しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2019

 私は,アメリカ合衆国50州制覇,などという自己満足の目的を掲げたために,アメリカの観光地でもない地方まで旅行をしていました。そこでは,一般に旅行客が行かない,だから知らないアメリカの日常に多く接する機会があったのですが,そんなときいつも,アメリカは(いや,おそらく世界は)これほど変わってしまっていたのか! という衝撃を受けました。そして,日本に帰るたびに,古いままで世界から遅れた日本という狭い世界を嘆き,浦島太郎のようなショックを受けました。
 アメリカでは,国内線の機内でみな iPad のようなタブロイド機器で本を読んだり仕事をしたりしていて,紙媒体の新聞や雑誌,そして本などを読んでいる人ををまったく見なくなりました。当然,ホテルやフライトもインターネットで予約して,名前さえ告げれば,あるいはパスポートさえ見せればそれで事足りました。支払いもすべてクレジットカードでできて,現金はほとんど必要ありませんでした。
 それなのに,日本国内はもとより,世界の観光地で見かける日本人を見て驚くのは,未だに「紙の」新聞を読んでいる姿や,現金で買い物をしている姿でした。今や,どこに行ったってインターネットで日本の新聞など読めるし,電話もできるし,お金だって両替さえ必要ないほどクレジットカードで十分なのですが,海外に出てもそうした世界の変化とは無縁の人々が多く存在しているのです。

 そんな日本の姿を最も象徴しているのが学校です。今や,インターネットで調べればほとんどのことはわかります。昔のような,教室で静かに座って教師の話を聞くような学校など不要なのです。極論すれば,iPhone さえ使いこなせればそれで事足りるのです。なのに,30年前と何も変わらないのが,完全に形骸化された日本の学校教育なのです。
 たとえば,文法と現代語訳を暗記するだけなら,そんな古典の学習は不要です。現代語訳など授業で眠い目をこすりながら聞かなくても,ネット上に優れたものがたくさんありますし,解説もいくらでも見つかります。そもそも,授業の直前に教えることを予習しているような,そんな程度の力しかない教師がいるとしたら,それはプロの仕事ではありません。こんな有様だから,日本という国は教育に無駄なお金と無駄な時間を費やすことにかけては世界一の国に成り下がっているのです。
 車の運転ができて,コンピュータを自由に活用できて,外国語でだれとでもコミュニケーションができて,料理が作れる。その上で,お金が稼げる自分なりの人にない能力を持っている,という,生きるのに最も必要な能力は旧態然とした学校ではまったく身につきません。あるいは,人が人として生活を楽しむための,音楽を聴いたり,旅行をしたりしたときにそれを楽しめる教養や歴史の知識すら,それらを得ることが困難なのです。
 そうしたすべてのことは健康であることが大前提ですが,健康でさえあれば,将来楽しい日々をすごすために必要な能力を,時間と可能性のある若い人は少しでも多く身につけることが大切なのです。そうしたことを身につけなければならないのに,この国の教育はそのひとつも身につかず,相変わらず,ドリル学習をしてその結果テストをして順位争いをしているだけです。センターテストでいかに難問を出題しようと,テストが終わった瞬間に忘れ去るようなそんな作業は時間の無駄なのに,それを高等学校の3年間もかけてやっているのです。
 国は教育にお金をかけなさすぎなのに,つまらない制度改革ばかりでお茶を濁しています。今時,コンピュータすら満足にないような学校は,もはや,「学歴」というブランドを手に入れるためだけにあり,いくら昔ながらの順位争いをしたところで,これからの社会で生きぬくことはできません。それが「学歴」というブランドの実態なのです。新聞紙上をにぎわしている官僚の不祥事は,そんなブランドを手に入れただけで,実際は優秀でもない人材の集まりだからかもしれません。

 世界一高齢化の進む日本,どこで災害が起きるかわからない日本では,家は借りるに限ります。ほとんど住む土地もないのに,わずかな隙間をみつけては分譲住宅を建てて購買欲を煽り,それを買った人は家賃と同じくらい高価な固定資産税を毎年払い,その上住宅ローンに追われるわけです。そして,売りたいときには買い手もなく,たとえ売れたとしても,税金で利益の2割も取られます。このように,手に入れた家は将来,財産どころか負債となるのです。
 インターネットの普及で顧みられなくなりつつある従来のマスメディアの代表・テレビは見てもらわないと困るから,そして,もはや存在意義さえ不明になりつつある雑誌は売れなければならないから,どうでもいいようなことを大げさに騒ぎたて,時代に乗り遅れ,昔の価値観で生きているそれを見たり読んだりした人は,さもそこで知った話題を,喫茶店で自分の意見のように人に話しているのです。会議など時間を割いて集まらなくてもネットでできるのに,日本の会社は働き方も昔のままだから,依然としてほとんど休みもなく働かされて,帰りに飲み屋で飲むことだけが楽しみで,年に1度1週間海外旅行をする休みさえなく,やっと訪れた週末は混雑しているだけの観光地に行くか,近くのショッピングセンターをうろうろするくらいしか過ごす場所さえないありさまです。
 そんな,今や時代遅れの価値観が未だに幅を利かす「日本」という腐りかけたブランドは,そうした現実の上に成り立っているのです。

 このブログを書いたあと,1月30日の朝日新聞のオピニオン&フォーラム欄に「敗北日本 生き残れるか」というインタビュー記事がありました。私と同じようなことを思っている人がいるんだなあ,と思いました。
 曰く「(前略)18歳から29歳では(今に満足していると答えている国民は)83.2パーセントですよ。心地よい,ゆでガエル状態なんでしょう。日本全体は挫折状態にあるのに,挫折と感じない。この辺でいいや,と思っているうちに世界は激変して米中などの後塵を拝しているのに,自覚もできない。カエルはいずれ煮え上がるでしょう」と。

◇◇◇
ブランド品とはそういうもの①-魚の釣り方を教えることが
ブランド品とはそういうもの②-ミッキーマウスの人?格
ブランド品とはそういうもの③-二分化する社会

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●「スキヤキ」…再びドジャースタジアム●
 幸せな気分でウィルソン山からロスアンゼルスのダウンタウンに戻ってきた。今回の私のアメリカ旅行もいよいよ最終章である。結局,一番の目的だったパロマ天文台の望遠鏡は見ることができなかったが,それ以外は思った以上に成果のある旅となった。明日ロサンゼルス国際空港から帰国するので,この日はロサンゼルスの空港の近くに宿泊先を予約してあった。あとは翌日のフライトに間に合えばいい。
 この日,早朝サンディエコからロサンゼルスに戻り,ウィルソン山天文台へ行ったことはすでに書いた。このあとの予定は,ロサンゼルス・ドジャースのナイトゲームを見に行くことであった。前回見たゲームの最中にこの日のゲームの先発が前田健太投手であることを知って,チケット購入しておいたのだった。

 私はロサンゼルス・ドジャースというチームには特に思い入れはないのだが,生まれてはじめて見たMLBがこのロサンゼルス・ドジャースのゲームだったことと,このチームには,以前,野茂英雄投手が日本の野球から決別して入団し,大成功を収めたことから,他の多くのチームよりも親しみがある。
 今ほど日本でMLBを見る機会がなかった昔のこと,読売新聞が主催して,数年に一度,シーズンの終了後にMLBからひとつのチームが日本に物見遊山でやってきて,日本のプロ野球チームとエクスビションゲームをした。中でもよく来日したチームがロサンゼルス・ドジャースであった。そのころのロサンゼルスは,今よりもずっと日本には身近な都会であった。

 野茂英雄投手が活躍していたころのロサンゼルス・ドジャースの監督はトミー・ラソーダであった。
 トミー・ラソーダ(Thomas Charles Lasorda)はペンシルベニア州出身の投手であった。1944年にフィラデルフィア・フィリーズに入団,1949年にブルックリン・ドジャースに移籍し,1954年にメジャーデビュー,1956年にはカンザスシティ・アスレチックスに移籍したが,メジャーでは3シーズンしかプレーせず,通算成績は0勝4敗と1勝もできなかった。 しかし,ドジャースのフロントは,面倒見のいい彼をマイナーチームのコーチに就任させ,1977年にドジャースの監督になった。その後,1996年に健康上の不安を理由に自ら辞任するまで,なんと20年にもわたってドジャースの監督を務めた。「私の体にはドジャーブルーの血が流れてるんだ」という言葉は有名である。
 監督としての通算成績は1599勝1439敗。地区優勝8回,リーグ優勝4回,ワールド・シリーズ優勝2回を誇る。
 1995年にメジャーリーグに挑戦した野茂英雄投手をドジャースが契約して以来,ドジャースの監督として日本でも有名になり,幾度となく来日して日本製品のCMに出演するなどした。「長嶋茂雄と星野仙一は私の兄弟。野茂英雄は私の歳の離れた息子」と豪語したという。

 ドジャースタジアム内を歩くと,今もなお,野茂英雄投手の足跡がたくさん残っているのが私にはうれしいことだった。私はその当時はアメリカに行くことが今のように簡単でなかったから,一度は見たいと思っていた野茂英雄投手のドジャースタジアムでのマウンドで投げる姿は,ついに見ることはできなかったが,なんとかセントルイスまで追っかけていって,登板するまで滞在し,投げる姿を見ることは実現したのが,今となってはよい思い出として残っている。その代り,今回,前田健太投手をドジャースタジアムで見ることが実現した。
 当時,野茂英雄投手がマウンドに上がるときに流れたのが「スキヤキソング」とアメリカでは呼ばれる「上を向いて歩こう」であったが,このゲームで前田健太投手がマウンドに向かうときにもまた「スキヤキソング」が流れたのには身震いがした。私はついに長年の夢が実現したようで,思わず泣けてきたのだった。

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 赤坂宿から旧中山道をそのまま西に走っていくとJR東海道線の高架下を抜けて,やがて,垂井宿に着きました。
 垂井宿に差し掛かったところで一旦左折して駐車場があるという場所を探してJR東海道線を越えてさらに南に走っていくと,そこにあったのが南宮大社でした。私は南宮大社の駐車場に車を停めて,近くにあった喫茶店で昼食をとりました。その後,垂井駅近くの有料駐車場に車を停めて町を少しだけ歩きました。
 今回は天候の影響もあって出だしからテンションが低く,垂井宿に着くころにはまったく歩く気もなくなっていたので,次回再びしっかり計画を立てて出直すことにして,今回は様子見ということで,今日はこの垂井宿については詳しく書くこともありません。そこで,垂井宿がどんなにおもしろいところかということだけを掻い摘んで書いておくことにします。

 まず,垂井駅というところは,JR東海道線の京都方面(西向き)の「下り」に乗ると大垣駅の次の駅になります。
 若いころ,私は時刻表を見るのが好きでした。眺めていると垂井駅と並んで新垂井駅というのがあって,東京方面(東向き)の「上り」線しか停まらないのをいつも不思議に思っていました。今は新垂井駅は廃止されたそうですが,そのことを思い出して調べてみました。
 大垣駅から関ヶ原駅にかけて京都方面(西向き)が登り坂になっている  -京都方面の西向きを「下り」といいますが,「上り」「下り」という表現はわかりにくいものです。しかも,ここでは「下り」が登り坂! なのです- ので,動力の低い気動車では坂が登れず列車の運行が大変でした。第二次世界大戦のころ,軍事輸送の観点からこの勾配が障害となっていたので,新たに,勾配の少ない迂回線路が町の北をなめるようにできたのです。そこで,「上り」と「下り」が別の場所を通ることになったわけです。
 話が複雑になるのは,その途中に垂井駅があったことです。つまり,東京方面(東向き)の降り坂の「上り」は垂井駅を通るのに,京都方面(西向き)の登り坂になる「下り」は垂井駅を通らなくなってしまったので,別の辺鄙な場所に新垂井という駅が作られたというわけです。
 しかし,それが不評で,再び元の路線に戻されました。現在は車両の性能がよくなったので,登り坂が苦もなく運行されるのですが,一度は取り壊されて作り直された「下り」線が安普請だったため時速80キロメートル以上のスピードが出せないので,今でも垂井駅を高速で通過する特急は「下り」だけ迂回線を通っているのです。そんな経緯で垂井駅のホームも複雑になっているのだそうです。さっさとすべて作り直せばいいのに,そのときそのときにお金を惜しんで行き当たりばったりの対処のままなのが日本らしいのですが,そんないい加減に思える垂井駅の駅舎が新しく作りなおされて立派だったのにはびっくりしました。
 駅の周りには多くの有料駐車場があって,非常に安価だったので,旧中山道のこの辺りを起点に散策するのなら,JRの東海道線を利用して来るにも車で来るにも,垂井駅を利用するのが便利だということがわかりました。私も次回はそうすることにします。

 垂井駅前には観光案内所がありました。ここで自転車を借りることもできるそうです。私は地図をもらいましたが,もらった地図はとてもわかりやすく,この町の魅力を知るのに十分でした。
 観光案内所から少し北に行った場所が垂井宿の起点でした。垂井宿は旧中山道57番目の宿場です。宿は西町・中町・東町の3町に分かれ,本陣は中町にありました。また,問屋場は3か所あって,毎月5と9の日に南宮神社鳥居付近で開かれた「六斎市」は大勢の人で賑わいました。ここは,大垣,墨俣などを経由して東海道の宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分でもあり,西美濃の交通の要衝でした。
  宿内は鍵状で古い街並みが今も残っていて往時を偲ぶことができます。 また「南宮大社の石鳥居」や垂井の名前の由来とも言われる「垂井の泉」などの史跡があります。 また,美濃国一の宮「南宮大社」のほか,本龍寺」「真禅院」などの見どころもたくさんあります。
 この宿場も赤坂宿と同じような感じで,自動車道路が離れて作られたために時代の流れから取り残されていました。昔の宿場を保存・維持しているわけでもないのですが,舗装された道路は街道の雰囲気をとどめ,その周りの家々は,あるものは古いままで,また,あるものは改築されて,そしてまた,住人のいなくなった家は空き家となって,今の日本を象徴するような感じになっていました。そしてまた,ここも喫茶店の1件もありませんでした。
 そんなわけだったのですが,垂井町というところは,旧中山道の宿場というだけでなく,それ以外にも歴史的にとてもおもしろいところです。そのひとつは,最初に書いたように,雨宮大社があることです。そして,もうひとつは,竹中半兵衛重治の生まれたところということです。さらにまた,奈良時代に国分寺がおかれていたところでもあり,今も美濃国分寺跡と国分寺が整備されています。
 次回は,もっと天気のよい日に訪れて,ゆっくりとこの町を散策したいものだと思いました。

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●ウィルソン山天文台の観測装置●
 フッカー望遠鏡のドームを出たところにも博物館があった。私はそれを危うく見逃すところだったが,ボランティアの係りの人が教えてくれたので助かった。
 先に見たウィルソン山天文台の博物館は天文台の歴史についての貴重な資料が展示された博物館であったが,ここは天文台がどういう研究をしているかということを中心とした展示がされていたもので,私にはとても興味深かった。

 この日の特別公開は,この天文台にある施設のほとんどが公開されていたので,この次に私は小さな望遠鏡のあるドームに行ってみた。その中にあったのは年代物の屈折望遠鏡であった。この望遠鏡の整備をしていた人がいたので聞いてみたが,望遠鏡については詳しくは知らないということであった。
 現在の天文台というのは,もはやこうした望遠鏡を覗くという一般の人が抱く天文台のイメージとはかけ離れてしまっていえるから,このようなクラシックな機器を見るとほっとするが,こうした望遠鏡は素人に惑星を見せたりする以外,学問的に活躍する用途はない。私はこの望遠鏡なら欲しい。
 最後に太陽望遠鏡を見た。
 ウィルソン山天文台には3基の太陽望遠鏡があり,そのうち2基が現在も学術目的で使用されている。そのうちの1基,60フィート(18メートル)塔望遠鏡は1908年に,また,150フィート (46メートル) 塔望遠鏡は1912年に完成した。もうひとつのものは,1904年に建設されたスノー太陽望遠鏡で,こちらは教育・実演目的で使われている。

 ウィルソン山天文台には,こうした望遠鏡のほかに,ISIとCHARAふたつの干渉計がある。ウィルソン山の非常に安定した大気は干渉法観測に非常に適している。干渉法は複数の視点からの観測データを組み合わせることで分解能を上げ,恒星の直径のように天体の微細なサイズを直接測定する方法である。かつて,マイケルソンは1919年にフッカー望遠鏡を使って天文干渉法の歴史上初めて他の恒星の測定を行なった。
 ISI (Infrared Spatial Interferometer) は中間赤外域を観測する3基の65インチ (1.7メートル)望遠鏡のアレイである。これらの望遠鏡は最大70メートル離して配置して,これによって口径70メートル相当の分解能を得ることができる。望遠鏡で受光した信号はヘテロダイン回路を通して電波の周波数に変換され,電波天文学から流用した技術を用いて電気的に合成される。基線を最大の70メートルに伸ばした場合,分解能は波長11マイクロメートルにおいて0.003秒角に達する。このISI はカリフォルニア大学バークレー校の一部門によって運用されている。
 また,CHARA(Center for High Angular Resolution Astronomy)は,6基の望遠鏡を3本の軸上に配置した干渉計で,最大基線長は330メートルである。この装置では光線は真空管を通って光学的に合成される。合成された画像は赤外域で0.0005秒角を分解可能である。 CHARAはジョージア州立大学によって運用されている。

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 紛らわしいのですが,旧東海道にも赤坂宿があります。旧東海道の赤坂宿は,東海道36番目の宿場で現在の豊川市にあたります。私の訪れたのは,旧中山道のほうの赤坂宿です。旧中山道の赤坂宿は,中山道56番目の宿場で,現在の大垣市にあります。江戸時代の人口は約1,000人程度で,旅籠が17軒ほどあったそうです。
 私は予定を変更して車で行ったからよいものの,公共交通機関でこの宿場にアクセスするのは結構大変です。もよりの駅はJR美濃赤坂線の美濃赤坂駅です。美濃赤坂線は大垣駅から美濃赤坂駅までの数キロの東海道線の支線です。もともと美濃赤坂周辺で産出される石灰石や大理石の輸送を目的に1919年(大正8年)に開業しました。旅客列車は全列車が大垣駅と美濃赤坂駅間の折り返し運転で,日中は2,3時間に1本程度しかありません。
 私はJR東海道線に乗ることは少なくないのですが,始発駅の大垣駅で停車している美濃赤坂線の電車は見たことはあっても乗ったことはありません。

  川を交通の手段としていた明治時代,川港の赤坂港には500艘を超える船が往来したといわれ,この地域で盛んだった石灰や大理石産業でにぎわっていましたといいます。この港の跡あたりが赤坂宿でのはじまりです。
 宿場を歩いていくとまず目についたのが所郁太郎の銅像や生誕地の碑でした。所郁太郎というのは,いわゆる幕末の志士で,本業は医者。大坂の適塾に学んだといいますからたいへんな秀才です。井上聞多(後の井上馨)遭難の際に治療した人物として知られますが,遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦し,陣中で腸チフスにかかり28歳で亡くなったということです。この名が司馬遼太郎の幕末作品に載っていたかどうか私には記憶がありません。

 次に目についたのはお茶屋屋敷でした。お茶屋屋敷は宿場の街道筋から少し南に入ったところにありました。この近くに広い駐車場があったので,車で赤坂宿に行ったときは,この駐車場に車を停めることができるのですが,私は気づかず,坂の上に停めてしまったので,たいへんな苦労をしました。
 お茶屋屋敷は1605年(慶長10年),徳川家康が上洛の往還に際して休泊のために設けられた施設です。「大垣藩地方雑記」には,ほぼ方形の縄張りをもつ城郭形式で総郭内と馬場跡があり,四隅に櫓を備えた正面が大手門で,全体を土塁・空濠で囲んだ豪壮な構えであったと書かれています。その20数年後の1628年(寛永5年)にはすでに破損が著しく,取り壊されて廃絶化しました。現在はこの跡地が整備され牡丹園として一般に開放されています。

 私が毎回訪れるようなところはどこも同じですが,こうした場所にわざわざ出かけるのは旧街道歩き自体を楽しみにしている人くらいのものなので,観光地ではないし,おそらくは昔からこの地に代々住んでいる人の子孫が暮らしているところなので,ここもまた気の利いた喫茶店の一軒もありませんでした。車で数分も行けばお店もたくさんあるからここに何もなくても困ることはないので,単なる古くからの住居としての機能しか持ち合わせていない場所です。
 しかし,もし私がこうした地に生まれて家を受け継いだとしても,そこに住む気がないときに売りにだしても買い手がつくとも思えず,だからといって空き家にして何もせずに朽ちていくままほったらかしにすることもできず,ほとほと困ってしまうことでしょう。今だに新たに山を崩して住居を作っているのにもかかわらず,そうしたところよりずっと便利なこうした古い住宅地が空き家だらけとなっていく様を各地で見るにつけ,この先この国はどうなっていくのかなあ,と考えてしまうのです。
 この赤坂宿から次の垂井宿まで約5キロメートルで,旧中山道は舗装されただけの昔を彷彿とさせる雰囲気が続いていますが,結構な車の行き来がありました。昔はおそらく宿場と宿場の間は家もなかったのでしょうが,今はずっと町並みが続いていました。

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 そこに特に何があるというわけでもなく,景色が美しいというわけでもなく,想い入れがあるわけもないのですが,家から近いのになぜかずっと気になっているのに行ったことがない,そんな場所がたくさんあることに思い当たりました。しかし,そんなところは,行こうと決意して重い腰をあげなければ,おそらく,これからも絶対に行くことはないだろうと思い,暇にまかせて,そんな場所ばかりを選んで行ってみることにしました。どこもほんの1時間もかければ行くことができるので,軽い散歩気分です。しかし,出かけたところで,当時の面影など残っていないだろうし,おしいものが食べられるわけでもないだろうし,単なる古臭い町中を歩くだけになるというのは覚悟の上です。
 そんな理由で,今回出かけたのは,旧中山道の赤坂宿から垂井宿です。 前回歩いた関ヶ原宿から柏原宿もそうですが,現在,岐阜県から滋賀県にかけてはJR東海道線が走っているので,そこが江戸時代は東海道ではなく中山道だったということが意外な感じがします。一般に,中山道といえば馬籠宿や妻籠宿など,現在のJR中央本線沿いを連想します。それにまた,関ヶ原宿から中津川宿にかけて旧中山道はいったいどこを通っていたのか,地元に住む私もよく把握していません。現在の鉄道網から妙にずれていて,今は旧中山道をそのまま沿って走る広い道路もなく,距離的には近いのにも関わらず,アクセスが不便だからです。 

 この日は赤坂宿から垂井宿まで約5キロメートルを歩くつもりでした。その間はずっと町中なので,地図で見ても様子が今ひとつ把握できないので,実際に歩いてみればわかることも多いだろうと思いました。
 しかし,お昼間は晴れてくるという予報だったのですが,出かけるときは小雨まじりで天気が悪く,JRで赤坂宿のもよりの美濃赤坂駅まで行く気がまったくなくなって,どうしようか迷いつつだらだらと大垣まで車で来てしまいました。大垣からJRに乗ろうと思ったのですが,大垣についてもまだ小雨が降っていてJRに乗って美濃赤坂駅まで行く気がなくなり,大垣からさらに赤坂宿までも車で行ってしまいました。
 結論を言えば,赤坂宿から垂井宿まで歩くのならば,JR東海道線であろうと車であろうと,ともかく,駅前が広く駐車場もたくさんあった垂井駅から赤坂宿まで東向きに歩くべきだったのです。それを赤坂宿から西に向かって歩こうと思ったものだから,この日はすべてが散々でした。それがわかったことがこの日の収穫でした。

 大垣から北に走っていくと道路が狭くなってきて,一般の駐車場がまったくありません。さまよっていると,思いのほか昔の宿場町の面影が残った赤坂宿に着いてしまったものの,やはりそこにも駐車場が見当たらないということになってしまったのです。
 探し回った結果見つけたのが,町の北に化石博物館とやらがあって,そこに駐車場があると地図にあったので行くことにしました。しかし,化石博物館はえらく険しい山の中腹でした。そして,そこに行くには,はかろうじて車が1台走れるほどの軒先を入っていって,さらに,ものすごい急勾配の狭い道を登っていく必要があったのです。不安を感じながらやっと着いた駐車場に車を停めると,眼下には広く濃尾平野が見渡せました。
 駐車場からさらに登る道路があって,そこを走っていくと,明星輪寺というえらく立派なお寺がありました。車でなければ行くことも不可能であると思わる険しい山の上に,これほど大きな立派なお寺があるのだからたまげてしまいました。
 山の頂上には祠があり,家を建てるときは地鎮祭を行い,やたらと神仏に祈るのにも関わらず,傍若無人に自然を破壊する…日本はまことに不思議な国です。まるで,はじめにお詫びをすればあとは何をしても許されると思っているみたいです。
 歩いて坂を下って赤坂宿に行きました。途中,クマが出没すると書かれた看板がありましたが,今は冬眠中でしょう。それよりも,この坂を再び上ることのほうが心配でした。

 例によって,今回も,観光案内は別のブログに譲ることにして,私は,単なる感想を書いていきます。
 それにしても,江戸時代,今の大垣市の中心部から大きく北に外れたところを旧中山道が通っていたためにこの宿場町も時代から取り残され,江戸時代というよりもむしろ昭和初期の面影のまま,特に保存されたわけなければ開発しようとしているわけもなく,多くの店は閉じられたまま古い民家は崩れたままで今に至っています。考えてみればそれはそれで貴重なことです。
 とりあえずは,JRの美濃赤坂駅まで行ってみましたが,私がそこで見たのは改札がない無人駅でした。地元の老人が数人,列車が来るのを待っていました。どうやら切符は車内販売らしいです。こんな盲腸のような路線が廃止もされず残っているのがまたゆかいなことではないですか。私はすっかりこの町が好きになりました。
 おもてなしとかいって,本音は観光客を集めてお金儲けをするために,保存というよりも映画のセットのように人工的に街並みを再現した多くの観光地でなく,ハイテクとも無縁,これこそ,老人だらけで夢のない今のさびれゆく日本の姿そのものであるのかもしれません。今から50年以上も前,私が生まれ育った名古屋の下町の姿が今もそこにはありました。

 私は,赤坂宿を端から端まで歩きながら,この町は江戸時代から明治維新,そして,第二次世界大戦といった日本の歴史をこうして見てきたのだろうと思うと,何かとても不思議な気がしました。この町はこの先,どうなっていくのだろうと,そんなことも思いました。
 私は,町を歩き終えた後,険しい坂をふらふらになりながら上って駐車場まで行って,今度は垂井宿まで車で行くことにしました。

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●当時の苦労がしのばれる。●
 今もし,この望遠鏡をくれると言われても私は困る。それは,こうした機器を維持しその性能を発揮させることはものすごくたいへんだからである。
 この望遠鏡ができたころは,今のようにコンピュータすらないから,何事につけてもマニュアルで行う必要があった。ドームに入ると,当時使われたマニュアルの機器がたくさんあって,私にはとても興味深かった。望遠鏡というのは星を「見る」ものではなく写真を写すもの,つまり巨大なカメラに過ぎない。そうした写真を写すために必要なことは,まず第一にピントが合っていることであり,第二に星の動きにつれて正確に望遠鏡を動かすことができることである。
 今は,アマチュアの使うような望遠鏡でさえもオートフォーカスやオートガイダーというものが利用されるようになってきたが,当時は,こうした大型の機器にもそうしたものはなかった。 そして,もっとも重要なのは,デジタルカメラでなく,フィルムやガラス板に露光剤を塗ったものを使用していたことであった。写真を写すにはそれだけ多くの技術が要った。
 さらにまた,反射望遠鏡というのはガラス板にメッキをして鏡としているから,このメッキを数年に1度行わなければ次第に曇ってくるという欠点がある。この望遠鏡の鏡の部分には,前回いつメッキが行われたかが書かれてあった。このように、この望遠鏡は今も現役で居続けるためにはこうした維持作業が必要なのである。

 ボランティアの説明員は,そうしたことを来館者にていねいに説明していて,興味のある人が真剣に聞いていた。私には知っていることばかりだったが,実際にそうしたことが行われているまさに実物を見ることができたのが,とても有意義であった。そこで改めて思ったのは,この望遠鏡は,そうした困難な作業をこれまでずっと続けながら歴史に残る多くの業績を上げた,まさにその本物だということだった。
 今回の旅で,私はパロマ天文台で望遠鏡を見ることはできなかったが,このウィルソン山天文台でフッカー望遠鏡を見ることで,それに余りある貴重な体験ができたのが,とても嬉しかった。アメリカに来てよかったと思った。
 何時間いても飽きることがなかったので,私は,このドームの中を何度も歩き回った。ドームはスリットも開けられていて,明るい日差しが中に入って,重厚な望遠鏡はさらに輝きを増していた。それは,私がこれまでにみた望遠鏡の中で,最も美しいものであった。

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●念願のフッカー望遠鏡●
 60インチヘール望遠鏡を,見るだけでなく触れることまでできて,私は望外の喜びにあふれていた。
 私が天文台へ望遠鏡を見にいくと言うと,望遠鏡で星を見にいくことだと思った友人がいたが,私は望遠鏡の姿そのものが見たいのである。これはクラシックカメラやクラシックカー好きの人と同様だが,望遠鏡の場合は,歴史に名を刻んだ世界でたったひとつしかないそのものである,というところが私には魅力的なのである。そしてまた,その機能美というものがたまらなくいい。特に古い時代の望遠鏡がいい。たとえばハワイ島マウナケアにあるすばる望遠鏡のような現代の望遠鏡は大きすぎて精密機械というよりもまる造船所の機械のようになってしまっているから,古式豊かな望遠鏡としての美しさに欠けるし,まして,電波望遠鏡など単なるアンテナである。

 さて,次に見にいったのが100インチ(2.5メートル)のフッカー望遠鏡であった。早朝,すでにガラス越しにその巨体を見ることができたが,今度は,さらに,ドームのなかに入って,目の前でこの望遠鏡を直に見ることができるのだ。これは私には信じられない出来事であった。まさかガラス越しでなく直に見られるとは思っていなかっただけに,その喜びはさらにひとしおであった。
 開放されていた入口を入ると長い階段があった。それもまたこの望遠鏡の歴史を物語っていて,私は興奮した。そこには当時の電話機やら様々な計器やらがそのままの状態で残されていた。この階段をハッブルさんも上ったかと思うと,感慨を覚えた。

 エドウィン・ハッブルさんが宇宙膨張を発見したのが,この100インチフッカー望遠鏡なのである。
 60インチ望遠鏡を建設したヘールさんは,次に,より大口径の望遠鏡の建設に着手した。カーネギー協会とともに資産家で慈善家のジョン・D・フッカーが必要な資金の大半を援助して,1906年,ミラーブランクの鋳造に再びサンゴバン社が選定された。鏡の製造にはかなりの困難があったもののついに1908年に完成し,それを組み込んで,1917年11月にこの100インチ望遠鏡は完成し,ファーストライトを迎えた。
  1919年には,このフッカー望遠鏡にアルバート・マイケルソン(Albert Abraham Michelson)によって開発された光学干渉計が取り付けられた。天文学でこの種の装置が使われたのはこれが初めてだった。マイケルソンはこの干渉計を使って,ベテルギウスのような恒星の正確な直径と距離を測定した。さらに,ヘンリー・ラッセル(Henry Norris Russell)はフッカー望遠鏡を使った観測を元にして,恒星の分類システムを考案した。
 しかし,何といってもこの望遠鏡での最も偉大な業績は,エドウィン・ハッブルが100インチ望遠鏡での観測を元に歴史的に重要な計算を行なったことである。彼は,星雲が実際には我々の天の川銀河の外にある銀河であると結論した。また,ハッブルと助手のミルトン・ヒューメイソン(Milton Lasell Humason)は,宇宙が膨張していることを示す赤方偏移の存在を発見した。
 このように,フッカー望遠鏡は長い間世界最大の望遠鏡として君臨していたが,1948年にカリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)とワシントン・カーネギー協会の共同事業体がウィルソン山から150キロメートル南のパロマ山に200インチ(5メートル) 望遠鏡を完成したことでその座を明け渡すことになった。

 ついに1986年に100インチ望遠鏡は運用を終了した。しかし,1992年に補償光学システムを装備することで再び使用が開始され,望遠鏡の分解能は 0.05 秒角を達成,その後約2年間にわたってフッカー望遠鏡はハッブル宇宙望遠鏡を含めて世界中で最もシャープな望遠鏡装置に再び返り咲いたのだった。
 フッカー望遠鏡は今でも20世紀の傑出した科学装置のひとつなのである。

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 私は昭和30年代の生まれです。この年代は,生まれたときからずっと,その上の「団塊の世代」に蓋をされて,ゆく手を阻まれてきた世代です。その「団塊の世代」,つまり,昭和20年代生まれがリタイヤして自由な時間を謳歌するようになってきました。そうした人たちの日頃の様子が報道されることはほとんどありませんから,会社勤めをしている人は知らないことでしょうが,実は,彼らは平日の早朝から街中にあふれているのです。そして,彼らのいる場所は,図書館でありスーパー銭湯でありスーパーマーケットです。
 そこで,図書館やスーパー銭湯にでも行けば,常連さんばかりで一見さんの入り込む余地すらありませんし,スーパーマーケットでは朝からずっと休憩所でテレビを見たり,顔見知りの人同士が話をしている様子が見うけられます。しかし,図書館もスーパー銭湯もスーパーマーケットも,開店は早くても午前9時,そのほとんどは午前10時なので,それまでの時間を持て余すのです。私の家の近くに午前7時30分からやっているスーパー銭湯がありますが,そこは朝食のサービスもあり,開店から大賑わいです。
 この世代の人たちの多くは,働き盛りのときにバブル景気を経験したので,堅実なひとはお金をもっています。その逆にそのころに高い金利で借金をしてしまった人は老後不安を抱えています。さらに,団塊ジュニアといわれる,この世代の人たちの子供が就職をするころは就職氷河期だったので,そうした重荷を背負ってしまっている人も少なくありません。そしてまた,仕事仕事で趣味もなく働いていた人は,リタイアした後ですることがなく暇を持て余していたりします。
 
 この国では,何事も「赤信号,みんなで渡れば怖くない」とばかりに,多くの人がやっていることが,本当はその是非もわからないのに,それが「常識」となり,そこに疑問をもつ人はそこに入り込めないので「村八分」にされます。以前書いたことがありますが,この国の人たちは,何事も6:3:1のバランス感覚で成り立っているのです。だから6の仲間でいないと生きづらいのです。
 それは,受験だから塾にいく,学校に入ったら部活をする,みんなが帰らないから残業をする,みんながスマホを持つから自分も持つという人生をおくっているのです。リタイヤしても同じです。だから,同じように主体性もなく巷にあふれ,生き方のハウツー本が売れるのです。
 しかし,そうした「常識」は果たして是なのでしょうか? たとえば,近頃,悪名高き学校の「ブカツ」にしても,学生時代に「ブカツ」に打ち込むことが本当に大切なのでしょうか? 運動をすることが体によいのでしょうか? 私のまわりにも学生時代「ブカツ」に青春を捧げ,毎日遅くまで運動をしていた人がいますが,そうした人の多くは私と同じ年齢となったときに,むしろ若いころの無理がたたって健康を害していたり,若くして亡くなってしまったりした人が少なからずいるのです。そうした人たちを見ると,若いころにスポーツをすることは必ずしも健康的なことではないのかな,と思ったりします。まして,猛暑の真昼間に外で運動をすることが体にいいわけがありません。
 何事も,主体的にほどほどに行って自己管理するからよいのであって,人がやっているからやらされているからというのはよくないのでしょう。

◇◇◇
「不良老人」の日常⑤-3度失敗した団塊の世代Ⅰ
「不良老人」の日常⑥-3度失敗した団塊の世代Ⅱ
「不良老人」の日常⑦-3度失敗した団塊の世代Ⅲ

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●60インチヘール望遠鏡●
 ウィルソン山にある望遠鏡のうちでもっとも古いのは口径60インチ(1.5メートル)の「ヘール望遠鏡」(Hale Telescope)である。
 天文台を見学に行くと,一般の人がガラス越しに見ることができるのはその天文台で最も大きな望遠鏡だけということがほとんどなので,ウィルソン山天文台もまた,私は口径100インチの望遠鏡だけがそうであると思っていたが,この日は天文台の特別公開で,このヘール望遠鏡も見ることができたのは思いがけない幸運であった。
 岡山の天体観測所にも,188センチの大望遠鏡の他に,ニコン(当時の日本光学)の作った91センチの反射望遠鏡があって,私はむしろその望遠鏡を見たいと思っているが,そちらのほうは公開されていないのが残念である。

 このヘール望遠鏡のいわれは次のようである。
 1896年,ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)さんは父のウィリアム・ヘールからの寄贈品としてフランスのサンゴバン社が鋳造した口径60インチのブランクミラーを受け取った。このブランクミラーは厚さ7と1/2 インチ(191ミリメートル),重量1,900ポンド(860キログラム)のガラス円盤であった。しかし,1904年にヘールさんがカーネギー協会から資金を得るまで天文台の建設を待たなければならなかった。
 1905年にやっと反射鏡の研磨がはじまったが完成まで2年を要した。また,望遠鏡の架台と構造物はサンフランシスコで建造され,1906年の地震にも何とか耐えた。当時は天文台へ道が未整備であり,資材の運搬はラバなどが用いられていたが,望遠鏡に使われる分割できない大型の部品を運ぶために特製の電動トラックが開発された。

 この完成当時世界最大の望遠鏡のファーストライトは1908年12月8日であったが,観測がはじまると,天文学の歴史上最も多くの成果を挙げて成功した望遠鏡のひとつとなった。その優れた設計と集光力によって,分光分析や視差測定,星雲の写真観測や写真測光といった新たな技術の先駆けとなったのだ。
 完成の9年後には,口径で,この後で書くことになるフッカー望遠鏡に追い越されたが,その後も数十年間にわたってヘール望遠鏡は世界中で最もよく使われる望遠鏡のひとつだった。
 1992年,60インチ望遠鏡に大気補正実験装置(Atmospheric Compensation Experiment=ACE) と呼ばれる初期の補償光学システムが取り付けられた。この69チャンネルのシステムによって、望遠鏡の分解能は0.5から1.0秒角だったものが0.07秒角にまで改善された。
 ACE は,もとは軍隊使用のための新技術開発および研究を行うアメリカ国防総省の機関である国防高等研究計画局(Defense Advanced Research Projects Agency=DARPA )によって戦略防衛構想(Strategic Defense Initiative=SDI)システムのために開発された装置であったが,国立科学財団が出資して民間に転用された。

 今日,この60インチ望遠鏡は一般向け用途に使われていて,焦点部には観測装置に代わって接眼レンズが取り付けられている。一般の人々が自由に覗くことができる望遠鏡としてはおそらく世界で最も大きな望遠鏡のひとつである。一般の人がグループで借りることもできるのだが,これもまた,アメリカ人の考えそうなアイデアである。
 日本にもこのようなサイズの公開望遠鏡は結構あるが,そのほとんどは機材を持て余していると私は思う。
 口径が30センチから50センチ程度の望遠鏡をもつ地方自治体は少なくないが,国や地方自治体の補助金やらなにやらでそれを導入したときは,そういうことに熱心な所員がいたりして運用をはじめても,そうした人は公務員だからやがて移動になったり出世したりしていなくなり,また,予算が削減されたりして,望遠鏡の存在が負担になっていくのである。屈折望遠鏡ならともかくも反射望遠鏡というのは数年に一度,反射鏡の再メッキをしなくてはならないし,そうしたほかにも維持費がずいぶんかかるのだが,そのお金がないのである。役人というものは,そうしたことにお金がかかることを理解しない。これもまた,何度も書いたように,ハコモノを作るのは一生懸命でもそ,それを維持をすることにもお金がかかるという認識が不足しているからである。日本は何ごともそうである。そしてまた,こうした機器を一般に貸し出すということに,さまざまな条件をつけ敷居を高くするから,結局,だれも活用しないままになっていくのである。一方アメリカでは,ここウィルソン山の望遠鏡を一例として,こうして一般の人に貸し出したり,募金をしたりしてお金を集めその維持を行っているわけである。
 なお,パロマー天文台にある,私がこの旅で見損ねた200インチ望遠鏡もまた「ヘール望遠鏡」の名で呼ばれている。

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 柏原宿は五街道が整備された江戸時代中山道60番目の宿場でしたが,それ以前の中世「太平記」にすでに記載されています。
 柏原宿の特産品はお灸につかう艾(もぐさ)で,最盛時には10軒以上の艾屋があったといいますが,現在残るのは「伊吹艾・亀屋佐京商店」1軒です。 創業は寛文元年(1661年)で,今も江戸期の風情を残す店構えで,柏原宿歴史館とは街道を隔てたところにあります。残念ながら私の歩いたこの日は休日でもあり,店は閉じられれていました。
 歌川広重の描いた木曽海街道六拾九次之内柏原の版画絵に,この亀屋佐京商店の店頭風景が描かれています。その絵の中に,裃を付けて扇子を手に持ち大きな頭に大きな耳たぶという福々しい姿で,街道を往来する旅人を見守る福助人形も描き込まれています。福助人形は今も店内にあるそうです。このように,店は福助人形発祥の店としても親しまれています。 作家の荒俣宏さん曰く,「亀屋の福助を見てただひたすらその大きさに感動する。(中略)これを拝まずして福助は語れない。三大福助の第一と折り紙をつけたい」ということです。

 柏原宿に艾ありと江戸で評判になったのは亀屋 左京の功績です。
 艾屋の次男に生まれた亀谷左京(通称6代目七兵衛)が20歳のころ,行商で江戸に下ると儲けた金で吉原に行き,遊女に「江州柏原,伊吹山の麓の亀屋左京の切り艾」という歌を教え込みました。それを毎夜宴席で歌わせていたところ,歌の流行につれて伊吹艾の名が全国に広まったのです。これがコマーシャルソング第1号です。やがて,七兵衛は大金を手にし,郷里で田畑を買って嫁を迎えたのですが,人の妬みを買い乱暴を受けてしまいました。すると今度は,さっそくこの一件を浄瑠璃に仕立てて「伊吹艾」の演目名で大阪・京で興行を行いました。これが大当たりとなって伊吹艾の名はますます有名になり,亀屋左京は盛況を極めました。七兵衛は儲けた資金で邸宅裏に庭園を造り,宿場を往来する人達に公開し休憩所として利用してもらうと共に艾販売を行いました。

 柏原宿の外れまで歩いていくと,のどかな風景が広がります。左手には田圃,右手にはは山が繋がっています。そして,左手奥に復元された一里塚跡がありました。この一里塚は江戸から数えて115番目のものです。
 一里塚は本来,街道沿いにあるものですが,ここは街道に沿って川があったことから街道から離れた所に造られていたという説明板がありました。このあたりが柏原宿の見付跡で,庄屋や役人が正装して御偉い方のお見送りやお出迎えをした場所でした。今も昔も宮使いは大変です。
 柏原宿はここで終わりを告げて,民家のない街道となります。なかなかいい雰囲気で,私は次回,ここから先,醒ヶ井宿まで歩いてみようと決意して,この日は帰ることにしました。

 JR東海道線柏原駅には,なんと Suica を読み取る機械がありませんでした。立ち話をしていたおじさんが駅員で,私がSuica の機械をさがしていると,この駅で乗ったという小さな紙きれをくれました。前回書いた喫茶店といい,この駅といい,40年くらい前の日本に戻った気がしました。
 JR東海道線柏原駅のホームからは伊吹山が美しく見えました。伊吹山は標高1,377メートル。米原市,揖斐郡揖斐川町,関ケ原町にまたがる主峰で,滋賀県最高峰の山です。古くは霊峰とされ,「古事記」「日本書紀」においては,ヤマトタケルが東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されています。
 若狭湾から南東方向に琵琶湖が広がり,高い山がなく遮るものがないので,冬になると日本海側から吹く北風はそのまま濃尾平野まで流れ込みます。その風が伊吹山から吹いてくるように見えることから「伊吹おろし」と呼ばれ,濃尾平野に住む人にとっては冬の寒さの象徴でもあります。

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 国道21号線を京都方面に車で走って関ヶ原を越えると平地が広がって,そこをJR東海道線が国道21号線と並行して走っています。ここの風景が名古屋から米原までの間でもっとも旅情をそそられるところです。私はこの場所が昔から好きでしたが,そこが今着いた今須宿だということは知りませんでした。
 今須宿を過ぎてからしばらく行くと,舗装された道路に平行に楓並木の続く狭い道路がありました。何の標識もなかったのですが,それが旧中山道でした。この楓並木のある道を歩いていくと,やがて踏切に差し掛かりました。その踏切を越えたところから,いよいよ柏原宿がはじまります。
 このようにして,私は関ヶ原宿,間宿山中,今須峠,今須宿,柏原宿と多くの宿場を歩いてきたのですが,距離にするとわずか8キロメートルにすぎず,約2時間,あっという間でした。

 踏切を越えるとすぐ,静かな柏原宿の美しい街並みがはじまりました。まずあったのが,中世の仏教説話「小栗判官・照手姫」にまつわる伝承の「照手姫笠掛け地蔵」でした。
  ・・・・・・
 現在の茨城県である常陸国の小栗城主だった小栗助重は,毒酒のため落命の危機に逢いながらも餓鬼阿弥となり一命を取りとめました。これを悲しんだ愛妾の照手姫は夫・小栗助重を箱車に乗せ,狂女のようになりながら懸命に車を引張って,この地まで辿りつきました。そして野ざらしで路傍にたたずむ石地蔵を見つけ,自分の笠を掛けて一心に祈りを捧げたところ,地蔵は次のお告げをしました。
  立ちかへり見てだにゆかば法の舟に
    のせ野が原の契り朽ちせじ
 勇気をえた照手姫は喜んで熊野に行きました。療養の甲斐あって夫・助重が全快したことから,再びこの地に来て,お礼にお寺を建て石地蔵を本尊として祀ったといいます。
  ・・・・・・
 このお地蔵さんの手前に,お持ち帰り用のこの街道の詳しいプリントが置かれていて,とても助かりました。

 さて,私は柏原宿に入りました。この宿場町を歩いていくと,やがてJR東海道線の柏原駅に着きました。今日はここから帰りますが,宿場町はこの先も続くので,町はずれまで歩いていくことにしました。
 宿場町のちょうど中央あたりに柏原宿歴史館とそれに併設した喫茶店「柏」がありました。「柏」では「やいとううどん」が名物だそうですが,まだ昼食には早かったので,コーヒーを飲んで休憩することにしました。
 旧街道歩きは楽しいのですが,食事をする場所どころか,喫茶店すらないところが多いので食事に苦労します。それは,豪華な食事を楽しみのひとつとしているような多くの一般の観光客はもっと有名な観光地に行くし,このような旧街道に残るちいさな町に立ち寄る人は車で短時間滞在する人が多く,いくら街道歩きが流行っているからといても,私のように宿場から宿場へと旧街道を歩いているのは,定年退職後に暇つぶしと体力維持を考える人くらいのものなので,そんな人を対象にしたお店を開いたところで維持できないからでしょう。
 そこで,地元民を常連客にできるようなところに1,2件の喫茶店があれば上々です。こうした昔は町のどこにでもあった喫茶店に入ると,未だに昭和の雰囲気が残っています。これこそが日本の原風景なのですが,旅先のこうした喫茶店で一服したことが,なぜかずっと私の記憶に残るのです。

 中に入ったとき,ほかにお客さんはいませんでした。ちょうど偶然,私に続いて年配の男の人が入ってきました。どうやら地元に住む常連さんのようでした。
 この喫茶店は町に住む女性たちが担当して運営しているらしいのですが,こういう場所に足を踏み入れると,スマホもクレジットカードも嫌煙権もまったく無縁となって,まるで今から40年以上昔の世界に舞い戻った気になります。こんなお店では,テレビで民放のたわいもないワイドショーがかかり,今でも「タバコを吸いながらホットとかモーニングとか言ってコーヒーを注文してタバコを燻らせながら新聞を読んでいる」世界なのです。これがこの国の相も変らぬ姿なのでしょう。
 この喫茶店も,常連の男の人と働いているこれもまた年配の女性たちが,銀行のキャッシュカードすら使い方がわからないからお金は農協で通帳で出し入れするものだ,暗証番号は1234でいい,とかいったたわいもない会話をしていました。 

 喫茶店を出て,隣にある歴史館に入りました。今は旧街道の宿場町にはこうした博物館がけっこうあります。ここもなかなかおもしろい博物館でしたが,私以外には訪れている人はだれもいませんでした。日本ではこうした博物館を維持するのはどこもなかなかむずかしく,おそらく,国の補助金やらなんやらがあって作ったときはいろいろと工夫をしてはじめても,しばらくすると来る人も少なくなって,やがてはそれを維持するためにその町の負担になっていき,担当者も代替わりするころにははじめの熱意も冷め老朽化していくのです。
 博物館で見せてもらったDVDで,この地は蛍で有名なところだということがわかりました。私は,6月のはじめの蛍の季節になったら,また来てみようと思いました。

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 関ヶ原宿から柏原宿までは予想以上におもしろい街道でした。旧中山道は関ヶ原宿から,はじめのうちは国道21号線沿いでしたが,すぐに国道から離れ,4度国道21号線を横断しただけで,あとはのどかな旧道だったので,車もほとんど通らず歩いていて楽しいのです。以前,鈴鹿峠を歩いて越えたあとで,国道1号線を車で走る機会があったのですが,車で駆け抜けると旧街道の存在すら認識できませんでした。このように,旧街道歩きは公共交通と徒歩に限るのですがそれをこのときも再認識しました。
 
 関ヶ原宿から不破の関を越えると今須峠に差し掛かり,峠を越えて国道21号線を渡ると今須宿になります。今須峠はけっこう険しいということでしが,まったく大したことはありませんでした。明治時代までは標高16メートルほどの急勾配の坂道であったのですが今は整備されて急坂でなくなったためのようです。かつては頂上辺りに茶店があり,往来する旅人の疲れを癒す場所として賑わっていたそうですが,冬になると積雪量も多く旅人泣かせの難所であったようです。

 今須峠を越えたあたりから望む今須宿は普通の集落があるだけのように見えるのですが,集落に入っていくと,宿場の雰囲気を残す町並みが続いています。この宿場で目についたのは常夜灯でした。1808年(文化5年)のこと,荷物をなくした京都の問屋さんが金比羅さんに願を掛け荷物が見つかったお礼として建てたものだそうです。私はこういう話を聞くと他人事とは思えません。この問屋さんはおそらく死ぬほどの恐怖と不安を感じたのでしょう。いつの時代も生きるのは大変です。
 今須宿を越えると三たび国道21号,そしてJR東海道線の踏切を越えるのですが,国道の手前にあったのが「車返しの坂」でした。名前からして険しい坂なのかと覚悟していたのですが,そうではありませんでした。

 なだらかなその坂の途中には石碑があって,坂の頂上に「車返地蔵尊」が安置されていました。遠い昔の南北朝時代,歌人で公家の二条良基大臣がいました。二条良基という名前は高等学校の古典だか日本史だかで聞いたことがあります。そうそう,菟玖波集(つくばしゅう)という南北朝時代の連歌集を編集したという人でした。
 この人は公卿であり歌人であり連歌の大成者でした。従一位で摂政,関白,太政大臣というから当時の総理大臣みたいなものです。

  ・・・・・・
 面影をのち偲べとや
  有明の月をのこして花のちるらむ
       (後普光園院百首)
  ・・
 面影を後になって偲べとでも言うのか有明の月を空に残して花の散ることよ

 今しはや待たるる月ぞにほふらし
  村雲しろき山の端の空
       (風雅584)
  ・・
 今はもう待ち望んでいた月の光が映えているらしい。叢雲がくっきりと白い山の端の空よ。

 思ひ出いでのなきにはなさじ雲の上の
  月は心にまかせてぞ見る
       (後普光園院百首)
  ・・
 古人は「月以外に思い出はない」と歌ったものだが私も己が人生に思い出がないなんてことにはするまい。内裏で見る月は思う存分眺めることよ。
  ・・・・・・

 …といった歌を残しました。調べてみたことろ,良基さんには月の歌が多いみたいです。
 この良基さん,月を愛するだけに風流人でした。あるとき,人より不破関屋が荒れ果てていて,板庇からもれる月光の風情を眺めるのがおもしろいと聞き,わざわざ都から不破関屋に行くことにしました。それを聞いた不破関屋の家人は,見苦しいところは見せられないとあわてて屋根を修理してしまったのです。そのことをこの坂まで来たときに聞いた良基は落胆し,ぶつぶつ言いながら引き返していきましたとさ。…というのが,この坂が「車返しの坂」と呼ばれるようになったいわれです。
 私はこういうの大好きです。

 国道と鉄道の踏切を越えたあとにあったのが「寝物語の里」でした。現在の岐阜県と滋賀県の県境に見落とすくらいの小さな溝があるのですが,かつてはその溝が美濃と近江の国境となっていました。今は,そこに国境の標柱と「寝物語伝説の場所」の碑が建っています。
 その昔,京都から奥州へ落ち延びた源義経を追う母・静御前が旅の道中で長久寺の近江側の宿をとりました。隣の美濃側の宿には義経の家来の源造が泊まっており,それに気づいた静御前が「義経に会うために奥州まで連れて行ってくれ」と源造に懇願したというやり取りがあったそうです。国境を挟んで両国の宿に泊まる静御前と源造が寝ながらこの話をしていたことから,この土地の人々が「寝物語の里」という名をつけ、今もなお語り継がれているのです。
 …ということですが,私は,こういうのも大好きです。世界中の様々な場所に行った私にとって特に美しくもない日本の風景ですが,こういう粋な話を知ると,がぜんこころが輝くのです。

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●ウィルソン天文台とハッブル●
 博物館は質素なものであったが,とても落ちつくことができる場だった。ちょうど開館したばかりで,博物館には私しかいなったから,職員の人と少しお話をすることができた。
 私が思っていたように,ウィルソン山は今ではロサンゼルスの灯りの影響がかなりあるようで,逆に,霞んでいたり,地上近くに雲が出ていたりするときのほうが星がきれいだと笑っていた。
 アメリカは日本とは比較にならず大自然が多いので,日本とは違って満天の星空をどこでもだれもが見ていると思う人もあるだろうが,都会に住んでいる人は日本と同じように星空を見たことがない。それに,日本とは違って,「田んぼのあぜ道」というものがなく,また,私有地は全て鉄条網で囲われているから,郊外に出かけても星を見るような場所はないのである。
 キャンプ場に出かければ,晴れていさえすれば,日本では手に入らないほどの星空を見ることができるかもしれないが,しかし,都会の市街地が日本よりも広いから,その光害の影響から離れるには,ロッキー山脈の山の中まで行く必要があろう。

 この博物館には,さまざまな当時の写真や手紙のホンモノが展示されていた。私が子供のころに読んだ図鑑にはアメリカの巨大望遠鏡がたくさん載っていた。しかし,こんなものを頼みもしないのに国が買ってくれるわけもなく,こうした施設の多くはアメリカの大金持ちが寄付をして作られたのである。
 それにしても,天文学に限らず芸術の分野でも,得た富をこうした方法で社会に還元するというのがすてきなことではないか。そしてまた,そうして還元されたものを有効に利用することができる人材がいるというのもまた,アメリカの国力を表している。
 歴史的な使命を終えたこのような施設であっても,今度は文化遺産として有志による寄付によっていつまでも維持され,大切に保存されているのがすばらしいのだ。日本ならおそらく,ともかく世界遺産とかいうものに認定してもらって,しかしそれは歴史的遺産としての価値は表向きのことで,本音は単に金儲けの手段として,客寄せ金儲けの手段として活用するか,それができなければ老朽化して廃墟となっていくであろう。

 スペースステーションで打ち上げられた宇宙望遠鏡「ハップルテレスコープ」に名を残すエドウィン・パウエル・ハッブル(Edwin Powell Hubble)は,我々の銀河系の外にも銀河が存在することや,それらの銀河からの光が宇宙膨張に伴って赤方偏移していることを発見した現代を代表する天文学者のひとりである。
 ハッブルはミズーリ州で保険会社役員の家に生まれた。シカゴ大学に入学し,数学と天文学を主に学んで1910年に卒業したが,父親の反対で天文学の分野には進めず,その後,イギリスのオックスフォード大学で法学を学び,アメリカに戻って法律事務所に勤めた。
 第一次世界大戦で軍隊に入隊し,戦争が終わると父の死もあってシカゴ大学のヤーキス天文台で天文学の研究に戻った。
 ハップルは,1919年,このウィルソン山天文台の創設者で台長でもあったジョージ・ヘールからウィルソン山天文台職員の職を紹介され,その後の一生をこの天文台で過ごした。
 ハッブルがウィルソン山天文台職員となった1919年にちょうど100インチフッカー望遠鏡が完成したので,1923年から1924年にかけてフッカー望遠鏡で行なった観測によって,それまで小さな望遠鏡での観測から我々の銀河系内の天体ではないかと考えられていた「星雲 (nebula)」と呼ばれるぼんやりした天体の中に,我々の銀河系の外にある銀河そのものが含まれていることをはっきりさせた。
 また,1929年には,ハッブルとミルトン・ヒューメイソンは銀河の中にあるセファイド変光星を観測し,セファイド変光星の明るさと変光周期の関係を使って銀河の赤方偏移と距離の間の経験則を定式化した。これが「赤方偏移を後退速度の尺度と考えればふたつの銀河の間の距離が大きくなるほど互いに離れる相対速度も距離に比例して大きくなる」という,ハッブルの法則である。この発見が後にビッグバン理論につながっていく。
 この博物館には,ハッブルやヘールの本物の書簡が展示されていて,私には非常に興味深いものであった。

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 さて,関ヶ原宿のあたりは「関ヶ原の戦い」が観光資源らしく,それ以外のものは半ば蚊帳の外に置かれてしまっていて,旧中山道という標識もほとんどありませんでした。しかし,歩いていくと,「関ヶ原の戦い」以外にも多くの歴史の遺構がありました。それらは,年代の古いものから順に,壬申の乱,不破の関,そして,常盤御前ということになります。今日はそれらの遺構を,道順は前後しますが,年代順に紹介しましょう。

 壬申の乱は,高等学校のあのバカみたいに詳しいだけで高校生が消化不良になる日本史の教科書にも,ほんの5行程度しか書かれてありません。
 壬申の乱というのは,672年7月24日から約1か月間に起きた古代日本最大の内乱です。天智天皇が亡くなったあと,天智天皇の心変わりで,弟の大海人皇子(のちの天武天皇)に変わって世継ぎになった天智天皇の子・大友皇子と,そもそもが皇太子であった大海人皇子との皇位継承争いがその乱の原因です。天智天皇が亡くなると,大友皇子に対して大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえし勝利したものですが,反乱を起こしたその理由というのは,天智天皇の生存中の強引な内政と外交が諸国の豪族の反感をかっていて,死後に爆発したのだろうといわれています。
 関ヶ原から旧中山道を歩いていって,不破の関を越えて坂を下ったところに,藤古川があります。この川は古くは「関の藤川」と称し,壬申の乱で大海人皇子と大友皇子が川を挟んで開戦したところです。また,その先坂道を上ると「矢尻の池」と称する小さな池があって, この池は大友皇子軍の兵士が水を求めて矢尻で掘った池と伝えられています。さらに,国道21号線を越えて行くと黒血川がありますが,この川は,壬申の乱で両軍初の衝突が起き,激しい戦闘が行われた場所で,そのとき両軍兵士の流血がこの川に流れ川底の岩石を黒く染めてしまったというのがこの川の名前の由来です。なお,壬申の乱とは関係がないのですが,黒血川の先に鶯の滝が今もあって,年中鶯が鳴くこの辺りで旅人は疲れを癒したということです。

 壬申の乱ののち,不破,鈴鹿,愛初の三関が設けられました。そのひとつが関ヶ原にあった不破の関で,現在はここに博物館があります。関ができて以降,不破の関を境にして関東,関西と呼ぶようになったといいます。不破の関自体は789年には廃止となり,以降は関守が置かれて代々三輪家がそれを守ってきたということで,現在は,三輪家の庭に,
  秋風や藪も畠も不破の関
という芭蕉句碑があります。
 このように,関ヶ原というのは,たとえば,エスカレーターの立ち位置が左と右が変わるとか,お正月のお餅の形状が四角から丸に変わるとかいった,関東の文化と関西の文化が変わる場所でもあります。

 不破の関を越えて二股に分かれた道を右に入ったところに,常盤御前の墓がありました。
 常盤御前は源義朝の側室で,今若,乙若,牛若(後の源義経)を産みました。義朝の死ののち,平清盛に請われて妾となったといわれます。やがて,治承・寿永の乱で義経は活躍をするものの,源頼朝と対立し追われる身の上となります。そのころ,常盤御前は京都の一条河崎観音堂の辺りで義経の妹とともに鎌倉方に捕らわれたというのが,歴史上常盤御前に関する記録の最後です。
 伝承では,その後,侍女と共に義経を追いかけたとされ,常盤の墓とされるものがこの関ケ原のほかにも,前橋市,鹿児島市,飯能市など全国各所にあります。
 ここにもまた,
  義朝の心に似たり秋の風
という芭蕉句碑がありました。
 さらに行くと,道際に小さな祠があって,それが常盤地蔵です。常盤御前の無念の最後を思った村人が作った地蔵ということです。
 この辺りまで来ると,すでに,関ヶ原宿のとなりの間宿山中です。関ヶ原宿と次の今須宿はそれほど距離はないのですが,今須峠が険しかったので間宿ができたそうです。

 では,最後に,関ヶ原の戦いの跡についても少し書いておきましょう。
 関ヶ原には多くの関ヶ原の戦いの遺構がありますが,今回はそれを訪れるのが目的でなかったのでそのまま通りすぎましたが,ただひとつ,旧中山道を少し外れて,松尾山眺望地という展望台に登ってみました。
 この展望台から南の方角,関ヶ原の向こうの松尾山に陣取ったのが,西軍を裏切り,関ヶ原の戦いの勝敗を決した小早川秀秋です。そして,松尾山を見晴らす地に陣をひいたのが,小早川秀秋を疑っていた大谷吉継でした。大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で越前敦賀城主でした。眼病を患い失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って指揮し奮戦しましたが,小早川秀秋の離反で結局敗戦,切腹して果てました。

 実際に歩きながらこうした歴史を知ると,人が生きるのはなんと悲しいことばかりなのだろうかと,私はいつも辛くなってきます。歳を重ねると,人の愚かさがさらに深くこころを傷つけるようになって,人間という愚かな生き物を好きになれなくなってきました。そしてまた,こうした殺し合いを,敵やら味方やらというレッテルをはって,勝者中心のドラマとして扱うようなものが歴史ではない,と思うようになりました。
 勝者も敗者も同じようにその人のたったひとつのかけがえのない生なのであって,ゲームではないのです。歴史を知るということは,そうした人間の愚かさを知り,それを繰り返さないということであって,勝ち負けで人の値打ちを決めるものではないのです。私は,今は,歴史をスポーツのように扱うようなテレビの歴史ドラマすら見る気がなくなりました。

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 晴天が続く日です。寒い季節は汗をかかないので歩くには最高です。そこで,今日は旧中山道の関ヶ原宿から柏原宿まで歩くことにしました。中山道とはいえ,現在のJR東海道線沿いなので,長野県とはまったく趣が異なります。
 私は,あるときは名神高速道路を,そして,あるときは国道21号線を京都に行くために車で走りなれているので,なじみがあるところなのですが,この辺りを散策したことはありません。ずっと昔から気になっていたのが,国道21号線を走っているときにちらちらと見える柏原宿の存在で,いつか行ってみたいものだと思っていたので,今日こそ関ヶ原宿から歩いてみることにしたのです。
 早朝JR東海道線に乗って関ヶ原駅で降りました。この駅から少しだけ南に行ったところをJR東海道線と並行に走っているのが国道21号線で,この道路が旧中山道です。

 このあたりはJR東海道線で簡単に来ることができるので旧街道を歩いている人も多く,紹介しているブログもたくさんあるので,街道沿いの名所案内はそうしたブログに譲ることとして,いつものように,私は歩きながら考えたことや感じたことを気ままに書いていきます。
 関ヶ原という地名を知らない人はまずいないと思います。それは言うまでもなく「関ヶ原の戦い」の起きた場所だからです。ここは北と南,両側から山が迫っている交通の要所なので,昔も今も,道路や鉄道がひしめいて通っています。京都山崎の天王山もそうですが,こうした地は古来から,多くの戦いや悲劇が生まれたところです。
 しかし,私が「関ヶ原」で思い出すのは第一に「雪が多いところ」なのです。子供のころ,京都に行くのが好きだった父親に連れられて,まだ新幹線のなかったころだったので,JR,いやそのころは国鉄の東海道線在来線特急「こだま」に乗って,この地をたびたび通りました。ある冬のことです。関ヶ原で大雪に見舞われて,鉄道が長い時間止まってしまいました。止まるまでなくても鉄道が遅れるのは一度や二度でなく,冬には雪が降ると鉄道が徐行運転をしてなかなか動かないことがよくあって,そうしたときは退屈して「今どこ」と父親に聞くのですが,決まって返ってくる答えが「関ヶ原」でした。今にして思うに,父親はどうやら名古屋と京都の間はすべて「関ヶ原」と思っていたようなのですが,いずれにしても,ここは今でも「関所」に違いありません。
 時が経って,今度は私が頻繁に京都に遊びに行くようになったときに思い出すのは,JRの在来線,あるいは新幹線の車窓から見える雪を被った美しい伊吹山の姿です。この日もまた,伊吹山が美しく見えましたが,伊吹山の山頂付近もほとんど雪が被っておらず,例年雪の多い関ヶ原もまた,雪はまったくありませんでした。

 関ヶ原宿のあたり,旧中山道はそのまま国道21号線となったために,今では宿場の面影はほどんど留めていません。これもまたいつも書いているように,明治時代以降,急にモータリゼーションがやってきた日本では,それまでの歴史を,まるで,丁寧にデッサンしたキャンパスに,めちゃくちゃ絵の具を塗りたくったように破壊してしまったために,旧道がそのまま自動車道路になった場所は,昔の面影をなくしたのです。逆に,さまざまな理由で,旧道から離れた場所に新たに自動車道路ができたところは時代から取り残されてしまったのですが,それが今となれば幸いして,昔の面影を残すこととなりました。
 そうした場所の多くは,中途半端に発展を遂げてやがてさびれ,何のおもしろもない場所になっています。そして,舗装された道路の幅と曲線だけが昔の面影を残しているところも少なくないのですが,やがて,町ぐるみで保存したり,あるいは昔に戻す試みが成功したところは,今では馬籠宿,妻籠宿,奈良井宿,関宿のような観光地となっています。しかし,映画のセットのような有名な観光地以外にも,私が昨年4月に旧東海道の鈴鹿峠をしたときに歩いた土山宿のような,いわば掘り出し物的な,今にも旧街道の面影を十分に残した,しかし,それほど観光地となっていない場所があります。丸子宿と岡部宿の間にある宇津ノ谷峠のあたりもまた,なかななの面影を残していましたし,今日行くことになる柏原宿もそうしたところです。
 さて,しばらく国道21号線を歩いていくと,左手に降りる道がありました。ここから旧中山道は国道21号線と別れを告げました。この先にあるのが不破の関跡です。

◇◇◇
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中山道を歩く-十三峠には13どころか25の坂があった。①
中山道を歩く-「谷底の町」信州木曽の福島宿①
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DSC_5652DSC_5654DSC_5747DSC_5743 関勉さんの書いた「彗星ガイドブック」は1976年の発行です。関勉さんは高知市に住むアマチュア天文家で,毎晩のように望遠鏡で星空を見て,新しい彗星を探す「コメットハンター」として知られました。
 その昔,コメットハンターとして知られた本田實さんの影響で彗星に興味をもち,1961年にはじめての彗星である「関彗星」を発見。その後合計6個の彗星を発見しています。なかでも1965年の池谷・関彗星は肉眼でもはっきりと見えた大彗星として日本に天文ブームを巻き起こしました。

 古きよき1970年代,アマチュア天文愛好家たちは,池谷・関彗星の影響で彗星捜索をするか,藤井旭さんの影響で天体写真を写すかという潮流ムがありました。そこで,こうした本が出版されたのです。
 私は星の見えない都会に住んでいたために,そうした活動を羨ましく思っていただけでした。もし,もっと星のよく見える場所に住んでいたら,同じように真似事をして,そして挫折をしていたことでしょう。
 そもそも人まねでうまくいくわけがないのです。何事も,自分で考えて自分のやり方を確立することが大切なのです。そうしたことを一部の天才は生まれながらにして知っていて,それ以外の凡人は常に天才のやっていることをまねて挫折する,それが人間です。まねをしたところで,将棋の藤井聡太七段やフィギアスケートの羽生結弦選手にはなれないのです。

 それはそれとして,当時貧乏学生だった私は,関勉さんにせよ,藤井旭さんにせよ,どうしてあのような大口径の望遠鏡や高級カメラなどの高価な機材を手に入れることができるのだろうと,そのことがとても不思議でした。そして,きっと,大人になればだれもがお金持ちになれて,あのような機材を買うことができるのだろうと思って,大人になるのを楽しみにしていました。
 しかし,現実はそんな甘いものではなかったのですが,当時私がうらやましいと思って人たちも,みんなそれぞれ大変な苦労をしていたのです。

 今,こうした本を見返してみると,そういった苦労がわかって,そのことが一番おもしろいのです。そしてまた,今となってみれば,当時のアマチュア天文愛好家のやっていたレベルのことの多くは,今では簡単にだれでもすることができるようになりました。ただし,それとともに,日本の空から星がなくなりました。
 すでにこのブログに書いたことがありますが,私は,昨年,高知県に行って,関勉さんの活躍した場所を見てきました。そして,当時はもっと条件がよかったのでしょうが,今では満足に星が見られるとも思えず,こんな条件の悪い場所で活動しているのかと,夢から醒めるような気がしました。
 だからといって,この人たちの人生が無駄であったということではないわけで,おそらく好きなことを思う存分のに成し遂げてとても充実したものだったのだということもよくわかりました。
 常々書いているように,人生はすべて暇つぶしなのです。その自分の暇つぶしで他人を不幸にする人もいる反面,自分らしくいかに楽しく充実しておくることができたか,そして,願わくばそのことで多くの人に夢を与えたりできれば,それこそが,その人のしあわせなのです。

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●今度は幸運に恵まれた。●
 駐車場の先に小高い丘があって,そこに至る階段を登ったところに休憩所があった。ここに売店があって駐車場のパスを購入できる。ここではコーヒーや簡単な食べ物も売っていた。
 ウィルソン山に登る道路は多くのオートバイやサイクリン自転車が走っていることはすでに書いたが,ここはまた,歩いて登ってくる人もいて,ここが絶好の休憩所となっているわけだ。
 私は事前に調べておいたから,この日がヘールさん生誕150周年,いや,厳密には生誕150周年は昨日なのだが,今日が土曜日だということで,様々なイベントが行われることを知っていた。そこで,私は,この山頂が混雑していたらどうしようかようという別の心配をしていたのだが,そんな心配をしなくても,ここの駐車場はものすごく広かった。

 私が到着したのはかなり早い時間だったので,ほとんどだれもいなかった。天文台の公開はまだ始まっていなかったが,博物館が今まさに開館するところだったので,まず,その博物館に行くことにした。博物館の様子は次回書くことにしよう。
 博物館を見終わてから,この天文台で最も大きく,かつ,最も有名な100インチ望遠鏡のドームまで歩いていった。私は,この望遠鏡を見るのが目的だったから,その姿をひとめ見られればそれで充分だった。
 私は来るまで,ウィルソン山の望遠鏡は週末だけ見ることができると思っていたのだが,それは間違っていて,望遠鏡を見るだけなら年中無休であった。それは,日本の岡山の188センチメートル望遠鏡も木曽の100センチメートルシュミット望遠鏡も,そしてまた,オーストラリアのサイデンスプリング天文台の250センチメートル望遠鏡も,さらには,ハワイ島マウナケアのケック望遠鏡もみな同様で,ガラス張りになった小部屋からガラス越しに望遠鏡本体を見ることができるのである。
 そこで,私は,ドームの小部屋に行って,待望の望遠鏡と対面することができて。すっかり満足して,これで帰ろうとさえ思った。

 そこで再び休憩所に戻ると,天文台の望遠鏡を見学する有料ツアーのチケット販売がはじまるところだった。私が週末だけ公開しているのと思っていたのは,この望遠鏡見学ツアーことであった。しかし,私が調べたことには,この週末はヘールさんの生誕150周年イベントのために通常の望遠鏡見学ツアーは中止で,そのかわり,ウィルソン山天文台の設備がすべて公開されていて自由に見学できる,ということであったから,私はあれ~違うなあと思ったが,ともかく,チケットを購入した。
 数十人の人たちがその見学ツアーのチケットを購入したところで,責任者らしき人がやってきて,このツアーの有料チケットの販売は間違いで,今日は自由に見学ができるからお金を返却するという声がした。
 そこで,お金を返金してもらって,あとはご自由に見学してください,ということになった。このいい加減さもまたアメリカらしきことである。

 今度は,お金を返してもらったほかの人たちについて,再び望遠鏡のドームに歩いて行った。
 望遠鏡のドームは早朝とは違って見学の準備がすっかりできていて,どのドームも見学者用の小部屋に入る入口ではなくメインの入口が解放されていた。私は自由に自分で見学するものだと思っていたのだが,さにあらず,中に入るとボランティアの人がいて丁寧な解説をきくことができて感動した。
 年中無休だと思っていたパロマ天文台がお休みで見ることができなかったその反対に,ウィルソン山天文台では特別公開というめったに体験できないものに遭遇した。つまり,この日を選んだことが最高だったわけだ。
 私はウィルソン山天文台で解説をしていた人に,パロマ天文台の公開がお休みだったことを話すと,だからウィルソン山のほうがずっといいだろうと自慢されたのだった。

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 紹介している3冊の本のなかで,今でも実用なのがこの「全天星雲星団ガイドブック」です。この本ははじめ「星雲星団ガイドブック」として発行され,私はそれを入手しましたが,あとで南天の星雲・星団が9ページ付け加えれられたので,買い直したものです。
 今この本は絶版で,この類の新たな本が多々出版されているのですが,残念ながらこの本に勝るものはありません。

 私はこの歳になってやっとこの本に載っている星雲・星団のそのほとんどを写すことができたのですが,実際にそういった取り組みをしてみると,改めてこの本のすばらしさがよくわかりました。
 一番の特徴は,著者の藤井旭さんが明らかにこの本に載っているすべての星雲。星団を実際に見ている,ということです。
 現在は何事もコスト重視で,売られている本の多くも,いかにも机の上で書いただけ,何かを参考にして写しただけということがすぐにわかってしまう「手間のかかっていない」ものが目につくのですが,この本は正真正銘本物です。それは,著者が金儲けでやっているのではなくて,実際に好きで楽しんで,その結果として本にまとめたからなのでしょう。

 同じシリーズに同じ著者による「星座ガイドブック」という本があります。
 この本は「春夏編」と「秋冬編」に分かれています。内容は星座ごとにその星座にまつわる神話やその星座のみどころを紹介してあって,非常に内容の濃いものです。というか,濃すぎるものです。よくもこれだけのものが書けたものだと思います。
 現在はこの本を基にした「藤井旭の星座と星座神話」(春・夏・秋・冬の4編)がありますが,この本に比べれば内容が薄いものです。そのくらいにしないと売れないのでしょう。
 この本のまえがきには「南天編」を出版する予定だと書かれているのですが,「南天編」が出版されたという事実はないようです。あればほしいです。

 話を戻しまして,「全天星雲星団ガイドブック」のほうは,あとで付け加えた南天のページがありますが,十分ではありません。そしてまた,すでに書いたように,「星座ガイドブック」には南天編がありません。
 私は南半球に出かけて星を見るようになって以来,南半球でしか見ることのできない星座や星雲星団の情報があまりに少ないことに困っています。1,2冊,南半球の星空について書かれた本があるにはあるのですが,それらはあまりに不十分で,参考にもなりません。今こそ,この「星雲星団ガイドブック」と「星座ガイドブック」,この2冊と同じレベルの内容で南天編が出版されたらとてもすばらしいと思います。
 藤井さん,老体に鞭打って,もうひと仕事してみませんか?

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●システムの「塩梅」がよくわからない。●
 私は,インターステイツ5でロサンゼルスのダウンタウンを抜けてからは,カーナビの指示に従って走っていったから,どの道を走ったのかは今になってはさっぱりわからないが,地図によれば,インターステイツ210でパサディナを越えてからウィルソン山に登る道路は州道2しかないから,それを走ったのであろう。
 ウィルソン山はロサンゼルスから1時間というから,もっと街中なのかと思っていたが,完全な山の中であった。日本に例えれば,東京から中央道を走って山梨を越え,八ヶ岳に向かうような感じだろうか。それほどの山奥なのである。
 ウイルソン山に登る道路はサイクリング自転車やらオートバイやらが頻繁に行き来している道で,車はそれらをかき分けて走る必要があり,けっこう大変だった。この道は,おそらくロサンゼルスに住む若者の絶好のサイクリングロードなのであろう。
 私は夜に行かなかったからわからないが,それほどの山奥であっても,おそらく,夜になればロサンゼルスの灯りがけっこうな影響をもっているに違いない。なにせ,あの,天文台群のあるハワイ島マウナケア山頂であっても,オアフ島ホノルルの灯りが見えるのだ。

 そうこうするうちに,私はウィルソン山天文台に到着した。山頂には広い駐車場があった。私がネットで調べたものには駐車場は無料とあったが,この駐車場は無料ではなかった。日本と違って,海外では有料だからといってゲートがあったり係員がいたりするわけではなく,すべては自己責任であることが多いから,どのように料金を払うのか,そのシステムがわからずたいへんなのだ。ずるをする気もないのだが,うっかりお金の支払いを忘れて,あとでペナルティを受けるという面倒が起きかねないのである。
 こういうこときは聞くしかない。とはいえ,聞きたくとも人がいない。わからないまま,私はともかく駐車場に車を停めて天文台に歩いて行った。天文台に差し掛かったら,ちょうど職員の若者がいたので聞いてみると,カフェで駐車料金を払うのだという。そういえば,途中にカフェがあったのを思い出した。そこでカフェまで戻って店員に話をして料金を払うと,駐車パスをくれた。これを車のフロントに掲示すればよいということらしい。
 駐車場に戻って言われたように車にパスを掲示して車を出ると,駐車場の端に控えめな掲示板を見つけた。そこにそうした説明が書いてあった。

 海外では列車のチケットも同じようなもので,それを購入してホームに向かっても改札があるわけでもなく,列車に乗っても,途中で検札がくるでもないということがとても多い。噂では時折突然検札が来て,その時点でチケットを持っていないと大変なことになるという話だ。この旅でもまた,以前書いたが,デスバレー国立公園の入園料が同じようなものであった。私は機械で支払ったが,それを見せたこともなければ,検札があったわけでもない。
 こういうことは,こちらの人にとっては当たり前のことらしく,ほとんどの人は正直にそれを支払っているが,これが日本人には信じられないことなのである。
 街中の駐車場もまた,2時間無料とか,あるいはパーキングメーターは午後6時をを過ぎればチェックが来ないから停め放題だとか,そうしたことがいろいろあるのだが,その2時間無料だって,それを厳密に調べているわけでもなさそうだし,パーキングメーターの場合は,先に自分が停める時間を決めてお金を入れるというシステムなので,何かの都合でその時間を越えてしまっても言い訳が聞かないらしい。逆に,その時間よりも早く車がいなくなった場所なら次の車はそこに無料で停められるということもある。
 ともかく,ずるをする気はないが,こうした日本とは異なるシステムの「塩梅」というのが,私には何度旅をしてもよくわからないのである。そもそもがいい加減な,しかし,えらく厳格な一面のあるアメリカという国の人たちだから,万事が適当であるにもかかわらず,ペナルティには妥協がないのがまた,それをさらにわかりにくくしているのある。というより,日本のスキのない必要以上の厳密さが,つまらない仕事を大量に作っているのだろう。

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☆☆☆☆☆☆
 その時代,「天体写真の写し方」というわかりやすい本に書かれたとおりにすれば,だれでも簡単に天体写真が写せました。ただひとつ問題だったのは,この本にのっているような機材を手に入れることだけでした。そして,どうして,藤井旭というひとはこんなにお金持ちなのかと嫉妬しました。
 今の時代は,はじめて天体写真を写そうとする人に,この本のようなわかりやすい入門本がありません。それは,この本が出版されたころに比べて,機材が進歩しすぎたことと,いろんな手段が生れてきたこと,そこに原因があると思います。こうなってしまうと,若い人が入り込む余地がありません。そう考えると,こうした本が出版された1970年代に青年だったことはとても幸せでした。
 今この本を読み直してみると時代を感じます。この時代に写された写真くらいのものなら,今の時代,簡単に写せるようになりました。しかし,この時代にこうした写真が写せるということを独自の工夫で実践して,その結果をわかりやすい本にしたということがすごいのです。それとともに,本を読んでいるだけで,何か一緒に楽しんでいるような気になれるというのもまたすばらしいことでした。
 
 いまから50年ほど前でも,すでに都会ではほとんど星は見えませんでした。しかし,田舎に行けば今よりずっとマシでした。そこで,私も,社会人になってはじめて車を買ったころは本当にときめきました。夜,車で山の中に出かければ,この本に書かれたように写真を写して,そして,自分で現像まで試みました。しかし,現像まで自分でするのは大変で,引き伸ばし器を購入し,押入れを暗室にしましたが,やがて断念し,引き伸ばし器もゴミと化しました。
 そのころに写した写真のフィルムが今も残っているのですが,改めて見ると,自分で思っていたよりはマシな写真なのにびっくりしました。いずれにしても,写真の出来不出来ではなく,こうして自分で楽しんだことの思い出が,今となっては貴重なのです。

 少し前に紹介した星好きの人が持っている天文雑誌の別冊「三種の神器」,つまり,「イケヤ・セキ彗星写真集」「広角レンズによる星野写真集」「日本の天文台」のうち,発売されていた当時は持っていたのに,いつの間にか失くしてしまったのが「日本の天文台」でした。私は今になってこの本が欲しくなって,毎日のようにインターネットのオークションで探していたのですが,近ごろやっとそれを入手できました。この「日本の天文台」をもって,私が手もとに置きたい昔の天文書探しは終わりを告げ,ついに,1970年代の中期に発売され,当時の青少年を夢中にした本が幸せそうに並んでいます。
 今の時代についてゆけない私は,こうして,自分だけ40年前の世界に舞い戻って,そのころの夢を追い求めているのです。それは,思えば本当によき時代でした。しかし,その当時から都会に住み,しかも,自分の車さえ持っていなかった私には,星を見るというのはかなり場違いな趣味でした。そこで,そうした本を読んで憧れと知識だけを抱いて,実際は,星ひとつ満足に見たことがなかったのです。
 あれから40年ほどの時間が経ち,世の中も変わり,星を見る機材もデジタル化し,それと同じくして,日本の空からは星が消え去りました。そんな日本に愛想をつかし,私は,南半球で満天の星空を見たり,世界各地の天文台めぐりをするようになりました。そんな時間は,タイムマシンで過去に戻っているようで,幸せを感じます。

 はじめに書いた星好きの人が持っている雑誌の別冊「三種の神器」に習って,今日は,その時代の星好きの青少年の「バイブル」であった3冊の天文書を紹介しましょう。その3冊の「バイブル」というのは,藤井旭さんの書いた「天体写真の写し方」と「全天 星雲星団ガイドブック」,そして,関勉さんが書いた「彗星ガイドブック」です。
 これらの本が発売されたころ,「月刊天文ガイド」を発行している誠文堂新光社はアマチュア向けにすばらしい天文書を数多く出版していました。今改めて調べてみて驚いたのですが,これらの本は当時の値段で1,000円から1,500円もしたのです。今なら3,000円という価値でしょうか。そして,先に紹介した「三種の神器」とは違って,これらの「バイブル」のほうは,インターネットのオークションでほとんど値段がつかず売りに出ています。それは,発行部数に限りがあって今は希少となってしまった雑誌の別冊と違って,売れすぎて今でも本がたくさんあることとともに,内容が古すぎて,今ではほとんど意味をもたないからでしょう。
 しかし,これらの本ではじめて知識を得た私にとっては懐かしい本で,今読み返すと若さが戻ってくるようなのです。こうした本に限らず,学校の参考書にしても,この時代の本は品があり,内容も高度でした。現在のような効率重視の時代とは根本的に違うようです。
 では,次回から,これらの本について,昔話を書くことにしましょう。

「日本の天文台」①-やっと手に入れた「三種の神器」

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●天文台は「夜景の絶景ポイント」⁈●
 ジョージ・エレリー・ヘール(George Ellery Hale)は1868年6月29日にシカゴで生まれ,1938年2月21日に亡くなった天文学者である。私がウィルソン天文台を訪れたのは6月30日だったから,生誕150年というのは昨日で,パロマ天文台に行ったときだったのだ。
 ウィルソン山天文台では,生誕150年を記念して特別に天文台の公開を行っていたのだが,反対に,パロマ天文台は工事のために閉鎖していたというのはなんという皮肉であろうか。
 後で書くが,ヘールはパロマ天文台を作ろうとして,その完成を見ずして世を去ったから,生誕150年だからといって何のこだわりもなくパロマ天文台が公開を中止していたのかもしれない。それはそれとして,私もまた,ヘールさん同様に,パロマ天文台を見ることができなかったと考えることとしよう。

 さて,ヘールさんは,太陽の観測にためのスペクトロヘリオグラフを発明し太陽の磁場を発見したほかに,天文学の重要な発見を行うことになるヤーキス天文台やウィルソン山天文台などの建設を主導したという功績があった。
 父はエレベーター製造で財をなしたウィリアム・ヘールであった。少年時代から自宅の屋上に据え付けられた天体望遠鏡で天体観察に没頭し,マサチューセッツ工科大学で学び,1890年に学位を取得した。
 大学の卒業後は自宅の敷地内に12インチの屈折望遠鏡を備える天文台を建設し太陽の観測を行ったが,そのときの望遠鏡には彼が発明したスペクトロヘリオグラフ(=単色太陽光分光写真儀)が組み込まれていて,太陽光からカルシウムの特性スペクトルに単色化し,史上初めて太陽の紅炎(プロミネンス)の撮影に成功し,この成果によって太陽研究における一大権威と見做されるようになり,24歳でシカゴ大学天体物理学講座の助教授に就任した。

 1897年,シカゴの実業家チャールス・ヤーキスの資金を得て40インチ(101センチメートル)屈折望遠鏡を備えるヤーキス天文台を建設した。そして,1904年には,カーネギー研究所の寄付を得て,その当時世界最大となった100インチ(257センチメートル)反射望遠鏡を備えるウィルソン山天文台を建設し,初代台長になった。ヘールさんは,さらに,ロックフェラー財団から寄付を受けて,パロマー天文台の建設に着手するが,その完成を見ることなく死去した。

 私が訪れたウィルソン山天文台( Mount Wilson Observatory=MWO)は,ロサンゼルスの北東,パサデナ郊外のサン・ガブリエル山系にある標高1,742メートルのウィルソン山頂に置かれている。ウィルソン山は北アメリカの中では最も大気が安定した場所のひとつで,天体観測,特に干渉法観測を行なうのに理想的な環境である。
 今は,ロサンゼルス周辺のいわゆるグレイター・ロサンゼルス地域の人口増加によって,この天文台で深宇宙観測を行う能力は限られてきたが,依然としてこの天文台は新旧の観測装置を用いて多くの科学研究成果を挙げている。
 初代所長だったヘールさんはヤーキス天文台から40インチ望遠鏡を移設した。完成当初はウィルソン山太陽観測所(Mount Wilson Solar Observatory) と呼ばれ,天文台創設2年後の1904年にワシントン・カーネギー協会から出資を受けた。この財団が現在でも天文台の主要な援助団体となっている。
 天文台までは道路も整備されていて,皮肉にも,現在は「夜景の絶景ポイント」としても多くの人が訪れるとこととなっている。2007年10月のカリフォルニア州南部で発生した山火事で一時閉鎖されていたが,現在は復旧している。

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●ウィルソン山に向かう険しい道●
☆6日目 2018年6月30日(土)
 今日が最終日で,明日の朝帰国の途に着くことになる。
 長年行きたかったセコイア国立公園と一度は行ってみたかったデスバレー国立公園,そして,口径5メートル反射望遠鏡のあるパロマ天文台とフッカー望遠鏡のあるウィルソン山天文台,さらには,新設のサンディエゴ・パドレスのホームグランドであるペトコパークに加えてしばらくぶりのドジャースタジアムと,盛りだくさんの場所を巡ってこようと旅に出た。その中で最も行きたかったパロマ天文台には振られてしまったが,その代り,この日はすてきな出来事が起きる。

 早朝サンディエゴを出発して,私はロサンゼルスに向けてインターステイツ5を北上した。サンディエゴに向かうときにわかったことは,インターステイツ5は,ロスアンゼルスからサンディエゴ間は多いところでは8車線もあるのに,ロスアンセルスに近づくにしたがって車線が減り,ついには2車線にまでなってしまうから,渋滞しないわけがないということだった。これはシアトルでも同様だが,悪しき日本の道路のようなものだ。
 アメリカでは,大都市のインターステイツ網が先に完成して郊外に伸びていった。やがて,車が増えるにしたがって,郊外では車線が拡張したのに,都会では拡張する土地がないものだから取り残されてしまい,慢性的な渋滞が解決できなくなっている。もはや飽和状態なのである。そこで,都会に流入する車を減らそうと,ニューヨークではマンハッタンに入るだけで通行税を取るといった対策を講じているといわれる。
 私は渋滞を避けてできるだけ早くロサンゼルスに到着しようと早朝に出発したわけだった。

 今日の予定はウィルソン山天文台に行くことと,その後にドジャースタジアムで前田健太投手を見ることであった。今晩は寝るだけだからロサンゼルス国際空港近くの安価なモーテルを予約してあった。
 ウィルソン山天文台はロサンゼルスから北東にあるウィルソン山の山頂にあって,ロサンゼルスのダウンタウンからは1時間ほどのところだ。天文台がロサンゼルスからそんな近くにあっては天文台としての機能はすでに終わっていると思うが,ここは歴史的にはパロマ天文台など比較にならないほどの老舗なのである。
 事前に調べたところでは,公開しているのは週末のみということであったから,私はこの旅で唯一の週末であるこの日に行くことにはじめから決めていた。その反対にパロマ天文台は年中無休ということであったが,それがとんでもないことになってしまったわけだった。

 パロマ天文台のように突然の公開中止ということもあるとまずいので,私は前日の夜,事前にウィルソン山について調べてみた。すると,この週末は「スペシャルウィーク」ということで,毎週末に実施している天文台の公開ツアーが中止となっているではないか! 私は一瞬己の再びの不幸を嘆いた。しかし,よく読んでみると,それは大いなる誤解であって,この週末はウィルソン山天文台を造った偉大なるヘールさんの生誕150年祭で,天文台すべてを無料で公開するとあった。
 これはすばらしい偶然であった。この日を選んで来たわけでもないのに,まさに最高の日であったわけだった。それにしても,パロマ天文台だって同じく偉大なるヘールさんの生誕150年記念の日である。その日を休みにしていいものだろうか。一体何を考えているのだろうか,と不思議に思った。
 そんなわけで,旅は人生と同じ,よからぬこともあれば,その分よいことも起こる。これは私にとってパロマ天文台に行くことができなかった代償として有り余るものであった。

 渋滞する前にロサンゼルスのダウンタウンに差しかかったが,週末ということもあり,まわりは閑散としていた。私は一旦インターステイツ5を降りてマクドナルドで朝食をとった。この旅ではマクドナルド以外のハンバーガーショップに行くことにしていたが,一旦行ってみたインアンドアウトバーガーが土曜日ということで早朝やっておらず,それ以外にもおもしろそうなハンバーガーショップも見つからず,しかたがなくこの日だけマクドナルドに行ってみたわけだ。しかし,マクドナルドに入ってそのなじみのある雰囲気にもホッとしたのもまた,おかしなことだった。
 その後,ロサンゼルスのダウンタウンを抜け,ウィルソン山に向かった。ウィルソン山に向かう道路は,想像以上に険しい山道であった。

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●「サンディエゴ・サンセット」,今。●
 サンディエコ・パドレスのホームグランドであるペトコパーク(Petco Park)は2004年のシーズンにオープンした新しいボールパークである。
 以前は1967年にNFLチャージャーズと共有のクアルコムスタジアム(Qualcomm Studium)を本拠地としていて,私は見にいったことがある。コンクリート丸出しの悪名名高きクッキーカッター型のスタジアムであった。駐車場がやたらと広かったが,ただだだっぴろくて,ゲームが終わると車は車道も駐車帯もなく走り去っていくので取り残された車が猛スピードの洪水の中にぽつんと存在していたりして,とんでもない恐怖を感じたものだった。

 他の都市と同様に,1990年代倉庫街で治安の悪かったエリアがほぼ更地状態にされて,新しいボールパークとコンベンションセンターに生まれ変わり,その周りには最新のホテル,ガラス張りのコンドミニアム,レストラン街に生まれ変わった。
 レフト後方にウェスタンメタルサプライ社と書かれたレンガ造りの建物がボールパークに取り残されたように建っているが,この1909年に建てられたこの建物は市の歴史的建造物で壊すことができず,それを逆手にとって,ボールパークのデザインに組み込んでしまったというものである。この建物,外観は当時のままだが,内装はすっかり作り変えられていて,スウィートルームやレストランになっている。

 このボールパークの粋なところは,センター後方の道路を隔てた場所に公園があって,ゲームがはじまる4時間前からはここもまたボールパークの内部扱いとされるのだが,なだらかな芝芝生の丘となっていて,そこに寝転ぶと大型ビジョンがゲームの様子を映し出すのを見ながら,寝転んで,あるいは芝生で遊びながらゲームの観戦ができるというものだ。
 ここにはまた,子供用のミニグランドもあって,子供たちはそこで遊びながら,あるいは,カップルはビールでも飲みながら,美しいボールパークを楽しむことができるようになっていて,こんな趣向があるボールパークはここ以外にはないから,私はそれに感動してしまった。
 また,丘の上には8度首位打者に輝いたパドレスの英雄グウィンが1981年から2007年に殿堂入りするまでの足跡が刻まれたブロックと銅像がある。

 このように,このボールパークは気候がよいことも手伝って,すばらしい夜を過ごすことができる場所となって,まさに,「サンディゴ・サンセット」の魅力を発揮しているのであった。
 アメリカのこうしたボールパークが最新式に作り替えられていくころ,つまり,アメリカの1990年代はまさに繁栄の極大値であった。そのころの日本が「失われた10年」と言われ,いまもまだそこから脱していないのとは対照的であった。しかし,その絶頂期に911が起き,その後のアメリカは,閉鎖的で暗く,そして,やたらとセキュリティに厳しい国となってしまったのが私には残念である。
 こうして,私はサンディエコの2日目の夜を過ごした。

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 NHKEテレで今も放送されている「旅するドイツ語」という番組を,放送がはじまったころは知りませんでした。早朝になにげなくテレビをつけたときに偶然この番組が流れました。クラシック音楽をバックミュージックに,別所哲也さんが美しいウィーンに出かけて,覚えたてのドイツ語で会話を試みるという,いままでにない趣向の語学番組でした。この番組を見て,私ははじめてオーストリアという国に行こうと思いました。幸いにも,半年後にこの番組は再放送されて,番組の第1回から見直すことができました。私が断言できるのは,もしこの番組が放送されていなかったら,そしてまた,この番組を見なかったら,私がオーストリアに行くことは決してなかったということです。
 クラシック音楽好きの私はウィーンに憧れてはいましたが,これまで行こうと思わなかったのは,この国がドイツ語圏であるということが理由のひとつでした。自分には無縁の世界のように思えました。しかし,出かけてみると,実際は,この番組で話すようなドイツ語はほとんど必要なく,英語で問題なく旅ができました。

 いつものように,私は,実際に足を運んだ後で,自分の愚かさに気づかされるのです。それは,アメリカに行ったときも,フィンランドに行ったときも同様でした。まず,その国の歴史を知らないというのが致命的でした。そして,帰国してから,それを詳しく知ろうとして,その国にさらに興味が増すのです。それに加えて,それまでクラシック音楽を多く聴いてきたことが,オーストリアの旅を一層楽しくすることにつながったのを感謝しました。
 それともうひとつ。私は,それらの国の名所・旧跡よりも,その国に住む人たちの暮らしに興味をもつのです。それはオーストリアに行ったときもまた,同様でした。3日目,ウィーンからザルツブルグに出かけたとき,長距離列車の車内からみたオーストリアの大地が,その雄大な風景が,私の心を打ちました。列車から見たその景色が,私を再び,その地に招くのです。どんな人がどのような生活をしているのだろうと考えるのに車窓ほど適した場所はありません。
 今度行く機会があったら,そうしたところを時間を忘れて訪ねてみたいものだと,いつも思うのです。それが旅をする新たな動機となるのです。

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 私は,このところ何年もハワイには行っていてもアメリカ本土には行っていないような気がするのですが,実際は2017年も2018年もアメリカ本土に上陸しているのです。2017年は8月にアイダホ州で皆既日食を見ましたし,2018年は6月になんとなくカリフォルニア州に行ってきました。そのときの旅行記は現在も続行中です。
 私は,アメリカは行き過ぎたので,旅行をしても日常と非日常が混在してしまっている感じになっていて,旅をしてきたという感覚がもはやないのですが,昨年の旅行については,今にして一番に思い出すのは,遅く着いたイニョカーンという小さな町,というのだから,自分でもそのことに驚いています。イニョカーンに限らず,同じく,昨年行ったニュージーランドでも,一番に思い出すのはクイーンタウン近郊のアロータウンという小さく古い静かな町だし,オーストリアでもウィーンの郊外ハイリゲンシュタットだし,というように,こうした小さな町に,まるで何年も住んでいるような気がして,愛着を感じるのです。その感覚は,それらとは実際はまったく違うところにもかかわらず,夕暮れに車で走った四国・徳島郊外の小さな町と同じようなのです。
 どうやら,名所とか観光地とかではなく,夕暮れのわびしい里山の風景,そんな心に染みるような情景こそが,私の原風景のような気がします。

 さて,私がアメリカで見てみたかったものは,これまでに何度も書いたように,今はもう旧式となった往年の天文台とそこで活躍した天体望遠鏡だったのです。そこで,それらを効率的に見て回る計画を立てて,昨年はカリフォルニア州にあるパロマ天文台とウィルソン山天文台に行ってみようと思いました。そして,そのついでに,ずっと行きたかったデスバレー国立公園とセコイア国立公園にも行くことにしました。
 アメリカは広く,その広いことが,私はずっと好きだったのですが,それも次第に億劫になってきました。簡単に電車で行ける距離ではないのです。様々な場所をまわるにもそれぞれがまる1日かかるわけです。ところが,わざわざ出かけた,年中無休だと思っていたパロマ天文台の公開が,私が行ったときに限って中止されていたのです。いったいどういうことでしょう。いつも幸運に恵まれている私にも,時にはこんなこともあるのです。そこで,おそらくそれは,私に「また来いよ」と言っているのだなあ,と思うことにしました。

 そんなわけで,数々の場所を訪れることができた2018年は,思った以上の幸運に恵まれた旅も多けれど,パロマ天文台に行くことができなかったこととアイスランドでオーロラを見ることができなかったこと,このふたつのことだけが成し遂げられず,心残りになってしまいまいた。
 「また来いよ」と言われれば,また行くしかないなあ,と今は思っているのです。そして,これこそが,私が再び旅に出るぞという気持ちにさせる力なのです。

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 これまでずっと無縁だった南半球でしたが,星空,特に南十字星とマゼラン雲を見たさに昨年行きはじめて以来,何度も足を運ぶようになりました。前回書いたように,ニュージーランドのテカポ湖で私は満足いく星空を見ることができました。しかし,南半球に出かけるのなら,わざわざ遠いニュージーランドまで行かずとも,オーストラリアで十分なわけです。
 ニュージーランドには,星空の美しいといわれるテカポ湖以外にも,マウントクック,ミルフォードサウンドなどの観光名所があります。それに比べたら,正直言って,オーストラリアという国には,絶対見るべきというような観光名所はエアーズロック以外にはあまりありません。しかし,これらのふたつの国は,自然の美しさと素朴さ,そして,いうまでもなく,満天の星空が,星好きの私の心をつかんで離しません。
 そこで,2018年は,10月のニュージーランドに加えて,なんと,3月と5月の2回もオーストラリアに行くことができました。なかでも,3月に行ったときに深夜の砂漠の中でみたろうそくの灯りひとつない夜空に浮かぶ満天の星空は忘れることができません。私がこれまで見た中で最高のものでした。

 昨年のお正月,
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 私の印象ではニュージーランドはあまり天気がよくありません。お昼間は毎日雲がたくさん出ます。しかし,2016年に行ったとき,夜だけはいつも快晴でした。私は,それがいつもそうであるのかどうかわかりません。また,テカポ湖付近はホテルもなかなか予約がとれないものなのかどうかもよくわかりません。このように,私にはニュージーランドはアメリカに行くのとは違って,謎だらけなのでした。
 果たして,私が抱いているニュージーランドの謎は解けるのでしょうか?
  ・・・・・・
と書きましたが,改めてニュージーランドに行って,自分なりに謎が解けたような気がします。

 ニュージーランドは思っていたよりは天気がよいところです。ただし,オーストラリアの砂漠地帯とは違って,雲がまったくない快晴,という感じではありません。宿泊地も,テカポ湖のような観光地から少し離れた小さな町ならば泊る場所に困るわけでもなさそうでした。一方,オーストラリアの場合は,ニュージーランド以上に,宿泊場所に困ることもなさそうです。
 南半球の星空はなんといってもその透明度です。日本でいくら山奥に出かけても -とはいえ日本ではどんな山奥に行ってもどこかに地上の光が漏れているのですが- 湿度の高い日本では,澄んだ星空を見ることができないのです。南半球では夕方空が暗くなったときから澄み通った夜空に広がる満天の星々が迎えてくれます。
 このように,これらの国は,のんびりと自然と接するにはとてもすばらしい場所です。私はこれからも,満天の星空が見たくなったら,何度でも足を運ぼうと思っているのです。

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 1月1日の新聞に入っていた別刷広告に載っていた「山や木々に囲まれて子育てができる家」という見出しには笑ってしまいました。フィンランドならともかく,そんな家など日本ではどこにもありません。将来の少子化も考えず,これだけ環境を壊しておいて,その結果,山村は過疎地となり,都会は空き家だらけになってしまったのにもかかわらず,未だに山を削り宅地開発をしている住宅会社ってなあに? と私は思います。それがこの国なのです。そんなことをしているから,もはや家は資産ではなく負債です。今や,日本で住む場所は賃貸マンションしかありません。
 それが現実の2019年,朝日新聞が昨年の末から9回にわたって「エイジングニッポン」という連載をはじめました。世界でもまれな少子高齢化を迎える日本が,この先どのようになっていくのか,どうすればよいのかということが話題です。ちょうど平成という元号が終わるときを狙った企画なのでしょう。しかし,私はすでに30年前に,周囲の若者に将来の日本はこうなると話していたので,この時期になって,何を今更と思いました。日本のマスコミはいつもこのように,事が起きてから他人事のように無責任に騒ぐのです。
 しかし,こんなことを書いたところで,すでに手遅れであるこの現実の中でいかに生き延びるかは,そうした現状を認識し直視したうえで,国に頼らず自分で対処する術を考え自分の意見をもち,自分の生き方を決めて直ちに行動するしかないのです。新聞を読んでいるだけで行動しなければ,それは単なる評論家でしかありませんし,そうした人が真っ先に犠牲者となるでしょう。

 おそらく,新学期を迎えると,お正月にこうした記事を読んだ教師が,記事の受け売りで生徒にこの話をするのでしょう。それは,ろくに星も見たことがないのに天体の運動を教えるようなものと同じです。その姿が目に浮かぶようです。しかし,実際に海外に出て自分の目で日本の現実を見たわけでもなく,解決しょうと行動したわけでもなく,単にお正月にこたつに入って酒でも飲みながらそうした記事を読んで,それを人に話すような教師では失格なのです。それは,スマホを自分で使ってもいないのに,また,使うこともできないのに,批判をしているだけの教育評論家と何ら変わらないのです。
 積極的に外に飛び出している多くの優秀な若者は,実は,そんな記事を読んだだけで知ったかぶりをして人に説教じみた話をする年配者よりも,ずっと現実を直視しているのです。そして,自分の考えをもって社会と格闘しているのです。そうした日本が直面している状況は,個人で海外に旅行して空港に降り立っただけでも容易にわかることが多いのですが,かつてのバブル期に蓄えた財産でパック旅行をして余生を楽しんでいるような年寄りには何も見えないのです。
 日本は本当に遅れてしまいました。平成の30年間ですっかり世界から取り残されてしまいました。かつて,「今やすべての国民が中流以上」とかいわれた30年前の知識や常識は幻想となってしまっているのに,今でも通用すると思い込み,未だに学歴だの偏差値だの,そんなことにこだわって進路指導をしている学校や,昔と変わらず高校別の大学合格者をまとめて雑誌にして発売しているような新聞社がその最たるものです。教育に金も出さず入試制度の改革とやらで迷走する文部科学省も同類です。ドリル学習で点取り競争をさせられているだけの若者が「学歴」だけ手に入れて社会に出ても,コンピュータも語学もできないから,諸外国の若者に勝てないのです。

 オリンピックも万博も,実は,こうした古い考えしかできない60代の指導者が,若き頃に体験した1964年の東京オリンピックや1970年の大阪万博の思い出に浸って,夢よもう一度,とばかりに浮かれているに過ぎないのです。若者に過去のツケを残すのも,もういい加減にしてくれ,と言いたいです。今どき,喫茶店で「ホット」とか言ってコーヒーを注文して,タバコをくゆらせながら新聞を読み,現金で支払いをしているようなおじ様方は,時代が完全に変わって日本が世界から置いてきぼりになってしまっていることを認識していないわけです。
 右だの左だの与党だの野党だのといったところで,結局はみな時代遅れの同類です。議論すらすらできない小学校の学級会以下の国会で,この国の将来の何を決めようというのでしょう。日本が世界から遅れてしまっていることすら認識していない30年前の価値観で生きている人たちが,老後の暇つぶしのように,敵味方に分かれて言葉遊びと権力争いごっごと肩書だけの大臣のイス取り競争を演じているだけなのです。彼らが考えているのは選挙で当選することだけで,国の将来なんてこれっぽちも思っていないのです。
 それはマスコミも同じことです。結局,オリンピックやら万博やらといったイベントがあれば,それを利用してお金儲けができるから,そうしたイベントに反対意見を言うわけがないのです。所詮は私利私欲なのです。いくら正義者ぶって正論と唄って論じたところで,結局はあなた(=国民)がお金を使ってくれればそれでいいのです。イベントが終わった後で莫大な借金が残ろうと,使い道のない巨大な施設の維持に苦しもうと,そんなこと知ったことでないのです。
 同じように,あなたが,いくらこの国はすばらしい,一流だと,今はやりの愛国者ぶったところで,無策のこの国が危うくなったとき,犠牲になるのはそんなあなた自身です。よく,国がつぶれるといいますが,国はつぶれません。つぶれるのは国でなくあなたです。あなたが今どんなに愛国者ぶっていようと,そのときに国はあなたを救ってはくれません。リーマンショックのとき,それまで残業も厭わず会社に尽くしていたのに簡単に首を切られた大企業の社員を思いうかべれば,東北で起きた原子力発電所の災害を思い出してみれば,そんなことは容易にわかりますし,それは歴史も教えてくれます。

 結局,何事も,多くの人の考えを聞いてもそれを鵜呑みにせず,自分の目で見て自分の耳で聞いて自分の足で歩いて確かめ,自分の意志で判断し自分の考えをしっかりもって,それに従って勇気をもって行動すること,それしかないのです。上司は自分の保身しか考えていません。組織はいかに安いお金で働かせて儲けるるかしか考えていません。国は国民からいかにして税金をとるかしか考えていません。だから,上司を,自分の属する組織を,そして国をヨイショしても,いざとなったときには助けてはくれないのです。
 これが,私がこれまで長く生きてきてその間に見てきた,そして体験してきた結論です。

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 私はこれまで世界史をほとんど知りませんでした。高等学校で履修をしていないので,知識は中学校どまりでした。旅をして最も困るのは,出かけた国の歴史を知らないときです。これではその国が理解できませんし,自分の意見もいえません。文化もわかりません。
 私は高等学校で日本史は履修したし,当時は日本史が好きだったので,多くの本も読みましたしさまざまな場所にも行きました。今でも奈良や京都に出かけたときに,一般に「観光名所」ではない場所でも心ときめくのは,その土地の歴史を知っているからです。つまり,歴史を知ると,見ている景色が輝くのです。
 そこで,海外に旅に出たときも,それと同じことを体験したい,その国の歴史を知りたいと考えるようになりました。そうした動機で世界史を自分で学ぶようになると,次のふたつのことに気づきました。

 そのひとつは,不思議なことに,日本史を学んでいるだけでは気づかなかった日本の歴史の見方ができることです。そのなかでも,私が日本の歴史でもっとも重要だと思ったことは,1800年代の後半に日本がなぜ殖民地化されなかったかということです。簡単に,日本は島国だから植民地にされなかったといわれますが,そんな生易しい問題ではないのです。幕末から明治維新にかけて,諸外国から侵略される危機に直面したとき,日本でまず起きたのが攘夷運動でした。しかし,命をかけて諸外国に出かけて,その目で外国の姿を見てきた若者が,そんなことをしていたらこの国が守れないと知って,意見を変えました。そのために,世界を知らぬ保守的な人から敵とされ多くの命が奪われることになりましたが,そうした犠牲の上で,明治維新は成し遂げられ,その結果として,この国の独立が保たれたわけです。友人曰く,その時代に日本を救った人たちは私利私欲ではなく「腹が座っていた」のです。このように,自分の生まれた国を愛したいのなら,まず,外から見て自国がどういった状況であるのかを知ることが大切なのです。
 今日もそれは同じことで,外国を旅行したこともないのに,現実を何も知らないのに,この国を美化し,外国を非難し,といったことが流行のようになっている状況は,嘆かわしいものです。そのことは,愛国ぶっているだけで,実は正義ではなく,むしろ,この国を衰退させる要因となるのです。この国の人たちの中には,懲りもせず,有史以来,ずっとこうした同じ思考をしている人が少なからずいるというのもまた,歴史を学べばわかることです。
 
 もうひとつは,歴史を学ぶことは大切だと再認識したことです。すべての若い人は,日本の歴史も含めて,世界の歴史を学ぶことが最も必要なのです。しかし,残念なことに,今の高等学校では,理系といわれる人たちの多くは歴史をほとんど学びません。また,文系といわれる人が世界史を学んでも,使われている教科書が難解すぎて,結局,年号と事項の暗記学習にとどまっているだけで,消化不良を起こしているということです。詳しければいいとばかりに,今の私でも読むのに苦労するほどの,高校生には読解不可能な教科書を生徒に買わせても,おそらく,ほとんどの生徒はそれを読んでいないでしょう。そこで教師は,プリントを配り年号や地名や人名の穴埋め作業を課して時間を潰しているだけなのです。しかし,そんなものは歴史教育ではないから,履修をしてもまったく何も身についていないのです。
 これもまた,本当は,国民に真実を教えず,何も考えさせず,無知にして,従順にしておきたいという国策なのでしょうか?

 それはさておき,私はそれではいけないなあと思って,旅に出るごとに,その国の歴史を知ろうと自分なりに本を読んだり,旅先で博物館や遺構などの場所を訪れるようにしているのですが,そうした関わりからヨーロッパの歴史を少しずつ考えるようになると,極めて興味深いことがたくさんあるものだと,今更ながら思うようになりました。
 日本とは違って陸続きでありなから,フランス,スペイン,ドイツ,オランダ,イタリアなど,その国ごとに言語が異なり,文化が異なるるというのも驚異であり不思議なことです。当然,そこに至るまでのそれぞれの国の歴史や人々の葛藤があり,それは侮れないのです。そうした歴史を,実際に目で耳で足で知ることこそが,旅の魅力をさらに増し,そこからもまた,海外から見た日本の姿を知ることができるということを,改めて実感するのです。そうした意味でも,今年もまた多くの国を訪れてみたいと思っているのです。

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Happy New Year 2019
◇◇◇

 これまで私は,手に入れたかったもの,行きたかったところ,やりたかったことをひとつずつ実現してきたのですが,どうやらそれも卒業して,また,新しい境地になってきました。
 手に入れたかったもの,その代表はすでに手に入らなくなった古本が多かったのですが,それらをすべてネットで探して手に入れることができたので,もはや,そういうものを探し回る必要がなくなりました。新刊本は手間暇かけた濃いものもないので,専門書以外はよほどのことでもない限り買うこともなくなりましたし,買う気もなくなりました。興味本位の雑誌の類など,自分の精神が劣化しそうで,まったく読む気もなくなりました。
 以前は,カメラやら望遠鏡やら,欲しいものもあったのですが,カメラは私の望む意外の世界に行ってしまい,やたらと大きく重く,私には必要のない性能を追い求めた製品ばかりになってしまい,興味を失いました。望遠鏡は,結局,星の見えない日本ではどれほど高価なものを手に入れてもたかが知れているし置く場所もないし,星の美しい南半球に出かけるときに持っていく小型のものはすべて整備してしまいました。渋滞だらけで走る道もないのに高級車に乗ることも,少子化で空き家だらけ将来は負債にしかならないのに家を持つことも,ともに意味がないのです。要するに,もう私は衣食以外に手に入れたいものがないのです。
 行きたかったところは,私がずっと思い描いていた大概の場所には行くことができましたし,また,やりたかったこともやってしまいました。

 そんなわけで,これから最も心掛けたいことは「断捨離」です。それは「物質的な断捨離」だけではなく,「精神的な断捨離」なのです。
 「物質的な断捨離」というのは要らないものを処分するということですが,それはモノを買うというよりもずっと贅沢なことです。それをするには,自分にとって何が必要で何が必要でないのか,つまり,自分が何ものなのかがわからないとできないからです。しかし,それ以上に,究極の「断捨離」というのは,むしろ精神的なものです。それは,むやみやたらとモノをなくすことではなく,また,モノを買わないことでもなく,身の丈で自分にとって必要なものはなるべくよいものを手に入れてそれを大切に使うということにつながるからです。
 私はこれまで,まず,消費文化の権化であるアメリカをさんざん旅行して,借金をしてでもモノを手に入れるという物質至上の軽薄なアメリカ文化を経験しました。そのあとで,ヨーロッパを旅行するようになって,アメリカ的な価値観とは真逆な世界を感じることで,新たな驚きを覚えました。俗にいえば,静かなカフェでメランジェを飲みながら内容の濃い本を読み,モーツアルトの音楽を聴いてゆったりと時間を過ごす,という究極の贅沢です。それは,何事も金儲けと対費用効果,そして,教育から商売まで,他人と競うことしか考えない,日本の貧困で愚かな精神性では考えられないことでした。
 乗客を子供扱いするうるさいだけの車内放送,情報としていらないことだけが大きく書かれた案内表示に名を借りた広告板,競争し順位付けするだけで何も身につかない教育という名をかりたビジネス産業,興味本位なだけのテレビ番組や週刊誌,老人からお金を搾取することが目的の若返り商品,そして,オリンピックに万博にリニア新幹線など,この国でやっていることのほぼ9割はなくてもいいことなのです。それらに関わりをもたないことこそが,心の安定と豊かさを生む「精神的な断捨離」なのです。
 そうしたことに目覚めた私が2019年に思い描くのは,物質ではなく精神的な満足とときめきばかりなのです。

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