しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2016

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●非日常と日常は僅かな違いである●
 私は,こうしてのんびりとドライブを楽しんで,スプリングフィールドまでやってきた。ここからは一挙に南にブランソンに向かって国道65を南に下るだけだった。ブランソンまではわずか40マイル(64キロメートル),40分であったが,このことを私は3日前まで知らなかったのだ。

 スプリングフィールド(Springfield)は,ミズーリ州南西部に位置する中都市で,群馬県伊勢崎市の姉妹都市である。人口は約15万人。
 最初の住民が住みついたのは1830年で,1838年に市となったときの人口は300人であった。この地は南北戦争の激戦地のひとつである。
 1905年,3人のアフリカ系アメリカ人の男性が白人女性を強姦したとしてリンチにあったが,実際には強姦の事実はなかった。しかし,この事件によって,アフリカ系アメリカ人の市外流出が始まって。現在においても,スプリングフィールドのアフリカ系アメリカ人の人口比率は非常に低い。
 また,スプリングフィールドは「ルート66発祥の地」としても知られている。
 1926年にスプリングフィールドには2本の重要な国道が創設された。ひとつはスプリングフィールドと東海岸バージニア州のバージニアビーチを結ぶ国道60,もうひとつはシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道66であった。この国道66のもととなった道がスプリングフィールドとセントルイスを結ぶ古い道であったことから,スプリングフィールドは「ルート66発祥の地」と呼ばれるようになった。
 1990年,スプリングフィールドに全米はじめての「Historic Route 66」の標識が立てられた。
 また,スプリングフィールドは俳優ブラッド・ピットが少年期を過ごした町としても知られている。

 国道65は,私が地図から想像していた道路とはまったく違っていて,ちゃんとしたインターステイツ状の道路であった。
 本当に3日前にこのことを知っていたら,延々と田園地帯を北海道のような狭いくねくね道を走らずとも,国道60をそのままスプリングフィールドまで行ってそこから国道65を南下すればよかったのだ。
 ブランソンは,思ったほど不便なところでななかったのだ。国道65を順調に走って行くと,次第に,慣れた景色が見えてきた。
 私は,こうして,再び,ブランソンに到着したのだった。
 初めて来たときにあれだけ戸惑っていたこの町も,わずか1日来ただけで,もう,長年住んでいるかのように勝手知ったところになってしまうのが,おかしかった。
 「非日常」と「日常」というのは,このようにかくも僅かな違いなのである。
 私はいろんなことを経験してみて,ともかく,やったことがないことは挑戦してみることや未知のところへは行ってみることが一番大切だと思うようになった。そして,そうした積み重ねが足し算でなく掛け算となって,いろんな思い出につながっていくのだ。

 再び,ホテル「ビクトリアン・パレス」(Victrian Palace)に到着した。ホテルのフロントでは私のことをよく覚えていてくれて,この前と同じ部屋でいいですね,といわれて,11日,つまり,3日前と同じ部屋に案内されたのだった。
 例えてみれば,次のようなものである。
 ある外国人が福岡市の民宿に1泊した。そして,翌日,東北を1周するドライブに出かけて,3日後に再び福岡市の民宿に舞い戻ってきた…。
 このわずか数日の間に,私が2,000キロも走ってきたことが,自分でもなにか不思議な気がしたのだった。

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 今日は,ヘール・ボップ彗星以降のお話です。
 2002年2月1日,かつて池谷・関彗星を発見したアマチュア天文家憧れの池谷薫さんが,なんと35年ぶりに新彗星である池谷・張彗星(153P Ikeya-Zhang)を発見しました。
 後になって,この彗星は1661年にポーランドの天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが発見したヘヴェリウス彗星が再び地球に接近したものだと判明したので,新彗星ではなく,周期が341年の周期彗星であることがわかりました。
 池谷薫さんが発見した彗星は,いつも明るくなるのです。この彗星も3月18日に太陽に最接近して,3.5等星にまでなりました。私は,池谷さんの発見した彗星,つまり,特別な彗星ということもあって,この彗星を家の近くで見たり,何度も遠くまで写真を撮りに行ったりしたのですが,一番明るくなった時には,見事な尾を写すことができて,ものすごく感動しまた。しかし,その数日後,再び見に行った時には,すでに尾もほとんど見られなくなっていて,そのあまりの変わりようにも,また,とても不思議な気がしたことが,強く印象に残っています。
 一番明るかった時に写したのが,今日の1番目の写真です。この彗星は軌道が変化したので周期が変わって,2368年に再び地球に戻ってきます。

 池谷・張彗星が明るく輝いていたちょうどその頃に,また,いつものように「世紀の大彗星」が接近といって騒がれたふたつの彗星があります。
 それがリニア彗星(C/2002T7 LINEAR)とニート彗星(C/2001Q4 NEAT)でした。
 このふたつの彗星は,同時期に相次いで地球に接近するということで,少なくともどちらかは予報通りに明るくなって美しい姿を見ることができるのでは,と楽観していたのですが,いつものように,ふたつともに期待を裏切ってしまいました。
 2012年のパンスターズ彗星とアイソン彗星もまた,相次いでふたつの明るい彗星が近づくといわれて,ともに期待を裏切ったのですが,それと同じようなものでした。
 そして,リニア彗星とニート彗星の陰に,思わぬ伏兵ブラッドフィールド彗星というおまけが付いたのも,また,パンスターズ彗星とアイソン彗星のときの伏兵ラブジョイ彗星と同じでした。
 私は,先に書いた池谷・張彗星については記憶が鮮明なのに,このリニア彗星とニート彗星については,ほとんど覚えがないのです。しかし,このふたつの彗星の私が写した写真が手元に残っています。それが,2番目(リニア彗星)と3番目(ニート彗星)なのです。
 しかし,リニア彗星を写しに行ったときに,その近くに,リニア彗星よりもずっとすごく尾が長くて見事な彗星が見られたのです。それが4番目の写真のブラッドフィールド彗星(C/2004F4 Bradfield)でした。この写真の左上にはアンドロメダ銀河も写っています。

 思えば,この頃から,私は人生の「暗黒期」に入ったのです。
 私の40代の前半から50代の前半は,まさに「空白の10年」であって,本当にこの間「無意味」な年月を過ごしてしまいました。
 その原因は,その時の私に関わった数人の「奸物」たちです。彼らが「とんでもない」輩だということは直観として分かったのですが,そうした「贋作を掴まされた時に感じるような」危うさが一体どこから来ていたのだろうかということが,私には長年ずっと謎でした。それは,今にして思うに,たいした教養も実体験もないのに書物の知識だけでさも分かったかのように人の上に立って高圧的に振る舞う,そして,そういう行為は,結局は自分を軽視されないための虚勢に過ぎないのに,そうすることで自分を偉大だと錯覚していた俗物だった,というのがその真相です。
 多くの人に迷惑をかけただけのあの人たちの生き様は一体何だったのだろうかと気の毒に思うのですが,私はそんな無意味な時代を過ごしたことが逆に反面教師となって,今日の自分の優雅な生活につながっているのだから,皮肉なものです。しかし,星を見る,という点に関してだけは,過ぎ去った時間は取り戻せないので,完全に暗黒時代となってしまいました。
 ただ,私にとって幸運? だったのは,その時代に「大彗星」が来なかったということです。
 いや,実は南半球では2大彗星となった「2007年の大彗星」マクノート彗星(C/2006P1 McNaught)と「2011年クリスマスの大彗星」ラブジョイ彗星(C/2011W3 Lovejoy)が相次いで地球に接近したのですが,幸い? 北半球からは見ることができませんでした。

 そんな中で,たったひとつだけ,2007年10月,ホームズ彗星(17P Holmes)という大穴の登場がありました。
 このホームズ彗星というのは,2日足らずの間になんと17等星から2等星にまで約40万倍も明るくなり,明るく黄色い綿菓子のような星として肉眼でも容易に見ることができたというものだったのです。
 私は,この彗星だけは,辛うじて見ました。それが,5番目の写真です。
 それはまるでクラゲのような形で空にボーッと浮かんでいました。大きさは満月よりも大きくて,彗星というより奇妙な生き物のようでした。あたかも,私の暗黒期を象徴するかのような不思議な出来事でした。

 そして,ようやく私が「暗黒期」を脱したちょうどその頃に,またしても「世紀の大彗星」という呼び声高く,パンスターズ彗星(C/2011L4 PanSTARRS)とアイソン彗星(C/2012S1 ISON)がやってきたのです。
 6番目の写真のパンスターズ彗星は予報ほど明るくならず,7番目の写真のアイソン彗星は太陽の熱で破壊されるという悲惨な結末を迎えましたが,私は,これらの彗星のおかげで完全に蘇ることができました。そういう意味ではこの彗星こそ私の恩人? です。もし,この彗星が来ていなかったら,今の私は星見をしていない事でしょう。
 その時に現れた思わぬ伏兵ラブジョイ彗星(C/2013R1 Lovejoy)が8番目の写真です。アイソン彗星亡き後の救世主として,とても美しく見事な彗星でした。
 それ以後の彗星は,写すたびにこのブログで紹介をしているので,それでご覧いただきましょう。アイソン彗星が接近した時にいろいろと工夫をした結果,現在の私には,11等星よりも明るい彗星なら容易に写真に写せるようになったので,それほど明るくない彗星でも,それはそれで十分に楽しむことができるのです。
 しかし,このところ,一般の人が期待するような大彗星がなかなか見られないことだけが残念です。

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●自然災害との戦いでもある。●
 バドワイザーの見学ツアーを終えて,私は,セントルイスを後にした。
 今日は6日目5月14日(木)。今回の旅行は,今日を含めて実質あと3日。翌日7日目である5月15日(金)のカンザスシティ・ロイヤルズのナイトゲームのチケットを持っていたから,私は,15日のお昼までにカンザスシティに行くつもりであった。
 5日前にカンザスシティを出発して,たいした予定も立てず,行けるところまで行こうというだけの旅であったが,毎日毎日めちゃめちゃたくさん走って,結局,カンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州,アラバマ州,テネシー州,ケンタッキー州,インディアナ州,イリノイ州,そして,ミズーリ州とわずか5日で10もの州を走り抜けた。長距離トラックでもないのに,こんな距離を稼ぐだけの旅など,今後は決してすることもないであろう。
 ともかくそうしたことで不可能と思えたマンモスケイブ国立公園まで到達することもできた。

 それでもまだ1日余裕ができたので,このあとをどうしようかと思った。
 当初は,セントルイスからそのままインターステイツ70を西にミズーリ州を横断してカンザスシティに戻って,カンザスシティを観光するつもりであった。しかし,どうしても,私にはブランソンが忘れられない。ブランソンではショージ・タブチ・ショーを見たが,ここには他にも見たかったショーがあった。しかも,ブランソンなんて,この先,またいつ行けるかわからないではないか。
 ということで,私は,再びブランソンへ迂回することにした。
 ミズーリ州の東の端がセントルイスで,西の端がカンザスシティ,そして,ブランソンは南の端にあるから,「–」をやめて「V」の字に走ればいい。しかも,ブランソンは数日前に行ったときに町の様子はすっかり把握したので,今回は迷うこともない。
 そこで,今晩はブランソンに1泊することにして,2日前に宿泊した同じホテルを予約した。
 こうして,私は,セントルイスを南西方向に,インターステイツ44をブランソンの玄関口であるスプリングフィールドに向かって,走って行ったのであった。
 スプリングフィールドまでは,わずか216マイル(345キロメートル),3時間程度であった。

 途中,マクドナルドで遅い朝食をとったり,ガソリンを入れるついでに,ホットドッグをほうばったりと,すっかり現地人になってしまった勝手知った私は,のんびりとアメリカのドライブを楽しんだ。
 距離はちょうど東京・名古屋間を東名高速道で走るようなものだが,写真のように,アメリカのインターステイツのほうがはるかに美しく,広く,車が少ないから,最高のドライブコースであった。若いころあれほどあこがれていた「アメリカを心おきなくドライブする」ということが日常になっている自分に驚く。
 今日の最後に,この旅の後に起きたこの地の災害について書いておかなければならない。
 昨年末,この地は異常な水害の襲われた。これまでにないほどの災害であった。アメリカの中南部で生きるのは,日本では絶対に手に入らない雄大な景色とともに,また,過酷な自然災害との戦いでもある。

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●私はどんどん追いやられる●
 アメリカでもっとも飲まれているビールがバドワイザー(Budweiser)。
 バドワイザーは,セントルイスに本社を持つアンハイザー・ブッシュ社が生産・販売するビールである。1876年に生産が始められ,今では世界一の販売量を誇っている。
 バドワイザーの名称は,チェコ・南ボヘミア州のベーミッシュ・ブトヴァイス(Böhmisch Budweis)にちなんだもので,ドイツ系アメリカ移民のアドルファス・ブッシュが,ビール名産地のブドヴァイスにあやかろうと,自らが発売したピルスナータイプのビールにバドワイザー・ラガー・ビール(Budweiser Lager Bier)と命名して誕生したのだという。
 私は,ミュンヘン・札幌・ミルウォーキーというように,確かにミルウォーキーに行ったときに大きなビール工場があったから,バドワイザーの工場はミルウォーキーにあるのだとばかり思っていた。しかし,ミルウォーキーにあるのはミラービール(Miller Beer)である。

 ミシシッピ川の川畔にあるこの会社は,遠くからでも茶色の建物群が目を引いていたが,駐車場の入口が分からず,私は,会社の周りを一周する羽目になってしまった。どうにか入口を見つけてやっと無料の広い駐車場に車を停めて,正面の立派な外観の建物に入った。
 この日の天気は雨。
 この工場の見学は外を歩くので傘が必要だったのだが,そんなことは知らず,私は傘を持たずに車を出て,あとで後悔することになった。
 このビール工場のエントランスの建物の中は非常に豪華であった。
 中央にクラシックカーが置いてあり,周りには,いろいろな種類のビールが展示してあったり,バドワイザーの歴史や製造方法の紹介,そして,土産コーナーなどがあった。
 無料の工場見学ツアーは,ビルの左奥に集合する場所があって,予約の必要もないが,入ったところの受付で参加するツアーの時間を登録する必要があった。私は,その日の開場直後の時間に行ったから,もちろん一番早い回のツアーであったが,ツアーの開始までは時間があったので,ぶらぶらと時間をつぶしていた。
 やがて,ここにも,中国人団体御一行様が騒々しく大挙してバスで現れ,いつものように場の雰囲気を台無しにし始めた。
 街灯や意味のない光がじゃまをして天体観測の場がどんどんと追いやられるのと同様,私の,のんびりとしたけだるいアメリカ旅行も,日本ののどかな観光地も,こうした御一行様のおかげで,どんどんと追いやられているようだ。

 やがて時間になって,いよいよ見学ツアーが開始された。
 集合場所に20人ほどが集まっているところにガイドさんが現れて,彼女について行くことになった。
 初めの説明場所は馬舎であった。
 ビール工場の見学なのに馬? と思っていると,バドワイザーは,アメリカで禁酒法が執行されたとき大ピンチになりながらもなんとかそれを凌ぎ,1933年,やっと禁酒法が解かれたとき,ルーズベルト大統領へ感謝のプレゼントと称してビールを載せた馬車を引いてセントルイスからワシントンまでビールと届けたのだという。それ以来,馬がバドワイザーのシンボルになったという話であった。
 次に行った場所でビール作りの工程の説明があって,その後,雨の中を歩いて行ってひんやりとした工場内に入って,タンクやら製造工程をまわった。
 工場の外壁はヨーロッパを感じさせる造りで,昔の外観のまま,内部だけが最新式に作り直されている,という感じであろうか。このあたりが,古いものは全部壊して,美的感覚も尊厳もない単に機能的なだけの現代的な工場を作ってしまう日本とは違うところだと思った。

 最後は試飲コーナーであった。
 ここにはバーテンダーがカウンターにいて,自分の飲みたいビールを頼めるのだが,私は車だったのでパスをした。ビール試飲はもちろん無料で,工場で生産しているビール10種類以上の中から好きなものを2杯飲めるということであった。
 私は,アルコールは底なしなのだが,別に好きではない。味の違いも分からないし,興味もない。
 しかし,ほとんど,というか,全ての人たちは車で来ているのに,どうやら,この国は,飲酒運転はもちろん厳禁のはずだが,そんなことはどおってことがないらしい。
 ツアー自体は1時間くらいで終了したが,正直いって,ここのツアーは,無料とはいえ,アメリカには珍しくあまりやる気も感じられず物足りないものであった。

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 NHKBSプレミアムのドラマ「鴨川食堂」。3話まで終わりました。
  ・・・・・・
 「思い出の食,捜します」
 その一行広告を頼りにたどり着ける看板ものれんもない「鴨川食堂」。京都の東本願寺近くにひっそりと建つその食堂へやってくるのは,悩みを抱えた現代の人々。仕事,家族,人生,恋,人間関係…。悩みは千差万別だが,看板娘・鴨川こいしは客の悩みを真摯に受け止め,父・鴨川流は元刑事の勘と洞察力を駆使して客の本当に望む食は何かを突きとめ,一流の京料理人としての腕をふるって食事を再現する。“こいし” と“流” の努力の結晶である「思い出の食」を口にすることで,客は,生きる勇気,人生の喜びを見つけて鴨川食堂を後にする…。
  ・・・・・・
というのが,ホームページに書いてあったこのドラマの紹介です。
 「京都」を舞台にすると,興味を持つ人が増えるようですが,私も,それがこのドラマを見た動機でした。しかし,このドラマは,そんなことを越えて,とてもいい。ものすごくいい。人のやさしさがたまらなくいい。そこに,京都の持つやわらかな,そして,ほんまもんの香りがするから,もっといい。そういうドラマになりました。

 以前,「すいか」というドラマがありました。
 世のしがらみでガンジガラメになり,にっちもさっちもいかなくなり行き詰まっている30代半ばの信用金庫職員が,売れない漫画家,大学教授,大学生の大家など,風変わりな人々が住む賄い付き下宿の「ハピネス三茶」での出会いや出来事を通して,本当の自分を発見し成長してゆくというドラマでした。
 「すいか」の舞台は世田谷区三軒茶屋。それがドラマの良さをより高めたのですが,「鴨川食堂」は,それととてもよく似た雰囲気をもつドラマだと,私は思いました。
 そして,「すいか」では,このドラマに出てきた「ハピネス三茶」の大家さん役をやっていたのが市川実日子さんでしたが,彼女の独特な味わいが,また,このドラマにとてもよく似合っていて素敵でした。
 「鴨川食堂」の主人公・鴨川こいしを演じているのは忽那汐里さんです。
 私は,女優さんの名前とかよくわからないので,このドラマを見たとき,お恥ずかしい話ですが,彼女をてっきり市川実日子さんだと勘違いしていたのです。とても雰囲気が似ていました。私は,こうした味のある女優さんは好きです。

 このドラマのテーマは「時の流れに流されない普遍的な人の心のやさしさ」だと私は思います。
 結局,人が生きるということは,時の流れとともに変化する現実といかに向き合うかということであり,それは,つまり,自分や周りがどう変わろうとそれに正面から向き合うことで,そこに存在する普遍的な人の心のやさしさを見失わないということなのです。そして,そうなることを助け,さらに救いさえもたらすのは,人と人との心の交流なのですが,このドラマでは,登場する女性たちがけなげで愛おしくて,彼女たちの心の温かさが,その源となっているのです。
 きっと,こうした心のやさしさこそがこの国の人のもつ本質なのだろうと私は思うのですが,それがどこでどう間違ってしまったのか,順位競争やら成果主義やらに毒されたり,権威主義に媚びて自己主張をする人がいたり,他人に厳しく振る舞うことで自分が偉くなったと勘違いする輩がいたり,あるいは「おもてなし」とかいう言葉でひとくくりにされて商業主義に利用されたりしているのが,今日の残念なこの国の有り様です。

 ドラマは,心温まる出来事とともに,主人公・鴨川こいしが亡き母の家出について父・鴨川流に疑念を持っているという2重のテーマからなっているのですが,毎回の出会いで起きる様々な人間模様とそれに伴う心の交流を通じて,娘と父のわだかまりが次第に溶けていってお互いが理解しあい,こいしが成長していく姿を見届けるというものも,また,これからの見どころです。
 暖かで素敵なドラマです。


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 1月24日,日本出身力士の10年ぶりの優勝の期待で沸き返っていた頃,私は,昨年に続いて,N響名古屋定期公演を聴きに行きました。
 年に1回行われるN響名古屋公演は良い席のチケットが取りやすく,しかも,ホールは音が良いから,時間が許せば聴きに行きます。東京のファンにはうらやましいはなしでしょうね。今回は,一番前の,しかも,真ん中の席を手に入れました。NHKホールの一番前だと,団員は見えず,音は頭の上を飛んでいく… のですが,そういうこともありません。

 曲目は,グリンカの歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲,ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番,そして,チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」からの抜粋でした。
 昨年は,パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮によるR・シュトラウスの作品でしたが,今年はロシア音楽でした。私は,「チャイ様」と檀ふみさんが呼ぶチャイコフスキーは聴くことには全く抵抗はないのですが,聴いたからといって,ブルックナーを聴き終えたときのように私の琴線には全く触れないのです。
 一昨年は,ファビオ・ルイージさんの指揮でブルックナーの交響曲第9番でした。しかし,期待していたのにこれがひどかった。いや,N響の演奏がひどかったのではなく,観客がひどかったのです。
 曲の終了後,静寂を味わう間もないフライング気味の拍手,これで全てが台無しになりました。こういったとき,私は,いつも,あんたの拍手を聴きにきたのではない,と腹立たしくなります。
 名古屋の聴衆にブルックナーは無理です。
 名フィルの定期でも,曲が終わってもいないのに拍手が始まり,それに対して,別のお客さんがまだ終わっていないと叫んだ,という話もあるくらいです。
 ということで,むしろ,今回の曲のほうが,まだ,ずっと楽しめます。
 とはいえ,東京の公演でも同様ですが,日本のクラシックのコンサートは,休憩時間も短く,ホール内にレストランが充実しているわけでもなく,日本に観光できた外国人が京都で着物を着て歩いている様な違和感があって,心から楽しめないのが残念です。これもまた,「日本人の知恵と発想の限界」なのでしょう。

 「ルスランとリュドミーラ」序曲は,旧ソ連(ロシア)のオーケストラが日本に来日公演をしたときのアンコール曲の定番だったので,これをN響が定期で演奏する,ということが,なにか不思議な気がしました。演奏するのは結構大変な曲なのでしょうが,こういう曲は大衆受けします。拍手大好きな名古屋のクラシックファンのご老人たちにはぴったりだったでしょう。でも,今回もブラボーおじさん,やめてもらいたいです。
 2曲目のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ですが,ピアノを弾いたのは,ルーカス・ゲニューシャス(Lukas Geniušas)さんというリトアニア出身の2010年のショパン国際ピアノコンクール第2位の若者でした。この時の第1位はユリアンナ・アヴデーエワ(Yulianna Avdeeva)さんというロシアの女性だったのですが,彼女がソロを弾いたN響定期公演を聴いたことがあるので,私は,奇しくも第1位と第2位を聴いたことになるわけです。アヴデーエワさんの演奏会のときは,客席にアルゲリッチ(Maria Martha Argerich)さんも聴きに来ていて,とても感動したことがあります。
 そして,最後が「白鳥の湖」からの抜粋という曲でした。
 偉そうなことを書きましたが,私は,バレイには興味がありません。きっと,生で見ればとてもすばらしいのでしょうが,見る機会もありません。なので,つい先日まで,「白鳥の湖」と「瀕死の白鳥」が同じ,つまり,「瀕死の白鳥」は「白鳥の湖」のなかのワンシーンだと思っていたくらいです。無知ですねえ。
 今回の「白鳥の湖」は,指揮者トゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)さんによる独自の抜粋版でした。

 「瀕死の白鳥」といえば,年末にNHKEテレで放送した「クラシック・ハイライト2015」で放送された今は亡きマイヤ・プリセツカヤの「瀕死の白鳥」には感動しました。
 「瀕死の白鳥」は,サン・サーンスによる組曲「動物の謝肉祭」の「白鳥」を用いて, 湖に浮かぶ一羽の傷ついた白鳥が生きるために必死にもがきやがて息絶えるまで描いた小作品で, ミハイル・フォーキンが1907年にアンナ・パブロワのために振り付けたとされます。アンナ・パブロワの死後,彼女の名を汚さぬよう,以後マイヤ・プリセツカヤが違う振り付けで踊るまで20年間誰も踊ることがなかったといわれます。

 今回の演奏会もずいぶんと楽しめた時間でした。
 「白鳥の湖」は,マロさんのヴァイオリンと藤森さんのチェロの独奏がとてもきれいでした。でも,やはり,私には,今ひとつ,この曲は琴線に触れるものではありませんでした。それは,演奏の問題ではなくて,私がバレイを見たことがないからです。きっとバレイの好きな人が,そして,バレイを見たことがある人がこうして音楽を聴くと,その良さがとてもよくわかるのでしょう。そういう意味では,R.シュトラウスの音楽と同じようなものでした。
 ただ,今回,私が一番感激したのは,一番前の席だったということで,いつもと違う音が聞こえたことです。弦楽器はそれぞれのパートが分かれてはっきり鮮明に聞こえましたし,ステージ上で打楽器やピアノと弦楽器の音が聞こえる時間差もよくわかりました。
 ピアニストは,あのようなオーケストラの伴奏のタイミングでよく弾けるものだと思いました。ほとんど聴こえないのです。そしてまた,ステージ上の団員さんは,あんな大きな音の洪水の中で毎日演奏しているんだということもよくわかりました。あたかもステージ上で聴いているようなものでした。
 まだまだ私には知らない世界が多く,この世の中にはずいぶんと素敵な宝物があるものだと,改めて思いました。

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N響名古屋定期公演-パーヴォ・ヤルヴィさんへの期待

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Congrats! Kotoshogiku captures 1st career Cup.
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●「西良し東悪し・南良し北悪し」●
 1998年といえば,今からすでに20年近くも前になるということが信じられないが,セントルイス・カージナルスにマーク・マグワイア(Mark David McGwire)という強打者がいた。この年はシカゴ・カブスのサミー・ソーサ(Samuel Sosa Peralta)とシーズン最多本塁打記録争いを繰り広げていた。思えば,いい年だった。
 当時の私は,今以上にアメリカに憧れが強く,行きたいところ,知りたいことだらけだった。
 マグワイヤ選手が新記録となる1シーズン70ホームランを達成するかという日の朝,日本のテレビがセントルイスから中継をしていたのを見て,セントルイスに行きたいなあ,と思ったのを思い出した。当時の私には,セントルイスは地の果てほど遠いところであった。そして,未知のところであった。

 セントルイス(St. Louis)は,ミシシッピ川とミズーリ川の合流点に位置する商工業都市,カージナルスが強豪なので日本でも有名な都会であるが,人口はわずか35万人なのである。
 そして,実は,セントルイスもまた,先に書いた隣接するイーストセントルイスとともに,1,000人当たりの暴力犯罪発生率は18.6パーセント,殺人件数は113という,全米有数の犯罪都市なのである。東部のイーストセントルイスと同じように,北部にも荒廃したスラムが広がっている。
 しかし,セントルイスは「西良し東悪し・南良し北悪し」といわれるほど,治安の度合いに地域の明白な差があって,危険地域にさえ踏み入らなければ比較的安全という二面性を持っている。また,アメリカの大都市圏で最も物価が安く,交通機関も整備されていることから,生活しやすい都市のひとつにも挙げられている。
 日本人の居住者も多い。

 セントルイスでは,1904年に万国博覧会とオリンピックが開催された。1910年代には鉄道のハブとして鉄道関連の産業が発達し,1920年代以降は東西を結ぶルート66とルート40の通過地となり,さらに,クライスラーが主要工場を構えるなど,デトロイトに次ぐ自動車工業都市として繁栄,他にも「バドワイザー」のアンハイザー・ブッシュ,航空機マクドネル・ダグラス,化学薬品モンサントの本社があり,以前はトランス・ワールド航空のハブ空港もあった。また,ワシントン大学やセントルイス大学,連邦準備銀行が置かれるなど,1950年代以降は商業,経済中枢であった。
 しかし,1970年代以降,老朽化と産業不振により治安,環境が悪化し,急激な人口流出が始まったのだった。
 2001年にトランスワールド航空がアメリカン航空に吸収合併され,ハブ空港としての地位を喪失したほか,マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されて工場の規模が縮小,また,クライスラーの工場が閉鎖されるなど,人口と産業の郊外流出が目立ち,その後は衰退の一途を辿った。
 近年は再開発によって都市圏全体での人口は回復基調にあるものの,依然として市街地の空洞化が問題となっている。
 このように,セントルイスは,決して楽観して観光のできるところではない。

 私が2002年に来た日は,ちょうどアメリカの独立記念日で,この地で独立記念日を祝うパレードも見たし,ブッシュスタジアムでは,ゲームの開始前に戦闘機が祝賀で空を舞った姿も体験した。ゲートウェイアーチにも登ったし,西部開拓博物館にも行ったので,ここでの観光の見どころは全て見ていた。そこで,特に今回,この地を観光する予定はなかった。
 インターステイツ70でミシシッピ川を越えて,そのままインターステイツ44に乗りかえて南下してダウンタウンに来ればよかったものの,私はミシシッピ川を越えたところで一般道に降りてしまったものだから,早朝,まさに「西良し東悪し南良し北悪し」のごとく,セントルイスの治安の悪いといわれる北地区をさまよう羽目になってしまったのだった。そして,さらに,前回書いたように,イーストセントルイスまでわざわざ行って,まるで,セントルイスで肝試しをしているような感じになったのだった。
 さらに,ダウンタウンでも,2002年に来たときはゲートウェイアーチのあたりは美しい公園だったが,今回来たときは,再開発の途中で,どこもかしこも工事中であった。

 バドワイザーの工場見学ツアーの始まるのは10時であった。まだ30分くらい時間があったが,私は,一般道を南に走って行った。
 途中,飲み物を買おうとガソリンスタンド(アメリカでコンビニを探すにはガソリンスタンドを探せばいい)に寄ったが,その店舗も,なにか物騒な感じであった。その後,せっかくなので,工場へ行く途中で,私は,フォレストパーク(Forest Park)に寄ってみることにした。
 フォレストパークはダウンタウンの西7キロメートルのところにあって6平行キロメートルに渡って広がる公園で,万国博覧会の開場だったところである。現在は,美術館,博物館,動物園などがあって,市民の憩いの場となっている。
 実際,セントルイスの西と南は,北と東とは違う都会のように思えるほど,その雰囲気が異なっていた。

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 これまで,池谷・関彗星とハレー彗星,百武彗星,そして,ヘール・ボップ彗星について書きました。今回は,私がこれまで見てきたそのほかの明るい彗星について,家にある49冊の天文年鑑を紐解きながら書いていきましょう。
 こうして改めて調べてみると,この半世紀あまりで,私が見た,あるいは見ることができなかったものもありますが,そうした「明るい」彗星というのは,たった10個余りしかないのです。そのことに改めてびっくりしました。5年に1個,という割合でしょうか。しかも,そのほとんどは「今世紀最大」という前評判のもとで,実際は評判倒れに終わってしまった彗星なのです。

 ちょうど私が星に興味をもったころに発見された多胡・佐藤・小坂彗星(C/1969T1 Tago-Sato-Kosaka)は,1969年10月下旬の夕方の空に7等星くらいで見ることができたそれほど明るくはなかった彗星ですが,聡明な私の友人は,買ってもらったばかりの口径3センチメートルの双眼鏡でそれを毎晩観察して,観察日誌をつけていました。小学生なのですよ。私にはそんな知識はなかったので,たいしたヤツだと尊敬しましたし,感心もしました。望遠鏡も双眼鏡も持っていなかった私には,当然手が届かない彗星でしたが,そういう天体を見ていることをとてもうらやましく思ったものです。それとともに,星を見るには望遠鏡よりも双眼鏡だと知らず知らず学んだものです。こうした知恵こそ大切なのです。
 ちょうどそんな頃に,世紀の大彗星が現れました。それが,有名なベネット彗星(C/1969Y1 Bennett)だったのです。

 私がはじめて肉眼でみることができた彗星はこのベネット彗星でした。
 彗星が明るくなるのは太陽に近づくときだから,明るい姿を見ることができるのは,夕方の西の空か明け方の東の空がほどんどです。子供にとって,明け方に起きて星を見るなんていうのは,苦行中の苦行だから,見たくとも見れられるものではなかったのです。
 当時かなり話題になって,1970年3月末には,この彗星は都会でもはっきりと肉眼で見られるほど明るくなったので,母親に頼んで早朝に起こしてもらい,都会の真ん中で見た記憶があります。尾はそれほど長くはなかったのですが,明け方の白みはじめた東の空に見事に彗星が輝いていたのを今でも鮮明に記憶しています。
 子どものころの実体験は本当に貴重です。こうした多くの体験が「地アタマ」となっていくのだと思います。その反対に悪い体験は巨大な「トラウマ」となってしまうので要注意ですが。

 それから数年たった1973年3月7日,今度は,コホーテク彗星(C/1973E1 Kohoutek)が発見されて,軌道が計算されたときには地球に最も近づくとマイナス等級に達するという予報が出されたので,いつものように「世紀の大彗星」と騒がれました。ところが,この彗星は期待に背いて,最も明るくなった1974年1月でも3等星くらいにしかなりませんでした。
 実は,その半年前の1972年10月10日「ジャコピニ流星群」が大流星雨となると予想され,大きなブームとなったのですが,流星は全く見えませんでした。
 こうした記憶がまだ生々しいときの2連敗でした。その結果,天文学者の予想は大ぼらとみなされるようになり,マスコミは,それ以降の天文現象について報道を控えるようになってしまいました。2度も「ハズレ」が続いてはいけません。これでは「オオカミ少年」です。
 そうしたころ,最悪のタイミングでに現れたのが「20世紀でも随一の美しさ」と称えられたウエスト彗星(C/1975Y1 West)だったのです。本当にオオカミが来たのに,マスコミは全く報道をしませんでした。それが,私がウエスト彗星をみ損ねた痛恨事の結末です。しかし,今,これを書きながら思うに,きっと私はウエスト彗星の存在を知っていても,当時は車を持っていたわけでもないから,きっと,ベネット彗星を見たときのように一度都会で見ることができただけだったのでしょう。私には,数年,この彗星の接近は早過ぎました。
 しかし,このトラウマは一生消えません。

 私が車を手に入れて,なんとか曲りなりに星を見にいけるようになった1983年5月ごろに現れたのが,アイラス・荒貴・オルコック彗星(C/1983H1 IRAS-Araki-Alcock)でした。
 この彗星は,尾が地球と正反対の方向にあったので,全く尾が見られず,満月ほどの巨大な綿菓子のようなおよそ彗星らしくない姿が天頂付近に見られただけでした。しかしすごかったのは,見ている間に星々の間を動いていったことで,私はこの彗星を見にいく車の窓からもそれを目撃しました。そして,生まれてはじめて彗星の写真を写しました。これが,今日の1番目の写真です。
 その次に見たのが,すでに書いた1986年のハレー彗星でした。暗かったとはいえ,私も,子供のころからずっとこの彗星を見るのを楽しみにしていたので,何度も見にいきました。
 ハレー彗星の次はオースチン彗星(C/1989X1 Austin)。またしても「世紀の大彗星」といわれたのに,いつものように1990年4月末ごろに一番明るくなったときにはわずか5等星,これもまた評判倒れに終わりました。私は,この彗星を写した記憶も見たという記憶もないのです。しかし,今,私の手元には,自分で写したこの彗星の写真があります。それが,今日の2番目の写真です。この写真を今見ると,アンドロメダ大星雲と並んで,見事な尾が出ています。この時代に私がこんな写真を写せたのが信じられないのですが,若さというものを軽視してはいけません。
 そして,これもまた「評判倒れの彗星の陰に伏兵あり」で,レビー彗星(C/1990K1 Levy)が1990年8月下旬に3等星となりました。この彗星も,また,見た覚えがないのですが,私が写した何枚かの写真が残っています。今日の3番目のものがそれですが,これを見て,これを写した当時,せっかくの彗星に流星が写ってしまい傷ができたようで気に入らなかったのを思い出しました。しかし,今見ると,すごいです。こんな流星は狙っても写せません。
 どうやらこのころの私は,今のような,旅行の楽しみも知らず,アメリカははるかに遠いところだったので,星を見ることくらいしかできることもなく,結構熱中していたらしいのです。今見ても,おもしろい写真が残っています。それなのに,彗星の記憶がほとんどないのも,また,おかしなことです。
 そして,相次いで現れたのが百武彗星とヘール・ボップ彗星でした。

 今,天文に興味を持っている若い人は,私がこれまでに書いた彗星を,聞いたことも,無論,見たこともないかもしれません。私も,同じように,若いころ,その時代の年配の人たちが,その昔見たという明るい彗星の話を,神話のように聞いたものでした。
 今,優雅な生活を楽しんでる私には,こうした不思議な現象が空の彼方に起こるとき,せっかくその時代に生きているのに,忙しさにかまけてそれを見過ごしてしまうのはとても残念なことのように思えます。人生はかくの如く短く,しかも,偶発的に驚くべきことが起こるのです。効率の悪い勉強や仕事をして,それを見損ねるなんていう愚を犯してはいけないのです。

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●死ぬまでに一度は行ってみたい?場所●
 「死ぬまでに一度は行ってみたい場所。」というウェブページのなかに「 荒れ果てた都市・イーストセントルイス」というのがあった。
 読んでみると,どうやらこのウェブページを書いた人は,ネットから情報を集めているだけで,実際に行ってみたわけではないようだ。いわば日本人の好きな「ドリラー」である。学校教育の「調べ学習」の功績なのかもしれない。
 旅は行ってみての旅である。でなければ,テレビで旅番組をみたりガイドブックを見ているだけと同じである。本で得た知識だけで生徒に実社会を語るかつて私の出会った無能な教育者と変わらない。
 しかし,今から30年以上前の退廃したニューヨークの地下鉄に乗った,というのが私のちょっとした自慢だったりするのは,旅というよりも,肝試しとさしてかわらないかもしれない。だが,旅は,決して肝試しではないはずだ。けれど…。

 イリノイ州イーストセントルイス(East St. Louis)は,ミズーリ州セントルイスとはミシシッピ川をはさんで対岸に位置する。インターステイツ55,私の走ってきたインターステイツ64,そしてインターステイツ70が交わって,イーストセントルイスで1本の道となり,ミシシッピ川を渡ってセントルイスへと通じている。いわば,現在でも,交通の要所である。
 また,イーストセントルイスへは,セントルイスからは近郊電車であるメトロリンク(Metrolink)でアクセスすることができる。メトロリンクは,イーストセントルイスに,イースト・リバーフロント(East Riverfront),フィフス・アンド・ミズーリ(5th and Missouri),エマーソン・パーク(Emerson Park),JJKセンター(JJK Center)の4つの駅がある。このメトロリンクは,セントルイスのダウンタウンやワシントン大学を通り,ランバート・セントルイス国際空港へと通じている電車である。

 かつて,イーストセントルイスはミシシッピ文化の中心地で,蒸気船による水上交通の要衝であり,鉄道が敷かれると鉄道関連の産業や製鉄業で栄えた。さらに,国道66が開通すると黄金時代を迎え,ダウンタウンにはレストランや劇場,ナイトクラブなどが建ち並んだ。
 しかし,1950年を境に,イーストセントルイスは凋落への道をたどった。
 市の負債が増加し,それに伴って資産税率も上がったことで工場は次々と閉鎖して犯罪が増加し,街にはギャングがあふれた。そこに公民権運動による暴動が追い討ちをかけた。
 下水道の敷設は失敗に終わり,ゴミの収集は給与不払いにより行われなくなった。警察のパトロールも滞った。企業のオフィスや大規模商業施設の誘致はその後も成功せず,人口は全盛期に比較して半分以下にまで減少し,今もなお減り続けている。
 現在の人口は約27,000人で,1950年のピーク時の3分の1である。その多くは貧困層で,市の全域にわたってスラム化が進行し,廃墟や空き地も目立っている。最盛期に建設されたダウンタウンの美しかった歴史的建造物も朽ち,廃墟と化し,やがては無くなろうとしている。
 イーストセントルイスの犯罪発生率は全米最悪の水準である。殺人発生率は人口10万人あたり102件を記録し,全米平均の約18倍。殺人で悪名の高いデトロイトやボルチモアの2倍,ワシントンDCの3倍,強姦発生率は人口10万人あたり260件を超え,全米平均の約9倍に達するのだ。

 私は,セントルイスから一般道でミシシッピ川を渡り,メトロリンクの踏み切りを越え,イーストセントルイスに入った。
 実際,そこは想像を絶するところであった。
 ここに比べたら,デトロイトはまだマシだった。
 車に乗っていても,アクセルを踏む足が震えてきた。もし,車が故障でも起こしたらどうしようかと思った。車から降りて,付近を散策する気も失せた。
 行ってみなくてはわからない,とはこのことだが,私には,メトロリンクに乗ってもここに来る勇気はない。2ブロックほど車を走らせて,すぐに,来た道を戻ることにした。ほとんど人影のない町にも,目をぎらぎらさせた所在無げな若者が早朝だというのにふらついていて,どこかで人と接触したら,それこそ一大事だと思った。
 現在のアメリカは,都市の再開発が進み,昔のような不気味なところはほとんどなくなったが,ところによって,今だにこうした吹き溜まりが残っている。
 私は,このようにして「死ぬまでに一度は行ってみたい? 場所。」に行き,無事帰還することができたのだった。

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●昔はのどかでよかったところ●
 ミシシッピ川を越えたところに見えたのが,巨大なエドワード・ジョーンズ・ドーム(Edward Jones Dome)であった。
 このエドワード・ジョーンズ・ドームは,NFL(プロアメリカンフットボール)のセントルイス・ラムズ(St.Louis Rams)の本拠地である。
 セントルイス・ラムスは,ナショナル・フットボール・カンファレンスに属し,創設は1987年。1995年にロサンゼルスからセントルイスに本拠地を移したラムズは,2000年に行われたスーパーボウルでは爆発的な攻撃力を有し,テネシー・タイタンズを破り見事全米チャンピオンに輝いた。しかし,それ以降全く振るわず,下位を低迷している。近い将来,ラムズは,再び,ロサンゼルスに戻るらしい。 
 エドワード・ジョーンズ・ドームは66,000人を収容する大きなもので,ローマ法王が説法を行ったこともある。

 どうやら,ここセントルイスは,フットボールよりもベースボールを愛する都会のようである。
 MBAの名門セントルイス・カージナルスは常勝球団で,ワールドシリーズ優勝11回を誇っている。そして,そのデラックスな本拠地であるブッシュスタジアムがダウンタウンの中央にどんと構えている。その立地の良さは,ニューヨーク・ヤンキースの及ばないところである。
 私がこのダウンタウンに着いたときは,早朝であった。
 平日だったので,すでに,通勤ラッシュが始まるところではあったが,ダウンタウンはまだ閑散としていて,私は,路上駐車(アメリカでは1,2時間無料で路上駐車ができるところが多い)をして,少しだけ,歩いてみた。
 今回は,もともとこのセントルイスに来る予定すらなかったので,全く気に留めていなかったが,この日は残念ながらゲームがなかった。近頃は以前と違って同地区のゲームが同じ日程で行なわれるようになったので,この1か月後に行ったサンフランシスコでは,ジャイアンツとアスレチックスのゲームを共に見ることができたのだが,同じように,ロイヤルズとカージナルスのゲームの日程も重なっていて,このボールパークで次にゲームが開催されるのは,私がロイヤルズのゲームを見るときと同じ日程だった。しかし,ミズーリ州同士といえども,400キロメートルも離れているから,ここでは,2チームのゲームを見ることはできなかった。

 この美しい,2006年に作られた現在の新しいボールパークではなかったが,私は,ここですでにゲームを見たことがあるので,今回は外から眺めるだけで満足することにした。このボールパークも,写真のようにきわめて素晴らしところであった。アメリカのボールパークは,このように,外周を歩くと外から中の様子を見ることができる。ゲームをやっているときのムードのよさは極上のものであろう。
 また,ボールパークの写真を撮っていたら,球団の職員らしき人と目があって,彼は優しく微笑んだ。その印象が今も強烈に残っている。ここはいいところだ。
 私が2002年に来たときは,このあたりはかなりすさんだところで,今とは違って,現在ボールパークになっているところは広い空き地で,そこが駐車場になっていた。その点では,むしろ今よりも便利だったのだが,ゲームが終わったときには薄暗く,だだっ広い駐車場にはいくらでも盲点があって,車の陰から銃でも持って人が飛び出て来たらどうしようかとすごく恐怖を感じたものだった。
 今のアメリカでは,そういう恐怖を感じることは皆無である。
 このように,アメリカは,どこもかしこもここ10年の変貌はすさまじいのだが,私は,時に,昔のほうがのどかでよかったと思うことがある。 

 ともあれ,今回は,セントルイスは特に時間をとって観光する予定もなかったが,ただ一か所,前回行かなかったバドワイザーの工場見学をしようと思っていた。バドワイザーの工場は,セントルイスからミシシッピ川に沿って南に行ったところにある。しかし,工場見学の開始にはまだ時間があったので,その前に,怖いもの見たさに,ダウンタウンから再びミシシッピ川を東に渡り,イーストセントルイスを見てこようと思った。
 また,怖いもの見たさ,肝試しの始まりであった。

 本が売れないので,公立図書館で新刊書を貸し出すのをやめてほしいという要望を出したとか出すとかいう話を聞きましたが,本が売れないのは,そんなことが原因ではないと私は思っています。
 小説の場合,単行本は高くて大きくて重すぎます。買っても置いておく場所もありません。そして,文庫本は小さすぎます。アメリカのペーパーバックのようなサイズで軽い本はつくれないものでしょうか?
 ハウツーモノは,読まなければ知らなかったというような中身もまるでない本ばかりです。本の題名を見るだけで「売る」ためにはどうすればいいかという本の企画会議で苦心している様子すら目に浮かびます。これでは売れません。その程度の情報なら,インターネットにいくらでもあります。
 そして,専門書は学問の進化が早すぎるから,本になる前に陳腐化してしまっている時代です。
 また,学生の使う参考書の類は「古文研究法」のような学問の「哲学」が語られた骨のある本も今はなく,薄っぺらな暗記もの,あるいは,問題集の答え合わせのための解説書ばかりです。こういう本で勉強した人が今度は教師となって生徒に教えるのだから,この日本の悪しき「ドリラー」スパイラルはブラックホールのように底なしです。私は先日の新聞に載っていたセンター試験問題の小さな活字を見ると眩暈がします。あれだけ「マニアック」な知識の正解を得るだけのために,貴重な3年間をセンター試験に身も心も財力も捧げなくてはいけないのが,この国の若者の姿です。だからといってそうした問題ができても,古典が読めるわけでなし,英語が話せるわけでなし,専門書が読めるだけの数学が身につくわけでなし,歴史から教訓が学べるわけでなし。気の毒な話です。

 さて,ここからが今日の本題です。
 村上春樹さんの「色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年」を,今頃になって読みました。
 文庫本が出版されたのを書店で見て,こんな本があったなあと思い出したのですが,図書館で予約をすると待ちもなくすぐに借りられました。
 それにしても,この本もまた,出版された時だけはきっと予約が一杯だったのでしょうが,わずか2年経つと誰も借りる人がいないという程度のものなのでしょうか。ちょっとびっくりしました。「色彩を持たない多崎つくると,彼の巡礼の年」がそれほど話題にならなかったのは,今や,村上春樹という作家はビッグネームとなっているので誰も本当のことをいわないけれど,実際は「1Q84」でがっかりしたというのがその原因なのでしょう。
 私も「1Q84」を読んだときにずいぶん失望したので,この本も全く期待していなかったのですが,予想に反して内容も濃くて,楽しめました。この本は,私の「精神年齢は(実年齢-40)歳」説を地でいっているような内容だったのでずいぶんと共感しましたし,物語の展開は,推理小説を読んでいるみたいで非常に面白かったです。ただし,この小説があのような終わり方をするのなら,最後の「19」章は不要です。この小説は「18」章で筆を折ればよかったのです。
 私は「18」章を読み終わった時点で,その先を読む前に,この小説,ここまでで終わっていいと,ふと思いました。この先をどう書いてもうまく終われないなあとも思いました,そして,そんな私の予感は的中しました。私には「19」章に書かれていたことは助長にすぎ,うざったくさえ思えました。
 所詮これは小説,主人公の「多崎つくる」とその彼女らしき「沙羅」の関係がこの先どういうふうに展開をしようとどうなろうと,それは作者がどう描くかというだけのことです。そして,村上春樹さんの小説のずるさは,それを自らが描くのではなく,読者にゆだねてしまうことなのです。
 いつもこんな感じです。バーッとご馳走を広げておいて,後片付けをしないのです,

 この小説に書かれていた登場人物とは生き方も経歴も全く違うのですが,私は,これまでに出会った同級生や古くからの友人たちとの長い年月を経たお付き合いとか,あるいは,ずいぶんと月日を隔てた後に再会したりするときに感じる「年月の重さ」で,ああ,これが人生というものか,と思ったりするのですが,この小説では,そういったときの感じがとてもうまく書かれています。
 こういうことを「小説という手段」で書き表すことができるのが,たいした作家といわれる所以だなあと思いました。
 主人公の「多崎つくる」くんは,私と違って,まだ37歳なのですね。人生この先がまだ長いのです。まだ過去を振り返るには若すぎるのです。しかし,彼がこの先の人生を生きていくには,過去を一度振り返るにはちょうどいい時期だったのかもしれません。

 ただし,この魅力的な小説の魅力をなくしている一番の原因は「色彩を持たない」という題名です。
 「1Q84」は,その内容の割りに小説がだらだらと長すぎましたが,この小説は,題名が長すぎます。「色彩を持たない多崎つくる」と題名で結論づけてしまったことが,本当は深いこの小説を底上げしてしまっているのです。
 それにしても,どうして「多崎つくる」くんだけが色彩をもたない,といえるのでしょうか。確かに「アカ」と「アオ」は色彩ですが,「シロ」も「クロ」もそれは濃淡だけで,色彩ではありません。
 そもそも,この国の人は,味覚については敏感で,ものすごく多くの語彙があるのですが,色については鈍感で,もともと色彩としてあった語彙は,明るいときにそれを表現する「赤」と色全てを表す「青」,そのふたつしかないのです。だからミドリも「青信号」というのです。
 そして,色彩ではなく濃淡を表すだけの語彙が「白」と「黒」です。
 日本語で形容詞「~い」として表現できるのは,「赤い」「青い」「白い」「黒い」。「黄色い」とはいいますが「黄い」とはいいませんし,まして,「紫い」とも「緑い」ともいいません。
 だから,色彩を持たないのは「多崎つくる」くんだけでなく,「シロ」も「クロ」も同様なのです。

 ここで余談を。 
 前日,大相撲中継で「相撲の赤・青・白・黒の四房は四季を表しているが,白はそのどれか?」という視聴者クイズがありました。その解答として一番多かったのが春でした。「北原白秋」というくらいですから,当然,秋が正解なのですが,こんな基本的なことすら多くの人は知らないのです。これが,この国のあれだけ細かなセンター試験を受けた人たちの経てきた中等教育の成果の実態なのです。
 そして,もうひとつ。
 どうして,この小説の舞台は「名古屋」でなければならないのでしょうか?
 確かに,名古屋は「色彩のない町」「灰色の町」といわれたこともありましたが…。村上春樹さんはそれをご存じだったのでしょうか。

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 ラジオのNHK第1放送では,月曜日から金曜日の午後1時から午後5時まで,大相撲や国会中継がないとき「午後のまりやーじゅ」という番組が放送されています。山田まりやさんとその仲間たちが「ぎゃはは」といいながらおしゃべりをしたり音楽を流す楽しい番組です。
 先日,その番組の中で,月曜日のパーソナリティ・柔道の山口香さんが「50歳を過ぎてやりたいことが見つからない」というようなお話をされていました。それに加えて,火曜日のパーソナリティ・杜けあきさんも加えた年末の特番では「50歳を過ぎると人間辛いことだらけだけれどその先の人生がどうなるんだろう,知っている人は教えて欲しい」という話題で盛り上がっていました。
 すでにそういう年齢を過ぎた私には,このことに答える資格が少しはあると思うのですが,確かに50歳というのはかなり大変な年齢です。そして,それを過ぎるとどうなるか? その答えは,それまでよりも充実した人生とそのまま下っていく人生という二通りの人生のうちのいずれかが待っているということです。
 私が,そう確信するようになったのは,自分を含めた周りの人たち,あるいは年上の人たちの生き様をみて「40歳までの人生が2度ある」ということに気づいたのがその始まりです。40歳がひとつめの区切りとなって,その先は,改めて初めからやり直す生き方とそこから坂を下って行く生き方,つまり,「→」と「←」があるのです。そして,それまでよりも充実した人生というのは改めて初めからやり直す生き方のほうなのです。
 それは精神的なお話です。

 今なおやりたいことだらけの私が思うに「50歳を過ぎてやりたいことが見つからない」というのは,おそらく,10代のころにやりたかったことがどれだけあったかということに通じるのでしょう。つまり,精神的な貯金です。山口香さんの場合,10代にやりたかったことはおそらく柔道だけだったのでしょう。そして,彼女は世界を極めたので,やりたいことを実現してしまった,つまり貯金を使い果たしてしまったのです。だから,もうやりたいことが見つからないのではと思います。その反対に,そのころにやりたかったことがあったけれど,それが実現できなかった,つまり貯金が残っているということが,今,やりたいことにつながるのです。
 そう考えると,やりたいことを一杯持っていれば,そのすべてを実現していないから,そういう状況こそ,歳をとっても,やりたいことだらけの退屈しない人生が送れるということになります。その点,日本のスポーツ選手の多くは,いや,スポーツ選手はまだしも,それ以外の,日本の若い人の多くは,貧困な学校教育のおかげで自分で人生を考える時間が奪われてドリル学習一筋の生活ということが災いして精神的な貯金すらしていないから,きっと将来歳をとったときに,やりたいことが見つからないという哀れな人生を送ることになるのでしょう。大学に入っても,まだ,高校の延長でクラブ活動-しかも一流でもなく-しか自分の居場所がない,という情けない姿を見るにつけ,私は気の毒になります。
 定年を過ぎても仕事しかやることがない,というのも,また,同じことです。つまり,生きることに余裕がない,精神的に貧困なのです。
 
 やりたいことがたくさんあったとき,今度は,10代の頃は自由な時間はあってもお金がない,40代はお金はほどほどあっても自由な時間がない,という現実にぶちあたります。その年齢を過ぎると,運が良ければその両方がほどほどに手に入るのだから,そうした夢を実現するのには最もよい年代になるのですが,その年齢になっても,まだ,会社の出世競争に心も体も奪われたりしている気の毒な現実があります。本当はそんな熱病から少しでも早く脱出すべきなのですが…。だから,40歳を過ぎて,まず克服しなければならないのは組織への依存です。できるだけ早く自由になる,ということなのです。
 40歳以降の生きる苦しみがその後の2度目の人生の新たな糧となるか,単に滅んでいくまでの消耗戦となるか? 生きるためには働かなくてはならないから,ネクタイ締めて組織人間として生きるのもやむを得ないことだけれども,それからできるだけ早く卒業して,組織ではなく自分の顔(能力)で生きられるようになること,そして,そうなったときには「精神年齢は(実年齢-40)歳」で生きるべきだということです。
 それが,下り坂ではない2回目の人生を送る秘訣です。
 そう考えると,50代で組織の管理職なんて最悪の選択です。私はそういう裸の王様をたくさん見てきました。彼らのその後の人生は坂を下るしかありません。それなのに,辞めてからもなお過去の栄光が忘れられず,周囲の迷惑を考えずOB風を吹かしている人さえいます。本当に管理職をする能力があるのならなおさら組織などにしがみつかずに40歳で独立して,新たな一歩を踏み出すべきです。そんなこともできないのに,組織の管理職なんて,自分の能力でもなんでもありません。

 近年は年金制度が危うくなっているから,それをごまかすために,国策でいつまでも働くことを美徳するようなそういう風潮を生み出そうとしています。
 私は働くことがいけない,といっているのではありません。仕事をすることを否定しているわけではありません。そうでなくて,40歳を過ぎたら,自分らしく生き,組織に依存した生き方をするのは辞めましょう。少しでも早く組織人間として生きることから脱して,自分の夢を実現するために社会の中で主体的に生きることができるようになりましょう,といっているのです。
 そうする生き方ができるのであれば,60歳というのは精神年齢20歳。老いを感じるどころか,まさに青春まっさかり, 楽しい毎日が待っています。健康であることが第一ですけれど。

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●安価なホテルに期待するものは…●
☆6日目 5月14日(木)
 この旅で,私は,カンザスシティを出発してから「W」字のようにドライブして,ついに,セントルイスまで戻ってきた。あとはインターステイツ70を直線に西に走れば,カンザスシティまで戻ることができる。ミズーリ州は,その東の州境にセントルイスがあり,西の州境にカンザスシティがある。その間の距離は,250マイル(400キロメートル),4時間のドライブである。
 私は,セントルイスには,2002年に来たことがある。その時は,ブッシュスタジアムで,ロサンゼルス・ドジャースに所属していた野茂英雄投手を見た。当時はセントルイスという町も,まだ再開発中で,ブッシュスタジアムも今のものとは違っていたし,空港に降りたときに,ずいぶん田舎に来てしまった,という印象を持った。
 そしてまた,ミシシッピ川を越えた東側のイーストセントルイスには治安が悪いから近寄るなと,当時の「地球の歩き方」に書かれてあったのを今でも覚えている。

 私は,カンザスシティが,実は,その市街地のほとんどがカンザス州ではなくミズーリ州だということは強く認識していたのだが,イーストセントルイスが,ミズーリ州ではなくイリノイ州だということは,恥ずかしい話だが,これを書いている今になって,やっと認識した。
 私には「イリノイ州=シカゴ」であり,シカゴとセントルイスがどうして結びつかない。
 私の宿泊していたホテルは,そのイーストセントルイスの,さらに東の郊外であった。
 私は,危険だといわれているイーストセントルイスがどのあたりを指しているのかよく分からなかったが,ホテルを予約した時に,さすがに,ここまで東に離れていれば,その,危険なイーストセントルイスではないだろうと思っていた。

 ホテルは,今日の写真のようなモーテルであった。
 例のごとく,きわめて安価なホテルであったから,入口にフロントがあって,部屋は外から入る形式で部屋の中はかび臭いものであった。
 安価なホテルの朝食は,たとえそれがついていると書かれてあっても,期待をしてはいけない。
 このホテルもまた,単に菓子パンとコーヒーがあるだけだった。
 以前書いたことがあるが,ホテルは,1ルーム10,000円を下ると,こうした様になるのだが,私は,こんな朝食なら,むしろ,そういうサービスすら不要で,朝食は近くのマクドナルドで済ませればいいと思っている。
 朝,そんな朝食を済ませてチェックアウトをするためにフロントへ行ってみると,1組の夫婦がくつろいでいた。
 私は,何事か話をしたのだが,内容は全く覚えていない。

 私は慣れっこになっているので,当たり前のように思っているのだが,考えてみると,ほとんどの日本の人は,こういう旅行なんて無縁だろう。だから,ふとその気になって,ドライブに出て自然豊かなところに行ってその地で宿泊しようと考えても,ひなびた旅館はあったとしても,気楽にふらっと車を停めて1泊できるようなそんなところがない。
 こういうモーテルが日本にあってもいいと考えたオーナーが「旅籠屋」というチェーンを作ったが,それほど多くあるわけでないのが,残念である。
 それに,小さなキャンピングカーを買って,道の駅などで宿泊しているのを見ることもあるが,設備が整っているとは言い難い。その点,アメリカはとても便利なのである。

 私はホテルをチェックアウトして,そのままインターステイツ64で西に,セントルイスを目指して走って行った。ミシシッピ川を越える鉄橋が見えて,その向こうには,懐かしいセントルイスの摩天楼とゲートウェイアーチがかすんで見えてきた。
 ミシシッピ川を渡る橋に差し掛かった時,左右にすさんだ街並みが見えた。これが噂のイーストセントルイスなのであろう。
 私は,メンフィスへ行ったときに西から東に越えたミシシッピ川を,今度は東から西に渡った。今日の写真も,また,道路のセンターに引かれたイエローラインに注目していただきたい。

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☆ミミミ
 予報より2等級暗いカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)ですが,次第に高度が高くなって,一晩中楽しむことができるようになりました。彗星は,おとめ座のあたりから北極星に向かって進んでいて,現在は,おおぐま座,つまり,北斗七星のしっぽのあたりにいます=0.72AU。
 おおぐま座のあたりには,ひまわり銀河M63=2,670万光年(上から3番目),子持ち銀河M51=2,510万光年(上から4番目)(いずれもりょうけん座),回転花火銀河M101=2,250万光年(上から5番目),M108=4,600万光年(上から6番目),M109=5,500万光年(上から7番目)と,写真写りのよい銀河がたくさんあります。カタリナ彗星は,1月14日から17日にかけて,この中でM51とM101のふたつの銀河に近づきました。特に,M101には17日に2度という非常に近いところを通過したので,この彗星一番のイベントとして,私は,とても楽しみにしていました。
 そして,いつものように,問題は天気でした。

 ずっと暖冬だったのですが,やっと? 寒波が来そうな予報。これで困るのは北西の方向の天気が悪くなることです。彗星が見えるのは北東の方向なので,見にいく場所に困りました。とりあえず行先も決めず,1月14日の深夜からは毎晩空を見上げて,晴れているようならその時に行く場所を決めて出かけることにして,準備をしました。
 まず14日。この日は,M51に7度くらいまで近づくので,焦点距離180ミリくらいの望遠レンズなら一緒に写せます。でも,大して見栄えのするものでもなさそうだったので,空が明るく写る保証すらなかったのですが,家の近くの川の堤防で試しに写してみることにしました。
 現地に着いたときは,一応星が見えました。ところが,この日は,雲が「湧く」のです。それも,彗星のいる位置の左側,ちょうど北極星の下あたりに絶えず雲が湧いて彗星の方に近づいてくるのです。私は,雲は流れるものだと思っていたのですが,「湧く」というのを初めて実感しました。湧いた雲が流れてきて彗星を覆います。それが通り過ぎるのを待っていると,また,新たに晴れていたはずのところに雲が湧いてくるのです。これには参りましたが,それでもなんとか雲間を待ってやっと写すことができました。これが2番目の写真です。
 期待もしていなかったのですが,予想以上に子持ち銀河がはっきりと写ったのには驚きました。彗星が右端,小さな銀河が左下端に写っています。
 翌15日は,ちょうどM51とM101の間に彗星がいました。そこで,この2つの銀河と一緒に写すのがいいのかなあ,と思って,焦点距離85ミリで狙うことにしました。ところが,あいにく深夜2時くらいに空を見上げると厚く雲が覆って,全く星が見えませんでした。そこで,そのまま寝てしまったのですが,朝起きてみると快晴になっていました。しかし,6時ころまでは雲が出るという予報だったので,果たして,夜明け前に晴れていたのかどうかは定かではありません。

 そして,M101に最も近づく待望の16日になりました。
 M101と彗星はかなり接近するので,360ミリの焦点距離でちょうどぴったり入ります。これなら見栄えがします。ただし,月が明るくなってきているので沈むのが23時30分ごろ,ところが,天気予報では,午前1時くらいから曇る,ということでしたので,かなり悲観的で,モチベーションが上がりません。午前1時を過ぎないと,まだ彗星は地平線に近く,空が明るいのです。
 迷った挙句,寒かったこともあって,家の近くで写すことにしました。しかし気持ちだけが急いて,まだ早い22時過ぎに家を出ました。すぐにいつもの場所に着いたのですが,土曜日で世の中は活動中,まだ空が明るく,しかも,西の空には月が明るく輝いていました。そこで,1時間くらい,以前から気になっていた場所を見分することを兼ねてドライブすることにしました。ところが,どこまで行っても北東の空が明るいのです。彗星の見えるあたりの空が灰色がかっていて全くさえません。そこで,どこへ行こうか迷っているうちに,結局,いつもの山へ行くことになってしまいました。しかし,これは,賢明な決断ではありません。雲に近づいていく感じなのです。悪い予感がしました。そこで,ともかく,途中のどこかで空の暗いところに来たらそこで写そうと思いながら走って行きました。
 この日は,北極星と彗星が見えるところだけが暗くて晴れていればあとはどうでもいいのです。
 そう思いながらも,結局,目的地まで行ってしまいました。

 現地に到着して空を見上げると,その時点ではなんとか星が見えたのですが,雲がどんどん出てきました。これでは最悪です。後悔し,あせりながら,わずか数分で望遠鏡を設置して極軸を適当に合わせ,ピントも適当に合わせ,彗星を必死に視野に入れて,何とか写真を写しました。
 それでも途中で雲が出て中断したりを繰り返しながら,なんとか,奇跡的に数分間だけ晴れ上がったところを狙って祈りながら写した写真が,きょうの1番目のものです。
 極軸合わせもピント合わせも適当だったのにガイドのぶれもなくピントも合っていて,奇跡的に思った通りの写真を写すことができて,私は大満足でした。双眼鏡でも綺麗に見えました。気温は−4度でしたが,風がなく全く寒くはありませんでした。
 これから先は月も明るくなっていくし,彗星も暗くなっていくので,この日がフォトジェニックなカタリナ彗星を写すラストチャンスでした。

 この冬も,このカタリナ彗星のおかげで,昨年のラブジョイ彗星に続いて,こうして楽しむことができました。
 今後は,パンスターズ彗星(C/2013X1 PanSTARRS)が4月ごろ明るくなる予想なので,また,新たな楽しみがやって来そうです。

◇◇◇
晩秋の明るい彗星①-月明かりの中,カタリナ彗星を捉えた!
晩秋の明るい彗星②-月と金星とカタリナ彗星と
晩秋の明るい彗星③-カタリナ彗星の羽を広げた2本の尾
晩秋の明るい彗星④-流星がビュンビュン飛ぶ凍てつく夜

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●「Ina」は「伊那市」ではない●
 私は,こうして,インターステイツ69に入った。
 マンモスケイブ国立公園を出発したのが午後3時くらいで,インターステイツ69に入ったのが午後5時くらいであった。
 アメリカの道路は,インターステイツを走っている限り,時速120キロメートル程度で,およそ渋滞もなく,大陸中を駆け巡ることができる。今日は,この先,インターステイツ69を北上して,インターステイツ64で左折して,そのままインターステイツ64をセントルイスまで行くだけであった。
 今晩のホテルは,セントルイスの東の郊外の「ファースト・ウェスタン・イン」(First Western Inn)であった。

 走っているときは,ここが何州なのかということをあまり意識をしていなかったが,オハイオ川を渡った先の道路の表示で,橋を渡ったらインディアナ州に変わったんだということが分かった。
 そういえば,インディアナ州というのは夏時間を採用していない州ではないか,と私は思った。
 この州だけ夏時間でないというのはすごく紛らわしいことである。スマホもなかった時代,旅行者が飛行機の出発時間を間違えた…なんていうエピソードを,日本名「ザ・ホワイトハウス」(The West Wing)というドラマでやっていたのを思い出す。
 今回の旅では,インディアナ州が夏時間だろうとそうでなかろうと私には全く関係がなかったから気にもしなかったが,帰ってから改めて調べてみると,2006年以降は,州全体夏時間を採用したということだった。
 私が以前インディアナ州へ来たのは2002年であったが,その時は時間が分からず大変であった。私は,このインディアナ州は,ほとんど観光もせず,単に,西の端から東の端までインターステイツ70で駆け抜けただけであったのだが,途中のインディアナポリスで夜になって1泊した。そのとき,ホテルがなかなか見つからず,ではない,ホテルのある場所が見つからず,苦労したという思い出がある。そして,やっとのことで見つけたホテルはとんだ安宿で,部屋のキーが壊れていた。
 今ならこんなことがあればフロントに行って部屋を変えてもらうだけだが,当時はそういうことをするもの大変だったのだ。これが12年という月日なのであろう。

 それでも,ここがインディアナ州だということは,地図上からも,また,実感としても理解できた。
 私は,この先も,快調にインターステイツ69から64に乗り換えて,西に向かって走って行ったのだが,そうすると,「ようこそイリノイ州」という道路表示があったのにはびっくりした。イリノイ州といえば,シカゴではないか!
 私は,つい,一昨日はミシシッピ州やらアラバマ州といった南部にいた。それが,突然イリノイ州といわれても,なんだか信じられなかった。
 実際は,セントルイスはミズーリ州にあるとはいえミズーリ州の東の端に位置していて,ミシシッピ川を越えた東は,イリノイ州なのであった。

 イリノイ州に入ったら,インターステイツの周りの風景は再び一変して,花が咲き,さらに美しくなった。
 これにもびっくりした。
 さらにもう少し走って行くと,インタースイツ64は,南北に走るインターステイツ57と交差した。そこにあった町がマウント・バーノン(Mt.Vernon)であった。
 私は,ここで一旦インターステイツを降りて,ガソリンスタンドに入った。
 このガソリンスタンドには,コンビニとともに,デニーズが併設されていたので,ここで,夕食をとることにした。

 この町でインターステイツ57をそのまま北上していけば,セントルイスではなく,シカゴまで容易に行くことができるのだ。ああ,また悪い誘惑に負けそうだった。私は,今回の旅で,まさか,「シカゴ」などという地名が出てくるとは思わなかった。シカゴに行けば,デトロイトだって遠くはない。その先はニューヨークだ。
 アメリカは広いのか狭いのか? 私にはだんだんわからなくなってきた…。
 そうした誘惑を振り切って,夕食後,私は,インターステイツ64に戻った。
 ところで,このインターステイツ57を,シカゴに通じる北方向ではなく南方向に走ってい行くとイナ(Ina)という町に着くのだが,Google Mapsでは,この「イナ」は,なんと漢字で「伊那市」と表示されるのだ。これは絶対に間違い=バグである。でも面白いからそのままにしておこう。
 日が沈み,あたりが暗くなってきたころに,私は,今日宿泊するホテルに到着したのだった。

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 箱根関所跡から三島まで,江戸時代にタイムスリップしたような旧東海道歩きも途中の山中城跡から西は道路工事に阻まれて,単に国道1号の歩道を歩くということになってしまいました。
 次第に標高も低くなって,眼下には三島の街並みが見えてきました。
 結局20キロメートル近い道のりも,初めの5キロメートルくらいの山道が大変だったことと,「がれき畳」が非常に歩きにくかっただけでした。

 道路工事区間も終わり,ふたたび旧東海道に戻ったのですが,そこは,すでに,普通の生活道路でした。
 それにしても,家の前の普通の道が,昔の東海道,なんて,すごいじゃないですか! とは思ったものの,家の近くの普通の道だって,江戸時代の街道だったりするわけだから,別に感慨にふけるようなものでもないのかもしれません。
 考えてみるに,われわれは,今は,国道や高速道路を知っていて,あえて旧の東海道を歩いてるわけですが,江戸時代は,まさに,この旧東海道しか物流の行える道はなかったわけです。きっと,もっと人も物資もこの狭い道を往来していたわけだし,どうしてこの場所が道であったのか,とか,そういうことを地形図を見ながら考えてみると,まことに興味深いわけです。
 道ひとつ,学問にするのもおもしろいものです。

 私は,この先は,もう,三島までだらだらと下るだけだと思ったのですが,実は,これから三島の市街まで,さらに,多くの坂がありました。中でも,一番すごかったのが「こわめし坂」というところでした。かなりの勾配で,下るのも大変だったのだから,これを上るのはかなりのものです。
 下から上ってくる女性がいたので,大変ですね,と声をかけたら,私はいつもここを上っているけけれど痩せないわと言って笑っていました。
 やがて,松並木が今も残る初音が原というところまで来ました。
 愛知県にも御油というところに今も松並木が残っていますが,同じような感じでした。
 こうした景観を維持するのは大変なことでしょうが,末永く保存されるといいなあ,と思いました。
 そして,錦田一里塚という,いまでも街道の両側に一対で残っているめずらしい一里塚を越え,さらに,その先に東海道線の踏み切りを越えて,今回の行程は終了となりました。
 その後は,三島駅から在来線に乗って帰宅しました。

 天気も悪く,富士山も見られず,単に歩いただけ,という結果となりましたが,箱根八里のうちの後半を,下り坂とはいえ,体験することができました。
 残りの前半を,小田原からの上りでは大変なので,やはり,箱根関所跡から今度は東に向かって歩いてみようかとも思いますが,果たして,それはいつのことになるやら…。
 いずれにしても,日本を足を地につけて歩いてみると,この国は,生きることだけで精一杯で,景観を保とうとか,文化を大切にしようとかいった志が本当にない貧しい国だということを実感します。そして,何をするにも,それをすることだけがすべてて,そうすると,全体の調和がどうなるかとか将来どういう影響があるかとか,そいう心配りがまったくできないのだなあ,ということをとても残念に思います。

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●今回の旅は珍しいルートだった●
 今日の宿泊先は,セントルイス郊外の安価なホテルが予約してあった。
 マンモスケイブ国立公園からは北北西に280マイル(450キロメートル),車で4時間ほどのところであった。日本でいえば,東京から京都といった距離であろうか。
 もう,このあたりでは,車で4時間といっても全く驚かなくなっていた。隣町へ行くような感じであった。
 私のこの旅の目的は,マンモスケイブ国立公園へ行ったことで,ほぼ達成された。結局,この旅でどこへ行ったかといえば,ブランソンでショージ・タブチショーを見て,メンフィスとナッシュビルで少しだけエルヴィス・プレスリーと接して,マンモスケイブ国立公園へ行った,というくらいのものであった。そして,残るのは,実は,これが一番やりたかったことだが,カンザスシティ・ロイヤルズのベースボール観戦であった。

 帰国してこれを書きながら改めて思うのだが,こんな旅行,きっとこれを読んでいる方も,一生行く機会などないであろう。もし,10日くらいの休暇ができたとして,わざわざこの地を選んで旅行をするなど,普通には考えられないからである。そういう意味から考えると,かなり贅沢な旅といえるのかもしれない。もし,これだけの時間とお金を費やす機会があれば,ニューヨークにも行けるし,ハワイなら,結構贅沢な休日を過ごせる。ヨーロッパだって周遊ができるのだ。だからこそ,私ですらこれまで行く機会がなかったのだし,きっと,将来,また行くなどということはあり得ないかしれない。
 だがしかし,あえて行かねば行く機会のない場所というのは,本当にその気にならなければ,一生行くことなどないのだ。若い頃ならそのうち,と思うが,私のような年齢になったら,本当に,今行かねば,絶対にその機会はない。
 人生とは,かくも短いのである。
 「私も行ってみたい」と言われるので誘ってみると,結局は何だかんだと理由をつけて断る人がいるが,きっとそういう人は,一生をそうやってつまらなく送るのだろう。

 それはともかく,本題に戻ろう。
 マンモスケイブ国立公園からセントルイスまでは,西北西に進んでいくのだが,このあたりしばらくはインターステイツがないから,一番近いインターステイツ64に出るまでは,一般道を走っていく必要があった。
 したがって,今回も,また,いつものように,道路の写真ばかりになるのをご了承いただきたい。そして,写真の中の,道路の左端にきちんと引かれたイエローラインに注目していただきたい。日本の道路のようにやたらとたくさんわけのわからぬ線が引かれていたりいろが塗られているのに比べてわかりやすく,しかも,安全である。道路を整備するとはどういうことかがこれだけでも明白であろう。
 それにしても,アメリカを旅行しているとすでに見飽きたようなこうした景観も,日本では,どこにも存在しないものである。
 とりあえず,今回の行程は,この旅で最後の複雑な一般道の道のりであった。

 写真の順に紹介していこう。
 マンモスケイブ国立公園を出て,私は,まず州道70を西北西に走って行った。
 「ブラウンズビル」(Brownsville)「ラウンドヒル」(Roundhill)「アバディーン」(Aberdeen)という名の小さな町を通過し,「ウィリアム・ハッチャー・ハイウェイ」という名の州道9007に入って,そのまま北北西に「オーエンズボロ」(Owensboro)という結構大きな町に向かって走って行った。「オーエンズボロ」はケンタッキー州の北の端である。
 ケンタッキー州の州境はオハイオ川であった。
 私は,カーナビに従って走っていた。地図を見るとこの「オーエンズボロ」でオハイオ川を渡って,次のインディアナ州に入るように思えるのだが,カーナビが示したのは,「オーエンズボロ」の手前で「ウィリアム・八ッチャー・ハイウェイ」はUの字のようにこの町を周回する環状道路になって,その環状道路を通って「オーエンズボロ」を迂回して通り過ぎて,その後そのまま西に向かって次の町「ヘンダーソン」(Henderson)まで行き,そこでオハイオ川を渡ってインターステイツ69に入るルートであった。
 私は,その指示に従って走って,「ヘンダーソン」にたどり着いた。ここでオハイオ川を越え,ついに,インディアナ州に入った。ケンタッキー州は美しく,フリーウェイからは,写真には写すことはできなかったが巨大なケンタッキーダービーの競馬場を見ることもできた。ケンタッキー州は,ゆっくり旅をするのに値するところかも知れない。

 ところで,私がケンタッキー州に行ったのは,この時が初めてではなかった。シンシナチという町はオハイオ州の南の端にあるのだが,オハイオ川を越えるとケンタッキー州である。
 私は,シンシナチに行ったときに,この川を越えて,対岸のケンタッキー州から美しいシンシナチの街並みを見たことがあるのだ。そのときは,セントルイスから東にインディアナポリス,シンシナチ,ピッツバーグ,クリーブランドとドライブをしたのだが,メジャーリーグの球団名としては有名なこうした都会でさえ,日本人が観光で訪れるようなところではなかったら,当時ずいぶんと珍しがられた。
 それから考えると,今回行ったところは,さらにもう一段階珍しいルート,ということになるだろうか。いずれにせよ,このまま今回セントルイスに行けば,その時に私の行ったルートとつながるわけだった。

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●「凍ったナイアガラ」●
 最初の20分くらいは,延々と階段を下りていくことになったのには,かなりびっくりした。
 この階段は,ものすごく狭く,しかも急で,工事現場に作られているような感じのスチールメッシュのちょっと頼りない風情であった。
 上から垂れる水で濡れていたりと,かなりのものだった。しかも下が透けて見えていて,そこから下をのぞくと,底なしであった。さらに,眼下に暗い空洞が広がっていたりもして,かなりの恐怖であった。暗いからまだしも,きっとこの深さは10階建てのビルにも匹敵するであろう。
 これだけでも,午前に参加したツアーとは圧倒的に違っていた。
 すごく体の大きい人が参加していたが,この階段を降りることはできるのであろうか? 心配になった。

 参加者が順に階段を降りて行った。
 やっとのことで一番下まで降りると,そこは広場になっていた。午前のツアーと同じように,そこには長椅子があって,そこに座ってレンジャーから説明を聞いた。
 説明が終わると,今回も,午前中のツアーと同様に,洞窟には光が全く入ってこないから,ここで本当の暗闇というものを体験してみましょう,ということで,そこのライトが消された。
 真っ暗闇というものがどういうものか,という体験が,どうやら,この洞窟ツアーの一番の見どころ? いま見えないどころ? であるらしい。

 点灯後,再び,歩いて先へ進んでいった。
 この先は階段はなかったが,その後は,少しずつ登ったり下ったりと高低差があって,しかも頭がぶつかりそうな高さだったり,カニ歩きをしなければ通れない細いところがあったりと,なかなかたいへんであった。
 垂直に開いた大きな穴を降りていくと,その途中は,様々な大きさの洞窟のにつながっていた。カラカラに乾いたものもあれば,しっとりと湿っているらしい鍾乳洞タイプもあった。
 縦穴があるのは,水が上からしみ込んでいった証拠で,その穴の両側にできている洞窟はその時点での縦穴の底にあたり,水が出口を求めて左右に穴を掘っていった証拠だということであった。

 やがて,洞窟がだんだん鍾乳洞のようになってきたところが,最終地点である「フローズンナイヤガラ」(Frozen Niagara)であった。
 ここが,このツアーの目玉である。巨大な鍾乳石が天井から壁を伝って床近くまで垂れ下がっていて,まさに流れ落ちる水が凍りついたかのように迫力ある姿だった。
 深く落ちくぼんでいるところに50段ほどの往復用の階段がついており,下まで行けるようになっていた。大きな鍾乳石が垂れ下がっているところは確かに,この場所の名前である「凍ったナイアガラ」のような感じであった。オレンジ色のスポットライトに照らされているだけのそれは,シンプルなだけにとても綺麗に見えた。
 このように,ここマンモスケイブは洞窟とはいっても鍾乳洞ではないのだが,この場所だけが特別に鍾乳石に覆われているのであった。

 その後2分ほど歩いたところが出口に通じていた。
 外に出ると,迎えのバスが来て,再びそれに乗り込んでビジターセンターへと戻った。
 このツアーもまた所要時間は2時間ほどであった。
 ビジターセンターに入る前に,鳥インフルエンザのウィルスが蔓延するといけないからということで,ビジターセンターの入口にずらりとひかれた消毒液が浸された通路に靴の足裏を付けて歩いて消毒した。
 これで,ツアーは終了であった。

 午前の「ヒストリックツアー」では,鍾乳石を見ることはほとんどなかったので,このツアーのほうがはるかに素晴らしかった。このマンモスケイブ国立公園へ出かける機会があって,半日しか時間がない人には,こちらのツアーのほうをぜひおすすめしたい。
 以前行ったニューメキシコ州のカールズバッドの洞窟と比べると,洞窟の大きさや広さはカールズバッドよりもこちらのほうがすっと圧巻であったが,鍾乳洞という面では,カールズバッドのほうが,はるかに素晴らしいものであった。
 いずれにしても,どちらも,日本のものとは全く比べ物にならない規模であるが。
 日本ではあり得ない体験ができるという意味で,まさに,圧巻であった。ここは,地球も惑星だということが実感できる場所であった。
 それにしても,洞窟内は非常に暗いのだが,現在のカメラはそれでも結構写真を写すことができるのだから,私は,今の時代にこの洞窟に行くことができて,とても幸運であった。

百武彗星325ヘールボップ彗星308 HaleBopp4img0022006_1_29

 かくゆう私も「ドリラー」の被害者で,かつては,机上の勉強だけでわかったような気になっていました,実際には何もできず知らず歳をとってしまった今頃になって,それではいけなかったんだなあと,星を見るたびにそういうことを思って愕然とします。日本が貧しかったころ,ピアノを習いたくてもピアノがなかったので,紙に印刷された鍵盤で練習をしたものです。そんなものが何の役にも立たないことは明らかですが,学校の勉強も実践が伴わなければ,それと大差ありません。

 ところで,すでにハレー彗星の軌道についてはすでに書いたので,今回は,まず,百武彗星とヘール・ボップ彗星の軌道を取り上げます。
 今日の1番目の図は,前回書いた百武彗星の一番明るかった1996年3月18日の軌道上の位置です。これを見ると本当に地球に大接近していますね。そして,2番目の図が,その次の年1997年3月8日,ヘール・ボップ彗星が地球に接近したときのものです。これを見ると,ヘール・ボップ彗星は,地球に近づいたというよりも,地球を避けるかのように,地球から遠いところを逃げまわるように通っています。
 この両者の動きは,まるで,百武彗星が1910年,ヘール・ボップ彗星が1986年のハレー彗星の軌道の様子と同じようです。そのように考えると,この2つの彗星は,ハレー彗星の併せ技みたいな気がしてきます。
 異なるのは,ヘール・ボップ彗星と地球がこれほど最悪の位置関係だったのにもかかわらず,まれに見る明るさの彗星となったことです。それというのも,この彗星の核の直径が何と50キロメートルもあり,ハレー彗星の3倍の大きさだったからなのです。もし,ヘール・ボップ彗星と地球の位置関係が百武彗星と地球の位置関係のようであったら,一体どれほどすごい姿を我々に見せたことでしょう?

 では,この先は,前回予告したように,ヘール・ボップ彗星(C/1995O1 Hale-Bopp)についての話題を書きましょう。
  ・・・・・・
 ヘール・ボップ彗星は,日本の立川生まれのアラン・ヘール(Alan Hale)さんとデンバー生まれのトーマス・ボップ(Thomas J. Bopp D.Sc)さんという2人のアメリカ人によって,1995年7月23日に発見されました。アラン・ヘールさんは,ニューメキシコ州の自宅近くで彗星を捜索中に,いて座の球状星団M70の近くに11等星の彗星を見つけました。一方,望遠鏡を持っていなかったトーマス・ボップさんは,星団と銀河を見るためにアリゾナ州スタンフィールドの近くに友人と外出していて,友人の望遠鏡のアイピースを覗いているときにたまたま彗星を見つけたのです。望遠鏡も持たない人が歴史に名を残す彗星を発見したというもの面白いものです。
 発見後,天文学者がこの彗星の軌道を計算したところ,なんと,彗星が発見されたのは木星と土星の軌道の間という遠いところだったのに,彗星はそのころにすでに飛び抜けて明るく,中心部をとりまくコマさえ観測されました。そこで,この彗星が最も太陽に近づく1997年4月1日の頃には「世紀の大彗星」となるのではないかと大騒ぎとなりました。
  ・・・・・・

 大方の予報は失望に変わるのですが,この彗星は例外で,順調に予報通り明るくなっていきました。
 1996年の夏頃になると,早くも肉眼でも見られるほどになり,1997年の1月には大都市からでも見えるようになりました。そして,ついに,3月にはマイナス1等星の明るさになって,2本の尾が明るく長く見えるようになりました。
 その後,6月には北半球では見ることができなくなったのですが,ところ変わって,それまで見ることができなかった南半球の人々は,彗星がゆっくりと暗くなり見えなくなっていくのを最後まで見届けることができたそうです。
 このように,ヘール・ボップ彗星は,18か月もの間6等星よりも明るい光度を保ったので,20世紀で最も長く観測された彗星となりました。

 私がはじめてこの彗星の写真を写したのは,1997年2月9日のことです。そのころは,まだ尾は短かったのですが,明るさはすでに堂々としたもので,私はそれですっかり満足しました。
 この後,どんどんと彗星は明るくなっていきました。
 3月8日には,地平線から尾だけが昇ってきてもそれを見ることができるようになり,やがて,彗星の核が地平線から姿を現すと夜空が明るくなるという感動的な姿を見ることができました。それが今日の3番目の写真です。
 きっと,これほどの大彗星を見ることは,私にはもうありますまい。そういう意味でも,この彗星を見ることができたのは,とても幸せなことでした。ふつう,写真で見るよりも実際に見る彗星はずっと貧弱なものなのですが,この彗星は,まさに,このような姿のまま肉眼でもみることができたのです。
 3月の下旬となると,彗星は夕方の西の空にその位置を変えました。地平線から垂直に尾を上に向けて昇ってきた明け方の姿とは違って,地平線に堂々と横たわる夕方の彗星の姿は,天空を魚が空を泳いでいるかのようでした。私は,その時の姿を今でも鮮明に覚えています。6番目の写真がそれです。
 そして,4月の下旬となると,4番目の写真のように尾がますます太くなっていったのが,また,ものすごく衝撃的なことでした。

 この彗星は,地球からはるかに遠ざかった今でもまだ追跡され続けています。
 2003年12月31日以降,しばらく消息が途絶えていたのですが,2005年1月8日に,天王星の軌道よりも外側に2本の尾を持つヘール・ボップ彗星が,チリのラスカンパナス天文台で観測されました。さらに,2007年10月にはシドニー大学のグループにより,20等級の明るさで彗星が観測されました。これが今日の5番目の写真です。
 この巨大な彗星は2020年頃までは大望遠鏡なら観測可能かもしれないと予測されてています。
 このヘール・ボップ彗星は西暦4530年頃に再び戻ってくると考えられていますから, あと2,400年あまりです。気長に待ちましょうか。

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 石畳を何を勘違いしたのか「ガレキ畳」として整備されていたのはともかく,旧東海道の有り様が分かるだけでも意義のある険しい山道を味わうことで,私は,旧東海道を歩いてみるというその目的は十分に達成できたし,江戸時代にタイムスリップしたようで楽しかったのですが,それとは反対に,山中城跡から三島までの残りの3分の2は,現実に戻って,旅情とというよりも,現在の日本の,すさまじいまでの国土の腐敗が実感できる道行となりました。

 道路を作るとき,景観の良い場所にはささやかな展望台を作るとか,そういう余裕が,というか心の豊かさがこの国には全くないのですね。それがあるところはまれですが,たまに偶然意図せずそうなったところは「穴場」となるわけです。だから,景観のよいところではわき見運転はするし,駐車してはいけない場所に車は停めるし,金儲けだけを目的としたおかしな観光地は出来上がっていくし,こうして,国土は荒れるがままになっていくのです。
 そもそも楽しむために生きる西洋人と苦しむために生きる日本人という,人が生きるという本質的な思想が違うのだから仕方がありません。
 アメリカのインターステイツ70は,インターステイツの中でも有数の景観が眺められる道ですが,この道路にはいたるところに展望台があります。また,国立公園法で国立公園はごみひとつ捨ててはいけないと法律で定められていますし売店もありませんから,景観が保護されています。星空の美しいアリゾナ州フラグスタッフの町は夜のネオンまで規制されています。

 今日の行程で感じたのは,そういうことでした。だから,この国でトレイルをしても,まったく楽しくないのです。
 今日の1番目の写真をご覧になって,どう感じられますか?
 この道は,旧東海道の正式なルートなのです。ここで書いてあることが意味するのは,人が歩くなということではなくて,この石畳をゴルフに来た人が車で通行するな,という意味なのです。そういうことがこの表示で分かりますか?
 2番目の写真は,三島市が作った巨大な観光用のブリッジに来た人のための駐車場です。
 これを作ることで,このあたりの景観がどうなるか,ということをどこまで配慮したのかは知りませんが,数十年もすれば,ここもまた廃墟となっていくのかもしれません。 
 そして,3番目の写真です。実は,山中城から先の旧東海道は,新しいバイパス道路を作るために閉鎖されていたのです。だから,私のような,数少ない歩行者は,延々と国道1号線の端に申し訳ない程度にこしらえられた歩道を数キロにわたって歩いていくことになったわけです。
 きっと,こうした新しい道路を建設する部署と旧東海道を散策できるように整備することを担当する部署は,全くの別物なのでしょう。そして,道路を建設する部署のほうが圧倒的に力と金があって,道路を作る人たちにとっては,旧東海道の散策などどうでもよく,単に迷惑なだけなのでしょう。
 これもまた,この国の有り様なのです。
 
 工事区間が終わって旧東海道の散策ルートにもどると,途中,一里塚が残っていました。それが,4番目と5番目の写真です。
 このあと,三島まで行く途中には松並木が残っているところもあるのですが,こうした一里塚や松並木を見たとき,明治維新でそれまでの旧東海道が突如荒れるに任されて,わずか数十年で,めちゃくちゃに破壊されていった様子が,とてもよく実感できます。
 現在作られている道路もそうですが,新しいものを作ったときに,それまでの役割を終えた道路が廃道となっても,それを元の姿にもどすこともなく,荒れるに任されている姿が各地にあります。それらを自然に返すための予算などそれをつける余裕もないらしいです。ならば新しい道を作らなくてもいいのに…。
 再び書きますが,こうして,この国は背伸びを繰り返しながら,国全体がごみ箱のようになっていくのです。

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●一番前の列は身障者用である●
 マンモスケイブ国立公園のビジターセンターには立派なホテルが併設されているだけあって,中にはカフェテリアというよりもちゃんとしたレストランがあった。
 この旅は,これまでずっと車を運転しているだけのようだったので,きょう1日はのんびりとこのアメリカ有数の観光地を堪能しようと思った。そこで,午前のツアーを終えて,ここで少し長めの昼食をとることにした。
 私がレストランに入ったときは,昼食にはまだ少し時間が早かったので,他にはお客さんが誰もいなかった。私は,サンドウィッチを注文して,少しリッチな気分に浸ることができた。

 写真のように,アメリカのレストランは,フォークとナイフがくるりと紙ナプキンに包んで置いてある。そしてテーブルの上にあるのはボトル型のケチャップとマスタードなのだが,このケチャップのボトルは逆さにして置けるようになっている。こういうものひとつ取ってみても,非常に合理的なのである。
 コーヒーを頼むと,写真のような大きなマグカップに入れてくれるのだが,ミルクのカップも日本より一回り大きく,しかも三つも四つもくれる。コーヒーはお代わり自由と書いてあることも多い。
 サンドイッチというのは,要するにハンバーガーのことである。日本でも,マクドナルドではハンバーガーをサンドイッチといっているのだが,日本人は,サンドイッチというと別のものを思い浮かべることであろう。
 ハンバーガーというのは,アメリカでは立派な食事で,夕食にしてもなんら問題はない。むしろ,パンと野菜とお肉を一緒に食べられるからとても合理的なのだが,日本人がこれをおやつのように錯覚してしまうのは,おそらく,マクドナルドのせいであろう。それは,多くの日本人が生まれて初めて出会うハンバーガーがおやつとして食する程度のマクドナルドのハンバーガーだからである。
 あるいは,モスバーガーのように,日本的に豪華にすると,和洋折衷のやたらと手間ひまだけかけたものが登場することになるわけだ。
 私がこのとき注文したのは,写真のような「サンドイッチ」であった。
 私が食事を始めるころにはレストランにはだんだんと人が来て賑わっていた。

 昼食を終えて,のんびりとコーヒーを2杯飲んでも,まだ時間があったので,ビジターセンターの周りを散策した。やがて時間になったので,今日の午後の予定であるドームズ・アンド・ドリップストーンズ・ツアー(Domes and Dripstones Tour)に参加するために,午前中と同じように,集合場所に行った。
 「Dome」とは 丸天井,「Dripstone」とは鍾乳石のことである。
 午後のツアーも,集合場所は朝のツアーと同じであった。
 やがて参加者が三々五々集まってきた。
 午前に参加したツアーは集合場所から歩いて洞窟の入口まで行ったが,午後のツアーは,集合場所からグリーンに塗られたバスに乗り込んで10分ほど森の中へ移動した。環境保護のため,このバスはガソリン車ではないということであった。
 バスは自由席なのであるが,アメリカでは,断りがなくとも一番前の列は身障者用であるから注意が必要である。アメリカは,こういうことを含めて,身障者や弱者に対して,何でも日本よりきちんとしている。私は,こういうときに日本の姿を思い浮かべていつも恥ずかしくなる。日本は,他人と比べることは大好きだが人権とか学問をリスペクトしない国である。

 やがて,バスは森の中に入っていって,洞窟の入口に到着した。バスを降りて100メートルほど林の中の小道を進んでいくと広いところに出て,そこに参加者が集合となった。
 レンジャーが立っている横の扉が洞窟の入口だった。
 入口はこういう場所には不似合いな頑丈な銀色の扉で,通常は施錠がしてあるものだった。まるで洞窟の入口というよりも物置小屋の入口のようであったが,この入口は自然にできた穴ではなく,観光のために無理やりダイナマイトでこじ開けたところということだった。
 いつものように,入口付近でレンジャーの紹介と注意事項の説明があった。そのあとで、これもやはりいつもと同じように,参加者とあなたはどこから来たの? みたいな受け答えがあった。最後はお決まりの「一番遠くから来た人は?」の質問であった。待ち構えていた私が大声で「JAPAN」というと,今回もダントツの遠いところから来た人の第1位となって,説明はお開きとなった。
 午前に参加したツアー同様,今はまだ,さすがに,ここまでは中国人の姿もない。
 レンジャーが入口の鍵を開けて,順に中に入った。

4 2016_01_09bDSC_2041s5木星2DSC_5345r2 DSC_2251t2 4 2016_01_09 4 2016_01_09

☆☆☆☆☆☆
 今月の月は,1月10日の午前10時31分に太陽を追い越します。その位置が重なっていれば日食となるわけですが,今月は少しずれているので日食にはなりません。今月のその時の月齢は29.6。つまり,今月は「29.6=0.0」となります。
 全ての月齢の月の写真を写そうとはじめたら,果たして新月すれすれの月はどのくらいまで見ることができるのだろうかという,おかしな方向に興味の対象が移ってしまいました。
 先月,月齢27.9は容易に写すことができたのですが,翌日の28.9は全く姿かたちも見えず失敗しました。新月を過ぎた後の月齢0.9は周到に準備をして,双眼鏡で辛うじて夕方の西空に発見,写真に収めることができました。
 そして,いよいよ月齢28の月2度目の挑戦です。
 今月は28.4なので,先月の28.9よりははるかに容易です。「29.6-28.4=1.2」,0.9が見えたのですから見ることができるはずです。
 しかし,問題は見ることができる場所なのでした。この日のために,地平線ぎりぎりまで見渡せる場所を探し回りました。

 ここで,また,いつものように話が少し脱線します。
 私は,何事も「必要かつ十分である」ということが大切だと思っているのですが,どうも,この国の人はそうではないようです。過剰にやればいいと思っている,それが私は嫌いです。
 例えば,自分の使う車は,自分が使う目的にかなう性能と大きさがあればそれで十分,それより高級なものは必要ありません。同じように,何かをするにも,必要かつ十分な手間暇をかければよいのです。生きている持ち時間には限りがあるのです。余分なことに費やすような時間はありません。
 英語の勉強をするのにも,不自由なく使えるようにするのが目的なら,ほとんど使いもしないような難しい文法まで覚えたり,単語を覚えるのに異常に多くの時間を割いたり…。そんなことは通勤するのにダンプカーで行くようなものです。そんな時間があるのなら,どんどん英語で本を読んだりメールを書いたりしたほうが,よほど英語が身につきます。
 よく,勉強時間などといいますが,机上の勉強時間なんて,短いほうがいいのです。できるだけ短くして効率的に学んで,それを活用すべきなのです。3時間で身につくのなら,同じことを身に付けるのに2時間ではできないか,と考えるのです。多ければいいというそういう風潮は間違っています。そのために,体験すべき多くのことを犠牲にしています。そのことが社会人となったあとで,残業ばかりの会社生活を呼び,ひいてはブラック企業をのさばらせます。
 勤務時間が8時間なら,8時間で仕事ができるようにするべきなのです。

 それと同様に,同じ写真が写せるのなら,できるだけ家から近いところでそれができればいいわけです。何時間もかけて暗い山の上まで行かなくてもいいのです。そんなわけで,私は,できるだけ近いところを探し回って,家から車で15分くらいの一級河川の堤防道路の脇に絶好の駐車帯を見つけました。ここなら,地平線まで見渡せるし,町の明かりも少しは気になりますが,惑星や月を写すには十分,それに,道路が凍結,ということもありません。
 ということで,やっと見つけたその場所に早朝出かけて,東の空の地平線すれすれにいる,月とちょうど大接近中の金星と土星の写真を写すことにしました。
 まず,2番目の写真は,はじめてその場所に行った日に,ここでどのくらい星が写るのか試し撮りをしたカタリナ彗星です。さすがに,淡い尾までは無理でしたが,思った以上に星も写せることが分かりました。きっと,画像処理を工夫すれば,結構いけるのではないかと思われます。

 そして,いよいよ1月9日になりました。
 この日は,金星と土星が0.47度,つまり,月の大きさよりも大接近,しかも月齢28.4。このふたつを写すことが目的でした。しかし,問題は天気でした。予報は雲。早朝4時,自宅で空を見上げると,雲がポコポコ浮いていました。しかし,星が見えないこともなかったので,出かけることにしました。
 現地に着いたら,幸い,北極星は見えたので,早速極軸を合わせました。次に,ピントを合わせるために,天頂付近に輝く木星を狙いました。また,そのいきさつは後ほど書こうと思っていますが,今年,私は,使っている望遠鏡でどのくらい惑星が写せるものか挑戦しようと,拡大撮影をすることにしたのです。それが3番目の写真です。拡大撮影の記念すべき1枚目になりました。わずか7.5センチの口径で木星の縞模様が写せました。

 このように私が木星を写すのに熱中していたころ,東の空には一面の厚い雲が…。
 少し待っていたら,少しだけ地平線すれすれに雲が切れて,そこに金星が昇ってきたのが分かりました。そのわずか下には寄り添うように土星が恥ずかしそうにくっついていました。あわてて望遠鏡を向けて写真に収めたのが4番目の写真です。露出時間を多く取ったことと,地平線に近く大気の影響もあって,土星の環までは写せませんでしが,なんとかふたつ並んだ姿を捉えることができました。
 しかも,この日は雲が多く,この写真しか写せませんでした。
 ここからは後日談です…。
 翌日,つまり今日の早朝,少し金星と土星の位置は離れてしまいましたが,天気がよかったので自宅で再び写しました。これが5番目の写真です。土星が金星を追い越して,左下が金星,右上が土星です。たった1日でこれだけ変化するのですね。
 素人目には小さな点がふたつ写っているだけですが,露出を抑えたために,金星は内惑星なので月の満ち欠けと同様少し欠けていますし,土星には輪がクリアーに写っています。ぜひ拡大してご覧ください。

 次は月でした。
 昨日来た時に,月齢27.4の月(6番目の写真)がどの場所に昇ってくるのかはしっかりチェック済みだったので,月が昇る時間にその場所に双眼鏡を向けてみると…。そこには,雲の隙間に,鮮やかでかつ赤みを帯びた薄っぺらな月が! 意外なほどよくみえたので,本当にびっくりしました。地上の光と大気の影響で,月は赤く大気に揺らいで,震えたような姿でした。それが,今日の1番目の写真です。
 あまりに美しいので思わず見とれてしまいました。
 意外なほど簡単に見つけることができたことにも,また,びっくりしました。
 次第に高度が高くなって,月の見える場所だけは雲も切れて,大気の影響も少なくなってきたので,再び写したのが,7番目の写真です。
 やはり,ここでも「何事も実際にやってみないことには始まらない」ということを再認識しました。
  ・・
 それにしても,こんな美しい姿を,多くの人は知らずに生活しているなんて。そして,こういう姿をどんどんと手の届かないものにしているなんて。

☆ミミミ
月の写真を撮る③-ついに撮ったぞ! 月齢0.9

◇◇◇
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 前回,1910年のハレー彗星がどのくらい明るかったか想像ができない,ということを書きました。そこで,「ステラナビゲーター」というソフトウェアで,この時のことを調べてみました。
 1910年4月20日,太陽に大接近したハレー彗星は,その後,地球に近づいてきました。
 ちょうど地球とハレー彗星がお互いに近づいてくる形になって,最も近づいた5月19日には,彗星の尾がなんと地球を包み込んだのです。
 やがて5月21日頃になると,太陽から少し遠ざかったことでハレー彗星は日没後に鮮やかに見えるようになりました。この日の午後8時過ぎの様子は今日の一番目の図のようであったと考えられます。
 もし本当にこの通りだったとすると,これはものすごいことです。欲をいえば,5月24日が満月だったことだけが残念だったのですが,月明かりなど物ともしないほどの明るさだったと思われます。
 その後は次第に地球から遠ざかっていったのですが,6月いっぱいは肉眼でも見ることができたということです。
 やはり,これによると,この時のハレー彗星はとんでもない姿で見ることができたようですね。

 ここからが,今日の本題です。
 私がこれまでに見た中で,非常に印象に残っている彗星は,何といっても百武彗星とヘール・ボップ彗星です。
 歴史的な文献には「ほうき星」についての多くの記述があるのですが,私は,それらの記述はかなりの誇張であると思っていました。しかし,実際にこのふたつの彗星を目の当たりにすると,そうした記述はまんざら大げさな物ではないのだなあとしみじみ思ったことが今でも強く印象に残っています。見たことのない人には,想像できないことでしょうね。
 しかも,この2つの彗星が見られたのは,1996年と1997年の春のことで,なんと2年続けての出来事だったのです。

 ヘール・ボップ彗星が発見されたのは1995年でした。
 この彗星は,発見された当初から1997年にはかなり明るくなるといわれました。前評判が高くて,その通りになった彗星はほとんどないのですが,評判通り明るくなったという意味でもこの彗星は優等生でした。
 みんなが楽しみに待っていた1997年の1年前の頃のことです。
 鹿児島県に住む百武裕司さんという人が新彗星を発見したということを,私は,何かで偶然知りました。
 当時は,今のように情報網が発達していなかったので,天文雑誌の情報が頼りでした。しかし,雑誌が発売されたときにはすでに彗星は暗くなってしまっていて手遅れ,ということも多く,私がウェスト彗星を見損ねたというのも,明るい彗星が見られるという情報を知らなかったからなのですが,そんな時代に偶然百武彗星のことを知ったというのも,幸運なことでした。
 人は,悔しいことは忘れないものですが,逆に,うまくいったことは忘れがちです。でも,考えてみれば,百武彗星を知ったということはウェスト彗星を見損ねたという不運に余りある幸運だったのですね。

 ところが,紛らわしいことに,百武彗星は2つあったのです。
 1995年12月26日早朝に百武裕司さんが発見したのは百武彗星(C/1995Y1 Hyakutake)です。私が偶然知ったというのはこの彗星のことです。でも,この彗星はそれほど明るくならない彗星でした。
 その翌年の1月31日に百武さんが自分の発見した彗星を観測していた時,たまたまこの彗星を発見したときの近くの空を眺めたら,驚いたことに,その時にも別の彗星がいたというのです。
 これがのちに大彗星となる百武彗星(C/1996B2 Hyakutake)です。
 一晩に2つ彗星を発見した人もいますし,実際の世界には,小説より奇なることがいろいろと起こるものです。
 しかし,当時はヘール・ボップ彗星が大彗星になるという話題でもちきりだったので,百武彗星の存在が知られるようになるまでにはずいぶんと時間がかかったようです。それに,発見したのが1月末なのに最も明るくなったのが早くも3月25日。これでは雑誌の発売には間に合いません。
 当時,やっと活用されかかったばかりのインターネットは今のような検索サイトが充実していたわけでもなかったので,何かの偶然でこのことを知らなかったら,私はこの大彗星を見ずに終わってしまったことでしょう。
 私は暗いほうの百武彗星の情報をさらに調べていて,当然,百武彗星が2つあるなんていうことも知らなかったので,ものすごく明るい彗星が見えているようだというあいまいな情報を手に入れたとき,なんのことかわけがわからず,確かヘール・ボップ彗星は来年のはずだし,百武彗星はそんなに明るくならないはずだしと,頭が混乱していました。

 新たに発見されたほうの百武彗星が地球に最接近したときの距離は,地球と太陽の距離の10分の1というすごいものでした。私はいつ彗星が最接近するかということも知らなかったと思いますが,ともかく,明るい彗星が見えているということで,どうしてだかわかりませんが,この彗星を2度も続けて見に行ったのです。
 はじめに見たときの写真が上から2番目のもので,2回目に見に行った,まさに最接近の日の写真が3番目と4番目のものです。この日,夜中に起き出して2時間かけて私が見に行った場所は雲がたくさんあったのですが,幸いにも,彗星の見られるおおくま座あたりだけが奇跡的に晴れていました。
 そこには,彗星がどんな星よりも明るく輝いていて,肉眼でも長く伸びた尾をはっきりと見ることができました。それは,まるで,天を切り裂くかのようで,私は恐怖すら感じました。
 百武彗星は,彗星の中でも最も長い尾を持つ彗星でした。そして,その形は日に日に変化していきました。
 私は,こうして,昔の人がほうき星を見て恐れおののいたということを,実感として味わうことができたのです。こういう姿を見ずして古典を読んでも何も本当のことはわからないのです。何事も机上の学問だけではだめだということです。この彗星は地球から非常に近いところを通過したので,夜空を非常に速い速度で移動していきました。わずか数分間で移動しているのが人間の目でも分かるほどでした。

 百武彗星は彗星自体は小さいものでしたが地球に大接近したことで明るく見られました。そして,それはわずか数日間のことでした。
 ヨーロッパでは天候が悪く,この時期に百武彗星を見ることができた人はほとんどいなかったのだそうです。しかし,偶然,私のように百武彗星とヘール・ボップ彗星を両方とも最も明るい時期に見ることができた幸運な人は,私を含めて,皆,百武彗星の方が素晴らしかったというそうです。それは,この彗星の尾がものすごく長く衝撃的だったことからなのです。
 百武彗星は長周期彗星です。約15,000年前にもこの彗星は地球に接近したことがあるのです。そして,今回の接近で惑星からの重力の影響を受けて従来の周期が伸び,次に近づくのは72,000年後なのだそうです。果たして,このとき,まだ,人類は生存しているのでしょうか?
 この彗星を発見した百武裕司さんは,残念ながら,2002年に51歳の若さで急死しました。

 ☆ミミミ
 ヘール・ボップ彗星のことは,また,次回。 ものすごい写真が登場します。

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 私は,この旧東海道を歩いて,この国の本質を改めて実感しました。
 そもそも,江戸幕府などという政治体制は「徳川家を永代守るため」に巧妙に作られたもので,北朝鮮の「金王朝」とさして変わりません。そして,お取りつぶしを免れ徳川政権のゴマをするために「参勤交代」ということをある大名が始めたのをこれも日本人らしく右に倣えしたために,それを利用した政権が制度化して,単に毎年往復するというバカげた行為のために諸藩の財政が貧窮していくのです。その果てが明治維新であり,急激な富国強兵策のその終焉が太平洋戦争の敗戦です。
 そして,そうした「参勤交代」は,今も,本質的に変わらず続いているのです。
 テレビ会議でことが済む時代になっても,地方のお役人は,なにかと東京へ出かけて「会議」をするのです。会議というよりも,懇親会ではその地方の酒を持参し忠義を誓うわけです。そして,参勤交代を命じられたお役人は,国民主権の時代になっても,「お江戸」へ上京することで自分が偉くなったと錯覚していくわけです。

 話を戻します。
 さて,その参勤交代で歩いた街道のひとつが,この旧東海道。しかも,この日本のメインロードがこんなインフラのまま,というよりも,あえて川には橋をかけず,関所を設けて,脈々と250年も続いたわけですが,その道を,膨大な経費をかけて毎年毎年往来するという大いなる無駄をくりかえしていた,というのが,この国の有り様なのです。
 それは,6年勉強しても英語も話せず古典も読めず専門書が読めるだけの数学力も身につかないという意味で時間と金の無駄遣いだと私が思っている日本の旧時代化した中等教育に,「学歴」という今では化石のような単なるブランドを手に入れるためだけに子どもを「教育」という名の順位競争に身も心も財産もささげている哀れな民衆の有り様と,本質的に変わりません。
 本を読んだり問題集をやる暇があるなら,一度,この道を歩きながら,日本とは何か,人間とは何か,生きるとは何かということでも考えてみたらいいと,私は思います。

 さて,このペースでブログを書いていくと,箱根から三島までこの先10回以上続けなければ終わらないので,先を急ぐことにしましょう。この道を歩いた人のブログもたくさんあるでしょうから,観光案内はそれらにお任せして,私は,観光案内よりも,こうした「この国の有り様」というか「愚痴」を中心に書いていくことにしましょう。
 静岡県に入って,私は,再び,国道1号線を離れて,旧の東海道に入りました。
 ここからの旧東海道への入口が今日の1番目の写真にある道路です。分かりにくいので注意が必要です。
 この舗装道路の先に旧東海道の入口があるのですが,そのあたりから,旧東海道は荒れるがままだったところを,近頃,新たに整備された道になりました。どういう整備をしたのか知りませんが,要するに,予算が付いたから整備をすればいいだろうという,いかにもお役所仕事的な感じで,石畳というよりも,中途半端な大きさの石を敷き詰めただけ,いや,ガレキをばら撒いただけの道でした。こんな中途半端な石を敷くなら砂利を敷き詰めたほうがよほど快適なのに,この「ガレキ畳」のために,とんがった石で歩きにくく足の裏は痛く,何のためにそうしているのかさえわからないという道が続きました。
 所々に今でも残る江戸時代の石畳と比較すると,江戸時代はもっと大きな石を手間ひまかけてきちんと敷き詰められていたのに違いがないのですが,そうした手間も大きな石を運ぶ予算もないので,適当にi石をばら撒いて間に合わせただけのようです。

 そうした「ガレキ畳」に足を取られながら,結局はガレキの敷かれていない道の端っこを選びながら歩いて,接待茶屋跡,鬼石,一里塚などのいわゆる「見どころ」を過ぎて,やっと山中城跡までやってきました。
 このあたりになるともう上リ坂もなく,だらだらの下り坂が続きました。
 私は,全く予備知識なしに歩いたら,結果的にこうした下り坂を歩くことになったのですが,この道は,逆に,三島から箱根関所跡まで歩いたとしたら,相当な上り坂が延々と続くところでした。
 江戸時代,簡単に「江戸に行く」といっても,こんなに大変な道を,しかも,天気が悪い日もあれば,夏の暑い日もあり,しかも,着物を着てわらじを履いて歩いたのですから,これは尋常な話ではないなあと,しみじみ思いました。
 山中城跡は観光地なので,駐車場には車がたくさん停まっていました。小さな軽自動車に奥さんをつき合わせた歳をとったおじさんがこうした観光地に来ては小さなカメラを持って,うろうろしています。この日は残念ながら曇り空で,富士山も全く見えません。私は「歩く」ということが目的だったので十分に満足でしたが,祝日とはいえ,こんな日に観光をする意味があまりないのになあ,と思いました。
 この国はどこへ行ってもこんな感じで,定年後に暇を持て余した人々が行くところを探しては右往左往しているように思えて,なにか気の毒で痛々しくさえ感じます。
 ここまでで,やっと,道のりの3分の1が過ぎました。

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●太った人は惨めな思いをするという●
 洞窟はいくつかの層になって広がっている。このツアーの最深部は地下300フィート(約100メートル)ということだ。
 途中にはいろいろな岩や穴があって,階段から見るとぞっとする深さだったりもするが,さほどの恐怖を感じなかったのは,きっと暗いせいであろう。しかし,実際は,このツアーだけでも440段の階段を上り下りする必要があったのだ。

 さて,このツアーで最後に待ち受ける難関が「マンモスドーム」(Mammoth Dome)であった。
 この「マンモスドーム」と呼ばれる巨大な縦穴は,マンモスケイブでも最大の高さを誇る。
 「マンモスドーム」がこのツアーの最終地点で,ここから150段の階段がジグザグにグルグルとつけられていて,出口までひたすらこれを登っていくのだった。
 その途中にある「ファトマンズミザリー」(Fat Man’s Misery)という通路は,太った人が惨めな思いをするという意味の狭い回廊で,数10センチ四方しかない横穴であった。

 これを超えると,このツアーは終了であった。約2時間,2マイル(3.2キロメートル)のコースであった。
 マンモスケイブはカールズバッドの洞窟よりも,ずっと規模が大きくて,しかも高低差があって,ダイナミックであったが,鍾乳洞という意味からは,私の参加したマンモスケイブのヒストリーツアーよりもカールズバッドの洞窟のほうが,ずっとエキゾチックなものであった。

 この洞窟内には,1800年代以降に書かれたと見られる落書きが今でも沢山残っている。
 先に書いたように,マンモスケイブは4,000年前くらいから人が入った形跡があり,1800年代からは観光地として多くの人が訪れていたのだが,この落書きは,1800年代の人がろうそくのすすなどで書き残していったものである。
 綺麗な服や形式張ったスーツで着飾った初期の観光客は,この洞窟の中を,倒れやすいはしごと薄暗いランタンを使用して歩いたのだが,そうした彼らが,ノミやランプの煙で名前と日付を岩に彫り印をしたのだ。何年も前にこの行為は止められたが,このように,今日でも,これらの落書きを見かけることができるのだった。
 洞窟を出て,来た道を戻り,ビジターセンターの前でツアーは解散した。
 このあと,私は,午後のツアーまでの間に,ビジターセンターのレストランで昼食をとることにした。

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 このブログでは,アメリカ旅行記もインターステイツの写真ばかりになってしまいますが,旧東海道を歩いても,やはり,道の写真ばかりになってしまいますね。
 ところで,箱根関所跡に到着したのが,早朝7時過ぎ。まだ,周りのお店はすべて閉じられていました。
 箱根関所跡は,なにやら工事中でした。まだ誰も人がおらず,チケット売り場も開いていなかったのですが,工事中だからなのか門が開いていて,外からそのまま中が見渡せました。中まで自由に入れそうでしたが,今回は関所を見に来たわけでもなく,おまけに,私は,日本のこうした権威主義に,近年急速に興味をなくしているので,箱根の関所跡も全く興味がわかず,見る気にもなりませんでした。

 しかし,この先旧東海道へ行く道が分かりません。私はそのまま国道1号線を三島に向かって歩いていくことにしました。車がビュンビュンと通る,しかも歩道もない国道1号線をこわごわ歩いていくと,やがて,橋に差し掛かって,その下に石畳の山道がありました。それが旧東海道なのでした。私は,その時初めて,国道1号線ではなくこの旧道を歩かなくてはいけないと悟って,橋の袂から道なき坂を下って,石畳の道に降りました。
 本当にこれが旧の東海道かしらん? と思うほどの狭く険しい道だったのですが,「旧東海道」の標識があって間違いがないことが分かったので,そのまま歩き始めました。

 静岡県は,現在,こうした旧東海道が整備されつつあって,現在の国道1号線にへばりつく形で,いや,国道1号線が旧東海道にヘチマのツルのようにへばりついているというほうが正しいのですが,歩けるようになっているのです。
 アメリカの「ヒストリック・ルート66」と同じようなものです。でも,あちらは車(駅馬車)の通った道であり,こちらは人間が歩いた道です。
 私はこうして旧東海道を歩き始めたのですが,ともかく,藪の中で坂だらけ,しかも,石畳が足に痛く,歩き始めた早々からいやになりました。
 今日の写真は,上から順に,赤石坂,釜石坂,風越坂,挾石坂となります。つまり,坂ばかりです。
 薩埵峠に行ったときにあまりにその距離が短く,しかも楽だったので,わたしは旧東海道の宿場1区間なんて大したことないやと,高を括っていました。しかし,それが大きな間違いだということに気付くのに時間はかかりませんでした。
 箱根の宿の次が三島宿。その距離は四里半といいますから,18キロメートルです。しかし,単なる18キロメートルではなく,ずっと坂道なのです。
 しかも,今日の写真の区間は,そのうちのはじめのわずか1キロメートルにすぎません。まだ,この先17キロメートルもあるのです。
 平地を歩くと人は時速5キロメートルほどらしいので,4時間くらいかかると思えばいいのでしょうか?
 NHKBSプレミアムに「グレイトトラバース」という番組があって,田中陽希さんという青年が日本の200の山を駆けめぐっているのですが,ああいった元気な人とは違って,平生歩きもしない初老の男がひとり,突然20キロメートルの坂道を歩くのですから大変です。ケガと捻挫をしないことが最優先事項です。

 今日もまた,余談を少し。
 私だって,若い頃は奥穂高岳も縦走したし,北海道の利尻富士も伯耆大山も登ったことがありますが,この「グレイトトラバース」という番組を見ていると,かなり険しいプロ級のいくつかの山を除いて,山頂に到達すると,ものすごく多くの人でごったがえしています。登山ブームなのです。富士山なんて,渋谷のスクランブル交差点みたいです。
 あれを見ていると,日本の山登りというものを,私はする気をなくします。山に登ってまで人混みではたまりません。人多すぎ日本狭すぎです。景色を見ていても,すごい,と思えるようなところもあまりありません。
 私は,昨年歩いた,いや,間違えて歩いちゃったロッキー山脈国立公園のトレイルやワシントン州のマウントレイニー国立公園のトレイルが懐かしくなります。もし山歩きをするなら,アメリカやカナダのロッキー山脈やアパラチア山脈をトレッキングするほうに,ずっと魅力を感じます。

 それはそれとして,旧東海道も,小田原から箱根関所跡まではかなりの人が歩いているらしいのですが,今回私が歩いた箱根の関所跡から三島までは,急に歩く人が少なくなります。私にはそのほうがいいのですが,そんなところでも,時々,ごみやペットボトルが捨ててあったりして情けなくなります。本当に一部の日本人の道徳心のなさというのは嘆かわしいものがあります。
 アメリカのトレッキングコースにはこういうことはありえません。
 そうなこんなで,ぶつくさ言いながら,やっと1キロメートル歩きました。箱根から三島まではそのほとんどは下り坂であるはずですが,この区間は結構上り坂もあったりして大変でした。ここでいったん旧東海道はなくなって,国道1号線に合流しました。箱根エコパーキングというところでした。ここもまた,つぶれた店がそのままほったらかしで廃墟となっていたりして,景観も台無し,ごみ箱化していました。
 箱根の関所跡から車なら5分もかからない距離でした。
 ところで,足柄山の金太郎さんはクマとお相撲を取ったのですよね。このあたり,本当にクマはいるのでしょうか? もしいたら怖いです。まあ,今は冬眠中でしょうが。

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●真っ暗闇を体験する●
 こうした展示を見ているうちにツアーの集合時間が近づいてきたので,ビジターセンターを出て,集合場所に行った。もう,すでに,ツアーの参加者が集まっていた。
 アメリカのこうしたツアーの常で,ここで,案内のレンジャーの紹介や注意事項の説明があり,その次に,参加者にどこから来た,とかいった会話があって,ツアーが開始された。
 参加者のほとんどはアメリカ人で,さすがに,ここまでくると,観光地には常にいる中国人も姿がなかった。
 たいていは,一番遠いところから来た人は? と聞くから,私が手を挙げて「JAPAN」といえば,まず勝利を収めることができる。

 ここから,レンジャーの案内で,裏手へ歩いていき,山道を下って行く。このあたりは,木々に覆われた山道のハイキングと変わらない。
 しかし,どこも,ゴミひとつ落ちていないし,無駄な標識やら錆びついた手すりがない。
 それにしても,と,ここで余談を書く。
 日本のテレビで,荒れ果てた林道とか,破壊された国道跡をめぐるといった番組があるが,あれを見ていると,どうして,日本という国は,狭い国土なのに,それを大切にしないのかと憤りを覚える。あえて,めちゃくちゃにしているとしか思えないのだ。新しい道路を作るなら,それで廃道となったところをもとに戻すことにも予算をつけないのか?
 こうして,国全体がごみ箱のようになっていく。

 閑話休題。
 しばらく坂を下っていくと,自然にできた洞窟への入口「Natural Entrance」に到着した。
 ここから地下へ入っていく。
 このツアーはレンジャーがふたり1組で案内する。ひとりが先頭で案内し,ひとりが最後尾である。そして,洞窟内の環境保護のため先頭のレンジャーが電気を点けて,最後尾で消していく。
 洞窟探検はかなりの深さまで潜るため,高所恐怖症や閉所恐怖症,そして暗闇恐怖症の人には無理だという注意事項が公式ホームページに書いてあった。最後尾のレンジャーは,ツアーの人に何かあった時にそれをアシストする役割も負うているのだ。
 私は,軽く考えて参加したのだが,よく考えてみると,結構このツアーはリスクがあるのだ。私の背後にものすごく巨大な人がいたが,狭い階段もその幅から登れず,しかも,ビルにすれば10階以上の高さもあり,体力の限度を超えていたのだった。ずっと,最後尾のレンジャーが付き添っていた。

 洞窟に入ると,最初からいきなりの階段であった。
 私は,以前行ったことのある世界遺産・ニューメキシコ州のカールズバッド洞窟を思い出した。
 これだけアメリカ各地を旅すると,結構似たような自然に出くわすようになるが,そのどれもが,ものすごい迫力だ。しかし,だんだんとそれにも慣れっこになってくる。
 それとともに,日本のそういったものには,全く興味を示さなくなってくるのが,うれしいのか悲しいのか…。
 山々の絶景,たとえば,黒部峡谷とか南アルプスの山並みなどがすごいと思えなくなってしまったのは,悲しいことに違いない。

 階段を降りると,そこから先の洞窟はものすごく広くて天井も高いものだった。車や列車がすれ違えるほどのトンネルというか,体育館というか,そんな広さの道が延々と続いていた。天井は仕切ったように真っ平らであった。
 洞窟内の気温はいつも15度だという。15度というのは,半そでのポロシャツにヨットパーカーを羽織るとちょうどいい気温だ。少しひんやりと涼しい。
 やがて,「Rotunda」と呼ばれる広場に到着した。ここには,以前,マンモスケイブが鉱山として使われていた跡が残されている。昔の硝石の採掘跡などを見てから,少し歩いて横道に入ることになる。
 そしていよいよここからは,人が歩けるくらいの道に変わる。
 場所によって天井の高さは身長ぐらい。幅も,狭いところでは50センチメートル程度のところもあったりして,ひんやり冷える洞窟の中をくぐるように進んで行くことになる。

 地下約85メートル,かなり下ってきたところの休憩地点である「Great Relief Hall」に到着した。
 ここには,なんと,トイレもある。
 これもまた,アメリカらしい。
 以前行ったニューメキシコ州のカールズバッド洞窟には,トイレどころか,カフェテリアさえあった。
 ここには,全員が座ることができるように長椅子が備え付けられていた。ここで説明があった。
 そして最後に,暗闇体験と相成った。物音も立てないでください,と言われ た。
 電気が消されると本当に真っ暗であった。私は,本当の真っ暗,しかも音さえしない暗黒というものを生まれて初めて体験した。こうなると目も耳も機能しているかどうかさえわからなくなる。

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 ここ数年,私の価値観が真逆に変わってしまったので,あれだけ面白かった時代劇というのは,はなっから受け付けなくなってしまいました。
 いつも書いているように,日本の歴史は,全て権力者が主体。庶民はエキストラが精一杯で,字幕に名が出る出演者にもなりえないのです。もし,その時代に生きていたら,きっと,いくさいくさで,せっかく丹精込めて作った農作物を踏み荒らされて落胆するだけの人生だったと思います。
 今の私には,なんとなく,わかったようでわからず,わからないようでわかるもの,ホンワカしているもの,そして,人物がたくさん出てこないもの,サスペンスドラマでないもの… そんなものが好みです。

 そこで見たのが,NHKの新春スペシャルドラマ「富士ファミリー」。
 富士山のふもとにある小さな商店「富士ファミリー」が舞台です。このお店には長女で独身の鷹子,夫を連れて家に戻って死んでしまった次女のナスミ,店から逃れるために結婚してしまった三女の月美の美人三姉妹がいました。
 そうそう,この名前は縁起のいいとされている初夢にちなんでいますね。
 そして,とどめが笑子バアさんです。このバアさんとお店の面倒を誰がどうみるかというのが,ドラマの主題です。そして,このバアさんの前に,死んだはずのナスミが現れて,メモを見つけて欲しいと言います。そのメモ書かれてあったのが,ケーキ,懐中電灯,四葉のクローバー,光太郎…。
 このメモが複雑に絡んで,それが人々の心の交流となっていきます。

 配役だけを考えると,このドラマは,「あまちゃん」のスピンオフドラマを企画したのに,あいにく主人公が出演できなくなって,急遽,ドラマだけ書き換えられた,のかな,と思うような配役でしたが,お正月らしい,ほのぼのとして,しかも,面白いことが悲しく,悲しいことが面白いドラマになりました。
 NHK,昨年は「京都人の密かな愉しみ」で,今年は富士山なのでしょうか?
 それみにしても,NHKさん,ドラマの企画はいいのですが,題名が今ひとつです。この前にこのブログに書いた「ビューティフル・スロー・ライフ」もそうですが,題名だけでもっと引きつけるようなものにならないのでしょうか? これでは,「富士サファリパーク」と間違えます。
 それと,私がずっと気になっていたのが,これだけの人たちをこんな小さなお店ひとつで養えるものなのだろうか? という現実的な話です。ここに出てくる人たちは老後の年金なんて,このお店をやっている限りほとんどありません。私は,こうしたドラマを見ると,いつもこうした設定にうらやましさを感じつつも,このようなことが気になってしまいます。

 話を非現実にもどします。
 私がこのドラマで素敵だな,と思ったのが「カスミ」,計画も立てずに都会から急にやってきて,このお店に住み込んだ22歳の女性でした。「このまま人に流されて生きていくのかな?」と,人生に行き詰まって迷ううちに,気づいたら富士ファミリーにたどり着いて,そんな胸に閉ざしていた思いを開くきっかけになったのが「大丈夫じゃないときは大丈夫じゃないっていう」というこの言葉だったのです。
 このドラマは「人の居場所」というのがテーマなのだと思ったのですが,ドラマを見て,人の能力も才能も,それ以外の自分のもっている何もかも,他人と比べるためにあるものではなくて,それが自分の生きている居場所にパズルのようにきちんとはまることが,一番の幸せなんだ,とそういうことを私は感じました。
 それとともに,このドラマのえらいところは,亡くなった人の存在もまた,生きている人の心の中に居場所があるんだよ,ということを教えてくれたこと。それが,とても素敵なことでした。

◇◇◇
「ビューティフル・スロー・ライフ」-美しく儚い人生賛歌

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 2015年12月22日,「N響第九」を聴いた日,私は横浜に宿泊して,翌日,箱根峠を歩くことにしました。
 昨年10月,旧東海道を歩いてみようと,念願の薩埵峠を越えた私は,予想以上に楽だったことに気をよくして,今回は箱根峠を歩くことにしたというのが,その動機です。
 しかし,それがまあ,想像を絶する行程になろうとは…。
 今回決めていたのは,箱根の関所跡から三島まで歩くということだけでした。
 ほとんど下調べもせず,というか,下調べをすれば歩く楽しみも減ってしまうので,というのは言い訳で,実際は下調べをする気力もなく行き当たりばったりで,ともかく,早朝5時,横浜を出発して,箱根の関所跡まで向かったのでした。

 お恥ずかしい話,私には箱根はニューヨークよりも遠いところで,箱根へ行く方法を知りませんでした。
 箱根は,小学校の時に勉強した「箱根の関所」に興味をもって,一度は行ってみたくて,今から30年以上前に行ったことがあるのですが,その時,どうやってたどり着いたのか全く記憶にありません。そして,もう一度,その時は伊豆半島をドライブしようと三島で車を借りたとき,そのついでに芦ノ湖まで行ったことがあるのですが,ものすごいくねくね道を走ったのを,今回行ってみて思い出しました。
 その程度の知識です。
 スマホで調べてみると,横浜から小田原まで行って,そこから箱根関所跡までバスに乗っていくということがわかったので,ともかく横浜駅からJRに乗って小田原に向かいました。小田原に着くと,目の前に箱根登山鉄道の改札口がありました。その電車に乗れば「箱根湯本」という駅まで行けるじゃあないですか。再び書きますけれど,何の予備知識もない私は,バスじゃなくて電車で行けるじゃあないか,と即断して,その電車に飛び乗ったのでした。
 ところが,車内にあった案内を見ると,箱根湯本まで行ったところでほとんど意味がなく,こんなことなら小田原ですぐにバスに乗ればいいということがわかって,情けないやら,あほらしいやら…。
 私のいい加減な旅のスタイルは「ぐっちゃぐちゃで,やたらと細かいだけで肝心なことがよくわからない」という日本の観光案内のスタイルには全く持って不向きです。いつも後悔するのに,一向に懲りません。
 というわけで,箱根湯本に着いた私は,改札を出て,バス停に向かいました。
 こういう時,交通系のICカードだけは,チケットを買う必要がないので,本当に便利です。

 早朝で,バス停にはほかに人もおらず,周りのお店もまだ開いておらず,私は,朝食もとっていなかったのに,何も食べられず,ともかくバスを待ちました。
 ここでも,また,不案内が露呈してしまいました。
 なんと,箱根関所跡まで行くバスは,箱根登山バスと伊豆箱根バスという違うふたつのバス会社から出ていたのです。バス停が三つならんていて,一番手前のバス停に箱根関所跡まで行くと書いてあったので待っていたら,2番目のバス停に元箱根行きのバスがすぐに来ました。実は,それに乗れば,私は目的地に行けたのです。
 そんなことわかるものか!
 私には小田急と箱根登山鉄道の違いすらよくわならない,しかも,箱根登山鉄道は箱根登山電車というらしい…。そんなふうに何事も知らない人の疑問には不親切で,この国の「おもてなし」と「おせっかい」の内情は,人に頼らず自分の力でやろうとする人には「できるならやってみろ」という感じです。路線バスを使ってゲームのように旅をする番組が人気を得るはずです。わかりやすものもわかりにくくするということにかけて,この国は世界一です。

 ここで,勢い余って,さらに愚痴を書くことにします。
 私は京都から名古屋まで在来線を利用して旅行をするのですが,京都駅では「東海道線」とはいわず「琵琶湖線」と表示されているのですね。これもまた,よくわからないのです。「琵琶湖線」などといえば,ローカル線で,これが「東海道線」だとは思えません。そういう話はネットにもよく載っているのですが,それに対して地元の人は,「東海道線」ではわからない,のだそうです。しかし,地元の人はともかく,東京の人が京都に来て,「東海道線」で帰ろうと思ったときに,「琵琶湖線」では絶対にわかりません。琵琶湖線と東海道線が同じだという説明あればいいのですが,そういう「気配り」がどこにもないことが問題なのです。
 この国は,こういうふうに,様々なことが手前味噌で,携帯電話の料金体系と同じくらいわけがわからないのです。そして,どうやら,ほとんどの人は,そういったことを不便とも思わずに生活しているようなのです。つまり,何も考えていないようなのです。
 何せ,学校教育で,表向きは個性重視だとか考えろといいながら,本音は個性の強い生徒をや自分の意見を言う生徒を問題児扱いし,工夫をすることを是とせず,ツベコベ言わず辛抱だ,言われたことをしろと言われつづけて歳だけとってきましたから。

 ともかく,私は,バス会社がふたつあるなどとはつゆ知らず,先に来た箱根登山鉄道バスに乗らずに,出発してからそのことに気づいて,後悔しながらさらに20分も待って,やっと来た伊豆箱根バスに乗って,ようやく箱根関所跡に到着したのでした。小田原駅から箱根関所跡まではくねくれ坂の連続。バスに乗っていても大変なのに,どうやらここが箱根駅伝のコースらしいのです。
 昔の人は,こんな坂道を歩いて箱根越えをしていたのかと思うと,この先のことを考えて,私は,急に不安になったのでした。

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●4,000年の人類との歴史がある洞窟●
 マンモスケイブと人類の関わりは約4,000年前にさかのぼる。当時の原住民は洞窟を発見・探検しては様々な鉱物などを持ち帰っていたのだという。
 調査によると,洞窟内から当時の服や草履などが発見された。そうした痕跡から,すでに,人々は洞窟内を15キロメートル以上探検していたことが確認されている。また,洞窟内で植物を栽培していた跡も確認されている これらは,この4,000年前からの2,000年間に,人々の生活が狩猟最盛期から農業・栽培へと移ったことを物語る貴重な資料になっている。
 また,先住民の古器物もこの一部地域で発見されたが,このことは,初期先住民たちが洞窟入口に住み,塩を採掘していたことを示している。
 ところが,約2,000年前,その痕跡がぱったりと消滅してしまったのだ。

 その後,長い間放置された洞窟は1970年代後半になって開拓民によって再び発見され,人類との関わりの歴史を再び刻むことになった。
 再発見されたマンモスケイブは,当初,鉱山として活用された。当時のアメリカは,イギリスとの独立戦争を繰り広げており,銃弾の原料及び食物の保存材として使用された硝石(Saltpeter)の採掘のために,鉱山は拡張されていった。1813年には硝石の価格が5倍に暴騰し,マンモスケイブ鉱山は最盛期を迎えたのだった。
 しかし,1815年に戦争が終わると,硝石の需要減からこの鉱山は徐々に縮小し,鉱山としての役目を終えることになった。

 こうして,マンモスケイブは,娯楽施設として別の運命を辿ることになった。
 鉱山の詰所として使用されていた建物はホテル(Mammoth Cave Hotel)として再利用され,更に,観光を目的とした人々のために鉄道も整備された。その際,1813年に発見された先史時代の原住民の遺体はミイラ(Mummy)として娯楽を目的とした洞窟の観光地化への役割を担ったといわれている。また,洞窟の観光地化には,奴隷として連れてこられた人々による洞窟調査やガイドが大きな役割を果たしたという。
 1900年代に入ると,アメリカ東部に国立公園がなかったこともあり,マンモスケイブは国立公園化が進められた。しかし,既に娯楽用観光地として整備されていたマンモスケイブを国が買い上げるには金銭面から色々と問題があった。しかし,最終的にはケンタッキー州民などの寄付により進められ,ついに,1941年アメリカ東部初の国立公園となった。

 1930年代はアメリカ国内の景気は世界恐慌による影響でひどい状態だったので,国立公園化に向けた整備は難航を極めた。しかし,マンモスケイブのインフラ整備は政府主導で経済対策の一環として進められて,公園の整備と共に地域経済にも一定の影響を与えた。
 当時,ここには「CCC」と呼ばれるアフリカ系アメリカ人2,000人規模のキャンプが組織された。これらのキャンプは第二次大戦の終了と共に解散したものの,当時のアフリカ系アメリカ人はアメリカで最初に白人と同じ待遇の給与を手にしたといわれている。
 現在のマンモスケイブ国立公園が,こうした長い歴史を経て整備されてきたことを知ると,単にツアーに参加する以上に,非常に感慨深いものがある。

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Happy New Year 2016
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 2016年になりました。昨年のお正月は,ラブジョイ彗星が美しい姿を見せていましたが,今年は,カタリナ彗星です。ということで,今年の初めは,彗星のお話から始めましょう。
 私の手元には誠文堂新光社の発行する「天文年鑑」が49冊あります。初めてそれを買ったのは1968年でしたが,あっという間に半世紀がたってしまったわけです。それらを改めて見ると,この間のことがいろいろと思い出されて非常に興味深いものです。また,それと共に,自分のたどってきた道筋がとてもよくわかります。
 買っただけでほとんど一度も目を通さないうちに1年が過ぎた年も少なくありません。それは,何かと忙しくしていて,空を見上げる時間がなかったときもあるし,興味の対象が別のものにいってしまっていたから,というときもあります。その反対に,ずいぶんと思い入れのあった年もあります。
 49冊の天文年鑑から,これまでに私の見た彗星をもう一度思い出して懐かしもう,きょうはそんな話題です。
 その中で私が後悔してやまないのは,ウェスト彗星を見損なったという出来事ですが,このことは,また,あとで書きましょう。

ikeya HalleyHalley 2061 eso0328a  きょうは,池谷・関彗星とハレー彗星のお話です。
 まずは,池谷・関彗星(C/1965S1 Ikeya-Seki)です。
 それは,今から50年以上前の1965年のことでした。 
 9月19日の早朝,浜松に住む池谷薫さんと高知に住む関勉さんという2人の日本人の青年が,うみへび座にそれぞれ独立に発見した8等星の淡い新天体は,10月21日に太陽に45万キロメートル(太陽の直径の1/3)まで大接近をしました。その時の光度がマイナス17等星。破壊されることもなく,無事,太陽から戻ってきた彗星は,20度を超える立派な尾を伴って,明け方の東の空を飾ったのでした。
 私は,残念ながら,それを見ていません。そんな興奮がまだ冷めやらない1968年に,私は,はじめて星を見るという楽しさを知ったのでした。2年ほど,私は間に合わなかったのです。
 今考えると,池谷・関彗星がどれほど明るかったのかは,私には想像ができません。今よりずっと日本の夜空は暗かったし,残っている写真は,雄大な尾をたなびかせたものばかりですが,肉眼でどれほど見ることができたのかは,写真からではわかりません。長い尾を伴って人々を驚かせた頃の光度は3等星,ともいわれているので,それほど明るくはなかったのかもしれません(1番目の写真)。
 いずれにせよ,もし,この彗星が,今見られたとしたらと,想像していまいます。

 次は,ハレー彗星です,
 1986年に地球に接近したハレー彗星(1P Halley)。すでにあれから30年経つので,これを実際に見たという人も40歳を越えました。私は,ハレー彗星には間に合いました。双眼鏡でも見ましたし,写真も写しました(2番目の写真)。
 実は,この時のハレー彗星は,多くの人はほどんと見ることができなかったのです。
 「彗星」といって一般の人に最も有名なのはハレー彗星です。1986年当時,多くの人々は,小さいころから図鑑などで見たことがある,この76年に1度,つまり,一生で見ることできるのはたった1回,という彗星が地球に近づくというので,大騒ぎになりました。望遠鏡が売れに売れたということです。
 しかし,この年に接近したときは,せっかく76年ぶりに地球軌道に近づいたのに,彗星が最も太陽に近づいたときの位置は,地球のいる場所とはまったく正反対の場所だったので,2億キロメートルも離れていて非常に遠く,太陽を通過して明け方の空に見えたときには,空の暗いところで辛うじて肉眼で見えただけだったのでした。しかも,それでもまだ比較的よく見えたのは南半球だけなのでした。しかし,多くの人は「そんなこと聞いてないよ」という感じで,1986年を心待ちにしていたのです。そして,落胆しました。
 そこで,私の疑問は,果たして,このハレー彗星が近づいたときにもっと地球に近づき,条件がよかったとしたら,どの位に見ることができるものだろうか,ということなのです。
 お昼間でも見ることができるほど明るいものなのでしょうか? 尾が空全体を横切るほど長く見えるのでしょうか? その前に近づいた1910年はかなり条件が良く,尾が地球を横切ったというほどだったそうですが,古すぎて,いくら調べても本当のことが分からないのです。

 さて,次回の接近は2061年です。
 予報では,2061年の8月上旬の夕方の金星が明るく輝く西の空高く,おとめ座の銀河団の中に尾をたなびかせて0等星ほどの素晴らしい姿が見られるということです(3番目の図は2061年8月7日午後8時)。
 実は,地球から遠ざかりつつある1991年年2月に,ハレー彗星が突然明るく輝いたことが観測されています。この増光の原因は不明なのですが,別の天体との衝突,彗星の崩壊,あるいは,内部構造を原因としたガス噴出量の増加や発熱などが考えられました。そして,ひょっとしたら,ハレー彗星はもう戻ってこないのではないか,と心配もされました。
 その後、ヨーロッパ南天天文台 (ESO)が2003年3月にハレー彗星の姿を観測しています(4番目の写真)。それが,現在,人類の知る最後の姿なのですが,それを見る限り,核本体が失われるような衝突や崩壊は起こっていないと推定されています。
 果たして,次の接近のとき,この彗星はどういう姿を人類が見るのでしょうか? 予報通り戻ってくるのでしょうか?
 私はこの日を目標に長生きしたいものだと思っています。

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