しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2018

 我が家には iPad が5台もあります。内訳は,初代,iPad2,iPadAir,iPadmini,そして買ったばかりの第5世代です。古くなっても下取りに出さないものだからどんどん増えていきました。しかし,さすがに初代は使い物になりません。iPad2 もすぐに固まるので使いづらいです。しかし,残りの3台は現役バリバリです。
 そんな次第で,しばらく初代と iPad2 は隠居をしていたので,この度の「断捨離」で処分をしようとデータの初期化をしました。しかし,作業をしているうちに捨てるのも忍びなくなって,何か使い道がないかを考えるようになりました。その結果,初代は頻繁に見るビデオを保存しておいてそれを見るための専用機として,また,iPad2  は AmebaTV と YouTube を見るための専用機として復帰しました。今では iPad2 は AmebaTV の将棋チャンネルが朝から晩までつきっぱなしになっています。便利なものです。

 さて,そうこうしているうちに,現役バリバリだった iPadAir のバッテリーがおかしくなり,充電してもすぐに切れてしまうようになりました。そこで予約をして AppleShop に持っていきました。
 この AppleShop はきわめてアメリカ的なサービスをするところで,日本人の考える慇懃「無礼」なサービスとは全く違う塩梅なので,そうした間合いを知らない人は腹が立つと思います。なにせ AppleShop には日本のサービスセンターのような「窓口」というものはなく,そこらに立っているスタッフに声をかけて近くのイスに座って担当者が来るのをひたすら待つ,ということなのですから。しかし,その間合いを知れば,それはそれで非常に快適です。その反対に,日本のサービスセンターだと制服を着た(いかにも派遣といった)きれいなお姉さんがにこやかにマニュアルどおりの対応だけはしてくれますが,知識もなく権限もなく,単なる人形です。
 私の iPadAir,AppleShop での「診断」(プログラムを走らせた)の結果,「バッテリー劣化のため交換」と相成りました。保証が切れていたので有償ということでした。部品がないから取り寄せるので約2週間かかるということだったので気長に2週間待つことにしたころ,わずか2日目に連絡がありました。再び AppleShop に出かけたのですが,その修理の内容というのは,バッテリーの交換ではなくて, iPadAir が新しいものに交換されるということでした。

 これはすごいことです。感激しました。4,5年使ったものがわずか1万数千円で再び新品になってしまったわけです。考えてみれば,メーカーとしては,バッテリーを交換するために技術者を養成し,時間をかけて作業するくらいなら,こうして交換してしまう方がずっと効率もよくコストもかからないのでしょう。また,ユーザーにとってもそのほうが利があるから,これがウィンウィンなのです。
 私はこのところ,身の回りの愛用品がやたらと使わない機能満載で使いにくいだけの日本製品から腐骨なアメリカ製品ばかりになりつつあるのですが,こうした企業のサービスの在り方を考えるだけでも,日本の企業がどんどんと世界から取り残されていくことを痛感するわけです。ちなみに私が昨年ニコンに修理に出したカメラのバッテリーの不具合は2か月近くが過ぎても何の返事もありません。時折催促に出かけてもぐたぐた言い訳をするだけでなんの解決も得ることができません。こういう対応を慇懃「無礼」と言います。
 ちなみに,私はこのように AppleShop に持っていきましたが,友人によると,ウェブで連絡をすると運送費無償で取りに来てくれて数日で新品に交換されて戻ってきたのだそうです。

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 旅をしていて思うのですが,人は何をするために旅をするのでしょう?
 「るるぶ」という雑誌がありました。今もあるのかどうかは知りませんが,ガイドブックの商品名にもなりました。この「るるぶ」という言葉の由来は,1972年にJTBの出版事業局が旅の雑誌を発刊するに伴ってネーミングを募集したときに,アイ・シー・エー株式会社(International Consulting & Advertising)の野村元久さんが「見る」「着る」「遊ぶ」をキーワードとして「るるぶ」と発案したものだそうです。つまり,この言葉によれば,旅というのは見どころなどに行って「見る」こと,ファッションを「着る」こと,そして,テーマパークなどで「遊ぶ」ことが目的になるのでしょうか。
 人が集まる場所というのは近年では日本だけに限らずショッピングモールというものがあるのですが,そこには商品が溢れています。しかし,私にとってはそこで売られているもののほとんどがいらない,というより必要がないのです。だから,私にはそういう場所にあるお店がどうして成り立つのかすらよくわからないのですが,旅の目的は,そこで「ショッピング」をしたり「食べる」こと,これに尽きる人も多いわけだから,こうしたお店が成り立つのでしょう。

 しかし,私はショッピングには興味はないしグルメでもないから,旅の目的は非日常を味わい,自分の好奇心を満たすということになります。そうした目的のために,できる限りお金を使わない旅行を工夫するわけです。いわば,旅での「断捨離」です。
 「衣食住」というように,旅をするときに必要なものは泊まる場所と服と食事ですが,泊まる場所は,まあ,シャワーがあって寝られればいいわけです。服は持って行くから旅先では買いません。一番の問題は食事ですが,これをどう工夫するかが,私の最も重要な問題になりますが,それはまたの機会として,今日の話題ではありません。

 今日のお話は旅先での観光です。私が先日ハワイ・カウアイ島に行ったときに参加した「リバーボートツアー」は窓口でチケット買いましたが25ドルでした。このツアーは日本の旅行会社のやっている現地ツアーに組み込まれていて,それを利用すると100ドルになるのです。私がこれまで数回参加した星空観察ツアーというのもそれと同様で,現地で探せば70ドルくらいのものが日本の旅行会社の現地ツアーだと3万円近くにもなります。
 いつも書いているように,旅というのは言葉が不自由で移動手段がないとべらぼうに高くなってしまうのです。
 旅における「断捨離」というのは,こうした出費をいかに抑えるかにかかっているというわけです。

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●ラハイナの歴史を感じるトレイル●
 私は「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」(Lahaina Historic Walking Trail)でラハイナを隈なく巡っている。地図やパンフレットを片手にこんなふうに観光をしている人たちがほかに少しだけいたが,日本人の姿はなかった。
 ウエブで調べても,ブログをさがしても,日本の旧東海道を歩いているとか,百名山を登っているといったものは山ほどあるのにも関わらず,ラハイナの歴史地区を歩いたというブログはほとんどないか,あっても写真と簡単な説明が載っているだけである。

 では,先を続けよう。
 今日の1番目の写真は「イギリス国教派墓地」(Maria Lanakila Catholic Cemetery Episcopal Church)である。この墓地は「イギリス国教派教会」(The Episcopal Church)の隣にある墓地であった。この墓地にはイギリス国教派教会に関わった家族や信者が埋葬されている。つまり,ハワイにはじめてキリスト教が布教されたときに信者となった人たちが今ここに埋葬されているわけである。
 「イギリス国教派教会」は1862年に宣教師によって設立された。1909年に現在の場所に動かされ,1927年に改装された。

 2番目の写真は「真言宗法光寺」(The Buddist Church of the Shingon Sect)である。
 「真言宗法光寺」は1902年砂糖キビプランテーションで働くため日本人が移民してきたころに普通の家屋を使い真言宗初の布教場としてスタートしたハワイ州で1番古く歴史のある真言宗のお寺である。
 この後で訪れることになる浄土寺も含め,ここラハイナにはこうした仏教寺院がいくつかあった。

 このようにして,私はラハイナの南にあった寺院を巡ってふたたびダウンタウンに戻ってきた。
 3番目の写真はカメハメハ3世の「タロイモ畑跡」(The Taro Patch)である。
 1959年のおわりごろまでここにタロイモ畑の跡をみることができた。カメハメハ3世は自らこの畑で働き,人民の労働意欲を鼓舞したといわれている。現在は真似事のようにタロイモが少し植えられて当時の面影を味わうことができるように再現されていた。
 タロイモとは何であろうか? 日本で栽培されているサトイモ,エビイモ,エグイモ,京料理のカラノイモ,タケノコイモ,南日本のタイモもタロイモの一種である。なかでもサトイモはタロイモのうちで最も北方で栽培されている品種群である。熱帯アジアやオセアニア島嶼域,アフリカの熱帯雨林地帯ではさらに多くの種やその品種群が多く栽培されていて,これを主食としている民族や地域も多い。また,キプロスにはコロカシと呼ばれるタロイモがあり,ポリネシアではタロイモから作るポイというペースト状の食品が主食とされている。
 ハワイ州の伝統料理に豚肉をタロイモの若葉で包んで蒸し焼きにしたラウラウという料理がある。

 そして,今日の最後,4番目の写真が「ウォ・ヒン博物館」(The Wo Hing Museum)である。
 ハワイには日本人だけでなく中国人移民も数多い。「ウォ・ヒン」は道教信徒のお寺であり,また,「中国人友愛組合」(Chee Kung Tong)の支部でもある。1階には中国の工芸品が展示されているほか,トーマス・エジソンが撮ったといわれるフィルムが公開されているそうだが,私は外から見ただけで中には入らなかった。それは,この建物に入るのに入館料が必要であったことに加え,中国に興味がないのが理由であった。
 トレイルにはもう一箇所浄土寺というお寺があるのだが歩いていくには少し遠いので,私は駐車場に戻って,車で行くことにした。

 歳を経るとだれもが「今どきの若いモンは」と言います。
 私の若いころはそうした年寄りの多くは今よりもずっとプライドが高く頑固だったので,かなり迷惑しました。世はアナログ時代のころのこと。たとえ屁理屈であろうと口で言ったモンが勝ちでした。だから,能力がなくても偉そうな態度をしていればよかったのです。
 やがて1990年代になってコンピュータのOSにWindows95というのが現れて,そうした頑固じいさんは時代に乗り遅れました。プライドの高さがそれに災いし,人にも聞けず,コンピュータ時代についていけなくなったのです。ついに彼らの化けの革がはがれました。その結果,イソップ物語の「キツネとブドウ」の話のように,自分の弱さを隠すためにコンピュータを使っている若者をバカにしくさりながら,やがて時代の孤児となっていきました。

 時代は変わり,そうしたころの若者もやがては歳をとりました。そして,スマホが現れ,SNSが幅を利かせはじめて,ふたたび同じ悲劇が訪れました。その結果,やはり,今日の頑固じいさんも時代の孤児となっていくのです。
 プライドが高くとも頑固でなければ新しい技術を自分で習得するからまだマシなのですが,頑固じいさんはどうにもなりません。やがて定年を迎えて,家では粗大ごみとなり,朝から図書館の新聞取りに並び,民放のワイドショーを見て得ただけのくだらぬ知識を自分の意見のようにひけらかし,つねに妬(ねた)み,僻(ひが)み,不機嫌で愚痴をこぼす嫌われ者の年寄りとなっていくのです。
 こうして歴史は繰り返すのです。

 私のまわりにもそうした年寄り初心者がたくさんいます。
 私が残念に思うのは,若いころは尊敬に値した優秀な友人たちの多くがそうした頑固じいさんになってしまったことです。
 数年前,私が彼らにSNSやスマホを勧めても話に乗ってこなかったくせに,今になって関心を示し,ある者はそれに対して否定的な意見を声高らかに話し,また,ある者はそれとは逆に使いこなせないのに傍若無人にSNSを乱用しはじめているのです。
 頑固じいさんは損をするのです。そして,昔も今も「年寄りは困ったモンだ」と陰で言われるのです。

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●「プリンセス・ナヒエナエナ」の悲劇●
 引き続き,ラハイナの散策を続けよう。
 ラハイナ監獄からさらに南に歩いて行くと町はずれになってきた。このあたりは寺院が多いが,ここにラハイナの王族の悲劇があることを知る観光客は少ない。

 まず,1番目の写真は仏教寺院の「ラハイナ本願寺」(Lahaina Hongwanji Mission)である。屋根のてっぺんにだんごがささったような変わった建物で,1904年に建てられた。親鸞像がお寺の前にあり,ローマ字で「NOKOTSUDOU」と書かれた納骨堂もある。
 現在このお寺は日本語学校としても使われているそうだが,日系の人たちの集会場という機能もありそうだ。
 さらに歩いて行くと2番目の写真のマウイ島島最古のプロテスタント教会「ワイオラ教会」(Waiola Church)に着く。この教会は1828年に建てられた由緒あるもので,もともとはワイネエ教会(Waine'e Church)といわれた。幾度か改築が重ねれら,現在の名に改名された。
 その教会に隣接するのが3番目と4番目の写真にあるワイオラ墓地(ワイネエ墓地)である。この墓地にはカメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニとプリンセス・ナヒエナエナの墓がある。
 前回書いた聖なる土地「モクウラ」が開発の波にのまれ,一度は葬られた「モクウラ」からここ「ワイオラ墓地」に移されたものである。

 カメハメハ1世はカメハメハ王朝の創始者で,ハワイ島コハラの首長の家系に生まれた。カラニオプウ大首長の死後,内戦状態にあったハワイ島を平定して王朝を建てた。
 カメハメハ1世には多く妻がいたが,その第1王妃がケオプオラニである。ケオプオラニは大変身分の高い生まれで,カメハメハ1世でさえ顔を上げて話をすることを許されなかったという。
 カメハメハ1世とケオプオラニの間には,のちのカメハメハ2世と3世となる男子が生れたが,その妹として生まれたのがナヒエナエナである。
 ナヒエナエナは実の兄カウイケアオウリ(後のカメハメハ3世)と愛し合っていて将来結婚することになっていた。今の常識とは違い,当時のハワイアンの習慣として,近親結婚,特に高貴な血を受け継ぐ者同士の結婚はその血筋を守りまた高めるものとして尊重されていた。したがって王とその高貴な妻とのふたりの兄妹は生まれながらにしてその道をたどる運命であった。
  ・・
  ところが,そのころヨーロッパからの宣教師がハワイへ布教を始め,王族の中にもキリスト教を崇拝するものが多くなってきた。ケオプオラニもキリスト教の教えに傾倒していったひとりである。こうして宣教師の影響は次第に王朝の政治にまで影響を及ぼすようになった。
 キリスト宣教師が始めてハワイに到着したとき,ナヒエナエナはたったの5歳であった。ハワイ貴族の娘として育ってきた彼女は宣教師から押し付けられた生き方に賛同することを拒んだ。彼女はイエス様を崇拝することよりも,海の神,風の神,火山の神,自然の神たちを崇拝することを選んだのだ。しかし,母親ケオプオラニが洗礼を受けキリスト教徒になってからは母親からキリスト教を押し付けられることになる。
 ナヒエナエナが表向きだけでもキリスト教を受け入れることになったのは,ケオプラニが死を目の前にした病床での遺言であった。
 「これからは宣教師に育ててもらい,立派なキリスト教徒になるのよ」
 こうして,否応にもキリスト教徒になることを受け入れることになったのだが,それでも古代ハワイアンのしきたりを完全に捨てることができなかった。そして,わざと昔ながらの服を着続けただけではなく,宣教師たちの反対を押し切ってカウイケアオウリと結婚した。
 が,結婚するやいなや宣教師からこんな手紙が彼女の元に届いた。
 「君は最大の罪を犯した。その罪は重く、君は母親のいる天国には行けないだろう」
 それがきっかけで心の病にかかり,かなりな量のお酒を飲み続けた。
 そんな人生の中でも明るい光が差したのは息子を身ごもったことであった。ところがその幸せも長くは続かず,赤子は産まれて数時間のうちに他界した。その事実に耐えられなかったナヒエナエナもまた,その3か月後に21年の短い生涯に幕を打ったのだった。カメハメハ3世として王朝のトップに立ったカウイケアオウリは他の女性と結婚したが,たびたびラハイナにあるナヒエナエナの墓標を訪れていた。
 …今もプリンセス・ナヒエナエナは,母親ケオプオラニと共にラハイナのワイオラ教会の片隅で眠っている。

 ハワイでのウエディングに憧れた日本人がこの教会で結婚式をあげる。ウェブサイトにもハワイでの結婚式の会場としてこの教会が取り上げられている。しかし,こうした歴史の悲劇が書かれたものは皆無である。
 ハワイに関する観光ガイドブックは多いが,それらの情報はショッピングやらグルメばかりである。ここラハイナにもまた,ショッピングやグルメ,そして,ウェディングで日本から訪れる人も少なくないが,こうした歴史を知る,あるいは興味をもつ人は多くない。しかし,この歴史を知ってこの地を訪れると,別の感慨がわくであろう。そしてまたこの教会で結婚式を挙げるということの重さを知ることができるであろう。
 旅をするというのはそういうものであるし,そうでなければならない。

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 どこぞの国の偉い人が巨大な墓を作るのも,どこぞの県知事や市町村の長という人が大きな建築物を作るのも,自分の任期中にそれをやって歴史に自分の名を残したい,ということです。歴史を学ぶと,権力者という人種はみなそんな動機をもっているものだとわかります。しかし,どうして歴史に名を残したいのでしょう? 私は,子供のころからそれが不思議で仕方がありませんでした。 
 私が思う「最も幸せな人生」とは,自由に生きることができて,そして,死んだら生きた証を何も残さないことだとずっと思ってきましたが,それとは真逆な話です。

 地球の歴史は48億年だといわれています。また,宇宙の歴史は138億年だそうです。
 地球の歴史はともかく,宇宙の歴史については,私はほんまかいな? と思っています。以前書いたことがありますが,そもそも物理学というのは物事の真理を語るものではなく,人間の考えた数式で物事の仕組みや将来の動きを語れるような,そういう法則を見つけることです。たとえば,手の上にあるボールを放すと何秒後に地面に落ちるかということを正しく計算できる,というようなことです。
 そうした法則に基づいて,テレビも映るしコンピュータも動いているわけです。それだけのことです。
 そうした法則に当てはめていくと,今までに考えられた物理学で宇宙の創生10のマイナス44乗後から後のことは説明がつくらしいのですが,それ以前のことは,量子論と相対性理論に矛盾が出てくる(つじつまが合わなくなる)ので,現在の物理学では語れないのだそうです。そしてまた,それ以後のこともダークマターとかダークエネルギーという,今はまだそれが何なのかわからないものを前提とすることで説明をしているわけで,要するに95%の物質が不明であって,ほとんど何もわかっていないのです。それは,人間の考える物理学というものが人間の存在する空間と時間という,いわばごくごく狭い隙間から世界を見ているだけなのに,そこから見える景色だけで世界を一般論として語っているようなものだからです。宇宙原理など空想,かもしれません。
 とはいえ,それでも十分に現代の工業製品は役に立っていますから日常の生活には充分です。しかし,宇宙全体を語ることはできないのです。
 私は,神は人間に世界を語るだけの能力を授けていないと思っているのですが,もし,そういう能力をもっているとして,将来そうしたことがわかるようになったとしたら,アインシュタイン以前のニュートン力学が単に近似であったように,現在の物理学というのは,未来人から見たら笑っちゃうような間違いをしているのかもしれません。というよりも,おそらくそうなのでしょう。

 それはさておき,人類が生存している期間というのは地球の歴史に比べたら本当に微々たるものだし,恐竜の生きていた期間とも比べようもないほど短いものです。愚かな人類の歴史がこの先悠久に続くとは私にはとても思えません。おそらく,あっという間になにかの間違いで戦争が起きてあっさりと滅んでしまうことでしょう。あるいは私の考えが杞憂にすぎず人類がずっと生き延びたにせよ,あと50億年もすれば太陽に飲み込まれてなくなってしまいます。
 そんなはかなきものにすぎないのに,地球上に巨大な墓を作ったり建築物を作って名を残そうが,どっちみちなくなってしまうから,そんなもの,まったく意味がないわけです。「未来永劫」なんてありません。それだけのものです。
 私が子供のころから思っていたのはそういうことでした。そんなこともわからないのでしょうか?

 しかし,だからといって,いずれは滅ぶからといって,生きることに意味がないわけではないのです。
 人生は死ぬまでの暇つぶしです。であるなら,できるだけ楽しく暇をつぶさないと辛いだけす。そしてまた,自分の暇つぶしのために他人を不幸にしていいわけがありません。地球をぶち壊していいわけがありません。
 たとえば音楽。どんなに素晴らしい曲でもはじめがあればいつかは終わるわけです。しかし,いつかは終わるからといって聴く意味がないわけでも,演奏する意味がないわけでもないのです。聴いている,あるいは演奏しているその一瞬一瞬の時間に意味があるわけです。それこそが楽しい暇つぶしです。人生もまた,そうしたものです。
 だから,今という瞬間を満ち足りて生きる,ということがもっとも大切なことなのです。決して名を残すことではないし,自分の名を残すために他人を犠牲にすることではありません。

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●「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」●
 カメハメハ王国初期の首都であったラハイナには「モクウラ」(Moku’ula)と呼ばれた地域に王と神官,そして妻たちが住んでいたが,今は跡形もない。「モクウラ」は現在のフロントストリートに面していた場所にあった。私はこの日,このフロントストリートを歩きながらラハイナの名所の散策をしている。
 ラハイナの史跡を見て歩くのに最適なのは「ラハイナ・ヒストリック・トレイル」(Lahaina Historic Walking Trail)と題したウォーキングセルフツアーである。このトレイルは町の史跡保存協会がフロントストリートを中心に南から北へ史跡に番号をつけたものであり,町中のあらゆるところに地図がおかれ「ラハイナ・ヒストリック・サイト」という看板には史跡の名前と番号がかかれていて非常にわかりやすい。現在もコースは整備中で,最終的には62か所の見どころが設定されるということだ。
 このトレイルを歩いてラハイナの歴史を巡る時間の迷路を散策するのが古都ラハイナのもっとも楽しい過ごし方なのだが,何だかアメリカの観光地というよりも,日本の観光地のようであった。

 フロントストリートを南に向かって歩いて行くとショッピングエリアを抜けて町はずれになってきた。ここに町営の広い駐車場があって,ずいぶんと駐車スペースが空いていた。この日私はラハイナのダウンタウンで車を停める場所に苦労したが,ここに停めればよかったと後悔した。はじめて来た場所で最もわからないのがこういったことなのである。そしてまた,こういうことはガイドブックには書いてない。
 この駐車場のあたりから海岸向かったところに「イキパーク」があった。

 1番目の写真はその「イキパーク」(Kamehameha Iki Park)である。ここは「モクウラ」の跡地にあって,かつては王家の居城があった。敷地には「モクヒニア」という池があって,その池に住む「キハーワヒネ」というトカゲの姿をした女神には聖なる強い力があり,深く崇められていたということである。カメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニ及びその子どもたちは,死後この池に埋葬されたといわれる。
 居城は石で積み上げられた家であったため「ハレ・ピウラ」(鉄の屋根の家)と呼ばれたが,カメカメハ3世が都をホノルルに移したあとは使われなくなり,解体されて石は裁判所建築の際に使われた。
 この聖なる土地も一度は開発の波にのまれたが,住民の大きな反対運動で中断された。開発の際にこの場所に埋葬された墓はワイオラ教会の横に移された。現在は写真のように,池や遺跡を復元するための活動がされている。

 ここから東にプリズンストリートを歩いて行くと,左手にあったのが2番目の写真の「ラハイナ牢獄跡」であった。ここはラハイナが捕鯨で栄えた1850年代に使われていた小さな牢獄の跡で,ハワイ語で「監禁の家」を意味する「ハレ・パアハオ」とも呼ばれる。
 囚人の多くは飲んで暴れた海の荒くれ者たちであった。そのほか船から脱走した人,馬の乗り方が悪かった人,さらには安息日に働いた人なども投獄された。囚人たちが自ら建てたという獄舎は壊された砦から取ったサンゴ石で基礎を作った木造の建物である。囚人たちは足かせや鎖などで拘束されながら建造作業に携わったため「鉄で縛られた家」とも呼ばれている。ここは石塀とともに当時のままの姿を残していて,廊下の両側に並ぶ独房の中の様子が見られるほか,収監されていた人物などの資料も展示されている。

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●知らなければただの石●
 では今日も私が歩いた順にラハイナの見どころを紹介していこう。
 1番目の写真は「パイオニアイン」(The Pioneer Inn's)である。
 ラハイナ港のすぐ目の前にあるこのホテル&レストランはラハイナのランドマークとなっている。ここは1901年に創業したマウイ島最古のホテルであり,ハワイ全体でも初期のころに誕生したホテルである。アメリカンスタイルの風情と古めかしさを感じる外観は,ハワイ,そしてオールドアメリカンの良き時代を体現している。
 内装はもちろん改装がなされていて,インテリアの細部にまでこだわりが感じられる客室はどこか懐かしい雰囲気に満ちているのだそうだ。内部の壁には捕鯨時代初頭の鯨捕りの様子や捕鯨船の写真,捕鯨用具などが展示されているが,このホテルがオープンした1901年には,すでにクジラの油に代わり石油の時代となっていたという。
 レストラン「パイオニア・イン・グリル&バー」では,昔ながらのアメリカの雰囲気にあふれたランチやディナーを堪能することが可能であるという。
 2番目の写真は「ボールドウィンホーム」(The Baldwin Home)である。
 ここは19世紀に米本土からマウイ島に移住した,宣教師で医師のドワイト・ボールドウィンの邸宅で,1834年に建設された旧邸宅はのちに改装されて,現在は博物館となっていて,当時の生活を垣間見ることができる興味深い展示が並んでいるという。

 そして,3番目の写真が「ハウオラの石」(The Hauola Stone)である。
 この石は,そのことを知らなければ見逃してしまうただの石であるが,実は「魔法の石」なのである。
 ラハイナ港の岸壁の海側にその石はある。この石は,ここで出産すれば富と健康が約束されると信じられハワイ王族たちが出産の場所にしていた聖なる石なのである。よって,ここに座ると子どもを授かることが出来るとか,海に向かってこの石に座り,寄せる波に足を洗わせると,病気や怪我が治った,生まれたこの臍の緒をこの石の上に置くと,その子は強く健康に育つなどとの言い伝えがある。

 最後の写真がカメハメハ3世スクールという名のついた学校である。
 カメハメハ3世(Kamehameha III)はハワイ王国第3代の王である。1825年,兄カメハメハ2世の死を受けて即位したが,1832年までは義母カアフマヌが摂政を務めた。カアフマヌはカメハメハ2世に洗礼を施しハワイの伝統的信仰を廃するなどしている。
 当時ハワイは重要な捕鯨地域として,また砂糖の産地として注目されていたが,。こうしたなかでカメハメハ3世は王国の改革に努め,1840年にハワイ語の憲法を制定し1840年代半ばにはイギリス,フランス,アメリカから独立国として承認された。
 しかし,憲法制定後の政府では白人が要職を握り,ハワイ人が主体的に政治参加することが妨げられていた。近代的な土地制度も導入されたが私有観念の希薄なハワイ人が土地を失う結果に終わった。

 この国には住みたいところがありません。街を歩いていて,ここなら住んでもいいなあ,とか,この家は住みたいなあ,というところは皆無です。どこも狭い土地に無理やり建て売り住宅を作って分譲しているだけです。それでも結構な値段です。そうしたことを延々と続けて来た結果,どの町も景観に対する配慮もなく,不便極まりない状態になっています。また,そうした家は大概2階建てですが,将来,子供が独立したら初老の夫婦が住むには全く適さないものとなります。しかも,やっと住宅ローンを払い終わったころに,今度はリフォームが必要となります。そしてまた,その家の主が亡くなって相続しても,今度は売れないので単に負債となります。そして駐車場ばかりが増えていきます。
 マンションの場合,今度は,子供が2人いると住むことのできないような間取りになっているので,これがまた少子化に輪をかけています。そもそもマンションなど,毎月の共益費とか維持のための積み立てを考えると,賃貸アパートと差がありません。しかも,マンションを売るとなると,その資産価値は賃貸アパートを借りて賃貸料を払っていたのとほとんど差がないほど目減りしています。
 生きるのにもっとも大切な「住」がこんなことでは,いくら「食」に関しては世界で最も快適であっても,この国はどうにもなりません。…と,私はずっと思っていて,海外旅行をして,海外の住宅を見るたびに,ますますその確信を強くしているのですが,そんな現実を知らず,未だ持ち家信仰が深く年収の数倍のお金を出して家を買い人生をローン漬けにしている人たちをとても哀れに思います。
 そもそも,持ち家というのはそこに「根」をはるということなので,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。

 芸術家や勝負師,あるいは,起業家のような,自分の能力で生きている人は別として,既成の組織のなかで偉くなる(高い地位を占める)とか,名誉を手に入れるというのは,最も愚かな生き方です。
 仕事というものは自分の限られた人生の貴重な時間を売って生きるためのお金を手に入れるという作業です。だからこそ,売った時間はきちんとそれに打ち込むことが大切なので,仕事はきちんとこなさなければなりませんが,そうした時間は少なければ少ないほどよいわけで,50歳をすぎ,残り時間が少なくなってきたころにさらに自分の多くの時間を仕事に費やさなければならない地位に就くなどというのもまた,人の目指す最高の幸せである「自由」とは真逆のものです。
 理事長になりたいから力士になるわけではないでしょう。将棋連盟の会長になるために棋士になるわけではないでしょう。あるいは,学長になるために研究をしているわけではないでしょう。そうなっている人のほとんどはだれかがそうした立場にならなければならないのでそうした地位にさせられれてしまった気の毒な人です。
 私のまわりにもそうなって(あるいはさせられて)から退職した人たちがたくさんいますが,彼らを見ていると,貴重な50代を単に仕事で追いまくられて貴重な時間を無にし,しかも,単に組織を管理することに多忙であっただけで何も残せなかったという,そういう現実を目の当たりにして,私はとても同情します。
 しかし,人というのは何かを勘違いする生き物で,組織の中にいるとそういう地位に就くことを「出世」と勘違いしはじめたり,あるは,不幸にもそうなってしまった後に退職してやっと自由を手に入れても,何を考えているのか未だに地位にこだわっている哀れな人や自分を偉いと勘違いしている人さえいます。

 …などということをなんとなく思っていたら,人の最高の生き方というのは,まさに「寅さん」だったということに思い当たりました。「寅さん」は的屋という仕事をしているので無職ではありませんが,自由気ままという感じが私には無職のように思われます。端的にいえば「住所不定・無職」,そして偉ぶらず「人にやさしい」ということこそが,最高の幸せの姿であるわけなのです。それこそが,実は多くの人が望んでいるにもかかわらず,最も得ることが困難な生き方なのです。

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●美しい海岸線は原宿のようであった。●
 ラハイナはビルを建ててはいけないという規則があるのでいまでも昔の風情の残る港町になっている。
 車を停めて,ラハイナの町を散策することにした。この町は端から端まで1キロほどの徒歩圏内で,多くの見どころがある。アメリカというよりも,どことなく高山のような日本の観光地みたいなところであった。
 まず,町の中央にあるのが巨大な「バニヤンツリー」(The Banyan tree)である。1873年にラハイナでのキリスト教布教50周年を記念して当時の保安官であったウィリアム・スミスによって植えられたハワイ諸島最大級の巨木である。蔦が地面につくと今度はそれが支えとなっていくので1本の木なのに妙な形になっているのである。こうして,自然に日陰が作られるのだそうだ。
 高さは約18メートル,2,700平方メートルの木陰ができていて,多くの人がここで日差しを避けていたが,週末にはフリーマーケットなどが行われる。

 次に行ったのが「オールドラハイナ・コートハウス」(Old Lahaina Courthouse)であった。1859年に建てられた裁判所は1925年に建て直されたが,現在は郷土文化博物館になっている。
 当時は罪を犯した船乗りたちがここで裁判にかけられたのだという。
 階段を上って2階にいくと,写真や模型などでハワイの歴史が説明されていた。カイルアコナにもよく似た博物館があったが,こうした古い建物がきちんと整備され保存されているのが素晴らしかった。
 また,裁判所もそのままの姿で残っていて,壁にはクジラを捕獲するための鉄砲や船の模型などが展示されていた。
 また,建物の外に置かれている大砲は1816年,ラハイナ沖で沈没したロシア船から回収したものである。
 博物館から外に出ると,美しい海岸とヨットハーバーがあって,この海岸に平行に走る道路を「フロント・ストリート」(Front Street)といい,このストリートに沿って,多くのブティック,レストラン,そして,ギャラリーがならんでいて,まるで原宿のようであった。

 技術革新は必要で,それがないと人間の進歩もないわけですが,その速度が速すぎると,その進歩を追いかけているだけで,本当に何が便利なのかわからなくなってしまいます。パソコンや,カメラなども進歩が早くて,日々新しい情報を追いかけていないと,すぐに置いてきぼりにされてしまいます。
 しかし,こうした進歩に接していると,それらを追いかけていった方が有益なものと,どうでもよいものがあることがわかります。たとえば,デジタルカメラは,毎年,どんどんと新しい機種が発売されて,雑誌の記事やさまざまなブログを賑わせています。それらは宣伝だから,やれ「買い」だのと,誠にかまびすしいのですが,使いこなせるようになる前に,また,新たな機種が出るのでは,それを追いかけていても消化不良になってしまうだけです。
 これでは,やたらとたくさんの問題集に手を出して,しかし,何も身につかない出来の悪い学生の勉強法と同じです。
 私は,カタログや雑誌の記事から知識を得て,結局はそうした宣伝にまんまと乗せられていた愚かな昔を思い出し,しかし,実際に自分で写真を撮るようになってみて,そんな知識はほとんど空言であることをがわかって,そう思うするようになりました。

 私がずっと使っている望遠鏡は,今から30年近く前に30万円ほど出して買ったものですが,今もそれをもちだしては,月に数度,少し遠出して星の写真を撮りに出かけるのを楽しみにしています。
 そうした古い望遠鏡を本当に使い込んでみると,それは,自分の思っている以上にずいぶんと工夫して作られているんだなあと実感します。器械はしゃべらないのでわからないのですが,もし,口があれば,器械たちは,本当はもっと主張したいことがたくさんあるように思うのです。
 それなのに,使う方がそれを十分に認識していないので,きっと生れもった性能のそのほとんどが活用されることもなくそのうちに捨てられて,くやしがっているのではないかと思うようになりました。

 プロならともかく,所詮は趣味で楽しんでいるのだから,最新技術などを追いかける必要もないのかもしれません。絶えず新しい技術を追いかけることが楽しみな人もいるでしょうから,それは人それぞれですが,私は,限られたお金で人生を楽しみたい,そして,やりたいことが一杯あるのだから,そうしたたえず新しいものを追い求めてお金を使うよりも,新しいものに比べればずいぶんと性能の劣るところもあるだろうけれど,長年連れ添った自分の器機を大切に使ってやることのほうがいいなあと,思うようになりました。
 他人の持っているものと比べる必要もないし,自分の持っているものでささやかに楽しむことこそが一興なのです。

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●商店街を壊滅させたショッピングモール●
 リゾートを過ぎて州道30をさらに南に走っていくと古い町に出る。ここがハワイの古都ラハイナ(Lahaina)である。日本でもそうであるが,そうした町のはずれの交差点にはショッピングモールがある。ここラハイナもまた,例外ではなかった。
 日本の町は,こうしたショッピングモールのために,古くからある商店街は寂れてしまっていて,惨憺たるものである。いまでも昔からの商店街が存在しているのは,皮肉なことに,そうしたショッピングモールを作る土地がない東京である。というか,東京だけなのかもしれない。しかし,このラハイナは,昔ながらの町はしっかりと30年前のまま存在していた。

 まず私はこのモールの駐車場に車を停めて中に入っていった。
 モールというのは,日本もハワイもアメリカ本土も,さほど変わるものではない。売っているものもそれほど違いがない。いわば,無国籍である。しかし,便利なものである。
 今から20年近く前,アメリカは好景気に沸き,日本はバブル経済がはじけて,都会には家をなくしホームレスとなった人のブルーシートが公園に林立し,駅には得体のしれないイラン人がうろうろしていたころがあった。
 今の若い人はそんな状態が信じられないであろう。思えば,そのころから日本はどこかおかしくなったのだが,ちょうどそのころ,アメリカではこうしたモールが作られはじめた。日本にはまだなかったから,アメリカを旅すると私はずいぶんと驚いたものだった。そのうち,日本にもよく似たものが作られはじめたのだが,何事も右倣えの日本では,ものすごい勢いで過剰にそういうものができて,その結果,地元の商店街が壊滅したのだった。

 私は,このモールに車を停めて,ラハイナを散策しようと考えたのだが,この日は暑く,また,ラハイナの町はモールから歩くには少し遠かったのであきらめて,国道30を右折して,ラハイナの町,つまり,海岸通りを走って車を停める場所を探すことにした。
 ラハイナに行ったことのない人は,湘南海岸の様子を思い浮かべてみるとよいであろう。
 ところが,ここもまた,ものすごい車で,なかなか車を停める場所が見つからないのであった。
 ずいぶんと走って,一度ラハイナを通り過ぎて,再び戻って,私は民間の駐車場に車を停めることにした。
 その駐車場もかなり混雑していたが,なんとかスペースを見つけて車を停めることができた。
 
 1795年といえば,日本では徳川家斉が将軍で文化文政時代華やかなりしころである。フランスではフランス革命戦争が起こっていた。
 この年,カメハメハ大王がハワイを統一した。この年から1845年にカメハメハ3世がホノルルに遷都するまで,ラハイナはハワイ王国の首都であった。このころ,アメリカの捕鯨船がハワイ諸島に来航し,首都ラハイナは捕鯨船船団の基地として活気づいていた。また,アメリカ本土から宣教師が訪れて,学校や教会を建てたり英語を教えたりとハワイの近代化に貢献したのだった。その時代の史跡が今もラハイナに残っているわけだ。

 今から50年くらい前の1970年代なら満天の星空が見えた,と思うのは誤解です。そのころはすでに都会の夜空は明るくて,当然すでに天の川などまったく見えませんでした。私の年代ではもう忘れている人も多いでしょうが,バブルのころの環境は最悪で,パチンコ店のサーチライトなるものが,何を考えているのか夜空に光をぐるぐる回していました。もう,めちゃくちゃな状態でした。今考えてもこれは異常です。狂気です。どうして暗い夜空をサーチライトなどで光り輝かせる必要があったのでしょう?
 要するに,この国は昔も今もまったく節操というものがないのです。何事も金儲けがすべて,まわりがどう迷惑しようと,環境がどうなろうと,そんなことはど~でもいいのです。

 それでも,少し都会を離れれば,今よりはまだ,星空は輝いていいました。しかし私は都会の生まれなので,満天の星空など見たことがありませんでした。
 中学校1年の夏,学校から2泊3日で山に行ったときに見たのが,生まれて初めての「満天の」星空だったような気がしますが,そうした経験をすることができるのは本当にまれなことでした。それ以降,いつかは満天の星空を見たいものだとずっと思っていました。
 どこかへ行くたびに,ここなら夜になればさぞかし素晴らしい星空が見られるだろう,と想像しました。しかし,実際にそういった場所に出かけることができるようになってみると,それはすべて誤りであることがわかりました。今,テレビでは星の美しいところといって紹介される場所がいくつかありますが,テレビの画面をよく見ていると,そういった暗い場所でも遠くに街の灯りが輝いています。地平線付近が暗い場所など日本では見たこともありません。しかも,そういったどうにかまがりなりにも星の見られる場所には多くの人が殺到して,無秩序状態になっています。

 今の子供たちの中で天の川を見たことがある人がどれほどいることでしょうか。街中では1等星すら満足にみえなくなってしまいました。でありながら,私が最も不思議に思うのは,今晩はふたご座流星群が見られるだとか,彗星が明るくなるだとか,そういったニュースが流れることです。それらのニュースは,都会に住んでいても空を見上げればだれでも見られるような,そんな説明がされています。しかし,そんなもの,見られやしないのです。実際に流星群や明るい彗星を見たことのある人なんてまれなのです。
 この国のどこに満天の星空があるというのでしょう? そういう状態にしてしまったのは一体だれなのでしょう。

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 大相撲も将棋も,一時いろんな問題が起きてファンが見放したのですが,昨年は,大相撲は稀勢の里関が横綱に昇進したりと明るい話題が続き,将棋もまた同様に明るい話題が起きて,同じようにV字回復をしました。ところが大相撲は再び様々な問題が起き,世間の話題もそればかりとなりました。おそらく,今年はその影響がじわりじわりと出てくることでしょう。
 それに対して将棋はずっと明るい話題続きです。
 藤井四段のひふみん(加藤一二三九段)とのデビュー戦での勝利からはじまり,その後29連勝。そしてひふみんの引退,羽生永世七冠の誕生と,佐藤康光九段が会長になって以来,いいこと続きです。ちょうどそんな時期にAmebaTVが放送を開始したことがまたタイミングがよく,それまでは観戦する方法があまりなかった将棋がずっと身近なものになりました。
 
 将棋の竜王戦といえば,「あの」三浦九段の事件が起きたのがちょうど1年前の竜王戦だったのを思い出しました。昨年の竜王戦七番勝負は惨憺たる結果でした。それがわずか1年前のことだとは,とても信じられません。もう,遠い昔のような気がします。それを考えると,1年という月日は長いのか短いのか…? とても不思議な気がします。
 私も公開対局で観戦をしたり,AmebaTVで対局を見たりしているのですが,まあ,何と将棋というのはおもしろいものだろうとはじめて思いました。それに気づかなかったのは,これまで,新聞の将棋欄とNHKEテレの将棋対局でしか見る機会がなかったことが原因なのでしょう。このように,何ごとも,上手な見せ方というのが大切だということです。旅と同様,自分で体験することが大切なのです。また,聞き手を務めている女流プロもこれほど人材がいたとは。これまで,こうした人たちの才能を眠らせていたことが残念でなりません。

 先日の朝日杯将棋オープン戦のニュースがさまざまな番組で流れました。そのなかで,テレビ朝日の「サンデーステーション」という番組での取り上げ方はひどいものでした。この番組では「(藤井四段が)デビュー以来29連勝をしたあとで,その後わずか半年あまりで11敗するなどプロの壁にもがいていました」というナレーションが流れました。それは間違いではないのですが,あれではその後11連敗したかのような印象を与えます。
 実際の成績は,○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○●○○●○○○●○○○○●●○●○○○○○○○○○○○●○●○●○○●○●○○○
というわけで,通算58勝11敗,29連勝後は29勝11敗で,決して悪い成績ではないし,もがいているわけでもないのです。
 報道というのは,概してそんなものです。結局,はじめにどういうふうに話題にするかを決めておいて,都合のよい面だけを取り上げていくわけです。取材も,多くの人にインタビューをして,話題になる部分だけを切り取って報道しているのです。
 また,竜王戦の就位式を伝える日刊スポーツの記事は次のようでした。
  ・・・・・・
-羽生竜王は本気「手ごわい」藤井四段に視線合わせず-
 将棋の第30期竜王戦を制し,同時に「永世7冠」の称号も得た羽生善治竜王(47)の就位式が16日,都内のホテルで行われた。就位式の前には,史上最年少プロ,藤井聡太四段(15)とそろって会見。両者は2月17日に行われる第11回朝日杯オープン戦の準決勝で公式戦初対決するが,羽生は「手ごわい存在」と早くも警戒していた。
 羽生が視線を合わせない。右隣に座った32歳下の最年少棋士に対し,終始,体を左に30度ほど傾けていた。撮影で握手を求められても,右手を差し出しただけ。目線はカメラマンの方に向け続けた。
  ・・・・・・
 この就位式の様子はYouTubeで見ることができますが,それを見ると,この記事とはまるで違う印象を持つと思います。実際は,羽生竜王が先輩棋士らしく気配りをして,藤井四段をエスコートしていました。この記事は,なんか,ボクシングやプロレスの見出しみたいです。
 今は,いろんな映像を直に見ることができるからこういうことがわかります。
 私は,今年もまた,そうした報道に泳がされずに,自分の目で見,耳で聞いて,自分で判断していきたいものだと改めて思うことでした。

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●これほど美しい水着姿の女性は…●
 ホノコワイ・ビーチパーク(Honokowai Beach Park)はホノコワイのリゾートにあったパブリックビーチであった。海岸に出る小径を歩いていると,多くの水着姿の若者とすれ違った。そのなかに私は,人生でこれほど美しい水着姿の女性を見たことがない,という人とすれ違った。実は,私がこのホノコワイ・ビーチパークで一番印象に残っているのはこのことである。写真がないのが残念でならない。
 ハワイというとサーファーのイメージが浮かぶと思うが,そうしたプロのサーファーがいるのは,オアフ島のノースショアとかここマウイ島のホオキバビーチのような波の高い北の海岸であり,それ以外の場所では,ほどんどの人は砂浜で戯れいているか水浴びをしているだけである。

 日本という道徳心と節操のない国では,何をするときも必ず少数の迷惑者が存在し,そのために大多数の善意の人がかなりの被害を被る。そうした迷惑者はなんらかのブームがくると興味もないくせにそれに乗っかろうと現れ,秩序をめちゃくちゃにして去っていく。そして残るのは規制だけなのだ。
 たとえば「撮り鉄」と呼ばれる鉄道を写す趣味でも,線路内の危険な場所に入り込んだり花をむしったりする。たとえば「星の美しい」といわれる場所でもそういう場所に入り込み,ゴミを捨て懐中電灯で暗さを台なしにする。それを個々に注意したり逮捕すればよいものを,この国では面と向かって注意することをせずに,柵で覆ったり立ち入り禁止にしたり,安全のためとして電灯が設置されるといったように,無言で物理的に対策をとる。道路でもそうだ。ある一部の無法運転を防止するために,やたらと道路内にポールが設置されたり柵ができる。
 当然,アメリカでもそうした輩はいるのだが,この国はそういった場合,面と向かって注意をする。悪質な場合は逮捕する。だからそうした少数の悪者のために全体を犠牲にするような美観を損ねる柵ができたりはしない。
 
 それは次のようなところでも実感できた。
 私が海岸を見ていたら,サーフボードで遊んでいたひとりの女性が危うく波にさらわれそうになったのを目撃した。私が驚いたのはその瞬間であった。
 アメリカの海水浴場には必ず見張り場がある。これもまた日本と違うのは,どこも同じデザインの建物であり,共通性が保たれていることである。その建物からものすごい勢いで見張りをしていた係員が降りてきて乗り物にのって砂浜を一直線にその女性をめがけて走っていった。そして,たちどころに彼女を救出した。そして,その後,その女性の体調を聞き,注意を促したのだった。

 ホノコワイ・ビーチパークを出て州道30をさらに南下していくと,海岸線から少し入ったところを走っていた州道30が海岸線をしばらく走るようになる。そこにあったのがハナカオオ・ビーチパーク(Hanakao'o Beach Park)であった。

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●記憶がごちゃごちゃになっている。●
 西マウイ最北端からの帰路,州道30を南に走りながら,主だった場所で車を停めながら気ままに観光をすることにした。
 ハワイに限らずアメリカで最も問題なのは駐車場探し。私がこのごろめっきりアメリカで嫌いになったのは車の多さである。多いだけなら日本のほうがずっと道路が狭いだけ混雑しているし運転マナーも最悪なので,私はアメリカで車に乗るがほうがずっとストレスがないのだけれど,車を停めるのに苦労するのは日本と同様なのである。
 アメリカでは一般道に駐車帯があるのだけれど,それが空いていたためしがない。無料の公営駐車場があったりもするが,やはり車が一杯でスペースを探すのが大変である。したがって,少し離れた場所に車を停めて歩くか,さもなくば有料駐車場に停めるということになる。
 この頃困るのはパーキングメーターなどで,スマホのアプリで料金を支払うというものがでてきたということで,こんなシステム,観光客にはまったくなじまないのである。

 州道30の通る海岸線に沿って,北から順に,カバルア(Kapalua),ナピリ(Napili),カハナ(Kahana),ホノコワイ(Honokowai)といった新しいリゾートがあり,それを過ぎると,マウイ島でもっとも大きなカアナパリ(Kaaanapali)リゾートに着く。
 そして,さらに南下すると,マウイ島の古都ラハイナ(Lahaina)である。
 今日は,カパルアからホノコワイまでの様子をご覧ください。

 最北端から道路だけで何も見るべきものもない州道30はカパルアに差しかかると急にリゾートエリアになって,大きなホテルが立ち並ぶようになる。私はその交差点を右折して州道30から離れて,海岸線の狭い道路を走ることになった。
 この旅は2017年の3月に行ったのだが,この後,私は2017年の6月にはオーストラリアに行き,8月にはアメリカ本土のアイダホ州とワシントン州,そして,アラスカ州まで足をのばし,わずか1か月少し前にハワイ州カウアイ島に行ってきた。それが,どういうわけか,この3月のマウイ島と11月末に行ってきたばかりのカウワイ島の記憶がごちゃごちゃになってしまっているのだ。写真を見ながら,これはどちらの島だったのだろか? と不思議になることだらけなのである。そしてまた,昨日行ってきたような錯覚にさえ陥るのである。
 もう,時間の感覚も,そしてまた距離の感覚さえもめちゃくちゃになってきたようなのである。

 ともかく,私はカバルアのリゾートエリアの道路を走り,再び州道30に戻り,今度は左折して高台にあるカパルア空港に行き,再び州道30を横切り,ホノコワイ・ビーチパークへ行って,空いたスペースに車を停めて,海を見にいったのだった。

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 朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局2日目。私は2日ともS席のチケットが予約できたので,連日の観戦でした。
 今日は昨日と同じ2列目だったのですが,昨日と違って今日は左から12番目だったので先手番の棋士の表情がよく見える席でした。1列目は主催者様のお席のようで,1列目の真ん中に中部電力の社長さんがお座りになっておられました。

 午前の1回戦は指定席のある広いほうの対局場が藤井聡太四段対澤田真吾六段戦,自由席の狭いほうの対局場が佐藤天彦名人対永瀬拓七段戦で,この勝者同士が午後の準々決勝で対戦します。
 そこで,1回戦で藤井四段が勝ち進むと,午後もまた観戦できるというわけで,理想としては,午前に勝って午後に佐藤名人と対局をする,ということだったのですが,そんなうまくいくのかいな? と思っていました。
 が,そうなりました。
 相変わらず,私は運がいい男です。

 まず1回戦です。
 現われた藤井四段と澤田六段は澤田六段が先手で,当然昨日の羽生竜王のような堂々としたオーラ,という感じではなくて,若者らしい感じで,一手目から考えることもなく,どんどんと手が進みました。
 昨日との違いは報道陣で,昨日は主催新聞や囲碁・将棋チャンネル,そして,AmebaTVくらいのものだったのですが,今日は,様々な放送局をはじめ,地元紙誌やらスポーツ紙とものすごい数でした。
 藤井四段はおよそ中学生らしくないのですが,足元を見るとスニーカーだったのが,まあ,中学生らしいというか,ほほえましい感じでした。
 局面は角換わりになりました。澤田六段が居玉で攻めてきたので藤井四段が有位だと思っていたのですが,澤田六段の2二歩という緩手1手のスキに藤井四段があっという間に攻め潰しての完勝でした。
 藤井四段の将棋は昨日の羽生竜王の将棋とは違って主体性があり,若者らしく積極的でその対比が面白いものでした。しかし,羽生竜王も藤井四段も,相手のわずかなスキを見逃さず優位を築いてしまうというのは共通で,プロの将棋というのは,盤面のわずかのスキが命取りになるというのを見ていて実感しました。私はこのことが一番印象に残りました。

 午後の準々決勝は期待どおり佐藤名人との対局になりました。しかも,藤井四段の先手番で,私はしっかりと表情がみられる席でした。
 戦法は横歩取りで,はじめっから少しずつ駒組の段階で藤井四段が指しやすい感じになりました。
 途中,手待ちで佐藤名人が2三金と上がったのが失敗で,そのスキにあっというまに飛車が攻められて藤井四段の駒得になったときは,ひょっとしたら勝つかな? と思いました。
 私が驚いたのはその後で,私のようなへぼはタダでとれる飛車を取るという局面で,飛車なんてもう用済みだとばかり,アッという間に寄せ形を作ってしまったことで,こういうところがプロなんだなあ,と思いました。すごいものです。しかし,どうして,生まれてわずか15年でこんなことができるようになるのでしょう。そのことの方が不思議でした。
 最後は,一手のミスもなく寄せきってしまいました。

 それにしても,夢のような2日間でした。そもそも,羽生竜王と藤井四段の姿を間近にみられるというだけでも感激ものなのに,両者とも2連勝,そしてまた,藤井四段は公式戦ではじめてタイトルホルダーに勝つ,という歴史的瞬間を目撃できたということです。「名人に香車を引いて勝つ」と物差しに書き残して家出をしたのが升田幸三実力制第四代名人ならば,「名人をこす(の上になる)」と小学校の作文に書いた藤井聡太四段は,ついにその願いを果たしました。
 何事も一流というのはすごいものです。もっと若いころにこういう機会があったなら,私の将棋の実力も今よりも少しはマシだったのに,と思ったことでした。

◇◇◇
藤井将棋の魅力-盤面全体に宝石をちりばめたよう

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 朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局が1月13日と14日にあって,これまでに勝ち残った棋士のうち8人が集結して,4人ずつ2日間にわたって,午前中に2局,勝ち残った2人で午後の準決勝が行われるという話がありました。運がいいというか,よすぎるというか,勝ち残っている棋士のなかには,1日目には羽生善治竜王が,2日目は時の人・藤井聡太四段が登場するということになったので,2日とも見にいくことにしました。
 何ごとも,運は自ら行動して掴むものです。こんな機会,おそらく二度とありますまい。
 対局場は午前はふたつあるのですが,ひとつは広い部屋で全指定席,もうひとつは狭い部屋で自由席ということでしたので,指定席のうちもっとも棋士に近いS席を前売りで手に入れました。1日目の広い部屋に登場するのはもちろん羽生竜王なのですが,2日目は広い指定席のほうが藤井四段で,もうひとつの狭い自由席のほうが佐藤天彦名人というのが,なんともはや,という感じです。しかし,人気を考えると,これしか方法がないのをだれもが納得することもまた,不思議なことでもあります。
 ということで,今日は1日目が終了した昨日の様子について書きます。

 私の席は前から2列目の左から5番目でしたが,羽生竜王が2局とも後手番だったので,ちょうど表情が見える席でラッキーでした。
 手の震えもそのまま見えました。
 午前の1回戦は対戦相手が高見泰地五段でした。
 戦法は後手番の羽生竜王が角道を止めた四間飛車ということで,これは40年前に流行した戦いです。そのころと違うのは,角道を止める振り飛車というのは,居飛車穴熊の亡霊を見ながら序盤を進めなくてはならないということなので,藤井システムですが,それでも,ちょっと無理して,ともかく先手は穴熊に組み上げました。羽生竜王が攻めを誘って手待ちをしている間に先手は歩を突き捨ててやや無理攻めに攻めていったのですが,1手ミスったときに鮮やかに羽生竜王の端攻めが決まって完勝しました。強いものです。
 羽生竜王の将棋というのは,相手に乗っかって指し進めていって,相手にわずかでもスキがあれば,それに乗じて攻め潰す,というものなので,主体性はないのですが,いわゆる横綱相撲です。白鵬に見せてやりたいものです。1局目はこれが見事に決まりました。

 午後の対局は,午前に糸谷哲郎八段戦で勝ち上がった八代弥六段戦でした。
 戦法は,また後手番になった羽生竜王が,これもまた午前と全く同じ角道を止めた四間飛車でした。
 若手は相がかり,あるいは相横歩取りの最新形を目指して,先手番で2六歩と突くので,それを避けるにはこうした振り飛車になるのかな? と思いました。公開対局で最新形を指すのは,おそらく羽生竜王には骨が折れるのでしょう。
 今回は先手が穴熊ではなく急戦を挑んだので,40年前の将棋と同じ形になりました。この定跡を作った青野九段と米長永世棋聖の住んでいた場所にちなんで鷺宮定跡といいます。そのころはこんな将棋ばかりでした。そして,細部まで定跡ができたのですが,結局,今同じものを指すと無難な将棋に落ち着くのが不思議なことです。将棋の定跡なんて,進化しているのやらそうでないのなら…,結局は流行というくくりだけなのかな,と感じました。
 途中,羽生竜王が馬を作られて少し不利っぽかったのですが,うまく指して駒得になったあたりでは優位になったかな? と思いました。そして,1手すきやら詰めろやらで先手玉を攻めていった辺りでは勝ちだと思ったのですが,おそらくどこかでミスがあって,詰めろがほどけてしまったあたりでは逆転ムードでした。その後はいわゆる泥試合となっていったのですが,後手玉を攻める手がなくなったあたりから,再び羽生竜王が優勢になって,最後は勝利しました。対局時間3時間164手の熱戦でした。素晴らしい対局を見せていただいたものです。

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 どうしようもない,見ているほうが恥ずかしくなるような興味本位の番組がたくさんあるなかで,時々,宝石のような番組に出会うことがあります。そうしたときには,とても幸せな気持ちになります。NHKBS1で放送された「父と子のアラスカ・星野道夫命の旅」という番組もそうでした。
 星野道夫さんは知っていましたが,恥ずかしながらこれまでほどんど興味がありませんでした。それが,昨年アラスカに行ったことでこの番組に興味をもち見てみようと思ったのだから,旅というのはすごい力があるものです。
 そうした理由から見はじめたのですが,それがなんと,予想以上のすばらしい番組でした。
  ・・・・・・
 生涯アラスカにこだわり写真を撮り続けた星野道夫さんは,ロシアでヒグマに襲われて43歳で亡くなりました。星野道夫さんが亡くなったときわずか1歳だったひとり息子の星野翔馬さんには父の記憶がほとんどありません。これまで父の写真や本から目を背けてきたのですが,23歳になって,アラスカに父の思い出に出会う旅に出たのです。
 その旅で,父がはじめてアラスカに触れた村であるシシュマレフ(Shishmaref)を訪れて,先住民の神話の語り部で父の親友だったボブさんに会います。自分探しをする星野翔馬さんは,この旅で父から大切なメッセージを受け取るのです。
  ・・・・・・

 私は,この番組を見て,星野道夫さんの息子さんはすばらしい人だと思いました。この息子さんの姿を見ているだけで,父であった星野道夫という人のすばらしさもわかる気がしました。
 失礼ながら,私はこの番組を見るまで,星野道夫という人は,アラスカなんかに行って,クマに食われた生涯なんて,なんと物好きなと思っていました。しかし,この番組を見終わった今の私は,まったくその正反対で,私が思っている理想の生き方そのものを貫いた人だったんだなあ,と思いました。そしてまた,人の心は時間と距離を,さらには世代をも超越するだということを強く感じました。
  ・・・・・・
 星野道夫さんは千葉県市川市生まれの写真家であり探検家。慶應義塾大学時代は探検部で活動し,熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦しました。
 19歳のときに神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集に掲載されていたシシュマレフに惹かれ,その地を訪問したいと村長に手紙を送ってみたところ,半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきたのです。そこで翌年の夏,シシュマレフに渡航し,ホームステイをしながらクジラ漁についていったり写真を撮ったり漁などの手伝いをしたりしながら3か月間を過ごすことになったのです。
 大学卒業後は動物写真家の田中光常さんの助手となったのですが,思いとはちがって雑用ばかりだったので職を辞し,アラスカ大学フェアバンクス校を受験するのです。入試の結果は英語の合格点が30点足りなかったのですが,学長に直談判して野生動物管理学部に入学します。その後,アラスカを中心にカリブーやグリズリーなど野生の動植物やそこで生活する人々の魅力的な写真を撮影しました。
 やがて悲劇が襲います。1996年8月8日の午前4時ごろ,TBSテレビ「どうぶつ奇想天外!」という番組の取材のため滞在していたロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマの襲撃に遭い死去してしまったのです。
  ・・・・・・

 私は,星野道夫さんという人の生き方をきちんと知りたいと思うようになりました。そこで,星野道夫さんの本を読んでみようと思いました。そしてまた,もう一度アラスカに行ってみたくなりました。
 アラスカは遠いです。ものすごく遠いのです。日本からは直行便がないので,飛行機で20時間以上もかかります。しかし,なぜか,私にとってアラスカというのはものすごく身近な気がする場所なのです。家の外にでると,フェアバンクスの町が広がっているような気がするくらいです。目を閉じると,はっきりとアラスカの風景が浮かびます。そうした私は,この番組で星野道夫さんの生きざまを知って,さらにアラスカへの思いを深くすることができたのです。

無題

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 「断捨離」をしてずいぶんと多くの本を処分しましたが,30年以上前に読んだ本は自分の原点なのでその対象外,ということで今でも大切にしているものです。
 その中からいくつかを紹介しましょう。今日は「ふたたびキットピークへ」です。

 この本を書いたのは出口修至さん。本が出版されたのは1982年で,当時34歳の新進気鋭の学者さんでした。その後は国立天文台野辺山宇宙電波観測所准教授になられて退職されました。専門は電波天文学,メーザー理論ということで,この本にもそうした内容がたくさん出てきます。電波天文台は現代の花形ですが,35年前の私には全く興味のない分野で,それが残念でした。
 この本は,アメリカで研究生活をする合間にアメリカの天文台巡りをしたときの紀行です。アメリカと天文学に憧れていた私にとっては最高の本でした。題名にある「ふたたびキットピークへ」というのは,23章のうちのひとつの題名です。私はこの本を読んで以来,ずっと,このキットピークという名前が頭からはなれなくなりました。
今となっては古くさい内容のところも多くあるのですが,その反対に,その当時は夢物語だったことが今では実現されていることもたくさんあって,とても興味深いものです。

 はじめて読んだとき,すごいなあ,自分もこんな旅がしてみたいなあと強く思ったことでした。アメリカなんて遠い世界でした。もうこのときはアメリカへ2回行っていたのですが,それでも,郊外の天文台に行くなんて思いもよりませんでした。そして今,この本の中のジョンソンスペースセンターにもケネディスペースセンターにも私はすでに行くことができました。そして,アメリカ各地の情景が頭に浮かぶようになりました。
 そのように,今の私には旅をしている様子が具体的にわかります。それが自分にはとてもうれしいことであるとともに,そのころの夢が蘇ってきました。そして,私も行くぞ,と改めて決意したことです。

 今日は最後にキットピーク天文台を紹介しておきましょう。
 キットピーク国立天文台はあまり天文台らしからぬ外観に反して世界最大級の光学望遠鏡群がある施設であり,一般公開されている天文台です。ガイド付きツアーに参加すると施設の沿革を学んだり,望遠鏡の見学ができますし,世界最大級の太陽観測望遠鏡であるマクマスピアス望遠鏡とキット ピーク最大の4メートル級光学望遠鏡であるメイオール望遠鏡が年中無休,入場無料で公開されています。
 キット ピーク国立天文台はアリゾナ州ツーソンから87キロメートルの距離にあって,山頂までの絶景を堪能しながらレンタカーで行くことができるということです。

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●秘境・マウイ島北の美しい海岸線●
☆6日目 3月27日(月)
 7泊9日のこの旅の6日目。残すはあと2日であった。
 この日はこれまで行っていなかったマウイ島の西側のふくらみを海岸線に沿って時計回りに一目散にレンタカーで通行禁止になる手前まで行くことにしていた。これでマウイ島のほどんどの海岸線を走ることができる。そして,そこからの帰路にゆっくりと観光をしながら戻ってくることにした。
 マウイ島に到着した日にホエールウォッチングクルーズが出発するまでの待ち時間に途中までは行ってみたが,その先は私には未開の地であった。

 朝食はいつものように近くのスーパーで適当にケイタリングしてスーパーの外のテラスで食べた。このスーパーがあったおかげでずいぶんと助かった,
 食事を終えて,さあ,出発である。
 マウイ島で最も混雑するといわれる「ホノアピイラニ・ハイウェイ」(Honoapiirani Hwy)だが,早朝はまだほど車が走っていなかったので助かった。途中の展望台で一度だけ休憩して,あとは停まらずマウイ島の最北端であるホノコハウ(Honokohau) まで走っていった。
 西側の海岸線に沿って,ラハイナ(Lahaina),カアナパリ(Kaanapali),ホノコワイ(Honokowai),カパルア(kapalua)というように,見どころがたくさんある。これらの見どころは帰路に行くためにとっておくとにしてすべて通りすぎた。

 最後のリゾートエリアであるカパルアを過ぎると,急に素朴な風景が広がるようになった。私にはここからが楽しみなドライブなのである。とともに,ツアーで訪れる人たちには行くことのできない真のハワイの姿がある。
 マウイ島は道路を走っていても地名の書かれた標示板が全く見つからないところで,いったい今どこを走っているいるのか,地図上のどこになるのかサッパリわからない,と以前書いたが,ここもまた同様であった。
 さらに北に向かって走って,私の視野に真っ青な海岸線が広がるようになったときに,写真のようにホノルア(Honolua)という唯一の標示があった。このあたりの展望台から眺める海岸線はとても美しかった。ヨットが浮かび,海で戯れる人がたくさんいた。
 ハワイに行って海で遊ぶならこういうところにいくべきであろう。

 さらに進んでマウイ島最北端・ホノコハウ(Honokohau)をすぎても道路は相変わらず2車線の舗装道路で,坂をどんどん登っていく。この日は幸運なことに天気がとてもよかったこともあって,ものすごく雄大な風景と青空と青い海が果てしなく続ていいて,その中を走っていくのが快適であったが,この先どこまで行くことができるのかだんだんと心配になってきた。
 道路は依然として2車線で舗装されていて,もっと先まで行けそうであったが,次第に走っている車が少なくなってきたので,そろそろ引き返すことにした。

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●人間はもっと謙虚であるべきだ。●
 いよいよツアーバスがやってくる時間になった。今回マウイ島に来た目的はハレアカラというところがどういうところか知りたかったからであった。山頂で夕日が沈むのを見てその後に現れる満天の星空が満足に見られるところなのか,それとも日本の観光地のようにどこも人にあふれているところなのか…。
 保険をかける意味でさっそく到着した日にツアーの予約をしたのだがツアーを待つ間もなく私は自分でそれを実現してしまった。そして今日はツアーで再び山頂に行くことになった。

 マウイ島で星空観察を行っているのはマウイオールスターズというツアー会社だったが,実際は山内さんがオーナー兼ガイドをやっている個人営業のような会社であった。
 山内さんの話では,マウイ島では州の規定で一度に11人までしかツアーで山に登るのが認められていないということで,それがハレアカラの山頂に多くのツアー客が押しかけることのない秩序となっていたし,ハワイ島のマウナケアと違って山頂まで舗装道路があってレンタカーを使えばだれでも登れるのはハレアカラの山頂に軍の施設があるというのが理由であった。

 私が参加したツアー御一行様は4人連れの家族と5人連れの家族,そして日本語ペラペラの中国人と私であった。
 実は実は,この山内さんは意外なところで意外なつながりが後で発覚するのだ。まさしくビックリポンである。地球は恐ろしく狭いのであった。事実は小説より奇なりである。そのことは今後の展開が楽しみなのでここでは書かない。しかし,私がいつも思うのは,まるでインフレ―ジョン宇宙のように勇気を出して日本から一歩外に出てみると,突如世界は自分の力を越えてものすごい広がりを見せるということなのである。学校の成績がどんなによかろうと一流企業に入って出世しようとお金持ちになろうと,それでは得られない世界があるということなのだ。
 だから,若者よ,旅に出よう!

 ツアーはまずドーナッツ屋さんへ行ってドーナッツを食べて,次にスーパーに寄ってそれぞれが自分の好きな夕食のお寿司を買って(このお寿司一応予算があるそうだが,まあ,少しくらい越えてもいいらしい),クラロッジによって時間をつぶして,それから山に登って夕日を見て,暗くなるまで待って山頂から少し降った駐車場で望遠鏡で星を見るというものだった。
 私の予想に反してこのツアーは人気があって,山内さんは連日このハレアカラの山頂に登っているのだそうだ。今後も1日も長くこのツアーが続けばいいと願う。

 このマウイ島ハレアカラの天体観察ツアーに加えて,私はここ2年でハワイ島マウナケアの天体観察ツアー,そして,ニュージーランド・テカポ湖畔の天体観察ツアーに参加した。そして,自力でもこうした場所で星空を見ることができた。そしてまた,アラスカ・イエローナイフではオーロラ観察をすることもできた。そうして得た結論は,人間がいかに科学を発達させようとも,神の作りたもうたこの大自然を凌駕することは不可能だということである。人間はもっと謙虚であるべきなのだ。

 今年も成人式が終わりました。しかし,若者の将来は大変なのです。危機的状況です。
 人口減少と高齢化という問題が指摘されていますが,実際そのイメージを具体的に数値化されたものは意外と少ないものです。そこで今日はそのイメージを数字で書いてみることにします。
 日本の人口が順調に増加し,それに伴って15歳から64歳までの「生産年齢人口」も増加していたのは1990年まででした。1990年を境として急激に年少人口が減り老年人口が増えはじめたのですが,それでもまだ2005年までは人口が増加し続けたので,事態の深刻さを指摘する人は多くありませんでした。私はそのころ,人口構成を考えると将来日本は破たんするわと問題にしていましたけれど…。
 しかし,2005年を境についに人口が減少しはじめ,それに伴って生産年齢人口が減少し老年の人口比が驚異的に増えはじめました。それがいまも続いています。むしろこの生産年齢人口の減少が問題なのです。
 具体的には次のようです。
 1990年ごろの人口構成は,老年人口が全体の10%程度で年少人口が20%程度だったので,生産年齢人口は70%を占めていました。それが2015年になると,老年人口はなんと25%を突破したのですが年少人口は15%程度まで減ったので,生産年齢人口が60%になりました。これが現在の状況です。
 今後,年少人口は10%程度まで少しずつ減少し,反対に,老年人口は2025年には30%,2050年には40%に達すると予想されています。つまり,30年後の日本は「年少人口と老年人口を合わせると50%を超す」わけです。しかしこれにもうそがあり,実際は生産年齢人口とはいっても15歳で働いているような人はまれだから実際に働いているのは50%のうちのさらに半数程度の25%くらいのものです。
 したがって,今年の新成人が50歳を越える2050年には「人口の25%が75%を支える」という,とんでもないことになっているわけです。

 このような現状なのに,日銀はバカで,相変わらず2%のインフレを目標に,物価の上がった分だけ賃金をあげるような政策をとっています。そんな時代遅れの常識は生産年齢人口が多いころには効果もあるでしょうが,賃金をもらう人よりも年金をもらう人のほうが多いような国では「物価が上がった分だけ生活が苦しくなる」し,将来を心配して賃金をもらっている生産年齢人口の世代は「賃金の増加分を将来の貯蓄にまわす」だけなので,まったく理屈に合わないのです。
 文部科学省もバカで,学生にさらに勉強をさせようと大学入試を改革していますけれど,能力や才能など生まれたときにそのほとんどは決まっているし,就職というのは学歴ではなく学校を卒業するときの景気次第なのです。しかも,中等教育は入学試験のための順位づけをすることが目的となってしまっているので,時間とお金を使うだけで何も身につきません。それなのにさらにこの先机の前に座って点数競争を激化させようとするのだから,能力のない子はさらについてゆけなくなって,意味がないことがわかっていながらも塾通いをしなけれなばらず,結局は今よりも教育費が増すだけです。しかもそんな学校生活では楽しくないし,やっと卒業しても,この人口構成では死ぬまで働かされるのだから,そういう実態を知っている親は子供にそんな思いをさせたくないので,ますます子供を作りません。少子化の根本的な原因はそこにあるのです。完全な悪循環です。

 ここに書くまでもなく,識者はそんなことはとっくにわかっているのですが,それを明確に,公に,特に若者に示してしまうとパニックになってしまうから,公然の秘密にしているだけです。本当のことは知らせないほうがいいのです。
 そこでこの人口減少と人口構成のいびつさをどうすれば解決するかというと,老年人口を減らし生産年齢人口を増やすしか方法はないわけです。つまり,いつまでも働け,ということになるわけです。要するに,定年を遅らせ,年金の支給年齢を遅くするわけです。素直にそう言えばいいものを,ごまかして「1億総活躍社会」だとか「歳をとっても働きたい人が多い」とか,そういうふうに嘘? をつき詭弁を弄するから余計にわかりにくくなるのです。さらには,定年を60歳から65歳に延長しても,これまで60歳まででもらっていた給料を減額して65歳までに支給するという仕組みなので,もらえるお金の総額は増えないのです。そして定年が65歳になった次は年金の支給年齢をさらに遅くしていくわけです。おまけにもうひとつのたくらみは,成人年齢を18歳に繰り下げて(そのことの影響は選挙権だとか成人式だとかに気をそらしてごまかしていますが),将来,年金を18歳から払えという布石を作ったことです。

 そこで,そうした若者が歳をとったとき「不良老人」となって人生を楽しむにはどうすればよいか,です。それを早くから考えて対策を立てておかないと取り返しがつきません。
 第二の人生を楽しむには,遅くとも55歳からでなければ手遅れになります。現在のように恵まれた老人世代ですら,人生設計に失敗し,若いうちに浪費をしバブルのころに貯蓄をしなかったために,定年をすぎても仕事をせざるを得ず再雇用されて「不良老人」になりそこねている人が多いのに,希望のない将来に生きていくことになる若い人たちが「不良老人」を目指すのはさらに容易なことではありません。年金の支給年齢が遅くなり,給料から天引きされる経費が増え,退職金が減っては,我々の世代のように早期退職をして蓄えと年金で悠々自適に老後を暮らすなんていうのは無理です。
 ではどうすればいいのでしょうか?
 そのひとつの方法は,仕事から引退する,つまり,早期退職をして,それから楽しむということはあきらめて,仕事をしているときから遊びほうける,つまり,若いころから「不良壮年」になることです。日々の生活を若いうちからご隠居状態にするしか方法はないわけです。そのためには,日々残業に明け暮れて仕事漬けの生活から脱することがまず第一です。仕事人間はやめ,上司に何といわれようと,同僚から白い目で見られようと,決して残業はせず定刻に帰宅し,できるだけ多く休暇をとり,日々自分の生活を楽しむのです。そして,できる限りお金を使わないで済むように,お金の要らない楽しみ方を身につけることです。家を買わない,贅沢な車を買わない,子供には効果のない塾通いはさせない,そして,勤勉とか出世,というのとは真逆な生き方をすることなのです。
 ふたつめの方法は,歳をとって体力がなくなってきても楽に働けるような仕事をはじめっから選ぶ,ということです。あるいはそういう仕事にありつけるようにキャリアアップをめざすのです。そのためには自分の生れもった能力や才能を最大限に生かすための何がしかの技術を身につける必要があります。しかし,学校教育で学んでいることを忠実にやっていては無駄に時間を使うだけで絶対にそういう技術は身につきません。
 それに加えて,年寄りになったときに最も邪魔なものはプライドであり頑固さです。年を取ったら好々爺にならなければなりません。現役時代に偉かった人とか学歴の高かった人というのは,そうした過去の栄光? が忘れられず,老人ホームでも偉そうにしているので最も嫌われ者になっています。歳をとったときは,とっただけ若返って,キャッキャキャッキャと若者と遊べるようなじいさんやばあさんになることが大切なのです。

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moai_eclipse 年末から新年にかけて多くのテレビの特番がありましたが,いつものようにしょ~もないものばかりでした。特に民放のニュース番組は見るに絶えません。仕事とはいえあんなものを作ったり出演するような人生に同情します。また,多くの人はあんなものを見て貴重な時間を費やしているのでしょうか? 
 そんななかで,私が面白いと思ったのはテレビ朝日の「古舘トーキングヒストリー~戦国最大のミステリー 本能寺の変,完全実況~」とNHKBSプレミアムの「絶海!謎と神秘の巨石文明 モアイとイースター島」でした。ともに,人間というのがいかに愚かな生き物なのかが改めてよくわかった番組でした。
 今日はそのなかでイースター島について書きます。

 私は昨年,仕事がらみで世界遺産を調べていたのですが,特に行きたいと思うようなところもありませんでした。まあ,行きたいなあと思っていたようなところはこれまでですべて行きましたが…。そのなかでただ1箇所,イースター島には惹かれました。今年… は無理でしょうが,ぜひ一度は行きたいものだと思いました。
 そうした時期に放送されたのがこの番組だったのです。
 イースター島といえばあまりに有名なのがモアイ像です。しかし,モアイ像という存在は知っていても,それ以外のことも,というよりもモアイ像自体,その存在以外のことを私は全く知りせんでした。
 イースター島があるのは南米チリの首都であるサンティアゴから西に3,700キロメートルも離れていて,国際便中継地となるタヒチからは東に4,000キロメートルあります。日本からは空路で30時間かかるそうです。が…,昨年26時間かけてアラスカから帰国した私には驚くにあたりません。しかし将来行くとなれば1日でも早く,歳をとる前にしたいものです。

 イースター島に最初の住民となるポリネシア人がたどり着いたのは4世紀頃,伝説では「ホトゥ・マトゥア」という首長とその一族が2艘のカヌーで入植したといわれています。ただ,このイースター島に渡ってきたのはもともと台湾の人たちだったというのがこの番組で紹介されたことです。いずれにせよ,いくら航海技術に優れた民族であっても,さぞかしたいへんなことだったでしょう。そしてまた,人間というのはすごいものです。想像を絶します。空路30時間なんていうことでめげていてはいけません。
 そうしてイースター島に入植した部族たちは酋長(首長)を中心とする厳しい階級制度をもち,祖先は神格されて祀られ崇拝される対象でした。7世紀には石を積み上げて作られた祭壇「アフ」が,10世紀には「モアイ」が作られるようになったと考えられています。
 三角形をしたイースター島には3つの休火山が周囲60キロメートルほどの島の三隅に存在していて,噴火口近くにはモアイを作るのに適した柔らかい巨石が大量にあり,外敵もないためにモアイ像の建造に夢中になるありあまる時間あったようです。住民が増えるにつれ部族が増え,それぞれに少しずつ異なった文化を持つようになるとモアイの姿にも変化が現れ,次第に巨大化しました。
 日本の古墳やエジプトのピラミッドもそうですが,こうして巨大化しすぎてそのうちに滅ぶのです。こういうのを身の程知らずといいます。天文ファンの望遠鏡も同様です。

 いにしえのイースター島は豊かな緑の森に覆われていたのですが,人口増加に伴って縮小し消滅してしまったことが,まず,この島に襲った悲劇の第1章でした。過剰な人口による部族争いや食糧不足で急激な人口減少が起こりました。そして,大航海時代にともなって残り僅かとなったイースター島の住民たちは抵抗することもなく奴隷として各地に連れ去られてしまったのです。地球上はこういう悲劇ばかりです。
 1722年にオランダ海軍が太平洋上に浮かぶ孤島を発見した日がイースターだったことからこの日を「イースター島」と名づけました。ねこがじぶんのことをねこと思っていないのと同様に,イースター島もそこの住民がつけた島の名前ではないのです。住民同士の戦いで生き残っていた島民たちは奴隷として連れ出されていき,さらに天然痘で人口が急激に減少してしまいました。こうして,今ではイースター島はモアイなどの遺物や遺跡は残っているのですが,独自の言葉や文字などの文化はほとんどが失われてしまいました。

 さて,モアイ像です。最大で11メートル,80トンにもなるこの石像は島内に1,000体以上が存在しているということです。このモアイ像,石切場から切り出すようにして作られて運ばれたそうで,今でも未完成だったり,運ぶ途中だったりしていたものがごろごろと転がっています。現在立っているものは日本企業の援助で観光用に立てたものだそうです。
 この番組で私が納得したのがこのえらく重いマウイ像をいかにして運んだか,という実験でした。マウイ像は実際にのっそのっそと歩いたのです。
 この番組をみて,私はモアイ像について,すっかりわかった気になりました。そしてまた,イースター島も行った気になりました。そこでわざわざ行くこともないような気になってきました。それよりも,つくづく残念なのは2010年7月11日にこのイースター島で皆既日食が見られたことなのです。そのころに私がイースター島に興味があったのなら行ってみたかったなあ,と,これは取り返しのつかない後悔です。運はやはり自分でつかむものです。
 しかし,この地は満天の星空が見られるということで,私はマウイ像よりも,むしろ,この満天の星空が見たいものだと,これはいつものことですが。

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 先日「ジッツオ」の三脚のことを書いたばかりなので気が引けるのですが,私はこの度「バンガード」(VANGUARD)というブランドの三脚を購入しました。というよりもしてしまいました。私は何事もさらっと8割の力でいい加減にするのが好きです。精一杯なんて似合いません。旅行に行くときも,できるだけ持ち物は少なく,無駄なものは持ちたくないのです。
 南半球に行って星を写すときに携帯用の小さな赤道儀に取り付けるために使用する「ジッツオ」の三脚ですが,フィンランドへ行ってオーロラを写すためにカメラを固定するだけの目的にはちょっと重すぎるのです。以前持っていたのは日本のメーカーの軽い三脚でしたが,わずか数年使っただけでガタガタになってしまい,この度の「断捨離」で捨てました。
 そこで小型でしかも作りのよい三脚を探していたのですが,ネットで見ても質感がまったくわかりません。そこで,ヨドバシカメラの店舗に行って直接触ってみることにしました。

 店内には三脚が文字通り林立していて,何が何だかよくわかりません。事前に目をつけていたものなんて,実際に触ってみたらあまりにやわで話になりませんでした。「ジッツオ」には私の欲しいくらいの小さなものがありません。「ジッツオ」の精度で小さなものを作ればいいのにと思いました。 迷いに迷い,あまりに迷っているので店員さんが代わる代わる来ては相談に乗ってくれます。で,ついに選んだのが「バンガードVEO2 204AB」というものでした。
 「バンガード」知りませんでした。三脚を見ても,製品についてきた説明書を読んでもどの国の製品なのかわかりません。ふつう製品には「Made in ...」という表示があるのですが,それさえありません。なくてもよいものなのでしょうか?
 「ガードフォースジャパン」という会社が取り扱っているということなので,ネットで会社の情報を調べてみると,どうやら「バンガード」というのは台湾のメーカーということがわかりました。「バンガード」,実はOEMでニコンのバカメラバッグなども作っている信頼のある会社です。

 OEMといえば,ブランドなんていうものは虚構だということを教えてくれる存在です。
 たとえば,高性能の天体望遠鏡を作っている「高橋製作所」,この会社自体もともとは別のメーカーのOEM製品を作っていましたが,自社のブランドで名が通りはじめたころに双眼鏡を販売していたことがありました。この双眼鏡,私もそのころに購入して今も使っているのですが,ものすごく性能がよい,しかも安価なものでした。実はその製品は「勝間光学機械」という会社の作ったもので,この会社はとりわけ安くて性能のよいものを今も作っています。
 今から何十年も前に多くの天体望遠鏡メーカーがあったとき,それらの望遠鏡についていた部品もまた別会社の作ったOEMでした。特に接眼レンズはほぼ「谷光学研究所」の製品でした。
 このように,製品には別の会社に委託して作ってもらったOEMがとても多いのです。そして,そうした委託を受けた会社の技術力はとても高いものです。これこそが日本の製造業なのです。

 日本の大手の会社の製品には「日本製」をうたってそれを付加価値にして高級ぶって高い値段をつけた製品を売りにしているものがありますが,結局は今の時代,組み立ては日本で行っていてももともとの部品のすべてを日本製ではまかなえるような時代ではありません。私は,そもそも「日本製」自体に価値を認めていませんけれど…。

 そんなわけで,私は店員さんに薦められて「バンガード」の三脚を買って帰りました。
 家に帰って改めて調べてみると「バンガード」のサイトに私の購入した「VEO2 204AB」という製品がないのです。「VEO 204AB」ならありましたが,値段は私が1万と少しで購入したものの2倍もしました。推測するにこの製品はヨドバシカメラだけで売っているもののようなのです。つまり,ヨドバシカメラがバンガードに委託して作ってもらって安価で販売しているOEMでしょうか? アマゾンコムを調べてみると,そこには「VEO2 204AB」は存在していましたが,そこにあったものもまた私の買ってきた値段の倍ほどもしました。
 要するに,私はものすごくお値打ちに理想の三脚を手に入れたわけです。しかもその出来のよさに満足しました。新年早々,いい買い物をしたものです。

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●自己嫌悪に陥るのであった。●
 私は再びパイアの町にやって来た。パイアの町は通り抜けてはいたものの車を停めて散策したことがなかったからであった。この町を通る州道36だけがマウイ島の東側の北の海岸線をハナまで行く唯一の道路なのであるが,この道路はパイアで必ず渋滞に巻き込まれる。それは,車を駐車するスペースや駐車場が少ないからである。
 アメリカは広いから日本と違っていくらでも土地があるような気がするだろうが,実は,こうした小さな町では道路のまわり一帯がショッピング街になっていて,そうした町は日本とは違って路上駐車が可能なように道幅があるのだが,そこはいつもほぼ車が一杯で駐車スペースを探すのが容易でないのだ。
 ここパイアの町もまた同様であった。探してみると,パイアでは町のはずれに駐車場があって,そこなら車を停めるスペースが若干はあった。しかしこの駐車場から出るにはひっきりなしに車道に車が走っていてしかも信号がないからとても大変なのであった。そんな状況で車が駐車場から出入りするから今度は車道がふさがれるのでこの道路は車が一日中滞るのである。

 こうした町は,このマウイ島のパイアやワイルク,ハワイ島のカハルウ(Kahaluu),カウアイ島のカパア(Kapaa)といったハワイの町だけでなく,オーストラリアやニュージーランドにも多くある。私はここ数年,そうした町にずいぶんと行ったので,今思い出すとそれらの町がこんがらがってしまっていて,どの町がどうだったのがさっぱり思い出せないのだ。
 
 とはいえ,こうした町にあるのはレストランやら土産物屋やらブティックやらであるが,そのどれも私が興味をそそられるようなところではないのである。強いて言えば私に用があるのは食堂くらいのものだが,とはいえ,こうした町にある食堂はどこも高いだけなのである。
 パイアの町もまた同様であった。
 やっと車を停めた私はさほど広くもないパイアの町の南側の歩道を歩いて町はずれまで行って,そこで道路を渡って今度は北側の道路を引き返してきただけであった。
 こうした町の楽しみ方を覚えない限り,私は今後,海外旅行をしても暇を持て余すだけでないのかと,正直心配をしているわけだ。

 この日の夜はハレアカラの天体観察ツアーに参加することになっていたので,3時50分にそのピックアップがホテルに来るからその時間までにホテルに戻ることにした。
 夕食はツアーに含まれていたから,お昼は軽くおやつ代わりに何かを食べることにして,いつものホテルの近くのマウイモールのフードコートに寄ってハンバーガーを注文した。
 結局これではわざわざハワイに行かずとも,自宅にいて気が向いたときに家の近くの(我が家の近くには3つもショッピングモールがあるのだが)モールに行ってマクドナルドでコーヒーでも飲んでいるようなものではないか。私は自己嫌悪に陥るのであった。

 年末になると空港から海外に出発する人たちのニュースが流れます。この時期しか旅行のできない人は仕方がないのでしょうが,それにしても,こんな混む時期にあえて高いお金を出して旅をしなければならないのもお気の毒な話です。ハワイだって閑散期なら7万円ほどで往復できるのに,その3倍くらいも出して,大挙して日本人海を渡ります。私はハワイに行ったことのないころ,お正月に芸能人が大挙してハワイに行くのがとても不思議なことでしたが,ハワイに行くようになってから,その不思議さがますます増しました。
 それはそれで人様の勝手ですが,このハワイについて書いていて,私がじわじわとまた行きたくなってきたのがハワイ島,特にヒロという町です。

 2016年の春,生まれてはじめて行ったハワイはハワイ島でした。そのときは,マウナケア山の山頂に行きかかったことと南十字星が見たかったこと,これだけが目的でした。その後2回ハワイに行ってみて次第に状況がわかってきたら,今度は,はじめに行ったときにゆっくりと観光をしていなかったヒロという町にもう一度行きたくなってきました。
 ヒロ(Hilo) はハワイ島で最大の町で人口は4万人ほど,地名は「新月の最初の夜」とか「ポリネシア人の航海者」にちなんで命名されたものであろうといわれています。ヒロは数千種類のランの栽培地としても知られ,「果樹園の町」または「ハワイのランの中心地」の異名もあります。

 はじめて行ったときに私がヒロではなくカイルアコナを選んだのはヒロは雨が多いということを聞いたからでした。実際にハワイ島に行ってみて,ハワイ島は四国の半分ほどの大きさにもかかわらず場所によってずいぶんと天候が違うことが驚きでした。そしてまた,雨が多いのにどうしてヒロという町が栄えたのかもわかってきました。
 今年,あるいはこの先またハワイに行くときは,今度は観光でなく,その土地に暮らすような気持ちで,何の計画もせず,この素朴なハワイの町をじっくりと味わいたいものだと楽しみにしているのです。

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 2016年の秋,南半球の星空が見たくてなんのあてもなくふらっと出かけたニュージーランドでした。クライストチャーチで4泊,成田からクライストチャーチまでの航空券はホテル代込みでわずか11万円でした。私はそのころ,テカポ湖という名前だけは知っていたのですが,具体的な場所はどこか知りませんでした。ともかくテカポ湖畔で天体観察ツアーがあるというのでそれも併せて予約しました。予約したときはクライストチャーチからテカポ湖まで日帰りで往復すればいいや,程度の甘い考えでした。
 出発の1週間前になって,はじめてテカポ湖の場所を調べて,クライストチャーチから日帰りで往復できるような距離ではないと知りびっくりしました。そしてあわててテカポ湖畔のホテルを探したのですが,時すでに遅し。ホテルはどこも予約が一杯で空室がありません。苦労してやっと2泊できるホテルを見つけたのですが,宿泊代が往復の航空券代くらいもしました。
 そんなわけで,とんでもない計画の末,あわただしく出かけたわけですが,満天の星空とニュージーランドの大自然には感動しました。

 しばらくはそのときの思い出はいい思い出だけでしたが,次第に,できればもういちどテカポ湖で星空が見たいものだと思うようになってきました。
 私の印象ではニュージーランドはあまり天気がよくありません。お昼間は毎日雲がたくさん出ます。しかし,2016年に行ったとき,夜だけはいつも快晴でした。私は,それがいつもそうであるのかどうかわかりません。また,テカポ湖付近はホテルもなかなか予約がとれないものなのかどうかもよくわかりません。このように,私にはニュージーランドはアメリカに行くのとは違って,謎だらけなのでした。
 そんな状態で,ずっとテカポ湖のことが気にはなっていたのですが,先日,今年の秋のテカポ湖畔のホテルの予約状況を調べていて,手ごろな値段で宿泊できるホテルを見つけたのですぐに予約をしてしまいました。ということで,今年の秋,私は再びニュージーランドに行くのです。
 果たして,私が抱いているニュージーランドの謎は解けるのでしょうか?
 それにしても,ニュージーランドというのは,なんと魅力的なところなのでしょう。その想いがどんどん募ってきました。愛すべきニュージーランドがもう少し日本から近いといいのですけれど…。

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dsc00500_2 数年前,もし旅先でiPhoneのバッテリーがなくなって電気のコンセントがなく充電ができないという事態になったときに何かよい方法はないものかと思って調べていて,はじめて「モバイルバッテリー」なるものを知りました。しかし,当時はそれがどういうものか詳しいことがわかりませんでしたが,ともかくひとつ試しに購入しました。それが「アンカー」(Anker)という会社の製品でした。
 「アンカー」はもともとは家電機器のデザインや開発,販売を行う企業で,グーグルを退職したスティーブン・ヤングによって2011年に設立されました。社名の「Anker」はドイツ語の「Anchor」に因んで名づけられたといいます。
 スティーブン・ヤングは高品質で手頃な価格のノートパソコンの交換用バッテリーを市場に提供するためにこの企業を創業しましたが,その後,携帯充電デバイスの必要性を認識したことでスマートフォンバッテリー充電器とウォール充電器に焦点を移し,現在では売上の大半を占めています。

 私は購入したモバイルバッテリーを,当初はiPhoneの充電用に使っていただけだったのですが,オーストラリアへ行って星の写真を写すときに携帯型の赤道儀の電源や夜露からレンズを守るためのヒーターの電源として非常に便利に使うことができて,はじめてモバイルバッテリーは乾電池替わりになるということを理解しました。
 モバイルバッテリーの出力は,というよりも,iPhoneの充電に必要な電圧は5ボルト,乾電池にすると4個分で(私はそんなことすら知りませんでしたが),そのためにモバイルバッテリーの出力も5ボルトです。12ボルトの出力ができるモバイルバッテリーもありますが,通常は5ボルトです。私は長年,望遠鏡の赤道儀を動かすのに必要な電源に頭を悩ませていました。これは12ボルト,つまり,カーバッテリーで使えるためにそうなっているのですが,エンジンをかけていない車のバッテリーから電源を取り出して使うのは心配なので,12ボルトの出力ができるポータブル電源を購入したり,あるいは乾電池を10個直列にした電源ボックスを使っていました。しかし,重くて大変でしたし,予備の電池を持っていく必要もありました。そこで,5ボルトの出力ができるモバイルバッテリーから12ボルトの出力ができるのならこれを利用するのが最も便利だと思ったのです。調べてみたら5ボルトを12ボルトに変換するコードの存在があることを見つけて,長年の懸案がすべて解決しました。

 カメラの電源もまた頭の痛いところです。これもまた予備バッテリーを持っていくのですが,予備バッテリーを充電するバッテリーチャージャーは電気のコンセントが必要なのです。これもまたiPhoneのようにバッテリーチャージャーがUSB接続できてモバイルバッテリーで充電できるのならはるかに便利です。カメラがスマホに凌駕されてしまう原因のひとつはそこにもあるのです。つまり,バッテリーの問題です。
 日本のメーカー,というよりも日本人はUSBの利便性がまるでわかっていないのです。飛行機に乗れば座席にUSBのコンセントがあたりまえのようについているしアメリカの空港の待合室にはUSBのコンセントがありますが,天下の新幹線にも駅にもUBSのコンセントがないのです。カメラの電池のバッテリーチャージャーもニコンのコンパクトカメラには以前はUBS接続のできるものがあったのですが(USBの使いこなせない「ニコ爺」とよばれるカメラおじさんたちから)不評ということらしくやめてしまいました(ソニーのEマウント一眼レフはできます)。こういうことからも日本の工業製品が世界の標準から乗り遅れてしまっている理由がわかるような気がします。頭の固い,そして古い日本人が足を引っ張っているのです。

 このごろはソニーをはじめとして日本のメーカーもモバイルバッテリーの重要性を知ってそうしたものを発売し量販店にたくさん並んでいますが,これもまた日本人の考えるいつものような後追いでなんらかの付加価値をつけて値段を高くしているものばかりです。丈夫で単機能な「アンカー」を使うとそうした日本製品は「おもちゃ」にしか見えません。それにアマゾンで「アンカー」を買う方がずっと安価です。
 私は,海外旅行のお供にこの「アンカー」のモバイルバッテリーが不可欠になりました(ただし,預け入れ荷物でなく機内持ち込みでないといけないので注意が必要です)。しかし今でもカメラのバッテリーの充電だけが悩みの種です。何度も書きますが,ニコンのカメラのバッテリーもモバイルバッテリーで充電できるようにならないものでしょうか(サードバーティにはそういう製品があります)? そしてまた,充電式のシェーバーも充電式の電動歯ブラシもUSB接続ができてモバイルバッテリーこれひとつで電源がすべてまかなえるようになると予備の電池を持っていく必要がなくなりとても便利だと思うのですが…。そうすれば持ち物の「断捨離」にもつながるのです。

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◇◇◇
Super Moon 2018
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●移民時代の歴史がわかる博物館●
 この日は「地球の歩き方」に載っていた中央マウイの博物館巡りから「マウイ・トロピカル・プランテーション」と「アレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」を訪れた。「マウイ・トロピカル・プランテーション」を見学した後,私は「アレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」に向かった。

 「マウイ・トロピカル・プランテーション」から南に州道30を走り,左折して州道380を今度は北北東に進路を変えて,今度は右折して州道331を南に行くとこの博物館は数日前に朝食を食べたレストラン「ジッピーズ」の近くにあった。
 博物館は州道331の左手にあって少し州道から入ったところにあったので注意深く道路標示を探して左折すると博物館があって,駐車場に車を停めた。
 ここもまたアメリカの博物館らしく,ほどんど目立つ看板もなく,入っていいのかしらん,というような入口から中に入った。

 「アレクサンダー&ボールドウィン砂糖博物館」(Alexander & Baldwin Sugar Museum)というのはマウイ島のプウネネにある博物館でり,1987年にオープンした。
 ブウネネはかつてサトウキビ産業で栄えた古い町で町(といっても町らしいものもないけれど)の中心にあるアレクサンダー&ボールドウィン製糖工場は今も稼働している。
 博物館はその一角にあって,アレクサンダー&ボールドウィンを含むハワイの砂糖産業の歴史資料が展示されている。博物館となっている建物はもともと農地管理のための施設で1902年に作られたものをそのまま使用している。

 ハワイのサトウキビ農場は日本からも多くの移民が入植し,厳しい環境の中で生活をしていた。この決して大きくない博物館には,そうした移民が日本からもってきた荷物だとか,暮らしていたころの生活用具とか,さらには仏壇までもが展示されていた。
 何度も書くように,現在のハワイは観光地として多くの日本人が訪れて,そのほとんどがオアフ島のホノルルに滞在しているのだが,一旦そこを離れると,サトウキビ農場やコーヒー農場に,そうした時代の移民の暮らしぶりを今も感じることができて,私は考えさせられるものがある。

 博物館の外に出ると,畑の整備に使われたオーブンや運搬に使用されたカフルイ鉄道の車両などが無造作に置かれていた。
 博物館というのは,いわば,使われなくなった「ガラクタ」の物置場なのだが,それを処分するでなく,こうして展示することで,その時代の人たちの生きた証となることに意義を感じるのだった。

Happy New Year 2018
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 2016年夏,念願のアメリカ50州を制覇したのち,今後はどこに行きたくなるのかがそのときの楽しみでしたが,2017年にはわずか2か月の間に「星好きの三大願望」を再び達成することができました。では,私は2018年は何をしたいのでしょうか?
 それがまあ,自分でも不思議なことに,雄大な大自然にすっかり魅せられてしまい,そのほかの場所には急激に興味をなくしてしまったのです。雄大な大自然…そうした場所には特に何かがあるというわけではありません。旅行のガイドブックにもほとんど何の情報も載っていませんし,その場所に出かけても,特に見どころがあるわけでもなく,むしろ退屈なだけの場所が多いのです。
 しかし,そうした場所は,帰ってから,なぜか,忘れられなくなってしまうのです。

 これは以前にも書いたと思うのですが,はじめてグランドキャニオンに行ったとき,人の作ったものなんてそれに比べたら何とちっぽけなものだとしみじみと思いました。ニューヨークの摩天楼もカリフォルニアのディズニーラドも,むなしいものだと感じましたが,まさに,それと同じです。
 私が忘れられなくなってしまったのが,ニュージーランドとオーストラリアで見る満天の星空であり,アラスカで見たオーロラなのです。
 今日はそのなかでオーロラについて書きましょう。

 2017年の夏,せっかくシアトルに行くのだからと,ふと出かけることにしたアラスカでした。夏でもオーロラが見られるということを知って思い立ったのですが,期待は淡いものでした。が,その夢がかなってしまいました。
 今でもその旅で滞在したフェアバンクスの街並みをはっきりと思い出せるのですが,特に何があるか,といっても思い浮かぶものもないのに懐かしいのです。しかし,考えてみればアラスカは遠い,遠い,遠い,…… 遠いのです。今すぐにでも行けそうな気がするのですがそれは錯覚です。
 と思っていたら,なんと,フィンランドという近い場所を見つけちゃいました。私はスカンジナビアなんてまったく眼中にありませんでしたし,行こうとも思っていませんでした。それにはひとつ誤解があって,それはフィンランド語がわからない,ということでした。しかし,フィンランドでは英語通じる(らしい)のです。ということを知って,急に行きたくなってきました。フィンランドならアラスカよりずっと近いのです。セントレア・中部国際空港からは直行便があって10時間足らずでヘルシンキに着きます。オーロラを見るにはそこから北にさらに800キロほど北上しなけらばなりませんが,その場所にあるロヴァニエミまではヘルシンキから空路で1時間ほどで行けるのです。ということで,さっそくこの春に出かけることにしました。さて,極間の地,どんな素敵なことが待っているでしょうか?
 世界はいつもときめきに満ちているのです。

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今日の写真はアラスカで写したものです。

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