私は,こうして,成田空港に帰国することができた。帰国の入国ゲートを通り,カバンが出てくるのを待った。デルタの職員の女性に事情を話すと,私のカバンが出てくる間に,延着証明書を書いてくれた。
デルタ航空のセントレア行きの国内線はないので,JALに乗り換えることになったから,成田空港で再びチェックインをする必要があった。
JALの国内線が出発するのは第2ターミナルだということで,バスで移動する必要があった。
この日本というクレージーな国の案内表示は,同じ航空会社の乗り換えしか考慮されておらず,第1ターミナルの「国内線乗り換え」という案内表示に従うと,他のエアーアライアンスの航空会社への乗り換えができないのだった。
要するに,何も考えていないのだ。いや,利用者の利便性よりも自分たちの金儲けだけをよく考えているというほうが正しい。
はじめて日本に来た不案内な外国人にとって,これほどわかりにくいものはないと思った。
この国はいつもそうで,私はもうあきらめているが,こまごまとした表示はやたらとあって,精一杯気を配っている「ふり」だけはわかるのだが,肝心なことがいつも抜けている。そして,そのことを自覚していないので,日本人は優秀で世界一気配りができるとその「おもてなし」を自画自賛している。
これこそ「日本人の知恵と発想の限界」なのだが,こんなことをいっても,私が何を問題にしているのかさえ理解できないであろう。
成田空港も,細かな表示はたくさんあっても,全体が見通せるものが皆無なのである。
私は,今でも,第1ターミナル,第2ターミナルだとか,北ウイング,南ウイングだとかいわれても,その位置関係や意味することががさっぱりわからない。また,新たに第3ターミナルができたが,それらを統一して表記したホームページすらない。
成田は世界一わかりにくい空港であろう。こういったことは空港だけに限らない。これが,日本人の考える「おもてなし」の実態なのである。
このときも,私は迷い,よくわからないので案内所で聞いて,いわれた通りに空港を出て,第2ターミナル行きのバスを待った。
ところが,空港で最も大切なターミナル間を移動するバスの乗り場が,都内へ向かう有料のバスの乗り場より遠いところにある。ターミナル間を移動するバスは無料だからであろう。しかも,直接第2ターミナルへ行くバスと第3ターミナルを経由して第2ターミナルへ行くバスがあって,はじめて来た人にはわけがわからない。
要するに,ターミナル間を移動する乗り換えなどという発想がはじめっからないのだ。こんなことは,アメリカの空港ではありえない。日本では,やたらと細かいくせに,大切な指示が何かということが全くわかっていない。
私は,帰国早々,再び日本に嫌気がさしてきた。
少し待っていたら,無愛想な運転手が運転するバスが来た。それに乗って第2ターミナルまで行った。降りてからも随分と歩いて,やっとのことで,JALの成田からセントレアへ行く便のチェックインカウンタに着いた。
世界の大都市・東京の,天下の成田空港とは思えないほど人もおらず,閑散としていた。
私は,デルタ航空を利用するときはプライオリティだけれど,JALのマイレッジを持っていないから,ここではただの平民に格下げで,急に落ち武者になったような気がした。
荷物を預けた後,夕食をとった。
後で考えれば,荷物の送料など,デルタ航空のプライオリティの特権で無料だから,成田から自宅まで送ってしまえばよかったのだが,この時はその考えがすっかり抜け落ちていた。
レストランで注文をしようとしたときに日本円をほとんど持っていないことを思い出して愕然としたが,さすがに空港内のレストランだけあって,ここでは珍しくクレジットカードが使えた。
食事後,まだ時間があったが,出発ゲートに行った。セキュリティを済ませて中に入ると,意外なことに,その先には売店すらなく,アメリカの空港との違いを改めて認識させられた。待合所のテレビで大相撲をやっていて,私がアメリカに行っているうちに,大相撲夏場所がはじまっていたことをここではじめて知った。
出発時間になったが,乗客がまだ3人乗っていないということで,離陸が遅れた。
やがて,乗客がそろったらしく,飛行機がそろりそろりと動き出したが,この時間は離陸ラッシュで,フライトが多く,滑走路には離陸を待つ旅客機がずらりと列を成していた。機内放送によると,私の乗った旅客機の離陸順序が10番目だそうで,次々と旅客機が離陸していく姿を窓越しにながめていた。
私が座った窓際の席からは富士山を見ることができるということであったが,問題は,日没であった。だから,暗くならないうちに富士山まで飛行できるかどうかということが,離陸を待ちながらずっと気がかりであった。
機内放送によると,乗った飛行機は国際線仕様ということであったが,座席の前面に付けられたディスプレイもチープなもので,座席間の幅もデルタの機種よりも狭く,昔は日本の飛行機といえばアメリカの航空会社の飛行機に比べて豪華だったのに,今や,こんなにみじめなのか,とがっかりした。
やがて,富士山が近づいてきた。窓から外を見ると,眼下に,夕日に赤く輝いた雪のない巨大な富士山が出現した。こうして,私は,帰国が1日遅れたために,ミシガン湖と富士山を空から見ることができたのだった。
1日遅れの夜9時30分,やっと私は自宅に戻った。予定より約30時間遅れの帰宅になったが,結果的に,最短で最善の方法で帰国することができた。そして,予定通りでは得られなかった数々の思い出がたくさんできた不思議な旅になった。
September 2015
「あてなよる」-至福の時間は,見て味わう。
数年前,NHKBSプレミアムで「エル・ムント」というすてきな番組をやっていました。夜11時。寝る前にのんびり見るのに最高でした。バーテンダ―の「しょうこちゃん」こと富田晶子さんとか,バイオリニストの樫本大進さんとか,輝いている人がたくさん出演しました。
私は,この,グローバルでリッチで知的な番組を見ながら1日を終えるのが楽しみでした。
そして,なぜか,「時代は世界から京都へ」… らしく,「エル・ムント」が終了して,その代わりに今晩放映されるのは「あてなよる」でした。ちなみに「あて」とは酒の肴のことです。
この番組は,「京都人の密かな愉しみ」の中の大原千鶴さんのコーナーが人気だったので,それを独立させた番組に思えます。
世の中にはお金持ちがいます。
彼らの気持ちはお金持ちでない私にはわからないのですが,きっとその中には,どのようにお金を使えばよいのか困っている人もいるのではないかと推察します。
アメリカのお金持ちならば,ものすごく豪華な別荘や自家用飛行機を所有したり,メジャーリーグの最高のシートを年間で購入したりと,することはいくらでもありそうです。しかし,日本ではたかが知れています。
軽井沢に別荘を建てても,ハイシーズンは東京のように混雑して大自然とお友たちになれるわけでもなく,高級車を買っても乗る場所もありません。
天文台を建てても満天の星が見られる場所もなく,大相撲の溜会に入って土俵溜りでお相撲を見ても,豪華な座席で食事もできません。ガイドさんを雇って海外旅行をしても,自分の力で貧乏旅行をすることに比べれば本当のおもしろさはわかりません。
このように,日本ではお金をもっていても,できることは知れています。
むしろ,この国は,貧乏人が平凡に暮らす方がずっと幸せにできているのです。
となれば,お金の使い道は食べ物へとゆきつくのでしょう。
ということで,高級な食材を使って腕のいいシェフが作った美味しい料理を,最高級のお酒とともに味わうのが,日本のお金持ちには最も至福な時間になるのです。しかし,本当は,そうしたおいしそうな食べ物を見ながら,4畳半の小さなお部屋で,お豆腐や枝豆を「あて」にして安い焼酎でも味わうほうが,庶民にはずっと健康的で至福な時間となるのです。実際は。
それは,特急列車で旅行をするよりも,鈍行列車に揺られて地元の人とおしゃべりでもしながら旅をするほうが,本当は居心地がいいのと同じです。だから,こうした贅沢番組を見ながら,こんなことができたらいいなあ,と夢見ることができる貧乏人のほうがずっと幸せなのです。
そういう意味では,「金がものをいわない」日本はとてもすてきな国です。
「日本人の知恵と発想の限界」を露呈した,今回の「大人になりきれない」なさけない人たちが殿様気取りで茶番のような政治をやっている姿に飽き飽きしている人も多いことでしょう。
事の善悪や賛否は別として,本当に正しいことをしているのなら,堂々として,事を急ぐ必要などないのです。後ろめたいからこそ,こそこそとやるわけです。日本に本当の民主主義がないことはとうの昔より明らかなれど,こうなると,もう駄々っ子のいたずら以下です。
それほど,世界で一人前として認められたいのなら,シリア難民もヨーロッパ並みに受け入れなければいけませんし,働きすぎも是正して,ヨーロッパのように残業も休日出勤もやめなければいけません。比例代表で選ばれておきながら,選挙が終わると政党を変わるような議員は資格がなくなるので辞職をしなければおかしいのです。でなければ,みんな自民党で当選して,選挙が終わったら,民主党に鞍替えすればいいのです。今の制度では選挙の意味はありません。都合のいいことだけさっさと決めるのでなくて,もっとすべてのことに真面目に取り組んでほしいものです。
・・
日本の政治は,根本的に欠陥商品なのです。工業製品のガラパゴス化と同じです。
アメリカでは,GDPの250パーセントも借金をしてIMFから是正の勧告をうけていて,少子高齢化がすすみ年金も払えない国が,こんな法律(=安全保障関連法案)を通しても金がないから何もできない(雑誌「TIME」より)と冷やかに報道されていますよ。
こんなご時世だから,せめてBSプレミアムだけは庶民の味方になって,早朝は子供番組,そのあとは旅番組,そして,夜は大人が夢を味わうことができる番組に特化して,ささやかな幸せを味わわせてほしいものだと私は強く要望します。
「まれ」ちゃんだけでなく,大人も子供も,夢を見させてください。テレビは,弱者の味方でなければいけません。
◇◇◇
雪のお正月③-「京都人の密かな愉しみ」
京都・夏②-「京都人の密かな愉しみ 夏」
N響の秋①-ブロムシュテット・若き88歳に感動する。
N響の定期会員を辞めて数年になりますが,土曜日に久しぶりにNHKホールに定期公演を聴きに行きました。
この演奏会を聴きにいった動機というのが不純でした。年末の第9演奏会の指揮者がパーヴォ・ヤルヴィさんということで,そのチケットを優先予約で購入するために,定期公演のシーズン会員になったのでした。しかし,それだけではなくて,9月の指揮者は名誉指揮者の88歳になられるヘルベルト・ブロムシュテットさん,10月は新たに首席指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィさん,とあれば,これを聴かない手はありません。そこで,定期会員に復活したわけです。
開演は午後6時。NHKホールに向かうまでに時間があったので,両国の国技館へ行って,力士の場所入りを見ることにしました。
大相撲は,相撲関係者すらその理由がわからない,というほどの人気回復で,このところ急にチケットが全く入手できなくなりました。私は,3月に大阪場所の千秋楽を見にいって以来「見るんだったら千秋楽」ということで,ずっと千秋楽ねらいで優先予約の抽選に応募しているのですが,当たったためしがありません。
・・
両国の国技館の力士の場所入りは,車道脇に停めた車から降りてくる力士やら,部屋から歩道を歩いてくる力士などさまざざまで,すべての力士を見るのが大変です。
名古屋場所では,最近は正面玄関から場所入りするようになったのですべての力士を見ることができますが,なにせ,真夏なので体力がいります。力士の場所入りを見るのに最高なのは,なんといっても大阪です。以前書きましたが,お相撲を見るのは大阪に限ります。九州は行ったことがないので知りません。
さて,話を戻しまして,N響です。
東日本大震災後,開演前のロビー室内楽が中止になったので,1時間前に並ぶ必要がなくなって,のんびりと歩いてインドのフェスティバルで大賑わいの代々木公園を横切って,開演50分前にNHKホールに到着しました。通いなれたところなので,勝手知ったるという感じですが,近年,ずっとサービスがよくなってきましたし,内装が綺麗になりました。
以前定期会員だったときは,ずっとS席だったのですが,今回は2階のC席の会員です。
このホールは,どこで聴いても,ラジオで聴くほうが音がいいという変わったところです。だから,NHKホールへ聴きにいくのは雰囲気を味わうためで,どこの席でもいいのです。座ってみて思ったのは,C席は最高だということです。S席は,何か,混雑した電車みたいなのです。聴きに行かれる方は,団員さんのお顔を見るためでなければC席,それも一番後ろをお勧めします。
私は,年に1回,N響名古屋定期公演を聴きにいくのですが,名古屋の愛知県芸術劇場コンサートホールは音もよく,優先予約で簡単に特等席を手に入れることができるので,NHKホールはこれでかまわないのです。
この日の曲目は,ベートーヴェンの交響曲第2番とピアノ協奏曲第5番でした。ただし,ピアノの独奏者がお目当てでないのなら,むしろ,交響曲2曲の方がよかったように思います。ブロムシュテットさんを聴きにきた人には物足りないプログラムだったかもしれません。
確かに ,NHKFMの「きらクラ!」のベートーヴェン祭りで1位に輝いたこのピアノ協奏曲はすばらしい曲ですが,指揮者の裁量が出る,というものではないからです。ただし,ブロムシュテッドさんは,そうした,巨匠じみた扱いを望んておられませんから,こうしたプログラムになるのでしょう。いつまでも謙虚で若々しいままです。
ラジオの解説でも話されていたように,ブロムシュテットさんの指揮ぶりもどんどんと若返ってきているということです。それは,メリハリの利いた,そして,速度の早い演奏,ということなのですが,それを味わうには,今回の演奏会よりも,前回のBプログラムの第1番と第3番のベートーヴェンの交響曲のほうがその特徴がよくわかりました。
それでも,第2番の,第1楽章の出だしの堂々とした序奏,ベートーヴェンの緩徐楽章で一番美しいといわれる第2楽章,そして,交響曲にはじめてスケルツオを取り入れた第3楽章,最後の第4楽章の盛り上がりと,至福の時間を過ごすことができました。
1曲目であって,しかも,交響曲第2番という地味な曲で,カーテンコールが4回,というのも,この指揮者ならでは,でした。
・・
ずっと昔は,ベートーヴェンの交響曲というのは,権威の象徴のようなところがあって,管楽器も2管を4管にして,弦楽器もステージ一杯で,堂々とゆっくりと演奏するものでした。そのころは,スコアどおりの速度指定では演奏不能だといわれたのを,私は習いました。
しかし,近年は,どんどんとテンポが早くなり,ステージ上の演奏者も小規模になってきました。私は,このほうがずっと好きです。
来年も来日されて,引き続き新解釈のベートーヴェンの残りの交響曲を取り上げていただだいて,いよいよ,90歳を迎えられる2年後には,第9をブロムシュテットさんで聴くことができれば最高だと思います。
いつまでも,お元気で来日されるのを念願しています。
それにしても,私は,日本のコンサートを2年前の夏に行ったボストン郊外タングルウッドで聴いたボストン交響楽団の演奏会や,今年の6月に行ったサンフランシスコのオペラなどに比べてしまうので,どうもいけません。コンサートの前に注意事項の放送をしないとお行儀よくできない観客や,休憩時間が短いことなど,もっとゆったりと,そして,気を使うことなく,しかも,正装した紳士淑女が上品に夜遅くまで楽しむとことができるアメリカのコンサートの世界とはほど遠いのが,とても残念なことに思います。
◇◇◇
浪速の春の大相撲観戦②-大阪場所は最高だった。
N響名古屋定期公演-パーヴォ・ヤルヴィさんへの期待
「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
「想い出のサンフランシスコ」⑪-2015夏アメリカ旅行記
「熱狂」は似合わない-シアトル・マリナーズ
もう9月も終わりになると,MLB,メジャーリーグのレギュラーシーズンも終了です。
今年の優勝争いは,はじめの予想とはずいぶんと違いました。それよりも残念だったのは,日本人選手の活躍が少なかったことです。
その中で活躍したのは,前半戦を棒に振ったとはいえ,岩隈投手でした。きょうは,その岩隈投手の所属する私の好きなシアトル・マリナーズの話題です。
シアトル・マリナーズは,イチロー選手が12年間所属していたので,日本で大変なじみのあるチームです。
私は,11年前にシアトルで全盛期のイチロー選手を見ようとチケットを購入して出かけたことがあったのですが,その途中モンタナ州で交通事故に遭ってそれが果たせませんでした。
そして,その2年後,再び,チケットを購入して,やっと,念願を果たしました。その時は,城島捕手のホームランも見ることができました。
そして,今年。
私は,9年ぶりにシアトルへ行って,今度は,偶然,岩隅投手の登板を見ることができました。
・・
9年前にシアトルでははじめてメジャーリーグを見てから,今年再びシアトルで見るまでの間に,ずいぶんと多くのボールパークに行ったので,それらと比べることができるようになりました。改めて今年シアトルに行ってみて,メジャーリーグのボ-ルパークの中で,これほどすばらしいところは他にないと,改めて思いました。
何がそれほどすばらしいかというと,とにかく設備がすばらしく,見ていて気持ちがよいということ,そして,ボールパークの雰囲気がとてもよいということ,そして,チケットが安いということがあげられます。
さらに,ボールパークの南にあるビルが駐車場になっていて,そこにはフリーウェイからすぐに入ることができるので,とてもアクセスがよいということもあります。車がなくても,鉄道「ライト・レール」の駅からも徒歩圏内にあります。
私は,ここの駐車場に車を停めたとき,アメリカ流でいつもは頭から入れるのですが,この時は帰りのことを考えてバックで入れたら,その鮮やかなテクニック? で周りの人から拍手をされました。アメリカ人にはこんな芸当はできません。
シアトルは,日本から最も近いアメリカの都市のひとつです。だから,もし,メジャーリーグを見たいと思うのなら,このボールパークへ行くのが,最も便利である,といえます。しかも,このボールパークはとても魅力的だから,見て絶対に後悔しないのです。屋根が開閉式なので,中止になることもありません。
シアトルの最大の欠点は,道路が慢性的に渋滞している,そして,ダウンタウンのホテルが高いということです。しかし,道路が渋滞していても,交通規制がしっかりしているので,日本のようなことはなく,クルマは動いているし,ホテルは,シアトル・タコマ国際空港の近くに宿泊すれば事足ります。
そうしたシアトルをホームグランドにするマリナーズの最大の特徴といえば,熱狂的なファンが「いない」という点なのです。
どんなに弱小チームでも,行ってみるとびっくりするほどどこも熱狂的で,ファンはチームのユニフォームを着て応援にかけつけます。だから,私のように,そうでないスタイルで見ていると,変に思われるくらいです。しかし,ここシアトルでは,チームのユニフォームを着たファンは,探す方がむしろ難しいくらいなのです。
当然,ゲームがはじまっても,静かなものです。ファーストボールからえらい盛り上がりを見せる他のチームのホームゲームとはえらい違いです。その結果,ここのボールパークは空いていることもあって,規律がまるで緩く,チケットのランクが違っていても,自由にどこに座ることも可能だし,ゲーム前には,内野席の一番前まで行って,選手のサインを自由にもらうことも,打撃練習で飛んでくるボールを追いかけることも,外野後方にあるピッチング練習場を間近に見ることもできるのです。
その理由は,チームが慢性的に弱い,ということだと思われるでしょう。1977年に創設されて随分経つのに,ワールドシリーズどころか,リーグ優勝すらしたことがないなのです。しかし,それよりも,私は,伝統という重さがないことだと思います。このチームは,かつて所属したスタープレイヤーをリスペクトしないのです。生え抜きの選手を簡単に放出してしまうし,永久欠番の選手すらいません。
背番号51は,将来,イチロー選手の永久欠番にしてもよいと思うのですが,この番号は,なんと,ランディ・ジョンソン(Randall David Johnson)投手の背番号でもあります。また,ケン・グリフィー・ジュニア(Ken Griffey Jr)選手の背番号24だって,その資格は十分あると思うのです。
そんなこともあって,今年,シアトルへ行ったとき,未だにボールパークの外壁にイチローの写真があるのに,とてもホッとしました。
私は,この51がいつの日か永久欠番になると信じていますが,それと共に,このチームが今のようにずっと弱いままでいて,いつまでも,気軽に見に行くことができるそんなチームであってほしいと,勝手に願っているのです。
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑦
手配してもらったホテルは「クラリオンイン」というところで,デトロイトの空港からはシャトルバスですぐのところ。ホテルのたくさん立ち並んだ一角にあった。ホテルには,デルタ航空のパイロットや客室乗務員が泊まっていたから,デルタ航空御用達であるようだった。
私が通常泊まる安いホテルよりも豪華で,この旅で泊まった中で一番デラックスであった。
さらに,このホテルの中にはレストランもあったので,そこで豪華な夕食をとることもできた。もちろん,食事代は宿泊した部屋代と一緒の清算とさせてもらた。
以前書いたことがあるが,デトロイトのダウンタウンは治安が悪く,観光で訪れるようなところではない。私は行ったことがあるが,空港はダウンタウンから遠く離れているから,「危険な」デトロイトとは関係がない。
ちなみに,デトロイト・メトロ国際空港はダウンタウンから南西35キロメートルのところにあって,ダウンタウンに行くには,公共交通機関は路線バスしかないし。空港シャトルバスすらない。それに,ダウンタウンでは路線バスの停まる停留所の治安が悪いから,空港からダウンタウンに行く方法は,レンタカー以外には,実質上タクシーしかない。
要するに,デトロイトとはいっても,空港は大都市デトロイトとはほとんど無関係であって,乗り換えのためのハブ空港という位置づけでしかない。
・・
☆10日目 5月18日(月)
-延長戦-
翌日の朝。
ホテルからは空港へのシャトルバスが30分ごとに出ていた。これもまた豪勢な朝食を済ませて,シャトルバスに乗って,空港に向かった。
空港で,いつものように,プライオリティセキュリティを済ませて,ミネアポリス便に乗った。
今回の旅では,国内線はすべてファーストクラスにアップグレードされたので,窓際席を選んで,今回も外を見ることができた。デトロイトからミネポリス間は,眼下に五大湖が広がっていたが,ミシガン湖はことのほか美しかった。
ミネアポリス/セントポール国際空港に到着した。ここの空港もすでになじみ深かったが,ここに来るときはいつも,何かしらの因縁があるのだった。私にとって,ここは,甘酸っぱいところだ。
空港は,成田便を待つ客ですでに一杯であった。「帰国を待つ留学生」ということであったから,私は,日本人の留学生を想像していたが,待っていたのはほとんどが中国人と韓国人で,日本人なんて数えるほどしかいなかった。
私の乗るフライトはオーバーブッキングが出ていて,ボランティアの募集がはじまった。
放送では,ボランティアに応募すると乗ることができるフライトが明日になるが,その代わりに1泊のホテル代とマイレッジ10,000マイルがもらえるという話であった。
デトロイトと違って,ミネポリスは公共交通機関が発達していて,空港から30分も電車に乗ればダウンタウンに行くことができるし,ダウンタウンは治安がよく,歩いているだけも楽しい都会だから,これに応じれば1日余分にアメリカ観光ができるということになる。もし,時間があれば,ここでボランティアに応募して,さらにもう1日アメリカ旅行を堪能してもよいと思ったりもした。
やがて,出発時間になった。当然,機内は満員であった。やっと私は成田に向かって飛び立った。
私の座席は,国際線なのにめずらしく窓際であったから,隣りに座る人次第で,かなり苦痛な時間になる。幸い,隣は,留学先から帰国する韓国人の素敵な若い女性であった。持っていたスマホに器用にハングルで文字を打っていて興味深かったので,そのシステムを教えてもらったりした。お互いが母国語でない英語で会話をするのは,わかりやすくていい。
私が今回の旅で一番強く感じたことは,アジア人は本質的に似ているということであった。正直いって,中国人は大声で不作法だけれど,それは,数十年前の日本人観光客と同じであるし,韓国人の自我の強さは,日本人に対する対抗意識の反映であって,それは,きっと,相手から見れば,日本人の,相手を見下したようないやらしさと同質であろう。
ともあれ,その根本にあるアジア人のきめの細かさやら思いやりやらは共通のもので,それは西洋人とは異質である。
機内は,ほとんどが韓国人と中国人とそれにタイ人であった。だから,成田に到着したとき,乗客のほとんどがトランジットで,そのまま日本に帰国した乗客はほとんどいなかった。
◇◇◇
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト①
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト②
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト③
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑥
ともかく,無事にデトロイトに到着して,私は飛行機を降りた。デトロイトのターミナルを歩いていると,なんだか,すでに日本に帰ってきたようなホッとした気がした。
ただし,現実は,この日に私が乗るセントレア行きのフライトはとっくに離陸してしまっていて,私はこの後どこかにホテルを確保して1泊し,明日にならないと日本に帰れないということであった。
私は,これまで,アメリカ旅行では,ロサンゼルスで置き引きに遭ってパスポートも現金もクレジットカードもなにもかもなくしたことがあったし,モンタナ州では交通事故に遭って病院に運ばれたこともあるけれど,いつもなんとか日本に戻ってくることができた。
だから,飛行機が遅れるなどということは,そういうことに比べれば些細なことで,大したことでもなかったから,どうしようかな,と途方にくれるわけでもなく,いわば,ポーカーでよい手配が集まったときにどのカードを切ろうかと楽しんでいるような,そんな気分でさえあった。
とりあえず,デトロイトの空港のターミナルを中央広場のほうに向かって歩いていった。
どこかにデルタ航空の案内所があるはずだと思った。しかし,案内所に着いても,そこにはだれもいないだろうから(こんな状態が普通である),そこにある電話機で,日本人の職員をよぼうと思った。
今晩のホテルを探すよりも,とりあえずこういうときにはどういったことをしてもらえるのかを聞くことが先決だ。
そんなことを考えながら歩いていたら、偶然,ちょうど向こうから,デルタ航空の制服をきた女性が歩いてきたので,彼女に日本語のできるスタッフはいませんか? と英語で聞いた。すると,彼女が,日本の方ですか? と日本語で返してきたのが,幸運のはじまりであった。
事情を話すと,何番かの搭乗ゲートのコンピュータが操作できるのでそこまで行きましょうというので,一緒についていった。彼女は,とりあえず,一番早く帰国できる便を探しましょうと,コンピュータの操作を始めた。そして,今日出発の成田便の離陸が遅れていたから,あと30分早ければ乗れましたけれど… と言われた。海外旅行慣れしていない人には信じられないような話かもしれないが,飛行機だって電車と同じことで,座席さえあれば,すぐに乗れちゃうのだ。
・・
今日出発する韓国経由とか,シアトル経由とかのいろいろな便をかたっぱしから探してもらったけれど,空席がないか,すでに出発してしまっていて,結局,カンザスシティで私の予約してきた明日のデトロイトからミネアポリス,ミネアポリスから成田という便が最善だったということになった。
要するに,カンザスシティで,ともかくも、成田までの便を確保して予約変更をしてきたことが正解だったようだ。
アメリカに来るときのフライトはガラガラだったから,私はこの時期の帰国便のチケットなどいくらでもあると思っていたのだが,聞いてみると,アメリカの大学はすでに夏休みがはじまっていて,アジアから来ている留学生の帰国ラッシュで日本まではどれも満席,チケットが取れないのだという。
結局,カンザスシティで変更してもらったフライトに従って帰国するしかなかったので,やはり,この日はデトロイトで1泊する必要があったのだが,今日宿泊するホテルと,成田からセントレア便の手配も,デルタ航空の補償でてきぱきとしてもらうことができた。
さらに,カンザスシティで預けたままになっていたバッグは,カンザスシティの職員はデトロイトで一旦ピックアップする必要があると言ったが,これもそのままセントレアまでピックアップしなくてもよいように,コンピュータで変更してもらうことができたので,重い荷物を受け取ることなく,デトロイトのホテルに行くことができた。きっと私のバッグは一旦デトロイトで降ろされて,職員がふたたび積み込んだものと思われる。帰国後,バッグにはチョークでなにかが記されていた跡が残っていた。
こういうこともあるから,私がいつもやっているように,1日分の着替えと歯ブラシくらいは手荷物に入れて手元に持っているべきだと痛感した。
それにしても,この日本人女性職員の手際よさにはほれぼれした。さすが,日本の女性は優秀だと,私はこのときばかりは日本人を誇らしくなった。彼女は,こういうことは経験しないとわかりませんからね,でも,だれか助けてくれますよ,と言っていた。
さらに,彼女には,ホテルまで行く空港のシャトルバスの乗り場まで案内してもらった。
この日本人職員は,アメリカ育ちで,大学だけ日本だということだった。そして,日本では窮屈で生きていけないと言った。
私は,今回のこうした出来事の印象を思ったまま書いているので,事実誤認があるかもしれないことをお詫びしておくが,その時々の職員の対応やら自分の行動の仕方で,事態はどうにでも変わるということを,改めて知ることとなった。そして,この出来事での感想は,国籍に関わらず人は親切であるということと,この日本人女性職員の対応がすばらしかったということ,そして,いつものように,私は運がいい,ということであった。
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It's been 888 days since I started this blog.
「時代を楽譜に刻んだ男 山田耕筰」-蜻嶋 八間跡能國者
9月の敬老の日と秋分の日に挟まれた1日が休日になったことから5連休になりました。これを,春の「ゴールデンワーク」にならって秋の「シルバーウェーク」というのだそうです。今年は天気もよく,少し暑かったのですが,さすがに真夏とは違って,絶好の行楽日和になりました。
・・
秋といえば,早秋の曼珠沙華とコスモス,晩秋の紅葉。そして,たくさんのおいしい食べ物。
春とはまた違った素敵な季節ですが,私は,秋の生まれなので,これまで,ずっと春よりも秋が好きでした。しかし,いろんなことを経験してから,秋というのは,たくさんの思い出があふれるようになって,むしろ,そうした思い出とともに,春に比べて日の暮れるのが早いことから,寂しさが先に出てくるようになって,侘しく切なく,それに耐えることがだんだんと重荷になってきました。
ところで,日本の別名を「秋津島」といいます。
・・・・・・
山常庭 村山有等 取與呂布
天乃香具山 騰立 國見乎為者
國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都
怜■(りっしんべん+可)國曽 蜻嶋 八間跡能國者
・
大和には 群山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ
うまし国そ 秋津島 大和の国は
「万葉集」巻1・2
・・・・・・
「秋津島」とは「とんぼの島」のことです。このように,日本は「とんぼの島」なのです。そして,とんぼといえば,秋を代表する歌に「赤とんぼ」があります。
「赤とんぼ」は三木露風が作詩し山田耕筰が作曲したものです。
この曲の出だしは,シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ」に現れる旋律とよく似ている,というよりほとんど同じなのですが,その「赤とんぼ」の出だしの部分で「夕やけ小やけの赤とんぼ」いう歌詞が歌われます。この「赤」のアクセントで,〈あ〉が強く〈か〉が弱いのも,また,有名な話です。
これは,昔,江戸っ子はそう発音していた,とか,もともと「〈あ〉かとんぼ」のアクセントだったものが、時がたつうちに、「あ〈か〉とんぼ」に変わった,とか,まことしやかにそのように解説されたものがあります。
曰く,
・・・・・・
歌詞の中では作曲当時の言葉のアクセントが生かされることが多いから,すでに日常会話では失われてしまったかつての日本語のすがたを,歌を手がかりに知ることができる。
・・・・・・
なんだって。なんだか偉そう…。でも,そんなのウソです。
私は,子供のころに,山田耕筰当人がずっとこのアクセントの間違いを直せず気にしていた,という話を聞いたことがあって,ずっと,そうだと思ってきたので,この曲を聞くたびに,いつも違和感を感じます。そして,どう変えればいいのかな,と思ってしまうのです。これでは,この曲で秋を味わうことができません。
だからといって,このアクセントを変えるためには旋律を逆にしなければならず,そうすると,まるでフォークデュオ「あのねのね」の「赤とんぼの唄」みたいになってしまいます…と書いているうちに,この歌の「赤とんぼ」と同じ〈あ〉の音にアクセントをとる言葉に「赤ちゃん」があることに気がつきました。と,これは余談です。
・・
ちなみに,2番の歌詞は「山の畑の桑の実を」で,ここでは「桑」のアクセントは〈く〉なので正しく歌うことができますが,3番の「十五で姐やは嫁に行き」の「嫁」も正しいアクセントは〈め〉だから,やはりおかしいのです。だから,1番の「赤とんぼ」のアクセントの「いかにも」的な説明はやはり正しくないのです。このように,この歌詞は,1番・3番と2番でアクセントが違うので,この詞に正しく曲をつける方法なんて,はじめからないのです。
ひょっとしたら山田耕筰先生はシューマンの曲に歌詞をのっけちゃった,それだけのことかもしれませんよ。そんなもんです,だれも言わないけれど,きっと。
今年は山田耕筰没後50年。
10月2日にNHKEテレで「時代を楽譜に刻んだ男 山田耕筰」という番組が放送されます。
◇◇◇
秋山吾者-石上古人の息遣いと入江泰吉が生涯をかけた写真
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑤
私と職員との交渉が暗礁に乗り上げているのを見ていた,先ほどの中国人御一行様代表のツアーコンダクター風の荒川静香似の女性が,見るに見かねて? アシストに乗り出してくれた。
彼女は当然日本語などできないから,職員のブロークンな英語を中国語なまりの英語で通訳? してくれただけなのだが,私には,彼女の英語が日本語のように聞こえたのだった。つまり,学校で習った英語のようによくわかったということだ。
それによると,職員の言うことは,今日カンザスシティに1泊すれば,明日,カンザスシティから1回の乗換えだけで成田に行ける。しかし,私の主張するように,今日デトロイトまで行っても,もう日本へのフライトはないから,どっちみちデトロイトで1泊する必要があって,しかも,成田まで行くのに,2回の乗換えが必要だということだった。
それがどういうことを意味しているのか,その時の私にはさっぱり理解不可能であった。
どうしてカンザスシティに1泊すれば乗り換えが1回で済み,デトロイトで1泊したら2回になるのか,みなさんはおわかりになりますか?
私はわけがわまらぬまま,しかし,その説明を求めてもきっと理解が出来ないし,何度乗り換えようと帰国できればいいのだから,それでもデトロイトに行くと言った。
その理由は,レンタカーをすでに返してしまった今となって,カンザスシティで1泊しろと言われても,泊まるホテルの当てもないではないか,ということであった。このとき,今晩のホテルも一緒に予約をしてくれ,と主張すべきだったのかもしれなかったが,そんなことを考える余裕もなかったし,そんな親切をしてくれるとも思えなかった。
それに加えて,デルタ航空のハブ空港であるデトロイトにさえ行けば,日本人の職員がいる,というのがそのときの私の気持ちであった。
彼女が,私に,どうしてわざわざデトロイトに行きたいのか,と言うので,日本人職員がいる,と答えたら,「すっごく納得」という表情になった。
そこで,なんとか交渉が成立して,私は,遅れているフライトの出発を待ってそれに乗りデトロイトに行き,そこで1泊して,翌日,デトロイトからミネアポリスへ,そこで再び乗り換えて,ミネアポリスから成田へ,という搭乗券を手に入れたわけであった。
ただし,この時点で,デトロイトで1泊するといってもホテルの当てもなく,何の補償もなかったし,私は成田ではなくセントレアまで帰る必要があったのだから,成田からセントレアへもどうやって帰るのかという確証もなかった。
デトロイトには空港内にホテルがあるから,泊まるのはなんとかなるだろう,成田からはどうにでもなる,そんな気持ちであった。
本当はこの時点で,このことも含めてきちんと交渉すべきだったのだろう。なさけない話だ。
では,これまでの話をまとめて,謎解きをしてみよう。
そもそも,最も障害になっていたことは,私はそのときは知らなかったが,翌日,デトロイトからセントレアへの便がないということであった。だから,1日待っても,当初の予定のように,カンザスシティからデトロイト,デトロイトからセントレアという経路で帰ることができないのだった。しかも,翌日のデトロイトから成田便が満席であった,というより,アメリカの各都市から出る成田便にはほとんど空席がなかった。
そこで,職員の言ったことは,カンザスシティに1泊して,翌日,カンザスシティからデトロイトではなくてミネアポリスへ行く便に乗れば,ミネアポリスからかろうじて空席のあった成田便に乗れるということだったのだ。それを,私は、デトロイトへ行くと主張したものだから,デトロイトへ行っても,そこから明日の朝再びデトロイトからミネアポリスまで行って,ミネアポリスから成田便に乗り換えるということだった。つまり,ミネアポリスから成田への便は同じだから,わざわざデトロイトへ行くことは遠回りになるだけで,意味がないのだ。
このデルタの職員が,お前は何バカな主張をしているのか,という顔をしていたのは,これで納得ができるというわけだった。しかし,私がこの謎解きができたのは,帰国してからであった。
私は,ともかく,こうして,カンザスシティからデトロイト,デトロイトからミネアポリス,ミネアポリスから成田という新たな搭乗券を手に入れたのだが,デトロイトでの1泊をどうするか,そして,成田からセントレアまでをどうするか,さらに,この経費をデルタ航空に補償してもらえるのか,といった様々なことが未解決であったし,どうなるかもわからなかった。ともかく,デトロイトに着いたら日本人職員を探してすべて交渉しようと思った。
・・
遅れているデトロイトへのフライトが出発するまでには,依然,時間がたっぷりあった。私は特に何もすることもなかったので,待合所でだらだらと過ごしていた。
やがて,スナック菓子だけでなくサンドウイッチが出てきて,搭乗券を見せるとそれを手にいれることが出来た。しかし私は,すでに,それまでに山積みになったいろんなスナック菓子を欲望のおもむくままパクつき,さらに,これも山積みになったソフトドリンクをむさぼり飲んだので,お腹はガボガボであった。
これでは,行きと同じじゃあないか,と節操のない自分がいやになった。
遅れていたフライトは,5時間どころか6時間ほど遅れて,カンザスシティを再び飛び立った。
私の座席は降ろされたときと同じであったが,新たに隣に座った乗客は,朝とは別人の女性であった。あの中国に行くといった若者がどうしたかのかは,私は知らない。この新たな隣人の女性の弟というのがミュージシャンで,日本にちょくちょくコンサートに行くんだと言っていたのだが,果たして,彼は有名なミュージシャンだったのだろうか?
やがて,飛行機は,朝のトラブルによるリターンが何だったかというように,無事にデトロイトに着陸した。着陸体制に入るとき,機長が,みなさんの協力と優秀なスタッフのおかげで,「わずか6時間」の遅れで,無事にフライトが出来ました,という放送があった。
・・
この旅のはじめにセントレアからのフライトが2時間遅れたときと,今回のフライトの遅延では,これほどまで対応が異なった。この対応の違いを皆さんはどのように感じられるだろうか?
遅れないのが当然だ,客に迷惑をかけるな,というのが日本人の考えなら,フライトというもの自体が実際は困難なもので遅れるのは仕方がない。そのときは,スタッフも客も,それを何とかみんなの協力で,なんとか無事に対処しよう,というのがアメリカ人の考えの根底にあるのだろう。
そして,「サービス」というビジネスの面からは,日本では表面上は頭を下げて過剰なお詫びをするけれど,まったく見返りはなかった。その場さえ取り繕えばいい,苦情が来なければいい,そのうち忘れるさという感じだ。それに対して,アメリカでは契約が果たせなかったから,口先の謝罪ではなく,10,000マイルという実質的な補償がなされたのだった(今日の5番目の写真はそのことが記された書類と配られたサンドウィッチ)。
朝,つまり,引き返す前に,この旅客機に乗り込むパイロットが同僚と話をしていたのがもれ聞こえたのだが,彼は,このフライトでデトロイトへ行って,さらに,そのあと,別のフライトの仕事があると言っていた。しかし,6時間遅れのフライトではパイロットが替わっていたから,朝,話をしていたパイロットだけ,別の飛行機で先にデトロイトに行ってしまったのに違いない。これもまた,ビジネスライクな話だった。
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる④
この時に私が持っていた情報機器は,アメリカの携帯電話会社のSIMカードの入ったXpediaとiPod-touchであった。アメリカでは多くの場所でフリーWifiが繋がるから,電話以外は通信費のかからないiPod-touchで十分なのである。当然、空港の待合所もネットが繋がる。
その私のiPod-touchにメールが入った。便利な時代になったものである。
デルタ航空のアプリにも,私の乗るフライトの遅れ時間5時間が表示されていた。
SONY製のXperiaは充電時に熱暴走をし信頼性がなく,また,OSのAndroidは使いづらいので,帰国後,SIMフリーのiPhoneを購入した。それ以降のアメリカ旅行では,アメリカの携帯電話会社のSIMカードを入れたiPhoneを1台持って行くようになったことは,以前ブログに書いたとおりだ。
おろかな私は,私のような乗り換え客がいるのだから,次のデトロイトから日本へのフライトは,この遅れているフライトが到着するまで待っていてくれるものだとばかり思っていたが,そんなわけがないことに気づいた。いちいちそんなことをしていたら,いつまでも出発できないではないか。
私は,このときはじめて,このままじっとしていてもどうにもならないから自分で行動を起こさなければならないと悟ったのだった。
だからといって,どうしたらいいというのだろうか? どうなるのかは,さっぱりわからなかったけれども,ともかく,よくわからぬまま,カウンタの列に並ぶことにした。こういう時,日本で教育を受けた人間は弱い。人任せで何ひとつ自分で判断できない。このことを痛感した。
そのうち,カウンタの横に,飲み物やらスナック菓子やらの軽食と飲み物が運ばれてきた。
やがて,次のフライトの飛行機が到着して,私たちの待っていた搭乗ゲートは,そこから降りてきた乗客と,次のフライトで出発する乗客と,私たちのように引き返してきて降ろされた乗客がいて,ぐちゃぐちゃになった。
カウンタに並ぶ長い列は,少しずつは捌けて,のろのろと動いてはいたが,新たに並ぶ人のほうが多かったから,列の長さは減るどころかますます増えていった。
それでも,カウンタの職員は,フライト変更の仕事をしつつも,それを中断してまで,なくなった軽食や飲み物を補填したりと,はた目には,やる気があるのかないのか,よくわからぬペースでだらだらと仕事をしているように見えた。それでもなお,ヘルプに来る職員もいなかった。
私の少し前に,中国人の女性がいた。その女性の番になったら,突然,待合所に座っていた,確か10人くらいだっただろうか,その中国人のグループがいっせいに席を立って,カウンタを取り囲んだ。つまり,列に並んでいたのはひとりだったのだが,突然,そこに10人も増えた状態になったわけだ。
これには,その後ろで並んでいた客が怒った。
私も,いかにも「田舎者で旅慣れていない」という風情の中国人たちが場の調和をみだすような不作法な行動をしたことに、やはり、憤りを感じた。
そして,この中国人の御一行様は,何やら,めいめいがごちゃごちゃと難しそうな主張をしていて、意見がまとまらず,ちっとも処理が進まなかった。なんとか策がまとまると,今度は,彼らのひとりひとりから,搭乗券を集めたり,再び配ったりと,やっていることに要領が得ないといったらなかった。
さきほどの怒った乗客が,カウンタの職員に大声で詰め寄ったが,職員はそれには全く動ぜず,「順番だ,列に並べ」と言い放った。そうこうして,かなり険悪な状態になりかかったときに,やっと,ヘルプの職員が来て,その乗客の対応に当たったのだった。
それからずいぶんして,やっと,私の番になった。
私は,何を主張すればいいのか自分でも意見がまとまっていなかったが,ともかく早く日本に帰国したいだけなのだから,「どこを経由しようとかまわないから,できるだけ早く日本に帰国したい」と言った。私の帰国便はセントレア・中部国際空港(NGO)行きであったので,職員が,NGO,NGO…と呪文を唱えながらコンピュータを操作したが,なかなかフライトが見つからないのだった。私は,NGOにこだわらなくとも成田でもどこでもいい,と言った。
それにしても,彼のブロークンな英語がよくわからない。英語がよくわからない,ということに加えて,こういうときに空港の職員がどういった対応をしてくれるのかという基本的なことすらわからないから,こちらも何を主張すればいいのかがわからないのであった。
実社会は1+1=2ではない。世の中のことは,机上の空論ではなく,すべて,経験がものをいうのである。
要するに,彼が言うことは,今日は帰国するためのフライトはもうないから,カンザスシティにもう1泊しろ,ということであった。私は,レンタカーも返してしまったので,ここでもう1泊しろと言われてもダウンタウンに行くのも大変だし,空港の外に広がるカンザスシティ郊外の広い荒野を思い浮かべて,途方に暮れるだけであった。こんなところにもう1泊するのは困ると思った。そして,ともかく,出発の遅れている便に乗ってデトロイトまで行きたい,デトロイトで1泊して,翌日の日本までのフライトに乗りたいと言った。デトロイトなら,空港内にホテルがある。
そこで折り合いがつかないというわけであった。
今から思えば,彼の主張は正しかったのだった。しかし,私は自分の主張を通して,結局5時間どころか6時間遅れになったフライトに乗って,日本へのフライトがすでに出発してしまったデトロイトに行くことになった。そして,結果論として,それは正解だった。
◇◇◇
愛しきアメリカ-アメリカで携帯電話を使う〈決定版〉②
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③
とまあ,行きのフライトの遅れは,私には全く実害もなく,スナック菓子でお腹が満たされたということだけが思い出となった。
それよりも,デトロイトで乗り換えたあとのカンザスシティへの便の到着が夜の9時過ぎという,大変遅い時間であることのほうが,私にはこの旅の計画段階からの心配事であった。このことは,また,後日書くことにしよう。
結局,行きのフライトが遅れた理由は,アメリカから飛行機の到着が遅れたというのが原因であった。
このセントレアからデトロイト便というのは,私がこれまで利用していた,かつてのマニラからセントレア,セントレアからデトロイトという便なのだが,この時期は,セントレアが始発であった。
やっと搭乗する準備ができたとき,入口にデルタの職員が,それまでやっていた仕事を中断してまで,全員そろってズラリと並んで,この度はスケジュールが遅れて申し訳ありませんでした,と言って頭を下げた。こういう悪しき日本の過剰な儀礼はやめてほしいと思う。
この後で書くが,アメリカから帰国するときもフライトが遅れた。このときは機長がお詫びの放送をしたが,それ以上の過剰なことはしなかった。しかし,即座に10,000マイル,私のマイレッジが加算されていた。
乗りこんだ機内はものすごく空いていて,搭乗率は3割くらいだっただろうか。要するにガラガラであった。乗客は,やっと出発だ,という感じで,座席に着いた。
・・
☆9日目 5月17日(日)
問題は帰りのほうであった。
そもそも,私の「セントレアからデトロイト,デトロイトからカンザスシティという行き先に無理があるようで,到着するのは夜の9時過ぎだし,帰国便のほうは,出発が朝の6時過ぎと,ものすごく早い。朝の6時過ぎのフライトだと,起床は午前3時ということになるわけで,これは尋常ではない。
私は帰国の日,目覚ましを3つセットして午前3時に起床して,ホテルで朝食をとり,早々にレンタカーで空港まで行き,レンタカーを自動チェックイン -つまり,車を所定の場所に停めて走行距離を書類に書いてキーと一緒にポストに返すだけ- してから,シャトルバスに乗って,カンザスシティの空港に着いた。
私が苦労して早朝に起床してやっと乗った飛行機は,定刻にカンザスシティを離陸した。
で,ここまでは順調であった。
やがて飛行機が雲を抜けたところで,アクシデントが起きた。
私は,いつものようにグレードアップされたファーストクラスの座席に座って窓から外を眺めながら写真を撮っていたが,突然,再びカンザスシティに戻るという機内放送があった。なんでも,コクピットから煙が出たのだという。
このような緊迫した状態だったのに,機内は何事もなかったかのように,逆に妙に静まりかえっていたので,私は状況が飲み込めなかった。
夢をみているようであったが,実際に飛行機がまた下降を始めたときに急に心配になった。
それでも,なんとか無事にカンザスシティの空港に着陸した飛行機は,滑走路を,気のせいか,いつもよりもかなり早いスピードでゲートに戻りはじめた。
滑走路の周りには消防車が停車しているし,ゴーストバスターズのような銀色の防火服に身を包んだ消防士が非常時に備えて物々しく待機しているという中を,飛行機は出発したときと同じ搭乗ゲートに一目散に戻って停止した。
1時間くらいかけて点検するので,手荷物を持って機内から出るようにという機内放送があって,われわれは,再び,待合所に戻ることになった。
私は,搭乗ゲートを出て待合所の空いたイスに腰を下ろした。
そのときも,まだ,うまく状況が飲み込めず,ぼんやりと,デトロイトで乗り換え便に間に合うのかなあ,などと考えていたが,当初の予定では乗り換え時間が4時間くらいあったから,何とかなると勝手に思った。それは,日本に育った人間の習性で,なんとかしてくれるだろうといった,甘い考えであった。
そんなわけで,私は,待合所で,何をするでもなく,再び飛行機が離陸できるのを待っていた。それでもなぜか楽観気分で,多くの乗客が右往左往したり,電話をかけたりしているのを興味深く眺めていた。
機内で私の隣に座っていた青年は,デトロイトから中国に行くといっていたが,彼も,待合所で私の隣に座って待っていた。
搭乗ゲートのカウンタには,降ろされた乗客が列を作っていた。ボストン・レッドソックスのオルティーズ選手のような大柄のデルタの職員の男性がひとりでそれを捌いていた。
それにしても,こんな有事なのに,ヘルプがいるわけもなく,大変といえば大変であった。
そのうちに,キャンセル待ちの人への連絡や,次のフライトのボランティアを探す放送がかかるようになった。それが次のようなことであったということを,私は,後で理解した。
私が乗ったのは6時25分発のデトロイト行きであったが,その3時間後に,次のデトロイト行きの便があるのだった。空港に引き返した午前6時25分の便がいつ出発できるのかわからないので,次のフライトが先に離陸することになって,そのフライトに変更しようとして,乗客が列を作っていたというわけであった。当然はじめからそのフライトに予約をしていた乗客もいるわけだから,残り少ない残席を求めて,乗客が殺到したのだった。
私は,この次の便では到着後の待ち時間が短いから,搭乗券を購入した段階ではこの次のフライトは予約ができなかったのだが,もし,この時点で次の便に変更できていたら,デトロイトからの日本への乗り換え便に間に合ったかもしれなかった。やがて,私のもとに,出発が5時間遅れになるというメールが入った。私はそのときになってはじめて,これはまずいと悟ったのだった。
お正月の贈り物-ラブジョイ彗星が明るく輝く⑩
思えば,ずいぶんと長く楽しむことができたラブジョイ彗星(C/2014Q2 Lovejoy)でした。
今日の1番目の写真が今年の1月16日,2番目が2月20日,3番目の写真が3月14日に写したものです。昨年の末から,予報よりもかなり明るくなって,美しい姿を見せてくれました。そして,多くの星雲や星団に近づきました。
彗星はうさぎ座あたりからおひつじ座を通って次第に北極星を目指して進み,ついには5月に北極星とランデブーを果たしました。今は,次第に太陽から遠ざかっています。
これまでで一番たくさん写真を写した彗星ですが,いよいよ見納めです。
金曜日の晩は,天気がよくなるという予報でしたが,その一方では雲が出るというレーダー予想もあって,少し迷いましたが,結局星見に行くことにしました。
先週は明け方の星空を見に行ったので,すでにラブジョイ彗星は沈んでしまっていました。そこで,今回は,夕暮れに行くことにしました。
夜空を見ているととてもよくわかるのですが,深夜12時を過ぎると,急に空が暗くなるのです。だから,夕暮れの空は条件が悪いのですが,見に行く方は深夜に起きなくてよいので楽です。
前回も書きましたが,この夏は悪天候が続いたことと,アメリカ旅行をしていたことで,夏の星座であるさそり座といて座を見損ねました。
いや,今でもまだ,いて座は夕方の西空に見ることはできます。しかし,深夜の方がきれいなので,来年までお預けにします。
そして,もう,南の空には,秋の星座であるやぎ座やみずがめ座が見られるようになりました。
秋は,空の暗い所では結構星座が探せるのですが,都会では南のうお座の1等星フォーマルハウト以外は何も見えません。秋の南の空はさびしいのです。
現在,ラブジョイ彗星は西の空ヘルクレス座にいて,11等星です。写すことが出来るのもこの日が最後かもしれません。
ファインターの視野に彗星のいるはずの場所を入れて写真を写すのですが,撮影画像をモニターで見てもなかなか存在が確認できません。それに,時折雲が出てくるので,その都度中断です。
露出時間を変えて何度も写して,やっと存在が確認できました。それが4番目の写真の丸の中ですが,彗星がおわかりになるでしょうか?
この彗星は,今後はどんどんと遠ざかっていって,約8,000年後再び太陽に近づくのだそうです。
他にも多くの彗星が見えているのですが,いずれも10等星より暗いものです。写しても自己満足だけになってしまうのですが,次に狙ったのは,ジャック彗星(C/2015F4 Jack)でした。
今年の3月27日に16等星として発見されたこの新彗星は急激に増光して,7月には10等星になったのですが,現在は12等星,こと座のベガの近くにいます。
非常に条件がよい位置にいて,私に写真を撮ってくれといわんばかりにベガが明るく輝いていたので,その星を手掛かりに彗星の位置を特定して,何枚も写しました。
この彗星はラブジョイ彗星より暗いはずなのですが,明確にとらえることが出来ました。
これが5番目の写真です。
さらに,この晩は,M52(=6番目の写真)とM39(=7番目の写真)という,うかつにもこれまで見損ねていたメシエ天体も写しました。M52は,カシオペヤ座にあります。ハーシェルは「大きく星数が多く,丸く集中している。星の等級は9~13等」と記しました。約200個の若い星からな散開星団です。この写真の右上に淡く赤く写っているのは「泡星雲」と呼ばれる散光星雲NGC7635です。中央にある明るい星の周りに泡のような模様が見えるのでこのように名づけられました。
M39は,はくちょう座にある散開星団です。ジャンティが発見したもので,「大きな雲のよう。片方が大きく反対側の端は東南に向かっている。はっきりとしないが肉眼で見える」と記しました。
星ひとつひとつが明るくて,肉眼でも見ることができます。双眼鏡では写真と同じように天の川の中に三角形状に明るい星がかたまって見えて,とてもきれいです。
・・
思ったよりも雲の多い夜でしたが,この日の雲は流れるのではなくて,湧き出しては消えるのです。でも幸いなことに,狙った場所には雲があまり出なかったので,たくさんの写真を写すことができました。
9月の星見はこれで終わりです。10月になると,もう,夜はかなり寒くなります。また,夜露との戦いが始まりますが,星はずっと美しく輝きます。来月は,南の空が暗い所へ出かけて,くじら座あたりの銀河を写そうと思っています。
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星を見るのも大変だ-クリスマスの大彗星①
星を見るのも大変だ-クリスマスの大彗星②
お正月の贈り物-ラブジョイ彗星が明るく輝く①
お正月の贈り物-ラブジョイ彗星が明るく輝く④
お正月の贈り物-ラブジョイ彗星が明るく輝く⑨
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる②
このようにフライトが遅れたときには「何か」見返りがあるから,知らないと「損をする」こともある。わたしは,ミールクーポンが出ることを知らず,もらい損ねたことがある。
これを書いていて,もうひとつ思い出したが,以前,ロサンゼルスから関西国際空港に戻るときに,定刻に出発すると,関西国際空港に到着するときにちょうど台風の直撃に会うから出発を2時間ほど見合わせる,という出来事があった。このときは,ロサンゼルスの空港内のレストランで使える2,000円相当のミールクーポンをもらった。
今回は,カバンを預けるときにカウンタの職員にミールサービスがあると言われた。
私は,ミールサービスが実際に軽食が配られるのか,ミールクーポンのようなものがもらえるのかが分からなかった。自分で勝手に搭乗ゲートで配られるものだと思ってしまったので,どこでそれがもらえるのかは確認しなかった。ミールサービスがはじまる時間だけはしっかり聞いた。
しばらくラウンジで時間をつぶしていた。ミールサービスがはじまる時間になったので,まだ出発にはずいぶんと時間があったが,私は,セキュリティチェックをして出国ゲートをくぐって,搭乗ゲートまで行った。
あとから思うと,そんなに急がなくとも,デルタ航空のラウンジでのんびりとすればよかったのだ。ところが,ミールサービスが行われると聞いた時間の5分前くらいになっても,ゲートではそうした兆候すらなかったから,私は,配られる場所はチェックインカウンタではないか,と心配になった。それなら,もう出国ゲートを入ってしまったから,戻れないではないか。
そんなことを考えながら少し待っていたら,デルタ航空の職員が,ワゴンを引きながら現れた。
そして,私の乗る便の搭乗ゲートは,その前に別のフライトがあって込み合うから,その隣の搭乗ゲートで軽食を配ると言って準備をしはじめたので,搭乗券を見せて,軽食を受け取ることができた。
そのときに受け取った軽食セットというのが,今日の写真のものであるが,軽食というよりも,これはお菓子の詰め合わせと飲み物であった。
はじめの頃は,飲み物はひとり1本とか渋いことを言っていたが,しばらくすると,用意されたものが余ってきて,そんなことはどうでもよくなって,飲み物はいかがですかと聞いてきたり,さらには,ボールペンとパズル本のセットが配られたり,挙句の果てには,デル航空のトランプとか… 不思議なものまで出て,在庫一掃セールの様相を呈してきた。出発時間が近くなって,ようやく現れたパイロットや客室乗務員にまで,どうですか? と言って配っていた。
そんなこんなで,おもしろい経験をした。もらっておいて文句を言ってもいけないけれど,夕方の食事時にあれだけのお菓子を手に入れて,欲望のおもむくまま食べてしまったので,妙ににお腹が膨れてしまった。
私は,幸せなのか不幸なのかよくわからない状態になった。
もらったデルタ航空のトランプセットが,今,手元に2組もあるのだが,果たして,これが希少価値のあるものかどうかは,私にはわからない。
・・
この旅では,帰りにもフライトが遅れるのだが,その時の対応の違いが,また,おもしろい。このことは後日書く。
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる①
☆1日目 5月9日(土)
今回の旅では,行きも帰りもフライトが遅れた。これまで,こんなことはほとんどなかったので,偶然とはいえ,びっくりした。
私は,これまでに,旅先で数々のトラブルに出会って,それをサバイバルしてきたので,フライトが遅れるくらいの出来事は「想定内」ではあったが,今回ははじめての経験がたくさんあった。
きっと,個人で旅行をする人には,こうしたトラブルの対処法は気になるところだと思うので,今回の旅行記では,まず,このことを取り上げてみたいと思う。
・・
まず,行きのフライトが2時間遅れた話からはじめよう。
今や,フライトの情報はメールで受け取ることができる時代なのだが,出発当日,自宅を出る準備をしていたときに,予定されたフライトが2時間遅れるというメールが突然入ったのに,まず,びっくりした。しかも,その後もメールが頻繁に入ってきて,その都度,遅れる時間が遅くなったり早くなったりと揺れ動くのには困った。
遅れるということがあらかじめ分かってはいても,その期間が揺れ動くのだから,空港に遅れて到着するわけには行かない。しかたがないので,予定した時刻に到着するように家を出た。
今回は,セントレア・中部国際空港からデトロイトまで行って,そこで4時間ほどの待ち時間があって,カンザスシティまで乗り継いで行くことになっていたから,一番の問題は,乗り継ぎ便に遅れないかということであった。
空港に着いて,とりあえず,自動チェックインをすませて,カバンを預けた。そのときに乗り継ぎについてきいてみたら,時間の余裕が1時間30分あればよいと言われたので,ぎりぎりとはいえ大丈夫だろうと思った。到着が遅れても,デトロイトで待つ時間が少なくなるだけだから,むしろ私には好都合といえなくもなかった。
また,遅れたので,ミールサービスがあると言われた。
私の後ろにビジネスマンが2人並んでいたのだが,むしろ,彼らのほうが乗り継ぎ便までの時間が短いということで,フライトを変更するかどうかを検討していた。
結局,私は,デトロイトでの待ち時間が少なくなっただけで,何の問題もなくカンザスシティに到着することができた。ビジネスマンの方は,デトロイトで航空会社の日本人職員が待ち構えていて,そのアシストで足早に入国を済ませ,なんとか乗り継ぎ便に間に合わせたようであった。
ともかく,このように,乗り継ぎ便があるときは,目的地への到着まで航空会社が何とかしてくれるので,それほど心配することはない,というのが結論なのだが,最悪の場合,次の便がなく,途中で宿泊することになる場合はあるから,短い休日に海外旅行をする人は,一層それが短くなる,という可能性もあるのは,こころに留めておいたほうがいいかもしれない。さらに,こういったときに備えて,1日分の着替えは手元に持っていた方がよい。
と書いていて,私は思い出したことがある。
それは,今から30年くらい前に,成田からパリに行ったときのことだ。
すでに乗客がすべて機内に入り,出発を待つだけのときに,機内に不具合が見つかって,出発できなくなったのだった。正確には覚えていないが,確か出発は夜の10時ころだったのだが,当時の成田は,深夜の出発ができなくて(現在はできるかどうかは知らない),一旦飛行機から下ろされて,近くのホテルに泊まることになった。ホテルに着くと,深夜なのに豪華な食事が出た。そして,明け方に起こされて,眠い目をこすりながら早朝の出発となった。このときは,現地の到着後に乗り換えなかったから,初日のスケジュールが4時間ほど遅れただけで事なきをえた。
しかし,この遅れたことが,このときの旅行で一番の思い出になったのが,皮肉なことであった。
◇◇◇
昨日の「Adopt A Highway Litter Control」は,ボランティアによる道路掃除区間ということです。
道路の掃除を年に数回行うことで、この看板の下に企業名とか団体名などの固有名詞をのせることができるという仕組みです。
軽犯罪者の奉仕活動として道路掃除を行っているところもあります。
このため,アメリカは日本のように道路がゴミだらけということがありません。
愛しのアメリカ-我が「9・13」11年前の今日
また,今年も9月13日が過ぎました。9月も中旬から下旬となるとさわやかで,モンタナ州の気候と同じです。もう,11年も経つのに,普段は忘れていても,この季節になると思い出します。
・・
帰国してから入院していた家の近くの病院も改築されて,よりきれいになりました。これが,過ぎ去った11年の月日を物語っています。
私は,11年前の9月13日,モンタナ州のビュート(=1番目の写真)近郊の「インターステイツ90・マイルマーカー246」地点(=2番目の写真)で交通事故に遭いました。ビュートの病院に入院,1週間後に帰国してそのままこの病院に転院したので,今でも,この病院を見ると「どこでもドア」のような気がするのです。
つまり,この病院がそのままアメリカにつながっているような,そんな感じなのです。おまけに,病院の外観が,アメリカで入院していた病院とそっくりなのが,また,不思議なことです。
日本の病院に転院して以来,入院中は暇で,午後のリハビリだけが楽しみでした。夜なんて,特にすることもなく,人気のない1階の自動販売機コーナーで缶コーヒーを飲みながら,仕事を終えた夜警さんとおしゃべりをするのが気晴らしでした。そんなことを,今でも思い出します。
今から9年前,つまり,事故に遭ってから2年後,事故に遭った地に再び行ってみようと思いました。その場所に行ってみると,とても感慨深く,また,「インターステイツ90・マイルマーカー246」地点は,特に事故に遭うような場所ではないのに,と思ったことを記憶しています。
・・
そして,今年の夏,私は,期せずして,三度,この場所に行きました。今回は行く気もなかったのですが -これはまた後日旅行記で書きますが- モンタナ州の州都ヘレナに行くことになったので,その帰路ビュートから少し寄り道をして,「インターステイツ90・マイルマーカー246」を経由して,ボーズマンまで行ってみたのです。
ところが,今回改めて通ってみて,当時とはまったく違く感想を持ちました。それは,きっと,その後,数多くアメリカの道を運転したことで,経験が豊富になったせいだと思います。
インターステイツ90というフリーウェイおよびターンパイクは,西はワシントン州のシアトルから,東はマサチューセッツ州のボストンまで大陸を横断する道路ですが,モンタナ州のビュートからボーズマンまでは,日本でいう,峠越えなのです。
道路は片側2車線の整備されたものなのですが,かなりの急こう配のカーブ(=3番目の写真)で,コンボイはスピードが全く出ず,時速30マイル,つまり,50キロメートルにも満たない速度で苦しそうに登って行きます。そんなことすら知らなかったころの私は,おそらく,そんなものだと思っていたのでしょうが,その後,多くの道路を走ってみて,こんな急な上り坂のあるインターステイツはアメリカではまれなのです。ユタ州のインターステイツ15,コロラド州のインターステイツ70もロッキー山脈の中を通る峠越えの道ですが,これほどの坂はありません。
悪天候時にこんな道路を不慣れな日本人が走るのは,確かに危険なのでした。
アメリカの車には,クルーズ・コントロールという機能があります。今からずっと前に日本で発売された車にもこのクルーズ・コントロールが装備されたものがありましたし,今も高級車にはついているようです。しかし,そのころの私はアメリカの道路事情など知らなかったから,こんな使えない機能,必要なのだろうかと思った記憶がありました。クルーズ・コントロールというのは,速度を設定するとアクセルと踏まなくてもその速度で車が走り,解除するにはブレーキを踏めば解除できるという機能です。
アメリカで車に乗るようになったころは,これはすばらしい機能だと思って,私は多用していました。登り坂になると勝手に車が加速するのはかなり爽快なのです。今でも,アメリカでドライブを経験した人のブログに,どうしてこの機能をもっと使わないのだと書いている無知な人がいます。
しかし,使い方を誤れば,こんな危険な機能はないのです。当時の私は,そんなことも知らなかったのにインターステイツ90の峠越えをしていたのです。
今,余裕を持って走ってみると,「悪天候時,クルーズ・コントロールを解除」という道路標示があることに気づきます。「Don’t use cruise control in the rain.」です。きっと,昔の私には,このことが何を意味するかすらわかっていなかったのだと思うのです。これは,どういうことかというと,クルーズ・コントロールを設定すると,道路が凍結したり濡れていても自分でアクセルを踏んでいないので,道路の状況がわからないのです。そんな状況で車が勝手にスピードを出すのだから危険極まりないわけです。そして,そのときにクルーズ・コントロールを外すためにブレーキを踏めば,恐ろしいことになります。現に私がそうなりました。
一般には,日本で運転をするよりも,アメリカで運転する方が,ずっと楽だし,安全です。その理由は,道路が広く車が少なく,しかも,道路標識などがきちんとしているということが挙げられます。アメリカで車を運転しようとするときに左ハンドルがネックになると思っている人がいますが,これは,すぐに慣れますから,心配はいりません。しかし,やはり,知っていなければいけない「常識」がいくつかあるわけです。そういういくつかの「常識」を,私は,経験として次第に身につけましたが,このこともまた,机上の勉強ではわからないことなのです。
話は変わりますが,今年,ビュート付近のインターステイツ90を走っていて,よく目にした道路標示に「Click It or Fine.」や「Click It or Ticket.」(=4番目の写真)がありました。どんな意味なのかなあとずっと考えていたのですが,「シートベルトをしないと罰金ですよ」だということに,近ごろふと気づきました。
ちなみに,「Adopt A Highway Litter Control」(=5番目の写真)という標示もアメリカ中で見かけますが,どういう意味がご存知ですか? 私は,このシステムは素晴らしいので,日本でも取り入れたらいいと思うのですが…。
生きた英語というのは,おもしろいものです。そして,アメリカでは常識であっても,日本で全く知らないことがたくさんあるのです。でも,学校では教えてくれませんし,きっと,アメリカで暮らしたことがなければ,英語の先生も知りません。それは,英語の能力ではなく,経験だからです。
◇◇◇
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に①
2015春アメリカ旅行記-めざせ50州制覇
2015年5月,私は,今年1回目のアメリカ旅行に旅立つことにした。
行き先は,カンザスシティと決めた。
・・
私の手元に,これまでに出かけた場所を赤い線で引いたアメリカの地図があって,その地図には中央部が手つかずですっぽりと抜けていた。
いろんなプランを立てては,あと何回行けば50州制覇ができるのか考えるのだが,大西洋岸に面したノースカロライナ州,サウスカロライナ州は,ワシントンあたりからフロリダまで一気に走り抜ければ行くことができるのだが,カンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,テネシー州,ケンタッキー州… のあたりは,やたらとごちゃごちゃしているし,特に魅力もなさそうだし,どう旅をすればいいのか,ずいぶんと迷った。
50州制覇,なんて考えていなかった頃にニューオリンズに行ったが,そのとき,ちょっと足をのばしておけばミシシッピ州やらアラバマ州なんてそのときに行くことができていたのに,それも今となっては手遅れだ。ということで,ともかく,ずっと気になっていたカンザスシティへ行って,そのあとは成り行き任せで行けるところまでドライブしようと考えた。
今回からは,そんな2015年春の旅行記である。
きょうのブログに載せた地図は,今回走ったルートも書き加えたものである。
ともかく,結果として,私は,予定以上の距離を走って,念願のアメリカ合衆国の中南部をすべて走り抜けることができた。実際,こうして走ってみると,大陸横断なんて,訳ないことに思えるようにもなった。
今回行った州のなかでは,アーカンソー州やらミシシッピ州なんて,この先,きっと再び行くこともないであろう。しかし,オクラホマ州やミズーリ州,そして,イリノイ州などは,私は,そのうち,まだいつかドライブしているに違いない。アラバマ州も,もう一度行ってみたいところが残っている。
・・
さて,今回の旅を終えて,50州のうち残る州は,ノースカロライナ州とサウスカロライナ州,そして,ハワイ州だけとなった。この旅で,私は,マラソンでいう38キロメートル地点を越えた,というわけであった。
ハワイ州はいうまでもなく,ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は美しいところだと皆がいう。来年以降が楽しみだ。
では,次回からの旅行記をお楽しみに。
「想い出のサンフランシスコ」⑭-2015夏アメリカ旅行記
楽しいサンフランシスコの休日であった。数年前に行ったニューヨークもそうだったが,わずか2,3日でも,大都会は公共交通が発達しているから,それをうまく利用すると,思いのほかいろんな経験ができるし,一杯想い出を作ることができるのだ。
それは,国立公園などを巡るのとは全く違ったものである。
ニューヨークへ行ったとき,ここは東京と同じだと思った。それはニューヨークへ行くなら東京へ行けばいい、という意味ではない。ニューヨークへ行くことは東京へ行く程度の気楽さだということだ。私は,明日行けと言われれば行くことが出来る。
そして,サンフランシスコは京都であった。ボストンも京都だと思ったが,それとは全く異質の京都であった。
そして,ここも,私の精神的な距離感は,京都へ行くのとさして変わらないと思うようになった。
そんなわけで,今や,私には,ニューヨークだ,サンフランシスコだといわれても羨ましくもめずらしくもないし,あこがれもなくなってしまったが,この旅で,確実に,私の心に「想い出」(思い出ではない)という貴重な宝物がまたひとつ増えた。
今より齢をとって,アメリカ大陸をドライブできなくなっても,ここなら,まだ行くことができそうだ。
6月29日月曜日,帰国の日が来た。ホテルで空港までのシャトルバスを予約してあったが,定刻にバスがやってきた。
ホテルも,BARTの駅から少し距離があったが,とても快適であった。
シャトルバスの運転手は,とてもかっこいい黒人さんで,たいして多くもない乗客が聞いているとも思えなのに,しっかり大きな低音を響かせて案内をしていて,とてもほほえましかった。アメリカでは,こういうことは,すべて個人の裁量でやっているから,ものすごく個人差が大きいのだ。
私はすっかり快適になって,空港で降りるときに,出さなくてもいいチップをはずんだほどであった。きっと,この人はこうした稼ぎが確実に違うと思われる。
サンフランシスコ国際空港はユナイテッド航空のハブ空港だから,デルタ航空は肩身が狭い。端っこの方に追いやられたところにターミナルがあった。
私は,いつも,デルタ航空のハブ空港ばかりを利用しているから,アメリカでデルタ航空でなくてユナイテッド航空の旅客機がズラリと並んでいるのが不思議な景色に見えた。
今回もまた,フライトが40分遅れるということであった。
今年のフライトは定刻通り運行されたことがない。ここからシアトルを経由して成田まで帰国するのだが,シアトルで,また乗り遅れるのだけは勘弁してほしいと思った。
カウンタで聞いてみると,シアトルに連絡を入れておくといわれた。
40分遅れで,時間通り? 離陸した。私の座席はファーストクラスに変更になっていたらしい。ゲートを通るときはそれを知らずに進んで行ったら後ろから名前をよばれて新しい座席の番号が書かれた紙を渡された。
そんなわけで,機内で豪華な朝食が出たのだが,これが予定外だった。ファーストクラスでは,機内で客室乗務員から名前でよばれるのが心地いい。
隣の男性はビジネスマンで,よく仕事で日本に行くと言っていた。日本ではしゃぶしゃぶがおいしいという話をした。モンクフィッシュが美味だとも言っていた。モンクフィッシュ(monk fish)とは,アンコウのことだが,それは何かの間違いではなかろうか? 彼は 日本に行くと,日本人のだれもがはじめに「私は英語が話せません」と紹介するのが不思議だと言って笑っていた。そして,ネクタイをしなくちゃいけないのが嫌いだ,と言った。
機内からは,シアトル近郊の山々が綺麗に眺められた。雪をかぶったマウントレイニーが美しかった。
やがて,シアトルのダウンタウンが見えてきて,シアトルタコマの国際空港に到着した。そのまま空港の地下鉄に乗ってターミナルを移動して,すでに搭乗手続きのはじまっていた成田への帰国便に飛び乗った。
日付変更線を越えたので,日本帰国は6月30日火曜日であった。
成田エクスプレスは予定通り運行していたが,東京駅で,新幹線の中で自殺者がでたという話でごった返していて,新幹線に乗るのに一苦労だった。 たまたまこんな日に偶然に居合わせるなんて!
5月のアメリカ旅行は,飛行機のトラブルで帰国が1日遅れた。今回は,東京で足止めである。
ともかく,一番先に出発が再開される車両を聞いて,それに乗り込んだ。幸い座ることができた。新幹線はとりあえず動き出したが,だらだらと停止を繰り返していた。出張帰りの人たちがうんざりした様子でそれに耐えていた。それはアメリカの国内線の機内の雰囲気とは全く異なっていて,まるで囚人たちの護送のようだった。
私は自由席に乗ったからさほどの遅れもなかったのに,列車自体は定刻よりも2時間以上の遅れが出たからということで,特急料金の払い戻しができるといわれた。日本は本当に不可解で不思議な国だと思った。今や,私には日本で生きる適応能力が欠如しているらしい。
フライトといい,新幹線といい,今年の旅は,定刻通りだったたことがなかったが,これもまた,いつの日か,懐かしい想い出に変わるのであろう。
◇◇◇
「想う」とは,心に浮かべるだけでなく人や物など対象が特定できること。
今さら「火花」について-私には何も書けない。
ハードカバーの小説がどうして売れるのか,私にはさっぱりわかりません。一度読んだっきりで本棚にしまわれる,それだけならまだいいのですが,あの重さとかさは並みのものでありません。と書いておきながら,私も昔は本の虫で,実家には床が抜けるくらいの本があります。しかし,それを再び読み見直すむということはめったにないし,たまに読み直したいと思う本があっても,今度はそれが探せません。だから,私は,今は小説は買いません。
流行本というのは,流行っているときは図書館でも待ちが多いので,買わないと読めないということもありますが,たいていは,少し待てば容易に借りられるし,待てないようなものなら,所詮その価値は知れています。
学術書の類は別ですが,それでも,現代は学問の進歩が著しく,それを蔵書にしても,数年も経てば内容が陳腐化してしまいます。特に理工系の本はそうです。古いものを今読んでも,それが現在でも通用する学説なのかそうでないのかがわからないのです。
ともかく,そんな状況なので,昨今の電子ブックというのは,非常に助かります。
私は,「TIME」や「SKY & TELESCOPE」という雑誌をデジタルで購読していますが,とても便利です。今や,アメリカでは紙の媒体で本や雑誌を読んでいる人なんてほとんど見かけません。それに比べて,日本では,なかなか電子化が進まななくて困ります。それが,私が日本語の本や雑誌を読まなくなった原因でもあります。
・・
それと同じように,日本では旅行をするときに困るのが宿です。
アメリカなら,ふと旅に出ても,どこにでも必ずひとりで泊まることができるモーテルがあるのに,日本ではそれをさがすのが大変なのです。都会ならまだしも,郊外では絶望的です。未だに女性のひとり客を泊めない宿さえあるそうです。
そんな日本で安く宿泊しようとすると,日本式の家屋の場末の宿になります。私は,昭和の匂いがする,そういったところに,何度か泊った経験がありますが,それは,「寅さん」の世界か,五木寛之さんの「青春の門」の世界です。そういうところに泊ると侘しくなってしまいますが,また,逆にその哀れさに酔ってしまったりもします。でも,少なくとも,特急列車よりも鈍行のほうが楽しいように,高級ホテルの居心地の悪さよりも,私にはずっと快適です。
ここで話は脱線しますが,日本の「場末の宿」とアメリカの「モーテル」はすべてが真逆です。
たとえば,場末の宿だと,用意されているのは,手ぬぐいと歯ブラシと寝間着です。しかし,部屋には風呂もトイレもありません。布団も敷く必要があります。アメリカのモーテルだと,歯ブラシも寝間着もありませんが,大きなバスタオルにシャンプーと石鹸,そして,部屋にはバス・トイレがありますし,ベッドでいつでも寝られます。
どちらが,プライバシーを重んじていて,しかも合理的であるかは明白でしょう。
・・
どうしてこんな話を書いているかといえは,それは,芥川賞を受賞した「火花」について書こうとしたからなのです。でも私には何も書けませんでした。読みながら思ったのは,そうした日本の場末の宿のことだけでした。
元来,私は,お笑い芸人というものに,全く興味がありません。むしろ,嫌いです。だから,せっかく自分の興味のある内容のテレビ番組でも,そうした類の人が出演するだけで見る気がなくなります。民放の番組はほとんどがそうです。近頃はNHKBSでさえもそうした類の番組が増えてきました。
だから,私は,この本を読み終えて,最後まで退屈しなかったけど…,という感想しか出てこないのです。残念ながら。
この本は,若者が夢を追い続けて,挫折して,そのやり場に困って,という流れの中で,楽屋裏の話が語られていて,その楽屋話が一般の人には興味深い,ということなのでしょうが,こんなテーマなら,NHKの朝ドラでも同じです。ならば,朝ドラの最高傑作である「あまちゃん」にはとても敵いません。
若者はみんなそうして自分探しをして,ほとんどの人は「ふつうのおじさんやおばさん」になっていって,いろんなことを本当は後悔して死んでいくのです。その中で,ほんの一握りの人だけが幸運を手にするのです。それが本当に幸せかどうかは別にして。
でも,そうした普通の話のほうが成功話を読むより居心地がいいのは,高級ホテルが居心地が悪いのと同じことです。成功話を見たり聞いたりしてその通りまねても決してそうはなれない。それは運だからです。それだけのことです。
蛇足を承知で,再び書きます。
「火花」は200万部に迫る売れ行きだそうです。出版社にとれば笑いが止まらないことでしょう。そこにさらに芥川賞という箔がついたのだから。
この本に限らず,図書館で雑誌「文藝春秋」を読めばわずか数十分で事足りる小説を,1,296円も出して買う人,って,私には理解できません。2度読む人っているのでしょうか? きっと,そういう人は,大金持ちか,将来「ふつうのおじさんやおばさん」になる人か,それとも,今はやりの「貧乏老人」の予備軍なのでしょうか?
私には,そんな小説よりも,むしろ,現在朝日新聞に連載されている瀬戸内寂聴さんの「寂聴・残された日々」の方がずっと深みがあって面白く読めました。特に,9月11日付の「もう一人の男」は圧巻でした。これを読むと,人間というのは,本音で生きると,かくも生々しいのかということがよくわかるのですが,ここまで本音で生きられる男のことを,これほど本質迫って書ける寂聴さんの文章というのは,人生を自分らしく生き抜いたゆえの証であるということを,如実に物語っています。
・・・・・・
芸術家の本質は,ひかれた軌道をまっすぐに歩めないほどの情熱と乱心が胸に巣喰っているものはないだろうか。
「寂聴・残された日々」より
・・・・・・
小説というのは,本来,こうしたことを書きたいものではないでしょうか。
「想い出のサンフランシスコ」⑬-2015夏アメリカ旅行記
期せずして私はプライドフェスティバルのパレードに遭遇した。
ホテルに帰ってからテレビを見ていたら,このパレードの様子を録画中継していた。パレードに参加していたのは,サンフランシスコに関係のある様々な団体やら会社に所属する人たちだったから,これも日本のお祭りと同じだと思った。
参加する人も見ている人も,その動機はさまざまだし,日本のお祭り同様に屋台もあった。また,クダを巻いて逮捕されている者もいた。
まだパレードは続きそうだったけれど,私はあす帰国なので,今晩はのんびりと過ごそうと思ったから,そろそろホテルに戻ることにした。
しかし,それからが大変だった。
問題なのは,マーケットストリートがパレードのために通行止で,道を渡るには,BARTの地下の駅の通路を通るしか方法がなかったことだった。当然,地下は多くの人でごった返していた。
私は,BARTの駅に行こうとしたのだが,規制がかかっていて足止めになった。つまり,多くの人がすし詰め状態だったのだ。それでも,アメリカ人の陽気さで,まったく険悪なムードではなかった。やがて規制が解けてそろそろと動き出したら,拍手喝さいになったのである。
こんなプライドの状況を経験した日本人もそれほど多くはないのではなかろうか。
思えば,私がサンフランシスコで過ごしたのは,わずか3日間であったが,これまでに書いたように,これで,十分に想い出の残る観光がたくさんできたのだった。
数年前に行ったニューヨークもそうだったが,都会は見どころが多いから,1日の密度が濃いわけだ。
そうしてやっと乗り込んだBARTだったが,私の行き先が多くの人が目指すダウンタウンとは反対だったから,車内は空いていた。
いつものようにミルブレー駅に着いて,ホテルまで歩いて戻ることにしたのだが,夏時間のこと,まだ明るくて,のんびりと散歩ができた。
いつも歩いている広いストリート州道82,エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)の1本西の道ブロードウェイ(Broadway)を歩くと,そこは商店街であった。モールもあった。
ホテルでは夕食がとれないので,どこかないかといろいろと探したのだが,気に入ったところがなく,結局,ホテルの近くにあって,いつも多くの客でにぎわっていたので気になる存在だった「ミルブレー・パンケーキ・ハウス」(Millbrai Pancake House)というレストランに入ることにした。
まだ,夕食時には少し早かったので,ほとんど客はいなかったが,サラダとクラブサンドを注文した。
アメリカの食事はどこも量が多いから,サラダだけで十分だったほどだ。
今日は,最後に,ホテルの近くに「塾」があったので,その写真をご覧いただこう。
あとで知ったのだが,この辺り,結構日本人が住んでいるところらしい。いわば,サンフランシスコのベッドタウンだ。そして,ここから南に行くには鉄道カルトレイン(Caltrain)が走っていて,ミルブレー駅で乗り換えることができる。その先にあるのはサンノゼ,つまりシリコンバレーなのだ。
日本人がいれば,その陰にあるのは「塾」。ということで,ここにも公文と個別塾があった。日本人はドリルが大好きである。ドリルをやればそれが勉強だと思っている。そして,点数で人間を序列化する。私の友人は,それを「ドリラー」と名づけた。
私は,こうしてひとりでアメリカを旅行するようになって一番思い知ったのは,紙の上での知識や,実のない肩書というのは,所詮,砂上の楼閣だということだ。
「日本人の能力と思考の限界」について書いたことがあるが,昨今世間を賑わしているニュース,つまり,安保法案,消費税還付案,東京オリンピック,マイナンバー制度… なんて,それを如実に物語っているではないか。
いや,「日本人」といっては失礼だった。「日本の指導者」といったほうがいい。
「ドリラー」が単にいい点数をとる能力があるというだけで,それが「テストの点が高い=学力が高い=頭がいい」とされ,一流といわれる大学に入って,指導者になっているのがこの国だから,こうしたザマなのだ。だから,彼らは経験に基づいて自分の言葉で正当な議論ができないので,強がり威張るのだ。そして,威圧的になり人の意見を聞かない。
これはまさに私がこれまで経験した上司そのものだ。 彼らのタチが悪いのは「人に厳しい=自分は偉い」という勘違いを信じていることだ。彼らの熟(な)れ果てた姿を老人ホームが持て余している。
残念ながら,普段,日本で話をしていると,そういった「ドリラ―」的な価値観「テストの点が高い=学力が高い=頭がいい」を絶対と信じている人が多い,というよりも,ほとんどがそうだということに,私は驚くとともに,そうした見方しかできない人たちを気の毒に思う。 このことが「日本人の能力と思考の限界」だ。
だから,塾がはびこり,学校では補習ばかりやっている。
思えば,私がこれまでに学んで得たことや身についたこと,そして,今役立っていることのほとんどは,自分で本を読んでそれをもとに考えたり工夫したりしたことや,実際に行動し体験したり,試行錯誤して失敗したりして得た知恵ばかりだ。
語学なんて,まさしくそうだ。問題集なんてやっても何も身につかない。それよりも,語学は恥をかいただけ上達した。
学校で,教師が授業で「教えた」ことで,雑談以外にためになったことなんてない。教えたことによる成果は,教師の作ったテストで正解が書けるというそれだけのことだった。そして,これは重要だと習ったことのほとんどは,学問的に重要なのではなく,テストに出題されるというだけのことだった。
所詮,本で得た知識の受け売りをしているだけような教師の教えることなんて,同じように本を読めば身につくわけだ。まして,私の学生のころとは違って,現代のネット社会では,情報などだれでも平等に手に入る。むしろ,それを使いこなせない,あるいは,外国語のできない教師よりもずっとたくさんの情報を得ることができる。
私には,実際に体験したわけでもないのに,そんな人たちから人生について語られても,それは無難に生きることが人生の第一目標の公務員の机上の空論でしかなかった。 それよりも,それが教師であろうと誰であろうと,自ら体験し,それを自分の言葉で語れる人の話こそ,有益なものであり,得難いものであった。
これは,教師を責めているのではない。国は金を出して教師にそういう経験をさせろということだ。
「チェリュモフ・ゲラシメンコ」-人間が手に入れた彗星
それにしてもずっと晴れません。ここ数か月星を見たことがありません。おまけに,関東から東北にかけては,大災害が発生しました。
私は,前回「星見」に出かけたのが5月27日なので,あれからずいぶんと日にちが過ぎてしまいました。ついに,この夏は,夏の星座を見ることがかないませんでした。こんなことになるのなら,5月27日に,ラブジョイ彗星の北極星とのランデブーだけで満足しないで,朝までさそり座といて座の星団たちを堪能すべきでした。メシエ天体制覇まで1年お預けです。
あれから,新月が3度過ぎて,4度目が9月13日。そういえば,この次の満月はお月見であり,日本では見られませんが皆既月食であり,スーパームーンです。
昨晩の天気予報も微妙で,信じていいのかいけないのか,随分と迷いましたが,ともかく出かけました。いくら日の出が遅くなったとはいえ,まだ午前5時20分くらいなのですが,幸運なことに空が明るくなりはじめる午前4時までずっと快晴でした。日の出とともに曇ってきたのもまたご愛嬌かな。
昨年は,ラブジョイ彗星(C/2014Q2 Lovejoy)という思わぬ伏兵が登場して,ずっと楽しむことができましたが,さすがに暗くなってしまいました。それでも今まだ9等星ですが。これからの楽しみは,11月に明るくなるといわれているカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)です。
この日は出かけたのが遅かったので,ラブジョイ彗星はすでに沈んでいて,もう何もありません。
実は,この日の私の目的はチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67P Churyumov-Gerasimenko)を写すことでした。暗くなったラブジョイ彗星よりもさらに暗くて,最接近時の8月13日の光度予報は11等星やら13等星やら。明るさがよくわからなかったのですが,12等星までなら写す自信があったので,なんとか,とこれまで晴れるのをずっと待っていました。でも,写るといっても,単に小さなゴミのような点が写るだけ。そんなもの,何になる? と問われればそれだけのことですが,この彗星,特別な意味があるのです。
このことはすでに書きましたが,少しだけおさらいです。
2004年3月2日に欧州宇宙機関が打ち上げた彗星探査機「ロゼッタ」(Rosetta space probe)は,2014年8月にチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星に到着し,11月12日には地表に着陸機「フィラエ」(Philae)(=1番目の写真)を投下,「フィラエ」は彗星の核に着陸し,史上初の「彗星に着陸した探査機」となったのです。
ところが,史上初の彗星着陸を果たしたものの,太陽光がじゅうぶん当たらない日陰に着地してしまったために着陸後しばらくして電力不足により冬眠モードに入ってしまいました。彗星が太陽に近づくにつれて日照時間が増えて再起動を果たし通信を再開すると期待されていたのですが,ついに目覚めて,6月13日に7か月ぶりの交信に成功(=2番目の写真)。しかし,24日から再び通信が途絶えてしまいました。そして7月10日再び通信に成功して,彗星核の内部構造を探る観測機器からのデータを受信,というわけなのです。
つまり,チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星は人間が手に入れたはじめての彗星なのです。これは写すのが礼儀というものでしょう!
先日,冥王星にも探査機が到着して,それを機会に,愛好家に冥王星を写すというのがはやったのですが,こっちこそ,単なる点が写るだけ。しかも,写っていても,どの星が冥王星なのか探すのにまる1日かかったとかいう笑えない話もあります。しかし,冥王星は別に焦らなくても写せるのです。しかし,彗星はそうはいきません。太陽に近づいている今だけ明るくなるのです。
東の空に彗星が昇るのが朝2時30分ごろなので,それまで,天王星(=3番目の写真)を双眼鏡で見たり,星雲の写真を撮ったり(=4番目の写真・M42,5番目の写真・M77)していました。天の川が天頂まで横たわっていて,それはそれは美しい星空でしたが,南の空に輝いているのは,すでにさそり座ではなく,秋の夜空のたった1つの1等星フォーマルハウト,そして,不気味な存在をしめすのが,くじら座でした。
東の空にオリオン座が堂々と昇り始めました。やたらと流れ星が多く,まるでオリオン座流星群のよう,と思ったら,この日は奇しくもペルセウス座ε流星群の極大期でありました。
やがて,ふたご座が姿を現して,ついに,現在ふたご座をかに座の向かって移動中の彗星を写真に収めるこができました(=6番目の写真)。彗星は地平線に近く,写せるかなと少し心配だったのですが,東の空が暗く,彗星も予想より明るくて助かりました。
私が念願の彗星の写真を手に入れて満足したころ,東の地平線にまばゆいばかりの金星が昇ってきました。そして月齢27の細長い月(=7番目の写真)が昇りはじめると,地球照と青みがかった空が美しく輝きはじめました。やはり,いつでも夜明けはすてきです。
久しぶりの星見を堪能した晩でした。
◇◇◇
お正月の贈り物-ラブジョイ彗星が明るく輝く⑨
星を見るのも大変だ-探査機「ロゼッタ」
「想い出のサンフランシスコ」⑫-2015夏アメリカ旅行記
6月28日日曜日。この日のイベントは,サンフランシスコ・ジャイアンツのゲーム観戦であった。このことはすでに書いた。
実は,前日,私はメガネを彼女の車に忘れてしまったので,今日,ゲームの後でオペラハウスまで取りに行く必要があった。それが功を奏して,私は,この日のプライド・パレードを見ることが出来たのだった。
1969年6月28日未明のことであった。ニューヨーク市グリニッジ・ヴィレッジにあったゲイバー「ストーンウォール・イン」(Stonewall Inn)に警察の弾圧的な手入れが行われ,これに端を発した数千人規模の暴動「ストーンウォール暴動」が発生した。
この事件は世界中でLGBT(女性同性愛者(Lesbian),男性同性愛者(Gay),両性愛者(Bisexual),性同一性障害含む性別越境者など(Transgender)の人々を意味する頭字語)の権利を求める声が拡まる大きな契機となった。そして,事件の翌年に行われた暴動発生1周年を記念するデモンストレーションがアメリカ国内の各地で行われたのだった。
この時のデモが今日のプライド・パレードのはじまりとされる。
LGBT文化を讃えるイベントやパレードであるゲイ・パレード(プライド・パレード)の中で,世界的に有名なLGBTパレードといえば,サンフランシスコの「サンフランシスコ・プライド・パレード(San Francisco Pride Parade)」なのである。アメリカでも最もゲイフレンドリーな都市として知られるこのサンフランシスコでは,毎年大勢の参加者がこのパレードを観覧しに各都市から集まるのだ。
今年のサンフランシスコ・プライド・パレードは,ちょうど私がサンフランシスコに行った6月27日と28日の2日間に渡ってサンフランシスコシティホールや美術館などが集結する官庁街であるシビックセンターを中心に開催された。
そして,その中でも大イベントであるパレードが,ちょうどこの28日であった。
パレードは午前10時30分からマーケットストリート沿いで行われた。マーケットストリートとビールストリートの交差点をスタートし,マーケットストリートを進んだ後,マーケットストリートと8番ストリートの交差点への到着をもってパレードは終了する。
このパレードの個性溢れるカラフルな格好をした参加者を見物するために,街中が祭り一色に染まるというわけだ。また,このイベントは今年でちょうど45周年目を迎えたので,5月30日にはホテル・ウィットコム(Whitcomb)で公式キックオフパーティー(The Official 45th Anniversary Kickoff Party)も開催された。それに加えて,オバマ政権が同性婚を認めた直後であったことも追い風となって,このお祭りは異常な盛り上がりを見せていた。
私は,そんなことは全く知らず,単にサンフランシスコに行っただけだったのだが,とんでもない日に,偶然,居合わせたということだった。ホテルが異常に高いのも,このイベントが原因に違いがなかった。
この日を選んで行こうと思ってもなかなか日にちが合わないのが普通なのに,本当にこの偶然にはびっくりした。
私は,28日は,サンフランシスコ・ジャイアンツのゲームを見るためにホテルからダウンタウンに行って,このパレードに遭遇して,ゲームの終了後にオペラハウスに寄った時に再び,このパレードを見ることになったのだった。
趣旨は違えど,これは日本の夏祭りのようなものであった。このように,偶然とはいえ,私は貴重な経験をしたのだった。
「想い出のサンフランシスコ」⑪-2015夏アメリカ旅行記
しかしまあ,人類というのは,どこでも同じものであるらしい。日本の夏祭りだって,同じような人混みだ。
私は,もう,こうした人混みには何の興味もなくなったが,若さというものはこういうところに群れたがるものだから,何か,そうしたエネルギーのやり場のない若者たちが気の毒になる。
人をかきわけかけわけ,やっとのことで脱出して,私は,オペラハウスの前まで来た。ヴァンネスアヴェニュー(Van Ness Ave.)をひとつ渡っただけで,先ほどの熱気が嘘のように静かなところになった。
ここで待ち合わせをした女性と出合って「Lers Ros Thai」というレストランでタイ料理を食べた。思えば十数年ぶりの再会であった。
人生は平等に時の流れを与えるが,健康と経験は平等ではない。そして,自分が何者かということがわかってきたときには,もはや後戻りしてやり直しはできないのだ。
私は,このサンフランシスコで,今,こうした経験が出来ることを感謝した。そして,その人生の不思議さをも実感するのだった。まさに,これこそ,この旅で私が期待した「想い出のサンフランシスコ」であった。
時間になったので,オペラハウスに戻った。
モーツアルトの「フィガロの結婚」は,モーツアルトの最高傑作のひとつで,私の好きなオペラである。偶然にも,この日にそれが上演されていたことも,また,幸運であった。
台本はイタリア語であるが,字幕がステージの上部に英語で表示されるので,問題なかった。それに,私は,出発前に,何度もこのオペラを Youtube で見て,予習をした。
このオペラは4幕で,午後7時30分に開演するから,終わるのは午後11時近くになる。また3幕と4幕の間以外は幕間ごとに相当時間の休憩があって,思い思いに軽食をとったりしているから,まさに,社交場である。
日本だって,歌舞伎や相撲であれば,それなりに足が地に着いた楽しみ方が出来るのに,クラシック音楽のコンサートになると,こうした味わい深い楽しみ方ができないのは,よそ行きの文化だから仕方がないが,こういう姿を見ていると,根本的な生き方の違いを実感する。
数年前に行ったボストン郊外のタングルウッドも,また,同様であった。
降り番で客席から見るのは久しぶりだという彼女とオペラを鑑賞して,素敵なサンフランシスコの夜が更けて行った。やがて,オペラが終了した。外に出ると,オペラハウスやシティホールは虹色に輝いていた。
私は,この後,最終のBARTに乗ってホテルに戻る覚悟をしていたが,流石に夜も遅く,不安だった。幸いホテルまで送ってもらうことができたことを感謝する。
しかし,情けないことに,私は,この帰りに送ってもらった車の中にメガネを忘れてしまったのだった。そのことが,また,翌日の偶然につながるのだった。
◇◇◇
「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
「想い出のサンフランシスコ」⑩-2015夏アメリカ旅行記
サンフランシスコの湾岸クルーズを終えて,あとは,ダウンタウンを散策でもしながらオペラハウスに行くことにした。
サンフランシスコのダウンタウンはマーケットストリートが北東から南西に横断していていて,その北側に広がっている。一番北が海に面していて,そこにフィッシャーマンズワーフがある。そして,フィッシャーマンズワーフとマーケットストリートの間が丘になっているから,ともかくその坂を一度登って降りないとマーケットストリートに出ることができないわけだ。マーケットストリートの中心はパウエルストリートとシビックセンターあたりで,私は,まず,そこまで行って,そこからマーケットストリートを南西に沿ってオペラハウスまで歩こうと考えた。
この丘がかなりの曲者で,歩くと大変だから,ケーブルカーがあるというわけなのだ。だから,私も,フィッシャーマンズワーフからケーブルカーに乗ることにした。
ところが,この考えが相当に甘かったのであった。
ケーブルカーなんていう旧式の乗り物は,今や観光用以外何の利便性もないのである。地下鉄のように頻繁に来るものでもないし,車両が連結されているわけでもないから非常に効率が悪い。
ニューヨークもサンフランシスコも,私が30年以上前に生まれて初めて行ったときは,今より治安は悪かったが,ともかく,自由の女神もケーブルカーも体験できるくらいの混雑だった。しかし,現在は,どこも,そうした余地すらないくらい観光客であふれかえっているのだ。
私は,30年以上前にこうしたものをすべて体験出来たことを感謝した。
今や,ケーブルカーに乗るには,1時間以上の行列に耐える必要があるのだった。
私は,すっかりやる気をなくし,ケーブルカーに乗るのを断念して,来たバスに乗った。そして,外を見ながら,丘を登り切ったところにあるチャイナタウンで降り,ここから,チャイナタウンを散策しながら歩くことにした。
バスを下車して,チャイナタウンを,ここはアメリカじゃなくて中国じゃあないか,とぶつぶつ言いながら,それでもおのぼりさんよろしく興味深く歩いているうちに,いつもの好奇心がもたげてきて,ダウンタウンで治安の悪いといわれるテンダーロイン(Tenderloin)地区に行ってみたくなった。
地図を見ると,マーケットストリートに沿って歩かずとも,テンダーロイン地区を突っ切ればシティホールに出て,その向こうがオペラハウスなのだということが分かった。
そこで,私は,テンダーロイン地区を3ブロックほど歩いて突っ切っていった。
歩いていくと雰囲気が変わり,まさに30年前の不気味な荒廃したアメリカの都会そのものになった。ビルにたたずんで目だけを光らせた浮浪者やら,座り込んで悪臭をただよわせるホームレスやらが,歩道にたむろしていた。今や,ニューヨークのマンハッタンにはこういう場所はない。
ハイドストリート(Hyde Street)を越えると,再び,風景が一変した。
シティホール前のモールは,若者たちの異常な人波であった。そして,大きなステージではパフォーマンスが繰り広げられていた。若者たちは,目立とう意識丸出しの恰好をしていた。お世辞にも見たいと思えないスタイルの若い女性までもがビキニ姿で闊歩しているのはまだいい方で,全裸の男がいたり,その男目当てに一緒に写真を撮ろうとする女がいたり,ビルの陰には,トップレスの女が男と見つめ合ったりしていた。
ここは,プライドというお祭りの会場なのであった。
多くの警官がいるが,彼らも警備をしているのか一緒に参加しているのかわからない感じだったし,一応治安は保たれているのだが,それはもう,はちゃめちゃであった。 アメリカの若者たちのエネルギーを直に感じた。肉食動物はちがうわ。
「想い出のサンフランシスコ」⑨-2015夏アメリカ旅行記
私は,午後5時30分までにオペラハウスに行けばよかったから,まだ時間があった。どこに行こうかなあ,と思いながら歩いていると,サンフランシスコ湾クルーズの客引きがいた。客引きというのが曲者だったが,単なるクルーズの宣伝のようだったので,私はのせられて乗り場にあるチケット売り場に行ってみた。
このフィッシャーンズワーフにある波止場から出航して1時間のクルーズなのだという。そして,出航時間は2分後だということだった。すでに,船は出発準備ができていて,多くの客が乗りこんでいた。
しかし,チケット売り場には一人の客がチケットを買うところで,しかも,こうしたところでのアメリカの常で,何をぐずぐずしているのか,さっさとチケットを買えばいいのに,いろんな質問をして,チケットを買っている様子すら見られない。しかも,そのあとで私が待っているなんていうことは全く気にもかけていないし,チケット売り場も人を増員しようなんていう気はさらさらないのであった。
おまけに,やっとチケットを購入する段になったら,今度は係の女性がコンピュータの操作を誤ったり,クレジットカードをスキャンし忘れたりして,手際が悪く,チケットの発券がなかなかできないのであった。
アメリカ人のおもしろいのは,そこで何をしたかというと,乗り場の係員が,お前がチケットを買うまで出航を待っている,と言ったことであった。
これは,日本の真逆の対応である。
日本なら,チケット売り場に係員が増員されて,さっさとチケットを売るであろう。そして,定刻時間に船が出航するに違いないのだ。
しかし,考えてみれば,ここで5分やそこら出航が遅れても,特に何の問題もないのである。それよりも,チケット売り場での対応にその都度気を使うことの方がむしろ大変ではないか。
何事も過保護で過剰サービスでやりすぎで,これをおもてなしと称している日本人は,むしろ,こういういい加減さを見習うといい,と近ごろ私は思うようになった。日本ならこれだけの対応を完璧にするために,膨大な打ち合わせとつまらない経費を使い,係員にストレスを与えるに違いないからである。そして,乗客はその対応に直接文句をいう勇気もないのに,「お客様は神様」とばかりに苦情をネットに書き込むのである。
そんな感じで,出航時間をはるかに過ぎて私がやっと無事チケットを購入して乗船したら,船が出航した。
結果的に,このクルーズは大正解であった。
船に入ると,いろんな国の言葉が選択できるヘッドフォンが配られていて,そこから流れる説明を聞きながら素晴らしい景色を見ることができるのだった。サンフランシスコ湾は極めて景観がよく,しかも,天気がよかったから,これ以上の観光はなかったわけだった。
船はゴールデンゲートブリッジを目指して進んでいって,橋の下を越えたあたりでUターンをした。ゴールデンゲートブリッジをくぐるあたりでものすごく揺れたのにはびっくりしたが,面白い経験であった。やがて,アルカトラス島の横を通り過ぎて,クルーズは終了になった。
思えば,ゴールデンゲートブリッジを渡っていたときに眼下に見えた素敵な船こそ,このクルーズ船であったわけだ。私は,このサンフランシスコ湾クルーズをサンフランシスコ観光の一番手に推薦したい。
「想い出のサンフランシスコ」⑧-2015夏アメリカ旅行記
ゴールデンゲートブリッジを渡り終わったころにちょうどお昼になったので,食事をするためにフィッシャーマンズワーフに行くことにした。
ゴールデンゲートブリッジのたもとに戻ると,ちょうどミュニバスが来たので,それに乗ったら,フィッシャーマンズワーフまで行くことができた。
あまりに有名なサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフである。
有名なカニのランドマークを中心に,カニやエビなど魚介類の屋台が並び,ショッピングモールや水族館があって,多くの観光客で大賑わいであった。大道芸人もいて,中には,全身を金粉で包んでたたずむ姿もあった。
幸い気候も良かったが,流石に海に近く,かなり強い風が吹いていた。
私は,単に,何かを食べようと,そして,せっかくだからフィッシャーマンズワーフにでも行こうと足を運んだだけだから,申し訳ないが,ここで観光案内をするほどの情報は全く持ち合わせていない。まあ,調べればいくらでも情報は見つかるであろうから,ここで書く必要もあるまい。
ともかく,私は,何を食べようかと思いながら歩いていた。結構値段のはる店も大賑わいであったのだが,そんな店にひとりで入ってもどうなるものでもなく,どうすべきかさっぱりわからない。せめてカニくらいは所望しようとしたが,下調べもしていなかったし,こういう場所は,現地に住むよく知っているような人とでもいっしょでなければ,下手に有名店に入っても,なさけないだけだろう。
それは,京都を食べ歩きをしても同様であって,私は,はるばる京都へいっても,ひとりのときはミスタードーナッツで昼食をとったりしている。
そんな次第で,私がグルメでないことも手伝って,マクドナルドでもいいや,などと考えていたのだが,逆に,こんな場所にマクドナルドの店舗も見つからないわけだった。
そのうち,多くの人が列を作っていた,私のようなひとり旅でも大丈夫そうなお店を見つけた。
それは,「BOUDIN」という名のお店であった。
入ったところにレジがあって,ここで注文をしてお金を払うと名前を聞かれる。そして,自分の名前が呼ばれるのを待つというシステムであった。
何を頼めばいいのか,いつものようにさっぱりわからなかったが,ともかく, シャレではないが,クラブ(カニ crab)の入ったクラブサンド(club sandwich)を注文した。
席は込み合ってはいたが,何とか見つけて,屋外で気持ちよく食事をすることが出来た。
・・
何度も書くが,サンフランシスコを観光するのと京都を観光するのとは,とても感じがよく似ている。きっと京都を観光する外国人の気持ちは,私がサンフランシスコを観光しているときの気持ちと同じようなものであろう。ともに公共交通機関を上手に利用することが必要だし,ものすごく多くの国の人が観光で訪れているのがとてもよくわかる。
この日の気候は,霧もなく晴天であったが,朝晩は寒いくらいだった。真夏でも暑さを感じないところだそうだ。それに,サンフランシスコは何度足を運んでもおもしろさに溢れていて,奥の深そうなところのようだ。
ただし,この街は,ダウンタウンに風紀のよくない場所が残っていたりと,アメリカの他の多くの大都市が再開発でとても治安がよくなったことに比べれば,そうした面での古さは否めない。そして,ダウンタウンのホテルは古いのに値段が異常に高い。
私は,数年前にニューヨークへ行って,その様変わりに驚いたが,サンフランシスコでは,逆に,街の雰囲気が変わっていないことに驚いたのだった。
「想い出のサンフランシスコ」⑦-2015夏アメリカ旅行記
さて,今日は,6月27日土曜日,サンフランシスコ2日目の話である。
昨日は午後5時頃にどうにかホテルに到着して,その後,オークランドへベースボールを見にいった。ゲームの途中で引き揚げ,それでも,BARTのミルブレー駅へ戻ったのは夜の10時30分ごろ,そのあとホテルまで20分歩いて戻った。
そして,きょうは,夜,サンフランシスコオペラで「フィガロの結婚」を見るというイベントがあった。これは,この旅を計画した時には思いもかけなかったすてきなサプライズであった。
私の小学校の同級生が,このサンフランシスコオペラのオーケストラでバイオリンを弾いている。サンフランシスコに行くという連絡をしたら,それならオペラを見ませんか,と招待されたというわけであった。
そして,オペラの前に,一緒に夕食をということになったので,午後5時30分に待ち合わせをすることになった。
それが決まった時から,私にとって,この旅のメインイベントは,ベースボールからオペラに変わったのだった。
オペラまでは十分に時間があったから,今日は1日,サンフランシスコをおのぼりさんのように観光することにした。いわば,35年前の復習であった。
ダウンタウンの中心,パウエルストリートにある観光案内所が朝の9時に開くということだったので,その時間にダウンタウンに到着することにした。
昨日と同様,ホテルから歩いてミルブレー駅へ行き,BARTでシビックセンターの駅まで行った。ここから地上に出て,観光案内所でミュニパスポートを購入した。さすがに世界的な観光都市サンフランシスコの観光案内所だけのことはあって,このときにゴールデンゲートブリッジまで行く方法を尋ねたら,すごく親切に教えてくれた。どうやら1ブロック北のバス停でバスを待ち,乗り継いていけばいいらしい。
ということで,私は,さっそく,ミュニバスを乗り継いて,ゴールデンゲートブリッジまで行くことになった。
このころには,もう,すっかりサンフランシスコの土地勘が出来上がっていて,私は何度も来たことがあるような感じで,京都を観光するみたいに,サンフランシスコの町を歩き始めたのであった。
バスの車内も,中国人ばかりであった。はやり,ここでも,ここは,アメリカじゃない,と思った。
ともかく,バスを1回乗り換えて,1時間弱でゴールデンゲートブリッジに到着した。
・・
ゴールデンゲートブリッジは大勢の観光客でごった返していた。
日本人のツアー客が,ワッペンをつけ,旗を持った日本人の案内人の説明を聞いていた。彼らは,いかにもアメリカははじめてで,しかも人生最初で最後のアメリカ旅,みたいな定年退職をしたばかりのような初老の夫婦たちが多くて,数十年前に多く生存していた日本人の海外旅行客,のような風体だった。
私は,アメリカでこういう風景を久しぶりに見た。絶滅危惧種の日本人のツアー客というものが現存していること自体が驚きであった。そして,自分の35年前を思い出した。そして,あのとき私の参加したツアーの記念写真を写した場所を探したが,すっかり様変わりしていた。
これが私にとっての35年という月日なのだと思った。
ともかく,私の35年の証として,ツアー客ができないことをせねばならない,と思った。そこで,私は,ゴールデンゲートブリッジを歩いて渡ることにした。数年前に,私は,ニューヨークのブルックリンブリッジを,半はめげながら歩いて渡った。ゴールデンゲートブリッジもそれと同じほどの距離だと思ったが,今回は往復しなくてはならない分だけ,大変であった。
帰国後に調べてみたら,ゴールデンゲートブリッジは,全長2,737メートル,ブルックリンブリッジは1,825メートルということであった。しかも,往復したから,結局,5,500メートルも歩いたことになる。
こういう橋にはじめから歩道を作ったのが,アメリカ人のすごいところだと思った。しかも,自転車の走行もできる。日本だって,レインボーブリッジは歩いて渡れるが,自転車に乗っては渡れない。また,名古屋にも立派な名港大橋があるが,歩いて渡ることができないのは「もったいない」(名古屋で流行っている言葉)話である。
・・
私は,このゴールデンゲートブリッジを1時間ほどかけて往復した。橋の上からはヨットやフェリーが気持ちよさそうに波を立てながら走航しているのが見えた。
このときは全く実感がなかったのだが,紫外線がかなり強く,真っ黒に日焼けしてしまったので,帰国してからがたいへんだった。
「霧のサンフランシスコ」という。たしか,35年前にはこの橋には霧がかかっていたが,35年間の社会の荒波が鍛えた晴れ男の私の神通力は,サンフランシスコの霧すら蹴散らかしてしまったのだった。
◇◇◇
2013アメリカ旅行記―夢がかなった旅の終わり①
「想い出のサンフランシスコ」⑥-2015夏アメリカ旅行記
サンフランシスコにあるふたつのボールパークについては,すでにブログに書いたが,今日は,そのサンフランシスコにあるふたつのメジャーリーグのチームの話である(厳密にいえば,オークランドはサンフランシスコの隣町であるが東京と横浜みたいなものだ)。
狭い日本では東京に球団が集中しているから,フランチャイズなんて名ばかりであるが,広いアメリカではチームが各都市に散らばっていて,フランチャイズがしっかりしているから,それぞれの都市のボールパークを訪ねるのは,そのチームごとにいろんな特徴があって,とても楽しい。
ただし,ニューヨーク,シカゴ,ロサンゼルス,サンフランシスコという大都市だけは例外で,ひとつではなくふたつのチームがあり,それぞれ別のリーグに属している。いわば,人気を二分するライバル関係である。
以前は,これらの2チームのゲームの開催日程は工夫がされていて,どちらかのチームしか見ることができなかった。逆に言えば,シーズン中はいつ行ってもどちらかのチームのゲームは開催されていて見ることができたのだが,近年は変更されて,同時に行われているようだ。
私がサンフランシスコに行った理由のひとつは,サンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークでゲームを見ることだった。古く汚いオークランド・アスレチックスの本拠地のゲームを見るなんて,頭の端にもなかったし,見に行きたいと思ったこともなかった。
しかし,ちょうど私の滞在したときには,どちらもゲームが開催されていた。そのうちジャイアンツのゲームは6月28日日曜日のチケットをすでに購入してあった。
6月26日金曜日,サンフランシスコに到着したのはすでに夕方で,夜は何もすることもなかった。考えてみればナイトゲームを見にいくのにこれ以上の好都合はなかった。そこで,思い立って,アスレチックスのゲームを見にいくことにしたのだった。
オークランドは,私の泊まっていた空港近くのホテルからはずいぶんと遠く,BARTで1時間30分程度もかかるのには驚いた。東京から所沢へ行くよりも遠い感じだ。それでも,BARTを1回乗り換えるだけで行けるから,BARTの試乗にも好都合だった。
オークランド・アスレチックスの悪名高き本拠地オードットコーコロシアムは,ボールパークの周りの町の雰囲気は悪かったが,BARTの「コロシアム」という駅を降りた真ん前にあって,非常に便利だった。実際行ってみると,意外と立派だったことと予想より大勢の観客がいるのに驚いた。
メジャーリーグをみくびってはいけないのだ。
当日券を購入したのだが,チケット売り場の女性がとても親切で愛想がよいのにも好感をもった。
メジャーリーグには似つかわしくない,ライト側の外野席で旗を振り鳴り物で応援する姿は,30年前のナゴヤ球場を彷彿とさせた。
思っていたほど悪いところではないななあ,とは思ったが,周りの雰囲気と比例して客層も悪く,また,ミルブレー駅からホテルまで歩いて帰るので,あまり遅くなると心配だったから,ゲームの途中で引き揚げることにした。
その翌々日6月28日(日),今度はサンフランシスコ・ジャイアンツのAT&Tパークへ行った。このボールパークの方がむしろ交通は不便で,BARTの駅を降りてからずいぶんと歩く必要があった。しかし,BARTではなく,ミニュトレインを利用するなら,ボールパークの前に駅があるから,それに乗れば不便ではなさそうだった。
こちらのボールパークは,想像通りというか,想像以上に立派で,とても美しく楽しいところであった。左右非対称のアメリカの「モダン・クラシック・スタイル」の究極の姿がここにはあった。
この日は,キティちゃんデーで,キティの首ふり人形が入場者に配られた。そして,ゲームはキティちゃんの始球式で始まり,ボールパークをキティちゃんが歩き回っていた。
それにしても,私がこの年にサンフランシスコ・ジャイアンツのゲームを見にいったのは,AT&Tパークに行きたいという理由に加えて,青木宣親選手を見たいというのも理由だった。私は,この旅が決まった日にインターネットでチケットを購入するほど入れ込んでいた。そして,それ以来,ずっと青木選手が気になっていた。
今年はそのころは調子がよくて,私が行くまでレギュラーの座は安泰であるようだった。ところが,本当に運が悪く,青木選手は,私が見にきた1週間前にデットボールを受けて故障者リストに入って,見ることがかなわなくなってしまったのだった。
私にとって,このショックがあまりに大きくて,それ以降,日本のテレビでメジャーリーグ中継やニュースを全く見る気がなくなってしまったほどなのであった。
この日は,ジャイアンツのエース・バムガーナーを見ることができたから,それで満足しよう。
・・
まあ,そのことは別として,このボールパークは一見に値する。
サンフランシスコへ行ったら,ゴールデンゲートブリッジ,フィッシャーマンズワーフ,チャイナタウンの次に訪れるべき観光名所であろう。
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愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク④
愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク⑦
「想い出のサンフランシスコ」⑤-2015夏アメリカ旅行記
今日は,サンフランシスコの公共交通の話である。
私は,行く前,ネットでいろんな情報を調べていたのだが,結局,行ってみてわかったのは,その多くはガセねたか,たんなる噂だということであった。ともかく,知らない人は正確でもない情報を書き込まないでいただきたいと言いたい。
日本のスイカやトイカのように,サンフランシスコでもクリッパー(CLIPPER)という電子カードがある。ただし,このカードはケーブルカーには使えない。また,ミュニパスポートという1日乗り放題乗車券(1日用,3日用,7日用)がある。これは,ケーブルカーにも使えるが,BARTには使えない。
BARTの一般のチケットは,事前に行き先分の料金を自動販売機に入れて購入するが,余った分は持ち越しで,さらに付け足すことができる。これはニューヨークの地下鉄と同じシステムである。
この,BARTのチケットを自動販売機で買うのがむずかしいというようなことがネットに書かれてあったが,別に大したこともなく,単に自動販売機に10ドル紙幣を数枚入れて,画面の表示に従って購入するだけであった。
きっとむずかしいと書いていた人は,この画面の表示が理解できなったのであろう。ここでも,日本の「すぐれた」英語教育の成果が反映されている。
「当然」(「」を使った理由はアメリカでは当然だが日本ではそうではないからである),クレジットカードでも購入できるが,その時はZIPコード(日本の郵便番号にあたるもの)を入力する必要があるなどと書かれてあるサイトがあったが,これもまた嘘である。
チケットはクレジットカードで何の問題もなく購入できる。クレジットカードを挿入して,料金を設定するだけのことである。日本より便利である。
ZIPコードの入力が必要なのは,ニューヨークの地下鉄なのである。ZIPコードは,アメリカは5ケタで,日本の郵便番号は7ケタなので,ここで困るのだが,はじめからの5ケタを入力すればいいだけだ。
それなのに,日本のカードは使えないとかいった,知りもしないでいい加減な書き込みをする人はやめてもらいたいものだと思う。
ともかく,私は,到着した日に,試しにBARTに乗って,サンフランシスコ湾の対岸にあるオークランドへベースボールを見にいくことにした。
ホテルからBARTのミルブレー駅までは20分ほどの距離で,私が日本で毎日歩いているくらいのもの,しかも,涼しいから大変でもなかったが,深夜に歩いても安全かどうか,それも知りたかった。
歩いてみると,事前に調べておいたように,駅の付近には多くの店もあって,治安もよさそうだった。
ミルブレー駅に着いて,BARTのチケットを20ドル分,クレジットカードで購入した。翌日,さらに10ドル追加して,これで滞在した3日間利用することができた。
私は,翌日と翌々日はダウンタウンの観光をしたが,次の日の朝は,今日と同じようにBARTに乗って,まずダウンタウンまで行って,観光案内所で3日利用できるできるミュニパスポートを買った。
このパスポートを見せるだけで,ケーブルカーとミュニバス(要するに市バス),そして,ミュニメトロ(要するに市電)に乗れるから,これも便利であった。
・・
ニューヨークは東京と同じだと以前書いた。そして,行ってみてわかったが,サンフランシスコは京都みたいなところであった。
だから,京都を市バスや地下鉄を使って観光できる人なら,それとほとんどやることは変わらない。
また,サンフランシスコはちょっと頑張って歩く気になれば,徒歩圏内でいろんな所へ行くことができるが,坂が多いから,ダウンタウンはバスが便利である。
ハスは,日本のように行き先を丁寧に放送しないから,あるいは,運転手の声が理解しづらいから,細かなストリート名の書かれた地図を持って,きょろきょろしながら交差点ごとにストリート名を確認て,目的地で降りればいい。
降りるときには,合図として窓の上に張ってあるワイヤーを引っ張るのは,アメリカの様々な都市のバスと同じで,これは昔と変わらない。
一方,ケーブルカーは,観光用の乗り物にしかすぎず,公共交通としての役目など期待できない。混雑しすぎていて,乗ることすら困難なのである。私の行ったのが週末だったからかもしれないが。
私は35年前に行ったときに乗ったから,別に,今回乗ろうとは思わなかったが,これに乗るには1時間待ちを覚悟しなければならなかった。それでも乗りたいかどうかは,人それぞれであろう。
・・
ということで,私が35年ぶりに行ったサンフランシスコの印象は,やたら中国人ばかりで,せまっこくて,およそ,アメリカらしくない都会,というものであった。行ったことはないが,中国のようなところだと想像した。だから,別に,この都会に住んでいる人をうらやましいとも思わなかった。しかし,住みたくなくとも時々は京都へ行きたくなるのと同様,サンフランシスコも時々行くには魅力に溢れた都会であった。
結局,私は,ニューヨークなんて東京へ行くのと同じようなものだ,と思っているのと同様,サンフランシスコなんて京都へ行くのと同じようなものだ,というのが結論であった。
だから,また,そのうち,気が向いたら,ふらりと行ってみようと思うが,しかし,やはり,私には,アメリカはこうした都会より大自然の方がずっといい。
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2013アメリカ旅行記―ついにニューヨーク⑦
2013アメリカ旅行記―ついにニューヨーク⑧
「想い出のサンフランシスコ」④-2015夏アメリカ旅行記
空港からホテルにシャトルバスサービスがあると書かれてあった。
アメリカの空港は,外に出ると,リムジンバスやレンタカーやホテルに向かうシャトルバスが停まるターミナルがあるのが普通だが,慣れていないとこれが実にわかりにくいのだ。現地に着いて何が心配かというとこの時をおいてほかにない。
この時も不安を感じながら,シャトルバスの乗り場にどうにか着いたのだった。
実際は,そこで待っていれば私の予約したホテルのシャトルバスは到着したのであるが,事前に連絡する必要があると思ったから,ともかく,私はホテルに電話をかけた。ホテルでは,シャトルバスは15分ごとに来るから待てといわれた。
待っていると,他のホテル,そう,私がどうにも高くて予約する気にならなかった名前のホテル,のシャトルバスは頻繁に来るのだが,私の予約したミルウッドインのシャトルバスがなかなか現れない。
不安になったころに,やっと,側面に,ミルウッドインと他に2つのホテルの名前を掲げたシャトルバスが,ついに現れた。
私は,ただ乗り込めばよかったのに,念のために,ホテルの名を運転手に告げると,意外なことに,このバスではないと強く言われたのだ。私は意外な返事にびっくりした。そんなことを聞かなくとも乗り込めば,それでよかったのだ。
その運転手の気合に負けて,すっかり怖気づき,そんなわけで,私は,やっと現れた我がシャトルバスに乗りそびれて,それを見送ってしまったのだった。
・・
しかし,バスが行ってしまってから,どう考えても,あのバスしかないではないかと後悔することになった。聞いたときにホテルの名を書いた紙を見せればよかったのに,迫力にお怖気づき,その時にどうしてそんな当たり前にことをしなかったのか,と後悔した。
後悔しながら,再び,待っていると,ずいぶんと時間がたって,やっと,また,先ほどと同じバスがやってきた。今度はホテルの名も告げずにそのバスに乗り込もうとすると,先ほどの運転手が私を覚えていて,違うと言っただろう,と言った。そこで,今度はホテルの名を書いた紙をみせると,お前の発音が違うからわからなかったと,申し訳なさそうに言った。
まあ,要するに,私の「l」と「w」の発音が悪い,あるいは,アクセントが違うということなのであった。恥ずかしい話であった。固有名詞は難しい。
ともかく,こうしたこともあって30分ほど時間をロスしてしまったが,私は,どうにか無事にホテルに到着することができたのだった。
このホテル,予想より素敵なホテルであった。サニタリーなど,細かいところに気が配られていた。何といっても,さすがシリコンバレーが近いサンフランシスコ? テレビと電話が「超」最新式であったのがうれしい誤算であった。
そんなに凝らなくてもいいから宿泊代安くしてよ,と言いたいくらいであった。そしてまた,朝食もちゃんとしていた。ただひとつこのホテルに問題があるとすれば,それは,このホテルから最寄りのBARTの始発駅ミルブレー(Millbrae)が少し遠いということであった。歩くと20分もかかるのだ。
距離的にはホテルの目の前が空港なのだが、広い道路が行く手を防いで,そこへ行く道がないのだ。空港の次の駅がBARTの終点ミルブレー駅で,そこまで遠回りしなくてはならないのだ。
駅までの道のりは,広くきれいな大通りに沿った歩道で,治安上は問題ないようであった。深夜でも大丈夫そうだったが,歩いて20分は大変だ。結局,私はこの距離を何度も歩いたが,ミルブレーの駅前にはタクシーも停まっていたから,私以外の人ならタクシーを利用するであろう。
結論を書こう。
次回,私がサンフランシスコに出かけるのなら,そして,もし,レンタカーを使っているのなら,その時も,私は,このホテルを利用するであろう。しかし,今回のようにレンタカーを利用しないのなら,私は,このホテルではなく,今日の一番下にある写真のフェアフィールド・イン(Fairfeild Inn & Suiets San Francisco Airport)というホテルを予約する。
このフェアフィールド・インというホテルは,私の泊ったミルウッドインとBARTのミルブレー駅の中間にあって,駅までは歩いて10分もかからないから,お勧めである。ただし,当然,宿泊代はミルウッドインよりも,若干お高い。
サンフランシスコへ行かれる方があれば,参考にしてください。
「想い出のサンフランシスコ」③-2015夏アメリカ旅行記
私は,すでにブログに書いたように,所用があって,6月に2015年2度目のアメリカ旅行をした。そして,その帰りに3日間だけサンフランシスコに滞在した。
そこで,5月に出かけた2015年春のアメリカ中南部の旅行記とは前後するが,「想い出のサンフランシスコ」①②の続編として,この35年ぶりに行ったサンフランシスコでの出来事を先に書いてみたい。
・・
私は,6月25日木曜日午後4時35分に成田を出発,わずか8時間30分のフライトでシアトル着,乗り換えて,現地時間で同日午後2時35分にアイダホ州ボイジーに到着した。
ボイジーからマウンテンホームまで行って,そこで1泊し,翌26日金曜日の午後1時10分,再びボイジーを出発して,乗り換え時間わずか40分のソルトレイクシティを経由,午後3時55分に,ついに,35年ぶりのサンフランシスコに降り立った。
このとき,私は,ボイジーからソルトレイクシティまではファーストクラスで,ソルトレイクシティからサンフランシスコまではアップグレードができずエコノミーだったから, いかにサンフランシスコを訪れる人が多いのかと思った。幸い,ともに,窓際の座席を指定することができたので,空から多くの写真を撮ることができた。
国際線では窓際に座っても座席の出入りが面倒なだけでほとんど意味がないが,搭乗時間の短いアメリカの国内線は,窓際席に限る。景色を見ることができるのは,座席のグレード以上に価値があるのだ。
期待通り,ソルトレイクシティ付近では,機内からエキゾチックなソルトレイク湖を思う存分眺めることができたし,サンフランシスコ到着間際には,美しいサンフランシスコ湾と,遠く霞んだサンフランシスコの摩天楼を望むことができて,本当に感激した。
単に,しばらく行っていないなあ,ということとサンフランシスコ・ジャイアンツのAT&Tパークを見てみたいという動機だけで行ったサンフランシスコであった。
しかし,問題は宿泊するホテルであった。
当初は気楽に考えていたのだが,いつものように,出発する3週間ほど前に,エクスペディアやブッキングコムでホテルを探して,私は愕然とした。宿泊代金が異常に高いのだ。大したことがないと思われるホテルが,1泊6万円もする。それよりも安価なホテルだと,バストイレが共有であったり,場所が悪かったり,あるいは古かったりと,適当なホテルが見当たらないのだった。
それに,35年も行っていないから,土地勘がなく,どこに泊ればいいのかさえ,さっぱりわからない。とりあえず,キャンセル自由だったので,1泊6万円もするダウンタウンのホテルを3泊押さえて,もう一度ゆっくり様々なサイトでホテルを探すことにしたのだった。
・・
その過程で,一番ひどかったのはHISのサイトであった。
このサイトでサンフランシスコのダウンタウンに1泊2万5千円ほどのホテルを見つけて予約をしたときは,さすがに日本の企業だと感心したのだが,ネットで申し込んでもすぐに予約の確定ができず,やっと翌日になってメールで返事がきた。ところが,そこには満室で希望に応えられないとあった。そして,その倍以上の値段のするホテルはどうか,という提案が書かれてあった。
このように,本当に,日本の企業のやっていることは,近ごろどうかしているし不便極まりない。一刻を争う予約競争をしていて,ネットで即座に確約ができないというだけでなく,1日待たせたあげく予約が出来ない。売り切れの品物を展示しておいて,買おうとすると別の高価なものを提案するというやり方では,ぼったくりと同じで使い物にならないではないか。私はこうして1日,時間を無駄にした。
その後,結局,しばらく考えたあげく,国際空港からダウンタウンまではBART(空港とダウンタウンを結んでいる電車)で30分ほどで行くことができるのだから,ダウンタウンではなく国際空港近くのホテルを探すことにした。そうすれば,荷物を抱えてダウンタウンまで往復する必要もないから,むしろ便利なのだと思った。実際,空港からダウンタウンまでの交通の便がよい大都市はその方がずっと便利なのである。これは,ニューヨークも同様である。
そこで選んだのが,ミルウッドイン(Millwood Inn & Suites)というホテルであった。1泊2万円程度であった。実際,この選択は間違っていなかった。
しかし,着いた端から,私は失敗をしてしまったのだった。
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「想い出のサンフランシスコ」①-35年の時を経て
「想い出のサンフランシスコ」②-35年の時を経て
2014夏アメリカ旅行記-帰国
☆12日目 8月13日(水)
東海岸からの帰国と違って帰国便の出発が遅い。
今回は,ボイジー発が午後1時15分。ボイジーからシアトルまでの間には時差があって1時間32分のフライトなのだが,午後1時47分にシアトル着。そして,シアトルでの待ち時間がわずか2時間と少し,午後3時1分シアトル出発で成田着が翌日の午後4時55分であった。わずか9時間と54分のフライト,アイダホは近くて楽だ。
まだ8月13日だが,3か月にわたる長い夏休みが終わって,アイダホの子供たちは新学期が今日から始まった。朝,私も一緒に小学校へ行ってみた。
アメリカの学校の登校風景なんて,パック旅行では行けるものではないから,私には,こうした体験が一番おもしろい。教室で小学校の先生ともおしゃべりをした。
アメリカの学校はきれいで楽しそうだった。
日本人は,アメリカの学校に比べて,日本の学校のほうがずっとちゃんとしていると思っているが,果たしてそうなのだろうか…?
その後,「Chick fil-A」 というおいしいチキンバーガーのお店に寄ってから,ボイジーの空港まで送ってもらった。
自動チェックイン機で帰りの航空券を発券した。
ここで,ひとつ,大切なことを書く。
デルタ航空の自動チェックイン機,国際線はパスポートを読み取らせるだけで航空券が発券されるが,この読み取り機のパスポートを挿入する口が少しパスポートのサイズよりも大きい。大概エラーがでる。実は,パスポートの左側を挿入口に合わせないと読み取らないのだ。これがコツである。こんなことどこにも書いてない。私の経験である。
・・
ボイジーの空港は国際便の発着がなくローカル空港なので,のんびりムードであった。セキュリティで,係官に私が日本に帰るというと,ポケットから小さな会話集を出して,その中から日本語を探し出して挨拶をした。
とてもフレンドリーでとげとげしさのかけらもなく,セキュリティチェックなどあってないようなものだった。
ゲートで飛行機を待っていると,ひとりの女性がこちらに向かって歩いてきた。
彼女は,シアトルで肝臓の移植手術を受けに行くところだと言った。彼女はモンタナ州ビュートの生まれだという。以前このブログに書いたが,私は,モンタナ州で交通事故にあってビュートの病院に入院したことがあるので,その偶然だけで,親しく話ができた。世の中は本当に狭いものだ。
やがて,ボイジーからの飛行機が出発して,ほどなくシアトルに到着した。
結局,私は,シアトルでも彼女のかばん持ちということになった。
彼女は,今も元気でいるだろうか?
・・
シアトル・タコマ国際空港のコンコースは,ギターを弾く女性がいたりして,ボイジーの空港とはまったく違って華やいでいた。私は,この時までシアトルは狭い空港という認識だったので,のんびりしすぎて,危うく帰国便に間に合わないところであった。決してシアトルは狭い空港ではないのだ。空港内に移動のための地下鉄も走っている。
シアトルからの帰国便は予想通り空席があって,私の隣も空いていた。
帰国するのがお盆からのUターンラッシュの数日前の平日ということろがポイントなのである。
私は中央の座席の通路側に座っていたのだが,通路を隔てた窓側の3席を独り占めしていた初老の女性がいた。彼女には似つかわしくない? テニスラケットを持ち込んでいた。
国際線に乗ると,どういう「人となり」なのかよくわからない人がけっこういて,観察しているとおもしろい。その女性も,旅慣れているのかいないのか? 金持ちなのかそでないのか? さっぱりわからない人であった。なにせ,そのテニスラケットの入ったカバンを座席のうしろの隙間に強引に押しこもうとして,客室乗務員に注意されたりしていた(飛行機は電車ではない!)。しかし,英語がけっこう堪能だったりと,本当によくわからない人であった。
きっと,私も,他人には謎の人物であろう!?
離陸直後,その女性が得体の知れない行動を開始した。
イスを取り外したり,床に這い蹲ったり…。ずっとそういった行動を繰り返していた。しかし,客室乗務員も離陸直後で忙しく,相手にしていなかった。
私は暇だったから,何をしているのかとずっと見ていると,どうやらイヤリングか何かをなくしたらしかった。やがて,仕事にけりのついた客室乗務員が近づいてきた。聞くでもなく聞こえてきた話では,なにやら高価なものをなくしてしまったらしい。
結局,数時間の探索ののち,探し物は無事見つかったようであった。
そんな姿を見ていたら,あっという間に成田に到着してしまった。
・・
成田からのエクスプレスは,行きとは違い順調だった。
8月14日夜帰宅。この時から,私の2014年の暑い日本の夏が,再びはじまったのだった。
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「2014年夏アメリカ旅行記」はこれで終了です。次回からは「2015年アメリカ旅行記」です。
コクピットから煙が出てフライトが引き換えしたり,その結果帰国便に乗り遅れたり,やっと帰国したのに新幹線が止まっていたり,チェックイン間際に突然国内線のフライトがキャンセルになったりと,2015年の旅行はハプニング満載です。