●おかしな日本語を話すカーナビ●
アメリカで車を運転していて一番難しいのは,カーナビ(GPS)さんとのおつきあいである。
はじめは,カーナビが案内する道路だから間違いないと思って,私は道路を左折した。
アーカンソー州に入ると,走っていた道路が片側1車線の一般道になってしまったのが,そもそのも原因であった。そのあともずいぶんと走っていったのだが,進路はどんどんと北向きになっていく。どう考えても,方向がおかしい。これでは,ミズーリ州に逆戻りである。そのときやっと,私は,もと来た道まで戻ることにしたのだった。
要するに,私の入力した地名で検索して出てきた場所が,地名ではなくどこかの商店か何かの固有名詞だったのだ。
ところで,カーナビのついていない車でアメリカを旅行するには,かなりの技術が必要である。私は,自分でいうのもなんだが,地図が読めるので,遠くに行くときはそれでも何とかなる。それよりも問題なのは,都会で運転するときである。
アメリカの都会を運転するのはかなり難しい… と書きながら,それは何もアメリカだけではないことに気づいた。日本のほうがよほど難しいかもしれない。日本でそれほど困らないのは,単に、道路を知っているというだけのことであろう。
近ごろのカーナビはとても優秀で,多くの国の言葉に設定が変更できる。そこで,私は、この旅行では,日本語に設定して走っていたのだが、彼女(=カーナビ)の話す日本語がかなりおかしい。というより,よくわからない。この日本語を理解するのに,ずいぶん時間と日本語力? が必要であった。英語に設定しなおせばよかったのだが,面倒でほかっておいた。次にアメリカで車を借りたときはそれに懲りて英語の設定にしたが,これならとてもよくわかった。
ぜひ,アメリカでカーナビつきの車を借りられるときは,英語の設定にされることをお勧めする。
カーナビを使うときの次の問題は,目的地をどう入力するかということであった。
いろいろと試してみたのだが、もっとも正確なのは,住所を入力する,という方法であった。ホテル名を入力しても同じ名前のホテルがさまざまな町にあるから間違うことが多いし,地元でなければ表示されないことも多くある。また,住所の入力でとても便利なのが,日本の郵便番号にあたるZIPコードを入力する方法である。
カーナビで目的地を入力するときは,ZIPコードに限る。
これが結論である。
さて、私は,再び,もとの道路まで戻ってカーナビを設定しなおした。とりあえず,リトルロックまで行くことができればいいのだから,今度はリトルロックのシティホールに設定した。
そして,ガソリンを入れるついでにコンビニで朝食を買った。いつものように,菓子パンとコーク。ホテルで朝食をとる前に出発するといつもこんな感じだ。
どうやらこれで,無事,カーナビは私を正しい方向に導いてくれたようだった。改めて国道65を走っていくと,やっと,目の前にインターステイツ40が見えてきた。
その途中で「クリントン」という町を通った。確かに,アーカンソー州はクリントン元大統領ゆかりの地ではあるが,調べてみたところ,この町は特にクリントンさんとは関係がないようであった。
November 2015
「007スペクター」-ジェームズ・ボンドは帰ってくる。
007シリーズの最新作「スペクター」(SPECTRE)を見ました。
・・
若いころから私の年末の恒例だったのは,日本の「寅さん」とイギリスの「ジェームズ・ボンド」でした。このふたつの映画が,いかにも,日本とイギリスの世界における立ち位置を象徴していると,私はずっと思っていました。
やがて月日が経ち,「寅さん」は渥美清さんと運命を共にし,「ジェームズ・ボンド」は代替わりしながら今も続いていることもまた,このふたつの作品の国民性を象徴しているように思います。なんてったって,「ジェームズ・ボンド」は世界の大英帝国のスパイです。
今日は,私の年末の恒例映画から,「ジェームズ・ボンド」が活躍する007シリーズのお話です。
私がこれまでに見た007シリーズで一番おもしろかったのは「Golden Eye」です。
最近の作品は,アクションよりも心理描写が中心となっていて,巷ではそれなりに評価されていたのですが,私には物足りないものが続いていました。そこで,今年の最新作「スペクター」に期待しました。
家から歩いて5分のところに映画館があるので,昨日から3日間先行上映されているこの映画を早くも見てきました。「スペクター」は期待に違わず,内容の濃い,素晴らしい映画でした。これまでの作品のいいとこ取りみたいで,私には,久々に,期待する007映画が戻ってきたように思いました。
コンピュータのネットワークに侵入するなんていうシーンも「Golden Eye」を思い起させるものでした。また,「Golden Eye」での20年も前の作品の先進性を,今更ながら感じ入りました。このシリーズは,映画館で見たときはどれも先進的なのですが,月日が過ぎて,それが過去のものとなったときに作品を見直して見ると,概して,当時の「ハイテク」は「ローテク」に変わって見え,がっかりすることも多いからです。
今回の作品は,アクション映画としても十分以上におもしろい作品でしたが,難癖をつけるとすれば,メキシコシティであれだけの大爆発を起こしても,そのまま何事もなかったかのようにフェスティバル「死者の日」が続けられている,とか,機関車の中で人が殺されても,そのまま列車が走り続ける,などという,ありえないことだらけで,突っ込みどころ満載でもありました。しかし,007にそんなことを追求するのは「野暮」というものでしょう。
・・
それはそれとして,今回もまた,映画に,心理的な描写が多く加わっていることが,作品の陳腐化を妨いでいてそれが深みにつながっていましたが,そのことが逆に,現実の世界を思い出させてしまうので,よいのか悪いのか…。
私は,人間が一体何を求めてテロを起こしたり戦争をしたりするのかが,根本的によくわからないのですが,この映画を見ていると,ますます,そのことがわからなくなりました。身近なことにたとえるならば,自分が努力するとか辛抱するというのは個人の勝手ですが,それを他人に強いてパワハラを働く人というのがよくわからない,それと同じです。そしてまた,これだけ映画のスケールが大きくなってしまうと,同じひとりの人なのに,どんな危機でも乗り越える命と簡単に死んでしまう命,そして,それに比べた自然の大きさと人の作る殺人兵器の愚かさにとまどってしまうわけです。
そういえば,人間の作った組織だって,それが,本当に「善」なのか,といえば,国家が戦争犯罪を起こしたりもするし,独裁国家の権力者になりえたりもするから,必ずしも「善」とはいえないわけです。もし,権力を握った者が裏で悪の組織と結びついていて本当は一番の「悪人」だったとしても,それをカモフラージュすれば,組織には,簡単にはその独走を防ぐ手立てがないのです。
私のかつての上司がまさにそうでした。あれだけの「悪人」に地位を与えてしまった組織は,彼が暴走をしてもだれも止めることもができないのです。私は,それを知って,組織というものを「善」とみなすことや地位というものをリスペクトするのを一切やめました。
映画の中で,ボンドガールが出てくるのはこのシリーズのお馴染みですが,今回のボンドガールも,いつものとおりとても魅力的でした。しかし,若いころとはちがって,今の私は,ボンドガールとジェームズ・ボンドとの突然の絡みの意味が,この映画の魅力とは結びつかないと感じるようになりました。ボンドガールは,この作品の集客に貢献しているのでしょうが,私は,それを見てもワクワクしなくなった,というのが,個人的には悲しい現実です。それに,所詮,男は,女と車さえ与えておけばいいんだとバカにされているようにも思えます。
・・
007シリーズの最後には,恒例の「JAMES BOND WILL RETURN」というテロップが流れます。このテロップを見ないで映画館を早々に立ち去ったお客さんは,この映画のおもしろさの半分も知らないのではないかと私には思えます。
この作品のサブタイトルは「最後の死闘」だそうです。そのサブタイトルが007シリーズが最後であることを暗示しているのかと心配しましたが,恒例のテロップの最期のことばを確認して,私は安心しました,ジェームズ・ボンドは,また,帰ってきます。
博多の秋の大相撲観戦⑤-福岡には泊まるホテルがない!①
今回からは,2年ぶりに行った九州・福岡市の旅行記を書きます。
私は,この秋,大相撲九州場所を見るために九州の福岡市に行きました。一昨年は,アイソン彗星を阿蘇の外輪山で見ようと計画して九州へ行ったのですが,彗星は消滅してしまい,観光旅行に変更して熊本市からスタートして,九州をくるりとドライブしました。しかし,そのときは福岡市には行かなかったので,今回,福岡市に行くことができたのは幸いでした。
福岡市は今から30年くらい前に何度か行ったことがあって,「漢委奴国王」の金印も見た記憶があるのですが,ほとんど覚えていません。また,別の機会には,ちょうど「博多どんたく」の真っ盛りに,そうとは知らずに行って,泊まるのにえらく苦労したことをなんとなく覚えています。
いずれも,旅慣れていなかったころの懐かしい話です。
・・
私の今はアメリカ旅行ばかりなので,京都や東京以外の日本国内を旅行することはまれになってしまいました。今回のように,空路で九州へ旅行をすると,アメリカへ行くのと少し感じが似ていて,また,その似ていて異なることで,逆にとまどいました。それは,たとえば,ホテルを予約したり,レンタカーを利用したり,国内線に乗ったりするときに,その流儀が違うからです。
日本のほうが,何事も不便であり,非合理です。
いずれにしても,私にとって,九州はいろんな意味で「ミニ・アメリカ」みたいに思えます。
今回は,ともかく安価に行こうと考えて,ネットでいろいろと調べて,予約をしました。
はじめは深夜バスで行こうと思ったのですが,名古屋からは12時間もかかります。これでは,名古屋からデトロイトへ行くより大変です。新幹線は高く,在来線でもずいぶんと時間がかかります。困っていたときに,ジェットスターという格安航空を見つけたというわけです。しかも,連休とはいえ,座席があって,簡単に予約できました。
それよりも,むしろ問題だったのがホテルの予約でした。
11月20日金曜日の夜に出発して11月23日に帰ることにしたので,3泊4日。そこで,福岡市内に3連泊しようと,ネットでホテルを探しました。簡単に見つかるものだと思っていたのですが,まったく泊まるホテルがないか,あっても,ものすごく高価なのです。
だんだん「マジ」になってきました。
近ごろは,ネットでのホテルの予約もずいぶんとシステム化されてしまったので,どのサイトを探しても,同じような情報しか出てこなくなりました。「掘り出し物」がないのです。そして,簡単にキャンセルができるからなのか,ホテルの宿泊代がどんどんと高騰しているのです。それは国内も海外も同様です。
価値感というのは人それぞれですが,私には,ホテルなど,寝ることさえできればいいので,ベッドがあって,バス・トイレのついた部屋であれば事足りるのです。というより,日本のホテルは,私には無用の設備はあれど,未だに無線LANがつながらないとか,テレビが地上波しか映らないという,私の常識ではもはや「ありえない」ことが多いので,何も期待してはいないのです。こんなことアメリカでは考えられません。
買物をするときも,未だにクレジットカードが使えない店が多いし,そればかりか,やたらと○○ポイントカードだらけです。ポイントカードを持っていないと,損をした気持ちになります。そんな中で,ここ数年,日本で便利になったなあと思うことは,公共交通機関ならほぼどこでもICカードが使えるようになったことだけです。
道路は混んでいるし,旅番組で紹介されたところには観光客が押しかけるし,さらには,マナー知らずの観光客が煙草を吹かしたり温泉を独占したりと,逆に,めんどくさく不便にさえなってきています。
そのようなわけで,大相撲のチケットを入手できた日から,私は,泊まるホテルを探すために,机の前にiPadを2台並べ,1台には「Google Maps」を,もう1台には「乗り換え案内」を起動し,さらに,その横にパソコンを用意して,画面にホテルの予約サイトを起動して,ホテルの場所や福岡市内のアクセス方法を確かめながら,ホテルを探しはじめた,というわけでした。
その際,この6月に,同じようにして,宿泊先の見つからないサンフランシスコのホテル探しをしたときの経験が役立ちました。なんだか,今回も,アメリカ旅行を計画しているような,そんな錯覚に陥りました。
2015春アメリカ旅行記-アルマジロはおいしいのか?①
●アーカンソー州には何があるか?●
いよいよ,私は,未知のアーカンソー州に入った。
アーカンソー(Arkansas)という名前は,アメリカンインディアンの カンザ族と近縁のクアポー族の言葉で「下流の人々の土地」を意味する,あるいはスー族の言葉で「南風の人々」を意味する「アカカズ」(akakaze)をフランス語風に発音したものである。
私は,アーカンソー州に行って,初めて,ここは,「アー+カンザス」なのだと気づいた。ならば,なぜ,アーカンザスではなく,アーカンソーなのだろうか?
この語末の「a+子音字」は標準のフランス語では「ア」と発音する。これを「オー」と発音するのはケベック・フランス語など北アメリカのフランス語である。 だから,アーカンソーの発音については,州選出の2人のアメリカ合衆国上院議員の間で,片方が「アーカンザス」(ar-kan-zəs)を主張したのに対し,もう一方が「アーカンソー」( ar-kən-saw)を主張するという論争があったのだ。
そして1881年の州議会立法で公式に「アーカンソー」と決められたというわけだった。
それにしても,アーカンソー州なんて,行った日本人がどのくらいいるのだろうか?
私と同じくアメリカ合衆国50州を制覇しようとした人の書いたものを読んだことがある。というよりも,それを読んだことを覚えていて,私もそうしようと,いつの間にか思うようになったのだが,その人が最後に残ってしまったのは,ノースダコタ州であった。私はこれを知っていたので,それほどノースダコタ州というところが行きにくいところなのかと興味をもったのだし,それが理由で,すでに,わざわざそのノースダコタ州には行くことができた。
しかし,今考えてみれば,ノースダコタ州以外にも,結構行きにくい州は存在する。メイン州もそうだし,アーカンソー州も同様である。しかし,このアーカンソー州こそ,もっとも「何もない」州なのではなかろうか,と今回行ってみて思ったのだった。
ノースダコタ州には,シェールオイル(石油)があった。一体,このアーカンソー州に何があるというのだろうか?
私は,行った時にはそれがまったっくわからなかった。帰ってから調べてみると,アーカンソー州はダイヤモンドが自然に埋蔵されている事が発見された合衆国で唯一の州であることを知った。ただし,一般人が少ない日給で原始的な掘削道具を使って掘り出しているので,商業ベースには乗っていないのだという。
この州には州立公園が52あって,天然資源が保存されている。そして,少額の料金を払うと,本物のダイヤモンドなどの宝石の原石を採掘して,見つけた原石はもらうことができるのだという。
私は,カーナビでナッシュビルと入力して走っていたと前回書いたが,その案内に従って,順調に国道65を南下していった。そして,アーカンソー州に入った。
この辺りまでは順調であった。
地図上では,国道65はそのまま南から南東に進路を変えて,アーカンソー州の中央にある州最大の都市リトルロックを目指し,そこで,インターステイツ40に入るはずであった。
ところが,国道65はアーカンソー州に入ったあたりから,片側1車線のカントリーロードになって,しかも,どう考えてもそのまま南に行かなくてはおかしいのに,カーナビは左折を指示したのだった。
博多の秋の大相撲観戦④-見に行かなけりゃわからないこと
旅行でも,コンサートでも,スポーツ観戦でも,何事もそうですが,テレビではわからない,行かなければわからないことを味わうのが,実際に見にいく最大の楽しみのひとつです。
好奇心旺盛な私は,MLBを見にいくときも,お相撲を見に行くときも,会場に着くと,テレビではわからない楽屋裏の,これまで不思議だなあと思っていたことを解明するために,会場をくまなく歩き回ったり,係の人に聞いたりするようにしています。今日は,そんな裏側を少しだけ紹介したいと思います。
1番目の写真は,前回書いた九州場所のマス席です。この写真は,取組開始前に,マス席の最後列から写したものです。このように,一番後ろの列だけがふたり用になっていてテーブルがあります。そして,腰かけるようになっているのですが,背もたれがただの木の板なので,居心地はよくないことでしょう。そして,写真のような,座布団ならぬ括り付けマットレスになっています。この上に座布団を敷くのならともかく,これだけです。
地方場所のふたりマスというのは,以前,相撲人気が下火になったときに,どうせ空席なら,ということで作られたのがことのはじめです。その時に,たてにふたりにしようとしたのですが,ある親方が,前後ろではカップルが手も握れんわとか言って,横並びにしたというのをある記事で読んだ覚えがあります。
2番目の写真は,入門したばかりの行司さんで,取組開始後2番目の行司さんとして登場します。名前は「木村拓哉」といいます。
行司さんの名前は,現在では木村と式守のふたつあって,どちらに入門するかによって,その名前になります。きっと,この行司さんの本名は,○○拓哉さんだったと思うのですが,木村姓を名乗ったので,このようになりました。
ちなみに,木村と式守の違いは,軍配を上げたときの軍配の持ち方が違います。上から持つのが式守で,下からすくうように持つのが木村です。立行司だけは,式守伊之助が木村庄之助になるので,どちらを名乗っても,姓が一度は変わることになります。
3番目の写真は,力士の場所入りです。
場所入りというのは,お相撲さんが会場に来ることですが,近年は,ファンサービスとして,支度部屋に行くのに,専用の入口から入るのではなくて,お客さんの入口と同じところから入るようになりました。
東京では,JRの両国駅あたりから国技館までの歩道に,そうしたお相撲さんを見るためのファンで一杯ですが,地元なので部屋のある場所によって,歩いてきたり,車で来たり,あるいは自転車!で来たりと様々で,なかなかすべての関取をみることが難しいのです。
その点,地方場所はそうした姿に接するには最適です。
名古屋は真夏なので,会場の外で待っているのは大変ですし,会場内も,スペースが狭いのが残念です。それでも,以前のように裏口からさっさと入っていくよりはずいぶんと身近かになりました。
大阪は,会場の外で待つのが最高です。このことは,以前書きました。
九州は,会場の外でも中でもよく見ることができました。
お相撲さんが来るのは,十両力士は十両の土俵入りの30分くらい前まで,幕内力士は,幕内の土俵入りの30分くらい前までなので,全部の関取の場所入りを見ていると,残念ながら,幕下と十両の取組をナマで見ることができません。
お相撲さんの来る順番が決まっているわけでもなく,力士の性格によってずいぶん早く来る力士と遅い力士がいて,個性が出ていて面白いです。あくまで噂ですが,聞いた話では,一番遅く来るのは千代大龍関だとか…。この写真は千代大龍関なのですが,しかし,この日は,最後ではありませんでした。
また,着物姿もいろいろで,羽織はかまで大イチョウで堂々とやってくる力士がいれば,そうでない力士もいてその違いも楽しめます。いずれにしても,長身の力士は見栄えがします。近年のお相撲ファンの女性は,相撲の取組よりも,この姿を追っかけている人もいます。確かに,まわし姿よりもかっこいい力士が多いのです。
写真撮影はいいですが動画はやめてくださいとガードマンが言っているのですが,今時,スマホもカメラも,静止画を撮っているか動画を撮っているか区別する方法があるとでも思っているのでしょうか?
4番目の写真はテレビの放送席です。
この日は千秋楽なので,解説は北の富士さんでした。
東京場所は,1階のマス席の後方にありますが,地方場所はこのように,会場の一番上に作られています。なお,ラジオの放送席は,マス席の中段あたりにあるので,もし,会場に行かれるのなら探してみてはいかがでしょうか? 私は名古屋場所でラジオの放送席の後ろのマス席に座ったことがあって,取組終了後に,解説の舞の海さんに握手をしていただいたことがあります。
5番目の写真は,優勝力士の表彰式の写真を写そうと,正面土俵下に陣取ったカメラマンです。ものすごい数でしょう。
お相撲の取材をするカメラマンの持っているカメラが毎年どんどんと変わっていくのを見るのも,また,面白いものです。
昔は「スピグラ」の愛称で呼ばれた「スピードグラフィック」。進駐軍の米兵たちが横流ししたり帰国時に手放したりしたことがそのきっかけで1950年代には新聞社への特別輸入枠で正式に購入,シャッタースピードは1/1000秒だったので,スポーツなど動きの速い被写体も撮れ,フィルムは「シノゴ」とよばれた4×5インチのもので,大きい分だけ画質もきれいでした。1970年ごろまで使われていたようです。その後は,会場の上のほうにカメラマン席が作られて,望遠レンズを使って一眼レフで写されていました。そのころの私は,そうした高級カメラをうらやましそうに眺めてばかりいました。今は,そういった姿もなくなって,土俵下でデジタルカメラを使って写しています。
土俵下のカメラマンはストロボに室内灯補正用のオレンジのフィルタをつけています。これはテレビ中継でもわかるので注意してご覧ください。あのオレンジのフィルターは,ストロボ光の色温度がおよそ6000ケルビンで国技館の照明の色温度が3400ケルビンなので色温度が高すぎて照明が青い光として写ってしまうので,カラーバランスをとるためのものです。もし,オレンジフィルターなしのストロボを使うと,力士が青い光に照らされて写ったり,背景がオレンジになってしまってバランスが崩れるのを,ストロボ光の色温度を下げて会場の照明の色温度に合わせるのです。会場ごとに電灯が異なるので,違った色を使用しています。カメラマンも大変です。
2015春アメリカ旅行記-ショージ・タブチさんの夢④
●朝焼けが美しい国道65を走る。●
☆4日目 5月12日(火)
3日目の晩は,ショージ・タブチ・ショーを見て,夜遅くホテルに戻ったが,シアターからホテルまでは車ですぐ,何の問題もなかった。
あまり楽しかったので,もう数日ブランソンに滞在しようかとも思ったが,それでは今回の旅の目的が果たせないので,4日目は,早朝旅立つことにした。ホテルの朝食が朝7時からだったが,もっと早く出発したかったので,朝食をとるのをあきらめた。
実は,私は,この旅で,このホテルにもう一度戻ってきて再び同じ部屋!に宿泊することになるのだが,この日の私は,数日後にそんなことになるとは夢にも思っていなかった。この日は,ここはいいところだ,という思い出が残っただけだった。
私は今日,これからできるだけ東に走っていくことにした。今日中になんとかアラバマ州までは行こうと思った。
地図があればそれを見ていただくといいのだが,アメリカの南東部はごちゃごちゃとたくさんの州が入り組んでいて,よくわからない。そしてまた,日本ではなじみがなく,情報も少ない。仕事ならともかく,観光で行く人もほとんどいない。
私がそうまでして行くのも,50州制覇などというクレイジーな目的のためだけだった。
「ミシシッピ川を遡るブルースとジャズを味わう旅」というのはよくある。そのときは,ニューオリンズから北にメンフィス,セントルイスと進んで行くのだが,それなら私の旅のコースよりずっと魅力的である。きっとこの旅行記を読んでいる方も,その方がずっと興味がもてると思うのだが,この珍しい旅に,しばらくはおつきあい願いたい。
私は,アラバマ州まで行ったら,そこから北に進路を変えて,テネシー州,ケンタッキー州をめざすことにした。
この日,私は最終的にはインターステイツ40を東に走っていくことになるのだが,ブランソンからは,まず南下して,インターステイツ40へ向かわなければならない。
しかし,そこまでが遠かった。
私は,カーナビに「ナッシュビル」と入力して,その指示に従って走っていった。インターステイツ40に出るにはブランソンから国道65を南下していくだけだだから,それほどむずかしい経路ではないと思った。
出発したころは,とても美しい夜明けの風景を見ることができた。しかも,国道65は片側2車線のインターステイツ状の道路だったから,ブランソンを結ぶ道路がこんなに立派なら,私がくねくねと田舎道を走ってくる必要などなかったと,このときやっとわかったのだった。
そのまま,しばらくは快適にすすんでいったのだが,国道65は片側2車線のインターステイツと変わらない道路ではあっても,交差点には信号があったりと,少しだけインターステイツとは違っていた。今これを書いている私の手元には,後日ウォールマートで購入したA3版の,アメリカの州ごとに2ページになっている巨大な地図帳(なんとたった6.75ドル)があるのだが,それを見ても,片側2車線のインターステイツ状のハイウェイには,信号のない道路が「リミテッド・アクセス・マルチライン・ハイウェイ」,信号のある道路が「アザー・マルチライン・ハイウェイ」という区別がされている。
こうして,今日は順調に距離を稼いで,アーカンソー州の州境にたどり着くことができた。
◇◇◇
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム①
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム②
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム③
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム④
博多の秋の大相撲観戦③-相撲を見るしかないところ
11月22日(日)。千秋楽の取組開始は,通常よりも遅く午前10時過ぎということで,私は9時過ぎに福岡国際センターに到着しました。すでに,寄せ太鼓の音が響いていて,雰囲気満点,思ったより大きい建物だというのが第一印象でしたが…。それは誤解でした。
入口付近で近くにいた人に写真を撮ってもらって,名古屋から来たのですが,といったら,私は埼玉です,といわれました。
もう開場されていたので,中に入ってみたのですが,大阪とは全く違って,入口あたりに,こじんまりと売店があるだけで,あとは何もなし,まだ取組がはじまっているわけでもなし,場内に相撲甚句が流れているわけでもなし,全くすることがありません。いやが上にもゾクゾク感が湧いて来た大阪とは真逆で,すでに,失望感が…。
会場は正方形で,狭いからこそ見やすいのは評価できるのですが,デラックス感もなく,さらに,イス席は名古屋と同様,駅のベンチみたいなもので,およそ,入場料をとって座ってもらう様なものではない。狭く,こんなところで何時間も座っていられるか! という感じでした。大阪だけは,イス席にも座布団が括り付けられていたので,許せたのですが…。
日本の人は,体育館の座席はこんなものだろうと思うのでしょうが,アメリカでは,MLBのスタジアムは無論のことNBAの会場でも,今やこんなところはありません。日本の国力は,所詮,こんなものなのでしょう。
これは相撲協会のせいではないのですが,名古屋とか福岡のような大都市であっても,この程度の体育館しか作れ(ら)ないのです。わびしい話です。
会場をぐるりと回ってみたのですが,1階のマス席の下には通路があって,そこを一周すると,インタビュールームとか呼び出しの控室とか,さらには,奥には支度部屋につながる通路がありました。
係の人に,レストランはあるのですか,と聞いたら,外に出ないとありません,とのこと。お弁当は一応売店で売っていたのですが,お茶屋さんがないので,華やいだ感じもありませんでした。
MLBボストン・レッドソックスのフェンウェイパークも狭いのですが,ここは,外の通路までもがゲームの当日はボールパーク扱いで,チケットゲートはその外側の道路につけられていてます。体育館が狭いのなら,そんなふうにして,入口の外に福岡お得意の屋台茶屋でもできないものかなあ,と思うのですが,これもまた,「日本人の知恵と発想の限界」でしょうか?
さらに,場内の4隅のイス席の通路の角も,ここでは観戦しないで下さいと書いてあるのですが,あんなスペースがあるなら車椅子の人の観戦場所にすればいいのに,そんな考えは頭の端にもないのでしょう。観客席のまわりをぐるりと車椅子の観戦スペースが取り囲むアメリカとの違い! これが日本です。第一,そうするにしても,エレベータもないから,無理でしょうが。これでは,お年寄りは観戦できません。
喫煙コーナーは作っても,そういう配慮ができないのが,日本人の「おもてなし」なのです。
マス席にあるのは座布団でなくマット。1マスに2人分の長方形のマットが2セットおいてありました。これも九州場所だけのことで,布団を投げられなくするためにこのようになったということですが,座り心地の悪いマットでは,マス席の観客も思いやられます。客の入りが悪いという最大の原因は,この会場が,マス席もイス席も居心地の悪い狭い場所で相撲を見る以外に何もすることがなく,身障者にも配慮がないということだと,私は確信しました。また,お茶屋さんがないというのは,座席にいても,何も売りに来ない,ということでもありました。
このように,地方場所もところによっていろいろと違うのだなあと,改めて実感したものです。
ただし,肝心のお相撲自体はものすごく面白く,盛り上がりました。幕下の優勝決定戦で将来の人気ナンバーワン力士になるであろう宇良の熱戦を見ることができたのもよかったです。
また,力士の場所入りは,九州場所が一番見やすいです。テレビで十両の取組の時に観客が少ないのは,会場に来た人の多くが会場の入口で幕内力士の場所入りを見ているからなのですが,私もずっと見ていて,周りにいた人にどこから来たのですか,と聞くと,福岡という人はひとりもいなくて,東京,名古屋,そして,なんとオーストラリア。近いところでも,佐世保,熊本… でした。
・・
今回もまた,「神送りの儀式」まで見て,さらに,優勝パレードを堪能しましたが,これで,私は,MLB30球団制覇の前に,大相撲4会場を制覇したことになりました。その結果,大相撲を見るなら,国技館を含めて,やはり,大阪が最高だと確信しました。
ところで,北の湖理事長が急逝されました。私は大阪場所を見に行った時に,会場のレストランで偶然お見かけし,お願いして一緒に写真を写したのが,よい思い出となりました。
◇◇◇
浪速の春の大相撲観戦②-大阪場所は最高だった。
2015春アメリカ旅行記-ショージ・タブチさんの夢③
●私は客席から手を振った。●
ショーがはじまるのは午後7時30分で,午後6時30分に開場ということだったので,まだ2時間近くあった。
実際,ホテルのフロントで教えてもらったように走ってみると,ブランソンの町の様子が少しずつわかってきた。わかってしまうと,車で走るのなら,はじめに思ったほど広い町でもなかったが,それでも,道路の周りには多くのショップやレストラン,そしてシアターがあった。きっとシーズンには多くの車で渋滞するであろう。
町の中心にはウォールマートもあった。私はこの年,この旅行のあと,3か月の間に2回アメリカに行ったので,その頃にはアメリカに慣れっこになってしまったが,このころはまだ, ウォールマートが珍しかったので,時間稼ぎも兼ねて,取り合えずそこに入って時間をつぶすことにした。
ウォールマートは,ずいぶん広いスーパーマーケットで,衣料品から電化製品,さらには銃まで! 何でも手に入るが,いつも思うのは,買い物をするときのカートがやたらとでかいということである。
ウォールマートでは特に買うものもなかったので,ウィンドウショッピングをして,外に出た。
夕食をとることにした。
昨日オクラホマシティでは非常になさけない夕食になってしまったので,今日こそは少しはまともな食事をしようと思った。
ブランソンには昨日とは違ってレストランがたくさんあって,食べたいものは何でもそろっていた。
こうなると逆に選ぶのに困ってしまうのだ。私が何を食べても大丈夫ということと,グルメでないということ,そして,ひとりでは大したところに行っても仕方がない,というのがその理由であった。
よく,ひとりで旅行をしていて夕食はどうするのですか? と聞かれることがある。アメリカにも吉野家が欲しいくらいなのであるが,私が重宝するのは,デニーズなのである。
この日の私は日本食を食べようと思った。ブランソンには日本食が食べられるレストランが3軒もあった。結局,後日,そのうちの1軒に行くことになったのだが,この日は,当然,まだ,そんな将来のことは分からない。
しかし,なんとなく敷居が高くて入りそびえて,結局,なさけないことに,ここでもまた「どこでもデニーズ」になってしまった。
食事が終わっても,まだ開場には若干早かったが,とくにすることもなかったので,私は,シアターに向かった。
着いてみると,チケットを購入したときとはうって変わって,すでに,駐車場には多くの車が停まっていた。
入口の外に多くの人が集まっていたので,まだ入れないのかな,と思ってそこにいた人に尋ねてみると,もう入れるよ,ということだった。
扉を開けて中に入って,私はびっくりした。そこには,非常にデラックスな空間が飛び込んできたのだった。
ロビーには高価そうなソファがあふれていて,右手奥には土産物売り場があった。中でも一番驚いたのは,トイレであった。扉を開けて中に入ると,なんとビリヤード場があった。トイレの中にビリヤード場があるなんて,はじめての経験であった。
そして,その向こうには,ずら~と洗面所が並んでいた。そこにもまた,高価なイスが用意されていた。
ここのシアターは,何もかもが常識とはかけ離れていた。
やがて開演時間が近づいたので,自分の席に着いた。流石にシーズンオフのこの時期は満席ではなかったが,それでも,殆どの席は埋まっていた。私の隣は,テキサスから来たというおじさんだった。我々の前の席がずっと空いていて,おじさんとふたり,後から入ってくる観客が我々の前列に座らないようにと祈りながら盛り上がっていた。結局誰も来なかった。
ショーがはじまった。ショージ・タブチさんと,その仲間たちが楽しいショーを繰り広げた。
ショーは2部構成で,第1部は,様々な音楽と楽しいおしゃべりだった。そして,第2部は,巨大な和太鼓が出てきて日本情緒のただようステージだった。日本人からみれば結構おかしな演出なのだが,これがアメリカ人にはウケる。それをすべて承知の演出だった。
幕間にはファンサービスもあって,一緒に写真を写すこともできた。
第2幕の途中で,今日は日本から来たお客さんがいるということで,私がステージ上のタブチさんから紹介された。先ほど一緒に盛り上がった隣りに座っていたテキサスから来たおじさんが立って手を振れとしきりに言うので,仕方なく座席から立ち上がって手を振ったら大うけであった。
ショーが終わったあとで,ステージから降りてきたショージ・タブチさんと直接お話をして,お土産までいただくことができた。
このショーは,いってみれば,老人向けの日本の温泉旅館の大衆演劇をスケールを大きくしたようなもの,といえばそうでもあったが,ひとり日本を渡ったショージ・タブチという人がアメリカでその夢を実現した姿に,私は感動したのだった。
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ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム①
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム②
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム③
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム④
博多の秋の大相撲観戦②-九州場所が「鬼門」なのは?
大相撲のテレビ中継では,千秋楽が最後まで放送されなくなってずいぶん経つので,うわさに聞く「神送りの儀式」とやらを見届けようと,今年の3月,大相撲大阪場所の千秋楽のチケットの先行予約の抽選に申し込みました。それがビギナーズラックで当選して相撲観戦をしてからというもの,大相撲を見るなら千秋楽ということになりました。ところが,それ以降,毎場所先行予約を申し込んでいたのですが,すべてはずれでした。
大阪場所のチケットを購入したときのような初心がなくなり,このごろは雑念ばかりの上に,さらに,異常な相撲人気が手伝って,チケットはまったく手が届かなくなりました。それでも高価なマス席ならまだ何とかなるのでしょうが,私の狙っているのは安価なイス席です。これではやはりムリなのかなあと思って,ついに,行く手段も考えず,比較的入手の楽な九州場所千秋楽の先行予約にチャレンジしたら,チケットが当たってしまったのです。こうなったら,チケットを入手するには,もう,不人気な九州しかない,と友人に話していたのですが,本当にそうなってしまいました。
私は,九州で大相撲を見るなんていうことは生涯ないと思っていたのですが,考えてみれば,人生一度くらいはそれもいいかも,と思い直して,九州場所を開催している福岡に行くことにしました。
時に,11月22日(日),千秋楽です。
九州場所は福岡国際センターで行われているのだそうです。九州場所は,これだけ相撲ブームになっても観客の入りが悪く,1年前から続いていた満員御礼も2日目に途切れてしまいました。私の行く千秋楽はともかく,平日,特に前半戦はテレビで見ていても,ずいぶんと空席があります。
「鬼門」の九州といわれます。どうして九州で大相撲は盛り上がりを欠くのか,といった記事がありました。今日はそのお話です。
福岡国際センターは約7千人の収容ができます。両国の国技館が1万1千人,名古屋が8千人,大阪が8千3百人なので,大きさはそれほど変わらないようですが,テレビで見る限り,とても小さそうに見えます。私には,名古屋よりも大阪のほうが収容人数が多いというのがむしろ驚きで,だだっ広いだけの名古屋に比べると,大阪のほうがずっと客席が土俵に近く見やすいです。
・・
九州が「鬼門」である理由がいろいろと書かれてありましたが,そのひとつは,九州場所はチケットを手配する相撲案内所(相撲茶屋)がないということだそうです。それはいえます。その逆に,名古屋なんて中日新聞が主催だし,相撲案内所もあるから,名ばかりの先行予約だらけです。先行の先行? まであって,全くフェアーじゃないのです。
次に,会場が繁華街から離れていて不便なことだと書かれてありました。私はそれはたいした理由にはならないと思います。ヤフオクドームだって同じです。
さらには,東京や大阪では目立つ(特に欧米からの)外国人客の姿が少ない,と書かれてありました。私はこれが大きいのでは,と思います。今の大相撲ではとても多くの観客が外国人なのです。東京など,イス席は外国人のほうが多いくらいです。
福岡は遠くから出かけるにはとても不便なのです。交通機関は便利なのですが,ホテルに空室がないのです。それで観戦を諦める観光客もいる,とも書かれてありましたが,今週末など,11月21日はEXILEのコンサート,11月22日はホークスの優勝パレードがあるとかいう話で,ホテルがまったく予約できません。私の場合がまさにそれで,ホテルを探すのが大変でした。
こんなことだから,私は国内旅行なんてしたくないのです。人は多いし混んでるしマナー悪いしホテル取れないし…。 アメリカの国内を旅行しているほうがずっと楽なのです。
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ともあれ,私は,フライトの突然のキャンセルで,予定よりも19時間遅れて,やっと福岡にたどり着きました。
博多の秋の大相撲観戦①-まさか,また飛行機が飛ばない!
大人気の大相撲,チケットがとれません。特に,千秋楽は。
私は,大阪場所で千秋楽に見にいって以来,夏,名古屋,秋と千秋楽のチケットの先行予約の抽選に応募して,ことごとく外れました。そして,行く予定もなかったのに,思わず応募した九州場所が,なんと当たってしまったので,急に博多に行くことになりました。
せっかく行くのだからと,金曜日に出発して,3泊4日の旅を楽しむつもりでした。このことは,また,帰ってから書きます。で,今日のブログは,実は,私の乗るはずの飛行機が出発間際に,急にキャンセルになってしまった,という話です。
名古屋から博多まで,結構時間もお金もかかるので,一番楽に安く行く方法を調べたら,ジェットスターという格安の航空会社が見つかりました。新幹線の半額以下,高速バスよりも安い,というものです。きっと何かわけありだろうとは思ったのですが,ともかく,ものは試しで一度乗ってみることにしました。まさか,立ち席? ということはあるまい,とは思ったのですが,はたして何が起こるか興味深々でした.
それが ,まさか,ドタキャンの常習犯? だったとは…。
飛行機は定刻の午後6時30分出発の予定で,搭乗が開始されました。
座席が狭いとは聞いていましたが,わずか1時間30分,どおってことないなあというのが第一印象でした。機内は満席でした。
ところが,定刻になっても離陸しません。そのうちに,貨物室のドアを閉めるのに手間取っている,という機内アナウンスがありました。しばらく待っていたら,定刻より20分も遅れて,今度は,機長が操縦席から出てきて,油圧系統の故障で貨物室のドアが閉まらないので,出発をキャンセルしますと話しました。
私は,今年,3度アメリカに行って,すべて,デルタ航空を利用したのですが,1度目は,行きの名古屋発の出発便が2時間遅れ,さらに,帰りのカンザスシティからの便が一度離陸したのに,コクピットから煙が出て引き返し,乗り換え便に間に合わなくなりました。このことと航空会社の日本人職員のあざやかな? 対応は,すでにブログに書きました。
そして,2度目は,サンフランシスコからシアトルへ行く便が1時間以上遅れましたが,乗継便には連絡がしてあって支障なく帰国できました。
3度目は,ポートランドからアイダホ州ボイジーへ行く便がチェックイン開始寸前に,突然,キャンセルになりましたが,これも,すぐに代替機と私の座席が用意されていました。
こんなわけで,これまでに今年乗った飛行機14回,今回も入れると15回,さらに,帰国便が変更になったので,さらに2回増えて,17回のフライトを利用したのですが,なんとその中で合計5回の遅れとキャンセルが生じるということになりました。
これほど,航空便というのは,定刻に出発するのが困難なものなのでしょうか?
そして,こうしたときこそ,会社の本性が出ます。これがサービスというものです。これこそが料金に比例しているわけです。朝ドラの「まれ」でも言っていました。「高くておいしいのは当たり前,安くておいしいケーキを…」。
ジェットスターが安価にフライトを設定している以上,利用者は何も言えないのかもしれません。しかし,ずいぶん待たせておいて,もう,代替措置もなくなった時間になって突然キャンセルでは,乗客は怒ります。そして,そのあとどうすればいいかという指示が明確でないのです。
お金を返せばいいだろう,という態度ではいけません。
幸い,私は明後日の朝までに行くことができればいいので,すぐにカウンタに行って,明日の便に振り替えて,一旦家に戻ったのですが,今日中に帰らなければならない人にとってはえらい迷惑なことでしょう。さらに,旅慣れていない人や,お年寄り,言葉のわからない外国人は,どうしたらいいか,途方にくれてしまうことでしょう。
かなり怒って係員に詰め寄っていた人がいましたが,きっと暖簾に腕押しでしょう。こういうときは,係員の対応とともに,どう対処するかという我々の能力も試されます。
端的に言って,十分なコストがかけられていない組織では,こういうときの対処について十分な教育がされていない,そこに,日本という国の組織の特徴である,融通性がなく個人で何も判断できない,ということが加わって,それがもろに露呈します。アメリカなら個人の自由度が強いから個人個人で対応が全く違うので能力のある係員を探せばよいのですが,日本では,誰ひとりとして能力がない,というより,能力があっても,それを発揮できないような組織になっているのです。
それは,団員の個性を排除する「劇団四季」のミュージカルと演じる役者によって同じ役柄にも個性があるブロードウェイのミュージカルとの違いのようなものです。だから,対応に誠意が感じられない。これが,私がこれまでにさんざん味わってきた日本の「おもてなし」の本質です。
・・
日本では,一般に,個人商店は心から親切ですが,組織となったときに,個人は完全に消え去るので,その組織が「コスト」だけを追求しているようなところはでは,何かトラブルが起きたときの対処は最悪です。つまり,対応する係員に全権が委任されていないので,単なる指示待ち人形になってしまうのです。そうなると,何を言っても糠に釘なのです。そして,霧の中に,責任というものが消え去っていきます。責任者はいないのです。
おまけに,日本の空港は,アメリカと違って,搭乗口に航空会社の実務的なカウンタがない,というのも大欠陥です。これがいつも書いているように「日本人の能力と思考の限界」なのでしょう。とても不便です。
私は,こんなことでもなければ,飛行機を使って国内旅行などしないから,もう今回限りでジェットスターを利用することもないと思いますが,格安航空というものがどういうものか,期せずしてわかったように思いました。「ブランド」がないというのは,こういうことなのかなあ,とも,今回は思いました。 また,いい経験をしました。
2015春アメリカ旅行記-ショージ・タブチさんの夢②
●お城のようなホテル●
「アメリカの小さな町」というテレビ番組で知ったこのショージ・タブチ・シアターに実際に行く機会があるとは,この旅に出たときにさえ,思ってもみなかった。第一,私はブランソンという場所さえ正確につかんでおらず,ミズーリ州にあるのだったら,カンザスシティに戻る途中で,もし,行けるのだったら行ってみよう,というほどの軽い気持だった。それでも,こんなに日本から遠く不便なところに本当に行けるとも思えなかった。
しかし,私は,実際,ブランソンに来てしまったのだった。
メインストリート沿いにシアターが並んでいる,という私の予想とは違って,何本もあるストリートにシアターは散らばっていて,着いたときは,どこに何があるのか,さっぱりわからないありさまだった。そんな状況だったのに,偶然走ったところに,ショージ・タブチ・シアターがあったというのが,「できすぎ」の幸運であった。
私は,このシアターの広い駐車場に車を停めて,この日のチケットを購入することにした。
ショーのチケットは,事前にインターネットでも購入できるのだが,入力する項目の中に,日本から来た私がどのように入力すればいいのかわからないところがあって,断念したのだった。このチケットは,アメリカ国内に住む人向け,というか,日本から観客が来るなどということは想定外のようだった。
チケットを買うときに,日本からわざわざ見にきたと言ったら,えらく歓迎されて,きっとショーの途中でタブチさんからお話がありますよ,と言われたのには驚いた。それが,どういうことを意味するのかも,よく理解できなかった。
後で考えると,この日にショーをやっていたことも幸運だったし,こうしてシアターの場所が偶然見つかったのも,何かの縁であったのだろう。
ショージ・タブチ・シアター以外に私が知っていたブランソンのシアターは,ダットンファミリーという一族の弦楽器をメインとするショーと,アンディ・ウィリアムスの作ったムーンリバー・シアターだった。
ダットンファミリーのシアターとムーンリバー・シアターがどこにあるのかもさっぱりわからなかったので,ショージ・タブチ・シアターでチケットを入手した私は,この町のストリートを何度も往復して探してみることにした。
やっと見つけたダットンファミリーのシアターでは,すでにショーがはじまっているようだったので,残念ながら,この旅では見ることが叶わなかった(と思った)。
ムーンリバー・シアターは,往年の名歌手アンディ・ウィリアムスが晩年にショーを行っていたところだったが,惜しくも数年前に亡くなって,現在は,さまざまなエンターテイナーが駆けつけてショーを行っているようであった。
こうして町の様子が少しは分かってきたので,私はホテルに行ってチェックインをした。
前日予約したお城のような形をしたホテル「ビクトリアン・パレス」(Victrian Palace)は,結構な宿泊代が必要なホテルらしいのだが,シーズンオフということで,非常に安価に宿泊することができた。
このホテルの周りにもたくさんのホテルがあったが,この時期は閉館されていたり,あるいは,観光客が非常に少なくて,どこも閑散としていた。
テーマパークも,ほとんどレジャー客がいなかったような状況であった。
ホテルは少し古びてはいたが,こぎれいなところだった。家族連れにぴったりの部屋で,私ひとりにはもったいないほどであった。
そうそう,アメリカのホテルは1人いくら,ではなく,1部屋いくら,なのだ。そして,ホテルが新しいかどうかは,テレビを見ればわかる,というのが,私が見つけた方法であるが,この写真のように,このホテルは,テレビがブラウン管だから,決して新しいものではない。 さらに,ホテルの値段が高いと朝食が充実しているというのも経験で知ったことだ。
チェックインのとき,親切なフロントの女性が,この町のことをいろいろと教えてくれた。
ストリートが入り組んでいて一見わかりにくいが,ストリートには赤,黄,青というように色でニックネームがつけられていて,道路表示があるから,それを手掛かりに走ればいいということだった。
さすがアメリカ人の発想は日本人とは違ってわかりやすい。それに,もし,日本人が同じことをすれば,きっと道路にそういう醜い塗装か何かをして,しかも,それが安価に作られるからすぐに老朽化して景観を台なしにしてしまうことであろう。
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ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム①
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム②
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム③
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム④
ブランド品とはそういうもの②-ミッキーマウスの人?格
4月の番組改編で,NHKBSプレミアムでは,子供向け番組がたくさんできました。見るともなく見ていると,昔に比べて,非常にたくさんの着ぐるみが出てきます。そして,着ぐるみを着たまま結構激しく踊っています。
私は,「ななみちゃん」の中に人がどのように入っているかが気がかりで楽しくないのですが,同じようなことを考えている人も多いみたいです。
また,さまざまなところで,着ぐるみを着た「ゆるきゃら」がブームで,「ゆるきゃらグランプリ」なるものもあります。アメリカのプロスポーツでも,そのチームのキャラクターがいますから,これは,日本だけのことではないみたいです。
着ぐるみといって思い出すのは,ディズニーランドのミッキーマウスですが,そう考えれば,ゆるキャラというのは,むしろ,アメリカのほうが本場です。
昔は,「It is Mickey Mouse.」とか「It is like Mickey Mouse.」という表現は「これは安物だ」ということだったのですが,その理由は,当時,昭和天皇も身に着けていたミッキーマウスの時計に由来するようです。それが,今ではしっかり「ブランド品」になりました。
著作権法で「上映後50年」を「70年」にしようという動きがあるのは,ひとえにミッキーマウスの著作権を守ろうというアメリカの意図なのですが,それほどまでにしてミッキーマウスのプランドを守ることに必死なわけです。
私は,いまでこそ,ディズニーランドには興味はなくなって,行くこともなくなりましたが,まだ日本にディズニーランドがなかったころに,ロサンゼルスのディズニーランドに行って以来すっかりファンになりました。
浦安にできたときは開園したその年に行ったのですが,まだ,周りにはオフィシャルホテルもなく,果たしてこれが成功するのだろうかと周囲は冷ややかで,大企業にはまだ傍観する雰囲気ありありでした。そのころは,午前中はディズニーランド内のレストランもだま準備中でイスが片づけられていたり,開門前には,ゲートの外でミッキーマウスがお迎えをしてくれたりと,今では考えられないようなこともいろいろありました。
私は,日本人のディズニーランド好きは,本当はアメリカ好きだからなのだと思います。ディズニーランドの中はミニアメリカなのです。私は,今は実際のアメリカに行っちゃうので,あえて,ディズニーランドに行く必要もないのですが,簡単にはアメリカに行かれない人にとって,ディズニーランドに行くというのは,アメリカに行くのと同じなのです。そう思います。
さて,ここからが,今日の本題です。
私は,ミッキーマウスを見ていると,とても複雑な気持ちになります。
東京ディズニーシーの 「ビッグバンドビート」では,ミッキーマウスがステージ上で格好良く,しかも4本指にも関わらずドラムを演奏するのです。観客はこれをとても楽しそうに見ているのですが,私がこれを見て思うのは,果たして,ミッキーマウスの中に入っている人は,どういう気持ちで演じているのだろうか? ということなのです。
中に入っている人はかなりの腕前ですが,それでも,もし,ミッキーマウスの着ぐるみを脱いで同じショーをしたときに,これだけの観客が来るのだろうか,ということなのです。きっと,中に入っている人は,はじめは,念願のパフォーマンスができてとても満足するだろうと思うのですが,しばらくやっているうちに「いったい俺はなんなのだろう?」という疑問が湧いてきて,自己矛盾にさいなまれるのではないか,と思うわけです。
町のお祭りで出てきたかわいいゆるキャラと肩を組んで写真を写したのだけれど,後日,その中に入っていたのは大っ嫌いなクラスメイトのお父さんだと知ってショックを受けた,という話を聞いたことがあります。私は,こうした着ぐるみを見るたびに,こんなことを考えて不思議な気がしてくるのです。
テレビに出てくる着ぐるみも,ものすごく上手に演技をしていますが,私は,それを見ながら,中に入っている人が踊っている姿を想像してしまうのです。
ブランド,というものも,きっと,それと同じものなのでしょう。
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ブランド品とはそういうもの①-魚の釣り方を教えることが
2015春アメリカ旅行記-ショージ・タブチさんの夢①
●ブランソンは巨大なリゾート地●
私は,カーナビにしたがって,ブランソンを目指した。
以前書いたように「ブランソン」(Branson)はリゾート地で,人口は約1万人。日本人には無名なこの町は,町全体に劇場街があって,全米から多くの観光客が訪れるところだ。
プレスリーという一家が1967年に州道76沿いではじめてカントリー・ジュビリーを公演し,翌年にはボールドノッバーズ・ジャンボリーがそれに続き,次第に増えていって,現在のように,50以上の劇場が作られる町になったという。
今日,ブランソンは「世界のライブミュージックの首都」と自称しているが,実のところは,大衆演劇の聖地のようなところだ。
あとでわかったことだが,この町に行くには,ミズーリ州に入ったら,そのままインターステイツ44を北東に「スプリングフィールド」(Springfield)という町まで行って,そこを南下すれよかった。
しかし,地図で見たときは,その経路はかなりの遠回りなので,そのまま東に向かって走っていったほうが近そうに思えた。実際,私のカーナビもそのような指示をしたのでそれを真に受けて,まるで日本の道のような1車線しかない,向こうから車が来たらすれ違うのもたいへんな田舎の道をいつまでもくねくねと走り続けたのだった。
第一,走っている道路の名前がEだのMだのYだのと,これだけでもわけがわからない。どこまで続くかわからないようなそんな道ばかりであったが,ともかくカーナビが指示しているから,目的地に着くことは間違いがなかったが,さすがに,これにはめげた。
まあ,アメリカでこんな道を走る機会などめったにないだろう,と強がっておくことにしよう。
日本ならこの程度の道はいっぱいあるが,日本とは違って周りの風景は雄大で美しく,決して走りにくいわけではなかったが,時間ばかりかかるのだった。
そうこうするうちに,やっと州道13とか州道76とかいった,一人前の道路に到着した。
あとは,この広い道を走っていくだけであった。このときになって,私の認識が甘く,ブラントンに行くのにこんな経路をだどる必要がなかったということにやっと気づいた。カーナビに騙されていたようで,少し腹が立った。
私は,この時点ではまだ,ブランソンという町がどういうところなのかさえ想像ができていなかった。テレビで見たときも,もっと小さな田舎町で,そのメインストリートに何軒ものシアターが並んでいるだけのような,およそ北海道の温泉町のような姿を想像していた。ところが,到着してみると,ここブランソンは,高原の森や湖に囲まれた巨大なリゾート地であった。
まったく予想とは違っていたわけだ。
さらに走っていくと,シアターの広告看板や,さまざまなアミューズメントパークの広告看板が目につくようになって,ブランソンのダウンタウンに入って行った。
ブランソンは,シアターやアミューズメントパーク,そして,ホテルといったものが点々とある地域と,そこから先の,ヨーロッパでいう旧市街のような,オールドタウンからなっていた。
私は,この町がどうなっているのかわからなかったので,まず,旧市街の方に行ってみた。それはそれで,おもしろい町であったが,めざすシアターのある場所ではなかった。
そこで,とにかく,予約したホテルに行ってみようと,カーナビにその住所を入力した。カーナビに従って走って行くと,シーズンオフで,あまり観光客がいないリゾートタウンのような場所に入っていって,信号待ちをしていた交差点で,その先に目指すホテルの看板が簡単に見つかった。
まだ早い時間だったので,すぐにはホテルには行かず,もう少し町の様子を探ろうと,その交差点をホテルとは反対に右折してしばらく走って行ったら,なんと,そこに,偶然,私の探していたショージ・タブチ・シアターが見つかったのには,本当にびっくりしたのだった。
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ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム①
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム②
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム③
ブランソン-ショージ・タブチさんのアメリカンドリーム④
月の写真を撮る②-月齢29と月齢1は写せるのか?
前回書いたように,天気がよい日が続いているから,という理由だけではじめた月の連続撮影で,月齢5.5から月齢18.5までの月をすべて写すことができたことはすでに書きました。
結局,その後,月齢19.5が曇りで見えず,写す時間が明け方になったので,月齢の小数が変わり,月齢20.8から月齢24.8までを写すことができましたが,月齢25.8と月齢26.8は曇りでだめでした。
3日ぶりの月齢27.8は明け方の東の空に鮮やかに輝き,ものすごく美しい月でした。この月が地球照に輝いて夜明けの空に薄く溶け込んでいく姿は,まさに絶品でした。
月の右隣にある小さな星はおとめ座の82番星(5等星)です。
・・
翌日は月齢28.8。限りなく新月(月齢29.3から29.8)に近い月。私は,こんな月齢の月を見たことも,当然,写したこともありません。早朝,気合を入れて地平線を狙ったのですが,前日あれだけ見事に見えていた月は,快晴であったにもかかわらずそのかけらもなく,全く存在が確認できずに日の出になりました。なんだか,不思議な気がしました。そして翌日,ついに新月を迎えました。
月齢が変わり,こんどは夕方のの空に月が見えるようになりました。月齢0.7は太陽が沈んだ西の空です。地平線あたりが薄く曇っていたこともありましたが,あまりに新月に近くて探しても見えず,翌日と翌々日,月齢1.7と月齢2.7も曇りでした。そして,やっと月齢3.7と月齢4.7の月を写すことができました。
こうして,1巡しました。
結局,30日で曇って写せなかったのが4日,そして,新月付近で写すことが可能かどうかわからない日が3日,という結果になりました。写すことのできた日の中にも,奇跡的にわずか10分だけ晴れたという日や,薄雲のなかでやっと見えた日もあって,満月以降は午前3時に起きたり,晴れる天気を予報を信じて雲が切れるのを待っていたりと大忙しでした。それでも今回曇って絶対写せなかった4日は,また,挑戦したいと思います。
お恥ずかしいことですが,私は,これまで,月は,月明かりで星が見えなくなる邪魔な存在でしかありませんでした。
しかし,写してみるとすっかりはまってしまいました。とにかくピントを合わせることと適正な露出を見つけるのが難しいのです。そして,新月付近の月がどこまで写すことができるのか,ということが大きな疑問として残りました。
聞いた話では,お昼間に太陽付近を望遠鏡で探したほうが見つかるとか…。いずれにしても,見られるはずの位置をきちんと調べて,いつかぜひ写してみたいと思います。
このように,やはり,何事もやってみなくてはわからないものです。「ドリラー」(ドリル学習をすることを勉強と思っている人)ではだめだ,ということを,ここでも再認識しました。さらに,下弦の月は,月の表面の輝いているほうにクレーターが少なく,おもしろみと美しさに欠けるということと,月齢22.8から23.8では,月明かりも急になくなって,夜空がば暗くなる,という現実を知ったことが新たな驚きでした。
月の写真を写すことで,今回もまた,多くのすばらしい体験ができました。何事も行動しなければだめです。紙の上の知識なんて意味ありません。
さて,次は星空の話です。
この時期に見ることができる星雲や星団は,昨年すべて写してしまったので,私の興味の対象は,もっぱら10等星ほどの暗い彗星と,明け方の東空に見える惑星直列に移りました。特に11月7日は金星,火星,木星,月のそろい踏みだったので大いに期待をしたのですが,あいにく曇りでした。しかも,その日は,おうし座の流星群の極大期でもあったので,がっかりでした。
11月15日はとてもよい天気だったので,10月25日以来の星見に出かけました。
ねらいは,パンスターズ(PanSTARRS)という名のふたつの彗星でした。前回天頂にあったのに写せなかった「C/2013X1」はペルセウス座にあって10等星。この日はすぐに写せました。「C/2014S1」のほうは,すでにこれまでに何度も写しているのですが,予想より明るくてかわいい尾もあって毎回楽しませてくれます。現在はこぐま座にあって,写しやすいのですが,このあたりにあった雲が切れず,すこし苦労しました。写してみると,9等星のかわいい姿は今回も健在でした。
また,流星が結構流れていて,寒くもなく,楽しい星見となりました。昨年の今頃は望遠鏡は夜露でべたべた,寒さに震えていたことを思い出しました。
さて,いよいよ1週間もすると,今年一番の大型彗星カタリナ「C/2013US10」が東の空に昇ってきます。はじめに見られそうなのが,11月24日の早朝なので,この日に晴れるのを期待します。
4等星という予報よりも暗そう,というのが気がかりですが,見ないことにはわかりません。
残念ながら,その後は月が明るくなってしばらくはだめで,きれいに見られるようになるのは,満月のあと月齢が23を過ぎる12月4日ごろ,特に1月8日は月齢27の月と金星と彗星が明け方の東の空にそろい踏みします。
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星を見るのも大変だ-夜明けの空に水・金・地・火・木星
月の写真を撮る①-これが私の望遠鏡の限界なのか?
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑫
●栄光と悲しみのマザーロード●
ヒストリック・ルート66はオクラホマ州を抜けるとわずかだけカンザス州を横切ることになる。今日の写真は,そのカンザス州のガリーナ(Galena)という町である。
私は正確な地図も持ち合わせていなかったが,オクラホマシティから北東に,なんとかこれまではヒストリック・ルート66をたどることが出来た。
しかし,オクラホマ州を越えて,カンザス州,そして,さらに,ミズーリ州に入ると,もういけない。
オクラホマ州では,当時のままではないとはいえ,ヒストリック・ルート66を基にした新たしい道路は州道66という名前で存在していたのだが,カンザス州やミズーリ州に入ると,そうした名前でもなくなり,行政的には,全く保存させる気がないとでもいうように,地図からは抹消されてしまうのだ。
だから,事前に調べておかないともはやヒストリック・ルート66をたどることは不可能になってしまう。
私も,そろそろ,行き当たりバッタリのノスタルジックなマザー・ロードをたどる気ままなドライブはこの辺りでおしまいにして,今日の目的地であるブランソンに向かって走ることにした。
今日の朝,インターステイツ44から降りてヒストリック・ルート66に入ったときは,この先どれくらいの時間がかかるか想像ができなかったが,実際はさほどの時間もかからず,ミズーリ州まで戻ることができた。
地図の上では,ブランソンはもう目の前であった。
しかし,距離的には近くても,ブランソンという町へ行くには,インターステイツもなく,地図を見てもごちゃごちゃとしたカントリーロードがたくさんあるだけで,どの道をたどっていけばよいのかさっぱり判断できなかった。結局,カーナビにブランソンという地名を入れて,その指示にしたがって私は走っていくことになったのだが,実は,この先が,まだまだ大変だったのだ。
そのことは,次回書く。
それよりも,私はこの旅ですっかりヒストリック・ルート66の魅力に目覚めてしまったということについて先に書いておこう。
10年以上前にCS放送の旅チャンネルで放映されていた「Route66~栄光と悲しみのマザーロード~」という番組で,私はこの道のことを知った。当時は今のようにアメリカのことを知らなかったので,アメリカの地方の道は,今でもみんなこのようなものだと思ってしまった私は,いつかそんなところを旅してみたいと夢見ながら,その番組を見続けたものだった。
そのときに知った名前の町に実際に足を運んでみて,私は,再び,その番組を見た時のときめきを思い出したのだった。
そして,今度こそ詳しい地図を入手して,きちんとこの道を旅しようと決意したのだった。
どうやら,またひとつやりたいことが増えてしまったようだ。きっと近い将来,いや,66歳に,私は再びこの地を訪れることになるであろう。
この旅でマザー・ロードから離れる前に,ミズーリ州からシカゴまで,この先,ヒストリック・ルート66」がどういう経路をとるかを書いておきたい。
ミズーリ州に入ると,ヒストリック・ルート66は,ほぼインターテイツ44を巻くように蛇行しながら,南西のジョブリンからカーセイジ,ローラ,,キューバ,セントルイス,ドワイドという名の小さな町を通りぬけてイリノイ州に入って,大都市シカゴまで続いていくのだ。
特に,ミズーリ州ではヒストリック・ルート66はインターステイツ44に吸収されれていない場所が多いので,そのままの形で道路が残っていそうなものだが,逆にこれが災いして,昔栄えていた町は寂れ,あるいはゴーストタウン化してしまった。
私は今回の旅で,後日,セントルイスからカンザスシティに戻るときに,そのまま最短の経路であるインターステイツ70を走らず,途中にあるブランソンに再びに寄るために,奇しくもこのインターステイツ44をセントルイスからスプリンスフィールドまで走ることになったのだった。今にして思えば,そのときにもヒストリック・ルート66を走ればよかったのだ。しかし,私はブランソンが気に入ってしまって,そこに再びいくことしか頭になかったのだった。今にして思えばもったいない話だ。
人類の生存期間はたかだかそれだけ-生命の起源が面白い②
地球の歴史と生命の進化についてはさまざまな本が出版されていたりテレビ番組があるのですが,とりあえず,おおまかにかつ大胆に自分の頭の中に物差しを作ってしまうほうがわかりやすいので,ここで,簡単に復習をしてみましょう。
宇宙の年齢は138億年といわれています。つまり,今から138億年前にこの宇宙ができました。
そして,45億6,700万年前には,太陽の周りの微惑星が衝突を繰り返しながら原始惑星が誕生しました。現在の地球の軌道とほぼ同じ場所には,原始の地球とともにテイア(Theia)と名付けられた原始惑星が周っていて,「ジャイアント・インパクト」(Giant Impact)という衝突をして,その衝突した微妙な角度のおかげで,地球は破壊を免れ,テイアだけが粉々に砕け,地球の破損した一部とテイアの破片が再びくっついて地球の周りを回り始めたのが月というわけです。
こうして,今のような地球と月が誕生したのです。
それから7億年後の38億年前,ついに地球上には生命が誕生する条件が整いました。
地球の生命がどのように誕生したかは今でも大きな謎なのですが,おそらくさまざまな化学反応からその予兆が生まれたのでしょう。あるいは,宇宙からやってきたのかもしれません。そして,生命誕生の最初の主役になったのが,超新星爆発で作られた元素マンガンから偶然作られたマンガンカルシウムクラスター(Mn-cluster)なのです。このマンガンカルシウムクラスターこそ,光合成を行う光合成細菌だったのです。27億年前には,このマンガンカルシウムクラスターを使いはじめた細菌シアノバクテリア(Cyanobacteria)が光合成を行うことで,海水中に酸素が作られ,海水に溶け切れなくなった酸素が地上に大気を作っていったのです。
こうして大気中の二酸化炭素が酸素に変わることで地球表面の温室効果が減り,22億年前になると地球には1度目の全球凍結(Global frozen)が起きました。そして,やがて,火山の放出する二酸化炭素によって,氷が解け始めました。
21億年前には,DNAを膜で覆った単細胞生物である真核生物が出現,という大事件が起きました。真核生物がどのように出現したのかも謎なのですが,おそらく原核生物がミトコンドリア(Mitochondria)を取り込んだことが進化の決め手となったといわれています。
やがて,8億年前から6億年前の間に,地球上には再び全球凍結が2度起きました。全球凍結の起きる原因は,このときも大気中の二酸化炭素の減少だろうといわれています。
そののち,火山活動などで,再び気温が上昇,全球凍結が終わりました。全球凍結の終了によって急激に増えた光合成生物は地球上の酸素を急増させました。また,氷が地表をけずったことで地球の土砂に含まれたリンが海水中に流れ出して,それを海水中の生物が体内に取り込みました。その結果,6億3,000万年前にはついに多細胞生物が出現し,5億6,000万年前には生物の大型化と多様化が起きました。
先カンブリア時代に,生命が大型化と多様化を起こした原因は,このように,酸素の増加とリンの増加によるものなのです。そうして現れた生物がエディアカラ生物群(Ediacara fauna)です。やがて,5億2,000万年前のカンブリア紀になると,さらに多様な生物が生まれて,海水中のリンは生物の中に取り込まれてしまいました。
いよいよ,カンブリア大爆発(Cambria great explosion)の開始です。
このように,地球の歴史は45億年前から始まるのですが,人類が文明をもって生活するようになって5,000年くらい,そして,日本の弥生時代からは約2,000年しかたっていないのだから,その期間は,地球の歴史に比べるとのわずか20万分の1以下となるのです。
私は,人類はこの先5,000年間も持たないと思うので,地球の寿命がこの先50億年くらいだとすると,その合計100億年の歴史の中で人類が繁栄した期間というのは1万年,つまり100億年の中のわずか1万年くらいということは,100万分の1でしかないのかもしれません。
私は,人類は将来,環境破壊や戦争であっけなく絶滅すると思っていますが,もし,人類が私の思っているほど愚かでなくとも,小惑星の衝突などがあればひとたまりもないでしょう。未だそれが起きていないのは,人類の生存している期間が単に誤差の範囲内くらい短いというだけのことなのです。
歴史に名を残すとか,未来永劫とかいっても,所詮,それだけのことなのです。もっと我々は謙虚になったほうがいいのです。なのに,あいもかわらず,テロや戦争をしている…。もし,人類の絶滅した後に新たな新人類が繁栄したら,そのとき,新人類は現在の人類の虚構を発掘してそのおろかさを研究しているかもしれません。
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ここで私が書きたいのは,地球の歴史における人類の生存する期間なんてたかだかそれだけのことだ,ということです。だから,もしすでに宇宙人がやってきていたとしても,地球上に人類が生存しているといった,たまたまその時期に来ることができるという確率はものすごく少ないということです。
でも,このことは,だれも指摘していません。
その反対に,地球以外に生命が存在する天体があったとしても,そして,その生命が人類以上の知的生命体だったとしても,その知的生命体がその天体に生存している期間というものも,また,その天体の歴史の中の非常にわずかな期間でしかないとすれば,それに巡り合える確率はとても少ないということです。ひょっとしたら,すでに地球には他の天体から知的生命がやってきていたのだけれど,そのときの地球上には,恐竜が闊歩していたのかもしれません。
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑪
●「コールマンシアターの幽霊」●
こうしてなんとかたどり着いたのが今日紹介する町マイアミ(Miami)である。
前回書いたように,道に迷いながら,この町に着いたのだが,町の入口には写真にあるようなゲートがあって,ここもまたヒストリック・ルート66を誇りにしている町であった。
マイアミ,発音はマイアマーであるという。人口は約13,000人。
この町の中心は,ファースト・ストリートとメイン・ストリートが交差するところで,そこにこの町のランドマークであるコールマン・シアター(Coleman Theater)があった。1927年に作られたコールマン・シアターは,「ウィル・ロジャースのひとり舞台」という逸話で有名なところである。
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ウィル・ロジャース(William "Will" Rogers)がショーマンだった1930年代のある年,彼は,ここコールマン・シアターでショーをやることになった。そこで,この町の人々は彼の到着を出迎えに飛行場に出かけたのだが,彼は手違いで別の飛行場に到着してしまったので,クルマを飛ばして,シアターに到着したのだった。
その彼を待ってたのは,出迎えに出かけてしまってだれひとりいない空席となったシアターであった。観客が大急ぎでシアターまで引き返してくる間,ウィルは文句も言わず,ひとりで輪投げの練習をしていたのだという。
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これが,「ウィル・ロジャースのひとり舞台」という逸話である。
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そしてまた「コールマン・シアターは幽霊」が出ることでも知られている。
入口奥のホールに2階ロビーを写した写真があって,その中の暗い影というのが幽霊なのだという。ステージ脇の楽屋口に続く舞台袖の少し広くなったところに裸電球がスタンドに乗って点灯されていて,それは決して消されることはないのだそうだ。
それは,この裸電球がついている限り幽霊は出ないと信じられていることから…,らしい。
こういった,日本では全く知られてない,しかしアメリカ人の誰もが知っている多くの物語,そうしたものを知って,このヒストリック・ルート66を走るのはとても幸せなことに違いない。そうすれば,たったひとつの郵便ポストも,ガソリンスタンドの給油機も,そしてまた,ある人物の銅像も,そうしたすべてのものが,輝きを持って存在感を増してくるのだ。
たとえば,今日の3番目の写真にあるような,たわいもないガソリンスタンドの給油機のような…。この旧式の給油機は,多くのヒストリック・ルート66に関する写真集やらブログにとりあげられているものだけれど,それを見るだけで,それが設置された時代に訪れた旅人を引き込んでいく。
きっと,旅の一番の楽しさというのは,こうしたことから生まれてくるのだろう。
マイアミ,いや,マイアマーはそうした幸せを感じさせるのに,ぴったりの町であった。
マイアミを越えると,再び,ヒストリック・ルート66がこの先どこに続いていくのかさっぱりわからなくなってしまったのだが,自分の不勉強を棚に上げて道路標識の不備に腹立てながら州道69を走り,やがて,オクラホマ州の州境までやってきた。
その町がクオボー(Quapaw)であった。
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かつて,オクラホマ州は道路に関して後進地域であった。オクラホマ州で育ち,石油事業に力を入れたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)という男は,地方行政官に立候補して当選すると,持てる力すべてを使っていい道を作る努力をした。そして,1925年に,ついに,ルート66が完成した。
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そうした人々の努力によって生まれたこのアメリカの「マザー・ロード」は,地図からはその名が消された今もなお,アメリカの人々の心の中に輝き続けているのだ。
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We will never have true civilization until we have learned to recognize the rights of others.
William "Will" Rogers
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「京都人の密かな愉しみ」を探して③-風神雷神図を見る。
雲龍院さんの次に行ったのが,京都国立博物館でした。
鴨川沿いを北上して,七条通りを東に走ると左手に京都国立博物館があります。その突き当りが東大路通りで,そこを左折して,東山七条を右折してさらに東に行くと京都女子大学があって,そこの駐車場は一般車でも停めることができるので便利です。
そこで,私は,渋滞を避け,ここから歩いて,途中の喫茶店で昼食をとり,博物館に行くことにしました。
ところが,博物館前まで来ると,博物館の駐車場に停めたい車が車道をふさぎ,すでに大渋滞なのでした。この車の列がバス停にまで及び,乗客の乗り降りでバスが車線上に停まってしまい進路をふさいで,その先は車もいないのに大混乱なのです。
そもそも,私には,こういうところの駐車場に停めようという人たちの気持ちが理解できません。少し遠くに停めて歩くべきなのです。
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私が博物館から帰るときには,苦情があったらしく,やっと警察官が出動して,道路で駐車場の空きを待つことはまかりならぬという,交通整理が行われていました。
ともかく,私は,その大混乱をなんとかしのいで,予定通り京都女子大学の駐車場まで行って車を停めて,昼食をとり,博物館に行きました。
連日30分から2時間ほどの待ち時間があるのだそうですが,この日は雨のためか,待ち時間はありませんでした。行けるかどうかわからなかったので,前売りもチケットも持っていなかったのですが,すぐにチケットも買うことができました。
この展覧会は非常に豪華で,いわゆる琳派・本阿弥光悦工房の展示会でした。ものすごく多くの作品が展示されていましたが,その中でも私が見たかったのは,風神雷神図屏風3作のそろい踏みでした。この展覧会の会期中で,このすべてが見られるのは10月27日から11月8日までなので,私は,その最終日に行ったことになります。
風神雷神図屏風は,右から尾形光琳,中央に俵屋宗達,左に酒井抱一,三つの作品が1つの部屋にコの字型に配列されていて,まさに圧巻,圧倒的な迫力でした。
ちなみに,風神が右,雷神が左です。
すべての作品を目の前でじっくり見ることができました。私にとっておもしろかったのは雷神さまのおへそでした…。
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1620年後ごろに描かれた俵屋宗達の最高傑作は国宝です。建仁寺にあるのですが,通常見ることができるのは模写で,私はその模写は見たことがあります。この絵は、画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴で,これが画面全体の緊張感をもたらしているといわれています。この作品は古びた感じがとてもすてきでした。
その100年後に描かれた尾形光琳のものは重要文化財で,東京国立博物館にあります。宗達の原画を基に忠実な模写を残したのですが,風神・雷神の姿が画面ぎりぎりではなく,全体像が画面に入るように配置されています。風神雷神図の構図を借りつつも図様を梅に置き換えた光琳の最高傑作といわれています。すごく保存状態がよいのにも驚きました。
さらにその100年後に描かれた酒井抱一のものは出光美術館にあります。酒井抱一は光琳のものの模写で,宗達の画を知らず,模写が重ねられたことでおこりがちな描写の不安定さが目立つといわれています。3作を並べると,どうしても最も見劣りがして,見ている人も少ないのがよくわかりました。
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この展覧会では,俵屋宗達のものだけが2つの屏風の間を離して展示されていたのですが,それは,俵屋宗達のものだけが雷神の位置が風神よりも高く描かれているために「風神が右上から雷神が左上から入ってきた運動を感じさせるように」という配慮なのだということでした。しかし私は,そうしないほうがよかったと思いました。
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ものすごく多くの芸術に触れることができて,幸せな秋の雨の一日でした。
今年の京都の紅葉は早いので,行かれる方はお早めに。
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「国盗り物語」と「軍師官兵衛」⑦-秀吉は何を思うのか①
「国盗り物語」と「軍師官兵衛」⑦-秀吉は何を思うのか②
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑩
●アメリカ人は本当に銃が好きだ●
今日紹介する町は,写真の順に,クレアモア(Clarmore),ヴィニタ(Vinita),そしてアフトン(Afton)である。
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クレモアは人口約20,000人。タルサから東へ40分くらいのところにある。この町では,ヒストリック・ルート66はリン・リッグス・ブルバード(Lynn Riggs Blvd)という別名を名乗り,今でも現役のメインストリートである。このメインストリートのあたりはチェーン店が軒を連ねるよくあるアメリカの小都市の風景である。
隣に走るウィル・ロジャーズ・ブルバード(Will Rogers Blvd)にもルート66の時代の建物が現存していて,とても旅情をさそう。このウィル・ロジャーズ・ブルバードは町のほぼ中央を東西に横切っていて,往年のルート66を偲ばせる建物の多くはこの道沿いに残っている。その中でも,1930年に建てられたかつてのウィル・ロジャーズ・ホテル(Will Rodgers Hotel)とオールド・トウィン・ホテル(Old Twin Oaks Hotel)が目につく。
また,「銃の博物館」(J.M. Davis Arms & Historical Museum)が町の真ん中にあって,「ウィル・ロジャーズ博物館」(Will Rogers Museum)とともに観光名所とされているそうだ。
「銃の博物館」の展示物はもちろん銃。銃といえばアメリカなのだが,世界各国,もちろん日本も含めて,年代もさまざまな銃がひたすら展示されている。博物館の外に戦車が飾ってあるのが目印となるということだ。
私はこの博物館には行かなかったが,以前,テキサス州で同じような博物館に行ったことがある。それ以外にも,様々な博物館に銃の展示がある。
本当にアメリカ人は銃好きなのだと思うが,そこに展示してあるものの中には,旧日本軍の持っていた銃というものもかなりあって,私はそのことにも驚いた。
クレモアを過ぎると,州道66はインターステイツ44と少し距離を置きながら北側を平行に走っているが,やがて,ヴィニタに到着して,再びインターステイツ44と交わるあたりから,細かな地図も持たず,予習をしていない私には,だんだんとヒストリック・ルート66をたどることが難しくなってきた。
このあたり,すでに,オクラホマ州の北東の州境付近である。
すでに書いたが,ヒストリック・ルート66はすでにこの世から消えた名前であって,現在,この道路から派生した新しい道路の名前は,州道66であったり,州道60であったりする。
気を利かせてヒストリック・ルート66という道路標示があればよいのだが,カーナビの表示や地図を見ても,現在の名前しか表示されず,わからなくなってしまうのだ。
実は,ヴィニタを過ぎると,ヒストリック・ルート66は州道66ではなく州道60となり,やがて,アフトンという町を過ぎると,州道60は南北に走る州道59との交差点があって,そこでヒストリック・ルート66は左折して北に曲がり,州道59に変わるようなのだ。
そして,そのまま北上を開始して到達するのが,マイアミ(Miami)という町であった。
うまくヒストリック・ルート66をたどれなくなってしまった私であったが,それでも,なんとかマイアミに到着したのだった。
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読んでいただいて,どうもありがとうございます。
「京都人の密かな愉しみ」を探して②-雲龍院さん
このブログで何度か書いた,お正月にNHKBSプレミアムで放送された番組「京都人の密かな愉しみ」の中でお寺さんのお嬢さんと知らず交際を申し込んだ男の人の物語を覚えておいででしょうか。
あれはドラマの中のお話で,実際はこのお寺さんには跡取りの息子さんがおられるそうですが,その舞台となったのが雲龍院さんでした。
そんなわけで,一度行ってみたいと思っていたのですが,京都非公開文化財特別公開のリストにあったので,この日,寄ってみることにしました。
場所は,泉涌寺の隣です。
泉涌寺は,御寺とよばれ,江戸時代の天皇,皇后,皇族方の陵墓が造営され,皇室の菩提所となっていたところです。私は,泉涌寺には何度か行ったことがありますが,「京都人の密かな愉しみ」で放送されるまで,雲龍院さんは知りませんでした。
紅葉の名所である東福寺に近いのですが,泉涌寺はほとんど紅葉とは無縁なので,知らない人も多いと思います。また,ここが,江戸時代の皇室の菩提所ということも知らない人もいると思うのですが,私は,このあたりの落ち着いた雰囲気が好きです。
天皇家の御陵は,江戸時代の最後の天皇であった孝明天皇はここ泉涌寺にあって,その次の明治天皇は,京都・伏見の桃山陵,そして,大正天皇と昭和天皇は東京の武蔵野陵にありますから,皇室の方々は,孝明天皇から後の天皇陵にお参りに行かれるので,ここ泉涌寺に立ち寄られます。
私は,桃山陵と武蔵野陵にも行ったことがありますが,ものすごい規模でした。
さて,奈良で正倉院展を見た私は,そのまま車で北上しました。
国道24号を走って行けばいいのですが,いつも書いているように,どうして,この国の道路はこうも走りにくいのでしょうか? わざと渋滞と事故を引き起こしているとしか思えません。京奈自動車道も未だ完成しておらず,そんなに距離もないのに,奈良と京都のアクセスすら,スムーズにできません。本当に困ったものです。
途中で,交差点に故障車が止まっていて大渋滞していたり,道路標識に振り回されながら,なんとか泉涌寺に着いて,無料の駐車場に車を停めました。
泉涌寺の大きな山門に向かって右手に道があって,それを進んでいくと,雲龍院さんに着きました。
案内板があるので,迷うことはありません。門を入って進んでいって,お寺の中に入り,そこで,拝観料を払いました。
特別公開なので,丁寧な説明をしてもらえます。
まず行ったのは,勅使門に面した龍華殿でした。本尊は薬師如来三尊,その横に,この公開を機に修復された後円融院宸影の掛け軸を見ることができました。この本堂の屋根は,薄く割ったさわらの板を竹の釘で打ち付けた珍しいこけら屋根でした。
次に,廊下を渡って,霊名殿を見ました。ここにあるのは,後光厳,後円融天皇座像,さらに歴代天皇の尊牌です。この寺では写経ができて,普段は本殿で行うそうですが,この公開中は,霊名殿の中でそれをすることができるのだそうです。この日も写経をしておられる方がありました。
白砂の敷き詰められた庭には,菊の紋章の模様がつけられていました。
そして,廊下を歩いて大輪の間へ行きました。ここからは,美しいお庭を拝見できました。希望をすれば,お抹茶をいただくこともできます。
廊下を戻って,蓮華の間にいくと,そこには,しきしの景色といって,雪見障子の四角いガラスから,椿,灯篭,楓,松の4枚の違った絵を眺めることができました。
そして,最後に,走り大黒天と悟りの間に行きました。
走り大黒天は,テレビの番組にも出てきましたが,台所神の面影を残す大きな袋を背負ったわらじ履きの大黒様です。また,悟りの間には,悟りの窓という丸窓があって,そこから美しい庭の景色を眺めることができました。
ここには,サスペンスの女王・山村美沙さんのお墓もあります。
このように,正倉院展と「琳派京を彩る」展を見る途中ということで寄ったのですが,思った以上に,というか,最高に素晴らしいお寺さんでした。
一度行きたいという願いがかないました。
雨が紅葉で色づいた庭の景色をさらに魅力的にして,また,御寺の別格本山ということで,ほんとうの品と格式のある落ち着いたところでした。でも,カレーライスは似合いません???
ここでもまた,駐車場とお寺さんを往復するときだけ雨が上がっていました。
今の京都はどこもあまりに人が多くて,ゆっくりと古都を味わうことのできるお寺さんが少なくなってしまったのですが,ここはまだあまり知られていなくて,それがまた,幸いでした。
◇◇◇
雪のお正月③-「京都人の密かな愉しみ」
京都・夏②-「京都人の密かな愉しみ 夏」
「京都人の密かな愉しみ」を探して①-正倉院展へ行く。
今年の秋は過ごしやすい毎日が続きました。しかも,晴れることが多く,冷房も暖房も必要のない時期がすでに2か月以上続いています。それでも,季節は確実に冬に向かっています。
そんな秋の1日,暦の上では立冬である11月8日に,奈良と京都へ行きました。
自他ともに認める晴れ男の私にはめずらしくこの日は雨。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しく,すばらしい1日になりました。さらに,車に乗っているときは雨が結構強く降っていたのですが,車を降りるといつも雨が上がりました。
出かけた先は,奈良国立博物館で9日まで開催していた恒例の正倉院展,京都非公開文化財特別公開の泉涌寺別院・雲龍院さん,そして,京都国立博物館で11月23日まで開催されている「琳派・京を彩る」展でした。
・・
きょうは,正倉院展について書きます。
奈良市というのは,名古屋からは本当にアクセスが不便なところです。
電車だと,京都から行くか,近鉄でくるりと西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車だと,東名阪自動車道が四日市付近で慢性的に渋滞するようになったので,早朝に出発する必要があります。今回ははじめて,名神高速道路から,京滋バイパス,京奈自動車道と経由して行くことにしました。
いつも書いていることですが,本当に,日本の道路は無計画に作られていて,今回も,これで事故が起こらないのが不思議だと思いました。
ともかく,これもまた雨が幸いして,道路は空いていて,名古屋から2時間,9時に奈良市に到着しました。
毎年,正倉院展に行っているのですが,車で行くときは,9時までに到着して,奈良県庁の駐車場に停めるのが楽です。今回もそうしたのですが,駐車場に停める車も少なく,いつもとは違った状況に,まず,びっくりしました。そして,車を降りて,博物館に行く途中,いつもなら,ものすごい人の行列ですが,それもなく,このことにもびっくりしました。もうひとつのびっくりは,この時期なのに,すっかり木々が紅葉していたことでした。
今年は,残暑がなかったので,色づくのが早いとは思ったのですが,ひとつ心配だったのは,急に寒くなるという状況でなかったので,紅葉がきれいでない,ということだったのですが,思ったよりも鮮やかでした。
正倉院展は前売り券を手に入れておくのがスムーズに入るコツです。待ち時間は30分と書いてありましたが,それほど待つこともなく,中に入ることができました。
今年の「目玉」は,紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ),七条褐色紬袈裟(しちじょうかっしょくのつむぎのけさ),彫石横笛(ちょうせきのおうてき),彫石尺八(ちょうせきのしゃくはち)などでしたが,特にビッグなものはなかったので,見るまでに長蛇の列,といったものがなかったのが幸い?でした。展示品の詳しいお話は,正倉院展のホームページをご覧ください。
私は,この正倉院展の展示が,これだけ多くの人が訪れるのに,そのことを考慮していないことが不満です。古文書のように平らに置かなくてはいけないものは仕方がありませんが,つるすようなものは,もっと高く展示できないものでしょうか?そうすれば,人の頭で見られないということもなくなります。
それよりも,NHKEテレの「日曜日美術館」11月1日の番組で正倉院展が特集された最後に,正倉院展が誤って11月6日までと紹介されたのにはびっくりしました。私は8日に行くことにしていたので,一瞬凍りました。
正倉院展は2時間もあれば十分に見学できるので,その後は,天気がよけれは,東大寺から散策するか,私の大好きな馬酔木の森から志賀直哉旧宅へ向かうか,あるいは,入江泰吉・写真美術館へ行くか,というコースが定番なのですが,今回は,このあと京都へ行くことにしていたので,後ろ髪をひかれる思いで,奈良を後にしました。
雨の奈良も,また,よきものです。また,こころの中に幸せがひとつ増えました。
次回は,お馴染みNHKBSプレミアム「京都人の密かな愉しみ」で放送された泉涌寺別院・雲龍院さんのお話です。
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑨
●ガソリン価格が気になるようでは●
サバルバ(Sapulpa)はそのまま通り過ぎた。その次の町はタルサ(Tulsa)であった。
私は,確かに,ヒストリック・ルート66のタルサという町の中を迷いつつ通ったのだが,実は,この町の細かな記憶がほとんどないのだ。
しかし,後で調べてみると,このタルサは人口約40万人という非常に大きな都市であった。きっと,きょうの1番目の写真のように,州道66に並走してインターステイツ44が走っていて,その近代的な都会に私のイメージがわかず,なんの印象もなく通り過ぎてしまったのもだと思われる。
しかし,有名な町らしいので,ここでは,ガイドブックから少し紹介してみることにする。
タルサは石油の町といわれ,人口は約40万人である。これもまた石油産業で栄えたオクラホマシティに続くオクラホマ州第2の都市ということである。
NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組でも2007年に取り上げられたという。
タルサは,ゴールデン・ドリラー(Golden Driller)という像がダウンタウンから東にあるタルサ・エキスポセンター(Tulsa Expo Center)の前に立っていることで有名なのだそうだ。
このゴールデン・ドリラーというのは石油労働者の像で,高さがなんと23メートルもある。オリジナルの像はテキサス州のフォートワースで建てられたのだが,1966年に International Petroleum Exposition のシンボルとして,タルサにも新しく建てられて今に至っているということである。
また,デザート・ヒルズ・モーテル(Desert Hills Motel)という古いホテルがヒストリック・ルート66沿いにあって,1953年から,今も営業をしている。このモーテルは,だれもが一度は写真で見たとこがあるであろうサボテンのネオンサインが目印のモーテルである。
この町は大きく広いから,町中に入ると,ヒストリック・ルート66を正確にだどることが難しくなってしまう。私は,何とかカーナビとルート66の小冊子に載っている地図を頼りに苦労しながら,無事にこの町を通り過ぎたのだった。
この町で私がしたことは,ガソリンを入れたことと,そのついでに昼食のサンドウィッチを買ったことだった。
今日の写真のようなサンドイッチは,アメリカをドライブしていると非常に重宝するものである。比較的大きなコンビニ(アメリカのコンビニはガソリンスタンドに併設している)にお昼前に行くと手に入る。
写真から想像する以上に量がある。それはパンの厚さを考えて頂ければわかるというものだが,その中にはたっぷりのチーズとハムと,そして野菜が入っているから,これだけで,十分にお腹がいっぱいになる。私には,少し量が大すぎるほどである。
このサンドイッチを購入したコンビニのあったガソリンスタンドの看板の「2.30」というのは,1ガロン当たりの値段である。1ガロンは約3.9リットルであるから,2.30÷3.9= 0.59,つまり,70円くらいのものである。円高のころなら,50円,という感じであっただろうか。このように,私がこの旅をした2015年5月の頃のガソリンの値段はものすごく安くて,私は,本当にびっくりしたのだった。
その後,アメリカではガソリンの値段が少しずつ上がっていって,8月に再びアメリカに行ったときは約3ドルほどになっていた。しかし,数年前には4ドルだったこともあるから,それでもまだかなり安価なのだが,アメリカに住む友人曰く,アメリカのガソリンの価格が気になるようでは,君は,旅行者というよりもアメリカ人だ,ということであった。ああ。
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いずれにせよ,2012年,私がシェールオイルブームに沸くノースダコタ州に行ったときは,雑誌「TIME」では大々的に取り上げられていたが,日本のマスコミではほとんど報道もされておらず,日本ではシェールオイルというのは無名であった。第一,ノースダコタ州に興味がある日本人なんていなかった。そのときの私は,その状況を目のあたりにして,数年でアメリカは世界一の石油輸出国になると予言したが,それが的中して,アメリカのガソリンは値下がりした。そして,日本のインフレ政策も石油の値下がりとともに吹っ飛んだ。
地球は6回目の絶滅期に突入か?-生命の起源が面白い①
7月7日から10月4日まで,国立科学博物館で特別展「生命大躍進」が行われていましたが,10月17日から12月13日まで,場所を変えて,名古屋市科学館で行われています。
少し前は,天文学と素粒子物理学が結びついていたのですが,今では,地球以外の天体に生命が存在するのか,ということとリンクして,生命の誕生がクローズアップされています。また,新発見が相次ぎ,非常に興味深い分野になっています。もし,今若かったら,宇宙の誕生と生命の誕生について研究するのがものすごくおもしろいだろうなあと私は思います。
今の学説では,46億年前に誕生した地球は,約38億年前にはじめての生命のモトが誕生して,その後,3度の全球凍結と5度の大絶滅期を経て,今日に至るとされています。
5度目の大絶滅期で恐竜が絶滅したことで,今日の人類の繁栄があるといっても過言ではないわけです。だから,どこか別の天体で,現在,恐竜が繁栄している,なんていうこともあるかもしれない,と想像すると,ワクワクします。
ところで,恐竜が繁栄したジュラ記とその前後は,1億5千万年に及んでいたわけで,それに比べると,ホモサピエンスの誕生はわずか5万年前,つまり,3,000分の1でしかないのです。そのように考えると,人類なんて,そのうち,あっという間に絶滅してしまうことでしょう。
それにしても,これだけ地球上で勝手なことを繰り返しているから,そのうち自滅するのは目に見えていますが,それが,原子力発電所の故障が原因になるか,戦争であるか,ウィルスであるか,いずれにせよ,愚かな結末がくることだけは明白でしょう。
普通の人は,そうした時間の単位が,人の一生に比べて途方もなく長く,想像がつかないだけなのです。
家1軒買うのに5千万円で,海外旅行1回50万円の100倍とか,100円ドーナッツ1個の50万倍とか,そういうことに弱い人には,ピンと来ないことでしょうね。
生命の誕生物語はまた次回。今日は,いつものように横道に逸れます。
消費税が8パーセントから10パーセントになったときに軽減税率を導入するかどうかでモメていますけれど,もし,食料品全て軽減税率が導入されたとしても,1人の1か月の食費が5万円だとすると,その2パーセントだからわずか1,000円なのです。1年で1万2千円,一生で約100万円です。一生かけて,公務員の年収のわずか5分の1以下なんです。たかだかそれだけのことを実現するのに,多く人が時間とお金を費やして,また,その制度を維持するために,多くの人件費をかけるわけです。そして,したたかな政権は,この「1か月1,000円」はお見通しだから,携帯電話代を値下げさせることでそれを捻出して,国民の不満をそむけようとしているわけです。うまいものです。こんなことしなくても8パーセントのまま富裕層の所得税を0.1パーセント上げれば済むのです。そして,いつものとおり,考えない,長いものに巻かれるこの国の素直な人たちはみんな騙されるのです。
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そもそも,携帯3社にスマホ代を月に1万円も払っていること事態,何も考えていない証拠です。
「パケット」って何だかおわかりですか? 動画の通信容量がメールの何倍かお分かりですか? わからないのに契約してるわけです。それに,キャリアメールなどという日本独自の制度など相手にしなければいいのに,そういうものが障害になって解約ができないのです。はやくみんなそれに気づいたほうがいいと,月に税込み1,728円だけでiPhone6Sを使っている私は思います。
これもまた「日本人の能力と思考の限界」です。
私がここで言いたかったのは物事のスケールの違いをきちんと把握しましょうということです。奥さんが100円のキャベツひとつの値段に一喜一憂しているのに,旦那さんはその3万倍もする高級車にうつつを抜かし,子供たちはその100倍もの料金を払ってモバイルデータ通信で動画を見ているといったことです。
今日は生命の誕生について書こうと思っていて,話が変なところにいってしまいました。
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑧
●カフェで水1杯とピーナッツ1袋●
ヒストリック・ルート66についての詳しい案内は,それについて書かれた多くのブログがあるので,それらに譲ろう。というより,単にその日の思いつきでこの道を走ることにした私にその資格はない。
それよりも,ここでは,実際,私が「思いつき」で走ってみて,いかに戸惑ったかを紹介することにしよう。関心のある方に何かの参考になるかもしれない。
ヒストリック・ルート66を走破しようと思うのなら,もちろん,ツアーなどはないから,クルマを借りなければどうにもならない。そして,詳しく書かれた地図が必需品なのである。
ヒストリック・ルート66は,現実には消えた道路だから,現在の道路名称とは異なっているので,カーナビだけではたどれないのである。
市外地は問題ないのだが,要注意なのは町に入って道路が複雑になってしまったときである。あるいは,市外地でも,現在の道路はかけ離れてしまった場所を通っている場合である。
また,多くのブログがあると書いたが,そのほとんどは,同じようなガイドブックに従ってそこを観光をしたようなものばかりだから,残念ながらあまりユニークなものはなく,同じような情報ばかりである。
では,私が走ったオクラホマ州北東部のヒストリック・ルート66について,町の名と共に順に紹介していこう。
ストラウド(Stroud)から先は,片側1車線の単調な州道66が続いていたが,少し走っていくと,右手に大きなガソリンスタンドがあった。そこに差しかかったときに,その手前に小さな脇道があって,ヒストリック・ルート66はその脇道に入っていくという道路標示を見つけたのだった。その標示に従って入っていったら,そこには本当に小さな町があった。
それが今日の写真の1番目と2番目の町デビュー(Depew)であった。
昔は,こういう町こそルート66沿いに栄えた町だったのだろうと思った。
町の中は,日本の道のような車がすれ違うのもやっとのような狭い道がメインロードで,その道がヒストリック・ルート66であった。
そのまま進んでいくと,すぐに町が終わってしまって,再び,元来た州道66と合流した。
それでも,この町は今でも州道66に接しているから,小さいとはいえ,現在も人が住む町として存在しているし,町にはハイスクールもある。
所によっては,こうした新道がヒストリック・ルート66と離れて作られたために,かつての町がゴーストタウンになってしまっていることもあるようだ。
再び州道66に戻った私は,さらに北東に走っていくと,次の町に到着した。その町の名はブリスト(Bristow)という。それが3番目の写真である。ブリストは人口が4,000人ほどの小さな町で,写真のようにとてもよい雰囲気を持っていた。写真からでも,古き良きアメリカの町,という感じを味わっていただけると思う。
ブリストには,カフェでは必ず1杯の水とピーナッツを1袋ださなければならない,という変わった条例「条例328」があるのだそうだ。その規則は,日本の喫茶店を真似てできたのか,あるいは日本の喫茶店が真似たのかは,私は知らない。
ブリストを過ぎると,州道66はインターステイツ44と並走するようになった。今日の4番目の写真のように,左手に走るのがインターステイツ44,私が走っているのが州道66である。いかにもアメリカであろう。
インターステイツ44の道路標示を拡大してみていただければわかるが,この先にある次の町がサパルパ(Sapulpa)であった。このあたりは,州道66をそのまま走って行けばよいから,特に迷うこともなかったのだった。
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「日本は奴隷制の国だ」と書いた本を読んだことがあります。その本の中に「嘘だと思うのなら,君は朝,職場と反対の方向に向かって歩き出すことができるか?」と書いてあったのが衝撃的でした。
ならば,「定年退職」とは晴れて奴隷からの解放を意味するわけです。
・・
私は,若い人に,大学に合格したら,合格したその日に1年間の休学届を提出して,まずは半年,世の中の仕事という仕事をアルバイトで経験して,そのお金で,残りの半年,世界旅行をするといい,とアドバイスをしているのですが,果たしてそれを実行した若者はいるのでしょうか?
いつも書いているように,この国の中等教育は本質的に無意味です。
社会に出て役立つ知恵のもととなる学問はまったく学ぶことはできません。やっていることは,「学歴」という「ブランド」を手に入れるためのドリル学習だけです。そうして,様々なことが一番身につくこの貴重な時期を棒に振るわけです。
本来,自分探しをしなくてはならないのに,考えることをや失敗することを否定させて,奴隷制社会の一員となるための修行をするわけです。その結果,「勉強をする目的は耐えることを学ぶ」とかいったわけのわからぬ洗脳をされていくわけです。
考える学生は不登校になります。時に,いじめという制裁を受けることもあります。
教える側の教師も,文部科学省も,そうした社会の仕組みの中でそのことに疑問も持たず育った人たちなので,そんな仕組みの中で制度をいじっているだけだから,何も変わらないし,変える気もありません。
そこで,一部の優秀な学生は国外逃亡をします。そうでない多くの学生は,だめ押しとばかりに,英語という教科を利用して「英語嫌い」になっていくことで,そうした可能性の芽されつぶされていくわけです。そこで,そこから脱して自分を取り戻すには,1年休学をして,自分探しをする必要があるというわけです。
ここで私が書きたいのは,若者の話ではなく「不良老人」の勧めです。
つまり,「定年退職」という名の奴隷からの解放を得た老人1年生もまた,大学を合格した若者と同じように,退職1年目は,放浪の旅に出たほうがよいということです。
ほとんどの人は,それまので人生で自分探しをしてこなかったから,仕事がなくなると何もすることがなくなります。中には,「仕事が生きがい」といった洗脳をされつくした哀れな犠牲者も多く存在します。そして,家では「粗大ごみ」として迷惑がられます。
だから,一度「不良老人」となって,日常から離れて放浪の旅に出たほうがいいのです。そうして,自分の知らない世界を見,経験し,自分の無力さを体験したほうがいいのです。それは,本当の自分を探す旅でもあります。
もし,そうした行動もできないとしたら,その人はそれまでの人生でいったい何を学んだというのでしょうか。それは,単に会社という組織を観光バスにたとえれば,バスの窓から景色を見るような他力本願のツアー旅行をしただけであって,所詮は自分の人生など全くなかったということなのです。肩書などブランドに過ぎず無力なのです。動物園の動物を野生に放すと生きる力がなく死んでしまうように。
だからこそ,奴隷から解放されたら,一度旅に出て,本当の自分を探す必要があるのです。そうして,新しい自分を,自分の人生を見つけるのです。
「仕事が生きがい」…そう,旅から帰っても,まだ,そう思うのなら,それから仕事に復帰しても遅くないではありませんか。それでは仕事がない? もしそうなら,それは,その組織で本当はあなたは必要とされていなかった,ということでしょう。そして,あなたを必要としていなかった組織だけがあなたの人生だったということなのでしょう。
月の写真を撮る①-これが私の望遠鏡の限界なのか?
今年の秋は,天気のよい日が続いているので,月の連続写真撮影をはじめました。といっても,はじめた日が月齢5.5だったので,あと5日はやく気づけばよかったと後悔したのですが,それでも,月齢18.5までは毎日月を見ることができたので,撮り続けました。
残念なことに,一晩中雨が降って月齢19.5を写すことができませんでしたが,これからも可能な限り写して,これから数か月かけて,すべての月齢の月を撮影してみたいと思っています。
今日の話題は,月の写真を写していて思った「望遠鏡の性能」のお話です。
私の使っている望遠鏡は20年以上前に購入した口径75ミリメートル,焦点距離500ミリのものです。SDレンズでマルチコートなので,レンズはいまでもピカピカ,初期のころのフローライトレンズの望遠鏡が数年で曇ってしまって使い物にならないというのとは大違い,これを買ってよかったと思っています。
趣味でやっているほかの人たちのような大型で高価なものではありません。
当然お金を出せば,もっと性能のよいものが手に入るのですが,まだ十分に使えることと,大きいものを手に入れても,それを使いこなす場所がない(これが最大の理由)ので,これでどれだけ写せるものなのか,という好奇心で使い続けています。
そしていつも思うのは,一体,これがこの望遠鏡の性能の限界なのか? それとも,私の腕が悪いだけのか? あるいは,湿気が多いとか気流が安定していないといった撮影をする環境が悪いのだろうか? ということなのです。
腕が悪いというのはいわずもがな,なので,とりあえずそれを抜きにしても,他のものと比べたことがないので,この程度の望遠鏡はどのくらいの性能があるのだろうか,ということが,いつまでたってもよくわからなのです。
・・
よく,様々な製品の評価がいろいろなサイトに載っていますが,それらを読んでいると,本当によくわかって書いている人もいれば,完全な誤解だと思えることもよくあります。そうした人に買われてしまった品物は,品物の立場に立ってみると気の毒な限りです。
人間社会でも,能力があっても無能な上司のせいでそれが生かされていないということがよくあるのと同様です。
さて,本題です。
当然,デジタルカメラの時代以前に設計された望遠鏡なので,今のものとは違うということを前提にしてください。
まず,私が撮り続けている写真をいくつかご覧ください。拡大して月の大きさを合わせてあります。
ここに載せたものがこの望遠鏡の限界なのかどうか,私には判断できません。当然,カメラ(ニコンD5300)の性能も考慮する必要があるのでしょうが,星を写すならともかく,月を写す程度なら,カメラの性能による差はそれほどないと思います。
この写真でおわかりだと思いますが,こうした写真を写すときの一番の問題は,ピントなのです。上から4番目の写真だけは今回の連続撮影で写したものではなく,少し前に写したもので,比較するために載せたのですが,明らかにピントが甘いです。
では,他のものはこれでピントが合っているのでしょうか? それも私にはよくわからないのです。一番最後のものは,上から3番目の写真をさらに大きく拡大したものです。いろいろとやってみたのですが,今の私にはこれが限界です。そして,果たして,ピントが合っているとして,解像度はこれがこの望遠鏡の限界なのでしょうか。
ここに載せたのは月ですが,星を写真を写すときも同様で,こうした写真を写すときに,もっとも大切でかつ難しいのはピントを合わせることなのです。しかし,カメラには,一番肝心な厳密にピントを合わせるための心配りがあまり感じられないのです。
今のカメラはオートフォーカスで,対象にレンズを向ければ自動的にピントが合うので,何をいっているのか? と思う方もあるでしょうが,望遠鏡のように,マニュアルでピントを合わせる必要があるときに,カメラはあまりに無力なのです。
アングルファインダーという,ファインダーの像を2倍に拡大してみることのできる装置があるのですが,2倍くらいではどうにもなりません。ライブビューといって,液晶の画面を拡大することもできるのですが,月の場合は明るすぎ,星の場合は暗すぎて,しかも,星の場合は気流で像がふらついたり大きくなったり小さくなったりしてしまい,これも困難です。WifiによってiPad上でファインダー上の画像を見ることができるのですが,これだと,なぜか拡大ができません。
そこで,いまのところ,私がもっとも確実だと経験上思っているのは,木星の衛星です。木星をファインダーに入れて,ライブビューで拡大して木星の衛星が確実に見えるようにピントを合わせるのです。しかし,木星が見えない時に困ります。
なにせデリケートで,気温によって焦点の位置は変わるし,焦点からたった0.1ミリメートルずれてもピンボケになるのですから,本当に大変なのです。
2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑦
●ヒストリック・ルート66はどこ●
☆3日目 5月11日(月)
私は,ミズーリ州のカンザスシティからカンザス州を経由してオクラホマ州まで来た。何度も書くようだが,今回の旅は,私は50州制覇のために少しでも多くの州を経由しようという,いささか「クレイジー」な目的以外にはどこに行こうとかいった思い入れがあまりなかった。というよりも,こんな地域を観光旅行するような人もほとんどいないから,本当は情報がなかった,というべきかもしれない。だから,具体的な予定が立たず,その日その日に決めるしかなかった。
今日は,はじめの予定では,オクラホマシティからインターステイツ40を東の方向に走り,アーカンソー州を経由してテネシー州のメンフィスまで行って,そこに宿泊するつもりであった。それでも結構な距離なのだが,何とかなりそうだと思った。
ただし,そこまで行く間に,私には,ひとつだけ気になっていた場所があった。そこは,ミズーリ州のブランソンという町であった。その理由はすでにブログに書いたので,お読みになった方もおられるだろう。しかし,まだ,この時点では,ブランソンへは,旅の後半に行く予定にしていたセントルイスから,帰りに利用する空港があるカンザスシティに引き返す途中に,もし時間があれば立ち寄ろうと思っていた程度だった。それに,ブランソンの正確な場所さえ知らなかった。
オクラホマシティで,私は,この町がヒストリック・ルート66の経路であることを知って,ルート66に関する小冊子を手に入れた。昨晩,ホテルでそれを見ていたら,ヒストリック・ルート66を北東にたどっていけば,あこがれだったルート66をずっと走ることができるのだなあと思った。それに加えて,ヒストリック・ルート66がオクラホマ州を越えてミズーリ州に入ったところに,なんと,ブランソンがあるのだった。
そこで,私は,予定を変更して,ヒストリック・ルート66を走りブランソンまで行くことにして,この日のホテルをブランソンに予約した。そして,早朝,ホテルで名ばかりの朝食である菓子パンとコーヒーをとって,さっそくホテルを出発したのだった。
しかし,昨日見たヒストリック・ルート66の道路標示に従って走っていっても,その先にそれに続く案内標示が見つからず,その先どう行けばヒストリック・ルート66に入れるのかわからなくなってしまった。そこで,とりあえず,ヒストリック・ルート66と同じ方向に向かうインターステイツ44に乗ったのだった。
このインターステイツ44がターンパイク,つまり有料道路だったのが災いした。
フリーウェイならジャンクションで自由に降りられるが,ターンパイクでは通行券を手に入れたり料金を払ったりしなければいけないから煩わしいのだ。そこで,私は,一般道に降りる気をなくして,そのまましばらくインターステイツ44を走っていくことになってしまった。しかし,ターンパイクを走りながらルート66に想いを巡らせていても,実際に走らなければ何もおもしろくない。
やがて,私の車のカーナビの画面に,インターステイツ44にまとわりつくように,ヒストリック・ルート66という道路が表示されるようになった。そこで,ともかく次のジャンクションでターンパイクを降りてみようと,やっと決心したのだった。
そうして降りたところがストラウド(Stroud)という町であった。
インターステイツを降りたところにあった一般道はまさにヒストリック・ルート66に通じる道で,案内板にしたがって走っていくと,やっと,念願のヒストリック・ルート66に到達することが出来た。
そんなわけで,ここでインターステイツを降りたのは,大正解であった
。
しかし,本当は,もっと早くインターステイツを降りて,ヒストリック・ルート66を走るべきなのであった。私がそうしなかった理由は,先ほど書いたように,インターステイツ44がターンパイクであったことに加えて,一般道を走っていては,今日の目的地ブランソンまで何時間かかるかわからないという不安もあった。実際ヒストリック・ルート66を走っていくと,それはそれはノスタルジックに溢れた素晴らしい景観ではないか。それに,いたるところにルート66を掲げた店やら名所があって,いやが上にも気分が盛りあがっていくのだった。
やはり,この道は,アメリカ人の「マザー・ロード」なのだ。
後で調べてみると,オクラホ州では,ヒストリック・ルート66は,今でも同じ番号のまま「州道66」として存在しているのだった。
私が迷ったオクラホママシティの市街地からは,州道66は,市街地で一旦インターステイツ44に吸収されて共有区間となり,道路が州道77と交わるところで州道77:に共有を変更して,進路を北にとって進んでいく。そして,市街地を過ぎたところで,再び,州道66に独立するのであった。だから,そのあとは州道66を東に走って行けば,それこそがヒストリック・ルート66なのだった。
しかし,共有区間では州道66という表示がされておらず,単にインターステイツ44とか州道77という表示になっていた。それはカーナビでも同様であった。そこで,私は州道66を見失ってしまったのだった。
日本の旧東海道を歩こうと思ったときに,旧道が,時には国道1号線となったり,時にはまた別の道になったりして迷ってしまうのと同じことなのである。オクラホマ州はヒストリック・ルート66がきちんと保存されているのだから,観光資源としてヒストリック・ルート66という道路標示もきちんと整備してほしいものだと思った。
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Parade Day in KC. 30 years in the making!
Wherever the ball park I went to wach the game,
the team won the Word Series in the year .
So I am waiting for inviting me to watch the MLB for free. Please!
ブランド品とはそういうもの①-魚の釣り方を教えることが
新聞を読んでいると,いつも記事や広告には突っ込みどころが満載でおもしろいのです。
例をあげてみます。
・・・・・・
●「日銀,物価目標達成先送り」
「アベノミクス」などと針小棒大にいっていますが,単にたくさんのお金を刷って市場にばらまいて,その結果円安になったというだけのことなので,この国の構造的な問題の根本が解決されたわけでもなく,所詮はすべてが先送り。だから,はじめは政府のお墨つきとばかりいい気になって値上げをしたものの,結局それでは売れなくなって,値段ももとに戻りはじめました。牛丼がいい例です。
少子高齢化のこの国は,収入のないお年寄りのほうが多いので,賃上げをしても関係ない,むしろ,インフレで年金が目減りするから,年金生活者は財布のひもを締めるだけなのです。年金生活者が安心してお金が使えるような政策をしないと,一番お金を持っているお年寄りがものを買うわけがないのです。
親の介護に親の年金以上のお金がかからず,パラサイトの子供がいないというめぐまれた状況であっても,60歳で退職した時に1億円ないと老後が不安。しかも,日本では住宅行政がまずいから家が余っているのに新築住宅を作っていて中古住宅市場が成熟していないから,一生かけて買った家は売るに売れず,逆に子供の財産ではなく負債になってしまう,という現実を知っている賢い若者は,浪費などしません。
今や,従来の経済政策など通用しません。死ぬまでお金に困らない政治家の人たちにはそんな消費者心理は理解できないでしょうが。私には,むしろ,金融緩和の出口政策にまた失敗する,将来の日本の経済政策のほうが心配です。何度同じ失敗を繰り返すのでしょう。
●「一億総活躍社会」
別に活躍なんてしたくないのです。充実したささやかな生活を送ることができればいいのです。昔と違って,地位が高いというのは,責任が増え,自分の時間が減るだけなのです。賢い人はそんな人生は選択しません。「一億総攻撃」とか「一億総ざんげ」とか,歴史的にみて,「一億…」というのは,不幸のはじまりでした。
若い人は,死ぬまで働かさせられるのか? といっていますが,それが真実です。
よく「こんなことでは国がつぶれる」という表現をしますが,国はつぶれないのです。そうでなく,国民がつぶれるのです。子供の貧困率は先進国中最悪で,お年寄りは下流老人とか貧困老人といわれているではないですか。約束された年金額すら目減りしたりもらえなかったり,という状況は,すでに,国がつぶれた,と同じことなのです。
私は,この国の将来は,年金の支給は80歳からで,定年制がなくなって,ということは,退職金がなくなって,死ぬまで働く必要がある社会になると予想しています。それがみんなうすうす感じても口に出して言わない現実の世の中です。
・・・・・・
「悩みのるつぼ」で上野千鶴子さんの書いていた文章に「子育ての要諦は「釣った魚を与えるのではなく,魚の釣り方を教えること」」というのがありましたが,この言葉だけが的を得ていて救いになりました。餌だけ与えられて成長したから,自分で考えることもできず,世の中の仕組みが見破れないのです。「問題集=ドリル」だけをやってそれを勉強と勘違いしている「ドリラー」の行く末,これが日本の教育の限界なのでしょう。
先日,用事があって,めったに行くことのないデパートへ行きました。古き昭和時代にタイムマシンで戻ったような気がしました。安売り店にはない凝ったディスプレイの中にきれいな照明で商品が展示してありました。今でもそういうお店が存在していたことにも驚いたのですが,こうすると同じものても高級そうに見えるから不思議です。しかも,売値が高いのです。
しかし,そういった高級店や上質紙を利用したカタログ販売などで,私の詳しい分野の商品の品揃えをみると,さほど性能がよいわけでもないのに,それを高級そうにみせて,ブランド品といって高い値段がついているのがわかります。本物はそれがわかる人だけを対象にしているからデパートではなく専門店で売られていて,こうした販売網からは隠れています。きっと私の無知なほかの分野の商品も同じようなものでしょう。
ブランド品のカバンだからといっても,決して機能的なわけでもないし,それを使いこなせなければ宝のもちぐされです。しかし,こうした商売が成り立つというのはブランド品というだけで好んで買う消費者がいるということなのでしょう。お嬢様学校に通う教養のない学生と同じようなものかもしれません。
近ごろでは,名の通った,いわゆるブランドのある会社の不祥事が相次いでいます。
話は少しそれますが,Yahoo知恵袋をなんとなく見ていたら「使うとき恥ずかしいクレジットカード」というものがあるのだそうです。それによると,「使うとき恥ずかしいクレジットカード」というのは,楽天カードとかイオンカードとかセゾンカードのだそうです。そして,銀行系のカードがステイタスが高いのだそうです。たとえば,こんなことが書かれてありました。
「彼氏がセゾンカードを持ってた。別れたい… セゾンカードだとレジ待ちで並ばれたときなんか恥ずかしい ww 下向いちゃうし ww 男にはせめてゴールドカード持って欲しい… ショッピングとかで出されたら… もう最悪 ww せめて普通に三井住友カードやアメックスぐらいは持って欲しい」
こういう価値観の人がいるから,ブランド品というのが売れるのでしょう。へ~って思いました。探して読んでみてください。おもしろいですよ。
しかし,日本でステイタスが高いとかいっているカードでも,アメリカではほとんど使えなかったり,海外に日本語の使えるラウンジがあると書いてあっても,あるのはホノルルやサンフランシスコというような海外旅行初心者がツアー旅行で行くようなところだけなら,そんなものは本当に使いやすいものではないわけです。
今の私には,地位も名誉も,クレジットカードの種類もどうでもよくて,それよりも,英語が通じて車に乗れてコンピュータが自由に使える能力と,飛行機に優先的に乗れるカードがあればいいのです。価値観は人それぞれいろいろです。
・・
そんな話を友人としていたら,彼が言いました。「ブランド品というのは,はじめっからそういうものじゃあないのか」と。
日本では社長とか校長とか大臣という名前もインチキブランド品なんでしょう。それを反面教師として,生き方も含め,自分には何が必要かが判断できて,それを使いこなせる知恵と能力を身につけたいものだと改めて思いました。
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2015春アメリカ旅行記-オクラホマ州・ルート66⑥
●旅をしていると「こんな日」も●
ヒストリック・ルート66でエル・リーノ(El Reno)の町まで行った私は,そこで引き返して,再びオクラホマシティまで戻ってきた。
きょう予約をしたのはリンカーン・イン・エクスプレス(Lincoln Inn Express Hotel & Suites)というホテルであった。場所は,オクラホマ州議会議事堂から北に伸びるノース・リンカーン・ブルバード(North Lincoln blvd.) がインターステイツ44とぶつかる手前の西側にあって,ロケーション的には問題がないはずであった。
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ちなみに,Hotel & SuitesのSuitesが何を意味するのか,これまでずっと疑問であった。
経験上,これは,部屋に応接間のような別の小部屋が付いているのを意味しているのではないか,と思うようになったが,改めて調べてみると,やはりそうで,これは和製英語の「スウィートルーム」と同じだと考えればよいらしいことがわかった。つまり,続きの間つきの部屋のことであった。続きの間とは一般に応接セットのある居間のことであるが,ここにダイニングのついていることもある。
そんな部屋は必要ないのだが,えてして,そうした部屋があてがわれることもある。
私にとってホテルは寝られればそれでいいのだから安価なものを選択するのであるが,この安価には2種類あるのだ。そのひとつは,はじめっから格が低いものだが,これは,新しいホテルのときは掘り出し物である。そしてもうひとつは,昔の高級ホテルが古びたもの,こっちの方は,時に気味が悪い部屋のことがある。きしんでいたり,お湯が出なかったり,何かが壊れていたり…。
残念ながら今日のホテルは,後者のほうであった。
このホテル,一見豪華なのだが,かなり古びていた。ホテルには,私には無用のプールもあったが,このプールには水も入っておらず,まるで潰れたテーマパークのようであった。
ホテルにチェックインをしてから,いつものように夕食に出かけようと思った。ところが周りにはレストランらしきところがないのだった。ホテルのフロントで近くにレストランがないかと聞いてみると,2ブロック南に行けばチャイニーズレストランがあると言った。
そこで車で行ってみたが,この店は潰れていた。仕方がないので,さらに南に,州議会議事堂の方まで走って行ったが,付近はさびれていて,ほんとにな~んもない。意外なことに,オクラホマシティは州議会議事堂のあたりが殺伐としているのだった。
実は,オクラホマシティというのは,1995年にオクラホマシティ連邦ビルで爆弾テロが起きたところ,そして,オクラホマ州というのは,南部の香りがちょっぴりする州で,風紀がいいのか悪いのかさっぱりわからなかったが,私の感じたところでは,その後者のようであった。
ともかく,夜になって,私はもう疲れていて遠くへ行く気もなくなっていたから,近くに何かないか探していたら,やっと,グランディーズ(Grandy's)という店が見つかった。グランディーズは一見ファミリーレストラン風であったから,駐車場に車を停めて,私はこの店に入った。ところが,入ってみて,想像とあまりに違うことに,私は愕然とした。
こんなことなら,ダウンタウンまで行けばよかったと,このとき後悔した。
一応,食事をするテーブルがあったのだが,ウェイトレスが案内するのではなく,カウンタで注文して品物を受け取ってそこで食べるというマクドナルド型であった。そして,カウンタのあたりは注文を待つ客でごった返していて,しかも,注文を待つ人たちが,「かなりの雰囲気の人たち」であった。そう,私だけがその場で浮いていた。
マクドナルドのように,カウンタの上にメニューが絵で表示されていた。やっと自分の順番になったので,私はそのなかで手ごろなものを注文した。
私が注文したのは,今日の2番目の写真の左上に小さく挿入したものであった。
この店のホームページには,このメニューには次のように書かれてあった。
・・・・・・
Pot Roast Meal: Tender beef pot roast drizzled with beef gravy served with 2 regular sides and a famous Grandy's roll.
・・・・・・
ところが,店員のほうも,また,「かなりの雰囲気の人」で,彼の言う英語が私にはさっぱりわからない。めんどくさくなって適当に返事をしていたら,出てきたものはなんとその2番目の写真のものであった。要するに,サイドオーダーについて生返事をしていたものだからいらないと解釈されてしまったようなのだ。
私は,そんなものを受け取っても 店内で食べる事もできず,箱一杯に入ったローストビーフを持参して,傷心してホテルに戻ったのであった。ホテルの近くにはコンビニすらなかったから,他に食べるものは何も手に入らなかった。
朝,ホテルの朝食でもてあまし,手元に持って帰ったマフィンがふたつあったのが幸運だった。
私は,このローストビーフとそのマフィンだけで,侘しく夕食にする羽目に陥ったのだった。ああ,野菜か果物がほしい。旅をしていると,ときには「こんな日」も,ある。
「2016」春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす②
●ホノルルなんて熱海と同じ?●
ハワイ州といっても,多くの島があるので,まず,行き先はハワイ島ということに限定した。
私は,ハワイ州にはオアフ島やらマウイ島やらハワイ島があることは知っていたし,ホノルルという有名な都会はオアフ島にあるとか,昔活躍した高見山というお相撲さんはマウイ島の出身だということくらいの知識はあった。
で,オアフ島は伊豆の大島と変わらないんじゃないか。ホノルルなんて熱海(1番目の写真はホノルルではなく熱海です!)へ行くみたいなところじゃないか。そんなところ(失礼!)へ行くのは,50州制覇をめざす私の,(ありもしない)プライドが許さない,と思ったのだった。なので,ホノルルなら数万円で行けるツアーがごろごろしているが,行く気にはならなかった。
まあ,バカにはいわせておけばいい,と思ってください。
そして,近年話題の,日本の「すばる望遠鏡」がマウナケアという山の頂にあることは知っていたが,マウナケアがどの島にあるかは知らなかった。キラウエア火山というのもあるそうだが,それがどの島にあるのかさえも知らなかった。そこで調べてみると,それらは,ともにハワイ島にあるようだった。
ハワイ島というのは,ハワイ州の数ある島の中でも広い。それに,オアフ島ほど身近なところでもなさそうに思えた。だから,この島なら,私がハワイに抱く,日本人の観光客の家族連れやら芸能人やらがうろうろしているところとは多少は違うのではないか… と想像したのだった。まだ,行っていないからわからないが,あくまで願望である。
だから,この島でレンタカーを借りて走りまわり,気ままに星でも眺めよう。そう思ったわけだった。
今,私の頭の中にあるハワイ島は,20代の頃に行った北海道の利尻島である。実に困った誤解である。
大型光学赤外線望遠鏡,愛称「すばる望遠鏡」(Subaru Telescope)は,ハワイ島のマウナケア山の山頂(標高4,205メートル)にある日本の国立天文台の大型光学赤外線望遠鏡である。
建設総額は400億円,1999年1月に試験観測が開始された。主鏡に直径8.2メートルという,当時世界最大の1枚鏡をもつ反射望遠鏡である。
ただし,私は天文ファンのはしくれとして,この天文台を作るのに,小平桂一という先生が大変苦労されたことは,とてもよく知っている。なにせ,日本の観測機器を海外に作ろうというのである。前例のない話に許可をあたえるような役人はいない。その壁を超えたのだ。
また,キラウエア火山(Kīlauea)は,ハワイ島の同じ形式の5つの盾形火山(Shield volcano)のひとつでハワイ諸島の活火山である。ハワイ語でキラウエア(kīlauea)は山から頻繁に溶岩の流出があることに関連して,「吹き出す」または「多くまき散らす」という意味である。キラウエア火山は,ハワイ諸島を作り出してきた火山の中で現在最も活動的なものであるが,火山活動の中心はハワイ島の南東沖にあるロイヒ海底火山に移りつつある。
山域はハワイ火山国立公園として指定されている。
そんなわけで決めたハワイ州のハワイ島への旅なのである。
ダイビングにも興味がなく,ゴルフをするわけでもなく,グルメでもない私がひとりで行く人生初ハワイである。
まずは,日程を調整して航空券を入手することからはじめることにした。「地球の歩き方」を図書館でさがすと,ハワイだけで2冊もあるではないか。アメリカ本土で1冊というよりも情報が多いではないか。それだけハワイというところへ行く日本人が多いということなのであろう。
一体,どういう旅になることであろうか?
◇◇◇
続編は忘れた頃に。