●運気が変わって起きたこと●
私の運気が変わって,まず起きたのは,スピード違反で捕まってしまったことである。
国立公園は,制限時速が35マイル(56キロメートル)なのである。私は前を走っていた車が40マイル(64キロメートル)で走っていたから,その後ろをついて走っていたら,なんとレインジャーにスピード違反で捕まったのだ。なんで後ろを走っていた方が捕まるのか納得がいかず文句をいったら,他人がやっていたからといってやっていいということではないと教師のような話し方で諭された。アホか!
私は無知なことに国立公園のレンジャーに警官と同様の権限があることを知らなかった。この私を捕まえたレインジャーは自分に息子がいればこのくらいの歳だと思われるくらいの男だった。彼は捕まえてみたら日本人だったので「国際免許か,レンタカーか」などとぶつぶつ言いながらトランシーバーで連絡をしているのが見ていてなぜかおかしかった。私はバカバカしくなって,罰金払えばいいんだろ,これもブログのいいネタだ,と思っていたら,しばらくして,今回は許してあげよう,次回は許さないよと言って無罪放免となった。
今回,レンタカー会社の免許証明書でなく国際免許証を持ってきたので面倒なことにならなくてよかった。証明書だけでも違法ではないが,こうしたときの効力違うのだ。
私には,このような幸運がこれまでにも山ほどある。
その次はホテルであった。
私は,国立公園を出てすぐの町フロントロイヤル(Front Royal)に宿泊した。フロントロイヤルはとても美しい町だったので,私はすっかり油断をしていたようだ。こうした町には予約などしていなくてもいくらでも泊まるところはある。以前の私なら,その町のそこらのマクドナルドに入ればさまざまなクーポンのついたタウン誌が置いてあるからとりあえずそれをチェックして適当なホテルを探したものだったが,近頃は遅く着いたときにホテルを探すのも面倒なので,事前にエクスぺディアで適当なところを予約しておく。
そこで今晩予約したのが「クールハーバーモーテル」(Cool Harbor Motel)という名のホテルであった。安価なことにつられた。
しかし,到着してみると,それはそれは街はずれの絶対治安がいいとは思えないような薄汚いところにある古びたモーテルであった。プールもあると書いてあったが古びていて水も入っていなかった。部屋はまともだったし,風呂のお湯の出も一流ホテル以上にいいのにバスタブには栓がないし,コーヒーメーカーはあるのにコップがないし,というあんばいだった。
しかし,Wifiの繋がりがいいし,ホテルのスタッフの愛想もよかった。
夕食は近くにあった古びたモールのなかの中華料理屋に行ったのだが,そこの雰囲気も同じようなものであった。
アメリカには,こうした中華料理屋が結構ある。店内で食事をすることもできるのだが誰も食べておらず,客のほとんどはお持ち帰りなのある。
そして,そのひとり分という量が並大抵の量ではない。チャーハンなど頼めばひと家族分くらいある。この中華料理屋の焼きそばはまだ少ないほうであった。
私は,いくら食べても一向に量が減らないニューメキシコ州ロズウェルの中華料理屋のことと思い出していた。
そして,最後がタイヤの空気圧であった。車に表示されたタイヤの空気圧表示を警告表示だと勘違いした私は,ガソリンスタンドに行って空気を入れることにした。
こんなことは日本でもやったことがない。アメリカでは空気を入れるには自分で機械を操作して,お金を入れて空気圧の調節をするのである。
機械の使い方がわからないので,ガソリンスタンドのおじさんに助けを求めた。
アメリカでそんなことを頼んでも,大概は相手にされないのだが,幸いだったのは,私が行ったガソリンスタンドで店番していたおじさんはどうやら隠居で暇を持て余していた老人であった。彼はものすごく親切で代わりに空気を入れてくれた。
その後,私はこの空気圧表示の本当の意味を知って,それを便利に利用するようになった。
それにしてもエンジンオイルの表示といい,この空気圧の表示といい,日本で走る車とアメリカで走る車はたとてどちらも日本車であってもこうも異なるのはいかがなものであろうか?
このように,私は,旅の運気が変わってかなり落ちているなあ,とこのとき思ったが,結局,すべて事なきをえたから,あとはまた,よいことが待っているだろう,と楽観することにした。
January 2017
映画「アバター」-「プロキシマ・ケンタウリb」に生命が?
☆☆☆☆☆☆
NHKBSプレミアムで2009年に公開された映画「アバター」(Avatar)が放送されていました。
私は星好きですが,こういう映画も「戦い」を主にしてしまうものだと見る気がなくなります。そもそも,アメリカやイギリスという国自体の成り立ちが,というよりも人類の歴史そのものが侵略と領土拡張だからこういうことになるのでしょうが,人類は,将来,宇宙に進出しても -私は進出できるとは思いませんが- 再び,こうした侵略と領土拡張に明け暮れるのでしょうか?
それはそうと,この映画の舞台となっていたのは「アルファ・ケンタウリ系惑星ポリフェマス最大の衛星パンドラ」(Pandora, a moon of the pranet Polyphemus in the Alpha Centauri star system)でした。「パンドラ」は「アルファ・ケンタウリ」(Alpha Centauri),日本で「ケンタウルス座α星」とよばれている恒星のまわりを公転する架空の惑星「ポリフェマス」の衛星です。「ケンタウルス座α星」は日本からは見ることができません。
すでにこのブログで紹介したことがありますが,私がニュージーランドで写した今日の写真の,中央にある南十字星の右側の明るいふたつのケンタウルス座の1等星は南十字星の「ポインター」とよばれているものです。その「ポインター」のうちの右側のほうの少し明るいほうの星が「ケンタウルス座α星」です。
「ケンタウルス座α星」は,A(Alpha Centauri A) (0.01等星),B(Alpha Centauri B)(1.13等星),そして少し離れたところにあるC「プロキシマ(「最も近い」の意)・ケンタウリ」(Proxima Centauri=Alpha Centauri C)(11.13等星)からなる三重連星です。この恒星系には以前から惑星が存在する可能性が指摘されていて,「アバター」をはじめとして,多くのSF作品の舞台にも使われています。1980年のテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマトⅢ」では第4惑星に人類が移住しているほか,「トランスフォーマー」(Transformers)シリーズでは正義のロボットたちの出身地がα星近くの人工惑星「セイバートロン」(Cybertron)でした。
この三重連星「ケンタウルス座α星」のうちのBのまわりを公転する太陽系外惑星が発見されて,「ケンタウルス座α星Bb」(Alpha Centauri Bb)と名づけられました。発見当時,太陽系から最も近い太陽系外惑星であるとして注目を集めましたが,後の研究によって,惑星は存在しないだろうとの指摘がなされています。
そして,昨年の8月に「ケンタウルス座α星」のうちのC「プロキシマ・ケンタウリ」のまわりを公転する惑星「プロキシマ・ケンタウリb」(Proxima Centauri b)が発見されました。
紛らわしいのは,ネット上にある「ケンタウルス座α星に存在するといわれる惑星」の情報が,多くの場合「ケンタウルス座α星Bb」のことを書いていることですが,惑星の存在が確実なのは,こちらのほうではなくて,「プロキシマ・ケンタウリb」のほうだということです。
「ケンタウルス座α星」A,Bは太陽からわずか4.366光年離れた位置にあります。C「プロキシマ・ケンタウリ」はそれよりも近く4.243光年です。惑星「プロキシマ・ケンタウリb」が発見されるまで,最も地球に近い太陽系外惑星は,エリダヌス座ε星「ラーン」(Ran)のまわりを公転するエリダヌス座ε星b「エーギル」(AEgir)の10.49光年でした。
ケンタウルス座α星は地球から近いため,数千個の小さな探査機を送り込んで探査をしようとする「スターショット計画」(Breakthrough Starshot)が進んでいます。「スターショット計画」とは,わずか1センチ四方の1グラムにも満たない送信機とカメラに1メートル四方の大きな帆をつけた探査機の,その帆にレーザー光線を当てることで光の速度の20パーセントまで加速して,20年で「プロキシマ・ケンタウリb」に送り届けようというものです。
これもまたわかりにくいのは,この計画が発案されたときは惑星「プロキシマ・ケンタウリb」はまだ発見されておらず,今は存在が不確かな惑星となってしまった「ケンタウルス座α星Bb」の方を探査してこようというものでした。このように,天文学上の発見は日々行われているので,きちんと調べないと,古い情報と新しい情報が交錯してしまいます。
さて,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」で最も興味深いことは,この惑星にはどうやら液体の水が存在するらしいということなのです。恒星「プロキシマ・ケンタウリ」と惑星「プロキシマ・ケンタウリb」との距離は太陽と地球との距離の20分の1と近いのですが,恒星「プロキシマ・ケンタウリ」が「赤色矮星」(red dwarf),つまり「主系列星」(main sequence star)のうちでも最も小さいものなので,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」は,ちょうどいいあんばいの位置「ハビタブルゾーン」(habitable zone)にあるのです。したがって,惑星「プロキシマ・ケンタウリb」には生命がいる可能性があるのです。
・・
こんなことを思いうかべながら実際に南半球で星空を眺めるのもまた,格別です。
今どき従来の「新聞」では?-2016年が教えてくれたこと
私が元日の新聞で密かに楽しみしていたのは,キヤノンの全面広告でした。この会社の元日の全面は,毎年,映像技術の未来を語っていたからです。しかし,今年はがっかりしました。「セキュリティ」は私の興味ではないからです。この広告は私の知りたい未来を語っていません。それよりも監視社会の到来みたい -実際近頃はどこを見渡しても監視カメラだらけですが- で暗い気持ちになりました。
半導体露光装置という工業製品があります。20年ほど前にはニコンとキヤノンの2社で世界ダントツのシェアを誇っていました。ところが,いまやシェアのほとんどを占めているのはオランダのASMLです。2014年にこの装置をニコンは18台売る予定だったに売れたのはたったの1台でした。それ以来,日本の2社は急激にシェアを落とし,キヤノンに至っては見る影すらなくなりました。
カメラにせよ,半導体露光装置にせよ,プリンタにせよ,以前は国内2社がライバル関係にあって,それで切磋琢磨してシェア競争をしていれば安泰だったのに,今や,国内のライバル会社が協調しなければ,世界から遅れて共倒れになるというのが,この国の現状なのです。
この広告をみて,私が思ったのはそのことでした。
しかし,もっと深刻なのはマスコミです。以前なら,この業界もまた,どの社の新聞を購読するといった読者の奪い合いだけで経営ができたのですが,今や,どの新聞にしても,自分の社の都合のよいニュースを都合のよい解釈で載せているだけだということが,簡単にわかる時代になってしまい,賢い庶民は新聞など信頼しなくなったのです。若者は新聞すら読まないと老人は嘆きますが,今どき,新聞から情報を得ているだけの老人の方がよほど嘆かわしい状況なのです。
新聞社のなかには政権ヨイショを生きがいにしているところもありますが,批判精神をなくしたマスコミはもはやマスコミですらなく。単なる政権のスポンサーにすぎません。それはまた,テレビも同様です。スポンサーが怖くて報道を控えたり,儲かればよい,視聴率が取れればよいというだけの報道をしている限り,賢い庶民は,その手の内をすべて見透かしています。
私は,テレビという旧時代の娯楽は,これまでもこれからも,お年寄りと病気で入院をしているような人の味方でなければ存在価値はないと思っています。こういう人たちの心を癒し,生きる勇気と希望を与える大切な存在だからです。
ところが,今どきのテレビは老人には使いこなせないほど複雑になり,地上波はあまりにも軽薄なものや見ていて暗くなるだけの番組しかないということであれば,もはや救いはありません。
そこにもって「AbemaTV」のようなものが登場してきました。テレビ局やメーカーが4Kだの8Kだのと手前の都合だけの技術を追っかけているうちに,やがてはテレビ放送など見向きもされなくなっていくでしょう。
スポーツ放送の乱立も,結局はテレビ番組のコンテンツ探しのための自己都合に過ぎないのです。近頃の東京オリンピックに関する混乱がそれを我々に教えてくれました。それは,単なる娯楽番組なのにニュースの中にまで登場させて視聴率が取りたいNHKの紅白歌合戦なるものの存在と同様です。
このように,この国では,こうしたマスコミが主導する「標準」やら「常識」は,どうやらすべて疑ってかかった方がよいようなのです。
老後が不安だから「投資」をだとか「終活」だとか「携帯電話」だとか「塾」とか「住宅」とか,そうしたすべてのものにどのようにお金を使うか,一度考え直した方がよいのです。
プロが年金の運用をしても損をするのに庶民が投資をして利益を得られるわけがありません。生きているのも大変なのに,どうして生きている貴重な時間に死ぬ準備などに時間を費やす必要があるのでしょうか? やたらと複雑な料金体系にしてだまし討ちにするような携帯電話の売り方は何なのでしょうか? 素人がドリルの答え合わせをするだけの,結局は高い問題集を買わせるのが目的である学習塾で学力が身につくのでしょうか? これだけ家が余っていて都会は空き家だらけで家を買っても将来は負債にしかならないのに,まだ新築住宅を建てて売ろうとするのは何なんでしょうか?
それは,庶民からお金を搾取することがその目的のすべてだからです。それはまた,政治も同じです。結局は学習塾を繁盛させるためだけの教育改革,ビールが高いからと発泡酒を買っているのにそれを狙い撃ちして税金を上げる税制改革,庶民や外国人から金を巻き上げて税金をとるのがねらいでしかないカジノ法,飲み屋でお金を使わせるだけのプライムフライデーなど,国のやっているのは国民を守ることではなく,国民にいかにお金を使わせるかなのです。であれば,そうした国のやっているすべてのことを鵜呑みにして信用しないことこそ,老後を安泰にすごす最大の秘訣なのでしょう。
2016年は我々にそれを教えてくれたという意味で有意義な年でした。
2016夏アメリカ旅行記-シェーナンド国立公園への想い③
●どうやら運気が変わってしまったようだ。●
洞窟探検を終えて,私は再びシェーナンド国立公園に戻ってきた。
話を少し戻す。
私は国道211を走ってルーレイ洞窟に行き,再び戻ってくるのだが,私の走った国道211だと思っていたのは片側1車線の旧道で,どうやら,この道路に平行に片側2車線のバイパス道路ができていたようなのだ。
道理で私が洞窟に向けて走っていた道路は日本の道路のように狭く混雑して時間がかかったはずだった。したがって,洞窟からの帰りは行きとは同じ道路を通らずとも,短い時間でスカイラインドライブに戻ることができた。
再びスカイラインドライブを北に向かって,シェーナンド国立公園の後半を走ることになった。
この国立公園には野生の動物が見られるかもしれないと書かれてあった。しかし,ロッキー山脈にある多くの国立公園ならシカは山ほどいるし,野生の馬もバッファローもいくらでもいる。
私は春に行ったグレイシャー国立公園の帰り道でシカに激突されたばかりだし,バッファローだって,道路の真ん中に居座って動かず恐怖を感じたこともあるから,別段,珍しくもない。そんなわけで,そんなことには魅力も感じなかったし,山の上からの景色といったって,ワシントン州のオリンピック国立公園やサウスダコタ州のバッドランド国立公園のほうがずっとずっと雄大なのだった。
などと思いながら走っていたら,道路に面した森のなかから子熊がぬっと出てきた。さすがに野生の熊には本当にびっくりしたが,そのとき車を停めて熊の写真を写すべきであった。
私の後ろを走っていた車は熊を観察するために道路わきに車を停めた。私もそうしなったことを,帰国した今でも後悔しているのだが,どうやら,この後悔による精神状態がその後の「事件」の伏線となっているようなのだ。
私は走りながら,止まればよかったとそのことをずっと後悔していたが,そのことに加えてもうひとつ心配のたねがあった。それは,タイヤの空気圧の警告表示であった。
実はその表示は空気圧が減ったという警告ではなく,単に車の表示変更ボタンを意識せずに押してしまったために。デジタルで速度が表示されていたディスプレイが空気圧の表示に変わってしまっていただけだったのだが,日本の車にはこんな表示はないから,私は焦っていたのだった。
このときから,どうやら,私の運気が変わってしまったようなのだ。長い期間にわたる旅というのは,どこかでリズムが狂うものだ。
私はこの旅で50州制覇を達成するために,これまでもずいぶんと無茶をした。50州を制覇した今となっては,もう,こんな旅をしようとは思わないが,やはり,この旅をしていたころは何かにとりつかれれていたような気がする。それとともに,この旅の長距離ドライブもほとんど終わりに近づいて,かなりホットしていたこともある。
◇◇◇
2012アメリカ旅行記-素晴らしきノースダコタ⑤
「旅するフランス語」「旅するドイツ語」-粋な語学番組
何かを身につけたいと思うときに一番大切なのは動機づけ,つまり「モティベーション」です。教える側がいくら時間をかけても,所詮習う方に意欲がなければ身につきません。学校も,生徒の時間をすべて束縛して,自学をする時間まで取り上げて教師が問題集の答え合わせをしたところで,作業をしているだけなのです。それは,助手席に座っていても運転ができるようにはならないことからも明白です。
教える時間をできる限り短くしてあとは生徒が自主的に学ぶ意欲を喚起し時間を与えることこそが教師の仕事です。
この秋から始まったNHKEテレの語学講座はこれまでとずいぶんと様変わりをしました。なかでも,フランス語,ドイツ語,イタリア語,スペイン語は,「旅する」という表題がつきました。
私は,新年になってやっとその番組の存在に気づき,見るようになりました。「旅するフランス語」に登場するのは常盤貴子さんです。そのこともあって,この番組は「京都人の密かな愉しみ」をほうふつとさせるムードが漂っています。また,「旅するドイツ語」は別所哲也さんが「音楽の都」ウィーンを旅していて,クラシック音楽満載です。
私が大学生のころは第二外国語までを習ったので,ドイツ語は少しはわかります。また,若いころにフランスを旅したとき,出かける前に少しだけフランス語を勉強したので,フランス語の大まかなことはわかります。私の知識はその程度なのですが,そんな私が,この番組を見ていると,もう一度,こうした言語に向きあって見ようという意欲が湧いてくるのです。
この番組で取り上げているのは,クラシック音楽や食文化そして名所や旧跡の歴史的背景の解説など,語学番組というよりも大人のための教養です。
番組で習う構文など「チケットをください」などという日常会話だけです。しかし,これで十分なのです。
日本人の気の毒なことは,たかが外国語,つまりコミュニケーションの手段であるべきものを,順位付けや入学試験の道具にしてしまっていることにあります。だから,多くの人は語学を難しいものととらえ,時間ばかりをかけて,しかもまったく身につかないけれど,単に点を取るためのものとして,学生時代を過ごしてしまいます。おそらく,こうした番組を,語学をそうした学校のお勉強としてとらえている人は,語学を身につけるためには役立たないものとして批判的に見ることでしょう。気の毒な話です。しかし,本来高等学校の外国語の教科目標自体「コミュニケーション能力の育成」なのですよ。そして話す内容がなければコミュニケーションは成り立ちません。
私は,英語をNHKラジオの英語講座で身につけました。そして,旅をして,人と会話をしながら少しずつ上達しました。だから,語学はどうすれば身につくのかわかります。
語学は週に1回30分の番組を見て身につくものでありません。この番組はその限界を知っているから,語学を身につけたいという人に意欲を喚起することに目的を絞っているのです。そして,モチベーションが高まって本当に勉強をしたくなったらラジオの講座を毎日聴き旅に出かければいいのです。
この粋な旅番組,いや語学番組は,語学,いや旅を楽しむのに素晴らしい時間をプレゼントしてくれます。
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Je vous souhaite de passer un agréable moment.
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2016夏アメリカ旅行記-シェーナンド国立公園への想い②
●アメリカの巨大な洞窟●
私はモンティチェロの売店で昼食にするエッグサンドを買って,それを食べながらインターステイツ64を走って,シェーナンド国立公園を縦断するスカイラインドライブにアクセスするロックフィッシュギャップ(Rockfish Gap)ジャンクションに着いた。
このジャンクションの位置は非常にわかりにくいと書かれてあったから,注意して運転した。スカイラインドライブはインターステイツ64を高架で越えているから,この道路にアクセスするには,高架を越えたあとにあるジャンクションでインターステイツを出て一旦国道250に入り,そのまま少し南下してUターンをする形で国道250に接続するスカイラインドライブに入らなくてはならなかった。
しかし,想像とは違って道路標示がしっかりしていたから,その道路標示さえ見失わなければ簡単にスカイラインドライブに入ることができるのだった。
シェーナンド国立公園も,国立公園のゲート自体は他の国立公園と同じで入園料を支払って入るのだが,他の国立公園との違いは,車がまったく並んでいなくて閑散としていたことだ。
ゲートを越えて,そのまま道路を走っていっても単に山道が続いているだけで,大した景色が広がっているわけでもなく,遠くに雪山が見えるわけでもなく,シェーナンド国立公園は私が予想した通り,何も見どころのない国立公園であった。
それでも,この道路を縦断して北の出口まで行くにはこれから3時間も走る必要がある。国立公園内の道路は制限速度が35マイルなので,時間がかかるのだ。
途中で,昨日の4番目の写真にあるバードビジターセンター(Byrd Visitor Center)に着いた。ここにはレストランやなんとスーパーマーケットさえあって,およそ国立公園らしくなかった。ここだけは多くの観光客がいた。
私は,それよりも,この先,この道路が交差する国道211を左折して一度国立公園を出て,30分ほど西へ走ったところにある「ルーレイ洞窟」(Luray Caverns)のほうに興味があった。インターネット上の書き込みにも,シェーナンド国立公園よりもルーレイ洞窟のほうがずっとよかた,というものが多かった。
来るまでは,一旦国立公園を出て,往復に1時間もかかる洞窟にわざわざ行く時間の余裕があるかなあ,と思っていたが,国立公園がたいしたことがなかったから,私はこの洞窟に行くことにした。
私はこれまでにアメリカでは3箇所の「洞窟」に行ったことがある。
アイダホ州のアイスケイブ(Ice Cave),ニューメキシコ州のカールズバッド洞窟群国立公園(Carlsbad Caverns National Park),ケンタッキー州のマンモス・ケーブ国立公園(Mammoth Cave National Park)である。アイスケイブはそれほどでもなかったが,それでも3箇所とも日本ではありえないすごいところで,まるで地底探検であった。
私は山口県の秋吉台も岩手県の龍泉洞も行ったことはあるが,残念ながら日本の鍾乳洞など比較する対象にすらならない。象とネズミほど規模が違いすぎるのだ。
さまざまなところに行けば行くほど,こうしてゴムが伸びるみたいにどんどんと感覚がマヒしてくるのが,旅をし過ぎた最大の悲しみなのかもしれない。そんなわけで,この洞窟にもほとんど期待をしていなかった。
この洞窟は,私のこれまでに行ったふたつ国立公園の洞窟とは違って,アイスケイブ同様,国立公園ではなく民間の観光施設であった。広い駐車場には土産物屋やらが並んでいて,まるで日本の観光地のようであった。それに,人口の多い東海岸らしく(なにせここからワシントンDCはもう目と鼻の先なのである),非常に混雑していた。並んでチケットを買ってから,30分ごとに行われているツアーにまた並ぶ必要があった。
ところが私の予想とは違って,それがまあ,入ってみると,ここもまたすごい洞窟であった。
この洞窟の最大の魅力は地下水のたまったところに鍾乳石が鏡のように反射した姿であった。また,洞窟の一番奥深いところには,まるで台座に鎮座するかのように本物のパイプオルガンが置かれていた。これは金属パイプの代わりに鍾乳洞そのものを使って音を出すという壮大な仕掛けで,長さの異なる鍾乳石にマレットを設置することで異なるトーンを生み出すようになっていた。3.5エーカーの鍾乳洞内に点在する37の異なる鍾乳石を含めてパイプオルガンという巨大な楽器を作り上げていたわけだ。
私は洞窟に行くといつも思うのはその広さの感覚がよくわからない,ということである。要するに暗いことが大きさの感覚をよくわからなくするのである。ここは3.5エーカーというから小学校のグランドが4つぐらいが入っているということか。
いずれにしても,アメリカ大陸の地面の下にはこんな巨大な穴ぼこが一杯あるのだろう。
アメリカに限らず,世界には,こうした雄大な大自然が山ほどある。しかし,海外に出かけた経験のない日本人の最大の弱点は,そうした雄大な風景を知らないということに尽きる。あるいは,海外に出かけても,大都市しか行かないのもまた,同じである。
日本という国には悲劇的といってよいほどそうした大自然がないので,人は自然のなかで共存しているという意識が欠如している。おまけに,日本では地震や台風がたえず脅威となって襲いかかるから,自然を尊厳するのではなく,敵視さえしてるように思える。そして,そこから身を守るために,盛んに工事をし国をコンクリートで固めてそれから守ろうとするのだが,それが逆効果となって,さらに自然が破壊され,地盤の沈下などの自然災害を呼び込んでいるわけだ。
このことは,病気に対して自然治癒に任せずに薬漬けにすることで結局は体力を奪っている姿にとてもよく似ている。また,何事もにも手を出しすぎ,結局は成長できない子育てとも同じようなものである。
◇◇◇
2014春アメリカ旅行記-カールズバッド④
2015春アメリカ旅行記-ケンタッキー州マンモスケイブ③
2016夏アメリカ旅行記-シェーナンド国立公園への想い①
●「おはよう700」と「カントリーロード」●
この旅に出発する前はモンティチェロへは行く予定はなかったが,「シェーナンド国立公園」(Shenandoah National Park)には行こうと思っていた。
私は,こんな場所に国立公園があるとは思っていたなかったし,これまでロッキー山脈のある西部山岳地帯の極めつけの国立公園のそのほとんどには行ったことがある。この春にはハワイ島のキラウエア火山国立公園(Hawaii Volcanoes National Park=HAVO)にも行ったし,この旅の1か月ほど前にはモンタナ州のグレイシャー国立公園(Glacier National Park)に行くためだけにわざわざアメリカまで太平洋を渡ってきたばかりだ。
「シェーナンド国立公園」はそれに比べればまったく大したことはないだろうと思ったし,実際,大したことはなかった。どうして国立公園になっているのかさえ私にはわからなかったし,今でもわざわざ行く価値があるとも思えない。
しかし,どうして行こうと思っていたかというと,それはひとえに「カントリーロード」(Take Me Home, Country Roads)という歌にある。
この歌は今では「魔女の宅急便」で有名になったが,我々の世代ではジョン・デンバー(John Denver)の歌である。そして,さらには,当時TBSのアナウンサーだった見城美恵子(「ケンケン」)さんが「おはよう700」というテレビ番組で「キャラバンⅡ」というコーナーを担当して,北アメリカ最北端のアラスカから南アメリカ最南端のフェゴまで旅をしたときに流れたテーマソングなのである。
この番組が放送されたのは私が20歳のころだから,アメリカにあこがれていた私にはずいぶんと思い出深い番組であった。この番組はトヨタ・カローラがキャラバンを組み,アメリカ大陸を北から南に縦断したものだが,当時走ったところを地図で見ると,私は,その後,そのなかのアメリカ合衆国のルートはほとんどを走ったことになるわけで,なにか,それもまた不思議な気持ちになる。想いは遂げられたのだ。そして,若いころのこうした想いが私の旅の原点となっているということを,改めて感じるのだ。
有名な歌詞の一節に
・・・・・・
Almost heaven, West Virginia
Blue ridge mountains,
Shenandoah river
Life is old there,
older than the trees
Younger than the mountains,
growin’ like a breeze
・・・・・・
とあり,その「Blue ridge mountains」と「Shenandoah river」が何ものなのか私には謎であった。これが地名であるということをずっと知らなかったわけだ。
だから,この川の名前をとったこの国立公園に,私は,この若い頃からの想いを懐かしく感じたのだった。旅は心でするものである。
ここに行きたかったのはそれだけの理由であった。
しかし,この国立公園は地図で探してもなかなか見つからなかった。その程度のところ,といえなくもない。
モンティチェロからさらにインターステイツ64を西に走っていくとインターステイツ81にぶつかるのだが,その16マイルほど手前で右折すると「スカイラインドライブ」(Skyline Dr.)という片側1車線の道路があって,そこがシェーナンド国立公園を縦断する道路なのである。そこから80マイルほどの一本道が山に沿って北向きに走っていて,そこから景色が見渡せるというのであった。
2017大相撲初場所-稀勢の里関おめでとうございます。
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ついに,ついに,稀勢の里関が優勝し横綱になりました。信じられない気持ちです。
私のような50年以上にわたる相撲ファンには,10代のころの「萩原」は期待の星で,まだ,三段目のころから,「納谷」という名だったのちの「大鵬」が注目されたように,「富樫」という名だったのちの「柏戸」が注目されたように,その後の活躍が待ち望まれました。
やっと日本人の大横綱ができる,とその未来を信じて疑いませんでした。
我々世代は,どうしても,大関に昇進してあっという間に横綱に駆け上がった大鵬や千代の富士を,若くして横綱に上り詰めた北の湖や貴乃花を思い浮かべてしまうのです。
それに比べたら -人と比べるのは最も「愚」なことは承知していても- 稀勢の里の足踏みはまことにふがいないものでした。
大関になったときも,実は「大甘」の昇進でした。大関がかかったここ1番には勝てませんでした。それでも,将来性と日本人大関を作りたい協会は彼を昇進させました。ファンもそれで満足しました。そして,すぐにでも横綱への昇進を期待しました。
ところが,その後は,普通は12連勝もすれば勢いでそのまま突っ走るものなのに,たとえ対戦成績が「2-21」であろうと,優勝のかかったここ一番はモノにするものなのに,稀勢の里の場合だけは,そんな過去の例は全く通用しないのです。いつも最後は情けない結果に終わるのでした。
今場所も,いつものように,私は14日目と千秋楽に連敗して,白鵬の前にぶざまに横たわる姿が思い浮かびました。それが予想に反して? 14日目に稀勢の里が勝って白鵬が負けて優勝を決めたときも,それでもまだ,だれしも千秋楽に白鵬に勝てるとは思っていなかったから,協会は,取組の前だというのに,大関に昇進したときの「大甘」と同じく,早々と横綱だという雰囲気を作り上げました。
それが…
そんな稀勢の里とは対照的に,鶴竜という力士は,実力的にも実績も関脇クラスなのに,3場所好成績を上げたら大関,2場所優勝に準じる成績を上げたら横綱,というたった5場所だけ抜け目なく好成績を残し,そろそろ優勝しないと非難されるというときだけ優勝して,横綱の地位に君臨しています。
それに対して,稀勢の里は,実力は横綱クラスなのに,同じ相手に勝つときと負けるときがひと場所違えばいくらでも優勝できていたのに,優勝がかかるときには負け,影響のないときには勝つ,ということをこれまでどれだけやってきたことでしょう。そんな歯がゆさを誰もが知っていて,それでも見捨てず応援し続けて,でも,ほとんどの人は,稀勢の里は,内心は,ついには優勝もできず,横綱になれず,このまま終わると,そう思っていたのではないでしょうか。だからどうすればいい? と聞かれても,みんな首をかしげるだけでした。
しかし,稀勢の里は,今場所,横綱らしくもなくハリ差しを武器とする白鵬を,「ここ一番」で堂々と土俵に沈めました。
とうとう,彼は上り詰めたのです。
それにしても,この話題に関するテレビや新聞などの報道を比べると,各社の報道力や報道姿勢,さらにいい加減さなどがよくわかって,それもまた,面白いものでした。
2016夏アメリカ旅行記-ジェファーソンとモンティチェロ②
●世界遺産に選定された私人の住居●
「モンティチェロ」(Monticello)はバージニア州のシャーロッツビル(Charlottesville)に位置し,アメリカ独立宣言の起草委員およびアメリカ合衆国第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)の邸宅と歴史的なプランテーションがあった場所である。邸宅はジェファーソン独自のデザインによるもので,1769年に建設が始まり,1809年に完成した。
「モンティチェロ」はイタリア語で「小さな山」を意味する。また,アメリカの5セント硬貨に刻まれているのは,このモンテチェロにあるジェファーソンの住んだ家である。
1826年にジェファーソンが逝去した後,遺産となったモンティチェロは彼の長女であったマーサ・ワシントン・ジェファーソンへと相続された。しかし1831年,財政難からマーサはモンティチェロを地元の薬剤師であったジェーム・.バークレーへ売却したが,1834年,全生涯をアメリカ海軍将校として仕えた最初のユダヤ系アメリカ人であるユライア・リーヴィ(Uriah P. Levy)へとモンティチェロを売却した。
リーヴィはジェファーソンを非常に尊敬していた人物である。
南北戦争さなか,モンティチェロはアメリカ連合国政府により差し押さえられて売却されたが,ユライア・リーヴィの遺族がこれを違法として訴訟を起こした。この訴訟は,ユライア・リーヴィの甥ジェファーソン・モンロー・リーヴィ(Jefferson Monroe Levy)が和解にこぎつけた。ジェファーソン・リーヴィはまた,ひどく状態の悪化したモンティチェロを,修復・修繕し保護に努めた。
1923年,非営利組織トーマス・ジェファーソン財団が,ジェファーソン・リーヴィからモンティチェロを買収した。こうして,今日,モンティチェロは博物館及び教育機関として管理されている。
モンティチェロは,世界遺産に選定されたアメリカ合衆国で唯一の私人の住居である。
私は,アメリカの他の観光施設同様,ビジターセンターで受付を済ませ,時間の決められたツアーに参加して,内部を見学した。見学できるのは地下貯蔵庫の各部屋と1階であったが,写真を写すことはできなかった。
ジェファーソンは大変な読書家であったそうで,その膨大な書物は,アメリカの国会図書館が焼失した折に国に寄付されたという。私はこの後でジェファーソンが寄付したというこれらの書物をワシントンDCで見ることになる。
このジェファーソンの住居跡の敷地はものすごく広く,敷地内はバスが走っていて,自由にそれに乗って移動することができる。少し離れてところにはジェファーソンの墓があるということだったが,歩いていくには遠いのであきらめた。
そのとき,ちょうどバスが来たのでそれに乗ると,バスは駐車場の戻る前に,なんと,ジェファーソンの墓の前を通りかかった。私がその墓を見たいと言うと,親切にバスは一時停車をしてくれてたので,バスから降りて私が写真に収めるまで待っていてくれた。ジェファーソンが生前に言い残した遺言によって,墓碑銘には「アメリカ独立宣言,ならびに宗教の自由のためのヴァージニア州法の起草者,そしてヴァージニア大学の父」と書かれ,大統領の功績は記されなかった。
こうして,私は,このモンティチェロの広い構内を見学して,駐車場に戻ることができた。
それにしても,数年前に行ったテキサス州のジョンソンタウン同様,アメリカの歴代の大統領の遺構は国立公園として立派に保存・管理されていて,今も多くの人が訪れている。
ここでもまた,アメリカ人が歴史や偉人をリスペクトしていることを私は強く感じたのだった。
N響名古屋定期公演-レスピーギも神ってた。
今年もまたN響名古屋公演の時期になりました。
N響B定期の曲目をそのまま演奏するのですが,サントリーホールのN響定期はチケットが取りづらく,同じ内容のコンサートがサントリーホールよりもさらに音のよい愛知県芸術劇場コンサートホールの上席で聴けるので,これはお得です。
問題といえば,東京よりも値段が高いことと愛知県芸術劇場コンサートホールはホール自体はよいのですが,出入口がせまく建物自体に芸術性がまるでなく,観客のレベルが低いのでフライングの拍手が多いということです。したがって,ブルックナーなどの作品は曲が終わったあとの余韻が楽しめないのでやめておいたほうがよくて,華やかに元気に終わるものならストレスがありません。
私がときどき東京のNHKホールで定期公演を聴くときは1階席は音が上空を逃げるので2階席にしていますが,音のいい名古屋では1階席の1番前です。このホールはステージも低く,客席でもステージの上にいるような臨場感が,他では味わえない魅力です。いずれにしても,こうしてときどき生の演奏に触れると自分の枯れそうな心に水分が供給されるようで,コンサートを聴きにいくことは心が潤う素敵な時間です。
もうひとつの楽しみは,演奏会がマチネなので,終了後の一献です。こちらのほうは,水分というよりもアルコールですね。以前,コンサートがマチネではなく夜だったとき,先にお酒を呑んでしまい,コンサートの前にお酒を呑むなどという罰当たりなことをしたのが間違いで酔ってしまい,散々でした。こういうことをしてはいけません。
それにしても,日本人は何がそれほど忙しいのか,コンサートの途中の休憩時間も15分と短いし,演奏会が終了すると最後まで余韻を楽しむこともなく大急ぎで会場を後にする人もいて,これではコンサートを楽しむというよりも修行です。もともと日本には江戸時代,芝居見物とか相撲見物という楽しみが江戸や大阪には根付いていたのに,クラシック音楽はお高い教養とされて楽しむというよりもエリートのお勉強のようになってしまいました。また,スポーツでは,お相撲は娯楽としてなじむのに,日本のベースボールは高校野球の延長になってしまって熱狂やら根性やらしか存在しないのが,私には残念です。
さて,コンサートですが,今回は「グレゴリオ風の協奏曲」(Concerto gregoriano),「教会のステンドグラス」(Vetrate di chiesa),交響詩「ローマの祭り」(“Feste romane”, sym. poem)と,全曲がレスピーギの作品でした。1曲目が1番演奏時間が長く,だんだんと短くなるという不思議な組み合わせです。
私は「ローマの祭り」以外ははじめて聴きました。レスピーギというイタリア生まれの作曲家は日本の明治時代の人ですが,好きか嫌いかと言われても私には答えようがなく,というのも,これまで興味がなく,正直よくわかりません。レスピーギには「ローマの松」「ローマの噴水」「ローマの祭り」の「ローマ三部作」があって,これらの曲はN響ではネルロ・サンティ(Nello Santi)さんがしばしば取り上げていたので,私にはその印象がとても強いです。こういう曲は「ノリ」がよければそれだけで楽しめますが,それだけ,という気もします。
「グレゴリオ風の協奏曲」は,実質はヴァイオリン協奏曲で,グレゴリオ聖歌への傾倒をうかがい知ることのできる曲ということです。グレゴリオ聖歌というのは,私は学校の音楽の授業で習いましたが10世紀ごろの宗教音楽で西洋音楽の原点のようなものです。この協奏曲はヴァイオリンとティンパニの掛け合いの部分があって,ここが聴きどころということでしたが,それほどのこともなく,それよりも,ヴァイオリンの音色がとても綺麗だったことの方が印象的でした。
「教会のステンドグラス」もまたグレゴリオ聖歌の流れをくむ静かで神々しい曲,ということですが,何をもって「グレゴリオ聖歌」というのかよくわかりません。悪くいえば「古臭い」ということでしょうか? よくいえば「神っている」ということでしょうか? ともかく,この曲は,イタリアの音楽らしい色彩豊かなところと宗教がかった清らかさがあって,私は心に染みてとても気に入りました。レスピーギにはこうした曲もあるのだなあ,と知りました。この曲は4曲からなる交響的組曲です。
曲になじみがないというのには2種類あって,やはり「駄作」だというときと「演奏される機会が少ない」というときです。演奏される機会が少ないというのは,曲に華がないからコンサートでは客が呼べないということが多いのですが,これらの2曲はその仲間です。しかし,こうして聴いてみるとなかなか味のある曲でした。
うって変わって最後は「ローマの祭り」。この曲は今回のコンサートではアンコールのような役割です。こういう華やかなものを最後にもってきて「ワーッ」と終わらないと,どうしようもないというプログラムでしたが,こういう終わり方が名古屋のコンサートには最適でしょう。
指揮はヘスス・ロペス・コボス(Jesús López-Cobos)さんで,ベルリン・ドイツ・オペラの音楽総監督を務ていた指揮者です。スペイン人ですが,イタリアオペラを得意としているようです。そして,1曲目の協奏曲を演奏したのはアルベナ・ダナイローヴァ(Albena Danailova)というヴァイオリニストで,彼女はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターです。
このコンサートはN響B定期の曲目でしたが,その1週間前に行われたN響C定期の方はスペイン音楽で,私は,FM放送で聴いてすっかりハマりました。むしろこちらの方を聴きたかったくらいです。
これまで聴きなれたドイツ音楽などももちろん素晴らしいですが,せっかくコンサートで聴くのなら,こうした系統の異なるものをもっと楽しみたいものだと思ったことでした。
今回もよき時間が過ごせました。
◇◇◇
N響名古屋定期公演-パーヴォ・ヤルヴィさんへの期待
N響名古屋定期公演-素敵な宝物がこの世の中にはある。
2016夏アメリカ旅行記-ジェファーソンとモンティチェロ①
●「モンティチェロ」を知っているか?●
コロニアル・ウィリアムズバーグを出発したので,今日の予定が好ましい意味で空白になった。このアメリカ独立13州には,日本人は知らないがアメリカ人は誰しも学校で学んだ有名な場所がたくさんあって,行ってみたいところだらけなのだ。日本でいう奈良などの歴史地区と同じであろう。
そのひとつが「モンティチェロ」(Monticello)である。
私はもちろん! 「モンティチェロ」なんていうところはこの旅で来るまでまったく知らなかったが,調べてみると,コロニアル・ウィリアムズバーグからインターステイツ64を北西にリッチモンドを越えて120マイル,つまり2時間ほど走れば着くのだ。
この日は旅の6日目であった。
この旅は二本立てで,前半はフロリダ州からペンシルベニア州までの長い距離を車で走り抜け,後半はワシントンDCとフォラデルフィアをバスと電車で移動して,それぞれの都市を観光する予定だったから,9日目にフィラデルフィアまで行って車を返すことにしていた。
そこで,この旅の前半は余裕がなく,そうした理由もあって,興の乗らなかったノースカロライナ州をあっという間に通り過ぎ,より行きたいところを優先して観光をしていたのだった。それに,この先にもまだまだ行きたいところが多かったので,先を急いいでいたのである。
その反面,こんなに長距離のドライブ自体がかなり心配で,無事に早く終わらせたかったという別の思いもあった。
来たときと全く同じ道順をとって,私はインターステイツ64をリッチモンドに向かって走っていった。
すでに書いたように,リッチモンドにはインターステイツ295という環状道路があるので,来た時はその環状道路を時計の目盛りでいう7時から反時計回りに3時の方向に走ったのだが,今回は3時から反時計まわりに10時の方向に走って,今回もリッチモンドを迂回した。
したがって,渋滞には巻き込まれなかったが,リッチモンドという大都会をまったく見ることもなく通り過ぎた。
やがてシャーロッツビルという町のジャンクションでインターステイツ64を降りて,美しい高原道路を道路標示にしたがって坂道を登って走っていくと「モンティチェロ」に到着した。
「モンティチェロ」は日本人の大好きな「世界遺産」なのである。
アメリカでは国の管理するこうした遺構はどこもものすごく豪華であり,しかも,いつ行ってもものすごく多くの観光客が訪れているところなのだが,ここもまた同様で,私は,広くしかも木陰の多い駐車場に車を停めて,ビジターセンターに入っていった。
「ラウンドアバウト」-ニュージーランドの運転事情
私は昨年の秋にニュージーランドへ行ったときにレンタカーを借りました。アメリカと日本以外でレンタカーを借りるのは初めてのことだったので,少しだけ心配しましたが,アメリカに比べたらニュージーランドは日本と同じ左側通行だし,何の問題もないように思えました。ただし,交通規則だけがよくわからず不安でした。例えば,アメリカでは右折(日本の左折)は赤信号でも通行できるのですが,そういったことができるのかできないのか,というようなことです。
そこで,出かける前に調べてみたのですが,いまひとつ呑み込めませんでした。しかし,これもやはり習うより慣れろで,実際に走ってみたら書いてあったことはすぐに理解できました。
今日は,そんなニュージーランドの運転事情を書いてみましょう。
レンタカーを借りるときに,レンタカー会社の係員が「ニュージーランドで車を借りるのははじめてですか?」といって,道路法規の説明をしてくれました。その際に見せてくれた説明書は日本語でしたが,書かれてあった内容は日本との違いというよりもアメリカとの違いに重点が置かれていたのは,きっとアメリカ人がレンタカーを借りることが多いからでしょう。
日本よりもアメリカのほうがはるかに走行する距離が長いような私にはとてもよく理解できましたが,逆に多くの日本人にはわかりにくいかもしれません。
アメリカ人にとれば最も違うのは左側通行でしょう。これは日本人がアメリカで車を借りるときと同様に,重要なことです。
借りた車の運転席に座ると,今日の1番目の写真のように,スピードメーターに左側通行だという「⇐」シールが貼ってありました。
日本人にとればそれよりも1番の違いは2番目の写真の「ラウンドアバウト」(roundabout),つまり,ロータリーでしょう。
日本にもロータリーが少しはあるのですが,めったにお目にかかりませんし,そうした場合の走行方法を把握しているとはいえません。
私がニュージーランドでロータリーを走って思ったのは,ロータリーというのは確かに信号は必要ないのですが,このシステムは交通量が少ないからこそ有効で,日本の道路にこんなものを作ったらたちまち大渋滞になることでしょう。しかも,日本人の運転マナーだと一旦停車など守らずに事故が起きるかもしれません。すると,日本では名古屋駅前のロータリーのように,ロータリーなのに信号機があるという不思議なことになるでしょう。
ロータリーはアメリカではボストンの郊外でよく見かけましたが,私がアメリカでこのロータリーに出会ったときに思ったのは,ロータリーを回っているうちに,方向がわからなくなってしまうということでした。
このロータリーはたしかに交差点で信号待ちが要らないというメリットがありますが,直進するときにもそのまま直進ができないというデメリットもあって,交通量が多ければ不便だし少なければロータリーがなければそのまま直進できるのに一旦停車をしなければいけないというまどろっこしいことになります。
「ロータリーにさしかかったら右側優先」と習うのですが,これはどういうことかというと,「ロータリーにさしかかったときに右から来る車」というのはロータリーのなかを走っている車ということです。つまり,右側の車が優先というよりもロータリーを走っている車の進行を妨げてはいけない,ということです。そう教えたほうがよくわかるのに!
だから,逆に考えると,自分がロータリーに入ったら自分が優先,つまり停車することなく自分が向かう道路まで走れるということです。
読んでいるとむずかしそうですが,すぐに慣れます。
それよりも,私が初めに戸惑ったのは3番目の写真のような左折帯でした。
アメリカでは右折(日本やニュージーランドの左折)は信号が赤でもほどんどの州や特に交差点で禁止でなければ車が来なければ走ってよいのですが,アメリカとは違って左折(アメリカの右折)も日本と同様に信号に従う必要があります。
しかし,ニュージーランドの街中ではほとんどの場合左折帯があるのです。この左折帯は日本でもまれにあります。そして,この左折帯は信号に関係なく左折できるのです。しかし,私ははじめのうちそのことがよくわからず,左折帯の手前で停車して,後ろの車にクラクションを鳴らされました。
ニュージーラドの制限速度はアメリカのようにマイルではなくこれもまた日本と同じくキロメートルです。市内は50キロメートル,市外地は100キロメートルなのですが,市街地でも片側1車線なので,この一般道を100キロメートルで走るのははじめのうちは少し勇気が必要です。道路はところどころが2車線になっていて,そこで追い抜きができます。
町に入ると町の入口に50という大きな表示があって,とてもよくわかります。この表示板の裏側には100と書いてあって,町を出ると今度は100キロメートルに戻るわけです。これが4番目と5番目の写真です。
これはアメリカのシステムにとてもよく似ていて,アメリカでは郊外では60マイル(90キロメートル)だったのが,町が近づくと次第に制限速度が遅くなっていきます。この街中の結構遅い制限速度を車はきちんと守って走っているので,安全なのです。
日本では街中にもかかわらず,制限速度をかなりオーバーして駆け抜ける頭がどうかしている車が結構たくさんあります,。私は,日本人の車の運転は,ものすごくマナーが悪いと思っています。郊外は100キロ制限とはいっても,カーブに差し掛かると,6番目の写真の「75」のように,そのカーブを安全に運転できるように減速した速度表示があるので,それに従えば間違いありません。
ただし,ニュージーランドはアメリカとは違って,センターラインがイエローラインというような規則はありません。
もうひとつ面白い道路標識があるので,それを紹介しておきましょう。
ニュージーラドの市外では一般に片側1車線なのですが,橋だけ狭くなっているところがかなりあります。きっと,昔架けられたままなのでしょう。そこでは,どちら側が優先なのかということが7番目の写真のように矢印の大きさで示されています。
これも初めはよくわからなかったのですが,マウントクックに向かうときにこの表示にずいぶんと出会いました。
これも交通量が少ないからよいようなものの,多くの車が通れば当然渋滞します。もし複数台の車とすれ違わなければならないときに,交互に渡っていいのか,優先側の車がすべて通過してから渡るのか,私にはいまいちわかりません。
日本との違いといえば,大体はその程度です。いずれにしても,日本よりも交通量が決定的に少ないということと,日本のように意味のない道路指示やら看板やら道路に色が塗りたくってあるということがないので,きわめて安全です。
それよりも,私が今もってよくわからないのは,駐車でした。
街中では無料で駐車できる場所が少ないのが不思議なのですが,駐車帯には最後の写真のように,「P」という文字とその下に数字が書かれています。例えば「30」とあれば,それは30「分」のことで,その数字までは無料で停めていいということなんだと思うのですが・・・??? よく知りません。
◇◇◇
「フラットホワイト」-ニュージーランドのコーヒー文化
2016夏アメリカ旅行記-コロニアル・ウィリアムズバーグ④
●この地の歴史を知らないから●
☆6日目 8月1日(月)
昨晩はちょっぴり贅沢な夕食をとるつもりだったのに,最悪の結果となってしまった。夕食をとることができだけでもよしとしよう。
さて,私の宿泊したホテルは「ガバナーズイン」(Governor's Inn)といういかにもこの地にふさわしい名前のホテルであったが,コロニアル・ウィリアムズバーグはいつでも自由に入れるから,早朝,観光客がいないうちに,なかをドライブしてみることにした。昨日は駐車場に車を停めて歩いてみたのだが,歩くには広すぎるのだった。私は,観光地というところはそこがどういうところか自分が納得できればそれで満足なのだ。
・・・・・・
1607年というから日本では江戸時代が始まったころのことだ。まだ,大阪夏の陣(1615年)よりも前ということになる。低地に木が立ち並ぶこの小さな半島の地にジェームズタウン入植地 (Jamestown Settlement) が設立された。その後ジェームズ川沿いの地域に入植地が建てられていった。
ちょうどボストン郊外のプリマスプランテーションができたのも同じ時期である。
1619年,こうした植民地を統治する代表者による最初の会議がジェームズタウン入植地で行われ,バージニア州における最初の州都となった。
やがて時が経ち,アメリカ独立戦争最中の1780年,トーマス・ジェファーソン州知事の指揮のもと,バージニア州の州都は,州中心部に近く交通の便が良いリッチモンドへと移動された。州都が移転して以来ウィリアムズバーグの経済は低迷し,この町は18世紀の様相のまま取り残され長い間忘れ去られていった。20世紀初頭には,古びたその多くの建物が荒廃した状態になり,もはや使用されてはいなかった。
1903年,牧師のW.A.R.グッドウィンがウィリアムズバーグにあるブルートン教区教会の教区牧師となった。活気溢れる34歳のグッドウィンは,この歴史的な建物群の保存と修復を行う運動を先導することに成功したのだった。
・・・・・・
早朝のコロニアル・ウィリアムズバーグは静かで美しかった。
私は,昨晩は遅くて,有料の展示や実演などはすでに終了してしまっていてそれを見ることができなかったから,この日は1日ゆっくりと観光する予定であったのだが,この景色を見ていたら,もう,そんなものはどうでもよくなって,これですっかり満足してしまったのであった。
私がこの地の歴史を知らないからさほど興味が湧かなかったのも原因のひとつであろうが,それよりも,私には,ディズニーラドに代表される,こうした高価な人工的な観光客の集客目当ての出しものにはもはや興味を失っているのも原因であろう。
そんなわけで,私はホテルに戻って朝食をとり,コロニアル・ウィリアムズバーグを出発することにしたのだった。
2016夏アメリカ旅行記-コロニアル・ウィリアムズバーグ③
●今日は夕食をあきらめた。●
さて,私はこのコロニアル・ウェイリアムズバーグでちょっと豪華な夕食をと思っていたのだが,さにあらず,レストランは豪華すぎ,あるいは休日で予約が一杯だった。そんなわけで,一人旅の身の上,適当なところがまったく見つからないのであった。しかも,こういう場所にはファーストフードレストランどころかコンビニすらない。
私は困ってしまったのだった。
そこで,近隣の町に行くことを考えた。私にとって一番いいのはデニーズのようなファミリーレストランなのだが,国道沿いにありそうな,そうしたレストランを探して,というわけであった。
ここでいつものように,私のいい加減さが顔をだす。きちんと調べてから走り出せばいいものを,何とかなるだろうと,適当に走り出してしまったのである。ここは日本ではない。こういうのは最悪の方法である。
私は普段日本では何かの事情でひとりで夕食をとるときや旅先でさえ,酒は強いがひとりで飲む気はないから吉野家かココイチがあればそれで十分なのである。ファミリーレストランすら必要ない。しかし,アメリカには吉野家どころか弁当屋すら皆無なのである。
ウリアムズバーグを出た私は「ジェームズタウン」(JamesTown)と書かれた道路標示を見て,この町に行けばレストランくらいあるだろうと思った。これが誤った選択だった。後で知ったことには,「ジェームズタウン」もまた,「コロニアル・ウィリアムズバーグ」同様の観光地で,普通の町ではなかったのだ
私は,「ジェームズタウン」という道路標識に従って,コロニアルパークウェイという真っ暗な林間道路をあてもなく延々と20分以上も走っていったのである。ここは昼間であれば美しい風景の広がる場所であったが,真っ暗な夜ではそんなものは何も見えず,遠くの海岸沿いに漁火が見えるだけであった。
ジェームズタウンに着いたが,そこは広い駐車場があるだけだった。ここで私は,この日の夕食をあきらめざるを得ないと覚悟して,ホテルに戻ることにした。
ホテルの近くまで戻ってきたときに,なんと,1軒のピザ屋を見つけた。
普段私はピザは好まないし,そこがどんなレストランなのかも定かではなかったが,もう,選択する猶予もなかったので,車を停めてなかに入って,ウエイターのいうままにテーブルに座った。店は閉店間近ではあったが,まだ営業中であった。
私の座ったテーブルの隣では,この店のオーナーらしき恰幅のいい男がその日の売上を計算していた。こういうことを客のいる店内で平気でしているのもまた,日本と違うところである。そして,客がいるにもかかわらず,新入りの店員を厳しく指導していた。私は,そこに日本の社員教育のような姿を思い出して,アメリカで生きてゆくのもまた大変なことだと,ふと日常に戻ってしまったのだった。
「銀河鉄道の夜」-宮澤賢治の語る美しき南天の星空とは?
☆☆☆☆☆☆
宮澤賢治の書いた「銀河鉄道の夜」は,孤独な少年ジョバンニが友人カムパネルラと銀河鉄道の旅をする物語です。今日の写真は,この「銀河鉄道の夜」に出てくる南十字星と石炭袋です。
南半球に出かけて,満天の星空に横たわるこの南十字星と石炭袋を見ると,私はこの物語を思い出します。
南半球で星空を見る機会があったとき,「銀河鉄道の夜」の物語を知っているとより一層この星空がいとおしく感じられるのですが,残念ながら多くの人はそのことを知らないので,せっかく見ることができても,その感動を逸してしまっているのが,私にはとても残念です。
そこで今日は「宮澤賢治の語る美しい星の世界とは?」というお話です。
1896年岩手県稗貫郡に生まれた宮澤賢治は,盛岡高等農林学校に在籍していたときに出会った後輩の保阪嘉内と親しい間柄になり,情緒的にも思想的にも強い影響を受けました。
未完に終わった「銀河鉄道の夜」は,保坂嘉内とともに登山し,語り合って夜を明かしたときの体験が濃厚に反映されていて,「ジョバンニ」を賢治自身とするなら,「カムパネルラ」は嘉内を表しているともいわれています。
この作品で宮澤賢治が表現したかったのは,「自分を犠牲にしても人のためにつくす」つまり「自己犠牲の上での愛がこの世の最高の美徳である」ということです。つまり,自分を犠牲にしてまで人に尽くすということが宮澤賢治の「生きる目的」の理想の姿で,そうすることのできた人こそ死んでから天国に行けるのだよ,それこそが人が生きる意味なのだよ,と彼は言いたかったわけです。
きっと,若きころの賢治は人が生きるというのは苦しいだけのことなのに,それでもどうして生きなければならないのだろう? 人は死んだらどうなるのだろう? ということに悩み苦しみ,その答えを見つけるために保坂嘉内と語り明かしたのでしょう。
この作品のなかで最も重要なカンパネラが石炭袋で銀河鉄道から消えてゆくくだりでそれを説明してみましょう。
・・・・・・
汽車 -この汽車というのは死者が天国に召されていく姿を象徴しています- はどんどん銀河を上っていき,やがて「南十字駅」に着きます。「南十字駅」では,向こうから真白な着物を着て十字架を持った神々しい方が迎えに来ます。この駅は天上の入口なのです。難船したときに小さい子供達にボートを譲って犠牲になって死んだ3人の青年達も「自己犠牲の上での愛」を実践したその高い美徳から,この駅で降りることができるのです。
汽車はジョバンニとカムパネルラだけを乗せて,さらに進んでいきます。
ふたりになるとジョバンニが言います。「僕も皆の幸せのためなら体を焼かれてもかまわない」。
カムパネルラも,「うん,僕もそうだ」と言うのですが,ジョバンニが「本当のさいわいって何だろう」と言うとカムパネルラは「わからない」とつぶやくのです。
実は,このときのカムパネルラはザネリという友達が川に落ちて溺れそうになったのを救うために自分を犠牲にして死んでしまい,この汽車に乗って天国にいるお母さんの所へ行く途中なのです。しかし,カムパネラは自分を犠牲にしてまで友達を助けたのだけれども,天国のお母さんはそんなことで死んでしまった自分を悲しむのではないかと思っているので,「本当の幸せは何か」というジョバンニの言葉に自信をもって答えられないのです。
つまり,この時点ではまだ,カムパネルラは自分のした「自己犠牲の上での愛」に確信をもっていないので天国に行けないということです。
空の向こうに石炭袋が見えてきます。
ジョバンニが「僕,もうあんな大きな暗闇の中だってこわくない。皆の本当の幸せを探しに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に行こうね」と言います。このジョバンニの勇気あふれる言葉でカムパネルラは「自己犠牲の上での愛」の尊さを確信するのです。そして,今度はキッパリと「きっと行くよ」と答えることができたです。
すると,カムパネルラの目に急に美しい野原が見えてきてその向こうでお母さんが待っています。「あそこにいるのお母さんだ。あそこが本当の天上だよ」。そう言うとともにカムパネルラは銀河鉄道から消えていったのでした。カムパネルラはジョバンニの言葉で,ついに「自己犠牲の上での愛」を確信できたからなのです。そして,孤独なジョバンニもまた,カムパネラによって「自己犠牲の上での愛」を獲得できたから救われたのです。
・・・・・・
宮澤賢治自身は実際には南天の星空を見たことはないと思うのですが,それでもこうした作品を残すことで,我々が長い旅ののちにやっと出会うことができる南天のこの南十字星と石炭袋のあたりの星空の美しさを,より深く印象づけてくれたのです。
では,ここからは,「銀河鉄道の夜」から南十字星と石炭袋の出てくる場面を原作でお読みください。
・・・・・・
「もうじきサウザンクロスです。おりる支度をして下さい。」青年がみんなに云いました。
「僕も少し汽車へ乗ってるんだよ。」男の子が云いました。カムパネルラのとなりの女の子はそわそわ立って支度をはじめましたけれどもやっぱりジョバンニたちとわかれたくないようなようすでした。
「ここでおりなけぁいけないのです。」青年はきちっと口を結んで男の子を見おろしながら云いました。
「厭だい。僕もう少し汽車へ乗ってから行くんだい。」
ジョバンニがこらえ兼ねて云いました。
「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」
「だっておっ母さんも行ってらっしゃるしそれに神さまが仰おっしゃるんだわ。」
「そんな神さまうその神さまだい。」
「あなたの神さまうその神さまよ。」
「そうじゃないよ。」
「あなたの神さまってどんな神さまですか。」青年は笑いながら云いました。
「ぼくほんとうはよく知りません,けれどもそんなんでなしにほんとうのたった一人の神さまです。」
「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
「ああ,そんなんでなしにたったひとりのほんとうのほんとうの神さまです。」
「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなた方がいまにそのほんとうの神さまの前にわたくしたちとお会いになることを祈ります。」青年はつつましく両手を組みました。女の子もちょうどその通りにしました。みんなほんとうに別れが惜しそうでその顔いろも少し青ざめて見えました。ジョバンニはあぶなく声をあげて泣き出そうとしました。
「さあもう支度はいいんですか。じきサウザンクロスですから。」
ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青や橙やもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるい環になって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供が瓜に飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかに繞ぐっているのが見えました。
「ハルレヤハルレヤ。」明るくたのしくみんなの声はひびきみんなはそのそらの遠くからつめたいそらの遠くからすきとおった何とも云えずさわやかなラッパの声をききました。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんゆるやかになりとうとう十字架のちょうどま向いに行ってすっかりとまりました。
「さあ,下りるんですよ。」青年は男の子の手をひきだんだん向うの出口の方へ歩き出しました。
「じゃさよなら。」女の子がふりかえって二人に云いました。
「さよなら。」ジョバンニはまるで泣き出したいのをこらえて怒ったようにぶっきり棒に云いました。女の子はいかにもつらそうに眼めを大きくしても一度こっちをふりかえってそれからあとはもうだまって出て行ってしまいました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまい俄にわかにがらんとしてさびしくなり風がいっぱいに吹き込こみました。
そして見ているとみんなはつつましく列を組んであの十字架の前の天の川のなぎさにひざまずいていました。そしてその見えない天の川の水をわたってひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこっちへ来るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごき出しと思ううちに銀いろの霧が川下の方からすうっと流れて来てもうそっちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金の円光をもった電気栗鼠が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。
そのときすうっと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿って進んでいました。そして二人がそのあかしの前を通って行くときはその小さな豆いろの火はちょうど挨拶でもするようにぽかっと消え二人が過ぎて行くときまた点くのでした。
ふりかえって見るとさっきの十字架はすっかり小さくなってしまいほんとうにもうそのまま胸にも吊つるされそうになり,さっきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまずいているのかそれともどこか方角もわからないその天上へ行ったのかぼんやりして見分けられませんでした。
ジョバンニはああと深く息しました。
「カムパネルラ,また僕たち二人きりになったねえ,どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸さいわいのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。
「あ,あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」
「ああきっと行くよ。ああ,あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。
ジョバンニもそっちを見ましたけれどもそこはぼんやり白くけむっているばかりどうしてもカムパネルラが云ったように思われませんでした。何とも云えずさびしい気がしてぼんやりそっちを見ていましたら向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだように赤い腕木をつらねて立っていました。
「カムパネルラ,僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座っていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。
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2016夏アメリカ旅行記-コロニアル・ウィリアムズバーグ②
●歴史的地区に指定された野外博物館●
私は順調に走って,ウィリアムズバーグの予約したホテル「ガバナーズイン」に到着してチェックインをした。コロニアル・ウィリアムズパークはホテルから少し行ったところにあったので,私は荷物だけを部屋に入れて再び出発して,コロニアル・ウィリアムズバーグの駐車場に車を停めた。
コロニアル・ウィリアムズバーグは,結局,大正村のようなところであった。
コロニアル・ウェイアムズバーグ(Colonial Williamsburg)とは,ウィリアムズバーグの歴史的地区に指定されたところにある私立財団による野外博物館で,広さは301エーカー (122ヘクタール)である。
ところで,この「エーカー」という単位はなじみがないから非常にわかりにくいので説明しよう。
1エーカー=1,224坪
である。といってもまだ把握しにくいが,要するに,1,224坪は1辺が約63メートルの正方形の面積なので,
1エーカー=幼稚園のグランドくらい
と考えればよいであろう。ちなみに1ヘクタールは1辺の長さが100メートルの正方形の面積だから小学校のグランドくらいである。
ウェイアムズバーグは1699年から1780年までバージニア植民地の首都だったところだが,首都がリッチモンドに移転して寂れた。
その後1920年代後期になって,W.A.R.グッドウィン(William Archer Rutherfoord Goodwin) 牧師をはじめとして,南北戦争で軍人だった人たちの子孫やジョン・ロックフェラー2世(John Davison Rockefeller, Jr.) とその妻アビー・アルドリッチ・ロッ クフェラー(Abigail Greene "Abby" Aldrich Rockefeller)の賛同によって再興が計画され,1930年代初頭に多くのコロニアル建築や,酪農,庭園,キッチン,燻製小屋,屋外トイレなどが再現され公開されるようになった。
再現された主なコロニアル建築はラーレイ・タヴァーン,国会議事堂,総督公邸,郡庁舎,ジョージ・ウイズ邸,ペイトン・ランドルフ邸,マガジン,ブルートン教区教会などである。タヴァーンというのは飲み屋のことだが,現在はレストランやホテルとして利用されている。
また,印刷屋,靴の製造所,鍛冶屋,樽・桶・木製家具・銃・鬘などの製造所や銀細工所などでは当時の手工業の実演も行われているし,土産物,書籍,玩具,陶器などの売店,邸宅や郡庁舎,議事堂,銃器庫,公立病院,刑務所なども見ることができる。
このように,ここは過去の建造物に今も人が住み,そのころの生活を実演していて,いわば生きた歴史博物館となっている。住民は植民時代と同じようなしゃべり方をし,その時代の服を着て働いている。
以前に行ったことがあるボストン郊外のプリマスプランテーションと同じようなところであったが,プリマスプランテーションが塀やゲートがあって入場料を払わないと入ることができなかったのとは違って,このウィリアムズバーグの歴史的地区は塀やゲートがなく,無料でいつでも通り抜けることができるのだった。ただし,芸術品や実務を展示・実演する歴史的建造物へ入場する場合と「革命の街」(The Revolutionary City)のような屋外パフォーマンスを見る場合には入場料($66.99)が必要である。
現在,ロックフェラー一家により基金が寄せられた非営利の団体であるコロニアル・ウィリアムズバーグ財団によって所有・運営されているが,コロニアル・ウィリアムズバーグが観光客数のピークを迎えたのは1985年の110万人で,それ以来,減少に転じているということである。おそらく,それは,一度来れば十分で,リピーターが少ないからなのであろう。
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2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション③
2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション④
2013アメリカ旅行記-プリマスプランテーション⑤
2016夏アメリカ旅行記-コロニアル・ウィリアムズバーグ①
●とんでもない間違いであったことに●
実はこの時点ですでに夕方の4時を過ぎているのだが,この日はこの後がまだまだ長いので,先を急ぐことにしよう。
私がこの日めざした「コロニアル・ウィリアムズバーグ」というところは非常に魅力的な観光地らしいので,とても楽しみにしていたが,本当のところ,どういう場所なのかさっぱり見当がつかなかった。
Google Maps で地名を入力しても出てこないし,どうやら地名ではないらしい。
これと同じことをマサチューセッツ州の「タングルウッド」(Tanglewood)で経験したことがある。タングルウッドもまた地名ではなく,ボストン交響楽団の所有する夏のコンサートを行うリゾートで,「つま恋」のようなところだったのだ。
コロニアル・ウィリアムズバーグは,アメリカがまだ独立する前の町がそのまま保存されているということだが、それが明治村のように入場料の必要なテーマパークなのか,大正村のようにその時代の建物が点在する場所なのか,旧中山道の馬篭宿跡のようなところなのか,はたまた,御殿場アウトレットのようなところなのか,私にはさっぱり見当がつかなかった。
いずれにしても,観光地であるからホテルの宿泊代も決して安価ではなかったが,それでも適当なところが見つかったので予約をしておいた。
調べた結果,このコロニアル・ウィリアムズバーグの正確な場所が判明した。そこはバージニア州の州都リッチモンドからインターステイツ64に乗り換え,南東に50マイルほど行った場所にあるのだった。
そこで私は,インターステイツ95をバージニア州のリッチモンドをめざして走っていった。
このインターステイツ95は,リッチモンドに近づくと,インターステイツ295というインターステイツ95から派生した環状道路(バイパス)も走っているのだった。
これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのインターステイツにつけられた番号は日本人が持ち合わせていない合理性と知恵で,非常にわかりやすいのである。この295というのは下2桁が95だから,インターステイツ95から派生した道路の番号なのである。
ところで,日本ではあまりなじみのないこのリッチモンドだが,ここもまた,東海岸の他の都市と同様,ものすごく巨大なのだ。そして,人と車にあふれている。だから,一旦渋滞に巻き込まれるとどうしようもなくなるのである。しかしリッチモンドにはきちんとバイパスが作られていたというわけである。
私はリッチモンドには用がなく,ウィリアムズバーグに行けばよいわけだから,ためらいなくインターステイツ295に進路を変えて,リッチモンドを遠巻きにそのまま右回りに進み,時計の3時の方向でインターステイツ64に進路を変えた。インターステイツ64はリッチモンドをから東西に走る道路である。後はカーナビに従って予約をしたホテルに向かって走るだけであった。
果たして私の目指すコロニアル・ウィリアムズバーグとは,いかなるところであろうか?
私はこのコロニアル・ウィリアムズバーグでちょっと贅沢な夕食をとることを期待していた。それは,高山へ行って高山ラーメンのおいしいお店を探そうというような,そんな気持ちであった。しかし,それがとんでもない間違いであったことに,このあと気づくことになる。
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「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
2014夏アメリカ旅行記-インターステイツ70②
東海道を歩く-「越すに越されぬ大井川」を渡る④
さて,私はここで大井川を渡らなければなりません。とはいえ,川越人足を雇うことも,ましてや蓮台に乗るわけにもいかないので,少し上流まで行って,そこに架かっている大井川橋を歩いて渡ることになります。
これまでずいぶんと歩いたので,さすがに疲れてきました。それよりもお昼時でおなかが空いてきましたが,川会所の横にあったおそば屋さんがいい感じでのれんも出ていたのに鍵がかかっていたし,周りには他にはお店の1軒もありませんでした。
ここで江戸時代の川越の賃銭について書いておきましょう。
大井川を渡るには「川札」というチケットが必要でした。このチケットは川の深さによって値段が変化したのだそうです。川札1枚の値段は川の深さが膝くらいのときは約1,500円で肩まであれば約3,000円だったといいます。
川を渡る方法はいろいろあって,人足の肩にまたがる肩車で川札1枚,平蓮台という梯子みたいなものだと6枚,最も高級な大高欄蓮台だと52枚でした。
もしその時代に私が川を渡るならおそらく肩車だったのでしょうが,なにせ,この川,川幅が1キロもあって,歩いて渡っても大変なのにそれを肩車で渡るわけだからすごく大変です。とはいえ,おそらく肩車されるのは水がある場所だけでそのほとんどは歩いたのでしょう。いずれにしても,想像するだけでも大変なことだと思いました。
私は大井川橋までさらに歩いてやっと橋のたもとにたどりつきましたが,そこからがまた長い道のりでした。
写真のように,橋には歩道がくっついていて,先に渡った蓬莱橋と長さは同じくらいなのでしょうが,この橋のほうがずっと長く感じました。歩いている人はほとんどおらず,おじさんひとりだけとすれ違いました。ただし,自転車ですれ違った人は4~5人いて,自転車なら川を越すのはわけないのですが,この川にはこうした橋が他にはほとんどないので,今でもけっこう不便でしょう。
やっと川を渡ったところにお昼ご飯の食べられる喫茶店があったので入っていったら,地元のカラオケ喫茶で,常連のおじさんたちがお昼を食べながら屯していました。私はなんか場違いな感じで居心地が悪かったのですが,ともかくチャーラー,つまりチャーハン&ラーメン定食を注文しました。
こういう町のこういう喫茶店というのは今でも昭和の香りのする昔ながらの日本の姿です。嫌煙権も何もあったものではなく,そこにあるのはタバコをくゆらせながら「ホットコーヒー」を手に新聞を読むという私にはあり得ない化石のようなおじさまがたの存在です。これが日本です。嫌だ嫌だ。
彼らはテレビのニュースを見ながら,トランプ次期大統領がどうのこうのといった新聞と週刊誌とテレビのニュースだけが情報源のくせに,その知識をさも自分のご意見のように披露しておられました。
食事を終えて早々に店を出て,私は,ともかくJR東海道線の金谷駅まで歩くことにしました。
島田側の渡しには当時の遺跡があったから,金谷側も何かがあると思ったのですが周りを見渡しても何もありません。島田側は渡し跡から大井川橋の袂まではずいぶんと距離があったので,こちらもそうなのかなと思って,ともかく川に沿って歩いていくと,すぐに案内板が見つかりました。
金谷側にはほとんど遺構はありませんでした。現在の金谷は,旧東海道だった道路が自然に現代の生活道路に変わってきたような街並みでしたが,そこに歴史を感じるようなものは残っていませんでした。
金谷宿は坂の両側にかろうじて人家があるようなところだったらしく,要するに土地がなかったわけですが,大井川の渡しのために宿屋などが作られていた場所のようです。今はところどころに昔の本陣跡やら脇本陣跡やらの案内板が設置されていただけでした。案内板を読むと,どうやらこの宿場は火災を受けて何も残っていないようでした。
金谷宿から先,道はどんどん上り坂になっていって,そこにあったのがJR東海道線の金谷駅でした。駅前にも食堂の一軒も見当たりませんでした。実はここからが,私の歩こうと思っていた日坂峠で,当初はここが出発地点の予定だったのですが,この坂を見て,私はすっかりなえました。これまでずいぶんと歩いてきて,さらにこの先を歩く気力も起きず,この先はまた次回ということにして,帰ることにしました。
江戸時代,江戸から京へ行くためには,大変な大井川をやっと越えたと思ったら,次は険しい峠が待っていたということです。
JR東海道線で帰る途中,浜松で一度途中下車して,スターバックスでコーヒーを飲みました。私は知らずに降りたのですが,浜松は今年の大河ドラマの舞台だったのですね。はじめて降りた浜松の駅前は,私の予想とは違って,何もないところでした。
昨年は箱根を歩き,1年後に大井川に架かる橋を歩いてみて,私は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の意味がとてもよくわかりました。やはり,何事も行動してこそわかるものです。そしてまた,日本の旅は現地へ行って心で感じるものです。
毎回無計画な旧東海道散策をしていますが,果たして次回はいつ? どこへ?
東海道を歩く-「越すに越されぬ大井川」を渡る③
島田宿は旧東海道23番目の宿場でした。現在のJR東海道線の島田駅の北側,東海道線に沿った旧道が旧東海道です。
多くの宿場町と同様に,現在の国道1号線は島田市内までは旧東海道がそのまま拡張されたものですが,市内に入るとバイパス化されて別の道路となります。
私は蓬莱橋へ行って,その帰りに大井川の堤防道路を歩いたので,残念ながら島田宿のあたりの旧東海道は歩きませんでしたが,地図によると,JRの島田駅の北あたりが当時の宿場の中心で,そこから西に2キロメートルほど歩くと大井川にさしかかります。
私は,昔,大井川の東岸に島田宿があって,川を渡っただけで次の宿場・金谷宿があるのが近すぎて不自然に思えたのですが,実際に行ってみると,それはとても自然なことでした。それほど,この大井川というのは難儀なところだったのです。
やはり,いつものとおり,歴史というのは地図が基本で,そこを歩いてみなければ本当のところはわかりません。
小学生は冬休みに塾なんかへ行ってドリルをやるくらいなら,旧東海道を歩くほうがずっと勉強になることでしょう。
私は蓬莱橋を往復してから,詰所にいたおじさんの勧めにしたがって大井川に沿って堤防下のマラソンコースを歩きました。30分はかかるよ,と言われましたが,私は歩くことはどおってことはありません。
歩いていくと,やがてJRの東海道線の陸橋がありました。そして,その橋の長さを見ただけで圧倒されました。まさに,巨大建造物なのです。
すでに書きましたが,この大井川,電車の車窓から見れば川幅は確かに広いのですが,通常は川には水もほとんど流れていなくて,たいした川でもなさそうに見えてしまうのですが,実際はとんでもない川です。
これを渡るのは大変なことです。
確かに坂は少ないでしょうが,こんな広い川があるのなら,江戸と京と行き来するには,東海道よりも中山道のほう得策に思えてきます。
現在,この大井川の渡し場のあったあたりは「島田宿大井川川越遺跡」として整備・保存されています。
この「遺跡」という言葉で,なんだか江戸時代のものではなく,貝塚や古墳のような「遺跡」を連想してしまい,私は,このあたりに古代の遺跡でも残っているのかと思ってしまいましたが,これこそが江戸時代の渡し場の跡地です。
島田市博物館という立派な建物もあったのですが,それは年末で閉館でしたが,この「遺跡」は自由に見てまわることができました。
写真のように,旧道から大井川に向けた道なんて,当時のままが思い起こされます。
これもいつも書いているように,日本の風景は現実よりも心で感じるものです。NHKの「ブラタモリ」で,よく,昔を再現したアニメが出てくるのが,まさにそれです。
実際,こういう場所に行っても,アメリカのルート66の遺構のほうがずっと綺麗だし,きちんと保存されています。日本はひどいものです。
あるいは,高山市のように町ぐるみで保存をすれば,今度はやりすぎるので,まるで映画のオープンセットのようになってしまいます。
なにせ,日本は,本質的にはまったく歴史をリスペクトしていないくて,結局は観光客がお金を落とせばあとはなんでもあり,に過ぎないからです。
このあたりは宿場ではなくて,川越人足の休憩所です。旅人はここに泊まるのではなくて,島田宿に泊まって,早朝,ここまで歩いて来るわけです。
そして,川会所があって,要するに役所ですが,ここに役人が詰めていて,川庄屋のもとに年行事,待川越,川越小頭などの役職をおいてその日の水深をはかり川越賃金を定め,通行人に対する渡渉の割り振りやら荷物の運送配分やらの運営をしていたわけです。
私は先日行った新居の関所と同じようなものだなあ,と思いました。
川越人足は600人以上いたといいますが,プライドがあって,おそらくは厳しいおきてに守られていたのでしょう。この仕事に就くのもたいへんだったようで,説明を読むと,現代の相撲界みたい,というよりも,日本の流儀というのは,すべて,こうしたものだったのでしょう。
いつも思うのですが,特に打ち合わせをしたわけでもないのに,日本人の発想というのは,こういう社会の仕組みを自然と作り上げるのでしょう。それは,今の役人もほとんど変わりません。そして,それは,ある程度は理にかなっているのでしょうが,この制度のなかには「小役人」がはびこる余地が多分にあるのもまた,現代と変わるものではありません。
これもまた,日本の姿です。
2016夏アメリカ旅行記-ノースカロライナ・ついに50州目③
●とにかく道路が汚いということに尽きる。●
私はノースカロライナ州に入ってビジターセンターでひと休みをしたことで,ノースカロライナ州に足を下したことになると自己満足して,そのままインターステイツ95を走ってノースカロライナ州を突き抜けた。
結局,ノースカロライナ州では,どこの町に立ち寄ることもなかったわけだ。
今これを書いていてとても不思議なのは,今日の1番目の写真は片側1車線の道路であるから,インターステイツ95ではない,ということだ。だが,私はノースカロラナイ州はインターステイツ95を走り抜けた記憶しかないから,どうしてこの道路の写真があるのか,まったく記憶にないのである。
ここはどこなのだろうか?
ノースカロライナ州(State of North Carolina)は人口は約1千万人で合衆国の10位,面積は北海道の約2倍の約14万キロメートルで合衆国の第28位,州都はローリー(Raleigh)である。
タバコと家具の生産地として知られたが,バイオテクノロジーや金融分野など多様な経済に転換してきた。イギリスから独立したアメリカ合衆国13州のうちのひとつで,南北戦争では南部連合側に最後に参入した。南部連合に属した州うちで最も多くの兵士を失い,苦しい再建時代を送った。
ノースカロライナ州のひとり当たりの収入はアメリカ合衆国の38番目ということだからかなり貧しい州ということになろうか。
走り抜けただけのノースカロライナ州で私が強く印象に残ったことといえば,とにかく道路が汚かったということに尽きる。
今日の写真にあるように,ノースカロライナ州に入ったら,ものすごい雨に出会った。しばらくすると小雨になったが,そのことに加え,道路のいたるところにタイヤのくずやらが落ちていて,道路自体もボロボロであった。こうしたことから,私はこの州を観光しても仕方がないなあ,と思ってしまった。
そういえば,2015年の初夏に旅をしたオクラホマ州も同様であった。
このときはカンザス州から南下してオクラホマ州に入ったのだが,カンザス州のインターステイツがターンパイク(有料道路)で,整備が行き届いてたのに対し,州を越えた途端にフリーウェイとなったが,それとともに道路がボロボロになった。また,そのあとで通ったアーカンソー州やミシシッピ州も同様であった。
アメリカではインターステイツを見ればその州の経済状況がわかるのかもしれない。
そうこうしているうちに,私はノースダコタ州をあっという間に通過して,バージニア州に入った。私は,こうして,曲がりなりにも50州すべてに行くことができたのだった。
冬の僥倖④-星が消える! アルデバラン食を見た。
2017年1月9日「アルデバラン食」(Moon occults Aldebaran)が起きました。私は星食など何がおもしろいのか,と興味もありませんでしたが,あまりに月が美しかったこともあり,一度くらいは見ておこうと,例によって,私の古く小さい望遠鏡で写真を撮ることにしました。
月が天球を動くとき背後にある星の前を通るとその星を隠します。これを「食」(occultation)といいます。「オカルト」の語源のひとつです。太陽を隠せば「日食」,惑星を隠せば「惑星食」,恒星を隠せば「星食」です。
恒星は当然「星の数ほど」あるので多くの星で星食が起きるのですが,1等星の食となると意外と少なく -そもそも1等星は21個しかありません- おうし座(Taurus)のアルデバラン(Aldebaran=αTau),しし座(Leo)のレグルス(Regulus=αLeo),さそり座(Scorpius)のアンタレス(Antares=αSco),おとめ座(Virgo)のスピカ(Spica=αVir)でしか星食が起きません。なかでもアルデバランとレグルスの星食が頻繁に起きて,アルデバラン食は今年だけでも6回もあります。それほどめずらしくもない現象なのです。
この日,夜の8時ころは月齢10.8の月とアルデバランはまだずいぶんと離れていたので,4時間後にこのふたつの天体が同じ位置にくるとは信じられなかったのでが,時間が経つにつれてどんどんと近づいていったので,見ていておもしろいものでした。
星食が起きたときと終わったときに写したのが,今日の3枚の写真です。
1番目の写真が1月9日23時57分22秒,2番目の写真が23時57分53秒,そして,3番目の写真が1月10日1時6分40秒のものです。
1番目と2番目の写真の間で食が起きました。食が起きたとき,突然,変な表現ですが,パッと星が月の影に消えました。これは実際に見ていると実に感動的でした。星食が終わったときは薄雲が出ていて,そろそろ星が現れる時間だなあと思いつつも,そのときは何も見えませんでしたが,あとで写真で確認してアルデバランを見つけました。よいタイミングで写すことができたものです。
月は約30日で天球を1周しますから1日では360度÷30=12度,1日は24時間なので12度÷24=0.5度,つまり1時間あたり約0.5度恒星よりも進みます。月の視直径も約0.5度なので,月が恒星を隠してから再び見えるようになるには約1時間かかるということになります。
星食はかつては月の運動や地球自転速度の不整を調べたりするのに利用しました。現在でも恒星の座標系の誤差を調べるために重要な現象だそうです。アマチュアが天体観測で貢献しようとすれば,こうした地味な観測を正確にすることが必要でしょう。
私にはそんな能力はないので,単に,面白いなあと野次馬気分で見ているだけですが,それでもやはり,本を読んで得るだけの知識よりも実際に体験することのほうがはるかに大切だと改めて思ったことでした。
2016夏アメリカ旅行記-ノースカロライナ・ついに50州目②
●念願の50州目に到達したのだった。●
さて,インターステイツ95に戻ってしばらく走ると,いよいよ50州目のノースカロライナ州へ到着した。私は州境でぜひ「ようこそノースカロロラナイナ州へ」の道路標示を写そうとカメラを準備した。
このブログで多くの道路の写真があるが,これは運転しながら写したモノである。とはいえ,ピントは自動で合うし構図を液晶画面で確かめているわけでもなく単に右手でシャッターを押すだけなのである。レンズの焦点距離を35ミリフィルム換算で80ミリ程度に合わせてカメラの位置は経験上わかっているからあとは車の通らない直線道路でシャッターを押しさえすればいい。こういうとき利き手の右手でシャッターボタンを押すことのできる左ハンドルは便利である。日本で運転していてもこうはいかないし,スマホではこういう写真は写せない。
ただし,道路標示をきちんと入れて写すのは難しいから,こういうときは1秒15コマとかに設定しておいて連射をすることになる。それでもなかなかうまくは写せない。そのうちの1枚が今日の1番目の写真である。
私はついに念願の50州目に到達したのだった。
私が50州制覇を意識したのは,名前は忘れてしまったが,ある写真家がアメリカ50州を制覇したというブログを読んでからのことである。この人は,最後に残ってしまったのはノースダコタ州であったと書いてあった。そこでノースダコタ州を特に意識した私は,それほど行くのが大変なところならばととりあえず2012年にノースダコタ州に行ってみた。
それまでにもアメリカの半分くらいの州には行っていたが,そのときから私の50州制覇の残りの旅がはじまったのだった。
もし,私がライフワークで50州制覇をしようともっと若いころに決めていたら,その後,こんな大急ぎの旅はしなかったことだろう。私にとって,50州制覇はそれを思い立ったときは冗談にすぎず,それが40州を超えるあたりから次第に呪縛になってきて,さらに無茶な行程で旅をすることになってしまった。しかし,その結果,様々な貴重な経験をすることができた。
私は50州制覇を達成できたこのときに呪縛が解けてアメリカ以外の様々なところに行きたくなったが,そこへ行く時間がこの先も十分にあるのが幸いなことである。
州境を越えたところにビジターセンターがあったので,車を停めて私はなかに入っていった。
アメリカでは通常インターステイツが州境をこえたところにビジターセンターがあって,そこでは多くのパンフレットや地図が無料でもらえる。それらは形式や大きさが統一されていて,非常に便利なのである。私がこの国の底力を感じるのはこういうときである。日本ではパンフレットやチラシや地図はそれぞれの場所で大きさも記載方法もバラバラなので保存に困るのだ。
ビジターセンターにはたいてい人の好い初老の係員がいて,質問に答えてくれる。ここのビジターセンターでも女性の係員がいたので,私は興奮状態で「このノースダコタ州でアメリカ合衆国の50州をすべて旅した!」と話しかけたのに,彼女は,私の予想したような反応をしなかったので,かなりがっがりしたのだった。
2016夏アメリカ旅行記-ノースカロライナ・ついに50州目①
●いずれにしても動機が不純なのである。●
マートルビーチ州立公園を出た私は,そのままインターステイツ95に戻ることになった。
私が今晩予約したホテルのある場所は,ノースカロライナ州ではなくバージニア州のウィリアムズバーグというところなのであった。地図で確認していただくとよくわかると思うが,マートルビーチからウィリアムズバーグまでは370マイル,つまり約600キロメートルもあって,順調にインターステイツを走っても約6時間の距離なのである。
要するに,私にとって,今回の旅でのノースカロライナ州は単なる通過する州であって,実は,この州を観光することなどどうでもよかったのである。
せっかくの記念すべき50州目だというのに,これでは情けない話ではないか。
数年前にアメリカを30州くらい行った時点で思い立った50州制覇だが,ずっと冗談で言っていた「ハワイを50州目にする」ということを忠実に守ればよかったのである。
昨年の春,私にとって48州目になったハワイに行く前までは,私はハワイは大嫌いであった。それは,あんなところに行っても日本人ばかりだろう,ということが主な理由であった。
そしてまた,オーストラリアやニュージーランドにもいまいち興味が乗らなかった。こちらのほうの理由は,オセアニアに行くには,デルタ航空の特典利用できないから,ということであった。
つまり,どちらにしても,動機が不純なのであった。
しかし,このことはすでに書いたが,2016年の春,南半球に星を見にいこうと誘われて,まじめにずいぶん検討したのにもかかわらずドタキャンされて,その腹いせに南半球ではなくハワイに行ってみて,オアフ島はともかくとして,それ以外の島々は,私が恐れていたような「日本人ばっかし」ではないということがわかって,私はハワイが大好きになってしまった。
私は,旅は,自分で行動し,現地の人と交流しなくては意味がないと思っている。
日本の若い女性がディズニーランドに行きたがるのは,本当はアメリカに行きたいのだけれど独力でアメリカに行けないからディズニーランドで我慢しているからだと思っている。多くの芸能人がお正月になると,ハワイ,ハワイと出かけるが,そのほどんどはハワイとはワイキキビーチのことであり,あんなところなら渋谷と熱海に行くのとそう違ったものではない,ということを私はハワイに行ってみて実感した。
ニューヨークやラスベガスだって,それは同じようなものだ。結局のところ,団体旅行ツアーで旅をするのは,所詮はテレビの旅番組を見ているのとそう変わったものではないのである。
50州制覇を達成して呪縛が解けて以来,私は,アメリカ以外の場所に急に行きたくなった。そして,2016年の秋に,カンタス航空を利用してニュージーランドに行ってみたが,アメリカ本土に行くのとは違って,別に,航空会社のプライオリティ特権などなくても何の問題もないことを知った。
要するに,人を金をもっているかどうかでランク付けするというアメリカ的な発想は,人がやたらと多くセキュリティも深刻だから,安全な人を特別扱いしないと不便極まりないからこそ成り立つ特典であるわけだ。
さて,マートルビーチ州立公園を出て,インターステイツ95に乗るために国道17を走って行くと,マートルビーチのダウタウンに差しかかった。
マートルビーチのダウンタウンは,簡単にいえばホノルルやマイアミと同じようなところであった。私はこうしたリゾートには全く興味も関心もないから,そこへは寄らず交差点を左折して国道501へ入った。
その後は,そのまま北北西に70マイル,つまり120キロメートル近く内陸部に向かって走っていけば,インタースステイツ95に戻ることができるのだ。
国道501はのどかな道路で,1時間以上走っていくと,やがてデイロン(Dillon)という町に到着した。
この町のジャンクションでインターステイツ95に入ることができる。インターステイツ95に入れば,まもなくノースダコタ州との州境なのである。
私は昼食をまだ済ませていないことをやっと思い出して,インターステイツ95に入る前に,このデイロンにあったバーガーキングに入ることにしたのだった。
東海道を歩く-「越すに越されぬ大井川」を渡る②
蓬萊橋(ほうらいばし)は,島田市の大井川に架けられた木造の橋です。全長は約900メートル(正しくは897.422メートル )ですが,歩いた感想ではもっと長く思えました。
この道路は法律上は農道だそうです。渡るのに100円払います。
ちなみに,サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジは2,737メートル,ニューヨークのブルックリンブリッジは1,834メートルです。
どうしてここに比べるべくもないこれらの橋をもちだしたかというと,私はこのふたつの橋を歩いて渡ったことがあるからであり,この橋を渡っているときにそれを思い出したからなのです。
往復で2キロメートルといえば徒歩で30分くらいです。私はゴールデンゲートブリッジは歩いて往復しましたが,短い方のブルックリンブリッジはどういうわけか片道だけでめげました。
江戸時代,大井川は架橋や渡船は許されておらず,川を渡るためには川越人足に頼るしかなかったわけで,そのために「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」といわれました。
また後でも書くことになると思いますが,この大井川の大変さは,車や電車で渡っただけでは実感できません。私は今回,それをしみじみ感じました。
蓬莱橋は1879年に架けられたということは,このときはじめて大井川に橋がかけられたということでしょうか。
1997年に「世界最長の木造歩道橋」としてギネスブックに認定されてから有名になりましたが,それまでこの橋が残っていたということが奇跡のように思います。
当然,このような木造橋だから,たびたび崩落や流失の被害に遭っています。
近いところでは,2000年9月の台風による増水で橋脚が流失,2003年8月にも台風影響で橋脚が流失,また,2007年7月台風の影響で橋の一部が崩落し橋脚ごと流失,通行不能となりました。さらに2011年9月には台風の影響で橋脚3脚が流失し,通行不能となりました。
3年ごとに被害が起きているようですが,そのたびに修復されています。また,蓬莱橋はたびたび映画やドラマに登場していて,NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」にも登場したそうです。
この橋に行くには,JRの島田駅から南の方向に20分くらい歩いていく必要があります。すると,大井川の堤防にさしかかり,橋のたもとには詰め所があって,そこにいるおじさんにお金を払います。
この橋を渡った先に特に何がある,ということもないので,ここに橋が架けられた理由が今ひとつわからないのですが,橋の上からは美しい富士山を見ることができました。
橋を渡り切ったところには神社やらがあって,今日の写真のように,「蓬」と「莱」の説明書きもありました。
私は橋を渡り切ってすぐに戻ることにしたのですが,戻ってきた先から旧東海道の大井川の渡しまでは大井川の堤防に作られたマラソンコースを歩くと近道だということで,そこを散歩することにしました。
この日は日坂峠に行くのが目的だったので,大井川の渡しはついでに立ち寄るつもりだったのに,このようにずいぶんの距離を歩くことになってしまいました。
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2013アメリカ旅行記-夢がかなった旅の終わり①
「想い出のサンフランシスコ」⑦-2015夏アメリカ旅行記
「富士ファミリー2017」-「おはぎちょうだい」と言おう
![DSC_6471](https://livedoor.blogimg.jp/i_love_montana/imgs/f/d/fdfacb83-s.jpg)
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NHKの新春スペシャルドラマ「富士ファミリー2017」。
富士山のふもとにある小さな商店「富士ファミリー」が舞台のこのドラマは,昨年のお正月に放送された「富士ファミリー」の続編です。番組では「小さなコンビニ」と称していたけれど,まさに「よろずや」の古いお店を舞台に,長女の鷹子,夫の日出男を連れて家に戻ったのにすぐに死んでしまった次女のナスミ,店から逃れるために結婚した三女の月美の美人三姉妹と,笑子バアさんを中心としたほのぼのドラマです。
ナスミは笑子バアさんだけに見えるユーレイとして登場するのは前回と同じですが,今回鷹子は雅男と結婚し,近所のマンションで新婚生活を送っています。そして,ナスミの元夫であった日出男は愛子 と再婚し娘を授かりました。店には新しくアルバイトのイケメン「ぷりお」が入ってきましたがなにか訳ありです。
年の瀬も迫ったある日,鷹子は有名な予言者のキティ・トーヤマの雑誌記事を目にして,彼女が中学の同級生であったことに気づくのですが,中学時代の日記に,鷹子の運命に関するとんでもない予言が書かれてあったというのが今回の物語のはじまりです。
昨年は登場人物が少なくてよくわかるドラマだなあと思っていたのですが,今年はやたらと増えて,はじめのうち,昨年の流れを忘れていた私は,何がどうなっているのがさっぱりわかりませんでした。ドラマのはじめで笑子バアさんがせりふのなかで人物紹介をする,という凝った流れではあったのですが,それでも呑み込めず,私は,途中で見るのを中断して(録画で見ていたので),昨年の録画を見直しました。
今の時代,こんな小さなお店ひとつで生活できるのか? という疑問は今年も同じでしたが,もともとがそうした現実から目を背けて,メルヘンチックに,今の我々が忘れている「人との競争ではなく人のやさしさこそもっとも大切なこと」を描いているので,そこはよしとしましょう。
昨年のこのドラマ,私は「人の居場所」というのがテーマで,自分の居場所が見つかることこそ幸せの原点なのだと思ったのですが,それは今年も変わりません。人の能力も才能もそして矜持も,他人と比べるためにあるものではなくて,それらが自分の生きている居場所にパズルのようにきちんとはまることが,一番大切なことなんだ,とそういうことをこのドラマで私は昨年強く気づかせてもらったのですが,それに加えて,今年は「いつだって人は新しくやり直すことができる」という,もうひとつのテーマが加わりました。
「新しくやり直す」ためには,まず,すべてを捨てることなのです。そして,その呪文は「おはぎちょうだい」なんですって。
このドラマ最後に出てくる赤ちやん,あの赤ちゃんはナスミの生まれ変わりなのかな? だとしたら,来年はもう続編はないのでしょうか?
生きている人も,すべてを捨てて新しい自分になったとき新しくやり直すことができる,けれど,人の心が新しくなれば,それはまた亡くなった人の思い出も風化するのです。しかし,そのときはじめて,亡くなった人は,また新しく生まれ変われるのです。生まれてくる赤ちゃんは何にも持っていないからこそ,新しい家族のなかでその居場所があるのです。
元気の出る,そして,心の温まるよいドラマでした。
2016夏アメリカ旅行記-美しき海岸マートルビーチ②
●多様なマートルビーチのアクティビティ●
私はマートルビーチへ「美しい海岸」を見たいという一念でやってきたが,国道17沿いの車の多さですでにいやになってきていた。これではハワイよりも美しというよりも,混雑がひどかった。
「マートルビーチ州立公園」(Myrtle Beach State Park)と書かれた道路標示に従って右折したらゲートがあって,公園に入るには5ドルが必要であった。
お金を払ってゲートを通過するとその先森のなかをずっと道路が続いていた。その道路に沿って走っていくと,やがて海岸が見えてきてその先に駐車場があったから車を停めた。
私はアメリカのビーチがどうなっているかなど関心もなく,わざわざ行く気もないが,これまでボストン郊外のケープコッドやロスアンゼルスのサンタモニカ,さらにハワイのワイキキビーチには行ったことがある。
そうしたいくつかのビーチを考えてみると,そこはホテルのプライベートビーチがあったり,日本の海水浴場のように,有料の駐車場に車を停めるとその前にパブリックビーチがあったりと,そんなものだったが,どこも日本のビーチなど比べるべくもなく広く美しかった。
この州立公園のビーチもまた同様に広く美しかったが,ここはプライベートビーチをもたないホテルに滞在する客や,ホテルには滞在しない日帰り客を対象としたビーチであろう。
私は,ここに到着したときには,この州立公園こそが「マートルビーチ」と呼ばれるところだと思っていたが,後でここを出てからしばらく走っていくと,ホノルルのダウンタウンのような感じの街に差し掛かって,そのときはじめて,マートルビーチというのはもっと広範囲のところなのだと知ったのだった。
どれだけの範囲をマートルビーチと称するのか正確には知らないが,このあたり一帯は,数々のアトラクション施設も立ち並び,ショーなども多く開催されていて,ラスベガスのような感じのところでさえあった。もちろんアウトレット・ショッピングモールなども揃っていた。
さて,話をもとに戻そう。
このマートルビーチ州立公園で楽しむことができるアクティビティは次のようなものがある。
まず,午前6時の開園するころに行くと,海からの日の出(東海岸なので日の出が見られる)を見ながら,貝殻,サメの歯,海の生き物を見つけたり未開発の海岸線をゆったり散歩することができる。
お昼間に行けば,ハイキングやウォーキング,自転車,馬に乗って大自然を楽しむことができる。徒歩や自転車の場合は,スカルプチャー・オーク・ネイチャー・トレイル(Sculptured Oak Nature Trail)でサウスカロライナ州の北部海岸に広がる海岸林を満喫することができる。また,馬があれば,11月から2月にかけては海岸線を馬で走ることもできる。
バードウォッチングネイチャーセンターでは,森林,砂丘,草原,海,小さな湿地にいる何種類もの鳥を観察することができるが,これは渡り鳥が移動する春や秋が特におすすめということだ。また,フィッシング桟橋や海岸からは,ヒラメ,大型のサバ,ホワイティング,トラウト,スポット,ドラム,ブルースを釣ることができるし,ときにはカニをとることもできる。私が行ったときも,多くの人が釣り糸を垂れていた。
雄大な風景は,ハワイのオアフ島ワイキキビーチにとてもよく似ていたが,こちらのほうがのどかであったし,日本人が皆無であった。
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
2016年12月21日の夕方,本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P Honda-Mrkos-Pajdušáková)を写してから早いもので2週間近くが過ぎました。その後,12月28日の早朝にネオワイズ彗星(C/2016U1 NEOWISE)も写すことができました。
「ネオワイズ彗星」は次第に太陽に近づいていってその後は太陽と地球の位置関係から見えなくなります。「本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星」も太陽に近づいていくのですが,2月4日ころから夜明けの東の空に見えるようになります。21日は9等星くらいでしたが,現在は6等星くらいということだったので,太陽に接近する前にもう一度写したいものだと思っていました。
新月も過ぎ,月が日没後の西の空に残るようになって,彗星と接近してしまい,残念ながらその明るさで彗星の輝きが消えてしまうようになりました。1月2日はその月が金星と大接近して美しく輝いていたので,それをカメラに収めましたが彗星もその近くにあったはずです。
そして,その翌日は月が彗星からは幾分離れて,おそらく彗星を写すラストチャンスだと思われました。また,しぶんぎ座流星群の極大を迎えるということもあり,天気次第で,前回写した場所に夕刻行くことにしました。
この日は予報では午後6時過ぎに快晴になるということだったのでダメ元で出かけることにしました。しかし,現地に到着した5時30分を過ぎても全天が曇リでがっかりしました。彗星は午後6時過ぎには沈んでしまいます。そのまま帰ろうかとも思ったのですが,北極星のあたりだけが奇跡的になんとか見えたので,極軸を合わせて,少しだけ待つことにしました。
やがて北極星も雲に隠れはじめ絶望的になってきたのですが,そうこうするうちに,なんとか彗星の存在するあたりだけ雲が切れてきたのです。
かろうじて見え隠れする金星から星の配置を追っていきます。彗星の位置はやぎ座のθ(シータ)星の近くなのですが,ファインダーでやぎ座のδ星「デネブ・アルゲディ」(Deneb Algedi=「ヤギの尾」の意),γ星ナシラ(Nashira)は見えてもその右のι(イオタ)星,さらにその右のθ星を見つけるのに苦しみました。なんとか探し出して写真を撮っても肉眼で確認できない薄雲がかかっているようで写りません。それでも懲りずに写していたら,彗星が木の陰に隠れるまさにその寸前に2枚だけ奇跡的に写すことができました。
彗星は明るくなって尾も長く伸びていて,彗星らしい姿になっていました。
彗星の写真を写しているうちに,雲がすっかりなくなっていました。うそのような話です。
それにしても,日本の空の汚さったらどうでしょう。標準レンズだと30秒も露出すると真っ白になってしまいます。南半球の真っ黒な空がなつかしいです。それに輪をかけて,この日は雲が切れたからといってどうやらものすごく薄い雲が覆っているようで,写真では星がにじんでしまいます。午後8時過ぎに,しぶんぎ座流星群のらしきものすごく明るい流星が飛ぶのを見ましたが,極大を迎えるのはまだ3時間以上後のことですし,流星の放射点が昇るのは5時間以上後のことです。すでに気温も0度近くなってきて,このままいても空は汚いし寒いので,やる気もなくなり帰ることにしました。私はあまり流星群には思い入れがないのでしょうね。
月が明るくなってきたので,これで今月の星見は終了です。来月になると本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星に加えて,さらに別の彗星(ジョンソン彗星,エンケ彗星)が見られるようになります。
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本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
東海道を歩く-「越すに越されぬ大井川」を渡る①
2016年12月25日,ふと「N響第九」のチケットを買ったので行くことになった東京へは,「ぷらっとこだま」のグリーン車にしました。それは,手配をするのが遅れてグリーン車しか取れなかったことによるのですが,せっかくだから富士山の見られる左側の座席を指定しました。グリーン車といえど,値段は1,000円しか違わないのです。
期待していなかったのですが,いつもながらの「晴れ男」で,幸いにして富士山がよく見えました。
演奏会のあと,私は人だらけの東京には興味がなかったので,そのままJRの東海道在来線に乗って途中で1泊,翌日は静岡県の旧東海道を歩いてみることにしていましたが,どこに行くかは決めていませんでした。
「N響第九」は午後4時過ぎに終了しました。クリスマスで混み合う渋谷の雑踏をかき分け,JRの渋谷駅から品川駅まで出て,そのまま東海道線に乗りかえました。この日は沼津の東横インを予約してありました。国内旅行は電車に限るといつも書いていますが,泊まるのは東横インに限ります。あれほど便利で無駄のないホテルは他にはありません。別に沼津でなくてもよかったのですが,このあたりに泊まれば次の日にどこに行くにも便利かな,と思ったことと,沼津という小さな町はホテルの宿泊代が安価だったというのがその理由でした。
翌日は天気次第で行くところを決めるつもりでしたが,寒くなければJRの東海道線で金谷まで行って日坂峠を歩こうかな,と何となく思っていました。曇りという予報とは違って,この日も富士山が見られるほどのよい天気,しかも,寒くなく絶好の散歩日和になりました。
予定どおり金谷まで行こうと電車に乗り込んだのですが,金谷に行く前にひとつ手前の島田で降りてついでに大井川の渡しでも見ようかとふと気が変わり,まずは島田で降りてしまいました。なにせ,途中下車ができるのだから,こうしたときに非常に便利なのです。島田で降りて駅前の観光案内図を見て「蓬莱橋」というのを知りました。なんでも世界で一番長い木造橋,ということに惹かれました。そして,私は島田の駅から蓬莱橋をめざして歩き始めたのです。
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東海道を歩く-往時の面影を残す薩埵峠①
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁①
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く①
2016夏アメリカ旅行記-美しき海岸マートルビーチ①
●カジノができれば日本は廃墟の山だろう。●
チャールストンを出発して,私は大西洋に沿った国道17をマートルビーチ向けて走っていった。
今回の旅に出る前,サウスカロライナ州へ行くとアメリカ人の友人たちに言ったら,みんながみんな「サウスカロライナはハワイよりも海岸の美しいところだ」というので,私には「サウスカロライナ=海岸を見てこなくてならないところ」という図式が出来上がっていた。
そのサウスカロライナ州の美しい海岸というのが「マートルビーチ」という場所なのであった。
マートルビーチ(Myrtle Beach)は,サウスカロライナ州の北東部,大西洋岸に位置する観光都市である。人口は約2万人に過ぎないが,広い砂浜やゴルフ場,美味しいシーフードレストランやアウトレットショッピングセンターがあることから,年間1,400万人を越える観光客がこの地を訪れている。
特にウェストバージニア州からの旅行者に人気があって「ウェストバージニア州の56番目の郡」(the State's 56th county of West Virginia)とか「ウェストバージニア州の最南端」(the southern-most point of West Virginia)などと呼ばれたりもしている。また,高校・大学のスプリングブレイクと呼ばれる春休み期間の行き先としても有名で,その時期は全米からの学生で賑わう。
アメリカの東海岸は,地図で見るとのどかな田舎を想像するかもしれないが,ロッキー山脈のあるユタ州やモンタナ州などとは全く異なっていて,どこもかしこも車が多く,当然人も多い。
どうやら私はこの地を訪れるのが遅すぎたようなのである。それは,多くの場所をすでに旅した結果,どこへ行っても,大概はそれよりも素晴らしいところを思い出してしまうからなのである。
当然,日本など比べるべくもない。
私は関心がないので詳しくは知らないが,昨年末,日本で通称カジノ法と呼ばれる法案が可決されたのだそうだ。狭い日本でそんなものを作っても所詮は知れているし,そのうちまた,バブル時代に日本中に作られてその後につぶれて今は廃墟となった数多くのテーマパークと同じ末路をたどることであろう。
知識人や官僚は留学経験者も多いだろうから海外の事情などわかっているだろうに,きっと無知で権力だけがある政治家のいうことを耳を塞いで聞いているフリをしているのだろう。そんなことを懲りずに何度も繰り返すのもまた日本人の「発想と能力の限界」のひとつである。
それに対して,ギャンブル依存症が増えるだの政府が賭け事を奨励しているだのというような正論を振りかざして反対したところで,そうした政権に多くの議席を与えたのは国民だという理屈ではじめっから聴く耳などもっていない。
この国は,こうしてまたゴミやらガレキだけが増えていくのだ。そんなことはこれまでのこの国の歴史を思い起こせば簡単にわかる。
それはそれとして,この日,私は国道17を順調に走って,やがてマートルビーチのダウンタウンに到着した。
国道17はダウンタウンに近づくにつれてさらにさらに車が増えてきたが,海岸はまったく見えない。地図によると国道の右手の森のさらにむこうが海岸らしいが,どこをどう曲がれば海岸にたどりつけるのか,私にはさっぱりわからなかった。そのうちに「マートルビーチ州立公園」と書かれた看板があったので,そこが美しい海岸といわれるところなのだろうと思って右折をした。
冬の僥倖②-オールトの雲から来たネオワイズ彗星
考えてみたら,私のこれまでで最も高額な買い物は,先日買った中古の車だということに気づきました。総額140万円也。もちろんローンなんて組んだこともありません。
今使っている望遠鏡だって,ハレー彗星が来たころ(1986年)に20万円ほどで買ったペンタックスの口径75ミリの屈折望遠鏡で,たった1台しかもっていないこの望遠鏡を今でも使っています。さすがにモータードライブは内蔵されていますがもちろんオートガイダーもありません。
世の中にはずいぶんハイスペックなもので楽しんでいる人も多く,持っているたくさんの望遠鏡やカメラを紹介しているブログもあるのですが,お金を出せばだれでも手に入るような物質には私は興味がないし,バイクや車やカメラに凝るという趣味もありません。
そんなお金があれば私は海外旅行をして得難い経験と思い出に変えます。
いったい何が書きたいのかというと,私はその程度の機材しかもちあわせていなので,大した写真をお目にかけられない,という言い訳なのですが,実際私にはそんなことはどうでもよくて,この長年使ってきた望遠鏡の性能を精いっぱい発揮してもらって,ひとつでも多くの天体を見せてあげたいということに尽きるのです。
しばらくの間明るい彗星が接近していなかったのですが,この冬になって手ごろな彗星が続々と来日,じゃない,接近してきます。そのことはとても楽しみなのですが,冬は寒くかつ夜が長いので,それはそれで大変です。
私の望遠鏡は,条件さえよければ12等星より明るい彗星なら写せるのですが,夕方の西の空や明け方の東の空ではそうはいきません。
先日21日に写した本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星 (45P Honda-Mrkos-Pajdušáková)は,夕方の西の空低くにあってわずか1時間で沈んでしまったので空の開けたところでないと写すことができないものでした。
そして,今度は明け方の東の空のネオワイズ彗星(C/2016U1 NEOWISE)です。こちらは次第に空高く昇っていくのですが,それとともに夜が明けて見られなくなります。
同じ時期の夕方と明け方の空に同じくらいの明るさの彗星が見られるというもあまりないのですが,このふたつを同じ日の夜に見るならば徹夜をしなくてはなりません。しかし,この時期にそんなことをすると凍え死にそうなので,私は 本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星を優先しました。その写真が写せたので,今度は別の日にネオワイズ彗星を写すことにしました。
この彗星は2か月前に発見されたばかりの新彗星です。発見されたときの速報は次のものです。
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Joseph R. MasieroとJames M. Bauer (Jet推進研究所)の通報によると,10月21日と22日,Near-Earth Object Wide-field Infrared Survey Explorer(NEOWISE:地球近傍天体広域赤外線探査衛星,以前のWISE:広域赤外線探査衛星)で得た赤外線画像からハッキリとしたコマのある彗星を見つけた。
10月27日,28日,29日に得た追加NEOWISE画像では,よく似た明るさで再び著しく拡張して見える。
観測者によって彗星状と観測された。発見位置は次のとおり。
2016 UT Oct. 21.29261 8 39 28.27 +45 42 17.9
・・・・・・
広域赤外線探査衛星(WISE:Wide-field Infrared Survey Explorer)とは,2009年12月14日に打ち上げられたアメリカ航空宇宙局の予算で開発された赤外線天文衛星です。この衛星は口径40センチの赤外線望遠鏡を備え,3~25マイクロメートル(μm)(1マイクロメートル=0.000001メートル=0.001ミリメートル)のさまざまな波長で全天を10か月以上観測し,2011年2月17日に一度運用を終了しましたが,2013年8月に運用再開が承認され10月に運用を再開しました。
明け方に月明かりの影響がなくなった12月28日は幸い明け方までは晴れるという予報だったので,この日がチャンスと,東の空の開けた海辺の高台へ行くことにしました。
午前3時過ぎに家を出発して到着したのが午前4時半くらいで,これからわずか1時間,夜が白むまでが勝負でした。あらかじめ調べておいたように,木星とアークトゥルスから狙いをつけてへびつかい座の星の並びを見つければ,あとは地平線ぎりぎりに昇ってくるラスアルハゲを探しだすだけです。ラスアルハゲがどの星かわかればその右隣にあるκ星は見つかるのでそれをファインダに入れさえすれば写せます。私はこうして簡単に写真を撮ることができました。
ネオワイズ彗星は予報では8等でしたが,さすがにオールトの雲(Oort Cloud) からやってきた新彗星らしく,エッジワース・カイパーベルト天体(Edgeworth-Kuiper Belt Object)である本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星のような周期彗星とは違って尾もほとんど見えず初々しい姿でしたが,明け方の空に現れた来訪者を無事カメラに収めることができて満足しました。彗星は現在地球と太陽の間にあって次第に太陽に近づいていくので,わずか1時間で周りの星々の間を動いていくのがわかりました。この小さな彗星は太陽に接近して消滅するといわれています。
午前5時過ぎには東の地平線にさそり座が昇ってきました。すでに夜明けの空に見えるのは夏の星座なのです。
やがて空が白みはじめると,月齢29の薄い月が日の出間近の東の空に昇ってきました。こういう夜明けを見ると,本当に星を見にきてよかったと思うのです。
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冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
2017年がやってきた- 「滅びるね」と広田先生は言ったけど
Happy New Year 2017
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2017年になりました。
昨年没後100年だった夏目漱石は日本人の「ブランド」で,今もなお,もてはやされています。私も高校生のころはずいぶんと読みましたが,近ごろはそうした本を読むことも少なくなってきました。というよりも,そのうち足が弱って歩けなくなったらそのときに読書でもして過ごせばいいわけで,今はせっかく自由に歩けるのに,そうした貴重な時間を小説などを読むことに費やすよりも,少しでも外に出て歩き回ろうと,読書をするのが惜しくなってきたのです。
さて夏目漱石ですが,私は夏目作品では「三四郎」が好きでした。というよりも,この小説のなかの広田先生のセリフ「滅びるね」という言葉が大好きなのです。
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三四郎は自分がいかにもいなか者らしいのに気がついて,さっそく首を引き込めて,着座した。男もつづいて席に返った。そうして, 「どうも西洋人は美しいですね」と言った。
三四郎はべつだんの答も出ないのでただはあと受けて笑っていた。すると髭の男は,「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして,こんなに弱っていては,いくら日露戦争に勝って,一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても,庭園を見ても,いずれも顔相応のところだが,あなたは東京がはじめてなら,まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。
三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると,かの男は,すましたもので,「滅びるね」と言った。
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これは,日露戦争のころのお話で,確かにその予言どおり,その後,太平洋戦争で日本は一度「滅び」ました。このことはすでに書きましたが,この国の「明治維新」で投げられたボールが地面に落ちたのが太平洋戦争であり,これは必然の結果だったわけです。しかし,戦後,この国は驚異の復活を遂げたように見うけられます。いや,それもまた,戦後に投げたボールがまだ飛んでいるだけで,そのボールが地面に落ちたときに,戦後の復活劇の評価が下されるのでしょう。
昨年の大河ドラマ「真田丸」はそれなりにおもしろかったという評判ですが,今の私は,日本の歴史ドラマのすべてが嫌いになってしまったので,このドラマに素直な感想をもちあわせていません。所詮,日本人という権威の大好きな人たちが階級社会を作り,そのなかでは共存を認めず,自分が支配するために殺し合ってきただけのように思えるからです。豊臣秀吉なんて,本当にバカみたいです。ああいう人物を称える日本人って,本当に何ものでしょう? 私には大河ドラマに出てくるすべての人物が幸せには思えません。
ところが,現代においても,その時代を手本にしたり,自分が一端の幕末の英雄気取りでいたりする人が少なくありません。特に権力意識の強い人にそれが多いようです。しかし,日本の歴史上,英雄とよばれる人やその人たちが作った社会が,人としてあるいは社会としてのあるべき姿なのでしょうか?
私は,以前よりもより多く世界を旅するようになって,そのことを否定する気持ちのほうがますます強まりつつあります。
車は安全に運転できればいいのであって,違う言葉を母国語とする人がいればその人とこころが通じればいいのであって,コンピュータがあれば便利に使えればいいのであって,それらはそれ以上でもそれ以下でもない。ところが,そうした目的がすべてどこかにいってしまって,その代わりにぺーパーテストの点取り合戦となり,順位づけの道具となり,それが人の格づけにつながり,少しでもよい点をとるために国じゅうが熱病に侵されたようにしてお金と時間を浪費しています。さらには,車を自己顕示の道具としたり,外国語が話せることをプライドにしたり,コンピュータを悪事の道具にしたり,あるいは,できない人はできない自分を正当化するためにそれらを完全否定したりするのです。そうして,試験の点数が高い人を「優秀」とし「学歴」というブランドを与えて錯覚させ,社会に出ると残業も厭わぬ会社の奴隷として死ぬまで働かされるというのがこの国の人の生涯です。一体生きる目的は何なんでしょう?
先日,散歩をしていたら塾があって,ガラス張りの教室のなかが丸見えでした。そこでは冬休みだというのに小学生が全員鉢巻をしめてドリルをやっていました。私は,それが太平洋戦争の特攻隊のように見えて,ぞっとしました。こういうことを自然と美化するのが相も変らぬ懲りない日本人の本質なのです。
こんなことでは,戦後のこの国の復活劇もまた「滅びるね」が真実のものとなっていくのでしょう。そろそろそんななさけない価値観から早くさよならしてほしいものです。