夜8時に高知市に到着して夕食をとるために街に出ました。ホテルのあった場所は「はりまや橋」から歩いて10分くらいの便利なところだったので,そのまま歩いて市内観光ができそうでした。
高知市といえば,高知城とはりまや橋と桂浜です。そして,最も有名なのは龍馬さんですが,私にはもうひとつ目的がありました。
ともかくまずは「はりまや橋」。
「3大がっかり」のひとつとして有名だそうですが,これほどの名所をがっかりといってしまえば,日本の名所なんてどこもがっかりだらけです。これもいつも書いているように,日本の観光地はその場所にまつわる文学やら音楽やら短歌やら歴史やらを知らねば,どこもそのよさのほとんどはわかりません。
私は「はりまや橋」を見て,ペギー葉山の歌声が心のなかに響けばそれで十分でした。
わたしの「もうひとつの目的」というのは,ここ高知市は,1965年に発見された有名な「池谷・関彗星」(1965S1)の発見者のひとりである関勉さんがこの彗星を発見した場所であって,その発見した場所を見てみたいということだったのです。
私がこのごろ旅をしている世界中の場所の多くは,子供のころに読んだ「月刊天文ガイド」などに載っていた記事で知った場所で,そのころから一度は行ってみたいなあと思い続けていたことが動機になっているようです。そのために本田實さんの住んでいた倉敷にも行きましたし,近いうちにアメリカのパロマ天文台にも行ってみたいと思っています。ここ高知市もそうしたところのひとつで,私には関勉さんが彗星を発見していた町なのです。
私は一度倉敷の大原美術館で偶然関勉さんにお会いしたことがあります。
昔は今と違って個人情報が公になっていたので,地名が変更になっていれば別ですが,私は関勉さんの家の住所を知っています,というか覚えています。そこでその場所まで行ってみることにしました。
目的はお宅をお尋ねするということではなくて,今から50年以上のことですが彗星を発見したのがどういう場所であったかということを知りたかったというだけのことです。
「はりまや橋」を越えてさらに西に進み高知城を越えました。天守閣は小高い山の上にあってライトアップされ明るく輝いていました。
以前行った熊本もそうですが,ここ高知もまた,戦国時代に尾張地方出身の大名が江戸時代になって論功行賞で手に入れた知行地です。高知に領地をもらって落下傘大名としてこの地に降り立ったのが山内一豊ですが,山内家は幕末まで取り潰しにもならず続きました。
熊本に降り立ったのが加藤清正ですが,加藤家はすぐに取り潰しになってその後釜に細川家が続きました。加藤清正が「清正公さん」といって熊本では今でも非常に慕われているのとは違って細川家は人気がありません。
一方高知では山内一豊はずいぶんと悪政をしました。それが幕末「薩長土肥」の原動力となった間接的な原因だと思うのですが,これもまた能力のない人物が人の上に立つとどうなるかというよい手本だと思います。
そもそも,人の上に立つ器量でもない人がなんらかの間違いで人の上に立つとロクなことはありません。それでもバカ殿を演じるならまだしも,なまじっかプライドでもあれば自分の弱点を見せないためにやたらと威張りちらし部下をいじめるということになります。そんな輩は私の身近にも五万といました。それは要するに自分に余裕がないからです。
やがて,高知城のふもとに広がる官庁街を過ぎるとここが県庁所在地だとは思えないほど,ずいぶんと暗い住宅地になりました。私には市街地が夜になれば今でもこんなに暗いことに驚いたのですが,それでも満足な星空が望めるほどではありません。しかし,今から50年も前には満天の星空が広がり,彗星の発見さえできたのです。
そんなことを考えながらたどりついた場所にあったビルの一角に古い街路地図がありました。この地図にしっかりと「関ギター教室」の表示がありました。この場所こそ,「池谷・関彗星」が発見された場所なのです。
この静かな住宅地には,龍馬さんの遺構もずいぶんとありました。
私が以前日本史が大好きだったころ,ずいぶんと龍馬さんには傾倒しました。実際は無名の坂本龍馬が世に出たのは司馬遼太郎さんの功績によるもので,今我々が知る龍馬の姿は物語上の虚像ですが,死して100年以上経ってこんなことになってしまってさぞかし本人は天国でびっくりしていることでしょう。
その後,私は「土佐の國・二十四万石」というお店で夕食をとりました。高知といえばやはり「かつお」でしょう。ということで,この日の夕食はおいしいカツオをいただくことにしました。
旅というのは,こうしたたわいもないことが最も思い出に残るものです。これもまた,虚像です。
February 2017
初春の小旅行②-「軽トラ」は加速はしないわ走らないわ
昨年の夏に長年ずっと行きたかった阿波踊りに行くことができて以来1年も経たないのに,これで3回目となった徳島までやって来ました。ここはすでに勝手知ったる道路です。
もともとの予定はこのまま四国の東側の海岸線に沿って走って室戸岬まで行き,そこから高知市に行く予定でした。そして,明日以降の予定は未定で,そのまま足摺岬を通り,四国一周? とも思っていました。
四国はハワイ島の2倍ほどの大きさなので大した広さでもないと思っていたのですが,なにせ,車と人がハワイの比ではなく,その感覚的な広さは想像を越たのです。
徳島に着いたときにカーナビで調べてみると,このまま予定どおり進むと,室戸岬に到着するのがなんと午後8時! というではありませんか。そんな夜遅くに室戸岬に行ってみても何も見えません。海岸線だって暗いだけです。実は,室戸岬で満天の星空を見たいものだ,という密かな期待もあったのですが,天気も今ひとつで星も見られそうにありません。
そんなわけで予定を変更して,そのまま最短距離で高知市まで行くことにしました。とはいえ四国は山ばかりなので,一般道を走れば,最短距離はいえ吉野川にそって延々と西に進み,阿波池田から南下するしか仕方がないのです。
私は今から35年ほど前に坂本龍馬像見たさに一度だけ高知市に行ったことがあります。
当時は本州から四国に渡る橋もなく連絡船に乗って「四国V字」というコース,つまり,高松,高知,松山と観光をするのが定番でした。そのときに,大歩危・小歩危,という名を知ったのですが,今でも私はそれがどこにあるのかさえ知りません。調べればわかるのですが興味がなかったのです。今回,走ってみてそれがどこにあるのかもよくわかりました。
私が日本で地方の片側一車線の一般道を走るのが嫌いな理由のひとつは「軽トラ」の存在なのです。なにせこの「軽トラ」,アメリカでいえば「ピックアップトラック」の存在に変わるものなのでしょうが,ピックアックトラックとは全く異なり,加速は効かないし一旦信号で停車すると動き出すのが遅いし,制限速度まで達するのにいい加減時間がかかるのです。こんな軽トラやら軽自動車やらがつながっているのだから,単に信号待ちだけなのに慢性的な渋滞になるのです。
しかもお年寄りの運転手が多く,自転車代わりで長距離を走るわけでもないので,時速50キロメートル制限の道路を40キロメートルくらいでのろのろと進みすぐに左折やら右折をするので,さらに時間がかかって,少しも距離が稼げません。
四国も狭い島なのでほとんどの道路は片側一車線で,この道路状況はどことなくニュージーランドやらハワイやらと似ているのですが,ニュージーランドやハワイでは,こののろのろ状況はあり得ません。
人も車も少ないニュージーランドは市外地に出れば片側一車線であっても100キロメートル制限だし,しかも,追い越し車線が数キロメートルおきに存在します。ハワイ島は主要道路は片側2車線以上あって田舎の片側1車線道路はもっと車が少ないです。
そのうち,四国山地に差しかかったら,大雨になってきました。そして,日が暮れてあたりは真っ暗になってきました。こんな状況でだらだらと走っていくのでまったく楽しくもなく,これは苦行以外のなにものでもありませんでしたが,どうにか夜の8時過ぎに高知市に到着することができました。
私は晴れ男なので,あの土砂降りの雨はどこへ行ったのか,車を降りるころにはすっかり上がっていました。
さっそくホテルでチェックインを済ませました。せっかく来たので夕食ついでに夜の高知市を観光しようと「3大がっかり」で有名な「はりまや橋」に出かけました。
初春の小旅行①-淡路島は道路に猿がたむろっていた。
海外旅行をするとき私はホテルをExpedia,Booking.com,Hotels.comで探しています。しかし,まれに国内を旅行するときは東横インが便利なので,これらのサイトを利用したことはありません。
Booking.comはExpediaの子会社ですが,Expediaは予約をするとポイントが増えるのですがBooking.comは10泊すると1泊無料になります。しかし,最後に宿泊してから1年という有効期間があって,私はあと2泊というところで期限になりそうだったので,別にそんなもの無効になってもどうっていうことなかったのですが,せっかくだからこの機会に一度は行ってみたかった四国の室戸岬にでも行ってみようと,高知市の安価なホテルを予約しました。
ということで,今回もまた,ほとんど思い入れもなく,2月23日になんとなく四国に出かけました。
これもいつも書いているように,国内旅行は電車に限ります。車は高速道路が異常に高いし走りにくいし渋滞ばかりだし,海外で走ることと比較すればまったく楽しくないからです。今回もずいぶんといろんな行き方を考えたのですが,室戸岬は不便だし,結局,仕方なく車で行くことにしました。
自宅から高知までは300キロメートルくらいのものだから8時間も走れば着けるかなあといったいい加減な気持ちで朝8時ごろに家を出ました。そしてお昼前には淡路島まで来ました。淡路島は高速道路を一挙に走り抜けてもよかったのですが,前回,淡路島の北側の海岸線の一般道を走ってみてあまりの海岸の汚さにショックを受けたので,今回は南側の海岸線を走ることにしました。
洲本まではなんということもない海岸線で愛知県の知多半島みたいなところでした。しかし,洲本まで来るとさすがに有名な観光地らしくきれいな町になったので少しだけ淡路島の印象が変わりました。ここで再び高速道路に戻ってもよかったのですが,せっかく来たのでさらに淡路島の海岸線を進むことにしました。
ところが,その先が凄かった! 急に道路が険しくなり狭くなり山道を進んでいくことになったのですが,そこには信じられない光景が広がっていたのです。
淡路島は洲本から南側には諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)があって,その山の向こうの南の海岸線まで行くには峠を越える必要があります。その峠にあったのが生石山の展望台でした。せっかくだから行ってみようと寄り道をしてみたのですが,それがひどいことに,折れた木が道路をふさぎ動かせません。写真のようなありまさでした。これでは山頂の駐車場にたどりつけませんが,こんな状態なのにも関わらず道路の登り口には何の注意書きもなければ,この状況を復旧する気もなさそうでした。行政はどうなっているのでしょう? 不慣れな人ならここから狭い道路をバックで戻るのは至難の業です。崖から転落しても不思議ではありません。
ともかくここまで来てしまったので,私はここに車を置いてあとは歩いて展望台まで行ってみました。
展望台からは岬が眺められ,岬の周囲は海食崖が発達しクロマツや照葉樹が生い茂っていて,北の由良湾に「淡路橋立」と呼ばれる成ヶ島が長い砂州を伸ばしているのが眺められました。すでに梅が咲いていました。
この生石山のある紀淡海峡は大阪湾防衛の要地とみなされていたために,1890年(明治23年)に旧陸軍により由良要塞が築かれたという案内板がありました。現在も付近には砲台や要塞の遺構が残っていて廃墟となし異様な雰囲気でした。
車に戻りなんとか数メートルバックさせてギリギリUターンのできる場所を見つけました。ずいぶんと切り返して車の向きを変えました。
無事に降りてさらに進むと,今度は水仙が見られるという怪しげな公園に出ました。ここは淡路島では灘黒岩水仙郷と並び2大水仙郷なのだそうです。1月から2月にかけて約500万本の水仙が太平洋に面した南向き斜面一面に咲き誇り独特の甘い香りを漂わせるということなのですが,偶然ちょうど旬な時期だったのですね。
しかし聞くところではここは栽培による植栽がほとんどの観光農園,品種も地中海原産が多くを占める外来種ということなのでここもまたいかがわしさ満載です。
おまけに,ここには「ハーハー笑うところ」「3倍おもしろい」といったキャッチコピーの看板とともに「UFO神社」「淡路島ナゾのパラダイス(秘宝館)」などの施設が併設されていました。なんでもそれらは,水仙は時期が限られるため通年で客を呼び込む目的で作られたものだそうです。こんな施設,民放の番組の格好のネタですが,私にはまったく興味もなくこんなところに寄っていては高知まで行けないのでパスしました。
さらに道路を進んでいくと,次にあったのが,なんとモンキーセンターでした。これもパスして進んでいくと道路はついに海岸線に出ました。このあたりから,道路には猿がいっぱいたむろっているし,海からは波しぶきが打ち上げられて海水で水びたしだし,尋常でない状況になってきました。
このように,真の淡路島を知るならば,この諭鶴羽山地の南のディープな地域に踏み込まなければならないと痛感しました。この後で行った高知市の桂浜にも水族館がありましたが,日本人というのは,どうしてこうした風光明媚で何もしないほうがずっと美しいところを保護するでもなくこうした金儲けのためだけに破壊して場末の施設を作ることにかけては天下一品なのでしょうか?
私は,今回もまた,ここにも存在したゴミだめのような日本の観光地を見て絶望的な気持ちになりました。
それにしても淡路島で思った以上に時間がかかり,ようやく鳴門大橋に差しかかった時にはすでに午後4時過ぎ。果たしてこれで今日のうちに高知までたどりつけたのでしょうか?
2016夏アメリカ旅行記-ボルチモアでダルビッシュを見た⑤
●ベーブ・ルースが少年期をおくった家●
今日は,このベーブ・ルース博物館について書くことにする。
アメリカのこうした私設博物館は普通の民家であることが多く,通常,家の玄関の扉を開けて中に入ると受付があって,入館料を払うといったシステムになっている。入口とはいえ,小さな看板があるだけだから扉を開ける勇気が必要なのだ。しかし,一旦なかに入ると想像以上に観光客が入っていてびっくりする。
ここの博物館もまた,小さな家で,私は意を決してなかに入ると,想像通りそこには受付があって入館料をはらってなかに入った。
この博物館の正式名は「ベーブ・ルースの生誕地と博物館」(Babe Ruth Birthplace and Museum)という。
通称ベーブ・ルース(Babe Ruth),正式名ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman Ruth, Jr.)は1895年にボルチモアで生まれたメジャーリーガーである。
彼はのちに「野球の神様」といわれ,アメリカ合衆国の国民的なヒーローとなった。
1936年,最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人である。ちなみにのこる4人は,タイ・カッブ(Ty Cobb=デトロイト・タイガース),ウォルター・ジョンソン(Walter Johnson=ワシントン・セネタース),クリスティ・マシューソン(Christy Mathewson=ューヨーク・ジャイアンツ),ホーナス・ワグナー(Honus Wagner=ピッツバーグ・パイレーツ)である。
ベーブ・ルースは本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手でもあったし,1927年に記録したシーズン60本塁打は1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間にわたってMLBの最多記録であった。また,生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。
アメリカ国内において数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたベースボールを最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人のひとり」と評されている。
ベーブルースの両親のケイト(Kate)とジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.)はドイツ系移民で,カムデン通り沿いで酒場を自営しており,家族はその2階で暮らしていた。
ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie)の2人だけであった。
ルースは後年,自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり,父は酒場の仕事で忙しく息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため,両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し,勉強も完全に疎かになってからは学校をサボっては通りをうろつき町の不良たちと喧嘩に明け暮れ商店の品物を万引きしたり酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど,様々な非行に手を染めた悪童であった。
7歳になったころにはすでに親の手には負えなくなり「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られた。ルースはその後の12年間をセント・メアリーで過ごすことになったが,そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックの神父ブラザー・マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)と出合い野球を教わったことがルースの人生に決定的な影響をもたらすことになったという。
この博物館の内部は3階建てで,ベーブルースの住んだ居間や写真,トロフィー,ボール,バットなどがところ狭しと展示してあった。一見たわいもないものだが,ここに展示されたボールひとつでもオークションに出ればすごい値がつくものなのであろう。
狭い博物館であったので,私は,博物館のなかを何度も行き来し,以前行ったことのあるニューヨーク州のクーパーズタウンの「野球殿堂」(National Baseball Hall of Fame and Museum)同様に,ここゆくまでこの博物館を楽しむことができた。
2016夏アメリカ旅行記-ボルチモアでダルビッシュを見た④
●ベーブ・ルースの博物館を知らないか?●
ホテルを出て,まず「カムデンヤーズ」に向かった。
ボルチモアという街は,この旅で来るまで私にはアメリカンリーグ東地区オリオールズの美しいボールパークのあるところというイメージしかなかった。ワシントンDCに近いとはいっても,学校で使用されるような地図帳でさがすと一見どこにあるのかどまどうし,港があるといわれても内陸にあるこの都市にどうして港があるのかさえ理解できなかった。
まして,治安が悪いというようなイメージはなかったから,たとえば,学校で自分の友人のことを別の人があいつは「ワルだよ」といわれたような,そんな戸惑いを覚えたものだった。
ともあれ,ベーブ・ルース博物館はボールパークの近くにあるということだった,今日のゲームが終わった深夜に無事に歩いてホテルに戻る道順を調べつつ,まずはボールパークを目指し,そのあとでベーブ・ルース博物館まで行ってみようと思った。
ボールパークはホテルからたった数ブロック歩くだけのところにあるのだが,到着したばかりの私には土地感がなく,恥ずかしいことに道に迷ってしまった。どうやら反対方向に歩いていってしまったたようある。
途中で気づいて,歩いている人に「ボールパークはどこか?」と聞くことになった。すると「カムデンヤーズか?」と聞き返されたのには感動した。そう,ここオリオールズの本拠地=ボールパークは「オリオールパーク・アット・カムデンヤーズ」(Oriole Park at Camden Yards)というのである。
要するに,甲子園球場を探して阪神電車の甲子園駅を降りたのに道に迷い,通行人に「野球場はどこですか?」と聞いたら「甲子園のことか?」と聞き返されたような感じだったのである。
私はそうして,なんとかカムデンヤーズまでやってきた。カムデンヤーズのことは,また後日詳しく書くことになるであろう。
私が到着したときは,今日のナイトゲームの準備に大勢の職員が忙しそうに動き回っていた。私はそのひとりに,ベーブ・ルース博物館の場所を聞いたのだが,彼は,意外にもベーブ・ルース博物館を知らないと言ったのだ。いや,ひょっとして知っていたが,私の聞き方が悪かったのかもしれない。
そんなわけで,私は,自分で地図を頼りに広いボールパークの外周を歩いて博物館があるだろうと思われる方向まで行くことになった。それにしても,この街の独特のヤバそうな雰囲気をどう表現すればいいのであろうか?
ボールパークを過ぎたあたりから町の様子が少しずつ変わってきて,一段と治安の悪そうなブロックにさしかかりつつあった。ベーブ・ルース博物館は広い通りには面しておらず,狭い路地を入っていったところにあってわかりにくい。日本とは違って看板などないから,けっこう探すのに手間がかかるし,違う路地裏にでも入ってしまうとえらいことなのだ。
そうこうするうちに,私は,無事,写真のような小さな博物館に到着した。
冬の僥倖⑦-2月は3つの周期彗星のそろい踏み
早いもので,2月も半ばが過ぎました。一向に暖かくなりませんが,夜空を見上げると,次第に春の星座がみえるようになってきました。
ちなみに星占いの星座はその星座を見かけ上太陽が通過するときの期間を示しているので,深夜その星座を見ることができる時期とは6か月異なっています。
今年は冬型の気圧配置といっても,なかなか快晴になりませんし,風が強く寒い晩が多いので,星を見る機会がありません。そして,私の目的としている彗星は夕方の西の空なので,日没が早いこの時期はまた別の意味で大変です。通常の会社勤めをしている人には不可能な時間です。
2月はすでに満月も過ぎ月の出も次第に遅くなってきたので天気図とにらめっこをしていたのですが,21日は晴れそうだったので,彗星を3つ写真に収めようと西の空の開けた海岸の高台に向かいました。
まずは,エンケ彗星(2P Encke)です。先日,「とりあえず」写したのですが,それ以降,光度は増せど高度は低くなり,結局同じような姿にしかみえませんでした。やはり,この国の夕方の空の明るさは絶望的です。
結構明るい彗星であっても夕方の西の空でしか見ることのできないものはネット上でもあまり写真がありません。詳しい人にどうしてか聞いてみると,夕方の西の空の星が見える場所がこの国にはなかなかない,という話でした。であれば,多少明るくてもまだ私は恵まれているほうかもしれません。
エンケ彗星は金星に近いので探しやすいのですが,この日は戸惑いました。数日前とはずいぶんと位置が違うのです。そして,最大光度を迎えた金星がやたらと明るいのですが,彗星は淡く,見つけるのに焦りました。戸惑っていると沈んでしまいます。
もっと明るい姿を期待したのですが,がっかりしました。
さて,その次はタットル・ジャコビニ・クレサック彗星(41P Tuttle-Giacobini-Kresak) でした。
1858年にホレース・タットル,1907年と1951年にミシェル・ジャコビニ とルボール・クレサークがそれぞれ発見した周期5.4年の彗星です。この周期彗星もまた,私は50年も前から名前だけは知っていたのですが暗いものだと思い込んでいたので,ここで見ることができるのに感激しました。
ホレース・タットル(Horace Parnell Tuttle)はアメリカ合衆国の天文学者で,多くの彗星の発見者です。ミシェル・ジャコビニ (Michel Giacobini)はフランスの天文学者です。なんといっても有名なのはニース天文台で発見したジャコビニ・ツィンナー彗星(21P Giacobini-Zinner)です。この彗星はジャコビニ流星群の母彗星として有名です。ところで,松任谷由美に「ジャコビニ彗星の日」という歌がありますが,あれは「ジャコビニ流星群」の間違いです。ルボール・クレサーク(L'ubor Kresak)はスロバキアの天文学者で,2つの彗星を発見しました。スングースカ大爆発(Tunguska explosion)がエンケ彗星の欠片によるものだと発表したことでも知られています。
彗星は現在しし座にあって11等星と暗く,4月にかけて地球に近づき,明るくなってきます。
ところで,iPadのアプリ「iステラHD」という優れたソフトは天体を探すにはもってこいなのですが,欠点は彗星の位置が大幅に間違っていることがあるという点です。そこで,事前にPC用の「ステラナビゲータ」でしっかり準備してこないと,こんな暗い彗星は見失ってしまいます。現在は彗星がしし座の「獅子の大鎌」とよばれるわかりやすい位置にあったので,無事,しかも系外銀河NGC2903,NGC2905とともに収めることができました。
そして最後は急速に暗くなりつつある本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P Honda-Mrkos-Pajdušáková)。現在かみのけ座にあって,早くも午後8時過ぎには東の空に昇ってくるようになりました。かみのけ座の銀河団に近く,彗星と銀河を間違えるほど暗い姿になってしまっていたのですが,淡いとはいえ,尾も見えて,無事に今回の接近の大役を終えた堂々とした姿に感激しました。2か月にわたって見ることができましたがおそらくこれで今回の回帰は見納めです。
実はもう少し遅い時間になるとすでにジョンソン彗星(C/2015V2 Johnson)も写せるのですが,この寒さで長居は禁物,ジョンソン彗星はこれから明るくなるので,また次回のお楽しみとして,この日は,最後にばら星雲を写して帰宅することにしました。この晩はずっとカノーブスが輝いていたので,さぞかし長生きできることだろうと幸せな気分になりました。
◇◇◇
冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
冬の僥倖②-オールトの雲から来たネオワイズ彗星
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
冬の僥倖④-星が消える! アルデバラン食を見た。
冬の僥倖⑤-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー再会
冬の僥倖⑥-エンケ彗星を「とりあえず」写した。
2016夏アメリカ旅行記-ボルチモアでダルビッシュを見た③
●ボルチモアの「デイズイン」●
「デイズイン」(Days Inn)はアメリカによくあるホリデイインやコンフォートインなどと並ぶホテルチェーンのひとつである。いわゆる3つ星ホテルで,個人で宿泊するなら十分だからよく利用するが,私にはデイズインはホテルチェーンのなかでも格下のイメージであった。
ファーストフードのマクドナルドやファミリーレストランのデニーズなどと同じで,こうした全国チェーンのホテルならば大外れということもないので安心して予約ができるが,それでも,思っていたよりも豪華だったり,また,その反対だったりすることもある。
このデイズインは全く期待していなかったが,その予想に反してものすごく豪華であった。
アメリカの大都市のダウンタウンにあるホテルは日本人が思う以上に宿泊代が高いから,いつもはそうした都会に行くときはダウンタウンから30分程度離れたインタースイテイツのジャンクションや空港の近くにあるホテルを探すが,ボルチモアではボールパークの徒歩圏内に適当なホテルが見つかってほんとうによかった。
ただし,ホテルには無料の駐車場がなく,隣のパーキングに駐車するということだけが心配であった。
以前ボストンに行ったときもホテルはとてもよい立地であったが,駐車場に困ってしまった。そこにはホテル公認のパーキングもなく,一晩停めたら駐車料金がホテルの宿泊料金くらいした。
このように,アメリカの大都市のダウタウンのホテルに宿泊するとホテルの宿泊代が高く,さらに車があればどこに駐車すればよいのかというふたつの問題を抱えることになる。
このデイズインも駐車場が心配だったが,到着してみるとチェックインの手続きをする時間だけ車を駐車するスペースがホテルにあったので,路上駐車を免れほっとした。さらに,ホテルもあまりの豪華さにびっくりした。
早速チェックインを済ませると,車を隣のパーキングに停めるように言われたのでそこに車を移してから部屋に入った。パーキングからホテルには専用の通路もあった。
部屋もまた豪華で,セキュリティもしっかりしていた。窓から外を眺めるとボルチモアのベイエリアといわれるあたりを見回すことができたし,ボールパークも間近に見ることができた。
今日の写真を見る限り,ボルチモアはほかのアメリカの大都会同様に美しい都市に見えるであろう。確かに,一見では怖いと脅かされていたような雰囲気はまったくなかった。
部屋に入って荷物を片付け,さっそく,外に出ることにした。この街で,メジャーリーグベースボール(MLB)のゲームを見るほかに私がぜひ行きたかった場所はベーブルースが生誕した家であった。「カムデンヤーズ」のすぐそばにあって,現在,その場所は博物館になっているのだという。
そこで,私はホテルからまずは「カムデンヤーズ」まで歩いていって,そこまでの行き方や街の様子を調べながら,ついでにベーブ・ルースの博物館へ行ってみることにしたのだった。
愛しきアメリカ-「田舎のねずみ」と「都会のねずみ」
「田舎のネズミと都会のネズミ」。
子供のころ,私はこの物語が大好きでした。それに対して,「森」が出てくる童話とか,「クリスマススリー」とか,サンタクロースが「煙突」から家に入ってプレゼントを届けるとか,そういった話のすべてに違和感,というか戸惑いがありました。日本には「森」もモミの木でできた「クリスマスツリー」もサンタクロースが入ってくるような「煙突」もなかったからです。
アメリカを旅行するようになって,ようやく納得がいくようになりました。それらはすべて西洋社会でふつうの生活に根差したお話なのですね。
今の子供は,サンタクロースも信じているようだし物語も大好きだし,私が違和感をもっていたことに疑問を感じていないのでしょうか?
ところで,一口に「アメリカ」といっても,実際には地域差というのがすごいものです。最も大きな違いは,人が作りあげた大都会のある地域と神様の作り上げた大自然のある地域だと思います。私はアメリカのいろんな場所を旅して,そう思うようになりました。
日本であれば「ド田舎」といったって,所詮クルマで数時間走るだけで都会に行くことおができるから大したことはないのです。それに比べて,アメリカの「ド田舎」というのは,本当に「ド田舎」なのです。
そういうところに住んでいる人のなかには,海を見たことのない人もいっぱいいるしアメリカだけが世界だと思っている人だっています。日本人がそういったところに行くにはクルマがなければ無理なので,観光旅行をするくらいの日本人には全く知らない世界です。
そんなわけで,多くの日本人の考えるアメリカというのは,ニューヨークであったり,サンフランシスコであったり,シカゴであったりするわけで,日本に伝わるアメリカの情報も,そうしたところのものばかりです。
芸能人がニューヨークに住んだとかいう話を聞いて,多くの日本の人はそれをうらやましそうに思うのですが,実際に大都会に行ってみると,私には,ニューヨークに住むのもサンフランシスコに住むのも,結局,日本の東京や京都に住むのとそう違いはないなあ,と思うわけです。そういう都会に住む多くのアメリカ人は,逆に,アメリカのド田舎には行ったこともなければ,興味もない,という感じなのです。
アメリカの大都会,確かに面白いところではありますが,私は,決して住みたいとも,積極的に旅行をしたいとも,あまり思いません。
それに比べて,アメリカの「ド田舎」(ここではあえて「ド田舎」と書きます)の素晴らしさ,ったら他に比べようもありません。この「ド田舎」の雄大な風景は日本にはありえません。筆舌に尽くしがたいものです。
こういうところには,決して人間が作り上げた人工物ではどうやっても乗り越えられないかけがえのない大自然があります。そしてまた,そういうド田舎に住む多くのアメリカ人は,アメリカの大都会には行ったこともなければ,興味もない,という感じでもあるのです。
私はその両方に行ってみた結果,いくら大都会が魅力があるといっても,結局,いいなあ,と思うのは,アイダホ州やモンタナ州,ユタ州,ワイオミング州,オレゴン州,そういった大自然のほうなのです。
2016夏アメリカ旅行記-ボルチモアでダルビッシュを見た②
●ボールパークから徒歩圏内のホテルで●
これまでにも書いたように,私は,ボルチモアにあるアメリカで1番美しいといわれるボールパーク「カムデンヤーズ」でベースボールゲームを見るのが夢であった。
この旅をもって,メージャーリーグ 30球団すべてのボールパークに行くことができたが,そのなかでも,私がぜひ行きたかったのはこのボールパークであった。そこで,この旅の計画を始めたときに,一番先に大張り切りでこのボールパークのゲームのチケットを購入したのだった。
日本からの観光旅行者がアメリカでベースボールのゲームを見るにはさまざまな困難がある。
まず第一にナイトゲームはできれば避けたいのだ。ゲームの終了後深夜にホテルに戻ることに危険を感じるからだ。しかし,ボルチモアでは私の行く時期にデーゲームがなかったから,しかたなくナイトゲームのチケットを購入した。
スタジアムの座席は特に見たいプレイヤーがいなければどこでもいい。チケットの値段はピンからキリまでだがどの席もかなり高額だから,大金持ちならともかく私のような貧乏人がなるべく安価にあげるには,スタンドの最上段の席に限る。この場所ならボールパークすべてが見渡せるからだ。
次の問題は,ボールパークまでのアクセスである。
広いアメリカのボールパークには当然広い駐車場があって自由に駐車できる,という認識があれば,それば大間違いである。
このこともすでに書いたが,1990年以前多くのボールパークは郊外にあったからアクセスは車が中心であったのでボールパークのまわりには巨大な駐車場があった。しかし,こうしたボールパークは車を利用できる人には便利な反面,車がないと行くこともままならなかったから,日本から見に行くにはつらかった。
1990年以降のボールパークは,といってもこの発想の先駆者こそボルチモアだが,大都会の中心にボールパークを作ることで都市の再開発を促し治安の向上にも役立てようとした結果,ダウンタウンのホテルを予約すれば徒歩であるいは公共交通でホールパークに行って容易にゲームを楽しむことができるようになった。問題は,都会のホテルの宿泊代が異常に高価であるという点であった。
この旅で私はマイアミ,ボルチモア,フィラデルフィア,ワシントンDCと4つのボールパークに行くことができた。帰国した今となれば,それぞれの都会のボールパークにはどのようにアクセスしてゲームを楽しめばよいかがよくわかるが,行く前にそれを調べるのは非常に困難なのだった。
だからこそ旅をする楽しみがあるのだが,同時に,行く前に不安になるのがこのことである。
これもすでに書いたが,私はマイアミでオフィシャルパーキングを予約しなかったばかりに,駐車場を探すのに戸惑った。しかも,マイアミのボールパークはダウンタウンにあるのに近くにホテルがなかったから,車で行く必要があった。だから,マイアミでゲームを見るにはオフィシャルパーキングを予約しておくべきだったのだ。
いずれにせよ,マイアミ・マーリンズのボールパークはイチローがチームの一員でなければ行くほどの価値があるとは私には思えないが…。
それに対して,このボルチモアではチケットを購入した時点でパーキングの予約もしたのだが,皮肉なことに,パーキングを予約する必要がなかったのだ。ずっとあとになって私が予約したホテルがボールパークの徒歩圏内だったからだ。このようにやっていることがちぐはぐなのだが,現地の様子がわからないし,同時進行でチケットを買ったりホテルを予約したりしていないからこれも仕方がない。
一般に,メジャーリーグではネットでオフィシャルパーキングの予約をすると,ゲームのチケット同様に,駐車場のチケットも自宅のプリンタで印刷するという手続きをすることが多い。しかし,ボルチモアではゲームのチケットは自宅のプリンタで印刷すればよかったのに,パーキングのチケットは後日郵便で送るとあった。これまでの私の経験では,こうした場合,実際に郵便で送られてきたためしがない。大概の場合はムヤムヤになってしまうのだ。しかし,現地に行ったときに予約をしたという証明書やら予約番号やらクレジットカードを示すと,それで問題なくうまくいくという次第になる。きわめてアメリカらしいいい加減さである。
したがって,このときも私はまったく郵送されてくることはあてにしていなかったし,それで何とかなると思っていたが,なんと,数日後にアメリカからものすごく丁寧な挨拶状とともに本当に駐車券が送られてきたのにはかなりびっくりした。
ついでにもうひとつ書いておこう。
これもまたとてもアメリカらしいのだが,ネットでゲームのチケットを購入すると,近頃は,何かの都合で行かれなくなったときにそれを補てんする保険に入りませんか? というオプションが表示されるようになった。しかし,実際もし行けなくなったときにどういう手続きをするのか,ほんとうに代金が返ってくるのかがよくわからないから,よほど高価なチケットでない限りこんなものに入る必要はなかろう。
ここで書いたように,早々とボルチモアでのベースボールのゲームのチケットを購入した後で私はホテルをさがすことになったが,やはり,ダウンタウンのホテルはどこも非常に高価であった。しかし,ボルチモアの治安の悪さを異常に吹聴されていたこともあって,私はなんとかしてボールパークの近くのホテルをとりたいものだと思った。
探すうちにボールパークからわずか3ブロックの徒歩圏内にさほど宿泊代の高くない「デイズイン」を見つけたので早速予約した。しかし,おそらくぼろホテルだろうと,まったく期待していなかった。ホテルの入口に浮浪者がたむろしている姿を想像した。
このときはまったく知らなかったが,後日,「地球の歩き方」やインターネットの書き込みで「ボルチモアでベースボールのゲームを見るにはこのホテルに泊まるべきだ」という多くの情報を見つけたとき,私がこのホテルを予約したのは大正解だと確信したのだった。
2016夏アメリカ旅行記-ボルチモアでダルビッシュを見た①
●目指すは「カムデンヤーズ」●
当初の予定にはなかったマウントバーノンに寄ることもできて,このあと,私は一目散にボルチモアを目指すことになった。
目的地は,アメリカ一美しいといわれるボールパークであるボルチモア・オリオールズの本拠地「カムデンヤーズ」である。
私は,この旅に来るまで,ボルチモアという都会について全く知らなかった。
ワシントンDCに本拠地を置くメジャーリーグのチームができるまで,ワシントンDCに最も近いボルチモアでの開幕戦に大統領が始球式を行っていたと聞いても,ボルチモアがワシントンDCに近いという実感がわかなかった。
アメリカが広いとはいえ,マサチューセッツ州のボストンからバージニア州のリッチモンドあたりまではごちごちゃしていて,人も車も多く,日本の東京から岡山あたりまでとさほど違わない。ボストンだけ,ニューヨークだけ,ワシントンDCだけと車を使わずに観光するならともかく,この間の移動を伴うと,ここは4泊5日で東京と京都と大阪と神戸を旅行するのとさほどの違いはない。
見どころはたくさんあるのだが,ここで得られる体験は「広大なアメリカ」というイメージとはかなり質が違うであろう。
私も,この旅に来るまで,一度は見てみたい,行ってみたいと思い続けていたところはたくさんあったのだが,そのすべてを実現させてしまった今となっては,また行きたいなあ,とあまり思うこともない。
私は,東京には決して住みたいと思わないがニューヨークもまた同様である。
ボルチモアはワシントンDCから車でわずか40マイル,つまり64キロほどである。マウントバーノンからはインターステイツ895を40分程度走るだけだ。
私はマウントバーノンからポトマック川を越す橋を通り,そのままワシントンDCを北に眺めながら走っていった。途中,ワシントンDC が遠くにかすんで見えたときには感動した。数日後にまたここに来るんだなあと思った。
また後で書くことになるだろうが,この時点では,私のワシントンDCの記憶は30年以上前に来たときのままであった。しかし,この旅で実際に行ったワシントンDCは,そのころに比べて,遥かに人も多くモールも博物館もずいぶんと汚くなっていた。
そのうち,ボルチモアに近づいてきた。インターステイツを降りて道なりに走っていくと車はダウンタウンに入っていった。
もう,これまで再三書いてきたが,ボルチモアといって多くのアメリカ人が思い浮かべるのは「怖い」というイメージだ。どうやら「ボルチモア」「デトロイト」「イーストセントルイス」というのがアメリカの「3大危険都市」であるようなのだ。
私も来るまでずいぶんと脅されていていた。そのために,ボルチモアだけはボールパークまで徒歩圏内にあるダウンタウンのホテルを奮発したのだった。
「地球の歩き方」によると,港近くに見どころがあるということだったが,私がここに来た目的のすべては美しいボールパークでベースボールのゲームを見たいということだけだったから,そんなものはどうでもよかった。
今日の下から2番目の写真の道路のはるか彼方にみえるのが,私がめざす「カムデンヤーズ」である。
アメリカの大都市の多くは,こうしたメジャーリグベースボール(MLB)のボールパークがランドマークになっている。メジャーリーグ大好きの私には,写真やテレビの中継で見慣れたボールパークの「ホンモノ」を真近かに見ると,いやがうえにもテンションンが高くなるのであった。
◇◇◇
ルネサンス,遥か。-モータウン・デトロイト③
2015春アメリカ旅行記-セントルイスへ⑤
2016夏アメリカ旅行記-マウントバーノンとワシントン③
●アメリカ大統領の墓地●
マウントバーノンは年中無休ということである。
ひろい敷地は塀で囲まれていて,その外側に多くの駐車スペースがあるが,どこも満杯で,私は,車を停める場所を少し遠くまで探さなければならなかたから,車を停めた場所から入口まで暑い昼下がりけっこう歩く必要があった。
やっと入口に着いて,入場料を払ってなかに入った。ここで邸宅を案内するツアーの参加時間を決められて,その時間まで,園内を自由に散策できるのだ。
まず,豪華な建物があって,その内部は博物館になっていた。私の目的地はワシントンの墓地であったから,ともかくそこまで大急ぎで行くことにした。
なにせ,時間がない。
私は,もともとここに来る予定はなかったから,ツアーで邸宅を見学する時間すらなかったのだ。
それにしても園内は広く,ずいぶんと歩いたところにワシントンの墓地があった。それが前回載せた写真である。
このワシントン夫妻が静かに眠る墓所は,毎日リースを置く儀式が行われ,スカウトが参加しているという。
この敷地には,ワシントンの邸宅以外にも,多くの建物,奴隷用宿舎,台所,厩,温室などがあって,それらを回ることができる。
ワシントンの墓地までたどり着いて念願を果たした後,私は,再び入口にある建物に戻るついでに,庭園を散策し,森の小道を歩いた。4エーカー (すでに書いたが1エーカーは小学校の校庭ほどの広さ)の農園には再建された16面の納屋もあった。
帰りがけ,博物館(ドナルド・W・レイノルズ博物館)(Donald W.Reynolds Museum)を少しだけ見た。
ここにはワシントンの測量用具,武器。衣類のほかに最初に大統領になった頃の義歯も保管され,見ることができた。
私はこうして駆け足でマウントバーノンのワシントンの墓へ行くことができたのだが,これで,アメリカの歴代大統領のうち,ジョージ・ワシントン,モンテチェロにあったジェファーソン,アーリントンのケネディ,テキサス州ののジョンソンへ行ったことになる。それらの墓地はすべて立派なものであった。しかし,こうした立派な墓地にすべての大統領が葬られているというわけでもない。
2016夏アメリカ旅行記-マウントバーノンとワシントン②
●ワシントンの住んだ場所●
マウントバーノン(Mount Vernon Estate & Garden)はアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)が22歳から67歳まで過ごした土地である。
当時,ジョージ・ワシントンの邸宅は広大な農園に囲まれたこの地にあって,ワシントンは農園主であった。
もともとワシントンは現在の地に葬られたわけではないが,現在は改葬されて,バウントバーノンの一角に建てられたこの写真の建物のなかの棺に眠っている。
ここは1960年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定,国家歴史登録財にも登録されて,マウントバーノン婦人協会による信託で所有・維持されている。
この地の歴史は17世紀に遡る。
1674年,ジョージ・ワシントンの曽祖父となるジョン・ワシントンとニコラス・スペンサーがマウントバーノン・プランテーションとなる土地を所有した。
その後,ジョン・ワシントンの子ローレンス・ワシントンが相続し,ニコラス・スペンサーの相続人と協議して、ワシントン家とスペンサー家はこの土地を分割した。
ローレンス・ワシントンの死後,娘のミルドレッドが相続した。
1726年,ョージ・ワシントンの父であるオーガスティン・ワシントンの要請によってポトマック川に近い部分の土地がオーガスティン・ワシントンに売却され,彼はは家族と共にこの土地に引っ越してきた。
1738年になって,オーガスティン・ワシントンはイギリスに留学していた長子のローレンス・ワシントンを呼び戻しタバコを栽培するプランテーションを預け,オーガスティン・ワシントン自身は以前住んでいたフレデリックスバーグに隠居した。
成人したローレンス・ワシントンは隣接するスペンサー家の領地から少しずつ土地を購入し,ローレンス・ワシントンの上官で海軍少将だったエドワード・バーノンに因んで「マウントバーノン」と名づけた。
1752年7月,ローレンス・ワシントンの早すぎる死に接したジョージ・ワシントンがマウントバーノンに住んで,プランテーションの経営を後継したと考えられている。1759年からアメリカ独立戦争に至る間,傑出した農業専門家になることを目指していたワシントンはこの敷地を5つの農園に分けて運営した。
ワシントンは1775年以来の独立戦争を指揮し,1783年アメリカ合衆国の独立を成就させ,初代の大統領に就任した。ワシントンは独立戦争に参加した後マウントバーノンに戻り,1785年から1786年にかけて敷地の景観の改善に多くを費やした。ワシントンはマウントバーノンでの幸福な引退生活を望んだのだが,1798年フランスとの戦いが切迫し総司令官となった。
1799年12月12日,彼は喉頭炎にかかり医者の勧めに従って960ccの血液を抜いたことが彼の生命力の衰えを促し,14日に死亡した。18日の朝,マホガニーの棺に入ったワシントンの遺体はポトマック河を見下ろすマウントバーノンの広場に安置された。霊廟の前で宗教儀礼が行われたあとフリーメーソンによる古代儀礼が厳粛に行われ棺が廟に納められた。
1799年にワシントンが死んだ後,プランテーションの所有権は何人かの子孫に受け継がれたが,その資産を維持する意思や手段には欠けていた。バージニア州もアメリカ合衆国もこの家と敷地を購入することは辞退したが,1860年,アン・パメラ・カニンガムが指導するマウントバーノン婦人協会が邸宅とその周辺の土地を20万ドルで購入し,荒廃と放棄の状態から救った。
ここ,マウントバーノンはこうした経緯をたどって,現在に至っている。
ついに胃カメラを体験した。-経験は人を強くする。
今年に入ってから体調で少し気になることがあったので,意を決して病院に行きました。
私は,寿命は神様にお任せし病気はお医者さんにお任せてして,自分でできないことはくよくよ考えず,日々を楽しく過ごすようにしています。どっちみち,人生なんて死ぬまでの暇つぶしです。
身体は神様からお借りしたものなので,タバコなどの害で汚すことのないように大切にして,神様がおよびになったらそのときは「ああ,楽しかった!」と言ってお返しするつもりです。
ということなのですが,実際はそうは思ったようにいきません。悩まずすぐにお医者さんに相談… というほど私の精神が頑強なわけでもなく,さすがに今回受診すれば絶対に人生初の胃カメラになるだろうからと覚悟するまでちょっとだけ時間が必要でした。この歳の患者が調子が悪いといって受診すれば,私が医者でもやはり胃カメラを,と言うに違いないと思ったからです。
で,やはり,診断の結果,胃カメラとエコーをします,と言われ,ついに念願の? 人生初胃カメラを体験することになりました。
巷から漏れ聞こえてくることには,胃カメラほど苦しいものはないらしく,私の弟も二度とやらないと言うし,先輩諸氏からは有益な? アドバイスもいただきました。そうしてみると,結構多くの人がすでに体験しているみたいです。こういうときに,ネットなどの書き込みを調べるとだんだんと気が重くなるので,ほとんどそういった情報を探すこともしないで,胃カメラに挑戦することにしました。
何事も経験しないとわからない,と常々書いている手前,これもまた経験だと思ったら,だんたんど海外旅行に行くのと同じような精神状態になってきて,期待? に胸を膨らませるような状況になりました。ともかく,いくら人の話を聞こうがネットで調べようが,何事も経験しないと本当のところはわからないのです。
これまでの私の人生で何が苦しかったかといえば,その第一は,ロサンゼルスで身ぐるみすべて盗難にあって,残った100ドルだけで必死の思いで帰国したときですが,それは2001年のことです。その程度のことがつらかったのだから,今思えば,これも人生経験のなさが原因です。
その次は,2007年にバカな上司のいじめにあって仕事を辞めたときです。これは何が大変だったかというと,この先,生きてゆけるのかしらん? と不安にかれたことと,それまで尊敬していた人たちの多くが実はどうにもならないほど無能であったということ,そして,社会というのはそういう被害者に実に冷たいということを知ったことです。これが現在の私の社会や権力に対する穿った発想の原点であり,すべて実体験がもとになっております。
しかい災い転じて福となすというか,その後の人生は好転し,自分でも信じられぬほどの幸運とよい人に囲まれて,おかげさまで今や悠々自適の,何の憂いもない人生をおくっております。
そして第三は,2004年モンタナ州で交通事故にあって左足を完全骨折したことです。いや,骨折自体はつらくなかったのです。アメリカの先進医療のすばらしさは,まったく痛みもなく骨折の手術と治療をしてもらえました。むしろ,アメリカで救急車に乗ったり入院したりと,普通ではできない様々なことが体験できて私は好奇心いっぱいでした。おまけに,帰国するときは看護師同伴でファーストクラスでした。それよりもつらかったのはその1年後,骨折の治療のときに骨の中にいれてあったチタンの棒を抜くために,元気なのに入院して再手術をしたときです。
まあ,そんな三つの経験からすれば,わずか数分の胃カメラごとき,私にはたいしたことでもありません。
経験は人を強くするのです。
とまあ,そんな状況だったのですが,検査当日,喉に麻酔のシロップを入れて,いよいよ検査の開始です。麻酔がよく効くようにシロップを飲み込む前にしっかり喉にためるのがコツだと教わっていたので,事前にお水でこの練習だけは毎晩してきました。
胃カメラが喉を通るとき少しだけ苦しかったのですが,事前の練習のおかげで私の予想は大幅に外れ,まったく大したこともなくすんなりと胃カメラは喉を通過しました。胃カメラはよくもまあこんなにも入っていくものだと思うほどぐいぐいと胃を越え十二指腸まで達しました。どこを通っているのかがよくわかるのです。検査中はずっとモニターを見ていたのですが,自分のものとはいえ内臓を見る機会などそうあるものではないから,非常に興味深く観察しました。それにしても鮮やかに見えるものです。さすがオリンパスの技術です。
いろいろと説明を受けながらモニターを眺めていたら,ほとんどなんの苦痛もなく,私の胃カメラ初体験は楽しく終わりを迎えました。
近ごろは鼻から入れる楽なものもあるのだそうですが,私の場合,人間ドックならともかくも,何か病気を疑って受けた検査なので,その場で生検ができるように口からの胃カメラというのが必然の成りゆきでした。全身麻酔をすることもなく単に喉に麻酔をしただけで受けた検査でこの程度だから,まあ,毎日でも,というのはオーバーですが,病気を心配するくらいなら,さっさと検査を受けて安心したほうがずっとマシだとつくづく思った次第です。それとともに,こうした胃カメラを作り上げた先人の努力とオリンパスという偉大な会社に感謝しました。
結果は… 幸せなことに,まったく異常なしでした。
これからは生意気な若いモンがいたら言ってやろう。「胃カメラ口から飲んだこともないのにいっぱしの口きくな」とね。そんな気持ちになった愉快な? 1日でした。
◇◇◇
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に①
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に②
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に③
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に④
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に⑤
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に⑥
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に⑦
アイ・ラブ・モンタナ-9年前の9月13日に⑧
「ニコンDL」発売中止-この会社はどこへ向かうのか?③
ニコンが3月期の業績予想を予想を超えて下方修整したとか,DLというカメラの発売を中止にしたとかいって,株価が下がっていますが,今ごろになってそうしたことを騒いでいるのが,私にはとても不思議です。それは,このような状況はずいぶんと前に予想できたことだからです。
私が大学を卒業した今から40年近く前,先輩や同期の学生たちは,ある者は東芝に就職をし,ある者はシャープに,そしてニコンに就職しましたが,それらの企業は,私が定年になるころにはどこも重い荷物をかかえてしまいました。こうした現在の状況を誰が予想できたことでしょうか。
当時,私が一番印象に残っているのは,オリンパスとニコンに入社しようと受験をした先輩たちから,オリンパスは難しい入社試験の選抜があったのにもかかわらず,ニコンは単に大学の名前で入社する学生を決めていたという話を聞いたことです。所詮学歴だけの会社だったのでしょうか。
それはともかく,私はそのころからずっとニコンのカメラを,EL,FM,FE,F3と使い続け,今も,D5300とD5100で天体写真を,ニコン1を持って海外旅行を楽しんでいるのですが,近ごろは本当にこれを使い続けていいのかな? と思いはじめていただけに,私の思っていた予感が的中してしまったようです。
先ほど書いた40年近く前のこと,ニコンに就職した先輩が会社はカメラではない新しい分野に参入するとか言っていましたが,それがステッパーだったのです。しかし,この分野もまた,今は見る影がなくなりました。
いつも思うのですが,この会社は販売している製品がちぐはぐなのです。
D5,D500といった高級カメラはともかく(とはいえD500はユーザーの要望がなければ作らなかったカメラです),それ以外は何かひとつずれているのです。D810Aという天体写真用のカメラがありますが,あれはD810でやっと天体用の画質が写せるカメラを開発できたことに気をよくして念願の天体用カメラとしてD810のボディを流用してHα領域がよく写るフィルタをつけて発売したもので,天体用といいながら液晶モニターが固定であったり内蔵フラッシュがあったりと,高価な割にまがいもので,こだわりがあるようでずさんです。
Dfは昔のフィルムカメラに比べたら大きすぎますし,D610は要りません。フルサイズの低価格のものを販売したいのなら,もっと性能を絞って安価にしなくてはD750と差別化できません。D7200もD500があるなら不要です。
一般アマチュア用にはD5300,D5500,D5600,D3400 と4機種もありますが,D5500もD5600も要りません。D5300だけで十分です。D5600には「SnapBridge」というスマホと連動する機能がありますが,サービスセンターで説明を聞きながら操作してみたところ,私の用途には使い物にならずがっかりしました。
それよりも私が欲しいのは,D5300AといったD810Aよりも安価な天体写真用のカメラです。どっちみちD810AだってD810の流用だから,D5300Aは単にD5300にHα領域がよく写るフィルタをつけただけのもので充分です。今や,一眼レフカメラの利点はスマホでは写せないものが写せるということだけなのですから,自然を写すアマチュアカメラマンの興味が星好きでなくても天体を入れた風景写真にシフトしているのなら,この分野に他社にはない美しい星空の画像が写せる安価なカメラを出せば,多くのアマチュアカメラマンは飛びつきます。そうすれば,一般の撮影用としてもう1台一般のD5300の方も購入するはずです。しかしもしそうなったとしてもD5300はボディーのみでは売っていないのです。今の販売体制では,同じレンズを2本も必要としないほとんどのユーザーは2機目が買えません。
アクションカメラを発売しましたが,あんな後追いの既存の製品を超えていない中途半端なものでは売れません。今や「ニコンだから売れる」そんなブランド力は会社が思っているだけで,一般にはありません。実際評判もよくありません。もともと,この会社,これまでもアマチュア用の天体望遠鏡やらアンドロイドOSを内蔵したコンパクトカメラやらメディアポートやらといった新しい分野の製品に突然参入しても「ニコンようかん」以外にうまくいった試しがないのです。そして,売れないとなると,そんな製品はなかったことのように簡単に退散してしまうのです。だからそれを買った人はバカをみるのです。
きっとニコン1も同じことになるのでしょう。第一,このニコン1というカメラ,後継機種はバッテリーも互換でなければSDカードもミニに変わってしまうというように,過去のユーザーを見限っているのです。買い替えられるものなら買い替えてみろ… みたいな感じです。
ペンタックスやミノルタ同様,もう,創業100年を期して店じまいしてどこかと合併するしか生き残る道はないでしょう。今や「さえないけれど三菱」系だから三菱電機とか,あるいは,系列は違えどJVCあたりと一緒になって,動画の分野も一緒にしないと施しようがありません。ドローンをはじめとして,これまでは写せなかった映像が誰にも簡単に写せる身近なものになった今,映像機器メーカーにとってもっとも「ウリ」の時代なのに,スマホに勝てる魅力的な製品が出せないなんて,根本的な戦略が間違っています。
私は,今後,どこのカメラを使えばよいのでしょう?
◇◇◇
「ニコンミュージアム」-この会社はどこへ向かうのか?①
冬の僥倖⑥-エンケ彗星を「とりあえず」写した。
今から50年ほど前の小学生のころに愛読していた「月刊天文ガイド」によく名前の出ていた彗星のひとつが,本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星で,もうひとつがエンケ彗星です。
この歳になって,そうした私の原体験の実物が目の前にあるというのもなにか不思議な気がします。
この有名なエンケ彗星(2P Encke)は周期わずか3.3年で太陽の回りを公転する彗星です。3.3年というのは現在知られている周期彗星の中でも最も短い周期なのですが「2P」という周期彗星番号で明らかなように,ハレー彗星(1P Halley)の次に周期性が確認された彗星です。
この彗星は1786年にピエール・メシャン(Pierre François André Méchain)=2番目の写真 が発見したのですが,その後,1795年,1805年,1818年に発見された彗星が,1822年にヨハン・フランツ・エンケの軌道計算により1786年の彗星と同一の彗星であることが確認されたので,この彗星を「エンケ彗星」と呼ぶようになりました。
現代の天文台の望遠鏡ではエンケ彗星は遠日点(太陽から最も遠くなる地点)でも観測が可能です。
ヨハン・フランツ・エンケ(Johann Franz Encke)=3番目の写真 はドイツの天文学者です。
エンケは,1818年に発見された3個の彗星のうちのひとつが1805年にジャン=ルイ・ポン(Jean-Louis Pons)によって発見された彗星と同じものではないかというポンの示唆を受けてこの彗星の軌道要素の計算を始めました。
当時知られていた周期彗星は全て70年以上の周期を持っていたのですが,エンケの計算で得られたこのポンの彗星の周期は3.3年であり,しかも遠日点は木星軌道の内側にあるという衝撃的なものでした。エンケはこの彗星の次の回帰を1822年と予測し,オーストラリアで実際に観測され,さらに,この彗星はかつて1786年にピエール・メシャンによって,また1795年にキャロライン・ハーシェル(Caroline Lucretia Herschel)によって観測された彗星と同じものであることも確かめられました。
このことによって,エンケは短周期彗星の発見者として有名になり,短周期彗星の最初の例となったこの彗星は彼にちなんでエンケ彗星と命名されたのです。
私は,エンケ彗星など暗くて見ることができないと思い込んでいたので,これまでこの彗星を見る機会がありませんでした。今回の地球への接近では6等星まで明るくなるので,なんとか写真を写したいものだと思っていました。
彗星は次第に太陽に接近し10等星より明るくなったことと満月が過ぎたことで,2月13日ごろから容易に写せるようになりました。
今後は月が昇るのが遅くなり月の光も気にならなくなるのですが,彗星は明るくなってくるとともに西の空に低くなっていきます。つまり太陽に近くなっていくので見えなくなります。
ということで,最も条件の良いのは2月20日ごろであり,見ることができるのはその前後の2月13日から2月末までのわずか2週間程度なのです。
ファーストチャンスの13日は天気がよかったのですが,私はあいにく時間がなくていつもの観測場所まで行けませんでした。そこで「とりあえず」15分程度で行くことができる家の近くの川の堤防でなんとか写したのが今日の写真です。
その場所は空は開けているのですが北斗七星もみられないほどの明るい場所なので,写るかな? と思ったのですが,彗星のある場所は金星に近いのでファインダーで場所を特定するのは容易だったので,夕方7時ころ,10等星の彗星を確認することができました。
さて,この先,少しでも明るい姿を捉えたいものだと思っているのですが,どうなることやら…。
◇◇◇
冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
冬の僥倖②-オールトの雲から来たネオワイズ彗星
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
冬の僥倖④-星が消える! アルデバラン食を見た。
冬の僥倖⑤-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー再会
2016夏アメリカ旅行記-マウントバーノンとワシントン①
●少しだけ遠回りをして…●
ウドバーハジーセンターで長居をしてしまったが,そろそろ話を進めよう。
ワシントンDCからポトマック川の西岸にそって南に30キロ行ったところに「マウントバーノン」というところがある。アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの墓地があるところだ。私はここにジョージ・ワシントンが眠っているということは少し前にテレビの番組で知ったが,交通の便もあまりよくないので,まさか自分が行くことができるとは思ってもいなかった。
この私には縁のない場所だと思っていたマウントバーノンの位置関係を日本と比べて説明してみよう。
私が昨日走ってきたシェーランド国立公園が南アルプスで,宿泊したフロントロイヤルが甲府市,そして,ウドバ―ハジーセンターが府中の飛行場で,東京都心がワシントンDC,ボルチモアがつくば市という感じだと考えていただこう。
すると,マウントバーノンは横浜あたり,という感じになるであろうか。
この日,私の目的地はボルチモアの「デイズイン」というホテルであった。もともと,今日はこのボルチモアを終日観光するつもりであった。そして,夜,ボルチモアでメジャーリーグベースボール(MLB)のゲームを見て1泊したのちに,翌日はフィラデルフィアまで行ってレンタカーを返すことになっていた。
先ほどの例に従うと,フォラデルフィアは仙台あたり,という感じであろうか。
それが,ウドバーハジーセンターがフロントロイヤルとボルチモアの中間にあることとと,マウントバーノンもまた,行くことがができない距離ではないことと,さらには,ボルチモアは終日観光するほどの魅力がないように思えたことから,ボルチモアへ行く途中で,この2箇所に寄り道をすることになった。
つまり,私は甲府市(フロントロイヤル)からつくば市(ボルチモア)に行くのに,府中市(ウドバーハジーセンター),横浜(マウントバーノン)へ遠回りをして,そののち,東京湾アクアラインを経由して北上し,つくば市へ向かう,そんな感じになった。
マウントバーノンは,車がなければワシントンDCから地下鉄のイエローラインに乗って,ハンテイントン(Huntington)駅でバスに乗り換えてさらに30分,というアクセスになる。バスは30分おきに出るそうだが,それでもかなり不便である。要するにワシントンDCから行こうと思うと1日がかりなのである。だからこの旅でマウントバーノンに行くことは全く考えていなかったわけだが,車なら少し遠回りすれば行くことができないわけでもなさそうに思えたので行くことにしたのだった。とはいえあまり時間の余裕もなかったので,マウントバーノンではせめてジョージ・ワシントンの墓地だけみてこようと思って立ち寄ったわけだった。
ウドバーハジーセンターからマウントバーノンまでは1時間弱であった。
ワシントンDCの近郊もやはりフロリダ州のように有料道路があった。別に有料道路だからといって日本のように通行料が高額ということもないのだが,私はこの旅では,すでに書いたように,フロリダ州のややこしい有料道路のシステムにすっかり嫌気がさしていて有料道路恐怖症になっていたから,車のカーナビに有料道路をさけるように設定してマウントバーノンまで走っていった。やがて,マウントバーノンの広い敷地が見えてきた。入口は愛知県の博物館明治村のような感じであったが,ずいぶんと多くの観光客でにぎわっていた。アメリカでは,平日も休日も関係なくどこもものすごい観光客であふれている。
駐車場もたくさんあるのだが,空いたスペースを探すのにずいぶんと戸惑った。入口からかなり遠い場所まで行って,ようやく車を停めることができた。
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー⑥
●過去の遺物をお金を取って見せる●
ウドバーハジーセンターには,当然,スペースシャトルをはじめとする宇宙開発に関する展示以外に,多くの航空機の展示があった。というよりも,むしろ,航空機の展示の方がメインなのである。
私がアメリカを旅して思うのは,アメリカという国は,本当に飛行機が好きだということである。アメリカのいたるところに航空博物館というものがある。
この航空博物館,博物館といえば聞こえはいいが,要するにいらなくなったものの物置場であると思うが,こうした過去の「遺物」にも商品価値を見出して,お金を取って見せるということに,アメリカ人は長けているのだ。
日本人は飛行機よりも鉄道好きで,鉄道博物館がたくさんあるが,航空博物館はあまりない。国土の広さと関係するのであろう。
では,最後に,ウドバーハジーセンターの1階に所狭しと展示してあった航空機についても,書いておくことにしよう。
ライト兄弟がはじめて飛行機を飛ばしたのが1903年というから,航空機の歴史はまだ100年と少ししかたっていないが,航空機はものすごい進化を遂げているものだといつも思う。その理由は「軍事」であった。
ウドバーハジーセンターには現在320機ほどの航空機が展示されているが,ひときわ目につくのが1階の中央に鎮座ましましている巨大な黒い物体である。これはロッキードの「ブラックバード」といい,最高速度がッハ3.3の偵察機で,1961年に初飛行したものだ。このおどろおどろしい姿をみると,先ほど見たスペースシャトル・ディスカバリーとは真逆な感動を覚えてしまう。
航空機の展示はいくつかのコーナーに分かれているが,特に多くの航空機があるのが,民間機のコーナーと軍用機のコーナーであった。
民間機は1950年ころから本格的に運用されてきたが,当初,アメリカはイギリスに後れを取っていた。現在も,ボーイング社とエアバス社という2大航空機はアメリカとヨーロッパの会社である。民間機のなかで,ウドバーハジーセンターでの見ものはなんといっても「コンコルド」(Concorde)であろう。
1967年に完成したイギリスとフランスが共同開発したこの超音速旅客機は2003年にすべて退役してしまったが,ここに展示されているものは量産5号機である。
アメリには,ニューヨークのスペースシャトル・エンタープライズの展示してある「イントレピッド会場航空博物館」に量産10号機が,シアトルの「アメリカ シアトル ボーイング・フィールド航空博物館」に14号機が展示されていて,私はそのどちらも見たことがあるので,特に珍しくもなかった。
私は1980年にイギリスとフランス旅行を楽しんだが,その時にロンドンだったかパリだったかは記憶にないが,実際に飛行するコンコルドを見たことがある。私の乗った飛行機の機長が興奮して「コンコルドが見える」と叫んでいたのを覚えているのだが,当時は,どうしてそんなに興奮するのかよくわからなかった。
話は脱線するが,私はそのときの旅で,北極上空を飛んでいた時に機内からオーロラを見た。それもまた,機長が興奮して「オーロラが見える」と叫んでいたが,それもまた,どうしてそんなに興奮しているのかよくわからないかった。
知識がないというはこういうことをいうのだと今はとても残念に思う。
軍用機のコーナーで私が最も関心があったのが,グラマン社の「F14・トムキャット」であった。この軍用機は1970年から2000年ごろまで,特に湾岸戦争などに使用された多目的戦闘機である。
ここウドバーハジーセンターと,ワシントンDCのモールにある航空宇宙博物館の両方を訪れれば,アメリカの航空機の歴史はほとんどわかることであろう。しかし,航空博物館としては,オハイオ州デイトンにある「国立アメリカ空軍博物館」(National Museum of the United States Air Force)が最もお勧めであるのだという。私はそこへは行ったことがないが,これ以上の博物館というのだから,私には全く想像がつかないほど桁違いの素晴らしさなのであろう。一度は行ってみたいものだ。
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私は根本的な間違いを教えられてきた-人生は競争ではない
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上手なたとえでないかもしれませんが,私は「囲碁は陣地をたくさん取った方が勝ちなのにたくさん石をとった方が勝ちだ」というような,そんな根本的な間違いをずっと教えられてきたような気がします。
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読売新聞のウェブサイトに「「残業ゼロ」でも「趣味ゼロ」という大問題」と題して,次のような内容の文章が載っていました。
「プレミアムフライデー」は,毎月最終週の金曜日の午後3時に社員に退社を促す試みであり,同時に消費の活性化も狙っているのだが,「週末になって仕事がなくなると,何をしていいのかよく分からない」と真面目な顔をして言う人がよくいる。それも,40代の人たちに目立つ。」
それは無理もないことです。
子供のころから,「勉強」といえば,テストでよい点を取ることが目的で,そのためにドリル学習をして競い合い,中学校や高等学校では,絶えず部活動と塾に追いまくられ,やっと大学に入ると,今度は自分探しをするどころか,これまで鬱積した反動で,主体的に勉強をすることもできないから何をするのかもわからず,単に欲望の赴くまま遊び何も身につけず,3年になれば,今度は就職活動…。
そして,めでたく就職できれば,早朝から深夜までの重労働…。
やっと結婚すれば,子どもの教育費に,将来は負債にしかならないのに住宅を買ってローンに追いまくられる…。
これで趣味をもって人生を有意義に過ごそう,という方が無理というものです,
「プレミアムフライデー」は時間を与えてお金を使わせようということが目的であっても,そのための文化やら環境の整備やらなどの長期計画もなく思いつきではじめた施策にすぎないから,飲み屋へ行くくらいが関の山であるわけです。このこともまた,これまで予算をとって長期的な展望をもって人材を育ててこなかったのに,いきなり情報教育や小学校英語教育をはじめて,専門でもない教科の教師に教えさせるような文部科学省のやり方と同じです。
「週末に旅行を」といっても,国内に魅的な場所などほとんどなく,しかも数少ない魅力的なところはどこも混んでいて,では海外に行こうとなっても,英語ひとつ満足にできるような教育を受けてもいないわけです。
いつも書いている英語や国語以外にも,そもそも学校で学ぶ「日本史」は「日本史」といっても,あれは「日本権力闘争史」でしかありません。庶民がどういう生活をし苦しんできたのかなど,ほとんど学んでいません。もし戦国時代に生きていたら,あなたは織田信長でも明智光秀でも,その家臣でもなく,戦で田畑を焼かれる農民の側だったことでしょう。こういう教育を受けてきた官僚に庶民の生活などわかりそうもありません。
考えてみれば,そういう「時間があっても何もすることがない」というような人生しか過ごせない価値観を教えたのもまた教師です。
教える側の教師だって,結局は趣味もなく,なかにはいつまでも学生気分で「ブカツ」をするために教師になったような教科の専門性もない人さえいます。実際,教師を辞めたら生活力もない人が,生徒に社会やら人生を語っているのだったら,これは悲劇というよりも喜劇です。そして,そうした教師のなかから,出世欲とプライドの塊のような人間が人として優れたわけでもないのに管理職となったり,そのなかには生きることを競争だと思っている人もいるのから,もう救いようもないのです。
私は,これまで「こういうものだとかこうであるべきだ」と習ったことのそのほとんどが,実は,根本的に間違っているように思えてきました。私は,そうした「教え」を守らなかったからこそよかったものの,もし,言われたとおりに生きて来たら,今頃は過労死をしていたか,この齢になって,することもなく時間を持て余していたことでしょう。
人生は競争ではありません。
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー⑤
●宇宙を飛んだカメラ●
アメリカの有人宇宙計画は多くのカメラで記録された。
アポロ計画で使用されたのは,スウェーデンの「ハッセルブラッド」(Hasselblad)製だった。「ハッセルブラッド」がNASAや宇宙飛行士に好まれたのは,比較的簡単に操作できたことと,カートリッジ式のフィルムが使われていて撮影途中に光の状況が変わったときでも簡単にフィルムを交換できたことによる。
アポロ計画ではNASAの依頼で「500EL」の改良版が開発された。この「ハッセルブラッド・エレクトリック・データ・カメラ(EDC)」は,宇宙空間での利用に特化したレンズとガラスプレートを備えたものである。宇宙飛行士たちは,この「ハッセルブラッドEDC」をアポロ8号の月周回ミッションの段階から使い始め,1969年の人類初の月面着陸の時には,ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン飛行士がそれぞれひとつずつこのカメラを手にしていた。
撮影したフィルムだけが地球に持ち帰られたために,現在,月面には月に降りた宇宙飛行士がそれぞれもっていった12台の「ハッセルブラッドEDC」が残されている。
その後,アメリカの有人宇宙計画では,日本の「ニコン」製のカメラが使用された。1971年,アポロ15号ではNASA特別仕様の「ニコン Photomic FTN」が使用された。1980年に「ニコンF3」をベースとしたモータードライブ付き「F3スモールカメラ」と長尺フィルム用「F3ビッグカメラ」を納入し,翌年打ち上げられたスペースシャトル・コロンビアに搭載された。さらに1991年には「ニコンF4」と「ニコンF4S」を納入した。
デジタルカメラ時代に移行してもニコンが使われる。2008年に「ニコンD2XS」を納入,2009年には国際宇宙ステーション内の記録撮影用として「ニコンD3S」11台と交換レンズ「AF-S NIKKOR 14-24mm f2.8G ED」7本が納入され,2010年に打ち上げられたスペースシャトル・ディスカバリーによって宇宙に運ばれた。
また,現在,国際宇宙ステーションには「ニコンD3S」1台,「ニコンD2XS」8台,「NIKKOR」レンズ36本,スピードライト「SB-800」7台 などが常備されているという。
一方で,宇宙飛行士スコット・ケリーや,イタリア初の女性宇宙飛行士サマンサ・クリストフォレッティなどの乗組員たちは,国際宇宙ステーションのあちこちに設置されたキヤノンの動画撮影用カメラで,オーロラなど地球上の美しい光景を窓越しから捉えている。こうした撮影に備えて,宇宙飛行士たちは,汚れや傷のない映像を撮影するために,ひとつの窓の内側パネルも取り換えたのだという。
この動画の撮影過程で,カメラは地球を7,000回以上周回し,最終的にその距離はおよそ3億420万kmにも及んだ。
このように,宇宙開発で使われている映像機器は,ハッセルブラッドからニコンへ,そしてキヤノンへと,一般に我々が使っているものと同じように変化していることが興味深い。
しかも,こうしたカメラは,初期のころは一般に使われているものを改造していたが,現在は市販のものと同じものが搭載されるようになっていて,機器の性能が向上していることが伺いしれる。
ウドバーハジーセンターには,こうしたカメラもまた,展示されていたから,私は興味深く見ることができた。
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー④
●「輝ける未来」の現実●
ウドバーハジーセンターの展示は私には非常に興味深いところだったので,もうしばらく続けます。
・・
子供のころに夢中になったことはその後もずっと影響を与えるもので,そうした記憶は歳をとっても消え去るものではない。
私が子供のころは,鉄腕アトムの時代で,現在実用化された科学技術の黎明期だった。だれもが輝ける未来を信じていた。そのワクワク感は今とは絶世のものがあるが,こうした憧れがその後の興味に役に立っているのである。興味もないのにむりやりドリルをやらせても何も上達しない。
そのころに読んだ雑誌とか本を今手にすると,書いてある内容がとてもよく理解できるので,さらに興味が増す。そして,そのころに憧れた宇宙ロケットをはじめとするやさまざまな機材の,まさにその「ホンモノ」がここにあるのだから,私の気分は最高であった。
そうした「モノ」のおこぼれは日本の博物館や科学館にも少しは展示されているのだが,その多くは模型だったり,たとえホンモノがあってもきわめて規模が小さかったりするから,やはり,アメリカに足を運ばなければ,この喜びは味わえるのもではない。
今日は,そのなかでも,私が特に興味深かった宇宙開発に関するいくつかものを紹介したい。
まず1番目の写真は,1926年にゴダードが実験した人類初の液体燃料ロケットのレプリカである。
ロバート・ハッチングズ・ゴダード(Robert Hutchings Goddard)は「ロケットの父」と呼ばれる。彼自身の非社交的な性格もあって,生前に業績が評価されることはなかったという。
このロケットの打ち上げはマサチューセッツ州オーバーンで行われたが,その歴史的な出来事について彼は「液体推薬を使用するロケットの最初の飛行は昨日エフィーおばさんの農場で行われた」と書いた。
「ネル」と名付けられたこのロケットは2.5秒間に41フィート上昇したが,それは液体燃料推進の可能性を実証した重要な実験だった。しかし,彼の研究は時代を先取りしすぎていたためにマッドサイエンティスト扱いされ,しばしば嘲笑の対象になった。
ニューヨーク・タイムズ紙は,物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことなど「誰でも知っている」とし,ゴダードは「高校で習う知識すら持っていないようだ」と酷評した。
人類の歴史はこうしたことの繰り返しである。
2番目は「マーズパスワインダー」の模型である。「マーズパスファインダー」 (Mars Pathfinder) はNASAが行った火星探査計画とその探査機群の総称である。マーズパスファインダー探査機は火星地表に着陸する探査車(マーズローバー)を中心とし,ローバーを火星まで送り届けるための宇宙機,ローバーを着陸させるためのエアバッグを装備した着陸機,それらを保護するエントリーカプセルからなる。
1996年12月に地球を発ち,1997年7月に火星に着陸し,1万6,000枚の写真と大量の大気や岩石のデータを送信してきた。
そして,最後は「タイタンⅠ」ロケットのエンジン部分である。「タイタンⅠ」 (TitanI)はアメリカ合衆国が開発した初の多段式大陸間弾道ミサイル (ICBM)で,アメリカ空軍で運用され,後に衛星打ち上げ用のタイタンロケットシリーズに発展した。
このグレン・L・マーティン(のちのにマーティン社)によって生産されたタイタンⅠは液体燃料ロケットエンジンを用いた2段式ミサイルであり,これを発展させたタイタンⅡ(TitanII)ももともとは大陸間弾道ミサイルだが,私には,このタイタンⅡを利用したジェミニ宇宙船のほうに非常に印象が深いのである。
ここは有名な博物館だから,個人旅行で来るには不便とはいえワシントンDCから距離的に近いからツアーバスなら簡単に来ることもできるので,世界中の多くの観光客が来ていた。彼らは,ワーッと現れて,スペースシャトル「ディスカバリー」のまえで写真を撮って,そのまま帰っていく。私が昨年の秋に行ったニュージーランドのテカポ湖で星空を見にきていたツアー客もまた,せっかくの満天の星空を見ても,その素晴らしさのほとんどを味わうこともなく単に満天の星をめずらしそうに見るだけであった。
目の前にある素晴らしいものの素晴らしさがわかるようになるには,子どものころの原体験が必要なのであろう。そういった意味でも,若いころは,ドリル学習でお金を浪費する暇などないのである。
「横綱」と「法治国家」と-きわめて日本らしき権威とは?
横綱の誕生でますます盛り上がる大相撲ですが,こういう話題になるといつものこと,この横綱の「昇進の基準」について話題になっています。
人はだれしも「英雄」にあこがれるものですが,そもそも同じ人間なのに飛びぬけて実力と人格があるということ自体があり得ないことで,人は誰しも欠点があります。
地位を「神格化」するということこそ,きわめて日本のスポーツという気がします。それは,さまざまな芸事の「段」というものと同じです。一度その「段」相当の実力に昇れば実力が落ちてもその「段」は安泰なのです。だから「横綱」は弱くなったら引退,というのは,武士道の「責任を取って切腹」と同じ根底の考え方です。
それに比べて「レーティング」という考えがあります。これはとても西洋的です。
つまり,日本では「実力」よりも「名誉」というものに重きを置くわけです。
私はその是非を言いたいのではありません。稀勢の里の横綱昇進も大賛成です。横綱の昇進は今の制度のようなきわめて日本的な曖昧さでいいと思います。だって,日本のスポーツですもの。
もし,西洋的な「実力」で昇進させたほうがいいというのなら,相撲のシステムから変える必要があります。たとえば,幕内は東西ともに16人ずつにして,東西別に全員対戦のリーグ戦を行い,最終日(千秋楽)の最後に東西の1位同士を対戦させて優勝を決める,そして,次の場所には東西の1位を横綱とする,あるいは,10人ずつにして9日目までは東西別にリーグ戦を行い,上位だけで10日目から決勝トーナメントをする,といった西洋のプロスポーツのようにするなどです。
私が外国から来た人によく聞かれるのは,「東」と「西」,つまり,この二つに分けてある理由と,幕内だけでも全員が取り組むわけでもないのにそこで優勝を決めることのおかしさ,そして,であるならば取り組む相手は誰がきめているのか? といったことです。このように,西洋的な考え方からしたら,相撲のシステムは,優勝ひとつとっても曖昧なことが多いわけです。
繰り返しますが,私は今の制度を変えろ,といっているわけではなくて,こうした曖昧さがきわめて日本的であって,それでいいじゃないの,と思うのです。だから,横綱だって,多くの人がこの人は横綱でふさわしい,と思えば昇進させればいいわけです。しかし,横綱だって人間,そこにあまりに多くの期待をもったり「神格化」しては,本人が大変です。
話は逸れますが,アメリカの大統領が変わりました。オバマ前大統領が55歳で,トランプ新大統領が70歳です。そんなことなら何も大統領を無理やり変えなくてもオバマ大統領にもう1期やってもらったほうがずっと良かったように思うのですが,アメリカという国の偉大さは,8年という決められた任期にきちんと人が従うということです。これが「法治国家」というものです。
それが,決められた総裁の任期を,政権政党が都合のように簡単に変えてしまうというような発展途上国のようなことをほとんど議論もなくぬけぬけとやってのける日本とは違うことです。天皇の退位についてはあれだけ慎重に慎重にことを運ぶのに,実質的な権力者である内閣総理大臣の任期は,いとも簡単に変えてしまうのです。
規則(法律)を決めると,それを守ろうとする努力よりも,何とかして抜け道をさがす,ということに懸命になる「せこい」日本がその根底にあります。そこに「法治国家」の矜持(プライド)はありません。文部科学省の天下りをみれば,それがとてもよくわかります。
冬の僥倖⑤-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー再会
今年は1月から2月にかけてとても寒くて,星を見にいく気力がわきません。ということもあって,1月28日の新月前後は家のべランダから望遠鏡で重星を見ていました。そうしたら,今度は重星を見るのが面白くなってしまい,またひとつしたいことが増えてしまいました?!
と,それが表向きの理由なのですが,本当の理由は1月3日夕方の西の空に見送った本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P Honda-Mrkos-Pajdusakova)が明け方の東の空に現れるのを待っていたということがあります。
本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星は太陽に1月7日に太陽に0.5天文単位(1天文単位は地球と太陽の距離=150,000,000キロ)まで近づいて,その後は太陽から遠ざかって暗くなっていきます。しかし,なんと彗星の通る近くを地球が通るのでしばらくは暗くならず,というよりも,もう一度明るく見えるのです。2月11日には0.09天文単位まで接近します。太陽から遠ざかっていくので彗星は拡散状になっていくので,大きな綿菓子状の姿で見えて,すごい速さで動く姿が見えるということです。
本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星が東の空に見えるようになるのが2月4日ころからで,次第に高度が高くなりますが暗くなってきます。しかも月齢の大きくなるので月明かりあって見にくくなるので,2月9日くらいがラストチャンスです。
2月5日は終日雨でしたが,翌日の朝は午前3時頃には晴れるという天気予報を信じて早朝出かけることにしました。私の家の近くでは明るくて星が見えないので,車で1時間程度の場所を4カ所ほど決めてあるのですが,今回は天気の回復が早く東の空が暗い南のいつもの海に近い高台へ行くことにしました。
午前1時30分,自宅はまだ小雨が降っていましたが,観測場所は晴れるという予報を信じて出かけました。
しかし,途中まったく晴れません。それどころか,濃霧になりました。幸い,50分ほど走ったところで霧も晴れ,到着したときは満天の星!… だったのですが,しばらくすると北から雲が来て次第に厚くなり,まったく星が見えなくなりました。そして待つこと30分,風が異常に強くなったと思ったら,すっかり雲が切れて,再び満天の星空になりました。どうやら前線が通過したようです。
彗星は双眼鏡でも簡単に見えるほど明るかったのですが,写真を写すと予想通り拡散した姿がとらえられました。今日の2枚の写真は20分ほど時間に差があるのですが,周りの星と比べると容易にわかるように,はっきりと動いているのがお判りになるでしょう。
明け方の南の空はすでに夏の星空でさそり座やいて座がよく見えます。西のほうに目を移すと,おおかみ座,ケンタウルス座が見えます。もう少し地平線が低かったら,この下には南十字星が見えるのです! 双眼鏡を地平線ぎりぎりに向けるとω星団が明るく輝いていました。このあたりはエキゾチックで大好きな場所です。
さて,2月も半ばを過ぎると,エンケ彗星(2P Encke),タットル・ジャコビニ・クレサック彗星(41P Tuttle-Giacobini-Kresak) ,ジョンソン彗星(C/2015V2 Johnson)とぞくぞくと明るい彗星が近づくので,大忙しになりそうです。
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冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー③
●これも合理的なアメリカらしいと●
開館の時間が近づいたので,私は再びウドバーハジーセンターに戻った。開館にはまだ少しだけ早かったが駐車場のゲートは開いていたので,駐車料金を払って駐車場に入り車を停めた。
この博物館はフロリダ州のケネディ宇宙センターとは違って,ワシントンDCのナショナルモールにある博物館同様無料なのだが,15ドルもの駐車料金がいる。
開館まではまだ少し時間があったが,建物の入口は開いていたのでなかに入った。入口を入るとそこは建物の2階の部分になっていて,そこのコンコースから階下に降りるのだが,まだ階下に降りる部分は閉鎖されていた。ただし,すでに2階のコンコースから階下の展示を見ることはできて,はるか先にはすでにスペースシャトルを見ることができた。
2階の左手には売店とマクドナルドがあって,売店は開いていなかったがマクドナルドはすでに開店していた。私は,ここに来る前にすでに別のマクドナルドで朝食をとっていたので,することもなくそこに座って開館する時間まで待った。
やがて開館の時間になったので,私は階下に降りて,真っ先にスペースシャトル「ディスカバリー」の展示されたスペースに急いだ。
スペースシャトルの展示スペースはディスカバリーの他にも宇宙に関する様々な展示物があって,私には大変興味深いものであった。これまで本やテレビで見たことのあるもの,それらのまさに「ホンモノ」がここにはあって,ほかの場所では絶対に見られない貴重なものばかりであった。
「ブラックバード」と呼ばれるこの展示スペースの入口の奥にディスカバリーが堂々と鎮座ましましているのはかなり感動的であった。
ケネディ宇宙センターの,飛行して貨物室が開いた状態の展示とはちがって,ここのディスカバリーは着陸用のタイヤが出ている点が見所ということであった。それぞれの展示場所によって展示の方法が異なっているのが,また,素晴らしいことだ。
スペースシャトルの展示スペースには,マーキュリー計画で飛んだ「フリーダム7」,ジェミニ計画で飛んだ「ジェミニ7号」のカプセル,そして,人類初の月面着陸を成し遂げた「アポロ11号」が帰還したときに宇宙飛行士が検査のために隔離した隔離室も展示されていた。
これもまたいつも書いていることだが,アメリカでは何事も単純で,この隔離室も特別なものではなく,最高級キャンピングカーの「エアストリーム」(Airstream)が改造されただけのものだった。こういうところがとても合理的なアメリカらしいと思ったが,「エアストリーム」を知っているからこそこうした感想をもてるわけで,これもまた,これまで多くの旅をしたことによる成果である。
これで私は「エンデバー」を除いた残りの現存する3機のスペースシャトルを見ることができた。
では最後に「エンデバー」について書いておくことにしよう。
エンデバーが展示されているのはロスアンゼルスのカリフォルニア科学センターであるから,最も多くの日本人が見たスペースシャトルはこの「エンデバー」であろう。カリフォルニア科学センターの入場料もまた無料なのだが,「エンデバー」を見学すると2ドル必要といういうことだ。この科学センターの展示は,バンカーにスペースシャトルのだけが置いてあるだけのシンプルなものだから,ウドバ―ハジーセンターとは違って全体をじっくりと見学できるのだそうだ。さらにまた,カリフォルニアへ運んできたときの記録映画やスペースシャトルの全ミッションに関する展示もあるのだという。将来は発射台に見立ててスペースシャトルを立てて補助ロケットも装着した状態で展示する計画があるということなので,私が数年のちにそこに行くときにはそれが実現しているのを楽しみにしている。
さらに付け加えると,テキサス州ヒューストンにあるNASAには実物のスペースシャトルは展示されていないが,スペースシャトルを移動するときに使われたボーイング747の実物が展示されているということである。
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー②
●「ディスカバリー」も見た。●
これまで「ウドバーハジーセンター」と何度も書いているがそれが何なのかよくわからいないだろうと思うので,まず,ここで紹介しておきたい。
再利用が可能な有人宇宙船スペースシャトル計画が終了したとき,「ディスカバリー」「アトランティス」「エンデバー」「エンタープライズ」の4機のスペースシャトルが現存していた。退役後,「ディスカバリー」はワシントンDCのナショナルモールにあるスミソニアン博物館のバージニア州にある別館・国立航空宇宙博物館,「アトランティス」はフロリダ州のケネディ宇宙センターの見学者用施設,「エンデバー」はカリフォルニア州ロサンゼルスのカリフォルニア科学センター,「エンタープライズ」はニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に展示されている,ということはすでに書いた。
私は,以前からずっと本物のスペースシャトルを見たいものだと思っていたが,2013年の夏にニューヨークへ行ったときに見た「エンタープライズ」は実験機で実際に地球のまわりを周回しておらずおもちゃみたいで落胆した。そのとき,日本から観光旅行に来ていた女性に,ワシントンDCで地球を周回したスペースシャトルを見たと聞いて,すごく羨ましかった。
私はワシントンDC,というのはナショナルモールにあるのスミソニアン国立航空宇宙博物館だと思い込んだ。
その後いろいろ調べてみて,フロリダ州にも展示されていると知ったので,私は,この旅ではすでにフロリダ州のケネディ宇宙センターで,念願の地球を周回した本物のスペースシャトル「アトランティス」を見ることができたことについてはすでに書いた。
ワシントンDCにも行くことになったので,ここでもまた,別のスペースシャトルを見てみたいものだと思った。
そこで改めて調べてみると,「ディスカバリー」が展示されているのは,ワシントンDCのナショナルモールではなくて,スミソニアン国立航空宇宙博物館の「別館・国立航空宇宙博物館」(National Air and Space Museum Steven F. Udvar-Hazy Center)であると書かれてあった。その「別館・国立航空宇宙博物館」こそ「ウドバ―ハジーセンター」である。
一体,「ウドバーハジーセンター」とは何モノであろうか? 私は困ってしまった。ずっとワシントンDCの,以前行ったことがあるナショナルモールにあるものだと思い込んでいたから,ワシントンDCの観光ついでに行くだけだ,と簡単に考えていたからだった。しかし,「ウドバーハジーセンター」があるのは,ワシントンDCのナショナルモールではなく,ワシントンDCのとなりバージニア州にあるダレス国際空港だったのだ。
ここには以前,まだスペースシャトルが現役のときには「エンタープライズ」が展示されていたそうで,「ディスカバリー」の退役とともにその地位を譲ったのだった。
考えてみれば,ワシントンDCのナショナルモールにスペースシャトルを展示するようなスペースはないのかもれない。私はこの旅では,後日ナショナルモールにも行くことになるが,あんなに観光客の多いところにスペースシャトルが展示されていたら,ゆっくりと見るどころではなかったかもしれないから,その意味では,ウドバ―ハジーセンターに展示してあるほうが正解かもしれない。しかし,ここは気軽に行くことができるところではないから,車のない日本人観光客にとって,かなり不便な場所であろう。
ダレス国際空港に近いといっても,ダレス国際空港からウドバ―ハジーセンターまで歩いていけるような距離ではない。私がニューヨークで出会った日本人の女性がワシントンDCでスペースシャトルを見た,と言ったが,すっかり治安の良くなったニューヨークすら怖い怖いと言ってた彼女がいったいどういう方法でそこまで行ったのだろうか,と私は疑問に思ったのだった。
AbemaTVの新しい将棋番組-「人間ドラマ」を観戦した!
先日,テレビで村田英雄が歌う「王将」を放送していて,この歌ができたころの将棋は「人間ドラマ」だったのだなあと思いました。
私はさすがに坂田三吉の時代は知らないのですが,大山・升田の名人戦はなつかしく思い出します。そのころ,将棋の情報は新聞から手に入れるものでしたから,購読している新聞に載っていない情報は自分には「ないもの」でした。
このごろは,インターネットのおかげで,多種多様の玉石混交の情報がだれにでも容易に手に入ります。そこで,我々は,そうした情報を先に知ったうえで新聞を見て,この新聞はこの情報は載せないんだなあとか,載せる気がないんだなあとか,大人の事情で載せられらないんだなあ,ということを判断するようになってきました。 そうなると,おのずからその新聞社の報道する「偏り」がよくわかります。それが明らかにその会社の都合の悪いことを報道しないのであれば,それは,公共の報道機関という役割すら放棄していることになります。
これと同じことが現在の将棋にもあてはまります。昔なら,将棋のタイトル戦といえば,最高峰であるトップ棋士が対局をするその技を鑑賞することが最大の楽しみでした。
それが,今は人工知能の発達で,どうやら人間よりもコンピュータの方が強くなってしまったようなので,それを使いながら観戦する一般の人のほうが対局者よりも先に最善手を知っていて,つまり,一番強いので,観戦者は対局者が間違えずにその手を選択するかどうかを固唾を飲んでみている,というおかしなことになってしまいました。そして,解説者はコンピュータのご機嫌を聞きながら解説している,つまり,コンピュータを頼りにしているという,なんだかわけのわからぬことになってしまいました。そうなると,一番弱いのが対局をしているトップ棋士ということになるです。
そういう「悪乗り」が少々度を越してしまった,つまり,コンピュータと人間とのかかわり方をプロ棋士すらいい加減にしてきた結果,今回の竜王戦のような「事件」が起きてしまいました。
スポーツはいくら理屈では正解がわかっていても生身の人間がそのとおりにできないからこそ面白く,そこに「人間ドラマ」が生まれるわけです。そして,それを楽しみ,感動することができるのです。それと同様に,プロの将棋の対局の場合もまた,人間は間違える,ということがその魅力になるわけです。だからこそ,終盤の秒読みなどに慌てる棋士の姿にこそ迫力があって,そこで間違えたり偶然よい手を発見したりという,そういう姿が最大の見せ場になるわけです。テレビのNHK杯が面白いのは,そうした生々しい姿を見ることができるからこそです。
もはや,時間をたっぷりかければ面白い好局が生れる,という時代ではないのです。最善手を追求するなら,人間が2日もかけて勝負をしなくてもコンピュータにお任せすればいいということになってしまうのです。人間同士の勝負をプロとして,つまりお金儲けとして成り立たせるには,テレビやインターネットでその生々しい姿を「人間ドラマ」として放送してそれを楽しむことなのです。
これまでも,タイトル戦をNHKBSで放送していましたが,終盤の最も面白い勝負どころの中継がないので,まったく意味がありませんでした。「将棋界の一番長い日」といわれるA級順位戦の最終局の中継だけが唯一それを味わえるものでした。「ニコニコ動画」もありましたが,序盤はともかく終盤の最も面白いところが有料でないと(無料会員は有料会員にはじき出されてしまって)味わえませんでした。これではいけません。
今どき,新聞の観戦記を読んで楽しんでいる人なんているのでしょうか? 1局をたった7回に分けてちょっとだけ解説をつけても,何もわかりません。まったく意味ないです。それに,観戦記もまったくおもしろくありません。「人間ドラマ」が伝わらないからです。だから,こんな30年前の流儀でやっていては,もはやプロの将棋など存在できなくなってゆくことだろうなあ,と私は思っていました。
そんなとき,2月1日から放送が始まった「AbemaTV」の将棋番組でなんとA級順位戦の8回戦が生中継されました。これは最高に面白い番組でした。特に佐藤康光九段と深浦康市九段の対局など,震えました。
▲2二銀のタダ捨てから始まって飛車を打って自陣のと金をはらって,将来を見越して香車をあえて中段に打ったり,後手の玉が3三になるまで待って角筋を消してから勝負手を出す,などという神業は見ていないとぜったいにその奥の深さと素晴らしさは実感できませんし,こういう感動は生でなければ味わえません。こんな凄いものを見てしまうと,もう人間がコンピュータより強かろうと弱かろうと,そんな次元の低いことはどうでもいい,と思わされる世界でした。中村太地六段と室谷由紀女流二段の解説も申し分ありませんでした。
ただし,勝負どころが深夜0時過ぎ,というのはいけません。これでは多くの人が楽しめません。持ち時間が6時間というのが順位戦のウリなのでしょうが,勝負どころが夜の8時くらいになるように,対局開始時間を早めるとか,あるいは持ち時間を4時間にするとかしないと多くの人はせっかくの素晴らしいものをみることができません。
大相撲のテレビ中継がはじまったとき,テレビで見られるなら客が来なくなるという意見があったそうですが反対でした。また,相撲協会はそれまでは仕切り時間が無制限だったのをテレビ中継の終了時間に合わせて制限しました。
こういう感動を味わうと,その対局の詳しい解説を後日新聞で読みたいという気にもなるのです。だからそのほうが新聞も雑誌も売れるのです。それは面白いゲームあった次の日のスポーツ新聞が売れるのと同じ理屈です。そんなわけで,この将棋番組がずっと「無料で」放送されることを私は期待したいと思います。
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー①
●交通の不便なワシントンDCの国際空港●
フロントロイヤルからインターステイツ66を東に100マイル,つまり160キロ走ればワシントンDCである。よくもまあ,フロリダ州キーウェストから出発してこんなに走ってきたものだ。
すでに何度も書いたが,私は,この旅を始めるにあたり,50州の制覇を完了するために,サウスカロライナ州とノースカロライナ州を縦断しようと,それだけで他には細かな計画も立てずに,行きはフロリダ州のオーランドへ,帰りはペンシルベニア州フィラデルフィアからという航空券を購入した。
その後,MLB,つまり,メジャーリーグベースボールの30球場制覇もこの旅でついでに成し遂げようと欲が出て,これまでに行っていなかったワシントン・ナショナルズ,ボルティモア・オリオールズ,フィラデルフィア・フィリーズのゲームを見ることにしたが,ゲームが実施される日程を調べて愕然とした。ワシントンDC,ボルティモア,フィラデルフィアの順にゲームが行われればよかったのだが,ボルティモア,フィラデルフィア,ワシントンDCの順でないと見ることができないのであった。
そんなわけで,私は,ワシントンDCとフィラデルフィアを往復することが必要になってしまった。しかし,ワシントンDCとフィラデルフィアという大都会を観光するには車は必要ない,というよりもむしろ邪魔なので,私はフィラデルフィアでレンタカーを返却して,残りの日程は公共交通機関を使うことにした。そして,ワシントンDCを観光する予定の数日間のうちの1日を使って,地下鉄とバスを利用してスペースシャトルが展示してある「ウドバーハジーセンター」というところに行くことにしていたのだった。ウドバーハジーセンターはワシントンDCのダウンタウンからはるかに遠いのだが,何としてもスペースシャトルが見たいのだからやむをえなかった。
しかし,意外なことに,私が昨晩泊まったフロントロイヤルからならばウドハーハジーは目と鼻の先だったのである。そこで,予定を変更して,今日,車でウドバーハジーセンターに行くことにしたのだった。
ワシントンDCの最寄りの国際空港は3つある。それらは「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」(Donald Reagan Washington National Airport),「ダレス国際空港」(Dulles International Airport),そして「ボルチモア・ワシントン国際空港」(Baltimore/Washington International Thurgood Marshall Airport)である。
「ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港」はワシントンDCのダウンタウンから近く,地下鉄で容易に行くことができるのだが,手狭になったのでダレス国際空港に国際線を譲った。しかし「ダレス国際空港」はワシントンDCのダウンタウンからは30マイル,つまり約50キロも離れている。
いわば,ワシントンDCのレーガンとダレスの空港は東京の羽田と成田の空港と同じような関係なのだ。ちなみに成田は東京都心から70キロ離れている。
しかし,成田は遠いとはいっても,交通の便は悪くなく,それとは反対に,ダレス国際空港はアクセスが非常に不便なのだ。地下鉄が建設中で,現在は途中からバスに乗らなければならない。日本からワシントンDCに行く人はたいへんである。
もうひとつのボルチモア・ワシントン国際空港はワシントンDCというよりもボルチモアに近く,むしろボルチモアの空港であるが,ここはアムトラック(Amtrak=アメリカの高速鉄道)の駅があるので,ワシントンDCへ行くにはダレスよりもずっと便利である。ワシントンDCまではやはり30マイルほどの距離にある。
私はこの旅で来るまでは知らないないことだらけだったからフィラデルフィアで戸惑ってしまったが,実際は日本からニューヨークやワシントンDCのようなアメリカ東海岸の大都会へ行くとき最も便利な空港は,フィラデルフィアだということが行ってみてわかった。
ニューヨークも空港からダウンタウンには地下鉄が通じているが距離がある。ボストンも悪くはないが,ボストンからニューヨークまでが遠い。その点,フィラデルフィアは空港からダウンタウンまで近いし,フィラデルフィアからはワシントンDCもニューヨークも近く接続がよいから非常に便利だし,何より,フィラデルフィアのダウンタウンが広くなく日本料理店もたくさんあって便利なのである。
話を戻そう。
なぜワシントンDCの空港の話題を出したかというと,ウドバーハジーセンターは,このダレス国際空港の敷地にあるからなのだ。
早朝のインターステイツ66は通勤ラッシュで大渋滞であった。つまり,このあたりはすでにワシントンDCのベッドダウンなのだ。私は,その混雑する道路をのろのろと走って,それでもなんとかウドバーハジーセンターに到着することができた。道路標示に従ってウドバーハジーセンターの駐車場のゲートに着いたが,開館は午前10時からだったのでまだ1時間ほど早くて,ゲートが閉まっていたから,私は,ゲートが開くまでこのあたりを少しドライブすることにした。そして見つけたのが「Village Center」(5635 Stone Rd, Centreville, VA 20120)というモールであった。ここには「松すし」というお寿司やさんがあった。さすがに,ワシントンDCが間近なこのあたりまで来ると日本人もたくさん住んでいるんだなあ,と思ったことだった。
学校はツアー旅行?-大切なことは学校では学べない。⑩
ドライビングスクールへ通うのは車の運転ができるようになりたいからであって,スイミングスクールに通うのは泳げるようになりたいからです。ドライビングスクールに通って,「私は車の運転は出来るようになりませんでしたが,運転は難しいということを学ぶことで忍耐がつきました」といえば,バカだと思われることでしょう。
一般の人を対象とするドライビングスクールは,ドライバーの専門家を育成するところではなくて,日常の生活で必要な程度の運転技術を身に付けるところです。卒業した後で,どのドライビングスクールを卒業したのか,などという「学歴」を問う人はいません。スイミングスクールは,能力の異なる人たちを,単に同じ年齢だからといってひとつのグループにして練習することはしません。能力に応じてレベルを変えます。そして,オリンピック選手を育成するのは,また,別のプログラムです。
私は,ドライビングスクールとスイミングスクールこそ,学校としての機能を最も満たしているものだと思います。
だから,同じ年齢の生徒を40人も同じグループにして「教育」をする中学校や高等学校というのは,根本的に無理があるのです。それが学校教育の限界なのです。学校で音楽の授業を受けるだけでピアニストになれると思っている人はいないでしょう。体育の授業を受けるだけでオリンピック選手になれると考えている人もいないでしょう。
だから,学校という形態の教育に過剰な期待などはじめからしない方がいいのです。それなのに,学校に機能以上の成果などを期待するから,話がややこしくなるのです。
学校教育というのは,いわばツアー旅行なのです。ツアー旅行では,すでにその地に来たことのある人にとれば知っている説明であっても付き合わなければならないし,行きたくもない土産店で時間をつぶす必要もあるのです。ただし,ツアー旅行に参加するかしないかは自由意志だからそれでも問題はないのですが,学校は,それを強制するからたちが悪いのです。おまけに,教師は善意にあふれているから,自分に課せられた時間だけでは飽き足らず,補習と称した慈善活動まで生徒に強制しようとするのです。しかも,それが生徒にとれば迷惑であっても,教師が迷惑であるということを理解していないからさらにたちが悪いのです。
学校で教えることは,世の中にはこんな不思議なことがあるんだよ。とか,ここまでのことはわかっているけれどこの先のことはまだ研究中だよ,とか,そういった動機づけだけでいいのです。そのうえで,それに興味をもった人は,それぞれ自分の興味と能力に応じて自主的にやっていけばいいのです。そして国はそういう教育を受けたい人に経済的な援助をすればいのです。
それを,すべての生徒を同じ物差しで測って順位づけをしようしたり,学校が進学実績を競争するから,目的が異なってしまうわけです。こうして,小学校はともかくも,中学校・高等学校と進むにつれて,学校教育は何も身につかず順位競争だけが目的となっていくのです。
2016夏アメリカ旅行記-シェーナンド国立公園への想い⑤
●この地域をアメリカとして受け止めて●
☆7日目 8月2日(火)
フロントロイヤルからワシントンDCまではわずか90マイルである。すでに私はフロリダ州の最南端キーウェストから車でフロントロイヤルまで1,300マイルほど走ってきたから,もう,この旅の9割以上の移動は終わったことになる。
これは後で地図を見ても信じられないほどの長距離である。旅に出る前は,本当にこんなに走れるものかと思っていたが,ほぼゴールに近づいた。
残すは,フィラデルフィアまで250マイルほどで,およそ京都から東京までの距離である。
なじみのない方も多いと思われるのでここでまとめてみる。
アメリカでは,大西洋岸に沿ってワシントンDC,ボルチモア,フィラデルフィア,ニューヨーク,ボストンと都会が並んでいる。ちょうど日本の太平洋岸と同じような感じであるが,距離は,ワシントンDCからボルチモアが40マイル,ボルチモアからフォラデルフィアは100マイル,フィラデルフィアからニューヨークまでも100マイル,そして,ニューヨークからボストンは200マイルである。
100マイルというとちょうど大阪から名古屋まで,200マイルというと名古屋から東京とほぼ同じである。だから岡山から東京という感じか?
このあたりの地域が日本で報道される「アメリカ」である。このあたりで起きたことを日本の報道機関は「アメリカから」として取材し発信し,日本人はそれをアメリカ全体のこととして受け止めているわけである。
このあたり,めちゃくちゃ人も車も多く,公共交通機関が発達しているから,ニューヨークへ行ってこのあたりだけを旅するのなら車も必要がなく,日本で旅をするのとさして違いはない。アメリカの雄大さを期待しても得られるものはない。
私が通常旅するアメリカとは異質の場所なのだが,日本でも東京が嫌いであっても一度は行ってみたいと思うように,アメリカでも都会が嫌いであっても一度は行ってみたいところである。
私がワシントンDCからニューヨーク,ボストンを「アメリカ」だと思って生まれてはじめて旅したのは24歳のときだったから,それからずいぶんと年月が経った。私は,この旅の後半はレンタカーを返却して,このあたりを再び公共交通機関を使って旅をしようと思っていた。そして,前回の旅で行くことができなかったけれど一度は行ってみたいと長年思い続けていたところにすべて行ってみようと思っていたのだった。
この日はボルチモアまで行くことにしていたが,ボルチモアまでは最短距離で走れば2時間くらいで着く。
ボルチモアへ行く理由はMLB(メジャーリーグベースボール)を見ることとベーブルースの生家を見ることであった。そのことはまた後日書くことになる。
この旅では後日,ワシントンDCでスペースシャトルを見ようとも思っていた。私はこの旅に出るまでスペースシャトルはワシントンDCのナショナルモールに展示してあるものだとばかり思っていたが,実は,ワシントン郊外のウドバーハジーセンターという,とんでもなく離れた場所に展示されているのだった。それでも私は絶対にそこに行きたかったから,ワシントンDCに着いてから1日かけて公共交通機関で行く予定をしていた。
この日に地図を改めて確認すると,このウドバーハジーセンターは,フロントロイヤルからは遠くなく,しかもボルチモアへ行く途中にあるということがわかった。そこで,今日,ボルチモアへ行く途中でウドバーハジーセンターに寄ることに決めた。
私の宿泊したぼろホテルにはすでに使われなくなった食堂は廃墟と化していて,当然ながら朝食サービスなどなかったから,ホテルを早朝7時にチェックアウトして,途中のマクドナルド朝食をとった。