海外旅行は移動に時間がかかります。直行便があればまだしも,乗り換える必要があればなおさらです。
アメリカへ行く場合,私の住む愛知県では,セントレア・中部国際空港からの直行便はデトロイト便しかありません。
アメリカ国内での乗り換えを考えると,デトロイトまで行くメリットはほとんどありません。おそらく多くの乗客はデトロイトが目的地ではなく,そこからまた乗り換えるはずなので,それだったらシアトルでも同じことなのです。
どうしてデトロイトまで行ってしまうのでしょう。もし,シアトルやロサンゼルスへセントレアから直行便で行くことができるのであればもっと気軽にアメリカに行くことができるのですがとても残念な話です。
さて,今日の本題に入ります。
前回書いた天文台のある場所と見学の詳細を順に確かめておきます。
まず,パロマ天文台があるのは1番目の地図のようにロサンゼルスから2時間と少しのところです。パロマ天文台の一般の見学はクリスマスを除いて毎日行われていて,ギフト・ショップだけが週末のみのオープンだそうです。駐車場も見学も無料ということです。
次に,ウィルソン山天文台は2番目の地図のようにロサンゼルスから近く1時間程度で行くことができるところにあります。ただし,見学できるのは週末の土・日曜日だけで,ガイドつきツアーが午後1時から所用時間約2時間で行なわれているということです。ここもまた,駐車場と入場料は無料ということです。
そこで,このふたつの天文台の見学はロサンゼルスに滞在すれば合計2日あれば行けそうです。
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3番目のキットピーク天文台は毎日見学できます。ビジターセンターには,書籍,記念品など魅力的な品ぞろえのギフトショップも併設されているそうです。ここもまた入場無料ですが,ガイド付きツアーには若干の参加費がかかるそうです。4番目の地図がローウェル天文台の場所,そして,5番目がバリンジャー隕石孔です。
この3箇所はアリゾナ州のフェニックスから行くことになりますが,このなかでは,キットピークだけは少し場所が離れています。
改めてこうして調べてみると,ロサンゼルスもフェニックスも,私はこれまでに行ったことがあるので,その折に行く機会があったわけで,それを逃したのが今となっては悔やまれます。しかし,言い訳をすると,こうしたところは「地球の歩き方」に載っていないので気づかなかったということと,その当時はアメリカに行くということ自体が大問題であって,天文台へ行くなどということまで気がまわらなかったということもあります。
しかし,歳をとるにつれて,物理的に距離の遠いところに行くのがだんだんと難しくなってきました。そう考えると,若いころに無駄な旅をしていてはいけないのでしょう。
そこで,これらの場所に行く方法を考えてみました。
この先アメリカへ行くときは,最優先でこうした天文台に行ってみたいと思うと,1度目はロサンゼルスへ行って,そこからパロマ天文台とウィルソン山天文台へ行き,その足で,ロサンゼルス郊外の国立公園を組み合わせれば1週間程度の旅ができそうです。
そして,2度目はフェニックスに滞在して,キットピーク天文台,ローウェル天文台,バリンジャー隕石孔,そしてまた,フェニックス郊外の国立公園を組み合わせればすべてを網羅できそうです。ただし,フェニックスはとても暑いところなので,夏に行くのは避けた方がよさそうです。
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そんなわけですが,はじめに書いたように,ロサンゼルスに行くためには,成田まで行かないと直行便がないので,それだけが少しばかり面倒なわけです。そこで,なんとか成田まで楽に移動する方法がないかを考えているこのごろです。
September 2017
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴①
子供のころ「原色現代科学大事典」というものを買ってもらいました。これは全10巻の百科事典だったのですが,その第1巻が「天文」で,私はこの巻ばかりを見ていました。
ほろぼろになったその本は今も手元にあります。内容はかなり古く現在の天文学では正しくなくなった内容も多いのですが,今読んでもとても面白いものです。
当時も今も,私がその本の中で特に興味があるのは「世界の天文台」というところです。そこには世界中の天文台とそこにある望遠鏡の写真が載っています。
それを見て,一度は訪れてみたいというのが私の夢でした。
その本が出版された時代とは違い,現在,世界の有力な天文台はハワイとチリに林立しています。近ごろ,ふと,そのころの天文台は今どうなっているのかなあ,と気になりはじめました。
私はこれまでアメリカを中心として,世界中の行きたかった場所を自由に旅してきたのですが,今の私には,もう,ニューヨークやサンフランシスコのような大都会は興味がありません。あれほど行きたかったMLBもミュージカルもほとんど興味がなくなりました。
それとは反対に,オーストラリアで満天の星空を見て以来,子供のころの夢が蘇ってきました。
そんなこともあって,これまで日本の天文台は機会があるごとに訪れていたのですが,アメリカの天文台にも行ってみたいものだと思うようになってきました。
そこで,将来,それを実現するために,まず,そうした往年の天文台が現在はどうなっているかを調べてみることにしました。
私がぜひ行ってみたいと思う往年の天文台と,そこにある,あるいはあった巨大な望遠鏡というのは次のものです。
今日の写真の1番目がウィスコンシン州のヤーキス天文台にある口径102センチメートルの屈折望遠鏡,2番目がサンノゼ郊外のハミルトン山にあるリック天文台の口径91センチメートル屈折望遠鏡,これらは今でも世界一を誇る屈折望遠鏡です。
そして,3番目が世界で最も有名なサンディエゴ郊外のパロマ山にあるパロマ天文台の口径500センチメートル反射望遠鏡と口径122センチメートルシュミット望遠鏡,その次の4番目がロサンゼルス郊外のウィルソン山にあるウィルソン天文台の口径254センチメートルフッカー望遠鏡です。
これらの望遠鏡が現在はどのように使われているかはこれから書くことにして,何はともあれ,今でもすべて現存していることが私にはとてもうれしいことです。できることなら,一度,この目で見たいものだばりです。
これらのものとは性格が異なりますが,最後の5番目の写真がアリゾナ州フラグスタッフにあるローウェル天文台の33センチメートル屈折写真儀です。この望遠鏡が別格なのは,この望遠鏡は冥王星を発見するのに使用されたものだからです。
子供のころには,ウィルソン山,パロマ山という名前だけは知っていても,それがどこなのかは全く認識がありませんでした。
アメリカについて詳しくなった今となって,それがどこなのか,どういった場所になるのか,私にはよくわかります。
ここで書いた望遠鏡のうちでヤーキス天文台だけアメリカの北中部にあるので別として,それ以外はすべてアメリカの西海岸にあるから,今の私にはここなら容易に行くことができるのです。そして,それらの天文台に加えてもう1箇所,私にはぜひ行ってみたいところがあります。それは,アリゾナの隕石孔なのです。
これもずいぶんと前のことになりますが,私は「ふたたびキットピークへ」という本を読んだことがあります。その「キットピーク」とは何なのだろう? とこれまでずっと思っていたのですが,これもまた,アリゾナ州の南部にある天文台でした。
そんなわけで,私はこのような望遠鏡が現在公開されているのならぜひ見てみたいものだという想いがどんどん強くなってきているのです。
アメリカでキャンプをしよう②-2015夏アメリカ旅行記2
●今日の食事にする魚を捕りに●
聞くところによると,アイダホ州は税金が安いので有名人が別荘を構えるのだそうだ。今回,我々の目指すキャンプ場はサンバレーという場所の奥にあるが,サンバレーにはアーノルド・シュワルツネッカー(Arnold Alois Schwarzenegger)の別荘がある。彼は元ボディビルダー,映画俳優,元政治家,実業家であり,2003年から2011年にかけてカリフォルニア州知事を務めた。
我々は,Mファミリーの自宅のあるマウンテンホームを出発して,国道20を東に走っていった。峠に登ると非常に見晴らしがよくなったが,そこには広い場所があって,この日,ジャスフェスティバルをやっていた。
その場所の写真がなくて残念だが,想像をはるかに超えた広い大地に,キャンピングカーやらピックアップトラックやらに乗って多くの人がやってきて,特設された野外ステージを取り囲んで,ジャズを楽しむのだという。フェステバルの準備も参加者が各自で行い,日本でも夏になると行われる星まつりやらジャズフェスティバルを数十倍に巨大化したようなものであった。そのためにほどんど車の走らないこの国道20を行き交う車も数多く見られたが,なにせ,広すぎるから渋滞するでもない。しかし,私は,これだけ土地があるのに,町からいい加減離れたこんなところまで行ってでジャズフェスティバルをするとは…… と半ばあきれた。
どうやら,遊びに関して,この国の人は日本人とは本質的にスケールが違いすぎるようだ。こういう姿を知ってしまうと,日本でアウトドアなんて,まったくおままごとのような気がしてまったく興味がなくなってしまう。
我々は国道20をそのままさらに進み,途中で州道75に左折して北に向けて進んでいった。冬になると,このあたりは一面雪に覆われるのだそうだ。
道を1本外れれば舗装道路はなくなって,雄大な牧草地帯となり,広大な敷地をもった農家があるのだが,こんなところで暮らすには,ピックアップトラックと銃がなければ,危険で生きていけない。
さらに進んでいくと,やがて,リゾート地サンバレーに到着した。ここは,スキーリゾートで,日本でいえば軽井沢のようなところである。
我々はされに北上して「saw tooth」という山の中のキャンプ場に到着した。入り口にはビジターセンターがあって,そこで水を供給することができるようになっていて,キャンピングカーで来る場合はそこで車に水を補給するわけだ。
ビジターセンターを過ぎ,延々とキャンプ場の中を進んでいくと,ひと区画が300坪くらいの土地がたくさんあって,そのひとつひとつで自由にキャンプができるようになっていた。
空いている場所を確保したらその場所を登録して使用料を払うわけだ。すべて無人である。そして,帰るときにはゴミなどすべてを始末して帰るということであった。
日本にもオートキャンプ場「もどき」があるが,水も電気も自動販売機もそろっているし,中にはシャワー室があったり,レストランさえあったりするから,あんなところは,アウトドアというよりも,単に,ホテルのないリゾートに過ぎないわけだ。
我々がキャンプをはじめたのは日曜日であったら,週末にかけてキャンプを楽しんでこれから帰るというファミリーが多く,これからキャンプをはじめるというファミリーは少ないので,場所を探すのに苦労はなかった。
それぞれのファミリーは,我々のようにピックアップトラックにテント一式を持ってきたり,あるいは,キャンピングカーだったり,まあ,それはいろいろで,これひとつを見ても,人まねでないアメリカ人というものがとてもよくわかるのであった。
我々も,まずテントを設置して,火をおこした。そして次に,今日の食事にする魚を捕りに行くことになった。
アメリカでキャンプをしよう①-2015夏アメリカ旅行記2
このブログの「2015年夏アメリカ旅行記2」はアイダホ州を出発してモンタナ州へ行き,モンタナ州からアイダホ州に帰って来たところで中断をしています。この後はいよいよ2泊3日でキャンプに出かけることになるのですが,2017年の夏,皆既日食を見るために,私は再び2泊3日でキャンプをしました。そこで,今回からは,この2回のキャンプの様子を順に書いていくことにします。
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●はじめてのアメリカでのキャンプ●
☆4日目~6日目
2015年8月2日(日)~8月4日(火)
今日から2泊3日で,キャンプに行くことになった。はじめて日本に来た外国人が,友人に今日から2泊3日で上高地へキャンプに行くぞ,と誘われてついていったようなもので,私にはただただ初体験のことばかりで,どこへ行くのか,何をするのか,さっぱりわからなかった。
ともかく,日本でさえ,キャンプなどしたことがないアウトドアとは無縁の生活を送っているのに,本場アメリカでこうした経験ができるというのも貴重なことであった。そんなわけで,ともかく,私は,2泊3日,ピックアプトラックの補助席に乗って,アイダホ州の山の中のキャンプ場に行って,食事を作ってもらい,テントに寝て,帰ってきたのである。こういう経験を夢てみていてもできない日本人も少なくないことであろうが,それができてしまった私の人生の幸運と奇蹟に感謝せさるを得ない。
日本にもオートキャンプ場があるし小さなおもちゃのようなキャンピングカーで旅行をしている人たちもいるが,日本の場合は,都会の混雑そのままがキャンプ場に引っ越してしまっただけのようで,私はまったく魅力を感じない。日本でこういうアウトドアを試みることにはかなりの無理がある。それに比べれば,まさに,こういう真実のアウトドアこそがアメリカの文化なのだから,私は,そういう経験をすることができたことが,とてもうれしかった。
ということで,私はただ連れていってもらっただけなので,どこに行ったのかさえ正確に把握していないが,覚えているだけのことを書くことにしよう。
早朝,Mファミリーと私の総勢6人+犬1匹は,巨大なピックアップトラックに乗り込んで,マウンテンホームの自宅を出発した。
大都会に住む家族は別として,アメリカの「ふつうの家族」が持っている車は,日常に使用するセダンかSUV車とピックアップトラックである。さらには,キャンピングカー,あるいは,ヨットまである。
日本でも,何か勘違い? して,ピックアップトラックやキャンピングカーに乗っている人もたまに見かけるが,そりゃ,やめたほうがいい,と私は思う。走る場所がないし使う場所がないからである。
私は,アメリカを旅行しはじめたころに驚いたのは,道路を走るキャンピングカーの多さとピックアップトラックであった。
ピックアップトラックなど何に使うのかな? と思ったが,あれは要するに,日本の田舎で走る必殺「軽トラ」だと思えばよいのだ。ピックアップトラックの荷台には,ものすごくたくさんの荷物が乗るから,アメリカの家族の週末の代表的な「娯楽」であるキャンプに行くには必需品なのである。
我々も,ピックアプトラックの荷台にキャンプ用具一式を載せて出発したのだった。アメリカのキャンプ場は日本のオートキャンプ場と違って,すべてを自分たちでやらなければならない。さすがに,火を起こすのは火打ち石でないにしても……。
キャンプ場には,その一区画ごとに火を起こすスペースだけが用意してあって,その一区画に,それぞれの家族は,テントを立てたりキャンピングカーを停めたりと,自由に利用するのである。
私がいつも思うのは,こうしたことすべてが日本とは全く違っていて,非常にマナーがしっかりしている,ということなのだ。近頃,日本では,キャンピングカーが迷惑がられていて,それを停めることや野宿することを禁止する動きがあるという話を聞くが,日本では,ゴミは平気で捨てるわ,ルールは守らないわ,などといった傍若無人な行いが目に余るから仕方がない。そんなことは,家々のポストをゴミ捨て場と勘違いしたかのようにチラシをいれたり,道路の中央分離帯をゴミ捨て場と勘違いしていたり,山の中に平気で粗大ゴミを捨てに行く,この日本という国の「良識の程度」を考えてみれば明白なのである。大自然に敬意を払わず自分勝手に自然を破壊するこの国では,そのうちに,すべての里山は太陽電池パネルでうめつくされてしまうことであろう。
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2015夏アメリカ旅行記2-モンタナ州・ボーズマン⑤
NFL知らずしてアメリカは語れない-魅力はチェアガール?
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「フットボール」(football)は相手陣地のゴールにボールを蹴り込むスポーツ全般を意味しています。一般にはサッカーのことでしょうが,アメリカンフットボールやラグビーなど,どのスポーツを意味するかは地域で異なっています。アメリカでは,当然「アメリカンフットボール」のことで,プロリーグであるNFL(National Football League)はアメリカでもっとも愛されているスポーツです。
ただし,日本ではあまりなじみがないこともあって,詳しく知っている人も多くありません。私はアメリカを旅行するようになって,フットボールを知らないとアメリカのおもしろさの多くの部分がわからないことを知って関心をもつようになりました。しかし,私が旅行をする春から夏にはゲームがないので,残念ながら実際にフットボールを生で見る機会はこれまでありませんでした。この夏,アメリカ旅行をした際に,プレシーズンマッチでしたが,はじめてゲームを見る機会があって,私はすっかりはまってしまいました。
現在,NFLは32チームにより編成されていて,アメリカン・フットボール・カンファレンスとナショナル・フットボール・カンファレンスのふたつのカンファレンスに16チームずつが所属しています。さらに各カンファレンスには東,北,南,西の4つの地区があり,各地区に4チームずつが所属しています。ゲームは9月から12月にかけて行われるレギュラーシーズンで各チームが16ゲームを戦い,各カンファレンスの上位6チームが1月に行われるプレーオフに進出して,トーナメント方式でカンファレンス優勝を争います。そして,カンファレンスで優勝した2チームが2月上旬に行われるリーグ優勝決定戦であるスーパーボウルに出場し,年間王者を決定します。
私がフットボールの大ファンであるEさんのお誘いで見にいくことができたのは,シアトル・シーホークスのホームであるセンチュリーリンクフィールド(CenturyLink Field)でした。場所は,MLBシアトル・マリナーズのホームグランド,セイフコフィールドの北側に隣接したところです。
シアトルという都会はマリナーズが弱小チームなので見にいってもさほど盛り上がらず,この街はスポーツは燃えないのかと思っていたのですが,さにあらず,強豪シーホークスのあるフットボール一色でした。
この日はプレシーズンマッチだったのでありませんでしが,リーグ戦,とはいっても8ゲームしかないのですが,ともなると,朝の6時からスタジアムのまわりではテールゲイトパーティが開かれて,1日中盛り上がってしまうらしいです。
センチュリーリンクフィールドの南隣,セイフコフィールドとの間にはセンチュリーリンクイベントセンター(Century Link Event Center)というコンベェンションホールがあって,そこからもンチュリーリンクフィールドに入ることができます。この館内はまるでお祭り会場で,ゲームあり,ラジオのスタジオあり,オフィシャルショップあり,チェアガールのサイン会ありという見本市のようなところでした。まだゲーム開始にはずいぶんと時間があるにもかかわらず,ここはすでに盛り上がっていました。
ステージでは応援団のドラムラインが盛り上げていました。そして,いよいよチェアガールのパフォーマンスです。このドラムラインとチェアガールはゲームが始まるとそのままスタジアムに移動して,同じようなパフォーマンスをゲームが始まる前から終わった後まで終始繰り広げるのです。
要するにですね,男たちはフットボールのゲームとともに,あのかわいらしい30人のチェアガールを見にいくわけなのです。シーフォークスのチェアガールはシーギャルズといいますが,AKB48をもっと大人にして洗練したようなものです。
そして,ゲームが終われば,その翌日は前日のゲームについて評論家となり,勝てば勝ったで負ければ負けたで1日が過ぎていくわけです。だ~れも仕事なんて眼中にありゃしません。
アメリカでのフットボールの人気というは,やはり実際にゲームを見ないことには実感がわきません。私も今回見るまで,どうしてこれほど人気があるのかよくわかりませんでした。そうした魅力を知った人たちは,日本にもなんとかそのすばらしさを伝えようと,そして,テレビでも高い放映権を払って放送しているのですが,視聴率がとれず苦戦しています。
私は,このフットボールというスポーツに熱中するアメリカ人を理解できないでアメリカは語れない,ということを実感しました。また,逆に,アメリカという国を理解したいのなら,まずはフットボールを見にいくことだとしみじみ思いました。
日下彩矢子さんのヴァイオリンを聴く-念願の「四季」
2015年の大みそかにNHKEテレで放送された「クラシックハイライト」で見た,日下彩矢子さんがヴァイオリンソロをつとめたベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラのヴィバルディ「四季」は,私には衝撃的でした。私はこの一瞬で,この人の演奏を生で聞いてみたいと思うようになりました。
1979年生まれの日下彩矢子さんは,兵庫県生まれのヴァイオリニストです。
東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校に入学し,第5回イフラ・ニーマン国際ヴァイオリン・コンクールで第1位となりました。のち,東京芸術大学に入学し,第47回パガニーニ国際コンクールで第2位となりました。大学を首席で卒業し,ダラスの南メソジスト大学に留学しました。
現在は,ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団の第1コンサートマスター,ベルリン・コンツェルトハウス室内管弦楽団のリーダー,読売日本交響楽団コンサートマスターを務めています。
ベルリン・コンツェルトハウス室内管弦楽団はベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団のメンバーからなっています。ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(Konzerthausorchester Berlin)はドイツ・ベルリンに本拠を置くオーケストラで,コンツェルトハウスを本拠地としています。
1952年に当時の東ベルリンで設立され,歴代の指揮者は,クルト・ザンデルリング,クラウス・ペーター・フロール,ミヒャエル・シェーンヴァント,エリアフ・インバルがいて,現在の音楽監督はローター・ツァグロセクです。
私は日下彩矢子さんのヴァイオリンを聴くために,読売日本交響楽団の定期公演に行こうと思ったのですが,定期公演に出演するコンサートマスターの情報がなく,どの定期公演に日下彩矢子さんがコンサートマスターを担当するのかわからなかったので困っていたところ,9月18日に兵庫県立芸術文化センターでベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラのコンサートがあるのを見つけたので出かけることにしました。
兵庫県立芸術文化センター(Hyogo Performing Arts Center)には今回はじめて行ったのですが,その豪華さに驚きました。このセンターは2005年西宮市にオープンしたホール・劇場で,芸術監督を指揮者の佐渡裕、芸術顧問を山崎正和が務めているということです。
このホールはJRの西宮駅から15分くらい歩いていったところにあって,近くには阪急西宮ガーデンズという巨大ショッピングセンターがありました。早く着いたのでコンサートの前に寄ってみました。
ここは阪急西宮スタジアムの跡地ということです。阪急西宮スタジアムというのはかつて阪急ブレーブスというプロ野球チームのホームグランドでした。阪急ブレーブスというのは強いチームで,スタジアムも観客席がたくさんある広い球場だったのに不人気で,客が入らないことで有名でした。
このショッピングセンターは,一見ものすごく豪華なのですが,こんなショッピングセンターは今や日本中いたるところにあって,珍しいものではありません。しかし,ここの特徴は,やたらと高いことでした。お昼ごはんを食べようと思っても,どのお店も相場が2倍くらいするし,コーヒーを飲もうとしても500円以上もするのです。私には,それが張りぼてにメッキを張り付けた虚構のようにむなしく感じました。
コンサートの曲目はパッフェルベル「カノンとジーグ」,ヴィヴァルディ「四季」,バーバー「弦楽のためのアダージョ」,そして,チャイコフスキー「弦楽セレナード」でした。そのあとアンコールが2曲ほどありました。
室内オーケストラのコンサートが,オペラも上演できるこんなに広いホールで行われたのにも驚いたのですが,客席は満員で,それにもまたびっくりしました。
「四季」はNHK-BSで2015年に行われたコンサートのものが以前放送されたので私は聴いたことがあります。
この日の演奏はテレビで見たときよりもこなれていた,というか,慣れていた,というか,そんな感じがしたのですが,それは,同じ曲をこれまで数多くの演奏会で演奏してそうなってきたのでしょう。それは言い換えれば粗削りな感じがなくなっていた,ということでもあります。私にはそれは残念なことでした。
曲目はこの時期にふさわしいというか,いかにも弦楽器のよさを味わうことができるものばかりで,とても落ち着いて聴くことができました。ヴァイオリンの音がとても美しく,そして素敵でした。コンサートは「ほんまもん」で,メッキのように高級ぶったショッピングセンターの印象を打ち消すのにも十分でした。いい時間を過ごすことができました。
2016夏アメリカ旅行記-帰国③
●デルタ航空のコンピューがダウン●
実は,帰国の数日前,アトランタに本社のあるデルタ航空のコンピュータがすべてダウンした。そのためにアメリカ国内のデルタ航空の便が運休になり,大混乱した。このニュースを見ていて,私は帰りの飛行機が無事に飛べるかどうかずっと心配していた。私はこのころ,利用した便が定刻に飛んだことがほとんどなかった。
結局,翌日もこの影響が残っていたので,私は空港に着くまで心配だったのだが,私の帰国に合わせるかのように,この日は前日までの混乱がうそのように平常運行していた。
ただし,空港を歩いていると,前日まで運休になって乗ることができなくなった乗客のための救済カウンタが設置されてあったから,これを見て昨日までの混乱を思い起こした。
生きること自体も旅のようなものであるが,まさに旅をするというのはあらゆるトラブルに巻き込まれる可能性があって,その都度,さまざまことが体験できるのだ。そして,その折々で,何を優先するべきかということを的確に判断することが一番大切なのだ,ということを私は常に学ぶことになる。
今回の旅では,来るときは機長が病気になって,セントレア・中部国際空港からデトロイトまでの便が,機長が交代するためにシアトルで一旦着陸することになった。そのためにデトロイト到着がかなり遅れて,デトロイトからオーランドまでの便があわやアトランタ乗換えに変更されそうになったり,交渉の末,直接オーランドに行く便にしてもらったがそれでも到着がかなり遅れることとなり,深夜に到着したオーランドではホテルに着くのが大であった。
それとは打って変わり,帰りは定刻通りデトロイトに着くことができた。しかし,もともと今回は乗り換え時間が1時間半ほどしかなかったので,慣れ親しんだデトロイトの空港で今回はお寿司を食べることもできず、そればかりか,ターミナルの端から端までを走りに走ることとなった。
セントレアへの便が出発するゲートにやっと着いたときはすでに搭乗終了間際で,やっとのことで機内に乗り込むことができたのだった。今回の旅もこうして帰国の途に着き,2016年の夏の,アメリカの東海岸をキーウェストから国道1に沿って北上しフィラデルフィアに到達した旅を終えて帰国したのだった。
若いころは旅に対しての思い入れも今より深く,いろんなことを感じたものだが,次第にそうしたことの多くがどうでもよくなってきた。こうして,旅をすることが慣れっこになってくるとこだわりもなくなってきて,それと同時に,旅先でのときめきもまたなくなってくるわけだ。残念なことであるけれど……。
この旅を終えて,何がしかのむなしさでも味わうのかと思ったが,自分でも驚くほど,新たにやりたいことがいくらでできてきたのもまた不思議なことであった。これからの私の旅は,その年齢,年齢に応じてスマートにできればいいなあ,と思うこのごろである。
私は,この旅をもって,アメリカ合衆国50州制覇というひとつの目的を達成し,同時にMLB30球団のボールパークもすべて訪れることができたた。そして,この先,また新たな楽しみを見つけたいものだと,このときは思ったのだが,それからの1年,私がどういった旅をしているかは,そこで何を見,何を経験したかは,すでにこのブログに書いたとおりである。
地球は広いのか狭いのか?
これだけ多くの旅客機がさまざまな航空会社から毎日地球の上空を飛んで,多くの人が移動しているという当たり前のことがすごく不思議に思える。1機の小さな機体に100人以上もの人たちが乗り込んでいるのに,目的地の空港に到着すると,まるで水を満たしたコップのなかに一滴の青いインクを垂らしたように,すぐに青い色は消え去って,透明な水にもどるように,その国に溶け込んでいく様がとても不思議に思える。しかし.その人その人にとれば,人それぞれ,私がここに書いているような旅の思い出を作っているわけなのである。
夜空にもときめきが一杯-「運」は行動してつかむもの
早くも8月21日のアメリカ横断皆既日食から1か月が過ぎ,再び新月が巡ってきました。今月は,7月に発見されたばかりの「ASASSN 1」という名の新彗星(2017O1)が次第に明るくなって,現在プレアデス星団の近くを通過しています。来月には7等星まで明るくなるという予報があって楽しみにしていました。
オハイオ州立大学のKris Stanekさんの報告によると,2017年7月19日,All-Sky Automated Survey for Supernovae (ASAS-SN)のプログラムによって,南米チリのセロトロロ(Cerro Tololo)天文台にある「カシアス」(Cassius)望遠鏡で彗星が発見されました。この彗星は9月~11月にかけて7等級に達するだろう,ということでした。
ASAS-SNとは,新しい超新星を捜す自動化されたプロジェクトで,北半球と南半球にロボット望遠鏡を設置して全天を2日間でサーベイするものです。現在使われている望遠鏡は,ハワイ・マウイ島のハレアカラ天文台に設置されたASAS-SN Unit-1「ブルータス」(Brutus)とセロトロロ天文台に設置されたASAS-SN Unit-2「カシアス」(Cassius)です。これらのユニットは4つのニコンの400ミリf2.8の望遠レンズ(口径14センチ)とアメリカFLI社のProLine PL230 CCDカメラからなる簡単なものです。今後さらに多くのユニットが別の場所に設置されることになっています。
このプロジェクトは超新星を探すことが主な目的なのですが,他にさまざまな天体も発見されて,この彗星もそのうちのひとつというわけです。
しかし,9月になってもなかなか天気がよくないこととに加えて,いつも見にいく自宅から車で1時間以上かかる場所に出かけるには時間の余裕がないので,なかなか写真を写す機会がありませんでした。
この彗星は現在,夜の11時くらいに東の空に昇ってきます。夜明けで空が白んでくるのが4時30分ごろで,このころには空の暗い天頂付近に達するので,それより少し前の時間なら空が多少明るい場所でもなんとか写ります。そこで,自宅から15分くらいで行ける木曽川の堤防に行って写真を写すことにしました。それなら朝4時に起きてその時点で晴れていれば出かけて写真を写しても1時間ほどで行って帰ってくることができるからです。
9月19日の早朝は晴れという予報だったので,計画通り起床して家を出ました。ところが意に反して雲がポカリポカリと浮かんでは消え,安定した天気ではありませんでした。現地に着いて望遠鏡を組み立てて,ファインダーで彗星を入れて写真を写しはじめたのですが,そのころから天頂付近は曇りはじめてしまい途中で断念しました。
ふと東の空を見ると,月齢28.1の薄っぺらい月が昇ってきたのが見えました。それがあまりに美しかったので思わず写真を写したのですが,月の上と下にこんな場所にあるはずのない明るい星が見えたのです。私はそれが何なのかわかりませんでした。ただ,その遥か上方に輝いているのが金星だということは知っていました。家に帰って調べてみると,そのふたつの星は火星と水星だと知ってびっくりしました。
こうして私は,奇跡的に火星と月と水星の絶妙な姿の写真を写すことができてしまったのです。目的であった彗星もかろうじて写すことができたのですが,曇ってしまったために露出時間が短くて,こんな写真では満足できないなあと落胆し,再戦を誓いました。
次の日は曇り,その翌日の9月21日午前3時30分,この日も南の空には雲があったのでよほど行くのをやめようと思ったのですが,天頂から北の空にかけて雲が切れていくので,ダメもとで家を出ました。現地に着いて空を見上げるとすっかり晴れあがっていて,やっと満足のいく彗星の写真を写すことができたのでした。私は目的だった彗星の写真とともに,偶然,火星・月・水星の写真も写すことができたというわけです。
このように,普通,人が寝ている間にも夜空には面白い出来事がたくさん起きているのです。
私は「運がいい人」とよくいわれます。「運」というのは,誰しもが自分のまわりに一杯あるのだけれど,それをつかむことができるかどうか,それはその人がその「運」に出会うために行動をするかどうかで決まるのではないか,そして,そうすることでそれをつかむことができた人を「運がいい人」というのだと,そう,私は確信するようになりました。「運」は行動してつかむものなのです。
こんなおもしろい場所はない-上位陣5力士不在
今年は3月の大阪,5月の東京,7月の名古屋と,すでに3回大相撲を見にいきました。
3月は新横綱稀勢の里の土俵入りを,5月は皇太子殿下と妃殿下の大相撲観覧の日である初日に連続優勝した稀勢の里関の2枚の優勝額の掲額を見ました。
このように,私は,見られないと思っていたものをすべて見て念願を果たしたわけですが,それですっかり満足しました。一昨年にははじめて福岡まで行って九州でも大相撲を見ているので,これで,すべての場所で大相撲を見たこともあり,私の好奇心は,残すは地方巡業だけとなりました。
その地方巡業も10月に見にいくことにしています。
数年前までは当日でも楽にチケットをそれもディスカウントで買えたのに,このところの大相撲ブームで,チケットの入手もままならなくなって,私のような50年以上の大相撲ファンにとっては大変な時代です。
しかし,今場所はここ数か月前の状況が夢だったかのように,上位陣に休場が相次いて,ついには,出場しているのが横綱1人,大関1人となってしまいました。
理事長さんは否定してますが,巡業多すぎです。あの暑い夏にほとんど休みもなく日本中を移動していれば疲れが出るというものです。相撲協会もブラック企業なのでしょうか?
これだけ休場力士がいても,それにもかかわらず連日満員だそうです。しかしそれも東京だからであって,おそらくは次の九州場所は厳しいでしょう。もともと九州は客の入りもよくないし,今年も福岡ダイエーホークスが優勝したりして,福岡は遠くから出かけてもホテルを確保するのも大変だからです。
私もまた九州に行こうとは思いません。
しかし,今場所は,私にとっては,とてもおもしろい場所です。
それはハリ差しやら変化ばかりの立ち合いで,見ているだけで腹立たしい,かつ,見たくない横綱白鵬がいないことが第一の理由です。そしてまた,ほんとうは見たいけれど,いつもハラハラしてまともに見られない横綱稀勢の里がいないことで,最後までのんびりと安心して,また,勝負をまったく度外視して楽しむことができるからです。
変な理屈です。
これは私個人の独断と偏見ですが,というか,もともとこのブログはすべて独断と偏見で書いているわけですが,もし,横綱白鵬がいなくて,5年くらい前に稀勢の里がすでに横綱になっていて,横綱が日馬富士と稀勢の里だけであって,毎場所このふたりで優勝争いをしていたのなら,今よりもずっとずっと大相撲は面白かったことでしょう。
今から45年ほど前,NHKの中継で解説をしている北の富士さんが現役の横綱だったころのこと,ライバルの横綱玉の海が急死して精神的に落ちこんでしまい,不眠症という理由で休場してしまったときの場所では,まったく優勝候補が不在になって,大混戦だったことを私は思い出します。
そしてまた,北の富士さんの弟子であった大横綱千代の富士はとても強い横綱でしたが,小さかったことでときどき無残に負けることがあって,それがまた魅力のひとつでした。いまの白鵬にはそうした魅力はありません。今場所のように,だれが一番強いのかわからない状態の方がずっと私には楽しいのです。
さて,今日,豪栄道関は勝てるのでしょうか? 今日も負けて千秋楽も負けて,もし,11勝4敗で6人くらい(12日目終了現在で4敗が10人います)が並んで,優勝決定戦でもやったら,最後まで目が離せないさらにおもしろい場所になるのですが……。果たして結果はいかに???
しかしですねえ,この場所を休場して一番悔しがっているのは大関高安でしょう。私も残念です。
2016夏アメリカ旅行記-帰国②
●外は雷雨●
☆16日目 8月11日(木)
朝が来た。
昨晩同様,この日も朝食をとらず早々にチェックアウトをして,ホテルのシャトルサービスを利用して空港に向かった。空港に到着して荷物を預ければ,旅はこれですべて終了である。今回の,長年行きたかったところ,やりたかったことをすべて詰め込んだ長期間,長距離の旅はこれで終わりである。
「長期間」といってもわずか2週間なのだが,仕事や留学ならともかく,観光としての旅行はこの程度がよいのである。これ以上長期間になると,たとえば爪切りのような,日常的な持ち物が必要になってくるのである。旅は身軽に,そして非日常に限るのだ。
いや,旅に限らず,生きるということは,すべて身軽に限るのである。近頃はiPadやらiPhoneのようなものがあるから,余分なものを持つことなく大抵のことができるから,さらに身軽になってとても助かるわけだ。そしてまた,日々,非日常のときめきが必要なのである。
このブログにすでに書いたように,アメリカでこそ効力を発揮するのが「エアラインアライアンス」である。この「エアラインアライアンス」においてゴールドステイタスさえ手に入れておけば,「TSA Pre」と書かれた優先者用のセキュリティを通って,ターミナルに入り,エアラインアライアンスのラウンジで出発までゆったりと過ごすことができるわけである。
今回の旅は東海岸だったから,フィラデルフィアからデトロイトを経由してセントレア・中部国際空港に帰ることになる。MLBの日程の都合で,旅の途中でワシントンDC とフィラデルフィアを往復することになってしまったが,そのためにアムトラックにもメガバスにも乗ることができたから,そのこともまた,それはそれでムダでなかった。
東海岸のメガロポリスは,おおよそアメリカらしくない。ここは日本の東京から大阪にかけてとさほど違いはない。ここには日本の企業もたくさん支社を構えていて,仕事で在留している日本人もたくさんいるに違いない。だから,私がこの旅で経験し,ここに書いたようなことは,そうした人たちにはあたりまえのことであったかもしれないが,私にとっては貴重な経験であり,多くの思い出ができた旅であった。
しかしまた,帰国後,アメリカに住む私の知人が「もう東海岸は懲り懲りでしょう」と言ったが,その言葉こそが私の気持ちを代弁している。
私は,この旅の35年前に生まれてはじめて憧れだったニューヨーク,ワシントンDC ,そして,ボストンとひとリ旅をした。また,今から数年前に,再びニューヨークとボストンに行くことができた。そして,今回はそのときに行くことができなかったワシントンDCにも再訪し,そしてまた,生まれてはじめて念願のフィラデルフィアにも行くことができた。そして,およそ,アメリカの東海岸がどういうところかは自分なりに納得がいった。
そして出した結論が「もうこれでいいや」ということであった。私にとっては,こうした人口の密集した車だらけの贅沢極まりないアメリカではなく,広大な台地に広がる大自然こそがアメリカの魅力,なのである。
朝食をとったりネットを見たりしてしばらっくラウンジで過ごしていると,やがて搭乗時間になったので,ラウンジを出て搭乗口に向かった。
何事も偶数番号と奇数番号をうまく使い分けるアメリカのシステムは搭乗口もまた同様で,コンコースの左側と右側で、搭乗ゲートの番号も偶数と奇数に分かれている。
いつものとおり,国内線ではファーストクラスにグレイドアップされて,広い座席に座って離陸を待った。ふと窓どから外を眺めてみると,かなり強い雨が降っていて驚いた。
この旅でも晴れ男の私はずっと天気に恵まれたが,帰国の日になっても,空港に到着するまではその予感さえなかったのに,現在は,まだ朝であるにもかかわらず,かなり強い雷雨になっていた。
さて,これから20時間余りをかけて,私は日本に帰国することになる。
アメリカも東海岸は遠い。
それでもデトロイトに到着さえすれば,セントレア・中部国際空港まで乗り換えなく行くことができるし,アメリカの国内線は待ち時間さえ少なければ時間の無駄もない。この日の帰国便はデトロイトでの乗り換え時間が非常に少なく,その点は便利なのだが,もし国内線のデトロイト到着が遅れると帰国便に乗り損ねる心配があるから,それもまたよしあしである。
飛行機は定刻にデトロイトに向けて離陸した。
2016夏アメリカ旅行記-帰国①
●なんとかホテルにたどり着く。●
不愛想で,かつ,不気味な運転手であったが,こうして,なんとか私はホテルの最寄りのバス停で降りることができた。
旅先ではこれまでもいろいろなことがあったが,いつも,なんとか奇跡的に目的地にたどり着くことができている。しかし,おそらくそれは奇跡的ということではなく,だれであってもそのようにうまくいくのであろう。
それにしても,電車に比べて,バスというのは利用するのが難しいものだ。それはアメリカだから,ということではなく,日本でもそう違いはない。 しかし一旦乗車してみると,バスを利用している人は弱者が多く,彼らはみな親切なのである。人の痛みというのをよく知っている。だから,助け合いの精神があって,なんとかなるのである。
そしてまた,バスに乗ると,その土地に住んでいる人のことがよくわかるのである。
とはいえ,ずっとその土地に住んでいても,いつも車を使っているからバスについて尋ねても知らない地元の人も多い。
このブログ書きながら探しても,私の手元には空港のバス停以外,バスの写真がないのが残念なのだが,写真を写している余裕がなかったから仕方がない。バス停の写真の次に私が写したのは,今日の写真,つまり,夜明けの前のホテルの写真であった。
話を少し戻そう。空港から乗ったバスで運転手に促されて降りたバス停からホテルまでは,徒歩でわずか5分程度であった。しかし,この日はものすごく暑い日で,少し歩くのも嫌であった。そうして,やっとホテルのある広い敷地に着いのだが,同じ敷地にはホテルが2軒あって,私が予約したのはずっと奥まったところの古いほうであった。
そのホテルの部屋の写真が今日のものであるが,写真で見ると古びて見えないのがマジックである。
チェックインをするためにフロントへ行った。確かにこのホテルの口コミに書いてあったとおり,フロントにいた女性はきわめて親切で愛想がよかった。しかし,だからといってホテルが新しくなるわけではない。
このホテルにはレストランがなく,朝食は隣のホテルでとるのだと言われた。また,朝は夜明け前から隣のホテルと共通の空港までのシャトルサービスがあるという話であった。
私はこのホテルに到着した時点で,なぜこんなホテルを予約したのか再び後悔した。しかし,だね,こういうわけのわからないことが,将来,ずっと思い出になるのである。
私はアメリカで,ものすごく多くのこうした「しがない」モーテルに泊まった経験があるが,ほとんどの快適だったホテルのことは忘れてしまったが,記憶に残っているのは,まさしく,こうしたホテルばかりなのである。
これもまた以前書いたことがあるが,アメリカのホテルは宿泊代が10,000円以下になるとろくなことはない。このわずか数千円の差が決定的なのである。アメリカでも,女性はこんなところには泊まらない,と聞く。
ともかく,たとえ古かろうと汚かろうと,私はこの旅の最後の1泊を無事にホテルで迎えることができてホッとした。この日は,まだ夕食もとっていないかったが,もう食事をとらずに寝てしまうことにした。
明日になれば早朝に空港に行って,デルタ航空のラウンジで,お腹いっぱいの朝食が無料で食べられるであろう。それを楽しみに最後の夜を過ごすとしよう。
アメリカ版軽トラに乗るとは?-ピックアップトラックの魅力
海外旅行をするときの障害は,言葉と移動手段,これに尽きます。そのために,多くの人は海外旅行といえばツアーに参加します。
ツアー旅行は高価です。私が頻繁に海外に出かけるので「よくお金があるね」「英語は話せるの」と言われます。これが多くの人たちの海外旅行に対する概念なのです。しかし,個人で出かけるのなら,往復の航空運賃以外に必要なお金は国内を旅行したり生活するのと変わりませんし,航空運賃なんて,ツアー旅行しかしたことのない人がおどろくほど安いのです。
ひとつめの障害である「言葉」の問題,特に英語ですが,人には心と口がある以上言葉は通じます。日本では学校における英語教育で英語が苦手だと洗脳されているだけです。もし,日本で使われている言語が英語であれば,あるいは英語に抵抗がなければ,もっと多くの人が気軽に個人で海外旅行をすることでしょう。海外旅行に行くのをためらっている人,あるいは日本が一番などと意固地になっている人の本音は「英語ができない」と誤解をしていることなのです。私は,日本の英語教育関係者と旅行会社が結託しているのではとつねづね冗談を言っています。
それにしても,学校でさらに塾で,中学校と高等学校の6年間もの時間とお金を浪費して,それで使い物にならないって,本当にどうかしていませんか? だって心と口を使っていないもの。そしてこの国では英語に限らず勉強の目的は能力を身につけることではなく学歴を手に入れることだもの。これに異論のある英語教育関係者の人がいるならば,反論などせず英語をものにする教育を実践し実証してみたらいかがでしょうか?
……と,この話題は今日の本論ではありませんからこれくらいにします。
さて,ふたつめの障害である「移動手段」ですが,それは日本で生活していても同じことですが,やはり車が運転できないと都会以外を旅行するにはかなり不自由です。
オーストラリアやニュージーランドは日本と同じ左側通行なので,車を借りても比較的簡単に運転できますが,アメリカでは右側通行なのでなおさらです。おそらくこれも,アメリカ政府と旅行会社が結託しているのかもしれません…… と,これもまた冗談ですが。
さて,ここからが本論です。私は,常々車を運転してアメリカを旅行していると,アメリカ人が乗っている車が日本とはまるで違うことに気づきます。というより,どうも車に関する考え方がまったく違うようなのです。
いつも書いているように,日本は狭くどこも渋滞していて,所詮走る道路などないから,車などに浪費するのは意味がなく,単に移動手段だと割り切ったほうがほうがいいと私は思っています。お金さえ出せばだれでもできるようなことで見栄をはっても情けないだけです。そんな日本では,アメリカでは「アクア」もまた「プリウスC」というブランド名なのでそれも含めて,都会なら「プリウス」で十分だし,田舎であれば「ダイハツ・ハイゼットトラック」と「スズキ・キャリィ」という2大「軽トラ」を選ぶのが無敵であり最強です。4WD+ATの「軽トラ」にかなう車は日本ではほかにありません。
そこで,それに比較したアメリカのお話です。私はアメリカでは特に車種にこだわらずに車を借りるのですが,様々な車に乗ってみた結果,アメリカでは車高の高い車のほうが,ずっと安心して乗れます。車高の低いセダンは,都会ならともかく,いくら高級車であってもずいぶんと貧弱に見えます。特に東海岸ではそれが顕著です。
トヨタの「カローラ」や「カムリ」といった売れ筋のセダンも,日本とアメリカではまったくデザインが違いアメリカのほうがずっとかっこいいのですが,それでも車高が低いので,西海岸の都会以外ではさえません。ベンツやBMWも同様です。特にあのなで肩のたれパンダのようなスタイルはヨーロッパのことは知りませんが,アメリカではかなり見劣りします。それとともに,アメリカの大都市の高級住宅街を走るときは,ある程度金のかかった車に乗らないとポリスに目をつけれらるので,それにも気をつけなければなりません。アメリカでもけっこう車選びは難しいのです。
そうしたアメリカの都会で普段乗るのにふさわしい車というのは,文句なくSUVです。例えば,日産の「X-TRAIL」,これはアメリカ名は「Rogue」というのですが,これの真っ黒いのがいいです。
しかし,実際にアメリカで生活すると,SUVに加えて,トヨタの「タコマ」のような,アメリカ版「軽トラ」,つまり「ピックアップトラック」がないとかなり不便です。アメリカでの週末のレジャーといえばまず第一にキャンプですが,このくらいの荷台がないとキャンプ用具が積めません。それに郊外では未舗装道路が多いので,ピックアップトラックでなければ通行もできないわけです。
私は単なる旅行者だから週末にキャンプに出かけるわけでないのでほどほどの車でいいと思っていて,アメリカ人がどうしてピックアップトラックなんぞが必要なのかさっぱりわからなかったのですが,次第に現地に友人が増えてきてピックアップトラックに乗せてもらう機会も増えてくると,そのよさや用途がわかってきました。それとともに,そうした車を必要とする生活を知らないうちは,本当のアメリカなど語る資格がないことにも気づきました。
駅馬車での西部開拓時代から,アメリカは,こうした形の車を活用して発展してきたのです。つまり,日本の現代版リヤカーが「軽トラ」であるように,アメリカの現代版駅馬車こそが「ピックアップトラック」ということなのです。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑦
●一言も発しないバスの運転手●
昨晩まで宿泊したホテルの最寄りの地下鉄の駅には,地下鉄だけでなく,空港へ行く電車の駅もあった。ちょうど,東京の地下鉄の駅と私鉄の駅があるようなものだ。
私は,このときはじめて空港へ行く電車に乗ることになったが,駅の窓口に空港へ行く電車のチケット売り場があったのでそこでチケットを購入してホームに降りた。日本とは違って改札口というものはなく,車内で検札がくる。
やがて,ホームに電車が滑り込んできた。乗ってしまえば空港までは遠くない。しかし,治安が悪いというのではないが,どうも車内の雰囲気がよくなかった。これは客のせいなのであろうか? それとも,この電車の走っている場所柄のせいであろうか?
実際,ダウンタウンの西側はあまり風紀のよさそうなところでなかった。
私が今晩のホテルを空港の近くにしたのは,明日のフライトの時間がとても早かったからだが,ダウンタウンから空港までがこれほど便利だったのならダウンタウンにもう1泊すればよかった。
この日の晩予約したホテルは空港からは近かったが,それでも空港から歩いて行けるような距離ではなかった。そこで空港から路線バスに乗るのだが,その場所にはダウンタウンからもバスで行くことができて,しかもそのほうがずっと運賃が安かったから,私はよほどバスで行こうと思っていたが,もしそうしていたら,そのバスの通るところは,あまり風紀のよいところでなかったわけだ。
30分もかからず,電車は空港に近づいてきた。窓から右手に広い空港が見られるようになった。アメリカの空港はどこもあまりに広すぎて,ターミナルから歩いて外にでるなんて不可能である。だから,たとえ空港に隣接したホテルであっても,車がなくそこに行くのは不可能である。
やがて,電車は駅に到着した。
私はまず空港に行って,明日のフライトのチェックインを済ませて,カバンを預けて身軽になるつもりであった。しかし,フライトのチェックインはできたものの,カバンは前日では預けられないと言われたので,仕方なくカバンを転がして,事前に調べておいたように,この日宿泊の予約をしたホテルまで行くバスが停まるバス停に行くことになった。
ハワイ・ホノルルの空港も同じであるが,空港では,路線バスのバス停のある場所がなかなかわからなかった。アメリカでは路線バスなんて30分に1本来ればいいほうで,しかも時刻表すらないし,行き先も定かでなかった。
それでもまだ,フィラデルフィアよりもホノルルのほうがましだった。
どうにかバス停を見つけたが,わたしの乗るバスの番号には右まわりと左まわりの同じ行き先のものがあって,それだけでも混乱したのに,やはり,バスはなかなか来ない。バス停には2~3人バスを待っていた客がいたが,先に来た別方向のバスに乗っていってしまい,ついに私ひとりになった。
ようやく私の乗るべきバスがきた… と思った瞬間,バスは私を無視して,停車もしないで通りすぎていってしまった。
これを逃したら,さらに30分も待つわけだ。私は茫然とした。バスの進行方向には,ずっと向こうに,空港内の次のバス停があった。私はバスを追っかけて次のバス停まで行って,どうにかそこに停車していたバスに乗り込んだ。
しかし,このバスの運転手,バス停を出発しても,ひと言も発しない。しかも,バス停の案内放送すらない。これではどこで降りればよいのか,どこで降りるためのひもを引けばいいのかさえ,さっぱりわからない。信号すらないから,バスは停まりもしない。これではらちがあかないので,私は,運転中のこわもての運転手に降りたいバス停を告げた。しかし,なんの返事ももらえなかった。
不安でパニックになりそうになったころ,バスが突然停車して,運転手が私に,ここだ,と言ったのだった。
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法③
いきなりですが問題です。
・・・・・・
トナカイは英語でカリブー(caribou)とレインディア(reindeer)というふたつの言い方があるのですが,この違いは何でしょうか?
答え:レインディアは空が飛べるのです???
・・・・・・
というのを外輪船ツアーで聞きました。夢のある素敵なジョークです。レインディアの引くそりに乗るサンタクロースさんもさぞうれしいことでしょう。
さて,今回の皆既日食の旅では,欲張ってついでにアラスカまで足をのばして,オーロラも見てしまいました。
もともとは,アメリカ50州制覇をした後の行き先として,これからはハワイとアラスカとオセアニアを中心に旅をしようと思ったこと,オーロラは夏でも見られると知ったこと,さらには,この春にオーロラを見にいった知人が複数いてとても羨ましかったこと,そしてまた,これはすでに書きましたが,50州制覇とはえアラスカをまともに観光したことがなかったこと,アラスカは個人旅行では直行便がなくシアトル経由で行くことになるから,せっかくシアトルに行ったのならついでに行ってみようと思ったこと。それが,今回アラスカまで足をのばした理由でした。
しかし,この旅の主の目的は皆既日食だったので,オーロラについては事前に何も調べておらず,行けば何とかなるだろうと,そうしたいい加減さでフェアバンクスに降り立ったわけです。
夏とはいえ,機内からみたアラスカは雄大な大地が広がっていました。着陸後,空港も小さくのんびりしているところだなあ,というのが第一印象でした。他に到着した便もなく,バゲッジクレームも動いていませんでした。しばらく待ってカバンが出てきたので取り上げて,空港内のカウンタで予約しておいたレンタカーのキーを受け取って外に出ました。道路も空いていて,30分ほどでフェアバンクスのダウンタウンに着きました。
夏のアラスカは冬のオーストラリアのようなところでしたが,広くはないとはいえダウンタウンは夜は街灯が明るくてオーロラどころか星もほとんど見えませんでした。ダウンタウンから郊外に出れば真っ暗な場所ばかりですが,オーロラは深夜に現れるので夜通し起きている必要があるから,オーロラを見るにはどこに行けばよいかを事前に調べておく必要があるのでした。ただし,晴れていて空が暗ければオーロラが現れる確率は思っている以上に高いものでした。
すでに書いたように,私は偶然、チナホットスプリングスリゾートへ行き,結局オーロラを見ることができたわけですが,この私の行った日本からの団体ツアー御用達の場所が最適とはいえませんでした。結局,個人でオーロラを見にいくときは,私のようにフェアバンクスのダウンタウンに宿泊するのではなく,自由に車で移動できる夏の時期ならばフェアバンクス郊外に適当なロッジでも見つけてそこを定宿にするか,極寒の季節ならば,空港から送迎のあるロッジを予約しておくといった準備をする必要があったのでしょう。
それよりも今回私が印象に残っているのは,ニュージーランドのテカポ湖畔同様,アラスカのチナホットスプリングスリゾートもまた,日本から脱出した多くの若い人(特に女性)がそこに住み着いて日本人観光客相手の仕事をしている姿でした。彼らがこの先どういう人生設計を立ててそこにいるのかは知りませんけれど,そして,それがどういうことを意味しているのかはわかりかねますけれど,私にはそのことのほうがとても衝撃的でした。
しかし,考えてみれば,何年勤めてもキャリアアップもできず早朝から深夜まで仕事をするか,結婚して小さな家を買っても住宅ローンに追われるか,子供ができても何も身につかないのに他人と競うだけの教育に,そして,そんな子育てが終われば今度は親の介護にとお金と時間を浪費するかしかなく,若いうちから自分の老後の心配をして今の自分の夢に投資することもできず貯蓄に励み,日々の楽しみといっても仕事の後に飲みに行くか,大型連休になれば混雑する観光地で渋滞に巻き込まれるか,走る道路もないのに車を磨くのに精を出すしかない,そんな狭い日本で生きるよりはるかに幸せなのかもしれません。
外の世界を見たことのない,あるいは,ツアー旅行でしか行ったことのない人たちの多くはこの国の異常さを知らず,日本はすばらしい国だと信じていますけれど……。
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法②
今日はまずオーロラを写す方法を簡単に紹介しましょう。オーロラを写すには,一眼レフカメラにできるだけ広角のレンズを用います。私は魚眼レンズを使いました。ISOは1600程度の高感度にして,絞りをできるだけ開きます。シャッタースピードは2秒から20秒くらいまで段階的に写して,その中から一番いいもものを選べばいいです。もちろん三脚は必要です。
オーロラは簡単に写ります。肉眼で見えないオーロラも写りますし,肉眼で見えるものでも実際に見るよりも鮮やかに写ります。星空を写すのと同じ要領です。
前回書いたように,オーロラを見るにはアラスカに出かけるのがおすすめですが,団体ツアー旅行が利用するチャーター便でなければアラスカへの直行便はありません。シアトル経由のツアー旅行もありますが,それではツアー旅行のメリットがまったくないので論外です。
そこで個人旅行でアラスカ初体験をするにはまずシアトルまで行ってそこからアラスカに向かわなければいけません。そのとき,最ももよいのはシアトルからはアンカレッジに飛んで,アンカレッジからフェアバンクスまでドライブするかアラスカ鉄道に乗ってフェアバンクスに行くことです。帰りはフェアバンクスからシアトルに戻ります。アンカレッジからフェアバンクスに行く途中にはテナリ(マッキンレー)を見られます。
ただし,アラスカ鉄道は日本からの団体ツアー客の定番コースなので,たくさんの日本人が乗っていると思われますから,個人旅行では,紅葉の美しい9月ならドライブの方がおすすめです。
私は今回,残念ながら時間がなかったのでこのコースが取れず,直接フェアバンクスに行くことになったのが心残りです。
フェアバンクスは小さな町ですから,2日もあれば見どころはすべて回れます。少ない見どころのなかでは,3時間かけてチナリバーを往復する外輪船クルーズが一番のおすすめです。
これは5月から9月の間だけ運行していて,事前予約が必須という話です。私は現地に着いてからネットで予約しましたが,個人なら何とかなりそうです。
それ以外の見どころとしては,アラスカ大学フェアバンクス校にある博物館や,ファウンテンヘッドアンティークオート博物館があります。アラスカ大学フェアバンクス校の広さには驚きます。また,オート博物館はクラシックカーがたくさんあるのでお勧めですが場所が極めてわかりづらいです。
フェアバンクスはこれくらいしか行くところがありません。ただし,クリーマーズフィールドという野鳥公園では8月の終わりだけカナダヅルが渡ってきていて,すごくたくさんの野生のカナダヅルを見ることができます。また、パイオニアパークという古びた遊園地がありますが,子供向けです。ただし,ここは5月から9月ならば夕方に行くとサーモンベイクができます。
ダウンタウンは狭いのでぶらぶら歩きも楽しいのですが,食事どころは,タイハウス(Thai House),バンタイ(Bahn Thai)といったタイレストランが有名です。というか,それくらいしかありません。私も食事に行ってみましたが,なかなかでした。
このように,フェアバンクスは北海道の田舎町のようなところですから,もし,夏に行くのであれば車で遠出することも可能なので,4時間ほど北に走って北極圏まで行くとか,デナリを満喫するとかすれば可能性は無限にひろがります。また,冬に行くのであれば,スノーモービルとかアイスフィッシングとかスキーといったウィンタースポーツができるのでそれに挑戦すればオーロラ以外にも楽しみが広がります。
9月のこの時期。成田からフェアバンクスまでのデルタ航空の往復航空券は8万円でおつりがきます。とても安いです。ただし,先に書いたように直行便がないので乗り換えの待ち時間も含めると21時間もかかります。ツアーならその10倍の値段がしますが,チャーター便を利用すれば6時間で行くことができまます。このように個人で行くとなると,一旦シアトルまで行ってそこで乗り継ぐことになるのですが,何がくだらないかというと,フェアバンクスからシアトルに向かった同じコースを,再びシアトルから成田に向かうときに飛ぶことです。
こんなわけなので,アラスカに個人で行く人がほとんどいないのです。私も今回アラスカへ行ったのはシアトルに行ったついででした。したがって,アラスカについてはハワイと違って情報があまりありませんし,現地でも日本人の個人旅行者相手のツアーもほとんどありません。
このように,個人旅行でアラスカに行ってオーロラを見るのは日本から遠いという意味で大変です。確かにオーロラは魅力的ですし,ハワイとはまったく違った魅力がありますが,私ですら再び行くとなると二の足を踏みます。もし今回オーロラを見ることができなかったら,またいつか行かなければ…… といった大きなトラウマになることでした。
この夏シアトルに出かけてふと足をのばして寄っただけのアラスカで偶然オーロラを見ることができた,というのは,そういう意味でも非常に幸運なことでした。
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法①
オーロラが見られるのは北極点を中心としたベルト状の場所(オーロラべルト)で,そこに存在する町としてはアラスカ州のフェアバンクス,カナダのイエローナイフ,フィンランドのロバニエミ,スウェーデンのキールナ,ノルウェーのトロムソなどが有名です。南極点にも同様にオーロラベルトはありますが,海の上です。
オーロラは寒い冬にしか見られないと思っている人も多いのですが,実際は1年中見られます。ただし,一般のオーロラは天の川程度の明るさなので,空が暗くないと見えません。また,北極に近いと夏は夜がほとんどないので空が暗くならないから,夏至のごろは見られないというだけです。それとともに,街灯がある都会もだめです。
ただし,いくら空が暗くとも,晴れることが第1条件です。そこで,降水量を調べてみると,アラスカとカナダのほうがフィンランド,スウェーデン,ノルウェーよりも少ないです。また,降水量が少ないというアラスカやカナダでも,最も降水量が少ないのが3月と4月ですが,この時期はとても寒いです。
冬の最低気温は,フェアバンスが-28度,イエローナイフが-31度,ロバニエミが-15度,キールナが-19度,トロムソが-7度となります。したがって,寒さからいえばノルウェーのトロムソほうが温度は高いのですが先に書いたように晴天率が低いのです。
このように,フェアバンクスの真冬は降水量が少ないのですがかなり寒いので,オーロラを見るには決死の覚悟が必要になるわけです。
そんな理由で,軟弱な私は,オーロラは見たいけれど寒くない季節にしようと,シアトルに行ったついでに8月の終わりにフェアバンクスに足を伸ばしてみることにしました。
しかし,行ってみてはじめて知ったのは,アラスカの中でも晴天率が最も高いと聞いていたフェアバンクスだったのに,実際は8月は雨ばかりでした。曇っていても突然雨が降ってきます。9月になれば8月よりは晴れる確率が高くなるらしいのですが,本当のところは知りません。
私が滞在した4日間で1日だけとはいえ晴れ上がり,その晩にオーロラが見られたのというのはかなり幸運だったといえるでしょう。
宿泊したB&Bで聞いてみると、フェアバンクスでは9月の下旬にはすでに雪が降りはじめるということですから,オーロラを見るには,寒くてもよければ3月から4月,寒いのを避けたいのなら9月の中旬まで,ということになります。
当然,10月から2月もオーロラは見ることができますが,10月になると雪が積もりはじめるし,フェアバンクスでは一番の見ものである外輪クルーズのようなアトラクションが休止になります。また,3月よりも晴天率が幾分低いということで,どちらをとっても中途半端な感じです。でも,この季節は日本からの観光客が少ないので穴場ともいえます。
さて,アラスカ第二の都市であるフェアバンクスですが,市内は明るくてオーロラの観察には不向きです。しかし,市内はさほど広くないので,30分も走れは真っ暗な郊外に出ることができます。
フェアバンクスの近郊では1年で300日程度オーロラが出現するということなので,そうした暗い場所に行って晴れれば,おそらく90%以上の確率でオーロラは見られます。ただし,オーロラはいつ出現するかわからないので,空を眺めながら出現を待たなければいけないことと,また,どこにオーロラが出たかは慣れていないとわかりづらいので,個人でフェアバンクスに宿泊して深夜に郊外に出かけるのはあまり得策ではありません。
・・
フェアバンクスから出発する現地オーロラツアーがあるとガイドブックなどに書いてありますが,オーロラツアーの開始は9月からです。また,ツアーで郊外に出かけても,深夜1時ごろには観察は終わり帰ってこなければなりません。こういうのがツアーの欠点です。それはハワイ島の星空観察ツアーも同様です。オーロラが出現するのは午後の10時頃から深夜の2時くらいが多いそうなので,それでは楽しくありません。したがって,フェアバンクスの市内に宿泊するよりも,郊外に数日(3~4日程度)泊まってオーロラの出現を暖かい室内で待ち,お昼間にフェアバンクスに観光で出てくるほうがいいと思われます。
フェアバンクス郊外の宿泊先は,フェアバンクスから30キロほど行ったところにいくつかログハウスやロッジのような宿泊施設があるとガイドブックには書かれています。そうした本には私がこの夏に偶然行ったチナホットスプリングス(China Hot Springs)もよく紹介されていて,そこには1泊300ドルもするロッジがあります。しかし,ここは日本人団体ツアー客御用達のところで,ツアーで来た日本人が山ほどいるので,個人で行くにはおすすめしません。また,マウントオーロラスキーランド(Mt.Aurora Skiland)も定番スポットということですが,やはり,シーズン中は混み合うそうです。
そんな有名なところでなく,フェアバンクスの郊外には安価なホテルやロッジが結構あって,フェアバンクスの郊外なら晴れさえすればオーロラは高い確率で見られます。しかも9月は空いていますし,まだ雪がないのでレンタカーを借りれば車で空港からホテルへ移動できます。この時期は成田からフェアバンクスまでの航空券も安く容易に手に入るので,オーロラとアラスカ観光をするのなら,まずはこうしたホテルやロッジを予約して気候のよい9月にとりあえず出かけてみるのがおすすめです。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑥
●フィラデルフィアの公共交通「セプタ」●
結論を先に書くと,私は数千円をケチったために,とんでもない状況に遭うこととなった。フィラデルフィアはダウンタウンから何の問題もなく公共交通機関で空港まで行くことができるのだった。つまり,私は、東京駅の近くのホテルに泊まって成田空港に行けばよかったのに,宿泊代が高いからと成田市のよくわならない場所に泊まったようなものであった。
このように,私はなんど同じ目にあっても懲りないのであろう。
アメリカでは「空港近くのホテル」というのがもっとも曲者なのである。たとえ近くであろうと,それは歩いて行けるような距離ではないのである。近いからといってタクシーを利用すれば数千円は吹っ飛んでしまうし,空港から送迎があると書いてあっても,送迎のバンを呼ぶ方法がホテルによって,また,空港によってまちまちだし,それを待っていると30分もかかってしまったりするからだ。
アメリカ到着後は,ともかくレンタカーを借りてしまうか,あるいは空港からは公共交通機関(これは鉄道に限る)の接続が便利ならば,それに乗って最寄りも駅から徒歩圏内にホテルを確保するに限るのだ。今回の私の泊まったような空港の近くのホテルの場合,ホテルから空港にはシャトルサービスがあるが,ホテルにはレンタカーで行くことができるか,あるいは,公共交通機関(鉄道に限る)で行くことができる場所に確保することが大切なのである。
いずれにしても,アメリカに到着した日と帰国する前日のホテル選びは慎重に行う必要がある。
そんなことは十分に知っていながら,私はこの旅で,到着した日のオーランドでホテル選びを失敗し,帰国前日のフィラデルフィアで2度目のミスをした。どちらもきちんと計画を立てていたのにも関わらず,である。
すでに書いたことだが,初日のオーランドは,空港のターミナルビルにホテルがあるからそこに泊まればよかったものを,数千円をけちったためにバカをみた。それでも,予定通り飛行機がオーランドに到着していれば,私の予約したホテルにバスで行くことができる見込みであったのに,飛行機の到着が遅れたために,すでに調べておいたバスはなく,タクシーに乗ったら望外な料金が取られた。そんなことなら,レンタカーを借りたほうがずっとまだマシだったのだ。
そして,帰国前日のこの日である。
こちらもまた,数千円をケチって,なにもわざわざ空港の近くのホテルに変わらずとも、フィラデルフィアのダウンタウンのホテルに連泊して,早朝空港に向かえばよかったのだ。
フィラデルフィアのダウンタウンから空港までは電車で1本,乗り換える必要もなく短時間で行くことができるのだった。
フィラデルフィアの公共交通機関はすべて「セプタ」というが,「セプタ」にはバスとトロリーと地下鉄がある。このうち,トロリーというのが日本人にはなにかピンとこないが,要するにに,これは1両編成の市電のようなものなのだ。
そしてまた,「セプタ」ではなく,郊外に走る電車もあって,これは日本の私鉄のようなものである。
・・
来てみれば簡単なことだが,ガイドブックを見ているだけではそれがよくわからない。おそらく,それは外国人が日本に来たときにも同じようにわからないものであろう。こうした「案配」というのが,旅をする前にいくら本を読んでもわからないことで,実際に旅をしなくては納得ができないのである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア⑤
●レディングターミナルマーケット●
私はこうして,ついに,念願の「自由の鐘」に会うことができた。その後,独立記念館,国会議事堂のツアーにも参加して,インディペンデンス国立歴史公園の見学を終えた。
今回の私の旅はフロリダからはじまって,ずいぶん長い距離であった。フィラデルフィアにはやっと行くことができたが,これで,ずっと行きたかったところへはすべて行くことができた。
ホテルに戻る前に,インディペンデンス観光案内所に寄り,そこで売っていたサンドイッチをお昼ご飯として食べた。しかし,結果的にこれはちと早まった。
この日の予定はこれで終わりだった。この後はホテルに戻ってクロークに預けてあった荷物を引き取り,今日の宿泊先である空港の近くのホテルまで行ってチェックインをするだけであった。
それで,この旅は終了である。
しかし,ホテルに戻るにはまだ時間が早かったので,その途中にあって,ずっと気になっていたレディングターミナルマーケット(Reading Terminal Market)へ寄ることにした。
行ってみてわかったことだが,このレディングターミナルマーケットこそが,実にフィラデルフィアらしい,というか,この街でもっとも魅力的な場所であった。もし,私がここに行かずに帰国していたら,フィラデルフィアに関する印象はずいぶんと違ったものであったことだろう。
このマーケットは,これまで私が行ったアメリカの他の都会にはなかったものだった。ここはまるで日本にいるような,築地の場外というか上野のアメ横というか,そんな感じの場所であったのだ。
レディングターミナルマーケットというのは120年以上の歴史をもつ地元民のための市場である。
近くの農家から直送された野菜や果物,魚介類,肉,パン,スイーツ,チーズ,ワインに生花と,ありとあらゆるものがこのマーケットでは販売されていた。さらに,マーケットだけでなく,ここには非常に多くのフードコートがあって,ありとあらゆる食べ物を安価に食べることができる場所であった。
つまり,フィラデルフィアで昼食をとるには,ここに来ればよいのである。
このとき,私はすでにインディペンデンス観光案内所で手っ取り早い昼食を済ませてしまっていたことをずいぶんと後悔した。ここなら,もっと種類が豊富でしかも安価な昼食をとることができたのだった。
もし日本人がフィラデルフィアに住むのなら,このマーケットの存在さえ知っていれば,何の心配もないことであろう。そうしたことから,ここに住む日本の人が書いたこのマーケットでおすすめの食べ物などの情報がネットにあふれているから,探してみると面白いと思う。
昔,ニューオリンズに行ったとき,ニューオリンズを知らずしてアメリカは語れないなあ,つまり,ニューオリンズがアメリカの他の都市とはあまりに違うことに驚いたのだが,このマーケットもまた,アメリカの他の都市にはないものであった。
今日では,日本はもちろんのこと,アメリカでもどの都会に行っても,同じようなチェーン店ばかりになってしまって,わざわざその町に行く意味がなくなってしまったが,こうしたローカル色あふれる場所に行ってこそ,旅で出かける価値があるといいうものであろう。
私はこのマーケットをしばらく散策してから,市庁舎まで歩いて行った。
市庁舎の広場では不思議なものを見た。それは,子供のおもちゃ自動車に乗って奇声を発している男であった。彼の服装から見て,ガードマンなのであろうか,あるいは警官なのであろうか?
馬鹿げていたのは,彼は自分のやっていることを録画していたことであった。そして,その横で同じ制服を着た男が冷たい視線を投げかけていた。もし,日本でこれと同じことをやれば,彼は即座に懲戒免職になったことであろう。
いったいあれは何をしようとしていたのであろうか?
それはそれとして,この日もまた,ものすごく暑い日であった。市庁舎前の広場は地面から水が出ていて,ミニプールのようになっていた。そこで,子供を遊ばせている母親がずいぶんといた。
私は,今やもう,アメリカだけでなく,日本もまた,観光地といわれる都会に行くことにはまったく魅力を感じなくなっていて,それよりも,そこに住んでいる人たちの暮らしぶりのほうにずっと興味がある。それとともに,私がもし,こういうところに生まれて,ここにいる母親だったら…… などと考えるようになってきた。
フィラデルフィアという都会がどういうところかを語るほど私はここに滞在していないが,アメリカのメガロポリスとよばれる東海岸の都会の中では,最も日本人の暮らしやすいところのように思えた。
さて,私の長い旅もこれで終わるのだが,この後もまだ大変なことが起きるのでであった。
「星好きの三大願望」-2017皆既日食・体験記②
☆☆☆☆☆☆
私はこの皆既日食観察の旅に出発する1月前くらいまではすっかりお任せで,現地のことはまったくわれ関せずでした。ところが,皆既日食の当日,皆既帯あたりの交通事情ががどのような状況になるのか意見が分かれ,ひょっとしたら大渋滞になって皆既帯にいくことすらできないののではないか,あるいは,こんなのどかなところのどこが渋滞するのか? といったさまざまな意見があって,予測不能でした。
そこで,当日の渋滞を避け,2日前に皆既帯のどこかに到着して2日間キャンプをし当日を迎えることになったのですが,そのころにはすでにどこのキャンプ場も予約が一杯という有様で,かなり憂慮しました。やっとの思いで見つかったのが,アイダホ州ワイザーという町の広場,ここはもともとはキャンプ場ではなかなったのですが,皆既日食観察者のために,臨時に解放された場所だったわけです。
この旅は,8月16日にシアトルに到着しワシントン州を観光してから,19日の午前中までにワイザーに行くことにしていました。18日はアイダホ州のルイストンという町のホテルに泊まっていたので、そこから南に3時間かけて,ワイザーに向かいました。ルイストンからワイザーまでは国道95をひたすら走れば到着します。私はこの道ははじめて走ったのですが,とても風光明媚なところでした。ただし,数箇所工事をしていて,片側交互通行になっていましたが,まったく渋滞などしませんでした。
こうして3時間ほどの快適なドライブでワイザーに到着すると,すぐにめざすキャンプ場が見つかりました。
ここは日本のオートキャンプ場とはまったく違い,ものすごく広く,ここも予約で一杯になったという話だったのに,ずいぶんと余裕がありました。トイレも設置されていました。お昼間はさすがに日差しはきつかったのですが,湿度が低いので,日陰に入れば快適でした。テントも風通しさえよければまったく問題はありませんでしたし,アメリカのこうしたキャンプ場のよいのは,まったくごみがないことと,虫がいない,セミも鳴かないということです。さらに,ここは山の中のキャンプ場とは違い,町中の川辺りだから,車で5分も行けばワイザーの小さなダウンタウンにあるマクドナルドに行くことができるから,Wifiは繋がるし,ダウンタウンにはレストランさえありました。
私は,こうした場所で2日間を過ごし,当日を迎えることになったわけです。
連日,雲はあるものの,太陽が覗く天候が続いていました。到着した日の晩は星がとてもきれいでした。しかし,皆既日食前日の晩は一面雲が覆っていて星も見えませんでした。しかし,天気予報では皆既日食当日は午前4時ごろには雲もなくなり快晴という予報に,信じられない気持ちでした。こうして当日を迎え,私は今回の日食を楽しむことができたのでした。
ところで,今回の皆既日食で私が持っていったのは,カメラ用の三脚に自由雲台,それにMILTOLという名の焦点距離400ミリf6.7の望遠レンズにニコンD5300 でした。
アメリカまで持っていくので,重い機材は避けようと思い工夫しました。天文ファンの多くは,星を見ること以上に機材に凝っている人や,日食のために新たに機材を購入する人も少なくないのですが,私はそういう財力もなければ興味もありません。1999年にハンガリーまで皆既日食を見にいったときは,今も使っているPENTAXの75センチ屈折望遠鏡を持っていったのですが,重く,それにアメリカの乱暴な預け入れ荷物の扱いでどうなるか心配だったので,今回は,できるだけ軽くそして安く実用に耐える,また,普段でも太陽を撮影できる機材を探しました。そうして見つけたのが販売価格40,000円程度のMILTOLでした。皆既中はフィルターは不要なのでが,太陽が欠けていく間は減光フィルターをつける必要があります。フィルターは1999年の皆既日食で使ったものでしたが,ねじ込みだと脱着がたいへんなので,簡単に取り外しができるようにそこだけ工夫しました。
使ってみて後悔したのが雲台で,自由雲台では追尾がたいへんでした。これはポラリエを持っていくか,あるいは,ポラリエを三脚に固定するための極軸微動雲台を持っていくべきでした。そこだけが失敗でしたが,それでもなんとか,思った以上の写真を写すことができたので満足しました。この失敗を「次回」に生かすにも,その「次回」というのががあるのやらないのやら……。
「星好きの三大願望」-2017皆既日食・体験記①
☆☆☆☆☆☆
では,今日からは,今回の日食について書いてみましょう。
私は今回の皆既日食の皆既帯に近いアイダホ州マウンテンホームに親類が住んでいるので,何年も前からこの日食を見にいくのをとても楽しみしていました。そんなわけで,今回の皆既日食のアイダホ州での皆既帯あたりはなじみのあるところだったので,何の苦もなく,晴れさえすれば見ることができるはずでした。
それよりも心配だったのは,現地がどれほど混雑するだろうか,そして,アメリカに行く航空券自体,皆既日食のころは世界中から観光客が殺到するから買うことができるだろうか,ということでした。そこで,ともかく,半年前,航空券の発売日当日に成田からシアトルまでのチケットだけ手に入れました。シアトルに着いてしまえば,あとは,車であろうと,飛行機であろうと,容易にアイダホ州まで行くことができるからでした。
私はまったく興味がありませんでしたが,当然,日本からは日食観察ツアーが企画されていて,広告を見ると,それらは50万円から100万円といった法外な値段がつけられていました。しかし,アフリカや南極ならともかくも,アメリカごときに50万円も出して行くなんて,私には理解しがたいことでした。
今回,行ってみてわかったのは,シアトルからレンタカーを借りてワシントン州を東にインターステイツ90を走り,途中のエレンスバーグでインターステイツ82に乗り換えてリッチモンド,そこから国道12を通ってワラワラまで行くと6時間,そこで宿泊し,当日の朝,ワラワラから州道11を経由して,インターステイツ84をひたすら南に2時間ほど走って皆既帯まで達すれば,簡単に皆既日食を観察できたことでした。
ワラワラという美しい町はものすごくホテルが安くて,6,000円も出せばシアトルで20,000円ほどするホテルよりも立派な部屋が確保できました。そうすれば,シアトルまでの航空運賃とレンタカー代とワラワラでの宿泊代すべてを合わせてもツアー旅行で設定されたような4泊6日程度の日程なら15万円でお釣りがくるということでした。
私は,偶然,結果的にそれとほぼ同じコースをとりましたが,ワラワラではなく,ワラワラからさらに2時間ほど東に行ったルインストンからアイダホ州に向かうことになりました。ルイストンから南に走ってアイダホ州のワイザーまでは3時間でした。そして,ワイザーで2泊3日,皆既日食のために開放されたにわかオートチャンプ場でキャンプをして,快晴のなかで皆既日食の観察に成功しました。
このコースのよかったのは,付近に大きな都会がないので到着するまでまったく渋滞していなかったこと,そして,日本人のツアー客がいなかったことです。ワイザーという町は人口が7,000人ほどで,それでも,町のハイスクールでは日食を記念したフェスティバルが行われたりしていて,華やいでいました。アメリカではこういう小さな町が治安もよく,一番落ち着くわけです。それが今日の3枚の写真です。
当日,どのくらい混雑するのかは全く予想ができなかったのですが,数日前に,テレビや新聞でオレゴン州では皆既日食を見にいく車で大渋滞という誤報が流れ,とても心配しました。しかし,実際には,それはオレゴン州で合法であるマリファナの販売が行われて,それを手に入れるための車の列でした。当日は,確かに車は多かったのですが,心配するような渋滞は起きませんでした。
渋滞といえば,皆既日食後,私がワイザーの町を抜けるのに30分程度かかったことくらいでした。ワイザーを出てからワラワラまで戻るのにインターステイツ84を北上したのですが,さらに,この道路で2度ほど大渋滞に出会いましたが,それは,皆既日食観察帰りの車というよりも,道路工事による渋滞でした。アメリカではインターステイツの1車線をふさいで工事をするときには別に1車線が作られるのが普通ですが,それをしないオレゴン州はとんでもない州だということだけを私は認識することになりました。
今日は最後にふたつ地図を載せましたが,上の地図は今回の皆既帯を示すものです。日本からカンザスシティなどに出かけて曇った人もいるみたいですが,この時期に天候が不安定で急変する中南部に行くなんて! と私は思いました。そんな場所を選ぶのは,よほどアメリカを知らない人でしょう。しかし,晴天率の高いアイダホ州やオレゴン州であっても,この皆既日食の翌日から山火事が起きて,太陽すらまともに見られなくなってしまったことを考えると,この日,真っ青な空が見られたのは幸運でした。
また,下の地図は,2024年4月8日に,再びアメリカで見ることができる皆既日食の皆既帯です。今回の皆既日食を考えれば,さらにだだっ広いテキサス州が渋滞するとは思えませんから,私がこの皆既日食を見にいくとすれば,テキサス州のサンアントニオから北上するコースを選ぶでしょう。ジョンソン元大統領の生まれ故郷であるジョンソンシティという美しい町もあります。テキサス州は晴天率も高いし,このあたりの皆既帯帯はどこも大草原なので,どこでも観察することができることでしょう。幸い4月ならハリケーンも心配ないことですし。このあたり,すでに4月はかなり暑いんですが,真夏ほどではありません。
「星好きの三大願望」-過去の皆既日食,今後の皆既日食
☆☆☆☆☆☆
では,皆既日食はいつ起きるのでしょう?
皆既日食に周期性はありませんが,21世紀に起きる皆既日食を数えると75回あるので,平均すると1.33年に一度ほど起きることになります。しかし,皆既日食の中でも同じような皆既日食が約18年の周期で見られることが古くバビロニアの時代から知られていて,これを「サロス周期」といいます。その周期に属する次の皆既日食は経度において約120度西にずれた場所で起こります。
今回,このブログを書く機会に,過去に起きた皆既日食とこれから起きる皆既日食を調べてみました。
ところが,21世紀以降に世界で起きる皆既日食についてはさまざまな情報の書かれたサイトがたくさんあるのですが,過去に起きたものについては,「日本から見ることができた日食」といった限定の資料が多く,世界規模のものがなかなか見つかりませんでした。私は,今更,星の世界の話で日本限定でもないと思うのですが……。それととともに,過去に実際起きたとき,その場所の天気がどうだったかという資料となると,ほとんどありません。どの皆既日食も天気次第で,運のよい人は見ることができただろうし,運の悪い人はせっかく出かけても雲の上の日食に涙したに違いありません。しかし,残っている資料は,晴れた場所に行って撮ることのできた写真ばかりです。
そこで,過去に起きた皆既日食を,手元にあった1968年からの天文年鑑で調べてみました。
そこで私が最も驚いたことは,たとえどんなに辺鄙なところで皆既日食が起きても,そこに出かけていって写真を撮ってきている人がいるということなのです。私に言わせれば,「たかが皆既日食」で,しかも晴れるかどうかもわからないのに,決して安くない大金はたいてまでそこへ出かける情熱というか……,これもまた日本人らしい話です。
おそらく,そういう人は,日食を口実に,めったに行くことのできない場所の観光旅行をも楽しんでいるのでしょう。それらの多くは,個人ではとても行けそうにないところであり,ツアー旅行すらなさそうなところだからです。
次にあげるのは過去に起きた皆既日食です。
・・・・・・
1968年9月22日・北極付近
1970年3月8日・アメリカ合衆国東海岸線沿い
1973年6月30日・アフリカ中央部横断
1974年6月20日・南極付近の海上
1976年10月23日・南極海上,オーストラリア
1977年10月13日・太平洋上
1979年2月26日・カナダ
1980年2月16日・アフリカ,インド
1981年7月31日・ シベリア
1983年6月11日・インドネシア
1984年11月23日・南太平洋上
1985年11月12日・南極
1987年3月29日・大西洋上,アフリカ
1988年3月4日・インドネシア
1990年7月22日・シベリア北限
1991年7月12日・ハワイ,メキシコ,南アメリカ ●
1992年6月30日・大西洋上
1994年11月3日・南アメリカ,大西洋上
1995年10月24日・インド,タイ ●
1997年3月9日・ロシア,アラスカ
1998年2月26日・太平洋上,パナマ,大西洋上
1999年8月11日・ヨーロッパ横断,インド ●
2001年6月21日・アフリカ
2002年12月4日・南アフリカ
2003年11月24日・南極大陸
2005年4月9日・南太平洋上
2006年3月29日・ アフリカ,中央アジア,モンゴル
2008年8月1日・シベリア,中国
2009年7月22日・アジア,日本,ハワイ ●
2010年7月12日・イースター島,南太平洋上
2012年5月21日・(金環日食)日本 ◉
2012年11月14日・南太平洋上
2013年11月3日・アフリカ中央部
2015年3月20日・イギリス西海上
2016年3月9日・インドネシア,太平洋上
2017年8月21日・アメリカ横断 ●
・・・・・
この中で,私は1999年と2017年(このふたつはサロス周期だ!)に狙いを定めていました。このふたつの日食を前回書いたように数十年前から行くことにしていました。そして,実際出かけて,ともに美しい皆既日食を見ることができましたが,1999年の皆既日食はツアーで行きました。今の自分なら個人旅行をするのでしょうが,当時はそんな能力もなく,また,そのころの皆既日食ツアーは今のように高価ではありませんでした。
このときにツアーに参加した人に聞くと,その多くは,1991年のハワイと1995年のタイの皆既日食にも出かけていたようです。今の私が考えれば,このふたつは個人でも手軽に行くことができるものでしたから,私がそれを見送ったのは単に無知だったということになります。そして,1991年のハワイは晴天の確率が高かったのにもかかわらず残念ながら曇り,1995年のタイは完璧に晴れたのだそうです。
この一覧表で特筆すべきものは,2009年に日本でも見られたものです。しかし,日本とはいえ,皆既帯は鹿児島の南,南西諸島だけで,このときは雨になったので,地上からは見ることができませんでした。私は,はじめっからこの日食には興味がありませんでした。それは,雨季の南西諸島では条件が悪すぎたからです。この日食を見るためのツアーもありましたが,海外に行くのと値段が変わらず,私は,これでは日本で起きる意味がないなあ,と思ったことでした。
また,この表は皆既日食だけを取り上げていますが,例外として,2012年のものだけは皆既日食ではなく金環日食です。それは,日本,特に私の住んでいるところで見られたという金環日食だからです。この日,早朝までの雨が奇跡的に上がり,金環日食が起きたときは晴れていて,私は,金環日食を生まれてはじめて見ました。
こうして,私は,これまでに皆既日食を2回と金環日食を1回見る機会に恵まれました。
さて,次にあげるのはこれから起きる皆既日食です。
・・・・・・
2019年7月2日・チリ,アルゼンチン
2020年12月14日・チリ,アルゼンチン
2021年12月4日・南極大陸
2024年4月8日・メキシコ,アメリカ,カナダ ●
2026年8月12日・アイスランド,スペイン
2027年8月2日・アフリカ,アジア
2028年7月22日・オーストラリア,ニュージーランド ●
2030年11月25日・南アフリカ,オーストラリア
2031年11月14日・パナマ
2033年3月30日・アラスカ
2034年3月20日・アフリカ北部,アジア,中国
2035年9月2日・中国,韓国,日本 ●
2037年7月13日・オーストラリア,ニュージーランド
・・・・・・
これを見ると,手軽に行けそうなのが,2024年,2028年,そして,2035年(これは1999年,2017年のもののサロス周期です!)だと思われます。2024年の皆既日食は再びアメリカで見られるものです。晴天率の高いテキサス州のサンアントニオから北に行ったあたりはワイナリーばかりで,ジョンソンシティという素敵な場所が皆既帯にあります。また,2028年の皆既日食に私は大いに魅力を感じます。この皆既日食はオーストラリア北部から南東部へ抜けるもので,シドニーでは3分44秒の皆既日食を見ることができます。シドニーからでもブリスベンからでもレンタカーを借りて皆既帯に行けば,あたりはどこも大草原です。
おそらく,日本に住む多くの人が最も期待しているのは,2035年に日本,それも本州で見られるものでしょう。しかも,9月2日は日曜日! なのです。この皆既日食は,石川県から富山県,長野県,群馬県,茨木県と皆既帯が続いていて,富山市,長野市,前橋市などは皆既帯にありますから,そこに住んでいるのなら,あとは天気だけの問題になります。この皆既日食の皆既帯は,少し前の文献には東京都心が含まれると記述されていたようですが,実際は通りません。そこで,当日は,皆既日食を見ようとものすごい人が東京から北に向かって殺到するものと思われます。私は,2035年の皆既日食そのものよりも,その日の大混乱がどういう状況になるかを見てみたいものだと思っています。それを目標に長生きしたいものです。
「星好きの三大願望」-一度は見たい,何度も見たい皆既日食
☆☆☆☆☆☆
2016年6月21日ですから,早くも今から1年と少し前のことになりますが,私はその日のブログに次のように書きました。
・・・・・・
天文ファンが一度は見たいという「三大願望」があります。それは,南十字星,皆既日食,そして,オーロラを見ることです。行くことができれば見られる,お金を出せばなんとかなる,ということなら,そうしたいという意志さえあればなんとかなるのですが,そこに「運」が必要なものは,そうしたいという願望があればあるほど,それがかなわないと本当に残念なものです。
この「三大願望」のうち,1番かなえることが簡単なのは南十字星を見ることです。見えるところに出かけて晴れていさえすれば見ることができます。それに比べて,最も見ることが困難なのは皆既日食です。
私は,幸いなことに,これまでに「三大願望」のすべてをかなえたのですが,それでも,ずっと昔のことであったり,なんとなくであったりするので,このごろになって,もう一度しっかり見てみたいと思うようになりました。その目的を果たすためにいろいろ計画を立ててはいるのですが,果たしてかなうことやら…。
人生とは,かくも,したいことが多いのに,実現できる時間は短いのです。
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このとき「いろいろ計画を立てている」と書いたのですが,それを具体的に書くと実現しないような気がしたので,あえて書きませんでした。そしてそのときの計画は,2017年の夏,6月にオーストラリアに行って再び南十字星を見ること,そして,8月にはアメリカ横断皆既日食を見に行くとともに,その後アラスカに飛んで,オーロラも見てくるということでした。この夢のような「三大願望」の実現,うまくいけばすべてがかない,最悪の場合はすべてがかなわないかもしれないものでした。
そして……
私は昨年のハワイ,ニュージーランド,そして,今年のオーストラリア旅行で南十字星を見,雲ひとつない晴れ渡るアイダホ州ワイザーで皆既日食を見,連日悪天候だったのにたった1日の晴れ間にオーロラを見と,それらをすべて実現してしまいました。今でも信じられない気持ちです。この幸運を何といってよいのか……。
そこで,やっと,これまでこのブログで「星好きの三大願望」と題してはいても実際は南半球の星空の話題ばかりだったのが,ついに,すべての話題を書く資格を得たのです。
では,「三大願望」から,今回は皆既日食について書いてみましょう。
「一度は見たい皆既日食,もう一度見たい皆既日食,何度見てもまた見たい皆既日食」という言葉があります。一度この目で見てしまうと,このように何度でも見たくなるのが皆既日食なのです。
先にお断りしておきますが,皆既日食を誤解している人が数多くいます。そういう人たちに皆既日食の話をすると,部分日食や金環日食と混同していて,こないだあったとか家から見たことあるといった反応を示す人が少なくありません。しかし,皆既日食と部分日食は全くの別物です。金環日食はそれなりに面白いものですが,これもまた,皆既日食の感動に比べたら,月とすっぽんの違いがあります。
今回のアメリカ横断皆既日食でも「99%欠ける」という場所と「100%欠ける」という場所が決定的に違うということがわかっていない人たちがアメリカには大勢いました。「日食」は,皆既日食で,しかも,皆既帯といわれる幅にして100キロほどの帯状の場所で100%欠けたものを見ないとまったく意味がないのです。それを見たこともないのに,またそれがどいう現象であるかも知らないのに,「皆既日食なんて」という人を私は心から憐れみます。おそらく,そうしたことを言う人の人生は,ほかの多くのこともこれと同じような反応をし,多くの幸運を逃がしているのでしょう。運というものは誰もの身の回りに漂っているのですが,「運がいい人」というのは,それを招き寄せる人だというのが私の実感です。
私は,子供のころから,いつの日かこの目で皆既日食を見たいものだと思っていました。1年から2年に一度は地球上のどこかで皆既日食が起きるのですが,自分の住んでいるところで見られるかとなると,それはほとんど希なこととなります。私が日食というものを知った子供のころ,この先日食が起きる予報の一覧表を見て,日本で見られる日食は部分日食ばかりだ,とがっかりしたことを覚えています。
皆既日食が地球上のどこかで起きると,たとえそれが行くのにかなり大変なところであっても,そこに出かける日本人がいるのには敬服するとともに呆れます。しかし,私は冒険家ではありませんし,軟弱です。だから,辺鄙なところまで出かける気持ちはまったくありません。そんな私が,楽に行くことができて,しかも,晴れる確率が高いだろうとずっと以前から目をつけていた皆既日食が,1999年8月11日にヨーロッパからインドにかけて見られるものと,2017年8月21日にアメリカ大陸を横断して見られるものというふたつでした。そして,このふたつは絶対に行ってみようと何十年も前から狙っていたのです。
そして,実際,私はこのふたつの皆既日食を見に行きました。そして,ふたつとも,文字通り「晴れて」,念願の皆既日食を見ることができたのです。
◇◇◇
「星好きの三大願望」-満天の星空のもとで南十字星を見る。
「星好きの三大願望」-南天の星空は明るい星のそろい踏み
「星好きの三大願望」-宝石をちりばめたような南天の星空
「星好きの三大願望」-マゼラン雲は偶然通りかった銀河①
「星好きの三大願望」-マゼラン雲は偶然通りかった銀河②
「星好きの三大願望」-南天の極軸をいかに合わせるか?
「星好きの三大願望」-海外で星を見るとは?
「星好きの三大願望」-天頂の天の川に溶け込むさそり座
「星好きの三大願望」-天頂の天の川に溶け込むいて座
「星好きの三大願望」-広大な超新星残骸・ガム星雲
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア④
●独立記念館と国会議事堂●
世界遺産でもあるアメリカの独立記念(Independence Hall)は,アメリカの独立宣言が行われた場所である。もとはペンシルヴァニア州の議事堂として使用されていたが,1776年7月4日,この場所で13の植民地の代表が集まってトーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言書にサインすることでイギリスからの独立宣言が行われた。さらに,1987年にはアメリカの合衆国憲法が制定された。
1979年,独立記念館はそのことの歴史的な重要な証となるという理由から世界遺産に登録された。
独立記念館は赤煉瓦造りの美しい2階建ての建物で,記念館前の銅像は初代大統領のジョージ・ワシントンである。
内部を見学するにはガイドツアーに参加する必要があって,私は当日の朝,この整理券を手に入れ,ツアーの開始前に,まず,リバティセンターで自由の鐘を見学したことは前回書いた。
いよいよツアーの開始時間が近づいたので,集合場所である敷地内のイーストウイング(East Wing)に行って並んだ。周りの人と雑談をしているうちに時間になったので誘導されて館内に入り,最初に大きな部屋でガイドから独立記念館についての説明を聞いた。
次に向かった部屋が,ツアーのハイライトである独立宣言が採択されアメリカ植民地13州の代表が独立宣言に署名した「署名の間」,緑色で統一された室内であった。ここにはデスクの上に紙や本などが置かれ,当時の様子が再現されていた。ガイドがパネル等を用いていろいろと説明した。
ガイドが,13州がそれぞれどのイスに座ったかという話をしているなかで,ここはカリフォルニア州の席,といういうジョークが飛びだしたりする面白い説明であった。無論,独立13州にカルフォルニア州はない。
廊下や階段部分は青色が使われていた。
ツアーを終えて外に出て,次に向かったのが国会議事堂であった。
フィラデルフィアは1790年から1800年のわずか10年間であったがアメリカ合衆国の首都だった。このときに国の議事堂としても使用されたのがこの建物で,議員数が少なかった当時「元老院」が2階を議場として使用し,議員数の多かった代議院が1階を議場として使用したことが現在の「上院」と「下院」という呼び名の語源である。
この国会議事堂(Congress Hall)は,1789年に「フィラデルフィア郡裁判所」として建設された。ここはイングランド植民地時代の典型的な建築物であるジョージア王朝様式の重厚な外観である。
国会議事堂は,初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の2期目と,第2代大統領ジョン・アダムス(John Adams)の就任式が開かれた場所としても知られている。
私は,日本の国会議事堂のなかにはいったこともなければ,県議会議事堂すら見たこともない。
しかし,これまでに,外国からの旅行者であるのに,こうしてここフィラデルフィアの旧議事堂も,そして,ワシントンの現在の国会議事堂も,そして,多くの州の州議会議事堂もなかにはいることができた。こうした議事堂の内部を見学する度に,日本の民主主義が見せかけだけの借り物であると強く感じて,それをとてもはずかしく思うのである。それは,日本の議員の問題ではなく,古来より国民に根付く根本的な考え方自体が「権力=お上」という江戸時代の殿様国家と変わらないものだからである。
2016夏アメリカ旅行記-憧れの古都・フィラデルフィア③
●アメリカ独立の偶像「自由の鐘」●
インディペンデンス国立歴史公園(Independence National Historical Park)には,大統領の家跡,リバティベルセンター(Liberty Bell Center),独立記念館,国会議事堂があって,無料ツアーの整理券はインディペンデンス観光案内所で8時30分から配布されるが,観光シーズンはとても混んでいるということなので,私は8時30分以前に並んで整理券を受け取ることにした。
歴史公園に行ってみると,さほど広くはなかったが,アメリカの他の国立公園同様に手入れの行き届いたとても美しいところであった。さすがに時間が早かったのですぐに整理券を受けとることができた。
次に,私はリバティベルセンターに行った。リバティベルセンターの開館は9時で,まだだれも並んでいなかった。
アメリカの観光地は非常に混雑はしているが,開館前から並ぶというようなせっかちな人は日本とは違い多くない。私は,この旅でやりたいことのほとんどを成し遂げて,最後に残ったのが,この建物のなかにある「自由の鐘」であったから気が急いていた。
やがて,開館時間になって私は館内に入ったが,目的の「自由の鐘」は建物の一番奥にあった。その間には自由の鐘に関するさまざまな展示があったが,私はそれを素通りして,どんどん進んで,ともかく,自由の鐘の前までたどり着いた。
「自由の鐘」(Liberty Bell)はアメリカの独立と並び,アメリカ独立戦争を連想する上で最も突出したシンボルのひとつであるといわれる。また,独立,奴隷制の廃止,合衆国内の国民性と自由において最も親しみのある象徴のひとつでもあり,国際的な自由の偶像としても用いられてきた。
1774年に行われた大陸会議の開催,1775年に勃発したレキシントン・コンコードの戦いの始まりを知らせるために鳴らされてたこの鐘は,1776年7月8日,フィラデルフィアの市民をアメリカ独立宣言の朗読へと招集させるために鳴り響いた。
「自由の鐘」には
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PROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE INHABITANTS THEREOF LEV. XXV X.
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全地上と住む者全てに自由を宣言せよ
レビ記25:10
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その下には
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BY ORDER OF THE ASSEMBLY OF THE PROVINCE OF PENNSYLVANIA FOR THE STATE HOUSE IN PHILADA
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ペンシルベニア州議会の命令によりフィラデルフィア議会議事堂へ
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更にその下には
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PASS AND STOW
PHILADA
MDCCLIII
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パスとストウ(鐘の製作者名)
フィラデルフィア
1753年
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という銘文が刻まれている。刻印の原典は旧約聖書におけるレビ記の25章第10節によるものである。
この「自由の鐘」は,1751年に,ペンシルベニア州議事堂での使用を目的としてロンドンにある鐘メーカーのホワイトチャペル社により製作された。1753年「自由の鐘」は議事堂外側の中庭広場に吊り下げられたのだが,はじめて鳴らされた際にひびが入ってしまった。
この鐘を撤去する間,「自由の鐘」はフィラデルフィアに住んでいたジョン・パスとジョン・ストウによって再び鋳造されたが,完成した新しい鐘の音は満足のゆかないものであった。そこで再び鐘の製造に取り掛かり,3番目となる鐘が1753年に議事堂の尖塔に掛けられた。
アメリカ独立の初期,「自由の鐘」はペンシルベニア議事堂の尖塔に依然として吊り下げられたままであったが,1777年,アメリカ独立戦争が激しさを増し,鐘はペンシルベニア州の村ノーザンプトンタウンへと移された。19世紀,「自由の鐘」は1804年にアレクサンダー・ハミルトンの死を,1824年にフィラデルフィアへのラファイエットの帰還を,1826年にジョン・アダムズとトマス・ジェファーソンの死を,1832年にジョージ・ワシントンの生誕100周年記念を,そして1834年にラファイエットの死を,さらに1835年にジョン・マーシャルの死を,1841年にウィリアム・ハリソンの死を告げるために鳴らされた。
2回目にひびが入ったのがいつであるか確かではないが,鐘は1846年2月に修理された記録が残っている。それは,1846年2月22日のことである。「自由の鐘」はジョージ・ワシントンの誕生日を祝って独立記念館の尖塔で数時間に渡って鳴らされたが,鐘が鳴らされた際に割れ目部分の上部から鐘の冠の部分まで亀裂が広がってしまい,使用不能になってしまったのだった。
現在もその表面に痛々しく残るその亀裂は修復が施された痕跡であって,当時できた割れ目そのものではない。1852年,鐘はそれまで吊り下げられていた尖塔から移動され,独立記念館内の「独立宣言室」に展示されることとなった。1885年から1915年まで「自由の鐘」は数多くの都市を訪れ,国際博覧会でも展示されたが,1930年代になると,鐘をあちこちへ移動させるにはあまりにも危険であるとの結論が下され,この慣行は終わりを告げた。
1976年,アメリカ独立200周年記念期間のことである。増加すると思われる観光客を予期して「自由の鐘」は再び独立記念館からガラスパビリオンに移された。しかし,このパビリオンはあまり人気がなかったので,2003年に開場となるより大きなパビリオン創設の計画が立てられた。そして「自由の鐘」は南西側近隣に新しく建設されたパビリオンであるこのリバティベルセンターへ移動されて現在に至るのである。
生命は宇宙からやってきたのか?-生命の起源が面白い④
地球以外の太陽系の惑星や衛星に生命がいるのか? 太陽以外の恒星をまわる惑星や衛星に生命がいるのか? そういったことが話題になっていますが,そうすると,はじめに,地球の生命の起源が問題になってきます。ところで,そもそも「生命」とは何かということすらなかなか定義できないのだそうですが,ここでは「生物が示す基本的な特質」としましょう。「生物」とは,自己を維持するための代謝,自己を増殖する成長,同型のものを再生産する複製,外界への反応性と適応性などの特質をあわせもつ物質複合体あるいは個体の状態をいうそうです。
宇宙空間にただようガスには一酸化炭素やアンモニアがあるのですが,このガスに宇宙線が当たると容易に有機物が生れます。そうした有機物からはアミノ酸が生成され,アミノ酸は微惑星や隕石,あるいは彗星のチリによって地球に降り注いだと思われます。そこで,アミノ酸がどういうふうにして生命にまで発展したのか,そのメカニズムがわかれば,地球上の生命の起源がわかるということになります。
その謎を解く手がかりとして光合成生物の存在があります。地球上で生命が維持できるために必要な酸素は光合成を行う生物がつくりだしたものだからです。そこで,光合成を行う生物の誕生が生命の起源のカギを握っているというわけです。ここで有力とされているのはシアノバクテリアです。
シアノバクテリア(cyanobacteria)は原核単細胞生物で,今でも普通に池や水たまりなどにみられる微生物です。原始,シアノバクテリアは光合成を行うことで酸素を海水中に放出していたと考えられています。シアノバクテリアは細胞から分泌する粘液で海水中に浮遊する微細なミネラルの粒子を捕らえて炭酸カルシウムと結合させてストロマトライト(stromatolite)というドーム状の石をつくります。このストロマトライトがオーストラリアの海岸で見つかったことから,生命の起源にシアノバクテリアの存在が脚光を浴びるようになりました。
地球上に降り注いだアミノ酸から生命,つまり,シアノバクテリアがどこで発生したのかという説には,海底の「熱水噴出孔」と陸地の水たまり,あるいは,宇宙から飛来したというものがあります。
海底で発生したという説は次のものです。
47億年前,誕生当時の地球は海に覆われていて,海底にあった「熱水噴出孔」からは硫化水素と熱水が噴出していました。高温のなかの硫化水素はエネルギーと水素によってアミノ酸を成長させ,それが海水で冷やされて安定し,生命が誕生したというシナリオです。地球上にいるあらゆる生命の共通の祖先は「LUCA」(全生物の共通祖先=Last Universal Common Ancestor)と名づけられていますが,このLUCAは熱水噴出孔に住んでいたといわれてします。
しかし,その一方で海底ではなく,陸地の潮たまりで発生したという説もあります。
それはアミノ酸が生命に変化するには濃縮とともに乾燥が必要だからです。地球上は40億年前すでに陸地が存在し,地層を調べると,38億年前には生命があふれていたようです。RNAは4つの塩基アデニン,グアニン,シトニン,ウラシルからなっていますが,そのRNAによってアミノ酸からタンパク質が合成されます。つまり生命の誕生にはRNAの塩基が必要であるわけですが,そのRNAを作るためには紫外線が必要,そして,紫外線は海底には届かないから陸地なければ生命は誕生しない,というわけです。
このように,生命が地球上で誕生したという説にはまだ解明されていないことも多いのですが,そもそも,このシアノバクテリアは宇宙から運ばれてきたのではないか,というのが宇宙飛来説です。この説は「パンスペルミア」(panspermiaギリシャ=語で「seeds everywhere」の意)という魅惑的な名ががつけられています。地球が誕生して10億年も経たないうちに生命が誕生したのが不自然だという考えに基づくものですが,地球外生命の発見とこのパンスペルミア説とは表裏一体の関係があるので,地球外生命が見つかれば,この説の支持者が増えることでしょう。
いずれにしても,地球上の生命の誕生のメカニズムが解き明かされるために,地球外に生命がいるのかどうかということが最大の関心事なのです。私は地動説から天動説,そして惑星が太陽系以外にも存在することがわかった,というように,歴史は,我々が特別な存在ではないということを物語っているように,生命は宇宙からやってきたのだと思っていますけれど。
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生命誕生の謎①-171年ぶりの後の十三夜に寄せて
生命誕生の謎②-171年ぶりの後の十三夜に寄せて
地球は6回目の絶滅期に突入か?-生命の起源が面白い①
人類の生存期間はたかだかそれだけ-生命の起源が面白い②
小惑星衝突が人類の繁栄を作った-生命の起源が面白い③
特別編・2017夏アメリカ旅行LIVE⑯-アラスカ州
8月29日,14日目になりました。この日,私はオーロラを見たという興奮からほとんど眠らぬまま朝になりました。日本でも星を見にいくときも同じようなものなので慣れっこではあるのですが,ひとつだけ心配がありました。
私は,次の日の30日深夜1時にフェアバンクスを発って4時間余りのフライトでシアトルに行き,6時間ほどをシアトルの空港で過ごし,当日30日のお昼12時50分発のフライトで日付変更線を越えて31日午後4時前に成田に帰国して,さらに,夜7時ごろのフライトでセントレア・中府国際空港に戻ります。合計すると帰国には26時間もかかるわけです。その間ずっと寝て過ごせるのならいいのですが,空港での待ち時間が多く,そこで寝入ってしまって危うく乗り損ねる心配があったので,睡眠不足は危険なのです。
この旅は,半年前に成田からシアトル,シアトルから成田のフライトだけを先に予約しました。それは,皆既日食を見るためにとにかくアメリカ本土に着かなければどうにもならないから真っ先に手配をしたからです。そして,アラスカへの旅は後からくっつけたので,結果的にこうしたかなりの冒険的な帰国になりました。いつ寝られるのだろう? と思いました。
そんなわけで,この日は睡眠不足のまま朝食だけ食べて,午前中再び寝ようとごろごろしていましたが,ぐっすり寝られるというものではありませんでした。お腹も減ったので,昼過ぎに起き出して,車でこれまで走ったことのないB&Bから西側の住宅街の狭い道路を走っていったら,なんと,フロンティアパークの裏門に着きました。そこに中国人のやっていた店があったので,ラーメンを頼んでそれを昼食にしました。その後も,眠たいのと何もすることがないのと,オーロラをみた満足とで,だらだらと近くのモールでウィンドウショッピングをしたり,B&Bにもどりテレビを見たりして,意識的に無意味に過ごすことになりました。
カップヌードルのようだった昼食が胃にもたれて夕食を取る気もなかったのですが,このあとのことを考えると何か食べなければと思い,いやいや再び外に出て,売れ残っていたお寿司を買ってきて食べました。そして,夜の8時,チェックアウトをして空港に行き,レンタカーを返し,フライトの時間を待ちました。こうして,過酷な帰国がはじまったのですが,長い道中もどうにかつつがなく終了して,8月31日の夜10時には自宅に戻りました。
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この旅は,MLBを見て,皆既日食を見て,大農場でコンバインに乗り,NFLを見て,さらに,オーロラを見ました。そのどれひとつをとっても誰もが簡単に経験できるものではないので,自分のあまりの強運に驚いています。何せ,1週間のうちに皆既日食とオーロラの両方を見ちゃったんです。
昨年の夏はフロリダ州から北上してバージニア州フィラデルフィアまでドライブをして,もうこんな旅はしないだろなあ,と思ったのですが,今年もまたそれ以上の長い旅になりました。帰国して地図を見ると,よくもこんな遠いところにまで行ったものだというのが実感なのですが,今もなお,家から一歩外に出ると,そこにはフェアバンクスの街並みが広がっているような錯覚を覚えます。
旅は非日常であるからこその旅であり,思入れがあるからこその旅です。さあ,次は何をするとしましょうか?
特別編・2017夏アメリカ旅行LIVE⑮-アラスカ州
到着した日の夜,外を見ると少し晴れ間が見えたので,オーロラを見ようとあてもなく走っても,予想以上にフェアバンクスは広く,しかも土地勘がないものだからどこを走っているのかわからなくなって,B&Bに戻れるかどうかさえ不安になり失敗したので,この日は「地球の歩き方」の244ページに書いてあったオーロラ観測ポイントの中からフェアバンクスに近いところに行ってみることにしました。書いてあった中で最もダウンタウンから近い場所が空港に近いパイクスランディングという場所だったので,昨日そこに行ってみると,そこにはリゾートホテルがあったのですが,駐車場には灯りがあって,夜は明るそうで,とてもここではオーロラは見られそうにないなあと思いました。こういうとき,私は日本で星を見に行く経験が生きるのです。日本で星見の場所を探す要領で考えればいいのです。その次に近そうな場所だったのが,フェアバンクス北東の郊外にあるチナホットスプリングリゾートでした。地図では一見近そうだったのですが,それでも100キロ以上先で車だと1時間30分くらいかかるということでした。
すでにこれまで,私はハワイ島やマウイ島でも深夜に星を見るために走っているので,深夜に走ることには問題ないのですが,私が恐れていたのは動物でした。これもまた,昨年モンタナ州でお昼間に巨大なシカが急に飛び出てきて車に激突されたことがあるのですが,深夜となるとそれ以上に大変です。オーストラリアでもカンガルーが飛び出してくるのが心配だったのですが,現実にカンガルーが道のまわりで飛び跳ねていたりしたのです。ともかく,まだ日が暮れる前に現地に着いて,様子を調べてこようと走り出しました。
それがチナホットスプリングリゾートは思った以上に山の中で,なかなか着きません。100キロと書いてあったのですが,まったく知らない道はそれ以上遠くに感じられました。途中,2,3箇所キャンプ場があって,別にそこでも夜になれば真っ暗だろうと思ったのですが,そんなただだだっ広い広場で数時間も車を停めてオーロラが出るのを待つ勇気がありません。しかも,オーロラは出現しないかもしれないのです。私が目指すチナホットスプリングリゾートは,リゾートというからにはおそらく立派なホテルがあって,そのホテルのロビーやレストランで暗くなるまで時間が潰せるのでなはいか,という期待がありました。なにせ,出るかどうかもわからにオーロラが見られるまで,ずっと時間を潰す必要があるわけです。
実際,オーロラを見ようとアラスカに出かける日本人のほとんどはツアー客で,私は,ハワイのように現地に行けばいくらでもオーロラ観測ツアーがあると思っていたのに,そんなものもほとんどありませんでした。フェアバンクスから出発するツアーがあるにはあるのですが,それらは9月にならないと開催されていなかったし,また,たとえツアーがあったとしても,それらは深夜の1時くらいまでが観察時間で,その時間になると現地を出発してフェアバンクスに帰ってきてしまうのでした。アラスカというのは,個人で旅行をするにはあまりに情報が不足しているのでした。「地球の歩き方」のアラスカ編も古く,内容は今では正しくないものがけっこうありました。日本人のやっている現地ツアー会社すらなくなっていました。
車はどんどんと山の中に入っていきます。行き交う車もほとんどありません。そのうちに,私の予想とは違って日本の信州の赤沢自然休養林みたいな感じのものが現れました。これこそがチナホットスプリングリゾートでした。立派というには程遠い体育館のようなところがあって,中に入ってみるとテーブルとイスが並べられていて,だれでもここでオーロラが出現するまで待機できるということでした。まわりは日本人ばかりでした。日本からはアラスカに直行する定期便がないので,個人でアラスカに行くにはシアトル経由ということになるのですが,日本からのツアー旅行ならばチャーター便があって,それだとアラスカは6時間程度で来ることができます。そうしたチャーター便は複数の旅行社からのものが一緒に利用していて,違いはアラスカでの日程とか滞在先でそれが料金に反映されます。この日私が出会ったのはJTBとクラブツールズムのツアーで,聞いてみると,JTBは午前1時30分までここでオーロラ観察をし深夜にフェアバンクスに帰るというもの,クラブツーリズムはチナホットスプリングリゾートに数日宿泊するというものでした。当然,ここに滞在するほうが倍程度値段は高価の設定になっています。オーロラが見られる確率と料金が比例しているわけです。すでに書いたように,幸い,この晩オーロラが出現し見ることができたから,この日のツアー客は運がよかったのですが,私がこのリゾートでの観察を早めに切り上げての帰路にキャンプ場に車を停めてたったひとりで見たオーロラが一番鮮やかでした。それはJTBのツアーが観察を終えてフェアバンクスに帰るころの時間でした。
オーロラというのは,太陽からのプラズマ粒子の発光現象です。地球のまわりにはヴァンアレン帯というものがあります。ヴァンアレン帯は地球の磁場にとらえられた陽子と電子からなる放射線帯です。太陽風や宇宙線からの粒子が地球の磁場に捕らわれて形成されると考えられていて,地磁気の磁力線沿いに南北に運動しており,北極や南極では磁力線の出入り口であるため,粒子が大気中にまで入ってきて,これが大気と相互作用を引き起こすことによってオーロラが発生します。オーロラの発生する場所をオーロラべルトといい,北南極から少し離れた円形の地域です。粒子は地球の夜側にまわりこむためにオーロラは深夜に発生します。オーロラは冬だけでなく1年を通して見ることができるのですが,空が暗くないと見られないから,夜が短い夏は見ることができる時間が短いだけです。8月後半ともなれば夜も長くなってきて,しかも寒くないからオーロラを見るにはとても好都合なのですが,フェアバンクスは夏場は天気がよくないのです。
今回,私が見た日はたまたま晴れたからよかったものの,JTBのツアーのようにオーロラ観察がたったひと晩だけしかないという設定では,この時期はオーロラが見られないことが多いように思われます。また,フェアバンクスで宿泊してもダウンタウンはそれほどの見どころはありません。一方,クラブツーリズムのツアーはチナホットスプリングリゾートに数日宿泊するからオーロラを見ることができる可能性は高くなるのですが,山の中のリゾートはお昼間にすることはあまりないかもしれません。このようにオーロラを見るのも大変なのです。
私は,期待もせずフェアバンクスから車でひとりでやってきて,たまたま偶然オーロラを目撃し,しかも,帰路,たったひとりツアー客のいないキャンプ場でカーテンのようなオーロラに地球の神秘を味わうことができたのですが,こんなことは奇跡でしょう。しかし,深夜の道路は予想通り危険で,恐れていたように巨大なトナカイが目の前をのそのそと横切るのに遭遇しました。私はすぐに停車できる速度で走っていたので問題なかったのですが,ほとんど車が通らないとはいえスピードを出して走るのはかなり危険な行為です。私は慎重に運転して行きよりもかなり時間をかけてB&Bに戻ってきました。
まさかオーロラが見られるとは夢にも思ってもいなかったから様子見に来ただけだったで,せっかく日本から持参した防寒具をこのとき持ってくることも忘れそのためにチナホットスプリングリゾートで防寒具を買う必要になったり,また,せっかく日食を撮るためにもってきた三脚をも忘れてきたのでカメラの固定に手こずったりと,後悔するこことも多々あったのですが,それでも,このために日本から持ってきた魚眼レンズだけは忘れなかったので,オーロラを写すことができて満足しました。
団体ツアーで旅行をする気のない私にはチャーター便に乗れないのでアラスカは遠く,再びオーロラを見にくることができるかどうかわかりませんが,オーロラというのはどのように見られるか,そして,どこへ行けば見られるかということは今回よくわかったので,もし次回があればもっと素敵な写真を写そうと,夢がまたひとつ増えたことでした。とても素晴らしい得難い夜になりました。
特別編・2017夏アメリカ旅行LIVE⑭-アラスカ州
13日目。私にとっての長い旅も残すはあと3日です。今日は珍しく青空が見えます。
私の泊まっているB&B ,今朝の朝食をともにしたのは日本人の上品な初老の夫婦とドイツ人の夫婦でした。日本の方はバンクーバーから列車でアンカレッジに来てそこからフェアバンクスにバスを利用してきたという話です。こうして海外旅行をしていると,ハワイやニュージーランドでもこうして退職後に自由に旅をを楽しんでいる人たちに結構出会います。このような個人で海外旅行をしている人に共通するのは,日本のツアー客とは交わりたいくないということです。海外旅行といっても,ツアーで行く人と個人で行く人は全く違う楽しみ方をしています。
今日は早朝,まず再びビジターセンターに行って,そこの駐車場に車を停めてダウンタウンを散策することにしました。来た日に同じようにダウンタウンを散策しようとして雨に降られて中断をしたので,その続きです。ダウンタウンではまず,ビジターセンターの隣にあるゴールデンハートプラザという広場と,そこにあるイマキュリッツコンセプション教会のステンドグラスを見学して,そのあとで,氷の彫刻博物館に行きました。フェアバンクスでは冬に氷でモニュメントを作るフェスティバル・氷の彫刻世界競技大会があって,そのフェスティバルの終了後に作品がここに展示してあるわけです。お客さんは私のほかにワシントンDCから来たという中国人夫婦のたった3人でした。モニュメントを見てからモニュメントの作り方を見せてくれるというアトラクションがありました。やっていたのは14年ここに住むという中国人でした。
午後は外輪船クルーズでした。これこそフェアバンクス一番のアトラクションであり,このツアーは夏だけ実施しているので冬に来ても乗ることができないのです。せっかくこの季節にここに来てオーロラが見られないのなら,オーロラを見るために冬に来る人たちのできないことをしなければ意味がありません。乗り場に着いた時すごく多くの人たちで溢れていました。それはアメリカ本土やオーストラリアから来た観光客の団体さんでした。駐車場には非常に多くのバスが停まっていました。日本の団体旅行みたいなものです。アメリカにもこういう団体ツアーがあるんです。ただし,日本からのオーロラツアーではこの外輪船クルーズには乗らないみたいです。乗りたいと希望すると予約がいっぱいで乗れません,と添乗員さんに言われます。そして,大したことないですよ,などと言われます。しかし,本当は大したことあります。自由の身の私は予約でいっぱいになるという情報を手に入れたので2日前にネットで予約がしてありました。
このクルーズは再現された外輪船に乗ってチナリバーとタナナリバーをゆっくり航海して,階上に離着陸するブッシュパイロットの演技を見たり,犬ぞりを飼育しているところを通ると犬ぞりレーズの演技を見たりネイティブの集落が模して造られた場所で上陸して,昔の家を見学したりします。この川沿いにある高級別荘にはナンシー・レーガン元大統領夫人のものもありました。こちらの高級住宅はシアトル同様,川(湖)に面しているプライベートビーチがあります。この外輪船クルーズはディズニーランドのアトラクションを規模をずっと大きくしたもののようで,おそらくフェアバンクスではナンバーワンの見ものです。これに乗らなければフェアバンクスに行った意味がないほどです。
クルーズがはじまるころになると,すっかり空が晴れ上がりました。午後2時からのクルーズは3時間で終了したのですが,下船後,オーロラを見にいくにはまだまだ時間が早かったので,まずフロンティアパークに寄って,その後モールで食事をして,午後6時過ぎ,オーロラが見られればいいなあという淡い期待をもって,ダメ元でチナホットスプリングスリゾートへ行くことにしました。これが思わぬ幸運を呼んだのです。
特別編・2017夏アメリカ旅行LIVE⑬-アラスカ州
12日目,8月27日日曜日です。曜日どころか日にちもわからなくなってきましたが,旅というのは結構曜日が大切です。アメリカでは日曜日が休館の博物館などがあるからです。この旅も今日を含めて実質あと3日となりました。帰りはなんと30日の深夜1時フェスバンクス発でシアトルと成田で乗り換えます。セントレア到着が20時5分なので,26時間かかるわけです。アラスカは遠いです。
今回アラスカに寄った本当の理由は,実は後ろめたさからなのです。声高らかにアメリカ合衆国50州制覇といったところで,私は本当はアラスカ州はアンカレッジのトランジットしか経験していなかったのです。今回の旅で,これで晴れて50州制覇と胸を張れます。さらには「星好きの三大願望」のひとつであるオーロラを私は飛行機の機内でしか見たことがないので,ついでにオーロラが見れたらいいなあと思っていました。しかし,来てみると,この季節は天気が悪く,おまけに市街地は明るくて,おそらくどうにもなりません。それにしてもアラスカ州第2の都市フェアバンクスは何にもないところでした。こんなところに,オーロラを見る目的で,それも極寒の冬に1週間も滞在するのは私には想像できません。
昨日は到着したばかりでさっぱりわからなかったこの町も今日走り回って大概のところはすっかり馴染みました。しかし,雪の積もる冬にオーロラを見に来るにはどうやらツアーに参加するしか選択肢がなさそうです。また,寒くないこの季節ならば個人旅行は可能ですが,もし天気がよくてオーロラが見られそうなときは,事前に,深夜に市街地の光のない郊外に行って,安心して車を停められる場所を調べておく必要がありそうです。
今日は素敵な朝食になりました。一緒になった人たち,フロリダからきた夫婦とニューヨークから来た夫婦と話が弾みました。その後,まずアラスカ大学の博物館に行って展示を見てからオーロラのビデオを見ました。幸運にも週末だったので大学の駐車場は無料でした。その後,大型動物研究所でジャコウウシやトナカイを見てからタナナバレーのファーマーズマーケットに行ったのですが,2,3件のお店が出ていただけでした。そして,クリーマーズフィールドという野鳥公園へ行きました。ここも幸運にもちょうどこの時期だけカナダヅルが渡ってきているということで,これもまたツイていました。この3日間だけフェスティバルなんだそうですが静まり返っていました。次にパイオニアパークに行きました。要するにここはテーマパークなんですが,ここもまた人がほとんどおらず,潰れかけのころの奈良のドリームランドみたいでした。
これだけ行ってもまだ時間がたっぷりあったので,郊外のアラスカ横断原油のパイプラインが見られるところがあるというので行ってみました。その次に,アンティークオート博物館へ行きました。ここにあったのは1890年代からの車のコレクションでした。フェアバンクスの見どころというのは大体これくらいのでものです。明日の午後は,一番人気の外輪船クルーズを予約しましたが,それ以外にすることも行くところもありません。フェアバンクスから北に200キロくらい走れば北極圏に行かれるので,行って行けないこともないのですが,行ってどうするの? という感じです。すでに書いたように,フェアバンクスの夏はなんだかオーストラリアの冬みたいなところです。私はここ数年,いろんなところに行きすぎて混乱してきました。この旅ではこれまで食事で贅沢したので,この日の食事はスーパーマーケットでケイタリングです。
特別編・2017夏アメリカ旅行LIVE⑫-アラスカ州
すでに8月31日に私は帰国していますが,このLIVEでは8月26日,11日目です。旅はまだまだ続いています。
私は別に冒険旅行をしているわけではないので,この歳になると楽しく旅をするには長くて6泊8日が限界です。今回はすでにそれすら超えていますが,何をどう間違えたのか,今回はここで帰国するのではなくて,さらにシアトルからアラスカ州へ行くのです。日食を見るための旅を考えたのは4年前のことで,当時こんな長い日程にしたことすらすっかり忘れていました。
目的地はアラスカ州中央部のフェアバンクスですが,シアトルからフェアバンクスまでは4時間ほどで,時差が1時間あります。そこで4泊します。というより最後の1泊は有名無実で,夜チェックアウトして深夜のフライトでシアトルに戻り,乗り継いで26時間かけて帰国します。
シアトルからフェアバンクスまでのフライトはエコノミーで予約したのがコンフォートにアップグレイドされ,さらにファーストクラスにアップグレイドになりました。あてがわれた座席は通路側でしたが,景色が見たいので窓際に変更しました。
朝はリトルサイゴンでファーという米で作られたラーメンのような朝食をご馳走になりました。そして,マウントレーニアの美しいインターステイツ5を走りシータックに到着。フライトのチェックインを済ませ,ここでたいへんお世話になったEさん夫妻とお別れをしてターミナルに入りました。航空機は午前11時20分にシアトルを発って午後2時過ぎにフェアバンクス到着しました。機内から見たアラスカは広大で眼下には荒涼とした原野が広がり,絶望的な気持ちになりました。
小さな空港に降り立ち,さっそくレンタカーを借りてホテルに向かいました。思った以上に何もないところで,町は北海道の田舎のようだし,気候は8月なのに晩秋,アラスカの夏はオーストラリアの冬のようでした。泊まるのはホテルではなくB&B,古い建物ですがきれいで気に入りました。スタッフが若い女性でびっくりしました。
まだこの町がよくわからないのでまずビジターセンターに行って主な見どころを聞きました。ダウンタウンが歩いてまわれるということなので散策していたら雨がひどく降ってきてあわてて車に戻りました。その後,フェアバンクスの老舗といわれるタイレストランで夕食をとってB&Bに戻りました。明日からの観光を思案中ですが,特に何も特筆すべき見どころはなさそうなところです。
夜11時過ぎ,少し星が見えたのでオーロラが見えるかもと外に出たのですが市街地は明るくどうしようもありませんでした。そこで車に乗って暗いところまで行こうとあてもなく走り出したのですが,位置関係がさっぱりわからなくなって戻ることさえ困難で恐怖を覚えました。その頃には空は一面雲ってしまいました。これではオーロラなんて絶望的だなあと,いつものように自分の考えの甘さを後悔しました。なんとかB&Bに戻って,失望感の中で就寝しました。