この旅は4泊6日ですが,到着が夜だったので1日目は何もできず,実質は3日間の観光です。3日間とはいえ,小さなロバヴァニエミで3日もすることがあるのか疑問でした。ただし,夜は3日ともオーロラ観察です。これが目的で来たのですから,最善をつくさなければ悔いが残ります。
小さい町とはいえ,人口は6万人,観光都市ロバニエミの街中は明るく,しかも郊外は雪道ということで,夏にアラスカに行ったときのように,車を借りて郊外に行くのは無謀でした。しかし,幸いここにはモイモイツアーという日本人相手のオーロラ観察ツアーがあるので,それに参加することにしました。3日連続で予約をしたらかなり値引きがありました。オーロラは天気さえよければ程度の差はあってもほぼ見られるのですが,問題は天気なのです。見られる確率がたとえ50%でも,3日であれば88%になるのです。
自他ともに認める晴れ男は今回も健在だったようで,昨日までの雪から一転して,今日は朝から快晴で気温はマイナス17度でした。しかし,風がないので寒さはそれほど感じませんでした。
オーロラツアーは夜8時30分からなので,まずは,有名なサンタクロース村に行くことにしました。公共のバスで行くのですが,バスが出ているバス停の場所がわからず,乗り方も分からずということで,かなり戸惑ったのですが,ともかくなんとかバスに乗れてどうにかサンタクロース村に到着しました。
サンタクロース村というのは,テーマパークというよりもアウトレットのようなところで,入園料が要るのではなくて,レストランや売店があって,そこでお金を使わせようという施設でした。メインは郵便局とサンタクロースのいるパビリオンです。実はサンタクロースのいる場所は2箇所あって,一方はみんな知らず並んでいる人がいませんでしたが,もう一方はすこい人混みでした。どちらも中に入るとサンタクロースに扮した人が座っていて話をして一緒に写真を撮って,欲しければその写真を買うというシステムでした。これがこのロヴァニエミ一番の人気の施設なのですが,私はこんなもんかと思いました。
ただし,ここで見逃していけないのが北極圏の境界です。夏にアラスカのフェアバンクスに行ったとき,フェアバンクスから北極圏はまだ200キロも遠くて,行くのを断念したのが心残りだったのですが,ここでその願いがかないました。
サンタクロース村には森の中を1,000メートルトナカイの引くソリに乗って散策するというアトラクションがあったので乗ってみました。フィンランドのトナカイはすべて人の持ちモノで,肉にされたり繁殖させたりといったことが組合で厳格に管理されているそうです。当然ソリを引くトナカイもその中のもので,そりを引くように選ばれたオスのトナカイを去勢してこれを生業として生きながらえているのだそうです。
そのあとで,私はレストランに行って,なんとトナカイ肉のホットドッグを食べました。かなりブラックジョークですね。こちらではトナカイの肉はポピュラーなのですが数が少ないので,牛肉よりも高価です。
午後はロヴァニエミに戻って,アルクティクムという博物館に行きました。ここは北極圏に関する博物館で,展示は非常に充実していました、アラスカのフェアバンクスで同じような博物館に行ったのを思い出しました。となりに科学館があったのですが,これは子供向けのつまらないところでした。その後まだ時間があったので,フレスコ画で有名なロヴァニエミ教会に立ち寄りました。何かの準備で忙しそうだったので聞いてみると,夜6時からゴスペルのコンサートをやるから来てねと言われました。
夕食は日本料理店を見つけたので,そこでお寿司を食べてからホテルに戻って,オーロラ観察ツアーに行く準備してをして,いよいよオーロラツアーの集合場所に急ぎました。
February 2018
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE③-ロヴァニエミ
この国の合理性は様々なところに現れています。
入国者で書類は全く不要で,全て自動化されていました。空港での余分な放送も皆無でした。
ホテルでは,ベッドの脇のスイッチで部屋の中の電気が制御できます。さらに洗面所は全ての電気を消しても薄く明かりが灯ります。また,ドアに表示されている避難経路が暗闇でも薄く光っているのですが,それは寝ているときベッドからはその光が見えないように配慮されています。
シャワーはひねるとすぐにお湯が出ますし,ウォッシュレットというような手の込んだものは当然ありませんが,洗面台に小さなシャワーがあって自由に使えます。
電源のコンセントはC型プラグですが,これがまた安全性に最も優れた形状です。アイロン台やスタンドなども最も使いやすく作られていて,日本製品のようにやたらと使いにくく工夫を凝らすようなことにはなっていません。
部屋の空調も完璧で寒さは全く感じません。
買い物はキャッシュレスが当たり前で現金は不要です。バスもクレジットカードで乗れます。
これが世界一教育が進んでいると言われるフィンランドの姿です。
・・
さて,2日目になりました。ホテルの朝食は非常に豪華なバイキングでした。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE②-ロヴァニエミ
ヘルシンキからロヴァニエミまではずっと左手に夕焼けが美しかったのですが,ロヴァニエミに到着したときはすっかり日も暮れていて,ヘルシンキでは快晴だったのに小雪がパラついていました。これではオーロラどころではないなあと落胆しつつ,空港の外に出てはじめて気温マイナス10度の洗礼を受けました。
心配だったホテルまでのアクセスは,空港を出たところに数台のシャトルバスが停まっていて,一番近くにいたバスのドライバーに予約してあるホテルの名を告げると,これだよと言ってカバンをトランクに詰めこんでくれました。
少し待って,やがて10人ほどが乗り込んで出発しました。市街地までは8キロ,雪道をすごいスピードで飛ばします。乗り合わせたドイツ在住の日本人のカップルによると,明日からは晴れるよということでした。
ホテルの前でシャトルバスは停車,7ユーロ払って降りました。ホテルに入ってチェックインをして部屋に入りました。すごくきれいな部屋で感激しました。このホテルは便利もよく部屋も無駄なく充実していて住みたいほどで,これまで泊まった世界中の多くのホテルの中でも最高です。
荷物を片付け着替えをして外に出ました。風がないので,マイナス10度もこんなものか,という感じでした。こちらは午後7時ですが日本時間では深夜の2時なのでまともな夕食を取る気もなく,好奇心ついでに近くにあったマクドナルドに入りました。ここのマクドナルドはつい最近まで世界で一番北にあったそうです。日本にないメニューがあって面白かったこと。セットはアテリア(ateria)というみたいでした。ちなみにアメリカではミール(meal)と言います。店内は中国人だらけでした。彼らのマナーの悪さだけは世界共通です。
土地勘を養うためにきれいなダウンタウンをとりあえず少しだけ散策してから,スーパーマーケットで買い物をして,ホテルに戻りました。
ホテルの装備にせよ空港の入国手続きにせよ,この国の合理的な精神は世界一,日本とは真逆でとても快適です。
ともかく,こうして31時間もあった旅の初日が終了しました。では,おやすみなさい。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE・S-オーロラ
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE①-ロヴァニエミ
フィンランド航空ははじめて利用しました。ヘルシンキで乗り換える乗客ばかりのようでしたが,ほとんどの人はこの先イタリアとかフランスに向かうのでしょう。大学生が多いように感じました。それ以外にはお年寄りのツアー客。行き先が違うとずいぶんと客層も違うものです。ほとんどは日本人でした。
航空会社が違うと戸惑うことも多く,USBのコンセントがないのには参りました。それにフィンランド航空は私のデルタ航空のプライオリティ特権は効力がないので,私の席は単なるエコノミー,しかも窮屈な南側の窓際でした。しかし,座席に余裕があるということで70 ユーロ払うとアップグレードになるという放送があって,となりに座っていた女性がそれを利用して席を移ってくれたおかげで急に快適になりました。となりが空いていさえすれば問題ないのです。
名古屋からヘルシンキまではシベリア上空を飛行します。天気がよくてしかも窓側だったことが逆に幸いで,窓からは地上が眺められたので,映画を3本見ながら合間に景色を見て過ごしました。アメリカに向かうのとは違って地球の自転に逆らっているのでずっとお昼間です。離陸したのが日本時間でちょうどお昼少し前で,ヘルシンキまでの時差がマイナス7時間,そして飛行時間が9時間と少しなので到着が午後2時過ぎとなります。時差ぼけの影響が少ないのが助かります。
それにしても眼下に広がる悠久の大地には感動しました。これを見ただけでも来た甲斐があったというものです。アラスカの上空から景色を見たときにも思ったのですが,地球というものは恐れ多いものです。人間の作った風景などどうでもよくなります。
予定より30分ほど早くヘルシンキに到着しました。乗り換え時間はもともとは1時間30分もなく慌ただしそうに思ったのですが,ヘルシンキの到着が早くなって助かりました。ヘルシンキは日本からヨーロッパ各国のへのトランジットで日本人がたくさんいましたし,日本語が通じたりしました。
外の気温はマイナス2度ほどでしたが,空港内は暖かく問題はありませんでした。ヘルシンキからロヴァニエミまではわずか1時間と30分ほど,急に日本人がいなくなり,中国人が目につきました。
ロヴァニエミに到着したのはすでに日が沈んだ午後の5時過ぎでした。飛行機の窓から見えたロヴァニエミの空港は一面の雪景色。遠くのサンタクロース村のあかりだけがおとぎの国のように輝いていました。気温はマイナス10度。寒い。なんかとんでもないところに来たようで思わず笑ってしまいました。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE⓪-ロヴァニエミ
私がフィンランドに行くなど,考えたこともありませんでした。だから,ロヴァニエミ(Rovaniemi)という地名はもちろん知りませんでした。
オーロラは,今から30年以上も前に冬のイギリスとフランスへ行ったとき,北極上空を飛行する機内から見たことがあったので,それほど思い入れもなかったのです。昨年2017年,皆既日食でアメリカに行ったとき,帰りについでに立ち寄ったアラスカで,今度は地上からのオーロラを見ることができて,そのときはそれで十分満足だったのに,次第にオーロラに興味が湧いてきました。しかし,アラスカは直行便がないから遠く,行くのがなかなか大変です。
今となってはどうしてそう思ったのか忘れてしまったのですが,今年の夏にフィンランドのヘルシンキに行って北欧をドライブでもしようと思うようになりました。しかし,そのときもまだ,寒い冬のフィンランドに行くなんて考えたこともありませんでした。それがまあ,どういうことでしょう?
セントレア・中部国際空港からフィンランド航空がヘルシンキまで直行便を運航しているので,簡単にヘルシンキまでは行くことができます。夏のヘルシンキは快適で,楽しいドライブができるそうです。しかし,ホテルやレストランが高価なのです。そんなこんなで,いろいろと探していたら,冬のロバニエミに安価なホテルをみつけちゃったのです。で,冬なら運がよければオーロラ見られるかもしれない? などと閃いて,これだけで行く気になってしまったわけです。
果たして私はオーロラを見ることができるでしょうか? 見られなかったら現地で他に何をすればいいのでしょうか? 気温はなんとマイナス10度くらいだそうです。
人生一度っきり。もしすることがなかったとしても,一度くらい真冬のラップランドに行くという経験をするのも悪くはないのかもしれません。と自分に言い聞かせて,ともかく出発です。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島③
●「カウアイ・コーヒー・カンパニー」●
2017年3月にマウイ島に行ったときは,夜に空港に到着したので,あらかじめ調べておいたはずなのに暗くてホテルまでの道順がわからず苦労したので,今回は事前に地図でもっと詳しくきちんと調べておいた「はず」であった。空港はリフレの町からすごし外れたところにあって,ともかく道路標示にしたがってまずリフレのダウンタウンに向かい,州道50を西に向かって走ればいいはずであった。今回は到着もお昼だったので明るく,問題なく走り出した。
やがて調べてあった通り州道50に出たので,そのまま西に向かって予約してあったホテルのあるコロア(Koloa)に向けて走り出した。
いつの場合もそうだが,はじめて行った場所は到着したときが最も大変である。土地勘がなく,距離感や地名がよくわならないものだから,迷ってしまうのだ。しかも,予約したホテルがどういう様子なのかもまた,定かでない。
今回のホテルは,事前にネットで見たところ,ホテルというよりも古びたリゾートタウンのような感じであったが,インターネットの写真を見てもなかなか様子が把握できかねる状態だった。ともかく,この州道50を走っていってコロアの町に着いたら左折してポイプ(Poipu)という海岸まで行けばホテルは見つかるはずであった。
しかし,このカウアイ島は私が思っていたよりもずっと狭い島であった。いつの間にか左折するはずの交差点を過ぎてしまい,今日の1番目の写真のような,とっくに住宅街を通り過ぎるとあたりは一面の大自然で道路しかないところを延々と走るようになった。これは通り過ぎたかな? と思ったので次に見つけた交差点を左折した。その道路は州道540という標示があったので車を停めて地図で確認するとコロアからえらく行き過ぎていて,そこはすでにハナペペ(Hanapepe)という次の町であった。
しかし,州道540をそのまま進めば迂回するような形で再び州道50に戻れることがわかったので,そのままこの道を進むことにした。
このときははじめての場所でよくわからなかったが,実はカウアイ島ではコロアよりも西のこのあたり一帯が最ものどかで素朴な,古きよきハワイの面影のある素敵なところだった。どうやら私は到着していきなり,カウアイ島で最高の場所に来てしまったというわけであった。
通称「ハレウィリ・ロード」(Halewili Rd)と呼ばれる州道540を走っていくと,やがて「カウアイ・コーヒー・カンパニー」(Kauai Coffee Company)という場所に着いた。舗装されていない広い駐車場があって,結構な車が停まっていたので,私もそこに駐車して中に入っていった。
豊かな火山土壌と豊富な雨,そして涼しい貿易風が吹くカウアイ島はコーヒを育てるには最適な場所である。「カウアイ・コーヒー・カンパニー」は1,255ヘクタールの農地に400万本のコーヒーの木を有するアメリカ合衆国の中でも最大のコーヒー生産会社ということであった。ここで,コーヒーの木を育てるところから,焙煎,パッケージングまで、すべての工程を行っている。
カウアイ島のコーヒーは,1800年代はじめにハワイで最初のサトウキビ産業として「マクブライド・シュガー・カンパニー」として創業をはじめたが, 1878年に「カウアイ・コーヒー・カンパニー」へと生まれ変わった。1992年にカウアイ島を襲ったハリケーン「イニキ」によって多額の損害を被ったが復活を遂げ,1996年にはカウアイ島のコーヒーはハワイ島コナ地域全体のコーヒーを超える生産量を記録した。
「カウアイ・コーヒー・カンパニー」のビジターセンターでは自由にコーヒーを味わうことができる。そこには売店も併設されていて,カウアイ島の中でもとりわけすばらしい場所であった。私がこの旅で到着してすぐに道に迷って,まずたどり着いたのがここだったというわけだ。
「不良老人」の日常③-お金はどこから降ってくる?
ショッピングモールなどを歩いていると,商品が満ち溢れています。私がいつも不思議に思うことは,どうしてこうも多くの商品が買えるほど,お金を持っている人がいるのだろうか? ということです。ということで,今日は,非常に俗的なお金の話題です。
大金持ちの人は別として,一般の人の場合,大学新卒の人がまずまずの会社に正社員で勤めたときにもらうお給料は手取りとして15万円くらいのものでしょう。それに加えてボーナスがもらえるとしても,年収は手取りでわずか250万円くらいでしょう。そして,30代,40代の人の場合は,手取りの年収は500万円というところでしょう。…というようなことが書かれてあるのですが,この数字は果たして本当なのでしょうか?
アベノミクスとかいう,単にお金を大量に市場に流し込んで無理やり円安にして,海外で日本製品の値段をさげ,むりやり景気をよくしたただけの経済政策は,私の予測通り今や限界に達しています。日銀は金融緩和の出口戦略ができず,バブルのころの失敗をまた繰り返そうとしています。そんなことは以前ブログに書いたように,やる前からわかっていました。
しかも,インフレにして給料を上げると言ったって,今の日本社会は年金受給者ばかりで,しかも,年金だけでは足りないからこれまでの蓄えを切りくずして生きているわけで,バブルのころのインフレとは違い,今インフレになれば銀行の金利が低いから蓄えの価値はどんどんと減るので,物価が上がってはやっていられません。それでも厚生年金を受給していれば年に200万円くらいは収入があるからまだ裕福ですが,自営業者だと国民年金しかないので100万円にもなりません。
とまあこういう現実のなかで,どうして,一般の人たちが,300万円もする車が買えたり,5,000万円もする家が買えたり,月に30,000円も子供の塾代が出せたり,お昼のランチに1,200円も払えるのか,私にはさっぱり理解ができないわけです。さらに,夜になれば居酒屋で5,000円も出して会社員が年中飲み会をやったり,時給900円でバイトをしている大学生がコンパをやっているのもまた,私には理解不能です。
子供2人連れてツアーでハワイに旅行したら,軽く100万円は必要ですし,カメラマニアはブログで新製品の批評やら噂に余念がありませんが,そうしたわずか数年で陳腐化するような現代のデジタルカメラにプロでもないのにモデルチェンジごとに30万円も散財するのも,なんなのかなあ? と思ってしまいます。
今の時代,定年退職したときに蓄えが少なくとも5,000万円くらい,余裕をもって1億円くらいは当然必要でしょう。なのに,どうしてこれくらいの収入しか見込めないのにこういうことができるか,私はいつも不思議で仕方がないのです。
みなさん,どこからお金が降ってくるのでしょう? 私はいつもそれが不思議で仕方がありませんが,もしも将来の蓄えもなくお金を使っているとしたら,その将来は「不良老人」どころか「貧困老人」として死ぬまで働くことになるのでしょう。それこそが,この国が国民に求める国策だからです。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島②
●カウアイ島も正真正銘観光地であった。●
ついにカウアイ島にやってきた。観光地ハワイの中で最も素朴な島で,かつてのハワイの雰囲気が残るところだ聞いていたから,私は大いに期待した。
おそらく,私がカウアイ島に来る前にオーストラリアの田舎やニュージーランドやアラスカに行っていなかったら,違う感想を持ったに違いない。しかし,そうした正真正銘素朴なところに比べたら,残念ながらカウアイ島は観光地であった。しかし,私がそのことを知るのはもっと先のことである。
ひょうたん型のマウイ島とは異なり,カウアイ島はハワイ島のような,まあるい島である。たたし,ハワイ島とは違って島の北西は山が海岸まで迫っていて道路がなく,島を周回する道路はない。
空港があるのは島の南東にあるリフエ(Lihue)という町である。空の上から見たカウアイ島は山と緑ばかりで,最も素朴な島,というイメージがさらに膨らんだが,天気はよさそうに思えなかった。
空港の雰囲気はハワイ島のヒロ空港と似ていて,のどかな感じであったから私は好感をもった。
空港から出るとレンタカーのオフィスが並んでいるのもヒロ空港と同じであった。しかし,ヒロ空港の場合はレンタカー会社のオフィスが機能していて,そこですぐに車を借りることができたのだが,カウアイ島ではレンタカー会社のオフィスは(おそらく)今では手狭になってしまい空き家と化していた。そして,レンタカー会社の建物の裏手の,かつてはレンタカーの駐車場であっただろう場所にレンタカー会社へ周回するシャトルバンの停留所があった。
そこでしばらく待っていたが,私の予約したハーツのシャトルバンは運悪くなかなか来なかった。何台か別のレンタカー会社のシャトルバンを見送って,やっと来たバンに乗り込むと,空港の外にあるレンタカー会社のオフィスにすぐに到着した。オフィスの建物の外に掲示板があって,そこに私の名前と私の借りる車の停まっている駐車場の番号が表示されていた。
ハーツのゴールドプラスリワーズ(Gold Plus Rewards)メンバーは,このようにカウンタを通さずとも即座に車を借りられることがウリなのだが,それが実際はなかなかどこでもそうはいかないのである。ここの空港はこうした掲示板があったからよかったものの,大概は駐車場の番号がメールで送られてくるというシステムになっていて,私のように外国から来た者にとって,空港に降りてすぐに現地のフリーWifiでメールを拾うのがたいへんだから,その情報が手に入らなかったりするのだ。さらに空港によってシステムがけっこうまちまちなので戸惑うことも多いわけで,これもまたいかにもアメリカらしいことではある。
そうしたわけで,今回はとてもスムーズに車を借りることができた。さっそく車に乗り込み,ゲートで運転免許証を見せて駐車場から外に出た。なお,ハワイでは国際免許証は不要である。
「不良老人」の日常②-解説なしで感動できること
2018年2月17日,朝日杯将棋オープン戦で藤井聡太五段が優勝して六段に昇段しました。この日も,対羽生戦で2度の4三歩,対広瀬戦では4四桂といった輝ける手が出ました。いつも何がしか,こうした驚きの手があってすばらしいです。
すでにこのブログに書いたように,幸運にも私はこの朝日杯将棋オープン戦の準々決勝が行われた名古屋対局を観戦することができました。名古屋のほうが東京よりも対局者との距離が近かったが幸いでした。そしてまた,目の前でプロの棋士の将棋を観戦する機会などほとんどないので貴重な経験でした。しかし,対局場は解説がありません。観戦に来ていた人の中には,対局者の姿を見にきただけで将棋のことはほとんど知らないという人も結構いて,局面の優劣もまったくわからないようでした。
私は強くはないけれど,年期だけはあるので,解説がなくても局面を味わうことが十分にできたので,非常に感動しました。そして,家に帰ってからインターネットで解説を見て,さらに深く内容を味わうことができました。
クラシック音楽のコンサートもまた,同じようなものです。これもまた,ほどんど知識もなく,あるいは興味すらなく,お付き合いで聴きにきていて,解説を読んでいるだけならともかく,睡眠をしている人さえ見受けられます。
旅行に行っても,やはり同じような人に多く出会います。
ニュージーランドやハワイの星空観察ツアーやアラスカのオーロラツアーなどに参加すると,いったいこの人たちはこれまでの人生で何を学んできたのだろうと思うような人が少なくありません。何事もブームになるとワーッと現われて群がって,民放放送のワイドショーやくだらない週刊誌で得た知識だけで,それまで興味もなかったのに騒いでいる「ブーマー」さんたちです。何を見ても「かっわいい~」「やば~い」と叫んでる女性と同じです。
若い人がこれを機会に興味をもつならば,それはそれでよいのでしょうが,歳を経て,これから人生の達人を目指す「不良老人」ともなると,それではもう手遅れです。
世の中はときめきと感動に満ち満ちているのです。そうしたときめきと感動を自らのこころで味わえなければ,その魅力のほとんどはわからないのです。すべてが「馬の耳に念仏」「豚に真珠」状態です。まことにお気の毒な話です。しかし,そういった感動を解説なしで味わうためには,これまで,どれだけそうしたものに向き合って生きてきたのか,ということが必要で,それが結果として現れるのです。それは,地位や財産とは関係がないのです。
「不良老人」になるためには,歳をとったときに,世の中のときめきを解説なしに感動できるそうした素養を若いころから身につけることが必要不可欠なのです。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島①
●「やればいいんだろう」という感じでは?●
☆1日目 11月28日(火)
2016年の夏にアメリカ合衆国50州とメジャーリーグベースボール30球場を制覇し,2017年には南天と皆既日食,そして,オーロラをわずか2か月で見ることができて以来,スポーツ選手がが記録を達成して目標を失ったような感じになってしまった。しかし,それでもって旅をする情熱がなくなったわけはなく,新たに行きたいところがよりたくさんと出てきたけれど,興味の対象が以前とは移り,あれほどこだわっていたアメリカ本土がど~でもよくなった,ということだった。
そこで,新たに行きたいところのなかでどの順番にそこに行くかというのが結構大きな問題になっているのだが,ともかく行けるところから行ってみようと思い,とりあえず11月の終わりにハワイ州カウアイ島からはじめることにした。
私の行きたい多くの場所の中でハワイが最も手軽な場所であるから,これからも,気軽に無計画にハワイ島やらマウイ島,さらには,機会があればモロカイ島とかラナイ島に出かけて1週間くらいを何もせず過ごそうと考えているのだが,カウアイ島だけはそうはいかないのだ。それは,多くの友人がカウアイ島がいい,いい,と言っているのだが,カウアイ島はほかのハワイ諸島の島々とは違ってひとつだけ反対の方向にあるので,わざわざ行く気力があるうちでなければ行けないということが理由であった。
しかし,いくらカウアイ島がいい,いいと言われても,私の望むハワイというのは星空の美しいところでなければならない。その点,ハワイ島とマウイ島は申し分ない。しかし,いろいろ調べても,カウアイ島で星空がきれいという話が出てこないのだ。その理由はおそらく天気がよくない,ということであろうと勝手に解釈したのだが,残念なことに,行ってみると,実際その通りであった。
そんなわけで,まったくテンションも上がらなかったが,ともかく,みんながいいと言うカウアイ島がどういうところかという好奇心だけで,私は機内持ち込み用の小さなサムソナイトにわずかばかりの着替えを詰め込み,すっかすっかのカバンを持って,いつものようにセントレア・中部国際空港に向かった。
出発もいつものように夜の9時30分。機内は空いているし,カバンを預けるわけでもないから空港には1時間ほど前に到着すれば大丈夫なのだ。しかし,私の家からセントレアまで何事もなければ50分ほどで行けるはずの名鉄は信用がなく,というか,知多半島を走る名鉄は踏切だらけで頻繁に事故やら故障やらで止まるから,もしそうなってもなんとかなるように3時間前くらいに到着するように家を出た。
幸い何事もなく空港に着いてみると,いつもなら浮かれ気分のホノルル便がこの日はなぜかそういう雰囲気もなく,暗~い感じであった。やたらとセキュリティが厳しいのである。それはアメリカ当局からそういう指令があったらしいのだが,なにせ平和ボケの日本,そして,実質よりも形式的にやったふりを得意とする「おもてなし」のこの国は,係員の「慇懃無礼」な態度に,私は,ただでさえ低かったテンションをさらに下げてしまった。
アメリカのセキュリティを何度も経験した私には,この空港でのセキュリティチェックのすべてがままごとにしか思えなかった。係員は不慣れで同じことを調べたり,あるいは忘れていたりと,やればいいんだろ,的な態度が見え見えであった。こんなことで本当に危険な人物を探し出せるのだろうか?
学生のとき,学校の避難訓練を「やったことにしておこう」と言った教頭の言葉を思い出した。
まあ,こんな調子ではじまった今回の旅であったが,機内は予想通りからがらであった。そこで私の座席はいつものようにデルタコンフォートにアップグレードされ,しかも,コンフォートの最前列で,そこはビジネスクラスのひとつ後ろの足を延ばしてもさらに余裕のあるやたらと広い席であった。しかも隣が空いていて,むちゃくちゃ居心地のよい席でもあった。その席で今回手に入れたノイズキャンセリングの優秀なBOZEのイヤホンで音楽聞きながら寝入ってしまった私が気づいたとき飛行機はすでにハワイの上空を飛んでいた。
アメリカの入国には書類はいらない。キオスクという機械にパスポートを読み取らせ,指紋と顔写真を撮るだけなのだが,機内で客室乗務員が書類を配り,書いておけと言った。私が要らないだろうと言っても,書かなければいかん,というから書いたのだが,やはり不要であった。
朝の到着で,空港は混雑していて入国に時間がかかったが,ともかくゲートを出て,ハワイアン航空のターミナルに向かった。これでホノルルの空港に来たのも3度目だったから,空港の中の配置もよくわかるようになった。ホノルルの空港は成田国際空港同様に古臭いところだが,成田のように3つのターミナルが離れていてわかりにくいよりはマシである。
今回はホノルルで日帰り観光をする予定もなく,そのままカウアイ島までトランジットである。
定刻カウアイ島行きに乗り換えた。飛行機はホノルルの町を眼下に離陸して,いつもとは違って西の方向に旋回して海の上に出て,いつものように配られたグアバジュースを飲んていると,眼下にカウアイ島が見えてきた。
「不良老人」の日常①-将棋を見ていて1日が終わる。
私はオリンピックには興味がありません。子供のころはよく見ていたのですが,純粋なスポーツから政治家の思惑やマスコミ主導の金儲けのための企画になってしまって,嫌悪感をもつようになりました。私は見ない民放の興味本位のワイドショーもまたオリンピックだらけのようで,テレビしか娯楽のないオリンピックに興味のないお年寄りが困っています。
私は,日常,見たい番組は事前に興味のあるものだけを選んで録画してから見ます。それ以外はクラシック音楽を聴きながら本を読んだりして満足感に浸っているのです。…とまあ,そんな日常をおくっていたのに,もともと好きだった将棋だったのですが,藤井聡太五段の活躍以来,はじめのころはAmebaTVの中継を見ていたのが次第にエスカレートして,今やニコニコ生放送,さらに「将棋連盟LIVE」というアプリまでお金を払って見るようになりました。そうしたらまあ,それがおもしろすぎて,それを見ているだけで1日が終わるようになってしまいました。
これは喜んでいいのやら悲しむべきことなのやら…。
藤井聡太五段の将棋は純粋におもしろいです。将棋自体がおもしろいのです。藤井五段の将棋は,どの対局も勝負所で感動する一手が必ずといっていいほど出現します。
対高野四段戦の9七桂,対瀬川五段戦の2三歩,対中田功七段戦の5五桂,対古森四段戦の5八金左,対都成四段戦の5一玉,対梶浦四段戦の5四香打,対牧野五段戦の1九角成,対澤田六段戦の4五銀,対竹内四段戦の1五歩,…など,数え上げてもきりがありません。それらはプロでも感動する一手で,私は見ていて涙が出てきます。
藤井五段のこうした手は「次に何をやってもあなたは勝てないですね」というような決め方につながるものなのですが,これは,升田幸三実力制第4代名人が自ら生涯最高の一手だと自賛した第十七期将棋名人戦第7局の46手目4四銀に匹敵する考え方なのです。それはつまり,盤面で次に何を指しても悪くなる局面に持ち込むのが最高の棋士の一手である,というものです。
将棋の番組は,将棋自体の面白さに加えて,解説の棋士の説明がわかりやすく,そしてまた,聞き手を務める女流棋士がみな頭がよいものだから,受け答えが機敏で,下手なお笑い芸人の無知丸出しの漫才なんかを見ているよりもずっとおもしろいのです。さらに棋士というのは個性派ぞろいなのがすばらしいです。
こういうものに浸っていると,世の中の暗い,そして不愉快なニュースを忘れます。そこに,将棋という頭の体操が小気味よく刺激をし,時間の経つのがあっという間になります。私はただでさえやりたいことが多いのに,これではますますやりたいことができなくなってきました。しかし,それにもまして,これほど楽しい時間の過ごし方を知った喜びの方が大きいものです。こうして私は今まで以上に幸せな毎日を過ごしているのです。
◇◇◇
藤井将棋の魅力-盤面全体に宝石をちりばめたよう
2017春アメリカ旅行記-帰国の日③
●ハワイの過ごし方●
☆9日目 3月30日(木)
いつものように機内でだらだら過ごしていたら,やがて日付変更線を越えた。ハワイは赤道に近いのでジェット気流の影響が強く,東に向かうときと西に向かうときでかかる時間がものすごく違う。向かい風の帰りは時間がかかるのだ。
やが日本に近づいてきて,セントレア・中部国際空港のある知多半島が見えてきた。ちょうど夕日が海に沈むところだったので,太陽が海に反射してとてもきれいであった。
定刻より早くセントレアに着陸した。荷物は機内持ち込みにしたおかげでそそくさと飛行機を降りて,一目散に税関を通りて,わずか数十分後には名鉄の特急に乗り込んでいた。まるで通勤のようであった。
これで今回のハワイ・マウイ島の旅は終了である。
今回は2度目のハワイであったが,オアフ島は前回行ったときに寄ったダイヤモンドヘッドとワイキキビーチ,そして,今回の真珠湾とおおよその見どころは行くことができた。そして,前回のハワイ島も今回のマウイ島も,ともに無計画だが日数だけは十分の滞在だったから,日本のテレビでやっているハワイの特番に出てくるような見どころはほぼすべてを制覇してしまった。
私はこの旅のわずかその8か月後には4つ目の島であるカウアイ島にも行くことができたから,もう,ハワイについてはおよそほぼすべてのところを知ることができた。
ハワイに限らず,私は人の作ったものよりも自然のほうに惹かれる。私にとってハワイのよさというのは,マウナケア山やハレアカラ山の山頂から見た雲海であり,真っ青な海であり,そして,日本では決して見られない満天の星空である。そしてまた,日本では忘れさられてしまったような昭和の町並みである。ホノルルのような混雑した東京のような都会は別として,ハワイ島やマウイ島に行けば日本のような渋滞もないから,ハワイは京都やら各地の小京都と呼ばれる観光地を散策するよりもずっと落ち着く楽しいところである。
私がこれまで行ったなかで今も忘れられないのは,ハワイ島にはじめて着いたときに1泊だけしたヒロのアーロンコテッジで出会った夫婦連れのハワイでの過ごし方であった。おそらく,彼らが最も粋なハワイの楽しみ方を知っているのだろう,と今も思うのである。
また行ってみたい。
◇◇◇
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2017春アメリカ旅行記-帰国の日②
●ハワイ便のビジネスクラス●
ホノルルの空港に到着したら,空港を巡回するバスが待っていた。バスに乗らずともそのままコンコースを歩くこともできるのだが,ホノルル国際空港(このときはそういう名前であったが,2017年4月27日にダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport))と改名された)は狭いとはいえそれでも結構な広さであるから,こうしてシャトルバスサービスがあると助かるのだ。
この後のフライトを聞かれたので答えたら,その便の出発するあたりまで乗せてくれたが,バスに乗ったのは私だけであった。
しかし,私は勘違いをしていた。
一旦空港を出て,デルタ航空のカウンタでチェックインをして荷物を預けるつもりであったが,そんなことをしなくても,直接,次の便の搭乗ゲートへ行けばチェックインができるのであった。
バスを降りてコンコースを歩いていって,係りに空港の出口を聞くと不思議な顔をして,直接次の便のゲートへ行け,と言った。私はチェックインをしたいから要領がよくわからなかったが,ともかく次の便のゲートに行くと係りの女性がチェックインをしてくれた。ここでカバンを預けられるのか? と聞くと,そのまま機内持ち込みでいいんじゃない? と言われた。
これもまたよくわからなかったのだが,私の持っていたカバンは確かに機内持ち込みサイズではあったが,この旅では星を写すための三脚や簡易赤道儀を持っていて結構重たかった。ハワイアン航空では持ち込みができたが,この重量で後日カンタス航空に乗ったときはおもたいから預けなければならない,と言われたし,そのあたりのことがよくわからないのである。会社によって違うということだが,あれほどセキュリティには厳しいアメリカの飛行機会社が持ち込み荷物の重量制限が鷹揚なのも不思議な話だ。
いずれにせよ,こうして私はホノルルでもう一度セキュリティチェックを受けることもなく乗り継ぎ便に乗ることができて,とても楽であった。
まあ,そんなわけで,私は無事にチェックインが終了したので,フライトの搭乗手続きがのはじまるまでの時間をゆっくりデルタ航空のラウンジで潰すことができた。ホノルルの出発が13時4分だったので,デルタスカイクラブのラウンジで無料の昼食をとるにはちょうどいい時間でもあった。
ラウンジのあるのは13番ゲートの前で私の乗るフライトの出発するのが21番ゲートだったからかなり距離があった。
やがて搭乗手続きの時間になったので乗り込んだ。私は一番安いエコノミーで予約をするが,いつも空いているのでデルタコンフォートにアップグレードになるから,座席が広く助かる。しかも,セントレアとホノルル間の便というのは空席が多くて,大抵の場合隣の座席が空いてる。
ハワイ便なんてさほど飛行時間が長いわけでもないからあえて5倍以上もする値段の高いビジネスクラスなどを利用する意味もないと私は思うのだが,それでも年配の夫婦などが一生に一度の海外旅行なのだろうか,けっこう利用をしている。しかし,ハワイ便の機体はアメリカ本土へ行く便のファーストクラスのようなシートに比べたら狭い席なので,さらに意味がなさそうに私は思える。
定刻に離陸。窓から外を見ると,眼下にはいつものようにホノルルの街並みとその向こうにダイヤモンドヘッドが美しくその姿を現した。セントレアの到着は翌日の午後5時35分である。
「不良老人」の勧め⑯-ちょっとだけ贅沢に生きる。
物理的に裕福であることは当然大切ですが,それよりも大切なのは精神的に裕福であることです。
私は,若いころから,やりたくないことはできるだけしないで,また,させられないで,やりたいことだけを少しだけ贅沢にやって生きることを心掛けていたのですが,それは組織のなかで生きていくには最も困難なことでした。このブログのタイトル「しない・させない・させられない」というのは,この「したくないこと」を「しない・させない・させられない」という意味なのですが,そのように生きることができることこそ,まさに精神的に裕福であることだし,私の理想でした。
組織から離れ,「不良老人」を目指すことができる,まさに,そういう年齢に達したので,これからはその理想に近づくために,今こそ,そういう生活を日々実現しようと考えました。
まず,私はお酒 -もともと強かったのですが- を呑むことをやめて,お酒は気のおけない楽しい人と少しだけたしなむようにしました。この国の社会人は,日々残業に追われ,楽しみと言えば仕事の後で一杯やる,というだけなのが寂しいです。駅の近くの繁華街なんて,そんな店ばかりですが,冷静に考えてみればわかるように,単にトマトをスライスしたものが弁当よりも高い300円もするなんて,ロクな商売ではありませんし,そんなものにお金を使ってストレスを解消しなければならないなんて,気の毒な限りです。それに,ストレスを解消するために飲むお酒なんて,ろくなことは起きません。
ストレスのない私はそういうお酒を呑む必要がないし,呑んでも酔わないので意味がないのです。それに,私の知る限り,退職しても酒を辞められない「酒呑みの老人」はかなり周囲の迷惑です。
次に,車で移動しなければならないときは,有料道路があればできる限りそれを利用することにしました。それは運転に余計な気苦労をしないためです。特にこの国は,ドライバーのマナーは最悪,道路の整備は最小限,美観も最低,という現状なので,車を運転しても楽しいことなどありませんし,精神が劣化するだけです。車に乗りたければアメリカやオーストラリア,ニュージーランドでドライブしたほうがずっと快適です。
また,電車を利用するときは,座席指定があれば極力それを利用することにしました。車の運転と同じように 満員電車に混雑するホームで並んでやっと乗ると今度は空席を競い合う,あるいは混雑する車内で立つ場所すら気を配るという状況で利用するのは疲れるからです。しかも,邪魔になるだけなのに中に入らず扉の付近に立っているようなマナーの悪さなど,腹立たしいものがあります。幸い,私の住む愛知県を走る名鉄には360円出せば座席指定に座れるという特急が走っているので,それを利用するときわめて快適なのです。
私の友人の「酒呑み老人」は,自分は酒にいくらお金を使っても無駄だと思わないのに,この座席指定を贅沢だと言い,私を見下します。しかし,実は,こうしたちょっとした贅沢は,使いもしないものを買ってお金を浪費したり,酒を呑むことに比べたら,ほとんどお金がかからない贅沢なのです。
さらに,老人が投資をするなんていうのは愚の骨頂です。金融機関というのは,証券会社に限らず銀行もまたおいしいことを言って実は庶民からなけなしのお金を集めるだけで,利益があれば自分たちのものとし損益が出れば庶民に負担させるという仕組みであるのは少し考えればわかります。
私は自分で考え,ファイナンシャルプランナーなんてまったく信用していないから,今までに投資をして損をしたことがなく,今でも手を出せばかなりの利益を上げる自信はあるのですが,老人がそんなものに一喜一憂するのは時間の浪費です。仕事を離れてもなお日経平均が上がったの下がったの,円が上がったの下がったの,そんなことを気にしていては人生楽しくもありません。
そんなことに時間と頭を使う余裕があるのなら,音楽を聴いたり,語学や物理学の勉強をする方がどれほど精神が豊かになることでしょう。贅沢をするというのはお金を増やして浪費することではなく,精神的に豊かに生きることだからです。
老人は,学生とは持ち時間が違うのです。だから,将来のための貯蓄よりもいかに持っているお金を有効に使うか,ということのほうが大切なのです。お金は精神を豊かにするために少しだけ贅沢に費やすことが最も「粋」な「不良老人」である証となるのです。
2017春アメリカ旅行記-帰国の日①
●とかく時差は難しいものだ。●
☆8日目 3月29日(水)
7泊9日のこの旅の8日目,帰国の日である。帰国便に乗ると途中で日付変更線を越えるから,そのまま9日目となる。
海外旅行をあまりしたことのない人やツアー旅行で何も考えないでただ添乗員について行くだけの人はそういうことをあまり考えないこともあるだろうが,日本から海外に出かけるときには時差というのはかなりの難問である。それはおそらく,アメリカ人がヨーロッパに行くとかいうときとは比較にならないことであろう。
日本からの旅行で,ニュージーランドとハワイは,実は時間は1時間の違いしかないのだが,日付変更線を越えるか越えないかという点が決定的で,ニュージーランドはプラス4時間,ハワイはマイナス19時間ということになるのだ。
日本へは飛行機でともに約10時間かかるとして,ニュージーランドから帰国する場合,ニュージーランドを午前9時に出発するとすれば,その時間の日本は同じ日の午前5時で,5+10=15だから,同じ日の午後3時に帰国することになる。しかし,ハワイから帰国する場合では,同じように午前9時に出発するとすれば,その時間の日本は「翌日の」午前4時で,4+10=14だから,帰国は翌日の午後2時ということになるのだ。そこで,ここに「7泊9日」という1泊の不足ができるわけなのである。
お恥ずかしい話だが,私は海外旅行はどこに出かけても日数よりも泊数が2少ないものだと思っていた。しかし,そうではなく,たとえば,南太平洋のイースター島に行くときなどは6泊9日! などということも起きるのである。
そしてまた,この時差というものの面白いのは,飛行機に乗る時間をうまく選べば,お昼ばかりになったり,反対に夜ばかりになったりできるのである。だから,頻繁に飛行機に乗る人は毎日をお昼だけで過ごすなどということが可能なのである。
さて,私はこの帰国の日,カフルイ空港の出発は午前9時48分であった。
朝食もとらず,朝7時過ぎにはホテルをチェックアウトして空港に向かった。到着したときは夜だったので,空港からホテルまでの道に迷ったのだが,それはすでに遠い昔のことのように思えた。このカフルイ空港は思ったよりも大きな空港だったので,私はハワイにはじめて来たときに着いたハワイ島ヒロの空港ののどかさに比べて,少しこのデラックスさに幻滅したものだった。ハワイはもっと素朴でなければ私のイメージには合わない。
空港に着いて,レンタカーを返し,レンタカー会社のシャトルバンにのって空港に行った。
空港で十分に時間があったのでゆっくりと朝食をとり,やがて時間になったので飛行機に搭乗した。
私はホノルルからはデルタ航空に乗るのだが,カフルイからホノルルまではそれとは全く別にハワイアン航空を予約したので,ホノルルまでのフライトが欠航になったり,あるいは遅れると困るのである。
旅にはハプニングがつきもので,これまでにも散々いろんなことを経験したが,若いころはそれもまた面白かったけれど,もう今はそういうのはごめんだと思うようになってきた。私も老いた。
時間通りに離陸した飛行機で,いつものように機内で配られたグアバジュースを飲みながら外を眺めていたら,すぐにホノルルが見えてきた。なにせたった35分のフライトなのである。
ホノルルの到着は定刻通り午前10時23分であった。
しかし,ここからが少し大変であった。ハワイアン航空では荷物を預けると余分に結構高いお金がいるので機内に持ち込んでいたが,この荷物はホノルルでデルタ便のチェックインをするときに預けるつもりであった。…であったのに,それがうまくいかなかったのである。私はこのところ,年に20回以上も飛行機に乗っているというのに,未だよくわからないことが多い。
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日⑥
●「サム・サトウズ」のドライヌードル●
まだ時間は早かったが,食事(昼食)をとってホテルに帰ることにした。たまにはゆっくりするのもよいだろう。
で,食事をとる場所である。
「地球の歩き方」のカフルイにあるレストランのページに「サム・サトウズ」に並んで「ココイチバン屋」というレストランが紹介されていた。帰り道では「サム・サトウズ」よりも「ココイチバン屋」のほうが近かったので,まずはそのレストランを探してみることにした。
そもそも,ココイチというのは愛知県清須市発祥のカレー屋の名前であるが,この店はそれとは無関係のようであった。しかし,このマウイ島のココイチは地図に書かれた場所に行っても存在しなかった。おそらくここだろうと思った場所には別の店があった。
私の勘違いなのかもしれないが,おそらくココイチは閉店したと思われる。
日本人の大好きなハワイであるが,その情報のほとんどすべてはオアフ島であって,それ以外の島については情報が異常に少ない。そして古いのである。
私がはじめて来るまでハワイが嫌いだったのも,そして,一度訪れて以来ハワイが大好きになったのも,すべてハワイというのはオアフ島だと思っていたこと,それが理由であった。ほとんどの日本人の思うハワイと私の思うハワイはまったく別の場所なのである。
あたりを何度も回ってみたがそれらしき店が見つからなかったであきらめて,私は「サム・サトウズ」へ行くことにした。
前回「サム・サトウズ」の前を通ったときはすでに営業時間を過ぎていたが,今回はぎりぎりで間にあった。営業時間は午後2時までである。
駐車場には多くの車が停まっていたが,そのほとんどは食事を終えて帰るところであった。
私が注文したのはメニューのなかで一番上に書かれているこの店の名物「ドライヌードル」の小であった。要するにこれは焼きそばである。
このレストランは1933年開業で,現在は日系3世のオーナーが経営しているという。お店は日本の小さな町の食堂という感じで,ここもまた,私が子供のころに日本によくあった食堂のようであった。
帰りにレジにいた人がこの店のオーナーだろうか? 外見は日本人のようであったが日本語で話しかけてもまったく日本語は理解できないようだった。私が友人に紹介されて来たと話したら「マンジュー」をプレゼントしてくれた。
このレストランは知る人ぞ知る,というお店で,ブログを探すと一杯出てくる。日本から観光でマウイ島に来る人にとっては定番のお店であろう。そしてまた,私と同じように,お土産にマンジューをくれたということも書かれてある。
これだからハワイは楽しい。
そんなわけで,私はこの旅で,マウイ島の,知る人ぞ知るたくさんのお店に行くことができた。
マウイ島には「マウイ・ゴールド・パイナップル」という名物もある。
パイナップルの原産はブラジルとパラグアイだが,今ではハワイの象徴ともなっている。かつてはサトウキビとともにハワイ諸島の経済を支えていたパイナップルも,1930 年代の全盛期から生産が徐々に減少し,現在はオアフ島とマウイ島の2島だけで栽培されている。マウイ島では「マウイ・ゴールド・パイナップル・カンパニー」が甘くて酸味が少なくジューシーな品種を育てている。
私は旅行中には知らなかったが,マウイ・パイナップルツアーというのがあって,このツアーに参加すると,ハレアカラ火山の中腹にある約6平方キロメートルのプランテーションを訪れてパイナップルの歴史や栽培技術,フルーツの出荷準備の様子の説明を聞いたのち,処理工程でパイナップルの選別と洗浄を行ってから保存可能期間を延ばして見栄えをよくするために植物ワックスを噴霧しサイズごとに梱包する様を見学できるということだ。そして,その後でパイナップル畑に向かい,経験豊富な作業者たちが1 日に約7,000個のパイナップルの樹冠をすべて手作業で植えつけているのを見たあとで,ガイドがその場で採って切り分けたパイナップルの試食をすることができ,さらに,お土産に パイナップルが配られる。
私はそんなことも知らなかったので,モールでパイナップルを食しようと思ったのだが,この大きなパイナップルを買って帰ってもどうしようもないのであきらめて,切ったパックを買ってホテルで食べたのだった。
この日は早めに部屋に戻って,荷物をカバンに詰めて帰国の準備をして,夕食はカップヌードルを食べた。
「ブレックファーストはアメリカで」-女一人のアメリカ横断
今日は「断捨離」でも捨てることのできなかった30年以上前に読んだ本の第二弾です。
「ブレックファーストはアメリカで」というのは私には謎に包まれた本です。著者は蒼井マキレさんなのですが,そもそもこの蒼井マキレさんという人がよくわかりません。年齢も不詳です。この本は1980年に発行されたものなので,今から38年前の本です。内容は,結婚している! 女性がたったひとりでアメリカに行って8月2日から9月15日まで1か月半にわたってサンフランシスコからボストン,そこで折り返してボストンからロスアンゼルスまでアメリカ大陸を横断した旅行記なのです。
当時の私もまた,こうしたアメリカ大陸横断に憧れていたので,この本を購入し読んでかなりの刺激を受けたわけですが,今読み返してみても,時代の差,さらに,この著者の書いていること -それは著者の主観ですが- と私が見た実際のアメリカの姿との違いが,とても興味深いものです。
この著者はやたらと「黒人」,しかも彼らを「危険な人」と書いていて差別意識丸出しですが,それもまたいかにも40年近く前の日本人の考えかたそのものです。当時はみんなそんなものでした。それよりも私が一番驚いたのは,その当時にけっこうたくさんの日本の大学生がアメリカを独力で旅していたということなのです。
今,アメリカの田舎町を歩いても,日本人に会う,特に旅をしている大学生に会う,などということは本当に皆無です。というよりもまったくいないといっても過言でないくらいです。しかし,今から40年前は,大学生になったらまずは大きなバックパックを背負って北海道をひとりで巡るのが通過儀礼でした。そして,それを経験したら,勇気ある者は今度は海外に飛び出していったものです。そうして世界を知り,社会に出ていったわけです。
今に比べたらそんなことをするのはずっとそれは困難だったはずなのに,今よりもずっと多くの若者が海外に出ていったのです。
それにしても,私がずっと気になるのはこの本の著者のことです。今となっては,この本のことも,そして著者のこともネットで調べても何も出てきません。この世にはこの本もこの著者もなかったかのようです。いくら今から40年も前に,女性がアメリカをひとり旅するというのが珍しいといっても,たかが単に1か月半という短期間の旅をしただけのエッセイなど,それは今ならブログにごろごろあるような内容であるにもかかわらず,その当時はそれだけの旅行記が単行本となりなました。しかし,ほとんど話題にもらなず,そして,今ではすっかり忘れ去られているのに,私がそれを大切に持っていて,何度も読み返しているというのが不思議な話です。
こんな読者がいるということを知ってもらうために,今,この本の著者に会ってみたいものです。
しかし,もし,私がこの女性に会うことができたとして,そのとき私がこの女性に好意をもつか,あるいは嫌悪をいだくかという,この女性の性格は本を読んでもどうしてもわからないのです。ただ,今から40年近く昔に,私はこの女性がどういう人かということよりも,この女性のしたような旅に憧れていたから,本を読んてずいぶんと刺激をうけたのです。そして,それから40年近く経って,幸運にも私もまた,このような旅を実現することができたのです。
最後に付け足しです。
この当時のアメリカはとても自由に旅ができました。アメリカへの入国は楽でしたし,アメリカからの出国なんてただ飛行機に乗るだけでした。むしろ日本に帰ってからのほうが厳しかったほどです。
しかし,残念なことに,今は,この本の著者のような若い女性が,留学とかパック旅行ではなくひとり旅でアメリカに入国することが,非常に困難な状態となってしまいました。それは,アメリカで偽装結婚をして国籍を手に入れ,家族までも呼び寄せる,という悪質なことが頻発して,アメリカ政府がガードを固くしているいるからなのです。今は女性がアメリカをひとり旅することすら困難な時代となってしまいました。
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日⑤
●マウイズ・ワイナリー●
次に向かったのが「マウイズ・ワイナリー」(Maui's Winery)であった。しかし,ハワイでワインというと何か結びつかない。私はワインを味わう素も趣味もないのでいろいろと調べてみた。
「ハワイアンワイン」というのは「ハワイ産のフルーツを使った甘い香りとフルーティな舌触りが特徴のトロピカルなワイン」なのだそうだ。ハワイ産のワインは,ピノ・ノワール(Pinot Noir=赤ワイン用ブドウ品種)やシャルドネ(Chardonnay=白ワイン用ブドウ品種)などから作られたブドウのワインと,グアバ,リリコイなどハワイ産のフルーツで作られたトロピカルワインがあるそうだが,なかでも一押しはハワイのパイナップルを原料にしているパイナップルワインで,この「マウイズ・ワイナリー」で作られているパイナップルワインが人気という。
「マウイズワイナリー」はマウイ島で唯一の商業ワイナリーで,ハレアカラ山斜面の裾野にある「ウルパラクア・ランチ」と呼ばれる場所にある。
クラの集落から南に向かって走っていってもなかなかその場所がわからず,こんなに遠いのか? と思ったところにやttあったのだが,ここもまた多くの観光客が訪れていた。そしてまた,ここも日本人は皆無であった。
ワイナリーを所有している「テデスキー・ヴィンヤード社」の社名から「テデスキー・ワイナリー」と呼ばれているこのワイナリーには年間18万人以上もの人が訪れる。ワイナリーの広い敷地内には醸造所やボトリング・ルーム,そして無料でワインが試飲できるテイスティング・ルームがある。また,ガイドツアーでは醸造タンクも案内してくれる。
「マウイズ・ワイナリー」の歴史は約150年前の1856年に遡る。スコットランド人の船長ジェームス・マキー氏が海での事故後の療養のためにマウイ島に来た際に,訪れたこの地をいたく気に入り,さとうきび工場であったこの土地を工場ごと買い取った。マキー氏は現在はテイスティング・ルームとして使われている「ザ・キング・カラカウア・コテージ」を,同じくこの地に魅了されて度々訪れていたハワイ王朝最後の王であるカラカウア王とカピオラニ女王のために建て,彼らをもてなしたと伝えられている。
このワイナリーの名物であるパイナップル・ワインには「マウイ・ブラン」「マウイ・スプラッシュ」「フラ・オ・マウイ・スパークリング・ワイン」の3種類がある。「マウイ・ブラン」はマウイで育ったおいしいパイナップルを発酵させて作った軽い口当たりのやや辛口のワインで,パシフィックリム料理に良く合う。「マウイ・スプラッシュ」はパイナップルとパッション・フルーツから作られていて,とてもフルーティーで甘口。デザート・ワインのように甘くて飲みやすいのと同時に程よい酸味もあり,テイスティング・ルームで最も人気が高いワインである。また,「フラ・オ・マウイ・スパークリング・ワイン」は文字通りパイナップルとトロピカル・フルーツのスパークリング・ワインである。さらに忘れてはならないのが,1984年から作られている「マウイ・ブリュ・スパークリング・ワイン」である。ハワイにあるワイナリーの中でスパークリング・ワインを作っているのはここだけだそうだ。
いずれにしても,車を運転してやってきてワイナリーで試飲をする,ということすら私には理解できない。
ハワイではないが,実際,オーストラリアでワイナリーがたくさんある地域を走っていて,私はアルコールの検問にあったことがあるから,ハワイでも気をつけたほうがよいのだろう。
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日④
●アリイ・クラ・ラベンダー●
「アリイ・クラ・ラベンダー」へ行こうと走ってい途中でtふと見つけた「クラ・ボタニカルガーデン」に寄った。いよいよ次に目指すのは当初からの目的である「アリイ・クラ・ラベンダー」であった。
州道37を南に走って行くと地図にはこのあたりだという場所になっても何の道路標示も見つからず,どこかな? と思っていると,左に狭い道路があった。どうやら地図に書かれた道はこれだろうと見当をつけて左折した。
州道377を南から北に走るのなら,ワイポリ・ロードとの交差点に「アリイ・クラ・ラベンダー」の道路標示があるということなのだが,私のように南に向かって走っていくと目印がないようであった。
狭い道路は登り坂で,ずっと登っていく感じになったが一向に何の目印もなく不安になってきたころに黄色いゲートがあって,その先が広い駐車場であった。
アメリカを旅していていつも思うのは,日本と違ってほとんど看板もなく,道路標示もあるのならないのやら… であるにもかかわらず,目的地に到着すると多くの車が停まっていることである。
要するに,人はみな頭があるから自分で考えて行動するのである。その点日本人は異常に過保護であって,人はみな自分で考えるという視点が欠如しているのである。交通機関における異常なほどの放送や,学校でのうるさいほどの注意事項はみな,そうした,人をバカにした発想からきているとしか思えない。
考える教育とか言いはじめたが,今度は考えることすら考えさせずに事細かく教えるのであろう。
「アリイ・クラ・ラベンダー」(Alii Kula Lavender)はクラの高台にある広大なラベンダーガーデンである。ここにはフレンチラベンダー,スパニッシュラベンダーなど30種のラベンダーが海抜900メートルの高台に一面に咲き誇っている。これだけの標高だと,ハワイといえども地中海性気候に似ていて,ここはラベンダーとオリーブが一緒に咲いている素敵な場所である。
このガーデンの創業者であるアリイ・チャンは、生まれもった「植物を上手に育てる才能」と自然豊かな環境のもとで育った感性を活かして,このラベンダーファームを立ち上げたという。
農業アーティストや園芸マスターによって仕上げられた農園には,豊かに生える緑の中に淡いパープルが無数に散りばめられ,まるで絵本のような幻想的な景色を作り上げている。
ファーム内は1日5回開催されるガイド付きウォーキングツアーや5人乗りのカートツアー,さらには子ども向けのラベンダー宝探しなどのアクティビティーも盛りだくさんある。
また,売店では,広大な敷地で育ったラベンダーがコスメや食材に加工されてお土産として販売されているし,アリイ・チャンの邸宅に隣接するポーチで絶景を見ながら優雅なティータイムを楽しむこともできる。
ラベンダーの語源はラテン語の「Lavandre=洗う」という言葉である。ラベンダーは古代ローマの時代から 殺菌や防虫効果のあるハーブとしてお風呂や洗濯に使われていた。また,リラックス効果が高いので,心を落ち着かせ心地よい眠りを誘うハーブとしても有名である。
「白川義員”天地創造”を撮る」-神と一体となった写真
また,素晴らしい番組に出会いました。NHKBSプレミアム「白川義員”天地創造”を撮る」です。
白川義員さんは「地球再発見による人間性回復へ」をテーマに原始の風景と聖地などを撮り続ける写真家です。私は1975年に発行された写真集「アメリカ大陸-白川義員作品集-」でその名を知りました。この本に出てくるアメリカ大陸の写真は,地球のものとは思えませんでした。ニューヨークやロサンゼルスの摩天楼でしか知らなかったアメリカに,本当にそんな場所があるのだろうか? と思いました。
白川義員さんももう82歳になられたのですね。白川義員さんが最後の撮影旅行に出かけた姿をこの番組は追います。
写真集「アメリカ大陸-白川義員作品集-」のあとがきから少し紹介します。
・・・・・・
大自然の“神秘”とか“驚異”という言葉は簡単にだれもが使う。しかし,その実態をほんとうに認識している人間はいったい何人いるであろうか。
私はアルプスやヒマラヤその他で得た深い感動と貴重な体験を,私のカメラを通してあらゆる人々に伝えたい。そして,すべての人々が,この美しいたった一つしかない地球をあらためて認識することによって,人間の良識や人間性の回復になんらかの道を見いだしえはしないであろうか,というのが私の念願である。
私はアメリカの社会や国家としての体質については容赦なく批判するが,一方アメリカが,自国の自然を後世に残すべく傾注している,計画的,組織的かつ積極的な努力と,その実績については高く評価しているし,率直に賞賛をおしまない。
宇宙の背後にある精神的な存在とのかかわりあいと,それに対する畏敬の感情がなかったら,人間は今日のような人間にならなかったであろうし,もし人間が単なる物質的存在にしか過ぎないならば,人間の尊厳や人権は根拠を失ってしまうことになるのである。
人々の心の奥に浄土心象風景としてとらえられていたこの自然を,たたきつぶし略奪することに,日本人は快感を覚えたのである。欲求不満のエネルギーをも注ぎ込んで,自然破壊に猛進した。まさしく今日の世相にみる,神を忘れた精神の荒廃以外のなにものでもない。前後のみさかいもなく付和雷同するのが,哲学のない日本人の悲しい国民性だが,これほど急速に自国の環境を破壊した国家は,人類の歴史上日本以外になかろう。
私の写真が,このたった一つしかない地球について,人々があらためて見直し,考え直す契機になればと願ってやまない。
・・・・・・
私はこの番組を見て,多くを語る意欲をなくしました。それほど,大自然というのは言葉では表せない高貴なものだからです。人間が何を作ろうと,結局は大自然にかなうわけがないのです。
「神の創った”天地創造”の姿」を撮る。
人は,もっと自然に対して謙虚でなければなりません。これをぶっ壊すことが「文化」などではないはずです。
…白川義員さんの写真は,私たちに改めてそのことを教えてくれるのです。それを教えてくれるために命をかけて写真を写してきたのです。
◇◇◇
月日が経って,私も若いころにあれほど憧れたコロラド高原の姿を見る機会がありました。そして,あの写真集にあったアメリカの大自然が確かに地球上に存在するということを実感しました。今日の写真はそのときに写したものの1枚です。
奈良か京都か?③-奈良の好きなことと嫌いなことととは?
奈良のよいところは,観光化されていなくて自然が残っている,貸自転車で古墳や遺跡をまわれるのがよい,といったことが書かれてありました。反対に至らないところは,回るのに時間がかかる,店が閉まるのが早い,ということだそうです。どちらにせよ,ここに書かれているのは端的にいうと「奈良は京都に比べれば田舎」ということに尽きるわけで,それを長所ととるか短所ととるか,という話でしょう。つまり,何の目的で観光するのか,というひとそれぞれの問題なわけです。
ただし,奈良といっても様々で,奈良市を奈良と思っている人もいるし,昔私の好きだった西大寺の駅から南に唐招提寺と薬師寺に行くあたりを奈良と思うのなら,まったく別の感想になりそうです。また,甘樫丘のあたりは奈良としては格別なところですが,そこはもう観光地というよりも歴史好きの散策コースです。いずれにしても,奈良の魅力もまた「旅はこころでするもの」という感じで,歴史を知らねばただの小川やらため池としか思えない場所がそれを知っていると燦然と輝いていたりするのです。
つまり,日本であれ海外であれ,「旅=グルメ,ショッピング」と考える人は奈良に行こうと京都に行こうと,あるいはハワイに行こうと,結局のところ食べ物がおいしいお店や「か~わいい~」~を連発する女性が好きそうな土産物さんがあるかどうかというのが判断の基準だし,それは私の考える旅とは別の人種です。
したがって,観光地としての奈良をこの先,どのように開発するか,あるいは保存するか,というのが難しい問題でしょう。私個人としてはあまり観光地化してほしくないのですが,何でもお金を儲けれればいい,というせこい日本人は保全などど~でもよくて人が来てお金を落としてくれればそれでいいわけす。
ところで,奈良と京都と比べたとき,「奈良は仏像,京都は庭園」とか,「奈良の寺は地,京都の寺は畳」とか,「奈良は心のふるさと,京都は憧れの街」という印象だそうです。
いずれにせよ,奈良があって京都がある,平城京が平安京に遷都されたおかげで,奈良時代以前の日本の姿が残ったと考えると,平安京に遷都した桓武天皇に感謝しなくてはならないのかもしれません。
◇◇◇
奈良か京都か?①-日本の旅はこころでするもの
奈良か京都か?②-京都の好きなことと嫌いなこととは?
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日③
●クラに咲く美しい花々●
そもそもマウイ島というさほど広くもない島に7泊もしたのだから,主な見どころには行ってしまった。そこで,最終日のこの日は,マウイ島で私が最も気にいったクラにもう一度行ってみることにした。
クラはとても美しく素敵な集落であるが,泊るところがない。そして,食事をする場所もない。気の利いた民宿のようなものやカフェでもあれば最高なのに! と思ったのだが,そう,たった一軒,素晴らしいロッジとレストランがあるのだ。しかし,高い。
それが「クラロッジ」である。
ハレアカカラ山に向かう途中にその「クラロッジ」はある。広い駐車場に車を停めて入口から中に入ると,そこはギャラリーになっていた。
私は単に土産物屋を見ただけだが,なんでも宿泊する人はそこにある暖炉を囲んでおしゃべりが楽しめるのだそうだし,宿泊しなくてもレストランで食事をとることはできる。このロッジからはマウイ島の雄大な眺めが見られる。
ここのお薦めは20ドルするマルゲリータピザと11ドルのマウイオニオンスープなのだそうだ。マウイオニオンというのはクラで最高が最高の玉ネギである。
オーガニックの野菜を作っている庭に窯があって,そこで焼かれたピザを屋外のテラス席で食べることができる。
なんでも窯に入れる薪はハワイのキアベという木だそうだ。また,窯は兜をつけたマウイの戦士の顏を模したイメージになっていて,自分でピザを焼く体験をすることもできるという話である。
「クラロッジ」を過ぎ,次に向かったのはラベンダーガーデンでであったが,その途中に「クラ・ボタニカルガーデン」(Kula Botanical Garden)というものがあった。この植物園は「地球の歩き方」にも載っておらず,ネットにもパンフレットにもほとんど情報がなかったが行ってみることにした。
ここはウォーレンとヘレン・マッコードが1968年に設立した庭園で,カラフルな植物,素晴らしい岩,覆われた橋,鯉の池,彫刻されたティキの展示物などがあるのだそうだ。標高が約700メートルで広さは8エーカー。
以前書いたように1エーカーを0.4倍すると野球場の広さだからここは野球場3個分の広さである。
クラはマウイ島のなかでも涼しく湿度があるので,マウイ・オニオンや花の栽培に適していて,そのためにこうした植物園があるわけで,ここには現在約2,500種の植物が育っている。
4番目の写真は「プルメリア」(Plumeria)である。「プルメリア」はキョウチクトウ科インドソケイ属に属する植物の一般的な名称。落葉樹で花を付ける小灌木である。17世紀のフランスの植物学者シャルル・プリュミエにちなんで名づけられた。
300種類があり,樹液には毒性があり、目や皮膚に悪い。
「プルメリア」はニカラグアの国花である。タヒチ,フィジー,サモア,そしてハワイ,さらにはニュージーランドなどの太平洋の島々でレイに好んで使われる。
花は女性の髪にも飾られ、未婚者は頭の右に、既婚者は左に飾る。また,インドでは赤い花のプルメリアの香りを入れた香をチャンパと呼び,ナグ・チャンパ(Nag Champa)などがある。
そして,5番目と6番目の写真がクラを代表する花「プロテア」 (Protea)である。
「プロテア」 は、ヤマモガシ目ヤマモガシ科の属のひとつで,ギリシャ神話に登場する自分の意志でその姿を自由に変えられる神「プロテウス」に由来する。あまりにも立派で荘厳な花が咲くからである。南アフリカ共和国の国花に指定されている。
南アフリカから熱帯アフリカにかけて115種ほどが分布している。樹高数十センチメートルから数メートルの常緑の低木で,幹は直立し葉は互生で長い柄があり革質で厚い。花は枝の先に単生するが,総苞片に包まれたキク科の植物に見かけが似ている頭状花序で,花序そのものはそれほど華やかではないが総苞片が鮮やかな色彩でフリルがつくなど様々な形をしているために派手な色彩の容器にあざみやたんぽぽの花を入れたようなユニークな形をしている。花序は大きなものでは直径20センチあまりになる。
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日②
●コモダベーカリーの串刺しドーナッツ●
ワカアオの町は,もともとはサトウキビ農園で働く人のために作られた居住区にできた。サトウキビ農園では日系人が多く働いていたが,過酷な労働であったという。今は,ここには日系人の末裔たちが経営する店が多く残っている。
今世界有数の観光地ハワイには,多くの日本人が訪れるので,ショッピングやグルメを楽しむための情報が数多くある。しかし,私は,現代に生きる日本人が明治・大正期の貧しい時代を生き抜いた人たちのことをあまりにも知らず,また,リスペクトしていないことに心を痛める。それは,ハワイだけでなく東北を旅行しても感じることである。
権力者の争いの歴史などど~でもいいから,もっと庶民の歴史を教えるべきだといつも思う。もしその時代に生きていたら,ほとんどの人はそうした庶民の立場であったはずだからである。
ワカアオの町で有名なのは「コモダベーカリー」である。数日前に一度行ってみたが,その時は店の中にほとんど商品がなかった。それは,午前中に売り切れてしまうからであった。
ここは地元民の間で有名な場所で,朝の開店と同時に行列ができる人気店である。そこで,この日は朝一番に行ってみることにした。
町のはずれ(といっても5分も歩けば町のすべてに行くことができるくらいの小さな町だが)に,1番目の写真のような広い駐車場があって,私はまだスペースがあったそこに車を停めた。そして,歩いて店まで行ったが,すでに,店の前には行列ができていた。
この店の現在のオーナーはベティー・シブヤという女性で,彼女は創業者のひ孫にあたる人である。
創業者である曽祖父はサトウキビ農園で働くために日本から移住したが,あまりに労働が過酷だったので,新しい仕事をはじめようと1916年小さな店でグアバジャムパンを売り出した。のちに,彼の9人の子供のうち8人目のイクールがミネソタ州のパン専門学校に行き,1960年代初期に帰ってくると商品を増やし,シュークリーム(Cream Puff)やドーナッツなどを売り出したのが評判となり,今のように大きな店になった。
この店の人気はマラサダ(Malasada)である。マラサダというのはシナモンシュガードーナッツ(cinnamon sugar donut)のことである。その中でも串刺しドーナッツ(Stick Donut)は一番の人気商品で午前中には売り切れてしまうという。
私は勝手がわからず,たった1個でも買えるのかな? そんな買い方をしている人がいるのかな? と心配であったがそれは杞憂であった。ほとんどの人が1個の串刺しドーナッツを買っていた。私も列に並んで1個の串刺しドーナッツを購入した。
このドーナッツを手にして,近くの公園まで行って,私はこのドーナッツを食べた。それは思ったよりもずっと大きなもので,朝食を済ませた私にはかなりのボリュームであった。
この朝は,こうしてここマウイ島に来た目的のひとつを果たすことができたのだった。
この町を出発するまえに飲み物を買おうと「コモダベーカリー」の近くにあったスーパーマーケットに入った。ここはスーパーマーケットというよりもまさしく「よろず屋」であった。入口で店員さんの威勢のいいあいさつで迎えられた。ごっちゃごちゃにならんだ商品からソフトドリンクを取ってレジに行くと,端数の2セントがオマケになった。
ハナのよろず屋さん「ハセガワ」もそうであったが,この島には私の子供のころにあったような日本の姿がたくさんあった。とても懐かしい気持ちがした。今や,古きよき日本は日本よりもハワイに存在しているようだった。
節操のない国②-何もわかっていないのではないか?
朝日新聞に次のような投書がありました。
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お年玉つき年賀切手を貼ったはがきを80通出したら1月3日にそのうちの2通が「10円不足」で戻ってきたので,郵便局に問い合わせたところ「寒中見舞い」は賀状ではなく通常はがきの扱いになるため10円不足するとのこと。局員が内容を読んで文面を精査し,はがきの中から選別して戻してきた「勤勉さ」には驚いた。
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というものです。
これはかなりゆゆしきことです。見過ごすことはできません。つまり,検閲です。こういうことを何の疑問ももたずにするということが最も問題なのです。この国では,はがきの文面を局員は自由に読んでもよいということなのでしょうか?
そもそも今の時代,むかしのように郵便事業が成り立たないことはだれでもわかります。しかし,郵便事業が必要なこともわかります。だから,値上げは仕方がないことだというのもわかります。値上げをすれば,ただでさえ年賀状が減っているのにさらに減ることを恐れているのもわかります。ならば,値上げは年が明けてからにするとか,年賀状の差出し期間は年賀状に限らずすべてのはがきを値引きする,というのならわかりますし,そうすべきです。
それを「年賀状」と限定するすから,ただ単に「まじめな」だけの仕事をする局員がこういうことを起こすのです。それくらいの思考やら発想しかないのが日本人の限界ですが,その結果,上記のような処理をする局員がいることが大問題なのです。これは犯罪です。
これだけに限らず,憲法第九十九条(第九条ではありません)を無視する憲法違反の国会議員も,信号が赤に変わっても交差点に突っこんでくる無謀運転も,そして,残業を強要するブラック企業も,夏休みに補習を強制するブラック教師も,要するに,何もわかっていないのです。ルールを知らずに(あるいは知っていても守らずに)試合をしているようなものです。これは賛成とか反対という話以前の問題です。
これが「国民主権,基本的人権の尊重,平和主義」を標榜するこの国に住む人の意識なのでしょうか。
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第九十九条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
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Article XCI.
The Emperor, upon succeeding to the Throne, and the Regent, Ministers of State, Members of the Diet, Members of the Judiciary and all other public officers upon assuming office, shall be bound to uphold and protect this Constitution. All public officials duly holding office when this Constitution takes effect shall likewise be so bound and shall remain in office until their successors are elected or appointed.
2017春アメリカ旅行記-今日は最終日①
●「Pork Adobo Fried Rice」●
☆7日目 3月28日(火)
7泊9日のこの旅の7日目,最終日であった。
私の宿泊したホテル「マウイ・シーサイドホテル」には「タンテス」(Tante's)という評判のよいレストランがあって,私は5日目にそこで朝食をとった。そのときに「ポーク・アドボ・フライドライス」(Pork Adobo Fried Rice)というメニューが気になったので,今日の朝食はそれを選ぶことにして,再び「タンテス」に入った。
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「アドボ」(Adobo)とはマリネを意味するタガログ語である。また,フィリピンの肉や野菜の煮込み料理の名称でもある。酢が使われることが多く,常温での保存性を高めた料理法であるといえる。語源はスペイン語の「漬ける」を意味する動詞アドバル(adobar)である。
「アドボ」はフィリピンの代表的な家庭料理で,フィリピン人の国民食であるが,もともとはスペイン料理の「アドバード」(肉の漬け焼き)を起源としている。
骨付きの鶏か豚のいずれかを使い,ジャガイモ,ニンジン,タマネギ,タケノコなどの野菜やエビ,ゆで卵を具に加えることもある。
レシピは各家庭や店によってまちまちだが味付けにはニンニク,醤油かパティス,砂糖,粒の黒胡椒,ローリエなどを使うのが一般的である。
「アドボ」が余ったら煮汁と一緒に炒飯にしたりスライスして焼き白飯と卵料理に添えて朝食に食べたり食パンにはさんでホットサンドにすることもある。
ハワイ料理のプレートランチのメニューにもよく使われる。
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「アドボ」というのはこのような料理であるが,グルメでない私にはその味がさっぱり想像つかない。しかし,ほとんど好き嫌いのない私は,郷に入れば郷に従え,ということで,食してみることにしたのである。
このレストランで出てきたのは「アドボ」というよりも,写真のように「アドボ」を汁と一緒に炒めた,ほぼ豚肉入りチャーハンに目玉焼き2個がのっていたのであった。非常に美味であった。
料理に関しては日本に勝る国はないから海外旅行では多くを期待してはいけないし味付けは大概大味ではあるが,こうしたおいしいものが食べられるのだから,ハワイは食に関してもいいところだ。
「不良老人」の勧め⑮-「責任」だけがついてくるのに
今から約10年前,私のいた組織の上司は「俺は責任者だ」というのが口癖でした。しかし,実際は何かまずいことが起きると俺を守るのが部下の仕事だというだけで,自分は責任をとったことがないばかりか,自分の保身だけを考えていました。愚かな輩でした。
この輩のように、能力もないのにプライドが高くて身の程知らずで偉くなりたいだけの人がいます。
事業家なら失敗するくらいの低い能力であっても,組織なら偉くなれます。しかし,そうした地位に就くともれなくついてくるのは「責任」だけということを知っているのか,あるいは「責任」など結局は口先だけだと思っているのか,そうした輩が多すぎます。しかし,実際は責任の取り方すらご存知ないのでしょう。
組織に勤めるというのは自分の貴重な時間をその組織に売ってその代償で給料をもらうということです。そういう生き方をすれば、身の丈でささやかに生きることができるし,それだけでよいのです。組織で偉くなるなどという大それたことは能力がある人が気の毒にも自然とその地位に押し上げられてなるものです。でないとまわりが不幸になります。
しかし,所詮,組織に属して仮に高い地位を得たとしても雇われ上司では生涯に受けとる給料は限られています。そこで,芸術家やスポーツマンのように,よほど神様から与えられた才能があるならともかく,それほどでもない人が人以上の収入を得ようとするなら,自分で組織を作ってマネジメントをするしかありません。
たとえば,ささやかな理髪店を経営して自分で仕事をしても収入には限りがあります。そこで,マネージメントをする,つまり,チェーン店を増やして従業員を雇い,自分はマネージャーとなる,というようなことです。こうすることで自分の能力以上の収入が得られるようになります。しかし,経営者としての能力がないとある規模を越えたところで破たんを起こします。そこに大きな壁があるわけです。
そうした悲劇は,これまでも数多く起きていますし,今日も様々な事件が世の中を騒がせています。
いずれにせよ,組織で偉くなろうと,起業家になろうと,どちらにしても,もれなく「責任」だけがついてきます。
しかし,何事かが起きてしまい,実際に「責任」をとらなければならなくなったときに,どれほどの人が本当に責任をとっているのでしょうか? 言葉では「責任はすべて私にある」という人は多いのですが,実際に責任をとった人がどれだけいるのでしょう。責任をとるにも能力がいるのです。責任をとるというのは記者会見で頭を下げたり辞めるということではないのです。
だから,本当に「責任」がとれるような能力を授かった人だけがそういう地位に就くべきであって,そうでない人がそんな人生を目指すとまわりの人が迷惑するのです。したがって,そういう能力のない人は地位など求めず「不良老人」を目指すべきなのです。その方がたとえ収入が少なくても自分も世間も幸せなのです。すべては「身の丈」です。
2017春アメリカ旅行記-ハワイの古都・ラハイナ⑦
●ハワイを夢見てきたが流す涙はキビの中●
州道30を北西にラハイナのダウンタウンを越えたあたりにあるケヌイ・ストリートを左折して海岸に向かって走っていくと目指す浄土寺があったので,寺の横にあった駐車場に車を停めた。寺のさらに向こうは海岸で,地元の人たちが海水浴をしていた。海のきれいさは日本とは比較にならないが,雰囲気だけは日本のようなところであった。
日本人が最初にマウイ島へ移民として横浜港を出たのは1868年(明治元年)のことであった。
「金のなる木が生えている」という話を聞き夢を膨らませてハワイ諸島についた人々を待ち受けていたのは,裸にされて体格で値段をつけられ治外法権のサトウキビ畑に売られて強制労働させられる毎日であった。ホレホレ節という民謡を歌いながら炎天下でサトウキビの葉を落とす作業をしなければならなかった。
「ハワイ,ハワイと夢見てきたが,流す涙はキビの中。いこかメリケン,かえろか日本,ここが思案のハワイ国」。
勤勉で真面目な日本人はマウイ島人口6万人のうち3万人になっていた時期もあったという。
ちょうどそのころ,ハワイに仏教寺院が建てられた。
「ラハイナ浄土院」(Lahaina Jodo Mission)は1925年(大正元年)カフルイ浄土院を開いた原聖道師がラハイナに土地を借りて仮布教所を設置,翌年着任した斉藤原道師が寄付などを集めて1927年(大正3年)に堂を建てたのが始まりである。1930年(昭和5年)現在地に土地を購入して移転,ハワイの他の寺院とは違って日本的に作られま。
1968年(昭和43年)火災で本堂が焼失する事故にあったが原源照師らの努力で3年後に再建された。日本から大工を寄せて,日本式本堂,納骨堂に利用されている三重塔,このほか鎌倉大仏を縮小したミニ大仏,鐘楼,山門,東屋などが建立された。
寺院の側にある墓地は中国人や日本人の無縁仏であるが,今はハワイ州が管理しているために勝手な整備ができないそうである。
ラハイナ観光の最後に私がめざしたのは「ハレ・パイ」(Hale Pa'i)であった。今度は州道30をダウンタウンの方向に少しだけ戻って左折し,山側にラハイナルナ・ロードの坂を上ってずっと奥まで進んでいくと高台には新しい住宅街があって,その先の行き止まりにラハイナルナ高校(Lahainaluna High School)があった。学校の横に広場があって,高校生たちが遊んでいた。そこに車を停めて外に出ると,「ハレ・パイ」はそこにあった。
「ハレ・パイ」は印刷博物館である。開館時間に着いたはずだったが,なぜか閉まっていて中に入ることができなかったので,ここでは資料から紹介しよう。
オアフ島に到着した宣教師が来たとき,ハワイ人は文字をもっていなかった。 ハワイ語はアルファベットとして表記をするのが難しかった。 宣教師たちはキリスト教の福音を教えるために,まずは言葉を書く表現法を開発しなければならなかった。
そうして1822年にハワイで印刷された最初の本はハワイ語のスペルの本であった。
マウイ島のラハイナに宣教師が上陸したのが1823年。現在のラハイナルナ高校はそのときに時神学校として創立された。
1831年,ラハイナルナでは印刷の必要が認識されたので,印刷をするための建物が建設され1834年にホノルルから印刷機(Ramage Printing Press)が到着した。そして,1834年に「Ka Lama Hawaii」の初版が印刷された。1837年には現在の建物が作られた。
「ハレ・パイ」は1846年に印刷が中止されるまで使用され,その後は学校の部屋に使用されたが,1964年、ハレ・パ・チーはラハイナ・レストレーション財団に引き渡された。
こうして,私はこの日,マウイ島の西海岸,特にラハイナの観光を終えて,ホテル近くのモールでケイタリングの夕食をとった。このように,この島を訪れる日本人の多くはそのことに興味もないが,マウイ島は様々な顔をもつ,そして,歴史のある島である。