このブログの冒頭に書かれている
・・・・・・
Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.
・・・・・・
というのはフランス語で,フランス人ジャン・コクトー (Jean Cocteau)の言葉です。
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We only regret what we did not do in life.
・・
人生において人はしなかったことだけを後悔する。
・・・・・・
という意味です。
ジャン・コクトーは,詩,小説,戯曲と文学の主要なジャンルで活躍しただけでなく,映画監督や画家としても作品を残しました。ただし,コクトー自身は,自分を詩人と定義していました。コクトーは,ダダやシュルレアリスムの影響があったと考えられていますが,自分自身は直接そうした運動には参加せず,むしろ対立も多い芸術家でした。
人は日々の生活に追われ,何かをしたいと思ってもなかなかそうしたことを実現する余裕がないものです。しかし,自分の生活を見つめ直すと,する気になれば,案外とそうしたことを実現することはできるもので,結局は,踏み出すかどうか,ということなのです。できない人,しない人の多くはいつも言い訳ばかりをしています。
旅に出ると,実際にそうした「何かをしている」人に出会うことができるので,私も刺激を受けます。そうした人たちと話をすると,「何かをする」ことが実現できた人とそうでない人の違いというのは,はじめの一歩を踏み出す勇気があるかないかの違いだなあと,しみじみ感じます。
私も,これまでもそうであったように,これからも後悔のない日々を過ごしたい。そして,人生の最後に「ああ,楽しかった!」と思いたい。これが私の願いです。
April 2018
「不屈の棋士」-人は人工知能といかに関わるか?
講談社現代新書「不屈の棋士」を読みました。
子供のころ将棋に夢中になっていたとき,将棋に関する本をたくさん読みましたが,今は「見る将」オンリーで,こういったものはまった手に取ることもなくなりました。しかし,「将棋世界」のような雑誌は,私には暇つぶしになるので,海外旅行に出かけて長い時間飛行機に乗るときの読み物として重宝しています。
…ということで,この本もまったく関心がなかったのですが,おもしろいよという人がいたので読んでみました。
内容は,
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羽生善治二冠は将棋ソフトより強いのか。渡辺明棋王はなぜ叡王戦(コンピュータと対戦する棋士を選ぶ棋戦)に出ないのか? 最強集団・将棋連盟を揺るがせた「衝撃」の出来事,電王戦(コンピュータ相手の将棋対局)で将棋ソフト「ポナンザ」に屈した棋士の「告白」とは? 気鋭の観戦記者が「将棋指し=棋士」11人にロングインタビューを敢行。プロとしての覚悟と意地,将来の不安と葛藤…。現状に強い危機感を抱き,未来を真剣に模索する棋士たちの「実像」に迫った。
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というものです。いわれたとおりとても興味深い本でした。
この本が出版されたのは2016年7月なので,まだ1年と少し前なのですが,しかし,今読むと,もう,内容が古いのです。出版された当時は,棋士がコンピュータに勝てなくなったり,スマホを利用した不正疑惑など,将棋界は将棋のコンピュータソフトとどう向き合うかが大問題でした。しかし,時の人・藤井聡太六段の出現で,その状況が一変してしまいました。将棋界は将棋ソフトとの共存がとてもうまくいくようになって,ふたたび脚光を浴びはじめました。
結局,幸運も手伝って「知らない=恐れ」から脱却し利用できるようになったわけですが,将棋に限らず,人類は新しい技術が出現すると,対峙し,格闘し,その結果,それをうまく取り入れていったのです。つまり,新しい技術を活用する柔軟性が必要なのです。そしてまた,いつの時代も,それに拒否反応を示す頑固な,あるいは,プライドだけが高く,新しい技術を活用する能力のない人たちが時代から取り残されていくわけです。
そのことと関連して,私がとても興味を覚えたのは,この本で著者がインタビューをした棋士のなかで,将棋ソフトに否定的な見解を語った渡辺明棋王や行方尚史八段が,その後の成績が振るわず,今や不振を極めていることです。このことこそがまさにそれを象徴しています。
将棋ソフトの能力が人間を越えた,ということを対岸の火事のように捉えている人も多いのですが,このことは将棋に留まることではないのです。将棋というのはあくまで対象のひとつでしかなく,実は人工知能の発達がこの先どう人間と関わっていくかというのがこの本の隠れた本題なのです。
ここ数年の人工知能の驚異的な発達は,知らないうちにこれまでの常識を覆そうとしているのですが,多くの人はそのことをまだ認識していません。なかでも,全く変わっていないのが学校教育です。もう数年もすれば,自動翻訳など当たり前の時代になることでしょう。ドリル学習などやっているなら学校など要らないのです。そんな時代に,未だに50年も前の語学教育と同じことをしているようでは大変なことになってしまうのに,教師はそれを認識していません。将棋の棋士の危機感のその何十分の一,いや何百分の一すらも,そうした危機感を教師がもっていないことのほうが,私には問題に思えますけれど。
2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ②
●「カウアイ博物館」●
朝食をとったあと,昨日行くことができなかった「カウアイ博物館」に行った。昨日,博物館は9時30分には開いているよ,と言われたのだが,「地球の歩き方」には10時とあった。私は10時少し前に行ったのだが,すでに開いていた。
リフエの町の中心にある「カウアイ博物館」,この建物はリフエの町を走るライス・ストリート沿いに建っている。
この博物館は,溶岩とコンクリート,レンガからなる独特の建造物で,1979年ハワイ州立史跡のリストに追加されたアメリカ国立史跡である。
もともとは1900年に牧師モーティマー・リーゲイト(John Mortimer Lydgate)によってリフエに設立された教会の一部であった。教会の設立後,しばらくはビジネスマンで政治家でもあったアルバルト・スペンサー・ウィルコックス(Albert Spencer Wilcox)の未亡人が資金調達のサポートをして,パブリック・ライブラリーとして開放していた。
1924年,ウィルコックス未亡人の寄付金によって建築家ハート・ウッド(Hart Wood)設計のもとライスストリートに建造された新しいライブラリーはウィルコックスに敬意を表して「アルバート・スペンサー・ウィルコックス・メモリアル・ビルディング」と命名される。そして,全ての蔵書はこの新しい「アルバート・スペンサー・ウィルコックス・メモリアル・ビルディング」に移行されることとなった。
その後,ジュリエット・ライス・ウィックマン(Juliet Rice Wichman)が筆頭となっての働きかけで,ライブラリー「ウィルコックス館」の隣にミュージアム「ライス館」を建立し,1960年12月3日に正式に博物館として一般公開された。そして,1969年にハワイ州政府が新しいライブラリーを建てたことで,1970年ライブラリーであったウィルコックス館とミュージアムのライス館をひとつの建物としてつなげて,現在の形の博物館になった。
そこで,今でも旧館の入り口にはうっすらながら「アルバート・スペンサー・ウィルコックス・メモリアル・ビルディング」と彫られているのが見えるというわけだ。
「ウィルコックス館」には古代ハワイの暮らしと当時のカウアイの文化的遺産を展示しており,「ライス館」にはカウアイ島の歴史を知る展示がされている。また,この博物館は,ハワイ島の地層,歴史,古代ハワイ先住民の生活,アーティスト,彫刻家,職人のさまざまな作品を展示するギャラリーにもなっているが,特に,カウアイ島,ニイハウ島の職人の手によるすばらしい文化遺産コレクションは「本物」を見ることができる良い機会となっている。
「カウアイの物語り」(The Story Of Kauai)という常設コーナーと並行して臨時の展示も頻繁に開催されるという話である。
そもそも博物館というのは使われなくなったがらくた置き場なのだと思うが,こういうものをちゃんとリスペクトして,しかもバカ丁寧なガイド付きで鑑賞できるというのがアメリカの余裕である。ここは小さな博物館であったが,私はここに2時間も滞在してしまった。
2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ①
●今日もマクドナルドで飯を食べる。●
☆4日目 12月1日(金)
どんなところだろうと来てみただけの短期間のカウアイ島であったが,3日間の観光でおおよそどんなところかよくわかった。2日目を除いて天気がよくなかったのが残念だったが,この島はハワイではもっとも降水量が多いからいつもこうなのであろう。
明日は帰国なので,今日が観光の最終日であった。午前中は昨日閉館間際で結局行くことができなかったリフエの「カウアイ博物館」に再び行くことにした。
私の宿泊しているポイプからリフエまで行く間に少し遠まわりして,「カラパキビーチ」(kalapaki Beach)を通ることにした。ここにはアンカーコーブショッピングセンター(Anchor Cove Shopping Center)やハーバーモール(Harbor Mall)といったさまざまな商業施設がある繁華街である。
「カラパキビーチ」のあるナウィリウィリ港はカウアイ島の玄関口であるリフエ空港から車で5分ほどの場所にあるから,私はリフエから宿泊していたホテルのあるポイプへ行くまでに何度もここを通過した。ここは豪華なクルーズ客船が出入りをする港であり,私の通ったときもたびたび停泊していたけれど,他のハワイの港と比べるととてものんびりとしたローカルな雰囲気が漂っていた。ナウィリウィリというのは地名である。
また,このナウィリウィリ港の近くにはマリオットホテルがあって,ホテルの目の前がビーチとなっているから,そのビーチは一見マリオットホテルのプライベートビーチのように見えるのだが,ここは「カラパキビーチ」というパブリックビーチで,地元ハワイの人たちにはかなり人気のビーチとして知られている。
ビーチの前には緑豊かな芝生が敷かれていて,たくさんのボートが置かれている。また,ホテルとビーチの間にはきれいな遊歩道が整備されていて,カラパキビーチ沿いを散歩するには楽しいところである。
ビーチ自体はさほど透明度は高くはないが,遠浅すぎず波が高すぎるわけでもないので,ビーチアクティビティを楽しむのにはとても最適な環境であるという。
また,カラパキビーチに到るカラパキベイは深い湾になっていて,サーファーが次々に海に入ってサーフィンを楽しんでいる姿を見ることもできる。
私はここにあるショッピングセンターの駐車場に停めてあれこれ見て回ったが,さほどおもしろいものがあるわけでもなく,また,レストランもあるにはあったが,そこで何か特別なものが食べられるわけでもなかったので,結局,ここで朝食をとろうと思っていたが断念して,今日もまたリフエの町にあるマクドナルドで朝食をとることした。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト⑦
●「あと1分なんですが…」●
「シダの洞窟」観光は予想以上に楽しかった。帰りの遊覧船もまたハワイアンミュージックのライブ演奏がすてきだった。そうこうするうちに,再び遊覧船は船着き場に戻ってきた。
私はこの3か月前(わずか3か月前!)にアラスカ州のフェアバンクスで外輪船クルーズを楽しんだが,それと雰囲気が少し似ていたので -とはいっても外輪船クルーズのほうがずっと大きな船であったが- イメージがごちゃごちゃになりかかっていた。どうもこのごろ,ふと思い出す風景がどこのものだったのかがわからなくなりつつある。どうやらいろんなところに行き過ぎたようだ。
この遊覧船ツアーは,アラスカのクルーズと比べたらずっとスケールは小さかったけれど,たいして観光施設のないカウアイ島では,まあ,一番の見どころには違いない。逆に言えば,カウアイ島はそれくらいなにもないところではある。
ホテルに帰る前に,リフエの中心にある「カウアイ博物館」に寄ることにした。この博物館はリフエの官庁街にある。博物館のまわりには広い駐車場があったのだが,それは博物館だけの駐車場ではなく,そのあたりの官庁街に来る人共通のところであったので,どこに停めたらいいのかとてもわかりにくかった。というよりも,実際はどこに停めてもよいのであった。
車を停めて博物館に入った。
このときまで時間をあまり気にしていなかったのだが,結論をいうと,私がこの博物館に入ったのは閉館わずか1分前のことであった。
受付で入館料を払おうとすると「閉館まであと1分ですが…」と恐縮して言われた。そして「明日来られた方が…」と付け加えらた。私はそのときはじめて時間を知ってびっくりして,明日来ることにして博物館を出た。
駐車場に向かって歩いていくと,ちょうど博物館の裏のスタッフの出口から,先ほど応対してくれた係員が帰るのに出会った。
私が感動したのはまさにこのことであった。博物館の職員もまた,閉館時間は勤務時間の終了をも意味していて,1分の残業もせず,こうして帰路に着くところだったのである。これは何とまあすてきなことではないか。それに比べて,日本の,あの,異常なブラックさはなんであろうか。私は,世界を旅するたびに,日本人のあまりのクレージーさに嫌気がさしてくるのである。日本はやはり変な国である。
というわけで,博物館は明日また来ることにしてホテルに戻った。
ホテルから道路を隔てた場所にあるいつものモールで食事をとろうと入っていくと,ちょうどハワイアンの生演奏が終わる寸前であった。慌てて写真を写したのでぶれぶれになってしまった。こんなところで生演奏をしているとは驚きであったし残念なことをした。こんなことなら博物館に寄らないでもう少し早くホテルに戻ればよかった,と後悔したのだった。
この日の夕食はモールにあったレストランで,ちょっぴり贅沢してサラダとお寿司を食べた。
東海道を歩く-ついに念願の最大の難所・鈴鹿峠を行く。⑤
関宿は三重県亀山市にある旧東海道47番目の宿場です。現在も当時の宿場の古い町並みが残されているところです。
この場所は古代から交通の要衝であって,壬申の乱!のころにはすでに「伊勢鈴鹿の関」が置かれていました。江戸時代も東の追分からは伊勢別街道,西の追分からは大和街道が分岐するといった活気ある宿場町でした。
宿場の名前は「伊勢鈴鹿の関」に由来するわけですが,現在に続くこの美しい関宿の町並みは,天正年間(16世紀末)に伊勢国領主で戦国武将であった関盛信が領内の道路を改修したことにはじまり,慶長6年(1601年)に徳川家康が行った宿駅制度によって東海道の宿場となってから本格的に整備されたものです。
近年,旧東海道の宿場の大半が旧態をとどめないなかで,関宿は江戸時代当時の宿場の賑わいを彷彿させる街並みが残されていたことから,町並み保存の機運が次第に高まり,1980年(昭和55年)に地元有志を中心に「町並み保存会」が結成され,「関町関宿伝統的建造物群保存条例」が制定されました。
条例制定以降は多くの町家を伝統的建造物として保存と修復がなされ,1984年(昭和59年)には,関宿の面積25ヘクタールにおよぶ地区を対象に国の「重要伝統的建造物保存地区」に選定され,さらに1986年(昭和61年)には歴史性と親愛性を基準に「東海道の宿場町・関宿」として「日本の道100選」にも選ばれました。
午後5時を過ぎていたので関宿にあるお店はほとんど閉まっていましたが,JR関駅に近い場所にあった「アールグレイ」という紅茶のお店が開いていたので入りました。
偶然入ったこのお店は昔の家屋をそのままリフォームしたものだそうで,とてもすばらしい店内でした。イギリスムード満点で,それがまたこの宿場町に似合っていて,満ちたりた時間を過ごすことができました。
夕食とはいいがたかったのですが,注文したシフォンケーキとフルーツとアイスクリームが紅茶とよくあって,その甘みが歩き通した私の胃にとてもマッチしました。
窓から見た外の景色もまた,かなり遠くに来たような錯覚を覚えて,この充実した一日の最高の締めくくりとなりました。
鈴鹿峠をもって,私は旧東海道の難所といわれる場所をすべて,たとえ下り坂だろうと軟弱だといわれようと,とにかく歩き通しました。
この後に歩こうと思っていた土山宿から水口宿のほうへ下るコースは,今回のコースに比べたらあまり魅力がなさそう,というか,こちらは鈴鹿峠ではなく,私の歩く目的からもはずれるので,実行する気持ちは失せました。しかし,旧東海道では,これまでに歩いたところ以外にどこか歩いてみたいと思うところも今は思い当たりません。それほど,今回のコースは魅力的でした。
車のない時代,人はこの道を歩くしかなかったのです。そして,そこから歴史が生まれ文学が生まれたのです。これこそが日本の文化です。この道を自らの足で歩いたこともない日本史や古典を教える先生の話なんて聞かないほういいと,正直私は思ったことでした。
すっかり満足した私は,JR関駅で帰りの電車を待ちました。この駅から1駅先の亀山駅まで行って,そこで名古屋駅行きに乗り換えて帰路に着きました。JR関駅もまた,旅情満点で,遠くから近づいてくる電車が哀愁をさらに高めました。
帰宅後,次回からは中山道を目指そうとふと思い立ちました。夢はまだまだ続きます。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト⑥
●ハワイの王族たちに想いを馳せる地●
「シダの洞窟」(Fern Grotto)は,カウアイ島の観光地といえばここというくらいの定番有名スポットである。その名の通り,シダで覆い尽くされた洞窟へ遊覧船で見にいく人気のツアー,ということであったのだが,遊覧船の乗り場には出船の30分前になってもほとんど人がいなかった。
植物園で昼食を食べられなかった私は,しかたがないので,この乗り場にあった売店でしょ~もないパンと飲み物を買って,飢えをしのいだ。そして,本当に船は出船するのだろうか? と心配しながら乗船時間が来るまでぼ~っとすごしていた。
ところがどうであろう。遊覧船の乗船時間が近づいたら,どこにいたのかというくらいの観光客が現れたのだ。そのなかには,添乗員に連れられたカップルの日本人も2組ほどいた。現地ツアーにこの遊覧船観光が入っているようだった。
船に乗り込むと,船内ではハワイアンの生演奏がはじまって,いやが上にもムードが盛り上がってきた。ハワイではレストランやモールなどでもこうしたハワイアンミュージックのナマ演奏を聴くことができるが,これが流れると,これぞハワイ,ハワイに来てよかった,とテンションが高くなるのである。
船はポンポンポンと音を鳴らしながら,いかにものんびりとした雰囲気でマリーナから出港した。
ワイルア川一帯の説明とともに,フラとハワイアン・ミュージックがライブで流れている。濃厚な緑で縁取られたワイルアの川とその周辺の景色の中をゆったりとしたスピードで遊覧船は進んでいき,なかなかいいムードであった。
やがて船が船着き場に到着し,我々は次々に下船した。この船着き場から先は,短いトレッキング・ロードを歩いてシダの洞窟へ向かうのである。緑濃いトレッキング・ロードは軽い森林浴というよりも,ミニ・ジャングル浴といったところであった。
5分ほど歩いて着いた先には観覧用のデッキが造られていた。そこからシダで覆われた洞窟を見ることができるのだが,単に緑で覆われた茂みにしか思えないところであった。
洞窟を見ている間に,再びライブでハワイアン・ミュージックが演奏された。ゆるやかな音楽を耳にしながら,その昔,ここで結婚の儀式や宴を行ったハワイの王族たちに想いを馳せてみるという趣向になっているわけだ。乗客のひとりだった背の低い女性がしゃしゃり出てきて一緒に歌を歌ったのだが,それがまあすごく上手であった。これが演出なのかハプニングなのかはわからなかった。
ちなみに,かつてシダの洞窟は身分の高い人だけが結婚の儀式やルアウ(ハワイアン・スタイルの宴)を開くことが出来たといわれ,今でこそカウアイを代表するウエディングスポットとして多くのウエディングカップルを送りだしているが,その昔は誰もが行ける場所ではなかったという。
カップルで来た人は,ここで熱いキスを交わすのである。
「青空」はもはや死語-濁った夜空で何をしようか?③
☆☆☆☆☆☆
年末に望遠鏡の改良をして,望遠鏡を稼働するための12ボルトの電源をモバイルバッテリーから取れるようにしたので,その動作確認がしたかったのですが,なかなかその機会がありませんでした。
というのも,1月はずっと天気が悪く,2月はフィンランドへ行き,3月はオーストラリアに行き,というように,新月をはさんだ時期に星を見にいくことができなかったからです。さらに,11等星よりも明るい彗星がひとつもないという,まったくモチベーションが上がらない状況も手伝いました。
これまでずっと天気がよくない毎日だったのに,このところ急に毎日快晴が続いています。高気圧が日本の上空にあって,気圧線がおむすび型になるという,まったく雲のできない理想的な気象配置になったのです。そこで,久しぶりに星見に出かけました。
少し早く到着しすぎて,まだ日の入りにはずいぶん時間がありました。そこで海岸まで行って夕日が海に沈むのを見ようと思いました。海に沈むのを楽しみに夕日を眺めていると,霞んでいて遠くの景色が見えなかったのですが,海の向こうに陸地があって,太陽が海ではなく山陰に沈んで行くのでがっかりしました。
しかし,この写真を見てもわかるように,海に映える美しい夕日というより,空が濁っているので,太陽の光が鈍く汚いのです。私はこれを見ていて,ハワイ島に行ったときにクルーズ船から見た海に沈む美しかった夕日が懐かしくなってきました。
観測場所に戻りました。やがて,空が暗くなって星が見えてきましたが,その状況を見て,私は,さらに絶望感にさいなまれました。なんとひどい夜空なのでしょう。まわりには人口の光がないのに,一面霧がかかったかのような灰色の夜空には数えるほどの星しか見えません。
テレビの天気予報で「明日は晴れるので青空が見えますよ」というアナウンスがされるのですが,この国では青空なんて今やどこにも見えないのです。見えるのは薄い水色をしたような濁った空なのです。
オーストラリアに出かけると,晴れていればお昼間の空は真っ青です。そして,太陽が沈み星が見えるようになると,真っ暗な夜空に満天の星空が浮かび上がります。そんな星空を知ってしまった今の私は,もう,この日本の夜空には絶望感しか浮かびません。
この日もそのような状況だったのですが,ともかく,望遠鏡の動作確認を兼ねて写真を写すことにしました。
この時期はしし座やおとめ座という,天の川からもっとも離れた場所が南の空にくるので,系外銀河がたくさん写せるはずです。たいした期待もせず,それらを写すことにしました。
今日の1番目の写真は系外星雲ではなく散開星団M48です。この星団はこれまでに一度写したことがあるのですが,出来栄えがいまいちだったので,再び写したものです。しかし,球状星団と違って散開星団は望遠レンズで写してもつまらないものです。
2番目から4番目までの写真が系外星雲で,順に,M49,M64,NGC4725です。そして,5番目の写真がおとめ座の銀河団を写したものです。おとめ座あたりは1枚の写真のなかに非常に多くの系外銀河を写すことができるのですが,構図を決めるのが難しいのです。これまでにも何度か挑戦したのですが,なかなかうまくいきませんでした。やっとよい構図を見つけることができるようになってきました。
空が汚くても,今のカメラは優秀で11等星くらいの系外星雲がこれくらい写るのですね。しかし,写真をコンピュータで加工してこれ以上の出来にするような気力は私にはありません。もともとの空が悪すぎてこれを加工するには時間がもったいないのです。
このように,残念ながら,私は日本の夜空に美しい星々を求めるのは無理だという結論になっているので,今回のような天体は写さず,彗星だけを狙おうと思っているのですが,明るい彗星が近づかないのでは致し方ありません。
それにしても,何なのでしょうねえ,この汚い夜空は…。しかし,これは夜空に限らないことです。お昼間に町を走っていても,廃墟と化した潰れた旅館やらガソリンスタンドやらが目につきます。街中は空き家ばかりだし,道路もがたがただしゴミだらけだし,私にはこの国全体がゴミだめのようにしか思えません。先日歩いた旧東海道の関宿もまた,保存された町並みはともかく,そこに至るまでの道路は,廃業したドライブインや無残に捨てられたゴミの山でした。
そうそう,動作確認の結果です。
私が海外に持っていく最新型のポータブル赤道儀は,ビクセンの「ポラリエ」もサイトロンの「ナノトラッカー」も,5ボルトで稼働しUSB接続ができるので,改良をせずともそのままモバイルバッテリーが使えて便利です。しかし,私の普段使っている望遠鏡はかなり古いもので,12ボルトの電源が必要ですしUSBも使えません。そこで,出力が5ボルトのモバイルバッテリーから12ボルトに変換して取り出して,さらにUSBで接続できるように改良したわけです。こうして「アンカー」のモバイルバッテリーで望遠鏡を稼働させることは思った以上にうまくいったので,これからは重たい電源を持ち運ぶ必要がなくなりました。
しかし,この望遠鏡を十分に活躍させる肝心の星空がないのです。
☆ミミミ
春の星座は泣いている-濁った夜空で何をしようか?①
この美しさは一瞬だけのこと-濁った夜空で何をしようか?②
「1日1断捨離」を目指して⑫-「アンカー」なるもののよさ
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト⑤
●昼間に行くところじゃなかった植物園●
「シダの洞窟」に行く遊覧船の乗り場に着いて早々,午後2時30分の遊覧船の予約をした。午前とは違って,平常に運行しているようであった。しかし,まだずいぶんと時間があったから,私はその乗り場のさらに向こう(西側)にある植物園に行くことにした。植物園の中はきっとレストランくらいあるだろうから,そこで昼食でも,と思った。
この植物園を「トロピカル・パラダイス」という。1940年代後半にシダの洞窟への観光ボートツアーをはじめたのがウォルター・スミス夫妻であるが,以来,スミス・ファミリーはワイルア川を拠点に4世代に渡ってカウアイ島で最も有名なこの観光を催行してきた。その観光の一環としてこの庭園も存在するのだが,この時間は営業中であるにもかかわらず,ほどんと客はいなかった。
庭園は3エーカー(約12万平方メートル=野球場1個分)もあって,庭園内ではハワイ式エンターテイメントショーである「ガーデンルアウ」が行われる。ルアウとはハワイ伝統の宴会を意味し,そのハイライトは丸焼きにした豚を地中から取り出す「イム・セレモニー」である。カウアイ島では,この植物園で開催される「スミス・ファミリー・ガーデン・ルアウ」(Smith Family Garden Luau)が有名ということだ。
ワイルア川流域はポリネシアからやってきた人々が安住の地とした歴史ある場所であり,川をさかのぼった先には王族だけが結婚式を挙げることができたという「シダの洞窟」があるのだが,この地をスミス一家は4世代にわたって管理していて,このルアウ・ショーやシダの洞窟へのボートツアーを催行しているわけだ。そのために,この場所で今も伝統的なルアウ・ショーを見ることができるのであった。
植物園の中に入ると,園内にはポリネシア村やフィリピン村,果実園,ハイビスカス園,日本庭園などがあった。しかし,ルアウでにぎわうのは夕暮れ以降のことなのである。要するに,ここはこんなお昼間に行くところでなかったということなのだ。私の希望に反して,この庭園の中には売店ひとつなかった。
以下,調べたことを書く。当然私は体験していない。
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夕暮れになると,イム・セレモニーがはじまる。厳かにほら貝の音が響き渡り,地中の蒸したブタを掘り起こす作業がはじまる。このブタはカルア・ピッグという伝統料理となってビュッフェに並ぶので参加者は全員味わうことができる。このほかには,タロイモをすり潰して発酵させたポイやマリネのようなロミロミ・サーモンなどローカルなメニューも豊富である。
食後は屋外劇場のラグーン・ステージに移動する。松明の火がひとつ,ふたつと灯り,森に包まれたステージが幻想的なムードに変わっていく。ショーはタヒチ,サモア,ニュージーランドといったポリネシア各国のダンスだけでなく,中国や日本など広く太平洋の国々の歌やダンスも盛り込まれていているのだという。
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「スティーヴ」を見た?-オーロラの謎の発光現象
☆☆☆☆☆☆
4月12日に放送されたNHKBSプレミアム「コズミックフロント☆ネクストは「市民科学の最前線・謎の発光現象”スティーヴ”」,つまり,話題は「スティーヴ」(steeve)でした。
「スティーヴ」というのは,
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カナダのアルバータ州上空で謎の発光現象が目撃された。天頂を東西に横切る紫色の細い光の筋だ。いつも突然現れ,30分ほどで消える光。実は専門家でさえも理解できない現象だった。オーロラ愛好家が科学者の調査に協力。観測写真をSNS上にアップすることで,発光現象の不思議な特徴が次々と明らかになってきた。
アニメ映画に出てくる正体不明の物体にちなんで「スティーヴ」と名付けられた謎の発光現象。その正体に迫る!
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というものです。
オーロラはいつかは見たいものナンバーワンであり,オーロラネタは多くの人に興味があるので,このテーマが取り上げられたのでしょう。私もこのところオーロラに夢中になっているので,特に楽しく見ることができました。
この「スティーヴ」というのは天頂に昇る光の帯で,オーロラと同じような場所でオーロラが出るように見られるのですが,とても珍しい現象で,その存在はこれまで知られていなかったということです。しかし,定義があいまいで,番組を見ていても,どういうものなのかは写真から推測するしかありませんでした。私が今年の2月にフィンランドのロヴァニエミに行ってオーロラを見て写真を写したときの1枚に,今日の写真のようなものが写っていました。テレビを見ていて驚いたのですが,これって,この「スティーヴ」なのでしょうか? 番組に出てきた写真を見る限り,同類に思えます。
この番組は非常におもしろく,また,いつもためになるのですが,今回の話題は,正直いって,見ていても何を伝えたいのかあまりよくわかりませんでしたし,何がホットな話題なのかも今ひとつピンときませんでした。
結局のところ,「スティーヴ」というのは超高温超高速のイオンの粒子が光っているものだろう,しかし,それ以上のことはこれからの研究をまたなければわからない,というのが結論でした。つまり「スティーヴ」という現象を紹介しただけのようなものだったので,1時間も費やすような内容の深みはありませんでした。おそらく番組を作った人もネタ不足はわかっているのでしょう。だから,何やらいろんな別の話題をてんこ盛りにして時間をもたせただけのように私は感じました。
番組のなかでは,オーロラ発生の仕組みも解説されていましたが,この最も知りたい肝心なことは逆に端折り過ぎていてほとんど理解できませんでした。
多くの人に関心のあるオーロラに関する番組は数多くあれど,その多くは旅番組で,この場所でオーロラが見えたよ,みたいなものばかりです。観光客に来てもらいたいから,その場所ではどのくらいの確率でオーロラが見られるかという一番知りたい情報を正しく伝えてくれるものすらほとんどありません。また,オーロラについてきちんと解説されたような番組もまたほとんどないのが残念です。
オーロラを見たい,見にいきたいという人はとても多いので,そうした人に役立つ骨のある番組を期待したいものです。
「銀河鉄道の父」-賢治の父が思う息子の「さいわい」
直木賞を受賞した「銀河鉄道の父」を読みました。著者は門井慶喜さんです。
題名だけを知ったとき,この本はなにかのパロディかあるいは「銀河鉄道の夜」を題材にした推理小説なのかと思ったのですが,宮澤賢治の父の話と知って,興味をもちました。どんなにこの作品がすぐれていても,題材が宮澤賢治でなかったら,400ページを超える小説を読む気力は今の私にはありません。
あらすじは次のとおりです。
・・・・・・
宮澤賢治は祖父の代から続く富裕な質屋に生まれた。家を継ぐべき長男だったが,賢治は学問の道を進み,理想を求め,創作に情熱を注いだ。勤勉,優秀な商人であり,地元の熱心な篤志家でもあった父・政次郎は,この息子にどう接するべきか,苦悩した―。
生涯夢を追い続けた賢治と,父でありすぎた父政次郎との対立と慈愛の月日。
この物語では,賢治が頼りなくて,病弱で,かと思えばハマったものにはとことん異常なまでに熱中してしまうという,かなり変人で困った息子,という姿でえがかれる。
・・・・・・
この本を読みながら,私は小学校のとき,担任の先生に「雨ニモマケズ」を暗唱させられたことを思い出しました。私には宮澤賢治という人の印象はずっとそれだけでした。それが急に変わったのは南半球で満天の星空を見てからでした。今の私にとって,賢治は「銀河鉄道の夜」であり,南天の星座をより魅力的にしてくれる存在なのです。
この有史以来ずっと貧しかった日本という国は,食べるだけでも大変だったので,そのために人生は耐えることであるという美学が生まれました。その後豊かになり消費は美徳といわれるようになったので,今や世代による価値感がまったく異なります。生きてきた社会も受けてきた教育も違うのです。したがって,父親の世代に最も大切だったものが子供の世代にはどうでもよいことになってしまっています。父親は早くそれを悟って,自分の価値観をさっさと放棄すれば家庭は平和で子供もしあわせなものを,父親が自分の価値観を子供に押しつけることから多くの悲劇が生れます。
子供にとって父親というのは経済的な支えと精神的な支えという両面をもつ存在です。父親にその両方があれば理想なのでしょうが,このように,親と子の価値観が違うので,父親に精神的な支えを求めることが困難です。せめて経済的な支えさえあれば救いがありますが,それすらなかなか難しいのが現状です。そういう意味で,賢治の父親は経済的な支えがあったから救いがあるのです。
賢治は,おそらく,父親からみたらほとほと困った息子だったのでしょう。この小説でえがかれる賢治の父にもあの時代の父親のもつ頑固さを垣間見ることができるのですが,この父親は、それ以上に賢治をかわいがってつい甘やかしてしまうのです。しかし,それは賢治には精神的な支えとならずとも,自分の人生を邪魔されないという消極的な救いとなっています。
このように,この本は賢治の父親をえがいているようにみえるのですが,実際は賢治の伝記です。賢治の幼少期のエピソードや,青年期の法華経への入信,そして,家を出て東京に住み零細出版社で働いたり,花巻に舞い戻って農学校教師になったり,さらに,それも辞めてひとりで芸術と農業のコミュニティを作ろうとしたり… という賢治の人生の軌跡が捉えられています。また,どの時代にも共通の,女たちの,男のかげにかくれているようで,実はけなげに家を裏から支えているといった存在感もよくえがかれています。
残念だったのは,この本には賢治の愛した星空のことがまるで書かれていなかったことです。私にはそれが残念でした。私にとっての宮澤賢治は,南半球で見る星空を何倍も魅力的にする存在だからです。しかし,それを求めることは,私が大切にする「宮澤賢治・星の図誌」という本にゆだねるとしましょう。
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「銀河鉄道の夜」-宮澤賢治の語る美しき南天の星空とは?
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト④
●伝説の地・オバエカア滝●
カウアイ島一の見どころである「シダの洞窟」に行く朝9時30分の遊覧船に乗ろうと,私は朝一番に乗り場に行ったのだが,前日の晩に強く雨が降ったために川の水量が増して,しかも風が強く,遊覧船が運航されるかどうかわからないということだったので,一旦乗り場を出て,ノースコーストの観光に行ったということをすでに書いた。
幸い天気も回復したので,おそらくは大丈夫だろうと,午後2時30分の遊覧船に乗るために,「シダの洞窟」に行く遊覧船の乗り場に再び戻ることにした。
遊覧船の乗り場はワイルア川の南岸にあるが,川の北側の岸に沿ってはクアモアロード(Kuamoo Rd)が山のほうに向かって走っており,それを進むと「オパエカワ滝」(Opaeka'a Falls)に行くことができる。まだ遊覧船の時間には早かったので,その前に寄り道をして,「オパエカワ滝」に行ってみることにした。
海岸線を走る州道56を右折してクアモオ・ロードをワイアレアレ山に向かって5分ほど走っていくと,右側に駐車場完備の展望台が見えてきたので車を停めた。車を降りてさらに1分ほど歩くと右前方に「オパエカア滝」(Opaekaa Falls)が見えてきた。この滝はワイポオ滝,ハナカピアイ滝,ワイルア滝,シークレット滝と並んでカウアイ島を代表する滝のひとつである。整備された道をさらに歩いていくと目の前に美しい滝が広がった。
滝の名前の「オパエカア」というのはローリング・シュリンプ(くるまエビ)という意味のハワイ語である。滝に注ぎ込む小川の水と滝つぼに豊富なエビがぎっしりだったことからつけられた名である。ワイアレアレ山を背景に美しく神々しい自然美を見せるこの滝はたくさんの映画やテレビ撮影などに使用されている。
道の向こう側はワイルア川がゆったりと流れる風景を一望できる展望台となっていて,川沿いには古代ハワイの居住空間をレプリカした「カモキラ・ヴィレッジ」の一部も見えた。そこには,たおやかに流れるワイルア川,わらぶき屋根が並ぶ古代ハワイの村,それらを囲むどこまでも続く熱帯雨林の森が連なっているが,この「アリイ(王)の土地」といわれたワイルアの昔の風景はとりわけすばらしかった。
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昔,ワイルアの山側に巨人がいて,彼が大きな足で歩くとその跡が真っ平らな平地になったという。その平地になった跡地に島人たちはバナナの木を植えた。あるいは,放浪の巨人がいて,彼の歩いた跡地がタロイモ畑になったという説もある。
あるとき,島の尊長が島人たちにヘイアウを造るようにと指令を出した。島人たちは仕事で忙しかったものの,巨人が手伝うよと申し出てズンズンと歩いて平地を造ったため,たったの2週間で立派なヘイアウが完成したと伝えられる。巨人に感謝し喜んだ島人たちは宴を開いて祝いをし,その宴で食べ過ぎてしまった巨人が眠りに落ちそのまま起きてこなかったのだそうだ。
それ以降,カウアイ島に侵略を試みる軍がいると聞くと,この巨人の背後にかがり火をたいてそのシルエットを夜空に浮かび上がらせた。巨人のシルエットを見た侵略軍はその大きさにひるんでカウアイ島への侵略を考え直すだろうという試みだった。その巨人の名は「ヌヌイ」と呼ばれていた。
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2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト③
●この町の楽しみ方がわからない。●
「シダの洞窟」へ行く遊覧船乗り場に行く前に通るたびに気になっていたイーストコーストにあるの「オールド・カパア・タウン」(Old Kapaa Town)に立ち寄った。ここはもっともカウアイ島らしい雰囲気に出会える,まさにノスタルジック・タウン,こういう町こそがハワイなのである。
カウアイ島では,一番にぎやかな町がカパアであり,その北の端っこにある一角が「オールド・カパア・タウン」と呼ばれる商店街で,ここには昔からの建物を利用した店が軒を並べ,古き良きハワイの町並みを楽しむことができる観光客にはまさにノスタルジックスポットとなっている。
この町もまた,ほかのハワイのオールドタウンと同様に,道路沿いの駐車帯に車を停めて,歩いて道に沿って作られた多くの土産物屋やらレストランを散策することができるようになっていた。幸い,駐車スペースがけっこうあったので,私も車を停めて外に出た。
では,この町の有名な店についていくつか書いておこう。
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「ジャバ・カイ」(JAVAKAI),「ポノ・マーケット」(Pono Market)などは朝早くからオープンしていて,通勤前の人たちが朝食をピックアップする姿が多く見られる。また行列のできる店である「カントリー・キッチン」(Country Kitchen),「カフェ・ヘミングウエイ」(CAFE Hemingway)などもこの一画にある。
町を一周すれば,カウアイ・テイストいっぱいの衣食住アイテムが売られている「ザ・ルーツ」(The Roots),「ワーク・イット・アウト」(Work It Out)などがある。また,若者に人気のブティックにはカウアイ・カジュアルがライン・アップされている。
月に一度,第1土曜日には「オールド・カパア・アート・ウォーク」(Old Kapaa Town Art Walk)なるものが開催される。それはカウアイ島のローカル・アイテムが一堂に集う楽しいイベント・ナイトである。
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カウワイ島のこのあたりは,マウイ島でいえばパイアのようなところであった。しかし,私は,パイアに行ったとき同様,残念ながら,こうした町を楽しむ術を知らない。
なにせ,レストランに入ったところで食べたいものもないし,土産物屋に入ったところで欲しいものもない。さらには,この町だけでなくハワイにたくさんあるギャラリーではどんな絵を見たところで,そのよさが私にはわからないのだからどうにもならない。アクセサリーや水着などは女性でないからはじめから無縁の世界である。
これでは,せっかくハワイに来たところで,そのよさの多くの部分がわからないということになってしまうであろう。
ただし,私が唯一,こうした町で興味をもつのは,今日の4番目の写真の「オノ・ファミリー・レストラン」のような,日系人が経営していると思われる店名が多く目につくことである。
そんなわけで,町を歩いているとその雰囲気は楽しいのだが,だからといって店に入るということにはならなかった。
だから,私はそんな町の雑踏をはずれて,海岸に行ってみた。あいにくこの日はそれほど天気がよかったわけでなかったが,やはり,ここは太平洋のど真ん中である。海岸からの景色は最高だった。そんな海岸を歩いていて,私はひとりの男が木陰で居眠りをしている姿を見つけた。
日本で生活をしていると,だれもがせせこましく行動をしていて「何もしない」という最高の幸福を知らないし,忘れている。あるいは,罪悪感をもつ。なにせ,幼児期のころから,時間に追われる生活をするように訓練されているのだから仕方がない。手帳をもたない大人 -いや学生のころからすでにそうだろう- を私は,私以外に知らない。
しかし,こうして海外に出かけてみると,どうやら,そうした日本人の行動は,日本だけの異常なものであって,それは,本当に人間らしい行動であり,人間の本質なのだろうか? といつも疑問に思うのである。
東海道を歩く-ついに念願の最大の難所・鈴鹿峠を行く。④
土山宿を出ると,鈴鹿峠は,まず比較的広い道を下り,国道1号線の高架下の階段を降りると,今度は狭い急坂を下ることになるのですが,それを過ぎると,次第になだらかになっていって,道路も一般の舗装道路になりました。そのあたりが坂下宿だったのですが,そこは何の風情もない田舎の自動車道と道に沿った民家でした。
途中にあった鈴鹿峠自然の家という昔の学校を利用した青少年の宿泊研修施設には天文台があったので,このあたりは星がきれいなところなのかな? とも思ったのですが,今や私は日本の夜空には失望しているので興味はありませんでした。そしてまた,そのあたりの民家は空き家だらけでした。
坂下宿を過ぎても,依然として緩やかな下り坂がずっと続いていたのですが,道路幅は次第に狭くなっていきました。あいかわらず舗装された普通の生活道路ではあったのですが,まわりの民家や折れ曲がった道路の様子が旧・東海道の面影を残しはじめて,再び雰囲気がよくなってきました。それにも増して,このあたりの救いは,ほどんと車が通らないということでした。
これまでに書いたように,今回鈴鹿峠を歩く計画をしたときに,JR貴生川駅から「あいくるバス」が土山宿まで出ていることを知って決行することになったのですが,土山宿からは今回のように関宿まで歩くコースと,バスに乗ってきた道を再び土山宿から貴生川の方向へ水口宿に向けて歩いて引き返すコースと,2回に分けで歩くことにしました。そうすれば,険しい鈴鹿峠といえども,一番標高の高い土山宿からともに下るだけで鈴鹿峠を制覇できるのです。ずるいでしょう!
そして,その1回目ということで,今回は土山宿から関宿に向かったわけです。このコースは予想していた以上にすばらしいもので,うれしい誤算でした。ただし,唯一のかなしい誤算は,思った以上に時間がかかったということです。
土山宿から関宿までは20キロ弱だから,4時間もかからないと思っていたのですが,実際は11時30分ころから歩きはじめたのに,昼食をとったり博物館に行ったり,道に迷ったりしたので,5時間歩いても関宿に着くことができませんでした。予想を大幅に超えて,午後5時過ぎにやっと関宿の入口に近づきました。東追分である木崎から西追分の新所までの約2キロメートルという長い範囲が関宿です。
関宿は古代から交通の要衝だったところで,古代の三関,つまり「伊勢鈴鹿の関」「不破の関」「愛発の関」のうちのひとつでした。また,江戸時代には参勤交代や伊勢参りの人々などでたいそう賑わいました。
歌川広重の東海道五十三次の関宿では,早朝,大名行列が宿場の本陣から出発する準備をしている様子が描かれていて,この絵は宿場自体の活気がわかるものです。
実際,広重の絵のご多分にもれず,この宿は旧東海道の宿場のなかでも最もすばらしいといわれています。
旧東海道の宿場町は,旧態をほとんどとどめていないところ,今になって保存運動をはじめたところ,また,面影だけを残しているところなどさまざまですが,ここ関宿は江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒あまりも現存していて,往時の姿を色濃く残しています。私はすでにこの関宿には何度も来たことがあって,そのすばらしさを以前から知っていたので,ここに着くのをずいぶんと楽しみにして歩いてきました。
しかし,予想よりも到着時間が遅くなってしまいました。この宿場町の見どころは午後5時になるとすべて閉じられてしまうので,すでに観光客の姿もほとんどなく,閑散としていました。しかし,この閑散とした状態が,また,捨てがたいものでもありました。
第3期将棋叡王戦の観戦-佐藤会長と山崎八段の絶品解説
藤井聡太六段の活躍でブームになった将棋ですが,藤井六段の功績はそれにとどまりません。
藤井六段の将棋の魅力は,誰もひらめかない妙手によって自陣の駒がすべて輝きだすというところにあるのですが,それと同様に,藤井六段の活躍で将棋界が注目されて,これまで陽の当たらなかった実は個性的で才能のある棋士がみな輝きだしたということにあるのです。
そうした折の4月14日,新しいタイトル戦である第3期将棋叡王戦の第1局が名古屋城の茶室で行われて,その大盤解説会が近くのKKRホテルで行われるということで,さっそく見にいってきました。
対局者はともにC級2組に属する金井恒太六段と高見泰地六段で,正直いって,数年前ならお客さん集まるかいな? というくらいの組み合わせなのですが,このところの将棋ブームもあって,午後1時開始なのに12時過ぎにはすでに会場には200人以上が集まって,イス席はいっぱいで立ち見もぎっしりになりました。
私は幸い座ることができました。
大盤解説の担当はNHKEテレの将棋番組でおなじみの山崎隆之八段で,聞き手はかわいらしい長谷川優貴女流二段でした。また,ニコニコ生放送は豊島将之八段と藤井六段の姉弟子である室田伊緒女流二段が担当し,ときおり大盤解説会場とネット回線でつないで中継が行われました。
途中には,神戸で行われている将棋のイベントに参加している藤井六段と師匠の杉本昌隆七段が音声で参加しましたし,棋士というよりも落語家の福崎文吾九段の解(怪)説,というよりも漫談があったり,さらには,佐藤康光将棋連盟会長が現れて山崎八段と絶妙のトークがあったりと,将棋界のオールスターが登場して,無料とは思えない充実した時間を楽しく過ごすことができました。
藤井六段がよくしゃべったのと佐藤会長の声が思ったよりも低音だったのにも驚きました。
それにしても,私が最も感心したのは,熱心なファンが多いということで,私のようないい加減な将棋好きとは違って,だれも席を立たずに何時間も解説を聞いていたということです。
これほどお金がかからず知的で充実した時間を過ごせるものが他にあるのだろか,と私は思いました。将棋界というのはこれほど多くの人材がいるのに,こうした人材をこれまで眠らせておいたのは非常にもったいないことだとも思いました。
将棋は,近頃は「観る将」といって若い女性にも人気ですが,暇を持て余す老人にも最高の楽しみです。そしてまた,将棋界は一時,人間がコンピュータに勝てないこととスマホによる不正疑惑でかなり斜陽産業となりつつあったのですが,それが一転して,そうしたデメリットををすべて逆手にとって,非常にうまくコンピュータとの共存ができるようになりました。
それは,コンピュータをうまく将棋の解説に生かせるようになったこととともに,将棋の観戦をネット中継のコンテンツにうまくマッチさせたことによるものです。「ヒカルの碁」で起きつつあった囲碁ブームを生かせなかった囲碁界とはえらい違いです。
ところで,去る4月10日に阿部光瑠六段と藤井六段の竜王戦があって,いつものようにAbemaTVとニコニコ生放送で中継がありました。
この対局は,終盤の最後まで優劣ががわらず,両方の放送で解説者が異なる形勢判断をしているという大熱戦になったのですが,そのなかで,正確に最後までを読み切っていたのが,対局者の藤井六段と,そして,「ぽんぽこ」(ニコニコ生放送で使われているコンピュータソフトのなまえ)だけだった,というのが私には衝撃的でした。そして,解説者が「ぽんぽこ」を頼りにして解説していたり,藤井六段が「ぽんぽこ」の予想した手を的確に指したり,あるいは,対局の秒読みが人間同士の勝負としての臨場感を盛り上げたりしていて,最後の最後まで目が離せませんでした。すごいものです。
私は,このごろ,こうして将棋を見ているだけで1日が終わってしまいます。あっというまに毎日が終わってしまうことを喜ぶべきか悲しむべきか… 複雑な気持ちでもあります。でも,楽しいものです。
東海道を歩く-ついに念願の最大の難所・鈴鹿峠を行く。③
土山宿を越えると,にわかに天気が悪くなって小雨が降ってきました。今日は快晴の天気予報だったのにもかかわらず,やはり,この場所はいつも天気が悪いのかな,と思いました。さすがに「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」と唄われる場所です。
新名神高速道路の巨大な橋げたの下を抜けると,やがて,鈴鹿峠の急坂に差しかかりました。旧東海道にあるほかの急坂と同じようでしたが,はじめのうちは,思った以上に広い道でした。
私はここで白状しなければなりません。私が歩いているこの鈴鹿峠,実は,土山宿を過ぎると,しばらくの間はわずかな勾配の坂を上ることにはなるのですが,それ以降は関宿までずっと下り坂なのです。私はそれを知った上で,土山宿から関宿に向かって歩きはじめたわけなのです。したがって,どれほど急坂といっても,私はそのほどんどを下るだけなのですが,これは確信犯です。
このブログを読んで,鈴鹿峠を歩こうと思い立っても,決して関宿から土山宿に向けて歩いてはいけません。こちらの方向はかなりの急坂を上ることになってしまいます。
国道1号線は鈴鹿峠で上りと下りはそれぞれ2車線の一方通行の分離した道路となり,離れた別のトンネルになります。東向きの国道1号だけには歩道があって,トンネルのなかを歩くこともできるのですが,それでは旧東海道を歩いたことにはなりません。それとは異なる昔の街道は,私が今回歩いたように,木々の間を通るせまく険しい山道です。しかし,近年観光用に新しく石畳が整備された箱根峠とは違って,ここに敷かれた石畳は当時のままの姿が残り,非常に情緒があります。それはすっかり忘れ去られた街道が今に残る姿です。歩いている人は私のほかにはありませんでした。
山道をあるいて越えると,再び,国道1号線と交わるところに出ましたが,そこは広場のようになっていました。それが今日の4番目の写真です。
私はここで道がわからなくなりました。実際に歩く人はこの場所は要注意です。この先,旧東海道は,5番目の写真のように,非常に狭い急な階段を国道1号線のガード下に向かって降りていくのですが,ここには全く道路標示どころか案内板すらないのです。しかも奥まっていてその存在すらわからず,やっと見つけても,この階段が旧東海道! などとはとても思えないのです。
私は散々迷ったあげく,やっとこの道(階段)を見つけたのですが,この階段を下りたあとのほうが大変でした。もう越えたと思った鈴鹿峠のせまくつづら折りの坂がこの先もまた延々と続いていたのです。この場所こそ,逆方向に歩いていたらものすごく大変な場所でした。
しかし,景色はとてもすばらしいところでした。
やがて,やっと鈴鹿峠を過ぎると,旧東海道は舗装された単なる平坦な車道となって,楽しみのまったくない道行となりました。旧・東海道にはこうした単なる自動車道もけっこうあるのですが,そうした場所は明治時代になって旧・東海道が単なる生活道路として車道にされてしまった場所です。
明治時代に,旧東海道の多くの場所は,このように歴史から姿を消してしまったのです。そして,現代では,旧・東海道歩きをしたときに,何の楽しみをももたらさない場所となってしまっているのです。
このつまらない場所が6番目の写真の坂下宿でした。
坂下(また坂ノ下,阪之下)宿は旧東海道48番目の宿場で,現在は三重県亀山市関町坂下です。この坂下宿は,江戸時代は難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい,江戸中期には本陣3,脇本陣1を含め旅籠51軒,町並5町56間,宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音まで約1キロメートルほどありました。
鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣のひとつで小竹屋は脇本陣。本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能だが脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ)と唄われ,旧・東海道有数の盛況な宿でした。しかし,1895年(明治28年)に関西鉄道(現在の草津線・関西本線)が草津駅から名古屋駅間に全通し,地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下宿は交通の要所から外れることとなって衰退し,現在は民家も少なく過疎化が進み,かつての繁栄を示すものは本陣跡を示すいくつかの石碑のみとなってしまったのです。土山宿やこの後に行く関宿とは全く違い,ここには宿場の面影はありませんでした。
歌川広重の描いた東海道五十三次の坂下宿は,風情のある美しいもので,私はこの場所に憧れをいだいていたのですが,その場所というのは,坂下宿の宿場の姿を描いたのものではなくて,7番目の写真にある,宿場をはるかに過ぎた街道筋から見える筆捨峠を描いたものだったのです。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト②
●昨晩の大雨で…●
カウアイ島で最も有名な観光ポイントは「シダの洞窟であると「地球の歩き方」にあった。しかし,この「シダの洞窟」は車では行くことができず,ワイルア(Wailua)というリゾートタウンの南を流れるワイルア川の河口にあるマリーナから遊覧船が出ていて,それを利用するしか方法がないと書かれてあった。そこで,今日はまず,その「シダの洞窟」とやらに行ってみようと思った。ともかく,優先順位の高いものから片付けるのが私の旅の方法である。
ワイルア滝を見たあと,州道56に戻って海岸線をそのまま走っていくとやがてハワイの他の島にもあるようなリゾートホテル群が見えてきた。それを目指して走っていくと,橋を渡りワイルア川を越えてしまった。ワイルア川の左岸を上流にむかっていく道路の先にマリーナがあるのだが,どうやら,その道路に入る交差点を過ぎてしまったようなのであった。橋を過ぎたところの道路の右側に海岸の景観を眺めることができる展望台を見つけたのでそこに入って車をUターンした。
展望台で一度外に出てみると,海岸には大きな波が打ち寄せていて風もかなり強かった。天気もよくなかった。このあたりは,昨晩かなり雨が降ったらしい。
元に戻り,今度はマリーナを目指して交差点を右にまがり,しばらく行くととマリーナが見つかった。マリーナに到着したのは8時30分ごろであった。遊覧船は一番早いのが9時30分ということであったが,遊覧船を待っているような観光客はひとりもおらず,本当に遊覧船がでるのか,それとも寂れてしまったのか疑問に思った。
窓口があったので聞いてみると,昨晩の大雨で川が増水しているので,朝の便は欠航になるかもしれないが,それがわかるのは9時過ぎだと言われた。
それがわかるにはまだ30分もあるが,待っている時間も無駄に思えたので,昨日行かなかったノースショアのいくつかの見どころに先に行ってから午後にまたここへ戻ってくることにした。
マリーナを出て州道56に戻り,北に向かい,「23マイル」の道路標示を過ぎたところで右折して「キラウエアロード」(Kilauea Rd.)へ入った。このあたりがキラウエアという町である。
キラウエアはかつてサトウキビプランテーションで栄えた町であり,また,1970年代にグアバがハワイに入ってきて以来,世界一の生産量を誇るグアバ畑で知られていたのだが,最近になって畑全体を含むこの一帯が個人によって買い取られてしまい,グアバ畑は姿を消したという。
「キラウエアロード」(Kilauea Rd.)をそのまままっすぐ進むとキラウエア岬に着いた。この岬がカウアイ島の最北端,つまり,ハワイ諸島全体の最北端に位置するのだ。そして,この岬の先端に建つのが「ダニエル・K・イノウエ・キラウエア・ポイント灯台」である。
この灯台はカウアイ島を象徴していて,多くの絵はがきやポストカードで紹介されている。灯台は1976年でその役目を終えているが,いまでもキラウエアの町のモニュメントとして,そしてまた,カウアイ島の代表的な風景のひとつとして大きな存在であり続けている。
灯台を見終えて,再び州道56に戻り,さらに西にすすんで,プリンスヴィルというリゾートへ行ってみた。ここから先が昨日行ったノースショアの果て「ケエビーチ」であるが,この日は天候が悪いために通行止めで行くことができなかった。私はこのとき,昨日その場所に行った決断と幸運を感謝した。
プリンスヴィルあたりでなにかお昼ご飯を食べようと思ってリゾートエリアに入っていった。しかし,ここは確かに「想像を絶する規模のリゾート」ではあったけれど,カウアイ島でなければ見られらないような特別な場所でもはなかった。というよりも,むしろ,私には,素朴なカウアイ島を台なしにするものとしか思えなかった。そしてまた,レストランも高いだけで大したものがなかったから,私はこのたりでノースコーストから引き返すことにした。
東海道を歩く-ついに念願の最大の難所・鈴鹿峠を行く。②
手品の種は「あいくるバス」でした。この地域バスがJR草津線の貴生川駅を出発して土山まで行くバスで,1時間に1本程度運行していました。そこでこのバスを使えば,土山宿までの上りは歩かなくても行くことができるのです。土山宿から関宿までなら約20キロ,しかもほとんどが下りなので,これなら4時間程度で歩けます。
名古屋駅から貴生川までは,米原駅で乗り換えて草津駅へ行き,草津駅で再び乗り換えれば行くことができます。はじめは名古屋駅から米原駅まで新幹線に乗ろうと思ったのですが,調べてみると,列車の接続がよく,在来線を使っても2時間程度で行くことができるので,新幹線を使う必要もなく,8時過ぎに名古屋駅を在来線で出発すると貴生川駅で10時55分の「あいくるバス」に乗り換えることができることがわかりました。
予定通り貴生川駅に着きました。貴生川という町は今回はじめて行ったのですが,のどかな小都市でした。貴生川駅の階段を降りるとバスが待っていました。バスも時間通りに貴生川を出発したのですが,私には土山の町のどこで降りればいいのかかわかりませんでした。どうしようかと車窓から眺めていたら,道路標示に「土山本陣跡」というのが見えたので,そこで急いでバス降りました。
本陣跡の方角に10分ほどあぜ道を歩いて行くと,突然,旧東海道に出ました。きれいに整備された旧街道でびっくりしました。まるで江戸時代にタイムスリップしたようでした。近くに平行して国道1号線が走っているのですが,国道1号線を毎日のように走っていても,こののどかで整備された旧・東海道の街並みを知らない人がたくさんいるそうです。
土山宿は江戸時代,近江国甲賀郡にあった旧東海道49番目の宿場で,現在は滋賀県甲賀市土山町北土山および土山町南土山にあたる場所です。明治時代になると,次の坂下宿と同様,鈴鹿峠の急勾配が蒸気機関車の仇となって避けられらために寂れ,逆に今にして街道がそのまま残ることになりました。
鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」と唄われています。
この町並みの素晴らしさをより高めたのは,ほとんど観光客がいなかったことで,本当に江戸時代に戻ったたかのような,そんな気持ちが味わえました。
街道に沿って歩いていたら「東海道伝馬館」という無料の資料館がありました。中に入ると様々な資料やらジオラマやらがありました。特に細川家の大名行列を模した人形は圧巻でした。ていねいな解説もしていただきました。また,庭には枝垂れ桜が満開でした。
見学した後,「うかい屋」というお店でお昼のおそばを食べました。私が子供のころによく行ったおそば屋さんのようなところでした。
土山宿はほんとうにすばらしい宿場跡でした。これだけきちんと整備されていて,しかも,ほとんど観光客がおらず,こんなに心落ち着く場所が今の日本に残っているとは! だれにも教えたくないような場所でした。アクセスするのに不便であることが,逆に幸いしているようです。
土山宿は広く,そのままみごとな町並みがその先も延々と続いていました。やがて,土山宿もはずれになると,旧東海道は,一旦国道1号線を横切ります。そこにあったのが道の駅と田村神社でした。広い駐車場があって,観光バズがたくさん停まっていました。そして,道の駅で買い物を楽しむおじさんおばさんが大勢いて,急に現実に引き戻されました。これが今の日本です。
ほんの少しだけ街道に入ればまったくちがうすばらしい景色があるのに,こんな場所でうろうろしていても仕方がないのに,と思いました。そして,私は,こんなふうにして観光バスで旅をしていても,何も楽しくないなあと思いました。
田村神社の1番目の鳥居をくぐり,本殿のある2番目の鳥居をくぐらずにその手前を右に進んだところからが,再び旧東海道です。案内板がないので,ここは知らないと迷います。道に入ると,再びあたりは静寂につつまれました。
やがて,幅の狭い田村川に橋がかかっているところにさしかかりました。ここが土山宿のはずれでした。歌川広重作の東海道五十三次に描かれた土山宿はこの場所でこの川を描いたものです。広重の東海道五十三次なくして,現代の旧東海道歩きの楽しみはありませんが,いろいろな宿場を歩いてみると,広重の描いた東海道の宿場は宿場そのものの様子を描いたものもありますが,その多くはむしろ,宿場よりも,宿場を出た街道や付近の名所を描いたものが多く,土山宿として描かれた場所も土山宿の宿場の様子ではなく,宿場のはずれにかかる橋を描いたものです。
さて,ここからいよいよ鈴鹿峠の長い坂がはじまります。
東海道を歩く-ついに念願の最大の難所・鈴鹿峠を行く。①
いくら日本には見るべき場所がないとはいえ,いつも海外に行くこともできないので,適当に,旧東海道を,それも面白そうな,そして,観光客のいないようなところだけを気が向いたときに歩いています。
前回は昨年2017年5月下旬に難所・通称「日坂(にっさか)峠」,正しくは「中山峠」を歩きました。そのとき,
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これで,私は静岡県の旧東海道のその面影をのこした宿場のほとんどを歩くことができました。調べてみても,これ以外は,都会のなかをとおる旧東海道ばかりなので,魅力を感じません。そこで,この次は,もうひとつの難所といわれる三重県から滋賀県にかけての鈴鹿峠をめざすことにしようと思っています。JR関西本線の「関」駅から近江鉄道本線の「土山」駅まで宿場としては関,坂下,土山と3つあって,その間は30キロ,6時間のコースらしいです。
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と書きました。しかし,私の認識不足で,これは間違っていて,近江鉄道本線に「土山」という駅はありません。その手前の「水口」駅があるだけです。
そんなこともあって,鈴鹿峠はその長さと険しさ,それにもまして不便さでなかなか行く機会がありませんでした。旧東海道を歩いている人も少なくないので,そうした人のさまざまなブログがあるので読んでみても,この鈴鹿峠はかなりの難物らしく,あまり参考になるものがありません。
旧東海道は,静岡県はどの宿場もJRの東海道線に沿って行けばまあ何とか着くことができるのですが,主だった公共交通機関もない,この三重県と滋賀県にまたがる鈴鹿峠越えは,両県の観光課もやる気がないらしく,静岡県のように上手な情報発信もしていないし,忘れられた場所なのです。
私も,どのようにアクセスしていいのかわからず,かなり手こずりました。東京に住んでいる人は,さらにどうすればいいのか皆目見当がつかない場所らしく,宿泊先さがしも大変そうです。
旧東海道の鈴鹿峠を徒歩で越えるには,先に書いたように,京都に近いほうから土山宿,坂下宿,関宿と3宿を歩くことになります。現在のJR東海道線は名古屋以西は旧東海道ではなく,むしろ中山道に沿っているので,もよりの宿場に行くための鉄道網がありません。国道1号線はかろうじて旧東海道に沿っていますが,名古屋から京都に行くには一般には名神高速道路のほうを使うので,あまり好んで通る道路ではありませんし,車で行こうにも,歩いて鈴鹿峠を越えるという目的には,どこかの宿場に駐車をして歩いて行っても,また歩いて戻ってくる必要があるので,現実的ではありません。
関宿のほうはJRの関西線の関駅で降りれば行くことができますが,問題は土山宿のほうです。土山宿から先,京都方面は水口宿,石部宿,草津宿と続いていて,草津宿はJR東海道線の草津駅,石部宿は草津からの支線であるJR草津線の石部駅,水口宿は近江鉄道本線の水口駅で降りればいいのですが,土山宿,坂下宿となるとどうにもなりません。
ということで,宿場までのアクセスは,JRを使うなら,草津線の石部駅で降りて,そこから水口宿,土山宿,坂下宿,関宿と歩いて関駅から関西線に乗ることになるか,近江鉄道本線の水口駅から関宿まで歩くかですが,これではともに40キロをはるかに超える距離なので,1日の行程では無理ということになるのです。しかも,距離に加えて,鈴鹿峠は,水口宿から土山宿までが上りで,土山宿から関宿までが下りという険しい道です。
ああ,これには参りました。さすがに鈴鹿峠は難所です。私は,地図を見て途方にくれていました。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島イーストコースト①
●魔物の吐く潮が見える穴●
☆3日目 11月30日(木)
3日目となった。2日目にこの島の見どころはほとんど行ってしまったし,今日は天気も悪いので,まるでテンションの上がらない朝であった。
しかし,旅はこのくらいであったほうがむしろいい。朝起きてやらなければならないことがないくらいのほうが新たなことが起きたときに楽しいものだからだ。
私の宿泊しているホテルからラワイ・ロードを少し西に進んだところに「潮吹き穴」というものがあるという。この周辺は,カウアイ島で最後に火山が噴火した場所とされている場所で,冷えて固まった溶岩の穴に波が流れこんで,潮を噴き上げるのだ。
この地は,ハワイの伝説では,潮を吹く音が魔物の叫び声で吹き出す粉末は魔物の吐く息だといわれている。…ということで,朝一番にそこまで車で行ってみた。
海岸線を走っていくとそれはあって,ここでもニワトリだらけの駐車場があったので,車を停めた。駐車場を囲むような形で屋台がたくさんあった。ここに来る観光客をターゲットにしているらしかったが,まだ朝早かったので,どれも開いていなかったか,開店の準備をしていた。
展望台には海岸に沿って手すりがあって,その向こうにその穴があった。一見小さな溶岩棚にしか見えなかったが,この岩に空いている空洞から波によって押し出された海水がときどき勢いよく潮を噴き上げるのが見えた。ゴォーという轟音とともに潮が高く吹き上がるのだが,毎回その大きさが異なっている。ひときわ高く上がった際には迫力があるから,次こそ,次こそ,という感じで,いつまでも見飽きるものではなかった。ただし,それだけのものでもあった。
この潮吹き穴が,他にもある潮吹き穴と違うのは,勢いよく潮を吹き上げるだけではなく,その際に轟音を立てるということだという。人によって,その音は「ゴォー」とも「ブォー」とも「ヒュー」とも聞こえるそうだが,この轟音にはいくつかの伝説がある。
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その1
この地域の海岸線を守っていた巨大なメスとかげ「モオ」のお話である。
「モオ」はこの辺りの海辺に釣りなどで訪れて来る人を餌食にしていた。ある時,釣りに来たリコという男が「モオ」の攻撃を受け,槍を投げたところ,その槍が「モオ」のノドに刺さり,怒り狂った「モオ」はリコを溶岩棚の中まで追いかけた。リコは運良くその中から出られたものの,空洞にはまった「モオ」は出られなくなったという。飢えと痛みによる「モオ」の泣き叫ぶ声が潮吹き穴から聞こえて来るのがこの轟音なのだ。
・・
その2
タヒチからやってきた巨大なとかげ「モオ」には兄弟がいて,2匹の妹たちはニイハウ島に住み着き,兄レホはカウアイ島まで泳いできて,プヒ(,この地域をプヒと呼んでいた)という場所を気に入った。
その周辺をウロウロしているうちに空洞にはまって抜けられなくなり,その叫び声が轟音として聞こえるという。
あるいは,妹が死んだという話を聞いたレホが泣きながら歩き回って空洞にはまってしまい,その悲しい叫びが轟音となって,いまも聞こえるという。
・・・・・・
この潮吹き穴は,以前はククイウラ・シープルームと呼ばれる別の空洞の隣でひっそりしていて,むしろ,ククイウラ・シープルームのほうが61メートルほどの高さの潮柱を噴き上げていて,周囲にあったサトウキビ畑を水浸しにしていた。1920年,迷惑をこうむっていたサトウキビ会社の従業員がその穴にダイナマイトを仕掛け,この穴を爆破した。そのときの穴は,現在の潮吹き穴の左側に位置し,いまも長方形の開口部が見えている。
立ち入り禁止のサインを無視して溶岩棚まで降りていく人もいて,潮吹き穴に近づいて空洞に流し込まれてしまうという悲しい事故が後を絶たないという。
潮吹き穴を見終わって,今日は,イーストコーストにある「シダの洞窟」に行こうと決めた。途中,リフエにあったマクドナルドで朝食をとった。ハワイのマクドナルドではご飯が食べられる。しかし,この朝食メニューは日本にあってもおそらく絶対に人気は出ないであろう。
大相撲刈谷巡業に行く。-赤ちゃんなら女でも可なのかしら?
このところ何かと話題の大相撲ですが,昨年2017年10月14日の金沢巡業に続いて,去る4月7日に刈谷巡業を見にいきました。前回も書いたように,大相撲の巡業は村芝居を見にいくようなもので,勝敗はどうでもいい,というのがメリットでもありデメリットでもあるわけですが,私は,とにかく,気楽に楽しめるのが最高です。
前回の教訓で,巡業は一般に小さな体育館で行うので,2階のイス席でも十分に近く,逆に1階の席は人の頭が邪魔して,思うほどよく見えないのに,チケットはけっこう高いので,2階席にしました。1階席のメリットとしては,力士のサインがもらいやすい,とか,一緒に写真が写しやすい,というのもあるのですが,そういうことは私としてはど~でもよくて1日が楽しめればよいわけです。
会場は刈谷市にあるウィングアリーナ刈谷というところで,名前はしゃれていますが,要するに刈谷市の体育館です。
さすがにトヨタ自動車の町,立派な総合運動公園があって,その一角にあります。広い駐車場があるので車でも便利ですが,車を出すときに混み合いそうだし,刈谷から名古屋に帰るのも時間がかかります。そもそも,この刈谷という町は自動車産業の町にも関わらず,国道23号線はかなり渋滞する不便なところです。
まったく話は違いますが,天文ファンにはおなじみの,昔「アスコ」というブランドで名をはせたプロ用の大型反射天体望遠鏡を作っていた町工場「旭精光研究所」がある(あった)のはこの体育館の近くです。この会社は尾崎さんという方が家族でやっていた家内制手工業なのですが,その方が亡くなってから息子さんにはその力がなく,当時勤めていた人たちが新たに一宮市に「中央光学」という会社を作って出ていったというのが実情で,使われなくなった工場跡が今も残っています。
私は名鉄の一ツ木駅から歩いて朝8時過ぎには会場に到着したので,まず握手会というのに並びました。この日の担当は遠藤関と千代丸関でした。
会場内でははやくも力士の稽古が繰り広げられていて,土俵を関脇栃ノ心が独占していました。その後,横綱白鵬が現れて,隠岐の海関相手に,延々と立ち合いの稽古をしていました。私は白鵬は大嫌いですが,それでも,あれだけなんだかんだと言われたインチキな立ち合いを直そうと時間をかけて稽古しているんだから,強くて当たり前です。他の力士は見習わないといけません。
プログラムは子供の稽古からはじまって,呼出しさんの太鼓の実演やら初っ切りやら相撲甚やらと,恒例のものが続き,やがて,土俵入りや取組があって,3時頃に終了しました。
巡業では,土俵入りで赤ちゃんを抱いた力士があがるのですが,赤ちゃんとはいえ,けっこう女の子もいます。あれだけ話題になっているのに女性が土俵に上がっていいのかしらん,と私はいつも(茶化して)思うのですが,まあ,相撲界なんてそんなもんです。しかし,抱っこすればいいのなら,大人の女性だってお姫さま抱っこして上げちゃえば問題ないのでしょうか?
まあ,このこともまた,何事も本当のことはわけがわからない,日本らしいといえば日本らしい,あいわからず変な「神の国」です。
「不良老人」の日常⑧-昔も今も変わらない。
世の中は天気と同じで,晴の日もあれば雨の日もある。ときには嵐の日もある。…ということは,歴史を勉強すれば,いやしなくてもわかります。
たとえば経済。
右肩上がりに上がり続けることもなければ,大暴落してもそのうち元に戻ります。こんなことを繰りかえしています。それだけのことなのに,懲りずに,愚かな人は少し暴落するとパニック売りをし,賢い人は下がったところで落ち葉拾いをします。そんなことは10年も投資をすれば実感できます。海に浮かぶ船と同じで,穏やかなときに人が一杯乗り込むと,大きな波が起きたときに振り落とされてしまいます。
たとえば戦争。
人の歴史は有史以来,戦いの歴史です。今にはじまったことではありません。それは日本も例外ではありませんが,第二次世界大戦で敗戦して以来70年以上もそうしたことに直面していないから,日本は無縁だと錯覚しているだけです。しかし,世界規模で考えればずっと同じことをいまでも繰り返しています。日本の歴史を考えても,この国は,ずっと大陸の脅威に怯えてきました。それは奈良時代よりも前からずっと同じです。今にはじまったことではありません。
人類は愚か,というより,元来,生き物というのはそういうものなのでしょう。生き物はすべて生存競争をして強い者だけが進化をして生き残っているのです。そのなかで人類が少しでも優れているとすれば,それは良心をもっているということでなければなりませんが,どうやらそうでもなさそうです。歴史から何も学ばない,というよりも,そうした惨劇を身をもって経験した人がやがては死んで,そうした悲惨さを体験した人がいなくなれば,また新たに同じ残酷なことを考える人が現れる,ということの繰り返しなのです。権力者に取り入ることで自分も権力者の側にいるような気がしてもそれは錯覚で,所詮は裏切られるだけの庶民です。そして,いつも犠牲になるのはそうした力のない庶民です。
たとえば自然破壊。
人類が地球上に生きているということは,絶えず自然を破壊している作業を繰り返しているのです。「自然に優しい企業」などといううたい文句を奏でる製造業がありますが,モノを作ること自体が自然破壊なので,自然に優しいわけがありません。そうして,次第に地球が壊れていき,そのうちに収集がつかなくなって,人類は滅亡するのです。地球ができてこれまで46億年,この間に5,000万年から1億年ごとに5回起きた地球上の生命大量絶滅,その6回目が起きるだけなのです。
われわれはそんな中で,海に浮かぶ藻屑のように生きていて,それぞれの人が,少しでもこころやすらかに,そしてささやかな喜びを糧として毎日を生活をしているだけです。どんな人も,大波がくればひとたまりもありません。地位だの名誉だの財産など,そんなささいなことはど~でもいいのです。
若い人ならともかくも,歳を経てさえそんなことすらわからないのは愚かな話です。そしてまた,群れていてもしかたありません。不良老人である私は,人まねでなく,すべてを受け入れて,他人と比べず,自分らしく楽しく暮らすとしましょう。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ノースコースト④
●行き忘れた「リマフリガーデン」●
車で行ける北の終点「ケエビーチまでいくことができたので,満足して私はハナレイまで戻ってきた。リゾートエリア「プリンスヴィル」の手前の坂道に「ハナレイ渓谷展望台」(Hanalei Lookout)があったので,まずは車を停めて展望台からの風景を楽しむことにした。
ここはタロイモの水田が並ぶハナレイ渓谷と国定野生動物保護区の一部をみおろす展望台になっていて,水田の背後にはワイアレアレ,ナモロカマなどの山々が連なり,手側にはハナレイ川がゆったりと流れているのどかな風景を見ることができる,古代ハワイから続くハナレイの美しい景観を一望できるスポットであった。
このハナレイのタロイモ畑で採られるタロイモを材料に作った「ハナレイ・ポイ」という食べ物はカウアイ島の主要なほとんどのスーパーで売られていて人気の高いポイ・ブランドのひとつでもある。
この日,私が見落としたところが1箇所あった。それは「リマフリガーデン」(Limahuli Garden)という古代ハワイからのエネルギーに浸ることのできる植物園であった。ここでは,この庭園について書いておくことにする。
・・・・・・
「リマフリガーデン」は州道560が間もなく終点のケエ・ビーチかなと思う手前で急峻な坂を左に上がったところにあったのだというが,私はそれを逸した。マカナ山を背後にひかえて谷間の低地に広がるこの庭園は,復元されて建っている古代のハレ(家)とあいまって,古きよきハワイにタイムスリップされるのだという。また,この場所は古代の住居システム「アフプアア」をいまも継続している自然保護区である。
ここでは資源管理と自然資源を守るたくさんの試みも行われている。また,ヘイアウ(聖域)としてハワイの人々から敬まわれ大切にされている一帯でもある。
この「リマフリ自然保護区」は約1,000エーカー(東京ドーム約86個分の面積)という広大な敷地に広がり,およそ250種のハワイ諸島固有の植物および鳥たちが人の手が入らない姿で保存されている。この中には50種におよぶ絶滅危惧種がふくまれ,この場所でしか見ることのできない品種もふくまれている。
この庭園は,1967年ジュリエット・ライス・ウィックマンがこの土地を手に入れ,孫のチャールズ・チッパー・ウィックマンとハウオリ夫人の手によりリマフリ渓谷の復元作業を開始し,1976年に非営利団体 NTBG(National Tropical Botanical Garden)に寄贈されたものである。
「リマフリガーデン」はトレイルになっていて,約1時間半ほどで周回できる。トレイル沿いには希少な植物などが自然な形で配置されていて,古代の住居システム「アフプアア」や航海カヌー,考古学的な遺跡,固有種の森の散策などのセクションを持ち,ハワイ文化の一端を学ぶ貴重なコースにもなっている。
また,植物園内を流れるリマフリストリームは島に残された最後の手つかずの水路である。
・・・・・・
ということであった。
こうして,この日,私は「リマフリガーデン」こそ見損ねたが,予定したウエストコーストに加えてノースコーストまで遠出することができた。この判断が幸運であったことが次の日にわかる。
夕食はリフエにあったモールの中にあった「パンダエクスプレス」で中華料理を食べた。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ノースコースト③
●最北の「ケエビーチ」●
「ハエナビーチ」から更に1マイル(1.6キロメートル)進み,州道560の行き止まりに「ケエビーチ」(Kee Beach)があった。「ケエビーチ」は終点であるから駐車場や路上駐車の争奪戦が激しく,なかなか停める場所がないということであった。私も一度は駐車場に入っていったがどこも空いておらず,引き返して少し戻り,そこにあった公園の駐車場に車を停めて歩くことになった。
ビーチに着くと,遠く,ビーチの向こう側を眺めると,その先には秘境「ナパリコースト」(Na Pali Coast)の山々が続いていた。「ケエビーチ」は「ナパリコースト」へと続くトレイルの起点となっていて,ここに車を停めてトレイルに向かう人も多い。
カウアイ島は車で一周できない島で,この北の端で車道は終わる。「ナパリコースト」として知られる目を見張る独特な断崖絶壁は,ここから島の反対側である西の端まで連なっていて,交通を遮断している。
車で行ける北の終点のビーチとして知られる「ケエビーチ」はまた,幅広く茂ったサンゴ礁が保護されているラグーンになっているので,カウアイ島の中でも数少ない遊泳が楽しめるビーチとして地元の家族連れや海遊びビギナーズにも人気が高い場所である。また,特にシュノーケリング愛好者には人気があって,透明度の高いブルーの海水の中で泳ぐ多種多様な魚たちのつくり出す幻想的な世界が楽しめるのだそうだ。また、たくさんのハワイアンホヌ(大型のハワイのウミガメ)が集まる場所でもある。
このビーチは季節によって浜辺の砂の量など状態の変化が激しいのも特徴で,夏には大量の砂がラグーンに込んでプールを作る。また,波が穏やかな日にはリーフに囲まれたラグーンの外側に出ることも可能となるなど,何度来ても楽しめる場所なのだそうだ。
カウアイ島を訪れるなら,ここまで来なければ意味がないと思った。
2018年がやってきた・その後-オーロラの見られる国①
早くも2018年も3か月が過ぎてしまいました。月日の流れはまことに早いものですが,それにしてわずか3か月の間にいろんなことがありました。
今年の元日に「今年もオーロラを見たい。」と書きましたので,今日は「その後」の報告です。私ははやくもそれを実現しました。幸い,今年私が見たオーロラはとてもすばらしいものでした。しかし,私の夢はこれで終わったわけでなく,さらに増幅しはじめたのです。
・・・・・・
その1
「(これまでフィンランドに行かなかったのは)フィンランド語がわからない,ということでした。しかし,フィンランドでは英語通じる(らしい)のです。」と書きました。
実際,フィンランドでは英語だけでまったく不自由はありませんでした。考えて見れは,私が英語圏でない海外へ出かけたのはこれまでフランスだけでした。
フィンランド語というのは独特な言語で,前置詞がない,名詞に性の区別がないとかいった日本語に似たような特徴もあるそうです。そこで,意外にもフィンランド人は日本人同様に英語を学ぶのに苦労しているそうですが,「ドリル学習」をして点をとり順位を争うだけの日本とは違って,教育に巨額の予算をかけIT化を推進し,教師のレベルも高く,教育の内容も本質的にすばらしいので,ちゃんと実用化のレベルに到達していて,英語が通じます。
私がフィンランドで少し困ったのは,看板などにフィンランド語しか書いてないことがけっこうあって,その単語の多くがまったく英語とは異なっているので意味が想像すらできないことでした。というわけで,これではいかん,ということで,私は,トラベル・フィンランド語なるものに少し取組みはじめました。また行く日のために…。それとともに,英語圏以外にもこれからはどんどん行ってみようと思うようになりました。
・・
その2
「ロヴァニエミまではヘルシンキから空路で1時間ほどで行けるのです。ということで,さっそくこの春に出かけることにしました。さて,極間の地,どんな素敵なことが待っているでしょうか?」と書きました。
ロヴァニエミ,ものすごくすてきな町でした。北極圏というのはもっとさびしいところだと思っていたのですが,まったくそんなことはありませんでした。マイナス20度という寒さは全く問題ではありませんでした。プラス30度のほうがずっとたいへんです。これからはこうした寒い地域にもおじけづくことなく行ってみようと思ったことでした。せっかく高価な防寒具を買ったことですし。
・・・・・・
こうして,私はすっかりオーロラに魅せられてしまいました。そして,こうなったら地球上でオーロラをよく見ることができるといわれる場所をすべて制覇してしまおう,などと考えるようになってきました。その場所は,これまで行ったアラスカ州フェアバンクスとフィンランドのロヴァニエミのほかに,カナダのイエローナイフ,アイスランド,ノルウェーのトロムソなどです。どうやら,私はこれから先,こうした場所に地球とともに夢をみるために足しげく通うことになりそうです。
そうです! やはり「世界はいつもときめきに満ちているです。オーロラは最高です。
◇◇◇
2018年がやってきた①-今年もオーロラを見よう。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ノースコースト②
●絶景のビーチと伝説のケーブ●
ローカル色満載の「ワイルア滝」に行って,私は再び「クヒオ・ハイウエ」に戻ってきた。この後はカウアイ島のノースコーストを行けるところまで行ってみようと島の東海岸に沿って北上していった。
ワイルアを越えて「クヒオハイウェイ」と呼ばれる州道56は海岸線をどんどん北上していく。海岸沿いはリゾートタウンになっていて,観光客も多く,ここがカウアイ島で最も栄えているところだと思った。しかし,私はこのあたりの観光は明日以降にまわしてすべて通過し,先を急いだ。
やがて道路が左にカーブして,進路が北から西に変わった。この先にもまた見どころはたくさんあったが,それらもすべて後回しにして,ともかく道がなくなるところまで進んでいくことにした。
道路はまだ続いていたが,州道56という名前はハナレイ(Hanalei)が終点であった。ハナレイは新しいリゾートタウンである。タロイモ畑が眼下に広がる「ハナレイ渓谷展望台」(Hanalei Lookout)も後回しにして,さらに道路を進んでいくと,州道は560と名前を変えて,急に道路が狭くなった。
ハナレイの町を過ぎると道路は森の中の小路の様相を呈してきた。橋の幅は道幅よりもさらに狭く,マウイ島のハナに行ったときのような交互通行になった。ただし,マウイ島のときとは違ってこうした狭い道路も長くは続かない。なぜなら,まもなく道路は果てを迎えるからだ。
狭い道路であったが,道路には一応センターラインがあった。ただし,はみ出さずに通行ができないほどであった。木々が道の両側に迫り,より見通しが悪くなったころに忽然と現れた絶景のビーチが「ハエナビーチ」(Ha’ena Beach)であった。
「ハエナビーチ」には駐車場があって私は空いたスペースに車を停めて外に出た。
「ハエナビーチ」にはまぶしい砂浜が広がり,夏でも波がそこそこある,いかにもハワイという感じのサーフスポットが広がっていた。
ここの砂浜はやわらかく高さがあり,波打ち際まで波が崩れないのだそうだ。ここを東に,つまり,海を目の前にして右手の砂浜を延々と歩いていくと「マクアビーチ」(通称トンネルズビーチ)になる。そこは透明度が高く,ダイビングに最適なエリアである。「トンネルビーチ」と呼ばれる岩礁は海中にあってベストスキューバダイビングポイントのひとつとして紹介されている。こうした地元民のビーチこそがハワイであるといつも思う。ワイキキビーチなどくそくらえだ。
「ハエナビーチ」で州道560は終わりかと思ったが,さらに道路は続いているらしく,多くの車がその先まで走っていくので,きっとまだこの先も行くことができるのだろうと私も判断して出発した。そして,この先に最終地点があるのだろう。
州道560号沿いには多数のケーブがあった。ケーブというのは洞窟のことである。
この「ハエナビーチ」の道の反対側にも大きなケーブがあった。これが「マニニホロ洞窟」(Manini Holo Dry Cave)である。「マニニホロ洞窟」は近くにある水を湛えた洞窟と区別するため「ドライケーブ」とも呼ばれている。このケーブは奥行きは長くなく,ケーブというよりも崖に開いたほら穴という感じであった。しかし,間口,奥行きともに数十メートルあって,私がこのあとで行くことになるカウアイ島の随一の観光地「シダの洞窟」より断然深く迫力満点であった。
光の入り込まない一番奥は真っ暗で,天井は奥に行くほど低くなっている。1954年の津波の影響で大量の砂が洞窟を埋めてしまったが,今でも大きな口を開けている。ここはかつてこの地に住んでいた「メネフネ(伝説上の小人)」たちが作った洞窟とも言われ,魚を横取りした悪魔を閉じこめたところとされている。
・・・・・・
あるとき,マニニホロがハエナ湾とその近くのリーフに魚採りに行きました。その日は大漁過ぎて彼らは魚を全部持ちかえることができなかったので,たくさんの魚をそのまま残して帰途につきました。ところが翌朝残りの魚を取りに来てみると,1匹も残っていません。マニニホロが調べたところ,峡谷に住む小鬼達がこっそり盗んでいったようです。彼らを懲らしめようにも小鬼が住んでいたのは深い峡谷で,そこに行くだけでも大変な場所でした。そこでマニニホロは一計を案じます。なんと山を貫くトンネルを掘り,小鬼の住む渓谷まで直結させようというのです。時間はかかったもののトンネルは完成し,彼らは小鬼を懲らしめることができたそうです。
このとき掘った穴が「マニニホロ洞窟」だということです。
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「マニニホロ洞窟」のすぐ近くには「ワイカナロア洞窟」(Waikanaloa Wet Cave)があった。「ワイカナロア洞窟」は「マニニホロ洞窟」とは対照的に洞窟内に水を湛えているので,「ウェットケーブ」とも呼ばれている。
伝説によると,カウアイ島の火山がまだ活動していたころ,若く美しい娘になりすまし旅していた火の女神ペレは,地元のハンサムな首長ロヒアウと恋をし,この洞窟に住んでいたといわれている。また,この洞窟はカナロアが掘った洞窟(=Wai-a-Kanaloa)のひとつとも言われている。ハワイの四大神のひとり「カナロア」は兄弟の「カネ」と共にハワイの各島を旅する途中でたくさんの洞窟を掘ったとされている。しかし,実際にはこの洞窟は約4000年前に波の浸食によりできたもので,洞窟の水は溶岩から染み出す湧き水でとても冷たい。
行き止まりとなる「ケエビーチ」まではここからあと1マイルであった。
「1日1断捨離」を目指して⑰-旅に持っていくカメラ
今日は今回は旅に持っていくカメラのお話です。
記録をするだけならば今やiPhoneで十分ですが,それ以上の写真を撮ろうと思うと,やはり,カメラは必要です。「インスタ映え」という流行語が流行るにつれて,一時不振にあえいでいたデジタルカメラが再び売れはじめたようです。
しかし,カメラに限らず,売れているものや性能がよいものが自分にとって使いやすいものとは限りません。そこで,自分が何を写すのか,どういうカメラがふさわしいのかということを知っている必要があるのですが,それはカメラに限らずどんなものでも同じです。
売れているものを買う,ブランド品を買う,などというのは最も愚かなお金の使い方で,どんなときも,自分に何が必要であるかがわかっていないといけないのです。
このブログでいつも書いているように,私が写真を写す対象は旅と星です。星を写すカメラのほうは散光星雲などのHII領域とよばれる天体が写るように一般に販売されたカメラを改造したものなので別として,私は,星以外,つまり,旅にもっていくための最適なカメラをずっとさがしているのです。
以前,「ライカ」について書きましたが,この「ライカ」のような100万円近い値段のカメラを持っては気軽に旅ができません。また,カメラ会社はこのところ,収益を考えて主に35ミリフルサイズと呼ばれる大きさの受光素子を使ったカメラの開発に力を入れています。そのなかで,ニコンのD850というカメラの評判がよいようです。しかし,私はそんな1キログラムもするような重いカメラを持って旅に出る気もしません。
私が欲しいのは,35ミリサイズに換算して25ミリから250ミリくらいのズームレンズがついていてレンズ交換ができる,できるだけ小さくて軽いカメラです。そして,露出補正と連続撮影の設定が簡単にできるもの,さらには,記憶媒体がSDカードのサイズであるもの,というのが条件です。この条件にあてはまりそうなものが今日の写真にあげたいくつかのものですが,どれも,SDカードが使えないとか,使わないシーンセレクトモードがあったりとか,重たかったりとか,どこか私にはひっかかる欠点があって,買う決心が起きません。
それにしても,どうして,カメラメーカーは旅に持っていくカメラという目的に絞ったよいものを開発しないのでしょうか? カメラマンでもないのに1キログラムもある大きくて重たいカメラを持って旅に行くわけないでしょう。
カメラマニアというのは,「全財産」をカメラバッグに入れて持ち運び写真を撮っているような人ばかりではないのです。そしてまた,スマホに自撮り棒をつけて写真を撮っているような人よりも,私のように性能のよい小さなカメラを探しているカメラ好きの人は少なくないと思っているのですが,それは少数派なのでしょうか?
ということで,欲しいものが見つからないので,いくらニコンというメーカーにやる気がなくても,私は,今使っている時代遅れのニコン1J3を当分は使い続けるしかないのでしょう。修理に出したバッテリーの不具合も,原因不明のまますべて新品に交換になって戻って来たことですし…。
2017秋アメリカ旅行記-カウアイ島ノースコースト①
●野生化したブタ●
この日,当初の予定ではワイルア州立公園からウエストコーストを観光するだけのつもりであった。しかし予定していたコースをまわってきたのに,まだお昼であった。しかも今日は天気がいい。予報では明日からは天気が崩れるということだったので,予定を変更して,午後は明日行こうと思っていたノースコーストまで足を延ばすことにした。
カウアイ島はものすごく狭い。面積はわずか1,430平方キロメートルで,これは東京24区くらいのものである。周囲は145キロメートルでしかないから,1周すると1日がかりのハワイ島とはわけが違い,どこにも簡単に行くことができるのである。
そこで,私は州道50を海岸線にそって東に,まずは空港のある島の中心リフエまで走っていった。カウワイ島で一番大きい町であるリフエの観光は最終日にしようと思ったのでこの日は単に通過したが,ノースコーストに行く前に,リフエの近くに1箇所だけ立ち寄りたい場所があった。それがワイルア滝である。
「地球の歩き方」に載っている地図にはこの「ワイルア滝」と「シダの洞窟」が隣同士に書かれているが,このふたつはアクセス方法がまるで違う。
「ワイルア滝」は車で簡単に行くことができるのに対して,「シダの洞窟」のほうは,これも後に行くことになるのだが,こちらはワイルアの町はずれにあるマリーナから遊覧船に乗る必要がある。
「ワイルア滝」はリフエの町の北端にあってダイナミックさで知られるということだ。
カパアの町から「クヒオ・ハイウエイ」(Kuhio Hwy)を車で西に向かって走り,「マアロ・ロード」(州道583)に折れた先にあると書かれてあったので,その交差点を曲がった。道は狭くなって,日本の山道のようなところを登っていくようになった。滝に近づくにつれて,80フィート(24メートル)の高さから一気に滝つぼへと落ちる水流がたてる水しぶきの音が聞こえてきた。
世界最大の降雨量を誇るワイアレアレ山に降る雨がワイルア川へと流れ,この場所で2筋の水流となって美しい滝を作っているのだという。クヒオ・ハイウエイから少し奥まっていることもあって,周囲は樹木に囲まれた緑で静けさに満ちていて,滝があげる瀑布の音だけが周囲に響いていた。
私が登っていくときにその前に1台の車がのんびりと走っていた。やがてその車とともに駐車場に着いた。駐車場から少し降りたところに目指す滝の展望台があった。前の車から降りた人は持ってきたカンパスを設置して滝の絵を描きはじめた。どうやら常連さんらしかった。駐車場には他には1台の車が停まっているだけだった。
古代ハワイではチーフや戦士であったカネ(男性)たちが自分の勇気と勇敢さを競い見せつけるためにこの滝の上から滝つぼに飛び込む儀式が行われたという口承逸話がある。高さが80フィート(24メートル)に対して水深が30フィート(9メートル)というから,確かに勇敢さが要りそうだ。ただし,現在はさらに滝つぼの水位が減っているために滝つぼへの飛び込みは禁止になっている。
駐車場のたもとに髭もじゃの老人がいた。挨拶をするとこれを見ろといって指を差した。その指の先にいたのは彼が飼っているブタであった。
古くは先住人が持ち込んだ動物から開国後に世界中から持ち込まれた動物まで,ハワイ諸島には人の手によってさまざまな哺乳類が持ち込まれた。そのなかでも影響の大きなものがブタである。こうした動物は生きていくために欠かすことのできない食用であったが,今日のハワイでは野生化したブタが増え続け,ハワイ固有の植物を荒らしたり掘り起こした穴に水がたまるために蚊の発生を促すなどの問題があるという。環境保護団体は野生のブタを駆逐したいというのが本音であるが,先住ハワイ人の血を引く人たちの一部は伝統文化として放置しておくことを望んでいるのだそうだ。
「ワイルア滝」は,そんなのどかな場所であった。
今年も春が来た②-日本はどこに行っても人と車だらけ…
私だって,数年前までは春の京都に行きたいと,いつもうきうきしていたものです。
ピンクの花びらが神社の鳥居とマッチして,特に黄昏どきにはとてもよく似合います。琴の音を聞きながら夕食をとるなんて最高の贅沢でした。それは今でもそう思います。しかし,このごろの京都はちょっと人が多すぎです。これでは人の頭を見にいくようなものです。京都に限らず,この国はさほど美しいところもないので,少しでも魅力的なところは,どこも大渋滞を引き起こします。当然,車を停める場所もないし,ましてや,ゆっくり食事をするところを探すのもたいへんです。
私も,観光地というものはこんなもんだ,仕方がない,と思っていたころはまだよかったのですが,このところ,アメリカ本土を越えて,さらに世界の様々な場所に行くようになってみて,どうやらこの異常な人混みは尋常なものではない,と思うようになってきました。ただし,海外といっても,中国や東南アジアを旅行している人にこういう話をしてもまったく同意してもらえません。それは,おそらく(行ったことがないからわかりませんが)そうした場所は日本以上に人だらけ,ゴミだらけだからでしょう。私のいう海外というのは,オアフ島以外のハワイやアラスカ,それに,ニュージーランドにオーストラリア,フィンランド… そういった人の少ない圧倒的に大自然の広がっている場所のことです。
こんなすらばしい世界を知ってしまっては,どうもいけません。知らぬが花,だったのかもしれません。
そんなわけで,私は混雑する日本に全く興味をなくしました。昨日の新聞に黒部渓谷を訪ねるツアーの広告があったのですが,おそらく,そこだってシーズンには人だらけ,観光バスだらけでしょう。海外に目を向けてもツアーで行くことができるような場所は世界中からの観光客だらけなのですが,そういう場所はさけて,大自然を求めて個人で観光をすれば,まだ,落ち着いていて人と車の少ないところはあるものです。
よく海外旅行は贅沢だと思っている人がいるのですが,よほどの場所でなければ,海外へ行くというのはそれほどお金がかかるものではありません。名古屋から高知へ空路を使って往復すると最低でも30,000円ほどかかります。しかし,名古屋とホノルルを往復しても80.000円ほどなのです。フィンランドのヘルシンキやオーストラリアのブリスベンに行くのも同じようなものです。むしろ必要なのはお金よりも時間です。移動に時間がかかるから,最低でも6日ほどのまとまったお休みが必要になります。
いずれにせよ「働き方改革」というのなら,働いている人は,せめてお正月やお盆以外に年に1度は6日くらいはお休みがとれるようになるといいと思うし,退職した人はせっかくそうした貴重な時間を手に入れたのだから,元気なうちに動き回れるといいなあ,と私は思います。群れていてもしかたありません。
今年も春が来た①-いつ頃からこのすばらしい季節が…
今年もまた忘れずに春がやってきました。1か月ほど前は寒いほどだったのに,急に暖かく,いや,暑くなって,しかも,ずっと晴天で -残念ながらこの時期は満月で星は見にいけません- 桜が焦ったかのように満開になってしまいました。こんなに早く満開になってしまっては,入学式には散ってしまいます。新入生には気の毒な限りです。
このように,日本の春は,花が咲き,鳥が歌い,四季の中でも最もすばらしい季節です。いや,だったのです。
ここまで書いていて思い出したことがあるので,これからは少し昔話です。
私が小学生低学年のころの国語の教科書には,春の野に咲く桜や菜の花が描かれた絵がたくさんあって,都会に住んでいた私にはどこか遠くにある夢のようなところでした。そうした美しい絵が印象深く残っていて,それこそが私の日本の里山の原風景です。そうした場所がどこかにないものかとずっと憧れているのですが,今の日本には,どこに行ってもそんな風景に出会える場所など残っていません。
しかし,小学生の男の子にとってはそんな自然の風景などまったく興味がなかったから,当時は,そうした風景がいかに人のこころを和ませるものなのか,まったく理解できませんでした。
風景に限らず,こうしたことは他にもたくさんあります。いかに子ども扱いに慣れた,そして,子供のことがわかっているように思えるベテランの教師であろうと,所詮は大人なので,子供の興味など,本当はからっきしわかりはしません。大人には子供のこころはわからない。私は子供のころにすでにそう思っていました。
私の小学校のとき,担任の先生は3年間ずっと同じでした。その昔は6年間同じだったのが,さすがに6年間同じではということで,1年生から3年生までと4年生から6年生までの3年間ずつになりました。それでも3年間も同じだと,その先生の影響は絶大なものがありました。逆に,今は毎年変わるそうなので,それはそれで教師とのつながりは,あのころに比べればずっと浅いものです。
私の高学年のときの担任の先生は専門が国語でした。
当時,学研という会社に「学習」と「科学」という雑誌があって,それらは書店では買えないという流通で,学校で購読していました。私は実験器具などが付録にある「科学」のほうがずっと読みたかったのに,担任が選んで買っていたのは「学習」のほうで,それが不満でした。
このように,子供のころの純粋な興味を生かすも殺すもそれは周りの大人次第なのです。しかし,このことはあまり重要に考えられていません。子供だって,大人と同じくらい意志があるのです。日頃うそをついている大人が子供にうそをつくなといっても子供は信用しません。子供には「大人の事情」などど~でもいいことです。
さて,話を戻します。
春は確かに気持ちのよい季節です。しかし,今は,日本では,春になるとPM2.5やら黄砂やらで車はいつも砂だらけだし,空気はどこか汚いし,花粉症の人には,それに加えて,花粉の飛び交う季節でもあります。このすばらしい季節がこれほどまで過ごしにくい季節になってしまったのは,一体いつのころからでしょうか。
確かに「春霞」というように,昔から,春は霞のかかったような空に覆われる季節であったのでしょうが,このごろの空は,どうも昔の「春霞」とは違うようです。四季がある,というのが日本のよいところだったのですが,このごろは,春,夏,秋,冬,それぞれの季節になにがしかの不快なことが待ち構えているようになってしまい,これなら年中常夏のハワイのほうがずっと過ごしやすいと思ってしまいます。私にはそれがとても残念なことです。