しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

February 2016

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●「で,だからそれが何だ?」●
 週末にファーマーズマーケットが開かれていたのはリバーマーケットという地域であった。
 リバーマーケットは,カンザスシティのダウンタウンの北側にあるがその北はミズーリ川に面しているので,リバーマーケットというのだろう。
 「地球の歩き方」のようなガイドブックを見るたびに,このくらいの都市の分かりやすい地図が記載されていないのに,私は不満をもつ。地図に必要な情報は,ダウンタウンと官庁街の場所,空港の場所,主な見どころの場所だけなのである。私は,こうした規模の都会に行くと,いつも,そ宇した場所の位置関係がさっぱりわからないのだ。

 ところで,このリバーマーケットには,シティマーケッという店舗形式のショッピングセンター,そして,中央の広場に開かれれていたファーマーズマーケット以外に,アラビアスチームボート博物館があった。そして,周りには,小売り店やレストラン,倉庫街などが立ち並んでいた。ここもまた,治安がいいのか悪いのか,さっぱりわからなかったが,週末の朝市があって,市民がたくさん訪れるところだから,カンザスシティの下町,いわば,浅草や築地のようなところなので,特に問題はないだろう。
 私は,ファーマーズマーケットを見終わって,シティマーケットの周りを歩いていたら,「中國城」(Chinatown Food Market)と大きく漢字で書かれた小汚いビルを見つけた。多くの人がそのビルの中に入っていくので,興味がわいて,私も中に入ってみることにした。
 中は,単なるマーケットであったが,売っていたのは,アジアンフードであった。
 日本食もたくさん売っていた。
 それが,きょうの2番目の写真である。
 私は,この次の2回の旅で,多くのマーケットに行く機会があったので,今ではアメリカのこうした店舗についてはとてもよくわかったが,このときはまだ,日本食を売っているマーケットというのがとても珍しい存在であった。
 それにしても,ロスアンゼルスとかニューヨークならともかく,カンザスシティでもこういった店舗があるということに驚いたのだった。

 再びシティマーケットに戻ってその中を歩いてみると,日本のキャラクターグッズを売っている店舗があった。それが,3番目と4番目の写真である。
 実は,現在アメリカで大人気なのがどういうわけかNHKの「どーもくん」なのだ。
 私自身がこういうものに全く興味がないので,というか,こういうものを買う,ということ自体が理解できないのでよくわからないのだが,日本でも,東京駅の八重洲の地下街にアニメのキャラクターグッズを売っている多くの店舗がある。それと全く同じような店であった。
 今や,日本からの輸出品のナンバーワンは,こうしたアニメのキャラクターである。ただし,グッズ自体はメイドインチャイナであるが…。

 最後に,アラビアスチームボート博物館というところに行ってみた。
 アラビアスチームボート博物館(Arabia Steamboat Museum)は,シティマーケットの建物の中にあった。
 1856年,ミズーリ川を航行していた大型の蒸気船アラビア号が200トンもの貨物を積んだままミズーリ川に沈没したのだそうだ。その132年後に,その残骸が発見されて,発見した一家によってそれが公開されている,というのがこの博物館であった。
 入ろうかどうか迷ったが,単に個人が金儲けでやっているまがい物のような博物館なのに入場料が結構高かったこと,あまり興味が湧かなかったこと,そして,特に,「で,だからそれが何だ?」と思ってしまったことで,生まれつきへそ曲がりの私は,入る気をなくしてパスした。
 そして,私はリバーマーケットを後にすることにした。
 早朝に車を停めた場所は,停めたときはあれだけ空いていたのに,この時間は満車でスペースが空くのを待つ車の列ができていた。

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 前回書いたように,単に楽しみとして星や月の写真を撮っているのは,今から20年以上も前に買った20万円もしない望遠鏡ですが,私は,冬になっても冬用のタイヤに付け替えるのでもなく,道路が凍結すれば,そこへは行かないだけという,徹底的な軟弱を通しています。
 本格的な天文ファンは,高級車が買えるような値段で全自動の望遠鏡を手にいれて,アウトドア向けの車に乗って星見を楽しんでいるのでしょうが,私は,そんな余裕があれば,アメリカ旅行をしちゃいます。そこで,そうならば,と開き直って,このちっぽけな機材の性能を,できる限り発揮させてやろう,とそんな強がりで楽しんでいるわけです。

 今年から新たに始めようと思ったのは,太陽を写す機材を整備することと惑星の拡大写真を写したい,ということでした。
 まず,今回は,太陽撮影機材について書きます。
 2017年8月21日,北アメリカ大陸を東から西に横断する皆既日食があります。この日食の皆既帯は,私が毎年訪れるアイダホ州ボイジーの少し北を通ることから,私は,その日もそこへ出かけることにしていますが,その時に持っていく機材をどうしようかと考えたのが,その発端です。
 1999年にハンガリーで皆既日食を見たときに持って行ったのは,今,私が使っている口径75ミリの屈折望遠鏡でした。そして,2012年に日本で見た金環日食も,この望遠鏡を使いました。
 先端を絞り52ミリの減光用のフィルターを付けて使用しました。
 2017年もこれをもっていけばいいのですが,当時とは違って,もう,ずいぶん使い込んだこの望遠鏡をあえて持っていくリスクを避けたかったのです。
 
 本格的な太陽望遠がありますが,日食を写すだけなら,大口径は必要がなく,安価な望遠鏡で十分なのです。接眼部にカメラを取り付けて十分な強度があることだけが条件です。
 現在発売されているカメラメーカーの交換レンズは,太陽を写すだけにはかなりのオーバースペックです。そこで私の探したのは,焦点距離が500ミリ,口径は5センチくらいの交換レンズです。中古でも構わないのですが,それが見つからないのです。そんなもの売れないから存在しないのです。天体望遠鏡を探しても,やはり,おもちゃのようなもの以外にはありません。
 やっと探し当てたのが,ケンコー・トキナーという会社から発売されている「MIL・TOL」というものでした。
 「MIL・TOL=見る・撮る」なんてしゃれていますが,これは,焦点距離が400ミリ,F6.7で,絞りもなく,ピントはマニュアル,レンズはたった1群2枚なのですが,そのうちの1枚はEDレンズです。フィルター径が67ミリだったので,ステップダウンリングを買って,52ミリのフィルターを付けることにしました。
 これを購入して,4万円でおつりがきました。

 インターネットで購入したら,翌日には到着しましたが,予想以上にちゃんとしたものでした。昔のような,安かろう悪かろうの時代とは違います。
 とりあえず,月の写真を写してみました。そうして写したものが今日の写真です。
 上の2枚が2倍に拡大するコンバータを付けたもの,下の2枚がつけなかったものです。
 ともに予想以上に良い像を写しました。太陽を写すだけにするのはもったいない気がしてきました。
 唯一の欠点は,ピントリングにロックがないことです。それ以外は申し分ありません。私がブログに載せている程度の月や星雲・星団を写すのなら,この望遠レンズは安いのでかなりおすすめです。
 では,最後に日の出直後の太陽の写真をご覧ください。大気の揺らぎで太陽が凸凹です。
 こうして,私は,金4万円也の出費で太陽を気軽にうつすことができるようになりました。
 あとは,2017年8月21日が晴れるだけです。

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●この価値観の多様さこそ●
 このマーケットは,ある意味,とても日本の市場と似ているところでもあり,また,とても,アメリカらしいところでもあった。
 私も,この朝市を楽しみつつ,どこか朝食ができるところはないかと探していた。いわば,築地の場内で食事をするところを探しているようなものだった。そして,人がたくさん並んでいたパン屋さんを見つけた。こういう未知のお店で何を頼めばいいのかもどういうシステムかもさっぱりわからなのだが,しばらく様子を見て,同じように陳列棚にあったパンの中からシナモンロールを指名して,コーヒーとともに注文して,それらを手に入れることができた。
 このパン屋さんの外にはイスとテーブルがあったので,そこに座って,私は,朝食をとることができた。
 このシナモンロールは大変おいしかった。

 パンを食べながら周りを観察していたら,何やら人が集まっている一角があった。
 そこでは,若い女性がふたりアクロバットを始めるところであった。
 上手なのか下手なのか,彼女たちは,これで生計を立てているのか,単に目立ちたいだけなのか,私には全く分からなかったが,見ている人たちを巻き込んで,おかしなショーを繰り広げていた。
 私も食事をしながら見ていた。
 食事が終わって,さらに,もう少し端まで歩いて行ってみたら,そこでは,ひとりの女性と4人の男性からなるグループが演奏をしていた。
 パンフレットを配っていたので,私も貰ってそれを読んでみると,このバンドの名前は「The Knobtown Sskiffle Band」ということであった。彼らは,ブルース,ラグタイム,ブルーグラス,ジャグ・バンドなど様々なジャンルの1920年代と1930年代のものを演奏しているグループだと書かれていた。このバンドは2012年に結成して,古いナショナルギター,洗濯板などを楽器として,このシティマーケットなどを活動の場として演奏をしているのだという。
 
 アメリカでは,何をするにしても,楽しむということが第一である。だから,このマーケットでも大道芸はやっているし,音楽は演奏しているし,さらにパフォーマンスはあるし,歩いているだけで十分に楽しいところだった。
 それとともに,私は,人が生きるということの大変さやら面白さやらをも味わうことができたのだった。
 この価値観の多様さこそ,日本人の持ち合わせていない根本的な生き方なのだろう。
 私は,朝市へ行ったのは初めての経験だったが,以前,ニューオリンズに行ったとき,フレンチマーケットという常設の市場を歩いたことがある。本当は,こうしたところで,何かを買ったり,売っている人とおしゃべりできたりすれば,もっと旅の楽しさが味わえるのではないかと思うが,なにせ,買うものがないのだった。
 結局,本当の旅の究極的な愉しみは,こういう場所を訪れて,現地の人と交わることにあるのではなかろうか。
 アメリカへ行かれるのなら,機会があれば,観光用のショッピングセンターではなく,ぜひ,一度は,こうしたマーケットに行かれるといいと思う。

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●ほんとうに情けない話である。●
☆8日目 5月16日(土)
 この旅もいよいよあすの早朝には帰国であったから,きょう8日目がこの旅の実質上最後の1日であった。実は,その帰国の日,私の乗った飛行機にトラブルが発生して空港に引き返してしまったので日本への帰国便に乗り損ねてしまい,私は,予定よりも1日帰国が遅くなった。
 この9日目に起きた出来事については,すでに書いた(2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③から⑧)ので,それをお読みいただくとして,この「2015春アメリカ旅行記」は,8日目の1日で終了ということになる。

 前日は,終了後の混雑を恐れて試合終了の前にボールパークを出てホテルにもどった。
 少しおなかが減っていたので,ホテルの近くにあったKFCで夜食をとろうと歩いて思って出かけてみたのだが,すでに,ドライブスルー以外は閉まっていた。仕方なく,その隣にあったマクドナルドへ行くことになった。深夜の店内には他に客もおらず,少しおびえながら食事を済ませ,ホテルに戻ったのだった。

 そして朝が来た。
 私は,明日の帰国便の出発が早朝だったので,今晩宿泊するホテルは空港の近くに予約をしたから,宿泊していたホテルは早朝チェックアウトすることにした。このホテルにも朝食がついてたが,食堂に行ってみると,まだ6時過ぎと時間が早く,準備ができていなかったので,私は,そこで朝食をとることをあきらめた。
 この日は,特に決めた予定というものもなかったが,カンザスシティの見どころを見学することにした。
 カンザスシティには見どころはそれほど多くなくて,昨日行ったニグロリーグ博物館,アメリカン・ジャズ博物館以外には,ネルソン・アトキズ美術館,ケンバー現代美術館,第1次世界大戦博物館といったところだろう。いずれにしても,それほど大きな都会でもなく,道路も広く,移動が楽なので,今日1日で十分に見て回れるようだった。
 今日は幸い土曜日だったので,ファーマーズ・マーケットが開催されていた。
 私は,数え切れないほどアメリカの都会へ行ったから,どこの都会にもあるような場所は食傷気味であったが,ファーマーズ・マーケットにはこれまで行ったことがなかった。ファーマーズ・マーケットというのは,日本の飛騨高山の朝市のようなものだ。
 そこで,何はともあれ,今日は,まず,そのファーマーズ・マーケットへ行ってみることにした。

 カンザスシティのダウンタウンにシティマーケットという一角がある。
 1857年にできた昔ながらの市場街,今でいうモールであるが,そこの中央の広場で,週末に,このファーマーズ・マーケットという朝市が開かれているのだ。
 現地の様子がわからず,駐車場があるかどうかも不安であったが,ともかく行ってみることにした。こういうところは,とにかく,人より早く行くというのがコツである。
 近くまで行ってみると,地元の人の買い出しで,すでにずいぶんと車が溢れていたが,多くの駐車場があった。数ブロック離れたところは無料で,そこには,まだずいぶんとスペースがあったので,そこに車を停めて歩いて行くことにした。
 ファーマーズ・マーケットは,広場にテントが一杯張ってあって,それぞれのテントの中には,地元民がそれぞれ取り立ての野菜やらを売っていた。歩いて見て回ったが,これがまた大変面白かった。アメリカの野菜の値段をチェックするだけでも楽しかったし,日本でなじみのある野菜や果物やそうでないものなど,人々の生活が大変よくわかった。

 人が生きる力というのは,本当にたいしたものだと思う。
 私は,小さい頃から,勉強ができればいい,という間違った教育を受けて育って,ある年齢まではその価値感を絶対的に信じて生きてきたのだが,そんなことは間違いだと気づいて以来,自分があまりに無知であり,無能力であることを恥じてきた。私は,今でも,こうした農作物を見ても,あるいは手に入れても,それを食事にする手段を持たない。本当に情けない話である。

◇◇◇
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる④
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑤
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑥
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑦
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑧

 R・シュトラウスの場合は人気があるのですが,私のほうがそのよさがわかならいということでした。しかし,ニールセンは,一般にも人気がありません。というよりも,聴いたことすらないのでしょう。
 私がいつもすごいなあ,と思うのは,いち早くニールセンのよさを認めたシベリウスをはじめとして,こうした作品の価値を見出す人がいる,ということです。こうしたよさを見つけることができる,というのはどういう才能なのでしょうか? それとも,全く無名の曲でも,すごいすごいといって聴き続けると,そのよさがわかるということでしょうか? いや,そうではないと思います。

 N響2月定期に演奏されたのは,交響曲第5番でしたが,やはりこのコンサートでも,馬鹿な「ブラボーおじさん」が存在しました。こういう曲で,指揮者が指揮棒をおろす前に「ブラボー」と叫ぶ人は犯罪です。
 話はそれますが,来る5月定期にパーヴォさんのお父さんネーメさんがカリンニコフの交響曲第1番を指揮します。カリンニコフなんて,ニールセン以上に無名ではないでしょうか? 私はそれに先立って聴いてみました。聴いてみるとわかると思うのですが,カリンニコフはす~っと入ってきます。一見簡単なのです。とはいっても,第2楽章の美しさは心に染み入るものがあるし,聴き終えて,また聴きたいなあ,と思わせるものがあります。
 私は,音楽の技術的なことはさっぱりわかりませんが,音楽に限らず「芸術」というのは,奥行きがあることがもっとも大切だと勝手に思っています。奥行きがあるというのは,俗にいって噛めば噛むほど味がある,というようなことです。表面的な美人ではない,ということです。
 音楽の場合は,聴いて,胸が一杯になる,いろんなことが浮かんでくる,そういった感情が次から次へと起きてくるということです。私は,ブルックナーの第4番を聴いただけで,海外旅行に行って無限に広がる大地を見たときと同じ気持ちになるし,シベリウスの第2番を聴いただけで,どこか遠くの寒い海岸に立たずんでいるような切ない気持になります。
 それは,絵画や写真に描かれた風景が,単に美しいということではなくて,ずっといつまでも見ていてくなる,そういうことです。旅に出たとき,時間を忘れてその風景を見ていたい,という気持ちになることがありますが,そういったことと同類です。

 しかし,カリンニコフとは違って,ニールセンは一筋縄ではいかない。
 一度聴いたくらいでは,何がどうなのかさっぱりわからないのです。メロディーは頭に入ってこないし,心に景色も浮かびません。
 ニールセンが無名なのは,祖国デンマークで,ニールセンが難しい現代音楽という位置づけになってしまって,海外に紹介するのが遅れたからだ,という説があります。ならば,この曲をずっと聴いて育ったら別の評価になっていたのでしょうか? きっとそうです。
 しかしそうでなかったから,愚かな私には曲を味わうには解説が必要なので,録音してあったFM放送の解説を聴き直してみました。
 この曲は,どうやら,クラリネットと小太鼓というのがポイントであるらしいのです。
 そう教わってきいてみると,確かに,作曲家が意図した「何か」が,次第に暗闇に目がなれてくるように見えてくるから不思議なことです。小太鼓は外面からの不安であり,クラリネットは内面の不安の象徴なのでしょう。私はそう思いました。
 そして第2楽章でそれらが葛藤するのです。しかし,ベートーヴェンの交響曲のように苦悩を乗り越えても歓喜はやってきません。それが現実だといわんばかりです。そういう意味では救いがありませんし,そこがわかりにくい理由なのでしょうか。

 次に,私は,交響曲第6番を聴いてみました。
 このニールセンの最後の交響曲第6番は,打楽器の使い方がまるでショスタコービッチの交響曲第15番そっくりです。いや,まちがえました。ニールセンのほうが先です。だから,ショスタコービッチが影響を受けたのです。
 ショスタコービッチの最後の交響曲第15番は私は大好きな曲のひとつですが,多くの人は,この第15番がよくわからないといいます。私は,なぜか,この曲は自分なりにとてもよくわかります。何がわかるかといわれても困るのですが,ともかく,心に入ってきます。この曲の自分なりのポイントというかツボがわかるのです。だから,この第6番の交響曲も私は容易に受け入れることができました。
 曲のよさがわかるというのはそういうことなのでしょう。
 ニールセンの交響曲は「何にポイントを当てて聴いてみるとよいかということがわかること」そして「救いがないという現実を受け入れること」が楽しむコツなのかもしれません。

◇◇◇
混沌とした結末-ショスタコービッチ最期の交響曲

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DSC_1524DSC_1528DSC_1530DSC_1531●「パインタール事件」の主役●
 ベンチ裏でなにも得るものもなく,このボールパークにもヤンキースのプレイヤーにも憤慨していたら,やがてゲーム開始が近づいてきた。写真を見る限りではとても美しいボールパークであろう。私の座席はバックネット裏の上段だったから,いつもテレビ中継で見ている,外野席後方のインターステイツ70の景色は実際にはこういう位置関係になっているんだということがよくわかった。

 アメリカでは何事も単純でどこも同じだと書いたことがあるが,ここのボールパークも,やはり,客席を取り囲むコンコースを一周できるた。ここカウフマンスタジアムは,外野の裏がものすごく広く,ここからの眺めが一番素晴らしかった。また,この場所には,3体の銅像があった。それが今日の写真である。
 この外野の通路にある3体の銅像は,ロイヤルズの永久欠番となっている3人のプレイヤーである。
 ひとつ目は,背番号20のフランク・ホワイト(Frank White Jr.)二塁手である。ふたつ目は,背番号10のディック・ハウザー(Dick Howser)(監督)である。そして,最後に,背番号5のジョージ・ブレッド(George Howard Brett)三塁手である。
 フランク・ホワイト二塁手は,軽快な守備と,長打力こそやや低いが勝負強い打撃でロイヤルズ一筋にプレーした1970年代後半から1980年代を代表するプレイヤーであった。1980年のヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズではチームをワールドシリーズに導き,MVPに選ばれた。
 ディック・ハウザー選手はヤンキースで活躍した遊撃手であった。1980年にヤンキースの監督に就任し,いきなりこの年103勝をあげ,地区優勝を果たしたのだが,チャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに敗れた。この時の采配が原因で,ジョージ・スタインブレナーGMが干渉をし,それを拒否したが,このシリーズの敗退後に,ハウザーは解任された。その後,ロイヤルズの監督となり,1985年,セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズで1勝3敗の窮地に追い込まれるが,そこから3連勝してチームを初のワールドチャンピオンに導いた。
 ジョージ・ハワード・ブレット選手は三塁手・一塁手であった。ロイヤルズ一筋でプレイした「フランチャイズ・プレイヤー」であり,通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・本塁打・打点・四球の各部門で球団記録を保持している。1999年に資格初年度でアメリカ野球殿堂入りをした。現在はロイヤルズの球団副社長を務めている。
 このプレイヤーは「パインタール(松ヤニ)事件」の主役として有名である。
 1983年7月24日ニューヨークでのヤンキース戦のことであった。
 3-4とロイヤルズが1点ビハインドで迎えた9回表2死1塁で,ブレットが打席に立ち逆転の2点本塁打を放った。しかし,ここで当時ヤンキース監督だったビリー・マーチンが,ブレットのバットに塗られた松ヤニが規定の範囲を超えていると抗議した。球審がこれを認めて違反バットを使用したブレットはアウトとなり,一旦はヤンキースの勝利で試合が終了したのだった。これが後に,ロイヤルズの提訴が認められて,本塁打を有効として5-4の9回表2死から試合が再開することになったのだった。
 25日後の8月18日に行われた試合の残りは10分足らずで終了し,騒動はようやく終結したのだった。
 ジョージ・ブレット選手とフランク・ホワイト選手は長年のチームメイトで,1914試合に共に出場した。これは,1995年まで,守備位置を問わず,ふたりの選手が同じチームで出場した試合数のアメリカン・リーグ記録であった。

 私は,このボールパークでゲームが見られればそれで満足だったので,これを書いている今,ゲーム内容なんて,まったく記憶にない。覚えているのは,値段の高い席しかWifiが通じないということだけであった。デンバーでもサンフランシスコでも,ボールパークは全席Wifiが通じた。それに比べて,どうなんだろう。
 どちらが勝ったかということも当然覚えていない,というか,私は8回の途中でボールパークを後にした。
 こんな広い駐車場,帰りの渋滞に巻きこまれたらどうしようもない,と思ったからだった。
 しかし,心配したとおり車を探すのに戸惑った。
 来たとき,ずいぶんとしっかり場所を覚えたつもりだったのにもかかわらず,わけがわからなくなった。車自体がレンタカーだから,自分の車のイメージすら明確でないのだった。
 私は,駐車場をずいぶんとさまよった挙句,やっとのことで車を見つけることができた。
 ところが今度は,ボールパークからインターステイツ70に入るのが,大変だった。
 道路は目の前なのである。しかし,交通規制で道路が閉鎖されていて,かなり遠回りをしなくてはならなかった。こうなると,カーナビは役立たない。指示した方向に進んでくれないから,すっかり迷うばかりであった。
 どうにか,私は,ホテルにたどり着くことができたのだった。

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 少し前のことになりますが,2月12日N響1830回定期公演をFM放送で聴きました。指揮は首席指揮者のパーヴォ・ヤルヴィさん,メインプログラムは,ニールセンの交響曲第5番でした。
 パーヴォ・ヤルヴィさんが首席指揮者となった後,私は,N響の演奏会はヤルヴィさんの指揮ですっかり満足するようになってしまい,ブロムシュテッドさんやデュトワさんの指揮する演奏会さえ,さほど興味がわかなくなってしまったのは,喜ぶべきか悲しむべきか,というところなのですが,それほどヤルヴィさんをすっかり気に入ってしまったのです。
 例えば,デュトワさんがブルックナーを指揮するという姿を想像することができないのですが,ヤルヴィさんは,ブルックナーだろうとマーラーだろうとベートーヴェンだろうと,おおよそ,どんな作曲家の曲を指揮しても様になります。そして,引き込まれます。私があれだけよくわからないと書いたR・シュトラウスですら,そんなことをいっていた自分が情けないくらい,おもしろく聴くことができました。
 そして,今回はニールセンです。

 ニールセン(Carl August Nielsen)というデンマークの作曲家の作品を,私は,これまで好んで聴いたことがありませんでした。N響定期公演でも,ずいぶん前に,交響曲第2番「4つの気質」という作品をブロムシュテッドさんが取り上げたことがあるのですが,それっきりだったように思います。ブロムシュテッドさんはニールセンがお得意のようなのですが,それでも,N響定期のプログラムにはのりません。N響定期に限らず,他のコンサートでも見たことがありません。人気がないのでしょう。
 若い頃にレコード店巡りをしていたとき,交響曲第4番「不滅」というのがたくさん並んでいてその表題に興味をもったことはありましたが,「不滅」なんて大仰で,なにかまがい物のような気がして手に取ったことはありませんでした。
 この国では,学校の音楽教育の影響なのか,ベートーヴェン,モーツアルト,ハイドン,シューベルトというのが一番有名で,その次が,シューマン,チャイコフスキー,メンデルスゾーン,ドボルザークといったロマン派の交響曲です。そこまでです。そして,クラシック音楽というのは「高尚」という「軽蔑語」で語られ,日本では学校で勉強した「クラシック音楽」を趣向する「高尚」な「お人」さんをも,「オタク」と同じような意味合いで「軽蔑する対象」とみなす風潮があるので,興味のない人にはその先は敬遠されます。
 本当は,そのあとに控えているブルックナー,マーラー,ショスタコービッチ,このあたりから純粋に面白さが味わえるのですが,なかなかそこまで至りません。

 私は,ブルックナーさえあればあとは何もいらない,というほどのブルックナー好きです。
 しかし,ブルックナーの交響曲は終了後の静寂がたまらないのにもかかわらず,日本で行われる多くのコンサートではそんなことお構いなしのブラボーおじさんたちがすべてを台無しにします。
 どうやら,彼らは自分がこういう「高尚」な交響曲を知っている選ばれた人なんだぞ,と観客にアピールするために聴きにきているだけのようなのです。あるいは,歌舞伎の掛け声と間違えているのです。ブルックナーの交響曲を真に味わったのならば,曲が終了して直ちに拍手をする気持ちにはならないと思うのですが,私はいつも「あんたのブラボーを聴きに来たんじゃない」と腹立たしくなります。
 ミサ曲を聴き終えて「ブラボー」と叫ぶ人がいるくらいですから,その人の教養は推して知るべし,これが多くの日本人の「知性」なのでしょう。なにせ「人は石垣」であって,文化をリスペクトしていない国ですから。

 それはともかく,これまでほとんどの交響曲を聴きこんだと思っていた私は,このN響定期でニールセンが取り上げられたのを機に自分の知らない世界がまだあることを悟り,6曲すべて聴いてみることにしました。
 ニールセン,グラズノフあたりが,ブルックナー,マーラー,ショスタコービッチなどの後に控えている宝の山なのでしょうか。
 そうそう,シベリウスやヴォーン・ウィリアムスという作曲家の魅力的な交響曲も私は大好きです。
 シベリウスは日本人の感性に合うのか,日本では大変人気があるのですが,西洋ではそれほどでもないらしいです。ヴォーン・ウィリアムスはニールセン同様,あまり取り上げられませんが,このイギリス的な品の良さも,また,一度は聴きこんでみたい作曲家のひとりです。特に私は交響曲第5番を聴くと涙がでます。
 どうやら,このように,面白い作品がまだまだたくさんあるようです。私は,ますます,やりたいことが増えてきました。
 では,次回は,ニールセンの交響曲の感想を書いてみたいと思いますので,「高尚」な話は私にはどうも…などと言わずにぜひお楽しみに。

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 1978年の7月に創刊された「星の手帖」という季刊天文誌があります。この雑誌は年に4回発行されて,60号まで続きました。つまり,15年間発行されたことになります。
 内容は前半が天文学に関する特集,後半が星見を趣味とする人向けのお楽しみという二部構成でしたが,今改めて読み直してみると,まさに「40年前」にタイムスリップしたような感じで懐かしくなるとともに,私も40年若返ったようで嬉しくなります。若いころのものはこうして40年後に再び陽の目をみるのですから,若い人は今読んでいる雑誌を大切に保存しておくとよいと思います。
 読み直してみると,と書きましたが,実際は,当時,前半の特集の部分は難しくてほとんど読んでいないのです。それでも「フィーリング」だけで味わうために毎号の発売が楽しみでした。
 今は前半の特集も楽しむことができるくらいの知識はあるので,それをきちんと読んでみると,内容はかなり古いのですが,それでも新たな驚きがあります。
 創刊号の特集は「現代の宇宙論」だったのですが,その記事のひとつに「重力波の天文学」というのがありました。その記事の最後に次のように書かれてあります。
  ・・・・・・
 100年後の宇宙の描像は,重力波による各種の発見によって,今とはずいぶん違ったものになっているかもしれません。
  ・・・・・・
 それから40年近くが過ぎたのですが,ついに先日,重力波を捉えることに成功したというニュースが伝わりました。アインシュタインの提唱した一般相対性理論は正しく,重力波の存在も確実視されていたので,後は観測精度の問題だけが残っていて,近々捉えることができるのは間違いないといわれていたのですが,それでも世界最初を狙っていた日本の関係者は先を越されてしまって,かなり残念がっていると思います。学者さんもたいへんです。

 重力波に関する学問的な内容はいろんなところで紹介されているでしょうから,ここでは別のお話を書きます。それは「ハイゼンベルグの不確定性原理」(The Heisenberg uncertainty principle)というものです。
 私も学生時代,大学でそれを習いました。量子力学においては,運動は,位置が正確に決まれば運動量が決まらなくなり,その反対に運動量が決まれば位置が正確に決まらなくなる,という原理です。それは,観測として決まらないということではなくて,もともとの物質のもつ性質なのですが,観測しても位置が正確に決まらないと曲解されることがありました。
 観測で正確に位置や運動量が決まらないとしたら,今回重力波を捉えることに用いられたレーザー型の検出器では重力波の検出ができないのではないかと疑念がもたれていたことがあったのです。
 その問題を解決したのが小澤正直教授の論文でした。それは,従来混同されがちであった量子自身の性質である不確定性原理による量子的揺らぎと測定精度の限界や測定の影響を明確に区別する「小澤の不等式」を導くことで,それまでのハイゼンベルク不等式を修正し,観測で位置や運動量が正確に決まることを導いたのです。それを機に,レーザー型の検出器による重力波の研究が飛躍しました。
 いわば「小澤の不等式」(The validity of Ozawa's inequality)は,重力波を捉えることができた陰の功労者です。

 今,私の手元に,その「小澤の不等式」に関する
「Universally valid reformulation of the Heisenberg uncertainty principle on noise and disturbance in measurement」
という論文があります。
 私が今日話題にしたいのは,日本の中等教育を受けてもこうした論文が読めるようにはならないということなのです。
 たとえば,高校生が自分の学校の数学の先生に,この論文に書かれてある数式について教えてください,あるいは,物理の先生に,解説してください,とお願いしても,きっとできないといわれることでしょう。おそらく先生自身読む力がないと思います。
 つまり,この国の中等教育では,学生はずいぶんと時間をかけて大学受験の問題を解く訓練はしても,その先の分野を自学をすることができる程度の数学の基礎すら学んでいないということなのです。そしてまた,教える側の実力も大学入試問題がやっと解ける程度であって,学問としての「数学」自体を教える力すらないということなのです。

 この論文を高校生が読むというのは困難でしょうが,やる気のある学生が,高等学校卒業までの知識でさらに独学で数学を勉強した上で物理学の専門書を読もうとしても手も足も出ないのです。それは,現在中等教育で教えている高等学校3年までの数学の内容は,英語にたとえれば,現在形しか教えてもらっていないという程度だからです。
 したがって,理系の学生であっても物理学などの学問に使える数学は全く知らないのと同様なので,大学でまた初めから勉強しなおさなければならないし,文系の学生にとってみれば,中等教育の数学を勉強しても数学的な考え方が身につくわけでもないし数学の文化的な良さが理解できるわけでもなく,単にセンターテストのなぞなぞのような問題を解き方のパターンを暗記して解いただけという無意味なものになってしまっているのです。つまり,役に立たないのです。
 数学の授業で「大学入試問題の解き方のパターン」を暗記するような演習を繰り返して高等学校3年の貴重な1年間を費やすくらいなら,その時間でベクトル解析やら複素関数論といった内容でも教えたほうがずっとよいのです。1年という貴重な時間をそんなことで無駄にしているから,大学に入学してから理系の学生が数学の勉強でどれほどの苦労を強いられるかをカリキュラムを作る「有識者」とかいう人はもっと真剣に考えるべきなのです。

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●わずか1ドルとはいえ●
 このボールパークは,2007年のシーズン終了後から2億5000万ドル,つまり,300億円というから,新国立競技場の総工費の10分の1,ヤンキースタジアムの5分の1もの費用をかけて,大規模な改修工事を行い,2009年にオープンさせた。その結果,外観がモダンなガラス張りとなり,センター後方の巨大な王冠スコアボードはハイビジョンに変わり,レフト後方にチーム殿堂博物館,そして,噴水シート,ライト後方にはレストランが新設された。
 私は,このリニューアルされる前の,日本の陸上競技場のようなコンクリートむき出しの古臭いカウフマン・スタジアムに来てみたかったと思った。確かに,新しくはなったが,やはり,新たに作られたボールパークには及ばず,ボストンのフェンウェイ・パークのような,徹底的なレジェンドにも及ばない。つまり,中途半端な近代性を身に着けてしまっていたからである。

 私がこのボールパークに着いたときはまだ開門時間には早く,ゲートに人が集まり始めていた時だった。
 それにしてもものすごく蒸し暑かった。
 確か1ドルだったと思うが,余分に払うと,優先入場できるということで,せっかく来たので,そのお金を支払って,私は,優先入場をすることにしたのだが,優先入場の特典が何か,そして,いったいどのゲートから入れるものかもよくわからなかった。アメリカは人から何だこうだといって余分にお金を吸い取ることは得意だが,日本と違って極めていい加減な国だから,聞いたところで,幸運にもそのことを知っている人ならば教えてくれるが,たとえ係員だろうと知らない人の時はどうにもならない。
 私のように,わからずにうろうろしている人が大勢いた。
 なんとか,ここに並べばいいらしい,という列を見つけたので,そこに並んでいると,私の前に娘とその父親らしき人がいた。その娘というのは,私の娘と同じほどの年齢であった,ということは,父親というのが私と同じくらいの年齢なのだろうが,彼女はメジャーグおっかけのようであった。彼女はサインをしてもらうためのボールとボールペンを持参していて,いろんな私がくだらないと思うようなことにすごく詳しかった。
 近頃,日本の大相撲にも,それとほとんど同じ感じの女性ファンがあふれているが,そうした女性ファンとほとんど同類であった。
 彼女によれば,ボールにサインをしてもらうには,青ボールペンでなければいけないのだという。その女性に限らず,選手の写真の入ったアルバムを用意して,それぞれのプレイヤーにサインをしてもらうのに命を懸けている女性とか,このボールパークには,そういった女性がうろうろしていた。
 女どものやることはどこの国も変わらない。

 蒸し暑い中を並んでいると,開門の時間になって,1ドル余分に支払った我々は,とりあえず,チーム殿堂博物館に誘導された。
 まず,この博物館を優先的に見ることができるらしかった。
 博物館の展示は極めて充実していて,それは多くのメジャーリーグのボールパークの中でも1,2を争うものであった。前の年のディビジョンシリーズで出場した青木宣親選手の名前もあった。
 青木選手は,私が行った年の前年,ここロイヤルズのメンバーとして大活躍をして,チームはディビジョンシリーズまで進出したが,守備力がないとみなされていて,ワールドシリーズでは指名打者制度のないナショナルリーグ主催のゲームで出場することができず,活躍の場もなく,要するに,このチームでの居場所がなくなって,ある意味,干されていた。それが理由だと思うが,彼は,翌年,不思議なことにナショナルリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍した。
 私が思うに,青木宣親選手は,好不調の波が激しすぎることで,アメリカでは今ひとつ信用あるプレイヤーとみなされていないから,こうした扱いを受けてしまうのだ。だから,これだけ貢献したにもかかわらず,この博物館で彼の写真が1枚あるわけでもなく,その存在を知ることができるものは,唯一メンバー表のみであった。
 その翌年,つまり2015年の6月,私は,その年に属していたサンフランシスコ・ジャイアンツのゲームを見にいったが,サンフランシスコでも,青木選手のユニフォームすら売っていなかった。日本でいろいろ報道されていても,実はアメリカでは,その程度の位置づけでしかない,というのは,実際,行ってみないとわからない。日本の報道とは,そんなものである。

 博物館の見学後,優先的にスタジアムに入って,運が良ければ選手にサインをしてもらうことができるということだった。
 このカウフマンスタジアムは作りが悪く,スタンドの一番前に行っても,そこからさらにフィールドが遠く,選手と直に接することができない。私は,他の観客と同様に,この日のビジターチームであったヤンキースのベンチの横で,選手を待っていたが,ヤンキースのプレーヤーはまったくファンサービスをする気もなく,それはそれはひどいものであった。
 そんなわけで,わずか1ドルとはいえこのお金を支払ったおかげで,私は,このボールパークにもヤンキースにも,悪い印象以外の何物も得ることができなかったのだった。

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☆☆☆☆☆☆
 私が星見をしてつくづく思うのは,どうしてこれほど素晴らしいものが身近に手に入るのに,人はそれを台無しにして破壊するのか,ということです。まったく不思議でしかたがありません。私は,なくなりつつある満天の星空を求めて,北に南に西に東にと走り回らなければならないのです。
 すでに,全天が暗い場所などありません。だから,南の星空を見たいとき,北の星空を見たいとき,というように場所を変えるのです。

 2月18日の早朝は天気予報では快晴でした。前日の晩から移動性の高気圧がおにぎり型の等圧線で日本列島に張り出してきていたので,天気については何の心配もなく早朝起床しました。
 それが,どうしたことでしょうか。家の上空は真っ白に雲が覆いかぶさり,星のひとつも見えません。
 しかし,どう考えても天気は晴れでないといけないのです。きっと,我が家の上空あたりだけ少し気圧が下がっているのだと確信して,家を出発して,南に向かいました。
 目指すのは地平線から昇ったばかりのさそり座といて座でした。
 実は,16日は起きてみたもの雲が流れ晴れるとは思えずそのまま再び寝てしまい,17日の早朝は晴れていたので星を見に行ったのですが,天気予報通りいて座が昇る5時頃から雲に覆われてしまい,写せたのはM16=2番目の写真 だけでした。その前にM85も写したつもりだったのですが間違えてM99を写してしまい,帰って確かめるとM85は端っこにも写っていませんでした。このことについてはまたあとで書きます。

 私はプロの写真家でもなく,持っている機材も20年以上も前の旧式のもの。いろいろガタが来ていて,もう製品は販売されていないので,メーカー修理もできず,部品もなく,ホームセンターで代用部品を探してはなんとか使っています。
 最新式の機材のように自動で星を入れることもできないので,ファインダーを使って星を探します。結構難しいのですが,慣れてくるとこれが面白いのです。機材も使っているうちにいろいろ分かってきて,今や,到着後5分以内には撮影が始められます。
 写した写真は決してお見せできるようなものでもないのですが,趣味なんて所詮は自己満足。私にはこれで十分です。
 高速道路を走って行くと,次第に雲が切れていき,雲の切れ間から沈まんとする大きな月が地平線に横たわっていました。
 午前3時,観測場所に到着。思った通り快晴で満天の星空が迎えてくれました。

 昨日ひとつ写したので,メシエ天体全110個の撮影まで残り5個でした。
 しかし,実はこれまで写したものを再確認してみると,写していたと思っていたM4がM107の間違いだったり,かみのけ座の銀河団を写したこれまでのどの写真をさがしてもM85が写っていなかったりと,実際は,さらに2個増えて,残り7個でした。
 前回も書きましたが,メシエ天体110個のうち3個は欠番。その3個というのはM40,M91,M102です。そのうち,M40は単なる二重星,M91はNGC4548ではないか,そして,M102はNGC5866ではないかといわれています。私は,その中でまだM40は写していない(とはいえ単なる二重星!)ので,これも含めると残り8個になります。

 この日,まず,鬼門のM85を写しました。昨日も挑戦したのですが場所を間違えて,M99あたりを写してしまいました。しし座のデネボラからたどっていけばいいので,そんなに難しいわけではないのですが,何度挑戦してもM85の近くの5等星とM99の近くの5等星を間違えるのです。近くに明るい星がないことと同じような明るさの星が並んでいるので迷子になるです。
 そんな難物だった念願のM85もついに写すのに成功=3番目の写真 して,その次にさそり座のM4はアンタレスの隣だから簡単に写り=1番目の写真,残ったいて座とたて座の5個の球状星団を次々に写していきました。
 まだ地平線すれすれだったのですが,待っていると夜が明けます。なにせ,まだ2月です。球状星団などともかく写ればいいじゃないかとばかりに,M11,M26,M25,M24=4番目の写真 と次々に写して,最後にやっと昇ってきたM69をなんとか写しました。実はこの中でM24だけは球状星団でなく単なる星の密集地帯です。メシエ天体では他にもM73=5番目の写真 というのが単なる星の密集です。
 最後に写したのがおおぐま座・北斗七星のδ星メグルスの隣にあるM40,いや単なる二重星=6番目の写真。赤い丸の中の二重星がそれらなのですが,その下に白い丸の中のNGC4290という銀河があって,こちらこそM40という気がしますが,それだと暗すぎます。
 これで,晴れて110個すべて写すことができました。
 さそり座には,メシエ天体以外にも,魅力的な天体がたくさんあるので,その後はその中からいくつか写しました。7番目の写真はさそり座μ星あたりの散開星団,そして,8番目の写真はさそり座λ星あたりの散光星雲,通称・出目金星雲(西洋ではCat's Paw Nebula=猫の足星雲)です。

 このようにメシエ天体を写すことで,私は本当に多くのことを学びました。
 まず,どのくらい見えるのかそして写るものなのかが,とてもよくわかりました。星座の名前と位置関係をはっきりと覚えることもできました。
 写した後で様々なガイドブックを読んでみると,書いてあることがとてもよく理解できます。
 いわば,旅行のガイドブックを旅行から帰った後で読むようなものです。
 本当は,こんなことは40年前にやっておくことでしょうね。でも,私は,今,40年若返って,その時にできなかったことを実行しているので,感慨深いものがあります。
 いつも書いていることですが,何事もやってみなくてはわからないというのが実感です。
 そして,一番の宝は,星の美しさと魅力を再発見したことでした。

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●夢にまで見たボールパーク●
 MLBのボールパークは,1960年代,モータリゼーションの発達で巨大な駐車場が必要となったために,郊外に,アメリカンフットボールとの兼用スタジアムが数多く建設された。そんな中で,1970年代のはじめに,カンザスシティは,郊外に,あえて,ベースボールとフットボール,各々の専用スタジアムを建設したのだった。
 1990年代以降,郊外型の兼用スタジアムは全て時代遅れとなって,今度は,ダウンタウンの再開発のシンボルとして,都心に新しいベースボール専用のボールパークが作られるようになった。しかし,カンザスシティのふたつの専用スタジアムは今も健在である。
 私は,30年くらい前にこのボールパークの写真をはじめて見て,その豪華さと規模の大きさに,さすがアメリカだ,いつかはそこに行ってみたいと思い続けていた。

 アメリカに頻繁に旅をするようになっても,カンザスシティは遠かった。メジャーリーグ30球団の中でも,おそらく,一番縁遠いところに違いない。そしてまた,ロイヤルズは1985年のワールドシリーズ進出を最後に低迷して,ずっと弱小球団のままであった。
 写真で見る限り,このボールパークがあるのはアメリカの中でも,ど田舎で,かつて,野茂英雄投手もこのチームに属したことがあるが,そこは,まるで地の果てのようなところだと,私は思った。
 マック鈴木というメジャーリーガーがいた。
 高校生のとき,学外で傷害事件を起こし自主退学。その間にもさらに2件の傷害事件を起こし,日本で野球が続けられなくなって渡米した。やがて,1Aアドバンスのサリナス・スパーズに球団職員兼任練習生として参加,シアトル・マリナーズとマイナー契約後,メジャーリーグに昇格し,村上雅則,野茂英雄に次ぐ日本人3人目のメジャーリーガーとなった。
 彼は,日本プロ野球界を経由しない初の日本人メジャーリーガーであった。
 そして,カンザスシティ・ロイヤルズに移籍したのだが,その彼が,ロイヤルスで登板して。9回まで完封したのを,私は日本のテレビで見たことがあった。
 私は,そのとき,いかにも,そんな男にふさわしいチームだと思ったものだった。
 今回,そんなカンザスシティ・ロイヤルズのボールパーク,カウフマンスタジアムを,私は訪れることにしたのだった。
 私にとって,このボールパークは,それほど思い入れのあるところだった。

 インターステイツ70をセントルイスから走ってきて,はじめてこのボールパークが見えたときは感動した。それと共に,私がずっとど田舎だと思い続けていたのが,完全な誤解だということに気がついた。
 この地のロケーションは,ドジャースタジアムとさほど変わらない。ドジャースタジアムも,ロサンゼルスの郊外にあるのだが,むしろ,ドジャースタジアムのほうが,ずっと,都会から離れている感じがする。
 デイトン・ムーア氏がロイヤルズのGMとなった2006年当時も,このチームは,最弱であった。彼は,チームの立て直しを図り,ボールパークをリニューアルした。以前は,外野には座席がなく,全面噴水だったが,今では,それも縮小された。外観も模様替えされて,中途半端に豪華な包みに覆われた。それとともに,チームは強くなり,ついに,昨年,ワールドシリーズを制覇してしまった。
 そんなカウフマンスタジアムに私は到着した。駐車場はだだっ広いのに自由に車を停められるわけではなく,安くもない駐車料金が必要だったし,停める場所さえ指定された。しかも,自分の停めた場所が,あまりの広さで,一体どこなのかを覚えるのも一苦労であったし,駐車場からスタジアムへ行くのも大変なくらい遠いところであった。
 私が到着したときは,すでに雨は上がっていたが,日本の夏のようにものすごく蒸し暑くなった。
 夢にまで見たこのボールパークの現実を知るのに,時間はかからなかった。

 一度の人生,せっかく生きているのだから,iPad とか iPhone とか,新しいガジットは使いこなせるほうが面白いのでいろいろと試しているのですが,それとどう付き合うかが自分なりにわかってくると結構便利に生活できます。しかし,多くの人は,そういった情報があまりに多すぎ,複雑なので,まんまと罠にはまって,余分な出費をしたり,自分を見失ってしまいます。携帯電話会社に月1万円貢いでいるなんていい例です。
 巷にたくさんあるお店というのは,儲かるからそれだけあるのですが,それは,うがって考えてみれば,そういうところに出費をするというのが,一番無駄なお金の使い方だということです。
 この国は,何事も賢くないと損をします。賢いというのは学校教育で学べない「知恵がある」ということです。

 金融機関が投資投資と煽るのも,また,同じことです。
 老後の資金が不足するから投資で増やそうなどと書いてある雑誌がありますが,よほどリスクのある投資をしなけければ,投資は,運が良ければ1割ほどは儲かりますが,たいていの場合は3割程度の損をします。プロが年金の運用で投資しても損をするのに一個人が投資して儲かるわけがないのです。そんなことはわかり切ったことです。
 しかし,業者は投資家が損しようとそんなこと知ったことありません。どっちみち投資に手を出してくれれば手数料が儲かります。どちらにしても損をするのはお客さんです。こんな人を馬鹿にした商売がほかにあるでしょうか? だから,金融業は何もモノを作らないのにお給料が高いのです。
 たとえば1,000万円投資をすると,万一うまくいったとしたら100万円くらいは儲かるのですが,たいていの場合は300万円ほど損をします。そんなことのために,貴重な人生の持ち時間の多くを,相場を眺め精神的に動揺しながら過ごすのです。実際,投資などするよりも働いたほうが効率がいいのです。毎日,株価やら為替相場に一喜一憂するなんて,それが仕事でなければ馬鹿げているだけで何も得るものはありません。しかも,素人投資家には知らされない金融機関のみが知りうる機密の情報が山のように隠れています。
 株価が高いときや円が安いとき,つまり,投資をしてはいけないときに限って,もっと上がるもっと下がるといって,業者は投資を勧めます。そして,ある時期が来ると「突然」相場が乱高下して,何も知らない素人は怖くなって慌てて損切りをします。こうして素人はお金だけを貢がされて振り落とされていくのです。歴史上,こんなことがこれまで何度繰り返され来たことでしょう。
 そんな事実は,数年,まじめに投資をしてみればわかります。

 この話が信じられない人は,自分の余裕資金の1割程度を3割損する覚悟で2年くらい投資してみてください。
 例えば,100万円の余裕があるときは10万円を3万円損する覚悟で,1,000万円の余裕があれば100万円を30万円損する覚悟でです。そして,投資資金はできる限り細かくして,株,FX,投資信託など,様々な多くのものに小分けして手を出してみましょう。
 ただし,窓口に行ってはいけません。あなたを人間でなくお金としか見えない窓口の店員さんが笑顔で迎えてくれて,うまい言葉であなたからお金を吸い取ってくれます。そして,まとわりついて離れなくなります。ネット証券やネットバンキングをお勧めします。
 そして,しばらく,自分の投資したものが上がるか下がるか売り買いせず様子見をしてみると,本当にいろんなことが経験できます。つまらない本を買って読んだり,テレビの解説番組などを見るより世の中にずっと詳しくなれます。そして,投資のからくりがわかります。たとえ3割損をしたとしても,勉強代だと思えばいいのです。
 はやり,このことも経験が大切で,「ドリラー」ではだめなのです。
 かくいう私は,そうして勉強しましたが,悪運が強いので,幸い,一度も損をしたことはありません。

 この国の学校教育では,知識は身につきますが知恵は身につきません。
 資本主義社会で最も大切な知識である税金や投資について,学校では何も教えてくれません。そういうことを口にすること自体が「お下品」だと思っている教育者は一杯います。彼らは,安定した幸せな公務員だから,実社会の苦労なんて知らないのです。
 しかし,きちんとした知恵がないと,子育てに無駄なお金を使い,家のローンですっからかんになって,携帯電話会社に束縛され,いろんな報道に振り回されてなけなしのお金を投資して,やがては貧困老人となって死んでいくのです。
 最後に。
 マイナス金利とやらで世間は騒いでいますが,日銀の次の手は「現金のマイナス金利化」だそうです。つまり,1万円札が9,000円でしか通用しないという政策です。これもいつか来た道。江戸時代,お金を改鋳した政策と同じです。世も末です。
 どうやら,この国では,何事も宣伝や広告に踊らされてお金を使ったほうが負けのようです。景気が良かろうと悪かろうと金利が上がろうと下がろうと,お金は使えばなくなります。

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●いつの間にか雨はやんで●
 彼女の言った通り,いつの間にか,雨はやんだ。私は,一度ホテルに行ってチェックインを済ませて,ベースボールを見に行くことにした。
 ニグロリーグ博物館とアメリカン・ジャズ博物館のあったのは,カンザスシティのダウンタウンから東南東に2マイル(3.2キロメートル)のところであり,ベースボールのゲームがあるカウフマンスタジアムは,東南東に6.5マイル(10キロメートル)インターステイツ70を走ったところ,そして,私が予約したホテルは,さらに3マイル(5キロメートル)インターステイツ70を走ったところと,どこも,とても近かった。そこで,一般道を走って,一度,ダウンタウンまで遠回りをしてホテルへ行くことにした。
 なにせ,はじめて行くこうした規模の都会は,行ってみなければよくわからない。
 日本で,はじめて,鹿児島市とか福岡市へ行ってみるのと同じである。

 今日の写真にあるように,カンザスシティもまた,とても道路の広い,美しい都会であった。
 この日走ったのは,ダウンタウンといっても,いわゆる繁華街ではなく,官庁街であった。
 アメリカの都会の官庁街は,とても広く,巨大なビルがその威厳を保っている。カンザスシティでは,官庁街は高台にあって,とても見晴らしのよいところであった。ただし,道路工事中のところも多かった。
 私は,アメリカの都会に住んだ経験もないから本当のところはよくかわからないが,もし住むとすれば,カンザスシティよりももう少し規模の小さな,たとえば,モンタナ州の州都ヘレナのような都会のほうが居心地がよい気がする。この広さというのは,うらやましくもあるが,自分なりの楽しみをもっていないと,どこへ行くにも何をするにも遠すぎる,といえなくもない。
 日本のように,ちょっと買い物,といって,歩いてモールに行けるようなところではないのである。

 このことも書いたことがあるが,多くの日本人が知るアメリカ人は,1割程度の上流階級と2割程度の下層階級だけである。そして,日本人の知るアメリカの姿というのは,映画に出てくるような戦争や暴力,そして,日本でニュースとして伝えられる銃犯罪ばかりである。そして,そういった情報だけで多くの人はアメリカは怖い,と言う。そして,観光で行くのは,ニューヨークやサンフランシスコといった観光地だけである。
 また,留学で行くときは,勉強に忙しく旅をする時間もあまりないだろうし,仕事で行くときは,会社の用意した日本人コミュニティが中心であることが多いから,日本人がアメリカの実態をどれだけ知っているかと考えると,本当はほとんどのことを知らないのではないか,と思う。
 むしろ,アメリカの実態に近いのは,「バック・トゥー・ザ・フューチャー」とか「マジソン群の橋」で出てくるようなところだと私は思う。行ったこともなく,自分で経験したこともないのに,偏見を持って「アメリカ? あんな危険なところへ…」と言う言葉を聞くたびに,そうした世界を知らない人をとても気の毒に思う。あの雄大な風景を知らずして一生を終えるのならどんなお金持ちになろうと出世しようと,私はごめんだ。
 
 ともかく,私は,今日の写真にあるようなカンザスシティの「普通の」街並みを走って,ホテルに到着した。
 私が今晩予約したホテルもまた,アメリカの都会のどこにでもある,安価な「モーテル」であった。このホテル,アメリカのホテルにしては写真写りがよくない。写真で見ると,結構「ヤバそう」な感じに見える。しかし,実際はとても快適なホテルであった。
 私は,こうしたところに泊まって,メジャーリーグでも見て,大自然をドライブして,日本にはありえない景観を味わえることができれば,それだけで,他に何もいらない。日本では,そうした経験はどこでも味わえない。

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●「ジャズ発展の地」●
 ニューオーリンズが「ジャズ発祥の地」であるなら,カンザスシティは「ジャズ発展の地」である。1930年代,現在,このジャズ博物館のあるカンザスシティのエイティーンス・アンド・ヴァイン(18th and Vine-Downtown East)地区の周辺で発展したジャズは,地元のクラブで今もジャズファンを集め続けている。
 カンザスシティはジャズピアノ奏者のカウント・ベイシー(William "Count" Basie)が大成功した都市であり,サックスの天才で,しかもカンザス生まれのチャーリー・パーカー(Charles Parker Jr.),トランペット奏者のディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie),ドラマーのマックス・ローチ(Max Roach)が出会って数時間後にインプロビゼーション(Improvisation)スタイル=即興演奏を生み出した地でもある。
 このスタイルがビバップ(bebop)の妙技に発展して,今日まで受け継がれているのだ。
 ビバップとは,最初に決まったテーマ部分を演奏した後、コード進行に沿った形でありながらも、自由な即興演奏を順番に行う形式のことである。

 こうしたカンザスシティの豊かなジャズの伝統の起源は禁酒法時代にまでさかのぼる。
 当時,地元の政治家トム・ペンダーガスト(Thomas Joseph Pendergast)が飲酒に目をつぶっていたために,国が禁止していた飲酒はカンザスシティでは自由に行われていた。そこで,他の都市で失業したミュージシャンたちがこの地に集まり,1930年代までには人種差別により隔離されていた活気あふれる黒人居住地区の中心地であったエイティーンス・アンド・ヴァイン地区の周辺に煙が充満したクラブが瞬く間に60軒以上建ち並んだのだった。

 その豊かな音楽の歴史が展示されているのが,ここアメリカン・ジャズ博物館(American Jazz Museum)であった。
 ここは「アメリカのクラシック音楽」と称されるジャズミュージックを専門とするアメリカ唯一の博物館である。
 この博物館の開設は,近隣地区全体を活性化するために2,650万ドルを投じた再開発プロジェクトの目玉であった。ジャズ歌手エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)のピンクのイブニングガウン,ジャズミュージシャンであったルイ・アームストロング(Louis Armstrong)のトランペット,チャーリー・パーカーの有名なアクリル製サックスなど,100点以上の歴史的記録や思い出の品が陳列され,館内にはジャズが流れていて,ジャズファンなら,思わず雰囲気に酔いしれてしまうことだろう。マックス・ローチ,ジャズピアノ奏者でありジャズ歌手のジェイ・マクシャン(Jay Mcshann),ジャズピアノ奏者のシャーリー・ホーン(Shirley Horn)らにスポットを当てた博物館オリジナルの映画も上映されていた。
 私が行ったときには他には誰もおらず,自由に館内を歩き回ることができた。

 館内の一角には,1930年代のナイトクラブそのままになっている人気の高いジャズクラブ「ブルールーム」(The Blue Room)という場所がある。ここは昼間は博物館の展示の一部となっているが,夜になると,今でもジャズクラブになるのだそうだ。かつて2000年ごろに,渡辺貞夫さんが,尊敬するチャーリー・パーカーが育ったこの「ブルールーム」にわざわざ来て,演奏して帰ったこともあったという。
 また,道路を隔てた向かい側には,1912年にオープンしたジェムシアター(Gem Theater)があって,落ち着いた輝きを放つネオンサインも新たに復元され,建物の正面にはガラスタイルが施されていた。

 私は,特にジャズに興味があるわけでもなかったので,ぐるりと一回りしただけであったが,なかなかいい雰囲気だった。
 アメリカ文化を味わうためには,アメリカンフットボールやジャズも理解する必要があるのだろう。
 こうしてニグロリーグ博物館とアメリカン・ジャズ博物館を見終わって建物の外に出ると,外は大雨であった。
 車を停めた場所までは数十メートルの距離であったが,そこまで走って行くことさえ不可能であった。私がためらって建物の中に戻って雨宿りをしていると,ちょうど,同じように雨宿りをしている女性がいた。
 私が「今晩ベースボールを見に行くのですが,この雨では…」と話しかけると,「私も見に行くのですが」といわれたのにはびっくりした。アメリカではこういうことがとても多い。これほどベースボールが根付いているわけだ。
 そして,彼女は「この雨すぐにやむから大丈夫よ。ここは,いつもこんな感じだから」と付け加えた。

 以前書いたことがありますが,アベノミクスというのは円をたくさん刷って市場に流したために円安になったというだけのことだったのに,そのタイミングがよかったために,予想以上の効果を生み,大企業と資産家だけは喜び,いつも何も考えていない多くの人たちはアベノミクスはすばらしい政策だと錯覚しました。
 日本ではデフレが続いているので,たとえ貯金に利息がほとんどつかなくても物の値段が下がっていくからお金の価値が高くなっていきます。これではますます人は物を買いませんし,外国人はますます円を買います(借ります)。
 そこで,国としてはインフレにして円の価値を下げる必要がある,というのが経済のからくりです。
 しかし,工場はすでに生産拠点を国外に移転しているし,少子高齢化の日本では将来の労働人口も減るし,老人の収入は年金だけが頼りだから,本当は円安もインフレも困るのです。円安で喜んでいるのはトヨタ自動車くらいでしょう。
 しかし,現実にはそういう少子高齢化に対する根本的な何の対策もないのだから,金融緩和で力づくで円安にしても,所詮は限度があります。再びリーマンショックのような状況が生まれれば,国の経済対策などひとたまりもないのです。
 さらに,熱病に侵されたかのように日銀の総裁が意地になっているから,マイナス金利まではじめちゃって,この国の破たんは時間の問題です。万一,一般の人の銀行口座から口座維持手数料がとられるようにでもなれば,経済はパニックになります。金融機関に危機を起こして経済が好転するわけがありません。そんなことは素人でもわかります。
 国が大切なのは大企業であり,国民ではありません。だから,自分の身は自分で守らなければなりません。

 この国で生きていく3大リスクは「子育て・家・投資」です。
 まず,「子育て」。
 この国の中等教育の「裏の」3つの柱は,
❶絶えず他人と順位を競わせることで,若者を自分はダメだという気持ちにさせ将来の夢を奪う。
❷ドリルの穴埋め問題をすることを勉強と勘違いさせて,本当の学問をリスペクトしない人材を育てる。
❸英語をも順位争いの対象にして英語嫌いを作ることで,国外逃亡を防ぐ。 
です。しかも,「学力調査と称したペーパーテスト大好き文部科学省」が何かを決めるたびに塾が繁盛する仕組みです。
 だから,学生はテストで点を取ることだけが目的でそれ以外のことには興味がなく,その欲求不満のはけ口として,週末も部活動漬けにして,そこでは技術を磨いたりスポーツ好きにするのではなく,「忍耐・根性」と洗脳するわけです。その結果,学問と文化をリスペクトしなくなります。
 文化をリスペクトしないわりには豪華なコンサートホールがたくさんあります。しかし,あれだけ運動部に力を入れていても,観客を満足させるような集客設備のある体育館すら満足にないというちぐはぐさも,また,日本らしい姿です。
 そうして大人になった人たちは,人生に生きがいも主体的にやりたいこともなく,子供には同じ思いをさせたくないとうすうす気づいているから,子どもを作りません。だから少子化になります。子どもがいても今度は学校教育に任せても何も達成できないと思っているから深夜まで塾通いをさせるので,子育てには異常にお金が必要となるのです。しかし,専門教育を施すための個人レッスンならともかく,大手大衆塾に通わせても,その学問の専門家でもない人がドリル学習を指導しているだけだから,大衆向けのチェーン店でバイトが作る料理を食べるのと同じです。
 そんなことより本当に子どもの成長に必要なのは,知識ではなくそれを越えた知恵を様々な体験や失敗から学ぶことなのです。

 結婚すると,今度は住居の問題があります。
 企業はたえず新築住宅を供給することで持ち家志向を高めます。主体性がなく,流れにまかせ世間体を気にする多くの人は,年収の何倍ものローンでそれを手に入れます。そのようにしてお金を使わせることでローン地獄にして,残業をいとわない奴隷のような労働者を作っているわけです。
 しかし,実際は,都心には,子育てを終え子供が独立した老夫婦が必要以上に大きな家に住み,あるいは,主のいなくなった空き家や車の停まっていない駐車場が溢れています。
 本来,住宅は,結婚したとき,子供ができたとき,子供が独立したときと,3回住み替えられるのが良いのですが,中古住宅市場の成熟していないこの国では,一度購入した家に一生住み続けるしかないのです。こうして,若い夫婦が無理をして購入した郊外の住宅は,将来売ろうとしても,これだけ空き家があっては値がつかず,子孫には財産ではなく負債だけが残ります。さらに,いつ洪水や地震といった天災が起きて持ち家がなくなるかわかないといったリスクのほうが非常に大きいのです。
 いくら金利が低かろうと下がろうと家は借りるもので,この国では決して家など買ってはいけません。
 
 結婚して子供がふたり,住宅ローンで郊外の建売住宅を買うという,昔は当たり前と思われたことすら今や正規雇用者となれた少数の幸運な若者にしか出来ないことですが,この,昔は当たり前だったことが今では最も危険なことなのです。年金の支給年齢が何歳まで繰り上がるかさえわからない時代,時代の変化を知らない年寄りの考えをうのみにして,あるいは昔の価値観のままにこうしたことをすれば,将来の不幸が目に見えています。おまけに,結婚相手の親が自営業者で厚生年金が受給されないときは,将来,年老いた親を施設に入れるお金もないから,これに加えて,さらに親の世話という大問題が待っています。つまり,子育ての後に控えるのは親の介護なのです。
 このように,この国では子育てと家にお金を使ったほうが負けのようです。
 「投資」については,また次回書きましょう。

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☆☆☆☆☆☆
 私は,これまで,ガイドブックに載っている京都と奈良の寺社仏閣をすべて見るとか,大相撲の国技館・名古屋・大阪・九州に全部行くとか,そういう「全部やっちゃう」ことを楽しみとしてきました。現在進行中なのは,アメリカ合衆国50州制覇とMLB30球団のボールパークに全部行くことですが,50州制覇達成まであと3州,30球団はあと4つです。ともに,今年中には達成できそうです。
 これらのほかに,月齢0から29までの月を全部撮影するとかメシエ天体110個を全部を撮影する,というのがありますが,月は完了して,ついには,月齢0付近の月がどこまで写るか,などという意外な方向に…。自分でも呆れていますが,私の購読している「Sky & Telescope」誌の今月号の特集のひとつが,月齢0付近の月を写す! これにはびっくりしました。まるで私のための特集です。
 そして,メシエ天体は残り15個となっていました。

 メシエ天体(The Messier objects)とは,フランスの天文学者シャルル・メシエ(Charles Messier)が作成した星雲・星団・銀河のカタログに記載された天体のことです。
 シャルル・メシエはパリ天文台に勤務する傍ら,熱心に彗星を捜索していました。
 彗星は地球から遠いところにいるときは暗く尾もなく,普通の恒星より少しだけボーッと輝いているのですが,天空にはそうした彗星と見間違える雲状に広がった星雲・星団・銀河などがあります。そうした天体を彗星と間違えないようにしようと考えたメシエは,紛らわしい天体のリストを作って自分の名字の頭文字をとって,M1=2番目の写真,M2,M3…としました。そして,M1からM103までの天体を「メシエ天体カタログ」として一般に発表し,みんなが使えるようにしたのです。その後,彼の弟子がM104からM109を追加,さらに1968年にM31アンドロメダ銀河の伴銀河をM110として追加したので,現在,110個のメシエ天体があります。ただし,欠番が3個あるので,実際は107個ということになっています。
 なお,今日の3番目の写真はM5へビ座の球状星団,4番目の写真はM6さそり座の散開星団です。

 私は,M31とかM42=5番目の写真 といった有名で明るいものから写し始めたのですが,小さな望遠鏡でも結構写せることが分かったので面白くなって,全部写そうと決めたわけです。
 そこで一番はじめに壁にぶち当たったのはおとめ座とかみのけ座の小さな多くの銀河たち=6番目の写真 でしたが,このことはすでに書きました。そして,今年,最後に残ってしまったのが,さそり座,いて座,たて座の球状星団たちでした。
 このさそり座,いて座,たて座というのが「曲者」なのでした。
 見たくなくても見られるのが冬の星座であるオリオン座。その理由は,冬は夜の時間が長く,しかも,空が澄んでいてきれいだからです。それに比べて,夏の星座は,夜の時間が短いことに加えて,空が澄んでいないこと,そして,南の空低いところを通るので,地平線近くまで空が暗く見晴らしがよいところでないとなかなか見られないからです。
 しかも,昨年の夏は,5月から3か月あまりにわたってずっと天気が悪く,星が見えませんでした。
 そこで,今年,私は,なんとかさそり座が見られるようになる2月から,明け方の空に昇ってくるその姿を狙うことにしました。この後は次第に高度は高くなるのですが,夜が明けるのも早くなる,という悪循環。しかも,早く写さないと,黄砂と霞になやまされる春になってしまうのです。

 そんなわけで,2月11日の早朝,これも以前書いたように,移動性の高気圧に覆われて,絶対晴れるという天気図になったので,東から南の空の暗い,空の開けた海辺の高台に出かけました。
 この日,私は,残った15個のうち9個ものメシエ天体を写すことができました。
 予想以上の収穫でした。
 しかし,さそり座といて座のメシエ天体のほとんどがそれほど大きくない球状星団。単にノルマを果たして写しただけでここでお見せしても大して面白くありません=7番目の写真はその中のひとつM80。そこで今日は,その日の写した有名ないて座の散光星雲である三裂星雲(M20)と干潟星雲(M8)の写真=1番目 を載せることにしました。
 これは,すでに30年くらい前にも写したことがあるのですが,写真写りもよく,双眼鏡なら,肉眼でも素晴らしい姿を見ることができます。
 さて,メシエ天体の撮影も残り6個,そのほとんどはたて座といて座の球状星団です。

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●「ニグロリーグ発祥の地」●
 このニグロリーグ博物館(Negro Leagues Baseball Museum)は,年間5万人が訪問するカンザスシティの名所である。ジャズ博物館と同じ建の中にあって,結構広いのだが,アメリカの数多くあるこうした博物館と比べると,それほどの規模ではなかった。
 入場料を払って中に入ると,中央にグランドを模した展示があって,それを取り囲むように,様々なコーナーが作られていた。

 ニグロリーグとは,アフリカ系アメリカ人を中心としたベースボールリーグのことだが,狭義では,リーグ運営が比較的順調に行われていた1920年から1948年の間に存在したベースボールリーグのことを指す。
 1860年にニュージャージー州ホーボーケン(Hoboken)のエリシアン・フィールド(Elysian Fields)で行われたゲームがアフリカ系アメリカ人のチームによる初めてのゲームとされている。その後,1860年代後半になると,主に東海岸を中心にアフリカ系アメリカ人のベースボールチームが形成されていった。
 また,メジャーリーグでは,1884年にトレド・ブルーストッキングスに在籍した捕手モーゼス・フリート・ウォーカー(Moses Fleetwood "Fleet" Walker),投手ウェルデイ・ウォーカー(Welday Walker)の兄弟が,「アフリカ系アメリカ人最初のメジャーリーガー」とされていたが,近年の研究によると,その5年前の1879年にプロビデンス・グレイズから出場した内野手ウィリアム・エドワード・ホワイト(William Edward White)がアフリカ系アメリカ人として最初にメジャーリーグに出場した選手ではないかといわれている。

 1880年代後半になると,メジャーリーグやマイナーリーグからの有色人選手排斥の流れが強まって,アフリカ系アメリカ人選手は1900年頃までにはメジャーやマイナーリーグから姿を消してしまった。
 1890年代になると,リーグに所属しない巡業プロチームが興行を成功させたりプロのチームが作られて,アメリカ中西部を中心に巡業を行うようになっていった。また,20世紀に入ると,アフリカ系アメリカ人によるプロ野球球チームは,ニューヨークやフィラデルフィアなどでも見られるようになった。
 1911年にシカゴ・アメリカン・ジャイアンツを設立し所有していた実力者ルーブ・フォスター(Andrew Rube Foster )は,アメリカ合衆国の第一次世界大戦参戦による混乱が収まった1920年,他の球団所有者たちとカンザスシティで会合を開き,アフリカ系アメリカ人による野球組織を提唱,アメリカ北西部を中心とした8球団によるニグロナショナルリーグを発足させた。また,その3年後の1923年,ヒルデール・デイジーズの所有者エド・ボールデン(Ed Bolden)が中心となり,アメリカ東部を中心としたイースタン・カラード・リーグが発足した。
 両リーグは1924年からニグロリーグの「ワールドシリーズ」も開催するようになり,クール・パパ・ベル(Cool Papa Bell),マーティン・ディーゴ(Martín Magdaleno Dihigo Llanos),ウィリー・ウェルズ(Willie Wells)といったスター選手も輩出するようになっていった。

 1920年代になると,大恐慌の影響もあり,イースタン・カラード・リーグ,ニグロナショナルリーグは一旦崩壊したが,ニグロリーグの火は絶えず,1933年に第二次のニグロナショナルリーグが組織しなおされたのに続き,1937年にはニグロアメリカンリーグが再結成され,再び2リーグ制が確立した。
 ニグロリーグにおける東西対抗形式のオールスターゲームも行われるようになった。
 この時代にはサチェル・ペイジ(Satchel Paige),ジョシュ・ギブソン(Joshua Gibson)ら多くのスタープレイヤーが登場し,こうして,ニグロリーグは全盛期を迎えた。
 白人社会から追われた黒人選手はニグロリーグで稼ぐことはできたものの,苦労は絶えなかった。
 大半のレストランやホテルが黒人を拒否。裏口やバスの中で食事をして,教会や葬儀場に泊まり,森の中で用を足した。白人至上主義団体「KKK」による襲撃や嫌がらせも受けた。
 1945年,当時ドジャースのオーナーであったブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey)は,ドジャース配下のマイナー球団にアフリカ系アメリカ人選手を所属させるようになる。その後,1947年にジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)がメジャーリーガーとなり大活躍した事により,他のメジャーリーグ球団もニグロリーグの選手を引き抜いていくようになり,1948年にはニグロナショナルリーグが解散,ニグロアメリカンリーグも1960年には立ち行かなくなり消滅した。

 かつてカンザスシティーを訪れた黒人のチームや芸能人が宿泊できたのは,博物館のある限られた地域だけだったという。
 逆境の中でも選手たちのプレーは,魅力にあふれていた。記念館の見学経路の最後にはフィールドがあり,ニグロリーグのベストナインと呼べる選手の銅像が並んでいた。
 ニグロリーグ史上最高の投手は,サチェル・ペイジ(Satchel Paige)。
 武器の快速球は,大リーグで「火の玉投手」と呼ばれたあのボブ・フェラーでさえも「自分の速球なんて(ペイジに比べたら)チェンジアップみたいなもの」と脱帽した。外野手をベンチに引き揚げさせて打者と勝負し,三振を奪って観客を沸かせていたという。48年には42歳でメジャーリーグのインディアンスに入団し,同年7月に42歳でメジャーデビュー。50歳を過ぎてもマイナーでプレーを続け,59歳となった65年にはカンザスシティー・アスレチックスに所属。史上最年長で登板し,3回を無失点に抑えた。
 最高の打者は,ジョシュ・ギブソン捕手(Joshua Gibson)であった。
 右打ちで通算本塁打は800本とも900本以上ともいわれる。最長飛距離は177メートルで「黒いベーブ・ルース」の異名をとった。
 また,クール・パパ・ベル外野手(Cool Papa Bell)の韋駄天伝説というのもあった。
 スイッチ打者でベース1周が12秒。二塁から外野への犠飛で生還することも珍しくなかった。その俊足ぶりは「寝室のライトのスイッチを切り,暗くなるまでにベッドに入った」とまで例えられた。

 学生時代の無意味な学歴争いから始まって,早朝から深夜までの重労働,そして,ウサギ小屋のような小さな家を手に入れるためにその収入の多くを費やすといった,まるで奴隷のような人生。退職してやっとそんな人生から卒業できたら,私がお勧めしたいのは不良老人になることです。そうすれば好き勝手に生きることができます。
 まずは流浪の旅に出て自分探ししましょうと前回書きましたが,その旅を終えたら,あとは,いかに日常を非日常として毎日を過ごすか,ということです。どんなに刺激があったとしても,日常は日常。旅が楽しいのは,それが非日常だからです。
 そこで私がお勧めするのは,不規則な生活をする,ということです。

 勘違いをしてはいけませんが,不規則な生活をするということは,暴飲暴食をする,ということではありません。すべてにおいて最も優先するのは,健康です。健康なくして,何もできません。私が不規則な生活をするというのは,それ以外のことです。何時に起きて何時に寝る,ということをきちんと決めて生活する,ということをやめるということです。なにせ,歳をとると,眠るのにも体力がいるから,早起きになります。
 まだ,夜も明けていないのに,この寒い季節に懐中電灯をもって散歩している人がいるくらいですから,みなさんきっと,時間を持て余しているのでしょうね。
 星好きな私から見れば,せっかく夜空に美しく月や金星が輝いてこの世のものとも思えない美しい姿を見せているのに,そういうことに感動するでもなくひたすら歩いている人がほとんどです。きっと,これまでの人生の中で,そうした心の余裕も育んでこなかったのでしょうね。
 本来,学問をするということは,自分の周りの景色が美しく見えるようになる,ということなのですが,そうした人生を送ってこなかったということなのでしょう。

 眠たくなれば寝る,早起きできるときは起きる,そうして,好き勝手に毎日を過ごすと,自分の周りには,いつも思いがけない出来事が頻繁に起こっていることを発見して,毎日の生活さえも,非日常になってきます。
 実は,隣の人はいつも午前3時に起きてどこかへ出かけている,だとか,どこかの家の息子さんは,いつも夜中の1時に帰ってくる,だとか,そうした意外な数々の事実に驚くこともあるでしょう。いつも同じような生活をしていれば,そんなことは絶対わからないわけです。
 よく,何か事件が起きると,犯人の住んでいた家の近くの人に聞き込みをしていますが,いくら隣に住んでいても,知らないことばかりなんですね。そんなこともとてもよくわかります。
 不規則な生活に慣れると,自然は何物にも増して美しいことに気づきます。そして,何よりも素晴らしいのは,海外旅行をしても,時差ボケに悩まされることがなくなることです。

◇◇◇
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。

ニューメキシコ4

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●あたりが急に暗くなってきた●
 まだホテルのチェックインには時間があったので,ホテルの場所だけを確認して,カンザスシティのダウンタウンに行くことにした。ホテルの場所はインターステイツ70のジャンクションの袂にあったので,そこからインターステイツ70に乗った。
 MLBファンの方は,テレビ中継のとき,カンザスシティ・ロイヤルズの本拠地カウフマン・スタジアム(Kauffman Stadium)の外野席後方に高速道路が走っているのが写るのをご存知であろう。私も,こうした映像を見たり,関連の本に載っている写真を見たりして,このスタジアムが,カンザスシティの郊外の広大な平原にあると思っていた。

 現在,アメリカでは,MLBの本拠地を大都市のダウンタウンに誘致して,再開発を進めているところが多い。日本でいえば渋谷にボールパークをつくるようなものだ。したがって,交通の便がよく,ゲームの終了後も安全にホテルに帰ることができるのだが,車で行くとなると駐車場に困るのだ。
 その反対に,1990年以前に作られたものは大都市の郊外にあって,車でなければ行くのも大変なものも多い。そこには広い駐車場がある。こういうところに観光で日本から行くのは一般の人には大変であろう。
 私は,以前行ったテキサス・レンジャーズの本拠地がまさに大平原の真ん中にあったから,カウフマン・スタジアムもそれを想像していた。
 インターステイツを西に,ダウンタウンに向かって走っていると,左手,つまり南側に,テレビで見慣れたカウフマン・スタジアムが見えてきた。アメリカで感動するもののひとつがこれである。ここでも,さすがに私は感動したのだか,それとともに,意外とダウンタウンに近いことに,意外な気がした。ちょうど,東京から浦安のディズニーランドに行くようなものだ。

 さらに進んでいくと,正面にカンザスシティのビル群が見えてきた。
 この風景も,また,とてもアメリカらしいものだが,日本ではこれほど高層ビルが林立する大都市はあまりない。
 ガイドブックによると,カンザスシティの見どころは,第一次大戦博物館,カントリー・クラブ・プラザ,アメリカン・ジャズ博物館,ニグロリーグ野球博物館などらしい。この日,私は,カンザスシティ・ロイヤルズのゲームのチケットを持っていたので,開門前の数時間を過ごすために,ニグロリーグ野球博物館に行くことにして,カーナビで場所を検索して,案内に従って走って行った。
 1880年代までは,アフリカ系アメリカ人もメジャーリーグでプレーをしていたが,1876年,アフリカ系アメリカ人の公共施設の利用を制限する「ジム・クロウ法」の施行によって,1900年にはアフリカ系アメリカ人選手はメジャーリーグから姿を消した。
 1920年2月,カンザスシティにアフリカ系アメリカ人選手ばかりの球団を所有するオーナーが集まった。
 そして,ルーブ・フォスターの呼びかけで「ニグロリーグ」が発足したのだった。

 ニグロリーグ野球博物館はイースト18番ストリートという,ダウンタウンから東の郊外にあった。
 あたりは荒れたところという感じではなかったが,アフリカ系アメリカ人の多く住む場所であった。私は,今でも,この町の治安については,本当によくわからない。
 道路に車を停めることができたので,私は適当なところに車を停めた。
 アメリカン・ジャズ博物館とニグロリーグ野球博物館は同じ建物にあった。
 私はうかつにも,この日,全く天気の心配などしていなかった。なにせ,雨の予兆すらなかったからだ。
 ところが,私が車を降りると,あたりが急に暗くなってきた。

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☆☆☆☆☆☆
 2月の上旬の5惑星のそろい踏みは,1晩に明るい惑星がすべて写せるので,私の「2016観測機材整備」で作った拡大撮影アダプターの実験には最適でした。拡大撮影アダプターの詳細は後日書くことにして,今日はそれを使って写した写真のお話です。
 まずは,家から少しドライブして木曽川のツインシティー138の上空に輝く5惑星を写したので,この写真をご覧いただきましょう。2月8日の夜明け前に写したものですが,水星が昇るのを待って写したので,午前5時30分過ぎ,すでに,世の中は活動を始めていて,通勤する人がいたり,犬を連れて散歩している人がいたり,という時間でした。見上げればこれほど素晴らしい星空が輝いているのに,多くの人はそんなことも知らず,もったいない話でした。
 なお,この日は月齢28.8。昨日は水星の隣に美しい月が見られたのに,この日は,そんなことは夢だったかのように月の姿はなく,まだ地平線の下でした。
 その後,月が昇ったので探してみたのですが,全く見つかりませんでした。
 先月月齢28.4は容易に見ることができたのですが,どうやら月齢28.5くらいが見ることができる限界なのでしょうか?
 そういえば,私の愛読しているアメリカの天文雑誌「Sky & Telescope」誌の今月の特集のひとつに,新月前後の月を写すというのがあったのにはびっくりしました。まるで私のための記事のようでしたから。

 こうした惑星のそろい踏みを写すのならともかく,月や惑星を拡大撮影するだけなら,星が見られる遠い山の中に出かける必要もなく自宅からでもできるので,寒い冬には最適です。ただし,冬の夜空はシンチレーションが悪く像が安定しないのが難点ではありますが。
 そんなわけで,新しく作った拡大撮影アダプターを利用して望遠鏡にカメラを取り付けて写してみたのが,今日の2番目から5番目の写真です。
 順に,月,火星,木星そして土星です。
 天文雑誌や本には鮮やかで大きな写真しか載っていませんが,実際に小さな望遠鏡で写すとどのくらい写るものなのかという情報はほどんどありません。星に興味にない人や,興味があっても図鑑でしか見たことのない人,そして「ドリラー」の気の毒な少年少女たちは,だれでも大望遠鏡で写した写真のように見えたり写せたりすると思っているのでしょうが,そんなわけがないのです。
 だから,望遠鏡を買って一度惑星を見るとがっかりして,その後は押し入れの中になってしまいます。

 写真でお分かりのように,火星は,この程度にしか写せません。
 小さな望遠鏡で写しても面白いのは、木星と土星です。
 木星は,衛星を写しても模様を写しても面白いのですが,両方を同時に写すのは露出時間が違うので無理なのです。インチキ? をするなら画像処理という手段を講じましょう。それが今日の一番下の合成写真です?!
 土星は,フィルムカメラの時代には写すのが非常に困難だといわれました。なにせ有名なので期待が大きすぎるのですが土星は結構暗く感度が低い時代,ずいぶんと露出をかける必要があったのです。そうしたフィルムカメラの時代を知っている人ほど,口径75ミリの小さな望遠鏡では無理と思ってしまいますが,それが存外いけるのです。図鑑にのっている写真と比べたらがっかりですが。

 実際に写してみると,このように,お金のかからない暇つぶしとして十分に楽しめることがわかりました。この先もっと良い写真を写すには,画像処理を工夫する必要がある,ということでしょう。
 それはそれとして,惑星は,写真で写すよりも肉眼で眺めるほうが最高です。

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●禁酒法が機能していなかった町●
 私が今日宿泊を予約したホテルは,アメリカンイン(American Inn)という安価なものであった。場所は,カンザスシテイのダウンタウンから東に20マイル(34キロメートル)インターステイツ70を走ったところにあった。
 長い長いドライブももう少しでゴールである。
 私は,カンザスシティからこの旅を始めたが,車を借りてすぐにカンザスシティを離れてしまったから,この町の様子はまだよく知らなかった。治安が悪いという話もあれば,治安はいいという話もあったし,街中噴水だらけだということも聞いたことがある。
 いずれにせよ,私がここに来た理由は,カンザスシティ・ロイヤルズのベースボールを見たいということだけであった。待望のゲームは今晩である。 
 実際,カンザスシティは,行った後でも,よくかからないところだ。
 大いなる田舎であった。きっと,カンザスシティ・ロイヤルズが存在しなければ,一生行くこともなかっただろう。そしてまた,もっと広々とした大平原を予想していたが,そういう感じのところでもなかった。

 20世紀初頭の禁酒法時代,フィクサーであったトム・ペンダーガストという人物に支配されていたカンザスシティでは,禁酒法は,事実上機能していなかった。ペンダーガストの庇護のもとに,ナイトクラブも違法営業され,マフィアが台頭していた。
 1933年には,カンザスシティ虐殺事件と呼ばれる銃撃戦が起こり,警察官・FBIエージェントの4人が殉職した。また,1970年代にもギャングに関わる事件が起きた。このリバー・クエイ・エンタテイメント地区で起きた闘争で3棟の建物が爆破されたのだが,この一連の事件は後に小説に著されて,1935年に公開されたロバート・デ・ニーロ主演の映画「カジノ」の題材ともなった。
 現在,カンザスシティにおける殺人発生件数は126件で,人口10万人あたり28.5件。これはセントルイスほどではないものの,ニューヨークの4倍以上,ロサンゼルスの2倍以上である。
 カンザスシティの市内には200か所以上の噴水があり,そのため「噴水の街」(Fountain City)と呼ばれている。また,古くは畜産の中心地であったことから,カンザスシティはステーキやバーベキューで知られ,「牛肉の町」(Cowtown),「世界のバーベキューの都」(BBQ Capital of the World)とも呼ばれている。さらに,アメリカの地理重心と人口重心の両方が町の400キロ以内に位置することから,「アメリカの中心」(Heart of America)と呼ばれている。

 私はガーデンシティでガソリンを入れて,再び州道7=1番目の写真 に戻った。
 この道路をそのまま西北西に走って,ついに,インターステイツ49に到達した。それが今日の2番目の写真である。
 このまま道なりに北北西に走ってもカンザスシテイにたどり着くのだが,私の予約したホテルは,最初に書いたようにカンザスシティのダウンタウンより東にあったから,ここからは真北の方角であったし,インターステイツを走るよりも一般道のほうが町の様子もよくわかって面白いので,一旦入ったインターステイツ49をすぐに,到着したハリソンヴィル(Harrisonville)という町で降りて州道291に入り,その道を北上した。
 州道291は3番目の写真である。

 地図で見るのと,実際に行くのとでは,想像ができないほどの違いがある。
 もう,カンザスシティのダウンタウンは間近なのだが,写真のように,ここはまだ,のどかな田舎の片側1車線道路であった。
 このブログで何度でも書くが,こうした道路に必ず引かれたセンターのイエローラインに注目していただきたい。やたらと道路を不規則に塗りたくるだけで,ハゲハゲで汚くわかりにくい日本の道路とどちらが走りやすく事故が起きないかは明白であろう。日本人の能力と思考はその程度である。
 しばらく北上していくと,州道291は,リーズ・サミット(Lee's Summit)というところで国道50のジャンクションに差し掛かった。そのまま国道50を少しだけ北西に走って,インターステイツ470を越え,さらに,国道350と名を変えたこの道を北西にしばらく走ったところでノーランドロードに降りて,片側1車線の一般道を北に走っていくと,ついに,カンザスシティを東西に走るインターステイツ70にたどり着いた。
 そして,その手前の右側に,私の予約したアメリカンインが見つかった。
 ちょうどお昼の12時であった。

◇◇◇
Broncos Stun Panthers to Win Super Bowl 50.

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☆☆☆☆☆☆
 本当に夜明けは美しい,と思うようになりました。これ以上のものは世の中にありません。
 学生のころ,自由な時間,私は,お昼間に室内にいることができませんでした。なにか,家にいるのがもったいない気がしたのです。だから,日が沈んみ,世の中が寝静まった後の深夜だけが,机の前で集中できる時間でした。
 しかし,この頃はその逆で,太陽が出てしまってからの世の中は醜く不快で,用事でもなければ外に出る気持ちがなくなってしまいました。その逆に,晴れた深夜の空には,輝きと魅力が一杯です。
 そして,その中でも一番素晴らしいのが,夜明け前の東の空です。

 2月の上旬は,水星,金星,火星,木星,土星,この太陽系の5つの惑星が,1等星であるしし座のレグルス,おとめ座のスピカ,うしかい座のアークトゥルス,さそり座のアンタレスの間にずらりと並び,そこを,月が毎日形と位置を変えて進んでいったので,天気が良い日は,毎晩,見飽きることがありませんでした。
 中でも,2月7日の早朝は,月齢27.8の月が0等星の水星,マイナス4等星の金星と並んで見られるということで,楽しみにしていました。幸い快晴だったので,私は,地平線まで人工物のない場所を探して,木曽川堤防をさかのぼってみました。
 午前5時30分過ぎ,すでに金星が明るく輝くその左側の地平線すれすれに,美しい月が昇ってきました。そして,月と金星の間には水星もはっきりと見えるようになりました。

 それらの高度が次第に上がるにつれて日の出が近づき,空が青白くなって,さらに,朝焼けで赤く染まるようになってきました。それとともに,淡い光を放っていた星々が明るさの中に消えていきました。月や惑星が空に溶け込んでいく美しさは絶品で,私は時間も忘れて,その姿に見とれていました。
 その帰り,そんな美しい姿があることさえ虚構だといわんばかりの俗世が,いつも以上にあわただしく活動を始めました。しかし,愚かな行為で近いうちに人類が滅んでも,この星たちは何も知らずそして変わらず輝き続けるのでしょう。
 自然の神々しさと人間の愚かさを改めて実感した1日でした。

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●親しくもないのに交流のある友人●
 私には珍しく,午前8時頃というとても遅い? 時間にブランソンを出発して,カンザスシティを目指して走り出した。
 ホテルを出発したときは,まだ霧が残っていた。
 まず,ブランソンのダウンタウンから国道65まで,霧の中の高原道路を走った。これが,今日の1番目の写真である。写真で見ても,こういうところを知ってしまうと,日本でドライブをする気持ちなんて本当になくなる。そして,国道65に入ってから,そのままスプリングフィールドまで北上していった。
 国道65は,昨日も通った道路だが,眼下にはブランソンの街並みが見えて,道路は,2番目の写真のように岩を切り裂いて作られた見晴らしの良い片側2車線の道路であった。こうした道路が地平線の向こうまで続いていた。昼間は車が通っているのだが,まだ朝早く,ほとんど車の姿は見えなかった。

 スプリングフィールドのダウンタウンの北側に,東西に走るインターステイツ44が走っている。私はこの道を昨日東から走ってきたのだった。今日は,このインターステイツ44に左折して入り,6マイル(9.6キロメートル)ほど西へ向かって走った。
 これが,3番目の写真である。
 そして,そこから今度は右折して,州道13に入り,北北西に85マイル(136キロメートル),クリントン(Clinton)まで走っていったのだった。
 4番目の写真は,この州道13を1時間ほど走ったところにある湖,トルーマンレイク(Truman lake)を道路から眺めたものである。

 クリントンは大きな町で,久しぶりにこうした町に出会った。5番目の写真は,そのクリントンのダウンタウンである。
 クリントンで州道7に乗り換え,西北西に40マイル(64キロメートル)行くとハリソンヴィル(Harrisonville)へ到達する。
 そこからインターステイツ49で40マイル(64キロメートル)北上すれば,いよいよカンザスシティなのである。
 そして,今日の6番目の写真は,州道7を走りながらガソリンスタンドを探していると,案内掲示があったので,それに従って州道を降りて,カントリーロードを走って行って見つけたものである。そこはガーデンシティ(Garden City)という小さな田舎町のガソリンスタンドであった。
 今,これを書きながらGoogleMapsでストリートビューを見ていると,私の写した写真と同じ風景が出てきたりするのが,当たり前のことでも不思議な気持ちがする。
 特に,このガソリンスタンドを写したのと全く同じ構図の写真が見つかったときには,可笑しくなったほどだ。

 私は今回,このようにしてカンザスシティへ向かったのだが,実際は,スプリングスフィールドでインターステイツ44をインターステイツ49に至るまでまで西に行って,インターステイツ49をそのまま北上するほうがずっとインターステイツで通行できるから,距離は長いのだが時間としては早い。しかし,時間もあることだしのどかな田舎の一般道を楽しみながら走ろうと思ったので,こうした経路をとったのだった。
 今日は,このたどった道からの景観を順に紹介している。これまで,この旅では道路の写真ばかりであったが,それも,今日が最後である。
 それにしても,私は,いつも時間に追われて距離を稼いでいたから,こんなのどかな道を,長い時間にわたって楽しく走ったこともあまりなかった。

 ミズーリ州は,都会としては,東の端のセントルイスと西の端のカンザスシティを挟むようにして,大いなる自然が横たわっていて,平原だけではなく湖もあり,結構変化に富んだ風景が眺められる。
 セントルイスとカンザスシティ,この2つの都会は,治安がよいのやらわるいのやら,観光地なのやらそうでないのやら,何やらよくわからない不思議なところであった。
 あえて行きたいと思うようなところでもないし,ツアーもないが,行ってみて失望するようなところでもない。
 私は特に思い入れがないのに,なぜかこれまで2度も来ることができたし,また,きっと今後も来る機会があるだろう。
 特に親しくしているわけでもないのにずっと交流のある友人,というのと同じだろうか。

 私は精神的に欲張りで,今でもやりたいことが一杯ありまです。だから,その道一筋,ということができません。また,急に興味が失せたりします。だから,学者は無理です。そして,無理にやらせないと隙があれば仕事なんてしないで好きなことして遊んじゃうから,自営業もできません。
 これで生きてこられたのが不思議です。
 しかし,いくらやりたいことがあっても,時間にもお金にも限りがあるから,それなりにできる限度,というものを自分で決める必要があります。
 そんな中で,今後星見をするのに,今使っている機材を生かして,いかにこれ以上楽しむか,ということを考えました。題して「金をあまりかけない2016観測機材整備計画」です。

 これだけ技術が進んでいくと,古い機材では写せないものが新しい機材だと写せるので,プロカメラマンは常にそれに見合ったものに変更していくことが必要だから大変です。
 例えば,4K動画など私は動画は撮らないから必要ない,という書き込みがありますが,それは趣味の話で,動画を写して静止画に取り込めるようになれば,根本的にプロカメラマンの仕事が変ってしまいますからたいへんです。ついていかれなければ仕事を失くします。
 でも,こうした最新機器は,一個人として,単に趣味として楽しむなら,かなりのオーバースペックになってしまいます。
 例えば,星の写真を写すにはカメラとレンズが必要ですが,今発売されているカメラメーカーのものは星を写すには不要なスペックが多すぎて,しかもそのスペックのために値段が高すぎるのです。
 こういうものを購入することが楽しみという人もいるし,人それぞれですが,私には必要ありません。

 私は,20年以上も前の,当時でも20万円もしない焦点距離500ミリの天体望遠鏡でずっと楽しんでいるのですが,現在,これと同程度の性能のカメラメーカーの望遠レンズを買うと100万円以上もするのです。しかも,その値段のうちの多くは,オートフォーカスや手ぶれ補正というもののためのコストであって,そんなものは星を写すには必要ないのです。そのくせ,そういうレンズをマニュアルでフォーカスを合わせようとしても,焦点のロックもできないというように,必要な機能がありません。
 また,カメラも,バルブシャッターが切れて,視野がしっかりと見えて,ピント合わせができる液晶画面があればいいのですが,シャッターを切ると,ミラーが跳ね上がるときのショックがかなり大きくて,それが収まるまで,レンズを覆っておく必要さえあるというように,肝心なことができないのです。
 昨年,ニコンから天体写真用のカメラというものが発売されましたが,それは基本的には単に一般のカメラから星雲の写りをよくするためにフィルターを変えただけのもので,天体写真を撮るのに必要のない内臓フラッシュまでついていたりするのに,その逆に液晶画面が動かないから使い物にならないといった,中途半端な,単に間に合わせものにすぎないのです。要するに,それくらいしか需要がないということなのでしょう。

 私の持っている望遠鏡も,もっと大きなものに買い替えようと思ったりもするのですが,今の日本で,そういうものを買って,それを毎回遠いところまで持ち運んでいっても満足に星が見える場所なんてありません。特に重いものだと,はじめはいいのですが次第に面倒になってきて,そのうちに宝のもちぐされになってしまうでことでしょう。また,山小屋や別荘を建てても,いつ,その近くが開発されてしまうかと思うと,そういうことにも踏み切れません。
 そういう意味では,空が少しは明るくても月に2,3回は気軽にすぐに星を見に行けるようなところに出かけて,小さくて多少性能が劣っても,持ち運びが楽ですぐに使える程度の機材がいいのです。

 このように,自分の身の丈にふさわしいものだけで,結構安価にいろんなことができるのですが,それではメーカーはもうからないし,国の経済も成り立たないのでしょうから,購買欲を煽り,乗せられる人がいるのです。
 しかし,そんなことに騙されてはなりません。
 私が長年生きてきて気づいたのは,趣味というのは,人と比べず,できるだけ自分が楽しむのにふさわしいものを必要十分だけ手に入れて,それを愛着をもって工夫して使うことが一番だということなのです。
 では,次回から,そのために私が何をしたかを書いていきたいと思います。

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●またブランソンに来るであろう●
☆7日目 5月15日(金)
 こうして,私は,心おきなく,ブランソンという町を楽しむことができたのだった。
 今日の写真のように,ブランソンという町は,片側1車線の道路の左右に,レストランやシアター,アミューズメントパーク,そして,ホテルがたくさんあるリゾートであった。私が行ったのはシーズンオフであったから,人も少なかったが,ハイシーズンはどのような様子であるだろうか。いずれにしても,日本の軽井沢のような芋を洗うような混雑ではないような気がする。とにかく広いところだからである。
 しかし,田舎のリゾート地だから,ラスベガスとか,そういうリゾート地とは違う。なにせ,カジノがない。

 私は,こうして,さまざまなところを旅して,結局のところ,人間がいかようにj人工の施設を作っても,結局はその魅力は自然を超越することはできない,と思うようになった。ディズニーランドも,所詮,満天の星空の魅力にはまったくかなわないし,ユタ州の広大な国立公園にはまったく歯が立たない。それとともに,人間が自ら行動したり表現するスポーツや芸事というのは,とても奥が深く,心を豊かにするものだと思う。
 だから,人工の施設を作るなら,それは自然を心から楽しむことができるような,あるいは芸術を楽しむことができるような劇場や美術館を作ることが一番豊かな社会だと思うのだが,実際は,単に自然を破壊したり,せっかくの星空を,意味のないネオンで台無しにしてしまうことのほうがはるかに多い。

 この日の朝は霧であった。
 ここブランソンは,周りが川で囲まれているので,こうした霧が発生しやすいのだろう。
 私が星を見に行く場所のひとつも同じような地形なので,早朝に霧が出やすい。
 そういえば,アメリカで霧といって思い出すのは,ノースダコタ州に行ったときの霧である。あの時の霧はすごかった。
 私は,このように自然を相手に遊び歩くようになって,こうしたことがよくわかるようになってきた。結局,私がこれまで机の上でやってきた勉強なんて机上の知識だけで終わるのならなんら得るものなんてなかった。しかし,ずっとそうして生きて来たから,それが一番大切だと思い込んできたが,それは大いなる誤解であった。そのことをもっと早く気づけばよかったといつも後悔する。

 3日前は,朝食もとらず早朝にホテルをチェックアウトしてしまったが,この日は,ホテルでゆっくり朝食をとることができた。
 旅も終盤。あとはカンザスシティでMLBを見るだけだ。
 ブランソンからカンザスシティまでは,まず,国道65でスプリングスフィールドまで戻り,そこから北北西に州道13を走って,約230マイル(368キロメートル),わずか4時間だったから,のんびりと戻っていけばいい。そして,今晩,ベースボールを見ることだけが,決まっている予定であった。
 朝食後もホテルでのんびりと,フロントでスタッフとお話をしたり一緒に写真を撮ったりして過ごした。
 この旅で,はじめは行く予定さえなかったブランソンであったが,こうしてとても素晴らしい思い出がたくさんできたのだった。きっと,また,数年後に,私はここに来ることになるであろう。

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 読売新聞のウェブページに「発言小町」というのがあります。
 その中の質問に「恵方巻き…食べない派は肩身が狭い?」とか「お昼に焼きそばってダメですか?」というのがあったのですが,多くの人はこんなことに興味をもっているのでしょうか? あるいは,こんなことまで自分で判断できないのでしょうか? それとも,ネタでしょうか?
 私の感想を一言でいえば,どうでもいいじゃないの,なのですが,それでは話になりませんから,少し書いてみましょう。
 
 そもそも「恵方巻」なんて,私が若い頃はありませんでした。
 なんでも,関西では節分に縁起が良いとされている太巻き寿司を食べる習慣があったのを,1998年に,セブンイレブンが「恵方巻」という名称を付けて全国発売したら広まった,それだけのことなのです。たった18年の伝統です。
 それにしても,これを考えたセブンイレブンのスタッフはすごいです。「恵方巻」発祥の地,あるいは「元祖」とか「本家」とでもすればさらに人気がでることでしょう。
 今では,日本人お得意の「徳川幕府の鎖国政策は開闢以来の国策と思われていた」と同様に,節分に「恵方巻」を食べる習慣もいにしえよりあったかかのように伝わっているわけです。そして,そんなことも知らない輩が,節分に恵方巻を食べないなんて罰当たりだとかなんとかいうのです。

 「お昼ご飯に焼きそば」は美味しいですよ。これと同じようなのに,「yahoo知恵袋」というウェブページには「夕食がマックで許せるか?」というのがありました。
 「yahoo知恵袋」というのは,信頼のおける回答と,どうにもならない回答があるので,これを吟味して読んでいると退屈しのぎになるのですが,このサイトに限らず,どうして,一部の人たちって,あのようなどうにもならないような回答しか書けないのでしょう。これもまた,「日本人の知恵と発想の限界」なのでしょうか?
 こうしたサイトから,ああ,この人はこんな考え方しかできないんだ,とか,何でもほかの人と比べることしかできないんだとか思うのですが,これこそがこの国に住む人たちの実体なのでしょう。だれか,卒論のテーマでお困りの学生さん,このテーマで研究してみたらいかがでしょう?
 別に,マクドナルドで夕食をとろうととるまいと人それぞれでしょう。
 しかし,「偏差値」が何モノかも知らないくせに,「偏差値,偏差値」と騒ぐ人たちも,「英検」の出来を日本の学生の英語力だと判断する文部科学省も,また,これと同じ類なのでしょう。それにしても,文部科学省って,学力調査好きですねえ。

 人は,自分に自信がないと,周囲を必要以上に気にします。人と比べたがります。そして,自分だけが違うと引け目を感じたり,あるいは,そういう人をいじめたりすることもあります。
 女子学生のスカート丈とかルースソックス(英語の発音ではルー「ズ」ソックスではありませんよ!)などみんなと同じが大好きで,本当に主体性というのはどこにあるのか,といいたくもなります。要するに,いにしえ? から「ミーちゃんハーちゃん」つまり,ミーハーなのです。
 こういったときに将来「大物」になるのは,自分だけが違ったときに,肩身が狭くなるのではなくて,このほうが素敵だ,と周りに思わせる人物なのですが…。
 さて,ここで「夕食がマックで許せるか?」といわしめるのは,人のことを気にする日本人の性格とともに,もうひとつは「マクドナルドハンバーガー」というものの日本での立ち位置なのです。
 ならば,夕食がおにぎりだと許せますか? あるいは,夕食が吉野家の牛丼だと許せますか?
 実は,この質問の裏には,夕食を母親が作らずマクドナルドで済ますのはけしからん,とかいう話があったのですが,それなら,夕食を回転寿司で済ますのも,豪華なフレンチを食べるに出かけるのも同罪でしょう。
 それだけのことです。別に何をどう食べたっていいではありませんか。
 かくいう私は,夕食はマクドナルドでも許せますが,日本のマクドナルドで夕食をとる気にはなりません。あのメニューのサラダがアメリカのもののように,豪華で大きければ,許せます。
  ・・
 「発言小町」には「貯金5,000万円! そのときあなたは?」なんていうのもありました。
 老後にいくらいるか? などという話題が関心をよんでいますが,そんなものは個人差があって一概にいえるものではありません。高額の収入のある人は別として,若い頃からたくさんお金を使った人は,貯金もなく,しかも老後もお金が必要でしょうし,その反対もいえます。
 ただし,長く人間をやってきて,そういう最も根本的なことすら主体的に判断できないというのは,やはり,この国の大人は何事もあなた任せで人まねだけをする「大人になれない大人たち」ばかりのようです。

◇◇◇
1,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログを始めて34か月。
きょう1,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,
どうもありがとうございます。

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●年寄りはわけのわからぬものを平気で買う●
 ダットンファミリー(The Duttons)のショーは,バイオリン,ギター,ベース,ヴィオラ,バンジョー,マンドリン,キーボード,ハーモニカー,ドラムなどバラエティに富む楽器が演奏され, 歌やダンスが繰り広げられる。一族全員が参加する物量作戦,とでもいったらよいか。
 彼らは,一族で,振り付け,編曲,マーケティングまですべてを共同作業でプロデュースしている。
 一族の父親はディーン(Dean),母親はシーラ(Shelia)である。彼らは,家族の絆を深める目的で子供たちに音楽の教育を行った。当初はプロにするのが目的ではなかったようだが,最終的に,それが今日のダットンファミリーとなった。彼らはブランソンで自分たちのシアターを持ち, 年間300以上のショーを行っている。また,ホテル,レストラン,ギフト ショップを経営し,また,アリゾナ州にもシアターをもって12月から4月までショー行っているのだ。
 こういうのをアメリカンドリームというのだろう。

 ショーが始まる前に,ディスプレイ画面にメンバーの紹介があったので,それを参考にして,ここにまとめてみる。
 ディーンとシーラは,現在,多くの子どもと孫たちに囲まれて,おじいちゃん,おばあちゃんと呼ばれることに生きがいを感じているという。
 長男はティム(Tim)。その妻ジュヂス(Judith)はピアノと・ヴォーカルを担当。子どもが4人。
 次男ジョナサン(Jonathan)はメインバンジョープレイヤー。その妻ベレ(Belle)はサモア人で,子どもが4人いる。
 長女のエイミー(Amy)はブランソン一のヴァイオリニスト。夫のルーディ(Rudy)は法律の専門家で照明ディレクターも担当している。彼らには4人の子どもがいる。そのうちの一人が白血病(leukemia)になったが,全快したという。
 三男のベン(Ben)。彼は,いとこのスペイン人ジュリオ(Julio)と共に,コミックショーも担当している。 彼にはブランディ(Brande)との間に4人の子どもがいる。
 次女のアビー(Abby)と夫のアダム(Adam)にも4人の子どもがいる。
 さらに,現在は参加していないが,三女のジェニー(Jenny),コンピュータエンジニアの四男のジョシュ(Josh)。ジョジュには,妻エベット(Evette)との間に4人の子どもがいる。
 とまあ,ここに書いているだけでもややこしいくらいだが,要するに,ディーンとシーラには子どもが6人,孫が19人。その多人数の一族がいて,その中の多くメンバーでショーを繰り広げるわけだ。

 写真にあるように,入口を入ったところにギフトショップがあったが,シアターの中の一角にもCDショップが設けられていた。
 面白かったのが,ショーが始まる前と幕間に,日本のお祭りの夜店で売っているような蛍光トーチのおもちゃを売り歩いていたことで,そんなものが確か10ドルもした。そして,ここで買うとプラスチックバッグ,要するに単なるスーパーでくれるビニール袋なのだが,それが特別に付くのだという。いかにも・いかにもアメリカらしいのだが,こんなもの買う人いるのかと思ったら,観客の多くがご老人で,彼らは,孫の土産にそれを買っちゃうのだ。あるおじいさんなんて,それを買おうと,100ドル紙幣をポケットから取り出したではないか。これには売り歩いていたスタッフさえたまげていた。
 日本と違って,100ドル紙幣なんて,アメリカじゃあ,ほとんど通用していないから,私も大変びっくりした。アメリカで100ドル紙幣を使う姿など,初めて見た。とともに,どこの国でも,年寄りは,わけのわからぬものを平気で買うのだということを再認識した。
 私がつねづね不思議に思うのは,月に人類を送り込む科学技術をもつこの国が,これほどちんけなまがい物を土産として売っている姿である。アメリカでは,鉛筆の芯だって,真ん中に収まっていたら奇跡だ。

 ショーの様子は自由に写すことができるが動画はダメという放送があった。大いにSNSで宣伝してくれともいっていた。ショーが終わってステージからメンバーが降りてきたので,私は,その中のベンさんに話しかけることができて,一緒に写真も写した。彼に,私は,日本から来たのだが,このショーを日本のテレビ番組で紹介していたから興味をもってわざわざ見に来たんだといったら,彼は,そりゃ興味深いといって,おかしそうに笑った。
 いつも書いていることだが,アメリカという国は単純で,こうしたショービジネスも,マジソンクスエアガーデンでやっているプロレスも要するに大衆芸能はみんな同じようなスタイルだ。
 日本には,芝居小屋文化というものがあって,歌舞伎やら大相撲やらはマス席があったり幕間には弁当を食べたりとみんな同じような形式だが,アメリカから入って来たショービジネスはそれをおかしな方向にひん曲げて取り入れる。そして,日本では,和式と洋式のトイレが混在して,しかも洋式トイレにウォシュレットなんかを開発して自分たちのものにするから,いろんな文化が入り乱れている。日本語という言葉自体ががそうだ。その根底にあるのは脇目も振らぬ物まねと商魂で,自分たちの思想があるのかないのかそれは知らぬが,いろんなものが無秩序にくっちゃくちゃに存在している。日本のプロ野球のサッカーだかアメフトだかわからない応援なんていい例だ。
 余談だが,MLBのキャンプインは2月中旬から。だから,サンディエゴ・パドレスは,それまではどっちみち施設が空いているから,日本ハムにキャンプ地を貸してくれる。ピオリア(Pioria),行ったことありますが,いいところですよ。それにしても,わずか2週間,こんな寒い時期にわざわざ遠い日本から高いお金を出して箔をつけるためにキャンプをしに来る日本のチームはいいお客さん(カモ)だ,と内心思っているだろう。そんな金があるなら,有望な若手を1年アメリカのマイナーリーグに入れて苦労させたほうがよほどいい。

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●人はだれでも平等に歳を重ねる●
 3日前にブランソンに来たときに,見たかったのに見られなかったのが,ダットンファミリーのショーと,アンディ・ウィリアムスシアターで行われているオズモンズのショーであった。ブランソンには多くのシアターがあるのだが,私が知っていたのは,ショージ・タブチシアターを含めてこの三つであった。

 ブランソンに行ったときには,ブランソンというところの位置づけがいまひとつよく分からなかったのだが,今にして思うに,ここは大衆芸能の聖地のようなところであった。例えば,軽井沢の郊外に,小林幸子シアターだとか和田アキ子シアターだとか北島三郎シアターを作って,常設で興行を行い,併せて,映画館やアミューズメントパークを作って,リゾート地にしたようなものだと思えばいい。
 だから,ニューヨークのブロードウェイとか,メトロポリタンオペラとか,そういった世界で有名なアミューズメントパークというよりも,地元の人,特に,子供や老人向けのアミューズメントパークである。
 だから,日本ではほとんど無名なのである。
 しかし,文化というものは様々な側面があり,ミュージカルやオペラだけが人々の楽しみではないから,こういう場所は存在意義があるのだろう。

 私は,年末12月31日の夜は,EテレでN響第九演奏会を見て,そのあとは,クラシックハイライトを見るというのが楽しみなので,巷で視聴率がどうのとか司会者がどうのとか噂の紅白歌合戦とかいうものは見たこともなければ興味もないのだが,そういう番組を楽しみにしている人も多いことだろうし,こうした好みは人それぞれだから,そこには上下も左右もない。
 ただ,私が気に入らないのは,視聴率がどうのとか,人気がどうのとか,そういうことでその価値を決める側面が強すぎることである。そして,そういうことに振り回されている人がなんと多いことか! 経済的効果とか,そういうことがビジネスとして大切なことは分かるが,価値観や嗜好は人それぞれである。

 ともかく,私は,ここブランソンに戻ってきて,見損ねたこの2つのショーを見ようと思った。
 しかし,オズモンズショーは,残念ながら私の滞在するときはやっていなくて,次の日から始まるということで断念するしかなかった。
 オズモンズ(The Osmons)をご存じだろうか?
 オズモンズというのは,今から40年以上前,日本でも人気のあった兄妹グループで,きっと50歳以上の人はカルピスのコマーシャルで見た覚えがあるだろう。
 私は,1970年の大阪万博の会場で,アンディ・ウィリアムスショーが行われたときに会場にいたのだが,アンディ・ウィリアムスショーに一緒に参加したオズモンズがオフの時間に会場を散策しているのを目撃したことがある。
 帰国してから改めて調べてみると,Youtubeでこの次の日からブランソンで行われたオズモンズショーがアップロードされていて,それを見ることができた。それによると,すでにメンバーの多くは引退をしていて,活動しているのは3人程度であった。
 人は,自分は歳をとってもあのころ見たタレントは歳をとらずそのままの姿だと思っているから,突然ああいう姿を見ると40年という月日を実感して,感慨深くなる。人はだれでも平等に歳を重ねるのである。

 ダットンファミリー(The Duttons)というのは,ダットン一族がステージで弦楽器を中心としたショーを行うもので,いかにもアメリカのエンターテイメントという感じのものである。
 チェックインしたホテルを出て,まずこのシアターに行って,この日の晩のチケットを手に入れた。
 シアターはショージ・タブチシアターのような超豪華なものではなく,一時代前の日本の田舎町にあった映画館のようなものであった。外の駐車場には巨大なダットンファミリーのバスが駐車してあって,なんだか,プロレスの興行? のような感じであった。また,シアターの裏には,ダットンインとかいうホテルもあって,彼ら一族は,ここでいろいろな経営をしていることが分かった。
 彼らは,オーディションへのチャレンジを繰り返しながら知名度を上げて,ここブランソンにシアターを建てて興行している実業家グループとでもいえようか。

 私は,チケットを購入してから,ショーが始まるまでの時間,夕食をとることにした。
 この日こそ日本食にしようと,ブランソンに3件あった日本食レストランのうちの1件「和」という名前の店に思い切って入ることにした。
 中に入ると,まだ,時間が早いので,別に1組のカップルがいるだけであった。この店は,日本人が経営しているというわけではなかった。私は,メニューから,夕食セットなるものを注文した。出てきたのは,白米にお寿司に天ぷらに枝豆に餃子というわかったようなわからないような代物であったが,結構美味であった。値段は16ドルだった。とはいえ,アメリカではさらにチップが必要なのをお忘れなく。

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 何事も「やってみなくてはわからない」といつも書いていますが,今日の話題の「シンチレーション」というのも,まさに,この「やってみなくてはわからない」ことのひとつです。

 われわれは,地球上で星の光を大気を通過して見ています。
 大気は空気の層で,空気は,温度の違いや風が吹いたりすることによって密度の差が生じるので,星からの光が屈折したり揺らぎが積み重なるので,星がまたたいて見えるのです。この空気の揺らぎによる星のまたたきをシンチレーション(scintillation)といいます。
 シーイング(seeing)ということばもありますが,これは,望遠鏡などで天体を観たときに発生するシンチレーションの程度を表す尺度で5段階や10段階で評価します。数字が大きいほど揺らぎは少なくなります。
 このシンチレーションの原因は,大気の揺らぎなどに加え,望遠鏡内部の対流や人の体温による対流などがあります。これが,地上で望遠鏡を使って観測するときの精度の限界です。

 一般に次のようにいわれています。どんよりとした空は大気が安定しており、気流が穏やかなので揺らぎは少ないから,春霞や梅雨の時期は晴れさえすればシーイングがよく,反対に,透明度が高いと「雲がない=上空で強い風が吹いている」のでシーイングが悪くなるのです。だから,冬のよく晴れた日はきれいな空なのですが、シーイングは悪いのです。冬によく星が瞬くのはこのためです。
 つまり,夏場は良く,冬場は悪いのです。
 また,低空に見える天体は,天頂よりも多くの大気の中を通ってくるので大気の揺らぎの影響を受けやすく,さらにシーイングが悪くなります。
 時間としては,夜半から特に朝方はシーイングがよいそうです。

 と,本に書いてあるので一応は知っていましたが,これは単なる知識です。
 やはり,このこともまた,実際に星を見に行ってみると,本当に驚くことばかりです。
 これまでに,何度かカタリナ彗星を見たという話を書きましたが,これから書くのは,その中でも昨年2015年12月1日の早朝のことです。
 この日の目的はカタリナ彗星の写真を写すことだけだったので,それまでの時間,念を入れてピント合わせをしようと思いました。これも前に書いたことがありますが,望遠鏡のピントは,100分の1ミリも違うとピンボケになってしまい,しかも,温度によってピントの位置が違うので,おおよその位置が分かっていても,その場で正確に合わせ直す必要があるのです。

 月が見えていれば,模様が複雑な月でピントを合わせればよいように思いますが,月は明るすぎて,カメラの液晶をつかったライブビューではまぶしくて模様が見えずピントを合わせることができないのです。そこで,実際に月の写真をわずかに焦点をずらしながら何枚も写して,そのあとで撮影した画像を液晶画面に拡大して正確なピントの出た位置を探すしかないのですが,この晩の月は天頂近くにあったので,操作をするのが非常に困難なのでした。なお,月でピントを合わせるということ自体が特別で,普通,星の写真を写すときは月は出ていないのです。
 その代わり,木星が東の空の手ごろなところに輝いていたので,これを利用することにしました。
 木星の場合は,木星本体の模様でピントを合わせるのではなく,カメラの液晶画面に木星を拡大表示したときにガリレオ衛星が見えるので,それらが一番はっきりと見えるところを探していきます。ちょうど今日の1番目の写真のような感じでピントがあえばいいわけです。しかし,いつもそんな簡単なことではなくて,シンチレーションの影響で,ライブビューの液晶画面に表示される木星と衛星は陽炎のように揺れて大きくなったり小さくなったりして,ピントの山をつかむことが非常に難しいのです。
 ところが,驚いたことに,この日,木星はまったく揺らぎもなく,非常に安定した像を見せたのです。
 それにしても不思議なのは,ガリレオ衛星は5等星くらい,単なる5等星の恒星はライブビューでは見えないのですが,なぜかガリレオ衛星ははっきりと見えるのです。

 私は木星のこんな安定した像を見たのははじめてのことで,びっくりしました。こんなことってあるのか,と思いました。こんなに簡単にピントを合わせができるのか,とも思いました。そのようにしてピントを合わせた状態で,再び月に望遠鏡を向けて撮影した写真が2番目のものですが,私はこの写真を見て,再び,びっくりしました。ここまで写せるのですね。つまり,ピント合わせにはガリレオ衛星が最適なのです。
 比較するために,3番目に,以前写した写真を載せます。ピント自体が少し甘いのかもしれませんが,このふたつの写真の違いはそれだけではなく,シーイングの違いが大きいように思います。
 本当に,何事もやってみなくては分からないものです。
 私の望遠鏡の限界を探る実験は,これからも続きます。

◇◇◇
月の写真を撮る①-これが私の望遠鏡の限界なのか?

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