しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2016

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 若いころにはじめてイギリスに行ったとき,ミルクティーというものを知りました。このキャラメルのような飲み物を気に入って,その後もたびたび飲んでいるのですが,それまで紅茶といえばレモンティーしか知らなかったので,ところ変われば飲み物も変わるものだと実感したのを今でもよく覚えています。

 今年の秋,はじめてニュージーランドに行って,ニュージーランドでは「フラットホワイト」(flat white)という飲み物が好まれているのを知りました。
 アメリカには「アメリカンコーヒー」というものはなく,コーヒーといえば日本でいうところのアメリカンコーヒーなのですが,それを大きなマグカップに入れて,ミルクをあるいはクリームを自分の好みで入れたり入れなかったりして飲むので,味も素っ気もありません。
 日本では昔から喫茶店というのがあってそこで「ホット」と言って注文されるのはもっぱらブレンドコーヒーです。その一方で,スターバックスに行けばさまざまなコーヒーがあります。スターバックスはもともとはアメリカからやってきたのですが,それらはアメリカというよりもニュージーランドのコーヒー文化によく似たメニューです。
 私は特にこだわりもないので,ニュージーランドに行くまではスターバックスで注文するときメニューがよくわかりませんでした。もっと素人がわかるようにすべきだとも思っていたのですが,私のようなおじさんはもともとお呼びではないのでしょう。スターバックスに入ってきてメニューがわからずそのまあ帰るおじさんをたまに見受けます。
 私がこれまで日本のスターバックスに行っていたのは,まあ,要するに時間潰しが理由だったから,単なる「ホットコーヒー」が注文できればそれでよかったのです。その点,マクドナルドなら簡単でしたが,近頃はマクドナルドでもさまざまな種類のコーヒーメニューがあります。

 ニュージーランドでコーヒーを注文すると,まず,どの種類にしますか? と聞かれました。これに困りました。
 聞いてみると,どうやらニュージーランドのコーヒー文化は独特で,フラットホワイトとかラテとか,そういうものが主流みたいです。単なるブラックコーヒーもあるにはあるのですが,それを注文すると,今度はミルクをいれますか? と聞かれて,入れるというとはじめっから入れてくれます。
 ニュージーランドではマクドナルドでさえ同じです。
 ということで,いつものようにまったく不勉強で予備知識のなかった私はいきなりのカルチャーショックで困りました。「フラットホワイト」などという言葉さえ知りませんでしたが,適当に聞こえた単語が「ホワイト」だったので,「ホワイト」とかいったら通じました。で,出てきたのが今日の写真のものです。
 そこで,調べてみました。

 ニュージーランドのコーヒーはエスプレッソが主体で,それが「ブラック」(Black)です。ブラックに同量のお湯を加えると「アメリカーノ」(Americano)であり,同量のフォームミルクを加えたのが「フラットホワイト」(Flat White)で,倍量のスチームミルクを加えると「ラテ」(Latte)となり,フォームミルクとスチームミルクを加えると「カプチーノ」(Cappuccino)ということになるそうです。
 考えてみれば,ミルクはこの国ではいっぱいあるから,こうした文化になるのでしょうが,このコーヒーの表面に浮いたミルクで書かれた絵がとても素晴らしくて,食欲をそそります。というか,飲むのがもったいなくなります。

 今回私は星を見ること以外には何の関心もなくニュージーランドへ行ったのですが,滞在中もあまりニュージーランド自体には興味がありませんでした。しかし,帰ってからいろいろと調べるとおもしろいことがいっぱいあるし,懐かしさがこみあげてきます。
 このことは海外に限らず日本国内でも同じですが,出かける前にガイドブックを読んでもあまり実感がわかないので,とにかく,旅は予備知識なく行ってみるほうがずっと面白いというのが私の主張です。今回もまた,こうして,私はじわじわとニュージーランドの魅力にはまりつつあります。何より素晴らしいのは日本よりもずっと人が少なく景色が美しいことで,このことがこの国の最大の魅力です。
 ただし,行くのに乗り換え時間などを含めると20時間近くもかかるのが最大の難点です。もう少し近かったらなあ!
 私はハワイに行って「コナコーヒー」を覚えました。そして,ニュージーランドへ行って,様々なコーヒーに目覚めました。こうして私はますます若返るのです。おそらくまた近いうちにニュージーランドへ行くことになるでしょうが,それまではせいぜいスターバックスでさまざまなコーヒーを楽しみたいものです。

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●住民が住み観光客が溶け込んでいる街●
 チャールストンはサウスカロライナ州で最も旧い港湾の町で,西側のアシュレイ川(Ashley River)と東側のクーパー川(Cooper River)に挟まれた半島の先が旧市街の歴史地区になっているのだが,こうした地区の素晴らしいのは日本とは違って地区全体の醸し出す雰囲気自体がその時代を髣髴とさせることだ。

 歴史地区は南北に走るキング・ストリート(King Street)を中心とした2キロメートル四方ほどだから,歩いてまわることができる。写真のように,キング・ストリートは車がやっとすれ違えるくらいの細い通りで,歩道もすれ違いができないほど狭いのだが,この落ち着いた雰囲気や白壁に塗られた住宅,そしてその庭には椰子の木が植えられていて南国情緒をかもし出している。
 これらの建物のなかには300年以上も経ていると思われるものもあるのだが,そこにアバクロ(Abercrombie & Fitch=カジュアルファッションブランド)やブルックスブラザース(BROOKS BROTHERS=老舗ファッションブランド)などのモダンなショーウィンドゥが映えていたりしているのがユニークで,ここは現役のショッピングストリートなのである。

 街の至るところには教会があって,教会に隣接する墓地には1600年代や1700年代の墓碑がたくさん残っている。なかには普通の砕けた石のように見えるものもあるが,これらも小さな墓碑である。
 教会には,1752年に建てられたチャールストン最古の教会として有名な,セント・ミカエル・エピスコパル教会(St. Michael's Episcopal Church),ひときわ高い建物で街の中心にあるセント・フィリップ・エピスコパル教会(St. Phillips Episcopal Church)などがある。セント・フィリップ・エピスコパル教会は,1682年に建てられたものが焼失したため現在gの位置に再建されたものである。
 また,チャールストンはユダヤ人にユダヤ教を認めた最初の植民地という事もあって,現在もユダヤ人が多く住んでいる。ここにはニューヨーク,ニューポート,サバナについで4番目に古いシナゴーグ(Kahal Kadosh Beth Elohim)がある。
 ここは シナゴーグというよりはギリシャ神殿のような立派な建物である。街には高いビルがないので,教会の細く空に突き出した尖塔が街のスカイラインになっているため,「聖なる市」(The Holy City)と長い間呼ばれてきた。

 チャールストンは,「Charles Towne」として1670年にアシュレイ川の西岸にイギリス人の群落として誕生し,1680年にカロライナ植民地の首都として現在の位置に移った。
 その後イングランド,バルバドスからの殖民が増え,1840年までは北アメリカで第5番目の都市にまでなった。そのころの人口は3万人ほどで,現在の人口は約13万人というから4分の1であった。
 このように,チャールストンはこの狭いエリアに古くからの歴史的建物が多く現存し,それらが今も普通にその建物が住居やオフィス,ギャラリーやレストランに日常的に使われていて,その歴史的な景観,風情,情緒を損ねることなく,住民が住み,そこに観光客が溶け込んでいる,というのが最も魅力的なことなのであろう。
 私がこの街を歩いたのは早朝だったから,さらにそうした魅力を感じることができたのだった。

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 私は,昨年の「N響の第9」にはすごく思い入れがあったので,周到に準備してよい席を手に入れて聴きに行きました。そして,感動に浸りました。私はそれですっかり満足してしまい,頭から今年の「N響の第9」を聴きにいく気もちはすっかりなくなっていました。
 実は,近年,ブロムシュテットさんがN響定期でベートーヴェンチクルスをはじめたことと,7月に90歳を迎えられることで,2016年の「N響の第9」はブロムシュテットさんだよ,と発表前から仲間内に話していたのですが,実際に指揮者が発表になったときにその予想は的中しました。しかし,私はなぜか行く気持ちが起きませんでした。

 ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,近頃,N響の桂冠名誉指揮者となりました。
 N響ではじめて指揮をしたのが1981年,当時54歳でした。1986年には名誉指揮者となりました。そのころはまだサバリッシュさんが活躍していたときで,2000年のはじめのうちも,桂冠名誉指揮者のサバリッシュさんや音楽監督のデュトワさんに次ぐ3番手的な存在で,リハーサルが長いことと,おまけにリハーサルでは演奏よりもお話のほうが長いらしいからさぞかし団員さんはたいへんなんだろうなあ,という印象でした。
 「今年印象に残ったコンサート」のアンケートでも特に上位を占める,ということもありませんでした。
 それが年齢を重ねるとともにどんどんと神々しくなってきて,ついには,「N響のブロムシュテット」というのは最高の存在となりました。
  ・・
 私は,これまでずいぶんとその演奏を聴き,なかでも,マーラーの交響曲第9番を聴いたときの感動は今でも忘れられません。
 しかし,昨年,パーヴォ・ヤルビーさんがN響の首席指揮者となって,多くのコンサートで指揮をするようになって以来,私は,この若々しい指揮者の演奏にすっかりはまってしまい,それ以外のコンサートはもう魅力を感じなくなってしまいました。
 そんなこともあって,私は,この記念碑的な2016年の第9をライブで聴くという気持ちもなくなっていたのです。

 11月のある日,私はN響のウェブページを見ていて,何気なく第9演奏会のチケットがまだ残っているのかを確認していたら,なんと,C席にぽつんと1席のみ,まだ手に入る席が残っていたので,なんとなくそれをクリックして入手してしまいました。
 それがどういう気持ちだったのかもよくわからないのですが,大げさにいえば,神が宿ったみたいな感じです。
  ・・
 私はずっとN響のS席の定期会員だったので,B席やC席で聴いたことがほとんどなかったのですが,定期会員をやめてからは,ときどき行きたくなって手に入れるのは2階席の後ろに設定されたC席です。
 この席,とても聴きやすいのです。熱狂的なファンがいるでもなく,私の大嫌いな「ブラボー」おじさんがいるでもなく,落ち着いて聴くことができるからです。しかも,ステージ全体を見渡すことができるし,1階席のように音が頭の上を通っていってしまうということもないのです。
 しかし,第9の場合,C席というのは2階席ではなく3階席でした。ちょっとうっかりしていました。

 NHKホールは広すぎて,そのためにほとんどの定期公演のチケットは楽に手に入るのですが,特に3階席は定期公演ではD席・E席というランクに位置づけされていて,そこは自由席やユースチケットの席となっています。 
 ときどき聴く気もない中学生や高校生が教師に連れられて聴きにきていたりして,演奏に集中できなかったりすることもあります。言葉は悪いのですが,場末の座席というか天井桟敷です。
 それが前回書いたように,3階席とはいえ,この演奏会ではそうしたこともなくすべての観客が物音ひとつ立てないすばらしい演奏会でした。そうなるとむしろ,全体が見渡せる3階席は非常に魅力的でさえありました。

 交響曲第9番の演奏会は,独唱者の歌う位置やいつ入ってくるかなど,その演出に今までずいぶんと試行錯誤が行われてきました。以前,朝比奈隆さんの第9を聴いたことがありますが,独唱者が第2楽章が終了して入ってくるときに拍手をしないでください,という場内放送が開演前に何度もかかりました。別の指揮者の第9では,演奏中にしずしずと入ってきたということもあります。要するに,途中で拍手をしてほしくないわけですが,学校でもあるまいし,そんな要求を場内放送で観客にするのもおかしな話です。しかし,自然体で聴くことのできるコンサートを日本人の観客に求めること自体が無理なのでしょう。残念ながら。
 日本では,クラシックのコンサートは,第9に限らず,このように余分な気をつかわなくはならないので,私は本質的には日本でコンサートを聴きにいくのが好きではありません。歌舞伎でもあるまいし,演奏が終了して間髪入れず「ブラボー」と叫ぶことが生きがいのような情けないおじさんやら,指揮者でもないのに指揮しちゃっているようなお人やら,おしゃべり大好きおばさんやら,行きたくもないし興味もないのに奥さんのお付き合いでやってきて最後まで寝ているダンナさんやら,そうした「田舎者」のお下品な方々から,その逆に,禅の修行をしているようなストイックな観客まで,まさに日本人を象徴しているようで不快なのです。
  ・・
 今回の演奏会ではそうしたことも一切なく,私は,今年の第9を生演奏で聴けて,本当によかったと思いました。これまでも「N響の第9」は,ソリストが風邪をひいて声が出なかったり,指揮者の求めるテンポとオーケストラの奏でるテンポが食い違って第3楽章がはじめの1小節で止まってしまったりと,いろんなハプニングがありましたが,ここ2年続けてこれ以上は望むべくもないほどすばらしい「N響の第9」が演奏されてしまっては,来年はどうするのだろう,と他人事ながら心配になります。
 こうなったら指揮者は若手の山田和樹さんの大抜擢かしら? アラン・ギルバートとかサイモン・ラトルでも招聘するのかしら? でも,合唱がまた国立にもどるのなら? 担当者きっと頭を抱えていますよ。

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 2016年12月25日,今年も「N響の第9」をNHKホールで聴きました。
 行く予定がなかったのに,結局聴きにいったそのいきさつはまた後日,ということにして,今日は,コンサートの感想を書きます。

●第1楽章。
 近年の普通の第9だなあ,というのが私の第1印象でした。近年の第九はテンポも早く編成も小さく,私が若いころに聴いた第9とは全く違うものです。こうした第9が演奏されはじめたころは玉石混合という状態だったのですが,このごろは評価も定まりみな同じようになってきました。しかし,若い指揮者なら当然であっても,巨匠がこうした最新の楽譜による第9を指揮するというのは,やはり,偉大なものです。
●第2楽章。
 ここで聴こえたのがリズムを奏でるホルンの小さな音。スコアにあるのかないのか知りませんが,こんな音がはっきりと聴こえるスケルツオははじめてでした。それが小気味よいこと! そんなことを感じながらふと我に返ると,どうやらこの第9,ものすごく「ピュア」,そして,透明感あふれているのです。
 会場からは咳払いのひとつもきこえずパンフレットの紙をめくる音もせず,異常というほどの静けさのなかで演奏だけが聴こえます。これほど観客が集中していてるコンサートなんて,経験がありません。そして,すごくテンポが落ち着いているのです。というかまったくぶれがないのです。だから,演奏もまったく無駄な音がない。そして,こころに響く。
 ものすごく素晴らしく,神々しく聴こえはじめました。
●第3楽章。
 なんて美しいんだろう,というひと言です。通常,第3楽章はテンポが何度も変わるので,下手な演奏だとすごく危うく聴こえたりするのですが,今回の第9には,当然そういう危うさはみじんもないわけで,このテンポでなければという指揮者の自信というか信念というか,きちんきちんと新しいテンポに変わっていってしかもそれが安定しているからすごく落ち着いて聴こえるのです。変に早かったり遅かったり奇をてらったりすることもなく,このテンポで聴きたいというまさにそのテンポなのです。
 私は完全に曲に引き込まれていきました。これほど「無」になって聴き込めた第9なんて,経験ありませんでした。ここですっかり満足状態だったのですが…。
●第4楽章。
 これが圧巻でした。特に合唱。
 今回の合唱は,例年の国立音楽大学ではなくて「東京オペラシンガーズ」というプロの集団でした。どうして変わったのかは知りませんが,このプロ集団の合唱が殊のほか素晴らしく,これで,今年の第9の価値をさらに高めました。私は,これまでにずいぶんと第9を聴きましたけれど,私がこれまでに聴いた第9とはまったくの別物でした。
 第9の合唱はプロでなければ,と実感しました。
 21日のFM放送で聴いた時と違って,曲の終了後「ブラボー」のフライングもなく,このこともまた最高でした。

 昨年の第9はパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)さんという優れた指揮者が作り上げた人間の第九でしたが,今年の第9はN響桂冠名誉指揮者になった,まもなく7月に90歳を迎えるヘルベルト・ブロムショテット(Herbert Blomstedt)さん渾身の第9,というよりも,神の奏でた第9,でした。それとともに,「みんなで第9を歌おう」といったアマチュアが合唱する自己満足的な「第9祭」(それはそれでいいのですが)ではなく,最高の芸術としての真(しん)のというか「心(しん)」の第9とはこういうものだ,ということを直に味わうことができたという意味で,この演奏を会場で聴くことができて,とても幸せでした。 

◇◇◇
「パーヴォの第9」①-40年?ぶりに「N響の第9」を聴く。
「パーヴォの第9」②-絶品・40年待っていてよかった。

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 私は,前回ブログに球状星団について書いたころは,球状星団はあまり面白くないものだと思っていました。しかし,その後に多くの星の写真を写した結果,球状星団は散開星団よりもずっときれいで美しく写せるので,次第に興味が増してきました。

 球状星団(globular cluster)とは100億歳を超えるような古い恒星が密集して,互いの重力によってつなぎ留められているために球状で存在している天体で,銀河の渦の外・ハローとよばれる領域にあります。
 天の川銀河最大の球状星団であるケンタウルス座のω星団は17,000光年の距離にあり,星の数は1,000 万個もあります。

 球状星団はどのようにして誕生したのでしょうか?
 138億年前に誕生した宇宙ですが,誕生して間もないころには小さな銀河がたくさんできて,これらが衝突・合体を通じて大きくなっていきました。その過程でガスが高密度になった場所ができて,そこに球状星団ができたというのです。
 現在でも銀河衝突は起きていて,近年その場所で球状星団が生れている様子が発見され爆竹分子雲(Firecracker cloud of molecular gas)と名づけられました。

 では,どうして球状星団は銀河の渦の外に存在するのでしょうか?
 それは,銀河衝突によって作られた球状星団なのですが,小さなものは破壊されてしまい大きなものは吹き飛ばされてハローの地で安住をえたからだというのです。
 しかし,球状星団のなかには銀河よりも若いものもあるのです。当然,それらの球状星団は銀河衝突によって作られたものとは考えられません。そうした球状星団は,母銀河の周囲を回る伴銀河が母銀河に呑み込まれたときに,伴銀河にあった球状星団が母銀河の球状星団になったものだといわれています。

 星は質量によって寿命が決まります。
 年齢の古い星々が集まった球状星団だから,そこにある星々の年齢は当然100億歳以上で,質量の小さいものは現在も主系列星として存在しますが,質量の大きなものはすでに老齢の赤色巨星や白色矮星になってしまっています。ところが,球状星団にある星のなかには,質量が大きいのにもかかわらず,現在も青く輝いているものもあるのです。それが「青色はぐれ星」(blue straggler)です。観測で,青色はぐれ星にもふたつの種類があって,そのひとつは明るく高温のもので,もうひとつはやや暗く低温のものがあることがわかりました。
 では,どうして星が若返ったのでしょうか?
 それは,ふたつの種類それぞれ別のメカニズムによるものです。低温タイプのものは近づいてきた別の星のガスを吸収して若返ったものであり,高温タイプのものはふたつの星が融合したことによって若返ったというものです。青色はぐれ星が星々の多い,つまり密度の濃い球状星団の核のあたりに存在することがその根拠となっています。
 人間もこのようにして若返れたら素敵ですね。近づいてきた若い人の生気を吸い取って若返るのです。あるいは,年寄り同士が融合して若返るのです。
  ・・
 このように,球状星団はさまざまなことを我々に教えてくれたり,楽しい想像ができるのです。
 そんなことを知ると,ますます,球状星団を見るのが楽しみになってきます。

◇◇◇
星を見るのも大変だ-星空の宝石・球状星団①

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●なんと美しい町であろうか。●
 行ってみてはじめて知ったが,チャールストンは素敵な町であった。マサチューセッツ州のボストンは歴史的な町として非常に有名であるが,ここチャールストンはそれ以上に歴史がある町であった。しかも,よい意味で南部の香りがするところであった。
 いわば,日本でたとえれば,ボストンが京都でチャールストンは奈良ということになろうか。

 ちなみに,日本でチャールストンといえばチャールストンダンスを思い浮かべるだろうが,このチャールストンダンスは1920年代のアメリカで一世を風靡したもので,ここサウスカロライナ州チャールストンがまさに発祥の地である。リズムに合わせて両膝をつけたまま足を交互に跳ね上げるのが特徴で,黒人文化のなかで生まれたエスニックカルチャーのひとつである。1923年の黒人だけのレビュー「Running Wild」のなかで、ジェームス・P・ジョンソン作曲の「Charleston, South Carolina」に合わせて踊ったのが最初とされている。

 チャールストンには高層ビルがなく,歴史ある街並みのなかを馬車が走る風景は古き良きアメリカを彷彿とさせた。
 私はバッテリーパークとよばれるエリアの一角に車を停めて,この古い町を散策してみた。
 このバッテリーパークは,かつては外敵の攻撃から街を防衛するための拠点であった。正面には1680年に建設されたセント・フィリップス監督派教会があって,現在のものは1838年に改築された3代目である。南北戦争の際には,この教会の鐘を溶かして大砲を作ったと言われている。

 1861年から1865年に起こった南北戦争は,奴隷解放を訴える北軍と反対する南部諸州による内戦であったが,チャールストンは南部郡の旗頭として戦ったが敗れた。
 やがて,1931年チャールストンは歴史的に重要な建築物とその町並みを保全するために「歴史地区の保全条例」を制定し,1970年代後半から約40年間にわたって市長を務めたライリーが,都市デザイン政策を積極的に展開したことが,昔ながらの美しい景観を残す要因となった。

 バッテリーパークからみた海もまた,なんと素晴らしい風景であったろうか。この町はとても落ち着いていて,海辺をジョギングしたり散歩したりと,多くの人がのんびりと過ごしているところであった。ここからいわば旧市街とでもいえる古い町並みに入っていくと,多くの観光客が散策を楽しんでいた。
 多くの観光客とはいっても,ここチャールストンはアメリカ人には憧れの地であっても私のような外国人にはあまりなじみのないところであったから,いつものように世界の観光地のどこにでも出没するお下品な中国人団体観光ツアー御一行様も存在していなかったから,きわめて素敵な雰囲気を味わうことができたのだった。しかし,アメリカ建国までの歴史を詳しく知らないから私もそのよさのほとんどを理解できないのが残念であった。
 そんなわけで,せっかく訪れたのにも関わらず,私はこの町の魅力をここに十分に書くことができない。

 なお,今回は行く機会がなかったが,このチャールストンの港からはサムター要塞(Fort Sumter)へも船で片道約30分で行くことができるのだそうだ。
 サムター要塞は南北戦争で使われたもので,開戦直後は2階と3階部分があったのだが,北軍の激しい砲撃により破壊され,現在のサムター要塞は1階部分のみが残る平屋の状態になっている。ここに設置された25センチの小さな大砲は,港の周りに待機していたほかの南部連合の砲兵部隊へ開戦を告げる合図に使われた。要塞の壁には,北軍が撃った砲弾が今なお挟まったまま残されている。
 サムター要塞を訪れた観光客は,南北戦争で命を落とした人々を追悼するために現在も共に国旗掲揚を行うそうだ。

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●由緒正しき南部の町●
 私は,この旅ではじめの目的であった50州制覇のために訪れるサウスカロライナ州とノースカロライナ州に行ったときどこを観光しようかと散々悩んだ結果,サウスカロライナ州では,まず,大西洋沿岸にあるアメリカ南部きっての古い港町であるチャールストンに寄ることにした。
 チャールストンは大西洋に面している。海岸に沿って走っていたインターステイツ95は,サウスカロライナ州に入ると内陸部に入っていくので,チャールストンに行くにはサウスカロライナの州境を越えたらインターステイツを降りて国道17に入らなければならない。
 昨日の渋滞がうそのように,早朝のインターステイツ95は車が流れていたが,昨晩は真っ暗で景色も全く見られなかったので,ものすごく景色が新鮮に見えた。

 サバンナを出てインターステイツ95を走っていくと,すぐに「ようこそサウスダコタ州へ」の標示が出迎えてくれた。私にとってこれが49番目の州であった。
 この旅で,私はフロリダ州の最南端のキーウエストから大西洋岸に沿ってずっと北上を続けていることになるのだが,マイアミのダウンタウンからは片側6車線もあったこのインターステイツ95は,ジョージア州に入ると片側3車線になり,とうとう,このサウスカロライナ州では片側2車線にまで減ってしまった。

 今から30年も前は,アメリカのインターステイツといえば,たいていどこもこのように片側が2車線で,車線の幅よりもずっと広い中央分離帯があって私は驚いたものだった。考えてみれば,この広い中央分離帯は,将来,車線が増えたときに道路を作るためのものだったに違いない。こうした先見性こそが,このアメリカという国の余裕であり国力であり偉大なところであろう。日本は何事もその場しのぎのツギハギだらけだから,結局は余分な投資がつねに必要になるのだ。

 こういう話をすると,決まって「土地がない」という言葉が返ってくるが,そんなことではなく,日本の将来をまったく見通せない道路行政にこそ問題があるのだ。作るたび作るたびに方針が変わるから,右折帯があったりなかったり,あるいは,昔あった道路が突然閉鎖されて,だからといってそこをきちんと作り直すでもなく単に柵で囲って通行止めにしたりと,めちゃくちゃなので,美観も何もあったものではない。
 やがて,インターステイツ95は国道17のジャンクションにさしかかったので,私は進路を変えた。
 この国道17は美しくのどかな道路であった。このののどかさはどうであろう! アメリカのドライブは,もし時間が許すのなら,インターステイツを走るよりも,こうした国道を走るほうがずっと楽しいのだ。

 チャールストンは,イギリスの植民都市として1670年に誕生した町というから,アメリカ独立よりも100年も昔のことである。この町は,当初,イギリス国王チャールズ2世に敬意を表して「チャールズタウン」という名前であった。やがて,チャールストンは,移民たちによってさまざまな宗教の教会が建てられたことから「聖なる都市」と呼ばれるようになった。
 ここは「世界の観光都市ランキング」で,アメリカ人の人気ナンバーワンに選ばれたところだそうである。当時からある海に面した旧市街は東西3キロにわたり,そこは「歴史地区」に指定されていて,今でも5,000もの歴史的建物が残っているという。
 わたしは,この町がそんな由緒正しきところだとはまったく知らず夢にも思わず,チャールストンをめざして国道17を走っていった。やがて,次第に車が増え,それとともに建物も増えてきた。

 運転をしながら外を見ると,アフリカ系アメリカ人の親子連れが楽しそうに歩いていたりして,すっかり南部の雰囲気の町であった。あまり気にもしていなかったのだが,サウスカロライナは正真正銘アメリカ「南部」なのである。
 そういうことをここで思い出した。
 そうこうしているうちに,私は,この南部の香りただよう美しいチャールストンのダウンタウンにたどり着いたのだった。

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●ホテルに到着したのは午後10時半●
 食事をとって車に戻った。
 ホテルはまだ先であった。
 アメリカの夜のインターステイツなんて周りは真っ暗で,走れるものではない。私は以前,ノースダコタ州で野外ミュージカルを見てから深夜のインターステイツ94をホテルに帰るために30分ほど走ったことがあるが,光のひとつも見えずたいへんだったことを思い出した。
 このときもまったく同じ状況であった。
 カーナビがあるからいいようなものの,頼りになるのは道路に引かれたライトで光るイエローラインだけであった。今回もまた生きた心地のないなかをさらに30分以上も走ることになった。
 どうにか午後10時半ごろホテルに到着したが,ロビーにはチェックインをする家族づれの先客がいて,かなり待たされた。ともかく,午後11時過ぎ,やっとのことでホテルの部屋にはいることができたのだった。

 ・・
☆5日目 7月31日(日)
 このサバンナのホテルは,とても過ごしやすいところであった。
 帰国したあと,私がとても残念に思うのは,前回も書いたように,この旅を計画したときの目的が,本来はサウスカロライナ州とノースカロライナ州を旅することだったのに,それがどこかにいってしまって,結局,フロリダ州と,この後で行くことになるワシントンDCやフィラデルフィア,さらに,アーミッシュの住むランカスターに行きたい,という思いのほうがずっと強くなってしまったことだった。

 以前,ノースダコタ州に行ったときは,ノースダコタ州のような,ほとんどの日本人には全く興味のない場所に私はものすごく思い入れがあったので,そこへ行くことが最大の目的であった。
 サウスカロライナ州やノースカロライナ州はそれに比べたら,より多くの日本人が興味を持つ場所だろうに,そして,じっくり観光すればおもしろいところもたくさんあるだろうに,それをほとんど無視してしまった。
 そんなわけで,このサバンナという町だけでも結構見どころがあったのに,ホテルで朝食をすますと,私はさっさとチェックアウトを済ませて,旅立ってしまったのだった。 

 今,地図を見直してみると,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州に出かけるのならば,ジョージア州とアラバマ州を加えてた「渋い」旅をするべきだったのである。もう10歳若かったら,私は,そうした旅をしていたかもしれない。
 しかし,私は,マイアミのあるフロリダ州やフィラデルフィアのあるペンシルベニア州に行く機会など,今回の旅を逃したら,再び訪れるかどうかと考えて,「イチロー=マイアミ」と「ロッキー=フィラデルフィア」の方を優先したのだった。
 そういう意味でも,人生はかくも短く,しかも,やりたいことだけは多いのである。

 私はありがたいことに,さっさと50歳を過ぎたあたりで「世を捨てて」しまったから,その後,十分に世界を見たり歩きまわったりする機会に恵まれているが,私の同級生たちは,今年,世にいう「還暦」を迎えて,「定年退職」をする年齢になったのにもかかわらず,定年のほうが逃げていってしまってあと5年ほどは働かされるらしい。しかし,それでは,何もせず人生を終えてしまうことになるのであろう。
 まことにお気の毒な話である。

 さて,私は,サバンナを出発して,再びインターステイツ95に乗った。こうして,あっという間にジョージア州から抜けだしてしまったのである。
 「ジョージア州」といえば,「アトランタ」である。「アトランタ」といえば,MLBの「アトランタ・ブレーブス」である。そのブレーブスは,来年のシーズンから新しいボールパークに移転する。つまり,私がこの地に来たのは1年ほど早すぎたのであった。だから,もし,もう1年遅くこの旅をしていたら,私は,ここでアトランタに寄り道をして,ブレーブスのゲームを観戦していたに違いがないのである。

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 私の手元に1968年(昭和43年)に出版された「彗星とその観測」の初版本があります。この本のなかに,当時チェコ・スロヴァキアと呼ばれた国にあったスカルナテ・プレソ天文台の写真と,その天文台で観測するムルコスさんとパジョサコバさん,そして日本の倉敷天文台の本田實さん,この3人の発見した彗星についての記載があります。
 私が本田・ムルコス・パジョサコバという彗星の名を知ったのはそのときだから,すでに50年ほど前のことになりますが,そのころすでにレジェンドだった本田さんとともにユニークな名前のついたこの彗星は中学生だった私には忘れられないものとなりました。
 なお,現在は「パジョサコバ」は実際の発音に近い「パイドゥシャーコヴァー」という表記がされているので,この先はこの表記にします。

 本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P Honda-Mrkos-Pajdušáková) は,1948年12月3日に本田實さんが倉敷市で発見した周期彗星で,アントニーン・ムルコスさんとリュドミラ・パイドゥシャーコヴァーさんも別の場所でほぼ同じ時期に発見したものです。5.252年の周期で太陽を回っています。
 アントニーン・ムルコス(Antonín Mrkos)さんはチェコの天文学者です。スロヴァキアのスカルナテ・プレソ天文台(Skalnaté Pleso Observatory)などで働きました。彗星の発見者というよりも274個もの小惑星の発見者として知られています。
 一方,リュドミラ・パイドゥシャーコヴァー(Ľudmila Pajdušáková)さんは,スロバキアの女性天文学者です。太陽天文学の専門家である一方,多くの彗星を発見しました。彼女はスカルナテ・プレソ天文台の3代目の天文台長を務めました。
  パイドゥシャーコヴァーさんはムルコスさんと結婚していたと考えられています。彗星の名前は独立発見者3人の名前がつくのですが,とすると,この彗星はムルコスさんとパイドゥシャーコヴァーさんは独立発見ではなく共同発見で,そこに本田さんも独立に発見したように思えます。
 となれば,この彗星は,本来,夫婦だけの名がついたはずなのに,そこに本田さんが割ってはいってしまったような感じになっていませんか?!

 今年の年末,この本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星が地球に接近して7等星にまで明るくなるので,私は,ぜひ,写真に収めようと思いました。
 このような小さな天体でも,私にとってこの彗星は,このようにものずごく懐かしいものです。そんな「伝説」のような天体を生まれてはじめて今になってとらえることができることが,私には信じられないことであるとともにとてもうれしいことなのです。
 現在は,夕方の南西の空,金星の下に9等星ほどの明るさで輝やいていて,年末にかけて太陽に接近するのでもっと明るくなります。
 日本の空では深夜でさえほとんど星なんて満足に見られないのに,高度は高くて10度程度でしかも夕方ともなると9等星の天体を捉えることなんてかなり絶望的なので,私は期待半分・不安半分でした。少しでも探すのに手こずっていると地平線に沈んでしまいます。

 12月21日の午後,空は曇りでしたが,日没からの数時間だけ晴れ上がるという予報を信じて出かけました。予報通り,日没とともににわかに快晴となり,西の空の高度20度あたりに明るく金星が輝いているのが幸いで,これを頼りに探していくと,思いもよらず,すぐに彗星状の天体を写真に収めることができました。
 予報では9等星ということでしたが,それよりも明るく,しかも,ちゃんと尾もあります。さすがに周期彗星,堂々とした姿に,これが,現在地球から1億3,000万キロ離れたところに存在する,宇宙にたったひとつの,今から68年前に本田實さんが見た本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星そのものなのか! と感動しました。
 生涯に12個の彗星を発見した倉敷市出身の彗星捜索・本田實さんにとっても,この彗星は唯一の周期彗星です。これまでに6個の彗星を発見した高知市出身の関勉さんは,残念ながら周期彗星を発見していないので,今でも自分の名前のついた周期彗星を発見するのが夢だといいます。こうして回帰した周期彗星の風格ある姿を見るとその気持ちがとてもよくわかります。
 ちなみに7個の彗星を発見している池谷薫さんには,2002年に発見した池谷・張彗星(153P Ikeya-Zhang),2010年に発見した池谷・村上彗星(332P Ikeya-Murakami)というふたつの周期彗星があります。池谷・張彗星の周期は「P」符号(=周期彗星)のついた周期彗星のうちで最長の336年です。

 2016年は5月以降,10等星よりも明るい彗星がまったく地球に接近せず,しばらく何も見るものがないという寂しい状態が続いていましたが,この本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星を皮切りに,2016年の年末から2017年にかけて,ネオワイズ(C/2016U1 NEOWISE =Near-Earth Object Wide-field Infrared Survey Explorer),エンケ(2P Encke),ジョンソン(C/2015V2 Johnson),パンスターズ(C/2015ER61 PanSTARRS=PanSTARRS Survey)と明るい彗星が続々近づいてくるので,これからが楽しみです。

◇◇◇
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實①
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實②
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實③
岡山から宇宙を見た-倉敷天文台と本田實④

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●やっと渋滞から抜け出した。●
 私はこの旅でフロリダ州から出発してジョージア州を簡単に通過して,サウスカロライナ州からノースカロライナ州を一気に駆け抜けるつもりであった。いや,もともとはサウスカロライナ州とノースカロライナ州へ行くのが目的であった。
 しかし,旅行の計画を進めていくうちに,これまでずっと行きたかったけれど行く機会のなかったフィラデルフィアやボルチモアにもこの機会に行っておきたくなった。また別の機会にでも,とも思ったが,遠い東海岸へ行く気力が失せてきて,次の機会がいつになるか,はたまたその機会があるかさえ自信がなくなってきた。というより,もっと他の場所に行きたいところがたくさんできてきた。
 そもそも50州目と決めていたハワイ州に先に行ってしまって,その魅力に取りつかれたのが原因なのである。

 そうこうするうちに,ついでに行ってみたい場所にフロリダ州が加わり,さらに,すでに行ったことがあるからはじめはまったくその気もなかったワシントンDCも魅力的になってきた。
 この旅の動機であったはじめの目的は次第にどうでもよくなってきて,サウスカロライナ州とノースカロライナ州は駆け抜けるだけでいいやという気持ちに成り下がった。
 「アメリカ50州制覇」といっても,サウスカロライナ州とノースカロライナ州にこれまで行かなかったということは,もともと行きたいという思い入れがなかったわけだから,こうした成り行きもまた当然の結果であろう。

 昨年の春,まだ,今回の旅の計画が煮詰まっていなかったころは,アラバマ州,ジョージア州,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州といった周遊の旅をするつもりであったから,そのころから考えると,ずいぶんと計画が変わってしまったわけだ。
 そしてまた,フロリダ州もフィラデルフィアもボルチモアも行くことができて帰国した今となってみると,再び今度はジョージア州,アラバマ州,サウスカロライナ州,ノースカロライナ州の周遊をしてみたいという気持ちが復活してきたのも不思議なことだ。

 渋滞に巻き込まれた私の車はノロノロ運転を続けていたが,そのうちにインターステイツが閉鎖されているジャンクションまで進むことができた。
 そこには,ジャンクションを出るように誘導する係員がいて,迂回して次のジャンクションからふたたびインターステイツに入るように指示をしていた。
 とはいえ,私はその迂回路がよくわからないのだった。
 ジャンクションを出て,一般道に入って,カーナビの地図を頼りに走り出したのだが,知らない国の知らない町でさまようのもかなり心細い状況であった。すでに日は沈み,あたりは暗くなってきた。そして私が紛れ込んだのが,その一般道に降りたところにあった巨大モールの駐車場であった。
 このあたりのことは,動揺していたので写真の1枚も存在しないのが残念である。

 アメリカを旅行するくらいの日本人にはまったくなじみもなく,報道もされない一般のアメリカの姿がそこにはあるのだが,それがまあ,日本ではありえないほどの裕福さなのである。
 私はかなり道に迷った挙句,どうにか次のジャンクションにたどりついて,再びインターステイツ95に入ることができた。
 巨大なコンボイが横転しているのが見えた。
 もう道路はまったく渋滞していなかった。あとはホテルにたどりつくだけだったが,このさき,レストランがあるとは限らないから,その前に夕食をとろうと思った。
 私は「デニーズ」を見つけて,その店に入っていった。時刻はすでに午後9時すぎであった。
 やっと緊張が解けた。

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 その後,南半球に建設された望遠鏡でマゼラン雲が詳しく観測されるようになると,大マゼラン雲も小マゼラン雲も,濃度の高いガスが分布していて,現在もさかんに新たな星が誕生しつづけている姿がとらえられるようになりました。
 マゼラン雲にも天の川銀河と同じように多くの球状星団があるのですが,マゼラン雲にある球状星団は我々の天の川銀河には見られない若いものだったのです。これは,天の川銀河とはちがってマゼラン雲にはこれから星が作られるガスが非常に多くあるからなのです。
 また,マゼラン雲の移動した軌跡にはマゼラン雲が含んでいた中性水素ガスが残されていて宇宙空間に巨大なガス帯「マゼラニックストリーム」(Magellanic Stream)が発見されました。

 前回書いたように,大マゼラン雲と小マゼラン雲の両銀河は天の川銀河の衛星銀河で,天の川銀河の周囲を公転しているとずっと思われていました。しかし,宇宙望遠鏡科学研究所のローランド・バンダーマレルらのグループが,ハッブル宇宙望遠鏡を用いて4年間にわたってマゼラン雲内の25か所の場所の移動速度を測定すると,その移動速度が秒速480キロメートルと算出されたのです。この速度は,あらかじめ行れていた推算値よりも数割以上も大きいもので,両銀河が天の川銀河に重力的に束縛されていない可能性を示唆しているのです。
 そこで,マゼラン雲というのはハッブル以来の定説であった「天の川銀河をまわる伴銀河」ではなく別の銀河であって,どこかから天の川銀河の近くにやってきた銀河が,今たまたま近くにあるというだけで,やがて数十億年後には天の川銀河の引力を振り切ってかなたに去ってゆき,その後 天の川銀河とマゼラン雲は再び出会うことは無いのだ,と理解されるようになりつつあるのです。

 大マゼラン雲のなかにあるタランチュラ星雲の中心部には太陽の1億倍で輝くR136と呼ばれる天体があります。これは宇宙で最も明るい天体ですが,ビッグバン直後に作られる青い第1世代の星と同類のものなのです。マゼラン雲のなかにはそうした第1世代の星々が今なおたくさんあるのです。そしてまた,マゼラン雲自体も宇宙創成期期に作られた小さいびつな形の銀河に似ているのです。
 そこで,マゼラン雲はそうした宇宙初期に作られた銀河の生き残りで,それが今,たまたま我々のいる天の川銀河の近くを通り過ぎているのではないか,と考えられるのです。
 すごいでしょう。
 こんなものが空に輝いていて,それが肉眼で見られるなんて,南半球の星空というのは,なんとまあ,すてきではないでしょうか。家の窓から外を見ると現代の世にたまたまネアンデルタール人が歩いてきたようななものです。

 この先はおまけです。
 小マゼラン雲の近くに巨大な球状星団があります。今日の2番目の写真の小マゼラン雲の右側の大きな丸い塊です。これは「きしちょう座47」(NGC104)と呼ばれる天の川銀河に属する球状星団です。明るさは4.0等と,ケンタウルス座のω星団とともに最も明るい球状星団のひとつです。視直径はほぼ満月と同じで,非常に大きなものです。
 たまたま小マゼラン雲のごく近くにありますが,小マゼラン雲に属する天体ではなく,まったく無関係,赤の他人です。
 この球状星団ははじめは恒星と思われていて「きょしちょう座47番星」という番号が与えられて星表に記載されたのですが,球状星団であることがわかった現在でもこの名前でよばれています。なお,「47」はヨハン・ボーデ(Johann Elert Bode)が1801年に刊行した「Allgemeine Beschreibung und Nachweisung der Gestirne」につけられている番号です。

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☆☆☆☆☆☆
 マゼラン雲(Magellanic Clouds)とは,銀河系の近くにあるふたつの銀河である大マゼラン雲(Large Magellanic Cloud = LMC) と小マゼラン雲(Small Magellanic Cloud = SMC) の総称です。
 天の南極に近く,日本やヨーロッパからは見ることができません。私もこれまで見たことがなく,肉眼でどのように見えるのかずっとわかりませんでした。念願の南十字星を見るという夢がかなったので,次はぜひこのマゼラン雲を見たいものだと思いました。
 北半球にあるハワイは南十字星を見ることができますが,マゼラン雲はハワイでは緯度が高くて見ることができません。北半球でもグアム島あたりまで南下すれば地平線ぎりぎりに見られるのですが,もっとマゼラン雲の昇る高度が高いところのほうが美しく見られるので,赤道を越えて南半球のニュージーランドまで行ってきたというわけです。

 行ってはみたものの滞在中ずっと曇っていて見ることができなかったらどうしよう,とそれだけが心配でした。幸いなことに,到着前日までは天気がよくなかったそうですが滞在1日目から天気が回復し,この日に宿泊したクライストチャーチで市街地から少し離れたところまで出かけていって生まれてはじめてこのマゼラン雲を見たときの感動は,今も忘れることができません。そして次の日からは晴れ渡ったもっと空の暗いテカポ湖畔で最上のマゼラン雲を心置きなく見ることができました。
 夜空にこんな星雲状の天体がぽっかりと浮かんでいる姿を肉眼でもはっきり見られる(それもふたつも!)のは,それらを見ることができないところに住む我々にはとても不思議なものです。
 今日は,このマゼラン雲のお話です。

 マゼラン雲は原始時代から知られていたようですが,記録として残るのは,964年ペルシャの天文学者アル・スーフィー(Abd al-Rahman al-Sufi)が「星座の恒星の書」(Kitāb Ṣuwar al-Kawākib al-Thābita) に白い牡牛(Al Bakr)としたのがはじめです。
 北半球に住むヨーロッパ人にその存在が知られるようになったのは1519年から1522年のフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan) による世界一周航海に参加したヴェネツィアのアントニオ・ピガフェッタ(Antonio Pigafetta)が記録してからです。航海では,夜間でも進行方角や自船の位置を確認する必要があるのですが,北極星のある北半球とは違い,南半球で南極星にあたる恒星がないので,白っぽい雲(マゼラン雲)を見つけることでそれを行ったというのです。当然,当時はマゼラン雲とはよばれておらず,この逸話にちなんで「マゼラン」の名が冠されるようになったのはかなり後のことです。

 星々とともに動くから天体であることは自明でしたが,このマゼラン雲の正体は昔から謎でした。
 1800年代,天文学者のジョン・ハーシェル(John Frederick William Herschel)は南アフリカの喜望峰でマゼラン雲のなかに天の川銀河と同じような星雲や星団が存在するのを観測して,天の川銀河とは別の銀河だと考えました。そこで,マゼラン雲までの距離を調べる必要がでてきたのですが,マゼラン雲に属するセファード型の変光星の観測から距離を割り出して,天の川銀河よりも遠い天体だとわかったのです。その距離は約20万光年で天の川銀河の直径の約2倍,アンドロメダ銀河までの距離の約12分の1という天の川銀河にきわめて近いものでした。いて座の矮小楕円銀河 「SagDEG」が発見されるまでマゼラン雲は天の川銀河に最も近いところにあるふたつの銀河と考えられていました。そこで,エドウィン・ハップル(Edwin Powell Hubble)は,マゼラン雲を天の川銀河のまわりをまわる衛星銀河だと考えたのです。
 ところが…。

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●大渋滞に巻き込まれた。●
 フロリダ州ケネディ宇宙センターでたっぷり時間をとって念願のスペースシャトルを見た私は,余裕をもってこの日はジョージア州のサバンナという町に泊まることにしていた。いや,正確にいえば,サバンナの手前のリッチモンドヒルという小さな町にある「スーパー8」というホテルであった。
 アメリカでは大都市から少し離れた郊外の新興住宅街は,治安もよく,こういった場所にあるホテルは新しくて安いしインターステイツからも近いから便利なのである。こうした町については日本には全く情報がないのだが,行ってみると1日くらいは楽しく観光できるなにがしかがあったりする。
 いつの日かそういったあてのない旅を楽しんでみたいものだ,といつも思う。

 さて,私は,この旅では,この後,ずいぶんと交通渋滞に巻き込まれることになる。
 西海岸を走っているときは,車の町ロサンゼルスは別格としても,シアトルのインターステイツ5も車が多いことで慢性的に渋滞をしているが,それは交通量が多いことによる。しかし,今回の東海岸の旅で遭遇した交通渋滞は交通事故によるものばかりであった。その渋滞のひとつが,この,ケネディ宇宙センターからサバンナに向かうときのインターステイツ95で起きたのだった。
 私はこの日,夜の6時にはホテルに着けるなあ,と思いながら,快調にフロリダ州のインターステイツ95を走っていたのだったが,やがて,ジョージア州に入る手前のジャクソンビルあたりから雲行きがあやしくなった。
 次第に車両が道路にあふれ,動かなくなってきた。
 こうなると,3車線も4車線もあるアメリカのインターステイツのどの車線を走ればいいのやら,この先がどうなっているのやら,そのすべてのことのわけがわからなくなる。
 いったいこれが単なる自然渋滞なのか,この先何かが起きているのか,それを知るすべもないし表示もない。
 それに加えて,このあたりに住んでいてわけのわかっている人はインターステイツの側道を走ってインターステイツから降りてしまおうとしているし,車線ごとに車の量が違うから空いた車線に変更しようとする車はあるし,めっちゃくちゃなのである。また,こちらの大型トラック(コンボイ)はあまりに車長が長いから,コンボイが横の車線にいると,これを追い抜いて車線を変更するのは日本の感覚ではありえないほど大変なことになるのだ。
 もう私はお手上げ状態で,この渋滞をぬけるのに何時間かかるのか皆目見当もつかなくなった。だからといってインターステイツを降りて一般道路に降りたとしたら,今度こそ,何時間かかるのか,その先をどう走るののか皆目見当がつかなくなる。
 このときの心細さといったらない。
 私がここでふと考えてしまったのは,トイレに行きたくなったらどうするのだろう,ということであった。そんなことを考え出すと,次第に本当に不安になってきた。アメリカで車に乗るときは携帯トイレを持参する必要があるなあ,などと,そんなことまで考え始めたのだった。

 このときの渋滞は,コンボイが事故か何かで横転して道をふさいでいたために,その手前のジャンクションからその次のジャンクションまでの一区間で道路が閉鎖されていたことが原因であった。だから,一旦ジャンクションを降りて迂回して次のジャンクションから入りなおすということであったが,この時点ではそんなことはまるでわらなかったし,なんの案内もなかった。
 私はこういうとき,何事も親切すぎる日本でずっと生活してマヒした自分の無力さに気づくのだ。子育ても,親がすべてをやってしまっては子供が成長しないということを,ここで改めて思い知るのだった。

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☆☆☆☆☆☆
 私は,日本から見られない天の南極あたりの星空のことなどこれまではほとんど知らず,興味もなかったのですが,南十字星だけは何としても見たいものだと思っていました。
 そこで,南十字星見たさに,2016年の春にハワイ島へ行って,マウナケア山麓のオニヅカビジターセンターで山の上に昇ってくる念願の南十字星を見ることができたのですが,そのとき,南十字星からニセ十字の方向に広がる,あまりにも美しい銀河の姿に魅了されてしまいました。
 日本から見ることができない南天の星空というのは,今日載せた星図のわずかな範囲だけなのですが,この範囲にはあまりに多くの魅力的な星空が広がっていたのです。しかし,これまでこの星空に関する情報はほとんど私には手に入らなかったし,日本で出版される星の本にも,日本からは見られない星空のことなど,ほとんど載っていませんでした。
 そこで,今回,この天の南極付近の星空すべてを見たくて見たくて見たくて見たくて,赤道を越え,20時間かけてニュージーランドまで出かけたというわけです。
 日本に帰ってから,撮ってきたこの星空の写真と星図を見比べて,自分なりに調べてみることにしました。今日は,この素晴らしい南半球の星空のなかでも宝石をちりばめたような南十字星からη(イータ)カリーナ星雲のあたりについて書いてみましょう。

 まず,前回書いた南十字座から追ってみます。
 ケンタウルス座のα星リゲルケンタウルスとβ星ハダルを「ポインター」といいます。南の空に明るく輝くこのふたつの1等星はすぐに見つかるので,詳しくない人が南十字星を探すにはそこから左にたどっていって見つけるのです。南十字星は4つの十字架を構成する星と十字架の中にある小さな星がひとつ,合計5個の星の並びからなります。前回も書いたように,南十字を構成する5つの星は,α星アクルックスから順番に時計回りに明るさが並んでいます。見かけ上1番明るいアクルックスは二重星で,双眼鏡ではふたつの星が並んで見えます。一方の明るい星をさらに拡大すると,さらに二重星になるのですが,これは双眼鏡では無理で,望遠鏡が必要だそうです。残念ながら,私は見たことがありません。
 この南十字星の右上に「コールサック=石炭袋」(Coal Sack)があります。
 宮沢賢治の書いた「銀河鉄道の夜」でカムパネルラが消えたという石炭袋がこれで,濃い天の川の中にぽっかりと穴が開いたような感じの暗黒星雲です。写真でわかるように,よく見るとコールサック付近から後で書くηカリーナ星雲にかけてもずっと暗黒部が延びています。背景の天の川が明るい分だけこの暗黒部がきわだってハイコントラストで観察できるのです。
 南十字座のβ星ベクルックスとコールサックの間には「宝石箱」(Jewel Box)と呼ばれる小さくまとまった有名な散開星団NGC4755があります。「宝石箱」とはなんとまた魅力的な名前でしょう! これは望遠鏡でみるとすばらしく見栄えがあるものです。

 南十字星の左側に輝くηカリーナ星雲(NGC3372)は必見です。ちなみにカリーナ(Carina)とはりゅうこつ座のことでηとはりゅうこつ座のη星のことです。この恒星から発するガスが散光星雲を形づくっているのです。
 この周辺は美しい散開星団が取り囲み,さらに銀河も濃い領域でなので,写真では無論のこと肉眼で見てもすばらしく美しいところです。これを見るためだけでも,20時間近くかけて南半球に出かける価値があるというものです。そして,これを見てしまうと,北半球の星空など,もうどうでもよくなってきます。こんな星空も知らずによくもまあ今まで日本なんぞで星を見てきたものだと思ってしまいます。
 ηカリーナ星雲のガスの背景には微光星がたくさんに見えていて,これもまた絶品です。
 そして,ηカリーナ星雲の周辺にある散開星団の美しいこと…!
 東側にはNGC3532,西側にはNGC3114。さらに,その北側には「南天のプレアデス」と称される明るい星で構成される散開星団IC2602があります。この星団は特徴的な星の並びをしていて,数字の「8」の字,あるいはよく見ると長い触角を持った蝶にも見え,さらには尾の長い鳥のようにも見えます。 これはまたθ(シータ)カリーナとも呼ばれているのですが,この星々と他のりゅうこつ座の星がダイヤモンド十字を構成しています。
 さらに,NGC3532, NGC3114, IC2602がηカリーナ星雲を取り囲むように配置していてとてもきれいです。
 最後に,来年の干支にちなみ「走るにわとり星雲」(The Running Chicken Nebula)というのがあるのでこれを紹介しておきましょう。この星雲はηカリーナ星雲とコールサックの間にあるIC2944という星雲とIC2948という「Bok globule」と呼ばれる星形成が起きるガスや塵が高濃度に密集した宇宙の領域のあたりがニワトリが走っているように見えることから名づけられたものです。

DSC_0673DSC_0676DSC_0677DSC_0678●国際運転免許証●
 この日もとても暑かった。
 私はこのケネディ宇宙センターに来たのは2回目のことであったが,はじめて来たときから自分が歳をとったこともあり,興味の対象もずいぶんと変化したこともあって,非常に意義深い時間をすごすことができた。
 前回来たときは,ギフトショップでずいぶんと時間をかけてお土産を買おうとして見て回ったのだが,欲しいものがまったく見あたらなかったことを私は思い出した。それは今回も同じであった。
 そもそも,私には江戸時代のお伊勢参りでもあるまいし,日本人が旅行に行くと土産というものを必ず買うこと自体がよく理解できないのである。今の私が自分への土産として欲しいなあと思うのは,そこでしか手に入らない日本にはない大柄のマグカップくらいである。

 午後3時過ぎに私はケネディ宇宙センターを出た。
 駐車場を出発して,まず,インターステイツ95に戻るために一般道を走っていった。道路は渋滞もなく非常に快適であった。
 やがてインターステイツ95に入るジャンクションに着いた。あとは,インターステイツ95を走り,このまま大西洋岸を北上するだけであった。
 この調子なら3時間も走ればホテルを予約した町ジョージア州サバンナに到着するであろうと思われた。そして,そんなに早く着くのならもっと北にまで行けたのになあ,とも思った。
 ケネディ宇宙センターを越えると,フロリダ州のインターステイツ95はずっと片側3車線で,写真のようにとても空いていて,快調なスペースで,ジョージア州との州境まで来た。

 海外で車に乗るには「国際運転免許証」というものが必要なのだが,それを取得するのは大変なことだと誤解している人がけっこういる。
 しかし,国際運転免許証は運転免許試験場に行ってお金さえ出せば手に入る。この国際運転免許証というのは有効期限がわずか1年で,厚紙に必要事項が書かれて写真がはってあるだけものであるが,パスポートよりも一回り大きくて携帯に不便である。これが必要なのは,日本の免許証に英語の記載がないので,単にその翻訳としての役割のためらしい。ちなみに,ハワイで車を運転をするときには国際運転免許証は不要である。
 レンタカー会社のハーツでは,この国際運転免許証に変わるものとして運転免許証を翻訳したドキュメントを発行するサービスをしていて,これさえあれば国際免許証は不要ということである。私はこれを使って旅行をしたこともあるのだが,このドキュメント,なんとジョージア州では認められていないということなのだ。
 私は今回の旅行でそのジョージア州をわずか数時間だけだが通り過ぎる必要があった。わずかの時間だから今回も国際運転免許証を取得するのをやめようかとも思ったが,念のため,ハーツのドキュメントではなく国際運転免許所を取得した。
 後日書くことになるが,それが思わぬところで役に立つことになるのだった。
 この国際免許証の最大の欠点は,サイズがあまりにでかいということなのである。

DSCN2112DSCN2118DSCN2124DSCN2125 2014年3月に公開された映画「ネブラスカ-ふたつの心をつなぐ旅-」(Nebraska)についてはすでに書きました。
 映画館で公開されたときにすぐに見にいったのですが,その後,アメリカに行ったときに飛行機の機内で見られる映画のリストにずっと入っていたので,私はそれを何度みたことか!
 そしてまた,12月13日にNHKBSプレムアムで放送されたので,またまた見てしまいました。
 私はこの映画がなぜか大好きなのです。

 私の好きな映画といえば,この「ネブラスカ」をはじめとして「マディソン郡の橋」(The Bridges of Madison County),「フィールド・オブ・ドリームス(Field of Dreams),そして「コンタクト」(Contact)などがあげられます。考えてみれば,それらはアメリカの大平原を舞台にしたものばかりです。
 どうやら,私の好きなアメリカの原風景が,こうした映画のなかにあるようなのです。
 以前この映画を話題にしたブログに「私は,アメリカ合衆国50州制覇の夢があるのですが,まだ,ネブラスカ州には行ったことがありません」と書いたのですが,その後,ネブラスカ州に行くことができたので,今日は私の写したネブラスカ州の写真を載せることにしましょう。
 この映画のよさは「ネブラスカ」という名前に,すでに,映画のイメージを想像することができる点にあります。しかし,ネブラスカ州に馴染みのない日本人にはそれが無理なので「-ふたつの心をつなぐ旅-」といった副題をつけてあるわけですが,こうして具体的な文字にしてしまうと,こんどはこの言葉で映画のイメージに制限ができてしまうのが欠点です。
 この映画に限らず,近頃の外国映画で日本で付け直した題名はさえません。

 ところでこれら私の好きな映画たちは,何度見ても新しい発見があります。アメリカの風景が出てくる映画は,その風景を見た,という経験が映画に新しい発見をもたらすのでしょう。それとともに,自分が歳を重ねたことで,映画で描かれている様々な心理描写がより理解できるようになってきた,ということもあります。
 以前にも書いたように「ネブラスカ」という映画は人生の老いを描いたもので,その根底には老いた父親とその息子の心の交流が軸になっているのですが,この映画で私がもっとも印象に残るのは,年寄りたちが居間で並んでボーッとテレビを見ているシーンです。
  ・・
 このシーンで描こうとしているのはいった何なんでしょうか?
 私はこのシーンのなかに,人生がすべて描かれているように感じてしまうのです。結局のところ,人生なんて所詮はこんなもんだ,とでも言わんばかりです。
 私は,そのことに同意します。
 人生なんて,所詮そんなものなのです。才能があって生まれようと,体力があって生まれようと,財産があろうとなかろうと,みんな,同じように老いぼれていくのです。
 そしてまた,こうした映画で描かれているのは,実はこれこそが多くのアメリカ人の人生そのものだということなのです。広い国に生まれながら狭い世界で過ごし,そして,こうした田舎の墓地で永遠の眠りにつくのです。

 アメリカでは大統領選挙があって,日本でも大きく報道されました。多くの日本人はそうした報道を見るだけで実際のところは本当のアメリカの何も知らないくせに,そしてまた,自分の生活とは異質の価値観で存在しているのに,アメリカの現状と天下国家を上から目線で,さも自分の意見のように語るのです。私は,そのことをいつも滑稽に思います。
 私の友人のひとりが,これまでアメリカなど全く興味もなかったくせに,マスコミの予想に反して新しい大統領が誕生したらなぜかそのことに異常な興味をもって,メキシコ国境を見てくる必要があると真剣に私に力説しはじめました。彼の面白いのは,日本円は将来価値がなくなるとずっと主張していて,10年ほど前まではこれからはヨーロッパだアメリカは斜陽だと言い自分の資産の半分以上をユーロに変えた(しかも手数料の高い銀行で!)と言っていたと思ったら,リーマンショックのあとになったら,自分の言っていたこともすっかり忘れて,突然,これからはドルだドルだと豹変し,今度はそれを私に力説するのです。
 彼は,未だ情報源は紙媒体の日本の新聞だけで,スマホも持たず,車も運転しないくせに,あの,広い広いアメリカにひとりで出かけていって,いったいどうやって情報を入手し,移動し,何を見てこようというのでしょう。私は内心あきれているのですが,プライドの高い男である故,聞く耳を持たないのです。しかし,生まれてはじめて渡米する,英語すら満足に話せない初老の男がアジアを放浪するようにしてのこのこ出かけていって,車を運転するでもなく国境を見てくることができるほどアメリカの国土は狭くはないし,たとえできたとしても,そんな経験くらいで何かがわかるほどアメリカの本質というのはそんな場所には存在していないのです。
 そんな冒険をするくらいなら,むしろ,この映画を見るか,あるいは旅がしたいのならネブラスカ州にでも行って竜巻の荒れ狂う過酷な自然でも体験してみるほうがよほど得られるものは多いことでしょう。

◇◇◇
「ネブラスカ」-人生に当たりくじなど必要ない。

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●「変わらないこと」の困難さ●
 バスツアーはロケットの打ち上げ基地を通ってから「Apollo/Saturn V Center」で途中下車する。この巨大なパビリオンにはアポロ計画で使用されたサターンⅤ型ロケットの使用されなかった本物が展示してあるが,ここは以前来たときと「まったく変わっていなかった」。ただし時の流れは早く,今ではここを訪れる人の多くは1970年代のアポロ計画のことを知らないかもしれない。私ははじめてここに来たときの感動を今でも忘れられない。

 アメリカの観光地に行っていつも思うのは,「まったく変わっていなかった」ということの大変さである。
 日本なら新しく作るときだけは意味がないほどの予算がつくが,一旦できてしまうとそれを維持するのにも事欠くほどの予算しか与えられないことが多いので,だんだんと老朽化していくのである。その結果,看板はさびつき展示品は壊れていくから,観光客も次第に足が遠のいていくわけだ。
 このこともまた日本人の特性で,組織でも自分がその地位につくと新しく何かを始めよう企てる人は多いが,そのほとんどの場合それを維持することを考えていないから,そのうち形骸化していく。あるいはお荷物になっていく。これもまた「日本人の発想と能力の限界」なのであろう。

 ここには大きなカフェがある。私はそのことを知っていたから,ここで昼食をとることにしていた。しかし,ちょうどお昼どきで注文カウンタにはずいぶんと列ができていたから,私はハンバーガーなどを注文することはあきらめ,サラダとペットボトルの水を手にしてレジで清算して空いている席に座った。私の隣には日本から来た中学生くらいの女の子たちがその食べ物の量の多さに驚きながら食事をしていた。

 食事を終えてから,このパビリオンのやまわりを歩き回った。
 この建物を外に出ると,先ほどバスツアーで車中から見た打ち上げ基地からロケットが打ち上げられるのを観覧するスタンドがあった。
 以前来たときはここにスタンドがあることに気づかなかったが,こここそ,テレビで見たことがあるアポロ宇宙船の打ち上げやスペースシャトルの打ち上げを放送していた場所そのものだったのだ。
 こうして,いろいろ不思議だったことがひとつずつ解明されていくのがなぜかとてもうれしい。このごろの私の旅は,このようにしてこれまでに疑問だったことを解明していくためにあるようだ。

 この建物は,サターンⅤ型ロケットの展示された中央の広い場所から,さまざまな小スペースに入ることができるようになっていて,そこにはテーマごとに分けられた展示がされていた。
 アメリカの博物館はどこもアポロ計画時代の展示が非常に多いのだが,それは,当時の計画で残された様々なものがあまりに多く,それを国中に分散して展示しているからであろう。私はこの旅で,後日,ワシントンのスミソニアンに行くことになるが,そこにもまた,多くのアポロ計画時代の展示がされていた。
 私は,こうして,この旅でアメリカ人でもなかなか訪れる機会がないと思われる博物館に同じ時期に行くことになったわけだが,博物館ごとに展示の仕方が異なっているのが面白かった。

 ここで私がいちばん興味をもったのはアポロ14号の帰還した司令船カプセルの実物であった。
 このカプセルの美しさはもちろんのこと,今の知識で司令船の内部などを見るととても興味深いのだ。コンピュータが今ほど発達していなかった時代において,これだけの偉業を成しえたというのもがすごいことである。
  ・・
 現在も使われているロシアのソユーズ宇宙船が設計されたのもこの時代なのだが,方や,すでに歴史となり,もう一方は,国際宇宙ステーションとの連絡用として,最も安全であるとされる宇宙船として,現在も活用されているわけである。
 ここ数年の天文学や生物学の進展はすさまじく,特に天文学上の多くの発見は特筆すべきものがあるし,無人の衛星は想像を絶するほとの発見をもたらしているのだが,こと有人宇宙船となると,現在活用できるのがソユーズ宇宙船だけなのだ。
 技術の進歩というのが,本当に進んでいるのか,それともあまり進化のないものなのかを考えると何かとても不思議な気がしてくる。
 このように,私には興味の尽きない場所であったが,時間に限りもあり,そろそろ出発することにした。それにしても,まさか,再びここに来る機会があるとは夢にも思っていなかっただけに,とても感慨深いものがあった。

20161024135330  以前このブログに「ある天文学者の恋文」という映画について書いたとき,この映画で天文学者を演じたジェレミー・アイアンズ(Jeremy Irons)が今度は「奇跡がくれた数式」(The Man who knew Infinity)で数学者を演じる映画が上映されるのだそうです,と付け加えたのですが,当の私はその映画のことをすっかり忘れてしまっていました。
 どうやら私は「天文学」にはときめいても「数学」には全くときめかないようです。
 先日,オーストラリアのブリスペンを経由してニュージーランドのクライストチャーチまで往復したとき,成田-ブリスベン間のカンタス航空の機内で見ることにできる映画のリストにこの映画があったのを見つけました。そこででこのことを思い出して機内で見ました。
 この映画は「天文学者の恋文」とは違い実話に基づいているのですが,とても味のあるよい映画でした。
 いろいろと調べてみても,この映画は非常に評判がよいので,機会があればご覧になるとよいでしょう。

 「奇蹟がくれた数式」は2015年にイギリスで製作され,2016年に公開されました。主演はデーヴ・パテール(Dev Patel)で,本作はロバート・カニーゲル(Robert Kanigel)が1991年に上梓した「無限の天才・夭折の数学者・ラマヌジャン」(THE MAN WHO KNEW INFINITY)を原作としています。
 インドのタミル・ナードゥ州タンジャーヴール県クンバコナム生まれで極貧のバラモン階級の家庭に生まれた数学者シュリニヴァーサ・ラマヌジャン(Srinivasa Aiyangar Ramanujan)は極めて優れた直観によって様々な定理を発見しました。しかし,数学者としての正式な訓練を受けていなかったがために,証明には数多くの不備があって,ラマヌジャンは学会から黙殺されそうになりました。そんなラマヌジャンに目を付けた人物がジェレミー・アイアンズ演じるケンブリッジ大学の数学者ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ(Godfrey Harold Hardy)だったのです。

 私がこの映画を見たときにまず思い出したのは,自分が大学生のころ,通っていた大学の教授たちの大人げないほどの仲の悪さでした。概して天才は精神的には子供です。それとともに,イギリスという国の本質である私の嫌いな権威主義でした。ニュートンを生んだ国の大学の教授なんてなるものではない,と。
 人は「天才」として生まれたとき,その人の業績は社会にとっては大きな財産となるものであっても,その人自身は決して幸せではないというのは歴史が証明しています。神様と話ができるほどの才能に恵まれれば恵まれるほど,人はストイックになり辛い人生が待っているのです。それは,自らが作りあげた真理を人間なぞに暴かれてたまるものか,という神様の人間に対する意固地なのでしょうか。
 私は,若いころから,さまざまな自然のもつ真理を知りたいとずっと思い続けてきたけれど,幸いなことに天才に生まれなかったから,ずっと知りたいと思いつつもそれがかなわない最善の状態でいられた,つまり,神の嫉妬に会わないでいられたわけで,実はこれこそが一番幸せなことだと,このごろわかってきました。それとともに,私が「天文学」にはときめいても「数学」にときめかないのは,この映画で一般人にもわかる程度にさりげなく出てきたラマヌジャンの業績をどう説明されても,そこにロマンを感じない自分の凡庸さにあるのでしょう。
 ラマヌジャンは,今日ラマヌジャンのデルタと呼ばれている次の式
    
を直感的(使用した定理を証明できなかったから)に計算することで
    
の値が
    
であることを導いたというのがその業績のひとつだ,といわれても,私には宇宙の創生や生命の誕生を解明するようなときめきをまったく感じないのだから,どうしようもありません。
 この映画を見た人は,その感想で,数学がわからない人にも数学のロマンを感じることができた,と書いていますけれど,それはどうかなあ? それよりも,私は,このラマヌジャンが数学に天分があったがために神様から奪われてしまった幸せ,というものにずいぶんと心が痛みました。
 この映画は,神の真理を知ろうとする天才の人生には救いがない,しかし,神からは救われなくとも人からの救いがある,ということが十分に描かれていたことで,見ていた私もまた救われました。

◇◇◇
「ある天文学者の恋文」-美しくも切ない永遠の愛の物語


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●スペースXの打ち上げ基地に様変わり●
 18年前に来た時と同様に,ビジターセンターからはバスに乗ってケネディ宇宙センターの第39複合発射施設(Launch Complex 39=LC-39)を巡るツアー(Kennedy Space Center Launch Control Center Tour)に参加した。 
 バスの乗り場は比較的空いていて,すぐに乗ることができた。
 
 LC-39はフロリダ州メリット島にあるロケット発射場である。アポロ計画のために建設され,後にスペースシャトル計画の運用に対応する改修が行われた。そして,現在は,スペースX社のファルコン9とファルコンヘビー,およびスペース・ローンチ・システム (SLS) の打ち上げと運用に向けて改修が行われている。
 ここはアポロ11号の打ち上げをテレビで見た我々の世代にはあまりに有名なロケットの打ち上げ基地である。
 従来,LC-39は,39A,39B,39Cの3基の発射台とそれに付随する組立棟,運搬路,整備施設,発射管制センター,記者席,補給拠点などの施設から構成されていた。
 スペースX社は39A発射台をNASAからリースして,ファルコンヘビーの打ち上げに対応するために発射台を改修した。また,NASAは39B発射台をスペース・ローンチ・システムへ改修した。

 この発射施設周辺一帯の歴史は,1890年に資産家が土地をを購入したことに始まる。
 1920年代に入ると,保養都市開発計画が推し進められていたこの土地の買い手を誘致しようと小さなカジノが建てられた。1948年,アメリカ海軍はケープ・カナベラルの南に位置したバナナリバー航空基地をV2ロケットを試験するために空軍へ移譲し,当地は統合長射程試験基地となり,1950年にはパトリック空軍基地と改称した。
 1951年,空軍はケープカナベラルの一部を北側に建て増して空軍ミサイル試験センターとした。これが後にケープカナベラル空軍基地 (CCAFS) となる。1950年代,ミサイルおよびロケットの試験と開発は当地で実施されていた。 

 1958年にNASAが設立されると,マーキュリー計画,ジェミニ計画などの初期のミッションで使用されたロケットは,ケープカナベラル空軍基地の発射台から打ち上げられた。  
 アポロ計画の発表により,基地の運用範囲はケープカナベラルから隣接するメリット島まで拡張され,1962年には打ち上げ運用センター (Launch Operations Center) と命名された。当時,CCAFSに設置されていた発射台の中で最も大きな番号が振られていたのが第37複合発射施設であったが,月複合発射施設が設計されるとともに現在の名称へと改称された。
 初期の構想では5基の発射台(39A から39E)が計画されたのだが,そのうちの3基(39A・39B・39C)が実際に建設され,残る2基は保留となった。この発射台を最初に使用したのは,アポロ計画の月ミッションの一環として打ち上げることとなったサターンVロケットを使ったアポロ4号であった。
 2011年のスペースシャトルの退役で,それ以後約2年間ほどはLC-39の将来的な用途が不透明な状況が続いたが,2014年にスペースX社に20年間リースする調印式が行われ,2015年からファルコンヘビーロケットの射点として使われることになった。有人型のドラゴン宇宙船が完成すれば,ISSへの宇宙飛行士の商業打上げもここから行われることになる。
 スペース・エクスプロレーション・テクノロジーズ=スペースX社(Space Exploration Technologies Corporation=SpaceX)は,ロケット・宇宙船の開発・打ち上げといった宇宙輸送を業務とするアメリカ合衆国の企業で,2002年に設立された。スペースXは2000年代に多数創設された米民間宇宙ベンチャーの1社で,打ち上げロケットのファルコン9やファルコンヘビー,ならびにファルコン9で打ち上げるドラゴン宇宙船を開発している。
  ・・
 ということで,バスツアーでは,こうして様変わりしたロケット打ち上げ基地を身近に見ることができた。18年前とはずいぶん様変わりしたものだと,私は感動した。

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 今年は夏目漱石没後100年ということで,新聞やテレビでは様々な特集がされています。
 朝日新聞とNHKはお互いはいろんなもめごとを起こしますが,第三者には同類にしか見えないくらい,その発想が似ています。今は,ともに,競うように,夏目漱石の特集をしています。
 朝日新聞には夏目作品が掲載されていますが,すでに著作権の切れた作品を毎日大きなスペースを割いて有料の新聞に連載していること自体,非常に芸のないことだと,私は常々苦々しく思っています。
 私が高校生のころ,高校生なら夏目漱石と森鴎外を読んでいて当然だ,といわれていたので,私も一応すべてを読破したのですが,そのころの私は,夏目作品を読んでいると「明治」という時代にタイムスリップできるのでとても楽しい時間が味わえました。しかし,それも高校生だからのこと,いつまでも自分がそれではなさけないのです。

 今日でも夏目漱石が騒がれるのは,織田信長が出てくる大河ドラマと同じで,「数が取れる」からです。つまり,それはそれ以外のコンテンツの貧困さを暴露しているように感じます。マスコミの発想が貧困なのですね。
 しかし,本当の夏目漱石の業績というのは,はじめて日本がひとつの国として存在するようになった明治という時代に,作品を新聞に連載することでこの国に標準語としての同じ「国語」を定着させることに貢献したということにあったと私は思うのですが,そういう根本的なことすら高校の国語の授業で熱く語られていないことのほうが問題でしょう。

 さて,前置きが非常に長くなりました。
 NHKBSプレミアムの「あてなよる」でも,夏目漱石をネタにした特集が2回にわたって放送されました。第1夜は「ライスカレーで呑む」,そして,第2夜が「漬物で呑む」でした。
 この「あてなよる」という番組を私が最も面白く,かつ,愛しているところは,精一杯の見栄と虚栄が満ち溢れていることなのです。能力もないのにプライドだけが高くて,だから出世欲に満ち満ちていて,周囲の迷惑を顧みず地位だけが高くなった人にとてもよく似ています。
 以前も書きましたが,私はこの番組は「見て味わう」ものだというのが結論なのですが,ともかくも,まず,何でも「京都」と名づければ「ブランド」になるのです。この番組はそれだけでなくそこに「イギリス」やら「ワイン」やらさえ登場させこの番組を見ているにわかセレブの自尊心を満足させることでダメが打たれます。それが狙いなのです。
 こういうブランド志向は,日常の生活に疲れ深夜にテレビを見ている庶民をいい意味でだまし,満足した気持ちにさせるのにもってこいなのです。
 かくいう私は,呑兵衛でもなくグルメでもないので,こういう「ブランド」のちりばめられた番組のなかにごっちゃに存在する「ホンモノ」と「ニセモノ」を探し出すのが面白くて仕方ありません。
 端的に言ってしまうと,この気取った番組は,NHKBSプレミアムで12月10日に放送された「漱石悶々」というドラマのコマーシャルに過ぎないのです。そして,そのドラマに「箔」をつけるための番組なのです。でも,それでいいじゃあないですか。こうして十分にその役割を果たすことに成功しています。ドラマで役を演じる役者さんの本当の姿や地を垣間見ることができて,とても有益だからです。
 
 ところで,海外旅行をするときに日本食を一杯持っていく人がいます。そこまで無理して海外旅行などしなくてもいいじゃあないかと私などは思いますが,それは人それぞれです。無国籍の私にはそんなことは必要ありませんが,ただ,海外でときどき無性に恋しくなる唯一の食べ物が「カレーライス」(ライスカレーじゃあありません)なのです。そしてまた,私は,日本でも,どんな贅沢な料理よりも,カレーライスを食べているときが最も幸せであることに,このごろ気づきました。だから,この番組の第1夜で出てきた「ライスカレー」は「カレーライス」ではなかったけれど,とても食欲をそそりました。ものすごくおいしそうでした。
 この番組ではさらにポテトサラダも登場しましたが,ポテトもカレーライスのなかにいれてしまう名古屋人としては,むしろ,ポテトサラダは「ライスカレー」よりも「味噌煮込みうどん」のほうが似合うように思います。
 第2夜の漬物のほうは,私には別段どうでもよい,世の中にあってもなくてもよい存在なのですが,というより,漬物を食べること自体を理解できないのですが,でも,漬物もまた,お酒のあてよりも「味噌煮込み」のほうに似合うのです。漬物を食べながら酒を呑む,なんて,実に体に悪そうです。でも,私は別に漬物が嫌いというわけではありません。
 私の友人に好き嫌いの激しい人がいて,その人は,漬物はだめ,鶏肉はだめ・・・ という感じで,到底一緒に食事などできないのですが,そうした人物に限って,やたらプライドが高かったりブランド好きだったりすることのほうが,私には,不可解だったりします。

 まあ,そんなことを感じながら番組を見ているのですが,歳をとると食べ物には「おいしさ」よりも「健康によい」ということのほうにプライオリティが置かれるようになり,しかも,日々の生活に全くストレスがなく,お酒を飲むことさえほとんどなくなってしまったから,「あて」そのものが無縁だったりするので,私には,やはり,この番組は見て味わうだけで十分なのです。
 それよりもなによりも,私は,この夏目漱石をネタにしたさまざまな番組を見るにつけ,夏目漱石という,優秀でかつ気難しい第二次大戦以前の典型的な日本の男を代表するような輩がもし自分の父親だったらどんなにうざったいことだろうかと,いつも,そんなことばかりを考えます。

◇◇◇
「あてなよる」-至福の時間は,見て味わう。

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●ふたつの宇宙望遠鏡●
 アトランティスが展示されているパビリオンは,ケネディ宇宙センター見学コースの入口を入った右手にあって,通常は一般の入口から順に周っていくから,早朝はとても空いている。スペースシャトルが目的なら,早朝に行くことをお勧めする。
 すでに書いたように,パビリオンに入ってまず映画を見終わった後で扉が開くとスベースシャトルに対面するのだがそれは建物の2階で,そこからスペースシャトルを取り巻くように1階にスロープにそって降りていくわけだが,私の行ったときには,日本人の子供たちの団体が来ていて,スロープに並んで説明を聞いていた。
 
 1階にはスペースシャトルを取り巻くようにそのほかの展示があった。
 そのひとつが「ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡」(James Webb Space Telescope=JWST)の模型であった。この望遠鏡は,NASAが開発を行っている赤外線観測用宇宙望遠鏡である。ハッブル宇宙望遠鏡の後継機として,2018年以降の打ち上げを目指して開発が進められている。
 JWSTの主な任務は,宇宙誕生ビッグバンの約2億年後以降に輝き始めたとされるファーストスターを観測することである。ファーストスターからの光は赤方偏移により波長が引き延ばされ赤外線に変化すると考えられており,赤外線域で捜索・観測することによって,ファーストスターを発見することが期待されている。
 ベリリウムを主体とした反射鏡の主鏡の口径は約6.5mでハッブル望遠鏡の2.5倍である。主鏡は18枚の六角形のセグメントに分割されていて,望遠鏡が打ち上げられた後に高感度のマイクロモーターと波面センサーによって正確な位置に導かれて展開する。

 もうひとつは「ハッブル宇宙望遠鏡」(Hubble Space Telescope=HST)であった。この望遠鏡は地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡である。長さ13.1メートル,重さ11トンの筒型で,内側に反射望遠鏡を収めており,主鏡の直径2.4メートルの宇宙の天文台である。
 これまでに,シューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突する様子を克明に捉えたり,太陽系外の恒星の周りに惑星が存在する証拠を初めて得たり,銀河系を取巻くダークマターの存在を明らかにしたなどの功績がある。ハッブル望遠鏡は運用期間15年の間にスペースシャトルから修理などを受ける予定だった。
 1990年にスペースシャトルディスカバリーによって打ち上げられ,その後5度に及ぶサービスミッションを行ったが,すでにスペースシャトルが退役したので,今後のサービスミッションは行えない状況である。

 ここにはもうひとつ,スペースシャトル打ち上げ体験,といった,まさにテーマパークの乗り物があって,ほとんど並ばなくてもそれを体験することができた。

南天2n

☆☆☆☆☆☆
 前回,オーストラリアで満天の星を見たいと書きましたが,今回,ニュージーランドでその夢がかないました。唯一心配だったのは天候でしたが,幸い,私の訪れた3日間は毎晩ほぼ快晴になりました。
 今日は,そんな南の満天の星のなかで輝く明るい星々のお話です。 
 全天で最も明るい恒星は日本でもおなじみのおおいぬ座のシリウス(Sirius)で,そのあとは,明るい順にりゅうこつ座のカノープス(Canopus)ケンタウルス座のリギルケンタウルス(Rigil Kentaurus)うしかい座のアークトゥルス(Arcturus)こと座のベガ(Vega)ぎょしゃ座のカペラ(Capella)オリオン座のリゲル(Rigel)こいぬ座のプロキオン(Procyon)オリオン座のベテルギウス(Betelgeuse)エリダヌス座のアケルナル(Achernar)ケンタウルス座のハダル(Hadar)わし座のアルタイル(Altair)みなみじゅうじ座のアクルックス(Acrux)と続きます。

 南半球に出かけて星空を見上げると,日本では見ることができない,あるいは見ることがむずかしい,なじみのない1等星が空高く輝いているのに本当に驚かされますが,この時期に見ることができるのは,上にあげた明るい星々のなかでは,シリウス,カノーブス,リギルケンタウルス,リゲル,プロキオン,ベテルギウス,アケルナル,ハダル,アクルックスと,そのほとんどです。
 そのなかでも一番驚くのはカノーブスが非常に明るく輝いていることです。カノーブスは日本では長寿星といわれ,地平線ぎりぎりにしか昇りませんし,地平線に近いので,見ることができたとしてもそれほど明るく感じません。しかし,実はこの星は全天で2番目の明るさを誇っているので,南半球では空高く,堂々と輝いていて,真っ先に見つけることができるのです。
 その次に目につくのはエリダヌス座のα星であるアケルナルです。エリダヌス座という星座自体,日本ではほとんど無名です。晩秋のオリオン座が東の空に昇ってくるころに,その前に昇っているのですが,日本で見られるのは暗い星ばかりなので,私は,そんな星座に明るい1等星があるなどということ自体,まったく認識がありませんでした。

 さて,この季節に南半球に出かけると,南の地平線付近に明るい1等星が2つ輝いています。それはケンタウルス座のα星リギルケンタウルス(右側)とβ星ハダル(左側)です。
 リギルケンタウルスは太陽系から4.39光年しか離れておらず,わが太陽系から最も近い恒星系です。実際は三重連星で,α星A,α星B,そして暗く小さな赤色矮星のプロキシマ・ケンタウリ(Proxima Centauri)から成っています。α星Aとα星Bはひとつの恒星のように見えますが,プロキシマ・ケンタウリは少し離れています。このプロキシマ・ケンタウリは暗いので地球から肉眼では見ることはできませんが,地球に最も近い恒星として知られています。その距離は4.22光年です。
 2016年,プロキシマ・ケンタウリを公転する惑星,プロキシマ・ケンタウリbが発見され,生命がいるのではないかと話題になっています。そこで,小型のスターチップを送り込み,プロキシマ・ケンタウリを探査しようという計画の構想が練られています。

 このケンタウルス座のリギルケンタウルスからハダルに向ってさらに目を進めていくと南十字星を見つけることができます。
 この南十字星,前回は4つの星と書きましたが,もうひとつε星も仲間に増やして,今回は5つの星,として紹介しましょう。この5つの星は明るい順にふたつの1等星α星(三重連星)アクルックス(Acrux)とβ星ベクルックス(Becrux)またはミモザ(Mimosa)(正確にはアクルックスは0.8等,ベクルックス1.3等)1.6等星のγ星ガクルックス(Gacrux)2.8等星のδ星3.6等星のε星です。オーストラリア国旗には南十字星はこのように5つの星として描かれています。それに対してニュージーランド国旗には前回4つと紹介したように,ε星は描かれていません。
 なお,南十字座のまわりには「宝石箱」(Jewel Box)という名で知られる散開星団NGC4755とコールサック(石炭袋)として有名な暗黒星雲があってとても美しく見る人を楽しませてくれますが,このことはまた次回。

◇◇◇
「星好きの三大願望」-満天の星空のもとで南十字星を見る。

DSC_0598DSC_0602DSC_0603DSC_0607●事故が起きた2機のスペースシャトル●
 スペースシャトルは135回の打ち上げのなかで重大な事故が2回起きた。このときの衝撃を私は今も忘れることができない。

 そのひとつが1986年1月28日打ち上げ73秒後のチャレンジャーの空中分解事故である。この事故で7人の乗組員全員が死亡した。
 機体の分解は,右側固体燃料補助ロケット(Solid Rocket Booster=SRB)の密閉用Oリングの破損が原因であった。Oリングの破損によって密閉していたSRB接続部から漏洩が生じ,固体ロケットから高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して隣接するSRB接続部材と外部燃料タンク(External Tank= ET)にダメージを与え,外部燃料タンクの破壊が生じたためにチャレンジャーは一瞬の内に破壊された。
 事故後,破片は長期にわたる捜索・回収作業によって海底から回収された。
 このときの乗員の中には宇宙授業計画(Teacher in Space Project)による最初の教師としてクリスタ・マコーリフ(Sharon Christa Corrigan McAuliffe)が含まれていたため,大勢の人が生中継で射ち上げを見ていた。
 当時のレーガン大統領はジョンソン宇宙センターで行われた追悼式に出席し以下のように述べた。
 「我々は星へと向かう際,時として力及ばず道半ばで果てることがある。しかし我々はその痛みを乗り越え,さらに先へと進まなければならない 」

 もうひとつが2003年2月1日に起きたコロンビアの空中分解事故である。
 コロンビアが大気圏に再突入する際,テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し,7名の宇宙飛行士全員が犠牲になった。このとき,コロンビアは28回目の飛行を終え,地球に帰還する直前であった。
 事故の原因は,発射の際に外部燃料タンクから剥落した発泡断熱材の手提げ鞄ほどの大きさの破片がシャトル本体の左主翼前縁を直撃して,大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことだった。そこで,大気圏に再突入した際,損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され,急速に機体が分解した。
 事故後にテキサス州,ルイジアナ州,アーカンソー州で行われた大規模な捜査により,搭乗員の遺体と機体の残骸が多数回収された。

 アメリカの博物館のすごいところはこうした過去も歴史としてきちんと保存展示されていることだ。アトランティスが展示されていた建物の1階にそれはあった。犠牲となった14人の宇宙飛行士の遺品とともに,2機のシャトルの残骸が衝撃的に展示されていて,私は言葉を失った。その横にあった無傷のアトランティスと同じものとは思えなかった。

 結果的に,これで私はこの残骸を含め,そして,この旅で数日後に見ることになるエンデバーを加えると,作られた6機うち5機のスペースシャトルを見ることができたのだった。

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●ついにスペースシャトルと対面●
 スペースシャトルの打ち上げを一度は見たいものだと思っていたがかなわぬまま2011年に退役してしまった。せめて地球を回ってきた本物のスペースシャトルを見たいとずっと思い続けて,2013年にニューヨークへ行ったときにスペースシャトルを見ることができて,ついにそれがかなった… と思ったが,ニューヨークで見たのは地球を回ってきたものとは違っていて,私はがっかりしたのだった。
 2013年,久しぶりにニューヨークに行ったとき,イントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea, Air and Space Museum)にスペースシャトルが展示されているという情報を得たので私は見にいった。空母を博物館に転用したイントレビットの甲板の上に設置された展示室には確かにスペースシャトルが置いてあったのだが,それはエンタープライズ(Enterprise)で,滑空試験のために使用されただけで地球軌道を回ったものでなかった。宇宙へ行っていないため状態がとてもきれいで,使用感がなくおもちゃみたいだった。

 繰り返しの利用が可能な宇宙船であったスペースシャトルは1981年から135回打ち上げられたが,飛行可能な機体はエンタープライズを含めて結局6機作られた。
 エンタープライズ(Enterprise)は試験用で,実用化され,実際に地球の周回軌道に乗ったのは,コロンビア(Columbia)チャレンジャー(Challenger)ディスカバリー(Discovery)アトランティス(Atlantis)エンデバー(Endeavour)の5機であった。
 チャレンジャーは1986年に発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われたため,機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。さらにコロンビアも2003年,地球への帰還途中で空中分解事故を起こして消滅した。
 そこで退役時に現存したのはエンタープライズも含めると4機である。

 退役後,ディスカバリーはワシントンDCにあるスミソニアン博物館のバージニア州にある別館国立航空宇宙博物館(Steven F. Udvar-Hazy Center),アトランティスはフロリダ州ケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)の見学者用施設,エンデバーはカリフォルニア州ロサンゼルスのカリフォルニア科学センター(California Science Center)にそれぞれ展示されている。また,それまで国立航空宇宙博物館別館に展示されていたエンタープライズは,ディスカバリーが展示されることに伴って,ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea, Air and Space Museum)に移された。
 ヒューストンにはスペースシャトルのコントロールセンターがあったのだが,そこに1機も展示されていないのが意外に思われる。これは大人の事情であろう。

 そんなわけで,私は今回の旅で,今度こそ地球を回ってきたスペースシャトルを見たいものだと,わざわざケネディ宇宙センターにやってきたわけであった。
 ここに展示されているアトランティスはまさに飛んでいるかのように展示されていることは以前から知っていて,いつか見てみたいなあと思ってはいたが,その夢がかなうとは信じられなかった。この日,ついにそれを実現することができたのだった。

 ケネディ宇宙センターにはサターンロケットの実物やスペースシャトルの発射台,ロケット組み立て用の建物などアメリカの宇宙開発の歴史がすべて展示されている。
 私は宇宙センターのゲートを入ると,他の展示物はすでに前回見たことがあるので,今回は一目散にアトランティスが展示されているパビリオンに向かった。
 建物の外には実物大の補助エンジンの模型があった。建物のなかに入ると長いスロープがあって,それを登りきると劇場のような部屋に入るようになっていた。スペースシャトルの展示室に入る前に映画が上映されていてそれを見終わるとスペースシャトルが展示されている部屋の扉があくという仕掛けであった。
 展示室は2階建てになっていて,映画が終わって扉を開けて入ったのはその2階部分であった。
 扉が開いた瞬間,目の前にスペースシャトルが現れた。それは劇的であった。2階からはハッチの開いたスペースシャトルを見ることができて,貨物室の中も見られるようになっていた。長いスロープを下って1階へ降りていくとタイルの貼られた全面を見ることができるようになっていた。1階ではさらにタイヤやエンジン,アストロバンなども見ることができた。
 宇宙センターはさすがに有料だけのことはあって,充実した展示であった。私にとって,この旅で長年の夢が実現した最もうれしい時間であった。

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 さだまさしの歌った「前夜(桃花鳥)(ニッポニア・ニッポン)」という曲は今から34年前,1982年12月に発表されました。
 その歌の歌詞は
  ・・・・・・
 桃花鳥(トキ)が七羽に減ってしまったと新聞の片隅に
 写りの良くない写真を添えた記事がある
 ニッポニア・ニッポンという名の美しい鳥がたぶん
 僕等の生きてるうちに
 この世から姿を消してゆく
  ・・・・・・
からはじまります。
 この歌ができる以前からトキが絶滅の危機にあるということは知っていましたが,まさに,このころトキのおかれた状況は悲観的でした。私は,このことがとても悲しくて,トキに深い想いを抱いていました。
 なお,さだまさしが歌ったときすでに,厳密にはトキは7羽ではなく5羽だったので歌詞にある数字は間違っていて,私はこの歌を聴いて事実と違うなあと思ったのですが,これは所詮歌なので「ゴワ」ではなく「ナナワ」としないと韻が合わなかったのでしょう。

 トキ(Nipponia nippon)はペリカン目トキ科トキ属で全長は70センチメートルほど,翼を広げると1メートルほどの小さな鳥です。顔は赤く嘴は黒くずいぶんととがっています。頭の後頭は房状に羽毛が伸長していて全身は白っぽいのですが,翼の下面が朱色がかった濃いピンク色になって非常に美しく,これを「とき色」と表現しています。
 トキは奈良時代には「ツキ」「ツク」などの名で文献に現れており,「日本書紀」や「万葉集」には「桃花鳥」と記されています。「トキ」という名前が出てくるのは江戸時代からでした。
 古来,田畑を踏み荒らす害鳥で,江戸時代までは日本国内に広く分布していたのですが,明治に入り肉や羽根を取る目的で乱獲されるようになり,大正時代末期には絶滅したと考えられていました。
 昭和に入って昭和5年から昭和7年にかけて佐渡島で目撃例が報告されたので,昭和9年に天然記念物に指定されました。当時佐渡島全域で生息数は100羽前後と推定されていました。
 終戦後,昭和25年を最後に隠岐諸島に生息していたトキの消息は途絶え,佐渡島での生息数も24羽と激減しました。昭和33年にはさらに11羽にまで減少し,昭和56年,佐渡島に残された最後の野生のトキ5羽すべてが捕獲され,昭和42年に開設された佐渡トキ保護センターで人工飼育下に移されました。この時点で日本のトキは野生絶滅しました。
 そして,平成15年10月10日の朝,最後のトキ「キン」の死亡が確認され,日本産のトキはついに絶滅したのです。

 1998年,中国の国家主席であった江沢民が中国産トキのつがいを日本に贈呈することを表明し,オスとメス1羽ずつが日本に寄贈されました。2羽は佐渡トキ保護センターで飼育され,人工繁殖が順調に進められました。以後,順調に人工飼育数は増加しました。なお,過去には別種や変種があるといわれたこともありますが,現在では亜種などはなく,日本・中国・朝鮮半島・ロシアに生属したいずれのトキも完全に同一の種と考えられています。
 飼育数の増加に伴い鳥インフルエンザなどの感染症が発生した場合に一度にすべてが死亡することを避けるため,トキの分散飼育が計画され,2007年に4羽が多摩動物公園に移送され非公開の下で分散飼育が開始されました。その後も,2010年にはいしかわ動物園,2011年には出雲市トキ分散飼育センターと長岡市トキ分散飼育センターで分散飼育が開始されました。
 トキの飼育や繁殖は野生のトキを日本に復活させることを最終目標としていて,2008年に佐渡市小佐渡山地の西麓地域にて10羽が試験放鳥され,2012年には放鳥された個体同士による野生下での繁殖が確認されました。
 現在のところ,野生のトキは推定214羽まで増加しています。

 すでにこのブログで,「私が行きたい日本」として,佐渡島と徳島と書きました。そのうち,徳島で見たかった阿波踊りは昨年の夏に実現しました。残るは佐渡島でトキを見ることだけだったのですが,佐渡島は遠く,トキ以外にはさして魅力もなく,これまで何度も行こうと計画しては断念していました。私が佐渡島へ行きたかったのはトキが見たかっただけなので,今年11月19日から石川県のいしかわ動物園でトキを見ることができるようになったと知って,さっそく行ってみることにしました。
 これから冬に向かうのでこの先は雪の心配もあり,12月3日は天気がよかったので今日行かなくていつ行く? とばかり,早朝家を出て車で3時間,いしかわ動物園に行ってきました。
 いしかわ動物園は金沢市郊外の高台にある美しい動物園で,トキのほかにライチョウやフクロウなど,ユニークな鳥がたくさん飼育されていました。トキはとても広いトキ里山館というところで飼育されていて,5羽見ることができます。インターネットには観覧席の近くまで餌をとりに来ますが飛ぶ姿は見られないでしょう,と書かれてありましたが,私が見に行ったとき,なんとトキが飛んだのです!
 私は,こうして,トキを見るという念願をかなえることができました。トキはとても美しく,いつまで見ていても飽きることがありませんでした。どうか,このトキが自然の中で1羽でも多く羽ばたくようになりますように,と願わずにはいられませんでした。

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●スペースシャトルさえ見られれば●
 まだ夜が明けるより前,私は宿泊したマイアミのコンドミニアムを出て,ダウンタウンを走って,インターステイツ95に入った。
 土曜日ということもあり,しかも早朝ということもあり,インターステイツ95はほどんど車が走っていなかったから,きわめて快調であった。
 マイアミからケネディ宇宙センターまでは220マイル(350キロメートル)であるから車で3時間というところであろうか。この日は土曜日だったのでケネディ宇宙センターは混雑が予想されたから,なんとか午前9時過ぎには到着したいものだと思った。

 コンドミニアムは朝食がついていないから夜が明ける前に出発したが,どこかで朝食をとろうと思って,インターステイツのジャンクションが近づくごとにマクドナルドの表示をさがして走っていたのだが,大きな町だと表示があってもジャンクションを降りてからずいぶんと走らないとめざすマクドナルドがなかったりするので,私はマイアミ市街を抜けるのを待っていた。
 マイアミ市街から100マイルほど走って,ウェストパームビーチを過ぎたあたりは,ずいぶんと民家も少なくなってきてた。やがて,インターステイツの道路案内に「マクドナルド」の表示があったので,そこでインターステイツ95を降りて朝食をとることにした。
 ファーストフード店は郊外にあるほうが行くにも車を停めるにも楽だから,適当なところを探しながら走っていたというわけだ。
 朝食をとって,再びインターステイツ95に戻った。
 さらにこれから100マイルほど北上していくのだが,走っていると,とにかくフロリダ州の発展はものすごいものだと感じた。

 大統領選挙が終わり,大方の予想とちがって,トランプが勝った。
 今回の大統領選挙で私が感じたのは「金持ち民主党」対「貧乏白人の共和党」ということであった。以前とはずいぶん違う。それはITによる産業構造の変化と無縁でないであろう。
 アメリカはフロリダ州にせよワシントン州にせよ,大都会の発展はものすごく,その底力もすごい。アメリカは斜陽だといういう日本人もいるが,日本の斜陽ぶりと比べてみるといい。なにせ,日本で発展しているのは首都東京だけなのだ。オリンピックで何兆円という話題のあとで熊本城の復興費が800億円,といわれると,本当にどうかしていると思う。
 アメリカも,昨年走った中南部や今回の旅でこの後行くことになるノースカロライナ州などは従来の工業が斜陽となって,街も暗く,活気もないが,IT産業の誘致に成功した地方都市やあるいはカリフォルニア州のシリコンバレーなどは活気にあふれている。それは,民主党とか共和党ということではなく,その州政府にそうした産業を誘致する先見性があったかどうかなのだろう。

 来るときに見た通り,インターステイツ95を走っていくとそのうちにケネディ宇宙センターの案内標示があるので,そこで右折してケープカナベラルに向かっていけば私の目的地に到着するから,私はそれをめざして進んでいった。
 google maps を調べても,あるいは車のカーナビの表示を見ても,なかなかケネディ宇宙センターにいく道順がわからないのだったが,実際に走っていくと道路案内がしっかりしていてなんの問題もなく到着する。しかし,道路を選ばないと,ここもまた知らないうちに有料道路に入っていってしまうから要注意なわけだ。

 私は,今日の写真のような道路を走っていったが,この道路は海にかかる快適な橋の上を通っていた。そこを延々と走って,さらに沼地に作られた道路を行くと,ずっと先にスペースシャトルの模型が見えてきた。
 そこにあるのが,ケネディ宇宙センターの観光用コンプレックスであった。
 ここは NASA のれっきとした研究施設であり,また,ロケットの打ち上げ基地でもある。

 詳しくない日本人が間違えるのがテキサス州ヒューストンの宇宙センターである。
 私はその両方に行ったことがあるが,ヒューストンには航空管制センターがあり,同じような見学コースがある。
 フロリダもこの打ち上げ基地に併設する形で見学コースがあるのだが,アメリカ人のしたたかなのは,この見学コースが「ゼニがとれる」ことを知っているので,ものすごく豪華なアミューズメントパークとなっていることなのだ。つまり,ここは宇宙に関するディズニーランドなのである。ただし,ディズニーランドとの違いは,ここではホンモノのロケットに接することができるということなのである。

 到着したの9時過ぎで,ものすごく広い駐車場はまだずいぶんと余裕があった。また,夏休みの土曜日ということでもっと混雑しているかと心配したが,予想が外れた。
 車を停めて,入口に急いだ。
 チケットブースには人が並んでいたが,まあ,こんなものであろう。
 正規の入場料のほかに,本物の宇宙飛行士と一緒に食事をすることができるオプショナルツアーなどさまざまなオプションがあった。これもまたアメリカらしい。
 私は前回18年前にも来たことがあるからこの施設自体にはさほど興味はなかったが,今回ここに来たかった理由はひとつだけ,それは本物のスペースシャトルを見たいということであった。
 だから,それをどこで見られるか,それを見るにはなんらかのオプショナルツアーに参加する必要があるのかだけが心配であったが,聞いてみると通常の入場料だけでスペースシャトルを見ることができるということだったので,それを購入して入場した。

 今日はこのケネディ宇宙センターの見学を終えたら,可能な限り北に走っていくことにしていた。
 昨晩,地図を見てフロリダ州を越え次のジョージア州も越えて,サウスカロライナ州との州境にあるサバンナという町までは行けそうに思えたので,そこにホテルを予約した。そのとき,ケネディ宇宙センターを午後3時過ぎに出れば十分だな,とぼんやりと思っていた。
 なにせ,私は,この日スペースシャトルさえ見られればそれでよかったのだから。

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●マイアミに行くならハワイのほうが●
☆4日目 7月30日(土)
 今日の写真は夜写したものではなく早朝である。つまり,私は,この日,まだ夜が明ける前に出発したのだった。

 私が2泊したこの「コンドミニアム」についてはすでにいろいろ書いたが,外見の写真がなかったから,今日はまずこのコンドミニアムの写真をご覧いただこう。
 1番目の写真にあるのは,このコンドミニアムの入口にあったものだが,「リバーオーク・マリーナ&タワー」という名前が書いてあった。
 そして,2番目の写真が玄関である。この玄関の前にガードマンがいて,なかに入ると吹き抜けになっており,その中央に丸い受付がある。そして右に曲がったところに2基のエレベータがあって,それを利用して昇るようになっている。
 また、この建物の右側の別棟がパーキングで,その内部は3番目の写真のようになっている。各階の端っこの壁際に地味な扉があって,それを開けるとアパートの通路につながっているが,はじめてもときはこの扉の存在がかななかわからないからアパートにはいることができないわけだ。しかし,これでセキュリティが保たれているのかどうかはよくわからない。

 そして,4番目の写真がマイアミ・マーリンズのホームグランドであるマーリンズパークである。
 このボールパークの西側の広い道路を北に向かって2キロほど行くと川があってそこに橋が架かっているが,その橋の手前を左折して公園のなかの道路を1キロほど行くと,このアパートに到着するのだ。
 このあたりは住宅地,というか高層アパート街で,治安に問題はなさそうなのだが,なにせ,公園は日が暮れれば人影がなくなるから,本当のところはまったくよくわからない。

 いずれにせよ,私がこれまでに行ったアメリカでは,デトロイトのダウンタウン,イーストセントルイス,そして,この旅で後で行くことになるボルチモアの3か所がかなり治安の悪い「やばい」ところなのだそうで,実際に行ってみると,さもありなん,という感じであったが,ここはそういう感じではなかった。

 ただし,マイアミで一番の問題は,車で一般道を走っているとき,交差点を赤信号で停止すると,物乞いがやってきてお金をせびったり,あるいは,いきなり窓ガラスを拭いてお金を請求したりといった無法があり得ることで,そんなことに出会ったら,とことん無視するか,あるいは1ドル札の1枚でもくれてやればいいのだが,気持ちのよいものではない。
 こういことは,以前のアメリカの大都市なら,東海岸でなくともサンディエゴでもありえたのだが,現在のずいぶんと治安のよくなったアメリカで,こういうものに出くわすと,タイムマシンに乗って数十年前のアメリカに戻ってきたように感じる。

 私は,コンドミニアムを出て,まだ夜が明けきらぬマイアミのダウンタウンを,カーナビの案内を頼りにインターステイツ95のジャンクションを目指して走っていった。
 結局,私がマイアミに滞在したときの体験はここで書いたことくらいのものだったので,マイアミ観光を考えている人が読んでもほとんど参考にならなかったかもしれない。ただ,端的にいうと,フロリダ州は,キーウェストは一見の価値があるが,マイアミビーチに行くならハワイに行ったほうがずっといいのではないかというのが,昨日のブログ同様,今日も私の結論である。

私の短いニュージーランド旅行も,いよいよ帰国の日が近くなりました。来る前はさっぱり状況がわからないところでしたが,わずか3日の滞在で,ニュージーランドというところがおぼろげにわかりました。そしてまた,星を見るという目的も達成できました。
ニュージーランドでは,道路の脇にルピナスという美しい花が咲き誇っています。これは,イギリスから来た女性が故郷を懐かしんで種を蒔いて歩いたことで自生した雑草ですが,外来種のためにマウントクックあたりでは一斉に駆除されたようです。また,イギリスから持ち込まれたものに狩りのためのウサギがいます。天敵がいないので増えすぎて,夜行性で夜になるといくらでも道路に飛び出してきます。車で走っていると道路には轢かれた姿を頻繁に目撃します。また,ウサギの肉は「game」と呼ばれレストランで味わうことができます。
ルピナスとウサギ,ともにイギリスからニュージーランドに持ち込まれたものがさまざまな問題を抱えているようです。

今日は,クライストチャーチに戻るだけの日程です。そして,1日目に宿泊したホテルに再び1泊して,明日は早朝6時過ぎのフライトで,オーストラリアのブリスベンを経由して成田に戻ります。
テカポ湖からクライストチャーチまでは特に行くところも,行きたいところもなかったのですが,時間がたっぷりあったので,ニュージーランドの南の海岸線を遠まわりで走ることにしました。いわば信州の諏訪湖から東京に帰るのに名古屋まで行ってさらに京都へ寄ってから東海道を東京に向かうような感じです。
テカポ湖を出発して,まず,ハイウェイ8を南東に海岸まで走り,ティマル(Timaru)という町まで行きました。そこからさらにクライストチャーチとは反対の南南西に海岸に沿って走り,オアマル(Omaru)まで行きました。
その途中の風景はどこもヒツジやウシが放牧されているのどかな田園地帯でした。
ティマルやオアマルという町は,ちっとしたダウンタウンのある小さな港町で,博物館や古い教会などがあります。この夏に行ったアメリカ・サウスカロライナ州のチャールストンに似ている,と言えなくもないのですが,それよりはずっと規模も小さく,歴史も浅いものです。車を停めて街を散策してもよいのですが,何か特別なものがあるというほどのものでもありません。その点でもハワイよりも魅力に劣ります。
オアマルにはブルーペンギンのコロニーがあるということだったので,そこまで遠出したのですが,海から巣穴に戻って来るペンギンの群れが見られるのは夜とのこと。私が見ることができたのは,卵から孵ったばかりのひなの様子だけでした。

オアマルからクライストチャーチに海岸線を国道1に沿って引き返しました。ニュージーランドの南島はどこもそんな感じなのだろうと思う単調な風景でした。
クライストチャーチも,到着した日に市内観光はすでに済ませたので,郊外にあるウィローバンク野生保護区へ行ってみることにしました。場所は空港の近くで,ハイウェイ1からアクセスできるはずだったのですが,道路は工事中で遮断されてしまっていて迂回する必要があり,到着するのにずいぶんと苦労しました。
この保護区はニュージーランドの固有種を中心とした動物園で,なかでも,タカへ(Takahe)という以前は絶滅したと考えれられていた鳥や,キウィ(Kiwi)が目玉です。特に,キウィは真っ暗にされた室内でまじかにみることができるようになっていました。ただし,探し出すのが大変でした。
ホテルに戻って,近くの日本料理店に夕食を食べに行きましたが,クライストチャーチの市内には日本料理の食べられるお店がずいぶんあって,しかもアメリカのように韓国人がやっているというのではなくて,正真正銘の日本と変わらないものを食べることができます。

こうして,私のニュージーランドの星空観察旅行は終了しました。帰国の日は出発が朝の6時ということで,早朝2時に起床。3時30分にホテルを出て,空港に向かいました。予定通りにクライストチャーチを離陸して,オーストラリア・ブリスベンで乗り換え,予定よりも30分早く,日本時間午後5時30分に成田空港に着きました。行きとは違い快晴のブリスベンからカンタス航空に乗った乗客のほとんどはオーストラリア人で,帰国のために乗っていた日本人はほとんどいませんでした。おかげで成田空港の日本人用の入国ゲートはガラガラでした。
ニュージーランド,今回はツキに恵まれすぎていて,毎日快晴で星空を堪能できましたが,私が思っていたほど晴天に恵まれるところでもないなあ,星を見る以外に何もすることがないところだなあ,というのが率直な感想です。ブリスベンから乗った飛行機で隣になった交換留学でブリスベンに1年滞在して日本に帰国する日本の大学生の女性の方とお話をしていて,オーストラリアのほうが晴天率が高そうなことがわかったので,今度はオーストラリアで星を見たいと思うようになってきました。いずれにしても,南十字星からマゼラン雲にかけて南天の星空はほんとうに素晴らしいもので,これだけは赤道を越えなければ見ることはできません。
南半球ではありませんが,次に私が南十字星と対面できるのは来年3月のハワイ旅行です。寒いニュージーランドに比べたら常夏の島ハワイのほうが,星を見るならともかく,観光地を求めるならずっと魅力的だというのが,今回の旅の私の結論でした。

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翌日,私はここにもう1泊して,再び別の星空観察ツアーに参加することにしていたので,お昼間はマウント・クックまでドライブを楽しむことにしました。天候が悪いときの予備日として2日間の滞在を予定していたのですが,天候に恵まれた結果,すでに目的は達成したので,この先はおまけの日程になりました。
朝は,昨日のお昼を食べた同じコーヒーショップでモーニングセットを食べました。私の宿泊したバカ高いホテルは,朝食も高価な別料金だし,Wifiは100MBまでしか使えないというこれもまたバカげた容量制限があって,まったくもって,単に暴利をむさぼるだけの悪徳リゾートホテルでした。私は宿泊しませんがハワイ島のリゾートトホテルも同じく,こういうホテルは大手旅行社とタイアップして集客をしているので,ツアーでやってきた団体旅行客はこういうところにお金を払っているわけです。こんな点は,ニュージーランドは私の嫌いな「せこい日本」に似ています。
ニュージーランドは車の運転も日本のように乱暴だし後ろから煽ったりするし,硬貨もやたらとでかくて重たいし,いろんな意味で私の日本の嫌いなところがありました。ニュージーランドは確かに人が少なく自然も豊かで美しいけれど,私は「せこい日本」が嫌いで海外旅行をしているのに,人の生活には日本にいるのと同じ感覚を味わったのでした。

マウント・クックまではプカキ湖の西の湖畔沿いを北に向かってきれいで雄大な風景を眺めながら往復4時間ほどのドライブでした。ものすごい展望と,緑色の美しい湖,そして,遠くに見える山々の雪をかぶった姿は,一見の価値があります。ただし,マウント・クック自体は雲がかかっていて,見ることができませんでした。
ニュージーランドの国立公園は,これもまた日本と同様に入園料が要るということもなく,アメリカとは全く違うのですが,いろんなサービスという点では,アメリカの国立公園のほうがずっと楽しいです。駐車場がほとんどなく車を停めるのに苦労します。
ニュージーランドではフィッシングをするとかトレッキングをするとか,そういったアクテビティを楽しまなければ,1週間も滞在するとすることがなくなります。星だって,毎日満天の星空が手に入ってしまうから,さしてすることもなくなります。
お昼過ぎにホテルに戻り,今日は日本料理店で昼食を食べました。食事も,日本と同じものが食べられます。午後は,近くのWifiのできる喫茶店でコーヒーを飲みながらゆっくりすごしました。なにせ,ホテルのWifiは容量制限を超えて,ネットすらできないありさま,とてもあり得ない話でした。

夜は,10時ずぎからの星空観察ツアー。今日はコーワンズ天文台ツアーというものですが,天文台といっても,実際は,近くの空き地に設置された望遠鏡で星を見ながら説明を聞くという,昨日と行き先が違うだけで内容は同じものでした。JTBのニュージーランド団体旅行ツアー御一行様の日程に組み込まれているオプショナルツアーらしく,それに参加した人と一緒でした。私は特に参加する必要もなかったのですが,事前に予約してあったし,満天の星空をみたいという目的をすでに遂げた私には適当な時間つぶしにはなりました。参加していたのは今日もまた無知丸出しのおばさんたち。こういう人たちには星空も京都で雑誌に載っているレストランでグルメを食べるのも同じ次元です。
ツアーが終わってから「善き羊飼いの教会」を風景に入れた星空の写真を写しにいきました。そこで写した写真が今日のブログの1番はじめに載せたものです。
しかし,世界でもっとも美しい星空の見られる場所といわれるそこにいたのは,これもまた,いつもの通り態度と声がでかく道徳心のかけらもない中国人の団体旅行ツアー御一行さんたち。彼らが大声で叫び雰囲気をぶち壊し,懐中電灯を振り回しせっかくの星空を光で照らしてしまうのです。
かくして,日本も含めた世界中の素晴らしい観光地は,彼らによってすべてが台なしにされていくのです。

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今日も夕方になると少しずつ雲が切れて来ました。私はニュージーランドに興味があったわけではなく,単に南半球の星空を見にきただけだから,少しでもチャンスがあれば星を見に行くことが最優先なのです。
アース&スカイのマウント・ジョン天文台のある山頂に行く星空観察ツアーの出発は深夜の0時過ぎです。太陽が沈んで空が暗くなるのが午後10時40分ごろと,南半球でもずいぶんと南に位置するこの場所は夏時間ということもあってかなり遅いのですが,それでも,日が暮れて空が暗くなってからツアーまでは1時間ほど星を見る時間がありました。日本とは違って車でほんの数分も町から郊外に走っていけばあたりは牧草地ばかりで真っ暗,どこでも満天の星空が広がっています。そこで,今晩もその間,星を見に出かけるとにしました。
ホテルを出てテカポ湖からハイウエイ8を少し西に走って行ったところに空き地があったので車を停めて外に出ると,ものすごく強い風が雲を蹴散らしはじめていて,今晩もまた,天気予報どおり本当に快晴になってきました。

寒いので一旦車に戻ると,車の窓からも鮮やかに星が輝いて見えます。運転席に座って,iPhoneにインストールしてあるステラナビゲーターを参考にしながら,日本では見られない星座を探していきます。まず天頂付近に小マゼラン雲が浮かんでいます。それを左にたどっていくと大マゼラン雲があって,南の空を地平線に向かって目を落としていくと,きしちょう座,みずへび座,くじゃく座,みなみのさんかく座,ふうちょう座,カメレオン座,はちぶんぎ座,みなみじゅうじ座… と面白いほど正確にステラナビゲーターどおりの南天の星空が目の前に見えるのです。明るい1等星はシリウス,カノーブス,アケルナル,リゲルケンタウルス,アクルックスなど,そのほとんどは日本では馴染みのないものばかりです。
再び外に出て,三脚に簡易赤道儀を乗せてカメラを設置し,極軸を合わせて写真撮影の開始です。時折,車がヘッドライトをつけて傍らのハイウェイを通り過ぎるので,その間だけ撮影を中止しながらも多くの写真を撮りました。
最も驚いたのは人工の光がないので,カメラのホワイトバランスを自動にしておいても星空のバックが赤や青ではなく黒く写るのです。こうして午後11時30分ごろまで夢中で写真を撮ってからホテルに戻りました。

深夜0時過ぎ,ホテルに星空観察ツアーの送迎バスが来ました。
参加者はものすごく多くて40人以上。来てみてわかったのですが,ここは団体の旅行ツアーがそのプログラムにこの星空観察ツアーを組み込んでいるのです。だから,日ごろ,まったく星なんかに興味のないおばさんたちがわけわからず参加しているのです。それにはげんなりしましたが,ともかく,これに参加しないと深夜の天文台には登れません。
山頂はかなり風が強く寒かったのですが,中止にもならず雲のない快晴の星空を堪能することができました。それにしても,この南天の星空が見たくて見たくて見たくてたまらない天文ファンも多いというのに,ほとんど興味もないようなこういう運のよいおばささんたちが満天の星空を見る機会があるのですから,天も罪作りです。なにせ,マゼラン雲を見ても単に雲が浮かんでいるだけだと思っていて感動のかけらもないし,南十字星を見ても「小さい!」と叫んでいるだけだし,宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだこともないから石炭袋を見てもそれがなんだかわからないし,南半球まで来てアンドロメダ銀河や北斗七星が見たいだとか,わけのわからないことを言っているのですから困ったものです。
ともあれ,私は,夢にまで見た南天の星空を心ゆくまで堪能することができました。

この日,私の参加した星空観察ツアーより3時間ほど早い前の回のツアーは強風で中止になったそうです。私が牧草地で星を見ていた時間です。そのツアーには,私がクライストチャーチの空港で知り合った新婚さんが参加予定でした。彼らはもともとは偶然私と同じツアーだったのが,キャンセルがあって早い回になったのだそうです。
ここテカポ湖は晴天率70%で,お昼間に雲が出ていても夜になると風が雲を蹴散らして空が晴れるのだそうです。しかし,日本のように移動性の高気圧が覆うと2日ほど快晴が続く,という安定した天候ではないから,単に観光で星空を見るには適していても,天文台を建てて観測するには,あまり向いていない場所のように私には思えました。
また,ハワイ島でのマウナケア星空観察ツアーは,さすがに団体旅行のツアー客が押し掛けるということもないので,現地の日本語ツアーは少人数ですが,ここは完全に団体旅行のツアー客に占領されています。ただし,ハワイ島の星空観察ツアーよりもツアー会社自体はずっと良心的です。
しかし,自分で南天の天体写真を写したいという天文マニアは,ツアーに参加しなくても,私のように,近くの牧草地の空き地へ行けばどこでも写真を写すことができるので,そのほうがよいかも知れません。治安は問題ありませんし,日本と違ってクマもシカもいません。ただし夜は夜行性のウサギが飛び出てきます。

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私が当てもなく走っていったのは国道74で,着いたのはリッテルトン(Lyteiton)という港町だったのですが,そこからさらにほとんど車の通らなさそうな一般道を海岸沿いの高台まで走ったところにあった駐車帯に車を停めて,写真を写すことにしました。
空を見上げてはじめに目についたはひっくり返ったオリオン座でしたが,それ以外はどこに何があるのやら方角さえもさっぱりわかりません。さすがに南半球の星空はハワイとは違いました。しっかり予習して来たはずなんですがすべて消え失せました。南半球では日周運動は南の空が中心です。だから真南を見なくてはいけません。北の空には日本でも馴染みのある星座がひっくり返って見られます。
見上げること10分,だんだんと位置がわかって来ました。そうしたら南十字もマゼラン雲も確認できるようになってきました。すごい星空です。感動しました。私はこの日本では決して見られない南半球の星空が見たくて17時間も旅をして来たのです。
こうしてニュージーランド初日,テカポ湖へ行く前に,曲がりなりにも旅の目的を達成してしまいました。この旅で天気が悪くせっかく来たのに全く星が見られなかったらどうしようという心配はなくなりました。もう明日からは天気が悪くて星が見られなくても後悔することはありません。

こうして興奮冷めやらぬまま次の日の朝になりました。ぐっすり寝られたので時差ボケもありませんでした。
今日はクライストチャーチから車で3時間くらい走ってテカポ湖へ行くのです。クライストチャーチのホテルはそのままにして,テカポ湖の豪華なリゾートに2泊します。テカポ湖ではここしか空部屋がなかったのです。
実は,私はクライストチャーチとテカポ湖を毎日往復するつもりでいたのです。出発の数週間前に改めて調べてみて,そんなことは不可能だとはじめて知って,あわててホテルを探したのに,ほとんどが満室だったのです。もし,ここも満室だったら,私はどうしたというのでしょう?
途中,マクドナルドで朝食をとってハイウェイ1をずっと走りました。こちらのマクドナルドは自動注文マシーンがあるので便利です。
ハイウェイといっても片側1車線の一般道なのにここを100キロでビュンビュン走るのです。信号は皆無です。周りは森と牧草地とヒツジばかりなのですが,ときどき小さな町に着くと制限速度が50キロになります。
やがてテカポ湖に到着しました。
常になにかに怖じけづいたような無愛想な日本人と,ここでもまたずうずうしく声のでかい我が物顔の中国人がやたらと多いのです。みんなツアー客で,大型バスでやって来ます。さすが世界のリゾート地です。私は星を見るという目的がなければこんなリゾートには縁がありません。第一,テカポ湖がこんな有名なリゾートとは知りませんでした。
しかしここは湖のほとりに数件のお店とリゾートホテルががあるだけの小さな町です。お昼を食べに1軒のコーヒーショップに入って,サンドイッチとコーヒーを注文しましたが,店員さんが日本人でした。結構日本語が通じます。

数か月前まで,まさか私がテカポ湖に来るとは思ってもいませんでした。テカポ湖という名前は知っていましたが,ニュージーランドで星を見ると決めたときもテカポ湖に来るとは決めてなかったし,でもどういうわけか来てしまったことがとても不思議でした。
湖とその向こうに見える雪をかぶった山並みが美しいです。とはいってもここは美しい景色以外には見どころがあるわけでもなく湖岸の「善き牛飼いの教会」と山の上にあるマウント・ジョン天文台くらいです。そして極めつけが満天の星空です。と簡単にいうものの,それらがすべて日本では決して見られない,筆舌に尽くしがたいものです。
到着して早々車で天文台のある山の頂上に登ってみました。途中にゲートがあって5ドル払うとお昼間だけ登れるのです。夜は日本人の経営するアース&スカイという会社の行う星空観察ツアーでのみ登ることができます。標高1,500メートルくらいの山頂はものすごい風でした。ここにはニュージーランドや日本の大学が設置した4基の天体望遠鏡があります。その脇にガラス張りのカフェハウスがあってここが一般客に開放されています。カフェのなかは温室状態でした。コーヒーを飲んでいたら,日本から来た観光客の方と同席になりました。
山頂からのテカポ湖の風景を楽しんだあと,一度ホテルに戻り再び徒歩で夕食を食べに中国料理店に行きました。ほかのレストランは団体客の貸切でした。

空は到着したころは晴れていたのですがこの頃になるとすっかり曇ってきて絶望的に思えました。昨日は雨で,星空観察ツアーは中止になったそうです。iPhoneのアプリに「Wunderground」と「The Weather Channel」というのがあって現地の天気予報がわかるのですが,これが目まぐるしく変わるので,ほんとうのところあまりよくわからないのです。夕方の時点では空はどんよりと曇っているのに,そのとき,午後10時過ぎには晴れ上がるるという新しい予報に更新されました! それが本当なら,これを逃す手はありません。
今晩の予定は,深夜0時過ぎに出発するツアーに参加して,再びマウント・ジョン天文台に登ることになっているのですが,それまでどうしましょう? 本当に予報通り晴れるのでしょうか?

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