●カウアイ島伝説の小人族「メネフネ」●
ケカハの美しい海岸を右手に5分ほど走るとワイメアに着いた。カウアイ島西側最大の町がワイメアである。
「古きよきハワイ」といったノスタルジックさと1900年代を思わせるレトロな雰囲気のある町である。町のほぼ中心に海を向いてキャプテン・クックの銅像があると書いてあったのだが,私は見つけられなかった。海岸に沿った道の向かいに「イシハラマーケット」(Ishihara Market)があった。
この町は,昔,島でもっとも栄えていた歴史がある。
・・・・・・
ヨーロッパの探検船がハワイに到着するさらに何百年も前,新しい安住の地を求めて南太平洋からやって来たポリネシア人たちの最初の着陸地だった。その指揮をとったのはクアルヌイキニアクア(Kualunuikiniakua)。ピイアリイ(Piialii)とともに彼が到着したのがワイメアの海岸であった。一行は海岸沿いと渓谷沿いに住み着いた。
やがて時を経てクアルヌイキニアクアが他界したあと,息子のクアルヌイパウクモクモク(Kualunuipaukumokumoku)が賢明な統治をした。この時代からその存在が口承で伝えられているのがカウアイ島伝説の小人族「メネフネ」である。
クアルヌイパウクモクモクの息子オラ(Ola)は現場作業をメネフネに委託することでヘイアウから養殖場,複雑な農業灌漑システムに至るまで多様な建築プロジェクトを請け負うことで成功した。
・・
1778年,砂浜に2隻の船が停泊していた。びっくりした村人たちは大騒動になった。カフナ(聖職者)が言った「ロノ神がいらした!」という言葉で村人たちはこれをハワイの4大神のひとりであるロノの到来だと信じたが,これがキャプテン・ジェームス・クックが率いるイギリス船「レボリューション号」と「ディスカバリー号」であった。
大歓迎を受けたクック一行であった。
クック一行が到着した時の記録では当時のワイメアには60棟の建物,川の上流に40程のわらぶきの家が点在していたとされている。また,渓谷にはタロイモがたわわに実り,水田にはアウワイ(Auwai)と呼ばれる灌漑システムが使用されていて,その洗練度と完成度の高さに西洋人たちが注目したと記述されている。
・・
このキャプテン・クック一行の上陸をきっかけとして西洋の物資や文化がハワイに入ってくるようになり,ワイメアはカウアイと世界を結ぶ貿易の玄関口として大いに栄えた。
キャプテン・クックはその1年後,ハワイ島ケアラケクア湾で殺された。
その後1793年にワイメアを再訪したのがキャプテン、ジョージ・バンクーバーであった。ここで彼はカウアイ王国最後の総督カムアイ(Kamualii)に会っている。
1700年代末に最初のアメリカからの宣教師の何人かがワイメアに定住し,カムアリイの抵抗もむなしくハワイ王国への反乱が始まった。
1930年代にはナウィリウィリ港とポートアレン港ができ,サトウキビ生産の中心としてコロアの町が栄え,ワイメアは徐々に衰退した。
・・・・・・
私はワイメアで昼食をとろうと車を停めてめぼしいものを探した。いろいろあるにはあったがその気にならなかったので,中国人の経営する「日本食」の店で「ラーメン」を食べるはめになった。店員どもどもやる気があるとも思えなかったが味は悪くなかった。
ハワイであろうとオーストラリアであろうと日本だろうと,世界中どこに行ってもこうした場末のラーメン屋があって,大概中国人の愛想のよくない店員が適当に客と応対しているが,それで十分商売が成り立っている。そうした中で,どう考えても日本でこうした店を構えるのがもっとも面倒くさそうに私は思える。それは「お客さま神様」で日本の客が最も横柄だからである。
食事を終えて,私は「ナゾの用水路」なるものを見にいった。
ワイメア川にかかる橋を渡るとワイメアの町は終わるが,ここにオラとメネフネの物語りを紡ぐ「ナゾに包まれた用水路」が今も残っている。ハワイ語で「オラの用水路」(Kiki a Ola)と呼ばれるこの石造りの用水路はワイメア・スウィンギング・ブリッジの側にあった。ここは古い時代,「神たちのユートピア」(Pali Uli)と呼ばれた美しいエリアであった。緻密にカットされた石が互いに完璧にフィットしていて,築かれた用水路には滑らかに水が流れていた。このような細かい作業を用いた建築物がハワイで見られるのはここだけだとされている。
これはワイメア川上流部から中腹部にあるタロイモ畑に水を引くための灌漑用水路として造られたものだが,独特で完成度の高い建築構造物であることから,どうやって用水路が造られたかは考古学的には未だにナゾということである。
March 2018
動物も大変だ②-トナカイの過酷な「人?」生とは?
深夜のアラスカを走ったとき,ホンモノのトナカイが飛び出してきてびっくりしたものですが,北極圏付近では,トナカイが道路に飛び出してきても珍しいことでもないようで,車や列車に轢かれるのは日常茶飯事です。
そのアラスカでクルーズに乗ったとき,トナカイというのは英語では「カリブー」(caribou)と「レインディア」(reindeer)というふたつの言い方があるけれど,その違いは空が飛べるか飛べないかだというジョークが印象に残っている,というのはすでに書きました。
・・・・・・
サンタクロースが乗ったそりを曳くので有名なのが「レインディア」です。1823年にできた「サンタクロースがきた」(A Visit from St. Nicholas)という詩で,そりを引くトナカイの名は「ダッシャー」(Dasher)「ダンサー」(Dancer)「プランサー」(Prancer)「ヴィクセン」(Vixen)「コメット」(Comet)「キューピッド」(Cupid)「ダンダー」(Dunder)「ブリクセム」(Blixem)の8頭とされ,さらに,1939年に発表された「ルドルフ 赤鼻のトナカイ」(Rudolph the Red-Nosed Reindeer)で「ルドルフ」(Rudolph) を先頭に加え,サンタクロース愛用のそりを曳くトナカイは9頭と認定されました。
・・・・・・
トナカイ(学名 Rangifer Tarandus)はシカ科トナカイ属で,本種のみでトナカイ属を形成します。先に書いたように,英語では「レインディア」(reindeer)といいますが,北アメリカで生息する個体は「カリブー」(caribou)と呼ばれます。
体長は120センチメートルから220センチメートルで,体重は60キロクラムから300キログラムになります。オス,メスともに角があります。オスの角の用途は繁殖期における抗争ですが,雪を掘ってエサを得る役割もあるため,メスは子どものエサを確保しなくてはいけない冬季に角が生えます。オスの角は春に生え秋から冬にかけて抜け落ち,メスの角は冬に生え春から夏にかけて抜け落ちます。また,メスは4月から6月にかけて1回に1匹の幼体を出産します。
トナカイは人類が最も古く家畜化した動物のひとつであり,乳用,食肉用,毛皮用に加え,トナカイは雪上でも走行可能なのでソリを曳く使役や荷役にも利用されてきました。現在,フィンランドには野生のトナカイはおらず,生息しているトナカイはすべて家畜として管理・飼育されています。
子供が生まれるとまず,すべてが捕まえられて印をつけて再び野に放つことで親を特定します。その後,肉にするトナカイと繁殖に利用するトナカイを選別し,毎年一定数のトナカイになるようにするわけです。優れたオスだけが繁殖用としてハーレム状態となり,力自慢で選ばれた(体育会系の?)トナカイは去勢されて一生ソリを曳き,残りは肉となります。メスは子供が産めなくなれば殺されて,こちらも肉になります。
このように,生を全うできるトナカイはいないわけです。フィンランドではトナカイの「人?」生は過酷です。
前回書いたカンガルーにせよ,トナカイにせよ,どうも地球上の生き物は過酷な「人?」生のようです。そうして生き物をわが物顔で管理している人間もまた,よく考えれば,生れてから死ぬまで奴隷のようなもので,決して自由を謳歌し自分の意志で生を全うしているとは思えません。
生き物にとって,地球というのはまったく安住の地ではないようです。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ウエストコースト③
●「ケハカ」に住みたい,と思った。●
ワイメア渓谷から州道552を降りたところにあったのがケハカ(Kekaha)という町であった。私はそこから海岸に沿って州道50を北上して「ポリハレ州立公園」を目指したのだが途中で断念したことはすでに書いた。
私はそうして,再びケハカまで戻ってきた。
・・
ケハカは「ケカハ・ビーチ」 (Kekaha Beach) に面した町である。ケカハの町は小さく店舗も少ないが,立派な小学校も保育園もあるし,車で5分の隣町ワイメアに行けばスーパーマーケットも病院もあるから,不便な町ではない。その逆に,とても充実した田舎町であり,昔からの住民ロコはもちろんのこと,ニイハウ島から一番近い場所なのでニイハウファミリーや親戚もたくさん住んでいるという。そのせいもああって,ハワイ語を母国語とする家族も今だにたくさん住んでいるし,ハワイ語のみの学校もある。さらには,実は,お金持ちの人が住む隠れ高級地としても密かに知られている。
ここはカウアイ島の最西端であってのんびりしていて,周りはサトウキビやひまわりのフィールドがあったり,ビーチでクジラがジャンプしてるのを見ることもできるなど,たくさんの自然があり,心が洗われるところである。
野生のニワトリや大きなカエルも元気に暮らしている地域で,冬にはクジラたちが海で大暴れしているのを肉眼でみることさえできる。
ニイハウ島を臨むのが,東西に広がる白砂ビーチである。このビーチはもちろん徒歩距離であり,晴天率最高のお天気地域でもある。
観光客がこのビーチを楽しみたいのなら,道路沿いに駐車をしてビーチに歩いて行けばいい。ここでは,海に沈む太陽が見られる夕暮れのころは特にロマンティックであろう。ただし,海流が強く波が高いので,遊泳には向かないが,釣りやボディボードなどを楽しむことができる。
私は,こうした海岸を見ると,子供のころに行った家の近くのきっ~たない海水浴場のことを思い出したりするが,あんな汚れたゴミだらけの日本の海岸のその先に,こんなに美しい海岸があるなんて,そしてまた,これが同じ地球上のことなんて,本当に信じられないのである。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ウエストコースト②
●不思議の島・ニイハウ島●
私は今,カウアイ島の西の海岸線を南に向かって走っているが,右手には美しい海岸の向こうにニイハウ島が見えた。カウアイ島はハワイ諸島の中でも西側にあるから,そのさらに西にあるニイハウ島を見ることができる唯一の島なのだ。それが今日の写真である。
私は昨年2017年3月にマウイ島に行ったときに参加したハレアカラ山の星空観察ツアーのツアーガイドである山内さんからこの島のことを聞いて興味をもった。ハワイ諸島は19島からなるが,そのうちの8つの島に人が住んでいる。この8つの島のうちで,オアフ島,マウイ島,カウアイ島,ハワイ島の4つの大きな島と,ラナイ島,モロカイ島の2つを加えた6つの島が観光地である。それ以外の2島,カホオラウェ島(Kaho‘olawe Island)は現在はNPOの数人住んでいて,アメリカ軍が演習を行ったころの残骸除去と植生の回復活動が行われているが,一般の人が渡航できる島ではない。そしてもうひとつがニイハウ島である。
今日は,この島のことを書く。
ニイハウ島は(‘O Ni‘ihau)は,なんと個人所有の島で,カウアイ島の西約27キロメートルのところにある。
2000年の統計では,人口は160人,内訳は男性75人,女性85人となっている。 このうちで15歳以下が56人,16歳から24歳が21人,25歳から44歳が50人,45歳から64歳が26人,65歳以上が7人である。人種としては,ネイティブハワイアンが107人で全体の66.9%を占め,他は白人2人,アジア人25人,ということだが,実際はどうなのであろう。諸説あって定かでない。ニイハウ島民は外部世界とまったく接触がないわけではなく,船でカウアイ島へ買い出しに行ったり,他の島に移住している親類宅を訪問しているなど,一般に喧伝されているよりも普通の日常生活を送っている… らしい。
島の面積は179.9平方キロメートルで,153.3平方キロメートルの小豆島程度。 最高峰はパニアウ山(Mauna Pānīʻau )で標高は381メートルなので,高い山はない。島は490万年前に活動した楯状火山であったが,すでに火山は活動は終え,島の東側は大規模な地すべりで崩壊している。
この島は「不思議の島」(Mistery Island)とよばれる。そういえば,同じ名のアメリカのドラマを見たことがある。
1795年にカメハメハ1世によってハワイ王国が建国された後も,この島は首長カウムアリイ(Kaumualii)の統治下にあった。1810年にハワイ王国が遠征軍を派遣しカウムアリイは降伏,ハワイ王国の一部となった。しかし,1864年にスコットランド人のエリザベス・シンクレア(Elizabeth Sinclair)夫人がカメハメハ5世からピアノ1台と10,000ドルでニイハウ島を島民付きで買い取り,現在もシンクレア夫人の末裔であるロビンソン一家が所有している。島に出入りできるのは原則としてロビンソン一家とカウアイ郡の関係者だけで,一般人の出入りは難しいのだが,現在は島の一部を散策できるツアーがあってヘリコプターで上陸できるそうだ。ただし,島民への接触は招待された者以外は認められていない。…となると,行ってみたい,となるわけだ。
ニイハウ島には,真珠湾攻撃のときに起きた「ニイハウ島事件」(Ni'ihau Zero Incident)という痛ましい過去がある。
・・・・・・
1941年(昭和16年),真珠湾を攻撃した日本海軍の空母「飛龍」に所属した零戦のうちの1機がエンジントラブルを起こしニイハウ島に不時着した。この零戦のパイロットだった西開地重徳一飛曹は,一旦は日系アメリカ人2世の原田義男に救助され匿われたものの,住民に地図や拳銃を奪われ,取り戻すために戦ったあげく,西開地は殺害され原田は自殺した,というものである。
この事件によって,「ニイハウ島の日本人住民が日本人のパイロットを助けたという事実はアメリカに忠誠を誓っていた日本人住民が日本を支援するかも知れない」という懸念になって,その後の日系アメリカ人の強制収容実施の計画に大きな影響を及ぼすことになった。
現在,西開地の故郷である愛媛県の波止浜(現在の今治市)には,事件の物語と「彼の功績は永遠に続く」と刻まれた花崗岩の柱が建てられている。また,西開地の零戦の残骸は,真珠湾のフォード島のアメリカ海軍基地内にある「太平洋航空博物館」に展示されている。これもまた,現在ハワイを訪れる日本人観光客のほとんどが知らずまた興味のない歴史のひとつである。
・・・・・・
動物も大変だ①-カンガルーの過酷な「人?」生とは?
自宅にいて何気なくテレビをつけたらやっていたのがBSプレミアムの「ワイルドライフ」という番組でした。再放送のようでした。この日のテーマは「オーストラリアの大草原 激闘!オオカンガルー」。
・・・・・・
オーストラリア大陸の最南端にあるウィルソンズプロモントリー国立公園(Wilsons Promontory Marine National Park)にはその草原を軽やかに飛び回るオオカンガルーが200匹もの大集団で見られる草原があるそうです。10月,繁殖期になるとオスはあちらこちらで力自慢のバトルを繰り広げます。まずは巨体を誇示して力のアピール,そして大きな体を躍らせての取っ組み合い。そのダイナミックな争いは迫力満点で,強いものだけがメスへのアピール権を獲得できるのです。しかし,その後もメスを巡るオスの試練は続きます。争いに勝ってもメスと必ず結ばれるとは限らず,メスにその気がなければ恋は成就しません。タイミングが重要なのです。そうまでして自分の子孫を残すためにオスのカンガルーたちは戦い続けるのです。いわば,過酷な「恋の道」なのです。
・・・・・・
とまあ,そんな感じだったのですが,要するに,哺乳類の最も大切なお仕事は強い子孫を残すことで,そのために,カンガルーに限らず,哺乳類のオスは体が大きくて力が強くなければならないから,戦うのです。知性もまた必要なのでしょうか? 勝負に勝つための駆け引きも大切かもしれません。いずれにせよ,メスを手に入れるために命がけの戦いをするわけです。しかし,そうまでして勝ち残っても,求愛をしたメスにその気がなければそれで終わり。メスは強いんです。そしてまた,オスは悲しい生き物です。
これを見ていると,オーストラリア大陸でのんびりと生きているように見えるカンガルーの社会は,実は人間社会よりもかなり過酷です。
しかし,人間だって,メス,いや,女性の取り合いで戦いをしていたりもするではないですか。というか,若い男性の行動の根本は全てそこにつながっているわけで,ご苦労なことです。そのことでストーカーになったり,殺し合いさえする人だっているのです。しかし,人間の場合,カンガルー以上に力だけでなく,知性も教養も必要だから,さらに大変です。
カンガルーのこうした実態や人間の様を思い浮かべても,神様というのはかなり過酷なものを創造したものだと,しみじみ思います。そしてまた,人間社会もカンガルー社会も,弱い雄は辛いものです。
「不良老人」の日常⑦-3度失敗した団塊の世代Ⅲ
アメリカでも日本と同じように世代による特徴があります。
・・
最も話題となるのが「ベビーブーマー」です。アメリカの「ベビーブーマー」は,概ね1946年から1964年ころまでに生まれた世代を指す事が多く,これは第二次世界大戦終結後からケネディ政権の時代に生まれた世代に当たるので,日本の「団塊の世代」よりも範囲が広くなります。
その次の世代が「ジェネレーションX」(Generation X)です。この世代は1960年代初頭または半ばから1970年代に生まれた世代を指します。「第13世代」(13th Generation)とも呼ばれていますが,ケネディ政権の時代から1975年のベトナム戦争終結後までの時代に生まれた世代です。ちょうどテレビの普及が始まった時期であり,ベトナム戦争やキューバ危機,そしてヒッピー運動の時期に少年期を過ごし,ヒッピー運動の衰退とベトナム戦争の終結による「しらけムード」の中で青年期を過ごしました。
この世代が成人した1980年から1994年は冷戦末期からソ連崩壊の時期で,大資本家が「リストラ」「ダウンサイジング」と称した整理解雇ブームを惹き起こした時期と重なりました。このため「ジェネレーションX」は軒並み就職難に遭遇しました。この世代は別名「ミー・ジェネレーション」と言われ,個人主義と内向性を特徴としていて,政治や社会に対して冷めている傾向が強いと言われています。
アメリカの世代について,今日特筆すべきは「ジェネレーションZ」(Generation Z)です。この世代は1990年代の中ごろから2000年代の中ごろに生まれた世代のことで,デジタル環境に育ち,政治参加意識も強いという特徴をもっています。日本の「ゆとり世代」と同じ世代ですが,まるで異なっています。
この世代に属する彼らこそが,去る3月24日にワシントンDCで実施された銃規制を求める「私たちの命のための行進」(March for Our Lives)の主役です。これまで銃乱射による悲劇が繰り返されても進まなかった銃規制の流れでしたが,この世代の若者たちの怒りのうねりによって少しずつ変化が現れてはじめているのです。この世代は「自分たちが体験した恐怖に立ち向かうための行動をすぐに広げることができる」といわれています。
このように,アメリカの世代は,日本と重なる部分もあればそうでない部分も多々あるのですが,日本にせよアメリカにせよ,歴史や経済というのは,その時代に生きた人の社会情勢に寄る部分が非常に大きいのです。しかし,なぜかそういう側面を軽視しがちであると私は思います。
政治は政治家が自分の功名のためにやっている部分がほとんどで,経済もまた,金儲けがすべてです。そうした権力者にこびたところで,いざとなれば彼らに冷たくあしらわれるだけなのに,批判精神をなくし,それをサポートすることで自分もその仲間である,つまり権力者の側にいるように誤解している哀れな人がけっこういます。
そしてまた,そうした権力を監視するのが重要な仕事であるはずのマスコミにも,話題になればいい,売れればいいというだけで,社会秩序も哲学もないのが残念です。ましてや,政権をヨイショするような報道は,単に権力者のサポーターであるだけで,批判を忘れたマスコミはマスコミではありません。
・・
社会の中で漂うだけの力のないー個人としては,そうした世代による相違が社会の根底にあるということを忘れず,流行に踊らされず,自分の立ち位置と生き方を自分で考えていく必要があるのです。
私が心配なのは,アメリカの「ジェネレーションZ」世代とは違って,日本では,日々くだらないドリル学習や画一された就職活動,そしてブラック企業に代表されるように残業ばかりの毎日を強いられているにもかかわらず,世界を知らない(知らされていない)ためにこの国はすばらしいと洗脳され,自分をもたない(もたせてもらえない)若者が保守化して,社会を批判する能力をもっていない(もたされていない)ことです。このことは,一見,権力者にとれば非常に都合がよいように思えるのですが,実際は国力の減退と稚拙な外交交渉の根本的な原因となっているのです。
「不良老人」の日常⑥-3度失敗した団塊の世代Ⅱ
1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)に生まれた「団塊の世代」,現在69歳から71歳のこの世代は,前回書いたように,人生で3度の失敗に見舞われました。今日はそのお話です。
・・
そのひとつが学生運動の敗北です。しかし,彼らは一部の人を除いて,決して本質はリベラルではなかったのです。むしろ,彼らのなかで成人して社会の中核をなした人たちはかなりの保守派であって,学校教育もまた,彼らの世代が教師となってはじめたのが「管理教育」です。そして,現在の「言いたいことも言えない鬱積した社会」の仕組みを作った人たちもまた,かれらの世代の社会でリーダーとなった人たちです。人は大人になると,子供のころに自分の経験したことと反対のことをするのです。
・・
ふたつめは自分の子供たちの不遇です。「団塊ジュニア世代」の学生時代は校内暴力と学校が荒れていたころであり,卒業時は超就職難に直面しました。つまり,「団塊の世代」の子供たち「団塊ジュニア世代」が学生ころに,髪の毛を染め耳にはピアスの穴をあけルーズソックスにミニスカートが流行して急激に秩序が乱れはじめ,しかも,その悲劇は彼らが就職期を迎えたとき不景気に直面してとどめをさされました。
「団塊ジュニア世代」が高校生のころは,人口が多かったので現在は40人である教室に47人も押し込められたのですが,それでもそうまでして高校や大学の定員は増やしたからまだなんとかなったものの,人口が増えたからといって会社の定員が増えたわけでもないし,しかもたまたまその時期が不景気だったことで,結果的にそれが火に油を注いだ感じになってしまい,さらには,会社でまだ定年を数年残した自分の親たちの存在が会社の人員過剰の原因となって,自分たちの子供の就職をじゃまする形となり就職難に追い込んだのです。親の世代の定年と子供の就職時期が一致すればよいのでしょうが,そこには10年ほどのずれがあるからです。
・・
そして彼らの3番めの失敗がコンピュータ時代に乗り遅れたことです。彼らが会社で50代となったところとその時期は重なりました。そこでまた悲劇が起きました。要するに時代についていけなくなったのです。そこで,本来は会社の重鎮であるはずの50代の人たちが逆に会社の重荷となり,居場所がなくなりました。それだけならともかく,コンピュータ時代についていけないことを逆恨みするかの如く,この国のIT化が遅れる原因ともなりました。会社のIT化に何かと異をとなえたわけです。
やがて定年となった彼らは,今日,暇を持てあまして平日の街中をうろうろと徘徊しているのですが,未だ紙媒体の新聞を読むために図書館で開館を待つ列を作り,そしてまた,決まって持っているのが「ガラ携」です。このコンピュータ苦手世代を対象として商品やサービスを展開して売上を伸ばしたのが「ジャパネットたかだ」です。さらに,この世代は喫煙率が高く,周囲に迷惑をかけている存在であり,クレジットカードを信用せず現金で買い物をするという特徴もあります。
こんな「団塊の世代」ですが,この世代は年金も満額受給し「戦中世代」のような若い時代の悲惨さもなく,しかもちょうど稼ぎ時がバブルに沸いた時代だったので,バブル期に浮かれて散財しなかった一部の賢い人たちはお金を持っています。残念なことに,その子供たちがいわゆる「空白の20年」に見舞われたので,彼らの多くは,今はお金のある「団塊の世代」の親を頼って生きるパラサイトチルドレンとなっています。しかし,この先,今は頼っている親たちが高年齢化し介護が必要となったとき,そして,その先親が亡くなって親の年金がなくなったときが大問題なのです。
おそらく,今後20年くらいは「団塊の世代」の高齢者が社会にあふれるのでしょう。そして,その先になると,彼らを対象として作りすぎた老人ホームやら使い過ぎた医療費やら,そうした「団塊の世代」の「残骸」の戦後処理が待っているのです。それは,かつて彼らが起こした学園紛争の後に残された大学の無残な立て看板や,その反動でやたらと厳しくなった管理社会と同じ姿です。
こうして,「団塊の世代」の次の「しらけ世代」は,いつになってもずっと「団塊の世代」のしりぬぐいばかりをしている「団塊後始末世代」となっているのです。
「不良老人」の日常⑤-3度失敗した団塊の世代Ⅰ
有史以来の日本で最も幸せな世代は1955年(昭和30年)生まれだと私は思います。
この世代は「前期・しらけ世代」末期に属する人たちです。ちなみに「しらけ世代」とは1950年代生まれのことです。最も幸せな理由は,日本がまだ夢を見ていた時代に若いころを送り,コンピュータ時代にも乗り遅れず,厚生年金も60歳から支給され,さらには景気もよかった時代だからです。いわば「逃げ切り世代」です。1955年(昭和30年)生まれを境に,この国の人の年金などの老後における待遇は1年ごとに悪くなっていきます。
しかし,この私が最も幸せな世代と思うひとつ前,世の中ではこちらこそが「逃げ切り世代」と言われている世代があります。それが「団塊の世代」です。
1940年代の後期,特に1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)に生まれた有名な「団塊の世代」は,日本において第1次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代のことですが,この世代はいわゆる「焼け跡世代(戦中生まれ世代)」の次の世代にあたり,第2次世界大戦直後に生まれて文化的な面や思想的な面で共通している戦後の世代ということになります。現在,彼らは「アラセブンティ」,つまり,69歳から71歳です。この世代のことを「逃げ切り世代」といっていますが,それは間違っていて,彼らは人生で3度失敗をしているのです。このことは次回書くことにして,今日の話題は「団塊の世代」の子供たちの世代です。
「団塊の世代」が75歳を超える7年後を「2025年問題」とよびます。それは,2025年の日本は「団塊の世代」が75歳を超えて後期高齢者となり,国民の3人に1人が65歳以上,5人に1人が75歳以上という人類が経験したことのない「超・超高齢社会」を迎えるからです。
「団塊の世代」の子供たちが「団塊ジュニア世代」です。「団塊ジュニア世代」は1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)までに生まれた世代で,現在44歳から47歳の団塊の世代を親にもつ世代です。彼らは受験戦争が最も厳しかった世代であり,加えて,卒業生が多いのにもかかわらずバブルが崩壊して就職も悪く,恵まれない世代です。したがって,この世代は,今も貯蓄を行っていない人が約1割,預貯金が100万円未満である人も約3割あって、貯蓄を行っている者の割合や預貯金額が少ないという特徴があります。
この世代がこれから突入するのが親の介護問題なのですが,自分に余裕のない世代が親の介護などできるわけもないので「2025年問題」は「団塊の世代」だけでなく「団塊ジュニア世代」の問題でもあるわけです。
団塊ジュニアが壮年期を迎えはじめた2000年代には「第3次ベビーブーム」が起きるという希望的な予測がありました。そこで,ブライダル産業やベビー産業などとも絡んで「団塊ジュニア世代」の女性層をターゲットにした結婚・出産ビジネスが盛んになったことがあるのですが,実際には結婚できない人や結婚しても子供を産まない人が増えたことと,さらには価値観や時代の変化に伴い独身を貫くことや結婚はしても子供を持たないという夫婦が増えたことで,第3次ベビーブームが起こるどころか出生数は減少しました。
そうした「団塊ジュニア世代」の思ったほど生まれなかった子供たちの世代が,現在の高校生や大学生,つまり「お先まっくら世代」なのです。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ウエストコースト①
●「ポリハレ州立公園」はどこだ?●
私は,車でワイメア渓谷から州道550を降り,途中の三叉路で右折して州道552を西に向かって下っていった。州道552を走っていると途中から太平洋が眼下に美しく見えるようになってきた。青い海の先に見える島影はニイハウ島であった。
やがて,州道が海岸線まで降り切ってしまうと,そこはケカハ(Kekaha)という小さな町であった。ケカハで海にぶつかったのでそこを右折し,海岸線に沿ってさらに北上していくことにした。
カウアイ島は海岸線を一周する道路はないが,この先どこまで行けるのかという好奇心であった。
調べてみると,カウアイ島の北西の「果て」には「ポリハレ州立公園」(Polihale state Park)があると地図にあった。そこで私は,そこまで走って行こうと考えたのだが,実は,それが甘かった。
まず,海沿いにあったのは巨大なアメリカ軍の軍事基地であった。実はここは軍の重要な拠点であって,先日も迎撃ミサイルの実験が行われた場所である。そこに続く道路はもちろん立ち入り禁止だから,その手前の交差点を右折してさら進んでいった。この先に目指す「ポリハレ州立公園」があるはずだった。
しかし,そこは私の乗っているような一般車で,何の準備もなく近づくような場所ではなかった。「ポリハレ州立公園」の看板は見つけたが,その先,道路は未舗装になり,次第に狭くなっていった。私は危険を察して早々に引き上げることにしたのだがそれが正解であった。
私は,はじめてのハワイでハワイ島へ行き,車でマウナケア山へ登ったころは怖いもの知らずであったが,それから2年が過ぎ,私も老いた,というよりは少しは賢くなって,ハワイというところの実態がわかってきた。ハワイは観光地を除けば「未開」の地であり,容易に観光客を寄せつけない。
そこで,これから先に書くことは,私が行ってみたわけではないから,調べたことを転記することになる。
カウアイ島の西部は「ポリハレ」と呼ばれていて,火の女神ペレの姉であるナーマカオカハイが住む聖なる場所とされている。またレイなどに使われる海草「パハパハ」が有名で,このレイはナーマカオカハイが伝えたものだといわれている。このポリハレにポリハレ・ビーチとバーキン・サンド・ビーチがあり,その端にある崖は「ハエレエレ」とよばれている。
神々や先祖の霊はハワイのさまざまな場所からポリハレにやって来るとされる。そのため,この地域に住む人々は,東の方向から神々が家のなかに入ってきて人々を捕まえることのないようにと,東に面した方角には決して入口を造らなかった。
また,ハエレエレは死者の魂が飛び降り黄泉の国「ポー」へ行く入口ともされている。
ハワイの神々とは先祖の霊「アウマクア」でもあり,死者は黄泉の国を通って先祖と再会する。もし,死者を迎え入れる先祖の霊がいないと死者はこの一帯の岩に取りつき彷徨う霊となってしまうから,そのために,ポリハレの土地から石を持ち帰ることは強く戒められている。
ポリハレ・ビーチの果てにはいまも黄泉の国の入口があると信じられている。また近くにはポーの神として知られる地下世界「ミル」を祀る「ポリハレ・ヘイアウ」(「闇=Po」の「家=hale」の意)がある。
ポリハレ・ビーチの砂を踏むと犬の鳴き声のような音がするところがあり「バーキン・サンド・ビーチ」といわれている。
ここが「ノヒリ」と呼ばれていた昔のことである。この地で世捨て人のように暮らす男がいた。彼は何匹かの犬と一緒に暮らしていて,近隣の人々は眉をしかめていた。ハワイの文化では犬は食用であったからである。ある日,男が漁へ出ようとすると,犬たちが一斉に吠えてそれを止めようとしたが,男はそれを振り切って船を出した。やがて大嵐が来てどちらが陸地なのかさえわからない状態になったとき,男の耳に犬の鳴き声が聞こえた。彼はその泣き声を頼りになんとか戻ることができた。しかし,そこに犬たちの姿はなかった。犬たちは嵐に巻き込まれて砂のなかに沈みこんでしまったのである。それでも主人の身を案じ砂の中から吠えて主人を助けたのだ。そのためここは「ノヒリの吠え砂」(Ke one kani o Nohili)とよばれるようになったという。
このビーチまでたどり着くには,私が途中で引き揚げてたように,アクセスは最悪である。道が穴だらけ,普通車だと途中で動けなくなるから四駆で慎重にいく必要がある。しかも,たどり着いたビーチは遊泳禁止である。
しかし,波は本当に白くて美しい。そこは,1日いても飽きない場所である。自然のまま残されている白砂のビーチと左奥にはナパリコーストのはじまりか終わりか…。 昼間は青く美しい海の色と白い砂浜がお互いにその美しさを引き立たせ,夕方になると遠くに望むニイハウ島が浮き上がるようなサンセットが見られるという。
「不良老人」の日常④-ホンモノにじっくり接する。
平日のお昼間の元気のいい老人の行動(実態?)を会社勤めをしている人はほとんど知りません。
実際は,平日の老人はすることを探すのに忙しいのです。というか,実は暇なのでその暇つぶしをするものを探すのに忙しいのです。こうしたときに,老人になるまでの「鍛錬」の成果が現れます。趣味もなく働き続けた人は何をすればよいかがわかりません。平日の街中にはそういう人があふれています。
以前書きましたが,20歳のころ,やりたかったことが一杯あった人はその40年後にそれを実現するために行動し,それがなかった人は,40年後もまた,することがないわけです。
そうしたすることを探す人たちの中には高級デパートを歩いたり,街に出ておいしいものを食べたりしている人もいます。こうしたときに,自分というものを持っていないと,いらないものを買ったりして散財します。お金の有り余っている老人がこうした行動をするのは,景気がよくなるから,経済にとれば最も好都合です。しかし,さほどお金のない老人には,それは破滅の道に突き進む行動となります。
次に多いのが図書館です。これもまた,何かに打ち込むような興味のある人には有意義な時間となりますが,そうでない人は新聞や雑誌を片っ端から読んで時間を潰すこととなります。新聞の取り合いのような見にくい競争がはじまったりします。私個人としては,図書館に新聞があること自体が迷惑に思います。新聞は新聞だけの閲覧室を設けるべきだと思います。それは,あの紙をめくる音がかなりの雑音だからです。
行動派の人は電車に乗ってハイキングに行ったりもします。これもまた,歴史や文学などに素養があれば,とても楽しい時間の過ごし方となりますが,そうでないと,単に混雑した観光地に行くのに渋滞に巻き込まれて疲れるだけのこととなります。それは,たいして景観のよくないこの国の旅はこころでするものだからです。
何をしようとそれは人それぞれで,とにかく毎日が日曜日ですから,好きなことを楽しめばよいのですが,何をするにせよ,やはり,自分がないと単に振り回されるだけとなります。そうしたすべては,若いころに自分探しをしなかった人には辛いこととなります。
そうしたことを前提として,私の目指す「不良老人」として,してはいけない,というか,することのふさわしくないことは次のことです。そのひとつは民放のワイドショーを見ることです。ふたつめは週刊誌を読むことです。そして最後は,ネットにある書き込みを読むことです。
これらはすべて,この国の人の根底にある「妬み」「僻み」そして「やっかみ」の巣窟だからです。ともかく騒げばよいそれで雑誌が売れればいい番組を見てくれればいいという意識が丸出しです。それらは単に興味本位なだけで,問題提示もなければ主義主張もない,要するに何も目指していないからたちが悪いのです。ああいうものに接していると,自分の精神までも堕落するるような気がします。
そんなことに時間を使うくらいなら,クラシックのコンサートに行くとか,スポーツを見るとか,将棋の対局を見るとか,小説を読むというような,ホンモノにじっくり接することの方が,どれだけ満ち足りた時間をおくることができることでしょう。しかし,これもまた日頃からホンモノを味わえるだけの素養を身につけておかなければ,そのよさはわかりません。その意味でも,60歳でこれまでに過ごした人生の通知表がもらえるというわけです。それは,地位でも名誉でも財産でもありません。
2017秋アメリカ旅行記-絶景・ワイメア渓谷④
●ニワトリだらけの「コケエ州立公園」●
最終地点まで行ったので,満足して引き返すことにした。その途中にある「コケエ州立公園」(Koke'e State Park)で一旦車を停めることにした。
この州立公園は車を走らせていくと道なりに現れてくる。ここは緑の芝生がきれいに整備された大きなグランドのような場所であった。車から外に出ると空気がひんやりとしていて,周囲の樹木の香りが混ざった気持ちのよい空気に自然と心身が開いていくのであった。周辺にはキャンプ場などもあり,学校の生徒やフラ・ハラウ(フラダンスの学校の生徒)が訪れてはカウアイ島の植生,鳥,動物についての自然を学んだり,歴史を学んだりする場所にもなっているという。カウアイ島を代表する花として知られるモキハナ,またカウアイ島特有の香り濃いマイレ・リイリイが見られる場所としても有名な公園である。
また,ここは年に1度のフラの祭典「エマラニ・フェスティバル」の会場になる場所でもある。このフェスティバルは,1870年エマラニ女王が馬に乗って一行と共にワイメア渓谷にあるアラカイ・スワンプを通ってキロハナ・ルックアウトを目指した有名な旅にちなんだエマ女王に捧げる祭典であり,カウアイ島のフラ・ハラウはもちろん、カウアイ島以外のハワイの島々からも多くのフラ・ハラウが参加するローカル・イベントとして知られている。
「コケエ博物館」(Koke’e Museum)はこのパークの片隅にある小さな博物館である。この博物館には,コケエ周辺で見られる植物,生物,また,過去にカウアイ島を襲った2大ハリケーンに関する資料などが展示されている。また,売店ではトレイル・マップ,コケエの鳥や生物を知るミニ図鑑や分布図が売られている。
博物館は無料なのだが,入口に「Donation Box」,つまり寄付金箱があって,そこに集まった寄付金が博物館の運営などにあてられている。
私も中に入ってしばし見学をした。しかし,この博物館の学芸員に質問をしようとしても,おしゃべりに夢中になっていて仕事をさぼっていたので,私は寄付金を出すのをありがたく辞退した。
博物館のとなりに「コケエ・ロッジ」(Koke’e Lodge)というレストランが併設されていた。このレストランはワイメアの町を出て以降に出会う唯一の山のレストランである。
レストランは9時から開いているので,ここで朝食をとることもできる。私はここで食事をしなかったが,山頂にぽつんとあるカントリー感がいっぱいのレストランながら味はなかなかの評判ということである。
カウアイ島は別名「チキン・アイランド」と呼ばれるくらい野生のニワトリが多い。それは,1800年代の後半から1900年代の初頭にかけてサトウキビ畑で働く労働者が持ち込んだニワトリが徐々に増えたことに加えて,1992年にカウアイ島を襲ったハリケーン「イニキ」によって農場の小屋から逃げ出したニワトリが野生化することでさらに数が増えていったという話である。海岸からこの標高1,100メートル以上のワイメア・キャニオンまで,あらゆる場所にニワトリは進出していて,ここ「コケエ州立公園」もまた,ニワトリだらけであった。
私が受験生だったころ-無駄を無駄と思わなかった時代
また今年度も入学試験の季節がやってきました。韓国の入試は日本よりも深刻だそうですが,こうしたアジア人の考える試験制度の源流は「科挙」です。だから今でも,この国ではほとんど意味がないと私には思われる受験勉強という苦労を強いるのが「大人になる」ための通過儀礼だと信じられています。そしてまたそこに,金儲けを目的とした多くの人が群がります。しかし,そうした通過儀礼の結果,何らかの成果が得られるのならまだしも,実際は時間とお金をムダ使いしているだけであるから,私は受験生を心から気の毒に思います。
この国では,学者や専門職に就くのならともかく,そうでなけば大学で学ぶことは社会に出てからほとんど仕事とは関係がないのです。そしてまた,大学の授業料は異常に高いのです。しかし,なぜか「大学卒」の学歴だけがブランドとなって就職のときに差がでます。
私の学生のころも同じようなものでしたが,今と違って中学校や高等学校はほったらかしだったから,今よりまだマシでした。そこで私はほとんど受験勉強なんてやったことがありませんでした。模試など1回受けただけです。
私は中学3年生のとき「どうして勉強なんてするんだろう」と高校受験の勉強もしないでずっと考え続けていました。そのころは勉強する意味がわからなかったのです。というか,中学校でやっていることが学問を身につけることとかけ離れているということにうすうす気づいて嫌気がさしていました。
高校3年生のときはずっとラジオの深夜放送ばかりを聴いていました。当時はラジオの深夜放送がブームだったころで,そのころに流れていたのが,荒井由実(現在の松任谷由美)さんの「あの日に帰りたい」とか,(なぜか)由紀さおりさんの歌っていた「両国橋」とか……。こうした歌を覚えたことだけが私のいわゆる受験勉強でした。
♪両国橋はいけないわ~~~~
私は,高校で物理という教科の定期試験は30点以上取ったこともないのに,大学は物理学科の志望でした。しかし,好きだったのは日本史で,1番点数のとれたのが国語でした。今どきの高校生とは違って,学校では問題集なども与えられなかったからやったこともなく,日本史は分厚い専門書ばかり読んでいました。
数学はなぜか得意だったのですが,教科書に載っていた問題だけを参考書も何も見ないで自分ではじめっから考えていただけだったので,自分のひらめきと思いつきで解答をしていました。頭の中には体系化された知識すらないから,発想がひらめかないときは悲惨でした。それは定跡を知らずに将棋を指すようなものでした。
英語に至っては悲惨な限りでした。辞書をひくのがめんどうなので単語は知らず努力もしないから覚えられず,だから長文は全く読めず,パターン化された文法問題だけで乗り切りました。
しかし,私にとって幸いだったのは,くだらない現在のセンターテストどころか,その前の,特別な勉強は必要がないというウソのふれこみではじまった共通一次試験すら導入される前だったので,大学入試は一発勝負だったことです。そして,高校では,補習もなければ模試を受けろともいわれなかったので,時間に追われることもない高校生活を,のんびりと好き勝手に送ることができたことです。
かつての大学入試は記述式であり,思考力が必要だったし,そのころの学生は今とは違って問題集をやるようなくだらない勉強はせず,時間があれば本を読み,激論を戦わせていました。
大学入試にマークシートを導入して学校を暗記教育に変貌させたのが当時の文部省です。それなのに,今度は,入試改革やらで記述式の問題が増えるだとか思考力が問われるようにするらしいです。そんなもの,私のころのようにセンターテストをやめて大学入試を記述式にすれば事足りるのです。
今の高校生は気の毒です。やれ思考力だの記述式だとの突然いわれても,それを教える教師がいないのです。今の若い教師は学生時代にそんな教育を受けていいないからです。
入試改革なんてやめてしまって,入試など全廃して,全員を希望する大学にひとまず入れてしまえばいいのです。もともと定員を決める必要がある理由は大学に物理的な制約があるからでした。しかし,今は一旦自宅でeラーニングをさせればいいのです。そしてインターネットを通じて英語で講義をして,英語でレポートを提出させて,その出来不出来で,大学はその学生を進級をさせるかどうかを評価して,無事進級できたのちにはじめて大学に通わせればいいのです。そのようにすれば,できの悪い学生は進級ができないから,おのずから辞めていきますし,最終的にはそういう大学を志望しなくなるのです。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑦
今回の旅のLIVEのはじめに「私の場合,というか,これが普通のことなのかしれませんが,旅の予定がその通りにいったためしがありません。しかし,これこそが旅の醍醐味ということでしょうか。人生だって将棋みたいなもので,その時点での最善手を探せばいいだけで,その次のことは相手が指してからまた考えればいいのです」と書いたことが,まさに現実となりました。こうして私はこの旅をわずか4日で終了することになってしまったのです。しかし,得たものも多く,旅というのは人を強くするものだと改めて思いました。とにかく何事も経験が第一です。そしてまた,おそらく,こうした経験こそが,ずっといつまでも貴重な思い出として残っていくことになることでしょう。
では,今日は今回の「旅行LIVE」の締めくくりとして,まとめを書いておきます。
少し前にフィンラドンドでオーロラを見て,南半球の星空よりもオーロラのほうがずっと魅力的だと思ったのですが,それは大きな間違いでした。オーロラも南半球の星空も,両方ともすばらしいものです。やはり,南半球の星空,特に真っ暗なオーストラリア大陸で眺めた満天の星空は筆舌に尽くしがたいものでした。
帰国した日本も快晴でしたが,夜空の気持ち悪いほどの灰色の荒んだ姿が衝撃的でさえありました。私はつくづくいやになりました。そしてまた,オーストラリアの片田舎ののどかさは北海道の比ではありませんでした。特にサイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory)のあったクーナバラブラン(Coonabarabran)という町はとても素晴らしいところでした。今回はブリスベン(Brisbane)から行ったのでかなり遠かったのですが,シドニー(Sydney)からならそれほど遠くもないので,ぜひ,次回はシドニーから行ってみたいものだと思ったことでした。
そして,この旅最大の収穫はオーストラリアが非常に身近になったということです。
利用した飛行機は,成田まで行くのが面倒だということで,セントレア・中部国際空港から香港経由のキャセイパシフィック便でブリスベンに行きました。帰りは予定を変更したので,カンタス航空でブリスベンから成田に戻ってきたのですが,このふたつの航空会社の旅客機の機内と,そして香港の空港での乗り換えはまさに雲泥の差がありました。
これは私の主観でしかないのですが,圧倒的にカンタス航空のほうが快適でした。そしてまた,乗り換えが便利だと思った香港の空港は広すぎ混雑しすぎていて,しかも乗り換えにもセキュリティチェックが2度もあって最悪でした。こんなことなら,成田からブリスベンに直行便で行くほうがずっと快適でした。
また近いうちにこの旅の続きをしたいと思っています。
それにしても返す返す残念に思うのは,私が帰国したあとの現地の天気予報がまさに快晴だったということです。快晴の空の下で南半球の星空を心置きなくもういちど見てみたいと思います。
ところで,はじめの予定では「7泊10日」だったという理由は,帰りのフライトが深夜12時過ぎで機内泊だったためというのが答えですが,今となってはそれも虚しい話です。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑥
もともと私は「古きよきアメリカの田舎」に憧れてアメリカを旅してきたのですが,この頃のアメリカはどこも人多すぎ,車多すぎです。しかもやたらとセキュリティが厳しくて入国が面倒です。そこで,オーストラリアのほうがずっと私が夢見ていた「古きよきアメリカの田舎」に近そうだと感じます。
今回の旅のように,観光地でないオーストラリア,大都市でないオーストラリアを旅していて,この国のことが少しずつわかってきました。年寄りが旅するにはとてもいいところです。泊まるところはどこにでもありますし,予約も必要ないようです。ただし,この国での最大の魅力であり問題なのは,町と町の間の距離が「ものすごく」遠いということです。
さて,ナラブライ(Narrabri)に2泊して,クーナバラブラン(Coonabarabran)まで寄り道しました。いよいよあす3日目はこの旅の本当の目的地であるバランディーンを目指して北上します。しかし,バランディーンはナラブライの走るA39沿いではなくそれよりも1本東を走るA15沿いにあるので,どこかで東に向かって行かなければいけないので結構面倒です。いろいろと調べた結局,ナラブライからすぐに東に走ってA15を目指すことにしました。ナラブライからバランディーンまでは390キロの道のりです。
・・・・・・
という予定で,ホテルで明日からの準備をしていると,夜の9時過ぎに日本にいる家族から電話がありました。急な事情ができたのですぐに帰国してほしい,ということでした。これには参りました。今いる場所がブリスベン(Brisbane)の空港まで2時間と少しのバランディーン(Ballandean)ならともかく,ここはブリスベンからは700キロも離れていて,この距離を再び戻らないと日本に帰れません。しかし,今は夜の9時過ぎです。帰国するために帰りのチケットをネットで探すにしても,いつここを出発して何時に空港に着けるのかがわからなければどうにもならないのです。
さすがにこれから出発して深夜の道路を走るのは気がひけました。なにせ,オーストラリア大陸の深夜なんて真っ暗です。走ったことがないから道路状況もわかりません。しかし,明日の朝まで待って出発するとなると,今度は空港に到着するのがその日の夕方になってしまい,そうなると,結局,そのさらに翌日の便で帰るしかなくなります。こうして,どんどんと帰国が遅れていきます。夜を無駄にするのは効率が悪い気がしてきました。
そこで私は意を決して,今からホテルを出て夜通し700キロを走ることにしました。順調にいけば,おそらく夜明けごろには空港に着けることでしょう。そして,空港でファーストクラスだろうがビジネスクラスだろうが,またまたどの航空会社だろうが,チケットが手に入ればそれで帰ろうと思いました。
オーストラリア大陸の深夜のハイウェイ(片側1車線の一般道路)は真っ暗で,いつカンガルーなどの動物が飛び出してくるか予想がつきません。しかし,私はシカが飛び出してくる日本の深夜の道路は走り慣れているし,一晩くらいの徹夜でも平気です。しかも,アラスカやハワイで深夜の道路を走った経験もあるので,決して無謀でなく,何とかなるという確信がありました。
荷物を詰め込んで,ホテルをチェックアウトして走り出しました。ガソリンは70%くらいありましたが,若干心配でした。途中どこかのガソリンスタンドで補充しようと思いましたが,オーストラリアの田舎でガソリンスタンドが深夜に営業しているのかどうかもわかりませんでした。もし,不足しそうなら,ガス欠になる前にどこかで休憩して夜が明けるのを待とうと思いました。季節は夏です。そして,偶然,眠気防止のための冷たい水はすでに用意してありました。
ホテルを出て,まず,ナラブライでガソリンスタンドを探したのですが,どこも営業を終了していました。仕方がないので少し走っていったら,途中で営業しているガソリンスタンドを見つけたのでガソリンの補充に成功しました。
それにしても長い道のりでした。すれ違うのは時折走っているトレイントラックと呼ばれる貨車を数両連結したコンボイばかりでした。私の走る方向には全く車は追いついて来ませんでした。あたりはずっと真っ暗で,自分の車のヘッドライトが道路に引かれた白線を光り輝かせているのだけを頼りに時速100キロで走り続けました。この世には私の車しかないような感じでした。しかし,非常に走りやすい安全な道路でした。路肩の白線が消えていたり,眩しいだけの市街灯が視野を邪魔するような日本の夜道とは雲泥の差でした。
私は地図ももたず,ひたすらA39をブリスベンと書かれた道路標示だけを頼りにひたすら北向きに走り出して6時間,遠くに街の光がやっと見えてきました。私はその街をブリスベンと勘違いしました。しかしその町はブリスベンよりまだ100キロ手前のトゥーンバ(Toowoomba)でした。トゥーンバをブリスベンと勘違いしていた私は空港を探しているうちに道に迷いました。実はA39はこのトゥーンバで終わり,ここから先ブリスベンまではA2を走らなければならなかったのです。営業していたガソリンスタンドで道を聞いて体制を立て直し,さらに1時間と少し走って,5時過ぎに無事に夜明けの空港にたどり着きました。
レンタカーを返してしまうとあとで必要になったとき困るので,とりあえず空港の駐車場に車を停めてターミナルに入り,カンタス航空のカウンタで案内をしていた恰幅のよいおじさんにチケットは購入できるかと聞くと,購入カウンタを案内してくれました。ここでもまた親切なスタッフがこの日の9時55分のフライトチケットを手際よく発券してくれました。その後レンタカーを返却して,30分遅れで離陸しました。機内は語学留学を終えて帰国する日本の女子中学生でいっぱいでした。
そんなわけで,滞在わずか3日,ホテルで眠ったのが1日だけという今回のオーストラリア旅行は,残念ながらこうして終わりを告げました。そして最短で帰国し,成田からJR を乗り継いで,連絡があった24時間後には,オーストラリア・ナラブライから自宅に帰ることができました。
それにしても空港までの深夜のドライブの途中,ドライブインで休憩したときに見上げた星空の何と美しかったことでしょう! それは今までに見たこともない,途方もなく雄大で,そして,本当に「満天」の星空でした。周りにはローソクの光ひとつさえなく,完全に真っ暗でした。おそらく,私はこのときの星空を一生忘れないことでしょう。それは,こうして帰ることになったがために体験することのできた貴重な経験でした。
◇◇◇
今日の1枚目の写真は2017年6月にオーストラリアで撮影したものです。今回私の見た筆舌に尽くしがたい星空を写真として再現できないのが残念です。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑤
2日目。もったいないほどの快晴になりました。この天気,後までとっておいてほしいくらいですが,予報ではこの先も晴れです。
日本でいうなら今は9月です。お昼間の気温が30度くらいになるのですがちょうど過ごしやすい陽気です。
今日は天文台巡りです。まずは滞在しているナラブライ(Narrabr)にあるポールワイルド電波天文台(Paul Wild Observatory)からです。町から25分ほど行ったところにあります。
ホテルの近くのマクドナルドで朝食をすませて出発しました。道路案内にしたがって走って行くとすぐに郊外になりました。やがて天文台の入口があったので入って行くと,まあ,いるではないですか。カンガルーの群れです。そっと車を走らせると飛び跳ねて去って行くのですが,マヌケなヤツは車の前を横切って行きました。しかし,見れば見るほど奇妙な姿をした生き物です。合理的とは思えませんけれど。今日はこのあと走った道路でずいぶん多くのカンガルーの死体を見ました。車に激突するんです。アラスカやフィンランドではトナカイを,ニュージーランドではウサギを,アメリカや日本ではシカを道路で見かけますが,オーストラリアではそれと同じくらいカンガルーを見かけます。電波天文台,予想したよりずっと広くしかも巨大でした。日本の野辺山の比ではありません。広いというのはすごいことです。次に行くのはクーナバラブラン(Coonabarabran)にある有名なサイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory)です。クーナバラブランはナラブライから120キロなので1時間ちょっとです。オーストラリアの地方の道路はハイウェイといっても片側1車線で,制限時速が100キロから110キロです。時々追越車線があるのもニュージーランドと同じですが,オーストラリアの追い越し車線の面白いのは2車線になったときは車線に引かれた破線が左側に誘導するようになっているのに,追い越し車線がなくなるところでは追い越し車線のほうが優先になるように引かれていることです。
やがてクーナバラブランに着きました。小さなすてきな町でした。
まず観光案内所で地図やパンフレットをもらって係りの人とお話しをしました。この町は星見の里で多くのモーテルに天文台が設置されています。観望会もやっていますが,どこからでも満天の星空が見られそうです。今度来るときはここに泊まろうと思いました。
町から小高い山を登ること20分で天文台に着きました。ここにあるにはオーストラリア最大の4メートル反射望遠鏡です。ガラス越しに見ることができました。さすがに今となっては旧式ですが,この時代の望遠鏡は風格があります。こうしたオーストラリアの小さな町というのは最高です。ゆっくりくつろげます。まず食事がいい。お肉と野菜とパンがパランスよくとれます。物価は高くなくて,というか,オーストラリアドルのレート次第なのですが,1豪ドル80円くらいならずいぶんと安く感じられるものです。私はこのクーナバラブランという町のカーディアンズというレストランで昼食のステーキアンドサラダサンドウィッチなるものを食べました。朝はマクドナルドでパンケーキとコーヒーだったので,野菜が胃にこごち良いです。天気がいいこともあって,窓から外の景色を眺めていると幸せを感じました。
この町も住みたいところになりました。なにせ気候がいいのと星がきれいです。
蒸し暑い夏に寒い冬。黄砂とPM2.5で汚染された霞んだ春。自然が破壊されて人里にクマやらシカがさまよい出てくる秋。渋滞だらけでわかりにくいゴミだらけの道路に狭い公園。休むことも知らず趣味もなく仕事と酒だけの大人と,休みの日まで部活に補習に明け暮れるまるで軍隊のような学校に通う子供たち。真っ黒なリクルートスーツに身を包んで就活をする個性のかけらもない大学生。人だらけ渋滞だらけの観光地。汚れた川やゴミだらけの海岸と灰色の腐ったような夜空。そして狭い国土を痛めつけてどこもかもコンクリートで固めることを国土開発と名付ける政治家たち。そうした日本なんて,さらにどうでもよくなってきました。かつては美しかった,そして私の好きだったこの国をどうかこれ以上壊さないで欲しいものです。
今の日本が素晴らしいという人は,その前にハワイの美しい海岸とオーストラリアの星空とフィンランドの美しいオーロラとカナディアンロッキーの景観とゴミひとつないアメリカの国立公園,そして,人々が自分たちの生活を楽しんで知る姿,そうしたものを見て体験して,それでも本当にそう思うのか判断して欲しいものです。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE④
今回の旅は,昨年の6月に来たバランディーン(Ballandean)にある天文台つきのゲストハウスに5泊して,今度は夏の南半球の星空を見にきたのが目的です。しかし星を見るにはまだ月が明るい(月齢が大きい)ので,5泊滞在する前に,ゲストハウスからさらに南に行って,そこで2泊追加して,いくつかの天文台を見て回ることにしました。
ブリスベン(Brisbane)からシドニー(Sydney)まで約1,000キロメートル,内陸を走る道路A39に沿ってポールワイルド電波天文台(Paul Wild Observatory),サイデンスプリング天文台(Siding Spring Observatory),パークス天文台(CSIRO Parks Radio Telescope)といった世界的に有名な天文台が次々とあるのです。さすがにパークス天文台は遠すぎるので断念して,残りのふたつを見ることにしました。いろいろと考えたあげく,ブリスベンから約600キロメートル先のポールワイルド電波天文台のあるナラブライという町で2泊して,その先のクーナバラブランにあるサイデンスプリング天文台へは2日目に日帰り旅行をしようということにしました。
実はこの到着後早々の長距離のドライブがこの旅の一番の問題で,無事到着できるかが不安でした。なにせオーストラリアは広すぎるのです。どこへ行くにも移動が大変です。実際来てみると,この国自体がこの大きさを持て余しているような気さえしました。
レンタカーを借りたところまではよかったのですが,走りはじめてまず道を間違えました。前回も来ているので軽く考えて高速道路のジャンクションを反対方向に曲がってしまったのが原因です。道路標識の高速道路番号ではなく行き先の地名を優先すべきでした。ということで危うくゴールドコーストへ行きかけてしまったのですが,なんとか修正して立て直すのに1時間ロスしました。その後もイプスウィッチで渋滞に巻き込まれたりしましたが,それを抜けると順調になりました。しかし,問題は郊外になるほど車が走ってないことで,これはかなりの不安でした。おそらく先進国でこれほど人も車もない道を走ることができるのはオーストラリアくらいのものでしょう。
この日は天気がよくなくて,一面曇っていて時折雨が降っていたのですが,夕方になるにつれて回復し,快晴になりました。予定より遅れて午後5時半過ぎにナラブライに着きました。私は勘違いしていたのですが,ニューサウスウェルズは時差が違いしかも夏時間ということで,到着したときは午後6時半でした。ほかに誰も泊まっていないような(実際は満室でしたが)モーテルでした。道を隔てたところにマクドナルドがあったのでテイクアウト(こちらではテイクアウェイといいます)して部屋で荷物の片付けをしながら食べました。なにせ飛行機で食べ過ぎたので今日は食欲がわきません。
食事の後部屋を出ると空には一面星が輝いていました。オリオン座が日本と上下反対の変な形なのがいつ見ても不思議です。東の空には昇って来たばかり(南半球では天の南極を中心に時計周りします)の明るい星がたくさん輝いていて,どういう星座なのだろうかと思ったらそれらは南十字星とケンタウルス座の明るい星々でした。天の川にマゼラン雲と,何度見ても南半球の星空は最高です。ずっと晴れるといいなあ。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE③
香港に着きました。時差は日本より1時間遅くなります。空港はやたらと広く乗り換え便のゲート番号を探す掲示が英語と中国語で頻繁に変わるので探している間にわからなくなって,なかなか探せません。これ作った人かなりアホです。やっとのことでゲート番号を見つけたら偶然私の座席番号と一致していました。
ともかく,まず保安検査場を通り必要があるのですが,そこに大挙して現れたのがインド人の集団でした。彼らはやたらとうるさいし秩序ないし,うんざりしました。中国人の比ではありません。
げんなりして並んでいてふと後ろを振り返ったらひとりの日本人の若い女性がいました。彼女はここで乗り換えてタイへ遊びに行くんだとかいう話でした。彼女は朝早いタイ行きの直行便だったのに,名鉄が不通になってそのために常滑から動けなくなり,やっとの思いでタクシーで着いたときにはすでに予定の飛行機には間に合わず,その場で新たな便を探して,来るはずのなかった香港で乗り換える羽目になったという話でした。えらく余分にお金がかかったと言って怒っていました。
常滑まで行けば何とかなると言われたのにタクシーも来ず間に合わなくなったのに何の補償もしてくれなかったそうです。日本らしいせこい話です。しかし,世界中,どこに来ても日本の女性は元気です。一体男はどうなっているんでしょう。
私は名鉄が不通になってからずいぶんと時間が経ってからだったので余裕があったからよかったものの,事故が起きてすぐは大変だったようです。代替バスもなくタクシーも来なかったようです。やはり名鉄は絶対に信用してはいけません。私も今回はお昼過ぎの便だったからなんとかなったけれど,前回フィンランドへ行ったときのように朝早い便だったらどうなっていたのかと思うと,いつも通り3時間前には空港に着くような余裕がやはり必要だと改めて思ったことでした。
保安検査場を出て,私の次に乗るブリスベン(Brisbane)行きの便の搭乗ゲートは空港の一番端の場所でした。案内に従って歩いて行くと地下鉄の乗り場になって,1分ごとに来る地下鉄に乗り,やっと到着しました。私はアジアの空港なんてはじめて来たのですが,欧米の空港とはえらく違っていて,土産物屋やらキャラクターグッズが並んでいたりして日本みたいでした。人も多いしうるさいしごちゃごちゃしてるし,私の好みではないなあ。
すぐに搭乗の時間になったのでともかく飛行機に乗り込んであとは到着するだけです。それにしても搭乗ゲートを入ったあとでまたひとりずつ手荷物検査をしているなんてどうかしているわ。ここは。
セントレアから香港の便とは異なり,香港からブリスベンへの便の機内は混んでいました。それにしても中国人はよく席を立つしうるさいし,通路で体操しているし,着替えまでしているし,座席にいても落ち着きません。飛行時間が8時間と少しで,その間にまた二度も食事が出ました。もう前の便で夕食食べたのにまた夕食です。一晩に夕食が2回と朝食が1回,これでは食べ過ぎです。
うとうとしていたらなんと2度目の朝食が出てきました。そしていよいよ朝のブリスベンに到着しました。セントレアから成田までの方が一度成田へ行くのが面倒だけど,それでも香港経由よりは楽かも知れんと思ったことでした。次回はどうしよう?
今回の旅は7泊10日なんです。7泊9日ではありません。その謎はいずれまた書くとして,今回は観光というより星を見に行くだけなので,到着後に特に書くことがあまりなさそうです。ということで長々と到着までを3回に分けてレポートしました。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE②
キャセイパシフィック航空ははじめて乗りました。機体はエアバスで,この前に乗ったフィンランド航空と同じでした。飛行機オタクではないので詳しいことはわからないのですが,私はこれまでずいぶんと旅客機に乗って思うのは,どう考えてもボーイングよりもエアバスのほうが快適に感じられることです。その理由というのはわからないのですが。
キャセイパシフィック航空は香港の航空会社です。客室乗務員もほとんどが中国人だし,英語は話すけれど訛りが強くてよく理解できません。というか,まず(中国人だと思われて)中国語で話しかけられるので参りました。機内誌も英語と中国語しか書かれていないので,英語だけがたよりです。ともかくそれ以上に,はじめて乗る航空会社というのは勝手がわからないものです。
セントレアから香港までは3時間と少し,乗り換えてブリスベン(Brisbane)までは8時間程度というのは非常に楽だと思ったので今回はこれを選択しましたのですが…。往復の料金が8万円ほどというのもまた魅力的でした。
名鉄の次の予定変更はフライトでした。香港からの到着が遅れていて,出発時間が30分ほど遅れるという掲示があったのです。しかし,次の乗り換え便が間に合えば待ち時間が少なくなるだけなので問題ありませんでした。香港までの機内は空いていて隣も後ろも空席だったのは助かりました。
飛行機は乗っている時間が9時間を越すといい加減にしてくれと思います。今回は乗り換え時間を含めて到着まで,合計すると15時間ですが,3時間と8時間というように乗っている時間が小分けされるのがいいのです。そしてまた,日本とオーストリアの時差はたったの1時間なので楽なのです。しかし,いつ何回食事が出るのかが疑問でした。事前に調べておけばいいのですけれど,私は楽しみがなくなるのでそんなことはしません。困った性格です。
フィンランドに行ったときは日本人ツアー客ばかりが目立ちましたが,今回はほとんどが中国人でした。
ところで,私は大韓航空というのには乗ったことがありません。都市伝説では機内がキムチくさいとかいう話ですが,実際に乗った人によれば,機内でカップヌードルを食べられるので,辛ラーメンくさくてたまらなかったというのは聞きました。私がこれまで乗った航空会社で最も衝撃的だったのはロシアのエアロフロートでした。
ともかく,私はこの先少しでも長く数多く旅行がしたいのだけれど,行き先はハワイも含めたアメリカ以外にはフィンランド,アイスランド,ニュージーランドの3ランド,それにできればオーストリアとオーストラリアなどなどに絞られてきました。そこで利用する航空会社は,デルタ航空,フィンランド航空,そしてカンタス航空ということになるのでしょう。こうなったらスカイチームに加えて,今後はワンワールド・アライアンスのゴールド会員狙いです。
「将棋世界」を読みながらノイズキャンセリングイヤホンでブラームスを聴いて,機内食を食べていたら香港に到着しました。生まれてはじめての中国大陸です。いやここは香港島なのか?
乗り換え時間は1時間と少し。急がなくては…。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE①
私の場合,というか,これが普通のことなのかしれませんが,旅の予定がその通りにいったためしがありません.しかし,これこそが旅の醍醐味ということでしょうか。人生だって将棋みたいなもので,その時点での最善手を探せばいいだけで,その次のことは相手が指してからまた考えればいいのです。
などということを考えていたら,私が今日(3月の9日)乗るはずだった名鉄の路線が,朝発生したら架線事故で,常滑からセントレア・中部国際空港間が不通というニュースが,藤井六段が師匠の杉本七段に勝利したというニュースを報じているテレビ番組にテロップで流れてきました。もともと私には信頼度0の名鉄とはいえ,これでは予定通りお昼に家を出ては午後4時過ぎのフライトに乗り損ねる懸念があります。なにせセントレアは常滑湾に浮かぶ島。名鉄と有料道路以外に歩いて渡ることができないのです。まあ以前からずっとこんなことがあったときはどうするのだろうと思っていたから,その謎を解く絶好の機会だとも思って,予定を変更してさらに2時間早く家を出ました。
駅に着いて駅員にセントレア行きは不通なんですか? と聞くと,常滑から代替バスが出ているとのことで拍子抜けしました。そんなことはネットのどこにも書かれていないじゃないですか。で,私が先日購入した特急の座席指定券ももっと早い時間にすんなりと変更されて,それで全てが解決しました。もしそうでなかったときはおそらく常滑駅ではタクシーもなかろうから,もっと手前の駅で降りてそこからタクシーを利用するか,あるいは名古屋駅からバスに乗るつもりでした。
途中で降ろされた常滑駅ではテレビ局がニュースの中継をしていました。代替バスにはすぐに乗れて,バスが橋を通るときに見えました! 故障の原因を作った列車が停車しその後ろに無残に垂れさがった架線の姿です。
それにしても私はなんと運がいいのでしょう。これまで台風の直撃で台風の目の中に降りた関西国際空港で足止めになってしまったり,アメリカから成田国際空港に戻ってきて東京駅から乗ろうとした新幹線が車内で自殺騒動を引き起こして不通になってしまったりと,滅多に起きないニュースが発生するときは,いつもそこに居合わせているのです。なんて楽しい限りではないでしょうか。
そんなわけで,出発の4時間も前に空港に着いてしまった私は,自動チェックイン機で搭乗券を手にいてから,ゆっくりと昼食をとり,さらにコーヒーを飲んで,まだまだ時間があるので,ラウンジでこれを書いているわけです。
さて,オーストラリアのブリスベンまでセントレアからは直行便がないのですが,今回は成田国際空港まで行くのも面倒なので見つけ出したキャセイパシフィック航空の香港経由で出発です。はじめて行くことになる香港が楽しみです。
オーストラリアの今は夏,行ったばかりのフィンランドとは気温差が何と50度です。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⓪
気温-25度のフィンランドから帰国して10日,今度は気温25度の夏のオーストラリアへ,南半球の星空を見に行くことにしました。もともとはこちらの方を先に決めていたのですが,そのずいぶんと後になってフィンランドに行くことにしたので,こうしたおかしなことになってしまったわけです。
前回オーストラリアに行ったのが昨年2017年の6月だったので,つい8か月前のことでしたがずいぶん昔のように思われます。そのときオーストラリアは晩秋だったわけですが,すばらしい南半球の星空を見ることができて満足しました。そこで,今回はその続編というわけです。
私の手元に1986年当時の天文雑誌があります。当時はハレー彗星が地球に接近したときでしたが,不幸にも条件が非常に悪く,肉眼では見えないほどでした。それは,ハレー彗星が地球の軌道に来たとき,地球がその反対側にあったためですが,それに加えて北半球は南半球に比べてさらに条件が悪かったので,多くの天文マニアが南半球までハレー彗星を見に出かけました。そこで,当時の天文雑誌には南半球で星を見るという特集が多く載っていました。そのころの私にとれば,南半球なんて遠い世界のことだったのですが,あれから30年以上も経って,こうして南半球に何度も星を見に出かけることができるのが夢のようです。
そして,ついで,と言っては何ですが,海外に出かけるなら,ということで,オーロラを見にいくという記事もそのころの天文雑誌にはたくさんありましたが,それもまた,私は今になって実現することができるのが不思議な気がします。
いずれにしても,オーロラ,そして,南半球の星空,その魅力を知ってしまうと,もういけません。日本で星を見ることも,どこかに観光に出かけることも,そうしたことがすべてど~でもいいことに思えてしまいます。どうやら,禁断の実を食べてしまったようです。どうしましょう?
前回は成田国際空港から直行便でブリスベン(Brisbane)まで行きましたが,名古屋から成田まで戻るのがめんどうなので,今回はセントレア・中部国際空港からはじめてキャセイパシフィック航空を利用して,香港経由で行くことにしました。
◇◇◇
今日の写真は前回行ったときのものです。
2017秋アメリカ旅行記-絶景・ワイメア渓谷③
●太平洋で一番の絶景●
「ワイメア渓谷展望台」の先には「プウ・カペレ展望台」(Pu’u Ka Pele Lookout)があった。この展望台からは角度を変えながらさまざまな表情を見せる渓谷が楽しめた。透明度がよければ,遠くには「ワイポオ滝」(Waipo’o Fall)を見ることもできるという。
さらに進んで,次に「プウ・ヒナヒナ展望台」(Pu’u Hinahina Lookout)があった。ここからはニイハウ島が見えるというニイハウ・ビュー・ポイントがあったのだが,木々に遮断されて何もみえなかった。
さらに登っていくとなんと,今度は打って変わって高原ムードになった。そこが「コケエ州立公園」(Kokee State Park)である。ここは帰りに寄ることにして,私は天気のよいうちに終点の「カララウ展望台」(Kalalau Lookout)に急ぐことにした。途中にアメリカ軍のレーダーの監視台があった。カウアイ島はアメリカ軍の重要な基地でもあるのだ。
「カララウ展望台」に到着した。ここまで登ると標高は1,200メートルである。
「カララウ展望台」からは北に「ナ・パリ・コースト」(Na Pali Coast)の美しい姿を見ることができた。これが今日の1番目の写真である。
「ナ・パリ・コースト」はカウアイ島に残る秘境である。ここは車でアクセスすることができず,行こうとすればフル装備で2泊3日のトレッキングをするしか方法がない。
また,ここには野鳥が保護された場所があって車で中に入れるのだが,私が行ったときはまだ時間が早く,閉まっていた。その点では先に「コケエ州立公園」へ寄って時間を潰してから来たほうがよかったのかもしれないが,そうしたら今度はこの美しい景観を見ることができたかどうかは不明である。
雲さえも眼下に見下ろすこの高台の展望台から足下に広がる太古からの景色はまさに絶景であった。この場所はフラの儀式が行われたり,フラの祭典のあとでここを訪れてフラを奉納するフラ・ハラウがあるなど,フラ・プラクティショナーには神聖な場所でもある。
私が到着したときにはすでに多くの観光客が来ていたが,この景色を見ずしてカウアイ島に来たとは言えないだろう。
「地球の歩き方」によれば,この先は未舗装になるが,さらに1マイル(1.6キロメートル)行くと「プウ・オ・キラ展望台」(Puu O Killa Lookout)があって,ここから先はハイキングコースだと書かれてあった。しかし実際は未舗装でなく,ちゃんと舗装された道路が続いていた。
ハワイの旅ではこの「地球の歩き方」にはずいぶんと助けられたが,オアフ島以外の部分を取り扱っている「ハワイⅡ」の記述には古いところが多くあるから注意が必要である。
舗装されていたので,私は,さらに「プウ・オ・キラ展望台」へ車を進めた。カララウ展望台が最後の展望台だと思って引き返してしまう人がたくさんいるが,こちらが本当の最終展望台である。この「プウ・オ・キラ展望台」からの景色は太平洋で一番の絶景だとも称賛されている。また、この展望台はアラカイ・スワンプへと続く「ピヘア・トレイル」への入り口にもなっている。
私はこの「プウ・オ・キラ展望台」の駐車場に車を停めて,トレイルをしばらく歩いて行った。アメリカの国立公園にはどこもこうしたトレイルがたくさんあるが,どこもゴミひとつなく無用の看板もなく,大変気持ちがよいものだ。このような場所を知ると,日本の山登りなど,まったくやる気もなくなるというものだ。
私はハイキングをする気持ちはなかったので,少しだけ行って引き返すことにした。
◇◇◇
Thank you for coming 222,222+ blog visitors.
2017秋アメリカ旅行記-絶景・ワイメア渓谷②
●ダイヤモンドヘッドの比ではない●
ワイメア渓谷に行くには,私が今走っているように,ワイメアの町からワイメア・キャニオン・ドライブ(Waimea Canyon Road)と呼ばれる州道550と,ワイメアよりさらに西に行ったケカハ(Kekaha)の町からコケエ・ロード(Kokee Road)を北上する方法があるが,このふたつの道路は途中で合流する。
私は行きはワイメア・キャニオン・ドライブで登り,帰りにコケエ・ロードを降ったが,これが正解である。それは,ワイメア・キャニオン・ドライブは見晴らしがよく,コケエ・ロードは眼下にニイハウ島を眺めながら降りることができるからである。
しばらく走って行くと,このふたつの道路の合流地点になった。この先,ワイメア渓谷までいくつかの展望台がある。
まず,合流地点から4マイル(約6キロメートル)走ったところで右に折れる脇道があって,そこを少し走ったところに広い駐車場があった。ここが「ワイメア渓谷展望台」である。「ワイメア渓谷展望台」(Waimea Canyon Lookout)はワイメア州立公園の中に設置された展望台の中でもっとも低いところにあるから,走っていて最初に出会う展望台である。
駐車場に車を停めて外に出ると,少しヒヤッとした。すでに標高は1,000メートルである。駐車場からはわずかな距離だがトレイルがあって,そこを登ると展望台に到着した。この渓谷に向かって張り出すように設置された展望台に立つと,そこはまるで渓谷の中で宙に浮いているような感覚をおぼえるが,ここから自然が造った壮大なアートであるワイメア渓谷の迫力と魅力を味わうことできたのだった。
おそらくこの場所がワイメア渓谷を展望するのに最もふさわしい場所なのであろう。
斜光によって岩肌が立体的に見える朝や夕方の景色が最も美しいと書かれていたので,私は朝食後急いで行ってみたのだが,まさにその通りであった。
ハワイの火山活動はどんどんと東に向かって進んでいるので,ここの景観はもはや火山活動の面影をのこしていない。これがマウイ島やハワイ島との大きな違いである。
ハワイへ行ってきたという友人がいたのなら,このワイメア渓谷に行ってきた? と聞いてあげましょう。ここはオアフ島のダイヤモンドヘッドの比ではないからである
2017秋アメリカ旅行記-絶景・ワイメア渓谷①
●太平洋のグランド・キャニオン●
☆2日目 11月29日(水)
実質3日間なので,今日は島の西側,明日と明後日は東側を観光することにした。幸いなことにこの日は絶好の天気であったが,実は,この旅で天気がよかったのはこの日だけであった。そして,このワンチャンスを十分に生かすことができたのは幸いであった。
カウワイ島の東側で,というよりも,カウアイ島全体でも,もっとも魅力のある見どころが「ワイメア渓谷」である。ここは狭いカウアイ島とは思えないほどの雄大な景色が広がっているのだ。
カウアイ島に来たからには,ともかくここに行く必要がある。
「太平洋のグランド・キャニオン」。
1800年代を代表するアメリカの作家マーク・トウェインによってそう表現されたのが「ワイメア渓谷」(Waimea Canyon State Park)である。「ワイメア」というのはハワイ語で「赤い水」という意味をもつ。この深い渓谷は全長16キロメートル,奥行き1.6キロメートル,深さ1,000メートル以上で,太平洋で最大の規模を誇り,赤い土の混ざった水はゆっくりと渓谷を縫うように流れている。
ハワイ諸島は何千フィートもの地底にある太平洋プレートの活動から起きた噴火によって誕生したが,その最古の島がカウアイ島である。約5万年前の溶岩流の流れでできたワイアレアレ山の頂からの水流と洪水が大地を浸食し,約400万年前には火山島の一部が崩壊した。その崩壊の一部に沿ってできあがったハワイ諸島最古で最大のこの渓谷である。
途方もなく長い時間で何度も起きた噴火と洪水によって堆積した火山灰と溶岩流で,ワイメアの壮大な断層は作られた。緑に覆われた山がぱっくりと口を開けたように割れ,人類誕生以前から堆積された地層の重なりが赤茶けたさまざまな色合いを見せるむき出しになった断層なのである。
「ワイメア渓谷」に行くには,昨日ホテルに向かうときに行き過ぎてしまった州道50のハナペペからさらに西に走ってワイメアという町で右折して山のほうへ向かっていくことになる。そこで私は昨日走った道路を今度は逆方向に,まずはハナペペに向かった。
ホテルには朝食がないので,まずは朝食である。
このカウアイ島にもマクドナルドが数店舗ある。安価に朝食をとるにはマクドナルドは最高であるから,私は事前にその場所を調べたら,ハナペペに存在したので,途中でそこに寄ることにした。この日は私のお気に入りのパンケーキにしたのだが,実は,ハワイのマクドドナルドでしか食べられないメニューがあることに気がついた。このことはまた後日書くことにする。
朝食を済ませ,ワイメアの町でワイメア渓谷と書かれた道路標示にしたがって右折し,州道550というハワイに多くある片側1車線の美しい道路を走っていった。
こうした観光地は道路も空いているし,ゴミもまったく捨てられていないし,しかも,武骨な看板やさび付いたガードレール,さらには,汚い道路やらはげたような通行線が引かれたまったく快適でない日本の道路とは違って,快適なドライブを楽しむことができる。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島⑥
●おいしくなかった「ポイプドッグ」●
今回の旅は4泊6日であった。
近頃,急にひとり旅をすることが寂しくなってきた。歳のせいであろう。そしてまた,旅は4泊6日くらいがいいと思うようになってもきた。そのくらいだとふらっと国内を旅行するのとそう違いはないし,持ち物が少なくていい。カバンも機内持ち込みくらいのほうが楽でいい。
私はこれまでにいろんなところに出かけたが,結局,自然がいい。人間の作ったものはどうでもいい。さらにいえば,自然も地球よりも空のほうがいい。だから,星のきれいな,あるいはオーロラの見られる大自然のなかでゆっくりしたい。それが私の結論である。
カウアイ島に到着したのが午後2時30分ごろで,それから道に迷ったあげく奇しくも「コーヒーカンパニー」に寄ることができて,その後でホテルに着いてチェックインを済ませた。あとは夕食をとるだけであった。
4泊6日とはいえ,最終日は帰るだけだから,あすからわずか3日間の観光である。事前に調べたところでは狭いカウアイ島は3日もあれば十分である。
どのようなところか知りたくて来てみたカウアイ島であったが,この島は星が美しい,と書いてあるものが皆無であった。それはおそらく天気があまりよくないことが理由なのであろう。
あとでまた書くが,この島もまた狭いのにもかかわらず,ハワイ島と同じように,場所によって天気が非常に違い,コロコロと変わるのだ。
夕食にはまだ時間があったので,ホテルの近場をドライブすることにした。とりあえず行きたかったのは「ツリー・トンネル」(Tree Tunnel)であった。
「地球の歩き方」に「ポイプに宿を取り島の各地へ出かけるときのお楽しみ」と書かれてあったので,私はまずそこに行きたくなった。そこで,ポイプからコロアを経由して州道50を北上して,わざわさ行ってみることにしたのだった。
まず,途中のコロアの町で車を停めて少し散策した。コロアは1830年代の昔からある歴史ある町なのだ。1980年代までの古い小さな建物が多いのだが,実は1982年にカウアイ島を襲ったハリケーン・イワによって被害を受けたことをきっかけにして,1950年代の古き良き時代の町並みを蘇らせて復興させたのが現在のオールド・コロア・タウンである。
ここはその昔さとうきびプランテーションをハワイではじめて行い,一時代を築いたところである。当時は日本からの移民も多かったので,この町にも浄土寺というお寺があった。
このときの私の目的はコロアの散策ではなくその先の「ツリー・トンネル」だったから,コロアの散策は適当に切り上げて再び車に乗って州道50を走っていった。
ポイプを出たときは晴れていたのだが,州道50を走っていくうちに雨が降り出した。そして,その雨がかなり強くなってきた。「地球の歩き方」にも書いてあったように,カウワイ島では,天気が悪くてもポイプだけは晴れているのだという。まさにその通りであった。
州道50の「ツリー・トンネル」付近は時速25マイル(40キロメートル)制限だと書かれていたが,実際はそうではなく,カーブをそのスピードで曲がれという標示であった。
しかし,このときわざわざ「ツリー・トンネル」に行かなかくても,この滞在ではこの先毎日この道路を通ることになった。
カウアイ島で私が最も不快だったのは,この島の天候の悪さとともに,車の運転であった。
この島の道路は制限速度が異常に厳しくて,頻繁にそれが変わる。しかも,その指定速度というのが日本の道路のように,無理な遅さなのであった。これまでアメリカの多くの道路をドライブして私はそんなことを感じたことがなかった。そしてまた,日本の道路のように,ほとんどの車がそんな遅い制限速度を無視してかなりのスピードで走っていく。私がスピード制限を守ってチンタラ走っていても,さすがに日本にように後ろから煽られるということはなかったが,それでもずいぶんとストレスを感じた。つまり,この島はドライブをしていてもまったく楽しくないのだった。
「ツリー・トンネル」を過ぎたところで満足して,ホテルに戻って夕食をとることにした。
ホテルから道路を隔てたところに大きなモールがあって,そこにはレストランもあった。このモールには閉店したままのコーヒーショップもあって,栄えているとは言いがたかった。そのなかに一件ホットドッグショップがあったので,この日の夕食はそこで「ポイプドッグ」とやらを食べることにした。しかし,まったくおいしくなかった。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島⑤
●最もハワイらしいビーチ●
私が,安ければいい泊れればいいということで予約をした「Kiahuna Plantation」は巨大なリゾート施設で,18ある建物から3室の建物までのバンガローが合計で42棟建てられているところであった。ある情報では,ここは「Outrigger Resort」と「Castle Resorts & Hotels」というふたつの会社で運営されているらしくて,受付が敷地の両端に別々に存在している。
全てのバンガローが海に面しているわけではなくて,ビーチフロント,オーシャンビュー,パーシャルオーシャンビュー,ガーデンビューパラダイス,ガーデンビューデラックス,ガーデンビューと値段によって分けらている。私の泊まった最も安価なガーデンビューはベランダからきれいな芝生が広がっていたが,海を見るには遠い場所であった。
ここは長期滞在型のファミリー向けの施設で,部屋にはキッチン,冷蔵庫,アイロン,ボディーボードまであったのだが,私にはすべてがまったく不要のものであった。
海岸まではリゾートのなかを歩いていくことができて,プライベートビーチもあった。ビーチタオルの貸し出しもしてくれるのだが,私は泳ぐ気はなかったのでそれも無駄であった。ただし,ここのビーチは波が高く砂浜が狭い。しかし,ビーチにはたくさんのチェアーが用意されていたので,そこに座って海を眺めるのには最高の場所であったし,こんなことができるハワイのビーチを私は他に知らない。
そんなわけで,このホテルは安価にリゾートを滞在する気分のまねごとができるところであった。ただし,気にいらなかったのは部屋のクリーニングサービスがなく,タオルも変えてくれないことであった。しかも,そのくせチェックインのときに宿泊代金以外に部屋のクリーニング代(結構高価)をさらに取られたことである。こんなことははじめてであった。
この古びたリゾートホテルを気にいってリピーターとなっている日本の人もいるらしく,「ワイキキのホテルと比べるとほんとうにお得感があります」という書き込みがあったが,そもそも私はワイキキビーチとは無縁なので,これが正論なのかはよくわからない。ハワイでの過ごし方はひとそれぞれであるが,こんなホテルで満足していてはハワイ通とはいえないであろう。私にはハワイ島ヒロのアーロンコテッジのほうがずっといい。
いずれにせよカウアイ島のよさというのは,ハワイ島やマウイ島にはない,こうしたのんひりとしたプライベートビーチを楽しむことができることであろう。その点ではオアフ島のワイキキビーチは問題外である。ニューヨークはアメリカでない,とか,東京は日本でない,という人がいるように,ワイキキビーチはハワイではない。
このビーチこそがもっともハワイらしいビーチであるともいえる。そしてまた,ここはハワイ島のカイルアコナともまた違った魅力のあるところであった。
2017秋アメリカ旅行記-今度はカウアイ島④
●年代物のリゾートホテル●
私が予約したのは「Castle Kiahuna Plantation & Beach Bungalows」というところであった。
ハワイは泊まるところを探すのが結構大変なのである。アメリカ本土であれば,いわゆる「モーテル」を探せば,安価宿泊ができるのだが,観光地であるハワイはリゾートホテルが多く,わたしのようなひとり旅のものが手軽に宿泊できるようなモーテルがない。というか,なかなかみつからない。
私はともかく寝られてシャワーさえあればいいのだからと,適当に値段の安いところを探すのだがそれがなかなか難しいのだ。なにしろどこも高い。
そんなこんなでなんとか探し出して予約したのがここであった。
結論をいうと,ここは少し古臭いリゾートホテルというかコンドミニアムであった。部屋で自炊もできた。それでもこのホテルは結構快適であったのだが,最大の欠点はテレビであった。 これもまた,すでに書いたように,アメリカのテレビの多くはケーブルテレビで,ケーブルテレビ用のチューナーがあったり,リモコンがふたつあったりして操作方法が今ひとつよくわからない。しかも,この部屋のテレビは同じ操作をしても電源が入ったり入らなかったりしたので,テレビを見るだけで大騒動であった。
話を少しもどそう。
カウアイ・コーヒー・カンパニーを出て,そのまま州道540を進み,再び州道50に戻ったとき,私はカウアイ島の地理をすでに把握していて,今度は間違えずラワイ(Lawai)で右折して州道530に入った。このまま進めばコロア(Koloa)というオールドタウンに行き,そこからポイプ・ロード(Poipu Rd)を進むとロータリーがあって,ロータリーで進路を左,つまり東に変えてさらにポイプ・ロードを進んでいくと左手にリゾートエリアが見えてきた。
私が泊まるのは「Castle Kiahuna Plantation」なのだが,間違えてそのひとつ手前の「Grand Hyatt Kauai Resort」に入ってしまい,行き止まりで引き返して,次の入口を見つけた。
「Castle Kiahuna Plantation」もまたやたらと広く,敷地のどこにビジターセンターがあるのかさっぱりわからなかったが(こういうところにほとんど標示がないのがアメリカだが),それでもなんとか見つけてチェックインをした。
私の部屋は2階建ての建物の2階の一番右側であった。車を駐車場に停めて部屋に入った。写真のように私ひとりでは広すぎる部屋で,窓の外には遠くに海岸が見えて,まさにリゾートであった。
ここはおそらく数十年前にはかなり高級なリゾートホテルであっただろうが,さすがに年代が経ってしまい,こうして私のような客を受け入れるようになったのだろう,と思われるところであった。
「星好きの三大願望」-続・個人旅行でオーロラを見る方法
☆ミミミ
1月1日のブログに「今年もオーロラを見よう」と書いて,早くも実現しちゃいましたが,こうして私は昨年の8月に続いて半年に2度もオーロラを見ることができました。
オーロラ,皆既日食,南半球の星座を見る… この「星好きの三大願望」はそのどれも敷居が高く,なかなか実現できるものではありません。天文雑誌にもツアーが載っていますからそれに参加するのが最も容易な方法でしょうが,決して安いものではないし,一般のツアーの場合も同様ですが,そうして高額の参加費を払って出かけても,あくまで天気次第なのです。
私も,そのすべてを実現した今になって,改めてその困難さを思い知り,自分の強運に感謝しました。
今日はそのなかで再びオーロラについて書きます。
私は今から30年以上前の冬,ヨーロッパ旅行に向かう旅客機の窓からオーロラを見て以来,一度は地上からも見てみたいものだとずっと思ってはいたのですが,なかなかその機会がありませんでした。しかし,私のいい加減な性格から何事も真剣に調べる気もありませんでした。
時間と余裕ができたので,ともかく一度行ってみてから改めて考えようと,夏のアラスカに出かけて,たった1日の晴れ間に偶然オーロラを見ることができました。しかし,それで満足できたのではなくて,逆にオーロラに魅了されてしまったわけです。
そしてまた行ってみようと考えたのですが,再び行くとなると,アラスカは遠いのです。しかも,私の行った夏ならともかく,冬のアラスカは,お昼間にすることがほとんどありません。アラスカ行きの一般のオーロラツアーではチナ・ホットスプリングスリゾートというところで観察するのですが,大したところでもないリゾートの宿舎なのにそこに滞在するツアーは非常に高く,宿泊を安価なフェアバンクスのホテルにしてそこから日帰りでリゾートに出かけるものは,フェアバンクスからの移動距離が遠く大変です。しかも,アラスカまではチャーター便を利用しないと一旦シアトルまで行かねばならないので,そこからさらにアラスカまで行くのにはすごく時間がかかります。ただし,アラスカの利点は冬の晴天率が高いことです。
そこで,今回私はフィンランドのロヴァニエミに出かけたのですが,ロヴァニエミはお昼間に出かけることができる見どころが多く,街もきれいでお店も多く,することがたくさんあって退屈しませんでした。ロヴァニエミはオーロラ抜きでも滞在していて楽しい街なのです。しかも日本からヘルシンキまで直行便があるので近く,料金も安く,ツアーに参加しなくても,個人で航空券を購入して簡単に行くことができます。ロバニエミの街中にはオーロラツアーを取り扱っている旅行社がたくさんあるので,オーロラを見にいくにはお薦めです。
ただし,私は晴れたからよかったのですが,調べてみると,どうも晴天率がそれほど高くはないようです。そこで,ロヴァニエミでオーロラを見たければ,少なくとも4日くらいは連続でオーロラを見る機会を作るような計画にするべきでしょう。気温はマイナス20度以下になるのですが,防寒具さえあれば問題ありません。
私がまだ行ったことのない場所で,これ以外に個人旅行でオーロラを見にいくのに適した場所としては,カナダのイエローナイフとアイスランドがあります。さらに,スウェーデンのキールナとノルウェーのトロムソがありますが,スウェーデンやノルウェーはフィンランドに行くことに比べれば直行便がないので乗り換える必要があり,しかも晴天率が高くないので,オーロラ目的なら行くのをやめた方がいいと私は思います。なかでも北極圏にあるトロムソは冬も暖かく美しい街ですが,降水量が非常に高いのです。
その点,イエローナイフはかなりよさそうです。天候が安定していて晴天率も高いです。ただし,ものすごく寒いですし,お昼間にすることがあまりありません。
アイスランドは首都のレイキャビック市内でもオーロラを見ることができるということなので,かなり魅力的ですし,観光をするにも見どころが多く,しかも,冬の気温も暖かで,オーロラを見るには最も条件がよさそうです。今月発売された天文雑誌には40万円近い値段のアイスランドオーロラツアーの広告がありましたが,レイキャビックまではヘルシンキを経由してレイキャビックまで行くフィンランド航空のフライトが往復で13万円ほどです。冬も暖かで雪の心配もないから現地でレンタカーを借りればどこにも自由に移動できるので,そんな高額のツアーなどに参加せずとももっと安価に個人でオーロラを楽しむことができそうです。私の次に行く第一候補です。
一度は見ておこうと思っていたオーロラでしたが,一度見たら,一度どころか,これ以上素晴らしいものが地球上にあるのだろうか? とさえ思うようになって,私はすっかりオーロラの虜になってしまいました。もはや,世界遺産も大都市の夜景も,私にはど~でもいいのです。ということで,私はおそらく近いうちにまた,イエローナイフやアイスランドに出かけることになるのでしょう。
今日のブログの写真ですが,1番目のものには流れ星が写っています。
ちなみに,地球上でオーロラを見ることができる「オーロラべルト」と呼ばれる地帯は,磁極の北極が地軸の北極とはずれていてグリーンランドの北の端にあってその周囲に存在するので,「オーロラべルト」はアラスカでは緯度が低く,スカンジナビアでは緯度が高い場所になります。したがって,アラスカのフェアバンクスは北極圏よりも200キロも南にあり,ロバニエミは北極圏ということになるのです。
◇◇◇
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法①
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法②
「星好きの三大願望」-個人旅行でオーロラを見る方法③
2018年がやってきた①-今年もオーロラを見よう。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE⑧-ロヴァニエミ
自然はとても大きいって それが得意のフレーズ
人間が狭い輪っかの中で傷つけあうのを 静かに観てる
大空 広い大空 いつかカメラマンになって
こいつに近づくと 目を輝かせてた
・・
自然はやはりすてきだ だけと不安がひとつ
もっと大きなものが撮りたくなって 俺はどこまで 行けばいいのか
オーロラ それはオーロラ 地球も夢を見るんだ
こいつがそうだと 目を輝かせてた
さだまさし「極光(オーロラ)」
・・・・・・
はじめて行ったフィンランド・ロヴァニエミは本当にすばらしいところでした。
数日前には「現地で何をすればいいのでしょうか?」と書いたのに,今では住みたくなってしまった街でした。
幸い,美しい最大級のオーロラも見ることができました。
帰国の際に立ち寄ったヘルシンキの国際空港はアジアからヨーロッパに行くときのハブ空港なので,今や,アメリカの空港では見ることのほとんどなくなった日本人観光客もたくさん見かけましたが,その多くは,ちょうどそういう時期だったのでしょうが,卒業旅行の女子大学生たちでした。その中にはひとり旅も多く,頼もしく思いました。しかし,それにしても,男子大学生は皆無でした。この国の将来はやはり危ういです。
私には,女子大学生たちは,これで学生生活とも「決別」なのだという哀愁を感じました。日本という,実質は未だ依然男尊女卑の国で,彼女たちは,この先いくら能力があっても,「おもてなし」と言いながら実は人から金を巻き上げることが目的の企業に入社して,飾りもののような存在となるか,あるいは遅くまで残業をさせられ,飲み会で芸をさせられるだけの社会人となっていくのでしょうか。
そして,そのほかには,相も変わらぬツアー旅行の年配の女性たち。その多くは,私がニュージーランドやハワイの星空観察ツアーで出会ったような,オリオン座も南十字星もわからない人たちでしょう。彼女たちは地中海に行こうとイタリアで史跡を見ようとスイスアルプスに出かけようと,結局は,日頃テレビのワイドショーを見ては将棋も相撲も興味がなかったのに藤井聡太くんや貴乃花の理事選挙に熱中し,ブランド品に身を包んでデパート巡りをしたり,雑誌に載ったレストランでランチをしたり,テレビの旅行番組でやっていたとおりに黒部渓谷や京都をツアー旅行をしているのと同じで,まったく主体性もなく,絵葉書と同じ景色を見,雑誌に書いてあるように観光し,必要もない土産物を買って,現地の食事に不満を示し,やはり日本がいいと言って帰国するのです。
たくましい卒業旅行の女性たちが将来,そうした姿にならないことを祈ります。
それにしても,この時期は中国の旧正月と重なってしまい,今や世界中に生息するあの集団に,フィンランドでもまた,やりきれない思いをしました。どうして彼らはどこでも大声を出し,譲ることを知らず,ああもマナーが悪いのでしょう。最終日の朝は旧正月も終わり,彼らの帰国したホテルの,朝食をとったレストランの前日までとはまるで違う静寂な雰囲気が衝撃的でした。
今度来るときは中国の旧正月休みの時期を外して,大好きになったフィンランドの,また新たな魅力をゆっくりと発見したいと思います。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE⑦-ロヴァニエミ
予想通り,この晩はまったく晴れませんでした。私は3日連続でオーロアツアーに参加して,見ることができたのが2日,そのうちの1日が最高の条件でした。他の参加者のなかには,最高の日だけ参加した人もいれば,この晩のようにまったく見ることができない人もいて,なんだか人生の縮図のような感じでした。いつも書いているように,運というのはやはり自分で掴みにいくもののようです。この日私が感動したのは帰りのバスからロヴァニエミ発ヘルシンキ行きの寝台特急が走っている姿を見ることができたことです。先日,テレビの「世界の村で発見!こんなところに日本人」という番組で,榊原郁恵さんがフィンランド・ウツヨキに住む日本人女性に会いに行くというのをやっていて,その番組で榊原郁恵さんが乗ったのがその寝台特急だったのです。私も今度来るときは乗ってみたいものだと思いました。ロヴァニエミ・ヘルシンキ間は11時間,大雪原を電車が駆け抜けます。
5日目。帰国の日です。
ロヴァニエミからのフライトは午後2時10分。ホテルのチェックアウトが12時で,ホテルに空港までのシャトルバスがフライトの1時間10分前に来るということだったので,チェックアウトのときにカバンを預けて,それまで近くを散歩しました。この日は異常に暖かくマイナス9度でした。
シャトルバスの乗り場がわかりません。というのも,公共バスのバス停をそのまま利用していて,シャトルバスという標示がなかったからです。何度も聞いて,ここに間違いがないと確信しても不安でした。やがて無事にバスが来て,街中のホテルを巡回して空港に向かいました。1時間ほど前にピックアップして間に合うというのが小さな街だからこその話です。空港でチェックインして飛行機に乗り込み,順調にヘルシンキに到着したのですが,イタリアがなんと9年ぶりの大雪とかで,接続する便の到着が遅れていて,予定より2時間遅れてヘルシンキを離陸しました。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE⑥-ロヴァニエミ
お昼間は快晴で雲ひとつなく,天気予報では夜も快晴だったのですが,どういうわけか夕刻から曇ってしまい,昨晩とは違って現地に到着してもオーロラが見られませんでした。ただし,昨日も参加した連日の観察組はすっかり満足状態だったので,小屋でのんびりと飲み物を楽しみながら雑談していました。
そのうちにどうにか天気が回復したらしく,みなさん,小屋から出ていきました。私はこの日は木々を入れたり,人物を入れたりした写真を写すのを楽しみました。
残念ながら昨日のような大きなオーロラは見えませんでしたが,こうして2晩連続でオーロラを見ることはできました。
さて,4日目。最終日です。
今晩もオーロラ観察ツアーに参加するのですが,この日は朝から天気がよくありません。そのかわりとても暖かで,わずか!マイナス9度。気温もマイナス15度以下になると手袋やらマフラーが必需品になりますが,このくらいの気温だと手袋もマフラーも必要なく,厚手のオーバーオールさえあれば問題ありません。
こちらに来るまでどんな服装をすればいいのか,どれほど寒いのかというのが最も心配だったのですが,実際に体験してとてもよくわかりました。ひとことで言えば,大したことはありません。
車で遠出でもすればもっと行動範囲は広がるのでしょうが,今回はそれができないので,4日目ともなるとお昼間に行くところもたいしてありませんでした。私はロヴァニエミに来てみて,この町なら住みたいなあと思ったのですが,実際に住んでみればそれは日常になるわけで,そのときは,空調の効いた快適な室内で朝から外に出ないでシベリウスの音楽を聴きながら読書三昧を楽しむことでしょう。ここはそうした生活がとても似合う落ち着いた町なのです。
そこで今日は再びサンタクロース村に行ってみることにしました。2日目に行ったときは様子がわからなかったのですが,その後にいろいろと情報を手に入れたので,また行ってみたくなったからです。目的はサンタクロース村の出発点として1951年,フランクリン・ルーズベルト大統領の夫人エレノア・ルーズベルトさんが視察に訪れたときに建てた小屋を見ることと,サンタクロースと写真を写すことでした。
ともに目的を果たし,案内所のあたりをぶらぶらしていると,フィンランドに留学しているという日本の女性たちがいました。100日以上滞在しているというのに,オーロラを見たことがないということでした。オーストラリアに留学しても満天の星空を見たことがないという学生もいるし,いったい何をしに来ているのでしょう?
北極圏のラインをまたいで写真を撮っている観光客もたくさんいたのですが,どうやらラインをはさんでどちらが北なのかわかっていないらしく,ラインの南側でポーズを取っている人がほとんどなのもまた滑稽な話でした。
サンタクロース村から帰って,オーロラツアーの集合時間まで近くのカフェでケーキを食べてコーヒーを飲んでいると,一昨日,昨日とオーロラツアーで一緒だっだ大学生の女性2人と出会ったので,一緒にロバニエミ教会まで歩いて行って,その帰りにマクドナルドで夕食をとりました。この2013年まで世界最北端であったマクドナルドでは店員さんに記念のカードをもらうことができるということだったので,それを手にいれました。
その後,オーロラツアーの集合場所に行きました。しかし,どうららこの日オーロラは絶望的なようでした。
特別編・2018冬フィンランド旅行LIVE⑤-ロヴァニエミ
モイモイツアーの参加者は約20人ほどで,サンタホテルのロビーに集合して,バスに乗って約30キロメートルほどロヴァニエミから北西に行ったところにあるソンカ湖の南の湖畔から北の空に広がる湖の上のオーロラを観察します。観察する凍った湖の近くには小屋があって,そこは暖かく,飲み物とクッキー,それにソーセージが用意されています。隣の小屋にはトイレもあります。オーロラが出ていれば観察し,そうでないときは小屋で休息できるというわけです。
この日は快晴で,すでに到着する前のバスからオーロラが見えていて,いやが上にもテンションが高まりました。現地に到着して休むまもなく観察がはじまったころにオーロラは最大級となり,北の地平線から天頂にかけて一面,オーロラが広がったのです。帰りの時間までずっとそんな調子だったので,休む間もなくでオーロラを見ることができました。
深夜1時前にはホテルに戻りました。
こうしてわたしは人生3度目のオーロラを見ることができましたが,今回が最も素晴らしいオーロラでした。
翌3日目。
すでに2日目に主だった見どころには行ってしまったので,3日目はラヌア動物園に行くことにしました。ラヌア動物園はロバヴァニエミからバスで1時間以上南に行ったところにあるのです。行き方としてはバスターミナルから長距離バスに乗るのですが,あいにくこの日は土曜日で,そのバスというのがなんと朝の1便しかなかったのです。幸い私がターミナルに着いたときはそのバスの時間の30分ほど前だったので間に合って,そにバスの時間までとなりの鉄道の駅まで行ってくることにしました。
ロヴァニエミの鉄道の駅からは1日に数本,ヘルシンキ行きの電車もあります。私が着いたときはちょうど北に向かう電車がホームに止まっていました。次に来るときはぜひ電車に乗るぞ,と決意しました。
ところで,バスが1本しかないということだったので帰りのバスがなかったらどうしようかと心配したのですが,バスの時間が近づくと,結構多くの人が子供を連れていかにも動物園に行くと行った風情で集まって来たので安心しました。やがてバスが来たので乗り込みました。乗るときに運転手さんに帰りのバスがあることを聞いたので,安心して乗り込みました。動物園は雪深い周回ルートを1時間くらいコースを歩くとシロクマやムースなどがいました。しかし,私が一番興味深かったのはバスの車内から見た風景でした。
動物園で昼食をとり,帰りのバスに乗りました。
帰りに近くのスーパーマーケットで夕食のお寿司を買って帰りました。昨日のように別に外出しなくても安いお金で同じ食事ができます。ホテルに戻ってお寿司を食べてから少し休憩して,この日も再びオーロラツアーに参加しました。