しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2018

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●アメリカのハンバーガーチェーン●
 日本にはマクドナルド,ロッテリア,そして,モスバーガーというハンバーガーチェーンがある。こうしたハンバーガチェーンで売られているハンバーガーが,日本人にハンバーガーに対する間違ったイメージを構築していると,私は思う。
 アメリカではハンバーガーというのは日本でいうおにぎりのようなものだし,高級なハンバーガーはパンとビーフとサラダを一緒に食べることができるきわめて合理的な食べ物である。
 そこで,今回の旅では,日本にないハンバーガーチェーン店に入ることをひとつの楽しみとした。

 アメリカを走ってみると,日本で有名なものから無名なものまで,ハンバーガーチェーン店が数多くある。ここでは,それらのうち,よく目につく私が気になっているものをいくつかあげてみよう。
  ・・・・・・
●「マクドナルド」
 まずはご存知「マクドナルド」(McDonald's)である。アメリカでのファーストフード店の店舗数は14,000店以上あって,第2位の,ハンバーガーチェーンではないが,サブウェイとは3倍ほどの差がある。どの町に行っても,マクドナルドさえ見つけることができれば,腹をすかすことはないであろう。
●「バーガーキング」
 「バーガーキング」(Burger King)はフロリダ州のマイアミ・デード郡に本部があるが,これもまた数は多くないが日本にもある。アメリカのハンバーガーチェーンではマクドナルドに続いて第2位の規模をもつ。
  ・・
 これ以降は,日本にはないか少数の店舗しかないが,アメリカではよく見かけるチェーン店をあげる。
●「ウェンディーズ」
 「ウエンディーズ」(Wendy's)は1969年にオハイオ州の州都コロンバスに誕生した。日本では六本木と表参道にあるだけだが,アメリカでは第3位の規模をもつ。赤毛,三つ編み,そばかすの女の子が目印である。
●「カールズ・ジュニア」
 「カールズ・ジュニア」(Carl's Jr.)は,アメリカで私のお気に入りのチェーン店である。ここのハンバーガーはおいしい。このチェーン店は1941年にカリフォルニア州のカーピンテリアに誕生した。現在,アメリカ西部を中心に1,349店舗を展開しているが,西部では「Carl's Jr.」,東部では「Hardee's」という別の名前になっている。可愛い☆のマスコットが描かれていてよくわかる。
●「アービーズ」
 「アービーズ」(Arby's)は1964年にオハイオ州のヤングスタウンに誕生した。全米で3,400店舗以上を展開する。ローストビーフがメインで,看板にはテンガロンハットをかたどったマークが目につく。
●「ジャック・イン・ザ・ボックス」
 「ジャック・イン・ザ・ボックス」(Jack in the Box)は1951年にカリフォルニア州のサンディエゴに誕生した。主にアメリカ西部やアメリカ南部の21州にある。
●「ワッターバーガー」
 「W」をあしらったトレードマークの「ワッターバーガー」(Whataburger)は1950年にテキサス州のコーパスクリスティに誕生した。アリゾナ州からフロリダ州にかけて南部を中心に740店舗を展開していて,私はテキサスを走っているときによく目にした。
●「インアンドアウトバーガー」
 今回行こうと思って結局行きそびれた「インアンドアウトバーガー」(In-N-Out Burger)は1948年にカリフォルニア州のボールドウィンパークに誕生した。カリフォルニア州を中心に281店舗を展開する。味にこだわっていておいしい…らしいが,食べたことがないからわからない。ここは裏メニューで有名だという。
  ・・
●「クラシックバーガー」
 そして,この晩私が入ったのが「クラシックバーガー」(Classic Burger)であった。ここのハンバーガーもまたなかなかおいしかった。
  ・・・・・・
日ごろ日本ではほぼマクドナルドしか行かない私だが,こうして今回の旅でさまざまハンバーガーチエーンに行ってみて,ハンバーガーは捨てたものではないということを認識したのだった。

◇◇◇
2,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログをはじめて67か月。
今日2,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,
どうもありがとうございます。

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 すでに書いたように,私は,N響第1895回定期公演を聴いた翌日にフェルメール展を見たのですが,それは午後のこと。この日の午前は,JR中央線に乗って三鷹駅で降りて,深大寺と国立天文台界隈を散歩することにしました。
 都会の人混みの好きでない私にとって,このあたりは大好き場所です。東京もここまで来ると自然がいっぱいあって,とても心が落ち着きます。このあたりは,東京に住んでいる人は別として,東京以外に住んでいる人は意外と知らないのです。

 私は,子供のころ「武蔵野」という国木田独歩の随筆を手に取りました。そのころ,東京都心はともかく,郊外など行ったこともなかったので,当然「武蔵野」というのがどこを指すのかなどわからなかったのですが,その響きがすてきで,とても印象に残りました。
 「武蔵野」の範囲は広辞苑によれば「埼玉県川越以南,東京都府中までの間に拡がる地域」,広義には「武蔵国全部」といわれています。
 1898年(明治31年)に国木田独歩は随筆「武蔵野」を著しましたが,それによると,
  ・・・・・・
 武蔵野は先づ雑司谷から起つて線を引いて見ると,それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し,君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。此範囲の間に所沢,田無などいふ駅がどんなに趣味が多いか… 殊に夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子は決して武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。此範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到つて止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があつて武蔵野に相違ないことは前に申したとほりである。
  ・・・・・・
とあります。

  国木田独歩は渋谷村の一角に居を置いて,毎日のように東京近郊を逍遥し,その実感体験にもとづいてこの随筆を書き上げたのでした。
 曰く,
  ・・・・・・
 なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いてゐると,澄みわたつた大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け,その美しさいひつくされず。
  ・・・・・・
 私が先に「手に取った」と書いたのは,「読んだ」のではないからで,こんな随筆を子供が読もうとしてもわかるわけがないからです。しかし,そんなふうであったとしても,私は,それ以来,この武蔵野という言葉がどうしても忘れられず,今になってやっとこの界隈に私の思い込んだ武蔵野の雰囲気をひとり感じて,幸せになるのです。

 そんな場所にあるのが深大寺です。深大寺は天台宗別格本山で山号を浮岳山といいます。 「深大寺」の名称は仏法を求めて天竺へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」に由来していて,奈良時代の733年(天平5),満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝えられています。本尊は本堂に安置されている阿弥陀三尊像で,東京都では 浅草の浅草寺に次ぐ古刹です。
 それにしても,この地にそんな昔からお寺があるというのも不思議な気がします。なにせ,現在とは違って,江戸時代まで,関東なんて,中央(京都)から見たら原野みたいなものだったわけですから。
 深大寺は現在でも境内に複数の湧水源をもち,「深大寺そば」がその水の恵みを利用して有名になりました。古来より,蕎麦の栽培,そば打ち,釜茹で,晒しに湧水が利用されただけでなく,水車を利用してのそばの製粉も行われてきたのです。
  ・・
 この日は天候にも恵まれて,私は,すっかり自然の香りを味わいながら,東京にいながら,なんだか時間的にも距離的にもとても遠いところに来たような気持ちになれたのでした。 そしてまた,今なら,私でも国木田独歩の「武蔵野」が読めるかな,と思ったことでした。

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●マウントホイットニーを望むために●
 マウントホイットニー(Mount Whitney)はシエラネヴァダ山脈にある山で,標高は4,418メートル,アラスカ州を除くアメリカ本土で最も高い山であることはすでに書いた。1860年ごろにカリフォルニアの地質学調査に来ていたハーバード大学の地質学教授ジョサイア・ホイットニー(Josiah Whitney)によって命名された。
 1873年,チャールズ・ベゴーレ(Charles Begole),A・H・ジョンソン(A. H.Johnson),ジョン・ルーカス(John Lucas)がはじめて登頂に成功した。現在は,マウントホイットニーへの指定区域内への入山は日帰り登山の人数制限があり,1日100人と定められている。
 
 マウントホイットニーはセコイア国立公園の東側にあるのだが,セコイア国立公園からは山がじゃまをして見ることができない。この山を一番美しくみることができるのが州道395沿いのローンパインなのである。
 州道395の西側にそびえる国内有数の高い峰々はどれも美しいが,なかでも,マウントホイットニーは思わず目を奪われる迫力がある。
 頂上付近が角のようになったこの花崗岩の山はその圧倒的な巨大さとまったく木が生えていないゴツゴツした岩山や尖った峰が見えるが,実際は驚くほど歩きやすく登山が可能なのだそうだ。
 片道17.1キロメートルのコースは日帰りで往復することもできるという。
 ほとんどのバックパッカーはコンサルテーション湖にテントを設営し,そこに重い荷物を置いて山頂までの最後の山道に続くジグザグの急坂に挑むという。

 ローンパイン湖までは許可証不要のハイキングができるが,それはホイットニーポータルから出発することができる。ということで,私はローンパインのダウンタウンを抜けて,ホイットニーポータルを目指して,車で山道を登っていった。 
 ホイットニーポータルは標高2,552メートルということなので,ハワイ島マウナケアのオニヅカビジターセンターと同じような標高であった。
 山道を走っていた間はまったく車とすれ違わなかったが,到着してみると,駐車場は車で一杯であったので,停める場所を探すのにずいぶん苦労した。
 ここには松林に囲まれた美しいキャンプ場と土産が買えるショップがあった。
 野生のクロクマに狙われる可能性があるので,食べ物や他の注意すべき物は片づけて捨てるようにと説明している警告があった。日本に限らずここでもクマが出ることに,私は怯えたのだった。しかし,わざわざ登っていったのに,このホイットニーポータルからは木々と別の山並みが邪魔をして,ホイットニーを見ることはできず,むしろ,ローンパインからのほうがずっと眺めがよく,私はがっかりした。

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●ローンパインは西部劇の聖地●
 ローンパインは南に位置するロサンゼルスと北に位置するサンフランシスコの間を通る「パノラマ街道」とよばれる州道395沿いにあるが,サンフランシスコのベイエリアからローンパインへ行けるのは夏の間だけと限られている。それは,州道395が西のシエラネバダ山脈と東のロッキー山脈の間の谷あいにあるからで,冬の間,この州道395に通じるほとんどの道は深い雪が降るので,スキー場のあるあたりまでがやっとで,その先の峠の手前で封鎖されてしまうからだ。
 そのため,ローンパインは夏の短い観光シーズンだけで細々と生き続けてきた小さな田舎町なのである。
 しかし,厳しい冬には旅行をしない私のような旅人には,こうしたアメリカの田舎町は悪くない。これぞ,子供のころに夢にまで見たアメリカの原風景だからである。アメリカ好きの人の多くは,アメリカのこうした風景見たさに足を運ぶのであり,決して,ニューヨークやらサンフランシスコやらロサンゼルスに行きたいわけではないのである。

 このローンパインの町は,UFO好きが一度は行ってみたいニューメキシコ州の田舎町ロズウェルと同じように,西部劇ファンにとっては一度は足を運んでみたい聖地である。
 かつて,西部劇がハリウッド映画の主流だったころ,西部劇は大規模なロケーションを行って撮影されたものだった。
 思い出せば,「真昼の決闘」(High Noon)で有名なモンタナ州ヘレナ出身のゲーリー・クーパー(Gary Cooper),西部劇映画の代表作「シェーン」(Shane)で主役のシェーンを演じたアーカンソー州ホットスプリングス出身のアラン・ラッド(Alan Walbridge Ladd),「駅馬車」(Stagecoach)に主演した「マジソン郡の橋」(The Bridges of Madison County)で有名なアイオワ州ウィンターセット出身のジョン・ウエイン(John Wayne),そして,その「マジソン郡の橋」で主演したカリフォルニア州サンフランシスコ出身のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)など西部劇出身の俳優は数え出したらきりがない。
 
 西部劇の華やかなりしころ,ハリウッド映画のほかに,テレビの番組にも西部劇は多かった。
 「ローンレンジャー」(The Lone Ranger),「ローハイド」(Rawhide),「ララミー牧場」(LARAMIE),「幌馬車隊」(The Outriders), 「ガンスモーク」(Gunsmoke),「拳銃無宿」(Wanted Dead or Alive),「ボナンザ」(Bonanza)などがそうであった。
 そうした西部劇の多くが撮影されたのがここローンパインであった。
 それにしても,あの時代につけられたこれらの作品の日本語の題名はなんとひどいものであろう。原題のほうがよほどよく理解できる。

 撮影場所となっていたのはローンパインの街外れにあるアラバマヒルズ(Alabama Hills)であった。ここには,マウントホイットニーをはじめとする高山がひしめき合うシェラネバダ山脈を背景として巨大な岩がゴロゴロしている。それらの岩の前で,あるいは横で,上で下で,俳優が悪漢との撃ち合いを演じていたのだ。
 ああ,書いているだけで私はワクワクしてくる。古きよきアメリカがそこにはあった。

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 日本で美術展があるとき,そのほとんどは芸術を楽しむというよりも人の頭を見にいく,という感じになってしまうので,いまひとつ楽しめません。
 以前,フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見にいったときなど,何十分も並んだのにわずか1~2分対面しただけという状況でした。それに比べて,欧米の美術館は広く,人も少ないので,絵画と思う存分対面できます。
 私が特にひどいと感じるのは正倉院展で,あれはもっと展示台を高くすべきです。
 そんなわけで,今回も,行くことを少し躊躇しましたが,予想に反して十分に絵画と接することができて,主催者の人たちの苦労が実りました。
 それは入場を30分ごとに区切って人数制限をしたのがうまくいったことでした。決められた時間以降に入ればよく,退館時間は決められていなかったのですが,30分という時間は絵画を楽しむには十分でした。
 
 美術館は1階と2階からなっていて,まず2階の展示室に案内されて,フェルメール時代の絵画,いわば前座,を楽しんだあとで,1階に展示されているフェルメールと対面するというようになっていました。
 1階にはおごそかにフェイルメールの絵画がずらりとならんでいました。その展示方法のよさも手伝って,私は感動しました。
 今回展示されていたフェルメールは,宣伝では9点が見られるように感じますが,実際は9点ではなく8点です。その8点のうちの1点「赤い帽子の女」も期間の途中で展示が終わり,その後に別の1点「取り持ち女」が加わるということから,9点となっているのです。したがって,運が悪いと7点しか見られませんし,9点すべてを見るには2度足を運ぶ必要があります。
 東京の展示が終わった2月中旬から大阪に場所を移します。そして,大阪のみ「恋文」(The Love Letter)の展示があります。東京で途中から加わる1点はそのまま大阪でも展示されますが,それ以外には東京からは4点のみが大阪で展示を続けます。つまり,大阪では6点のフェルメールが展示されます。
 したがって,私が,合計で10点展示されることになる今回のフェルメール作品をすべて見るためには,もう一度大阪に出かければいいのです。

 では最後に,今回見た8点のフェルメール作品について,私の記憶に留めるために書いておくことにします。
●「牛乳を注ぐ女」(The Milkmaid)-アムステルダム国立美術館所蔵-
 「デルフトの眺望」「真珠の耳飾の少女」とともにフェルメールのもっとも著名な作品のひとつで,質感描写が高く評価されているものです。フェルメールの作品で働く女中を単独で表したものはこれだけです。
●「真珠の首飾り女」(Woman with a Pearl Necklace)-ベルリンの絵画館所蔵-
 左から光が差す室内に立つ女性というおなじみのテーマの作品で,女性の着ている毛皮の縁のついた黄色の上着は「手紙を書く女」「婦人と召使」などのいくつかの作品にも登場するものです。
●「手紙を書く女」(A Lady Writing a Letter)-ナショナル・ギャラリー所蔵
 画中の若い女性は羽ペンを持って手紙を書く手を止めて鑑賞者の方へ視線を向けています。白い毛皮の縁のついた黄色い上着やテーブルの上の宝石箱とリボンのついた真珠のネックレスなどのモチーフは他の作品にも使われているものです。
●「マリアとマルタの家のキリスト」(Christ in the House of Martha and Mary)-スコットランド国立美術館所蔵-
 現存するフェルメール作品のうちで最大のサイズの作品です。画題は「ルカによる福音書」に基づくものです。キリストの言葉に耳を傾け働こうとしないマリアをなじるマルタに対してキリストは「マルタ,マルタ。あなたは多くのことに心を配り思いわずらっている。しかし,大切なことはひとつしなかない。そしてマリアは良い方の選択をしたのだ」と言います。
●「手紙を書く婦人と召使」(Lady Writing a Letter with her Maid)-アイルランド国立美術館蔵-
 キャンバスに油彩で描かれた作品で,中流階級の女性とこの女性の,おそらくは恋人宛の手紙を届けるために,手紙を書き終えるのを待っている召使いの姿が描かれた作品です。フェルメール1660年代の静謐で抑制的かつ静的な絵画と1670年代の気取った絵画との橋渡し的な作品であると見なされています。
●「リュートを調弦する女」(Woman with a Lute)-メトロポリタン美術館所蔵-
 画中の女性はリュートを弾いているのではなく調弦しているところです。女性は窓の外を見つめ,恋人のやって来るのを心待ちにしている風情です。
●「赤い帽子の女」(Girl with a Red Hat)-ナショナル・ギャラリー所蔵-
 他のフェルメール作品に比べて例外的にサイズが小さいこととカンヴァスでなく板に描かれていることなど異色の作品です。絵の前面にフェルメールの絵にしばしば登場する背もたれに獅子頭の飾りの付いた椅子の飾りの部分のみが見えています。
●「紳士とワインを飲む女」(The Glass of Wine or Lady and Gentleman Drinking Wine)-ベルリンの絵画館所蔵-
 室内の男女,ワインを飲む女性というテーマは男性から女性への誘惑を意味しています。窓の色ガラスには片手に直角定規,片手に馬の手綱とくつわを持つ「節制」の寓意像が表され,女性の行為に警告を発しているかのよう,だそうです。

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 日本人はフェルメールが大好きです。フェルメール1作品さえあれば,美術展は満員になります。
 今回,フェルメールがなんと9作品(現在は8作品)も一度に集まるとなれば,これは行くしかありません。ということで,私は,10月19日,N響定期公演を聴きに東京へ行った翌日,フェルメール展を見に,上野の森美術館に行きました。

 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)として知られるヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)は1632年,というから日本の江戸時代のはじめ,現在のオランダに生まれた画家です。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成,そして,光による巧みな質感表現を特徴とします。
 同じオランダのレンブラント,イタリアのカラヴァッジョ,フランドルのルーベンス,スペインのベラスケスなどとともにバロック絵画を代表する画家のひとりです。また,レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家で,生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごしました。
 最も初期の作品のひとつである「マリアとマルタの家のキリスト」にみられるように,フェルメールは物語画家として出発しましたが,やがて,「取り持ち女」の頃から風俗画家へと転向していきました。
 現存する作品は35点,贋作が疑われるものも含めると37点しかありません。現存する作品はすべて油彩画です。

 私は有名な「真珠の耳飾りの少女」(Girl with a Pearl Earring)を東京の展覧会で見て以来,その虜になって,ワシントンDCのナショナルギャラリーをはじめとして,海外でもフェルメールの作品と接するのが楽しみになりました。
 日本での展覧会では作品よりも人の頭を見にいくようなものであっても,海外の美術館では落ち着いてみることができます。日本の展覧会とは違って,写真も写せます。
 先日,ワシントンDCのナショナルギャラリーで4作品を見たときには,私以外にだれもギャラリーにいなかったので,私ひとりの独占状態になりました。それは,作品が展示されていたのが「地球の歩き方」に書かれた場所とは異なっていたこととに加え,フェルメールは「Vermeer」と書くので,それをフェルメールと読めないからなのではないか? と私は勝手に想像しています。今日の1番目の写真はそのときに写した「天秤を持つ女」(Woman Holding a Balance)ですが,この作品は今回の美術展には来ていません。

 私は,アメリカ合衆国50州制覇もそうですが,はじめからそうしようとはじめたわけではないけれど,フェルメールもまた,こうなったら35(37)作品をすべて見ようと思いはじめました。そうなると,以前,せっかくルーブル美術館に行ったのにそのときにフェルメールを見たという記憶がなかったりと,若き日の無知を恥じることになりました。フェルメールに限らず,私は旅先で多くの美術館に行き,数多くの絵画を見てきたのですが,何を見たのかという記録を残さなかったのを,今になって残念に思うのです。

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 N響定期公演第1895回を聴きにいきました。本当は第1894回のブルックナーを聴きたかったのですが,ニュージーランドへ旅行中だったので断念しました。
 第1895回のプログラムはハイドンの交響曲第104番「ロンドン」とマーラーの交響曲第1番「巨人」,指揮者は91歳になられたマエストロ・ブロムショテットでした。前回私が聴きにいった第1892回と違って,2階席も空席がひとつもなく満員でした。

 マーラーの交響曲のうちで私の好きなのは第4番と第9番ですが,このふたつの交響曲はナマで聴くにはストレスが溜まります。
 第4番は,曲が終了した後の静寂がすべてなので,観客のひとりでもフライングで拍手をしてしまうと曲が台なしになってしまいます。そこで,聴いているほうが最後まで不安でいっぱいになるのです。録音した音源ならそういうことがないので,逆に十分に楽しめるのですが…。
 先日行われた第1891回の定期公演でこの曲が演奏されました。私はそれをFM放送とBS放送で聴きました。指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんで,この指揮者はそういったことをすべて計算していて,第4楽章でだけで歌う歌手が楽章間でステージに出てきて拍手が起きないように,第4楽章がはじまったあとでステージに出てくるという私の好きな演出,そしてまた,曲の最後には何ともいえない長い沈黙と,フライングの拍手もなく,最高の演奏になりました。

 第9番は,最終章に延々とアダージョが続きます。そこで,この楽章に緊張感がなくなると,聴くほうは耐えられないものになります。
 かつて,小澤征爾さんがボストン交響楽団との最後の演奏でこの曲を選んだのですが,気の毒なことに,この楽章で観客のひとりがセキがとまらず,この雑音がどうにもこうにもこの曲の緊張感を台なしにしてしまいました。
 私は,少し前,この曲をマエストロ・ブロムショテットで聴きました。ことのきは,最後の最後まで緊張感のただよう素晴らしい演奏で,私はその瞬間に出会うことができたのが,未だに忘れられない思い出です。

 今回の第1番はそうした曲に比べればストレスが溜まる曲ではありません。この曲は,最終章の勝利の凱旋がすべてで,ここでの高揚感があれば,曲はまとまります。しかし,並みの演奏になってしまうと,単なる安っぽいお祭り音楽になってしまうのです。
 私はこの曲が特に好きなわけでもなく,選んで聴くこともないのですが,これまでN響定期でずいぶんとナマで聴く機会がありました。それは,マーラーの交響曲のなかでは短く,また,人気があるので,よく選ばれるからでしょう。演奏に金がかからない,ということもあるのではないかと私は思います。
 かつて,スベトラーノフというすばらしい指揮者がこの曲を演奏しようとプログラムで選んだのに,残念ながら公演前に亡くなってしまい,別の指揮者(あえて名前は挙げません)によって演奏されたことがありました。私はそれを聴いたのですが,何の感動もありませんでした。
 指揮者がだれであろうと,N響の演奏のレベルが変わるわけではなのですが,演奏会本番での指揮者の存在というのは,演奏というよりも,ステージと客席に不思議な緊張感を醸し出すためにあるのでしょう。簡単にいえば,そういう緊張感が起きる指揮者を「カリスマ」というのでしょう。
 私は,そうした緊張感を味わうために,今回の演奏会に出かけたように思います。だからこそのマエストロ・ブロムシュテットなのでした。

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エミュレーツ航空では機長がアラビア語で話すし,機内にはアラビアの音楽がかかっているし,とてもエキゾチックでした。しかし,シュクラン(شكرا)と言われても私は困ります。いずれにせよ,キャセイパシフィック航空の中国語よりは抵抗がなかったのですが…。
やがて,窓にはシドニーの夜景が見えてきました。私には30数年ぶりのシドニーでした。この30年でシドニーは驚異の発展を遂げているということなのですが,今回は単なるトランジットなので,町の様子は機内の窓からしかわかりませんでした。
それにしてもシドニーの空港は巨大でした。空港内にはブランド品の売り場がひしめき合っていて,日本のデパートのようでした。プライオリティパスを持っていると,ラウンジの少ないシドニーではラウンジを利用する代わりに37ドルの食事券がもらえるのですが,私はもはや食事はうんざりだったので,歩き回っていたら,アメックスのラウンジがあったので,そこで休憩をすることにしました。
今回の帰国は,3回の乗り換えで4度飛行機に乗るので,トランジットで利用するのはニュージーランドのクライストチャーチ,オーストラリアのシドニー,そして羽田ですが,そのすべてで私はラウンジを利用しました。つまり,ラウンジのはしごを楽しんでいたのですが,食べ過ぎました。

やがて,日本へ行くカンタス航空の搭乗時間がきました。
私は近距離のフライトでは窓際,長距離のフライトでは通路側を指定します。このフライトでももちろん通路側に座ったのですが,窓際の2席を新婚旅行の人たちが座りました。ツアーの人が海外旅行をするときに座席を指定できるのかどうかは知りませんが,自分で指定しないと,大概,最も不便な席があてがわれていてとても気の毒に感じます。
機内では再び夕食が出ましたが,さすがに私は,この夕食には手が出ませんでした。食事に困ることは多々あれど,逆に食べられないほど何度も出てきたのもまたはじめてのことでした。贅沢なものです。
いつものようにぐたぐたと機内で過ごすうちに,いつの間にか赤道を越え,日本に近づいてきました。着陸の1時間前,フルーツの朝食が出ました。そして,午前5時過ぎ,羽田空港に到着しました。ニュージーランドは時差が4時間あるので,この日は1日が28時間あって,いつ食事をすればいいのかよくわからないまま,なんとなく何度も食事がでて,出されたまま食べたり残したり…。そして,この日の朝食は日本時間では午前4時でした。

羽田空港でもラウンジで最後のフライトを待って,やがて,セントレアへの便に乗り込みました。
こうしてこの旅が終わりました。
運が悪ければそのすべては実現せず,運がよければそのすべてが実現するという,運任せの旅,しかも,出発前の,あわや台風直撃騒動からはじまって,現地の天気予報も最悪,ということでまったくテンションがあがりませんでしたが,結局,天候に恵まれて,すべてうまくいきました。
アイスランドもニュージーランドも日本からは同じくらいの時間で行くことができます。アイスランドのほうがずっと人口は少ないのですが,どちらの国も島国で,同じように自然が豊かです。しかし,物価が異常に高いアイスランドに比べればニュージーランドはそういう感じもないのが救いです。また行ってみたい国です。
セントレアでは出発を待つフィンランド航空の機体が停まっていました。私の次の旅は,このフィンランド航空を利用してオーストリア・ウィーンです。

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クイーンタウンに到着して,レンタカーを返しました。
さあ,これから,帰国に向けて昨年のアラスカに匹敵する長い道のりのはじまりです。
この旅では,セントレア・中部国際空港からニュージーランドのクライストチャーチまでの往復とクライストチャーチからクイーンズタウンまでの往復は,まったく別に予約をしました。前者はJALとカンタス航空なのでワンワールド,後者はニュージーランド航空なのでスターアライアンスと,アライアンス自体も異なりました。
そこで,もし,帰りのクイーンズランドからクライストチャーチまでの便に遅れがあっても,クライストチャーチからの便に乗り遅れないようにと,クライストチャーチでの待ち時間を5時間ほどとりました。
クイーンズタウンの空港もクライストチャーチの空港もスターアライアンスとワンワールドではチェックインカウンタが分かれていました。スターアライアンスはキオスクで自動チェックインができるのに対して,ワンワールドはそれができませんでした。そこで私は,クイーンズタウンではキオスクで簡単にチェックインはできたのですが,この先のクライストチャーチでは不便な目にあうことになります。
行きのクライストチャーチからクイーンズタウンのフライトはプロペラ機でしたが,帰りは大型のジェット機でした。また,来るときのクライストチャーチの空港はセキュリティチェックがありませんでしたが,クイーンズタウンではしっかりとセキュリティチェックがありました。

心配は杞憂に終わり,定刻にクイーンズタウンを出発してクライストチャーチに着きました。ひとまず安心です。クライストチャーチに着いたのですが,これから待ち時間が5時間もあるので,日本までの帰国便のチェックインをしてキャリーバッグを預けてしまおうと,とりあえずカンタス航空のカウンタに行ったところ,あなたの乗るのはカンタス航空ではなく,エミュレーツ航空だといわれました。そうだったのです。私がクライストチャーチからシドニーに行く飛行機はエミュレーツ航空のコードシェア便だったのです。そして,キオスクのないワンワールドはチェックインカウンタが開くまでチェックインができませんでした。たとえネットでチェックインをしてもカウンタが開いていなのでキャリーバッグが預けられません。チェックインをしていなければクライストチャーチのラウンジも使えません。しかたなく,空港のフードコートで2時間ほど時間を潰しました。
そして2時間後,エミュレーツ航空のカウンタでチェックインをしてから,クライストチャーチのラウンジで3時間を過ごしました。このあとシドニー便と乗り換える羽田便で合計2回も夕食が出ることは知っていたのですが,おいしそうなケーキが目に留まり,ラウンジで食べきれないほどのケーキを食べてしまったのをあとで後悔することになりました。
エミュレーツ航空というのはアラブ首長国連邦ドバイを本拠地とする航空会社で,私はこれまでに利用したことがありません。一度香港で,この航空会社の客室乗務員と出会って,なんとまあ変わった服装だと度肝を抜かれたことがありましたが,まさか私がこの航空会社を利用するとは思いませんでした。そして,利用する機体はA380という最新式の世界最大のもので,エコノミークラスは横が10席もあってとても広く豪華でした,なんと,ファーストクラスは2階にあるのです。私はエミュレーツ航空どころかA380にも乗るとは思わなかったので,びっくりしました。機内食が出て,豚と羊の肉が選べました。こうなったら羊でも食べてやろうと思っていたところ,あんたは豚でいいだろうといわれてショックを受けました。ここで反対してもいいのですが,なんかまったくテンションが下がってしまったので,それで了承してしまいました。

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クイーンタウンの近郊アロータウンに私は2泊したのですが,到着したのが夕刻で,しかも,最終日は帰国の日,そして,2日目は終日ミルフォードサウンドへ観光に出かけたから,わざわざクイーンズタウンに来たのに,クイーンズタウンを観光することもないだろうと思っていましたが,1日目と2日目の夜に短い時間とはいえクイーンズタウンに出かけて,さほど広くもないこの町を知ることができたのは望外のことでした。
人それぞれでしょうが,私は,こうした町の雰囲気や,何の目的もなく歩き回るのは嫌いではないけれど,だからといって,わざわざ観光をするような気持ちは起きません。結局のところ,こうした町にはレストランやお土産屋さんがあるだけだから,日本国内のモールを歩いているのとそんな違いを感じないからです。
それよりも,私が興味をもったのは,むしろアロータウンという町でした。アロータウンがこんなすてきな町だとも知らず,単にクイーンズタウンの近くに安い宿泊先を見つけたというだけで選んだのですが,この町は,かつて金の採掘で栄えたところで,今も,この町に流れる川では砂金が取れるというし,町の雰囲気も伝統を感じさせて,とてもよいところでした。また泊まってみたいです。

話は前後しますが,到着した日,私は一度クイーンズタウンに出かけてからアロータウンに戻って,宿泊したホテル兼タバーンで夕食を済ませた後に,アロータウンの町を散歩しました。この町一番の見どころというのは,19世紀に金の採掘者として労働をしていた中国人居住区を再現した公園でした。ここは宿泊先から5分くらい歩いた場所にあって,当時の住居跡がいくつか復元され,詳しい説明が書かれていました。
ニュージーランドというのは,どうやら,かつては,上流階級にニュージーランド人がいて,その下の労働者階級に中国人がいた,という社会だったらしく,今でも,北島のオークランドや首都のウェリントンには多くの中国人が住んでいるという話です。ここの中国人住居跡は住居というよりも掘立小屋といったほどの粗末なものでした。
ニュージーランドと日本は北半球と南半球の違いがあるだけで,同じような島国だし,共通する部分も少なくないように思えるのですが,もともと昔から多くの人が暮らしていた日本とは違って,ニュージーランドはマオリの人が住んでいた地に近年になって移民がやってきて開拓をしたという国なので,日本とはまったく異なっています。こうした初期の移民というのは,ずいぶんと大変な苦労をしてこの国を作ってきたわけです。

話は飛んで,最終日です。
アロータウンからクイーンズタウンまでは20分もあれば行くことができるし,今日のフライトの出発は11時過ぎなので,宿泊先をチェックアウトしてから,この町にある博物館に行くことにしました。博物館は午前8時30分から開館しているのです。
この博物館は外観からは想像できないほど,内部の展示が充実していました。このあたりの歴史がとてもよくわかりました。もし強度の地震が起きた時の安全が保障できないので自己責任で見てください。という表示が地震国ニュージーランドを思い起こさせました。要するに建物が耐震補強されていないということなのでしょう。
博物館を見終えて,私は空港に向かいました。

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ミルフォードサウンドからの帰路,すっかり天気が回復して,行きはずっと霧で見れなかった風景も,きれいに見ることができました。
バスはものすごいスピードで国道6を北上して走り,途中のテ・アナウで行きと同様に30分の休憩をしただけで,午後7時にはクイーンズタウンに戻ってきました。これだけの距離なのに,運転手さんはいつも走りなれているからであろうと思いました。一般に,ニュージーランドは道路が狭いのに,運転はかなり荒いのです。
バスは,行きに私をピックアップしたバスターミナルに戻って,私はバスを降りました。そこにはすでにタクシーが待っていて,それに乗り込んで宿泊先のアロータウンに戻りました。
これで,今回の私の旅はほぼ終わりで,明日は帰国です。この旅の目的であった,テカポ湖の満天の星空,マウントクックの山頂,そして,ミルフォードサウンド,そのすべてを十二分に堪能することができました。
アロータウンに着きましたが,まだ午後7時すぎで,日没前だったので,私はこの日の夕食はクイーンズタウンでと思って,再び宿泊先を出て,車でクイーンズタウンに行くことにしました。

クイーンズタウンは小さな町ですが,観光客が多く,駐車場を探すのがけっこうたいへんでした。それでも湖畔にある小さな公園の駐車場を見つけて車を停めました。夕方ともなると風が吹いて,けっこう寒くなりました。
南半球は季節が反対で,この時期,日本では4月中旬にあたる時期だったのですが,まだまだ冬が抜けておらず,この日は最高気温が8度,最低気温が1度でした。しかし,この次の日からは,最高気温が16度,最低気温が8度となるようです。
湖畔を歩いて,町の中心部,いわゆるダウンタウンに出ました。さてなにを食べようかと探していてみつけたのが日本料理店でした。そこに入ることにしました。シーフード弁当なるものを注文しましたが,なかなかおいしい食事となりました。
このクイーンズタウンはまだまだ拡大を続けているところで,しかし,平地がないものだから,山の上にまで住宅地が伸びていて,ちょうど,鎌倉のような感じのところでした。
ニュージーランドは現在住宅バブルです。面積は日本から北海道を引いたくらいで,人口はわずか400万人と日本の25分の1程度だから,住む場所などどこにでもありそうに思えますが,やはり,人が住みたいと思う場所はだれしも同じなのでしょう。そこでこうした風光明媚な場所に人が集まってしまうわけです。それは仕事という側面も当然あって,だれもいないような場所に住んでも仕事がなければどうにもなりません。
さて,食事を終えて,私は再びアロータウンに戻りました。この古きよき町の空には南十字星が美しく輝いていました。

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天気予報どおりミルフォードサウンドは晴れ渡っていました。ここは1年のうちで300日は雨で,年間降水量は6000ミリメートル以上なのだそうで,こうして晴れていたのは奇跡的だということでした。
波止場には数隻の船が停泊していましたが,私のツアーの船はまだ停泊していませんでした。やがて船が来て,さっそく乗船しました。船は私たちの乗ってきたバスを運行しているツアー会社のものでしたが,とても空いていました。
まず船の2階の客席に用意された昼食を食べました。
このツアーは,オプションで日本食の昼食を選ぶこともできるし,私のようなランチボックスを選ぶこともできるし,自分でテ・アナウで昼食を調達してきてもよいのでした。私たち6人のうちの2人は新婚旅行で,旅行全体がツアーでそのなかでミルフォードサウンドをオプショナルで加えたのだそうで,この2人だけが日本食のお弁当を食べていましたが,この広大な風景を眺める時間が惜しいので,十分に食事を味わう暇はなさそうでした。ちなみに,船にはバイキング形式のレストランもありました。
私は早々に食事を終えて,甲板の上に出ました。そこには写真などでよく見る風景が広がっていました。そのスケールはものすごいものでした。

ミルフォードサウンドは,ラドヤード・キップリングという作家が「世界で8番目の不思議」(Eighth Wonder of the World)と呼んだ場所です。「世界の七不思議」という言葉が昔からあって,それは,古典古代における7つの注目すべき建造物のことを指すのですが,それが転じて「世界の自然七不思議」というものがリストアップされていて,それは,グランド・キャニオン,グレート・バリア・リーフ,リオデジャネイロの港,エベレスト,オーロラ,パリクティン火山,ヴィクトリアの滝なのだそうです。このミルフォードサウンドはそれに次ぐもの,ということなのでしょう。
ミルフォードサウンドはフィヨルドランドと呼ばれる地域にあって,690ヘクタールに及びます。ここは世界遺産です。日本にあるようなチンケな世界遺産とは全く違っていて,正真正銘,これぞ世界遺産と呼べる場所です。
周辺の地層は古く,一部は4億5,000万年前のものだといいます。また,このあたりのフィヨルドの海は二層に分かれていて,上の部分は山から流れてきた淡水,それより下は海水で,それらは混ざり合うことなく層をなしているそうです。深さは400メートルに及びます。
船は1時間ほどでタスマン海まで出ました。この先にオーストラリアがあります。船はここでUターンをして再びミルフォードサウンドの波止場に戻ることになります。途中にレディ・ボーエンとスターリングというふたつの滝がありました。また,岩の上にはオットセイを目撃することもできました。
それにしても,何と雄大な景色だったことでしょう。ここを見ずしてニュージーランドを語ることはできないと強く感じました。それとともに,偶然,天気がよい日にこの地を訪れることができた幸運を感謝しました。

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迎えに来たタクシーはものすごいスピードで一挙に駆け抜け,私が走ってきた空港を通り過ぎたところにあったバスターミナルに着いて,私を降ろしました。どうやらそこは公営のバスの停留所であるらしく,日本と同じような時刻表があって,バスが停まったりしていました。それに加えて,ここは,ミルフォードサウンドに行く観光バスの集合場所でもあるらしく,けっこう多くの人が観光バスが来るのを待っていました。やがてバスが来ましたが,どうやらそれは私の乗るバスではなさそうでした。ミルフォードサウンドには数社のバスが走っているようでした。
それとほとんど同じくして,次に私の参加するツアーのバスが来ました。バスから日本人のスタッフが降りてきて,私をバスに案内しました。すでにバスには多くの人が乗っていて,私とそのほかに数人が最後の乗客でした。
このバスは,英語の案内を運転手がして,それと同時に日本語の案内を日本人がするのをヘッドフォンで聞くというシステムになっていました。すでに大勢が乗っていましたが,日本人は私を含めてわずか6人でした。現地のツアー会社に日本人が加わっているという形でした。後で聞いたところによると,もう1か月もするとハイシーズンになって,バス1台が日本人で埋まるということでした。
ミルフォードサウンドに行くにはほとんどこれしか手段がないわけで,そういった意味でも,どうやってミルフォードサウンドに行くのかさえ知らなかった私が偶然このツアーを見つけたのは正解でした。

バスは,クイーンズタウンから快調にワカティブ湖の東湖畔を南下していきました。あいにく天候があまりよくなくて,周りは霧で,景色はほとんど見えませんでしたが,唯一の頼りは,この日のミルフォードサウンドの天気予報が晴,ということでした。しかし,こんな状況で,本当に現地が晴れているのかなあ? と思いました。案内放送によると,気象条件が悪ければ現地まで行くことができず,途中で引き返すこともありえます,という話でした。そして,その確率は五分五分だということでした。
ワカティブ湖の南端にある小さな町がキングストンで,これは対岸のクイーンズタウンに対抗してつけられた名前です。さらに南下していくと,やがて,辺りはヒツジのたくさんいる牧草地となりました。そのうちに,ファイブリバーという小さな町に着いて,ここでバスは右折して,国道97に入りました。国道97はモスバーンという町までのわずかな距離の国道で,ここで南東からきた国道94に合流しました。さらに西に走っていくと,ついに,テ・アナウというミルフォードサウンドの玄関口にあたる町に着きました。ここで30分の休憩です。私はここで朝食をとりました。テ・アナウにあるドライブインは,ミルフォードサウンドに向かうバスから休憩で降りた観光客でいっぱいでした。
ここから先,国道94はテ・アナウ湖の東岸を北上して行きます。ときおり晴れ間が覗くこともあるのですが,すぐに天気が悪くなり,小雪まで舞っています。この先にゲートがあって,条件が悪いとこのゲートが締まっていて,そうなるとミルフォードサウンドには行くことができず,引き返すことになるそうです。祈る気持ちでいましたが,すんなりと通りすぎて,やった! と思いました。

さらに進んでいくと,テ・アナウ湖を過ぎて,今度は険しい山岳地帯になりました。途中,氷河で浸食したU字谷の美しい景色が見られたり,「ケア」と鳴くからケアと名づけらた鳥に遭遇したりと,ミルフォードサウンドに到着するまでにも,日本では見ることもできない絶景が次から次へと広がっていきました。こんな風景を見てしまうと,日本で「秘境」といわれる場所がすべてむなしくなってしまいます。
やがて,最後の難関であるホーマー・トンネルに差しかかりました。ホーマー・トンネルはこの国道94最大の難所で,1935年から1953年まで実に18年を要して作られたそうです。狭いトンネルなので一方通行で,運が悪いとずいぶんと時間待ちをする必要があるのだそうですが,すんなりと抜けることができました。
国道94はホーマー・トンネルを抜けるとやがて下りはじめ,ついに,ミルフォードサウンド観光船の出るターミナルに到着しました。
このターミナルには数台のバスが停まっていて,ここから観光船に乗り換えることになります。この険しい道路をクイーンズタウンから5時間以上ドライブすれば個人でここまで来ることもできるのですが,かなり大変なことだなあというのが実感でした。

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今日はこの旅で一番楽しみにしていたミルフォードサウンドの観光です。ミルフォードサウンドは2年前にニュージーランドに来たとき,行きたくとも行くことができなかった場所でした。ちなみに,サウンドというのは入り江のことです。ニュージーランドの英語というのは私には独特で,この「サウンド=入り江」とともに,「スタジオ=ホテルの部屋」というのもあります。
さて,今回の旅はテカポ湖に適当な宿泊先を見つけたことからはじまったのですが,せっかくニュージーランドに行くのなら、ぜひミルフォードサウンドにも寄ろうと考えました。ところが,行く方法がわかりません。クィーンズタウンが玄関口だということはわかったのですが,まず,クィーンズタウンにどうやって行くべきかで困りました。
クライストチャーチからテカポ湖を経由して車で行くことができないわけではないのですが,これを往復するにはちょっと距離がありすぎます。そこでテカポ湖から一旦クライストチャーチに戻って国内線で往復することにしました。
次はクィーンズタウンのホテルが高すぎて適当なところが見つからないという問題がありました。これはアロータウンというちょっと離れたところに安宿を見つけました。
最後の問題,そしてこれが最大の問題だったのが,クィーンズタウンからミルフォードにどうやって行くかでした。これほど有名な観光地であるにもかかわらず,行く方法がよくわからないのです。クィーンズタウンから直接距離は100キロメートルほどなのに道がありません。しかもミルフォードサウンドの近くには町らしい町すらありません。はじめは車を運転して行こうと思っていたのですが,道路はクィーンズタウンからUの字には迂回していて片道有に4時間かかります。しかも現地に到着してからどのように観光するのかさえよくわかりませんでした。

そうこうしているうちに,クィーンズタウンから日帰りの現地ツアーを見つけました。しかも私の泊まるアロータウンまで送迎してくれるというではないですか。
ツアーは早朝7時発で帰りは夜の7時ということで,しかもバスに乗っている時間が8割で現地の観光が2時間弱ということでしたが,これがミルフォードサウンド観光の一般的な方法のようでした。ということで予約をしました。
気がかりは天候でした。聞くところでは,天気が悪いと道路が閉鎖されていて行くこともできないのだそうです。これほど有名でありながらこれほど行くことが困難ということに驚きました。2年前にニュージーランドに来たのは11月の終わりで,当時まったく認識がなかったのですが,これは観光のハイシーズンだったようです。ルピナスは咲き誇り美しい風景が続きました。わずか1か月とはいえ,今回はまだ寒く観光シーズン前だったのもまた,私の認識不足でした。
この時期に来たのは新月で星がきれいであるというだけでした。さらに運が悪いことにここ数日寒波がやって来てとても寒いということでした。最高気温が8度ほどで来週になれば20度近くになるということですから不運にもほどがありました。
そんなわけで,テカポ湖からクィーンズタウンまで移動した昨日は雪こそ免れましたが,天気もはかばかしくなく落ち込みました。そして今日の天気予報ですが,クィーンズタウンは雨か雪。しかしどういうわけかミルフォードサウンドの天気予報は晴れなのでした。果たして私はミルフォードサウンドに行くことができるのでしょうか? 期待と不安のなか朝7時,ホテルの玄関前に送迎のタクシーが来るのを待ちました。

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やがて飛行機が高度を下げはじめました。山間にあるクイーンズタウンはまるで飛行機の尾翼が山にぶつかるほどのところを飛んでいてびっくりしました。空港に着きました。預けてあったカバンをとり,予約したあったレンタカーのカウンタに行くと,係員が出迎えてくれました。どうやらこの飛行機で予約をしてあったのが私だけだったようです。借りたのがカローラだったのですが,色があざやかなブルーでびっくりしました。
今日よやくしてあったのがクイーンズタウンから北に20キロメートルほどのアロータウンというところにあるホステルでした。クイーンズタウンの宿泊施設は高く,適当に選んだのがアロータウンだったというだけのことでした。
カーナビの案内にしたがって走っていくと,やがて,ちいさな風情のある田舎町につきました。わずか数十件ほどの商店街がアロータウンのすべてでしたが,その中央に私の予約したホステルがありました。しか,ホステルというよりも,そこはいわゆるタバーンという飲み屋(兼食堂)で,その店の裏に宿泊施設が6部屋ありました。
バーのカウンタでチェックインをしてキーを受け取りました。こういうところに泊まるのもおつなものです。
行くまでまったく知らなかったのですが,アロータウンはゴールドラッシュで栄えた町でした。当時の面影があって,その雰囲気を楽しむために,結構な観光客が来ていました。

私はここに2泊することになるのですが,このように到着は夕刻で,明日は1日ミルフォードサウンド観光,そして,明後日は朝チェックアウトしてそのまま空港に戻り帰国ということなので,せっかくクイーンズタウンに来ても,町の観光をする時間がありません。そこで,少しの時間だけでも,ということで,この晩,クイーンタウンを観光することにして,さっそく車で向かいました。
空港はクイーンタウンとアロータウンの中間あたりにあるので,約30分ほど走るとクイーンズタウンに到着しました。平坦な場所にぽつんぽつんと家があるといった町を想像していたのですが,それとはまったく違い,ワカティプ湖の湖畔,坂ばかりのところに町がさほどひろくなく広がっていて,ダウンタウンは多くの店やレストラン,そして多くの観光客でごった返していました。
どこも車を停めることができそうなところはすでにいっぱいで,やっと見つけた30分限定の駐車スペースに車を停めて,ともかく少しだけ町を歩いてみました。こんな場所にこんな観光地があることに驚きました。
その後,宿泊先にもどり,せっかくここの泊まるのだかからと,この日の夕食はここでとることにしました。

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夕方になって,将棋も佳境に入りました。ニュージーランドは今夏時間,日本とは時差が4時間あるので,勝負所を迎えるのが日本では午後5時でもこちらでは午後9時と遅いのです。この日の夕食は買ってきたサンドイッチとカップヌードルで済ませました。
将棋が藤井七段の完勝で終わったころから,当たらないと言われる天気予報の「降水確率100パーセント」が当たって小雨が降り始めましたが,もうじたばたしてもしかたがないので,運を天に任せて寝ることにしました。朝起きて雪が積もっていたら余裕を見て宿泊先を出て,ゆっくりと走るしか方法がありません。

朝になりました。この旅の5日目,滞在4日目です。
昨晩は雨は降ったものの,それも深夜にはやんだようで,雪はまったく降りませんでした。思えば,前回と今回で私はこのテカポには合計5泊しましたが,星が見られなかったのは昨晩だけでした。今回は満天の星空も,マウントクックの雄姿も見たからすっかり満足していたのに,その後の雪の予報を知ったときからその感動も吹っ飛んで,気が気でない時間を過ごしていましたが,これで安心しました。
あとはクライストチャーチまで行くだけです。
朝8時過ぎにチェックアウトしました。クライストチャーチまでの道も片側1車線なのに,ほとんどが100キロ制限です。私は午後2時過ぎのフライトに間に合えばいいから,せっかく観光に来たのに急ぐ必要もないので,80キロくらいでゆっくり景色を楽しみながら走ります。こちらの人の運転は日本のように荒いのですが,頻繁に2車線になって追い抜きができるし,ほとんど対向車も来ないからどこでも追い越しができるので,後ろから車が迫ってくると道を譲ります。
しかし,もっと天気がよければ景色もよく見られたのでしょうが,ずっと雨模様だったのが残念でした。道路の周りはほとんど人家もなく,ヒツジだけがやたらといました。ヒツジはちょうど出産期を過ぎたところで,かわいい子羊がウロウロする様があちらこちらで見られました。たいてい3頭の子ヒツジが一緒にじゃれていたり,母ヒツジにまとわりついていました。
ニュージーランドのヒツジは,以前は人口の20倍もいたそうですが,今は減って人口の6倍だそうです。ヒツジの数が減少した理由は,羊毛の需要が減ったこと,牛や馬や鹿を買う方が利益になるからだそうです。鹿は高タンパク低カロリーの高級な肉として,ヨーロッパに輸出されているということです。

途中の小さな町にあったカフェで朝食をとりました。ここでもまたフラットホワイトを飲みました。朝食はおいしかったのですがとても量が多く,今日の昼食は抜きということがここで決定しました。
クライストチャーチに戻り,レンタカーを返して国内線にチェックインしました。ここからクィーンズタウンまでのフライトはわずか1時間です。乗客は少なく,小さなプロペラ機でした。乗り込むゲートにはなんとセキュリティチェックがなく,そのまま乗り込めました。これでは村のバスターミナルと同じだなあと思いました。
機内では,わずかな時間のフライトだというのに,まず水が出て,次にお菓子とにコーヒーが出て,最後に飴が配られました。客室乗務員は恰幅のいいおじさんと若い女性のふたりでしたが,そんなに忙しく働かせなくてもいいのにと,気の毒になりました。

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旅行の4日目,ニュージーランド滞在3日目になりました。
今日は予定がありません。自然相手の旅行,特に星空やオーロラを見るためには,最低3回のチャンスを設定しておかないと実現できないことがあると思っているので,テカポ湖に3泊しました。2か月前に行ったアイスランドなど,6泊したのにすべて曇りでしたが,それは例外で,というか,アイスランドはもともと晴れない国でした。これまで,オーストラリアもアラスカもフィンランドもそれですべてうまくいきました。幸運なことに,今回は1日目の晩に晴れ上がったので,結果的には2日目さえなくてもよい日となりました。
昨日は晴れ上がり,マウントクックに出かけることができましたが,今日は天気予報が最悪で,終日雨ということだったので,1日中宿泊先のコテッジで過ごすことにしました。
幸いなことに今日は将棋新人王戦第一局があるので,ネットで観戦です。ニュージーランドまで来て将棋の観戦とは,なんだかおかしなものですが,ほかにすることもありません。AbemaTVは海外では見られませんが,ニコニコ生放送は見られます。

ところが,1日中雨という予報だったのに,午前中は晴れました。そこで朝食を取りにふらりと町に出かけました。そして,前回来た時からずっと気になっていたカフェにはじめて入りましたが,なかなかの朝食が食べられました。こちらの物価はアイスランドとは違って高くなく,しかもチップも要りません。ただし飲み物は別に注文でコーヒーつきセットというものはありません。ニュージーランドのコーヒー文化は独特で,私はフラットホワイトを飲むのを楽しみにしています。フラットホワイトというのはエスプレッソにたっぷりとミルクがのっているものです。
朝食後一度コテッジに戻り,再び散歩を兼ねてその後の「籠城」に備え,昼食と夕食を買いにマーケットに行きました。コテッジでは電子レンジをはじめすべてそろっているので,食材をマーケットで買えば食事は外食をせずともなんとかなります。
この日も続々と一見さんの観光客がやってきます。そのうちの多くが中国人です。現在,世界中の観光地は中国人であふれかえっていて,テカポ湖も例外ではありません。人の家の庭に入り込んで写真を撮ったり,列に割り込んだり,人のカバンの上に座ったり,その傍若無人さは有名です。彼らは,大挙してバスで現れ,スマホに自撮り棒をつけ,黒いサングラスをかけ,ブランド品のカバンを持ち,女性は厚化粧をし,大声で闊歩するといった共通の特徴があります。日本人の観光客もまた,いわゆる田舎モンの旅慣れていない人は同じようなものですが,数が少ないので目立たないだけかもしれません。日本国内でも,平気で横入りをし,公園では花を折るし,どこにいってもタバコをふかしているようなおじさんやおばんさんは今でもけっこう生存しています。

午後からは部屋に戻ってネットで将棋を観戦して過ごしました。
明日の朝は早朝テカポ湖を発ってクライストチャーチに戻り,ニュージーランド航空の国内線でクィーンズタウンに行く予定ですが,深夜の雪という天気予報が気がかりでなりません。雪が積もって,明日,クライストチャーチに戻れなかったらどうなるのでしょう。聞くところでは,こちらに人は雪でもスノータイヤなんてつけずに走っているよ,ということなのですが⁈

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念願のマウントクックの姿もはっきり見られて,目的のふたつ目も簡単にクリアして,再びテカポの町に戻ってきました。
テカポ湖畔にあるテカポの町は2年前に比べて様変わりしていました。まず,スーパーマーケットができていました。以前はよろず屋さんのような店しかなかったので便利になりました。この日の夕食はそこで買いました。2年前に来たときに星空観察ツアーに参加したアース&スカイという会社のオフィスも移っていました。来年には天文台つきの建物が完成するということで,スーパーマーケットのとなりのプレハブの仮の建物で営業していました。それ以外にもさまざまな新しい建物が建設中でした。
ここは星空の美しい町として世界中から観光客がやってくるのですが,正直いってこのままだと将来が心配です。それはあまりに明かりに対して規制がなさすぎるからです。

私が今回やってきた目的は,すでに書いたように,「善き羊飼いの教会」を入れた南十字星の写真を写すことだけだったので,持ってきた機材も最小限にしました。ここはちゃんとした天体写真を天体写真マニアが写しにくる場所ではないのです。「善き羊飼いの教会」のあたりは夜ともなるとすごい人の数で無作法者も多く,懐中電灯やら車のヘッドライトの隙間をぬって写真を写すのが精一杯です。そのほとんどの人は満天の星空といってもどの星がなんなのかもわかっていないものだから,単に教会を入れればいいとばかりに秩序もなくごった返しているわけです。しかし,おそらくほとんどの人はピントすら合わせられないだろうから,まともな写真は撮れないことでしょう。
私は,目的だった「善き羊飼いの教会」と南十字星を雲ひとつない夜空に写せたのでこれで満足しました。南半球でちゃんとした星野写真を写すのは,これからもまた,オーストラリアに出かけることにします。

滞在2日目の夜も晴れて星空が見えましたが,最悪なことに南十字星のあたりだけ雲が出ていたので,昨晩写すことが出来て本当によかったと思いました。それにしても,これまで通算4晩をテカポ湖畔で過ごしたことになりますが,天気予報は曇りだとあっても,そして,お昼間どんなに曇っても,夜はすべて晴れました。しかし,ここが本当に晴天率が高いのかどうかはわかりません。安定した晴天が続かないからです。
明日から寒くなり天気が崩れるという予報で,さらに,夜は雪になるということなので心配です。ここに住む多くの人に会うごとに尋ねてみたのですが,すべての人に共通だったのは,予報などあてにならないよ,雪など降らないから心配いらないよ,ということでした。本当にそうならいいのですが…。

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すっかり晴れ渡った昨晩は,思った以上の写真が写せて満足しました。考えてみれば,雲ひとつない星空なんて,オーストラリアならともかくニュージーランドではかなり無謀な期待だったのですが,奇跡的に実現しました。
お昼間は中国語しか聞こえなかったのに,この「善き羊飼いの教会」のまわりで写真を写していたのは意外とに本人が多くて,いたるところで日本語が聞こえてきました。
私は承知できたからいいものの,ここはあまりに有名になり過ぎていて,落ち着いて写真をとる場所ではありません。「世界で一度は見ておきたい絶景」とかいう写真集があって,この場所は必ずといっていいほど載っているのですが,それがこんなものだから,それ以外の場所もまあ,同じようなものなのでしょう。有名な話としては,ピラミットは反対から見るとカイロの大都会が借景となっているとかいうものもあります。

その翌日3日目,滞在2日目。
2年前にも行ったカフェで朝食をとりました。食後,今日こそはマウントクックの姿を見ようと,出かけることにしました。テカポ湖からは100キロメートルの距離です。マウントクックはニュージーランド南島南アルプス山脈に位置するニュージーランド最高峰の山で,標高は3,724メートルあります。正式の名称は「アオラキ/マウントクック」といいます。
行く途中で,まず,マウントジョン天文台に寄りました。ここの天文台はカンタベリー大学と名古屋大学の共同運用です。テカポ湖を見下ろす山の上にあって,お昼間は誰でも山頂まで登ることができます。天文台自体は公開されていませんが,山頂にはアストロカフェという名のカフェがあって,コーヒーを飲みながらテカポ湖の姿を見ることができます。
お気に入りのフラットホワイトを飲みながら店員さんにマウントクックが見えるか聞くと,親切に教えてくれました。マウントクックは山頂まではっきり見えたので,これは是非急がねばということで,さっそく山を降りて出発しました。
テカポ湖からマウントクックまではプカキ湖沿いにものすごく美しい風景が広がります。はじめて見た2年前は大感動しました。マウントクックは少し遠くから見たほうがむしろよく見えます。
マウントクック国立公園の駐車場に着いてトレイルを歩きました。結構険しい登り坂でしたが,登りきったところには日本では絶対に見られない絶景が広がっていました。

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今回ニュージーランドにやって来た目的は3つでした。そのひとつは,テカポ湖にある有名な「善き羊飼いの教会」と南十字星を一緒に入れた満足のいく写真を写すことでした。ふたつ目は,マウントクックの山頂までの姿を見ることでした。そして3番目が,ミルフォードサウンドに行くことでした。
ひとつめの,写真を写したかった理由は,前回来たときは南半球で星空が見たいという一念だけだったのですが,テカポ湖まで行ったら「善き羊飼いの教会」を入れた星空の写真を撮ってこないと意味がないということをあとで悟ったためです。前回はそこまで気がまわらなかったので,教会を入れた写真は星空に雲がかかったものが数枚あるだけでした。それが私にはずっと不満でした。ふたつめのマウントクックは,前回行ったときには山頂付近だけ雲がかかっていて見えなかったので,ニュージーラドで最も有名なマウントクックの形すら私の記憶になかったことです。ませんでした。そして3番目のミルフォードサウンドは,ニュージーランドで最も知られた観光地だというのに,遠くて行くことができまなかったからです。
そこで今回は,テカポ湖に3泊,クイーンズタウンに2泊することにしました。テカポ湖に3泊もする必要はないのですが,自然相手では予備日も作っておかないとうまくいきません。ところが,出発前に調べた天気予報では,2年前のときと同様にずっと曇りか雨。日本とは違い,当たらない天気予報とはいえ,これでは今回もまた,2年前と同様にテンションが下がりました。

ブリスベンからクライストチャーチまでは3時間のフライトなのに食事が出ました。これでは食べてばかりです。
やがてニュージーランドが見えてきましたが,予想に反して天気がよくて驚きました。上空からはおそらくプカキ湖であろうと思われる湖が,雲で遮断されることもなく,鮮やかに見えました。
定刻にクライストチャーチに着きました。前回のことは忘れましたが,ニュージーランドの入国は結構大変で,いろいろ聞かれるので英語力が要ります。おそらく入国者が少なくて係員さんは暇だったのでしょう。
入国してすぐに予約したレンタカーを借りましたが,レンタカーもまた,オプションの保険だとか,返すときにガソリンを入れなくてもいいオプションだとか,そういうものの説明が長く,大変でした。きっとここもまた暇なのでしょう。

テカポ湖までゆっくり走っても3時間で到着しました。
予約してあったのは「善き羊飼いの教会の近くのコテッジでした。最高のロケーションでした。
アイスランドのゲストハウスとは違い,シャワーもトイレもついているし,チェックインのとき牛乳飲むかと言って牛乳くれました。
天気は晴れ。ほぼ快晴でした。夕方に着いたので,まずは歩いて「善き羊飼いの教会」に行き写真を撮り,そのあと湖畔という名の日本料理店でテイクアウトして部屋で夕食を取りました。
日が沈み再び外に出ると,先ほどの快晴はどこへやら一面曇っていてがっかりしましたが,やがて雲が切れてきて,しだいに雲ひとつない満天の星空となりました。
こうして,旅の目的のひとつ目は,簡単に達成できました。

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たった2年前のことなのに,ニュージーランドに到着するまでのことは断片的にしか覚えていないのが不思議です。どうやら記憶というのは印象に残るある部分だけがそのままの形で冷凍保存されていて,残りは消化され混ぜ合わされグタグタになってしまうからなのでしょう。
ということで,私が覚えていたのは,ブリスベンの空港でトランジット用のセキュリティを通ってニュージーランド向かったところと,セキュリティを越えた後で空港のターミナルビルのなかから見たブリスベンの景色と,ニュージーランド便の機内で出てきたギリシャヨーグルトの食べ方に戸惑ったこと,そして,クライストチャーチのレンタカーカウンタで予約した日を1日間違えていたことだけでした。
あのときはブリスベンにはじめて行ってトランジットしただけだったから,空港の外がどうなっているんだろうと,ターミナルビルの中からガラス越しに想像しました。おそらく旅というのはそうした想像をしているときが一番楽しいのでしょう。
その後私はブリスベンに3度も行ったので,もう外の様子は想像ではなく実態としてわかってしまいます。

オーストラリアとニュージーランドはすぐお隣の国のイメージがありますが,実際は日本と台湾くらいの距離があって,時差も3時間あります。ニュージーランドとハワイは時差が実質は1時間しかないのですが,その間に日付変更線があるというのが決定的な違いを生みます。つまり,ハワイは時差ボケに悩まされるのに対して,ニュージーランドは時差がないような錯覚におちいるのです。
しかし,実際は,行きはオーストラリアのブリスベンからニュージーランドのクライストチャーチまでは3時間ほどなのに,時間は6時間も経ってしまうから,早朝にブリスベンに到着してもクライストチャーチに着くのは午後の2時というように1日がかりなのです。反対に帰りは時間が経たないのですが…。そんなわけで,オーストラリアやニュージーランドへの旅は5泊8日というようになるので,8日もの休暇をとって旅行をしても,実質は4日ほどの時間しか使えないのです。

カンタス航空のおもしろいところは,座席のアップグレードが入札制であることで,いくらならアップグレードに応じますか? というメールがきました。うまくいけばかなり安くビジネスクラスに乗れるかもしれません。
今回は成田からブリスベンまでの機内でお話をしたのは,結婚してオーストラリアに住んでいて里帰りの帰りだという息子さん連れの女性と,ツアーでエアーズロックに行くという年配の女性でした。オーストラリアのブリスベンに住むという女性はオーストラリアがあまり好きそうにありませんでした。考えてみればブリスベンに住んだって,それほど行く場所もないし,オーストラリアから海外旅行に行こうとしても,ヨーロッパやアメリカは遠いから大変です。ツアー旅行の女性の方は総計11人のツアーだそうですが,機内ではバラバラに座っていました。
海外旅行をしていると,このようにツアー旅行ばかりで旅をしている年配の人によく会うのですが,こういう人たちは,カタログショッピングでブランド品を買い漁るように世界中の名所を脈絡もなく所構わず出かけているので,話を聞いているとたまげてしまいます。しかし,どこへ行っても結局はバスで名所を周りお土産を買って帰るというおきまりのコースなので,テレビの旅行番組を見ているようなものでしょう。旅行費用は私の3倍ほどだそうです。でも,機内でも座席は真ん中の窮屈なところが指定されていたり,空港からはバスで移動して名所の滞在時間はちょっぴりだけでみやげ物屋さんに連れて行かれたりします。スケジュール表を見せてもらったら目玉のエアーズロックの滞在もわずか半日でした。
はくちょう座の北十字と南十字の区別もつかないのに星空観察ツアーに参加したり,ベートーヴェンとモーツァルトの区別もわからないのにオペラを見にいったり,将棋のコマの動かし方も知らないのに藤井くんを追っかけているといった類の人たちです。それに加えて言葉もできないので現地の人と触れ合うこともないわけです。まあ,お金持ちの方は景気振興のためにも,こうしてどんどんお金を使っていただきたいものですが。

ブリスベンから乗り換えたクライストチャーチまでのフライトに乗っていた日本人は私だけで,そのほとんどはオーストラリア人やニュージーランド人でした。オーストラリアやニュージーランドの人にとってこの移動は何を目的としているのかなと思いました。
オーストラリアに比べればニュージーランドの方がはるかに自然が起伏に富ぶので,山歩きなどのトレッキングもできますから,そんな観光でしょうか。あるいは,オーストラリアは春休みが終わったところということですから,家に帰るのでしょうか? ともかく日本と季節が正反対の南半球は,今日本でいう4月のはじめですが,ニュージーランドはまだまだ寒そうです。

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出発の日は,台風25号の直撃ははずれたのですが,日本海を進む台風によるフェーン現象のために蒸し暑く,しかも風が強かったので,飛行機が通常運行しているか心配でしたが,定刻に成田に着きました。
セントレアから成田まではJALでしたが,ANAのようなめんどくさくばかていねいな優先搭乗のシステムもなく,単に優先搭乗の方は先に乗ってくださいという放送があっただけで,私には好感がもてました。客室乗務員の対応をみても,田舎っぽいANAに対して大人のJALという感じがしたのは,単に気のせいかもしれません。所詮社会全体が小学校のような日本です。海外に出かけるたびにそう感じます。
座席は,今回も富士山を見るために進行方向左の窓席を指定しておいたので,ずっと窓から富士山が見えました。となりに座った男性も海外旅行慣れしているみたいで,話が弾んでいるうちに,すぐに時間が経ちました。

成田空港に着くと,まず,台風で国内線が飛ばないときのためにと,事前に送っておいたキャリーバックを受け取り,すぐにカンタス航空でチェックインして預けました。JALとカンタス航空は同じアライアンス「ワンワールド」なので同じ第2ターミナルで助かります。
カンタス航空は機内持ち込み制限が7キログラムときつく,これではまず持ち込めず,預けるしか方法がありません。成田空港の出国ゲートにも顔認証のマシーンが導入されていましたが,その先に,希望すると出国スタンプを押してくれるブースがあったのでそうしました。その流れがスムーズで,セントレアも見習って欲しいものだと思いました。
あとは搭乗までの時間を潰すだけですが,ラウンジが出国ゲートの手前にあるのをうっかりしてセキュリティを抜けて中に入ってしまったので,せっかく今回持ってきたプライオリティパスが使えず,がっかりしました。
仕方がないので,いつものように,第2ターミナルのふかふかのリクライニングチェアで時間を潰しました。

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今年のはじめに書いたように,再びニュージーランドに行きます。
前回行ったのは,今から2年前のことでした。そのときは,アメリカ以外の国に行くことも久しぶりだったし,南半球で満天の星空を見ることもはじめてだったので,期待と不安でいっぱいでした。
それがわずか2年しか経っていないというのに,その間に,私はオーストラリアに2回も行って南十字星もマゼラン雲ももう飽きるほど見たし,フィンランドに行ってオーロラも見たし,アイスランドに行って大自然の風景も見たしと,多くの国々を訪れることができました。そうしたら,不思議なことに,前回行ったときはニュージーランドなんてハワイより魅力に欠けると思っていたのに,再びニュージーランドに行きたいという思いが募ってきました。
そこで,前回行くことができなかったミルフォードサウンドにはぜひ行こうと,旅行の準備をはじめました。

いよいよ出発という1週間前,台風24号が日本列島を直撃し,しかも次の台風25号が台風24号と同じようなコースで後を追いそうになってあわてました。もし出発が1週間早かったら行くことすらできなかったかもしれません。10月ということで油断していました。出発までの1週間は毎日台風情報とにらめっこする羽目になりましたが,おかげで随分と気象に詳しくなりました。
幸いにして台風は直撃を免れて,無事出発となりました。まだまだ私の「モッている」幸運は逃げていなかったようでした。
今回は,セントレア・中部国際空港から珍しくJALで成田まで行き,そこからはいつものようにカンタス航空で乗り慣れたオーストラリアのブリスベンを経由して,ニュージーランドのクライストチャーチへ行きます。なんとブリスベンに行くのは今年3度目になります。南半球のニュージーランドは今は初春で,気温は夏に行ったアイスランドくらい? らしいのですが,天気予報では連日曇りか雨ということで天気が悪く心配です。
出発時間よりかなり早くセントレアに到着したのですが,成田までは国内線なのでセントレアの国際線のラウンジは利用できず,一般用のラウンジを昼食を挟んではしごする羽目になりました。この時期,中国がなんかの連休の終わりらしく,中国便のカウンタは中国人でごった返していました。
また,4階のイベント会場では中国展をやっていました。私もあやかって昼食に中華料理を食べました。お昼どきのセントレアのレストランはどこも混雑しているのですが,到着ゲートのある2階には中華料理店とサブウェイがあって,ほとんどの人はその存在をしらないので,穴場です。

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●ローンパインにあった収容所●
 アメリカ合衆国の山を高い順に並べると,マッキンリー(デナリ)(Mount McKinley,Denali)6,194メートル,セントエリアス(Mount Saint Elias)5,489メートル,フォラカー(Mount Foraker)5,303メートル,ブラックバーン(Mount Blackburn) 4,996メートルとなるのだが,これらはすべてアラスカ州にある。そして,その次の5番目がカリフォルニア州のシエラネバダ山脈にあるホイットニー(Mount Whitney)4,418メートルである。
 しかし,私は今回この旅で,期せずしてマウントホイットニーを見るまで,そんなことはまったく知らなかった。このマウントホイットニーの登り口が,私が今来たローンパイン(Lone Pine)にある。
 ローンパインはシエラネバダ山脈の東側を走る州道395沿いにあるまるで西部劇に出てくるような懐かしさを感じる美しい町であった。

 ローンパインに着いて,この町に何があるのだろうと調べてみると,町の北40キロメートルほどのところに,第二次世界大戦当時にアメリカの日系人が多数収容されたマンザナー強制収容所があるということだったので行ってみることにした。
 私は,アメリカでこうした場所があると足を運んでみることにしている。私を含めて,多くの日本人は,こうした歴史の事実を知らなさすぎるからである。鹿児島県の知覧をはじめ,こうした場所すら行ったこともないのに,歴史について考えることはできないからである。
  ・・・・・・
 マンザナー強制収容所(Manzanar internment camp)は第二次世界大戦中に日系アメリカ人が収容された収容所のひとつであった。「マンザナー」とはスペイン語で「リンゴ園」を意味し,日系アメリカ人の間では「満座那」と表記した。

 当時日系アメリカ人が収容された収容所はアメリカに10か所あったが,このマンザナー収容所はその中で最もよく知られているものである。この収容所には最大時10,046人が収容されており,収容された人は合計11,070人に上った。
 収容所は第二次世界大戦が終わった後の1945年11月に閉鎖されたが,収容者の大部分は財産を失い帰る家もなかったためにに,閉鎖後も同所への在留を希望した。収容所では延べ135名が死亡し,そのうち15名が同所に埋葬された。
 建造物のほとんどすべては1940年代に売却されたが,のちに国立公園局が同地区を史跡として保存することになった。現在は,バラックとトイレの複製を構築し,博物館も併設されている。
 私は,まず博物館の館内を見学して,その後で,車でまわることができるようになっている屋外の復元された建物とその中の展示を見て回った。
  ・・・・・・

 こんなことを書いてよいのかどうかわからないが,確かに全財産を没収されて収容された人たちは大変な思いをしたに違いないが,それでも,ここの住居の跡や病院の跡を見ると,決してその建物自体は粗末なものではなく,今,私がアメリカを旅行して泊まるような安価なモーテルのような設備になっていて,そうしたもの自体は不快なものでなかったように私には思 えた。それは,このアメリカという国の人たちが思う「最低限の生活」というもののレベルがこういったものであったからであろう。それとともに,日本で毎日のような空襲に恐れ,食べるものさえ事欠いたという状況を思うと,この収容所のほうがそれよりもまだマシだったように感じた。
 いずれにしても,戦争というは人間の行う行為のなかでもっとも愚かでかつ悲劇的なものである。

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 日本の秋は,本当によい季節です。
 過ぎてしまうと忘れてしまうのですが,日本の春は,実際は黄砂にPM2.5など,青い空を見ることができることが稀です。そして,5月になればすぐに暑くなってしまい,やがて梅雨になります。
 私は,子供のころからずっ秋のほうが好きでした。一時,秋にいろんなことがあって,秋を過ごすのが辛くなったこともありましたが,今はまた秋のほうがずっといい季節だと思うようになりました。

 間違えていけないのは,9月はそうした秋ではないということです。9月は6月と同じで,秋雨前線といいますが,要するに梅雨なのです。実際は,6月よりも9月のほうがずっと降水量も多く,おまけに台風までついてきます。
 例年は,本当に気持ちのよい秋は10月になるとやってきますが,そうした秋も,年によってすごしやすい日々がずっと続くときと,いつまでも残暑がが続くと思ったら急に寒くなって,過ごしやすい日々がほとんどないときがあるのです。
 果たして今年は? と思っていたら,それよりもなによりも,夏の異常な暑さの影響で10月になっても台風が上陸しました。これでは残念ながら紅葉も期待外れに終わってしまうことでしょう。

 そうした秋という季節ですが,やはり,秋を飾るのは美しい花たちです。
 特に,秋桜と書くコスモス,お彼岸の時期に咲くので彼岸花といわれる曼殊沙華,そして,控えめな萩。
 私が行ったときの駿府城公園にはこれらの花が咲き誇っていて,湿度さえ高くなかったら,この日は本当によい1日でした。写真だけ見れば蒸し暑さは伝わらないので,きっと,何年もたってこの写真を見ると,よい思い出だけが残っていることでしょう。

 幸運だったことは,駿府城公園をボランティアガイドさんとともに歩いたときに,この日は日曜日にもかかわらず,公園のとなりにある静岡県庁の21階の展望台が開放されているということを教えてもらったことです。
 そこで,私は,駿府城公園からJRの静岡駅に帰る途中で展望台に寄ってみることにしました。県庁に向かう途中でおいしそうなソフトクリームを売っているお店を見つけたので,まずはそれを手に入れて体を冷やし,その後,展望台に行きました。
 公園ではまったく見ることができなかった富士山ですが,展望台からはその姿が見られて,私はすっかり満足しました。霞んだ富士山は,秋というよりも春,しかし,雪のないその姿は,それでも今が秋だということを思い出させてくれました。また,冬になったら来てみよう,と思ったことでした。

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●たびたびデスバレーに集中豪雨が襲う。●
 来るときに寄った砂丘のあたりは「悪魔のコーン畑」である。この「悪魔のコーン畑」を横目に,私はデスバレーを後にすることにした。
 ビジターセンターのあるファーニスクリークから北西に向かって1時間ほど走るとスコッティ―ズキャッスル(Scotty's Castle)というゴージャスな館があると「地球歩き方」には書いてあった。スコッティーズキャッスルというのは,デスバレー国立公園の北端にある個人の別荘である。荒涼とした砂漠を走っていくと蜃気楼のように現れるこのスペイン風の城は,デスバレーで最も風変わりで最も伝説的な見どころのひとつだという。
 1920年代にシカゴの保険会社の重役だったアルバート・ジョンソンによって建てられたこのスコッティーズキャッスルは,そもそもはジョンソンと妻ベッシーの別荘だったが,実際に住んでいたのは,ウォルター・スコットという男であった。ウォルター・スコットは金探鉱者でありカウボーイでもあった。バッファロー・ビルの「ワイルドウェストショー」の公演に参加した人物であったとある。
 バッファロー・ビルという名前を聞いて,私は数年前に行ったサウスダコタ州のデッドウッドの町を思い出した。なんという奇遇であろうか。こうして,旅を続けると,意外なところで意外なものが結びついてくる。
 ジョンソンはスコットの金鉱採掘計画に投資し,友人となった。スコットはこの城が自分の金鉱採掘の利益で建てられたと吹聴したが,実際は城は完成しなった。
 このスコッティーズキャッスルに行くにはビジターセンターから州道190を北西に走って,州道が南西に方向を変えるところで北西に進む州道374に進路を変えてさらに走っていくのだが,2015年に発生した洪水でキャッスル周辺の道が寸断されたということで,道自体が未だに閉鎖中で,州道190と州道374のジャンクション付近に閉鎖中という立て札が立っていた。
 そんなわけで,私はスコッティーズキャッスルには行くことができなかった。 復旧は2019年であろうといわれているそうだ。

 2015年に限らず,デスバレー国立公園は集中豪雨による土石流被害で,しばしば閉鎖される。
 2015年の前の集中豪雨は2004年であった。2004年8月15日に起きた集中豪雨による土石流被害で,デスバレー国立公園の主要部分が閉鎖された。このときの被害はかなり深刻で,一部の道路を除いて,ラスベガス側からの幹線道路のほとんどが不通となってしまった。
 もともと雨が少ないことで知られるデスバレーだが,この年の夏は大気が不安定で,8月の前半は連日のように局地的な雷雨に見舞われたという。 砂漠地帯とはいっても,ここの地面は砂丘で見られるような吸水性のあるやわらかい砂ではなく固まった土や岩盤がほとんどで保水能力が低く,降った雨のほとんどは地面にしみ込まずに表面を流れる。そんな環境のデスバレーに連日雨が降り,記録的な集中豪雨が襲ったのだからひとたまりもなかった。
 この水の流れる最も低い場所にデスバレーの観光名所があるのだから,おのずと国立公園内の幹線道路もそういった低地を走っているわけで,それら道路がすべて土砂に飲み込まれてしまった。

 スコッティーズキャッスルには行くことができなかったが,それ以外のほぼすべての場所に行くことができて,私は幸運であった。帰路は往路とは違って,途中のT字路で左に曲がっていく州道190を進まず,そのまま直進し,州道136を走ってローンパインの町に行くことにした。

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 私がうかつだったのは,これまで京都や奈良といった方角ばかりに目が行っていて,静岡というところが眼中になかったということです。
 常日頃書いているように,今や日本の観光地はどこも外国人ばかり。それはそれで町が潤えばいいのでしょうが,落ち着いた,そして人の少ない場所に日本の原風景を求めて旅をしたいという私のようなものには,もはや,何の魅力もなくなりました。
 その点,まだ,この町はいい。とてもいい。これまで,東京には行ってもその途中を素通りしていたこの場所を,これからは懇意にしたいものだと思ったのが,今回の旅の収穫でした。

 そんな静岡の駿府城公園にあったのが,ご存知,というか,私はまったく知らなかった静岡の万能ソウルフード「静岡おでん」のお店でした。
 曰く,
  ・・・・・・
 静岡市に生まれ育った人たちはおでんをおやつ代わりに食べてきたという。それも寒い季節に限らず真夏の暑い時季にも食べるという。
 静岡市では,おでんの店は居酒屋とは限らず,むしろ一番多いのは子供たちが集まる駄菓子屋だったという。
 今でも気軽に入れるおでんの店は多く,駄菓子屋・パン屋・おにぎり屋などの店が当たり前のようにおでんも売っている。
  静岡市内は居酒屋でも多くの店がおでんを定番メニューにしているし,屋台街から発展した「青葉おでん街」と「青葉横丁」はどの店もおでんの専門店である。
 変わったところでは静岡競輪場内の売店も味で評価が高い。
 静岡おでん……
 他県の人が見たらすこし驚くかも。
 真っ黒な煮汁に一本一本串に刺さった「タネ」がグツグツと煮えている…
 静岡で育った輩には子供の頃小腹がへったら近所の駄菓子やに小銭をにぎりしめて駆け込んだ記憶があるはず。
  ・・・・・・
なのだそうです。

 で,帰ってから調べてみると,6月27日付けの静岡おでんの会のFacebookに,
  ・・・・・・ ·
 静岡市の中心部,駿府城公園内に静岡おでんの専門店の開店準備をすすめています。6月29日,まもなくオープンです!
 静岡の食文化の情報発信拠点として,観光に訪れる方にも気軽に静岡おでんを楽しんでいただけるように,静岡ならではのおもてなしを提供するお店を目指しています。
 お近くにいらした際には,ぜひ,お立ち寄りください。素敵な「おばちゃん」達がお待ちしております。
 店名は「おでんやおばちゃん・ 駿府城公園店」
  ・・・・・・
とありました。
 
 ボランティアのガイドさんに案内してもらって駿府城公園を歩いた私は,ちょうどお昼ということもあって,この静岡おでんののれんに寄せられておでんを食べることになりました。このお店ができるまでは駿府城公園には食べ物屋さの一軒もなかったのだそうです。
 当然,静岡おでんのことなど全く知らなかった私は何を注文するかもわからず,お任せで,メニューの一番上の段の5品を焼酎のお湯割りとともに楽しく食したのでした。とてもおいしかったです。

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 秋の小旅行の3日目。
 東京から名古屋まで在来線で帰ることにして,旧東海道のどこかおもしろそうな宿場間を歩くことにしていました。これはこれで楽しい小旅行です。
 早朝,そのまま品川駅からJRの在来線に乗り込み,当てもなく西に向かいました。しかし,雨模様だった1日目と2日目とは打って変わって天気がよかったのですが非常に蒸し暑く,歩く気持ちがうせてしまいました。
 車内から外の景色を見ながらどこへ行こかと考えていると,静岡市というところには降りたことがないということに気づいたので,街道を歩くことはやめて,この日は静岡市の観光をすることにしました。

 静岡には何があるのだろう? 私が知っているのは駿府城だけでした。静岡駅で降りて,駅にあった観光案内所で「はじめて来たのですが,どこか見所はありませんか?」と聞くと,親切にいろんな情報を教えてもらい,観光案内地図をもらうことができました。ということで,この日だけけでは歩ききれないほどの情報を手に入れることができました。
 静岡ならこの先何度でも来ることができるので,この日は駿府城に行くことにしました。
 教えられたとおりに駅から北に歩いていくと,やがて日本の各地にある城下町と同じように官庁街になって,その付近は緑に囲まれていました。そこが駿府城公園でした。
 私はまったくの不勉強で,駿府城公園には今も城が現存していると思っていました。そしてまた,江戸時代を通じてこの城の主が誰なのかも知りませんでした。私が知っていたことといえば,家督を秀忠に譲ったあとの徳川家康が晩年に住んでいたことと,徳川慶喜が明治になってから住んでいたところ,ということだけでした。いずれにしても,徳川幕府の初代将軍と最後の15代将軍にゆかりのある場所というのは,かなり権威のあるところです。

 駿府城はかつて現在の静岡市葵区にあった城で,別名を府中城といいました。ここは江戸時代は駿府藩や駿府城代が,明治維新期には駿府藩が置かれましたが,その昔,14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって今川館が築かれ今川領国支配の中心地となっていたのがはじめです。
 はじめ,今川氏は隣接する甲斐の国の武田氏,相模の国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行いました。16世紀になると,甲斐を中心に領国拡大を行っていた武田氏との同盟関係が解消され,駿河を侵攻されたことで今川氏は駆逐され,城館は失われてしまいました。
 やがて,武田氏が1582年(天正10年)に織田・徳川勢力により滅亡し,駿河の武田遺領は徳川家康が領有することになりました。
 その後,徳川氏時代に駿府城は近世城郭として築城し直され,この時に初めて天守が築造されたといいます。

 江戸時代になると,秀忠に将軍職を譲った徳川家康は,大御所となって江戸から駿府に隠居しました。このとき駿府城は天下普請によって大修築され,現在の形である3重の堀を持つ輪郭式平城が成立しました。天守閣は城郭史上最大のものであったといわれます。 1607年(慶長12年)には完成直後の天守や本丸御殿などが城内からの失火により焼失してしまいました。その後直ちに再建され,7階の天守が中央に建つ大型天守台の外周を隅櫓・多聞櫓などが囲む特異な構造となったようです。
 天守台は明治時代に陸軍歩兵第34連隊を誘致する際に破壊されてしまいました。現在は,天守・櫓・門などの建造物や三重の堀のうち外堀の3分の1と内堀は埋め立てられてしまい,官庁や学校,そして,公園となっています。
 2016年(平成28年)から天守台の発掘調査が始まっていて その様子を見ることができました。

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●デスバレーにおけるホウ酸の採掘●
 再びビジターセンターに戻ってきた。早朝来たときとは違って,ビジターセンターは開館していた。館内に入ると,クーラーが効いていて涼しかったが,外はすでに華氏109度,つまり摂氏42.7度! であった。いくら今年の日本の夏が暑かったとはいえ,これには及ばない。しかし,湿度が低いから,むしろ日本よりはすごしやすい。
 ビジターセンターには博物館や売店があった。私はまず博物館を見てから,売店でサンドウィッチを買ってこれを昼食にした。
 後は帰るだけだったので,ガソリンスタンドで給油をした。このように,何もないと思っていたビジターセンターには何でもそろっていて,ここは決して不毛の地ではなかった。
 時刻は午前11時だから,お昼すぎには今日も50度を超すであろうと思われた。しかし,これほど暑くなるというのに,ビジターセンターには,続々と観光客がやって来た。心配したほどの「地獄」でもないような気がしてきた。
 
 来るときに見忘れたいくつかの場所に寄りながら帰ることにした。
 そのひとつめがハーモニーボラックス(Harmony Borax)であった。ハーモニーボラックスというのは,ホウ酸ナトリウムを採掘していたところである。 
 デスバレー国立公園地域で採れる最も有名な鉱石は,食塩やホウ酸塩,そして,滑石などが堆積した蒸発残留岩に含まれるホウ砂である。なかでも,ホウ砂はこの地域で最も回収しやすく利益率の高い鉱石であった。
 はじめてホウ砂が発見されたのは1881年であった。その年の末にはイーグル・ボラックス・ワークスがデスバレーで初めてホウ砂の商業活動を開始し,1883年末にはハーモニー・ボラックス・ワークスのウィリアム・テル・コールマンがこの地域に工場を建設し,1888年まで石鹸の製造や工業用に使用されるホウ砂の生産を行った。この地域で作られた製品はトゥウェンティ・ミュール・チームによって約265キロメートル離れたモハーベにある鉄道まで輸送された。
 トゥウェンティ・ミュール・チームは時速約3キロメートルの速度で移動し,工場と鉄道とをおよそ30日かけて往復した。採鉱産業は1920年代まで繁栄した。
 さらに,この地域には銅・金・鉛・銀などの希少な埋蔵鉱物を求めて,多くの人々が訪れた。しかし,アクセスの悪さと苛酷な砂漠環境により事業が長く続くことはなかった。

 1903年,全くの偶然に巨大な金の鉱床が発見され,小規模なゴールドラッシュが発生した。しかし,十分な利益をもたらすだけの貴金属鉱脈が存在しないことが明らかとなって,1907年の恐慌を契機に衰退した。
 その一方で,1933年の国定公園への指定によって,探鉱や採鉱事業は一時的に休止することになったが,議会の働きかけで採鉱事業は再開された。しかし,採鉱業者が国定公園からよく見える位置にある鉱山で露天採鉱を行い景観に傷跡を残したので,一般市民から激しい非難が沸き起こり,アメリカ合衆国にあるすべての国立公園および国定公園がより厳しく保護されるきっかけとなった。
 1976年,議会はデスバレー国定公園内での新たな採鉱事業を禁止する法案を可決,この法律によって,デスバレー国定公園内での露天採鉱は禁止された。そして,1980年,連邦政府の指導によって,デスバレー国定公園内の資源が保護されることが保証されたのだった。

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●夜空にはラスベガスの灯りが…●
 ザブリスキーポイントの展望台から降りて,再び車に乗った。ここから州道190を7マイル,約10キロメートル東に走ったところで,道路標識にしたがって右折した。
 私はデスバレー国立公園の南西ロサンゼルスから来たが,南東のラスベガスから州道190を北西に走ってデスバレー国立公園に来るときは,この逆に,交差点を左折することになるわけだ。
 デスバレー国立公園の観光は,私のしたように,まず最低地点に行ってから次にここに来た方がいいように思うので,ラスベガスから来るときもまた,先にバッドウォーターに行ってから,帰りにこの展望台に登るほうがいい。

 右折してからは,さらに13マイル,約20キロメートルほど走っていくことになる。しばらくは原野のなかにある片側1車線の舗装道路を延々と走っていくことになるが,それを過ぎると次第に山道になってきた。
 目的地のダンテスビュー(Dantes View)は標高が1,669メートルというから,かなり高い。 なにせ,デスバレーの最低地点は標高0メートルどころかマイナス86メートルだったから,正真正銘約1,700メートルを一気に登っていくことになるわけだ。
 坂道は,なにかハワイ・マウイ島で登ったことがあるハレアカラ山に似ていて,私はデスバレー国立公園から全く別の場所に来たような感じがした。
 やがて山頂にあった広い駐車場に着いたので,車を停めて外に出た。さすがにここまで来ると涼しかった。 
 この展望台は私が今朝バッドウォーターに行ったときに日陰になった山の上にあったから,見下ろすと先ほどいたバッドウォーターが眼下に見えた。この標高差というのはかなり衝撃的である。
 ここの展望台からデスバレー国立公園が一望できた。自然というもはすごいものだと思った。幸運にも,このように,期せずしてデスバレー国立公園の見どころのほとんどを観光することができてしまった。

 デスバレーは夜になると真っ暗闇になるからここからの星空が絶品で,この国立公園自身もそれも売りにしているようだ。かつては,夜にデスバレーに来れば満天の星空が「見えた」,のだという。
 しかし,私にとって衝撃的だったのは,このデスバレーの暗闇というものまた過去のものだということであった。つまり,今は,こんなところまで来ても,200マイル先にあるラスベガスの灯りが輝いて見えるらしいのだ。この現実は,デスバレー国立公園ではずいぶんと危惧されている。そして,現在,夜空の明るさが生物にどんな悪影響を与えるのかという研究がされているということであった。

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 今から10数年前のこと,奈良の岡寺に行ったとき,岡寺へ至る坂を登りながら,ここはこれまでに何度も来たことがあるのを思い出しました。
 私は,京都も好きですが,それ以上に奈良というところに懐かしみを感じます。とりわけ,飛鳥,あるいは明日香といわれる地は,古の日本を想像するだけでもワクワクします。
 であるのにもかかわらず,私は,奈良というところが何度行っても把握できないのです。京都なら地図を見なくてもほとんど場所は歩けるのに,奈良はどこがどうなっているのか,どこに行ったことがあるのかないのか,何度足を運んでも理解できないのです。
 そんなわけで,頭の中にはいろんな風景が浮かぶのに,それがどこだったのか,さっぱり思い出せなくて,行ってみて,ここも来たことがある,と思うのです。
 しかし,そうした想いのほうがむしろずっといつまでも心に残り,そして,再び出会ったときに懐かしいと感じるのでしょう。私にとって,ちびまる子ちゃんんという作品もまた,それと同じものかもしれません。

 ちびまる子ちゃんの作者,さくらももこさんが先日,若くして亡くなりました。
 私も年齢を重ねて,これまで数多くの人が生き,そして亡くなっていく様を見てきました。現代では,健康に恵まれると,人は80歳くらいまでは元気で生きられます。そして,少なくとも75歳くらいまでは旅をしたりしたいことができるという,いわゆる健康年齢であり得ます。だから,80歳よりも早く亡くなってしまうと,若いのに残念だったという気持ちになりますし,おそらく,本人もまだやりたかったことがたくさんあったであろうと思います。
 さくらももこさんもまた,若くして亡くなられたのでとてもお気の毒でしたが,彼女は,ちびまる子ちゃんをはじめとする多くの作品やエッセイを通じで,人を幸せにした人生でした。

 私は,以前,そんな彼女の人柄を知ることができる温かみのある絵が描かれた色紙を,奈良のあるお寺の門前にあった茶店で見たようなことをふと思い出しました。そして,先日の朝日新聞の夕刊に,私が見たのと同じ絵が載っていたことから,私の淡い思い出が明確によみがえってきました。
 そうそう,それは岡寺の門前にある,いや,あった坂乃茶屋というところでのことだったのです。この古びた風情のお茶屋さんはとても趣があって,入口を入ると所かまわず一杯色紙が飾ってありました。その色紙はこのお店に来た若い人たちが記念に書いたものでした。それを見て,私も,若い人たちに囲まれてわいわいと騒いでいるような気持ちになれて,とても元気がでました。
 新聞の写真でそのことを思い出して,今もそのお茶屋さんは当然あるものだと思ったから,この秋にでもまた行ってみようと思ったことでした。
 しかし,新聞の記事を読んでみると,そのお茶屋さんは火事で燃えてしまって,お茶屋さんどころか,さくらももこさんの書いた色紙もこの世から姿を消してしまったということを知って,私は涙が出てきました。こんなショックなことはありませんでした。
 形あるものはいつかはなくなるとはわかっていても,それに直面すると,そんな冷静なことはいってはいられないものです。

 そんなことを感じていると,そういえば,すっかり忘れていましたが,静岡県の清水にもちびまる子ちゃんの博物館があって,以前そこに行ったことがあるのを思い出しました。
 私の記憶にはほとんど残っていなかったその想いだったのですが,このとき,新たにそのときのことが蘇ってきました。
 清水にあるちびまる子ちゃんの博物館は,正しくは「ちびまる子ちゃんランド」といいます。それがある場所は静岡市清水区のレジャーセンターの一角です。さくらももこさんが,現在は静岡市清水区となった当時は清水市であった入江地区で少女時代を過ごしたことから,この場所に作られたものでしょう。
 この「ちびまる子ちゃんランド」は,中に入るや否や,ちびまる子ワールドの世界に舞い降りて,幸せな気持ちになれるという,まさに,「ちびまる子ワールド」と名づけられただけのことはある場所なのです。

 そういえば,日曜日,ちびまる子ちゃんに続いて,今もなお放映されているサザエさんの作者長谷川町子さんゆかりの場所が,福岡市と東京にあります。そのうちのひとつが東京・桜新町です。ここには長谷川町子美術館があって,生前長谷川町子さんが所蔵していた多くの作品が展示されています。そして,東急田園調布線の桜新町の駅から長谷川町子美術館に至る通りが「サザエさん通り」となっています。
 この駅を降りてその界隈を歩くと,まるで,サザエさんのアニメの中に舞い降りたような気持ちになって,これもまた,とても幸せな気持ちになれるものです。
 このように,どうやら,人は実は現実よりもずっと思い出の中で生きていて,そうした思い出は,ふとしたことで蘇り,現実に浮き出てくるようなのです。つまりずっと生きているのです。そんなことからも,形あるものがなくなったとしても,さくらももこさんの人生は,これからもずっと,多くの人の心のなかに生き続けていくのでしょう。

 
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ああ,はしだのりひこさん。-「風」の小径は私の原風景

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