しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

June 2016

今日は快晴の1日でした。
私がグレーシャー国立公園の拠点としたホワイトフィッシュのロッジに,ここに宿泊したゲストの出身地がマップにピン留めされてありました。私もピンを留めました。4本目の日本からのゲストでした。
昨日グレーシャー国立公園は全て制覇したので,今日は予定を早めてワシントン州に戻ることにしました。そして浮いた1日はノースカスケーズ国立公園に行くことにしました。
ノースカスケーズ国立公園はワシントン州とカナダ国境にある国立公園で,アクセスの入口はウィンスロップという小さな町です。グレーシャー国立公園から車で約8時間800キロメートルということで,今日は1日中ドライブでした。グレーシャー国立公園がいかに遠いかというのがおわかりになるでしょう。
インターステイツが通っていないので,国道2とワシントン州の州道20のふたつの一般道を走りました。
カリスベルを出て快調に70マイルつまり112キロメートルで国道2を走行中に,突然,道路の左から巨大なシカが2匹飛び出してきました。そしてそのうちの1匹が車の左側から激突,車は左側のドアミラーだけが木っ端微塵となりました。
シカは飛んで逃げて行きました。
走行に支障はなかったので40分走ってそのままカリスベルの空港のハーツまで戻って車を交換しました。今度はカローラです。
そんなことがあって,せっかく朝早く出発したのに予定から3時間遅れて夜7時にウィンスロップに着きました。
ウィンスロップは西部開拓時代のままの町になっていて,ここで空いたホテルを探してチェックインしました。
のどかで素晴らしいところです。夕日が綺麗でした。
本当に旅はいろんなことが起きます。今日が25時間あって助かりました。それにしても牛は出てくるしリスは横切るし野生の馬は道路の真ん中で動かないし。ついにシカに側面から体当たりされてしまうとは!
深夜外に出てみるとそこには満天の星。雲だと思ったのが全て天の川だなんて!
大自然を実感した1日でした。

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夜9時半になっても日が沈みません。夏時間で,かつ,夏至が過ぎたばかりとはいえ,こんなに遅いのでしょうか?
さすがに緯度が高いだけあります。
今回借りたのはGMシボレーですが,街中で目につくのはシボレーばかりです。以前は西海岸は日本車ばかりだったのに…。
ここグレーシャー国立公園は日本から来るにはとても不便なところ,そしてこんな時期に旅行ができる日本人も少ないので,一人として見かけませんでした。この国立公園の歴史は古くそのため随分と快適なところなのですが,日本での知名度はグランドキャニオンには遠く及びません。
昨晩計画を立てたようにして,今日は昨日とは反対に朝は国道2を東に走って,イーストグレーシャーから北上,昨日行ったトゥメディソン,セントメリーを通過して,さらに北のメニーグレーシャーへ行きました。天気が東から回復傾向なのも織り込み済みです。
メニーグレーシャーは最も遠く静かなところ,景色もよく一押しです。スイフトカレンレイクのトレイルを1周して湖のほとりのホテルでぜいたくな昼食をとりました。
その後さらに北上してカナダ国境まで行ってみました。思えばこれまでにも陸路カナダ国境を越えたことがあります。この国立公園は国境を越えるとウオータントンレイクス国立公園と名前を変えるのですが,カナダでは国立公園の定義が日本と同じなので自然保護より観光重視です。これはナイヤガラの滝も同じです。
国境を越えてしまうと時間がかかってホテルへ戻れないので今回は断念しました。
そこで国境でUターンして昨日ゲートを出たセントメリーまで戻り,昨日と反対に「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」を西に走りました。
途中,セントメリーレイクのクルーズに乗ったり,ローガンパス(標高2,025メートル)のヒドゥンレイク・オーバールックへのトレイルを歩いたりしたらアッという間に1日が過ぎました。
それにしても,ローガンパスのトレイルは大変でした。雪の中の坂道,というよりジャリジャリのゲレンデを幾度も滑っては助けてもらいました。途中で断念しようかとも思いましたがたどり着けて本当によかったです。おかげで,目の前でマウンテンゴートに会えました。
ちなみにグレーシャーとは氷河のことです。この国立公園は多くの氷河と雪解け水でできた湖から成ります。
昨日とは打って変わって一日中素晴らしい天気。風もなく暖かでした。今回も晴れ男パワー炸裂でした。

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以前に書いたかもしれませんが,アメリカ人の特徴は,どんなときも手をとてもしっかりと洗うということとハンカチを持っていないということなのですが,普段忘れているそんなことをアメリカに来るたびに思い出します。
シアトルからインターステイツ90は走ったことがあるのですが,ワシントン州を走っている間は周りの景色を見てもまるで覚えがなくアイダホ州に入って長くくねくねした坂道を走って記憶がよみがえりました。山の中を走るので景色はいいのですが,険しい道です。
今回はモンタナ州のマイルマーカー33で一般道に降りて,グレーシャー国立公園まできました。この辺りはどこまでも一直線の道路ばかりでした。
ホテルを出たのが朝6時半で午前11時には到着するつもりだったのですが,途中のガソリンスタンドで時差を越えていることに気づきました。つまり今日は1日が23時間しかないのです。ショックでした。アイダホ州は場所によって時差が違って昨日泊まったところは太平洋標準時,モンタナ州は山岳標準時だったのです。ということで,午前11時のはずが午前12時過ぎに到着しました。
この国立公園は広く観光する方法もひととおりでないので初めて来た私にはさっぱりわからず,ともかく,西のゲートであるウェストグレーシャーから入って東のゲートであるセントメリーまで走ることにしました。
それにしても西から風が吹いていて,途中のローガンパスまで寒いこと,そして雨。標高が高く道路はせまく思った以上に大変でした。人と車でごった返していた中間点ビジターセンターのあるローガンパスを過ぎたら嘘のように晴れ上がり,素晴らしい景色を見ることができました。
こうして3時間ほどで国立公園の「ゴーイング・トゥー・ザ・サン・ロードを横切りました。
ゲートを出て,東側を南下してトゥメディソンという穴場の湖にも寄って帰りは国立公園の南を走る国道2で半周してウェストグレーシャーに戻りました。
今日はウェストグレーシャーからさらに西に行ったホワイトフィッシュという町のスキーリゾートホテルに泊まっています。
今日で国立公園の様子もわかったので,今晩は明日の作戦を立てようと思います。

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8時間ほどのフライトでシアトルに到着しました。私の場合,アメリカ入国では税関申告書は不要で入国手続きもキオスクという自動の入国装置でよいのですが,その指示がいい加減で戸惑いました。同様に戸惑っている人がいました。その人はわけがわからずしかと申告用紙を握りしめていました。春にハワイに行ったときは不要のはずなのに書かされました。
今回の旅の目的地はモンタナ州のカナダ国境に接するグレーシャー国立公園です。これまで何度か行こうとして行けなかったところです。
シアトルからドライブするには少し遠いので国内線に乗り換えて国立公園の最寄りの空港まで来るつもりだったのですが,最終日に1日シアトルに滞在しようと考えてフライトをずいぶん探してもうまくいかず,結局シアトルから車で走る方が便利なので,車を借りました。900キロメートル9時間の道のりですが,インターステイツ90をのんびりと走ることにしたので,1泊目は5時間ほど走ってやってきたアイダホ州カーダーレインというリゾート地のホテルになりました。
それにしてもアメリカには日本人の知らないこのような美しいリゾート地がいっぱいあるものです。ここはカーダーレイン湖のほとりにあってダウンタウンには素敵なレストランがあり,湖にはクルーズツアーもあります。まだハイシーズンではないので程よい混雑さですが ,すごくいい街,この旅はここだけでもいいようなところです。
今日は予想に反してすごく寒いのですが,それも今日の天候のせいで,シアトルから東に山の中は小雨,その後高原では晴,アイダホ州に入って再び標高が高くなると雨が降り出して土砂降りになったのに夜はすっかり晴れ上がりました。まるでハワイの天気みたいです。
いよいよ明日は国立公園に到着します。

これを書いているのは6月24日の午後です。
日本は梅雨真っ盛り。蒸し暑くどこかへ出かける気にもならないので,シアトルに旅立つことにしました。しかし,今日は日本も涼しいです。
今回は成田の出発が午後4時過ぎのシアトル便なので,東京までは新幹線の「ぷらっとこだま」を利用することにして,朝8時頃に名古屋駅から乗りました。いつものように荷物は事前に成田まで送ってしまったので,小さなバックパックひとつにサンダルばきでやってきました。
八重洲口からは1時間,順調にバスで成田まで来ました。東京から成田はバスがオススメです。
これで1年で4回目の成田です。来るたびに思うけど,それにしてもボロい空港です。
成田空港では早速チェックインをして昼食をとり,出国しました。並んでいると後ろに喧しいおばさま方が数人,なんでもポートランドへ遊びに行くそうです。漏れ聞こえる話ではしょっちゅうパリやらロンドンやらに行っている様子ですが,それならニューヨークへ行った方が…。ポートランドへ何をしに行くのやら…。アメリカの大自然は車がないとどうしようもありません。
搭乗案内まであと1時間です。今はデルタスカイクラブのラウンジでまったりと過ごしています。
話は変わりますが,イギリスEU離脱です。残留が織り込み済みだった相場は予想外のことということで乱高下しています。おそらくこれでリーマンショックの再来でしょうが,数年もすればすっかり元に戻るので今が買いのチャンスです。投資家,及び,お金儲けをしたい皆さん,10年に一度のバーゲンセールがやってきました!  そしてアベノミクスで気をよくして高値で投資をしてしまった素人さん,試練のときがやってきました。今動揺して損切りしてはいけませんよ。人間はこんな歴史をずっと繰り返してきました。
私はそんなことはどうでもよく,それより海外旅行では円高ドル安になったのが嬉しいです。
では今回も恒例の現地からのLIVEをお楽しみに。

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●残るはホェールウォッチングでしょう●
☆4日目 4月1日(金)
 予想以上の展開になった3日間が終わって,4日目になった。
 1日目はオアフ島の観光でいろいろなことがあったが,ともかく,ダイヤモンドヘッドとワイキキビーチへ行って,一般にいわれるハワイというところがわかったような気になった。そして,その日の晩にハワイ島にやってきた。
 2日目は星空観測ツアーでマウナケア山に行き,強風で楽しみにしていた山頂に登れなかったが,ビジターセンターで満天の星を見,ホテルに帰ってからコナコーストで南十字星を見た。
 3日目はハワイ島の南部分を半周して,最南端の地とキラウエア火山へ行った。

 これで,曲がりなりにも不完全ながらハワイ島に来た目的は達成した。さて今日は,ハワイ島といったら残る見ものはホェールウォッチングでしょう,ということで,昨晩,ツアーをネットで探していたらVELTRAというサイトでツアーの予約ができたので,今日の午後のツアーを予約した。ツアーの開始は午後だったから,それまでの時間はホテルから海岸沿いを北上して,ハワイ島の最北端ノースコハラまで往復することにしたのだった。ノースコハラまでは往復3時間程だということであった。
 
 さて,今日の朝食である。
 昨日は食事でちょっと贅沢しすぎたので,今日からは日常に戻ることにした。なにせ,ハワイの食事は高すぎるのである。そこで目を付けたのが,州道190と州道19との交差点にあるコナコーストショッピングセンターの一角にあったフードマーケットKTA Super Storesである。朝は早く午前6時頃から夜は遅く午後11時までやっていた。中に入ってみると,ほとんど日本のフードマーケットと同じで,サンドウィッチやお寿司やお弁当まで売っていた。
 さすがにハワイである。アメリカ本土とは違う。日本食もたくさん売っているし,こういうところがハワイは日本人に住みやすいところだと実感する理由なのである。
 私は,ここでサンドウィッチを買った。これをこれから毎日朝食にすることにした。さっそくホテルの部屋に持って帰って,コーヒーを入れた。

 朝食を終えて,いよいよ最北端に向けて出発である。
 ハワイ島は私のいるカイルア・コナから北の最北端までずっと海岸線に沿って道路がつながっているが,最北端から先の南東の北海岸に沿っては道路がなくなり,数キロメートルにわたって断崖絶壁である。この部分だけは迂回をしなければならない。
 その迂回路を通って再び北東の海岸線にもどるとそのまま海岸線を通って東海岸のヒロまで行くことができる。それは後日行くことにして,今日は,迂回路の途中で南側に折れて,一昨日の星空観察ツアーのときに走ったワイメアという町に出て,そこからホテルに戻ることにした。

 西海岸を州道19でどんどんと北上する。これも一昨日星空観測ツアーで通った道路なのであるが,自分で運転してみてはじめて道路がよくわかる。きょうの午後参加する予定のホェールウォッチングツアーが出発するハーバーは,ホテルから北に10分ぐらい走ったところにあるホノコハウハーバー(Honokohau Harbar)であったので,とりあえず先にそこに行ってみることにした。
 道路標示に従って州道19を左折してハーバーに行くと,そこにはレストランやら船着き場やらがあった。昨日西の海に沈む夕日を見ようと海岸の見える場所を随分と探したのだが,ここなら見られたのに,とそのとき思った。私の参加するツアーの事務所兼土産物屋BITE MEもすぐに見つかったが,まだ早朝なので閉まっていた。ともかく場所の確認ができたから,お昼までにそこに戻ってくることにして,再び州道19に戻って北上を開始した。

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●IHOPで夕食をとる。●
 ハワイ島の南部を半周してヒロに到着。ラッシュアワーのヒロの道路を走って州道200に戻ってきた。
 今日1日でハワイ島を一周するつもりだったが,さすがに残りの北海岸を半周する時間はなくなった。しかし,ハワイ島に6泊という余裕の日程だったから,今日はこのままホテルに戻ることにした。
 一昨日ハワイ島のヒロに到着して一泊,昨日の朝ヒロからカイルア・コナに向かって初めて走った時と全く同じルートであった。
 何度も経験したことだが,旅というのは初めて行ったときにあれほど勝手がわからなくても,一度行ってみると,もう何年も住んでいるような気になるものである。それは,公共交通を利用するときでも同じである。
 ここも,まだ2度目なのに,もう,すっかり走りなれた道路のような気がした。

 ところがどうであろう。
 昨日の朝とは全く違って,一面霧であった。目の前には何も見えなくなった。
 昨年の5月にオクラホマ州を走ったときに出会った豪雨や,数年前に行ったノースダコタ州の早朝の一面の濃霧と同じであった。
 これまで何度も書いているのでまたまた書くのが恐縮であるが,アメリカの道路はこんな最悪の状況であっても,道路にひかれたイエローラインは車のライトに照らされて明るく輝き,実に頼りになる存在である。
 それにしても,昨日は気にしなかったが,さすがにこの場所は標高が高く,気候の変わりやすい過酷なところであることを認識した。

 私は霧の中を慎重に走っていったがやがて霧もすっかり晴れて,マウナケア・ステイツ・パークを過ぎる頃には,快晴となった。本当にこの島の天気は場所によって全く異なるのである。
 雲というのは,5,000メートルから13,000メートルあたりの高いところに現れるのが氷の粒でできた券雲などの上層雲,2,000メートルから7,000メートルのあたりにできるのが水の粒でできた高積雲などの中層雲,2,000メートルまでの低いところにできるものが積雲や層雲,そして積乱雲といった下層雲である。
 飛行機は大体高度10,000メートルを飛行するから,飛行機の眼下によく見られらるのは中層雲や下層雲である。また,層雲は高さが20,000メートルあたりに発生するので,それよりも標高が高いところに登るとその雲が眼下に美しい雲海となって見える。
 マウナケアのビジターセンターは標高が24,000メートルだから,この雲が発生しているときは雲の上の晴れた空が広がり,眼下に雲海ができているということになる。

 カーナビが間違ったところをガイドしたので,コナの住宅街に迷い込み,少し苦労したが,やがて快晴のカイルアコナに戻ってきた。
 カイルアコナのショッピング街に,アイホップ(IHOP)というファミリーレストランがあった。デニーズ(アメリカのデニーズは日本のデニーズとは現在は何の関係もない)と同じようなものだ。アイホップは,朝食メニューに特化したアメリカのレストランチェーン。メニューにはハンバーガーやフライドポテト,スープ,サラダのような品目もあるが,中心となっているのはパンケーキ,ワッフル,フレンチトースト,オムレツ,ブリンツのような朝食向きの物が多い。
 アイホップは,1958年,ジェリー・ラピン(Jerry Lapin),アル・ラピン(Al Lapin)とアルバート・カリス(Albert Kallis)がロサンゼルスに「The International House of Pancakes」(IHOP)として創業。以後,アメリカ全土に店舗を展開し「アメリカのアイコン」を自称しているレストラン,店舗数は1,300余りある。
 最近の広告キャンペーンの文句は「Why not eat breakfast for dinner tonight?」とか。
 私は,このレストランに入って,いつものように「55+」というシリーズの中から安価な夕食をとった。いつも何のIDを提示しなくても「55+」のオーダーが通るのがなんだか悲しいが,きっと誰でも注文できるのだろう。

 今日は面白い1日であった。
 私は,ホテルに戻り,明日の予定を考えた。
 ネットで調べていると,マウナケア山の山頂に登ったという体験談がたくさん書かれてあった。そのほとんどはツアーで登ったというたわいもないものであったが,ある人が個人で登頂して,「4WD ONLY」とは書かれてあるがFFなら登れると書いていた。昨日の星空観測ツアーのツアーガイドもFFで登れると言っていたし,同じツアー参加した人もFFなら問題ないんじゃない,と言っていた。私はこのまま山頂に行かずにこの旅から帰るのはどうしても悔しくて,だからといって,同じツアーにもう一度参加するのも馬鹿らしくなって,こうなったら,あすから毎日マウナケアのビジターセンターに通って,その時点で山頂までの道路が閉鎖されていなかったら登ってみようと,そう決めたのだった。

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 人生40年が2度,と書きましたが,先立つものがないとどうにもなりません。そこで,今日は私が20年以上やっている方法を紹介しましょう。

 インターネットのサイトや本屋さんに老後資金がなんとかということがたくさん書かれていたりそういう題名の本が並んでいたりするのですが,そのほとんどは銀行や証券会社がしきりに投資を呼びかけて,その手数料で儲けようとするのが目的なので,いまいち信用できません。
 自分の身は自分で守るしかないのです。
 これも以前書きましたが,政府が何といおうと消費を煽ろうと,この国ではお金を使ったほうが負けなのです。

 家は,買っても地震や土砂崩れなどの天災でいつガレキになるかもわからず,しかも,200万戸もの家が余っていては中古市場の成熟していないこの国では売ることもままならないので,買っても財産にはならず単に負債になるだけなので借りるに限ります。
 教育費といっても,塾へ行ってもしろうとがドリル学習の答え合わせをしているだけだから,そんなものに投資をしても英語が話せるようになるわけもなく学問が身につくわけでもないので,これも意味がありません。
 車に夢中になる人も少なくないのですが,満足に走れる道路すらないこの国で贅沢な車に乗ってどこへ行こうというのでしょう。若いころに高価な車を買ってもそんなものは「手に余る大きすぎる服」でしかありません。そんなに車を走らせたいのなら,アメリカへ行ってレンタカーを借りて思う存分走ればいいのです。
 こうしたことはこれまでに何度も書いてきましたが,1回目の人生は,そんな「3大浪費」を抑えれば投資などせずとも蓄えができるのです。

 今日はグラフを4つ載せましたので,この説明をします。
 いずれのグラフも,横軸は年齢,縦軸は金額を表しています。そして,赤い線はその年齢の時点で一生に必要なお金の総額を,青い線はその年齢の時点での蓄えの総額を示しています。青い線は収入ではありませんから注意が必要です。いくら収入が多くても,使ってしまえば蓄えはできません。
 赤い線の根拠となる金額,つまり必要なお金は,何年もキチンと家計簿をつけていくと,自分にとってどのくらいの金額なのかがわかります。それをグラフにするわけです。
 私は,こうしたグラフを20年以上作っています。

 実際には,必要なお金や蓄えは一定ではなく年齢によって異なるので1番目のようなグラフになるのですが,ここでは簡単に説明するために2番目のように簡略化します。この赤い線の傾きがなるべく小さく,つまりお金を使わず,青い線の傾きがなるべく大きく,つまりたくさん貯金することがポイントです。そうすれば,交点Pの位置が左に向かうことがわかるでしょう。この意味は後で書きます。
 3番目のグラフはまったく貯金ができない状態を表しています。つまり青い線が真横に軸上にあります。この状態は死ぬまでその日ぐらしをしていかなくてはいけないことを表しています。交点Pは存在しません。
 4番目のグラフは,若い時に家を買ったりして借金があるときを表しています。蓄えがマイナスから始まっています。そして,交点Pは限りなく右に向かいます。

 では,この赤と青の2つの線の交点Pを考えてみてください。
 この交点Pは一生に必要なお金の総額と蓄えが同じである点です。つまり,それ以降の人生は収入がなくても暮らせる,ということを意味します。そこで,この点Pが1回目の人生を終了し2回目の人生を始められる時点になるのです。しかし,その後の人生が無収入というわけではないでしょうから,それ以降に得られる収入はすべて自由に使えるということになります。だから,この時点を過ぎれば,家を買おうと車を買おうと旅行をしようと気ままにできるようになります。
 この地点こそが悠々自適生活の始まりなのです。
 実際は将来のインフレを考慮に入れて赤い線の傾きを実際のものよりも大きくするとか,余裕資金を考えておくとかいった工夫をしなければならないのでこれほど単純ではありませんが,それは,ご自身で工夫してみてください。
 ともかく,こうして交点Pに一刻も早くたどり着くことが「不良老人」になる方法なのです。

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●明るい時間に行かないほうがいい●
 30分以上海岸を眺めていただろうか。確かに雄大で,時折,溶岩台地から白い煙が舞い上がってくるので,ここはとんでもないところであるのは違いがなかった。ただし,赤い溶岩がドロドロと流れ落ちていく様,なんていうのとは程遠いから,過剰な期待をしてこの地を訪れるとがっかりすることになる。
 そうした姿を目撃するには,船に乗って夜明けに海から見る必要がある。そうしたツアーも実施されているようだ。
 遅くなるといけないので,私は再び「チェーン・オブ・クレーターズ・ロード」を走って戻ることにした。
 ところどころにあった観望地点の駐車場は,来るときはどこも停める場所さえなかったが,帰る途中にはスペースがあったので,私はそのひとつに車を停めて,少し歩いて展望台に行ってみた。そこには写真のように雄大な火口が見られたが,とはいえそれだけものであった。
 ただ一か所,今だものすごく混んでいた駐車場があった。きっとそこには素晴らしい見どころがあるのだろうと思って,私も車を停めて行ってみようと思ったが,スペースがなくあきらめた。だから,そこがどういうところだったのかは行くことができなかったで残念ながら紹介することができない。

 ともかく,このハワイ火山国立公園は,素晴らしいのかそうでないのか,わかったようでわからないところであったが,私がひとつ確信したのは,ここは,お昼間に行ってもまったく仕方がないところだ,ということであった。
 ホテルに戻って,フロントでそういう話をしたら,「お昼に行ったの?」と半ばバカにされたような反応を示されて,わたしはその真実を確信した。ハワイ島に行く予定のある方がこれを読まれたら,この国立公園に明るい時間に行くことだけはやめたほうがいい,と申し上げたい。
 この国立公園の魅力は日が暮れてからだと確信した私は,結局,数日後日が暮れてからここに再び行くことになるのだが,その時の様子は,また後日書くのでぜひお楽しみに。

 さて,4時間ほど滞在した国立公園を出て,私は北東のヒロを目指して進むことになった。
 キラウエア火山は,ハワイ島で私の泊まっているカイルア・コナのホテルとは全く正反対のところにある。ホテルとキラウエア火山の結ぶ対角線が島の中心ということになるが,ハワイ島の中央にはマウナロア山がそびえていて道路がない。したがって,ホテルに帰るには来た道を戻るか,あるいはヒロまで行って,昨日と同じようにヒロから州道200と州道190を走っていくしか方法がない。どちらにしても100マイルほどの距離であって,ハワイ島には高速道路がないからいずれも2時間以上かかる。
 時刻はすでに3時を過ぎていたので,私は,今日一日で島を1周する予定だったのだが,ここで断念してホテルに帰ることにした。
 今日の3番目と4番目の写真は帰り道のヒロ郊外の道路の様子,ちょうど帰宅時間,つまり,ラッシュアワーである。

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 天文ファンが一度は見たいという「三大願望」があります。それは,南十字星,皆既日食,そして,オーロラを見ることです。
 行けば見られる,お金を出せばなんとかなる,ということなら,そうしたいという意志さえあればなんとかなるのですが,そこに「運」が必要なものは,そうしたいという願望があればあるほど,それがかなわないと本当に残念なものです。
 例えば,MLBで見たい選手がいて,わざわざ太平洋を越えて見に行ってもその日にたまたま出場していなかったとか,そうした運の悪さは自分ではどうしようもありません。その気もないのに偶然すごいものに出会う人がいる反面,何度挑戦してもそれがかなわない人がいるのです。そういうときは自分の日ごろの行いがよほど悪いとあきらめるしか仕方がないのでしょうか?!
 
 ところで,この「三大願望」のうち,1番かなえることが簡単なのは南十字星を見ることです。見えるところに出かけて晴れていさえすれば見ることができます。それさえも,運の悪い人は数日滞在しても晴れないのかもしれまんが…。
 それに比べて,最も見ることが困難なのは皆既日食です。
 私は,幸いなことに,これまでに「三大願望」のすべてをかなえたのですが,それでも,ずっと昔のことであったり,なんとなくであったりするので,このごろになって,もう一度しっかり見てみたいと思うようになりました。その目的を果たすためにいろいろ計画を立ててはいるのですが,果たしてかなうことやら…。
 人生とは,かくもしたいことが多いのに,実現できる時間は短いのです。

 その「三大願望」の中で,今日は南十字星のお話です。
 今から30年以上も前にオーストラリアに行ったとき,夜,シドニーの街中にあるホテルに泊まって何気なく窓から外を見たら南十字星が輝いていました。それは5月のことでした。そのときは知らなかったのですが,5月は南十字星を見るのに1番よい時期なのでした。
 そんなことを思い出しては,再びオーストラリアに行って,今度こそは満天の星空のもとで南十字星を見たいと思っているのですが,真剣に考えてみると,天気が心配とか,どこでみればいいのかとか,いろんなことを考えすぎてしまいます。その気もなく行けば見えるのでしょうが,欲が出てくると,今度はなかなかままならないものです。
 ということで,オーストラリアに行って満天の星のもとで南十字星を見るという夢はまだかなっていないのですが,この春,ハワイ島に行って,ついに満天の星空に昇る南十字星は見ることができました。

 みなみじゅうじ座(Crux)は全天88星座の中で最も小さい星座です。
 南十字星はこの星座にある4つの星たちで,英語での通称「サザンクロス」(Southern Cross)からきていて,はくちょう座の中心部の別名「北十字星」(Northern Cross)に対応して付けられたものです。北十字星は4つ以上の星から成っているのですが南十字星は単純に4つの星で構成されていて,私の好きな星座のひとつです。
 英語名「Southern Cross」を,かつて日本では東大系の学者さんたちは「十字」,京大系の学者さんたちは「十字架」と訳していたのだそうですが,1944年に正式に「南十字」と制定されました。
 南十字星は,古代にはローマ帝国でもこの星座を見ることができて,ケンタウルス座に付属するε(エプシロン),ζ(ゼータ),ν(ニュー),ξ(クシー)の4つの星として記録に残されていますが,それらは南十字座のα(アルファ),β(ベータ),γ(ガンマ),δ(デルタ)星にあたるものです。したがって,現在,ケンタウルス座にはこの符号の星は存在しないのです。
 残念ながら,現在では歳差運動の影響で地中海からは南十字星を見ることはできません。
 また,南十字星のある区域を単独の星座としたのは,1679年フランスの天文学者ロワイエ(Augustine Royer)といわれていましたが,実際は,1598年にオランダのペトルス・プランシウス(Petrus Plancius)によって独立した星座として描かれたのが先だそうです。
 そして,正式に星座として確立したのは,18世紀のフランスの天文学者ラカイユ(Nicolaus Louis Lacaille)の南天星図以降のことであるといわれています。
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●ハワイが日本領でないことが幸い●
 2014年に火山活動が活発になって海岸線まで溶岩が達したので,道路は通行止めになっていた。それまでは,この道路はさらに東に海岸沿いに続いていて,その途中にはビジターセンターもあって,さらに,その先はハワイ島の最東端まで達していた。
 そのビジターセンターは,すでに1989年7月に消滅してしまっていた。
 
 今でもここから赤い噴煙がみられるようにも思われるかもしれないし,私もそれを期待していたが,実際は,ここもまた,黒い溶岩流の塊が海岸沿いまで延々とづついているだけだった。とはいっても,こんな雄大な景色はそうはお目にかかれない。
 しかし,その黒い溶岩流の塊の上を地を歩いていると,かなりの隙間があって結構危険なのである。しかも,その隙間からは白い噴煙がのぼってくる。
 レインジャーが監視をしていて,そこは危険だから近づくな,と叫んでいるのだけれど,いったい誰に向かってさけんでいるのやら,どこが危険なのやら,どこへは行っていけないのやら,さっぱりわからない状態であった。ロープが張ってあるところもあるのだが,それが適当過ぎて,そのロープが何を意味しているのかさえよくわからない。なにせ広すぎるのだ。
 観光客はそんなことはお構いなしにてんでばらばらに海岸沿いまで歩いて行って,写真を写したり,散策をしたり,海を眺めたりしていた。大勢の人が歩いていくところは,だからといって安全な場所なのかそうでないのかよくわからないのだが,みんなそれにつられて歩いていくわけだ。

 大勢の人が歩いていったその場所から見ることができたのが,シーアーチ(Hole Sea Arch)とよばれる岩のえぐれたところであった。危険極まりないのは,海岸にはまったく手すりがないので,シーアーチを見ようとそのまま海に近づいて乗り出せば断崖絶壁から真っ逆さまに海に転落するということであった。
 「グランドキャニオンに柵がない」という有名な言葉があるが,ここもまた,海に落ちようがどうなろうが,それは自己責任なのである。きっと日本なら無粋な柵やら看板が設置されて,美観も何もあったものではなくなるであろう。ハワイが日本領でなかったことが幸いであった。
 ここの溶岩流の動きは不規則であり,予測不可能なのである。また,有害なガスが発生しやすく,いたるところで事故が発生しているのだという。それでも,観光地として開放されているのが,また,アメリカらしいことである。

 振り返ってここから山側を眺めると,私が走ってきたチェーン・オブ・クレーターズ・ロードが眺められた。それは,かなりの高台を斜めに道路が作られていた。私は,その道路をここまで降りてきたことが信じられないのであった。
 来るのは大変であったが,キラウエア火山に来るならここまで足を延ばさなければ意味がないと思った。このように,ハワイ島の見どころは,サウスポイント,キラウエア火山の海岸,マウナケアの山頂,そして最北端の地と,車でさえアクセスするのが大変な場所ばかりなのである。

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●溶岩原を下っていく。●
 さて,次はチェーン・オブ・クレーターズ・ロード(Chain of Craters Road)である。
 ハワイ島一の観光名所キラウエア火山を巡るツアーはたくさんあるので,この場所はあえてこのブログで詳しく書かなくてもご存じの方は多いだろうが,それでもチェーン・オブ・クレーターズ・ロードの先端まで足を延ばすのはなかなかむずかしいと思われる。
 キラウエア火山とサウスポイントを巡るツアーも実施されてはいるが,私がマウナケア山頂に行こうとして強風のために実現できなかったツアーのように,参加してみるときっとツアーの中身はマウナケアツアーと同じようなものだろう。

 ハワイは,ほかに多くのブログがあるから,私はそういうものではなく,無計画で行き当たりばったりの旅行の数々の失敗談を「主観的に」書いているつもりだが,帰国後に思うと「知らぬが仏」でかなりむちゃくちゃな旅行をやっていたようなのだ。しかしその結果,短時間でずいぶん珍しいところに行き,多くの普通ではできない体験を実現することができたのだった。
 しかし,このようにして島を巡らなければ,この島の本当の見どころは味わうことはできない。
 つまり,これだけポピュラーなハワイ島でも,私のようにレンタカーを借りてかなりむちゃなドライブをするか,さもなければ,ある程度の消化不良を覚悟の上で,数万円(家族4人なら1日10万円!)も出して高価な現地ツアーに参加するしかないということなのだ。

 ここキラウエア火山の噴火口は徐々に南東に移動しているということで,将来,噴火口は海にまで達するであろうといわれている。この噴火口の移動に沿って,ビジターセンターから南にチェーン・オブ・クレーターズ・ロードが伸びていて,それを走ると海岸まで行くことができるが,往復で2時間ほどかかるドライブコースである。
 はじめは森林地帯を走っていた道路は,そのうち,見渡す限りの溶岩荒野になり,最後にものすごい標高を下っていくことになった。
 時折景観の良い場所に駐車場があって,そこに車を停めて,トレイルを歩くことができるようになっていたが,そのトレイルを歩いてどこまで行くことができるのか,何が見られるのかを,私はここに書けない。おそらくいくつもの火口があって,その火口を見にいることができるのだろうが,どの駐車場も大変な混雑で,車を停めることが不可能だったからだ。

 私は,結局,そうした途中の駐車場に車を停めるのをすべてあきらめて,ともかく最先端まで行ってみることにした。今日の4番目の写真は車で行くことのできた最終地点である。以前はもっと先まで道路が続いていて,そこにはビジターセンターもあったようなのだが,溶岩流で破壊されてしまい,現在は通行禁止になっていた。最先端の地にもずいぶんと車が停まっていてなかなか停めるスペースが見つからなかったが,なんとか場所を確保して,私は車を降りて,海岸に向かって歩いていった。

 ルビコン川(Rubicon)は,共和政ローマ末期にイタリア本土と属州ガリア・キサルピナ(Gallia Cisalpina)の境界になっていた川のことです。現代のイタリア語ではルビコーネ川(Rubicone)という語形になり,イタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州(Emilia Romagna)南東部のサヴィニャーノ・スル・ルビコーネ(Savignano sul Rubicone)付近でアドリア海に注ぐ川がこの名で呼ばれているそうなのですが,有名な「ルビコン川」が当時のこの川なのかどうかは論争があるそうです。
 共和政末期の古代ローマでは,東端のルビコン川と西端のアルノ川(Arno)を結ぶラインがイタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていました。軍団を率いてこの川を越え南下することは法により禁じられていたので,その禁を破れば共和国に対する反逆とみなされました。
 紀元前49年1月10日,ローマ内戦において,ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Cæsar)が元老院の命令に背いて軍を率いてこの川を渡りました。この際に彼が「賽は投げられた」(alea iacta est)と述べたことはあまりにも有名な話です。そして彼は勝利しました。
 それ以後,「ルビコン川を渡る」(cross the Rubicon)という言葉は,その後の運命を決め後戻りのできないような重大な決断・行動を行う表現として使われています。

 さて本題です。よく60歳を「3度目の成人式」といいますが,私はそんないい方をするよりも,「40歳までの人生が2度ある」と考えるほうがずっと前向きで,40歳を過ぎたら(年齢-40)歳で生きよう,と以前このブログに書きました。
 つまり,40歳までの1度目の人生は2度目の人生の練習に過ぎず,いよいよ40歳からが本当の人生のはじまりなのです。
 したがって,2度目の人生を楽しく過ごすには,50歳から60歳までの「青春期」をいかに過ごすか,ということがテーマになります。それ以前の40歳から50歳までの10年間は,親の庇護で生き方を学ぶ1度目の人生の0歳から10歳に相当するので,この時期に仕事に打ち込んだり,組織の管理職をするのはそれなりに意義もあります。しかし,それは50歳までのこと。50歳を過ぎたら,1年でもはやく仕事の呪縛から卒業して「自分の」人生を生きることができなくてはいけません。
 それには,50歳までに,コンピュータを自由自在に操り,語学に堪能になり,世界を不自由なく駆け回り,肩書を必要としない自分になることが目標でなければいけません。そのうえで,50歳を過ぎたら1年でも早く「ルビコン川を渡るのです。そうすれば,素晴らしい人生が待っています。

 だれしも,50歳から55歳にかけて「暗黒の時代」を経験します。そのころに,自分か自分の周りに何がしかの困難が起きます。そして,それを乗り越えたときに本当の自分の姿が現れます。私の周りにも,昔は尊敬できるように思えた人や非常に能力の高い人がたくさんいました。それなのに,そうした人の多くは,歳を重ねるにつれて,疲弊したり,いつまでも肩書にしがみついたり,自分の地位を自分の能力と勘違いしてつまらなくなってしまったり,えらそうになってしまったりしました。
 それは,ルビコン川を渡る「勇気」がなかったために,2度目の人生をはじめることができず,というよりもはじめるきっかけをなくしてしまったのが原因なのです。いつまでも1度目の人生の価値観にこだわり続けていること,それが最もなさけないことなのです。
 2度目の人生にこそ自分の姿があります,それは1度目の人生で身につけた知恵と勇気と夢だけがその財産であって,学歴も地位も名誉も関係ありません。

◇◇◇
私は「高等遊民」になりたい④-over around 50
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
2016年がやってきた-精神年齢は(実年齢-40)歳で。

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●これでは「裸の王様」と同じだ!●
 食事を終えて,私はボルケーノハウスの展望台に出た。そこから眺めたキラウエア火山の火口が今日の1番目の写真である。
 種明かしをしてしまうと,キラウエア火山の火口を見るだけならここで十分だったのである。つまり「この程度」のものなのである。ここは「ハワイ島三大がっかり」の有力な候補になることであろう。
 私は,ボルケーノハウスを出て,再びビジターセンターに戻った。
 ビジターセンターには火山活動のパネルや写真が展示してあった。また,国立公園の資料や地図を手に入れることができた。なにせ,全く予習をしていないので,このあと,どこをどう行けばいいのかまったくわからなかった。
 ビジターセンターの外では,ハワイアンミュージックの生演奏をしていた。
 ハワイは,アメリカ本土というよりも,日本みたいなところがいっぱいある。このビジターセンターも,アメリカ本土の国立公園のビジターセンターというよりも日本でいう「道の駅」のようなところであった。また,島自体が狭く土地もないから,道路も日本のそれに近い。だから,私が日本の道路の走りにくさに閉口して「アメリカでは…」という比較話をすると「日本は狭いからそうはいかない」と言われるが,しかし,ハワイでもできるのだから,それは単なる言い訳に過ぎないと思うのだ。

 国立公園には,ビジターセンターからカルデラにそって1周する18キロメートルにわたるクレーター・リム・ロード(Crater Rim Road)と海岸まで行く片道32キロメートルのチェーン・オブ・クレーターズ・ロード(Chain of Craters Road)がある。まず,クレーター・リム・ロードを走るのが一般的だそうだから,その道路を走ることにした。
 道路はビジターセンターから西に向かっている。
 「地球の歩き方」(「ハワイ編Ⅱ」は最新版なのに古い情報が多い)には一周できるかのように書かれてあるが,この道路は途中のトーマスジャガー博物館(Tomas A Jagger Museum)の先は通行止めになっていて,そこが終点である。広い駐車場があって,その先へ歩いていくと,そこがカルデラの展望台である。
 当然,ここまで来た観光客はすべてその展望台に向かっていったのだが,そこに見えたのは,さきほどボルケーノハウスの展望台から見たものと同じ景色であった。つまり,単に火口からチョロチョロと白い煙が立ち上っているだけであった。

 私は真っ赤な溶岩が流れ落ちる様を想像していたから,きっと,ここではなく別のどこかの展望台からそういう景色を見ることができるのだろう,この場所はその私の期待するところとは別の場所なのだ,と思った。
 ある日本人家族が歩いてきて,子供が「何これ,こんなのつまらない,煙がみえるだけじゃないの,はやく帰ろうよ」と叫んでいたのを耳にした。これでは「裸の王様」と同じだ! すると母親がなんと「赤い炎を見るには夜来なければいけないのよ」と答えたではないか。私はこのとき,母親の言っていることは何かの間違いだ,と思った。だって,こんなちんけな風景が夜になると豹変するとはとても思えなかったからである。ところが…???
 ともかく,この日のこの火山にはがっかりした,という以外に私には表現の仕様がない。

◇◇◇
 Ichi-Rose #4,257 expands hit story.
私は,このうちの5本をアメリカで見ました。

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●これを「豆腐」と定義することは●
 ボルケーノハウスはホテルだけあって,立派なレストランが併設されていた。国立公園内にはこうしたホテルが時折あるが私は宿泊したことはない。ハイシーズンはなかなか予約がとれないということだ。
 このレストランも賑わっていて待ち時間があったが,このレストランを逃すと本当に昼食をとりそこねそうだったので,待つことにした。今日は朝食といい昼食といい,とても私らしくない豪華なものになってしまった。

 やがて案内されて,席に着いた。
 窓から外には遠くキラウエア火山の火口が望まれたのだが,私はそのキラウエア火山がどのように見えるのかさえ,このときは知らなかったので,感動もなければ単に雄大な景色だと思っただけだった。
 思えば,昨年の夏に行ったワシントン州のセントへレンズ火山国定公園やオレゴン州のクレイターレイク国立公園 -このときの旅行記は後日書く- があまりに雄大で素晴らしかったので,私にはそうした贅沢なものさしができているので,ちょっとさそっとの雄大さには驚きもしなければ感動もしなくなっている。
 昨日のブログにかいたように,ここでもやはり「見る目がない」ほうがずっと幸せなのだ。
 そのキラウエア火山がどういうものだったかは,この後に判明する。

 さて,昼食の話である。
 せっかくレストランに入ったのだから,ここでしか食べられないようなものを注文しようと考えてメニューを吟味した。そこで見つけたのが19ドルの「豆腐と野菜」なるハワイアンテイストの「日本食」であった。
 果たしてどんなものが出てくるのであろうか?
 日本と違って,メニューには写真が載っていないので,-そうそう,私が子供のころはデパートのファミリーレストランで食事をすることが「贅沢な」外食の定番だった。そこでは,ロウでできたメニューの見本が当たり前だったが,今でもそういう見本はあるのだろうか? とはいえ,アメリカでもデニーズなどへ行けばちゃんとメニューには写真があるが- こういうレストランでは何が出てくるかは想像に任せるしかない。
 注文してしばらくしたら,立派な食事が出てきた。それが,今日の写真のものである。
 アメリカで出てくるものとしては,まあ,普通の日本食であろう。

 アメリカで出てくる日本食では,一番の問題は米なのである。アメリカ人に「炊きたての」ごはん,などというものを絶対に期待してはいけない。それと,今回問題だったのは,この食事の中央にある,そしてかなりのスペースを占める紫色の怪しげな液体であった。いったいこれはなんなのだろう? とその時思った。今にして思えば,きっとこれはドレッシングに違いがないのだが,これではスペースの取りすぎだ。
 では,右上の白い三角の塊はなんだろう? 私は,この食べ物に「杏仁豆腐」を期待してしまったが,当然,これは「豆腐」なのだった。しかし,食してみて,私にはこれを「豆腐」と定義することは困難であった。プリンから味をなくしたような白いかたまりに過ぎなかった。
 料理を持ってきたウェイトレスは,どう,おいしいでしょう,という表情をみせたので,慎み深く自己主張のできない日本人の悪癖がこの時だけもたげてきて,私はそうでないといえなかった。
 それにしては高価な昼食となってしまったのだった。

 私は,個人旅行だけではく,国内外を問わずツアー旅行に参加したことも少なくないのですが,これまで参加したツアー旅行を思い出してみると,必要最小限のことだけをきちんとしてくれるツアー旅行は参加しても楽しいものでしたが,「おせっかい」をされればされるだけ不愉快になりました。それとともに,ツアーガイドさんが本当の「プロ」でないときもまた不愉快でした。
 考えてみれば,学校教育というのも,ツアー旅行と同じようなものです。

 さて,私がこれまでで一番がっかりしたのは,京都の「苔寺」へ行ったときのことです。
 「苔寺」は正式には西芳寺といいます。苔むした庭が美しいことで有名です。
 1977年まで,つまり私が大学生のころまでは一般に公開されていて,行けば見ることができました。私もそのころに行ったことがあります。しかし,あまりに観光客が無礼なのに業を煮やして,このお寺さんは事前予約を必要としてしまいましたので,現在は,事前に予約をして,しかも,写経をしてからやっとお庭を拝観することができるようになりました。
 こうしたお寺に気軽に行くためには個人で予約をしなくてもツアーに参加すればいいので,一度参加してみました。ちょうど,梅雨時,雨が苔をより美しくしてくれるだろうと思いました。
 問題はその「苔寺」のことではなく,苔寺を参拝した後のことでした。次に行く予定だった別の場所,どこだったのか今となっては定かではないのですが,その場所への行き方を,なんとツアーガイドさんが知らなかったのです。道順が間違っているのを参加者に指摘されて,初めてそれが判明しました。
 その時私が参加したツアーは「高級」を売りにしていたツアー会社のものだったから,私はなおさらがっかりしました。それ以来,その旅行社の新聞広告を見るたびにそのことを思い出して,この会社はみせかけだけのブランドだと思うようになりました。
 
 このことは何もツアー旅行に限ったことではありません。
 近年,料理に出されたお肉の産地を偽装したしゃぶしゃぶ店がニュースになりましたが,そうしたお店は,高級を売りにしていればいるほど,その打撃は大きいのです。
 多くの消費者は,自分が見る目をもっていないのにもかかわらず,自己満足を得るために「高級」感にお金を払っているからです。私は,偽装されたとしてもそれがわからない人のほうにも問題があるように思うのですが,それでもやはり,嘘はいけません。
 私はグルメでない,といつも書いていますが,コーヒーやお米だけでなく,お酒の味もさっぱりわかりません。その理由は,飲み比べた経験がないので,自分にその良さを測るものさしがないからです。
 だから,値段が高いからとか,高級だからといって,そうしたものを買いません。価値がわからないからです。

 しかし,経験が豊富になると,つまり,自分の中にものさしができるようになると,その違いが少しはわかるようになるものです。たとえば,クラシック音楽は一般の人よりもたくさんライブで聴いたことがあるので,なんとなくよさがわかります。何が? といわれても説明に困りますが,でもやはりなんとなくわかるらしいのです。それは,私が「いいなあ~」と思ったものは,やはり多くの専門家がそういう評価をしているから,きっとそうなのでしょう。
 一度,テレビによく出ていて有名なあるバイオリニスト(私は評価していませんでしたが)のコンサートのチケットをもらったので聴きに行ったことがありました。私は,予想していたとおり,まったく感動しませんでした。しかし,私の近くにいた人が「よかったね~」と感動しきっていて,私は,ああ,この人はこの程度で感動できるんだ,と逆にそのことに妙に驚いたことを,なぜか今でもものすごく強烈に覚えています。
 そんなことを考えてみると,「見る目がない」というのは,別に高価なお金を払って高級なものを手に入れなくても,安いもので満足できるわけだから,ある意味,そのほうが幸せなことなのかもしれません。それよりも愚かなのは,「見る目がない」のに,ブランド,というイメージだけで高価なものに手を出すことなのでしょう。

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●自然保護は二の次のビジネス●
 ハワイ島で一番有名なのは,何といってもキラウエア火山だろう。
 私はこの旅でハワイ島をすべて巡ったが,マウナケア山を除けば,ハワイ島の一番の魅力は,その雄大な北側の海岸だと思う。しかし一般には,何といってもキラウエア火山である。
 「足元を真っ赤な溶岩が流れて海まで到達し,湧き上がる巨大な白煙を間近にする」と書かれているように,その想像を絶する自然の脅威は魅力的で,ハワイ島に行ったことのない人でも,テレビや雑誌でその姿を見たことがあるに違いない。

 すでに書いたように,私は,来る前にはオアフ島のダイヤモンドヘッドとハワイ島のキラウエア火山の区別もつかなかったが,さすがにこのころにはそれもわかるようになっていて,キラウエア火山を見るのを楽しみにここまで走ってきた。
 ただし,こちらではキラウエア火山というよりも,地図や道路標識には単に「火山」(Volcano)と書かれているから,私は「キラウエア」という言葉を忘れてしまっていた。

 ハワイ島の最南端から北東に走ってきて,やっと,道路の右側に火山国立公園(Volcano National Park)の標示を見つけた。ここもアメリカ本土と同じ法律の下での国立公園だから,自然保護第一で,日本の国立公園のようなけばけばしい看板はなく,いたって地味だから,へたをすると見逃してしまうのだ。
 そこを右折してしばらく走っていくと,やがて,いつもように国立公園のゲートがあって,そこで料金を払った。
 「国立公園」は日本とは意味するところはまったく違う。
 アメリカの公園がゴミひとつなく,また,意味のない看板や売店がないのは,国立公園法で保護されているからである。しかも,どこも入場が有料であり,ゴミを捨てれば途方もない金額の罰金が課せられるのだが,日本だってそうすればいい,と私は思う。
 本質は,せこくどけちで価値観のすべてが金である日本は,見せかけだけ善人を装い,それを隠すために「おもてなし」とかいう合言葉を使って正当化しているのだが,そのくせ,観光地はゴミだらけであり,自然保護など二の次で,ビジネス以外には興味がない。

 料金を払ってゲートをくぐり,先に走って行くとビジターセンターがあった。
 ちょうどお昼の時間だった。このあたりにはどこにもレストランなどなかったから,私はこの日も昼食をまともにとるのをあきらめていたのだが,ビジターセンターを過ぎたところに「ボルケーノハウス」と書かれた建物あった。
 車を停めて中に入ったら,なんと,そこはホテルで,豪華なレストランが併設されていた。

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●アケボノ・ムサシマル・コニシキ●
 駐車場には簡易トイレがあったほかは,何もなかった。どこが一番最南端なのかさえ,あまり定かではなかった。
 砂浜ではないから泳ぐ場所はなったが,多くの釣り人がいたし,海をのんびり眺めていたカップルがいたりもした。おそらく日本なら,なにがしかの警告が書かれた看板があったり,ガードレールがあったりして,景観のすべてを台無しにしていることであろう。
 私は,海岸に沿ってかなりの距離を歩いていって,おそらくここが最南端だろうと思われるところで,写真を写した。
 その帰り,今日の1番目の写真のようなさまざまな最南端をしめすモニュメントを見つけた。これらを見ると,ずっと昔からこのハワイ島の岬を目指して多くの人がやってきたということが,私の胸を熱くした。
 波は高く,もうその向こうには水平線以外には何も見えなかった。この先をずっと南に行っても,南極大陸まで陸地はないのである。

 30分くらいそうしていて,私は車に戻った。次の目的地はキラウエア火山である。
 来た道をまず州道19まで戻るのだが,途中で道が「Y」の字になっていて,来た時とは違う近道で州道19に戻ることができた。しばらく進んでいくと,飛行場があったり,小さな町があったりしたが,こういう町を見ると,一瞬,ここでもそこがどこなのがわからなくなる。もし,こうした町に生まれていたらどういう人生を送っていたのだろうか?
 人は生まれる場所を選べずこの世に生を受けて,自分の意志とは関係なく組織や社会に属して生きるのだが,そうして培った価値観や人生観,しがらみなんて,そのほとんどは相対的なものであって,そうでなけばならない,などという絶対的なものはほとんどないのだ。

 町を過ぎてさらに行くと,断崖になって,道路が海岸沿いにあったのはそこまでであった。
 この先は海岸には道路をつくる余地もない断崖で,火山の溶岩が海まで流れ出ている。道路は火山の北側を迂回するように山の中を進んでいくのだ。私はそうした山の中のまっすぐな道路を延々と進んでいくことになった。
 遮るものもないので,カーステレオのFM放送がとてもクリアに聞こえてきた。私は,次第にその音楽を楽しむことができるようになっていたが,かかっていたのはハワイアンミュージックであった。
 これまで私は,ハワイアンミュージックもフラダンスもまったく興味がかなったが,ここで聞こえるハワイアンミュージックがすごく心地よい。
 ハワイのドライブは,やはり,ハワイアンミュージックを聞きながらに限るというのが実感であったが,よくよく聞いていると,流れていたのは,ハワイの生んだ偉大な大相撲の力士たちの歌であった。

  ・・・・・・
 1.
 Gentle Giants from the countryside
 Waimanalo, Nanakuli, and Waianae
 They are the champions,
  in a foreign land
 National heroes, famous idols in Japan
 Akebono, Musashimaru and Konishiki
 They have traveled,
  thousand miles away
 Sometimes lonely, far away from family
 All have conquered,
  a dream that seemed impossible
 With dignity, they are Hawai’i sumotori
 2.
 They made history,
  heard around the world
 On the radio, television and magazine
  Let’s go celebrate,
   and honor these mighty ones
 These are the champions,
  heroes for the young and the old
 Akebono, Musashimaru and Konishiki
  These are the champions,
   they are Hawai’i sumotori
 Akebono, Musashimaru and Konishiki
 National heroes, famous idols in Japan
 Akebono, Musashimaru and Konishiki
  ・・・・・・
      
 ハワイでは曙,武蔵丸,小錦は大変有名なのだそうだ。しかし,本当のレジェンドは高見山大五郎ではなかろうか。
 日本で野茂英雄なくして,今のメジャーリーガーがあり得ないのと,それは同じものだ。

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 昔,日本ではふたつのものが競い合うのが常でした。たとえば,トヨタと日産とか,朝日新聞と読売新聞とか,さらには,プロ野球の巨人と阪神とか,相撲の大鵬と柏戸とか,将棋の大山と升田とか,そういったものです。
 武田信玄と上杉謙信というのもありました。

 昨年の夏にアメリカに行ったとき,「日本って,車以外に何か誇れるものあるの?」と聞かれました。今や,アメリカでは,そういうふうにしか見られていないということに,私はショックを受けました。
 リーマンショックのときに,日本の企業もすべて窮地に追い込まれました。そして,韓国製品の台頭は,日本の電化製品をアメリカ市場から追いやりました。今や,テレビをはじめ,日本の会社の名のついた製品はアメリカではほとんど目にしなくなってしまいました。
 次は車か? と心配したのですが,私が思っていた以上に,日本車は安泰でした。
 しかし,リーマンショックのときにはアメリカでも売れたハイブリッド車は今やアメリカでは見る影もありません。実は,「プリウス」はアメリカではまったく売れていないのです。2050年までにエンジン車をやめるとトヨタは宣言したのですが,それもまた,その先が問題なのです。そのとき,フィルムからデジタルに変わったときのカメラ業界のように,電気屋さんが車産業に参入して,その結果日本製品が全滅する日が来るのでしょうか?

 このように,車だけでなく,オーディオにせよ,テレビにせよ,かつては日本の工業製品が世界を席捲していたのが,今や車以外は見る影もありません。スマホも日本国内「だけ」はまだSONYブランドが残っているようですが,海外では,アップルとサムソンばかりです。
 車以外で今でも日本の会社の製品が世界でほとんどのシェアを握っているのはカメラなのです。カメラこそ,日本の会社の「最後の砦」なのです。しかし,すでに,そのカメラさえ存在が危ういのです。

 一眼レフの時代が到来してドイツ製品を追い越してからというもの,ずっと日本のカメラ業界は,世界に君臨してきました。映像技術は今後もますます進化して,今まで以上に必要不可欠なものになっていくでしょう。しかし,そのことと日本のカメラ業界が安泰であることとは無関係なのです。
 それは,もはや一般の多くの人はスマホで十分な写真が写せるのでカメラが不要になってしまったことにあります。

 カメラにおいても,ニコンとキヤノンというように,日本製品が競い合っていたのはすでに古きよき時代のことで,今となっては,業界全体で協力しあって共存を図っていかないと,業界全体がつぶれていってしまう危機的状況になってきているのです。
 しかし,足の引っ張り合いと囲い込みが大好きなこの国のこと,乱立する多くのメーカーが,今もなお,縮小する少ないパイを求めて,競って新製品を次から次へと出していますし,未だにメーカーにこだわって敵対意識をむき出しにしているユーザーもいますが,そのうちにほとんどのメーカーが撤退して,ユーザーは裏切られ嘆き悲しむことになるでしょう。これもまた愚かな日本の「いつか来た道」です。
 「最後の砦」カメラ業界は,今後どこへ向かっていくのでしょうか?

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●ここはアメリカ合衆国の最南端●
 ハワイ島を,私の宿泊しているホテルのある西海岸の中央カイルアコナから東海岸の中央にあるヒロまで,海岸,とはいっても断崖絶壁の海岸線からはずいぶんと内陸の高台に沿って南部を周回しているのが州道11で,その一番南の場所から島の最南端の突き出た部分に盲腸のようにサウスポイントロードがつながっている。私はその道路を最南端のサウスポイントに向かって走っていった。
 あたりは牧草地帯で,牛が寝そべっていたり,あるいは,巨大なパラボラアンテナ,きっとこれはテレビの受信用なのであろう,があったり,風力発電の巨大なプロペラ群があったりと,そんな風景が続いていた。私の知る限りこの最南端に行くツアーはないから,今日ここに載せた写真の景色をご覧になった人も多くはないと思われる。ここは非常にのどかなところであった。

 実は,私が観光している場所は,昨日,星空観測ツアーのツアーガイドに地図を見せて「ここだけは見逃さないほうがいいリスト」として選んでもらった場所なのであるが,彼は,「わずか5日」では回りきれないと言った。しかし,私はそんじゃそこらの観光客ではないから,私の今回の旅のその「わずか5日」で,ハワイ島の「ここだけは見逃さないほうがいいリスト」はすべて制覇してしまったし,おまけに,マウナケアの山頂にも2度登った。その結果,ハワイ島は,レンタカーがなければどうにもならない,というのが私の結論である。
 ところで,私は今回の旅行では「地球の歩き方」さえ持参していなかった。それはハワイに興味がなかったことも理由のひとつであるが,これまでさまざまな場所に行ってみて,結局,旅行というのは行く前にいくら調べても実感がわかず,帰ってきたあとで初めてガイドブックを読んでみてわかってくるというのが真実だから,下調べなどしても仕方がないと思っているのだ。そして,行きそびれたところがあれば再び行ってみればいいのだ。
 そんなわけで,私は帰国後に「地球の歩き方」を購入して復習しているのだが,不思議なことに,本にはサウスポイントについてはまったく記載がないのである。

 さらに進んでいくとサウスポイントロードはせまくなって,すれ違うことさえできない幅になった。しかし,アメリカ人の運転はものすごくマナーがよくて,日本のように街中をものすごいスピードで走っていくなどということもないし,こうした道路では対向車は道を譲ってくれる。
 次第に,海が近くなってきて,やがて目的地に到着した。そこには広い駐車場があったので,車を停めて歩いてサウスポイントまで行ってみた。
 アメリカはハワイ州も含めて50州ある。さらに,プエルトリコ準州もあって,私が50州制覇というと「プエルトリコは?」と聞かれることもある。行ったこともなければ,行く予定もないが,そのプエルトリコも含めれば,カリブ海にあるプエルトリコがアメリカ合衆国で一番南にあると思われるだろう。しかし調べてみると,プエルトリコはハワイとほぼ同じ緯度にあるが,ハワイ島のほうが若干南にあるのだった。つまり,ハワイ島のサウスポイントというのは,ハワイ最南端というだけでなく,プエルトリコを考慮に入れても,アメリカ合衆国の最南端なのである。

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●自分がどこにいるのかわからなく●
 朝食を終えて,車でホテルを出た。アメリカ本土を短い期間で旅行をしているときは,朝食もそこそこに朝6時ごろにチェックアウト,などということも多いから,こののんびりムードは,私としてはこれまであり得ないことであった。これは,日程に余裕があることとハワイの空気がそうさせたのだろう。
 カーナビで最南端ポイントを検索して,その指示に従って走り始めた。ハワイ島の西海岸を海岸線沿いに走れるものだと思っていたが,実際は,海岸はほとんど断崖絶壁状態で,海岸沿いにはへばりつくようにホテルなどがあるが道路も狭く,州道11は高台に沿って通じていた。
 後日再びここを走ったときは,州道11から海岸まで降りていったから,これを書いている今はわかっているが,このときは,海岸線沿いには見どころがあるはずだが,そこまでどうやっていくのかな,と思いながら走っていた。
 カイルアコナの南は斜面に沿ってずっとコーヒー農園があって,日系の人たちが多く住むというが,私は,このときはここで栽培されている「コナコーヒー」の価値をまったく知らなかった。「知らない」というのは,かくも強いことであり,「見る目がない」というのは,目の前に美食があろうとも食欲をそそらないものなのである。

 道路は片側1車線で,ときどき小さな町があるが,それを過ぎると再び写真のような森になる。
 結構多くの車が走っていて,アメリカ本土の道路というよりも,むしろ,日本の道路に近い感じだったが,いつも書いているように,日本の道路よりずっと走りやすく美しかった。
 町にはマクドナルドや小さな映画館があった。日本人の名前のついたスーパーマーケットや商店がいくつもあったから,ここは日系の人たちが作り上げてきたコミュニティーなのであろう。私は,日本から身ひとつでやってきて農場を作り,生活してきた先人たちに思いをはせた。

 そのうちに町も森もなくなって,断崖から眼下に太平洋の雄大な海原がみられるようになってきた。そして,周りは全面が溶岩に覆われた黒い大地になった。
 そこがマヌカ州立公園(Manuka State Park)であった。
 ハワイ島はいたるところにこういう溶岩台地が広がっていて,この島が火山島であるということを実感する。ハワイ島は,水道水は雨水だというし,電気は地熱発電が行われている。この火山灰と溶岩に覆われた大地はコーヒーやパイナップルなどは栽培できるが,穀物の栽培はむずかしそうだ。人間の行動は,すべて生きるために始まったのだが,よくもまあ,飛行機もない時代に,こんな太平洋の島までやってきて,生活を始めたものだと感動する。

 私はこの州立公園の駐車場に車を停めて,しばらく景観を楽しんだのち,再び車に乗り込んで最南端を目指して出発した。やがて「South Point」という道路標示があったのでそこを右折すると,車がすれちがうのもやっとと思われるほどの狭い2車線道路が現れた。こういうところを走っていると,自分がどこにいるのか一瞬わからなくなってくるが,ここは確かに太平洋のど真ん中なのだ。
 そういえば,以前,同じようなことを感じたことがある。
 それは,ずいぶんと昔に岩手県の盛岡市でレンタカーを借りて下北半島を周回したときのことだ。
 下北半島の東海岸を北に向かって走った道路は採掘した砂利を積んだダンプカーだらけで,海岸のある右手は期待に反してずっと木が茂っていて,景観も悪く全く海が見えなかった。核の廃棄処理場もあって,ここは観光地ではなく日本のゴミ捨て場という位置づけの地だと感じた。そのうちに,突然視界が開けて眼下に広い海とその遥か向こうに北海道が見えてきて,そんな憂鬱な気分が吹っ飛んだ。そのとき,私は,走っているところは確かに本州の最北端だったのに,北海道の最南端の海岸沿いをドライブしているかの錯覚に陥ったのだった。

 梅雨に入ったばかりのころは,まだ雨も少なく気持ちがよいので,町歩きをするのに最高の季節です。そして,梅雨が深まると,今度は落ち着いて部屋で好きな音楽を聴いたり本を読むことができます。
 だれしも,どこかへ行ったり音楽を聴いたりしたときに,それが素晴らしいものであるとその世界に埋没して我を忘れ,あたかも自分がその世界にタイムワープして感じ入るという経験をするものです。そんなすてきな瞬間を,小林秀雄は,そうした経験はさも自分だけが感じ入ることができるんだとでもいうように「わかりにくい言葉」で語ってみせ,それを「評論」と称しているのだという意見を読んだことがあります。

 たとえば,「無常という事」という作品があります。
 難解なこの作品でも,歳をとった私が読むとよくわかるのです。しかし,若くして「無常観」なんてわかるわけがありません。そんな作品が高校の教科書に載っていても高校生が読んで到底わかるとは思えません。きっと,若い先生が授業でその作品の解釈をしても,教える本人だってよくわからないのだから,習う生徒はわかるわけがないに違いないと,私は思います。
 こうした作品は,ある種の経験を重ねてこそ初めて同化できのです。歳を重ねた後で読むと,それは自分の気持ちを理解してもらえた友人に出会ったようなそんな錯覚をするので,作品を味わうことができたような気になるのです。
 そんなものが高校の教科書に載っているから,学生は大変なのです。しかし,テストに出るからそんなことをいってはいられないという人は,今ではネット上に優れた解説が山ほどあるので,それをたくさん読んでわかった気になるのが一番効率的でしょう。30年前とは時代が違うのです。それが,私が中等教育は意味がないという理由のひとつです。

 「無常という事」では,小林秀雄は比叡山を散策しているときにタイムトリップ状態に入るのです。
 -あの時,私は無常を感じる女性の姿に鎌倉時代を思い出していた。
 「蘇我馬子の墓」では,飛鳥を歩きつつタイムトリップ状態に入ります。
 -山が美しいと思ったとき,私はそこに健全な古代人を見つけた。
 「モオツァルト」では,大阪の道頓堀をぶらついている最中にタイムトリップ状態に入ります。
 -モオツァルトの音楽は「思い出す」というようなことは出来ない。それはいつもそのままの姿で私の中に存在している。
 小林秀雄は,そうして自分がそれを思う瞬間,瞬間をいとおしんでるというだけなのです。それを「無常という事」では「美学の萌芽とも呼ぶべき状態」と名づけ,「蘇我馬子の墓」では「芸術の始原とでもいうべきものに立ち会った」といい,「モオツァルト」では「音楽が絶対的な新鮮さとでもいうべきもので僕を驚かした」と表現するわけです。そのつど難解な言葉を並べ立てて英雄気取りで自慢するのです。俗物の君にはわからないだろうと。
 吉田秀和は言葉によって見えない音楽を見えるものにしましたが,小林秀雄は見える景色を言葉で見えなくするのです。だから,丸谷才一は吉田秀和を絶賛しても小林秀雄は嫌いだったのです。

 私は思うのです。
 私が好きな瞬間,たとえば,カントリーミュージックを聞きながらアメリカのインターステイツを走っているとき,ブラームスの第4番交響曲のパッサカリアを聴きながら吉田秀和の「音楽展望」を読んでいるとき…,など,そうした瞬間は,自分にとっては純粋にそれだけでいいのです。それを言葉で表現する手段を,実は,私はもち合わせていないし,もつ必要もないのです。
 しかし,それを小林秀雄は評論という鎧を着せて言葉で表現してみたいのでしょう。自分なら書けると。しかし,小林秀雄が「無常という事」でいいたかったことは,そんな難解な言葉を使わずとも,かつて芭蕉が,
 夏草や兵どもが夢の跡
という17文字で表現してしまっている,それだけのことなのです。

◇◇◇
紫陽花を見つつ偲はむ-北鎌倉・明月院
パッサカリアに身をゆだね-世界が不条理だったとしても

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●シーサイドで高価な朝食をとる●
☆3日目 3月31日(木)
 3日目になった。今日はハワイ島を1周してみようと思った。この時点で,私は,まだ,ハワイ島のことはまるでわかっていない。
 調べたところ,1周するだけで8時間ほどかかるのだそうだ。
 この西海岸を底辺とした正三角形のような形の島は西側が北から南にほぼまっすぐだか,その中央にあるのが私の泊まっているカイルアコナである。そこから南に下って三角形の1頂点になるのが最南端のサウスポイント,そこから北東に斜辺を昇っていって2つめの頂点にあるのがヒロ,サウスポイントとヒロの中間にあるのが,キラウエア火山ということになる。
 さらにそこから北西の3番目の頂点にまでは,海岸に沿って道路が走っているから,きっと,素晴らしい景観がみられるであろう。

 私は,反時計回りに島を一周することにした,
 まず,最南端を目指すことにしたが,果たして1日でどこまで行くことができるのかは全くわからなかった。しかし,急ぐ必要もあるまい,と思った。
 多くの人は,ハワイといえばホノルルで,そこから2泊程度でハワイ島に足をのばす。しかし,私はハワイ島に5泊もするのだ。思えば,ニューヨークだってサンフランシスコだって,5泊もしたことはない。これだけの日数があれば,思う存分にハワイ島を味わえるに違いない。

 昨日,曲がりなりにもハワイ島に来た目的を達成してすっかり気を大きくして,さわやかに目覚めた。朝,海岸沿いを歩いていたら,昨日昼食をとったレストランに朝食と書いた看板があったので,私は,階段を上がっていった。
 本当は朝からこんなことをしていてはいけないのだ。なにせ,ハワイの物価というのは,並みの高さではない。

 世の中では,金融緩和だとか円安だとか,いろいろとかまびすしいが,長年人間をやっていると,経済など,振り子の振動のように揺れ動いているだけだということがわかってくる。そして,10年に1度恐慌が訪れて,その都度にわか投資家の貧乏人だけが「ババ」をつかみ振り落とされるのだ。
 現在は1ドルが110円もするが,ほんの数年前は80円であった。実際にアメリカを旅行するとこれもすぐにわかることだが,こんな1ドル110円なんていう今の相場はあり得ない。これほど円が安くては,容易にアメリカ旅行などできやしない。まともにレストランで食事をすれば,朝食だけでも2,000円以上必要になる。
 現在,この国には海外からの旅行者があふれているが,彼らにとってみれば日本はこれだけ物価が安いのだから,押しかけるはずであるし,日本製の車も売れるはずである。
 言葉は悪いが,インチキなのである。
 この円安を外国の物価と同じ基準にするには,円高にするかインフレにするかしかなく,国は無理やりにでもインフレにしたいのだろう。その理由は,国の借金を減らしたいからなのである。
 御用学者はデフレの弊害をいろいろいうが,これだけ年寄りばかり年金生活者ばかりの国で,インフレなどよいことは何もない。インフレにするといわれては誰もお金を使わなくなるのは当然である。成長経済自体が人口減の日本では空論なのだ。物価を上げて賃金を上げなくても,デフレで物価が下がれば実質上賃金があがったのと同じだし,銀行の金利も上がったことと同じなのである。
 私は,思わず,このレストランで,人と車の少ない朝のシーサイドを眺めながら,写真のような,それでもコーヒー抜きで7ドル95セントだったから,税金とチップを含めたら軽く1,500円近くもする朝食をとった。これでコーヒーでも頼んだら2,000円を超過してしまうから水で我慢して,コーヒーはホテルに戻ってから部屋で入れることにしよう。
 部屋に置いてあったコーヒーだって「コナコーヒー」だったのだから。

 きょうは「日本人は後出しジャンケンでも負ける」という話です。
 日本という摩訶不思議な国に住む人の行動のすべてをうまく例えることができないか,と私の知人と考えて出てきた結論が,このお話なのです。
  ・・
 たとえば,ふたりでジャンケンをするとします。ジャンケンの目的は勝つことです。
 ジャンケンをするためにまずいろいろ準備をします。それは,過去のデータを調べたり,練習をしたりといったことです。そういった準備の途中で,こう考えるのです。
 ジャンケンをすることによって,耐えることが身につくだとか,ジャンケンは忍耐力を養えるだとか。そしてどんどんエスカレートしていくのです。協調性を養うためにみんなで練習をすることが大切だとか,ジャンケンで一番大切なのはチームワークだとか…。そういうことを言い出すわけです。
 そして,大きなのぼりを掲げるのです。
 「一団となって戦おう!」
 残業や休日出勤までした入念な準備と調査の結果,当日,チョキを出すと一番勝つ確率が高いという結論が導き出されるのです。そして,長々と事細かな文書を作って上司の決裁を取るのです。日本では,こうした決裁をとるのも大変なのです。まして,前例のないことを発議すると,それを説明するだけでも骨が折れます。
  ・・
 で,いよいよ当日が来ます。勝負の開始です。
 「ジャンケンポ~イ」
 でも,相手の出す手がちょっぴり先に見えちゃったんですね。それがグーだったんです。だから,チョキを出したら負けるのです。
 でどうしたかって?
 それでも,チョキを出すのです。
 それは入念な準備の末にチョキを出すという決裁をもらっているからです。守らないとあとで何を言われるかわからないからです。
 その場で機転を利かせて,独自の判断をしてパーを出してはいけないのです。たとえその目的が勝つことであっても,それよりも集団の「和」が大切なのです。

 これが日本人のやっていることだ,というお話です。このたとえで,日本人のやっていることはすべて説明できる,というお話でした。
 この話を,きわめて考え方が「日本人」である,ある人にしてみたところ,私の予想したとおりの反応が返ってきました。
 彼が言ったのは,「後出しは卑怯だ」という言葉でした。

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●コナコーストで南十字星が見えた●
 マウナケア山のビジターセンターにはものすごく多くの観光客と車がいたが,それでも車のライトすら気にならないほど広く,また,真っ暗な星空であった。そして,そのほとんどは午後9時をもってお開きとなって,それぞれ乗ってきたバンや車に乗って,ホテルや自宅に戻っていった。
 我々もバンに乗って,途中で夜食を詰めこんで,ホテルまで送ってもらうことになった。
 ビジターセンターは標高が2,400メートルもあったが,日本で真冬の夜空を見るのに慣れている私には思っていたほど寒くなかった。それよりも最も残念だったのは,南十字星が見られなかったということであった。

 帰路は,往路と反対に,西海岸のカイコロアリゾートに宿泊している人からホテルに到着なので,州道200を通り,そのままT字路を左折ではなく右折して,ワイメアで夜食を詰め込み,州道19に入り,海岸に出た。
 帰りの車内はみんな寝ていたが,私は窓から上りつつある東の空のケンタウルス座を目を凝らして見つめていた。その下には南十字星があって,やがて昇ってくるはずであった。しかし,海岸線に沿った州道19は,海沿いではなく東の山沿い側に中腹まで家が立ち並んでいて夜でも結構明るくて,星もあまり見られなかった。そのうちに,あれだけ快晴だったのに曇ってきて,星がまったく見られなくなった。
 ハワイ島の天気は,本当に場所によってかなり違っていて,場所によって,突如変化した。しかし,何度も走っているうちに,私は,なんとなくどの場所が晴れるのかということがわかってきた。
 やがて,私の宿泊先であるコナシーサイドホテルに到着して,夜食をもらって車を降りた。
 
 部屋に戻って,コーヒーを入れ夜食を食べてもまだ午後10時30分過ぎであった。
 窓から空を見上げると星が輝いていたので,私は,部屋を出て,カイルアコナの海岸に歩いて行ってみた。すると,なんとういうことであろうか,海岸は街灯で明るかったが,目の前に広がる海岸に南十字星がはっきりと見えているではないか。それも理想的な位置に! 三脚を持っていかなかったが,私は防波堤にカメラを置いて,キャップをレンズの底に敷いて角度をつけて数秒間露出して写真をとった。それが,今日の南十字星の写真である。
 それにしても不思議だったのは,私が今朝ヒロからカイルアコナに来るときにマウナケアの山頂にあるドームを見られたのは偶然のことで,それ以降はずっと曇っていて見ることができなかったことと,この晩はカイルアコナの海岸から南十字星が見られたのに,それ以降は,海岸では南十字星は二度と見ることができなかったということであった。 
 まだ2日目。一応,ここに来た目的はすべて達成した。
 この先,どういう旅になるのであろうか。私は明日からの予定は全くの未定なのだった。

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 ひょっとしたら6月上旬は1年で一番すばらしい季節ではないかと,普段は忘れているのに,この時期になると毎年思います。
 春,桜の季節が終わり,藤の季節が終わると,もう花の楽しみははないかと思うのですが,その次に訪れるのは,なんといっても紫陽花の季節です。
 6月は夏至なので夜が明けるのがすごく早くて,午前5時にはすでに明るくなります。そして,その時間こそ最も気持ちのよい朝を味わうことができます。それは早起きだけが知っている秘密なのです。午前6時では遅いのです。
 その時間に散歩をすると,紫陽花だけでなく,ひっそりと水辺に咲く菖蒲もまた,心を満たしてくれます。

 大伴家持は,紫陽花と菖蒲について,「万葉集」に次の歌を残しています。
  ・・・・・・
 事不問 木尚味狭藍 諸弟等之 練乃村戸二 所詐来
 言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
 物言わぬ木,紫陽花,諸弟等も,君の巧みな言辞にはだまされるに相違ない。
   巻4・773
  ・・・・・・
 この歌で,紫陽花は色が変わりやすく実を結ばない花なので,人を欺く不実なもののたとえとして使われています。古から紫陽花は読まれた歌もほとんどなく,どうやら古人は紫陽花を好ましい花としてとらえていなかったようなのです。
  ・・・・・・
 霍公鳥 雖待不来喧 菖蒲草 玉尓貫日乎 未遠美香
 霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか
 卯の花の花が散ってゆくのを惜しむかのようにホトトギスは降る雨の間もずっと鳴き続けている。
   巻8・1490
  ・・・・・・
 その一方で,菖蒲はその独特の香りから邪気をはらうと考えられてきました。霍公鳥と一緒に詠み込まれている歌が多いのですが,大伴家持も,「霍公鳥が来るのを待っているのだけれども一向に来て鳴こうとしません。あやめぐさを薬玉にさし通す日,つまり端午の節句がまだ遠いからでしょうね」と詠っています。

 この気持ちのよい季節につられて,私は近くの動植物園に行ってみました。
 なかでも人の少ない植物園は静寂に包まれていました。歩いていくと,何気なく咲いている紫陽花と池のほとりの菖蒲が,忘れていた何かを思い出してくれるようでした。昔の日本人は,こういう何気ない景色の中で弱々しく生きる花々を味わい深く感じていたのでしょう。
 さらに歩いていくと,趣が急に変わって,今度は,堂々と咲く様々な色彩と形の満開のバラが迎えてくれました。
 バラもまた,紫陽花や菖蒲とは違ったこの季節を彩る主人公です。バラには様々な種類があって,そのどれもが個性を放ち,いつまで見ていても飽きるものではありません。
 ハワイにバラ,というととても縁遠い感じがするでしょうが,実はマウイ島の島の花はロケラニローズ(lokelani rose)という楽園のバラという意味のピンクのバラなのです。ハワイという名のついた赤いバラもありますが,それはロケラニローズとはまた違ったものです

 バラ園を過ぎて,さらにまたずっと歩いていくと,やがて動物園に出ました。
 先ほどまではほとんど人の姿もなく,静寂が心地よかったのですが,このあたりから急に子供たちの黄色い声がして,現実に戻された気がしました。
 子供たちは,いつでもどこでも動物が好きで元気です。人の趣向は成長するにつれて乗り物から動物になり,植物になって,最後は石なのだそうです。
 動物園では,あの有名な「イケメンゴリラ」のサバーニ(Shabani)がおいしそうにお昼ご飯を食べていて,人だかりができていました。動植物園を出てすっかり心地よくなった私は,少し贅沢に昼下がりのデザートをとることにしました。
 どうやらハワイから帰って以来,ハワイアンというと足が向くようになってしまい,この日もまた「Hawaiian Snow Shaved Ice」なるものに誘われました。それは同じかき氷でも,日本のものとは違い,まるで粉雪のような味わいのものです。
 雪とは無縁のハワイで粉雪のような食べ物がハワイアンの仲間入りをしているのも不思議なものですが,そこにマンゴーがうまく溶け込んで,味わううちに,あの,懐かしいハワイの波の音が聞こえてきました。
 このように,梅雨入り前のこの一瞬の初夏の始まりは,最高に気持ちがいい季節なのです。 

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●黄道光が簡単に写った星空●
 やがて日が沈んで,次は星空観察であった。山頂が強風でも,晴れているから星を見るほうは大丈夫そうだった。
 ツアーガイドは,どこで見ようかと言った。星を見る場所なんて決まっていると思っていたから,私にはその意味がよくわからなかった。後で知ったことに,彼の思い描いていた場所は,マウナケアのビジターセンターともうひとつ,州道200に面したマウナケア・ステイツ・リクリエーション・パークであった。
 幸いなことに,我々が連れていかれたのは,ビジターセンターのほうであった。こちらのほうが標高が高い。しかも,閉鎖された道路のそのほんの先にある職員専用の駐車場であった。これは,ツアーガイドの顔パスで入ることができた。
 我々はその駐車場に陣取って,空が暗くなるのを待った。
 やがて,次第に空が暗くなって,空高く,オリオン座がはっきりと見えてきた。
  ・・
 後日,翌日のツアーに参加した人に会ったが,天気に恵まれて山頂まで登ることができたということだったから,私は運が悪かったということになるのだろう。ただし,山頂で雲海に沈む夕日を見ることはできても,星空観察をしたのは我々と同じように,ビジターセンターということだった。何でも,日が沈んだら山頂から降りなければならないと言われたそうだ。だから,山頂に登れても登れなくても,このツアーでは星空を見るのは我々と同じ場所である。

 この星空観察ツアーというのは,ガイドが持ってきた望遠鏡で,惑星やら星団やらを見せて説明をしてくれるというものだった。望遠鏡は,ミードというアメリカ製の口径25センチほどのシュミットカセグレン望遠鏡であった。初めのうち私も望遠鏡をのぞいてみたが,ピントはずれているし合わせようとすると触るなというから興味をなくした。しかも,ツアーは夜の9時までだったから,この季節では,南十字星とその周りにあるりゅうこつ座の散光星雲が昇ってくるまで星空観察をすることはできないし,惑星や散開星団なら別に空の明るい日本で見ても同じだから,この場所で望遠鏡で星を見ることにはまったく意義を感じないのだった。
 私は,そんなものに付き合う意味がなくなって,少し離れたところで,持ってきたカメラに魚眼レンズを付けて簡易赤道儀で日周運動に合わせて写真を写していた。観察ツアーの時間は2時間程度であったが,その間自由に写真を写すことができたから,それはそれでよかった。黄道光は簡単に写るし,冬の空だというのに天の川は美しく輝いていたし,これまで見たこともない満天の星空を見ることができたから,そのことだけは大満足であった。

 結局,17,000円するこのツアーは,かなりの部分が運に左右されるものだった。
 運が良ければ,山頂の天文台のドーム群と雲海に沈む夕日を見てからビジターセンターに降りて夜の9時までの2時間余り星空観察をすることができる,というものであり,最も運が悪いときには,雨が降ってそのどちらも見ることができないこともあるらしいというものだった。そして,そんなときもお金は帰ってこない。運が良いという確率はどれほどのものであろうか?
 私は,こうして,この日,満天の星を見て写真を撮ることができたということ以外は,煮え切らないままにこのツアーを終えた。南十字星も見られなかった。
 しかし,結果的に,こうして煮えきらないままだったことが幸いしたのだった。

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●山頂に登れなければ意味がない。●
 ビジターセンターでいい加減時間をつぶして(このツアーでは時間を「つぶす」という表現が最も適格であろう),我々はそのままツアーバンに乗り込んだ。とはいっても,山頂へのアクセス道路は依然として閉鎖されたままだったから,夕日を見る場所など,ビジターセンターのあたりしかないわけだ。夕日を見に続々と車が登ってくるのだが,山頂までの道路が閉鎖されていてはどうしようもなく,ビジターセンターあたりは車で一杯になってきた。

 これを読むときっと日本の夏山の駐車場の大混雑を思い浮かべられるに違いないのだが,ここはハワイである。駐車場はとてつもなく広く,いくらでも車を停めるスペースはあるから,それでも大丈夫なのである。それよりも一番の問題は(と私が思うのは),どうもこのツアー,参加者が何を期待して参加しているのかということを理解していないようなのである。  
 私がツアーガイドに山頂の天文台が見たかったと言ったら,山頂など草木も生えていないし,単にドームがあるだけで退屈だ,と言ったのにはがっかりした。そして,もうひとつある。我々が夕日を見るために連れていかれた場所は,ビジターセンターを少し下った民間の土地であった。ツアーガイドがいうには,ここは秘密の場所だということだった。つまり,彼が主張するのは,ビジターセンターで夕日を見ても人が一杯で,ここならほかに誰も来ないから邪魔されない,ということだった。そして,昨日もそこで沈む夕日を見たと言う。
 その場所から眺めた景色が今日の写真である。
 実際,雲が眼下に美しく見られて,申し分のない場所のように初めは思われた。ただひとつの大問題を除いては……。
 その大問題というのは,その場所からは沈む夕日がみられない,ということであった。私はうかつにも日が沈む直前にそれに気づいてずいぶん移動してかろうじて夕日を写真に収めた。それが2番目の写真である。
 つまり,このツアー,やっていることが参加者の期待していることとずれているのだ。

 ここで,種明かしをしよう。
 ハワイ島は海に囲まれているから,東海岸のヒロからは海から昇る朝日が,西海岸のカイルアコナからは海に沈む夕日が美しく眺められる。それこそがずっと美しく,山からでは,昇る朝日も沈む夕日もわざわざ見に来るようなものではないのだ。
 そこに魅力があるとすれば,それは,雲海から昇る朝日と雲海に沈む夕日なのである。そして,マウナケアのビジターセンターからでも,東の空は眼下までずっと開けているから,雲海から昇る朝日は何も山頂まで登らなくてもビジターセンターで見ることができるので,高価な早朝のツアーに参加しなくても,レンタカーを走らせてビジターセンターまで来れば大丈夫なのだ。
 しかし残念ながらビジターセンターから西側は山が迫っているので,ビジターセンターあたりでは雲海に沈む夕日を見ることはできないのだ。だから,雲海に沈む夕日を見るには山頂に登れなければ意味がない。
  ・・
 昨日もここで夕日を見た,とツアーガイドが言うということは,つまり,昨日も山頂に登れなかったということを意味しているのだから,いったいこのツアーではどれくらいの確率で山頂に登ることができるのだろう? と私は疑問に思った。しかも,我々が連れていかれたところは,満足に夕日が雲海か地平線に沈むのも見られない場所であった。
 しかし,それでも,その場所でこんなに雲が美しくみられたのはまれだということだったから,まだ運がよかったというべきなのかもしれない。

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 地球の隣にある惑星火星は2年2か月ごとに地球に接近します。
 地球と火星の軌道は太陽を中心とした円ではなくて太陽を一焦点とする異なる楕円なので,最接近しても毎回その距離が異なります。今回は最近10年間では最も近い距離になっているということですが、2年後の接近のほうがずっと近いのです。私は,何をそんなに騒いでいるのやら… と思うのですが,概して,星の話題というのは,こうしたいい加減なものが多いのです。
 例えば,彗星と流星は異なるのですが,彗星も流れ星のようにス~ッと流れると思っている人,金環日食を空が真っ暗になると思っている人,火星は最接近した日しか見られないと思っている人など,ニュースを流しているアナウンサーさえいい加減で,こういうニュースを見るたびに,ほかのニュースもその程度のいい加減なものなのか,と思ってしまいます。

 火星最接近についてはテレビのニュースで次のような突っ込みどころ満載のわけのわからない説明がありました。
  ・・・・・・
 最接近する火星は「スーパーマーズ」とも呼ばれ,日没とともに南東の空に現れ,夜遅くには南の空に赤く光る様子が観測できます。これから1週間程度は,天候に恵まれれば,いつもより明るく大きい火星が一晩を通して,都市部でも肉眼で見ることができるということです。
  ・・・・・・
 今回の火星の接近で私が最も驚いたのは,なぜか「スーパーマーズ」という言い方をみんながしていることです。どうしてそういう言い方をするようになったのか不思議な話です。いつ頃から誰が言い始めたのでしょう? 調べてもよくわかりませんでした。
 きっと「スーパームーン」からきた言葉だと思うのですが,それにしても,これもまた日本らしいというか,おかしな話です。

 「スーパームーン」というのは英語から来た表現で,これは1年に何度もある満月のうちで一番地球に近づくものを指します。ならば,もし「スーパーマーズ」という言葉があったとしても,それは今回の接近のことではなく次回の接近のときに使うべき言葉でしょう。英語では「スーパーマーズ」などという表現はなく「Mars Opposition」と言います。地球から見て太陽と正反対側に火星があるという意味です。
 いずれにしても,火星は地球の半分の大きさしかないので,大きな望遠鏡でないと表面の模様を見るのも難しいものです。高価な小さな望遠鏡を買って赤いぼーっとした塊を見るよりも,近くの公開天文台に出かけて見せてもらうほうがずっといいでしょう。
 大きな望遠鏡なら火星人や彼らの作った運河もハッキリと見られるので(冗談),きっと,その美しい姿に感動することと思います。接眼レンズにカメラを向ければ写真も写せます。

 私の住む人口10万人程度の小さな町にも,平日のお昼間は「アラ60」以上の人たちがあふれています。聞くところでは,田舎だと単に散歩をしていると「怪しまれる」ので農作業にいそしんでいるということですが,農作業のできない町では,ショッピングセンターの休憩所に陣取って1日中テレビをみたり,鉄道会社が「歩け歩け」ツアーでもやっているとそこに出かけたりして,毎日を「右往左往」しています。
 週末や学校の長期のお休みには,小学生が同じようにどこへ行くでもなく何をするでもなく公園やモールで時間つぶしをしていたりしているのですが,そういう姿を見ると,そのままこの子たちを50年タイムワープした姿がこういう人たちなのかなあと想像してしまったりします。
 
 ところで,子供たちはともかくとして,こうした「見習い老人」いや「老人フレッシャー」の退職1年生,つまり「アラ60」の人たちの生態こそ,実は,最もこの国の社会を反映していて,もっと社会学的に研究されてもよいと私は思うのですが,意味もなく,そして,現在やっていることの反省もなくやたらと変えたがる教育制度に比べて,あまりに放置状態にあるのはどうしてなのでしょうか?
 今や,若者はテレビも見ないし新聞も読まないので,テレビや新聞には,今だそういうマスメディアを愛するこうした年代の人たちをターゲットにしたコマーシャルがあふれています。そこには,月々3千円程度で若さを保ったりできる栄養剤やら化粧品やら… がたくさん紹介されています。私は,そんなことにお金を使って「老い」と戦うくらいなら,旅に出ていろんな体験をしたほうがずっといいと思うのですが,これだけそういう品物があふれているということは,それにお金を使う人がいるということなのでしょう。

 そうした人たちを観察していると,そこには,大きく分けて「主体性ある右往左往」と「主体性なき右往左往」があると気づきました。
 「主体性ある右往左往」とは,自己が確立していて,やりたいことがあって,それに打ち込んでいる右往左往です。それが何であっても,その人にとっては立派な生きがいになります。ひとつ問題があるとすれば,それで家族が犠牲になってしまうような散在をするときですが,それさえ気をつければ,毎日が楽しい人生です。
 それに比べて,「主体性なき右往左往」のほうがずっと多数を占めています。彼らは女子高校生と並んで世の金儲けの絶好の標的となります。つまり,自己が確立されていないので,流行やらコマーシャルにふりまわされて,テレビや雑誌で,おいしいお店が紹介されれはそこに押しかけ,桜が咲けばお弁当持ってそこに陣取り,あるいは,視聴率が高ければ,そのテレビを見のがすまいとします。
 企業としては,彼らをターゲットにすることがお金儲けのコツなのですが,彼らは,ブームが去るとアッという間にいなくなってしまうので,そこに振り回されて在庫を抱えるのがリスクとなるわけです。
 私の提唱する「不良老人」となるコツのひとつは「主体性ある右往左往」を身につけることなのですが,これがそう簡単ではないのです。それを身につけるには人と比べないというのが最も大切なことなのですが,何事も序列化し順位づけすることの大好きなこの国では,幼少期から学校で社会でそうでありたい,あるいは,そうなりたい人を,組織の「和」を乱し金儲けにのっかからない人として,ずっと排除してきたからです。

◇◇◇
「不良老人」の勧め①-自分を探しに放浪の旅に出よう。
「不良老人」の勧め②-不規則な生活をしよう。

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