しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2017

今日8月25日金曜日のシアトルは「ブルーフライデー」。NFL我らがシーホークスのゲームのある週末は,みんなチームカラーの青いモノを身につけるのです。テレビを見てもキャスターの女性は青い服を着ているし男性は青いネクタイをしています。
午前中はシアトルの望遠鏡やさんに寄って,その近くの植物園へ行ってから,私もプレシーズンマッチを見に行きました。地元シアトル・シーホークスは強豪で,MLBの弱小マリナーズとは対照的です。ということでシアトルはフットボールファン一色なのです。シーホークスの本拠地のセンチュリーリンクフィールドはセイフコフィールドの隣で,私は以前スタジアムツアーで入ったことだけありますが,そこでゲームが見られるなんてとてもじゃないけれど信じられませんでした。とにかく6万人入るスタジアムはつねに満員でチケットの入手すら困難なのです。
私は地元の英雄,25番センターバックのシャーマンのユニフォームを着ての観戦でした。こういうの着ていないと大変なメに会うのだそうです。対戦相手はカンサスシティ・チーフス。ゲーム自体も素晴らしいものでしたがそれにも増して様々なアトラクションがものすごく楽しめました。シーギャルズというチェアリーダーにブルーサンダーというドラムラインに…。アメリカでいかにフットボールが人気なのかそのことが実感できました。この町ではシーホークスファンはみんな友達です。すばらしい夜でした。シーホークス最高!

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LIVEはまだワシントン州シアトルですが,その後私はアラスカ州フェアバンクスに行って,ついに,8月28日から29日の深夜,この旅であきらめていたオーロラを見ることができました。そこで今日はまた少し先回りしてオーロラの写真をご覧ください。
フェアバンクスに住んでいる人でもオーロラを見たことがない人も多いのです。それは日本の都会に住んでいて天の川を見たことがない人が多いのと同様です。どおりで到着した日に,チェックインしたとき宿泊したB&Bのスタッフにオーロラのことを聞いても見られるはずないよという顔をされた理由がわかりました。
フェアバンクスはずっと曇りか雨,しかも市内は明るくオーロラはすっかりあきらめていました。しかし,28日の夜は少しだけ晴れ間が見られたので,ダメ元で遠征することにしました。調べた結果,フェアバンクスから100キロばかり離れたチナホットスプリングリゾートなら見られるかもしれないという淡い期待を抱いて,現地の事情も知らず,車を走らせました。
夕刻,1時間半ほどかけて到着してみたら,そこにいたのはなんと日本人ばかりじゃあないですか。JTBとクラブツーリズムのツアー客を乗せた日本からのチャーター機で着いたという話でした。ニュージーランドのテカポ湖の星空観察ツアー同様,日本の教育の成果を象徴する,英語が使えず,主体性のない,安心・安全・快適,おまかせで生きている「人生全てパック旅行」という人たちの集団でした。彼らのすごいのは自分で写真を写したいのにもかかわらず事前にオーロラを写すために何も勉強してこないことで,全て人に言われたまま,挙げ句の果てはうまくいかないと私にさえ頼ることでした。ここには「最も騙しやすい」と陰口される日本人の姿がありました。
ここは日本人観光ツアー御用達の安扶持の観光施設でした。こんなところでも宿泊すると結構高価なんです。スタッフもまた日本人ばかりでしたが対応に忙しそうだったので,暇そうだった日本語のできない唯一のアメリカ人スタッフにオーロラの話を聞くと,昨日は天気が悪かったけれど,今晩は深夜2時過ぎになればきっと見られるよ,という話だったので,そんなに遅くてはとも思ったのですが,ともかくしばらく待機することにしました。それでも疑心暗鬼でしたが,午後10時を過ぎて空が暗くなって来たら ……見えました。オーロラです。本当に感動しました。
あまり遅くなると帰りが心配だったので ー動物が飛び出してきますー 午前1時に現地を出ました。帰路,時折,キャンプ地があるごとに車を停めて空を見ると,北から西の空にかけてまさにカーテンのようなオーロラが明るく輝いていました。私はツアー客のいない真っ暗な現地のキャンプ地でたったひとり地球の不思議に浸りました。結局,チナホットスプリングリゾートまで行かなくてもいいのでした。巨大な野生のトナカイに遭遇しながらもなんとか2時間かけて,B&Bに戻って来ました。奇跡の夜でした。
地球も夢を見るのです。

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8月23日から25日,つまり8日目から10日目はシアトルでEさんのお宅でお世話になっています。特にすることもないので,散歩をしたりテレビを見たり,車を借りて近くをドライブしたり,これは最高の贅沢です。夏なのに汗をかかないし,静かだし,日本のテレビも見られます。「ひよっこ」も「直虎」もやっています。ケーブルテレビでテレビジャパンを契約すればいいそうです。
アメリカは家も大きいし,キャンプに行ったり釣りをしたりスポーツもいっぱいやっているし,庭いじりもできるし,休む暇なく行動できます。そこでピックアップトラックにキャンピングカーなどが必需品となります。それに比べると,というより,そんな生活を知ってしまうと,つくづく,日本で小さな家を買うことも,高級車に乗ることも,旅行に行くことも,狭いオートキャンプ場に行くことも,カメラに凝って出費をすることも,そうした何もかもがバカらしくなってきます。そう考えると,日本で生きるのは本当にお金が要らないなあと思えます。使ったところで,何かを買ったところで,それを活用するところすらないのです。また,日本のニュースをネットで読んでいると,全くどーでもいいことをちまちまぐちゃぐちゃやっているなあという印象しかもちません。
さて,シアトルの東,ワシントン湖の対岸をイーストサイドというのですが,そこにメディナというチョーチョー高級住宅街があります。24日はそこに行ってきました。街の入口には監視カメラもあります。そこに住んでいる有名人にビルゲイツやチャールズ・シモニー(一番下に写真がシモニーさんの家です)がいます。イチロー選手の住んでいたのもここかなあと思ったのですがそうではなく,インターステイツ90をべレビューからさらに東に行ったサマミッシュ湖のほとりだそうです。日本でイチロー選手の家の写真を見てその豪華さに驚いていますが,その程度の家はメディナにはゴロゴロあります。
ここでは,どの家も湖に面していて庭からプライベートビーチが広がっています。門を入ると20台くらい停められる駐車場があってそこから自宅までロープウェイに乗るのだとか。ここに家を買うには最低でも40億円ほど必要ということです。これもまたアメリカなのですが,日本では全く考えられない世界です。あまりに違いすぎて,こんなことは知らない方が幸せなのかもしれません。私が日本で家を買う気にならないのもわかるでしょう。この日,テレビでは7億5,800万ドル,つまり800億円ほどの宝くじの当選者が出たという話でずっと盛り上がっていました。すごい国だわ。

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8月22日,7日目です。
ワラワラのスーパー8で目覚めました。このホテルものすごく安かったのにもかかわらず,すごく立派で助かりました。ずっとキャンプをしていたのでホコリだらけ,荷物もぐちゃぐちゃだったのですっかり生き帰りました。ホテルの朝食も申し分ありませんでした。9時半にEさんがホテルに来て再び合流です。近くの空港にあるハーツのオフィスにレンタカーを返してEさんのピックアップトラックに乗りました。Eさんたちもワラワラを21日早朝に出発してインターステイツ84を南に走りベーカーシティからさらに行った皆既帯で無事,皆既日食を見ることができたそうです。
ワラワラはタマネギの町ですが,現在はワイナリーでも栄えていて,とても美しく楽しいダウンタウンがあって,チョーオススメのところです。この日,オレゴン州で発生した山火事で,快晴でしたが空は一面灰色で覆われていました。部分日食中なら日食グラスも必要ないほど。昨日の青空が嘘のようで,これもまたツイていました。
ワラワラの町をしばらく散策してからシアトルまで州道26,インターステイツ90と経由してシアトルに戻って来ました。今日から3日間はEさんのお宅でお世話になります。シアトル郊外のベレビューというところは日本と同じように暮らせる町です。
この旅は,まずシアトルでMLBを見て,アイダホで皆既日食を見て,再びシアトルに戻ってきました。この後は,25日はシアトルでフットボールのプレシーズンマッチを見て,26日はアラスカ州フェアバンクスに向かいます。旅はまだまだ続きます。

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◇◇◇
Thank you for coming 200,000+ blog visitors.

ブログをはじめて53か月・1,945回の更新で,総訪問者数が20万を超えました。
読んでいただいて,どうもありがとうございます。

8月21日・旅の6日目,いよいよ日食の日になりました。わずか2分のために何年も前から計画していたまさにその日が来ました。いくら先のことでもその日は来るのだなあという,妙な感想をもちました。
朝5時に起きてテントから出ると天気予報どおり満天の星空でした。東の方にはオリオン座が輝いています。あと6時間25分後に2分間のイベントが始まるのが夢のようです。
朝,日食後の渋滞の方が心配ですぐに帰れるようにまずはその準備をしました。朝食を食べ,再度撮影の確認をしていたら,10時10分,予報通り太陽が欠けはじめました。
食が進むにつれて次第に寒くなり,そしてあたりが暗くなりはじめ,いよいよ11時24分,皆既日食の開始です。ダイヤモンドリングの現れる少し前から太陽は肉眼でも欠けているのがわかりはじめて光の線が八方に伸びてきました。そして皆既。あっという間,ではなく,長い長い2分間に感じられました。私は1999年8月16日のヨーロッパ皆既日食に次いで2度目の体験だったので,肉眼で見ることが最も大切だと知っていました。へたをするとカメラをのぞいていて終わってしまいます。皆既終了後,渋滞を恐れてすぐに店じまいをするつもりでしたが思ったほどの混雑でないので,日食が完全に終了するまで見届けました。
私が日食を見た場所はアイダホ州の西の端の町,人口7,000人のワイザー。見にきた観光客は少なかったのですが,それでも帰りは町を出る車で大渋滞になりました。川を渡らなければ西に行くことができず,川を越す橋のある道路はたったの1本。何せ小さなダウンタウンを走る6本の道路からこの1本の道路にすべての車が流れ込むのですから3分で町から抜けられるところを30分かかりました。しかしその後は順調にインターステイツ84にたどり着きました。インターステイツ84を北上していくと2度ほど大渋滞に巻き込まれましたが,それは皆既日食のせいではなく,工事によるものでした。アメリカのインターステイツは普通,工事で1車線が閉鎖されれば別の車線が作られます。そうしていないオレゴン州はクレイジーです。それでも午後5時,出発から4時間後にはワラワラに着きました。
アメリカ人の多くは皆既帯でなくとも98%欠ければ一緒だと誤解していたようですが,日食は100%でないと全く意味がありません。おそらく翌日それを知って後悔した人も多いことでしょう。私が思っていたように,人口が多く,多くの人が押しかけたオレゴン州セーラム郊外のカニータあたりは薄雲が出たようですし,ワイオミング州では皆既の間雲が覆っていたようです。
日本からのツアーは60万円から100万円もするのに現地2泊から6泊程度の小旅行で,すでに多くの人は皆既日食終了後に帰国しています。私はツアーでないので,日食を見るために使った費用は成田からシアトルの往復航空運賃10万円程度と宿泊代だけでした。旅は自力でしなくちゃね。そしてまた,私の14泊16日の旅はまだまだ続きます。

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5日目。
キャンプも2日目になりました。今日は何も予定はありません。朝昼晩と食事をするだけが日課です。私は何もできないのでご馳走になるだけですが,こちらの人のアウトドアがよくわかって興味深いです。ここは日食を見るために解放した芝生広場でキャンプ地ではないのでただだだっ広いだけ。そこに多くの人がそれぞれキャンピングカーやテントを持ち込んでいて見ていると楽しいです。
私のいるのはキャンピングカーが1台と荷台を引いたピックアップトラックと私が乗ってきたジープ。テントは私が泊まっているものと子供たちそれぞれ,そして親のものと食事スペースの4つ。そこで8人で過ごしています。
日本からの皆既日食観測ツアーが行くのは日本からの直行便のあるポートランドに近いオレゴン州の州都セーラムの近郊かアイダホ州でもイエローストーン国立公園の近いアイダホフォールズです。私が来たワイザーはワシントン州とアイダホ州の州境ですが大きなホテルや観光地がないので,日本からここに来るような日本人は私くらいしかいないので非常に快適です。ちなみにセーラム近郊なんて晴天率がよくないし,アイダホフォールズあたりは日本人多すぎです。
明日は日食の終了後解散して,私はEさんと再び合流するためにワラワラに行くので,その道順を覚えるためにインターステイツ84まで行ってみることにしました。この閑散とした道が日食の終了後に渋滞するのかどうか,予測不能です。昼間は望遠鏡のピント合わせなどをして過ごし,夜は地元ワイザーの高校でやっている日食フェイスティバルに行きました。
さあいよいよ明日です。今晩の空は曇りで,昨晩は見えていた星も全く見えません。もしこれが日食の時間ならば絶望的ですが,明日は午前4時くらいから一日中快晴という天気予報になっています。

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4日目。
今日は午後Eさんと一旦別れて,ルイストンを出発して4時間南下し,モンタナ州ワイザーで親類のMファミリーと合流して2泊3日目のキャンプに行く予定です。目的はウザったい日本人ツアー客のいないベストロケーションでの皆既日食観察でした。
人口7,000人のワイザーは皆既日食の皆既帯にあたるので 当日の人口が20,000人に達するということです。既にオレゴン州では大渋滞がはじまっているというニュースに恐れをなして朝5時にホテルを出たのですが,全く渋滞もなく午前10時前にキャンプ地に到着しました。オレゴン州の渋滞は皆既日食のせいではなくマリファナ(オレゴン州では合法)を買うためにほかの州から押しかけたせいだったそうです。
Mファミリーに連絡を取ろうとWifiの通じるワイザーのダウンタウンにあったマクドナルドに行ってiPhoneを見るとすでに到着したという連絡が入っていて,買ったばかりのハンバーガーとドクターペッパーの入ったカップを持ってマクドナルドを出てキャンプ地に向かうと,すぐに合流できました。
ワイザーの町はすでに日食モードで土産物屋さんあり看板ありでした。夜は今日もBBQ。あとは寝るだけです。もちろんキャンプサイトではWifiはできないのですが,ダウンタウンにマクドナルドがあってそこでつながります。こんな便利なのは日本ではともかくアメリカではキャンプでありません。

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3日目。
今日はワシントン州の横断です。州道12を通りヤキナでインターステイツ82に乗り換えて再びケネウィックから州道12でワラワラに着きました。ヤキナにはマイナーバーガーという地元の人で人気のバーガー屋さんをがあって,そこで朝食をとりました。ヤナキにはメジャーバーガーというのもあるそうです。
ここまでEさんのピックアップトラックに同乗していたのですが,ワラワラの空港でレンタカーを借りました。レンタカーは赤のジープでした。そこからEさんの車に並走して2時間,アイダホ州の州を越えたルイストンという町に泊まります。ここは美味しいお昼ご飯の食べられるお店があって閉店まえギリギリに飛び込みました。
ルイストンから30分行ったところにあるEさんの友人が経営する大農場に行きました。ここは360度農場が広がっていて現在ビーンズの収穫真っ最中。お願いしてコンバインの助手席に乗せてもらいました。この農場はTBSテレビで放送されたドラマ「99年の愛」のロケ地だったところです。
夜は再びBBQ。お肉は仕留めてきたエルクにクマ。多くの人が集まり夢のような夕食になりました。

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現地のWifi事情から4日ほど遅れてLIVEをお届けしていますが,現地時間2017年8月21日午前11時25分,アイダホ州ワイザーの雲ひとつない青空に皆既日食を見ることができました。
そこで,今日は数日先回りして,皆既日食の写真をご覧ください。皆既になると寒く星も見えます。また,あたりは静寂に包まれて異様な雰囲気になります。これだけは体験しないとわかりません。
太陽が欠けはじめてから戻るまで2時間30分,皆既の時間が2分,生涯最高のショーに大感動しました。
次に皆既日食が手軽に見られる場所に起こるのは,アメリカは2024年4月8日,オーストラリア,ニュージーランドで2028年7月22日,日本では2035年9月2日です。しかし,日食が起きても晴れなければ,といっても皆既の時間に太陽のあるところにたまたま雲があってもダメなのです。
今回の日食のように,アイダホ州の砂漠地帯で晴天率が高くても雲ひとつないというのは稀だから,この日食がいかに好条件だったかは後になるほどわかることでしょう。見そこねた人,逃した魚は思った以上にでかいですよ。

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2日目です。今日はシアトルからパックウッドという町を経由してセントへレンズをドライブするということでEさんのピックアップトラックに乗りました。
セントへレンズの観光では私も行ったことがある一般の南側の展望台ではなく東側へ行くということで,これまでに行ったことがないので楽しみでした。
ところが冬の間の大雨で道路が崩れてしまって途中から行くことができません。そこで予定を変更して,タクラクレイク(Takhlakh Lake)という小さな湖へ行くことになりました。そこからマウントアダムスが眺めれるということでした。
距離としては大したことはないのに道路が舗装されておらず4WD のピックアップトラックだからこそ走れる悪路を1時間半余りもかかりました。しかし到着したところはまるで桃源郷でした。もう時間は3時近くになっていましたが,そこでお昼を食べました。湖の向こうにはマウントアダムスがきれいに見えました。昨日は曇っていて何も見えなかったそうです。
バックウッドに戻り,宿泊するモーテルにチェックインしました。夜はBBQをしました。快晴の空には美しい天の川が横たわっていました。

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「君の名は」「聖の青春」「シンゴジラ」を見ていたらあっという間にシアトルに到着しました。入国も簡単に終わって待ち合わせをしたバッゲジクレイムに向かいました。シアトルタコマ国際空港は一旦荷物をピックアップして税関を過ぎて再び荷物をベルトに乗せ地下鉄でバッゲジクレイムに行って再度荷物をピックアップするという要領です。
今回は昨年シアトルマリナーズのホームグランドであるセイフコフィールドで知り合ったEさんにお世話になります。無事お会いできて,カバンをEさんの事務所に預け途中でマーケットによってからボールパークに向かいました。
なかに入ってまずE さんにボールパークを隅から隅まで案内していただいて,いよいよゲーム開始。座席はバックネット裏の特等席でした。ゲームは大変面白くて3点差で楽勝ムードだったのにクローザーが抑えられず9回表ノーアウト満塁になってしまい緊迫しましたがマリナーズが勝利しました。
終了後は選手の帰るゲートから出て,そのままEさんのお宅でBBQをしました。今日の宿泊はEさんの住むべレビューのデイズインです。まだ到着したばかりの1日目からたくさんの素晴らしい経験をしました。

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今日はまず,ANAの機内誌に載っているANAが使用している機体の紹介を見ていただきましょう。1番目写真です。これは有名なネタなので,知っている人も多いことでしょうが,ANAは使用機体のひとつに「ミレニアム・ファルコン」を採用しています。いつか客室乗務員の人にどうやったらこれに乗れるか聞こうと思いつつ,今回も忘れてしまいました。日本でもこういったさりげない冗談が通じるのは素敵です。しかし毎度のことですが,わずか1時間程度のフライトなのにやたらと機内での注意事項の放送が多くウザったいです。これではまるで幼稚園です。日本に来る外国人の多くは日本で興味があるのはアニメとゲームです。自国では浮いてしまっている大人になっても子どものまま成長できない人たちが日本に来ると安心できる,だから来るのですが,それはつまり日本が幼稚な国だからなのだそうです。
さて,雨のセントレアで朝食をとり,定刻にANAに乗って成田国際空港に着きました。今日は残念ながら天気が悪く富士山は見えませんでした。私は,お盆休み直前に帰国することは多いけれどこんな時期に出国することはほとんどありません。成田空港のコンコースはまだ午前中なので空いていたのですが,これから帰国ラッシュが始まるのでしょう。テレビ局が来ていました。
数年前には不案内だった成田空港も毎回のように来るようになって,もうよくわかります。シアトル便の出発まではこれからまだ7時間あります。デルタ航空のラウンジ「スカイクラブ」は出国ゲートの先にあります。出国ゲートに行くにはまだ早いので,とりあえずはカード会社のラウンジで暇つぶしです。カード会社のラウンジなんて飲み物くらいしかサービスはないのですが,ネットが快調につながるだけでも便利です。
お昼になったので出国ゲートを過ぎてターミナルに入りました。デルタのラウンジは22番ゲートのところだと聞いていました。この辺りデルタ航空のターミナルです。広いラウンジは空いていました。ちょうどお昼だったのでここで食事をしました。ここは豪華でカード会社のラウンジとは雲泥の差がありますが,サービスといい雰囲気といい,完全にアメリカです。いつも思うのですが,働いている人が日本人であってもアメリカの企業に勤めると全く異なる行動や仕事ぶりになるのですねえ。不思議なものです。おそらく日本の企業で働く女性の過剰な接待ぶりは訓練しやらされているからそうしているだけのメッキなのでしょう。
今回の旅はカバンをふたつ持っています。ひとつは事前に成田まで送りました。もうひとつは機内持ち込みで成田まで持ってきました。この先もひとつは機内持ち込みにしようと思っていたのですが,面倒になってカウンタでふたつとも預けてしまいました。こうして身軽になったので,あとは離陸を待つばかりとなりました。それにしても,このところハワイやオセアニアを旅行するようになったら,アメリカ本土に行くのが面倒になってきました。アメリカ本土は歳をとってから旅するところではないようです。私は若いうちに行っておいて本当によかったと思います。ではそろそろ搭乗が始まります。シアトルまで8時間程度のフライトです。機内の雰囲気はオーストラリアへ行くカンタス航空とはまるで違います。当然,デルタコンフォートに無料グレイドアップです。今回の旅のスペシャルガジェットはノイズリダクションのイヤホン。果たしてその効果はいかに?

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世の中はお盆休み真っ盛りの8月15日です。明日の午後4時15分に成田空港を出発してデルタ航空でシアトルに行くのですが,今回もまた成田までが大変です。名鉄電車,新幹線,バスと乗り継ぐのも面倒なので,セントレア・中部国際空港から成田までANAに乗ることにして早割で予約しました。
こうして適当に予約したのが朝7時40分セントレア発の便でした。直前までその日の早朝に自宅を出ればいいやと軽く考えていたのですが,出発の日にちが近づくにつれて,当日の早朝で間に合うのかしらんとだんだん心配になリ,結局,前日はセントレアの近くのホテルに泊まることにしました。ところがすでにどこも予約が一杯。なんとか見つけたのがセントレアから2駅の常滑駅前のルートインでした。しかし,こんなことをやっていては早割で安価な航空券を予約した意味がありません。自分の馬鹿さが嫌になってきました。多少高くてももう少し遅い時間の便でよかったのです。
今回はこの日が来るまでいろいろなことがありました。2週間前に突然,原因不明のギックリ腰になりました。それが治ったころ90歳の父親が入院しました。このように,今回は行けないとあきらめかけたことも あるのですが,幸い父は退院し,それからあわてて荷物をまとめました。
ルートインは常滑駅から歩いてすぐ。ホテルには大浴場もあってそれなりに満足だったのですが,ホテル内のレストランはなんとお休みということで夕食は外に出る必要がありました。1キロほど歩くとイオンモールがあるということでした。名鉄電車でも常滑駅で乗って次のりんくう常滑駅で降りれば行かれるのですが電車は出たばかり。ちょうどバスが来たので乗り込もうとすると現金しかダメという話でした。海外に出かける私は日本円など1万円札1枚しか持ち合わせておらず,あとはSuicaとwaon カードのみ。実に情けない話です。今さら1万円を崩して小銭ができても困ります。
結局,しかたがないので小雨の中を歩いてイオンモールに行きました。到着して,夕食を食べ,それからのありあまる時間を潰すのも大変でした。このやたらと広いイオンモールは,となりにcostco もあって,すでにアメリカにいるみたいな感じです。それにしても日本もアメリカもどこも同じような店ばかりあるものです。でも欲しいものはありません。
さすがに帰りは時間を調べてりんくう常滑駅から電車でホテルに戻りました。このホテルの明日の朝食が6時30分からとか。こちらとしては朝早い便に乗るために仕方なく泊まっているのに,こんな遅い時間からの朝食では間に合いません。せめて6時でしょう。さすが自称おもてなしの国日本の本領発揮です。アメリカなら空港近くのホテルに泊まれば朝4時から朝食が取れます。
そんなわけで,今回もまた,日本を飛び立つまでが長そうです。乗ってしまえばすぐなんですが。では行ってきます。

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●ここはアメリカの「美観地区」●
 朝食を終えても独立記念館のツアーの整理券を配布する時間にはまだ余裕があったので,オールドシティ地区を散策することにした。
 ここはヨーロッパでいうところの旧市街であり,京都の祇園や高山の歴史地区,あるいは,倉敷の美観地区のような感じの場所であった。
 ここにはアメリカ建国初期の史跡が数多くあり,すべて徒歩圏内で,こじんまりとした美しい場所であった。アメリカのこうしたところは概して治安が悪かったりするが,ここはそうしたこともないとても素晴らしいところであった。

 近年,外国人観光客だらけで情緒を失った -日本はすべて金儲けが目的だから,そういうところにはやたらと店ができたりして,ますます落ち着いた雰囲気がなくなるが- 京都や高山よりも,ずっと落ち着いたところであった。赤煉瓦が美しい古い街並みで,建国時のアメリカにタイムスリップしたかのような気持ちになれた。
 この一角はデラウエア川(Delaware River)が真近に迫っている狭い場所だが,そのなかでももっと東側,つまり,川に近い場所がエルフレス小径(Elfeth's Alley)である。石畳のエルフレス小径は1720年から1830年に造られたとされる現存するアメリカ最古の住宅街である。
 道の両脇には赤煉瓦で統一された可愛らしい家々が30軒ほど並んでいる。現在でも普通の住居として一般人が居住している。

 エルフレス小路から歴史公園の方向に少し歩いていくと,ベッツィ・ロスの家(Betsy Ross House)がある。
 ベッツィ・ロスは初めて星条旗を縫った女性として有名で,現在は彼女の家が史跡になっている。家の外には昔のアメリカの星条旗が掲げられていて,その星のデザインは今より数が少なく独立当時の13個である。
 アメリカは13の州から独立したわけだが,国旗のcanton(右上の小区画)に描かれた星が州の数を表していて,それが次第に増えていくというアイデアははじめからそのように考えられたものなのだろうか? と私は疑問に思った。
 この史跡は博物館になっていて,有料で見学することができる。当時の裁縫道具やキッチン用具が展示されているということだったが,時間が早かったので,私は入ることができなかった。

 星条旗は独立戦争時にフィラデルフィアでベッツィ・ロスが裁縫したものが始まりだといわれているが,ベッツィ・ロスが最初のアメリカの国旗を作ったということは歴史上資料では証明されていない。それは,ベッツィ・ロスの孫のウイリアム・キャンビー(William Canby)が11歳の時に,ベッツィ・ロスから「自分の夫の兄ジョージ・ロスがアメリカの国旗を作る必要性を痛感していたジョージ・ワシントンの意を受けてロバート・モリスと一緒にアメリカの国旗を作るよう頼みにやってきた。そしてcantonに13個の五芒星を円形にあしらった国旗を作った」というのを聞いたと証言したことによる。

 独立戦争当時,アメリカでは国旗が国作りに必要とは考えられていなかったようである。独立戦争が拡大し植民地共通の旗の必要性が叫ばれるようになってできあがったのが,cantonの部分にイギリスの国旗が組み込まれ,残りの部分に13本のストライプが組み込まれた「大陸旗」とよばれるものであった。
 その後,大陸会議が1777年6月14日に「合衆国国旗は赤白交互の13本のストライプからなりcantonには青地に白色の星座をつくるべし」という決議を行った。この決議をした議員たちにはcantonの部分の白色の星の円形の置き方について共通理解があったといわれ,また,cantonの部分に13の白色の星を円形に並べたのはフランシス・ホプキンソン(Francis Hopkinson)という人物のデザインであったことはわかっている。
 その2か月後に国旗制定の記事がアメリカ各地の新聞に掲載されアメリカ国旗は人々に認知された。そのころの国旗は「条星旗」(Stripes and Stars)と呼ばれ,現在とは異なって星よりもストライプの方が重要とみなされていた。
 国旗が有名になったのはフランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)が1814年に「星条旗」(The Star-Spangled Banner)という愛国歌を作詞してからである。そして,南北戦争で国旗は「市民宗教」の最高位に登りつめ,国旗崇拝の運動が高まり,1880年代から20世紀初頭にかけて国旗はアメリカのすべての公立学校に置かれ「忠誠の誓い」(Pledge of Allegiance)で称えられた。
  ・・・・・・
 Pledge of Allegiance
 I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
 忠誠の誓い
 私はアメリカ合衆国国旗とそれが象徴する万民のための自由と正義を備えた神の下の分割すべからざる国家である共和国に忠誠を誓う
  ・・・・・・
 1924年の全国国旗会議で国旗の礼式に関する民用規定が決まり,そこで星条旗のデザインが確定しアメリカ国民の愛国心の中枢に位置するようになった。

 さらに歴史公園に向かっていくと,ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)の墓があった。
 ベンジャミン・フランクリンはアメリカ建国の父のひとりであり,現在の100ドル札にも描かれている。
 ここもまた,墓地に入るのには入場料が必要なのだが,墓は墓地の柵の隣にあるので柵越しに外から見学することができる。並んだ隣には夫人が眠っているということである。

DSC_2476DSC_2475DSC_2474DSC_2479●食べることに関しては…●
☆15日目 8月10日(水)
 今日の夕方にフィラデルフィアの空港近くのホテルに移って,明日の朝には帰国の途に着くので,今日が実質最終日であった。
 この旅の35年前に,生まれてはじめてのひとり旅でアメリカ東海岸に来たとき,グレイハウンドバスでボストン,ニューヨーク,ワシントンDCと移動したが,ワシントンDCとニューヨークの間にあるフィラデルフィアへ行かなかったことをずっと後悔していた。
 今回,フィラデルフィアで見たかったのは,先に書いた映画「ロッキー」の銅像と「自由の鐘」であったが,35年前にはロッキーの銅像はなかったから,今回行くことができて,逆によかった。

 旅をするには順序というものがあるようで,私はそうした運に恵まれているようなのだ。
 たとえば,南十字が見たいために,私はまず,ハワイ島のマウナケアを目指した。その次にニュージーランドのテカポ湖に行き,そして,ハワイ・マウイ島へ行き,その後でオーストラリアへ行った。何も深く考えてなかったが,もし,はじめにオーストラリアへ行ってしまっていたら,きっとニュージーランドへ行くことはなかったであろう。また,ハワイ島より先にマウイ島へ行っていたらハワイ島で南十字を見ることもなかったであろうし,マウナケア山にも登っていなかったであろう。
 それよりもなによりも,アメリカ50州制覇の前にニュージーランドへ行ってたらアメリカ50州の制覇などしなかったに違いない。

 話を戻して…。
 混雑するという「自由の鐘」を見るには,開館前に行くべきだと思ったので,早朝,ホテルを出ることにした。アメリカの大都市の観光地は,どこも混んでいるから,なるべく早く開館前に到着するに限るのである。
 私はホテルをチェックアウトしてカバンをクロークに預けた。車を使わない旅というのは,カバンの処遇が一番の問題なのだ。
 日本の観光地でも,大きなボストンバッグをもって旅をしている外国人を見かけるが,一時預かりやコインロッカーを知らないのに違いない。アメリカでも35年前に旅をしたときは確かにコインロッカーが存在したが,考えてみれば,これほどセキュリティ上危険なものはないから,今は存在しないのではないか?

 さて,私は,地下鉄に乗って数ブロック,この自由の鐘がある歴史地区に到着した。フィラデルフィアは非常に狭いところにこうした歴史地区があるので,歩いて観光するのが楽であった。
 少し到着するのが早すぎたが,幸い,地下鉄の駅を出たところに,非常に安価に朝食をとることのできるレストランがたくさんあったから,私は,その1軒でかつてないデラックスな朝食をとることができた。
 フィラデルフィアは食べることに関してはアメリカ有数の都会なのであった。

 13年前,アメリカで交通事故に遭って骨折して,アメリカの病院に1週間入院,帰国の許可が出て日本の病院に転院したのが私の入院初体験でした。私はケガでの入院だったので,毎日がとても退屈でしたが,それでも落ち込みました。病気で入院している人たちはそれ以上に毎日が大変です。入院というのは精神的に参ってしまうのです。病院でなくても,足腰が弱って,なかなか外に出ることもできないお年寄りもまた,精神的に参ってしまいます。
 そんな人たちの心の支えのひとつがテレビです。だから,テレビは楽しくなくっちゃだめ,と思うようになりました。

 それにしても,これだけたくさんのチャンネルがあるのに,どうして同じような番組ばかりなのでしょう。そしてまた,同じ時間帯に同じような種類の番組ばかり流すのでしょう。緊急速報だって別のチャンネルでやっているのなら流さない局があってもいいのです。そんなときこそ子どもたちのお守りや老人が楽しめる局があったっていいではないですか。
 私はまったく見ませんが,民放のワイドショーはさまざまなゴシップやら政治問題までを取り扱っていて,まるで週刊誌です。元気な人ならそれを見て,人とうわさ話をしたり,喫茶店で雑談のネタにするのにいいのでしょうが,気分のすぐれない人がそんなものを見ていても,元気になれるものではありません。
 高校野球だって,NHKが総合放送で1日中やらなくてもよさそうなものです。BS朝日でも同じものをやっていますし,興味のまったくないお年寄りにとれば,楽しみにしている通常の番組が中止になって見るものがなくなります。私の87歳になる母親は,見たい場組がない,テレビを見ていると憂鬱になるだけだといつも言っています。

 私は普段,テレビはNHK総合のドラマとブラタモリ,そして,EテレかあるいはNHKBSプレミアム,それ以外はBSの民放の旅番組くらいしか見ません。必要があってニュースを見る必要のあるときだけCSのCNNjを見ます。見ていて元気になる番組がないときは,あらかじめ録画してあるN響の定期公演か「コズミックフロント」,あるいは「旅するフランス語」や「旅するドイツ語」を見ています。
 そんな毎日なのですが,今年は,朝ドラ「ひよっこ」と大河ドラマ「おんな城主 直虎」の両方とも,元気の出るドラマなので,私はとても気に入っています。特に「ひよっこ」は最高です。この番組を見るといつも元気になれるのですが,それにも増して8月15日に放送されたものは圧巻でした。おもしろすぎて涙が出てきました。そして,ものすごく元気になりました。こういう番組ばかりだと助かるのです。

 視聴率だとか,評判ばかりが先行するテレビ業界に限らず,この国は,工業製品もまた,どの会社も同じような製品ばかりで,他社にないもの,その会社でなければ手に入らないものがほとんどないのです。それは,その予備軍である女子高校生のファッション雑誌のマネをしただけの服装と同じようなものです。
 ニュースもスポーツも芸能人のゴシップももう沢山です。うんざりです。不快なセクハラやパワハラのあるドラマ,戦争やらドルが上がっただの株が下がっただのといった相場ばかりの報道番組,そんな話題はもう見たくない,そう思っている元気のない人も多いのです。そういう人のための,安心できる結末のドラマと,見ているだけでもう行くことのない地へも行った気になれる楽しい旅,そしてグルメ… そんな元気の出る番組ばかりを放送するテレビ局があってもいいのです。そういうものが必要な人,それだけが喜びである人がこの社会にたくさんいるのです。
 テレビは楽しくなくっちゃ。そういうチャンネル作ってください。そうそう,年寄り向けの栄養食品のコマーシャルは抜きでね。

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●たいへんまずいラーメンを食べた。●
 美術館を出て,私は再び歩いてホテルに戻ることにした。すでに書いたことがあるが,フィラデルフィアの見どころのほとんどは地下鉄でアクセスできる。しかし,美術館は地下鉄で行くことができないので,どうやって美術館に来るのか不安であったが,距離にしたらわずか2キロ程度で,30分歩くだけだった。ただし,ものすごく暑い日だったので,それだけが身にこたえた。
 ホテルまでの帰路,美術館からダウンタウンにつながる北西から南西に走る道路はベンジャミン・フランクリン・パークウェイといった。この道路は中央分離帯の部分が散策道になっていて,夕方だったので多くの人がジョギングをしていた。

 やがて,ローガン・スクエアというロータリーにぶつかった。このロータリーのまわりには,自然史博物館(The Academy of Natural Sciences of Drexel University)やフランクリン・インスティチュート(The Franklin Institute)という名の科学館が集まっていた。さらに,Aviator Park という名の公園があった。
 このあたり,特に治安が悪そうな場所ではなかったが,私がちょうどそこを通りかかったとき,公園で炊き出しがはじまった。この炊き出しというのはホームレスを対象としたものであって,準備ができると,公園にいたけっこう多くのホームレスが集まってきた。
 日本にもバブルがはじけたころの都会ではホームレスが珍しくなかったが,アメリカでも都会にはホームレスが少なくない。しかし,炊き出しというのははじめて見た。

 そんなこんなで,夕方のフィラデルフィアを散歩しながら私はホテルまで戻ってきた。この日の夕食は前回フィラデルフィアに来た時と同じフードコートでと考えていたが,今度こそは前回食べられなかったラーメンにすることにした。
 フードコートにあったラ―メン店のメニューは写真のようであった。私は味噌バターラーメンなるものを注文したが,こんなものでも90ドル,約1,000円もする。1ドル110円という相場が正しくないことがこれだけでもわかるであろう。
 注文を受けた若い男は,たどたどしくかつ不器用に調理を始めた。まあ,いわば,アルバイト初心者がスガキヤでラーメンをつくるようなものである。
 ここのラーメン,何がおかしかったかといえば,写真ではわからないであろうが,ラーメンの入った容器はペランぺランのプラスチック,日本のコンビニで買う弁当の容器のようなものであった。これには驚いた。これではまったくおいしそうでないのである。
 このあたりで,私はラーメンを選択したことに後悔をした。そしてまた,食べてみると,これもまた期待どおり? たいへんまずかった。

 これもまたいつも書いているように,私はまったくグルメではない。私のまわりにはグルメが多いので,お付き合いで結構ご馳走を食べたりすることもあるが,自分ひとりだとまったく無頓着である。
 日本でも,ひとりで旅をしているときは,観光地に行っても吉野家で牛丼を食べているくらいである。酒は底なしだが,これもまた付き合いでないと飲まないから,ひとりで居酒屋にも行ったことがない。
 このごろはアメリカにも日本と同じようにフードコートがどこにでもあるから便利だ。アメリカのファミリーレストランは何が馬鹿らしいといって,単に食事を運んでもらうだけでチップがいるということなのである。

 オーストラリア人が一番合理的だとだれかが言っていたが,私もまさしくそう思う。
 オーストラリアでは,一般のレストランは入ったところにあるレジでメニューを見て直接店員に注文してお金を払ってから番号の書いたスタンドを持って自分で空いている席に座る。水はセルフサービスである。そして,待っていると料理を運んできてくれる。チップは要らない。
 日本のファミリーレストランは,チップは要らないし店員がやたらと親切(そう)だが,食後のデザートやコーヒーなどを注文してあっても,催促しないと持ってこないから,結局,客の方がストレスを溜め込むことになる。気を使うのは客のほうだ。はたしてこれをサービスとかおもてなしといえるのかどうか? 日本は世界で最もよくわからない不思議な国である。
 いずれにしても,食べ物自体は日本が一番おいしいけれど。

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●この美術館の見物はデュシャン●
 フィラデルフィア美術館が所蔵する作品は30万点を誇るが,なんといってもここの見物はデュシャンのコレクションである。
 マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)はフランス生まれの美術家で,20世紀美術に決定的な影響を残した。デュシャンは画家として出発したが油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。また,チェスの名手としても知られた。第一次世界大戦中の1915年に渡米しニューヨークにアトリエを構えたが,1919年に一旦フランスへ帰国し,それ以後はアメリカとフランスを行き来しつつ,おもにアメリカで活動した。
 アメリカにはルイーズ&ウォルター・アレンズバーグ(Louise&Walter Conrad Arensberg)夫妻というデュシャンのパトロンとなる人物がいたので,デュシャンの主要作品のほとんどがアレンスバーグ夫妻のコレクションとなり,フィラデルフィア美術館に寄贈されて一括展示されている。
 デュシャンは晩年アメリカに帰化した。

 デュシャンはニューヨーク・ダダの中心的人物と見なされ,20世紀の美術に最も影響を与えた作家のひとりと言われる。
 ダダとはダダイズム(Dadaïsme)のことで,1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動である。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており,既成の秩序や常識に対する否定,攻撃,破壊といった思想を大きな特徴とする。
 デュシャンは現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけたが,他の画家たちと異なるのは,30歳代半ば以降の後半生にはほとんど作品らしい作品を残していないことである。没したのは1968年だが「絵画」らしい作品を描いていたのは1912年頃までで,以降は油絵を放棄し,そののちは「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表した。

 ここでは,そんなデュシャンの作品から代表作2点を紹介しよう。
 ひとつめは「階段を降りる裸体 No2」(Nude Descending a Staircase No.2)である。
 降りるということから連続性によって落下をイメージさせているという。階段は室内にあリ,裸体は非文明でもなく犯罪にも遠い。無機的な情感を排除したこの作品は,あたかも散乱した板状の物を寄せ集めたような裸体,物理的にも精神的にも条件を外した無為は裸体の意味を剥奪しており,性的興奮はもとより骨肉という人間の条件をことごとく打ち消しているように,現存を否定し,鑑賞者を寄せ付けない。
 作品と鑑賞者に生じる亀裂の空間こそが作品の主眼であろうか。

 ふたつめは有名な「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」(The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even)である。通称「大ガラス」」(The Large Glass)という。
 この作品はデュシャンが1915年から1923年にかけて制作し,8年間の歳月がかけられたが未完成のまま放棄された。
 作品は縦2.7メートル,横1.7メートルを超える2枚のガラス板に機械のような金属が並べられている。「花嫁と独身者という理性に対立する感情的なエロティシズム,周囲の空間と混ざりあう透明なガラス,偶然に出来た塵やひび割れ,メモなど外部の現実や言葉の侵入を受け入れ成立しているのだという。

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 自分にはさほど関わりのない人とのお付き合いというのは結構長く続くものです。普段気にもしていない人とは逆に疎遠にもなりません。その一方で,親しい人ほど一度仲たがいをすると絶縁状態になってしまいます。
 それはモノも同様で,大切にしていたモノほど,いつの日かなくなってしまうのですが,どうでもいいものはいつまでも残っています。
 旅をしていても,貴重品はきちんと管理していないとどこかになくしてしまいそうで危険なのですが,どうでもいいチラシとかゴミはいつまでも存在します。

 国と国のお付き合いもまた,お隣同士はなかなかうまくいかないものです。お隣同士なのに仲がよいというオーストラリアとニュージーランドの不思議な関係なんて,日本人には全く理解できないことでしょう。この2国は紛争の歴史を共有していないからなのかもしれません。
 多くの日本人は,北朝鮮が世界中から孤立しているように報道されるからそう思っていますが,世界の120以上の国と国交があって,国交がない国の方がむしろまれです。それは,地理的にも経済的にも関わりのない存在だと思っている,つまり,どうでもいいと思っている国の方が多いからです。

 日本は島国なので,国境線という意識がほとんどありません。そこで,大陸で異国と接している国の人とは全く異なる感覚をもっているのでしょう。
 私が陸の国境線を越えた経験は,アメリカ合衆国とカナダ,アメリカ合衆国とメキシコくらいのものですが,それはとても不思議な感覚でした。しかし,アメリカの隣国は国境を越えればすぐにお隣の国に入国できます。
 それに対して,西アジアの国々の国境では,単に国境に壁やら塀があるだけでなく,そこには国境緩衝地帯というものが存在しているようです。陸上で国を出国しても一旦緩衝地帯を経由しないと,次の国に入国ということにはならないわけです。だから,出国しても次の国に入国できない,という宙ぶらりんの状態で何日もすごすという羽目に陥ることもあるらしいのです。

 今日載せた写真は,私が写した国境の写真です。1番目から3番目のはアメリカ合衆国とメキシコの国境です。
 テキサス州ではリオ・グランデ川(Rio Grande)が国境となっていて,この川が国を隔てています。この川にはいくつかの橋が架かっていて,ある橋では車が通行でき,またある橋は徒歩で国境を越えることができます。
 ここでは川の向こうにあるメキシコの家々や空高くたなびく国旗をアメリカ側から見ることができますが,そうしたものを見ると何かとても不思議な気になります。
 一方,4番目と5番目はアメリカ合衆国とカナダとの国境ですが,こちらは,まるで,高速道路の料金所のような感じです。今はどうなのか知りませんが,10年以上前,私がアイダホ州の北の国境でカナダからアメリカへ国境を越えたときは,パスポートを見せるくらいで行き来ができました。
 また,ナイアガラの滝では,滝にかかるレインボーブリッジの上が国境になっています。

 人間が人工的に作った「国」とそれを隔てるための「国境」,国と国のお付き合いというものは人間の歴史に多くの事件や紛争を生んできました。
 以前,「日本はアメリカの51番目の州になればいい」とか発言して物議をかもした代議士がいました。政治家がそういう話をすると大問題となるのですが,もし,日本がアメリカの属国とか植民地ではなく,ハワイ州のように,51番目の独立した州となったら,どういうことになるのでしょうか?
 まず,為替差益の問題がなくなります。円高だの円安だのという話題は不要になります。貿易赤字という問題もなくなります。
 当然大学の入試制度も変わりますし,日本人の働きすぎもなくなります。
 日本のプロ野球もメジャーリーグの機構に組み込まれます。現在メジャーリーグは30球団あって,これは実際には32球団あったほうが望ましい数なので,日本から2球団を加え,残りの10球団はマイナーリーグにすればいいわけです。日本人プレイヤーはもっと容易にメジャーリーガーとなれます。
 しかし,アメリカは「合衆国=合州国」なので,州の独自性は認められます。ハワイのように憲法すら存在できます。つまり,日本の独自性も尊厳も保たれます。当然,文化も尊重されます。
 内閣総理大臣は自動的に「日本州」知事となり,国会は州議会となります。また,アメリカ大統領選挙に投票もできます。
 しかし,こんな理屈を語っていても,それを越えたところでその国の尊厳とか誇りとか独立性があるからそんな話は空論に過ぎないわけで,それが「国」だということでしょう。難しいものです。

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●フィラデルフィア美術館所蔵の作品●
 館内は美術館の外とは違って閑散としていた。私は受付でみんなロッキーに夢中で館内まで来ないね,と話したらスタッフが困った顔をして同意した。ワシントンDCのナショナルギャラリーもそうであったが,世界からやってくる観光客の多くはこうした美術には興味がないようなのである。
 簡単に言えば教養がないのである。
 私はまず,レストランに行って昼食をとった。ここもまたとても空いていてゆっくりできた。フィラデルフィア観光では,この美術館の館内はお勧めである,というよりもぜひ行くべきである。

 では,今日はこの美術館で見ることのできる作品をいくつか紹介しよう。
 ます,3番目の写真はルノアール(Pierre-Auguste Renoir)の有名な「大水浴図」 (Les grandes baigneuses)である。この頃の画家の作品に不満を持っていたといわれるデュラン・リュエル(Paul Durand-Ruel)の好敵手的存在であったジョルジュ・プティ(Georges Petit)の画廊で展示された本作は「都会のダンス」(Dance in the City)でもモデルを務めたシュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon)をモデルに女性らの地中海沿岸での水浴場面を描いたもので,ルノアールが印象主義から脱却し,古典主義またはアカデミズム的な表現への傾倒を示した集大成的な作品としてルノワールが最も力を注いで制作した作品である。
 輝くような生命力を感じさせる浴女の姿, 動きのある躍動的な人物の姿態の描写,入念に計算された写実的な人物の描写や構成,流麗な輪郭線,非常に明瞭ながら冷艶さや甘美性も兼ね備える色彩とともに,新たな表現・描写様式が至る所に感じられるという評がある。
 
 4番目の写真は不気味な目を描き続けたイタリアの画家モディリアーニ(Amedeo Clemente Modigliani)の「青い目の肖像」(Blue Eyes)である。まるで宇宙人を思わせる細長い顔と青い目が描かれた絵画がここにある。その絵からは興廃した雰囲気と同時に神秘的な雰囲気も感じる。
 モディリアーニの作品は描かれている人の体の曲線と長い首,そして尖った目,輪郭が特徴的だが,この作品ではしなやかで官能的な女性特有の曲線をモディリアーニ独特の表現法でうまく描き表しているという。
 ここに描かれているのは妻ジャンヌ・エビュテルヌ(Jeanne Hébuterne)である。彼女はモディリアーニが肺結核が悪化し35歳で亡くなったとき,子供を身ごもったまま21歳の若さで後追い自殺をした。

 そして,5番目と6番目はゴッホ(Vincent Willem van Gogh)の作品である。
 5番目のものは「カミーユ・ルーランの肖像」(Portrait of Camille Roulin) 。デトロイト美術館,ボストン美術館,そしてここフィラデルフィア美術館には5点のゴッホによるルーラン家の人々を描いた肖像画がある。カミーユ・ルーランはジョセフ・ルーラン(Joseph Roulin)の息子である。ジョセフ・ルーランは郵便配達夫で,ゴッホのアルル滞在中に変ることのない親切を示した。ルーランと彼の妻そして3人の子供達はこの時期のゴッホの肖像画に最も頻繁に登場したモデルだった。
 不思議なことに,ゴッホはこの時期、自画像も彼の家族の肖像画も描いていない。
 そして,6番目が有名な「ひまわり」(Sunflowers)である。「ひまわり」は1888年8月から1890年1月にかけて描かれた花瓶に活けられた向日葵をモチーフとする複数の絵画の名称である。ゴッホにとっての向日葵は明るい南フランスの太陽とユートピアの象徴であったと言われている。
  南仏のアルル滞在時に盛んに描いた向日葵だが精神が破綻し精神病院での療養がはじまってからは描いていない。
 「ひまわり」は7点が制作され,このうち6点が現存している。 フィラデルフィア美術館にあるのはアムステルダムにある作品と同時期にミュンヘンにある作品を模写したものとされる。

 最後7番目と8番目の2点はミロの作品である。私はミロが大好きなので取り上げた。私はミロの絵画を見るとショスタコビッチの音楽を思い起こすのだが,鮮やかな色彩のなかに几帳面さと上品さがあると感じる。
 ジョアン・ミロ・イ・ファラー(Joan Miró i Ferrà)は20世紀のスペインの画家である。ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことからシュルレアリストに分類されるのが通例だが,ミロの描く人物,鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態,原色を基調にした激しい色使いあふれる生命感などは古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり20世紀美術に独自の地位を築いている。
 1930年代からはバルセロナ,パリ,マリョルカ島のパルマ・デ・マヨルカにアトリエを持ち制作した。
 7番目は「馬とパイプと赤い花」(Horse, Pipe, and Red Flower)。ミロが1920年夏の間に描いたものである。おもちゃの馬と長い粘土パイプが場面にカタロニアの味を添えるている。生き生きとした色,騒々しいパターニングと混雑した構成は彼の初期の絵に特有である。
 また,8番目の「男と女と子供」(Man, Woman, and Child)は1931年の作で,私が気に入ったものである。

DSC_2376DSC_2379DSC_2382DSC_2388DSC_2398●「ロッキー」とフィラデルフィア美術館●
 私がフィラデルフィア美術館へ行くことにした目的はロッキーステップの最上段にあるロッキーの足型を見ることであった。数日前に来たときに念願のロッキーの銅像は見たのだが,時間がなく,足型を見忘れたのだった。
 ホテルから30分ほど歩いていくと,まず,右手にロダン美術館があり,その向こうにフィラデルフィア美術館が見えてきた。ロダンの「考える人」は日本でも見ることができるから,特に興味を感じなかったのでパスして,私は目的のロッキーステップに急いだ。

 映画「ロッキー」シリーズに登場するフィラデルフィア美術館であるが,シルヴェスター・スタローン扮する主人公ロッキー・バルボアがトレーニングのために駆け上る美術館正面階段が「ロッキー・ステップ」と呼ばれているところで,現在,その階段下の右手の部分にロッキーの銅像が設置されていることはすでに書いたとおりである。
 この銅像は「ロッキー3」の撮影のために階段の上に置かれたが,その後「ワコビア・スペクトラム」に移された。
 「ワコビア・スペクトラム」(Wachovia Spectrum)はかつてフィラデルフィアにあった屋内競技場である。場所は,私が見たMLB・フィラデルフィア・フィリーズのホームグランドのあるシチズンズパークのあるスポーツコンプレックスであった。
 1967年に開場し,1994年からコアステーツ・スペクトラム,1998年にはファースト・ユニオン・スペクトラムと改名し,2003年からはワコビア・スペクトラムと呼ばれていた。ここはNBAのフィラデルフィア・セブンティシクサーズとNHLのフィラデルフィア・フライヤーズ,そしてAFLのフィラデルフィア・ソウルのホームグランドとして使用されていたが,建物の老朽化などで2009年をもって閉場され,2011年に取り壊された。
 現在は,NBAとNHL,およひAFL は同じくスポーツコンプレックスにある「ウェルズ・ファーゴ・センター」(Wells Fargo Center)をホームグランドとしている。
 銅像は「ロッキー5 最後のドラマ」の撮影時に階段の上に移動され,「マネキン」や「フィラデルフィア」といった他の映画作品にも出てきたが,その後ワコビア・スペクトラムの取り壊しが決まり,2006年に今度は階段の下に置かれることになった。

 今回はロッキーステップを上がったところにロッキーの足跡を見つけて写真をとった。自分の足とも大きさを比べたりもしてみた。
 これで念願を果たしたので帰ろうと思ったが,せっかくなので,というか,ここまで来たからには美術館に入ろうと思ったのだが,ほとんどの観光客は外でロッキーの思いにふけっていただけで館内に入ろうとしないので,敷居が高かった。
 不勉強な私はこのときまでまったく知らなかったのだが,フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)は,アメリカ有数の規模をもつすばらしい美術館であった。ここは1876年アメリカ建国100周年の際に建設されたメモリアルホールがその起源で,1年後の1877年から美術館として公開された。
 所蔵品は30万点を数え,古代からコンテンポラリー・アートまであらゆる時代,地域,分野にわたっている。
 特に,アレンズバーグ・コレクションのマルセル・デュシャンの作品群はデュシャンの全貌を知るうえで欠かせないコレクションとなっている。また,日本の作品も浮世絵4,000点以上を含んだ版画5,000点,絵本・画帖100点余を所蔵している。
 私はこのときに思い切ってなかに入って本当によかったと思う。

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●どこの国もそう変わらないものだ。●
 デラウェア州はメリーランド州とペンシルベニア州の間にある小さな州なので,メガバスはデラウェア州ニューアークのデラウェア大学にある停留所を出発しインターステイツ95に戻ったら,すぐにペンシルベニア州の州境になった。
 思う存分景色が見られるバスの旅はいいものだ。特に,日本と違って,道路に防音壁がないから非常に見通しがよく美しい。
 このようにして,いよいよフィラデルフィアに戻ってきた。ボルチモアとは違って,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションの近くなので,ここからダウンタウンにアクセスするのには問題はない。
 しかし,考えてみれば,日本の高速バスだって,途中の停留所は高速道路に作られたところやインターチェンジにあって,そこで降りてもそこから公共交通機関すらない場所だったりするからアメリカと同じようなものだ。だから,このことは,アメリカがどうだ,日本がどうだという話ではない。
 同様に,ネットの書き込みには,フィラデルフィアのメガバスの停留所はアムトラックステーションからは少し奥まった「不便な」ところだったので治安が心配であった… と書かれたものがあったが,日本の格安バスの停留所だって,さほどの違いはない。東京駅でも,格安バスの停まるのは八重洲口からずいぶん離れた暗い場所だから,外国人には「不便な」ところに思えることであろう。

 それに関連して,もう少しこの話題を続けよう。
 ニュージーランドではモーテルのような簡易ホテルは不思議な構造になっていて,我々が思うような部屋の入口というものがない。日本でいう縁側のようなところから入る感じなのである。これもまた,ネットの書き込みに,私の泊まったモーテルには入口がなくとても不安だった… と書かれてあったものを見つけたが,それはニュージーランドでは何も特別なことではないから,書いたほうが無知であるだけなのだ。
 それ以外にも,ネットの書き込みには,このような,書き込むほうの偏見やら誤解から来ているものが数多くみられるから,書かれるほうはたまったものでない。そういうことをわかって読む分にはその信ぴょう性が判断できるが,そうでない場合が少なくないことであろう。

 さて話をもどして…。
 バスはインターステイツ95に沿ってフィラデルフィアの西側を南北に流れるスクールキルリバー(Schuylkill River)を西から東に越え,サウスフィラデルフィアをしばらく走り,ジャンクションでインターステイツ76に乗り換えて逆方向に進み,再びスクールキルリバーを今度は東から西に渡ってから,川に沿って西岸を北上しはじめた。
 いよいよ終点である。そしてまた,これが今回の私の旅の最終目的地でもある。
 目の前に見慣れたアムトラックステーションの建物が見えてきた。5日前はレンタカーを返却するためにこの駅までやってきたのだったが,そのときはレンタカーリターンの駐車場がなかなか見つからず戸惑ったのを思い出した。

 やがて,アムトラックステーションを越えたところの路地を1ブロック過ぎたあたりでバスは停車した。ここが停留所であるらしい。前にはボルトバスも停車していた。
 ネットの書き込みにあった「不便な」場所とはここのことをいっているのだろうが,ここはまったく不便な場所ではないし治安の悪いところでもない。
 バスが停車したので乗客が順々に降りていって,カバンを手にしてダウンタウンに向かって歩いていった。それは日本の高速バスを降りたときとなんら変わる風景でなかった。

 私はふだんレンタカーでアメリカを旅することが多いので,こういう状況を見るのはまれである。
 しかし,サンフランシスコ,ニューヨークといった大都会を公共交通機関を使って観光すると,日本もアメリカもさほどの違いを感じないし,どちらが便利だ不便だといっても,それはその土地のことを知らないからそう思うだけであって,日本に来る外国人だってきっと同じようなことを思っているであろう。
 成田から東京都心に行く交通機関だってそれは同様だ。日本は自分の会社に客を囲い込むことが大好きだから公共交通機関を使うときに他社との接続については冷淡だったりきちんとした案内がなかったりする。表向き「おもてなし」といいながら,このように薄情なことが少なくない。
 あるいはまた,セントレア・中部国際空港へのアクセス鉄道である名鉄電車など,座席指定の特急を利用しない限り英語の放送もなく不案内この上ない。私はこれまで電車に乗り間違えそうになった外国人を数多く救出? したものだ。

 一番先頭に座っていたから最後になったが,私もまたメガバスを降りて,アムトラックステーションまで歩いていって,5日前にフィラデルフィアに来たときと同じように地下鉄に乗ってホテルに向かった。そのときはわずか1日間フィラデルフィアに滞在しただけなのに,それでも2度目となると勝手がわかるので,もう戸惑うこともない。
 今日から泊まるホテルもまた,前回と同じところを予約してあった。フロントで私が数日前にも来たことを覚えていて,あっさりとチェックインを済ませて,すぐに部屋に入ることができた。
 私は部屋に荷物を置いて,再び外に出た。目指すのはフィラデルフィア美術館であった。

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☆☆☆☆☆☆
 日本から見ることができる星空についてはすぐれたガイドブックがたくさんあります。なかでも今から40年ほど前に誠文堂新光社から出版された藤井旭さんの書いた「全天星雲星団ガイドブック」という本は今でもとても役に立ちます。しかし,この本は南半球から見ることのできる星空についても若干は取り上げられていますが,初版されたときは南天の部分はなく,後から付け足した改訂版なので,日本から見ることができる部分の記述に比べればやや不十分です。
 しかし,40年も前だというのに,そのころはすでに「103a」という名前の白黒ですが散光星雲が写せるフィルムがあったおかげで,現在,デジタルカメラと画像処理ソフトの発達で脚光を浴びている天体の記述がすでにたくさんあるので,内容が古くなく今でも使えるので助かります。それでも,現在は,その当時はほとんど知られていなかったような写真写りのよい天体がずいぶんと有名になり,私のような古い知識しか持ち合わせてない者には,こんな天体知らないぞ,聞いたことないぞ,というものが多くあります。

 このように,南天の星空には,もともと情報が不足していることに加えて,最近になって有名になった天体がたくさんあって,日本に帰ってきたあとではじめてそれを知って,改めて,写してきた写真にそれが写っているかを確かめてたり,落胆したり,そんなことを繰り返しています。
 双眼鏡で見ることができる天体や望遠鏡で拡大してみると見事なもの,あるいは,写真でしか写せないもの,それも,広角レンズのほうが美しく写るものや望遠レンズのほうがよいもの,といったような,きちんとした説明のある入門者用の南半球で見ることのできる天体の解説書があればいいのになあといつも思います。
 それにまた,このごろは,一般の人には手が出ないような高価な機材やテクニックを使って写したような写真集ばかりで,見ているには楽しいのですが,自分で写すには参考になりません。もう一度藤井旭さんに40年若返ってもらって,最新の情報を加えてこの本を新しく作ってもらえないものかと思います。

 さて,おおいぬ座の南,ほ座というところに「ガム星雲」というものがあります。
 先に書いた「全天星雲星団ガイドブック」にもすでに書かれている天体なのですが,この本の記述がほかの天体の説明にくらべて簡単すぎて,どこの場所をどのくらいの画角のレンズで写せばいいのかさえよくわかりません。おそらく,出版間際にその時の最新の情報として付け加えたのでしょう。
 「ガム星雲」(Gum Nebula or Gum 12)とは,おおいぬ座の南にあるほ座からとも座にかけて,なんと40度以上にも広がる超新星残骸です。この天体は太陽系からおよそ1,300光年に位置していて暗くて識別することが困難であって,かつ,日本からは地平線ぎりぎりまでしか昇らない散光星雲状の天体です。これは約100万年前に起こった超新星爆発の残骸が大きく拡散したもので,今も拡散していると考えられています。
 「ガム」という名は,この星雲を研究したオーストラリアの天文学者コリン・スタンリー・ガム(Colin Stanley Gum )にちなむのもで,キャンベラ郊外のストロムロ山天文台=下の写真(Mount Stromlo Observatory)の広域カメラを用いて観測を行って発見した天体を「A study of diffuse southern H-alpha nebulae」というカタログにして1955年に発行しました。今日「ガムカタログ」(Gum catalog)と呼ばれているこのカタログには南天の84個の輝線星雲を収録していて,ガム星雲はそのうちの12番のものです。
 なお,ストロムロ山天文台は,2003年1月18日の山火事によって5基の望遠鏡,作業場,建物が倒壊しました。現在は修復が進めれれています。

 今日の写真は,私がこの春に行ったハワイ・マウイ島のハレアカラで写したものですが,やはり,北半球のハワイでは南天の天体はいまひとつです。私は,はじめは南十字星が見られれば満足だったのですが,やはり,南半球に行かなければと思うようになりました。そして,それがかなった今は,この美しい南半球の星空のことをもっときちんと知りたいと思うようになってきました。

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●対向車線は事故で大渋滞だった。●
 すでに書いたことだが,私はこの旅でフロリダ州からジョージア州にかけてインターステイツ95を走っていたときに大渋滞に巻き込まれた。アメリカのような広い国では渋滞など無縁であると思われるかもしれないが,さにあらず,特に東海岸のように交通量の多い場所でこういうことが起きるのだが,一旦起きるとどうにもならない。
 私が巻き込まれたときの渋滞の原因はコンボイの横転であったが,情報がわからず難儀した。
 今回のものは,バスから眺めていると対向車線がとんでもない状況になっていた。この渋滞の原因は写真のように車の衝突であった。こうなると,もう,逃げ場所もなく,対向車線は延々と大渋滞になっていた。
 運よく,私の乗ったバスの進行方向は渋滞とは関係なく,その後も順調に走り続け,ボルチモアの次のバスストップであるデラウェア州ニューアークに到着した。停留所のあったのはデラウェア大学の構内であった。

 ニューアーク(Newark)は,デラウェア州の北部,メリーランド州との州境に位置し,人口は約3万人,ウィルミントン,州都ドーバーに次ぐ州第3の都市である。ニューアークはデラウェア大学が本部キャンパスを置く大学町である。
 ニューアークは1694年,スコットランド系,アイルランド系,およびウェールズ系の入植者によって創設された。1758年には,イギリス王ジョージ2世がニューアークを町として正式に認可,また,ジョージ2世が農産物取引の場として,半年に1度の祭,および週1回の市場をはじめた。
 やがて独立戦争が勃発すると,イギリス軍が進めていたフィラデルフィア方面作戦の最中,ニューアークの近郊,クーチズ・ブリッジで大陸軍がイギリス軍が交戦した。このクーチズ・ブリッジの戦いでは,アメリカ史上初めて星条旗が掲げられた。独立戦争が終わると,デラウェアは1787年に連邦最初の州となった。

 ニューアークの歴史においては学校が大きな役割を演じてきた。1743年にフランシス・アリソンが設立したグラマースクールは1765年にペンシルベニア植民地のニューロンドンからニューアークに移され,校名もニューアーク・アカデミーに変更された。このニューアーク・アカデミーとは別個に,デラウェア州は1833年にニューアーク・カレッジという新しい学校を認可した。
 1834年にニューアーク・アカデミーとニューアーク・カレッジが合併し,デラウェア・カレッジとなった。1859年にデラウェア・カレッジは一旦閉校に追い込まれたが,11年後の1870年にモリル・ランドグラント法によって土地を供与され,半官半民の大学として再建,1913年デラウェア・カレッジは州議会の決定に従い,デラウェア州政府に完全に移管され,1921年デラウェア大学に改名した。

 デラウェア大学はニューアークの中心部,およびその南にキャンパスを置いていて,デラウェア州最大の規模を有する総合大学として広範囲にわたる学部・学科・専攻プログラムを有している。
 デュポンが興り,化学産業や製薬産業が発展しているデラウェア州という土地柄から,経営学,化学工学,化学,生化学の分野に特に強みをもっている。
 バスの車内から見た限りではとても落ち着いたアカデミックさただようきれいで素敵な町であった。こういう町でならもういちど大学生活をしてみたいと思った。

宇宙の大地図帳宇宙の地図

 本屋さんで「宇宙の大地図帳」という本を見つけました。宇宙に関する本は,以前はずいぶんと手間暇のかかったよいものがたくさんあったのですが,このごろはインターネットで優れた情報が手に入ることや,あまりに学問の進展が早くて本を作る間もなく変わっていくからなのか,なかなか充実したものに出会わなくなってしまいました。
 そうしたなかで,久しぶりに私はこの本に目がいきました。

 宇宙の大きさはあまりに広く,歴史はあまりに深いので,それを実感できる方法がありません。私も,いろいろと工夫をして表を作ったり,書いてみたりもしたのですが,なかなかうまくいきませんでした。そうしたときに見つけたのがこの本でした。
 私が苦労してなんとかわかろうとしていた距離の感覚がとてもよく理解できました。
 ただひとつこの本の欠点は,というよりも長所といえるかもしれませんが,それは,
  100,000,000,000,000,000,000km
といった表示がされていることです。あえて,すごく大きな数字だというインパクトを与えるつもりなのでしょう。本文を読めば10の21乗と書いてあるのですが,こうも0を並べられてもあまりに桁が大きすぎてよくわかりません。ちなみに,10の21乗とは10垓であり約1億光年です。

 1光年は
  9,460,730,472,580,800メートル
  9,460,730,472,580キロメートル
  約9.5兆キロメートル
なので,1光年とは
  約10,000,000,000,000キロメートル
つまり,
  約10兆キロメートル
だと思えばよいでしょう。
 学校で習う化学の授業でアボガドロ数を「6.02×10の23乗」と覚えますが,これは6千20垓なんです。実際に
  60,200,000,000,000,000,000,000
のように書いてみたことがないから,その大きさの実感がわかないわけです。だから,学校ではじめて教えるときに一度はこういう表示を黒板に書いてみるのはすごく大切なことです。 
 この本の場合も,わかりやすくするには,この大きな数字の隣に,10の21乗とともに1億光年という併記もされていればよかったのになあ,と思ったことでした。

 いずれにしても,私が驚いたのはこの本の値段でした。たった700円だったのです。
 この本の隣に,「宇宙の地図」という本がありました。手に取ってみると,「宇宙の大地図帳」と瓜ふたつ。違いは天体の写真と距離の表示が10の○○乗であったことぐらいでした。そうそう,決定的に違ったのが値段で,朝日新聞の出版物らしくこちらは2,000円もしました。悪くいえば,「宇宙の大地図帳」は「宇宙の地図」のアイデアのパクリ,あるいはジェネリック薬品とでもいいますか。
 私には,前者のもので知りたい目的はかなったので,そちらを購入しました。装丁も安っぽくて薄っぺらいので邪魔にならないし。
 私はずっと興味があるからこれで事足りるのですが,星のことにあまりなじみのない人がこの本を購入したら読んでいてわかるのかな,と思いました。そういう人は,子供向けの学習事典も同時に購入するといいと思います。いずれにしても,この2冊,星好きには見ているだけで楽しい,しかもとても便利な本です。

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●安価で快適な「メガバス」●
 私はこの旅で50州制覇とMLB30球団のボールパーク制覇に加えて,長年の夢であった「アムトラック」にも乗ることができた。長距離バスはすでに「グレイハウンド」は乗ったことがあったが「メガバス」は初体験であった。
 フィラデルフィアからワシントンDC まで利用したアムトラックは39ドルであった。そして,今回ワシントンDCからフィラデルフィアに行くメガバスは2階の最前列という最も高価な席でも10ドル,そこに手数料を加えて私が支払ったのは12ドル75セントであった。わずか1,500円くらいでワシントンDCからフィラデルフィアまで行くことができるのである。240キロ,東京から浜松ほどの距離である。
 アメリカのメガロポリス,つまり,ニューヨーク,ワシントンDC,ボストンなどを観光するには車は邪魔になるだけだから,都市間の移動にはバスを使い,市内観光には地下鉄などを利用するに限る。このとき,公共交通機関を利用して観光するのに便利なように,地下鉄の駅から徒歩圏内の場所に適当なホテルを見つけるのがポイントである。
 しかし,アメリカの東海岸の夏は日本以上に蒸暑いから,夏休みに旅をするには覚悟がいる。

 考えてみれば,私にとっては,35年前に生まれてはじめて何もわからずアメリカをひとり旅をしたときが最も旅のやり方としては優れていたようなのだ。
 確かに今よりも大都市の治安は悪かったが,今ほどに観光客でごった返していなかったし,市内観光は歩くか公共交通機関を使い,都市間の移動にはグレイハウンドを利用したとても楽しい旅であった。若さは暑ささえ苦にしなかった。
 思い出すのは,ニューヨークで宿泊した安ホテルから,朝,歩いて近くのレストランに行ってモーニングサービスのような食事をしたときのことだ。ビリージョエルのアメリカが,吉田ルイ子のアメリカがそこにはあった。ああ,懐かしき日々よ。
 今考えると,たいして英語もできなかったのに,今回の旅以上にいろんなところに行き,様々な経験をしているのだ。若いというのは実に素晴らしい。そして,そうした旅をしたことが生涯の思い出となる。若い時間を決して無駄に使ってはいけない,としみじみ思う理由である。
 メガバスの乗り心地は,日本の高速バスとほとんど変わらなかった,というよりも日本のバスよりも広く快適であった。
 私は,2階の最前列の席に座ったからずっと景色を見ることにしていた。このバスは無料のWifiが通じてはいるがさほど入りがよくないらしい。しかし,私はこの貴重な時間をネットサーフィンをするような無駄をして過ごす気はまったくなかった。

 バスはユニオンステーションを出て,そのままインターステイツ95を目指してワシントンDCのダウンタウンを走っていった。
 写真にあるように,私の乗ったバスの前にボルトバスが走っていた。それと進路を別にすると,その前にもう1台のメガバスが別の目的地に向かって走っていて,ジャンクションで分かれていった。
 私の乗ったバスはインターステイツ95に乗ってフィラデルフィアを目指して進んでいく。この道はすでに私が数日前に車で走ったところである。それにしても… と前回走ったときに思ったのは,このインターステイツの道路標示が変だったことである。アメリカでは茶色地の標示は観光地を示すものなのである。道路標示なら緑色地でなければならないのだ。
 今回,座席から見ても,ここの標示は確かに茶色地であった。どうやら,このインターステイツ95の走っているところは国立公園のなかであって,管轄が国立公園局のようで… あった。

 そうこうするうちに,バスはボルチモアの行政区域に入った。さらに走っていくと道路は有料道路になった。私は有料道路を走るのは避けたので,この道路は走っていない。バスはこのまま有料道路を通ってインターステイツを一旦降りて,ボルチモアのダウンタウンに向かうのかと思った。このあたり,窓から外を見ても,インターステイツにもパトカーが数台停まってなにやら取り調べをしているし,物騒なところだった。
 実は,私はバスがボルチモアのダウンタウンを走るのを密かに期待していた。ダウンタウンの疲弊した景色が見たかったからだ。しかし,バスはインターステイツを降りずそのままボルチモアを通過してしまい,それからもずいぶんと走って,ボルチモア郊外のモールの駐車場に停まった。
 メガバスのボルチモアの停留所は意外な場所にあった。後で調べると,そこは,
  White Marsh Mall Opp Red Lobster
  - 8092 Honeygo Blvd Baltimore MD Bus Station -
というところであった。ダウンタウンからは20マイルも離れていて,こんな場所で降りても車がなければボルチモアのダウンタウンには行くことができない。
 この停留所で数人の乗客が下車した。どうやら家族がここまで迎えに来ているようで,モールの駐車場に停めていた車に乗って帰っていくのが見えた。メガバスの停留所は都会によってはこういう郊外の不便なところにあるあるから利用する際は注意が必要,とガイドブックに書かれてあったのを思い出した。

◇◇◇
ニューヨークの想い①-吉田ルイ子の青春
ニューヨークの想い②-貧しきものよ,この国においで。

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●アメリカの格安バスに乗る。●
☆14日目 8月9日(火)
 今日はワシントンDCからフィラデルフィアに移動する日であった。いよいよ長いこの旅も最終章であり,フィラデルフィアの市内観光を残すのみとなった。
 フィラデルフィアからワシントンDCへ来たときは鉄道の「アムトラック」を利用したが,今回は「メガバス」を利用することにした。アメリカには「グレイハウンド」(greyhound)という老舗の長距離バスがあるが,「メガバス」(megabus)というのは現在売り出し中の長距離格安バスである。経営母体などは全く異なるが,イメージとしてはちょうど日本でいうJRバスと格安長距離バスのような感じであろうか。

 「グレイハウンド」はアメリカで最大規模のバス会社であるが,この会社の走らせる長距離バスそのものを「グレイハウンド」と称することも多い。アラスカ州とハワイ州を除くアメリカ本土とカナダ及びメキシコの一部の都市を結ぶ膨大な数の路線を持ち,3,100路線以上が存在する。
 「グレイハウンド」は1913年にミネソタ州ヒビングにて設立され,1926年にグレイハウンド・コーポレーションとなる。現在はテキサス州ダラスに本社を構えている。
 私もまだアメリカでは車を運転しなかった今から35年前,グレイハウンドを利用してニューヨーク,ワシントンDC,ボストンを移動した。当時はこのグレイハウンドに乗ってアメリカを横断するのが夢であった。
 思えば,若いというのはよいものよ! 大学に入ったばかりの大学生諸君,ともかく,英語ができないとか金がないとかいった言い訳をせずに,この夏は思い切って旅に出て,グレイハウンドでアメリカ横断をしてみるとよい。人生の何かが確実に変わり,自分に自信ができることであろう。当時もまた,お金のない若者や留学生はグレイハウンドに乗ってアメリカを旅した。谷村新司さんも若いころそうしたと聞く。

 アメリカではグレイハウンドのような長距離バスの停車場をバスティーボ(bus depot)という。日本ではバスターミナルを「バスセンター」と名乗るが「バスセンター」という言葉は和製英語である。また,「terminal」という語はターミナルケアのように人生の終点を連想させるので,アメリカでは嫌われている場合もある。
 バスティーボは都市によってその場所が非常に治安の悪いところであったりするので注意を要するが,比較的規模の小さい都市ではダウンタウンにあることが多く,たまたまそこに差しかかったとき,そこからバスに乗り込む人の姿を見ていると,ああ,アメリカだなあ,とけっこう感動する。
 旅はいいものだ。

 私はレンタカーで旅をしていることが多いので,こういう公共交通機関に疎かったのだが,近年,「グレイハウンド」に加えて「メガバス」とか「ボルトバス」といった格安バスがあるという話だったので,今回,ぜひ利用してみたいと思っていたのだった。
 「ボルトバス」(boltbus)というのはアメリカ北東部のバス事業者で,本社はニュージャージー州セコーカスにある。2008年に設立されたグレイハウンドとピーターパン・バスラインズの折半出資の事業で,グレイハウンドの営業許可を利用してニューヨークとアメリカ北東部の都市を結ぶバス路線を運行しはじめたという。

 ボルトバスもメガバスもグレイハウンドをスタイリッシュに改善したバスで,車内には無料Wifiやモバイル用の電源もあり快適だという話でだった。また,どれくらいの人々がチケットを購入したかによって運賃が決まり,最低1ドルの運賃が設定されているという。
 私は,インターネットでメガバスを予約した。予約したときに座席の選択ができて,席によって値段が若干違っていたのがまたアメリカらしい話であった。私はせっかくなので2階席の最前列を予約した。値段はアムトラックよりはるかに安く3分の1くらいであった。
 ワシントDCでは,バスターミナルはユニオンステーションの3階にあって,ここからはグレイハウンドもメガバスもボルトバスも発着していて,過剰に豪華な新宿は別として,日本の大都市のバスターミナルとほとんど変わらないところであった。

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 「夏の思い出①」で50年前の海の思い出を書いていたら懐かしくなってきて,その場所に行ってみることにしました。行こうと思えばいつでも行ける場所ですがなかなかその機会がないし,これまではわざわざ行く気もなかったのですが,そうしているうちに行く機会を逸してしまうので,夏真っ盛りの日,ちょうどいい機会だと思ったわけです。
 しかし,50年前とは違って今はレジャーもたくさんあるから,あのころのように栄えているとは思えないし,なんだか50年ぶりのクラス会で昔の女性に会う,という感じでしょうか。

 電車には乗らず車で行きました。
 まず,名鉄電車の河和駅に行って車を停めて,あたりを歩きました。そして,駅にあったしがない喫茶店でオムライスを食べましたが,昭和時代に舞い戻った感じで悪くありませんでした。 
 駅は新しくなっていましたがバスターミナルはあって,知多半島先端の師崎行きのバスが頻繁に出ていました。以前,テレビの「路線バス乗り継ぎの旅」にも出てきたような…。
 今は野間までは名鉄電車が別の路線からつながっているので河和からはバスはなく,当時バスが走ったであろうと思われる道路を車で通りました。ほとんど車もすれ違わない,しかし,なぜか40キロ制限の道路だったのですが,後ろをずっとパトカーが走っていたので疲れました。思わず50キロ出したらその場で捕まるのかしらん?
 
 野間に着く途中に野間大坊があったので寄ってみました。思ったよりずっと広い寺でしたがほとんど人はいませんでした。
 野間大坊は,正式には鶴林山大御堂寺という寺です。奈良時代に「阿弥陀寺」として建立し,空海が全国を廻った折,この地で一千座の護摩を焚き庶民の幸福を祈ったといいます。のちに源義朝がこの地で謀殺され,それを供養するために源頼朝が本尊様の念持仏を寄進し,塔や金堂講堂など諸設備が調った七堂伽藍を造営しました。

 やがて野間に着きました。
 まず,昔登った近くの小高い山に車でも登れたので行ってみました。こんなところだったのかなあ,という感じでしたが,展望台からは伊勢湾がきれいに見えました。スケールのものすごく小さなハワイ・オアフ島のダイヤモンドヘッドですねえ,これは。
 野間の集落を歩くために近くの海辺の駐車場に車を停めました。
 前回のブログに
 「借りていた民家の一室で過ごすわけです。その部屋は民家の10畳くらいの離れで,先祖様の写真が額に入れて飾ってあって,それが子供心には不気味でした。お風呂は民家のものを使わせてもらうのですが,珍しい五右衛門風呂でした」
と書いた場所を探そうと歩きだしました。
 昔バスが走っていた海岸通りには面影がありました。もちろんゲームセンターなど今は1件も存在していませんでしたし,たばこ屋もつぶれていました。狭い道を歩きながら,この路地だったかなあ? と思うのですが,なんとなくわかったようなわからないような…。
 子供のころの記憶というのはみんなそんなものです。スケール観がおかしいのです。私の記憶にあるのは,その家の窓から見えたやたらと大きなひまわりやら大きなとうもろこしの実の生っていた畑なのですが,当然,そんなものはどこにもありませんでした。
 なんとなくこの家だったかなあ,と思われる場所を見つけたのですが,家は廃屋でした。

 少し歩くと海に出ました。
 海水浴客なんてほとんどいませんでした。海も,やたらとテトラポットがおいてあって,これでは泳ぐ場所さえありません。これが当時の海水浴場なのかと思うと,なぜか,頭のなかだけに当時の姿が思い出されてきました。
 今も民宿やらホテルが残っていましたが,客の姿はありませんでした。「海水浴場」の旗だけがさびしくはためいていました。
 もう少し海岸を歩いていくと,数組の海水浴客がいるにはいました。ここは今となっては絶対に穴場です。まさにプライベートビーチです。1グループだけがテントを立てて,子供たちが海で戯れて大人たちがバーベキューをやっていました。

 車に戻って,野間の灯台まで行ってみました。灯台の南には小野浦というだけ別の海水浴場があって,今も海水浴客が少しいました。海沿いには駐車場やら海の家があって,走っている道路から海岸も見えました。
 私が行ったハワイ島のカイルアコナをずっと人を減らしたスケールなのですが,車を駐車場に誘導しようとおばさんたちが客引きををしているのが,なにか,わびしく感じられました。

 各地にリゾートプールもたくさんできて,自然の海岸にある海水浴場で遊ぶという時代ではないのです。それでも,海が透き通るほどきれいだったり,砂浜が延々と続いているのならともかくも,自然を不自然に壊してしまっては,どうにもこうにもなりません。
 こうして寂れてしまったので,当時よりも人口も減少しているということです。それでも自然が昔にもどることもなく,星も見えなくなってしまいました。
 帰り道,新舞子という新しくできた半分人工の砂浜がつくられた海水浴場を通りました。さすがに,ここには若者たちが楽しんでいる姿があったのですが,おそらく作られたときがピークで,ここもまた,次第に古くなっていって50年も過ぎれば,私が50年前に行った海水浴場のようになっていくのだろうと容易に想像ができました。なにせ,作った時点から,道路の設計が悪いので,無粋な鉄柵が作られていたりして,美観もなにもないからです。
 この先数十年も経って,また夏の暑い日になると,こうしたたわいもない1日が,ものすごく懐かしく思い出されることだろうなあ,と思いました。

◇◇◇
夏の思い出①-子供は非日常の体験から成長する。

 このアメリカ旅行記を書いているところに行ったのは,今からちょうど1年前のことだから,あれから早くも1年が過ぎようとしている… と書くのが普通だろうが,どう考えても,この旅がわずか1年前のことだと私には思えない。
 この旅のあと,私は秋にニュージーランドの南島,その翌年つまり今年の春はハワイのマウイ島,そして初夏にオーストラリアのクイーンズランドと旅をした。ハワイ島に行ったのは前の年つまり昨年の春のことだったが,それまで,私はまともに南十字星すら見たことがなかった。そこで南十字星を見たいとハワイ島に行ってみたわけだが,その時期は南十字星は夜の10時過ぎにならなと地平線から昇ってこないのだった。当時の私はそんなことすら知らなかった。
 しかし,すでにブログに書いたように,ハワイ島で南十字星を見ることができて以来,南天の星空に夢中になってしまった。ついに不治の病である「南天病」が発病したわけだ。その後,私は,現在の旅行記で書いている旅でアメリカ50州とMLB30球場制覇という夢を実現したこともあって,急速にアメリカなどどうでもよくなり,南半球の星空の虜となってしまった。
 それに加えて,あれほど行きたかったのにずっと行く機会のなかった徳島の阿波おどりにも行ったし,どういうわけか,その後,四国にはさらに2回も行った。佐渡島には行かなかったが,いしかわ動物園でトキも見た。
 このように,人は目指す夢が変わると,同時に時の流れの感覚も変わってしまうものらしい。ニュージーランドへ行ったのはまだ数か月前のことで,まだ1年も経っていないというのに,ものすごく昔のことのような気がするのが不思議なことなのである。
 
 先日,クラシック音楽を聴いていて不思議なことを思った。
 私の大好きなブラームスの交響曲第4番を聴いていて,まさに終曲を迎えんとしたときのことである。それは,どうして曲はいつか終わってしまうのに演奏なんてするのだろう,ということであった。聴いている人は曲が流れているのを楽しんでいるはずなのに,なぜか心の奥ではその曲が終わるのを待っていたりもするのだ。しかし,このことは,どうしていつかは死んじゃうのに生きているのだろう? という問いと同じことなのだ。
 なぜかそんなことを思ったのだった。
 そんなことばかりを気にしている,私とさほど歳が違わない友人がいる。そしてまた,巷では終活などに精をだしている人もいる。しかし,そんなことを考えるほど無意味なことはない。なにせ,人生がいつかは終わるという確率は100%なのだ。何かの試験に合格できるかを心配することは確率が100%でないから納得がいくが,確率100%のことをあれこれ思い巡らせていても仕方がないではないか。しかも,年齢とは無関係に確率100%なのである。
 そして私は悟った。いつかは終わる音楽を聴くというのは,それを聴いている過程を楽しむためなんだというあたりまえのことを、である。そう考えるしか救いはない。旅もまた,いや,生きるということもまた,それと同様であるはずなのだ。

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 「バイオリニストは弾いていない」の著者・鶴我裕子さんは元NHK交響楽団の第1バイオリン奏者です。これまでの著書に「バイオリニストは目が赤い」と「バイオリニストに花束を」があるので,これが第3弾です。
 出版されたときに書店で見つけて少し立ち読みしました。私はよほどのことがない限り紙媒体の本を買うのはやめた(置く場所がない)ので購入しませんでしたが,近頃図書館で見つけたので読んでみました。

 本のタイトルは,N響を退団して以来人前ではバイオリンを弾いていないということからつけられたものでしょう。N響を定年で退団したのちもエキストラでステージに上がり続けている人も多いのですが,こうしてきっぱりと辞めてしまうのはとてもスマートでかっこいいです。
 人生一度,仕事などできるだけはやく辞めて人生を楽しんでいる人は素敵です。

 この本はすでにこれまでに雑誌などに連載されたものを集めたもので,前半部分はカワイ音楽教育研究会刊行の機関誌「あんさんぶる」に連載された「オーケストラのあいうえお」を加筆訂正したものです。あ=あいさつ,い=いえじ(家路),う=うべ(宇部),え=エコロジーという具合に,頭文字で始まる物事にまつわるエッセーです。
 いえじ(家路)の文章では,N響のオーボエ奏者・池田昭子さんのことが書かれてありました。彼女はオーボエをイングリッシュホルンに持ち替えて日本では「家路」として有名なドボルザークの第9交響曲第2楽章を独奏します。私も幾度となくライブで聴きました。このときのプレッシャーは半端ないと思っていたのですが,彼女は全く緊張することもなく,いわば私を見て!見て!状態で,自分のパートが終わるころには,もう終わってしまうのね,とも感じるのだそうです。
 将棋の藤井聡太四段もそうですが,人が見ていると緊張するとかそういった人には務まらない,いい意味で「鈍感」でかつ「天然」でないと,こういう仕事は務まらないのでしょう。私にはうらやましい限りです。

 その次の話は東京芸大の東台寮で過ごした日々を綴った「東台寮フォーエバー」など自分の半生ですが,東京芸大在学中から活躍していたメゾソプラノ・伊原直子さんのエピソードなどがおかしく書かれていました。作家の瀬戸内寂聴さんもこういう話を書くのが上手ですが,雲の上の人たちの人間性というのはアジもイロもあります。これもまたうらやましい限りです。
 この本の最後にある現役のN響奏者との座談会が絶品です。鶴我さんは現役時代からこういう話をエッセイに書いていて,それを読むとコンサートに出かけたときにその興味がより深まるのですが,なかなかこういう話を語る人が他にいないのが残念です。雲の上の人たちの内輪ネタほど,この人たちも同じ人間なんだなあと身近に感じられる面白いものはないからです。

◇◇◇
「バイオリニストは肩が凝る」-音楽への造詣とユーモア
今さら「火花」について-私には何も書けない。

 今日は「エアラインアライアンスの利便性」についての話題の2回目です。続編を書くつもりはなかったのですが,その後調べていくと,補足が必要なことがわかってきました。
 航空機を自分で予約して利用するのは結構めんどうなものです。しかし,ほとんどの人は旅行社に行って航空券を購入するだろうから,こんなことを気にしている人は少ないのかもしれません。それに,ひょっとしたら,その方が安価でかつ便利なのかもしれません。しかし,ある意味,これを調べるのもまた旅行の醍醐味のひとつです。
 私は離陸して着陸するまでを1回と数えると,1年に20回以上は飛行機を利用していますが,いつもネットで予約をします。しかし,利用するたびに何事かを後悔するのですが,それらの多くは乗り継ぎの待ち時間と到着時間です。

 以前,このブログに,はじめてハワイに行ったとき,名古屋からハワイ島への便を探すのに苦労したことを書きました。そのとき私が予約したのは,ホノルルでの乗り換え時間が行きは6時間,帰りに至っては1泊する必要があるものでした。その結果,ハワイに行くにはホノルルからの便は別途買うべきだということを学びました。
 近頃は,ヨーロッパがテロ等の影響で安全面を心配して観光客が減少しているので,それをカバーするためにハワイ便が増えていて,成田からオアフ島以外の島にも直行便が多数運航されるようになってきました。しかし,東京に住んでいるならともかく,私のように名古屋から出発する場合は,今も名古屋から成田まで行くよりも名古屋からホノルルまで行ってそこで乗り換えたほうが便利なのです。便利かどうかは乗り換えということを一番先に考える必要があるわけです。
 これはアメリカ本土に行く場合も同じです。名古屋からはデトロイトに行く直行便しかありません。これでは西海岸に行くのがすごく不便です。

 それもこれも,名古屋-成田が便利でないことがすべての要因なのです。名古屋-成田というのは早割チケットなどの格安チケットが購入できればいいのですが,そうでなければかなり高額なのです。しかしわざわざ新幹線で東京まで行ってそこからさらにバスなんて大変な話です。これでは成田がハブ空港の役割を十分に果たしていないのです。
 私がここで書きたいのは,こうしたことになっている日本の航空行政の貧困さです。
 これも以前描きましたが,中部国際空港など作らずとも,それ以前にあった名古屋空港でいいから,成田まで国際線利用客に限った格安便をエララインアライアンスなど関係なく頻繁に飛ばせばそれでよかったのです。成田空港にハブ空港という意識が欠如しているからこういうことになるのです。
 これでは,ソウル(仁川)やバンコク(クスワンナプーム)をハブ空港として考えて,名古屋からそれらの空港へ行ったほうが便利ですが,成田へ行かずとも仁川などへ行ってそこから世界へ,ということを考えると,そうした客のために名古屋から仁川という便がもっと運行している必要があるのです。そして,その場合もネックになるのはエアアライアンスなのです。名古屋に限らず,地方空港からハブ空港までの便はエアラインアライアンスなどという垣根を取っ払うべきなのです。あるいは共通にすべきなのです。

 前回,オーストラリアのブリスベンに行くのに,カンタス航空の成田-ブリスベン便を使うと書きましたが,どうやらそれは私の選択間違いだったようです。実は,名古屋からブリスベンに行くには,キャセイ・パシフィックの名古屋-香港,香港-ブリスベンのほうが便利で安いということがわかりました。うっかりしていました。キャセイ・パシフィックのマイレッジはアジアマイルといいます。キャセイ・パシフィックもまた,エアラインアライアンスとしてはワン・ワールドに属しているのですが,結局のところ,そんなものはどうでもいいのです。
 これも前回書いたように,マイレッジを気にしていも大したお金にはならないのです。それよりも,マイレッジ会員の利便性というのは,優先搭乗とかラウンジの利用,そして,チェックインだと割り切った方がいいわけですが,そしてこれが有効に機能するのはアメリカ国内を旅するときくらいなものです。
 アメリカという影響力のある国のはじめたことはすぐに他の国に派生していくので,今や世界中の空港が同じようなサービスを真似事でやっているのですが,客の少ない日本の空港でそんな真似事をしていてもほとんど無意味です。ラウンジの利用だけならマイレッジ会員でなくても,ゴールドカードを持っていれば利用できますし。

 私は,恥ずかしながら,このキャセイ・パシフィックの存在を知りませんでした。しかし,名古屋からオセアニアに行くのなら,何も国内便を利用して成田まで行って乗り換えなくとも,香港経由でいいわけです。ひょっとしたら,サンフランシスコに行くにも,名古屋から成田あるいは羽田まで行ってサンフランシスコに行くよりも,名古屋から香港に行ってこそでサンフランシスコ便に乗るほうがひょっとしたら便利かもしれません。成田はターミナルの移動が面倒で乗り換えにも不便です。
 要するに,国際線を利用するとき,エアラインアライアンスなどに振り回されず,そして,マイレッジなど気にせず,マイル会員の利便性というのはチェックインとネットでの予約だけだと割り切って,接続の便利なハブ空港での乗り継ぎを世界地図を見ながらくまなく探すのが最も得策だということなのでしょう。

◇◇◇
エアラインアライアンスの利便性①-フライトを探すには?

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