5泊7日のアメリカ旅行です。パスポートを見てはじめて知ったのですが,昨年も全く同じ日にアメリカに向けて出発していました。あれからもう1年,月日の流れは早いです。昨年も羽田空港からロサンゼルスでしたが,羽田空港までは国内線を使いました。その後,ニュージーランドからの帰国でトランジットしたシドニーから羽田に降りたので,それ以来の羽田空港ということになります。
昨年ははじめて羽田空港を利用したのでよくわかららず,戸惑うことも多々あったのですが,いくらいい加減な私でも多少は学習能力があります。そこで,今回は名古屋から新幹線こだまのグリーン車で品川まで来て,品川駅を出た所の吉野家でお昼を食べてから京急線に乗りました。
すでにフライトはオンラインチェックインを済ませてあったので長い行列を横目にプライオリティカウンタでパスポートチェックを済ませ,さっそく出国手続きを終えました。
羽田空港最大の欠点はデルタスカイラウンジがないことですが,アメックスで入れるラウンジがあるので,搭乗開始時間までそこで過ごすことができます。昨年はそれを知らずに待ち時間を潰すのに苦労しました。
今回はデルタの機体が新しくなってエアバスA350でした。JALに同じ機体が導入されたとかで盛んに宣伝をしていますが,デルタにもそして8月に利用するフィンランド航空にもすでに導入されていて,珍しいものでもありません。しかし,フィンランド航空はいいとして,アメリカの航空会社がボーイング買わなくてトランプ大統領にしかられないのでしょうか?
それはともかく,マイレッジが山ほどあるので,今年の2月にハワイに行ったときは往復ファーストクラスに乗りましたが,今回はそこまでせずともということと新しく導入されたお試しで,マイレッジでアップグレードしてプレミアムエコノミーというのにしました。
今回の旅行の目的は昨年行けなかったパロマ天文台に加えて,アリゾナ州フラッグスタッフにあるトンボーが冥王星を発見したというローウェル天文台の見学,そして,ずっと行きたかったバリンジャー隕石孔です。それ以外にはロサンゼルス・エンジェルスのゲームで大谷翔平選手を見ることです。全部かなったら最高です。
まず,羽田とロサンゼルス間の航空券だけを購入しました。その後,旅の予定を立てていたとき,フラグスタッフまでロサンゼルスからよほど車で走ろうかとも思ったのですが,片道7時間,歳のせいかそんな長距離を走るのが面倒になって,後日,ロサンゼルスとフェニックス間の往復国内線を購入しました。こちらはエコノミーだったのですが毎度のことでアップグレードされてファーストクラスになりました。
このところ関東地方で地震が多く心配だったのですが出発の日は何事もなく,また,今年は梅雨の季節なのに天気もよく台風も来ずといったそんな日の旅立ちとなりました。
June 2019
やっと晴れた!オーストラリア2019⑤-いて座の星雲
☆☆☆☆☆☆
今日はいて座の有名なふたつの星雲をとりあげます。いて座は南半球に行かなくても日本からもよく見えます。しかし,空が暗く水蒸気の少ないオーストラリアでは今日取り上げるいて座のふたつの星雲を簡単に写すことができます。
今日の1番目の写真がそうです。180ミリメートルの望遠レンズを使ってたった1分の露出です。2番目の写真はこれらの星雲の位置を示すための広角写真です。これもオーストラリアで写したものです。こんなに簡単に写ってしまうと,日本で苦労して光害除去フィルターを取り付けて写真を写して,そのあとでコンピュータ処理をしてやっと見栄えのする写真を作りあげるのがばかみたいに思えます。
そもそも日本でやっていることなんて,本来は必要がないことを空が明るいのでしかたなくやっているわけです。そうして日本で私が写したのが3番目の写真です。360ミリメートル相当の望遠鏡の直焦点に2分の露出を与え,光害除去フィルターを使い,コンピュータ処理をしたものです。この写真と比較すれば容易にわかりますが,手間も暇もお金もかけないオーストラリアの方がずっとうまく写っています。
では,このふたつの星雲について説明しましょう。
まず,右側の大きい散光星雲(輝線星雲)が干潟星雲(The Lagoon Nebula)とよばれるM8(NGC 6523)です。散光星雲を南北に横切る帯状の暗黒星雲が存在し,その姿が干潟に似ていることからその名がつけられたということです。「干潟」という言葉をはじめて使ったのはアグネス・クラーク(Agnes Mary Clerke)であろうといわれています。1890年の「The System of Stars」という本で彼女は暗黒星雲の黒い筋を干潟と表現しました。 しかし,そもそも干潟というのは干潮時に露出する砂泥質の平坦な地形ということだそうで,なんだか私にはよくわかりません。
星雲と同じ位置に散開星団NGC6530も重なって見えます。 この星雲もまた,先日書いた走るにわとり星雲と同様,所々にボック・グロビュール(Bok globules)と呼ばれる小さく丸い暗黒星雲の塊が見えます。これは分子雲の密度の高い部分が自己重力で収縮し,やがて原始星となって輝き始める直前の段階にあるものと考えられています。また,星雲の西側の中心にいて座9番という非常に高温の星が存在していて,この星からの紫外線がM8のガスの電離に大きく寄与していると考えられています。
左側の散光星雲が三裂星雲(The Trifid Nebula)とよばれるM20(NGC 6514)です。星雲が3つの部分に裂けて見えるところから三裂星雲と呼ばれています。三裂星雲と名づけたのはジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel)です。ジョン・ハーシェルの父であるウィリアム・ハーシェルはこの星雲を「四つ」に分けてカタログしていました。この星雲を4つの部分に分かれているように見えて,これを「クローバー」にたとえる人もいます。干潟星雲とは違い,私はこの名前は納得いきます。。ただし,実際には星雲が3つに分割されているわけではなく,M20の輝いて見える散光星雲の手前に位置する暗黒星雲が後ろの散光星雲を3つに分割しているように見えているのです。
M20は北側と南側で赤と青のふたつの部分からなります。北側は青い反射星雲,南側は赤い輝線星雲で,このうちで三裂に見えるのは南の赤い輝線星雲のほうです。付近にはM20から生まれたとされるO型の青く若い星が120個ほど存在していて,星団も兼ね備えた構造となっています。
また,このM20の北東にはM21という散開星団があります。青い星を多く含む若い星団で,8等星が1個,9等星が4個と明るい星が少ない星団です。M20を土台としてM21を北端とする「十字形の群れ」は「ウェッブの十字架」(Webb's Cross)と呼ばれています。
すばらしきグレイシャー⑫-アメリカ旅行記 '16夏
●美しいセントメリーレイククルーズ●
カナダ国境の近くででUターンしてセントメリーまで戻り,昨日と反対に「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」を西に走った。
セントメリーを過ぎると「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」の左手にセントメリーレイク(Mt. Mary Lake)が広がっている。この湖はグレイシャー国立公園でレイクマクドナルドに次いで2番に広い湖だが,標高は4,484フィート (1,367メートル)で,レイクマクドナルドよりも約1,500フィート(460メートル) 高くなっている。
湖の面積は9.9 マイル(15.9キロメートル)で奥行きは300フィート(91メートル)。表面積は3,923エーカー(15.88平方キロメートル)ある。
湖水はめったに華氏50度(摂氏10度)より高くならないらしいが,冬の間は最大4フィート(1.2メートル)の厚さの氷で凍結されるという。
ところで,以前にも書いたことがあるが,日本人に「エーカー」という単位はなじみがない。1エーカーは43,560平方フィートなので4046.872609874平方メートル,つまり約4,047平方メートルとかかれているが,そんなことではよくわからない。
そこでもう少しわかりやすくすると,1エーカーは1,200坪ほどである。古い日本人ならこのほうがまだピンとくるであろう。さらにもっと若い人にも直観でわかるように書くと,1辺の長さが約64メートルの正方形の面積であろう。野球の内野は1辺90フィート,つまり27.431メートルの正方形,また,サッカー場は縦幅が100メートルから110メートル,横幅が64メートルから75メートルなので,これから広さが想像できるであろう。小学校の校庭くらいのものである。
エーカー(acre)の語源はギリシャ語の「ager」から来ている。ギリシャ語でエーカーは「くびき」を意味する言葉で,2頭の牛が1日間で耕すことが可能な土地の広さを1エーカーとしたとされているそうだ。
また,温度の華氏も難しい。華氏から摂氏への換算は,32を引いてから9で割って5を掛ける(つまり0.55倍する)のだが,めんどうなので,簡単には30引いて2で割ればおおよその値は想像ができる。
華氏は真水の凝固点を華氏32度,沸騰点を華氏212度としてその間を180等分して華氏1度としたことに由来する。「華氏=ファーレンファイト」とは,考案者のガブリエル・ファーレンハイト(Gabriel Daniel Fahrenheit)にちなむ。「華氏」はファーレンハイトの中国音訳「華倫海特」から「華」と人名につける接尾辞「氏」から転じたものである。
ファーレンハイトは彼が測ることのできた最も低い室外の温度を華氏0度,体温を華氏100度としたと述べている。冬の寒い日の室外温度が摂氏にすると−17.8 度だったというわけだ。また,華氏100度は体温,というのはわかりやすい。
いずれにしても,こうした単位を単に暗記するのでなくきちんと概念として覚えるのは意味のあることだが,学校では正式の単位は教えても,日常生活で今でも使っている,たとえば「坪」のような単位を正式なものではないとして教えない。日本の学校教育では,どうでもいいことは一生懸命教えても,大人になって必要な知識は教えないわけだ。私は日常生活で今も使われていることを「文化」として教えることは大切だと思うのだが。
湖畔を走る「ゴーイング・トゥー・ザ・サンロード」の中ほどのビレッジの近くの船着場からこの湖を1周するクルーズがあったので,それに乗ることにした。
クルーズは夏場には1日5便ある。そのうちの2便にはレンジャーが乗船して対岸で降りて往復2時間トレイルを歩いてセントメリー滝まで連れていってくれるということだ。また,最終便はサンセットクルーズである。
残念ながら,私の乗船したのは午後4時のものだったが,そのどちらでもなく,料金26ドル,所要時間1時間30分のものであった。湖の途中には Wild Goose Island という小島があったが,これが湖のなかに浮かんでいるように見えて,なかなかいい景観のアクセントになっていた。
クルーズは,途中の対岸で降りて15分ほどトレイルを歩きベアリング滝(Baring Falls) まで行くことができた。ベアリング滝は高さが30フィート(90メートル)と短い滝である。この滝からはいくつかのトレイルがあって,トレイルによっては滝の頂上まで行くことができるものもあるということだった。
滝からもどり再び船に乗った。こうして楽しいクルーズの時間を過ごすことができた。
すばらしきグレイシャー⑪-アメリカ旅行記 '16夏
●カナダ国境に達する。●
スイフトカンレントレイクを1周するトレイルを歩いたあとで,メリーグレイシャーホテルで昼食をとった。私は旅先の食事は,何も特別なことがなければ質素に済ませるが,こうしたすばらしい場所に行ったときはその気分に合わせて豪華な食事をすることにしている。ここでは気持ちももりあがったので,贅沢をすることにした。
日本では都会のレストランで昼食をとろうとするとどこも列が出来ていて,だからといって座席はせまく,まったく楽しくないが,そういうものとはまったく違って,広々としてしかも優雅に食事ができる。ここではさらに,窓からも美しい景色を見ることができた。
食事を終えた。もう少しでカナダ国境である。そこで私はさらに北上してカナダ国境まで行ってみることにした。
メニーグレイシャーから東に進み,Babbという町で左に折れて国道89に入り,4マイルほど北上してY字の交差点を左に曲がり州道17に入った。この道路がチーフマウンテン・インターナショナルハイウェイ(Chief Mountain International Hwy)という,文字どおりアメリカとカナダを結ぶ道路で,ここを14マイル北に走るとカナダとの国境である。
道路のまわりはのどかな森が続いていた。アスペンやロッジポール松の林のなかを進んでいくのだが,途中,牛の群れが道路の端をのっしのっしと歩いていくので,注意が必要である。
日本で車を運転するのとアメリカやオーストラリアで車を運転するのとでは,自然や野生の動物に対する注意が何倍も違うから,かなりの慎重さが求められる。日本のような傍若無人でスピード競争をしているような運転はきわめて危険である。
道路の左側に奇妙な台形の山が迫ってきた。これがチーフマウンテンである。チーフマウンテン(Chief Mountain)は標高9,085 フィート (2,769メートル)。ロッキー山脈で最も目立つ山頂と岩といわれていて,モンタナ州の中心部からカナダのアルバータ州まで伸びるルイス・オーバートラスト(The Lewis Overthrust)として知られる200マイル(320キロメートル)の断層である。
オーバートラストというのは押しかぶせ断層という意味である。上盤が下盤に対して相対的にずり下がった場合を正断層といい,逆に,ずり上がった場合を逆断層という。逆断層のうち断層面の傾斜が45度以下の緩傾斜の場合を衝上断層といい,さらに緩傾斜の場合を押しかぶせ断層とよぶ
そして,さらにそのむこうに,グレイシャー国立公園で最高峰である Mt.Cleveland も見え隠れしていた。
そのうちに国境の建物が見えてきた。思えば私は,これまでにもワシントン州で陸路アメリカ国境を越えてカナダに行き,カナディアンロッキーの観光をし,アイダホ州で再び国境を越えてアメリカに戻ってきたことがあるが,それは今から20年ほど前のことであった。そのときは難なく簡単に国境を越えることができたのだが,今は国境を越えることはけっこう大変らしい。
インターネットの発達で,海外旅行をするときは便利になったこともある反面,テロなどの増加によって,いろいろセキュリティが厳しくなってしまって,昔ののどかさを失ってしまったことも少なくない。アメリカ旅行は1990年代が最も楽しかったように思う。
国境を越えると,グレイシャー国立公園はウオータントンレイクス国立公園(Waterton Lakes National Park)と名前を変える。カナダの国立公園はアメリカの国立公園とは異なり,日本と同じで自然保護より観光重視,これはナイヤガラの滝に行ったときに私が感じたことである。
私は今回は国境を越える予定がなかったので,ここらあたりでUターンをして戻ることにした。
やっと晴れた!オーストラリア2019④-走るにわとり星雲
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今日の1番目の写真に写っている天体は,走るにわとり星雲IC2944(左)と,そのあたりにある散開星団NGC3766(上),IC2714(下),散光星雲NGC3572(右)です。2番目の写真は以前イータカリーナ星雲のことを書いたときと同じ写真ですが,今回も位置関係を示すために載せたものです。走るにわとり星雲は,南十字星とイータカリーナ星雲の間,写真の中央少し右下にあります。
このように,この場所にはいろんな美しい天体がたくさんあります。しかし,南半球にあるためにこれまでなじみが薄く,メシエ天体でもありません。南半球にはこうした見ものがたくさんあるのですが,適当なガイドブックもないので,走るにわとり星雲のようなおもしろい名前がついていてもこれまで知りませんでした。
この走るにわとり星雲は正式名称はIC2944(Caldwell 100)で,ケンタウルス座のケンタウルス座λ(ラムダ)星の近くにある輝線星雲を伴った散開星団でもあります。ケンタウルス座λ星星雲ともよばれています。走るにわとり星雲というのはその形からそうよばれているらしいのですが,どこがにわとりなのかは見る人によって違っているようです。
この星雲には,星形成が盛んな「ボック・グロビュール」(Bok globule)を含んでいるということです。
「ボック・グロビュール」というのは,星形成が起きるようなガスや塵が高濃度に密集した領域のことをいいます。HII領域の中に見られ,直径1光年程度の中に太陽質量の2倍から50倍の質量があって,分子状の水素,一酸化炭素,ヘリウムや1パーセント程度のケイ素の塵が含まれます。「ボック・グロビュール」からはふたつ以上の恒星系が作られます。
「ボック・グロビュール」は,1940年代にバルト・ボック(Bartholomeus Jan "Bart" Bok)によって初めて観測されました。1947年に出版された論文で,バルト・ボックとエディス・ライリー(Edith Reilly) は,これらの雲は重力崩壊を経て恒星や星団ができるまでの昆虫の繭のようなものだという仮説を立てました。濃い雲が可視光を遮ってしまうため内部の観測が難しく証明が困難でしたが,1990年に発表された近赤外線を使った観測で,ボック・グロビュールの中で恒星が生まれていることが確かめられました。さらにその後の観測で,いくつかのボック・グロビュールの中には熱源があることも明らかになりました。また,ハービッグ・ハロー天体や分子ガスを噴出しているものも見つかりました。
ハービッグ・ハロー天体(Herbig-Haro object)とは,新しく生まれた恒星に付随する星雲状の小領域で,若い星から放出されたガスが毎秒数100キロメートルの速度で周辺のガスや塵の雲と衝突して作られるものです。しかし,この走るにわとり星雲にあるどのボック・グロビュールでも,今はまだ星形成が行われている証拠は得られていないということです。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE⑧-ブリスベン#3
ブリスベンの市街地をブリスベン川に向かって歩いていきました。やがて,ブリスベンシティ・ボタニックガーデン(Brisbane City Botanic Gardens)に着きました。この辺りまで来ると市街地の喧騒がなくなるので,もっとさびれたところなのかと思ったのですが,予想が外れて,とても美しいそして落ち着いた場所でした。ボタニカルガーデンというのは文字どおり植物園で,1825年に造園されたガバメントガーデンが基になっている歴史ある庭園ということでした。
動物同様,南半球には北半球にはないいろいろな植物があって,見慣れない花などがたくさんありましたが,私は植物には詳しくないのでよくわかりません。もう夕暮れだというのに多くの人が散歩をしていました。また,植物園の隣には旧総督公邸(Old Government House)や美術館もあって,とてもアカデミックな場所でした。
いたるところに「QUT」と書かれた建物があって,若い人がたくさんいました。私にはこのQUTというのが何なのかよくわかりませんでした。歩いていても,QUITが何の略なのか,どこを見てもはっきりしませんでしたが,後で調べてみるとQUTというのはクイーンズランド工科大学(Queensland Univ. of Technology)のことでした。つまり,私が歩いていたのは大学の構内だったのです。
大きな建物の広いガラス張りの窓からなかが見えました。大きなディスプレイのあるコンピュータがずらりと並んでいて,そこに向かって調べものをしている若者がたくさんいました。どうやらそこは図書館らしいところでした。
私がショックを受けたのはその豪華さでした。
いったいどうしたことでしょう。これだけを見ても,日本の大学とは比較にもなりません。
こうして日本は大学の設備もまたどんどんと世界から遅れていっているのに,海外に出たことのない人はそうしたことをまったく知りません。海外に公費で視察に出かける議員さんたちはいったい何を見てくるのでしょう。そもそも,日本では,この情報化社会に,今でも公立の高等学校には安価なコンピュータが40台,コンピュータ室が1部屋しかないなんて,こんなことで教育ができるのでしょうか。日本は終わったな,と改めて思ったことでした。
地図には,この植物園の先にはブリスベン川が取り囲んでいて,川の向こうに行くには自動車専用の道路の橋しかないように見えましたが,実は,ここにグッドウィルブリッジ(Goodwill Bridge)という歩行者専用の橋が架かっていて,大勢の人が行き交っていました。私もこの橋を渡ると対岸に出ることができました。対岸はサウスブリスベンという場所で,サウスバンク・パークランド(South Bank Parkland)といわれる美しいところでした。
サウスバンク・パークランドは1988年に開催されたエキスポの跡地で,今は16ヘクタールを利用した公園と文化施設になっていて,園内には緑が茂り,川沿いは散歩コースでした。また,ブリスベン川を望むように造られた人工のビーチや,レストラン,フードコート,様々なショップが集まっていました。
時間はちょうど夕暮れでした。方角的に夕日は見られませんが,夕日がブリスベンの高層住宅に反射してとてもきれいに輝いていて,絶品でした。多くの人がイスに座って,夕日が反射するビル街の景色を眺めていました。晩秋なのに気候は20度くらい,そして,湿度が低いので,とても気持ちがよいのです。ブリスベンというのはなんと美しい街なのかと思いました。
私は,サウスバンク・パークランドをブリスベン川に沿って北西に歩き,朝行った観覧車のあるビクトリアブリッジを渡って,再びブリスベンの市街地に戻り,夜のブリスベン市内を散歩しながらホテルに帰りました。
・・
翌日帰国しました。
その後,すぐに自宅にもどることなく,成田空港近くのホテルに1泊して,その翌日,上野の国立西洋美術館でフェルメールを国技館の相撲博物館で稀勢の里展を見たことはすでに書きました。
やっと晴れた!オーストラリア2019③-おおかみ座あたり
☆☆☆☆☆☆
以前,このブログに,おおかみ座とじょうぎ座について書きましたが,その後,このあたりの星空を再び写すことができましたので,その続編を書きます。
まず,前回のこの星座の紹介を改めて書いておきます。
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おおかみ座は「トレミーの48星座」のひとつ,古い星座です。
おおかみ座のおおかみは,古代メソポタミアでは,狂犬 (the Mad Dog) またはカバ男(Gruesome Hound)と呼ばれる人頭獣身の姿が描かれていて,バイソンマン(Bison-man)=現在のケンタウルス座(Centaurus)と対を成すとされました。一方,古代ギリシアでは,おおかみ座はケンタウルス座の一部とされていて,この動物を指す名がなく,単に野獣などと呼ばれていましたが,ビチュニア(Bithynia)のヒッパルコス(Hipparchus)が紀元前200年ごろにこの星座を分離させてテリオン(Therion) と命名しました。
じょうぎ座は,1756年にフランスの天文学者ニコラ・ルイ・ド・ラカイユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)が作成した天球儀に初めて描かれました。最初,ラカイユは「l'Équerre et la Règle」 と名づけました。これは製図用具の直定規と曲尺を意味します。かつては「ユークリッドの定規座」(Quadrans Euclidis)とも呼ばれたこともあります。じょうぎ座で注目に値するのは散開星団NGC6067,NGC5999,そして,星座の場所としてはさんかく座に属するNGC6025です。
・・・・・・
というわけですが,今日の2番目に取り上げた図は日本から見ることができる夏の南の空です。この星図によると,おおかみ座とじょうぎ座はさそり座の右側にあるのですが,地平線に近く,ほとんどわかりません。そしてまた,大きなさそり座の影にかくれてしまいます。
それが,南半球ではその次の3番目の図のように,天頂にあるのです。こうなると,いやがうえにもこの星座の存在を意識することになるわけです。
さらに,少し前に「イータカリーナ」についてこのブログに書いたのですが,ポインターとよばれる南十字星の目印となるケンタウルス座の明るいふたつの0等星の星を南十字星の方向と反対に目をやると,このじょうぎ座とおおかみ座に行き当たるのです。
おおかみ座は空の明るい日本では地味で星の並びもわかりませんが,空の暗いオーストラリアでは,その並びからおおかみの姿が浮かび上がります。じょうぎ座のほうは天の川銀河が濃くて,溶け込んでしまっているので,むしろ星の並びを見つけるのは難しいものです。しかしこの辺りは,じょうぎ座の散開星団とともに,さそり座やいて座の散光星雲など,まるで宝石箱のようにおおくの美しい天体が輝いているので,とてもきれいです。
私はほんの3年前までは南半球の星空を見るのが夢でした。そのころは,一度でいいから南十字星が見たい,そして,マゼラン銀河が見てみたいという一念でしたが,このごろ,このあたりの星空を見慣れると,さそり座からおおかみ座,じょうぎ座,みなみじゅうじ座,りゅうこつ座といった星座が天頂に並ぶ南半球の星座に魅せられて,こうした絶景を決して見ることができない日本の夜空には主役が欠けているようで,いつも物足りなくなってしまいました。そして,帰国するとまたすぐに南半球にでかけたくなるのです。
夏になると,日本でも写真雑誌に星空の写真,特に天の川銀河を入れた風景写真の特集が組まれたりしています。しかし,こうしたわけで,私には主役の不在な日本の星空の写真なんていくら見ても物足りないと思ってしまうようになったことは,ある意味,さびしいことでもあります。
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南天の星座⑥-天の川に溶け込むおおかみ座,じょうぎ座
やっと晴れた!オーストラリア2019②-イータカリーナ
水まんじゅうと奥の細道-江戸の旅にこころを寄せる。
空梅雨という年も多いのですが,今年の梅雨はとても「梅雨らしい梅雨」です。そんな蒸し暑い日,ふと思い立って水まんじゅうを食べに岐阜県大垣市に行ってみました。
大垣は水まんじゅう発祥の地といわれています。明治のはじめころ,水の都・大垣の名水を生かした和菓子が作れないかと考えた結果できあがったそうです。
よく似たものに葛まんじゅうがあります。葛まんじゅうと水まんじゅうの違いは皮の材料。葛まんじゅうは葛粉で作られ,水まんじゅうは葛粉とわらび粉を混ぜてあるそうです。大垣の水まんじゅうを売っているのは5店ほどだそうですが,店ごとに葛粉とわらび粉の配合が異なるので,店ごとに食感の違いがあるということです。
私は,駅前にあった「金蝶園総本家本店」という店に入ってみました。店内にイートインスペースがあったので,そこで食べました。
幸運にも,水まんじゅうがちょうどおいしく感じる気候であったことと,お昼過ぎのおやつの時間であったことで,大変おいしく感じました。
せっかく大垣に来たので,大垣といえば松尾芭蕉「奥の細道・むすびの地」ということで,奥の細道むすびの地記念館に行ってみました。大垣駅から歩くと結構な距離があったのですが,散歩道ができていて,逆に気持ちが高まりました。
記念館はよくある日本の博物館のようながっかり感はなく,とても充実した展示でした。はじめにAVシアターで奥の細道についての紹介を見て基礎知識を得てから,展示室に入ります。ここには奥の細道を旅路ごとに区切って関連する資料とともにきわめて詳しい,そして,見ていて飽きない展示がされていました。
「奥の細道」は松尾芭蕉が崇拝する西行の500回忌にあたる1689年(元禄2年)に門人の河合曾良を伴って江戸を発ち,奥州,北陸道を巡った旅行記です。全行程約600里(2,400キロメートル),日数約150日間で東北,北陸を巡って元禄4年(1691年)に江戸に帰った旅から,武蔵,下野,陸奥,出羽,越後,越中,加賀,越前,近江を通過して旧暦9月6日美濃大垣を出発するまでが書かれています。
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月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の 思ひやまず 海浜にさすらへ去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて や ゝ年も暮春立る霞の空に白川の関こえんとそヾろ神の物につきて心をくるはせ道祖神のまねきにあひて取もの手につかず もゝ引の破をつヾり笠の緒付かえて三里に灸すゆるより松島の月先心にかゝりて 住る方は人に譲り杉風が別墅に移るに
草の戸も住替る代ぞひなの家
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露通も此みなとまで出むかひてみのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて大垣の庄に入ば曾良も伊勢より来り合越人も馬をとばせて如行が家に入集る。前川子荊口父子其外したしき人々日夜とぶらひて蘇生のものにあふがごとく且悦び且いたはる。
旅の物うさもいまだやまざるに長月六日になれば伊勢の遷宮おがまんと又舟にのりて
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
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私は,このごろ,気候のよいときにきままに旧東海道や旧中山道を歩いていると,いろんな発見があって,日本の原風景に思いを寄せるとともに江戸時代を味わうことにこころのなかに幸せを感じるようになってきたのですが,そこにまた「奥の細道」が加わってしまいました。
芭蕉が「奥の細道」で歩いた道をたどってみたいものだと思ったことでした。よい日でした。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE⑦-ブリスベン#2
今日の空からの写真にあるように,ブリスベンの市街は蛇行するブリスベン川のV字の中にあります。その左の対岸にそって,美術館や博物館,観覧車などがあります。私はまず,博物館に行きました。博物館の常設展は無料でした。企画展は有料で,アメリカの宇宙開発をやっていましたが,私はアメリカの博物館ですべて本物を何度も見たことがあるのでパスしました。
そのあとで観覧車に乗ろうと思ったのですが,午前10時から動くということで,まだ停止していました。すると,観覧車乗り場の手前の船着場で,ブリスベン川のボートクルーズの乗り場があったので乗ることにしました。先日大阪に行ったとき中之島で同じようなボートクルーズに乗ったのを思い出しました。それにしても,何でも日本は規模が小さくて貧弱なんでしょう。日本はオーストラリアよりも人口も多く経済規模も大きいらしいのですが,何を見ても日本のほうがずっと貧弱です。
ボートクルーズはブリスベン川をずっと下って行って,1時間あまり,そこでUターンして戻りました。船上からみたブリスベンの街並みは本当に美しく,また,気候がよかったこともあって,気持ちのよい時間を過ごすことができました。
クルーズを終えて,改めて観覧車に乗りました。
ブリスベンの観覧車のおもしろいのは,乗るときに観覧車が停止することです。1台ごと停止しては客を乗せていくのです。そして,客足が途絶えたところで回転開始です。そこで,回転をはじめるまでにずいぶんと時間がかかるのです。
いよいよ回転がはじまりました。回転は日本の観覧車とは違ってスピードが速く,しかも1周ではなく7周もしました。こういう発想の違いがとてもおもしろいです。そこで,降りるときもまた,その逆に,1台ずつ停止しては客を降ろしていくのです。観覧車から見たブリスベンの街並みもまた格別でした。
海外に出かけると,日本で当たり前だと思っていることとまったく違うこうしたことに出会って驚くとともに,いろんなことを感じます。それにしても,行くたびにどんどんといろんなことが発展していく様にくらべて,相も変わらない,それどころか古びていく日本を嘆かわしく思うのですが,海外に出たことのない人や,ツアーでしか海外旅行をしたことのない人はそうした実感がないことでしょう。
「フィンランドの教育はなぜ世界一なのか」-幸福な国の姿
発売されたばかりの新潮新書「フィンランドの教育はなぜ世界一なのか」を読みました。
・・・・・・
人口約550万人,小国ながらもPISA(15歳児童の学習到達度国際比較)で多分野において一位を獲得,近年は幸福度も世界一となったフィンランド。その教育を我が子に受けさせてみたら,入学式も,運動会も,テストも,制服も,部活も,偏差値もなかった。小学校から大学まで無償,シンプルで合理的な制度,人生観を育む独特の授業… AI時代に対応した理想的な教育の姿を示す。
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というのが,この本の紹介です。
さらに,この本の「はじめに」から引用してみましょう。
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フィンランドの教育が目指すものは,子どもひとりひとりが自分を発展させ,自分らしく成長していくことである。それは,知識を習得したり,学力を高めたり,偏差値を上げたりすることではない。いかに学ぶかを学ぶこと,創造的,批判的思考を身につけ,自分自身の考えを持つこと,アクティブで良識ある市民として成長することである。
・・・・・・
私は,昨年の2月,はじめてフィンランドに行くまで,フィンランドには興味がありませんでしたが,一度行ってみて,フィンランドが「世界一幸せな国」であることを知って驚くとともに,大好きになりました。どうやら,そうした人は私だけではないようで,フィンランド大好きという人がまわりにも一杯います。そして,私もその後,フィンランドについていろいろ調べていくうちに,この国は本当にそんなに素晴らしいのだろうか,それは事実なのだろうかと思うことをたくさん見聞きし,知りました。そうしたときに書店で見つけたのがこの本です。この本を読んでみて,私が見聞きしたことが現実だということがわかりました。
どんな国にも長所があれは短所もあります。いいことばかりではありません。それは当然です。この本には,そうしたフィンランドに存在する問題点についてもきちんと書いてあるのがまた,よいのです。
フィンランドという国について知らない人こそ,この国がどんな国なのか,そして,この本にはどんなことが書かれているか,実際に本を読んでみてください。おそらく,フィンランドが夢のようなすばらしい国だということがわかることでしょう。あるいはこんなことを知ってしまうと,日本に住んでいてこれまで培ってきた価値観や人生観が吹っ飛んでしまうかもしれません。そもそも日本語もフィンランド語も英語とはかけ離れた言語なのに,成人のほとんどが英語の話せるフィンランド人とそれができない日本人を考えるだけでどちらの教育が優れているかは明白でしょう。
この本に書かれているのは,日本やフィンランドの教育の現実だけではないのです。この本では,それぞれの国の教育制度から見えてくる,人が生きるということはどういうことなのか,人というのは国にとってどういう存在なのかという,もっと本質的なことが問われているのです。このように,この本が問いかけているのはとても奥深いものです。そして,読み進むうちに,そうした「哲学」を日本の教育では全く学んでいないことを知るのです。
そんなフィンランドですが,私ははじめて行って以来,何度か行く機会がありましたし,これからも出かけます。フィンランドに行ってみると,このすばらしい国から何かが学べないかと多くの日本人が留学をしたり研究に訪れているのに出会います。しかし,彼らがそこからいったい何を学んでくるのか? 今日,日本で行われている改革とやらは,大学の入試改革をはじめとして,残念ながら,フィンランドとは真逆なことばかりです。
私も日本に生まれたから,この国の保護を受けているし,この国が嫌いなわけはありません。だからこそ,将来を憂い,何とかならないものかと思っています。しかし,何度も外国に出かけ,外から日本をみる機会が増えてくると,日本では,政治も,教育も,産業も,インフラも,そうした何もかもが急激にボロボロになって劣化していく様を痛いほど感じます。今や,この,何をやってもうまくいかず,より事態が悪化していく様子に接するにつけ,パロディを見ているような,悪い夢を見ているような,そんな気がするようになりました。そして,あきらめとともに,何が起きても「またやっちまったか」というような出来事ばかりで,まるで喜劇を見ているかようにおかしくてしかたがなくなりました。
しかし,そんな危機的な実態であることすら認識しておらず,今も30年も前の価値観で生きていて,相も変わらず精神論を唱え,日本社会に対する批判的な意見を聞くと耳を塞ぎなかったことにし,さらにはそれを小ばかにするような主張をして得意がっている人たちさえものすごく多いことにもまた驚き,同時にに失望感を味わいます。
フィンランドと対比したとき,今日の日本社会があまりに劣化していることを危惧するとともに,この国が今まさに滅びゆく姿でないことを心から祈ります。
◇◇◇
知らなかった国①-隣国に翻弄されてきたフィンランド
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE⑥-ブリスベン#1
何度もブリスベンの空港には降りたのに,これまでブリスベンのダウンタウンに行ったことがなかったので,町の様子が想像つきませんでした。ブリスベンでは郊外に出るのにダウンタウンの地下を走る高速道路を使うので,街中の姿を見ていないのです。
都会を観光するのに最も心配なのが駐車場です。2か月前にシドニーに行ったときは大変でした。駐車料金もえらく高額でした。今回もまた同じようなことになるのかと覚悟しました。さらにまた,宿泊先を探すのにも苦労しました。なにせ,土地勘がありません。しかし,何とか予約したホテルは結構デラックスなものでしたし,便利な場所にありました。
ホテルの場所はブリスベンのダウンタウンから少し北東に行ったところでした。ただし,チャイナタウンの近くで少し風紀の悪そうな場所でもありました。とはいえ,治安が悪いという感じはありませんでした。到着したとき,隣接されているという駐車場が見当たりませんでした。フロントで聞いてみると,隣のビルだということでしたが,シャッターが閉まっていました。このホテルのシステムは,まずチェックインを済ませてルームキーカードを受け取って,受けとったルームキーカードをかざすとシャッターが開くというものでした。これではわかりません。
ということで,先に駐車場に入れず,チェックインをするまで一時車を停める場所を確保するのに苦労しました。この辺のいい加減さが極めてオーストラリア的な大まかさなのです。
さて,到着してみてはじめてわかったのは,ブリスベンのダウンタウンはどこも徒歩圏内で行くことができて,心配した駐車場もまた,車をホテルに停めたまま,ホテルからは歩いて観光ができるということでした。おかげで,都心に駐車場を探すという心配がなくなりました。
夜にホテルに着いたので,その晩はダウンタウンで食事をしました。そして翌日,ダウンタウンの観光をしました。ブリスベンという都会は思った以上にすばらしいところでした。とにかく町がきれいでした。食べるところにもまったく困りませんでした。
街の中心部はクイーンストリートとアンストリートという道に沿ったあたりで遊歩道となっていて,夜遅くまでにぎわっていました。私にはこうしたブランド品の並んだ店にはまったく興味がありませんので,ブリスベン川の橋を渡って対岸までいくことにしました。対岸には博物館や美術館,そして,観覧車などがあります。以前,EXPOを開催した場所なのだそうです。このあたりのことはまた次回書くことにしましょう。
橋のたもとにカジノがあったので,中に入ってみました。私は今から20年ほど前,アメリカのラスベガスに行ったとき,カジノ -といってもスロットマシンですが- を少しだけやったことがありまず。ビギナーズラックでおもしろいほど儲かりました。私はこうしたギャンブルにはまったく興味も魅力も感じませんが,せっかくなので,中に入ってその様子を眺めてみることにしました。カジノというと聞こえはいいですが,結局パチンコ屋です。朝から結構多くの人が遊んでいるのに驚きました。見ていても何がおもしろいのだろうと私は思ったのですが,カジノの風景自体は映画を見ているようでそれなりに興味深い場所でした。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE⑤-Gコースト
ブリスベンから南に海岸に沿って1時間ほど走るとゴールドコーストに至ります。名前だけは知っていたのですが,私はこれまで行ったことがありませんでした。ここは有名な海岸で,サーファーにとっては聖地なのだそうです。しかし,私のイメージは人も車も多い観光地。それであまり行きたいと思わないところでした。聞くところによれば,日本からゴールドコーストへ来た観光客が現地で行くのはテーマパークや土ボタル鑑賞だそうですが,私はそのいずれも興味がありませんでした。
私がオーストラリアに出かける目的は星を見るということなので,せっかく晴れているのに星の見えない都会にいるのがもったいないのです。そこで,これまでは,ブリスベンから一路,星の見える暗い内陸に行ってしまうし,帰りもまた,ブリスベンから帰国してしまうということばかりでした。
今回,ブリスベンに2泊することになりました。最終日は帰国するだけだったので,その前々日と前日にゴールドコーストとブリスベンの市内観光をすることになりました。私が星見をしたバランディーンからは約2時間30分でブリスベンに戻ることができるのですが,その途中に少し遠回りすればゴールドコーストなので寄ってみることにしました。
今回はじめて知ったのが,バランディーンからゴールドコーストに行く途中のシニックリム(Scenic Rim)というエリアでした。ここは美しい高原で,滝や湖がありました。オーストラリアには知らないすてきなところがいっぱいあるものだと改めて知りました。やがて,ゴールドコーストに近づくにつれて,これもまた美しい小さな町がたくさんありました。そしてついに,ゴールドコーストに到着しました。
予想と反して,ハワイのワイキキビーチとは違って海岸線にそって町があるのではなく,海岸から1本内陸にはいったところに都会が広がっていました。私は都会には興味がないので,まず,海岸に行ってみました。
季節が晩秋だったかからか,海で遊んでいるような人はほとんどいませんでした。若い女性が2人水着姿で日光浴をしていただけでした。私は無知なのでわかりませんが,夏になれば,多くのサーファーがここに来るのでしょうか? ともかく,私の行った時期はほとんど人のいない,そして,ごみひとつない砂浜が続いていました。混雑して古びたハワイの海岸なんてメじゃないと思いました。
その後,海岸の駐車場に車を停めて町に歩いていきました。そこには高級住宅がずっと続いていました。ここで私はこんなところなら住んでみたいものだとはじめて思いました。
時期がよかったからか,思ったほど混雑してもおらず,予想に反して,ゴールドコーストは落ち着けるところでした。オーストラリアの上空はオゾンホールがあって,紫外線が強いので,日焼けに注意です。そこで,この海で泳ぐなどというのは自殺行為だと思うのですが,そのこと以外は,これほど魅力的な海岸はほかにはないなあと思いました。
ゴールドコーストから1時間,ブリスベンまでの道路は車が多く,反対車線は大渋滞でした。
「重力波で見える宇宙のはじまり」-宇宙を支配する重力
「重力波で見える宇宙のはじまり」(ブルーバックス)を読みました。サブタイトルは-「時空のゆがみ」から宇宙進化を探る-です。著者のピエール・ビネトリュイ(PierreBinétruy)という人はフランス人で,1955年に生まれ,1980年に博士号を取得した宇宙論と宇宙の基本的な相互作用の専門家であるパリ大学ディドロ校の教授でした。AstroParticle and Cosmology(=APC)の設立に携わりましたが,惜しくも2017年に死亡しました。
本の内容は,
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宇宙の進化を司っているのは「重力」だった! 重力-もっとも弱く謎に包まれていた力がこの宇宙に大きな影響を与えている。アインシュタインが重力波を予言してから100年。重力波天文学によって我々の宇宙観はどう変わるのか?
インフレーション,ブラックホール,量子真空,ダークエネルギー,量子重力理論…。
宇宙を理解する上で欠かせない問題をやさしく解説しながら宇宙誕生と進化の謎に迫る。
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というものです。
私は,前回のブラックホールに関したブルーバックスに続いてこの本を手に取ったわけですが,本の題名と内容の違いにまず納得がいきませんでした。このことは,アマゾンコムのこの本に関するレビューにも書かれています。
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本書のタイトルは「重力波で見える宇宙のはじまり」となっているが,まだ重力波では宇宙のはじまりは見えていないので,あまり適切なタイトルとはいえない。本書の内容は,アインシュタインの一般相対性理論,すなわちリーマン幾何学に基づいて定式化された重力場の理論の帰結を実際の天体観測と比較すること,そしてアインシュタイン方程式が宇宙全体にも適用できるとすると,どのような食い違いが見つかっているかを解説したものである。
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実際,この本は翻訳本なのに,どこにも元の本の題名が書かれていません。調べてみると,どうやら「Gravity! : The Quest for Gravitational Waves」いうものらしく,原書での題名こそが本の内容にふさわしいもです。
日本では,本も映画も売らんがためにこういう小手先の細工を施します。つまり,重力波が話題になっているときだから「重力波」とつければ売れるだろうと…。
インターネット上に次のような感想がありました。
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翻訳はどうしてもピンとこない部分が残る。 翻訳の日本語力ではなく文化の断絶があるからだと漠然と思っている。野球ファンが同じ球技だからとサッカーを野球の脳みそで理解しようとした時に感じる茫漠とした不安感というか。サッカーは野球の都合など顧みない。 重力波や新しい宇宙観についてイメージしにくかった。いや、正直できなかった。これは理解力の不足の致すところと思っている。
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これは翻訳書を読みなれていない人に起きる感想です。
私は,書物というものの書き方自体に,日本と西洋では根本的な違いがあると思っています。端的に言うと,日本の本は専門書以外は軽く内容が薄いのです。これはおそらく教育の違いからくるのでしょう。特に現在は,学生が読んでいるのは問題集とかいうドリルばかり。たとえば高等学校で習う数学でも,公式や解き方の暗記さえすれば事足りるとばかりに,本質を全く教えません。そういう社会だから,何事もハウツーものばかりで,それが,こうした啓蒙書にも現れます。そこで,きちんと書かれた本についていけないのです。
この本は重力波に関する本ではなく,宇宙を支配する重力全般に関する解説書です。数式を取り上げないでそれを解説するという試みですが,実は,こうした自然科学の本は,数式を知っている人がこういう本を読むとすばらしくよくわかるのです。そして,ものすごく苦労して数式で表わされる表現を数式を使わないで表そうとする努力がわかるのです。だから,たとえば,自由の女神を見たことのない人にそれを文字で表現しようとする限界がいつも起きるのです。
以前にも書きましたが,自然科学というのは数式を使わないで解説することよりも,数式を使ったほうがずっとわかりやすく,しかし,専門的な数式は難しいので,せめて高等学校卒業程度の簡単な数式に置き換えてそれを解説することのほうがむしろ理解しやすいのです。しかし,日本の高等学校で行われている,数学という名を借りた単なる大学入試問題の解法演習をしているような授業内容では,それ自体が無理なのです。おそらくこれがこの国の衰退の根本的な原因なのでしょう。今度の大学入試改革でさらにそれがひどくなるのではないかと私は危惧します。
それはさておき,この本の内容は本当にすばらしく,私はこの本を横に置いて,もう一度一般相対性理論の専門書を読みなおしてみたいものだと思ったことでした。
しかし,話がそれますが,この本について調べていくうちに私が最もショックだったのは,この本の著者がわずか61歳で亡くなっていたということでした。
自分が生を受けた宇宙のことがいかにわかろうと,所詮人間なんて,そうした宇宙というシステムの中のあぶくのようなものではないかと。そして,この広大な宇宙の中でいかに人類がわかったような気になっていても,宇宙のシステムの中で人類が知った気になっていることなんて,おそらく,広大な宇宙の中で地球程度の大きさにしか過ぎないのではないかと。
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「巨大ブラックホールの謎」-わかりやすくすばらしい本
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今日のブログの最後に載せた写真は,この本の内容に関係があるのですが,その理由は? 本をお読みください。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE④-Qメアリー滝
ブリスベンから南西に160キロメートルほど走ると,ウォリック(Warwick)という町があります。オーストラリアは,シドニーとかメルボルンのような大都会以外は多くの日本人にはなじみがなく,どんな場所なのか想像もつきません。私も3年前にはじめてオーストラリアの郊外を走ったときは興味津々でした。
ウォリックはオーストラリアのクイーンズランド州にあって,人口は約15,000人ほどの中都市です。もっとずっと小さな町の多いオーストラリアでは比較的大きな町で,教会のまわりに商業施設が並び,ファーストフート店や大きな病院,そして公園などがあります。昨年大きなモールができたので,昔からあった商業施設は日本の中都市同様にずいぶんと痛手をうけているように感じます。私はこの町を訪れると,日本の大垣市を思い出します。
そのウォリックを走っていると,クイーンメアリーフォールズ(Queen Mary Falls)という道路標示が見つかります。まったくこのあたりのことを知らなかった3年前,近くに滝でもあるのかとその道路標示に従って行ってみたところ,一向に何もなく,仕方なく戻った経験あります。2度目にウォリックに行ったとき,町の中心にある観光案内所で聞いてみたところ,わかりやすい地図をもらいました。そしてはじめてクイーンメアリーフォールズに行くことができました。
ウォリックからさらに40キロメートルほど東に行くとキラーニー(Killarney)という小さな町に到着します。この町からはじまるのがマクファーソン山脈(McPherson Range)ですが,その山並みに沿って道路が整備されていて,そこを走っていった先にクイーンメアリーフォールズがあるのでした。
今回も,天気がよかったことと前回はゆっくりできなかったことで,クイーンメアリーフォールズに行ってみることにしました。
ウォリックからキラーニーまでは,オーストラリアとは思えない,むしろニュージーランドのような美しい景観がずっと続きます。私は,オーストラリアというとエアーズロックにみられるような茶色の大地を思い浮かべるのですが,ここはまったく違います。また,キラーニーはメインロードのまわりに数件のレストランや小さな宿泊施設があるだけの町ですが,こういうところに行くとなぜか旅愁が高まり泊ってみたいものだといつも思います。昨年6月に行ったアメリカ・カリフォルニア州のイニョカーン(Inyokern)という町もそうでしたが,こうしたところを魅力的に思う私がいます。
キラーニーから山並みに沿って走っていくと,まず,ブラウンズフォールズ(Browns Falls)という看板あります。そこには小さな公園があって,川に沿ってずいぶん歩くと滝に着くということです。小径は自然の道で結構歩くのが大変です。途中まで行ってみたのですが,その先まだまだたいへんそうだったので滝まで行かず途中で引き返してしまったので,どういう滝なのか今もってわかりません。
次にあったのがダックスフォールズ(Daggs Falls)ですが,この滝は道のわきにある展望台から見ることができます。
そして,いよいよクイーンメアリーフォールズです。ここは駐車場に面してレストランもあって,なかなかいい感じの場所です。滝は駐車場から遊歩道を歩いて15分くらいです。昨年は滝に沿って大変な思いで遊歩道を一周して滝の下まで行ったのですが,今回は滝を見下ろす展望台だけにしました。そのかわり,レストランで昼食をとりました。
この滝を巡るドライブウェイはその先もずっと続いていて,今回はじめてさらに行ってみたのですが,それはそれはすごいところでした。オーストラリアのド田舎という感じでした。牧場には鉄条網がないものだから,道路に牛は出てくるし,ずっと延々と牧場が続いていました。
日本人の知らないオーストラリアの姿を見たような気がしました。それにしても,こんなところに行く日本人もめったにいますまい。そしてまた,私の好きなオーストラリアの雄大な風景がそこにはあります。
きっと夜にでもなれば人工の明かりもなく満天の星空が広がっていることでしょう。
N響のブルックナー交響曲第3番-3稿で1稿を思い出す。
NHK交響楽団第1916回定期公演のメインプログラムはブルックナーの交響曲第3番でした。
私はブルックナーが大好きですが,第3番はほとんど聴く機会がありません。そこで,この演奏会を楽しみにしていました。この演奏会の指揮者はまたまたパーヴォ・ヤルヴィさん。私はここ半年で何度パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮する演奏会に足を運んだことでしょうか。パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮はいつも安心して聴くことができます。それにしても,本当にレパートリーの豊富な指揮者です。
一般に,ブルックナーというのは歳をとった指揮者が演奏すると重みが増してそれが最大の魅力となります。反対に,若い指揮者が演奏しても,それがたとえ聴きごたえのあるものであっても,どういうわけかなにかひとつ青臭さが残るものです。しかし,若いパーヴォ・ヤルヴィさんにはそうした青臭さがありません。
この日の交響曲第3番は第3稿ということでした。コンサートの内容は別に譲るとして,私はこの曲で思い出したことがあるので,今日はそれを書きます。
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先に書いたように,この曲はほとんど聴いたことがないのですが,私が聴いたなかで覚えているのは2006年2月に行われたNHK交響楽団第1561回定期公演です。指揮者はヘルベルト・ブロムシュテットさんでした。このときの演奏はすばらしいものでしたが,惜しむらくは曲の最後に拍手のフライングがあったことです。
第3番に限らず,ブルックナーの交響曲は曲の終了後の静寂こそがすべてなので,聴くときはいつも最後にそうならないようにと祈ります。その点でもパーヴォ・ヤルヴィさんの指揮さばきは客席をも同期させて,振り上げた腕を下ろさないのが明白にわかるので,よほどの鈍感な客でなければフライングの拍手は起きません。この日もまた,すばらしい静寂で曲が終わりました。
さて,話を戻しまして…。
今回第3番を聴いたのを機に,録音してあった第1561回を聴きなおしてみました。そして,あのときの第3番が第1稿だったことに驚きました。
ブルックナーの交響曲は,何度も書き直されていて多くの稿があります。そこで,演奏に当たって,どの稿を使うのかということが問題となるのです。第3番の場合は第1稿から第3稿まで3つの稿があります。
ブルックナーは交響曲第3番を1872年に着手し1873年に完成させました。これが第1稿です。しかし,計画された初演はリハーサルでオーケストラが「演奏不可能」と判断し見送られました。1876年ブルックナーはこの曲の大幅改訂を試み,1877年に完成しました。これが第2稿です。第2稿はブルックナー自身がウィーン・フィルを指揮して初演されました。しかし,演奏会終了時にほとんど客が残っていなかったという逸話を残すほどの失敗でした。1888年再度この曲は大幅改訂され,1889年に第3稿が完成し,1890年にハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルによって初演され,成功を収めました。
この日聴いた第3稿と第1稿は別の交響曲かと思うほどの違いがあります。第1稿は第3稿に比べて25%も小節が多く,また,洗練されていません。粗削りです。聴いたことのないような旋律が一杯出てきます。しかし,その味わいはまた格別です。ブルックナーの交響曲はスケルツォが格別おもしろいのですが,第1稿と第3稿のスケルツォを聴き比べるだけでもその違いがよくわかります。
私にはその出来を比較したり批評するような能力は持ち合わせていませんが,こうして違った味わいの稿を聴き比べるのもまた,楽しいものです。いずれにしても,今回,生の演奏会でブルックナーを聴くことができたのは本当に幸せなことでした。そしてまた,この機会に第1稿を思い出すことができたのもまた,別の意味で幸せなことでした。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE③-ブリスベン郊外
ブリスベンは観光地としては無名に近く,オーストラリアといえば,多くの人が出かけるのはシドニーやメルボルン,グレートバリアリーフ,ゴールドコースト,そして,エアーズロックというところでしょうか。私も,生まれてはじめてニュージーランドに出かけたときにトランジットではじめてブリスベンという町を知りました。その後,私の定宿となったバランディーンのゲストハウスがブリスベンから車で2時間30分程度の場所にあったことから,ブリスベンの空港を使うことが増えました。しかし,ブリスベンという町自体は通り過ぎるだけで,ダウンタウンを観光することもありませんでした。
今回はじめてブリスベンのダウタウンを観光しました。このことはまた後日書きます。今日はブリスベン郊外にあるマウントクーサ展望台(Mt.Coot-tha Lookout)とローンパイン・コアラサンクチュアリ(Lone Pine Koala Sanctuary)についてです。
この2か所は昨年も行きました。ブリスベンからバランディーンに行く途中に寄ったものですが,今回もまた,到着した日にバランディーンへの途中に寄りました。成田からブリスベンまでの直行便は到着が早朝で,そのまま走って行ってもローンパイン・コアラサンクチュアリの開館時間である午前9時よりもずいぶんと早く到着してしまいます。そこでまず寄るのがマウントクーサ展望台です。
このブリスベン郊外の高台にある展望台からはブリスベンの町が一望出来て,本当に気持ちのよい場所です。展望台は前回来たときはまだカフェも閉まっていたのですが,今回は土曜日ということもあって,早朝からずいぶんと多くの人がいました。ここは夜景も美しいところなので,次回は夜来てみようと思いました。
ふもとにはブリスベンボタニックガーデンや科学館があります。展望台からの帰り道,植物園に寄ってみました。とても静かなところでした。時間をかけてゆっくり歩いてみたいものだともいました。ここにはユーカリの木がたくさんあって,コアラもいるという表示がありましたが,残念ながら見ることはできませんでした。
ボタニックガーデンには日本庭園があるということです。また,科学館にはプラネタリウムがありますが,今回もまた行くことができませんでした。
この展望台からもう少し郊外に行くとあるのがローンパイン・コアラサンクチュアリです。ここは1927年に開園した世界最大・最古のコアラ園です。この動物園は意外と狭いのですが,日本ではめずらしい動物,タスマニアンデビル,カモノハシなどがたくさんいます。特にコアラは130頭を越して,一杯います。ここはコアラを抱くこともできます。オーストラリアではコアラを抱くことのできる州とできない州がありますが,クイーンズランド州では抱くことができます。
また,園の奥にはカンガルーやエミューが放し飼いになっていて,おなかに子供がいるカンガルーも見たし,カンガルーに触ることもできました。
また,レインボーロリキートという色鮮やかな鳥の餌付けも見られました。
何度行っても楽しい場所です。
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE②-食事について
今日は食事について書くことにしましょう。
食事の前にコーヒーの話題からはじめます。オーストラリアでもニュージーランド同様,フラットホワイトというコーヒーがあります。フラットホワイト(Flat white)というのはオーストラリアやニュージーランドで人気なエスプレッソベースのコーヒーです。エスプレッソにきめ細やかに泡立てたスチームミルクを注ぎ,エスプレッソと牛乳がよく混ざり合った飲みやすいコーヒーです。カフェ・ラッテやカプチーノと比べるとフォームの量が少なくエスプレッソ版のカフェ・オ・レとも言えます。ちなみに,オーストリアではメランジェ(Melange=「混ぜたもの」の意)が人気です。これはミルクを加えたコーヒー飲料を指す言葉で,オーストリアで日常的に飲まれているものは,エスプレッソにミルクを加えてその上からミルクの泡を乗せたものです。
あまりこだわりのない私は,このふたつの区別がよくわかりませんが,日本でコーヒーにミルクをたっぷり入れる私としてはこれで十分満足なので,いつもオーストラリアやニュージーランドではフラットホワイトを,ウィーンではメランジェを注文します。
朝食はコーヒーショップのような場所にモーニングメニューがあるので,そこで気軽に食べることができます。シンプルなものは写真にあるようなトーストです。
オーストラリアで食事をすることはとても簡単です。
少し豪華なレストランだと先に席に案内されて,そこに店員さんが注文を取りに来てくれます。この場合,支払いは食事のあとでレジに行って支払います。もう少しカジュアルな場所だと,先にレジでメニューを見て注文して支払いを済ませて,番号板をもらって空いた席に座っていると持ってきてくれます。
いずれにしても,チップがいらないので,アメリカよりもずっと気楽です。なお,無料の水は店のなかのどこかにおいてあるのでそこに行って自分で注いでくるか,あるいは水を入れたビンをテーブルに持ってきてくれる場合もあります。
当然値段はまちまちですが,およそ1,500円程度あれば十分に事足ります。
2か月前にエアーズロックに出かけたときはステーキばかり食べていましたが,今回はおおよそハンバーガーばかりにしました。ハンバーガーというと日本人はマクドナルドを思い浮かべるので,おやつ替わりのようなイメージになってしまいます。もちろんオーストラリアにもマクドナルドはあって,というか,書いていて思い当たったのですが,マクドナルドとサブウェイ以外のファーストフード店をオーストラリアではあまり思い浮かびません。
私が食べたのはマクドナルドでなくて,一般のレストランのハンバーガーで,写真のようなものです。実際,ハンバーガーというと,パンとお肉と野菜を安価にたっぷり食べることができる優秀な夕食となります。
ブリスベンのダウンタウンでは,日本食も食べられます。今回は,試しにお寿司屋さんに行ってみました。
「いらしゃいませ」という声に迎えられましたが,店員の女性は中国人でした。日本のクルクル寿司とおなじようなもので,テーブルが2列で回転していたのが日本とはちがうところでした。お茶は有料でした。回っていないときはタッチパネルで注文をします。メニューにはカレーライスもありました。
一般に海外では中華料理は安くボリュームがあります。それに比べて,日本料理は高いです。しかし,日本人がやっている場合よりも中国人や韓国人がやっていることのほうが多く,これをもって日本料理だと思ってもらっては困る,というくらいのモノのほうが多いのが実態です。
いずれにしても,オーストラリアでは食事はほとんど英語ができなくても何とかなるし,アメリカのように,チップ欲しさに途中で店員が「食事はどう?」などとしらじらしくきいてくることもないしチップもいらないので,とても気楽です。
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やっと晴れた!オーストラリア2019②-イータカリーナ
☆☆☆☆☆☆
南半球の星空で何度見ても美しいのは,南十字星からりゅうこつ座η星「イータカリーナ」(EtaCarinae = ηCar)あたりにかけての銀河です。オーストラリアの郊外は日本と違って空が暗く水蒸気が少ないので,肉眼でもはっきりその鮮やかな姿を味わうことができます。特にこの時期は銀河が天頂付近にあるので,その姿がさらに輝きます。
南十字星から目を右手に移動していくとりゅうこつ座η星のまわりにイータカリーナ星雲(EtaCarinae Nebula)が浮かび上がっているのが肉眼でもわかりますが,今回は180ミリ望遠レンズでこのイータカリーナ星雲の大きな姿を写真に収めることができました。
南半球に出かけるときに苦労するのは機材です。私は身軽に旅をしたいので,大きなものを別便で送ったりするようなことはしませんが,それでも大きくアップした姿を捉えたいものです。そんなわけで簡易赤道儀に搭載できるぎりぎりの大きさならと180ミリの望遠レンズを選んで持っていったのですが,思った以上の写真を写すことができました。
そこで今日は,りゅうこつ座η星とイータカリーナ星雲について写真とともに紹介します。
イータカリーナ星雲はりゅうこつ座にある散光星雲です。イータカリーナ星雲の中心部に銀河系でもっとも明るいといわれる恒星であるりゅうこつ座η星が輝いています。この星は150年前に大爆発を起こし大量のガスやチリを放出しはじめましたが,超新星爆発のような星そのものの崩壊はまぬがれたために,今も恒星としての輝きを保ち続けていて,その周りに拡散する星雲(イータカリーナ星雲)を写しだしているのです。
りゅうこつ座η星は大質量星同士の連星で,ともに高光度青色変光星(luminous blue variable = LBV)です。高光度青色変光星というのは青く非常に明るく輝いている恒星のことで,これだけのエネルギーを放射するためには核融合反応が活発である必要があり,大きな質量を持っています。りゅうこつ座η星では,太陽質量の約90倍の主星と太陽質量の約30倍の伴星が,離心率の高い楕円軌道を約5.5年の周期で公転しています。共に激しい恒星風を噴き出して恒星風同士が衝突し,その衝撃波面でX線が発生します。
りゅうこつ座η星は,これまでに数度異常な増光が記録されています。1677年「ハレー彗星」で有名なエドモンド・ハレー(Edmond Halley)はこの星を4等星と記録していますが,1730年頃に増光が観察され1782年には元に戻りました。さらに,19世紀前半には0等星前後という異常な光度の増加を少なくとも4回起こし,マイナス0.8等星にまで達しました。その後は減光し,1900年から1940年ごろには8等星ほどと暗くなってしまいました。再びやや明るくなって,2000年代初頭の現在は6等星ほどの明るさを保っています。りゅうこつ座η星は過剰な質量を失う段階と解釈されていて,擬似的超新星(Supernova impostor)ともよばれています。
りゅうこつ座η星のように質量が太陽質量の数十倍以上の恒星は明るさが太陽の10万倍以上になりますが,このような規模の恒星は全天でも極めて稀です。こうした大質量の星は恒星を膨張させる輻射圧がそれを抑える重力と同じくらい強く,いわゆる「エディントン限界」を超えるために,輻射や吹き飛ぶガスを重力で保持できなくなって,最後には超新星爆発を起こしたのちブラックホールとして終焉を迎えます。
りゅうこつ座η星のまわりのイータカリーナ星雲は、いくつかの散開星団に囲まれた大きく明るい星雲で,地球からは6,500光年から1万光年離れていると推定されています。散光星雲としては最も大きいもののひとつで,オリオン座の大星雲M42よりも4倍も大きく明るいものです。イータカリーナ星雲は1751年から1752年に喜望峰でニコラ・ルイ・ド・ラカーユ(Abbé Nicolas-Louis de Lacaille)によって発見されました。
やっと晴れた!オーストラリア2019➀-準惑星「セレス」
☆☆☆☆☆☆
2019年になって以来,月明かりのない夜に(星が見られるほど)晴れたことがほとんどないということと,11等星よりも明るい彗星が見られないということで,国内では星見の機会もないのですが,2月にはハワイ島で,3月にはオーストラリアのエアーズロックとクーナバラブランで満天の星空を見ることができました。しかし,星を写すことが目的でなかったので,6月に今度は南天の星空を写す目的で,赤道儀と交換レンズを数本持って再びオーストラリアのバランディーンに出かけました。
しかし,私が到着する前日まではずっと晴れていたのに,到着以来不運にも天気が悪化して,はじめの2日は晴れるどころか,めったに降らないという雨まで降りだす始末でした。それでも滞在最終日の3日目,2時間だけ快晴になったので,どうにか数枚の写真を写すことができました。
天文学の進展は早く,子供の頃に知った知識が役に立ちません。しかし,子供の頃に覚えたことはいつまでも忘れないもので,それを新しい知識に「バージョンアップ」する作業をしないと,知識が混乱してします。そこで今日は,オーストラリアで写した写真のなかから準惑星「セレス」(Ceres)の写真を取り上げて,この機会に,小惑星についての私の知識を「バージョンアップ」することにしました。
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太陽系の天体(太陽の周りを公転する天体)は惑星(planet),小惑星(minor planet),彗星(comet),惑星間塵(interplanetary dust cloud)に分けられます。また,小惑星(minor planet)は準惑星(dwaft planet)と「それ以外のもの」からなります。「それ以外のもの」というのは古典的な小惑星(classical asteroid)です。
日本語では,minor planet と classical asteroid をともに「小惑星」というので混乱が生じています。
また,準惑星(dwaft planet),古典的な小惑星(classical asteroid),彗星(comet),惑星間塵(interplanetary dust cloud)を合わせて太陽系小天体(small Solar System body = SSSB)といいます。
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以前より行われていた彗星や小惑星の捜索で発見されたものは,現在でも従来のままの符号がつけれられ分類がされ続けていますが,この場合の「小惑星の発見」というのは古典的な小惑星(classical asteroid)ではなく,小惑星(minor planet)のほうです。よって,冥王星にも小惑星番号134340があります。
私は以前,小惑星と彗星をどう区別するのかなとずいぶんと考えたことがありました。実際は,小惑星(minor planet)と彗星(comet)は,星像に拡散成分があるかどうかで区別するそうです。拡散成分があるものが彗星(comet)です。しかし,拡散成分が見られるかどうかというその区別があいまいな天体もあるので,彗星が小惑星として登録される例もあります。
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古典的な小惑星(classical asteroid)には,火星と木星の間に軌道をもつものと,海王星軌道の外側に軌道をもつものがあります。このうち前者の領域をメインベルト(main belt)といい,後者の領域をエッジワース・カイパーベルト(Edgewaorth-Kuiper belt)といいます。このうちで,メインベルトに軌道をもつ小惑星(classical asteroid)が従来のウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)が名づけたところの小惑星(asteroid)です。
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●小惑星(asteroid)の発見
1781年に天王星が発見されて,惑星が,ある数列からなる距離の場所にあるというティティウス・ボーデの法則(Titius-Bode law)に当てはまったことから,火星と木星の間にもその数列を満たす位置に未知の惑星があるのでないかということで,それを探索する試みが行われました。そして相次いで発見されたのが1801年に発見されたセレス(ケレスともいう)(Ceres ),1802年に発見されたパラス(Pallas),1804年に発見されたジュノー(Juno),1807年に発見されたベスタ(Vesta)でした。しかし,いずれの天体も惑星とよぶには小さかったことから惑星とは区別されて,1853年に小惑星(asteroid) という語が考え出されたのです。
ベスタの発見以降は1845年にアストラエア(Astraea)が見つかるまで小惑星の発見は途絶えることになりました。この4つの小惑星がとりわけ明るかったのです。そこで,この4つの天体はかつて4大小惑星とよばれました。はじめに発見されたこの四つの小惑星は大きい順にセレス,パラス,ぺスタ,ジュノーですが,その後現在までにぺスタよりは小さくジュノーよりは大きい小惑星として,ヒギエア(Hygiea),インテラムニア(Interamnia),エウロパ(Europa),ダビダ(Davida),シルヴィア(Sylvia),キュベレー(Cybele),エウノミア(Eunomia)が発見されています。いずれも表面の反射率が低く暗いものです。
4大小惑星のなかでもっとも明るくなるのがぺスタで,最も明るいときは小惑星の中で唯一肉眼で見ることができます。セレス,パラス,ジュノーは明るくなっても6等星の後半から7等星ほどなので肉眼で見ることはできません。
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セレスはイタリアのパレルモ天文台(Palermo Astronomical Observatory)の台長だったジュゼッペ・ピアッツィ(Giuseppe Piazzi)によって発見されました。現在最も地球に接近していて明るく,さそり座とへびつかい座の境界付近で7等星で簡単に写すことができます(=今日の写真)。メインべルトにある小惑星(asteroid)で最も大きいセレスは,直径が945キロメートルあります。
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●準惑星(dwarf planet)に格上げされたセレス
セレスは,ほかの小惑星とは違って氷と岩石で構成され,内部は岩石が多い核と氷のマントルに分化されているとされていて,氷の層の下には液体の水から成る海が残っているかもしれないといわれます。また,表面は水の氷と炭酸塩や粘土とのような水和鉱物の混合物だろうとされています。つまり,ほかの小惑星と違ってセレスは惑星になる道を歩んでいたのです。しかし,45憶年前,成長の過程で大事件が起きました。それは木星が太陽の方向に向かって大移動をしたときにその重力によって,セレスが惑星になるための99パーセントの物質(ガスや岩石)が失われれてしまったのです。
火星はかろうじて惑星として留まり,セレスはついに惑星に成長できませんでした。
やがて,太陽に向かって大移動をしていた木星は同じように太陽に向かって大移動をしていた土星と共鳴運動を起こして太陽から遠ざかりはじめ,現在の位置につきました。
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1990年代以降,海王星軌道より外側にも次々と天体が発見されました。そこで,この領域にすでに発見されていた冥王星も含めて,それらの天体を太陽系外縁天体(trans-Neptunian object = TNO)ということになりました。
海王星軌道の外側,つまり,太陽系外縁天体(TNO)には,エッジワース・カイパーベルトという領域にある天体(Edgewaorth-Kuiper Belt object = EKBO)とその外側の散乱円盤天体(scattered disk object = SDO)(従来はEKBOとSDOを合わせてEKBOとされていた)があり,さらにその外側にオールトの雲(Oort cloud)があるといわれています。日本ではエッジワース・カイパーベルトという領域にある天体(EKBO)のみを太陽系外縁天体とよんでいたころもあり,ここでもまた用語の混乱を生じています。また,エッジワース・カイパーベルト領域で発見される天体も散乱円盤天体も彗星以外のものは小惑星(minor planet)とよばれます。
従来,冥王星は惑星と分類されていました。しかし,エッジワース・カイパーベルトという領域で発見された天体(Edgewaorth-Kuiper Belt object = EKBO)の中に冥王星より大きなものが見つかったことから惑星の再定義がされて,準惑星(dwaft planet)という新たな分類ができました。準惑星はエッジワース・カイパーベルトにあるものだけでなくメインベルトにある同様の天体にも適用されます。そこで,従来の小惑星とよばれていたものから準惑星を外したものが古典的な小惑星(classical planet)となったわけです。こうして,セレスがメインベルトにある小惑星(asteroid)の中で自身の重力で形状が丸くなっている唯一の天体として,小惑星から準惑星(dwaft planet)に新たに分類されました。
つまり,現在,セレスは小惑星(minor planet)であり準惑星(dwaft planet)ですが,古典的な小惑星(classical planet)ではありません。蛇足ながら,冥王星もまた準惑星(dwarf planet)とされたので小惑星(minor planet)の仲間入りをして,惑星(planet)から外されました。
地球から見たセレスは6.7等級から9.3等級の範囲で,15か月から16か月ごとに光度が変わります。今,セレスは最も明るい時期を迎えていることになります。
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「ニッポン国道トラック旅」⑦-懐かしい北海道・宗谷岬
ひさしぶりのNHKBSプレミアム「ニッポン国道トラック旅」は北海道でした。少し前に台湾を走ったようですが,私は台湾に興味がないのでパスしました。今回は津軽海峡を越えました。札幌から出発して国道21号線で旭川を経由して40号線で稚内までを3日間で縦断するのだそうです。
私は,今でこそアメリア本土やアラスカ,そして,オーストラリアやニュージーランドと,北海道なんてメじゃないくらいの大自然を毎年ドライブするのに慣れてしまったのですが,今から40年ほど前には,当時は雄大だと思っていた北海道にあこがれて,何度も足を運びました。結局,北海道のほとんどの国道を走りました。その中で,はじめてレンタカーを借りて走ったのが,今回とほぼ同じコースだったのです。その時は,千歳空港でレンタカーを借りてこの番組のコースで稚内を通り宗谷岬まで北上しました。さらに,この番組では行かなかった利尻島と礼文島にも車をフェリーに載せて渡りました。そんなわけで,この番組で走った場所を楽しく懐かしく見ることができました。
そのころ,つまり40年ほど前,今から考えると大した距離でもないのに,その当時は,出発してまもなく不安になって,宗谷岬まで一体何日かかるのだろうかと気が遠くなったことを覚えています。実際は札幌から稚内まではわずか380キロで,5時間ほどなのです。その距離は名古屋から東京までと同じくらいです。しかし,車が多く渋滞する国道1号線とは違って,北海道といってもとりわけ今回のコースはのどかで車も少なく,したがって走りやすいコースです。ニュージーランドを走るようなものでしょう。
この番組もまた,結局はほかの旅番組同様に,出会いとグルメが旅の魅力となるのですが,トラックのドライバーとゲストが絡むことで,ほかの旅番組とは違うという特徴がうまく出せれば,魅力が出ます。そもそも,これだけ旅番組があると,その特徴を生かさなければどこかで見たものと同じで,ほぼマンネリ化してしまいます。その点,今回走った場所は地方色がよくて出ていて,しかも観光地でないことがよかったようです。欲を言えば,都会とは違う雄大な北海道の風景も味わうことができれば,よりよかったように思います。ともあれ,見ていて心休まるいい番組でした。
私があの頃の旅で今思い出すのは,初夏の稚内で町のお祭りをやっていたことと,地元の銭湯に入ったこと,そして,わざわざ車で渡った礼文島で車目的でモテモテだったことです。旅の思い出なんて,名所旧跡は訪れればあとはすっかり忘れ去ってしまって,このようなたわいもないことばかりなのです。だから,こうした番組でも,そのようなたわいもないムードが出せれば,それが一番満足のいく番組となるのです。もう,観光地を紹介するうような番組は御免です。
この地方を見て私がもっとも驚いたのは,私が走った40年も昔と今とほとんど何も変わっていないように見うけられたことです。実際に行けばずいぶんと変わっているのでしょうが,昔の面影が一杯残っていたことです。日本という国は豊富な美しい自然が一杯あったのにやたらと自然を破壊しては道路ばかりを作り,都会ではビルを壊しては建てを繰り返しています。しかし,この場所はいい意味でそれとは無縁の世界に思えました。
忘れていた大切なものを思い出したように感じました。そして,いつかまた,この地に行ってみたいものだと懐かしく思ったことでした。
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「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
「ニッポン国道トラック旅」②-グルメこそ楽しみ
「高速道路トラック旅」②-日本にあるのは廃墟だけ?
幻の「ニッポン国道トラック旅」-自然に戻すことこそが…
「ニッポン国道トラック旅」③-懐かしき九州の道
「ニッポン国道トラック旅」④-おいしかった積丹のお寿司
「ニッポン国道トラック旅」⑤-結局日本はどこでも食物
「ニッポン国道トラック旅」⑥-8号線は縁がなくもなかった
特別編・2019夏オーストラリア旅行LIVE①-帰国してから
エアーズロックに登頂して早くも2か月経ちましたが,再び,オーストラリアに行きました。もともと今回のほうが先で,エアーズロックに行くことになったのが後の計画でした。
この季節,オーストラリアは晩秋ですが,最高気温は20度ほどでちょうど過ごしやすい季節です。また,天気もよいので星を見るにも最適,ということで,ここ3年間,この時期の新月のころ星見を目的に出かけています。今回は,いつものバランディーンにあるゲストハウスに3泊,その後ブリスベンに2泊して,ゴールドコーストとブリスベンの観光をすることにしました。これまではブリスベンに降り立ってそのまま郊外に行ってしまったので,ブリスベンという都会に足を踏み入れたことがなかったのです。
5泊7日くらいの日程で片道9時間ほどのフライトであれば,深夜バスに乗って東京へ数日でかけるのとそれほどの違いもありません。このブログでは「LIVE」として書いていますが,すでに帰国しているので,今回は日にちを逆追いで書いていきたいと思います。
いつも書いているように,名古屋近郊に住む私には,セントレア・中部国際空港から直行便のあるヘルシンキとホノルルはとても便利ですが,デトロイトしか直行便のないアメリカ本土と香港経由でしか直行便のないオーストラリアは不便です。それでもセントレアから成田,あるいは羽田までの国内線がもっと便利であれば問題がないのですが,いつも苦労させられます。特に帰り,帰国便が成田に着くのが遅いので,セントレアまでの便がありません。
香港経由は香港での乗り換えがわずらわしいので,今回もまた往復成田空港からブリスベンまでの直行便を利用しました。行きはセントレアから成田空港までJAL便に乗りましたが帰りは便がないので,今回は成田で1泊をして翌日東京から高速バスで帰ることにしました。成田の東横インの宿泊代が約5,000円と少し,東京から名古屋までの高速バスが3,000円と少しなので,成田から直接新幹線で帰るより安いのです。
帰国して成田に宿泊した翌日,私は午前中に両国国技館の相撲博物館で開催されている稀勢の里展と上野の国立西洋美術館常設展にあるフェルメール「聖女プラクセディス」を見て,午後のバスに乗ることにしました。前回東京に行ったときは夏場所の開催中だったので,チケットを持っていなかった私は相撲博物館に入ることができませんでした。そして,上野も何度も足を運んでいるにも関わらず,特別展をやっていたりしてなかなか常設展を見る機会がありませんでした。
稀勢の里展での最大の見ものは5組すべてがそろっていた三つ揃いの化粧まわしでした。受付にいた女性がこれをすべて集めるにどれだけ苦労したことか,と言っていましたが,私はその苦労がわかるので,共感しました。ついでに,夏場所で優勝力士に渡された通称「トランプ杯」も見ることができました。
フェルメール「聖女プラクセディス」は,フェルメールの真筆かどうか議論のある作品ですが,私は,それでもたった1作しか日本にないフェルメールということと,作品になにかオーラを感じて,とても感動しました。
そんなわけで,オーストラリア旅行よりも? 有意義な時間を過ごし,雨の降る東京を後にしました。
それにしても不気味だったのは,JRに乗っても,バスを待っていても,この国の人は無口で無表情であることです。混んだ電車の車内で人をかき分けて通るときに「済みません」の一言も発しないのは,何か恐ろしい世界に舞いもどった気がしたものです。
すばらしきグレイシャー⑩-アメリカ旅行記 '16夏
●絶品メニーグレイシャー●
メニーグレイシャー(Many Glacier)はグレイシャー国立公園で最も遠く静かで最も美しいところだった。氷河を抱いた鋭い岩峰に囲まれた谷筋にいくつもの氷河湖が重なって幻想的な雰囲気であった。
スイフトカレントレイク(Swiftcurrent Lake)の周りを一周するトレイルは絶品で,私はこのトレイルをゆっくりと散歩した。湖のほとりには,Many Glacier Hotel と Swiftcurrent Moter Inn というふたつのホテルがこの景色に調和していて,おとぎの世界のようなところであった。日本でこういうものを作るとおそらくは意味のない公園や展望台を作って,めちゃくちゃにしてしまうであろう。白樺リゾート池の平を思い出す。アメリカの国立公園というのは,こうしたことに厳しい規制があるので,全くストレスなく,安心して訪れることができるのだ。
トレイルを歩いていて見える先の尖った山は標高2,911メートルの Mt.Gould であり,氷河はグリネル氷河(Grinnell Glacier)とよばれるものである。
トレイルでは,家族連れで楽しむ人がいたり,絵を描いている人がいたりと,思い思いこのすばらしい景色を楽しんでいた。私は行かなかったが,グリネル氷河へは往復4時間のハイキングもできるし,メリーグレイシャーではクルーズもある。このクルーズはスイフトカレントレイクの対岸に到着して船を降り,300メートル歩いて再びボートに乗り込んで今度はジョセフィンレイク(Josephine Lake)を横断するというものだ。
この風景の美しさはこれ以上は言葉で語りつくせないので,あとはゆっくり写真で味わってください。
すばらしきグレイシャー⑨-アメリカ旅行記 '16夏
●減少するグレーシャー●
前日とは反対に,この日はグレイシャー国立公の南端を走る国道2を東方向に,イーストグレイシャーを目指して走っていった。
グレイシャー国立公園は「氷河の彫刻美術館」といわれるが,この風景は今から200万年前にはじまり,約1万年前に終結したものがもととなっている。
太平洋プレートと北アメリカ大陸プレートの衝突で地層が隆起し,ロッキー山脈が形成された。その後氷河期がはじまり,川によって浸食された谷は氷河に変わった。こうしてできた巨大氷河の最も厚い場所は900から1,200メートルあった。
約1万年前には温暖化によって巨大だった氷河は消え,現在のグレイシャー国立公園の姿になった。現在園内に残る約50の小氷河は,今から5,000年前頃にできたものである。
地球の温暖化でここ100年氷河の規模は縮小していて,そう遠くない将来,グレイシャー国立公園の氷河は消えてしまうといわれている。
のどかな国道2を走っていくと,イーストグレイシャーの町に到着した。イーストグレイシャーの町にある鉄道駅はグレイシャー国立公園に鉄道で到着する観光客の到着点となっている。
鉄道駅の建物はグレイシャー国立公園を訪れる観光客のための施設としてダニエル・レイハルによって設計された。1920年のゴーイング・トゥ・ザ・サンロードの完成まで,グレイシャー国立公園は東側と西側は分離されていたので,国立公園の東側に鉄道駅が作られたのである。
現在,鉄道駅は4月から10月まで運行しているアムトラックのエンパイア・ビルダー・ラインの駅となっている。
また,イーストグレイシャーの町にはグレイシャーパークホテルがある。この歴史あるホテルは1913年に建設された。ホテルは駅から近く徒歩で行くこともできるが,それでも10分ほどかかるのでホテルの送迎サービスがある。
私が駅を通りかかったとき,ちょうどアムトラックが到着する時間だったらしく,大勢の観光客が列車を待っていた。
イーストグレイシャーで国道2と州道49が分岐する。私は昨日の反対に州道49を北上して行くことになった。
やがてグレイシャー国立公園の東側の入口を過ぎた。この先が昨日行ったトゥメディソンの湖であるが,今日は通過して,セントメリーも過ぎ,さらに北のメニーグレイシャーへ向かった。
ロッジを出たときは快晴であったが,国道2を走るうちに霧がでてきた。しかし,天気は東から回復することは織り込み済み。そのうちに天気予報どおりすばらしい青空が空を覆うようになってきた。
すばらしきグレイシャー⑧-アメリカ旅行記 '16夏
●モンタナののどかな町●
☆3日目 2016年6月26日(日)
この辺りは北緯47度である。日本でいえば,北海道の最北端よりも北になる。6月の終わりに旅をすることもこれまではほとんどなかったので,私は来るまでそんな認識がなかったが,季節は夏至であり,しかも緯度が高いから,夜は午後9時を過ぎても日が沈まない。
いつになったら夜になるのだろう,夜が来ないじゃないかと思って,そうか! ここはずいぶんと緯度が高いのだ,とはじめて気づいた。シアトルもまたここと同じくらいの緯度だから,おそらくこの時期にMLBのナイトゲームを見にいくと,ナイトゲームといってもゲームが終わるまで明るいに違いない。
明るいうちに寝てしまい,翌朝起きたときはすでに空が明るかったから,本当に夜があったのだろうかとさえ思った。
こんな経験をすると,一度でいいから北極圏で白夜とやらいうものも体験したくなる。
旅も3日目になった。
今日は昨日とは反対のコースをたどって,見どころで十分に時間をとって観光してみようと思っていた。
朝から快晴であった。スキー場のロッジだけに朝食サービスはあった。
日本のホテルによくあるバイキング形式の朝食は宿泊客が少なく空いていれば別だけれど,人が多いとせわしくてまるで餌をつついているようで,私は好きになれない。しかしそれは私が人混みがきらいなだけなのだろうか? それに加えて,私はご飯に味噌汁という朝食の習慣がないから,日本でそういう朝食を食べている人が多いのにずいぶんと違和感を覚える。
ロッジを出て,まず山を下りた。昨日はよくわからなかったが,眼下にずいぶんとすばらしい景色が広がっていた。それはホワイトフィッシュ湖とホワイトフィッシュの町並みであった。
山を下りたところがホワイトフィッシュの町であった。ホワイトフィッシュは人口6,000人ほどの町で,私が泊まっているロッジのあるホワイトフィッシュマウンテンリゾートというスキー場で潤っている。この町の名はホワイトフィッシュ湖の近くに位置していたことから名づけられたものである。
1904年,グレート・ノーザン鉄道がホワイトフィッシュにひかれたことで町の発展が起きた。この地域は元来,町や鉄道を建設するために伐採する必要のある木材が豊富にあった。町の住民はそれまでは鉄道と伐採産業のために働いていたが,1940年代後半にスキーリゾートの建設が成功したことで観光産業が重要になった。現在はグレート・ノーザン鉄道はアムトラックが走り,スキーリゾートに向かう観光客でにぎわっている。
ホワイトフィッシュ湖は5.2平方マイル(13平方キロメートル)の自然湖で,全長5.8 マイル(9.3キロメートル),幅1.4 マイル(2.3キロメートル) km),最も深いところは233フィート (71メートル)ある。また,ホワイトフィッシュ川がホワイトフィッシュの町を二分している。
国道2を東に走っていくと,次にあった小さな町がコロンビア・フォールズ(Columbia Falls)であった。コロンビア・フォールズはグレイシャー国立公園の玄関口で,公園の西の入り口からわずか15分のところにある。この小さな町にはレストランや醸造所,また,夏にはファーマーズマーケットがあり,さらに,ゴルフコースがある。
そして,その先のさらにちいさな町がハングリーホース(Hungry Horse)であった。この町の「空腹の馬」という名前は,1900年代の初期,シーズン最初の大きな雪の直前にパックストリングから緩んで破った放蕩馬からその名前がついたという。馬たちは厳しい冬の期間を生きぬき,春になって雪の中奥深くに,空腹の状態で発見された。それ以来,コロンビア山の陰にあるフラットヘッド川の中央フォークと南フォークによって囲まれたこの小さな町は「空腹の馬」として知られるようになった。
現在,ハングリーホースは350万エーカーフィートの水をたたえた貯水池のある場所として知られている。ダムにはビジターセンターもあり,雪をかぶった山頂の美しい景色や厚く森の斜面野生動物が生息する荒野は訪れる人々を楽しませている。
すばらしきグレイシャー⑦-アメリカ旅行記 '16夏
●夏場のスキー場のロッジに泊まる。●
私がこの旅で宿泊したのはホワイトフィッシュ(Whitefish)という町の北にあるハイバーネーションハウス(Hibernation House)というロッジであった。
旅行で苦労するのは,第一に航空券,第二に宿泊するホテルである。いろんな知恵やコツが必要で,何度やっても後悔することが多い。それでも航空券は一応うまく選択するパターンがわかってきたが,ホテルは最終的には行ってみないとわからないので今も苦労する。
以前は到着後にホテルを探した。そのほうが失敗が少なかったような気がするが,当日泊るホテルを現地で探すのはリスクもある。今でも直接ホテルに行って交渉すればいいのだが,到着が遅くなって探すのが大変なこともあるから事前に予約をしておいたほうが無難なので,私はネットのサイトで予約をしておくのだが,こうしたサイトの口コミというのはずいぶんといい加減な場合も多く,到着してから後悔することが少なくない。
また,観光地の場合は特に宿泊代がかなり高価になるので,私は少しくらい遠くても安価なところを探すことにしている。この旅では,そうして探したのがこのロッジであった。
実際に行ってみると,私が予約したロッジはホワイトフィッシュの町からずいぶんと北に行った山の上であった。しかも,冬場はスキー場となる場所であった。
私は,家から2時間少しで行くことのできる木曽福島の「ヒルトップ」というペンションを近ごろよく利用しているが,そこに行くたびに,この旅で宿泊したハイバーネーションハウスのことを思い出す。山に登って行ったところにあることも,スキー場であることも,建物の雰囲気も似ているからだ。ただし,当然アメリカのほうが大きいけれど…。
これだけ旅をするといろんなところに宿泊したが,ふと思い出すなつかしい景色もあれば,すっかり忘れてしまったところも多い。ふと思い出す懐かしい景色というのはたわいもない場所のことのほうが多いのが不思議なことである。
国道2は今日の写真にあるようにのどかな高原道路であった。こういうところが私の好きなモンタナ州なのである。
アメリカの西側はカナダとうの国境にそって,西からワシントン州,アイダホ州,モンタナ州と続くが,アイダホ州は本当に何もなく,風光明媚な場所はみなモンタナ州なのである。
やがてホワイトフィッシュの町に入る。ホワイトフィッシュは結構大きな町であった。町の中心にあったモールの一角にマクドナルドがあったので,そこで夕食をとることにした。
日本と違ってアメリカのマクドナルドのサラダは大きくて鶏肉が入っているから,野菜が必要なときに夕食として安価に食べることができるから便利なのである。
食事を終えて,ロッジに向かった。
私は到着するまでうかつにも知らなかったのだが,ここは大きなスキー場であった。おそらく冬はずいぶんと混雑するのであろう。このロッジに季節外れの夏場の空いている時期に安価に泊ったということなのだった。
ホテルというよりもロッジだから部屋はさほど広くはなかったし,口コミにもそう書いてあるものが多いのだが,それはアメリカのホテルと比べてのことであろう。日本のホテルと比較すればどこだって広々としている。私はここにこれから2泊することになる。
すばらしきグレイシャー⑥-アメリカ旅行記 ’16夏
●幻想的なトゥーメディスン●
こうして,私はグレイシャー国立公園に到着早々ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードを走って,ローガンパスを経由して国立公園を横断した。これだけで,この国立公園の見どころのほとんどは見てしまったと考えてもよいようであった。
どの旅もそうであるが,ガイドブックを飽きるほど眺めるよりも,ともかくこうしてまずは行動して概要をつかんでしまったあとで改めて行きたい場所の計画を立てるほうが,ずっと効率的なのである。
私は,この後はセントメリーから国立公園の東端の国道89を南下して国道2まで行き,国道2で国立公園の南端をなめるように半時計周りで国立公園の西側まで戻って,宿泊先であるホワイトフィッシュに行くことにした。そして,明日改めて今日行けなかった場所を訪れることにした。
国道89は国立公園の東端を南に向かって行き,南東の端にあるキオワ(Kiowa)という町で西ではなく逆の東に向きを変えて一旦公園から遠ざかり,ブローニング(Browning)という町まで行って国立公園の南端を走る国道2に乗り換えて,再び西に向きを変えるのが通常のコースだが,夏の間はキオワで州道49というショートカットをすることができた。その途中にあるのがイーストグレイシャー(East Glacier)である。
キオワからイーストグレイシャーに至る途中にトゥーメディスン(Two Medicine)という湖がある。トゥーメディスンというのは湖だけでなく,グレイシャー国立公園の南東部に位置する地域の総称である。ここにはLower two Medicine Lake,Two Medicine Lake,Upper Two Medicine Lake の3つの長い湖が連なっている。湖へのアクセス道路はふたつ目の湖で行きどまりとなっているが,その先はトレイルがあって,3つ目の湖まで歩いていくことができるということだった。
湖畔は静寂に包まれていて,とても落ち着ける場所であった。ここにはキャンプ場もあった。
1890年代後半から1932年にゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードが完成するまでの期間,トゥーメディスンはグレイシャー公園の中で最も観光客が訪づれるところだったという。ここには多くのトレイルの出発点がある。また,この場所はブラックフィート(Blackfeet)という種族などいくつかのネイティブアメリカンには神聖な土地とみなされていた。
現在,トゥーメディスンにはビジターセンターがあるが,このビジターセンターはグレーシャー国立公園の歴史的な建物であった。ビジターセンターは,もともとはグレートノーザン鉄道の子会社であるグレイシャーパークホテル会社によって,1914年に建てられたものである。当時は食堂や宿泊施設を提供する素朴なログスタイルの建物群だったが,宿泊施設としての機能は第二次世界大戦のはじまりのころに終了して,現在ビジターセンターになっている建物以外は1956年に焼かれたという。
駐車場に車を停めて建物の中に入った。中は土産物屋となっていたが,暖炉に火がくべられていて,外の寒さをしのぐことができホッと一息つくことができた。
知らなかった旅の方法④-世界の物価を比べてみると
「Movehub」というサイトがあります。海外移住を考える人々に情報を提供しているものだそうです。このサイトには,世界の物価を高い国順に並べた有益な情報が載っています。
こういうサイトがあるとそれをネタにしたブログもあります。私の読んだブログのひとつには「Movehub」に載っていた物価の高い国順のリストに加えて,何がしかの感想が書かれていたのですが,行ったこともないのによくこんなことが書けるもんだなと私は思いました。こうしたブログはほかにも結構あって,それらの多くは「ね」で文章を終わって読む側の同意を求めるのが常套手段です。たとえば,「一度は行ってみたいものですね」とか「がんばってほしいものですね」という類です。そんな同意を求めてもらっても困るというのがそうしたブログを読んだときに私が思うことです。それらは私の最も嫌いなブログの書き方です。そうですよね!(みたいな感じです!)。
で,行ったこともないのにこんなことが書けるのなら,今日はそれをネタにして,私は自分の「経験から」書いてみたいと思います。ただし,簡単に物価といっても,実際は高い国から順に並べることすらかなり困難なことなのです。それは,ある国ではレストランは高価でも衣料品は安いとか,税金は高くても福祉が充実しているとか,それぞれ違いがあって,一概に高いとか安いとか決められないからです。
見方を変えると,そうしたさまざまなモノの値段の違いこそがその国の在り方を示しているということです。たとえば,フィンランドでは大学を卒業するまで教育費は無料ですが,反対に,日本では「教育」という名の金儲けが幅を利かせていてかなりの負担となっているので,教育という面では日本は異常にお金のかかる国ですが,その一方で,食費は日本のほうがずっと安いのです。
リーマンショックのころ,アメリカドルは1ドルが80円になったことがあります。現在は約110円くらいです。また,オーストラリアドルは,現在は安くて1ドルが78円程度ですが,これもまたリーマンショックのころはもっと安くて45円でしたし,その少し前には高くて100円でした。こうなると,旅行でオーストラリアに出かけると,1泊が100ドルであっても,レートによって4,500円だったり10,000円だったりするわけで,安いのか高いのかは通貨のレートによって変わってしまいます。むしろこの差のほうが大きいのです。そこで,何をもって比べるかということが明確になっていないと物価が高いとか低いということは言えなくなってしまいます。
先に書いたリーマンショックのころの話です。1ドルが80円というのが「まともな」レートであると,ある評論家がアメリカと日本のマクドナルドのハンバーガーを例に説明していたのを覚えていますが,マクドナルドのハンバーガーはアメリカでも地域によって値段が違うのです。
というわけで比べ方がなかなかむずかしいので,私は,旅行で必要な食費とかホテル代とか交通費に絞って,その感想を書いてみることにします。
まず「Movehub」による物価の高い国第1位はスイスだそうです。スイスには行ったことがないので私には何とも言えませんが,ある番組でハンバーガーが2,500円くらいすると言っていましたから確かに高いのでしょう。
第2位が北欧のノルウェーだそうですが,高福祉制度社会なので,旅行には高くとも住んでいる人にはまた別の感覚になることでしょう。それは,スウェーデンやフィンランドも同様です。
そして,第3位はベネズエラとのことですが,これは1位や2位の国とはまったく違う要因で,国の通貨の価値が安いことによるものです。
第4位がアイスランドとのことですが,これは行ってみて実感しました。確かにこの国の,特に食事代の高さは尋常なものではありません。衣服などもかなり高価です。もう少し物価さえ安ければまた行ってもいいのですが…。
第5位がデンマークだそうですが,私は行ったことがないのでわかりません。
意外だったのは,第6位がオーストラリアで第7位がニュージーランドということでした。私はこのふたつの国には何度も行きましたが,物価が高いなどと感じたことは一度もありません。むしろアメリカよりもずっと安いと思います。オーストラリアやニュージーランドは,先に書いたように為替レートの変動幅が大きいのでそれ次第です。今はかなり安いです。
そして,第8位がシンガポールで,第9位がクウェートですが,第10位のイギリスは旅行をしてきた人が口々に物価が高いと言います。
このランキングに日本とアメリカがないのが意外だと書かれている無知なブログがありますが,それはよほど世界を知らない人の話です。日本の物価はめちゃめちゃ安いです。確かに3,000円もするような食事やら600円もするコーヒーがありますが,この国のすごいのは,その逆に,250円のお弁当や380円の牛丼,100円のコーヒーというように,安価な食べ物に事欠かないことと,1泊6,000円で宿泊できるきれいなホテルがあることで,こうしたものを利用すれば,世界一物価の安い国になります。
そんな日本からみれば,今や海外はどこに出かけても物価は高いので,海外旅行は大変です。逆に,ものすごい数の外国人が来るのは,日本がすばらしい国だからではなく,物価が安いことと,世界からすっかり遅れてしまった奇妙な国が不思議だから興味があるのです。
今から10年も前,アメリカはかなり物価の安い国でした。おそらく今もそれは変わらないのでしょうが,日本の物価がそれ以上に安い,というよりも,ドル円のレートが現実離れして円が安いから,このごろは日本人がアメリカに行くとかなり物価が高く感じられるようになってしまったのです。
すばらしきグレイシャー⑤-アメリカ旅行記 '16夏
●グレイシャーを横断する●
ローガンパスを出て,私は再びゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロード(Going-to- the-Sun Road)を東に向かって走っていった。
ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードの最高地点であるローガンパスの標高は6,646フィート(2,026 メートル) で,峠まで片側1車線の道路はカーブが多く,特に,ヘアピンカーブがローガンパスの西側に頻繁にあり,さらにトンネルもあるので,高さが10フィート(3メートル)を超える車両は走ることができない。
また,いたるところで,滝でもないのに氷河から溶け出した水が道路に降ってきて,まさに滝の下を走るようになる。特に Weeping Wall という岩壁から水がしみ出て流れ落ちる場所は有名なのだが,ここでは,多くの車がむしろこれを避けることなく,これ幸いにその下を選んでゆっくり走って,というか停止しちゃったりして,洗車を楽しんでいる車があるのがおもしろかった。
ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードの建設は1921年にはじまり,1932年に完成した。道路の全長は約50マイル(80キロメートル)で,国立公園の東の入口から西の入口までつながっている。
この道路は北アメリカでは除雪をするのに最も難しい道路のひとつだといわれてている。それは最大80フィート(24メートル)の雪がローガンパスの頂上にあって,最も深い雪原が峠のすぐ東に位置しているからである。そのため,1時間に4,000トンの雪を動かすことができる装置を使用しても除雪をするのに約10週間もかかるという。
周りの山々はそれほど標高は高くないのだが,裾野が広く麓からの標高差が大きいのが特徴で,次々と美しい山々が飛び込んでくるので,走っていてとても気持ちがよかった。
グレイシャーというように,ここは氷河が美しく,また,氷河からとけた水が湖を潤しているので,思っていたよりもずっとすばらしいところであった。
ここに似ているのが,ずっと昔に行ったことがあるカナディアンロッキーと,この旅の後で行くことになるニュージーランドのクィーンズタウンからミルフォードサウンドへ至る道路であったが,それらのうちでも,この道路がもっとも険しく,かつ,もっとも美しかった。
峠を越えると道路は直線にぐんぐん下って行って,それまでの登り坂の険しさとはすっかり趣がかわって,高原ムード一杯になってきた。
やがて,右手に見えるセント・メアリー・レイクの雄大な風景を眺めなが走っていくと,セントメアリーロッジに到着した。
ローガンパスまでは天気も悪かったが,ここに到着するころにはすっかり晴れ上がっていた。
今日の写真にもあるように,ここにもまた,レッドバスとよばれるボンネットバスが停まっていた。
グレイシャー国立公園は私のように海外から訪れる人にはアクセスが難しいところであるが,アメリカに住んでいる人には,意外と容易にアクセスできて,しかも,多くの国立公園の中でも大自然を堪能することができるところだと来てみてわかった。
すばらしきグレイシャー④-アメリカ旅行記 '16夏
●旅はやはりおもしろい。●
ローガンパスに到着した。
ローガンパスにはビジターセンターがあって,人と車でごった返していた。ここは標高が2,025メートルというから,日本では東北地方の蔵王や九州地方の久住ほどの高さである。ローガンパスは大陸分水嶺となっている。
この日はものすごく寒い日だったので,周りはすっかり雪景色であった。アメリカのこうした国立公園は,日本とは違ってたとえ標高は高くとも立派な自動車道があって,しかも,日本のようにすれ違いすらできないような狭い道路ではないから,簡単にアクセスできるので気を許してしまうのだが,自然は厳しい。しかし,ものすごい車と観光客で,そうしたことも忘れがちになってしまう。
私は駐車場に車を停めて,とりあえずビジターセンターに向かった。ビジターセンターの中はぽかぽかであった。
今日の写真にあるように,ここにはアメリカとカナダの国旗がひるがえっているが,これは,この国立公園が人工的な国境とは別に,アメリカのグレイシャー国立公園とカナダのウォータートンレイクス国立公園がつながってひとつのものであることを示している。
また,駐車場に赤と緑に塗られたバスがたくさん停まっているが,それらはグレイシャー国立公園を走るアンティーク・レッドバスである。公園内を走るこのアンティーク・レッドバスは公園のシンボルで「ジャマー・バス」とよばれ17人乗りでオープンカーになっていて,景色を楽しむにはうってつけなツアーバスなのである。公園内は車両規制があって大型バスでの観光ができないために,個人でレンタカーを借りずに観光をする人たちやグループで観光をしている人たちはこのバスを利用して国立公園をくまなく訪れることができるのである。
ガイドブックによると,ローガンパスの周辺には高山植物の群集が見られ,背後に迫る山は右側が標高2,670メートルのマウント・クレメンツ(Mount Clements),左側が標高2,781メートルのマウント・レイノルド(Mount Reynolds)ということだ。
ビジターセンターの裏側からトレイルがあって,このトレイルを歩くとヒドゥンレイク・オーバールック=ヒドゥン湖展望台(Hidden Lake Overlook)へ行くことができるということであったが,このときは天気も悪く,行くことができなかった。
しかし,私はこの翌日,幸運にもこの日とはうって変わって快晴になったローガンパスに再びやってきて,雪深いヒドゥンレイク・オーバールックをとんでもない目に遭いながらも歩くことになろうは,このときは思いもしなかったことだった。
ローガンパスを過ぎたらそれまでの悪天候が嘘のように晴れ上がり,ゴーイング・トゥ・ザ・サン・ロードを走る車窓からすばらしい景色を見ることができるようになった。
知らなかった国③-なぜか行ってみた「アイスランド」
私はアイスランドに思い入れがあったわけでもなく,行きたかったわけでもなく,行ってきたあとでもまだ,どうしてアイスランドに行ったのかさえよくわからない,という状況なのですが,昨年の夏,ふとアイスランドに行ってきました。それからまだ1年も経っていないのに,ものすごく昔のような気がします。
アイスランドという国は北海道と四国を合わせたくらいの国土で,しかも内陸のほとんどは人も住めない不毛の地,そしてわずか人口は33万人。なのにそんな少ない人口で国として成り立っているというのが,今もって私には不思議なことです。
私がアイスランドといって思い出すのは通貨危機です。
リーマンショック以前,アイスランドの通貨であるアイスランドクローナは10%以上と,非常にというか異常に金利が高かったので,それに目をつけてFXで絶好の投資対象だと注目されたことが一瞬だけありました。私も魅力的に感じました。そして,そのわずかのちにリーマンショックが起きてあえなく経済が破たんし,マクドナルドがこの国から撤退しました。当時,アイスランドの人たちは,逆に金利が低い日本円を借りて家を買ったりしていたそうで,そこで悲劇が起きたらしいです。
そんなたいへんな状況だったのに,なんとか回復して,現在,この国はけっこうなお金持ちだそうです。しかし,鉱物資源もほどんどなく,植物が育つような土地もないような国が観光資源だけでやっていけるとも思えないし,で,私には本当によくわからない国です。実際行ってきたのに,それでも腑に落ちません。
実際行ってみて,景色は世界一だということはわかりました。あの雄大さは他の追随を許しません。非常に魅力的です。なにしろ,人が少ないのがいいです。
行くこと自体は意外と簡単です。日本の各都市から直行便のあるヘルシンキから乗り換えるだけなので,ニュージーランドに行くのとさほど違いはありません,というよりもニュージーランドに行くよりはるかに便利です。しかし,私が行ってみて驚いたのは,とにかく,アイスランドの異常なまでの物価高でした。ハンバーガー2,000円,コーヒー800円,……,とくれば,滞在費が果てなくかかります。そしてまた,宿泊施設の少なさと,人々の愛想の悪さから,正直いって再びこの国に行きたいとは,帰国したころは思いませんでした。おそらく私のこの印象は,宿泊したゲストハウスがたまたまひどかったことに大きな要因があるのでしょうけれど。
ところが,そうした記憶も薄れてきた今となると,あの雄大な自然をもういちど見てみたいと懐かしくなってきたのもまた不思議な話です。物価が高いことをはじめっから織り込み済みで行けば,失望感を抱くこともないでしょうし。ただし,空が暗くオーロラが見られるというのは幻想です。アイスランドの天気は予想以上に悪いです。晴れればかなりラッキーです。帰国してからときどき放送されるアイスランドのの番組や雑誌の写真を見ても,雲ひとつない夜空にオーロラ,という写真は見たことがありません。
それにしても,あれだけ日本のこととなれば,北方領土や竹島,尖閣諸島が日本の地図にないと非常に敏感な反応を示すのに,世界史などの教科書や地図帳におけるアイスランドの扱いは,アイスランド人が見たら失礼極まりない状況です。この国はヨーロッパの部分図からもカットされているし,世界史の教科書にはこの国の歴史などまったく取り上げられていないのです。
そこで,ほとんどの日本人はこの国のことをほとんど知りません。
それにしても,ときどき地図を眺めてみたとき,未だに私は,本当にアイスランドに行ってきたのかなあ,どうしていく気になったのかなあと自分のことながら今でも不思議に思うです。
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知らなかった国①-隣国に翻弄されてきたフィンランド
知らなかった国②-住んでみたいニュージーランド