いよいよ師走がやってきますがまだ11月。しかし,セントレア・中部国際空港はすでにクリスマスムードです。
さて私は,今年一番楽しみにしていたオーストリアへ出発です。連休明けということで空港はもう少し空いているのかと思いきやさにあらず,みなさんどこへ行くのでしょうか。
いつも心配の名鉄は遅れもなく,私は3時間前に空港に到着しました。このくらいの余裕をみておかないと,何かあれば到着できません。フィンランド航空のカウンタはちょうど開いたところだったので,さっそくチェンクインをしてバッグを預けました。今回もまた私はフィンランド航空(=フィンエアー)を利用してヘルシンキ経由でウィーンへ行くのですが,フライトはフィンエアーでもブリテッシュエアーとJALのコードシェア便です。しかし,なぜか,行きだけフィンエアーで買うよりもブリテッシュエアーとして買う方が値段が安かったので,行きだけブリテッシュエアーとして購入したのはいいけれど,フィンエアーで買った帰りはネットで座席が選べたのに対して,行きだけどういうわけかネットで事前に座席が選べませんでした。それでも,チェックインカウンタでめざすコンフォートにアップグレードができたので一安心,今回もまた,広い座席で快適なシベリア上空9時間の空の旅です。
出国手続きを済ませて,搭乗手続きがはじまるまでは,いつものようにラウンジでまったりと過ごします。しかしながら,朝は出発便が多く,セントレアではサクララウンジを除いて一番豪華なスターアライアンスラウンジが混んでいたので,今回は試しにコリアンエアーのラウンジを利用してみました。コリアンエアーはこれまで利用したことないけれど,噂によると,機内でカップラーメンを食べる人が多いので,その匂いがたまらなかったという話でした。機内だけでなくこのラウンジでもまた朝からカップラーメンを食べている人がいて,その噂は嘘ではないと確信しました。いずれにせよ,ラウンジの快適さでは何と言ってもアメリカ国内の空港にある巨大なデルタ航空のラウンジに勝るところはありません。その後,11時近くになってスターアライアンスのラウンジが空いたので,そちらに移動しました。今日もまたラウンジのハシゴです。
そんなこんなで,ダラーと時間を潰していると,搭乗時間が来ました。さあいよいよ出発です。
November 2018
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑦
●絶品のハンバーガーとオニオンリング●
お昼間の予定であったパロマ天文台には行くことができなかったが,その代わりに動物園にいくことができた。そして,夜はこれもまた楽しみにしていたベースボールの観戦である。
前日に下見をしておいたので,わけなくボールパークに到着した。
旅行者がアメリカの大都市にあるボールパークでナイトゲームを見る場合,ゲームの終了後の治安が一番の注意点となる。ここサンディエゴは治安も悪くなく,また,泊っているホテルとボールパークの間は徒歩でわずか15分程度であったから,私は,ホテルから歩いて往復することにした。
これまでにアメリカのすべてのメジャーリーグチームのボールパークを見たことはあるが,それ以後新しく作られたり移転したりしているから,私はそのすべてに行ったわけではない。たとえばアトランタ・ブレーブスはダウンタウンにあるアトランタオリンピックで使用した陸上競技場を改装したターナー・フィールドを使用していたが,突然移転を表明して郊外に新しいボールパークを作って移転してしまった。
近頃は郊外のボールパークをダウンタウンに移転するのが流行りだったのに,アトランタではその流れと逆行するようで私は不思議な気がしたが,それはそれで,なんらかの理由があるのだろう。しかし,今の私に改めてアトランタの新しいボールパークを訪れるような情熱はもはやないから,将来もまたそこに行くことはないであろう。
このサンディエゴもまた,私が前回来たときとは違って,ボールパークはダウタウンに移転していたが,私は,新しいボールパークに行く予定もなければ行く意欲もなかったのだが,今回,期せずして行くことになった。
結論から言うと,さほど期待もしていなかったこの新しいボールパークは予想に反してとてもすばらしいところであった。ただし,ボールパークはすばらしくとも,このチームにはたいして見たいと思うプレイヤーがいるわけでもなかったから,ゲーム自体にはまったく興味がなかった。私は,単に,新しいボールパーク自体を見たいというだけだったので座席などどこでもよかった。
以前書いたことがあるが,アメリカのボールパークのチケットは,昔と違って,異常なほどの高値になってしまっているが,とにかく中に入ってしまえばどうにでもなるから,最も安価なチケットを買って,最上段の席で見ることをお勧めする。ゲームも後半になればもう無法地帯で,どこか空いている席をさがして座ってしまえばいいのだ。
要するに,アメリカでのベースボールというのは,日本で仕事帰りに一杯やったりするように,ボールパークに行ってわいわいするところであって,ゲームの勝敗なんてどうでもよいのである。
私は来てみて,このボールパークをとても気に入ったが,そのなかでも最も好感が持てたのは食事であった。
今回の旅ではさまざまなハンバーガーの食べ比べをしているのだが,このボールパークで食べたハンバーガーは絶品であった。そもそもボールパーク内のファーストフードはどこも量が少なく高いだけであるが,ここのハンバーガーはそれとは一線を画していた。その絶品のハンバーガーというのは「Hodad's」という店の提供するものであった。「Hodad's」というのはサンディエゴに3件あるハンバーガー店で,そのうちの1件が,このボールパークに入っている。ハンバーガーはもちろんのこと,オリオンリングがかなりの美味であった。
知らなかった旅の方法②-京都の紅葉を楽しみたいのなら…
春,桜の季節と,秋,紅葉の季節の京都は人があふれかえっています。数年前なら,それでもまだ,私は訪れる喜びのほうが勝ったのですが,今や,紅葉よりも人の頭を見にいくようなものになってしまい,行く気がすっかり失せてしまいました。そしてまた,お寺の拝観料も高くなってしまいました。こうして京都のよさのほとんどがなくなりました。食事をする場所すらどこも混雑していて,探すのがたいへんです。
この人が多い時期よりも,私はむしろ冬の寒い時期や紅葉前の10月の京都が好きだったのですが,今やそんな時期さえも当時の面影がなく,1年中混雑するようになってしまいました。
そんな京都であっても,やはり,多くの人は京都に行ってみたいと思っていることでしょう。紅葉の時期,私のつたない経験から,そんな京都を少しでも楽しむ方法を書いてみましょう。
まず,この時期の京都に車で行くというのが無謀なことであるのは容易に想像ができるでしょう。しかし,どうしても車でなければ,という事情があるときは,京都まで行かず,大津に車を停めましょう。そして,大津から電車に乗るのが正解です。
走ってみればわかりますが,京都というのは盆地にあって,周りを山が囲んでいるので,結構アクセスする道路がないのです。高速道路も大津を過ぎると大渋滞になります。当然,定期バスで行くというものまた同じことです。そんなものに乗ると,到着する時間がまったく読めなくなります。
次に,この時期京都に出かけるなら,早朝に到着することがもっとも大切なのです。遅くても朝7時には到着することです。そして,目的地に向かって,一目散にバスや地下鉄に乗ることです。京都に宿泊して,ホテルで優雅に朝食を,などという愚かな行為だけは絶対に慎まなくてはなりません。
ホテルで優雅に朝食をとるために京都に行く必要はないのです。
そして,目的地に着いたら,そこからはなるべく歩くこと。いくら道路が混雑していても,地下鉄の駅まで行けば渋滞を気にせずに帰ることができます。
それでも優雅に食事を楽しみたいと思うのなら,夜の食事付き定期観光バスを利用するのがいいかもしれません。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑥
●「人間中心の施設」?!●
すでに書いたように,サンディエコ動物園はすごく広い。日本の動物園を想像するとまったく違う。そして,広いだけでなく,日本の各地の動物園で「ウリ」とされている様々な動物がここにはみんな揃っているのだ。
だから日本の動物園でパンダを見るために上野動物園で早朝から並んだり,名古屋の東山動物園にコモドドラゴンを入れよう,などと騒いているのが馬鹿らしく思える。そんなもの,サンディエゴ動物園へ行けばみんな見られるからだ。
話がそれるが,私はなぜかアメリカへ行くと,特に行きたいわけでもないのに動物園というところに足を運ぶ。だから,ほとんどの都市の動物園に行ったことがある。アメリカではちょっとした都市には科学館,美術館,博物館,動物園などが揃っているが,そのなかでも,動物園というのは敷居が低い。
しかし,私はやっていることと考えていることが別物で,動物園に行くといつも悲しくなるのだ。「新解さん」として有名な三省堂の「新明解国語辞典」の第4版で「動物園」の項を引くと,
・・・・・・
生態を公衆に見せ,かたわら保護を加えるためと称し,捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し,狭い空間での生活を余儀無くし,飼い殺しにする,人間中心の施設。
・・・・・・
とある。第4版では辛辣で毒のあった「動物園」の説明は,版を重ねるごとに柔らかくなってしまったが,この第4版の説明こそが動物園の「本音」を言いえているような気する。
さて,サンディエゴ動物園では,「ウリ」のなかでもやはり一番の「ウリ」はジャイアントパンダであろう。これを見るには列に並ばなければならない。日本の動物園には現在パンダが合計9頭いるそうだが,アメリカ国内には13頭ほどいるらしい。そして,そのうちの3頭がこのサンディエゴにいる。それらはメスのバイユン(白雲=Bai Yun),オスのガオガオ(高高=Gao Gao),そして,その子のシャオ・リー・ウー(小礼物=Xiao Liwu)である。今日の1番目の写真はシャオ・リー・ウーである。バイユンは寝ていたが,ガオガオはどこにいるかわからなかった。
その下2番目の写真はレッサーパンダである。レッサーパンダは別名をレッドパンダという。
1825年西洋人がヒマラヤで発見したこの動物の名前を現地人に訪ねたところ「竹を食べる者」と言う意味の「ネガリャポンヤ」だと答え「ポンヤ」が「パンダ」に変わったとされる。このように,レッサーパンダが「パンダ」と呼ばれていたのだが,後にジャイアントパンダが発見されて有名になると「パンダ」がジャイアントパンダを指すようになって,それまでのパンダがレッサーパンダとなった。
現在はレッサーは蔑称の意味があるのでレッドパンダを使う。中国語ではジャイアントパンダは「大熊猫」(dàxióngmāo=ターショォンマオ),レッサーパンダは「小熊猫」(xiăoxióngmāo=シャオショォンマオ)と呼ばれる。
3番目の写真がコアラであるが,私は3月に本場オーストラリアでコアラをさんざん見てきたので,アメリカまで来てコアラに出会って,なにかとても不思議な気がした。
そして最後,4番目の写真がコモドドラゴン,つまり,コモドオオトカゲ(Varanus komodoensis)である。
インドネシアのギリダサミ島,ギリモタン島,コモド島などに生息する最大全長313センチメートル,最大体重166キログラムにもなるというこの生意気そうなトカゲは 非常に危険な爬虫類として知られている。口には鋭い歯が並び,のこぎり状になっており,肉は簡単に切り裂かれてしまう。しかもその歯の間に毒管があり,唾液を介して血液の凝固を妨げる毒を獲物に流し込む。血液が固まらなくなってしまうため失血によるショック状態に陥り敢え無くコモドドラゴンの餌食になってしまうという。
ところで,名古屋の東山動物園がこのコモドドラゴンを飼育しようとしているが,赤道直下のインドネシアは日中の気温が30度を下ることは少なく,コモドドラゴンは寒さに弱いために空調が完備された大型の獣舎や水温調整が可能なプールを新設する必要があり,数億円規模とされる個体のレンタル料に加えてこうした特殊な施設整備にも巨費がかかるということだが,そこまでお金をかけてまで借りてくる必要なんてないんじゃないの,と私はこのトカゲを目にして思ったことだった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」⑤
●ベースボールなんて見ている場合か!●
この旅で最も行きたかったパロマ天文台がお休みであったのは衝撃的であった。もう1日早く訪れれば見られたのだ。ドジャースタジアムでベースボールなんか見ている場合でなかった。まあ,どうにもならないことは諦めて,また来いよ,と言われていると解釈することにした。
そんなわけで,1日予定がぽっかりと空白になった私は,サンディエゴに戻ってきた。今日することがなくなってしまった私は次の手を考えなくてはならない。サンディエゴにはすでに一度来たことがあるし,私はアメリカの都会は,というよりも,世界中,都会にはほとんど興味がないので,何をしようかと考えたあげく,サンディエゴ動物園に行くことにした。
サンディエコ動物園は2か所ある。そのひとつはダウンタウンにあるサンディエゴ動物園で,もうひとつはダウンタウンから北に50キロメートル行ったところにあるサファリパークである。
私はサファリパークには行ったことがある。そこはものすごく広い動物園で,まるでアフリカのサバンナに行ったようなところであった。しかし,逆に,ダウンタウンにあるサンディエゴ動物園のほうには行っていないことを思い出したのだった。
サンディエゴのダウンタウンの北,私の泊まっているホテルから歩いて行けるくらいのところに,バルボアパーク(Balboa Park)がある。ここは約5平方キロメートルもある総合公園で,園内には動物園,自然史博物館,航空宇宙博物館,美術館,日本庭園などがある。そのなかでも最も豪華なのが動物園で,約800種,4000頭以上の動物を飼育している。
歩いて行けないこともないが,公園自体がものすごく広く,かつ,この日もまた,暑い日だったので,私は車で行くことにした。いくら広く,かつ,駐車場もたくさんあるとはいえ,アメリカはどこも車が多すぎるから,停めるスペースがあるかしらと心配であったが,なんとかスペースを見つけ車を停めて,そこから動物園の入口まで歩いて行った。
アメリカに行ったことがない人は動物園というと上野動物園ごときを想像するだろうが,そんなものと比較してはいけない。アメリの動物園は日本とは決定的に広さが違うのだ。
日本で野球を見たり,ちっぽけなキャンピングカーを買って道の駅あたりで駐車してキャンプを気取ったり,バーベキューセットを買って名ばかりのキャンプ場で楽しんだりしている人がいるが,それは,アメリカでのそうしたホンモノのレジャーを知らないからこそできることであって,その事実を知ってしまうと,もはや,そんな行為はママゴトであり,走る道もない日本で高級車で渋滞に巻き込まれている滑稽な日本人同様に,私には哀れとしか思えない。
こういうのを知らぬが花,という。
そんなわけで,この広大な動物園も,すべてをまわるには1日では不十分だが,私は,ほどほどに楽しむことにした。
まず,園内に入ったところに,園内を1周する電車があった。その乗り物の料金は入園料に含まれているということだったので,それに乗って,園内の様子を知ることにした。さらに,入園料には園内を走る二階建てバスも乗車できるということだったので,次にそのバスに乗って,今度は高い場所から園内を1周した。
その後で私は昼食をとることにした。お昼に食べるものは野菜に限る。この国ではサラダと言っても,日本とは大きさが全くちがうから,サラダとジュースで十分に昼食としての目的を達することができるのだが,どこの売店もけっこう並んでいて,食事にありつくのがたいへんだった。
再びニコンミュージアム-この会社はどこへ向かうのか?⑤
いつも考え過ぎで凝り過ぎて失敗を繰り返すニコンから発売されたミラーレス一眼カメラもまた,予想通りの考え過ぎの製品でした。この新型カメラは,触れてみればわかるのですが,とても品質がよく,思ったよりも小さく,すばらしい製品です。私も無限にお金があれば欲しいカメラだなあ,と思いました。
しかし,レンズマウントも今までのものとは違い,アダプタをつければ従来のレンズが使えるとはいえ,3種類を発売したキヤノンにくらべて1種類,オートフォーカスのモーターが内蔵されたものもないし,ニコン1のレンズもつかないので,思ったほど従来の製品との互換性もなく,さらに,保存メディアも異なり高価で,カメラ以外のものにそこまで巨額の投資をして買うほどの魅力は,私にはありませんでした。
同じくして,間に合わせとしか思えないような製品を発売したライバル会社キヤノンからは,この程度のモノを出せば売れるという会社の読み筋通り,販売量ですでに大きく水をあけられています。同時に発売された新しいマウントのレンズの品ぞろえからして,キヤノンのほうに魅力を感じます。
これでは,ニコンの新型カメラもまた,ひょっとしたらニコン1の二の舞になりそうな予感さえします。このニコンという会社の遺伝子は今回もまた変わるものではありませんでした。
おそらく,キヤノンは,EOSが発売されたころのように,今後,ものすごい勢いで建てづづけに新しいミラーレスカメラを発売することでしょう。その多くはそれほど練られた製品ではないのでしょうが,それでも新しもの好きの愛好者は次から次へとそれを買い替えることでしょう。そのようにして知らぬうちにシェアのほどんどを奪うのです。これもまた,このキヤノンという会社の遺伝子です。そして,ニコンが,慎重に「満を期して」完璧な製品を発売するころには,もう,それを買うユーザーがいなくなってしまっているわけですが,これもまた,いつもと同じ,いつか来た道です。
この会社のカメラに将来があるかどうかは来年発売されるであろう新製品でそのすべてが予測できることでしょう。
…と冷静に分析しても,実は私は50年にわたるニコンユーザーで,家にはニコンのカメラやらレンズがごろごろありますし,愛着もあります。そんな私は,東京に来たついでに,久しぶりに品川のニコンミュージアムを訪れました。前回来たときは,このミュージアムができたころで,期待に反して望遠鏡の展示もなく,半分はステッパーの説明が占めていたのですが,その後,展示が変わったと聞いていたので,再び足を運んだわけです。
ここで話が少し脇道に逸れます。
私が東京で泊まるのは大井町の東横インです。以前はアワーズイン阪急に泊っていたのですが,そのころこのホテルは最上階に宿泊者専用の大浴場があって,とても快適でした。ところが,リニューアルされて,快適だったお風呂は宿泊者以外にも利用できるように改悪され,別料金になり,混雑してまったく快適でなくなってしまいました。
そこで,私はそこから少しだけ遠いところにある東横インに定宿を鞍替えしたわけです。
その大井町に,かつて,日本光学工業という名前だった今のニコンの本社がありました。東海道新幹線からもよく見えて,この工場が近づくと東京に来たと思ったものでした。工場はなくなったのですが,大井町からそこに続く道路は今も「光学通り」という名前になっています。
今は,その駅から1駅北にある品川にニコンミュージアムがあることから,品川駅には大きなニコンの看板があります。
さて,品川駅から歩いて7分,ニコンミュージアムは相変わらず閑散としていました。それでも中に入ると,少なからず見学の人がいました。
前回と変わったのは,ひとつはステッパーの展示が減っていたことでした。それは無理もありません。ニコンのステッパーはオランダの会社にしてやられて,ユーザーをなくしてしまったからです。そして,もうひとつは望遠鏡のコーナーが増えたことです。しかし,実物はどこかの高等学校で昔使われていた大きな屈折望遠鏡が1台あっただけで,一般向けに売られていた小口径の屈折望遠鏡の1台も展示されていませんでした。私が行ったことのある四国の望遠鏡博物館から数台借りてきて展示すればいいのに,この会社は,自社の望遠鏡にはリスべクトがないのでしょう。
それと比べて,カメラに関しては,そのほどんどのモノがずらりと並んでいました。さらに,レンズについても過去から現在まで,そのほとんどの製品が展示されていて,まさに壮観でした。しかし,会社が自社のカメラにリスペクトがあるとはいえ,実際には,この会社はFマウントのカメラ以外は常に失敗を繰り返しているのです。そして,評判の悪かったニコレックスのようなカメラは歴史からなかったことになっているし,ニコン1もまた,すでに触れてはならない失敗作。これもまた,この会社の遺伝子のなせる業でしょう。
それでも熱烈な愛好者に支えらた不思議なこの会社は,いつも,そうした愛好者の求めるものとは少しずつずれがあって,それがまた不器用でかわいらしいとも思えるのですが,このミュージアムの展示もまた,そこに来る人の求めている姿からはちょっとだけずれがあるのが,私にはきわめて興味深いことに思えました。
◇◇◇
「ニコンミュージアム」-この会社はどこへ向かうのか?①
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」④
●天文台のゲートが開かない●
☆5日目 2018年6月29日(金)
この旅の目的はパロマ天文台行くことであった。事前に調べてみると,パロマ天文台の口径5メートル大望遠鏡は年中無休で公開されているということだったので,行けば見られると思っていから,それ以上の情報を調べていなかった。そして,その後でロサンゼルスに戻ってその近くにあるウィルソン山天文台へも行こうと思っていた。この旅で国立公園とMLBの観戦はその付録であった。
そこで,私は今日の朝,もっとも行きたかったパロマ天文台に向けてホテルを出た。約1時間ほど走れば目的地に到着できそうであった。
パロマ天文台の口径5メートル余りの反射望遠鏡は,しばらくの間世界で最も口径の大きな望遠鏡であったから,星に興味がない人でもおそらくその写真を見たことがあろるだろう。しかし,私も含めて,どこにあるのかということまで知っている人は多くない。
私は子供のころにこの望遠鏡のことを知って,アメリカはなんとすごい国だろうかと思ったが,実際はアメリカがすごいのではなく,アメリカに住んでいる人がすごいのである。この望遠鏡はアメリカが国の予算で作ったのではなく,アメリカに住む金持ちロックフェラーの寄付で作ったのである。
パロマ天文台(Palomar Observatory)はサンディエゴから北東60マイル,約100キロメートルのところにあるパロマ山に作られた「私設」の天文台で,現在,天文台はカリフォルニア工科大学に所属している。
天文台には有名な口径200インチ(5.08メートル)通称「ヘール望遠鏡」(Hale Telescope)や,48インチ(1.22メートル)通称「サミュエル・オシン望遠鏡」(Samuel Oschin Telescope)などの施設がある。ヘール望遠鏡は天文学者ジョージ・ヘール(George Hale)の名前にちなんで命名された。この望遠鏡はロックフェラー財団から600万ドルの資金援助を得てカリフォルニア工科大学によって1948年に建設されたもので,エドウィン・ハッブルが完成当時世界最大だったこの望遠鏡を最初に使用し,百を越える小惑星を発見した。
サンディエゴから州道163を進み,パウマバレー(Pauma Valley)という新興住宅地を越えると,やがて山のくねくね道を進むようになった。
道路には天文台のマークがあって,いやが上にもムードが盛り上がってきた。道路が天文台に進む最終地点で道路の脇に「Close」と書かれた表示板があったが,それはおそらく天文台が公開される午前9時よりも早いという表示だと私は思った。
私は,この数か月前に長野県の木曽観測所にシュミット望遠鏡の見学に行ったが,このとき,木曽福島から木曽観測所に向かう狭い山道を思い出し,その差に愕然としたのだった。アメリカに行くと,施設だけでなく,こうした施設に向かう道路の整備だけでも,その金のかけ方の違いにいやになる。ハワイ島のマウナケアなどは,それに加えて,天文台の環境を守ろうという意識さえもが日本とはまったく異なっている。
本当に日本というはなさけない,かつ,貧しい国だと,改めて思うわけである。
やがて,山の間にドームが見えてきて,これが夢にまで見た天文台だと感激した。そうこうするうちに,天文台の入口に到着した。天文台の公開開始時間よりも30分も早かったので,私は入口に車を停めて,ゲートが開くのを楽しみに待った。
時折,天文台の職員が車で登って来ては,右側の関係者のゲートから中に入っていくようになった。彼らは私の車に手を振ってくれた。しかし,9時を過ぎて,いつまで待ってもゲートが開かなかった。
中で何やら工事をしている人がいたので,大声で叫んでゲートまで来てもらって訳を聞くと,今週は駐車場の工事だから公開はお休みだと言うではないか。こんなことってあるのだろうか! よほど無理を言ってせめて望遠鏡くらい見せてもらおうと思ったが,誰ももうゲートには来なかった。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」③
●デンバーのような都だった。●
私はアメリカに限らず,都会にはほとんど興味がないから,都会で何をしたらいいのかがよくわからない。ショッピングといったって,欲しいものがまったくない。それに,今は世界中どこに行っても売っているものはそれほど変わるわけでもない。
そもそも断捨離を心掛けてみると,「モノを買う=ゴミを作る」という行為であると思うようになった。したがって,サンディエゴのダウンタウンに出かけても,単に散歩をするくらいしか時間のつぶしようがないのだ。
食事もまた,栄養価がちゃんとあってお腹を満たせればいいと思うのだし,酒は飲まず興味もないから,レストラン巡りをする気もない。
空港では免税店が並んでいるけれど,一体全体,どうしてあんなものが売られていて,それを観光客がお土産とかで買っているのか,私にはまったく理解ができないのだ。
そんなわけで,私はわざわざサンディエコまでやってきて,しかも2泊したのだが,この町でやったのはMLBのゲームを見ただけであった。
いや,すでに書いたように,本当はちゃんとした目的があった。しかし,次回詳しく書くように,その目的が破たんしてしまったのだから,私のこの2泊はMLBを見たという以外に何も残らなかったのだった。
チェックインを済ませてホテルを出た私が大きな間違いをしていたのは,目指すサンディエゴ・パドレスの新しいホームグランドがホテルの近くにあると誤解していたことだった。私の持っていた地図にボールパークとあったから,私はそれが目的地であると思っていたのだが,行ってみたら,それは大学の野球場であった。
改めて調べなおすと,サンディエゴ・パドレスのペトコパークはホテルからは少し遠く,徒歩で20分くらいであった。それでも歩けない距離ではなかったので,私はダウンタウンを歩いて抜けて,ともかく明日のゲームを見る下見にと,ボールパークまで行ってみた。
この日はなにかしらの催しものをやっていて中に入ることはできなかったが,外観からしてボールパークは想像以上に立派であった。
前回来たときに行ったクアコロム・スタジアムというNFLと共有の古臭いボールパークはダウンタウンのはるか北にあって,車がなければ行くことができなかったが,2004年にホームグランドがダウンタウンに移ってきて,徒歩圏内になった。
それはそれでいいのだが,サンディエゴもまたアメリカのほかの都会と同じような感じになってしまった。アメリカの多くの都市は,再開発でそれまで治安の悪かったダウンタウンに商業施設が並び,そこにボールパークができる。それはセントルイスもミネアポリスも同じようなものだ。今回来てみて,サンディエコはデンバーそっくりだと思った。
ただし,サンディエゴにはホームレスがやたらと目についた。温暖な気候がそうさせるのであろう。しかし,このホームレスたちは恵まれていて,バルボアパークの一角にホームレスを支援するキャンプがあって,そこで食事が賄ってもらえるらしい。そこで,バルボアパークにホームレスが列を作っていた。
はじめてアメリカを訪れるのなら珍しい景色も,私には今や珍しくもなく,だから好奇心もなくなってしまったので,日本のどこにでもある都会を歩くようにしてこの町を歩いた。しかし,レストランに入ったところでさして大したものがあるわけでもなく,でも食事は高くさらにチップが必要だから,そうしたアメリカのシステムには飽き飽きしているので,今日もまた,適当なファーストフード店に入ってそれを夕食にしようと,ホテルの近くにあったバーガーキングでテイクアウトをした。
バーガーキングは日本にもあるハンバーガーチェーンだが,バーガーキングはたいして特徴のない店である。ハンバーガーが取り立てておいしいわけでもないし,変わった種類のものがあるわけでもない。フラドポテトもまた,あげたポテトに塩味がついているだけのものである。他に選択肢があれば私は入らない。客層もまたいいとはいえない。
食事は日本が一番とは思うが,それでも,考えてみれば,それほど変わったものががあるわけではない。さらに,今はどこもチェーン店になってしまっていて,そこに新たなチェーン店を進出させるには,既設店殿差別化を図る意味と採算性を考えて,やたらと値段が高いだけの店ができてきた。
初秋の小旅行2018-深大寺から国立天文台あたり④
この日は天気がよかったので,11月だというのに暑く,冷たいおそばがとてもよく合いました。
私の住む名古屋では麺を出すみせは「うどん屋」といいます。そして,うどん屋さんの売れ筋は味噌煮込みです。それに対して,東京では,そば専門店だけではなくうどんも供する店も店も「そば屋」と呼ぶようです。立ち食い店も多いし,そばと酒を楽しむような趣きもあるようです。
古くから,江戸ではそばもうどんも盛んに食べられていましたが,江戸時代には製麺技術が全国的に普及していなかったために,地方ではそばやうどんはハレの日のご馳走でした。
江戸時代中期以降になると,江戸ではそば切り,つまり,現在のようにそばを麺として切ることが流行して,うどんを軽んずる傾向が生じました。 江戸でうどんよりもそばが主流となった背景には,水質や出汁の原料,醤油の質,男女比や労働層,文化の特殊性などの要因以上に,栄養の多くを白米で摂取したことによるビタミン類の欠乏により生じる「江戸患い」とよばれた脚気をビタミンB1を多く含むそばを食べることで防止・改善できたことにもよるといわれす。
明治になると,そばを食べることに「粋」を見出すようになって,そばを食べることを「手繰る」と言うようになりました。
このように,江戸っ子のそばに対するこだわりは,
・・・・・・
・もりを食うときは蕎麦の先だけをつゆに浸して食べる。
・口に入れたらあまり噛まずに飲みこみ喉越しと鼻に通る香りを楽しむ。
・大きな入れ物にたっぷりとそばが入っているのは野暮であって,少なければ2,3枚食べる。
・箸は割り箸。塗箸は蕎麦が滑るので好まれない。
・酒を飲むのでなければさっさと食って引きあげるのが粋というもの。
・・・・・・
と書かれています。
そんな,そばこだわりのある江戸のなかでも,とりわけ深大寺そばは有名です。その由緒はいくつかありますが,江戸時代,土地が米の生産に向かなかったために小作人がそばを作ってそば粉を深大寺に献上しました。それを寺側がそばとして打ち来客をもてなしたのがはじまりといわれます。
深大寺の総本山である上野寛永寺の門主第五世公弁法親王はこのそばを非常に気に入っていて,「献上そば」でもありました。また,第三代将軍徳川家光は鷹狩りの際に深大寺に立ち寄ってそばを食べ褒めたとされています。
享保の改革時になると,地味の悪い土地でも育つそばの栽培が深大寺周辺で奨励されました。また,江戸時代後期には太田蜀山人が巡視中に深大寺そばを食してそれを宣伝すると知名度が上がり,文人や墨客にも愛されるようになりました。こうして名が広まり,生産が増えていきました。
やがて,1961年に開園した神代植物公園のために農地が譲渡されて,そば畑は姿を消しましたが,深大寺の参拝客に植物園来園者が加わって人通りが増えたことでそば店が増えていきました。
私は,国立天文台を出てぶらぶらと歩いて深大寺に行きました。この日の目的はおそばを食べることでしたが,特に味にこだわりがあったわけでないので,長蛇の列のできていた有名店はさけて,門前のお店に入ってそばを楽しみました。それでも私には十分に満足のいくものでした。
その後,神代植物公園で満開のバラを楽しんだ後,帰宅しました。
初秋の小旅行2018-深大寺から国立天文台あたり③
3週間前にも深大寺と国立天文台あたりを歩きましたが,この日は,国立天文台の太陽望遠鏡が特別公開されていることといつもお昼に来ないので食べることができなかった深大寺そばを食べようと,ふたたびやってきました。JR中央線の三鷹駅から歩くとけっこうな距離があるので,今回はバスに乗りました。
子供のころに読んだ星の図鑑に載っていた「東京天文台」は私の憧れでした。そのころの「東京天文台」のシンボル的な存在は65センチメートルの屈折望遠鏡と10メートルの赤道儀型電波望遠鏡,そして,太陽塔望遠鏡でした。前回書いたように,65センチメートルの屈折望遠鏡は今一般に公開されていますが,10メートルの電波望遠鏡は解体されてしまいました。
そして,太陽望遠鏡は薄暗い森の中に建物だけを見ることができます。その太陽望遠鏡の内部が公開されるということだったで行ってみたわけです。
このアインシュタイン塔とよばれる太陽望遠鏡は,1924年9月に東京天文台が麻布から三鷹に移転した際に整備された基幹望遠鏡のひとつで,東京帝国大学営繕課が設計,中村工務所が施工し,1930年(昭和5年)に完成したものだそうです。光学系は65センチメートルの屈折望遠鏡同様にカール・ツァイス製です。
高さ約20メートルの天辺のドームから入った太陽の光をドーム内の口径65センチメートル,焦点距離14.5センチメートルのシーロスタットという2枚の平面鏡に反射して垂直に取り込んで,半地下室に送ります。半地下室ではスリットとプリズムによりスペクトルとして分解された太陽光を写真乾板へと転写することで観測を行うという構造です。
建物の構造は鉄筋コンクリート造りで,地上5階,地下1階建てです。塔全体が望遠鏡の筒の役割を果たしていることから「塔望遠鏡」といわれています。ドイツ・ベルリン市郊外にあったポツダム天体物理観測所のアインシュタイン塔と同じ研究目的で造られたことから「アインシュタイン塔」ともよばれます。
当初はドイツ・ツァイス製だった2枚のガラス製の平面鏡は,1953年から1957年にかけて,日本光学製の熱膨張係数の小さな溶融水晶に,また,屈折望遠鏡は,日本光学製の色収差のない口径48センチメートル合成焦点距離22メートルのカセグレン式反射望遠鏡に改造されました。
また,2008年に発足したアーカイブ室の手により復活が行われて,2012年にはドームの改修と望遠鏡駆動機構の改修が行われ,焦点部に太陽像を結像しプリズム分光器によるスペクトルが見られるようになりました。この建物は国の登録有形文化財になっています。
この望遠鏡は,本来はアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論に基づいた太陽の重力によって光のスペクトルがわずかに長くなる現象(「アインシュタイン効果」といいます)を検出するために作成されたものですが,この程度の装置では実際にアインシュタイン効果を観測することはできませんでした。しかし,第二次世界大戦後に改良された光学系を用いて太陽の磁場の観測や太陽フレアの観測で大きな成果を挙げました。その他の往年の主な研究業績は,マグネシウム三重線の輪郭の研究,ドップラー効果による太陽自転の測定,太陽黒点のゼーマン効果,太陽黒点の分子スペクトルの研究などがあげられます。
古びた幽霊の出そうな建物を入って階段を5階まで上がっていくと,やがて屋上のドームの中に出ました。改修されたドームはアストロ光学製,シーロスタッドにはカールツアイスと日本光学製というメーカーの刻印が間近に見られてとても興味深いものでした。
晴れていれば太陽のスペクトルが見られるといくことですが,幸いこの日は快晴でした。公開日に晴れるのも珍しいのだそうです。そこには年代物の平面鏡が存在していて,係りの人がなんとか手動でシーロスタッドを動かして太陽を送り込もうとしていました。
手動でシーロスタッドを操作して太陽を入れるのにずいぶんと苦労されていましたが,なんとか成功しました。階下まで降りる途中で太陽からの光が,まさに望遠鏡の原理通りに送られているのを見ることはなかなか見られないので,興味深いものでした。こうして送られた太陽光によって階下でスペクトルを見ることができました。
この建物の奥に,たくさんの望遠鏡が保存されていました。聞いてみると,それらはかつて愛知県北設楽郡東栄町にあった金子天文台で使われたものだそうです。私は,今から40年も前,この金子天文台に行ったことがあり,金子さんともお話をしたので,とても懐かしくなりました。
こうして,往年の貴重な機材が今も保管されているのは喜ばしい限りですが,私は,この6月に行ったロスアンゼルス郊外のウィルソン山天文台の充実した保存状態を見てしまったので,それに比べると,お金もなく,ほそぼそと埃だらけの状態でしか,こうして保存ができないこの日本という国の貧困さを改めて認識するという結果になって,さびしく感じたことでした。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」②
●サンディエゴに来たわけは●
サンディエゴ(San Diego)はカリフォルニア州でロサンゼルスに次いで人口が多く,約130万人。ちなみに,ロスアンゼルスは約380万人である。
1542年にポルトガル生まれのスペインの探検家フアン・ロドリゲス・カブリージョ(Juan Rodríguez Cabrillo) ージュアン・ルドリゲシュ・カブリーリュ(João Rodrigues Cabrilho)ともいうー がスペイン船でロマ岬(Point Loma)に到着し,この地を「サン・ミゲル(San Miguel)と名づけた。1602年,植民地開拓に来たスペイン人のセバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)が「サン・ディエゴ・デ・アルカラ」の祭りの日に「サン・ミゲル」から「サン・ディエゴ」に町の名前を変更し,これ以来この都市の名前となった。
私はロサンゼルスには全く魅力を感じないが,サンディエゴはゆっくりと過ごしてもよい町だと思っている。この町のダウンタウンはデンバーやオレゴン州のポートランドなどと同じような,アメリカの大都市にしては歩いて観光ができるすてきな場所であるから,若き日の八神純子さんがほれ込むのも無理はない。
そしてまた,現在,アメリカの大都市はどこも宿泊代が高いが,私が予約したサンディエゴのダウンタウンのホテルは安価で,しかも,過ごしやすいところであった。
インターステイツを降りたところにそのホテルはあった。ホテルの前の道路は一方通行で,アクセスする方法が少しわかりにくかったが,それが逆に車が通らないというメリットとなっていた。
チェックインをして部屋にキャリーバッグを入れ,さっそく町に出てみた。
今回,サンディエゴに2泊したが,夕方に到着して出発の日は早朝なので,サンディエゴの滞在はその中日のわずか1日であった。私はその日にサンディエゴを観光する気持ちはなかった。今回,私がサンディエゴに来た理由は,パロマ天文台に行くためであったからだ。しかし,この,私がサンディエゴに来た理由は消滅してしまう。それは後で詳しく書くことになるが,パロマ天文台に行くことができなかったからである。
ただし,私がサンディエゴに来たのは,パロマ天文台に行くということに加えて,MLBサンディエゴ・パドレスの新しいボールパークに行ってみたいという理由もあった。
私が前回サンディエゴに来たのは7年前のことであった。このときもサンディエゴ・パドレスのゲームを見たが,そのとき行ったのは古いボールパークであった。
サンディエゴ・パドレスは1969年に創設された比較的新しいチームで,創設以来,クアルコム・スタジアム(Qualcomm Stadium)をホームグランドにしていた。このクアルコム・スタジアムはNFL(アメリカンフットボール)のサンディエゴ・チャージャーズと兼用する,クッキーカッター型の,コンクリート丸出しで代表的な不人気ボールパークであった。
そのときのゲームはサンディゴ・パドレスとニューヨーク・メッツが対戦し,ニューヨーク・メッツには新庄剛志選手がいた。そして,サンディエコ・パドレスではメジャーリーグを代表するセーブ投手のトレバー・ホフマン(Trevor William Hoffman)が登板した。
今から思えばよき昔のことである。
「文庫解説ワンダーランド」-では斎藤奈美子さんは?
岩波新書の「文庫解説ワンダーランド」を読みました。著者の斎藤奈美子さんは私と同い年の人で,朝日新聞の書評委員をやっていたとき,書評がとても面白く,また,朝日新聞の文芸時評を担当していたときも,楽しく読んだ記憶があります。
この本は,文庫の後づけに書いてある解説に目をつけ,その解説を批評して楽しんじゃおうという内容の本で,相変わらず,辛らつなその書きっぷりに,私は,全く飽きることもなく読み進むことができました。
上野千鶴子さんよりもひと回り近く若い人ですが,こうした文才に長けた頭のいい女性の文章というのは,えてして読者をけむに巻き,快感に浸らせ,そしてまた,決して飽きさせません。しかし,私もそれなりに歳をとり,時には助けられ,また,あるときは裏切られた,そんな経験が豊富になると,こうした優秀な女性に対して,敬意とともに,恐れをいだきます。お会いしたこともないし将来もお会いすることもないので迂闊なことは言えませんが,文章を読んでいる限りは共感をし好意をもっても,いざお会いして話でもすれば,たちどころに大嫌いになる,そんな人なのかもしれません。
いずれにしても,そんなあり得ない話はよしとしましょう。
この本に書かれているのは,ほとんどの文庫本の末尾にある「解説」を批評するという「禁じ手」を確信犯として行ったものです。私は文庫本を読んでも -いや,今はめったに読まないのですが- 解説など読んだこともないので,解説はあってもなくてもどうでもよいのですが,そんな刺身のつまのようなものまでも批評されては,出版社も,そして,アルバイト気分で気楽にそれを書いた人もたまりますまい。
ということで,私は,直接それに対して意見を書くこともできないので,話を間接的にしてごまかします。
私に思い当たるのは,クラシック音楽を聴きにいったときにもらえるパンフレットに書かれた演奏家や曲の解説です。これもまた,知らない演奏家や曲を聴くときにずいぶんと助けになります。しかし,時には,白紙で聴いたほうがよいのに,事前にそれを読むことで必要のない先入観を抱いてしまう危険性があります。とここまで書いて,文庫本の解説は読むとしても実際に本を読んだ後であるのに対して,演奏会のそれは聴く前に読むことが多いということに気づきました。同じ解説といってもずいぶんと性格が異なるものです。ならば,文庫本も,特に古典などは,本文の前に解説があってもよさそうな気がしてきました。それに対して,通常の小説などの場合に書かれてあるのは,解説ではなく,それは単なる名の通った人の読書感想文,つまり,私はあんたより深く読んでいるんだよよく知っているんだよ,といった類の自慢話なのです。
NHKFMで生放送されているN響定期公演の曲の前後の解説は,解説者によってずいぶんと性格が異なっているので,それぞれ好き嫌いはあるのでしょうが,あれほど知的でかつためになる存在はなく,私もそれを聞くと賢くなった気さえするのに対して,文庫本の解説にそうした気持ちをいだかないのも,そう考えると納得のいく話です。なので,この本は,そうした自慢話をけちょんけちょんにしているからおもしろいわけです。
音楽の解説とは異なり,文学の解説というのは,文字というものに対してそれをまた文字で語るものだから,それこそ,私がいつもここに書いているように「言葉に酔っているだけ」の粋をでることはできないのです。だから齋藤奈美子さんはずるいのです。そうした文章を書けば受ける(=本が売れる)ということを知っていて,あえて喧嘩を仕掛けているからです。
以前,私が現職だったときに,職場にとんでもない上司がいました。彼は何事もダメ出しをしけなし,そして,どこがいけないかと聞くと,自分で考えろと突っぱねるわけです。よくある典型的な愚かな上司の手口です。あのやり方を使えば,次に相手がどう出てこようと,その出方次第で再びすべてをけなすことができるわけで,それはよい仕事をすることが目的ではなく,自分を偉ぶって見せているだけなのです。つまり,これはパワハラ以外の何ものでもなく,そうすることで,自分の「ありもしない」権威とか威厳を保とうとしているだけなのです。
この本もまたそれに似ています。だって,この本で斎藤奈美子さんは,どういう解説が優れているかとか,解説はどういうものであるべきかといった自分の考えは書かず,単に上から目線で,既成の解説をけなしにかかっているからです。賢い著者はこれもまた計算づくのことで,おそらく確信犯なのでしょう。
いずれにせよ,ここ数年で時代は完全に変わりました。今や,紙媒体の新聞を読み,現金で買い物をし,権威やら地位に価値観をもつという,そうしたすべては,完全に時代おくれとなりました。しかし,世の中には,そうした変化についていくことのできない哀れなおじさんおばさんが依然としてたくさんいるわけです。
この本は,そうした時代遅れの価値観を引きずっているということが最大の悲劇です。今やもう,言葉に酔ってモノを書いたところで,そんなものに興味をもたない若者たちが,この人工知能の時代を謳歌しはじめているからです。将棋界に「(古い考えの従来の)ヤグラ(戦法)は死んだ」と叫んだある有望若手棋士がいましたが,それと同様に,もはや「文学も死んだ」からです。
インテリが言葉遊びに酔って,自分の賢さをアピールするような時代はすでに遠い昔のこと。これでは本が売れるはずがありませんから,文庫本の解説自体,もはやなんの意味ももたないのです。そしてまた,たとえ本を読んだとしても,そのあとでさらに文庫本の末尾のお粗末な解説など読まずとも,作品の解説も感想も批評も,そんなものはネット上にごろごろあるのです。
2018夏アメリカ旅行記-「サンディエゴ・サンセット」①
●アメリカは人も車も多すぎる。●
ドジャースがリードしたまま,クレイトン・エドワード・カーショウ投手は5回で降板した。このままいけば勝利投手であった。これでお勤めご苦労さんといった平凡なゲームであった。
最後までゲームを見届ければ帰るときに駐車場はごった返すし,私はこのあとサンディエゴまで行かなければならないので,いつものように,7回表まで見て,7thイニングストレッチが終わったところでボールパークを後にしたが,後で知ったことには,このゲームは終盤にドジャースは大逆転を食らって負けた。
ドジャースタジアムからはすぐにインターステイツに入ることができる。ロサンゼルスからサンディエコまではインターステイツ5を南に向かって走るだけだった。私は以前走ったときの印象から,このロサンゼルスからサンディエゴまではやたらと車が多いだけでまったく面白みのない道路だということしか印象になかった。
八神純子さんに「サンディエゴサンセット」という歌がある。
・・・・・・
ハッピーエンドの映画のように
あなたと旅に出たけど
こんなに遠くまで来たのは
彼女を忘れるためなのね
どうぞ触れてみて
あなたを愛するこの髪に
夢のサンディエゴ哀しいほど
あなたが好きなの
夢のサンディエゴサンセット今だけは
私を見つめて
・・・・・・
から歌詞がはじまる。
彼女は若いころアメリカに憧れ,こうした「アメリカ大好き」曲をたくさん作った。そして,念願かなって結婚してアメリカに住んだが,子育てが終わったら,再び日本で活動を再開した。
これは私の推測だが,彼女は若き日の夢から醒めてしまって,今や,日本のほうが好きなのだろうと思う。それとは違うかも知らないが,私は(も)アメリカ50州を制覇したら,アメリカには夢も興味もなくなった。だから,今はアメリカに住んでいる人をまったく羨ましいとも思わないし,住みたいとも思わない。
確かに40年くらい前のアメリカには夢がたくさんあった。それは自分が若かったことも多分にあるのだろうが,しかし,当時に比べて,今のアメリカは人も車も多すぎるし,やたらとセキュリティにうるさくピリピリしている。それでも,のどかなロッキー山脈のふもとならまだましだが,大都会なんて御免である。
ロサンゼルスからサンディエゴまではこのときもまた慢性的な渋滞であった。渋滞の一番の原因は,ロサンゼルスの市内から郊外に出るまでの間,インターステイツ5の車線が少ないということであった。一旦郊外に出れば少なくても片側6車線,多いところは8車線もあるのに,ロサンゼルス近郊は3車線しかない。やっと今,それを拡張する工事をしていた。車線が少ないことに加えて,工事中というのもまた渋滞に輪をかけていた。
渋滞の中を延々と走っていや気がさしてきたころ,やっと,左手に,テレビで大谷翔平選手が活躍するのを日本で頻繁に見るロサンゼルス・エンジェルスの本拠地「エンジェルス・スタジアム・オブ・アナハイム」(Angels Atadium of Anaheim)が見えてきた。このあたりはディズニーランドもあるオレンジ郡とよばれるところだ。昔はのどかな田舎であったはずだが,今はここもまた一大リゾートタウンだ。
やがて,やっと車線が増えて,車も順調に走ることができるようになってきたら,そのうちにサンディエゴの摩天楼が遠くに見えてきた。そうしたら,ふたたび道路が渋滞しはじめた。
何度でも書くが,いまやアメリカは車の洪水である。もう,この国は完全な飽和状態だと言っても過言でない。
◇◇◇
ニューヨークの想い②-貧しきものよ,この国においで。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑧
●われらが英雄「ヒデ~オ,ヒデ~~オ」●
ロサンゼルス・ドジャーズといえば,野茂英雄投手を忘れることはできない。野茂英雄投手がいなければ松井秀樹選手もイチロー選手も大谷翔平選手もいない。彼はMLB日本人選手の高見山関である。
今でもドジャースタジアムにはこの野茂英雄投手の足跡を見ることができるが,これは,シアトルのセイフコフィールドにイチロー選手の足跡を見ることがでできるのと同様に,私にはとてもうれしいことである。
野茂英雄投手は大阪市出身。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産した。現在はサンディエゴ・パドレスのアドバイザーをしている。
日本のプロ野球,近鉄バッファローズに所属していた1994年の契約更改で,数年契約と代理人交渉制度を希望したが,球団はそれを拒否し,この際に「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放たれたという。そして,球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限りトレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとまでした。さらに,同じ投手出身の監督であった鈴木啓示との確執もあり,野茂英雄投手は近鉄を退団し,メジャーリーグに挑戦した。当時,任意引退による球団の保有権は外国の球団にまでは及ばなかったことから,メジャー球団と契約することが可能だったのだ。
ただし,当時,日本では野茂英雄投手はまさに「国賊」的な扱いを受けた。日本らしい話である。
野茂英雄投手は,1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。年俸は近鉄時代の1億4,000万円からわずか980万円になった。そして,5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし,村上雅則投手以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
この年のシーズンは13勝6敗を記録した。そして,最多奪三振のタイトルを獲得し,チームの7年ぶりの地区優勝に貢献し,アメリカで「NOMOマニア」という言葉が生まれる程の人気を誇った。
NHKでは,野茂英雄投手が現役のときは特別扱いをし,登板のときは必ず放送してそれに報いたが,日本の野球界は最後まで冷淡な扱いをしている。
この日のドジャースの先発はクレイトン・エドワード・カーショウ(Clayton Edward Kershaw)投手であった。クレイトン・エドワード・カーショウ投手はテキサス州ダラス出身で,ロサンゼルス・ドジャースの押しも押されぬエースである。
2011年には最多勝利,最優秀防御率,最多奪三振の投手三冠を獲得した。また,2014年にはシーズンMVPに輝き,通算で3度サイ・ヤング賞を受賞している。
オーバースローから常時93マイル,約150キロ前後のフォーシームと80マイル,約140キロの切れ味鋭いスライダーが投球の8割超を占め,そこに縦に大きく割れる70マイル,約110キロのカーブを織り交ぜる。私は,この日の先発がこの大投手であったことに満足した。
この旅を計画したとき,大谷翔平投手の入団先は決まっていなかった。やがて,ロサンゼルス・エンジェルスに決まったとき,私はその幸運に驚いた。そして,この旅で大谷翔平投手を見ることができることを楽しみにした。ところがどうであろう,この旅行期間中,エンジェルスは地元を離れていて,私にはそれがかなわなかった。そこで,ドジャーズのゲームを見ることになったのだが,それが幸いして大投手カーショーを見る機会に恵まれたのだった。まあ,大谷翔平選手はまだ若いから,あせらずとも近い将来見ることができるであろう。
「のだめ」の音楽-N響定期公演を聴く。
11月9日,N響第1897回定期公演を聴いてきました。おそらくこのコンサートだけなら聴きに行かなかったと思うのですが,私は,今回9月から11月まで3回の定期会員になったので出かけたのです。
この日のコンサートは,指揮者がジャナンドレア・ノセダさんで,曲目はラヴェルのピアノ協奏曲とプロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」(抜粋)でした。ジャナンドレア・ノセダさんはよい指揮者ですが,私には想い入れはありません。
私はプロコフィエフはよく聴きますが,「ロミオオとジュリエット」は好みでありません。どうも私は,こうした物語的な作品には興味がなく,この曲に限らず,バレイ音楽やR・シュトラウスもドビッシーの交響詩もだめです。
今回のプログラムで楽しみだったのは,ラベルを弾くアリス・紗良・オットさんのほうでした。
アリス・紗良・オット(Alice Sara Ott )さんは1988年に ドイツ・ミュンヘン生まれで,父親がドイツ人,母親が日本人という女性ピアニストです。
後で家に帰ってから調べてみると,彼女は以下のルールをもっているのだそうです。それは,
・本番前はルービックキューブ。
・ステージの上では裸足。
・家でクラシックは聴かない。
・買い物はインターネットで。
・ウイスキーはストレート。
・待ち時間は極力作らない。
・練習するより経験する。
なかなかおもしろい人です。私の席は遠いので見られないかったけれど,ステージ上では裸足ということなので,今度Eテレで放送されるときはしっかりと見なければ,と思いました。
私は,ラベルやリスト,プロコフィエフなどロマン派の作曲家のピアノ協奏曲は嫌いでなく,というより,好きなのですが,好きとは言ってもなかなか曲と題名が一致しないといういい加減な愛好者です。それでもライブで聴いた回数は決して少なくありません。
しかし,この日は,ラベルの演奏にも増して,プログラムの後で演奏されたアンコールの2曲がとりわけすばらしいものでした。その2曲というのは,サティのグノシエンヌ第1番とショパンのワルツイ短調でした。聞くところによると,翌日の演奏会でのアンコールはサティのジムノペティ第1番だったそうなので,この日に2曲聴くことができたのは幸運でした。
どうやら,このピアニストはサティのような曲がお気に入りのようでした。しかもとてもすてきで,心に染みて,私はこれを聴くことができただけでも満足でした。
この日の演奏会は予想に反して結構混んでいました。私の席のまわりには高校生がたくさんいて,ちゃんと聴くのかなあ,と不安がよぎりましたが,そんな予想に反して,とても行儀のよい生徒さんたちでした。考えてみれは,この日の曲目はみな「のだめカンタービレ」で流れた曲です。その影響もあったのでしょうか?
私は,昔とは違って,コンサートをストイックに聴くことは卒業して,今は,後ろのほうの席で気兼ねなく楽しむことをよしとするようになりました。美術展も混雑したところに出かけてまで,そして入場を並んでまでして見ようとは思わなくなってしまいました。それは,せっかく俗社会のわずらわしさから離れる楽しみを。そうした俗的なことで奪われたくないからです。
その点,この,決して音はよくないけれど,駄々広いNHKホールの2階席でのんびりとコンサートを味わうのは,私には殊のほか楽しい時間になるのです。
やっと晴れたか?秋2018⑤-日本人の発見した新彗星
5年ぶりに日本人アマチュア天文家が彗星を発見しました。
11月8日。まず,香川県の藤川繁久さんが午前4時45分ごろ,そして,徳島県の岩本雅之さんがその30分後の午前5時11分ごろに彗星状の天体の発見を報告しました。
この新天体は,アメリカ・カリフォルニア州のD・E・マックホルツ(Donald Edward Machholz) さんが前日の午後9時45分に発見した天体と同一であることがわかり,新彗星と確認され「マックホルツ・藤川・岩本彗星」(C/2018V1 Machholz-Fujikawa-Iwamoto)となりました。
藤川さんも岩本さんもマクホルツさんも有名な人で,これまで多くの彗星や新星,小惑星などの新天体を発見してきたベテランです。
1960年代,「月刊天文ガイド」の創刊と池谷・関彗星の地球接近が重なったことで,アマチュア天文家による彗星捜索がブームになりました。今でもその流れで彗星を捜索しているのはそのころから続いている年配の人で,今の若者はこんなことには興味はありません。
趣味など人それぞれですが,こんな非効率な楽しみを今でも続けていることに,私は驚きを覚えます。というのも,地球に天体が衝突するのを避けるために,今は世界中の大型望遠鏡による大規模捜索で,こうした天体のほとんどすべては暗いうちに発見されてしまうからで,昔ながらの彗星捜索での発見はほぼ不可能なのです。それでも,稀にこうした「目こぼし」があるのが不思議ですが,こんな「目こぼし」をしていて地球の危機が救えるのかしら? と私は逆に危機感をもちました。
この新彗星の位置予報がわかったのですが,それは1週間もすると太陽に近づいて見えなくなってしまうというものだったので,私は,天気予報を見て晴れそうだった14日の早朝,急いで写真を写しに出かけました。前日の夕刻は曇っていたのに予報通り晴れ渡って,しかもとても空気が澄んでいて,地平線近くまで星がきれいに見えたので,地平線近くのおとめ座の星々も肉眼でよく見えて,彗星もすぐに見つかりました。写真に撮ると彗星特有の緑色をした美しい彗星が,そのとなりに銀河NGC4753とともに写りました=1番目の写真。
この彗星は次第に高度を下げていくので,11月20日ごろまで明け方の東の低空,おとめ座に見えて,7等星ほどまで明るくなるのですが,その後は太陽に接近し見られなくなります。太陽を回ったあとは夕方の西の空に現れるのですが,地平線低いのでおそらく見られません。私はこの日写すことができて幸いでした。
先週出かけた木曽で彗星をふたつ写したときに,すっかり忘れてしまっていたもうひとつの周期彗星がありました。それが「スイフト・ゲーレルス周期彗星」(64P Swift-Gehrels)で,アンドロメダ座にいました。そのときに写してきた写真をあとで調べてみたら,偶然写したアンドロメダ座銀河M31とさんかく座の銀河M33の写真に写っていました=2番目の写真 が,これでは米粒なので,この晩,改めてこの彗星も写してみました=3番目の写真。
慌てて出かけたので,わずか30分ほどの滞在ですぐに帰宅しましたが,こうして,早朝にふたつもかわいくて美しい彗星を写すことができて幸せでした。いよいよ来月はウィルタネン彗星の明るくなった姿が見られそうです。
中山道を歩く-山並みの美しい秋の奈良井宿③
奈良井宿を出て,木曽福島まで戻ることにしました。
国道19号を走っていくと,宮ノ越に着きました。いつもそのまま通り過ぎるので,一度くらいはと思って,そこで国道を降りて,町に入りました。
宮ノ越宿は旧中山道36番目の宿場だったところですが,旧街沿いの街並みには当時の面影はほとんどなく,道だけが街道のころの名残をとどめ,そこが舗装されて車道となり,周りの住居が建て直されたというどこにでもある町でした。ただ,当時の本陣跡には立派な建物が再現されていました。江戸時代,宮ノ越宿の宿内家数は137軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が21軒あって,宿内人口は約600人であったということです。
宮ノ越宿は,宿場関連の史跡よりもむしろ木曽義仲関連の史跡が多いところです。義仲館という博物館があったので,訪ねてみました。義仲館というのは,木曽義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介したもので,入口に義仲・巴御前の銅像が建っていました。
木曽義仲といわれる源義仲は平安時代末期の信濃源氏の武将です。河内源氏の一族である源義賢の次男で,源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。
以仁王の令旨によって挙兵し,都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京しました。飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたのですが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などによって後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢によって粟津の戦いで討たれました。
私たちの年代では,歴史の教科書というよりも,むしろ,古典の教科書のほうで習った「平家物語」で有名だったりします。
宮ノ越宿は木曽義仲頼みで観光客を誘致しようとしているのはよくわかるのですが,奈良井宿などに比べたらまったく宿場の風情がないので,ほとんど観光客はいませんでした。義仲館もおそらくはずいぶんとお金をかけて維持しているのでしょうが,なかなかその苦労が実っていないのがしのばれました。
日本にはこうした観光地が各地にみられますが,結局のところ,博物館頼みでは観光客は来ません。そこに必要なのは昔の風情とおいしい食べ物なのです。
その後,紅葉がきれいだと聞いた開田高原に寄り道しました。確かに美しい紅葉が広がっていました。さらに,ススキ野原が心を癒しました。ただし,この日は御岳に雲がかかっていて,山頂付近が見えませんでした。
前回来たときは,前夜は雨で星は見えなかったのに,翌日は晴れわたり,雲ひとつなくはっきりと御岳が見えました。本当に観光というのは天気次第だと痛感しました。
それでも,こんなのどかな場所が私の住んでいる近くにあるというのがとても不思議な気がしました。
これで宿泊先のペンションに帰ろうと思ったのですが,せっかくここまで来たので御岳ロープウェイの乗り場まで行ってみようと気が変わりました。私はこれまで御岳のロープウェイは乗ったことがありませんでした。
乗り場は思ったよりも遠く,山道を延々と走っていくと午後4時少し前にやっとロープウェイの乗り場に到着しました。まだ乗れるかと聞くと,帰りの最終が4時15分とのこと,そして,山頂駅まで15分かかるので,着いたらすぐに降りる必要があるという話でしたが,せっかく来たので乗ることにしました。ロープウェイの車内からの景色がとてもよかったので,単に登っておりるだけだったけれど,それでも満足しました。私がこの日の最後の乗客でした。
翌日帰宅しました。
こうして,今回の木曽路の旅は,星も紅葉もすべて思った以上に素晴らしいものになりました。家からも近いので,これからも機会があれば何度でも足を運びたいものです。こんどはもっと時間をとって御岳ロープウェイにも乗ってみたいと思いました。
中山道を歩く-山並みの美しい秋の奈良井宿②
奈良宿にはおいしい昼食を食べることができるお店がたくさんあります。また,奈良井宿の東側を流れる奈良井川には木曽の大橋がかかり,そこには観光用の駐車場と売店や喫茶店などがあります。
私のお気に入りは,「深山」というカフェで,そこでは,百年前のレシピを再現したというカレーライスを食べることができます。この日もそれを食べるのを楽しみしていました。やっているかなと思って,JRのアンダーパスを越えて行ってみるとお店は開いていました。
ここの百年前のカレーというのは,明治36年に発行された「家庭之友」に掲載された「ライスカレー」のレシピを再現したというものです。このカレーは仕込みに5日間もかかるそうです。
カレーは明治時代から日本で作られた記録が残っていて,100年前の旧オリエンタルホテルのカレーを再現した「100年前のビーフカレー」とかいうレトルト食品も市販されています。
このカフェに手作りのパンフレットが置かれていました。それは,こちらに移住してお子さんを木曽楢川小学校に通わせてみませんか? というものでした。この小学校はたった75人なのだそうです。
食後,再び奈良井宿に戻って,気の向くまま散策しました。
やがて,おやつに時間になったので,どこかないかとさがして,「こてまり」という喫茶店に入りました。「こてまり」は築200年になる民家を改造した喫茶店だそうで,コーヒーと自家製のケーキを楽しみました。
この喫茶店は2階にも座席があるのですが,1階にあったのは2席で,もうひとつの席には外国人,といっても西洋人の夫婦が座って,ケーキを楽しんでいました。どこから来たのですかと聞くとHolland とのことでした。オランダでしょうか。彼ら同士の会話はおそらくオランダ語で,私には全くわかりませんでしたが,私とは英語で会話ができました。
近頃は,日本に限らずどこへ行っても外国人だらけです。私だって外国に行けば外国人です。その多くの人はその町に溶け込んで楽しんでしますが,中には見るに堪えない人も少なくなくて,そういう姿にすっかり気持ちが落ち込んだりします。わざわざ観光に出かけてそんな不快な気持ちを味わいたくもないので,自然と観光地から足が遠のきます。
先日行った白川郷がまさにそうでした。京都や奈良も,昔のような風情はまったくなくなってしまいました。そんなこんなで,なかなか日本の秋の風情を楽しむことができる場所もないのですが,奈良井というところは落ち着いたよいところでした。ここはJRで行くこともできるので,今度はもっと寒くなったときに電車で訪ねてみたいものだと思ったことでした。
奈良井の宿場を出て北にJRの駅をすぎると,旧中山道は現在の道路を離れて,左手の坂を登っていくようになります。そこにあったのが,昔の杉並木と八幡宮,そして,二百地蔵でした。ここを歩いていくと塩尻に向かうことになります。
また機会を見つけて,次回は中山道を歩いてみたいものだと思いました。
中山道を歩く-山並みの美しい秋の奈良井宿①
奈良井宿は江戸時代,中山道34番目の宿場でした。楢川村,現在の塩尻市の奈良井川上流に位置する標高900メートルの河岸段丘下位面に発達した集落で,「木曽路十一宿」の中では最も標高が高い場所です。
「木曽路十一宿」とは旧中山道のうち急峻な木曽谷を通る街道=木曽路にある11の宿場町の総称で,贄川宿,奈良井宿,藪原宿,宮ノ越宿,福島宿,上松宿,須原宿,野尻宿,三留野宿,妻籠宿,馬籠宿をいいます。
奈良井宿は,江戸時代,難所の鳥居峠を控えて多くの旅人で栄え「奈良井千軒」といわれました。宿場は下町,中町,上町に分かれていて,中町と上町の間に「鍵の手」というクランクがあります。江戸時代は,宿内家数は409軒で本陣1軒と脇本陣1軒,そして旅籠が5軒あって,人口は約2千人でした。
現在,奈良井宿は,重要伝統的建造物群保存地区として当時の町並みが再現され,保存されていて,とても美しいところです。電柱や自動販売機を移設し,郵便局,消防詰所,奈良井会館なども景観に合わせた建築にするなどの工夫をして,当時の面影を醸し出しています。また,民家の切妻平入の屋根は10分の3勾配の長尺鉄板葺で,濃茶色を使用することが条例で規定されているということです。
今の姿は江戸時代のままでなく,おそらくは一旦寂れたものを工夫して再現することに成功したのでしょう。こうした姿を維持することはずいぶんと苦労があるのだと思いますが,何度足を運んでもとても落ち着くところで,私はこの奈良井宿が大好きです。
今回,木曽福島に星を見に行った折に,2日目のお昼間,奈良井宿に行くのを楽しみにしていました。
木曽福島から国道19号を20キロメートル,約20分走っていくと,左手,奈良井川の反対岸を走るJRの線路の向こうに奈良井宿が見えてきます。
私は,国道19号を,一旦左手の奈良井宿を通り越したあと,左折して橋を渡りJRの踏切を越えて,JRの奈良井駅に着きました。この駅前の駐車場は朝なら空いているので,そこに車を停めて,奈良井宿を散策することにしました。駅から南に歩いていけば,奈良井宿をすべて見ることができます。
私のささやかな楽しみのひとつである旧街道歩き,東海道に続いて中山道を歩きはじめたのですが,今回は宿場間を歩くのではなく,単に奈良井宿のなかを散策しただけでしたが,運よく,とても天気がよい日で,しかも,紅葉まっさかりということで,最高の行楽日和になりました。それに加えて,何といっても,ここは観光客,とくにうるさいだけの某国の外国人が少なく,のどかな秋の一日を満喫することができました。
この奈良井宿のように,昔の面影を残す宿場は旧街道にはいくつかあるのですが,私の知る限り,旧東海道の関宿とこの旧中山道の奈良井宿が最高です。なかでも奈良井宿は宿場の風景とともに,遠くに見られる山並みが美しく,その山並みの借景が旅情をさらに高めます。
この日私は,まず,当時の民家のなかで公開されている上問屋史料館と元櫛問屋の中村邸を見学しました。
江戸時代,宿場に常備されていた伝馬と人足を管理運営していたのが「問屋」というところで,この上問屋は江戸時代にわたって問屋と庄屋を兼務していたところだそうです。
また,中村邸は,江戸時代の終わり小悪露,塗櫛問屋として栄えた中村屋の建物が公開されているものです。この民家の保存をきっかけとして奈良井宿の保存運動がはじまったそうです。
現在,奈良井宿には本陣も脇本陣も残っていませんが,奈良井宿は約1キロメートルにも及び,その中には多くのお店屋さんがあって,とてもいい雰囲気です。
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中山道を歩く-奈良井宿「女性たちよ,よき人生を」
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑦
●時代遅れのボールパーク●
日本人の多く住むロサンゼルスは日本からの観光客も多いので,生れてはじめてメジャーリーグを見るためにこのドジャースタジアムを訪れた人もかなりいると思うが,ここは意外と不便な場所で,個人で行くにはレンタカーがないと難しい。私がはじめてアメリカへ行ったのは今から38年前のロサンゼルスとサンフランシスコへのツアー旅行だったが,そのときは,ドジャースタジアムでゲームを観戦する高価なオプショナルツアーに参加した。
ドジャースタジアムは,そのころはできたばかりで立派なボール―パークだったが,今では「竹」レベルのボールパークとなってしまった。前回書いたように,現在の「松」レベルのボールパークの多くは大都市のダウンタウンにあって,大概はホテルから徒歩圏内である。あるいは,地下鉄などの公共交通で容易にアクセスできる。ドジャースタジアムのような,広い駐車場をもつモータリゼーション頼みのボールパークは,アメリカでは今や時代遅れなのだ。しかも,車以外で行けないのにもかかわらず駐車料金がかなり高いとなると,チケット代がその分だけ割高ということになってしまう。
1958年にドジャースがニューヨークのブルックリンからロサンゼルスに移動し,1962年にドジャースタジアムを建設したとき,この場所は荒地で,メキシコ人の集落があっただけだった。その場所にドジャースは「永遠のホーム」を完成させた。かつて,ウォルター・オマリー(Walter Francis O'Malley)オーナーが存命の時代は接客サービスを徹底させて人気になったがやがて低迷期が続いた。
現在の「松」クラスのボールパークに比べて設計が古く,ファールグランドが広かったので,2000年に大掛かりな改修工事が行われ,ファールグランドを狭くしてその場所にスタンド「ダッグアウトクラブ」を増設したことで,グランドの形態だけは新しい形のボールパークとなった。
しかし,私ががっかりしたのは,イスが汚く鳥の糞に汚れたままだったし,開始前というのに掃除が行き届いていないので,客席の下はすでにゴミだらけだった。これまでに私が行った多くのボールパークのなかでここは最悪であった。
グランドの周囲を歩いてみたが,ここもまた,カンザスシティのカウフマン・スタジアムと同じように,古くささはかくせなかった。ただし,カウフマンスタジアムよりマシだったのは,どの席でもフリーWifiが通じることであった。
食べ物はそれなりにいろんなものを売っていて,ハワイアンもイタリアンもあったが,日本食はなかった。
ボールパークに限ることでないが,このごろのアメリカは日本の影が薄い。というより,日本は世界の中で極めてマイナーな国になってしまったと痛感する。以前はテレビやオーディオ,そして車などの工業製品は日本製品ばかりだったが,いまや車以外には見る影もない。カメラは未だに日本製品ばかりだが,プロのカメラマン以外はスマホばかりになってしまって,カメラ自体を持っている人もほとんどいなくなった。
ここの食べ物の名物は「ドジャードッグ」というホットドッグだ。私はここでもホットドッグではなく,ハンバーガーを食べることにしたのだが,ここのハンバーガーは意外とおいしかった。
2016年,ドジャースタジアム近くの通りの名称が「ビン・スカリー通り」(Vin Scully)と改名された。ビン・スカリー氏は1950年からドジャースの専属実況アナウンサーとして活動し,2016年に引退した。1996年,野茂英雄投手のノーヒットノーランでも実況を担当した。 決まり文句や絶叫に頼らず,大記録達成時には歓声や拍手を聴かせるため沈黙に徹する手法が特徴で「20世紀で最も偉大なスポーツ・アナウンサー」「ドジャースの声」「ロサンゼルスの声」といわれた。
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You and I have been friends for a long time, but I know in my heart that I've always needed you more than you've ever needed me, and I'll miss our time together more than I can say. But you know what? There will be a new day and eventually a new year. And when the upcoming winter gives way to spring, rest assured, once again it will be "time for Dodger baseball." So this is Vin Scully wishing you a very pleasant good afternoon, wherever you may be.
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また,2017年4月にはデビュー70周年を記念してジャッキー・ロビンソン選手の銅像が建てられた。このボールパークの見ものというのはそれくらいのモノしかなかった。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑥
●ジャッキー・ロビンソン選手の銅像●
私がはじめてメジャーリーグベースボールを見たのは38年前のことで,それはこのドジャースタジアムだった。当時はドジャースタジアムはロサンゼルスのダウンタウンからはずいぶんと遠い郊外にあったような気がした。
2度目にドジャースタジアムに来たのは18年前の5月であった。そのころのドジャースは弱く,球場もぼろく,客席はガラガラであった。しかし,私がダウンタウンから遠いと思っていたのは誤解で,チャイナタウンからすぐの場所であるのに驚いた。ドジャースタジアムは有名な割に日本からの観光客にはアクセスが困難なボールパークで,観光客は結構高価なオプショナルツアーで来るか,レンタカーを借りて来る必要がある。わざわざゲームを見るだけのためにレンタカーを借りてやって来た日本人の若者と出会ったのもこのときだった。
あれから月日が経って,ドジャースは強くなった。ドジャースタジアム自体は場所も外形も変わっていなかったが,ボールパークの内部はずいぶんとリニューアルされたので,一度来てみたかった場所であった。
インターステイツ15をロサンゼルスに向かって走ってきて,ドジャースタジアムの道路標示にしたがってジャンクションを降りると,すぐにスタジアムの外周道路に出た。
ドジャースタジアムのまわりには広大な駐車場がある。以前は無料であったが,今回来てみると駐車場の入口にゲートがあって有料に変わっていてびっくりした。ドジャースよ,お前もか,という感じであった。
今とは違ってメジャーリーグが斜陽だったころはチケットも安く、何かしら退廃的なムードが漂っていて,私にはおもしろかったが,このごろは高級なレジャーに様ざわりしてしまった。チケットもその頃の何倍にも高くなって,5,000円出しても内野の上段か外野の席しか買うことができなくなった。約100年前に建てられたままのボストンとシカゴ以外はどこのボールパークも新しくなって豪華にはなったが,どこへ行ってもあまり変わりがえがなくなって,あえて行ってみたいと思うところが少なくなった。プレイヤーも小粒になってあえて見たいという選手が少なくなった。
この日のチケットは持っていなかったが,購入できないほど混んでいるとも思えなかったので,私は安くない駐車料金を払って車を停めて,チケットを買いに行った。
窓口でいくらぐらいのチケットが欲しいのかと聞かれたので50ドルと言って,適当な席のチケットを購入した。そんな見栄を張らずとも,一番安い席だと言えばよかったと後で後悔した。
まだゲームの開始には時間があったので,中に入る前にまわりを散策した。ドジャースタジアムは,同時期につくられたカンザスシティ・ロイヤルズのカウフマン・スタジアムと似ていた。メジャーリーグのボールパークは,シカゴ・カブスのリグレーフィールドとボストン・レッドソックスのフェンウェイパークはすでに歴史的建造物なので別格として,残りを「松」「竹」「梅」と分類すると,「梅」,つまり最低ランクにあたるのがオークランド・アスレチックスのコロシアムとタンパベイ・レイズのトロピカーナフィールドだが,ともに,ついに新しいボールパークを建設することが決まったらしい。そして「竹」にあたるのがカウフマン・スタジアムとドジャースタジアムである。はっきりいってボロいが,ともに新たに作りなおす気がなく改装したばかりだから,当分はこのボールパークのまま使われることになりそうだ。
ボールパークの外にはジャッキー・ロビンソン選手の銅像があった。ジャッキー・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson) 選手は黒人初のメジャーリーガーで,当時ニューヨークに本拠地を持っていたブルックリン・ドジャースのプレイヤーであった。ジャッキー・ロビンソン選手の生涯は2013年に公開された「42 世界を変えた男」という映画に描かれた。
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来年まで待とう-ロサンゼルス・ドジャース
「42 世界を変えた男」-ロビンソンからリベラへ
愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク①
やっと晴れたか?秋2018④-さびしき秋の星空の星雲と星団
秋の南の夜空はまことに寂しいものです。やがて来る冬にはオリオン座をはじめとして明るい星々がたくさんあるのに,その数か月前の空には星がほとんど見られないのです。空の明るい都会ではみなみのうお座の1等星であるフォーマルハウトだけがかろうじて見えるありさまです。
秋の星座になじみがないのは,明るい星がないということに加えて,秋の星座が深夜に南中してよく見えるのがちょうど夏至のころという理由もあります。つまり,夏至のころは夜の時間が短く,空が暗い時間は冬に比べて半分ほどしかないのです。
そこで,私は,秋の星座といわれるみずがめ座,みなみのうお座,うお座,くじら座,ちょうこくしつ座にある星雲や星団を写す機会もこれまでほとんどありませんでした。
今回出かけた木曽は空が暗いので,夜遅くならなくても満天の星空がみられます。あれほど都会では何も星が見えないと思われるところにも,たくさんの星々が輝いています。みずがめ座の星のつながりがわかるなんて,私には夢のようです。そこで,秋の星座にある多くの星雲や星団を写すことにしました。それが今日の写真です。
順に紹介しましょう。
まず,ふたつの惑星状星雲です。
1番目の写真の天体が「らせん状星雲」(The Helix Nebula)と呼ばれるNGC7293,みずがめ座にある有名な惑星状星雲です。距離はおよそ700光年というからオリオン座のべテルギウス(Betelgeuse)ほどの近さで,太陽系に最も近い惑星状星雲です。猫のような目の形をしている中心部が「らせん」の名前の由来になっています。中心部に白色矮星が存在するようです。私はこの惑星状星雲をずっと写したかったのですが,やっとかないました。
2番目の写真の天体はNGC246です。NGC246はくじら座の方角にある惑星状星雲で,距離は約1,600光年です。星雲の中心には12等級の白色矮星があります。中心の恒星とその周囲の配置から「Pac-Man Nebula」として知られています。
こちらのほうはNGC7293に比べればずっと暗く,この空が暗くないと写すのも難しい天体です。
次にふたつの銀河です。
3番目の写真の銀河がNGC247です。NGC247はくじら座にあって,距離は約1,110万光年。ちなみにアンドロメダ銀河は240万光年です。
最後の4番目の写真に写っている銀河がNG253で,その下にある球状星団がNGC288です。
NGC 253はちょうこくしつ座にあるスターバースト銀河で,急激な星形成の過程にあります。距離はNGC247とほぼ同じで約1,110万光年です。
NGC247はNGC253と重力的に結びついていて,NGC253は銀河系から最も近い銀河群のひとつであるちょうこくしつ座銀河群の中心に位置しています。NGC253 はその中で最も明るく,NGC247,PGC2881,PGC2933,UGCA15などと重力で結びついています。
このように,このあたりにはおもしろい天体があるのですが,メシエ番号もついていないので,知名度も低く,はじめに書いたように,夜の短い時期に空にあるので,なかかな写真に撮る機会もありません。
今回,こうした天体を写すことができたのものまた,うれしいことでした。
やっと晴れたか?秋2018③-ウィルタネン彗星を見た。
前回書いたウィルタネン彗星(46PWirtanen)は現在8等星くらいまで明るくなって,よく見えるようになったらしいのですが,ずっと天気が悪かったことと月明かりがあって,私はこれまで見る機会がありませんでした。
今年の6月に出かけた木曽福島のゲストハウス(ペンション)がとても気にったので,先週の週末,2泊3日で満天の星空とともに紅葉を愛でようと出かけることにしていました。そして,その機会に彗星を見るのもたのしみにしていました。
金曜日の夕方に木曽福島に到着しました。天気がよく,今回は星空がよく見えそうでした。翌日のお昼間は様々なところに出かけて秋を満喫したのですが,それはまた後日書くことにして,今日は星空の話です。
前回はあいにく天気が悪く星が見られなかったので,山深いこの場所でどの程度の高度まで星空が見られるか少し心配しました。なにせ,空が暗いとはいっても,木曽は平地のようにはいきません。
やがて日が沈み空が暗くなってきました。ゲストハウスの広い駐車場から見上げると,北極星のあたりは一番空が開けていて,極軸を合わせるのには全く問題がないことがわかりました。南の空は20度くらいから上は大丈夫だったので,思ったよりも空が開けていました。この晩彗星が南中して最も高度が高くなるのが夜の10時20分頃で,そのころの彗星は山より高く昇るので,幸運にも彗星は見られそうでした。
そうして写したのが今日の1番目の写真です。ウィルタネン彗星は現在はくじら座の南,ちょうこくしつ座という明るい星のないところにあって,けっこう探しにくいのですが,なんとか写せました。写真の下のあたりに少し山の木の影が写りましたが,彗星の姿はしっかりととらえられました。このあと彗星は高度がどんどんと高くなって,一番明るくなる12月の新月のころはオリオン座の右手に尾を引いたあざやかな姿を見ることができるでしょう。
2番目の写真はステファン・オテルマ彗星(38PStephan-Oterma)です。こちらは10等星くらいで,ふたご座にあって,11時過ぎに昇ってきます。東の空は結構低いところまで視野が開けていたので早い時間に写せましたが,思ったほど明るくありませんでした。
こうして,目標だった2個の彗星を写すことができて,私はすっかり満足しました。この晩はこれらの彗星以外にも多くの星雲や星団を写しましたが,これらはまた次回載せることにします。
それよりも,この場所で特筆すべきは,日本にはまれな,全天にわたって暗い空があったということです。しかも,クマが出てくる心配もありません。私は,北半球で,はじめて南半球で見るような星空に巡りあうことができてとても幸せでした。
翌日も晴れて,この晩は魚眼レンズで全天を駆ける天の川を写すことができました。ちょうど,紅葉も入り,すてきな写真になりました。
やっと晴れたか?秋2018②-ウィルタネン彗星を見よう。
猛暑の夏もなんとか過ぎて,今年も忘れずに秋が… と思えば,10月になっても台風がやってきたりして,なかなかよい季節にならないのが残念なところでした。
星を見ながら天気とつき合っていると,天候というのは毎年ずいぶんと違うということに気づきます。毎日晴れて星がきれいな日がずっと続くような秋があれば,ほとんど晴れない秋もあります。「例年並み」といったところで「例年」などないに等しいのです。
いずれにせよ,どこに行っても空が汚く満足に星など見えないこの国なのにおまけに天気がよくないとなれば,国内で星を見ようとすること自体にかなり無理があるのかもしれません。と思いつつも,私は星の見える場所をあいかわらず探し求めているのです。
そんないつもの愚痴はともかく,今年の秋は,この年1番の見物である「ウィルタネン彗星」がいよいよ近づいてきます。
ウィルタネン彗星(46PWirtanen)=2番目の写真中央の小さな点 と聞いてピンとくる人はかなりのツウです。ウィルタネン彗星というのは,1948年1月15日にアメリカのリック天文台で働くカール・ウィルタネン(Carl A. Wirtanen)が発見した周期5.4年の周期彗星です。リック天文台の恒星固有運動サーベイの一環としてに撮影された写真から見つかりました。発見当時は像がぼやけていて,16等級という明るさでありながらも初期の観測が少なかったので,短周期彗星とわかるまで1年以上を費やしました。
このウィルタネン彗星を有名にしたのは,ヨーロッパ宇宙機関 (ESA=the European Space Agency) の彗星探査機「ロゼッタ」(the Rosetta spacecraft)が着陸する標的だったことです。「ロゼッタ」の当初の計画では,この探査機は2003年1月12日に打ち上げられて,2011年にこのウィルタネン彗星に着陸機を降ろす予定だったのです。しかし,2002年12月11日のアリアン5ロケット爆発事故で,同型のロケットで打ち上げられるはずだったロゼッタの打ち上げが遅延したためにウィルタネン彗星を目指すことができなくなって,目標が別のチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67PChuryumov-Gerasimenko)=3番目の写真 に変更されてしまいました。
計画変更前の2001年12月9日,チリのパラナル山にあるヨーロッパ南天天文台 (ESO) の超大型望遠鏡VLT=Very Large Telescopeによって,ウィルタネン彗星が詳細に観測されたので,ウィルタネン彗星の核の直径が1.2キロメートルであることや着陸を妨げるダストが周囲にほとんどないことがわかりました。
この彗星,12月に4等星まで明るくなって,肉眼で見えるようになるそうです。
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やっと晴れたか?秋2018秋①-ジャコビニ・ジンナー彗星
東海道を歩く-不尽の高嶺に雪は降りける②
雲ひとつない富士山に魅せられて,その気もなかったのにJRの沼津駅で降りてしまった私は,ここから海岸線に沿って行けば旧東海道だろうと,なんの知識もなく歩きはじめたというのは前回書きました。そもそもがそんなわけで,無計画がここであだになるわけです。
私はこの時点ではまだ朝食を食べていないのです。それは,昨晩泊まった東京大井町の東横インを朝食サービスのはじまる午前6時30分よりも前にチェックアウトしてしまったことからはじまります。そして,降り立った沼津駅付近でなにかを食べればよかったものの,この先にもどこか気の利いたレストランくらいあるだろうと思ったことが大いなる誤算でした。
私は沼津駅に降りてみて,ここには一度来たことがあると思い出しました。それは,沼津港にあったシーラカンスの展示された博物館に行ったときでした。そのころの私は,ひとめシーラカンスを見てみたい,ひとめトキを見てみたい,などということに「ときめき」(おやじギャクではありません)を感じていて,とはいっても生きているトキは見られても生きているシーラカンスは見ることができないので,はく製が展示されているというこの博物館に行ってみたわけです。
話は逸れますが,トキもまた,何度も佐渡島に行こうと思いつつも面倒になって,結局,金沢の動物園にいるということを知って見てきました。私はシーラカンスもトキも,それで納得して,それまでの「ときめき」はすっかりなくなりました。
ともあれ,私は沼津駅からなんとなく海の方向に向かって歩きはじめました。そのうちに千本小学校というところにたどり着いたので,ここらあたりからの海岸が千本松原なのかと思い当たりました。
千本松原というのは,この先吉原駅まで延々と10キロメートルにわたって千本どころか30万本の松林が海岸にそって植えられている場所です。そもそも,この海岸,風が強いことは容易に想像できますが,そのために,古より農民が防風と防潮のために植えたものを一度は武田勝頼が駿河攻めのために伐採し,それを増誉上人が5年の歳月をかけて植えなおしたものだそうです。
現在,海岸は砂浜で,そこに漁師さんが船小屋を作っていたり,釣りをしている人がいたりするのですが,お世辞にもきれいな砂浜ではありませんでした。そして,美的感覚のまったくないコンクリートの防波堤が延々と続いていて,そのむこうの陸地側に千本松原があり,さらに陸地側に県道とJRが並行して走り,さらにもっと内陸側に国道1号線が走り,もっともっと内陸側に新幹線と東名高速道路が走っているという場所でした。
千本松原には遊歩道が続いていて,そこを歩くことができますが,松林が邪魔をして富士山が見えません。そこで見晴らしのよい堤防道路を歩くことになるのですが,堤防道路からは松並木の上から富士山の山頂付近だけを見ることができました。
県道にそった狭い歩道を歩くこともできるのですが,このあたり,単なる住宅と工場やら倉庫があるだけで,何も楽しくないところでした。
歌川広重の東海道五十三次の浮世絵では,沼津宿も原宿もそしてまた吉原宿も,なんとまあ風情の感じられる場所として描かれていることでしょうか。しかし,そんな面影はどこにもありませんでした。しいていれば,原宿に描かれた富士山の姿が今にも通じるものを感じられる程度でしょうか。
私の東海道歩きは,そもそも,街道制覇を目的としているわけではないのですが,それを目的として歩いている人にとって,この「消化試合」のようなところは,西に向かって歩いている人にとっては険しい箱根を越えた後のしばしの休息になり,あるいはまた,東に向かって歩いている人にとれば,この先に控える困難に挑戦する以前の安らぎとなる,そんな場所なのでしょう。
東海道を歩く-不尽の高嶺に雪は降りける①
今日は,東京からの帰り道のお話です。
私は,いつものように,早朝にJRの在来線に乗って途中下車を楽しみながら,1日かけて名古屋に向かうことにしていました。特にどこで降りるかは決めていなかったのですが,あまりに天気がよく,富士山には雲ひとつなく,しかも,早くも山頂には雪がいい感じにかぶっていたので,思わず沼津駅で降りてしまいました。そうして,吉原駅まで海岸に沿って歩きはじめました。
ところがどうでしょう。何も楽しくないのです。旧東海道の面影があるわけでもなければ,街道筋には何も保存されていませんでした。
歩くと思っていなかったので何の下調べもなく,沼津駅から吉原駅までは海岸線を千本松原がずっと続いているということだけが知識でした。しかし,雄大な景色が広がっているという期待に反して,千本松原は枯れかけた松が生い茂げり,木陰にはゴミの山。どこまで歩いてもそうした同じ景色が続き,しかも,富士山は見えても,道路と電線と枯れかけた松林が邪魔をして,山頂付近しか見えませんでした。気の利いた喫茶店のひとつもありませんでした。
私はすっかり嫌になって,途中の東田子の浦駅から吉原駅まで1区間だけ,再び列車に乗りました。そうして吉原駅で降りて,港に向かって歩いていくと,やっと,富士山の姿と港が見渡せる公園がありました。
この港が田子の浦港でした。
「万葉集」巻3・318に山部赤人が
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田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
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と詠ったとあります。
あるいは,「新古今和歌集」と「小倉百人一首」には
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田子の浦に うち出でてみれば しろたへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ
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とあります。
そこで,自然の成り行きとして,このふたつの歌の違いは何か? とか,田子の浦はどこ? ということになるわけです。歌の違いは学校でも習うのでここで改めて書くこともないのですが,多くの人もいうように,万葉集の素朴さこそが日本人の琴線に触れて旅情をそそると私も思います。
そこで,今日は,田子の浦はどこ? について書いてみます。
私の行った公園の高台から見た場所が田子の浦港です。この公園は近年整備された場所で,そこにはこの歌の作者山部赤人の歌碑も建てられています。しかし,ここがこの歌が詠まれた場所ではないかもしれない,というのが話題となるわけです。
齋藤茂吉が書いた「万葉秀歌」に「近時,沢瀉久孝氏は田児浦を考証し,薩埵峠の東麓より,由比,蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入浜を上代の田児浦とするとした」とあります。「古えは,富士・庵原郡の二郡に亙った海岸をひろくいっていた」ともあります。さらに,「古来の田子の浦は静岡県静岡市清水区の薩埵峠の麓から倉澤・由比・蒲原あたりまでの海岸を指すとされることが多いとされていた。富士市の田子の浦港付近と混同されやすいことから,『山部赤人の歌の田子の浦は蒲原付近である』とあえて明記する例もある」と記されています。
このこともまた,私がいつも書くように「国語の危うさ」で,言葉に酔っているだけなのです。
そもそも,現代のような精密が地図があるわけでもなく,こうした地名がどこを指すのかという明確な定義があるわけでもない時代の話をとやかくいったところで仕方がないのです。この日のように,今でもJRの東海道線に乗っていると,三島駅あたりから静岡駅あたりまでの車中で,ずっと山側には美しい富士山が見えれば誰だって感動し,そして,海側にそれと対比して広々とした海原が見られればこれもまた感動するわけで,それをこうして歌にして詠んだ,というだけのことでしょう。その場所というのは,今日の最後の写真,これは私が飛行機の窓から写したものですが,おそらくこの場所すべてを総称しているのではないでしょうか。
田子の浦がどこかなどということよりも,そうした歌がずっといつまでもその景色と同化して生き残っているということこそがすばらしいと,私はその景色を見て思ったことでした。それと同時に,日本にはこうした美しい風景がある,いや,あったのに,どうして開発という名でそれをぶち壊しゴミを捨てることが好きなのかなと,これもまた,日本を旅するといつも思う悲しい現実でした。
「音楽こそわが天命」-ブロムシュテットの敬虔な自伝②
「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」(Herbert Blomstedt: "Mission Musik.Gespräche mit Julia Spinola")は,決してページ数の多い本ではありませんでしたが,かなり内容の濃いものだったので,私は時間をかけて読みました。近頃,日本では啓蒙書の類が多く,内容が薄く,ほんの数分で読み終えることができて,しかも,書いてあるほとんどのことはすでに知っているようなものがほとんどですが,この本はそれとはまったく異なるものでした。
先ごろ行われたN響第1896回定期公演の演奏曲にステンハンマルの交響曲第2番が取り上げれらていましたが,この本には,このステンハンマルのことがたくさん書かれてありました。
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ステンハンマル,つまり,カール・ヴィルヘルム・エウフェーン・ステンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar)は,1871年に生まれたスウェーデンの作曲家であり指揮者です。ニールセンやシベリウスが1865年の生まれですから,彼らと同時期の人です。日本ではちょうど明治維新のころです。
ステンハンマルはストックホルムでピアノ,オルガン,作曲を学んだのち,ピアニストとしてデビューしました。その後1897年に指揮者となり,これ以降は指揮者である傍ら,作曲家としても活躍しました。ステンハンマルは現在ではベルワルド以降の最も重要なスウェーデンの作曲家と位置づけられています。ステンハンマルは「北欧風」の抑揚を目標に掲げ,効果なしでも成り立つような、「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとしました。この新しい様式の典型的な作品が,今回演奏されたドーリア旋法を用いた交響曲第2番でした。
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と,ここに書いても,日本でステンハンマルの音楽を聴く機会などめったになく,正直いって,この曲をはじめて聴いた私には,そのよさもさっぱりわかりませんでした。
この曲に限らず,はじめて聴く曲に,そのよさやら感動を呼び起こすことは私にはまれです。正直いって,さっぱりわからないというほうが正しいです。こうしたとき,私はいつも,音楽を聴くという行為そのものに,いったいなんの価値があるのかということさえも疑問に感じます。時間の浪費にしか思えません。
ところが,録音して,辛抱して何度も聴きなおしてみると,次第に心に染みてきて,そのよさがわかってくるのもまた,不思議なものです。私は,こうして,これまでに,ヴォーン・ウィリアムズやニールセン,ベルワルドなどのすばらしい音楽を覚えました。
このように,クラシック音楽というのは,知らない曲を自分のかけがえのない宝物にするためには,やはり何がしかの行動が必要ななのです。私が大好きなブルックナー,この曲のよさを知らずに生きている人を私はかなりが気の毒に思います。私はブルックナーを若いころに知ってずいぶんと聴き込んだので今では自然となじみあるものとなっているのですが,考えてみれば,聴いたことのない人にとっては,こんな長たらしい曲がそれが心に染みるには,ずいぶんとなにがしかの行動がいるということなのでしょう。
この本では,ステンハンマルのことがずいぶんと取り上げられていましたが,それとは逆に,マエストロ・ブロムシュテッドがショスタコ―ビッチを取り上げないということも書かれてあって,このこともまた,私にはとても興味深いものでした。それは,このマエストロの人生観や宗教観とも関わってくることなのでしょう。
このように,音楽というものは,それを聴くという行為は俗世界とは隔離された純粋なもののようで,実は,最も人間に近いものでもあるということを,こうした本を読むと実感するのでした。
「音楽こそわが天命」-ブロムシュテットの敬虔な自伝①
「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」(Herbert Blomstedt: "Mission Musik.Gespräche mit Julia Spinola")を読みました。
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90歳を超えるいまなお年間80回の演奏会を指揮。日本の音楽ファンに最も愛されている巨匠指揮者が音楽と人生,そして信仰を語るはじめての自伝! マルケヴィッチ,バーンスタイン,ケージら20世紀の大音楽家たちとの交流,バッハ,ベートーヴェン、ブルックナーらドイツ音楽の本流へのたゆまぬ献身,ベルワルド,ステンハマルら祖国スウェーデンの作曲家への尽きせぬ愛情… シュターツカペレ・ドレスデン,ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団,サンフランシスコ交響楽団,NHK交響楽団などの要職を歴任し,今なお現役のマエストロがあたたかく飾りのないことばでみずからの生涯・音楽・信仰を語りつくします。
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これが,この本の紹介です。
私はまったく楽器は弾けません。「観る将」ごとく,「聞く音」です。しかし,常日頃から,クラシック音楽を聴くことを人生の最大の喜びとしていて,おそらくは,聴いている時間にかけては一流でしょう。これからも,この満ち足りた時間を大切にしていきたいといつも思っています。
音楽を聴いていると,こうした演奏をしている人たちのことをもっと知りたいと思うのは自然なことで,これまでも,数多くの音楽家の自伝を読んできました。そして,読み終えていつも思うは,彼らは,本当に内面からも外面からも,人に,生に,そして社会に真摯に向き合っているのだなあ,ということです。
ある意味で,私は,俗社会の関わりや人とのわずらわしい関わりから避けたくて音楽を聴いて自分の内面と向き合っているのですが,音楽家は,それとは逆に,俗社会や人とのわずらわしい関わりそのものと,普通の人以上に対峙して生きているのです。そうした人たちが,このような関わりとは真逆な,純粋な音楽を世に送り出しているということが,私にはとても不思議であり,奇跡的なことに思えます。
この本でもまた,この偉大なマエストロ・ブロムシュテッドが,本当に心から,人を愛し音楽を愛していること,そして,これが一番人間としてすばらしいのは,やさしさに包まれているということを,再確認することができて,ほんとうに幸せな時間でした。
2018夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻ろうと⑤
●私の愛するアメリカの田舎道●
☆4日目 2018年6月28日(木)
私はこの日のことを,ずっと後悔することになる。
この日,私は泊まっていたイニョカーンからどんどん南下して,サンディエゴまで行くという予定であった。距離として230マイル,約370キロメートルなので,名古屋から東京くらいのものか? ともかく,日本と違ってずっと時速100キロメートルくらいで走れるからわずか4時間という距離だった。
この旅では,これまでの3日間は,はじめの計画からはいわば「おまけ」的な存在であった。今回の旅の1番の目的はサンディエゴ近郊のパロマ天文台とロサンゼルス近郊のウイルソン山天文台に行くことであって,そのついでに,このふたつの都市にあるメジャーリーグベースボールのゲームを見るというのが2番目の目的であった。その「おまけ」として,せっかく来たのだから,もし行けるのだったら,ロサンゼルスの北にあるセコイア国立公園とデスバレー国立公園に寄ろうと思ったわけだった。
これまでに書いたように,その「おまけ」は想定以上にうまくいったし,楽しかった。この時点では,本来の目的よりも,こちらのほうが旅の目的になってしまったようなものだった。
そんなわけで,いよいよ今日からが本来の目的である天文台巡りとベースボールの観戦であった。
帰国はロサンゼルスからなので,はじめにパロマ天文台のアクセス都市であるサンディエコまで行ってしまって,そこから順に戻ってくるという計画であった。
この日の夕刻にサンディエゴに着くことできればいいのだから,時間は十分にあった。そこで,サンディエコに行く途中で,ロサンゼルスでベースボールのゲームを見ることにした。メジャーリーグは金曜日から相手チームが変わるので木曜日のゲーム終了後に移動があるから,木曜日はデーゲームになることが多い。この日は木曜日で,これもまた好都合であった。ただし,残念だったのは,ロサンゼルスではドジャースのゲームはあったが,大谷選手の属しているエンジェルスのゲームがなかったことだった。ドジャースの先発ピッチャーはエースのカーショーと発表されていたから,大谷選手は見ることができなかったが,それでも私は今回も自分の強運に感謝した。
午前中にロサンゼルスまで行くことができればゲームに間にあうから,朝は比較的遅く出発した。
チェックアウトをしようとフロントに行くと,そこには朝食用のパンケーキがおいてあったから,これをいくつかもらって朝食にした。そして,途中のガソリンスタンドで冷たい水を買った。
これで準備終了である。
イニョカーンという小さな町は特に何があるというわけでもなく,モーテルも単なる田舎のモーテルだったし,暑いところだったが,きっと,私にはずっと忘れられない場所になるであろうと思われた。
アメリカに限らず,私は,今や,人と車だらけの大都市には全く魅力を感じない。むしろ,こうした何もないような田舎で何をするでもない1日を過ごすことに憧れるのだ。
とりあえずはロサンゼルスまで南下である。イニョカーンからロサンゼルスに行くには南向きに道が二股に分かれていて,南南東に行くのが国道395で,南南西に行くのが州道14である。このうち,州道14は来るときにジャンクションが工事中でイニョカーンで降りられなかったほうの道路である。イニョカーンからはすぐに国道395に入ることができるし,カーナビもその道を示したので,私は国道395南下することにした。
アメリカの道路は地図を見ながら想像するのと,実際に走ってみるのとでは大違いである。
イニョカーンを出て私がロサンゼルスに向かって走ったのは今日の1番目の写真のような道であった。地図ではわからないが,このあたりは,こんな景色が延々と続いているのだった。ロサンゼルスからさほど遠くないのに,まるでユタ州のような風景であった。
そのうち,2番目の写真のように,道路際に小さな集落があったりしたが,その家々を見ると,ずいぶんと貧しそうなところであった。さらに進むと,クラマージャンクション(Kramer Junction)という交差点があって,そのあたりは道の駅のような感じで,それまで少なった車両が急に増え,コンボイも行き交っていた。その交差点でほとんどの車が右折をした。私はもともとは直進してさらに南向きに走る予定であったが,私の走ろうと思っていた道路は交差点をすぎると狭くなっていくように見えたので,道を間違えたと思って,私も右折をしてしまった。しかし,それはロサンゼルスに向かう道路でなくて,1日目に泊まったベーカーズフィールドを経由しサンノゼからサンフランシスコに行く道路であった。私はしばらく走ってやっとそのことに気づいて,途中でUターンをして,再び先のジャンクションに戻って,今度こそ南下を続けた。
道路が狭いと思ったのは間違いで,単に道路を2車線に拡張する工事中であった。
さらに南下をしていくと,やがて,へスペリア(Hesperia)という町に出た。この町まで来ると,そこはもうロサンゼルスのベッドタウンで,辺りは広大な分譲住宅が建設中であった。その町を過ぎると,これまで走ってきた国道395はついにインターステイツ15と合流した。
いよいよこの先が片側6車線あっても慢性的に渋滞するロサンゼルスの都市圏であった。
初秋の小旅行2018-深大寺から国立天文台あたり②
深大寺から西に歩いていくと少し風景が変わります。そして,今ではめずらしい森に包まれた一角が見えてきます。そこが国立天文台です。ここは都心からは結構距離があるから,その昔なら,ここまで来ればさぞかし美しい星が見られたことだろうと思うですが,今ではこんな場所に天文台を作っても星などまったく見えません。
この春にアメリカに行ったとき,有名なパロマ山の天文台が思っていたよも山の中にあることに驚きました。アメリカではその昔から,そうしたかなり険しい山の中に天文台を作っていたわけです。それに比べれは,狭い日本では,どんな山奥に天文台を作ったところで,都会の光から逃げ切れるものではありません。
私は,そうした現状を認識していなかった数年前までは,なんとか満天の星空が見られる場所がないかと日本中を探し回っていたのですが,その後,ハワイや南半球にまで足を延ばして満天の星空と接するようになったら,もう,そんなことをしても意味がないと悟り,馬鹿らしくなってしまいました。
そんなわけで,かつては日本の天文学の中心的天文台であったこの場所は,今では過去の遺跡です。
私は,子供のころに読んだ図鑑に載っていたこうした日本の研究施設にもずいぶんと憧れました。しかし,海外の多くの研究施設を見学するようになると,なんとまあ,日本の研究施設というのはみすぼらしくお金がないのだろうかと痛感します。これもまた,この春に行ったウイルソン山の天文台の立派さと比べれは一目瞭然です。
おそらく,それはこうした施設を維持するための寄付金やら市民団体,そうしたものの活動に根本的な違いあるからでしょう。日本でも,こうした施設をなんとか保存し維持しようとしている人はたくさんいるのですが,なにせ,アメリカのような寄付金やらボランティアといった考え方の違いがとてもよくわかるのです。簡単にいえばお金がないのです。こうした施設は現状維持するけでもずいぶんと大変なのです。
この天文台で一般に公開されている歴史的遺産のなかで最も大きなものは口径65センチメートルの屈折赤道儀です。現在,天文台歴史館となっているこの望遠鏡の入っているドームは東京帝国大学営繕課が設計,中村與資平が施工し,1926年(大正15年)に完成したものです。望遠鏡をすっぽり納めた木製ドーム部分は造船所の技師の支援を得て造られたもので,そういわれると,ドームと船底の構造は似ています。また,望遠鏡はドイツのツァイス製で,1929年に完成しました。
私は,ここに来たのは3回目でしたが,この天文台のシンボル的存在である屈折望遠鏡の鏡筒はところどころ塗装もはげ落ちてしまっていて,かなり痛々しい状態でした。
そこから少し離れたところに,第一赤道儀室があります。この建物も,東京帝国大学営繕課が設計,西浦長大夫が施工し,1921年(大正10年)に完成した古いものです。ドーム内にある口径20センチメートルの望遠鏡もドイツのツァイス製で,望遠鏡の架台は重錘時計駆動赤道儀という方式です。
この望遠鏡は1938年(昭和13年)から61年間にわたって太陽黒点のスケッチ観測に活躍しましたが役目を終え,現在は,一般の見学者にたいして黒点を見せています。
ドームに入ると,おそらく学生か研究者のたまごであろう若い女性がこの日の担当らしく,黒点の説明をするために待機していました。
残念ながら,現在,太陽の活動は静かで,黒点がほとんど見られません。もちろん私はそれを知っていましたが,ドームに入ると,その女性としばし話に花を咲かせていました。
そこに現れたのが,無知丸出しの初老の男でした。彼は,わけのわからないことを口走り,迷惑がっている彼女のことをまったく考えず,延々と持論を展開していて,つくづく私はいやになってドームを出ました。
この国には,こうした輩が少なからず存在しています。おそらく,こうした人たちの存在が,このような研究施設の公開に大きな妨げになっているだろうということが容易に想像できました。
海外のこうした施設に行っても,このような類の無知な人たちにはほとんど出会わないので,私は,これは,日本という国にこの種の低俗な人たちが少なからずいるということなのでなないかと思いました。
この日の午後,私は,上野に行ってフェルメール展を見た後で,秋葉原にある望遠鏡メーカーの高橋製作所の直営店であるスターベースというお店に行きました。
さほど広いともいえない店舗には相も変わらず所せましと望遠鏡が展示されていました。以前の私なら,こうしたものを見るだけで満足し,興奮したのですが,このごろは,日本でこうした機材を作ったところで,だれが買うのだろうと思うようになってきました。それは,日本には満足に星など見ることができる場所がないし,アマチュアには高価すぎる機材を買う余裕のあるような若者などほとんどいないからです。
なかには,私の世代で車1台もするこうした高価な機材を使って星の写真を写すことを生きがいにしている人もいないことはないでしょうが,そうした少数の人たちを対象にした商品でこの企業がこの先も存在できるものなのでしょうか? それに,急速に発達したデジタル時代では,それ以前に設計された,重たくて大きな機材など私にはかなり時代遅れのものに思えます。さらに,満足に星の見られない日本から離れて海外に持っていくとなると,この鉄のかたまりのような重さの望遠鏡はどうにもなりません。昔のように何時間も露出して写真を撮る必要もないから,今の技術ならもっと利便性を考えた軽くて精度のよいものが作れるはずです。
このように,国立天文台の歴史的な2台の望遠鏡も,こうした市販されている望遠鏡も,ともに,私の子供のころには憧れたものなのに,今ではもう時代遅れの存在となってしまったのかな,と思ってさびしくなったことでした。