しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2017

DSC_8324DSC_8325DSC_8333DSC_8330DSC_8337

●マウナケア山の次はハエアカラ山●
 マウイ島で私が次に目指したのはハレアカラの山頂であった。
  昨年はじめてのハワイでハワイ島を選んだのは,マウナケア山頂のすばる望遠鏡のドームが見たいからであった。しかしそのころは現地の様子が皆目わからなかった。
 すばる望遠鏡の公式サイトにはすばる望遠鏡を見学することは可能だが現地までは各自で手配することとあった。調べていくと,すばる望遠鏡のある標高4,225メートルに登るにはあらかじめ車をチャーターしなければならず,その料金が12万円ということだったので,それでもよほどチャーターしようと思ったがあきらめた。その代わりにマウナケア山頂に登って夕日を見るとか朝日を見る,といったツアーがあったので,それに参加することにした。そのとき私に何が起きたかはすでにこのブログに書いたとおりである。結論をいうと,ツアーでは山頂に登ることができなかった。そして,私は独力で山頂を制覇した。
 そのとき思ったのは,マウナケア山は有名ではあるが山頂を極めるには敷居が高すぎるということであった。そこで帰国後に調べたところ,ハワイ島のとなりのマウイ島には標高が3,055メートルのハレアカラ山があって,そこはマウナケア山とは違って山頂まで道路が舗装されていてレンタカーでも無理なく登ることができるということであった。そこで次回はマウイ島のハレアカラ山に登って星を見ようと思ったのだった。

 その時点では確かにそう思った。そして,私はさっそくマウイ島に行く手配をしたのだった。
 しかし,マウイ島に来る前にニュージーランドに行く機会があって,そこで南半球の星空を見てしまったものだから,マウイ島で星を見たいという気持ちが完全に失せてしまったのだった。
 それはそれとして,今回の旅で,ハレアカラ山頂には天文台もあることゆえ,山頂で星を見たいという情熱こそ失くしてしまったが,それでも一度は登ってみたいと思っていたから,念願のホエールウォッチングのあとは,ハㇾアカラ山に登ることにしたのだった。

 ひょうたんのような形をしたマウイ島の東側のほうのふくらみの中央から南東に寄ったところにハレアカラ山がある。山の周囲は国立公園になっている。
 ハレアカラ国立公園(Haleakalā National Park)の面積は118平方キロメートルもある。公園ははじめはハワイ島のマウナ・ロア火山,キラウエア火山とともに1916年ハワイ国立公園の一部となったが,1961年に別の国立公園となった。
 ハレアカラという名はハワイ語で「太陽の家」(house of the sun)を意味する。
 公園の目玉は休火山であるハレアカラ(東マウイ)火山で,この山が最後に噴火したのは1790年ごろのことである。山頂地域にはハレアカラ・クレーター(Haleakalā Crater)がある。これは巨大なクレーターで直径11.25キロメートル,幅3.2キロメートル,深さが約800メートルある。クレーターの内側には大きな噴石丘など火山によってできた多くの地形が点在する。
 

 かつては早朝になると頂上に壮大な日の出を見に多くの観光客が訪れたのだが,現在は予約制になっている。しかし,日没はだれでも登って雲海に沈む美しい夕日を見ることができる。

 この公園は独特の火山生成物,数多くの見晴らしの良い場所がある長く景色の良い車道,そして,非常に澄んだ夜空が眺められることでも知られている。また,ネネという名のハワイガンもハレアカラ・クレーター内の自然の生息地で観察できる。ハワイガンは一度はハレアカラでは完全に死に絶えたが,1946年にボーイスカウトの助けによりバックパックでクレーターの中まで若鳥を運び,ふたたびこの地に放たれたのである。

DSC_7966DSC_8280DSC_8297DSC_8314DSC_8321

●クジラの親子連れを見た。●
 確かに遠くにクジラが泳いでいるの肉眼でもはっきるわかるようになってきた。クジラは1頭ではなく,子供連れだというアナウンスがあったが,そんな区別はつかなかった。
 はじめてホエールウォッチングをした私には比較できるような物差しがなく,パンフレットの写真あるように,目の前を潮を吹いて大きくダイビングしているような姿を見ることができるのはおそらくほとんど稀なものだと思ってはいたが,それでもこんな程度では,と正直落胆した。
 
 これを書きながら,私は,星空観察ツアーやオーロラツアーでの,参加者の感想を思い出した。そして,そういうツアーで落胆する人のことを笑ってはいけないと反省した。とにかく,こうした自然現象は,それがどう見られるかは運次第である。しかし,パンフレットなどの写真はもっとも素晴らしいものが記載されているから,それが見られるということを期待することに無理があるというものだ。そうはいっても私はホエールウォッチングがはじめてでしかも予備知識もなかったから「どの程度」が普通なのか,それがわからなかったのだ。
 私の楽しみである星見なども,まさに同じである。肉眼で天を翔るようなホウキ星なんて,そうあるものでない。私もそんなすごいのを見たのは50年で4~5個しかない。しかし,知らない人はそれを期待するわけだ。

 クジラたちは,船のまわりを泳いでいるようであった。というよりも,クジラがいる方向に船が進んでいるようであった。他にもさまざまなホエールウォッチングの観光船が運航していたが,みな,このあたりをうろうろとしていた。
 そのうちに,クジラが我々の船に近づいてきて,肉眼でもはっきり親子連れの姿が見られるようになった。彼らは時には潮を吹いたり,ダイビングをしたりと,結構楽しめるようになってきた。しかし,突然現れるので写真を写すのに苦労する。
 私ははじめに落胆したおかげ? で評価基準が低くなっていたのかもしれないが,これだけ見られれは,参加した価値はあろうと思った。ボッタクリではなかった。
 私はこのようにして,これもまた,これまでにやりたくてもやる機会のなかったホエールウォッチングにも成功したのだった。

 港に戻る船の甲板では,参加者の子供たちを集めて,クジラの生態についての授業が行われていた。それは,アメリカの博物館などに夏に行くとどこでも行わている課外授業と同じようなものであった。
 日本でも小学生が課外授業で科学館などを見学することをしているが,それは,なんらかのプリントをもらって自分たちで見たものをまとめるといった,これもまた,日本お得意のプリント学習の域を出ず,引率の教師などは,休憩所で所在なさげにしていたりする。しかしアメリカでは,きちんとレクチャーをする係員がいて,とてもくわしく説明をしているのだ。
 こうした子供たちの教育に限らず,アトラクションに参加しても,アメリカでは,まず説明員がいて,詳しい説明をしてくれる。日本でお寺を拝観しても,ときにそうした説明をしてくれるところもあるにはあるが,おおよそは高い拝観料をとったきりでろくな説明すらないのとは大違いである。

 こうして,思ったよりも長い,そして充実したホエールウォッチングを楽しむことができて,地上に戻ってきた。まだマウイ島に着いてはじめての観光であるというのに,私は予想以上の満足を得ることできて,昼を食べることも忘れて,次の目標に向かうことにしたのだった。

望遠鏡 反射望遠鏡の作り方

 以前このブログで「月刊天文ガイド」と「天文年鑑」について書きました。それらに加えて,私が面白いと思うのは,昭和40年代に出版された天文書です。こうし古い天文書の多くは,現在,ヤフーオークションに出品されていたりするのですが,その多くのものは内容が古く,懐かしいというだけでそれ以外には価値がなくなってしまいました。私も実家で探していたら,今はもう,手に取ることもなくなっていたそのころに出版された多くの本が出てきました。
 しかし,それらの書籍のなかには,今でも入手困難な,そして価値のある人気本がいくつかあります。

 その1冊に,「望遠鏡」(広瀬秀雄著・中央公論社自然選書)があります。
 著者の広瀬秀雄教授は1909年生まれです。 教授は日本の星食観測データを整約すると系統的な狂いが出ることから、日本での観測位置を移動させる必要があることを指摘し,この指摘は,1948年5月に礼文島で見られた金環日食の際に,実際に観測隊を移動させて,事実であることが証明されたことで知られています。
 広瀬教授は私が小学生だった頃の東京大学の先生ですが,1947年に出版された「シュミットカメラ」という著書が有名です。私は,この本を,偶然,神田の古本屋さんで見つけたことがあります。本というよりも,触ると破けしまいそうなざら紙の束でしたが,それでも数万円しました。これは戦後まもなく出版された幻の本です。
 そこで,広瀬教授とシュミットカメラとのかかわりについて調べてみたら,日本天文学会の出版する「天文月報」のバックナンバーに,教授が書かれたさまざまな記事が見つかりました。私が思うに,教授の研究は,視野の広い天体カメラが欲しいというその一念だったのでしょう。そのために,シュミットカメラという新しい技術を習得する書物を読み研究したのです。だから,その後,木曽の観測所に巨大な105センチのシュミットカメラが設置されたときは,本当にうれしかったのではないかと思います。
 この「望遠鏡」という本には,これらのことが随筆風に,しかし,情熱的に書かれています。

 もう1冊の価値ある本は「反射望遠鏡の作り方」(木邊成麿著)です。
 木邊成麿(きべ しげまろ)さんは1912年生まれの真宗木辺派錦織寺(野洲市木部)の門主です。木邊さんは門主でありながら,日本有数の反射凹面鏡研磨家で,木邊さんの磨くレンズは「木邊鏡」と呼ばれて非常に有名でした。 「反射望遠鏡の作り方」は,その独特な製本と赤い表紙の品のある本で,この本を何度も読んで,立派な鏡を作成した人の中には,池谷・関彗星の発見で有名な池谷薫さんがいます。
 実際は,この本は,「反射望遠鏡の作り方」ではなくて,その内容のほとんどは「反射鏡の作り方」なのですが,当時は,ガラスを磨いて反射鏡を作り,自分で作った望遠鏡で星を見る,ということに,多くの天文少年が憧れたものでした。

 このように,昭和40年代は,貧しくとも,本当に夢のある時代でした。人々の生活が豊かになっていくにつれて,夜空も明るくなって,星が消えていきました。同時に,こうした少年たちの夢も消えていったのでした。
 それにしても,あの頃に出版された本というのは,内容は古くなっても,品格があって,しかも,大切に書かれていました。私は,今よりももっと多くの本を買ったり読んだりした思い出があるのですが,それらの多くのものはすでに手元になくて,本当に残念に思っています。
 天文学自体に触れた本は,内容が古くなって,今では,全く役に立ちません。そして,近年は,あまりに天文学の発展が早すぎて,本として出版される間もないので,よい本が少ないこともまた残念です。 今にしてみると,あの頃は,本当にいい時代だったなあ,と思います。
  ・・・・・・
 明け方,まだ寒い時期に,こう,天の川が昇ってくるでしょう。
 望遠鏡をのぞけばまさに別世界だよね
  池谷薫
  ・・・・・・

☆ミミミ
そんなわけで,なかなかよい本のない現在は,一般の人が最新の天文学に触れるのなら,ブルーバックスの「新・天文学辞典」を片手に,国立天文台のサイトにある「国立天文台ニュース」を読んだり,放送大学の天文学に関する講座を見たり,BSプレミアムの「コズミックフロント☆NEXT」を見るのが一番手頃だと私は思います。

◇◇◇
「月刊天文ガイド」創刊50年-少年の夢を再び

DSC_7883DSC_7884DSC_7888DSC_7891DSC_7914

●はたしてクジラはいるのか?●
 マウイ・オーシャンセンターに戻ってきた。早朝とは違って,駐車場の車は増えてきたが,それでもまだ空いていた。
 外で待っているようにという話であったが,ツアーの参加者はまだほとんどいなかった。そのうちに,次第に少しずつ人増えてきて,おそらく,彼らがツアーの参加者なのであろうと思われた。なにせ,日本とは違い,看板があるわけでないから,皆目見当がつかない。いかにもアメリカペースである。

 定刻になると若者が現れた。彼は大声でついて来るようにと言った。そして,もしはぐれても海岸に沿って歩いてくれば大丈夫だと付け加えた。みんな彼についてだらだらと歩き始めた。少し歩くと海岸に出た。そして,海岸に沿って歩いていくと,我々の乗る船が停泊していた。
 この船に我々が順に乗るのだが,その前に並んでいる我々に双眼鏡の貸し出しサービスの売り込みがあった。スタッフが10台くらいの双眼鏡を肩にかけていて,希望者がいるとクレジットカードを受け取りiPad専用の読み取り機でそのカードを読み取って貸し出すわけだ。
 アメリカはカード社会である。カードを持たずにアメリカを旅することなど考えられない。考えてみれば,アメリカでは書類というものを書いたことがない。印刷されたプリントにサインだけを書く。いつもこんな感じである。
 それにしても不思議なのは,決して安くない貸し出し料金なのに,おもしろいほど多くの人が双眼鏡なるものを借りていくのだ。こういうときアメリカ人は気前がいい,というか,無駄使いが大好きである。

 船に乗り込む前になると,写真を写す。これは,事故でもあったときの乗船者の証拠となるものでもあろうが,それとともに,下船時に記念写真としてそれを売るわけだ。これもまたいつものことであるが結構高額だ。
 フィルム時代にも同じことが行われていたが,デジタル時代になると,フィルム時代よりもずっとこんなものはほとんど実費がかからないから,暴利である。しかし,これまたおもしろいほど売れるのである。
 私には理解不能である。

 やっと船に乗り込んだ。
 座席は自由であった。一番前の席がひとつ空いていたので隣の人に座っていいかと聞いてそこに座った。しかし,まわりににいた集団はグループのようですでにかなり盛り上がっていて,はじめは私だけが浮いていた。しかし,すぐにわかったことだが,彼らはグループではなく,単に,私の隣にいた私と同年代の女性がかなり,というか異常に活発で社交的な人で,彼女がどんどんまわりを盛り上げていたのに過ぎなかった。私もすぐにその波に飲み込まれてしまった。
 私には,ひとつ重大なミスがあった。それは,この船の上は直射日光がとてもきついことであった。こんな場所で日焼け止めクリームを持っていないというのは悲劇的であった。思えは,同じことをMLBのデーゲームで後悔したことがある。日中の屋外では帽子と日焼け止めクリームは必需品なのだが,私にはそれを持つ習慣がない。
 幸運なことに,私の隣に座っていたあの女性が私に日焼け止めクリームを貸してくれたので,助かった。
 
 船はどんどん沖合いに出ていく。
 クジラが見られるかどうかもまた,オーロラが見られるかどうかと同じく運のみであろう。肉眼ではまったく確認できないのだが船の下には確かにクジラがいるらしく,スタッフが海に収音マイクを沈めて,クジラの鳴き声を聞かせてくれた。
 しかし,その後も一向にクジラを肉眼で見ることはできなかった。私は,このツアーはこんなものなのだろうか,と落胆した。これではぼったくりである。マイクで鳴き声だけを聞いたところでなんの感動もなかった。そんな不安がよぎりはじめたとき遠くにクジラが泳いでいるというアナウンスがかかった。目を凝らして遠くを見ると,確かに,何かが海の上を動いていて,その方向をみんなが指さしていた。

DSC_0889s (5)DSC_0889s (5)nきりん座

 毎年10月は天気がよく,星を見るには最高の季節です。今年もこの時期が来るのが楽しみでした。ところが,どういうわけか晴れません。おまけに台風まで来ました。新月も過ぎ,これからは月明かりで10月の星を見るチャンスも少なくなってきました。
 10月26日の早朝は,どう考えても晴れ,晴れ,晴れの気圧配置。久しぶりの星空が見られそうだったので期待しました。目指すは「アサシン(エイサスエスエヌ)彗星」(C/2017O1 ASASSN1 )ただひとつでした。

 前回この彗星を見てからおよそ1か月が経ちました。9月には天頂付近,プレアデス星団の近くにあって非常に見つけやすかったのですが,1か月できりん座にたどり着きました。
 明るさは当初の7等という期待より暗いものの,予報では1か月まえと変わらない8等かそれより少し明るいということだったので,晴れてさえいれば簡単に写せるものだと思っていました。

 「きりん座」(Camelopardalis)という星座をご存知でしょうか? きりん座は北極星に近いところにあります。
 北極星に近いといえば,カシオペア座と北斗七星のあるおおくま座が有名です。春の夜空に天頂にあるのがおおくま座ならば秋の夜空に天頂にあるのがカシオペア座です。そして,そのふたつの星座にはさまれるようにあるのが,夏の夜空のりゅう座であり,冬の夜空のきりん座なのです。
 ただし,きりん座など名ばかりで明るい星もなく,星図ではきりんらしい線が結ばれていますが,結ばれている星自体4等星という暗いものなのです。

 私は満天の星空の見られる場所に着いて茫然としました。きりん座がわからないのです。明るい星々のあるわかりやすいペルセウス座から追っかけていって,きりん座の胴体部分をつくる三角形の星のならびではないか,という場所をなんとか見つけました。しかし,ファインダーで覗いても視野が狭く,また,どの星も同じような明るさで,探している星がどれなのかさっぱり見当がつかないのです。
 これは迂闊でした。これでは彗星を探すどころではありません。そうこうするうちに時間が過ぎていきます。そのうちにだんだんと星の並びがわかってきて,おそらくここだと判断して写したのが今日の彗星の写真です。ちゃんと写っていました!
 この日の明け方はかなり湿度が高く,次第に霧ってきたので撮影を終了しました。でも,写せてよかったです。

 おそらく今はこんな馬鹿げたことをして星を探している人も数少ないでしょう。多くの人はコンピュータで自動に導入するからです。しかしこうして星を見つけるのは,それはそれで楽しいものですよ。なんてやせ我慢をしたりして…。

◇◇◇
夜空にもときめきが一杯-「運」は行動してつかむもの

DSC_7875DSC_7877DSC_7878DSC_7879DSC_7881

●どこから通行禁止なのかわからない。●
 この西マウイ島の西側の海岸道路は,おそらくはマウイ島で最も景色の美しい道路であろう。
 この数日後に再び私はこの道路を走ることになるのだが,このときはそんなことは知らない。ともかく,私の予約したホエールウォッチングツアーの出航までは1時間以上あったから,とりあえず30分ほどこの海岸道路を走ることにしただけであった。
 夕日の美しい時間は大渋滞になるということだが,この時間,道路は空いていた。ツアーを予約したマウイ・オーシャンセンターのあるマアラエア港(Maalaea Harbor)からラハイナ(Lahaina)というマウイ島で最も栄えた港町までは特に町もなく,右手には山が迫り,左手には美しい海岸線がずっと続いていた。その海岸線の向こうに見えるのは,東マウイである。

 私はこの旅をもって,ハワイはホノルルのあるオアフ島,そして,前回行ったハワイ島,そして,このマウイ島に行くことができた。
 多くの日本人にとってのハワイというのはオアフ島のことであり,オアフ島から数日間のオプショナルツアーのような形でハワイ島やマウイ島にやってくる。私のように,マウイ島のみに滞在するという日本人は少ない。また,キラウエア火山といった有数の観光地があるハワイ島にくらべると,マウイ島を訪れる日本人はずっと少なくなる。私はこの島に滞在中,ハレアカラ山の星見ツアー以外,ほとんど日本人を見かけることがなかった。
 また,このマウイ島は,アメリカ人の大金持ちが別荘を持っているか,あるいはリゾートで訪れる場所なので,ハワイ島にくらべると,ものすごく豪華で広いリゾートタウンが点在しているが,そうした場所を離れると,今度は急に未開の地やらのどかな村落があったりするので,それらが同じ島だとイメージできず,私の記憶が今なお混乱をきたしているのである。

 今走っている西マウイの海岸沿いは,ラハイナから先は,カアナパリ(Kaanapali),ホノコワイ(Honokowai),カパルア(Kapalua)と,ずっと,リゾートであった。このように,風光明媚なところは,みな,金持ちのリゾートが占領してしまっているのである。
 この数日後,私は,ラハイナで車を停めて歴史あるこの町を散策することになるが,この日は,ただ海岸にそった道路を走っただけであった。それでも,道路から眺めた海は,さすがハワイと納得できるものであった。

 マウイ島は小さな島だから,この日のように,車を停めて歩き回るのでなければ,30分も走ると西マウイのカパルアまで行くことができた。
 マウイ島は島の外周を一周する道路があるにはあるが,断崖絶壁のところや道幅の狭いところがすくなくなく,そうした場所はレンタカーは通行が禁止されている。カパルアから先もまた,そうであった。
 通行が禁止されている,と言っても,走っていることが知れると捕まるわけではないし,罰金を取られるわけでもない。しかし,何かあったときに保険が適用されない,という,いわば自己責任である,らしい…。「らしい…」と書いたのは,よくわかないからである。というのも,聞く人によって,違うことを言うからである。
 私はそのような冒険はもはやしないが,それよりも困ったのは,レンタカー会社でもらった地図に「●●(地名)から先は通行禁止」と書かれていても,その禁止になる●●という場所がどこなのかがさっぱりわからないことであった。それは,アメリカ本土と違って,町の入口にその町の名を示す道路標示がなく,しかも,町らしき町すらないいということなのであった。走っていると道路が狭くなって,すれ違うことも困難な1車線道路になったところがそうだと,自己判断するしかないのだった。

 我々の年代は,今の若者とは違って,アメリカへの憧れが強い世代でした。憧れ,というよりも,劣等感,というべきでしょうか? そして,若いころは,留学をするとかいうなんらかの方法で,一度はアメリカに行こうと試みたものですが,これもまた,今とは違って,留学など,フルブライトの留学生になれるような優秀な学生以外には夢のまた夢でした。
 そんな能力のない私は,何度か,単なる観光旅行でアメリカに行くようになったのですが,そうするとさらに憧れが増して,それとともに,もっと知りたい,また,別のところに行きたいと,行くたびに夢が膨らんできました。
そうして,結果的に,すべての州を制覇しようということになり,目的がかないそうになったときには,それが自分に対する義務のようになってきて,今思うに,熱病に侵されたように各地を旅行をしました。
 次第にアメリカに友人ができて,家を訪ねたりもできるようになりました。
 こうして,私は,自分でも不思議なことに,若いころに憧れたようなアメリカ生活を実現してしまいました。アメリカでキャンプもしたし,ホームステイのようなこともできました。その結果,アメリカは非日常ではなく日常になりました。

 アメリカで生活するというのは思った以上に大変です。いや,アメリカに限らず,そこで生活するというのはどこであっても実に大変です。ただ,自分の生まれた国ではなんとなくさまざまな流儀に慣れているような錯覚をしているだけで,実際は,日々,トラブルに巻き込まれないように警戒し,それでも,いろんなことが起きて,でも,そこで生活するしかないから,ストレスを抱えていても,ここが一番いい,住めば都だ,と言い聞かせているだけです。
 だから,生まれ国でなく,別の国に渡って生活するというのは想像を絶する大変さがあると思われます。私にはとてもできません。そしてまた,私がこれまでに知った,日本で生まれ,現在アメリカで暮らしている人たちははそうしたさまざまな大変なことを乗り越えた偉大な人たちなのです。
 アメリカで生活する日本の人には,日本の企業に勤めていて現在アメリカの支社にいるといった駐在と呼ばれる人,アメリカ人と結婚して住んでいる人,そして,芸術家や実業家としてアメリカで生きている人,そういった別の事情にわかれるようです。聞いただけの話ですが,そのなかで,駐在として滞在している人たちは,そうした人たちのピラミッドのような階級社会があるという話で,それは,企業の親会社と子会社のようなものだといいます。ピラミッドの上位にある人たちも下位にある人たちも,企業という傘に守られたなかで,アメリカという地で生活しているわけです。私が思うに,マスコミの特派員というのもこの仲間の入るわけで,そうした傘のなかアメリカを見,取材をしているわけで,それでは真実のアメリカを報道するには限界があるのではないか,と感じます。
私がアメリカに行って,現地に住む人たちの話をきいて感じるアメリカと,日本で報道されるアメリカに違和感を感じるのは,そういう理由ではないか,と思います。実際のアメリカ人,特に,マイノリティと呼ばれる人や,現地で実業家として生きている人から聞く話こそ,アメリカで生活するという\\苦労がわかるというものです。
 
 そこで今日のまとめです。
 結論は当たり前のことになりますが,やはり,それが非日常であるからこそ憧れがあるわけです。住んでしまえばそれが日常になり,日常なら,どこに住んでも,同じような苦労が芽生えます。
 そういう意味では,自分の生まれた国に住んで,好きな時に好きな場所に旅行ができることこそ,一番しあわせなことなのかなあ,と,憧れを実現した今,私はそう思うようになりました。

DSC_3831

DSC_7859DSC_7863DSC_7861DSC_7865

●マウイ・オーシャンセンターで予約する。●
☆2日目 3月23日(木)
 さあ,いよいよマウイ島の観光がはじまる。
 早朝,ホテルの窓から外を見ると,美しいカフルイ湾が眺められた。私ははじめて行ったハワイがハワイ島で滞在したのがカイルアコナだったからどうしてもそれと比べてしまうのだが,カイルアコナは西海岸なので夕日が美しく,また,海辺も海水浴場だったので,あたりをのんびりと散策するのに最高であった。しかし,マウイ島のカフルイはそれとは違っていて,単に海が見られるというだけであったので少し物足りず」がっかりした。
 昨年行ったハワイ島ではホエールウォッチングをしようとしたのだが,すでにハワイ沖にはクジラがおらずかなわなかったので,今回は機会があればぜひと思っていた。調べてみると,カフルイを南に走ったとこころにある対岸のマアラエア湾に面したところにあるマウイ・オーシャンセンターというところからホエールウォッチングツアーが出ているということだったので行ってみることにした。

 この旅でこれから何度も走ることになるクヘラニハイウェイを南に走ると,思っていたよりも早くマウイ・オーシャンセンターに着いてしまった。マウイ島は私が思っていたよりもずいぶん狭いものであるらしい。
 ここには広い駐車場があったが,まだほとんど車は停まっていなかった。たくさんあった空きスペースに車を停めてオーシャンセンターに行くと売店があって,カウンタでホエールウォッチングの予約ができるようになっていたから,一番出航時間の早いものを予約した。それでも1時間以上先のツアーだったが予約ができて,時間になったらこの建物の前に来い,と言われた。

 私はこの時点ではマウイ島に来たばかりでほとんどなにもわかっていなくてこの島がどういうところか興味深々であったから,集合時間までの間,近くをドライブをしてくることにした。その前に朝食をとらねばならない。もっと気の利いたところに行ってもいいのだが,ハワイでは朝食に贅沢をしているといくらお金があっても足りなくなるので,オーシャンセンターの駐車場の手前にあったガソリンスタンドあったサークルKにハンバーガーショップが併設されていたから,そこで朝食をとった。

 朝食後,車を駐車場から出して,マアラエア湾にそって西マウイ島といわれるマウイ島の西側の南の海岸線に沿って30分程度走っていくことにした。そこは,ちょうど北海道松前の海岸線を函館に向かって走っていくような感じのドライブコースで,この時点ではそれほど車も多くなかったので,快適はドライブが楽しめたが,おそらく,この海岸線は島の西側だから,夕日を見る時間は渋滞であろうと思われた。なにせ,この島は海岸線以外はどこも山なのでここを走る以外には道路がないのである。

 「玉石混淆」といいます。
 インターネットがなかった時代は情報を発信するにもなんらかの手段を使う必要があるので,たとえば本を出版するにもCDを発売するにも,自費出版や自主制作をする以外にはなんらかの評価が必要でした。マスコミも情報を簡単に発信することは困難でした。それが現在では,だれだって簡単に情報を世界に発信することが可能になりました。
 そこで「玉石大混淆」となっているのが,まさに,ニュースの世界です。
 ここでは,有名・無名,さらには,どこまでが真実でどこからがうそなのかさっぱりわからない情報ものがあふれています。それに輪をかけているのが,そうしたサイトをまとめたポータルサイトの存在です。こうなると,何が真実でなにが虚構なのかさっぱりわかりません。そんなものは実際は存在しないのに,あたかもそれが存在するかのようにでっち上げることすら可能になってしまいます。読み手が見たい情報を選べるので,どうしても興味本位のもののアクセスが増えます。こうした状況では,既存の大手の新聞社のサイトすら,それを見てもらうために,興味本位の広告を載せたり,会社の正式サイトとは別サイトをこしらえたりしてアクセスを増やさないと生き残れない状態です。

 こんな時代では,地上波の民放放送も雑誌も,そして,多くの情報サイトも,すべて,モノを売りたいためのコマーシャルに過ぎないのでないか,私はそう思うようになってきました。そして,貴重な時間を,そんなものに費やすことがつくづく無意味に思えてきました。結局,誰にも分らない「未来」に対して不安をあおり,そうして,安心を手に入れるという大義名分で出費をさせるために,「情報」もどきを発信して不安をあおっているだけに過ぎないのです。
 よくよく考えるに,身の回りにある情報の多くは,というよりも,ほとんどは,自分には何の関係もないのです。というよりも,それを知ったところで,自分には何もできないことがほとんどです。ならば,そんなことには一切関知せず,その時間を,好きな音楽を聴いたり,本を読んだり,旅に出たりして好きに費やすほうが,どんなに心休まり,また,幸せだろうか,と考えてしまいます。

 玉石大混合」の時代,それでも,初期のころは,「石」を取り除いて「玉」を探すことも可能でしたが,あまりに「石」ばかりになってしまった今となっては,「玉」だったものも「石」もどきにしないとだれも関心を示さなくなってきつつあります。あるいは,「石」でないと経営が成りたたないのかもしれません。
 これがネット社会の現実なのでしょうか?

画像 022

DSC_8378DSC_8375DSC_7856DSC_7857

●なんとかホテルにチェックインをした。●
 いつも苦労するから,空港からホテルまでの道のりは事前に調べてあったはずなのに,空港が思ったよりも広く空港から出たら方角がわからなくなり,しかも辺りは暗く,どこがどこだかわからなくなってしまった。これではまた,いつもと同じである。さて,どうすればよいのであろうか。
 ここマウイ島はそうでなかったが,通常,空港を出るとすぐに高速道路に入ってしまうことが多いので,それはそれで借りたばかりの車だから運転に戸惑うこともあるけれど,高速道路では道路標識がしっかりしているのでなんとかなる。しかし,マウイ島では一般道が続いていて道路標識もなく困ってしまった。私は頭が真っ白になってしまったのだった。

 この旅から帰国した今はとてもよくわかるのだが,空港から出て単に西に向かって広い道路を走っていけばものの10分もしないでホテルに到着するのだった。
 実は,わけがわからないまま,奇跡的に,私は正しい方向に向かって正しい道路を走っていて,すぐにカフルイのダウンタウンに到着した。ホテルがあるのは道路の右側(北側)で,右側通行で走っていたのだから,右側にホテルが見つかればそれだけのことであったのに私はホテルを見逃して通り過ぎてしまったようだった。ホテルの大きな看板がないのである。そしてまた,暗くてホテルがわからなかったのである。
 ホテルを通り過ぎてしまった私は,さして広くもないカフルイの町を抜けてしまった。これは引き返すしかないとそこにあった交差点を右折したら運動公園があって,運動公園ではナイターをやっていた。「ハワイでもベースボールやっているんだ」と妙に感動したが,さらに不安になってきたころに道路はカフルイ湾にぶつかったので右折した。要するに今度は東向きに進路を変えたことになる。道路は海岸沿いに続いていて,大きく右にカーブをしてはじめに走ってきた道路と交差した。ちょうどそこにガソリンスタンドがあったので車を停めて店内に入ってホテルを聞くことにした。
 すると,なんと偶然にも,私の目指すホテルはちょうどガソリンスタンドから道路を隔てた反対側なのであった。
 このようにして,私は,今回も無事にホテルに到着したのだった。

 日本からハワイへ行くには航空運賃は高くなく,というか曜日によってずいぶんと違うのだが,安い曜日の設定では往復で8万円ほどで行くことが可能である。しかし,ハワイはホテルが高いのでホテル探しの方が大変なのである。
 私が昨年行ったハワイ島で探し出したカイルアコナのコナ・シーサイドホテルは1泊が15,000円程度であったが,なかなかよかった。ほとんどの日本人はツアー旅行でリゾートホテルに宿泊するので,私が泊まるようなホテルで日本人をみかけることはほとんどない,というか,まずいない。
 今回予約したのはマウイ・シーサイドホテルであった。古いホテルであったが,ここもまた,私が予想したよりもずっとよかった。もし,私がふたたびハワイ島やマウイ島に行く機会があれば,このふたつのシーサイドホテルは選択肢の候補に入るであろう。名前が同じことからわかるように,このふたつのホテルは姉妹店であった。

 マウイ・シーサイドホテルは,コナ・シーサイドホテルとは違って駐車場がものすごく広かった。それでもほとんど満車で,ホテルのアプローチロードにゴルフ場で使うような車が停まっていて,係員が駐車場まで誘導してくれた。誘導に従って空いたスペースに車を停めて,そこから歩いてフロントに行って,チェックインをした。

DSC_7811DSC_7815DSC_7835DSC_7844DSC_7850DSC_7852DSC_7854

●空港に戻るのがまた大変●
 パールハーバーの見学を終えて,シャトルバスでビジターセンターに戻ってきた。戦艦ミズーリで同じ日本語ツアーになった若者は,ここから自転車でホノルルに戻るというので別れた。
 私は預けていた荷物を取って,空港に戻るバスに乗ることにしたのだが,これが予想以上に大変であった。ずいぶんと時間に余裕があったから動揺しなかったが,一体どこのバス停でどのバスを待てばよいのかさっぱりわからなかったからである。
 思えば,昨年,ダイヤモンドヘッドに行った帰りも同じであった。このときは,回送バスの運転手がホノルルのダウンタウンに行くバスのバス停まで乗れというので乗せてもらった。そして,ダウンタウンで一度降りて,空港まで行くバスに乗り換えたが,ホノルルではダウンタウンは多くのバスが走っているが,空港にバスで行くという需要がほとんどないようで,バスの本数が少なく大変であった。

 ビジターセンターの前に空港行きと表示されたバスが停まっていたので急いで走っていって乗り込もうとしたら,運転手が空港には行かないというではないか。しかし,そのバスの行き先は空港と書いてあるし,わけがわからない。そう運転手に話しても違うという。そして,空港へ行くバスが来るのははもう少し先のバス停だという。要するに,このバス路線は巡回していて,延々と乗っていれば空港に行くのだが逆まわりということであるらしかった。こうしたことはハワイの特殊事情ではなく日本でも似たようなもので,私の住む町の路線バスもそうなっている。このような事情で,路線バスというのは地元民でないと乗りこなせないのだ。
 オアフ島の路線バスは「ザ・バス」という。なんだか偉そうな名だ。島内は一律2ドル50セント,日本円で約300円である。これだけでも現在のレートがかなりの円安で,1ドルが100円くらいでないとおかしいということがわかるであろう。路線バスはお釣りは出ないしバスカードのようなものはないし運転手は両替をしないから,小銭を用意しておかないといけない。そこで,持ち合わせがないとき,車内で客同士で助け合って両替をしている姿によくお目にかかる。
 空港にいくバスが停まるはずのバス停に着いたら,多くの人がバスを待っていた。しかし日本人は私だけだった。待っているそのほとんどは観光客だから,空港に行くかと聞いたところでみんな首をかしげるだけであった。しかし,バスはなかなか現れず,たまにやって来たバスはどれも私の目指す空港に行くものではなかった。そのうちに,一般の車(バン)がやってきてバス停に停まった。運転手がこの車はホノルルのダウンタウンに行くが乗らないかと叫んでいる。そして,数人の客が値段の交渉をして乗り込んでいった。やはり,ここハワイもまたアメリカである,というよりも発展途上の国のようであった。
 それにしても,ハワイに来てこんな経験をしている日本人もそうはいないであろう。まったくバスが来ないので不安になってきたころ,ついに空港行きのバスがやってきて,私は無事にホノルル国際空港に戻ることができた。

 ハワイ航空の主要機はボーイング717という珍しいものだ。やっと定刻になったので私はそのボーイング717に乗り込んだ。ホノルルの空港からマウイ島は飛行機で1時間もかからないから,座席から外を眺めているうちに到着してしまう。機内ではプリンの入れ物のようなものに入ったジュースを欲しい人だけに配っているが,配り終えないうちに着陸態勢に入ってしまうほどだった。昨年,ハワイ島に行ったときに眼下に見えた島がマウイ島で,島の中央にある山の山頂にひとつ灯りが見えたのが私には印象的であった。おそらくそれはハレアカラの山頂だったのであろう。
 ホノルルを飛び立ってすぐ,眼下にラナイ島とモロカイ島が見えた。客室乗務員に眼下の島はラナイ島かと聞いたらモロカイ島だと言われた。モロカイ島が北側にあるほうの島でラナイ島がモロカイ島の半分くらいの大きさの南側にあるほうの島である。そうこうするうちにこれらの島を通り過ぎてマウイ島に到着した。

 マウイ島は西側とそれよりかなり大きい東側のふたつの丸い島がくっついたひょうたん型でその中央の狭い部分の平地の北側の海岸にあるのがカフルイという,島で一番人口の多い町である。今日の4番目の写真がそれであるが,町の東側にカフルイ空港があった。昨年ハワイ島に行ってヒロ空港に降り立ったときにその素朴さが気に入ったが,予想に反して,カフルイ空港は大きくて近代的で,私が期待した素朴な空港と違い過ぎてがっかりした。
 レンタカーのカウンタに行って車を借りようとしたが,前にいた客がだらだらと手続きをしていてなかなか借りられなかった。その窓口はハーツのゴールドメンバーズのカウンタで,手続きなしですぐに借りられるというのが売りであって,私は単に借りた車の停めてあるガレージ番号を聞くだけなのであるが,これでは頂けない。私の前にもひとり,私と同じゴールドメンバーの客がいて,怒っていた。
 少し,いや,だいぶ待ってレンタカーを借りることができた。車に乗ってみると,カーナビ付きを予約してあったのにもかかわらずカーナビがなかった。文句を言ってもよかったが,島も狭いし,別にカーナビがなくてもいいやと思った。駐車場のゲートを出るときにスタッフに今晩泊まるホテルの名前を告げてどういう経路で行くのかと聞いたら,簡単だ! と言って道を教えてくれた。ところが,レンタカーのゲートを出てカフルイに向かって走り出した途端,辺りは真っ暗で,教えてくれた道がどれなのかさっぱりわからないのであった。これではホテルに着けない!

DSC_7802DSC_7803

●今も残る「カミカゼ・アタック・サイト」●
 私が「戦艦ミズーリ」の艦上でガイドさんから説明を聞いて衝撃をうけたもうひとつのものが「カミカゼ・アタック・サイト」と称する戦艦側壁の「凹み」であった。
 私がガイドさんから聞いたのは次のようなことであった。
  ・・・・・・
 太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月11日午後2時43分,鹿児島県薩南諸島喜界島沖で爆装零戦による特攻機1機が低空飛行で「戦艦ミズーリ」の右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり燃料に引火,表面に軽微な損傷を受けたが速やかに鎮火した。
 いまも船体に残る攻撃の跡はこのときのものである。
 突入機の操縦員の遺体の一部が40ミリ機銃座から回収され「戦艦ミズーリ」のウィリアム・キャラハン艦長は,この操縦員を名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。乗組員からは反対もあったが,艦長の命により翌日水葬が執り行われた。
 艦長は「敵兵でも死んだら敵ではない。国のために命を捧げた勇士である。これは艦長の意志である。丁重に葬ってやりたい」と艦内に放送し,星条旗に日の丸を描かせて遺体を包み,礼砲五発,全員敬礼をしたという。
 この操縦員の名は長らく不詳であったが,ミズーリ記念館による調査の結果,鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹機,もしくは,同時に突入した同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹機であるとされた。また,突入できなかった方の機体は対空砲火により撃墜された。
 水葬から56年目にあたる平成13年(2001年)4月12日,特攻隊員の家族らを招いてミズーリ艦上で慰霊祭が開催された。高齢で出席できない石野二等飛行兵曹の遺族に代わり,ともに鹿屋基地を出撃して戦死した隊長の矢口重寿中尉,曽我部隆・二等飛行兵曹,そして,石野二等飛行兵曹の叔父の遺族が出席,艦長の長男や元乗組員たちと対面した。
 「キャラハン艦長の人道的な配慮に一言お礼を言いたい」と日本側遺族のひとりとして出席した松山市在住の曽我部隆さんの姉・鎌田淳子さんは「弟・隆とともに亡くなった甥の石野節雄が半世紀以上過ぎてもこのように手厚く葬られていたことを知りようやく心の区切りがついた気がします」と米国側の温かい配慮に感謝したという。 
  ・・・・・・

 世界一の観光地であるハワイは,明治期の日系移民やこうした第二次世界大戦の悲しい歴史を背負った場所でもある。私は日本に生まれたものとして,広島だけでなく,特攻隊基地のあった鹿児島の知覧やこのパールハーバーも,自分の主義主張は問わず,一度は訪れるべきところであると強く思っている。これもまた,学校では学ばない歴史の真実である。

kofuku2757012beb471db2e0a4457c32e88914a

●「降伏文書」にみる歴史の生々しさ●
 私がこの「戦艦ミズーリ」に展示されていたもののうちで衝撃を受けたもののひとつが「降伏文書」であった。
 「降伏文書」は,大日本帝国と連合国との間で交わされた停戦協定である。この協定でポツダム宣言の受諾が外交文書上で固定された。この文書は,ポツダム宣言の受諾が公表された玉音放送から半月後の1945年9月2日,東京湾上に停泊した「戦艦ミズーリ」の前方甲板上において調印された。
 日本側は天皇および大日本帝国政府の命により,かつ,その名において重光葵外務大臣が,また大本営の命により,かつ,その名において梅津美治郎参謀総長が署名,連合国側は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか,アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ,中華民国代表徐永昌,イギリス代表ブルース・フレーザー,ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ,オーストラリア代表トーマス・ブレイミー,カナダ代表ムーア・ゴスグローブ,フランス代表フィリップ・ルクレール,オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ,ニュージーランド代表レナード・イシットが署名した。
 戦艦の上で調印式をしたのは艦の上は艦の所属する国の領土であるという理由による。つまり,降伏文書調印式はアメリカ領に日本の代表者を招き行われたということである。

 このときの「降伏文書」が前回書いたこの戦艦ミズーリに展示されているものであるが,この「降伏文書」で当時のカナダ政府の代表が署名場所を間違えたために,途中から全体が1行ずつ下にずれてしまっているのだ。
 これは,次のような事情による。
  ・・・・・・
 「降伏文書」は連合国用と日本用の2通の文書があって,そのうちの日本用文書にカナダ代表コスグレーブ大佐が署名する際に自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名したのである。しかし,次の代表であるフランスのルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名,続くオランダのヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたもののマッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのイシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり,結果的にカナダ代表の欄が空欄となったというわけである。
 その後,マッカーサー元帥の調印式終了宣言が行われ,各国代表は祝賀会のために船室に移動したが,オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り,日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘したのだった。 
 岡崎が困惑するなか,アメリカ軍参謀長のサザーランド(Richard K.Sutherland)中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが,不備な文書では枢密院の条約審議を通らないと重光葵がこれを拒否したために岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし,各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてサザーランド中将はこれを拒否し,結局,サザーランド中将が間違った4か国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ,退艦した。
  ・・・・・・
という,生々しいものであった。

 この調印式に臨んだ日本の代表はおそらく死を覚悟していたと思われるが,いくら敗戦国とはいえ,このような文書を渡されては血の気がひいたことであろう。私はそのときの気持ちを思い,いたたまれなくなった。これが幕末期の不平等条約の締結をはじめとするお人好し日本がもっとも苦手とする外交というものであり,日本のドリル学習教育では学ぶことのできない歴史の真実である。

DSC_7790DSC_7793DSC_7797DSC_7799DSC_7804DSC_7807

●歴史を語るパールハーバー●
 1941年12月7日の真珠湾攻撃によって「戦艦アリゾナ」は乗組員1,177人のうち1,102人が死亡し撃沈された。「アリゾナ記念館」(USS Arizona Memorial)は,その戦艦と乗組員を追悼するとともに,真珠湾攻撃自体を記念する施設で,この施設は沈没した「戦艦アリゾナ」の真上に建設されている。
 記念館は1962年に建設され,毎年100万人以上の人々が訪れている。この記念館は無料で,ビジターセンターからはボートで入ることができるが,入館整理券は人気で,早朝でないと手に入れることができない。
 「太平洋航空博物館」(Pacific Aviation Museum)には,第二次世界大戦当時の航空機が保管されていて,格納庫にはジオラマや零戦,B-25ミッチェル爆撃機と いった貴重な戦闘機,最初の空撃を収録したフィルム,戦闘シミュレーターなど数多くの展示がある。この博物館はパールハーバーの観光スポットで最も新しい有料のアトラクションである。
 1999年に「戦艦ミズーリ」(USS Missouri, BB-63)がアメリカ西海岸から真珠湾へ移され「アリゾナ記念館」と垂直になる角度で一般公開された。この「戦艦ミズーリ」の甲板で1945年9月2日,東京湾においてダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)陸軍元帥やチェスター・ニミッツ(Chester William Nimitz, Sr.)海軍元帥のもとで大日本帝国の降伏文書調印式が執り行われたことから,この戦艦は第二次世界大戦の終焉を象徴するものとなっている。

 ビジターセンターにはいくつかの窓口があって,そこで整理券が手に入るのだが「アリゾナ記念館」の整理券を受けとる窓口は閉まっていた。私が到着したのは遅かったから,当然,無料の「アリゾナ記念館」はとっくに当日分の整理券は品切れであった。「太平洋航空博物館」のような博物館はずいぶんとアメリカ本土で行ったことがあるから特にパールハーバーで行く必要もなかろうと、私は有料の「戦艦ミズーリ」の見学に行くことにして,チケットを購入した。
 まず,このビジターセンターでカバンを預けなければならない。私は小さなバックパックひとつであったからそれを預けた。カメラは持っていてもよいということであった。私がここで出会った日本人は,一組の家族連れだけであった。ハワイは日本人だらけと思っていたが,そのほどんどが生息? しているのはワイキキビーチかホノルルのダウンタウンかダイヤモンドヘッドであるようだった。
 アメリカ本土には戦争に関する博物館がいくつもあって,私はそれらの多くに行ったことがあるが,そこでもまた,日本人に会ったことは皆無である。それに対して,アメリカ人は歴史というものを自分なりに受けとめようと積極的にこうした博物館を訪れる。これもまた,日本の歴史教育,というよりも,どの教科も暗記した知識をペーパーテストで上手に再現できれば頭がいいという評価を受けるだけの日本の教育の無意味さを象徴しているかのようである。

 ビジターセンターから出発するシャトルバスに乗って島に渡り,そこから「戦艦ミズーリ」の甲板に上った。甲板の上に日本人のガイドさんがいたので案内をお願いした。この案内は入場料に含まれている。ガイドツアーの参加者は私と明治大学に通う若者のたった2人であった。
 学生が言うには,数人のグループでハワイに来たが,誘ってもパールハーバーに来たいと言わなかったのでひとりでホノルルから自転車を借りて来たという話であった。
 ここで私が衝撃を受けたのは「降伏文書」と戦艦に特攻隊機がぶつかった生々しい跡であった。私が非常に興味をもってみどりさんという名のガイドさんにいろんな質問をすると,彼女はずいぶんと楽しそうに話をしてくれた。彼女が言うには,日本から来る人は私の話にほとんど興味を示さない,ということであった。私はそんな日本人を恥じたのだった。

 「戦艦アリゾナ」が真珠湾攻撃で沈められた戦艦であるなら「戦艦ミズーリ」は降伏文書に調印が行われた戦艦である。このふたつをともに真珠湾に置くことで太平洋戦争の初めと終わりを物語るように展示したわけだが,当初,この二艘の戦艦が同時に展示されることに関しては賛否両論があった。「戦艦ミズーリ」が「アリゾナ記念館」のすぐ横に展示されると「アリゾナ記念館」を覆ってしまうからアリゾナの存在意義に関わるゆゆしき問題だとして提起されたのである。そこで計画を変更して,「戦艦ミズーリ」は「アリゾナ記念館の後方に置かれ,「戦艦ミズーリ」の艦上で行われる記念式典に際しては「アリゾナ記念館」およびアリゾナ本体が見えないように配置された。また艦首がアリゾナの方向を向いているようにしたのは,戦艦ミズーリが戦艦アリゾナとそこで最期を迎えた人々を見守ることができるようにとの配慮である。これらの処置をすることで「戦艦ミズーリ」と「戦艦アリゾナ」は同じ場所でお互いのアイデンティティを尊重しながら市民に戦争を伝えているということであった。
 見学を終えてから若者と一緒にお昼にロコモコを食べた。

DSC_0583DSC_0587DSC_0595DSC_0603DSC_0626

 本場所は東京はもちろん,名古屋,大阪,福岡と見にいったので,今回は巡業に行こうと思い立ちました。何事も一度はやってみないと納得がいきません。チケットを買ったのは10月14日の金沢巡業でした。
 私がチケットを購入した後で,もっと自宅から近いところで巡業があることを知って,何も車で3時間もかかる金沢まで行く必要もなかったのですが,これまで満足に金沢を観光したこともなく,また,東海北陸道を走ったこともなかったので,初秋の小旅行も兼ねることにしました。ある事情で直前まで行くことができるかどうかわからなかったのですが,結局,予定通り行くことができました。そしてまた,自宅を出発するときは天気がすぐれなかったのですが,北に向かって走るにつれて天気もよくなり,さすが,自他ともに認める晴れ男は今回もまた健在でした。

 前日の午後出発して,途中で白川郷を見学してから,金沢に着きました。夜は金沢市内を観光しましたが,金沢市は高知市や徳島市のような規模の街,ただし,加賀百万石というだけに,文化の香り高いすばらしいところで気に入りました。しかし,考えてみれば,ここは日本海側,これから春にかけてずっと天気も悪く,住み心地がよいとは思えません。
 翌日は早朝にホテルを出て,さっそく会場である金沢市総合体育館に向かいました。
 途中でどこかで朝食をと思ったのですが,どこにもマクドナルドや吉野家の一件どころか喫茶店すら存在せず,結局,やっと見つけたコンビニになってしまいました。
 開場は8時でしたが,7時過ぎにはすでに列ができていました。力士の乗ったバスが次から次へ到着しました。

 まあ,大相撲とはいえ,これはまさに旅芸人一行様です。きわめて日本らしい娯楽です。これはよい意味で,こういうの私は嫌いではありません。むしろ,どっちが勝った負けたというピリピリとした本場所よりもずっと楽しめます。要するに,観客としては楽しければよいわけです。
 私にはめずらしくもないけれど本場所の行われない地方ではこれが楽しみなのだろうなあ,と思いました。会場内は力士とファンで溢れていて,サインもねだり放題だし,写真も撮り放題,こりゃ,好きな人にはたまりません。もし私も「スー女」なら,本場所よりも巡業のほうがずっと楽しそうです。

 この日から横綱白鵬が参加ということで,4横綱の土俵入りがありましたが,休場の続く本場所よりもずっと豪華です。おそらく,来場所鶴竜が引退するでしょうから,こうした姿もこれが見納めでしょう。
 「花相撲」ですから,勝負の結果などはどうでもよいのですが,こうした巡業での本気度というのはどういうものなのでしょう。私にはそれがずっと気になっています。お互いの阿吽の呼吸というか,どこまでどう演技をしているのか気になります。
 しかし,琴勇輝関は本場所では封印をした「ホーッ」も出るし,最後の取組は横綱白鵬対横綱稀勢の里だし,こんなの,本場所では見られませんから,巡業のほうがはるかに豪華でした。

 なかなかチケットの買えない本場所はもうやめにして,これからは巡業が近くに来たらこちらを楽しもうかな,と思いました。癖になりそう。

 今から30年くらい前,まだ,アメリカをドライブする楽しみを知らなかったころ,私は,夏も冬も北海道を旅していました。千歳の空港で車を借りて走り出したとき,ああ,北海道だ,と感動したのを思い出します。しかし,狭い北海道のこと,毎年行けばすぐにほとんど全ての道路は制覇できます。海岸線に沿って一周したこともありました。そのなかで今も思い出すのは,襟裳岬の近くの居酒屋で飲んだくれたことと積丹半島で食べたおいしかったお寿司屋さんです。そしてまた,それと同時に,行くたびに無粋に道路が作られてどんどんと自然が破壊されていくさまでした。

 「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!”5号線”函館~札幌の巻」は,私にそんなことを思い出させてくれました。当然,私は,国道5号線もすべて走ったことがあります。そして,番組に出てきた積丹半島のお寿司屋さんこそ,私の思い出のお寿司屋さん,そのものでした。
 この番組も回を重ねて,なかなか粋な旅番組になってきました。今回は私の予想では国道4号線だったのですが,なぜかそれをとばして国道5号線となりました。どうしてだろう???
 それはそれとして,素晴らしい景色も,おいしいグルメも,そして,さまざまな出会いもあって,心温まる番組になりました。そしてまた,やはり,日本のよさは食べ物に尽きる,ということを再認識しました。風景はどんなに雄大であっても,そりゃ,外国のさらに雄大な風景にはかないません。農場のトラクタだって,アイダホの農場には全くかないません。毛利衛さんの地元の博物館だって,アメリカに行けばもっと大きな博物館がいっぱいあります。しかし,食べ物に関しては,やはり日本です。特に北海道は最高です。

 ところで,私は10月13日,東海北陸道を通って金沢に行くついでに,白川郷に立ち寄りました。
 白川郷は城山展望台から見ると,とても素敵なところです。しかし,実際に村を歩いてみると,白川郷もまた,観光客相手の商売で金儲けをするだけの日本のそこらじゅうにある観光地と同じだったし,そこに押し寄せていたのは,観光バスで大挙して現れた中国人団体客だらけでした。彼らは,大声出してソフトクリームなめながら自撮り棒につけたスマホで写真を写しているだけでした。残念ながら,ススキとかコスモスの美しさや日本の風情は全く眼中になく,初秋のどかなな村の雰囲気は台なしでした。
 私は,二度と来るものか,と固く決意し,本当にがっかりしました。
 今の日本の観光地は,どこもそんな状況です。外国人観光客の誘致も結構ですが,すべては金儲けが目的の政策です。こうして日本らしさがなくなっていきます。しかし,こういう状況は日本だけでなく,ニュージーランドのテカポ湖でも同様で,有名な「善き羊飼いの教会」の周りでは,中国人観光客が深夜の満天の星空の下で奇声を発し懐中電灯を振り回していました。

 この番組は私のそうした傷を癒してくれましたが,果たして,実際に行ってみると,北海道もまた同様なのでしょうか。もう,私が子供のころに味わった「小さい秋みつけた」という歌で感じるような日本のすてきな秋の夕暮れの哀愁を味わえるようなところはどこにもないのでしょうか?
 もしそうなら,私は,今年の6月に行ったオーストラリアの片田舎や8月に行ったアラスカの原野のような,中国人団体ツアーの行かないところのほうがずっといいなあ,そんなことを思いながら,番組に見入っていました。

DSC_0365

DSC_7782DSC_7783DSC_7784DSC_7786DSC_7788DSC_7789

●真珠湾に行こう,と思った。●
 昨年はじめてホノルル国際空港に来たときは,到着後シャトルバスに乗ってバゲッジクレイムまで行ったのだが,そのバスが混雑していて,天下の観光地ハワイの玄関口はラッシュアワーのバス通勤だと第一印象で思ったのだが,それは到着したゲートが遠かったせいであった。今回はそんなこともなく,そのまま歩いてバゲッジクレイムに着いた。
 おまけに前回は,この空港は古びてせまいところだという印象が残ったが,それは,このホノルルの空港とハワイ島ヒロ国際空港の印象がごちゃごちゃになっているせいであった。
 今回来て改めて思うに,この空港は広い。そして,どこかの航空会社のハブ空港ということでないので,世界中からさまざまな航空会社の旅客機が停泊しているので,航空会社好きな人にはたまらないところであろう。

 このホノルル国際空港は,私が行ったこの1か月後4月27日に「ダニエル・K・イノウエ」(Daniel K. Inouye)国際空港に名称を変更した。これは,ハワイで生まれたダニエル・K・イノウエ元上院議員の功績を讃えて命名したものである。
 この国際空港は1927年にジョン・ロジャース空港として開港し,1947年にはホノルル空港,1951年にはホノルル国際空港に名称を変更し,今回3度目の名称変更である。
 イノウエ元上院議員は1924年ホノルル生まれで,ハワイ大学とジョージ・ワシントン大学で学び,第二次世界大戦では米陸軍に入隊した。戦後の1959年にはハワイ州選出の会員議員に当選,1962年には米上院議員に選出され新たな航空交通管制施設の建設や滑走路と誘導路を改善するなど空港の発展に寄与し,2012年死去した。

 私はホノルル国際空港から乗り継いでマウイ島に行くのだが,マウイ島に行くハワイアン航空便の出発が午後6時であった。
 恥ずかしい話だが,私はこの時点で,どうしてホノルルで待ち時間をこんなに多く取ったのか自分でも忘れてしまっていて,オアフ島で前回行くことのできなかったところを半日観光しようという計画だったのをやっと思い出した。
 昨年は乗り継ぎの方法がよくわからず戸惑ったが,さすがに私も学習したので,今回はすんなりいくはずであった。また,ハワイアン航空の自動チェックイン機がうまく使えるように,ハワイアン航空のマイレッジ会員にもなっていた。
 この時間,到着便が多く入国審査場がずいぶんと混雑していたが,なんとか入国を済ませ,カバンを転がしてハワイアン航空の発着する別のターミナルまで行った。ここでチェックインをして荷物を預け,身軽になって半日観光をするつもりであった。

 チェックインはすぐに終わったのだが,荷物を預けると別料金が必要だということを知らず,再びクレジットカードを読み取らせるに少し手こずった。親切な係員がいてサポートでそれも終わり,空港を出てバス停に向かった。
 ホノルルの空港では,日本からの観光客のほとんどはツアーに組み込まれたホテルにシャトルバスに乗り込んでしまいだれひとりとしていなくなるから,一旦空港から出ると,もう日本人には遭わなくなる。ツアーでない私はもしオアフ島に滞在する旅をするのなら,空港からすぐにレンタカーを借りることであろう。
 そんなわけで,半日だけの観光という中途半端な今回はバスを利用するから,こういうめんどうなことになるわけだ。しかし,それはそれで面白い体験である。
 今回私の目指す目的地は真珠湾である。ハワイに行ったからには一度は真珠湾を見ておく必要がある。それは,昨年ハワイから帰って,真珠湾ってどこにあるの? と聞かれてすぐにそれに答えられなかった私を恥じたことも理由であった。

 あらかじめ調べたところでは,20番のバスに乗ればそれほど時間がかからずに行くことができるらしい。しかし,地図を見てもいわゆる「パールハーバー」という名前の湾と真珠湾記念公園がどういう位置関係になっていて,どう接続することができるのかがかさっぱりわからなかった。ともかく,ガイドブックに書かれ最寄りのバス停まで行ってみてから考えようと思った。
 ところが,空港のバス停に20番のバスがなかなか来ないのだ。30分以上も待っただろうか? ようやくバスが来た。乗るときに運転手に行くと,着いたら教えてあげると親切に言ってくれた。
 着いてみてわかったが,パールハーバーという名のバス停でバスを降りたところにパールハーバービジターセンターというものがあって,そこには無料で見学できる「アリゾナ記念館」や有料の「戦艦ミズーリ」と「太平洋航空博物館」のチケットを手に入れて,そこからシャトルバスに乗ってアクセスするという段取りであった。しかし,私は,その,「アリゾナ記念館」,「戦艦ミズーリ」,「太平洋航空博物館」というものが何ものかすらわからないのであった。

DSC_7770IMG_2532IMG_2529DSC_7773DSC_7775

●熱海に行くようなものである。●
☆1日目 3月22日(水)
 今日からお届けするのはハワイ・マウイ島の旅行記である。
 この旅の1年前,アメリカ合衆国50州制覇を実現するために,生まれてはじめてハワイに行くことにした。ハワイなど日本人観光客ばかりだろうとずっと行く気もなかったので,どうせ行くなら日本人だらけのホノルルのあるオアフ島ではなくハワイ島を目指すことにした。
 私がハワイ島を目的地にした一番の理由はマウナケアにあった。マウナケアの山頂には日本の誇るすばる望遠鏡もあり,そしてまた,星が美しい場所だということで,南十字星が見たいものだ,という気持ちもあったのだが,実際はどういうところなのかさっぱり見当がつかなった。 
 そこで,マウナケア山頂に登って星を見るというツアーがあったので予約をしてあった。これが最大の楽しみであった。

 しかし,運悪く強風で山頂へのアクセス道路は閉鎖されて登れず,星空観察ツアーでは南十字星はまだ昇っていななかったので見ることもできず,せっかく高価なツアーだったのに,私は楽しみにしていたことがまったく実現できないありさまとなった。
 その結果,逆に闘志がわいて,私はレンタカーでマイナケアの山頂4,205メートルに無理やり,しかも2度も登って,すばる望遠鏡の光輝くドームも見たし,そのとなりのケック望遠鏡は望遠鏡本体も見たし,マウナケアに昇る日の出も日没も見たし,さらには南十字星も見ることができたのだった。

 しかし,冷静になって考えるに,こうした無謀はするべきではないのだ。 
 そこで,ハワイについて調べていくと,ハワイ島のお隣のマウイ島には標高3,055メートルのハレアカラという山があって,こちらは山頂まで舗装されていて,しかも国立公園で,レンタカーでも問題なく登れるという話だったので行ってみたくなった,というのがマウイ島へ行く理由だった。
 実際は,この旅の前にニュージーランドへ行って南半球の星空を堪能してしまったから,この旅に出発するころにはマウイ島で星空をみたい,という情熱はほとんどなくなっていたのだが…。
 そんなわけで,まあ,ゆっくりと休日を楽しもうというくらいの気楽な気持ちで旅立つことになった。

 なぜかは知らねど,デルタ航空のセントレア・中部国際空港からのホノルル便は水曜日発,1週間後の水曜日現地発木曜日着の便が安いのだ。
 水曜日発とはいえ,出発時間は午後9時30分なので,仕事をしている人でもその日に休暇をとらなくとも行けるのである。
 もう夜遅いことと,このホノルル便のゲートが空港の1番端ということで,閑散としていたが,このゲートの付近だけは雰囲気が違うのであった。係員は花をつけ,しかも花柄のアロハシャツを着ていて,すでにハワイムード満載,しかも,搭乗前からジュースのサービスまであった。どうしてこんなにサービスがよいのか何気に聞いてみると,何でもハワイ便は競争が激しくてこのくらいしないといけないとかいう話。それでも,乗り込んだ機内は空いていて,今回はデルタコンファートに席をとった私の隣は往復とも空いていた。

 離陸してしばらくして遅い夕食が出て,あとはなんとなく過ごしていたら,飛行時間わずか7時間,窓からはオアフ島が見えてきた。現地時間当日の朝9時45分,私は2度目のハワイに降り立った。前回は空港間の移動にバスを使ったが,今回はそのまま歩いてバッゲジクレイムまで行き,その後混雑する入国審査場を通り,すんなりと入国を済ませた。
 まあ,ハワイなんて,熱海に行くようなものである。

 公務員の定年を65歳にするのだそうです。これが実現すると60歳での年収が約800万円の公務員では生涯賃金が4,000万円増えるといった記事が雑誌に載っていました。計算上は確かにそうなのかもしれませんが,実際は,定年を65歳にするというのは,これまで60歳からもらっていた年金制度が崩壊して65歳になるからそれに合わせて定年を延長しよう,というだけのことに過ぎません。
 これは,卵が先かニワトリが先かということです。つまり,物価を上げてそれとともに給料も上げようということと給料が上がらないから物価も上がらないということと同じ理屈です。しかし,一番の問題は60歳の定年を待ち望んで長年働いて,定年になったら悠々自適に生活することを楽しみにしていたのに,その年になったらゴールが遠ざかってあと5年働けと言われたことなのです。実際,そこまで働きたい人が果たしてどれほどいるのでしょうか? 働かなくては,お金がなくては暮らせないからやむを得ず働く,とか,退職してすることがなくなったから暇つぶしに働く,ということとはまったく次元が違う話です。

 その年齢になってみればわかりますが,60歳から65歳というのは,かろうじて元気に自分の時間を十分に活用し,やりたいことができる最後の期間なのです。この時期を逃すと後はもう,何か自分の意思で活動するという意欲も体力の残っていないのです。本当は現在の60歳定年よりもむしろ55歳程度を定年にしないと,実際のところは手遅れなのです。それを65歳にするというのはかなり酷な話です。
 私は,近い将来,年金の支給年齢が75歳くらいになり,そのために定年制というのはなくなって退職はすべて「自己都合」ということになり,その結果,退職金が大幅に削減されるか,あるいはなくなると予想しています。さらに,80歳を超すと「長生き税」が徴収されるかもしれません。そうしないと破たんするくらいの財政なのです。

 話をはじめにもどしましょう。
 この国で65歳になったときにたとえ4,000万円生涯賃金が増えたとしても,いったいそのお金を何に使うのでしょう。これもまた,いつも書いているように,この国では,小さな家を買ったところでそれは将来負債になるだけだし,高級車を買ったところで走る道路もないというように,お金の使い道などないのです。
 人は自分の精神的な満足を手に入れるために出費をするわけです。そうすることで,自分の精神性を高め,満足するわけです。そうした出費は,たとえば,アメリカのように自然豊かな国で週末ごとにキャンプをするために大きなピックアップトラックを手に入れるとか,住宅環境のすばらしいところで悠々自適生活をおくるために住居を購入するという出費に比べれば,日本ではそうした環境が皆無だから,出費をする先がないのです。そう考えてみれば日本というのはお金のかからない国です。

 しかし,それでも人はお金を使いたいものらしいのです。
 だから,将来売れもしないのに家を買ったり,混雑しているだけの観光地に出かけるのに多額の出費をしたり,勉強というのは本来生きるための知恵を手に入れことが目的のはずなのに学歴を手に入れるためだけのドリル学習をするのに巨額の「教育費」を出費したり,使いもしないのに高性能のカメラを集めたり,走る道路がないから週末にピカピカに磨くために高級車を買ったり,冠婚葬祭で見栄を張るために業者のいう最上級のものを選択したりと,そういった私からみると「ど~でもいい」ようなことにお金を使うことになるのです。
 本当は日本というのは生活をするのにあまりお金がいらなくて,アメリカなどに比べたらはるかに安上がりに精神的満足が得られるすばらしい国なのです。そしてまた,さまざまな身近な体験をすれば生きる能力も身につくのです。それなのに,あえて意味のない浪費をしてお金をなくしたり,他人と競争させるだけで意味のない反復学習を「教育」と称して時間を浪費させたりして,人生を楽しませず一生苦労して働くように仕向けているわけです。これぞ「生かさず殺さない」江戸時代から続く国策です。
 それに気づかず時間とお金を浪費をしている人たちに心から同情いたします。

DSC_9952

 誰しも,一度はやってみたい,見てみたい,行ってみたいと思うことやところがあるでしょう。私もそうしたことやところが山ほどありました。このブログは,そうした私の「一度はやってみたい,見てみたい,行ってみたい」ことやところを成しえたり行ったりした記録のようなものです。

 私はここ数年で,そうした私の「一度は…」のほぼすべてを実現することができました。
 まず,長年にわたって満天の星空が見てみたいなあ,という夢がありました。はじめのうちは,家から車で1時間程度走った場所に出かけて30年近く前に買った望遠鏡を使えば思った以上にさまざまな天体を写せることを知っただけで感動していましたが,そのうちに,ハワイやニュージーランド,そして,オーストラリアへ出かけて正真正銘の満天の星空を見てしまったら,もう,この国の濁った星空には興味をなくしました。それにつれて,高いお金を出して高性能の天体望遠鏡を手に入れて日本の明るい夜空で星の写真を撮ってコンピュータを使って画像処理をして張りぼてのような写真に仕上げたところで,結局は,海外の満天の星空を安価なカメラで写した写真にはまったく敵わないことがわかってしまいました。残念なことですが。
 私は日本国内の旅行はほとんど興味はないのですが,であっても,以前は,九州を一周したい,四国の徳島で阿波踊りを見てみたい,飛んでいるトキの姿を見たい,といった夢がありました。しかし,それを実現してみると,結局,この国はどこへ行っても破壊された自然の姿がまず目について,まあ,一度経験すればもういいや,と思うようになりました。これもまた,残念なことです。私は,日本では何度訪れてもいいと思うところは京都と奈良だけだとずっと思っていましたし,その気持ちは今も同じなのですが,そうした愛すべき場所も,このごろはあまりに観光客が多すぎて,ずっと以前の静けさやよさも失われてしまいました。落ち着いて食事をする場所さえありません。

 アメリカ合衆国の全50州,MLBの全30球場を制覇したいという目標も,いざ達成してみると,再び行ってみたいなあと思うところは限られていて,私は,人も車も異常に多く物価も高いような東海岸や治安の悪いところに今後あえて行く気はまったくなくなりました。
 このように,そうしたさまざまなことを実際に実現してみると,一度達成したらもういいやと思うことがほとんどでした。しかしその一方で,再びやってみたいなあと強く思うこともまた,けっこうたくさんあるのに気づきました。
 人が一度はやってみたいと念願していることって,そのほとんどは思い込みであって,他人には本当は「ど~でもいいこと」なんです。しかし,やってみたいと思い込んだ人にとっては,他人には「ど~でもいいこと」こそ,実は「ど~でもよくないこと」であって,それこそが生きる糧なのです。
 人が生きるというのは,そのすべてが暇つぶしです。そして人は精神的に生きているのです。たとえば,大金持ちになって,まったく食べることに心配がなくなったとしても,日々することがなければ退屈なだけです。そうした状態で何十年も生きるというのは苦痛でしかないわけです。だから,他人には「ど~でもいいこと」でも,本人には「ど~でもよくないこと」がたくさんある人は幸せなのです。

 「ど~でもよくないこと」がたくさんあって,それらを達成した私には,この先何をしようか? という問いに対してもちゃんと答えがあるのです。それは,これからは水が流れるように好きなことを無理なく楽しもう,ということなのです。
 これまでに達成したことをもう一度振り返ってみると,たとえば,星を見るならどんな場所に行ってどういう楽しみ方をするのが自分には楽しいのか,旅をするならもどこへ行って何をすれば自分には楽しいのか,それがわかったことが成果なのです。自分の「一度は…」を実現してそういうことに気づいたのが一番の収穫なのでした。だから,そこから,私の新たな夢がまた生まれてきたということなのです。

DSC_7204

DSCN3323DSC_5593DSC_5608DSCN3416DSC_5744

 今日の1番目の写真は伝説の,「天文ガイド」の創刊号です。考えてみれば良き時代で,確かこの雑誌の値段は150円だったと思いますが,小学生が夢をもつにはまことにすばらしい雑誌でした。
 望遠鏡の広告とか星の写真とか,私には知らなことばかりだったこともあって,小さな穴から広い世界を垣間見るように思えました。こうしたことが原点となって,私は,この雑誌に載っていた天文台に憧れをもったわけです。
 前回は日本国内にある大型望遠鏡を備えた天文台について書きました。今日は,引き続いて,私が雑誌で憧れた日本のそれ以外の興味をもった天文台について書いてみます。
 
 紹介するのは,京都大学の花山天文台と倉敷市の倉敷天文台,そして,高知県の芸西天文台です。
 花山天文台(Kwasan Observatory)は,京都市山科区の花山山腹に位置する天文台で,1929年に設立された京都大学の施設です。
 その昔,京都帝国大学附属の花山天文台は,東京帝国大学附属の東京天文台(現在の国立天文台)と並んで,日本における天文学研究の拠点だったのですが,なにごとも東京と京都というのはライバル関係で,これもまた日本らしい話で,おそらく東京天文台が国立天文台となって発展的解消しても,今も,そういう関係が続いているのでしょう。
 そんなわけで,この今も往年の姿の残る花山天文台は,存続の危機に瀕しているのです。

 倉敷天文台は,倉敷市中央にある民間天文台です。場所は倉敷の美観地区に近く,私は行ってみてびっくりしました。
 クラボウの専務だった原澄治の出資によって設立された日本初の民間天文台ということで,これもまたレジェンドです。日本で最初に一般市民に公開された天文台です。
 この天文台は彗星発見家として有名な本田實さんとの関係が深いものです。鳥取県出身のアマチュア天文家である本田實さんが倉敷天文台の主事に就任し,彗星12個,新星11個を発見したのです。倉敷天文台で半世紀にわたり,彗星捜索など観測に従事ましたが,1990年に亡くなりました。

 彗星発見家といえば,高知の関勉さんも有名ですが,住んでいる高知市もまた空が明るくなって星が見られなくなってきたので,高知県の芸西村というところに土地を借りて観測所を作り,そこで観測を始めました。
 その場所に作られたのが芸西天文台(芸西天文学習館)という公開施設です。
 芸西村の高台にあるこの施設のある場所にも行ってみたのですが,思っていたほど現在は星が見られそうにはありませんでした。ここもまた,おそらく,岡山天文台と同じ程度だと思われます。

 たとえは悪いのですが,天文台というのは絶滅危惧種の動物と同じようなもので,開発によってどんどんと追いやれていて,今や,日本では十分に星を見ることができる場所などほとんどなくなって,少しマシなところは,逆に「星を見る」ことを売りにした観光地となってしまって,やりきれない気持ちです。
 全国には,私が子供のころには考えられないほど多くの公開天文台があって,大きな望遠鏡があるのですが,惑星などを見るならともかくも,淡い光の天体は見ることができません。デジタルカメラとコンピュータの発達で加工をすればマシな写真も写せるのですが,肉眼で満天の星空を見る感動には遠く及びません。

DSCN0534DSCN0515DSCN0417DSCN0380DSCN3388

 では,今回は日本の天文台です。
 私もハワイ島のマウナケアやオーストラリアに行ってみてわかったのですが,こうした最高の場所の星空を知ってしまうと,日本国内で星を見ようという気はまったくなくなります。素人でもそうなのですから,専門家が学問として考えるならなおさらでしょう。
 ハワイにすばる望遠鏡を作るまでは海外に日本の研究施設を作ることには「前例がない」という大きな壁がありました。こうした困難を乗り越えれば今度はそれが前例となるのが役人の世界です。
 現在,日本の天文学はハワイ島のすばる望遠鏡とチリのアルマ望遠鏡が主砲になりました。そこで,これまで使われていた日本国内の主要な望遠鏡の立ち位置が問題となってきたわけです。

 日本は精神的な余裕がないので,こうしたかつて活躍したいわば「レジェンド」をきちんと保存して一般に公開するというような啓蒙活動がなかなかできません。それでも,私が子供のころに「東京天文台」と呼ばれていた現在の国立天文台の総本山である東京都三鷹市にある建物群は一般にも公開され,そのシンボル的存在であるドイツ製の65センチ屈折望遠鏡の雄姿は誰でも見学できるようになったのはとても粋な計らいです。
 この望遠鏡にはずいぶんと年下の兄弟分がいます。それは京都大学の飛騨観測所の65センチ屈折望遠望遠鏡です。この望遠鏡もいつでも,というわけではないのですが公開されるので,見ることができます。現在,この京都大学の飛騨観測所は太陽研究が中心で,私の推測ですが,この65センチ屈折望遠鏡はお荷物なのでしょう。要するに使い道がないのです。この望遠鏡が導入されたころ,惑星研究をしていた大先生が京都大学にいてこういう器械を導入ことになったのでしょうが,それも古きよき時代のお話です。私は,アメリカのこうしたレジェンド望遠鏡のように,ひと晩10万円くらいの使用料をとって一般のグループにでも貸し出せばいいと思うのですが,日本人にはこういうアイデアは浮かびません。
 兄弟分のお話はこれくらいにしましょう。

 三鷹のレジエンド65センチ屈折望遠鏡と並んで,私が子供ころに憧れたのが,岡山観測所の188センチ反射望遠鏡でした。この望遠鏡はガラス越しにいつでも見ることができますし,この望遠鏡,導入されたときと違う色が塗られていますが,今でも現役で大活躍しています。
 日本ではこの188センチ反射望遠鏡ができて以来ずっと巨大望遠鏡が作られなかったので,ハワイ島にすばる望遠鏡ができるまで,世界からずっと後れをとってしまいました。

 今の時代,赤道儀である必要もないのですが,これもまた,時代を反映しています。私は,これまでにこの勇姿を2度見たことがありますが,この望遠鏡のある岡山の鴨方というところはとても天気がよくて,というか,この天文台のある場所の天気がよくて,そしてまた,都会から近いので便利です。とはいえ,実際に行ってみると,けっこう山の中であることにびっくりするかもしれません。
 私はこの場所に夜行ったわけではないのでわからないのですが,おそらく,想像では,私が星を見にいく名古屋から車で1時間30分程度の場所と同じくらいの条件で,やっと天の川がみられう程度でしょうか? しかし,現在の技術なら,なにも芸術写真を写すわけではないから,十分に実用になるのです。

 私は単に文系的な感想として,こうして,この望遠鏡のように,その性能を十分に発揮できるためにいろんな工夫をして末長く使い続けるということにとても好感をもちます。そうした意味でも,この大きさや設置された場所が適当だったということなのでしょう。
 現在,この場所には京都大学が3.8メートルというアジア最大級の望遠鏡を設置する計画がありますが,交通の便がよいのが最大の理由でしょう。私はせっかく作るならオーストラリアのほうがいいと思うけどいろんな事情があるのでしょうね。

DSCN3368

DSC_7258IMG_3564IMG_3561DSC_7266IMG_3520DSC_7245

●こうした生活が羨ましくなった。●
 2年前に生まれてはじめてアメリカでキャンプをしたときはたいして楽しくなかったのだが,今回はとても楽しかった。今にして思うに,アメリカでキャンプができるというのはかなり幸運なことであるし,またやりたいものだと強く感じるようになった。とてもすばらしい経験であった。
 アメリカでキャンプをするのは快適だ。それは蒸し暑くなく日差しがあっても日陰に入ればすずしいからである。テントのなかも窓があるから風通しがよいので暑くならない。
 どうしてなのかよくわからないのだが,この写真のような場所には犬のふんひとつ落ちていなければ,ゴミひとつも落ちていないから,草の上をさくざくとサンダル履きで歩くことのができるのである。
 また,これもどうしてなのかわからないが,カとかハエのような虫も見たことがない。セミもいないから静かである。アメリカにはセミがいない,というのには諸説あって,セミはいる,と書かれたものもあるのだが,私はアメリカでセミの鳴き声を聞いたことがないし,こちらに住んでいる人もセミはいない,と主張する。

 テント自体は,今は日本にも輸入されているから同じものを売っているようであるけれど,日本でそんなものを買ってどこで使うのだろうと私には不思議に思える。
 アメリカには郊外に行けばとても広いキャンプ場がどこにもあって,そうした場所は本当に何もなく自分ですべてを持ち込んで自由に楽しみ,帰るときはゴミひとつ残さない,というルールがしっかりできていて,それをみんながきちんと守っているわけだ。
 これもいつも書いていることだが,アメリカは何事も単純な社会で,アウトドアだからといって,日本のように特別なイベントをするのではなくて,キャンプをしても,家のバックヤードで毎週末にやっているように男が肉を焼き,めいめいで好きなようにバンズに焼いた肉と野菜やらチーズやらをはさんで食べるだけの「バーベキュー」であるから,さほどの手間はない。こういうことを知ってしまうと,キャンプは単に家の生活を自然豊かな郊外に持ち出しただけだとわかる。
 今回は日食のためのキャンプだったので特別だが,ふつうのキャンプ地だと,近くに川があったり森があったりするので,お昼間は釣りをしたり猟をしたりと,そういう楽しみをするわけである。
 また,こうしたキャンプをするための道具というものが充実していて,キャンプをするのは特別なことではなく,それも含めたものが日常生活,ということになる。「衣食住」というが,まさに,人が生きるというのはそういうことだというのを実感する。そうした自然との生活を楽しむために,人生の貴重な時間を売って金に換えるために仕事をするわけである。日本とは根本的に違うのである。

 ところで,キャンプでおそらく最も抵抗があるのがトイレと風呂であろう。
 キャンピングカーであればシャワーが完備されているが,そうでなければ,やはり数日に1回はシャワー設備のあるところでキャンプをしたいものだ。
 トイレはどこのキャンプ地にもきちんと整備されている。ウオッシュレットは望むべくもないが,トイレはどこも清潔で悪臭もまったくないから,慣れてしまえばどおってことはない。今回の場所にもきれいなトイレがたくさん持ち込まれていたし,手を洗うための大量の水を積んだトラックもあった。
 ウオッシュレットが当たり前の日本人は,トイレに対して過剰になりすぎてしまっていて,自然災害などが起きたときには,普通以上に困難な状況が生れてしまうであろう。しかし,こうしたキャンプ生活に慣れていない日本人は,今は日本の100円均一に行けば様々な種類のペーパータオルを売っているから,これらのものを買って持っていけば問題なく数日は過ごせるものだと思われる。
 私は2年前のキャンプで慣れたので,今回は非常に快適であった。テントのなかにもベッドがあって,寝袋にくるまってぐっすりと眠ることができたし,こういう生活も悪くないなあ,とすっかりキャンプが好きになった。

 自然と一体となって,風の音を聞き空気の香りをかぎ,ときに釣りをして,夜は満天の星空の下で眠る……。この国に住んで,子供のころから週末にこうした楽しみをしている人たちが心から羨ましくなった。

DSC_7250DSC_7300DSC_7251DSC_7252DSC_7259

●2度目のアメリカでのキャンプ●
☆4日目~6日目
  2017年8月19日(土)~8月21日(月)
 今回の目的は皆既日食であったが,そのために今日から2泊3日で再びキャンプをすることになった。
 すでにこのブログに何度も書いたが,2017年8月21日,西海岸のオレゴン州から東海岸のサウスカロライナ州までアメリカ大陸を皆既帯が横断する好条件の皆既日食があった。この皆既帯が私の親戚のMファミリーの住むアイダホ州マウンテンホームからわずか北側を通ることから,私は数年前からアイダホ州に行くことに決めていた。そして,ともかく,半年前に成田からシアトルまでの往復航空券を手に入れて,あとは行くだけだぞ,と思っていた。
 しかし,次第にこの日が近づくにつれて,どのくらい混雑するのか皆目見当がつかなくなり,だんだん心配になってきた。はじめのうちは皆既日食当日の早朝に家を出て皆既帯に向かえばいいくらいに考えてはいたのだが,それでは渋滞して到着できないのではないか? と思うようになり,ともかく,前日に皆既帯に到着したらどうか,からはじまって,ついには2日前に出かけて皆既帯でキャンプをして当日を迎えようということになったわけだった。
 しかし,そう決まったときにはすでに皆既帯のキャンプ地は予約で埋まっていて,なんとか,アイダホ州のワイザーという小さな町の端にあった空き地が,急ごしらえのキャンプ地となり,そこをなんとか予約することができたのだった。

 今回のキャンプは,私には前回までこのブログに書いたキャンプの延長である。そのときは総勢が私を含めて6人+犬1匹であった。そこに今回はMファミリーのグランパとグランマ+犬1匹が加わったのであった。新しく加わったグランパとグランマが乗り込んだのはキャンピングトレーラー,否,キャンピングカーであった。そしてまた,Mファミリーのピックアックトラックには,トレーラーを接続してあったから,ついに,私がアメリカでよく見かけた,まさに,アメリカのキャンプ,つまり駅馬車隊のようになった。しかしまあ,長いことと旅をしていると,こんなことまで実現するとは,本当に夢にも思わなかった。ついに,私は,アメリカでキャンプというレジャーを体験することができたのであった。

 そのキャンピングカーというのは,Coachmenという会社のPursuitというものであった。大きさは小型バスくらいある。日本でたまに見かけるおもちゃのようなキャンピングカーとは雲泥の差がある。ネットで調べると,手に入れようとすれば800万円ほどであろうか? 私には本当のところはよくわからない。いずれにしても,年に数回使用するために,こうした投資をしちゃうのがアメリカであり,私には,そのための維持費やら手間を考えると,理解しがたいものではある。
 なかを見せてもらったが,1Kのマンションのような感じであった。一番奥に寝室があって,あとはシャワールームとキッチンがある。これもまたいつも書いているように,アメリカは何もかもが同じで,ホテルだろうと宇宙ステーションだろうと,こうしたキャンピングカーであろうと,寝室とシャワールームとキッチンが当然のようにあるわけだ。つまり,ホテルの一室を運んでいる,というようなものなのある。
 今日の写真はそのときのキャンプ場に停まっていたキャンピングカーたちである。

◇◇◇
愛しきアメリカ-キャンピングトレーラーの旅

DSC_5739DSC_5652DSC_5654DSC_5634IMG_2394DSC_5740

######
 NHK総合「ブラタモリ」は近頃マンネリで,私にはあまりおもしろくありませんでした。しかし,#85の高知県は久々にとても興味深く見ることができました。どうやら,おもしろいかどうかは番組のできではなく,私の興味がある場所かどうかが問題だということです。
 私にとって高知県というか高知市は,今年の2月,ある事情で高知市のホテルを1泊予約することになってしまったので大急ぎで往復してきたというだけのことでしかないのですが,その折に私がこれまでずっと一度は行きたかった場所を訪れることができました。今回の「ブラタモリ」で取り上げられた場所が,まさにその私が行ったところばかりだったのです。

 幕末から明治にかけての歴史で活躍した雄藩を「薩長土肥」といいます。しかし,薩摩,長州,土佐,肥後では,幕末と明治初期にかかわった歴史上の存在位置と価値はずいぶんと違います。
 薩摩というところは,島津家が戦国大名でなくもっと歴史が古く,また,天守閣を作るくらいなら民にお金を使うほうがいいというようなその土地に根付いた考えをもっていたほどなので,国全体に揺るがぬ地位を持っていました。しかし,明治になって西郷隆盛が反政府側から担ぎ出されてしまったために,藩全体が悲劇を背負ってしまったところとなったことが行ってみてみて実感しました。
 長州もまた,島津家と同様に毛利家も戦国大名でなかったのですが,地理的な事情からまわりにたえず気を配らなくてはならず,そのために内政は保守的な支配層と急進派がしのぎを削るという構図になりました。そこに幕末の動乱時,急進派のなかに吉田松陰という核が生まれることで,倒幕の先導を配するに至りました。
 肥前は幕末には大したことをせず明治以降政府に人材を登用したことで同列に扱われているだけですから幕末には大した位置を占めていません。
 そうしたなかで,土佐という地は,山内一豊といういわば「落下傘大名」がその地を支配するために江戸初期にずいぶんと醜いことを行い,上士,郷士という差別を生み,その怨念の結果が幕末に坂本龍馬を排出したという経緯になるわけです。今回の「ブラタモリ」のテーマはまさにこのことでした。

 こうした政治家として単なるシロウトが政治をつかさどるという「落下傘大名」は,関ヶ原の戦いで勝利をした徳川家康がその論功行賞から各地に領土を与えたために生まれました。
 彼らは,いきなり縁もゆかりのない地を収めることが必要となったためにもとからいた地の武士たちをてなづけたり融和を図る必要があったのですが,大名の力量によって,それがうまくゆかず,その結果多くの悲劇が生まれました。その典型が土佐の山内家というわけです。
 そうした「落下傘大名」の領地であったところを旅行してみると,たとえば,肥後(熊本)では今でも加藤清正公は人気があり,反対に細川家はさっぱり,といった空気を直に感じることができます。

 こうしたことが現在も同じように続いているのがこの国の本質です。
 たとえば,学校の校長も縁もゆかりもない学校に突然赴任します。そうした場合,教師たちは「よそ者」である校長を距離を置いて傍観するわけです。そして,そこにも,後で書くような「6:3:1」の派閥が生れるのですが,そうした組織がうまくいくわけがありません。
 こういうのがこの国に根ざしているわけです。管理職として「落下傘」で赴任するものもまた,論功行賞ですが,この国の考える組織とか権力とか地位というものはすべてそうしたものなのです。要するにシロウトなのです。
 政治の世界でも後で書くいわゆる「6」の割合で群れる「主流派」たちは,「3」の割合の集まりを「野合」といって非難するのが常ですけれど,この国の集団というのはそもそも思想などでまとまっているわけではなく,単に「錦の御旗」を掲げたものが「正義」となって,そこに身の保全を図るものたちが群れているだけのことです。そんなことは後醍醐天皇の時代も明治維新の時代も同じです。そして,そうした「正義」にたかって多数派を作るわけで,そうした人々がおよそ6割いるのが日本という国なのです(これを「体制派」あるいは「主流派」と称します)。そこに,深い思慮をもつ人たちがおよそ3割いて,彼らは思慮があるから同じ意見をもっているわけではありませんからまとまれば「野合」と言われるのです。さらに,ぶれない人たちが1割いて,その結果「6:3:1」の構図となっているのです。それはそれでよいのですが,ときとして3割が6割に巻き込まれるような一大事が起きたときに残りの1割を弾圧しはじめ,そこから悲劇が訪れるのです。
 今回の「ブラタモリ」で訪れた高知という場所は,日本の歴史上のこうした姿を我々に思い起こさせてくれるところです。

◇◇◇
私は価値がわからない④-「6:3:1の法則」とは?

DSC_3928DSC_3913DSC_3918DSC_3920

●決してジャガイモだけの州ではない。●
 キャンプからマウンテンホームに戻る途中,「Shoshone Indian Ice Caves」というところに寄ったので,今日はそのことを書いておこう。ここは,クレイター・オブ・ザ・ムーンと,私が春に行ったケンタッキー州のマンモスケイブ国立公園を足して「10で割った」ようなところであった。
 「10で割った」というのは,規模が小さいという意味である。

 アイダホ州の全体は一面に広がる大地で,「ちっとそこまで」といった隣町の距離は半端でない。だから,このアイスケイブも規模が小さいと書いたが,それでも山口県の秋吉台を100倍くらいに拡大したものと想像すればよいかもしれない。
 ここは国立公園ではなく,この土地の持ち主が小さな博物館兼洞窟ツアーを実施している感じだがそれでもすごいスケールであった。この洞窟ツアーは45分ほどで,中に入ると,自然の驚異を実感することができるのだった。
 入口にあった博物館兼土産物屋には安っぽい土産が並び,いかにもアメリカの民間の観光地であった。また,ネイティブアメリカンが作ったであろう,木彫りの彫刻などが洞窟の入口に脈絡なく並んでいて,ある種のいかがわしさを醸し出していた。そのまったく垢抜けしていない様子は,国立公園の整然とした規律のある状況とは対比をなすものであった。

 ここで話は変わるが,私が数年前に九州の吉野ケ里遺跡に行ったときに,その豪華さに驚いたものだが,その理由は,吉野ケ里遺跡が国の施設になったから,というものであった。私は,国が管理するかそうでないかというのは,予算の面でそれほど大きな差ができるものなのか,と驚いたのであったが,ここもまたそれと同様であった。
 さらにもうひとつ余談を書く。それは,アメリカでは,どうして観光地の土産物はどこもこうもしょ~もないものばかりが並んでいるのだろうか,ということである。これもまた昔話になるが,以前ヒューストンにあるNASAを見学したとき,土産物売り場をさんざんまわってみたのだが,欲しいものが何ひとつ見つからななかった。
 それdも,近年はかなり「マシな」ものが売られるようになってきた。私がこのときの旅でこの後で行くことになるシアトルにあるボーイング社の工場見学ツアーでは,予想に反して売店にはかなりいいものがたくさん売られていた。しかし,今度は,その値段というものが半端じゃなかった。MLBのボールパークのオフィシャルグッズにしても,ユニフォーム型のシャツなんて10,000円以上ももするのだ。

 話を戻そう。
 ここアイスケイブは「世界自然不思議」のひとつなのだそうで,地下の水が凍っているのだ。そして,そのことが,この洞窟の名前の由来となっている。このように,アイダホ州は,確かにとなりのモンタナ州やユタ州にくらべれば「観光地」と言えるほどの見どころはないのだが,それでもこうした不思議な場所が結構ある。決してジャガイモだけの州ではないのである。

DSC_3903DSC_3905DSC_3909DSC_3910

●「誰がために鐘は鳴る」を完成させた地●
 私が連れていってもらったキャンプ場はリゾート地であるサンバレーから,さらに北にいったSawtoothというところであったが,今日の1番目の写真は,そのキャンプ場の入口にあったビジターセンターである。このキャンプ場は,入口から進んでいくと給水所があって,キャンピングカーは,そこで水を補給できるが,その先は,電気も水道もなく,トイレがあるのみ。しかも,めちゃくちゃ広い。
 日本のオートキャンプ場は,それに比べたら,単に,キャンプと名の付いたパック旅行のようなものである。
 サンバレー(Sun Valley)は,アイダホ州の中央部に位置するリゾートで,ウッドリバーバレーに位置している。人口は約1,400人。標高1,800メートルにあって,観光客はスキー,ハイキング,アイススケート,乗馬,テニス,サイクリングなどを楽しむことができる。
 リゾート地なので年間を通して住んでる人は少なく,オレゴン州ポートランド,ワシントン州シアトル,カリフォルニア州ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸の大都市や,イリノイ州シカゴ,ニューヨーク州ニューヨークなど遠方の大都市から,短期間来る者が多い。

 1930年代にアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway)がこの地を大衆に紹介してから,金持ちや著名人が季節によって滞在する場所となってきた。
 アメリカの冬のリゾート地は,ユニオン・パシフィック鉄道会長のW・アヴェレル・ハリマン(William Averell Harriman)が西部の鉄道利用客を増加させるために開発した。1932年にニューヨーク州レイクプラシッドで冬季オリンピックが成功したことでウィンタースポーツを楽しむ人が増えた。そこで,スイス・アルプスで楽しむことができるのと似たような山岳リゾートをアメリカでも作ろうと判断したのであった。そこで,オーストリアの伯爵フェリックス・シャフゴッシュの協力を得て,冬のリゾート地に最適な場所を求めて,レーニア山,フッド山,ヨセミテ国立公園,サンバーナディーノ山脈,ザイオン国立公園,ロッキーマウンテン国立公園,ワサッチ山脈,ポカテッロ,ジャクソンホール,グランドターヒーを旅したが,なかなか最適な地がなかった。
 そうして,その旅の終わりにみつけたのが,ここサンバレーであった。フロリダ州のマイアミビーチを宣伝して成功していた広告業界のパイオニア,スティーブ・ハニガン(Steve Hanigan)が雇われ,そのリゾート地は「サンバレー」と名付けられたのだった。

 サンバレー・インは1937年にオープンした。作家アーネスト・ヘミングウェイが,1939年秋にロッジの206号室に滞在し,「誰がために鐘は鳴る」(For Whom the Bell Tolls)を完成させた。また,ゲイリー・クーパー(Gary Cooper)が何度も訪れて狩猟や釣りを楽しみ,クラーク・ゲーブル(Clark Gable),エロール・フリン(Errol Flynn),ルシル・ボール(Lucille Désirée Ball),マリリン・モンロー(Marilyn Monroe),ケネディ家の数人などが客になった。
 サンバレーは1941年の映画「サンバレー・セレナード」に登場し宣伝された。この映画にはソニア・ヘニー(Sonja Henie),ジョン・ペイン(John Payne),ミルトン・バール(Milton Berle)およびバンドリーダーのグレン・ミラー(Alton Glenn Miller)が出演した。また,1971年,アポロ15号の宇宙飛行士ジェームズ・アーウィン(James Benson Irwin)が月面のハドリー・アペニン(Mons Hadley)に降り立ったとき,熱心なスキーファンである彼は「サンバレーのようだ」と叫んだという。そのほか,サンバレーと関わりがある著名人は,先に書いたアーノルド・シュワルツェネッガーをはじめとして,トム・ハンクス(Thomas Jeffrey "Tom" Hanks),クリント・イーストウッド(Eastwood Jr.),ビル・ゲイツ(William Henry "Bill" Gates III)などがいる。
 私がこのサンバレーを通ったときは夏のハイシーズンで,多くのリゾートを楽しむ観光客で一杯だった。

◇◇◇
 Harvest Moon 2017 
DSC_9372 (3)

hidden-figures-desktop-all-platforms-front-main-stageKatherine_Johnson_in_2008MaryJacksonhqdefaultC-tI-dpVoAAmxny

 映画「ドリーム」(Hidden Figures)を見ました。
 NHKBSプレミアムの「コズミックフロント☆NEXT」で「コンピューターと呼ばれた女性たち」と題して放送されたのが,
  ・・・・・・
 旧ソ連と宇宙開発競争を行っていたころのアメリカ。当時のNASAに「コンピューター」と呼ばれる女性たちが働いていた。男女格差や人種差別のあった当時,彼女たちはただロボットのように動いていたが,やがてアメリカ初の宇宙飛行や月面着陸にも重要な役割を果たすようになっていった。
  ・・・・・・
というお話でした。
 私は,アメリカと宇宙開発に興味があるので,おおよそのことは知っていましたが,初期の有人宇宙ロケットの開発にこうした女性の活躍があったことは知りませんでした。
 そして,映画「ドリーム」が公開されました。私はこの映画が,まさに「コズミックフロント☆NEXT」で放送されたものと同じ内容を扱ったものとは知らず見にいったのですが,期待以上のすばらしい映画に感動しました。泣けました。

 映画「ドリーム」はマーゴット・リー・シェタリー(Margot Lee Shetterly)のノンフィクション小説「Hidden Figures」を原作としたものです。 
  ・・・・・・
 1961年,アメリカ南部では依然として白人と有色人種の分離政策が行われていた時代が舞台です。優秀な黒人女性のキャサリン・ジョンソン(Katherine Goble Johnson)は同僚のドロシー・ヴォーン(Dorothy Vaughan),メアリー・ジャクソン(Mary Jackson)と共にアメリカ南東部のラングレー研究所で計算手として働いていた。ソ連の人工衛星打ち上げ成功で,アメリカ国内では有人宇宙船計画へのプレッシャーが強まっていたなか,キャサリンはスペース・タスク・グループでの作業を命じられたのだが,彼女は職場の建物に黒人向けのトイレがないなどの劣悪な環境に苦しめられることとなった。キャサリン・ジョンソンに対する同僚の反応も酷いものであった。
 また,ドロシー・ヴォーンは昇進を願い出ても断られ,メアリー・ジャクソンは実験用の宇宙カプセルの耐熱壁に欠陥があることに気がついていたが,「女で黒人でエンジニアになることはできない」として受け入れられなかった。
 この3人の黒人女性がこうした偏見や差別と戦いながら,科学史に残る偉業であるマーキュリー計画の達成に貢献していく姿を描き出していく。
  ・・・・・・

 実際は,この時代でも,映画にあるような差別的な状況は改善されつつあり,白人用と黒人用のトイレはすでに取り払われていたし,実際のドロシー・ヴォーンはスーパーバイザーに昇進していたし,メアリー・ジャクソンは学位を修得しエンジニアの職を得ているなど,映画ほど悪い状況ではなかったらしいのですが,それでも,こうした人物を映画のような境遇に描くことで,当時の(そして今も残る)アメリカの負の部分と,それに葛藤しのし上がっていくマイノリティの力強い姿を象徴的に描き出すのに成功しています。
 「コズミックフロント☆NEXT」にも出てきましたが,宇宙飛行士のジョン・ハーシェル・グレン(John Herschel Glenn)が「あの女の子」(キャサリン・ジョンソン)にコンピュータIBMの出した計算結果が正しいかどうか確かめて欲しいと依頼し,彼女が正しいというのなら器械を信頼するというシーンが圧巻です。
 この映画は,偉大な業績をなしえた人物を伝記風に紹介するといった,よくあるアメリカ映画の手法で作られていますが,内容が私には興味深いので最後まで楽しめました。さまざまな問題が山積しいやな部分もいっぱいあるアメリカだけど,そうしたアメリカ社会のもつさまざまな問題に体当たりで挑戦し,まさに「夢=ドリーム」を成し遂げるという強さ,これこそが「アメリカンドリーム」そのものだ,ということを再確認させてくれる映画でした。そしてまた,アメリカの懐の深さと可能性を強く感じました。
 アメリカらしい,いかにもアメリカらしい映画です。


DSC_1590IMG_0598DSC_2109DSC_2112DSC_2111

 ぐっさんが大型トラックのぐっさん号に乗って日本中を走る「トラック旅」。
 第1弾が2015年10月末に放送された日本の高速道を鹿児島から北海道まで縦断する「列島横断2,800キロ!ニッポン高速道路トラック旅」。第2弾は2016年5月7日に放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!″1号線” 東京~大阪の巻」。
 第3弾は,2016年11月5日に放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!“2号線”大阪~北九州の巻」。第4弾は,2017年4月8日に放送された九州の佐世保から北海道の釧路までを再び横断する「「ぐっさんのニッポン高速道路トラック旅!」でした。
 そして,第5弾が「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!”3号線”北九州~鹿児島」。九州地方を襲った大雨のために2017年7月15日の放送が見送られていたものが,やっと陽の目をみました。

 北九州市から鹿児島市までの国道3号線は,思い出してみれば,私も数年前に九州を車で一周したときにそのほとんどは高速道路でしたが,ところどころ走ったことがあります。そしてまた,地震で損傷するまえの熊本城にもいくことができました。
 この番組では,今回も,高さ62メートルの観音様や重要文化財の芝居小屋などの見どころとともに絶品グルメの紹介,そして,復興がはじまった熊本城など,興味深いものがたくさん登場しました。興味深いものばかりでしたが,番組の時間枠で扱うにはちょっと内容詰め込み過ぎで大忙しでした。なかでも私が一番興味深かったのは福岡空港のお話でした。
 また,国道3号線の終点は鹿児島市の照国神社ということだったのですが,私も数年前の九州一周で鹿児島に着いたとき照国神社に行ったのを思い出しました。

 本州に住む私は,九州や四国というところは,行ってみるとその文化や歴史感の違いは予想以上のもので,非常に興味深いです。あまり思い入れがなく行った動機もいい加減なものなのですが,なぜか,月日が経つごとにじわじわとすごく懐かしい感情が沸き起こるのが不思議です。これは,海外に行ったときには感じることのない独特な旅情です。福岡は中州が飲み歩くにはとても楽しそう都会だったし,熊本は「くまモン」だけでない暖かな街だったし,鹿児島という都会は島津の殿様の偉大さがわかるとても魅力的なところでした。
 歳をとって今のような旅行ができなくなったとき懐かしく思い出されるのは,これまで出かけた海外でのさまざまなアグレッシブな経験などではなく,こうした何気なく訪れた日本の各地の懐かしさではないのかな,と悔しいけれど思ったりします。私は日本を旅をしているときにはそれほどときめかないのですが,不思議なものです。

 さて,トラック旅は,国道を走るシリーズのほうは,3回目は九州を縦断する国道3号線でした。順調に1号線,2号線,3号線とシリーズが続いています。さて,次の4号線は東京から青森ですが,このシリーズもまた第4回は当然国道4号線でしょうか……。
 それにしても,これからいくら何度も再放送をするからそのときに見ればいいだろうって,BSプレミアムでこの番組が放送されている時間にNHK総合では「ブラタモリ」を放送しているのは,NHKさん,何を考えているのでしょうね。このふたつの番組,見ている層の多くは同じ人たちですよ。

◇◇◇
「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
「ニッポン国道トラック旅」②-グルメこそ楽しみ
「高速道路トラック旅」②-日本にあるのは廃墟だけ?
幻の「ニッポン国道トラック旅」-自然に戻すことこそが…

DSC_6355

######
 「京都人の密かな愉しみ」。
 評判がよかったようで,2ndシーズンが放送されました。題して「Blue 修業中/送る夏」だそうです。1stシーズンでは,「密かな愉しみ」とは,実は不倫の愉しみだった,というのがオチでしたが,われらがアイドル常盤貴子さんは愛人を追いかけてフランスに行ってしまい,私は,「京都人の密かな愉しみ」の「ホンマモン」? の2ndシーズンは,むしろNHKEテレの「旅するフランス語」であると固く信じているのですが,こちらの方の「マガイモン」? の続編は.若者たちの修行の物語なのだそうです。おそらく考えに考え抜いた構想なのでしょう。
 「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」が「ローカル路線バス乗り継ぎの旅Z」になったように,「京都人の密かな愉しみ」もまた,はじめは作る気がなかったのに大人の事情で作らざるをえなくなった新しいシーズンだと思うので,新シーズンがあるだけでもとまどうのに,常盤貴子さんが出演されないとあっては,私はテンション下がりっぱなしです。さらに,それに輪をかけて,この番組の予告編を見ただけでその内容に私は抵抗があってすっかり興味も失せていたのですが,ともかく,一度は見てみることにしました。
 曰く,この番組は,
  ・・・・・・
 作庭,陶芸,京料理など,京都の伝統的な文化を継承し,自分なりの生き方を見いだそうとする若者たちの姿を五山の送り火に向かう情景の中で描く。厳しい親や師匠との葛藤あり,涙あり,笑いあり。ドキュメンタリーとドラマを行ったりきたりしながら,イチゲンさんでは知りえない京都の奥深い世界へ。
  ・・・・・・
ということだそうです。

 NHKの朝ドラでは,「ひよっこ」のような,登場人物がすべて善人のドラマと,登場人物に「いびり」が得意な人物を配置して,そうした「サビ」? を利かしたドラマの2種類があります。私は後者のドラマは大嫌いです。この「いびり」こそが「イジメ」の根源なのですが,本質的に陰湿な日本人は,こういうの大好きなんです。苦節○○年とか,この道○○年を美化し,そのために「辛抱」とか「我慢」を強要する。それだけならまだしも,その間は修行とか仕込みと称した「いじめ」に会うわけで,それを正当化するのが大好きなんです。そして最後に,親方の厳しさが今の私を作った,とかいう美談に仕上げるのです。そんなことにだまされてはいけません。
 何事にも「ホンマモン」と「マガイモン」があります。「マガイモン」のことを「メッキ」と言います。はじめっから「メッキ」であると表示してそれを安価で売っているものはそれはそれで価値があり問題はないのですが,「メッキ」なのに「ホンマモン」と称したまさに「マガイモン」が幅を利かせているのが問題なのです。そして,それが「メッキ」であることを見抜けない「見る目がない」人たちがだまされているわけです。
 たとえば「名品」とか名づけてそれを紹介する雑誌には「名品」ぶった「メッキ」が多々登場します。私は以前「高級」をうたった少し値段の張る旅のツアーに参加したことがあるのですが,そのときのガイドが何も知らない人,つまり「マガイモン」で,この旅行会社は「メッキ」だと落胆したことがあります。そもそも,この国の,本来は生きる能力を身につけるのが目的であるはずなのに,学歴という「ブランド」,いや「メッキ」を手に入れることだけが目的となってしまい,そのためのドリル学習をするだけで何も身につかない「教育」の名を借りた「マガイモン」もまた同じようなものです。

 さて,そこでこの番組のお話です。この「京都人の密かな愉しみ」は「ホンマモン」を売りにしているからこそ魅力的であり,実際,映像も美しくまさに「ホンマモン」で,番組に登場する人物もそして風景も「ホンマモン」であったからこそ素晴らしい番組に仕上がっていたわけで,今回もまた私はそれを期待しました。しかも,今回の内容は若者が「ホンマモン」になるための辛い修行をしているというものでした。
 しかしまあ,どうして「ホンマモン」になるために,若者は気難しい親方にどやされなくてはならないのでしょう? 私にはそれがさっぱり理解できません。私はこれまで60年も生きてきて,こうした「どやす」ことの大好きな自称「ホンマモン」にずいぶんと出会い,迷惑をこうむりましたが,彼らは決して「ホンマモン」なんかではなく,肩書という「メッキ」の好きなプライドの高い単なる「奸物」たちでした。正真正銘の「ホンマモン」にはオーラがあり,まさに本物の「ホンマモン」は「マガイモノ」が得意とする「どやす」ような武器は必要がないのです。
 私は,「どやす」という武器を行使する気難しい親方,それをさも京都の「ホンマモン」文化を今もなお受け継ぐための美談として紹介するだけでも抵抗がありました。しかしそれでも,それをドラマとして見ている分には,現在そうした「マガイモン」の親方に出会ってしまって不幸な境遇に置かれた若者がこの番組を見たときそれを自分の境遇に同化できるから救いがあるかもしれません。しかし,私は五山の送り火のシーンで見てしまった「PM8:00点火」のテロップに落胆しました。「PM8:00」は誤用であって正しくは「8:00PM」と書きます。「ホンマモン」の番組だからこそ,こうした間違いがあってはいけません。すべてがその程度の番組になってしまいます。
 どうか,この「ホンマモン」志向の番組も,今回のような,まだ修行中の若者の醸し出す未熟さから脱して,もし次回があれば,ぜひ本当の「ホンマモン」に成長できますようにと祈っています。
 では私は気持ちを新たにして,常盤貴子さんを見るために,10月4日から新シーズンのはじまる「京都人の密かな愉しみ」の「ホンマモン」? の2ndシーズンであるEテレの「旅するフランス語」のほうを愉しむとしましょうか。

◇◇◇
したたかな千年の古都-「京都人の密かな愉しみ 桜散る」①
びっくりポンの結末は-「京都人の密かな愉しみ 桜散る」②

DSC_3887DSC_3892DSC_3871DSC_3897DSC_3895 1200px-Bigbullmoose

●野生のムースが突然現れた。●
 お昼間は特にすることもないので,キャンプをしている場所からのんびりと歩いていって,魚が釣れるという池に着いた。
 この池のあたりは,写真にあるように,人ひとりいないような大自然であった。この池は来るたびに水かさが違っていて,だから,池の大きさも違っていて,魚がどれだけ釣れるかもまた違うということだった。この日は水の量も少なく,どこに魚が住めるかと疑問になるほどであった。
 きっと,人間というのは,古代から,こういう自然環境のなかで暮らしていたのに違いないんだなあ,と私は思った。
 それでも,我々は遊び気分だからいいようなものの,魚がつれるかどうかが生活の大問題であるのなら,池の水かさは重大なことに違いないだろう。

 ここで少し話が変わるが,日本のBS放送では旅番組が盛んで,日本各地のさまざまな様子が家にいながらわかる。私もそうした番組が好きでよく見ているが,その中で,以前,「グレイトトラバース」という日本の山に登る番組を放送していた。
 確かに山登りというのは大変に違いがないのだが,私はその番組を見て最も感じたのは,日本は北の果てから南の果てまで,どこへ行っても,結局,人が大自然を無残に切り開いた醜い場所しか残っていないのだなあ,ということであった。そしてまた,険しそうなどの山に登っても,山頂は人で溢れ,その人混みは都会と変わるものではなかった。
 こうした旅番組の影響もあってか,あるいは,それまでは仕事仕事で旅もできなかったからか,日本では定年退職後の健康な人たちが,東に西に北に南にと自然を求めて右往左往しているように思われる。しかし,自然の美しさを求めてどこにでかけても,そんな自然など,日本にはどこにもないのだ。アメリカのこうした大自然を知ってしまった私には,それがとても痛々しく思われる。

 話を釣りにもどそう。
 私の趣味に魚釣りはない。だから,釣りの経験はほとんどない。一度釣り堀で試みたことがあったが,釣り針にかかった魚を見て,私は痛々しくかつかわいそうになった。これでは釣りはできないわけだ。
 今回,私は釣竿を借りて,見よう見まねで糸を垂れた。しかし,そんな私に釣られてしまうような魚はよほど修行が足りないのに違いがない。
 そんな私の影響のわけでもなかろうが,釣りはまったくの不作で,全員でたった3匹しか収穫がなかった。そのたった3匹の魚を持って帰って夕食のときについでに料理して食べたのだが,釣りたての魚というのは,非常に美味であった。

 そんなことをしながら,大自然の中で,暗くなれば寝て,明るくなれば起きて,お昼間は釣りくらいしかすることもなく,今考えると何をして時間を潰したのかも思い出せないが,3日間を過ごした。私はほとんど何の手伝いもせず,お昼間は与えられたものを食べ,夜は寝ていただけであった。
 朝晩は寒かったので寝袋にしがみついて寝たが昼間は快適であった。残念だったのは天気があまりよくなくて,星がまったく見えなかったことであった。
 今これを書いていて思うのだが,わずか2年前のこととはいえ,このときの私は,夜テントで寝るのも苦痛だったし,星が見えないこともまた,とてもとても残念であった。この2年という月日の経験はそんな私を劇的に変身させたのだが,このことはまた後日書くことにする。

 ところで,こうしたキャンプ生活が日常と大きく異なるのは,シャワーとトレイであろう。アウトドア生活の障害というのはこのふたつに尽きる。山登りも同様である。
 シャワーはないから,清潔感を求めるのなら2泊くらいが限度になってしまうであろう。トイレのほうは,日本のアウトドアでのそれに比べて,こちらのトイレは清潔できれいである。そうしようと,みんなが気をくばっているのである。
 日本では,デパートのトイレなどは必要以上にきれいでかつ自動化されているが,駅のトイレなどは無残な状態である。両極端なのである。しかし,アメリカではどこも同じ程度に清潔である。
 おそらく,日本人にとって海外旅行をする上での障害は言葉と移動手段に加えて,トレイであろう。これはウォッシュレットの存在が大きな要因なのである。あんなものが日本だけで普及したから,日本人はそれなくしては生きていかれなくなってしまったのだ。

 さて3日目。帰る日の朝のことである。
 私がコーヒーを飲んでいると,突然,木の陰から巨大な獲物が現れて,私の5~6メートル前をのそのそと歩いて消えていった。それは,驚くことに野生のムースであった。
 聞いてみると,現地に住む人もムースなど見たことがないということであった。

このページのトップヘ