今日は快晴。星空を見にハワイ島に旅立ちます。
成田の出発が午後8時なので,東京まで新名神高速道路を利用するバスで行くことにして朝7時に名古屋駅から乗りました。
朝起きたのは3時30分でした。このところ星を見に行くときはこんな感じなので慣れっこですが,東の空には月と火星と土星が美しく輝いていました。
実はこの時期に旅立った理由はこの月にあるのです。あいにく今年は3月の半ばまで月が明るく,星が見えないのです。そこでギリギリまで遅くしたというわけです。
それに3月は多くの人がお休みでも4月は新年度が始まるから,3月から4月にまたいで旅行をすれば比較的空いているだろうと思ったのですが,予想は外れ,飛行機の日程を決めるのに苦労しました。
オアフ島ならともかく,ハワイ島ですからなおさら大変でした。
ともかく出発の日になりました。
いつものように,荷物は事前に成田まで送ってしまったので,小さなバックパックひとつですが,問題は服装でした。何せ日本の最高気温が現地の最低気温です。着込んでいくと邪魔になるし,きっと機内はいつものように寒いだろうし,結局,半袖のポロシャツの上にヨットパーカーを重ね着することにしました。しまってあったはずのヨットパーカーのうちの1着を先日来探していたのに見つからず気になっていたのですが,朝偶然見つけることができて,さい先のよい旅立ちになりました。
バスの車内からは富士山がきれいに見えましたが,新東名では富士山の見えるのは極めて短い間に過ぎません。富士山見るなら中央高速道に限ります。ここ1年結構な割合で富士山を見ていますが,雪をかぶった姿を見ると月日の流れを感じました。
ごった返す都心を後に,八重洲口から1時間。順調にバスで成田まで来ました。
成田空港のデルタスカイクラブのラウンジで出発までの時間を潰しています。
では現地からのLIVEをお楽しみに。
March 2016
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ②
●願いはかなうもの●
春に走った中南部とは全く風景が違う。私は,はやり,モンタナ州のほうがいい。空気がやさしい。
インターステイツ15はモンタナ州に入ったら町がなくなっった。だから,ガソリンスタンドもない。たった1軒だけあったスタンドは,人もおらず機械が壊れていた。私の車はガソリンを入れなくてもビュートまで余裕で行けそうだったのだが,念のためガソリンを入れようとそのスタンドに寄ってみたのだが,そんなありさまだった。
本当にガソリンのなくなった夫婦がそこに車を停めて呆然としていた。
さらに北上を続けていくと,遠くに見慣れたビュートの町並みが見えてきた。
ここで,インターステイツ15は東西を走るインターステイツ90にぶつかり,インターステイツ15はクランク状に少しだけインターステイツ90の併用区間になり,再び北上を開始する。
ビュートからヘレナまでは100キロメートル,1時間というところか。日本なら30キロメートルくらいの感じで,通勤圏内のような距離である。
インターステイツ15を北に少しだけ走ると,ビュートの町並みを見渡すことができる高台があって,そこからの景色が素晴らしい。ただし,その展望台は左手にあって,南向きに走行するときでなければ立ち寄ることができないのだった。
私は,前回この道を走ったときにこの展望台に車を停めなかったことをずっと後悔していた。
そこで,今回はぜひそこへ行こうと,しかし,それはヘレナからの帰りでよいはずだったけれど,また何らかの事情で行きそびれるかもしれないと,わざわざその次のジャンクション,といっても,かなり先まで行かねばならなかったのだが,そこでUターンをして,念願の展望台に行くことができたのだった。
その時に写した写真が今日のものである。
いつも書いているが,願いは願い続けれはかなうものである。私は,また,こうしてビュートに来るとは,本当に夢にも思わなかったのだ。
ビュートを見下ろす東側の山,分水嶺の上に「Our Lady of the Rockies」という高さ27メートル,アメリカで3番目に高い白い女性像がある。
この像は,1979年,ボブ・オビル(Bob O'Bill)によって発案された。彼の妻は重病で,彼は妻が治るなら聖母5フィートの像を製作すると聖母マリアに約束した。妻が回復したのち,彼はその計画を実行に移し,多くの人の寄付によって建造が開始され,1985年に像が完成した。
この像までは,6月から9月までツアーバスが運行されているという。
私は,こうして旅すると,いつも自分のこれまでを振り返る。そして,ずいぶんと無駄な時間を過ごしてしまったことを口惜しく思うのだ。
それは,後悔というのとは違う。
誰もが経験するであろう程度の悩みや少しの苦しみはあったとしても,およそ平穏な日々を過ごしたのだから。私の周りの人たちのほとんどもそうした日々を過ごしているし,せっかく定年退職しても時間を持て余し相変わらず仕事に就いて日々を過ごしたり,退職金で念願のマイホームを手に入れて満足したりしている。
あるいは,ツアーで海外旅行を楽しんだりしている人もいる。
それを,幸せな人生というのだろう。
しかし,私は,そういうものとは違った経験や体験を,どうやらし過ぎてしまったようだ。そしてまた,私がマネのできないダイナミックな日々を送る多くの人を,雄大な世界を知りすぎてしまったようだ。
早春の京都③-京都で,モネ「印象・日の出」を見る。
今日の話題とは全く違うのですが,将棋の女流プロ棋士に室谷由紀女流二段と室田伊緒女流二段がいます。この2人は顔も名前も似ているので,なじみのない人は区別がつかず,室田由紀さんとか室谷伊緒さんとかいわれ困っているらしいのですが,これを「室谷・室田問題」といっているそうです。
この2人に加えて,村田智穂女流二段もいて,彼女も含めると「室谷・室田・村田問題」なのだそうですが,顔も違うので,さすがに村田さんは間違えません。と思ったら,「MUROYA・MUROTA・MURATA」と書くとわけがわからないのだそうです。しかし,それはさすがにネタでしょう。
室田伊緒さんは室谷さんより年上で,愛知県出身,元夫が囲碁棋士の井山裕太さん。
室谷由紀さんはNHK杯で棋譜の読み上げをしている女性です。
さて,ここからが今日の本題です。
名前の区別がつかないといえば,19世紀に生まれたフランスの画家「マネ」と「モネ」でしょう。この2人,名前が似ているということで,やはり,なじみのない人には,わけがわかりません。
「マネ」は1832年生まれ,「モネ」は1840年生まれなので,「マネ」が8歳年上です。年齢が「マ」ミムメ「モ」の順番ですから覚えやすいです。
「マネ」はのちに印象派となる画家グループの中心的存在だったのですが,彼は印象派展には一度も参加していません。古典絵画を尊敬し、伝統を踏襲しつつも、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人といわれています。
一方,「モネ」こそ印象派を代表する画家で,「光の画家」といわれています。
「マネ」と「モネ」は出会っていて,1866年に「モネ」が出品した作品が「マネ」の作品と間違えられたのがきっかけといわれています。「マネ」は「モネ」の水の描写する卓越した能力を見抜き「水のラファエロ」と讃えています。
などと書くとますますわからなくなります。私もよく間違えます。いつものように,ドリル学習で丸暗記をするとそういう羽目に陥るので,この際,私は知識を定着させることにしました。それには,実際の絵を,それも画集でなく本物で鑑賞するのが一番です。
年上の「マネ」は,「エドゥアール・マネ」(Édouard Manet)といいます。代表作は1862~3年に書かれた「草上の昼食」(The Luncheon on the Grass)。屋外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから激しいスキャンダルを巻き起こし,後の西洋絵画史に多大な影響を及ぼした作品です。私はオールセー美術館ではないけれど,どこかで本物を見たことがあります。きっと。
「モネ」は「クロード・モネ」(Oscar-Claude Monet)といって,代表作のひとつとされている「印象・日の出」(Impression, Sunrise)はルアーブルの港の風景を描いた1873年の作品。まさに印象派の名前の由来にもなっているものです。「モネ」は,「睡蓮」(Les Nymphéas)の連作でも有名です。
ところで,印象派(Impressionism )というのは19世紀後半のフランスにおける絵画を中心とした芸術運動のことで,この運動の名前はモネの作品「印象・日の出」に由来します。
その特徴は,「小さく薄い場合であっても目に見える筆のストローク,戸外制作,空間と時間による光りの質の変化の正確な描写,描く対象の日常性,人間の知覚や体験に欠かせない要素としての動きの包摂,斬新な描画アングルなどがあげられる」と説明されているのですが,私にはさっぱりわかりません。もっと分かりやすい解説はないものかと調べてみると,「19世紀になって道具がいろいろと開発されたので,外に出て絵を描くことができるようになった。そして,一瞬一瞬の光のきらめきを,絵具を混ぜずに黒色は使わず描いた。たとえば,自然の光を忠実に描くのに,画面を一様に塗るのではなく光を捉えるために筆のストロークを短くして色を塗り重ねて…」とありました。この説明のほうが絵が目に浮かびます。
スタジオで大型の写真機で写していたのを外に出て小型カメラでスナップ写真を写すようになった,みたいな感じなのかな?
それもまた,見るほうが早いということで,モネ展が京都市美術館で開催されていたので,大阪へ行く途中で立ち寄ることにしました。
平日ということもあって,空いていて,ゆっくりと名画を鑑賞することができました。
「睡蓮」の絵はたくさんあって出来不出来が大きく,どこぞやのあまり整備されていない池に咲く睡蓮を暇にまかせてただ書いていだけみたいで,私はどおってことも感じませんでしたが,「印象・日の出」はよかったです。釘付けになりました。
私は,絵画には特に興味がないのですが,長く生きていて世界中の美術館に行ったことがあるから,きっと有名な絵画はたくさん見ていますが猫に小判です。しかし,こうした絵画展を見にいくたびに私が思い出すのは,ミレー(Jean-François Millet)の「落穂拾い」(The Gleaners)とミロ(Joan Miró i Ferrà)の作品の数々です。私の精神のどこかに響くのでしょう。そしてまた,ミロの絵にショスタコビッチの音楽が聞えます。どうしてなんだろう?
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ヘレナへ①
●ガソリンスタンドひとつない。●
☆2日目 7月31日(金)
マウンテンホームで1泊して2日目の朝,私は1泊2日の日程で,モンタナ州の州都ヘレナまで行ってくることにした。
これまでに幾度となく書いたように,私には,モンタナ州ビュートという町は第2の故郷である。
前回そのビュートへ行ったとき,帰りの飛行機の出発まで3時間ほど余裕ができたので,往復してきたのがヘレナであった。
ビュートからインターステイツ15を北上していくと,道路は山間を抜け,この先には人が住んでいる場所などあるのだろうか,と思うほど人家もなく道だけが続くようになる。そして,この先は地の果てかと思った途端,忽然と眼下に都会が見えてきた。そんなその時の印象がずっと私の頭に残っていた。
しかし,前回はヘレナを観光する時間がなかったので,どこへ行くでもなく町を1周して戻ってきただけであった。
だから,一度訪れたヘレナという町に私が大いなる思い入れができたのも当然であろう。
それ以来,私はこの町のことをきちんと知りたいと,ずっと思ってきたのだった。
今回は,1泊2日だったので,本当はもっと北のグレイシャー国立公園まで行きたかったのだが,それは次回ということにして,ヘレナで1泊して戻ることにしたのだった。
アイダホ州マウンテンホームからインターステイツ84を東に走り,途中でユタ州に南下していく84とは別れを告げて,インターステイツ86にショットカットして,やがて出会うソルトレイクシティから北のビュートにつながるインターステイツ15に乗って北上する。
こうしてインターステイツ84,インターステイツ86,インターステイツ15と走っていけば,ヘレナへはわずか6時もあれば到着できるのだ。
信号と渋滞だらけの日本とは違って,アメリカでは正真正銘100キロは1時間で走ることができるから,例えば1日5時間のペースで走れば,大陸横断は4,000キロだから8日で旅することが可能なのだ。
インターステイツ15を走っていくと,途中で美しい景色に出会った。
そこは,クラークキャニオン貯水池(Clark Canyon Reservoir)であった。
貯水池といったって,愛知用水のため池「愛知池」のような代物ではない。広さだって2,000ヘクタールもあるし,キャンプ地もあれば,ボート遊びもフィッシングもできる。天気がよく,私は,池の袂で,しばし休息となった。
私は,この後,2泊3日の日程でアイダホ州でキャンプをすることになったのだが,そのスケールがとんでもなくすごいのだ。私が,日本の,狭く,混み混みでゴミゴミのところでアウトドアをするなど,全く興味がないのも,こういう風景を知ってしまったのが原因なのだ。まして,日本で小人が乗るような小さなキャンピングカーで旅をしている人は気の毒にしか思えない。
そのあと,私は,インターステイツ15を快調に北上していくことになったのだが,今一番印象に残っているのは,アイダホ州は周りが薄茶色の草原と背の低い山と砂漠に覆われていたのに,モンタナ州の州境を越えると,その風景が一変して,山なみは突如雄大になり,緑が茂り,とても美しくなったことだった。
それとともに,モンタナ州に入ると町がなくなった,ということだった。
私は,ガソリンを満タンにして走っていたから問題はなかったが,アイダホ州からモンタナ州の州境に進むにつれて,インターステイツ15は走る車も次第に少なくなり人が住む住居もなくなった。だから,忘れたころにあったジャンクションも「ノーサービス」,つまり,ガソリンスタンドがない,というありさまだった。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国⑤
●代替機にチケットが用意してあった。●
まず私が見たのは今日の写真にある掲示であった。この赤色で示された2533便の憎ったらしい冷酷な「CANCELLED」という文字が人を地獄に突き落とすのだ。しかし,そのキャンセルになったフライトの一段下に1:00PM発の9320便があるのがおわかりであろう!
そうそう,ここで余談をひとつ。
日本で「PM1:00」という書き方をする人が多くいる。これは,「午後1時」をそのまま英語に直したつもりのものだが,正しい英語表記は「1:00PM」である。英語で表記がしてある結構気取ったレストランの看板などにこうした誤りがあると,それだけでそのお店の価値はがた落ちである。
私が意気揚々とカウンタに行くと,すでに優先的に私の代替機のチケットが用意されていて,9320便に変更になっていた。
チケットを受けった後になって,私にメールが来て,そこにはそれとは別の4時間後の便が表示されていて,ちぐはぐな感じであった。結局,いくらネット社会とはいえ,直接交渉のほうがはるかに便利だと思ったことだった。
結局私は,40分ほどの遅れで,無事,ボイジーに向かうことができた。
機内から見た眼下の景色は,すでに見慣れてはいたが,荒涼たる砂漠にスネーク川が流れ,川に沿ってインターステイツが走り,アメリカ開拓時代の面影をほうふつとさせた。これがアイダホ州の原風景である。
やがて,砂漠のむこうに緑が見えてきた。そこが,アイダホ州の州都ボイジーであった。
しかし,私の乗った飛行機ははるかにその上空を過ぎていく。眼下には空港も見えたが,それも過ぎ去った。私がボイジーとは違う町なのかな,と思ったころに,飛行機は旋回をはじめた。
この年,ずいぶんと飛行機に乗ったし,窓際の席だったことが多かったので,それまであまり気にしていなかったことを「発見」した。
そのひとつは,空港の滑走路は通常1本で,そこに着陸もするし,離陸もするということだ。だから,着陸する飛行機があると,それが来るまで,離陸する飛行機は待っていなくてはならない。離陸する飛行機は次から次へとあるから,順番待ちがすごいことになる。だから,飛行機がターミナルから動き出してもなかなか飛び立たないのは,順番待ちをしているということなのだ。
日本に比べてアメリカの空港は巨大だが,だからといって,滑走路が長いわけでも何本もあるわけでもなく,ターミナルがでかいだけなのである。
ふたつめは,飛行機の旋回というのは,思う以上に大きな弧を描くということなのだ。だから,着陸する空港をはるかに過ぎてからぐるりと上空を旋回するわけだ。
1時間程度の飛行で,私はボイジーに到着した。
空港で,従姪が子供たちと迎えに来ていたのだが,乗ってくるはずの飛行機がキャンセルになり,新たに乗った飛行機の便名を知らせたのに,その情報がボイジーの空港にはなく,心配したといっていた。しかし,無事に会うことができて,私は,ボイジーから車で30分のマウンテンホームに向かった。
1か月前と同じであった。
ドラマ「ひこうき雲」-「アラ50」,人生を振り返る。
今日は,NHKBSプレミアムで3月24日に放送されたドラマ「ひこうき雲」のお話です。
この国は -いや,この国に限らないことかもしれませんが- 生まれた時代による運不運が大きすぎると,私はずっと思ってきました。
第二次世界大戦後の1947年から1949年に生まれたのが「団塊の世代」で,その子供たちの世代が1971年から1974年に生まれた「団塊ジュニア」。1986年から1991年にかけた「バブル」があっけなく崩壊して,団塊ジュニアが就職適齢期になったときは,就職超氷河期。しかも,彼らの親たちが会社に大勢いるために自分たちが就職できないという皮肉な時代でした。しかも,コンピュータが台頭してきた時期と重なって,団塊世代はそれに乗り遅れて会社のなかでも居場所がなくなった,という笑えない現実がありました。
1970年代の団塊世代が大学生のころは学園紛争真っ盛りで,彼らはろくに学問もせず(できず)社会に出ていくと180度転換して保守化・反面教師化して,次の世代を「管理教育」といわれるように,逆に「締めつけ」ました。
その団塊世代も,現在「アラ70」。そして,ポケベルにはじまり,茶髪にルーズソックス,そして,成人式が荒れに荒れたという学生時代をおくった彼らのジュニアたちも,今は「アラ40」でしょうか。
団塊世代は年金など「逃げ切り組」といわれていますが,実は,大学時代に挫折し,50代で情報化時代に乗り遅れて挫折し,子育てで3度目の挫折をしたのです。そして今後は,彼らの老人問題が待っています。
団塊世代とそのジュニアの間のバブル時代に大学を卒業し,就職が超売り手市場だったころの人たちが現在の「アラ50」。このドラマは,この「アラ50」の人たちを描いたものです。
今日の日本は,そんな世代の人たちがバームクーヘンのように層をなして生きているのです。
私は「アラ60」。
バブル期にはすでに社会人でしたが,バブル期以前で就職難,バブルの恩恵など全くありませんでした。
バブル期には,周囲にはやたらたと羽振りの良い人がいましたし,高速道路を走ると周りは高級車ばかりで,自分の乗っている車がはずかしくなりました。しかし,貯金の金利がものすごく高かったので,わずかなお金でも10年も預けておくと2倍になったし,誘われて一度っきり買わされたNTTの株がいきなり2倍になったりもしました。しかし,バブルが崩壊したときは,借金をしたり投資をしていなかったおかげで,バブルの後遺症も受けませんでした。
今,この国のやっているアベノミクスとかいう経済政策は,バブル期の失政の反省もなく -この国はそうした総括をせずだれも責任を取らないことが特徴ですが- その時代と全く同じ政策をとっているのに,その政策が当時はインフレを助長し,現在はデフレ脱却といいながらサプライズを繰り返すことで信用をなくし,逆にデフレを煽っているのです。経済は感情で動き学問では動かないのにドリラーエリートは馬鹿ですな。
蘇我氏の滅亡や邪馬台国がどこにあったかは詳しくとも,これからの社会を生きていくのに必要なこうした歴史は学校では全く学べません。学校の歴史教育は,奈良や京都の観光には役立っても将来の生き方の役には立たないのです。
私がこのドラマを見ながら思ったのは,こんなことでした。
当時,荒井由実といった松任谷由実さんの音楽を聴きながら受験勉強をしていた,いや,単に深夜放送を聴いていた,団塊世代の尻ぬぐいばかりさせられている現在「アラ60」の「しらけ世代」とよばれた私たちには,1973年に発売された「ひこうき雲」という曲はとても懐かしいものです。
この番組の設定である「アラ50」世代の大学時代は1985年ごろのことだから,そのころは「ひこうき雲」がラジオから流れていた時代ではなくて,テレビドラマ「金曜日の妻たちへ」で流れていた「恋に落ちて」がヒットしていた時代です。
このドラマは,10年あまり時代がごっちゃになっているのです。
そして,ドラマの主人公のようなメガネの女子学生がいたのは,むしろ私たちの時代。彼女たちは,4年生大学卒業の女性がまだ社会に受け入れらなかった最後の時代です。
実際は,バブル期の若者は簡単に就職ができました。そうした時代にひ弱に育った(育ってしまった)若者たちは,華やいだ世の中の影響でかっこつけて背伸びして生きて(生きさせられて)いて,女性たちもみんな強がって独身願望が強く「女だてらに」タバコをふかしていました。
それは,今にして思えば,派手に動いている社会に対するささやかな反逆と虚栄だったのでしょうが,私は,街角の喫煙コーナーやコンビニの店の角でいまでもやめられずにタバコをふかすこの世代の彼女たちが,かわいそうになってしまいます。
この時代に生きた女性たちが,仕事と家庭の両立とか仕事一途とかいってみても,所詮,「一途」といえるほどの仕事をしていたとも思えないし,結婚して(させられて),そのあげく「家庭第一」といってはみても,当時の,家庭を顧みない男尊女卑世代の終焉のころの男 -こころない発言を繰り返す一部の政治家に代表されるような- の妻というよりも下女とされて,あるいは,子供の飯炊き女として生きただけ(生きざるをえなかっただけ)なのですが,そんなことを一番知っているのは本人たちなのでしょう。
このドラマは,時代考証こそ少しちぐはぐでしたが,現在「アラ50」になった女性達の生きざまを面白くも切なく悲しく描いていました。きっと,このドラマを作った人たちもまた,その世代を生きた人たちなのでしょう。
先輩づらしていわせてもらうと,人生は,この50歳越えからなんですよ。このドラマの最後のシーンで人生が終わりなのではなく,はじまりなのです。いよいよ自分の生き様が問われるのです。その生き方にはお手本もなければ地位も名誉も学校の成績も関係ないのです。健康であり若き日の夢さえ失なっていなければ,そして,これまでの人生でしっかりした自己を築いた人ならば,いよいよやっと自分らしく生きられる年代になったのです。
「アラ50」の女性たちよ,50歳過ぎたらダンナも仕事もほったらかして,自分の人生楽しもうよ。
早春の京都②-先達はあらまほしき事なり。
・・・・・・
仁和寺にある法師,年寄るまで石清水を拝まざりければ,心うく覚えて,ある時思ひ立ちて,たゞひとり,徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて,かばかりと心得て帰りにけり。
さて,かたへの人にあひて,「年比思ひつること,果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも,参りたる人ごとに山へ登りしは,何事かありけん,ゆかしかりしかど,神へ参るこそ本意なれと思ひて,山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも,先達はあらまほしき事なり。
・・・・・・
とある有名な「徒然草」の第52段。私はこれを習った40年以上前からずっと,一度はこの石清水八幡宮に行きたいと思いつつ,これまでかないませんでした。
京都から少しだけ西へ足を延ばせばいいものを,そこまで行くなら京都で遊んだほうが,と思ってしまって,どうしても行く機会がなかったのです。
寄る歳波で,今行かねばもう行くこともあるまいとつねづね思うことがたくさんあって,そのひとつである石清水八幡宮へ,今回,大相撲の大阪場所へ行く機会に,途中で絶対に行ってみようとかたく決意していたのです。
それなのに,私は本当に馬鹿です。
いつものことですが,帰った後だといろんなことを調べる気がするのに,行く前には行先のことを調べる気が起きないのです。推理小説を読む前に犯人を知ってしまうような気がするのです。
京都からわずかばかり大阪方面に行けばいいというだけの知識しかなかったものだから,石清水八幡宮へは京阪電車に乗らなくてはならないのに,私は京都駅でさっそうとJRに乗ってしまいました。そして,それが大きな間違いだと気づいたときは,時すでに遅し。どうにもなりません。そこで,まあいいや近いところで,と降りたのが山崎駅だったのでした。そのときの私には山崎駅と大山崎駅の違いもわかりませんでしたが…。ちなみに,大山崎駅は山崎駅の近くにある阪急の駅です。
ところが,どう調べても,目の前に広がる宇治川,桂川,木津川を渡る方法がないではありませんか。よほど泳いでわたってやろうか,と思ったくらいです。
これでは,天王山の戦いと同じです。
私は自分の愚かさを棚に上げて,よくもまあ,これだけ橋がなくて平気なものだと,行政に対して怒りがこみ上げてきました。歴史的にもこれまでこの川を挟んで北側と南側には交流がほとんどなかったということなのでしょうか?
考えてみれば木曽三川も同じようなものですが,それでも渡し船が今もあります。
歩くことには抵抗がないので,こうなったら2時間でも3時間でも歩いてやろうではないかと,はるか遠くに国道が川を渡っているのに気づいて,そこを目指して堤防道路を歩いていくことにしました。しかし,今度は,橋は見えども,徒歩でそこに至ることの困難さに気づかされました。
私がもっとも心配だったのは橋に歩道があるか,ということだったのですが,なんとか片側だけ歩道がついていました。しかし,橋にたどり着くのに橋げたには歩行者が橋に登るための階段すらなく,しかも,歩道があったのは反対の東側だけで,国道を横断することもできず,橋桁の下のアンダーパスになる堤防道路をえらく遠回りをする必要があったのです。やはり,ここもまた,お得意の「能力と発想に限界」のある日本らしいお話なのでした。
私はすでに日本のこうした状況をあきらめているとはいえ,人が渡ることも考慮して作られたサンフランシスコのゴールデンゲイトブリッジが懐かしくなりました。これもまた,日本人お得意の自称「おもてなし」のひとつでしょう。渡れるものなら渡ってみろ,という…。
しかも,やっと渡り終わった後の国道にはその先は歩道がつながっていなくて,どう行けば一般道に出られるかさえ定かでないのです。設計した人は紙の上で考えただけで歩いて渡った経験などないのでしょう。
本当に,この日本はとことん「人にやさしくすばらしい国」です。お年寄りや体の不自由な人への心配りの全くない体育館の観客席の設計など,徹底した配慮のなさにはいつも感動します。仕方がないので,さらに遠回りをして,さんざん迷いながら,やっとのことで,京阪の「やわたし」駅に着きました。およそ6キロメートルの道のりでした。
ほとんど人は,私のように,JRの山崎駅から京阪電車のやわたし駅まで歩いたりしません。直接,このやわたし駅に降り立つのです。だから,これほど「人にやさしく素晴らしい日本という国」の実態を体験することなどないのでしょう。
京都の仁和寺には「徒然草でお馴染みの…」と書かれた大きな看板があるのですが,この石清水八幡宮には「徒然草でお馴染みの…」とはこれっぽっちも書かれてありませんでした。私が徒然草で知ったのは本当にここのことなのかとさえ思いました。門前は,栄えているのやらさびれているのやら,私には判断がつきかねましたが,確実に,50年は昔にタイムスリップしたような錯覚に陥りました。
お昼だったことと,男山に昇るケーブルが発車したばかりで,次までの時間が30分あったことで,「朝日屋」というお店に入って,名物の棒寿司とやらを食しました。こうした,「男はつらいよ」に出てくるような旅こそが,日本の本当の旅の姿です。お店に入ると,私のように暇を持て余して散策をしているような初老の男の人が食事をしていました。
こうして,私は念願だった石清水八幡宮に参詣することができましたが,やることなすこと,まるで仁和寺の法師になってしまったかのようでした。まさに「先達はあらまほしき事なり」なのですが,きっと,私がこの先いつまでも覚えていて懐かしいと思い出すのは,石清水八幡宮の立派な神殿の姿ではなく,延々と歩いて渡ったこの3つの川にかかった橋と棒寿司の美味しかったことなのでしょう。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国④
●突然「キャンセル」になった。●
マウント・フッド( Mount Hood)は,オレゴン州ポートランドの東南東80キロのクラカマス郡とフッドリバー郡の郡境に位置する成層火山,オレゴン州最高峰の山である。イギリスの海軍のサミュエル・フッド提督にちなんでウィリアム・ロバート・ブロートンが命名した。日本人や日系人の間では「オレゴン富士」とも呼ばれている。
到着したとき,ポートランドは快晴で,空港から遠くに,このマウント・フッドの美しい姿を見ることができた。
私のアメリカ合衆国50州制覇をめざす旅も,残すは3州となった。これまでに多くの州に行ったが,結局,私は,ロッキー山脈に連なるワシントン州,オレゴン州,アイダホ州,ユタ州,モンタナ州,ワイオミング州,コロラド州が最も雄大で美しくかつ素晴らしいと思うようになった。
この旅で東海岸へ行けば,それで残り3州のうちの2州(ノースカロライナ州,サウスカロライナ州)を制覇することはできたのだが,今回は小休止。私は,それよりも,この夏は,アイダホ州,モンタナ州,ワシントン州,オレゴン州の大自然を満喫することにしたのだった。
ポートランドの国際空港は勝手知ったところで,アメリカの空港の中では広くなく,そして,きれいだ。空港からポートランドのダウンタウンまでは電車ですぐなのできわめて便利で,車がなくとも観光ができる。しかも,サンフランシスコのように混雑しているわけでもないし,治安もよいし,日本から気ままに来るには最高のところだ。
シアトルにも近い。
この空港でひとつだけ問題なのは入国検査だ。その場所が狭いから時間がかかる。しかも,自動の入国検査機がない。オレゴン州は州をあげて日本人の留学生やホームステイを受け入れているから,特に,日本人の女子大生が大勢飛行機に乗っていて,観光気分の彼女たちより先に入国検査を済ませないと,やたらと時間がかかる。
それを知っている私は,飛行機を降りると一目散に入国審査場に向かった。
一番先に入国審査場に着いた私は,何の問題もなく短時間にあっさりと入国することができた。
ただし,私が「観光で来た,行くのは,オレゴン州,ワシントン州,モンタナ州…それにアイダホ州」と係官に言って,しまったと思った。即座に,係官が「アイダホ州は観光地でないが…(冗談)」と反論されてしまったのだった。
この空港は中央の部分にレストランやバーがあって,放射状にターミナルが伸びている。
私は,ここからアイダホ州ボイジーまでアラスカ航空のプロペラ機に乗り換えるのだが,プロペラ機は小さいから,空港の一番端のターミナルから外に出て滑走路を歩いてタラップで乗り込むことになる。
昨年も来たからよくわかっていて,そのままターミナルまで行って,サンドウィッチを買って昼食をとった。
ボイジーまでの乗り換え便の出発は2時間ほど後だった。出国したのが今日の午後で,到着したのが今日の午前。1日得したようで気楽なものだった。
やがて,搭乗の時間になった。
するとそのとき,驚いたことに,掲示モニターの私の乗るべき便の欄に「キャンセル」の文字が出たのだった。
今回の旅で起きた唯一のトラブルがここで発生した。
私は「ちょっと待てよ,ここまで来て足止めというのはないぞ」と思った。
私のiPhoneにもその直後にメールが来て,予定の便がキャンセルになった,しかし,心配はいらない,代わりの便は… などと書かれてあったが,その代わり便の出発時間というのが4時間以上も後ではないか!
これには参った。
それにしても,2015年は18回と非常にたくさんの飛行機に乗ったが,まともに飛んだことがまるでなかった。
その結果,カンザスシティでは1日帰国が遅れたし,この後で行った九州は乗りこんだあとになって飛びたてず,降ろされて,出発が1日遅れた。だから,これくらいのことは想定の範囲内といえばそれまでだが,こういうことが起きると旅慣れていない人は困ってしまうだろう。
私はいよいよここからが経験で培った腕の見せどころだとワクワクしながら? 搭乗ゲートにあるカウンタに行って,係員と交渉することにした。
こうことがあるから旅は楽しい,と強がっておくことにしよう。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国③
●「クラーク探検隊」の見た岬●
ずっと海の上を飛行してきたが,8時間後,ついに窓からアメリカ大陸が見えてきた。今日の1番目の写真が,この旅で初めて見たアメリカ大陸の姿である。この感動は何度味わっても素晴らしい。
私は,この風景を見ながら,「ルイス・クラーク探検隊」のことを思い出していた。
アメリカ人には常識であっても,日本人のほとんどは「ルイス・クラーク探検隊」のことを知らない。
私は,ノースダコタ州へ行ったときに,このルイス・クラーク探検隊の遺構がたくさんあったのだが,当時,何のことかさっぱりわからなかった。それ以来,アメリカを旅行するには,スポーツや文化と並んで,こうしたアメリカの歴史を知らねば面白くないと思うようになった。
ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)とは,陸軍大尉メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)と少尉ウィリアム・クラーク(William Clark)に率いられて,アメリカ人として初めてミシシッピ川から太平洋に至る大陸横断をなしとげた探検隊のことである。
1804年5月,セント・ルイスを出発した一行48人は,ロッキー山脈を越え,1805年11月に太平洋岸のコロンビア川の河口に達し,1806年9月,セントルイスへ戻った。 探検隊は新しい合衆国の領土とそこに住んでいる人々,領地に広がる川や山など,多くの重要な情報を持って帰ってきた。また,北アメリカ大陸の地図作成にも偉大な貢献をしたのだった。
もう少し詳しく書いてみよう。
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アメリカ合衆国第3代大統領トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)には,探検隊を結成する夢があった。彼は個人秘書を務めていたメリウェザー・ルイス大尉を探検隊の隊長に任命し,「貴殿の任務は,ミズーリ川とその主流にかかる沿道,さらにコロンビア川,オレゴン川,コロラド川ほか太平洋との連絡水路を探索し,大陸を最も短い距離で横断,かつ通商を行う目的で通行できる陸路を発見すること」と指示した。
指示を受たルイスは相棒としてウィリアム・クラークを選び,探検隊を組織した。
当初33人で構成されていた探検隊は,イリノイ州ハートフォードに近いキャンプ・デュボワ(Camp Dubois)を出発し,1804年5月14日,歴史的探検を開始した。ミズーリ州セントルイスでルイスと落ち合い,48人になった隊員達はミズーリ川西方に沿って進み,最後の白人入植地であったラ・シャレット(La Charrette)を過ぎ,現在のカンザスシティやネブラスカ州オマハを通り,8月には,グレートプレーンズの端に辿り着いた。
1804年から1805年にかけた冬の間,一行はノースダコタ州ウォッシュバーンの近隣マンダン族の集落のそばに砦(Fort Mandan)を建設した。このマンダンは,現在のノースダコタ州都ビスマルクの隣にある。私も行ったことがある広大なところである。
ある日,猛烈な嵐が一行を襲い,食べ物も無いまま小屋に閉じ込められる羽目になったが,その時,ショーショーニー族(The Shoshone)インディアンの娘サカガウィア(Sacagawea)とその夫であるフランス系カナダ人のトゥーサン・シャルボノー(Toussaint Charbonneau)が一行に加わり,魚を持ち寄って飢えた隊員達の命を救ったのだった。
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やがて,探検隊はミズーリ川の源流まで進行し続け,馬を介してレミ峠のロッキー山脈分水嶺を渡った。
カヌーを使ってクリアウォーター川,スネーク川,コロンビア川に接する山を下り,セリロ滝や現在のオレゴン州ポートランドを通り過ぎた。
クラークは日記に「海が見える!おお!喜びが!」(Ocian in view! O! The Joy!)と書いた。また,ある日の日記の導入部には「太平洋へ流れるコロンビア川入り口の失意の岬(Cape Disappointment)」という見出しもあった。
探検隊はここで2度目の冬を迎えた。
隊員達はコロンビア川の北側か南側のどちらで野営するか投票して決めた。その結果,川の北側であるオレゴン州アストリアに野営をすることで合致し,越冬宿舎としてクラットソップ砦(Fort Clatsop)を建てた。
冬が過ぎ,探検隊は出発地へ帰還する折り返しの旅を1806年3月23日に開始した。
ロッキー山脈分水嶺を横断後の1806年7月3日,隊はルイスがマリアス川を探索できるようふたつに分割された。その後ルイスとクラークは8月11日にイエローストーン川とミズーリ川の合流地点に達するまで別々で行動したが再び合流して,ミズーリ川に沿って帰路につくことができた。
1806年9月23日,探検隊はついに出発地であるセントルイスへ帰還したのである。
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私がこの旅で機内から初めて見たアメリカの大地は,まさにクラークが「海が見える!おお!喜びが!」と叫んだオレゴン州の岬であった。
アメリカの北西部を旅行するときは,この探検隊の遺構を訪れて,先人たちの夢に想いを寄せてみるといい。
浪速の春の大相撲観戦⑥-今も残るディープな大阪
大相撲は不思議なもので,実際に見に行くと,外国人力士も日本人力士も関係なくなるのです。そして,だれが勝とうと負けようと,熱戦であれば堪能できます。
それがテレビで見ているだけだと,だれが勝ったか負けたかだけが気になるのです。
何事もそうですが,そういう意味では,大相撲も,見に行くほうがずっと楽しいものです。
私は,昨年,春の大阪に始まって,夏の名古屋も秋の九州も,地方場所はすべて行ったことになります。
これまでにも書いたように,九州は体育館がせまく設備が悪いのがかなりのデメリットです。博多という町は大阪とともにとても素敵なところで,何もない名古屋とは違います。九州場所の不入りは,体育館の場所が不便という意見がありますが,私は,それだけでないように思います。地方場所では,大阪は全く申し分ない立地であり,とても見やすい体育館です。
私のように,大阪に住んでいない者にとって,日本の中でここはかなり異質な都会に思えます。そしてまた,「きた」と「みなみ」の様子はかなり違います。
この大阪府立体育会館がある「みなみ」の場所は,難波駅の地下街の5番出口を出て,そのまま高速道路のガード下の道を5分ほど歩いてマクドナルドのある角を右手に折れると見えてくるのですが,はじめて行くとかなり迷います。まず,難波駅の地下街に表示がないのです。
案内板にはかろうじて「大阪府立体育会館」というのが見つかります。「大阪府立体育会館」は正式名すら定かでないのです。確か「エディオンアリーナ大阪」とかいうのですが,そんな表示はどこにも見かけません。こんなしゃらくさい名前でなく「エディオン大阪府立体育会館」でいいんです。本当に,日本人は馬鹿な発想をしますね。企業の利己主義なんです。こんな名前をつけてエディオンは企業イメージが上がるとでも思っているのでしょうか。
大阪「みなみ」には,その昔,名将・鶴岡一人監督率いる南海ホークスというパリーグの強豪チームがあって,私には,今でもそのイメージが強いのですが,その本拠地であった大阪球場のあたりは再開発されてしまって,今や,どこがどこなのか,よく分かりません。
さらに南に歩いていけば昔の町の様子のままなのですが,そのさらに南にある通天閣は,今や若者に人気の観光名所であり,「二度漬け禁止」(英訳は「No Double Dippig」です)で有名になった串カツの店が賑やかに軒を並べています。もともとこのあたり,かなり怪しい雰囲気だったのですが,今や,若い女性がそんなことも知らず歩きまわっています。
しかし,さらに南に,国道43号を渡って「動物園前1番街」のアーケード街あたりまで行くと,その怪しさが未だ健在です。日雇い労働者が多く住む西成や,さらには,飛田新地という知る人ぞ知るディープなゾーンがあって,ジャンジャン横丁なんて,本来は,その花街に向かう男たちの飲み屋街だったところです。
今でも,夜になると,シャッターの降りた商店街のアーケードの下で野宿している人もいるし,決して安くもないのに日銭を使って酒を煽りながらカラオケに興じている人もいます。そして,新地では,必死に笑顔を見せて客を寄せている若い女性が座っていて,それを目当ての男たちが歩いています。
こういうのを見ると,日本は,表面上は先進国を気取りながらも,その実際は毎日を必死に生活している人が住む発展途上国だと,私は思います。そして,行政もそういう公然たる事実を知っているのに知らないふりをして振る舞っている不思議な国です。
本当に,人が生きるというのは,いろんな意味で,並大抵のことではありません。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国②
●飛行機に乗るのは結構楽しい。●
そうしてもすることがなくなってしまったので,私は,出国手続きをして,ターミナルに入ったが,まだ出発には2時間以上もあった。
インターネットのデルタの航空のマイサイトにある,私が到着後に乗るアメリカ国内線の予約便の欄に「upgrade requested」と書かれてあった。いつもは「upgrade available」と書かれてあるのだが,私にはその違いが分からなかった。ネットの情報をいろいろと調べてみても,そのほとんどはアメリカ人であったが,いろんな人が書き込んでいた。しかし,それらのすべては憶測にすぎず,真相がよくわからなかった。
果たして,「upgrade requested」と「upgrade available」はどう違うのだろうか,それを確かめようと,ターミナルにデルタ航空のカウンタがあったので聞いてみることにした。
結論をいうと,要するに同じ意味なのだ。しかしその表現の違いというは,やっぱりそこでもわからないのだった。
結果的に,私は,今回もupgradeされて,アメリカの国内線は,ファーストクラスが利用できたから,表現が違っていても問題はなかった。出発前に,私の利用する国内線の座席を調べていたら,ファーストクラスの最前列に1席空きがあった。その席は,私のモノになる目論見であった。そして,実際,その目論見は正しかったのだった。
ところで,カウンタで話をしていたとき,国際線にも空きがあるので,コンフォートに無償アップグレードします,といわれて,望外の収穫さえ生まれた。この様に今回はいいことづくめであった。
すっかり気をよくした私は,そのままデルタ航空のラウンジに直行して,出発までの時間を過ごすことにした。
やがて,搭乗手続きが始まったので,機内に入った。
毎月乗っていると,飛行機も新幹線に乗るのとさほど変わらない。
先に書いたように,私がアップグレードされた座席は,ファーストクラスでこそなかったが,そのひとつ後ろの,とても足元の広いところの窓際であった。
飛行機の操縦というのは,その方向を変えるのは尾翼についている方向翼で,主翼は浮き上がるためと燃料タンクの役割しかない。だから,飛行機というのは後ろの座席ほど回転する距離が長いから乗り心地が悪い。したがって,値段が安い。通常,団体客が詰め込まれるのはこの後ろの席である。そして,前に行くほど料金が高くなるのだ。
今回の旅の目的は,というか,今回も旅の目的地はアイダホ州の州都ボイジーだったので,私はポートランド乗り換えでもシアトル乗り換えでもどちらでもよかった。どちらでもさほどの違いはない。違いといえば,シアトルとポートランドは空港の大きさがまるで違うというくらいのことであった。
いずれにしても,成田から行くには9時間もかからないし,太平洋を東に飛んでいくから時間がどんどん戻っていって,出発が午後なのに,到着はその日の午前になるといった,タイムマシンになる。便利でしかも楽な旅である。混みあう日本国内をごちゃごちゃ旅行しているよりも,さっさとシアトルやポートランドに行って1週間くらい休日を楽しんだほうが,結局お得だったりするのだ。
この日,私が選んだのはポートランド便であったが,隣のゲートにシアトル便がいて,ポートランド便とほぼ同じ時刻に出発した。行き先がほとんど同じだから,座席の窓から外を見ると,上空を,シアトル便が私の乗ったポートランド便の隣を並走? していた。
まるで2機のジェミニ宇宙船がランデブーをしているようで,ワクワクした。
そのうちに,次第に位置を変えて,シアトル便は右上方向にかっこよく旋回して見えなくなっていった。そして,上空には今度は満月が輝いていた。
私は,機内では,座席の前にあるディスプレイでゲームをしたり映画をみたり音楽を聴くのは存外面倒で飽きてしまっていたので,持っていたiPhoneで,自分で用意したビデオを見たり音楽を聴いたりして過ごした。
iphoneに好きな映画を4本くらい入れておけば,それを見ているとアメリカに着いてしまう。
電源はUSB端子が全ての座席についているから心配ない。
座席にディスプレイのないアメリカの国内線の場合だと,今は自分のiPhoneに機内サービスの映像が写るサービスもある。
すごい時代になったものだ。
私の隣に座ったのは,仕事でアメリカに行くというビジネスマンであった。
その方と楽しくお話をしていたら,あっという間に太平洋を渡ってしまった。
今,写真を眺めながらこれを書いていて思うのは,こうした飛行機の旅は結構楽しいということだ。書いているだけでも,私はうきうきしてくる。
やがて,着陸体制に入るという機長の放送がかかって,飛行経路が表示されているディスプレイは,間もなく,ポートランドに到着する表示がされていた。
そうそう,今の若者の多くは,プリント学習しかしていないから,優秀な学生でも新幹線の速度すら知らない。ましてや,飛行機の速度や高度など,全く認識していない。つまり,学問が死んでいる。
おおよそのところ,飛行機は,高度10,000メートル(実際はもう少し低い),速度1,000キロメートル(実際はもう少し遅い)程度だと認識しておけばいい。
スペースシャトルだって,宇宙といっても,実際は地球の周りを回っているだけだが,それでも,その高度は400,000メートル(旅客機の40倍),速度は約28,000キロメートル(旅客機の30倍程度)と,飛行機とは段違いである。なお,ハッブル宇宙望遠鏡の高度は600,000メートルと高く,この望遠鏡を修理するためのスペースシャトルの飛行では,通常よりも高度の高いところまで到達する必要があった。
ちなみに,物理学の法則からいえば,人工衛星は地球を回る速度によって高度が決まってしまうので,後ろから追っかけても追いつかない。速度を増せば高度も高くなってしまう。このように,宇宙船のドッキングというのは難しいのだ。これは高校の物理で学ぶ「常識」であるが,ほとんどの学生はテストはできてもそれだけで忘れ去って身についていないから,おそらく知らない。
早春の京都①-「京都人の密かな愉しみ 冬」
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8月にNHKBSプレミアムで放送された「京都人の密かな愉しみ 夏」で番組の最後に,「わけあって独身の」エドワード・ヒースローさんに突然現れた謎の女性。
それは,この番組の続編を予感させたものだったから,私は,この番組の秋編が放送されるのを心待ちにしていたのですが,それがなかなか実現されなかったのは,謎の女性を演じたシャーレット・ケイト・フォックスさんが,ブロードウェイの公演で忙しかったからなのか,ネタがなかったからなのか,それとも,秋の京都が混雑し過ぎでロケができなかったのか…,と私は勝手に思っていました。
そうして,冬も過ぎ,早春になって,ようやく,待望の冬編が放送されました。
題して「京都人の密かな愉しみ 冬」。
昨日放送された番組を見ると,実際は,京都のこの冬から春への美しい季節の移り変わりとそれに溶け込む京都人の姿をこの季節に新鮮なままに映像にしたかったのだろうと素直に思うことにしました。
この番組で沢藤三八子を演じる常盤貴子さんは,「まれ」で母親を演じたときよりも,「ビューティフル・スロー・ライフ」で薄幸の女性を演じたときよりも,この番組で京女を演じるときが最も美しく魅力的です。
そして,シャーレット・ケイト・フォックスさん演じるイギリス女性エミリー・コッツフィールドの,冷静な京都人と京都文化の分析は,まさに的を得ていました。
しかし,私が思うに,京都人もイギリス人も,そのプライドの高さと歴史の深さと文化の複雑さは双璧です。どっちもどっちだと思います。
この「京都人の密かな愉しみ」という妙な番組は,「京都人の暮らしに分け入る異色のドラマとドキュメント番組」という触れ込みで一昨年のお正月にそれこそ密かに放送されたのが,静かに話題を呼び,こうして,回を重ねることになったものです。
あるひとつの流れのあるメインドラマの中に,ドラマでない真実の京都がごちゃごちゃに入り混じったり,そこにまた,別のサブドラマがあったり,そして,いつものように今回も「あてなよる」料理研究家の大原千鶴さんのほっこりした京都の家庭料理のコーナーがあったりして,それこそが,京都のもつ複雑さを象徴しているようです。こうした最高の味付けはいかにそれを組み合わせるかが見どころとなっています。
メインドラマの部分は,前回の最後にヒースローさんのもとに現れた女性が今回,ヒースローさんとの関係をどのように発展させるていくのかと期待していたのですが,まさかこのふたりがいいなづけの関係で,しかも自由を愛するヒースローさんが,その関係を絶つために丹波まで逃げていくとは,意外な展開でした。なにか,ドラマ「鴨川食堂」を彷彿とさせました。
しかし,今回,このドラマに挿入された盛りだくさんの内容が,そうしたドラマの流れにうまく溶け込んでいたのか,といえば,そうでなかったのが,すこし残念だったように思います。
あまりに多くのことを入れようとしたために,まるで,下手な写真家が美しい京都の様々な景色をすべて1枚の写真に収めようとして,その結果何がいいたいのかよくわからなくなってしまった,そんなような作品になってしまいました。
挿入されたケーキ屋さんのサブドラマが,さらに,それをわかりにくくしてしまいました。京料理にケーキがでてきては胃にもたれます。ドラマはよく見ればとてもいい話だったので,話の内容をもう少し単純にすればよかったのに,と思いました。
番組の題名は「冬」だったので,それでは少し時期が遅いのではないかと思ったのですが,実際は,梅の花の咲く時期までを時系列で描いていたので,私は,これを見て,京都のやさしい春を感じて,また,今年も京都の春を味わいに行きたくなりました。
この番組のよいところは,京都でしか味わえない,体験できない,感じられない,そうした底知れない出来事やら食べ物やら行事やらの数々,こうした,ガイドブックにはない,そして,にわか京都通には理解ができない京都の奥深さを感じることができる,そうした至福の時間が味わえることです。
それは,今回も健在でした。
それに加えて,私が個人的に面白かったのが,番組の初めにイギリス女性エミリー・コッツフィールドが京都弁を覚えようと英語に直して書かれた数々の張り紙の内容でした。
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何にもあらしまへんけど。
Isn't this wonderful? This feast!
ほんによろしいなあ。
That's really not so good, is it?
ぶぶづけでもどないどす。
Please come home soon.
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私は,このめんどくさい京都人の作り上げた文化の中に住んでみたいとは決して思わないし,今は,日本だけでなく,外国からの観光客多がすぎで,それが,京都の本来持つ丁寧にかつ緻密に下書きされた水彩画のキャンパスに,乱暴に油絵の具を塗ってしまった絵画のような感じになってしまっていて,少しばかり幻滅ぎみで,あまり京都に思い入れがなくなりつつあるのですが,この番組を見て,改めて,観光客の少ない場所に,そして,色彩の乏しい時期に出かけて,もう一度,落ち着いて,京都の歴史と文化のぬかるみに足を入れてみたいものだと思ったことでした。
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雪のお正月③-「京都人の密かな愉しみ」
京都・夏②-「京都人の密かな愉しみ 夏」
浪速の春の大相撲観戦⑤-入口は力士の人柄がよくわかる所
今日の1番目から4番目はの写真は,私が見に行った17日の前日,16日のものです。
私は,16日の朝自宅を出て,京都市美術館でモネ展を見て,石清水八幡宮へ行ってから,大阪に来ました。
これらの写真は,ホテルに行く途中で立ち寄った大阪府立体育会館の前で写したものです。
時刻は3時過ぎで,体育館の前は,力士の場所入りを見ようと大勢の人で溢れていました。
もうこの時刻は,ほとんどの力士は到着してしまっているはずなので,どうしてかな,と思ったのですが,あとでわかったことは,3番目の写真のように横綱白鵬が来るのがすごく遅くて,十両の取り組みが3分の2も終わったころにやっと到着したので,それまで,このように,規制ができていたというわけでした。
近年は,ファンサービスで,力士が体育館に入るのは玄関と決められているらしいので,ここで待っていればすべての力士を見ることができます。帰りはめいめいで,裏口から帰ってしまう力士もいるということですが,それでも玄関で帰りを待っていると,気軽に写真を写したり,サインをもらえたりするので,それを待ち構えているファンもいます。
また,出番を終えた力士が,写真のように集まって話をしている様子は,まるで,下校時刻に校門にたむろしている学生と変わりありません。
こうした姿を見ていると,力士の人柄がよくわかります。テレビで相撲を取っているのを見ていてもわからない好印象を抱く力士も大勢います。また,その反対の場合もあります。
玉垣親方(現役名・智ノ花)が出てきました。高校の教師から相撲界に入った異色の力士でした。ファンの一人がサインを頼むと,俺は現役でないという照れ臭そうな表情だったのですが嬉しそうでした。
力士も,こうして親方になって相撲界に残れるのなら定年まで食うのに困るわけでないからいい商売なのでしょうか? 特に近頃は,外国籍の力士が多く,彼らは親方になれないので,日本国籍の力士が親方になるのも少しは間口が広そうです。
人の生き方にルールはありませんからなんともいえませんが,安定という意味では,スポーツは割が合いません。超一流まで上り詰められればいいのですが,それは少数。だから,相撲に限らず,引退した後が大変だなあと,私はそんなことを考えてしまいます。
私の近くにパンフレットを片手にサインを集めている人がいたのですが,彼の話では,お相撲さんは愛想がいいけど野球選手はダメだといっていました。
私が思うに,日本のプロ野球選手は若いころから野球エリートだからそういう態度になるのでしょう。しかし,多くの選手は30歳を過ぎたら野球界に残れず第二の人生を歩むことになるから,そのときまでにいかによい人脈を築いておくかだと思うので,そんなことではだめだと思うのは,年寄りの冷水でしょうか。
今,日本のプロ野球をスキャンダルが覆っていますが,数年前の相撲界も同様で,こうした閉鎖社会で何かよからぬことが万延したときに,それに染まらず生きるというのも,また,難しいものでしょう。それは別にスポーツ界だけのこととは限りません。
人が生きるのはどんな社会でも自己がきちんとしていないと大変なものです。
ここで,少し余談です。
ここまで書いてきて私が思い出した別の話は,携帯電話が世の中に出てきたころのことです。
当時,携帯電話を持っていたのはマスコミ関係者くらいのものでしたが,そのマナーの悪かったこと。お相撲をやっている体育館の館内には,ひっきりなしに電話がかかってその呼び出し音だらけでした。
そしてまた,タバコも同様でした。館内で喫煙が許されていた頃,マス席全体は完全に煙っていて,もうもうとした煙の中で相撲を取っているようなものでした。私は,マス席など絶対座りたくないと思っていました。イス席は禁煙でしたが,そんなことお構いなしの,これもまたマスコミ関係者が喫煙をしていて,それを注意した外国人と険悪になったりしていました。
そんな話は,どこにも書かれていませんが,事実です。そして,これがこの国の実態でした。その頃に比べたら,今はずいぶんとマシです。
それはそうと,ここ大阪府立体育会館の素晴らしいのは,5番目の写真にあるように,全ての座席に立派な座布団が用意されていることです。名古屋や九州にはありません。すでに書きましたが,九州は,マス席さえ座布団がありません。それで1日楽しめというのはかなり無理があります。
さらに,大阪には車イスの人が楽しむための観戦スペースもあります。名古屋や九州など,エレベータさえありません。
また,名古屋にもありますが,当然,大阪にもレストランがあります。私は,昨年,このレストランで,今は亡き北の湖理事長と偶然遭遇して,ツーショットを写すことができました。
大阪は,朝から体育館に行っても,退屈することなく,終日楽しむことができるところがたくさんあります。
しかし,最大の難点は,階段が非常にわかりにくいことです。設計が凝りすぎで,登ったり降りたり曲がったりと,一度行ったくらいでは把握できません。何か災害でもあれば,悲惨なことになってしまうでしょう。
浪速の春の大相撲観戦④-2016年もすごい盛り上がり
今年も春場所がやって来ました。
昨年抽選が当たって初めて春場所を見たとき「大相撲を見るなら大阪に限る」と,それ以来ずっと心待ちにしていました。昨年は千秋楽を大阪でも九州でも見たので,今回は3月17日の5日目にしました。
それにしてもすごい人気で,前売りチケットは全て完売,1番めの写真のような掲示がありました。
残った当日券を手に入れるために,午前8時前にはすでに2番目の写真のように長蛇の列ができていました。前売りの列はすでに100メートルを超えていて体育館の外周を取り巻いていましたが,そんなに並んだって買えるわけがありません。並んでいる人の多くが外国人で,ネットには平日なら買えると書いてあったのに… と言っていました。
開場は8時30分なのに,今度は,チケットを手に入れた人が,開場を待って,これもまた,長蛇の列を作っていました。
大相撲は,入門するとまず,前相撲というのを取ります。そして,晴れて入門が許されると,翌場所から番付の序ノ口に名前が載ります。
前相撲は通常は3日目から行われるのですが,入門者の多いこの春場所は2日目からで,5日目までに2勝したものが一番出世,8日目までで2番出世,それ以降が3番出世,たとえ1番も勝てなくとも出世することができます。
この前相撲は取り組み前に非公開で行われていて,家族の人だけが見るのを許されているのですが,そうした許された家族の人が8時15分から入れるということで,これもまた別の列を作っていました。
私は,8時30分の開場と同時に中に入りました。
前相撲といっても,春場所は人数が多く,今場所は確か48人もいるそうです。
人数が多いので,私が中に入ったときには,まだ前相撲が終わっていなくて,3番目の写真のように,家族でもないのに,念願の前相撲も見ることができました。
4番目の写真の「舛ノ山」を覚えておいででしょうか? 取り組みが終わったあとで,息もできないくらい苦しそうにしていた力士です。
開始早々からすごい観客だったのですが,そんな観客が,彼の登場で大いに沸きました。なんとケガで長期の休場をして序二段まで陥落,朝の10時前には登場してきたのです。
相撲自体は全く格が違うという感じでしたが,ここから,また,這い上がらなくてはなりません。
下がるのは早くても,上がるのは大変です。
17日は5日目ということで,三段目の取り組みの途中に,前相撲ですでに2勝を上げた力士の卵たちが「一番出世」の披露をしました。それが5番目の写真です。
口上を読みあげる行司さんもまた入門したてで,全てが初々しく胸を打つものがあり,素晴らしかったのですが,その後の苦労を考えると,私は,これからが大変だなあ,とも思ってしまいました。
相撲社会に限らず,生きていくのは簡単なことではありませんが,私は,こういう世界を見ると,そうした人生の縮図を見ているようにように思えて,何か,楽しみを通り越してしまいます。特に,大阪という場所がそれをさらに助長するのですが,そのわけは,また,いずれ書くことになると思います。
やがて,だんたんと取り組みも上位になって,私が大相撲キャラクターの「ひよの山」とツーショットを撮ったりしているうちに,館内は異様な熱気に包まれてきました。
2015夏アメリカ旅行記2-3度目の出国①
●ついに2015年3回目の旅立ち●
☆1日目 7月30日(木)
2015年3回目の旅立ちであった。もうこうなると「日常」になってきた。
1回目は5月であった。このときの旅は「2015春アメリカ旅行記」として,一昨日までブログに書いた。
2回目は6月であった。このときに行ったサンフランシスコは,ものすごく思い出に残る旅になった。このこともすでに「2015夏アメリカ旅行記」としてブログに書いた。
そして,ついに3回目となった。今回の旅は,14泊16日,7月30日に出発して8月14日帰国した。たったひとつのことを除いて,すべてが順調な旅であり,いろんな意味で非常に思い入れのあるものになった。
今日からは,その旅について書いていく。今回出かけるところは日本から近く行かれる方も多いと思われるので,非常に参考になることであろう。
出発便は,午後4時30分成田発ポートランド行きのデルタ航空であった。出発まで時間がたっぷりあったので前日の深夜バスで東京まで行った。八重洲口からは,昨年,成田エクスプレスが遅れ散々な目にあったので,今回はバスで成田まで行くことにした。
荷物は先に自宅から成田まで送ってしまったから,私が持っていたのは,小さなバックパックが1個だったので,まるで日帰りの旅行のような感じであった。
デルタ航空は成田をアジアのハブ空港と位置付けて多くの便を発着している。
これは,日本が羽田から成田に国際空港を展開したときにずいぶん尽力した結果で,きわめてアメリカ的な発想なのだが,日本人はいつものとおりの「能力と発想」を有しているので,それを突然方向転換して,羽田を再び国際空港として整備し始めた。
羽田は確かに便利だが,こうして国の方針がくるくると変わるのが大問題なのである。
そこでデルタが怒った。日本から撤退するとまで主張している。実に困った話だ。
日本は何事もそうである。
運転免許証を更新に行くと暗証番号を登録しろというが,いったいそれを何に使っているのだろう。そして,今度はマイナンバーカードである。しかも,運転免許証にもマイナンバーカードにも英語表記がない。
これだけIDカードばかりを作ってどうするのか,と思う。
海外旅行をするときにも,パスポートに運転免許証に国際免許証,しかもそのすべてが「サイズが違う」というバカげたことになっている。
今では,他のすべてのことがiPhone1台とクレジットカード1枚で事足りるというのとは雲泥の差である。
ここで怒っていても仕方がない。私は,この国の「知恵と発想の限界」には,すでにあきらめの境地である。
ともあれ,東京八重洲口から成田空港でのバスは非常に便利であった。私が乗ったときは非常にスムーズだったが,いつもそうなのかは保証の限りでない。渋滞するかどうかは知らない。
しかし,鉄道は信頼が置けないから,このほうがひょっとしたら無難なのかもしれない。
私の場合,これまでにも,成田エクスプレスが遅れたり,帰りに乗ろうとした新幹線が,車内で自殺者が出て止まってしまったりといろいろな目にあってきた。
ただし,バスでも,高速道路に事故渋滞でも起きれば話は別である。
しかし,成田はともかくも,セントレア中部国際空港など,そこにアクセスする私鉄である名鉄が事故やらで突然運休されることが結構あって,そういうときは,代替手段がない。どうするのだろう,といつもとても心配になるので,4,5時間も前に空港まで行くことにしている。
このように,海外旅行で一番心配なのが日本の空港までの交通手段である。そして,その次が,到着1日目の空港からホテルまでのアクセスである。
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今回は,予想以上に順調に成田に到着した。
そうなると今度は時間を持て余す。することもなかったので,成田空港ではスターバックスでコーヒーを飲んだり食事をしたりしてなんとか時間を稼いだのだった。
晩秋の明るい彗星⑦-3月,夏の星座も天の川も美しく。
☆☆☆☆☆☆
今月は,特に明るい彗星もなく,先月でメシエ天体もすべて写したので,9日の新月を挟んでそれ以前は夕方から深夜まで,そして,それ以後は深夜から明け方に1度ずつ,晴れた日に星見に行くことにしていました。
そして,まず出かけたのは3月2日の夜。このときのことはすでに書きましたが,めっきり暗くなってしまったカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)とパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)を写すことができました。
その後,急に温かくなって,それにつれて,私の嫌いな春霞なのか黄砂なのかPM2.5なのか,晴れていても空は灰色といった春の空になってしまい,がっかりしました。
そんな焦りもあったのか,3月8日の早朝,天気予報はなんとか晴れだったので,午前1時30分に早起きして,星見に行くことにしました。出かけたのは,はじめての場所。新規開拓,ということです。当地の様子もわからないので,下見を兼ねて行ってみることにしました。
ところが,起きたとき,自宅の周りは一面の霧,車はべたべたで街灯は滲んでいるという最悪なコンディションでした。それでも出かけたら,予定した観測場所だけ,なんと快晴。そこで写したのが,今日の2番目の写真の球状星団・M4でした。しかし,すぐに望遠鏡のレンズは曇り始めて,ほとんど成果があがりませんでした。
私の経験で,レンズが夜露に濡れてこれほど困ったのははじめてのこと,レンズが夜露に濡れたことすらこれで3回目でした。つまり,それほど,夜露の心配はしなくてもよいということもいえるのです。
そして,12日。この晩は晴れるという確信があったので,前回は満足に見ることができなかったこともあって,再び,同じ場所に出かけました。
到着すると,8日とは打って変わって最高のコンディションで,快晴,しかも,透明度もよく,南の空には,さそり座が堂々とした姿を見せ,その左手には,いて座と天の川が美しく輝いていました。
この日に写したのが,1番目の写真・パンスターズ彗星と3番目のM16,4番目のM17といった,有名なへび座といて座の散光星雲でした。パンスターズ彗星は2日に写したのと同じ彗星ですが,ずっと写りのよいものになりました。10.5等星と暗いのですが,こんなに尾を引いたかわいい姿をとらえることができて,すっかり満足しました。
私は,2013年11月のアイソン彗星以来,2年にわたっていろいろと楽しんできました。他の天文ファンが40年前にやっていたことを,今,こうしてはじめてやってみて,すっかり自己満足をしているのです。しかし,真っ暗な夜空に輝く満天の星空が見たいという願望は日増しに強くなってきました。
聞くところでは,往年のアマチュア愛好家は,今や,日本に暗い星空はほとんどないので,都会から車で3時間も走って星の暗い場所に行き,そこで大きな望遠鏡を設置して,コンピュータで制御しながら星を写すとか,そういう状況なのだそうですが,それでは楽しみよりも苦しみになってしまいそうです。私は今後,どのように楽しんでいこうか思案中といったところです。
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑩
●帰国の日 −旅は非日常だからこそ−●
☆再び9日目 5月17日(日)
すでに書いたように,私は,この旅の最終日に予想もしなかった出来事が起きて,帰国が1日遅れた。しかし,そんなことが起ころうとは思いもしないきょう17日は,帰国の日であった。
話は前後するが,その前日の晩は大荒れの天気という予報であった。
夜,確かに,大雨が降ったから,私は,この時ばかりは,ベースボールを見る日がこの日でなくてよかったと思った。そして,チェックインをしたときに,きょう見にいくといっていたフロントの若者が気の毒になった。
宿泊したホテルは空港に近く,周辺にはできたばかり,あるいは,現在分譲中の住宅街やモールなどが広がっていて,まるで,映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に出てきたシーンのようなところであった。
私のようにアメリカを旅行する計画があって,しかも,レンタカーで移動できるのなら,宿泊するホテルは,こうした郊外にするとよい。安価で,しかも新しく,そして,サービスのよいホテルがたくさんある。
このホテルも,朝食は朝の4時過ぎには食べることができた。
1年前の3月に行ったサンアントニオのときもそうだったが,日本への帰国便は朝が早い。というか早すぎる。そこで,なるべく空港の近くに宿泊するのだが,それでも,朝,もし,起きられかったらどうしよう,という不安がよぎるのだ。あてにできないと私が信じて疑わないのは,部屋にある目覚ましやモーニングコールである。
ともかく,無事,朝3時起床。
帰り仕度を済ませた頃にはすでに朝食は準備されていたから,さっそく食事をとって,いよいよチェックアウトをした。
長かったのか短かったのか,どこへ行ったのか行かなかったのか,何をしたのかしなかったのか,そのすべてのことがよくわからない今回の旅も,これで終わりだなあ,と思った。
アメリカの地図を見ていただくとおわかりになるだろうが,アメリカの中南部なんて,どのように旅行をすればいいか,皆目見当もつかない事であろう。そしてまた,あまりに情報が少ない。
そして,今回もまた,日本人はひとりも見なかった。
先に書いた帰国便のこともそうだが,こうしてアメリカへ頻繁に出かけるようになって,改めて思うのは,西海岸は近いということだ。そして,国内線への乗り換えの必要な,今回のような旅をしようとすると,行きは到着が深夜近くなり,また,帰りは深夜に起きなくてはならないわけだ。
この年2015年は,まだ来月も,その次の月もアメリカへ来る予定があったから,私は,日本に一時帰国するような気持でホテルを後にした。
外からホテルを眺めると,できたばかりのホテルなのに,一角が破壊されていた。きっと竜巻の被害だろう。
アメリカで生き抜くことも容易ではない。旅は,非日常だからこその旅である。
・・
今回で「2015春アメリカ旅行記」はおしまいである。これで47州を制覇した。残りは3州である。
この旅の,この後に起こったことは,すでに書いたので,それをお読みください。
◇◇◇
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③
大相撲の思い出を語る③-「分解写真でもう一度」
大相撲を開催するには,支度部屋という場所が必要です。
MLBでも豪華なロッカールームというのがあって,そこでは,プレイヤーが食事をすることもできるということですが,それに比べると,日本のプロ野球の開催される野球場のロッカールームはアメリカプロベースボールの3Aくらいのものだと川崎宗則選手が言っていました。昔あった川崎球場なんて,畳敷きの部屋があっただけらしいです。
その支度部屋,愛知県体育館には,別棟の小体育館があって,それを半分に仕切って東と西で分けて使っていますが,場所があればいいだろう,的な極めてこれも日本的なものです。
日本は,本当に貧しい国です。貧しいという認識があればまだいいのですが,それを,超一流国家とかいってごまかすことが私は嫌いです。例えば,公立学校の体育館です。体育館にイスを並べて音楽の鑑賞会をするなんて,完全に文化や芸術を軽視している証拠です。広い場所があればいいだろう,という考えです。
勉強をするための教室でお弁当を食べる,というのもおかしなもので,食堂を作るべきです。
高速道路は作っても整備のいいかげんな街中の道路といい,学校といい,一番大切なものに予算をかけない,そして,こういうことをいうと,お金がない,土地がないとかいってごまかされるのです。
実は,愛知県体育館の東に鎮座する大相撲では支度部屋となる小体育館の階下には温水プールがあるのです。私は,子供のころに,その温水プールの水泳教室というのに通ったことがあります。
ところで,日本の体育館の設備の貧困さは,目に余るものがあります。地方場所ではこういうところを借りて興行をしているのですから,旅芸人一座とそれほど変わるものではありません。
日本の自治体はデラックスなアメリカのNBA(プロバスケット)のスタジアムでも視察してきたらいいと思います。オリンピックがあれほど盛り上がり,新国立競技場の建設で議論が盛り上がるのに,室内スポーツは貧困なままです。それに,コンサートホールは結構欧米に引けを取らないものが多くあるのとは大違いです。体育館は,観客を入れて楽しむスポーツの場,という位置づけになっていないようです。
大相撲では,国技館でもあれだけ外国人の観客が来るのに,フリーWifiの設備がないというのも,また,不思議なことです。
そういえば,電光掲示板,国技館の電光掲示板が新しくなったとかいうお話ですが,そもそも電光掲示板自体,あの形状でなければいけないものなのでしょうか? 大阪府立体育館にはハイビジョンがあるのですが,大相撲の時は使われず,特別あつらえの電光掲示板がぶら下がっています。それでも,まだ,大阪の電光掲示板は名古屋よりは豪華です。大阪もそうですが,九州でも片側にしかありませんし,名古屋なんて,何十年も使い古されたものです。
MLBでは,すでに,スコアボードというものはなく,巨大なマルチスクリーンがその代わりになっています。大相撲でも,マルチスクリーンを設置して,普段は電光掲示板の表示をして,取組後は録画を再生したものを流せばいいと思うのですが。ファンサービスの欠如,日本には,そういう発想すらないのでしょう。これもまた,「日本人の能力と発想の限界」です。
そうそう,今日は昔話を書くのでした。
「分解写真でもう一度」って,御存じですか?
今のような録画方法がなかったとき,テレビでは,写真をつなぎ合わせて,取り組みを再現することが行われていました。当然,コマ数が限られているから,パラパラ漫画のようなものだったから,子供たちは,それを真似してお相撲を取っていました。
私は,早熟な子供だったから,その仕組みが知りたくて仕方がありませんでした。だって,当時のカメラはモータードライブといっても,1秒に5コマくらいしか写すことができなかったのです。それでは分解写真は作れません。
調べてみると、どうやら動画の16ミリフィルムで撮影して,その1コマ1コマを現像して再現していたらしいということがわかったのですが,今のデジタルカメラの動画から静止画を切り出している様なものです。当時としては,きっとすごい最新技術だったのでしょう。
大相撲の思い出を語る②-愛知県体育館になって
今日は「せこい」お話です。そして,「せこい」がゆえに,私には忘れられないお話です。しかし,こんな話,今や,関係者も知らないことでしょう。
その前に…。
名古屋城内に愛知県体育館ができて,一番みんなが喜んだのはクーラーがついたということでした。
その愛知県体育館ですが,建物は長方形で,長辺のほうが東方と西方になり,短辺のほうが正面と向正面になります。
実際の方角は正面が西になるので,地形上の方角とお相撲の東方西方は異なります。
国技館はじめ,他のところがどうなのかはしりません。確か,九州は正面が南だと思いますから東西は反対です。
お相撲の面白いのは,テレビで中継しているのが正面席からで左側が東方で右側が西方なので,正面というのは北になります。つまり,横綱が土俵入りをしたときにせりあがるのは北を向いて南側から北側に向かってせりあがるわけです。国技館の貴賓席は正面にありますから,つまり,帝は北を背にして南に向かって座ることになります。正面の観客も同じ向きなので,北から南に向かって見ているということになります。地図を見るのとは反対なのです。
私は,ある時突然そのことに気づいて,びっくりした覚えがあります。
全く違う余談ですが,アメリカでMLBを見に行くと,多くの試合はデーゲームですが,座席を選ぶときに方角を気にしないと,炎天下の下で見る羽目に陥ります。それはむしろデーゲームよりもナイトゲームで日が沈んでいないときが最悪です。座席は値段よりも日陰で選ぶのがコツです。さらに,雨天を考えると,屋根のある下が最高です。
では,ここからが今日の「せこい」お話の本題です。
先に書いたように,愛知県体育館は,正面と向正面が長方形の単辺だから,イス席から土俵がまでの距離が遠く,東と西が近いのです。近かろうと遠かろうと,大阪や九州に比べて,愛知県体育館のイス席が最悪であることには変わりませんが,それがどういうことかは行ってみればわかります。
それはともかく,正面と向正面のイス席は土俵から遠いので,昔はすべて自由席でした。そして東と西のイス席が指定席でした。それが,若貴の相撲ブームの時にやたらとチケットが売れたものだから,正面と向正面のイス席も最上段の数列以外は指定席に変更されました。
そして,数年前,全く相撲の人気がなくなってチケットが全く売れなくなったとき,私はこの指定席を再び自由席に戻せばいいのに,と思いましたが,もう,そんなことは,つまり,昔は自由席だったなんていうことは,主催者の誰の記憶にもなかったのでしょう。だから,こういうことだけは戻らないのです。ならば,お客さんのほとんどいない2日目から5日目は,イス席は子供たちの無料開放にするとか,学校の遠足で来てもらうとかの工夫をすればいいのに,全くもって,日本の興行はアメリカのそれと比べて,本当に発想が貧困だとしみじみ思ったことでした。
それが,私のいう「せこい」お話の顛末です。
それはそれとして,国技館,大阪の府立体育館,九州の福岡国際センターと,私は,全ての会場へ行ったことがありますが,そのなかで名古屋が一番老朽化した建物です。
その愛知県体育館,お城の中にあるので,現在の法律では新しく建て替えることもままならないと聞いたことがありますが,ともかく,来年にかけて,やっと改装されることが決まったらしい,いや、今になって名古屋市と愛知県がもめています。
せっかく改装するのなら,もう少し「マシ」な座席になることを期待したいと思いますが,日本人の発想,いや,お役人の考えることでは多くは望めないでしょう。
いずれにせよ,名古屋もせめて大阪の府立体育館くらい見やすく快適な体育館に改築されることを望みたいものです。
◇◇◇
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2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑨
●5月にこの地方を観光することは…●
カンザスシティのダウンタウンを走り抜け,ダウンタウンの北西に位置する国際空港近くの今夜宿泊するホテル・スリープイン(Sleep Inn)に向かって,走っていった。
市街地を出ると,道路は作りたて,ホテルも作りたて,そして,売り出し中の分譲住宅や,大きなスポーツグラウンド,モールやショッピングセンターが,広い大地に果てしなく続いていた。
・・
ホテルに到着して,駐車場に車を停めて,まず,チェックインをした。
フロントにいたスタッフの若者に,日本から来てベースボールを見てきたといったら,「私も今晩行きます」という返事であった。相手がヤンキース戦ということもあるのだろうか,私がカンザスシティで話しかけた人は,みな,同様にベースボールを見にいくというのだ。
部屋はきれいで広く,宿泊代は安く,治安もよく,アメリカを車で旅するには,こうした郊外のホテルに宿泊するに限ると思った。私の宿泊したホテルの周りには,他にも多くの全国チェーンを展開するホテルがあった。
私がアメリカのいろんなところに行って次第にわかってきたことは,アメリカには,ロサンゼルスやニューヨークといった大都市やグランドキャニオンのような大自然にある有名な観光地の顔と,こうした「ふつうのアメリカ」の顔,その二面性である。
ほとんどの日本人は大都会しか知らないし,大自然といえばあまりに有名な観光地しか知らない。しかし,本当のアメリカは,そのどちらでもなく,外国からの観光客がそれほど行かないような「ふつうのアメリカ」,つまり,手つかずの大自然や一面に広がる大農場と,広く美しい住宅地にある。
どちらが魅力的かと問われれば,私は,躊躇なく,後者のほうを選ぶ。
この季節は1年のうちで最も日が長く,しかも,アメリカは夏時間だから,もう夕方5時過ぎなのに,写真にあるように,お昼間そのものだった。日没は8時過ぎである。
私は一度部屋に入り,夕食をとるために,再びホテルを出た。
ホテルから道路を隔てた向かい側にあったのが,トヨタの営業所であった。営業所とはいえ,それはそれはとんでもない広さであった。日本の高等学校のグランドくらいあった。何だこれは,と思った。その隣には,ホンダやら日産やら,さらには,フォードやらフォルクスワーゲンの営業所が並んでいた。
こういう世界から見ると,日本は,まるで箱庭である。そんな日本で高級車に乗るのは,動物園の狭い檻のなかのライオンのように思える。車の立場になってみても,日本で走らさせる車はかわいそうだ。
ホテルの周りの広く作りたての道路を,インターステイツを遠目に見て適当に走っていくと,分譲売り出し中の新興住宅街を過ぎたところに,御殿場のアウトレットをさらに大きくしたような町があった。私は,その町の端にあった大きな駐車場に車を停めて,その町の中へ歩いていった。
そこは,ゾナローザ(Zona Roza)という郊外型のショッピングプラザであった。それがまた,めちゃくちゃ広いのだった。
日本では,10年以上前に広い駐車場を構えたそれぞれの店舗が1件ずつ独立して軒を並べたようなモールができた。これは,アメリカの真似であった。そして,その次に,イオンモールやアピタタウンのような,巨大な商業施設ができた。これもアメリカの,たとえばミネアポリスにある「モールオブアメリカ」の真似であった。
そして今,アメリカでは,その時代をとうに過ぎ,こうした,アウトレットモールのような巨大ショッピングタウンがいたるところにできはじめたが,それがまた,信じられないくらい広いのだ。それをまねて,日本でも御殿場や土岐アウトレットモールのようなものができはじめた。しかし,いかんせん,大きさが決定的に違うし,広いからアメリカのほうが客密度が低い。
しかし,こんな広いショッピングプラザを歩いていても,私ひとりで夕食を食べるような,日本でいう吉野家のような適当な場所がない。ひとりで贅沢なものを食べても,たかが知れているし楽しくない。そんなわけで,私は,このモールの中にあったサブウェイに行くことにした。
「マクドナルドが夕食で許せるか」というブログを以前書いたが,「サブウェイで夕食は許せるか」という感じである。こちらのサブウェイは,日本のようなハーフサイズのパンがメインではないから,かなりのボリュームがあるので,私には許せるのだ。
食事をとって,さらに,このショッピング街を歩いてみたが,買いたいものがあるわけでもなく,それは日本でも同様であるが,まあ,それだけのことであった。
ホテルへの帰り道,今度は,スポーツ施設を見つけた。そこにあったのは,巨大なプールや数えきれないほどのテニスコート,4つもある野球場などであった。そこはティファニーヒルズパーク(Tifanny Hills Park)というところだった。
何もかもが,あまりに巨大すぎる。
ホテルに帰って,テレビでニュースを見ていたら,なんと,これから,嵐のような雨になるという。
私は,昨日ベースボールを見にいったことを感謝した。それと共に,今日見にいくといったホテルのスタッフのことが気になった。
ベッドに横になると,外はすさまじい雨が降りはじめたのが聞こえた。
この日,ベースボールが行われたのか中止だったのか,この雨がホテルの周りだけだったのかは,これを書いている今,記憶から抜け落ちてしまっていて,私にはわからない。いずれにしても,5月という,最もトルネードの多発する時期にこの地方を観光旅行するは間違いだということが,浅はかな私は行ってみてはじめて身にしみたのだった。
「花神」から見た国の在り様-「100分de名著」
NHKEテレの「100分de名著」。
今月は司馬遼太郎特集ということで楽しみにしていたのですが,第1回の「国盗り物語」は,ちょっとがっかりしました。聞き手の伊集院光さんのあまりの無知さ(演技でしょうが)と軽さに,私が抱いていたこの小説の真摯なイメージに異質の空気を流してしまったように感じたからです。
しかし,それはきっと私の精神的な印象です。今の私には,この国の歴史で,いつのもように,少数の特権階級である殿様を英雄としたお話が,たとえそれが信長であろうと,それは結局は偉い人が庶民を傅かせるだけだということに拒否反応を示すからなのです。木下藤吉郎という人物は一庶民の出でしたが,そうであっても,彼は権力者に取り入って自らが権力を手に入れたのちにこの国を動かしたという意味では,やはり,殿様であって,民衆ではありません。
そんなわけで,もう見るのを辞めようと思ったのですが,思いとどまって見た第2回「花神」。これはよかった。最高でした。番組でお話をされた磯田道史さんも,この番組のテキストで「「花神」が司馬文学の最高傑作だ」と書いていますが,私もまさに同意見です。
たとえ極めて優秀であったにせよ,この「花神」の主人公である村田蔵六という人物は,庶民なのです。それに,蔵六に頼まれて蒸気船をこしらえた提灯屋の嘉蔵なんて最高じゃあないですか。
戦国時代とは違って,江戸時代という成熟した階級社会で,庶民がこの国の歴史を動かす重要な位置を占めたなんていうのは,まれなのです。そもそも日本の歴史はアメリカの歴史とは真逆で,元来,日本では大塩平八郎は反逆者であって英雄にはなれないのです。
私は,これまでにも,このブログに「花神」を題材にした大河ドラマのことを書いたし,つねに「日本人は日本人のことを知らなさすぎる」,また,「日本人の能力と思考の限界」と書いていますが,考えてみれば,私にはそういう言葉でしか表現できないことを,すべて,司馬遼太郎さんはこの「花神」という小説ですでに書き表しているのです。
この番組の中で,伊集院さんが「骨折は精神力では治らない」といっていましたが,まさにその通りです。
司馬作品で,いつごろから日本人はそうした意味のない精神力を強調するようになってしまったのか,という問題提示がされますが,元来,それこそがこの国の人の持つ特質であって,この「花神」で書き表されたような西洋的合理主義こそが異例なのだと思います。
それにしても,常に精神力がもてはやされ,そのことに疑問を抱かず絶賛するようなこの国の在り様,というのは,いつの時代も変わりようがないのです。だって,辛抱とか忍耐とかいう言葉,今でも大好きでしょう。みんな。
この番組でも触れられていましたが,村田蔵六が作りあげた日本陸軍が,太平洋戦争で精神論を振りかざしてこの国を敗北させたということこそが,この国の在り様を典型的に表しているわけです。
番組でひとつ残念だったのは,この村田蔵六という人物が,結局は暗殺されてしまったことを取り上げる時間がほとんどなかったことです。私は,その暗殺の首謀者といわれる,史実は知らないけれど「花神」で描かれた海江田信義という人物こそが,私のこれまでに出会った輩と同じような,プライドだけ高くて志もなく上司に媚びるだけで実力の伴わない,かつ,時代の流れを判断できないという,典型的なこの国の小役人の姿だと思っていますが…。
◇◇◇
「花神」から「花燃ゆ」を語る-これなら「花神」でいい①
「花神」から「花燃ゆ」を語る-これなら「花神」でいい②
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑧
●こんなことならもう1日●
ネルソンン・アトキンズ美術館を出て,これで大体カンザスシティの見どころは見終えたので,私は,南から北に向かってダウンタウンをドライブしながら,今日宿泊するホテルに向かうことにした。
アメリカでもっとも古い郊外型のショッピングセンター,今でいうモールが,カンザスシティにある。
それは1922年に作られたカントリー・クラブ・プラザ(The Plaza)で,55エーカー(220,000平方メートル)の広さに姉妹都市であるスペイン・セビリヤの町に似せた150以上のショップやレストランが並んでいるのだという。
私は,美術館の帰り道に,このプラザを車で走ってみることにした。
結構な人込みで,車を停めてまで行く気がしなくなったので,車窓から見た風景だけだったが,そこにはいたるところに彫刻や,カンザスシティ名物の噴水があって,美しい街並みが広がっていた。人々は,思い思いに食事をしたりショッピングを楽しんだりしていた。
カントリー・クラブ・プラザを過ぎて,次に左手に見えたのが,ユニオン駅(Union Station)であった。
ここはカンザスシティの中央駅で,アムトラックのチケットセンターと待合室があるという。駅の中にはサイエンスシティ(Science City)も併設されているということだ。
私もいつか,車ではなく,アムトラックでアメリカを旅してみたいものだが,荷物や駅からの移動手段を考えると尻込みしてしまう。
ユニオン駅を通り過ぎた右手にあったのが,クラウンセンター(Crown Center)であった。
このあたり,東京の新宿副都心から東京都庁の感じに似ていた。
クラウンセンターは,1968年にホールマーク(Hallmark)社の社長ジョイス・ホール(Joyce C. Hall)とその息子ドナルド・ホール(Donald J. Hall)が作ったものである。ここにはショッピングセンターやレストラン,劇場,ホテルなどがある。
ホールマーク社とは王冠のマークで知られる世界最大のグリーティングカードの会社である。
このクラウンセンターの一角にホールマーク社のビジターセンターがあって,そこでは,1910年の会社創立からの歴史やカード制作の行程を14のコーナーで知ることができるような展示がされているという。
カンザスシティ・ロイヤルズのスコアボードに王冠が模られている理由がこれでわかったように思った。
もう1日余裕があったら,,このカンザスシティのダウンタウンを楽しんでもよかったように思う。ガイドブックにはほどんど触れられていなくても,どの町にもそれなりに楽しく過ごせる場所がたくさんあるものだ。そう考えると,人の一生は短すぎる。そして,意味のない雑事が多すぎる。この旅は日程の余裕がなく,あわただしくなってしまったのが残念だった。
それなのに,帰りのカンザスシティからデトロイトへのフライトにアクシデントがあって,デトロイトから日本への帰国便に乗り遅れて,帰りの日程が1日遅れてしまい,デトロイトで無意味な1日を過ごすことになってしまった。こんなことなら,はじめっからもう1日ここで過ごすことができればよかったと,意味のない後悔をするのだった。
いずれにせよ,最も気象の悪い時期に,そうとは知らず竜巻多発地帯を旅した私は,無事帰国したことだけでも感謝しなくてはならない。
大相撲の思い出を語る①-冷房なき金山体育館のころ
もうすぐ春場所です。そこで,お相撲の昔話を書いてみたいと思います。
八神純子さんに「思い出は美しすぎて」という歌もありますが,過去は美化しないと生きてゆけません。「昔はよかった」というコメントをよく聞くのですが,実際は,昔だってそうよかったことばかりあったわけではありません。
私は,過去のことを何気に覚えているのですが「どうやら」多くの人はそうではないようです。「どうやら」と書いたのは,私はずっとみんなも私と同じだと思っていたからなのですが,実は「どうやら」そうではないらしいということに気づいたのは,極めて最近のことです。
そうした何気に覚えていることを書いてみたいというのが,このお話の内容です。それに,若い人はそんなこと知らないと思うので,ここにそんな記憶を残すのも悪いことではないでしょう。
何事も一番問題なのは,世代が変ったときに,当時ふとはじまったことがその理由が忘れ去られて,形だけが「伝統」としなって,「変えてはいけないもの」という位置づけで残ってしまうということです。
例えば,江戸時代の「鎖国」がそうです。
鎖国は徳川家光がはじめたのに,次第にそういうことは忘れ去られて,これは日本開闢以来の国策だから変えてはいけないと信じられるようになっていった,そのようなことです。
私は物心つく前から親に連れられてお相撲を見ていたので,あまりに当たり前すぎて,当時の写真がないのです。つまり,お相撲を見に行くことが特別なことという意識がなかったものだから,写真を残していないのです。今となっては,それはもったいない話です。というわけで,このブログの話題には残念ながら当時の写真がありません。しかしそれでは格好がつかないので,最近写した写真を載せることにしましょう。
それに,私よりもずっとお相撲好きの多くの人がいろんなことをすでに書いているでしょうから,そういった話題はあえて書かないことにします。そして,忘れさられてしまったことを,雑談程度に書いていきたいと思います。
毎年7月に開催される大相撲名古屋場所は,1965年から愛知県体育館というところで行われていますが,私の子供のころは,現在,名古屋市民会館(日本特殊陶業市民会館)となっている場所にあった金山体育館というところでやっていました。
まだ戦後のにおいがする時代,町には傷痍軍人さんが一杯いました。現在新幹線の駅となっている名古屋駅の太閤通口など,戦後の闇市のままだっだし,人さらいがでるといわれました。金山なんて,坂道にぼろい名鉄の駅があったりしました。
金山体育館は,戦争中は飛行機の格納庫となっていた場所だったので,ただの倉庫。冷房など当然なくて,夏の暑いことったら…。
「昔の夏は暑くなかった」というのはうそです。昔も今も,夏は暑いのです。当時はクーラーもなく,動物園のカバのように,家の中でゴロゴロしていた記憶があります。
暑い夏の名古屋場所,私が覚えているのは,中入りの休憩時に,マイクロフォンのような機械が花道の上の四隅に立てられて,そこから酸素が場内へ放出されて「シュー」という大きな音がしていたことです。
子供心に,何だこりゃと思いました。
氷柱も立てられていたということですが,それは覚えていません。
そして,取り組みが終わった後で,出口付近で,父親が今ここに横綱若乃花が出てくる,とか言って一緒に待っていたことや,取り組みの掲示板の力士の名前がすらすら言えて,隣に座っていた知らないおばちゃんにすごいねと言って褒められたこと。
そんなことくらいです。
大鵬の「鵬」の字なんて学校で習わないし,「柏戸」だって「かしわど」なのに,どうして「柏鵬時代」だと「はくほう時代」になっちゃうのか,そんなことが子供心にものすごく不思議でしたし,学校ではこんな有名な漢字も教えてもらえないのか,と思いました。
私は,そんな子供でした。
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑦
●ヘンリー・ムーアの彫像コレクション●
次に私は,ネルソン・アトキス美術館の近くに車を停めて,歩いて美術館に向かった。ここはものすごく大きな美術館であったが,それが無料であるのが一番の驚きだった。中に入ると,中央の吹き抜けに出た。吹き抜けの下に中庭があって,そこにはロゼレコートレストラン(Rozzelle Court Restaurant)があって,食事をとることができた。
ここでは,くつろいだ雰囲気の中で音楽の生演奏を聴きながら,おいしい料理をあじわうことができるのだ。
このとき,私は,第1次世界大戦博物館ではなく,ここで昼食をとればよかったと少し,いや,大いに後悔した。
クリーブランドの美術館に行ったときも,木曜日の夜は美術館の中のレストランで音楽の生演奏を聴きながら食事をすることができて,多くのお年寄りのカップルが訪れていた。この精神的な豊かさはGDPやらの指標では現れない。人の頭しか見えない上野の美術展など行きたくなくなるというものだ。
ネルソン・アトキンス美術館(The Nelson-Atkins Museum of Art)は,「カンザス・シティ・スター」紙の創設者であるウィリアム・ロックヒル・ネルソン(William Rockhill Nelson)により創設された。
ネルソンは1915年に亡くなるが,亡くなった後の財産は公共のために美術品を購入するようにとの遺言を残したので,未亡人であったメアリー・アトキンス(Mary McAfee Atkins)は30万ドルを美術館建設のために寄付した。そして,その資産は運用され,1927年の時点では70万ドルに増えていた。さらに,別の人物からの遺産があったために,当初はふたつの美術館の建設が計画されたが,財団の理事たちはこれらの資金をひとつにまとめることにして,この大きな美術館を建設することにした。
建物はカンザスシティの建築事務所ワイト・アンド・ワイト(Wight and Wight)がボザール様式で設計し,1933年に開館した。
美術館は1983年に「ネルソン・アトキンス美術館」と名前が改められるまでは,西翼のアトキンス・ミュージアム・オブ・ファイン・アート,東翼とロビーのウィリアム・ロックヒル・ネルソン・ギャラリー・オブ・アート(The William Rockhill Nelson Gallery of Art)のふたつの部分に分かれていた。
ウィリアム・ロックヒル・ネルソンは個人コレクションの寄贈ではなくお金を寄付をしたために,学芸員たちは美術館のために幅広い美術品を収集することができた。
そしてまた,大恐慌の時代,多くの美術品がコレクタから市場に売りに出されたが,あまり買い手がいなかったのが幸いして,ネルソン・アトキンス美術館のコレクションを拡大する大きな機会となった。そのために,この美術館は短期間にアメリカで最も大きなコレクションを持つ美術館のひとつとなった。
館内は,クラシカルな美術とモダンな美術の両方の作品が展示されていた。
また,アメリカンインディアンコレクションでは,アメリカ先住民族の陶器や宝飾品が展示してあったし,ジャパニーズルームには,日本の屏風や着物が展示してあった。さらに,古代アートコレクションには数千年も昔の品が展示されていた。
そして,アフリカやヨーロッパ,中国やアメリカなどの美術品も,この美術館には取り上げられていた。
さらに, ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)やジャクソン・ポロック(Jackson Pollock),アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)などの現代芸術家の作品を集めたブロックビルディングと,写真の歴史を紹介し,世界的に知られた写真を展示する有名なホールマーク コレクション(Hallmark Art Collection)も必見であった。
ここは,一般市民向けの著名な美術史家の講義が受講できるし,スペンサーアートリファレンス図書館(Spencer Art Reference Library)には18万冊もの書籍が集められているということだ。
美術館の周りには,ドナルド・J・ ホール彫刻公園(Donald J. Hall Sculpture Park)があった。広さ22エーカー(89,000平方メートル)のこの緑の広場には,30点以上の美術品が散りばめられていた。私には,アメリカ合衆国最大のヘンリー・ムーア(Henry Moore)の彫像コレクションが飾られているのがとても印象的であった。これ,美術の教科書で見たことあるぞ,と思った。
「手に余る大きすぎる服」-この会社はどこへ向かうのか②
今日は,新製品が続々発表になっているカメラの話です。
「手に余る大きすぎる服」という言葉があるそうです。人の時間には限りがあり,他に仕事をもつアマチュアは多くの時間を趣味に割くことができないのですが,カメラ好きにとっては,写す時間がなくても,お気に入りのカメラを手に入れて,いつも眺めているだけで満足している人も多いものです。
カメラに限らず,アマチュアというのは,プロからしてみれば奇特な人達で,メーカーにしてみれば上得意さんです。お金を貰わなくても,それに身も心も捧げることができるという不思議な人種だからです。
好きだけの一心でやっているアマチュアには,プロは勝てません。
先日,ニコンミュージアムを訪れたとき,「せっかく訪れたこのミュージアムで,過去の輝かしい栄光に比べて,全く将来の夢と展望が語られていない展示を見て,私は落ち込んでしまうのでした」と書きましたが,その後,この会社は,私の杞憂を捨てるかのように「画期的な」新製品「ニコンD5」と「ニコンD500」を開発して,将来の夢と展望を語りました。
「ニコンD5」の常用感度がISO102,400,増感すると3,280,000(328万)というのにはびっくりしました。カタログに「,」が書いてないので,桁数が読めないくらいでした。そして,4K動画の導入です。こうした従来からの一眼レフの規格で,この先動画にも対応する製品を開発し続けるという宣言なのでしょう。
同じような製品を発売しているキヤノンがシフトを動画に写して,静止画カメラはほどほどにお茶を濁して(それでも一流の性能を誇るのですが)いるのとは対照的です。キヤノンといえば,毎年元日の新聞に全面広告が掲載されて,それを毎年見比べると,この会社が映像の将来をどう見ているかという夢と展望を語っていて興味深いものです。今年は8K動画でした。
将来,この夢が実現して動画が4Kから8K… となったとき,ニコンがプロ用の機材として現状の規格のままで静止画と動画をこなす製品を開発し続けることは私にはかなりの無理筋のような気がしますが,はたしてどうでしょうか。
それにしても,プロというのは大変です。
人からお金を貰う「仕事」は,人がしたくないことをするか,人のできないことをするか,あるいは,ひとりの力ではできないことを大勢で,したい時はもちろん,したくない時もする必要があるからです。中でも,人のできないことをする仕事というのは,才能が第一条件ですが,才能があっても,それに加えて道具を使う必要があるときはなおさら大変です。絶えず高性能の道具を持っている必要があるからです。
それでも,ストラドを使うバイオリニストなら新製品が出るたびに買い替える必要はありませんが,カメラマンは,次々と新しいものを手に入れないと,確実に仕事をなくします。そしてまた,メーカーも,新しい技術を導入した新製品を開発し続けなければならないので,こちらも大変です。しかし,映像機器がこれだけ高性能になってしまうと,プロだけが相手では利潤があげられないので,それを奇特なアマチュアにも大いに買ってもらわないと商売にならないのです。
こうした話題を楽しみにしているカメラ雑誌や話題にするブログが数多く存在しているから,そうしたアマチュアはまだ相当数いるのでしょうが,彼らがこれからもメーカーを支え続けていく購入層でありつづけるかとなると,疑問が残ります。ブログなどを読んでみると,本当によくわかっている人も多いのですが,中には,机上の知識だけでちんぷんかんぷんな意見を書き込んでいる人もいます。しかし,メーカーにとれば,そういう人も貴重なお客さまですから大変です。
残念ながら,奇特なアマチュアではない私には,こうした最新技術の詰まったカメラはまさに「手に余る大きすぎる服」です。私が欲しいのは,星を写すために使うマニュアルできちんとピント合わせができる液晶画面とノイズのない高感度特性のカメラと,旅行に持っていくためのできるだけ小さくシャッターチャンスをのがさないタイムラグのないカメラ,それだけです。
しかし,それでもまだカメラを使っているのは「マシ」な方で,旅先で目にするのはほとんどが「スマホ」です。そんな状況をなんとかしようと,カメラメーカーはカメラを高性能化して,必要のない性能までてんこ盛りにしています。私は買わないけど,奇特なアマチュア愛好家にそうしたカメラを大いに購入して頂いて,その利潤でメーカーがなんとか立ち直ってくれるのを祈っていますが,残念ながらその将来はやはり悲観的にしか思えません。
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「ニコンミュージアム」-この会社はどこへ向かうのか?①
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑥
●芸術をリスペクトする国●
第1次世界大戦博物館博物館を見学した後,私は,そのまま車で南に向かった。めざすは,ネルソン・アトキンズ美術館であった。
カンザスシティは,ダウンタウンから南に走るメイン・ストリート(Main Street)の周りはすごく美しい街並みが続いていた。
次第に町の郊外になって,大きな家の連なる静かな住宅街になったが,道を1本入ると,そこは広大な芸術村であった。
この芸術村のあたりは,ネルソン・アトキンズ美術館だけでなく,美術大学やケンバー現代美術館などがあった。いわば,東京でいう上野のようなところであったが,もっと広く美しく気品があふれていた。
こういう場所を見ると,日本とは国力の違いと芸術に対するリスペクトの違いに愕然とする。しかも,このふたつの美術館は無料なのである。
この日は角帽をかぶった若者とその親らしき人がたくさんいた。
美術大学では卒業式が行われているようだった。
アメリカの学期は9月にはじまり,5月の半ばに終わるから,この時期に卒業式というのは当然なのだが,私は,はじめそれがわからず,というのは,こうして旅をしていると,今がいつなのかということすらわすれてしまうからなのだが,どうして今卒業式なのかしら,と思った。
カンサスシティ美術大学(Kansas City Art Institute)は1885年の創立,ウォルト・ディズニー(Walt Disney)も学んだ歴史ある芸術専門大学である。当初はアートについて語り合うサロンのようなものだったが,近年は施設設備の拡充に取り組んでおり,2006年には新しいスタジオスペースがオープンした。
コミックアーティストのリチャード・コーベン(Richard Corben) ,コンセプチュアルアーティスト=前衛芸術家のクリスチャン・ホルスタッド(Christian Holstad),彫刻家,画家のロバート・モリス(Robert Morris)などもここで学んだ。
余談だが,この大学の学費は年間約400万円。これは,日本の4倍というところか。アメリカは大学の学費が異常に高い。
私は,森に囲まれたこの芸術村につながる通りを興味深くドライブしていたが,まず先に見つけたケンバー現代美術館の駐車場に車を停めて美術館の中に入った。
ケンパー現代美術館(Kemper Museum of Contemporary Art)は1994年に作られたミズーリ州最大の現代美術館である。この美術館には,1913年のアーモリーショー=国際現代美術展(Armory Show)後に作成された700以上の現代アーティストの作品が集められている。
その代表的なものは,ロバート ・ マザウェル(Robert Motherwell),ロバート ・ ラウシェンバーグ(Robert Milton Ernest Rauschenberg),ジャスパー ・ ジョーンズ(Jasper Johns),ジム ・ ダイン(Jim Dine),ヘレン ・ フランケンサーラー(Helen Frankenthaler),デイビッド・ホックニー(David Hockney),ブルース ・ ナウマン(Bruce Nauman),ウィリアム・ウェグマン(William Wergman)など蒼々たるものである。
広さは23,200平方フィートで,鋼鉄およびガラスに覆われた建物は,1992年から1994年に660万ドル(8億円)かけて作られたのだという。
広い館内は美しく気品にあふれていたが,ほとんど人もおらず,落ち着いた雰囲気であった。
私はこうした美術館に立ち寄ることは多いが,ほとんど美術のことはわからないから,猫に小判のようなものだが,それでも,こうした人間の心からの創作物こそが人を豊かにするのだということだけは感じることができた。
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日⑤
●教わらないからそれしか表現方法がない●
第1次世界大戦博物館(The National World War I Museum and Memorial)は,アメリカで唯一の第1次世界大戦をテーマにした博物館である。
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第1次世界大戦は,1914年7月28日から1918年11月11日まで,バルカン半島におけるドイツ・オーストリアとロシアの対立に,軍事同盟を結んだそれぞれの陣営が同調して起きた人類最初の世界戦争であった。
戦闘の多くはドイツの東部戦線や西部戦線で展開されたが,他に西アジア,アフリカ,中国でのドイツ権益に対する日本の攻撃など,地球的規模で戦争が広がった。戦争の形態は高度に技術化され,飛行機,潜水艦,毒ガスなど新しい武器を出現させ,一般市民をまきこみ,広範な犠牲を人的,物的に及ぼす戦争となった。
やがて,戦争の長期化,戦線の拡大,国民生活への犠牲の増大は,次第に各国での厭戦気運を高めていったが,1917年5月のアメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み,11月の第2次ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。さらに,ドイツ国内でも兵士・労働者のドイツ革命が起こったことによって,1918年11月に,ついに戦争は終結した。
・・・・・・
この博物館は,1926年に国のために戦った兵士たちの勇気や愛国心をたたえる自由記念館として一般に公開された。1998年に一旦,劣化および構造上の問題と安全上の懸念のために閉鎖されたが,再興する機運が高まり,2004年に新しく8万平方フィートの規模で着工され,2006年12月に再びオープンした。
建物の中央には,リバティ・メモリアル・タワー(The Liberty Momorial Tower)がそびえ,遠くからも目につく。
博物館自体は,エジプトの古代遺跡を模して造られていて,半地下に下っていくような形でエントランスがあった。そして建物の中に入ると,土産物売場と博物館のチケット売場があった。
私はさっそくチケットを購入して,博物館の中に入った。
内部に続く床下にはひとつが1,000人分を表す9,000もの戦死者を悼む表す赤いケシが並べられていて,その上を通って博物館に入場するようになっていた。
この博物館は, 第1次世界大戦がどうして起きたか,また,大戦中の戦地や町の様子などが説明・展示されていた。また,戦車や兵器,遺品などの実物が多く並べられていた。
さらに,1914年,1918年の休戦,および1919年パリ講和会議の起源からそ戦争の終結までが詳しく説明されていた。そして,最後のコーナーにあるホライズンシアター(Horizon Theater)がこの博物館で一番の見どころであった。
ここには,大型のスクリーンの前に戦士や戦場のジオラマが並べられていて,当時の戦場が臨場感たっぷりに再現してあった。そして,ダイナミックな音と光とともに,戦場を描写した映像を見ることができた。
博物館はそれほど大きな規模ではなかったが,丁寧な展示やジオラマ,そして,資料と,非常に充実したものであった。
私は,以前,サンアントニオで太平洋戦争博物館に行ったことがあるが,アメリカでは,こうした博物館もまた,日本とは違って充実しているし,内容や思想がある。変に入場者に媚びていないのである。そして,多くの人が訪れて,一生懸命に説明書きを読んでいる。
私は,こういうものひとつ,そして,来館者の態度を見ても,日本とは社会に真剣に向かい合う態度が全く違うと感じる。いつも書いているように,日本では,プリントに答えを書くことだけが「頭を使う」ことだという訓練を受けて成長しているから,自分で物事の本質を理解し,自分の考えを持つことをしない。
ネットの書き込みを見ても,すぐにアカだの国籍が違うだのという極論で悪口を書き並べるしか自分を表現できない人が多くいる。議論が出来ないのである。彼らはそうした議論の仕方を教わらないで育ったしまったから,それしか表現方法がないのである。だから,真摯な話し合いが成り立たない。
こんなことは,国語の科目を変えようなそんなことでは解決しない。この国の中等教育のカリキュラムをどう変えようと,所詮はプリント学習をし,塾が栄え,入試のための補習をするだけだからである。そして,指導する側にもそういう教育しかされてこなかったのだから変えようとしてもその方法を知らない。制度をいじることだけは大好きだが,予算をかけて指導者を育成しないのだから,何をやっても同じなのだ。
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私はこの博物館を充実した気持ちで見学した。
その後,この博物館の階下に「Over There Café」という素敵なレストランがあったので,そこで昼食をとることにした。
晩秋の明るい彗星⑥-3月,カタリナ彗星も暗くなった。
3月になりました。2月は明け方の南の星空を写していたので,カタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)から遠ざかっていました。前回,回転花火銀河と一緒に写真に収めたのが1月17日だったので,時が過ぎるのは早いものです。
カタリナ彗星は現在8,9等星ということですが,今後はどんどん暗くなってしまいます。
2月でメシエ天体もすべて写したので,これからは,彗星と散光星雲を写そうと思っているのですが,今月は新月前のこの時期,太陽が沈んだ後の北と西の空を写そうと考えていました。
それにしても,早春というのはよい季節ではありません。春霞とともに黄砂やPM2.5で空が濁ってしまいます。天気は晴れなのに,空は灰色です。さらに,このところ,どうも空の様子がよくなくて,雪雲が流れてきて,安定した快晴になりません。昨日も,一日中ずっと曇りでした。でも,日没後からその雲が切れるという予報だったので,星見に行くことにしました。
しかし,明け方と違って都会の光で空は明るく,しかも,水蒸気が多くて,どうもさえず,気持ちが弾みません。
ともかく,カタリナ彗星を探すことにしました。
現在カタリナ彗星のいるのはきりん座なのですが,場所を調べてみて,こりゃ大変だと思いました。近くに明るい星がないのです。しかも北極に近いところなので赤道儀をうまく動かすのも大変なのですが,それはやってみればわかります。
まだきりん座の4等星くらいの星の並びも肉眼では見えず,双眼鏡やファインダーではたくさんの星の中でどれがどれなのかわからなくなってしまいます。
ともかく,明るい星が見えていたカシオペア座からペルセウス座のあたりをたどって,星の並びを覚えていきました。
そのとき,浮気心が起きました。
ペルセウス座の二重星団が美しいのです。彗星探しを中断して,思わず写真をとりました=1番目の写真。
写していて思い出したのですが,ペルセウス座にはもうひとつ,カリフォルニア星雲という有名な散光星雲があるのです。これは肉眼では見えませんが,写真にはよく写るのです。でも,私はこれまで写したことがありませんでした。
そこで,次に写したのが,このカリフィルニア星雲でした=2番目の写真。
そうこうしているうちに,少しずつ空が暗くなってきて,きりん座の4等星がはっきり見えてきました。それとともに,ペルセウス座のγ星とη星からファインダーで順に星をたどっていくと彗星に到達できることがわかってきました。
そこでなんとか写すことができたのが,3番目の写真です。
ずいぶん暗くなってきましたが思ったほどでもなく予報よりも明るそうです。この彗星は,ダストテイルとイオンテイルがYの字になった変わった姿だったのですが,イオンテイルはもうほとんど見えなくなって,ダストテイルもきわめて彗星らしいかわいい姿の尾になってきました。
これで満足して,最後に写したのは,パンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)でした。
昨年の10月7日北極星に最接近したこの彗星は,現在こぐま座のβ星とγ星の近くなので,こちらは11等星と暗いのですがすぐに探せました。写真に写すと9等星くらいに思えました。まだまだ十分写せます。こんなに地味な彗星なのに,数か月間ずっと見えていて,昨年からこれまでにたくさん写すことができたのが不思議です。
さて,次の新月は9日。お昼間に月が太陽を通過するとき日本では部分日食が見られます。それが過ぎたら,3月は,再び明け方の南の空,先月よりは高く昇っているいて座の球状星団や散光星雲を写したいと思っています。
そして,いよいよ,月末はハワイです。
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晩秋の明るい彗星①-月明かりの中,カタリナ彗星を捉えた!
晩秋の明るい彗星②-月と金星とカタリナ彗星と
晩秋の明るい彗星③-カタリナ彗星の羽を広げた2本の尾
晩秋の明るい彗星④-流星がビュンビュン飛ぶ凍てつく夜
晩秋の明るい彗星⑤-カタリナ彗星と回転花火銀河
ギリシャヨーグルト-アメリカでは「CHOBANI」ばかり
昨年の夏,アメリカに行ってスーパーマーケットをのぞいて驚いたのですが,あるのはギリシャヨーグルトばかり。中でも,「CHOBANI」ブランドの勢いがすごい! ということで,今日はその紹介です。一度試してみませんか?
今日の写真の上からふたつはアメリカのスーパーで写したものです。
ギリシャヨーグルトの特徴は,濃厚でクリーミー。水分や乳清を除去して作り上げるので一般的なヨーグルトより水分が少なく,たんぱく質を多く含みます。
ギリシャヨーグルトは,2000年以上前に誕生しました。当時,羊とヤギの牧畜が盛んだったギリシャで,ミルクの栄養価を損なうことなく長期保存できる食材として,遊牧民の間で作られるようになったといわれています。
この「高たんぱくタンパク低カロリー」なギリシャヨーグルトは,まずニューヨークで大ブームとなり,2012年には,全ヨーグルト市場の売上高の約30パーセントを占めるほどになりました。
米国東海岸には,ヨーグルト製造工場が密集する「ヨーグルト業界のシリコンバレー」といわれる場所があって,2013年にはニューヨーク州はヨーグルト生産量でカリフォルニア州を抜いて全米1位になりました。そして今,そのニューヨーク州の「ヨーグルトバブル」の中心にいるのが,ギリシャヨーグルトで全米にブームを巻き起こした「CHOBANI」なのです。
この「CHOBANI」,トルコからの留学生ハムディ・ウルカヤ(Hamdi Ulukaya)が思いつきで始めた会社です。彼は,自国で食べていたようなおいしいヨーグルトが米国にないことを知りショックを受け,実家がチーズやヨーグルトの製造業を営んでいたこともあり,父親の勧めでアメリカででビジネスを立ち上げることを決意,当初はレストランなどに卸す程度のビジネスにすぎなかったのが,2005年にニューヨーク州北部で売りに出されていたヨーグルト製造工場を購入,製造工場の元従業員数名とトルコから呼び寄せた知合いのヨーグルト職人のたった5人で創業しました。開発だけに18か月をかけて2007年に発売したのがこの「CHOBANI」でした。
そして,発売後すぐに快進撃が始まったのです。
値段は2倍もするのに売れているのは,そのひとつは,ギリシャヨーグルトがヘルシーな商品として認知されたからですが,さらに,濃厚でまろやかな食感で満足感が得られるため,手軽で健康的な朝食やスナックとして爆発的な人気が出ました。
もうひとつは,商品パッケージです。縦長で小さい見慣れた従来品と違い,口が大きくカップのように横長なヨーロッパスタイルの容器で,ポップでスタイリッシュなデザインになっています。売り場でもかなり目立つようなデザインにしたのは,広告を出す余裕がなかったから,隅に陳列されてもパッと人目を引くようにとパッケージに力を入れたのです。
ギリシャヨーグルトは日本にもあるということで探してみたのですが,地方の小さなスーパーにはなく,大きなスーパーに少しだけ置いてありました。それが今日の3番目と4番目の写真です。
日本の市場というのは,アメリカで人気があれば売れるというものでもないのが商売の難しいところで,なかなな浸透しません。価格が高いというのもネックですが,私は日本とアメリカの食習慣の違いというのが一番大きいような気がします。日本のメーカーも「ハチミツ入り」とか手を変え品を変え味を変え日本らしくこねくり回して工夫するのですが,一般の日本人好みの味ではないと思います。
我が家の朝食は完全なアメリカンスタイルだし,こういう食事に慣れていますが,アメリカのホテルの朝食の「ともかくヨーグルトとコーヒー」とは違って,日本のホテルや旅館の朝食のバイキングをみるとお味噌汁にご飯を選んでいる人が多いようなので,きっとそういった「塩分の取り過ぎ」スタイルが,まだ,一般の家庭の姿なのでしょう。
さて,今後日本でも広まるのでしょうか? 私は消えちゃうと思うけど。
2015春アメリカ旅行記-カンザスシティの1日④
●日本は私には不思議な国である。●
今日の写真でおわかりのように,天気が今ひとつさえなかったが,雨も上がり,今晩のゲームは大丈夫そうであった。シティマーケットを出て,次に目指したのが,第1次大戦博物館であった。
今日はまず,カンザスシティの見どころの位置関係を紹介しよう。
地図にあるように,中央がダウンタウンで,その西にカウンティスタジアム,そして,昨晩泊まったホテル,二グロリーグ博物館,という位置関係になっている。
ダウンタウンの北側にシティマーケットがあって,そこから南に第一次世界大戦博物館,カントリクラブプラザ,ネルソンアトキンズ美術館とある。
北西には国際空港と今晩宿泊するホテルがある。
このような位置関係なのである。
先に書いたように,ガイドブックにはこうした位置関係がすぐにわかる地図がないのが,最も不便なところなのだ。最も困るのは,ホテルを予約するときである。地名が書かれてあったとしても,それがどこなのか全くわからない。
これは,日本の都市のホテルを予約するときも同様である。
さて,私は,シティマーケットを出てから,一気に南に第1次世界大戦博物館を目指して走っていった。
地図を見た感じと,このブログの写真をご覧になって,どうお思いになるであろうか?
地図上では,この町はかなりごみごみとした感じを抱かれるであろうが,実際は,このような広い道路が続いているのである。
シティマーケットから第1次世界大戦博物館までは,2.4マイル,つまり,4キロメートルほどの距離であったから,車で走れば,わずか10分ほどである。
はじめに私は,ガソリンを入れようとして,困ってしまったのだった。
アメリカでは,市街地から郊外に出ると,いくらでもガソリンスタンドが存在するし,その位置もインターステイツのジャンクションにあるから,とても分かりやすい。しかし,市街地に入ると,それがとんとわからなくなってしまうのだった。
私は,ミズーリ川沿いをさまよいながら,やっとガソリンスタンドを見つけたと思えば,そこは車が一杯で断念したりして,を繰り返しながら,それでも,やっと何とかガソリンスタンドを見つけることができた。
ここで,余談を書く。
車を運転していて,一番の問題はガソリンであるが,アメリカでは,どのスタンドもクレジットカード1枚でガソリンを入れることができる。ただし,まったくガソリンスタンドのないところがあるから,ガソリンが半分なくなったら必ず補充することを忘れてはならない。
私は,ごみごみしているだけで,どこかへ行ってもたいしたところもないから,必要がなければ日本でドライブをすることはほとんどないが,それでも,たまに郊外に出ると,ガソリンスタンドを探すのにさんざん苦労をする。さらにどう考えても解せないのが,高速道路のサービスエリアにあるガソリンスタンドだ。どうして,あんなに市場よりも高い値段を付けることができるのだろうか? これではガソリンスタンドとして機能していないではないか。
本当にこの国は,携帯電話の料金にせよ,高速道路のスタンドにせよ,常識外れの値段を付けて,それで成り立っているのが私には不思議である。
また,「田舎」へ行くと,今度は「エネオス」しかない。
都会だと「エッソ」だの「シェル」だのといろんなガソリンスタンドがあるが,田舎へ行くと自民党の政治家しかいないのと同じように「エネオス」のスタンドしかないのである。この国には「多様性」は存在しない。
これもまた,本当に不思議な話である。
私はダウンタウンを一挙に南下して,第1次世界大戦博物館に到着した。
敷地には,広大な芝生広場が広がり,道路に沿って駐車帯があった。私も,そこにスペースを見つけてに車を停めて,入口までずいぶんの距離を歩いていった。
「司馬遼太郎”アメリカ素描”を行く」-アメリカを語るとき
2003年に放送された番組「司馬遼太郎”アメリカ素描”を行く」がNHKBSプレミアムの「プレミアムカフェ」で再放送されました。
この番組がはじめて放送されたときにも見たことがあり,「アメリカ素描」という本も読んだことがあるのですが,あれから,私もずいぶんアメリカに行って,そして,歳を重ねたので,そのとき以上に,非常に興味を持って見ることができました。
私がこの番組を見て思ったのは,「司馬史観」といわれる司馬遼太郎さんのものの見方と,アメリカという国を日本人がどう見ているかという点でした。
まず,司馬遼太郎さんのものの見方です。
私は,学生のころから司馬作品が好きで,ほとんどの本を読んだことがありますが,司馬作品には一貫した歴史感があって,それを柱に史実を司馬史観というフィルターにかけて語られていて,それが多くの人の共感を呼び引きつけていたのだということが,とてもよくわかりました。
アメリカに一度行って自分の目でそれを見ただけなのに,あれだけ深い洞察力で語ることができる,というのがすごいことです。
司馬遼太郎さんは,アメリカという国に日本の歴史ほどの興味はなかったのだと思います。だから,彼が見たアメリカは日本の歴史という鏡に映し出されたものですが,そういうかかわりでアメリカが語られたことはあまりなかったように思います。
学校教育の「歴史」では学べない捉え方です。
アメリカという国を日本人がどう見ているか,という点については,司馬遼太郎さんのせいではないと思うのですが,やはり,他の報道と同じように,取り上げられる対象がきわめて限られているということが,この番組でも顕著でした。
サンフランシスコの同性愛者なども取り上げられてはいましたが,アメリカ人が本質的に根ざしているのは,宗教と政治問題なのです。その上に立って,様々な意見の対立が生まれ,いろんな事件が起こっているのです。そして,日本人には興味がなく報道されないのは,中東問題でありネイティブインディアンでありメキシコとの歴史であったりするわけです。それらのことは,日本とはそれほどかかわりがない,といってしまえばそれだけですが,しかし,アメリカに行くと,そうしたことに対する知識があまりにないことを知って,私はショックを受けます。
この番組で取り上げられていた場所はフィラデルフィア以外は全て行ったことがありますが,しかし,やはり,大都会を中心としたアメリカの一部の姿でしかありません。
私が思うアメリカとは,広大な大地に,生涯海を見たことがないというような保守的な人が住んでいて,広大な農場を経営したり馬を乗り回し開拓した姿。彼らにとれば,ニューヨークも日本も同じように遠い異国なのです。日本で報道されるのも「非農業者部門」の失業率であり,ウォール街を闊歩するビジネスマンの姿だったりしますが,その「非」というのが曲者で,アメリカの本質はそんなものとは縁のない「農業国」なのです。そして,有史以来の地層がそのまま残っている手付かずの大自然です。
日本の歴史は2000年でアメリカは300年といいますが,自然に関していえば,アメリカは2億年なのです。
それにしてもいつも思うのが,どうして日本人はアメリカを上から目線で語りたがるのか,ということです。それほど日本は立派な国なのでしょうか。自分の意見は語れない,民主主義は機能していない,文化や学問をリスペクトしていない,町はゴミだらけ(中央分離帯なんてポイ捨ての空き缶やペットボトルだらけ),道路はぐちゃぐちゃ,車の運転は乱暴で自然は破壊しまくって…。それは,ある意味日本人のもつ劣等感の反映に違いない強がりだと思うのですが,一番の問題は,日本人が日本人のことを知らなさすぎるとことだと私はいつも思っています。自分のことを知らずして他人の批評をするという偉そうな輩は,私がこれまでに出会った上司にたくさんいました。愚かなことです。
以前,ある女性が,日本という国は,一昔前の,外面だけよくて家では威張り散らしている親父そっくりだと憤慨していましたが,本当にその通りです。
いずれにしても,これだけの豊富な内容を,一貫した思想のもとで筋を通して語られた興味深い番組は,そうあるものではありませんでした。