しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

February 2019

 定年退職したら旅行をするのを楽しみにしていた人も多いことでしょう。しかし,定年が65歳になり将来は70歳にもなろうというときに,これからの若い人は,退職後などと言わず現役のときもお盆とお正月以外の期間に最低6日,土日も含めて8日のお休みがないと,人生,死ぬまでどこへも行かれずに終わってしまいます。この春のゴールデンウィークは10連休だそうですが,そんなバカ高いときに海外旅行をしなければ行くときがないなんて,悲劇以外の何ものでもありありません。
 私は早期に退職して55歳からの5年間で世界中の行きたいと思っていたところはほとんど行ったのでよかったのですが,それでも60歳を過ぎたら,長い期間旅行をすることが億劫になってきました。今は最大でも8日くらいが適当でいいや,と思うようになりました。だから,65歳で定年ともなると体力的にも旅行をすることは限界があります。まして,70歳なんて論外です。
 国内旅行では,一度は行ってみたいと思っても,リピートしたいという場所は少ないものです。しかし,海外旅行ともなると,行ってみた後で,新たに興味のわく場所がたくさん出てくるので,65歳から旅行をはじめるというのは完全に手遅れです。私はずっとアメリカ合衆国50州制覇とMLB30球場にすべて行くということに情熱を傾けていましたが,今はもう,そんなことに時間を費やす気持ちはなくなりました。そしてまた,日本でも海外でも,人混みだらけの都会にはまったく興味をなくしました。

 今,BS放送では国内・海外問わず,さまざなな旅番組があって,家に居ながらにして旅行をした気持ちになれますが,見ている分には楽しくとも,行ってみたいかというと,それはまた別のものです。また,旅は見知らぬ人との出合いが楽しいのですが,それも,テレビという媒体であればこそできても,実際に個人で出かけて同じことができるかといえば,それもまた,別の問題です。そのことに加えて,これだけ世界中観光客が多くなってしまうと,有名な場所はどこに行っても人だらけ,そうなると,ストレスを溜め込むために旅行をすることになりかねません。
 自分にも意外なことでしたが,歳をとったら私は急に人恋しくなってきました。昔は旅に出ても孤独などはまったく感じなかったのですが,今は人恋しいのとツアー旅行が嫌いという両極端な面が出てきて困っています。これでは旅行をするのが大変です。というわけで,個人で現地まで出かけて,現地でツアーに参加するという妥協点を見つけたのですが,幸い,今のところ,現地ツアーで一緒になった人はいい人ばなりなので助かりました。そうした現地ツアーは,ツアーの中味自体よりも,そこで偶然出会った人によって,旅の楽しさが変わってしまうのです。理想の海外旅行をすることはなかなか難しいのです。

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 普段は説明書など読まずになんとなく使っている身の回りのモノの「正しい使い方」を改めて調べてみると,実は,その機能のほどんどを知らず,活用せずに使っているんだあということに改めて気づいてびっくりします。コンピュータはいうに及ばず,テレビもカメラも車も,こうした,日常使っているモノのそのほとんどは,買ったきの初期設定のまま,あるいは自分の流儀でいつも同じ使い方しかしていないからです。
 そこで,私は改めて説明書をきちんと読んでみることにしました。すると,本当はとてもよく考えられているのに,その機能のほとんどを使いこなしていないということに改めて思い当たりました。数年前までは,コンピュータやらカメラやらの説明書は辞書ほどもあるような分量だったのですが,そんなものが入っていてもろくに読んだこともありませんでした。おそらく,多くの人も同じだったのでしょう。メーカーもそれは承知だったようで,現在はそうしたコストを削減するために,詳細はネットで探すように変わってしまいました。
 それでも,そうした使い方のヘルプのサイトがあればまだマシなほうで,iPhone とか iPad に至っては,説明書もわかりやすいヘルプすら存在しません。そうなると,よほど使い方を調べなくてはならないことが必要なとき以外はあえて調べることもないし,当然,調べる手段をもたない人には,それを知る手段もないわけです。

 現代は,インターネットが使えないお年寄りには,テレビの使い方ひとつわけがわからない状況で暮らしています。しかし,果たして,それを「便利」になったというのでしょうか。若い人でも,インターネットが使いこなせる人とそうでない人では,確実に手に入る情報が違っているのです。
 テレビを例にしても,それに接続する機器をすべてを同じメーカーで揃えれば,それなりに説明書を読めばその多くの機能が使いこなせるのでしょうが,別のメーカーのものを接続すると,技術的にはそれが可能であったとしても,それを使いこなすための情報はほとんど皆無です。だからといって,同じメーカーですべての機器をそろえても,今度はメーカーがそうしたユーザーさえ簡単に裏切って製品を販売することから撤退してしまったりするのです。これではせっかくの機能も,使わないのだから無意味になってしまいます。
 そんな状況であるにもかかわらず,今あるものすら十分に使いこなせていないのに,また新たに,やれ4K テレビだ8K テレビだとかいって,また新しい技術を使った製品を買うように煽っていますが,そんなもの,あっという間に消えていった3D テレビ同様に,多くの人はそうした製品を買うこともなく,だから,使いこなすこともなく,消えていくのです。そもそも,そうした機能自体が必要かどうかといった状況を議論することすらなく,あるいは,まったく把握していないのが現実です。
 いつか来た道,いまだ懲りずに同じ失敗を繰り返すのです。だから,多くの場合せっかくの機能も無意味なのになってしまっています。

 そんなことを書いているうちに,これは学校も同じだと思い当たりました。
 学校のカリキュラムもまた,「有識者」とかいう人たちが集まって,数年ごとに教えるカリキュラムを変えますが,そうして変更した内容を,教える側がどれだけそれを理解して指導しているかといえば,はなはだ疑問が残ります。
 例えば英語教育の教科目標は「コミュニケーションの育成」なのですが,その目標を達成するための教育が行われているのでしょうか? そして,「学力テスト」とかいう,その内容が適切かどうかわからないものを用いて,その効果を確かめた「つもり」になっているのです。しかし,「学力テスト」の結果は報道されても,テスト自体が果たして適切なものかどうかということすら十分な議論がないのです。要は,テストなどといういかがわしいものは,単にどこかの金儲け会社の作った問題に対して,それを作成した人が決めた「正解」といわれるものに解答者がどれだけたどり着ける能力があるかどうかを調べているだけのことなのです。
 カリキュラム上は中学・高校・大学と通算10年間も勉強して大学を卒業しているのに,そうした人たちの多くが「私は英語ができない」などと公言すること自体,考えてみえばおかしなものです。それでは教科目標が達成されていないからです。そんな人が卒業できること自体,いい加減の極みです。
 そんな無意味な時間とお金の浪費をしてお茶を濁しているのがこの国の教育と称した消費活動の実態です。それは,説明書を読まないで自分勝手に高価な道具を使っているのと同じことなのです。これが「学歴」というブランドです。

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 たとえば信州の八ヶ岳にでも住んでいるのなら別ですが,都会育ちの人にとっては,星を見るというのは非常に困難な趣味です。そこで,今では,多くの人は惑星の写真で満足しています。それなら都会でもできるからです。しかし,本格的に惑星の写真を写そうと思うと,大きくて重い望遠鏡が必要です。
 星を見るという趣味は,星を見ることのできる空の暗い場所があるかということと,星を見るための機材をもっているか,というふたつの問題を抱えているわけです。それはつりという趣味に似ています。しかし,星を見ることはつりよりもずっとハードルが高いから,これでは若い人は寄ってきません。
 そこで,現在,こんな楽しみをしているのは,今から50年も前に子供だった人が退職して時間とお金ができて戻ってきた人ばかりです。実際は私が子供のころも,すでに都会では星を見ることはできませんでしたが,それでも少し郊外に出れば今とは違って何とかなりました。望遠鏡は今のような優れたものはありませんでしたが,その結果,自作をする,つまりモノを作るという別の楽しみがありました。

 ところで,どんな機材を使うかということはお金が解決するとしても,どこで見るかということがもっと大きな問題なのです。どこで見るかという場所は自分で探さなければなりません。いわゆる「穴場」でないといけません。しかし,なかなかそうした場所がないのが現実です。星が見えることをウリにした「観光地」がありますが,そうした一般の人が押し寄せる場所は,何を勘違いしたのか,むしろ観光用にライトアップしたりイベントをしたりして,本当の天文ファンにとれば迷惑な場所と化してしまい,逆に対象外となってしまいます。
 機材のほうはお金を出せばいくらでも優れたものが買えるとしても,今度はカメラなどとは違って,置き場所に困ります。歳をとったときに私設天文台などを建ててしまうと,今度は処分に困ります。「断捨離」を旨とする私としては,たとえお金があろうと,この歳になって何でも買えばいいという選択肢はありません。所詮,趣味などというものは自己満足の世界なので,他人と比べるものではありません。自分が何をすれば楽しいか,ということを第一に考えることが大切なのです。しかし,この国は子供のころから何でも人と競争するように育てられてしまっているので,これもまた,そうした心境にならない人が多いものです。それでは「不良老人」にはなれません。

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 昨年は愛知県芸術劇場コンサートホールが改装工事中だったのでお休みでしたが,恒例のN響名古屋公演が2019年2月24日,2年ぶりに行われました。サントリーホールのN響B定期の曲目をそのまま演奏するのです。今回はオールストラヴィンスキープログラム,指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんでした。私は昨年から追っかけではないのですが,ずいぶんとパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮するコンサートに出かけています。というより,出かけたコンサートの指揮者がいつもそうでした。
 しかし,これだけ豊富なレパートリーがあるというのもすごいものです。こうしたオールマイティの指揮者を首席にすえることができれば,オーケストラも楽なものです。しかし,パーヴォ・ヤルヴィさんはいつこれだけの勉強ができるのでしょう?

 いつも書くように,私が東京のNHKホールで定期公演を聴くときは2階席の最上段ですが,名古屋ではチケットが入手しやすいので1階席の前列を狙います。で,今回は2列目ど真ん中でした。
 開演前に芸術劇場コンサートホールのある愛知文化センター11階にあるレストラン「ウルフキャングパック」でお食事をしたあと,いよいよ開演です。今回演奏されたのは5曲ですが,最後が通称「ハルサイ」,つまり,バレエ音楽「春の祭典」でした。
 「春の祭典」というのは「オーケストラと指揮者の技量が試される難曲」だということは,これまでも何度もそんな解説を読んだり聞いたりしたことがあります。曰く,
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 聴きこむとそれなりに複雑かつ特徴のあるリズムに乗せられてきて体が躍動しはじめるのだから,これは確かにバレエ音楽で,そうなると,ストラビンスキーという偉大な作曲家がだんだんとわかってきます。要するに簡単にいえば,「春の祭典」というのは,大胆な不協和音を奏でるオーケストレーションとかつ目まぐるしく変化する変拍子リズムという基本構造でできていて,曲を聴きながら原始宗教の儀式をイメージすればいいわけです。
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だそうです。私が以前,R・シュトラウスがわからない,と書いたのと同じようなものですかな。

 そんなストラヴィンスキーですが,正直いって私にはこれまでなじみがありませんでした。あえて聴きにいこうと思う曲でもありませんでした。しかし,演奏される曲が何であれ,それは私には大きな問題でもない,というのも人生は大いなる暇つぶしなので,何でも自分の手の届くものとは関わり合いをもたなくてはつまらないのです。まあ要するに,食べたことがないものであっても,出されたら口に運ばないと何も次がはじまらないわけです。
 私は,優柔不断,というか,何でもいい,というところがあります。たとえば,だれかと食事をするとき,別に何でも食べられるけれど,自分からは何がいいと指定できないのです。しかし,内緒の話ですが,それは実は表向きだけの優柔不断なのです。実際はかなりのマニアックでこだわりがあるのだけれど,そんな私の好みを出すとだれもついてこられないから,人といるときは相手に合わせている,というのが本当なのです。で,そうして相手に合わせていても私には何の苦痛もないので,こういうことになっているわけです。問題は,それを相手が誤解するときですけれど…。

 閑話休題。
 そんなわけで,自分で選んでコンサートに出かけるのなら自分の好みの曲が演奏されるものに行くことになるのですが,こうして毎年恒例として出かけるようなコンサートの曲目はそれが何であっても問題はないのです。
 …だったのですが,聴いてみて考えが変わりました。「ハルサイ」,おもしろいです。おもしろかったです。それは,ハイドンとかモーツアルトとかベートーヴェンとかブラームスとかブルックナーとか,そういうものとは全く異質な音楽です。マーラーはちょっとだけ似ているかな? 私には,クリムトの絵画を見ているような,そんな気がしました。以前,ショスタコーヴィッチがミロの絵画のようだと思ったようにです。
 一緒に行った友人曰く,抑え気味の「ハルサイ」だ,と言っていましたが,以前,ブルックナーの第九番交響曲を聴いたとき同じ時期にやった東京交響楽団とは違っていてずいぶんと抑え気味だったのに共通しています。それはよく言えば抑制されている,悪く言えばノリが悪い,ということなのですが,これがN響の「品」というものなのでしょう。
 それにしても,パーヴォ・ヤルヴィという指揮者はすごいです。どうしてこうも何でも消化して指揮できてしまうのでしょう。何をしたいかが明確なので,これは演奏する方は楽だと思われますし,聞く方も楽しいです。
 今年もまた,代えがたいよい時間がすごせました。音楽は最高です。

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N響名古屋定期公演-パーヴォ・ヤルヴィさんへの期待
N響名古屋定期公演-素敵な宝物がこの世の中にはある。
N響名古屋定期公演-レスピーギも神ってた。

 いくらお金を使って欲しいものを手に入れてもむなしさは残るものです。
 結局のところ,人の原点は精神的に満ち足りることに回帰するのですが,そうした場合,俗に「教養」とよばれるものに身も心もゆだねることがもっとも充実した時間になります。この国の教育の最大の欠点は,生きることに 哲学がなく,単なる点取り競争と受験指導に明けくれていることなので,そうした「教養」を教えないのです。あるいは,教えても,これもまた点取り競争にしてしまうことです。
 NHKのラジオ第二放送には優れた語学番組がたくさんあります。かつては「ラジオ英会話」という50年以上も前から放送されているものがあったのですが,何を勘違いしたのか,この番組も豹変し,文法重視となってしまいました。現在の「ラジオ英会話」という同じ名前の番組は長年続いたものとはまったく別のものです。それはおそらく,受験に毒された多くの視聴者の要望によるものでしょうが,そもそも語学というものは受験の手段ではないわけです。しかし,NHKにも良識と意地があったのか,従来の「ラジオ英会話」は「英会話楽習」と名前を変えて存続しています。そのうち,今度は視聴者の「ご要望」にお答えして「皆様のNHK」はTOEICの点取り競争番組をはじめるかもしれません。
 それはともかくとして,,以前の「ラジオ英会話」,現在の「英会話楽習」のような,受験に毒されていない番組を聴いているだけでも満ち足りた暇つぶしになります。なにしろお金がかかりません。

 NHKの良識といえば,かつて「N響アワー」という優れた番組がありました。2013年にほとんど何の予告もなく突然姿を消したこの番組の録画を私は一杯もっていて,このごろ改めて見直すと,その番組のよさを再認識します。これもまた,満ち足りた暇つぶしになります。
 「N響アワー」は,当時,視聴率重視に豹変したNHKの番組の大幅改編でEテレの多くの番組が幼稚化し,そのあおりをくらってなくなってしまったのですが,このことに腹をたてて,私はずっと続けていたN響の定期会員を辞めました。そのころの私は今より人間が青かったので,クラシックのコンサートは大学の講義でも聴きに行くつもりでいたのですが,あれから歳をとって,今は,心が満ち足りる時間を手に入れるために聴きにいくものに変わりました。そうすると,音が悪いといわれるだだっ広いNHKホールは,逆に,座席数が多いのでチケットが取りやすいという利点になります。定期会員だったころは1階のS席のなるべく「いい席」を求めて優先予約で散々苦労をしたものですが,今は,いつでもチケットの手に入るNHKホール2階の最上段C席でのんびりと聴くのを楽しみにしています。それでも,会場の雰囲気を味わうには十分だし,周囲に気を使わなくていいのが最高だからです。聴きに行くたびに本当に音楽はいいものだと思います。
 結局のところ,歳を重ねると人は物質ではなく精神性に幸せを求めるという人としての原点に返るものなのだなあと「不良老人」はしみじみ思うわけです。若いころにクラシック音楽に接することのなかった人を本当にお気の毒に思います。歳をとったときに不幸です。

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 見晴茶屋を過ぎたあたりから箱根新道は七曲りという連続カーブになります。あるブログにはこの七曲りを,
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 旧道らしく少し細い道だがほとんどは2車線区間で普通に走れる。そして寄木細工で有名な畑宿を越えた先にあるのが箱根七曲りだ。上りでは景色は期待できないが,下りなら小田原方向が開けていて箱根の山々を眺めながら急勾配を下れる。ちょうどここで箱根新道とクロスするため,勾配を比較するとおもしろい。箱根七曲りを走らずして箱根を語るなかれといわんばかりの勾配とR。ゼブラ化はされているが峠好きにとっては聖地のような場所。FR乗りならここのブラックマークに興奮せずにはいられない絶景道路だ。
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とまあ,かなり興奮気味に語られています。
 アメリカの国立公園をドライブするともっと雄大でおもしろい道がたくさんあるので,私はこんな狭い日本の道路をちまちま走る気にはならないのですが…。まあ,お好きな方にはいいでしょう。

 ところで,ここを徒歩で過ぎていく私には,箱根新道とはちがって,旧街道は七曲りを交差するように,そのまま直線で下っていく急な階段を降りる必要がありました。直線なので箱根新道よりもはるに距離は短くなります。しかし,私は降るからよいものの,これを登るとなると考えてしまいます。
 さすがにこの場所は険しいだけに,多くの名前のついた坂があって,ひとつひとつ見ていくとなかなか奥深い場所です。おそらく,昔の人はそうした坂をひとつひとつ越しながら,あといくつと考えて歩いたことでしょう。

 この急な坂を降りたところにあるのが畑宿という集落でした。畑宿は戦国時代には「畑の宿」と呼ばれ,箱根越えの旅人の休憩所だったといいます。旧東海道の宿場のひとつではありませんが,参勤交代の大名たちがひと休みした「本陣茗荷屋跡」などが残っています。
 畑宿は湯本から箱根町のほぼ真ん中に位置しています。江戸時代,1里ごとに道標として,また,旅人たちが休む場所として設けられた一里塚は,箱根には湯本茶屋,畑宿,元箱根の3箇所にありましたが,現在その姿を見ることができるのは,1998年(平成10年)に完全復元されたこの畑宿だけです。これは江戸から23番目の一里塚です。
 畑宿は「寄木の里」と呼ばれるほど寄木細工のさかんなところです。旧街道をあるいていると,こうした思いがけない不思議な集落に出会えて,なかなかおもしろいものですが,知らずに車で走っていると,こうした集落はそのまま見過ごして通り過ぎてしまいます。

 畑宿を過ぎると須雲川にさしかかります。この川には発電所があります。旧東海道は,なんとこの川を渡るのに急ごしらえの丸太橋を越えることになります。こんなもの,橋と呼べるような代物ではなく,まさに,石がごろごろと横たわる川をそのまま横切るような感じです。
 さすがに,洪水の時には水が満ちて丸太橋を渡ることはできないので,その上流10メートルくらいのところにあるつり橋を渡ることになります。江戸時代,ここがどのようになっていたかは知りません。
 須雲川を越えると,旧東海道は舗装された自動車道となってしまって,旧街道歩きの楽しみはこれで終わりです。その先に湯本の町が見えてきました。湯本は多くの観光客であふれかえっています。こうなるともう現世にもどって,私には何も楽しくありません。
 湯本は小田原から電車に乗って箱根湯本駅で降りれば簡単に来ることができ,箱根観光の玄関口でもあるので,大いににぎわっていますが,私は,こうした観光地にはまったく興味がなく,こうした温泉に行こうと思うこともありません。ここから小田原まで引き続き旧東海道を歩いても,単に自動車道路を歩くだけになるので,箱根湯本駅から電車で帰ることにしました。

 こうして今回は,前回の箱根町から三島に続いて,箱根町から湯本まで,ともに下り坂でしたが,曲がりなりにも「箱根八里」を制覇,箱根峠がいかに険しいものであったかということを実感できました。
 地図で見ると,湯本から箱根町のあたりは旧東海道を離れても昔からの史跡が多くあって,それらは車ではアクセスできないようなところも多いようなので,また,機会があればそうした場所も歩いてみたいものだと思いました。
 それにしても,私が歩いているようなさびれた旧街道と,人であふれかえる観光地との落差,いったいこの国はどうなっているんだろうと,様々な場所を歩くたびに考えさせられます。

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 昨年2018年10月20日,東京上の森美術館でフェルメール展を見ました。そのときは8つのフェルメール作品が展示されていましたが,「赤い帽子の女」が途中で展示を終了し,その後「取り持ち女」が新たに展示されました。
 東京でフェルメール展が終了して,2月16日から大阪市美術館に場所を移してフェルメール展がはじまりました。大阪のフェルメール展では「取り持ち女」を含めて,東京で展示されたもののなかから5点の作品が移動し,新たに「恋文」1点を加えた6点のフェルメール作品が展示されています。そこで,2月20日,東京では見ることができなかった「取り持ち女」と「恋文」を見るために大阪に足を運びました。

 初日はずいぶんと混雑したらしく1時間待ちというニュースがありましたので心配しました。私は午後2時過ぎに行ったのですが,平日でもあり意外に空いていて,何の問題もなくすぐに入ることができました。チケットは前売りで買ってありましたが,チケット売り場にも列はありませんでした。
 入るとき「東京でも見たんですよ」と言ったら「「恋文」はなかったでしょう」と言われました。そうです,私はそれを見るためにわざわざ大阪に来たのです。でも,アムステルダムへ行くよりはずっと楽だしねと思いました。
 東京のときとは違って時間別の入場ではなかったのですが,人の頭ばかりで作品を見ることができない,というほどの混雑ではありませんでした。一番人の多かった「取り持ち女」はおよそフェルメールらしからぬ作品のように思えましたが,ずいぶんと大きな作品でした。
 もうひとつ人の多かったのが,私がぜひ見たかった「恋文」でした。こちらのほうはずいぶんと小さな作品でした。この「恋文」,1971年9月24日にベルギーのブリュッセルで行われていた展覧会場で盗難に遭いました。犯行の数日後に犯人から新聞社に脅迫電話がかかってきました。「パキスタンで起こった内戦によってインドに流出した約700万人の東パキスタン難民に対してオランダとベルギー政府が義損金として2億ベルギーフラン(約400万ドル)を送り両国の美術館が国際的な反飢餓キャンペーンを打てれば絵は返す」という内容でした。 その後,犯人である若いベルギー人がすぐに逮捕され,絵も発見されました。しかし,作品は無残にも額縁からナイフで切り取られ内側に丸まれてそれをズボンに隠して逃走していたので,一部分の顔料が剥がれ落ちるなど大きな損傷を受けていて,修復にはほぼ1年近くもかかっ たそうです。そのため,私が見たこの作品は,新品のような鮮やかさでよみがえっていました。

 では最後に,今回も前回取り上げなかった2点のフェルメール作品について,私の記憶に留めるために書いておくことにします。
●「取り持ち女」(The Procuress)-ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館蔵-
 風俗画に分類される絵画で売春宿の情景が描かれています。描かれている女性ふたりのうちの左側が取り持ち女と呼ばれる娼婦と客との仲介をする女性で,男性ふたりのうち左側の人物はフェルメールの自画像だと考える研究者もいるそうです。フェルメール自身の署名と制作年が記されているわずか3点の絵画のひとつです。フェルメールが作風を確立すべく「探究と模索」を試みている作品だといわれています。
●「恋文」(The Love Letter)-アムステルダム国立美術館蔵-
 手紙を受け取って当惑顔の女主人と訳知り顔の女中が描かれています。洗濯物の入った籠や画面手前に見える箒は恋に落ちた女性が家事をおろそかにしていることを暗示しているといわれています。新しい恋に向かおうとしている女性に対し,未練が残っているのかあるいはひとりだけ幸せになるのは許さないとして足を引っ張ろうとしているのか,女性に手紙を送ったのは別れた男性だということを暗示した絵画だそうです。

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初秋の小旅行2018-フェルメール展に行く。②

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●日本ではおにぎりとお味噌汁●
 これまで書いてきたように,私は1年に1度はアメリカ本土へ行っているのだから,決して久しぶりということではなかったが,今回は,なぜかずいぶんと懐かしい気がしたのが不思議だった。ただ,ロサンゼルスに行ったのは本当に久しぶりのことであった。ロサンゼルスもまた,アメリカの他の都会のように,ますます人も車も多くなってきたし,ダウンタウンは古びていた。アメリカの大都市は,人と車の量がどこも限界に来ているように私は思う。

 近ごろは様々な航空会社を利用するようになったので,以前のように,デルタ航空一辺倒でなくなったが,これもまた,久しぶりに乗ったデルタ航空の機内に入ると,実家に帰ったような気持ちがした。
 今回は,行きも帰りもはじめて羽田空港を利用したが,東京都内に住んでいる人ならともかく,私のように名古屋からアメリカに行くための中継地点というだけで利用する場合,羽田空港は決して便利な空港でないということがわかった。

 確かに,東京都心に住んでいる人にはアクセスが楽だから便利な空港だが,狭いしラウンジも少ないし,帰りにキャリーバッグを無料で家に送ってもらおうと思ったのに,羽田空港ではアメックスの無料サービスが利用できないと言われてがっかりした。l
 羽田空港に降りたって,帰国の手続きを終えて,国際線から国内線に行くターミナルを移動するバスに乗った。バスの中にはひとりの若い婦人警官が乗っていたが,なぜか彼女と話が弾んだ。日本にも,こうした気軽に話に応じてくれる人が,しかも警官がいるのが不思議なことだった。 
 羽田空港の国内線ターミナルに到着した。セントレアまでの乗り継ぎ便の搭乗まで時間があったので,食事をすることにした。国内線ターミナルにはいろんな店があったが,私が選んだのは,おにぎりとお味噌汁であった。
 アメリカに住んでいる私の知人が,アメリカでおにぎり店をやればもうかるだろうと言っていたが,果たしてどうであろうか? 日本からの観光客にはうけるに違いないが,アメリカ人に受けるかどうか私には予想がつかない。「いきなりステーキ」もニューヨークで苦戦している。
 この旅で私は意識してハンバーガーばかりを食べていたが,飽きるどころか,逆にハンバーガーを再評価したのだった。しかし,おにぎり以外にも牛丼とかカレーライスなど,外国に出たときに懐かしくなる日本の味というもがあって,それらは捨てがたいものである。
 寿司は世界中どこでも食べられるが,日本流のカレーライスはない。このごろは日本でもインド人の経営するカレーライス店がたくさんできたが,あれは日本人の求めるカレーライスとは妙に違う。牛丼は今回,ロサンゼルスに吉野家があるということを帰国してから知ったが,現地で知っていれば食べにいったのにと後悔した。

 ともかく,今回の旅では,一番の目的地だったパロマ天文台に行くことができなかったのが極めて残念なことであった。何とか近い将来行ってみたいものだが,今度はアリゾナ州のフラッグスタッフあたりに行くときに含ませるのがよいのだろう。しかし,どうすればそれが実現するかとなるとこれが難しいのだ。
 私にはロサンゼルスもサンディエゴもまた行きたいと思うような場所ではないが,フラッグスタッフに行くにはロサンゼルスから車で行くか,あるいはアリゾナ州のフェニックスまで行ってそこから車で行く必要がある。また,フェニックスに行こうと思っても,日本からは直行便がないから,結局どこかで乗り換える必要がある。それでも,日本からアメリカには午前中に到着するフライトが多いから乗り換えは不便でないが,問題は帰りである。
 また,アリゾナ州だと夏は非常に暑いから,それ以外の季節を選ぶほうが無難かもししれない。
 おにぎりとお味噌汁を食べてから,狭いながらもラウンジを見つけたので,そこで,セントレア便の搭乗時間までを過ごした。羽田空港国内線のセキュリティは混雑していて長い列ができていたが,入口がたくさんあったのでその別の入口へ行ったらそれほどでもなく,すんなりと搭乗ゲートに入ることができた。

 この旅での私の記憶はここまでで,その後のことをほとんど覚えていないし写真もない。機内では座席が通路側だったこともあって景色を見ることもなく,何の感想もなくセントレアに到着したのだろうと思う。
 セントレアに到着して,車を預けた駐車場に迎えの車が来てもらうように電話をして,その車を乗降用の場所で待ったことだけは記憶にある。やがて迎えの車に乗って駐車場に着いて,自分の車に乗り換えてそのまま家に帰った…らしい。

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 このブログにはさまざまな話題を取り上げていますが,どんな話題についてももっと詳しく知っている人がいることでしょう。そこで,詳しい人から見ると,私がここで書いているようなことはまことに情けなく思えるだろうから,あまり深入りしないほうがよさそうだといつも思います。しかし,そうした詳しい人がいる反面,ほとんど普段は何も興味がない人もまた非常に多いもので,そうした人は何かが話題となるとワーッと群がり,ブームが去るとスーッと消えていきます。マスコミの報道はそういう人を対象にしていますから,詳しい人には見るに堪えないものが多くあります。
 たとえば,昨年の将棋の藤井聡太七段のブームが起きたとき,興味本位の番組がたくさん放送されましたが,そこで取り上げられたものは,将棋に詳しい人が見るとなんともなさけないものでした。あるいは「名品」とかいうものを紹介する雑誌がありますが,その雑誌に取り上げられている「名品」は,その道に詳しい人がみると,何ともはやいい加減な名ばかりのブランド製品であることが多いのに驚かされます。
 
 NHK交響楽団の定期公演を聴きに東京へ行った日の朝,私は代官山へ足を運びました。代官山の「T-SITE」とかいうところでフィンランドフェアをやっているという情報があったからです。地名だけは知っていたのですが,代官山というところにはじめて行きました。「T-SITE」が何かということも知りませんでした。
 NHKホールがある渋谷という場所は不思議なところで,お金持ちがたくさん住む高級住宅地があるかと思えば,1本別の道に入ると,センター街とか道玄坂とかあるいはホテル街とか,あるいは「ヤバい」ところがたくさんあるというように,ごっちゃ煮みたいな場所です。
 せっかくクラシック音楽のすばらしい世界に浸っても,NHKホールを出た途端に騒音と雑踏に囲まれて失望感を味わうことも少なくありません。

 代官山もまた渋谷にありますが,そこにはこじゃれた街並みと高級そうなマンションが立ち並んでいました。そして「T-SITE」というのは蔦屋という本屋さんが中心となっているショッピングモールでした。私は日本のこうしたこじゃれた街並みを見るといつも「名品」を紹介する雑誌を見たときと同じような,本物ではなくメッキのような危うさを感じてしまうのです。
それは,私がこれまでに行った世界のさまざまな都市,たとえばウィーンだとかニューヨークだとか,そういった町のもつ正真正銘の本物とはちがい,東京にあるそうした新しく作られた街はどこも作り物のように思えるということなのです。私はむしろ,東京には,谷中とか上野とか浅草とか,そういうところこそが日本の文化に根差した本物に思えます。 
 その理由は,何か無理をしている感じがするからです。たとえば,ブランド品に身を固めた無教養の女性だとか,●●大臣という立場にありながら,実はまったくのド素人で単にプライドだけが高い時代遅れのおじさんだとか,そういう人たちのもつ危うさに共通する匂いです。  
 「T-SITE」にあった,一見何でもそろっているように思えた本屋さんの自然科学に関するコーナーにはすごくたくさんの本が並んでいたのですが,それは,率直に言って自然科学の分野に詳しい人が選んだ専門性のあるものでない品揃えでした。そこから,このお店もまた,高級ぶっているだけのように私には思えたのです。

 そんな「T-SITE」の一角に,1件のカメラ店がありました。その店舗のなかにはライカ社のカメラがずらっと並んでいました。
 カメラの中でも最高ブランドであるドイツ・ライカ社の製品はものすごく高価で,値段は車1台ほどもします。しかし,ライカというブランドで発売されているカメラのうちでMシリーズなどの最高級品以外の多くのものは,実は日本のパナソニックの製品で,それをライカという赤いバッチをカバーに付けてちょっぴり仕様を変更するだけで,もともとのパナソニックの製品の値段を倍以上もするものに変身させてしまっていることを,その道に詳しい人は知っています。
 私は,これこそがこの代官山という街のイメージと合致してしまうように感じるのです。

 東京に限らず,日本という国が今ある姿は,まさにそれと同類ではないかと思えます。
 いつも書いているように「学歴」というブランドもまた同じです。そもそも「学歴」を手にいれるための入学「試験」自体がマユツバものなのです。「学力」などというものが本当にあるのかどうかさえ私は疑問を感じるのですが,そうしたいわゆる虚構であるかもしれない「学力」を測るために行われる「試験」,それ自体が怪しいのです。しかし,そうしたことをマスコミも含めてだれも疑問視しないのは,彼らもまた,そうした危うい「試験」とやらで測られた結果「優秀」とされた人たちの集団だからなのでしょう。
 しかし,この国で「優秀」とされる人たちのやっている「様」を長年見るにつけ知るにつけ,その「優秀」とやら自体が虚構だということを,私はこれまでの人生の経験から確信するのです。

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☆☆☆☆☆☆
 2019年2月18日の早朝,今度は金星と土星が大接近しました。
 金星(Venus)は、太陽系で太陽に近い方から2番目の惑星で,太陽との平均距離は108,200,000キロメートルで地球の約3分の2,地球に最も近い公転軌道を持つ惑星です。太陽系内で大きさと平均密度が最も地球に似た惑星であるため「地球の姉妹惑星」と表現されることもあります。地球よりも太陽側にあるので,地球から見ると金星は明け方と夕方にのみに見ることができます。明け方に見えるのを「明けの明星」,夕方に見えるのを「宵の明星」といいますが,現在は明け方,太陽が昇る前に東の空に昇ってくる「明けの明星」です。
 一方,土星(Saturn)は太陽から6番目,太陽系の中では木星に次いで2番目に大きな惑星です。太陽との平均距離は1,400,000,000キロメートルで地球の約10倍になります。また,巨大ガス惑星に属する土星の平均半径は地球の約9倍にあたりますが,平均密度は地球の1/8に過ぎないので軽く,水に浮くという説明がされています。私が子供のころに読んだ図鑑には土星が水槽に浮いている絵が描かれていたのですが,土星が入るような水槽などありえないし,土星の重さなどどうやって測るのだろうと,私は納得がいきませんでした。要するにこれを書いた大人は,土星の比重が1より小さいといいたかったのでしょうが,こういうたとえは子供の頭を混乱させます。土星といえば恒常的な環をもっていることで有名ですが,この輪ができたのは最近のことで,地球上では恐竜が闊歩していたころということが近ごろわかりました。土星の環は小さな望遠鏡でも美しく見ることができます。
 金星はマイナス4等星と明るく,土星は1等星ほどですが,現在は明け方の東の空,地平線に近いので,地平線付近まで晴れ渡っていないと,都会では土星が見にくいものです。また,写真に撮っても,輪のある土星を写すには露出を切り詰める必要があり,そうすると金星も暗く写っていまい,せっかくふたつの惑星を入れた写真を写してもほとんど小さな点になってしまいます。しかし,今日の写真のように十分な露出で写すと土星が露出オーバーになってしまうので,改めて土星の写真を別の露出で写して合成してみました。

 ところで,2月19日は「スーパームーン」でもあります。日本時間では午後6時3分に月が最も地球に近づきます。2019年は1月21日についで2回目の「スーパームーン」となります。月と地球との距離は1月の「スーパームーン」では357,700キロメートル,今回が356,800キロメートルなので,2月の「スーパームーン」のほうが若干近いです。
 「スーパームーン」というのは,もともとは天文学の用語ではなく占星術の用語です(今回もまた占星術が出てきてしまいました)。この言葉を広めたのは,NASAの研究所のひとつであるジェット推進研究所(JPL)で,地球と月の距離が近いときの満月が平均的な満月よりも大きくそして明るく見えるために,これを「スーパームーン」とよぶとしています。しかし,地球と月の距離がどれだけより近い満月を「スーパームーン」とよぶかという明確な定義はなく,概ね月と地球との距離が360,000キロメートル以内の満月を「スーパームーン」とよんでいるらしいというのが実情です。
 残念ながら明日2月の「スーパームーン」は雨で見ることができないという予報なので,その前日2月18日に左下がわずかに欠けた月を写しました。今日の写真はその月齢13.6の月です。

☆ミミミ
やっと晴れたか?冬2019④-火星と天王星の大接近

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 海賊船で箱根港で降りてから,空いたレストランを探して昼食をとりました。その後,港から歩いて,まず,箱根の関所跡へ行きました。関所跡については前回書きました。関所跡からいよいよ旧東海道を歩きます。
 芦ノ湖沿いに元箱根までは湖に沿って自動車道路があるのですが,それに平行して山側に杉並木のある旧街道が続いています。このあたりの旧街道はまだ観光客がのんびりと歩いています。そのまま元箱根に着くと,突き当り自動車道路のT字路の交差点のひとつ手前を右に,狭い道に曲がるといよいよ長い石畳になります。
 私がこの旧街道を歩いた前日,箱根には雪が降りました。そこで,石畳に雪が残っていて滑りやすく,おそらく昨日だったら歩くこともままならなかったことでしょう。

 いつも書いているように,私は人だらけ車だらけ土産物屋だらけの日本の観光地にはまったく魅力を感じていないので,もっぱら人のほとんどいない旧街道歩きをしています。そして,歩きながらその昔の日本の姿を思い描いているわけですが,軟弱なので,もっぱら下り坂専門です。
 そこで,前回は小田原から電車で湯本まで行ってそこでバスに乗り換え,箱根町に着いて,そこから三島まで下り坂を延々と歩きました。そのときに湯本から乗ったバスが走った道がお正月に行われる箱根駅伝のコースなのでしょう(私はまったく興味がないので知りませんけれど)が,ものすごいくねくねの険しい坂道でした。
 旧街道はその坂道の新道に沿うようにして存在していただろうと思うと,坂道を登る気にならず,今回もまた,箱根町から小田原に向かって下り坂を歩くことにしたわけです。ところが,この石畳を歩きはじめて,私の予想,いや,期待に反して,しばらくの間はなんと登り坂だったのです。

 箱根から湯本までは,現在の箱根新道とよばれる舗装された道路のほうがはるかに回りくねっていて険しい道です。旧街道は確かに標高は険しいのですが,階段になっているところも多く,むしろ直線です。
 地図をみるとよくわかるのですが,富士山から太平洋にかけて,この箱根がそれより西と東を分断していて,ここを越えることは古のむかしから大変だったことがよくわかります。それは今も同じで,JRの東海道には長い長い丹那トンネルが通っています。トンネルのなかった昔は,この箱根峠をいかにして通るかで,何度も道がつくりかえられましたが,いずれにしても,どこかを越える必要があったわけです。
 それにしても,ものすごい坂でした。
 下りならなんとかなる,と思っていたのですが,石畳が雪で濡れていて滑りやすく,降りるのもたいへんでした。それでも,まだ,こんな険しい峠を草鞋を履いて歩いていた昔に比べればはるかに楽なのでしょう。
  
 こんな道を,いや,これよりも険しい道を徳川家康も坂本龍馬も歩いたのかなあ,そんなことを思いながら石畳を下っていくと,箱根新道と旧街道が交差する場所までやってきました。
 そこにあったのは,1件の甘酒茶屋でした。

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 旧街道歩きをしてみると,電車も車もなかった時代には,こんなに細く険しい道を通って人が移動していたのかということに改めて驚きます。江戸から京と簡単にいっても,この間の移動は並大抵のものではありません。とはいえ,これもまた,江戸時代以前,いわゆる五街道が整備される前とそのあとでも状況はまったく違っていただろうし,一概に江戸時代といっても,現在,旧街道の石畳や宿場が復元されているのは江戸時代後期である1800年代のもので,,江戸時代の初期はそれとはまったく違っていたことでしょう。
 そういったことを考えながら実際に歩いてみると,箱根や新居といった場所に関所が置かれていたという理由も,大井川に橋を架けなかった理由もまた,納得がいきます。

 現在の箱根の関所跡は,江戸幕府によって1619年(元和5年)から1869年(明治2年)まで芦ノ湖湖畔に設置されていたものが忠実に復元されています。
 箱根には,奈良,平安時代の律令期に箱根峠を経由する箱根路が開設されるとともに,すでにその路上に関所が設置され,足柄峠の足柄路とともに関東防衛の役割を担っていたと思われます。鎌倉時代に承久の乱が起きた際には,幕府内では箱根と足柄の関を固めて京都軍に抗戦しょうという弱気な意見が支配的でしたが,北条義時がその策を斥けて兵を上洛させ勝利したと伝えられています。また,室町幕府の鎌倉府も,箱根に関所を設置して関銭の徴収を行ったことが知られています。
 戦国時代になると,後北条氏(北条早雲を祖とする戦国大名で,代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏とは直接の後裔ではないから両者を区別するため「後北条」とよぶ)が箱根山の西側の伊豆国に山中城を設置した際,関所の機能を吸収したといいます。後北条氏の滅亡後,江戸幕府は須雲川沿いに新道「箱根八里」を設置して東海道を整備,箱根峠寄りに人工の町である「箱根宿」を設置して元箱根側の芦ノ湖畔に箱根関所を設置しました。
 さらに,幕末,慶応の改革の段階になると,関所は簡単な検問機能のみに縮小され,1869年(明治2年),明治政府が諸国の関所を全廃したときに箱根の関所も廃止されました。

 箱根関所を設置した地点には,東北に屏風山があり,西南に芦ノ湖が広がり,その中央に東海道が通っていました。関所の両門の間はわずか18メートルで,関門の左右の石垣・関所の礎石は今も残っています。実際に行ってみると意外に狭いことに驚きます。
 関所内の建造物は,上御番所・番士詰所・休息所・風呂場からなる「面番所」,所詰半番・休息所・牢屋からなる「向番所」,厩,辻番,高札場などで,柵で囲まれていました。また,関所の裏の屏風山には「遠見番所」が,芦ノ湖南岸には「外屋番所」が設置され,周囲の山林は要害山・御用林の指定を受けていました。

 箱根関所の跡地は,1923年(大正11年)に国の史跡とされ,1965年(昭和40年)に箱根町立箱根関所資料館が開設されました。私が小学校のころに学校で習った箱根の関所というのはこの箱根関所資料館のことで,一度は行ってみたいと思っていましたが,念願がかなって訪れたときにあったのは,現在のものではなく,そのころに復元された小さめのものだったようです。
 その後,1983年(昭和58年)になって伊豆の国市の江川文庫から「相州御関所御修復出来形帳」が発見されたことにより箱根関所の構造が明らかとなり,その資料と発掘調査をもとに,2004年(平成16年)に箱根関所の大番所や上番休息所などが忠実に復元され一般に公開されるようになりました。さらに2007年(平成19年)には石垣等の大規模な復元工事が行われ,周辺の電線を地中に埋設するなどしたうえで箱根関所が全面公開されました。私がこの現在の姿の箱根関所跡を見学できたのははじめてのことでした。
 さて,今回,この箱根の関所跡から出発して,私は小田原に向けて歩き出しました。

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 前回も書きましたが,箱根峠よりも西に住む私のような人たちにとって,関東圏の観光所は疎いものです。箱根も伊豆も,ましてや東京よりも東の日光や那須となると,わざわざ行く気にならなければ,訪れることもありません。その反対に,京都や奈良はずいぶんと身近な存在ですが。
 人口の多い関東圏の観光地はどこも豪華です。それに,資本と手間をかけて開発したのがよくわかります。しかし,東京に行くとわかるのですが,この国は首都圏だけが発展を続けていて,地方の過疎化は目に余るものがあります。それはテレビで放送されているバス旅などを見ればよくわかります。この国が滅亡にむかっているのを実感します。さらに,今は,各地で起きた災害の復旧すらままならないのに東京だけがオリンピックだといって浮かれていて,ほとんどの人はしらけています。
 「首都だけが豪華な国というのは独裁者が君臨する国の特徴だ」と,これは戸井十月さんの言葉です。

 さて,大涌谷は箱根火山の火山性地すべりによる崩壊地形です。箱根火山の中央火口丘である冠ケ岳の標高800メートルから1,000メートルの北側斜面にあって,箱根火山に多数有る噴気地帯の中では最大規模のものです。江戸時代は「地獄谷」「大地獄」と呼ばれていたのが,明治天皇・皇后の行幸啓に際して,1876年(明治9年)に改称されたものです。1983年(昭和58年)に箱根ロープウェイを利用し容易に訪れることが可能になって以来,観光客が噴煙や硫黄を見ることができるようになったそうです。
 観光地として賑わいをあてにして地熱を利用して作られたゆで卵が販売されるようになりました。このゆで卵は温泉に含まれる硫黄と鉄分が結びつき黒い硫化鉄となり卵の殻に付着し黒く変色していることから黒玉子とよばれています。
 1個食べると7年寿命が延びるというふれこみの人気商品です。私も食べようと思ったのですが,5個1袋で販売していて,1個だけ買うことができませんでした。かなり傲慢な商法です。だれかに頼んで分けてもらおうと思ったのですが,この日はテンションが低く,人に話しかける気がなかったのであきらめました。私は,たいていは人に安易に話しかけるのですが,たまにまったく逆な精神状態になるのです。

 富士山は,ロープウェイで登ってくる途中では見ることができたのですが,大涌谷に着いたら雲に覆われてしまいました。それでも時々山頂付近だけ顔を出しました。そんなこんなで写真を写していたら,観光用に写真を撮っているカメラマンに声をかけられたので,そのついでに,玉子1個で買えないのかなあと言ったら,日持ちがするから買ったらどうですかと返されて,それに心を動かされて買ってしまいました。
 殻をむけば当然普通のゆで卵でしたが,少し塩味が多いように思いました。塩をかけてしまえばわかりません。
 私が大涌谷を思ったほど雄大だと思わなかったのは,これまで,日本では阿蘇山や御嶽山に登ったことがあること,そして,海外ではこんな程度ではない雄大な景色を見すぎたことにあって,大涌谷の責任ではありません。

 滞在わずか30分程度,結局写真を撮って黒玉子を1個食べ,あとはお持ち帰りとなって,大涌谷を後にしました。
 せっかく来たので,ここから芦ノ湖畔の桃源台港までロープウェイに乗って,そこから海賊船とやらで箱根港へ行くことにしました。
 このころになると,観光客がどんどん増えてきて,私は全く楽しくなくなってきました。そもそもが,3連休,しかも,中国の春節となると,こんな時期に来るところではありません。
 それにしても私が思うに,どうして,この湖に,何の関連もない海賊船などを運行しなくてならないかということでした。もっと日本らしいものがあるでしょう,と思いました。
 観光船といえば,これまでに外国でいろんなものに乗りました。昨年はニュージーランドのミルフォードサウンドでも楽しみました。それに比べて,結局のところ,外観だけが何を勘違いしたのか海賊船で,しかも,船内は何のおもしろみもなく,しかも,景色がよく見えるという席だけ値段が高いという,まあ,何を考えているのやら,というのが私の率直な感想でした。混み合う座席に座って寝ていたら,箱根港に到着しました。

◇◇◇
旅は確かな真実と希望とに出会う体験-戸井十月の人生

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 2019年2月13日,火星と天王星が大接近しました。
 火星(Mars)は太陽系の太陽に近い方から4番目の惑星で,太陽との平均距離は 227,936,640 キロメートルです。ちなみに,太陽と地球との平均距離は149,600,000 キロメートルなので,その約1.5倍です。直径は地球の半分ほどしかありません。また,自転周期は地球に近く,火星の1日は24時間39分35.244秒です。地球は780日,つまり2年と7週間と1日ごとに火星を追い越しますが,その時期に地球と火星は接近して,そのときの距離は約80,000,000キロメートルです。火星はオレンジ色や赤っぽい色に見え,地球に近いので明るく,肉眼で簡単に見分けることができます。
 一方,天王星(Uranus)は太陽系の太陽に近い方から7番目の惑星で,太陽系の惑星の中では木星,土星に次いで3番目に大きいのですが,太陽との平均距離が 2,871,000,000 キロメートルと火星の10倍以上も遠いので最大等級が5.6等と暗く,肉眼で見るのは困難です。なお,太陽の周りを84年かけて公転しています。
 そんなわけで,天王星は双眼鏡を使えば容易に見ることができるのですが,普通の恒星とかわらないために,双眼鏡の視野に入っても,それが天王星だとはなかなかわからないものです。

 子供のころに太陽の周りをまわる惑星の存在をはじめて知ったころ,土星までの惑星にくらべて,天王星,海王星,そして,今は準惑星に格下げされてしまった冥王星というのは異質な惑星でした。それは,日本語での名前の付け方がまったく違うことと,とても暗いということにありました。
 確かに,肉眼で見ることは困難ですが,天王星と海王星は思ったほど暗い星ではなく,双眼鏡を使えば容易に見ることができます。しかし,先に書いたように,なかなか見分けがつかないので,実際に見ていても,それが天王星だ,海王星だと判断するのがむずかしいのです。だから,火星を双眼鏡の視野に入れさえすれば簡単に天王星を見分けることができるこうした機会は貴重なのです。
 しかし,火星と天王星の接近は珍しいものではありません。天王星は遠いので,ほとんど位置を変えませんが,それに比べて,おおまかにいえば,火星は2年で天球を1周するから,2年ごとに天王星に接近してくるのです。であっても,実際に双眼鏡でこのふたつの惑星を同時に見ると,やはり感動します。

 今回,こうしたことを調べているうちに,私にはまったく興味のない「占星術」にこのふたつの惑星の大接近に関連する情報がたくさんあることに気づきました。曰く,
  ・・・・・・
おひつじ座の29度まで来ている天王星は3月6日のおうし座入りに向かっています。
火星も天王星も次元の切り離しの天体。古い次元への執着を断ち切り,新しい次元へ進化させる星たち。
火星とのタッグによって2011年から始まった天王星おひつじ座次元の切り離しがいよいよ始まり,戻れないポイントを越えます。
そしてこのエネルギーはやぎ座に集合している冥王星,土星,金星と響きあい,やり残した仕事を終わらせる力,新しい構造の創造作業をサポートします。
  ・・・・・・
 私には,なんじゃこれは? という感じですが,この大接近を「コンジャンクション」とかいう言葉で語っています。こういうのを読むと頭が痛くなるのですが,世の中にはいろんなことを考えている人がいるんだなあ,と改めて知ったことでした。
 ちなみに,私のブログでの天体の話題は,占星術とはまったくかかわりございません。

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 人間を月に着陸させたアメリカのアポロ計画がはじめて映画化されたのは,月面に降り立ったアポロ11号ではなく,事故を起こし月面着陸を断念して帰還したアポロ13号のほうでした。2018年はアポロ11号が打ち上げられてから50年ということもあってか,そのアポロ11号に関する映画が作られました。私ははじめ,どうして今頃になって,と思いましたが,考えてみれば,アポロ11号の映画がなかったことが逆に不思議に思えました。
 もうあれから50年,ともなると,アポロ計画自体を知る人も少なくなっているでしょう。私はちょうど多感なころでもあり,はじめて英語を習ったころでもあり,宇宙に興味があったこともあり,ずいぶんとたくさんの本を読みました。1970年の大阪万国博覧会では月の石も見ました。その後,アメリカのヒューストンもフロリダのケネディスペースセンターにも行ったし,アメリカの宇宙開発史についてはかなり詳しいです。そんな私がこの映画を見ないわけがないのです。
 ということで,さっそく足を運びました。

 この映画の題名となっている「ファーストマン」(First Man)というのは,2005年に発行された ”First Man : The Life of Neil A. Armstrong” という本が原作です。アポロ11号の船長で人類ではじめて月に降り立ったニール・アームストロングさん(Neil Alden Armstrong)の自伝です。私はこの本を原書でよみました。
 1968年当時の私はあこがれていたアメリカを過剰に評価していたので,アメリカなら人間を月に送ることなんていともたやすいだろと思っていたのですが,今の知識で考えると,よくもまあ,あんな幼稚な科学技術でそんな大それたことをしようと思ったものだというのが実感です。だから,宇宙飛行士は命を張っていたわけで,そこにあったのは,人間の生への葛藤です。
 ニール・アームストロングという人も,当然,いかに優秀であろうと,月にはじめて降り立ったという偉業との引き換えに離婚をしたし,ひとりの人間として,幸せな人生だったかといえば,疑問を感じます。人の一生なんて,過ぎてしまえば,どんな偉業をなしたところで,それは教科書の1ページのようなもので,それが自分だったなんていうことは当事者であっても実感がないと思うのです。

 この映画に月に降り立った飛行士が星条旗を掲げるシーンがないという批判があるそうですが,この映画で描きたかったことは,そんなことではないことは映画を見ればわかります。そんなことを問題にするなら話のついでに書くと,アポロ11号が打ち上げられた1968年7月16日の月齢は20で,この映画で描かれている月とは違います。それだって,この映画で描きたかったことを考えれば大したことではありません。
 私はこの映画で,人が生きるというのはどんな人であれ孤独なことだということを改めて思い知りました。どんな偉業を成し遂げた人も,結局はみな孤独であり,しかし,何かをなそうと夢を抱いている人はみな高貴なのです。 

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偉大な飛躍-アポロ11号が月に着陸した日
「ドリーム」-アメリカらしい,いかにもアメリカらしい物語

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 2015年12月22日というから,あれからもう3年以上が過ぎてしまったのですが,そのとき私は旧東海道の箱根宿から三島宿まで歩きました。険しい石畳の道でしたが,そのほとんどは下り坂でした。そのときまで箱根なんて数回しか行ったこともなかったので,小田原駅から箱根登山鉄道に乗って湯本駅で降りてからどうすればいいのかわからず困ったことを思い出します。
 旅は海外に限らず,日本でも行ったことがないところは戸惑います。そして,一度行けば,もう,何度も行ったような気になるものです。

 そのとき,箱根はもう来ることもないだろうと思ったのですが,箱根には大涌谷という有名な場所があることをNHKの「ブラタモリ」という番組で知って,一度は行ってみなくては,と思うようになりました。
 東京に住んでいる人にはあたりまえのように思われるかもしれませんが,私は,箱根も富士五湖も伊豆もほとんど知りません。ましてや,那須なんてアメリカよりも遠いところです。
 まあ,日本の観光地などというのは行かなくても大体想像はつきます。結局どこも大したことのない風景が広がり,そこにアクセスするための古びたインフラと土産物屋とすごい人混みです。それでも,一度くらいは見ておくのもいいかなと思って,NHK交響楽団の定期公演を聴くために東京に行った帰りに立ち寄ることにしました。
 おりしも「春節」。中国人観光客の大群に巻き込まれてはなりません。私は,早朝ホテルを出て,朝9時には大涌谷に着き,そのまま元箱根まで行って,早々に,旧東海道を,今回は箱根宿の関所跡から小田原宿に向かって下り坂を歩くことにしました。
 私の本当の目的は,大涌谷ではなく,旧東海道を歩くことだからです。

 今回私が宿泊したのはJR小田原駅東口にある東横インでした。東横インは安価でムダのないホテルなので愛用しているのですが,問題がふたつあります。
 そのひとつは朝食です。朝食つきなのはいいのですが,混雑していて並ばないと食べれられませんし,食べていても落ち着きません。朝からこんなストレスをため込む必要などないのです。わずか数百円のために朝からフロントの前を越えてずらっと列を作っているなんて,情けないはなしです。ということで,私はパスです。東横インも朝食サービスなどやめればいいと思います。ふたつ目は客です。このようなレベルの日本のホテルに泊まる客はおかしいです。ホテルを旅館と勘違いしていて寝巻のままフロントに出てくるし,そもそも中国人に限らず日本人のマナーもなっていないし,海外のホテル,それも私が利用するようなけっこう安価なモーテルに泊っているような人たちに比べても変です。というか,ホテルに泊まりなれていないのでしょう。
 そんなわけで,朝食を食べようとずらっと並んで人たちをかきわけてチェックアウトをして小田原駅に着きました。駅で朝食をとって,箱根登山鉄道に乗りました。

 ここから大涌谷まで行くには,ケーブルカーとロープーウェイとで2回乗り換える必要があります。このコースの観光案内をここで書かなくてもいくらで情報もブログもあるでしょうから省略します。それよりも私が思ったのは,この,おそらく日本で最も古い観光地のひとつである箱根山を開発するために,当時の技術を総動員してこうしたものを作った先人の苦労と,そしてまた,今でもそれが使われていて,しかも,結構多くの観光客を集めているということです。
 今ならこうした公共交通に乗らずとも,自動車や観光バスを使えば大涌谷まで行くここともできるのでしょうが,この乗り物がアミューズメントパークの乗り物のように,観光の一環として利用されているのは,路線にスイッチバックあり,ケーブルカーあり,ロープーウェイありの変化に満ちた乗り物だからでしょう。
 そうこうしているうちに目的地に到着しました。ロープーウェイの窓からは厚く垂れこめた雲の間に富士山が見え隠れしていました。

◇◇◇
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①

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●アルコールなんて出さなくても…●
 前に来たときは古くさく不気味だったロサンゼルスの国際空港は,現在リニューアルの途中であった。完成したときは「コ」の字型に新しいターミナルビルができるような感じに見えるが,まだその一部は建設中であった。
 日本へ向かう便のゲートは古いほうにあって,新しくできた建物とは通路がつながっていない。そのためにゲートを出てバスに乗って古いほうの建物に行かなくてはならなかった。
 アメリカにはすでにリニューアルを終えた巨大な空港が多い。しかし,この2か月後にフィンランドのヘルシンキ・ヴァンター国際空港に行ったが,この空港も手狭になっていて拡張工事中であった。どうやら世界中の空港が手狭になりつつあるようだ。日本でも成田空港は搭乗ゲートが不足していて,国内線で到着したときなどは,タラップで降りてバスで空港ビルへ行かなくてはならないから恥ずかしいものだと思っていたが,それは決して日本だけのことではなかった。

 やがて搭乗時間になって,機内に乗り込んだ。帰りもまたエコノミーコンフォートにアップグレードされていたので,いつものように,エコノミーコンフォートの最前列を指定した。この席はものすごく広いのだが,欠点はディスプレイが見にくいことと,デルタ航空の場合,テーブルが席に近く食事のときに窮屈なことである。
 私は機内でディスプレイは使わないので差支えがないが,食事のときは不便である。同じ座席でも,フィンランド航空(フィンエアー)ではテーブルの位置が変えられる。これは機種の違いなのか,航空会社の配慮の違いなのか? いずれにせよ,私は飛行機マニアではないが,こうして数多くの旅行をしているので,これまでほとんどの種類の航空機に乗ったことがある。その感想として,ボーイング社の航空機よりもエアバスのほうがずっと乗り心地がいいと断言する。

 以前はアメリカばかりに行っていたからデルタ航空を利用することがほとんどだったが,近頃,フィンランド航空やカンタス航空,キャセイ・パシフィック航空など,他の航空会社の飛行機を利用するようになってみて,航空会社によって,ずいぶんと違いがあることに気づくようになった。
 たとえば,デルタ航空やカンタス航空では座席にUSBのコンセントがあるが,フィンランド航空にはないから予備電源を持っていることが必要にある。
 そうした航空会社の違いを紹介するために,一例として,今日は,デルタ航空の帰りのフライトで出た食べものを載せておくことにする。
 デルタ航空では,ソフトドリンクはコカ・コーラが提供しているし,コーヒーはスターバックスが提供している,というように,きわめてアメリカ的である。
 食事も量が多く,デザートも充実している。飲み物と一緒にお菓子が出るのも,私は普通のことだと思っていたが,フィンランド航空などでは出ないから,普通のことではない,ということを知った。
 このお菓子だが,1番目の写真のように,近頃,量が多くなった。一度,乗客のなかにピーナッツアレルギーの人がいて,その便に限りピーナッツの提供がなくなってがっかりしたことがある。
 私はほとんどアルコールは飲まないので,機内でもワインやビールは頼まないのだが,アルコールの好きな人というのはいるもので,乗ってから降りるまで無料をいいことにいお酒ばかりを飲んている人を見かける。しかし,アルコールなんてトラブルの元だから,私は,何も飛行機の機内までアルコールなんて出さなくてもいいと思うのだけれど,そうもいかないものらしい。

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 ハイドンは交響曲を108曲残したそうです。私はそのほとんどの交響曲を聴いてみました。とはいえ,真剣に聞いたわけではなく,だら~と流してときには他ごとをしながら聴いただけです。ということをしていると,ときどき,目に留まる,というような表現がありますが,まさしく耳に留まるものがあるのです。あとから調べると,そうしたもののすべては,やはり有名な曲でした。バッハのマタイ受難曲も同様でした。
 このように,この時代の曲は,おおよそ小気味いいので,どの曲も聴きやすいのですが,そのほとんどは空気のように抜けて行ってしまいます。しかし,ときどき気になるものがあるわけで,そうしたものが後世に残っていくのです。

 それに比べて,もっと後の時代の交響曲は難解です。私は,専門家でもなく,特に詳しいわけでもなく,いわゆる「観る将」といわれるコマの動き方も知らないのに将棋を見るようなものと同じ感じでクラシック音楽と接しているので,そうした人がもつ感想としてお読みいただきたいのですが,あまり聞く機会のないものにはじめて接したとき,そのほとんどは,なんじゃこりゃ,という気持ちになります。そこで聴くのをやめてしまうとそれだけのことですが,ひょっとしたら,そうした曲のなかにはすごいお宝が眠っていないとも限りません。そう思って,何度も聴きこむと,次第に心にしみるメロディとか流れがあることに気づくのです。知らなかった曲をはじめて聴くときの楽しみは,そこにあるといっても過言ではありません。
 昔はじめてブルックナーやマーラーの交響曲を聴いたときも同じようなものでした。しかし,ブルックナーやマーラーほどに,聴ききこむにつれてどんどんとそのおもしろさと魅力が深まっていくようなそんな曲というのにはなかなか出会えないものです。
 はたして,ハンス・ロットはどうでしょうか?

 まず,この交響曲について聴いたまま書いておきます。
 第1楽章は,冒頭木管と弦の静かな和音の上でトランペットが厳かに第1主題を演奏し,この主題が盛り上がり頂点となったあと,ティンパニの静かなトレモロの上で木管に揺れ動くようなゆったりした第2主題が現れます。ブルックナーの交響曲第3番のよう,という評論があります。聴きこんでみると,第一主題が極めて印象深く耳に残り,なかなかいい曲です。
 第2楽章は木管と弦楽器の和音ではじまり弦楽器が暖かみのある主題を奏します。金管のコラール風の楽句を挟みながら弦楽を主体に音楽は進み,ゆったりと静かに終わります。こうした緩徐楽章は,心にしみる旋律があるかどうかで決まりますが,この曲では,最後の部分の金管のコラールが聴きどころです。しかし,おそらく管楽器演奏者には難しいところでしょう。バランスが悪いとめちゃくちゃになってしまい,勝負どころで台なしになりそうです。N響はそこをうまく切り抜けました。
 第3楽章はホルンの五度音形に続いてトライアングルが鳴り低弦が動き回ります。マーラーの交響曲第1番を彷彿とさせる音楽ですが,実はマーラーの方がこの曲から影響を受けたのです。最後は凄まじい盛り上がりの頂点で曲は唐突に終わります。こうしたスケルツォは第2楽章との対比がうまくいけば極めて爽快です。で,うまくいきました。
 第4楽章は低弦のピッツィカートと木管で静かにはじまります。第3楽章の主題が流れた後で悲しげな旋律がマーラーの「復活」のように(マーラーのほうが真似たのですが)次第に厚みを増したあとで,やっとこの楽章の主題が出てきます。まるでベートーヴェンの第9交響曲のようです。そしてまた,主題はブラームスの交響曲第1番の第4楽章主部の主題に酷似しているといわれます。やがて,第1楽章の第1主題の後半に流れ込み,最後の頂点を形成し,主題を何度も繰り返しながら鮮やかで感動的な終結となっていきます。長い楽章ですが,この楽章も管楽器が勝負です。聴きごたえがありました。

 すべての面で,私が「予習」で聴いたものよりN響の演奏はずっとよいものでした。ずいぶん感動しました。おそらく,指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんの解釈が明確なのでしょう。
 この交響曲が,ハンス・ロットがもし長生きしていたら将来すばらしい曲を書いただろうという可能性を示しているだけものなのか,それとも,この交響曲自体に,偉大な価値を見つけることができるのか,今の私にはまだわかりません。いずれにしても,今の人が聴くと,ベートーヴェンとブルックナーとマーラーとブラームスのいいとこどりをしているように思えるこの曲ですが,当時ブラームスが酷評したことがなんとも皮肉に思えます。
 聴きこむと決して難解な曲ではないばかりか,むしろわかりやすい曲ですが,これまでほとんど演奏されていないのでこなれておらず,演奏自体にもまだまだ研究するところがあるように思いました。私自身は,これから何度でも聴いてみたい曲のひとつです。心にしみ,安らぎを覚え,そして,元気が湧く音楽です。

ロット

 ブラームスとブルックナー,この偉大な作曲家をともに好きだという人は少なくありません。ただし,多くの女性はブラームスは好きでもブルックナーは苦手だということを,私は最近知りました。しかし,どうも,生存中このふたりが不仲であったらしいのです。というより,それは,ブラームスとワグナーが対立していたことが原因で,ブルックナーがワグナーを尊敬していたために,このようなことになっていたそうです。
 こうした関係のとばっちりを受けたのが,ハンス・ロット(Hans Rott)という新進気鋭の作曲家でした。ハンス・ロットは,自分の作品を認めてもらおうとブラームスを頼ったのですが,ブルックナーの弟子であったために冷遇を受け,それがショックで25歳でこの世を去ってしまったのです。

 近ごろ,N響定期公演では,めったに聴くことができない作曲家の交響曲が数多く演奏されるので,とても勉強になります。最近では,アイヴズ,ベルワルド,ステンハンマル,ヴァインベルグ,トゥビンなど,名前すら知らなかった作曲家の作品があがっていました。グラズノフ,スクリャービンという名前はそれよりは有名ですが,私はほとんど聴いたことがありません。今年の9月からはじまる新年度の定期公演でも,プログラムにはマクティ,ルトワフスキといった名がありますが,私はまったく知りません。
 アイヴズ(Charles Edward Ives)はシベリウスやボーン・ウィリアムスと同年代のアメリカの作曲家,ベルワルド(Franz Adolf Berwald)はシューベルトと同年代のスウェーデンの作曲家,ステンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar)はシベリウスやボーン・ウィリアムスと同年代のスウェーデンの作曲家,ヴァインベルグ(Mieczysław Wajnberg)はブリテンと同年代のポーランドの作曲家,そして,トゥビン(Eduard Tubin)はショスタコービッチと同年代のエストニアの作曲家,また,マクティ(Cindy McTee)はアメリカの女性作曲家で指揮者レナード・スラットキン(Leonard Slatkin)の奥さん,ルトワフスキ(Witold Lutosławski)はポーランドを代表する作曲家だそうです。
 私の手元に音楽之友社が発行した「交響曲読本」という本があります。1995年発行なので,さすがに今は手に入りません。この貴重な本で,私は,こうした知らない曲の情報を得ることができますが,これに類する本は今はありません。
 インターネットで情報が入るようになって以来,残念ながら,音楽に限らずこのような骨のある本がなくなってしまいました。その代わり,このごろは YouTube のおかげで,以前ならCDでさえ入手困難な曲でも聴くことができるようになりました。はじめて聴く曲にいきなり会場で接しても,それを味わうのはかなりむずかしく,数回は「予習」をしていかないと無為な時間を過ごすことになってしまいます。その点,今ではインターネットで探すと音源が見つかるので便利です。

 さて,2019年2月9日の第1906回NHK交響楽団定期公演でハンス・ロットの交響曲が取り上げられたので,私は興味をもって事前に何度も聴いてから足を運びました。
 たとえば,ベートーヴェンが交響曲を第1番しか世に残さなかったとしたら,ハイドンが交響曲を第1番しかこの世に残さなかったとしたら,さらに,モーツアルトが,ブルックナーが,マーラーが,…,と考えるとどうでしょう? 私は,マーラーはそれでも交響曲第1番は評価されるでしょうが,ブルックナーは交響曲第1番の存在は忘れ去られていただろうと思います。また,ベートーヴェンやハイドンは,交響曲以外の多くの作品が残されていれば,そこから派生して,たった1曲の交響曲でも大切にされていたと思います。
 今回聞いたハンス・ロットは早くして死んでしまったので,残った交響曲は今回聴いた1曲です。しかも,ブラームスに酷評され葬り去られたので近年になって約100年ぶりに初演さたものです。ハンス・ロットは,もし長生きしていたらさぞすばらしい交響曲を書いただろうといわれます。私は,今回はじめてこの作品を聴いてみて,ハンス・ロットは,ベートーヴェンとブラームスの影響を受け,ブルックナーに類似し,マーラーに多大な影響を与えたように感じました。であれば,この作曲家がもし長生きしていたら,偉大な人類の財産になるであろう交響曲を数多く生み出していたかもしれないのです。その意味で,ブラームスは罪作りだと思います。ブラームスは自分の作曲した偉大な4曲の交響曲を世に残した代わりに,もっと偉大なもの作り出す可能性のあった若者を酷評し,世の中から葬ってしまったことになるわけですから。
 この日は雪が降ってとても寒かったこともあり,曲目もマイナーなものだったので一般受けせず,やたらと空席が目立ちました。しかし,私は心から聴きにきてよかったと思ったことでした。

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●レンタカーがなかなか返せない。●
☆7日目 2018年7月1日(日)
 帰国の日が来た。
 寝るだけが目的だった,もちろんモーニングサービスなど存在しないモーテルなので,早朝にチェックアウトをした。このモーテルは,うたい文句とはまったく違ってWifiが通じなかったし,お湯も出なかったからシャワーすらできず,さらに,周囲の雰囲気が悪かったので散々だった。これまでに私が泊まった数多いホテルの中でも最低であった。まあ,安価だったし寝るだけが目的だったからよしとしよう。
 しかし,毎回,アメリカを旅行したとき,最終日の宿泊先をさがすのには苦労させられる。空港から遠いと意味がないし,寝るだけで1万円以上の部屋は必要がない。

 モーテルを出発して,あとはレンタカーを返して,フライトのチェックインをし,ラウンジで朝食をとってから帰国便に乗るだけだった。
 モーテルの近くにジャンクションがあってすぐにインターステイツに乗ることができたが,空港に行くのにどこで降りればいいのかがよくわからなかった。というか,空港に行く道筋ははわかるのだが,レンタカー会社の場所がよくわからなかったのだ。
 ロサンゼルスの空港の周りはとにかく広すぎるのだ。レンタカー会社も,空港の周りにたくさんあって,それぞれの会社がものすごく広い敷地をもっている。おまけに,私はロサンゼルスはめったに来ないから土地勘がない。
 ここらあたりだろうと見当をつけてインターステイツを降りて一般道に入ったところで,完全にわからなくなった。レンタカーリターンの道路標示は走る道筋のいたるところにあったが,その標示の下にレンタカー会社の名前がずら~と書いてあって,走っているスピードでは判読できないので,私の借りたハーツがどれかよくわからない。しかも,道路の車線が多くて,レンタカー会社が道路の右側にあるか左側にあるかで走る車線を選ばなければならない。
 迷いに迷っているうちに空港に着いてしまった。もとにもどろうと思ったが,今度は空港から出る道路がわからない。どうにかしてやっと出たら,さらにどこを走っているのか訳がわからなくなって,ついには空港の周りをさまようはめになった。
 それでもまあ,最終的には何とかなって,レンタカーを返し,カーナビを係りに渡して,すべてが終了した。
 あとはキャリーバッグをもってレンタカー会社のシャトルバスに乗って,空港へ向かうだけであった。空港でのチェックインもすんなりと終わり,ラウンジで帰国便の搭乗時間までを過ごすのは,アメリカに来たときのいつものパターンであった。

 それにしても,アメリカに来るたびに思うのは,これだけの人が空港を利用していて,ごった返しているのに,この人たちすべてをチェックインし,セキュリティチェックをし,預けた荷物を目的地ごとに飛行機に運んでさばくというそのエネルギーがすごいということである。その量は,日本の空港とはまるで比較にならないほど多い。
 利用する側としては,なるべく快適に空港を利用したいが,そのためにはかなりの工夫や知恵がいる。
 私はずっとアメリカの空港ばかりを利用していたので知らなかったが,聞くところによるとドイツのフランクフルトの空港もものすごい人でごった返しているという。
 さらにまた,アメリカの空港は離着陸する飛行機の数も日本とは桁違いに多いものだから,離陸待ちの時間がどんどんと長くなっている。滑走路のわきにこれから離陸する飛行機がずらりとならんで順番を待つのだが,それが30分を越えるのもざらである。

 私はまだまだ海外旅行はしたいのだが,だんだんとこうした混雑する空港を利用することがめんどうになってきた。しかし,現在でさえこうなのだから,将来はどうなってしまうのだろう。空港に限らず,あふれかえる車などを見ても,地球上のすべてが限界のように感じる。地球温暖化だの自然破壊だのということは話題になるが,地球上のクルマの数やら空港のキャパシティの限界やらが話題になることは少ない。しかし,そうしたこともまた,もう,限界のような気がする。

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 惑星や彗星の動きは3次元であることに加えて,地球の周りではなく太陽の周り回っているからかなり複雑です。小学生が星の動きを習いますが,これほど難しいものを小学校で習ってもなかなか理解できないことでしょう。それでも近ごろは,コンピュータソフトのおかげで,ずいぶんとわかりやすくなりました。
 今日の写真は2月6日の深夜から7日にかけて写したウィルタネン彗星(46PWirtanen)=1番目の写真 と岩本彗星(C/2018Y1 Iwamoto)=2番目と3番目の写真 ですが,このふたつの彗星の軌道と地球の軌道をステラナビゲーターというソフトからご覧いただきましょう。
 まず,4番目のものは昨年12月12日ウィルタネン彗星が地球に最も近づいたときのものです。彗星が地球にこれだけ接近すれば明るく見えるのも当然です。
 そして5番目が2月6日のものです。12月12日よりウィルタネン彗星は地球から遠ざかっていますが,地球から見て太陽と反対の位置になるので,彗星は太陽から遠ざかるにつれて光度は暗くなってきましたが,天頂付近にあるので,いまでも簡単に写真に写ります。そして,岩本彗星は次第に地球に近づいてきました。この彗星は5日後に地球に最も接近します。
 彗星は地球に接近するのではなく太陽に接近するので,ちょうどそのときにたまたま地球が彗星の近くにあれば,明るく見えることなるわけです。だから,これは単に運次第,ということになります。

 太平洋岸の冬はいつも晴れているように思われるでしょうが,実際は安定していません。日本海側からの寒気で,急に雲が出てきます。その点では,春や秋のように,移動性高気圧がおむすび型の気圧配置に乗っかって周期的にやってきて,日本の上空にあるときは安定して一晩中晴れるというものとは違います。そこで,この季節は,天気予報を見ながら晴れる日を探して星見に出かけなけばなりません。
 岩本彗星が最も明るくなるのは2月12日あたりがですが,そのころに晴れるとも限らないので,2月6日,深夜0時までは晴れるという予報だったので,写真を写しに行きました。
 前回1月29日の深夜に写したときは,彗星はおとめ座のスピカよりも低かったので地平線から昇るのが遅く,地平線に近ければ空が明るく,またそこころは彗星も暗かったのですが,わずか1週間で彗星の位置がどんどんと変わり,2時間も早く昇るようになりました。
 今日の2番目と3番目の写真は同じ日の30分違いのものですが,彗星の位置を周りの星々と比べるとわかるように,ずいぶんと彗星が動いているのです。彗星は今地球に近いので,このように,みるみる位置を変えていくのです。

 星のことに詳しくない人は,彗星と流星を混乱していて,彗星も流れ星のようにスーッと流れていくと思っている人がいます。しかし,彗星は月や惑星のように,星々の間をゆっくりと動いていきます。
 私がこれまで見た中でもっとも動きの速かった彗星はIRAS・荒木・オルコック彗星=6番目の写真 でした。IRAS・荒貴・オルコック彗星(C/1983H1 IRAS-Araki-Alcock)は,1983年5月11日に地球から約466万キロメートルのところを通過しましたが,これは1770年7月1日に接近したレクセル彗星(D/1770L1 Lexell)の226万キロメートル,1366年10月26日に接近したテンペル・タットル彗星(55P Tempel-Tuttle)の343万キロメートルに次いで史上3番目に地球に近いところを通過した彗星なのです。なお,地球と月の距離は38万キロメートルであり,地球と火星が最接近したときの距離は5,600万キロメートルです。
 最接近したときのIRAS・荒貴・オルコック彗星は3等級ほどの明るさで,その写真を写そうと山に向かって運転していた車の中からもよく見えました。30度をわずか1日で移動するほどのすごい速さで,見ている間に動き,びっくりした思い出があります。残念なことにこれだけ地球に接近したのに長い尾をもっていなかったので,彗星は月よりも大きな綿菓子のように見えました。

☆ミミミ
やっと晴れたか?冬2019①-ウィルタネン彗星と岩本彗星

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●人生の大問題●
 私の宿泊していたのはロサンゼルス国際空港から東に20キロメートルのところにあるリンウッド(Lynwood)という町であった。この町がどういう場所かわからないが,新興住宅街でないことは確かだろう。というより,下町のようなところであった。夕食をとろうと出てみたが,徒歩圏内にあったのはメキシコ料理のレストランだけだった。

 帰国してから調べてみると,そこから10キロメートルほど東に行ったところになんと吉野家があったから,それを知っていたら行ってみたのにと後悔した。ロサンゼルスで吉野家に行ったなんて,けっこう話のタネになるだろうに。
 さらに調べてみると,アメリカの吉野家はメニューが日本とは全く異なることがわかった。なんと吉野家はアメリカに1975年に進出して以来現在は100店舗以上あるのだそうだ。私は吉野家の株主だけれど,そんなことも知らないとは迂闊であった。ウェブサイトによると,
  ・・・・・・
 必ず「牛丼」は販売していますが、各国の風土や文化,嗜好に合わせ,メニュー開発は独自で行っているため異なります。また,「牛丼」という商品名は各国で異なり,「Beef Bowl」(アメリカ),中華エリアでは一部地域で日本語の「牛丼」をそのまま使用していますが,通常は「牛肉飯」という商品名で販売しています。
  ・・・・・・
ということであった。こんなことを知ると,ぜひ一度行ってみたくなった。次にロサンゼルスに行ったときは絶対に行ってみよう!

 さて,私が見つけたのはメキシコ料理店だけだったので,しかたなくその店に入ってみたが,私はメキシコ料理というものがよくわからないし苦手である。メキシコ料理店は,アメリカに行くと現地の友人によく連れて行ってもらうのだが,愛着がないのでメニューが覚えられない。知っているのはメキシコ版お好み焼きである「タコス」だけだ。そこで,今回もよくわならいままタコスとコーラを注文してテイクアウトした。
 帰国してから調べてみると,私が行ったメキシコ料理店はキング・タコ・レストラン(King Taco Restaurants)というところであった。このレストランチェーンはロサンゼルスに31店舗もあった。
 私は行ったことがないが,沖縄にも同じ名前のキングタコスという有名な店がある。この知る人ぞ知る通称「キンタコ」にはタコライスという定番メニューがあるそうだが,どうやら,ロサンゼルスのキング・タコ・レストランと沖縄のキングタコスはまったく別物であるらしい。
 やはり世界は驚きに満ち満ちている。

 日本でもそうなのに,アメリカでは当然入ったことがない店のシステムはさっぱりわからない。私もためらいつつ,人の動きを見ながら見様見真似でレジでタコスを注文してお金を払った。そこで待っていると出来上がったときに番号を呼ばれる,らしい…。
 しかし,その呼ばれる番号は英語でなくスペイン語! に私は聞こえたからパニックになった。そしてまた,なにやらケチャップとかマスタードのようなものがいくつほしいかなどということを店員がスペイン語で聞いているらしかった。このように,知らない店に入るとこんなどうでもいいことが人生の大問題となって発生するのである。
 さて,私の番になった。すると,番号が英語! で呼ばれた。人を見て判断しているらしい。店員は当然日本語はわからないから,日本人にも英語になる。やはり,私にも,ケチャップやらなにやらが欲しいかと言われたようだが,訳がわからなかったので,適当に答えたら,いくつかの得体のしれないものを一緒に袋に入れてくれた。モーテルに持って帰って,わびしくタコスを食した。しかし,いっしょにくれた得体のしれないものは,私には辛すぎたので,そのままゴミと化したのだった。

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 この季節は夜明けが遅いので,朝6時ころに東の空を見上げると,とても幻想的で美しいです。今年はそんな明け空に,さらに,金星,木星,土星が毎日位置を変えていって,そこに月が月齢を変えながら惑星の間をかけぬけていくのが見られるので,さらに幻想的で,どれだけ見ていても飽きません。

 今日の1番目の写真は2月1日(金)のものです。この日は金星と月齢25.8の月が大接近しました。
 そして,2番目と3番目の写真はその翌日2月2日(土)です。月は月齢26.8。あっという間に金星から遠ざかりました。この3番目の写真には右手上方にさそり座が写っています。月のさらに下には土星があるのですが,残念ながら雲に隠れて見えませんでした。
 さらに,4番目と5番目の写真は2月3日(日)のものです。月齢は27.8。月の出はさらに遅くなって,土星が月より先に昇りました。月齢27.8の細い月は肉眼で見ることができるのかな,と思ったのですが,予想以上に明るく輝いていました。
 これらの惑星いる位置はさそり座からいて座にかけてなので,ひょっとしたら,もっと空の暗いところに出かければ,夏の銀河のなかに惑星が輝いているという美しい写真が写せたかもしれません。一度,遠出をして写してみたいものです。

 以前このブログに書きましたが,月はどの月齢まで写せるのでしょう?
 地球を回る月の軌道は楕円なので,月齢がいくつまであるかは毎回異なります。また,今回は月齢が25.8,26.8,27.8というようにコンマ8のまま毎朝1ずつ変化するので,この時期に26.5のようなコンマ5の月を見ることはできませんから,どの月齢まで見ることができるかを確かめるには長い年月がかかります。
 今回の周期では,月齢は29.3までで0.0,つまり新月になりました。月齢27.8の翌日2月4日(月)は28.8でしたが,月が昇ってわずか10分もすれば日の出なので,果たして月齢28.8の月が見れらるのかどうか。それを確かめてみたいと思って,月が昇ってくる場所を調べて翌日を楽しみに待ちましたが,残念ながら曇ってしまっていて確かめることができませんでした。

 これまでに私が写した中で,最も月齢が小さいのは0.9で,反対に最も月齢が大きかったのは28.4でした。ともに今から3年前に確かめてみたものですが,その月齢の月はどちらも肉眼でもはっきり見えたので,もう少し月齢の小ささものと大きなものも写せるような気がします。
 今は当時よりも機材を整備したので,もう少し月齢が小さいものと大きいものにチャレンジしてみたいと思ったことでした。

☆ミミミ
月の写真を撮る②-月齢29と月齢1は写せるのか?
月の写真を撮る③-ついに撮ったぞ! 月齢0.9
月の写真を撮る④-ついに撮ったぞ! 月齢28.4
月・火星・木星・土星-小さな望遠鏡で惑星を写すと…

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●場末の安モーテルに泊まる。●
 7回を投げ終え,100球を越えたので,前田健太投手は降板するだろうと,私は,セブンスイニングストレッチが終わったところでドジャースタジアムを後にした。最後まで見ると,その後,あの広い駐車場から車を出すだけでも大変なのである。
 メジャーリーグベースボールのゲームを数多く見ると,ゲームの結果というのは単なる手段で,ベースボールもまた,映画とかコンサートのようなエンターテイメントにすぎないということがよくわかる。そして,見にくる人もそれを承知で人生の暇つぶしをしている。というよりも,アメリカの人たちにとって,生きていることのすべてがゲームなのである。つまり,ルールを決めて,そのルールの中で技を競い合っているだけだ。
 このことを理解すると,アメリカではずいぶんと楽な生き方ができる。それに対して,日本人は,何をしてもそれだけが人生のすべてになる。議論をしてもそれが議論上のことにとどまらず相手の人格を否定することになるし,仕事をすることが全身全霊の奉公になってしまうわけだ。

 私は,カーナビで今日の宿泊先のモーテルの名前を入力して検索し,ドジャースタジアムを後にした。ドジャースタジアムからはすぐにインターステイツに入ることができるし,私の目指す今晩のモーテルは空港の近くだから,そこもやはり,インターステイツのジャンクションを降りてすぐらしいので,わかりやすく,また,あっという間に到着するはずであった。
 宿泊先は,ひと晩寝ることができればいい,というだけの条件で選んだ空港の近くの安モーテルであったが,これが予想以上にひどかった。
 まず,モーテルの場所が悪かった。
 アメリカの町はその場所ごとに風紀が決まっていてわかりやすいのだが,寝るだけだからいいやと思って予約したモーテルのあった場所というのは,いわゆる結構「ヤバそう」なところであった。周りにある店はどこも鉄格子がかかっていたし,古臭い家ばかりだったからだ。
 モーテルのフロントもまた,鉄格子に覆われていて,わずかの隙間から会話をしてチェックインした。以前,ニューヨークのブルックリンで宿泊した,これもまた「ヤバそう」な場所のモーテルに似た雰囲気であった。
 モーテルの経営者はインド人であった。

 私は,こうしたアメリカによくあるチェーン店でない個人経営のモーテルというのがどういう仕組みになっているのか全く知らないが,おそらく,食事の用意もないから,部屋を貸すだけで成り立っているのだろう。部屋の掃除は,おそらくそれを専門とする会社に委託しているのであろう。そして,その会社に雇われた下層の人たちが派遣されて機械的に部屋を片付けるだけなのだろう。
 だから,ホテルとしては,チェックインのときに宿泊代さえ払ってもらえればそれで仕事は用済みなのである。そこには,いわゆる日本人が自慢する自称「おもてなし」の「お」の字さえ存在しない。

 それでもまだ,アメリカのモーテルは経営者の顔が見えるからマシであった。それは,この旅のあと,8月に行ったアイスランドのことである。そこで泊まったモーテルは本当にひどかった。チェックインすらなく,入口にダイヤルキーのついた箱があって,そこに宿泊する部屋のキーが入っていた。そのダイヤルキーの番号を事前にメールで連絡してきただけだった。最後まで経営者の姿すらみたことがなかった。
 そんなことを考えると,日本のカプセルホテルというのは画期的なシステムであるかもしれない。
 なにはともあれ,私は車をモーテルの駐車場に停めてチェックインをし,部屋に入った。安価なモーテルの常で,部屋はかび臭かったが,テレビだけはまともに写った。シャワーはあったがお湯が出なかった。おまけに,フリーWifi完備とあったのは嘘で,Wifiなどまったくつながらなかった。

 日本で暮らしていると,やはり,日本の有名な場所にも一度は行ってみたいものです。
 雄大なアメリカに行ったことのなかった若いころは北海道に憧れて,毎年のよう出かけたこともありました。また40代になったころ,紅葉の時期の前の静寂な京都に行ってすっかり魅せられて,それ以降は毎月のように京都にも行きました。私はどういうわけか沖縄には行ったことがないのですが,それ以外の日本の都道府県にはすべて行きました。さらに,穂高を縦走したこともあるし,利尻富士も伯耆大山も登りました。有名な「見どころ」といわれる場所にもほどんど行きました。
 しかし,私はそうした場所に行ってみて,この国の観光地のほとんどは,一度行けば充分だと思うようになりました。とにかく,どこへ行っても人が多すぎます。どこへ行くにも渋滞しています。そして,交通費と宿泊代が高価です。日本は食べ物だけは世界一といわれますが,歳をとると,旅館で食べきれないほどの料理を出されても困るし,観光地で食事をしようとしても,どこも満員です。
 数年前に行った阿蘇の外輪にある温泉も,温泉に入っても日本人はほとんどおらず外国人ばかりで,ルールも知らず,せっかくのんびりと湯につかりたいのにストレスだけが増えました。白川郷も,外国人が大挙して観光バスで押し掛けて,奇声を発したり自撮り棒を振り回し,山里の雰囲気は台なしでした。これでは日本のよさを味わうなどということは不可能でだなあ,と落胆しました。

 そんな日本の観光地であることは重々承知しているのですが,それでも頻繁に海外に行くこともできません。さらに,歳をとれば今のように遠くまで旅に出かけることもできなくなるでしょうから,どこか,近場で落ち着いて旅を楽しめるところがないものかと思案をしてるこのごろです。
 日本国内の旅で私が楽しみにしているのは,旧街道を歩くことです。それも,観光地ではないところです。そうした場所を歩くためにJRで出かけて最寄りの駅から半日ほど山里を歩くのです。馬篭とか箱根とか,そういった有名な場所は観光客であふれかえっています。しかし,車を使わず歩いて少し横道に入れば,急に人が少なくなって風情が残っている場所がないとは限らないので,あえて事前にガイドブックも読まず出かけたりもします。
 日本では,人や車をかけわけてでも行きたいと思う場所もないので,結局,この国の旅はこころでするものだということに落ち着くわけですが,そんな場所でこころを感じるためには,その地に残る歴史やその地を詠んだ歌などを知ることだと,いつも思うのです。

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 すでにこのブログに書いたことがありますが,昨年の2月下旬にフィンランドのロヴァニエミに行ったとき,幸いすてきなホテルに宿泊することができました。このホテルには豪華な朝食サービスもありました。しかし,私が驚いたのは,朝,朝食会場のレストランに行ったとき,宿泊客のそのほとんどが中国からの旅行者ばかりだったということです。
 どこの国籍の人がいても別段かまわないのですが,問題は,中国からの旅行客が集団で現れて,多くのテーブルを占拠して,大声で食事をしている様子でした。これではどこの国に行ったのかわからないなあ,と思いました。どうしてかと聞いてみると,この時期の中国は「春節」というお休みだということでした。私は迂闊にも,この時までそういうことを知りませんでした。私はそのホテルに4泊したのですが,最後の朝だけはそうした旅行客がほとんどが帰国していなくなったので,すっかりムードが変わったことでした。

 「春節」というのは,中華圏における旧暦(時憲暦)の正月,いわゆる日本でいう旧正月のことで,年,月,日のはじまりであることから「三元」とも「三朝」とも称され,中華圏では最も重要な祝祭日です。また,日にちは毎年変わります。今年2019年の「春節」は2月5日です。
 日本で1月1日を挟んで1週間程度の「お正月」休みがあるように,中国では,2019年の「春節」の休みは2月2日(土曜日)と2月3日(日曜日)が振替出勤日となり,2月4日の大晦日から2月10日までの7日間だそうです。なお,帰省ラッシュを緩和するため,春節の休みを,現在の7日間から10日程度,もしくは,15日に延長したらどうか? といった意見があるそうです。ちなみに,中国の冬休みは日本より長く,小・中・高等学校は春節休みを絡めて約1か月,大学は1か月半から2か月ということです。
 そこで,この時期に,中国を旅行することはもちろんのこと,日本も含めてほかの様々な国に旅行をるなら,中国からの大量の旅行客の存在を覚悟しなければなりません。

 同じように,日本ではお正月休みとお盆休みがあります。この時期に旅行をする人が多いのは中国と同じです。特にお正月休みは,ハワイ旅行に行く人が多いようです。芸能人のお正月はハワイ,と一時話題になりましたが,いまもそうなのでしょうか? また,今年はゴールデンウィークが10連休になるとかで,すでに海外旅行の予約が一杯なのだそうです。
 自由な時間の多い私には,こんな普段よりも高いだけの時期に海外旅行をする気には決してならないのですが,この時期にしか休みの取れない人は本当にお気の毒です。働き方改革とかいいますが,それに加えて,今後定年制も伸びるので,定年退職後ではなく,働いている間にに,せめて1年に1度は,お正月やお盆の休み,さらに,ゴールデンウィーク以外の時期にまとまって1週間ほどのお休みがとれるようになるといいと思います。

 ということですが,私の経験から思うに,海外旅行をするときに比較的空いているのは11月下旬,クリスマスの1か月より少し前くらいの時期です。また,行く場所にもよります。昨年10月に出かけたニュージーランドは旅行シーズンよりも1か月ほど早かったので空いていました。5月下旬にアメリカを旅行すると空いているように思いますが,アメリカではもうこの時期から夏休みがはじまるので,日本への帰国便はアメリカに留学しているアジア人大学生の帰国ラッシュで満席です。
 このように,海外旅行に出かけるときは,日本の休日だけでなく,海外のさまざまな休日も考慮して,日程を決めることが大切のように思います。 

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●メジャーリーガーの矜持●
 この日の私は,前田健太投手を見る,ということだけが目的であったから,ゲームの開始前にはブルペンの投球練習を食い入るように眺め,ゲームがはじまってからは相手チームの攻撃のときだけ前田投手のピッチング凝視して,ドジャース攻撃のときはゲームを見ないでボールパーク内を歩き回った。そして,前田投手が降板した時点でボールパークを後にした。ゲームの結果にはまったく興味がなかった。
 最初にメジャーリーグでプレイをした日本人は,当時大阪にあった南海ホークスという球団に所属し野球留学した村上雅則投手である。それからずいぶんと時間を経て,野茂英雄投手がドジャースに入団し活躍をしたのが,実質的には日本人大リーガーが脚光を浴びたはじめである。それ以降,ずいぶんと多くの選手がメジャーリーグに入団したが,予想以上に活躍した選手もいれば,失意のなかで帰国した選手も少なくない。

 日本のプロ野球で活躍するのも並大抵なことでないのに,メジャーリーグでプレイをするなどというのは途方もないことに違いない。しかし,さらにそこで活躍するとなると,それは実力以上に,異文化になじめるかどうか,そしてまた,どのチームに属するか,といった要因が大きいように思う。日本もそうであろうが,アメリカはそれ以上に都会の個性が強いからである。そうしたことを知らないでアメリカに渡っても,おそらくは,異文化に溶け込めないに違いない。
 それよりも私は,メジャーリーグでプレイができなくなった選手が再び日本に帰ってきてプレイをすることが好きになれない。それはひとつには,メジャーリーグで使い物にならなくなっても日本ならなんとかなるという(それは事実だが)日本を「なめている」ことにあるし,もうひとつは,メジャーリーガーの矜持はどこにいったのか,ということである。それとともに,彼らの人生には野球しかないのだろうか? というのもある。

 ニューヨーク・ヤンキースのディレック・ジーター選手は,まだ現役で十分に通用するのに,ベースボールをプレイすることが「楽しくなくなった」と言って引退した。本当のメジャーリーグの一流プレイヤーは引き際も美しいのである。彼らの人生は人間としての人生であり,ベースボールをすることが人生ではないのである。
 私は,これまでに多くの日本人メジャーリーガーをアメリカで見る機会があったが,残念ながら,わざわざ彼らを見る目的でアメリカまで行ったのに見ることができなかったのが青木宣親選手と上原浩二投手であった。だからと言って,今,日本でプレイする彼らの姿を決して見たいとは思わない。
 異論があろうが,私には,メジャーリーガーとしてプレイする日本人選手が美しいのである。そしてまた,彼らがメジャーリーグのワールドシリーズで輝いていた姿を忘れたくないのである。

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 前回遠出して星見に行ったのが12月10日でした。その後寒かったこと,12月10日にウィルタネン彗星を写してしまったこと,年末に壊れて新しく買いなおしたコンピュータの設定に忙しかったことなどで,しばらく遠出をする機会がありませんでした。そのうちアメリカで皆既月食を迎えたように月が明るくなったので,再び月明かりがなくなるのをまって,1月28日から29日にかけて,星見に出かけました。

 いつも書いているように,暗い夜空の望めない日本では近場では満足な星の写真など写せないので,そんな条件で落胆しながらも主だった星雲や星団を写し終えた私は,地球に接近する10等星より明るい彗星の写真を写すことを目標としています。そしてまた,なるべく少ない機材で身軽に楽しみたいと考えています。
 そこで,前回の星見から撮影する機材を変更しました。あまりメカのことは書かないのですが,前回に引き続いて,ここに少しだけ紹介しましょう。
 私が新しく使いはじめたのは中古の300ミリレンズ(4番目の写真)です。あまり期待もせず安価で購入して,前回写してみたのですが,思った以上に写せました。これまで使ってきた望遠鏡よりもピントが楽に合わせられるので,大変便利です。
 こうして望遠鏡で写していたのを望遠レンズに変えてみると,望遠鏡ではファインダーがあるのにそれがなくなるから,ファインダーに代わる何か適当なものがないかな,と思っていろいろ探しました。当然,カメラのファインダーでは星が見づらいのです。そこで見つけたのが4倍で口径12ミリの単眼鏡です。
 望遠鏡についているファインダー,私の持っているものは正立像の優れものですが,そんな良心的なものは少なく,ほとんどの市販品についているのは逆像のものです。それは,そういうことにコストをかけても値段が高くなるだけで,それが大切だということを認識している消費者が少ないから売れない,というのが理由でしょう。
 そこで,正立像が見えるファインダーがなかなか見つからず,単眼鏡(5番目の写真)に目をつけたのですが,視野が10度以上あるのは利点としても口径が12ミリしかないのが不安でした。しかし,実際に使ってみると予想以上に星がよく見えて,非常に実用的でした。
 こうしてあまりお金をかけずにいろいろと工夫することは楽しいものです。

 この晩は,試しにオリオン座の大星雲を写しました(3番目の写真)。空の明るい日本では光害カットフィルターが必須です。300ミリレンズのフィルター径は82ミリですが,私は72ミリのものしかもっていません。82ミリというものは入手困難だし,あったとしても非常に高価です。そこで,ステップダウンリングで72ミリのフィルタをつけることにしました。せっかく口径が大きいのにもったいない気がしますが,2段階ほど絞り込むので,かまわないと思いました。
 そうして写した星雲ですが,なかなかいい写真になりました。ただし問題なのは,写真でわかるようにゴーストが出るのです。理由はよくわかりません。これから先,いろんな写真を写して原因を探りたいと思います。

 さて,彗星の話題です。
 現在,見ることができる10等星よりも明るい彗星はウィルタネン彗星(46P Wirtanen)と岩本彗星(C/2018 Y1 Iwamoto)です。ウィルタネン彗星は天頂のおおさくま座にあって一晩中見られますが,ずいぶん暗くなって7.4等星くらいという予報でした。また,岩本彗星は明るくなってきていて8.2等星という予報でした。
 岩本彗星というのは,徳島県在住のアマチュア天文家・岩本雅之さんが発見した彗星です。2018年11月8日にマックホルツ・藤川・岩本彗星を発見したばかりの岩本さんがその1月後の12月19日に発見したものです。
  ウィルタネン彗星(1番目の写真)は暗くなったとはいえ,天頂付近の空の暗いところにあるので,きれいに写りました。一方,岩本彗星(2番目の写真)はおとめ座にあって,昇ってくるのが11時過ぎです。2時には月が昇るので,地平線低いところで写したのですが,意外と暗いものでした。もう少し高度が高くなるまで待ってもよかったのですが,寒かったのでこの晩は帰宅しました。これから先,もっと明るくなって,しかも,高度も高くなるので,また機会があれば写したいと思いました。ともかく,岩本彗星をはじめて写すことができて満足した晩になりました。

☆ミミミ
やっと晴れたか?秋2018②-ウィルタネン彗星を見よう。
やっと晴れたか?秋2018③-ウィルタネン彗星を見た。
やっと晴れたか?秋2018⑤-日本人の発見した新彗星
やっと晴れたか?秋2018⑥-再びウィルタネン彗星を見た。

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