ホテルにチェックインしてから,とりあえず車でダウンタウンまで行って,クライストチャーチの主だったところを観光しました。
行った場所は,ダウンタウンのカードボード・カセドラル,カセドラル・スクエア,リ・スタートでしたが,すべて震災の復興途中でした。この街は2時間もあれば歩いて観光できます。
ホテルに戻る前に夕食をと思っていたら,途中にデニーズがあったのでクラブサンドを食べました。この街には日本食のレストランもたくさんあるし,カルチャーショックは全く感じません。街を歩いていても日本にいるのとほとんど同じ感じです。決定的な違いは人が少ないことと自然が多いことだけですが,これこそが日本では手に入らない最大の魅力です。
しかし,これでは若い人が「遊学」に来るところではありません。言葉が英語ということを除けば,日本と全く変わりませんから生きる知恵は育めません。日本よりずっと楽に生活できるのです。アメリカをひとり旅するのに比べれば100倍は簡単です。
さて,ホテルに戻って,今度は近くにあるハグレイパーク(Hagley Park)へ歩いて行ってみたのですが,それがまた美しくむちゃくちゃ広いこと。しかも広場ではクリスマスコンサートをやっていて,すごく多くの人が集まっていました。街中の若者がみんな集まったような感じでした。他に楽しみもありませんから。
空を見上げると,ところどころ雲が切れて来ました。これなら少しは星が見られそうなので,急いでホテルに戻って星を見にいくことにしました。私はニュージーランドへ星を見にきたのです。
しかし,こちらはもうすぐ夏至ということで空が暗くなるのは夜11時過ぎだし,いかにニュージーランドの人口が少ないとはいえ,今日私がいるのは都会のクライストチャーチです。はじめて来た街で深夜にどこへ行って星を見たらいいのだろう? しかも寝不足です。
ずいぶんと葛藤した結果,私のこの旅の目的は星を見ることなんだと言い聞かせ,ホテルに戻りシャワーを浴びて,カメラとレンズと簡易赤道儀と三脚を車に詰め込んで,あてもなく郊外の空が暗いところまで行ってみることにしました。ハイウェイを30分くらい走って海沿いの高台まで走っていって車を停めて外に出てみると,なんと快晴になった空には満天の星が!!!
November 2016
特別編・2016秋ニュージーランド旅行LIVE③
寝たのか寝ていないのかよくわからぬまま,8時間あまりのフライトで朝の5時過ぎオーストラリアのブリスベンに到着しました。
近頃はデルタ航空ばかりだったので,機内でもいろいろと異なることが多く,ずいぶん戸惑いました。
夕食は3種類選択できたので,お寿司にしました。座席の窓からはずっと二十六夜の月が美しく見えていましたが,やがて夜が明けると雲の上に美しい太陽が昇って来ました。しかし,空港に降りると雷雨でした。
私の乗った飛行機は日本・成田からオーストラリア・ブリスベンの直行便で,ほとんどの乗客はここが最終目的地か国内線の乗り換えでした。国際線,つまりニュージーランドへの乗り換え客はほとんどなくて,ガランとした早朝の空港の通路を,ここでいいのかしらんと戸惑いながら歩いて行くとやがてセキュリティに出て,それを過ぎると国際線の出発ターミナルに到着しました。ここで乗り換えてニュージーランドのクライストチャーチへ向かいます。オーストラリアでは入国をする必要もなく,預けたカバンをピックアックする必要もありませんでした。
ブリスベンの空港は広く新しく,中央に大きなクリスマスツリーがそびえ,そのまわりにフードコートやお店がありました。アメリカに比べたら人はすごく少ないし,のんびりしています。待ち時間が2時間あまり。機内でわずかばかりの朝食は食べたのですが,再び空港で朝食をとろうかどうしようか思案しました。
私が到着した後,ブリスベンでは降り始めた雨が雷を伴う大雨になって,クライストチャーチ行きの飛行機の到着が遅れて,そのために出発も1時間程度遅れました。
機内で美味しいボリュームたっぷりの食事が出たので,空港で食事をしなかったのは正解でした。
日本との時差が4時間もあるので,今日は1日が20時間と短くて,しかもオーストラリアのブリスベンからニュージーランドのクライストチャーチまでは3時間40分もかかります。ニュージーランドは思ったよりずっと遠いのです。
午後4時過ぎに,やっとクライストチャーチに到着しました。名古屋から私と全く同じルートで来たという新婚さんとクライストチャーチの空港のバゲッジクレイムで知り合いました。
荷物を受け取り問題なく入国を済ませ,レンタカーを借りようとカウンタへ行ってドキュメントを見せると「(君の予約したのは)昨日だ」という言葉にびっくり!
そうなんです。予約した借りる日にちを1日間違えていました。アメリカは日付変更線を越えるので,出発した日に着くのです。そこでついいつものつもりにうっかり予約してしまって,間違えていたのです。しかし何とかなって,無事に車を手に入れることができました。
今回の地震の被害はなかったのですが,クライストチャーチは2011年の大地震のツメ跡がいたるところにあって,今なお復興途中という感じでした。そこで,空港の周りの道路が工事中で,レンタカーで走り出した途端に道路が遮断されていたりして,地図通りに走れず困りました。しかも,借りたカーナビにくせがあって,よくわからない動きをするのです。
たいした距離でもないのに途中何度も道に迷いながら,やっと予約してあったホテルに着きました。
ニュージーランドは左側通行なので日本と同じ。戸惑ったのは交差点のロータリーでしたが,これは走るうちにすぐに慣れました。左折は信号に従う,というこれもまた日本と同じだとレンタカーを借りるときに言われたのですが,左折レーンがあって,そこでは信号を無視していいというのがはじめよくわかりませんでした。
そうこうするうちに市内の地理も次第にわかってきました。
オーストラリアからニュージーランドまでの機内から見たのは厚い雲ばかりで,ニュージーランドの陸なんでまったく見えなかったし,ニュージーランドはいつもこんな天候なのでしょうか? 降り立ったクライストチャーチの付近だけは着陸したときは晴れていましたが,ここもまた次第に曇ってきました。さて,私は星を見るためにわざわざ来たのに,星を見られなかったらどうしましょう?
明日から行くテカポ湖も,予報ではずっと雨らしいし⁉
特別編・2016秋ニュージーランド旅行LIVE②
11月13日の深夜,つまり現地時間で14日未明,クライストチャーチの北北東90キロの地点でM7.8の大地震が起きてしまったのです。日本にはほとんど詳しい情報がなくて,私は困ってしまいました。
おそらく,外国の人が熊本に大地震が起きたときに福岡に行く予定があったけれど,どうしようか? というのと同じでしょう。私が14日にネットで見つけたのは次の情報だけです。
・・・・・・
クライストチャーチ空港,ウェリントン空港,オークランド空港は通常通りオープン。ただし,一部フライトに遅れが出ている。
●ウェリントンとピクトンを結ぶフェリー「インターアイランダー号」は現在運休。
● クライストチャーチとピクトン間を走る鉄道「コースタル・パシフィック号」は,現在運休。
●ブレナム(Blenheim)とピクトン間の高速道路(SH1)は,通行止め。
● ウェリントンは、市内中心の一部に立ち入り制限がある。
● クライストチャーチに大きな被害はない。
●オークランドに被害はない。
・・・・・・
クライストチャーチには被害がないということなので,ともかくオーストラリアのブリスベンまで行ってみよう,もしその先が行けなかったら,そこで引き返そうということで旅立つことにしました。
今回の旅はこうしてはじまりました。
しかし,現地の天気予報は連日の雨マークでよさそうにないし,あまりテンションが上がりません。私は信州へちょっと星を見に行く程度の気持ちだったのですが,これには落胆しました。ともあれ,出発の日が来ました。行ったことのある人によると,ニュージーランドにあるのは森と湖だけ,そしてヒツジしかいないそうです。アメリカ本土とは全く勝手が違います。
セントレア・中部国際空港を定刻に離陸したANAは,予約のときに左の窓側の座席を選んでおきました。富士山を見るのが目的で選んだのですが,目論見どおりというか期待以上というか,離陸直後からすぐに見えはじめた富士山は成田着陸までずっとその美しい姿を見せていました。飛行機の進路は富士山を円の中心にして弧を描いているのです。これだけで私はすっかり満足しました。
ANAは成田空港の第1ターミナルで降りたので,第2ターミナルに移動してカンタス航空のチェックインを済ませました。出発まで2時間あまり。出発まではラウンジで休憩です。
いよいよ明日の朝はオーストラリアのブリスベンです!
特別編・2016秋ニュージーランド旅行LIVE①
11月25日から4泊6日のニュージーランド旅行です。
ニュージーランドは日本との時差が夏時間で4時間だそうです。ちなみに,ニュージーランドは今が夏時間です。今年の春に行ったハワイには夏時間がなくて,日本との時差は5時間だったので,実際は2時間の違いしかありません。しかし,東に向かうのと南に向かうのでずいぶんと気分が違います。
アメリカ50州制覇をめざしていたころはニュージーランドに行くくらいならアメリカへ,と思っていたのですが,目的を達成したら呪縛が解けて,急にそれ以外のところに行きたくなりました。しかし,アメリカ以外の海外にはしばらく行っていないので,勝手がよくわかりません。ニュージーランドは昔から一度は行ってみたいところだったのですが,航空運賃が高いというイメージとオーストラリアのさらにその先で遠い,という印象が強く,これまでなかなかその機会がありませんでした。
春にハワイに行って念願の南十字星を見てからというもの,今度はマゼラン雲を見てみたい,と思いはじめ,その思いが積もり,ついに赤道を越えることになりました。そこで,南太平洋の島々やオーストラリアなどを調べていたら,ずいぶん安価にニュージーランドに行くホテル代込みの航空券を見つけたので思わず予約をしてしまいました。
目的地は南島のクライストチャーチです。そこから足をのばしてテカポ湖に行きます。テカポ湖が星空が美しい場所だということは以前より知っていたのですが,そこへ行くにはクライストチャーチが玄関口だといういうことも知りませんでした。私がテカポ湖はクライストチャーチから近いところにあるということを知ったのは航空券を予約をしてからのことでした。それどころかニュージーランドについてほとんど何も知りませんでしたし,興味もありませんでした。
そんな次第で,航空券と4泊のホテルだけを確保した後になって,細かい予定を立てることになったわけです。いつもながらいい加減なものです。
成田まではANAでセントレアからの格安航空券があることを知ったので,今回はそれを確保しました。そして,ニュージーランドのどこで星を見ようかと調べていて,テカポ湖の星空ツアーを見つけたので,それをインターネットで予約しました。
それ以外のことは行ってみなければさっぱりわかりませんが,とにかく一度行ってみて,気に入ればこれから毎年でも行ってみようと考えているところだったのです。
ところが…
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く③
日本の国は太平洋戦争で空襲を受けなかったら,どの町も今でもすれ違いができないくらいの車幅の道路の両側に町屋の並ぶ家並みが続いていたのでしょう。そして,そこに無理やり道路を拡張したり郊外にバイパスを作ったりしていたのでしょうか。
幸か不幸か空襲によって焦土と化したために,そうしたところは新しく広い道路ができました。しかし,空襲を受けず,しかも,バイパスが通らなかったところは,今もなお,古い町並みが残っていて,それが歴史を経て心落ち着く場所となりました。
新居もまた,そんなところです。
私は,こうした町に行くと,アメリカのミズーリ州で見たオールド・ルート66が今もなお保存されている古い町を思い出します。
新居の宿ではじめに訪れたのは関所跡でした。
新居関所は江戸時代には「今切関所」といわれ,1600年(慶長5年)に設置されました。度重なる災害で移転を繰り返し,現在の場所に移されたのは1855年(安政2年)のことといいますから,明治維新直前のことです。
この関所跡は全国で唯一現存する貴重なものです。
江戸時代は三河国吉田藩に属していて,代々次席家老の同じ家が役人を務めていて結構な給料をもらっていたということですが,いくらお金もちでもこんな関所にじっと座って一生を送っていた人生に何か楽しみがあったのかな,と私は同情します。
この関所を通過した女性は非常にまれだったそうです。「入り鉄砲に出女」といわれたくらいですから,当時の女性には関所を通過するのは大変なことでした。女手形を用意して,しかも女改めが必要でした。
しかし,ほとんどの一般女性はこの関所を通らず「姫街道」という脇街道を通ったそうですから,何事も表と裏のある,つまり,本音と建て前からなる摩訶不思議なこの国の本当の姿というのが,なんとなくは想像がつきますが,その真実を見てみたいものです。
次に行ったのが旅籠「紀伊国屋」です。ここは関所跡から旧東海道を少し歩いたところにあって,昭和30年代に廃業するまで旅館業を続けたところだそうです。
ここは新居宿に25軒あった旅籠の中で最大規模を誇っていました。
説明を受けながら内部を見学すると,いかにも当時の旅籠の様子がよくわかって,非常に興味深いところでした。一度泊まってみたいと感じました。
2食付きで一泊5,000円前後といいますから,現在と同じ程度の相場です。ただし,個室ではないのでプライバシーもなく,ひとり1畳ほどあてがわれたスペースだけが安らぎの場であったようです。
最後に行ったのが「小松楼」という元芸者置屋でした。
これだけの宿場だから,当然「飯炊き女」もいただろうし,これもまた男尊女卑が当たり前だった日本社会ですから,こうした場所があるのだろうとは思っていたのですが,旅籠の近くに置屋が現存すると聞いたので,見学しました。
この置屋さんは第2次世界大戦後まで営業していたということですが,2階には当時の芸者さんの写真がありました。そのなかのおひとりが今もご存命だということです。
このように,この新居宿は江戸時代の町割りや面影を今に残している数少ない宿場町でした。
そのほかにも,船囲い場跡,常夜灯,寄馬跡,そして,西側の山の斜面には多くのお寺や神社があって,まさに,江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。
この町はJRに乗れば西は豊橋,東は浜松に近く便利なところなのですが,県境に近いということもあって,そのどちらの町からもアクセスする必要があまりないわけです。
道路は,南に国道1号線の浜名バイパスが走り,東名高速道路ははるか浜名湖の北側をを走っているので,長距離を走る車もまたこの町を通過する必要もないので,車の通行も多くありません。
そんな地理的な状況から,いい意味でエアポケットになってしまった場所だから,今でも歴史が止まったかのような町並みが残っているわけでしょう。
東海道は,西に行くと次の宿場は白須賀宿,そして,県を越えて愛知県の二川宿へと続くのですが,その間はJRの線路からも離れ,公共交通機関もないということなので,「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」のように,車を使わなければ県境を歩いていく以外には方法がなく,しかも,その間には喫茶店の一軒すらないのだそうです。
そんなことを聞くと,ぜひ,次回は,この新居宿から二川宿までを歩いてみたいものだと思ったことでした。
◇◇◇
4泊6日でニュージーランドへ出かけるので,「2016夏アメリカ旅行記」はしばらくお休みして,明日からは「2016秋ニュージーランド旅行LIVE」をお送りします。
◇◇◇
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東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く②
脇本陣を出てそのまま西に旧東海道を歩いていくと,目の前に見えてくるのが浜名湖です。ここの景色は素晴らしいものです。きっと江戸時代の旅人も同じだったと思うのですが,現代と違うのは,ここから次の新居の宿までは2時間ほどの船旅だったということと,新居の宿に着けば関所が待っているということです。
現代も監視社会になってしまって非常に窮屈な世の中ですが,江戸時代もまたかなり窮屈な時代だったように思えます。
船着き場は「雁木(がんけ)」と呼ばれていて,石垣が築かれて番人が立っていたそうです。雁木は3箇所あって身分によって分かれていたということですが,武士に比べれば一般庶民のほうがずっと人数が多かったので,一番南の一般の雁木の賑わいはすごかったことでしょう。
現在はここを右折して弁天島のほうに向かうと橋が架かっているので,徒歩で新居まで簡単に行くことができますが,問題は車道に平行して作られた歩行者用の橋が北側にしかないのに,南側の歩道から北側に車道を渡るための横断歩道がかなり不案内で危険なことです。きっと作った人は実際に歩いたことなどないのでしょう。この点でもまた「作ればいいだろう」的な,この国の道路を作った小役人の呆れるほど配慮のない名目だけの「おもてなし」ぶりが伝わってくるというものです。
そしてまた,何モノから歩行者を守ろうとするのか不明な鉄格子で囲まれて景観の配慮のかけらもない橋がこの国の無神経さを象徴しているように思えて,不思議な感動を覚えました。
そのまま車道にそった歩道を歩いていけば,JRの東海道から見る景色のままですが,せっかく歩いているので浜名湖の湖畔沿いを行くことにしました。
浜名湖には鳥居が作られていて,多くの釣り人がのんびりと糸を垂れていました。はるか向こうに見えるのは国道1号線の浜名バイパスです。
こうして湖畔を歩くとJRの車窓からみえるリゾートホテルの裏側が見られるのですが,こうした裏側を見てしまうと弁天島というリゾートはたかだかこれだけのところだと妙に落胆してしまいました。
そのまま歩いて行ってJRの弁天島駅をすぎたあたりで車の走る道路の歩道に戻ると「はませい」という料理店と「うなぎ」という文字が目に入りました。まだ時間が少し早かったのですが,その文字につられてなかに入りました。
それほど新しい店でもなかったのですが、大きな店構えと車道に面しているということと,極めつけは「浜名湖=鰻」というブランドで,けっこうなお客さんがいました。
この旅の目的が鰻を食べることだったから,もちろん注文したのは鰻丼でした。
さすがに浜名湖だけに,このあたりにあったお店の看板にはどこも「うなぎ」や「しらす」といった文字が躍っています。
このごろはどこに行っても大型店の「モール」があり,そのなかにはフードコートがあり賑わいをみせていますが,日本中どこも同じような店しかありません。というよりも,外国に行っても同じです。そこで,そうした時流から取り残された,いわば昭和時代の面影が残るような観光地はさびれてしまっているのですが,実際の旅の楽しみは,こうしたところを散策し,タイムスリップを味わうことに尽きるのです。
念願の食事を終えて,さらに西へ,西浜名橋を渡ると,やがて新居宿に到着しました。
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く①
紅葉真っ盛りの晩秋の祝日。
外国人だらけの観光地はご遠慮申し上げて,静岡県の旧東海道をきままに歩くことにしました。第4弾は紅葉とは全く無関係な舞坂宿から新居宿までです。
目的は鰻丼を食べること。この一点でしたが,子どものころからずっと行きたくて,しかも自宅からそれほど遠くないのでいつでも行くことができたのにもかかわらず行ったことのない新居の関所も併せて行ってみることにしました。
旧東海道を歩いている人は結構多く,さまざまなブログもあるのですが,それらを読んでも,今回行くところは特に面白そうなところでもなさそうだったので,期待値0だったのですが,予想に反して,とても楽しい1日になりました。
いつも書いているように,日本の旅は車を捨てて電車で行くに限ります。そして,日本はどこへ行っても実際の風景は美しいとはいいがたいのですが,その地の歴史を思い浮かべながら心で感じることができれば捨てがたい感動があり,そこにおいしい食べ物が加われば満足できると思っています。まさに,今回もそうした旅となりました。
この日,天気予報ではかなり冷え込むということでしたが,風は強かったものの気温はそれほどでもなく,これもまたいつものように「晴れ男」の私は幸い今回も天気に恵まれました。
舞坂宿から新居宿に向かうか,その逆にするか悩みましたが,新居宿のほうが見どころが少しは多そうだったので,舞坂宿から歩くことにして,朝10時ごろにJRの舞阪駅に降りました。
舞阪は「池谷・関彗星」の発見者のひとり池谷薫さんの生まれ育ったところとして私は知っていましたが,この駅で降りるのははじめてのことでした。
駅前のしがない喫茶店でまずはひと休み。ほかにいたお客さんは浜名湖競艇の話題で盛り上がっていて,まさに日本の田舎のおじさんたちの休日,という感じがしました。
喫茶店を出て,旧東海道へ向かうと,美しい松並木が見えてきました。
JRの舞阪駅から旧東海道の舞坂宿まで700メートルにわたって松並木が続いているのですが,このあたりを歩いているだけで,来てよかったと幸せになってきました。
松は歴史を感じさせずいぶんと幹が太くなっていましたが,こうした現状を保つのはすごく大変なことだろうと思いました。
旧街道の松並木は,明治維新でこの国がぐちゃぐちゃになったときに,なんらかの理由で破壊されなかったわずかなところにだけ幸い現在でも残っているのです。こういう姿をみるだけで,歴史をリスペクトしない日本人の本音を感じます。
松並木を過ぎて舞坂宿に入ると,脇本陣がありました。ここは説明を聞きながら見学することができます。
舞坂宿もまた本陣はすでに跡地でしかありませんでしたが,脇本陣はさまざまな変遷を経て現在も存在しています。東海道で脇本陣が残っているのはここだけなのだそうです。正しくは,1838年(天保9年)建築の脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟だけが残されていたので,それを当時の脇本陣に復元したものです。間口5間,奥行き15間,総坪数75坪という規模なので,まさに京都の町屋と同じ程度です。一番奥に殿様の部屋と風呂と手洗いがあって,こうした建物の作りを見るにつけても,この国の「殿様」文化の何者かがよくわかります。私は現在にも通じるその日本的な権威主義の滑稽さとばかばかしさを改めて感じることができたのでした。
◇◇◇
東海道を歩く-往時の面影を残す薩埵峠①
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁①
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日⑨
●アメリカでナイトゲームを見るということ●
あまり書かれていないことだが,MLBのナイトゲームを見るにには,終了後のことを考えておかないと悲惨なことになる。
私はこれまでにずいぶん多くのゲームを見たが,ナイトゲームを終了まで見たという経験は,実はあまりない。その多くは7回裏が始まるとともに帰ってきた。それは,ゲームの終了後の混雑がきらいだからだ。
MLBはデーゲームが多いので,日程に余裕があるときはデーゲームを見るようにしている。デーゲームだと,心置きなく最後まで見ることができるからだ。
ボールパークへの交通の便がよく,最寄りの鉄道の駅から電車に乗れば容易にホテルに帰ることができるのなら,ナイトゲームであっても最後まで楽しむことができるが,MLBでは引き分けはないので,延長したときの最終電車だけは確認しておく必要がある。
最寄りの鉄道の駅が近いボールパークはボストンのフェンウェイパーク,ミネアポリスのターゲットフィールド,ニューヨークのヤンキースタジアムとシティフィールド,シカゴのリグレーフィールド,ワシントンDCのナショナルズパーク,フィラデルフィアのシチズンズパークなどがある。
オークランドのオードットコーコロシアムも駅には近いが,ここは終電がはやいことと周りの治安が悪いのが難点である。
あるいは,ボールパークが治安のよいダウンタウンのなかにあるトロントのロジャーズセンターやデンバーのクワーズフィールドなどでは,ボールパークから離れたところに車を停めてもそこまで歩いていくことができる。
そうでなければ,ボールパークのなるべく近くのパーキングに車を停める必要があるが,そうしたときには,ゲームの終了後は車をパーキングから出すににひと苦労するわけだ。
たとえば,ロスアンゼルスのドジャースタジアム,ミルウォーキーのミラーパーク,セントイスのブッシュスタジアム,カンザスシティのカウフマンスタジアムなどがそうである。
私は,デトロイトでゲームを見たときに,駐車料金をケチって少し遠い場所に停めたがために,ゲームが終わってからかなり怖い思いをした。クリーブランドという町の治安がよいのか悪いのかは知らないが,私はここでもずいぶんと遠いところに停めたために,やはり,帰りに怖い思いをした。
しかし,ボールパークから離れたところに停めれば。パーキングを出るのは楽である。
ということで,MLBを見にいきたい方は,デーゲームをお勧めする。
私は,この日,ゲームの終了よりは早くボールパークを出たが,すでに帰る客が多く,前日とは違って,車を出すのが大変であった。
しかも道路はゲームの終了後の混乱を避けるために閉鎖されていたり右折禁止,あるいは左折禁止だったりとずいぶんと遠回りをさせられて,やっとのことで宿泊先のコンドミニアムに戻ることができたときにはボールパークを出てからすでに1時間くらい過ぎていた。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日⑧
●イチローは稀勢の里と同じか?●
アメリカではゲームはアメリカ国家から始まる。この日,歌ったのは「Elisa」という名前の女性であった。
手掛かりは「Elisa」という名前だけだったが,帰国してから調べてみると日本人とイタリア人に同じ名前の歌手が見つかった。しかし,この日に歌ったのはそのどちらでもないようだった。
そこで,さらに調べてみると,マーリンズのチェアリーダー,彼らを「Marlins Energy Team」というのだそうだが,そのメンバーのなかに「Elisa」という名前の女性がいたから,おそらく,その人物だったのであろう。
この日はプロモーション「Taiwanese Heritage Night」で,台湾の人たちによる中華獅子舞が披露された。そんなこともあって,観客席にはそれを見ようとする台湾の人やらイチローの記録目当ての日本人やらのアジア人でぐっちゃぐちゃであった。
私は,イチローの先発出場はうれしかったが,3番という打順にいやな気がしていた。マーリンズのマッティングリー監督は試合前の会見で「他の選手を動かしたくなかったというのもあるし彼はラインドライブを打てる打者だ」と話したのだそうだ。
それにしても,マーリンズで数少ない先発出場をするときはいつもは1番なのに,この日に限ってそれを変えてもいいことなど何もない。第一,1番と3番では打席数が異なるかもしれないし,イチローの記録達成が目的のゲームにこの手はない。
さて,ともかくゲームがはじまった。
おなじみのゲーム開始前のベンチのなかでのイチローのパフォーマンスやベンチから飛び出してくるイチローのナマの姿が見られただけでも,1塁側に陣取った甲斐があったというものだった。
相手チーム・セントルイス・カージナルスの先発はリーク(Mike Leake)という投手であった。1回裏の1死1塁,ものすごい声援のなかをイチローが打席に入った。
イチローはフルカウントからの7球目,内角146キロのカットボールを左へ流したが,3塁へのハーフライナーであった。1塁走者も飛び出してダブルプレーになってしまった。
私は第1打席が勝負だと思っていたから,こりゃだめだ,とすでにここでかなり落胆した。
イチローをナマで見るときに最も面白いのはその独特のパフォーマンスである。
ただし,私が初めてシアトルでイチローを見たとき,外野の定位置であるライトフォールドは「エリア51」という,ネバダ州の秘密基地になぞらえれて名づけられていた(なかなかオツな名前だ)。私はその守備を楽しみにライト側の席に座ったのに,その日はたまたまセンターを守ってがっかりした。
2度目はイチローがヤンキースに移籍したあとのヤンキースタジアムで,そのときについにライトを守るイチローを見ることができた。
そして,この日の守備位置はレフトであったから,考えてみれば,私は結果的にイチローの外野守備はすべてみたということになる。
その守備で見せ場がやってきた。
4回表1死3塁,カージナルス・ガルシア(Greg Garcia)の左飛をキャッチするとバックホームをした。ノーバウンドのレーザービームで3塁走者を見事に刺したのだ。
結局,これがこの日の最大の見せ場となった。
4回裏に2打席目がきた。
このときは,1死走者なしカウント2-2からの8球目に150キロの内角ストレートを打ったが,当たり損ねの捕ゴロ。1塁まで4秒08で走ったがアウトになった。これで私は絶望的だと思ったが,来ている観客はまだ望みをすてきれていなかった。
5回2死走者なしで早くも3回目が巡ってきた。あと3回打席があればまだ望みがあるぞと淡い期待を抱いたが,このときはフルカウントからの9球目,145キロの内角カットボールに詰まって遊ゴロになり,1塁まで3秒93で走ったが惜しくもアウトとなった。これでほぼ望みはなくなった。ここまでで1本ヒットが出ていたら,ものすごく盛り上がったゲームになっていただろうに,まことに残念だった。
そしてカージナルスのピッチャーが左腕キーケーファー(Dean Kiekhefer)に代わった8回の1死2塁で4回目の打席が巡ってきたが,カウント0-2から141キロ低めのストレートを空振り三振した。
これで,この日のすべてが終わった。
私は,もう何も興味がなくなったので,これで帰ることにした。最後までいても帰りに大渋滞するだけである。ゲーム終了後,花火があるらしかったが,私にはどうでもよかった。
私が帰ろうとすると,隣にいたガイ(guy。gayではない)が「ギブアップか」と私をからかった。私は「そうだギブアップだ」と言ってスタンドを後にした。
こうして,残念ながらこのゲームで記録達成を見ることができなかったが,ある意味,私はホッとした。
マーリンズはこの次のゲームから遠征に出るから,イチローは記録をここで決めないといけなかったし,そのためのすべてのお膳立てができていた。こうしたとき,歴代のスーパースターはきちんと記録を達成してきたのだ。
イチローがこれまでの長い選手生活のなかで,日本のオリックス時代にも日本シリーズでは打てなかったし,メジャーリーグでプレーするようになってからもワールドシリーズの出場から無縁なのは,こうしたチャンスが生かせない,カリスマになりきれないことが原因だと,私は生意気にも思う。これはまさに,大相撲の稀勢の里と同じである。
秋は素晴らしい。-「万葉人」の見た紅葉
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今年も紅葉の美しい季節が,音もなくやってきました。
今日は,私がこれまでに写した京都の紅葉の写真をご覧ください。
華やいだ桜の季節はとても短い期間なのですが,紅葉の期間も意外なほど短いのです。しかも,桜の季節は毎年その美しさが裏切られることがないのとは対照的に,夏の暑さや雨の量によって,その年の紅葉の美しさには大きな差があります。
楓が真っ赤になるころはすでに晩秋で,お昼が過ぎたころには,すでに寂しさがその空気を包み始めます。
万葉集には「黄葉」あるいは「紅葉」を詠んだ歌は100首以上あります。しかし,「赤」「紅」の文字を使用した「紅葉」はわずか5首,そう書かれたものもありますが具体的な歌は載せられていませんでした。私が調べたところでは次にあげた6首です。そしてまた,直接「紅葉」と書かれたのは6首のうち巻10・2201の1首,というのは有名です。
それ以外は「黄葉」や「色づくもみつ」というように表現されています。
「黄葉」というとイチョウだと書かれたものもありますが,そうであるとはいいきれません。万葉人が見た「桜」は,現在私たちが思う「桜」とは明らかに違うものですが,果たして「紅葉」もまた「品種改良」などによって,私たちは万葉人とは違うものを見ているのでしょうか? 先日書いた「有明の月」も同様ですが,こうした自然に関しては,言葉に酔ったり感覚だけで捉えたりイメージだけで解釈するのではく,天文学や生物学など自然科学からの学問的な裏付けを得ることが必要でしょう。
・・・・・・
思具礼能雨 無間莫零 紅尓 丹保敝流山之 落巻惜毛
時雨の雨 間なくな降りそ 紅に にほへる山の 散らまく惜しも
時雨の雨よ そう絶え間なく降るな 紅に色づいた山のもみじの散るのが惜しいじゃないか
巻8・1594 詠み人知らず
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春者毛要 夏者緑丹 紅之 綵色尓所見 秋山可聞
春は萌え 夏は緑に 紅の まだらに見ゆる 秋の山かも
春は草木が萌え夏は深緑に 紅がまだら模様に見える秋の山であることよ
巻10・2177 詠み人知らず
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妹許跡 馬鞍置而 射駒山 撃越来者 紅葉散筒
妹がりと 馬に鞍置きて 生駒山 うち越え来れば 紅葉散りつつ
妻の許へと馬に鞍を置いて生駒の山を越えて行くときに 紅葉の葉が散り続けていた
巻10・2201 詠み人知らず
・・
秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ぬれば 風をいたみかも
秋萩の下の葉まで赤く色づいてきた 月日がたって風が強くなったからだろうか
巻10・2205 詠み人知らず
・・
秋山之 木葉文未 赤者 今旦吹風者 霜毛置應久
秋山の 木の葉もいまだ もみたねば 今朝吹く風は 霜も置きぬべく
秋とはいっても山の木の葉はまだ赤く色づいてはいない けれども今朝吹く風は霜を置きそうなほどだ
巻10・2232 詠み人知らず
・・
多可思吉能 宇敝可多山者 久礼奈為能 也之保能伊呂尓 奈里尓家流香聞
竹敷の 宇敝可多山は 紅の 八しほの色に なりにけるかも
竹敷の宇敝可多山は紅の 八しほの色になったことよ
巻15・3703 大蔵麻呂
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2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日⑦
●イチローの歴史的な瞬間を見よう●
今回の旅の目的のひとつであったマーリンズパークは,2012年4月に約5億ドルをかけて作られたものである。この総工費は東京に作るという新国立競技場の1/3あまりの費用である。ちなみにニューヨークのヤンキースタジアムの総工費はなんと新国立競技場と同じ程度である。
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2011年までマーリンズのゲームはサンライフスタジアムというところで行われていたが,NFLのマイアミ・ドルフィンズとの共同利用であり,大きすぎて屋根もなく,場所もダウタウンから北に25キロくらい離れた郊外であった。雨が多く蒸し暑いマイアミでこんなボールパークではあまりにも魅力がなかった。
私が行った日もものすごく暑かったが,冷房の効いた屋根付きのボールパークは快適であった。以前のボールパークがいかに過酷であったかを身に染みて感じた。
座席はマイアミらしく濃いブルーで塗られていた。ホームプレートの後方バックネット下には巨大水槽があって熱帯魚が泳いでいたり,レフト後方にプールがあったり,左中間には巨大なオブジェがあったりと,かなりサイケ調のボールパークであった。
また,MLBにはふさわしくないチェアリーダーやアクロバットをするお姉さんやお兄さんもいた。
確かに開閉式の屋根を閉じてガンガンにクーラーを効かさなければ,マイアミなどベースボールをする環境ではなかろうが,このサイケ調の色彩はベースボールにはふさわしくなく,落ち着きをなくすには十分効果的であった。
正直いって,イチローがいなかったら,日本人がわざわざ足を運ぶ気にもならないまったく魅力に欠けるボールパークであると私は思った。
前日は代打で出場してMLB通算2,998本目のヒットを放ったイチローは,この日,もし先発出場すれば3,000本安打の記録達成は間違いないと誰しもが思った。今日がまさにその日なら,3年前,偶然ヤンキースタジアムに行った日が松井秀喜選手の引退試合だったときと同じく,あまりの強運に,私は恐怖さえ感じたのだった。何度も書くが,私はイチローの記録達成を見るためにこの日を選んで来たわけではなく,春先から来ることを決めた日が偶然この日だったのだ。
実は,昨日のゲーム終了後から,集客のためにイチローは今日先発出場だとしきりにPRされていたのだそうだが,私は,そんなことは知らず,キーウェストを往復してからここに来た。そして,ボールパークではじめて先発メンバーを確かめて「3番イチロー」の名を見つけたときは,本当にびっくりしたし,喜びがこみあげてきたと同時に怖くなった。
まだゲームの開始まではずいぶんと時間があったが,スタンドはすでに異常な盛り上がりを見せていた。やたらと目立つ日本人は,初対面とはいえ,ものすごい連帯感が生まれていて,写真を撮り合ったり,話をしたり,そんなムードにあふれていた。
「3000」と書かれた紙のボードやら大きなイチローの顔が印刷されたうちわやらが配られていて,私ももらったが,あまりの大きさに私の小さな旅行カバンに入れて持って帰るのがたいへんだった。
日本人でない人たちも同じように夢中になっていて,この日のゲームは,まさに,イチローの歴史的な瞬間を見るためにあるようなものであった。
ところで,このボールパーク,係員のやる気のなさも,また,天下一品であって,チケットに指定された席がどこであろうとそんなチェックもほとんどなく,どこに座ろうと自由であった。もともと集客が悪く,これほどのゲームであっても入りは悪かったし,さらに,ラテン系の人たちの性格がこのいい加減な雰囲気に輪をかけていた。
日本から来たほとんどのイチロー応援団はマーリンズのベンチがある3塁側(MLBではホームチームが1塁側とは決まっていない)のベンチの上の座席に集まっていたが,私は,むしろ1塁側から51の背番号を入れた写真と,ヒットを打った時のファーストベースを駆け抜ける瞬間を撮りたかったので,1塁側に座って「その時」が来るのを今か今かと待ったのだった。
星を見るのも大変だ。-肉眼で見える最大星ガーネットスター
☆☆☆☆☆☆
ケフェウス座μ(μCephei)星は,もともとエラキス(Erakis)という名がついていたのですが,この星があまりにも赤い「赤色超巨星」のために,ドイツの天文学者ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)は,これをガーネットスター(Garnet Star)と名づけました。
ケフェウス座は星座線をつなぐと五角形になる星座で,11月の夜9時ころはちょうど天頂に見えます。ガーネットスターは五角形の底辺α星とδ星の間にあって,簡単に見つけることができます。また,IC1396という大きな散光星雲が淡くガーネットスターの南寄りに広く拡散していて,写真に写すととてもきれいです。
私は「メシエ全天体撮影」を成し遂げてその呪縛から解き放たれたので,今度はこうしたものを写す余裕ができてきて,今回初めて写真に収めました。今日はその写真をご覧ください。
星は星雲から生まれます。生まれたばかりの星(=原始星)が収縮して核融合反応が始まると,自分のもつ質量に応じた主系列星となります。質量が大きい星ほど核融合反応が激しいので表面温度が高く明るくなるのですが,短命です。
核融合反応が進みすぎて中心核の水素が枯渇すると,今度は,膨張を始めます。こうして最終的に赤色巨星となったのち,質量の大きかった星は超新星爆発を起こし,質量の小さかった星は白色矮星となって,星は一生を終えます。
「赤色超巨星」とは直径が太陽の数百倍から千倍以上ある赤色巨星のことで,なかでも質量が太陽の十倍以上のものについては,やがて超新星爆発を起こしたのちに中性子星もしくはブラックホールになると考えられています。
現在赤色超巨星であるガーネットスターは,3等から5等の間を730日の周期で変光する脈動変光星です。この星の直径は太陽の1,420倍程度で,明るさは太陽の約35万倍,距離は3,500光年と考えられています。
ガーネットスターは,かつて,宇宙で一番大きな星だといわれていました。
現在は,それよりも大きな星が見つかっていますが,では一番大きな星はどれかといえば,さまざまな説があります。インターネット上にもいろんなことが書かれていますが,それらを読んでいても,かなりいい加減なものや,中には,星というもの自体を理解しておらず,地球のような個体だと思っている人の書き込みさえあります。
そもそも脈動する気体である赤色巨星の大きさ,といっても,綿菓子の大きさ比べをするようなものです。
では,星の大きさはどのようにして測るのでしょうか?
恒星は非常に距離が遠いため,近距離にあるほんのいくつかの大きな恒星だけは干渉計を用いて直接測定することができますが,それ以外のほとんどの星は直接その大きさを観測することはできません。
ではどうするかというと,星の表面温度と距離と明るさから求めるのです。
表面温度はその星の色などから知ることができます。また,星の見かけの明るさと距離から,もともとの明るさ(=絶対等級)を求めることができます。絶対等級はその星を距離32.6光年においたときの等級で表します。
絶対等級からその星の出す全エネルギーを求めることができます。星の表面温度からは表面の単位面積あたりから放射されるエネルギーの量がわかります。
したがって,星の全エネルギーを単位面積あたりから放射されるエネルギーで割ってやれば星の表面積がわかり,表面積がわかれば半径を求めることができるというわけです。
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こうして割り出した現在最も大きい星は,さいだん座のウェスタールンド1-26 (Westerlund 1-26) ではないか,ともいわれるのですが,まだわからないことが多く非常に不確かだそうです。それを抜いて,はっきりわかっているなかでは,はくちょう座V1489星(16等)が大きくて太陽直径の1,650倍です。次に,いっかくじゅう座V838星で太陽直径の1,570倍,さらに,大マゼラン雲に存在する赤色極超巨星WOH G64(?等)が太陽直径の1,540倍と続き,いて座VX星(6等以下),ケフェウス座V354星(10等)の1,520倍,そして,ガーネットスターと並んで,いて座KW星(11等),おおいぬ座VY星(8等),はくちょう座KY星(13等)の1,420倍といわれています。
しかし,上記に書いたように,直接計ったわけでなく,また,星も気体からなる脈動星なので,これらの大きさを比べて順位付けをすること自体にかなりの無理があるかもしれません。
それにも増して,ガーネットスターの価値は「肉眼でも見ることのできる」宇宙で最も大きな星ということなのです。私は,その赤く美しい姿に魅了されます。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日⑥
●インタービューはボツだった。●
さて,そうこうして,私は,今日もマーリンズパークにやってきた。
車を駐車する場所は昨日と同じにした。昨日車を停めたときに「明日も来るよ」と言って予約をしておいたのだ。
車を停めて,まず,ボールパークの周りを一周することにしたが,この日もものすごく暑かったので,少しめげてきた。
ボールパークの北側にオフィシャルパーキングのビルがあって,ここは事前に予約をしてないと駐車できない。私が車を停めたのはボールバークの東側だが,ボールパークの東側から南側は住宅地である。そして,西側は公園になっていてさらにその西側が広い道路である。
治安は… 決して悪くない。
ボールパークの周りに気の利いたレストランがないのも昨日調べたとおりだが,ただ1軒Wendy'sがあって,私はそこで軽い夕食をとることにしていたからなかに入った。
なにせボールパーク内は何を買っても異常に物価が高く量も少ないから,なるべくなら外で食事をしてしまうに限るのだ。
客のほとんどはベースボール見物が目的で,イチローの記録目当ての日本人もいた。
食事を終えて,ボールパークに向かった。ボールパークの入口も,やはり,イチローの記録目当ての日本人が目についたが,ひとりで来たなんていうのは私くらいのものであろう。
このときの私は,メジャーリーグのボールパーク巡りは27球場目であったが,他のところと比較しても取り立ててわざわざ来るほどのところとは思えなかった。
すでに書いたが,私がここに来たのはMLB30球場全制覇のためであって,イチローのメジャーリーク通算3,000本安打達成か? という日に遭遇したのは偶然であった。しかし,まさか本当にこの日がそうなるであろうとは夢にも思わなかったし,今回もまたこんなに強運に巡り合ってはこの先が怖いと感じた。
昨日同様にボールパークの周囲には日本のマスコミが来ていて,インタビューをする日本人を探していた。
このこともすでにこのブログに書いたが,私が3年前にニューヨークのヤンキースタジアムに行ったときは,偶然,松井秀喜選手の引退試合であった。そのときも日本のマスコミがいて,ゲームの終了後に私もインタビューを受けたのだが,気の利いたことを話さなかったので,ボツになった。
今回もまた,インタビューを受けたが,この日は結局イチローの記録達成はならなかったので,そのインタビューもボツになった。
アメリカのボールパークには多くのゲートがあるのだが,私は普通はメインゲートというかそのボールパークで最も有名なゲートから入ることにしてるのだが,昨日来たときは最も空いていたゲートから簡単に入場した。
今日は最も人気のあるゲートから入ろうとしたが,そこはやたらとセキュリティが厳しいのであった。私は小さなバッグにカメラの交換レズと小さな双眼鏡をもっていたが,交換レンズを持ち込んではだめだというのだ。なんでもその係員がいうには,カメラ1台にはレンズは1本までなのだそうだ。そんなことは聞いていないしどこにも書いてない(と思う)。でも,私が知らないだけで本当にそんな決まりがあるのかもしれない。そして,私に余分なレンズを車に置いて来いといって,頑としてボールパークに入れてくれない。
暑いのに今さら車まで戻るのもバカらしくなったので,昨日入ったゲートに行ってそこから入ることにした。こういうとき,この国はものすごくいい加減で,係員によって言うことや対応が違うのだ。
思ったとおり,その別のゲートではなんの問題もなくすんなりと入ることができたのだが,そんなことでは逆にセキュリティは大丈夫かとが気になるのだった。長い通路を歩いて上ってボールパークに入ると,屋根の閉まったボールパークは冷房がガンガンに効いていて,むしろ寒いくらいであった。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日⑤
●突然空が暗くなったと思ったら●
すでに書いたが,フロリダキーズは約50の小島で構成されていて,そこに42の端がかかっている。このハイウェイは「世界で最も美しい」そうだから,これより美しいハイウェイを走ることは今後あるまい。
かつてこの島々を繋ぐのは深く青い海だけだったが,そこにはじめに作られたのは鉄道橋であった。その残骸が眺められる場所があったので,私は車を停めて,しばらくの間,景色を眺めていた。
再び,セブンマイルブリッジを走り,フロリダ半島まで戻ってきた。
ここからオーキッドジャングル(orchid jungle=蘭の花)で有名なホームステッド(Homestead)という町までの沿道はカーディーラーや小さな工場が多く単調な片側1車線道路だが,ホームステッドを過ぎ,サウスマイアミに近づくと片側2車線道路になって,周りも華やいできた。
そのころから,それまで非常に天気がよかったのに,突然,空が暗くなったと思ったら,とんでもないありさまになってきた。
この豪雨は尋常なものではなかった。さすがに車のワイパーの回転速度は日本のものよりもずっと早くまで設定できたのだが,いくら早くしても全く効果がなく,まるでプールのなかにいるかのようであった。しかし,道路の真んなかで自分だけが停車するわけにもいかず,見えるのは前を走る車のテールランプの赤いライトだけになったのだがそれだけを見ながら走っていくしかなかったわけだった。
以前,オズの魔法使いで有名なカンザス州ウィチタで同様の豪雨に出会ったが,それと甲乙つけがたいものであった。こんな雨は日本では絶対にあり得ないし経験もない。
そうこうするうちに,雨は小降りになってきて,それまでのことがまるで嘘であったかのように快晴になった。
ここはフロリダ,確かに日本のような温帯ではないということを強く感じた。
私は今日,予定を変更してキーウェストまで行ってすぐに戻ってきたのだが,もともとはマイアミのダウタウンタウンを公共交通で観光しようと思っていたので,来る前にずいぶんと調べたのだった。
マイアミの公共交通はバスや電車が縦横に走っていて,それを使えばどこに行くにもなんとかなりそうだったが,様々なものを読むと,やたらと治安が悪いということが書かれてあるし,そんな危険を冒してまで電車とバスを乗り継いで観光をするほどの情熱もなかったので断念して,キーウェストの帰り道に,国道1を外れダウンタウンへ遠回りして,少しだけ観光もどきをしてから,今晩のMLBのゲームに行くことにしていたのだった。
サウスマイアミから海岸沿いを走っていくと,ビスカヤ(Biscayne)博物館と庭園があった。ここはマイアミを舞台にした映画やドラマにもよく出てくる場所で,1916年に大富豪が建てたアメリカと思えないヨーロッパ風の屋敷と庭園で,現在それらは美術館となっている。
私は車で走り去っただけであったが,周りはものすごい高級住宅街であった。
そのままさらに北に走っていくとマイアミのダウンタウンに着いた。
マイアミのダウンタウンは新しい高層ビルが林立し,いかにもアメリカの近代都市なのだが,新宿の副都心と似ているといえばそんなようなものだった。
すでに何度もこのブロブに書いたように,私は,こういう場所では何もすることがないから,ここもまた車で通り過ぎただけだった。とても印象深かったのは,信号が変わるのが遅いということであった。私が通ったマイアミのダウンタウンの交差点の信号は「A-B-A-B」という通常のパターンで変わるのでなくて「A-B-A-B-C-A-B-A-B-C」のような変則的な変わり方をしたので,「C」の側の進行方向になってしまうと,なかなか青信号に変わらず進めないのである。
しかし,日本のように交通量が多かろうと少なかろうと杓子定規に信号が規則正しく同じ間合いで変わるから,ラッシュ時には一信号で右折することができず右折帯に取り残されるだけでなく,右折帯から直進帯まで車がはみ出して渋滞を引き起こしているようなことがよくあるが,そんな日本の信号の変わり方よりもずっと柔軟性があって渋滞が緩和されるのである。やはり,日本人は頭が悪い。
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やっとのことでダウンタウンを脱出して,次にリトルハバナ(Little Havana)へ迂回してみた。ここはキューバ移民が多く住んでいるキューバのような地域である。マイアミ・マーリンズのボールパークはここからさほど遠くないところにあるのだ。
平城京の大路を中国語を話しながら-正倉院展へ行く④
唐招提寺から平城京跡まではバスで3区。寺の前のバス停にちょうどバスが来たので,歩く計画を変更してバスに乗りました。
子供のころ学校で習った日本の歴史で出てきた史跡,弥生時代の登呂遺跡,聖徳太子の法隆寺,平城京,平安京… は,それを知って以来,そのどこへも一度は行ってみたと思っていたのですが,その後何十年も経つと,様々な研究がすすみ,発掘も行われて,ずいぶんと変化しました。
私は,平城京とか,織田信長の作った安土城とか,そういう巨大な建築物が,わずか数年~数十年の間に完成したとはとても思えません。もし,その時代に行けたとすれば,現在のわれわれが復元したようなものは,作りかけだったり不完全なものだったりしたに違いがないと思うのです。しかしそれにしても,その時代の遺構がさまざなま形で現在もなお存在することに,不思議な気がします。
今は京都の市街地となってしまった平安京とは違い,平城京の中心地はその後も市街地とならなかったために,発掘調査をしたり,復元したりして,再び姿を見せようとしています。
ただし,現在の京都御所を平安京の時代の大極殿と思っている人もいるかもしれませんが,それは大間違いです。その時代の中心は現在の千本通りです。
私は大学生のときに平城京跡をはじめて見て,敷地のまんなかを近鉄が横切っていることも驚きだったし,広大な平城京跡が,今もその時代の面影を残していることにも驚きました。
その後,整備がすすみ,朱雀門や大極殿が復元されたということで,私はそれらを見たときは感動しました。
以前,九州の吉野ケ里遺跡に行ったときにも同じことを思いましたが,国の予算が入ると,これほど大規模な整備ができるのですね。しかし,こうした国の歴史の根幹をなすものにはもっと多額の予算を講じてもいいのに,と私は思います。
平城京は奈良時代の日本の首都だったのですが,中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれていたのですが,さらに左京の傾斜地に外京が設けられていたのが平安京と違うところで,そのため左右対称でなく,子どものころはそれがずっと奇妙でした。しかし,外京にある東大寺へ行って平城京という地をその高台から見下ろす形で見たときに,その場所に外京を作る必要があった理由がわかったような気がしました。
平城京は東西は一条から十条の大路,南北には朱雀大路と左京一坊から四坊,右京一坊から四坊の大通りが設置されていてそれぞれの大通りの間隔はなんと500メートル以上,大通りで囲まれた坊とよばれる場所は堀と築地によって区画され,さらにその中を東西・南北に3つの道で区切って町としていました。その区域は東西が約4.3キロメートル,外京を含めると6.3キロメートル,南北が約4.7キロメートルにも及ぶものでした。
その大路を,役人が中国語を話しながら歩いていたと,大学の日本史で習いました。
内裏は朱雀大路の北端に位置し,そこに朱雀門が設置されていました。朱雀門の北には大極殿があって,このふたつの建物が復元されているのですが,その広さは歩いてみると実感します。
仮想敵国中国に対抗するには,これくらいの「見栄」が必要だったのでしょう。
平城宮の東の張り出し部分には奈良時代の東院庭園が発見されましたが,それは東西70メートル,南北100メートルにもわたるもので,そこには池を掘り橋をかけ建物を建てていたということです。
また,唐招提寺の講堂は平城宮朝堂院にあった建物のひとつである東朝集殿を移築したものであり,平城宮唯一の建築遺構としても貴重なものとされています。
現在,文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づいて遺跡の整備と建造物の復元が進めています。そこで,この地を広く知らせる意味で,毎年平城京天平祭が開催されています。
2006年にはそれまで朱雀門の南側だけを会場としていたものを「平城宮跡院地区」に移すことになりました。
私が行ったときは,ちょうどこの年の平城京平安祭の時期であり,会場では,衛士隊の再現やらオリジナル劇「阿倍仲麻呂伝 ・天空の月」をやっていました。天平衣装体験という企画もやっていて,その企画で衣装を来た人たちがこの劇を見ていたのが,面白い風景となっていました。
劇は,阿倍仲麻呂や吉備真備らが遣唐使に任命され日本国の代表として唐の国にわたり異国文化を学び日本国の発展に役立つ人生模様を描くいたものだったのですが,私は若いころと違って,人間が生きるというのは今も昔も不自由で大変で苦労ばかりだったんだなあと,歴史にロマンを感じるよりもむしろ生きることの不条理と苦痛を感じてしまうのです。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日④
●なんと贅沢な旅ではないか!●
私が初めてフロリダに来たのは1998年だったから今から18年前のことである。
当時のフロリダは本当に楽しかった。思い出は美しい… からなのかもしれないが,夕方インターステイツを走っていると,遠くに灯りが見えるので降りてみると,それはボールパークの照明だった。そしてそれを見に行くと,それらはみなマイナーリーグのゲームであったが,小さなボールパークでとてもおもしろいのだ。
そんなことを毎晩やっていた。
今回驚いたのは,当時は片側2車線だったインターステイツがどんどん拡張されて,インターステイツ95でいえば,片側だけでも6車線もあったことだ。そしてさらに中央の車線は有料道路になっていた。それでもインターステイツ95だけでは車がさばききれないから,それに平行に有料道路のバイパス(ターンパイク)ができていた。しかも,そのすべては料金所などなく,レーダーで車両を識別していた。また,一般道を信号待ちで止まっていると,どこからともなくホームレスが現れ,金をせびるのだ。
こんなふうだったから,私は,18年前とは違って,今回フロリダに来てみてもまったく楽しくなかった。
この州はどことなくテキサス州に似ていなくもなかったが,テキサス州は治安がよいがフロリダ州はその点でもまったくなっていなかった。
私はそんなことを思い出しながら18年前と同じように,国道1にかかるセブンマイルブリッジを走って,再びキーウェストへ着いた。
セブンマイルブリッジからの景観はその時と同じようにいまもなお美しかったが,その果てにあるキーウエストもまた,18年前とは違って観光客が多すぎて,ここもまた,どうにもいけなかった。
どうやら,今日では,アメリカの観光地というのは,どこもその許容範囲を超えてしまっているようだ。
フロリダ州は,ケネディ宇宙センターでホンモノのスペースシャトルを見るため,そして,キーウェストへ行くセブンマイルブリッジを走るため,誰しも一度は足を運びたいところに違いがない。しかし,フロリダ州といっても広く,オーランドからケネディ宇宙センターまでは2時間もかからないが,マイアミまで行くには3時間,さらにそこからキーウェストを往復すれば6時間もかかるほど遠いから,行くだけでも結構たいへんなのだ。
この春にハワイ行った私にすればすべての点においてここはハワイよりも魅力に劣るところだったから,再びフロリダ州の地に来ることはもはやあるまい,と思う。
今回,再びキーウェストへ行こうと思った最も大きな理由は「国道1」の終点と始点の標識をカメラに収めるためであった。
このようにして,私はマイアミからキーウェストまで,国道1を160マイル走ってきた。国道1はキーズ地区に入るとやたらと数字の標識が目立つようになった。ここではこの数字が番地の役割も果たしているのだという。
国道1はキーウェストに入ると「ルーズべルトブルバード」(Roosevelt Blvd)と名を変えた。
ここキーウェストはアメリカ最南端の町であるとともに,文豪ヘミングウェイが住んでいたことでも知られている。
キーウェストに初めて上陸した訪問者は海賊だったという。その後,ハバナ人がスループ船と呼ばれる一本マストの帆船でやってきた。
キーウェストでは国道1は左側にベイビューパークを見ながら走り,途中からトルーマンアベニューとなり,デュヴァルストリートとぶつかる。その交差点を右折してヘミングウェイの住んでいた家の前を少し通り抜けるとスレミングストリートと交差する。
そこが国道1の南の終点であった。
私は,すでに前回,キーウェストの観光地はすべて見てまわったし,今回はこの狭い島にあまりに多くの観光客がいて,車を停めて歩き回る気持ちがうせてしまったので,国道1の最終地点に来たことですっかり満足して,引き返すことにした。
ここまで来てそのまま引き返すとはなんと贅沢な旅ではないか!
引き返す前に,サザンモストポイント(Southernmost Point)だけは見ておこうと思って,海岸線を走った。昔と変わらぬサザンモストポイントだったが,写真を写そうと多くの人が列を作っていたし車を止める場所もなかった。再び国道1に戻ると,今度は国道1の南の始点の標識に出会った。
ここから私は国道1を逆方向に,マイアミに向かっって引き返すのだ。
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The Super Moon 2016
68年間で最も地球との距離が近いスーパームーンでしたが,天気が悪く,前日に雲の間からなんとか写しました。
「伽藍の交響楽」唐招提寺と天平の甍-正倉院展へ行く③
薬師寺を訪れたあと,歩いて唐招提寺へ向かいました。
その道すがら,私のこの日の関心事は正倉院展以上にMLBワールドシリーズの最終戦でした。スマホで始終ゲームの進行をチェックしては興奮していたので,今いる場所が古都奈良なのかはたまたイリノイ州シカゴなのか,といった状況だったのですが,カブスの優勝が決まったちょうど同じころ,唐招提寺に到着しました。
唐招提寺といえは鑑真,鑑真といえば戒壇ですが,高等学校の日本史の教科書には次のように書いてあります。
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日本への渡航にたびたび失敗しながら,ついに日本に「戒律を伝えた」唐の鑑真らの活動も,日本の仏教の発展に寄与した。
当時,正式な僧侶となるには,得度して修行し,さらに「戒を受けること」(受戒)が必要とされたが,受戒の際の正式な戒律のあり方を鑑真が伝えた。鑑真はのちに唐招提寺をつくり,そこで死去した。
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私は,高校生のころに,この文章を読んでもさっぱりわかりませんでした。第一,「戒律を伝えた」ってどういうことなのでしょう?
私は今ではすっかり考え方が変わったので,読んでもわかりもしないような難解な教科書を作って,しかも一社がシェアのほとんどを占めて,それを生徒に与えるのは学校教育が間違っていると思うようになったのですが,以前は,この小難しい日本史の教科書こそ日本人のバイブルだと信じて疑いませんでした。
しかし,高校生の私はさっぱりわからないにも関わらず,妙に「鑑真」「唐招提寺」「戒律」という言葉がずっと気になっていました。また,当時の私は今と違ってものすごく日本史が好きだったので,大学生になったとき,さっそく憧れの唐招提寺に行きました。
「戒律を受ける」とは仏教の戒を受ける儀式のことだそうです。といわれてもさらにさっぱりわかりません。
そこでさらに調べてみました。
自分がそれまでに行った悪を懺悔して心をきよめ,沐浴して身をきよめ,清潔な衣服を着けて,高徳の戒師の面前で仏法僧の三宝に帰依する,つまり,不殺生,不盗,不妄語といった「戒の規則」を終身守ることを誓う儀式をすることで受戒が成立し戒体が身に備わる,のだそうです。
結婚式やら卒業式みたいなものですね。ただし,そこには高徳の戒師さんの立ち合いが必要であるというわけです。
そして,その受戒を行う場所を戒壇というのです。
鑑真が来日する以前の日本には戒律を授ける資格をもった高僧,つまり高徳の戒師さんがいなかったので,僧がいくら戒律を守っていたとしても正式には戒律を授かっていないということになりました。
その当時,多くの日本の僧が朝鮮半島や中国大陸に留学したのですが,正式な戒律を受けていなかったために,留学先では正式な僧とは認められず半人前扱いだったわけです。そこで戒律を授ける資格をもった高僧に来日してもらいたいというのが日本仏教界の悲願だった,というわけです。
こうした理由で多くの苦難のに来日した高僧の鑑真は,東大寺で5年を過ごした後,この唐招提寺の地に宅地を下賜されて,759年に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵,宝蔵などがあるだけでしたが,鑑真和上の弟子のひとりであった如宝の尽力によって現在のお寺が完成したといわれます。
現在,唐招提寺は南都六宗のひとつである律宗の総本山です。
この寺にある金堂は,井上靖の小説「天平の甍」でも有名です。
第9次の遣唐使派遣が決まったのは天平四年(732年)のことでしたが,このときの遣唐使に留学僧として選ばれたのが普照,栄叡でした。戒律が備わっていなかった日本に伝戒の師を連れてくることが二人に課せられた仕事でした。
栄叡は戒師として名高い鑑真の弟子を何人か連れ帰りたいと考えていました。そのことを鑑真にお願いに行くと,あらんことか鑑真本人が日本へ行くというではありませんか。栄叡は感激し,鑑真を日本へ連れて行くための準備に入り,普照も手伝うことになったのです。
しかし,日本への渡航は困難を極めました。最初は出航することすらできずに失敗,そして次は船が難破して…。
これが「天平の甍」のあらすじですが,こうした知識があればこそ,そして,鑑真の情熱と苦労を知ればこそ,この寺の金堂を見上げたときに,その甍を見るだけで先人の苦労が偲ばれて胸がいっぱいになるのです。
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若葉して御目の雫拭はばや 芭蕉
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ときは初夏。みずみずしい若葉でもって鑑真の盲いたお目の涙をそっと拭ってさしあげたい。
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20年ぶりの薬師寺と唐招提寺-正倉院展へ行く②
私は今から40年ほどまえ,はじめて薬師寺と唐招提寺に行きました。
そのとき,近鉄の西大寺を降りてそのまま歩いたのか,あるいは,今回と同じように西ノ京駅で降りたのか,今となってはまったく記憶がないのですが,高等学校で習った,というより授業中はほとんど寝ていたから,自分で教科書を読んで覚えた,ほんものの薬師寺東塔と唐招提寺が隣どうしにあったのが,ものすごく衝撃的でした。
当時の薬師寺は,今とは違って東塔しかなく,教科書にのっていたこれもほんものの薬師三尊像の安置された金堂は再建されたばかりで,すごく素朴なお寺でした。
当時の管主であった高田好胤さんが修学旅行生あいてにお話をされていました。
また,唐招提寺は,何もない薬師寺とは打って変わって,すべてがそろっていて,その気品のある美しさと「伽藍の交響楽」といわれる堂々とした風格で,私は,一瞬にして魅了されました。
高田好胤さんがやり手で,金堂,西塔から始まって,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
そこで,現在まで,この寺は,どこかしかがずっと工事中で,薬師寺は私がはじめて行ったときの素朴な雰囲気が全くなくなってしまいました。
20年ほど前の暑い夏の日に,再び薬師寺と唐招提寺を訪れたときに,今度は,唐招提寺が解体修理に入ると聞かされて,薬師寺だけでなく,私の好きだった唐招提寺もこれでその素朴な姿をしばらく見ることができなくなるのだなあとものすごくがっかりしたのを思い出しました。
そして今回。
唐招提寺金堂の解体修理は終了していて,再び,以前の様子を取り戻していました。
一方,薬師寺は,今度は東塔を修復工事するということで,すっかり覆いにかけられていました。その美しい姿を再び見られるのは4年先のことだそうです。
私は,40年前に行っておいて本当によかったと思ったことでした。
こういう寺の保存・維持は本当に難しいものだと思います。しかし,薬師寺のように,どんどんと新しくなっていくのも,また,考えものでなにかとても残念な気がします。
唐招提寺に行ったとき,寺の方が,うちは薬師寺のようにはいたしません,と言っておられました。
話がずれますが,もし,京都の鹿苑寺金閣が燃えていなかったとしたら,現在の金ぴかの建物はなかったわけだし,それでは観光という意味から考えると魅力がありません。だから,そのほうがよかったのかどうかは,私にはよくわかりません。
今回も,まず,薬師寺に行きました。
薬師寺は法相宗の大本山です。天武天皇により680年に発願され,持統天皇によって697年に本尊開眼し,更に文武天皇の代に飛鳥の地で堂宇の完成を見ました。その後,平城遷都に伴って718年に現在地に移されたものです。
20世紀半ばまでの薬師寺は江戸時代後期に仮再建された金堂,講堂が建ち,創建当時の伽藍をしのばせるものとしては焼け残った東塔だけだったのですが,1960年代になると「白鳳伽藍復興事業」が進められ,先に書いたように,1976年に金堂が再建されたのをはじめとして,西塔,中門,回廊の一部,大講堂などが次々と再建されていきました。
現在の金堂の内陣は鉄筋コンクリートであり,西塔は鉄の使用を極力少なくし木材の乾燥収縮を考慮して東塔より約30センチ高くして再建されています。また,入母屋造だった旧金堂は現在興福寺の仮中金堂として移築されました。
また,薬師寺の北には玄奘三蔵院伽藍と大唐西域壁画殿が作られて,その内部には平山郁夫画伯が描いた壁画があります。
このように,今回見られなかった東塔以外には,日々新しくなっていって,創建されたころの面影をしのぶ壮大な寺院となりました。
ここでの一番の見ものは,やはり,金堂にあった薬師三尊像なのですが,その昔初めてきたときに,金堂の薬師三尊像とならび大講堂にもおなじような弥勒三尊像があって,混乱したのを思い出しました。
この寺の西側,近鉄の線路の向うに大池があります。この池から薬師寺を写した写真があまりにも有名です。特に明け方は日の出の太陽と東塔が幻想的に池の水に光り,また満月のころは月と塔が同じように浮かび上がります。以前は東塔だけが寂しく,しかし美しい構図で多くの写真が写されました。その後,西塔が作られて,東塔と西塔が並ぶ姿になったのですが,西塔のできた当初はあまりにそれが新しくて,ふたつの塔の違いに違和感さえあったのですが,西塔もまた年月を重ねて,次第によい意味でくすんできました。
私は残念ながらその写真を撮ったことがないので,ぜひ,4年先,東塔が再び姿を見せたときに,今度は夜明けの大池からの写真をうつしたいものだと思いました。またひとつ楽しみができました。
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ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱
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2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日③
●日本の誇る「ドリラー」教育の成果●
私がマイアミから国道1を南に走って,途中「セブンマイルブリッジ」(Seven Mile Bridge)を通ってキーウエストに行くのは,これが2度目のことであった。
インターネットが発達して,家にいながら玉石混合の情報が容易に手に入るようになった。それ以来,私は逆に,行動をすることこそがすべての基本だと思うようになった。
そうしていざ行動しはじめると,ロクに行動もしないで本で読んだだけの知識を受け売りで振りまいている人や,頭のなかだけで考えたことをさも学問として語る輩があまりに多いことに気づくようになった。
今どきインターネットでどんなことでも調べられるのに,それができなかった昔のように,単に前日に予習をして得ただけのそんなにわか知識を教師が生徒に語るような授業をするのなら,もはや学校など不要だろう。
すべての基本は自分の目で見,耳で聞き,心で感じ,足で大地を歩くことである。
フロリダキーズはその先端にあるキーウェストまで多くの島々が点在し,それらすべてが42の橋で結ばれているが,そのうちの最も長いのがこのセブンマイルブリッジである。
セブンマイルブリッジというくらいだから,全長7マイル(正確には6.765マイル=10.887キロメートル)の橋が海を渡ってかけられている。
インターネット上に「私はセブンマイルブリッジに行きたい」という表題をつけた,行ったこともないのに単にインターネットを検索して見つけただけの情報と写真を勝手にコピーして作ったブログを見つけた。
この種のブログはインターネット上に,旅行ネタに限らず芸能ネタなどにもたくさんある。それらは行ったこともない場所や会ったことのない芸能人の情報を適当に調べてそれを羅列して,最後にさもわかったかのような感想(特にこれが鼻につく)をちょちょっとかいたものばかりだが,そんなブログを作っている人を,私は情けなく思う。
これもまた,ドリルだけをやってそれを勉強だと思っている偉大な日本の誇る「ドリラー」教育の成果なのであろう。
閑話休題。
この「セブンマイルブリッジ」は多くの映画やCMで使われているので,どこかでそれをご覧になったこともあるだろうが,1979年から1982年にかけて建設されたものである。
セブンマイルブリッジは、古い橋と新しい橋が平行して走っているが,古い橋のほうはところどころで破壊されていて,今では廃墟と化している。この古い橋は鉄道王ヘンリー・フラグラー(Henry Flagler)が1909年から1912年にかけて列車用に作った橋で,その後,オーバーシーズ・レールウェイとして1913年から1935年まで運用されていたが,度重なるハリケーンの影響で破壊された。キーウエスト側の1キロほどが再び整備されていて「世界最長のフィッシングピア」として釣り人や観光客に開放されている。
私が読んだ,先ほどのバカげたブログには「オープンカーを借りて爆走してみたい気分ですね」といったたわいもない感想が書かれてあったが,この橋を爆走する車などありえない。
本当にバカじゃなかろうか?
橋を渡り終えるといよいよキーウェストだ。この島は右回りに海岸に沿って走っていくと,今日の写真のように左手にすばらしいホテルが立ち並んでいて,右手には美しい海岸が広がり,このあたりが最も美しい場所であると思われた。
ここの景色を見て,私は前回来たときのことを思い出した。そのとき私はこの場所にあったオープンカフェで食事をしたのだが,その翌年にこの地は悲惨なハリケーンで木っ端みじんになってしまったのだった。あのときに話をして一緒に写真を撮ったウェイトレスは今も元気だろうか? 完全に復旧したこの地を見て私が思い出したのはこのことだった。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日②
●キーウェストへ行ってくることにした。●
この日私はMLBマイアミ・マーリンズのナイトゲーム開始までの時間,マイアミのダウンタウンを観光しようかそれともマイアミビーチに行こうかずっと迷っていたのだが,マイアミに着いたら,そのどちらも行く気がなくなってしまった。
それは,マイアミはどこも車と人だらけであり,道路はやたらと有料だし,治安もよさそうにないから,どこへ行ってもまったく楽しくなさそうだったからである。
私は,フロリダに来るくるならハワイ州オアフ島のワイキキビーチのほうがずっといいと思った。
アメリカ本土で出会った人にハワイの話を持ち出すと,どうやらアメリカ人にとってもハワイというのは遠いところのようだということを実感した。彼らにとってもハワイ旅行は夢のまた夢なのだ。むしろ,日本人のほうがハワイを身近なところに感じているように思えた。
そんなわけで,私は,マイアミの観光をするのはやめて,キーウェストまで往復してくることにした。
キーウェストへはマイアミから国道1(US-1)をひたすら南に走っていけばいいのだが,往復すると6時間ほどかかる。それでも,マイアミの観光をするよりもずっと魅力的に思えた。18年前に一度行ったときの記憶があいまいだったから,もう一度新たな記憶として焼き付けておこうと思ったこともあったのだった。
それにしても,まさか今回来る前はこの旅でキーウェストまで行くとは思いもよらなかった。また,私がキーウェストに2度も行くことになるなどとは思いもしないことであった。人生とは不思議なものである。
国道1はマイアミの市街地を抜けると次第に南国ムードいっぱいになってきたが,走っているとき,どことなくボストン郊外のケープコッド岬やワシントン州のオリンピック半島に似ているなあと感じた。というよりも,実際は,海に突き出た半島なんて,どこへ行っても同じようなものなのだろう。
アメリカはどこを走っていても美しく楽しい。日本の半島のように,古びて廃墟になったような建物やら,たごっちゃごちゃに道路が作られて満足に走ることさえできなかったりするのとはえらい違いである。
国道1は,マイアミ市街地を出るとオーバーシーズハイウェイ,そして,サウスディクシーハイウェイといった名が付けられていて,そのまま直線にカリブ海まで進み,大きな橋を越えてキーラーゴ島に上陸すると,そこで西に90度向きを変えた。
ここから先の国道1は延々と海のなかに突き出た島々を通って,最終的にキーウェストに到着するのである。
せっまい国土に住む日本人には想像もできないであろうが,国道1は,今日の写真にあるように道路幅は広く,地図から思い描くようなところではないのである。
18年前に初めてここを走ったとき,私はどうしてこの道を走ったその先端にキーウェストという素晴らしい場所があるのに,途中の半端なところに別荘を構えたりすのかしらと思ったことだったが,今思うに,先端の遠いところまでわざわわざいかなくても,途中でもずいぶんと景観がいいのだからそれで十分だ,そう思うようになったのは私が歳をとったということであろうか。
まだ朝食をとっていないことを思い出して,途中にあったバーガーキングに入っていって,私はモーニングセットを注文した。
待ち出づるかな-「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」②
今回の「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」は,落ち着いた,大人のためのすてきな恋物語となりました。
京都を舞台として,そこに日本の文化をしっかりと据えてドラマを創れば,日本人の琴線に触れるものができるのです。これは,どんなに外国人観光客が京都の町を闊歩しようと,決して理解することのできない日本人の心なのです。
そこに,日本に生まれたことの優越感を感じることができるわけです。
私は,この番組を機会に,手当たり次第にいろいろと調べてみました。
その結果思ったのは,日本の文化は「あいまい=ambiguous」だということです。「ambiguous」とは作家川端康成がノーベル文学賞を受賞したときの挨拶のことばですが,本質をいい当てる川端はすごいです。
番組の中で「有明の月」は二十六夜のことだというナレーションがありましたが,果たしてそうなのでしょうか?
私は,身近にいた高等学校の国語の先生に「有明の月」について聞いてみたのですが,明け方に月が残っている様だと言われました。また,インターネットで調べてみると,夜の白む明け方の「西の空」に見える月の姿だと書かれてありました。
明け方の西の空に残る月といわれて深く考えずに納得したのですが,よく考えてみると,それは間違っているのです。
どうやらこれまでの私の頭の中にあった「有明の月」のイメージは,百人一首の素性法師の歌
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今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出づるかな
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だったようなのですが,その歌の解説には,
有明の月とは 夜遅く出て明け方の空にまで残っている月であって,それはおおよそ「陰暦二十日以降の月」をいうので「秋も残り少ないこと」が暗示される
とありました。
これもまた,なんとなく読んで納得してしまうのですが,よく考えてみれば「」のなかの部分などそんな断定してしまっていいのという感じです。
このドラマに出てきた有明の月というのは二十六夜ということならば,それは明け方にやっと昇ってくる月だから「東」の空に見ることのできるものです。
しかし,「有明の月」とはいっても,明け方の西の空に未だ沈まないで残っている十六夜のことだと思っている人もいるし,明け方に南の空に残る二十三夜のことだと思っている人や,あるいは,やっと東の空に昇ってくる二十六夜のことだと思っている人もいるのです。きっと,その全てを「有明の月」といっているのでしょうが,それが人それぞれ異なっているし,説明もめちゃくちゃなのです。まさに定義が「ambiguous」です。夜が白む明け方の「西の空」に見える月と書かれたものすらあるのですが,実際は夜が白むのは西の空ではなく東の空だから,これは「ambiguous」をこえて根本的に間違っています。私もうっかり信じるところでした。
とまあ,番組を離れて,きわめて「理系」的に考察してみたのですが,そうこうするうちに,とても残念な気持ちになってきました。それは,この番組を作った人は,番組のテーマが「月」でありながら,実際には,明け方に昇る月を待ちながら来ぬ人のことを待ちわびる… という実体験をしていないのではないか,ということなのです。ひょっとすると,二十三夜すら見ていないかもしれません。
もしそうだとすれば,せっかく「ほんまもん」にこだわるこの番組も,そんな経験,つまり,夜通し起きて二十六夜の月が昇ってくるのを待った経験もないのに,教室で生徒に「有明の月」を読んだ短歌について語るような教師と同じ類の「まがいもの」でしかなくなってしまうのです。国語嫌いの理系人間が,学生時代,国語という教科の,こねくり回すような理屈とか,あるいは,わかったような解釈に,ある種のいかがわしさや危うさを本能的に感じたのは,きっとこういうこと,つまり,きちんとした裏付けもないのに言葉に酔っているだけのことが原因だったのかな… とそのわけをやっと納得したような気になったのでした。
奈良時代も「ブラック」だったのか?-正倉院展へ行く①
今年もまた,正倉院展の季節が来ました。私は11月3日に行ってきました。
昨年の秋は過ごしやすく天気のよい日が続きましたが,正倉院展に出かけた11月8日だけはめずらしく雨が降りました。しかし,雨が幸いして,日曜日だというのに観光客は少なく,しかも,雨に濡れて色づいた木々がとても美しい1日でした。正倉院展のあとは京都に行って,泉涌寺別院・雲龍院と,京都国立博物館で「琳派・京を彩る」展を見ました。
あれからもう1年がすぎたのですね。
今年は正倉院展のあとは,久しぶりに薬師寺と唐招提寺,そして,平城京跡に行くことにしていました。
昨年も書きましたが,奈良市というのは,名古屋からはアクセスが不便なところです。
以前はJRで急行「かすが」に乗れば奈良駅まで直行だったのですがそれもなくなりました。現在は,京都から行くか,近鉄で西大寺まで行って戻らなくてはいけません。車は,東名阪自動車道が新名神とつながったせいで四日市付近で慢性的に渋滞するようになってしまいましたが,幸運にもこの日は行きだけは渋滞もなく,スムーズに到着することができました。
正倉院展の待ち時間が45分とありましたが,それほど待つこともなく,入ることができました。
今年の見ものは「漆胡瓶(しっこへい)」です。
丸く張った胴部に鳥の頭を思わせる注口をのせ,裾広がりの台脚と湾曲する把手を備えたペルシャ風の水瓶です。テープ状にした木の薄板を巻き上げる「巻胎技法」によって素地を成形し,全体に黒漆を塗った上に文様の形に切り透かした銀板を貼る平脱技法で山岳や鹿,オシドリなどを施し,広々とした草原に禽獣が遊ぶ様子を表しています。
西方に由来する器形と,東アジアで編み出された巻胎技法・漆芸技法とが融合した,まさに当時の国際的な交流の産物といえる品ということです。
高等学校の日本史の教科書に載っているのでおなじみです。
しかし,それよりも私が興味をもったのは「続々修正倉院古文書第四十六帙 第八巻」でした。
これは経典の貸し借りや写経所に関係する文書を貼り継いで成巻したもので,その一部に著名な「写経司解司内穏便事」という文書があります。「解」とは上級の役所に提出する上申書のことです。
書かれていた内容は,写経を行う写経生の待遇改善を具体的に箇条書きにしたもので,紙が少なく書き手が多いので,紙が供給されるまで経師(書写係)の招集を停止すること,装潢(装丁係)と校生(校正係)の食事を改善すること,など全6箇条の要求です。
写経生の労働環境とそれに対する不満が垣間見える興味深い文書ということなのですが,奈良時代でも,働くというのは今と同じで大変だったのだなあ,と気が重くなりました。日本の「ブラック」企業の源流ここにあり,ということでしょうか。でも,要求できるだけ今よりましかも。
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さて,私はそんなことは忘れて,正倉院展を見終わってから,中華料理の桃谷樓製の正倉院展記念特別薬膳弁当を所望することにしました。
昔も今もかわらず,食べることは人生の一番の楽しみであり,喜びのようです。
「ニッポン国道トラック旅」②-グルメこそ楽しみ
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11月5日にNHKBSプレミアムで放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!“2号線”大阪~北九州の巻」は,昨年10月末に放送された「列島横断2800キロ!ニッポン高速道路トラック旅」,今年の5月7日に放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!“1号線”東京~大阪の巻」の続編です。
プロの運転手さんが交代で運転するトラックにぐっさんが同乗して,入れ替わりのゲストともに日本の国道2号線(通称「2国」)を大阪から北九州の門司まで走り抜ける,という番組です。前回同様,地元の人との触れ合いあり,おいしいグルメありで,おもしろく見ることができました。
大型トラックを運転するプロのドライバさんの技術は本当に素晴らしいものだと感心します。日本のような車幅の狭い道路を,しかも,違法駐車あり,傍若無人の運転あり,自転車あり… のなかを,ノルマや時間の制限もあるだろうし,そんなプレッシャーを感じながら,仕事とはいえ毎日運転するのは,本当に大変だろうと,しみじみ思います。
番組を見ていても,特に私が思うのは,日本の道路整備の発想のひどさです。
交差点での右・左折など,事故を誘発するように作られているとしか思えません。車には内輪差があるのにもかかわらず,左折するときにその猶予もほとんどありませんし,その先の道路が一瞬どこなのか迷うことさえ少なくありません。さらに,右折の場合は赤信号に変わっても無理やり交差点に突入してくる直進車のために交差点の真ん中で立ち往生することすらあります。アメリカでは左折(日本の右折)は直進よりも優先して信号が出るので,交差点の中で直進車が過ぎるのを待つなどという無謀なことはありません。
また,何度も書いているように,アメリカではセンターラインはすべて黄色で示されています。
この番組のなかで,明石市を抜けたあとの国道2号線が一方通行になっている場所が紹介されていました。その場所を走るときに「2車線道路の片側が追い越し車線なのか相手車線なのか戸惑う」という話がありましたが,これもまた,そうした日本の愚かな道路整備の発想が原因です。センターライン,つまり一方通行の一番右側のラインを黄色に統一すればそれでことが済むのです。
昔に比べて,バスやトラックの大きさだけは欧米並みになったのに,車線の幅は昔のままだし,速度制限も現実に即しているとは思えないので,大都市の60キロ制限の高速道路を100キロ以上で車の間を縫うように走って行ったりする,そんな無謀な車だらけのなかを日々運転するのですから,アメリカでコンボイが走るのと比べたら,その大変さはケタ違いであることでしょう。
道路に関してはそんなことばかりなのですが,さすがに日本は食事に関しては世界一魅力的です。
カーフェリーのトレーラーや工場の夜景,関門海峡の歩行者トンネルなども番組にはでてきましたが,その内容は「ブラタモリ」と同じようなものでした。しかし,「ブラタモリ」にないのは食べ物の紹介です。垂水漁港の釜揚げしらす丼,備前焼フルーツカレー,皿うどん,牛の初乳プリン,広島のお好み焼き,ドライブインの蟹汁など,一度は味わってみたいものでした。
私はプロのドライバでもないし,国内旅行は鉄道に限ると思っているので,必要がなければ長距離を運転する気持ちは今はまったくなくなってしまったのですが,思い出してみると,これまでに北海道から九州までの道路はほとんどすべて走ったことがあります。そして,そのなかで思い出に残るのは,ほとんど必要もないのに莫大なお金をかけて作れるだけ作った北海道の道路だったり,慢性的に渋滞しているのに何の対策も講じてこなかった都会の交差点であったりと,そんなびどいことばかりです。
また,都会は信号待ちばかりだし,郊外に出ても,道路を作るのに遊び心がないから,景観が優れたところでも展望台すらほとんどありません。道の駅があってもいつも混雑しています。そんな意味でも,やはり,日本を旅する楽しみは,車で走ることよりも,その土地の人との触れ合いであり,その土地の食事だなあと,こういう番組を見るたびにそれを再確認するのです。
そんな意味でも,車の旅はアメリカでこそ楽しむことができるもので,日本ではテレビで見るのに限ります。
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さて,続編はあるのでしょうか? ちなみに,国道3号線は北九州市から鹿児島市,国道4号線は東京から青森市ですが…。
ところで,いつも思うのですが,あのトラックの荷台には何が積まれているのでしょう?
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「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
君し来まさば-「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」①
NHKBSプレミアムで11月5日に放送された「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」。
今回の話題は「月」でした。
このめんどくさい京都人の作り上げた文化には「月」が大きな意味を持っている… ということから,物語は進みます。フルムーンでない「中途半端」に欠けた月にも意味をもたせるなんて,これこそが日本とでもいうのでしょうか。だからこそ,これぞ「京都人の密かな愉しみ」の極みなのです。
ということで,今日は,月について書いてみることにします。
●十三夜
満月十五夜だけの月見は「片見月」といって忌み嫌われ,翌月十三夜の月も見るべきとされた別名「後の名月」です。
月見団子は十五夜が15個に対して,十三夜には13個供えるべきです。そして,お供え物も旬の物である「豆」「栗」にちなみ「豆名月」「栗名月」といわれます。
私はこの月が一番好きです。
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●十六夜
十六夜は「いざよい」とよびます。「いざよう」とは「ためらう」との意味で,十五夜の月よりしばらく遅れて昇ることから「いざよい」とよばれるようになったようです。
ちなみに,「十六夜日記」は10月16日にはじまっていることを由来として後世にその名前がつけられたものです。
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●二十三夜待ち。
ちょうど下弦の半月を過ぎたころの月で,深夜の12時ごろに昇ってきます。
現在では廃れてしまった行事ですが,昔は「月待ち」とよばれる行事が日本各地で行われていました。二十三夜塔という石塔は二十三夜待ちを行った人たちが造塔したものです。
二十三夜の月は,勢至菩薩(せいしぼさつ)の化身と考えられます。
勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍を勤める菩薩様で知恵を司る仏様です。二十三夜に勢至菩薩を念ずれば万劫の罪が滅するという俗信があるのです。
ただし,この番組で二十三夜として写されていた月は,残念ながらそれより2日ほど早い二十一夜の月の姿でした。
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●二十六夜待ち。
月の出がだんだん遅い時間になるので,月が昇るのを「〇〇待ち」と表現するのですが,庶民にとっては,夜中過ぎに月が出るのを待ちながらそれまで飲んだり食べたりして楽しむ納涼イベントだったようです。
しかし,もともとは月待講で,この夜の月光のなかに阿弥陀,観音,勢至の三尊の姿が現れてそれを拝めるという信仰でした。
二十六夜ともなると,月の出は午前3時過ぎになります。したたかな庶民には,信仰を口実にして夜中まで堂々と遊べる夜だったのに違いないのです。
番組のなかで月の出が午前1時過ぎというセリフがありますがそれは間違いです。
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長月の有明の月のありつつも
君し来まさばわれ恋ひめやも
「拾遺和歌集」13 柿本人麻呂
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九月の有明の月夜のように,あなたがいつも私の許に来てくだされば,私はこんなふうに恋焦がれたりすることはないでしょうに…。
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この和歌については「枕草子」の175段に次のようにあります。
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出づるかたを見せて立ち帰り,立蔀の間に,陰に添ひて立ち,なほ行きやらぬさまに今ひとたび言ひ知らせむと思ふに,「有明の月のありつつも」と,忍びやかにうち言ひてさしのぞきたる髪の,頭にも寄り来ず,五寸ばかりさがりて,火をさしともしたるやうなりけるに,月の光もよほされて,驚かるるここちしければ,やをら出でにけり,とこそ,語りしか。
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帰ると見せかけて立ち戻って,立蔀の間に陰に身を寄せて立って,どうしてもこのまま帰れないという気持ちを,今一度言って知らせようと思ったところ,女が「有明の月のありつつも」と,小さな声で口ずさんで外を覗いているその髪が,頭の動きにも軽やかについてこず,額の髪が五寸ほど垂れていて,ともし火を近くにつけたようだったが,月の光も髪のつややかさに誘われて輝き,驚くような気持ちがしたので,そのまま出て帰ってきたと,その人が語ってくれた。
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逢瀬の後の名残を惜しむように,女が有明月を眺めながら「有明月のありつつも」と口ずさんだというのです。
有明の月夜というのは,夜が終わって明けるときに見える月のことです。十六夜ならばその時間西の空に月が残っていますが,二十六夜ともなると空のはてがほのぼのと白くなったころになってやっと東の空に月が昇ってきます。
夜中の煌々と輝く月もきれいですが,有明の月もまた柔らかくて美しいのです。
9月の二十六夜が昇るころは本当に素晴らしく気持ちがよいのですが,ずっと寝ないでこの時間まで月の出を待っていれば,それは確かに来ぬ人をあてもなく待っているはかない様をよく表しているように思います。ただし,私が星見を楽しむときには,一晩中こんな時間まで起きていることもなく,また,夜明け前の時間に星を見るときは,すでに一度眠ったあとで早起きをしてそうしているので,こんな気持ちを味わうことは決してありません。
また,今日の写真のように,二十六夜の月の表面は,三日月とは違って「海」とよばれる平坦な模様ばかりで変化がなく,月自体を見ていてもまことにおもしろみにかけるのが残念なのです。
古人はきっと「文系」で,そんな姿を観察もしなかったのか,あるいは気にもかけず,単に夜が白んでいく東の空に昇る月を恋しい人が来ぬまま時が過ぎていった様と重ねていただけのようです。
この番組を見て,今度京都へ行くときは,二十六夜待ちに出かけてみたいものだと思ったことでした。
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雪のお正月③-「京都人の密かな愉しみ」
京都・夏②-「京都人の密かな愉しみ 夏」
「京都人の密かな愉しみ」を探して②-雲龍院さん。
早春の京都①-「京都人の密かな愉しみ 冬」
星を見るのも大変だ。-この秋は何も見るものがない。②
前回「この秋は何も見るものがない。」と書きましたが,結局,天気も悪く,見るものがあろうとなかろうと,星を見る機会がほとんどありませんでした。
この週末は珍しく天気がよく,おむすび型の気圧配置で日本列島の中央に高気圧が位置するという理想的な状況になって,しかも月明りがなかったので,久しぶりに星見に出かけました。
よほどの山奥にでも住んでいなければかぞえるほとしか星の見えないこの国ですが,さらに秋の南の空には星がありません。
夏ならさそり座,冬ならオリオン座の1等星や2等星が都会でも見られるので,星座の確認もできまが,秋は,フォールハウトというみなみのうお座の1等星が寂しそうに輝いているだけです。
しかし,空の暗いところに出かけると,都会では単に灰色にくすんで何もないように見えるところには,くじら座やうお座,そして,みずがめ座の星々があります。
特に,くじら座は大きな星座で,堂々としています。くじら座,うお座と順に天頂に目を向けていくと,夏には東の空に見えたはずのペガサスが天頂を駆けていてびっくりします。星座の配置というのは,実際に星を見ないとなかなか実感のわかないものです。
昨年の冬から春にかけてはしし座やおとめ座の銀河を写そうと走り回っていましたが,夏から秋に見られるこのくじら座付近の銀河をこれまで写したことがないことに気づきました。メシエ天体がないので盲点になっていたようです。
探してみると,この辺りにはかわいくて写真写りのよい銀河がいくつかあって,あたりの星の配置が単純なので,簡単に視野に入れることができました。そうして写したのが今日の写真です。
1番目はNGC55です。この8等星の銀河はくじら座の南にあるちょうこくしつ座とそのさらに南のほうおう座の境にあって,地平線に近く高度が低いので写すのが難しいのです。
2番目はNGC247です。この銀河はくじら座のβ星に近く,この次の写真のNGC2534とともにちょうこくしつ座の銀河団に属するものです。
そして3番目がNGC253銀河とNGC288球状星団です。ともに見栄えのよい天体ですが,特にNGC253は南天のアンドロメダ銀河とでもいうほど明るくて大きなものです。
写真を写しているうちに,東の空にはエリダヌス川を渡るようにオリオン座が昇ってきました。この姿を見るともうすぐ冬が来るんだなあと毎年感慨深くなるのですが,それよりも,今の私には,この秋の星空の地平線の下にはマゼラン雲があるんだなあ… と気持ちはすでに11月末に出かけるニュージーランドでいっぱいなのです。
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日①
●イチローのMLB通算3,000本安打を見たかった。●
☆3日目 7月29日(金)
マイアミの新しい朝が来た。
もともと今回の旅は「アメリカ合衆国50州制覇」を達成するために残ってしまった2州,サウスカロライナ州とノースカロライナ州に行くのが目的だった。「MLB30球場制覇」はそれに付随したもので,今回の旅でこれも達成する気持ちはなかった。さらに,実のところ,数年前とは違って,私はアメリカ合衆国の東海岸にほとんど思い入れがなくなっていた。
ANAが羽田からシカゴとニューヨークに直行便を就航させたので,やたらとシカゴやニューヨークのコマーシャルを流しているが,私は,今やシカゴもニューヨークもほとんど興味がない。シカゴやニューヨークといったアメリカの大都市に住む気もなければ住んでいる人を羨ましくもない。それは決して強がりではなく,私は何年もアメリカを旅行した結果,アメリカの魅力は大自然にこそあると悟ってしまったからである。アメリカの都会の車と人の多さは並大抵なものではないのである。
しかし,それでも,東海岸には一度は行ってみたいなあと思っていたところが点々と残っていて,せっかく今回東海岸に行くのなら,この旅でそれを全部達成してやろうと思い始めてから,この旅の行き先がどんどんと拡大していったのだった。
そのひとつがマイアミである。
私はフロリダ州はすでに行っている。そのとき,マイアミの空港に降り立ったのだが,市街地は通らずキーウエストに向かったから,マイアミビーチには行ったことがないと思い込んでいた。しかし,今回行ってみると,私がそう思っていたのは間違いだと気づいた。
私は混雑したマイアミビーチ沿いの道路を走ったことがあるのだった。
しかし,当然,マイアミ・マーリンズのボールパークには行ったことがない。マイアミはフロリダ州のなかでもずいぶんと南にあるので,今回行こうかやめようかずいぶんと迷ったが,この機会を逃したらマイアミに行くことはもはや不可能に思えてきたから,結局行くことにしたのであった。
そうした計画を立てていたころ,イチロー選手のMLB通算3,000本安打の記録が私がマイアミに行く時期に達成されそうな雰囲気になってきた。
私がマイアミ・マーリンズのゲームのチケットを購入したのは昨日のものだけであった。しかし,もし,私の行くその次の日のゲームで記録を達成したとすると,それを見なかったことで私は一生後悔するのではないかと思ったから,この日のゲームのチケット(それも一番安い席)を後で購入して,マイアミの滞在を1日増やしたのであった。
来てみてわかったのは,このマイアミ・マーリンズのボールパークは,まったく不人気なところということであった。こんなに話題の豊富なゲームであっても客席はガラガラだったから,前売りのチケットなど買う必要もなかったのだ。
また後で詳しく書くことになるが,結局,この日は残念ながらイチロー選手は4打数無安打で記録が達成できなかった。しかし,次の日からマーリンズは遠征に出るので,あきらめもつくというものだった。
結局私は,記録の達成を見ることはできなかったが,この日のゲームを見て本当によかったと思った。とても楽しい1日になった。
では,次回からはこの日を朝から振り返ってみることにしよう。
2016夏アメリカ旅行記-18年ぶりのフロリダへ⑨
●来てみると当然のことであっても●
この日は数か月後にフェルナンデスに起きる悲劇などもちろん知る由もなく,私はイチローさえ見られればそれでよかったので,ゲームの終了を待たず,イチローのヒットを見ただけでボールパークを後にした。
ゲーム終了後の深夜の大混乱のなかを,来たばかりの町をドライブしてホテルまで帰るのはご免だった。
私の泊まったホテル,いや,コンドミニアムは単にアパートの一室を借りたものだから,自分の家のようなものだ。ガレージに車を停めてエレベータに乗って13階まで行ってそのままキーで扉を開けて部屋に入る。
車をガレージに入れるには,アパートの敷地に入るときに車を感知するとバーが自動で開く仕掛けになっていたのだが,そのバーは車がうまく感知されないと開かない。さらに,ガレージのあるビルに入るにもまた鉄格子の扉があり,これも車を感知すると自動的に開く仕組みであった。
そしてまた,車を停めたあと,ガレージからアパートに入る入口がわかりにくく,部屋にもどるまでが大変であった。
これもまたアメリカらしい話だが,これでセキュリティが保たれているのかどうかは定かでない。なにせ,このコンドミニアムは誰だって借りられるからである。
今日の1番目の写真はコンドミニアムの部屋の窓から外をみた風景,2番めと3番目は部屋のなかの様子である。アメリカのアパートのなかが見られただけでもここに泊まった甲斐があたというものだ。
室内は広く,寝室が2部屋もあったから,家族で来ればかなり安価で宿泊できるわけである。
ボールパークの近くにはホテルがなく,ネット上のさまざまな書き込みには,マイアミは治安の悪いダウンタウンを避けてマイアミビーチにホテルを取ったほうがいいとかかれてあるが,マイアミビーチまでは結構な距離があるから,ベースボール見物にマイアミに来る人は,わたしの泊まったコンドミニアムをお勧めしたい。
私は「MLB30球団制覇」のためにわざわざマイアミにやってきただけで,イチローはおまけ,他の多くのボールパークに比べてここは何の魅力もなかったから,今後再び来ることはないであろうから,もはや関係ないが。
ただし,このコンドミニアムの最大の欠点は周辺にまったくレストランがないということであった。マクドナルドのひとつもないのである。しかもここはホテルではないからビルのなかには自動販売機すらない。
当然部屋では自炊することができるのだが,まったく食材がないのだからどうしようもなかった。
私には宝の持ち腐れであった。
部屋に帰っても何もすることがないので,テレビをつけた。
この日は民主党の大統領候補者が決まる日ということで,テレビでは民主党の党大会をライブで中継していた。こういう日に偶然アメリカにいるというのも,けっこう「オツ」なものである。
テレビ画面にはまず,クリントン大統領候補の家族が出てきて,一人娘のチェルシーがいかに自分の母親が大統領にふさわしい人物であるかをとうとうと演説していた。その後で夫の元クリントン大統領が出てきて,クライマックスになった。
こういうのを見ていると,いかにもアメリカに来たなあ という感じになる。
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私はいいか悪いか好きか嫌いかは別として,これだけ多くの人が太平洋を横断してアメリカに来たり,日本のテレビや雑誌にアメリカの情報が出ているのにもかかわらず,こちらでは当然のことの多くがほとんど日本に伝わっていないことにいつも驚く。
アメリカ国内だけではなく日本国内を旅しても同じことを思うのだが,その理由は,そういう情報を書いても「銭にならない」からなのか,訪れる人がそういうことを認識していないからかのか,私にはそれがよくわからない。
たとえば,私が以前このブログに書いた「アメリカ人はとても丁寧に手をあらう」というのもその一例だし,「世界の果てまで日本人」という民放のテレビ番組でタレントの千原せいじさんがアフリカの便座すらないトイレの様子などを話していたが,こういう意外な事実は,行った人には当然のことであってもそうでないはまったく知らない,といった興味深い情報がきっとどこにもたくさんあるのだろう。
2016夏アメリカ旅行記-18年ぶりのフロリダへ⑧
●イチローとホセ・フェルナンデス●
MLBでは,インターネットでチケットを購入する時点でオフィシャルパーキングの予約も同時にできる。
しかし,シアトル・マリナーズの場合はオフィシャルパーキングはその時点で予約をしなくても当日でも駐車できるから,事前に予約をする必要はないのだ。何事にも「案配」というものがあって,これは行ってみなくてはわからないのである。
私は,マイアミ・マーリンズのボールパーク周辺がどうなっているのか想像がつかなかった。行ってみればとてもよくわかるのだが,行く前はさっぱり見当がつかなかったし,そもそもボールパークにはホテルから歩いていくつもりでいたから,事前に駐車場を予約しなかったのだった。
ところが,行ってみてわかったのは,マーリンズのオフィシャルパーキングは事前に予約をしていないと駐車ができないのだった。
そこで私は,ボールパークの周りを車で走って駐車場を探すことにした。走ってみると,日本の球場の周りのように民間の駐車場がけっこうあって,客引きに余念がなかった。そこで,私はそのうちの1軒に車を停めた。そこはボールパークのゲートから道路を1本隔てただけの民家の庭であった。
アメリカでは,ゲームの開始前に気軽に車を停めたのはいいけれど,ゲームが終わって駐車した場所に戻ってみると,来たときとは事態がまったく違っていて,人っこひとりいないかなり危うい場所だった,などといいうこともありえるので -なにせ,お金さえもらえばあとは知ったこっちゃない,という国だから- 私はずいぶんと慎重になっていた。
車を停めた場所を確認して,ボールパークに行った。
私は,このボールパークに明日も来ることになるから,ボールパークの様子はその時に書くことにしよう。ともかく,この日はイチローのMLB通算3,000本安打達成まであと3本という日だったが,このところの様子だとそらく代打での出場だろうから,この日に記録が出るという可能性はほとんどなかった。しかし,テレビ朝日やらNHKやら日本のテレビ局の取材が数局来ていたし,イチロー目当ての日本人もいたるところにみられた。
そして,ボールパークのなかに入ってみると,あの,「イチメーター」でかなり? 有名なエイミー(Amy Franz)さんが歩いていたので,私はあなたの大ファンだといって一緒に写真を撮った。
以前,イチローがマリナーズにいたときに私はシアトルでも彼女を見たことがあるはずだが,そこでエイミーさんと写真を撮ることをしなかったのをずっと後悔していたのだった。
こんなところでそれが思いがけず実現してしまったのには,つくづく世の中はまことに不思議なことだらけだと思った。
ゲームが始まった。
7回に代打でイチローが登場して2,998本目の鮮やかなヒットを打ったときにはすごいものを見てしまったように思った。そして,これをナマで見ただけでここまで来た甲斐があったと私はすっかり満足したのだった。
実は,この日のゲームは,後になって,もっと重大な意味を持っていたことを知った。それは,この日のマーリンズの先発はなんと背番号16のホセ・ヘルナンデス(José D. Fernández)だったのだ。
これから載せるのは,2016年9月26日の記事である。
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-マーリンズのエース右腕フェルナンデスがボート事故で急死・24歳の若さ-
マーリンズはエース右腕ホセ・フェルナンデス投手が急死したことを発表した。米スポーツ専門テレビ局ESPNによると,地元警察は午前3時に船舶事故の通報を受けたという。マイアミビーチの岩礁に衝突した30フィート(約9メートル)のボートを発見。3名が死亡していたという。現在も警察当局は生存者を捜索している。
24歳の若さでこの世を去ったフェルナンデスはキューバ出身の若きエース。2013年のナ・リーグ新人王。今季は29試合に先発し、16勝8敗で防御率2.86とリーグを代表する右腕だった。
同僚のイチロー外野手を敬愛し,「キューバでは神様」と心酔していた。チームにとっても大きな悲劇となった。
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このフェルナンデス投手の亡くなった日のゲームは中止となった。くしくもその日のゲームはイチローの3,000本安打を祝うセレモニーを行う予定であった。
「インフェルノ」-世界には確かに人が多すぎる!
ダン・ブラウン(Dan Brown)の小説が映画化された「インフェルノ」(Inferno)を見ました。
この映画は「ダ・ヴィンチ・コード」(The Da Vinci Code)及び「天使と悪魔」(Angels & Demons)の続編で,再びロバート・ラングドン(Robert Langdon)役を務めるトム・ハンクス(Tom Hanks)に加え,「博士と彼女のセオリー」(The Theory of Everything)にも出演したフェリシティ・ジョーンズ(Felicity Jones)が謎の女性を演じました。
映画はハーバード大学教授のロバート・ラングドンがイタリア・フィレンツェの病院の一室で目を覚ますシーンから始まるのですが,映画の冒頭で,彼は世界が灼熱地獄と化す幻影に悩まされていて,かなりグロテスクな映像が続きます。
彼の担当医であるフェリシティ・ジョーンズ演じるシエナ・ブルックス(Sienna Brooks)が,殺し屋に襲われかけたラングストンを手助けして逃亡劇が始まるのです。
この映画,はじめのうちは何が何だかよくわからず,また,だれが敵か味方か,何を目的としているのかなど,原作を読んでいない私には不可解な状況が続きました。
しかし,楽しみにしていた美しいヨーロッパの風景や教会などがたっぷりと味わえたので,それに十分に満足したのですが,ちょっと展開が早すぎて,旅情を味わうまでにはいきませんでした。映画自体は展開の速さが小気味よい緊張感となっていましたが。
作品の根底にあるのは,ダンテ(Dante Alighieri)の「神曲」( La Divina Commedia)なのですが,世界史に弱い私にはよくわからなかったのでもっと予習をしておくべきでした。「神曲」は日本でいうところの「日本書紀」みたいなものなのでしょうか?
ヨーロッパは歴史が深く,よく知っていればものすごく興味深く見ることができたのでしょう。残念なことです。浅学の私が思ったのは,そんなことよりも,この映画のもうひとつのテーマであった地球上の人口爆発を意識していたのかどうか,ともかく,映画のロケ地であったイタリアやトルコの観光地のとんでもない人の多さでした。
考えてみれば,アメリカだって,東海岸のニューヨークやワシントンDC,西海岸のサンフランシスコへ行っても,今やものすごい観光客でうんざりします。30年以上に前に行ったときは現在のような異常な観光客の多さはなかったので,私にはそれが残念でもあり不思議であったのですが,その理由がこの映画で思い当たりました。
30年前に比べて,地球上の人口は倍増どころか3倍以上にも増加しているのです。
結局,娯楽映画らしい結末となるのですが,はじめのころのわけのわからなさから,急にすべての謎が解けていって,私はもう一回くらいどんでん返しがあるのかと思ったけれど,そんなこともなく,大団円をむかえます。
最後のシーンで,ロバート・ラングドンが美術館にこっそりとデスマスクを返したあとでわざとらしく廊下に落としたものは何か? が気になる人が多いので,その謎を解くためには映画をはじめからしっかりご覧になることをお勧めします。
2016夏アメリカ旅行記-18年ぶりのフロリダへ⑦
●予約したのはホテルではなかった●
マイアミでMLBのゲームを見るだけが今日の予定だったから,私はまるで湘南のような海岸沿いの国道1(US-1)を気ままに走っていたが,いくら走っても全く距離が稼げないのだった。
こんなことをしていたら夜までにマイアミに着ける保証がなくなってきたので,そろそろインターステイツ95に戻ることにした。
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ところで,いつもはあまり気にもしないのだが,なぜか今回の旅だけは,やたらと治安が気になっていた。いろんなものを調べても,マイアミやこの後に行くことになるボルチモア,さらにワシントンDCもフィラデルフィアも,やたらと危ない危ないとアメリカ人の友人たちから言われていたのだ。
アメリカ人といってもニューヨークに行ったこともないという人も多く,彼らにすればアメリカの東海岸は魔物がすむところであるらしい。
私も若いころ,東京に行くというと東京は危ない危ないといわれたものだ。きっとそれと同じなのだろう。
とは思ったが,私も気になって,普段は調べもしないのにインターネットで「マイアミ治安」と入力したら,まあ,たくさん出てくるではないか!
そんなこともあって,私はマイアミのホテルを探すのに苦労した。初めに予約したマイアミ国際空港の近くのホテルは周りが危なそうなのでキャンセルし,マイアミ・マーリンズのボールパークから徒歩圏内にあるホテルを改めて予約しなおしたのだった。
しかし,徒歩圏内とは書いてあったが,本当にホテルからボールパークまで,ナイトゲーム終了後の深夜に歩いてホテルに戻れるのか不明であった。
Google Maps のストレートビューでも深夜の様子まではよくわからなかった。ホテルの周りは公園だったから,余計に深夜歩くことには疑問を感じていた。しかも,ボールパークのあるところさえ,ネットの書き込みには治安が悪いだのと書かれてあったし,真実がよくわからなかなかったのだ。
ともかく,インターステイツ95に戻って,マイアミまで走っていったが,ダウンタウンに近づくにつれてやたらと車も多くなり,それにつれてインターステイツの車線も多くなり,しかも,一番センター側の車線だけが有料だったりと,わけがわからなくなった。
やっと事前に調べておいたホテルに近い出口に着いたので,インターステイツを降りて一般道を走りだした。そこは事前に調べておいた通りの景色が広がっていて,どうにか私はホテルの近くまでたどり着いた。
しかし,私は大きな間違いをしていたのだった。
私が予約した「ホテル」だと思っていたところはホテルではなく「コンドミニアム」だったのだ。しかも,その入口がよくわからない。
カーナビにしたがって何とかガレージの入口を見つけて駐車場のゲートをくぐろうとすると,そこにはガードマンがいて,いぶかしそうにパスポートを見せろとか,何の目的で来たのかとかいろいろ聞くではないか。なんとか説明して書類にいろいろと書かされたあげく,やっと駐車場に車を入れて車を降りた。しかし,その「ホテル?」の入口を探したのだがそれも見つからないのだった。
近くを歩いていた人に聞いてみると,私が駐車したところは目指す「ホテル?」の駐車場ではなくて,その隣の別のアパートの駐車場だった。道理でガードマンが怪しんだはずであった。聞いた人に教えられたとおりに隣のビルに入ってみると,それこそが私の目指した「ホテル?」いや「コンドミニアム」であった。
私の部屋はその「コンドミニアム」つまり「アパート」の13階の広い一室だった。
このようにして,やっと今晩の宿泊先がわかったので,再び車を停めた場所まで行って,さきほどのガードマンに事情を話して車を出した。ガードマンは「納得」という顔をして笑った。
「コンドミニアム」のほうのガレージは車を感知するとビルの入口の鉄格子のゲートが開いて車が入れるようになっていた。数階上のスペースに車を停めたのはいいけれど,今度はその駐車場からアパートに入る方法がよくわからないのであった。車を入れたゲートは自動的に閉まってしまうから外に出られなくなったし,駐車場の内部からアパートにいくにはどうしたらいいのかさっぱりわからないありさまだった。そのあとで車を入れた人の後ろについていって入口を見つけ,なんとかアパートに入った。
私は再び車に戻り,今度は車からカバンを出して部屋に入れてから,歩いてボールパークに向かおうとエレベータで階下まで降りた。
入口にいた「コンドミニアム」のほうのガードマンに聞いていみると,ここからボールパークまでなんて遠くて歩いては行けないよということだったので,仕方なく,再び車庫まで戻って,車を運転してボールパークへ向かった。
コンドミニアムからはたった数分でボールパークには着いたのだが,今度はボールパークの駐車場を探すのにとまどったのだった。