しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2015

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 先日,NHKBSで「発見!体感!古代ロマンとネオンの街 福岡那珂川紀行」という番組をやっていました。福岡に行く前にも見たのですが,帰ってから見直すと,その町のよさがとてもよくわかりました。やはり,旅はするもので,見るものではありません。
 私は,11月22日の早朝,博多駅のコインロッカーにカバンを預けて,途中で朝食を食べてから,歩いて大濠公園まで行きました。

 途中の中洲は,焼き肉屋の前で,深夜まで働いた若者たちが帰宅するところだったり,まだ遊び足りない人たちがたむろっていたりと,私には無縁の,しかし,いかにも日本の盛り場らしき雰囲気がしました。そして,博多から中洲を超えて福岡に入ると雰囲気が一変するのがわかりました。
 福岡城はもともと天守がなかったらしく,というか1600年代にすでに取り壊されたらしく,もし,天守があれば,ずいぶんとこの町の様子もちがっていたように思いましたが,お城のあたりは,鴻臚館跡も存在していて,広大な敷地。これだけの場所に,明治以降,計画性もなく,グランドやら官庁やら,美術館やらといったいろいろな施設をくっちゃくちゃに作っていったように,私は感じました。
 残念なことだなあと思って調べてみると,福岡市は,今後30年くらいかけて,この場所を大規模に整備,ニューヨークのセントラルパークのようにしていくということなので,完成すれば,もっともっと福岡は素晴らしい都市になっていきそうです。

 大濠公園から大相撲の会場である福岡国際センターまでも歩くつもりだったのですが,さすがにめげて,地下鉄で呉服町まで戻りました。
 呉服町の駅から北西に「大博通り」を歩いていくと,やがて,寄せ太鼓が聞こえてきて,交差点の目の前に福岡国際センターがありました。
 この「大博通り」は,サンフランシスコのゴールデンゲイト・ブリッジにつながるパーク・プレシディオ・ブルバードという通りに感じが似ていました。以前,私は,このブログに「サンフランシスコもボストンも京都に似ている」と書きましたが,ボストンは確かに京都ですが,サンフランシスコは福岡に似ていると訂正します。
 市内にホテルがとれないというのも似ています。

 やがて,大相撲が終わって会場を出て,優勝バレードを見ようと鉄柵に足を乗せた瞬間,私は,右足のふくらはぎに肉離れを起こしてしまって,あとは,歩くのもままならない状態になってしまいました。幸い,ちょうど来たバスにのって,博多駅まで戻り,駅から必死に15分足を引きずりながらホテルに行ってチェックインしました。そんなわけで,夜の博多を散策する予定もとりやめ,近くで夕食をとり,おとなしく寝ました。
 翌日は,ホテルからのシャトルバスで空港へ。
 無事帰宅,といいたかったのですが,またまた,フライトが,今度は1時間ほど遅れました。
 フライトはともかく,お相撲はとてもおもしろかったし,福岡はとってもよいところだった,という印象が残った旅でした。 
  ・・
 そうそう,書き忘れていたことがあります。
 横綱白鵬が「猫ダマシ」という奇策を弄したことが話題になっているのですが,そんなに批判をしたいのなら,みんな猫の被り物でも着て客席に座っちゃえばいいのです。「ハクホウにゃ~」とかいって…。日本人は,そうしたユーモアのセンスないのですね。
 日本のプロ野球のうるさいだけの応援が大嫌いで,私は絶対に見に行かないのですが,大相撲の応援はなんだかMLBの応援に似ているので,好きです。千秋楽は,表彰式の前に君が代がかかるので,さらに,ゲーム開始前に国家が演奏されるMLBみたいです。そうであれば,なおさら,白鵬の「猫ダマシ」を批判するなら,着ぐるみを着ていって,イス席で「にゃ~」と叫びましましょうよ,みなさん!

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●今日は1日国立公園で過ごすのだ●
 ビジターセンターが開いたので,早速中に入った。なにせ,ここに来ることができるとは思っていなかったから,まったく予習がしていない。そこで,スタッフにツアーに参加したいのだが,どうすればいいかを聞いた。
 ここには12くらいのツアーが用意されていて,それぞれ出発時間と所要時間がちがう。もし,時間があれば,メインのふたつのツアーに参加するといいと言われた。
 私は,今日は,この国立公園で1日を費やすつもりであったので,その2つともに参加することにした。

 それぞれのツアーでは,洞窟内のいくつかのポイントでレンジャーの説明を聞きながら歩いていくのだが,その見所はツアーによって異なるために,これらのツアーのそれぞれに参加することで,洞窟の成り立ちや洞窟で暮らしていた人類の歴史や先史についてなど,さまざまな側面を学んでいくことができるということだった。
 この世界一の広さを誇る「マンモス・ケイブ」は,1本の大きな洞窟があるのではなく,大小さまざまな洞窟が奥の方でつながり合っていて,現在通行可能な洞窟の長さはなんと600キロメートル!(日本最大の秋芳洞は5.5キロメートル)もあるのだという。
 また,現在も奥へ脇へと新たな洞窟の探検作業が続いているのだそうだ。

 スタッフのアドバイスに従って私が予約したツアーは,「ヒストリック・ツアー」(Historic Tour)と「ドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー」(Domes and Dripstones Tour)のふたつ,ともに2時間のツアーであった。
 早朝で,両方とも予約が満員になっていなかったのが幸いであった。
 帰国してからネットで調べてみると,このマンモスケイブへ行った人のブログがけっこうあるのだが,それらを読んでみると,そのほとんどの人が参加したツアーは「ヒストリック・ツアー」と「フローズン・ナイヤガラ・ツアー」であった。
 私が参加した「ドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー」なんていうツアーは,情報がほとんどない。
 わたしは,しまったと思った。

 しかし,改めて公式ホームページの説明を読んでみると,「ドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー」は,
  ・・・・・・
 This tour includes the entire Frozen Niagara Tour route and a small portion of the Grand Avenue Tour route.
  ・・・・・・
ということであったから,むしろ,こちらに参加したのが,大正解なのであった。
 「ヒストリック・ツアー」の出発は9時,「ドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー」は12時15分で,ともに所要時間が2時間だから,途中で昼食をとることもできるし,きょうは,充実した1日になりそうだった。
 まだ,時間は午前8時過ぎで,ツアーの集合時間まで1時間くらいあったから,まず,ビジターセンターの中に併設された博物館に行ってみた。

  ・・・・・・
 マンモスケイブの歴史ははるか3億5千万年前にさかのぼる。そのころ,この地域は浅い海だった。
 その海に住んでいたウミユリとか貝類やサンゴなどの死骸がどんどん堆積し,石灰岩(炭酸カルシウム)を形成した。やがて海が大地になり,大地に降り注いだ雨が石灰岩を溶かし,隙間から地下に流れこんだ。
 地下水が長い年月の間に石灰岩をさらに溶かし,地下水の川となり,川の流れで空洞と空洞がつながっていって,洞窟をどんどん拡大させていった。つまり,石灰岩と雨水に空気中の二酸化炭素が化学反応をすることで,「炭酸水素カルシウム=鍾乳石」ができたというわけだ。そうして次第に巨大化し,長い年月を経て更に深部へとその道を広げて行った結果,世界一の巨大な洞窟が出来たのだという。
 現在,ほとんどの洞窟は乾燥していて,ここには湿った洞窟で見られる鍾乳石や石筍はなく,巨大な洞窟とエレガントな水によって刻まれた通路の見学を特色としている。ただし,「フローズンナイアガラツアー」と「ドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー」で訪れる洞窟には,湿った洞窟形成物の鍾乳石および流動石を見ることができる。また,洞窟内の川には暗闇の影響から,世界でも珍しい目を失った魚やザリガニなどが今でも生息していて,世界的な生物保護区にもなっている。
  ・・・・・・
といった展示があった。

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 さて,11月22日は九州場所の千秋楽。私は,これを見るために博多に来たのですが,すでに書いたように,前日,福岡市内にホテルが見つからず,泊まったのは,佐賀県の鳥栖でした。
 ホテルには朝食がついていなかったことと少しでも早く博多に戻りたかったので,早朝6時にチェックアウトして,再び,弥生が丘の駅まで,まだ暗い道を歩いて行きました。本当に,アメリカを旅行しているときと同じペースでした。
 弥生が丘まで歩いている時間は,まだ真っ暗で星空が美しく,ものすごく遠いところに来たように感じました。きっと,何年も経って思い出すのは,こういう風景なのだと思うのです。

 人かげのないホームで電車を待って,やがて来たほとんど乗客のいない電車に乗り込み,およそ40分で,来たときとは違って途中で乗り換えずに,直通で博多駅に戻りました。
 ちなみに,福岡と博多はともに福岡市なのですが,江戸時代は,川を隔てて東側が博多という商人の町で西が福岡という武士の町と別れていたのが橋がかかったことから双方の行き来がはじまって,その真ん中の中洲が繁華街になったのだそうです。
 こんなことは,地元の人には常識ですね。私は,ミネアポリスとセントポールを思い出します。

 博多駅に着いて,この日に必要なスマホとカメラと双眼鏡だけを小さな肩掛けカバンに移して,残りを駅のコインロッカーに預けました。
 コインロッカーは交通系ICカードがロッカーキー代わりになるということでした。このICカードは本当に便利なのですが,これもまた,つかう場所や利用する電車の種類でポイントが付いたり付かなかったり,お金がクレジットカードからチャージできなかったりと,何かひとつ不便で複雑です。しかも,同じカードがJR東海とかJR西日本とかのそれぞれの区間では日本中でどこでも使えるのに,それをまたぐと使えないとか,まるで,わざと工夫して複雑にしているかのようです。
 日本人は本当に頭悪いです。

 また,ここで,余談です。
 コンビニのポイントカードも,nanacoやらpontaやらいろいろあるのですが,セブンイレブンが好調なのは,このnanacoカードがチャージができることと店舗が多いという理由で使いやすいからだと思います。
 今や,お金がチャージできない単なるポイントカードほど,意味のない不便なものはないからです。そのうち,どのポイントカードもチャージができるようになっていくのでしょうが,そうすると今度はまた,どのカードにどれだけチャージがしてあるかわけがわからなくなることでしょう。
 私はいろいろと試してみましたが,財布の中に入れておくのは,交通系ICカードとnanacoカード,それに,クレジットカード(私はAMEXとMaster),それだけで十分です。それでも4枚も必要です。さらに,現金が1万円くらいは必要です。それに比べたら,アメリカなら本当にクレジットカードが2枚と予備として10ドル紙幣が2~3枚あれば十分,それ以上のカードも現金も全く必要ありません。本当に,つくづく日本というのは不便な国だと思います。
 そうそう,カードとはまったく関係ありませんが,いつも書こうとして忘れていたことを思い出しました。それは,アメリカ人が一生懸命に手を洗うということです。
 アメリカでは,公衆トイレで洗った手を拭くペーパーが設置されていないということは皆無です。もちろん,電動式の乾かし機があるところもありますが,そうした場所でもペーパーが大量においてありますし,その乾かし機から発する熱風の強さも日本の比ではありません。だから,手を拭くためのハンカチを持っている必要がありません。そうであるからかどうかは知りませんが,アメリカ人は,いつでもとても丁寧に一生懸命に手を洗います。一度,注意して見てください。日本で手も洗わない男性がいたりするのですが,そういう姿を見ると,この国は,本当に発展途上国だなあと思います。

 閑話休題。 
 私は,駅を出て歩きはじめました。
 大相撲がはじまるまで,まだ2時間以上あったので,駅の近くの「松屋」で朝食をとってから,昨日行くことのできなかった大濠公園まで,散歩と観光を兼ねて歩いていってみることにしました。

IMG_0626DSC_7696FSCN0156 DSC_7705 DSC_7702DSC_7703 DSC_7706 ニコンようかん

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 「N響の第九」を聴いた12月22日,渋谷に行く前に,一度行きたかった品川インターシティにできた「ニコンミュージアム」に行ってきました。
 この博物館は,2017年に創立100年を迎えるニコンがこれまでに発売したカメラやこの会社の他の製品を一堂に展示しているところです。入場は無料で,広いフロアは黒を基調にして,日本の精密機器の代表であるカメラがずらりとならんでいるその様は,まさに圧巻でした。
 きっと,数年前であれば,この展示を見ただけで,私は深く感動したことでしょう。私には,ニコンという会社はカメラと天体望遠鏡,というイメージなのですが,天体望遠鏡に関するものはほとんどありませんでした。その代わり,カメラの展示と並んでその存在を誇示していたのが,半導体製造装置である「ステッパー」に関する展示でした。それは,現在のこの会社の有り様がそのまま表されているようでした。

 私には,この会社は,現在,ずいぶんと迷っているように思えます。
 ここ数年,映像機器は転換期を迎えているようで,その変化は,こうした巨大企業の根底を揺さぶっています。そうした時代になっても,この会社の基幹製品が,昔は眼鏡とカメラ,現在はステッパーとカメラ,では,あまりに弱くなさけないように思えます。もれ聞くところでは,医療機器分野に活路を求めているといった話ですが,そんな後追いがうまくいくとも思えません。
 おそらく,今後は,映像機器というのは動画が中心となっていくのでしょう。そして,その技術革新は予想をはるかに超える勢いで進んでいます。それなのに,いつまでも静止画を中心とした映像機器しか一流の技術がないのでは,この会社は八方ふさがりでしょう。本当は,どこかの会社を吸収するなりして,もっと早く映像分野を充実させべきだったのでしょうが,それも,すでに後手となっています。
 魅力的な新製品がしばらく発売されていないのが,それを物語っています。これでは,買うほうは何に投資をすればいいのか分かりません。会社自体が方向性を決められず何も新製品が発売できないので「ニコンD5を開発中」などという当たり前の発表で時を稼いでいる始末です。

 たとえば,アメリカに建設された新しいアメリカンフットボールのスタジアムには21台もの8K動画カメラが常時ゲームを記録していて,再生したいシーンがあれば,たちどころに3D画像に加工されて,スタジアムの大型スクリーンで再現されるということが行われています。また,冥王星探査衛星は,高度11,000キロという非常に遠い距離から撮影された高精度の画像を送ってきます。すでに時代は,ソフトウェアを駆使した4K,8Kといった動画の時代なのです。動画から静止画が切り出せるのです。もう,根本的に考え方が違うのです。
 こういう時代になったのに,日本の得意としていた静止画カメラは昔の技術を引きづったまま,革新性を持つことができずにいます。それはこれまでの遺産が大きすぎるからなのです。おそらく,近い将来,というよりも早ければ次の東京オリンピックでは,現在のような日本製の光学ファインダーを搭載した一眼レフカメラがずらりとスタジアムに並ぶという姿は消滅してしまうことでしょう。

 これまでの遺産が大きければ大きいほど身動きができず,会社はそうした新しい動きについていけないというジレンマを抱えてしまっているのです。
 フィルムカメラからデジタルカメラに転換した時には非常にうまく新しい技術に移行したように見えたのですが,それも,結局はフィルム時代の交換レンズという遺産を同じマウントのまま延命させるための過去の技術の土台の上のデジタルカメラだったから,本質的には革新性がなく,これらの矛盾の積み重ねが沸点に達して,ついには障害となりかねない状態なのでしょう。
 今や,一般の人はコンパクトデジカメからスマホに移行して,コンパクトデジカメのユーザーをなくしました。そして,業界では,映像表現の世界自体が静止画から動画に変わってきているのです。だから,ニコン1という新しいマウントのカメラを出した時に,どうせ新しいマウントを出すくらいなら,ライカSLやSONYα7のような,もっと徹底的に最新技術を取り込んだ拡張性の高い,そして,動画を強力にした将来を見据えたものを開発して,ユーザーに映像機器の未来を語り,業界の主導権を握るべきだったのです。それが中途半端なものを出してしまったものだから,従来の保守的なユーザーからはそっぽを向かれ,逆に先進性を主張しようにもニコン1マウントでは発展性が低いので,すでに,この先どうしていくべきか困り果てているようにみえます。かつてAPSフィルムカメラを発売した時と同じ失敗を繰り返すのです。
 ミラーレスブームに乗り遅れるのが心配でお茶を濁すつもりだったのなら,CXフォーマートなんていう猫ダマシのような下手な自己主張をしないで,いつ撤収しても他社のレンズやカメラと互換性があるから大丈夫であるように,とりあえずはマイクロフォーサーズで堂々と他社のカメラに対して横綱相撲をとればよかったのです。今や,会社ごとに別のマウントでシェアを競うほど,一般のカメラユーザーはいないのです。
 そうすれば,それでもなお他社と異なるマウントで勝負したいのなら,時期を見て,先進性を主張した新しいマウントを使った本格的なフルサイズのミラーレスカメラを開発することもできたことでしょう。

 今日,カメラのヘビーユーザーとして残っているのは一部のプロのカメラマンと昔からの熱いカメラ愛好者だけ。
 従来からニコンカメラを愛好し興味を持っている人たちが集うブログやホームページには,さまざまな意見が寄せられているのですが,その多くは「ニコ爺」と揶揄されるほどとても保守的で,新しい進化を望んではいないようです。つまり,今でも,電車の中で紙媒体の新聞を読み,伝達手段にFAXを使い,喫茶店で煙草をくゆらせながら雑誌を読み,百貨店の包み紙に価値観をもつ,といった昭和時代の生き残りです。
 彼らは,業界全体が危機なのに,今でも,やれニコンだのキヤノンだのとライバル意識を燃やしています。時代錯誤もはなはだしいのですが,この会社はそうした人たちが愛好し,支えてきたのです。しかし,このままではそうしたユーザーが一番の足枷となって沈んていってしまうでしょう。
 ちなみに,私は,40年以上ニコンカメラの愛好者ですが,持っている株式はキヤノンです。
 きっと,そんなことはこの会社の偉い人たちはとっくにお見通しなのです。だから,迷っているのだと思います。
 それとも,「ニコンようかん」を主力製品とする和菓子屋さんにでも転換するのでしょうか? 「カメラ屋が和菓子を売っている」から「和菓子屋がカメラも売っている」に変わるのかな?
 同じような技術革新は,カメラと並ぶ日本の基幹産業である自動車からガソリンエンジンがなくなる日。
 かくして,この国の基幹産業は全滅するのでしょうか?
 せっかく訪れたこのミュージアムで,過去の輝かしい栄光に比べて,全く将来の夢と展望が語られていない展示を見て,私は落ち込んでしまうのでした。

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●ケンタッキー州が一番美しかった●
 テネシー州を越えてケンタッキー州に入ると,周りの風景が一変して,とても美しい田園地帯が広がっていた。
 今回の旅では,カンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州,アラバマ州,テネシー州と走ってきたが,これまで巡った州の中で,ケンタッキー州が一番美しかった。
 もう,ここには南部の香り,けだるい雰囲気は全くなかった。
 これもいつも書いていることだが,アメリカの州境は,単にボーダーが引かれているのとは全く違って,本当に景色が一変するのである。

 今日の目的地は,世界遺産「マンモスケイブ国立公園」であった。このマンモスケイブ国立公園を日本のテレビ番組で見たことがあるが,こうして訪れるまで,どこにあるか正確な場所を知らなかった。
 昨日,ナッシュビルから非常に近いところにあるということを知って,行くことを決めたのだった。
 今回の旅で来るまでは,マンモスケイブ国立公園はなにやらすごく遠い所だと思っていたから,まさか来ることができるとは思っていなかったので,とてもうれしかった。
 私は,ナッシュビルからインターステイツ65を北上してケンタッキー州に入ったが,さらにインターステイツ65を北に進んでいくと,いつものように,名所旧跡を示す茶色の道路標示板があって,そこに,マンモスケイブへはマイルマーカー48で降りると表示されてあった。
 つまり,マイルマーカー48でインターステイツを降りれば,そこから州道255の片側1車線の美しい高原道路を走るだけであった。
 どうして,いつも,アメリカの道路標示は無駄がなく的確でわかりやすく統一性が保たれているのだろうか,と思った。

 ケンタッキー州の西側は,数多くのドリーネ(石灰岩地域でみられるすり鉢状の凹地)が存在する土地として知られている。
 この53,000エーカーにおよぶ野生生物保護地区は,かつて北アメリカ東部および中央部のほとんどに広がっていた巨大な森林地帯の一部である。現在は,この土地の地表は美しいなだらかな丘になっているのだが,地底には大きな洞窟や美しい地学層がぎっしり詰った不思議な世界が広がっているのだ。このように,実は,マンモスケイブ近郊の地質は,石灰岩層の上に砂岩層が乗ったいわゆる「カルスト地形」になっている。

  マンモス・ケイブ国立公園(Mammoth Cave National Park)は,ケンタッキー州の中央部にあって,世界でもっとも長い洞窟群である「マンモス・ケイブ(洞窟)」を含む国立公園である。
 1941年に国立公園として指定され,1981年には世界遺産としての指定を受けた。
 国立公園の敷地は214平方キロメートルの広さがあり,東海岸地方には少ない国立公園で多くの都会から比較的容易にアクセスできるから,毎年200万人近い人々がこの公園を訪れるのだが,日本からはアクセスの難しいケンタッキー州へ行かなくてはならないからなじみが薄い。さらに,ここに行くには,ツアーなどないから,レンタカーを借りる必要がある。
 「地球の歩き方」のアメリカの国立公園編にも載っていない。

 私が訪れたのは5月下旬だから,まだハイシーズンではなかったが,ハイシーズンだと,こういう人気のあるところは,早朝に到着するか,事前にインターネットで予約を入れておかないと,見学ツアーに参加できない。
 ここは,見学ツアーでなければ中に入ることさえできないのだ。
 州道255を気持ちよく走っていくと,国立公園の入口に着いた。さらに走っていくと,ビジターセンターとそれに隣接する広い駐車場があった。私が到着した時間は,まだ,ビジターセンターがオープンする時間よりも早かったので,駐車場にはほとんど車がなかった。私は付近を散歩したりして,時間をつぶした。

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☆☆☆☆☆☆
 今年は,38年ぶりのフルムーンのクリスマスでした。月の写真を写すと,仕事を終えて家路を急ぐサンタクロースを同時にとらえることができました。
 そんなクリスマスの素敵な贈り物は,クリスマスイブにNHKBSプレミアムで放送されたドラマ「ビューティフル・スロー・ライフ」。このドラマは,「クリスマスイブに贈る『ささやかだけど美しき人生賛歌』」だそうです。脚本・演出が源孝志さん,主演が常盤貴子さんということは,このドラマは「京都人の密かな愉しみ」と同じです。 
 ナレーションからして,「京都人…」とそっくりなはじまりでした。

 ドラマは4つの「楽章」からできています。そう,今回は,京都転じてマエストロの奏でる音楽をベースにした愛の物語,そして,「彼」と「彼女」の出会いから別れまでの物語なのです。
 いわば,人生の「交響曲」です。
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 主人公の「彼女」は女優の卵,「彼」は大道具係り。
 卵を手にして演技をさせられる「彼女」は卵を落としてしまいます。でも,その卵を用意したのが「彼」。「彼」はこうした事態を想定して「彼女」にゆでた卵を渡したことが「彼」のやさしさ。
 そんな「彼」に誘われて,もらった電話番号の書かれた紙片をステイションで抱きしめる「彼女」。このシーンのスローモーション画像と「彼女」の表情が魅力的です。
 そう,このドラマには「スローモーション」と「玉子」がその人生を語るのに大きな役割を果たしているのです。
 -たいていの場合錯覚なのだが最高の相手だと一生思い続ける努力を愛と呼ぶ。
  ・・
 そして,「彼」と「彼女」は結婚します。
 子どもを身ごもることで,主役のチャンスを「彼女」は失います。「彼女」は言います。
 「チャンスを捨てたわけじゃない。 母親になるチャンスをもらったの」
 -苦労して手に入れた大切なものを失うか失なわないかそれは感受性の問題だろう。
  ・・
 時は流れ,新しい家を買い,3人になった子供たちも成長します。そして,「彼女」は思うのです。
 「妻であり母親である前に私は人間よ」
 「彼」は仕事が忙しくてクリスマスイブも残業で帰れないのです。そして,寂しさを紛らわせるために「彼女」は家を出て海を眺めています。そんなころ,「彼女」はステージで倒れるのです。
 -たいていの場合人生は思い通りに行かない。思い通りに行かない人生が教えてくれることも多い。
  ・・
 彼女は不治の病に侵されていたのです。そして,人生の最後に「桜の園」を演じる「彼女」。
 「さようなら懐かしい我が家。お前はもうすぐ消えて無くなる。私のいとおしい,懐かしい,美しい桜の庭。私の人生。私の青春。私の幸福。さようなら。私を離さないで」
 そして…
 ひとりになった「彼」は昔を思い出すのです。 
 「何度も生まれ変われればいい。そうすれば永遠に夫婦でいられる」と。
 -すべてのささやかで美しい人生に祝福あれ(God bless every little Beautiful Life)。
  ・・・・・・

 そう,生きることは,人それぞれ,ささやかだけどみんな美しい物語なのです。そして,それは桜の花のように儚いのです。 「彼女」を演じた常盤貴子さんが「京都人の密かな愉しみ」と同じく,とても素敵でした。

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●次に目指すは「マンモスケイブ」●
☆5日目 5月13日(水)
 5日目になった。昨日は,わずかな時間であったが,ナッシュビルのダウンタウンの雰囲気を味わうことができて,私は,十分に満足した。
 ニューオリンズにくらべて,メンフィスやナッシュビルは名前こそは知られているが,あまり有名なところでないし,行ったというブログはあっても,なかなか詳しい情報がない。ゆかりのあるのが,エルヴィス・プレスリーやカントリーミュージックというのも,その理由なのかもしれない。やはり,ここは,アメリカ人にとっての憧れの聖地なのであろう。
 私もまた,ダウンタウンを何往復かしてみたが,すでに夜遅く,博物館はもう閉まっていたし,ライブハウスは入る気もなく,ウェスタンブーツも買わないし,まして,キャンディショップも無縁だったから,その面白そうな雰囲気を味わうことはできたが,それ以上にお伝えできることを持ち合わせていない。
 ホテルに戻って車を停め,歩いて近くの「JACK's」まで行って,遅い夕食を済ませた。

 朝,いつものように,ホテルで名ばかりの朝食を済ませて,チェックアウトをした。今日は,インターステイツを北に,ケンタッキー州をめざす。目的は,マンモスケイブ国立公園であった。
 昨日は到着したのが遅くよくわからなかったが,ナッシュビルの郊外も,また,他のアメリカの都会と変わらない近代的なビルを遠くに眺めながら,広く快適な道路網が整備されたところであった。
 私が宿泊していたホテルはナッシュビルの南にあった。今日の目的地マンモスケイブ国立公園は,ナッシュビルから北東にインターステイツ65を100マイル(160キロメートル)くらい行ったところにある。

 何度も書くが,この旅で,私はどこまで行くことができるのか,まったく見当がつかなかった。
 メンフィスやナッシュビルだけで1日や2日滞在することもできるし,かといって,そこで何かをしたいというほどの興味も持ち合わせていなかった。そんななかでも,ぜひ行ってみたかったのが,このマンモスケイブ国立公園であった。
 「地球の歩き方」のアメリカの国立公園編にも,このマンモスケイブ国立公園のことは載っていない。
 アメリカのこの地方にある唯一の国立公園は,情報が少なく,ユタ州などの有名な国立公園に比べれば,訪れた日本人の数も圧倒的に少ないと思われる。当然ツアーなども存在しないであろう。したがって,1日かけて楽しむことができるほどの規模なのか,それとも,とんでもなく広いところであるのか,さっぱり見当がつかないのであった。

 私は,このようにアメリカを旅するようになって,はじめのうちは何もかもがそのスケールの違いにびっくりしていたが,今は,逆に,日本のそれがあまりに小さいことに失望感しか感じなくなってしまった。
 テレビで数多くの旅番組があって,たとえば,日本アルプスの景観だとか,黒部峡谷だとか,沖縄の海だとか,北海道の雄大な景色だとかにずいぶんと感動したシーンを見るけれど,申し訳ないが,私には,それだけなのか,としか思えなくなってしまったのだ。それに比べたら,アメリカの大自然はあまりにすごい。このマンモスケイブ国立公園も,また,私が思う以上に雄大だものであろうことは,疑いがなかったが,実際は,そうした予想よりも,さらにものすごいものであった。
 この日,晴天であった。
 私は,今日も,また,快調に車を走らせて,1時間ほどで,ケンタッキー州までやってきた。

Paavo

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 2015年12月22日の「N響第9演奏会」。
 演奏がはじまる前,4人の独唱者も合唱団に続いて入場して,合唱団の最前列に腰をおろしました。
 その昔,朝比奈隆さんの指揮する交響曲第9番では,演奏前に「独唱者が途中で入場するときに拍手をしないでください」という放送がかかったほどなのですが,この演出は,第2楽章が終わったところで独唱者が入場することで演奏が中断して拍手が起きるのを防ぐ意味もあるので,好ましいなあと,その時は思いました。
 いつの場合も交響曲第9番はこの独唱者の入場と歌う場所に苦労をしているようです。
 私は,これまでに様々な演出を見ました。舞台袖で歌ったのもありました。楽章の合間でなく,曲の途中でそっと出てくる,というのもありました。

 しかし,曲を聴いて,こりゃ,昔の交響曲第9番のような,そんなのどかなものでないということを感じました。それは,拍手がどうのというような問題をはるかに凌駕したものだったのです。
 「パーヴォの第9」は,独唱者も何もかもすべてが一体となって,超高性能のスポーツカー,それは,決してスーパーカーとか見かけだけ豪華なものではなく,今日の技術の粋を完璧なまでに活かした超一流の完成されたスポーツカーが,ものすごい速さでぐいぐいと最初から最後まで走りぬけていくといった,そういう演奏でした。
 しかし,家に帰ってから当日FMで中継された放送の録音を聴くと,実際にその場で聴くよりもはるかに速く感じました。そんなわけで,放送時間は曲の終了後もたっぷりあったので,その放送の後半では,演奏を終えたばかりのパーヴォ・ヤルヴィさんがスタジオに駆けつけてインタビューも聞くことができました。曰く「指揮者は独裁者ではない」と。
 「第9」の装飾とクリスマスツリーで華やいだNHKホールのロビーには,後日,この日の演奏会をテレビ中継するための台本が展示してあって,自由に見ることができましたが,これもまた,とても興味深いものでした。

 先日のマーラー「復活」もそうでしたが,パーヴォ・ヤルヴィという指揮者が何をしたいのか,何を表現したいのかが聴いている側にもとても明白で,オーケストラが優秀だからまったくミスもなくその指示どおりに曲が演奏されるので,小気味よくて,しかも,魂の底を揺さぶられて,感動がこみ上げてくるのです。
 今回の「第9」では,そのなかでも,第2楽章は,まるで指揮をするというよりもダンスをしているかようだったし,第4楽章の歓喜の主題が始まる,静けさの中を限りなく小さな音でチェロが主題を奏で出したその時の美しさは,本当に絶品でした。
 これほど,この曲を,そのすべてを凝縮しきって演奏されると,はじめに書いたように,弦楽器も管楽器も打楽器も,そして,合唱も独唱も,全てが一体となって,すべてがひとつの精神の塊となります。特に,第3楽章と第4楽章が切れ目なくアタッカーで演奏されて,最後に上り詰めていくものだから,もう,これ以上,何も望むべくもない演奏になるのです。

 私の席は,1階席の真ん中で,指揮者と楽団員のすべてを見通せるところだったのですが,曲がはじまって「ああ,これが毎年テレビで見ている第9そのものなんだ」と思ったら,感無量になりました。そしてまた,これほどの名演に出会えるとは,本当に40年待っていてよかったと思いました。
 ひとつだけ難をいうと,私の席からは,指揮者の陰になって,当代日本ナンバーワンのソプラノ・森麻季さんの姿が全く見えなかったこと。曲が終わった後で,彼女が拍手を受けるためにステージの前に出てきたときに,あまりに赤いスカート姿がきらびやかだったので,観客がどよめいたほどだったのですが,今回の「パーヴォの第9」は,4人の独唱者も超一流で,本当に素晴らしい一生忘れられないコンサートになりました。

◇◇◇
12月31日,この第九演奏会のテレビ放送を見ていて,何かが違う,と思ったのですが,それは,第4楽章の最後の合唱のところで,スコアではソリストは歌わないはずなのに,「パーヴォの第9」では,ソリストも合唱団と同じところにいたために,一緒に合唱団として歌っていたことだとわかりました。
どおりで,最後のところで,ものすごく楽しそうにソリストが歌っていたわけです。
このことが,この曲に聴いていたホールの私たちをも巻き込んで,最高の盛り上がりと一体感をもたらしました。

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●不夜城ナッシュビルダウンタウン●
 ナッシュビルは,カントリー音楽の聖地である。
 ダウンタウンの外れの少し暗いところにあった駐車場に車を停めて2ブロックほど歩いていくと,ブロードウェイとよばれるダウンタウンのメインロードの外れに着いた。そして,その向こうに不夜城が出現した。
 私がナッシュビルがメンフィスよりも大きな都会だと思い込んでいた理由は,ナッシュビルのダウンタウンがメンフィスのダウンタウンと違って,このようにメーンロードが広かったからなのであろう。

 日本人にとって,アメリカ南部地域はかなりなじみの薄い地域だ。なにせ,行くのに遠すぎる。また,日本人には,アメリカの南部といえば保守的であり有色人種への人種差別の名残が存在するといった閉鎖的なイメージが強い。
 しかし,実際は,ナッシュビルは,有名な教育機関や音楽産業,そして,ヘルスケア産業を有する中規模都市であり,住み易い都市として評価されている。また,アメリカの南部の地方都市に住む多くの人は,アメリカ本来の生活様式など,昔ながらの文化を保ち続けて生活をしているが,特にここナッシュビルでは,多くの人々が信仰心に富み,それぞれのコミュニティを作りながら穏やかに暮らしていて,街は南部ホスピタリティに溢れている。
 ナッシュビルは,「古き良きアメリカ」を体験できる理想的な都市なのである。
 また,犯罪の発生率も少なく,治安に大きな不安のない街である。特にダウンタウンは非常に治安のよい地区だという。
 併せて,テネシー州の周辺は,日本の製造業にとって非常に戦略的な意味をもっている場所でもある。
 日本の製造業は,5大湖周辺の組合の組織力が強い州から逃れて,新たな生産体制を確立するために南部へ進出を始めているのだが,ナッシュビル郊外には日産の工場があり,ほかの日系部品メーカーも日産に従い進出した。今後も日本企業との良好な関係を強化すべく,テネシー州自体が日本企業を積極的に誘致し続けている。
 そこで,ナッシュビルには,寿司屋や日本料理屋なども多いのである。

 ナッシュビルのダウンタウンの中央は東西に「ブロードウェイ」という名のメインストリートが伸びている。
 私は,このブロードウェイの歩道を,行きは南側を帰りは北側を歩いて見て回ることにした。
 実際に歩いてみると,繁華街の端から端までは思ったほど距離ではなかったが,そこには,多くのライブハウスやカーボーイブーツの専門店,あるいは,キャンディーショップがあった。
 ライブハウスは,入口に店員のような人が立っていた。そこで店員に断って中に入ればいいものなのか,入場料がいるものか,私にはよくかわからなかった。入って行く人の姿を見ていると,特に入場料といったものを払っているようではなかったが,身分証明書を見せているようであった。
 私も,実際に入るならどういうシステムなのか聞いてもみるが,その気もなかったので,外から様子を見るだけにとどめた。店によって,音楽を聴くことがメインの店や,食事をしながら音楽を聞くような店があった。

 代わりに,ライブハウスと並んで多くあったカーボーイブーツの専門店のうちの1件に入ってみることにした。
 そこは「ブーツ・カントリー」(Boot Country)という名前の店であった。
 この通りのカーボーイブーツの専門店には「1足買えばもう1足無料」と書いてあったのだが,要するに,2足買え,ということなのだ。値段は,2足で36,000円くらいであった。京都の町屋のように奥に長い店内には2階もあって,多くの客がブーツを探していた。
 私は当然見るだけであった。

 さらに,キャンディショップにも行ってみた。
 私が入ったのは「サバンナ・キャンディ・キッチン」(Savannah's Candy Kitchen)という名の店であった。この店は,店内の一角が工房になっていて,実際にそこでキャンディを作っていた。なかでも,オリジナル・プラネリというチョコレートのせんべいやタフィーと呼ばれる菓子に定評があるようだったが,私は,むろん,そんなものを買っても食べることもないので,ここもまた,ウィンドウショッピングにとどめただけだった。
 私にはナッシュビルというはそういう感じの町であった。
 ダウンタウンから駐車場に帰る途中に,ブルーグラス・カントリーミュージック発祥の地であるライマン公会堂があった。
 ブルーグラス(Bluegrass music)というのは,アメリカのアパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュ(現在の北アイルランド,アルスター地方にスコットランドから移住した人たち)の伝承音楽をベースにして1945年にビル・モンローの結成したブルー・グラス・ボーイズにアール・スクラッグスが加わってから発展したアコースティック音楽のジャンルのことである。演奏にはギター,フラットマンドリン,ヴァイオリン,5弦バンジョー,リゾネーター・ギター,ウッドベースなどの楽器が主に使われる。
 1950年代には米国南部を中心としたカントリー市場に,1960年代にはフォーク・リバイバルに認められてアメリカの都会やヨーロッパや日本のフォーク市場に,そして,1970年代にはロックとの融合で野外音楽フェスティバルに迎えられ,ついに,1980年代以降はアコースティック音楽の録音技術革新とともにジャズやニューエイジなどのより洗練されたアンサンブルに達した。
 そして,21世紀を迎えた現在では,チック・コリアやヨーヨー・マも巻き込んで,ジャズやクラシックの世界でもブルーグラスの楽器技術やアンサンブルが認められ,数多くのアーティストを輩出している。
  ・・
 アメリカを旅行していると,アメリカの大自然の素晴らしさは当然のことだが,それに加えて,アメリカの文化の良さを味わうには,第一に歴史,第二にプロスポーツ,そして,第三に音楽に詳しくなる必要があるのだと,いつも感じる。幅が広く奥の深い,そして,心豊かな国である。

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 不思議なことがあるものです。
 私は今から40年くらい前に1度だけNHK交響楽団の年末の第9演奏会をライブで聴いたことがあります。そのことは事実なのですが,その演奏会の指揮者は,最晩年のローゼンストックさんだったとばかり,長年,ずっと思い込んでいました。
 ヨーゼフ・ローゼンストック(Joseph Rosenstock)さんは,ポーランド生まれのユダヤ人で,NHK交響楽団の基礎を創り上げた指揮者です。ちなみに,年末に「第九」を演奏するようになったのはこのローゼンストックさんの功績だそうです。
 晩年は1977年2月の定期公演とN響50周年を祝う公演を指揮するために久々に来日して,2月20日の特別公演とその後の2月27日の柏崎市での地方公演を行ったのが日本での最後の指揮活動となり,これ以降は事実上の引退生活を送ることとなりました。そして,1985年10月17日,ニューヨークの自宅で90歳の生涯を終えたとありますから,私が記憶していたのは明らかに間違いなのです。

 しかし,私が聴いたであろうと思われる1974年から1978年頃の歴代の交響曲第9番の指揮者を調べても,どうもこの人だったと確信できる人がほかにいないのです。
 私のおぼろげな記憶では,絶対に日本人でなく,ものすごく年寄りの指揮者でテンポはヨレヨレ,せっかく聴きに行ったのにがっかりしたというものでしかないのです。しかも,後日,その時の指揮者が実はすごい大物の晩年だったということを知って,改めてびっくりした,そんな記憶なのです。
 一体,私は,いつ,どの指揮者の第九演奏会を聴いたのでしょう? そして,どうして,ローゼンストックという名前をずっと知っていたのでしょう? 今もって不思議です。

 話は変わります。
 私は,若い頃,年末に毎年第9演奏会を聴きに行きました。たいていは名古屋フィルハーモニー管弦楽団のものでした。ある年のこと,それはきっと私の精神状態の方に原因があったのでしょうが,外山雄三という指揮者があまりに事務的に指揮をしているように思えてしまって,まったく感動できなくなり,もう年末の第9なんて,オーケストラのボーナス稼ぎのやる気のない演奏会につき合うものか,と傲慢にも思ったのでした。以来,交響曲第9番の演奏会からはずっと遠ざかっていました。
 第9を歌おうと勉強したこともあります。その結果,今でも私が固く信じているのは,ベートーヴェンの交響曲第9番という極めて難しい曲を,素人の合唱団がいかにも日本でありがちなみんなで歌おうよ的な演奏会はホンモノの第9じゃない,あれはお祭りなので,参加するほうのもので聴くほうのものじゃない,ということなのです。どうせ聴くなら,当代一流の指揮者と独奏者,そして,ちゃんとした合唱団のものにしよう,とまあ,こんなことです。生意気に。

 で,月日が経ち,N響の定期会員になってからも,毎年,今年こそは聴こうと思いつつも,指揮者がいまいち私の聴きにいきたい人選でないものだったから,ずっと聴きそびれていたのです。思えば,その中で,唯一,聴かなくて今でも後悔しているのは,数年前のスクロバチェフスキさんの指揮した第9でした。
 そして,今年。
 私は,ついに,交響曲第9番を聴きに行くことにしました。指揮は,待望のパーヴォ・ヤルヴィさんです。この演奏会のよい席のチケットを買うために,再び,N響の定期会員になったくらいです。
 近ごろの交響曲第9番は,ものすごくテンポが速くて,私が若いころに聴いた第9や,大阪フィルハーモニーで朝比奈隆さんが毎年指揮をされたものとはまったく異質な曲のように思えます。でありながらも,聞き伝えられるところによると,N響の演奏する第9には「N響の第9」というテンポがあって,演奏会は5日間あるのですが,例年,初日は指揮者のテンポだったものが,日にちが経つにつれて,いつもの普通の第9になっていくのだといいます。2009年の第9なんて,第3楽章のはじめの1小節目で指揮者の指示したテンポが演奏したテンポと食い違って,演奏が止まってしまうというハプニングすらありました。ラジオの生中継ではそれも放送されましたが,テレビの放送では編集されていました。
 そんなわけで,私が聴きに行くのは,当然,きょう行われる初日の演奏会。初日こそが正真正銘「パーヴォの第9」です。ラジオの生中継と大晦日にテレビで放送されるものです。
 感想は,また,後日書くことにしましょう。

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 急に寒くなりました。
 冬型の気圧配置は太平洋側は晴れるのですが,冷え込みが強いと流れ雲で天気が安定しないことがあります。新月が過ぎたので月明かりで夜空が見にくくなってくる前に今年最後の星見に行こうと毎日思っていたのですが,天気予報通りに晴れなかったり,寒すぎていやになったり,夕食にビールを飲んじゃったりと,その機を逸していました。
 今日載せた天気図のように,移動性の高気圧によっておむすび型に等圧線が大陸から張り出したときは安定して晴れるのですが,まさしく12月19日から12月20日にかけてそういう状況になったので,ついに,今年最後の星見に行くことにしました。

 はじめに考えていたのは,9等星のパンスターズ彗星(C/2013X1 PanSTARRS)とM31とM33を同じ画面に写すことでした。彗星は深夜1時過ぎには西の空に沈んでしまうので,それまでが勝負なのですが,出遅れているうちに上弦の月が沈むのが12時過ぎになってしまったので,もう条件がよくありません。しかも,そのあと夜明けまでは6時間もあるので,もうひとつの10等星のパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)と5等星のカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)を写すためにそんなに長い時間を過ごすのも,この寒空では耐えられません。
 パンスターズ彗星(C/2013X1 PanSTARRS)とM31,M33を一緒に収めるには85ミリレンズより広い画角が必要なのですが,せっかく写しても,彗星は小さく暗いので見栄えがする写真になるとも思えなかったのであきらめて,一度眠ってから,午前3時から5時まで,夜明け前の東の空に昇るパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS PanSTARRS)とカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)を写してくることにしました。
 今回の目的は,3分間の露出で5回ずつ写して,帰宅してから写真を加算平均で合成するといった画像処理で楽しむのが目的でした。その処理の結果はまた後日ということで,今日は,そうして写したものから1枚ずつ載せておきましょう。

 ちょっと楽屋裏をお見せしましょうか。
 3番目のパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)の写真ですが,実は,写したままの元の写真は4番目のものなのです。そして,これをコンピュータで少しいじってトリミングをするだけで3番目の写真になるのです。便利な時代になったものです。年末にこれらの写真をさらに画像処理して楽しもうということなのです。天体写真というのは,このように2度楽しめるわけです。
 それにしても,10等星という予報の暗いパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)なのに,カタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)が見えているからこそ,そのついでにこんなに何度も写す機会があるのです。2年前,期待のアイソン彗星(C/2012S1 ISON)を写すついでに,同じ頃に見えていたラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy)を何度も写したのを思い出します。あの時は,期待のアイソン彗星が消滅してしまったので,急にラブジョイ彗星が脚光を浴びたのですが,まさにその時のラブジョイ彗星は予報を越えて明るくなって,アイソン彗星亡き後の救世主となりました。
 現在,パンスターズ彗星も10等星という予報を越えて8等星まで明るくなって,かわいい立派な尾をもった素敵な姿を見せています。人も彗星も,期待されないほうが良い結果を出すのかもしれません。

 この夜は,天気図の通り全く雲も霧もなく安定した天気で,気温はマイナス1度でした。私は,マイナス5度くらいまでは平気なので,比較的楽な夜でした。満天の星空に見とれていると,もう,ふたご座流星群の極大期からは日にちが経ったのに,明るい流星が頻繁に飛ぶのです。ほんとうにビュン,ビュン,と飛ぶのです。まるで音を立てて消えていくような気さえしました。とてもきれいでした。残念ながら,広角レンズを持って行かなかったので,写すことはできませんでしたが。
 午前5時を過ぎて目的の彗星も写し終えたので,空が明るくなるまでめぼしい銀河をいくつか写してから帰ろうと思ったのですが,風がないことが災いしてレンズに露がついてきました。ファインダーを通した星像は曇って見えなくなり,対物レンズも曇りかけてきたのですが,ヒーターをつなぐのもめんどくさくなって,店じまいをして帰ることにしました。
 2015年の星見はこれで終わりです。今年も,また,ずいぶん星を見ました。
 家に近づくにつれて東の空が次第に明るくなってきて,やがて,美しい日の出が見えました。
 来年1月9日の早朝には,ちょうどこの日の太陽と同じ位置に月齢28.4の月が見られるので,今からそれを楽しみにしたいと思っています。

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☆☆☆☆☆☆
 12月17日に放送されたNHKBSプレミアムの「コズミック・フロント☆NEXT」は,私にとって,ものすごくおもしろい番組でした。取り上げた内容は「冥王星大接近~最新探査が挑む太陽系最果て~」。
 今年,NASAの探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に到達して,その姿を史上初めて人類が目にすることができました。そのとき,冥王星のハートマークが話題となり,日本でも注目されました。
 私は,生きている間に,まさか冥王星のこうした画像を見ることができるとは思わなかったので,非常に感激しました。この番組は,そうした冥王星探査の裏側に迫ったものですが,これだけの話題を取材して番組を作るNHKはすごいです。
 私がこの番組を興味深く見たのは,もちろん,冥王星そのものに興味があったことだからですが,それ以上に,私が行ったことのある,あるいは,行きたいと思っているアメリカのさまざなな町が出てきたということ,そして,様々な人間ドラマにありました。

 番組のはじめに出てきた町が,アリゾナ州のフラッグスタッフでした。
 ここは,フェニックスから北へ240キロほど行った小さな町で,私は1度行ったことがあります。ヒストリック・ルート66が通るこの町は標高が2,100mあり,多くの観光客でにぎわっています。
 フラグスタッフは「冥王星発見の地」です。ローウェル天文台には,1930年に冥王星を発見したクライド・トンボーの使った口径33センチの望遠鏡が今でも大切に保存されています。
 ローウェル天文台は火星研究で有名なバーシバル・ローウェルが1894年に設立した研究用の私設天文台で,研究施設は今も現役で使われています。そして,ビジターセンターや望遠鏡の見学ができるほか,夜には星を見るプログラムも行っています。
 フラッグスタッフは,惑星科学・天文学とゆかりが深い町でもあります。ユージン・シューメーカーという有名な地質学者がかつて所属していた米国地質調査所宇宙地質学部門の研究所や北アリゾナ大学,さらにのちに冥王星の衛星を発見したアメリカ海軍天文台などがあります。
 また,ルート66を東へ45分ほど走ると,メテオクレーターもあります。
 この番組の最後に,このフラッグスタッフは,2001年に世界で最初の「ダークスカイ・シティ」に認定された町だという話題がありました。「ダークスカイ・シティ」というのは,「光害」から美しい星空を守る活動を行う国際ダークスカイ協会が認定した町で,屋外照明を制限したり啓蒙活動を実施したりして,美しい星空を守っているのです。こういうことが実現できるアメリカは大した国です。これを知って,私は,再び,フラグスタッフに行きたくなりました。

 ふたつ目は,コロラド州ボールダーです。私はコロラド州には昨年行きましたが,美しいところです。ボルダーはマラソンの高橋尚子さんがトレーニングをした場所としても有名ですが,ニューホライズンズのミッション総責任者アラン・スターンさんが所属するサウスウエスト研究所がある場所です。当時大学院生だったスターンさんたち「冥王星秘密結社」(Pluto Under Ground)の発案した冥王星に探査衛星を送ろうという計画を本当に実現するNASAの懐の深さを思います。そのおかげで,私たちは冥王星の姿を,今,知ることができるのです。
 ボールダーは,コロラド大学やアメリカ海洋大気局の宇宙天気予報センターなど宇宙関係の大学・研究機関が集結している,宇宙にとてもゆかりの深い場所でもあります。
 そして三つめは,ハワイ島マウナケアです。私が来春行こうと計画しているところです。
 カイパーベルトに名を残すジェラルド・カイパー博士は,短周期彗星の巣として理論的にカイパーベルトの存在を予言した人です。1940年代には天王星の衛星ミランダと海王星の衛星ネレイドを発見,さらに,1950年代には当時の世界一の望遠鏡で冥王星を観測して「衛星はない」と結論づけました。
 彼はハワイのマウナケアが天文観測に向いていると強く主張しました。カリフォルニア大学のデービッド・ジューイット教授は,そのハワイのマウナケアに作られた望遠鏡で1992年に冥王星に似た軌道を持つ新天体1992QB1を,大学院の学生だったジェーン・ルーさんと共に発見して,カイパーベルトと呼ばれる海王星の外側を巡る小天体の集まりの存在が観測的に明らかになりました。
 つまり,自分が開拓したマウナケアの地で自分が予言したカイパーベルトが発見された! という訳です。そして,冥王星はカイバーベルト天体の一員となって,惑星から降格しました。

 最後に,私がこの番組ではじめて知って最も感動したのは,冥王星の惑星「カロン」の話題です。
 先に述べたように,一度は,ジェラルド・カイパー博士が衛星がないと結論づけられた冥王星ですが,フラッグスタッフにあるアメリカ海軍天文台で,1978年,ジム・クリスティさんが衛星を発見しました。発見者にはその名前を提案する権利があるので,彼は妻シャーリーンさんの愛称「Char」に当時発見された元素の名前のように「on」をつけた「Charon」を考えました。衛星の名前にはギリシャ神話の神様の名を付けるならわしなのですが,偶然にも「Charon」というスペルは「カロン」と発音されたギリシャ神話の神様の名前だったのです。しかも,カロンは,これもまた偶然にも,死者の魂を冥界の王プルートに運ぶ船頭だったのです。冥王星の衛星の名「カロン」はそうして名づけられたのですが,いまでも,その話を知るアメリカの天文学者は,この衛星を「シャロン」とよぶのだそうです。
 なんとまあ,冥王星をめぐるさまざまなお話にはたくさんのロマンがつまっていることなのでしょう。
  ・・
 冥王星の探査を終えた「ニューホライズンズ」は軌道を修正して,次の目標である,発見されたばかりの直径50キロメートルにも満たないカイパーベルト天体「2014MU69」へ向かって新たな旅に出ました。これだけのスイングバイを難なく実現するアメリカの技術力は日本とはけた違いのものです。
 「Sky & Telescope」誌の記事によると ,到着は2019年1月1日だそうです。

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●ここも南部の香りする町だった。●
 この旅で行った多くの州の中で,私は今書いている,この,ミシシッピ州,アラバマ州,テネシー州あたりの記憶がぐちゃぐちゃなのである。それに比べて,すでに書いたミズーリ州のブランソンという町 -ここへは再び行くことになるのだが-,それと,この後で書くことになるケンタッキー州のマンモスケイブ国立公園から以降の記憶はかなり鮮明なのだ。
 それは,かなりアメリカに詳しい人であっても,このあたりの位置関係がよくわかないというくらい州が入り組んでいる,ということと,見どころは,何といってもプレスリーに代表されるアメリカ音楽の聖地であって,そういう観光案内では,ニューオリンズからミシシッピー川を北上してメンフィス,ナッシュビルと進んでいくというものが多く,私のように,西から東に走って行くというものがほどんどない,ということ,そして何より日本人になじみの少ないところだということが原因だと思う。
 それに,私が数年前にルイジアナ州のニューオリンズに行ったときには,現地に知人が住んでいたので,案内をしてもらったのだが,メンフィスやナッシュビルにはそうした知人もいないので,ひとりでは何をどう見ればいいのかさっぱりわからなかった,ということもその理由であった。
 そんなわけで,今書いているナッシュビルなんて,ダウンタウンを歩いたときのことは結構覚えているのに,これを書くために写してきた写真を見直すまで,いったい私はナッシュビルでどこに泊まったのか? 全く記憶から飛んでしまっていたようなありさまだった。

 私はナッシュビルの郊外に予約したホテルを目指して,インターステイツ65を降りて州道255を走っていたが,車内から見えるのは,アメリカの中小都市の典型的な郊外の景色だった。そしてやがてインタースステイツ24とのジャンクションに着いた。
 ホテルはこのジャンクションの近くのごちゃごちゃした街中にあったのだが,ホテルの入口にアクセスする道路がなかなか見つからなかった。カーナビには確かにホテルの場所が表示されているのだが,駐車場が広すぎて,どこから入って行けばいいのかわからないのだった。ここは新しい町ではなく,日本のような雑然としたところではあったが,治安が悪いという感じではなかった。しかし,この雑多な感じは,やはり南部であった。
 ホテルの周りには,写真にあるように「JACK's」という全米チェーンのレストランや「KFC」などのファーストフード店やコンビニ,さらにはポルノショップなどもあった。
 予約したホテルは,写真にあるように,典型的なモーテルで,入口が外にある形状だった。こういうところに停まっているのは長距離トラックの運転手など,仕事で利用している人が多い。
 私は,まず,建物の端にあるフロントでチェックインをしてキーを受け取り,かび臭い部屋に入った。アメリカのホテルは,実際のものよりも写真のほうが豪華に見えるのが,いつも不思議なことである。

 もう,すでに午後7時を過ぎたくらいであったが,アメリカは夏時間,しかも5月だから,夜は遅い。しかも,不夜城のナッシュビルのダウンタウンには夜はない。
 私は,少しの時間でも観光をしようと,そしてまた,せっかく来たのだから夜のナッシュビルを味わおうと,再び車に乗って約15分かかるダウンタウンに向かって,車を走らせたのだった。
 ダウンタウンの端に,写真のような駐車場があったので,私はそこに車を停めた。

 今では知らない人も多いと思いますが,今から30年くらい前,日本では中学生の男の子は坊主頭にするとか,高校生も自転車通学をするときはヘルメットをかぶらなければならないという規則がありました。坊主頭の強制の是非。それの「是」を主張する人は,「中学生らしい」というような主張をするわけです。そして,「非」を主張する人は,坊主頭のよし悪しではなく,それを強制することに反対しているのです。
 自転車通学のヘルメット着用の是非もまた,同じ議論であったのです。
 このように,実は,この2つの議論は,全くかみ合っていないのです。議論になっていないわけです。つまり,「非」を主張する人は,そのことのよし悪しを論じているわけではなく,単に「それを強制すること」を「非」としているわけです。それに対して,「是」と主張している人は,よいことだからみんなにもそれを強制させたい,と主張しているわけです。
 しかし,自分がよいと思うことならそう思う人がすればいいのであって,それを他人にまで強いてもよいという権利がその人にどうしてあるのでしょう? 自分にとってよいと思うことは他人にまで強制しないと社会全体になにか迷惑が及ぶとでもいうのでしょうか?
 それは,赤信号は止まること,という規則をみんなで守らなければならない,ということとは全く異質なことなのです。

 この種の議論をするとき,いつの場合も,こういう根本的な違いがおざなりになっていると私は思います。
 どうも,この国の人は,自分がよいと思うことは他人にも強制したいという,こういった「おせっかい」が大好きなのです。自分がよいと思うと,それを他人にまで強制したがるのです。
 たとえば,「夏休みにラジオ体操をしよう! そうすれば,健康にもいいし,規則正しい生活ができる」。ここまではいいのです。そう思う人はそうすればいいのです。そして,そうしたらいいと他人に勧めることも,また,自由です。しかし,それだけにとどまらず,参加しないとペナルティを課すとかいって,次第にそれを強制しはじめるのです。
 学校が放課後の補習を強制したりする学校も,また,同様です。そうしたほうがいいと生徒にアドバイスをすることは自由ですが,生徒の課外の活動まで,学校の指導の領域を越えて強制したくなるのです。そこにあるのは,生徒は学校の奴隷だという認識なのです。そして,それを支持する保護者がいて,教師はそれを生徒のためによいことをしているという認識すらもっているわけです。
 しかし,学校にとって大切なのは,個々の生徒に適した進路よりも学校全体の有名大学合格者数なのです。だから,東大を受ける生徒が学校でひとりでは受からないから,もうひとり受けるように説得しようなどとというようなバカげたことを言い出す校長がいたりするのです。そして,そういう結果を本にして出版する新聞社もまた同罪です。本当に大切なのは,大学の合格者の数ではなく,どれだけその生徒に適した進路に進んだか,なのです。

 学校でも社会でも主体的に生きられない国・日本。大人になれない大人が大人にしてもらえない子供を「教育」する国・日本…。
 そういう行為の根本には「人権」はありません。その人その人がどうしようと,それは法律を犯さない限り自由なのです。他人に何かを強制するのは「おせっかい」なだけなのです。しかし,そうした行為を強いる人は,そういうことが根本的におかしいという原則すらわかっていないから,「よいことを(強制して)みんなですることの何がいけないのか?」とそういう主張をし始めるのです。そうした人のアタマには,そうしたくてもできない弱者のことなどこれっぽっちもないのです。だから余計にたちが悪いのです。そうした主張をする人が組織の権力を握っている場合は,まさに悪夢です。

 夫婦同姓は合憲という最高裁の判決が出ましたが,これも,また,同様です。
 夫婦は同姓であるべきだと主張する人は,その根拠が,同姓でないと社会に混乱が生まれる,という理由ならまだしも,同姓ならば家族のきずなが生まれる,とか,そういう意見を主張するのでは,理由にはなりません。それは,別姓でもよいではないかと訴えた人は,なにも同姓ではいけないと主張しているのではないからです。同姓のほうがよいと考える人が同姓を選ぶのは自由なのです。でも,それを強制するべきではない,同姓でも別姓でもそれを選ぶのは自由であるべきだ,といっているわけです。
 そしてまた,裁判所の仕事は,夫婦が同姓でなければならないと規制することが憲法に違反しているかどうかという単純なことを判断すればいいのであって,そうすることが「道徳的に」あるいは「信条として」あるいは「合理的」に妥当かどうか,を判断することではないのです。
 難しいことばで長々と判決理由を述べていますけれど,彼らも所詮日本人。こうしたことは,この国に根づく,そもそも「人権」という最も大切な権利を軽視している姿の象徴に過ぎないと,私は思います。パワハラもセクハラもいじめも身障者用の駐車場に堂々と健常者が車を停めるのも同じ根っこにあるのです。人権を傷つけられた人をこの国は守れないどころか,司法はさらに傷つけるのです。
 先日の安保法案もそうですが,この国は,法治国家ではなく,いつまでも,弱者を庇護できない強者のための殿様国家なのです。

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●なかなかホテル探しも難しいもの●
 私は,渋滞したディケータのダウンタウンを,まるで日本の道路を走っているような感じで走り過ぎた。テネシー川にかかる長い橋になったら,どういうわけか急に車が少なくなって「アメリカだ」という気持ちに戻りながら,快調に橋を渡り終えた。そして,橋を越えたら周りは私の大好きな典型的なアメリカの広々とした大地になった。
 ジャンクションでインターステイツ65に入り,ナッシュビルに向かって北上を開始した。

 インターステイツ65がテネシー州に入ったところに,パーキングエリアがあった。
 ほぼ無料のアメリカのインターステイツにも日本のようにパーキングエリアはあるのだが,ほとんどのところは,トイレと自動販売機があるくらいで,売店やレストランは存在しない。むしろ自動販売機すらないところのほうが多い。しかし,たいていの州では,州境を超えたところにあるパーキングエリアには観光案内所があって,そこで,多くのガイドブックや地図を無料でもらうことができる。このテネシー州に入ったところにあったパーキングエリアにも観光案内所が併設されていたので,私は車を停めた。
 それにしても,といつも思うのだが,日本でも,JRの駅などに観光案内所があって,その町の見どころなどのパンフレットが申し訳程度に置いてあるが,アメリカのそれは,くらべものにならないほど充実しているし,どの州でも,同じような形式で作られている。このことは,道路表記でも案内掲示でもそうなのだが,アメリカは何でも統一がとれているからわかりやすいし,美的にも優れているし,パンフレットなどのコレクションがしやすいのだ。

 私は,この観光案内所で地図などを手に入れて車に戻った。
 ナッシュビルに向かう途中で,先に書いたように,今日はまだ今晩宿泊するホテルの予約をしていなかったので,どこかWifiのつながるレストランを探して,かなり遅い昼食(なんと午後6時!)をとりながらホテルの予約をしようと思っていた。
 インターステイツを走っていると,ジャンクションの近くにある最寄りのホテルやガソリンスタンド,レストランの案内板があるのだが,インターステイツ65と国道31が交差するジャンクションにはマクドナルドという案内があったので,そこに行ってみることにした。
 ジャンクションを降りると,右手に「テネシーン・トラック・ショップ」があって,その一角にガソリンスタンドとマクドナルドが見つかった。私は,ここでおそい昼食をとりつつ,ナッシュビルのホテルをエクスペディアで探して,予約をしたのだった。
 以前なら,途中でホテルの予約をしないで,そのままナッシュビルに行って,その場でホテルを探すか,あるいは,こうしたマクドナルドにホテルのクーポン券などがついた冊子が置いてあるので,それをもらって直接ホテルを探したのだろうが,今日ではインターネットで簡単にホテルの予約ができるようになったので,事前にめぼしいホテルを探して,予約を入れておくようになった。以前,ノースダコタ州に行ったときにホテルが見つからずに苦労したことと,このほうが到着が遅くなっても安心だからである。
 しかし,現実には,私の探すホテルは安価なものだから,到着して,思っていた以上にホテルがプアでショックだった,ということがままある。そして,その近くに,ネットに載っていなかった手ごろなホテルがたくさんあったりするとでがっかりだ。どこであっても泊まることができればいいわけだが,このネット全盛の時代でも,このようにホテル探しは難しいものである。

 私は車だから,ダウンタウンに泊まらなくても,ナッシュビルの郊外の適当なところで十分だったので,安価なホテルを探して,街中から10マイルほど南にある「トラベルロッジ・ナッシュビル」というホテルを見つけて予約を入れた。場所は,ナッシュビルのダウンタウンから南東のインターステイツ24と州道255の交差する南西角にあった。
 私はこのときインターステイツ65を北に向かって走っていたのだが,インターステイツ24はその5マイルほど東を平行に北に向かってダウンタウンに走っている道路だったから,州道255とのジャンクションでインターステイツ65を降りて,州道255を東に,インターステイツ24に向かって走ることになった。

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 この日,ホテルの見つからない福岡で,やっとの思いで予約できたホテルの場所は,佐賀県の鳥栖(とす)でした。
 「乗換案内」によると,博多駅からJR鹿児島本線の快速に乗って二日市まで行って,そこで各駅停車に乗り換えて弥生が丘という駅まで行くのが最寄りの駅になるということでした。所要時間は約40分だったので,そのくらいの距離なら,ということで,そこに決めました。
 博多のホームで向こう側のホームにJR九州の特急電車が停まっていたので見とれているととてもユニークで,のんびりと電車で九州を旅行をするのも悪くないなあ,と思いました。

 いつも書いているように,私は京都が好きでよく出かけるのですが,このところ京都は異常な混み方です。これでは以前のように京都をのんびりと旅をする気持ちにならなくなってきました。東京は,観光というよりもN響のコンサートでよく行きます。東京はこれまで,コンサートに行った折にほとんどのめぼしいところに足をのばして行きましたが,どこもさほどおもしろいなあと思ったところもなかったので,私には東京は観光地ではないなあ,というのが実感です。強いていえば,おもしろいのは浅草くらいでした。
 また,今日では,日本だけでなく,アメリカでも,都会にあるお店は,全国,いや,今や全世界チェーン店ばかりで,どの都会に行っても,同じような店と景色ばかりなので,その都会の繁華街にはにあえて行く意味がなくなってしまいました。それに,何かほしいものがあれば,わざわざ足を運ばなくてもネットで買えます。
 そういう意味では,今では旅の楽しみというのは,ショッピングではなくて,その土地でしか味わえない独特の風習やら自然を味わうことにありそうです。

 予約したホテルは,弥生が丘の駅から,さらに西に15分くらい歩いたところにありました。
 駅前はさびれているわけでなく,これから発展するところのようだったのですが,夜はほとんど人もなく真っ暗で店もなく,この駅で降りる乗客も私以外にほとんどいませんでした。この先にホテルがあるとは思えない感じでした。
 駅からホテルまでは,新興住宅街につながるできたばかりの道路で,電柱もなく,広く美しい道が続いていました。何か,日本ではないような感じでした。少し前を,不似合いな外国人の若いカップルが旅行カバンを転がしながら歩いていました。彼らも同じホテルを目指しているような気がしましたが,実際そうでした。
 私は,このチサンインというホテルをホテルズ・ドット・コムで見つけたのですが,きっと,彼らも同じなのでしょう。今や,世界中のホテルはこのようにして予約できる時代です。

 ホテルは,アメリカによくある全米チェーンの安ホテルのような感じで,好感がもてました。違いといえば,アメリカに比べて,部屋がものすごく狭いこと。それでも,このホテルは日本のホテルの中では広いほうでした。そして,Wifiがつながるとかかれてありましたが,それは有線LANで,無線LANの設備はありませんでした。これも,また,日本の遅れたところです。
 チェックインを済ませて一度部屋に入り,夕食は,ホテルの近くにあった「」一心不乱」という名前のラーメン屋さんにしました。おいしいラーメンでした。

 この夏6月に行ったサンフランシスコのことはすでにプログに書きました。
 そのとき私は,サンフランシスコのダウンタウンからBARTで南の方向に始発駅である「ミルブレー」駅まで30分乗って,駅から広い道路にそってホテルまで20分てくてく歩いたのでしたが,まさに今回もその時と同じような感じだったので,なんだかアメリカを旅行しているかのような気がしました。
 では,今日は,最後に,そのサンフランシスコの写真を載せておきましょう。
 今回の旅行でずっと後まで記憶に残るのは,きっと,この晩の,ホテルまで歩いた夜のことなのだと思います。旅の思い出というのは,いつも,そういうものです。

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●ディケータは日本のように大渋滞●
 今日の写真は,「ディケータ」(Decatur)という町の渋滞の様子である。
  ・・・・・・
 この町は,テネシー川の周りに発展した。北アラバマのテネシー川沿い・ウィーラー湖岸にあるので「川の都市」と呼ばれている。人口は約6万人。
 ディケータは,南部の多くの都市と同様に川沿いにあることがその成長の要因であった。鉄道が通り,川の交通が使えたことで,北アラバマ経済圏の先鋭となった。やがて,大きな経済中心に成長し,交通の結節点になった。
 宇宙開発競争の時代に隣町のハンツビルが急成長したので,地域の経済中心の座を奪われた。現在は製造業,輸送業,および,ゼネラル・エレクトリックやユナイテッド・ローンチ・アライアンスに代表されるハイテク産業に基づいている。
 この地域は,当初「ローズ・フェリー・ランディング」と呼ばれていた。テネシー川を渡す渡し船の船着き場は現在ローズ・フェリー公園となっている。
 市名は米英戦争やバーバリ戦争で英雄となったアメリカ海軍軍人「スティーヴン・ディケータ」に因んでおり,ジェームズ・モンロー大統領がアラバマ州の町にディケータの名前を付けるよう指示したとされている。
  ・・・・・・

 私は,南西から州道24を走ってディケータをめざした。州道24は州道67となり左折し北に向かい,さらに,国道72と合流して右折,東に向かってこの町まで来た。
 ディケータからははインターステイツ65に乗ってそのままナッシュビルまで北上するつもりであった。
 ところが,ディケータという町は,道路事情が悪く,外周道路も建設中だったり,拡張工事をしていたりと,すんなりとインターステイツ65までたどり着かないのだった。
 国道72に入ってからがさらにたいへんだった。

 ここに書いているように,市街地に入っていくにつれて,道路がどんどん合流していくのだが,この先にあるのは,広いテネシー川なのであった。この川を渡らなければ,先に行けないのだ。
 ところが,ディケータの中央を北西から南東に流れるテネシー川が切断していて,この川を渡るには,国道72とインターステイツ65が通る2本の橋しかないのだった。しかも,国道72は,橋の手前でさらに南から来た国道31と合流してから橋を渡ることになるのだ。だから,橋の手前で,まるで,日本の道路のように,大渋滞を引き起こしていたのだった。
 これは,アメリカでは珍しい風景であった。

 想像していただければおわかりになるであろうが,信号が青になると先が詰まっていて左折ができず,やがて,1台も信号の恩恵にあずかれないまま赤になってしまう。また,少しでもスペースがあると,強引に左折して割り込むしか方法がないのである。しかし,日本でこういう渋滞に慣れている私は,本能的にうまく車線を変更したり,信号を抜けたりして,どうにか橋までたどり着くことができた。

 アメリカではこういうところがほとんどないため,彼らは運転が下手だし,とても要領が悪いのである。アメリカ人は,こういった渋滞を乗りこなす技能と,狭い駐車場にバックで車を停めるという技術は,はじめっから持ち合わせていないわけである。
 渋滞していたのはそこまでであった。橋に入ると,道路は閑散としていて,ものすごく長いテネシー川を快調に越えることができた。そのままさらに国道72を東に進んでいくと,やがて,インターステイツ25のジャンクションに出会ったので,そこから,インターステイツ65に乗った。
 あとは,北上を続けていくだけであった。
 私は,一度メンフィスでテネシー州に入ったのだが,そこから南東にミシシッピ州へ下ってテネシー州とは一旦別れを告げ,そのままアラバマ州まで行って,そこから北上して,再び,テネシー州に戻ってきたのだった。

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☆☆☆☆☆☆
 12月11日午後7時頃の新月を過ぎ,12日の夕方の月は月齢0.9でした。天気予報ではあいにく曇りで,10日の早朝月齢28.2も11日の早朝月齢29.2も曇っていたので,今月の新月をはさんだ数日間の細い月を写す挑戦はあきらめていました。
 ところが,日が沈むころになって,突然,西空だけ雲が切れて美しい夕焼けを見ることができたので,月齢0.9の月をさがしてみることにしました。

 地球が停止していると考えると,月が地球の周りを1周する周期は平均「27日7時間43.193分」です(月の自転周期はそれと「完全に一致」しているので,地球から月の裏側は見えません)。 しかし,実際は地球が太陽の周りを回っているので,月が1周してもさらにもう少し回らないと,太陽との位置関係が同じにはならないのです。
 したがって,新月からその次の新月までを朔望月(synodic month)といいますが,この周期は平均「29日12時間44.048分」になるのです。厳密には月の複雑な軌道のために,周期は29.27日から29.83日と幅があるのですが,ここでは,わかりやすくするために,29.5としてみましょう。
 私は小学校のときにこれが不思議で,白い紙に図を描いて考えてみたことがあります。さらに,月は太陽の周りをどういう曲線で動いているのかも図を描いてみてすっごく納得した記憶があります。ちなみに,地球の軌道上を渦を巻いて動くのではありません!
 勉強を問題集をやることだと思いこまされている「ドリラー」である現代の子供たちは,そんなこと,考えもしないでしょう。
 簡単にいうと,新月から1日過ぎたときが月齢1.0になるのですが,朔望月の周期が先ほど書いたように約29.5なので,月齢29.5が月齢0.0,つまり新月となるわけです。だから,月齢1.0と月齢28.5の月というのは,上弦と下弦の違いがあるだけで,夕方の西の空と明け方の東の空にそれぞれ同じような細い月が見られるということになります。
 私が以前書いた「月齢1と月齢29は写せるのか」は,本当は「月齢1.0と月齢28.5は写せるのか」のほうが正しいわけです。

 さて,月齢0.9の月をさがしたお話に戻ります。
 午後5時30分過ぎ,太陽が遠くの山並みに沈もうとしていました。このときの太陽が沈む時間と方向を正確に記録して,そこから月が沈む時間と場所を割り出しておいて,それから40分後,月がほぼ同じ高さに来た時に双眼鏡で茜色の空を探しました。
 しばらく探していたら,私のイメージしていたよりはるかに大きな非常に細い月が確かにうっすらと浮かんでいるのが見えました。これを見つけたときには,本当に感動しました。残念ながら肉眼では見ることができませんでしたが,なんとか写したのが今日の写真です。写真を撮るのも,また,露出がわからず苦労しました。
 1番目の写真は沈むころに写したもので2本の鉄塔の間に横たわっています。そして,2番目はそれよりも少し時間の早い空が明るい時に写したもの,3番目は2番目の写真に,月の位置がわかるように黒い丸を付けたものです。黒い丸の中に月がありますが,おわかりになりますか? 実際に見てみると,本での知識やほかの人から聞いた話と違って,どういうものなのかがとてもよく納得できました。
 結局,疑心暗鬼だった「月齢1は写せる」ことがわかりました。

 12日の月齢0.9は,このように太陽が先に沈むので位置を特定しやすく見つけることができたのですが,これとは逆に,月齢28.6の月を探すのは,太陽という補助手段がないので月齢0.9に比べたら容易でないような気がします。いずれにせよ,こんなことは今時のコンピュータ制御の望遠鏡ならわけもないことなのかもしれません。しかし,これを手動でやるからこそおもしろさがあるのです。
 こんな,普通の人にはどうでもいいことかもしれないことにのめりこみはじめてしまったのですが,いったい,どこまでが限界なのでしょう? 疑問は深まるばかりです。以前,月齢27.8,つまり,上弦に換算して月齢1.7の月ははっきりくっきりと肉眼で見ることができましたから,どうやら,月齢28.0と月齢1.5くらいが肉眼で見える限界なのかなあ,と思います。では,写真だとどのくらいまでが写せるのでしょう? さらに興味がわいてきました。
 ところで,月齢0.0,つまり新月は簡単に見ることも写すこともできるのです。それは,皆既日食や金環日食のときの太陽を隠した姿なのです。 つまり,日食というのは,太陽の前を通過する月齢0.0の月を見ているわけです。

☆ミミミ
月の写真を撮る②-月齢29と月齢1は写せるのか?

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☆ミミミ
 新月のころの夜,星を見にいこうかどうかと迷うときがあります。そして,行くことをやめて,次の朝,空を見上げて曇っていると,行かなくてよかったとホッとするのです。つまり,自分の怠惰を正当化するわけです。
 2月12日土曜日の早朝もまたそんな天気で,夜明けのころは,空全体が雲に覆われていたので,もし,この日の朝,星を見にいっていなかったら,空を見てホッとしたのかもしれません。しかし,天候というのは不思議なもので,実は,この日は朝5時30分までは快晴だったのです。
 現在は「GPV気象予報」という優れたサイトがあって,将来の雲の様子がほぼ正確に予測できます。それを根拠に,翌日の天気予報は曇りでしたが,夜が明けるまでは晴れることを知っていたので,カタリナ彗星の尾の出た写真を写そうと,深夜,出かけました。12月とは思えないほど暖かで,気温は7度。適度に風も吹いていて,露も降りず霧もなく,とても楽な夜でした。

 前回星を見に行った12月8日は,すでにブログに書いたように,月と金星と彗星を同じ写真に収めるというのが目的でしたが,今回は,正真正銘,月明かりのない夜空で彗星を写すことだけがねらいでした。
 たった数日しか違わないのに,金星は徐々に太陽に近づき,彗星は遠ざかっているので,位置関係が違います。今は,金星よりも彗星のほうが先に地平線から上ってくるのです。
 観測場所に着いたのは,午前4時前でした。いつも望遠鏡を設置する場所から少し行ったところに目が光る獲物が数匹。クマは困りますが,どうやらシカの一家のようでした。私の車を見つめたまま動こうともしません。日本にはシカが一杯います。
 それはそうと…。
 12月の初めには5時ころに地平線から上ってきた彗星は,たった2週間で4時には上ってくるようになりました。そして,そのあとで,月がない東の空に明けの明星が所在なげに上ってくるのです。

 今,夜空には,2つのパンスターズ彗星(C/2013X1とC/2014S2 PanSTARRS)と私が目的とするカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)の合計3つの10等星より明るい彗星が見えるのですが,パンスターズ彗星のうちC/2014X1のほうはこの時間すでに西の空に沈んでしまっているので,この晩写すことができるのは,パンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)とカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)のふたつでした。

 この2つの彗星と太陽系の惑星の軌道の位置関係を3番目に載せておきましょう。
 このように,彗星はそれぞれさまざまな軌道を描いていて,彗星自体の絶対的な大きさ成分と太陽まで近づく距離,そして,地球と太陽との位置関係から,違った姿をみせるわけです。予測不能,見てみなくてはわからない… だからこそおもしろいのです。

 来週の火曜日の早朝はふたご座流星群の極大期ですが,すでにこの夜もずいぶんと明るい流星が何個も飛んでいて,夜空を見上げているととてもきれいでした。
 まず試しに写したのが9等星のパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)。これが今日の2番目の写真です。そして,そのあとで写したのが5等星のカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)。これが今日の1番上の写真です。月明かりがなく,カタリナ彗星には美しい尾が2本Vの字に写っています。高度が上がって双眼鏡でも尾を見ることができるようになりました。
 彗星にはタイプの異なる尾が2本あります。彗星の尾は核から放出されたガスとチリが長く伸びたものですが,ガスの方は太陽から吹きつける太陽風によって太陽の正反対側にほぼ直線状に伸びていきます(タイプⅠの尾,またはイオンの尾)。一方で,チリは核からの放出速度と彗星本体の速度との関係から新たな太陽周回軌道を運動しますが,放出時期やチリの大きさの分布などいくつかの要素が絡み合って曲線状に伸びた尾になります(タイプⅡIの尾,またはダストの尾)。
 カタリナ彗星と太陽と地球の位置関係から,この2つのタイプの尾が羽を広げたように見えているのです。当然,上方向に向かっているほうが太陽の正反対の方向だからガスの尾であり,右下に向いているほうの尾がダストの尾です。

 カタリナ彗星は,太陽からは遠ざかっていますが,地球には近づいているので,これからしばらく同じくらいの明るさで見ることができますから,当分の間楽しめそうです。来年1月17日には,おおぐま座のM101回転花火銀河(4番目の写真)に大接近するので,この日は彗星とこの銀河を同時に写すことができることでしょう。

◇◇◇
晩秋の明るい彗星①-月明かりの中,カタリナ彗星を捉えた!
晩秋の明るい彗星②-月と金星とカタリナ彗星と

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●道路はササッーと作るのだ。●
 このブログのアメリカ旅行記は,帰国してから書いているが,旅行をしながらメモをしているわけではない。それでもほとんどのことを覚えているか思い出せるのは,その場その場で写真に記録しているからである。そのときメモをしなくても後で見て一番役立つのは,どこでも何でも写真に撮っること。特に地名をいれた写真を残しておくことである。
 また,クルマを運転しながら写真が写せるのは,アメリカでは,走っている車が少ないということもあるが,それよりも,左ハンドルで右手が比較的自由になるという理由が大きい。日本ではこうはいかない。

 と偉そうなことを書いていても,今日の写真を写した場所が,後で見てもなかなか定まらないのであった。
 今は,「Google Maps」や,ストリートビューがあるので,それでもなんとか解明できたのだが,地図をみて思い浮かべるものと,実際のその場所の表情があまりに違うのである。
 私は,今やすっかりこうしたふつうのアメリカには慣れっこになったが,ほとんどの日本人には,こういう姿は想像がつかないことであろう。
 私が不思議に思うのは,結構旅行をしている人でも,ほとんどこういうものを見てこなかった人が多いということなのである。ツアーで旅行をして,移動中はバスの中で寝て,名所や旧跡を巡って,土産物を買って,その土地の有名なレストランで食事をする,まあ,そんなところなのかもしれない。であるから,日本人の知っているアメリカは,ものすごく豪華な場所とその反対に,ものすごく治安の悪い姿,つまり,アメリカの10%の上流階級と20%の下層階級として伝えられる姿だけなのである。

 さて,こうしてやっと解明した今日の写真の場所は,ミシシッピ州の州道23を越え,同じ道がアラバマ州の州道24と名を変えてすぐのところにある「レッド・ベイ」(Red Bay)という町であった。こうした町のメインストリートは,写真のように,路肩は駐車ができるようになっている。こうしたいわゆる「ダウンタウン」を越えると,すでに町の外れであって,私は,市街地を出てそのまま州道24を東に向かって進むことになった。

 このあたり,写真のように,本当にのどかな風景であるが,州道24は,片側2車線の道路に拡張するためにずっと工事をしている最中であった。アメリカは,平坦なところが多くて土地もあるから,道路を作るには,日本とは違って,大きな機材を使って,一直線にササッーと作っていくだけだ。
 日本は,山が多く,川が近く,さらに鉄道と,ただ単に道路を作る,というわけにはいかないのだろうが,私は,アメリカの道路建設を見ると,日本の道路建設はお金のかけ方がどうもおかしいと感じざるをえない。日本のやたらと凝った作りの中央分離帯や,歩道などを思い浮かべると,ここまで手間暇かけてつくる必要があるものか? と疑問に思ってしまう。だからといって,作ったものが美しければまだしも,どこもかも,コンクリートが老朽化してボロボロではないか。しかも,どこも無計画で秩序がなく,急に狭くなったり,2車線あるのに1車線しか走れなくなっていたりと,無駄遣いだらけではないだろか。
  ・・
 アラバマ州は,地図をご覧いただくとよくわかるが,すべてのインターステイツがその州の中央にあるバーミンガムに結びつくようになっていて,逆に言えば,バーミンガムから放射状に伸びていて,広い外周道路がないのである。この工事を見ても,まだ,そうした道路を作っている発展途上の姿なのかもしれない。まあ,しかし,こんなに車の通行の少ない道路でも片側2車線にしてしまうのだなあ,と私は思った。
 こうして州道24を順調に東に走って行くと,やがて,ディケーダという結構大きな都会に到着した。

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 すでに書いたように,11月20日金曜日のフライトがキャンセルになって,苦労して予約したホテルもキャンセルしなくてはならなくなりました。東横インに電話をすると,すでにキャンセル料の発生する時間であったにもかかわらず,フライトのキャンセルなら(ホテルの)キャンセル料はいただきません,と言われました。
 それに対して,ジェットスターのいい加減なところは,フライトがキャンセルになっても,その補償の詳細をカウンタの係員が説明できないことで,私は,あいまいな説明を受けましたが,このことについて今さら何を言っても糠に釘でしょう。格安航空を利用するときは,そのくらいのことは覚悟する必要があるということなのでしょうか。

 新たに振り替えた,翌日午後1時5分のフライトは,なぜか無料で広い座席に変更になり,今度は極めて快調に,定刻に福岡に着きました。もし,はじめっからこうなら,随分と違った印象だったことでしょう。順調に飛行をしたときは,きわめて快適です。係員も親切,笑顔は無料ですから…。まるで,調子のいい時だけ寄り添ってくる友人みたいなものです。
 このように,日本人の考えるシステムは,何事も順調に事が進むときだけは,きわめて快適なのです。
 たとえば,道路の設計は,条件のよい晴天のお昼間を想定しているように思えます。しかも,車は走るだけなく停まるものだという当たり前の認識がないのです。警察官の取り締まりも事故など起きない天気のよいお昼間にこそこそとやっています。やればいいという既成事実を積み重ねているだけです。
 だから,雨の日の夜になると,道路に書かれた表示も見えず,道路標識も見づらく,意味のない警告ランプだけが,その意味も分からず輝いて,凶器となるし,車が駐車していると,たちどころに無秩序状態になります。

 到着は午後3時過ぎでした。
 当初は今日の早朝から1日福岡観光をする予定だったので予定がくるってしまいましたが,ともあれ,旅慣れた私のこと,すぐに地下鉄に乗って福岡市博物館に金印を見に行きました。
 博物館の最寄りの地下鉄の駅は,空港線の「西新」で,その駅までは,空港から乗り換えなしで行くことができました。はじめて乗る福岡の地下鉄は,何か外国の都市に来たような感じでした。意識過剰かもしれませんが,乗っている人たちの顔立ちも少し違うような…。
 「西新」駅からは少し距離があって,両側に西南学院とかいう学校のある通りを北に向かって歩きました。この通りは「サザエさん通り」と名づけられていました。長谷川町子さんがサザエさんの構想を練った通りとかいう話です。
 そういえば,長谷川町子さんの生まれ育った町は福岡です。しかし,通りの名前以外には特に何もありませんでした。以前はサザエさん像というのがあったのですが,こころない人が壊してしまったのだそうです。性善説に基づいた町おこしは,日本には無理です。表立ってはおとなしいくせに,陰に隠れると突如傍若無人になります。見られていなけれは,像を壊したり盗んだり,本当に情けない国です。
 東京・桜新町にも「サザエさん通り」があります。こちらは,長谷川町子さんが上京後に住んだところです。
 
 金印は,普段は常設展で200円で見られるのですが,ちょうど行ったときは「新・奴国展」をやっていて,これが幸いなのか運が悪いのか,金印はこちらの特別展のほうに移動していて,見るには1,200円も必要でした。しかし,この特別展自体はすばらしいものでした。
 2年前に行った吉野ヶ里遺跡もそうでしたが,九州というところはヤマトよりも大陸のほうが近いのです。九州に来ると,ヤマト政権を中心とした学校で習う日本史など,いかにもヤマトから見た見解だと実感します。九州に来るたびに,本当は,朝鮮半島からやってきた人たちの政権が,ヤマトにあった別の政権と争ったのが「倭国の内乱」なのではないか,という歴史を思い浮かべます。
 自己中心的に考えるのは,何も天動説だけではないのです。

 常設展のコーナーに,「鴻臚館の時代」と書かれてあって,私は,「鴻臚館」というものが何モノなのか知らなかったで,戸惑いました。しかし,福岡の人には常識なのでしょう。
 「鴻臚館」というのは,平安時代に設置された外交と海外交易の施設で,遺構が見つかっている唯一のものが福岡市にあって,現在,発掘が行われています。私は,日本史が好きで,ずいぶんとたくさんの本も読んだのですが,やはり,実際に足を運ばないとそんな知識は役に立たないと,ここでも,また,実感しました。
  ・・
 展覧会を見終わって,ヤフオクドームの方へ少し歩いていると,天神へ行くバスが来たので乗りました。バスの窓から福岡の観光をしたような感じになりました。天神で降りて中洲を歩いて突っ切り,櫛田神社を経由して,博多駅に行きました。ぜんざいがおいしそうでしたが,先を急ぐ私は残念ながらパス。
 この写真にある「川端ぜんざい広場」は,博多祇園山笠の八番山笠が1年中飾られている上川端商店街で金,土,日に限り名物のぜんざいを味わうことができる広場です。小豆は北海道の大納言を使用。粒がきちんと残ったつややかなぜんざいの上に、香ばしい焼きたてのもちが2個,といったもので,しっかり甘いのが特徴なのだそうです。
 フライトが遅れたために,この日はわずか数時間の滞在になってしまいましたが,福岡・博多はとてもすてきな町だと思いました。クリスマスのライトアップで美しい博多駅からJRに乗って,今日のホテルへ行くことにしました。

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●美しいアラバマ州へようこそ●
 今日の写真も,道路ばかりだが,ミシシッピ州のトゥペロからアラバマ州までがどういった風景であるか,をご覧いただきたい。こんなところ,その気になってわざわざ行かなければ,生涯無縁だろうから。
  ・・
 メンフィスからトゥペロに行く途中にあるブルースプリングスという町には,2011年にトヨタの工場ができたので,この辺りまでは,日本になじみのあるところかもしれない。しかし,そこからさらに南東に行くという動機がないだろうから, こんな道を走った日本人もほとんどいないと思われる。
 私がアラバマ州に向けて走っていったのは,そんな国道78であった。

 国道78は,この先南東に向けて走っていくと,アラバマ州に入っていくが,そこでインターステイツ22と名前が変り,アラバマ州の最大の都市であるバーミンガムまで行くことができる。インターステイツ22はそこで終了となる。
 バーミンガムからその先は,南北にはインターステイツ85が走っていて,南に行けば私が行きたかったモンゴメリー,北へ行けばナッシュビルまでいくことができる。また,東には南西からやってきたインターステイツ20とインターステイツ59の共用道路と合流し,バーミンガムでインターステイツ20は東方向にジョージア州のアトランタを通って,サウスカロライナへ行く。また,インターステイツ59は北東にテネシー州チャタヌーガまで行く。

 このように,この道は私がまだ行ったことがない,そして,ぜひ行ってみたいところに次から次へとつながっているのだから,今回の旅でどこまで行こうか迷っていた理由がこれでおわかりになるであろう。しかし,それでは帰れなくなってしまうので,やむを得ず,今回はそこまで行かないと決めた。
 そこで私は,バーミンガムまでは行かずに,この国道78を州境の近くまで走って北東に方向を変え,アラバマ州に入り,斜めにショートカットでナッシュビルを目指すことにした。ただし,そうすると,走る道路はインターステイツではないから,距離が短くても,時間がそれほど短縮できるというものではないかもしれなかった。しかし,インターステイツを走るよりも一般道を走るほうが,周りの様子がとてもよくわかるのだ。

 では,トゥペロからアラバマ州境までどのように走ったかを,先に書いておこう。
 まず,トゥペロのダウンタウンから州道178を西に少し走って,国道45に入り,北に向かって国道45をしばらく走って,今日のはじめに書いた国道78に乗った。そして,国道78をそのまま東南東へ走っていった。そして,州道23とのジャンクションまで行って,ショートカットをするために州道23に進路を変えて,北に向かって走った。さらにまた,少し走っていくと,道路は東西を走る178とぶつかり,ここを少し西へ,つまり少しだけ遠回りして走っていく。その間は,州道23との併用区間である。そして,再び,州道23は分離して北北東に向かって進む。
 そのようにして走って行って,アラバマ州との州境に至るのであった。
 インターステイツを走らないと,こんな複雑な進路になるのだが,ここに書いているのを読むのと実際に走るのとは大違いで,このあたりの一般道路は広く,信号も交通量もなかったから,とても走りやすかった。
 そうして,私は,予想よりも早く,ついに,念願のアラバマ州にたどりついたのだった。
 「Welcome to Alabama the Beautiful.」と書かれた道路標示が私を迎えてくれた。

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☆ミミミ
 カタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)は,2013年10月31日に発見された彗星だから,すでに,昨年発行された天文年鑑2015年版に,この冬明るくなると書かれてありました。また,ステラナビゲーターという優れたソフトウェアがあるので,見ることのできる位置は,1年以上の前からずいぶん正確に知ることができました。それによると,日本で見られるようになるのは11月下旬から,明るさは4等星くらい,ということだったので,私はとても楽しみにしていました。
 彗星の予報は,位置はとても正確なのですが,明るさは,予報と異なります。
 昨年見たラブジョイ彗星や一昨年のパンスターズ彗星のように,よいほうに予報が外れることよりも,今世紀最大といわれてがっかり,というもののほうがはるかに多いものです。

 このカタリナ彗星は,前回も書いたように,あいにく北半球で見られるようになった時には月が明るくて,満足に見るためには月明かりがなくなるまで,つまり,12月10日以降まで待たなくてはいけないのでした。
 それでも,予報が4等星ということだったので,なんとか見ることができないか,と月明かりにもめげず,写真を写したのが12月1日だったということです。そして,それは,予報よりも少しばかり暗いものでした。
 次に私が狙っていたのが,12月8日の早朝でした。この日は,月と金星と彗星が接近して,180ミリレンズで同じ視野に入るのでした。
 私は,これを写すのを1年も前から楽しみにしていましたが,幸いこの日は天気がよいということで,早朝2時に起床して出かけました。軟弱な私は気温の高い海岸沿いへ行こうと思っていましたが曇るという予報があり,前回行った東の方は行くのに1時間30分と遠いことと標高が高いので明け方は放射冷却でかなり冷えるということもあって,1時間で行ける一番近い北へ行くことにしました。しかし,濃霧注意報。前回の記憶がよみがえり,いやな予感がしましたが,ともかく行ってみることにしました。
 いつもの場所に近づいても,この日は前回のような霧,ということはなかったのですが…。観測場所にさらに近づくにつれて,突然,やはり,霧! 大ショック。でも,あきらめきれず進んでみると,幸い霧が晴れて,観測場所は満天の星空でした。この日は,こんな星空見たこともない,というほどの美しい星空で,西空のオリオン座はもちろんのこと,特に明け方の東の空の金星と月が美しく,日本各地で早起きをした多くの人が感動したそうです。
 しかし,その月と金星の横に彗星がいるなんていうことを知っていた人が何人いたことでしょうか?
  ・・
 なにせ,月と彗星は水と油。両方を同じ画面に入れて写真を撮るなんて,これまでやったことはありません。どのくらい露出をすればいいのか,さっぱりわかりません。露出をかければ彗星ははっきりと写りますが,月が露出オーバーになります。露出が少なければ,月ははっきりと写りますが,彗星が写りません。
 これもまた,やってみなければわからない,ということで,試してみるのが,また,楽しみでした。
 そうしてなんとか写したのが今日の写真です。

 1番目の写真で赤い丸の中に見えるのがカタリナ彗星です。180ミリレンズで写しました。このくらい露出をかけないと,彗星がはっきり見られませんが,月は完全に露出オーバー,さらに,ゴーストが一杯出ましたが,まあ,こんなものでしょう。
 そして,2番目から4番目の写真が焦点距離500ミリの望遠鏡で写して,さらに拡大したもので,2番目が月と金星,3番目がカタリナ彗星,4番目が月です。カタリナ彗星は月明かりが強すぎて,背景が汚いのですが,これは,月明かりだけでなく,地平線近くに霧が湧いたりしていた影響です。ついでに写した月,先月写していた月の連続撮影で写せなかった月齢26を,奇しくもこの朝写すことができました。
 気温はマイナス1度でした。
  ・・
 今後は,月明かりがなくなって,しかも彗星の高度が高くなってきます。彗星は太陽からは離れていきますが地球に近づきます。そして,また,先月写せなかった月齢29と月齢1も近づきます。楽しみです。

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 12月6日の朝日新聞に,大河ドラマの特集記事が載っていました。なぜ今なのか? という気もしましたが,考えてみれば,すでに師走。お正月から新たな大河ドラマが始まるのです。
 私は,これまで,このブログに何度か大河ドラマについても書きました。昨年の「軍師勘兵衛」が面白かったので,その勢いで今年の「花燃ゆ」も見始めたのですが,早々にギブアップ。私の中には,すでに,このドラマはなかったものになってしまったので,まだやっているの? という気持ちしかしませんでした。

 何かの雑誌の記事に,大河ドラマが不振なのは,いろいろといわれているように,史実に基づいていないとか,話が軽いとか,そういうことだけではなく,大河ドラマの視聴者層の年齢が高く,すでに昔見た大河ドラマが染みついていて,それを「史実」と思っているので,それと違う,という反応を示してしまうからだ,と書かれてありましたが,私は,その意見に同意します。
 ならば,昔の大河ドラマを知らない若い人はどうか,というと,歴史好きの一部の人は楽しく見ているようですが,私は,今やもう,こういう手法の歴史ドラマ自体に興味がないのだと思います。
 その理由は,ひとつには,今の学校教育では,歴史の授業はドリル学習をしているだけ,という点にあります。昔だって,多くの学生にとっては歴史は暗記物だったことは否定しませんが,歴史を物語として味わう余裕がありました。はたして,今の若者に忠臣蔵を知っている人がどのくらいいるでしょうか?
 もうひとつは,若い人には「信長のシェフ」のように,歴史の主人公を基にして,それを面白おかしく加工したドラマのほうが受けるということがあります。
 テレビドラマ自体が昔のような手法では通用しないのです。そしてまた,テレビドラマは1クール15回で終わらせないと長すぎるのです。

 では,私はどうかというと,若いころは日本史が大好きでしたが,年をとるにつれて,日本史そのものに否定的になってしまったということがあります。英雄といっても,所詮は権力者で独裁者。江戸時代の徳川政権は,その成立は日本から戦をなくしたという意義はあっても,それ以降は「徳川家を守る」というだけの目的でしかない。それは,現代のどこぞやの独裁国家とさほど違いはないわけで,庶民,弱者の側に立った歴史ではありません。
 さらに,私にもまた過去の大河ドラマが染みついているので,それと比較してしまうというと物足りなくなるという点があります。だから,信長は高橋英樹さんだし,秀吉は,いかに自転車で日本列島を走るおじさんになってしまっても,火野正平さんなのです。

 来年は真田幸村が主人公だそうです。真田幸村は視聴率がとれるのだそうですが,大河ドラマでは果たしてどうでしょうか? 
 いずれにしても,昔は,お正月にその年の大河ドラマの第1回の拡大放送を見るのがとても楽しみでした。そういうワクワク感は今の私には全くありませんし,1年というのが長すぎます。その点,サスペンスドラマのように,毎回が完結だったり,一度や二度見損ねて大丈夫なものでないと無理です。 
 もう,今のような史実に根差した大河ドラマは終わりにして,いっそ「源氏物語」を原作に,豪華絢爛なドラマでもやってみたらいかがでしょうか? 「源氏物語」が終わったら,ほかにも「大鏡」やら「栄花物語」やら,結構ネタはあると思いますけどねえ,NHKさん。

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●エルヴィスの生家は我家より広い●
 「トゥペロ」(Tupelo)という町が,メンフィスから国道78を2時間くらい南東に走ったところにある。人口3万人ほどの小さな町だ。
 私は,全く知らなかったのだが,この町は,エルヴィス・プレスリーの生家があることで有名なのだそうだ。トゥペロへ行けば,私の行きたいミシシッピ州だし,そこから北上すれば,アラバマ州を経由して,テネシー州のナッシュビルへ行くことができるので,私は,急遽,トゥペロへ行くことを決めた。
 エルヴィス・プレスリーといえば,メンフィス郊外には「グレースランド」というプレスリーの豪邸だったところを展示・公開しているテーマパークがあるのだが,テーマパークという形にして,お金儲けをしているだけ… という感じで,私は行く気にならなかった。エルヴィスファンなら怒る話であろうが…。

 メンフィスの外周をインターステイツ240が走っている。アメリカの他の都会とはちがって,まるで,日本の都市高速のような道路だった。まず,そこを走って,道路標示に従って国道78に進路を変えて進んで行くと,やがて,郊外に出て,思ったほど遠くなく,トゥペルにたどり着くことができた。
 町は国道78の南側に広がっていて,町の手前で,州道178に乗り換えて,ダウンタウンに入った。
 トゥペロは,「地球の歩き方」に載っていた小さな地図でも迷うことない小さな町で,州道178は町の中央を東西に走るメインストリートとなって,そのまま走っていくと,町の東の外れに広い公園があった。その中に「エルビス・プレスリーの生家と博物館」はあったので,車を停めて,ビジターセンターで入場料を払って見学することにした。
 それほど広いところではなく,歩いて十分に回れるところであった。おもな見どころは,プレスリーの生家と子どもの頃に信心深い母親に連れられて通ったという小さな教会,そして,ビジターセンターに併設してあった博物館である。

 私はまず,教会へ行った。
 入口が閉まっていて,どうやって入るのか分からず,戸惑っていたら内側から扉が開いた。中には係員がいた。私と,もう1組カップルが中に入って,イスにすわったら,プリスリーの幼年期を説明する映画がはじまった。
 その次に行ったのが,プレスリーの生家であった。
 この生家は「ショットガンハウス」(Shotgun House)とよばれているそうだ。つまり,弾丸が突き抜けてしまうほど小さい,という意味だ。

 私は,これまでに,アメリカ建国時代を展示する様々なテーマパークで,その時代の民家の展示を数多く見たことがあるから,いわれるほど小さいものだとは思わなかった。というよりも,機能的に作られていて,むしろ住みやすそうな家であった。
 ここも,中に案内をする人がいて,この家やプレスリーについて説明をしてくれた。
 私は,自分の持っている旅行ガイドブック(「地球の歩き方」のこと)に小さい家だと書いてあったが,私が日本で住んでいる家よりずっと広いと思う,と話したら,大笑いされた。
 これまでにも書いたことがあるが,アメリカはどんなことも思想が一貫していて,ホテルの部屋も,広い家も,キャンピンクカーも,結局機能的には全て同じでとても使いやすく作られていて,日本の古い民家のように,家は大きくてもトイレが外にあったり,とかいう,非合理的なことがない。
 私は,この家で十分な広さだと思った。

 最後に行ったのが博物館であった。
 ここには,プレスリーのゴールドディスクや衣装などが展示されていた。また,土産物屋もあった。
 外にはプレスリーの愛用した車も展示してあった。
 プレスリーは,いわば,日本では美空ひばりのようなものだが,亡くなって何年も経つのにこうしたところが運営できて,今も多くの観光客が来るのが,また,アメリカらしいことである。
  ・・
 この博物館を見学し,私は国道78まで行って,国道をに南東に進んで,アラバマ州へ向かうことにした。博物館から国道78に向かう途中の一般道を走っていると,プレスリーが通ったというロウホン小学校(Lawhon Elementary School)があった。小学校の周りを走ってみたのだが,その帰りに道を間違えて,住宅街に入り込んで行き止まりになってしまったり,一方通行で州道に出られなくなったりと,何度も戸惑ったが,なんとか州道178に戻ることができた。

 結局,この日は気に入ったホテルを探すことができず,最悪の場合は,カプセルホテルを覚悟しました。しかし,カプセルホテルも,マッサージつきとかにすることで値段を高く設定して,いかにも客から金をむしりとろうか,という感じが見え見え。本当に,日本人の「せこさ」はいつでもどこでも腹立たしく思います。
 本当にこの国は,何事も,笑顔の裏にずるがしこい浅知恵が見えかくれしていて,好きになれません。そして,それを,「おもてなし」だとか,「お客様第一」とか見え透いた嘘で塗り固めているので,油断がなりません。日本は表の顔と裏の顔が違いすぎるのです。私には,はじめっから,お金が第一,と本音が出ていて,単純で明快なアメリカのほうが,よほど素直で気持ちがいいです。

 次の日,知人に,福岡のホテルがみつかならない,そんな話をしていたら,東横インは? と言われたので,その晩,ホテルの検索予約サイトをやめて,東横インのホームページでホテルを探すことにしました。また,3連泊で探すのもあきらめて,1泊ごとにホテルを探すことにしました。
 すると,20日(金)と22日(日)は,博多駅近くの東横インを簡単に見つけることができたので,すぐに予約しました。
 問題は,21日(土)なのでした。
 福岡市内には全く空室がなく,郊外の東横インに,喫煙可の部屋が辛うじてあったのですが,私は,たばこの匂いが世界一嫌いなので,やめました。そこで,東横インをあきらめて,再び,ホテルの検索予約サイトを探していくことにしました。
 私は福岡近郊の地理がよくわかりません。車で行くのでないから,地名だけでは公共交通機関を利用するともそこまで行くのに便利なのかそうでないのかがよくわかりません。そこで,空室のあるホテルを見つけては,その場所を「Google Maps」で探し,アクセス方法を「乗換案内」で調べ,何とかなりそうなら,とりあえず予約をしておいて,もっと条件のよいホテルがあれば,改めてそこに予約を入れ,すでに予約を入れたホテルをキャンセルする,ということを何度か繰り返しました。そうして,なんとか佐賀県の「鳥栖」(とす)という場所にあったチサンインというホテルを確保しました。
 このような苦労をして,どうにか3泊のホテルを予約することができました。

 後日,別の友人にそんな話をしていたら,彼も少し前に福岡に行ったとき,やはり,福岡はホテルを取るのが大変だったということでした。私が行くこの時期は,様々な学会やらコンサートやらがあってさらに困難で,すぐにホテルが満室になってしまうのだそうです。そんなわけで,福岡市に行く人は,私のように,佐賀県まで足を延ばすとか,北九州市まで行くとか,ホテルを探すのに苦労をするそうです。車であれば郊外に宿泊できるところがもっとたくさんあるのかもしれませんが,公共交通機関を利用したときに気軽に宿泊できるホテルが少ないのです。これでは,せっかくチケットが手に入っても,気軽に大相撲を見るために福岡に行くことができません。
 千秋楽当日,私のように偶然名古屋から見にきた人とお話ができたので聞いてみると,福岡市内にホテルを予約するには8月ごろでないと無理,といわれました。でも,そのころでは,チケットが取れるかどうかもわかりません。
 実際,九州場所を見にきた人の多くが,東京や名古屋の人だったことを考えると,チケットの売れ行きが悪いことを嘆くよりも,もっと前売り開始の時期を早くしたり,東京や名古屋から行く人のために,ホテルとフライト付の「安価な」(「高価な」ものならいくらでもあります)相撲観戦パックを用意するとかの努力をするべきでしょう。ねえ,日本相撲協会の新しい理事長さん,考えて!

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●今日の予定が決められない。●
 今日はメンフィスで1泊するするつもりだったのに,メンフィスという町に着いて,すっかりその気がなくなった。
 エルヴィス・プレスリーに興味があれば,ゆかりのある場所がたくさんあるから,エルヴィスファンにとれば,かなりうらやましい旅なのかもしれない。私は無礼千万である。ごめんなさい。
 せっかく午前中にここまで来た以上,しかも,メンフィスを出発するのなら,今日中に,ミシシッピ州を通ってアラバマ州までは行こうと思った。
 いつも書いているように,この旅は,ひとつでも多くの州へ行くことしか頭にないのであった。もし,今回そこまで行かないと,次にいつ行けるかわからないのである。その場所にいるときは,いつでも簡単に行くことができるような錯覚に陥るが,日本に帰ってみると,あまりにも遠く,あの時に行っておけばよかったなあ,と後悔することしきりである。
 次回の旅で,50州制覇のために,私は,残るノースカロライナ州とサウスカロライナ州に行くことを考えていて,その折にアラバマ州へも行くつもりではあったのだが,先のことはわからない。今回行けるなら,ぜひ,行ってみようと思った。私が次回の旅で行きたいと思っているのは,アラバマ州のモンゴメリー(Montgomery)という町なのであるが,今回は,残念ながら,モンゴメリーまで行くには遠すぎる。
 ここで,モンゴメリーについて,少し紹介してみよう。

  ・・・・・・
 ローザ・パークスという偉大な女性がいる。
 1913年に生まれたローザ・“リー”・ルイーズ・マコーリー・パークス(Rosa "Lee" Louise McCauley Parks)は,公民権運動活動家である。1955年にアラバマ州モンゴメリーで,公営バスの運転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み,人種分離法違反の容疑で逮捕されたことで著名となった。
 これを契機に「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」が勃発し,アフリカ系アメリカ人による公民権運動の導火線となった。ローザは米国史における文化的象徴と見なされ,アメリカ連邦議会から「公民権運動の母」と呼ばれるようになった。そののち,ローザはキング牧師の公民権運動に参加し著名な活動家となるのだが,地元に居辛くなり,1957年にデトロイト市に引っ越した。
 やがて,のちに,自分がアメリカ史上の人物として学校の教科書でも教えられていることに気づいたのだった。そして,ローザ・パークスは,1987年に「ローザ・レイモンド・パークス自己開発教育センター」を創設して青少年の人権教育に尽力した。1999年,アメリカ連邦議会はローザに議会金メダルを贈り,モンゴメリーにはローザ博物館が設立された。
  ・・・・・・

 モンゴメリーまで行ってみたいという思いも湧いてきたが,そうすると,サウスカロライナまでも足を伸ばそうか…などと,とんどんと帰りの便の出発地カンザスシティからは遠くなっていくのだ。
 そこで,無計画な旅なではあったが,今回の旅はアラバマ州はちっぴりだけにとどめておいて,次の機会にモンゴメリーへ行く方が無難なように思えたので,メンフィスから南東の方角にあるあるトゥぺロという町まで行って,そこからアラバマ州を少しだけ経由してテネシー州に入り,今日はナッシュビルで宿泊しようと軌道を修正したのだった。
 こんな具合に,この4日目の計画は,はじめっからかなりいい加減なものであった。メンフィスに宿泊しようかなというくらいしか出発するときにも決まっていなかった。だから,いつもと違って,朝になっても,今晩泊まるホテルを決めていなかった。それは,あまりにもこのあたりの場所について不確定要素が多すぎて,決断することができなかった,ということなのだったが…。

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●メンフィスはすさんだ町だった。●
 インターステイツ40は西から東に走っていて,ミシシッピ川にかかる巨大な橋を渡ると,アーカンソー州に別れを告げて,テネシー州のメンフィスに入る。まだアメリカをよく知らなかった若いころ,私は,ミシシッピ川をこの目で見るのが夢だった。そのミシシッピ川を,この旅だけで,私は一体何度渡ったことだろうか?
 橋を越えると,メンフィスの町が見えてきた。
 メンフィスは,テネシー州の南西の外れのくさび状のところに位置していて,そこから少し南に行けば,そこは,テネシー州ではなくミシシッピ州に逆戻りである。つまり,メンフィスの西と南を包むようにミシシッピ州がある。このあたり,州が入り混じっていて,本当にわかりにくい。

 メンフィス(Memphis)という名前はエジプトの古代都市に因む。テネシー州の州都であるナッシュビルを上回るテネシー州最大の都市で,人口は約65万人なのだが,私の印象では,メンフィスよりもナッシュビルのほうが大きな都市のように感じたのはどうしてだろう?
 メンフィスは,19世紀に綿花の集散地として発展する一方で,奴隷市が開かれた暗い歴史をもち,今でも人口の半数以上をアフリカ系アメリカ人が占めている。犯罪率が高く,千人当たりの暴力的な犯罪の発生率は約16パーセント,殺人件数は117人もある。
 メンフィスは,1960年代,公民権運動の渦中にあって,清掃労働者の待遇改善を求めるストライキの応援にこの地を訪れたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師が暗殺されたことでも知られている。
 また,メンフィスは,様々な音楽ジャンルの発祥地,および,発展地であることでも,また,有名である。カントリーに関しては,ナッシュビルがカントリーの「ラインストーン」とよばれるのに対して,メンフィスは「シェアクロッパー」(小作人)と呼ばれている。
 アメリカのポピュラー音楽に多大な影響を与えたサム・フィリップスのサン・スタジオは現在も建物が残っていて,見学することができる。有名なエルヴィス・プレスリー,ジョニー・キャッシュ,ジェリー・リー・ルイス,カール・パーキンス,ロイ・オービソンは,このフィリップスに見いだされて,ここサン・スタジオではじめてのレコーディングを行った。
 このように,この町を語るには,マーティン・ルーサー・キング・ジュニアとエルヴィス・アーロン・プレスリー を知らなければならないのだ。

  ・・・・・・
 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)は,1929年生まれのプロテスタントバプテスト派の牧師であった。
 生前はアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動し,「I Have a Dream」という有名なスピーチを行った人物として知られている。
 1968年4月4日,遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで
 「I've been to the Mountaintop.」
と遊説したその日,メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーで,その夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせていた最中に,累犯のならず者ジェームズ・アール・レイに撃たれた。直ちに病院に搬送されたが,間もなく死亡した。
  ・・
 エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aron Presley)は,1935年ミシシッピ州テューペロで生まれたミュージシャンであった。
 最初「The Hillbilly Cat」という名前で歌手活動を始め,その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから,「Elvis the Pelvis」と呼ばれるようになった。
 プレスリーはアメリカ史上最も成功したソロアーティストで,最多ヒットシングル記録や1日で最もレコードを売り上げたアーティストとして,ギネスに認定されている。
  ・・・・・・

 車で町に入っていくと,さすがに「治安の悪い」町らしく,すさんだ建物が多く,私は緊張した。
 まず,この町で一番有名な,現在は国立公民権博物館となっているロレイン・モーテル跡へ行くことにした。行き止まりやら一方通行やらの多い狭い道路を迷いながら,どうにか近くに無料の駐車場を見つけて,車を停めて,博物館まで歩いていった。
 私は,この日,残念ながら,この博物館が休館日であることを知っていたので,建物の外観だけを見ようと思っていたのだが,他にも多くの観光客が,私と同じように車を停めてこのモーテル跡に向かって歩いてきたので,今日は休館だと話すと,彼らはショックを受けていた。
 休館日にもかかわらず多くの観光客がいて,その外で写真を撮っていた。このモーテル跡の私の印象は,テレビで見たのと同じだ,という情けないものであった。
 次に,ビールストリートと呼ばれるメンフィスきっての観光スポットへ向かった。
 この町のダウンタウンはどこも道路も狭く,また,車も人も多く,数少ない駐車場もすべて有料で,どこに車を停めたらいいのか,どう走ったらいいのかはっきりしなかった。
 私の今日の予定では,今晩はメンフィスに泊ろうとと思っていたのだが,次の日以降の予定にまだ迷っていたり,この先どこまで行けるか見当がつかなかったりで,この日はホテルの予約もせぬまま,ここまで来たのだった。しかし,メンフィスが思っていた以上にすさんだ町だったことで,私は,すっかり,ここを観光する気がなくなってしまった。エルヴィス・プレスリーの「聖地」として,エルヴィス好きにはたまらないところ,憧れのところなのであろうが,私には,全く興味がなかった。それに,メンフィスのビールストリートのライブハウスにも,そういう音楽に興味がないから入る気持ちもなかった。
 時間は,まだ午前中。治安の悪さムンムンのここで半日を過ごす気持ちもなくなって,私は, メンフィスから別れを告げることにしたのだった。

 何事も,黎明期はおもしろいものです。
 例えば,インターネット。
 1995年頃のインターネットは,完全な無法地帯で,できる人だけが楽しむという状態だったので,「なんでもあり」の世界でした。この時代,電話線にモデムをつなぐので,速度は今とはくらべものにはならなかったのですが,それでも,その革新性は,画期的でした。
 私が最もすごいと思ったのは,当時,ロサンゼルス・ドジャースに属してた野茂英雄投手が登板するときに,アメリカからインターネットを通してMLBの生中継でその音声が流れてきた時です。しかも,日本語放送なのでした。
 「日本のみなさん,こんにちは。こちらは,ロサンゼルスのドジャースタジアムです」という声が聞こえたときには,鳥肌が立ちました。もちろん,今とは違って無料でした。

 少し時代が進んで,次に,すごいと思ったのは「アマゾン・ドット・コム」でした。
 まだ,日本には会社(支店?)がなく,インターネットでアメリカに直接英語で注文するのです。そのころは,洋書を買うには,丸善のような本屋さんに行って,結構な値段を払って,もし,その本がなければ注文してもずいぶんと時間をおかなければ手に入らない時代でした。それが,自分で注文すると,原価で,アメリカから送られてくるのです。こりゃ,丸善の隣に店でも出して,「アマゾン・ドット・コム」で取次販売したら商売になるなあ,と思ったものでした。

 そんな,ぐっちゃぐちゃな時代もすでに過去のもの。
 今では,完全に成熟したネット環境になってしまったので,楽しみもなくなりました。知恵を絞ろうが,何も出てこなくなりました。それに代わって,現在,ぐっちゃぐちゃなのが,「ポイント」という悪しきシステムの流行です。今でも,多すぎるのにそれに懲りずに,ドコモが今頃になって「dポイント」とかいうのをはじめるそうです。はっきり言って,馬鹿です。日本の企業は。
 私は,興味本位で,これまでにいろんなポイントカードを作ってみました。そして,どれが便利かな? としばらく使ってみましたが,Tポイントとnanacoカード,そして,ヨドバシカードがあれば十分,という結論になりました。いつも書いているように,料金が高く束縛性が高く,しかも長年のユーザーを軽視する携帯電話のキャリア3社なんて,さっさと縁を切ればいいのです。今や,SIMフリーの時代なのです…とこれは,今日の本題ではありません。

 それはそれとして,今日私が強調したい本題は,黎明期にあれだけ絶賛した「アマゾン・ドット・コム」に陰りが見えてきたと感じるのは,私だけでしょうか? ということなのです。
 2年前,どこよりも早く,このブログに,マクドナルドが「やばいぞ」と書いたのと同じにおいを感じるのです。簡単に言うと,サービスが悪くなったのです。「プライム」会員にならないと,配達が遅いとか,そうした「難癖」をつけはじめたのです。「うざい」のです。どんな商売も,軌道に乗ると,さらに利益を得るために,こういう「せこい」ことをはじめるのです。
 本以外のものは,関東地方以外は送料がかかることがある,というのも,また,サービスに一貫性がないのです。
 今や,同じ本を買うのに,かなりのポイントが還元されて,しかも,翌日配達される「ヨドバシ・ドット・コム」という新興勢力のほうが,全てにおいて,ユーザーにメリットがあるのは,だれの眼にも明らかでしょう。本以外の商品も,どんなに小さなものも送料が無料なのです。もはや,よほど値引き率の高いもの以外は,特に,本は「アマゾン・ドット・コム」で買うメリットを全く感じないのです。ユーザーをなめてはいけません。
 栄枯衰勢,とでも申しましょうか。それとも,「ヨドバシ・ドット・コム」も,軌道に乗ると,そのうち,同じように「せこく」なっていくのでしょうか?
 私は,恩も義理もないただのユーザーだから,便利な方を使うのです。今後の両社の展開が楽しみです。
 
◇◇◇
すでに2年前-友人が「マックはつぶれるぞ」と予言した。①

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 もう師走ですが,今年の秋はずっと10月の陽気が続いていてとても過ごしやすく,11月がなかったかのようでした。すでに12月というのが信じられません。空に地上にと,やりたいことや見たいものや行きたいところだらけで勝手に大忙しの日々になっています。
 1枚1枚と葉が散るのに晩秋を感じ,中井精也さんの「ゆる鉄写真」に感化を受けて鉄道と黄葉の写真を撮りながら,ずっと待っていた今年最も明るくなるカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)が,ついに明け方の東の空で見えるようになってきたので,12月1日午前5時過ぎにはじめて写真を撮りました。
 カタリナ彗星は「カタリナ・サーベイ」で2013年10月31日に小惑星として発見されたものです。

 北半球ではっきりと見ることができるようになったのは11月26日でしたが,満月でした。
 私は,その2日前,月明かりの影響がぎりぎりなくて,しかも,彗星が夜が明ける前の地平線から辛うじて昇る11月24日の明け方をねらっていたのですが,あいにく天気が悪く断念しました。
 明け方の東の空というのは,これからますます月が近づいていくので,本当に月の明かりがなくなるには,次の新月まで待たなければなりません。しかし,月明かりは月齢23を超えるとさほど気にならなくなるので,12月4日ごろからがチャンスです。特に,12月8日の早朝は月齢26の月とカタリナ彗星と金星が大接近して一緒に写すことができるという絶好の日です。また,新月後の12月15日はふたご座流星群なので,それとともに楽しむことができます。

 ということなのですが,私は1日も早く写したかったので,11月30日,月明かり何するものぞ,と,写真を撮りに北へ出かけました。とても正確で信頼できるGPV天気予報では,私の行く予定の観測地は雲が切れているということだったのですが,観測場所に近づくにつれて,なんと一面の霧! これにショックを受け,でも,きっと晴れるさ,と思ってずっと車を停めて待っていたのに,まったく霧は晴れず,傷心の帰宅となりました。
 家に戻るにつれて空は快晴,東の空の金星の鮮やだったことが,とても皮肉でした。
  ・・
 翌日リベンジです。この日も晴れるという予報がどんどんと変わり,日本海高気圧の影響で,北西から雲が接近してきます。行く場所を変えて東に向かうことにして,午前2時30分に起床しました。ところが,自宅の空すら全天曇り,月さえ見えません。それでもダメ元で出かけました。
 1時間ほど東に走っても,一向に雲は切れず,でもあきらめきれずに目的地まで行くと,なんと,全天雲ひとつなく快晴となりました。本当に天気はよくわかりません。
 
 天頂付近には月齢19の月が輝いていました。せっかく月があるので,月で正確にピント合わせをして,まずは月を写しました。先月,月の連続写真を写していた時には曇って写せなかった月齢19を,奇しくもこの日写すことができました。木星でもピントを合わせたのですが,カメラの液晶画面に映った木星とガリレオ衛星がこれほど安定した像で見られたのははじめてでした。こうした条件なら,ピント合わせは,木星を使うのが一番正確にできます。
 午前4時30分,東の空に金星は明るく輝いていましたが,彗星はまだ地平線の下でした。少し時間があったので,りゅう座にいる10等星のパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)の写真を撮りながら,カタリナ彗星の高度が高くなるのを待ちました。
 やがて,カタリナ彗星が見えるようになってきました。山の中とはいえ,月明かりで金星よりも低い空の星が全く見えません。実際の空は,6番目の写真のようなありさまなのです。この写真で明るく光っているが金星です。そして,その下の赤い丸の中にあるのがカタリナ彗星です。
 なんとか双眼鏡で金星から下の星の並びをたどっていって覚え,同じように,今度は,望遠鏡のファインダーで彗星を探すのですが,ファインダーが曇ってしまい,かすんで何も見えません。この時期の明け方は,レンズの霜が要注意なのです。それでも,12月とはいえ,気温は1度と,かなり暖かなので凍りつくということはありません。私はマイナス5度くらいまでなら,手袋もなしで平気なのですが,望遠鏡のほうが先に寒がっているようでした。幸い,望遠鏡の対物レンズのほうは,フードのおかげで,ヒーターのスイッチを入れなくても曇りひとつなく,ピカピカでした。
 彗星の高度が高くなって,双眼鏡の視界に彗星がはっきり見えるようになってきました。4等星という予報より暗いといううわさでしたが,確かに,それほど明るくはないです。ファンダーの曇りを拭き取って,なんとか星が見えるようにして,双眼鏡で彗星を見たのと同じ位置に望遠鏡を向けて,まず1枚写真を写すと,思ったよりも明るい彗星が写っていました。尾もありました。

 いつも不思議なのは,恒星と比べて,彗星は肉眼で見るときはずっと暗いのに,写真ではずっと明るく写ることです。そんな次第で,月明かりにめげず,無事に,カタリナ彗星のファーストライトをとらえるのに成功しました。この彗星は,年をまたいで来年もまだ見ることができます。今後は,どんどん高度を増すので,光度は下がっていきますが,条件がよくなります。尾も長くなることでしょう。これからが期待できます。
 帰り道。朝焼けの中,今回も幸せを感じながら国道を走っていたのですが,1年中で夜明けの最も遅い,しかも平日の朝,途中で通勤通学の交通ラッシュに出会ってしまって,そこで現実に戻されました。日本では,夜中の0時から早朝6時までしか,私がアメリカでドライブするような気持ちになれる素敵な時間はないのです。

◇◇◇
星を見るのも大変だ-彗星発見プロジェクト②

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●憂鬱な気分でアルマジロの中を●
 やっと私はインターステイツ40に入ることができた。さして長くないこの旅の期間で,メンフィスからナッシュビル,そして,できればケンタッキー州まで行こうと思っていたのに,地図をみると,3日目にして,まだほどんと到着したカンザスシティの近くをだらだらとめぐっているように思えた。
 しかも,ブランソンからはインターステイツが遠く,本当に,やっとのことで,ここまでたどり着いた気がした。 そして,改めて地図を見ると,アーカンソー州は,なんと,アメリカの南部ではないか!  カンザスシティやセントルイスではこんな感じはしない。しかし,少し南まで来ただけで,もう,ここは,ルイジアナ州と同じ香りがするではないか!
 私は,走りながら,随分前のことになってしまったが,ルイジアナ州ニューオリンズに行って,スワンプやらプランテーションを観光したときのことを思い出していた。

 ニューオリンズに行ったとき,それまで私が知っていたアメリカとのあまりの違いに,この町を知らないでアメリカは語れない,と思った。それほど,ニューオリンズは他の町とは全く違う魅力をもつ町であった。
  ・・・・・・
 「ディープサウス」という言葉がある。
 「ディープサウス」とは,アラバマ州,ルイジアナ州,ミシシッピ州に,ジョージア州,フロリダ州,さらに,テキサス州とサウスカロライナ州を加えたもの,あるいは,アーカンソー州を加える,などの説があるが,私は,アラバマ州,ルイジアナ州,ミシシッピ州というのが一番しっくりくる。
  ・・・・・・
 私にとっても,この3州は本当に遠い所で,よほどその気にならないと行く機会がない。そして,今走っているアーカンソーなんて,本当に日本では無名なところではないか。

 一体,この州は何が見どころなのだろうか? と再び思った。
 インターステイツ40に入ったら,道路標示に,この先にある町の名「リトルロック」と書かれてあった。
 リトルロックは,第42代大統領ビル・クリントンが州知事を務めたことのあるアーカンソー州の州都である。また,公民権運動の初期に,アフリカ系アメリカ人生徒の公立高校への編入を阻止せんと起きた事件「リトルロック危機」が有名である。このように,この州の見どころは,クリントン大統領センター,セントラル高校国立歴史地区などである。
 しかし,正直なところ,わざわざ行く気にならなかった。そんなわけで,私は,リトルロックはやり過ごし,そのままインターステイツ40をアーカンソー州の端まで走り抜けることにしたのだった。

 ところが,リトルロックを過ぎたあたりから,インターステイツ40は,やたらとコンボイが目立ちはじめ,大型トラックの渦の中をかきわけかきわけ走るということになってしまった。まるで,深夜の日本の名神高速道路のような感じであった。
 しかも,道路の周りは,これまでの牧草地とは打って変わって,南部の雰囲気ただよう,小高い木々に覆われたスワンプのようになって,まったく景観がよくないのだった。しかも,時折見通しがよくなると,今度は沼地なのであった。
 道路も,大型車がたくさん通るからなのか,ガタガタで,日本の工業地帯の,ひっきりなしに通るトラックの洪水の中を走っているときに感じるのと同じ不快感しかなくなった。私は,憂鬱な気分で走り続けるしかなかったのだった。残念ながら,私には,アーカンソー州というのは,こうしたイメージしか残らなかった。

 そうそう,書いていて思い出した。
 アーカンソー州には,もうひとつ残ったイメージがあった。それは,やたらと,道路にアルマジロの死骸が転がっていることであった。死骸だけではない。生きているアルマジロがうじゃうじゃ歩いているのだ。
 私は,はじめ,なんだこりゃ,と思った。ここは本当にアメリカか? と思った。私はなんかの間違いじゃあないのかと思った。悪い夢でも見ているんじゃないかとさえ思った。こんなのが大発生しているんじゃあ,世も末だとも思った。
 アルマジロは,もともとは南アメリカ大陸の生物であるが、最近ではアメリカ合衆国南部では一般的に見かけられるようになってきているのだそうだ。実は,アルマジロはテキサス州の州の動物である。また,テネシー州では野生のアルマジロが増えすぎてしまい、狩猟免許を持っていれば狩猟して食肉として食べて良いことになっているが,果たしておいしいのだろうか? 食べた人の話では,豚と牛と鶏の肉の味を足して3で割ったような味なのだそうだが…?! こんなもの好き好んで食べる人がいるのだろうか?
 ザリガニは美味しかったけど,ワニの肉さえ四苦八苦した私は,アルマジロなど絶対に食べたくない。ワシントン条約で国際取引を禁止されている動物らしいが,取引など頼まれてもしたくない。
 そうこうするうちに,やがて,インターステイツ40は,ミシシッピ川に差し掛かろうとしていた。
 この川を越えれば,いよいよテネシー州である。

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