった。

 朝日新聞のbe版に「みちものがたり」という連載があって,「ユーミンがかけた魔法」という題で「中央フリーウェイ」という曲を話題にした記事がありました。この曲の「中央フリーウェイ」とは,中央自動車道のことです。ただし,正確には,中央自動車道は有料道路だから,フリーウェイではありませんけれど。
 この曲は1976年の発表ということなので,私がちょうど運転免許をとったころです。
 運転免許のないころは,自分の知っている世界はものすごく狭くて,自分の住んでいる家から自転車に乗って走り回れるところだけが「世界」でした。ずっと走っていくとその道のずっと先に橋があって,その向こうには何があるのだろうと,それだけでときめいたものでした。

 運転免許をとって,車に乗るようになったころは,今度は,地図を買ってそれを眺めていると,それだけで,ときめいたものでした。
 海岸線を走る道を見ては,その道路際の高台に白く塗られたしゃれたカフェがあって,そのカフェの窓から無限に真っ青な海が広がっている…,そんなイメージで一杯になったものでした。実際には,そんな景色はありませんでしたけれど。
 地図には,名古屋から美しい山の中をずっと一本の高速道路が通っていました。その道を走り抜けると,やがて,大都市・東京に着くことができる,そんな「中央フリーウェイ」を最後まで走り抜けてみたいと思ったことでした。
 しかし,今,私が中自動車道にもつイメージは,休日ともなると,東京から信州に向かう車の列… それは,滑稽なまでの渋滞。反対に,名古屋から信州に向かうときは,春日井,土岐,瑞浪,中津川と続く退屈な道。そして,長い長い恵那山トンネル。
 日本の高速道路は,まあ,そんなものです。

 その後「はじけちゃった」私が「中央フリーウェイ」といって思いうかべるのは,アメリカ合衆国ユタ州の大地を走るインターステイツ15なのです。そして,歌詞にある「ビール工場」は,セントルイスにあるバドワイザーの工場ですし,「競馬場」は,ケンタッキーの広大な競馬場なのですから,ここまで思い出が飛躍してしまうと,自分でも手におえなくなってしまうこともあります。
 be版の1面には夕暮れの高速道の写真が載っていたのですが,夕暮れの高速道で私が思い出すのは,まっすぐに地平線の果てまで伸びる道路を走っていたとき,はるか遠くにぽつんぽつんと家があって,その家から瞬くかすかな光が旅の心細さと孤独さにつながった,そんな夕暮れのロサンゼルス郊外のインターステイツ… なのです。
 その道もまた,ユタ州から続いているインターステイツ15であることに,今これを書いていて,気がつきました。
 私にとって現在の心の中の「中央フリーウェイ」とは,やはり,正真正銘、このインターステイツ15なのです。
 インターステイツ15は,カリフォルニア州の最南端サンディエゴから始まり,北上し,ロサンゼルスを経由して北東に進路を変え,ラスベガスを通ってネバダ州をかすめ,ユタ州に入って,さらにどんどんと北に進み,ソルトレイクシティを越えてモンタナ州に入り,ビュート,ヘレナと通って,最後はカナダのアルバータ州まで続くアメリカ合衆国の中央を縦断する道です。
 それは,まさに,私が人生と引き換えに走った,といっても過言でない,思い出がいっぱい詰まった道だったのです。

 家の近くの道路だけが世界だったころは,家の前の道こそが,私の「中央フリーウェイ」でした。そして,運転免許を取った「中央フリーウェイ」の歌が流れていたころは,まさに,夢の世界が一杯詰まった中央自動車道が,私にとっても「中央フリーウェイ」でした。
 昔は,そんな夢だけで,それだけでときめいたことがあったんだなあと,そのころの自分が懐かしくなりました。そして,やがて,そうした夢が現実となったり,失望になったりしながら,さらに,もっと大きな,インターステイツ15が私の「中央フリーウェイ」になって,その道を走ったときのすべての出来事が美しく大切な思い出として心の中によみがえる今,また,新たな「中央フリーウェイ」の姿を追い求めている自分に気づくのです。
 もう一度,インターステイツ15を走ってみようと。

  ・・・・・・
 中央フリーウェイ
 右に見える競馬場 左はビール工場
 この道はまるで滑走路 夜空に続く
 夜空に続く 夜空に続く
  ・・・・・・

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☆6日目 8月7日(水)
 昨日,念願のデンバーに着いた。そして,6日目の朝が来た。
 窓から見えるデンバーの朝の景色が美しい。
 宿泊してもほとんど記憶にないホテルもあるが,ここはとてもよく覚えている。どうしてだろうか?
 デンバー(Denver)は、コロラド州の州都で人口は約60万人,アメリカ中部の金融・経済における中枢として顕著な発展と人口増加が続いている大都会である。

 ここは,標高1マイル(約1.6キロ)に位置することから,マイル・ハイ・シティー(The Mile-High City)の愛称でよばれていて,コロラド州会議事堂の階段やメジャーリーグのコロラド・ロッキーズの本拠地であるクアーズフィールドのアッパーデッキの座席の列などに1マイルを示す特別なカラーリングが施されている。
 クアーズフィールドの座席の写真は後日載せる。
 また,農業においても重要な平原に位置することから,平原の女王都市(Queen City of the Plains)ともよばれている。

 デンバーという地名は,アメリカ陸軍からカリフォルニア州州務長官や連邦下院議員を務めたジェームズ・W・デンバーに因むものである。
 内陸部の高原に位置するために,気温の日較差および年較差が大きく,また,10月から4月は降雪がある。しかし雪の日はそれほど多くなく,積雪が長く残ることは少ないのだそうだ。
  ・・・・・・
 デンバーは,昔は鉱山都市であったが,現在は,商業,経済,金融の中心地として発展する傍らで,今でも鉱産資源を生かした精錬所があって,農牧業の発展による食肉加工業も盛んである。
 また,今日ではエレクトロニクス,半導体産業の進出が目立っていて「シリコンマウンテン」とも呼ばれるハイテク工業地域を形成している。
 その一方で,ロッキー山脈を近くに控えて,スキー場が多く、山岳リゾートの拠点としても発展しており,観光都市としても注目を浴びている。
  ・・・・・・

 ホテルの朝食は,フロントのある本館の奥にあるレストランに用意してあった。
 いつものように,時間が惜しいので,早朝レストランに行った。まだ,ほとんど人がいなかったが,すでに食事をすることができた。ここの朝食は,写真のように,卵料理もフルーツもあって,なかなかのメニューであった。
 朝食後,早々にチェックアウトをして,ダウンタウンに向かった。こちらに通勤ラッシュがあるのかどうか知らないが,まだ,街が動き出す前の静かなダウンタウンであった。
 昨日の晩に下見をしたように,昨日と同じ駐車場に向かい,車を駐車した。ここの駐車場は,昨日はわからなかったが,ダウンタウンの一角にある芸術センターの駐車場であった。作晩は1階の駐車場からそのまま外に出たが,今朝はそのビルを上がっていくと,そこは芸術センターになっていたのだった。

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 35年前,私が生まれてはじめてのアメリカ旅行で感じたことは,アメリカという国の大都市のすさんだ姿でもありました。
 旅行社でもらったガイドブックには,地図に斜線が引かれた地区があって,そこには治安が悪いから立ち入らないこと,と書かれていました。サンフランシスコでは,斜めに走るマーケットストリートという道があって,その南には行くなと書かれてありましたが,そういったことはいつまでも覚えているから不思議です。
 現在のサンフランシスコは,テンダーロイン地区というところが危険なのだそうです。
 
 はじめての海外旅行で目覚めてしまった私は,帰国後,英会話を習って,その1年後に,ニューヨークにひとり旅をしたのですが,当時のニューヨークはすさまじいところで,同じ通りでも,車道をはさんで,左側は安全だけど右側は危険だとか,ハドソン川に死体が浮かんでいたとか,サウスブロンクスにあるヤンキースタジアムでは野球の観戦をしながら放火の相談をしていただとか,若き私には,期待とともに恐怖でいっぱいの都会でした。
 このように,当時,大都市は,どこもダウンタウンが荒廃しまっていて,それを目の当たりにした私は,アメリカは病んでいると,しみじみ感じたものです。

 今のアメリカは,といっても,近頃は大都会はほとんど旅をしないことと車に乗る機会が多いのが理由かもしれませんが,私が当時感じたようなすさんだ姿を目にすることはほとんどなくなりました。
 それに,多くの大都会は再開発が進み,ダウンタウンは見違えるほどきれいになりました。
 今でもここは…と感じたのは,ロサンゼルスとデトロイトのダウンタウン,5月に行ったメンフィス,そして,セントルイスからミシシッピ川を越えたイーストセントルイスくらいでしょうか。
 それらの街が今日の写真です。

 それよりも,私には,アメリカの人口5万人程度より小さい都市のすばらしさのほうが印象的です。
 アメリカを観光旅行する人から聞く印象と私が抱く印象の違いは,きっと,こうした都市を知っているかどうかなのだと思います。
 日本では,こうした規模の都市は,単に大都市のベッドタウン化してしまっていて,ちいさな建売住宅とさびれた商店街,郊外の大きなショッピグセンター,そして,広げたのか広げる途中なのかわからないどこも区画整理中の中途半端な道路…というイメージしかないのですが,アメリカでは,とにかく広く芝生の美しい住宅に,幅の広い整備された道路,そして,巨大な公園,モール,そしてスポーツや文化施設というものがそろっているわけです。
  ・・
 35年という歳月が私にもたらしてくれたものは,人生の財産となったさまざまな体験と感動と思い出でしたが,私の手元には,現在のサンフランシスコの写真がありませんので,それはまた写してからお目にかけることにしましょう。
 私は,2年前しばらくぶりに行ったニューヨークに「ここは東京と同じ」というイメージしか持たなくなってしまったのですが,今年の夏,35年ぶりに再びサンフランシスコを訪れたとき,私がこの地にどういう印象を持つか…,それが今から楽しみなのです。
 そうした意味でも,そしてある別の意味でも,私には,まさに「想い出のサンフランシスコ」なのです。

  ・・・・・・
 I left my heart in San Francisco
 High on a hill it calls to me
 To be where little cable cars
 Climb half way to the stars
 The morning fog may chill the air
 I don't care
 My love wait there in San Francisco
  ・・
 私はサンフランシスコに愛しい人を残してきた
 あの高い丘で その人が私を呼んでいる
 小さなケーブルカーは
 その人がいる星空に向かって登っていく
 朝もやは私の心を冷たくする
 けれどそれでもかまわない
 サンフランシスコで愛おしい人が待っているから
  ・・・・・・

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 今日は昔話です。昔話を,当時写した写真とともにお話したいと思います。とはいっても,このお話は,実は,今後の伏線になるのもです。どういった展開になるかは,書いている私にも,まだ,わかりませんが,本当に,人生には不思議なことが一杯起きるものだと思います。
  ・・
 考えてみると,月日が流れるのは早いもので,今からもう35年前のことになります。
 私の若いころは,今のように海外旅行は手軽にできるものではなかったのです。だから,先日書いたショージ・タブチさんが600ドルを持ってアメリカに渡ったというようなことは,今の若い人が考えるよりもずっと途方もないことだったのですが,そんな時代だからこそ,今の若い人たちよりも,私たちは海外旅行というものに夢をもっていた時代でもありました。

 また,いつもの繰り返しですが,今の若い人に海外の話をすると,決まって起こる反応があります。それは,「私は海外には行かないから興味がない」という「強がり」です。
 イソップ物語の「キツネとブドウ」の話にもあるように,本心は行きたいけど行けないということの裏返しなのですが,そのときに決まっていうセリフは,「外国は怖い」「日本は素晴らしい」「英語がができない」… です。
 どうやら,「日本は安全で海外は危険という洗脳」と「英語を嫌いにすることで若者の海外流出を避けるという国策」は,順調に機能し続けているようです。
 しかし,それでだけでは物足りないので,さらに,小学校から英語を嫌いにする教育を始めましたが,今度は,英語嫌いを決定づけるために,中3に全国共通テストを導入するということです。

 閑話休題。 
 ともあれ,当時の私にとって,アメリカはあまりに遠く,夢の世界でしたが,就職して,多少はお金が手元に入ったので,人生に一度は,ということで,アメリカへツアー旅行で行くことにしました。私よりも行きたがっていた,当時大学生だった弟の旅費も出してやるということで,彼を誘いました。
 旅行費用は,当時のお金で1人298,000円でしたから,今のお金で50万円以上でしょうか。
 行き先は,サンフランシスコとロサンゼルスでした。

 そのころ読んだ本に,はじめてアメリカに行くのなら,サンフランシスコがいいと書かれてありました。それは,街が小さく,歩いて観光ができるというのが理由でした。いきなり,ロサンゼルスでは,どうにもならないと…。
 先に結論を書きます。
 私は,このツアー旅行をした結果,目覚めてしまったのです。
 そのひとつは,ツアー旅行をしても,本当の世界はわからないということ,ふたつ目は,地球儀を見ているとこんな広い世界があるのに,所詮,ちっぽけな日本の中でうじうじ生きているようではなさけないということでした。
 空港で旅行会社のカウンタではなくて,自分で航空会社のカウンタへ行ってチェックインして飛行機に乗る人ってなんかすごくかっこよく見えたし…。当時のこうした体験が今につながるわけですが,まさか,そのときは,これほどひとりで自由に旅に出るようになる(なれる)とは思いませんでした。

 はじめて行ったアメリカで,長い長いフライトの末,飛行機の窓からはじめてみた異国の姿,それはおとぎの国のような家並みでした。この下に,自分の住む国と違う国があって,違う言葉を話しているんだなあと思うと,とても不思議な気がしました。ともかく,その第一印象は今も強烈に残っています。
 その「ときめき」は,しばらくは何度行ってもずっと同じだったのですが,近ごろは,そうしたことも感じなくなってしまったのが,とても残念です。
 しかし,35年前の初めてのアメリカ旅行以来,私は,ニューヨークもロサンゼルスもシアトルも… 何度も出かける機会があったのですが,なぜか,サンフランシスコだけは,行く機会がなかったのです。
 これもまた不思議なことですが,その理由のひとつは,このはじめての旅行で,サンフランシスコについてはすべて見たというそういう思い込みと,もうひとつは,私の利用するデルタ航空はサンフランシスコがハブ空港ではないから,立ち寄る機会がなかったということです。
 そんなサンフランシスコが,今年,再び,私の中で身近な存在として浮かび上がってきたのです。

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 前回書いたように,車でホテルを出て,ダウンタウンに向かった私は,ホテルから東に,インターステイツを跨ぎ,橋を渡ってデンバーのダウンタウンに着いた。歩くととんでもない距離であるが,車だとあっという間であった。

 これまでにも書いたことがあるが,アメリカの都会は,日本とは比べ物にならないくらい広いが,ともかく,どこかに車を駐車して,まわりを歩いてみないことには様子がわからない。この日の目的は,あすのダウンタウン観光の下見であった。
 デンバーのダウンタウンは,碁盤の目の区割りになっていて,非常にわかりやすいのであるが,ただひとつ錯覚するのは,他の地域が京都のように東西・南北に区割りされているのにもかかわらず,ダウンタウンだけが,北西から南東,北東から南西と斜めに区割りされていることなのであった。
 私の宿泊したスーパー8は,ダウンタウンの西,川とインターステイツ25を渡ったところにあって,スピア・ブルバード(Speer Blvd)を南東に走っていくと,ダウンタウンの13番ストリートあたりに出る。そこから北東(ななめなので煩わしい!)に向かって,14番ストリート,15番ストリート,…,というように,数字が大きくなる。

 私は,2,3ブロック北西に進んで駐車場を探した。
 ビルの一階に,手ごろな駐車場を見つけたので,とりあえず,そこに車を停めることにした。アメリカの駐車場は駐車料金が日本に比べて非常に安いから,ともかく,どこでもいいから停めてみることをお勧めする。車から外に出て,車を停めた場所がどこかだけはしっかりと確認して,近くの交差点の写真も写してから,とりあえず,ダウンタウンを歩いて見ることにした。
 デンバーは非常に治安のよい都会ということであったが,それでも,とにかく,アメリカの都会,しかも夜であるから,油断は大敵である。
 私のデンバーの第一印象は,ミネアポリスと似た都会だなあ,ということであった。端的にいえば,好印象の都会であった。

 まず,明日MLBを見るクワーズフォールドへ行ってみることにした。
 歩いている人に聞いてみると,6ブロックほど北東に歩いていけばよいということだったので,そのままダウンタウンを歩いて行った。途中は,とても人通りが多く,屋外にレストランがあったりして,すてきな町であった。
 クワーズ・フォールドに近づくと,少しずつ人通りが少なくなってきた。
 どうやら,この地区は,ヨーロッパでいうところの旧市街みたいなところで,現在再開発中,そうした場所に,まず,ボールパークを作るのは,他の都会と同じである。

 やがて,明るい照明が見えてきた。
 クワーズフォールドは,試合の真っ最中であった。というか,試合がもうすぐ終わるところであった。私は,明日に備えて,ボールパークまわりを1周して,手ごろな駐車場を探してみたが,やはり,その周辺は,野球の開催時間だけは駐車料金が異常に高いのも,他の都会と同様であった。
 しかし,明日はデーゲームだから,それほど近くに停める必要もあるまいと思った。
 ボールパークの照明とこだまする歓声を聞いていると,だんだんと,明日の試合が楽しみになってきた。

 そのあと,少し遅くなったが,夕食をとることにした。
 デンバーには,桜スクエアという日本人街がある。その辺りに日本食の食べられるレストランがあるのでは? と思ったので,行ってみた。交差点の角にビルがあって,日本料理という看板があったので,そのビルの2階に上がってみたのだが,残念ながら,私の思ったような日本料理店ではなく,中国料理店であった。しかも,誰もお客さんがおらず,店は暗く,やっているのかどうかさえよくわからなかった。
 入口が開いていたので,中に入って,食事ができるか聞いてみると,無愛想な中国人風の女性が大丈夫だという。そこで,焼きそばを注文して,寂しく夕食を食べたのだった。
 まあ,この日は,そんな程度で,再びダウンタウンを歩いて駐車場に戻った。
 結局,私の駐車した場所からクワーズ・フィールドまでは20分くらい歩かなければならなかったが,駐車場はダウンタウンに近く,インターステイツにも近いから,明日も,今晩駐車したところに停めることにした。
 なんでも,この駐車場にはアメリカお得意の「アーリーバード・スペシャル」つまり,早朝割引というのもあるらしい…。日本でいうところの「早起きは三文の徳」というものである。

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 スーパー8はインターステイツ25沿いにあった。片側4車線のインターステイツ25を南に走って行くと,NFLの名門デンバー・ブロンコス(Denver Broncos)の本拠地スポーツオーソリティ・フィールド・アット・マイル・ハイがそびえていた。それを過ぎてジャンクションを降りると,まもなくホテルに到着した。
 古く大きなホテルであったが,私には何の問題もなかった。このホテルは,スーパー8なのだが,建物にはラマダインと書かれてあった。きっと,昔は,少し高級なラマダインだったのが,古くなって格下のスーパー8に買収されたのであろう。
 車を停めて,ラマダインと書かれた建物の1階にあるフロントに行って,チェックインした。
 部屋は,フロントのある建物の隣の建物の2階であった。けっこう広い部屋で,往年の高級ホテルの面影があった。大きなプールもあって,夜になったら,カップルがじゃれあっていた。

 さっそく荷物を入れて,再びホテルから外に出た。夕暮れで,遠くに見えるデンバーのダウンタウンの景色がとても美しかった。ダウンタウンまではシャトルバスが出ているということであったが,待っているのも煩わしく,インターステイツ25を跨ぐ高架橋を歩いて,ダウンタウンに向かうことにした。
 ということで,歩き始めたのだが,実際歩いて見ると,それが半端な距離ではない。
 もう,少し暗くなりかかっていたが,女性がふたりで同じ道をのんびりと歩いていたりしたので,治安は問題なさそうであった。しかし,この先歩いてダウンタウンまで行っても,戻るのがまた大変そうであったので,一旦ホテルに引き返して,再び車でダウンタウンに行くことにした。

 このこともいつもブログに書いているが,アメリカの都会は,とにかく,ダウンタウンのどこかに車を停めて,そのあたりを30分くらい歩き回ると,土地勘が芽生えてくるから,それから観光プランを考えるといい。特に,私のように車で旅行をしている者には適当なガイドブックがなく,どこに車を停めるかは,自分で考える必要があるのだ。
 私は,明日1日,デンバーを観光する予定であったから,きょうはその下見のつもりでダウンタウンに行くことにしたのだった。
 改めて車で高架橋を渡ると,そこはすでにダウンタウンであった。

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 こうして,タブチ青年のサクセスストーリーがはじまりました。
 はじめはキャンピングカーで1日500マイル(800キロメートル)も移動しながらの演奏旅行でした。1年間に5万マイル以上走って3日間ステージに上がったのに2日分しかギャラが貰えなかったり,もらった小切手が換金できなかったり,エージェントにギャラを持ち逃げされたりと,そんなこともたくさんあったということです。
 こうした生活がほぼ10年続ききました。

 1981年,バンドの仲間から「面白い町がある」と聞いて,ブランソンにやって来ました。
 ブランソンでの最初の7年間は,劇場の契約バイオリン奏者として働き,妻のドロシーさんと出会いました。ドロシー夫人はタブチさんの才能をいち早く見いだしたのです。1989年,ついに,タブチさんは念願の劇場を手に入れました。
  ・・・・・・
 ここの人たちの優しさと親切さが心に沁みました。私がこころに描いている古きよきアメリカというか,どことなく故郷に似た自然環境と人々の気質がすごく気に入ってしまったんです。
 ここには四季があるんです。春夏秋冬, 完璧な四季です。私はブランソンを代表するシアターにまで成長させてもらいましたから,もう他の場所に行くことはありません。ここに根を張ってブランソンとドロシーのために頑張って行きます。
  ・・・・・・


 午後6時半,開演1時間前に,私は,ショージ・タブチ・シアターに着きました。
 劇場のエントランスに一歩足を踏み入れた時から、ショージ・タブチ・シアターならではのデラックスなサービスが演出されていて,度肝を抜かれました。
 ショーが始まりました。
 第1部は,カントリー音楽にこだわることなく,クラシックやポップス,ジャズなども積極的に取り入れた楽しいおしゃべりとショーでした。幕間にも,タブチさんはステージから降りて,観客とお話をしたり,写真を写したりと,大忙しでした。
 第2部は,巨大な和太鼓などを取り入れた演出と日本の懐かしい歌の数々,その後,自分の紹介がありました。そして,アメリカのために尽くしたシニアの人を称え,最後に,ステージで,タブチさんは,こうして自分を受け入れてくれて夢を実現することのできたアメリカという国の懐の大きさを感謝されて,素晴らしいショーは幕を閉じました。
 私は,ショーの後半に,日本から来たお客さんということで,ステージ上のタブチさんから紹介され,ショーが終わったときには,お話をして,お土産までいただき,感激しました。
 ブランソンには,アメリカンドリームを成し遂げた,こうした真に偉大な日本人がいるのです。

◇◇◇
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム①
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム②
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム③

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 問題は,この後であった。今,これを書きながら,調べてみても,やはり,私がどこを走ったのかよくわからないのだ。
 このあたりのことを整理してみる。
  ・・
 すでに書いたように,私は,デンバーへ行く途中でボウルダーを経由しようと思っていた。地図を見ると,エステスパークからボウルダーを経由してデンバーに行くのは,箱根から東京を目指すのに横浜を通るくらい自然なのである。そして,私がボウルダーを経由したかったのは,高橋尚子さんのとレーニング場所だったというそれだけの理由であったのだが,結論をいうと,私は,ボウルダーに行きそびれた。

 国道36を走っていくと,時々,ボウルダーという道路標示があって,そのまま走って行けば何も問題ないように思えた。しかし,そのうちに,国道36はこの先工事中で,迂回路という標示があったのだった。このあたりから,私は訳が分からなくなった。
 第一,アメリカで迂回路と書かれていたときにきちんと迂回路の道路標示があるなんて思えないであろう。そうなのです。以前,バーモント州の州都モントビリアという「全米唯一マクドナルドのない州都」へ行ったとき,やはり,道路工事中で迂回路を走って訳がわからなくなったことがあるのだが,その時と同じであった。
 しかも,アメリカは,どうしようもなく広いから,一度走り出したら,数十キロは覚悟を決めて先に走るしか方法がない。で,私は,何が何だかわからなくなったのだった。

 私の走っている国道36の迂回路にも,この先ボウルダーという道路標示が時折あったから,私はそのまま走っていったのだが,道路はだんだんと山の中に入って行って,今日の写真にあるように,U字路どころか,道路はカーブだらけになった。
 周りは結構豪華な別荘地であったが,見晴らしも悪く,あまりのカーブに,方角も定かでなくなり,果たしてデンバーに近づいているのかさえ,疑心暗鬼になっていった。しかも,どれだけ走っても依然そんな調子だったから,デンバーって,こんなに遠いのだろうか? と不安になっていった。
 これを書きながら,今,GoogleMaps のストリートビューを見ても,自分がどこを走ったのか,さっぱりわからないのだ。

 しかし,そうこうするうちに,遥か遠くに町並みが見えてきた。どうやら私は,山の中を延々と走リ回った結果,ボウルダーの西なのか東なのかはさっぱりわからないのだがそのどちらかの道を南に向かって走り,ボウルダーの町を過ぎてしまってから,どこかで進路を東に変えて走ってきて,車は,西から東に向かって,無事デンバーを目指して山を下っていたのであった。
 やがて,はるか左前方に大きな湖が見えてきた。湖の周りは大平原であった。そして,その湖の向こうに,デンバーのダウンタウンのビル街がシルエットになっていた。
 もう迷う必要はない。デンバーへはあのシルエットを目指せばよいのであった。
 それにしても,私の行きたかったボウルダーはどこへ行ってしまったのであろうか?

 左前方に見えた湖はスタンドリーレイクという名の湖であった。どうやら私は,そこまでどう走ったのかはわからないが,最終的に国道72を西から東に走ってきたようであった。
 スタンドリーレイク(standley Lake)というのは,約5平方キロメートルの貯水池である。もともとデンバーの北西周辺の地域の農業灌漑用の水を提供する目的で構築されたが,現在は水道水の供給として利用されている。また,レクリエーションの基地ともなっている。
 次第に,車はデンバー近郊の住宅地に入っていって,多くの車が走っている流れに乗って,インターステイツ25にたどりついた。もうあとは,今日予約したホテル・スーパー8まで行くだけであった。

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2013アメリカ旅行記―日の出と日の入りと⑩

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 私は,日本のテレビ番組(BSTBS)でブランソンが紹介されたときに,ショージ・タブチという名前のエンターテイナーをはじめて知りました。タブチさんをはじめ,アメリカには,日本では無名でも,現地で有名な多くの日本人がいます。そうした人は,きっと,計り知れないほどの苦労のすえに,アメリカンドリームを手にしたのでしょう。

 私は,こうした勇気ある人たちのことを考えると,日本というちっぽけなこの国で,自分の力よりも学歴だとか人脈だとか親の力といった他力に依存したことで組織人間として単に地位が高くなっただけなのに,何を勘違いしているのか,権威主義に溺れてエラそうな人が,本当に情けなく悲しくなります。
 先日,政治家の資産公開という報道がありましたが,大の大人が貯金0円だとか,そんな子供でもありえない,つまり,子供だましのようなことをよくもまあ恥ずかしくもなく堂々とやっているものだと思いました。人をバカにした話です。それをまた真面目に報道するマスコミも,いいかげんにしてくれよ,とあきれました。
 さらに,国会では天下の総理大臣が醜い野次を飛ばしたり,週刊誌はあいかわらず見るにも耐えない下品でなさけない見出しで購買欲を誘ったり,芸能人を総選挙と称した人気投票をやって道具扱いしたり,またそれを煽る放送局… と,この国のやっている子供じみたことの数々が,私にはものすごく哀れに思えます。

 私は,ブランソンに行ったのなら,ぜひ,ショージ・タブチ・ショーを見ようと思いました。
 特に調べて行ったわけでもないけれど,ちょうど私が行った日にこのショーがお休みでなかったことも,また,幸いでした。しかし,ブランソンという町は予想よりはるかに広く,いざ着いてみると,どこに何があるのやらさっぱりわからない有様でした。そこで,偶然右折した道の先にショージ・タブチ・シアターがあったのにも,また,びっくりしました。
 私は,ショージ・タブチ・シアターの広い駐車場に車を停めて,さっそくこの日の晩のチケットを買いました。

 ショージ・タブチさんのアメリカンドリームは,お母さんの後押しとクラシック・バイオリンの基礎に裏付けされた確かな実力に加えて,血の滲むような努力と行動力があったからこそ実現したのだそうです。
 私が,ショーのあとでタブチさんとお話をしたときに,運がよかっただけですよ,と言われましたが,決して運だけで夢が実現できたとは思えません。

 ショーの中で,自らもお話をされていましたが,学生時代にブルーグラスというアメリカ音楽にのめり込んだタブチさんは ある日,カントリー・ミュージックの大物フィドラー、ロイ・エーカフの日本公演を聴きに行ったのです。演奏に感激して,コンサートが終わって楽屋を訪ねたら,ロイが「もし君がアメリカに来るようなことがあったら,僕を訪ねて来なさい」と言ってくれたことがきっかけとなって,大学卒業と同時に,わずか600ドルと愛用のバイオリンだけを持ってアメリカに旅立ったのです。

 到着したのはサンフランシスコ。しかし,ロイの言葉以外には何の手づるもないので,皿洗い,ウエイター,洗車などの仕事をしながら食いつないでいたのですが,やがて,ひとりの日本人ミュージシャンと知り合い,バンドを組んで西海岸のナイトクラブで演奏活動するようになりました。はじめてフルタイムの仕事にありつけたのは,カンザスシティの「スターライ ト・クラブ」。それは,アメリカに渡ってから3年目のことでした。
 こうして,どうにか音楽だけで食べれるようになり,その活躍ぶりがロイ・エーカフの知るところとなって,カントリー・ミュージックの都テネシー州ナッシュビルの「グランド・オール・オプリー」で,ロイ・エーカフとの共演という絶好の機会を得ることになったのです。
 その演奏が終わると,会場はスタンディング・オべーションに包まれたということです。

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 これから,ロッキー山脈国立公園からデンバーまでの道のりを追っていく。
 私にとって,デンバーはずっと行きたかったあこがれれの都会であった。
 全天に多くの星々があっても,1等星はわずか21個しかないように,アメリカ合衆国に多くの都会があっても,大都市というのはわずかしかない。そしてまた,多くの日本人の訪れるアメリカはこうした大都市がほとんどである。

 私は,これまでにそのほとんどに行ったことがあるが,この時点では,これまで私がずっと行きたくても行く機会がなかったのが,ソルトレイクシティ,カンザスシティとともに,デンバーであった。
 これらの都市は,ニューヨークなどのように,わざわざその都会へ行くだけの動機に弱く,また,そこを経由して次にどこかへ行くという中継地としても魅力に欠けるのが,これまで行く機会がなかった理由であった。
 しかし,この旅で,私は,ついにソルトレイクシティとデンバーに行くことができた。その1年後には,カンザスシティにも行った。そして,私の認識が愚かな間違いだったことに気づいたのであった。

 すでに,ソルトレイクシティについてはブログに書いた。ソルトレイクシティは,ユタ州の国立公園やイエローストーン国立公園の玄関口であるし,以前フロリダへ行ったときの帰りに乗り換えの中継地でもあったから,これまでにも空港へは行ったことがあった。
 デンバーには,そうした機会すら全くなかった。
 ここはデルタ航空のハブ空港でもないから,その気にならないと行く機会がなかったのだ。しかし,すでに書いたことがあるが,私は,中学校1年生の時の英語の教科書でこのデンバーという町の名前を知って以来「気になる存在」だったから,「あこがれの君」でもあったわけだ。
 そのデンバーについてこれから書いていくわけだが,行ってみると,実に美しく治安のよい素敵な都会であった。そして,多くの日本人の住むところでもあった。

 では,先を急ごう。
 帰国後に調べてみると,どうやら,私は,ロッキー山脈国立公園から国道34を走り,分岐点で国道36に入り,道なりにどんどん国道36を走ったらしい。そして,デンバーに行く途中でボウルダーに立ち寄りたいという一念でエステスパークまで到着したのだった。
 エステスパーク(Estes Park)はロッキー山脈国立公園の東の玄関口にあたるリゾートタウン,人口は約6,000人である。
 今日の写真のように,私がこの町を訪れた季節は,まさに,観光のピークだったから,多くの観光客で町はごった返していた。ここはデンバーに近く,先に書いたようにデンバーには多くの日本人が住んでいるから,この町を訪れた日本人の書いたブログも存在するが,それらによると,ここエステスパークのホテルの宿泊代がとても高いということが書かれてあった。
 私は,エステスパークの宿泊代が高いというよりも,デンバー近郊のリゾートタウンすべての宿泊代が高いという方が適当であると思う。むしろ,デンバー市内に宿泊したほうが安価なのである。

 車の中から,エステスパークの美しい町並みを眺めながらさらに走っていくと,道はT字路になった。私は詳細な地図を持っていなかったので,もはやこの辺りの地理はさっぱりわからなかったから,道路標示だけが頼りであった。
 T字路で国道36と書かれた道路標示にしたがって右折して,さらに進んだ。そして,そのままさらにエステスパークの街中を進んでいくと,今度はY字路になった。再び,国道36と書かれた道路標示にしたがって進路を右にとった。
 そうしているうちに,いつのまにか広くもないエステスパークを出て市外地になって,そのまま国道36を南東に,一路,ライオンズという次の町を目指すことになったのだった。

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 アンディ・ウィリアムスさんをご存知でしょうか?
 アンディ・ウィリアムスさんは,今から40年以上まえに絶頂期だったアメリカのポピュラー歌手で,私は,大阪万博で見たことがあります。
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 ハワード・アンドリュー "アンディ" ウィリアムス(Howard Andrew "Andy" Williams)さんは,1927年生まれです。アルバムセールスに関して,アメリカレコード協会 (Recording Industry Association of America)および英国レコード産業協会(British Phonographic Industry) から,18のゴールドディスクと3つのプラチナディスクを贈られています。アメリカNBCで,1962年から9年間,音楽バラエティ番組「アンディ・ウィリアムス・ショー」を放映して,エミー賞を3度受賞しました。
 1992年に代表曲から命名した2,054席を擁する「ムーン・リバー・シアター」をブランソンに自ら設立して以降,この劇場を本拠地として2011年までライブ・パフォーマンスを続け,惜しくも2012年に亡くなりました。
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 この「アンディ・ウィリアムス・ショー」はNHKでも放送されていたので,私は見ていました。日本にも7回来日しました。私が大阪万博の会場を歩いているのを見たのは,1970年の来日のときです。
 また,1991年には紅白歌合戦にも出場しました。

 私は,アンディ・ウィリアムスさんがプランソンでコンサートを続けていたのは知っていたのですが,気軽に行けるようなところではないから,遠い夢の世界のような気がしていました。それとともに,アメリカには,こうした往年の名歌手が常設の劇場を持ち活躍しているのを,すごい国だと思っていました。
 日本でいうなら,八ヶ岳の山麓に,小林幸子シアターやら五木ひろしシアターやらがあって,日本中から連日観客がかけつけるようなものなのです。しかも,八ヶ岳のように,東京からほんの数時間で行くことができるのならともかくも,それほど人口の多くないカンザスシティとかセントルイスからでも,かなりの時間がかかるような場所に,これだけ多くのシアターがあって,連日ショーを行っているということが,信じられませんでした。

 私がブランソンに行ったときには,ムーン・リバー・シアターは,別の歌手が公演を行っていました。アンディ・ウィリアムス・ショーにマスコット的存在として出演していたオズモンズ(当時のオズモンド・ブラザーズ)もここで公演をしているようで,ぜひ見たかったのですが,残念ながら,ショーは私の滞在した翌日からで,それはかないませんでした。
 ムーン・リバー・シアターの前まで行ってみたのですが,外に庭にはムーン・リバーと名づけられた小川が流れていて,取り付けられたスピーカーから往年の歌声が聞こえました。
 私は,こうして来ることができたのだったら,せめて,あと数年前にここにきて,アンディ・ウィリアムス・ショーを見たかったものだと,しみじみと思いました。
 さて,次回は,いよいよショージ・タブチさんについて書きましょう。

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 私がこの5月に行ったブランソン(Branson)というリゾート地は,ミズーリ州の最南部のオザーク山地にあります。人口は約1万人です。カンザスシティから南東に車で3時間くらい,セントルイスからは南西に4時間くらいで行くことができます。
 私は,この町のことは,「アメリカの小さな町」というBSTBSの番組で知りました。
 町全体に劇場街があって,全米から多くの観光客が訪れるところだということですが,こうしたところが日本では無名だというのが驚きでした。また,アメリカの懐の深さを改めて知りました。

 私は,それでも,「あえて」こんな辺鄙な場所には行く機会などないだろうと気にもしていなかったのですが,今回,それとは全く別に,カンザスシティに行くことにしたときに,ブランソンがそこからさほど遠くない(さほど遠くない=車で3時間!)ので,気が向けば立ち寄ってみようかな,と思っていました。それでも,出発するときには,あえて遠回りしてまで行くかどうかさえ決めていませんでした。そのくらいの位置づけでした。
 しかし,縁あって,その地に行ってみたら,それが,私のこころを打ちました。
 すてきな町でした。
 そこで,この町のことと,この町にゆかりのあるショージ・タブチさんのことを書いてみたいと思います。

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 ブランソンという名前は1880年代にこの地で郵便局長を務め,地域の雑貨屋を営んでいたリューベン・ブランソンさんから採られたものだそうです。
 そもそもは,1894年にウィリアム・ヘンリー・リンチというひとが大理石洞窟を買収して,「マーベル洞窟」と名付けて観光客から入場料を取りはじめたのがはじまりで,やがて,1934年にジェイムズ・オーウェンという人が最初の劇場をここに建設して,広く観衆を集め始めたのだそうです。
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 「じゃじゃ馬億万長者」というアメリカのテレビドラマを年配の人なら知っているでしょうが,このドラマは1962年に,ポール・ヘニングという人が創作し,1971年までテレビで放映されましたが,このドラマのシーズン8で,ブランソン地域が舞台になったということです。
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 プレスリーという一家が,1967年に州道76号線沿いで初めてカントリー・ジュビリーを公演し,翌年にはボールドノッバーズ・ジャンボリーがそれに続き,次第に増えていって,現在のように,ブランソンには50以上の劇場がその大半が州道76号線沿いに作られました。
 その中で,1980年代の初期,チサイ・チャイルズ・スターライト・シアターが,通常演じられる伝統的なカントリー・ミュージック以外に,はじめて舞台装置や楽器セクションを導入して,ここで育ったのが後で書くショージ・タブチさんです。
 1983年,ロイ・クラーク・セレブリティ・シアターがオープンして,著名なカントリー・ミュージックのスターをブランソンに連れてくるようになってから,ブランソンは観光客が増え始めました。そして,1989年には,ショージ・タブチさんがブランソンで自分の劇場をオープンしました。
 また,映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーンリバー」を歌ったアンディ・ウィリアムズさんがブランソンに自分の劇場を建設して,1992年5月1日にムーンリバー・シアターとしてオープンしました。
 こうして,今日,ブランソンは「世界のライブミュージックの首都」と自称しているのです。
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 ブランソンにはこのように有名になった多くの娯楽劇場の他にも,ハリウッド蝋人形館,ワイナリー,洞窟巡りツアー,ミニゴルフ,乗馬,レインフォレスト・アドベンチャーなどがあります。
 私が行った季節は,シーズンオフで,多くのホテルは空いていて,ものすごく安く宿泊できたのですが,サマーシーズンやサンクスギビングデー以降の年末は,多くの観光客で賑わうのだそうです。
 私は,小さな田舎町を想像していたので,その広大な場所にまずびっくりしました。
 まさに,軽井沢にディズニーランドを三つ作ったようなところでした。

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 トレイルリッジ・ロードは,このように標高の高いところをずっと走っていくが,それでも,野生の動物がいたり,見晴らしもよいから,日本の山岳道路のような感じとは違っていた。
 残念だったのは,ベアレイクへ行き損ねたことであった。
 ベアレイク(Bear Lake)は,トレイルリッジ・ロードの東端から南に分岐するベアレイク・ロードを走った終点にある湖である。私は帰国後にこの文章を書きながらいろいろ調べていて,こんなすばらしい所を見損ねたことにはじめて気づいたのだった。そこはロッキー山脈国立公園一番の見どころとでもいうべきところだったのだ。もし,これからここを訪ねられる方があれば,忘れずに行かれるといい。

 ベアレイクでは,ハレットピーク(Hallett Peak)が目の前にそびえている湖畔のトレイルを一周40分かけて歩くと,最高峰4,345メートルのロングズピーク(Longs Peak)を湖面に写す絶好のポイントに出会うそうである。
 また,ここからは,ハイキングトレイルもあるし,ベアレイク・ロードの途中には,モレーンパーク(Moraine Park)やスプラグレイク(Sprague Lake)の湖畔トレイルもある。
 ああ,本当に惜しいことをした。
 しかし,その時は,そんなことも知らず,私は,ひたすらロッキー山脈国立公園から東に,デンバーに向かって走って行った。
 
 ところが,さらに調べてみると,ベアレイクへ行くときに走るベアレイク・ロードへ出る分岐点というのが非常にわかりにくいのだ。
 トレイルリッジ・ロード,つまり国道34を走っていくと,やがて分岐になり,ここを自然に直進すると国道36になってしまうので,国道34へ行くには,ヘアピンカーブを左折しなくてはならないのだが,その分岐の場所での道路標示は地面に書かれた指示だけなのである。しかし,ベアレイク・ロードへ行くには国道34ではなく36の方へ向かう。そうすれば,その先に分岐があるのだが,その辺りは,多くの道路が枝分かれをしていて,どこを曲がればその道がベアレイク・ロードなのかがよくわからない。
 だから,もし,私がベアレイクに行くことを知っていたとしても,きっと,その時は苦戦したに違いない。
 行かれる方は,このあたりの詳細な地図を持参するか,カーナビが必要である。

 はじめに,この国立公園は"Γ"の形に道路があると書いた。要するに,ベアレイクはその一番右の端から南にベアレイク・ロードがあって,そこを下ったところにあるということなのだ。そしてその道を往復するわけだ。
 このように,私は,この時はベアレイクへ行かなかったので,そのまま国立公園の一番右の端にある東の出口を出て,ひたすらデンバーに向かって進んでいった… はずであった。
 地図で見る限りでは,この先ほんの数キロメートル南東に進めば,デンバーのダウンタウンに出るように私には思えた。ちょうど,京都にたとえれば,高尾の神護寺のある愛宕山から京都市内に行くとでもいえばいいだろうか? あるいは,さいたま市から東京都心へ行くとでもいえばいいだろうか。そんな感じであった。

 私の車にはカーナビがなかったので,地図だけを頼りに走っていたが,この時はすでに,もうわずかでデンバー… そんな楽観した気持ちであった。しかも,デンバーへ行く途中にはボウルダーという町がある。ボウルダー(Boulder)は,高橋尚子が高地トレーニングをしたところである。だから,私は,デンバーに行く途中で,ボウルダーにも立ち寄って行けばいいといった余裕であった。
 国立公園の出口からどんどん山を下っていって,そのうちに,あたりは平原になった。
 さらに進んで,やがて,エステスパークという町に到着した。ここは,この国立公園の東の玄関口にあたるきれいな町であった。
 ところが,実際は,この後が,またまた,たいへんなのであった。

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 ホットドッグの次は納豆,「アメリカで納豆を食べるには」と書きましたが,今日の話題は日本食です。
 アメリカでは,サンフランシスコとかニューヨークとか日本人の多く住む都会は別として,なかなか日本食というものは手に入りません。私は,別に日本食がなくとも全く平気ですが,興味半分で,今回の旅で行ったカンサスシティで日本食を探してみることにしました。
 そこで見つけたおもしろい写真です。アメリカで売られている日本食,みなさんは興味ありませんか?

 ここで少し話は脱線します。
 アメリカで太平洋の向こう側,つまり,アジアを考えたとき,日本も韓国も中国もみんな同じに見えるのです。で,いろいろ面倒なもめ事も,結局のところは,兄弟けんかにしか見えないわけです。そして,時に挑発しておきながら反撃されたりして何か事がもめると「おとうさん,お兄さんがいじめる」とアメリカに泣き付いていくわけです。そこで,お父さんは「ええかげんにせい。兄弟はなかようするべきだ」と,まあ,こうなるわけです。
 要するに,こういった感じにしか見えないということです。
 
 そんなわけで,日本食もこれと同じことで,アメリカでは,日本のものも中国のものも,韓国のものも同じお店でごちゃごちゃに売られています。兄弟なんです。お互い仲良くしましょうよ!
 さて,今日の写真は,カンザスシティのシティマーケットの隣にあった中国人の人が経営するスーパーマーケットの店内で写したものです。みなさんは,この写真をどう思われますか?

 私は,このほとんど日本人が住んでいると思えないカンザスシティで,これだけのものが売られていることに,まず,驚きました。というか,きっと,この町で,日本の食材が手に入るのはこのお店だけなのだろうと思いました。ということは,昨年は,青木宣親選手もきっと立ち寄ったであろうと思われるお店です。
 店内で見かけたお客さんは,アジア系の人やら様々でしたが,日本人は見当たりませんでした。ちなみに,ブランソンという町で立ち寄った日本料理店の店員さんは,見かけは日本の人のようでしたが,聞いてみるとフィリピンの人で,私の隣の席にいたお客さんはタイの人でした。
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 拡大してみるとわかりますが,納豆は2ドル49セントします。つまり300円くらいだから,日本の約3倍というところでしょうか。「出前一丁」は89セントですから約100円です。これは,日本と同じくらいでしょうか。こんな感じで,けっこう日本のものが手に入るわけです。

 為替相場は日々変動していて,少し前に,異常な円高だった時には,これが相場だ,みたいなことを言っていた評論家がいて,日本とアメリカのマクドナルドの値段で比較していたのですが,私は,そういったことを意識してみればみるほと,正直言って,どのくらいの相場が適当なのか,よくわからなくなってきました。それば,比較する対象によって,違いがありすぎるからです。極端な話,ガソリンの値段で比較すれは,1ドル300円くらいが適当になってしまうわけです。
 いずれにしても,1ドルが80円のころは,かなりの高級ホテルにびっくりするほどの安い値段で泊まることができましたし,今は,その逆に,びっくりするほど高い値段がします。私には100円ぐらいが相場に思えます。
 ともかく,実際にその目で見て,体験したわけでもない,机上の知識だけで持論を振りかざすようなこの国お得意の「学識経験者」やら「有識者」とかいう御用学者の人たちのいうことは,素直に信じない方がいいかもしれません。
 ちなみに,この日,ファーマーズマーケットでは,キャベツは1個2ドル,トウモロコシは2本1ドルで売られていました。トウモロコシは安いときは1本10セントくらいだそうです。

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 私はミルナーバスからのトレイルのどこをどう歩いたのかいまもってよくわからないのだが,さんざん迷惑をかけながら,なんとか,ミルナーバスの駐車場まで戻ってくることができた。
 すでに午後4時過ぎ,さすがにこの時間になると,これからトレイルを歩いて行くという人もいなくて,だんだんと心細くなりながら,戻ってきた。
 こうして,私は,エルクを目の前に見ることができたことと,カメラのバッテリーがほとんどなくなりかけてきたことだけが思い出として残ったのだった。
 車に戻って,ようやくカメラのバッテリーを交換した。
 この先,まだ,ロッキー山脈国立公園は先が長い。さあ急いで回ろう。

 出発して,周遊道路である国道34を進んでいくと,やがて,アルパイン・ビジターセンターに到着した。
 今調べてみると,私が引き返したミルナーバスからのトレイルを地図通り歩いて行くと,このビジターセンターに到着するらしいのだが,もし,私がその地図どおりにトレイルを歩いて,この場所に着いたとしたら,それはそれで問題であった。車はミルナーバスに駐車していあるのだがら,いったいどうやってそこまで戻ればよかったのであろうか? シャトルバスがあるらしいのではあるが,バスを待つ時間などを考えると,私のような急ぎ旅がすることではないであろう。

 このビジターセンターには広い駐車場があったが,多くの車が停まっていた。阿蘇山の山頂に登る手前のロープーウェイ乗り場の駐車場のような感じの場所であった。
 私もなんとかスペースを見つけて車を停め,しばらくそこからの展望を楽しんだ。こういったところで展望を楽しんでいるのは大概家族連れやグループで,ひとり旅の私が彼らに話しかけたりする余地はまるでない。

 さて,このビジターセンターから先は,トレイルリッジ・ロード(Trail Ridge Road)という名前で,国道34が続いている。その道に並行して,オールド・ウォールリバー・ロード(Old Fall River Road)という未舗装の道路もある。
 トレイルリッジ・ロードは世界でも有数な山岳道路で,この道路が通行可能なのは,5月下旬から10月中旬である。このロードはロッキー山脈を横断する全長40マイルの山岳道路で,通り抜けできる舗装道路としては全米最高地点3,713メートルを通り,国立シーニックハイウェイにも選ばれている。標高から考えると,なんと,富士山の山頂付近を走っているようなものである。
 オールド・ウォールリバーロードは,1920年に開通したロッキー山脈越えの道路で,トレイルリッジ・ロードが開通するまではこの道を通行していたという。途中の眺めはよいらしいのだが,未舗装道路である。

 私は,もちろんトレイルリッジ・ロードの方を走って行ったのだが,この道路のすごい所は,かなりの傾斜であり,片側は断崖絶壁,しかも,車線の幅が狭いのに,ガードレールひとつないことであった。日本なら,きっと,景観など度外視して,頑丈なガードレールが作られたり,注意を喚起する見苦しい大きな掲示板が作られるに違いがない。
 当然,みんな運転が慎重で,のろのろと登って行く。断崖の方が私の進行方向であったから,この時ほど,この国立公園を逆から来るべきだったと後悔したことはなかった。
 …という恐怖感を感じながら,それでも,すばらしい景観を,時には眺めながら走っていくと,やがて,フォレストキャニオン展望台に到着した。
 あたりはまだ雪が解けておらず,また,遠くには,多くのロッキーの山々が見渡せた。なにせここには4,345メートルのLongs Peak をはじめとして,標高が4,000メートルを超える山が14もあるのだ。
 今思い出してみても,高山病にもならず,こんな高い所を無謀に散策していたわけだから,これもまた不思議な話である。

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