しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2016

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●あのときの思い出は現実だったのか?●
 あまり現実を知らなかったときの瞬間の淡い記憶ほど懐かしいものはない。若い頃の断片的な記憶はいつまでも心に残っているものだ。
 たとえば,少年の頃に読んだ天文雑誌に載っていた天体望遠鏡。星を見た帰りの夜明けの景色。…。
 しかし,懐かしがってそれを手に入れたり,お昼間にその景色を見ようと出かけると,ほとんど場合,それは幻想にすぎなかたっと実感する。若いころの片思いも,まさにそれと同じなのかもしれない。
 私にとって,ボーズマンという町は,まさに,そういったところだった。
 
 2004年9月13日,モンタナ州ビュートで交通事故にあって1週間入院したその帰国の日。私はリムジンタクシーの窓から,帰国便の出発するボーズマンの空港に至る町の風景を車窓から見た。今考えると,そこにあったのは,広い玄関とガレージには3台の車が停められているというだけのどうってことのないアメリカの住宅街だったのだろうが,私はそのとき,アメリカという国のそのすごさと豪華さに,「なんだこれは! これがアメリカなのか!」と思った。
 そして,その2年後,2年前には行くことができなかったイエローストーン国立公園に行ってみようとボーズマンからイエローストーン国立公園の玄関口ウェストイエローストーンまで送迎をしてもらったときに深夜の車中から見た川沿いの道路の風景。その道路に数多くの十字架の墓標が並んでいるのに別の戦慄を覚えたが,あれは幻想だったのだろうか?
 私は,今回,その両方の姿が真実だったのか,改めて自分の目でしっかり見てみようと思ったのだった。
 あれから10年以上の歳月は,私にとって,アメリカを夢の世界から現実にした。だからきっと,今それを見ても,あのときのような感動や戦慄は全く抱かないだろうと思った。しかし,抱いていた記憶が,本当はどういった現実の姿をもっているのか,私はそれを知りたかった。

 自然史博物館を出た。駐車場からは,遠くに雄大なロッキー山脈を見ることができた。この博物館に来たときは,ボーズマンの市街地を走らず郊外を周ってきたので,帰りはボーズマンのダウンタウンを通ることにした。
 ボーズマン(Bozeman)は人口約3万人,モンタナ州6番目の町である。この都市の名は「ボーズマン・トレイル」をつくったジョン・ボーズマン(John Bozeman)にちなんでつけられた。モンタナ州で最も発展がめざましく,私がこれから走ることになるギャラティン渓谷は景勝地としても知られている。
 ボーズマンは,また,モンタナ州立大学の本拠地であリ,ギャラティンフィールド空港が町の北西にあってここがイエローストーン国立公園の北からのアクセスの玄関口となっている。

 ボーズマンからは,2006年のときと同じように,空港からウェストイエローストーンまでギャラティン渓谷沿いの道路を走って行くことにした。その道路は国道191である。
 2004年。私がビュートで事故にあって,途中でイエローストン国立公園へ行くのを断念したとき,事故に遭わなければ,ボーズマンからイーストイエローストーン国立公園まで,この道路を走るはずであった。そして,2006年,今度は送迎の車の窓からみたこの道路は,思った以上に狭く,いたるところに,交通事故の爪痕として,犠牲者の十字架が墓標として設置されていた奇妙な道路だったのだ。そのときの私は,こんな危険な道路は,たとえ事故に会わなかったとしても走れなかったな,と思ったものだった。
 今回,地図で確認してその道路を走って行くと,あのときに走った道路は確かにこれだった,と思った。しかし,昼間であることと天気がとてもよかったこともあって,あの時とは全くイメージが違っていた。
 そこにあったのは,ロッキー山脈から流れる美しい川沿いの,静かで走りやすい道路であった。
 ボーズマンからウエストイエローストーンまでは,当時走ったときに感じた以上に距離があった。そして,あのときに車窓から見たと思った十字架は,決して夢ではなく,確かに存在していた。
 私は,このようにして,2004年と2006年のときの記憶と幻想を思い起こしながら国道を走って,イエローストーン国立公園のゲートに再びたどり着いたのだった。

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 日本人は集団の「和」を好むという人がいるけれど,実際は,日本人は他人のまねは得意だけれど独創性がなくまねをしなければ何もできないから,「個人主義」を肯定的にとらえる人は多くありません。その裏には,集団に頼らず自分でできる人を「出る杭は打たれる」という言葉があるように,やっかむ気持ちがあるのです。そもそも嫉妬とねたみの大好きな国民ですから…。
 そしてさらには「利己主義」というものを忌み嫌います。だから,何事もみんなでやるんだよ,となるのです。
 しかし,日本人が「個人という利己」でなくとも,日本は自分の帰属する「集団の利己」つまり「利益」のみを考えていて,それ以外のものはどうなってもいいと思っている村社会で,そういう意味では,実は「究極的な利己主義」社会なのです。
 帰属する集団というのは,時として,家族であり学校であり会社であり国そのものであったりします。
 そのように考えていくと,この国の在り様や,私が「日本人の能力と発想の限界」といつも書いていることとの整合性が明確になります。

 たとえば,自分や同じグループの会社の利益だけを考え社会全体や消費者の利便性などまったく無視したポイントと称したカードの山を考えてみましょう。たとえば,テレビの野球中継で,放送している自局が次に放送する試合の紹介はしても,そのチームが他局で放送する次の試合の情報を流さないということ,あるいは,自分の球団のことだけを考えているある在京球団のことを考えてみましょう。
 たとえば,入学受験に対して,所属する学校や塾の生徒の成果だけをひたすら追い求め,挙句の果ては,受験はチームワークだとか,受験生は地元の代表だとかいいはじめる,そうした「おとなの事情」を考えてみましょう。
 このような例からも,そこに根ざしているのは,自分の所属する「集団の利益」のみを考えている「究極的な利己主義」だということが明らかでしょう。

 同じように,国際協調だの日本は先進国だのと主張してみても,その発想の根源にあるのは日本の国益だけであって,世界という視点から物事を見ていないことも明らかでしょう。だから,日本には難民が来ないからそれでいい,というような安易な考えで満足しているのです。これでは世界の中で先進国という役割は果たせません。
 道路整備を考えてみても,その場所その場所だけで事故が起きなければいいという思いでバラバラで勝手な道路規制や整備をするから,ドライバーは何を信じて走ればいいのかさえわからないのです。私が大嫌いな,やたらと道路に色を塗りたくる現在の交差点を考えてみても,右折帯が青色に塗られた愛知県と茶色に塗られた三重県というように統一性のないことをするから,ドライバーは何に注意を払って運転すればいいかわからず,結局危険なだけなのです。

 私は,こうした「日本人の能力と発想の限界」の究極にあるのが,ソフトウェア技術だと思っています。
 ここでのソフトウェアというのは,狭義ではコンピュータプログラムのことであり,広義では社会の仕組みのことでもあります。
 消費税が10%になったときに軽減税率をどのように導入するとかいうシステムが問題となっていましたが,そのことからもわかるように,何を考えても結局のところは複雑怪奇でくっちゃくちゃな対策しか出せない,というのが日本人の考えることのできる精一杯のアルゴリズムなのです。
 同じことをコンピュータのソフトウェアに当てはめてみれは,日本人がそうした複雑でくっちゃくちゃな発想から生み出したアルゴルズムでは,不完全なソフトウェアしか制作できないということは明白でしょう。だから,作られたプログラムには大いなるバグ(欠陥)が存在したり,やたらと使いにくいものが出来上がるのです。
 日本ではその道一筋○○年という,いじめに耐えた職人さんの作りあげるハードウェアは凝り性で年季が入っているから一流であっても,それを動かすソフトウェアは所詮三流なのです。というか,ソフトウェアを構築するアルゴリズム(考え方)がくちゃくちゃなのです。まさにこれこそが日本という国にある様々なシステムと同じものなのです。

 マイナンバーカードの発行にともなうプログラムの不備が起きています。これもそのことも無縁ではないでしょう。
 私はいち早くマイナンバーカードを手に入れましたが,役所に行ってカードを発行してもらうのに30分以上を要しました。理由を聞いてみるとサーバーへのアクセスが非常に遅いということでした。私はその時,これがGDP世界第3位を自負する日本のやっていることなのだろうか,と滑稽に思いました。そして、こりゃ今後いろんな問題が多発するぞと思っていたら,案の定,障害が多発しています。こんないい加減なシステム,うまくいくわけありません。将来は健康保険証もマイナンバーカードで代用するとかいっていますが,そんなこと絶対に不可能です。
 日本人の作った携帯電話が「ガラパゴス」だといわれてずいぶん経ちますが,日本の工業製品はハードウェアの作りはよくても,使いもしない仕様やらボタンがついていて使いづらいことは,今でもいっこうに変わりません。これも,ソフトウェアが三流だからなのです。
 そうしたことの全ては,この国の人の「能力と発想の限界」であり,それらはみんな「組織の利益だけが大切」という「究極的な利己主義」に根差したアルゴリズムから成り立っているからなのです。

 エンブレムが問題となったかと思えば今度は聖火台ひとつ作るのに大げさな会議をくりかえす東京オリンピックも,三菱自動車,東芝,シャープ…などの抱える日本の大企業の諸問題も,第二次世界大戦のときの大本営の発表を思い出す口先だけ景気がいいのに成果が伴わない日銀の金融緩和政策も,満足に衛星が打ち上げられないJAXA(そもそも「はやぶさ」だって,失敗したものを美談にすり替えているだけ)も,原住民の反対と書類の不備で計画が止まってしまった日本が主導するハワイの次世代超大型望遠鏡TMT計画も,みんな「日本人の能力と発想の限界」から作られるアルゴリズム,その同じ根っこをもっているのでしょう。

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●日本の自然保護は空論に過ぎない。●
 ボーズマンに到着した。私は,ボーズマンにも様々な思い入れがあって,「気になる町」のひとつであった。中でも,ぜひ行ってみたかったのが,ロッキーズ博物館であった。 
 ロッキーズ博物館(Museum of the Rockies)は,ロッキー山系をテーマにした自然史博物館である。このエリアの自然を40億年前(地球の歴史は48億年である)から時代を追って展示してある。この博物館の最大の目玉は8,000万年前のジュラ紀,モンタナ州に生息していた世最大の恐竜の化石のコレクションで,映画「ジェラシックパーク」のスタッフが監修している。

 私の高校生のころは「地学」が必修科目だった。地学は地質学と天文学がその内容だったが,私が習った教師は地質学の専門家? だったので,カリキュラムなど無視して,地質学しか教えなかった。そのころの高等学校なんて,そういういい加減なところで,それがよかった。学校など,学問の興味付けができればいいのであって,そもそも勉強など自分でするべきものだ。しかし,私は天文学には興味があったが,地質学には全く興味がなかった。実際,もったいないことをした。
 アメリカを旅行するようになってから,アメリカの様々な町には必ずといっていいほど美術館とならんで自然史博物館があるのだが,はじめのうちはその理由がよくわからなかった。
 日本には「科学館」というものがあるにはあるが,その展示は,どちらかというと物理・化学系のものが多く,自然に関するものが少ないから,アメリカで自然史というものがどうして重視されているのかが理解ができなかったのだ。
 しかし,今はわかる。そして,天文学とならんで地質学も面白いと感じる。それとともに,日本人がどうして自然を軽視しているのかもよくわかる。

 本来,人間は自然の上に生存していて,自然という巨大な海原に浮かんだはかなき葉っぱにすぎないのだ。しかし,日本人にはそうした認識が全くない。日本にあるのは「土壌」だけなのだ。だから,「自然保護」といいながら,それは人との共存をはかろうとするための里山の保護であり,天災の発生を防止するための護岸工事などをおこなう土台に過ぎないわけだ。そもそも発想が異なるのだ。そして,その本音は,自然保護とは程遠く,いかに道路工事をするか,でしかない。
 考えてみれば,日本には大自然などどこにもないではないか。だから,学校で「理科」という教科があっても,そこでは本当の自然教育など習ったことがない。高校で「地学」という教科が軽視されていった理由も,きっとそこにある。
 そもそも,そういった根本的な認識がないのだから,そりゃあ,自然保護といっても所詮は空論に過ぎないわけだ。

 この博物館は,広大なモンタナ州立大学の構内にあった。
 モンタナ州立大学はボーズマンの南にあったが,私は,まず,この大学の途方もない広さに驚いた。構内をどんどん進んでいくと,やっとのことで博物館の駐車場に到着した。
 第一印象は小さい博物館だ,ということであった。それは実際は誤解で,周りが広すぎるだけであった。
 まだ,開館時間よりも少しだけ早かったが,すでに,一組の家族連れが来ていて,博物館に入っていくのが見えたから,私も彼らについて入っていった。チケットを購入して,展示についての説明をスタッフに尋ね,やがて開館時間になったので展示コーナーに入った。
 恐竜の化石が,まあ,あるわあるわ…。その一角には化石から恐竜を復元する研究室があって,外からその様子を見ることができた。奈良の橿原考古学研究所みたいなものだが,奈良の考古学は2,000年前の人間の作ったものの発掘であって,ここは3,000万年前の生命そのものの発掘である。

 博物館の外には,開拓時代のアメリカの住居の展示もあったが,本館よりも開館時間が遅くてまだ開館されていなかったから,残念ながら,家の中には入ることはできなかった。ただし,家の庭を見ることはできたから,その美しく手入れされた庭を散歩した。庭には,麦畑やニワトリ小屋といったものもあって、当時の生活ぶりをうかがい知ることができた。庭から家の中を覗き見していると,中にいた職員の人と目があって、もう少し中に入るには待っていてね,と言われてしまったのだった。 

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 これまでに紹介してきた「2016観測機材整備計画」ですが,書きはじめたばかりだと思っていたのに早くも4月になってしまいました。
 さて,前回は太陽撮影用の望遠鏡を安価に手に入れたというお話でしたが,その次に私が考えたのは,月や惑星の拡大撮影をするための機材の整備でした。
 私は,口径75ミリ,焦点距離500ミリという小さな望遠鏡の直焦点で月や星雲・星団,彗星などの写真を撮って楽しんでいるのですが,こうした直焦点では自由に拡大倍率を変えて写すことができません。この直焦点というのは,望遠鏡にじかにカメラを接続して,望遠鏡の焦点で像を結んで写すものです。
 私の使っている望遠鏡は小さなものだから,拡大撮影といってもそれほど拡大できないことは十分に承知しているのですが,いつも書いているように,このかわいい望遠鏡にどのくらいの性能があるのか試してみたいのです。趣味なので所詮は自己満足の世界です。

 拡大撮影をするには接眼レンズの力を借りる必要があります。
 望遠鏡に接眼レンズを付けて,そのさらに後ろにカメラを付けて,接眼レンズの焦点がカメラに結ぶようにすればいいので,そういう接続ができるようなアダプタがあればいいのです。そうしたアダプタはメーカーから発売されていますが,私の持っている望遠鏡は古いものだから,私の望遠鏡に接続できるアダプタはすでに販売中止になっていて,今さら手に入らないのです。
 一度ヤフオクに中古品が出ていたのですが,こういうものが欲しい人がいるとみえて,値段が高くなりすぎたので断念したことがありました。
 そこで,何か他のもので代用できないかと考えてみたというのが,今日の話題です。

 望遠鏡の接眼部分の標準の規格というのは存在しないのも同然でメーカーによってまちまちなのです。だから現在販売されているものが私の望遠鏡に接続できるかどうかさえよくわかりませんでした。しかも,それを調べるだけでもかなり難儀なのです。また,たとえうまく接続できたとしても,ピントが合うのかどうかさえわかない,という問題もありました。
 そんなことをいっていても始まらないので,ピントが合わなければ運が悪いとあきらめることにして,ともかく,接続できる方法だけを考えてみることにしました。
 私の望遠鏡の接眼部は直径が60.4ミリのスリープで,ここに接眼レンズやカメラを接続する部品を付けるのです。そこで,この60.4ミリのスリープに差し込んで接眼レンズとカメラを接続できるアダプタを作ればいいわけです。
 完成したものをまずお目にかけましょう。それが今日の1番目の写真のものです。

 では,その詳細です。
 運が良かったのは,この60.4ミリのスリープに差し込んで50.2ミリに変換するアダプターが販売されていた当時,どういうわけかそれを手に入れて私は持っていたということです。そのアダプタが2番目の写真のものです。これは,本来は50.2ミリという大型の接眼レンズを接続するための部品でしたが,60.4ミリというのはこの望遠鏡特有の特殊なサイズで,それを変換した50.2ミリ=2インチというのが業界規格なのです。
 さらにネットで探していると,「テレスコ工作工房」というところに,「2インチ-31.7/Tネジアダプタ」というものが販売されているのを見つけました。これが手品の種になりました。これで,私の望遠鏡のスリープとカメラが中に接眼レンズを入れた状態で接続できるわけです。
 この会社は非常に良心的なところで,個人の方が特注品を作ってみえるらしいのですがとても作りがよいのです。31.7ミリというのは現在販売されている接眼レンズの業界規格で,その外側がTネジになっていました。Tねじというのは,42ミリ,ピッチ0.75というネジのことで,カメラのレンズフィルターにも42ミリがありますが,こちらはピッチ1.0で,Tネジの42ミリ,ピッチ0.75とは違うので注意が必要です。わかりにくいです。そのTネジというのが望遠鏡特有の業界規格で,このネジに接続することができる様々なカメラのマウントが販売されているのです。私はこのTネジにカメラマウントを接続して持っているカメラを付けることができるようにしました。

 問題になったのが31.7ミリという接眼レンズのサイズでした。
 私の望遠鏡は古いので,以前の規格であった24.5ミリサイズの接眼レンズが付属しています。新しい規格の接眼レンズを買えばいいのですが,せっかく持っているものを活用しない手はありません。そこで31.7ミリのスリープをを24.5ミリに変換するアダプタを探しました。
 規格が変わった当初はそういったアダプターが多数販売されていたということですが,今ではもうほとんど手に入りませんし中古もめったにありません。ヤフオクにでも出品されるとかなり高価に取引されています。
 「高橋製作所」という望遠鏡会社の製品を販売している「スターベース」というところのサイトを見るとこの変換アダプターが販売されていたので,これを入手することにしましたが,すでにメーカーの純正品はないということでした。ところが,実際に店舗に行ってみると,なんと,純正品を手に入れることができたのです! これはかなり幸運でした。今回数個だけ制作したのだといわれました。幸運な話でした。

 最後の問題は,これだけのものを接続しても,接眼レンズが邪魔をしてカメラが接続できないことでした。Tネジに接続したカメラマウントよりも接眼レンズが飛び出てしまうのです。
 そこで,ニコンの接写リング「PK-13」を入手してその距離を延長して,つまり下駄を履かせることにしました。
 これらの部品が3番目の写真のものです。
 こうして組み上げたのが私が今回作成したカメラアダプタです。結果的にすでに手に入らないメーカーの純正品よりも安価で使い勝手の良いものが出来上がりました。それが4番目の写真です。
 写真を写してみると,ちゃんとピントも合うし,工作精度抜群の製品ばかりだったので,高級品みたいで満足しました。
 実際に写した写真の一例が5番目と6番目の写真です。当然,大きな望遠鏡にはかないませんが,こんな小さなな望遠鏡でも予想した以上に木星も土星もしっかり写すことができました。

◇◇◇
身の丈で楽しむ-2016観測機材整備計画①
太陽を気軽に写す-2016観測機材整備計画②

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●キチンと見ておきたいボーズマン●
☆3日目 8月1日(土)
 ヘレナから,私は,ビュートへ引き返した。本当は,モンタナ州の北の果てにあるグレイシャー国立公園へ行きたかったのだが,今回は時間がなかったので,次回のお楽しみということにした。
 今日はインターステイツの写真ばかりである。しかも,車のフロントガラスが汚れていて,しかも逆光なので,汚い写真しかない。
 アメリカの旅ではその半分以上は車での移動,だから,車なしではアメリカはどこへも行くことができないといっても過言でない。ツアーでアメリカへ行くと,人数が多ければ大型バス,少なければバンに乗っての移動となるが,こうした長距離のドライブ中はきっと寝ているだろうから,本当のアメリカの姿を実感することはできないだろう。まして,私がいつも書いているように,道路の左側には必ずイエローラインが引かれていて,これを信じて走ればいいとか,こうしたインターステイツの路肩は段差が設けられていて,非常に安全だとか,そういったアメリカの「知恵」を認識している日本人はまれである。
 このようなシステムの道路は,長時間ドライブしても全く疲れないし,極めて快適なのである。

 前回ビュートからヘレナに行ったときは,全く人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走って行ったら忽然とヘレナの町並みが見えてきたという印象であったが,今回行ってみて,全く異なるイメージだったことがおかしかった。
 こうした印象は,自分の持つ経験やスケールに照らし合わせて判断し,頭の中にイメージを作り上げているということを改めて認識したのだった。つまり,ここ数年で,ずいぶんとたくさんインターステイツを走って,私のスケールのレートが変わっていたということだ。

 インターステイツ15は,今日の写真のような,美しい景色が広がる道路であった。そして,周りには,のどかな牧場が広がっていた。それは,荒れ果てた大地が広がるテキサスや,2億年前の赤茶けた大地の広がるユタ州などの雄大さとは全く異なる風景であった。
 やがて,私はヘレナからビュートまで戻ってきた。 今日中にマウンテンホームに戻ればいいから,この日はどう遠回りをしてもよかったので,私は,ビュートで左折して,インターステイツ90をボーズマンまで行くことにした。
 このインターステイツは,私にとって特別な意味を持つ道路であるが,このことはすでに幾度も書いたのでそれをお読みいただくとして,これからは,私がどうしても気になっていてキチンと見ておきたかった町・ボーズマンについて紹介していきたい。

◇◇◇
愛しのアメリカ-我が「9・13」 11th Anniversary

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●商業主義の観光地でない。●
 ツアーバスは,再びダウンタウンに戻ってきた。
 すでに書いたように,ヘレナ歴史的地区(HHD)は,1927年アメリカ合衆国の連邦によって指定されたダウンタウンエリアとウェストレジデンスのふたつの地域からなるが,今日はそのうちのダウンタウンを紹介する。

 ダウンタウンの中心は,南西から北東に走るラストチャンスストリート(Last chance Gulch St.)で,通りとモールに沿って多くのバーやレストラン,専門店が並んでる。
 ヘレナのダウンタウンの特色は,時代ごとに無計画に町が形成されたので,観光客が歩きまわることが非常に難しいということである。ゴールドラッシュ時代に道路は採掘権利の境界をたどって作られたので,道が曲がりくねり直線の大通りがこの地域にはない。まるで江戸時代の日本のようである。

 ヘレナはダウンタウンから発展した。1864年というから日本の幕末と同じ時代「4人のジョージア人」が 今日のヘレナのダウンタウンの大通りであるこのラストチャンスストリートで金を発見した。それが発端となって,その後30年続いた文化と建築ブームを誘発し,ヘレナは州都になった。
 都市はラストチャンスストリートに沿って南から北に拡大していった。しかし,1869年,1872年,1874年に起きた火事がこの地域の多くを破壊した。その後に建設された建物の多くは見事なレンガと単純な線をもつ西洋の商業スタイルであったが,なかには古典的装飾様式で作らてたコールウェル・ビルやペンブロック・ブリストル・ホテルもあった。
 また,デンバー・ブロックとサンズ兄弟の生誕地は,1880年代中ごろまでのロマネスク様式の復興であった。
 ヘレナの建築のうちアトラス・ビル,証券ビル,そして裁判所には,シカゴ派といわれる建築様式の影響がみられる。
 このように,ダウンタウンの建築には様々な様式をたどることができるから,建築の専門家にとれば興味深い対象であると思われる,

 2番目の写真は,ダウンタウンで目につく「Power Block」といわれる建物である。
 当時の大物トーマス・C・パワーによって1889年に造られたこの建物は、へレナ中心部にその存在感を示している。この建物は「Power Block」という名で知られているが、6番ストリートに面した入口の上のかなめ石には「Power Building」と刻まれている。
 そして,4番目の写真は「Fire Tower」である。
 火事はヘレナを悩ましたものの最大のものであった。木造の建物は火事とともに燃え尽きたが,一旦火災が起きると,ヘレナの水不足は火事を止めることができなかった。とりわけ1870年代のいくつかの大きな火災はすさまじく,町の中心商業地区と多くの家の多くを破壊した。
 この「Fire Tower」,つまり火災の監視塔は1870年代前半にカトリック・ヒルの西部に建設されたものである。1878年5月には,この塔に電話が取り付けられて,警備員がすぐに消防士に警報を知らせることを可能にした。このシステムは1956年まで使われたが,その時点ではアメリカで最も古いもののひとつとなっていた。
 この塔は修繕を繰り返しながら長年にわたって使用されたが,1935年の地震は塔に損害を与え,1950年には稲妻を受けてしまった。

 私がツアーバスで巡ったヘレナはこのようなところであった。
 何分,日本語のパンフレットもガイドブックも存在しないので,発音がわからず,原語のままになっている箇所はお許しいただきたい。
 ビュートで乗ったことのある市内観光トロリーバスもそうであったが,日本人には無縁の,しかし,浅いとはいえさまざまな歴史の詰まったこうしたアメリカの町は,今でもきちんと保存され,こうしてツアーバスで観光ができるのが,また,素敵なことである。日本では,こうした観光地は歴史の保存というよりも商業主義の観光地となってしまっているが,どうも,アメリカでは根本的にそうではないようだ。
 アメリカに行っていつも思うのは,日本は歴史こそ長く,多くの文化遺産があるにもかかわらず,そして,やたらと細かな歴史教育を受けているにもかかわらず,国民はほとんどその文化的な価値や保存には興味がなく,本音は「金儲け」の手段としての対象でしかないということだ。世界遺産にしてもそうだ。それは,世界遺産という名を利用した観光客の集客と金儲け以外の何物でもない。本当になさけない国だとしみじみ思う。
 ヘレナという町を観光して感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さである。私がもしこの時代に生きていたら,彼らの成し得たことのひとつでもできたであろうか。
 学校で学ぶ官製の歴史は,政治家の醜い権力争いだけは学ぶことができるが,そこに生きている庶民の苦労については何も教えてくれない。「歴史から学べ」といわれるし,それは正しいが,そうした「学べる歴史」というは,学校では教えてもらえない。
 ヘレナの観光を終えて,私は,今日宿泊するホテル・スーパー8に着いた。

 今年の大阪場所は「13日目」ですべてが終わりました。マスコミは必死に最後まで盛り上げていましたが,そんなことは見ている人たちはみんな知っていました。千秋楽結びの一番なんて,泣こうが謝ろうが白鵬は懲罰ものです。彼の尊敬する大鵬にはそういう相撲はありませんでした。
 …と思っている人も私を含めて多いことでしょうが,では,果たして「昔はよかった」のでしょうか? というのが今日のお話です。
 今では,大相撲はNHKBSで午後1時から放送されるようになりましたが,私が子供のころの大相撲中継は総合テレビでは3時30分から5時30分まで,しかも民放でも放送されていました。お相撲自体も30分早く終わったのです。そのころは,現在のEテレは教育テレビといっていましたが,午後は放送はお休みでした。ということはお相撲以外は見るものがなかったのです。
 そんなことを思い出すのですが,その後,インターネットの黎明期にはMLBも大相撲も無料で見ることができたのに,近ごろはみんな有料になってしまい,インターネットの発達で昔よりも便利になったかどうかも疑わしいものです。それは,技術的な話ではなく「大人の事情」がそれに邪魔をするからです。

 私が大相撲を見はじめたのは今から50年以上も前で,当時私が覚えている横綱は若乃花と(栃錦ではなく)朝潮でした。歴史は「栃若時代」といっても,私は,若乃花は知っていても栃錦は覚えがないのです。
 そして,その次が「柏鵬時代」でした。
 柏戸は,私がはじめてファンになった力士ですが,このお相撲さんは今の稀勢の里と同じで,だれと対戦しても勝つのか負けるのかさっぱりわからず,いつもハラハラでした。そればかりか柏戸は勝とうと負けようと土俵下までなだれこんで落ちていくので,ケガが多くよく休場しました。また,大鵬は今では双葉山とならぶ「神」のような存在ですが,現役のときは相撲がつまらず,晩年のころは不入りで協会は困ったようです。
 その時代の大関に至っては,負け越してばかり。当時は3場所連続負け越さないと陥落しなかったので「大関互助会」と陰口を叩かれ,取り組みも,関脇までは面白くても大関の取り組みはほとんどは日程消化試合と同じで,興味がわかないものでした。
 結局,日本人力士であろうとそうでなかろうと,いつも場合も,大相撲はある意味退屈で,それは今も昔もそれほど変わりはない。そんなものです。
  ・・
 それより,当時の十両と幕内土俵入りは,今と違って力士の名前を次から次へと読み上げるだけだったので,力士は今のように順番に名前と出身地を読み上げられてからゆっくりと上がっていくのではなく,どんどんと土俵に上がっていき,降りるときは列もなく一挙に降りていきました。また,物言いがついても,その結果を説明する場内放送もなく,行司がサッと軍配を上げるだけでした。
 そういうことを考えれば,今のほうがずっとサービスがよいともいえます。

 私の父親は,昔はあれほど好きだった相撲も,日本人力士が弱いからつまらないとかいって,全く見なくなってしまいました。私は,歳をとって楽しみも少ないのだから,そんなこといわずに楽しんだほうがよいように思うのですが…。
 確かに,勝負事ですから,勝ち負けというのは楽しむ大きな要素ですが,それ以外のいろんなことをふくめてひとつの「文化」として楽しむことができる今のほうがお客さんには面白いのかもしれません。実際に見にいくと特にそう思います。それにしては,まだまだ大手マスコミの報道は,勝敗に重視していて,昔のままのような気がします。
 テレビも,BSの民放の特集番組のように,もっと,そういういろんなお相撲さんの人となりとか,相撲文化とかの話題をよりたくさん取り上げたらいいのにと思います。会場まで行くことのできない人も多いことだろうし。
 私自身は昔からずっと,お相撲は三段目から幕内の前半戦が終わる午後5時までが純粋に楽しめるのでおもしろいと思っています。

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●アメリカで成功した才覚のある人●
 現在,ヘレナでは1992年に創設されたヘレナ歴史的地区「Helena Historic District=HHD」によって,ダウンタウンエリアとウェストレジデンスの2か所が登録され保存されている。
 きょうは,その中でウェストレジデンスを紹介しよう。

 1800年代後期のゴールドラッシュに湧いたころ,西部ヘレナにはアメリカ合衆国の他のどの都市よりも多くの大富豪がいた。彼らは贅沢な大邸宅を建設する熾烈な競争を行っていて,Last Change Gulchとよばれる現在のダウンタウンの西のヘレナ山の傾斜に多くの邸宅を建設した。
 それが現在残る歴史的大邸宅地区である。
 かつては240以上の邸宅のあったこのヘレナの歴史的大邸宅地区も,他の地区と同様に都市の再開発とともに破壊されようとしていた。
 1970年代に破壊されてしまった南東の地域は保存対象リストから除かれたが,最初のダウンタウンの地区のおよそ5ブロック地域から北は1990年に保存地域として指定され,聖ピーター大聖堂とFirst Unitarian Church(現在Grandstreet劇場)も,保存地区に含まれた。さらに,1993年には保存地域が拡大され,現在に至るのである。
  ・・
 このように,どの都会も保存と開発の中で葛藤を続けているのだが,それでも,日本のような無計画な破壊,あるいは,極端な保存と観光地化のようなこともなく,調和のある発展をしていると私が思うのはひいき目であろうか。
 私は,テキサス州のフォートワースに行った時も,同じようなことを感じたのだった。

 では,私の写した写真から,この地域に残る邸宅をいくつか紹介することにしよう。
 1番目の邸宅は1881年に建てられたAshby-Power Homeである。
 この頑強な住居は,農機具を扱うビジネスをしていたShirley Carter Ashby という人が当時のお金で28,000ドルの総工費で建て,のちに,モンタナの初めの議員であったThomas H. Carter が住んだ。素晴らしい内装ということだが,邸宅の内部は公開されていない。
 2番目の邸宅は,1891年に建てられたT. C. Power Homeである。
 ロマネスク建築でとてもよく目立つこの建物は,裕福な商人であったThomas C. Power がBenton砦から運んだものである。その後,ヘレナのカトリック管区に寄付されたりしたが,現在は,個人が所有している。
 そして,3番目の邸宅は,1885年に建てられたSamuel T. Hauser Mansionである。
 この29部屋もある邸宅は,起業家であったSaymuel T. Hauser が建てたもので,1913年から1935年にかけて4人のカトリック司教の邸宅になっていた。1969年になると,前の知事Tim Babcock と妻Betty がこの邸宅を修復した。
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 日本の人は,アメリカで大邸宅といえばビバリーヒルズの大スターの大きな豪邸を思い浮かべるかもしれないが,アメリカの地方都市の豪邸というのは,町の清楚な高台の1ブロック四方に構えられたこじんまりとした邸宅なのである。
 日本は狭く土地がないから,自分の家を精一杯頑張ってつくっても,周りの景観と調和していないからどうしようもない。それに比べて,町全てがそうした景観を保ちながら住宅地を形作っているのがアメリカの大邸宅地区だと思えばいい。
 それにしても,すでに1800年代に,家柄とかではなく,この新大陸アメリカに渡って自分の才覚で成功を収めることができた人間のすござというものに,私は慄きを覚える。

Bailly

☆☆☆☆☆☆
 月の写真を写してみると,気になってくるのが月の地名です。中でも月で1番目立つのがクレーターですが,それらの名前を調べてみると面白いことがわかってきました。
 今日はその中でバイイという名前のクレーターのお話です。
 月は,月面に立った時に太陽が昇る方向を東としています。このバイイ(Bailly)クレーターは月の南西の端にあって,クレーターとしては最大級で直径は210キロメートルもあります。1791年にシュレーターという人が作製した月面図にバイイという名が記載されたとありますが,私の写した多くの月の写真を探しても,このクレーターは地球から見える面の端っこにあって,なかなか写っていませんでした。満月の写真では明るすぎて消えてしまっていました。他の写真をよく調べてみると,月齢12.5の写真にきれいに写っているのがみつかりました。

 1745年生まれのシュレーター(Johann Hieronymus Schroeter)はドイツの天文学者ですが,ゲッティンゲン大学では法律を学びました。1777年にウィリアム・ハーシェル兄弟を援助したことで知られるイギリス王ジョージ3世の王室の秘書に任じられたとき天文学に興味を持ち,口径5センチメートルの屈折望遠鏡で観測を始めました。さらに,ハーシェルによる天王星の発見で刺激を受けて,より天文学に専念するために秘書の職を辞し,リリエンタールの市長となり,1786年には口径16.5センチの望遠鏡を購入し,観測を行いました。そして1791年,月の地形図「Selenotopographische Fragmente zur genauern Kenntniss der Mondflache」を出版したのです。

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 クレーターに名のついたバイイ(Jean-Sylvain Bailly)は1736年生まれのフランスの天文学者ですが,バイイはフランス革命で活躍した政治家でもあります。代々ルーブル宮殿の美術品を管理する家系に生まれたバイイは,はじめは画家を目指し劇作なども行ったのですが,フランスの偉大な天文学者ラカイユや理論天文学者クレイローの影響で天文学の虜になりました。
 1760年にルーブル宮殿の南側のホール上段に望遠鏡をもちこみ,この部屋から精力的に観測をしました。そして,1763年フランス科学アカデミーの会員になり,1783年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ,木星の衛星に関する著著や,天文学の歴史に関する著書を著しました。
 そのころのフランスは1年の赤字が2億ルーブルに達し,破産の道を駆けつつあったのですが,それでもルイ16世の乱費は止まず,各地で暴動が発生しました。
 フランス革命の勃発です。
 バイイは1789年には三部会に選出され,有名なテニスコートの誓いの議長を務めました。そして,バスティーユ襲撃の後,1789年7月15日にパリ・コミューンの最初のパリ市長に選ばれたのです。しかし,彼の栄光はここまででした。シャン・ド・マルスの虐殺事件でデモを鎮圧するために国民軍に発砲を命じたことで人気を失い,1791年11月12日には解任され,ナントに隠遁しました。
 1793年1月21日,ルイ16世処刑。3月には欧州諸国がフランスに対する攻撃を開始,バイイはこの騒ぎから逃れるためにメルンにいるラプラスのもとに身を寄せることにしたのですが,監禁中の身でありながら無断で旅立ったことを知った軍隊は彼を逮捕しました。
 1793年11月14日,彼は妻に最後の短い言葉を述べ,正午ごろに護送車に乗りました。冷たい雨の中「コートを着ては?」と処刑人サンソンは優しく声をかけましたが,彼は「いいえ構いません。私が風邪をひくのを心配しているのですか?」と笑って答えたということです。
 この日,バイイは反革命分子としてシャン・ド・マルスで処刑されました。57歳でした。
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●アルジェリア神社の本部●
 このツアーバスは「the Last Chance Tour Trains and Trolley」という,いかにもアメリカらしい大仰な名前のものであった。
 パンフレットによると,
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 モンタナ州ヘレナの「ラストチャンス・ツアー」電車とトロリーの故郷にようこそ。
 我々は電車形状のトロリーで皆さんをヘレナの歴史的なツアーに招待します。贅沢な大邸宅地区を見て,聖ヘレナ大聖堂に驚嘆し,我々の知事の邸宅をバスの中からご覧ください。ユニークな建築物を楽しんだら,Old Fireタワーを一目ご覧ください。これこそが,美しい歴史的な都市ヘレナを楽しむ一番の方法です! そしてまた,素晴らしいガイドとともにあなたに素晴らしい時間をお約束します。Tシャツなど土産も提供しています。  
 このツアーで使用するトロリーは,最高55人を収容することができます。トロリーは2台用意されています。
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と書かれてあった。
 このツアーの「ラスト」というのは,これぞ究極的な,極めつけのといった意味であろうか。

 今日の1番目の写真はYWCAである。ヘレナのYWCAは1911年に設立された。YWCAは,ホームレスの女性とその子供たちに安全で手頃な価格の一時的な住宅や支援を提供する非営利団体である。
 そして,2番目の写真は聖ピーター大聖堂(St. Peter's Cathedral)である。この教会は「The Episcopal Church」と入口に書かれている。
 米国聖公会(Episcopal Church)とは,キリスト教の一派のアングリカン・コミュニオンのひとつで,アメリカ合衆国,バージン諸島,ハイチ,台湾,コロンビア,ドミニカ国,エクアドル,ホンジュラスに主教区を持つほか,プエルトリコおよびベネズエラの主教区と地域を越えた関係にある。18世紀にアメリカ合衆国がイギリスから独立するときに創設された。
 アメリカにおける教会員はおよそ300万人。富裕層や社会上層部に信者が多く,歴代のアメリカ合衆国大統領の4分の1,アメリカ合衆国最高裁判所長官の4分の1は米国聖公会の信者である。またアメリカ合衆国議会と合衆国最高裁判所判事の約半分が信者である。

 ツアーバスはダンタウンを北上していった。
 一番北にあったのが,シビックセンターであった。ヘレナ・シビック・センター(Helena Civic Center) は1920年にアルジェリア神社の本部として建てられた。このムーア風のリバイバルスタイルの建物は、そのそびえ立つ姿が特徴的で、長くヘレナの象徴的な人気ポイントであった。
 建物は1935年の地震で相当な損害を被ったので,ヘレナ市は,その後まもなくそれを神社から購入し,1976年まで市庁として機能させた。警察署は何十年前にシビック・センターから移転したが、消防署は今なおそこに存在する。
 現在,シビックセンターはヘレナ市によって所有・運営されていて,晩餐会,航空機ショー,ダンス,結婚式,試写会,会議,コンサートなどに利用されている。いわば,市民会館といったものである。
 ツアーバスは,シビックセンターからさらに西に向かって進んでいった。
 ダウンタウンから西は歴史的保存地域で,豪華な邸宅が立ち並んでいる場所であった。しかし,私は,その位置関係がよくわからなくなって,先ほど通った住宅街に戻って,同じところを何度もぐるぐる回っている様に混乱してしまった。

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 では,今回は,エディアカラ生物群から現代にいたる生命を簡単に復習しましょう。
 まず,前回の続きからです。
 5億6000万年前,前カンブリア紀の末に「エディアカラ生物群」が生息していました。エディアカラという名は,南オーストラリアの丘陵に由来します。
 5億2000万年前のカンブリア紀になると,生物がはじめて「眼」をもつにいたり,それが原因で「カンブリア大爆発」が起き生物同士の生存競争が始まりました。生命の生存競争はすでにこの時期から始まっていることに,感慨を覚えます。そして,この時代に君臨した,地球上の初代王者が「アノマロカリス」なのです。この生意気そうな姿!
 4億4300万年前に起きたのが,オルドビス紀末の大絶滅で,海洋に生息していた全生物種の85パーセントが絶滅しました。シルル紀になると,海の支配者ウミサソリが君臨しました。次のデボン紀になると,脊推動物が陸上に進出しはじめました。これがイクチオステガを筆頭とする両生類です。
 3億7000万年前にはデボン紀後期の大絶滅が起き,生物種の80パーセント以上が絶滅,特に海の無脊椎動物が大打撃をうけました。

 やがて,3億年から3億6000万年の間は,地球上の高い酸素濃度に支えらえ,生物が巨大化しました。この時代の植物が現代の石炭なのです。
 2億5200万年前,ベルム紀末に地球上は史上最大の大絶滅事件が起き,全生物種の90パーセントが絶滅,再び起きた2億100万年前の三畳紀末の大絶滅,ここでアンモナイトが絶滅しました。そののち始まったのが,2億年前から1億年前の1億年にわたるジュラ紀と白亜紀の恐竜時代です。恐竜時代の地球は酸素濃度が低く,優れた呼吸システムをもった恐竜が地球上に君臨したのでした。
 6600万年前,現在のメキシコのユカタン半島のあたりにあたる浅い海に直径10キロメートルの小さな小惑星が衝突し,恐竜の君臨した時代が終わりました。これが,白亜紀末の大絶滅です。
 こうして,3度の全球凍結と5度の大絶滅(Big Five)を経て,現在の哺乳類の繁栄があるのですが,小惑星の衝突がなければ最後の大絶滅がありえなかったと考えると,不思議な気がします。そう考えると,将来,また,小惑星の衝突によって,人類が絶滅するのも,決してありえない話でもなさそうです。

 宇宙を知り,地球を知ると,このように,人類は自然界にたまたま生存するだけのちっぽけ存在であることを実感します。人間は,昔,地球が宇宙の中心であると思っていました。そして,天動説が生まれ,地球が宇宙の中心でないことを知りました。
 現在では,地球のような惑星が,決して宇宙の中で特別な存在でないことが分かってきました。
 他の天体にも同じような生命の誕生があっても,もう,何も不思議なことではないと考えられるようになってきたわけですが,宇宙のスケールと人類の寿命を考えると,地球以外の天体に知的生命体が存在したとしても,それと接触することはおそらく不可能でしょう。しかし,地球の生命も宇宙のどこかから来たとすれば,今,どこか別の場所で同じことを考えているのかもしれません。

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生命誕生の謎①-171年ぶりの後の十三夜に寄せて
生命誕生の謎②-171年ぶりの後の十三夜に寄せて
地球は6回目の絶滅期に突入か?-生命の起源が面白い①
人類の生存期間はたかだかそれだけ-生命の起源が面白い②

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●ヘレナは思ったよりも奥の深い町●
 このモンタナ州の州都ヘレナは思った以上に奥の深い町であった。
 官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあった。また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていた。当然,ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいるのだ。治安もよければ,町も美しい。この小さな美しい町に観光客がくるというのは,そうとは知らない私には不思議なことであったが,当然のことなのであった。
 近頃は,日本ではやたらと世界遺産がブームになっている。観光客を増やすのが目的であろう。しかし,アメリカの世界遺産のニューメキシコ州カールズバッド洞窟群ひとつと比べても,そのスケールは日本とは段違いなのである。
 ヘレナという町は世界遺産ではないが,その素晴らしさは,日本の世界遺産の比ではない。
 そんな町なのに「地球の歩き方」には全く情報がないのだ。

 ツアーバスは,まず,州議会議事堂からブロードウェイストリート(Broadway St.)まで1ブロック南下して左折した。
 そこにあったのは,現在の州知事の住む邸宅(Montana Governor's Mansion)=1番目の写真 であった。ちなみに,現在のモンタナ州知事は民主党のSteve Bullockである。
 このツアーでは,このあと,歴代の州知事が住んだという「オリジナル州知事邸宅」へ行くのだが,ツアーのガイドさんは,どちらの邸宅が立派でしょうね,といったユーモアあふれる説明をしていた。
 州知事邸宅を過ぎて,このツアーバスはさらに左折して3ブロックばかり北上して,再び左折,6番ストリートを西に向かって走り出した。
 大きなディーゼル音をたててゆっくりと公道を進んでいくのだから,他の交通手段にとれば迷惑極まりないと思のだが,アメリカのいい意味でけだるい雰囲気はそんなことはみじんもなく,運転手は他の車のドライバーと大声で雑談をかわしながらのんびりと進んでいくのだった。

 州議会議事堂を通り過ぎたところに派手な色彩の家があった。それが2番目の写真である。
 私は,このツアーに参加したときにはヘレナのことなど全く知らなかった。なにせ,日本では全く情報などないのだから。だから,どこをどう走っているのかもさっぱりわからなかった。
 しかし,アメリカ人の合理主義というのは本当に偉大なもので,家々に必ず大きく番地を表示することが義務付けられている。そして,その番地の付け方というのが,規則正しく,道路の向こう側は偶数,手前は奇数と決められている。だから,写真に写った家々に表示された番地を調べるだけで,ツアーバスがどこを走ったのかが今判明できるので,私はこうしてこのブログを書くことができるのだ。

 ツアーバスは西に向かってずっと6番ストリートを進んでいった。
 デービスストリート(Davis St.)という名の通りが北東から南西に横切っていて,そこで東西を平行に走っていた道路はすべて45度斜めに変わる。
 要するに,この先がヨーロッパでいうヘレナの「旧市街」なのである。
 「ブラタモリ」という番組で,日本の町並みがどのようにできたかを話題にしているが,アメリカの町並みも同様で,時代によって町の作りや構成が異なっていて,現在ではそれらがごったに融合している。これこそ街歩きの面白さである。
 旧市街はダウンタウンであり,官庁街とは打って変わって,多くの商業施設や教会などが立ち並ぶようになった。博多から中洲へ向かって行くようなものだ。ダウンタウンとはいえ,アメリカの都会は広いから緑が多く,散策コースも完備されていて,観光客が散策を楽しんでいた。私は,ヘレナにはこんな場所があるんだなあ,と思った。
 それにしても,味のある町であった。
 3番目の写真は,オリジナルモンタナ州知事邸宅(Original Governor's Mansion)である。
 そして,4番目の写真がセントヘレナ大聖堂(Cathedral of St.Helena),5番目の写真がツアーバスの中から見たダウンタウンである。

 オリジナルモンタナ州知事邸宅は1913年から1958年まで歴代9人の州知事が家族とともに暮らした家である。このヘレナの大邸宅のシンボル的存在は,1888年に当時の富豪ウィリアム・チェスマン(William A. Chessman)によって作られた。1900年以後は,鉄道建設家ピーター・ラーソン(Peter Larson)が暮らし,その後,知事が移り住んだ。
 現在は,ヘレナ市によって保存され,内部の見学ツアーが行われている。
 セントヘレナ大聖堂は,ローマ・カトリック教会の司教区の大聖堂である。設計を依頼されたO. VonHerbulisは2つのスタイル,ロマネスク様式とゴシック様式の2つのスタイルを提案した。委員会はその中からゴシック形を選び,デザインは満場一致で決定,1908年に大聖堂の建設が開始され1924年6月に完成した。
 1935年の秋におそった地震でこの大聖堂は損害をうけ南の塔はほとんど完全に破壊されてしまったが,1938年に再建が完了した。

 ここ数年の世界の変化は凄まじく,私は,アメリカに行くたびに,どんどんと世界が変わっていくことを実感しています。そんな状況なのに,日本は鎖国のような状況に置かれていて,海外に行かない人はそんな世界の急激な変化すら全く理解していません。それでも,国内で生活するだけなら何とかなるし,日本のあらゆる後進性も,そんなものだと思っているから,それが不便で世界から遅れているという認識すらありません。お気楽なものです。おまけに,円安で海外からの観光客が増えているのを,日本はクールだとか,再評価されているとか,そうやって調子づいているから,むしろたちが悪いのです。意味のない中等教育で順位競争を強いられた挙句何も身につかず,やっと仕事が見つかれば残業ばかり,老後もなく死ぬまで働かされるのに日本に生まれてよかったと信じる若者が気の毒です。
 真実を教えず愛国心を煽る…どこぞやの国と同じです。
 ものひとつ買うのにも,山ほどあるポイントカードとか,不可解な携帯電話の料金だとか,昔から変わらない書類の山だとか,すべてくっちゃくちゃです。道路も交差点ごとに表示が違うし,なんの計画もなくその場しのぎで整備するから,右折帯があったりなかったり,突然車線がへったり,しかも,中央分離帯を莫大なお金をかけて作ってしまったので,改めて規制するためにわけのわからぬポールを立てたりと,これもまたくっちゃくちゃです。
 私は,こうしたことはすべて「この国の能力と発想の限界」なのだといつも思います。

 私もずいぶんと人間をやってきたので,趣味もなく毎日仕事仕事で,定年退職したらすることのなくなっちゃった人とか,学生のころは天才の名をほしいままにしながらあっけなく若くして死んじゃった人とか,地位が高いことを自分が人として優れていると勘違いして,他人の人格を傷つけることが自分の尊厳だと思っている人とか,そんな多くの人の人生とそのあわれな末路をずいぶんと見てきました。
 そういう姿を思うと,子供のころから,努力だとか忍耐だとか,そういうことが大切だよといって教えられてきたことが,本当に大事なの? と思うようになりました。
 特に,この国に本質的に根付いている私の嫌いなところは「辛抱こそ人生」という価値観です。
 いや,それが大切ではない,ということではなく,私が嫌いなのは,何事もそれにすり替えてしまうことにです。 
 昔「スポコン=スポーツ根性ドラマ」がもてはやされたころ,意味もないのにうさぎ跳びを強制した学校の部活を思い浮かべてみれば明白です。それには何の根拠もなく,単に辛いことに耐えろといじめていただけのことで,指導者といったって,所詮,何もわかっちゃいないのです。

 ここからが本題です。
 この国では,何かの芸事を始めようとすると「仕込み」とかいって,ともかく入門した若輩者をいじめます。まず,掃除やら洗濯などの「下働き」をすることが,その芸事を身に着けるために大切だとかいう理屈を持ち出して,それを修行と称して若輩者に押し付けます。そんなことは他人に押し付けることではありません。いつまでも自分のことは自分ですればいいのです。
 「仕込み」といって,いろいろと理屈はつけるけれど,実際は「したくないことを新米に押し付けているだけ」なのです。そして,それに耐えないと「辛抱が足りない」とかいって,説教をするわけです。そうしたいじめに「耐えられた」人だけがその組織に生き残れるのです。そして,仲間にするのです。
 それは,何もそれに耐えられた人が忍耐力があるからではなく,物事を考えたり工夫をしたりしないからだけなのです。だから,この国では,工夫とか思考とかいうことはリスペクトされず,スポイルされるわけです。
 そうしてその一員になった人は,そのいじめに耐えたことを感謝し美化し(だってそう自己弁護しないと自分がなさけない),私も耐えたのだからあなたも耐えなさいといって,今度は,新参者に対して同じようないじめをするわけです。
 私は,そういうことすべてが,社会で問題となっている「いじめ」の根底にあると思うのですが,それが同じ根だと多くの人は理解していません。
 私の知っているある自称教育者は,いじめ問題の専門家であることを自負していましたが,実は,彼こそ,組織の中で一番のいじめっ子でした。笑っちゃうとともに,私は,そういう人物をそうした地位にのさばらせる社会に失望しました。

 学校の部活動からして,別に指導者がそう指示しなくとも,生徒たちだけで運営させてもそういう先輩後輩の状況になるわけだから,これは,この国の人のもつ本質なのでしょう。そして,その結果美化されるのは「この道ひとすじ〇〇年」とかいうやつで,たとえば,寿司が握れるのに10年とかいう,そういう話になるわけです。
 だから,学校でも,何も学問が身につかなくても,嫌いな勉強を辛抱して頑張ることが大切,だとか,炎天下で非効率な部活動を歯を食いしばって頑張るのが大切,だとか,くだらない受験システムに身を置くことが大人になるための洗礼,だとか,元日から泊まり込みで中学受験のために頑張る,だとか,そういうことがもてはやされ,リベラルであることを自負するマスコミすら,それを美談として報道するわけです。
 私は何も努力をするな,といっているのではありません。そういうことを「修行」とか「仕込み」という言葉にすり替えて,自分のしたくないことを力のない弱者に押し付けることが間違っているといっているのです。
 それは一言でいえば,すべて「人権」を尊厳していないということなのです。人権の尊厳というのは,相手の気持ちで考えられる,ということです。
 パワハラもセクハラもいじめも,すべて,その人権尊厳の欠如です。それが「仕込み」の本質なのです。

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●子供の話す英語なんてわからない。●
 インターステイツ15のヘレナのジャンクションを降りるとそのまま東西に走るプロスぺクトアベニュー(Prospect Ave.)に出るが,この道路は西向きの一方通行である。その1ブロック南に平行に11番アベニューが走っていて,その道路が東向きの一方通行である。
 プロスぺクトアベニューを走って行くと,左手南側の高台に州議会議事堂が見えた。
 このように,ヘレナの官庁街は,一方通行のメインストリートが東向きと西向きに1本ずつあるだけの町であった。道路も混雑するでもなく,アメリカによくある田舎町と同じで,私は,美しい小さな町なんだなあと思った。

 何度でも書くが,本当にモンタナ州は素晴らしい。
 春に訪れたカンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州などなどに私が全く思い入れがなかったことはこのブログを読まれてお分かりになったことであろう。それに比べて,このモンタナ州の素晴らしさは,どう表現すればいいのだろう。
 日本からいかに多くアメリカに行く人がいても,さすがにこのヘレナへ行ったという人はほとんどいない。だから,この町を旅行したブログを探してもほとんど見つからない。だがしかし,こんな素敵な町も知らずしてアメリカに行ったなどということは許されないと私は思う。それに比べて,ロスアンゼルスだのニューヨークだのと,さもアメリカを知ったかのように語る人たちは,お子ちゃまである。そうしたところに行っただけでアメリカを語る日本人には,あなたはヘレナに行ったことがありますか,と問うてみたいものだ。
 この地に行かないで一生を終わるのなら,私にはどんなに学歴や名誉やお金があろうと意味がない。
 
 州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで周るガイド付きツアーバスの乗り場があって,トレイラ―ハウスでチケットと土産物を売っていた。このツアートレインは,一日に何度か出発するので,私は,その次のツアーのチケットを買い求めた。ツアーまでは十分に時間があったので,私は,その出発の時間まで州議会議事堂を見学したのだった。
 ヘレナは州都なのである。州都のガイドツアーが,日本の遊園地にあるような機関車を模したバスだというのもなかなか乙な話ではないか。

 やがて時間になったので,ツアーバスに乗り込んだ。
 一緒に乗り合わせたのは,確かテキサスだったかフロリダだったか忘れたが,そこから観光で来た家族連れであった。その中に小学生くらいの男の子がいた。彼が私に好奇心をもって,いや,私のカメラに好奇心をもって,しきりに話しかけてくるのだが,どうも私には子どもの話す英語というのがよくわからない。
 彼らは,全世界の人類がみな英語を話すと思っているらしい。日本語だって子供の話す言葉がよくわからないのだから,当然英語なんてさっぱり理解できないのだ。
 こういうことひとつ考えても,日本の小学生に,今のようなやり方で英語を教えてもしょ~もないということが実感できるであろう。子供には子供の世界があるのだ。子供には国境などというめんどくさいものはなく,人種の偏見もないから,夏休みの1か月間でもいろんな国の子供をごっちゃ混ぜにしてキャンプでもさせたほうがずっといい。そのうち心で会話をするであろう。言葉の基本は文法ではなく心なのだ。
 英語など,動機づけさえあればそのうち自分で勉強するようになる。
 しかし,この国は,そういう動機をなくさせ,英語は難しい嫌いだというトラウマを生むために「英語」という名をつけた忍耐教育,いや順位競争をするという隠れた国策があるのだ。第一,指導者が英語を心で話せないのだから何をかいわんや,である。
  ・・
 このヘレナに関しては日本語で書かれたガイドブックもないことだし,次回からは,私が写してきた写真と英語で書かれたパンフレットをもとにこの町の紹介をしていきたい。

 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しいものです。
 小惑星などの天体は,地球までの距離と太陽までの距離の2乗に反比例して明るくなるのですが,彗星の場合は,太陽に近づくと塵やガスが噴出しコマができたり尾が伸びたりするために,太陽までの距離の5乗から場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていきます。
 要するに,岩石でできている小惑星とは違って,氷の塊である彗星は,その大きさや作りなどがあまりにまちまちで,しかも,それが割れたり中から塵やガスが出てきたり,あるいは出てこなかったりなどなど,不確定な要素が多すぎるので,どのくらい明るくなるのか,皆目見当がつかないのです。
 このことが,これまで「世紀の大彗星」といわれながら,その期待を裏切った数々の彗星を生んできた原因でした。当然その逆もありうるわけで,核が分裂するなどの要因で活動が急に活発化し,急激な増光 -これをアウトバーストというのですが- が起こった場合は,突然ものすごく明るくなったりすることもあるのです。そして,アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは,急に暗くなることもあります。

 これまでにアウトバーストした彗星で有名なのはホームズ彗星(17P Holmes)です。
 このことはすでにブログに書いたことがありますが,ホームズ彗星(17P Holmes)は2007年に太陽に近づいてたときに突然大バーストを起こし,17等星だった彗星が最終的には2等星まで達して,街明かりの中でも肉眼で存在を確認できるほどになりました。
 また,近年では,2012年にリニア彗星(C/2012X1 LINEAR)もアウトバーストを起こして,予報光度は14等級だったものが8等星になりました。
 今年の3月,先に書いたリニア彗星(C/2012X1 LINEAR)とは別物のリニア彗星(252P LINEAR)がアウトバーストを起こしました。
 このブログに以前書いたように,3月はこれまで明るく楽しませてくれたカタリナ彗星(C/2013US10 CATALINA)やパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS)が太陽から遠ざかっていって暗くなってしまったので,彗星を見る楽しみもなくなって,次の期待は6月に明るくなると予想されるパンスターズ彗星(C/2013X1 PanSTARRS)だとばかり思っていたのに,このリニア彗星のアウトバーストを知って,私はまさにびっくりぽんでした。
 リニア彗星(252P LINEAR)はリニア地球近傍天体捜索プロジェクトで2000年4月に発見された周期彗星で,今回の接近での光度の予想は15等星でした。これでは私は写真に残すこともできないので,縁遠いものだと思っていたのに,突然,6等星にまで明るくなったというニュースでした。
 しかし,明るくなったこの時は,南半球からは見えても日本からは見ることができなかったことと,北半球で見られるようになる3月の末ごろは,私はハワイに行っているので,帰ったときにはもう暗くなってしまっているだろうとあきらめていました。

 ハワイから帰って聞いてみると,その間,日本ではずっと天気が悪く星が見られなかったということだったので,リニア彗星(252P LINEAR)が,現在,どのくらいの明るさを保っているのかわかりませんでした。
 4月11日。この日だけ天気が回復しました。これから先は月が明るくなるので,おそらく,この彗星を写すことができるのはこれがラストチャンスだと思ったので,ともかく写してくることにしました。彗星が東の空に昇ってくるのが夜の11時ごろなので,その時間にいつもの場所に出かけてみると,それはそれは空の汚いこと! というか,ハワイの真っ暗な夜空を見てしまったので,失望でしかなかったのですが,それでも写真に捉えてみると,灰色の空のもと,えらく明るく写ったその姿に,これまたびっくりしました。
 アウトバーストした彗星の特徴で尾が伸びていなくて単に淡い姿が写っただけではありますが,この明るさと大きさには本当に驚きました。そして,いまだ6等星を保っていてうれしくなりました。よく見ると,この彗星,核が割れていますね。
 このように,彗星というのは気まぐれで,それがかわいいというか,追いかける価値があるというものです。
 こうして思わぬ成果がありましたが,それとともに,この明るさならハワイの夜空に肉眼で見えたのにと,ハワイで見損ねたことを残念に思ったことでした。

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●私の愛してやまないモンタナ州●
 このブログのURLは「I love Montana」。私はアメリカ50州の中でモンタナ州が一番好きである。
 モンタナ州(State of Montana)は,アメリカ合衆国41番目の州で, 東西の長さが約1,000キロ,南北が約400の台形で,北側はカナダと国境を接している。
 西側3分の1には高い山脈が走っていて,中央3分の1は小型の孤立型山脈が見られるという,この地形的特徴から,スペイン語のmontaña,つまり英語のmountainに由来して,州の名前が付けられた。また,モンタナ州には大きな「空の国」(Big Sky Country)「宝の州」(The Treasure State)「輝く山の土地」(Land of the Shining Mountains)といった様々なニックネームがある。さらに最近では「最後の最良の地」(The Last Best Place)ともよばれている。そう,この州はまさに「最良の地」なのである。
 陸地面積は全米第4位であるが,人口は少ない方から7番目で人口密度は小さい方から3番目である。
 比較的平坦な東部では牧畜業,小麦農業,石油と石炭の採掘,山の険しい西部では林業,観光業および岩石採掘業が盛んである。
 また,グレイシャー国立公園,リトルビッグホーン戦場跡国定保護区,およびイエローストーン国立公園があって,多くの観光客が訪れている。ワイオミング州にもかかるイエローストーン国立公園にはモンタナ州に3か所の入り口がある。

 モンタナ州は昔から二大政党が競合するところで,選挙で選ばれる役職者も両党から選ばれている。
 20世紀半ばまで「ワシントンにはリベラル派を,ヘレナには保守派を送る」伝統があった。しかし,1980年代からは連邦政府に保守派を選ぶ傾向に変わり,それとともに党の支配状況も変わってきた。
 1970年代は民主党が支配しており,州知事は20年間,連邦議会に送る代表も民主党が多数,州議会の多くの会議も民主党が多数派となっていた。それが1988年の選挙から変化し始め,州知事に共和党員が就任,連邦議会上院議員2人のうち1人は1940年代以来となる共和党員を送った。
 この動きは1994年州議会選挙区の改定でも継続し,この年は共和党が州議会の両院で多数党になり2004年まで続いた。
 大統領選挙でも近年は共和党寄りとなっており,1996年以降は共和党候補が勝利し続けている。
  
 州都ヘレナに上下両院の議場が置かれるモンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設された。そして,1909年から1912年にかけてウイングが増築された。また,議事堂は国家歴史登録財に指定されている。
 庁舎はギリシア建築様式の要素を取り入れた新古典主義建築様式で,建材には地元モンタナ州産の御影石と砂岩が用いられている。庁舎のドームは銅版で覆われ,上には自由の淑女(Lady Liberty)とよばれる女性の像が立てられている。
 庁舎内部中央のロタンダは金色で塗られ,1902年にチャールズ・A・ペドレッティによって描かれた4枚の絵画で囲まれている。これらの絵画にはモンタナ州史の初期において重要な役割を演じた,ネイティブ・アメリカン,探検家,金鉱夫,カウボーイがそれぞれ描かれている。
 ロタンダの西側のアーチにはアメディー・ジョーリンの手による,連邦下院初の女性議員ジャネット・ランキンの像を描いた半楕円形の絵画が飾られている。また,州下院本会議場の議長席の上には,モンタナ州が生んだウェスタン・アートの画家チャールズ・M・ラッセルの手による,「Lewis and Clark Meeting Indians at Ross' Hole」というタイトルの付された,幅762センチ,高さ365.8センチの絵画が飾られている。この絵画には,ルイス・クラーク探検隊が,山を越えて太平洋に抜けるための最も安全なルートをモンタナのネイティブ・アメリカンのサリッシュ族に尋ねる場面が描かれている。
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 この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができた。これはアイダホ州も同様であった。要するに,「田舎」なのだ。
 中に入ると,観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいた。
 私が日本から来たというと,「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをした。
 モンタナ州は,本当に,美しく素晴らしい。期待どおり私が愛してやまない州であった。

 唐突ですが,「比較的安全通貨である円が買われて」円高になったというニュースをよく耳にします。これを聞いてどのようなイメージが浮かぶでしょうか? 私は,このいい加減なコメントにいつも憤慨します。ニュースでは単に為替相場を伝えればいいのに,こんな意味のない,根拠もないコメントを入れる必要があるのでしょうか? 私はこういうコメントを聞くと,他のニュースもこの程度のいい加減なものなのかと思ってしまいます。
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 たとえば,つぎのような例があります。
 お金を持たない人が,値上がりの見込まれるアメリカの株を買いたいとします。お金を借りて株を買って,値上がりすればそれを売って,お金を返せばいいのです。そうすれば,お金を持っていなくても,利益がかせげるのです。
 しかし,お金を借りるのには利息を返す必要があります。利息のほとんどない通貨なら,利息を考えなくても通貨差益だけの問題となります。そこで,もし,円を借りたときにほとんど利息が付かなくてドルを借りると利息が高いならば,ドル借りるのでなく円を借りるのです。
 1ドルが120円だとします。そこで日本円を120万円借りてそれをドルに替えて1万ドル株を買います。
 しばらくして,株価が上がり2万ドルになったとすると,そこで株を売って1万ドル分を円に替えてお金を返します。すると1万ドル儲かります。もし,返すとき,1ドルの相場が100円になっていたらだったらどうでしょうか? 120万円返すには1万2000ドル必要だから,儲けは8000ドルに減ってしまいます。
 では,反対に1ドルが80円だとします。そのときは80万円だけ借りれば1万ドルになりますから,同じように株が値上がりして2万ドルになったときに株を売って円を返すと,そのときの日本円が1ドル100円ならば,80万円分,つまり8000ドル返せばいいので,儲けは1万2000ドルになります。
 ただ単に円とドルを交換するのなら,1万ドル持っているアメリカ人が1ドル80円のときに1万ドルで円を80万円買って1ドル100円のときに売れば手元に残るのは8000ドルになるから2000円損してしまうのですが,借りるのならその反対になります。
 つまり,円高のときには円を借りてそれをドルに替えて運用して円安のときにはドルを円に替えてその円を返すのです。
 このように「比較的安全通貨である円が買われて」というのは,単に円を買うのではなくて,借りた円をもっているドルを円に換金して返す,という意味もあるのです。買うだけではないのです。

 お金自身には価値はなく何かを買ってこそ価値が生まれます。
 だから,その国のお金に替えてその国の何かに投資して儲けたら自分の国のお金に返す,ということを投資家がしているわけで,そこが,投資の素人の日本人が単に日本株を買って上がれば売るとか,FXで安いときに外国通貨を買って高いときに売るといった単純なこととはわけが違うのです。
 つまり,うまくやれば,上がろうが下がろうが自分のお金があろうがなかろうが,為替と株を複合してどんなときでも利益を上げることができるというのが投資なのです。だから,単に「比較的安全通貨である円が買われて」円高になったという単純な話ではないのです。
 私は,こんなことに人生の貴重な時間を費やしてなにが楽しいのかと思うのでそんな経済学よりも天文学や生物学でも研究するほうがおもいろいと考えるのですが,それはあくまで私の価値観であって,こういうことが社会の本質で,学校では学べない資本主義の実態なのです。
 以前私の出会った,投資というものを軽蔑していた自称教育者を自負する輩がいましたが,その輩こそ軽蔑されるべきであって,その輩は非常に愚かなのです。我々は,そういう恐ろしくかつ複雑な「実社会」で生きていて,それとは無縁ではいられないのです。その愚かな輩の給料もまた,そうした仕組みから生まれていることを自覚すべきなのです。
 そしてまた,そういう複雑な仕組みを熟知しない素人が安易に投資に手を出せば餌食になることもわかるでしょう。

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 これまで好奇心に任せていろんなことをやってきましたが,次第に,「私なり」にこりゃおもしろいというものと,短い人生こんなことに凝ってちゃいけないと思うものがわかってきました。人生とは所詮死ぬまでの暇つぶし,自分なりの価値判断をもって「自己満足」で生きればいいのであって,その物事の価値観は一様ではありません。
 生き方に正解はないのです。人と比べたり競ったりするものは,そこに自分がなければ意味がありません。
 私には,自然と音楽に戯れることが一番いいです。限りなくおもしろいのです。そんな中から,今日は「ダークマター」と「ダークエネルギー」のお話です。
 実は,宇宙全体のエネルギーにおいて,そこに占めるダークマターの割合は22パーセント,ダークエネルギーは74パーセントもあって,バリオンと呼ばれるふつうの物質は全体のたった4パーセントに過ぎないのです。
 つまり,宇宙のエネルギーの96パーセントが何なのがわからないのです。
 素人の私が思うに,96パーセントもわからないということは,今の日本は将来経済破綻をするけどそんな本当のことをいっちゃうとまずいから内緒にしている政治家と同様に,物理学者はこうしたほとんどのことはわかっていないという本当のことを知られるとまずいから内緒にしているんじゃあないか,ということです。

 まず,「ダークエネルギー」から。
 遠くの銀河に出現した天体の距離が測定できる「Ia型超新星」の観測結果から,銀河はこれまでに予想された速度より速く遠ざかっているという事が判明して,宇宙はスピードを上げながら膨張しているという事実がわかりました。
 この事実を説明するためには,宇宙を膨張させる力である「斥力」という力が宇宙空間にあると考えざるをえないのですが,その力のもとになるものを「ダークエネルギー」と呼びます。ダークエネルギーの存在は「宇宙背景放射」の観測などによって確固たるものとなってゆきました。そして,最新の研究成果によれば,宇宙全体のエネルギーに占めるダークエネルギーの割合は実に74パーセントに達するということがわかりました。
 現在,ダークエネルギーとは「空間に付随するエネルギー」だと考えられています。
 空間が膨張すればするほど,空間の体積が増えてダークエネルギーの総量も増え,宇宙を膨張させる力はますます増えていきます。その一方,宇宙の膨張を食い止める力の源となる質量をもった物質は空間が増えても一定のままなのです。
 しかし,このダークエネルギーの正体というものがまったく不明なのです。
 次は「ダークマター」です。
 見えないけれど確かに存在する「ダークマター」は,光も電波も発することがないために観測しても直接検出することができません。
 天の川銀河のような渦巻銀河では,明るさから計算される質量よりも星々が銀河を運動する速度から求めた質量のほうがはるかに大きいこと,また,銀河団の質量が,構成する各銀河の明るさから推定される質量よりも各銀河の運動から求めた質量のほうがずっと大きいことがわかりました。
 このことが,ダークマターが存在している根拠となるのです。
 ダークマターの正体とは,ふつうの物質だけれど出している光や電波が弱すぎて検出できないだけなのではないかとする説と,ふつうの物質とはほとんど相互作用しない別の物質なのではないかとする説が唱えられてきました。
 現在唱えられている説は「WIMP」と呼ばれる,相互作用は弱いけれど質量がある粒子からできている「コールドダークマター」と呼ばれる概念です。その具体的な有力候補であった「ニュートリノ」は,質量があればそうに違いないといわたころもあります。しかし,日本の観測装置「カミオカンデ」で質量があることがわかったのですが,その質量が小さすぎてコールドダークマターではないことも,また,わかりました。
 そこで,現在は「Axion」という未知の素粒子ではないか,とか,超対称性粒子ではないか,など,様々な説が出されていますが,今もって決定打になっていません。
 さらには「SIMP」と呼ばれる強い相互作用のある粒子ではないか,という新しい説もあります。
 このダークマターは,宇宙全体のエネルギーに占める割合は実に22パーセントもあります。

 学校で習うみんなの苦手な「物理学」。
 物理学が理解できれば,物事の現象が解明できると思われるでしょうが,それは誤解です。
 実は「科学的に観測できない現象」について物理学では何もいえない,というのが量子力学以後の世界観なのです。
 量子力学では,目に見えない微小の世界について「ある事象がこの先どうなるかという予測が可能なのは(現在の人間の知る限りでは)この数式ですよ」と方程式を提示していることだけがすべてで,それ以上の解釈はできません。 
 つまり,物理学の目的は「技術的に応用が可能な数式を提供する道具体系を作ること」であって,そのために「実験結果となるべくぴったり合う数式」を追い求めているだけなのです。
 要するに,「世界はどのような仕組みで成り立っているのか」という,本来科学が追い求めてきた「世界の本当の姿を解き明かす」という目的は,残念ながらすでに断念しているのです。
 物理学というのは「真理を探求する」学問ではなく「道具主義的」な学問なのです。
 物理学を勉強したいと考える若者がまず初めに認識しなくてはいけないのが,このことなのです。
 簡単な例でいうと「質量のあるふたつの物質には引力が働く」ということについて,その力の大きさを調べる数式はあっても,なぜ物質同士に引力が働くのかという根本的なことは,それが「原理」なのであって,そういうことはわからない,ということなのです。
 その「原理」に従って物質がどう運動するかを予測するために,ニュートン力学があり,アインシュタインの一般相対性理論があり,重力波という考え方がある,ということです。
 しかし,私は,現在の物理学では全宇宙エネルギーの96パーセントがわからないというのは,物理学の体系自体が正しくないのでは? と思っています。
 それはどういうことかというと,ニュートン力学がアインシュタインの一般相対性理論の極めて狭い範囲だけの近似であったように,正しいとされている一般相対性理論すら,本当はそれを超越した人間のまだ知らない何らかのもっと広大な理論の近似に過ぎないのではないかと思っているということです。
 一般相対性理論というのは,この宇宙すべてに成り立つ理論なのでしょうか? 私にはとてもそうは思えません。
 ずっと将来,現在の物理学はどのように評価されているのでしょう。
 所詮,人間の能力では,宇宙を語ることなどできないのかもしれません。

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今日の写真はおとめ座の銀河団です。

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●「4人のジョージア人」●
 ヘレナ (Helena) は,モンタナ州の州都である。人口は約25,000人。19世紀後半のゴールドラッシュによって人が集まってできた町で, 別名をQueen City という。
 とても小さな州都であった。
 州都で小さな町といえばノースダコタ州のビスマルクやバーモント州のモントピリアを思い出す。 
 私はこういう町が大好きだが,おそらくほとんどの日本の人は,アメリカのこうした町は知らないに違いない。私は,これぞアメリカ! と思うのだが…。
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 ビスマルク(Bismarck)はアメリカ合衆国ノースダコタ州中央部に位置する同州の州都で,人口は約55,000人。以前書いたルイス・クラーク探検隊の北西部開拓ルートの中間点にあたるため同探検隊にまつわる史跡や博物館が多い。市内に公園が多く,周辺には小麦畑や原野が広がる落ち着いた都市である。
 また,モントビリア(Montpelier)は人口8,000人。50州の州都の中で最も人口が少ない。モントピリアは時の流れを止めたような都市で,州都の中で唯一マクドナルドの店舗がない都市である一方,全米にただ1社だけ残る洗濯ばさみメーカーが本社を置いている都市でもある。ただし,サンドイッチのサブウェイの店舗は存在する。

 ところで,ヘレナは,1864年に「4人のジョージア人」と呼ばれる4人組によってラスト・チャンス・クリーク(Last Chance Creek)で砂金が発見され,町が創設された。
  「4人のジョージア人」と呼ばれる,ジョン・コーワン,D.J. ミラー,ジョン・クラブ,ロバート・スタンレーの4人組は,実際はコーワンのみがジョージア州出身であり,ミラーはアラバマ州,クラブはアイオワ州,スタンレーはイギリスと出身地が異なる。しかし砂金採掘において「ジョージア・スタイル」を取っていたため,このように呼ばれていたものと考えられている。
 町ははじめ「4人のジョージア人」のひとりジョン・クラブの名を取ってクラブタウンと名付けられた。しかし,砂金目当てに次々と人がやってくると,町名変更の機運が高まり,ジョン・サマービルが自分の生まれ故郷であるミネソタ州セント・ヘレナ (St. Helena) の名をつけることを提案した。しかし多くの砂金採掘夫たちには hel-E-na のアクセントが気に入らず,これを「地獄」を意味する hell にかけて HEL-e-naと発音していた。「ヘル(地獄)」は「セント(聖)」とは相容れないために,そのうちに「セント」が落ちて「ヘレナ」のみが残って町の名前となった。
 1888年までにはおよそ50人の億万長者がヘレナの町に住んでいたという。この頃人口当たりの億万長者の数は世界一であった。

 町の高台にモンタナ州会議事堂とモンタナ歴史社会博物館があった。
 駐車場は無料で,美しく広々としていた。
 モンタナ歴史社会博物館(Montana Historical Society Museum)とはいっても,小さな博物館であった。 中に入ると,中央にロビーがあって,それぞれのコーナーにはモンタナ州の地質や自然,開拓の歴史などのコーナーがあって,ゆっくりと見学することができた。
 ここは古き良きアメリカそのものであった。

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2012アメリカ旅行記―さらに,ビスマルクへ④
2013アメリカ旅行記―日の出と日の入りと⑩

ハワイ島に行ってみて,日本で旅行したり,山に星を見に行くくらいなら,ハワイ島へ行ったほうがずっといいと思ってしまったので,また行きたいと思うのですが,とにかく,ハワイ島にたどり着く一番の問題は飛行機なのです。
ホノルルまではものすごく安いのです。しかし,そこからハワイ島までが面倒なのです。デルタ航空のサイトで検索しても,ホノルルでの待ち時間が最低で10時間程度あります。一度シアトルやロスアンゼルスに行って戻ってくるというものまで表示されます。
つまり,朝ホノルルに着いて夜ハワイ島に行ける往路はともかく,帰路はヒロ発ホノルル行きが夜の便になるのでホノルルで意味のない1泊をする必要があるのです。なので,このホノルルの滞在をいかに安く済ませるかということが次の問題となります。
ホノルルとヒロを結ぶハワイアン航空の便は結構頻繁にあるのに,すぐに乗れる便に接続できないというのはどういう理由なのでしょう? 私がデルタ航空にこだわっているからなのかもしれませんが,納得できません。ネット社会とはいっても,旅行社しかアクセスできない情報が山ほどありますから,もっと良い方法があるかを旅行社で一度聞いてみたいものです。
そんなわけですが,ともかく,小さくのんびりしたヒロの空港に着いてしまえばこっちものもの。空港を出たところにレンタカーのカウンターが並んでいて,アメリカ本土の大きな空港とは違ってその場でレンタカーを借りると,駐車場の出口でのチェックもなく空港から出られます。ハワイでは国際免許証の提示も必要ありません。ハワイ島の道路は日本のように狭く山道が多く日本で走るのとさほどの違いはありません。
私が今回の旅で島の道路をくまなく走って全ての町を見た限り,一番きれいで落ち着いた町は島の中央にあるワイメア(Waimea)でした。ここを拠点にして,毎晩マウナケアで星見三昧というのが,今後の私の夢です。
私が初日に一泊したヒロのコテッジの隣の部屋でのんびりと過ごしていた夫婦は,きっと,お気に入りの隠れ家的存在としてそのコテッジに滞在していたのでしょうが,その気持ちはとてもよくわかります。豪華なリゾートなんかに滞在したり,混雑した日本で高価な旅行をするくらいなら,ずっと,このほうが精神的に落ち着きますから。
今回ハワイを旅行して一番面白かったのは,多くの日本人観光客がそれぞれ違うステージの旅をしている姿でした。ツアーで来てホノルルに滞在してオプショナルツアーで観光して買い物をして…,といった典型的な従来旅行型の人たちが日本の学校教育では英語ひとつ身につかない平均的日本人観光客の多くですが,そこから飛躍してハワイ島に足を延ばしてワイコロア(Waikoloa)やフアラライ(Hualalai)といったリゾートに滞在して,オプショナルツアーで島をめぐるという次のステージの人たちがいました。こうしたステージの旅行までを世間では「ハワイ旅行」というのでしょうが,それなら英語も必要ないし,それなりに非日常も楽しめます。
そのステージを過ぎると,さきほど書いたように,レンタカーを借りて隠れ家的なコテッジに泊まってのんびりと過ごす,ということになります。そうした旅行を楽しんでいる少数の人たちは,見ていて素敵です。かっこいいです。こうした旅をするには,レンタカーを借りてお気に入りの宿泊先を見つけることがポイントになります。
私はヒロでレンタカーを借りて,5日間カイルアコナ(kailua Kona)のホテルに宿泊していましたが,さすがに,そこには日本人観光客は滞在していませんでした。ホテルから歩いていける海岸通りに多くの観光案内所(ビジターセンター)があって,そこでは日本人相手のオプショナルツアーよりはるかに安価なディスカウントツアーがたくさん売りに出されていました。
いずれにしても,旅には様々な形があって,日本でも京都へバスツアーで行く人からバックパックで青春18切符買ってという人までいるから人それぞれですが,私は,そうした様々なステージの旅をしている人たちの違いを見ているほうが面白かったです。なかでも一番印象に残っているのは,オアフ島で市バスに乗ってダイヤモンドヘッドへ行ったときに,多少へこたりながら -というのは登るのが大変だったことよりも暑かったことなのですが- 私の近くを登っていた子供連れの家族の人に「こりゃ大変ですね,1回登ればで十分です」と言ったら,「いや,私たちは毎年登っていますよ」と答えられたことです。
いらぬおせっかいですが,私はそのとき,毎年ハワイまで来るのならもっと行くところやすることがあるだろう,と思ったことでした。しかし,車もなく言葉も不自由なら,毎年来ても,狭いオアフ島ではダイヤモンドヘッドへ行くかワイキキビーチへ行くくらいしかすることはないのかもしれません。せっかく非日常を楽しんでいるのに,JCBのラウンジで日本の新聞を何時間も読んでいる人さえいました。

◇◇◇
私のハチャメチャなハワイ初体験を綴った「2016春アメリカ旅行LIVE」はこれでおしまい。詳しい旅の様子は後日「2016春アメリカ旅行記」に書きます。私が次に出かける旅の目的地は,モンタナ州のグレイシャー国立公園です。DSC_3004

日本に帰国しました。これで私は,アメリカ合衆国「48州+ワシントンDC」を制覇しました。残り2州です。
これほど頻繁に旅行するならアメリカに住めばいいといわれることも多いのですが,アメリカに住んでも結局旅に出るから,どこに住んでもそれほど違いありません。それに,アメリカの国内線は高額で,日本から乗り継いでも違いはありません。そしてまた,旅は非日常が大切です。
さて,2016春アメリカ旅行LIVEの最後の話題はグルメでない私が語るお食事のお話です。
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現在1ドルは少し円高になって110円程度ですが,この相場でも異常に高いのです。こんな相場ではアメリカ旅行はできません。1ドルが360円の時代はともかく,私の若い頃に比べて,今の若い人はアメリカ旅行なんて,そのうちできなくなるのではないかとさえ思います。
今日の1番目と2番目の写真はデルタ航空ハワイ便の機内食です。
アメリカ本土へ行くのに比べて時間が若干短いので食事も少ないです。この食事ですが,行儀は悪いですが,交互に食べるのではなく,一皿ずつ平らげていくのが汚さず食べるコツです。
3番目の写真はコナコーストのレストランで食べた朝食です。これだけで1,500円相当もします。 そして,4番目の写真は,キラウエア火山のある国立公園内のレストランで食べた夕食です。日本食ですが,これだけで3,000円相当です。
いずれも,飲み物代は別です。さらにチップが負担になります。つまり,この程度の普通の食事を毎食食べていると,1日で10,000円くらい必要になってしまうのです。
そこで私は,朝食はスーパーマーケットに行ってサンドウィッチを買って節約することにしました。それでも600円はします。昼食としてバーガーキングでミールを頼んだのがその次の写真ですが,これで700円相当もします。スーパーマーケットでコカコーラのボトルを買っても300円くらいします。
このように,これほどアメリカでは物価が高いのだから,私は,絶対,現在は1ドル80円というのがまともな相場だと思うのです。

遊びに行くのだから贅沢したいのは当然です。一番下の写真のようなパスタを味わいながらライブ演奏をバックに太平洋に沈む夕日を見るくらいの贅沢なら2,500円も出せば十分できますが,しかし,そうした演出もないのに,やたらと食事にお金を使う必要もないわけです。
私は個人旅行でハワイ島に行って,現地の人が行くスーパーマーケットで買い物をしたりレストランに行ったりしましたが,大勢の日本人がツアーで行くオアフ島ホノルルに家族4人で旅行をすれば,オプショナルツアーに参加するだけで4人で1日10万円くらいはしますからこれだけで3日で30万円です。
ヘリコブターツアーというのもあって,現地では1万円くらいで参加することができるツアーがあるのですが,日本人相手のツアーだと1人4万円と日本語のパンフレットには書かれてあります。
基本料金としてホテル代と飛行機代で4人で70万円…と考えると,3泊5日で100万円くらいは必要になります。近頃は往復がビジネスクラスで空港のラウンジが利用できるといった付加価値が付いたものもありますが,現地のオプショナルツアーに参加してもらえれば旅行社は十分に元がとれるというわけです。
こんな値段では海外旅行が贅沢だといわれるのももっともな話です。お金持ちが得意がってハワイに行くものわかります。きっと,芸能人はお正月にさらに贅沢なハワイ旅行をしているのでしょう。
しかし,100万円も使ってワイキキビーチでショッピングをしてオプショナルツアーで海岸から景色を見る…その程度のものなら,私には全くうらやましくありません。
やはり,旅は自分で行動するからこそ得られるものが多いのです。現地の人と冗談を言って笑いあい,交流してこそ楽しいものです。
この旅では,私は,夢だった満天の星空もマウナケア山頂の天文台もケック望遠鏡本体も見られたし,それだけではなく,思いもよらぬ多くの体験ができました。すばらしい旅になりました。

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ヒロからホノルルまでは1時間弱で,機内では行きと同じように,プラスチックの入れ物に入っているジュースが配られました。乗ったのはデルタ航空のコードシェアという話なのですが,完全にハワイアン航空であって,デルタ航空のプライオリティも効かなかったからセキュリティチェックも面倒でした。
ホノルルに到着したのは夜の9時でした。成田便が明日の朝10時10分なので,寝るだけのために決して安くもないホテルで過ごす必要がありました。予約を入れたのはホノルルの空港に接したところだったのですが,空港から近いといっても歩いていける距離でもなく,ホテルのシャトルバンがあるということだったけれど,それに乗るのにどうすればいいかもわからりませんでした。
アメリカ本土の空港なら通常ホテルのシャトルバンが発着するターミナルがあるのですが,ホノルルの空港にはそれさえなく困ってしまいました。
空港内のダウンタウンに行くシャトルバスの受付コーナーには大勢の人が並んでいて,少しでも早くホテルに行きたい私はイヤになりました。列に並ばずに,そのあたりに客を捌いていた係員がいたのでともかく聞いてみると,ここで受付をしているシャトルは私の乗りたいものではなく,ホテルのシャトルは電話で呼ぶ必要があるということでした。係員はそう言った後ですぐに電話をしてくれました。アメリカ本土ではお前が自分でやれということになるからそんな対応はありえないのですが,ものすごく親切でびっくりしました。電話を終えた彼が言うには,空港から外に出たところにある喫煙コーナーの横の空地に星条旗をつけた赤いバンが20分後に来るということでした。本当に来るのかなあと不安に思いながら待っていると,ひとりの女性が空港ビルから歩いてきました。声をかけてみると,どうやら私の待っているのと同じ赤いバンを待つように指示されたということだったので気を強くしました。
20分も経たずバンが来ました。運転手の話す英語はかなり訛りが強くてさっぱり要領をえなかったのですが,なんでもオーストラリア生まれで大学で数学を専攻したということでした。
こうしてなんとか無事にホテルにチェクインすることができました。
ホテルにはプールやレストランやカラオケバーもあって一見豪華そうなのですが,寝るだけの私には関係ありません。部屋自体は単なる古びたモーテルでした。生まれて初めて海外旅行で1泊目にこのホテルに泊まったらショックを受けることでしょう。それにしては高いホテルでした。
来たときといいこのホテルといい,私は今回の旅で,ホノルルというところは古びた場末の温泉街のようなところという印象しかもちませんでした。道路は狭く汚く落書きもあり,アメリカというよりここはまるで日本でした。日本の旅行社にはホノルルという文字が目立つ美しい写真がついたパンフレットが並んでいますが,ツアーで宿泊するホテルやワイキキビーチから一歩入った日本人の知らないホノルルの実態はそんなところです。
翌日7時にチェックアウトをして,ちょうど空港に出発するところだったシャトルバンに乗って,7時10分過ぎには空港に到着しました。今回のシャトルバンは無愛想な女性が運転していました。

ここからは勝手知ったデルタ航空の領域です。急にお金持ち気分になれます。チェクインをして荷物を預けて,プライオリティでセキュリティも通り抜けて,デルタスカイクラブへ行ってラウンジで朝食をとり,搭乗手続きの時間までを過ごしました。
飛行機は予定通りに出発して8時間ほどで桜の満開な日本に帰国しました。
機内では,日本で見損ねた映画「オデッセイ」を見ました。乗客のほとんどが日本人でした。
到着した成田は満開の桜を目当ての外国人観光客でごった返していました。日本に外国人観光客が増えたのは日本が素晴らしいというのではなく,円が異常に安いというのが本当の理由だということを忘れてはいけません。
私は成田から東京までバスで行って花見でもしてから深夜バスで帰ろうと思ったのですが,ハワイ島の思い出が桜の花の魅力をはるかに上まわって早く帰宅したくなったので,成田エクスプレスで品川へ行ってそのまま新幹線に乗りました。
車内で弁当を買いました。あまりに手の込んだ駅弁と無言で黒づくめのスーツを着てネクタイをした会社員が大勢,まるで護送されているかのような車内は,これが日本を象徴した姿なんだと思うと息苦しくなりました。そして,帰ってきたんだと実感しました。
いったいこの国の人は何が楽しくて生活しているんだろう…。私はすぐにでも,また,旅立ちたくなりました。

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今日はハワイ島最終日でした。夜8時2分の飛行機でホノルルに行きます。そしてホノルルで1泊して,翌日の朝,成田に帰国します。ホノルルはホテルで寝るだけの滞在です。
この旅ではこれまでヒロのダウンタウンに行ったことがなかったので,宿泊先のカイルアコナを出発して途中で寄り道をしながらお昼頃までにヒロに到着しようと思いました。コナの南にはコーヒー農園が広がっていると書きましたが,その内の1軒で農園の見学をさせてくれると聞いたので出かけました。
到着すると,まず,利き酒ならぬ利きコーヒーでした。私はコーヒーは飲みますが味の違いがわかりません。酸味が強い弱いというのはわかりませが,そこにどういう価値をもたらすのかもよくわかりません。これもまた猫に小判です。
ともかく,コーヒー農園というのをはじめて見ました。
その後,ヒロに向かっていつもの道を走りました。たった5日前のことだったというのに,すでにその間に慣れ親しんだマウナケア山とも次に来るまでしばらくのお別れです。今日もまた曇っていて山頂のドームは見えませんでした。はじめにこの道を走ったときにきれいに見えたのは,本当に奇跡だったのでしょうか。
ヒロのダウンタウンは小さな町でお店はどこも古いものでした。お寿司屋さんがあったので,この旅はじめてのお寿司にしました。
ダウンタウンの東側にはアメリカのどの都市にもあるような広く美しい公園がありました。しばらくベンチに座って波の音を聞いて感慨にふけっていました。
最後に空港まで行くのに少し遠回りして,1日目に泊まったコテッジの近くまで行ってみました。あの頃は全く位置関係がわからなかったのですが,もう今はよくわかります。ヒロもコナも適当に一番安いホテルを探しただけだったのに結果的に素敵なところでした。
レンタカーのガソリンもなくなってきたのでこれで今回の旅はおしまい。空港に行きレンタカーを返しました。ヒロ国際空港も来たときにはさっぱり様子がわからなかったのですが,今は全ての謎が解けたような感じでした。
私には生まれてはじめてのハワイ旅行でした。
ハワイ島に来たのは,マウナケア山頂で望遠鏡群のドームがある景色と満天の星が見たい,それだけが目的でした。それ以外は何の期待もなく予定も未定だったのですが,自分でも驚くほどいろんなことができました。
マウナケアの星の美しさは筆舌に尽くしがたいものでしたし,ハワイ島ではレンタカーさえあれば,深夜に星を見に出かけることもできることがわかりました。今度来るときは,星見三昧をしたいなあと思っています。それとやり残した「あること」を実現しなくては…。

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今日は昨日とは打って変わってすごく盛りだくさんの1日になりました。
まず,昨晩早めに寝てしまったのが災いして,早朝3時半に目覚めてしまいました。その気もなかったのに,せっかく起きたのだから日の出を見にマウナケアへ行くことにしました。
真っ暗な道路は,道路端が白く中央のラインが黄色く蛍光がライトに照らされてそれは走りやすく日本とは大違いでした。そんな中を2時間走って,マウナケア山の山頂まで登りきると,望遠鏡が音を立てて稼働していました。空は満天の星空に細い月が昇り始めていました。
日の出を見終わって帰ろうとして、車のエンジンをかけると,警告ランプが消えません。トラブルの発生です。よりにもよってマウナケア山頂でトラブルなんて話にもなりません。タイヤの空気圧が下がっているということでした。パンクなら大事,しかし4つのタイヤとも空気圧が下がっていたので整備上の問題でしょう。タイヤを見てもそれらしいことは確認できませんでした。
何れにせよ下山するしかなく,不安を感じながら降りていったのですが,特に問題もなくオニヅカビジターセンターまで走れました。しかしこのままではイヤなので,さらに1時間走ってヒロの国際空港までたどり着き,ハーツのカウンターで車を交換してもらいました。新しい車は,ナント新車のジープになりました。
さて,ここからが今日の実際の行動開始でした。
今日は島の北側の外周道路を西から東に時計回りに走ってそのあとさらに南下して日が沈んでからの火山を見ること,そして,さらに,夜10時に昇ってくる南十字星の写真を再びマウナケア山へ行って写すことというかなり無茶な計画でしたが,結果として,全て実現しました。
ホテルに戻って,明日,つまり最終日の予定を考えていて,ひとつだけやり残してしまったことに気づきました。ああ! 私は再びハワイ島に来ることになりそうです。

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今日は1日まったりモードですごせました。
午前中はサブマリーンツアーに参加して,100フィート下の海底に潜り,そして,夕方からディナークルーズで楽しみました。
まず,サブマリーンツアーから。
チェックインは午前9時30分。ホテルの前の海岸にシャトル船が来ました。それに乗って海上に停泊している潜水艦に乗り込みました。
40人くらいが乗れるもので,中央にイスが並んでいて,窓から海の中を見ます。
目が慣れてくるにつれて,はっきりと見えてきました。時々,窓に魚が近づいてきたり,魚が群れをなして泳いでいたり,美しいサンゴ礁が続いていると思えば突然真っ白な海底になったりと,海の底というのはとても変化に富んでいるのを実感しました。
沈んでいる船もあって,そこは魚たちの絶好の巣になっていました。船のマストにガイコツが縛り付けられていたのですが,果たしてあれは本物なのか?
約2時間のツアーでした。
船長が片言の日本語で「この船高い。4億円」と言っていました。
上陸後,昼食を済ませて,まだ時間があったので,少しコナの南にドライブしました。この辺り,日系3世がコーヒーのプランテーションを経営しているところです。コナコーヒーはUCCが輸入しています。
注ぎがディナークルーズ。
チェックインは午後3時30分でした。
ハワイ島の西海岸を南に海岸線に沿って航海して停泊,そこで夕食と相成りました。
乗り合わせた人たちには,なんとモンタナ州から来たという5,6人の初老の女性たちや日本の家族連れの人たちがいました。
船が出たときは曇っていたのに,次第に快晴となって,夕食後復路を航海する船から夕日がとても美しく見えました。船の揺れで水平線がまっすぐ平行な写真が写せません。今日の写真の水平線が斜めになっているのはそんな理由です。

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私がハワイ島に来た理由は,アメリカ合衆国50州制覇のほかに,マウナケア山頂の現在12ある望遠鏡のドームが見たかったことでした。しかし,日本で調べてもいい加減な情報しかなくそれが見られるのかどうかもよくわからなかったので,ともかく,ツアーに参加してみたということはすでに書きました。
その結果,次のことがわかりました。
ハワイ島の天気は予測不可能です。私が来た日にマウナケア山頂まで晴れ渡っていて地上からドームが見えたのも,マウナケア山のオニヅカビジターセンターのあたりが快晴で満天の星空だったのも,コナコーストで南十字星が見えたのも,実はまれなことで,それは晴れ男のなせる技なのでした。
しかし,残念ながらツアーでは山頂には行けませんでした。
マウナケア山は途中のオニヅカビジターセンターまでは車さえあれば誰でも行けます。その先は風が強いと閉鎖になります。たとえ開通していても,かなりの急こう配でかつダート道なので,行くためには4WDでなければいけないと書かれてあります。しかし実はFFでも問題なく行けました。

しかし,私の参加したツアーでは山頂が閉鎖されて登ることができなかった,といっても,これで山頂に登らずに帰ったら,私の場合,何をしにハワイ島まで来たのかわかりません。それでは一生後悔します。そこで,風が止んで登れる日まで毎日でも行ってみようと決心したのでした。
昨晩,次の日はホエールウォッチングに行くことにしました。夜遅くてツアー会社ももう閉まっているし,ホテルのフロントのおばちゃんに聞いても雑談ばかりくわしくても何も知らないので,ネットで探して予約をしておきました。ツアーの開始は正午ということだったので,午前中はハワイ島の最北端Hawiに行ってみることにしました。
ホテルから1時間半かかりましたが,静かでよいところでした。それでも日本人のチャーターしたツアー客が4人ほど来ていて説明を聞いていました。
そのあとがホエールウォッチングだったのですが,電話をしてみると,もうハワイにはクジラがいないのでツアーはキャンセルになってしまったということでした。そこで,予定を変更して,ホエールウォッチングの後で行こうと思っていたマウナケア山に向かうことにしました。
祈る思いでオニヅカビジターセンターまで行くと,願いが通じたのか,道路は閉鎖されておらず,上まで行くことができるではないですか! 確かに4WDオンリーと書かれてありましたが,私はFFでも登れると一昨日聞いていたので行ってみることにしました。

途中かなりのダート道になって心配になりながら(レンタカーはダート道の事故は補償されないらしい?),そして,かなりの坂で車が登れるかも心配しながら,再び舗装道路になって,標高4,205メートルをなんとか登りきるとそこは別世界。ドームが見えてきたときの喜びは表現のしようがありませんでした。マウナケア山頂のドームは登っている途中からは全く見えないのです。
すばる望遠鏡の見学は予約制で,しかも,すばる望遠鏡のドームは見えても建物までの50メートルほどだけが未舗装で4WDしか行くことができない(とても日本らしい話です)ので断念しました。要するに,すばる望遠鏡の見学は100,000円以上も出さなくても,ネットで事前に見学(無料)の予約をしておいて4WDのレンタカーを借りて運転してくればできるということなのです。ただし,強風で道路が閉鎖されていなければの話です。
隣のアメリカの誇るケック望遠鏡は建物までFF車でアクセスできるし,ビジター用の展示室さえあるのとは大違いでした。さすが情報公開大国アメリカでした。
ケック望遠鏡のドームの周りを歩いていると,ちょうど3人の女性を案内していた男の人と出会いました。挨拶して雑談していると一緒に案内してあげるということになって,ケック望遠鏡を見て名刺までもらうことができたのです。彼はこの望遠鏡のコンピュータ技師,女性たちはコロラド州から来た友人ということでした。
マウナケアの山頂からは眼下の雲の間からホノルルが見えました。私がホノルルは日本人ばかりだったといったら,彼らはみんな英語が話せないと笑っていました。夜になるとあのホノルルの夜景が見えると言っていました。どこへ行っても光害から逃れられません。
初めて会ったのにこのフレンドリーさ。アメリカ人のこういうカジュアルなのは好きだなあ。
もし一昨日ツアーで山頂まで来ていたらこういうことは起きませんでした。幸運を感謝しました。

今日はマウナケア山の山頂まで行くという夢がかない,すっかり気をよくしてホテルに戻りました。
願いが通じた最高の日,夜はコナコーストのレストランで夕日を眺めながら食事をすることにしました。素敵なレストランを見つけたので夕日が見たいといったら最高の席を用意してくれました。
カイルアコナは日本人もほとんどいないし,適度に賑わっているし,食事は美味しいし,海は綺麗だし,最高のところです。
私は自分で探して適当にコナシーサイドホテルを選んで5泊しているのですが,海岸にも近く,最高のロケーションでした。 夕方カイルアコナのダウンタウンを歩いているとビジターセンターがあったのでいろいろ聞いているうちに勧められて,明日はサブマリンツアーとディナークルーズに参加することになりました。未定だった予定がこうして決まっていきます。
明日はついに美しい海の底へ行くのです。楽しみだなあ。

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聞いた話が間違いでなければ,ハワイ島は四国の半分の面積だそうです。だから1周するくらいわけないなあ(休みなしで6時間)と思ったので,今日は様子見もかねて,島1周ドライブに行きました。
ホテルがあるのが島の西側なので,反時計周りに走り出しました。
2時間くらいで最南端のKaLaeというところに到着しました。昨年の夏に行ったワシントン州の最西端と感じが似ていましたが,ハワイ島の方が海が青く雄大でした。
岬では釣りをしている人が結構いました。
そのあと,島に沿って北西に走って行って,ハワイ・キラウエア火山国立公園に着きました。
公園は広く,キラウエア火山のクレイターの外周の北側を半周する道路とチェーン・オブ・クレイターズロードを走って南の海岸まで行くコースがあって,このチェーン・オブ・クレイターズロードは往復で2時間もかかってしまいました。しかし海に溶岩が流れ落ちた跡は雄大でした。
キラウエア火山は煙が出ているだけでがっかりでしたが夜に見ると赤く輝いているらしいです。
国立公園を出たのがすでに午後3時。
結局,この日は島の半分しか行くことができませんでした。
国立公園から泊まっているコナまではちょうど島の反対側ですが,マウナロアが邪魔をして横断する道はなく最短距離では戻れません。結局ヒロまで行って昨日と同じルートでコナまで戻りました。
昨日はマウナケアの山頂が美しく見えたのに今日は霧で何も見えませんでした。というより目の前もみえません。昨日見えたのが運がよかったということかなと思っていると途中で天気が急に変わって,美しい夕日すら見えはじめました。
ハワイ島の天気は場所によっても違うし,時間によっても違うし,本当によくわかりません。マウナケア山頂も昨年の冬は大雪,今年は積雪ゼロということです。
明日はクジラを見に海に出るとしましょうか。

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今日マウナケアに行くツアーは太公望という会社のもので,ハワイ島では老舗ということです。
来る前に調べたら,すばる望遠鏡本体を見学することは可能(無料)なのですが,事前に申し込みをして(英語のみ)予約が認められても,ドームにたどりつくのは自力だそうです。山頂までは4WDが必要で,そのために4WDをチャーターすると1台120,000円といわれて断念しました。本当かなあ? マウナケア山頂の標高4,205メートル,道路も途中からはダート道で危険そうです。しかし,これだけの情報ではどういうところなのかどうなっているのか行ってみないと様子がわからないので,ともかくマウナケアで星が見えるというツアーに申し込んでみたわけです。
この日の参加者は合計9人でした。
参加して分かったのは,マウナケア山頂というのは風が強くて標高2,400メートルにあるオニヅカビジターセンターから上は登れないことが多いということで,そうなればすばる望遠鏡のドームも見られないということでした。ドームは山頂まで登りきらないことには途中からは全く見えないそうです。 もし事前にすばる望遠鏡の見学の予約をして車をチャーターしても道路が閉鎖では行かれないから見学できないということになります。このように不確定要素が多すぎるのです。
私がツアーに参加した日もたまたま天気はよかったのですが,あいにく風速が25メートルということで,道路は閉鎖されていて途中のオニヅカビジターセンターまでしか行くことができませんでした。足止めになってしまったのでビジターセンターはものすごい人でごった返していました。しかし,山の中腹で夕日が沈むのを見てから,オニヅカセンターの職員用の駐車場まで特別に入れてもらって満天の星空を堪能することはできました。
それにしてもものすごい星空でした。さすがに世界中の天文台が集まるだけのことはあります。もう日本で星を見るのがいやになってきました。
よくこういう星空を見るとプラネタリウムのようだという人がいますが,この表現は間違っています。どっちが本物か? 星空をなくした現代人は気の毒です。
夜10時にホテルに戻りました。
そのころ,コナコーストには昇ってきたばかりの南十字星が海の上に美しく輝いていました。

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ハワイ島のさわやかな朝。
鳥が鳴き,本当にいいところです。
ハワイ島は東にヒロ,西にカイルアコナふたつの町があって,ヒロは天気が悪く,カイルアコナは天気がいいと聞いていたので,カイルアコナを拠点にすることにしたのですが,飛行機が着いたのはヒロで,到着が遅かったので,その日はヒロの小さなコテッジに泊まりました。
昨晩は天気がよくないヒロという予想に反して快晴。満天の星に感動しました。
朝食後,コテッジのオーナーの奥さんがコテッジの周りを案内してくれました。庭に何気なくあった木がココナッツだったりマンゴだったりコーヒーだったりバナナだったりしたのには驚きました。
コテッジにはもう1組私と同じくらいの年齢の日本人の夫婦が宿泊してのんびり朝食をとっていました。昨年来て気に入ったのでまた来たと言っていました。

コテッジをチェックアウトしてカイルアコナに向けて島を横断しました。島を横断する途中,右手にマウナケアが見えて山頂にドームが光っていたのには泣けてきました。私はこれを見にきたのです。
2時間余りのドライブでカイルアコナに着きました。
予約したホテルがあまりに立派なのにもびっくりしました。まだ午前10時過ぎだったのにチェックインできました。ここに5泊します。
ホテルから少し行くと海岸にでます。結構な賑わいなのですが,日本人ツアー客もいなくてワイキキビーチとは雲泥の差です。豪華な旅客船が停泊しています。
ここまで来るのにハワイ島を横断しましたが,晴れていたり雨だったりと天気が急に変わるのには驚きました。
勝手がわからないので,今日はお昼過ぎからとりあえずツアーに参加してマウナケアに星を見に行くことにしました。その様子はまた次回。

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生まれてはじめてハワイに来ました。
いつものアメリカとは機内の雰囲気もずいぶんと違うものです。
成田から6時間でオアフ島のホノルルに着きました。時差は19時間。簡単にいうと日本より5時間早いのですが日付変更線を越えるので1日前になるわけです。つまり,午後8時に出発するのに,その日の朝8時に着くわけです。近すぎます。これでは十分に眠れません。
自動入国機ですぐに入国が済みました。
私の目的地はオアフ島ではなくハワイ島なのですが,ホノルルからの便の出発が夜6時なので待ち時間が10時間もあるので,オアフ島観光に出かけることにしていました。
しかし,到着してから乗換え便が10時間先なので日本では乗り換え便のチケットの発券ができず,ホノルル到着後に改めてチェックインをする必要がありました。
しかし,不案内な空港で場所がわからず,やっと見つけたら今度は空港の自動発券機で認識されず,カウンタには長蛇の列。しかも,ハワイアン航空では私のデルタプライオリティの効力もなくと次の便のチケットの発券に戸惑い(旅慣れていない人・英語のできない人は無理)ました。予定より遅れてどうにかチケットを手に入れて荷物を預けなおして外に出たのに,今度はダイヤモンドヘッドへ行くバスがわからず戸惑い(何も調べていなかった)ました。でも適当に乗ったバスの運転手さんがとても親切で助かりました。
やっと着いたダイヤモンドヘッドは思ったより険しくて汗だくだくになりました。しかし,帰りに寄ったワイキキビーチは,ここがよく写真で見る場所だなあと少しは感激したものの,渋谷のスクランブル交差点のような混雑とツアー客の日本人ばっかしで東京と変わらないし,私はオアフ島はもう懲り懲りだと失望しました。偶然見つけたJCBのラウンジで一休みしましたが,当然ここも日本人ばかり。ハワイに来たことを後悔しました。
午後4時過ぎに渋滞して遅れるバスに乗ってホノルルの空港に戻って,午後6時発の予定が30分遅れで出発,ハワイ島のキロまで1時間で到着しました。飛行機はヒロで行われるモナークというフラダンスのコンテストに出場する若い女性たちで一杯でした。窓からオアフ島が綺麗に見えました。到着後,予約してあったレンタカーを借りて夜8時過ぎ,今日宿泊するアーロンズコテッジに着きました。 空には満天の星空が輝いていました。
ハワイ島はオアフ島と全く違ってのどかで気に入りました。これを知らずにハワイが語れるか,という感じです。
今日は1日が43時間もありましたがさすがにこの長さは初めての経験です。
ハワイ島は車もあるし,日本人ツアー客もあまりいないだろうからと期待しているのですが…。いいことあるかなあ。
この先の予定は全く未定です。

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