●初体験の「B&B」●
いくらガイドブックを読もうとその場所を取り扱ったテレビ番組を見ようと,行ってみなければ本当のことはわからないのである。その結果,自分にとってとても過ごしやすいところだったり,憧れていたのに実際に行ってみるとそうでもないところだったり,あるいは,旅をしているときはさほどでなかったのに帰ってからしばらくして懐かしくなるところだったりと,場所によって異なる状況が生まれるのだが,私は自分でも行くまでわからなかったそうした不思議な感情が起きるのを一番楽しみにしている。
旅はあまりたくさんの予備知識をもたず,実際に行ってきたのちにその場所について詳しく調べてみてさらに知識が増して,その後に再び訪れる,というのが理想であろうと思う。それは旅に限らないことでもある。
本を読むという効用がよくいわれるが,文字によって得られた知識の危うさを説く人は少ない。しかし私は,文字による知識の危うさのほうを,近年はむしろ重視するようになった。このことはすでに「有明の月」としてこのプログに書いたことがあるが,私は学生のころからそうした文字による知識の危うさをうすうす感じていた。今はそれを確信をもって主張できる。「有明の月」とは,実際夜明けまで寝ないでいて明け方の月を見たという経験もないのに,「有明の月」をよんだ和歌の本当の気持ちは語れないといったことである。それと同様なのは,旧東海道を自分の足で歩いたこともないのに,古人の旅の苦しみはわからないとか,吉野ケ里遺跡の地に行ったこともないのに古代史を語れない,ということである。
「百聞は一見しかず」ともいう。
ゲームばかりやっている子供に眉をしかめる教師たちであっても,彼らが学校で教える学問が体験に基づいたものでなく,本の上で得た知識の受け売りだけであるなら,実はそれはゲームばかりをやっている子供と同類なのである。
さて,私は生まれてはじめてアラスカ州フェアバンクスの地に降り立って,空港でレンタカーを借りた。とりあえずフェアバンクスのダウンタウンに向かって走っていって,今日から3泊するホテルに行ってみることにした。
着陸する前に機内から見たアラスカはある種絶望的な大地だったが,空港を出て走り出した道路の両側に広がるこの風景こそがその絶望的な大地の生の姿であった。私は人混みがきらいだから,この種の雄大さは気持ちが落ちつく。さらに,フェアバンクスは小さな町だから,空港からわずかの距離でダウンタウンに到着できるのも好ましい。
ただし,ここでアラスカについて書いても,私には負い目がある。それは私がここでいくらアラスカについて語ろうと,それは恵まれた夏のアラスカでしかなく,おそらくはもっと過酷であろう冬のアラスカを知らないということである。これについて少しだけ言い訳をすれば,私はその後,冬のフィンランドに行ってマイナス20度を超える極寒を経験したから,冬のアラスカについてもほぼ同様の姿だろうと想像できることだけである。しかし,無知な旅人が冬にアラスカを訪れても,今回のように車を借りて雪の大地を駆け巡るようなリスクを冒すにはかなりの危険が伴うから,冬に行ったとしても,本当の冬のアラスカについて語る手段をもっていないことが悔しい。
空港からわずか数十分走っていくと,左手にフェアバンクスの小さな町が見えてきた。この町のダウンタウンは思った以上に小さく,歩いてまわれるほどであった。もし私がこの町に住んでいたとしたら,退屈するであろうか? それとも,この地の自然を友達として,毎日を過ごすであろうか? 逆に言えば,今の自分の日本での生活に退屈していないだろうか?
結局のところ,人が生きるというのは,自分が精神的に満ち足りることができるかということであって,物質的なものではないのだろう。
私の予約したホテルはフェアバンクスの町はずれの落ち着いた一角の古いマンション(邸宅)であった。ここはホテルではなくB&Bであった。私は以前からB&Bというものに泊まってみたいものだと思っていたのだが,期せずして,今回,それがかなったのだった。
◇◇◇
九州で日本人について考えた-吉野ケ里にて①
九州で日本人について考えた-吉野ケ里にて②
待ち出づるかな-「京都人の密かな愉しみ 月夜の告白」②
May 2018
第76期将棋名人戦第5局名古屋対局-前夜祭に行く。
第76期将棋名人戦第5局が2018年5月29日と30日,名古屋大須の萬松寺で実施されるというので楽しみにしていました。萬松寺は織田家の菩提寺で織田信長が父葬儀で位牌に抹香を投げつけた場所として有名です。
かつて愛知県では蒲郡の銀波荘というホテルで実施されるのが常でした。というよりも,第35期まで行われていた朝日新聞主催のころは名古屋で対局が行われた記憶がなく,その後,毎日新聞の主催に変わり,それまで毎日新聞が主催していた王将戦の対局場として使われていた銀波荘が名人戦の対局場となったわけです。
朝日新聞と毎日新聞の共同開催となってからは,対局場の公募がはじまったので,町おこしを兼ねて,地方のめずらしい場所での開催がはじまりました。そこで手を挙げたのがこの萬松寺だったというわけです。
生で対局風景を見ることはできませんが,前日の夜の前夜祭と当日の大盤解説会は参加したり,見ることができます。しかし私はそれほど関心があるわけではありませんでした。
それがなんという偶然か,1か月少し前,私がたまたま萬松寺に通りかかったその日がちょうどその前夜祭と大盤解説会のチケットの前売り開始日で,お寺に大きなポスターが張ってあったのを見て,前夜祭に行くことにしました。こんな機会はめったにあるものではないとそのとき思ったからです。
対局者が佐藤天彦名人で挑戦するのが時の人羽生善治竜王,という組み合わせが最高です。今期の順位戦は最後に6者が同星でならんで,まさかの羽生善治竜王に挑戦の目が現れたというのがドラマでもありえない出来事で,こういう盛り上がりになりました。
前夜祭は午後5時30分受付開始,午後6時開始ということで,会場は萬松寺の近くのローズコートホテルでした。私は午後4時過ぎに萬松寺に着いたのですが,ちょうどそのとき対局場の見分に現れたのが両対局者で,それを偶然目撃しました。
その後,見分を終えて,両対局者は歩いてホテルに到着,定刻にはじまった前夜祭パーティで,盛大な拍手に迎えられました。
パーティは型どおり,主催者の挨拶ではじまり,河村たかし名古屋市長が乾杯の音頭をとって,そのあとは写真を写したり,おしゃべりをしたりと,立食の食事をとる間も惜しく,楽しい時間を過ごすことできました。私も両対局者をはじめ,立会や解説で参加する多くの棋士の人たちとも写真を写したりおしゃべりをすることができました。
最後に抽選会,そして両対局者のあいさつがありました。抽選は惜しくも当たりませんでしたが,名人の色紙が当たった人から色紙を見せていただいて写真を写しました。
思えば今から46年も前のこと,第30期の将棋名人戦の対局者は大山康晴名人と升田幸三九段でした。これは私が最も記憶に残る将棋名人戦ですが,もし,そのころ,今の時代のように「ニコニコ生放送」や「AbemaTV」で中継があって,対局風景が見られたり,前夜祭があって,この両対局者と一緒に写真が写せたならどんなにすごいことだっただろうと思ったりします。しかし,この偉大だった昭和の大棋士が今の棋士のように気さくにふるまう姿なんて,私には全く想像できませんから,今の状況がとても不思議な気がするのです。
ともあれ,いい時代になったものです。
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53歳の名人誕生か?-升田幸三・生涯最後の大勝負
アラスカに行かなくちゃ②-2017夏アメリカ旅行記
●人の少なさが快適だった。●
このアラスカ旅行で私が最も印に残るのが,このフェアバンクスの空港に近づいたときの飛行機の機内から見た風景であった。
私はこの旅のあと,2018年2月に冬のフィンランドに行った。そのとき機内から雪に覆われた極北の大地を見たから,このときのアラスカ以上に雄大な風景をあとで見たことになるが,このときはまだそんなことは当然知らない。そして,この時点では,この悠久の大地こそがアラスカなのだ,と大いに感動した。もし冬にこれを見たら,おそらくこの地もまた真っ白な雪景色に覆われていて,さらに雄大なものであるに違いない。
いずれにしても,地球というのは,そして,自然というのはものすごいものである。こうした自然を知らない日本人が自然に対して敬意を払わないのもわかる気がするが,これではいけない。
やがて,機体はどんどん高度を下げていって,フェアバンクスの空港に着陸した。
私はこの旅を計画しはじめたころ,アンカレッジに降りてそこからフェアバンクスまでドライブして,テナリ(マッキンレー)を車窓から見ようと思っていた。しかし,計画を立てる時間がなかったことと,そうした旅程にしたときにさまざまな予約をするのが面倒だったこと,そして,とにかくアラスカに行くことができればそれで充分だと思ったこと,という安易さでフェアバンクスを往復するだけになってしまったことを,今にして少し後悔している。それは,アラスカというところは,簡単に行けそうで実はよほどの覚悟をしないと,再び行くことができるような場所でないからである。
若い人が旅をするときは,歳をとったら行くことが難しくなるような場所や,なかなか見ることが困難なことから先にした方がいいと思う。なかなか見られないというのはたとえばオーロラなどである。また,簡単に行ける場所というのは,ヨーロッパとかハワイといったように,日本から直行便で気軽に行くことができる場所のことであり,行くことが難しい場所というのは,アラスカのような,距離的に,あるいは時間的に遠い場所である。
着陸して到着ゲートに向けて飛行機が滑走路を走行しているときに機内からみたフェアバンクスの空港は,ものすごく広々としていた。アメリカ空軍の戦闘機がたくさん留まっていたのはこの空港が軍の空港を兼ねているからだろうが,それ以外はアメリカ本土の非常に混雑した空港とはまるで違っていて,ほとんど旅客機がいなかった。
アラスカ州はハワイ州ホノルルの空港のように,世界各国の航空会社の機体が勢ぞろいしているのとはまったく異なっていて,アラスカ航空とあと2~3社のデザインの異なる機体が見られるだけであった。それくらいしか人の行き来しかないということである。
ここは国内線だから,飛行機から出ると入国審査もなく,そのまま外に出ることができる。私は,これくらいの旅ならいつもは機内持ち込み荷物だけなのだが,今回は皆既日食を見にきたその帰りだから,そのための機材を入れたもうひとつの大きなカバンを持っていたのでそれを預けたから,バゲッジクレイムでそれが出てくるのを待つ必要があった。しかし,いつもは重宝する優先的に先に荷物が出てくるプレイオリティの黄色いタグがこのときはまったく不必要なほど,出てきた荷物は少なかった。
空港のビルにもまた,ほとんど人がいなかったから,空港内にあったハーツのレンタカーカウンタで予約しておいた車はすぐに借りることができた。空港から出た場所にレンタカーの駐車場があって,車はすぐに見つかった。アラスカとはいえ,夏なので寒いということもなかったし,そしてまたこの人の少なさが私にはとても快適であった。それにしても,アラスカの大地を踏みたいというだけの動機でやって来たこのフェアバンクスだったので,そこがどういうところなのか,不勉強な私には,このときはまるで予想ができなかった。
アラスカに行かなくちゃ①-2017夏アメリカ旅行記
●アラスカはどんなところだろう?●
☆11日目 2017年8月26日(土)
「2017夏アメリカ旅行記」の続きである。
この旅の目的は皆既日食を見ることで,8月16日に日本を出発した。シアトルで降り立ちアイダホ州に移動し,8月21日に快晴のアイダホ州ワイザーで皆既日食を見た。その前後は,シアトルで友人のEさんとメジャーリーグを見たり,フットボールのプレシーズンマッチを楽しんだりしたが,帰国を遅らせてアラスカに行った。
今回からは,その,シアトルから4日間の日程で出かけたアラスカ旅行について書く。
この当時,私が目指していたのはアメリカ合衆国の50州にすべて行くということであった。そんないわば「アメリカ合衆国50州制覇」という「熱病」に侵されていた私は,アメリカ以外にはまったく関心がなかった。そのことは今思うと滑稽でさえある。
世界にはアメリカ合衆国だけでなく,行く価値のある場所がたくさんあるからだ。しかし,今にして,そんなことをして本当によかったと思うのである。そうした旅を通して,私はずいぶんといろんな経験ができたし,今,アメリカ以外の国々を旅行するのにとても役立っているからだ。
「アメリカ合衆国50州制覇達成」はこのときの旅の前にすでに達成していたが,私には負い目があった。それは,50州を制覇したとはいっても,アラスカに行ったのはアンカレッジでトランジットをするために空港に降りたというだけで,ちゃんとアラスカ州を観光したことがなかったからなのである。そこで,今回シアトルに行ったついでに日本に帰るのを数日遅らせて,アラスカまで足を延ばしてみたというわけだった。
訪れたアラスカは,何度でも行ってみたいと思うところであった。しかし,日本からアラスカに行くのはかなり不便なのである。
一般に,アラスカ観光をする日本人の目的は,オーロラと,もうひとつはマウントテナリ(マッキンレー)であろう。そこで,そうしたツアーもたくさんあって,ツアーで行くのならチャーター便も出ているから,それほど不便でもなかろう。しかし,ツアーで行くとなるとかなり高価であるし,私のように個人で旅行をするとなると,まず日本からシアトルに行ってそこからアラスカに行くことになるから,ムダに遠い。
さらに,アラスカに行って得られる感動と似たものは,フィンランド,ノルウェー,カナダなどでも味わえるし,そちらに行くほうが便利だということを,私はその後に知ってしまったから,わざわざアラスカに行く気もなくなってきた。そこで,このとき思い切ってアラスカに行ってみて本当によかったと思うのだ。
8月26日,シアトル・タコマ空港から飛びたった私は,目的地のアラスカ州の中央にある町フェアバンクスをめざして,アップグレードされたデルタ航空のファーストクラスの窓際の座席で外を眺めて過ごしていた。
いつものように,シアトル・タコマ空港は混み合っていて,飛行機は長い時間離陸の順番待ちをしたのち,やっと飛び立ったのだった。離陸後,窓から見えるシアトルの街並みはいつものように美しかった。
アメリカの国内線ではファートクラスだけ食事が出る。私は,かつて搭乗の直前になってファーストクラスにアップグレードになって,すでに食事をすませてから乗り込んだので困ってしまったことがあったが,今回は,これも織り込み済みであった。
いつものように食事の前に飲み物の注文が来た。隣の女性がなにか凝ったものを注文していたので,私は興味をもって「Me,too.」と言ったら,こじゃれたカクテルが運ばれてきて困ってしまった。到着後私は車に乗らななければならないからアルコールは御免である。しかし,それは隣の女性も同じだろう。
さて,順調に飛行を続けて,次第に目的地に近づいてきた。私の興味ははじめて見るアラスカの大地であった。いったいどんな風景を見ることができるのであろうか? 私は期待で胸が一杯であった。窓から景色を凝視していた私が見つけたのは,虹のように丸い影のなかに,私の乗っている飛行機の機体の影が地上に光る姿であった。
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アメリカで再びキャンプをしよう①-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう②-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう③-2017夏アメリカ旅行記
アメリカで再びキャンプをしよう④-2017夏アメリカ旅行記
「ニッポン国道トラック旅」⑥-8号線は縁がなくもなかった
「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!」。今回はやっと「ブラタモリ」の裏番組でなくなりましたが,私はオーストラリア旅行の最中だったので,帰国してから録画で見ました。
この国道をトラックで旅する番組の第1弾は2016年5月7日に放送された「″1号線” 東京~大阪の巻」,第2弾は2016年11月5日に放送された「“2号線” 大阪~北九州の巻」,第3弾が 2017年9月30日に放送された「”3号線” 北九州~鹿児島の巻」,2017年10月14日に放送された第4弾は「”5号線” 函館~札幌の巻」,そして,第5弾が2017年12月9日に放送された「”4号線” 東京~青森の巻」でした。今回2018年5月16日が第6弾で「”8号線” 新潟~京都の巻」となります。
そうなると,飛ばしてしまった国道6号線と7号線が当然気になりますが,6号線は東京都中央区から太平洋岸に沿って宮城県岩沼市を経由して仙台市へ至る国道で,7号線は新潟市から日本海側に沿って青森市へ至る国道です。そのうち放送されるかあるいはこのまま飛ばしてしまうかは大人の事情でしょう。
国道8号線は新潟市から日本海側を金沢市を経由して琵琶湖の東側を栗東市を経由して京都市へ至る国道です。かつての北陸道を継承し,北陸自動車道,名神高速道路と並走しています。私は新潟市というところには縁がなく,行ったことがありません。そこで8号線も走ったことがないなあ,と思ったのですが,考えてみれば,琵琶湖の東側を走り金沢に至るところまでの国道8号線は何度も通ったことがあるのを思い出しました。そしてまた,少し前に金沢に行ったときに歩いた道路も8号線の歩道でした。
この道路,非常に景色はよいのですが,琵琶湖の北側からJRの北陸本線に沿う形で福井県敦賀に至るあたりが峠越えの難所なのです。特に冬場は大変です。かつてこのルートを走ったとき,わずか数百メートルの区間だけ雪が積もっていて走れず,そのわずかの区間を通るために吹雪のなか車を停めてチェーンをつけた思い出があります。こういうことだけは忘れないものです。戦国末期,柴田勝家が冬になるとこの地から出てこられなくなったわけが実感できるというものです。そしてまた,未だ行ったことがない新潟県の「親不知」だけは一度は訪れてみたいといつも思う場所です。江戸時代,この場所を参勤交代がとおるのにどれだけ苦労したかと考えると胸が痛みます。このように,日本の旅は歴史を知らないと何も面白くないのですが,この番組にはそれが欠けています。これは「ブラタモリ」にお任せ,というところでしょうか。
内容はいつものとおりでしたが,回を重ねるごとに番組が成熟してきました。結局のところ旅番組というのは人とのふれあいを描くことが一番大切です。
私は日本の旅はなるべくなら電車で行くものだと思っているので,必要がない限り渋滞だらけの道路を車で走る気にもなりません。自分で車を運転して走っても走るというより止まってばかりで楽しくないからからです。だから,この番組を見ているだけで,自分で運転しないで車に乗せてもらった気になるから,それで十分なのもお得感があります。しかし,風景に関しては,どれほど雄大だとか美しいとか紹介されたところで,所詮,日本のスケールでは,海外のそうしたものに比べれば大したこともないし,たかが知れています。そしてまた,もし,こうしたところに憧れて足を運んでも,どこもものすごく混んでいます。だから,実際に行かなくても見ているだけで十分で,それを再確認できるのもテレビ番組のよさかもしれません。あわせて,日本中どこも,一般国道は同じように走りにくそうな道路だということも再認識できます。
結局,こうした旅番組のよさは人との触れ合い,に尽きるわけで,その意味ではゲストもまた重要な要素を占めています。その点では「家族に乾杯」と同じです。今回はぐっさんとゲストとの波長もよく合っていて,特に楽しく見ることができました。そしてまた,日本のよさは,なんていっても食物だというものまた,いつもと同じことでした。
◇◇◇
「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
「ニッポン国道トラック旅」②-グルメこそ楽しみ
「高速道路トラック旅」②-日本にあるのは廃墟だけ?
幻の「ニッポン国道トラック旅」-自然に戻すことこそが…
「ニッポン国道トラック旅」③-懐かしき九州の道
「ニッポン国道トラック旅」④-おいしかった積丹のお寿司
「ニッポン国道トラック旅」⑤-結局日本はどこでも食物
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。⑨
長い長い十三峠の最後は西行塚でした。西行といえば,私は吉野山の奥千本にある「西行庵」を思い出します。こよなく花を愛した歌人「西行」が庵を結び,3年を過ごしたとされる場所です。
そんな奈良・吉野からからずいぶんと遠いこの地にも西行塚とよばれる場所があるのが,私には不思議でしたが,吉野の地を思い出して,なにかこころが暖かくなりました。
西行は平安後期の歌人,佐藤康清の子で母は源清経女です。西行は俗名を義清(のりきよ)といい,徳大寺実能(さねよし)の家人となり,また下北面の武士として鳥羽院に仕えましたが23歳で出家しました。出家の理由は,早くから近親者の急死にあって無常を感じたためとかいわれています。
地位も名誉も捨てて,さすらいの旅で一生を送るというのは当時でも並大抵のことではなかったのでしょうが,そうした自由さに後世のひとは憧れをいだいたのでしょう。その結果,全国にさまざまな遺構が残るのです。
十三峠を降りると,ようやく平坦な道になりました。中央自動車道の高架橋をくぐると,旧中山道は田んぼのなかをどんどんと進んでいき,今度はJR中央本線の踏切を越えて,恵那市の市街地に入っていきました。
木曽谷を進む国道19号線は,恵那市では市の南をバイパス化して,市街地を取り巻くように通っています。また,中央自動車道は恵那市の北側の山の麓を走っています。JR中央線だけが恵那市街を突き抜けて通っています。
現在の恵那市が大井宿です。江戸時代の大井宿は,JRの恵那駅よりも東側の,阿木川の橋を渡ったところにあって,昔のまま,6か所の枡形の道路とともに残っています。
大井宿はなかなか風情のあるところのように思えたので,私は,ここでおいしいおそばでもと思って,それを楽しみにお店の一軒どころか自動販売機すらなかった十三峠を,朝の9時から4時間かけて歩いてきました。
恵那市の市街地に差しかかったところに古風な感じに作られた喫茶店がありました。一旦はそこに入って休憩をと思ったのですが,おそば屋さんでなかったし,おそらくその先にもお店があるだろうと思ってやめました。しかし,気のきいたお店はその一軒だけだったこを後で思い知ってずいぶんと後悔することになりました。
やがて,JR恵那駅につながる道路に出たら,中山道広重美術館がありました。期待して館内に入りました。展示室は1階と2階にありましたが,ずいぶんと期待した割には,規模も大きくなく,私はがっかりしました。
旧街道には「広重ブランド」があって,この名を持ち出せばなんとかなる,というのが見え見えで,どこに行っても同じような美術館や博物館があるのですが,ここでなければ見られない,というようなものはこの博物館には皆無でした。
館内には喫茶店ひとつもなく,私は早々にそこを出て,大井宿の街並みの残る地域までJRの恵那駅を越えて行きました。
この宿場跡に設置された道路標示は,中津川宿から南に歩いてくる場合は非常にわかりやすい場所にあるのですが,私のように南から歩いてきた場合にはまるで不親切でわからないのです。町は枡形に道路がまがっているのですが,どこを曲がればいいのかもわからないし,この道路標示はずいぶんと凝ったデザインなのですが,それが災いし凝り過ぎていて,用をなしません。
この大井宿の町並みに今も残っていて公開されていたのはひし屋資料館という商家だけでした。しかも,多くの宿場跡にある種の博物館のほどんどが無料なのに,ここは有料でした。
大井宿は旧中山道の46番目の宿場です。江戸方から,横町,本町,竪町,茶屋町,橋場と5町がありました。それぞれの町は6か所の枡形によって区切られていて,現在もそのまま残っています。枡形というのは,敵の侵入を防ぐために,道が直角に曲がる桝のような構造になっていることをいいます。
今も残る格式高い本陣の門や,格子戸のある庄屋宅,うだつと黒壁の美しい旧家などが静かにたたずんでいて,当時のにぎわいを見せた大井宿の様子がしのばれるのですが,私には期待外れでした。
宿場のはずれまで行くと,街道は急坂を上るようになりました。そこにあったのが,ここもまた高札場を復元したものでした。このあたりまで坂を上って振り返ると,大井宿の街並みがよく見えました。旅人は大井宿を過ぎると今度は中津川宿に向かって,再び坂を上っていくことになるわけです。
それにしても,この大井宿は宿場の風情こそ残っていますが,食事をする場所すら一軒もありません。逆に,それだからこそいいという考え方もあるでしょうが,私はここで遅いお昼をと思って歩いてきただけに落胆しました。しかも,JRの恵那駅のまわりにすら何もないのです。仕方がないので,駅前の一軒の喫茶店に入りました。
恵那というからには,もっと大きな町を予想していただけにこれには驚きました。
食事を終えても,まだ2時過ぎだったけれど,すでにこの日は3万歩以上を歩いたので,帰宅することにしました。
駅の待合室で帰りの電車を待っていると,突然,大勢の観光客がやってきました。恵那駅は明智鉄道の始発駅でもあるのです。明智鉄道といえば,今放送されている朝ドラ「半分,青い。」の舞台である岩村を通る電車です。そこで,岩村からの観光客が恵那駅で乗り換えるために降りてきたというわけです。
この日本という狭い国では,休日ともなると大勢の人が同じような観光地に押し掛け混雑します。私はそれが嫌なので,そうした事態をさけて,人の少ない場所を探してはきままに出歩いているのですが,まさか,ここでそうした人たちに出会うとは思いませんでした。
今回の旧中山道第きまま旅は,こうして終わりました。よい1日でした。旧中山道を歩くのも悪くないなあと思いました。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑯
では今日はこの旅の最後に,写してきた写真をご覧ください。
1番目の写真はさそり座,いて座,へびつかい座あたりのもっとも天の川の濃い部分です。日本からも見ることができるところですが,南半球では天頂高く昇るので一段と美しく見ることができます。さそり座が天頂に輝いているなんて,日本では想像ができません。
へびつかい座ζ星のあたりには散光星雲があって,今回はそれを写すもの目的のひとつでした。この部分を大きく写したのが2番目の写真です。この散光星雲は大きく広がっている上に大変淡いので日本のような空の明るいところでは写真写りがよくありません。この淡い星雲の中にもしっかりとした構造があって,へびつかい座ζ星の少し上の東から西方向へと延びていく星雲部分は大変特徴的な形をしています。また,星雲の右を南北に走っている 暗黒帯も興味深い形をしています。この暗黒星雲の根元がさそり座のアンタレス,その左にある白い雲が「青い馬の首星雲」(Blue Horsehead Nebla)です。
3番目と4番目の写真は「マゼラン雲」です。この時期「マゼラン雲」は地平線に近いので,肉眼では思ったほど明るくは見えませんが,それでも,南半球へ行かなくては見られないこの銀河は南十字星と並んでわざわざ見にいく価値があるものです。
「マゼラン雲」(Magellanic Clouds)とは,銀河系の近くにあるふたつの銀河「大マゼラン雲」 (Large Magellanic Cloud = LMC)と「小マゼラン雲」 (Small Magellanic Cloud = SMC)のことです。ともに局部銀河群に属する矮小銀河で,「大マゼラン雲」と「小マゼラン雲」は互いには7万5,000光年離れています。
3番目の写真が「大マゼラン雲」で,かじき座とテーブルさん座にまたがってぼんやりとした雲のように見えます。太陽系からは約16万光年の距離に位置し,直径は銀河系の20分の1程度の小さい銀河(矮小銀河),質量は太陽の10×10⁹です。4番目の写真が「小マゼラン雲」で,きょしちょう座にぼんやりとした雲のように見えます。太陽系から約20万光年の距離に位置し,直径は「大マゼラン雲」の半分ほど,質量は太陽の6×10⁹です。ちなみに,天の川銀河の質量は太陽の2,000×10⁹,アンドロメダ銀河は太陽の1,230×10⁹です。
「マゼラン雲」は銀河系の伴銀河であると最近まで見なされてきたのですが,現在は,どこかからやってきた銀河で今たまたま銀河系の近くにあるというだけで,数十億年後には銀河系の引力を振り切ってどこかかなたに去ってゆき,再び出会うことはないだろうと理解されるようになりつつあります。
5番目の写真は「ηカリーナ星雲」です。
「ηカリーナ星雲」(Eta Carinae Nebula)はいくつかの散開星団に囲まれた大きく明るい星雲で,りゅうこつ座η星とHD93129Aという銀河系最大級の重さと光度を持つ恒星のふたつがこの星雲の中にあります。地球からは6,500光年から1万光年離れていると推定されています。「ηカリーナ星雲」は散光星雲としては最も大きく,オリオン星雲よりも4倍も大きく明るいものです。この大きな明るい星雲の周囲により小さな星雲があって「人形星雲」として知られていますが,これは1841年にりゅうこつ座η星が大きな擬似的超新星爆発を起こしてできたものだと考えられています。
そして,6番目の写真が今回ぜひ写したかった「ガム星雲」です。
「ガム星雲」(Gum Nebula,Gum 12)はほ座からとも座にかけて41度にもいたって広がる超新星残骸です。太陽系からおよそ1,300光年の距離にあります。暗くて識別することが困難な星雲であり,日本からは低緯度なのでうまく写せませんが,これもまた,南半球では天頂付近にあって簡単に写せます。この星雲は約100万年前に起こった超新星爆発の残骸が大きく拡散したもので,今も拡散していると考えられています。
7番目の写真は左上の淡い天体「パンスターズ彗星」(C/2016M1 PanSTARRS)と右下の淡い天体「バーナードの銀河」とよばれる系外銀河NGC 6822(Caldwell 57)を同じ画面に写したものです。
「パンスターズ彗星」は2016年6月22日,ハワイ・マウイ島ハレアカラ(Haleakala)にある1.8メートルPan-STARRS1望遠鏡で発見されたものです。現在9等星でいて座を動いていますが,40センチの反射望遠鏡を使って肉眼でも美しく見ることができました。また「バーナードの銀河」は棒状構造のみられる不規則銀河で,局部銀河群に属しています。1881年にアメリカの天文学者エドワード・エマーソン・バーナード(Edward Emerson Barnard)によって発見されたものです。
そして最後の8番目が天の南極を中心とした日周運動です。ぼんやりとしたところは「大マゼラン雲」です。
このように,日本では見られない,あるいは見にくい天体が南半球にはたくさんあります。それらを見るだけでも感動するのに,空が暗いのでひときわ美しく輝いているので,何度見ても見飽きるものではありません。また,日本で高価な機材を購入して苦労して写してさらに時間をかけてコンピュータで画像処理をする,などという苦労をしなくても,安価で小さな機材を持ってオーストラリアへ行けば簡単にこれだけのものが写せてしまいます。
こういった写真を写すことができると,次回もまた南半球に行って,別のテーマを決めてもっとすばらしい写真をたくさん写したいものだと,さらに夢が膨らんできます。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑮
6日目。帰国の日です。
早朝3時に目覚めました。私は起きたい時間を決めて眠ると,どんなに早くても目覚まし時計なしでその時間に目覚めます。それでもやはり起きられないのを恐れていて,iPhoneやiPadで設定をしていますが,使ったことがありません。しかし,万一起きられなかったら大事だという心配はいつもしています。海外に出かけるときは最終日が一番心配です。
外に出てみると星は見られるのですが霧っていました。これで諦めがつくというものです。今回は全ての夜に晴れましたが,到着した日,1夜目は晴れていたけれど露が多くてしかも寒い晩でした。2夜目も快晴でしたが,時折雲が出ては消えました。しかし,寒くもなく美しい星空が見られました。そして,3夜目はもっとも条件のよい夜になりました。4夜目は早く寝たので数分間だけ星を見ましたが,どうやらその後霧がでたようです。
部屋に戻ってかなり早い朝食をとり,コーヒーを飲みながら帰る支度をして,午前4時過ぎに車に乗り込みました。
オーストラリア深夜の国道はもう走りなれているのですが,気をつけなければならないのはカンガルーです。制限時速は100キロメートルですが,片側1車線の道路です。深夜は交通量が少ないので時速80キロメートルくらいで慎重に走りました。今回は1度カンガルーを目撃しました。
1番目の写真にあるように,オーストラリアの道路は街灯はなく,しかし,きちんと白線が引かれ,センターラインは黄色の蛍光板が埋め込まれていて光るので安全です。日本でも星見に行くために深夜の道路を走りますが,街灯が照らされてそれが道路に反射して,しかも,白線がなかったり消えていたりとめっちゃくちゃで,何を信じて走ればいいのかわからず,疲れるし危険です。これもまた日本らしさ満載です。
やがて夜が白んできて,日の出が見られました。かなり霧が多くて,場所によってはそれが深くなって幻想的でした。ずっと国道15を走っていって,イプスイッチを過ぎてブリスベンに近づくと車線の多い日本のような高速道路になります。ブリスベンの空港の標示があるのでそれにしたがって走るだけなのですが,それが,前回2年前のときもそうだったのですが,私の思っているルートとは違うのです。ともかく到着できるからよいのですが,どうもこのブリスベンという町の道路がくねくねとしていて,しかもバイパスがたくさんあって私にはよくわかりません。
やがて,ブリスベン川を跨ぐ大きな橋を越えると空港が見えてきました。空港到着は午前8時少し前でした。フライトの出発は午前9時55分。チェックインを済ませ,カバンを預け,オーストラリア政府観光局のアンケートとかに答えていたらすぐに搭乗となりました。
機内は空いていて,行きと同様に隣は空席でした。お昼間で時差もほぼないので眠る必要もなく,音楽を聴いていると日本時間午後7時前に日本に到着しました。この時間ではセントレアに行くフライトはないので,成田空港から東京駅までバスで行き,新幹線で帰っても寝るだけだから深夜バスに乗ってもどることにしました。
それにしても,ブリスベンから成田までよりも成田から自宅までのほうが時間がかかるというのも ??? という感じでした。
不思議なことに,帰国後,2か月前に行ったナラブライと今回のバラディーンの記憶がつながって,私の2018年のオーストラリア旅行は時空を超えて結びついてひとつになったのでした。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑭
3夜目は一晩中まったく雲もなく,寒くもなく,露も降りず,快適に星見をすることができました。そうなると写真を写すよりも自分の眼を通して,あるいは望遠鏡で直に星を見ることがとても楽しく,あっという間に時間が過ぎていきました。9等星の彗星も口径40センチの望遠鏡を通して見ることができました。
この晩写した写真とその説明は後日改めて,ということにして,今日は時間を進めます。
5日目。
夜は星を見てから寝るので遅く,したがって朝はゆっくりです。ここはこういった宿泊客が多いので,朝食は事前に部屋に準備されていて,好きな時間にとることができます。食事をして,コーヒーを飲んで,少しのんびりして,午前11時前に部屋を出ました。今日はまず,泊まっているバランディーンの町を少し散策して,その後でスタンソープまで行ってくることにしました。
バランディーンは小さな町です。タバーンというレストランが1軒,コーヒーの飲めるお店が2軒くらい,ホテルも2~3軒,それに郵便局とよろず屋さんしかありません。ただし,小学校はあります。町の周りはワイナリーが広がっています。
以前は鉄道が通っていたらしく,バランディーンには線路と駅の跡があります。バランディーンから南に向かってニューイングランドハイウェイを走っていくとずっと鉄道の線路がそれに沿ってつながっているのですが,ワランガラを過ぎたあたりで鉄道のレールが乗った橋が崩れているのが右手に見えるので,私はてっきり鉄道はすでに廃線なのだと思っていました。
ところが,私がバンディーンの駅のあたりに車を停めて散歩をしていると,なんと,蒸気機関車が4両の客車を引いて煙を吹いて駅に向かってきました! これはまるで映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」です。本当にびっくりしました。後で聞くと,なんでも観光用に月に1回ほどの割合で観光用に走らせているのだそうです。しかし,ワランガラの先はレールが崩れているのでどうなっているのだろうとさらに聞いてみると,機関車が走っているのは北のウォリックから南のワランガラの間だけなのだそうです。
そういえばこの日は土曜日なのでした。しかし,月に1回ほどだけの運行で,しかも,偶然ちょうど走っているときに私が駅にいたというのは,あまりに幸運なことでした。しかも,2か月前に緊急で帰国しなかったらこういう偶然も起きなかったわけです。
その後,スタンソープまで行って,公園で散歩して過ごしました。
帰りがけ,ガソリンスタンドに寄りました。オーストラリアではガソリンは自分で入れ終わったら店内に行ってお金を払うというシステムです。それは当然知っていてこれまでも何度か入れたのですが,この日に入ったお店の器械にディスプレイがついていて何かそこで入力をしなくてはならないのかと思って戸惑っていました。すると隣でガソリンを入れ終わった女性がやってきて親切に教えてくれました。この国の人はフレンドリーで親切です。
明日は9時55分のフライトで帰国します。バランディーンからブリスベンまでは3時間ほどかかるので,出発は早朝午前4時過ぎです。深夜のドライブになるので,いつカンガルーが飛び出てくるかもしれず,制限速度100キロメートルの片側1車線道路ですが80キロメートルほどで慎重に走ることにしているので,余裕をもって出発するのです。そこで,この晩は遅くまで星見をすることははばかれるのですが,この夜もまた快晴,これを見逃すのも惜しい気がしました。そこで,空の南極を中心とした日周運動を固定撮影で写してから寝ることにしました。
こうして,今回の南半球の星空を見る旅は4夜とも全て快晴となって,大満足で終了しました。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑬
旅の3日目。1日目は機内泊で2日目の早朝に到着したのでオーストラリア滞在2日目となります。お昼間はテンターフィールドに行き,帰りにギラウィーン国立公園に寄って午後3時過ぎに戻ってきました。
この日の夜も快晴で,日が沈んだころには,西空に月齢1の月と金星が輝いていました。日本とは月の欠けた場所が左右逆でちょうどフィルムの裏焼きのような感じです。この晩も深夜12時頃まで星を見たり写真を写したりしました。途中少し雲が出てきて心配したのですがすぐに消えました。この晩は昨晩とは違って暖かく,露もほとんどつかなかったのが幸いでした。この晩の空はひときわ澄み渡っていて,空には絶景の天の川を心置きなく見ることができました。
写した写真は次の晩に写したものと合わせて後日載せることにします。
時間は進み,翌日4日目。
お昼間は北に100キロ走ってウォリックへ行くことにしました。この町は近くの町のなかでも大きくて楽しい町です。昨年来た時はあまり見る時間もなかったので,今回はと思っていました。ウォリックの中心街には気の利いたレストランがたくさんあるのですが,事情があってレッドルースターというチェーン店にしました。
町の中心部に向かって走っていくと観光案内所を示す「i」 マークが目に入って「この先400メートル先」とあるのですが,その指示に従って走っていっても観光案内所はなくて,中心街の入っていってしまいます。案内所が見つからなかったのは前回も同様でした。
そこで今回は車を停めて観光案内所を探し回ること約5分,やっと念願の? 案内所を見つけてなかに入りました。親切な女性が暇そうにしていて,私がどこか見所はないかと聞いて教えてもらったのがクィーンメアリーフォールズという滝でした。
その場所もまた,前回ニューイングランドハイウェイをウォリックに向かって走っていたときに道路標示で見つけてそのときも行こうとしたのだけれどわからなくなったところでした。私は勘違いをしていて,クィーンメアリーフォールズ右に250メートルと読んでしまったのです。実際は,クィーンメアリーフォールズへ行くには250メートル先を右に回る,ということだったのです。
今回はもらった地図とカーナビを頼りに行ってみることにしました。思ったよりずっと遠くてウィリックからさらに西に20キロほども走りましたが,途中には牧草地帯が広がり,ニュージーランドのように美しく,荒れた大地ばかりだと思っていたので,私はオーストラリアを見直しました。
やがてこの滝のある国立公園に着きました。山に沿って周回道路が続き,いくつかの滝があり,特にクィーンメアリーフォールズにはキャンプ場が併設された駐車場に車を停めて,散策道を20分くらい歩いて目の前まで降りていくことができました。滝を過ぎてさらに行くと展望台があって。美しい景観を見ることができました。
午後4時過ぎにゲストハウスに戻って来ました。この日の天候も素晴らしく,昨日は少し雲が出たのですが,打って変わって,間違っても雲ひとつ出てくる心配すらないという状況でした。これで今回は滞在3日全て晴れたということになります。
バランディーンには個人が作ったピラミッドがあるのです。敷地は柵がしてあって目の前までいくことはできないのですが,柵の外の道路脇に車を停めてそこで写真を写すことができるので,夕食前にピラミッドまで出かけていって写真を写すことにしました。反対側には月齢2の三日月と金星が幻想的に輝いていました。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑫
オーストラリア滞在2日目,旅の3日目です。お昼間,テンターフィールドという町が私のいるバランディーンから南に30分程度行ったところにあります。前回行ってみてこの町が気に入ったので今回も行ってみることにしていました。
私の宿泊したゲストハウスからは車で30分から1時間くらい走ると,北にはウォリック,スタンソープ,南にはワランガラ,テンターフィールドといった,日本人の観光客には無縁の素敵な町があります。こうしたオーストラリアの小さな町は,気候も厳しくなく,ゆったりと時間が流れ,気持ちが落ち着きます。2か月前に行ったクーナバラブランやナラブライも同様でした。
オーストラリアの人口は約2,400万人で面積は日本の約20倍です。ちなみにニュージーランドやフィンランドは共に人口が約500万人で面積は日本の0.8倍,カナダは人口が約3,000万人,アメリカ合衆国は人口が約3億3,000万人もあって,カナダとアメリカ合衆国の面積はオーストラリアと同じくらいです。
そこで,アメリカ合衆国に比べると人口がその10 の1もないオーストラリアは,その大きさを持て余しているように感じます。シドニー,メルボルン,ブリスベンといった大都会は別として,一旦郊外に出てしまうと悠久の大地が広がるだけです。さらに,国立公園はたくさんありますが,アメリカほど変化に富んだ地形はあまりありません。しかし,オーストラリは最大の特徴は星空が美しいことで,これは世界一です。
連日の晴天で夜は忙しいのですが,お昼間は特にすることがありません。そこで,私は南に行ったワランガラやテンターフィルド,北に行ったスタンスロープやウィビックといった美しい町まで散歩に出かけるのです。このあたりにも国立公園がいくつかありますが,アメリカの国立公園とは違って閑散としてます。昨年は大張り切りで行ってみたのですが,けっこう大変でした。でも岩山を頂上まで登りきると雄大な景観が楽しめます。
オーストラリアに来て私が思うのは、この国で生きる人の楽しみは日本人の楽しみとは全く違うのではないかということです。というよりも,日本人が生まれて以来ずっと学校や家庭で習うことというのは,日本以外の国に生まれた人が習ってきたこととは何か決定的に違うように思うのです。私は住んだことがないので感覚的なものですが,それはおそらくこの国に1年くらい生活してみれば実感としてわかることでしょう。
私の周りに,オーストラリアに憧れてやってきて,オーストラリアで実際に生活をしているうちに日本に帰らなくなってしまった人が何人かいます。そうした人たちの姿からも,実際そうなのだろうと思うのです。
日本人は自分の生活から仕事を引いたら何が残るというのでしょう。私はこの国に来るたびにそんなことを思います。いくら仕事が生きがいと強がっていても,所詮フリーランスでなければ,国や組織の奴隷のようなものでしかありません。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑪
昨年の6月にはじめてここに来てからまだ1年も経っていないのに,何かそれがものすごく昔のような気がしました。そのときははじめて来たということでさまざまな思い入れがあったのですが,歳をとったせいなのか,いろんなところへ行きすぎたせいなのか,昨年の自分がまぶしいくらいです。
2か月前に来たときはいよいよ今日からゲストハウスに行く,という日に帰国しなければならなかったのですが,天気はずっと快晴でした。それが悔しかったのですが,幸い,今日からの天気予報も快晴です。
今回持ってきた撮影道具は昨年と同じですが,あれから使い慣れたので,もはや戸惑うこともありません。機材は慣れが必要なのです。露出時間が少なくても星は動いていくので,星の写真を点像に写すには赤道儀が必要です。しかし,重たいものは持っていけないのでビクセンのポラリエというポータブル赤道儀を使っています。極軸をしっかり合せないと意味がないので,極軸望遠鏡が組み込まれてあります。しかし,北極星というのはあっても南極星というものはないので,南半球では慣れていないと極軸合わせが大変です。いろいろ勉強して,きしちょう座にある小マゼラン雲の近くにあるみずへびβ星からすぐの場所にあるはちぶんぎ座の3つのくっついたようなγ星を見つけ出してそれを極軸望遠鏡に入れてしまえばあとはコツさえつかめば難しいものではないということがわかりました。実際やってみると非常にうまくい きました。
カメラもレンズも前回と同じものを持ってきました。カメラはキヤノンのEOSX8iを散光星雲が写るようにIRカットフィルターを天体写真用に換装した改造カメラです。レンズは,ニコンの対角魚眼と広角の35ミリ,それに加えて2か月には荷物が多くて持ってこられななかったタムロンの90ミリマクロレンズを昨年同様今回は持ってきました。これらのレンズはニコンマウントなのでアダプタを使ってキヤノンのマウントに合わせてあります。
赤道儀の稼働と夜露よけ用のヒーターの電源はANKERのPowerCoreを使っていますが,今回はPowerCoreを2個持ってきました。この時期はものすごく露が降りるので夜露よけのヒーターは必需品です。昨年バッテリーが消耗して困った経験があるので予備のつもりで2個目を用意したのですが,特別参加のステラナビゲーターをインストールしたiPad mini 用の電源としても重宝しました。
では,この晩に写した写真をいくつかご覧にいれましょう。
上から6番目の写真が南の地平線付近の天の川です。マゼラン雲も見えます。この付近の星空が日本では見られないのです。7番目の写真はηカリーナ星雲です。ηカリーナ星雲は地球から6,500光年から1万光年離れているいくつかの散開星団に囲まれた大きく明るい星雲です。天の川銀河で最大級の重さと光度を持つふたつの恒星が星雲の中にあります。この星雲は肉眼でもとてもよく見えます。
8番目はさそり座,9番目はいて座のあたりを写したものですが,天の川が見事過ぎて星の並びがわかりませんが,天の川に宝石をちりばめたような散光星雲や球状星団,散開星団がきれいです。そして最後の10番目はガム星雲を写したものです。昨年取り忘れたので,今回このガム星雲が最も写したかったものです。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑩
午後7時55分離陸。飛行機が離陸状態から脱してから出てくる遅めの夕食をとったらすぐに眠くなってそのまま寝入ってていたら,客室乗務員に起こされたときはすでにオーストラリア大陸の上空でした。着陸1時間前に朝食が運ばれて,やがて現地時間午前6時前に着陸となりました。時差はわずか1時間で時差ぼけもありません。これではまさに夜行バス状態です。
日本とは季節が逆のブリスベンは晩秋なのですが,早朝のが気温は14度くらいありました。前回キャセイパシフィック航空で来たときはもう少し到着時間が遅かったので空港で入国をするのにごった返していたのですが,今回は早朝だったので空いていて,すぐに入国ができました。レンタカーを借りていよいよ出発です。
3月に来たときには帰りの最後の1日で行こうと思っていたのに緊急帰国したために行くことができなかったブリスベン郊外にあるローパイン・コアラサンクチュアリィというコアラがたくさんいる動物園へ,まず向かいました。
レンタカーにはカーナビがついていたのが幸いで,土地勘のないブリスベンでは地図だけで行くことができるとは思えないところにあったのですがすんなりと到着しました。
通勤時間で,郊外に向かう方の私の走っていた道路は大丈夫だったのですが,ブリスベンのダウンタウンに向かう方の車線は大渋滞をしていました。これはランアバウト(ロータリー)が原因なのです。通行量の多い主要道路にいまだにランアバウトが残っているものだから1台ずつランアバウトで一旦停車しなくてはならないのでこういうことが起きてしまうのです。
動物園には開園時間午前9時より1時間も早く到着したので,開園時間が来るまで近くにあるマウントクーサ展望台に行ってみることにしました。ここはブリスベン郊外の高台にあって,展望台からはブリスベンの美しい街並みを見渡すことができました。この展望台の近くには植物園やプラネタリウムもあるそうですがパスしました。
再び動物園ると開園まで後数分でした。少し待ってチケットを買って中に入りました。
ここにはコアラ以外にもカモノハシとか,いろんな動物がいますが,特にお目当てのコアラはなんと200頭近くもいるそうです。コアラを抱いて写真撮影ができるということだったので,それをすることにしました。私にあてがわれたのは5歳のオスのコアラでした。
お昼をとってから動物園を出て,目的地のバランディーンにあるゲストハウスに向かいました。午後4時くらいにまでに到着すればよくて急ぐ旅でもなかったので,途中で休憩を繰り返しながら行きました。それでも午後3時過ぎに到着しました。
今日からここで4泊して南半球の星を見るのです。幸い天気予報では滞在中ずっと晴天ということなので,今晩からの星見が楽しみです。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑨
今回は名鉄も順調に動いていて,セントレア・中部国際空港から乗ったANA便も定刻に成田に着きました。それにしてもいつも思うのは,日本の国内線はたかだか1時間くらいのフライトなのにプレミアムの優先搭乗もないでしょう,ということです。時間と手間がかかるだけでまったく意味がありません。優先搭乗は体の不自由な人と小さな子供づれだけを考慮すればいいのです。そしてまた日本人のバカ丁寧な対応がより搭乗を遅らせます。
到着した成田空港第1ターミナルは相変わらずわかりにくくボロいです。これが日本の首都の空港かと思うと悲しくなります。
ANAは第1ターミナル,カンタス航空はは第2ターミナルなので,ターミナル間をバスで移動しなければなりません。今は知っているからいいけれど,知らなかったときはわけがわからず迷いました。日本人の考えるおもてなしとかいうバカ丁寧な事のほとんどすべてはどうでもいいことばかりで,肝心なことはすべて抜けているのです。第1ターミナルの案内板の標示は第1ターミナル間を移動する人だけを対象としているので,私のように航空会社が別でターミナル間を移動しなければならない人のことなんて1%も考慮されていません。そもそも第1ターミナルと第2ターミナル,さらに第3ターミナルがあるといったことすらどこにも書かれてありません。それに加えて,ターミナル間を移動するバスの乗り場の不便なこと。しかも,移動距離の長いこと。専用の道路すらありません。海外の空港はターミナル間の移動はどこも鉄道が走っています。売店を作る以前にターミナル間の鉄道を作るべきなのです。これぞ日本人らしさ満載です。旅行をするたびに私はそれを再認識します。
セントレアから成田まで乗ってきた機内からは知多半島や浜名湖,大井川,伊豆七島などがきれいに見えましたが,今回,富士山は霞んでいてあまりよく見えませんでした。条件がよければ乗ってから降りるまでずっと見えているのですが,日本の空はに日に日に汚くなっているようです。
成田空港の第1ターミナルは非常に混雑しているのですが,第2ターミナルはガラガラで,セキュリティを通過するのは非常に楽です。この空港で快適に時間をつぶすコツはセキュリティ前のレストランや売店でうろうろするのではなく,早めに出国ゲートを抜けてしまい,搭乗口までのコンコースにあるふかふかのソファをキープすることなのです。ここのソファとカフェテリアはラウンジに行くよりもずっと快適です。
私はソファを占拠するのに成功して,寝っ転がってインターネットで遊んでいたらすぐ搭乗時間間近になってしまいました。意外と知られていないのですが,第2ターミナルの搭乗ゲート前には吉野家があります。ここの吉野家は一般のメニューと異なっているのですが,ちゃんと牛丼もあります。すべての物価が高い空港内のレストランですが,ここでは,一般よりは高いけれど,わずか420円で牛丼が食べられるのです。ということで,予定通り軽く牛丼の夕食を済ませて,機上の人となりました。
特別編・2018春オーストラリア旅行LIVE⑧
オーストラリアに出かけたのに,滞在わずか3日,ホテルで眠ったのが1晩だけという状況で,それ以後の予定をすべてキャンセルして緊急に帰国したのが2018年3月12日でした。あれから様々なことがあった2か月が過ぎ落ち着いたことと,ちょうど新月で星空が見られるので,5月15日から私はそのときに中断した旅の続きをすることにしました。
前回は,成田まで行くのが面倒で,どうせ乗り換えるのならセントレア・中部国際空港からキャセイパシフィック航空を利用して香港で乗り換えてオーストラリアのブリスベンに行ったほうが便利で楽だと思ったので,往復ともその予定で出かけました。しかし,中国語と英語のごちゃまぜの機内,中国語なまりのひどい聴きとりにくい客室乗務員の英語,混雑してセキュリティのめんどうだった香港の空港,さらには,遠まわりなので時間がかかることと,期待に反して,まったく快適でありませんでした。
帰りも同じルートを予定していたのですが,緊急に帰国することになってしまったのでキャンセルして,ブリスベンから成田までカンタス航空の直行便で帰ったら,ずっとこの方が快適だということを納得したので,今回もまた,以前までのように,セントレアから成田まで行って,成田からカンタス航空の直行便でブリスベンに行くことにしました。セントレアから成田までは,探しに探してANAの格安航空券を手に入れました。
セントレアからブリスベンまで直行便があればオーストラリアへ行くのがどれほど便利かと思います。そういう意味では,名古屋からは,セントレアから直行便のあるフィンランドのヘルシンキは近いところです。
さて,今回の旅は,前回の続きということで,緊急帰国したためにキャンセルしたゲストハウスで南半球の星を見ることだけが目的です。
これまで私はアメリカを中心として,世界中のさまざまなところに出かけましたが,結局のところ,私にとって魅力のあるところ,そしてまた,私がしたいことというのは,オーロラを見ることと南半球の満天の星空を見ることだということがわかりました。特に,南半球の美しい星空を知ってしまった今となっては,日本の汚い星空にはまったく興味がなくなってしまいました。今でも一番に思い出すのは,前回緊急帰国したときにナラブライの町から空港のあるブリスベンに向けて深夜に700キロの道のりをドライブしていたとき,小休止で車から降りて眺めた,この世のものとも思えないほどの星空でした。
南半球の星空は最高です。まさに宝石をちりばめたような南十字星あたりの星々やマゼラン銀河は日本では決して見ることがかなわないものです。とはいえ,私がはじめて南半球で「満天の」星空を見たのが,今からわずか1年と半年ほど前だったのを考えると,こんなことができるようになったことが夢のようです。
では行ってきます。晴れますように。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。⑧
「国境」(くにさかい)とはよくいったものです。旧中山でも,瑞浪市から恵那市に入ると急に雰囲気が変わりました。このように,同じ街道を歩いているだけなのに,突然何か違う感じになるというのもまた不思議なものです。アメリカでも州を越えると急に風景が変わるのですが,それと同じような感じでした。
地図の上で人工的に定規で引いて境を作った場所は別として,人間が自然に作った境界というのは,そうした違いから自然発生的に生まれたものであるらしいのです。私が今回十三峠を歩いて一番印象的だったのはそのことでした。
さて,この長く険しい十三峠歩きもいよいよ最後のステージになってきました。街道を歩いている分には未だ森林のなかを歩いているだけなのですが,どうやら,次第に「現生」に戻ってきた,つまり,人の住む住宅地に近づいてきたようです。
私はこのあたりにあった「ちんちん岩」という史跡を見損ねたことに気づきました。再び戻るのも大変なのでそのまま先に進みましたが,私はいつかまたそこに行くことがあるのでしょうか?
ちんちん岩というのは深萱立場の手前の西坂を終えた場所にある西坂という碑のある反対側の民家の倉庫の手前の小道を30メートルほど入ったところの墓地の奥まったところにある少し大きめの墓石の前にあります。たたくとかなり甲高い音でチンチンとなることからこの名がついたのだそうです。
深萱立場をすぎ,念仏坂を上りきると,まもなく紅坂の石畳にさしかかりました。坂に入るとすぐ,うばが茶屋跡の標識があり,それを過ぎたところに,花崗岩が風化してぼたんのように見えるぼたん岩がありました。
直径5メートルほどもある岩の表面が薄く層になって幾重にも削られていてぼたんの花のように見えることから「ぼたん岩」といわれているそうです。
ぼたん岩を過ぎ,坂をのぼりきると,紅坂の一里塚が現れました。この一里塚は地元の保存会によってきちんと整備されていて,県の史跡にもなっていました。ここからは江戸に89里,京都に45里です。
この一里塚の先は田園が広がっていました。田園では農家の人が田植え前の準備に忙しそうでした。急に現実に帰ったような気がしました。
のどかな田園に沿ってしばらく行った所からは,田園越しに権現山が見渡せました。 さらにしばらく歩いていくと四谷へ入っていきました。四谷には岩村へ通じる殿様街道との追分もあり,ここにもまた高札場がありました。
さらに進むと,乱れ橋にさしかかりました。この橋のかかる小川は, 江戸時代には石も流れるほどの急流でした。そこで,荷駄を積ぶために,宝暦年間に飛脚たちが出資して橋を架けました 。橋は,馬1頭につき2文ずつ徴収したこともあった,つまり有料道路であったと書かれてありました。
乱れ橋を渡ったところから続くのが,最後の難関・乱れ坂といわれる急坂でした。江戸時代には,この地で大名行列が乱れ,旅人の息が乱れ, 女の人の裾も乱れるほどであったということです。
坂を上りきると街道から右手に少し脇道に入ったところに首のない地蔵が立っていました。 昔,ふたりの中間がここで休憩しているとき眠ってしまい,ひとりが目覚めると,もうひとりの首が切られていました。怒った中間は黙ってみていた地蔵様の首を切り落としました。それ以来,この地蔵様はどうしても首がつながらなかった,という伝説が残っているものです。
そこからさらに進んでいくと,左手の丘の上に姫御殿跡がありました。この場所は祝峠といい,この丘に登ると見晴らしがいいので旅人にとって格好の休憩地となっていました。 辺りにあった松には松かさが多くつくので,子持ち松といいました。子持松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため,子と孫が続いて縁起がよい場所といわれていました。そのため,お姫様の通行のときなどにここに仮御殿を建てて休憩されることが多かったといわれるのが姫御殿跡のいわれです。
姫御殿跡から600メートルほど進んだ右手には槇ケ根の追分碑が立っていました。中山道を上街道といい,ここで分かれて下る道を下街道とよびました。 下街道は竹折,釜戸から現在の土岐市,多治見市を経て,名古屋へ通じている街道です。現在,その道は国道19号線となっていますが,幕府はこの下街道を通ることをよしとせず,たびたび禁令をだしたのですが。それでも人は従いませんでした。
庶民派したたかで,無理やり決めたような規則は意味を成しません。
その先に広場がありました。そこが槙ケ根立場茶屋跡でした。江戸時代の末ごろ,ここには槙本屋, 水戸屋,東国屋,松本屋,中野屋,伊勢屋などの屋号を持つ茶屋が9戸ありました。 多くの人がここでひと休みしてはまた旅立っていったといいます。
また,茶屋のあった所には伊勢神宮遥拝所跡もありました。伊勢神宮参拝の人はここで中山道と分かれて下街道を西へ行ったのですが,伊勢までの旅費や時間のない人はここで手を合わせ遥拝したといいます。
槙ケ根立場茶屋跡からさらに1キロメートルほどで,槇ヶ根の一里塚に着きました。この一里塚が十三峠最後の一里塚です。すでに書きましたが,両脇の塚が10メートルも離れているというのが,この塚を有名なものにしています。
やがて,右手の眼下に西行の森が広がってきました。石畳の坂の途中には西行塚がありました。西行がこの地で亡くなったという伝説が古くからあり,これは,歌聖西行法師の供養のため造られたといわれているものです。小さな塚の上には高さ1.4メートルの五輪塔が立っていました。
2017秋アメリカ旅行記-帰国③
●スーパームーンの月が海に反射して●
隣の席は今回も空いていたので,私は2席を独占していた。ハワイからの帰国便は西向きに飛ぶので,地球の自転に逆らっていて,しかも,飛行機の速度は約800キロメートルから1,000キロメートルで地球の自転速度1,200キロメートルより遅いので,相対的には進んでいても,絶対的には少しずつ後ろに下がっていくことになる。しかも,ハワイ便は赤道に近くジェット気流の影響をもろに受けるから,帰りの時間のほうが行きよりも速度が出ず,ずっと長くかかる。
したがって,窓から見たときの太陽の位置はほとんど変わらず,時間も過ぎず,ずっとお昼のままであったが,飛行機が少しずつ後ろにさがっていくうちに夜のとばりに引き寄せられて,機体は次第に地球の影に入っていって,日が暮れてきた。ちょうどそのころに,日本の陸地が見えるようになった。
まず,房総半島の輪郭に沿ってもののすごい灯かりが見えるようになった。私は,なんだこれは,と思った。
以前,池上彰さんが,朝日新聞に,北朝鮮の夜の暗さと韓国の明るさを比較して,夜空が明るいのが文明の象徴のような文章を書いていたが,それはまったくの間違いであり,私は同意できない。確かに電力事情の悪い北朝鮮の夜は明るくしようとしてもできないだろうが,たとえ明るくできたとしても,夜を明るくして空に向かって光を放つことが文明の証ではない。特に,日本の夜景は常軌を逸している。
やがてさらに明るく眩しい東京の上空を過ぎると,それでも次第に地上は少しは暗くなっていった。そのころ,眼下に雪をかぶった富士山が暗闇に浮かび上がって見えるようになったのだが,おそらく,そのとき乗客の中で窓から富士山が見えているとわかっていた人はほとんどいないだろうと思った。
富士山の上空をすぎると,私は飛行機がどこを飛んでいるのかわからなくなったが,日本の地理を頭に描いてみると,おそらくそこは静岡県の上空あたりだったのであろう。山々に挟まれた谷あいに沿って眩しいほどの光の帯が延々と続いていて,日本の夜空は,たとえどんな山奥の上を飛んでいても。地上はまったく暗くならないのであった。
そのうち,三河湾の輪郭がはっきり見えるようになってきて,飛行機の着陸が近づいたのがわかった。
ちょうどこの日はスーパームーンで,三河湾には煌々と輝く月の光が海に反射して,幻想的なシルエットが浮かんで見えるようになってきた。こうした風景が見られるのは,満月でありしかもちょうどそのときに飛行機に乗っているときだけだから,きわめて珍しいことであろうと思った。
次第に飛行機は高度を下げはじめ,やがて,セントレアの滑走路が見えてきた。
定刻に着陸した。扉が開いて,私はカバンを引いて一番に機内から出て,入国ゲートを混まないうちに大急ぎで通り過ぎた。私は荷物を預けていなかったので,バゲッジクレイムを素通りし,さらに税関で書類を渡して通過して,着陸10分後くらいには,すでに電車に乗り込んでいた。これでは旅行というよりまるで通勤だな,と思った。
2017秋アメリカ旅行記-帰国②
●ラウンジは13番ゲートの前にある。●
1時間遅れでホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港に到着した。
ここで私は間違えた。
私の考えていたシナリオは次のようなものであった。お恥ずかしい話だが,これほど多く飛行機を利用しているのに,私はいまでも空港のシステムがよくわからない。
前回,マウイ島に行ったとき,今回と同様に,ホノルルからマウイ島まではハワイアン航空を利用し,ホノルルからの帰国便はデルタ航空だった。ハワイアン航空では荷物を預けると別料金が発生するので機内持ち込みにしたが,ホノルルでデルタ航空の帰国便にチェックインをして,その際にカバンを預けるつもりであった。私はカバンを預けなければならないチェックインは,一旦空港を出てチェックインカウンタに行く必要があると思っていた。しかし,外に出なくても,そのままコンコースを通ってデルタ便の搭乗ゲートでチェックインをすることができるのだった。
そこで,今回もまたそうしようと,私は,今度は空港内のコンコースを歩いて,帰国便の出るデルタ便の搭乗カウンタに行ってみたのだが,まだ時間が早すぎて係員がいなかった。そこで,しばらく時間を潰そうと,デルタ航空のスカイクラブラウンジに行くことにしたのだが,ラウンジが見つからないのだった。
・・・・・・
ホノルルのスカイクラブラウンジは13番ゲートの前にある。
・・・・・・
これを私はすっかり忘れていた。次回来るときは忘れないようにと,自分のためにここで太字で記しておくことにする。
このラウンジは2年まえに新設されてこの場所に移動したものであって,空港にあった案内板には古い場所が書かれてあったのだった。それを知らず案内板に書かれた場所に行ってもラウンジがないものだから迷っているうちに,私は間違えて空港を出てしまった。そこで,カウンタでチェックインを済ませたあとで,再びめんどうなセキュリティを通って空港に入りなおす羽目になってしまったのだった。
このホノルル空港でのセキュリティのひどいところは,私はゴールドステイタスにもかかわらず,係員の指示が悪くて少しも優先になっていないことであった。おまけに,私の並んでいた優先ラインに,これからフライトに向かう客室乗務員が一挙に大量に押し寄せたために彼らが優先されて,さらに動かなくなったことである。
私は,こうして,通る必要もなかったセキュリティを通る羽目になったことで自分に憤っていたのに加え,さらにこの状態になって,本当に嫌になった。
今回の旅は,何から何までテンションがあがらない。来る時の異常なまでのセキュリティの厳しさ,カウアイ島での天気の悪さ,そして,帰りの空港での不手際と,まったく楽しくない旅になってしまったのである。
それでもどうにか再び空港に入って,やっとのことで見つけたラウンジに入った。そこでスタッフにこの場所がわからず迷ったと言ったら,スタッフが「どうしてこんなにわかりやすい場所がわからなかったのですか?」と言われて,再び頭にきた。それはそれとしてというか,その腹いせにというか,ラウンジでたらふく朝食兼昼食を食べて,それまでの憂さを晴らしたら,今度は,機内食が食べられなくなった。
帰りの座席も行きと同様にずいぶんと空いていたから,今回も当然コンフォートにアップグレードされて,行きと同じように,ファーストクラスのひとつ後ろの足が届かないくらい広い座席を自分で指定して座った。ホノルルから名古屋までは実質の飛行時間は8時間43分である。お腹がいっぱいで箸が進まない夕食を眺めながらなんとなく外を見ていたら,やがて,眼下には,気持ちが悪いほど眩い日本の夜景が見えてきた。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。⑦
権現山の一里塚を過ぎて,全長が80メートルあまりあった樫木坂の石畳を過ぎると,ふたたび土の道にもどりました。この日は天気がよかったから問題はなかったのですが土の道では雨が降ると大変です。
次にあったのが炭焼立場とよばれるところでした。そして不動明王像,巡礼供養塔,丸彫りの馬頭観音など,当時の苦労がしのばれます。
民家だとおもったのは作業小屋で軽トラもあったのですが,ここまでどうやって来るのだろうかと思いました。この作業小屋を過ぎると再び人気のない街道にもどりました。
このあたり,大湫宿から歩いてきても大井宿から歩いてきても,いやになってしまうような場所です。木陰が美しいので,それには癒されるのですが,木々が生い茂っているので景色もほとんど見えません。
樫木坂のあとは引き続き,五郎坂,鞍骨坂,権現坂,新道坂と続きました。ここで瑞浪市を過ぎて,ついに恵那市に入りました。
市の境に「中山道」という大きな碑が建っていました。そして,行政区分が変わることで街道の案内板も少しデザインが変わりました。
坂はこれでは終わらず,さらに茶屋坂,三条坂,西茶屋坂と続きました。十三峠には多くの茶屋跡がありましたが,そのすべては立て札だけが残っていました。おそらく,当時あった茶屋というのは,茅葺の小さな小屋程度のものだったのでしょう。そして,多くの旅人がここでわらじを変えたり,茶を飲んで一服したのでしょう。
さらに歩いていくと,今度は多くの家並みが見えてきました。ここが深萱立場でした。 深萱立場は大湫宿と大井宿のちょうど中間あたりで,茶屋や立場本陣,馬茶屋 など10余戸の人家がありました。立場本陣というのは身分の高い人が休憩した場所で 門や式台のついた立派な建物でした。また,馬茶屋では馬を休ませました。
この集落にはJR釜戸駅の次の駅である武並駅から北上する国道418号線が通っていて,新しい住宅が建てられていました。急に現代に戻ってきたような感じでした。少し遠くの高台にも数件の新興住宅が建っていましたが,あんな高台に家を作って,確かに見晴らしはよいのでしょうが車がなければどうにもならないのに,と私は思ってしまったことでした。
ここはけっこう落ち着いた雰囲気の集落なのに,日本では,この場所に限らず,そうした現状を無視して,どこかしも住宅会社がめっちゃくちゃに宅地開発をして家を建て,景観もなにも台なしにしていくのが私には理解しがたいことです。
深萱立場の集落をすぎると,しばらくは,旧中山道は国道418号線と併用区間となるので,歩道を北の方向に歩いていくと,左手に藤村高札場跡があって,当時の半分ほどの大きさで高札場が復元されていました。ここは宿場ではないけれど,ちょうど東海道の間の宿のような場所なので,高札場があったのです。
間の宿(あいのしゅく)というのは江戸時代の主要街道において,宿場と宿場の間に発展した休憩用の施設のことです。宿場間の距離が長い峠越えの難路などで,旅人に多大な負担がある場所に需要に応える形で便宜を図る施設が興り発展していったものです。ただし、宿場としては非公認で,公式には宿ではなく村,もしくは町とされていて,旅人の宿泊は禁じられていたので,旅籠は存在しないし,駕籠や人足,伝馬を扱う問屋場もないというのが「名目上」のことでした。
やがて,旧中山道は国道から離れ,右に折れました。念仏坂を上っていくと神明神社の入口あたりに比羅さんとお伊勢さん秋葉さんの三つの神様を祀った三社灯篭が立っていました。
また,旧中山道をはさんだ向かい側には佐倉宗五郎大明神が祀られていました。元禄年間,岩村藩で農民騒動が起き,竹折村の庄屋田中田中与一郎は将軍に直訴して農民達を救ったのですが,打ち首になりました。そのまま祀ると咎めを受ける恐れから,同じような運命をになった佐倉宗五郎の名で建立したといわれているものです。
この場所に限らず,江戸時代,村人はさまざまな苦労を強いられ,権力との軋轢になやみました。アメリカでは市民運動家はたとえ本人は非業の死を遂げても,その後は自由をもたらし国を作ったとして英雄になりますが,日本では権力に楯突くと公には大塩平八郎のように反逆者とされ,民衆の間だけで隠れるようにして慕われるのです。それがこの陰湿な国の歴史です。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。⑥
旧中山道は八丁坂の石標を過ぎると自動車道路を横切って,再び森のなかに入っていきました。
まだまだこの先が長いのです。
しばらく森のなかを進んでいくと,そこにあったのが尻冷やし地蔵でした。ここに,当時とても貴重だった湧き水が出ていたので,それを感謝して地蔵を立てたのですが,ちょうど湧き水で地蔵様がお尻を冷やしていように見えたことからこの名がついたといいます。
その次にあったのが三十三所観音でした。天保11年(1840年),道中の安全を祈ってここに観音石窟が作られました。石窟の前には石柱があって,定飛脚の嶋屋,京屋,甲州屋といった名前が書かれてあるのが見えます。つまり,この石窟のなかにある三十三体の馬頭観音は,大湫宿内の馬もち連中と助郷に関わる近隣の村々からの寄進ということです。
これ以外にも,十三峠にはずいぶん多くの馬頭観音がありました。私は「馬頭」というとオリオン座にある「馬頭星雲」(=3番目の写真)を思いう浮かべてしまうのですが当然全く違います。馬の頭の形を模した観音様でもありません。
馬頭観音というのは観音菩薩の変化身のひとつです。馬頭観音には柔和相と憤怒相のふたつの相があるのですが,日本では柔和相の姿のほうはあまり知られておらず,憤怒相の姿がほどんどです。馬頭観音の梵名である「हयग्रीव,hayagrīva=ハヤグリーヴァ」というのが「馬の首」の意なので,日本では馬頭観音とよばれます。この観音様は衆生の無智や煩悩を排除し,諸悪を毀壊する菩薩です。
民間信仰では「馬頭」という名称から馬の守護仏として祀られるので,馬頭観音の石仏は身近な生活の中の「馬」に結び付けられて,日本独自の馬頭観音への信仰や造形を生み出しました。特に,近世以降は国内の流通が活発化し馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなったために,馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ,動物への供養塔としての意味合いが強くなっていきました。
街道は,自動車道路を過ぎたあたりからは近くに牧場があったので牛のにおいがしていたのですが,それを過ぎたこのあたりになると,今度は人の声が聞こえはじめました。
何かな? と思っていたらゴルフ場でした。周りは大きなゴルフ場で,そのコースの間を旧中山道だけがに幸いにも破壊されずに残っているという状況でした。ところどころ木々の間からゴルフ場が見渡せました。街道にゴルフボールが飛んでこないようにと高いネットが張ってありましたが,それでもよく探すと,街道にはゴルフボールがいくつか見つかりました。
私はゴルフはやりません。というよりも,海外,とくにアメリカにある多くのゴルフ場を見てきて,こんなに広い土地が必要なものを狭い日本に持ち込むことにかなりの違和感を覚えました。アメリカではゴルフというのは日本の公園にあるテニスコートのようなものです。それを,日本では森を切り開き,ただでさえ自然破壊が激しいのにそれに輪をかけることが理解できないのです。
やがてゴルフ場が終わりを告げたところに,権現山の一里塚がありました。ここより江戸まで90里,京都へは44里です。一里塚は,旅行者の目印として街道の側に1里(約4キロメートル)ごとに設置した塚(土盛り)です。塚の側に榎や松などの木を植えたり標識を立てたりしました。
一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代で,幕府は江戸の日本橋を起点として全国の各街道に一里塚を設置するよう指令を出しました。一里塚は街道の両側に対で設置されていました。
大湫宿で聞いた説明では,この後で通る大井宿にもっとも近い槇が根の一里塚は,道の両側の塚が10メートルも離れている珍しいもので,街道歩きを楽しみとする人のなかには一里塚を巡るのを楽しみにしている人もいて,槇が根の一里塚をわざわざ見にくるのだそうです。
権現山の一里塚を過ぎると街道は石畳になり,さらに進んでいくと,平地が広がっていて,遠くに民家が見えました。
2017秋アメリカ旅行記-帰国①
●ホノルルから飛行機が来ない。●
☆5日目 12月2日(土)
今日は帰国だけの日である。
フライトがリフエ空港を飛び立のは8時33分だったので,午前7時ころに空港に着くようにホテルを出た。
空港に到着してレンタカーを返すときに手続きをした係りの女性は日本人で,日本語で話しかけられた。カウアイ島はいつもこんなに天気が悪いのですか? と私が聞くと,今年は例年よりも早く天気が悪くなりましたね,と言われた。
この旅だけで判断できないのだが,私はこの旅でカウアイ島は天気の悪い島,というイメージが定着した。そのなかでも唯一2日目だけが快晴だったので,この日,予定を変更して島のほとんどの場所に行ってきて本当によかったと思った。
やはり,何事も好機を逃してはいけないのであるが,これもまた,いつもの教訓である。私は,いつも何かおもしろい出来事が起るときにその場所に居合わせている,といわれるが,それは決して偶然なことではなく,何かおもしろそうなことが起きそうなときにそこに足を運ぶからこそ,そういう場所に居合わせるのである。
話題になったあとでそこに群れる人がほとんどだが,話題になったときはもう手遅れなのである。こういう人は投資をしても失敗する。週刊誌などで「株高だ」「円安だ」と書かれたときにはすでにトレンドは逆になっているのだ。
今日は朝早く空港に着いたので,空港にあったレストランで朝食をとることにした。しかし,たいして何もないレストランであった。客もまた,ほとんどいなかった。空港のレストランは高いだけでおいしくないというのは世界共通の話ではなかろうか。
やがて,搭乗時間が近づいたので,空港の搭乗ゲートに行った。
私は,年に20回程度飛行機に乗る機会があるが,定刻どおり飛んだことなどほとんどない。予定していた飛行機がキャンセルになったり,一旦飛び立ったのにトラブルが発生して戻ってきて,乗り換え便に間に合わなくなったりしたことすらある。
だから,海外旅行は帰りのフライトに乗るまで,いや乗ったあとも日本に帰るまで気が許せないのである。しかし,このところはなぜかフライトが順調だったので,そうした現実をほとんど忘れていた。
そしてこの日であった。
飛行機というはバスと同じで,空港に到着した飛行機が折り返して運行している。私が今日ホノルルまで乗る飛行機もまた,ホノルルからやってきて折り返すという運行なのだが,あいにく早朝のホノルルの天気がよくなくて,出発が遅れたらしかった。そこで,乗るべき飛行機がホノルルからまだ到着しないのであった。
私は,セントレア・中部国際空港とホノルル間のデルタ航空便と,ホノルルからカウアイ島間のハワイアン航空便は独立して購入しているので,定刻よりもかなり遅れてホノルルに到着したら,次の便が待っていてくれないのである。こんなこともあろうかと,予約した時点で,ホノルルでの待ち時間を5時間もとってあったので,たとえ数時間おくれても,まだかなりの余裕があった。やはり,こういうときのために,十分な時間をとっておくべきだと改めて思ったことだった。
この日の朝は,カウアイ島でもずいぶんと強い風が吹いていたので,ホテルをチェックアウトするときに予定通り飛行機が飛ぶのかずいぶんと心配したのだが,まさにその心配が的中してしまったことになる。
予定より1時間ほども遅れて飛行機がホノルルからやってきた。したがって,この日は,カウアイ島からホノルルまでの飛行機は1時間遅れて飛び立つことになった。
機内からはカウアイ島を眼下に見ることができた。カウアイ島はホノルルのあるオアフ島から西にある島だから,今後私がハワイにまた来ることがあるとしても,あえてカウアイ島を訪れることはなかろう。だから,この景色も見おさめかと思った。私は,ハワイは天気がよくなければ意味がないと思うので,残念ながら,天気の悪いカウアイ島には何の未練ももたなかった。
2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ⑥
●アメリカ人は意外とおせっかいなのだ。●
太平洋戦争のころに青春を過ごした私の母親は,晩年は食べることしか楽しみがなかったからずいぶんと食にこだわったが,同時にかなりの偏食であった。
私が一緒に食事に行ってもっともいやなのは偏食家である。あれがいやだこれは食べられない,というのは座がしらけるものだ。私は,いつも書いているようにまったくグルメでなく,こだわりもない。そして,ほとんど何でも食べられる。とは言っても,いきなりカバのステーキとかが出てきても困るけれど…。
ひとりで旅行をしていてもっとも大変なのが食事である。ひとりというシチュエーションで一流レストランに入ってもまったく楽しくないのは当然だが,普通のファミリーレストランに入っても値段だけ高くて大したものがないからだ。
私は食事の値段を考えると1ドルは80円が現在の相場だと思うのだが,日本国内では105円でも円高だと騒いでいる。要するに,日本の製品は110円というレートであれば海外では割安に写るから売れているというだけのことで,決して優れているからではないのだろう。同じように,海外から多くの観光客が押し寄せるのは物価が安いからであって,日本に魅力があるからではないだろう。
おまけに,アメリカではレストランに入るとさらにチップが必要であるというのも問題なのだ。食事という点では,ニュージーランドやオーストラリアへ行くほうが,チップもいらないし,食事もおいしいからずいぶんと楽である。
この晩は旅の最終日ということで,少し豪華な夕食をとることにした。場所はホテルの近くのポイプショッピングビレッジにある「ケオキーズ・パラダイス」(Keoki’s Paradise)であった。
この日の前日,レストランの前でメニューを見ていたら食事を終えて出てきたおじさんが「ここはお勧めだ,5時30分前に来てシェフお勧めを食べるといいい」と力説したので,そのとおりにすることにした。
これまでも,旅先ではこういうことがあった。テキサスのフォートワースでステーキ店の前で入ろうかどうか躊躇していたら,食べ終えて店内から出てきた客に薦められ,しかも,その客が店員に交渉までしてくれたことがあった。アメリカ人というのは意外とおせっかいやきなのだ。
5時30分までに入ると注文できるスペシャルメニューが26ドルだったのでそれを注文した。食事をとっていると,やがて5時30分になって,ステージで音楽がはじまった。幸運にも私の席はステージの真ん前であった。何曲か終わったら,音楽に合わせてフラダンスもはじまった。
「ケオキーズ・パラダイス」はポリネシア風の建物が特徴のレストランで,庭園に面しているオープンエアのダイニングがユニークであった。バーも併設されていて,アルコールを楽しこむこともできるのは,ハワイでは多くのレストランと同じパターンである。シーフードを専門としているレストランであるが,プライムリブ,プライムステーキ,ロブスターなどのモダンなメニューもあった。
滝の音と豊かな緑がこのオープンエアのレストランを印象的にしていて,私にはかなりの贅沢感があった。天気もあまりよくなくて,道路も渋滞し,大した見どころもなかったカウアイ島での私の思い出を救ってくれたのが,この晩のレストランであった。ハワイはこうでなくっちゃね。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。⑤
大湫宿のはずれに一軒の小さなお店があったので,私はその店先の自動販売機でソフトドリンクを飲みほしました。この先には自動販売機はないということでした。
いよいよ十三峠を登っていくことになるのですが,このとき私はまだ楽観していました。なにせ,事前に調べたところでは,ここから大井宿までは13キロメートルほどしかなく,しかも延々と下り坂だとばかり思っていたからです。
舗装されていた道は坂になったころにはすぐに未舗装になりましたが,石畳ではなかったので,雨が降れば大変です。いきなり「クマ出没注意」の看板があって私はビビってしまいました。帽子どころかクマよけの鈴さえ持参していませんでしたから。歩いている途中でチリンチリンと鈴を鳴らしながらすれ違った若者に出会ったときにはマジで後悔したのですが,幸いクマに襲われることはありませんでした。
次に私が出会ったのは土砂崩れでした。これもまた,この先が思いやられましたが,工事中だったのはこの一箇所だけでした。
途中で見つけた案内板には次のように書かれてありました。
・・・・・・
大湫宿と大井宿の三里半(約13.5キロメートル)は「十三峠におまけが七つ」と呼ばれ,20あまりの山坂道をいい,中山道の道の中でも難所のひとうでした。
・・・・・・
このように,大湫宿よりも大井宿のほうが標高が低く,次第に下っていくとはいえ,実際は,単なる下りではなく,20あまりの坂を登り降りする必要があったわけです。しかも,調べたところ,実際は,寺坂,童子ケ根,山之上坂,しゃれこ坂,地蔵坂,曽根松坂,びあいと坂,巡礼水の坂,樫ノ木坂,五郎坂,鞍骨坂,権現坂,新道坂,向茶屋坂,ばばが茶屋坂,みつし坂,黒すくも坂,紅坂,平六坂,かくれ神坂,うつ木原坂,みだれ坂,槇ケ根坂,西行坂と,20どころか坂は25もありました。
この峠道には,多くの石碑やら地蔵,観音,そして一里塚が3つ(3.5里ありますから)あるので,こういったことに興味のある人にはとても楽しく歩くことができることでしょう。
私は,はじめのうちは,坂の名を刻んだ石碑を見ては,あといくつだとか考えながら歩いていました。しかし,それぞれの坂はそれほどきつくなかったのですが,さすがに25となると堪えました。それでもまだ暑くもなく寒くもなかったからよかったものの,わずか数日の違いとはいえ,もうこの季節に歩くとしたら大変でしょう。
行き違う人はほとんどいませんでしたが,たまにはすれ違う人もいました。承知かどうかは知りませんが,私と反対方向の大井宿から大湫宿へ歩くには上り坂のほうがずっと多いので私の行程に比べれば数倍も大変だろうと思われました。「人生下り坂最高」です。
一番びっくりしたのはふたり連れのの若者で,そのうちのひとりが自転車に乗り,もうひとりがなんとオートバイで爆音をたなびかせながら峠道を登ってきたのです。これ以上の馬鹿はいないものだと私は思いました。第一,この道はオートバイどころか自転車すら走行禁止なのです。この国にはこうした馬鹿な若者が時折生息しています。
はじめの寺坂には石仏がありました。そして,写真のように,次の童子ケ根,山之神坂には石碑がありました。このあたりでは,まだまだ元気はつらつでしたが,まさかこんな坂がこの先も延々と続いているとはその時は思ってもいませんでした。
6番目の写真は八丁坂の石標です。この峠でもっとも古い石標だということでした。その石標の前に置かれた大きな石碑には大田南畝の「壬戌紀行」より抜粋した次の文章が書かれてありました。
・・・・・・
曲がりまがりて登り下り,猶三,四町も下る坂の名を問えはしやれこ坂(八町坂のこと)という
右の方に南無観世音菩薩という石を建つ(これがもっとも古い石標のこと)
向こうに遠く見ゆる山はかの横長岳(恵那山)なり
・・・・・・
このあたりは人も通らず,静寂に囲まれて,なにかとても遠いところに出かけたようで,とても満ち足りた気持ちになりました。
大田南畝(おおたなんぽ)は天明期を代表する文人・狂歌師であり,御家人でした。号は「蜀山人」。南畝は享和元年(1801年)2月から翌年年3月まで支配勘定として大阪銅座に出張勤務しており,「壬戌紀行」(じんじゅつきこう)はその任を終えて江戸へ帰る15泊16日の中山道の旅の記録です。東海道を経由した往路については「改元紀行」として別に書かれたということです。
この紀行は旅の個別的な体験事実の見聞記で,当時の街道沿いの光景を読み取ることができて興味深いものということです。享和二年というのはちょうど十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」の出版がはじまった年でもあります。
私は今回の旅で,それまで知らなかった大田南畝や「壬戌紀行」のことを知ったのもまた,意義深いことでした。だから旅は楽しいのです。日本の旅はこころでするものです。
2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ⑤
●サーフィンは難しいものだ。●
ホテルに戻り,私はホテルのプライベートビーチでのんびりと過ごすことにした。おそらく,これこそがカウワイ島一番の魅力であろうと思ったからである。ハワイで最も贅沢な過ごし方というのはこれに尽きるのであろうが,こうして何の気兼ねもなく海を見ることができる場所というのは,ハワイでもさほど多くはない。
プライベートビーチには多くのイスが並べてあって,私はそこに寝転んで海を眺めていた。不思議なもので,波の音を聴いているだけで何時間でも退屈しない。日本ではこんな贅沢をしたことはない。あるいは,日本の海水浴場でこんなことをしていたらストーカーと間違えられるかもしれない。
私のとなりにいた若い夫婦が連れていた子供がかわいかった。
「カウアイ島を代表する黄金海岸」というのは,ここポイプのビーチなのである。ポイプは19世紀に砂糖キビのプランテーションとして開発された土地や海岸線に沿って地主などの家が建ち,その後,リゾートとして発展した。金色の砂がまばゆい海岸が続くビーチ,だからこそ「黄金海岸」なのだが,そこに海水浴,シュノーケリング,サーフィンをする人々が集まってくる。周辺には,シェラトンやハイアットなどの高級ホテルや洒落たコンドミニアムが点在していて,かなり贅沢な場所なのだ。
ぼんやり海を眺めていたら,サーフィンをはじめたばかりの青年がいたが,なかなかうまくいかないのだった。うまく波に乗ってサーフボードに立つのは,簡単そうでむずかしいものだ,と思ったことだった。
サーフィン(surfing)というのはご存知のとおり,ウォータースポーツのひとつである。サーフボードの上に立ち,波が形成する斜面を滑走する。西暦400年ごろからサーフィンの原形のようなものが存在していたと考えられている。航海術に優れた古代ポリネシア人が漁業の帰りにボートを用いて波に乗る術「サーフィング」を知り,そこから木製の板に乗る様になったというのが最も有力な説とされている。
ヨーロッパ人で初めてサーフィンを目撃したのはイギリス人探検家・ジェームス・クック船長だといわれている。クック船長はタヒチとハワイでサーフィンを目撃し,そのことを航海日誌に書き残している。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。④
大湫宿(おおくてじゅく)は旧中山道の47番目の宿場でした。地名としては「大湫」といい,当時は大湫村,現在は大湫町です。また,幕府関係の公文書では「大久手宿」と書かれました。
ちなみに,「湫」というのは湿地が多くて水はけの悪いす地のことで,「大湫」とは大きな湿地,また,「長湫」は地形がくねくねして山坂や狭間が多い土地のことです。
中山道の整備はそれまでの東山道を基本にして慶長7年(1602)にはじまりました。はじめは大井宿から西には槇が根追分から南下して,竹折,釜戸を経て御岳宿に続いていた(のちの下街道)のですが,慶長9年(1604年)に十三峠を越す道が完成して,現在の旧中山道のルートになりました。
その際,大井宿から御岳宿までの距離が長かったので,大湫宿が新設され,その2年後には細久手宿も設置されました。大湫宿のあたりは尾張藩領で,当時はかなり潤ったと思われます。
大湫宿は海抜510メートルの高地にあって,ここから江戸へは90里半,京都へは43里半,東隣りの大井宿へは3里半,西隣の細久手宿へは1里半あります。美濃16宿の中で最も高い場所にあるということは,それだけ急坂が続いているわけで,旅人も人馬役からも難所とされていたところです。
大湫宿の町並みは,十三峠の最も西端にあたる寺坂を下りたところにある北町から西に向かって,白山町,中町,神明町,西町までの東西3町6間(340メートル)でした。枡形は北町につくられ,本陣は白山町の北側,問屋場と脇本陣は中町の北側にあり,往還に沿ってつくられた細長い町並みでした。また,家々の地割は6間半平均に正しく割られ,家々の境界にはすべて石積みの側溝が施されていて,新しく作られた宿である様子がうかがわれます。
本陣は明治時代に小学校になってしまいましたが,脇本陣は今も健在,人が住んでいるのですが,善意で外観を見ることができました。
大湫宿には旧森川訓行家住宅が観光案内所として公開されています。私もここで昆布茶をご馳走になって,丁寧な説明をしていただくことができました。
現在,恵那市から御岳方面に公共交通は伸びず,土岐市,瑞浪市,多治見市,春日井市から名古屋へと南麓の土岐川沿いに,国道19号線,中央自動車道,JR中央本線が開かれて,大湫は寂れてしまいました。逆にそのために,十三峠,大湫宿,琵琶峠,細久手宿から御岳宿にいたる沿道道は往年の姿を残しているのです。特に,大湫宿は本陣山の南麓に神明神社の大杉を囲むようにして往時のままの姿をとどめています。
こうして,御岳宿には名鉄の駅があり,大井宿にはJRの駅があるのですが,その間は公共交通機関がないから,旧中山道を歩こうとする場合に,大湫宿はもっとも難儀をする場所で,私のようにJRの釜戸駅から大変な思いをして歩くか,途中で宿をとって2日かけて歩くか,工夫のしどころです。
今回,私ははじめて旧中山道を歩いたのですが,岐阜県では中山道をきちんと整備していて,宿場町も保存活動が盛んであり,また,案内板も設置され,宿場ごとに丁寧なガイドやパンフレットが用意されていました。
逆に,ここまで丁寧で親切であることが私には過保護すぎると思えないこともなく,これでは,歩かなくてもほとんどの情報が手に入ってしまうので,歩く楽しみがなくなります。でありながら,今回私の歩いた行程には,大湫宿も大井宿も,気の利いたおそば屋さんの1件すらないのでした。
思えば私の原風景➀-イチロー選手への想い
5月4日,突然
・・・・・・
Ichiro transitioning from field to front office. Iconic outfielder 'not retiring'; return next season possible.
・・・・・・
というニュースが駆け巡りました。
2012年夏,イチロー選手が電撃的なトレードでニューヨークに去ってからも,シアトルのセイフコフィ-ルドにはイチロー選手の写真がそのまま残っていたし,お寿司の「イチロール」も販売されていたので,私は最終的にはシアトルに戻ってくると確信していたのですが,本人が50歳を過ぎても現役をやるといっているので,その処遇が心配でした。
今シーズン,シアトルに戻ってきたとき,私はちょっと戻ってくるのが早かったかな? と思いました。「この次」のチームがないからです。
そこで,この日の突然のニュースに驚くとともに私は安心もしました。これならばイチロー選手の矜持は保たれるし,彼の夢も続きます。
私はメジャーリーグは大好きですが,日本の野球には全く興味がありません。あのけたたましい応援が大嫌いだからです。しかも何を勘違いしたのか,このごろはチェアリーダーさえ登場しているようです。メジャーで活躍できなくなって再び日本で現役を続けている選手たちにも全く興味がありません。私は,メジャーリーガーとしての選手に興味があるし,メジャーリーガーとしてのプライドを忘れてほしくないからです。
そうした意味からも,イチロー選手には,絶対に何があっても日本に帰ってまでもプレーを続けてほしくありませんでしたが,その気持ちは,むしろイチロー選手のほうがずっと強かったと確信しています。それこそが彼の矜持だからです。
イチロー選手がアメリカに渡ったのが2001年でした。早くも,というべきか,まだというべきか,それは今から17年前のことでした。今でこそ,私にはシアトルは隣町のようなところですが,17年前には,ものすごく遠いところでした。
念願かなってイチロー選手を見ようとアメリカへ出かけることができたのは2004年のことでした。しかし,このときは,アメリカ上陸2日目にして交通事故に遭い,その願いがかなわず緊急帰国。ケガも癒えたその2年後に,ようやくシアトルで私はイチロー選手を見ることができました。
それから月日が経ち,2012年の夏,私がちょうどアメリカを旅していたとき,ホテルのテレビで,ニューヨークへトレードという衝撃的なニュースが流れました。私は,ヤンキースが契約を更新してその翌年もイチロー選手がニューヨークにいるのなら見にいくと周囲に宣言して,実際,ニューヨークへ行きました。そうして私がヤンキースタジアムでイチロー選手を見たのは,偶然にもヤンキースでプレーした松井秀喜選手の引退試合で,この試合でイチロー選手は4打数4安打を打ち,私はそれを目撃しました。
その3年後の2016年,今度はアメリカ50州制覇の夢を実現しようと,フロリダから東海岸をフィラデルフィアまで北上する旅に出かけたとき,これもまた偶然にも3,000本安打狂騒曲最中のマイアミで,マーリンズにトレードされたイチロー選手を見ることができました。残念ながら,3,000本安打をこの目で見ることはできなかったけれど,2,998本目の安打も「レーザービーム」も見ることができました。
こうして,奇しくも,私はイチロー選手の属したすべてのチームで,しかも,すべてホームゲームでイチロー選手を見ることができたのです。
思えば,私のアメリカ50州制覇はイチロー選手なくしてはなしえかなったようにも思えます。そしてまた,旅を通じて,多くの思い出や友人ができました。そうしたことからも,イチロー選手は私のアメリカ旅行の恩人といっても過言ではないのです。
ニューヨークに行った2013年には,クーパーズタウンの野球殿堂にも寄りました。そこで,イチロー選手の数々の記録やユニフォーム,そしてバットが展示されているを見ました。ちょうどそこにいた子供に,私はこの選手の出身地から来たんだと誇らしげに自慢したのを思い出します。
本人は引退でないと言っていますが,ひとつの時代が終わったのは事実でしょう。野茂投手が切り開き,イチロー選手の大活躍で日本人プレーヤーの存在が認知されたメジャーリーグには,今年,新たに大谷翔平選手が加わりました。「よき後継者を得た」という感じでしょうか。
このニュースを知って,私も,新しい夢を求めて再びアメリカを旅したいと,そんな気持ちが沸き起こったことでした。
◇◇◇
2013アメリカ旅行記-野球殿堂へ①
2013アメリカ旅行記-ヤンキースタジアム・再び①
特別編・2015夏アメリカ旅行LIVE PART2⑩
2016夏アメリカ旅行記-「イチロー記録達成か」の日①
2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ④
●「ジュラシック・パーク」の撮影現場●
今日もまた渋滞する州道50を抜けてツリートンネル通り,ポイプに戻ってきた。
昨日の朝行った「潮吹き穴」の近くに「アラートン・ガーデン」(Allerton Garden)という庭園があったのだが,そのときは見過ごした。そこで,今日はホテルに戻る前に行ってみることにした。
「潮吹き穴」の横の道路を通ると,早朝とは違って多くの人が見にきていて,観光地らしい風景であった。私も車から降りて再び見にいったが,潮が吹きあがるたびに歓声が上がっていた。
「潮吹き穴」を過ぎてしばらく行くと,庭園に向かう入口があって,道路が通じていたので,その坂を上っていくと駐車場があった。
車を停めて,庭園に入った。
1964年に開園した「アラートン・ガーデン」はラーヴァイ(Lāwai)湾に面した美しい庭園というのが売りであるが,近年は,1993年に公開された映画「ジュラシック・パーク」(Jurassic Park)において,樹木の根元で恐竜の卵が見つかったシーンが撮影された現場としてよく知られている。この樹木はモートン・ベイ・フィグ(Moreton bay fig)というゴムの木の仲間である。
「アラートン・ガーデン」はナショナル・トロピカル・ボタニカル・ガーデン(NTBG)の運営で,ほかにも,隣接する「マクブライド・ガーデン」(McBryde Garden)や北海岸にある「リマフリ・ガーデン」(Limahuli Garden),マウイ島ハナにある「カハヌ・ガーデン」(Kahanu Garden),フロリダの「カンポン・ガーデン」(The Kampong, National Tropical Botanical Garden)を運営している。
「ナショナル」といっても「国立」ではなく,非営利団体として3つの条件を満たしたとき合衆国政府が認可を与える「準国立」の組織である。その3つとは,1.植物の研究と調査,2.絶滅危惧種の保護と繁殖,3.啓蒙である。
隣接する「マクブライド・ガーデン」を合わせると1.5平方キロメートルもある巨大な敷地は,庭園であって植物園ではない。園内では多くの植物を見ることができるし絶滅が危惧されている数多くの植物の保存と繁殖にも力を入れているが,ここは眺めて楽しむ場所として開発されたところである。
ラーヴァイ湾に面した広大な敷地は,その昔アフプアア(Ahupua'a=古代のハワイ諸島における土地支配概念のこと)として使われていた場所であった。その後,わずかな期間エマ女王(Queen Emma=カメハメハ4世の妻) が住んでいた。その当時の美しい建物が彼女が植えたカマニの木やタコノキ,ブーゲンビレアなどともに残されている。その隣にはこの庭園をつくったアラートン家の建物もある。
アラートン・ガーデンの敷地は,建築を学んでいたジョン・グレッグ(John Gregg)と造園を学んでいたロバート・アラートン(Robert Allerton)が1938年に買い取って整備し,1964年からはNTBGが運営している。現在のようにツアーが催行されるようになったのは1997年からのことで,ツアーは広大な庭園からはじまり,最後にナウパカの咲くラーヴァイ・カイの砂浜に至るということだ。砂浜ではアオウミガメが産卵しているところが見られるかもしれない。
このツアーは10歳以下の子どもは参加できないという手段を取るほど静けさを大切にし,大人がゆっくりと自然と人が作りだした造詣を心ゆくまで楽しめるようになっているということだが,参加費がとても高価だったので,私は歩いて庭園内をしばらくぶらぶらした。
私は,星空とは違って,植物にはお金を払って見るほどの興味がない。
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中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。③
やっと大湫宿に到着した私を出迎えたのは,高札場跡でした。大湫宿の入口にもまた,ほかの宿場町と同様に高札場が復元されていたのです。私はすっかり江戸の時代にタイムスリップしたかのようになって急坂を1時間もかけて登ってきた暑さも吹き飛び,とてもすがすがしい気持ちがしました。
どうやら,高札場というのは旧街道の宿場の証であるらしく,保存活動のされている宿場町にはどこも誇らしげにこの高札場が復元されています。
高札場というのは,古代から明治時代初期にかけて行われた,法令を板面(=高札)に記して往来に掲示し民衆に周知させたものです。木の札に,表題,本文,年月日,発行主体が書かれてあって,これを屋根がついた人目に目立つ一段高くなった高札板に掲げました。
高札場の起源は確かではないものの,早くも延暦元年(782年)の太政官符に官符の内容を官庁や往来に掲示し民衆に告知するように命じた指示が出されています。それ以後,武家政権になっても同様の方法が取られているのですが,これを最もよく用いて全国的な制度として確立したのが江戸幕府と諸藩でした。
高札の目的は,
1.新しい法令を民衆に公示する。
2.民衆に法の趣旨の周知徹底を図る。
3.基本法である事を明示し,違反者は「天下の大罪」であるとして死罪などの重い刑に処する。
4.民衆の遵法精神の涵養を図る。
5.民衆からの告訴(=密告)の奨励。特にキリシタン(切支丹)札などには高額の賞金が掲げられた。
6.幕府や大名の存在感の誇示。
などが挙げられるということです。
具体的な内容としては,正徳元年(1711年)の「定」では,宿場間の公定運賃を定めたものが掲示されていて,天保15年(1844年)の「定」には,天保15年から5か年の間,正徳元年の「定」に記載されている運賃を「五割増」とすることを定めたものが掲示されているというように,こうした公定運賃に関する2枚の「定」が掲げられていました。
これ以外には,徒党禁止やキリシタン(切支丹)禁制にかかわる「定」など,支配に関する最も基本的な法令なども掲示されていました。
このように,生きるというのは,現代に限らずいつの時代においても規則だらけで不自由なものです。しかし,したたかな民衆は,あるときはそれを適当に守り,また,あるときは見て見ぬふりをして,勇ましく日々の生活を送っているわけです。
宿場のなかに入っていくと,そこで驚いたのが,神明神社の大杉でしたた。
推定樹齢1,300年にもなるというこの杉の大木は,蜀山人の旅日記にも「駅の中なる左のかたに大きなる杉の木あり,木のもとに神明の宮たつ」とあります。
幹の回りが11メートル,直径が3.2メートル,木の高さは60メートルもあったそうです。しかし,落雷などで樹勢が弱くなってきたので保存事業が行われたという説明が書かれていました。
この大杉はこの町の誇りとなっています。
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大湫宿があった頃よりももっと昔のこと,この地区には沼地が多いのに良い水のわく泉がありませんでした。 飲み水に困った村人たちは神明様へ願をかけました。「どうか良い水をください」と一心にお祈りをしました。21日目の朝,社の前にそびえる杉のこずえから1匹のまっ白い蛇がおりてきて,杉の根本の石の間へ首をつっこむと腹の下からチョロチョロと水が流れ出しました。村の人はおどりあがって喜びました。今も杉の根元から泉がこんこんとわきでています。
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2017秋アメリカ旅行記-サウスコーストとリフエ③
●なぜか無視されるアミューズメントパーク●
リフエからポイプに至る道路・州道50は通称「カウムアリイ・ハイウェイ」(Kaumualii Hwy.)というのだが,この道路がカウアイ島で最も問題なのである。
リフエとポイプを結ぶルートはこれ以外に選択肢がない。しかし,リフエのダウンタウンを越えてポイプに向かうと車線が減ってしまうので,絶えず大渋滞を引き起こすのである。こんなことも知らず,私がはじめてここを通ったとき,事故か工事でもあったのかと思ったが,この渋滞は慢性的なものであった。
私がカウアイ島へ行くのはもう御免だと思うのは,この道路がすべての理由である。したがって,カウアイ島に行ってポイプに泊まると,ポイプより西を観光するならばきわめて快適であるが,東にリフエを越えて行こうとすると,リフエからポイプに帰るときにいつもこの渋滞に巻き込まれることになるのだ。いつも…。
さて,リフエからポイプに向かって走っているときに「カウムアリイ・ハイウェイ」が狭くなる少し前あたり,北側に何やら公園のようなところがあって私はずっと気になっていた。調べてみると,地図には「カウアイ・プランテーション・レイルウェイ」(Kauai Plantation Railway)と書かれていたので,はじめ私はカウアイ島に走る鉄道の駅でもあるのかしら,と思った。
しかし,この場所のことは,あえて無視でもするかのように,ガイドブックには何も書かれていないのである。また,ネットで調べても,ほとんど情報がないのである。
そんなわけで一度寄ってみることにしたのだった。敷地に入っていったら広い駐車場があったが,車が一杯でほとんど停めるところがなかった。やっとのことでスペースを見つけて車を停めて,ほかの観光客について建物に入っていくと,そこにはギャラリーやら土産物屋やらレストランがあった。
今度は建物の外に出て森のようなところに入っていくと,食事ができるようなテント小屋があったし,客車を引いた機関車が停まっていた。これが「レイルウェイ」であるらしかった。どうやら「カウアイ・プランテーション・レイルウェイ」というのは,もともとプランテーションだったところをアミューズメント施設にしたもののようであった。
ここは,機関車に乗るチケットを購入して場内を一周して,線路の周りに残るカウアイプランテーションを味わい,最後に食事をする,というような嗜好であるらしい。プランテーションには果樹園があったり,野生のブタやヤギ,羊の群れが草を食む様子などを見ることができて,食事の際には,ハワイアンミュージックを聞きながらフラの公演やら芝居を楽しむことができるというわけである。
それにしても,このアミューズメントパークは,娯楽施設のほとんどないカウアイ島では随一のもののように思うのであるが,ガイドブックには紹介されていないし,この施設に関する詳しいブログすらないのが,私は未だに不思議なのである。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。②
国道19号線を越えて道路標示にしたがって右に曲がると急な上りになりました。それがまあ,尋常な勾配でないので,歩きだしてすぐに私はめげてきたのです。
左手に釜戸小学校がありました。学校がこんな坂の上にあるのだから,釜戸町の子供たちは,いつもこの坂を登り降りして学校に通っているといいうことになります。
さらに登っていくと,道路は中央自動車道の高架下を通り,しばらくは中央自動車道の側道のような感じで進んでいくことになりました。そこから山に入っていくと,私が駅でもらってきた地図にはそのあたりで歩行者だけが通れる近道が書かれていたのですが,私はそれを見逃したようで,その先も車道をひたすら登ることになってしまったので,かなりの距離を無駄にしました。しかし,車道とはいえ,すごい勾配です。この日はとても気温が高くなるという予報だったので私は半そでシャツだったのですが,釜戸駅を降りたときは小寒かったのに,すでに汗をかきはじめました。
道路の側溝にはソフトドリンクの空き缶やアーモンドチョコレートの空き箱が捨ててあったりと,やはりここもまた,ゴミを捨てることにかけては天下一品の日本でした。おそらく,この国に住む人の9割方は良心がある善良な市民でしょうが,しかし,残りの人の行為がひどいのです。そこで,この国では道路という道路はゴミだらけになってしまうのです。
こういう行為が平気でできる人というのが私には到底理解できません。日本でハイキングをしていて,私が最も不快に感じるのは,このゴミだらけの道なのです。その次がタバコの煙,そして,けたたましい爆音をなびかせる車やオートバイの暴走です。こんなことは海外では考えられません。
そのうちに左手に竜吟湖に至る道路が見えてきました。地図によると,ここを曲がるとその先に竜吟ダムがあって,ダムのまわりが散策コースになっているらしいから,そのうち行ってみようと思いました。
しかし,今回は行かなかったからわからないけれど,おそらくは,日本の多くの観光地がそうであるように,ここもまた,無残に廃墟となりかけた観光地のなれの果てであろうと思いました。予算をかけて作ったときはそれなりのものであったけれど,そもそもの設計がいい加減で思想がないものだから,歩くには不便なのに車は乗り入れできないというような中途半端な散歩道や,急ごしらえで安普請の観光施設が作られて,やがて観光客に飽きられてだれも行かなくなるうちに老朽化して,予算がないものだから修理もできず,草が生い茂り,ベンチは腐り,手すりのペンキが剥げて錆びだらけとなったような観光地にちがいないだろうと…。
さらに県道65号線は登り坂でした。それでも,少しでも平坦な場所があると,そこには狭いながらも田んぼがあって,その一角には家が建っていました。あるいは,山が無残に削られて宅地開発をしていました。また,別の場所は,宅地を開発したのに売れ残ってそのまま荒れ果て,作られた道路は廃道になっていました。そうした無計画のどこにでもある日本の風景がここにも存在していました。
大雨が降るとがけ崩れが起きて民家がひとたまりもなく崩れる姿をニュースで見かけますが,こうして歩いていても,家が山にへばりつくように建っているから,ここもまた,想定を超えた豪雨でもあれば,そうなる可能性がある気がしました。
歩きはじめて1時間ほど過ぎたころ,やっと坂を登りきって平坦になってきました。遠くにはのどかな田園風景とともに家並みが見えてきました。こんな山の中であっても,平地な土地があれば人が住みつき,そこに小さな町ができるのです。
そこが大湫宿でした。
広く舗装された道路はほとんど車も通らないから,歩いていても静寂に包まれていて,聞こえるのはウグイスの鳴き声だけでした。そしてまた,このあたりはめずらしく道路にゴミひとつなく,とても美しい村でした。道路の脇に,このあたりをボランティアが清掃活動を行っているという看板が立っていました。アメリカではどこでも「Litter Control」(「ゴミ掃除をしている」の意)の看板を見かけるのですが,日本でははじめて見ました。
やがて,私が釜戸から登ってきた県道65号線はT字路にさしかかりました。ここからが旧中山道でした。県道65号線は左に曲がって旧中山道と併用区間となり,西に向かって琵琶峠を越えて大湫宿の次の宿場である細久手宿に続いていきます。
私はこの日は大井宿をめざしているので,ここを右に曲がりました。そこからが大湫宿の集落で,狭い道路をはさんで家並みが続いていました。
旧東海道の宿場と同様に,大湫宿もまた,江戸時代の宿場そのままの姿を留めていて,とても情緒ある町並みでした。
中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。①
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今年のゴールデンウィークは満月なので,星を見にいく楽しみもありません。そこで,鈴鹿峠を歩いてからまだ1か月も経っていませんが,いよいよ旧中山道歩きをはじめることにしました。とはいえ,旧東海道同様,すべてを踏破する気持ちもなく,おもしろそうなところだけを気ままに,そして坂道は下り方向に歩く,そんな軟弱な楽しみです。
世の中は大型連休です。毎日が日曜日のような私には,むしろどこに出かけても人だらけのこの季節は嫌いですが,天気もいいし,この先は暑くなって歩くには全くふさわしくなくなるので,人の行かないところに出かけることにしました。
さて,どこを歩くか? が大問題でした。街中の破壊された旧街道なんて歩いても仕方がないし,この時期の奈良井宿,妻籠宿,馬篭宿などは人を見にいくようなもので論外です。福島宿,上松宿のあたりは,いまはまだ内緒の楽しみがあるので,今回はパスして,ずっと気になっていた大湫宿から大井宿までを歩くことにしました。
大井宿というのは恵那市のことで,JR中央本線の恵那駅周辺ですからアクセスに問題はありません。問題なのは大湫宿です。
この大湫という場所は,ずっと以前,星を見る場所を探していたときに候補にあげたことがあるのですが,結局行ったことはありませんでした。しかし,何やらとてもよいところのような気がしていました。ところがJR中央本線の釜戸駅から3.5キロも,しかも坂を上らないと! 行く方法がないのです。平日ならコミュニティバスがあるらしいのですが祝日は運休です。旧東海道同様に,車で行けば街道を歩いたあとで再び歩いて戻ってこなければなりませんから論外です。
というわけだったのですが,釜戸駅からタクシーにでも乗ればいいか,と思って,ともかく行ってみることにしました。
大湫宿から大井宿まではわずか15キロ程度,これなら,前回行った鈴鹿峠に比べたら朝飯前… くらいの気持ちでした。大湫宿の方向から大井宿の方向に歩いた理由は,グーグルマップで標高を調べたらこの方向のほうが下りだということがわかったから,というだけの理由です。相変わらずいい加減なものです。しかし,それ以上の情報はあえて調べませんでした。その方が楽しいからです。
しかし,しかし… 私の歩いたこの大湫宿から大井宿までの間が有名な -とはいっても私には無名だった- 十三峠という難所だったとは! これでは鈴鹿峠と変わらないではないですか。私は自分の軽率さを恥じるとともに,これだから街道歩きは楽しいのだと,全く懲りないのでした。
朝7時過ぎに名古屋駅を出発したJR中央本線はがらがらでした。ふたり連れの年配の女性がどうやら奈良井をハイキングするらしく向かいの席に座っていておしゃべりに夢中でしたが,ブランドの登山装備に身を包み,ハイキングには大仰な出で立ちでした。何事も格好から入るのが「私以外の」日本人の流儀です。私は半そでのポロシャツにジーパン,そしてスニーカー。持参しているのはニコン1とiPhoneと財布だけ。いつもの通りやる気なしスタイルです。帽子を忘れたのが失敗でした。
名古屋から釜戸までは15も駅があって,JR東海道線で西に向かえば名古屋から米原までの駅数と同じですが,こちらの方が距離は短かそうです。
釜戸駅なんてこれまで一度も降りたことはありませんでした。高校生のころ,この釜戸駅から通学していたクラスメイトがいて,田舎もんだとバカにされていたのを思い出しました。駅に降りて改札を出ました。降りたのは私ひとりでした。一応駅員さんがひとりいて,私がマナカをタッチするのを見届けてどこかへ行ってしまいました。
駅は南に面していて,私の目指す北の方向に行くための通路も踏切もありません。駅のまわりには喫茶店どころかタクシーすらどこにもいません。やはりここは予想通りの田舎でした。まだ朝早かったので,大湫宿まで歩くことにしました。
ずいぶんと遠回りをして,やっと線路の下を通る通路を見つけてそれをくぐりましたが,駅に置いてあった地図をもらってこなかったら,ここですでに道に迷うところでした。そのあとは国道19号線を横断してもいいのですが,ここもまた道路の下をくぐる通路があったので,そこを通りました。さて,ここから大湫宿まで3.5キロメートルの急坂のはじまりです。
すごい勾配の道は,その先,今度は中央自動車道の高架の下を通ることになります。
このように,釜戸というところは,鉄道も国道も高速道路も,その町の存在を無視して,乱暴に筆で上から殴り書きされたようなところでした。この国のインフラの整備というのは,力のない町には徹底的に冷淡なのです。