しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

July 2018

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●帰国への長い道のりがはじまった。●
☆15日目 2017年8月30日(水)
 結局,寝たのか寝なかったのかよくわからぬまま夜になってしまったが,いよいよ空港に向かう時間になった。
 今回のアラスカ旅行は,皆既日食を見るためにアイダホ州に行ったあとに帰国するまでの空いた1週間に計画した旅であった。3泊4日,本来の旅とは別に航空券とホテルをエクスペディアでセットでアラスカ旅行を予約して来たので,こういう帰国のスケジュールになってしまった。

 そもそも,フェアバンクスからシアトルを経由して,その日に乗り継いで日本に帰るという日程にかなりの無理がある。フェアバンクスを朝に出発すればシアトルで成田便に間に合わない。だから,前日の深夜の便に乗るしか方法がない。
 しかし,アラスカでなくアメリカ本土から帰国するときも,日本までの直行便のない場所から帰るときは,最終日の日程はいつもハードになってしまう。それは,日本への直行便に間に合うようにフライトを乗り継いでこなければならないから,どうしても早朝の出発になってしまうからだ。となれば,深夜の2時起きなどざらである。

 しかも,地図を見ればわかるように,日本までの直行便のないアラスカから日本に帰るには,アメリカ本土に比べてさらに大変で,まず,アラスカから逆方向のシアトルに向かい,シアトルから,再びアラスカの上空を通って! 日本に向かうという不合理なことになってしまうのだ。
 アラスカは遠い。そして不便である。
 さらにいまひとつ腑に落ちなかったのが,エクスペディアでセットで予約したら,夜遅くチェックアウトするからその日は1泊しないのに,この日の1泊料金も含まれていたということだが,まあ,そんなせこい話はよしとしよう。

 私は乗り遅れるといけないので,早めにチェックアウトしてフェアバンクスの空港に着いた。しかし,まだフライトまでの時間には早すぎて,空港のカウンタには人がおらず,フライトのチェックインができなかった。しかも,空港にはゆっくりできるようなレストランの1軒すら開いていなかったから,私は空港のベンチで所在なげに過ごすことになってしまった。
 地方空港から日本に帰るのはこのように大変なのだが,便利なこともある。それは,国内線と国際線の区別のないアメリカでは,国際線に乗り換えるときに日本のように再びセキュリティを通る必要がないということである。特に,アメリカの大都会の空港はやたらと混雑しているから,こうして空いた地方空港でセキュリティを通過した方がはるかに楽なのである。
  
 やっと空港のカウンタが開いたのでチェックインして私はカバンを預けた。やがて搭乗時間になったので飛行機に乗り込んだ。
 深夜の空港を飛び立った。この晩もまた,機内で寝たのか寝なかったのか,いずれにしてもわずか数時間のフライトでは熟睡もできず,私は2晩連続で睡眠不足のままシアトルに到着した。過酷な帰国への道のりであった。

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 5月,南半球ではさそり座が天頂にあって鮮やかです。日本ではさそり座よりも南(下)にある星座を見るのは非常に困難ですが,実はそのあたりの星空が絶品なのです。そんな位置にあるのがおおかみ座(Lupus)とじょうぎ座です。

 おおかみ座を日本で注目して見たこともありませんでした。南半球では空高く,さそり座の手前にあるのでしっかり見てみると,星の並びがまさにおおかみのように見えてきて,コンパスとかはちぶんぎとかじょうぎとか(みなみの)さんかくとかいった無機質で不愛想なものが多い南半球の星座のなかで意表をついています。
 おおかみ座は「トレミーの48星座」のひとつです。「トレミーの48星座」とは「プトレマイオス星座」のことです。「プトレマイオス星座」(Ptolemaic constellations)は,2世紀の天文学者クラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)が作成した星表に見られる星座のことですが,1970年代まで「プトレマイオス星座」は「トレミー星座」と表現されていました。トレミーというのはプトレマイオスの英語形「Ptolemy」に由来しています。作成した星表に書かれた星座の数から「プトレマイオスの48星座」つまり「トレミーの48星座」といわれます。
 このように,おおかみ座は古い星座です。 
 おおかみ座のおおかみは,古代メソポタミアでは,狂犬 (the Mad Dog) またはカバ男(Gruesome Hound)と呼ばれる人頭獣身の姿が描かれていて,バイソンマン(Bison-man)=現在のケンタウルス座(Centaurus)と対を成すとされました。一方,古代ギリシアでは,おおかみ座はケンタウルス座の一部とされていて,この動物を指す名がなく,単に野獣などと呼ばれていましたが,ビチュニア(Bithynia)のヒッパルコス(Hipparchus)が紀元前200年ごろにこの星座を分離させてテリオン(Therion) と命名しました。
 アルカディア(Arcadia)の王リュカオン(Lykāōn)にこの星座に関する神話があって,それによると,神との宴に人肉を供したリュカオンが大神ゼウスにより狼に変えられた姿だといいます。

 それとは対照的に,じょうぎ座は,これまでに紹介した南半球でみられる多くの星座同様,1756年にフランスの天文学者ニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)が作成した天球儀に初めて描かれました。最初,ラカイユは「l'Équerre et la Règle」 と名づけました。これは製図用具の直定規と曲尺を意味します。かつては「ユークリッドの定規座」(Quadrans Euclidis)とも呼ばれたこともあります。
 1930年にウジェーヌ・デルポルト(Eugène Joseph Delporte)が星座の境界線を定めた際にじょうぎ座のα星はさそり座N星,β星はさそり座H星とされたので,じょうぎ座にはα星,β星がありません。
 じょうぎ座で注目に値するのは多くの散開星団です。写真に撮ると恒星よりも明るく派手な星団が目につくので,星並びを探すのが大変なくらいです。なかでもひときわめだつのが,今日の1番目の写真にあるように,散開星団NGC6067,NGC5999,そして,星座の場所としてはさんかく座に属するNGC6025です。
 北半球で見ることのできる明るい星雲や星団にはメシエ天体として有名ですが,メシエは南半球でしか見られない天体に番号をふらなかったので,こうした明るい星雲や星団であってもそれほど認知されていないのが残念です。そしてまた,こうした天体を紹介する手ごろな本が日本では出版されていないので,見落としてしまいがちです。

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IMG_81462IMG_8251s (3) (1280x853)IMG_8988t2 (4) 大マゼラン雲の北にあるとびうお座は星の並びがよくわかる美しい星座ですが,南半球に出かけたとき,まず見たいのは「南十字星」(=1番目の写真)であり「マゼラン雲」(=2番目の」写真)であり「イータカリーナ星雲」(=3番目の写真)なので,その陰に隠れて,この星座の存在を認識するのは時間がかかります。
 とびうお座(Volans)もまた,前回紹介したカメレオン座やみなみのさんかく座と同様,ピーテル・ディルクスゾーン・ケイセル(Pieter Dirkszoon Keyser)とフレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)が残した観測記録を元に,ペトルス・プランシウス(Petrus Plancius)が1597年に作成した地球儀に残したものが最初です。その後,ヨハン・バイエル(Johann Bayer)が1603年に発刊した「ウラノメトリア」(Vrano=Metria)でそれを引用した当時は「Piscis Volans」 とされていましたが,短縮したほうがよいというジョン・ハーシェル(John Frederick William Herschel)(天王星を発見したフレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)の息子)の提案で,1845年フランシス・ベイリーが刊行した「British Association Catalogue」(BAC星表)から「Volans」が採用されました。
 とびうお座で一番明るいのはγ星ですが,γ星はγ1星とγ2星からなる2重星です。

 りゅうこつ座(Carina)は,とも座を紹介したときに書いたように,アルゴ座と呼ばれる巨大な船をかたどった星座が,1756年フランスのニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)によって,とも座 ,りゅうこつ座,ほ座,らしんばん座の4つに分割さたもののうちのひとつです。ラカイユの死後,1763年に出版された星表「Coelum australe stelliferum」で「アルゴの竜骨(Argûs in carina)とされました。私は1等星カノーブスのある星座としてこのりゅうこつ座を知りましたが,ずっと気味の悪い名前だなあと思っていました。調べてみると竜骨(keel)というのは船底を船首から船尾にかけて通すように配置された構造材のことを指すことばです。

 このアルゴ座にちなむ壮大な冒険物語についても,すでに紹介しました。
 ラカイユがアルゴ座の明るい星にギリシャ文字を割り振ったものが引き継がれたために,りゅうこつ座にはγ星やδ星などはありません。りゅうこつ座のα星は全天に21ある1等星の中でおおいぬ座のシリウスに次いで明るい「カノープス」です。「カノーブス」(Canopus)は日本では地平線すれすれにしか昇らないのでわからないのですが,南半球ではものすごく明るく天頂付近に輝いているので,びっくりします。
 また,ほ座のδ星とκ星,りゅうこつ座のι星とε星を結ぶと十字架の形になって,これらの星を南十字と間違えるために,この4星を「ニセ十字」とよびます。ハワイなど北半球ではこちらの方が先に地平線から昇るので,はじめて見たとき,確かに間違えやすいなあと実感したことがあります。また,南半球でもこちらの十字のほうが先に目めにつきます。
 りゅうこつ座には「南のプレアデス」とよばれる散開星団IC 2602や「イータカリーナ星雲」と呼ばれる散光星雲NGC 3372散光星雲など星雲星団のスターが目白押しです。

☆ミミミ
南天の星座①-今に残る全天88星座の設定
南天の星座②-とも座にちなむ壮大な冒険物語
南天の星座③-みなみのさんかく座,コンパス座,はえ座
南天の星座④-テーブルさん座,はちぶんぎ座,カメレオン座

IMG_8732t (2)_とびうお座 (1280x853)IMG_8732t (2)_とびうお座n (1280x853)

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●すべてのツキの税金を払っているような日●
☆14日目 2017年8月29日(火)日目
 午前1時ころにチナ・ホットスプリングスリゾートを出て,深夜のアラスカを慎重に運転して,3時間以上かけてフェアバンクスに戻ってきた。
 どこで何が飛び出すかわからないのでスピードを落として運転した。ほとんど車は通らなかったが,まれにバックミラーで後ろに車のライトが見えると,車を停めて追い越させた。ただ一度だけトナカイがのっそのっそと道を横切ったことがあって緊張した。
 次第にフェアバンクスに近づいてくると,空はチナに比べたら明るくて,オーロラが見える環境ではないことがわかった。 
 星を見るにせよ,オーロラを見るにせよ,海外に行けばだれでも見られる,というような甘いものではない。それは,日本で星空を見ようと山に出かけるのと同様である。だから,ほとんどの人はなんらかのツアーに参加するのだが,近頃人気の日本の星空観察ツアーにしても,天気が悪くては見られないし,そういったツアーはけっこう高額なのである。
 私は,幸い,満天の星空もオーロラもそして皆既日食も見ることができたし,それらを見る術を知っているけれど,多くの人は,自然を楽しむことすら,今の地球上では簡単なことではない。

 アドレナリンが満ち満ちていて,ベッドに入ってもまったく寝つけなかった。
 この日は旅の最終日であった。特に予定もなかったし,この旅の目的は全て達成したから,この1日をぐたぐた過ごしても何の問題もなかった。
 しかし,最後の難題が待ちかまえていた。それは,帰国の行程であった。
 帰国の行程は,この日の晩未明にフェアバンクスを飛び立って早朝シアトルに到着し,そこで6時間ほどの待ち時間ののち日本へ帰国するというものであった。
 フェアバンクスとシアトルは時差が1時間あるから3時間の飛行時間でも4時間かかる。しかも,日本は西にあるから西に向かって帰国するのにもかかわらず,まず東に向かって行かなければならない。そのあとは,シアトルと東京の時差は8時間(マイナス16時間)で,飛行時間は11時間ほどだから27時間後に帰国することになるから,この日の時間感覚はめちゃくちゃであった。いったいいつ寝ることができるだろう。そこで,この日にゆっくり休養をしないと,この先の見通しが立たないのであった。
 しかし,私の思いとは別に,まったく眠れなかった。朝になっても昼になってもそれは同様であった。
 私は,ずっとベッドで横になっていたが,眠るでもなく,何かをするでもなかった。そんなことをしていてもしかたがなかったので,少し外出することにした。
 
 いつもはダウンタウンに向かって観光に出かけたが,この日は逆方向に行くことにした。
 私の泊まっていたB&Bから西に向かうと,そこは住宅街になっていて,道なりに進んでいったら,あっという間にパイオニアパークの裏門についてしまってびっくりした。こんな位置関係になっているとは思わなかった。
 この日はじめてパイオニアパークにある博物館へ行った。すべてを見たと思ったが,まだ行っていない場所があったことに驚いた。
 この博物館もまた航空博物館同様古びていたがここは無料だった。そしてとてもおもしろかった。 
 その後,小さな店でラーメンを食べた。その店は中国人がやっていたが,単にカップラーメンをそのまま器に入れただけのようなまずいものだった。そして量がなかった。そんなものが7ドルもした。
 いつも書いているように,現在アメリカと日本の物価を考えると,1ドルは80円が相場である。それが異常な円安のために,こんなものが日本円にすると900円近くしてしまうわけだ。これを夕食の代わりにしようと思ったのだが,まったくお腹が膨れなかった。
 一旦ホテルに戻ったが,これでは空腹感が消えなかったので,再び外出して,今度はモールに行って,寿司を買ってきた。
 そんなわけで,徹底的に怠惰な,しかし寝不足な1日を送ることになってしまった。

 そうこうしているうちに夜になり,今度は今更寝てしまったら飛行機に乗りそこなってしまうという強迫概念に襲われて,さらに寝られなくなった。
 私は,アメリカの国内線はほとんどの場合アップグレードされてファーストクラスを利用しているから,今回もそれを期待した。それならばイスも広く,深夜の便だからゆっくりできそうであった。しかし,この日に限って,客が多くてアップグレードさえ見込めなかった。
 まったくもって,この旅のすべてのツキの税金を払っているような1日であった。しかし,旅の思い出というのは,こうしたときのことのほうが忘れられないものなのである。

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●オーロラ写真撮影講座の先生となる。●
 信州の赤沢自然休養林みたいな感じのチナ・ホットスプリングスリゾートは森の中にコテッジやホテルがあり,駐車場には多くの車が停まっていた。私には予想外の展開だった。
 車を停めて外に出ると,そこにいたのはものすごい数の日本人だった。私はツアー旅行のパンフレットすら見たことがないので全く知らなかったが,ここは日本からのオーロラツアー御用達のリゾートで,ちょうどこの日,日本からのチャーター便が到着したということだった。
 もし,チャーター便が到着したこの日でなければ,私はチナ・ホットスプリングスリゾートにはまったく違う印象をもったに違いない。
 オーロラが見られるのは冬,と思っている人が多いから,こんな夏の時期にこれほど多くの日本人がオーロラを見に来ていることもまた驚きだった。

 体育館のような建物があって,その入口に案内所があったので聞いてみた。スタッフも数人のアメリカ人以外は日本人の女性だった。
 私が驚いたのは,「オーロラは見えますか?」と聞くと,見えるとか見えないとかいう次元ではなくて,(当たり前に今日も)見えるけれど,どのレベルのオーロラが見られるか,という話がかえってきたことだった。私は,おそらく見られないだろうから,可能性がなければすぐに帰ろうと思っていたから,大した準備もなくやってきたのに,これでは帰るわけにもいかなくなってここにしばらく留まることにした。
 この日到着したのはJTBとクラブツールズムのツアーで,JTBは午前1時30分までここでオーロラ観察をして深夜にフェアバンクスに帰る,クラブツーリズムはチナ・ホットスプリングリゾートに数日宿泊するというものだった。当然,ここに滞在するほうがずっと高価だ。
 私のように,のこのことフェアバンクスからひとり車でやってきたような人は他にいなかったが,ツアー客といえども見ず知らずの人たちの集合だから,私もツアー客の一員のような感じになってしまった。

 まだ,太陽が沈むには時間があって,みんなこの決して豪華とはいえない建物でコーヒーを飲んだり持ってきた機材の自慢話をしたりして暇をつぶしていた。聞いてみると,ここに滞在して温泉に入るか犬ぞりを楽しむというのが昼間の過ごし方なのだそうで,私もそうした人たちと散歩を楽しんだりした。
 そのうちに次第に暗くなってきて,それとともにすごく寒くなって,防寒着すらもってこなかった私はここで服を買うはめになってしまった。
 オーロラが見れるにしても深夜だろうとコーヒーを飲みながら手持ち無沙汰にしていると,外から「もうオーロラ,見えていますよ」という声がした。
 外に出ると,そこは今は使われているのかいないのか知らなかったが,飛行場の滑走路であった。そこにめいめいが陣取ってオーロラを見るのであった。
 私は三脚さえ忘れてきたので,平らな場所にカメラを固定しなくてはならなくなった。まったくさえない話だったが,そのくらい,私はオーロラが見られることがうれしい誤算だったのだ。ただし,日本から持ってきた魚眼レンズだけは忘れなかったのがいつものように悪運の強さを物語っていた。

 まだ空は十分には暗くなく,肉眼では見えるか見えないかというレベルであったが,写真に写すと,山の上にはっきりとオーロラが捕らえられた。私はこれで満足してしまった。このときの私には,すばらしいオーロラが見たいというより,オーロラを見たという事実だけで充分だった。
 ほかの人たちの反応はまちまちで,喜んでいる人からこんなものかと落胆している人までいた。これはそれまで星を見たことがない人が流星群や彗星,さらには,小さな望遠鏡で惑星を見たときの反応と同じであった。
 そのうち空が暗くなって,オーロラがはっきり見えてきた。さらに多くの人が集まってきて写真を写そうとしているのだが,うまくいかない。そのうちに,私はオーロラ写真撮影講座の先生のような感じになってしまった。

 しだいに夜がふけて来て,私はオーロラを楽しむよりも帰ることができるかどうかのほうが心配になったので,いい加減に切り上げてフェアバンクスのホテルに戻ることにした。深夜の山道は予想以上にかなり大変であった。何が飛び出すかも予想できなかった。私は,来たときの2倍以上の時間をかけて真っ暗なアラスカの原野を走り,午前4時前にホテルに戻った。帰る途中,だれもいない空の開けたキャンプ場に車を停めて北の空を見上げると,そこには,カーテンのように揺れ動くすばらしいオーロラが輝いていた。

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 火星と地球は太陽をひとつの焦点とするそれぞれの楕円軌道を運動しています。それぞれ異なる周期で太陽のまわりを公転しているので,惑星どうしの位置関係はいつも変化しています。内側を公転している惑星ほど公転のスピードが速いので,火星の内側にある地球は公転周期が365日で,火星の公転周期687日に約780日,つまり約2年2か月の周期で追いつき追い越します。
 地球の楕円軌道に比べて火星の軌道はつぶれた楕円形をしているので,最接近時の距離が毎回異なり,近いとき(大接近)で約5,500万キロメートル,遠いとき(小接近)は約1億キロメートルと約2倍にもになります。
 大接近が起きるのは15年おきで,それが今年2018年7月31日というわけです。今回の大接近では火星と地球の距離は5,759万キロメートル,このころの火星はマイナス2.8等の明るさで輝きます。前回2003年には地球と火星は5,576万キロメートルまで接近したので,今回はこれには少しおよびませんが,いずれにしても,15年ぶりの大接近となります。

 何事も話題づくりとそれに付随したお金儲けが資本主義社会に生きる人々の目的なので,この火星の大接近もまた,月の大接近を「スーパームーン」ということに習って「スーパーマーズ」といって人々の興味を駆り立て,これを商戦とばかりに,望遠鏡をはじめてとした火星グッズを売ろうとさまざまな工夫をしています。
 しかし,古の昔より,というのは大げさですが,私の子供のころからずっと,望遠鏡というのはとかく誤解を招く商品のようです。人々はその形から望遠鏡というイメージをいだきこそすれ,それを購入して満足に使いこないしている人がなんと少ないことでしょうか。おそらくそのほとんどは買って一度か二度使っただけで,あとは部屋の飾り物と化していることでしょう。しかし置物にすれば大きすぎるし,決して安いものではありませんからもったいない話です。
 私は星を見ることを楽しみとしているのですが,30年も昔に買った小さな望遠鏡を1台もっているだけです。望遠鏡に限らず何ものも豪華な買い物をする人がいますが,そうしたノリで買っても望遠鏡は使っていないときの置き場に困る代表ではないかと推察します。
 私が持っているのは口径がわずか7.6センチの小さな屈折望遠鏡ですから,当然,性能もたいしたことはありません。しかし,おそらくこの望遠鏡を30年間使い続けている数少ないひとりではないかと自負しています。そして,今でもこの望遠鏡がもっている性能の限りが発揮できるように,様々な工夫をするのを楽しんでいます。

 現在火星は夜8時ごろに東の空に見えるようになります。そのころは西の空には木星,南の空には土星も輝いています。
 明るい木星はすぐにわかりますが,それに比べれば土星は1等星とはいえ暗いものです。なかでも火星はひときわ明るく見られます。
 私は日ごろ,火星に明るい星というイメージがないので,この明るさを異常に感じるほどです。それだけ接近しているということなのでしょう。
 こういう姿を見ると,だれしも拡大して見てみたいとか写真に収めてみたいと思うわけで,そうした人をターゲットにして,望遠鏡売り場や文具売り場,はたまた書店にまで,大きなポスターが張られていたりします。 
 しかし,こんなことを書くと業界の人に嫌われますが,本にあるような立派な姿を見たければ,望遠鏡を買うよりも天文台の一般公開に出かけるのが一番です。天文台の大きな望遠鏡の接眼レンズにスマホを近づければ写真だって簡単に写せます。係りの人に聞くと写し方を教えてくれます。

 ということで,今日の写真の上から3枚はそうした天文台の望遠鏡を使って私がかつて写したものです。それと比較するために,私の小さな望遠鏡で昨日写したものが下の3枚です。いうまでもなくそれぞれ上から火星,木星,土星です。
 現在は写した写真をコンピュータで画像処理したり,ビデオ映像として記録してそれを加工したりして,すばらしいものに仕上げている人の写真が天文雑誌を飾っているので,だれでも簡単にそんな写真が写せると思っている人がいますが,それには手間と暇と財力が必要で,実際はこんなものです。しかし,手間と暇と財力をかけなくても,たとえ小さな像であっても,自分で工夫して写真を写したり時間を忘れて星を眺めるだけで老後の趣味としては十分楽しいものです。
 日本では,火星が地球に最も接近するその3日前,7月28日の明け方午前4時30分ごろから皆既月食が見られます。夜が明ける30分前の沈みそうな西の空の満月に地球の影が入ります。沈む赤い月に寄り添うような赤い火星! こんなもの見たことがありません。私は,実は火星よりもこの皆既月食のほうが楽しみなのです。

☆ミミミ
火星最接近-誰が「スーパーマーズ」などと言い始めたのか?

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●チナ・ホットスプリングス●
 今までに何度も書いているように,今回のアラスカ旅行の目的は,アメリカ50州制覇のために一度はアラスカをきちんと観光したいということと,運がよければオーロラをきちんと見たいというこのふたつであった。
 この旅からまだ1年も経っていないというのに,その後私は,2月にフィンランドに出かけて冬の寒空でオーロラを満喫し,すっかりオーロラ観光の専門家になってしまったような気になっている。しかし,このときの私は冬の寒空にオーロラを見にいくなんて論外だったし,オーロラを見るための知識もまったくなかった。
 オーロラは冬でなくとも見られるということを知って,それなら暖かな夏にアラスカに行けば見られるかもしれないという期待があっただけだった。
 しかし,実際アラスカに行ってみて,それは無理なことだと実感した。なにせ,この時期のアラスカは思った以上に天気が悪い。それに加えて,フェアバンクスの夜は思った以上に明るかった。

 オーロラを見るのは夢物語だと悟ったが,それでもあきらめきれなかった私は,何とかならないものかと,はじめてまじめに調べ出したのだった。そして「フェアバンクスの郊外でオーロラの見える場所」のリストを探し出し,そのなかでフェアバンクスに一番近かったチナ・ホットスプリングスという場所を知ったのだった。しかし,そこがどういうところなのかは全くわからなかった。私はこの1年前に行ったモンタナ州グレーシャー国立公園にあったようなゴージャスなリゾートホテルを想像した。そして,そのゴージャスなホテルのロビーで優雅にコーヒーでも飲みながらオーロラの出現を待つ,といった姿を想像したのだった。

 問題だったのは,その場所がフェアバンクスから近いといっても車で2時間ほどかかるということと,行くはいいとしても深夜にどうやって帰るのか,ということであった。だから,行ってみたいという気持ちの反面,いっそ天気が悪ければあきらめもつくだろうとも思った。それは日本で星見に出かけるときの気持ちと同じであった。
 星好きのおかしなところは,晴れていたら見逃すのは悔しいけれど,天気が悪くて見られなかったというのは諦めがついてまったく残念でないことなのである。私が2001年のしし座流星群の大流星雨を見逃したのを悔やむのは,その晩が快晴だったからで,もしその日が雨だったら,そんな気持ちにはならなかったのである。

 そんなわけで,心のどこかに曇ればいいという気持ちがあったのに,天気はどんどん回復して,ついにアラスカにきて唯一の快晴になってしまった。こうなれば行くしかない,行かなかったら後悔すると腹を決めて,私は。チナ・ホットスプリングスに向かって,雄大なアラスカの山道をひたすら走っていったのである。
 チナへ向かう道路は日本の山岳道路とは違って,片側1車線のきちんとラインが引かれたものであった。しかし,私の予想に反して,この先に本当にリゾートなんてあるのかと思えるほど,ずっと樹海だけが続いていた。そしてまた,ほとんど車も通っていなかった。救いといえば,日が沈むのが遅く,到着までずっと明るいことであった。やがて,目の前にリゾートの入口が見えてきた。それは,私の予想とは違って,日本のしけたリゾートのような,そんなエリアであった。私はずいぶん前に一度だけ行ったことがある木曽の赤沢自然休養林を思い出した。

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 酷暑の夏です。
 連日快晴ですが,よく見ると薄雲が浮かんでいます。春や秋のように移動性高気圧が日本列島を覆い,気圧線が日本列島上でおむすび型になれば雲ひとつなく必ず晴れますが,太平洋高気圧はなかなか天気が読めません。
 また,7月13日の新月を過ぎ,月齢が大きくなって,次第に星を見ることが困難になってきました。
 そこで,予報では薄雲がかかるということだったのですが,7月の星見のラストチャンスだと思い,22日の午後11時,星を見にいくことにしました。この晩は月齢9.0,月が地平線に沈むのは午前0時半ころですが,私の見にいく場所は西側は山が高いのでもう少し早く月明りはなくなるでしょう。
 この日の目的は1週間ほど前に写したふたつの彗星を再び写すことでした。ふたつとも次第に地球に近づいているので,1週間でどのくらい明るくなっているかが楽しみでした。なかでもパンスターズ彗星(2017S3 PanSTARRS)ははじめの予想を大きく上まわっていて,太陽に最接近時は地球からは見られませんがマイナス等級になるという予報が出ています。

 このパンスターズ彗星が発見されたのは昨年2017年9月23日でした。
  ・・・・・・
 ハワイ大学天文学研究所 R.J.Wainscoat と R.Weryk の通報によると,9月23日,ハワイ・マウイ島ハレアカラ(Haleakala)にある1.8メートル Pan-STARRS1 望遠鏡で得た4枚のWバンドCCD露出から20.8等星の彗星を発見した。
 この天体は大変かすかで,東に非対称らしい姿をしている。
  ・・・・・・

 パンスターズという名前の彗星はたくさんあります。すでに書いたことがあるように,これらの彗星はパンスターズ・プロジェクトの大規模の天体捜査網で見つけられたものです。
 現在,地球上のさまざま場所でこうした天体探しプロジェクトが進行していますが,なかでもパンスターズ・プロジェクトを行っているマウイ島ハレアカラ山はとても環境のよいところです。
 標高4,000メートルを超すハワイ島マウナケア山よりも約1,000メートル低く,マウナケア山とは違って舗装した道路が山頂まで続いています。町からも近く,天気も安定しています。
 私は世界中にある天文台からひとつあげるよ,といわれたら文句なくこのハレアカラを選びます。
 
 今日の1番目の写真はこのハレアカラ山頂の夕日を私が写したものです。2番目がパンスターズ彗星,そして,3番目が前回このブログに書いたジャコビニ・ジンナー彗星です。2番目と3番目の彗星の写真はこの晩写したものです。1週間まえにはかろうじて写ったものですがずいぶんと明るくはっきりと写るようになりました。
 この晩パンスターズ彗星は0時過ぎに北東北から昇ってきたのですが,あいにくこの場所は薄雲におおわれていました。しかし,薄雲を通して明るくなった彗星の姿を捕らえることができたのは幸運でした。
 現在ふたつの彗星はどんどんと太陽に近づきつつありますが,特にパンスターズ彗星は地球の位置がよいので,太陽に近づくまで8月上旬の明け方北東の空に3等星ほどの明るさで見ることができると予想されています。4番目の写真は8月9日の太陽系での彗星の位置を示したものです。ただし月の位置がよくないのでこのころは月明かりがあるのが残念ですが,どういった姿をみせてくれるのか楽しみです。
 この晩はとても暑くて,深夜に星を見ていて暑くて汗をかいたのははじめての経験でした。

☆ミミミ
星を見るのも大変だ-彗星発見プロジェクト②

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●青空がのぞいたので●
 この日の午後に参加した外輪船クルーズは,フェアバンクスで一番のアトラクションだった。
 クルーズがはじまる午後2時ごろになるとすっかり空が晴れ上がり,私はアラスカではじめて青い空を見ることができた。楽しかったクルーズは3時間あまりで終了し,船を降りることになった。
 下船後,車に戻る途中で大型車の駐車場を通ると,すごい数の観光バスが駐車してあった。まるで,日本の観光地のような錯覚を覚えた。
 せっかく青空がのぞいているので,たとえ実現できなくとも,オーロラを見ることができる可能性に賭けることにした。しかし,時間は午後5時。季節は夏。緯度の高いアラスカでは陽が沈むにはまだまだ時間が早かったので,まず夕食をとり,それでも時間があるから,さらに時間を潰すためにフロンティアパークに寄ることにした。
 フロンティアパークのある,町を東西に走るエアポートウェイには多くのレストランがあったので,そのなかからデニーズに行くことにした。

 ひとりで旅をしていて,一番困るのは食事である。このことはだれしも同じであるようだ。日本でもひとり焼肉とか,いろいろと表現されている。常々書いているように,私はグルメでないから食にこだわりがない。日本でひとりで食事をする必要があれば,吉野家で何の問題もないのだが,アメリカではそうした店がないから困るわけである。
 アメリカでもモールに行けばファーストフード店がならんでいるから何とかなる。ショッピングセンターに行けばケイタリングもできる。そうした場所のよい点はチップが不要ということだ。そこで,フェアバンクスでもそうした食事をしていたが,この日は気が変わってデニーズに行った。ちなみにアメリカのデニーズは日本のデニーズとは今は何の関係もない。
 デニーズには「+55」という55歳以上対象の安いメニューがあるから,それを選ぶことにしている。この日もそうしたのだが,それでも,食事を終えたあとで,つまらないお金を使ってしまったような気持ちになったものである。

 その後,パイオニアパークに立ち寄った。パイオニアパークの入口ではサーモンベイクをやっていた。サーモンベイクとは,サーモン,タラ,プライムリブなどをその場で好みに応じて焼いてくれる食べ放題の野外バーベキューである。値段は4,000円ほどであった。それを安いと思うか高いと思うかは人次第だが,友人とパーティでもやるのなら話は別だけれど,ひとり旅の私には縁がない。
 サーモンベイを横目に園内に入ると,子供たちが遊び場で楽しんでいた。ここは絶好の遊園地に違いない。
 パイオニアパークの園内は無料であるが,航空博物館というアトラクションだけは3ドルであった。せっかくアラスカまで行ったのだからと,この日はじめてこの博物館に入ることにした。
 本当にアメリカ人は飛行機好きで,どこに行っても航空博物館があるが,要するに,これまで使った飛行機の捨て場に困ってこうして展示してあるということだ。この博物館はかなり古びていて,日本の温泉街にある場末のアトラクションのようなところであった。しかし,けっこう楽しむことができた。
 
 帰りがけ,公園の広場ではバイオリンの演奏をしていた。遠くからもその音楽が聴こえてきていい雰囲気だったが,写真でもわかるように,演奏しているステージのまわりにいた客はたったひとりであった。
 夏の季節であるのにこんな感じの公園はわびしさ満点であった。私はこのしがなさは嫌いでない。しかし,フェアバンクスはパイオニアパーク以外のどこもまたこんな調子であった。
 大都会の人混みもアメリカなら,これもまたアメリカなのである。
 この広場で目についたのが1両の車両であった。これは大統領車両であった。1923年7月,アラスカ鉄道建設の終了を記念して当時のウォーレン・ハーディング(Warren Gamaliel Harding)大統領の手によって黄金の鉄道レール用の釘(くぎ)が打ち込まれた。車両はそのとき大統領が乗った記念の特別車で,アラスカの美しい自然が楽しめるように大きな窓がついている。
 大役を終えて,現在はこの地に展示されてなかを見ることができるようになっている,というわけであった。
 こうして時間を潰してもまだ空は明るかったが,そろそろ私はオーロラを見るためにアラスカの広大な大地を走っていくことにしたのだった。

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 南半球と北半球では季節が反対なので,日本の春はオーストラリアでは秋ですが,この時期の天の南極方向を見ると,天の川が東から西に天頂を渡っていてとても美しく,また,天の川に溶け込むように南十字星が輝いています。その反面,大マゼラン雲,小マゼラン雲は地平線に近く,空が暗いところでも見にくくなります。
 この季節の星空を,星図を片手に星座を探していくと,みなみじゅうじ座の下にあるはえ座とその右にあるカメレオン座は明るく目立つ星はないのですが,それでも3等星くらいの星が多くかたまって形作っているので,はえ座やカメレエオン座はよくわかります。その右に目をやると,とびうお座のダイヤモンドもわかります。しかし,カメレオン座ととびうお座の下にあって大マゼラン雲の左側にあるテーブルさん座だけは、どのように目を細めても星の並びがわかりません。

 テーブルさん座 (Mensa)は天の南極のあるはちぶんぎ座と天の南極をはさんで右となりにある星座です。全天で星座は88あるのですが,そのなかでも,このテーブルさん星座は最も明るい星が5等星なので,「最も明るい星がもっとも暗い」という星座です。
 テーブルさん座は,1756年にニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)によって,南アフリカのケープタウンにあるテーブル山(1番目の写真)をモチーフに設定されました。ラカイユは,1751年から1752年にかけてケープタウンで重要な観測を行ったので,この地の山を星座にしたのでしょう。
 テーブルさん座の星の並びはわかりませんが,その右に大マゼラン雲(LMC)があるのはよくわかります。大マゼラン雲 はテーブルさん座とかじき座の境界線上にあって,大部分はかじき座にあるのですが,テーブルさん座にかかる大マゼラン雲の姿は,実在のテーブル山にかかる「テーブルクロス」と呼ばれる雲にたとえられています。

 一方,はちぶんぎ座(Octans)もまた,テーブルさん座と同じ時期にニコラ・ルイ・ド・ラカイユによって設定された星座です。ラカイユは,1756年に刊行した星図では「l’Octans de Reflexion」と記述していましたが,1763年の第2版ではシンプルに「Octans」と変更しました。はちぶんぎとは星と星の間の角度を測る観測器具の八分儀のことで,ラカイユはイギリスのジョン・ハドレーが(John Hadley)1730年に発明した八分儀を記念してこの星座をつくったといわれています。
 八分儀とは天体や物標の高度や水平方向の角度を測るための道具で,弧が360°の八分の一である45°であるところからこの名がつきました。のち,月の正確な運行表が作られるとこれを利用して経度を知るためには90°を超える月と星の角度を測らねばならなかったため,八分儀よりも大きな角度を容易に測定できる,弧が360°の六分の一である60°の,1757年に発明された六分儀が普及していきました。なお,四分儀=象限儀(quadrant)というものもあって,これは弧が360°の4分の1の扇形をしたものです。
 はちぶんぎ座のほかに,ろくぶんぎ座というものもありますが,現在,しぶんぎ座はありません。
 しぶんぎ座(Quadrans Muralis)は,1795年,フランスの天文学者のジョゼフ=ジェローム・ルフランセ・ド・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande)が設定した星座でしたが,1922年に88の星座を決定した際にはずされ,りゅう座の一部となりました。ただし,毎年1月4日ごろに極大を迎えるしぶんぎ座流星群はかつてこの星座があったりゅう座ι星近辺を輻射点とすることから今もそのその名前が残っています。

 カメレオン座(Chamaeleon)は,前回書いたみなみのさんかく座と同様に,ピーテル・ディルクスゾーン・ケイセル(Pieter Dirkszoon Keyser)とフレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)が残した観測記録を元にペトルス・プランシウス(Petrus Plancius)が1597年に作成した地球儀に残したものが最初です。その後,ヨハン・バイエル(Johann Bayer)が1603年に発刊した「ウラノメトリア」(Vrano=Metria)でそれを引用したことにより世に知られるようになりました。
 カメレオン座の左上には前回書いたはえ座がありますが,今日の写真では視野から外れています。カメレオン座とはえ座は,まるでカメレオンが獲物のハエを狙っているように配置されています。また,今日の写真の,カメレオン座の左斜め下,はちぶんぎ座の左にあるのが,前回書いたふうちょう座です。
 カメレオン座の右隣にあるとびうお座についてはまた次回。

☆ミミミ
南天の星座①-今に残る全天88星座の設定
南天の星座②-とも座にちなむ壮大な冒険物語
南天の星座③-みなみのさんかく座,コンパス座,はえ座

IMG_8738t (2)カメレオン座テーブル山座IMG_8738t (2) (1280x853)n

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●先住民に欠かせなかったサケ猟とは●
 アラスカ内陸部の人々は,ヨーロッパ人と接触する以前から哺乳類や鳥類の狩猟,罠猟,河川や湖沼における生心,植物の採集によって食料を獲得してきた。なかでも,毎年決まった時期に河川を遡上するサケは安定して大量の漁獲が見込め,しかも加工によって備蓄できるために,確実に確保し利用できる食料資源として生活を支えてきた。

 アラスカ内陸部でサケを捕獲していたのはアラスカ州内陸部からカナダ北西部を生活領域とする先住民である。
 アラスカ州内陸部からカナダ北西部を流れる河川はユーコン川とマッケンジー川のふたつがある。ユーコン川(Yukon River)は,カナダのユーコン準州から西にアラスカ州を流れてベーリング海に注いでいる。「ユーコン」とは「偉大なる川」という意味である。マッケンジー川(Mackenzie River)は,カナダのノースウエスト準州から北に北極海へ注ぐ川である。 マッケンジー川はカナダ最長の川である。
 なかでも,ユーコン川は,マスノスケ(king salmon),シロザケ(chum salmon),ギンザケ(silver salmon)といったサケが遡上し,これらのサケを,人と飼育する犬の食料として獲得してきた。
 サケは6月後半から8月初旬にかけて到達する。先住民は,これを刺し網やフィッシュ・ホイールと称される北米産トウヒ製の漁獲用水車を用いて捕獲する。刺し網は,ヤナギの樹皮やヘラジカやカリブー(トナカイ)の腱,皮などを使って製作する。

 魚網やフィッシュ・ホイールから漁獲を回収することは男性の仕事とされた。
 サケは長期保存と虫の発生防止のため,3枚におろして切り目を入れるか,細くひも状に切り分けたのち,騒騒する。燃煙は,地域に自生する植物を用いた憾煙小屋を建てて行った。
 まず,トウヒなどを用いてぶどう棚に似た枠構造を建造し,煙を閉じ込めるためにハンノキやヤナギの葉がついた枝で壁を覆って燃煙小屋とする。燃製にされたサケは保存食や携行食として用いられる。特に,サケの皮付き憔製魚肉を太目のボールペンほどの大きさに切り分けたサーモン・ストリップは携帯に便利で,移動しながら高カロリーの栄養を摂取することができるため,狩猟など野外で活動する際に携行する。また,サケの頭部はスープの素材として珍重されるが,これも保存する場合は乾燥する。
 サケは燃製加工する場合と天日乾燥する場合がある。単に天日乾燥したものは,食べやすくするために,ヘラジカの関節を煮て採った脂やエスキモーから入手したアザラシの脂肪をつけて食べる。犬用の餌とする場合は燥製にせず,単に切り分けて天日乾燥する。

 20世紀前半までは,いくつかの核家族あるいは拡大家族が一時的なバンドを編成し,漁獲地点近くの岸辺や中洲に滞在・作業拠点を置いて,サケの捕獲や加工に係わる一連の作業を行っていた。これを「フィッシュ・キャンプ」と称する。
 当時は,それに先立つ6月から交易所のある集落に人々が集まり,交流交歓や物資の交換が行われ,そこで出会った人々がおもに血縁的紐帯によって集団を構成し「フィッシュ・キャンプ」を編成した。
 「フィッシュ・キャンプ」では,漁獲や加工に用いられる施設や道具は,参加した人々で共用した。また,サケの捕獲・加工作業のほかに,罠猟や水鳥の捕獲など自給用食料の調達活動を行った。さらに他のキャンプへの相互訪問など,社会的活動も活発に行っていた。
 1930年代以降は集落への定住化が進行し,1960年代以降は船外機付きボートの普及によって短時間に長距離の往復が可能となった。これにともなって,生計活動レベルで「フィッシュ・キャンプ」を設けることは徐々に減少した。

 電気冷凍庫が普及する1960年代以前は,サケなど夏季に捕獲した魚は地面に埋めて保存した。穴を掘って葉のついたトウヒの枝を敷き詰め,魚を置いてその上からさらにトウヒの枝をかけて埋め戻した。この方法で冬まで保存することが可能であった。またサケ皮製の容器に,干したサケなどの魚を入れておくと,長期に保存することが可能だったという。
 しかし,現在は大型冷凍庫の普及によって,これらの方法は見かけられなくなっており,また冷凍焼けを防ぐために,加工作業をあえてしないまま冷凍保存することが多くなっている。

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◇◇◇
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●「アサバスカ族」の村に上陸する。●
 ディスカバリー号クルーズは犬ぞりを引くための犬の訓練施設の前で停泊して,犬たちのパフォーマンスを楽しく見学した。私はこのアラスカでもその後で行ったフィンランドでも犬ぞりには乗らなかったが,いつか乗ってみたいものだと思った。
 再び船が動き出した。今度は右手にトナカイが現れたが,このトナカイたちもまた野生ではなく,飼われているものであった。トナカイの飼われているその場所には集落があって,そこで燻製を作くる小屋から煙が上がっていた。
 私はこのときはそれらもこの場所に実際に住んでいる住民の自然の風景であると思っていたが,これもまた,リバークルーズのアトラクションの一環であったことがあとでわかる。
 つまり,このリバークルーズは,ディズニーランドのジャングルクルーズなのである。しかし,ジャングルクルーズがすべて「作り物」のであるのに比べて,これらは「本物」なのである。
 アメリカでは,こうしたアトラクションに限らず,さまざまなことが単純である。たとえば,テレビ番組にせよ,道路整備にせよ,バスルームにせよ,どこも同じ形式で作られていてわかりやすいのだ。
 日本人はきわめてディズニーランド好きだが,ディズニーランドのアトラクションは,それらがすべて作り物であるにの対して,実際にアメリカにいけば,そうしたアトラクションのまさにホンモノがある。

 やがて,リバークルーズも折り返し点のタナナリバーとタナノーリバーとの合流点にやって来た。私は船の最上階にいたが,そこから遠くの景色を見ると,延々と悠久の原野が広がっていた。いつか,再びアラスカに来て,私がこの原野を車で走る日がくるだろうか? と眩しくなった。
 船はここで大きく旋回した。
 私の利用したことのある多くの他のクルーズでは,折り返し点をすぎるとほぼ見物は終わりで,あとは引き返すだけだから,私はこのクルーズもまたこれで終わりかと思った。
 しかし,ここからがこのクルーズ最大のお楽しみであった。
 先ほど煙があがっていたのは,このクルーズのアトラクションのひとつであるネイティブの集落であった。まず,ここで船が沖合に停泊して,岸でネイティブの女性がサーモンをさばくのを船上から見学することになった。水車を使ってサーモンを取り,それをさばいてスモークする方法が実演とともに説明され,なかなか興味深かった。
 その説明が終わると船は再び動き出したが,少し進むと,今度は船が船着き場に到着して横づけされた。ここで乗船客は船を降りて「アサバスカ族」の村に上陸することになるのだった。

 「アサバスカ族」というのは「ナ・ディネ言語群」」(Na-Dené languages)に属するアサバスカ語を話すアメリカン・インディアンのことで,アラスカからカナダ西部の広い範囲とアメリカ合衆国本土太平洋岸北部と南西部に分布する。
 「アサバスカ族」の人達を「ディネ」( Dene)という。「ディネ」には,「北部アサバスカ語」を話す「ヘアー・インディアン」(hare indan)と「アラスカとカナダのディネ」,「南部アサバスカ語」を話す「ナバホ族」(Diné, Navajo)と「アパッチ族」(Indé, Apache)がいる。
 「ディネ」とは「流れと大地」を意味する言葉である。

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 現地の7月17日,日本では18日午前,アメリカMLBのオールスターゲームがワシントンDCで行われました。 
 アメリカではオールスターゲームをミッドサマー・クラシック(Midsummer Classic)といいます。このゲームにはアメリカの子供たち,いや,子供たちにとどまらず,アメリカ人の夢が詰まっているのです。
 今年ゲームが行われたアメリカの首都ワシントンDCにあるナショナルズ・パーク(Nationals Park)は,2年前の夏に行きましたが,すばらしいボールパークでした。特に,スタッフが親切なことにかけてはナンバーワンでした。私にとっては,30球団のボールパーク全制覇の最後を飾ったところとしても印象に残っています。
 日本のテレビの中継では,ボールパークだけでなく,ワシントンDCの街のさままざまな様子も紹介されていました。おそらく,数年前までならば,私はそれを見て,ずいぶんと感動したことでしょう。しかし…

 今の私には,そういった感情をどこかに失くしてしまったのです。それは,ものすごくさびしく,悲しいことです。
 日々の生活を楽しく過ごすには,ひとつでも多く感動できるものがあるのが最も健康的なことです。特に,どんなことであっても,それを生業としている人にとってはそれこそが人生であるから,それを見る側も,同化し感情移入し,同じように感動できるのならばそれは最高にすばらしいことです。
 それがどうしてしまったことでしょう? おそらく,それは,知り過ぎてしまったからなのです。 
 このブログは6年目になります。
 数年前のものを読み直してみると,今の私とは違って,このワシントンDCのボールパークも,行ってみたいなあというその思いが強かったころは,今から考えると幸せでした。
 そして,幸い,2年前にその願いは遂げられたのですが,その結果,私は多くの好奇心と情熱をなくしてしまったようなのです。

 ということで,今年は見るでもなく見ないでもなく,なんとなくゲームが写っているテレビを眺めながら思い出したことがあります。
 それは,子供のころ,日本のプロ野球のオールスターゲームを見ていたころのことです。
 子供心に,オールスターゲームというのは夢のゲームでした。しかし,私が子供のころのオールスターゲームというのは,というよりも,プロ野球というのは,セントラルリーグにくらにくらべてパシフィックリーグといういのは二流半で,テレビ中継もなければ観客もいない,そして,球場もぼろい,という,場末のような世界でした。そしてまた,セントラルリーグというのは読売巨人のためのリーグのようなものでした。
 今から思うと,そんなもの,二リーグ制といえるものでないばかりか,お金をとってその対価として人を楽しませるというショービジネスとしては失格そのものでした。
 当時の日本というのはそういうものがまかり通っていたのです。
 
 そういう状況の日本のプロ野球がアメリカMLBのマネをしてオールスターゲームを3ゲームもやるわけです。
 私は,読売巨人以外のチームから選出された選手が出場するのを楽しみに期待して見はじめるのですが,ゲームがはじまると,レギュラーシーズンと同様に,1塁を守るのは最初から最後までずっと王貞治であり,3塁を守るのは最初から最後まで長嶋茂雄であるわけです。そして,パシフィックリーグのキャッチャーは南海ホークスという,当時大阪難波にあったチームの野村克也であるわけです。
 これでは夢も醒めます。
 それに加えて,テレビで放送される中継の解説といえば,夢のオールスターゲーム,などというもはどこかにいってしまっていて,ここで決め球を見せれば,シーズンが再開されたときに不利になるだとか,そんな「せこい」話ばかりをしていたわけです。この日のテレビ中継で解説をしていた牛島さんはこの時代になっても同じような話をしていました。日本人ですねえ。
 私はすっかり失望しました。

 それから歳をとって,いつの日か,私はアメリカのMLBに詳しくなって,それをもとに,ベースボールだけでなく,アメリカのさまざまプロスポーツを知るようになって,どうやら,こうしたプロスポーツというのは,根本的に日本とは違う発想ですべてが成り立っていることに気づきました。
 今でも,そういうことを知らない多くの日本人は,アメリカMLBのオールスターゲームの前日にホームランダービーという出し物があって,それは,ただ単に様々なチームから選出されたプレイヤーがホームラン数を争うだけのゲームなのに,けっこう高価なチケットを買ってまでして見に来るというのが理解できないようです。
 しかし,アメリカのプロスポーツの本質を知らなければ,その楽しさというのは理解できないことでしょう。
 彼らは,ホームランダービーにせよ,オールスターゲームにせよ,それを見ることが目的ではなく,そうしたものを媒体として,たとえればディズニーランドに行ったような,そんな非日常の世界をすべて楽しんでいるわけです。
 
 私もかつては,そうしたことが理解できるようになるにつれて,その楽しさというものが同じように楽しめました。
 ところが,今の私は,それを知った上で,それを越えて,そんなことのいったい何が楽しいのだろうかと,すっかり冷めてしまったのです。私にはそれが残念でもあり,悲しくもあり,さびしいのです。
 おそらくそれは,私がかかっていた魔法から醒めてしまったからでしょう。
 いつの日か,再び魔法にかかって,そうした夢の世界を楽しめる精神状態に戻してくれないものかなあと,なんとなくオールスターゲームを見ながら強く思ったことでした。

◇◇◇
ミッドサマー・クラシックの想い-1995から2014へ
2016夏アメリカ旅行記-ついに30球団目のボールパーク①
2016夏アメリカ旅行記-ついに30球団目のボールパーク②
2016夏アメリカ旅行記-ついに30球団目のボールパーク③

 ケンタウルス座のα星「リゲルケンタウルス」(Rigil Kentaurus),β星「ハダル」(Hadar)と,それに続く南十字座は南半球の空でもとりわけ美しく有名ですが,この星々から天の南極にいたる間にはあまり目立つ星がありません。
 それでも目につくのが,ケンタウルス座のα星,β星の南にある3つの明るい星が三角形を作っている姿です。これがみなみのさんかく座(Triangulum Australe)です。3つの星は「アトリア」(Atria = Alpha Trianguli Australus)という名の2等星のα星,そして3等星のβ星とγ星です。みなみのさんかく座は,ピーテル・ディルクスゾーン・ケイセル(Pieter Dirkszoon Keyser)とフレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)が残した観測記録を元にペトルス・プランシウス(Petrus Plancius)が1597年に作成した地球儀に残したものが最初です。その後,ヨハン・バイエル(Johann Bayer)が1603年に発刊した「ウラノメトリア」(Vrano=Metria)でそれを引用したことにより世に知られるようになりました。

 ケンタウルス座のα星とβ星,そしてみなみのさんかく座の間にはコンパス座(Circinus)という目立たない星座があります。コンパス座は全天で4番目に小さな星座で,3等星より明るい恒星もないのですが,よく探すとコンパス状の三角形に星が見つかります。この星座のモチーフは、製図用具のコンパス(ディバイダ)です。
 コンパス座は1756年にニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)によって設定されました。ラカイユは既に設定されていたみなみのさんかく座を測量機器に見立てじょうぎ座と共に製図用具が並ぶように星図を描いたのだそうです。

 その右側にははえ座(Musca)があります。はえ座もまた小さな星座で,3等星より明るい星もα星しかありませんが,台形状の星の集まりが昆虫の胴体のように見えてちゃんとはえが想像できるかわいい素敵な星座です。1991年,はえ座のμ星に新星爆発が起こり日本のX線観測衛星 「ぎんが」 によって発生したX線が捉えられたことで注目されました。このμ星は連星ですが,そのうちの一方はブラックホールである可能性があります。
 はえ座は,「ウラノメトリア」では,みつばち座(Apis)と記されていました。また,みつばち座とは別にインドのみつばち座(Paradysvogel Apis Indica)もあったのですが,こちらは,本来はインドのとり座(Paradysvogel Apus Indica)であったと考えられていて,その後,この星座はふうちょう座(Apus)となりました。しかし、みつばち座「Apis」とふうちょう座「Apus」のスペルが酷似していることで誤認され,17世紀から18世紀前半にかけて刊行された他の星図で表記上の混乱が生じてしまいました。
 18世紀に入って,ラカイユがみつばち座を改めてはえ座(Musca)を採用したことを契機に名称を巡る混乱が収束し,現在は,はえ座(Musca)とふうちょう座(Apus)になっています。

☆ミミミ
南天の星座①-今に残る全天88星座の設定
南天の星座②-とも座にちなむ壮大な冒険物語

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盤上の向日葵

 柚木裕子さんの「盤上の向日葵」を読みました。えらく分厚い本でした。560ページほどあって,根気のなくなった私には読み終えるのが大変でしたが,なんとか最後まで到達できました。
  ・・・・・・ 
 埼玉県天木山山中で発見された白骨死体。遺留品である初代菊水月作の名駒を頼りに,叩き上げの刑事・石破と,かつてプロ棋士を志していた新米刑事・佐野のコンビが捜査を開始した。それから四か月,二人は厳冬の山形県天童市に降り立つ。向かう先は,将棋界のみならず,日本中から注目を浴びる竜昇戦の会場だ。世紀の対局の先に待っていた,壮絶な結末とは-!?
  ・・・・・・
といった内容です。

 著者の柚木裕子さんは釜石市出身。子どものころは転勤族で岩手県内をあちこち転校していたということです。2008年「臨床真理」で「このミステリーがすごい!」大賞の大賞を受賞しデビュー,だそうです。
 こういう,一見将棋に縁のない女性が将棋を題材とした推理小説を書くというだけでも不思議なのに,その内容が将棋ファン以上にくわしく,また,将棋に関する記述が,テレビドラマなどで将棋の棋士に扮した俳優さんが対局の場面でコマを指すときの下手なしぐさのようなしろうと臭くないのが,私には推理小説の謎解き以上に難解なことでした。

 読書に限らず,このごろはネット上にさまざまな感想やら批評があふれていて,作品を読む以上にこうしたものを読んで,それを書いた人の人となりや性格を想像することのほうが,私には興味深くなりつつあります。何を書こうが人それぞれ勝手ですが,どんなものに対しても必ずケチをつけ,辛らつなことを書く人というのはいるもので,それは読む側をかなり不快にさせます。私は,そういうものに出会うと「ようそんなことが書けるわ,そういうお前はいったいナニモンなんじゃ」という感情をもちます。私も自戒したいものです。
 それとともに,この本には「私は将棋に詳しくないけれどこの本は将棋に詳しい人が読めばもっと面白く読めるのでは…」といった感想がたくさんありました。
 かくいう私は,将棋は強くないけれど詳しいです。将棋を覚えたのが10歳のころだからあれから半世紀,今はまったく指さず指す気もなく「観る将」一本ですが,将棋を指すのに熱中したのが十代のころだったので,そのころの将棋界のことは,今の若い棋士よりも知っています。そのころ,将棋というのは,今とは違ってかなり危うい,暗い側面をたくさんもっている世界でした。私は,この本を読んで「将棋に詳しい人にはもっと面白く読める」というよりも,当時の危うい世界を懐かしく思い出していました。そこで,今日はその思い出話を書きましょう。

 インターネットなどなかった当時,私の住む名古屋には,板谷将棋教室という将棋道場がありました。名古屋とは違って,東京や大阪にはたくさん将棋道場があり,特に大阪は,近年まで通天閣あたりには危うさ満載の場所もあったようですが,名古屋にあった将棋道場はおよそそれ一軒だけでした。
 私は学校の定期考査が終わった日はいつもそこに入り浸っていました。
 道場の入口近くに座っていた老人は板谷四郎というその道場を経営していたプロ八段の先生でした。二枚落ちで指してもらったこともありました。時折,後に若くして亡くなってしまった息子さんの板谷進八段や,石田和雄九段若き日の姿もありました。そうしたプロの棋士のナマの姿を見て,私はサラリーマンとはまったく違う野武士のような雰囲気を感じました。道場で手合いをつけていたのは奨励会員の少年たちでしたが,同じ年代あるいは私よりも若い世代の彼らは,私には生意気そうな少年たちに思えました。そのなかには,おそらく,藤井聡太七段の師匠である杉本昌隆七段もいたのではないか,と思われます。
 そのころは,将棋道場のなかはタバコの煙がもうもうとしていたし,将棋道場は繁華街のど真ん中のいかがわしそうなビルの最上階にあったので,薄暗い狭い階段を上がって入る必要があって勇気が要ったし,休日ともなれば,繁華街に繰り出して走り回る右翼の宣伝車がけたたましい軍歌を響かせていたのが窓の外から聞こえてきたし,子供にはとんでもない環境でした。
 そんな環境のなかに入っていって中学生が真昼間から将棋盤を睨んでいるのだから,自分でもそれはけっこう「ヤバい」ことをしているように思えました。こんなことをしていたら将来ずいぶんダメな人間に仲間入りをしそうだと感じました。それでも懲りずに将棋に熱中していたのだから,将棋の魔力というのは恐ろしいものです。しかし,私は当時から,そんなものにこれ以上はのめり込んではいけないと固く決意していました。

 昭和30年代から40年代の,私が育った時代の日本というのは,将棋に限らず,何もかもが,そんな「ヤバい」感じの国でした。プロ野球を見にいっても聞くに堪えないヤジが飛び,品のない客が酔っ払い,敗ければ得体のしれないものがグランドに投げこまれました。それがやがて,日本の野球場のグランドのまわりにまるで留置場のように金網が張りめぐらされた原因になりました。
 私鉄の駅の周辺には屋台がならんでいて,どこも小便くさく,駅のホームにはタバコの吸い殻が一杯捨てられていました。夏ともなればクーラーのない列車の車内は地獄で,開け放された窓からは腐敗した匂いが漂ってきました。今はJRになった国鉄は,特に駅員の態度が最悪で,学割で切符を買うともなれば駅員の言動に怯えるほどでした。また,銭湯に行けば,全身入れ墨の怖いおじさんが湯船で泳いでいました。
 将棋道場は,さすがにプロの棋士が経営していた道場だったので,表向き「真剣」というはなかったと思うのですが,昼間から得体の知れないおじさんたちがたむろして将棋を指していました。そうしたおじさんたちはみな,今の私くらいの年齢だったのでしょう。おそらくは自営業でもやっていたのでしょうが,彼らは仕事を奥さんにでも任せて昼間から将棋三昧でした。そして,彼らが指す将棋というのは定跡もなく我流で,しかも見たこともないようなハメ手だらけ。子供が将棋の本やら雑誌で覚えた「筋のいい」ような指し手で対応してもまったく歯が立たないものでした。
 しかし,私は将来,あんなおじさんのようになってはいけないと思いました。そしてまた,私は,子供心に,この国はこのような大人のはびこる結構厄介な社会が壁のように存在しているんだなあ,と思いました。社会に裏があるとすれば,裏ばかりが幅を利かせている国のような気がして恐れました。

 あれから半世紀以上経って,この国は,あのころにあった人間の「本音」やら「本性」,そして危うさは,表向きはどこかに姿を消し,監視カメラに守られた上で保たれた安全で健全な,しかし,「おもてなし」と称して周囲の機嫌と業績ばかりを気にする,やたらと肩の凝る窮屈な社会となりました。
 若者は,学校という名の収容所で「部活」と「ドリル学習」に明けくれて自由な時間と自主性を奪われ去勢され序列化され,飛ぶ羽根をそぎ落とされたあげく,この国こそすばらしい,外国は危険だと洗脳され,ワールドカップサッカーやオリンピックや高校野球に夢中にならねば国民でないというマスコミの先導する風潮の中で,不平や不満,そして将来の不安を押し込められて,まるで規格品の野菜のような姿で社会に放り出され,死ぬまで酷使されるようになりました。
 私は,この本を読みながら,そんな今とは違ったくっちゃくちゃな昔の日本を,懐かしく思い出していたことでした。

◇◇◇
今日の写真は私が写したワシントンDC・ナショナルギャラリーに展示されているゴッホの「ひまわり」です。この作品が小説でどう扱われているかは読んでのお楽しみです。

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●フェアバンクスの見ものはこれ●
 アンカレッジにそそぐタナノーリバーはニナナ(Nenana)の町で支流に分かれて,北にタナノーリバー,東がタナナリバーとなる。タナナリバーはさらにフェアバンクスの空港の手前でチェナリバーとタナナリバーと分かれ,フェアバンクスの南をタナナリバー流れ,市内の北をチェナリバーが流れている。
 ディスカバリー号クルーズはタナナリバーを西に,タナノーリバーとの合流点まで進み,そこで引き返す3時間余りのクルーズであった。
 予想していたよりはるかに楽しく面白く,フェアバンクスに行って,これに乗らないという選択肢はないと思った。
 日本からのオーロラツアー旅行でこのクルーズに乗れるものがあるのかどうかは知らないが,もしあれば,ぜひそれを選択したほうがいいだろう。
 私は,フェアバンクスに行くまでこのクルーズの存在を知らなかったが,前日にそれを知って予約してよかったと思った。

 クルーズがはじまった。
 毎日天気が悪かったが,午後になって,青空が見えてきた。やはり私は正真正銘の晴れ男のようのようであった。このクルーズも天気がよかったからこそ楽しめたのだろう。
 静かに船が動き出した。
 船のまわりを飛行機が飛んでいた。はじめは船の進路を邪魔している地元の愛好家なのかと思ってうざかったが,そうではなく,この飛行機もまた,クルーズ観光のアトラクションの一環なのであった。
 アメリカのこうした観光は非常によくできている。たとえば,ニューヨークの市内観光ツアーでは,車中から外を見るとその観光ツアー向けにダンスをしたりパフォーマンスをしたりというアトラクションが繰り広げられる。それは,偶然そこを通りかかったというのではなく,そのツアーに合わせてそれを行うわけだ。
 このクルーズツアーもまた,そうした趣向で,行きも帰りも川べりでさまざまなアトラクションが繰り広げられることになる。
 考えてみれば,私は水陸両用飛行機というのもナマで飛んでいる姿をみたことがなかった。

 その後は,川に沿って船が進んでいったが,川の周りにあるのは大金持ちの別荘であった。なかにはレーガン大統領の奥さんだったナンシー・レーガンの別荘もあった。
 アメリカの別荘のすごいのは,川べりまでが自分の土地であって,川のほとりがプライベートビーチとなっていることだ。
 日本のように,川べりにわけのわからない護岸工事もなければ,柵もない。だたし,川べりは私有地だからだれでも近寄れるというものではない。
 
 船が進んでいくと,犬のとレーニンセンターを通りかかった。犬たちが川べりで遊んでいて,係員が犬たちの説明をはじめた。船にいる船員がその係員と受け答えをするという趣向であった。
 やがて,川べりでは犬ぞりのデモンスレーションがはじまった。この犬たちは,アイディタロット国際犬ぞりレースで4回優勝し,2006年,白血病で51歳で亡くなったスーザン・ブッチャーがマネージしたケンネルの犬だそうだ。
 犬がつながれて走るのをはじめて見たが,その速度というのが尋常でなくびっくりした。

DSC_1106snn (2)DSC_1126sn (4)DSC_1115s2 nDSC_1131s (5)1833しし座流星雨

 各地に豪雨災害をもたらして梅雨が明けたら,今度は猛暑です。しかし,天気予報は「晴れ」となっていても,実際はつねに薄雲があって,今年の夏は星を見ることに適しません。13日も同じような天気だったのですっかりあきらめていたのですが,夜,空を眺めると星が輝いていました。おそらく薄雲があるのでしょうが,月明かりもなく,見たいものがあったので,星見に出かけました。
 現地に着くと,やはり全天に渡って薄く雲が出ていましたが,この晩私が目的としていた北の空だけは運よく雲がなかったので,写真が写せました。
 この晩の狙いは,1番目の写真の「ジャコビニ・ジンナー彗星」(21P Giacobini-Zinner)でした。

 「ジャコビニ・ジンナー彗星」は1900年12月20日,フランスのニース天文台でミシェル・ジャコビニ(Michel Giacobini)が発見した周期6.8年の彗星です。1907年に次の回帰が予言されたのですが見つからず,その次の回帰だった1913年10月23日にドイツのエルンスト・ジンナー(Ernst Zinner)が再発見したことから,それ以降「ジャコビニ彗星」は「ジャコビニ・ジンナー彗星」とよばれるようになりました。現在「ジャコビニ彗星」(205P Giacobini)と呼ばれる周期彗星がありますが,これは「ジャコビニ・ジンナー彗星」とは別物です。
 私は,子供のころから「ジャコビニ・ジンナー彗星」という名前を知っていましたが,写真に写せたのは今回がはじめてだったので,感激しました。

 この彗星を知ったのは,小学校のときの国語の教科書です(と思い込んでいました)。教科書にあったのは,1933年にこの彗星がもたらした大流星雨の絵でした(と思い込んでいました)。そのとき,こんなに多くの流れ星が見れらるなんて! 一度は見てみたいものだ,と思ったことでした。
 1972年,日本で現在は「りゅう座γ流星群」(γDraconids)と呼ばれている「ジャコビニ流星群」(Giacobinids)で大流星雨が見れらるのではないかと大騒ぎになったことがあります。国語の教科書で「1933年の大流星雨」のことを知っていた我々は,それも手伝って大いに期待したのです。しかし,それは幻に終わり,結局何も見られませんでした。私が「ジャコビニ・ジンナー彗星」という名を知ったのは,本当はこのときだと思われます。
 このとき,その予想が外れたことで国立天文台が批判の対象となったり,この流星群をモチーフとした松任谷由実さんの「ジャコビニ彗星の日」という歌が作られたりしまれました。こうして,「ジャコビニ流星群」は見られませんでしたが,その名前だけは記憶に刻みつけられたのです。ただし,松任谷由実さんは「ジャコビニ・ジンナー彗星」と「ジャコビニ流星群」を勘違いしていて,この歌の名前は「ジャコビニ流星群の日」でなければなりません。

  ・・・・・・
 72年10月9日
 あなたの電話が少いことに慣れていく
 私はひとりぼんやり待った
 遠くよこぎる流星群
  ・・
 シベリアからも見えなかったよと
 よく朝弟が新聞ひろげつぶやく
 淋しくなればまた来るかしら
 光る尾をひく流星群
  ・・・・・・

 私が記憶のなかで「ジャコビニ流星群」とごっちゃになってしまっているのが「しし座流星群」(Leonids)です。「しし座流星群」における大流星雨こそが「ジャコビニ流星群」に代わって2001年11月18日から11月19日にかけて日本の夜空に流れ星の雨を降らせたものなのです。
 しかし,「しし座流星群」もまた,それまでにとんだ騒ぎを起こしていました。1998年に大流星雨の出現が予想されたのにもかかわらず空振りに終わり,その翌年も,さらにまたその翌年も見られず,「オオカミ少年」と化していたのです。多くの人があきらめていたしし座流星群は,3度目どころか4度目の正直で,2001年になって大流星雨が出現しました。1998年以来毎年大流星雨を期待しては失望に終わっていた私はそれを見損ねました。これこそが,私の人生最大の後悔なのです。

 と,ここまで書いていて,私は,とんでもない思い違いをしていたことを知りました。それは,小学校の教科書で知ったという大流星雨は「ジャコビニ流星群」の大流星雨ではなかった,ということです。教科書にあったのは,なんと1833年に出現した「しし座流星群」における大流星雨の絵だったのです。
 教科書に載っていた大流星雨の絵からこのような流星雨の存在を知った私は,「ジャコビニ流星群」の騒動のときに,本当はしし座の大流星雨だったその絵を思い出して,同じような大流星雨が見られるのではないかと期待した,というのが真相だったのです。そして,1972年には「ジャコビニ流星群」のおける大流星雨は見られず,2001年の「しし座流星群」で大流星雨が見れらたということなのです。
 そんな因縁のある「ジャコビニ・ジンナー彗星」を,この晩はじめて写すことができたというわけです。

 この晩は,「ジャコビニ・ジンナー彗星」以外に,2番目の写真「パンスターズ彗星」(2017S3 PanSTARRS),そしてまた,3番目の写真・ケフェウス座の散開星団NGC6939と通称「花火銀河」NGC6946,最後に4番目の写真・アンドロメダ銀河M31とM32を写しました。
 「ジャコビニ・ジンナー彗星」と「パンスターズ彗星」は現在ともに地球に急速に接近しつつあって,「ジャコビニ・ジンナー彗星」は9月に7等星,「パンスターズ彗星」は8月に3等星まで明るくなるといわれているので,この夏が楽しみです。

 海外旅行で現地のツアーに参加すると,そのツアーに,さまざまな旅行会社の団体ツアーで参加した人やら,個人旅行で参加した人やらが一緒くたになっていることがあります。このように,一見複雑な商品構成ばかりの社会でも,実は入口だけは違えども中身は同じ,というものがたくさんあります。ブランド品が実はどこかの町工場で作ったもののOEMで,マークがついているかいないかの違いで値段だけが違ったりするのも同じです。
 たとえば,多くの会社が入札に参加しても,入札に成功した会社がどこも同じ子会社に仕事を委託するならば,結局はどこが入札しても仕事をする人は同じだというからくりがあったりします。

 電気,ガス,水道,電話などは日常不可欠なものなのに,おそらく,その料金体系を多くの人がわかっていないかもしれません。そのなかでも最もわからないのは,携帯電話の「パケット」とかいうものでしょう。電話が3分10円という時代,電話料金は明確だったのですが,いまや,得体のしれない「パケット」なるもので料金を決められたところで,使う側には実感がありません。そんなことがまかり通っているから,法外の料金体系ができあがるのです。
 おそらく最も使った量ががわかりやすいのはガソリンでしょう。しかし,ガソリンンもまた,さまざまな品質のものがあって値段が違うけれど,その値段ほどの違いがよくわからないし,さらにはガソリンスタンドによる値段の違いもあって,メーカーによって品質が違うのか違わないのかなんて判断のしようもないから,なにか釈然としません。
 電気やガスのようなインフラは,多くの会社が作れるものではないから,同じものを使っていながら契約会社が違うと料金が異なるわけです。だから,私にはわけがわからないのです。どうせわけがわならないのなら単純なほうがいい,そんなわけで,我が家ではガス会社との契約を辞めて,ガスも電気も同じ電力会社に統一しました。そうしたところでこれまでと別に何も変わりませんでしたが,ただ,少しだけ値段が安くなったようです。しかし,本当にそれでトクになったのかどうかはわかりません。それよりも,そうしたことで料金の支払いが一元化したので面倒がなくなりました。
 複雑化させることで庶民からお金を巻き上げるのがこの社会のしくみなら,庶民は少しでも断捨離をして単純化することがその防御となるのです。

 そのうち,学校も,入学したときの学校の名前だけが違って,同じ教室で,同じ教師が教えるのにもかかわらず,卒業のときだけ,A君はXという学校の卒業証書を受けとり,B君はYという学校の卒業証書を受けとるといったようになるかもしれません。そこまでいかなくても,今後,少子化でそれぞれの学校が維持できなくなって,教師は人材派遣業者から派遣されて,別の学校なのに同じ先生が教えるということが一般的になれば,それもまた同じようなものでしょう。インターネット上でeラーニングをするというのは,要するにそういうことと同じなのです。
 そもそも大した違いもないのに,やれ高校入試だのやれ大学入試だのといって学校をランク分けして序列化するのは,教育産業と称したビジネスに庶民が貴重なお金を散財させることが目的であることを知らねばなりません。
 私は,将来,同じ先生から同じ授業を受けても,入学した学校が違うというだけで別の学校の名前の記された卒業証書を受けとるなんていう,とても皮肉的で素敵な時代が来るのではないかとひそかに期待しています。そうなれは,学歴やら学閥という「ブランド」は所詮はメッキであって意味のないことだということをだれもが実感して,そのからくりが明白になるからです。

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●外輪船クルーズ「ディスカバリー号」●
 フェアバンクスの外輪船クルーズは,ディスカバリー号クルーズ(Riverboat Discovery)とタナナ・チーフ号クルーズ(Tanana Chief Cruises)のふたつがある。ともに6月から9月までの就航だが,夏至の6月に行っても白夜に近いから夜が短く,オーロラは見られないので,オーロラ観賞を兼ねたアラスカ旅行でこの外輪船クルーズに乗るには8月から9月に行くことが必要となる。
 ディスカバリー号クルーズは1日2回,9時と2時のものがあって,フェアバンクスのダウンタウンから西にある空港近くのボート発着所を出港する。また,タナナ・チーフ号クルーズは夜6時45分からのディナークルーズと週末のブランチクルーズがあって,ディスカバリー号クルーズとは発着所が異なっている。
 私が乗船したのはこのうちのディスカバリー号クルーズのほうであった。

 クルーズは人気があるので事前予約が必要とあったから,前日に2時のほうをネットで予約をしておいた。
 発着所のある場所がけっこうわかりにくく少し苦労したが,なんとか到着できた。日本と違い,こうした観光施設は大きな看板があるわけでもないから,知らないと戸惑うことも多い。
 発着所に着いた時間はかなり早かったので,駐車場はまだほとんど車がなかった。車を停めて歩いて行くと,日本のそうした施設のように,土産物屋やら,さらにはレストランまであった。
 ここで予約してあることを告げて,乗船券と交換をするのだが,これもまた,日本のような過剰な指示書きや掲示がないから,システムを知らないとけっこう戸惑うことになる。要するに聞けばいいだけのことなのだが…。

 やがて,ずいぶんと多くの人が集まってきた。あの,閑散としたフェアバンクスのどこにこれだけの人がいたのだろう,と思うほどであった。
 よく見るとそのほとんどは観光バスで来たツアー客であったが,日本からのツアー客というのはひとりもいなかった。
 この船着き場で食事をしてから乗船するものやら,そうでないものやら,さまざななツアーがあるようだった。出港が午後2時だから,昼食をとってから乗船するにはうってつけであろう。ツアー客の多くは,アメリカ本土やらヨーロッパからの観光客で,老人が多かった。
 ここは,なにやら日本の観光地のようであった。しかし,アメリカの観光地でも,日本と同様に,団体のツアーで旅行をしている年配の人は存外少なくない。そしてまた,アラスカという地はアメリカ人にとっても憧れの場所で,日本人の北海道のような感じであると思える。

 やがて乗船時間になって,船に乗り込むことになった。こうした観光船は,乗ってからどこに座るのかがいつの場合も大問題となる。私の経験でいえるのは,こうした「自由席」の乗り物で真っ先に人の迷惑顧みず,展望席を集団で独占するのは,常に中国人であるということだ。しかし,幸いこの日はそうした中国人の輩はいなかったから,私は不快な思いをしなくてすんだ。

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 スペースシャトル(Space Shuttle)はアメリカ航空宇宙局(NASA)の再使用をコンセプトにした有人宇宙船でした。
 初飛行は1981年4月で,2011年7月,135回目の飛行をもって退役しました。スペースシャトルは,数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ,宇宙空間における科学実験,国際宇宙ステーション(International Space Station = ISS)の建設などを目的として打ち上げられました。 
 現在,現存する4機のスペースシャトルの機体はすべて公開されていて見ることができます。打ち上げを見てみたかったのにかなわなかった私は,展示されている本物のスペースシャトルをせめて1機くらいは見てみたいものだと思っていたのですが,幸いにも今回のロサンゼルス旅行をもって,4機すべてを見ることができました。
 そこで,これを機会に,今日はスペースシャトルの歴史をまとめておこうと思います。

 ・・・・・・
●「エンタープライズ」
 2番目の写真「エンタープライズ」(Enterprise = OV-101)はスペースシャトルの1号機です。1976年,アメリカ合衆国憲法発布200年を記念し,「コンスティテューション」(Constitution=憲法)と名づけられる予定でしたが,アメリカのテレビ番組「スタートレック」(Star Trek)に登場する宇宙船「エンタープライズ」号の名前をつけてほしいという手紙が多数届けられたために,当時のジェラルド・R・フォード(Gerald Rudolph "Jerry" Ford, Jr.)大統領によってこの名がつけられたという経緯があります。
 「エンタープライズ」は滑空実験機で,試験終了後はワシントンDCの国立航空宇宙博物館別館に展示されていましたが,スペースシャトルが退役した後,「ディスカバリー」が同館で展示されることになって,「エンタープライズ」はニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館(Intrepid Sea, Air & Space Museum)に移されました。この博物館はブロードウェイからハドソン川に向かって西に歩いて行けばありますが,実際に地球を周回していないので生々しさに欠け,私にはおもちゃみたいに感じられました。
  ・・
●「コロンビア」
 はじめて地球軌道を周回した2号機は「コロンビア」でした。「コロンビア」(Columbia = OV-102)は18世紀のアメリカ人,ロバート・グレイ(Robert Gray)の帆船(この帆船のレプリカは東京ディズニーランドにあります)に因んで名づけららました。
 初飛行は1981年4月12日から4月14日にかけて行われ,その後も計27回の飛行に成功しました。しかし,2003年2月1日,28回目のミッションの帰還の際に大気圏再突入中にテキサス州上空で空中分解し,乗員7名全員が死亡しました。
  ・・
●「チャレンジャー」
 「チャレンジャー」(Challenger = TA-099改めOV-099)は2号機「コロンビア」に続く機体ですが,滑空試験機「エンタープライズ」と同時に製造された地上試験機を改造しているために,実際は「コロンビア」より早い時期に製造されています。名前の由来は1873年から1876年にかけて探検航海を行ったイギリス海軍のコルベット チャレンジャー号(HMS Challenger)からとったものです。初飛行は1983年4月4日。9回のミッションを成功させたのち,10回目のフライトで打ち上げ73秒後に空中爆発し,機体は分解して大西洋へ墜落しました。
 「コロンビア」と「チャレンジャー」の残骸は,3番目の写真のように,フロリダ州のケネディ宇宙センターで見ることができます。かなり痛ましいものですが,厳粛に展示されていました。しかし,ここを訪れる多くの人はこの展示を知らず素通りしていきます。
  ・・
●「ディスカバリー」
 4番目の写真「ディスカバリー」(Discovery = OV-103)は「コロンビア」「チャレンジャー」に続いて,1984年8月30日に打ち上げられた3機目のスペースシャトルです。南太平洋を航海しハワイ諸島に到達したジェームズ・クックが最後の航海に用いた帆船やハドソン湾を探検したヘンリー・ハドソン,そしてまた,北極探検を行った英国王立地理院が用いた船の船名にもみられるように,「ディスカバリー」は大航海時代より多くの探検船に使われていた名前です。「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船の名前も「ディスカバリー」です。
 2011年3月9日,39回目の飛行ミッションでケネディ宇宙センターに帰還して引退しました。退役後は,それまで展示されていた「エンタープライズ」に代わり,国立航空宇宙博物館別館のウドバーハジーセンター(Udvar-Hazy Center)に展示されています。この博物館はワシントンDCのダレス(Dulles)国際空港の近くで,空港からバスで行くことができるのですが,車がないと不便なところです。広い館内の中央1階に展示された様はかなりの威厳があって,感動しました。
  ・・
●「アトランティス」
 5番目の写真はスペースシャトル4機目の「アトランティス」(Atlantis = OV-104)です。船名は,1931年から1964年までウッズホール海洋研究所で使用された調査船に由来します。1985年10月3日に初飛行を行い, 2011年7月21日に最終飛行を終えました。これがスペースシャトル計画における最後の飛行ともなりました。改良により,「コロンビア」よりも3トン軽量化されて作られていました。
 退役後はケネディ宇宙センターの組立棟に保管されていましたが,2013年7月からフロリダ州のケネディ宇宙センター(Kennedy Space Center)で展示公開されています。ここは車がないと行けません。飛行をしている姿で展示されていて,もっともスペースシャトルらしい感じがしました。また,ハッチが開けれらた状態になっていてなかが見られ,最も興味深い展示でした。1機だけ見たいのなら,文句なくこれをお勧めします。
  ・・
●「エンデバー」
 6番目の写真「エンデバー」(Endeavour = OV-105)は「チャレンジャー」の事故による機数減少を受けて「エンタープライズを改修するよりも安い」との判断でストックされていたスペアパーツを用いて製造された機体です。初飛行は1992年5月7日でした。2011年6月の引退までに25回の飛行を行いました。名前は,キャプテン・クックの南太平洋探検の第1回航海の帆船に由来しています。この「努力」と和訳される言葉のスペルはイギリスではendeavour,アメリカではendeavorとなりますが,本船はクックの船名に由来するのでEndeavourが用いられています。
 退役後はロサンゼルスのカリフォルニア科学センター(California Space Center)に展示されています。今回私は車で行きましたが,ここにはバスで簡単に行くことができますから,もっとも見にいくのが簡単なスペースシャトルでしょう。現在は展示されている場所が狭く,十分にその素晴らしさを味わうことができません。将来は7番目の写真のように,打ち上げるときの姿で展示されるそうなので,そうなったあとで再び見てみたいものです。
  ・・・・・・

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2013アメリカ旅行記-マンハッタン・再び④
2016夏アメリカ旅行記-ケネディ宇宙センター③
2016夏アメリカ旅行記-ケネディ宇宙センター④
2016夏アメリカ旅行記-ウドバーハジーのディスカバリー③

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●謎の多いフェアバンクス●
 フェアバンクス(Fairbanks)はアラスカ州の中央部に位置する都市である。人口は約3万人。アラスカ州ではアンカレッジに次ぐ第2の都市である。
 北緯65度あたりにあって,北極圏からは約160キロメートル南に位置している。このときの私はテンションが低く,車で北極圏に行くこともできたのだが気が進まなかった。行かなかったことを帰国してから後悔していたのだが,その後,フィンランドのロバニエミに行ったときに北極圏に到達したから,それ以降はどうでもよくなった。
 フェアバンクスの面積は約85平方キロメートルというから,9キロメートル四方というところか。車で走ってみるとあっという間に市街地を抜けて大平原に出る。
 市内をチェナ川(the Chena River)が流れ,すぐ南でタナナ川(the Tanana River)と合流しているが,今日の午後はそのチェナ川を下る外輪船クルーズに乗船することになっていた。この町でタナナ川は網状流路となっている。
 フェアバンクスは冷帯湿潤気候に属していて,冬季は摂氏マイナス30度から40度前後にまで下がるが,私の訪れた夏は昼は25度まで上昇するから,寒いということはまったくなかった。

 今日の1番目の写真はフェアバンクスのダウンタウンである。人の少ないダウンタウンは静かな町だが,私が行ったときは町の東側は道路工事で車の通行の妨げになっていた。
 2番目の写真はバスターミナルである。私はバスに乗ることはなかったので,詳しくは調べなかったが,一応,町の様々な場所にはバスで移動することができる。しかし,郊外まで行こうとすれば,車がなければどうにもならない。
 そして,3番目が市役所,4番目はアパート,5番目が高等学校である。 また,最後6番目の写真がスーパーマーケットである。スーパーマーケットはフェアバンクスの市内には数件あって,ここに行けば食事はなんとかなったので,かなり重宝した。パック寿司も売っていた。

 1900年ごろ,カナダ・ユーコン準州のクロンダイクで金が発見(Klondike Gold Rush)されると,その隣のアラスカ全土もゴールドラッシュに沸いた。そして,現在のフェアバンクス近くタナナ川支流の渓谷でイタリア人フェリックス・ベドロが金を発見したことにより,タナナ川とチェナ川の合流点に交易所が開かれた。これにより町が整えられていき,1903年に上院議員のチャールズ・W・フェアバンクスの名前をとって,フェアバンクスと名づけられたわけだ。ここでは現在もなお複数の金山が稼働している。
 フェアバンクスは日本人にとってはオーロラの最もよく見える町として知られているが,実は,冬季にフェアバンクスを訪れる日本人は夏季に訪れる観光客からすると僅かであるという。
 これは私にも意外に思える。しかし,雪のないこの季節のフェアバンクスは,車さえあれば楽しく観光ができる。また,この日の夜,私はフェアバンクスの郊外まで遠出して,ついにオーロラを見ることができたのだが,これもまた,車がなければ行くことはできなかった。そんなわけで,夏のフェアバンスクは車さえあれば観光をするのが簡単なので,冬に比べて日本人観光客が多いというのもわからなくもない。

 それに比べて,冬のフェアバンクスは私には謎の多い町である。一体,冬にフェアバンクスに行ったときには,どのような移動手段があるというのだろう。おそらく現地ツアーにすべてをお任せするしか手段がないように思う。
 この数か月後に行った冬のフィンランド・ロバニエミは,フェアバンクスに比べて,非常に観光のしやすいところであった。日本人向けの現地オーロラツアーもあったし,お昼間も徒歩やバスを使えば観光をする場所にはことかかなかった。その点,フェアバンクスはかなり大変であろう。
 このように,冬のフェアバンクスにも行ってみたいが,この町に冬に行って,どうすればよいのか,私には謎が一杯なのである。いずれにせよ,個人旅行に比べて何倍もする高価な団体旅行に参加してすべてお任せで行く限りは何の問題もないのだけれど。

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●「氷の彫刻世界競技大会」が味わえる博物館●
 冬のフェアバンクスは気温が摂氏マイナス20度からマイナス40度になる厳寒の地である。そこで,フェアバンクスでは毎年3月に「氷の彫刻世界競技大会」(World Ice Art Championships)が行われる。これは世界中から氷の彫刻家たちが集まり作品を競い合う世界一の氷の彫刻大会である。
 この大会は,近くにある凍った池から244センチメートル×152センチメートル×91センチメートルの巨大な氷のブロックを切り出して,各チームに与えられ,それを60時間以内に作品として完成させるというものである。
 札幌の冬に行われる雪祭りや日本各地の砂浜で夏に行われるサンドフェスティバルの氷バージョンのようなものであろう。雪や砂とは違って,氷の像は光を幻想的に反射しクリスタルのように輝くというのが魅力である。

 この大会は,1990年にわずか8組のチームで開催されたのが正式なはじまりとされる。現在はパイオニアパークから北にチナ川を渡ったところにあるジョージ・オーナー・アイスパーク(George Horner Ice Park)で行われている。
 競技大会の時期は,この広場に作られた高さ約3メートル,長さ30メートルほどの氷のすべり台が作られ,勢いよくすべるそりの音と子どもたちの歓声が雪の上にこだまする。夜のとばりが下りると,氷に埋め込まれた青,緑,赤のライトがすべり台を光るレールのように宵闇に浮かび上がらせる。
 ひとつの氷の塊から作るシングルブロックの部と複数の氷の塊を使うマルチブロックの部があって,参加者はアメリカをはじめ,中国,ロシア,カナダ,ポルトガル,スペイン,ドイツ,イギリス,フィリピン,日本からと多彩である。透明度の高い地元の天然氷から生まれた彫刻は色とりどりにライトアップされ,夕闇の中でひときわ映えるという。

 ダウンタウンにある劇場を改造したフェアバンクス氷の彫刻博物館(Fairbanks Ice Museum)では,この競技大会で作られた作品が保存されていて,夏でも見ることができる。
 私が入場料を払ってなかに入ると,他にいたのは一組のカップルであった。まず,氷の彫刻に囲まれた客席に座り,競技大会の様子や彫刻の妙技を紹介したビデオを見た後で,実際に彫刻が展示された部屋に行って写真を撮ったりする。そして,最後に,実際に彫刻を作るデモが行われて,中国人の係員が上手に氷を削っていく様を見学するすることができるというものであった。

 このように,オーロラ以外に楽しみの少ない冬の時期にフェアバンクスに行けば,この競技大会を見ることができるわけだ。しかし,フェアバンクスに宿泊しオプショナルツアーでこうした競技大会に出かけ,オーロラを見るために夜だけ郊外に出かけるといった団体旅行にでも参加しなければ,雪の多い冬にはこうしたフェスティバルすら行くことができないだろう。
 私のような個人旅行で冬にフェアバンクスに行っても,雪の積もった不慣れな道路をレンタカーで走る覚悟がなければ,自由に外出することもままらないないに違いない。ましてやオーロラを見るために深夜に郊外までドライブするなんて論外だろう。冬のフェアバンクスを個人で旅するのは容易なことではない。
 

Argo_Navis_Hevelius無題

 今日はとも座(Puppis)を紹介します。「とも=艫」というのは船の船尾のことで「へさき=舳」と対をなすことばです。
 もとはアルゴ座(Argo)と呼ばれる巨大な船をかたどった星座が1756年,フランスのニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)によって,とも座 ,りゅうこつ座,ほ座,らしんばん座の4つに分割されました。とも座は,この4星座のうちで最も北に位置しています。
 アルゴ座の壮大な冒険物語は「アルゴナウタイ物語」(=アルゴ船の乗組員達の物語)とよばれます。それは,テッサリアの王子「イアソン」が叔父ペリアスに奪われた王位を奪還するために必要となった金の羊毛(=おひつじ座 )を獲得しようと,勇者たちを率いてアルゴ船に乗って旅をする物語です。

  ・・・・・・
 「イアソン」は,テッサリアのイオルコスの領主アイソンの息子として生まれました。平和を愛し,欲のない性格だったアイソンは,弟のペリアスに王位を奪われてしまいます。弟ペリアスは,アイソンの小さな息子「イアソン」を殺そうと刺客を送りますが,アイソンは「イアソン」をケンタウロスのケイロン(=いて座 )のもとへ預けて難を逃れます。
 やがて成長した「イアソン」は,ケイロンに自分の生い立ちを聞かされ,王位を奪還することを誓って帰国の途につきました。現れた「イアソン」を見ると,弟ペリアスは激しく動揺し,「イアソン」に黒海の奧のコルキスの国へ行って金の羊毛を取ってくるようにとの難題を言い渡したのでした。
 そこで「イアソン」は遠征を決意し,船大工のアルゴス(Argos)が人類初の大船を作ることになります。
 女神ヘラの導きによって50人もの勇者達がギリシア全土から結集し,また女神アテナの助言によって,ゼウスの神託所があるドドナの樫の木で船首の梁が作られ,アルゴ船は人語を話す能力を持った船として竣工します。完成したアルゴ船はあまりに重く,人の力で動かすことができませんでしたが,アルゴナウタイ(=アルゴ船の乗組員)のひとり,琴の名手オルフェウス(=こと座)が竪琴を掻き鳴らして歌うと,船は自ら動き出し進水しました。
  ・・
 「イアソン」に率いられて出発したアルゴナウタイには,ふたご座 として知られるカストルとポルックスの兄弟,十二の偉業で有名なヘラクレス(=ヘルクレス座 ),北風の息子ゼテスとカライス,ミノタウロスを倒したテセウス,後にカストル・ポルックス兄弟と決闘してカストルを殺すことになるイダスとその兄弟リュンケウスなどトロイア戦争の英雄が勢揃いしていました。
 一行は「イアソン」の師ケイロンが住む山やアマゾネスの女王ヒッポリュトスが住むレムノスに立ち寄り,旅を進めました。水を得るために立ち寄った小アジアのミュシアでは,ヘラクレスと連れのヒュラスが泉を探しに行き,ヒュラスが泉のニンフに捕らえられ,彼を捜すためにヘラクレスがアルゴ船での旅を諦めるというハプニングもありました。
 小アジアの北の海岸には,通る者全てに戦いを挑み殺してしまうアミカスという戦士が住んでいましたが,カストルとポルックス兄弟の働きによって通り抜け,その後,盲目の預言者フィネウス王が住む島へたどり着きます。
 この預言者フィネウスはポセイドンの血を引いていましたが,予言を悪用した罪で神々に罰せられたために盲目でした。そして,食事の度に食べ物を奪いにやって来る怪鳥ハルピースに悩まされていました。これを哀れに思ったアルゴナウタイは彼の食卓で鳥たちを待ち,北風の息子ゼテスとカライスの働きによって怪鳥らは遠くの海で溺れ死んだため,フィネウスは感謝のしるしとして,今後の旅の鍵となる難所シュンプレガデスを通り抜ける方法を伝授します。
 シュンプレガデス(=打合い岩)は黒海の入り口にある難所で,通り抜けようとする船があれば2つの大岩が打ち砕いてしまうという場所です。アルゴ船は,どうしてもその間を通らねばならないのでした。フィネウスに教えられたとおり,まず1羽の白い鳩を先に飛ばし,閉じた岩が開いた瞬間,アルゴ船は全速力で岩の間を突破するという作戦でした。鳩は女神アテナの助けを借りて無事に岩の間を通りきり,岩が開いた瞬間を狙ってアルゴ船が岩の間に突っ込みます。このとき,アルゴ船は船尾を先にして進み,通り抜けようとした瞬間に船首を岩に討ち取られてしまったため,アルゴ座には船首がないと言われています。
 アルゴ船は何とか難所を切り抜けることができ,一度も船を通したことがないのを自慢にしていたシュンプレガデスはアルゴ船を通したショックで固まってしまい,二度と動くことはなくなりました。また,女神アテナは英雄となった鳩をはと座として星座の中へ置きました。
 アルゴナウタイの最後の冒険はカリドンの地で狂暴なイノシシを退治することでした。カリドンの人々が生け贄を献げることを怠ったため,怒った狩りの女神アルテミスがイノシシを送り込んだのです。ここで活躍したのは,アルゴナウタイの紅一点,狩りの名手アタランテー。彼女はたった一本の弓で,見事イノシシをしとめたのでした。
  ・・
 たどり着いたコルキスの国で「イアソン」が王アイエテスに金羊毛を求めると,王アイエテスは難題を言い渡すのですが,「イアソン」に恋したアイエテスの娘の魔女メデイアの助けによって「イアソン」はそれを成し遂げます。魔女メデイアは,金羊毛を手に入れた「イアソン」らと共に帰途の旅に加わったのでした。
 国に帰ると「イアソン」の父アイソンは叔父ペリアスによって殺されていました。
 「イアソン」はまたしても魔女のメデイアの助けによって父の敵をとることができたのですが,「イアソン」が魔女メデイアを捨ててコリント王の娘を妻に迎えたため,怒ったメデイアに王や妻,娘達を殺され,「イアソン」は失意のうちに不幸な最期を遂げたということです。
  ・・・・・・

 とも座 にはζ星「ナオス」(Naos),ξ星「アスミディスケ」(Azmidiske,Asmidiske)という固有名のついた星があります。「ナオス」は「船」を意味するギリシア語ナウス(ラテン語のNavis)が語源です。また,「アスミディスケ」は「盾」を意味するギリシア語のアスピディスケが語源です。
 ラカイユはアルゴ座の明るい星にギリシャ文字を割り振ったため,とも座にはζ星,ν星,ξ星,π星,ρ星,σ星,τ星はあるのですが,α星やβ星などがないのです。

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●わずか数日の思い出が…●
☆13日目 2017年8月28日(月)
 アラスカ3日目の朝である。
 昨晩も天気がすっきりせず,そのまま朝になった。これほどフェアバンクスは天気が悪いとは思わなかった。旅というのは不思議なもので,まだ滞在3日目だというのに,フェアバンクスのことをもうすっかりわかったような気になるのが不思議なことだ。
 若いころは何か月にもわたって旅をしたかったものだが,このごろは旅は1週間で十分だと思うようになった。それは,1週間の旅なら非日常をたっぷり味わうことができるが,これ以上長くなると日常になってくるからだ。
 海外でよくどのくらいの期間旅行をしているのかと聞かれる。1週間と答えると気の毒そうな顔をされる。とはいえ,社会人にとってみれば1週間の休みすら取れないのがこの国である。日本で同じことを聞かれて1週間と答えると,そんなに長い期間!と,今度は逆に驚かれる,働き方改革を叫ぶなら,せめて,年に1度はお正月やお盆以外に1週間の連続した休みを与えることが先決だと私は思う。
 この春,私が出かけたオーストラリア旅行は,緊急に帰国したためにわずか1泊であった。このアラスカ旅行もまた,この日が3日目だった。しかし,いずれの場合も,たった2日でずいぶんといろんなことができるもので,普段暮らしていると特に何もしない,何も思い出せないような1週間がほとんどだというのに,わずか数日の旅でも,人生に過大な思い出をもたらすというのが不思議である。

 さて,この日のメインイベントは外輪船クルーズ(Steemwheeler Riverboat Cruises)であった。昨日,何か見どころがないものかと探した結果見つけたものだが,このクルーズはとても人気があるそうなので予約なしでは乗ることができないかもしれないと思って,ネットで予約をしておいた。
 この外輪船クルーズのことはまた後日書くことになるが,これはフェアバンクスでは最高の見ものであった。しかも,外輪船クルーズは5月中旬から9月下旬までしか運航していないから,冬にやってくる日本からのオーロラツアーでは乗ることができないので,これは貴重な体験であった。

 今日もまた,私の泊まっているB&Bではすばらしい朝食を食べることができた。朝食が一緒だったのはドイツから来た夫婦連れと日本から来た初老の夫婦であった。この初老の夫婦は,日本からツアーでバンクーバーから列車に乗ってアンカレッジに来て,そこでツアーをキャンセルしてフェアバンクスにバスを利用して来たという話だった。こういう方法はありだろう。旅でもっとも難しいのは移動手段だが,お金さえあれば,ツアーの「いいとこ取り」をすればいいわけだ。彼らは車を利用していなかったから,フェアバンクスでは公共交通を利用して観光をしていた。しかし,これではオーロラも見に行けないし,かなり行動に制限がある。

 朝食を終えて,まずビジターセンターに行った。駐車場が広いからここに車を停めてダウンタウンを散策しようという計画であった。1日目もダウンタウンを散策しようとしたが,その日は雨に降られて中断をしたので,私はまだダウンタウンを十分に見ていなかったからだ。
 ビジターセンターの隣にゴールデンハートプラザ(Golden Heart Plaza)という広場がある。この広場を通ってダウンタウンに行くのだが,そこで私が見たのは小さな子供を連れた若いおかあさんたちが体操をしている姿であった。指導をする人がいて,それに従って楽しそうにやっていた。
 こういう姿に出会えることこそが,旅をしていて楽しいときである。この時期は夏だからこうした時間がもてるのだが,冬になったらどういう生活をしているのだろうとこのとき思った。
 この広場の中央には彫刻があった。この彫刻は「知られざる最初の家族」(Unknown First Family)と題されたものである。その脇にはこの彫刻の作者であるマルコム・アレキサンダー(Malcolm Alexander)の詩が書かれてあった。
  ・・・・・・
Portraying the family of all mankind, the family of Fairbanks, and the nuclear family, let this statue symbolize, for families present and future, the pride and dignity of this great land.
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 公園を通り,橋のたもとにあったがイマキュリッツコンセプション教会(Immoculate Conception Church)であった。この教会は1904年に造られたフェアバンクスで最初のものである。教会には自由に入ることができた。美しいステンドグラスや錫の細工で飾られた天井や壁が美しかった。

 今日は七夕。このところずっと天気が悪くお星さまが見られません。そこで,お星さまにちなんで,日本では見られない南天の星座の話題にしましょう。
 現在の全天88星座は1928年の国際天文連合総会で決まったものです。
 星座の起源は,数千年前のメソポタミアです。2世紀になると,プトレマイオス(Claudies Ptolemaios)の「アルマゲスト」(Megal Ptolemaios)の星表に今も伝わる48星座が記述されていました。この48星座にはギリシア・ローマ神話に基く物語が語られています。しかし,北半球に住んでいたプトレマイオスはもちろん南半球の星空を見ていないので,南半球の星空にはこうした神話に基づく「粋な」星座がありません。
 その後の400年間に,全天にわたって多くの新しい星座がつくられ,一時は120もあったといいます。そのなかで特筆すべきは次の3つです。
 そのひとつは,17世紀,フランス人のロワイエ(Augustine Royer)が「Cartes du Ciel」という星表つき星図に設定した「みなみじゅうじ座」を含む6星座です。このうちで今も残るのは「みなみじゅうじ座」と「はと座」のみです。ふたつめは,ドイツ人のヤーコブ・バルチ(Jakob Bartsch)が設定した4つの星座ですが,現在残るのは「いっかくじゅう座」と「きりん座」のふたつです。18世紀になると,フランス人のニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)が「ちょうこくしつ座」「ろ座」「とけい座」などの14の星座を設定しました。この14の星座は今も使われています。
 では,全天88星座のなかから,日本から見ることのできない南半球の星座について,私の写した写真とともに,次回から紹介していきましょう。

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 私が今回のロサンゼルス旅行の目的のひとつはウィルソン山天文台訪問でした。今日は,そのウィルソン山天文台について紹介しましょう。
 私は子供のころ,アメリカには巨大な望遠鏡がたくさんあって,アメリカ(政府)はすごいと思ったものですが,それはアメリカ(政府)がすごいのではなく,アメリカで財を成した人物がすごいということだったのです。日本で大金持ちが天文台を建設した,なんていうことを聞いたことはないでしょう。
 
 ウィルソン山天文台の初代台長はジョージ・ヘール(George Ellery Hale)です。ヘールは1868年6月29日シカゴで生まれた天文学者で,父はエレベーター製造で財をなしたウィリアム・ヘールです。つまり,私が訪れた日の前日が生誕150年だったということです。
 少年時代から自宅の屋上に据え付けられた天体望遠鏡で天体観察に没頭し,マサチューセッツ工科大学で学び,1890年に学位を取得,その後,自宅の敷地内に12インチの屈折望遠鏡を備える天文台を建設して太陽の観測を行いました。
 この望遠鏡には,彼が大学在学中に発明したスペクトロヘリオグラフ(単色太陽光分光写真儀)が組み込まれ,これによって太陽光からカルシウムの特性スペクトルに単色化し,史上初めて太陽の紅炎(プロミネンス)の撮影に成功しました。この成果によって,24歳でシカゴ大学天体物理学講座の助教授に就任しました。
 1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキス(Charles T. Yerkes)の資金を得て101センチ屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設しました。さらに,1904年,カーネギー研究所の寄付を得て当時世界最大の257センチ反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し,初代台長になりました。さらに,ロックフェラー財団から寄付を受け,パロマー山天文台の建設に着手しますが,その完成を見ることなく死去しました。

 ウィルソン山天文台(Mount Wilson Observatory=MWO)は,ロサンゼルスの北東パサデナ郊外のサン・ガブリエル山系にある標高1,742メートルのウィルソン山頂にあります。ウィルソン山は北アメリカの中では最も大気が安定した場所のひとつで,天体観測を行なうのに理想的な環境でした。完成当初はウィルソン山太陽観測所 (Mount Wilson Solar Observatory) と呼ばれ,天文台創設2年後の1904年にワシントン・カーネギー協会から出資を受けました。
 1896年,ジョージ・ヘールは父のウィリアム・ヘールからの寄贈品として直径60メートルのミラーを受け取りました。しかし,1904年にヘールがカーネギー協会から資金を得るまで天文台の建設は待たなければなりませんでした。1905年に反射鏡の研磨が始まり,完成には2年を要しました。当時は天文台へ道が未整備で,資材の運搬はラバなどが用いられていましたが,望遠鏡に使われる分割できない大型の部品を運ぶために電動トラックが開発されました。この完成当時世界最大だった望遠鏡は天文学の歴史上,最も多くの成果を挙げて成功した望遠鏡のひとつとなりました。

 ヘールはさらに大口径の望遠鏡の建設に着手しました。カーネギー協会とともに資産家で慈善家のジョン・D・フッカー(John D. Hooker)が必要な資金の大半を援助,1917年11月,100インチ望遠鏡は完成しました。
 エドウィン・ハッブル(Edwin Hubble)は,この100インチ望遠鏡での観測をもとに,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論,さらに,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton L. Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見しました。
 フッカー望遠鏡は世界最大の望遠鏡として君臨していましたが,1948年にパロマー山に200インチ望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになりました。1986年に100インチ望遠鏡は一度は運用を終了しましたが,1992年に再び使用が開始されました。フッカー望遠鏡は20世紀を代表する傑出した科学装置なのです。

☆ミミミ
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴①
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴②
古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴③

帰国の日です。
空港に近いという触れ込みだったモーテルは,時速100キロメートルでフリーウェイを走っても空港まで20分もかかる場所でした。私がこれまで数多く泊まったなかでも最悪の部類であったモーテルは,当然朝食もなく,フリーWifiもほどんどつながらず,ロサンゼルスの空港のデルタワンラウンジで朝食をとることにして,朝7時にホテルをチェックアウトしました。しかし,レンタカーリターンは空港から少し離れているので,カーナビにしたがって走っていたのに場所がよくわからず,空港の付近をうろうろして,レンタカーを返すのに苦労しました。
やっと車を返し,シャトルバスで空港に着き,チェックインをして,セキュリティを通過しました。
ロサンゼルスの国際空港は前回来たときとは違って,建て直されて新しくなっていたのですが,日本までの便が出るターミナルだけは古いままでまだ建て直されておらず,そのために,建て直された建物とは途中でつながっていないので,その間をシャトルバスに乗る必要がありました(とラウンジの受付で親切な係員の女性が教えてくれました)。
私は,新しいほうのターミナルあったラウンジで2時間ほどを潰しました。搭乗者の利便性を完全に無視し,観光客を優先するショッピングモールのような日本の空港のラウンジとは大違いで,アメリカの空港のラウンジはものすごく豪華なのです。
その後,時間になったのでバスで搭乗ゲートに向かい,飛行機に乗りました。
帰りも座席はアップグレードされて,デルタコンフォートの最前列になりました。帰りは行きに比べて11時間と,かなり時間がかかります。飛行機は9時間以上乗ると急に疲れます。乗っているのが嫌になったころ,日本の陸地が見えてきました。
羽田空港では出発時間まで2時間,空港の端っこにあった狭い狭いラウンジで時間を潰し,羽田からセントレアに行き,セントレアから車で帰宅しました。
考えてみれば,なぜこの時期にロサンゼルスに行ったのかという動機も自分でもわかったようなわからないような,そしてまた,帰国した今となっても,行ってきたという実感もあまりない,不思議な旅でした。しかし,長年行きたかった国立公園と天文台には,パロマ天文台以外は行くことができたし,メジャーリーグのボールゲームを3ゲームも見たし,かなり充実した旅になりました。
帰国した今,パロマ天文台だけ残ってしまい,どうしようかと思案に明け暮れているのです。

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6日目。最終日です。明日帰国します。
昨日はパロマ天文台へ行きそびれて,サンディエゴの動物園とベースボールを見たという1日になりました。考えてみればパロマ天文台へ行くためにわざわざサンディエゴまで行ったのに,結果として動物園とボールゲームのためにロサンゼルスからサンディエゴへ行ったようなものです。複雑な気持ちです。
さて,気を取り直して,今日はロサンゼルスに戻り,ロサンゼルス郊外のウィルソン山にある天文台へ行きました。昨日の失敗に懲りて事前に調べたところ,この日は天文台を作ったヘールさんの生誕150年の特別な記念日ということで,天文台はすべて公開になっていました。今度は逆についていました。悪いことあればいいこともある,人生こんなもんです。
この天文台にある100インチフッカー反射望遠鏡は,1917年ヘールさんの作った3番目の望遠鏡で,当時は世界最大でした。この望遠鏡鏡で有名なハップルの法則が発見されました。
今ではロサンゼルスに近いから空も明るくなって使いモノにはならないだろうと思ったのですが,行ってみて驚きました。天文台のある場所は名古屋から木曽に行くよりずっと遠く,高い山に沿って広い道路を1時間も登ったところにありました。やはり行ってみなければわからないものです。この山道はオートバイとバイクのツーリングコースらしく,ものすごい数のオートバイやらバイクが走っているので車の運転が大変でした。山頂の広い駐車場は有料だったのですが係員がいるわけでもなく,どこでお金を払うのか戸惑いつつ,それでもカフェでパスを手に入れればいいことがわかり一安心,こうして無事なんとかなりました。そこからしばらく山道を登り,ドームのなかでついに望遠鏡と対面できました。夢にまでみた美しい形をしたフッカー望遠鏡に感動しました。天文台の規模は大きく設備も更新され見学者用の説明も行き届き,日本の天文台に比べたら雲泥の差でした。望遠鏡のあるウィルソン山の山頂からは山並みと雲海も綺麗でした。
午後からは,三たびベースボールゲーム観戦でした。アメリカに来るまで,スケジュールだけは知っていましたが,観戦するかどうかはそのとき次第だったのです。それが2日前は先発がカーショーだったので見ることにしたのですが,そのためにパロマ天文台に行きそびれてしまいました。この日は前田健太投手が先発だったので再び見ることにしたのでした。まあまあのピッチングでしたが味方が点を取ってくれず,7回表まで見届けてボールパークを後にしました。
今晩の宿泊先は空港近くのインド人の経営する場末のモーテルでした。寝るだけだからと空港近くのモーテルにしたのですが,あまりまわりの治安もいいとはいえずこれまでに泊まった多くのモーテルのなかでも最低ランクでした。しかも近くにはメキシコ料理店しかなくて,仕方がないからタコスでも食べようとなかに入ったのですが,客はメキシコ人ばかりで店員の言葉もスペイン語だし,頼み方もメニューもよくわからず,なんとか注文して適当に返事をしてタコスをテイクアウト,モーテルの部屋でわびしく食べてさっさと寝ました。

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滞在5日目。4日目までは順調でした。
今日はパロマ天文台へ行って,夜はサンディエゴでベースボール観戦という予定でした。サンディエゴ・パドレスのホームグランドは20年近く前に来たときは古いボールパークでしたが,その後ダウンタウンに新設されて生まれ変わりました。私は新しいボールパークには来たことがありませんでした。ボールパーク全30球団制覇を掲げる私としては,ぜひ新しいほうにも行く必要があるのでしょう。
私が一度行ったのちに新しくボールパークが変わってしまったのは,このサンディエゴのほかには,ミルウォーキーとアトランタがあります。しかし,私には,また行こうという情熱もなくなってきました。サンディエゴも来るとは思っていませんでした。それに,今のメジャーリーグにはぜひ見たいというプレイヤーもほとんどいなくなってしまいました。昔の情熱が今の自分には眩しいです。
それに加えて,何度も書きますが,アメリカは車多過ぎです。今は物価も高いし,ベースボールゲームだって,昔は1,000円程も出せば見られたのに今は5,000円出しても外野席か内野の3階席しか買えません。昔ののどかなアメリカが懐かしいです。確かに,治安は今より随分と悪かったけれど,今はそれよりテロの心配があってやたらとセキュリティが厳しくなってしまって大変です。今の若い人はそんなアメリカを旅するしかないので気の毒です。私もアメリカを旅することが疲れるようになってきました。
さて,通常はパロマ天文台の一般公開は午前9時からということだったので,午前7時過ぎにさっそうとホテルを出ました。心配していた道路は渋滞していなくて,随分早く到着したのですが,9時になっても一向にゲートが開きません。しばらくして,なかで作業している人が出て来たので聞いて見ると,今日は公開は休みだというではないですか。年中無休なのでそんなバカなと思いました。なんでも今日から7月3日まで臨時にお休みなんだそうです。そんなこと知っていたら昨日までにいくらでも来ることができたのに,それをチェックしなかった私のミスです。ベースボールなど見ている場合ではなかったのです。かなり後悔しました。アメリカはそろそろ卒業と思っていたのに,また来いよと言われたような気がしました。ここまで運がいい? と逆に笑ってしまいます。
そんなわけで,今日はすることがなくなってしまったので,サンディエゴに戻って動物園に行くことにしました。前回来たときはサンディエゴの動物園はサファリという郊外の別園のほうしか行かなかったのです。私は別に動物園に思入れなんてないのですが,考えてみれば海外旅行では動物園ばかり行っています。今年だけでも,フィンランドのロヴァニエミにあるラヌア動物園とオーストラリアのブリスベンにあるローパイン・コアラサンクチュアリィに行きました。そして今回も動物園です。行ってみて知ったのですが,サンディエゴ動物園はパンダもいるしコアラもいるし,東京の上野動物園と名古屋の東山動物園を足したよりたくさんの動物園がいて,そして広い,予想以上にすごいところでした。入園料も半端でありませんでしたが。

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ドジャースの ゲームは途中で引き上げたのですが,結果は大逆転負けだったようです。
さて,ロサンゼルスからサンディエゴまでの道のりは,アメリカ西海岸沿いを走るインターステイツ5をずっと南下して150キロくらい行くだけなのですが,それがずっと都会のなかを走るのでまったくおもしろくありません。それでも20年ほど前に一度走ったときは,車線もそれほど多くなかったけれどスムーズに車が流れていました。それがなんということでしょう。多いところでは片側8車線もあるというのにずっと大渋滞でした。アメリカというのはなんと車の多い国なのかと今さらながらあきれました。
そんなわけで1時間もすれば着くはずが3時間もかかってやっとサンディエゴのホテルに着きました。一度来たことのあるサンディエゴは,落ち着いた美しい街という印象だったのですが,ダウンタウンはけっこうホームレスが多くて驚きました。ホームレスのためのキャンプすらありました。
私の若いころのアメリカはどこも大都市の中心がスラム化していて驚いたのですが,今は多くの都会は再開発できれいになっています。それでもこうした姿を見ると昔のアメリカを思い出します。
アメリカに限らず旅行をしていろんな人種や境遇の人を見ると,私は,旅が楽しいというよりもいつも複雑な心境になってしまいます。こうした他人を昔はまさに他人事にしか思えなかったのですが,今は,人の顔形も境遇も,結局は生まれたときの運次第なんだ,自分もホームレスであったかもしれないと思うと,やりきれない気持ちになるのです。いろんな肉体があって,神様が適当に当てがっているだけなのかもしれません。自己というのは借り物の今の肉体にたまたま宿っているということなのでしょう。

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滞在4日目。
今日の予定はサンディエゴまで移動するだけでした。もともと,この旅は,これまでのアメリカ旅行でやり残したことをしてしまおうと,久しぶりにロサンゼルスに来たものです。そして,1日目はスペースシャトルを見ました。2日目はキングスバレー&セコイア国立公園,3日目はデスバレー国立公園へ行きました。残るやり残しはパロマ天文台とウィルソン山天文台です。
私はアメリカの大都市は嫌いです。車が多すぎるのです。それでも20年も前ならまだマシでした。現在は片側5車線以上もあるフリーウェイに車が満ち満ちていて,慢性的に渋滞しています。もう限界です。そんな大都市のフリーウェイはできれば走りたくないのですが,パロマ天文台はサンディエゴに,そしてウィルソン山天文台はロスアンゼルスにあるので,せっかくだからと,MLBロサンゼルス・ドジャースとサンディエゴ・パドレスのゲームも見ようと思ったのです。
ということで,今日はサンディエゴへの移動の途中で,ロサンゼルスで一旦フリーウェイを降りてデイゲームを見ました。誰が先発かも知りませんでしたが,幸運にもエースであるカーショーだったのでびっくりしました。相変わらず運がいいものです。ゲーム内容など興味がないのでカーショーのピッチングだけを堪能し,5回で降板したので早々とボールパークを後にしました。
17年ぶりのドジャースタジアムでしたが,以前は無料だった駐車場も有料となり,チケットも高くなり,スタジアムには小気味よいオルガンの音色よりけたたましい効果音の方が多くなり,古きよき時代が懐かしいです。それにしてもこのボールパークのスタッフ,ほとんど存在感もなく,チケットチェックもまったくないし,おそらく空いているところならどこでも座れます。まったくピリピリ感のない雰囲気はカリフォルニアらしいというかなんというか。
しかし,この日にゲームを見たことを私は後悔することになるのです。

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