●日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士●
州道19は北東から南西に向かう道路で,そのまま南下すれば,私がこの日の朝州道200から左折してコナに向かった場所である。州道19が「/」で州道200が「-」という方向の道路だから,この2つの州道は「∠」のような形で交わっている。
したがって,そこには当然「△」になるショートカット道路が存在するわけで,それが「サドル・ロード」(Saddle Road=馬の鞍のような道路)と呼ばれる,狭く「~」のように波打ったエレベータ道路であった。お客さんへのサービスだろうか,ツアーバンはその道路を近道して州道200へ向かった。後日,私は自分でその道を走ってみようと思ったが,あまりの高低差にびっくりしたほどであった。
それが今日の1番目の写真である。
何度も書くが,写真のように,アメリカの道路はきちんと整備されていて,日本の道路とは違ってラインが消えかかったままとか変な色で塗りたくられているというバカげたことはないのだ。
そして,州道200に入って,さらにしばらく東に進んでいって,私が朝通ったときに見たマウナケア・ロードに接続する交差点を左折した。
そこから20分くらいマウナケア・ロードを登っていくと,標高2,800メートルのオニヅカ・ビジター・センターが見えてきた。マウナケア・ロードは,片側1車線の整備された舗装道路であった。
マウナケアの山頂は富士山よりはるかに高い標高4,205メートルであり,天文台の職員がそのまま一気に山頂にある天文台まで登ると高山病の危険があるので,このビジターセンターで一旦休息をとるのだということは知っていたが,ビジターセンターがどうなっているのかは知らなかった。
このビジターセンターがオニヅカという名を冠しているのは,ハワイ生まれの宇宙飛行士エリソン・オニヅカ氏にちなんだものである。
エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka)宇宙飛行士は日本名を鬼塚承次という日系人初のアメリカ航空宇宙局宇宙飛行士である。
彼は1946年ハワイ島コナでコーヒー農家を営む父の鬼塚正光と母の光江の間に長男として生まれた。コロラド大学へ入学して航空宇宙工学を専攻し,大学卒業時に空軍少尉を授かった。
そして,1978年,スペースシャトル計画第一期飛行士候補へ応募し選出され,1985年,スペースシャトル「ディスカバリー」に搭乗した際は箸で日本料理を食べ,日の丸の鉢巻や旗,ハワイのマカダミアナッツやコナコーヒーを持ち込み,ハワイアン音楽をかけていたという。
しかし,1986年,スペースシャトル「チャレンジャー」に搭乗した際,爆発事故により39歳で殉職してしまった。
本人を称え「マウナケア展望台ビジターインフォメーションステーション」が「オニヅカセンター」と名付けられた。また,コナ国際空港にある「オニヅカ・スペースセンター」には宇宙服などが展示されている。
このビジターセンターには一般観光客用の展示室とギフトショップがあって,建物の前の広場には太陽を見るための望遠鏡が設置されていた。そして,ビジターセンターからさらに上に,一般の観光客からは遮断される形で職員用の宿泊施設があった。
観光客が一般車で来ることができるのはこのビジターセンターまでで,この先は未舗装道路となるということであったが,この日,風が強く,ビジターセンターから先が閉鎖されていて,レインジャーがその監視にあたっていた。
ここはすでにかなりの標高なので寒く,このツアーで準備された防寒具を着用する必要があった。とはいえ,ここまで登ってきても,山頂に行くことができなければ,まったく意味がないのだった。ほかの一般客や我々のツアーのような別のツアーに参加した客が足止めになっていて,ビジターセンターはごった返していた。
May 2016
2016春アメリカ旅行記-あこがれのマウナケア②
●すばる望遠鏡のドーム●
ツアーバンはそのまま州道19を走ってハワイ島の西海岸を北上していった。そして到着したのがワイコロア・ビーチ・リゾート(Waikoloa Beach Resort)であった。
私はこの時点でもハワイ島についてはまったく無知であった。
ハワイ島の西海岸の中央に位置するのが私の宿泊していたカイルア・コナ,その北側がコハラ・コーストと呼ばれる海岸で,そこにはワイコロア・ビーチ・リゾートとかフアアライ・ビーチ・リゾートといったリゾートタウンが開発されていて,そこだけが自然から切り離されて東京舞浜のディズニーリゾートのような一角になっていた。
特に「日本人に人気なのがワイコロア・ビーチ・リゾート」というのが旅行社のパンフレットの売り文句だが,それは人気というよりも,日本の旅行会社がそこにターゲットを絞ってハワイ島ツアーを売りに出している,というだけのことである。このリゾートの中に入れば日本語も通じるし,レストランもホテルもゴルフコースもあるから,お金さえ出せば,そこで豪華に休日をすごすことができるというわけだ。
私のような個人旅行をする者にはまったく無縁の場所で,そんな旅なら私はしたくもないが,悪くいえば,野生にいる動物ではなく動物園にいる動物を見に行くのと同じようなものだ。そして,オプショナルツアーに参加しては,野生の動物を見るために動物園から出てくるわけである。
このリゾートタウンからも一組の家族が乗り込んできた。
こうして,今日のツアーメンバ-総計11人がまず連れていかれたのが,「ハマクア・マカダミアナッツ」(HAMAKUA)のショールームであった。その場所は,コハラ・コーストを北上したカワイハエ(Kawaihae)という町の近くにあった。ネットで「ハマクア・マカダミアナッツ」を検索されるとよいと思うが,これもまた,ハワイのなかなかのブランドなのである。
ハワイは世界的なリゾートだから,「ハマクア・マカダミアナッツ」にしろ「コナコーヒー」にせよかなり高価なものだが,「コナコーヒー」が高価なのは,すでにこのブログに書いたが,品質がすぐれているというよりもアメリカ唯一のコーヒー生産地であり,人件費が高いという理由のほうが大きいらしいが,ブランド品というのはそういうものなのである。
このショールームで結構な時間を費やした。なにせ,夕日をみて星空観賞をするだけのツアー,いくらハワイ島が広いとはいえ午後1時の出発では4時間以上の時間をどこかでつぶす必要がある。
そのあとバンは,カワイハエから州道19に沿ってハワイ島の山岳部に入っていって,ワイメア(Waimea)という美しい町まで行った。そこからマウナケア山を左手,つまり,東側に見ながら南下した。車の窓からマウナケアの山頂が見えてきた。このあたりでは,山頂にある天文台のドームがたくさん見られた。
私がこの日の朝,ヒロからコナまで来るときに州道200から見ることができたのは,たったひとつのドームであったが,ここからは,すばる望遠鏡のドームも眺めることができた。ハワイ島で地上からマウナケア山頂のドームをたくさん見ることができる場所はここだけなのである。
結局,この日,ツアーでは強風のためにマウナケアの山頂に行くことはできなかった。そして,後で書くことになるが,私は後日,マウナケアの山頂に行くことができた。しかし,もしそうしなかったら,すばる望遠鏡のドームを見る機会があったのは,ここの場所だけなのであった。実際,私以外のこの日ツアーに参加したメンバーは,ここで すばる望遠鏡のドームを見たきりに終わってしまったのだった。やがて,牧草地が広がる地域をすぎると,ここもまた溶岩が延々と続く大地になった。他のツアーメンバーにすればめずらしい風景だったであろうが,私は,ヒロからコナに来る途中にすでにこんな風景は見慣れていたから,別に,なんの感動もなかったのだった。
「平等」とは?-大切なことは学校では学べない。⑨
ある大学の入学試験の面接で,「幾人かの人にケーキを分けるとき,あなたならどうしますか?」という問いかけがあったそうです。私は,この質問で面接官が聞きたかったことは「平等」という概念だと思います。特に正解というものはなさそうなので,きっと,この問いかけで,受験者がどのような考え方をするのかということが知りたかったのでしょう。
何事につけても,「平等」というのは難しい概念です。特に,公的な立場では,「平等」は最も優先される事項であって,そのためにさまざまな工夫がなされます。
しかし,「平等という不平等」もあり,なかなか難しい永遠の課題です。
さて,ケーキを分ける話に戻りますが,平等に分けるにはどうすればいいのでしょうか。
私の頭の中にはバースディケーキがあるのですが,たとえ等分できたとしても,ケーキの上にチョコレートやらイチゴやらがのっかったものやらないものまであるので,「平等に」分けるということはかなり難しそうです。
そこで,平等に分けるという考え方そのものをあきらめて,とりあず,適当にケーキを分けてしまいましょう。そして,分けられたケーキの中からどれを取るかかという順番を平等に決めたらどうでしょう。
順番を決める方法で最も平等であろうと思われるのはくじ引きです。あるいは,手っ取り早くじゃんけんでもすればいいかもしれません。
世の中には,こうした,少し見方や考え方を変えたりすれば解決方法がみつかることがたくさんあります。また、「ケーキを平等に切るということと,平等に分けられていないケーキを選択する順番を平等に決める」という2つの根本的な違いがわかっていないこともたくさんあります。
たとえば,人を美しさで序列をつけると差別になって,人を学力で序列を決めれば平等になるのでしょうか? どうして人を美しさで序列をつけることがいけなくて,学力で序列をつけることは問題がないのでしょうか? 能力だって生まれながらにして平等ではないのです。そう考えると,大切なのは,人を序列化することではなく,生まれつきもっているその人その人の個性を十分に引き立たせることだと気づくでしょう。
平等というのは「機会が平等である」ということであって「同じように分け与えることが平等」ということでないわけです。
人それぞれ人生観も価値観も違うので,人の幸せというのは,偉くなることでも,お金持ちになることでもなく,ジグソーパズルで空いた隙間にきちんと入るピースをみつけるということなのです。
そう考えてみると,何でも順位をつけて序列化をすることが大好きなこの国の人の考え方は,根本的に最も「平等」とは程遠い,むしろ正反対のものだと気づくことでしょう。
2016春アメリカ旅行記-あこがれのマウナケア①
●マウナケア山頂は強風●
昼食を終え,私はホテルに戻った。今日の予定は,マウナケアの星見ツアーに参加することであった。午後1時にホテルに迎えに来るという話であった。
これまでにも書いたように,私がハワイ島に来た動機はマウナケア山に興味があったということだが,マウナケア山がどうなっているものかまったく見当がつかなかった。山頂まで自由に登れるものなのか,星を見ることができるものなのか,などなど,すべてのことがわからなかった。調べていくと,マウナケア・ロードは4WDのみ,と書かれてあったが,マウナケア・ロードそのものが何を意味しているのかさえ,よくわからなかった。さらに,ハワイ島の星空観察ツアーなるものがさまざまな会社から出ていて,そこには,山頂のドームの写真だとか,山頂からの日の出の写真だとか,星空観賞だとかが載っていたが,それがどういう行程で行われるかとか,星空観賞が自由にできるものなのかとか,そうしたことはまったくわからなかった。星が見られるのは天気次第ということもあるし,では,現地の天気がどうなのかなども,想像すらつかなかった。しかも,このツアーは結構高価で2万円弱もするのだった。
日本でも,星を見るというのは簡単なことではない。もちろん天気の問題もあるし,現地の状況すらよくわからないのに,深夜に人のいない山里まで行くというのは,慣れていなければたやすい話ではない。ましてや,ここはハワイなのである。だから,高価であろうが天気が悪かろうが,そのツアーが何ものであろうが,とにかく参加してみることにした,というわけだった。もし,この日の条件が悪ければ,明日以降も参加してみようとさえ,出発前は思っていた。
私がこの時期にハワイに来たのは,月齢の関係であった。本当は学校が春休みで日本人の多いこの時期を外してもう数週間早く来たかったのだが,あいにく満月であった。そして,今日の午前中にコナのホテルにチェックインしたかったのも,午後1時にこのホテルにツアーが迎えに来るからであった。
もし満月の時期がずれていたら,もう数週間早くハワイに来ただろうし,そうすれば,ワイキキビーチが日本人の家族連ればかり,ということもなかったから,私のハワイの第一印象も変わっていたかもしれない。そして,ツアーに参加しなくともマウナケアで星を見ることができるということを知っていたら,コナに宿泊していなかったかもしれない。それは結果論だが,そのほうがよかったのかどうかもよくわからない。
午後1時,ホテルのロビーで待っていたら,日本語を話すアメリカ人の若者が現れた。彼がこのツアーのドライバ兼ガイドであった。あいさつの後で切り出されたのが,今日はマウナケアの山頂は強風で,ビジターセンターまでは行けるがその先が閉鎖されている,ということであった。ただし,天候は回復基調で,閉鎖は解けるかもしれない,ということであった。そして,そういう条件でよければ,このツアーに参加してください,と言われて,書類にサインを求められた。
いきなりそんなことを言われても,判断材料が少なすぎてわからないのだ。
私は,明日ならどうか,とか,例年,どのくらいこういうことがあるかなどを聞いたが,わからないという答えしか返ってこなかった。それでは判断の仕様がないではないか。昨年の実績くらい公表すべきだと話したが,天気は毎年違うから参考にならない,という。
私が穿って思うに,海外旅行の現地ツアーというのは,概してそういうもので,悪くいえばぼったくりである。ただし,合法的な話だから,それを納得して参加するかどうかだけの話になるのだが,特に,日本人相手の現地ツアーというのは,旅行客が移動の手段がないことと言葉ができない,というふたつの点でこういうビジネスが世界中で成り立つわけだ。私はそのどちらも当てはまらないけれど,現地の事情がわからないという理由から,それを承知で試しに参加しようと思ったのだった。そして,今日このツアーをキャセルしてもそれ以外に予定もなかったから,ともかく行ってみることにした。
・・
私が乗り込んだバンにはすでに2組の家族が乗っていたが,このあとさらに1組の家族が乗り込むということだったので,彼らをピックアックをするために,海岸線を北上して走り始めた。
私は価値がわからない②-コーヒーと米とメモリーと
私は毎日のようにコーヒーを飲みますが,その味の違いはわかりません。というか,まったくこだわりがありません。同じように,お米についても,その味の違いがよくわかりません。
家の近くのレストランはご飯がおいしいのを売りとしています。そこは確かにおいしいのです。何を食べてもさほどのちがいを感じない私がそう思うのだから,きっと,本当にそうなのでしょう。しかし,お米そのものがおいしいのか,炊き方がよいのか,そういったところがわかりません。
また,お寿司が本当においしいと思うお店もあるのですが,それも,お米がおいしいのか,炊き方がよいのか,それとも,お酢がおいしいのか,よくわかりません。
「芸能人格付けチェック」なる番組がありますが,実は「見る目がない」というほうが安上がりなのです。
お恥ずかしい話,そんな私がハワイに行って,初めて知ったのが「コナコーヒー」でした。「粉」コーヒーではありません。ハワイ島のコナ(Kona)で栽培されるコーヒーのことです。
ホテルの部屋にあったコーヒーも当然コナコーヒーだったし,コーヒーショップで何度も試飲する機会もありましたが,だからといって,酸味が強いコーヒーだなあ,とは思いましたが,それだけでした。日本に帰って,コーヒー豆を売っているお店で,それまではまったく気にもならななかったのでその存在も知らなかったコーヒー豆の銘柄をみて,私は驚きました。「コナコーヒー」は高級品といわれている(らしい)「キリマンジャロ」に次いで値段の高いコーヒーでした。しかも,その値段というのが,一般のものの4,5倍もするのです。
だからといって,わたしは「コナコーヒー」を飲んで,あまりのおいしさの感動した,わけではないのです。
そういえば,同じようにお米の場合も,「魚沼産こしひかり」というものが,一般のものに比べて,やはり,数倍も値段がちがうのですね。
どんなものにも値段に差があるのは当然としても,その差のあまりの大きさに,私は驚きました。
しかし,そんなことをいってみても,値段の差というものは,お米やコーヒーだけでなくお肉でもそうですしワインでもそうです。私が思うのは,いくら差があったとしても,その値段の差ほどのものが果たしてあるものだろうか,ということです。
以前書いたように,「辞書」こそ出来不出来がかなりあるのに,値段の差などほとんどありませんし,CDだってそうです。小説の単行本もそうです。ベストセラーだから高い,ということもありません。その反対に,前回話題にした扇風機もそうでしたし,先日,私の使っているパソコンにメモリーを増設しようと思って調べた値段もまた,驚くことに純正品は80,000円もするのにそれと互換性のある台湾製のものならわずか7,000円で手に入れることができるということです。
味の違いがわからない私がこういうことをいってはいけないのでしょうが,実は,「コナコーヒー」はアメリカで唯一栽培することができるコーヒーなので,値段の違いはその味よりも「アメリカ」ブランドと人件費によるものだと聞いたことがあります。
これも以前書いたように「ブランド」というのは所詮はそんなものだ,と私は思っているのですが,ブランド品に身を包んでいる人にあえていいたい! わけではないけれど,学歴で人を判断するのが「愚」であるように,社会的な地位で判断するのも「愚」であるように,モノの価値を値段によって決めるのではなくて,そうしたものの本当の価値がわかるようになりたいものだ,ということです。
モノの値打も自分でわからない人は,所詮その人自体もそうみられているということなのでしょう。
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ⑦
●とりあえず,優雅に昼食を●
すでにチェックアウトをして片づけが終わった部屋があったから,私は,その部屋にチェックインすることができたようだった。アメリカのホテルでは,こうした融通のきくところとできないところがあるから,今回は運がよかった,というか。ハワイというところは,こうしたいい意味でいい加減な空気の流れるところのようだ。
私は,部屋に入って,荷物を片付けて,昼食をとるために再び外に出た。
ホテルからプールサイドを通り抜けると,そこはコナコーストで,海岸沿いに,レストランや売店などが並んでいた。多くの人が海岸通りをのんびりと歩いていたり,海を眺めていたり,思い思いにくつろいでいた。
私は,そのときはまったく自覚もなかったが,その場所こそがハワイ島観光の中心地コナコースト最大の見どころであるカイルア・コナ(Kailua Kona)なのであった。
つまり,この旅行で私が5泊するホテルは最高のロケーションだった,ということだ。
ハワイ島西海岸のほぼ中央に位置するカイルア・コナは太陽が燦々と輝きさわやかな空気と一面の美しい海が広がるリゾートタウンである。町はカイルア湾を囲むように形作らていて,海岸線に沿ってリゾートホテルやコンドミニアムが立ち,メインストリートであるアリイ・ドライブ(Alii Drive)の両側には500メートルにわたってショッピングモールやレストランが軒を連ねている。
高層ビルの立ち並ぶワイキキビーチとはまったく違っていて,のどかな田舎町という風情であり,団体観光客も日本人もほとんどいない。
私は,そんな素晴らしいところとはまったく知らずにホテルを予約して「ぬけぬけと」やってきたのだが,逆に知っていたら,そんなところで5泊もする勇気はなかったかもしれない。それほど,私は,無知なるがゆえにこの旅がツキにめぐまれていたのだった。
ハワイ到着のときに味わったハワイが大嫌いになったという印象もどこかに完全に吹っ飛んで,ここで私はその虜になってしまったのだった。
すっかり気が大きくなって,とりあえず優雅に昼食をとることにして,海岸沿いにあった「スプラッシャーズ・グリル」(Splashers Grill)という2階建ての建物の2階にあったレストランへの階段を昇っていったのである。
時間はまさにお昼時。とはいえ,混雑して待ち時間が必要,ということもなく,かといって,ほどほどに満席というのがこの町の素敵なところで,私もすぐに案内されて,メニューが手渡された。そして,普段注文することもない「フィッシュ・アンド・チップス」(fish and chips)なるものをオーダーしたのであった。そして,出てきたのが今日の最後の写真のものである。
今さらグルメでもない私が書く必要もなかろうが,フィッシュ・アンド・チップスとは,イギリスを代表する料理のひとつで,タラなどの白身魚のフライに棒状のポテトフライを添えたものである。イギリスではファーストフードとして親しまれていて長い歴史がある。
どう考えてもこれだけでは野菜が不足しているのだが,それは夕食で補うことにして,アメリカでは量が日本よりも多いから,お昼は適当にしておかないとえらいことになる。とはいえ,私が昼食をレストランでとるということ自体が,かなり珍しいことなのである。
私は,海を眺めながら,こんな夢のような旅が現実になっていることが,本当に今でも信じられないのであった。
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ⑥
●ここがコナコーストなのだろうと。●
州道200から左折して,1番目の写真のような片側1車線の州道190に入った。この道路は,通称「ママラホア・ハイウェイ」(Mamalahoa Hwy)という。景観もよく,極めて走りやす道路であったが,片側1車線で,しかも,坂道なので,めったにないが,自分の車の前に大型バスやトラックでも走っていると,追い越せず距離が稼げない。
このときの私は,はじめて走る道でもあり,この先がどうなっているかも皆目見当がつかず,単にカーナビに従って走っていただけであったが,ディスプレイの表示には,私の目指すホテルまではここからあと50キロメートル余り,つまり30分くらいということであった。
道路の周りは荒涼とした大地が広がっていて,溶岩だらけの真っ黒な,アイダホ州の「クレイター・オブ・ザ・ムーン」とおなじ感じになってきた。ハワイ島は火山島で,島のどこかしかもこんな状況であった。
そういえば,マウナケア山も,そのうち噴火でもしたら天文台は木っ端微塵となるのだろう… 以前,そんな記事を読んだことがあった。その記事には,数十年の周期でそういうことが起きると書かれてあった。私はそのとき,そんなところに天文台を作っても仕方がないのではないか,と思ったが,近頃は,そういったことが書かれたものもないし,それが真実かどうかも知らない。ただ,関西国際空港も実は地盤沈下に相当悩まされていて,現状を維持するためにずいぶんの予算が必要だというし,マウナケア山の天文台も作ればいい,というものでもなく,現状を維持することすら,結構大変なのだという話は読んだことがある。
道路や橋を作るのはいいが,それを維持するというのは,並大抵なことでない。しかし,日本では新しく作ることには情熱を燃やすけれど,維持するという視点が政治家に欠けている。
日本と違って信号も渋滞もない道路を時速100キロメートル近くの速度で走って30分以上ということなので,ずいぶんと距離があった。やっと周りに住宅街が見えてきたころに,道路はだんだんと坂を下り始めて,眼下には美しい海と大きな旅客船が見えてきた。
そのあまりに美しい景色に私は感動し,また,興奮した。ここがコナコーストなのだろうと。
州道190は海岸まで降りてきて,海岸を走る広い州道19との交差点に差し掛かった。
それを越えると,大きなショッピングセンターやレストランなどがあった。街路樹はヤシの木であった。さらに海岸に向かって走って行くと,道路は行きどまり,いや,直進方法は狭くなって,広い道路が左右に曲がるT字路のような感じの交差点になった。その交差点の左側前方にあったのが,私が今日から5日間宿泊する「コナ・シーサイド・ホテル」(Kona Seaside Hotel)であった。
私がこのホテルを予約したのは,単に安価であったこと,それだけだったから,全く期待していなかった。
同じときに予約した1日目のヒロのホテルは,ホテルでなくコテッジ,つまり,民宿だったから,私は,このコナの海岸沿いに位置したプール付きの,ゴージャスな -とはいってもハワイ島にあるリゾートホテルに比べればまったくたいしたことないのだが- ホテルに,かなり驚いた。
ホテルの駐車場に車を停めて,フロントに行った。まだ午前11時で,かなりチェックイン時間よりも早かったのだが,私は交渉に成功して,無事,ホテルの部屋を確保することができたのだった。
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ⑤
●「ああ,これを見に来たんだ」●
私は今回ハワイ島に来るのに,デルタ航空のサイトではヒロまでのフライトしか表示されなかったので,ここヒロの空港に降り立った。しかし,私がハワイ島に来るきっかけとなったマウナケア山へのツアーの送迎がしてもらえるのは,コナ近辺のホテルだけであった。
ヒロからコナへはかなりの距離があったことと,アメリカ本土とは違ってハワイ島の道路事情もよくわからなかったから,ヒロからコナまでの移動が不安だった。しかも,ヒロ到着は夜9時と遅く,ヒロでレンタカーを借りて,その晩にそのままコナまで行くのは無理だったので,仕方なく1日目だけヒロで泊まることにして,翌日の早朝にコナに移動して,残りの5日間をコナに宿泊することにしたのだった。
ヒロは天気が悪くコナは天気がよいという情報も,私がヒロでなくコナに連泊することにした理由だった。しかし,ヒロは蒸し暑く天気も悪くコナは爽やかで天気がよいと書かれてあるのに,どうして,コナでなくヒロに多くの人が住んでいるのかが,ハワイ島に来るまで私には謎であった。
こうしてやむをえず一泊したヒロだったが,望外の素敵なコテッジに泊まることができたし,翌朝はオーナーの奥さんにコテッジの周りを案内までしてもらうことができて,結果的にとてもよかった。
オーナーの奥さんによれば,ヒロとコナは文化も違えば,住んでいる人の人柄も全く違うということであった。
これもまた,私には興味深い言葉であった。
私は昨晩,真っ暗な中を空港からコテッジに着いたから宿泊した場所がどういうところかよくわからなかったが,早朝,コテッジをチェックアウトしてコナに向かうときも,単にカーナビに従って走り始めただけだったから,相変わらずどこをどう走っているのか皆目見当がつかなかった。
来る前に調べた情報では,ヒロからコナまではハワイ島を横断する道路があるということだったが,それはかなりの狭い悪路で,海岸線に沿って走るほうが安全だというような,間違ったことしか知らなかった。
この日の朝,コテッジの隣の部屋に宿泊していた日本人から,ハワイ島を横断する道路が整備されたから,以前のような悪路でななくコナまではとても便利になった,と聞いたのだが,私の運転する車のカ―ナビが案内する道路がその新しい道路を示しているのかどうかもわからなかった。
私は,こんないい加減なことしか知らずに,ハワイ島を観光し始めたのだった。
このハワイ島を横断する道路は,州道200といった。
この道路は,完成した暁にはヒロのダウンタウンまで達するのだが,まだ未完成で,ヒロの市街地からしばらくは狭い旧道を走り抜けていかなくてはならなかった。まるで日本の道路と同じような,情けない状況であった。
私は,ヒロの東にある空港よりも東に突き出た半島の付け根に位置したコテッジからヒロのダウンタウンを迂回するかのように高台の道を走りぬけて,ヒロ郊外の住宅街の狭い道路を,カーナビが案内するのに従って走っていった。そこは,生活道路のようなところだったから疑心暗鬼になっていが,カーナビに従うしか方法がなかった。ヒロからコナまでは2時間半くらいかかるということであったが,私は,お昼までにコナに到着できればいいので,そんなカーナビの表示にに従って走ることにした。
心配だったのは,午前中にコナに到着しても,早い時間にホテルのチェックインができるのだろうかということだったが,アメリカでは何事も交渉次第でなんとななるだろうと思っていた。
やがて,狭い住宅街の道路を抜けると,州道200に到達した。
そこは,片側1車線ではあったが,できたばかりの素晴らしい道路で,周りは高原ムード一杯だった。道路はどんどんと高度を増していって,高原ムードから,今度は溶岩だらけになった。右手には山が見えてきた。頂上に小さな白く光るドームを見つけたとき,私は,感動の極値に達した。
その山こそ,あこがれのマウナケア山だったのだ。
そのとき,私は「ああ,これを見に来たんだ」と思った。天気が悪いと聞いていたが,この日は快晴で,マウナケア山にも雲ひとつなかった。道路は片側2車線となり,標高が高いので周りには植物もなくなってきた。ときおり走っている車は,ものすごいスピードで私の車を追い抜いて行った。そのうち右に脇道があって,そこを右折するとマウナケア山へアクセスできるという表示があったが,それこそが天文台へ通じる道路だとはその時は思わなかった。
その道路を通りすぎると,今度は,マウナケア・ステイツ・リクリエーション・パークという,パークというよりもだだっ広い空き地があったが,そこが天体観測のメッカだとも,そのときは思わなかった。それを過ぎると,ものすごく広い敷地に軍の施設のような建物が建っていて,その遥か先には,ついにハワイ島の西海岸が見えてきた。そのころには,あれだけ快晴だったのにみるみる雲が迫ってきて,やがて雨が降ってきた。島の東側は雨で西側が晴れと聞いていたが,反対じゃあないかと思った。
さらに進むと州道200はそこで行きどまりとなって,道路はそこから南北に別れることになった。
アメリカの道路の素晴らしいところは,道路がこのT字路に差し掛かる手前に,わずかの段差が数回に分けて作られているので,自然にスピードを落とし,道路が左右に分かれることが認識できるようになっていたことだった。日本なら,そんな段差をつくらない代わりに,やたらとけばけばしい道路表示をいくつも作ったり,必要以上のガードレールを作ったり,道路を塗りたくったりして,美観も何もかもを台無しにすることであろう。
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁③
丸子宿で待望のとろろ汁の昼食をとっておなかを満たしたので,いよいよ今日の目的地・宇津ノ谷峠を目指して歩き始めました。
宇津ノ谷峠は丸子宿と岡部宿の間にある峠です。平安時代に書かれた伊勢物語に「蔦の細道」として登場するのがもっとも古い峠越えの道です。のち,豊臣秀吉が小田原攻めを行うために道路を拡張したのが江戸時代に東海道となりました。
明治時代になると「明治のトンネル」が掘られました。そして,大正時代には新たに別のトンネルが掘られ,現在は,昭和時代に掘られた2車線のトンネルが国道1号線の上り線として平成時代に作れた2車線のトンネルが国道1号前の下り線として使われています。
このように,この峠には2本の旧道と4世代のトンネルがあって,そのすべてが利用されているというきわめて興味深いところなのです。ただし,私が行ったときは,大正時代のトンネルは通行止めになっていて,通ることができなかったのが残念でした。
平安時代,宇津ノ谷峠は暗く険しい道がつづくわびしい峠道でしたが,晩秋の頃は蔦が赤松に染まり,それはそれは美しい「蔦の細道」であったようです。
「伊勢物語」には次のようにあります。
・・・・・・
やんごとなき御身ながら都を離れ,ひなの東路へさすらいのたびに出られる。より行き行きて駿河国に至りぬ。宇津の山にいたりて,わがゆくすえの道は,いと暗う細きに,蔦楓は茂りて,物心ぼそう,すずろなるめを見ることと思ふに,修行者あたり,かかる道にはいかでかおはするといふに,見れば,見し人なりけり。京に,その人の御もとにとて,文かきてつく。
駿河なる宇津の山辺の現にも
夢にも人に逢はぬなりけり
・・・・・・
高貴な身分の主人公・在原業平は,東国下りの途中,暗く細い「蔦の細道」の峠越えで心細い思いをしていたところ,偶然,京の知人の修行僧に出会ったのです。
業平は筆と紙を取り出して京にいる女性に手紙を書き,僧侶に託しました。
この哀愁と偶然性を求めて,後世になって,多くの文人墨客が宇津ノ谷峠を訪れて,峠を歌枕や主題にとりあげた多彩な詩歌が詠まれました。
こうして「蔦の細道」の名は文学史上,永遠に残ったのです。
明治のトンネルは,明治9年,2年の歳月をかけ開通した手掘りの有料トンネルでした。
のち,ガス灯の失火で通行不能となりましたが,明治36年にはレンガ造りのトンネルとして修復されました。現在もその美しい姿は残されいて,歩いて通り抜けることができます。
車はすべて国道1号線を通り抜けるので,こうした旧道やトンネルは車も走らず,当時の面影を美しくとどめていて,気持ちよく散策を楽しむことができます。
それほど険い峠ではなく,一帯はよく整備されていたので,さわやかな気候と相まって,私は,本当に,ここに足を運んでよかったと思いました。
丸子宿をぬけて,国道1号線にそった歩道を進み,歩道橋を渡ると山道になって,やがて明治のトンネルが見えてきました。
思っていたよりもずっと大きなトンネルでした。トンネル内は灯りがともっていて,とても美しい姿を見せていました。
トンネルを抜けると,峠を越えた旧東海道と合流しました。
時間があればもう一度この旧東海道を戻ってみようかと思いましたが,ほどなくして,国道1号を通るバスのバス停「坂下」に到着したので,とりあえず,バスの時刻表を見たら,偶然,ちょうどバスの来る時間だったので,そのバスに乗って帰ることにしました。
今回,ここに来るときに,バスの本数が気になっていたのですが,1時間に3本もあったので,この地は気軽に訪れることができることがわかりました。
バスは国道1号線で峠越えしたのち,旧東海道がそのまま拡張されて舗装された生活道路となっている岡部の市街地あたりからその道路に入り,岡部宿,藤枝宿と通って,JR東海道線の藤枝駅に着きました。岡部宿,藤枝宿のあたりは現在の商店街となっていますが,特に岡部宿あたりは本陣跡や大旅籠柏屋が歴史博物館として残っているようです。
「坂下」バス停から約1時間,ずいぶんの距離でしたが,車窓からの景色はこころ和みました。
私が今回歩いたように,JR東海道線の安部川駅で降りて,30分程度歩いて丸子宿まで行き,宇津ノ谷峠を越えてトンネルを出たところのバス停でバスに乗ると,JR東海道線の藤枝駅まで行くことができます。4時間程度のハイキングコースです。私は,広重の「東海道五十三次」の中でも岡部宿の絵が昔から大好きだったのですが,まさか,このような形で,岡部宿にも行くことができるとは思いませんでした。
次回は,今回行くことができなかった大正トンネルと蔦の小道を通って,ぜひ岡部宿まで歩いてみたいものだと思います。きっと,晩秋のころが素敵でしょう。外国人観光客でごった返す,人多すぎの京都には少しげんなりしていたので,そうした喧噪を離れて,昔の面影を残す,静かなそして江戸時代を彷彿とさせる静岡の旧東海道を歩くことは,私のこれからの道歩きの一番の楽しみとなることでしょう。
満ち足りた1日になりました。
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁②
丁子屋さんは歌川広重による浮世絵「東海道五十三次」の丸子宿にも登場するとろろ汁のお店としてもその名は有名です。創業は1596年(慶長元年)というから,何と今から420年前のことです。
しかし,明治・大正時代の丸子宿は,鉄道開通の影響で街道としての機能はほとんどなくしてしまいました。丁子屋さんも当時は「きたない店で,とても東京の旦那方のお口に合いません」と記されたほどだったようです。
現在の,浮世絵に描かれた丁子屋を再現した建物は,築350年の趣ある茅葺き屋根の古民家を1970年(昭和45年)に,12代目(先代)が移築したものだそうです。店舗の右側には「梅の木」,左側には「あんずの木」を植えて,背後に迫る横田山と共に広重の世界を偲ばせる造りとなっています。
この12代目という人がやり手だったということなのですね。そのために,私たちはこうして今の時代に広重の時代の思いにふけることができるというものです。
このお店が先なのか,丸子宿の保存が先なのかは知りませんが,その両方の効果で,この宿場町は実によい雰囲気です。現代の日本人の心のふるさとというのは,こうした江戸時代なのでしょう。
古民家なので,中に入ると,江戸の生活を感じられる囲炉裏や歴史を重ねた漆黒の柱などがタイムスリップしたかのような雰囲気を醸し出しています。歴史資料館も併設されていて,江戸時代の旅人が実際使用していた道具や広重にまつわる版画などの展示を楽しむことができます。
お店の中は増築に次ぐ増築で,広重の「東海道五十三次」の版画が並ぶ大広間「広重」や「芭蕉」「一九」「弥次・喜多」「徳川」「宗長」などの名前がついた部屋(はなれ)があります。どの部屋もそれぞれに個性と趣があり,時代も違うようです。
私が通されたのは「広重」という広間でしたが,この時間で,すでにほとんど満席でした。
ゴールデンウィークのときは,大変な混雑だったそうです。
この茅葺は消防法で現在はもう作ることができないそうで,吹き替えだけが許されていて,こうした建物を維持するだけでもたいへんそうです。
お客さんの多くは,というよりもほとんどは,このお店目当てに車やバスで来ているようだったのですが,これだけ趣のある宿場町を歩かない,という手はありません。
私は,日本の観光地というのは歩かなければなんの意味もないと思うようになりました。特に,静岡県の旧東海道や千葉県の佐倉,香取,埼玉県の川越など,どこも車で行って観光名所といわれるところだけを半日くらい観光してお土産買って… なんていう旅行なら,テレビの旅番組を見ているのと変わりはありません。それよりも,多少疲れるくらいの距離を歩きながら,その当時に思いを巡らせるというのが素敵です。特に,ここ丸子宿は国道1号線が並行して走っているので,旧道には車がほとんど通らないので,歩いていてとても気持ちのよい所でした。
いろんなメニューがあったのですが,やはりここでは定番ということで,とろろ汁に麦めし,味噌汁,香の物,薬味がついた「丸子」を注文しました。
とろろ汁のだしとして使われる素材はカツオだしで,自家製の白味噌に卵,静岡産の自然薯が深い味わいのとろろ汁に仕上がっています。食べ方がわからなかったので聞いてみたら,おひつから少なめの麦ご飯をよそって,とろろをたっぷりかけてよく混ぜ合わせてください,と言われました。
薬味に少々のお醤油をかけると,食べやすくなりました。
非常に量が多くて,少し早い昼食だったので少したいへんでしたが,やはり元祖だけあって,とてもおいしくいただくことができました。
一度は来てみたいと思っていた願いがかないました。湿度の低いしかも快晴の初夏の1日の最高の思い出になりました。
・・・・・・
梅若菜 丸子の宿の とろろ汁 (芭蕉)
けんかする 夫婦は口を とがらして 鳶とろろに すべりこそすれ (十返舎一九)
・・・・・・
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁①
お天気のよいときに,散歩気分でなんとく歩き始めた旧東海道ですが,ゴールデンウィークも終わり,人混みもなくなった5月18日,あまりの天気に誘われて,丸子(まりこ)宿を歩いてみることにしました。
それがまあ,なんというか,言葉で表せないのがもどかしいのですが,これほどの心が満ちた気持ちになったのはとても不思議なことでした。お天気がよかったこともあるのでしょうが,歩いていて,とても懐かしい気持ちになれる,ここ丸子宿のあたりは,そんな素敵なところでした。
昨年10月には薩埵峠を歩きました。そして,今年の1月は箱根峠を歩いたので,これで静岡県の旧東海道は3度目になりますが,今回も宇津ノ谷峠だから峠越えばかりです。
静岡県は海に面していて平坦なイメージがあったのですが,それでも結構こうした峠があるのものですね。江戸時代に東海道を歩くというのは並大抵なことではなかったということが実感できます。目的地は宇津ノ谷峠にある4つのトンネルだったのですが,その近くに丸子宿があるので,歌川広重の名作「東海道五十三次」の丸子宿に描かれた丁子屋さんのとろろ汁で昼食をとることにしました。
これまで,このあたりの国道1号線は車で通ったことはありましたが歩いたことはなく,これが初めてです。
そしてまたいつものように,ほとんど下調べをせず,行き当たりばったりの散歩と相成りました。
まず,コース自体がよくわからなかったのでそれだけは調べておいたのですが,宇津ノ谷峠は旧東海道20番目の宿場丸子と21番目の宿場岡部の間にあって,ともにJR東海道線の駅からは離れているので,最寄りのJR駅からバスに乗るか歩くことになります。JRの最寄りの駅は,西側からだと藤枝,東側からだと安部川からとなります。しかし,藤枝からはかなり遠くバスに長時間乗る必要があって,安部川からなら歩いて20分ほどで丸子宿まで行けそうだったので,東側から歩くことにしました。
朝8時に名古屋を出発して,安倍川に到着したのが午前11時ごろでした。
安倍川餅は有名ですが,安倍川駅は小さな駅で,ちょっとびっくりしました。そこからJRの線路沿いをすこし北に進んで,左折,丸子の町(アメリカならダウンタウンといったところ)を目指します。
すでにそのあたりでとても雰囲気がよくて,いやがうえにも高揚感が高まります。
人が生活するにはこのくらいの町が一番快適なのでしょう。
丸子は,現在の国道1号線に沿うようにして旧東海道が生活道路としてそのまま使われています。また,ここに住んでいる人の知性が高いのでしょう,町は美しく,両側には丸子宿の時代の面影をそのまま残しています。歩いていてとても楽しいところです。郊外学習の小学生たちと行き違い,気持ちよく挨拶してくれました。
本陣跡や脇本陣跡,そして,酒屋さんなどが続き,やがて,町のはずれ,丸子川にかかるあたりに,とろろ汁で有名な丁子屋さんはありました。お休みだったらどうしようと心配しましたが,のれんがかかっていて安心しました。ちなみに,お休みは木曜日ということです。
時間は午前11時30分頃で,まだお昼には少し早かったのですが,すでに多くのお客さんが店に入っていきました。
◇◇◇
東海道を歩く-往時の面影を残す薩埵峠①
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ④
●確かに南国であることを実感した。●
☆2日目 3月30日(水)
私がこのコテッジを予約したのは,単にヒロの空港から近かったことと安かったことだけが理由であった。なにせ,ハワイ島がどういうところなのかさえ,私にはまったく見当がついていなかった。かろうじてわかったのは,東海岸のヒロは天気が悪く,西海岸のコナは天気がよいということで,それが理由で私はコナをメインにしようと思ったのだが,到着した当日は夜も遅くそれからコナに移動するのは無謀だったので,その日だけはヒロに泊まることにしたのだった。
このコテッジはホテルではなく,要するに民宿であった。そして,アメリカでそういう類のところに泊まったことのない私にとっては,それだけでもとても素敵なところであった。
ここのオーナーは退職してここに民宿を開いたということで,母屋,つまり,住処のとなりに,3部屋の離れがあるというだけのものだったから,どおりでカーナビで検索しても見つからないはずだった。
次の日の朝,朝食,というよりも,となりにあった小屋のようなキッチン部屋に無造作に置かれたコーヒーやらミルクやらバナナやらから自分で好きなものをあつらえてきて朝食の支度をした。となりの部屋に泊まっていたのは日本人の夫婦で,挨拶したら,このコテッジが気に入ったので今年も来たという話をした。
私は,このときは,この場所がハワイ島のどういうところなのかさえまるっきし見当がついていなかったが,のちにいろんなことがわかってくるにつれて,このコテッジが隠れ家的宿として魅力的なものに思えてきて,この夫婦の選択が正しいことを認識した。
食事を終えてチェックアウトの準備をしていると,このコテッジのオーナーの奥さんが現れた。なんでもこれから近くを案内してくれるという話だった。
広いだけで手入れの行き届いていないように見えた庭だったが,そこに植えられていたのは,マンゴーであり,コーヒーであり,バナナであった。そう言われて改めて見ると,立派なバナナの実が生っているではないか。今朝食べたバナナは,ここで採れたものであった。このとき,私は,ここが南国であることを実感した。
外に出て,少し歩くと,海岸に出た。そこは岩浜で泳ぐことはできないが,波が高く,海はきれいで,それを見ているだけできもちがよくなった。
プライベートビーチだということだった。そして,海の向こうに見えるのがヒロの町で,その向こうがなんと! マウナケアだという言うでないか。天気の良い日には山頂の天文台のドームも見えるという話であった。そんな話を聞いているうちに晴れてきて,本当に山頂のドームが見え始めたのには感動した。
そう,私がこのハワイ島に来た動機は,マウナケアの天文台が見たかったからだった。
私は,このコテッジに一泊したきりで,このあとすぐにコナに向けて出発してしまったので,旅の最終日に再びこのコテッジのあった場所に行ってみた。そこは,この日に私の抱いていたものとはずいぶんちがったとてもロケーションのよい場所なのであった。
私は、何も知らず、ただ1泊するためだけに予約したコテッジであったが,そういう意味でも,忘れられないところであったし,とても良い選択であった。またハワイ島に来る機会があれば,その時も私はこのコテッジに宿泊することであろう。
ロボットが代わる仕事-そのとき人間は?
現在,もし私が学生なら,研究の対象として最も面白いと思うのは,ロボットです。
鉄腕アトムの時代は空事ではないようです。現在のスマホのように,きっとそのうちに一家に1ロボット,というか,ひとり1ロボットという時代が来るのでしょう。そして,ロボットに名前を付けたり服を着せたりしてかわいがるのです。日本人は,きっと。
そのころには,お年寄りの介護はロボットがしていることでしょう。
先日,「将来ロボットがとって代わる仕事は?」というアンケートとその結果が報道されました。その回答の中で,車の運転手というのが上位にありましたが,私は,これにはかなり懐疑的です。
確かに現在,運転の自動化が車メーカーでずいぶんと研究されています。しかし,車に限らず,カメラの露出ひとつとっても,自動化というのはなかなか難しいものです。カメラですら,自動化されていても実際は今でも手動のほうが思い通りにできるので何かと便利なのです。
車の場合は,それに加えて道路の状況が大問題です。
いつも書いているように,日本の道路はあまりに統一性に欠けていて,道路に引かれたラインひとつとってもものすごくいい加減で,一応人間である私にも,その規則性がよくわかりません。カーナビも時々間違えて,一方通行なのにその道を指示したりすることさえありますし,道路が多すぎて,別の道に誘導されたりもします。カーナビを利用してアメリカで走ってみればその差は歴然です。
さらに,雨や雪で道路の状況が悪い時が大問題です。これも,すでに何度も書きましたが,アメリカの車についている「オートクルーズ」というスピードを一定に保つ装置をオンにして雨天時に走ることは,命を奪うほど危険なものです。そうした条件をすべて把握しないで運転をコンピュータ任せにしてしまうととんでもないことが起きそうです。道路を走る分だけ飛行機を自動操縦するより難しそうな気がします。
このように,自動化には多くの問題があるのです。そういったことをすべてよく理解して,自動化を人間の不注意なミスを回避するための補助的な手段として使うのならとても便利なのでしょうが,そういう按配がよくわからない人が多いのです。そして,そういう人ほど機械のせいにして騒ぎ立てるのです。
その一方で,学校の教師はロボットが代わる仕事としてほとんど指摘がありませんでした。
確かに,本来,教育というのは,最も人間の力が必要な仕事なのでしょう。しかし,現実問題として,この国のやっている教育と名の付くことの多くは,そうした人間教育ではなく,問題集の答え合わせに過ぎないのです。そう考えると,むしろ,今,この国でやっているような「ドリラー」教育なら,真っ先にロボットがとって代わることができるのは教師なのでしょう。
・・
いずれにしても,ロボットが発達していくと,それをどう有効するのかということが最も重要な問題になってくるでしょう。それは,現在でも,スマホをどう活用するのかということが問題になっているのと同じです。
新聞に「親の手伝いをする子供はスマホをいじらない」とかいうバカげた記事が載っていました。私には,その「スマホをいじる」という言葉の意味することすら全く不明なのですが,これを読んだスマホひとつ満足に活用できない愚かな大人たちは,わが意を得たりと思っているのでしょう。
私は,混雑する電車の中で多くの人が文字通り「スマホをいじっている」のを見て,何をしているのかを観察するのが楽しくて仕方がないのですが,それらをすべて「スマホをいじる」という分類にするにはかなりの無理があります。
きっとこんな記事を書く人や,それを読んでわが意を得たりと思っている人たちこそ「その程度の」スマホの使い方しかできない人なのでしょう。
人間の歴史は,火を使うことから始まって,それ以来,科学技術の発達の歴史なのですが,そのほとんどは,戦争によって進化してきたというのが,歴史が教えてくれる現実です。
ロボットと力士が相撲を取って力士が負けてもきっと問題にならないのに,棋士が囲碁や将棋でコンピュータに負けると話題になるのはどうしてなのでしょうか。それはきっと殺し合いばかりしているくせに,人は賢いと自惚れているからなのでしょう。そう考えると,人は進化しているのか,本当は退化しているのか…。科学技術の発達が本当に人間にとって幸せなことなのか…,人は本当に賢いのか…。
将来,ロボットが進化すると,人は何のために生きているのか,ということが今以上に問われることになるのでしょう。
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ③
●ハワイの夜空には魅力がいっぱい●
到着したとき,オーナーは自宅のカーテンを開けはなった広い自分の部屋でテレビを見ていた。私は,窓から中を覗き込んで到着を告げたら,オーナーが出てきて入口のナンバーキーの番号を教えてくれた。チェックインはそれだけだった。
そこは,自宅の庭に作られた3部屋ほどあるはなれであった。私の部屋はそのうちの一番手前で,扉には挨拶の書かれた紙が貼ってあった。部屋は小ぎれいで,バスタブはなかったが,シャワーがあって,私にはそれで充分であった。
外に出てみると,街灯こそあったが周りは暗く,星が輝いていた。その星の輝きとか空の暗さというものが,日本で経験したことのないものであった。
コテッジには全面芝生の広い庭があって,そこまで行ってみると,日本とは緯度がちがうので,かなり高いところにオリオン座が輝いていて,それだけで私は感動した。今晩そのまま寝てしまうにはもったいなくなって,庭に出て星の写真を少しだけ写すことにした。再び部屋に戻って,わざわざ持ってきた三脚に簡易赤道儀を接続して,そこにカメラを取り付けて,再び外に出た。
問題は,北極星がものすごく低くて,極軸を合わせるのに手間取ったことだった。
このことはすでに書いたが,私が今回ハワイに来た動機は,もともとオーストラリアで南天の星をみようという話からだった。それが友人のドタキャンでハワイに代わってしまったのだが,果たして,いくら空が暗くとも,日本のように深夜に外出して,星空がきれいに見られる場所まで出かけて星の写真が写せるものなのかさえ,私にはわからなかった。
アメリカは広々とした大地が広がっているから,どこへ行っても星など見られると思うかもしれないが,それは大間違いである。この国は「公」と「私」がはっきりとしていて,どんな土地であれ,それが私有地であれば有刺鉄線ですべてが囲われていて,自由に入ることはできないし,たとえ入ることができても,通報されれば逮捕される。
また,田んぼのあぜ道というものも存在しない。
私は,このコテッジの庭からでもこれだけ美しい星空がみられることに,予想を超えてうれしくなったというわけだった。
私は,そこで,数枚の写真を写してみた。
しばらく待っていれば南十字星も昇ってくるに違いないが,きょうはまだ初日だったし,それはこれからの楽しみにして,部屋に戻って明日に備えることにした。
こうして,私の43時間もあった長い1日目が終わった。
ここで,ハワイの星空について少し書いておこう。
ハワイは赤道よりも北にあるから,南天の星空といっても,そのすべてがみられるというわけではない。有名なマゼラン星雲は見ることができない。しかし,南十字星は十分に見ることができる。
今日は,ステラナビゲータから,日本とハワイの星空を比べてみることにする。
それぞれ,1番目と2番目がこの時期の夜8時頃の南の空,3番目と4番目が夜10時頃の南の空である。日本では見ることのできないほんの20度くらい南の空には,すごく魅力的な星空が広がっているのだ。
夜8時頃の南の空には,オリオン座の南におおいぬ座があり,その遥か南,日本では地平線すれすれにしかみられないカノーブスがハワイではかなり高い位置まで昇っている。このカノーブスはこと座のベガに次いで全天で2番目に明るい恒星なのだ。それをハワイでは認識することになる。
夜10時頃の南の空では,特に南十字星付近の星空がかなり魅力的である。南十字星の西側には,宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で書いた暗黒星雲「石炭袋(コールサック)」がみられるし,東側には,りゅうこつ座η星付近の大散光星雲が輝いていて,肉眼でもはっきりと見ることができる。この南十字星を見るのに最も適しているのがこの3月末の時期なのである。
・・・・・・
天上と言われるサウザンクロス(南十字)で大半の乗客たちは降りてゆき,ジョバンニとカムパネルラが残される。二人は「ほんとうのみんなのさいわい」のために共に歩もうと誓いを交わす。その直後,車窓に現れた石炭袋を見たふたりは非常な恐怖に襲われる。
ジョバンニはカムパネルラをはげますが,カムパネルラは気の乗らない返事をしたのち,「あすこにいるの僕のお母さんだよ」といい残し,いつの間にかいなくなってしまう。
宮沢賢治「銀河鉄道の夜」
・・・・・・
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ②
●たった2年で完璧な日本語を話す女性●
バゲッジクレイムで荷物を受け取って,空港から外に出た。今ならよくわかるが,初めてヒロの空港に着いたこのときの私は,どこに何があるのか,さっぱりわからなかった。ただ,いかにも南国の小さな空港だという好印象を持ったことだけは確かだった。それはホノルルの空港に着いたときのがっかりした気持ちとは大違いで,私は,ここで,やっと夢のハワイに来たのだという実感がした。
空港を出てそのまままっすぐに進めば空港の駐車場に沿ってレンタカー各社のオフィスの平屋の建物があるのだが,そのときの私にはそれさえわからず,空港の係員に何度も「レンタカー?」と聞いては歩いていった。
公共交通のほとんどないハワイ島はレンタカーがなければ観光できないといっても過言でない。
すでに私はハーツのレンタカーが予約してあったので,カウンタにいた女性にハーツ・ゴールド・リワーズの会員証と日本の運転免許証を見せると,私の借りる車の置いてある駐車場の番号を教えてくれて,カーナビの入ったソフトケースを手渡された。書類にサインをすることもなく,手続きはたったそれだけだった。国際免許証の提示も不要であったし,駐車場からの出口にもゲートすらなかった。
私は,この旅の間で,結局,パトカーの1台さえ見なかったが,ハワイ島はそれほど治安がよいのだろうか? いや,それにしては,空港にこの数年で行方不明になった多くの子供たちを探すポスターが貼ってあった…。
車はいつものようにカローラクラス(アメリカのカローラは,日本のそれより2ランク大きい)の指定だが,今回はヒュンダイであった。
今日は,この後,そのまま一日目の宿泊先であるアーロンズコテッジ(Aaron's Cottage)というところまで行くだけだった。すでに夜の9時である。真っ暗な中,勝手もなにもあったものではない。空港から近いところで予約したのだが,その位置関係すらまったくわからなかった。カーナビでホテルの場所を入力しても,表示してくれない。仕方がないので住所を入力したらなんとか場所だけはわかったので,カーナビの指示に従ってゆっくりと車を走らせた。
わずか10分くらい走っただけなのだろうが,不慣れな夜の街はもっと長く走ったような気がする。カーナビで示した場所に到着した。そこは,狭い道路の行きどまりだった。しかし,周りを見渡してもホテルらしき建物がない。ただ,その狭い道路に入っていくわきに,アーロンズコテッジという小さな木の看板があったから,場所は間違っていないはずだった。
私は,道路のわきに車を停めて,ぽつんと電気の付いたある小さなホテルの入口に行って,そこにいた女性に私の予約したホテルの場所を(もちろん英語で)聞いてみた。すると,彼女は,確かに日本人ではないのだが,丁寧な,そして,上手な日本語で,日本語でよろしいですか? と私に言ったのには驚いた。それとともに,ああ,ハワイなんだ,となぜか思った。しかし,ハワイに住む人たちがみんな日本語を話すというわけではなく,これが例外だということがだんだんとわかってきた。
彼女は,日本に留学して2年間日本語を勉強したのだという。たった2年! なのに,ほとんど完璧な日本語であった。それに比べたら,10年も勉強? する多くの日本人の英語って一体全体なんなのだろう,と改めて思ったことだった。
彼女は,私を連れて,歩いてそのホテルの隣にあったアーロンズコテッジまで連れて行ってくれた。
私は,その場所を確認して,改めて駐車してあった車に戻って,車でコテッジまで行った。
私は価値がわからない①-今や普通の扇風機すらない。
扇風機が古くなって動かないので,新しいのを買おうと思いました。
扇風機が動かない理由はホコリが回転軸にこびりつくことが原因で,毎年片付けるときに掃除をするのですが,何年も経つと,それでもやはり,動きが悪くなります。今の製品はモーター自体が動かなくなるということはまずありませんが,ほこりは致し方ありません。
買うのはネットショッピングとしても,まずは下見ということで電気屋さんへ行ってみたのですが,驚いたことに,以前のように,日本の有名家電メーカーの品物がほどんどないかあっても値段が異常に高い,ということでした。
有名家電メーカーといったところで,東芝,シャープなどなど,もはや見る影もありませんが…。
皆さんは扇風機に何を求めますか?
扇風機など,羽根が回転して風を起こすだけのもので,値段が高いからといって,その風が冷たくなるわけでもありませんから,数段階の速度調節と,お休みタイマーがあれば,他に何の機能もいらないのです。
ところが,それだけの単純な機能のものが有名家電メーカーの製品にはほとんどないのです。というか,何のために必要か -きっとそれを買っても絶対に使わない機能でしょうが- わからないようなボタンがたくさんついていて,値段が安いものの10倍以上もする…これが数少ない有名家電メーカーの製品でした。
携帯電話だけでなく,扇風機すら,今やガラパゴスなんですね。風が高原にいるときのようにそよそよと吹こうが回転がランダムだろうがそんなことはどうでもいいんです。もし余分な機能があったとして,私がほしいのは,ほこりが軸にこびりつかない機能,それだけです。
きっと,有名家電メーカーは,安物を作っても儲からないのでやたらと要らない付加価値をつけることによって,利潤を生むような製品を作っているのでしょう。それは,スマホの普及で売れなくなったデジカメと同じ戦略です。それでもデジカメなら値段相応の違いは生まれても,扇風機に何が生まれるというのでしょう?
何件かのお店を周り,ネットも調べて,私が見つけたのは,名前を聞いたこともないメーカーの1,980円のお値打ち品でした。
付いているのは3段階の速度調節とタイマーだけでしたが,それで何の不便があるのでしょう。もし1年で壊れたとしても,この値段なら問題もありません。
この国の昔からあった有名家電メーカーは,いったいどこへ向かおうとしているのでしょうか。値段が高いからといって,別に壊れにくいわけでもなければ,アフターサービスがよいというわけでもなさそうです。
なんだか恐竜が巨大化しすぎて自分の体を維持できなくなっていく様のようなそんな気がしました。まるで日本そのものです。
2016春アメリカ旅行記-ハワイ島へ①
●ハワイは劇薬である。●
私がハワイ,つまり,オアフ島のホノルル国際空港に到着したときの第一印象は,なんと古臭い空港だろう,ということであった。アメリカ本土の空港は,そのほどんどがものすごく巨大できれいだ。それに比べて,ここホノルルの空港は,日本の空港とさして違いがなかった。そして,入国審査場までいきなり満員バスに押し込められたことと,乗継便の発券にずいぶんと時間と手間が必要だったことで,私のハワイの第一印象は最悪であった。そして,オアフ島を少しだけ観光して,その混雑さと日本人ツアー客の多さに,こりゃ,渋谷と熱海を足して2で割っただけのところだと確信した。
だから,私は,日本に帰って改めて書店に並ぶハワイの観光案内書や新聞に載っているハワイツアーの広告をみると,たかがこれくらいのところに行くのに何をこんなに大騒ぎをしているのだろうと感じてしまうのだ。
きっと,それは,ハワイ旅行に限らず,日本で起きるそのほとんどすべてのことも,きっと「この程度のこと」なのだろう。私はハワイから帰ってそう確信するようになった。こうした意味でも,ハワイは劇薬であった。人の価値観を変えてしまう。
そして,あとで書くことになるが,私は,この後ハワイ島に行って,ここで感じたハワイに関する第一印象の評価が全く逆転してしまう。そして今度は,ハワイ以外にどこにも行く気がしなくなった。これもまた,別の意味で劇薬であった。
さて,再びホノルル国際空港に戻って,私は搭乗手続きをして空港の中に入った。
ほどほどに食事をすることができる場所があったので,中華料理を食べることにした。2プレートでいくら,3プレートでいくら,というアメリカによくある「パンダエクスプレス」のようなフードコートの中華料理であった。
このことも後で書くことになるが,ハワイは物価が高く,特に食事はかなり高価であって,うまくその手段を選ばないと,お金がいくらあっても足りなくなる。
食事を終えても出発まではずいぶん時間があった。しかし,空港にはフリーWifiすらないから,時間を持て余してしまった。仕方がないから,私は,iPhoneの「メモ」アプリに,今日の出来事を入力していた。
やがて,出発時間が近づいてきたので,搭乗ゲートに向かった。
さすがにハワイ島に向かうハワイ国内線には日本人がまったくいなかった。その代わりに大勢いたのが,黒いTシャツとジャージを着た多くの女性たちであった。日本の女子高の修学旅行か,休日に部活の試合に向かう女子学生の集団のような感じであった。決して不快な集団ではなかったが,一体,彼女たちは何者であろうか,と思った。
そのうちのひとりに聞いてみると,「Merrie Monarch」だと言った。何度も書くが私はハワイにはまったく興味がなかったから,そう言われても,私には,その「Merrie Monarch」が何ものかわからない。
要するに,大阪駅でこうした女性の集団に出会って,聞いてみたら,「阿波踊りの連だ」と言われたのと同じことなのである。つまり,彼女たちは,年に一度,ハワイ島で行われるフラダンスコンクールに出場するグループの一団だということなのであった。
やがて,満員になったボーイング717(717なんて初めて乗った)は予定どおり離陸した。
窓からはオアフ島が美しく見ることができた。そして,ちょうど日没と重なって,夕日に輝くマウイ島が眼下に美しかった。ハワイに来たんだなあ,という歓喜の実感がわいてきた。
機内サービスは,写真にあるようなジュースであった。
アメリカ本土の国内線は,ファーストクラスでは時間や距離によって軽食が出る。エコノミークラスだと,自分の好きな飲み物を選ぶことができる。それに比べて何とかならないかと思うのが,日本の国内線である。
これもまたいつもの通り日本人らしい「不合理さ」というか,見せかけだけの「おもてなし」なのだが,何に対して私がそう思うかは,一度,日本とアメリカ本土の国内線を乗リ比べてみてください。
次第に太陽が沈んでいって,マウイ島の町の灯りが旅情をそそり,その後は雲の間から真っ暗闇な海が続いて,やがて,1時間弱でハワイ島に到着した。このときは,まだ,私はハワイも夏時間だと思っていたから,どうしてこんな早い時間に太陽が沈むのだろうかと不思議であった。
ヒロの空港は広々として,また,殺伐していたが,いかにも南国の空港だった。
私は,ついに憧れの地に着いたという高揚感に包まれたのだった。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす⑨
●何をしにハワイまで来ているのだろう?●
私は海岸から街中に戻ってきた。実は,電話を1本かける必要があったし,メールを確認しようと,Wifiの繋がる場所をさがしたかったのだった。
ハワイの最大の欠点は,Wifiが無料でつながらないということだ。
アメリカ本土であれば,空港はどこも無料Wifiがつながるのだが,ハワイはひと時代前の日本のような感じだった。あるホテルのロビーに入っていったが,そこもだめで,地元の人に聞いてみると,スターバックスとマクドナルドはつながるよ,ということだったが,スターバックスとマクドナルドが見つからないではないか。
ともかく,私は,そのホテルのロビーで電話をかけた。
私はSIMフリーiPhoneを2台持っていて(入れなおすのが面倒だから2台買ってしまった!),ocnモバイルoneのSIMを入れたものを日本では使っているが,アメリカではアメリカのSIMを入れたものを使っているから電話はアメリカの国内電話ということになるのだが,Wifiがつながるのなら050発信のIP電話を利用すれば日本国内とまったく同様に電話が使えるからとても便利なのである。
なんだか,せっかく便利な技術があるのに,近頃はそれをわざと使えないようにして不便にしていることのほうが多いのだ。
ホテルは日本からのツアー客でいっぱいであった。
ホテルからそのままビーチに面したレストランに出ることができて,さらにビーチまで出られるから,日本からハワイに旅行すれば,こういうホテルに宿泊して,昼間はビーチで泳ぎ,夜はそのレストランでハワイアンの生演奏を聴きながら食事をするのであろう。
私は,そうか,ハワイ旅行というのはこういうことをするんだ,と感心した。
私には縁遠い話だったので,ホテルのロビーで電話だけをして,ホテルから外に出た。
そのあたり,ショッピング街で,日本の多くのショップがテナントで入っているビルがあったので,中に入ってみた。このあたり,渋谷と違いがない。
そうしたら,偶然,そのビルにJCBのラウンジがあった。
JCBというカードは,アメリカ本土では,サンフランシスコやニューヨークといった日本人観光客の行くところ以外ではほとんど知名度がない。DISCOVERといったカードが使えるところならJCBカードも使えるので,巷でいわれているほど使えないわけでもないのだが,ともかく,絶対に便利なのはマスターカードなのだ。
アメリカンエクスプレスはロイヤリティが高いので使えない店が結構あって,アメリカンエクスプレスだけを持って旅行するのは無謀である。
ということで,私は,いつもは,アメリカンエクスプレスとマスターカードの2枚持ちで,現金はよほどでない限り使わないのだが(現金は20ドル札以上の高額紙幣は持っていても不便で使えないから10ドル札と1ドル札に限る),ハワイはJCBカードが結構便利だと聞いていたので,今回はJCBカードも持参していたから,そのラウンジを利用することにした。
ラウンジ内は,フリードリンクでWifiも使えたから,私には好都合であった。
ラウンジには日本人が結構来ていて,中には日本の新聞を読んで時間をつぶしていた男の人とかがいたけれど,いったい何をしにハワイまで来ているのだろう,と私は不思議に思った。
クーラーの効いたラウンジで体制を立て直して,ホノルル空港に戻ることにした。
空港には19番か20番のバスに乗ればいくことができるのは学習したから,少し待って20番のバスが来たから乗り込んだ。
ホノルルのダウンタウンは結構な渋滞で,思った以上に時間がかかった。また,公園にはホームレスも目についた。ともかく午後5時過ぎには空港にもどった。空港でまず夕食をとって,いよいよハワイ島に向けて出発することになった。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす⑧
●本当にここがワイキキなのかな?●
ダイヤモンドヘッドの頂上はすごい人ごみであったが,さわやかな風が吹いていて,私はここまで登ってくるのに結構な汗をかいたので,しばらくその風に吹かれていた。当然いるのは観光客ばかりだから,見知らぬ人に頼んで写真を写してもらったりした。
当然一度は来てみる価値があるところだ。というよりも,ハワイに来て,ここに行かない手はない。
私は,この日の数時間のオアフ島の滞在で,ダイヤモンドヘッドとワイキキビーチくらいは見ておこうと思っていたのだが,ダイヤモンドヘッドとハワイ島のキラウエア火山を混乱しているくらい,ハワイのことなど知らず興味もなかった。
オアフ島のそれ以外のところは,そのうちまた来たときに,レンタカーを借りていけばいいだろう,位に思っていたが,ハワイ島から帰ってみて,ハワイ島ですらたいした広さではないから,それより狭いオアフ島をすべて車で観光してもあっという間だな,と思う。
せっかく登ったのですぐに降りるのも忍びなかったので30分くらい滞在していたが,そろそろ降りることにした。
帰りは登ってくるときよりずっと楽であった。
下り終わると,どこぞやブログでみた「氷」と日本語の暖簾のかかった販売車が停まっていた。
あれだけの登山をするから,さぞかし売れ行きはよいだろう。
帰りは,バス停に来た適当なバスに乗ってワイキキビーチにでも行って,ハワイ気分を味わいながらだらだらと空港の戻ることにした。ホノルルのダウンタウンならどのバス停でも空港へ行く19番か20番のバスが来る。私はすでに「ザ・バス」についてはすっかり習得した。それ以外に考えていたのは真珠湾へ行くことだったが,行って戻るには時間が中途半端だったので今回はあきらめた。
ダイヤモンドヘッドの入り口までトロリーバスが来ているので,ツアー客,特に日本のツアー客のそのほとんどというかすべてはそのトロリーバスに乗り込む。私のように,そこからトンネルを抜けてバス停に行く日本人なんていない。
私は,前を行くピッツバーグから来たという人に,旅とはこうして歩くことに価値がある,とかなんとか言いながら同意を求め,そのままバス停まで歩いていった。バス停に着くと,私と同じようにバスを待っている人が数人いた。どうやら,みんなホノルルのダウンタウンに向かうらしい。
そこに1台のバスが来た。
私は何行きでもいいからワイキキビーチへ行くことができればよかったので,運転手に聞いて乗ろうと思っていたのだが,そのバスは回送であった。バスを待っていた人が先にダウンタウンに行くバスをそのバスの女性の運転手に聞いたら,その次のバス停からバスが出るから,この回送のバスに乗れば次のバス停まで乗せていってあげると言って手招きした。私も手招きされたので,一緒に乗り込んだ。
こういうことは,アメリカでは自然にありうるが,日本では考えられない。
そんなわけで,回送バスは私を含めた数人の乗客を乗せて(もちろん無料),次のバス停まで行った。バスを降りると,すぐに42番のバスが来たのでみんな乗り込んだ。
窓から外を見ていたら,間もなくワイキキビーチに着いたので,バスを降りた。
バス停からワイキキビーチは1ブロックというところであった。
海岸の見える場所にカフェがあったので,私は,そこで,シナモンロールとジュースを買って,海辺を見ながら昼食とした。
ああ,ここが,有名なワイキキか,と思ったら,なんだか感慨深くなったととともに,本当にここがワイキキなのかなと,ここでもなぜか実感がわかなかった。
そのあと,歩いて海岸まで行った。
ずいぶんと多くの人が海岸で楽しんでいた。やはり世界一有名な海岸だけのことはある。きっと一度でもここに来たら,それ以外の場所に海水浴など行きたくなくなるであろう。私は泳ぎに来たわけでなかったから,だた見ていただけだったが,海岸だけでなく,ハワイというところは,そのあまりの素晴らしさゆえ,それ以外のところに魅力を感じなくなってしまうという恐ろしさを持ち合わせているのだ。毒である。
そういう意味では,若いうちには行かないほうがいいかもしれない。
◇◇◇
Thank you for coming 130,000+ blog visitors.
海外旅行「2泊4日」の謎-1日はどこへ消えた?
旅をしていると当たり前になってしまっていることでも,旅慣れていない人には不思議なことがたくさんあるようです。
今日は,どうして海外旅行をすると,2泊3日ではなく2泊4日になるか,というお話です。そういうことすら認識していない人も多いようですが,その理由を説明してあるものも少ないので,ここでまとめておきたいと思います。
実は私も,1泊どこへいっちゃうの? と以前はとても不思議に思いました。
簡単のために,日本からアメリカの西海岸に行く場合で説明しましょう。
当たり前の話ですが,地球は丸く1日に1回転するので,当然,日本とアメリカ西海岸には「時差」があります。
北極から見たとき,地球は反時計回りに回ります。そして,日本とアメリカ西海岸は中心角が約120度あるので,時差は8時間あります。つまり,アメリカのほうが8時間早いのです。しかし,太平洋上に日付変更線があるので,時間としては8時間早いのですが,日にちが1日前ということになります。つまり,日本が4月2日の午後3時だとすると,アメリカの西海岸は4月1日の午後11時になります。正確には時差-16時間といいますが,午後3時から16を引くというのは結構大変です。24時間足しておいて,(3+24)-16=11なので,午後11時となるのですが…。
日本から西海岸に行くのに,時速約1,000キロメートルのジェット機で約9時間かかります。したがって,日本時間で午後3時に出発すると,3+9=12なので,アメリカの西海岸に到着するのは,日本時間ではその日の深夜12時,あるいは,翌日の午前0時,ということになりますが,時差があるので,アメリカ西海岸の時間では,同じ日の午前8時になります。
つまり,日本時間で4月2日の午後3時に出発すると,アメリカ西海岸の時間で4月2日の午前8時に到着するのです。時間が戻るのです。タイムマシン状態になるわけですね。
このように,日本を午後出発するとアメリカ西海岸に到着するのが朝になるわけです。もし日本を午前に出発すれば,アメリカ西海岸には夜中に到着してしまうのです。これで日本の出発が午後である理由もおわかりになるでしょう。
現地で2泊して,アメリカ西海岸の時間で4月4日の午前11時に出発して帰国するとします。このときは,出発するときの日本時間は4月5日午前3時です。日本に帰るには,ジェット気流の反対方向に飛行するので,少し速度が遅くなって約10時間かかります。したがって,日本に到着するのは,日本時間で4月5日の午後1時になります。
つまり,4月4日の午前11時に出発して,実質10時間しか過ごしていないのに,4月5日の午後1時に到着するわけです。1日と2時間過ぎているわけですね。
よって,日本にいる人からみれば,出発が4月2日の午後3時で,帰国が4月5日の午後1時だから,4日間の旅行をしたことになりますが,旅行をした本人は,その間に2泊しかしていないから,2泊4日になるわけです。このとき,1日目は40時間もあって,3日目(日本から見ると4日目と考えてもいい)は8時間しかないということになります。
ここでは直行便を例にしたので,到着したのが朝8時でしたがら,現地での自由時間が2日ありましたが,多くの場合は,国内線に乗り継ぎをします。私の旅行記をお読みになるとおわかりになるように,フライトはよく遅れるので,乗り継ぎには3,4時間くらいの余裕が必要なのです。
国内線に乗り継ぐと目的地に到着するのは夜,時には深夜になります。その逆に,帰りは早朝の出発となります。そうすると,2泊4日の旅では,実質,観光することのできるのは真ん中の1日だけということになります。簡単にいうと「日程-3日」です。だから,たとえば,6泊8日の旅だと,8-3=5となるので,観光できるのは5日間ということになります。なかなか8日の休みを取るのは大変だと思いますから,海外旅行というのは,今でも遠いものだということになるわけです。
この春に私が行ったハワイだと時差がマイナス19時間でしたから,1日目が43時間もありました。行きの飛行機を寝ないで過ごしてしまうと,到着した日はすでに20時間以上起きているのに,さらに15時間以上も寝ないで過ごす必要があるわけです。これでは時差ボケに悩まされます。それを避けるには飛行機に乗って夕食をとったらすぐに寝て過ごすのがコツです。「機内泊1日」とかかれた海外旅行のパンフレットもありますが,あれは行きのことであって,帰りのことではありません。
その反対に,帰りは帰国後にたっぷり寝る時間があるから,機内で寝てしまうと,翌日から寝られず大変です。
私は老婆心ながら,行きの機内でずっと映画を見たり,帰りの機内で気持ちよく寝ていた人たちを見ながら,余計な心配をしたものでした。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす⑦
●人がとても温かくやさしい国●
初めてのハワイで,バスから興味深く外を見ていたが,空港の近くの道路は広く,インターステイツもあったが,アメリカ本土よりも汚く,ごみも落ちていて,高架橋には落書きもあり,アメリカというより日本みたいで,ここでも私はがっかりした。もし日本が第二次世界大戦の敗戦でアメリカ領になってしまっていたらこんな国になっていたのではないか,と思えるような景色であった。それでも,現在の日本よりはマシであろう。
バスはホノルルのダウンタウンに入って行った。
窓から外を見ると,バス停にはそこに停まるバスの番号が表示されていたので,いかに準備不足の私でも,次第にどこで乗り換えればいいのかという見当がついてきた。
どの都市でもバスという市内交通は,はじめだけは戸惑うが,乗ってしまえばなんとかなる。乗客は決して裕福とは思えない人が多いのだが,とても温かみがあるし,おもしろい。特にアメリカのバスは,見知らぬ乗客同士でも話をしたり,助け合ったり,運転手も杓子定規でないから機転も利く。
ダウンタウンのあるバス停で車イスに乗った人がバスを待っていた。
バスが停まると,運転手は,まず,車イス用に座席が折りたたまれるスペースに座っていた乗客に立つように言った。そうして,座席を折りたたみ車イス用のスペースを作った。次に,バスの乗り口から車イスがそのまま乗り込めるようなリフトが出てきた。それに乗り込んだ車イスの人がそのまま車内に乗り込むと,車イス用のスペースに,運転手は車イスが動かないようにベルトで固定した。その間,結構な時間がかかったが,乗客は互いに座席を譲りあって,静かに待っていた。
この国がすごいといつも思うのはこういうときだ。人がとても温かくやさしいし,バスにそうした装置が当たり前につけられている。日本ではありえない。
バスに乗ってくる乗客の幾人かは私も含めた観光客で(ただし,バスで観光している日本人なんて私くらいしかいない),みんな,乗るときにバスの運転手にいろいろ聞く。そればかりか,走っているときさえひっきりなしに質問する人がいるが,運転手は親切に質問に答えたり,乗客ごとに降りるバス停を教えている。おまけに,2ドル50セントの持ち合わせがなく,5ドル札で乗り込んできた乗客には両替してほしいと乗っている乗客に呼びかけたりしていた。中には20ドル札一枚で乗りこんできたりする人さえ人がいて,それでも,そのたびに乗っている乗客に両替できるかと何度も運転手が呼びかけたりと,大忙しであった。そしてまた,多くの乗客が財布の中からお札を取り出して両替をし合ってそれに一生懸命に応えるのであった。
やがて「ダイヤモンドヘッドへ行く人ここで乗り換えだよ」という声が聞えたので,私は,運転手にお礼を言ってバスを降りた。
降りるときに,ダイヤモンドヘッドへ行くには,私の降りたバス停で今度は23番のバスに乗り換えるんだよと言われたが,実はそのバスが30分に1本しか来ないことを私は知っていた。そして,頻繁に来る2番のバスに乗れば,下車するバス停がひとつだけ遠いが,ダイヤモンドヘッドへ行くことができるということも知っていた。いい加減な私も馬鹿ではない。抑えるべきことだけはちゃんと抑えてある?!。
バス停に待っているのもドイツ人だったりイタリア人だったりと多国籍だったが,私はここでも彼らと適当に雑談をしながらバスを待った。やはり,バス停には2番のバスが来たので,ダイヤモンドヘッドへ行くと運転手に告げてバスに乗った。きっと,今回も,最寄りのバス停で教えてくれるだろう。
バスは次第にホノルルの郊外に出て,やがて,ホノルル・ズーという動物園を越えて,坂道を登りはじめた。
どうやらその先が目指すダイヤモンドヘッドらしい。
バス停で,ここがダイヤモンドヘッドだと運転手が教えてくれたので,どの方向に行くかを聞いてバスを降りた。
下車して,運転手の言ったように少し坂道を歩いていくと,その先にトンネルがあって,その狭いトンネルを越えると,目指すダイヤモンドヘッドの入口があった。このあたりになると,JCBだとかHISだとかJALだとかいう大きな名前を掲げたトロリーバスがたくさん停まっていて,日本人のツアー客がそのバスから降りてきた。ここは,箱根と変わらないと思った。
まず,ダイヤモンドヘッドに登るために入場料を払って,その先を歩いていった。
かなり暑い。私は,夏のポロシャツを着ていたが,誤算だったのは長ズボンだったことだ。ハワイはハーフパンツでないといけなかった。とはいえ,私は,ハワイ島へ行く旅の途中でそれは無理というものだった。しかし,想像以上に距離があって,暑さがピークに達しても,まだ,階段が延々と続いていて,これからまたハワイ島まで飛行機で行くのに,すでに汗だくだくでいやになった。
登っている観光客の半数以上が日本人の家族連れであった。
もういい加減にし~や,と思った先にも険しい階段があって,さすがにへばりながらどうにか狭い階段を登り切ると,そこが山頂だった。はるか北にはハワイの海岸線とワイキキビーチが美しく見えた。
写真でよく見る風景そのものがそこにはあった。
ここで初めて,ハワイに来たという実感がしたが,その反面,こんなものか,という複雑な気持ちだった。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす⑥
●「ザ・バス」に乗る●
私が成田から乗り込んだ機内は,普段私が乗るアメリカ本土までのフライトとは違い,ほとんどが日本人で,しかも,いかにも旅慣れていない「観光客」と,ハワイ旅行のの常連さんであった。私の席の隣にいたのは若い夫婦で,彼らは,友人の結婚式に行くのだと言った。
飛び立って約7時間でホノルルに到着した。
ハワイは時差がマイナス19時間である。実際は日本より5時間早いのだが,日付変更線を越えるので「5-24」と,こういう計算になる。1日が過ぎ,深夜0時になったときに朝5時からやり直し,といわれるようなものだ。
実際は,東に向かって7時間飛行をするのだから,到着したのがホノルルの現地時間は朝8時,日本時間では夜中の3時,ということになって,機内で楽しく映画を見ていた多くの人たちには,時差ボケという洗礼が待っている。私は,夕食の後,ひたすらアイマスクをして寝ていたが,それでも出発後わずか7時間で着いてしまったから,寝ることのできた時間は(私には十分であるが)4時間程度だった。今日は,1日が43時間もあるのだ。
下調べもせずハワイに来たので,当然夏時間だと思っていたが,なんとハワイには夏時間というものがなかった。私が考えていた日没時間より1時間早く日が沈むので,そのとき初めて私はびっくりした。
ホノルルで降りると,いきなりそのままバスに乗せられた。このバスが日本の満員バスみたいで,これで私は萎えた。私は,到着すると観光客はみな美しいハワイの女性からレイをかけて歓迎してくれるものとばかり思っていた(冗談)ので,これは常夏のリゾート地ハワイに全くふさわしくない歓迎であった。アメリカ本土の豪華で広い空港とは段違いであった。この時私は,芸能人もハワイに到着すると,ビジネスクラスもエコノミークラスも関係なく,まず,こんな満員バスに乗せられるのか? となんだかおかしくなった。
バスに揺られて,到着ターミナルに行き,バゲッジクレイムで荷物を受け取って入国審査,という段取りであった。私のカバンはプライオリティの札がついているから,すでに出てきていて並べてあったたからそれを受け取って入国審査場に行った。アメリカ本土と同じように「キオスク」という自動入国機があったから,いつものようにそれを操作して,出てきた書類を入国審査官に手渡すだけで,すぐに入国することができた。
ここまではよかったが,ここからが問題であった。
ツアー客なら,ここでツアーバスが待っていてそれに乗り込めば何の問題もなくホノルルのダウンタウンのホテルまで行くことができるのだろう。
私は,ハワイ島へ行く飛行機のチケッティングをしなくてはいけなかったのだが,それがよくわからない。
きちんとした案内所すらなく,その辺にいた空港会社の係員に聞いてみると,それは別のターミナルらしく向こうへ行けという。いい加減長い距離をカバンを転がしながら,指示された別のビルまで歩いていって,やっとハワイアン航空のターミナルに到着した。
しかし,そこにあった自動チェックイン機でいくら操作しても,私のフライトを検索してくれない。
有人のカウンタがたったひとつあったが,そこは長蛇の列であった。
これがまたアメリカらしいというか,私はそんなものだと思うのだが,これでは不案内な旅行者は何が何だかわからないだろう。もしこれが私の生まれて初めてのアメリカ旅行だったら,ここでくじけてしまうと思った。私は,だめもとで誰も人が並んでいなかったハワイアン航空のプライオリティカウンタへ行ってみたが,デルタのプライオリティの効力などまるでなく,お前はここではあの長蛇の列に並べ,と言われたのだった。
そんなわけで,私は,入国早々,ハワイが大嫌いになった。こんなところでぐずぐずしていては,ハワイ島までの便が出発する10時間の待ち時間にホノルル観光をしようという私の計画すら危うくなるではないか,と思ったのだった。
私の後に並んだ女性はアメリカ本土から所用でやっていたということだったが,私と同じように,こんなに並ぶの? と戸惑っていた。
その長蛇の列も,これもまたアメリカらしく,だらだらと,しかし,なんとなくさばけていって,やっと私の番になった。私の心配をよそに,ハワイ島までのフライトのチケットは即座に発券されて,その場でカバンを預けることもできた。こうして,チケットを手に入れるのに30分以上を要してしまったが,ともかく,私は身軽になってホノルルの空港を出ることができたのだった。
さて,次に,目指す目的地ダイヤモンドヘッドへ行くバスの乗り場を探そうとiPhoneを取り出したのだが,ハワイの空港のひどさは,フリーWifiが通じないということであった。本当にここはアメリカか? と思った。これでは,みせかけだけだけの自称「おもてなし」を自負する日本の観光地とさして変わらないではないか! 私のハワイ嫌いはここでとどめを刺された。
私のいいかげんな知識では,空港を出て5分ほど歩くと,9番のバスが来るバス停があって,それに乗れば,ダイヤモンドヘッドまで乗り換えなしで行ける,というものだったが,そのバス停が見つからない。というか,空港から外に出る歩道などどこにもない。
空港を出たところに,JALPACKと書かれたカウンタがあった。そこに日本人スタッフがいたから聞いてみたが,バスなんて乗らないから知らない,と言う。とりあえず,と言って示されたのが目の前にあったバス停であった。そこに来たバスの運転手に聞いてみれは教えてくれる,ということであった。彼らツアー会社のスタッフは個人旅行者がきらいである(ように感じる)。そして,自分で勝手に来たのだから,英語できるでしょ。だったら,日本人など頼らなくても自分ですればいいでしょ,という態度をとる。
このように,アメリカで働いている日本人というのは,「お客様は神様」という呪縛から放たれるので,日本とは違って不親切で融通も機転も利かず,やる気がないという日本人の本質が露呈される場合がある。また,その逆に,非常に優秀な場合もある。日本では,管理されてがちがちで言われたままにしか行動できない(させてもらえない)まるで個性のないロボットのような日本人の本性は,実は,国外に出ると,こうした2つの人種に分類されるというのが私の結論だが,私がここで出会ったのは前者のほうの日本人であった。
私はこのあてにならならない日本人を頼ることはやめにして,そのバス停に行った。
バス停には,親切なおばさんがひとりバスを待っていた。
おばさんに聞くとダイヤモンドヘッドへの行き方を丁寧に教えてくれた。世間話をしながらバスを待っていると,10分以上して19番のバスが来た。バスが停まると,おばさんは親切にも,運転手に,この男がダイヤモンドヘッドへ行きたいから,途中で乗り換える停留所になったら教えてやってほしいとまで頼んでくれた。
私は,2ドル50セントを払い,運転手からトランスファーを受け取って,バスに乗り込んだ。
ホノルルの市内バスを「ザ・バス」という。名前はすごいが,アメリカ本土の都市を走る乗りなれた普通の市バスと同じだ。
こうして,私は「ザ・バス」に乗ってダイヤモンドヘッドを目指したのであった。
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
昨年10月末にNHKBSプレミアムで「列島横断2,800キロ!ニッポン高速道路トラック旅」という番組が放送されましたが,好評だったようで5月7日にその姉妹編?「ぐっさんのニッポン国道トラック旅! “1号線” 東京~大阪の巻」が放送されました。
今回も,プロの運転手さんが交代で運転するトラックにぐっさんが同乗して,入れ替わりのゲストともに日本の国道1号線(国1)を東京から大阪まで走り抜ける,という番組です。
旅番組がやたらとあるのですが,単に名所旧跡を巡るものはもう出つくしていておもしろくもないので,このごろは,自転車で走るもの,山登りをするもの,ローカル線に乗るもの,路線バスに乗るものなどのいろんな趣向で,旅をしてその地方を紹介するというよりも人との交流をする番組が多くなってきました。
私はこの番組を見ていて,前回の高速道路もそうだったのですが,この国道1号線もほどんど走ったことがあると思い出しました。国道1号線といっても,わずか638キロしかないわけです。
番組として見れば,高速道路のときよりもずっとおもしろいものでした。
皇居の横を走っているのが国1とは知りませんでした。それはこの春私が成田空港からハワイに行ったときに成田に向かう自宅から東京まで高速バスに乗って東京駅を目の前にして渋滞に巻き込まれた場所です。
そしてまた,先日,箱根の湯元から芦ノ湖までバスで行ってそこから三島まで旧東海道を歩いたときに,旧道にまとわりつくようにあった車の往来の激しかった坂道も「国1」だったのです。そういえば,そのとき,番組で紹介された吊り橋も目撃しましたが,私はこうしてまた日本の景観が壊されていくのかと残念に思いました。その橋のあったあたりは道路工事中で,埃っぽく旧東海道も閉鎖されていて,自然が破壊されていく様しか印象に残っていません。
番組で出てきた宇津ノ谷峠の4つのトンネル,あの場所は旧東海道の丸子の宿として有名な観光地です。そこへも行ったことがありますが,車の往来の激しい「国1」は恒久的な渋滞をしていました。
そしてまた,私が唯一「国1」で気に入っている浜名バイパスがスキップされていたのが残念でした。
「国1」は名古屋から琵琶湖まではJRの東海道線や名神高速道とは違って鈴鹿越えの道です。そのあたり道路を走ってみると,名神高速道よりずっと変化に富んでいて,山深く魅力のあるところですが,ここもまた,廃業したドライブインが無残に残っていたり工場跡の廃墟などがその景観を台無しにして自然が破壊されただけの山道でしかありません。
私も若いときはそうでしたが,運転免許を取ったばかりの若い人にとれば運転をするのが楽しくて仕方がないから,この国はドライブのし甲斐のある興味深いところばかりで,いろんなところへ行ってみたいと思っていることでしょう。また,これまでは仕事に忙しくてろくに旅行をする機会もなかったけれど退職を機会にこれからはツアーバスなどを利用して旅行をしようと考えている人は,旅行のパンフレットをみてはどんな素晴らしいところかと思いを巡らしていることでしょう。
しかし,実際は,この国は,ゴールデンウィークや春の桜・秋の紅葉の時期なんてどこへ行っても混雑し,人だらけ車だらけで大渋滞して,ゆっくりと食事をするところすらないありさまです。また,そうでない季節ならさぞかし空いているだろうと思って足を運んでみると,実は道路工事ばかりだったり,あるいは,せっかくの美しい自然が無計画に破壊されていたり美観に配慮することなくガードレールやら看板やらが設置されていたり,つぶれてしまってテーマパークがそのまま放置され廃墟となっていたりするのが実態です。
この番組で走った「国1」も,映像ではどこも素敵な場所に見えましたが,実際は,郊外のバイパスをのぞけば,信号だらけ渋滞だらけで満足に走ることもできない道路ばかりなのに,何を急いでいるのか誇示したいのか,高級車ほどそれに似つかわしくないドライバーが傍若無人な運転をして後ろから煽ったり,何を勘違いしているのか,ロードバイクが渋滞する車の間を猛スピード走り抜けたり信号を無視して交差点を斜め横断したり暴走していたりするのが現実です。
銃社会アメリカというけれど,日本の道路のほうがずっと危険です。こんな国で職業ドライバーをしているトラックの運転手さんは,ほんとうに大変です。
日本のほとんどの所に行ってみてそうした現実を知ってしまった私には,今や,テレビの中でしか,魅力ある日本の姿を見,感じることなどできないんだなあという失望感しかありません。
それは,灰色の夜空の下でやっと写してきた星の写真をコンピュータ処理をして色を塗りたくって素晴らしい夜空に仕立て直すように,あるいは,家の周辺のどぶ川に泳ぐ魚やゴミだらけの街の小さな公園の片隅に咲く花をインスタグラムで加工して美しく見せているように,真実の姿を画像処理して,あるいは演出して,さもそれが本物であるかのようにして味わうことでしか,この国で旅をした気分にさせることは不可能なのでしょう。
こうした番組で旅情を誘う映像や旅先での出会いを見ても,私は,動物園で,人が動物を見るのではなく,動物が檻の中から人を見ている,そんな姿をなんとなく思いうかべてしまうのでした。
◇◇◇
「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす⑤
●ハワイで星を写すには●
出発を前に,今日は,今回の旅の準備について紹介してみよう。
3月にハワイに行くのに問題だったのは服装であった。私は,マウナケアで星を見ようと思ったが,そこはマイナス20度にもなるそうだから,その心配もあった。そして,せっかく行くのだから,見るだけでなく写真も写してきたいと思ったから,その機材の準備も考える必要があった。
いつものことだが,私は,旅の持ち物はなるべく少ないほうがいいと考えている。たてよこ高さの合計が115センチメートルという機内持ち込みサイズのバッグは通常2泊3日用と書かれて売られているものだが,私は,いつもこのサイズで15日くらいの旅行をする。つまり,ぎりぎりまで持ち物を減らすのだが,そのことと,今回の問題は,完全に反比例していた。
ハワイの天候は日本の初夏だということだったので,服装は夏に旅行するのと同じでよいと思った。
このことは前回すでに書いたが,日本のこの時期の服装で行けば着いた後でそれが邪魔になるから,私は,成田で飛行機に乗るまでなんとかなればいいと,半そでのポロシャツにヨットパーカーを重ね着していくことにした。
今回は3月だったからそれでよかったが,真冬だとどうするのだろう。お正月にハワイ旅行をする人がどういう服装をしているか聞いてみたいものだ。
それとは別の話だが,ハワイは10月から3月が雨季だから,天気だけ考えればハワイに行くのは6月が最もよいと,私は,今回行ってみてわかった。南十字星も夜の8時に南中する。しかし,ホエールを見るには2月までに行く必要があるのが頭が痛いところではある。
はじめに書いたようにマウナケアの夜はマイナス20度になるという話であったから,私は,いつも日本で冬に星を見るときの服装をもっていくことにしたが,それがかさばるのだ。今回の旅では,この防寒具が一番のかさになってしまったが,おかげで,その防寒具がクッションになって,折りたたんだ中にカメラの三脚や交換レンズを包んで入れることができた。
結果的に,マウナケアは私が思っていたほど寒くはなかった。というよりも,私がこうした気温になれていたということで,一般論ではないのだが,私には恐れていたほどのこともなく,日本の真冬に星を見るのと,さほどの違いはなかった。
これなら,将来,オーロラを見に極北の地に行っても,噂ほどのこともないだろうと思った。
そして,最後に問題だったのが,星の写真を写す機材であった。
現地で星を写せるものかどうかもわからないから,大きな機材を持っていくことは無謀であった。だからといって,もし写すことが可能なら満足するものを写してきたかったので,かさばるが,今回は星を写すために一眼レフカメラを持っていくことにした。それもなるべく小さくてしかも信頼のおけるものということで,ニコンD5300を持っていった。そして,いつも海外旅行に持っていくニコン1はやめにして,普段もこのカメラで旅の写真を写すことにした。
レンズは,魚眼レンズと35ミリの単焦点レンズ。それに,通常使用する18~55ミリのズームレンズの3本にしたが,これは結果的に大正解であった。ミラーレスとかスマホとかよりも,やはり,一眼レフカメラは使いやすかったし,望遠レンズは必要なかった。
さらに,星が追尾できるように,「ポラリエ」という簡易型の赤道儀とそれを載せるための小さなGITZOの三脚を持って行ったが,これもまた,大正解であった。国外で星の写真を写すには,欲張らずに広角レンズで星野写真を写すことを狙いとするのがよいというものだ。
なお,現地で設置するときは,今日の写真のように,緯度の低いハワイでは極軸はこんなに傾いている。
「ポラリエ」は回転を反転させて南半球でも使用できるので,将来南半球に星を写しにいくときも,この機材を持っていこうと思っている。
星を見るのも大変だ-この国で美しい星空を見るのは無理②
同じ名前の彗星ばかりでわかりにくいのですが,「パンスターズ彗星」という名前の彗星だけでもものすごくたくさんあります。現在,私の持っているような小さな望遠鏡で写真に写せるものだけでも夜空に3つ(C/2014S2,C/2014W2,C/2013X1)あります。
以前書いたことがありますが,パンスターズ(PanSTARRS)というのは人の名前ではなく「Panoramic Survey Telescope and Rapid Response System」という名の4台の望遠鏡で継続的に全天観測を行って地球に衝突する恐れがある天体を発見する国際プロジェクトのことです。2008年に,アメリカ,イギリス,ドイツ,台湾の大学や研究機関による共同運用が始まりました。
4台の望遠鏡は,ハワイ島のマウナケア山とマウイ島のハレアカラ山に設置された口径1.8メートルの望遠鏡で,これらを使って24等級までの明るさの天体を検出します。そうして見つけ出された彗星がすべて「パンスターズ彗星」と呼ばれるので,たくさんあるわけです。
そのうち「C/2013X1」という記号のついたものが,この5月,6等星まで明るくなって,地球に接近してきました。あいにく,月明かりがちょうど重なってしまいましたが,その月も彗星を追い越し新月に向かい,やっとその影響がなくなるこの5月5日からが見ごろ,ということで,私は,天気と相談しながら,この時期に写真を写すことにしていました。
理想は5月6日の早朝で,この日はちょうどみずがめ座η流星群の極大となる日でもあります。
しかもゴールデンウィークでもあり,もし,この日の天気がよければ,星が見られる数少ない場所は,それを写すために人が集まりそうで,私は,どこへ行こうかなと頭を悩ませていました。
「うるさ方」の方々と一緒に見る気にもならず,だからといって,そうでない人とはなおさら同席したくない,というのが,「孤独を愛する」星見人のつねなのです。
それととともに,先週,この近く(といっても車で2時間以上かかりますが)で私が理想と思っていた観測場所に久しぶりに行ってみて,ハワイの星空と比べてしまった私はその星空のひどさにひどく落胆したこともあって,半ばすてっぱちで,近くて明るくても人の来ないところで,しかも,彗星がみられる東の空がなんとか開けたいつもの海岸近くの高台に行くことに決めていました。
天気予報を調べると一晩中安定して晴れる一番条件のよさそうなのは5日の早朝。その調子だと6日は曇りそうだったので,5日に行くことにしました。この季節は夜明けがものすごく早く,なんと午前3時50分には夜が白み始めてしまうので,彗星の昇る3時ごろからの50分だけが勝負なのです。
現地に着いたのが2時30分ごろでした。予想よりも空が暗く,というか,すっかりあきらめ気味なのでもともと期待値が低いこともあったのにもかかわらず,さそり座といて座から夏の大三角のあたりに見事な天の川が輝いていたのには驚きました。
せっかくなので魚眼レンズでそれをなんとなく写したのが1番目の写真ですが,地平線近くの醜いほどの明るい光がショックですね。これがハワイとの違いということになりますが,それでも,天頂付近は,まあ,なんとか見られます。
そして,せっかくニコンD5100をローパスレスに改造したカメラを手に入れたのでその性能を確かめようと写したのが,2番目のはくちょう座北アメリカ星雲です。さすがローパスレスだけあって,赤色が見事に写し出されたので,満足しました。
そうこうしているとやがて彗星が昇ってきて,地平線上に双眼鏡で辛うじてペガサス座のα星が見えてきたので,それを基準に星をたどっていって写したのが3番目の彗星の写真です。
彗星は思った以上に簡単に写りましたが,地平線近くで空が明るく,この程度しかとらえることができませんでした。
写した画像をよく見ると,核がふたつに分裂しているかのようです。しかも,予想よりはるかに暗そうです。いずれにしても,彗星を写すことができたので,ホッとしました。
この彗星は,昨年の11月15日に一度,まだ暗いころに写したことがありますが,その時の姿からさほど大化けもせず,淡い綿菓子状のままなのが残念でした。今後1か月くらいは同じような位置で見ることができますが,この先もさほど高く昇らないので,ずっとこのような姿だと思われます。
ハワイから帰って日本の夜空を見て,日本ではよほどの山奥にでも行かない限り,時間をかけて郊外まで出かけてもさほど空の状況がよくなるというわけでもないのを私は痛感しました。この程度の空で「こんなもんだと諦めて」こうして適当に楽しむのが一番なのでしょう。
この夜は,明るい流星が時折流れ,夏の星座が南の空いっぱいに広がり双眼鏡を使えば星雲や星団がたくさん見えました。その帰り,東の空には月齢27.4の美しく細い月が,明るくなりはじめた東の地平線の上に気品高く輝いていました。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす④
●首都ではなく地方を見ればわかる●
ハワイの気候もよくわからなかったし,日本の3月はまだ寒かった。といっても,厚着をしていけば,現地で邪魔になる。私は,半そでのポロシャツにヨットパーカーを2着重ね着していくことにした。ところが,あるはずのヨットパーカーが1着ずっと見当たらなかった。それが,出発当日の早朝,ふとしたことで見つかったのがこの旅の幸運を暗示しているように思えた。
ただし,ハーフパンツを持っていかなかったことは失敗だった。ハワイは思った以上に常夏で,1年中ハーフパンツにポロシャツで十分であった。
成田からホノルルまでの便の出発が夜の8時だったので,名古屋からは朝7時発の高速バスで東京へ行くことにした。これだけ時間の余裕があれば,渋滞をしても大丈夫だろう。
バスはできたばかりの新東名高速道を渋滞もなく快調に進み,途中,遠州森のSAで休憩した。
静岡県に入ると雪をかぶった富士山が左手に見えた。思えば,この一年,ずいぶんと富士山を見たが,この雪をかぶった姿をみて,月日の流れを感じた。
バスは用賀までは順調であったが,世田谷の首都高速の入口でいつものように渋滞に巻き込まれた。しかし,この日はさほどのこともなく,午前12時ごろには東京都心にたどり着いた。ところが,人ばかり車ばかりの日比谷公園周辺は歩行者が交差点をふさぐので車が左折できず,バスはほどんど動かなくなってしまった。東京駅を目前に数十分ものろのろ運転,窓から見ているだけでも嫌になってきたが,運転手はもっとたいへんであろう。
首都東京は,オリンピックを控えどこに土地があるのかと思うのに新しいビルがどんどんと建設されている。この日は平日だったから,霞が関の官庁街からはお昼時でお役人が建物からどんどん出てくる。彼らが官僚とかいう人種なのだろうか? しかし,人混みの嫌いな私は,いくら頭がよかろうとこんなところで仕事はしたくないし,まったくもって東京は住む気にはならない都会だと改めて思ったものだった。
以前,戸井十月さんが,その国が国民を大切にしているかどうかは首都ではなく地方を見ればわかると言っていた。この国は,まさに東京だけが栄え,地方の退廃ぶりは目に余るものがある。そのとおりだなあ…,などと思っているころ,やっと,バスは東京駅のターミナルに到着した。
昼食をとるにもどの店も混んでいたので面倒になって断念して,昨年の7月のときのように,八重洲口から成田空港行きのJRバスに乗った。成田空港までは,予約も要らず1,000円で行くことができるから,これが一番便利でしかも早いのである。
空いていた窓側の席に座って出発を待っていると,次第に多くの乗客が乗り込んできて,車内は満席になった。私の隣には「爆買い」をして一杯の荷物を抱えた中国人が座った。
大体,こんなバスにあんなに多くの手荷物を抱えて乗り込むことが非常識で,私は空腹でもともと不愉快だったのにさらに輪をかけて不愉快になった。そればかりか,バスが動き始めると,今度は,買ってきたカレーライスを周りに匂いぷんぷんと振りまきながら食べはじめたではないか。私は,彼らのこういう無作法が嫌いで中国には行かないが,日本にあってもこんな目には遭いたくない。よほど声をあげてわめきたくなってきた。
気をそらそうと窓から外を見ると,高速道路のわきにはやたらと流通業の倉庫が多いことに気付いた。そして,そういう業者の名前がみんな「○○ロジスティックス」というのが不思議であった。流通業は「ディストリビューション=distribution」より「ロジスティックス=logistics」と訳すのだなあ,なんだか兵隊みたいだ,などとくだらないことをぼんやりと思っていた。
こんな感じでなんとか辛抱して耐えていたが,それも限界に達したころ,やっと成田空港第一ターミナルに到着した。
日本らしいぐちゃぐちゃの成田空港も,何度か利用するうちになんとか勝手もわかってきた。
まず自動チェックイン機で航空券を発券することにした。ところが,パスポートをなかなか読みとらない。それはいつものことなのだが,今回は現地の宿泊先を入力するところでつまづいた。現地のホテル名か住所を入力すればいいのだが,印刷して持っていた今回予約したホテルズ・ドット・コムの確認シートには,それが日本語でしか書かれていなかったのだ。
自動チェックイン機に慣れっこになっていて,何の準備もしてこなかったのがうかつな話であった。なんとか調べて入力して航空券を手に入れることができたが,今度はホノルルまでの搭乗券しか出てこない。私はホノルル経由でハワイ島のヒロまでいくのだが,ホノルルから先の航空券はどうなっているのだろう?
とりあえず,次に,家から空港まで送っておいた荷物を宅急便のカウンタで受け取ってきて,デルタ航空のカウンタで再び預けた。そのときに,ホノルルからの搭乗券は,改めてホノルルで発券してくださいと言われた。こんなことは初めてであった。
あとでわかったことには,ホノルルからヒロまではハワイアン航空で,ハワイアン航空はデルタ航空のコードシェアというのは名ばかりのことで,全く別のものであった。つまり,ハワイ島へ行くには,デルタ航空のサイトでホノルルまでのチケットだけを購入して,別に,ハワイアン航空のサイトでハワイの国内線を購入するべきなのだ。そうすれば10時間待ちなどというバカげたものを購入する必要などなかったというわけだ。
手ぶらになったので,成田空港のフードコートで適当にカレーライスの昼食をとった。その後,多くの人が並んでいる北ウイングのセキュリティを横目に,だれもいないプライオリティセキュリティをすんなりと抜けて,搭乗ターミナルに入った。
いつも思うのだが,天下の?(と日本だけが思っている)日本という国の,それも首都東京の空の玄関である成田という国際空港は,アメリカ本土の多くの空港に比べて,あまりにせまく設備も劣っている。フードコートのわびしさは,つぶれかけの田舎のスーパーマーケットのそれよりも悲惨で,たいしておいしくもないのに値段だけは異常に高い。
そんなわけで,この後の出発までの5時間,混み合っていて古臭い空港のフロアを避けて,私は,静かなデルタ航空のラウンジでゆったりと過ごすことにしたのだった。
2016春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす③
●「忘れたころの続編」のはじまり●
☆1日目 3月29日(火)
さて,今日からは,昨年の11月に「続編は忘れたころに」と書いた「「2016」春アメリカ旅行記」の再開である。ここで「2016」と「」をつけたのは2015と間違えないためであったが,今回から「」はつけない。
それを書いた昨年,つまり2015年の11月にはハワイのことなど何も知らなかったし興味もなかったのに,わずか半年で,今ではハワイがすっかり身近なところになってしまったのが,自分でも不思議だ。
全く行く気もなかったハワイ。50州制覇のためだけに,仕方なく行くことにしたハワイだったのだが,これまでずっと行かずにいたことが逆に幸いして,私は,この旅を思う存分に楽しむことができた。もしもっと早く行っていたら,今回のように,島中を車で走り周ることもできなかっただろうしマウナケアの山頂まで行くこともできなかったと思うので,これまでアメリカ本土を何度も旅行したのは,ハワイへ行くための予行演習だったようにも思えてきた。
ハワイへ行くというよりも,マウナケアで天文台と満天の星を見たいということだけが興味の対象で選んだハワイ島だったが,それが大正解になった。やはり,結局「旅は行ってみなくてはわからない」ということを実感したのだった。
私は,海外旅行の航空券をどう購入すれば一番よいのかが今もってよくわからない。果たして,旅行社に行ってカウンタで希望を話して買うのが一番いいのだろうか?
現在はデルタ航空のサイトで航空券を購入するが,以前はHISのカウンタで航空券を購入していた。そのときに,この航空券はなんとかの制約があるけれど,だから安いだとか,いろんな条件を付けて航空券を買わされた。しかし,そういう説明を聞いてもよくわからないから,結局は係の人のいうなりだった。しかし,いつも会社の都合のいいようにされていたようで,いまひとつ納得がいかなかった。
それは,携帯電話を契約するときに,その契約内容がよくわかりもしないのに契約するのと同じようなものだった。私はそれがいやだから,キャリアで携帯電話は契約しない。
現地ツアーにしてもパック旅行にしても,それが国内旅行にせよ海外旅行にせよ,そういうものに参加すると,自分には意味のない土産物屋に連れていかれるし,単に商魂に利用されているだけに思える。そしてそれはおそらく真実なのだろう。そこで,今では,多少損をしてでも,自分で自由に選んだほうが納得できると思うようになったから,例外を除いて,旅に限らずすべて自分で手配するようにしている。
ハワイ島で出会った日本人家族の人は,旅行社で全部コーディネートをしてもらって旅をしていたようだったし,彼らはそのほうが楽だと言っていたが,私からみると,その人たちの宿泊先はハワイ島のリゾートの中だったし,相場よりも高いオプショナルツアーに参加して毎日を過ごしていただけだった。
私はそんな旅行ならする気もないなあ,と思ったものだった。
今回も,アメリカ本土に行くときと同様に,デルタ航空のサイトで航空券を購入した。
しかし,ハワイ島に行くためのフライトは,成田-ホノルル-ヒロ,という経路しか表示されなかったし,どれもがホノルルでの待ち時間が10時間以上のものばかりだった。おまけに,行きと帰りの日にちによって,数倍も値段が違っていた。
私は,本当は成田ではなくセントレア・中部国際空港-ホノルル-コナ,というフライトで行きたかったし,そういう経路で飛行機は飛んでいたから,その方法がないとは思えなかったが,どうしてそういうフライトがネットに表示されないのかが,今もってよくわからない。
納得がいかなかったが,はじめてということもあって,とりあえず今回だけはその表示にしたがって,その中から一番安価なチケットを探しだして,ヒロまでの航空券を手に入れてハワイ島に旅立ったのだった。
◇◇◇
「2016」春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす①
「2016」春アメリカ旅行記-ついにハワイをめざす②
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州ボーズマン⑤
●クレイター・オブ・ザ・ムーンを再訪●
アメリカ大陸の大自然は,そういう風景を見たことのない日本人は無論のこと,観光でアメリカを訪れる多くの日本人にとっても無縁のものである。
アメリカを観光で訪れる日本人の多くは,ニューヨークやサンフランシスコやホノルルをアメリカだと思っている。あるいは,ラスベガスでカジノに興じるためにアメリカに来るのだが,ラスベガスまでの行程にある広大な砂漠の景色はバスの中で寝てすごすからである。そうした入門者がそれを卒業して中級者になると,はじめて大自然に触れて,グランドキャニオンに沈む夕日に涙するが,実際は,アメリカにはグランドキャニオンのような雄大な大自然はごろごろころがっている。
自分で車を運転して,自由にアメリカを走り,住んでいる人と交流するようになると,やっと,本当のアメリカがわかってくるのだが,そこまで行くためにのハードルは高い。
しかし,旅とはおいしいものを食べ,ショッピングをし,観光バスで名所を巡るものだと思っている人や,こうした風景に感動する感性のない人にとっては,アメリカの広大な大地は退屈なだけであろう。それはブルックナーやマーラーのような冗長なクラシックの名曲に何も感じないのと同じである。
価値観はひとそれぞれなのである。だが,こうした名曲や大自然に感動できるかどうかというのは,価値観が違うとか感性がないというよりも,それを味わうことができるまでのステップが遠すぎることがその理由であろう。
私は,これまで,幸い,数多くのアメリカの大自然を見たり,体験することができたことでそうした遠いステップを越えてきたが,それでもいつも不思議に思うのは,あたり一面がすべて真っ白な砂で覆われた大地のホワイトサンズがあるかと思えば,あたり一面が真っ黒の溶岩で覆われたクレイター・オブ・ザ・ムーンがあったりする,人間の力の及ばない大自然の姿である。
自然はかくも不思議なものである。
ウエストイエローストーンの町から右折して国道20をアイダホ州に戻ってきた私は,途中にある,クレイター・オブ・ザ・ムーンに,今回も立ち寄ることにした。すでに,昨年も来たところだったが,そのときは時間が十分になかったので短時間滞在しただけであった。そこで,改めてどういうところか,しっかり確かめてみたかったのだった。
昨年,初めてこの場所のことをを知ったとき,この地の名前が何を意味するのかすらわからなかった。「月のクレイター」という名前から,いったいどうしてアイダホ州に月のクレーターが? という感じであった。隕石抗でもあるのだろうか,と思った。
ここで余談。
日本語には,ひらがなやカタカナ,漢字と,多くの文字があるが,そのことが日本らしい複雑さを呈するのだ。
漢字は単なる文字を越えて,その背後に様々な意味を含んでいるから,便利な反面,煩わしいことが数多く存在する。
たとえば「障がい」という言葉である。そもそも「障碍」だったものが「碍」の字が当用漢字でないことから「害」があてがわれてしまった。そして,「害」という文字の持つ意味がよくないので,現在はひらがなで表記されるようになった。人権を全く考えない発言を繰り返す政治家や男女別姓を認めない最高裁,いじめを「仕込み」と称するこの国なのに,こういう形だけはこだわる(ふりをする)のだ。
「制服」は,英語の「uniform」と同一のものではなく,「制」という漢字のもつ「きちんとする,そうさせる」という意味が重くのしかかるから,学校では単に統一した服装をしていればそれでいいのではなく,服装指導ということを行うようになる。そして,それが行き過ぎる。
そもそも,差別というものは日本人が根にもつ本質なのだから,漢字や熟語の創成期からそうした差別が数多く存在する。「姑」は古い女だし,「嫁」は家に嫁ぐ女となる。「うちの嫁」という言葉をなんの疑問も持たず使う男どもは,その言葉の裏に,すでに差別意識が潜んでいることさえ認識していない。
単語ひとつひとつの意味を考えていけば,日本語という言葉自体が成り立たなくなってしまうほどだ。私は,そういう表面的な言葉以前に,日本人に根ざすそうした意識が変わらないことには意味がないと思うが,それもまた難しい話である。
さて,クレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園(Craters of the Moon National Monument and Preserve)は一面が火山性の玄武岩で覆われた約1,000平方キロメートルの地域である。
ここは単に完新世(最終氷期が終わる約1万年前)のころの古い玄武岩の溶岩原なのであるが,19世紀にこの地を見た数少ない白人たちは月の表面のように見えるという伝説を作りあげた。それは,この地域の保護を国立公園局に推薦するために,地質学者ハロルド・T・スターンズ(Harold T. Stearns)が1923年に「クレーター・オブ・ザ・ムーン」という名前を造り出したということである。
現在は,他の国立公園や国定公園同様に入園料を払って中に入ると,他の国立公園と同様に,ビジターセンターや博物館などがあり,公園内にはトレイルやキャンプ地が整備されている。
人間を月に送る1970年代のアポロ計画の訓練でもこの地が使われたが,本物の月に到達してみたら,この国定公園は月のクレイターとは似ていないということがわかった。しかし,それにもかかわらず,月に行ってみたらこの地は月とそっくりだったと宇宙飛行士が証言したというようなことが展示室に紹介されたりしているのが,また,アメリカらしいことであった。
私はクレーター・オブ・ザ・ムーン国定公園を2時間程度,車で周ったり,途中で車を降りてトレイルを散策したりした。そうして,再び,延々と道路だけが続くアイダホ州の大平原を数時間ひたすら走って,マウンテンホームに戻ってきたのだった。
この旅の3日目が終わった。
・・
私は,こうしてモンタナ州からアイダホ州に帰って来ました。いよいよ4日目からは2泊3日でキャンプに出かけることになります。キャンプの様子も引き続きこの「2015夏アメリカ旅行記2」に書いていきますが,それは少し先に延ばして,この「2015夏アメリカ旅行記2」はしばらく中断します。
そして,明日からは,記憶も新しい,この春に行ったハワイの旅行記を「2016春アメリカ旅行記」として先に割り込んで書くことにします。
辞書を買うならまず「みぎ」を引け-本物を見破るには?
たとえば,双眼鏡を考えてみると,同じ口径と倍率のものでも千円程度で買えるものから数十万円のものまであります。これほどの値段の差が適正なのかどうかはわかりませんが,レンズに使われているガラスの種類やコーティング,あるいはボディに使われている素材などによって,そこにはまったく異なる価値があるのです。
このように,外形が同じでも,品物の出来が違えば値段に反映されます。わかりやすいのです。
ところが,国語辞典という書物を考えてみると,その内容に良し悪しは絶対にあるのでしょうが,極端な値段の違いはありません。A社のものが千円でB社のものが数十万円,ということはないわけです。
しかし,辞書のように,それをきちんと作るのには途方もない時間や労力がかかるものに,そうした手間のかけ方がみんな同じ,ということはないでしょう。そして,それが,定価に反映されていないというのが,考えてみれば不思議なことです。
以前「新解さん」といった三省堂の「新明解国語辞典」の語句の説明がユニークで話題になったことがありますが,このように,著者の思い入れのある辞書もあれば,出版社の名前だけで売れてはいても,実際は,他の辞書の説明を適当にパクったり参考にして,手間もかけずに安易に作ったようなものもあるのに違いないと,私は疑りました。
ならば,買う人はどうやってそれを確かめたらよいのでしょうか?
そこで私はさまざまな辞書で「みぎ」という言葉の説明を調べてみました。
なぜ「みぎ」か? それは,単なる思いつきです。しかし,考えてみれば「みぎ」という言葉を説明することって大変ではありませんか?
実際に調べてみてまず私がとても驚いたのは,「みぎ」の説明で,「体の中で心臓のない側」といったものが複数の会社の辞書にあったことです。きっとどれかがマネをしたのでしょう。
さすがに,「ひだりの反対側」,そして「ひだり」の説明には「みぎの反対側」というものはありませんでしたが,昔は,そんな不真面目な辞書もありましたっけ。それは「みぎ」の説明ではなかったのですが,ある言葉を調べると「○○という言葉のいいかえ」と書かれていて,今度は○○を調べると,その反対のことが書かれていた,というようなものです。
私は,この「心臓のない側」という説明にずいぶんと憤りました。
その理由のひとつ目は,体の中で心臓のない側を「みぎ」という言葉に決めたのか? ということなのです。私はその反対だと思います。つまり,心臓のない側を「みぎ」という言葉で表したのではなく,はじめに「みぎ」ということばがあって,それが心臓のない側だったのです。逆なのです。
はじめにこの説明を書いた人はそんな当然の論理学すらわかっていないほど低レベルなのです。これでは「お箸を持つ方」と同じレベルです。そして,それをまねた辞書は,著者の名前は単なる飾りで,ゴーストライターが別の辞書の説明を何も考えずにパクってきただけなのでしょうか。
私が憤った理由のふたつ目は,人間には,体の臓器がすべて左右反対にある人がいる(内臓逆位)ということなのです。そういう人は「みぎ」が「ひだり」になるとでもいうのでしょうか? こんな説明では左利きの人の「お箸を持つ方」と同じレベルです。さらにいえば,この説明を載せている辞書は,そうした人間の肉体的な問題に対する配慮もない,つまり,人権を尊厳していないということなのです。これは辞書だけの問題ではなく,そんな辞書を販売している出版社の社会的な責任さえ問われるほどのゆゆしき問題なのです。
そういういい加減な説明の辞書とは反対に,私は「岩国」といわれる「岩波国語辞典」に載っていた「みぎ」の説明には感心し,感動しました。そしてまた,この「岩国」が定評のある辞書であるといわれている理由もよくわかった気がしました。
この辞書に「みぎ」がどう書かれれているかは,ぜひご自分でお調べください。きっとはじめはびっくりし,そして,納得すると思います。
私は,このようにして,辞書の価値を知りたいのなら,まず「みぎ」を引け,と確信するに至リました。
はじめに書いたように,これだけの内容,つまり「性能」の違いがあるのにも関わらず,辞書の場合は双眼鏡とは違って同じような値段で販売されているというのも,おかしなものです。だから,買う側が,そうした違いをしっかりと確かめる必要があるのです。
辞書は正しい言葉使いの手本となるものです。このようにどれでも同じというものではないので,優れた辞書を選ぶことが最も大切なことなのです。
2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州ボーズマン④
●遠いところでもなくなった。●
私は,帰国後しばらくしてこのブログを書いているのだが,当時の写真を見たり,写真を見ながらそのときに起きたことや見たことを思い出したりするだけで,今でも胸が熱くなる。
モンタナ州というこの愛すべき地に,私がそうした想いを抱くことができることに,深く感謝する。
・・
やがて,私は,ウエストイエローストーンに到着した。
ウエストイエローストーンは,イエローストーン国立公園に隣接した町で,人口は約1,200人である。オレゴンショートライン鉄道(Oregon Short Line Railroad)が完成した1908年に作られた町で,現在はイエローストーン国立公園を観光する人たちの宿泊先となっている。
北から南に進んできた国道191はこの町で行きどまりとなり,道は左右に分かれる。
このT字路を左折してそのまま東に進んでいくのが国道191でその道はイエローストーン国立公園のゲートに到着する。右折して西に進んでいくのが国道20で,この道はやがて私の帰路となるアイダホ州に達するのだ。
聞くところによると,この年のこの時期,イエローストーン国立公園は,まれにみる混雑ということだった。そして,その原因が現地に住む人にもわからない,ということであった。その南に位置するグランドテイトン国立公演が山火事で,そちらへ行く予定だった観光客がイエローストーン国立公園に流れたともいわれていた。
実は,アメリカの観光地は,確かにどこも雄大ではあるが,そのハイシーズンは,日本人が考える以上に世界中から多くの人が訪れて混雑する。私が前回,このイエローストーン国立公園を観光したのは9月だったからよかったが,この地を訪れたい人は,できれば7月~8月は避けたほうがよいように思われる。
しかし,9月も中旬を過ぎると急に冬が訪れてしまうのである。
確かに,ウエストイエローストーンに私が着いたときも噂通り観光客でごった返していて,イエローストーン国立公園方面に進む道路の左折帯は車の洪水であった。
私は,さして広くないこの町の中央にあった巨大なクマのモニュメントに覚えがあった。
あのとき宿泊したホテルは,そのクマのモニュメントの近くだったし,夕方,このあたりを散策して,公衆電話から日本に国際電話をしたのもこのあたりだった。もう,あれから10年以上の月日が過ぎて公衆電話も必要がなくなったし,この月日は,私にとって,この場所を決して遠いところでないものにした。ここからアイダホ州のマウンテンホームは目と鼻の先なのである。
私は,今回,イエローストーン国立公園へ行く予定はなかったので,そのまま混雑していない国道20のほうへ右折するのだが,その前に,この町で昼食をとることにした。
クマのモニュメントのあるロータリーの南にマクドナルドがあったので,車を停めて中に入った。
観光客で一杯の店内には,例によって中国人御一行様が店の中央に陣取っていた。一般的に彼らの特徴は,黒いレンズのサングラスをかけ,ブランド品のカバンを持ち,団体で行動し,声が大きく子供の態度が横柄であることだ。
星を見るのも大変だ-この国で美しい星空を見るのは無理①
将棋に「手順前後」という言葉があります。A→B→Cという順番に指さなければいけないのに,それをB→A→Cという順番に指してしまったためにうまくいかないということです。
私が大学生のときには北海道を一人旅するのが流行していて,こういう人を「カニ族」といったのですが,宿泊先は大抵はユースホステルでした。ユースホステルは連泊制限があったのですが,そんな規則はお構いなし,北の果ての利尻島と礼文島にはちょっと変わったユースホステルがあって,一度そこに宿泊すると,連泊が半ば強制されてしまい,他のところに行けなくなってしまったわけです。だから,これらのユースホステルに初日に宿泊してしまうと,せっかくの北海道旅行もこのユースホステルに宿泊するだけになってしまったわけですね。
今日は,物事には順序があった,というお話です。
若い人は覚えておくとよいと思いますが,人生,実は50歳からが地獄なのです。だから,50歳を過ぎて偉くなろうなどとは決して思わず,50歳で昇りつめる気持ちで生きることが大切なのです。50歳をすぎてローンを抱えているなんて最悪,子育ても50歳で卒業すべきなのです。そのためには,若いときにお金を借りて家を買う,というのが一番やってはいけないことで,この人の一生は,住宅ローンを払うだけで終わります。この国で家を買うのは財産ではなく負債になります。やるべきことの順序が逆なのですね。
家もそうですが,私は,実際はな~んにも考えずに生きてきただけなのに,結果的にそうしなかったのが幸運でした。そのおかげで,今,何の心配もなく好きなことをすることができます。そのひとつが海外旅行なのですが,今回ハワイに行ってみて,もし若い時に行っていたら,きっと,アメリカ合衆国50州制覇などする気も起きなかっただろうな,と思いました。これまでハワイに行かなかったからその魅力も知らず,アメリカ本土をドライブしたり美しくもない日本の夜空でたくさん星見をしてきました。その結果,はじめて行ったハワイ島なのに,自由気ままにドライブしたり星を見たり写真を写したりすることができたのでした。
やはり,物事には順序がある,ということなのですね。
さて,5月になりました。
1か月前マウナケアで満天の星空に感動していたのが遠い昔のようですが,また,新たな新月が近づいてきました。去る4月29日は,例のごとく絶対に晴れるという気象配置の晩でした。かなり風が強かったのですがそれも空気が澄むから幸いで,星見に行きました。明け方の東の空には待望の明るくなったパンスターズ彗星(C/2013X1 PanSTARRS)が昇り始めるのですが,新月前でまだ月が明るいのでそれは1週間後の楽しみに取っておくとして,この晩は日が沈んでからの3時間ほど星を写すことにしました。
しかし,写したい天体がないのです。あまり行く気が進まない…。これも,ハワイで見た満天の星空の影響なのです。結局,ずいぶんと暗くなってしまったリニア,パンスターズ、カタリナの3つの彗星とそのついでにメシエ天体を2つ写しただけで帰って来ました。
今日の写真は上から順に,9等星まで暗くなったリニア彗星(252P),10等星まで暗くなったパンスターズ彗星(C/2014S2 PanSTARRS),そして,ふたご座のM35と有名なおとめ座のソンブレロ銀河M105です。
この晩,星を見に行って私は失望しました。もう,この国はだめです。この国で美しい星空を見るのは無理です。どんな山の奥でもそんなところにある必要のない街灯が意味なくまぶしく光り輝き,か弱き美しい星の光を消し去っています。道路は消えかかったセンターラインを引き直すこともしないくせに,やたらと街灯だけを照らすものだから明るい必要のない周囲までもが光り,また明るすぎるので目にまぶしくて疲れるだけなのです。雨でも降れば道路は反射して輝いて,どこがセンターでどこが道路の端なのかもわからなくなって,決して安全でないというよりもむしろ危険なのです。
必要十分で控えめな街灯と,道路にきちんとひかれたラインがヘッドライトによる蛍光で明確に光り,走りやすかったハワイ島の深夜の道路が懐かしくなりました。これまではこんなものかと思っていたのに,ハワイで星空を見たために,日本でこんな絶望感を味わうことになってしまったのも,理想の姿を知ってしまったからなのです。これもまた,はじめにそれを知らなかったのがこれまではよかったのでしょう。
しかし,それを知ってしまった今,これからは,灰色の夜空しかない日本なんてとっとと捨てて,年に数回,ハワイやニュージーランドで星見をしようと,固く誓った夜でした。