今年2018年の1月,
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今年の秋のテカポ湖畔のホテルの予約状況を調べていて,手ごろな値段で宿泊できるホテルを見つけたのですぐに予約をしてしまいました。ということで,今年の秋,私は再びニュージーランドに行くのです。
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と書きました。そして,実際に行ってきました。
2016年の秋にはじめて行ったニュージーランド,このときは勝手がわからず,テカポ湖では高価なホテルに宿泊することになったりとかいろいろと苦戦しましたが,ともかく,テカポ湖で満天の星空を見ることができました。しかし,そのときは,帰国後,ニュージーランドにさほどの想い入れはなく,まさかまた行くことになろうとは思っていませんでした。
しかし,それからしばらくして,再び行きたくなったのが我ながら不思議なことでした。
我が家の居間に,2016年に行ったときにテカポ湖で写した星空の写真と2018年に行ったフィンランドで写したオーロラの写真が並んで飾ってあります。テカポ湖の写真は,そのときは無我夢中で写したのですが,今考えると,適当な機材を持ってはじめて行った南半球でよく撮れたものだという気がします。それでも,テカポ湖で写した写真には「善き羊飼いの教会」の上空に少しだけ雲がかかっていて,南十字星がはっきりと写っていませんでした。だんだんとそれが気になってきて,今度こそ雲のない星空の写真を写したいなあ,という気持ちが高まってきたというわけです。
実際に出かけてみて,そんな考えが甘かったことに改めて気づきました。
2016年に行ったとき,ニュージーランドはお昼間の天気があまりよくなくて,曇りばかりでした。晴天率が高いなどというのは偽りだと思いました。ところが,夜になると連日雲が切れて滞在中は連日星空が見えました。しかし,2018年はお昼間は晴れていましたが,夕方になると雲が出てくるのです。これでは,せっかく来たのに雲ひとつない星空の写真など到底写せません。もう一度ニュージーランドへ行けば,今度こそ雲のない星空の写真が写せる,というのは夢物語だったと思いました。
しかし,滞在1日目の晩に奇跡が起きました。お昼間の快晴から夕方すっかり曇ってしまったあと次第に雲が切れてきて,再び快晴に。こうして満足した写真を写すことができたのです。結局,快晴だった夜は3泊したうちのこのはじめの1晩だけだったのですが,雲ひとつない星空の写真を写すという念願がかないました。
それ以上に私が驚いたことは,2016年の秋にはあれほど辺り一面咲き誇っていたルピナスの花だったのに,2018年は1か月ほど時期が早かったので全く咲いていなかったということです。私が2016年に行ったときのニュージーランドは,偶然にも願ってもないベストシーズンだったということなのです。このように,旅というのは,はじめて行ったときの印象が強いもので,また同じ喜びを得ようと2度目に出かけても,はじめて行ったときの感動を再び手に入れることは難しいと,行ってみて気づくのです。
しかし,たとえルピナスの花が咲いていなくとも,それでもやはり,ニュージーランドで見た南半球の星空というのは,晴さえすれば魅力的でした。
私の愛するニュージーランドですが,日本からは遠く,そして,最高の季節と満天の星空に出会うのは容易なことではありません。
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2018年がやってきた②-今年もテカポ湖へ行く。
December 2018
2018年がやってきた・その後-オーロラの見られる国②
2018年もあと2日です。歳をとるごとに,たとえどんな日であれ,何をするときであれ,1日1日を,そして,その瞬間を,つねにより楽しく過ごそうという思いが強くなってきました。この1年,過ぎてしまえば短かかった気がしますが,振り返ってみると,ずいぶんといろんなことを経験できました。
今は当たり前になってしまったヨーロッパ旅行も,慣れっこになってしまった南半球への星見も,見慣れた満天の星空も,そうしたことのほとんどはこの1年で経験したことです。そしてまた,ずいぶんと新しい友人ができました。一時は「人恋しい」病にかかったのですが,それも全快しました。今年は,これまでずっとやってきた好きなことをすべてレベルアップしようと取り組んできたのですが,それもどうやらうまくいきました。
なんといっても,2018年前半の思い出は,2月に出かけたフィンランドのロバニエミでオーロラを見たことでした。そして後半は,11月に行ったオーストリアのウィーンでコンサートとオペラを見たことでした。それまでヨーロッパには30年あまりもの長い間行くこともなかったのですが,行きはじめたらハマりました。今後も何度も足を運ぶことになりそうです。こうして新たな楽しみを見つけたことが,2018年の収穫でした。
今日はそんな2018年を振り返り,年のはじめに書いた「2018年がやってきた」のその後について,前回に引き続き書いてみます。今日はオーロラの見られる国に行った続編です。
昨年の夏にアラスカでオーロラを見たことでオーロラにすっかりはまってしまい,今度は別の場所で見ようとふと思い立って出かけたのがフィンランドとアイスランドでした。そのなかでもフィンランドは行ってみて大好きになりました。
フィンランドに行くと決めた後で,一番心配だったのが寒さでした。マイナス10度,いや実際はマイナス30度だったのですが,そんな気温なんて,想像もできませんでした。名古屋市には市立の科学館があって,そこで極寒体験ができます。極寒体験で体験した温度はマイナス30度でしたが,分厚い防寒具を借りればなんとかなりました。そこでまず私が考えたのはどんな防寒具を持っていこうかということでした。私が旅行をするときのプライオリティ(優先事項)は,なるべく身軽で,持ち物をできる限り少なくするということです。そこで,軽く小さくたためてしかも暖かいという条件で服をさがしました。その服はかなり高価だったのですが,それで十分でした。ただし,極寒の場所以外では使い道がないのに困りましたが…。しかし,そのおかげで,マイナス30度は何の問題もないということがわかりました。
運よく天気にも恵まれて,オーロラをしっかりと見ることができて感動の思い出となりました。
フィンランドでオーロラを見たときに聞いた話で,オーロラ見るならアイスランドでしょう,というのがありました。そこで,それだけの理由で,次に,夏にアイスランドに出かけました。
大いに期待して行ったアイスランドでは,すばらしい大自然が待っていました。しかし,想像以上に物価が高かったこととと思った以上に天気がよくなかったことで,結局,私には期待外れに終わりました。それでも,アイスランドなんてめったに行くこともできないところだから,今回勢いで行ってみたのはよかったと思います。ひょっとしたらそのうちに懐かしくなってまた行ってしまうかもしれません。実際はフィンランドのヘルシンキから乗り換えて3時間以上もかかるのですが,私にはすごく身近なところのように思えるのが不思議です。
フィンランドやアイスランドに限らず,何かをしようとか何かを見ようとといった目的のある旅は充実している反面,そうした目的を達成するには,特にそれが自然相手だとさまざまな制約や運があって,それが実現できなかったときは残念な気持ちとトラウマが残ってしまうという一面があります。そこで,そうした目的なしで,何をするということもなく,気ままに旅を楽しめたらいいなあと思うこの頃です。
◇◇◇
2018年がやってきた・その後-オーロラの見られる国①
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑫-帰国
帰国の日になりました。来たときにはさっぱりわからなかったウィーンも,わずか数日ですっかりなじみの街となり,空港までの電車のチケットの購入にも何の問題もなくなっていました。
それにしても,ウィーンというのはなんとストレスのない街なのでしょう。電車に乗っても,歩いていても,カフェに入っても,それほど混雑していないし,食べ物もおいしいし,移動は楽だし,どの駅で降りてもそこには何かがあり退屈しませんし。そして,街中が音楽と美術に包まれていて,文化の香りがします。観光客も多いのですが,だからといって,日本の観光地のように観光客が群がって雰囲気を台なしにするということもないのです。
私は再訪を誓いました。
ホテルをチェックアウトしてからカールスプラッツ駅に向かい,この日もまた,地下街のカフェで朝食をとりました。そのあとで,空港までのチケットを自動販売機で買いました。到着した日には,よくわからず間違えて買ったチケットだったのに,幸運にもそのチケットにはウィーン市内24時間乗り放題がついていたので,勝手のわからなかった2日目は公共交通機関に自由に乗ることができて,多くの見どころに行くことができました。そして,3日目から5日目は新たに72時間有効のチケットを購入して,さらに多くの場所を自由に散策することができました。4日目にはザルツブルグにも行くことができました。
滞在最終日の今日6日目は空港まで行くだけだったので,1回分のチケットを購入しました。ウィーン市内から空港までは,来るときにも利用したオーストリア連邦鉄道(OBB)のSバーンという近郊列車と,私鉄のシティ・エアポート・トレイン(CAT)があります。CATはSバーンに比べて快適だけど高価ということでしたが,たかが20分程度,しかも混雑してるわけでもないので,Sバーンで十分なのです。ただし,自動販売機で空港までチケットを購入しようとすると,先にCATが大きく表示されてしまうので,うっかりそちらを買いそうになります。
カールスプラッツから地下鉄U4に乗って2駅目のミッテ駅で降りてSバーンに乗り換えます。ほどなくしてやって来たSバーンに乗って,難なく約20分で空港に着きました。
空港ではまだフィンランド航空のカウンタが開いていなかったので,自動チェックイン機で搭乗券を手に入れてから,キャリーバックを預けるためにカウンタが開くのを列の先頭で待ちました。ウィーンからはヘルシンキ経由で帰ります。
ほどなくして私の後ろに並んだのは同年代のフィンランド人の女性のグループでした。しばし雑談をしているとカウンタが開いたので,バッグを預けました。あとは搭乗時間まで空港のラウンジでひと休み。やがて搭乗時間になったので搭乗しました。ヘルシンキでもまた搭乗時間までの時間をラウンジで過ごして再び搭乗,そして,帰国しました。
帰りもまた,エコノミーコンフォートにアップグレードしたので,まわりはガラガラ,私は今回もまた2席を独占できました。そんな快適な機内だったので,離陸後食事が終わったところですっかり寝入ってしまい,セントレア到着の1時間前に目が覚めたときにはすでに朝食のサービスは終わっていたようでした。しかし,私が起きたことに気づいたすてきな日本人客室乗務員に朝食をお持ちしますか? と尋ねられて,遅れて食べることができました。食事を終えたころには着陸態勢に入りました。
多くのツキや親切,そして天候にも恵まれて,はじめて行ったオーストリアは最高の旅になりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑪-国立歌劇場
ナッシュマルクトを出て,一度ホテルに戻り着替えました。さあ,これから,この旅最後のイベント,オペラ鑑賞です。私は生まれてはじめてオペラを見たとき,文化に精通した大人たちはこんなすばらしいものを密かに? 楽しんでいるんだな,ということを知って驚いたのですが,まさにオペラというのは音楽と舞台劇を融合した最高の芸術です。
オペラには親しみがなくともミュージカルが身近な人は多く,そういった人は,オペラとミュージカルの違いを問います。オペラはクラシック音楽からの舞台芸術でミュージカルはポピュラー音楽からの舞台芸術,オペラに出てくる舞踊がバレイならミュージカルの場合はダンス,みたいな説明がされています。専門的には,発声法が違うとかいうことも書かれていますが,今日では両者を融合したものも存在するので,厳密な区別はできかねるかもしれません。私は,オペラといえばイタリアやドイツ,そしてオーストリアを想像し,ミュージカルはアメリカやイギリスを思いうかべます。
今回ウィーンに行くにあたって,私がぜひ行ってみたかったのは楽友協会でのコンサートと国立歌劇場でのオペラ鑑賞でした。そして,楽友協会でのコンサートは3日目に実現し,いよいよこの5日目の晩はオペラ鑑賞,まさに旅のハイライトでした。この日はプッチーニの「蝶々夫人」,わかりやすさにかけて最高の演目です。
以前,サンフランシスコでオペラを見たときはモーツアルトの「フィガロの結婚」で,これは私の最高の思い出のひとつですが,今回,またそれに新しい最高の思い出が加わりました。
「蝶々夫人」(Madama Butterfly)はプッチーニによって作曲された2幕のオペラで,オペラの内容にはなじみがなくても,アリア「ある晴れた日に」を知らない人はいないことでしょう。
長崎を舞台に,没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描いた単純なストーリーです。日本が舞台ということもあり,「宮さん宮さん」「さくらさくら」「お江戸日本橋」「君が代」「越後獅子」「かっぽれ」「推量節」,さらには「星条旗」などが引用されていて,特に日本人にはなじみやすい作品です。そうした曲と登場人物の心情や状況が巧みに描かれていてとてもおもしろいのですが,そういった曲になじみのない西洋人が聴いたときに,それをどのように解釈し感じるのか私には興味があります。また,ステージには西洋人が着物を着て出てくるのですが,昔の奇妙奇天烈な着付けとは違って,それほどの違和感はありませんでした。
国立歌劇場(シュタッツオパー=Staatsoper)は伝統的な建物ですが,それぞれの座席の前面にはハイテクなディスプレイがあって,休憩時間の食事の注文ができたりもします。また開演中はそこに各国語の字幕が出ます。その一方で,客席には着飾った紳士・淑女,さらには大きく胸の開いたドレスを着た女性がいたりして,まさに伝統的な社交会の雰囲気でした。
1階席の奥と馬蹄形になった4階の観客席の端と5階席中央の奥に非常に安価な立見席があります。そこだけは普段着の観光客や子供が押し掛けてすし詰め状態になっていて,まるで満員電車の車内のような異空間で,オペラを楽しむには程遠い状況でした。要するに,日頃オペラなんて聴いたこともなく興味もないおのぼりさん観光客が物珍しさで押し寄せているだけのことだろうと思っていたら,やはり,はじまって数十分もしたら,そうそうに引き上げていく人が続出し,第2幕になるころにはほどんど人がいなくなりました。
私はオペラを見終えて,満足して劇場を後にしました。出口では係りの女性が,どう,すばらしかったでしょう,というような笑みで見送ってくれました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑩-ベルヴェデーレ
美術史博物館から路面電車に乗ってベルヴェデーレ宮殿まで来ました。この宮殿は,1700年代のはじめにトルコ軍からウィーンを救った英雄プリンツ・オイゲン公の,夏の離宮だそうです。建物は上宮と下宮から成っていて,路面電車で降りた場所にあった入口を入ってチケットを購入したところが上宮で,そこから北に向かってウィーンの市街地を見下ろすように広い庭園のその先にあるのが下宮です。
ベルヴェデーレというのは「美しい眺め」という意味だそうです。
ここは宮殿というよりもむしろ美術館なので,豪華な宮殿のなかで絵画を味わう,という場所です。ウィーンは音楽だけではなく,絵画に関しても一流で,さまざまな場所に有名な絵画が展示されているので,音楽や美術に関心があれば,どこに行っても楽しいのです。この宮殿というか美術館に展示されているのは19世紀から20世紀にかけてのオーストリア絵画で,なかでもグスタフ・クリムトのコレクションは世界最大です。クリムトのほかにも,シーレ,ココシュカ,マカルトといったウィーン世紀末の絵画が多数展示されています。
2019年には日本で過去最大級のクリムト展が開催されるのだそうですが,私はこうして2019年に来日するクリムトの主だった作品をすでにウィーンで見てしまったわけです。それにしても,日本で開催される美術展はどこも黒山の人だかりで,現地で落ち着いてゆっくり見るとのは段違いです。これでは絵画を楽しむというわけにもいきません。
上宮の絵画を堪能してから,庭園を歩いて下宮に来ました。下宮では,まずプリンツ・オイゲン公の豪華な居室を通ると,再びここも美術館になっていました。下宮の奥まったところには現代美術の展示があったのですが,ここまで前衛になると私にはさっぱり理解不能です。ある部屋には裸体の絵画とともに,体全体を黄色に塗られた全裸の女性が絵画の一部として歩いていたのには驚きました。さらに,別棟があって,そこもまた美術館でした。
ベルヴェデーレ宮殿を出て,ナッシュマルクトまで歩きました。「マルクト=マーケット」というのは食料品市場街です。飲食店もあるので,オペラを見る前にここで軽く夕食でも,と思ったわけです。
市場は2本の並行した広い通りに挟まれた部分に長く延びていて,食べ物なら何でもあるぞ,という感じのところでした。ある意味のみの市と同じような感じですが,のみの市が雑貨も売られているのに対して,ここは食料品の市場で,しかも,常設であるという点が異なっています。さまざまな飲食店もあったのですが,私はこの旅で,いつもとは違って結構「いいもの」を食べ過ぎたので,このころは食事に関してもうどうでもいい状態になっていて,薦められるままに,他に客のいないがらがらの中華料理店に入ってチャーハンとなりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑨-アンカー時計
ウィーンの市街地ホーエルマルクト広場の北東にあるふたつの建物をつなぐ通路に,1911年から1917年にかけて作られた仕掛け時計があります。この時計をアンカー時計といいます。毎時に時報とともにひとりずつウィーンゆかりの歴史的人物が現れるのですが,12時には12体すべての人形が現れるというので,この日私は12時にアンカー時計を見に行くことにしていました。
そこで,午前中,急いで急いで,フンデルトヴァッサーハウス,のみの市,クリムト・ヴィラと巡ったのですが,まだ時間があったので,ハイドンハウスに行くことにしました。ハイドンハウスはのみの市のあった場所に近く,クリムト・ヴィラに行った帰りに寄ることができます。
ウィーンとザルツブルグで,私はモーツアルト,ベートーヴェン,シューベルトと偉大な作曲家の足跡を探してきましたが,ウィーンにはハイドンの住んだ家も公開されていました。少年時代にシュテファン寺院の聖歌隊で歌っていたハイドンは29歳からの30年はウィーンからバスで1時間ほど南に行ったアイゼンシュタットに住んだので,アイゼンシュタットに多くの遺構があるのですが,晩年の10年はウィーンに暮らし,その家が残っているのです。
しかし,この偉大な作曲家の住んだ家はほとんど観光客も訪れることもないらしく,行ったときも私ひとりでした。ハイドンの交響曲は小気味よく,もっとコンサートで取り上げられてもいいと思うのですが,なかなか聞く機会がありません。
ハイドンハウスを出て,アンカー時計に向かいました。
アンカー時計下に着いたのはまだ12時には20分ほど早かったので先に昼食をと思ったのですが,近くに適当なところがなかったので,12時になるのを待つことにしました。やがて時間が近づくと多くの人が集まってきました。12時になるとからくりがはじまりました。からくりはなんと10分余りも続きましたが,一度は見ておきたいものでした。これもまた,ウィーン市街を代表する粋な見どころのひとつです。
その後で昼食をとりました。久しぶりに日本食が食べたくなったので,Akakiko という店に入りました。結構混んでいて,私はそこで焼きそばを注文しました。外国にはよくある,日本食と書かれた,しかし,中国人のやっているようなレストランでした。こういうところは安いことと量が多いということしか特徴はありません。
その後は目的地のベルヴェデーレ宮殿とナッシュマルクトに行くために,市庁舎,国会議事堂の前を歩いて過ぎました。国会議事堂は2020年まで改修工事中で,仮の建物が見学できると「地球の歩き方」には書いてありますが,実は,改修工事中の工事現場にプレハブ作りの建物があって,その中に入ると大きな窓から国会議事堂の前にある女神ニケの像を右手に持つアテナ女神像を見ることができるのです。ほとんどの人はそのことを知らず,通り過ぎていきました。
そして,美術史博物館への途中でマリア・テレジアの像の写真を写しました。
ウィーンで無敵だったハプスブルグ家で有名な女性といえば,1700年代後半を生きたフランツ1世の妻で16人の子を産み国政も取り仕切ったマリア・テレジアと,マリア・テレジアが15番目に生んだフランス革命で処刑されてしまうマリー・アントワネット,そして,1800年代後半にフランツ・ヨーゼフ1世に嫁いできたバイエルン公女・美貌のエリーザベトです。マリア・テレジアの像は自然史博物館と美術史博物館の間の広場にあり,エリーザベトの像は国会議事堂の前のフォルクス庭園にあります。
この3人の女性を知ってウィーンの街を歩くと,さらに興味も増すというものです。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑧-クリムト
私は大した計画も立てず,ただし,現地で困らないように事前に必要な予約だけはきちんと行ってこの旅行をしているのですが,こうした,そのとき次第の行き当たりバッタリの旅行で重宝しているのが「地球の歩き方」です。しかし,これまではあんな重たい本を持っていく気にもならなかったのですが,近頃は電子ブックで手に入るので,それを iPhone に入れて必要なときに見ることができるようになりました。便利な時代です。
「地球の歩き方」のウィーンとオーストリア編には特集があって,そこには,ウィーンのスイーツカタログ,オーストリア料理の世界,ウィーンで聴く極上の音色とならんで,クリスマスマーケットを訪ねてというのがありました。私は偶然にも,こうした特集に載っている時期に旅行ができたので,まったく意識していなかったにもかかわらず,最高にすばらしい旅になりました。
このように,カメラもガイドブックも,さらにはクレジットカードまでもが iPhone で代用できるようになると,パスポートと iPhone -とはいえまだまだ過渡期でクレジットカードと少しのお金は必要ですが- だけを持って,ほぼ手ぶらで町を歩けるようになりました。いずれパスポートも不要になることでしょうが,現状でもこれは楽であり,安全です。しかもウィーンでは公共交通に乗るのにいちいち改札を通る必要もないので,よりストレスがありません。
さて,私が次に向かったのがクリムト・ヴィラでした。ここはウィーンの市街地からは少し遠く -とはいっても,地下鉄U4に乗れば難なく行けるのですが- その場所を地図で探しているうちに,地下鉄U4の沿線にのみの市というものを見つけました。ケッテンブリュッケンガッセイ駅を降りたところに,土曜日の早朝から400店もの店が並ぶということでした。しかもこの日は偶然土曜日だったのです! この旅はあまりの偶然が重なって,自分でも怖くなりそうでした。
のみの市とかマーケットとかには,旅をしているとき曜日があえば必ず行くことにしているのですが,こうした場所は,その町に住む人たちの様子がわかって興味深いものです。日本にも東寺とか高山とか輪島には市がありますが,普段都会ではなかなか目にすることもなくなりました。
のみの市を散策してから,いよいよクリムト・ヴィラに行くことにして,再び地下鉄に乗りました。
クリムト・ヴィラの場所がわかりにくかったので,私はずっとネットで地図を見ながら歩いていたのですが,,思ったよりもはやく着いてしまい,まだ開館時間まで30分もありました。ここは住宅地で時間をつぶす場所もなさそうだったので,さらにネットの地図で近くにカフェでもないかと探してみると,わずか数分歩いた先に「居心地のよい」と書かれたカフェがありました。そこでウィーンの下町のカフェというのもおもしろそうだったので,思い切って入ってみることにしました。
私は,この旅では来る前からずいぶんと想い入れのあったすばらしい場所にほとんど行くことができたのですが,それよりも一番印象に残ったのが,なんとこのカフェだったのです。これは,日本で小さな町に行って,駅前にあった小さな喫茶店に入ったようなものですが,さすがウィーンの喫茶店,すてきでした。
私は覚えたてのわずかなドイツ語でメランジェを注文しました。数席しかない小さなカフェでしたが,ほかの席には地元のおじさんが座って新聞や雑誌を読んでいました。私はこんな街でこうして生活できる人がとてもうらやましくなりました。
やがて開館の時間になったので,カフェを出てクリムト・ヴィラに行きました。
ここはクリムトが最後の6年を過ごした館を再現したところです。グスタフ・クリムトはウィーンに生まれたユーゲントシュティール様式を代表する画家です。アトリエがとても知的で美しく,クリムトの絵も展示されていて,心が満ち足りました。日本の浮世絵が飾られた客間もすてきでした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑦-第3の男
今日まず向かったのがフンデルトヴァッサーハウスでした。画家で建築家のフンデルトヴァッサーが1986年に建築した公共住宅です。「自然との共生」がテーマで作られた奇抜なデザインのアパートを見てみたかったのです。ウィーン市街地の北東の住宅街にあって,地図を見たらミッテ駅まで行けば近くに思えたので,ミッテ駅まで地下鉄U4で行って,そこから歩きました。
ウィーンというのは京都みたいなところがあって,古い歴史があるにかかわらず新しものが好きのようで,こうした独特の建築物ががくさんあります。京都との決定的な違いといえば,公共交通が混雑しておらず非常に便利だということで,地下鉄と徒歩でほぼ何の不自由もなくどこにも簡単に行くことが出来ます。
この建物に限らず,街にはさまざまなユニークなデザインが溢れていました。
次に向かったのがプラーター公園でした。ミッテ駅からは地下鉄U1で次の駅です。この広大な公園はもともとはハプスブルグ家の狩猟場で,のち1873年には万国博覧会の会場になりました。プラーター公園の入口には遊園地があって,この遊園地にある大観覧車が映画「第三の男」で世界的に有名なったものです。
「第3の男」(The Third Man)は1949年製作されたイギリス映画です。舞台は第二次世界大戦後,米英仏ソによって四分割統治下にあったウィーンでした。映画の企画を立案したイギリス人の映画プロデューサー アレクサンダー・コルダは,オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリー出身で,往年の繁栄したウィーンに対する想い入れが荒廃したウィーンを舞台にした映画制作の動機となったと言われているということです。
映画の撮影スタッフと共にロケ地であるウィーンを訪れた制作を担当したリードは,そこでオーストリアの民俗楽器ツィター奏者のアントン・カラスに出会い,カラスの巧みな演奏に感銘を受けたリードは,カラスの音楽を映画のBGMとして起用し,テーマ曲は1950年代最大のヒット曲となりました。映画の登場人物の名前から「ハリー・ライムのテーマ」ともいわれているこの曲は,日本で「ヱビスビール」のCM曲となり,恵比寿駅の発車メロディとして採用されているので,だれしもが知ってるのです。
雪景色がこの公園の並木道をより幻想的にしていました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑥-バウチャー
私は今回の旅で行くまで,ザルツブルグという名前は知っていてもそれがどこにあるのかさえ知りませんでした。しかも,こうして列車で簡単に行くことができるのにはびっくりしました。ザルツブルグに生まれたモーツアルトが子供のころから父に連れられてウィーンやミュンヘン,パリなどに演奏旅行に出かけたという話も,こうして行ってみると,とてもよくわかりました。
いつも書いているように,本の上の知識というのは,実際に行動してみなければ理解できないものです。よく読書の勧めなどと言われますが,それはまったくの嘘です。まず行動することが第一で,その後で読書をするものです。実践も伴わないのに本で得た知識をひけらかしている愚か者になってはいけません。言葉に酔ってはならないのです。ドリル学習で点を取るのが目的なんていうのは論外です。
この時期,どこもクリスマスの飾りで,ザルツブルグもウィーンも輝いていました。無宗教の日本では,外国にあるこうしたクリスマスやハロウィーンなどのセレモニーのすべてを,単に金儲けに利用しているだけだから,要するに,すべてがメッキ,やっていることに哲学も秩序もなく,無理があります。
さて,いつものように,地下鉄U4に乗って,カールスプラッツで降りましたが,ホテルまで戻るのに少し遠まわりをして,カールス広場からカールス教会まで足を延ばしました。ここから少しだけ南西に行けば「ウィーンの胃袋」とよばれる市場ナッシュマルクトに行けるのですが,このときはまだ,そんなことも知りませんでした。カールス教会のまわりもまた,クリスマスマーケットで華やいでいました。教会のまわりはどこもクリスマスマーケットで,これほど歩いていて楽しい街は他に知りません。
ホテルに戻りました。はじめの予定では夜の9時くらいになると思っていたのが,まだ午後7時,ずいぶんと早く戻ってくることができました。
ホテルにチェックインしたときにもらった用紙,もらったときはそれがなんなのかわからなかったのですが,実はホテルの最上階にあるレストランで使える30ユーロのバウチャーでした。つまり,30ユーロ分の夕食が食べられるというわけでした。私はアメリカを旅行することが多かったので,悪どいアメリカ商法に慣れっこなっていて,こういう話はすべて怪しくて裏があると思ってしまうのですが,そうではなく,単にホテルのサービスだったのです。あやうく30ユーロを無駄にするところでした。そこで,この日の夕食はホテルのレストランでプチ贅沢することに決めました。
こうして4日目も終わり,5日目になりました。この日の予定は夜に国立歌劇場で待望のオペラを見ることでした。適当に計画したのに,最後の晩に極めつけのオペラ鑑賞なんて,本当に,この旅は出来過ぎです。
朝,部屋の窓を開けると,雪! そう,雪が降っているのです。何ということでしょう。最終日に雪なんて,さらに出来過ぎです。もしこれが昨日だったら,ザルツブルグに行くこともできなかったかもしれません。この旅ではじめて天気予報を調べると,どうやらこの雪は午前中には止むようなので,まったく心配する必要はありませんでした。今日のお昼間は,これまで行くことができなかったウィーンの見どころをさらに見て回ることにして,早朝ホテルを出ました。いよいよ旅も最終段階です。
カールスプラッツ駅の地下街まで行って,まずは朝食をとりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ⑤-祝祭劇場
ザンクト・ペーター教会に付属してシュティフト・ペッケライというパン屋さんがあります。ここは西暦1200年くらいから続く最古のパン屋さんです。少し入りにくかったのですが,思い切って入ってみると,ちょうどパンを作っているところでした。他に数人の観光客も入ってきて,店員さんにパンを注文していました。私もまねをしてカイザーゼンメルというパンを1個買いました。
カイザーゼンメルのカイザーとは「皇帝」を意味し,パンの上面にある模様が皇帝や王がかぶっていた王冠のようなに見えることからこの名がついたのだそうです。カイザーゼンメルはオーストリアで生まれたパンで,別名を「2時間パン」ともいわれ,焼きたてが特に美味しいパンとして知られています。そこで焼き上がってから4時間以内に食べることが推奨されていて,水平にカットしてそこにハムやソーセージなどの具材を挟んでサンドイッチにするという食べ方がポピュラーなのだそうです。カイザーゼンメルは,特に何ものっていないプレーンタイプの他に,白ゴマや黒ゴマ,ケシの実やひまわりの種などがちりばめられているものも多く食べられています。今では機械でつくっているところが多いのですが,さすがにこのパン屋さんは手作りで,焼き立てのカイザーゼンメルはとても美味でした。
オーストリアは,こうしたパンやメランジェというコーヒーなど,粋な食べ物が多いすてきなところです。
私はわずか半日あまりでザルツブルグの主な見みどころに行くことができたのですが。最後に残ったのが祝祭劇場でした。ウィーンにしてもザルツブルグにしても,クラシック音楽好きでないと,そのよさのほとんどはわからないと思います。南半球での星空観察ツアーにせよ,オーストリアのクラシック音楽鑑賞にせよ,日頃から親しんでいないおのぼりさん観光客が,単に旅行雑誌を読んですてきだと思って観光に来たところで,本当の感動は得られないのです。
私はクラシック音楽がわからない人は人生の楽しみのほどんどを知らずにいるような気がして,とても気の毒に思うのですが,クラシック音楽という禁断の実を食べてしまった人にとっては,ウィーンやザルツブルグというのは,まさに聖地です。その聖地で毎年夏に行われるザルツブルグ音楽祭の会場こそが,この祝祭劇場なのです。
ところが,この劇場がなかなか見つからないのです。地図を見ながら歩いていたら,岩をくり抜いてできた通路に入ってしまって,-そこは駐車場の通路だったのですが- その長い通路を出たら,そこが「馬の洗い場」という場所でした。 「プフェルデの泉」ともよばれるこの場所は,かつては本当に宮廷の馬が洗われていた場所なのだそうです。そこからわずかばかり路地に入ったところが私の探していた祝祭劇場でした。
それにしても,ここでもまた幸運だったのは,この祝祭劇場は午後2時から1回だけ見学ツアーがあったのですが,私はそんなことも知らずにやって来た,まさにその2時に祝祭劇場の入口に着いたことです。そうして見学ツアーに奇跡的に間に合ったのです。
見学ツアーでは,まずモーツアルトのホールに案内されました。その次が,この劇場で最も重要でかつ有名なフェルゼンライトシューレでした。フェルゼンライトシューレはもともと大司教の騎兵学校や厩舎のあったところで,岩壁を削って作られています。映画「サウンド・オブ・ミュージック」でもコンクールのシーンで登場します。最後は大ホール。ステージに上がって楽屋裏を見ることができました。案内はドイツ語と英語でしたが,ドイツ語がわからない私を含めた3人の日本人のために,わざわざ英語の案内をしてくれました。
こうして,はじめて行った,いや,はじめは行く予定もなかったザルツブルグだったのに,行きたかった場所のほとんどに行くことができて,私はすっかり満足しました。帰りも中央駅まで歩いて帰って,行きと同じように長距離特急列車「ジェットトレイン」に乗りました。
ウィーン中央駅で降りるはずが,間違えてそのひとつまえのヒュッテルドルフ駅で降りてしまったのですが,そこからも地下鉄U4に乗れたので,全く問題はありませんでした。
この日もまた,すばらしい1日になりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ④-ホーエン城塞
ホーエンザルツブルク城塞は世界遺産です。日本の情けないような世界遺産とは違って,世界にはすばらしい世界遺産がたくさんあるのですが,そこが世界遺産だということをウリにしているようなところはほとんどありません。私もこれまでずいぶんと多くの世界遺産を見てきたようなのですが,そこが世界遺産だと知ったのは帰ってから,というところがほとんどです。
ホーエンザルツブルク城塞は,1077年神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間に起きた聖職叙任権闘争後に,教皇派の大司教ゲプハルト・フォン・ヘルフェンシュタイン1世が皇帝派の南ドイツ諸侯のカノッサの屈辱への報復を恐れて,市の南端にあるメンヒスブルク山の山頂に建設した防衛施設です。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世「バルバロッサ」によるザルツブルク焼討ちでも焼失を免れ,15世紀後半になるとハプスブルク家,バイエルン公などの周辺諸侯の攻撃や市民の反乱に備えて強化され,鐘楼,薬草塔,鍛冶の塔,囚人の塔,武器庫,穀物貯蔵庫などが建設され,防壁が強化されました。また,ナポレオン戦争によるナポレオンのフランス軍の占領後の1816年からは,ザルツブルク市街とともにハプスブルク家の支配下に入りました。
それほどの歴史がある城だから見どころが満載で,山頂には多くの博物館がありましたが,私はそんな歴史のほどんどを知らないので,まさに,猫に小判状態,単に山頂からの景色に感動しただけだったのが悔やまれます。
長い坂を下りていくと,ケーブルカー乗り場に出ました。登るときは動いていなかったのに,ケーブルカーが動いていたのにはがっかりしました。しかし,ケーブルカーが試運転で動いていたのか実際にサービスをしていたのかは定かでありません。私は,朝,ザルツブルグカードを買うときに今日はケーブルカーは動いていないと言われていたからです。ともかく,私は山から降りてザンクト・ペーター教会に着きました。私が歩いたように,近代美術館から山の裾野を歩きホーエンザルツブルク城塞へ行くのではなく,ザンクト・ペーター教会から墓地を抜けて山に登るのが一般の観光コースらしいことを,このとき知りました。
ザンクトペーター教会は,696年にこの場所に聖ルペルトが僧院を創設したことからはじまります。こうなると,日本の飛鳥や奈良と同等の歴史になります。ここはドイツ語圏で現存する最古の修道院なのです。墓地が隣接していて,この古い墓地は鉄細工の美しい墓碑と花々で飾らていました。また,モーツアルトの姉ナンネルの大きな墓のある場所から「カタコンベ」の洞窟に入ることができました。
「カタコンベ」というのは地下墓所のことです。本来はローマの聖地セバスチアン教会の地下墓所を意味したのですが,のちに普遍化しました。帝政期のたびたびの迫害時にも官憲が破壊しなかったため,キリスト教徒の礼拝の場となりました。キリスト教が公認されたのちは地下の埋葬が行われなくなり,カタコンベは巡礼所となっていきました。キリスト教徒でない私はそんな歴史はまったく知らず,なにかおごそかな,しかし,神秘に満ちたところだという雰囲気しかわかりませんでした。
その隣にあったのが大聖堂でした。この巨大な身廊は長さが101メートルもあるそうで,巨大な丸天井からは光が降り注いでいるのが印象的でした。この大聖堂,モーツアルトが洗礼を受け,指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの葬儀が行われた場所だそうです。 そんな荘厳な場所なのですが,教会前の広場はクリスマスマーケットで多くの人で賑わっていて,急に現実に引き戻されました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ③-モーツァルト
モーツアルトの住居の道の向こうにあったのが三位一体教会で,そこからザルツァッハ川に向かって歩き,マカルト橋を渡ると,いよいよザルツブルグの旧市街に入ります。だれがはじめたか,マカルト橋には恋人たちが幸せを祈って鍵をかけることが流行っているらしく,カラフルな南京錠で彩られていました。旧市街に入ったところに船着き場があって,ザルツブルグカードで遊覧船に乗れるということでしたが,残念ながらこの日は遊覧船はお休みでした。また,このあたりに指揮者ヘルベルト・カラヤンの生家があるということですが,わかりませんでした。
旧市街ははじめてだとなかなかわかりにくいところです。地図では平面ですが,かなりの坂があるのと,路地が入り組んでいるからです。とりあえず,橋のたもとにパンやさんがあったのでここで昼食,として,パンを食べながらどこに行こうか作戦を練りました。
まず行ったのがモーツアルトの生家でした。ここはかなり古びていて,建て直されたモーツアルトの住居跡とは対照的でした。いずれにしても,ザルツブルグはモーツアルトなのです。しかし,モーツアルトが生きていた時代,映画「アマデウス」にも描かれたように,ザルツブルグは大司教が領主を兼ねて統治していて,不自由なところだったようで,そんな町を後に,モーツアルトは自由なウィーンに旅立ったのです。
モーツアルトの生家を出たところからゲトライデガッセという小径が続いていて,狭い通りの両側には隙間なく鉄細工の看板が掲げらているのですが,一番の見ものはマクドナルドの看板でした。その小径は多くの観光客で賑わっていて,その流れは東に向かっているのですが,私は西に歩いて,近代美術館を目指しました。
地図では大した道のりでないのですが,実際は近代美術館は丘の上にあって,メンヒスベルグのエレベータで昇る必要があるのです。こうした乗り物もまた,ザルツブルグカードを使うことができます。私はこの乗り場のあたりで一度このカードを落として,大慌てで探す羽目になりました。いつも思うのですが,捨ててもいいものはいつまでもあるのに大切なものほどなくしやすいのはどうしてでしょう?
美術館はほとんど人もおらず,ザルツブルグには不似合いだと思いました。どうして,こんな場所に前衛芸術の美術館があるのか不思議でした。さらに驚いたのは,かの日本の誇る自称天才写真家アラーキー(荒木経惟)のコーナーがフロア一杯にあったことです。美術館にはオープンカフェが併設されていたのですが,寒くて,そんな場所でコーヒーという雰囲気ではありませんでした。
私が目指したのは町のシンボルであるホーエンザルツブルグ城塞だったのですが,ここに行くには,先ほどのゲトライデガッセを東に行くべきだったのです。それを近代美術館に行ったものだから,私は丘を延々と歩くことになってしまいました。ほとんど歩いている人はいませんでした。しかし,景色がよかったので,それはそれで悪くはなかったのですが,けっこうな距離でした。
ホーエンザルツブルグ城塞はかなりの高さがあって,そんな場所に登れるなどとは思っていなかったのですが,見上げると,城塞には多くの人がいるではないですか。一体どうやって登るのだろうかと思ったら,ケーブルカーがありました。しかし,この日,ケーブルカーは運休していて,実は,その先にあった入口から歩いて登っているのでした。ここまで来て登らないという選択肢はありません。寒さの中,汗でびっしょりになりながら,私もともかく登頂しました。城塞の上にもクリスマスマーケットがあったり,展望台からはザルツブルグの町が一望できて,苦労して登った甲斐があったと思ったことでした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ②-ザルツブルク
ザルツブルグはモーツアルトが生れた場所であり,現在は夏にザルツブルグ音楽祭が行われるところです。
私は今回オーストリア旅行を計画したときには,とりあえずはウィーンだけに行って,次に行くときはザルツブルグに足を延ばそうと思っていました。はじめて行くドイツ語圏のオーストリアで,私がウィーンから列車に乗ってザルツブルグまで行くことができるとは思えなかったからです。
私は3日目にウィーンの現地ツアーに参加したのですが,出発前日本でそのサイトを見ていると,ウィーンからザルツブルグやブタペストへの1日ツアーというものが設定されていました。ブタペストはすでに行ったこともあり,興味はなかったのですが,ザルツブルグは調べれば調べるほどおもしろくなってきて,このツアーに参加してでも行ってみようと思いはじめました。しかし,このツアーはとても高額でした。そのうち,個人で行けば,ツアーの3分の1ほどの値段で,列車を利用して日帰りで行ってくることができるとわかってきました。そこで,わずか4日しかなかったこの旅の1日を割いて,ザルツブルグに行くことに決めましたが,それは正解でした。
ザルツブルグ駅で「ザルツブルグカード」というものを購入すれば,ザルツブルグの見どころはすべて見放題,さらに,ザルツブルグ市内のすべての公共交通は乗り放題になるということだったので,それを手に入れることにしました。私が調べたところでは,このカードは鉄道のチケット売り場の奥にある売店で売られていて,観光案内所には売られていないから注意とありました。しかし,多くの人が間違えるらしく,改善されて,今は,観光案内所で売られていて。鉄道の売店には,ザルツブルグカードは観光案内所で,と掲示されていました。
結局,私は公共交通は利用しなかったのですが,それでも,ほとんどの見どころに行ったので,とてもおトクなカードになりました。
ザルツブルグの旧市街は駅から少し離れているのですが,旧市街自体は徒歩で巡れるほど狭いところでした。私はザルツブルグカードを手に入れて駅の外に出たのですが,ここで方角を間違えました。しばらく歩いても一向に旧市街に着きません。前回ニュージーランドに行ったときと同様に,今回もWifi ルーターを借りて持っていったのですが,それがこのとき役立ちました。Wifiでインターネットに接続してiPhone で地図を起動し,正しい方向に行くことができました。
やがて,ミラベル宮殿が見えてきました。その手前には広い駐車場がありました。
ミラベル宮殿は,1606年に当時の大司教ヴォルフ・ディートリが愛人サロメ・アルトにために作ったもので,現在は市役所や図書館となっていて,大理石の間だけが見学できました。外には広い庭園がありましたが,そこは,映画「サウンド・オブ・ミュージック」のロケ現場だったそうです。
私はこの映画を知ってはいますが,ちゃんと見たことがありません。「サウンド・オブ・ミュージック」はトラップ一家の物語ですが,私はむしろ,トラップ一家がアメリカに亡命したあとで住んだバーモント州ストウの「トラップ・ファミリー・ロッジ」にすでに行ったことがあるので,どうしてオーストリアなんだ? と思ったくらいでした。
ここでもまた私が幸運なのは,映画「サウンド・オブ・ミュージック」が年末にNHKBSで放送されることです。このときにしっかり復習しようと思います。
庭園からはザルツブルクのシンボルであるホーエンザルツブルグ城塞が美しく眺められました。
ミラベル宮殿とその庭園を越えると,そこにあったのがモーツアルトの住居でした。ザルツブルグを流れるザルツァッハ川を越えたところにモーツアルトの生家があるのですが,モーツアルト一家は手狭になったその家からこの場所に引っ越してきたのです。この住居はあとで再建されたもので,当時のものではありませんが,モーツアルト博物館として,充実した展示がされていました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVEⅡ①-レイルジェット
4日目,旅もいよいよ後半です。1日目の夜に到着したので,実質3日目になります。来るまでは,到着翌日の早朝にホテルを発ってザルツブルグに行くという計画だったのですが,それをこの日に変更したことはすでに書きました。
この旅は幸運に包まれていたのですが,その中でも最たるものが天候でした。行きのヘルシンキからウィーンへの機内で出会った人に,この時期のウィーンはさほど天候がくずれないと言われたのですっかり安心していたこともあって,星やオーロラを見にいくような旅では常に天気予報を気にしているのに,今回はまったく無頓着でした。しかも私は,ザルツブルグがウィーンよりも山岳地帯にあって寒いということすら知りませんでした。
そんなわけで,この日も天気のことはまったく気にせず,寒さもまったく気にせず,とにかく,ウィーンから2時間30分ほどかかるというザルツブルクに少しでも早く到着するために午前6時30分の列車に乗ろうと,夜の明けきらぬ午前5時過ぎにホテルを出ました。
ザルツブルクに行くのは,ちょうど東京から大阪に行くようなもので,その長距離特急電車の出発駅はウィーン中央駅でした。オーストリアの長距離特急列車は「レイルジェット」といいます。しかし,ウィーン中央駅とはいえ,市街地にあるのではなく,私の泊まっていたホテルからは歩くと30分ほどかかる場所にありました。ただし,国立歌劇場のあるカールスプラッツ駅から地下鉄U1に乗ればわずか2駅目だったので遠くはなく,ホテルからカールスプラッツ駅まで歩いて地下鉄に乗りました。
到着したウィーン中央駅は思っていたよりもずっと大きくて豪華でした。
さて,ここでもまた,自動販売機でチケットを買うのが大変でした。こんなことは一度経験すれば何でもないのですが,とにかくはじめてというはよくわからないものです。自動販売機にザルツブルグは表示されていないので,その他を押して,そこに標示された検索画面で SALZBURG と入力するわけです。いつものごとくいい加減な私は,このザルツブルクのスペルを知らず,そこから調べる羽目になってしまいました。ザルツブルグのザルツというのは英語のソルト=salt,つまり塩なのです。SA あたりまで入力したらザルツブルグが表示されました。それを選択するとザルツブルグに行く列車の一覧表が表示されました。ウィーンからザルツブルクへは約30分ごとに列車があって,2時間30分程度で到着するものと3時間程度で到着するものが交互に出発します。毎時30分発の列車が所要時間が短いものだということは知っていたので,私はなんとか6時30分の列車に乗ろうとホテルを出たわけです。
その列車を選ぶと,今度は,1等と2等,そして指定と自由の座席を選ぶ表示が出たので,2等の自由席を選択してクレジットカードで支払いました。
こうして無事にチケットを購入して,出発時間まで,駅にあったベーカリーで軽い朝食をとりました。
やがて,時間になったのでホームに行きました。こちらでは,日本のようなうるさい放送は皆無なので,自分で時刻表をみてホームを探し,来た列車に乗ることになります。こんな大人ならだれでもできることすら,日本ではうるさいほどの放送がかかるわけです。
私の乗る列車を探すのですが,ザルツブルグというのは終点ではなく,私の乗る列車の終着駅はミュンヘンだったので,見つけるのに少し手惑いました。それにしても,列車の行き先がドイツのミュンヘン,というのは私には感動的でした。私は60歳を過ぎたらアメリカをドライブする旅からヨーロッパを列車で巡る旅に変えようと若い頃からなんとなく思っていたのですが,そのことは決して夢物語でないと確信しました。なにせ,ウィーンから出る列車で,西に向かうとミュンヘンへ,北に向かうとチェコのプラハへ,そして,東に向かうとハンガリーのブタペストへ簡単に行けるのですから。
乗り込んだ列車は思ったよりは混んでいて,2人掛けの座席が両方とも空いているところはほとんどありませんでした。しかも,やっと見つけた座席は,次の駅でその席を指定した乗客が乗ってきて,譲ることになりました。新たな座席に着いたころ検札が来ました。
混んでいた車内はリンツを過ぎたあたりからは比較的空いてきて,窓から外を眺めると,オーストリア郊外の平原地帯に朝日が昇ってきました。そのうちに外は雪景色となって,私は心配になってきました。それはちょうど,新宿から中央線に乗って信州の山に向かうような感じでした。
やがて9時になろうとしたころ,列車はザルツブルグに到着しました。
「宇宙に命はあるのか」-ロマンの実現は常識を疑うことから
SB新書「宇宙に命はあるのか」を読みました。
著者の小野雅裕という人はアメリカ航空宇宙局(NASA)ジェット推進研究所(JPL)に勤める若い技術者です。どおりで,内容も若々しさに満ち満ちていて気負いがあり,その想い入れは眩しいくらいでした。題名からして,私はこの本は現在最先端の宇宙生命の話なのかと思って読みはじめたのですが,そうではなく,これまでの宇宙開発を振り返り,今後の宇宙開発のテーマである生命探しにまで追求するもので,少し題名とずれがあるように思いました。
いずれにしても,とてもわかりやすい本で,これからこういう方面に進みたい若い人やあまり宇宙開発に詳しくない人が読むと,ずいぶんとためになりそうです。ただし,私には,内容のほとんどはNHKBSPで放送している「コズミックフロント☆NEXT」ですでに取り上げられたものだったので,知っていることばかりでした。しかし,著者のワクワク感は十分に伝わりおもしろく,時間をつぶすにはいい本でした。
エピローグにも書かれているように,この本で著者が言いたいことは「イマジネーションの力」ということです。
私は常々,「夢と勇気と知恵」が大切だと言っていますが,ここでは,この言葉をさらに深めて,想像力から生まれる工夫と言い換えているようです。その根拠は,この本の104ページに書かれているように,常識に打ち勝つことで不可能な技術を可能にするのことができるが,それを成し遂げるにはイマジネーションの力が必要でであることだからです。
私は長年生きてきて,社会で常識と言われていることのそのほとんどは疑ってかかったほうがよさそうだ,という信念をもつようになりました。そうした社会の常識にとらわれて,あるいは頑固にそれを守って,またはそれを越えることをしないで,何と多くの人が自分らしい生き方ができずにいるのだろうか,と嘆かわしく思っています。
芸術でも,現在,傑作といわれ評価されているものの多くは,作られたときには酷評されたのです。評論家やら有識者という人たちは,そうした常識という枠から出ることのできない人たちの集団です。会社という組織で偉そうにしている年配の人たちもまた同様で,おそらく新製品を開発するときに,若い人の奇抜な常識を超えたアイデアのほどんどがそうした頭の固い年寄りに握りつぶされ葬られてきたのだろうことは容易に想像できます。
常識を疑いそれに反抗することことができる強さこそが,これまでの多くの科学技術の進歩につながってきたということは歴史が証明しています。この本はそのことを明確に示しているのです。
☆ミミミ
偉大な飛躍-アポロ11号が月に着陸した日
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑮-楽友協会
夢にまで見たウィーン楽友協会(ムジークフェライン=Musikverein)にやってきました。ウィーンに来るまで,楽友協会で行われるコンサートのチケットをどうやって手に入れるのか,まったく知りませんでした。できればウィーンフィルの定期公演を聞きたいものだと思っていたのですが,私がウィーンに滞在していた期間にはありませんでした。もし行われていても、定期公演のチケットなんて入手できないし,たとえできたとしても,ものすごく高価だという噂しかありませんでした。
楽友協会に限らず,国立歌劇場もそうですが,ウィーンで音楽を聴きたいという日本人を対象として,異常に高い値段が設定されたツアーを行っている旅行社が日本にあります。これは,日本からMLBを見にアメリカに行くツアーと同じようなものです。しかし,8月にフィンランド航空でアイスランドに行ったときに名古屋からヘルシンキまで乗り合わせたドイツのオーケストラでオーボエを弾いているという女性が,チケットなんてウィーンに行けばいくらでもあるのに日本人はものすごく高価な値段でそれを日本で買っている,と言っていました。私はそれを信じて,行ってからチケットを探そうと思っていました。
しかし,心配だったので行く前になってネットでチケットを探すことにしました。それよりなにより,私の滞在しているわずか4日の間に楽友協会でコンサートがあるか,ということのほうがもっと大きな問題でした。調べてみると,さすがにウィーンフィルの定期公演は行われていなかったのですが,幸運にも,NHK交響楽団の首席指揮者でもあるパーヴォ・ヤルヴィーさんが,それもホームグランドとでもいうべきドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団を率いたコンサートを,ちょうど私がウィーンにいるときに行われるということがわかって,それを正規の値段で入手することができました。
こうして私は,はじめて行ったウィーンで,念願の楽友協会黄金の間でコンサートが聴けることになったのです。
開場の時間になったので,建物の中に入りました。ロビーからして,日本のコンサートホールとは全く違っていました。それは,アメリカに行ってMLBのボールパークでベースボールを見るときと同じような興奮でした。簡単にいえばオーラが満ち溢れているのです。こういうとき,その国の文化の底力を知るのです。いかに日本のホールが音響だけはいいといってもオーラがなく,それはやはり仮もののはりぼて文化なのです。
ロビーには正装をした紳士淑女が大勢集まっていました。その中に,わずかばかり,場違いの人たちが存在しましたが,その多くは日本人や中国人の観光客でした。正装しろとは言いませんが,白いスニーカーに鮮やかな原色のダウンジャケットはないんじゃないの,と思いました。センスのかけらもありません。やはり彼らは浮いていました。これこそが,日本のホール同様,体に文化が根付いていないことの象徴なのでしょう。私もはじめて来たので,塩梅というものがよくわからなかったのですが,とりあえずは無難でした。今回来てみてコンサートの様子もよくわかったので,次回来るときにはもっと落ち着いてコンサートを楽しむこともできることでしょう。
開演前は多くの観光客がホール内の写真を写したり,自撮りをしたりと大騒動でしたが,これもウィーンの観光名所と考えれば仕方がないのでしょう。日本に来て大相撲見物をしている外国人のようなものです。かくいう私もたくさん写真を写しました。
この日の曲目は前半はハイドンの交響曲101番 -これは「時計」といわれるものです- とモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第3番で,ヴァイオリンはクリスティン・テツラフさん,そして後半はシューベルトの交響曲第6番でした。ウィーンで聴くには最適な曲でした。この2週間後に聴いた日本公演のことを書いたときに感じたのと同じですが,このオーケストラはとても楽しそうに演奏をするので,思わず引き込まれてしまいます。日本のオーケストラが仏頂面でロボットのように無機質に演奏しているのとはずいぶんと違います。音楽は修行ではありません。
楽友協会の黄金の間は日本の新しいホールに比べれば古く,ある意味骨董品のようなところです。しかし,そこで奏でられる音楽は本当に絶品でした。それは,いわば,日本の最新式一眼レフカメラとライカのフィルムカメラの違いのようなものかもしれません。写真家はこれを「味」というのですが,芸術というものが心に訴えるものであるならば,それは,無機質な完璧さをを最善とするものではないのです。
本当にすばらしい経験をした夜でした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑭-ベーゼンドルフ
実際は,私の泊まっていたホテルの最寄りの駅はカールスプラッツだったのですが,このときだけ,私は地下鉄U4をシュタットパーク駅で降りてホテルに戻りました。まだ,きちんとした位置関係がわかっていなかったからです。でもそのおかげで,市立公園を散歩することができました。部屋に戻ると,まだ,ベッドメイキングが終わっていませんでしたが,私は急いで服を着替えて,再び街に出ました。
ウィーンに来るまで私が一番気がかりだったのが,今晩のコンサートと明後日の夜のオペラでした。一体どういう服装でいけばいいのか? これが難題でした。
私は,日本ではコンサートに出かけるのも,別に服装にこだわっていませんし,多くの観客もまた同様です。しかし,クラシックの本場ウィーンで,観客がどういう服装をしているのか,皆目見当がつきませんでした。このことは以前サンフランシスコでオペラを見たときも悩みましたが,アメリカ故,さほど気にすることもありませんでした。ただし,観客の中にはタキシードを着た紳士もドレスアップした女性もいました。果たして,ウィーンではどうだろか? と,来る前にいろいろと調べてみました。そこに書かれていたのは,まさか,と思うような書き込みばかりでした。それは普段日本で星を見たこともないのに南半球へ出かけて星空観察ツアーに参加するような人たちのたわいもない噂話のようなものでした。
今回の旅行で私が問題にしていたのは,どういう服装をすればいいのか,よりも,コンサートのために別に服装をもっていくことの面倒さの方が大きかったのですけれど,それとともに,コンサートの服装加えて,ウィーンの気候もわからなかったので,防寒具も含めて,服を出したり引っ込めたり,これほど持ち物に苦しんだこともありませんでした。
結局私が落ち着いたのは次のようでした。まず,靴はスニーカーをやめて,カジュアルともフォーマルともとれる革靴を購入しました。これは正解でした。服装は,ネクタイとカッターシャツ,それに,スーツまがいの動きやすいズボンに上着をコンサート用に余分に持って行きました。さらに,2月にフィンランドへ行ったときに持っていったダウンジャケットを加えましたが,これもまた正解でした。
着替えてからのホテルを出て,歩いて再びケルントナー通りに行きました。どこかで夕食をとろうと思ったからです。ふとシュテファン広場を左にまがり,グラーベンを歩いて,H&Mのある小径を入ると,そこでみつけたのが,シューベルトとサリエリの住んでいたという住居跡を示すプレートでした。これまでずっとさがしていたのに見つからなかったこの2枚のプレートを見つけて,私はびっくりしました。そしてまた,これで,私がウィーンの市街地でさがしていた作曲家の住居跡のプレートをすべて探し出すことができました。
そのあとで,私は夕食をとるために,昨日から目をつけていたノルトゼーという店に入りました。ノルトゼー(Nordsee)というのはドイツが発祥の魚介類専門のレストランチエーンです。ファーストフード店とファミリーレストランを足して2で割ったようなところで,ここなら安価で食事ができると思ったからでした。それは確かにそうなのでしょうが,私は注文を間違えて,けっこうな値段になってしまいました。要するに,掲げてあったセットメニューにオプションでいろいろと追加してしまったようなのです。
ともかく,食事を終えて,国立歌劇場を経由して楽友協会に行きました。
国立歌劇場の外にはなにやら客引きのような人たちがたむろっていて,怪しげだったのですが,その中のひとりが私に寄ってきて,今晩オペラ見ませんか,と言いました。要するに,正規のチケット売りだったのです。この日のオペラはチケットがさばけていないようでした。チケット売りは私を単なるお上りさんだと思っていたようでしたが,私が,今日はコンサートに行き,明日はザルツブルグに行き,明後日のオペラのチケットをすでに持っているというと,「参った」という感じで私に対する態度が変わりました。私は,ウィーンではオペラというのは事前にチケットを買わなくても,こうして当日券が買えるのだということを知りました。歌劇場の別の入口では当日売りの立見席のチケットを求める観光客が列を作っていました。要するに,ウィーンにおけるオペラは日本の大相撲観戦,あるいは歌舞伎のようなものなのです。
国立歌劇場からさらに歩いて楽友協会に着くと,まだ時間が早く中には入れなかったので,周りを歩いていると,楽友協会のビルの裏側に見つけたのがヴァイオリン工房と,そのとなりにあった世界的に有名なウィーンのピアノであるベーゼンドルフのショールームでした。ショールームは閉店する10分前でしたが,中に入ってみました。店員さんにあと10分ですがいいですか,と言われましたが,私はピアノを弾くわけではなく様子を見るためだけに入ったので,それでもかまわないと言いました。中ではものすごく上手な人がふたり,ピアノの試し弾きをしていました。
ウィーンというのは,こんなふうに,いたるところに音楽があふれている街なのです。
「ドイツ・カンマーフィル」を名古屋で聴いた-ウィーン再び
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このブログ「オーストラリア旅行LIVE」では,いよいよ去る11月29日,ウィーン楽友協会でパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮するドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴きに行くところですが,早いものであれから2週間が過ぎて,帰国をした私を追いかけるかのように,同じ指揮者と楽団の同じメンバーが12月13日,名古屋で演奏会を行いました。私は,音の違いが知りたくて,この演奏会に行きました。今日はそのお話です。
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私は,ウィーンに行って,すっかり「ウィーン病」にかかってしまい,未だに立ち直れません。外出しても,この日本の,何の美しさも楽しさもない街並みや,混雑しているだけで何のくつろぎもできない喫茶店,意味のない車内放送がうるさくてまったく落ち着けない電車の車内など,うんざりすることばかりです。そんな毎日,なんとかウィーン気分に浸れないかと考えていたときに,日本に帰るまで全く知らなかった,ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団の日本ツアーがあることをパーヴォ・ヤルヴィーさんのツイッターで知って,すぐにチケットを買いました。
また後日書きますが,ウィーンでは演奏されたのはハイドンとモーツアルトとシューベルトの作品でしたが,日本公演では前半がモーツアルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」序曲とヒラリー・ハーンさんのヴァイオリンでモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番,後半がシューベルトの交響曲第8番でした。このオーケストラは小規模編成で,こうした古典からロマン派初期の作品が得意のようです。そこにはウィーンの香りが一杯詰まっていて,とても幸せな気分になります。それにしても,2週間前にウィーンで見た人たちが名古屋にいて,私がその人たちと名古屋で同じ空間を共有しているのが,何かとても不思議な気がしました。
ウィーンと日本とで聴いてみて,その違いを文字にするのは難しいのですが,たとえて言えば,レコードとCDの違いというか,フィルムカメラとディジタルカメラの違いというか,そういった感じです。ひとことで言えば,ウィーンの音には「味」がありました。
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ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団(Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen)はドイツ・ブレーメンに本拠を置く室内オーケストラで,1980年にユンゲェ・ドイチェ・フィルハーモニーのメンバーなど音楽大学の学生が有志となって設立されました。1987年にプロの楽団としてフランクフルトを本拠地に正式に発足し,1992年に本拠地をブレーメンへ移転しました。
2004年パーヴォ・ヤルヴィさんが芸術監督に就任,それ以降,2004年8月のザルツブルク公演でで」ウィーン・スタンダード紙は「昨夏のザルツブルク音楽祭における最高の驚き」と評し,2005年8月のニューヨーク・タイムズ紙は「この夏の一大事件」,ドイツ・ディ・ヴェルト紙は「現代で最高の透明感と感受性を備えたオーケストラ」と表現し,2007年8月にはニューヨーク・サン紙が「今日の信頼できるベートーヴェン・オーケストラ」と絶賛して,短期間に国際的オーケストラとしての存在感を決定づけました。
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このオーケストラですばらしいと思うのは,オーケストラのメンバーがすべて埋没せず独奏者のように生き生きと演奏していることですが,私が最もすてきだと感じるのは,何よりもメンバーがみなとても楽しそうに演奏していることです。コンサートを聴きに行って,こんなに楽しい気持ちになったのはこのオーケストラの演奏会がはじめてです。そして,もし,私に天分があって,ヴァイオリンでも弾けるのなら,こんなオーケストラなら一緒に演奏したいものだとうらやましく思ったことでした。
本当に音楽はすてきです。私は,ずっとこんな音楽に包まれていたいと強く思うこのごろです。
やっと晴れたか?秋2018⑥-再びウィルタネン彗星を見た。
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このブログでは「オーストラリア旅行LIVE」が続いていますが,私はすでに帰国していて,今は星見を楽しんでいます。そこで,今日は「オーストラリア旅行LIVE」を1日お休みして,星の話題です。
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ウィルタネン彗星(46PWirtanen)は12月13日の今日,近日点,つまり太陽に最も接近していて,このところ,地球からも明るく輝いています。しかし,急に寒くなって,強度の冬型で太平洋岸まで雪雲がやってきて,なかなか晴れません。私は,オーストリアから帰国した週末に今度は信州の山まで出かけて,肉眼で見られる彗星を楽しもうと思っていたのですが,残念ながらできませんでした。
今週は晴れるという予報の出る晩を待っていましたが,ついに12月10日,一晩中快晴という予報が出たので,いくら寒かろうと風が強かろうと,星を見たいという情熱はそれを凌駕し,彗星を見にいきました。
ウィルタネン彗星は現在,くじら座の頭部にあって,おうし座のヒヤデス星団とプレアデス星団の間に向かって動いています。この晩は,夜9時ごろには南の空高く昇っていて好条件でした。ただし,そのあたりには明るい星がほとんどないので,都会では彗星を探す目印になる星がありません。
彗星は南の空なので,私が出かけたのは,南の空が暗いいつもの海岸沿いの高台でした。
ここまでやってくると,くじら座の星々をはっきりとたどることもでき,現在極大期を迎えて明るくなったくじら座の有名な変光星ミラも不気味な輝きを放っていました。双眼鏡をくじら座のα星の方向に向けると,すぐに明るい彗星が視野に入ってきました。双眼鏡を使わなくとも肉眼でも確認できるほどの明るさだったので,もし,もっと条件のよい星空ならば,肉眼でその美しい姿に見とれたことでしょう。ただし残念なのは周期彗星であってもほとんど尾がないことでした。
この周期5.44年の彗星は今回非常に条件がよくて,近日点で地球に大接近したので,これだけ明るく見られました。前回の接近では10等星くらいにしかならなかったことを思うと,やはり,彗星と地球の位置関係は明るさにすごく影響するものだと思いました。当然ですが…。ただし,最接近時,彗星は,太陽,地球,その後ろに月,そして彗星という位置関係なので,尾は彗星の後ろ側に隠れてしまっているので,地球からは見られないのです。しかし,この位置関係が幸いして,彗星は一晩中見られるというわけです。
私は,これまで口径75センチ,焦点距離500ミリの屈折望遠鏡にリアコンバーターをつけて焦点距離を360ミリにして視野を広げ,直焦点で彗星の写真を写していました。思うところがあって,現在,180ミリと300ミリの交換レンズで写真を写すことを考えていて,今回,その新しいシステムで写すことにしました。それが今日の写真です。
私は,一部のマニアさんたちのように,お金をかけて機材をそろえ,天体の自動導入にオートフォーカス,そして自動追尾,さらにコンピュータ処理をして写真を仕上げる,というようなことをする気がありません。そんなことにお金と時間を費やすくらいなら,海外に出かけて肉眼で満天の星空を見るほうがより魅力的だと思っているからです。空の汚い日本でコンピュータで見せかけの星空を作り出すよりも,空の暗いところのほうがずっと美しい写真が簡単に写せるのです。そこで,メカにもこだわりたくないので,これまでもあまり話題にしませんでしたが,今日は少しこのことについて書いてみたいと思います。
天体写真を写すのに,普通のカメラと交換レンズというのは無駄が多すぎます。カメラはバルブ撮影ができればいいのだし,交換レンズもオートフォーカスや手振れ補正は必要がありません。数十年前のレンズにはそうした機構がないので,非常に小さく軽い,しかも作りのよいものでしたが,このところ,どんどんとレンズが巨大化しています。それだけ無駄な買い物をしているわけです。狭い日本で走る道もないのに高級車を買うのと同様,愚かなことです。私は,ニコンのサービスセンターでそうした機構のないレンズを今の技術で作ってほしいと要望したくらいです。
そこで,以前から持っていてずっと愛用している180ミりの現行レンズと同じデザインの,現在は廃番となった300ミリレンズを中古で手に入れました。今日の写真はそのレンズの「ファーストライト」なのです。
今後はしばらく,このレンズで彗星や星雲・星団の写真を楽しみたいと考えています。
☆ミミミ
やっと晴れたか?秋2018②-ウィルタネン彗星を見よう。
やっと晴れたか?秋2018③-ウィルタネン彗星を見た。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑬-シューベルト
夜は楽友協会でのコンサートですが,それまでの時間がずいぶんあったので,今日の午後は昨日行くことのできなかった場所に順に行ってみることにしました。それにしても,ウィーンというのはどこを歩いても楽しい街でした。それに,先に書いたように,公共交通が行き届いていて,しかも待ち時間がほとんどなく地下鉄はもちろんのこと,路面電車もバスも走っているので,けっこうなところに簡単に移動できます。これなら出歩く意欲も増すというものです。
昼食を終えて,まず私が向かったのがミヒャエル教会でした。13世紀に建てられたロマネスク様式でありながら高い尖塔が目を引く教会です。この教会で,未完に終わったモーツアルトのレクイエムが初演されました。次にブルグ劇場の方向へ歩いていくと,現在はリング通りとなっている昔の城壁が残っている一角があって,その高台に建っている建物の中にパスクァラティハウスがありました。ここの5階にベートーヴェンが1804年から1815年にかけて暮らした部屋が残っていて,公開されています。それはウィーンにあるベートーヴェン記念館として唯一のものです。古い階段を登っていくとその部屋がありました。残念ながらそれほど多くの展示品はありませんでした。
再びミヒャエル教会まで戻ったところがコールマルクトです。,そこからシュテファン寺院まで歩いていくと,私がずっと探していた作曲家の住んだ住居跡のプレートがついに見つかりました。まず,コールマルクトとミヒャエル教会の角にあったのがハイドンの住居跡を示すプレートでした。その次がショパンでした。ショパンはポーランド人ですが,ウィーンに住んだこともあるのです。こうして見つかり出すと次から次へと見つかるから不思議です。実はそこから伸びるシュピーゲル小径にシューベルトとサリエルの住居跡があるのですが,なぜかこのときは見つけることができませんでした。探すのをあきらめて,ブルグ公園にあるシューベルト像まで行くことにしました。
ウィーンにはシューベルトの生まれた家と亡くなった家がともに記念館となっています。シューベルト像を見たのだからと,今度はそのふたつの家を訪ねることにしました。まず行ったのが亡くなった家のほうでした。こちらはウィーンの市内から南西にオペラ座を過ぎてさらに行ったところにあったで歩いていきました。ところが地図で見ると近そうだったのに意外と遠く予想外でした。というよりも,このあたり,また後日行くことになるナッシュマルクトという市場の近くだったので,地下鉄U4で行けばよかったのですが,私はこの時点ではそういうことをまったく知らず,別の道を歩いていったわけです。
この記念館は普通のアパートの4階にあって,ウィーンの普通のアパート同様に入口でベルを鳴らして開けてもらうようになっていました。ところがベルを鳴らしても応答がありません。調べてみると,私が到着したが午後1時30分ごろでお昼休みだったのです。午後2時から開館ということだったので,しばらくそのあたりを散歩して待ちました。アメリカなら午後2時からといっても正確に午後2時に開くこともないので,ウィーンではどうかな? と思いましたが,時間は正確でした。午後2時に再びベルを鳴らすと開錠されたので階段を上って中に入りました。しかし、期待に反してたいした展示はありませんでした。
次に行ったのが生れた家でした。この家はずいぶんと離れていて,ウィーンの市街地の北西にありました。地下鉄U4からU6と乗り継ぎました。再三書きますが,距離があっても地下鉄だとさほどの時間がかからないのですごく便利です。行きはフォルクスオーパー駅で降りてそこから歩きました。フォルクスオーパーは東京でいうところの日生劇場みたいなとこです。こちらの博物館にはシューベルトが使っていたメガネなども展示されていました。
帰りはその次のナッシュドルファー駅まで歩きましたが,その先に変わった形の煙突が見えました。一見ウィーンの町には不似合いなその煙突は調べてみるとゴミ焼却場の煙突で,ウィーンを代表するアーティストのフンダートヴァッサー作の有名なものだということでした。
地下鉄U6,U4と乗り継いでホテルに戻りました。ホテルで着替えて,いよいよこの後はウィーン楽友協会で行われる待望のコンサートに出かけます。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑫-シェーンブルン
私が参加した現地ツアーの参加者は私を含めて5人でした。残りの4人は新婚旅行2組でした。こういった少人数の現地ツアーは同じツアーに参加する人によってずいぶんと印象が変わるものですが,今回は感じのいい人ばかりだったので助かりました。説明をしてくれたのは大学で日本語を学んだというオーストリア人の女性でした。
マイクロバスに乗ってシェーンブルン宮殿に向かいました。中に入って宮殿のさまざまなな部屋を案内してもらいましたが,ひとりで行ってもなかなかわからないので,こうしたツアーは貴重です。宮殿内は撮影禁止だったので写真はありません。宮殿内を観光しているのはほとんどがツアー客で,それぞれが阿吽の呼吸で次から次へと部屋を移動しては,それぞれのツアーの案内員から説明を受けていました。ということで,個人で出かけると宮殿内でその居場所に困るわけです。ずいぶんと前,フランスのベルサイユ宮殿に友人とふたりで行って,日本人の団体ツアーがいたのでそれとなくそこに紛れて一緒にまわっていたら君たちはこのツアーでないだろう,説明を聞いてもらっては困ると添乗員に言われたことがあります。しかし,それを聞こうと聞くまいとそんなことを言われる筋合いはないわけで憤慨したのを思い出しました。
私の参加したツアーはたったの5人だったからよいけれど,他のツアー -日本人のツアーが多かったのにびっくりしましたが- はみな数十人の大所帯で,今でもこうした昔と変わらないツアーで海外旅行をしている人がいるんだ,と驚く反面,これでは何も自由に観光できないなあ,と気の毒に思ったことでした。
宮殿内を見終わってから我々の少人数ツアーは少し自由時間があったので,裏庭にまわってみました。私は学生時代に世界史を履修していないので,ヨーロッパの歴史はよく知りません。なので,このオーストリア旅行はずいぶんと勉強になりました。今回シェーブルン宮殿のツアーに参加してみて宮殿の様子もわかったので,次に来るときは地下鉄U4に乗って,朝一番に宮殿に入り,この広い宮殿をひとりでゆっくり楽しみたいものだと思ったことでした。
はじめは小貴族だったハプスブルグ家は,1273年にルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたのを期に頭角を現し,政略結婚によってオーストリアに「日没なき大帝国」を築き,第一次世界大戦で敗北して1918年に帝国が崩壊,共和制に移行するまで,650年にわたってオーストリアを支配しました。
このシェーンブルン宮殿は,1743年女帝マリア・テレジアによって大改装され,現在の姿になりました。マリア・テレジアは16人の子供を産みましたが,その15番目にあたるのがフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットです。6歳のモーツアルトが女帝の前で演奏を披露したときにマリー・アントワネットに求婚したという逸話があるのもこの宮殿です。
その後,ハプスブルグ家のマリー・ルイーズと結婚したナポレオンの失脚後1814年に行われたウィーン会議の舞台となったのもここであり,1800年代の後半,フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだシシィの愛称で知られる美貌の皇妃エリーザベトがその美貌を保つために格闘したのもこの宮殿です。そしてまた,1918年,ハプスブルグ家最後の皇帝カール1世が退位文書に署名したのもシェーンブルン宮殿で,そうした場所が今,公開されています。
宮殿を後にして市内に戻り,市庁舎あたりから王宮を散歩しながらアルベルティーナ広場に戻りました。ウィーンはオーストリアの首都なので,このあたりには大統領の官邸や首相の執務室,国会議事堂などもあるのですが,ここは官庁街というより歴史的遺構のような感じなのが独特でした。なお,現在のオーストリアの大統領は経済学者のアレクサンダー・ファン・デア・ベレン74歳,首相は国民に人気のある若きリーダー,セバスティアン・クルツ31歳です。
今回の旅で私は王宮の周りは何度も歩いたのですが,結局その中に入る機会はなかったので,これもまた,次回のお楽しみです。
アルベルティーナ広場でツアーは解散になりました。ちょうどお昼だったので,この日は薦められた広場の横にあるカフェ・ティローラーホーフで昼食を済ませました。このお店は1920年代の伝統的なウィーンのカフェハウス様式が残り,大理石のテーブルでくつろぐ常連さんが多いということです。私はここで名物のアプフェルシュトゥルーデル(アップルパイ)とコーヒーを注文しました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑪-シューマン
3日目の朝になりました。実質1日目だった昨日2日目はウィーンの市内観光をしましたが,私の行きたかった場所は1日にしてほとんど行くことができて,充実した日になりました。今日の予定は午前中はシェーンブルン宮殿への現地ツアー,そして,夜は楽友協会黄金の間でのコンサート鑑賞です。
このところめっきり人恋しくなってしまった私は,個人旅行にも関わらず到着1日目は多少割高でも現地ツアーに参加することにしているのですが,これはこれで個人ではわからない情報が手に入るので意味があります。しかし,昨日はこのツアーが実施されていなかったので,やむを得ず3日目の今日にしたのですが,そのことが逆に,昨日,個人で多くの見どころに行くことができて有意義な1日を過ごせたことにつながりました。
早朝にホテルを出て,街を散策して,ツアーの集合時間前に朝食をとることにしました。まず,私の宿泊しているホテルから南に少し行ったところにマーラーの住んでいた場所があるということだったので,歩いて行ってみました。すぐに建物が見つかって,建物の壁にはそこにマーラーが住んでいたというプレートを見つけました。このあとは,昨日見つからなかった作曲家の住居跡を示すプレート探しです。
とりあえず,今日はまだ公共交通のチケットを持っていないので,72時間乗り放題のチケットを買うことにして,カールスプラッツで地下街に降りました。到着した日に戸惑ったのがうそのように,もう私はそのシステムがわかるようになっていたので,さっそく,地下鉄のチケットの自動販売機で簡単に72時間チケットをクレジットカードで購入しました。クレジットカードも何の問題もなく使えました。そして,チケットを刻印機に通して,さあ,行動開始です。こうしてわかってくると,ウィーンというのはきわめてストレスのない都会だということを実感するようになりました。地下鉄は待ち時間もほどんどないし,改札がないので気軽にどこにでも行けるのです。
私はカールスプラッツから地下鉄U4に乗ってミッテで降りました。このあたりを北東に行くとそこにシューマンの住んでいた住居跡があるはずでした。そしてまた,そのあたりは古いウィーンの雰囲気の残る粋な場所でもありました。シューマンの住居跡も難なく見つかって,そこから少し歩いていたら,昨日夕食をとったグリーフェンバイスルに出たのでびっくりしました。こんなにどこも近いのなら,ということで,私はローテントゥム通りからケルントナー通りと南下して,ツアー集合場所のアルベルティーナ広場まで歩いていくことにしました。ローテントゥム通りは赤くまあるい飾りで見分けがつきます。
簡単な朝食をとるつもりが,ケルントナー通りでちよっと粋なカフェを見つけたので,思い切って中に入りました。そこで様々な朝食メニューがあったので,私はスクランブルエッグとコーヒーの朝食をとりました。
そろそろ時間になったので,アルベルティーナ広場に行きました。途中にシューベルトとサリエリの住んでいたという住居跡があるはずなのですが,このときは見つけることができませんでした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑩-シュニッツェル
さて夕食です。私はこれまで行った様々な場所でいつも適当に食事をとっていて,たまに贅沢をする程度だったのですが,今回はレンタカーを借りなかっただけお金もかからないし,ウィーンという場所の雰囲気が私を優雅な気分にさせたので,今晩は少し贅沢をしてみようと思いました。そこで思い立ったのが,前回書いた「旅するドイツ語」でもやっていたベートーヴェンなどの有名人のサインが壁に書かれているという昔からあるレストランでした。調べてみるとそこはグリーヒェンバイスルという名前のウィーン最古のレストランで,西暦1500年ころから営業されているということでした。場所は先ほど歩いたケルントナー通りを北に進み,シュテファン寺院を越えてさらにローテントゥム通りをドナウ運河の近くまで行ったところで,ウィーンの市街地の北東のはずれでした。私は市立公園を南に歩いて来たので逆戻りになります。しかし,ウィーン市内は徒歩圏内でどこでも歩いて行けるくらいの距離なので,私は再び歩いて向かうことにしました。
レストランは簡単に見つかりましたが,入口がよくわかりません。一旦は通り過ぎて,再び戻り,やっと入口らしきところを見つけたので,意を決して中に入りました。ウィーンのレストランはこのときがはじめてだったので,少し緊張しました。
レストランの作法? は国によってずいぶんと違います。本によればアメリカと違ってウィーンでは勝手に空いた席に座るとウエイターがやってきて注文を取るということらしいのですが,まあ,なんとななるでしょう。オースト<ラ>リアでは,レストランは先に注文して空いた座席に座るという流儀なのを知らずにずっと座っていても注文を取りに来なかったという経験もありますが,オーストリアではどうでしょう? わからなければ聞けばいいだけです。こういうのが経験です。
中に入るとウエイターがいたので「ひとりです」と言ったら席に案内してくれました。このレストランには日本語のメニューがあるそうなので,それを請求すると持ってきてくれました。これでどうやらずいぶんと観光客慣れしたレストランらしいことがわかりました。せっかくなのでウィーン名物,映画「サウンド・オブ・ミュージック」でも歌われたヴィナーシュニッツエル -これはラデツキー行進曲で有名なラデツキー将軍がミラノから持ち帰ったという子牛肉を使ったカツレツですが- を注文しました。ついでにサラダとポテトがつきました。ポテトはフレンチフライ(フライドポテト)とベイクドポテトなどが選べたらしいのですが,フライドポテトでいいでしょう,と言われたのでそのまま返事をしてしまったら,ものすごい量のフライドポテトが運ばれてきて後悔することになりました。
このレストランにはいくつかの部屋があって,私の案内されたのは作曲家をはじめとした有名人のサインが壁一面にかかれたマークトウィンルームという部屋ではなく,初老の人たちのグループが楽しそうに会食をしていた部屋でした。料理が運ばれててくる間,この人たちの様子を見ていたらウィーンの人たちの人生が垣間見られて,興味深いものでした。
やがて料理が運ばれてきました。とてもおいしい料理でしたが,量が多くとても食べきれませんでした。食後にケーキやらコーヒーを進められましたが,もうお腹いっぱいでした。あとで思うに,ここまで贅沢にウィーン風の食事をしたのだから,食後にトルテを食べ,最後にメランジェを飲めばスマートでしたが,この時点ではまだそこまで私はウィーンを理解していなかったのが残念です。
食事が済むとこのお店を紹介する日本語のパンフレットをもってきてくれました。会計を済ませたあとで,マークトウィンルームを見せてほしいというと案内してくれました。そこには壁一面にたくさんのサインが書かれていました。ベートーヴェンはどれかというと指示してくれました。
こうしてすっかりウィーン気分に浸って,私は素敵なウィーンの路地を散策しながら帰路に着きました。
今日は実に充実した1日でした。わずか1日でウィーンでしたいことがほぼできました。はじめの予定どおりこの日にザルツブルグに行っていたら,おそらくこんなすばらしい1日にはならなかったことでしょう。これも,昨日空港から市内に向かうときに期せずして手に入れた24時間ウィーン市内乗り放題チケットのおかげでした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑨-ケルントナー
NHK Eテレの語学番組に「旅するドイツ語」があります。昨年度のこの番組で俳優の別所哲也さんがウィーンを歩きました。私は,今回のウィーン旅行で,この番組で巡った場所を訪ねることにしていましたが,番組の性格上,詳しい場所が説明されていなかったところもあって,探すのに苦労しました。しかし,その甲斐あって,ウィーンの路地裏をたくさん知ることができました。実は,私が今回ウィーン旅行を思い立った動機がこの番組なのです。もし,この番組を見なかったら,私はウィーンに行くこともなかったことでしょう。番組では,ずっとバックにクラシック音楽がかかっていましたが,まさにウィーンを歩いていると,こうした音楽が聞こえてくるような気がしました。おそらく,クラシック音楽に興味がない人には,ウィーンの街の本当の魅力のそのほとんどはわからないのだろうなあ,気の毒に… などといったことを思いながら,私は,美術史博物館を出て,王宮を横切り,メインストリートであるケルントナー通りを歩いてきました。ここは遊歩道になっていて,とても素敵なところです。しかし,世界中のほかの観光都市同様に,この通りにもまた多くの,その中でも特に「声が大きくてサングラスをかけスマホに自撮り棒をつけた」いつもの某国の団体観光客がいて,いわばお上りさんの聖地と化していましたが,ウィーンのよいところは,いくら観光客があふれていてもそれ以上のキャパがあるので,気にならないことでした。それにお上りさんたちは概して芸術に関心がなく,クラシック音楽や美術には無縁なので,私の行きたいところにはほとんどいなかったということもありました。
私が目指していたのはモーツアルトハウスでした。ここは,モーツアルトが1784年から1787年まで住んで「フィガロの結婚」などを作曲したところです。今はこのアパートの4階までが博物館となっていて,その上は一般の人が住んでいます。建物は改装されていますが,階段は当時のままなので,ここではエレベータを使わずモーツアルトも使った階段を登るのが通というものです。
モーツアルトハウスから再びシュテファン寺院のあるシュテファン広場に戻って,とりあえず,シュテファン寺院に入りました。この寺院はウィーンのシンボル的存在で中はすごく広く,内陣は無料です。宝物館や塔,それに地下にあるカタコンベは有料でしたが,私は行きませんでした。次に行ったのがぺーター教会でした。私がペーター教会に行ったのは,そこを目指して行ったのではなく,このあたりにショパンやサリエリ,ハイドン,シューベルトなどが住んだ家の跡があって,そのプレートを探して歩いているうちに,偶然,教会にたどり着いたわけです。この日,私は,結局,プレートを見つけることができなかったのですが,偶然たどり着いたピーター教会で,午後3時にちょうどはじまった無料のオルガンコンサートを聴くことができました。この旅では,このオルガンコンサートだけでなく,多くの偶然に恵まれて,きわめて密度の濃い旅になりました。
こうして多くの見どころを見た最後に,市立公園にある作曲家の銅像をさがすことにしました。市立公園は昨日ウィーンに着いた早々,地下鉄を降りてホテルまで歩いていったミッテ駅のある場所なのですが,昨日は暗く,また,不案内で通り過ぎただけでした。公園に着くとちょうど夕暮れで,紅葉した木々が美しく,すばらしい風景でした。この公園にはシューベルト,ブルックナー,ヨハン・シュトラウス,そして,ベートーヴェンの銅像がありました。
ウィーンは私の大好きな音楽に包まれた街で,この日もまた私は幸せでした。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑧-フェルメール
私は明日3日目の夜に楽友協会のコンサートを聴き,5日目,最終日の夜に国立劇場でオペラを見ることは決めてあって,事前にチケットも入手してありましたから,そのほかにしたかったこと,つまり,中央墓地で作曲家の墓に行くこと,ハイリゲンシュタットにいくこと,このふたつはこうして2日目の午前中に実現してしまいました。
そこで,これからは,ウィーンの見どころを,行きたい順に行ってみることにしました。
そのはじめはフェルメールです。すでにこのブログにかいたように,現在,東京上野の森美術館でフェルメール展をやっていて,その後で大阪に移動して,日本で合計10点のフェルメール作品を見ることができます。しかし,ここウィーンの美術史博物館にある1点のフェルメール作品「絵画芸術」は日本に来ていません。そこで,これを見にいきたかったのです。
ハイリゲンシュタットからずいぶんと歩いてマーラーの墓があるグリンツイング墓地まで行ったので,その帰り道,そこがどこなのかさっぱりわからなかったのですが,路面電車の停留所があったので,そこから電車に乗りました。路面電車に乗ればどこか最寄りの地下鉄の駅に行けると思ったのです。そうして乗って車内で経路図をを眺めているうちに,そのままウィーンの市街地に着いてしまいました。地下鉄に乗るまでもなく,そこは市庁舎の前でした。ウィーンの市庁舎は教会のような建物です。
市庁舎前の広場はクリスマスマーケットで多くの人がいました。私ははじめてウィーンに来たのに,こんな素敵な季節で,どこに行ってもクリスマスマーケットで賑わっていたので,幸か不幸かこれが普段のウィーンだという印象を抱いてしまったのですが,おそらくこのときが特別だったのでしょう。
そのままリングを歩いていくと,美術史博物館に着きました。美術史博物館の前もまた,別のクリスマスマーケットで賑わっていました。
美術史博物館はフェルメールをはじめとして,ブリューゲルやベラスケス,ラファエロなどが所蔵されていて,このときブリューゲルはさらに多くの作品を集めて,特別にブリューゲル展をやっていました。私の最大の目的はフェルメールだったのですが,どこにあるのかさっぱりわかりません。はじめのうちさまよって,やっとフェルメールをみつけました。ほとんど人がいませんでした。ワシントンDCのナショナルギャラリーでフェルメールと見たときもそうでしたが,日本に来るとあれだけ黒山の人だかりになるフェルメールも,こうして現地に来ると,独り占めすることができるのです。私は10分以上フェルメールを眺めていました。なお,こちらの美術館では通常作品を写真に撮ることができます。
この時点でお昼になりました。私ははじめこの美術史博物館内の2階にある洒落たカフェで昼食を,と思っていました。しかし,だれも考えることは同じらしく並んでいたので断念して,3階からカフェの写真をとりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑦-ベートーヴェン
私がこの旅でしたかったのは,中央墓地で作曲家の墓に行くこと,ハイリゲンシュタットに行くこと,そして,楽友協会でコンサートを聞くこと,国立歌劇場でオペラを見ることでした。若いころ,ベートーヴェンの伝記を読んで知ったこうした場所に,今回,本当に行くことができるのが夢のようでした。しかし,来るまでは,市内から南東方向,ウィーンの国際空港の近くにある中央墓地も,市内から北東方向のハイリゲンシュタットもウィーンの市内からはなんだか遠そうで,行けるのか心配でした。
早朝に,まず行ってみた中央墓地は思った以上に市内から近く,路面電車で何の問題もなく簡単に行くことができました。そこで,どこに行くのもこんなに便利なら,今日のうちに行きたいところはすべて行こうと,時差ぼけも吹っ飛んで,急にやる気になってきました。そこで,次に向かったのがハイリゲンシュタットでした。
中央墓地とハイリゲンシュタットは正反対の場所にあります。まず,中央墓地から路面電車に乗って地下鉄U4の乗り換え駅カールスプラッツに行きました。ここで乗り換えて,ハイリゲンシュタットは地下鉄U4の北向きの路線の終点です。ウィーンの地下鉄は数分に1本来るのでほとんど待ち時間がありません。それは路面電車も同じで,どこに行くにも便利,しかも改札がないので乗るだけ,まったくストレスがないのです。日本の改札でSuicaで「ピッ」とやるだけでも面倒だしストレスだということを思い知りました。
地下鉄に乗ると,ここもまた,思った以上に短い時間で,ハイリゲンシュタット駅に着きました。ベートーヴェンが書いた「ハイリゲンシュタットの遺書」として有名なこの場所にはベートーヴェンが散歩をしたという小径やベートーヴェンが住んでいた家があるそうです。地下鉄のハイリゲンシュタット駅から再びバスに乗ると書かれていましたが,地図を見るとさほどの距離でもなかったので,歩くことにしました。駅を出て,まず目についたのがカール・マルクス・ホーフという変わったデザインの労働者住宅でした。そこを過ぎて,さらに歩くと,やがて,ベートーヴェンの小径に出ました。
ここに来る前の10月24日,NHK交響楽団の定期公演のFM放送で解説者の先生がちょうどこの日の演奏曲目だったベートーヴェンの交響曲第6番「田園」のことを話していて,このベートーヴェンの小径を取り上げていました。思った以上に小さな小川ですよ,と言っていました。私がその1か月後にその場所にいるのがなにか信じられない思いでした。歩いていると自然に頭の中に「田園」が流れてきました。ベートーヴェンの小径を過ぎて,さらに行くと,かつてベートーヴェンが住み,ハイリゲンシュタットの遺書を書いたという家に着きました。なかに入って見学しました。ベートーヴェンが実際にかぶった帽子もありました。
ベートーヴェンハウスからの帰り道,少し距離があったのですが,グリンツィング墓地にグスタフ・マーラーの墓があると地図に書かれてあったので,行ってみることにしました。結構な距離でしたが,この期を逸しては行くこともないだろうと歩きました。やがて普通の墓地に着きました。ちょうど墓地では葬送の行列があって死体が運ばれていき埋葬されるところで,日本ではありえないその状況が私にはかなりの衝撃でした。墓地は広く,観光用のところでもなかったので,めざすマーラーの墓がどこになるのかさっぱりわかりません。やっと入口に案内板を見つけて,埋葬者リストをよく探して,なんとかマーラーの墓の場所を見つけました。その斜め奥には奥さんだったアルマの墓もあるということだったのですが,場所がわかりませんでした。マーラーの墓は訪れる人もないようで,中央墓地にあった作曲家の墓とは大違いで1本の花もない小さな墓でした。
ブルックナーがリンツ郊外にあるザンクト・フローリアン修道院の地下に手厚く葬られているのとは対照的に,この偉大な作曲家であり指揮者であったマーラーのこんな小さくさびしそうな墓を見て,マーラーの晩年のウィーンでの評価とそのお墓の姿に私は悲しくなりました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑥-中央墓地
ウィーンの中央墓地はもともとは市内5か所にあった墓地を一緒にしたものなので,ベートーヴェンやシューベルトがはじめからここに葬られたものではありませんが,今は中央墓地の名誉地区という第2門を入って少し歩いた左手に音楽家の墓が集められています。
路面電車の71番は最終目的地が中央墓地の第3門で,私の行きたい音楽家の墓はそのひとつ前の停留所でした。しかし,中央墓地は午前8時に開門するということで,このまま向かっても少し早すぎました。そこで,この同じ71番で,もう少し手前のザンクト・マルクスという駅で降りると,そこから少し歩いたところにモーツアルトの墓のあるザンクト・マルクス墓地があって,そこは午前6時30分に開門するということだったので,先にそちらに行くことにして,電車を降りました。
降りたあたりに墓地への標示があったので,それを頼りに歩いていくと,すぐに墓地の門がみつかりました。
モーツアルトは映画「アマデウス」にも描かれたように,その死に際して,無残にもこのザンクト・マルクス墓地のなかの共同墓地に葬られたので正確な埋葬場所はわからず,後世,この墓地の奥まったところに墓碑がつくられらたのです。朝早く,辺りは静寂に包まれていて,モーツアルトの墓碑が美しく輝いて見えました。私の頭の中にはモーツアルトのレクイエムが流れました。これ以来,私はモーツアルトを聞くたびに涙するようになりました。
そこをあとに,再び路面電車に乗って中央墓地に向かいました。
停留所を降りたところに大きな門がありました。まだ8時前でしたがすでに門は開いていました。手前右側には花屋さんが軒を並べていました。早速門をくぐって並木道を歩いていくとやがて第32A地区に着きました。この地区にはベートーヴェン,その横にシューベルト,さらに,ブラームス,シュトラウス親子などの墓が並んでいて,それぞれの墓にたくさんの花が添えられていました。
思うに,この世に,こうした作曲家の作った音楽がなかったとしたら,生きている喜びのずいぶんと多くのものがなかったことでしょう。そう思うと,こうした作曲家を生んだウィーンという地に私は改めて感謝しました。
音楽家の墓を左手にして前方にカール・ルェガー教会が見えます。そこに向かって少し歩いたところの右手にあったのが,物理学者ボルツマンの墓です。墓碑にはボルツマンの関係式 S=k logW が刻まれていました。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE⑤-マクドナルド
ホテルのチェックインを済ませて,様子見に一度外に出ることにしました。私の今回宿泊したホテルはなんと五つ星でしたが,宿泊代がアメリカの3分の1ほどとものすごく安く,来るまで信じられませんでした。場所もまた便利なところで,国立歌劇場も楽友協会も徒歩圏内でした。このように,ウィーンは私には意外続きでした。ホテルのすばらしさもまた,夏に行った最悪のアイスランドとは雲泥の差でした。
とはいえ,着いたばかりで,外に出ても位置関係がさっぱりわかりませんでした。距離感がつかめないので,ともかく土地勘が目覚めるまで散策,これが私が長年培ってきた旅のコツです。こうして暗く寒い夜の街をさまよい歩いて,次第に地図と実際が一致してきたので,最後に,ホテルの目の前にあったマクドナルドでハンバーガーと水をテイクアウトして部屋に戻りました。機内で食事は済ませてあったのですが,時差の関係で1日が長く,軽い夕食をとることにしたのです。
2日目の朝になりました。今日は早朝にホテルを出てザルツブルクに行くことにしていましたが予定変更です。
時差のために,しかもうかつなことに行きの機内で寝てしまったのが災いして眠たくならず,あまり,というかほとんど夜は寝られず,こんなことで遠出をするのもどうかと思ったことと,せっかく意識しないで買ってしまったチケットが24時間市内エリア乗り放題チケットだということが解読できたおかげで,今日はこれを活用しない手はないと思い直して,市内観光に変更したのです。考えてみれば,昨日誤って購入してしまったチケットは,旅行者用にはとても便利なものだったのです。
こうして,予定を変更したのが,この旅のこれから起きるすべての幸運のはじまりでした。
昨晩散策した結果,街の位置関係がわかってきたので,まずは復習。まだ朝早かったので,観光に出かける前に,楽友協会と国立歌劇場あたりまで散歩をしました。その帰りに,昨日の夜同様に,マクドナルドで朝食を済ませました。わからないうちだけは安価なマクドナルドで腹ごしらえです。とはいえ,ウィーンのマクドナルドはメニューが豊富で「マシな」スクランブルエッグの朝食が食べられました。
朝食を済ませて一度ホテルに戻り,いよいよ観光に出発です。
私の旅の3鉄則は,行きたいところから行く,行くのに困難なところから行く,混雑する前に行く,というのです。そこで,今日はまず,もっとも行きたかったウィーン中央墓地です。中央墓地までは,偶然にもホテルの近くの駅を通る,路面電車71番で直接行くことができました。このころにはウィーンの公共交通のシステムも理解できるようになっていて市内エリアもわかりました。それは,路面電車とバス,地下鉄Uバーンで行くことができる場所は全て市内エリアだということです。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE④-ウィーン到着
ウィーンに到着してからが大変でした。はじめて来たのでさっぱりわからずドイツ語もわからず戸惑いました。
事前の予習では,空港からSバーンという近郊列車に乗って約20分,ウィーン市内のミッテといういわば品川駅みたいなところ(品川駅よりはずっと小さいけれど)で降りて,そこから地下鉄のU4に乗り替えて2駅目のカールツプラット駅で降りればホテルに行けるということでした。
ウィーンの公共交通は市内エリアであればバスも路面電車も地下鉄も近郊列車も共通の24時間,48時間,72時間,さらには1週間といった期間制限の乗り放題チケットがあって,それは自動販売機で買えるということでしたが,空港は市内エリアからちょっとだけ外れているので,乗り放題チケットだけでは乗れません。そこで別料金のチケットを買う必要があるということなのですが,これがよくわかりません。そもそも市内エリアといっても,明日から私が行きたいところが市内エリアに属しているかかどうか調べてもよくわかりませんでした。私が出発前に調べた時点では,どこまでが市内エリアなのかさっぱりわからなかったのです。
そこで,到着したこの日は,ともかく空港から市内までの1回券を買ってまずはホテルまで行くことにしていました。そして,翌日は早朝に起きてウィーンから長距離特急列車で2時間30分のザルツブルクまで遠出をして,オーストリア慣れたところで,最後の3日を72時間市内エリア乗り放題チケットを買って市内観光をすることにしていました。
この日私が普通に駅の自動販売機でチケットを買っていれば,おそらくその予定で進んだのでしょうが,空港を出た通路から近郊列車の駅に続く坂道の通路の手前に近郊電車の案内窓口があったので私はそこに吸い寄せられて,窓口の横に併設されていた普通のとは違う自動販売機でチケットを買ってしまったのが大間違いでした。こんなところに吸い寄せられなくてもそのまま駅まで降りればちゃんと自動販売機があったのです。
そうとも知らずこの自動販売機で格闘するはめになりました。まず,この自動販売機は私が予習をしてきたものとは違いました。適当にボタンを押して購入してしまったのが,あとでわかったことに,空港から市内までに加えて市内エリアの24時間乗り放題つきのチケットでした。しかしこの時点ではそんなことわかりませんでした。市内までの片道にしてはえらく高いなあと思ったのですが,その理由がこれでした。おまけに自動販売機がクレジットカードを読み取ってくれない,いや,おそらく私の操作方法が間違っていたのでしょうが,現金で買いました。通常とは違うこのチケットにははじめから有効期限が印刷されていたのですが,そんなこともわかりません。なにせ,着いたばかりの私には「通常」というものがわからないのです。
電車の駅に改札のないウィーンでは,「通常」は,チケットを買ったらはじめに使うときに駅の入口にある刻印機に通して日にちを印刷しないといけないというシステムです。しかし,私の買ったチケットはそうした刻印をしなくても大丈夫なのかが心配になりました。私の買ったチケットは大きくて刻印機に通りません。しかし,チケットにはドイツ語しか書かれておらず,どうすればいいのかさっぱりわかりません。聞けばいいだろう,と思うかもしれませんが,駅員なんてひとりもいません。何事も過保護な日本とは違うのです。
不安をよそに,まあなんとかなるわとそのままホームに降りて,止まっていた電車に乗りました。ここは始発駅なので,どの電車に乗ってもウィーン市内に行けるというのは予習どおりでした。車内では,隣にも私と同じチケットを持って心配そうに乗っていた人がいたので,これで同罪だと,なぜか安心しました。ガラガラの車内で約20分,ミッテ駅に着きました。今度はミッテ駅で地下鉄U4に乗り換えようと地下鉄のホームまで行って電車を待っていても,一向に電車が来ません。そのうちにスタッフの制服らしきものを着た女性が近づいてきて、今日はこの路線の私の行く方向は運行していない(運行が終了した)というではないですか。私の混乱はさらに拍車をよび,しかし,どうにもならないので,ミッテ駅からホテルまでは1キロメートル,大した距離でもないので歩くことにしました。
思っていたほどの距離はなく,20 分ほどでホテルに着きましたが,ホテルのチェックインがまた大変でした。フロントでは英語は通じるのですが,部屋のキーカードとともにくれたなにがしかの用紙に書かれていたのがドイツ語のみで,その用紙が何モノなのかわからなかったのです。
こうして,はじめからとまどうことだらけの一日でしたが,それでもなんとかホテルにはたどり着きました。そして,この夜は部屋でネットを使って購入したチケットとフロントでもらった用紙に書かれたドイツ語の解読に明け暮れることになったのでした。これでも大学ではドイツ語選択だったのですが…。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE③-マリメッコ
ヘルシンキのヴァンター国際空港はアジアとヨーロッパを結ぶ便が増えていて随分と手狭になっている感じで,現在拡張工事の真っ最中です。
ヘルシンキでのトランジットはどこへ行くにも待ち時間が短いので便利ですが,そのために時間つぶしに空港内を散策することも私はこれまでほとんどなかったので,何度来てもヘルシンキのヴァンター国際空港がどうなっているのか掴めません。今回もまた,さほどの待ち時間もなく乗り換えなのですが,せっかくなので,少しだけ散策してみました。フィンランドといえばサンタクロースにムーミンにマリメッコですが,コンコースにはそれらに関するお店が充実していました。
ヘルシンキからウィーンまでは2時間30分のフライトです。出発ゲートから旅客機まではバスでの移動でしたが,今回乗ったバスは,あの,前回見たボディ一面にシベリウスの曲が書かれた「シベリウスバス」でした。車内もまたシベリウスの曲で埋め尽くされていました。
セントレアからヘルシンキとは違って,ヘルシンキからウィーンに向かう機内はずいぶんと混んでいましたが,この程度の飛行時間ならさほど問題はありません。
10月に行ったニュージーランドのクライストチャーチも,オーストラリアのブリスベンから乗り換えてさらに3時間30分くらいかかりましたが,東京からブリスベンまでは,セントレアからヘルシンキまでと同じくらいの時間です。このように,どこへ行くにも中途半端に遠い日本からの海外旅行は,はじめのフライトが9時間程度で,そこでトランジットして次に2時間から3時間くらいのフライトならなんとかなります。このようなわけで,アメリカに行く場合も,一度シアトルで降りてトランジットする方がずっと楽なのです。だから,いきなり12時間もかけてデトロイトに行くとか,ニュージーランドに直行便で行くというのは本当に辛い限りです。しかし,こんな弱音を吐いていては私はイースター島もウユニ塩湖も行かれません。
現地時間午後6時30分,ついに私は生まれてはじめてウィーンに到着しました。まだ夕方なのに外は真っ暗でした。ウィーンは寒く湿度が低いとのこと。あっという間に喉はカラカラになって風邪をひくそうです。
特別編・2018秋オーストリア旅行LIVE②-北極圏
名古屋とヘルシンキは時差が7時間,ウィーンは時差が8時間あります。したがって,今回ウィーンへ行く私は,今日は32時間あるのです。アメリカへ行くのとは違って,行きは西に向かうので,地球の自転に逆らう,つまり,自転と反対方向に飛ぶことになります。自転速度と飛行機の速度はほとんど同じで約1,000キロメートルなので,機内では時間がほとんど過ぎません。1日が8時間間延びするから,ウィーンにも到着したあと、体感上少し遅く8時間余して夜になるので,行きの機内で眠らなければホテルに着いてからゆっくりと眠ることができるので,ヨーロッパへのフライトは楽なのです。
一方,これがハワイへ行く場合だと,時差がなんと19時間もあるので,1日が43時間あって,しかも行きは6時間程度の飛行時間で着いてしまうので寝る時間がなく朝になり,到着したときに辛い思いをします。また,帰りは,赤道近くを飛ぶのでジェット気流の影響をもろに受けるため,飛行時間が9時間以上と,西海岸に行くのと同じくらいので時間がかかってしまうから,日本人がハワイへ行くのは,ほかのどこに行く以上に過酷なフライトになるのです。
フィンランド航空はエコノミークラスに少しお金を払うだけでコンフォートにグレードアップされますが,このコンフォートはからがらでした。私は進行方向に向かって右側の窓際の席をとりましたが,隣は空いていて2席を独占できました。離陸後ずっと外を見ていたのですが,そこに見えたのは満月を過ぎた月でした。先に書いたように,機内では時間がほとんど過ぎないので,月は離陸後から着陸までずっと同じ場所に見えていました。
この時期は冬至に近いので,北極圏はほとんど極夜です。飛行機は,北極圏すれすれを飛んでいたので,左側の席から見える南の方向はお昼間で,私のいた右側の窓から見える北の方向は夜なのです。実際に体験すると,本当に自然はすごいものだと感じます。今年2月に行ったときのフライトでは,冬至をとっくに過ぎていたので,シベリア上空はずっとお昼間だったのですがシベリアは雪に覆われていました。8月にアイスランドに行ったときも同じ経路を飛びましたが,雪がなくまったく景色が違いました。
白夜といえば,私は大きな誤解をしていました。8月はもう白夜ではないから夜は暗いと思っていたのですが,アイスランドの8月は,陽が沈んだあともずっと空が明るいのです。私はそれを体験して,うっかりしていたことに気づきました。北極圏では陽が沈んだとはいえ,太陽は地平線の下すれすれを通っていくのです。つまり,沈み切らないので,一晩中ずっと夜明け前の白みはじめた状態だったのです。まだ経験したことがないのでわからないのですが,おそらく同じように,極夜といっても空は真っ暗にはならないのでしょう。一度は経験してみたいものです。
北極圏上空の空はお昼間とはいえ薄暗く,離陸してから機内はずっと夜のようなのですが,実際の時間は午後2時くらいで,ここで寝てしまうと今晩寝られないということになります。私はいつものように iPhone にノイズキャンセリングのイヤホンで音楽を聴きながらダラダラと過ごしましたが,迂闊にも眠ってしまったようで,1日目の夜に寝られなくなって困りました。フィンランド航空のエコノミーコンフォートにはノイズキャンセリング付きのヘッドフォンがついているのですが,これでは宝の持ち腐れです。
機内のディスプレイに表示されている運行経路図はメルカトル図法なので,シベリア上空の距離が実際よりもかなり長くなっていて,しかも,日本からロシアに向かうあたりは図法の性質上長く描かれるので時間の割に進んでいないように感じるのですが,ロシア上空になると今度は逆に短く描かれていて,あっという間にフィンランドに到着です。
こうして私は2月,8月に続いて3度目のヘルシンキに降り立ちました。今回もまたフィンランド航空は食事も適量でおいしいし,食後にはコーヒーも出てくるし,入国時に意味ない書類も書かなくていいし,快適でした。