しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2019

 私が涼しいフィンランドに行っている間に,日本ではさまざまな旅番組が放送されましたので,今日は趣を変えてその話題です。
 私「でも」 Amazon の prime video を見るようになってからは,わざわざ番組表で見たい番組がいつ放送されるかを調べて録画設定をしたり番組を見ることが煩わしくなってきたのだから,若い人たちは,もはや,テレビの番組など見なくなっているのかもしれません。今日では,テレビも新聞も,それ以外の楽しみがなかった時代に生きた老人だけの娯楽のようです。そこで,テレビも新聞もそうした老人向けの旅番組やら若返り商品の宣伝やら,そんなものばかりです。
 しかし,旅番組ももはやネタ切れという感じがしないでもなくなってきました。そうなると,何を狙いとした番組かということが明確でないと,見ているほうは戸惑うだけです。まあ,時間つぶしとして見ている分には,楽しければそれでいいのですが…。しかし,私には知っていることが何度も出てきても飽き飽きしてしまいますし,教養のない出演者がつまらない質問をしていると白けてしまいますし,期待した内容でなければがっかりしてしまいます。
 とはいえ,音楽好きといってもそのジャンルによって好みが分かれるように,旅好きといっても何を求めて旅をするかによってまったく求める情報が違うので,番組作りもたへんです。それに,狭い日本,魅力的な場所や話題がそうあるものでありません。

 今回のNHKBSプレミアム「ニッポン国道トラック旅」は中山道でした。この番組は,はじめは高速道路を走り,その次に国道1号線から順に日本列島を走っていたのですが,日本の国道の番号づけは順番に走ればいいというものではないので,前回の北海道に続いて今回は中山道ということに方針変更となったのでしょうが,そんなことなら,第1回の国道1号線は東海道とでもすればよかったものを,おそらくはじめのうちはこんなふうにシリーズ化するとは思っていなかったのでしょう。
 しかし,そもそもたった1時間30分で中山道を網羅すること自体に無理があるので,こうした番組を製作しなければならない担当者の苦労というものがわかります。旧街道の名所を紹介する番組にするのなら,すでに中山道を歩くという番組がありました。その土地の人と触れ合うなら,家族に乾杯という番組があります。ゲストとのトークも魅力ですが,それもまた,同じような番組がほかにもあります。そうなると,この番組の大型トラックを使うメリットは道路を走っているときの目線が高い,という以外に何もありません。
 どの旅番組も同様ですが,ゲストの力量次第で番組がまったく変わってしまいますが,それならトーク番組と同じです。となると,最終的にはぐっさんの個性,ということになるのでしょうが,それならぐっさんの出ているよく似た番組と違いがありません。そんなわけで,私には番組としてはおもしろかったのですが,この番組の狙いがよくわからなくなってしまって,この先番組を続けるのならどうするのだろう,と思ってしまいました。

 ところで,今年も徳島の阿波おどりが録画で放送されました。
 私は,以前ブログに書いたように,阿波おどりを見たくて,ずいぶんと情報を集めて,実際に出かけたことがあります。阿波おどりは,踊る楽しみとは別に見る楽しみがあって,有料の桟敷席があります。私も行ったときには桟敷席で見ました。有名連,と言われる連の人たちのものはすばらしいものでしたが,それ以外の連は,やるほうの自己満足以外のものではなく,見ていてもおもしろいものではないなあ,というのが私の印象でした。それに加えて,暑すぎるので,私はリピートする気をなくしました。
 阿波おどりを中継する番組もまたいつも同じ内容で,マンネリ化していて今年は見る気も起きませんでしたが,それでも,何となく見ていたら,今年は違いました。
 阿波踊りは昨年のごたごたで「総踊り」というものがなくなったのが,今年は復活しました。番組はこの「総おどり」が中心に取り上げられていて,これが圧巻でした。特に,昨年のごたごたで苦労した人たち,特に天水連の連長である山田実さんの,「総踊り」が終わったあとの満足した笑顔がとてもすばらしいものでした。この「総踊り」を放送で取り上げたことで番組に芯ができました。
 おそらく,こうした,人がすべての情熱をささげたものを直に見ることができたとしたら,そのことこそが正真正銘の旅のだいご味というものなのでしょう。また,今年もまた有名連「娯茶平」の連長である岡秀昭さんのお元気な姿を見ることができて,ホッとしました。

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◇◇◇

やっとヘルシンキ・ミュージックセンターが見えてきて,私がどこを歩いているのかわかってきました。それとともにだんだんと土地勘ができてきました。ミュージックセンターは日本人の豊田泰久さんが設計したものだそうです。入口が開いていたので中を通って先に進みました。
さらに行くとフィンランディアホールが見えてきました。この建物はアルヴァ・アアルトという人が設計したものだそうで,左右非対称のデザインが特徴の建物です。
そこで道路を渡ると国立博物館がありました。なぜかこの日,このあたりは警官だらけでした。いくら国立博物館の隣りが国会議事堂といっても何か様子がおかしいのです。そもそもフィンランドというのは治安のよい国と聞いています。何があったのでしょう?

国立博物館に入りました。建物はサーリネン,リンドグレン,ゲセッリウスという3人の人の共同設計だそうです。ここは石器時代から現代までのフィンランドの資料が展示してあります。一番豪華だったのは19世紀にフィンランドを統治していたロシア皇帝アレクサンドル1世の玉座でした。フィンランドに来るとロシアの影響をずいぶんと感じます。
展示や規模は,昨年行ったアイスランドの首都レイキャビックにあった国立博物館に似ていました。
国立博物館を出て国会議事堂の前を歩いていると多くの人がまるでパレードを待っているように歩道に立っていました。その中のひとりに何があるのか聞いてみると,なんとロシアのプーチン大統領が空港から大統領官邸に向かって通るという話でした。そこで少し待っていたら,大統領の車列が通って行くのを見ることができました。車列を見ただけで車に乗っている姿を見ることはできませんでしたが,フィンランド到着早々,すごいものに遭遇したものです。フィンランドがロシアと陸続きで以前植民地となった国だということをさらに実感しました。旅行をする限りはその国の歴史と文化を知らなければ訪れる国に失礼だと,あらためて自戒したことでした。

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ホテルに到着したのが午後3時だったので,とりあえず,市内観光に出かけることにしました。
ヘルシンキ市内は徒歩で回れます。旧市街はウィーンと同じくらいの規模です。ホテルを出て中央駅に向かって歩いていたらなんとホームに着いてしまいました。改札がないのです。この駅はエリエル・サーリネンという人が設計して1919年に完成したものです。
ホームを歩いて駅舎に入って(なんか逆ですねえ),とりあえずは駅周辺からスタートです。

まず,駅の東側にある国立劇場の外観です。この建物はオンニ・タルヤネンという人が設計して1902年に完成したフィンランドアール・ヌーヴォーを象徴する建物だそうです。中に入れないので外から見るだけにして先を急ぎます。
この後は駅の西側に回って,国立近代美術館,そして,国立博物館を目指すことにしました。しかし,到着早々で距離感がわかりません。地図を見ながら歩いていても,いまいちどこなのかわかりません。ここが博物館の建物かなと思ったところは図書館でした。とはいえ,この時点では図書館ということもわかりませんでした。どこにいるかわからなくなってしまったので,駅の西横にある中央郵便局まで戻ろうとしたのですが,郵便局の建物も,同じビルに入っている郵便局の隣のスーパーマーケットの看板がやたらと大きくて,そこが郵便局だということすらなかなかわかりません。フィンランド語に苦戦しています。
そうこうするうちに,なんとかヘルシンキ・ミュージックセンターを見つけることができました。

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今回乗ったフィンランド航空も6月に乗ったデルタ航空同様,エアバスA350-900でした。私はこれまでに乗った飛行機を記録しておけばよかったなあと今にして思うのですが,巨大な旅客機で近ごろになって日本の航空会社が導入したというけれど実はすでに製造中止になったエアバスA380をはじめとして,おおよそのものには乗りました。そうした経験に基づくなんとなくの感想ですが,ボーイング社の飛行機よりエアバス社の飛行機のほうが乗り心地がいいとずっと思ってきました。
同じ機種でも機内の座席の配置は航空会社次第で,フィンランド航空はデルタ航空と違ってプライムエコノミーというランクがなくて,ファーストクラスの次がエコノミーコンフォートです。このエコノミーコンフォートは少しお金を出すだけで座席が広く快適になるのですが,団体ツアーさんはそういう座席があることも知らないし,個人客でも,わずかな増額にためらう人が多く,いつも空いています。そんなわけで,今回もすし酢め状態のエコノミーに比べて,エコノミーコンフォートは座席が広いことに加えて空席が多くてとても楽でした。私は窓際最前列でしたが,隣が空いていて最高でした。

着陸2時間前に食事が出ました。食後にしっかりコーヒーが出てくるのがオーストラリアのカンタス航空とは違う点です。やがて着陸態勢に入って森と湖の国に着きました。飛行機をタラップで降りてバスで移動してターミナルに入りました。まず,トランジットのためのセキュリティと別れる通路がありましたが,9割以上の人がそちらに行ったので,ヘルシンキで入国の人なんてほとんどおらず,逆にとまどいました。ほとんど人の通らない通路を延々と歩いていって,あっさりと入国ゲートを過ぎてパスポートにスタンプを押してもらいました。
空港からヘルシンキ市内はけっこう遠くて,バスで30分くらいかかります。まず空港の案内所でヘルシンキカード72時間というのを買いました。これで3日間主だった見所が無料になるのと交通が乗り放題となります。
空港からはフィンエアーのシャトルバスでヘルシンキ中央駅まで行きましたが,あとで知ったことに,電車で行けばヘルシンキカードが使えて無料でした。到着早々はえてしてこういった損をしてしまいます。
今回6泊するホテルは中央駅から近くとても便利な場所にありました。口コミでは,ホテルは古くさいところだという話でしたが,思っていたほど悪くもなかったので安心しました。エレベーターのドアを手動で開けるのがはじめはわからずとまどいました。

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セントレア・中部国際空港からフィンランド航空を利用してヘルシンキに行きます。昨年はヘルシンキでトランジットして,2月にはフィンランドのロヴァニエミにオーロラを見にいき,8月にはアイスランドに行き,11月にはオーストリアに行きました。しかし,ヘルシンキで降りたことがなかったので,一度は行ってみようということでこの夏に6泊8日の旅を計画しました。
出発はずっと午前11時55分だと思っていたのですが,調べ直してみると午前10時30分ということであわてました。考えてみればフィンランドは夏時間があるので,1時間ほど早いのは納得できるのですが,この1時間は家を出るときにけっこう大変なのです。

通勤時間帯は直通の特急がないので,金山駅で乗り継いでセントレアのに着きました。いつものように名鉄に何かあっても大丈夫なように早く乗ったのですが,幸いにも正常運転で,出発2時間30分前に到着しました。事前にオンラインチェックインが済ませてあったし,カバンは8キロ以内に抑えてあったのでキャリーオンということで混雑するカウンタに寄る必要もなく,あとは乗るだけだったので,早速セキュリティを通過して搭乗開始までラウンジで過ごしました。
今回は直行便なのでヘルシンキに到着すれば空の旅はおしまいです。飛行時間は9時間30分余り,深夜バスで東京へ行くようなものです。機体は前回ロサンゼルスへ行ったときに乗ったデルタ航空同様新しいエアバスA350-900で,いつものように,エコノミーコンフォートの最前列を予約しました。

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 私は,大学3年生の秋,はじめてひとり旅をしました。今となっては信じられませんが,そのときまで,私はひとり旅をしたことがありませんでした。そのときの旅は今も最も強く心に残る思い出です。
 私の通っていたころの大学は,今とは違って7月と8月が夏休みで,9月に前期の試験があって,試験の後1週間程度,秋休みというのがありました。旅はそのときを利用して行ったのです。目的は山陰地方一周でした。
 当時は,もうJRだったかまだ国鉄といっていたか覚えていませんが,のどかな時代で,周遊券というものがありました。いろいろな地域のものがあって,これを購入すると1か月程度の期間,乗り放題で旅ができました。また,宿泊したのはユースホステルというところでした。ユースホステルは相部屋でしたが,そこに宿泊すると,いろんな人に出会えて,いろんな話が聞けました。中には,周遊券の期限が切れそうになると,同じ方向にあす帰るという人を見つけて周遊券を交換しては期限を延ばして日本中を旅しているというツワモノもいました。
 そのときのひとり旅は,いまから思うと大した旅でもなかったのですが,当時の私には大冒険でした。その後,世界中いろんなところを旅しましたが,今でもそのときの旅以上に心に残るものはないのが不思議です。

 まず,名古屋からJRだか国鉄だかの電車に乗って,単線の山陰本線を西に西にと進みました。そして,名所ごとに降りて,その地方の観光をし,ユースホステルに宿泊していくのです。そのなかで私が最も印象に残っているのは,余部鉄橋というところでした。
 私は,余部鉄橋なるものをこのときはじめて知りました。鉄橋に差し掛かると案内放送がかかりました。車掌さんがこんなサービスをすることも知りませんでした。そして,こんなところがあるのかと驚きました。電車の窓から見ると,かなり危険なところのように思えました。後で知ったことに,やはり,この鉄橋ではそれまでいろんな事故が起きていたようです。
 今は新しい鉄橋に建て替えられたようですが,それ以来一度もそこに行ったことがありません。
 私は海外旅行ばかりするようになったので,考えてみれば,山陽地方や四国地方,九州地方は行きましたが,それ以外の日本国内はここ何十年もほとんど行ったことがありません。あれだけ毎年行っていた北海道もかれこれ20年以上行っていないし,東北地方はもっと長い間行ったことがありません。だから,私が今でもイメージする山陰地方というのは,私が大学3年生だったそのときのままです。つまり,40年前の姿です。
 今はどうなっているのだろうか? それは知らないほうがいいのかもしれません。しかし,もう一度,あのときと同じコースで旅をしてみたいなあと,今になって思うようになってきたのです。
 いつか,海外に旅行をしなくなったそのときに,若いころに旅をした日本国内の各地を昔を思い出しながらまた旅をするのを,これからの楽しみとしましょう。

余部

 このブログではいつも,日本の旅は(現実は幻滅するので)心で感じるものだと書いています。それでも昔は風光明媚な場所もありました。ところが,昨今の外国人の日本ブームによって,どこに行っても外国人観光客ばかりになってしまい,古きよき日本を心で味わうことができるような落ち着く場所すらすっかりなくなってしまいました。
 昔は大好きだった京都など,今はまったくの論外です。実際,京都に住んでいる人もずいぶんと困っているようです。数年前に行った九州の阿蘇山麓の温泉も,入っていたのはほどんどが外国人でした。日本人であろうと外国人であろうとマナーがきちんとしていれば問題はないのですが,そうでなければわざわざお金を出してまで遠くの温泉に行く気になりません。テレビの旅番組を見ていていいなあと思うところも,実際に行ってみるとそこがどういう状況になってしまっているかは容易に想像ができてしまいます。

 そんな状況でも,私が今興味を持っていて,ぜひ行ってみたいと思っているのが,岩手県の花巻あたりの場所です。花巻のどこに行きたいかとというと,それは宮沢賢治記念館と国立天文台水沢キャンパスです。また,福島県には大内宿という江戸時代の宿場がそのまま残っているような場所があります。写真で見る限りはとてもよさそうなところで,行ってみたいと思います。
 しかし,こうしたところも,実際に行ってみれば,そうした場所もまた,私が以前出かけて落胆した岐阜県の白川郷と同じようなところになってしまっているかもしれません。「自撮り棒とサングラスと大声」で世界中の観光地に出没する某国からのツアー客が観光バスで訪れて,その場所の雰囲気を台無しにしている様が目に浮かぶようです。これが杞憂でなければ…。このように,私が日本でこれから行きたいところといっても,なかなか見つからないのが現実です。
 私にとって,日本で旅をしたいと思うところは精神的に満足できるところですが,そうしたところはほとんど残っていないのかもしれません。先にあげた岩手県の花巻と福島県の大内宿は今年の秋に足をのばして行ってこようと思っているのですが,どうかその場所が私の期待を裏切りませんようにと祈るばかりです。

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●あこがれのバリンジャー隕石孔へ●
☆2日目 2019年6月26日(水)
 バリンジャー隕石孔に行きたいとは思っていたが,近年までそれがどこにあるのかを正確には知らなかった。バリンジャー隕石孔に限らず,パロマ天文台もウィルソン山天文台もローウェル天文台も同様だった。そのなかでも,バリンジャー隕石孔はえらく遠いところだ聞いていたし,私もそれを聞いてそのような印象を持っていた。しかし,調べてみると,フラッグスタッフからはさほど遠いところでないことがわかった。
 後日改めて詳しく書くが,バリンジャー隕石孔の正式の名称がよくわからない。アリゾナ隕石孔と書かれたものもあるし,Google Map で探すとなかなか見つからず, やっと Meteor Crater Natural Landmark というものを見つけた。私は実際に来るまで,こうしたいくつかの名称がすべて同じものを指しているとは思えず,このような隕石孔がいくつもあるのかしら,とさえ思った。そらは,実際はすべてバリンジャー隕石孔の別名である。
 バリンジャー隕石孔は朝7時から公開されているということだったので,朝食をとる余裕もなくそそくさとモーテルを出発した。フラッグスタッフからは約35マイル(56キロメートル),インターステイツ40をひたすら東に向かって,そこでジャンクションを降りてミディアクレーターロードという砂漠の中を続く道路を南にさらに7マイルほど走ると目的地に着くようだった。
 それにしても,大平原にある山のようなところだからいつ行っても登れるのではないかと思っていたから,公開時間があるのが不思議だった。

 私は昨日,フェニックスからインターステイツ17を走り,少し迷いながらフラッグスタッフのモーテルに到着したばかりなので,フラッグスタッフにはまだ土地勘がなく,モーテルからインターステイツ40へ行くのに少し戸惑った。ともかくインターステイツのジャンクションに入るまでにガソリンスタンドに寄って給油をし,そこでサンドイッチと飲み物を買った。これを食べることで朝食の代わりにしようというわけである。
 インターステイツ40はのどかな道で,交通量は多くなかった。アメリカの道路はこうでなければいけない。インターステイツ40を走っていると,インターステイツに沿って南側にオールドルート66がずっと続いていた。そこには,私の持っているオールドルート66の写真集に載っていたモーテルやらガソリンスタンドの残骸やらの本物があって感動した,そうした場所は一度は行ってみたいものだとずっと思っていたからだ。しかし,あいにくこの日はそうした場所に寄る余裕もなく,また,頭のなかはバリンジャー隕石孔で一杯で,先を急いだことを今少し後悔する。
 この旅でオールドルート66への想いが再発した私は,おそらく,来年は,再びこの地を,今度はオールドルート66を走っているに違いない。

 インターステイツ40を降りたところにRVステーションがあった。ここに宿泊すれば,夜になると満天の星空が見られるに違いないと思った。その先は片側1車線の道路をずっと進んでいくのだが,左前方に小高い丘が見えていた。まさかと思ったが,これこそがバリンジャー隕石孔であった。
 まだ時間が早いので,ほとんど車とすれ違わなかったが,こんな昔からあるような場所に,今もどれだけの人が来るのだろうと思っていた。
 そのうち,交差点があって,バリンジャー隕石孔のビジターセンターに向かうアクセス道路は左折とあった。その道を少し登ったところに駐車場があった。駐車場にはわずかに数台の車が停まっていた。私も車を停めて,ビジターセンターに入っていった。チケット売り場があったので,入場券を購入した。
 ボランティアによるガイドツアーが午前9時30分からということだったので,その前にともかく隕石孔を見にいくことにした。私は,先日世界遺産となった堺の大山古墳(いわゆる仁徳天皇陵)みたいなものをイメージしていて,隕石孔といっても,近くに高いタワーでもなければ全貌が見渡せないのではないかと,来るまで心配していた。しかし,ビジターセンターから出たところに全体を見渡すことができる展望台があって,そこに立つと隕石孔全体を見渡すことができた。
 50年来あこがれだった隕石孔が今まさに私の目の前に広がっていた。

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●どのジャンクションを降りればいい?●
 車に乗り込んで,レンタカーセンターの近くのジャンクションからインターステイツ17に入った。このまま道なりに北上すれば,この日の目的フラッグスタッフにたどり着く。今回の旅ではフェニックスの観光をしなかったが,飛行機の窓からみたフェニックスの町は,19年前に来たときとはまるで違う大きな街になっていた。
 19年前にフェニックスに来たときは5月で,日本ではゴールデンウィークだったが,すでにすごく暑かった。このときの旅の目的地はグランドキャニオンとモニュメントバレーであった。ロサンゼルスからラスベガスを経由して車で向かった。そして,その帰りにフェニックスに寄ってメジャーリーグベースボール(MLB)のダイヤモンドバックスのゲームを見た。そのときのゲームは先発がランディ・ジョンソン(Randall David Johnson)であった。
 ランディ・ションソン投手は左腕歴代最多となるサイ・ヤング賞を5度受賞,歴代2位の通算4875奪三振を記録したMLBを代表する投手である。

 そのとき,フェニックスではボールパークの近くの安モーテルに宿泊したが,その場所はそれほど治安がいいとも思えなかった古びた場所であった。フェニックスというのは,砂漠の中に作られた人工の町。道路は碁盤の目のように造られていて,近道だと思って走った斜めに突っ切る道路が,東西,南北の道路と交差するたびに信号待ちを繰り返し,やたらと時間がかかった。また,お昼間にすることもないので出かけた動物園は,開園が夕方の5時から(お昼間は暑いのでやっていない)だった。私が覚えているのはその程度である。
 それに比べて,今回来たフェニックスは,アメリカの他の大都市同様,車が多すぎで道路は渋滞し,ダウンタウンには大きなビルやらモールやらが集まっていた。
 私は,インタ―ステイツを走りながら,当時を懐かしむと同時に,都会ということろには興味がないから,早く郊外に出ればいいと思いながら,渋滞するインターステイツを走っていった。

 やっとフェニックスの郊外に出ると,次第に車線も減ってきて,片側2車線の,昔のままのアメリカのインターステイツになった。その先にコンボイが横転してその後処理で道路が1車線閉鎖されているという道路標示があったので心配したが,近づくとはやり道路はのろのろ運転となった。しかし,それほどのことはなく,予定より30分ほどの遅れで済んだ。私がロサンゼルスからフェニックスまで乗ってきた便は到着が,というより出発が30分程度遅れたから,結局,1時間ほどの遅れで,フラッグスタッフにたどり着いたわけだった。
 しかし,インターステイツ17がフラッグスタッフに入ったとき,どのジャンクションを降りればいいのかがわからない。そのうちに道路標示からフラッグスタッフがという地名が消え,その先のアルバカーキなどという標示に変わってしまったので,慌ててインターステイツ17を降りた。しかし,実はインターステイツ17はフラッグスタッフの手前で東西を走るインターステイツ40に吸収され,インターステイツ40を東にアルバカーキ方面に1マイルほど行ったところで降りればよかったのだった。
 そんなわけで,私は早まってフラッグスタッフのダウンタウンの手前でインターステイツを降りてしまったが,そこで道がさっぱりわからなくなった。以前ならここで困ってしまったものだが,今は iPhone の Google Map をカーナビにして,私の宿泊するモーテルに簡単に着くことができた。

奎宿800px-Twenty-eight_mansions壁画

 ずっと天気が悪く,満足に星も見えません。そこで星の話題でも書いて,景気づけといきましょう。
 本田奎四段というとても強い新人棋士がいます。この棋士が将棋の番組に出演したとき,名前の「奎」というのが珍しい漢字ということで紹介されていたのですが,この字は「二十八宿」からとられたものだということでした。
 確かに「二十八宿」の中に奎宿(とかきぼし=斗掻き星)があって,ここから奎という名前がとられたのです。私が写した1番目の写真で〇でかこまれた星々の集まりが奎宿です。
 今日は「二十八宿」の紹介をします。

 「二十八宿」とは天球の黄道にある星々を28のエリア(=「星宿」といいます)に分割したものです。それぞれの「星宿」では,基準となる星々を「アステリズム」(asterism)という北斗七星のように複数の恒星をつなげて形を作りパターンにしたものを「星官」といい,「星官」の西端の星を「距星」といいます。

 「二十八宿」は,西洋における黄道十二星座に相当するものですが,28という数字は月の公転周期である27.32日に由来すると考えられていて,1日の間に月はひとつの「星宿」を通過するとしている点が太陽を基準とする西洋の黄道十二星座と異なる点です。
 また,28の「星宿」は4つの方角の七星宿ごとに,「青龍」(東),「玄武」(北),「白虎」(西),「朱雀」(南)の四神に分けられます。日本における最初の二十八宿図は高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で青龍などの四神の図と共に見つかっていることから,中国の天文学体系がこのころにはすでに渡来していたことがわかります。
 西洋ではじまった「星座」とは異なる星の並びの考え方もあるということで,とても興味深いものです。東洋の古典や歴史を学ぶには,こうした考え方を知ることも大切です。

 なお,日本で使われている「二十八宿」とそれぞれの宿の距星は次のとおりです。
  ・・・・・・
●「青龍」(東)
 角宿(すぼし)・おとめ座α
 亢宿(あみぼし)・おとめ座κ
 氐宿(ともぼし)・てんびん座α
 房宿(そいぼし)・さそり座π
 心宿(なかごぼし)・さそり座σ
 尾宿(あしたれぼし)・さそり座μ
 箕宿(みぼし)・いて座γ星
●「玄武」 (北)
 斗宿(ひきつぼし)・いて座φ
 牛宿(いなみぼし)・やぎ座β
 女宿(うるきぼし)・みずがめ座ε
 虚宿(とみてぼし)・みずがめ座β
 危宿(うみやめぼし)・みずがめ座α
 室宿(はついぼし)・ペガスス座α
 壁宿(なまめぼし)・ペガスス座γ
●「白虎」(西)
 奎宿(とかきぼし)・アンドロメダ座ζ
 婁宿(たたらぼし)・おひつじ座β
 胃宿(えきえぼし ・おひつじ座35番星
 昴宿(すばるぼし)・おうし座17番星
 畢宿(あめふりぼし)・おうし座ε
 觜宿(とろきぼし)・オリオン座λ
 参宿(からすきぼし)・オリオン座ζ
●「朱雀」(南)
 井宿(ちちりぼし)・ふたご座μ
 鬼宿(たまおのぼし)・かに座θ
 柳宿(ぬりこぼし)・うみへび座δ
 星宿(ほとおりぼし)・うみへび座α
 張宿(ちりこぼし)・うみへび座υ
 翼宿(たすきぼし)・コップ座α
 軫宿(みつかけぼし)・からす座γ
  ・・・・・・
 

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●簡単なレンタカーのチェックアウト●
 到着したフェニックスの空港は閑散としていた。アメリカでは国際線の到着しない空港はその大きさの割に閑散としている。日本のように飛行機を利用しない人が遊びにくるようなところでないからだ。
 私は飛行機を降りて,レンタカーのカウンタを探した。アメリカどこの空港でも必ずレンタカーという案内標示がある。ところが,このフェニックスの空港には,パーキングという案内標示はたくさんあったが,レンタカーという案内標示はかろうじて1か所で見つけただけで,あとは探してもなかった。
 ともかく空港を出てみると,レンタカーシャトルバスの乗り場が見つかって,そこにレンタカーセンターと書かれたバスが停まっていた。レンタカーの具体的な会社名が書かれていなかったから,おそらく,レンタカーセンターにはすべてのレンタカー会社が入っているのだろう。私は,バスの運転手にそれを確認してバスに乗り込んだ。
 私は場数を踏んでいるからどうにかなるが,生まれてはじめて独力でアメリカに行って,私のようにレンタカーを借りようとすると結構大変だなあと思うことがよくある。アメリカでは当然なことでもそれが日本とはまるで違うからどまどうのである。
 シャトルバスは空港から結構な距離を走って(と思ったが,帰りにも乗ってみたがそれほどの距離でもなかった),レンタカーセンターの大きなビルの入口に着いた。

 私がいつも借りるハーツのレンタカーは事前に会員になっていてネットで予約もしてある。こうするとカウンタに行く必要がなく,そのまま駐車場に行けばいいというシステムである。これもまたはじめのころはわからなかった。
 案内標示にしたがってレンタカー会社の車が停まっている駐車場に行くと,多くの車が並んでいた。以前は自分の借りる車の上に自分の名前が表示されていたが,今は,このエリアに停まっている同じランクのどの車を借りてもいいことになっている。そうしたシステムもまた,はじめてだとさっぱりわからないであろう。アメリカでは行くたびにシステムが改良されて変わっていく。こちらで好きな車を選べるので,これは貸すほうも借りるほうもウィンウィンである。
 私はそのなかからカローラを借りることにした。日本車は車内装備が日本と同じだからわかりやすいのである。アメリカのメーカーの知らない車だと,イスの調整,ガソリンの給油口などがどこにあるのかわけがわからないことがある。
 駐車場の出口に係員のいるボックスがあって,免許証と国際免許証を提示すると契約書類をくれて,それで終わりである。カーナビを借りるときも,そのボックスで受けることになる。以前は,カーナビも借りる必要があったが,今は,iPhone の GoogleMap があればそれがカーナビになるから,カーナビを借りる必要もない。グローカルミーという Wifi ルーターさえあれば,世界中どこでもインターネットに接続できるのだ。
 このように,思えば私の数十年にわたるアメリカ旅行はハイテクの発展の歴史であったような気がする。以前に比べてずいぶんと便利になったものだ。

 今日は,これから行ってみたいという場所です。
 私にとってアメリカは別格で,おそらく,これからも行くと思いますが,私にはアメリカは旅行というより東京へふと遊びにいくような感じです。アメリカでこの先行きたいのは,レッドウッド国立・州立公園(Redwood National and State Park),キャニオン・デ・シェイ国定公園(Canyon de Chelly National Monument),メサベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)の3つの公園と,アリゾナ州・ユタ州・ニューメキシコ州・コロラド州の4つの州境が交差する場所「フォー・コーナーズ」(Four Corners)です。
 レッドウッド国立・州立公園はサンフランシスコから350マイル(560キロメートル)とかなり距離がありますが,車で行くしか方法がありません。キャニオン・デ・シェイ国定公園,メサベルデ国立公園,「フォー・コーナーズ」はフェニックス,またはアルバカーキーから車で行くことになりますが,これもまたかなりの距離があります。とんでもないところが残ってしまったものですが,これまでも行く機会がありませんでした。また,オールドルート66を66歳になったら走ってみたいと思っていたのですが,その思いがよみがえってきました。
 ハワイとアラスカは,アメリカのなかでも別格の上の別格です。ハワイは,いつも書いているように,オアフ島には興味がなく,私が行きたいのは6島制覇のために残ったモロカイ島とラナイ島ですが,モロカイ島は来年2月に行きますから,あとはラナイ島だけです。ラナイ島はマウイ島から日帰りツアーがあります。アラスカはアンカレッジからフェアバンクスまでドライブしてみたいものですが,アメリカ本土へ行くよりずっと遠く,実現できるかどうかわかりません。

 アメリカ以外で私が何度でも行きたいのはオーストラリア,オーストリア,フィンランドです。
 以前より私は「2リア(リアズ),3ランド(ランズ)」と言っていましたが,「2リア(リアズ)」というのはオーストラリアとオーストラリアのことであり,「3ランド(ランズ)」というのは,フィンランド,ニュージーランド,アイスランドのことです。
  ・・
41lchLzljEL__SX355_ そのなかで,まず,「2リア(リアズ)」についてです。
 ここで少し余談です。オーストラリア(Australia)とオーストリア(Austria)は似ていて紛らわしいとだれもが思っているのですが,当然,まったく違う国です。オーストラリアはラテン語で「南の地」に由来し,オーストリアはドイツ語で「東の国」に由来していて,語源的にも無関係です。なんでも日本ではオーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人がいて,オーストリア大使館にはオーストラリア大使館への地図が掲げられているそうです。 また,しばしばジョークに登場し,オーストリアの土産物屋では黄色い菱形にカンガルーのシルエットを黒く描いた「カンガルーに注意」を意味するオーストラリアの道路標識に「NO KANGAROOS IN AUSTRIA」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られていて,私も見たことがあります。そのときは,なんじゃこりゃと思いました。どうやら,オーストリアの方がオーストラリアを意識しているみたいです。
 オーストラリアは,私には一番のんびりできる国です。何もないといえば何もない国ですが,何度も行くうちにおもしろさが少しずつわかってきました。最も惹かれるのは星空です。これまでにも何度か星を見に行きましたが,帰ってくるとまたオーストラリアで星を見てみたいと思うのです。
 オーストリアは,ヨーロッパの中心で,オーストリアからは北に行けばチェコのプラハ,東に行けばハンガリーのブタペスト,西に行けばドイツのミュンヘン,そして,南に行けばクロアチアのザブレブと,どこにも便利に行けることと,オーストリア自身も芸術の国として魅力が一杯です。これほど芸術に触れることができる国はほかにありません。また,旅をしていて,最もストレスのない国でもあります。
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 「3ランド(ランズ)」のなかで,アイスランドは最も自然がすばらしい国ですが,物価が高いこととがネックです。また,天候が悪いのもリピートを妨げます。ニュージーランドは自然がもっとも美しい国ですが,オーストラリアからけっこう遠いことがネックです。私は特に南島に興味があって,これまでに2度行きました。2度行くと,見どころというころはほとんど行くことができる小さな国ですが,もう少し近ければ何度でも行ってみたい国です。北島にも一度は行くべきでしょう。
 フィンランドはこれまで北極圏にあるロバニエミにしか行ったことがありませんが,治安もよく,この幸福度世界一といわれる国をしっかり見てみたいものだという想いが募り,この夏に,今度はヘルシンキに行くことにしました。どんな発見があるか,楽しみです。
 うかつにも私はすっかり忘れていましたが,「ランド(ランズ)」にはこれ以外に,アイルランドとポーランドがあるのです。失礼なことをしました。「3ランド(ランズ)+2ランド(ランズ)」です。アイルランドは,これまでにも周りにいる人たちからランドにはアイルランドもあると言われていたのですが,私はアイルランドはイギリスの一部だと信じていたのだから,困ったものです。しかし,ポーランドは気づきませんでした。先日それを知って愕然としました。しかも,ショパンの故郷ポーランドはすごい親日国家なのです。

 こう書いていくと,私が行きたいと思う国は,どこも人が少なく自然の豊富な国なので,もっとアウトドアについて器用ならよかったなあといつも思います。

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 8月17日に放送された「京都人の密かな愉しみ Blue 修行中」第3弾は「祇園さんの来はる夏」。
 われらが常盤貴子さんの演じた「京都人の密かな愉しみ」は興味深い番組でした。「Blue修行中」と銘打った新シリーズは,私はこの「修行」というのが気持ちに合わないことと,われらが常盤貴子さんがいなくなってしまったので,第2弾を見るのをためらいましたが,今回はその第3弾で,祇園ということばに惹かれて見ました。
 この番組で私が思うのはいつも「ホンモノ」いや「ホンマモン」のすばらしさです。そしてまた,「ホンマモン」の京都を伝えるこの番組がどこまで「ホンマモン」なのかということですが,今回は話の内容を祇園祭に絞ったいい番組でした。

 私が今から10年ほど前に出会った、プライドが服を着ているような自称「教育者」は,知っている知識は専門書からならまだしも,〇〇新書とかいう本からの受け売りばかりで,人の意見は聞く耳を持たず,自分の言うことを聞かせるためには恫喝を厭わないという,今ならパワハラの権化のような輩でした。しかも,その輩のいた組織は,「失敗しない私」(笑)が見るに,まるで,米倉涼子さんの演じた番組「ドクターX」をそのまま現実にしたようなところでした(御意)。
 そもそも,人が最も手に入れ難いけれど,だれもがそうありたいと目指しているのは「自由」です。であれば,権威とか名誉を手に入れるというのは,それとは真逆なものだ,ということすら組織にいるとわからなくなってくるのが人間の最大の悲劇です。
 とはいえ,組織を束ねる人は必要なので,誰かはそれをしなければならないわけです。それをする人が,本当の人格者であり裏がなく目的が純粋ならば,それは高貴なものとなりますが,そうでないとお互いが不幸になります。その違いは「ホンモノ」と「マガイモノ」の差です。

 このブログはアメリカ旅行が主な話題ですが,アクセス数が急に増えるのはテレビ番組を話題にした内容を書いたときです。そのなかでも特に増えるのはこの「京都人の密かな愉しみ」について書いたときです。このドラマだかドキュメンタリーだか定かでないユニークな番組は,そっとお正月にそれもBSで第1回を放送したころはほとんど話題性もなかったので,私が番組について書いたときに,ずいぶん多くの人に読んでもらいました。
 私のブログは気が向いたことを自分の記憶に留めるために書いているだけでお金儲けとは無関係なので,アクセス数などどうでもいいのですが,商用のブログはアクセス数を増やす必要があるのでたいへんです。
 私は自分のブログのアクセス数が増えたり減ったりするのを経験することを通じて,どういう話題がアクセス数に影響するのかがわかってきました。そうした知識をもとにネットを見ていると,商用のブログがアクセス数を増やすためにさまざまな手段を講じていることがよくわかります。
 特に,ニュースを集めたポータルサイトを見ると,刺激のある見出しをつけたり,あるいは,記事の集め方がなんらかの別の目的や思想をもとにしたものばかりだったりするので,読む側に,そうした玉石混交の記事から真実を見わけるための,まさしく「ホンモノ」の力が必要なのです。
 京都に根づく伝統と文化を支えているのもまた,そうした「ホンモノ」です。それを感じとるためには,そこに訪れる側にも「ホンモノ」の情熱がいるのです。
 残念ながら,私は今回の「京都人の密かな愉しみ」で主題となった祇園祭を見たことがありません。それは,私が人混みが嫌いということに加えて暑いのが苦手ということが理由です。そんなことを思う私は正真正銘「マガイモノ」というわけでしょう。この番組でそんな私の行けない祇園祭の一部始終がわかって,とてもよかったです。

 ところで,私はこのブログを6年以上毎日書いていますが,今,昔書いたものを読みなおしてみると,6年でずいぶんと考えが変わったものだなあと思います。以前はあれほど想いのあった京都だったのに,今は足を運ぶ気もなくなりました。その理由は,いつも書いているように,観光客が増えすぎて,京都のよさが埋没してしまったことにあります。
 この国は外国からの観光客を増やすことに力を入れているようですが,その目的は,日本の文化や伝統を理解してもらうというのは建前で,本音は金儲けです。実際,モノを作って外国で売るよりも,外国人に来てもらって金を落としてもらうことのほうがずっと収益性が高いのです。であれば,私のような,海外旅行に出かけても土産も買わず必要最低限以上のお金を使わないような旅人は,実は,訪れる国にとっては迷惑なだけなのかもしれません。
 昨年の夏は,徳島市の阿波おどりでもめごとが起きました。徳島市では阿波おどりが何より好きだという純粋な人がたくさんいます。彼らは「ホンモノ」で,そこにあるのは,好きだからという一念であって,金儲けやら偉くなろうということではありません。それと同じように,祇園祭を行っている人もまた,それが好きだという一念であって,そうした人たちには,これほどの観光客が押し寄せる京都は,おそらくとても残念なことでしょう。
 私は,この番組で出てきた祇園祭のとんでもない人混み(=オーバーツーリズム)を見て,ますます京都に行く気持ちを失くしました。もし,次に京都に行くことがあったら,どうすれば,長い歴史のなかで培ってきた京都の伝統や文化を昔のように静かに味わうことができるのだろうかと,番組を見て思ったことでした。

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●19年ぶりのフェニックス●
 ロサンゼルス国際空港はあまりに入国者が多いから,ESTAによる入国者の場合ほぼ流れ作業で,キオスクという機械で手続きをして印刷された用紙を手渡してパスポートに滞在期限のスタンプをもらうだけでさばいているので,むしろ暇そうなニュージーランドなどで入国するよりずっと簡単であった。私はこのあと,国内線のターミナルに行って,アリゾナ州フェニックスまで行く国内線に乗り換えることになる。
 国際線ターミナルから国内線ターミナルまではエアポートシャトルバスもあったようだが,次のフライトまでの待ち時間が3時間程度もあったから,私はのんびり歩いて国内線の第2ターミナルまで行った。そして,混雑する第2ターミナルの搭乗ゲート階を避けて,その上の階にあるラウンジ・デルタスカイクラブで時間をつぶした。
 私はこれまでさまざまな空港を利用したが,どこも入国検査場はごった返しているから,入国を終えるとホッとする。
 国内線に乗り換える場合も,乗り換えない場合も,まず到着した空港で入国の手続きをするのは同じだから,到着早々次のフライトへのトランジットはひと手間減るわけでもないが,逆に,帰国するときのトランジットは,はじめに搭乗手続きをする空港でセキュリティを通ればトランジットをする空港で再びセキュリティを通る必要がないからひと手間少なく楽である。
 しかし,オーストラリアでトランジットしてニュージーランドに行く場合はオーストラリアでは入国手続きをしなくても空港の通路を通ってそのままニュージーランド行きの便に乗ることができるからとても楽(=3番目の写真)だ。今ニュースで話題の香港の空港でトランジットしてオーストラリアに行くときは,香港で入国しなくても再びセキュリティを通らなくてはならず,面倒(=4番目の写真)である。香港はトランジットが楽とよく書いてあるが,私はそうは思わない。
 このように,トランジットをするときは空港によっても国によってもシステムが違うのだ。

 ラウンジに着いたのはお昼過ぎだった。前回書いたように,着陸直前の機内であわただしく配られた朝食ではあったが,ともかく食事を終えたので,ラウンジで再び何かを食べる必要もなかったのだが,食べ物がずらりとならんだラウンジでおいしそうなサンドイッチがあったので,思わず手を出してしまった。
 やがてフェニックス便の搭乗時間になったので乗り込んだ。小さな古い機体だった。なかなか離陸できず,機内でずいぶんと待った。しかし,この日の私はフェニックスに着いてからはレンタカーで2時間ほど走ってフラッグスタッフまで行くだけの予定だったから,多少の遅れは特に問題なかった。
 ところで,飛行機が離陸するために飛行場を滑走路まで走ることを英語で「taxi」という(=2番目の写真)のだが,「taxi」にこんな意味があることを日本の学生はほとんど知らない。
 今日の1番目の写真のように,飛行場では離陸する順番待ちの飛行機がまるで人が順番待ちをするように並んでいて壮観なのだが,窓際にでも座らなければ,乗っている人はなかなかそれが見られない。私は窓側の席だったから窓からずっとそれを見ていた。
 やがて,乗っている飛行機の離陸の順番になった。1時間と少しのフライトののち,砂漠のなかに忽然と,以前見たことがあるフェニックスの町が見えてきた。19年ぶりのフェニックスだった。

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 私は,子供のころから行ってみたかったところにはほとんど行くことができました。旅をするうちに,新たにやりたいなあ行きたいなあ見たいないということも増えてきたのですが,歳をとるにつれて,それもどうでもいいやと思うようになってきたのはきわめて残念なことです。しかし,それとともに,今度は,何もないようなところに出かけて,ゆったりと街を歩きたいなあ楽しみたいなあと思うようになってきました。
 こうした自分の心境の変化もまた,歳をとる楽しみです。…ということで,このあたりで,これからやりたいこと行きたいこと見たいことを振り返っておきたいと思います。

 今日はまず,おそらく一生行くことはないと思うけれど,ずっと気になっている場所についてあげてみましょう。
 それは,エジプトのピラミッド,イースター島のモアイ像,ボリビアのウユニ塩湖です。私は,カッパドキアとかマチュピチュには興味がありませんが,ピラミッド,モアイ像,ウユニ塩湖は,だれかに誘われれば行くかもしれないので誘ってくれるのをひそかに待っていたりします。それは,この3月に登頂することができた自分だけでは行く気がなかったエアーズロックのようにです。しかし、行ってみるとどこもツアー客だらけでうんざりするかもしれません。
 ピラミッドは,調べる気がないのがいけないのですが,個人旅行で行く方法がよくわかりません。日本からツアー旅行に参加すれば簡単に行くことはできるのでしょうが,私には,行きたいという気持ちよりもツアー旅行のストレスのほうが大きいのです。
 モアイ像はちょっと遠すぎるので行くのをためらっているのでますが,このなかでは最も行きたいなあと思ったことがある場所です。私はモアイ像を見ることよりも,モアイ像を借景にした星空の写真が写したいのです。
 また,ウユニ塩湖は遠いことに加えて,天候次第,というのがもっとも問題なところです。わざわざ出かけていって,湖面に反射する星空が見られなければトラウマになってしまいます。これは,オーロラや皆既日食も同様ですが,私は運よく実現できたので,幸いトラウマにもならず夢がかないました。

 これ以外の場所では,カナダのイエローナイフやノルウェイのトロムセーでオーロラが見たいという気持ちがこれまでずっとありました。しかし,調べていくと,オーロラを見るのに最も晴天率が高く条件のよいイエローナイフは,世界中からずいぶん多くのツアー客が押し寄せている状態をテレビ番組で見て以来,すっかり興味を失くしました。それを見ていたら,日本人ツアー客だらけだったアラスカ州フェアバンクス郊外のチナホットスプリグスを思い出して,それと同じ状況だなあということがわかってしまったからです。
 また,調べてみたら,トロムセーは晴天率が悪く,しかも思った以上にホテルなどが高価でした。私は,昨年の夏,期待して行ってみたのに予想以上に天気が悪く,オーロラどころか星すら見られずがっかりしたアイスランドの記憶がよみがえってしまいました。

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●一体何が楽しみなのだろう。●
 エコノミーの狭い座席で海外旅行をするのが苦痛になってきた私は,デルタ航空とフィンランド航空に乗るときは,エコノミーコンフォートを利用するようになった。カンタス航空はアップグレードの仕方を知らないのでエコノミーで妥協しているが,大概隣の席が空いているから狭いと思ったことはあまりない。
 2月に行ったハワイは,ファーストクラスが約4万マイルで手に入ったので,往復ファーストクラスを利用した。今回もそうしようと思ったが,ファーストクラスにアップグレードするには8万マイルほど必要だったので躊躇してそのひとつ下のプライムエコノミーという席が4万マイルほどだったので,試しにそれを利用することにした。
 やがて時間になったので搭乗した。
 私はてっきり往復とも窓側の席を予約してあると思い違いをしていたのだが,座席に行くと,私の隣の窓側の席にはすでに私より少し若いくらいの女性が座っていたのであわてた。私の勘違いで窓側席をとったのは帰国便だけだった。聞くところによると,彼女はロサンゼルスに住んでいて帰るところだという話だった。
 今回のプライムエコノミーも,そのまたひとつ下のエコノミーコンフォートも,最前列は足元がすごく広いので,窓側に座っても隣の人の迷惑にならず移動して通路に出ることができるから,窓側席をとっても問題がない。最前列の欠点と言えば,ディスプレイが前の席の背中の部分にないから見にくいということと手荷物を置く場所がないということだが,私は機内で映画を見ないし,荷物も少ないのでこれもまた問題はない。
 プライムエコノミーは思っていた以上に快適だった。座席はエコノミーよりずっと広く,フットレストもあった。イスの横には写真のようなレバーがあって,はじめ使い方がよくわからなかったが,いじくりまわすうちになんとかなった。それは,背もたれの位置やフットレストの位置を調節するものだった。さすがにファーストクラスのようなフルフラットにはなれないが,新幹線のグリーン車程度の座席だった。また,食事は豪華だった。こんな席に座って海外旅行をしはじめると,この先エコノミーシートに乗る気がますますなくなる。

 ところで,若いころの私は海外に住むことに憧れていたので,隣にいた女性がロサンゼルスに住んでいるということを聞くだけで羨ましいと思ったものだが,それがどうしたことだろう,今ではそういう憧れはまったくなくなってしまった。
 日本に住むのが快適,というわけでは決してないのだが,日常というのはどこに住んでも同じで,要するに,基本的に楽しくない,ということを知ってしまったからだ。非日常を求めるには住むのではなく旅するに限るのだ。ただし,住みたくない,こんな国に生まれなくてよかった,という国はけっこうあるから,日本に住むのはまだましだ。
 私はどの国であっても,都会には住みたくない。東京なんて問題外だ。昔は東京でしか手に入らない,体験できないというものも多々あったが,今はインターネットでどこにいても手に入るし,何かを体験したければそのときだけ出かければ事足りる。外出したとき食事をしようと思っても,東京に限らず,名古屋ですら繁華街のレストランはどこも混雑していて,何十分も何時間も待ちになり,しかも,座席はせまく,ゆっくりと外食を楽しむこともできないありさまである。
 その一方で,田舎生活には憧れるが,住めば住んだで近所づきあいがめんどうそうだ。しかしそれ以上に思うのは,日本のような妙に開発されてよさのなくなった田舎はともかく,アメリカやオーストラリアなどの郊外に行くと,旅で訪れるのにはいいところでも,ここに住んでいる人は毎日何が楽しみなのだろうと思ってしまうほど,何もない。毎晩,星を眺めてくらすのだけが楽しみというわけにもいかないだろう。

 閑話休題。
 いつものように,機内では食事をしたあとはだらだらと過ごした。どっちみち海外旅行をすると時差で体内時計はめちゃくちゃになるから,気にしても仕方がない。いろいろなグッズを持ち込んで少しでも快適にと工夫をしている人を見かけるが,気にしないに限る。私はノイズキャンセリングのついたBOSEのイヤホーンを重宝していて,これでクラシック音楽を聴いていると,自然と気持ちよく寝てしまう。
 今回のフライト最大の欠点は,着陸前に出てくるはずの食事の準備が遅かったということだった。着陸予定時間の1時間前になっても食事が出てこないのでやきもきしていたら,やっと配りはじめた。これでは30分遅い。配り終えたころにはすでに着陸態勢に入って,大急ぎで片付けはじめるありさまだったので満足に食べる時間もなかった。おそらくこれは,客室乗務員のチーフの段取りがよくなかったからだろう。

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 2018年2月,私は突然オーロラが見たくなって,何も知らなかったフィンランドに行きました。それが私がフィンランドに行ったはじめてです。今から考えると本当に幼稚なのですが,それまでフィンランドには興味も関心もなかったので,当然,ヘルシンキを舞台とした「かもめ食堂」という映画すら知りませんでした。それが,フィンランドで出会った日本から旅行に来た人はみな当たり前のように「かもめ食堂」を知っているのです。
 フィンランドというのは不思議な国で,行ったことのない人にとってはほとんどなじみがないし,興味もない。ヨーロッパのさまざまな国に行くためにフィンランドの首都ヘルシンキでトランジットをするのにもかかわらず,そこで降りることもない,というような国です。ところが,何かのきっかけでその魅力を知ってしまうと,みんな大好きになってしまうのです。
 世界一幸せな国フィンランド。そんなわけで私も大好きになってしまったのですが,なかなか「かもめ食堂」を見る機会はありませんでした。

 先日「アマゾンプライム」というのに入会したので,プライムビデオで見ることのできるプログラムをさがしていると,「かもめ食堂」があるのを知り,すぐに見ることになりました。
 「かもめ食堂」(ruokala lokki)は,群ようこさんの小説を原作とする2006年公開の日本映画です。
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 個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台にゆったりと交流を繰り広げていく様子を描く。
 ある夏の日,日本人の女性サチエはフィンランドの首都ヘルシンキにて「かもめ食堂」という日本食の食堂を開店させた。しかし,近所の人々からは「小さい人のおかしな店」と敬遠され,客は全く来ないのであった。 そんな折,ふいに食堂にやってきた日本かぶれの青年トンミ・ヒルトネンから「ガッチャマンの歌」の歌詞を質問されたものの,歌い出しを思い出すことができずに悶々としていたサチエは,町の書店で背の高い日本人女性ミドリを見かける。意を決して「ガッチャマンの歌詞を教えて下さい」と話しかけると,弟の影響で知っているというミドリはその場で全歌詞を書き上げる。「旅をしようと世界地図の前で目をつぶり,指した所がフィンランドだった」というミドリに縁を感じたサチエは,彼女を家に招き入れ,やがて食堂で働いてもらうことになる。
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  夫に家を出て行かれてしまった中年女性リーサ,経営していた店が潰れ妻子とも疎遠になっている男性マッティなど「色々な事情」を抱えた人々との出会いを経て,ささやかな日常を積み重ねていくサチコたち。徐々に客の入りが増え始めていたかもめ食堂は,やがて地元住人で賑わう人気店となるのであった。
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 なんという,夢のようなお話ではないですか。フィンランド好きの人,特に女性にはたまらなくすてきに思える映画でしょう。なんだか近年とげとげしくなった世界のなかで,そして,猛暑でうんざりするこの夏に,こうした落ち着きのある,そして,ほっとできる映画は,とても救いになりました。
 フィンランドには「自然享受権」というものがあります。フィンランドの森はだれの所有であれ,人は自由に行き来できるのです。キノコやベリーを見つけたらつむのもかまいません。この映画でもトンミ・ヒルトネンの「森があります」ということばがそれを表していました。この「自然享受権」こそが,この国の人の生き方や価値観につながっています。
 「かもめ食堂」の撮影が行われた場所は,現在「Ravintola KAMOME」というレストランになっているそうです。小さな町ヘルシンキの中心街から歩くこと10分のところにあって,ヘルシンキの透き通った水色の空と看板がよく合っているレストランなのだそうです。看板メニューは「おいしいフィンランドボックス」というもので,旅行でフィンランドを訪れた人たちが短い滞在の間にいろんな種類のフィンランド料理を楽しんでもらえるようにと考えられたそうで,小さなシナモンロールもついてきます。
 私もこの夏に行ってくるとしましょう。

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●意味のないことが大好きな国●
☆1日目 2019年6月25日(火)
 うかつにも,というか,いつもどおり,というか,私は,今回の旅で行こうと思ったところにどうやっていくかということを,2年も前にすでにこのブログに書いたことすら忘れていた。しかし,自分で考えることは変わらないらしく,今回,そのときに考えたのと同じ方法で旅をした。
 デルタ航空のロサンゼルス便は成田から出るものだと思っていたが羽田に変更されていて,昨年羽田からロサンゼルスに行ってみたら,こりゃ楽だと思った。そこで今年も同じ方法でロサンゼルスに行くことになった。ところで,デルタ航空はついに成田から全面撤退して,すべてのアメリカ便は羽田発着になると先日発表になった。
 昨年はセントレア・中部国際空港から羽田国際空港までANAを利用したが,羽田での待ち時間がずいぶんあったので,今年は高速バスを利用しようと思って,チケットを購入した。しかし,何事かが起きて高速道路が渋滞するかもしれず飛行機に乗り遅れたら後悔するなあとだんだん心配になってきて,思いなおして新幹線に変更した。私は暇なので,新幹線を利用するときは「ぶらっとこだま」というJR東海ツアーズの企画商品を利用することにしている。これを使うとわずか1,000円余分に出すだけでこだまのグリーン車に乗れる。ガラガラのこだまのグリーン車はストレスがなくていいのだ。
 出発当日は晴れであった。雨だと駅まで行くのに傘がいるのでめんどうだ。しかし,晴れていたのにもかかわらず,静岡では富士山を見ることができなかったのが残念だった。また,この旅に出るころやたらと関東地方に地震があったので,新幹線に変更したのはよいとしても新幹線も止まったらどうしようとそれだけが心配であったから,定刻に品川駅に着いたときはホッとした。

 私は,羽田空港というところはモノレールで行くものだと思っていたが,調べてみると,品川駅から羽田空港に行くには京急,つまり京浜急行電鉄が一番便利だとあった。そこで,品川駅前の吉野家でお昼を食べてから品川駅の延々と続く通路を歩いて京急に乗った。お昼どきの品川駅はすごい人混みだったから,吉野家など行かずとも,名古屋駅で駅弁でも買って,それを新幹線の車内でまったりと食べたほうがもっと楽だったなあと後悔した。私は人混みが大嫌いなのである。
 お昼どきにかぎらず,品川駅の混雑はほとほと嫌になる。品川駅に来るたびに,こんなところを毎日通って通勤をしている人が哀れでならない。
 京急の駅は名古屋の名鉄の悪名高き名古屋駅みたいだったが,表示がわかりやすく,ことのほか便利であって,ほどなく空港に到着した。
 羽田国際空港は国内線ターミナルと国際線ターミナルが離れているからトランジットするには不便な空港である。これもまた以前書いたが,この空港に限らず,日本の空港は,根本的な間違いをしている。空港というのは飛行機に乗るところという大原則を喪失しているのだ。ここは空港でなくテーマパークなのである。セントレアも同様で,飛行機を利用する人であっても,お昼どきには食事をする場所をさがすのさえ大変なのである。
 飛行機を利用する人の利便性よりも空港に遊びに来る人が優先されるような日本の空港って何だろう,と私は思う。世界中から様々な人が来る国の窓口である空港という交通の根幹に,飛行機に乗らない人を無差別に集めてテロでも起こされたらどうするのだろう。これもまた,平和ボケの日本ならではである。

 羽田空港には貧弱なカードラウンジだけはかろうじて存在するが,デルタ航空のラウンジであるデルタスカイクラブがない。空港のチェックインカウンタで聞いたら,東京オリンピックのころにはできるかもしれない,と言われた。先に書いたが,デルタ航空は成田空港から撤退してすべての発着を羽田に変更するので,そうなればおそらく羽田空港にラウンジを作ることになるであろう。
 ところで,チェックインカウンタといえば,私は,ネットでフライトのオンラインチェックインをしてあったし,カバンもキャリーオンなので預けるつもりはなかったから,チェックインカウンタに寄らずそのままセキュリティを通ればいいと思っていた。しかし,パスポートチェックをするから一度チェンクインカウンタに行ってほしいと言われた。これではオンラインチェックインなど無意味でないか。国内線に搭乗するときも,今や紙の搭乗券すら不要だというのにそのほかに保安検査証と搭乗案内などという意味のない紙を2枚もくれるが,これもまた同様である。そもそも紙の搭乗券すらじゃまなのでスマホを使おうと思うのにその上余分なものをくれるおせっかいさったら,どう解釈すればいいのだろう。救いようがない。しかも,保安検査証が何の役に立つのか法的根拠があるのか不明だし,搭乗案内に印刷してある搭乗ゲートは変更があっても変更前のものが印字してあるからまったく用をなさないムダな紙なのだ。かといって個人情報が書かれてあるから処理に困る。
 キャシュレス社会に頑なに現金で小銭を払ってレジで渋滞を起こしているような人同様,こういう時代錯誤なことを考える人が組織のなかにひとりはいるのだ。あるいはこんな紙を印刷する機械を考えて売り込むメーカーがあるのだろう。こうした意味のないことをして税金を使い仕事とゴミを作るのが日本人は大好きなのである。つくづく変な国だと思う。

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 「イエローストーン国立公園で野生のバイソンが女の子を跳ね飛ばす」とか「ノースダコタ州のセオドア・ルーズベルト国立公園で17歳の観光客がバイソンに襲われ負傷した」などというニュースが報道されました。
 20年くらい前から私はアメリカ旅行を頻繁にしはじめたのですが,はじめのうちは,イエローストーン国立公園や,ほとんど日本人,いや,アメリカ人すらいかないというノースダコタ州のセオドア・ルーズベルト国立公園に行ったので,そこで多くの「バイソン」を普通にたくさん見ました。そこで,「バイソン」など珍しい動物だと思わなかったのですが,今考えると,アメリカ人であっても「バイソン」を見る体験というのはそうはないようです。

 私は,この動物を,あるいときは「バイソン」またあるときは「バッファロー」とよんでいることに気づきました。改めて考えてみると,これまで「バイソン」と「バッファロー」の違いなんて気にしたこともありませんでした。
 しかし,アメリカのサウスダコタ州のウォール(Wall)という町にある有名なウォールドラッグには「バイソンバーガー」なるものが売られていたし,国立公園の道路が「バイソン」に占拠されて車が渋滞することを「バッファロー・ジャム」とよんでいるくらいなので,このふたつはアメリカでも区別されているとはいえません。
 そこで,「バイソン」と「バッファロー」は違うのでしょうか? それとも同じものなのでしょうか? 調べてみることにしました。

 「バイソン」(bison)は,体長が2.5メートルから3.8メートルで,体高は2メートル前後。 脊椎の突起が長いため,横から見ると肩がコブのように盛り上がっているのが特徴。また,頭部から肩にかけて長い体毛で覆われていて,角は短く最大でも50センチメートルほど,ということです。生息地はヨーロッパとアメリカですが,ヨーロッパの「バイソン」は絶滅の危機に瀕していて人工的に飼育されている個体のみになってしまっているので,野生の個体がいるのはアメリカのみということです。
 一方,「バッファロー」(buffalo)は,体長が2.5メートルから3メートルで,体高は1.5メートルから2メートル。肩はなだらかで体毛は全体的に短く,四肢下部の体毛が白いのが特徴。角は長く平均的な長さは1メートルと,大きさはバイソンより若干小ぶりで,毛や角の長さはまったく違うようです。生息地はインド,タイ,ネパール,バングラデシュ,ミャンマーの河川の周辺や沼沢地などの水辺で生活しています。「バッファロー」というのはどうやら「水牛」のことのようです。
 つまり,「バイソン」には「アメリカバイソン」(Bison bison)と「ヨーロッパバイソン」(Bison bonasus)という区別があって,アメリカにいるのは「アメリカバイソン」です。しかし,どうしてこれを「バッファロー」と誤用するかといえば,アメリカでの「バイソン」のよび方に問題があるようなのです。それは,ヨーロッパでは「ヨーロッパバイソン」と「バッファロー」は別物で,「水牛」をバッファローとよんでいるのですが,それが水牛のいないアメリカで勘違いして間違って「アメリカバイソン」を「バッファロー」とよぶようになったのではないかといわれています。

 アメリカにいる「アメリカバイソン」はウシ科バイソン属に分類されるウシで,別名をアメリカヤギュウといいます。
 「アメリカバイソン」は,「ステップバイソン」(Bison priscus)という,第四紀(260万年前から現在までの期間)にヨーロッパ,中央アジア,ベーリング地峡と北アメリカの草原地帯で生息していた動物がいて,その一部がヤクと交配した子孫がアメリカに到達し,大型種へと発展した後に今度は小型化して生き残った子孫であると考えられるといいます。
 一方,「ヨーロッパバイソン」はアメリカに流入した「ステップバイソン」の子孫がユーラシア大陸に復帰した後に「オーロックス」(Bos primigenius)という牛のメスとの間に為したハイブリッド「ヒッグスバイソン」(ヒッグス=Higggs粒子に掛けた命名)の子孫であるとされるそうです。
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 このように,どんなことでも調べると奥が深くておもしろいものです。
 「バイソン」は臆病でおとなしいそうです。めったに人を襲いません。とはいえ…。
 私は,セオドア・ルーズベルト国立公園を車で走っているときに,道の真ん中で子連れのつがいの「バイソン」に出会い,車を停めて彼らが立ち去るのをじっと待ちました。しかし,そのとき,こっちに向かってきたらどうしようと動揺したことを覚えています。

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Approach of the Moon and the Saturn.

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●「また来いよ」と言われた国●
 今日からは,2019年6月25日(火)から7月1日(月),5泊7日のアメリカ旅行記である。
 2017年9月29日と30日のブログに「古の大望遠鏡は今-世界一を誇ったアメリカの象徴」と題して,私が訪れてみたいアメリカの天文台について書いた。そして,昨年の今年と同じ時期にそれを実行に移し,私はロサンゼルスに旅立った。そのときの旅の一番の目的はパロマ天文台(1番目と2番目の写真は今年写したもの)に行くことだった。
 しかし…。
 以下は2018年夏のアメリカ旅行記の抜粋である。
  ・・・・・・ 
 やがて,山の間にドームが見えてきて,これが夢にまで見た天文台だと感激した。そうこうするうちに,天文台の入口に到着した。天文台の公開開始時間よりも30分も早かったので,私は入口に車を停めて,ゲートが開くのを楽しみに待った。
 時折,天文台の職員が車で登って来ては,右側の関係者のゲートから中に入っていくようになった。彼らは私の車に手を振ってくれた。しかし,9時を過ぎて,いつまで待ってもゲートが開かなかった(3番目の写真)。
 中で何やら工事をしている人がいたので,大声で叫んでゲートまで来てもらって訳を聞くと,今週は駐車場の工事だから公開はお休みだと言うではないか。こんなことってあるのだろうか! よほど無理を言ってせめて望遠鏡くらい見せてもらおうと思ったが,誰ももうゲートには来なかった。
  ・・
 ともかく,今回の旅の一番の目的地だったパロマ天文台に行くことができなかったのが極めて残念なことであった。何とか近い将来行ってみたいものだが,今度はアリゾナ州のフラッグスタッフあたりに行くときに含ませるのがよいのだろう。しかし,どうすればそれが実現するかとなるとこれが難しいのだ。
 私にはロサンゼルスもサンディエゴもまた行きたいと思うような場所ではないが,フラッグスタッフに行くにはロサンゼルスから車で行くか,あるいはアリゾナ州のフェニックスまで行ってそこから車で行く必要がある。また,フェニックスに行こうと思っても,日本からは直行便がないから,結局どこかで乗り換える必要がある。それでも,日本からアメリカには午前中に到着するフライトが多いから乗り換えは不便ではないが,問題は帰りである。
 また,アリゾナ州の夏は非常に暑いから,それ以外の季節を選ぶほうが無難かもしれない。
  ・・・・・・

 その後,私はずいぶんと考え,その1年後に再びパロマ天文台を目指すことにしたのだった。そして,ついに,2年越しの夢を実現した。今年アメリカに行ってみて,また,アメリカへの想いがよみがえってきたのが,不思議なことだった。これは,昨年帰国したあとでは決して起きなかったことである。
 昨年の今ごろは,ロサンゼルスからフェニックスどころか,たかだか片道200キロメートルで行けるロサンゼルスからパロマ天文台への道のりすらずいぶん遠く感じていて,果たして再び行けるのだろうかとさえ思っていたのだから,人,いや,自分の気持ちは自分でも理解不可能なのだが,人のこころはうつろいやすい,いや,概してそんなものだ。今となっては,むしろ,ロサンゼルスからフェニックスまでも空路でなく車で走ったほうがよかったのになあと,そう思うようになったのもまた,不思議なことだ。
 なにはともあれ,私は,昨年行くことができなかったパロマ天文台に加えて,さらに,バリンジャー隕石孔とローウェル天文台という,これもまた長年行きたかったところを加えて旅をすることにしたのだった。 

◇◇◇


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☆☆☆☆☆☆
 今年の6月は雨ばかりでしたが,蒸し暑くなくずっと涼しくて,ひょっとしたら冷夏でないかと思ったのですが,7月になったら突然猛暑になりました。昨年の異常なくらいの猛暑の再現。もはや猛暑は特別なことではなく,これから先も毎年こうした夏になるのでしょうか? 暑いのは苦手なので不安です。
 私はこれまでに,標高4,200メートルのハワイ島マウナケア山頂に登り,カイルナコナの沖合では潜水艦ツアーで海抜マイナス30メートルまで潜り,カリフォルニア州のデスバレー国立公園では摂氏50度を経験し,フィンランドのロヴァニエミでは摂氏マイナス30度の屋外でオーロラを観察と,おそらく冒険家のような人を除いた多くの一般の人ではかなり過酷な自然を知っていると自負しています。高さに関しては,高山病という言葉があるように,標高の高いところに行くと不調になる人もあるようですが,まったくそういうことはありませんでした。しかし,気温に関しては,寒いのはどうにかなることがわかったのですが,暑いのはどうしようもないことだと身にしみました。それでもまだ湿度が低いデスバレーだったから摂氏50度といっても鉄板の上にいるようなものだったけれど,日本のように湿度まで高いと熱いお湯のなかに漬かっているゆでダコのようなものでしょう。
 来年の夏は東京でオリンピックがあるそうですが,私はまったく興味がありません。マスコミは高校野球同様に,それでお金儲けができるから否定的な意見は報道しないけれど,わざわざこんな日本の猛暑にやるなんて,どうかしています。とうてい理解しがたいことです。きっと死人がでます。チケット販売が大混乱という話がニュースで流れましたけれど,見にいく人はこの暑さも想定内なのでしょうか? 野外競技はもちろんのこと,たとえ室内競技であっても移動するときは炎天下のなかの大渋滞という洗礼を受けるわけで,そうまでして見にいきたい気持ちも理解できません。
 というわけで,軟弱な私は夏は気温が30度以下になる夜までは外出もせず,もっぱらクーラーの入った室内で秋を待っているという状態です。

 さて,家にいると暇に任せてネットばかり見ていることになるのですが,そのなかのニュースに,「国民的人気キャラの〈中の人〉が訴える着ぐるみ灼熱地獄」という記事がありました。今年2019年7月28日には,枚方市の遊園地「ひらかたパーク」で着ぐるみショーの練習後に着ぐるみに入っていた人が熱中症で死亡したというニュースもありました。
 そもそも,この猛暑,外にいるだけでも過酷なのに,着ぐるみという冬のオーバーコートをさらに分厚くしたようなものを着て,しかも踊るなんて,想像を絶します。私はテーマパークも行きませんが,着ぐるみを着た人の過酷な労働を考えると,テーマパークで遊んでいてもまったく楽しくないように思われます。この記事には,さらに,日本一有名な「あの夢の国」(そんな勿体ぶった書き方をしなくてもそれは「ディズニーランド」でしょう)で主人公(つまり「ミッキーマウス」でしょう)を3年ほど務めたことがあるというB子さんが猛暑のなか日当1万円前後という薄給で働いていたときの体験が語られていました。ディズニーランドでは時間管理が徹底しているらしく,20分以上は演じなかったそうですが,たとえ20分でも過酷です。私は,何か事情があるにせよ,そうまでして着ぐるみを着てこういう仕事をするという人の気持ちがよくわかりません。

 以前,果たしてミッキーマウスのなかに入っている人は,どういう気持ちで演じているのだろうか? ということをこのブログに書きました。
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 東京ディズニーシーの 「ビッグバンドビート」では,ミッキーマウスがステージ上で格好良く,しかも4本指にも関わらず,ドラムを演奏するのです。見ている人はこれをとても楽しそうに見るのですが,私がこれを見て思うのは,なかに入っている人は,かなりの腕前ですが,それでも,もし,ミッキーマウスの着ぐるみを脱いで同じショーをしたときに,これだけの観客が来るのだろうか,ということなのです。
 きっと,なかに入っている人は,はじめは,念願のパフォーマンスができて,とても満足するだろうと思うのですが,しばらくやっているうちに,「いったい俺はなんなのだろう?」という疑問が湧いてきて,自己矛盾にさいなまれるのではないか,と思うわけです。
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 このことに関して,私が今回取り上げた記事には,次のようなことが書かれてありました。
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 それでもなぜ(着ぐるみを着て)働くのか? そこには,味わった人しかわからない着ぐるみの魔力があるという。「着ぐるみの仕事って中毒性があるって,やってる子はみな言います。普段の生活では味わえない,お客さんがみんな笑顔で寄ってきてくれて喜んでくれる。それって人生でなかなか味わえない〈非日常〉だと思う。被っただけでスーパースターになれる。たまに戦隊やヒーローショーのお手伝いに行くこともあるんですけど,平日はサラリーマン,土日だけ仮面ライダーをやってるオジサンもいっぱいいます。辞められない,趣味としてやってる人もたくさんいます。給料だけじゃないんですよね。」
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 なるほど,これでわかりました。要するに,変身願望なのです。着ぐるみを着ることで,自分が素のままでは決してかなえられないスーパーマンになれるのです。おそらくそれは,コスプレに熱中する人や,中身は空っぽなのにブランド品のカバンを持った女性や,満足に走る道もないのに高級車に乗って車をかき分けて走るような男性と共通の心理状態なのでしょう。つまり,着ぐるみというブランドに身をつつむことで,しばし,普通ではなれない,手に入らない自分に変身させることができる,ということなのです。着ぐるみを着て演じることは,人に夢を与えることではなく,演じる人自身が夢を見るわけです。
 実力のない人ほど出世願望が強く,地位や名誉を欲しがるのもまた,着ぐるみと同じようなものなのでしょうか。

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星の旅FullSizeRender

 今年はずっと晴れません。
 私としては,2月にハワイで,3月と5月はオーストラリアで満天の星空を堪能したので,十分に満足しているのですが,日本で星見を楽しみにしている人はさぞ辛いことでしょう。おまけに,どっちみち星が見られないからいいとしても,10等星より明るい彗星ひとつすら地球に接近していません。
 こうなると大変なのは天文雑誌や望遠鏡メーカーです。もともと晴れていても満足に星が見られない日本なのに,月や惑星すら見られないのでは若い人が天文に関心を持つわけがないのですからたまりません。我が家の近くにある書店には,天文の雑誌が毎月4,5冊入荷しているのですが,月末になっても売れたのを見たことがありません。望遠鏡大手メーカーである高橋製作所の名古屋の直営販売店が閉店するし,小型の赤道儀が製造中止になるなど,望遠鏡はまったく売れていないように思われます。半年に一度も使うことができないのに中古車1台ほどもする高価で置き場に困るような大きなものを買う意味がないのです。

 そんな2019年なのですが,私は,念願だったパロマ天文台,ローウェル天文台,そして,バリンジャー隕石孔にも行くことができて,長年の夢が実現しました。念願のバリンジャー隕石孔に行ったとき,「星空の四季」という本のことを思い出したと先日書きましたが,実はもう一冊,思い出した本があります。それは「星の旅」という本です。
 この本は藤井旭さんが美しい星空を求めて世界中を旅した旅行記です。はじめ単行本として出版されて,のちに文庫本となりました。私は単行本として出版されたときに購入して何度も読みました。まだ家にあるものと思い込んでいたのですが,探しても探しても見つかりません。そこで,ネットで古書を探してみると,単行本は1万円以上の異常な値段がついていました。が,文庫本なら1円だったので,さっそく入手しました。そして,その後,単行本も安価で手に入れました。

 届いた本を改めて読み直してみましたが,若いころに読んだときには,書かれてあるすべてのことが夢物語のような気がしたのを思い出しました。モンゴルからニュージーランド,オーストラリア,イースター島にバイカル湖,アリゾナにアマゾンにガラパゴスにニューギニアにと,よくもまあ,こんなに多くのところに行くことができるものだ,言葉はどうするんだ,旅費はどうするんだと,そのころは思いました。
 そもそも,藤井旭さんという人は,ものすごく本が売れた人なので,お金持ちです。しかし,旅行の半分は仕事ですから,お金の問題はたいしたことはなかったように思えます。それよりも,旅先で現地の人たちと楽しく交わっていることが驚きです。藤井旭さんは英語も堪能なんだなあ,と。
 そんな私も,このごろはこの本に書かれてあるのと同じような海外旅行ばかりしていて,よくもそんなに行けるものだと周囲の人はあきれています。しかし,旅行というのは,皆既日食ツアーが90万円とかそういうことしか知らない人にはわからないでしょうが,個人で行けば思ったほどお金がかからないということがわかりました。言葉は通じるのかと聞かれます。しかしこれも,現地の人と話すことも別に大した事でもないなあ,それほど驚くに値しないことだなあとわかりました。要するに,日本の英語教育がなっていなくて,言葉を使えるようにするどころか,言葉の壁を作りそれを強固にしているだけのようなところがあり,苦手意識を植えつけているだけで,実際は,言葉なんて思っているほど大変なものでもないのです。
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 いずれにしても,ディジタルカメラで簡単に星の写真を写すことができて,インターネットで簡単に旅行の予約ができるようになった現在とは違って,この本が書かれた30年以上も昔に,すでにこんな経験をしたということがすごいのです。そしてまた,私も,それに負けないくらいの経験ができるようになったという自分に対する満足感をもって,この本を改めて読むことができる喜びを感じます。この本とともに,私は「ふたたびキットピークへ」という本も愛読していて,ずいぶんと感化されているのですが,こちらの本はどういうわけか今も私の手元に確かにあります。

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 一般のカメラがフィルムからディジタルカメラに変わったように,天文台の望遠鏡による写真もまた,写真乾板からCCD,そしてCMOSへと変わっていきます。
 しかし,問題だったのは,初期のCCDは小さく,せっかく望遠鏡が広い視野の像を結んでも,それを受けとる受光素子がなかったということでした。また,1台の望遠鏡のために特別に受光素子を開発できるものではないから,流用する必要がありました。しかも,シュミット望遠鏡の焦点は曲面なので,平面のCCDでは使えません。
 こうした事情で,シュミット望遠鏡の存在価値がなくなっていきました。視野が広いというのがシュミットカメラの特徴なのに,写した写真の視野が狭いのであれば,口径のより大きな反射望遠鏡にかなうわけがありません。そこで,シュミット望遠鏡は冷遇されるようになっていきます。当然,新しいシュミット望遠鏡も作られなくなりました。そのころは,パロマ天文台にあるサミュエル・オシン望遠鏡も遊んでいたといいます。

 こうして,写真乾板がディジタル画像素子に変わってから,より大きな素子の開発が急務となっていきました。
 木曽のシュミット望遠鏡も,1980年代後半からCCDを用いた観測装置の開発がはじまり,ついに,受光面積が小さいという欠点を補うためにCCDを複数並べるモザイクCCDカメラを完成させました。
 1987年に100万画素CCDカメラ(1K-CCD)を開発,1997年からはその後継にあたる400万画素CCDカメラ(2K-CCD) と近赤外線カメラ「KONIC」が搭載され,電子処理されたデータに基づいてコンピュータで解析を行うようになりました。
 2012年になると,さらに広視野化を実現した「Kiso Wide Field Camera=KWFC」が運用されるようになりました。これは,浜松ホトニクス株式会社製の2,000×4,000画素(800万画素)のCCDを8枚(6,400万画素)並べ,2度角四方が一度に観測できる世界最大級の広視野カメラでした。
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 ハワイ・マウナケア山頂にある日本のすばる望遠鏡には,2012年,最新鋭の「Hyper Suprime-Cam=HSC」(Subaru Prime Focus Camera)が開発され,直焦点に搭載されました。HSC は満月9個分(約5度角四方)の広さの天域が一度に撮影できるという世界最高性能の超広視野カメラです。独自に開発した116 個の浜松ホトニクス株式会社製CCD 素子を配置し,合計8億7,000万画素を持つ巨大なデジタルカメラとなっています。光学収差や大気分散を補正するための補正光学系はキヤノン株式会社によって製作されました。
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 そして,2014年から開発を開始し2019年4月に完成した最新の超広野カメラが「Tomo-e Gozen」です。名前は,木曽義仲とともに源平合戦で活躍したとされる女武者「巴御前」にちなんで名づけられたもので,まさに,木曽観測所にふさわしい粋な命名です。
 この世界初の天文観測用モザイクカメラは超高感度CMOSセンサを84枚並べ,シュミット望遠鏡の9度ある全視野をカバーするものです。キヤノン株式会社のフルサイズ一眼レフカメラに搭載されているCMOSセンサーを84枚並べたようなものというわけです。
 現在,一般のディジタルカメラも受光素子はCCDからCMOSに変わりましたが,CMOSセンサはCCDに比べて高速にデータを読み出せるのが特徴で,その特徴を生かして動画観測が行えます。シュミット望遠鏡は,その焦点に結ぶ像が球面になるので,昔の写真乾板も球面にしてありました。そこで,超広野カメラもまた球面にする必要があります。聞いてみると,それぞれのCMOSは平面ですが,それをモザイク状にしたときに球面になるようにしてあって,これで精度が保たれるそうです。「Tomo-e Gozen」はすばる望遠鏡のHSCよりも1世代新しいものといえます。
 ディジタルカメラの受光素子というのは,日本の工業技術の最後の砦です。日本以外の国の会社ではこうしたものを作ることはできません。海外の天文台からも,問い合せが来ているそうです。

 作られて半世紀が過ぎようとするニコン製のシュミット望遠鏡は,こうして「Tomo-e Gozen」というキヤノン製の新しい目を得てリニューアルされ,生まれ変わりました。
 ただし,フィルムカメラからディジタルカメラに変わってカメラマンンの撮影方法が変わったように,天体写真も1枚1枚時間をかけて撮影する手法から短時間の露出でくまなく天体をほうきで掃くように写していく手法に変わったので,そのような目的で作られていない設計の古い赤道儀がこうしたタフな撮影に耐えられるかどうかが問題だそうです。
 最新式の望遠鏡はたくさんの小さな反射鏡を集合させ大口径にして光を集め,作りが簡単で軽量な経儀台をコンピュータで稼働させるように変わりました。赤道儀式の架台をもった1枚鏡のシュミット望遠鏡のような設計の古いものは,今後新たに作られることはもはやないでしょう。そう考えると,少しでも長く,この望遠鏡が活躍することを願ってやみません。

 この日の特別公開は,いろんなお話が聞けて,また,興味深いさまざまな機器を見ることができて,しかも,設置されたばかりの「Tomo-e Gozen」を見ることができて,とても有意義なものとなりました。しかし,期待した青空はどこかに行ってしまい,そればかりか,雷が鳴り響き,大雨が降ってきて,楽しみにしていた星を見ることができないのは残念でした。
 こうした研究施設を見学して,最新式の技術と学問に接するたびに,コンピュータすら満足になかった私の学生時代を思い出し,あと40年ほどあとに生まれていたらよかったなあと思います。

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●突然ファーストクラスへアップグレード●
 搭乗時間になったので,機内に入って座席についた。めずらしくアップグレードもなく,ひさびさのエコノミーは狭くうんざりした。通路側であることだけが救いであった。隣の窓際席にはフィリピンに帰国するという男性がいた。
 出発を待っていると,突然,客室乗務員から名前を呼ばれた。搭乗する直前にアップグレードになる場合はよくあるが,もう座席についていたので,びっくりした。席の変更ですと言われた。何とファーストクラスにアップグレードだそうだ。おもわずニッコリしたら「嬉しそうですね〜」とからかわれた。

 私はゴールドステータスなので,普段,購入する座席は安価なエコノミーでも,国際線はほぼエコノミーコンフォートにはアップグレードされるし,アメリカの国内線はファーストクラスにアップグレードされる。しかし,国際線でファーストクラスへのアップグレードというのは対象外なのである。
 おそらく,ファーストクラスで突然キャンセルが出たのであろう。そして,一人旅で,かつアップグレードの優先順位が高かった私にその特典が回ってきたのだろう。噂では,こういうときのアップグレードというのは,用意された食事を無駄にしないための処置,つまり,胃袋替わりだそうだが,そんなことは私にはどうでもいいことで,これは幸運以外の何物でもなかった。
  こうして,往復10万円にも満たない運賃で成田とシアトルの往復をしたのに,復路をファーストクラスで過ごすことになった。はじめに座っていた席の周りの人たちに「グッバ~~イ」と言って,席を移動した。

 搭乗が終わった機内であったが,なかなか飛行機は飛び立たなかった。飛行機の離陸というのは,滑走路の脇で数珠つなぎに順番待ちをする。混雑する時間だと30分以上も待つことがある。飛行時間というのは搭乗を終わってから離陸までの時間も含んでいるので,実際は,空を飛んでいる時間というのは書かれてある飛行時間よりもかなり短いのだ。この時はそれに加えて,オーディオシステムの不具合ということで再起動を繰り返していた。こういう不具合には結構出会う。何百億円もする最新の技術の塊のような飛行機なのに,オーディオひとつ完璧に作動しないというが不思議というか,心配というか,こんなことで安全なのか,このあたりのことが私にはよくわからない。何百万円もする車に装備されている時計がスマホの時計より正確でないのが私には不思議極まりないのだが,それと同じことだ。
 飛び立つ前,私は,ファーストクラスの装備を物珍しそうにいじくりまわしていた。客室乗務員からガラスの器に入った飲み物が運ばれてきた。
 やっと離陸した。

 ファーストクラスの利点は,フルフラットになるシートと豪華な食事である。ここまで贅沢な食事は必要がないようにも思えるのだが,フルフラットシートはくつろげる。こうしたシートで旅行をするのなら,長い時間のフライトも悪くない。
 この数年後,私は格安航空というのに乗ってオーストラリアに行ったが,食事は別料金で頼まないと出てこないしさらに飲み物ひとつそれとは別の料金だし,映画を見るにもお金がいるし,カバンを預けるにも名古屋から東京まで新幹線に乗るほどの別料金が必要だし,座席は狭いし,客室乗務員は仕事もせず本を読んでいたし,いったいこの差はなんだろう。まさに,飛行機の機内はカースト制である。
 クラシック音楽のコンサートで年老いた指揮者が日本に来るのは大変そうに思っていたが,このようなファーストクラスを利用するのならそれほど大変なことではないのかもしれないと思ったものだった。
 私は,これ以前にも,この後も,何度かファーストクラスに乗ったことがあるが,このときのファーストクラスがもっとも豪華であった。私の隣の席は,いかにもファーストクラスに乗りなれたという感じの若い女性であった。どういう身分なのだろう? と思った。世の中にはいろんな人がいるものだ。

 何度か出た豪華な食事を食べ,勧められるままに飲み物を飲み,アイスクリームを食べ,映画を見,さらに,うたたねをしたりして,時間はあっという間に過ぎていった。せっかくの贅沢な時間をもっと満喫したいものだと思った。これなら20時間でもいい。やがて,ブタになりかけたころ,日本に戻ってきた。
 アメリカからの帰国便は昼が8時間増えることになるから,時差ボケもほとんどないし,帰国後にたっぷり寝られるから機内で寝る必要もないので,夜が8時間減ってしまう行きに比べてずいぶんと楽である。シアトル出発から9時間後,6月だというのに暑い成田に着陸した。
 今思うに,この旅が私の旅したなかで最も充実した旅だったように思う。

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 木曽観測所にあるシュミット望遠鏡(Schmidt telescope)というのは,反射屈折望遠鏡の形式のひとつですが,写真撮影専用なので,見るための望遠鏡ではありません。シュミット望遠鏡は視野の広い望遠カメラというが長所です。作られたときの雑誌の記事に,この望遠鏡は見る機能も併用されているというような記事があったのですが,実際にそのように使われたというのは聞いたことがありません。
 反射望遠鏡の主鏡が放物面であるのと違って,シュミット望遠鏡の主鏡は球面鏡なので,製作が簡単です。絞りを球心位置に置いて非点収差とコマ収差を除去し,4次関数で表される非球面の薄いレンズ(補正レンズ)を置くことで球宇収差を除去するようになっています。そこで,補正レンズを作るのが難しいのです。また補正板の口径が大きくなってくると補正板はレンズなので屈折望遠鏡と同じく色収差が増大してしまいます。そこで,あまり大きな口径のものが作れません。
 さらに,作られる像面が主鏡の球心と同一位置に球心を持つ凸球面になる像面湾曲があるために,焦点に置く写真乾板は湾曲させる必要がありますし,鏡筒が焦点距離の2倍の長さになってしまうため,かなり大きい架台が必要になります。

 シュミット望遠鏡として名を残すのは,右手のなかったエストニアの光学技術者ベルンハルト・シュミット(Bernhard Schmidt)です。1905年,ベルンハルト・シュミットは,左手だけで研磨できるように,主鏡を球面、副鏡を4次以上の項を含む高次双曲面とする方式の望遠鏡を編み出しました。これがのちにシュミット望遠鏡といわれるようになりました。1935年,フィンランドの天文学者ユルィヨ・バイサラ(Yrjö Väisälä)はシュミット式望遠鏡の優秀性を説き,これでシュミット式望遠鏡は国外に有力な支持者を得ることになりました。
 シュミット望遠鏡は広い視野を得ることができるために,1950年から30年余りの間に一世を風靡しました。
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 最も口径の大きなシュミット望遠鏡は1960年,ドイツのカール・シュヴァルツシルト天文台(Karl Schwarzschild Observatory )に作られた口径134センチメートルのものでしたが,現在は使われていません。
 その次に大きいのが,1949年アメリカのパロマ天文台に作られ,現在「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)とよばれている口径126センチメートルのものです。現在は写真乾板をCCDに変えて,準惑星の発見などに活躍しています。
 そして,3番目がオーストラリアのサイディングスプリング天文台にある有効口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)で,その次が,この木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡です。
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 1974年に完成したこの105センチメートルシュミット望遠鏡はF3.1。日本光学工業(現ニコン)製で,6度四方という広い視野を持っています。この望遠鏡が作られたときのことは,1975年に発行された広瀬秀雄さんの書いた中央公論社発行の自然選書「望遠鏡-美しい星の像を求めて-」という本のなかの「より広い視野を求めて-日本で大型シュミット・カメラが生まれるまで」に詳しく書かれています。 
 このように,待望の広視野望遠鏡が生まれたわけですが,2000年を境に時代はディジタル化が進み,写真乾板を使って広視野の写真を写すことができたシュミット望遠鏡は時代に取り残されることになっていきました。

☆☆☆
Star Festival 2019

七夕

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☆☆☆☆☆☆
 これまで何度も東京大学木曽観測所のことはこのブログに書いていますが,今年もまた夏の特別公開が8月3日土曜日と4日日曜日にあったので,1日目に行ってみました。1日目は天気がよければ夜間の観望会があるということだったので満天の星空を借景にしたドームの写真を撮ろうと,それも楽しみでした。
 この観測所にある観測機器は口径105センチのシュミット望遠鏡ですが,普段はガラス越しに見ることしかできません。特別公開ではドームに入ることができるので,間近に見ることができます。今回行ってみて,私はドームに入ったことがないと思いこんでいたのですが,ずいぶんと昔の特別公開に来たとこがあって,そのときに一度入ったのを思い出しました。望遠鏡はそのときと大きく変わったことがあるのですが,そのことはまた後日書きます。

 私は,子供のころから,星を見ることよりもむしろ望遠鏡に興味がありました。それも,望遠鏡で星を見ることでなく,望遠鏡という機材を見るのが好きだったのです。
 頻繁に海外旅行をするようになった今は,昔あこがれていた世界中の天文台へ行ってそこにある望遠鏡を見ることができるのが幸せなのですが,それまで写真でしか見たことがなかった望遠鏡の実物を見たり説明を聞くと,ますます知識が増してよりおもしろくなってきました。
 そうした数ある天文台の望遠鏡のなかでも,私はこの木曽観測所にある口径105センチのシュミット望遠鏡が一番好きなのです。それは,この望遠鏡が作られたころに天文雑誌や天文年鑑の表紙を飾ってそれを見てあこがれたことと,シュュミットカメラというなんだかプロ好みな機材であることと,日本光学という会社が必死に作ったものであることと,望遠鏡自体の格好がいいからです。
 しかし,このシュミットカメラという種類の望遠鏡は,21世紀になってからしばらくの間冷遇されていました。その理由もまた後で書きます。それが,昔のアイドルタレントが売れなくなって低迷したのち,歳をとって突然第二次ブームが来ることがあるように,シュミット望遠鏡もまた,このごろになって再び脚光を浴びてきました。
 
 そうしたことは次回にして,今日は,私が世界中の天文台に行くようになって感じた日本の天文台の印象について書きます。
 海外の天文台に行くと,大概一般の人のための立派なビジターがあって,そこでどんな研究をしているかという説明パネルや模型があります。レストランやカフェもあることが多いです。施設はたえずメンテナンスされているので,きれいで豪華です。
 望遠鏡もまたしっかりメンテナンスされていて,年代モノとは思えぬほどです。アメリカやオーストラリアの研究施設にある望遠鏡は,維持にすごくお金をかけているように思えます。それに比べると,日本は本当に貧弱で気の毒です。これでは学者さんがかわいそうです。日本の研究施設にある望遠鏡は痛々しいくらいひどいです。ドームもさびているし,望遠鏡もテープが張ってあったり塗装がはげ落ちていたりと痛々しい状態です。天文台自体もまた,見学ブースに簡単な説明展示はあっても,レストランどころかビジターセンターさえありません。
 そうしたことに加えて,この観測所の望遠鏡には,反射鏡の再メッキをするための設備がないので,そうする必要があるときは反射鏡を多くの人の力で取り外して梱包して,再メッキ施設のある岡山まで送るのだそうです。はじめは作る予定だったのに,予算がつかなかったということです。それは,日本の学校に食堂や講堂がなく,食事は教室で,講堂の代わりは体育館で,というのと同じです。私が先月行ったアメリカのパロマ天文台の200インチ反射望遠鏡では,1階に反射鏡の再メッキをする立派な施設が当然のごとくあって,それが望遠鏡以上に重要なことで,見学コースはその説明からはじまりました。ドームのなかもきちんと整理されていて,ドームをメンテナンスするためのエレベータもありました。当然,トイレもありました。ウイルソン山天文台の望遠鏡も同様でした。

 日本では,研究施設に限らず何ごともみな,こういう感じです。サンフランシスコのゴールデンブリッジではペンキを塗り直すためのゴンドラが橋に沿ってはじめから作られていますが,日本ではその必要があるたびに足場を作ります。
 話は逸れますが,今年のヨーロッパは異常な猛暑で,ドイツも最高気温が40度を越しているそうです。しかし,日本とは違ってクーラーさえない場所が多いそうです。どうやら,どこも寒いくらいにクーラーの入ったアメリカとは違うようです。で,ドイツ人はこの猛暑をどう対処するかというと,学校や仕事を休みにしてしまうのだそうです。さらに,電車さえ運休になったりするそうです。ドイツ人もまずはクーラーを入れることを検討するそうですが,ドイツでは,きちんとクーラーを設置する場所を整備して配線なども隠し建物の美観を考えてから,クーラーを設置しようとするのだそうです。当然すごくお金も時間もがかかります。なので,なかなかクーラーが入らないので,休みにしてしまうのです。日本なら,とりあえず,壁に穴をあけたり,無理やり天井に配線むき出しでも,ともにかくクーラーをつけて冷やすという目的だけかなえてしまい,景観やら美観など知ったこっちゃありません。こういう話を聞くと,日本では道路や町の外観などがすべてが汚らしくぐっちゃぐちゃである理由がもとてもよく理解できるというものです。
 そういう国民性だから,望遠鏡もまた,改良をするとなると配線はむき出しのまま,ドームのなかには不要になった道具が散乱していても気にしないということになります。また,チキンとしたくても,そんなことに予算がつかないわけです。このように,研究施設だけでなく,公立の学校や大学がぼろいのも,日本全体がぼろっちく,町も美しくなく,道路もやたらと棒が設置されていたり,道に塗ったペンキがはがれていても平気だったり,ガードレールがさびていてもそのままなのは,すべてこういうことなのだなあと改めて感じ,寂しくなったことでした。 

◇◇◇

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●幸運に恵まれた旅の最終日もまた●
☆6日目 2016年6月29日(水)
 いよいよ最終日になった。今日は帰るだけである。シアトルはアメリカ本土で日本から最も近い都市だから,帰るのはとても楽である。フライトはお昼の12時過ぎだから早朝に起きる必要もなく,ぐっすりと睡眠をとって7時に起きた。
 アメリカ旅行で大変なのは日本への直行便のない地方都市に出かけたときである。そうした場合は早朝のフライトに乗って,シアトルなどでトランジットをしなければならない。
 私が泊まるようなアメリカのふたつ星の安価なモーテルは,単に泊まるだけのところなので,朝食がついていないことが多い。しかし,私は空港のデルタワンラウンジを利用する権利をもっているので無料の朝食が食べられるから,それで何の問題もない。
 そこで,この日もまた朝8時にチェックアウトをして空港に着いて帰国便のチェックインを済ませ,ラウンジで朝食をとることにした。

 シアトルではタコマ空港に接続する道路をインターナショナルストリートというが,ホテルからその道路に出て,そのまま次の交差点を左折したところにレンタカーリターンがあった。シアトルでは巨大な駐車場がそれぞれのレンタカー会社のパーキングとなっている。車は返すだけなのでわずか数分で済ませ,そのままシャトルバスでターミナルまで行った。
 シアトルのような大都市の空港のターミナルは朝はすごく混雑している。これを書いているこの旅の3年後の今は,スマホのアプリで帰国便のチェックインを済ませ,荷物は機内にキャリーオンにしているので,いくら混雑していても関係がないということを知っているが,この旅をした時点では私にはそうした知恵がなかった。
 しかし,一般客用のチェックイン機は長い列ができていたが,プライオリティのほうはガラガラで,5〜6台あったチェックイン機(キオスクという)はすべてあいていた。キオスクは以前はパスポートをなかなか読み取ってくれなかったのだが,機械が改良されたのかすんなりと読み取って搭乗券をすぐに手に入れることができた。荷物もすぐに預けて,セキュリティを通った。
 セキュリティもまた,空港によってずいぶんと違う。田舎の地方都市だとすぐに通れるのだが,シアトルのような大都会では,これもまた長蛇の列になる。しかし,ここもまた私はプライオリティラインから入れるので簡単にそれをすり抜け,すぐにターミナルに到着した。アメリカには出国手続きというのはない。
 アメリカの空港にはTSA Pre という特権があって,アメリカ在住だとお金を出してそれを手に入れるのだそうだが,日本人はデルタのゴールドステータスになれば,この権利を使うことができた。せっかくその権利があるのに知らない人もいるらしい。

 あとはラウンジで出発時間を待つだけであった。
 ラウンジというのもまた,さまざなランクがある。カード会社のゴールドカードの特典として利用できるところ,プライオリティパス(私も持っている)で利用できるところ,そして,航空会社のゴールドステータスをもっていると利用できるところである。
 このうち,カード会社のゴールドカードで利用できるようなラウンジは単にソフトドリンクが飲み放題だけの待合室のようなものだし,プライオリティパスで利用できるラウンジは,空港によってずいぶんランクの違いがある。 航空会社のゴールドステータスで利用できるラウンジが最も豪華だが,盛んに宣伝しているJALやANAのような日本の航空会社のゴールドカードを持つステータスでは,日本の空港とハワイのラウンジくらいしか利用価値がないので,実際はほとんど意味がない。そういう意味ではデルタ空港のゴールドステータスがアメリカ国内の空港を利用するときは最強である。

 この日もまた,搭乗時間まで食事をしたりネットで日本のニュースをチェックしたりして過ごした。
 インターネットというものがなかったころは,日本に帰るまで日本で何が起きているのかさえわからなかったから,それなりに心配でもあり,また,楽しみでもあった。今の私と違って,日本のプロ野球に興味があったので,2週間も日本を留守にすると順位がとんでもなく変わっていたりしておもしろかった。しかし,今や,世界中どこにいても同じ情報が手に入るから,帰国してから旅行中にたまった新聞を読むという楽しみもなくなった。
 さて,いよいよ搭乗時間となった。
 今思い出すと,この旅は幸運に恵まれたことだらけであった。帰国便の混雑した機内,ここでもまた,私は望外の幸運が訪れるのである。

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●何事も運だということを痛感する。●
 2年連続で岩隈投手が先発するゲームを見たというのもまた幸運なことであった。
 岩隈久志投手は現在は日本のプロ野球に復帰したらしいが,私は,メジャーリーグの選手には興味があるが,日本に復帰したメジャーリーガーはまったく興味もないし,見たいとも思わないから,今のことは知らない。唯一の例外として,何を血迷ったか,一度だけ神宮球場で日本のプロ野球を見たのだが,そのときの先発が石井一久投手であった。私はヤクルトに復帰していたことすら知らなかったから,何をやっているんやらと思った。それにしても,神宮球場はひどかった。アメリカの3A以下の野球場であった。
 ところで,岩隈久志投手がシアトル・マリナーズに在籍したのは2012年から2017年までで,それほど期待もされていなかったが,63勝もあげた。私が見たのはこの年と前年,つまり,2015年と2016年の全盛期だった。

 ゲームが終了して,道路を隔てたところにある駐車場まで行った。昨年はボールパークから直接アクセスできた場所に停めたが,今回は安価なパーキングにしたので,少し歩く必要があった。どちらにせよ,シアトルは治安が悪くないから,こうして夜の町を歩いていても安心なのである。
 そういえば,数年前,はじめてシアトルに来たときにはスペースニードル(Space Needle)の近くに車を停めたので,ボールパークからは公営バスに乗らなければならず,バスが来るまでずいぶんと待ち時間があって不安になったことを懐かしく思い出す。そのときは,その後にシアトルという町に何度も来ることになろうとは夢にも思わなかった。

 車に乗って予約したホテルに向かったが,しかし,暗くて道路がよくわからず,今とは違ってカーナビ代わりに iPhone を使うことも知らなかったので,レンタカー会社で借りたカーナビに表示したホテルが同じ名前の別のホテルだったりして違うホテルに着いてしまったりと苦労した。
 やっと予約したホテルに着くと,フロントには先客がいて,チェックインにずいぶんと待たされた。彼らはセルビア人の飛び込みで,なんでもアメリカに着いたばかりで手持ちがユーロしかなく,そのためにフロントで宿泊を断られてもめていた。日本ではそうあることではないが,こういうのが世界基準で,自分の準備不足を棚に上げてやたらと権利を主張するのである。おそらく彼らは何事もこうしてムダに時間を使って生きているのであろう。彼らが引き下がらないものだからなかなか私の番が来ず,いらいらしていると,なんと彼らは私にユーロの両替えを頼んできた。かわいそうだったので助けてやろうと思ったが,どうも胡散臭かったので断った。そのころの私はユーロ紙幣すら見たことがなかった。
 海外で不安を感じるのはこういうときであり,最も注意しなければならないのもこういうときである。
 
 そんなこんなで,早くチェックインをしたかったのに,ごたごたしてずいぶんと時間をロスしたが,なんとか予約したホテルにチェックインすることができた。明日は帰国するだけなので,テレビを見て夜を過ごした。部屋に入るとすでに 深夜12時であった。
 私がアメリカに行ったときに楽しみにしてる番組が,いつも書くように  NBC の「The Tonight Show Starring Jimmy Fallon」である。しかし,NBC が何チャンネルかを探すのに一苦労する。そして,何時から放送されるのかを調べるのがまたひと苦労である。やっとのこと探し出したら,ちょうど放送中であった。この番組を見ていると,いつものように,アメリカに来たなあ,と思うのだった。

星空の四季 1966年から1986年までの20年くらいの間は,私のような星好きの子供たちにとって夢のような月日でしたが,それが終焉を迎えたのは,おそらくハレー彗星のころだったように思います。
 ハレー彗星で大騒ぎをし,望遠鏡が売れに売れ,その結果,ただでさえ小さな望遠鏡会社が出来もしない増産をするために過剰な設備投資をした(させられた)のです。それ以降も天文ブームが続けばいいのですが,ハレー彗星も,接近する前からわかっていたのにもかかわらず,商売上過剰な期待を抱かせたために,その反動で,まったく見えなかったこととその後の不景気も手伝って星への興味も失せ,望遠鏡会社が軒並み倒産したのです。

 当時に比べて現在は,学問としての天文学は飛躍的に進歩しましたが,アマチュアの星好きには,夢がなくなりました。それに加えて,天気が悪く空の明るい日本では,どこへ行っても星がほとんど見えません。これで,子どもたちに星に興味を持てといっても無理があります。近くにある書店に毎月並ぶ天文雑誌ですが,残念ながら,1冊として売れていたことがありません。望遠鏡だって,おそらく,ほとんど売れないでしょう。
 これまでずっと星好きだった私は,本当の星空を見たいときはオーストラリアに出かけます。普段は,家の近くで,もっぱら彗星の写真を写していますが,それにしても汚い日本の夜空です。それでも,現在の技術,つまり,ディジタルカメラなどを使えば,1980年代では夢だったくらいの水準の写真なら簡単に写せますから,その程度で満足,というか,満足するしかないのです。そうしたときに参考となるのは,そしてまた癒しになるのは,当時出版された夢のいっぱい詰まった本なのです。

 以前,ブログに,星好きの「バイブル」として3冊の本を取り上げましたが,その当時,毎日のように手に取って眺めていた本であればあるほどどこかに行ってしまって見つからないか,あるいは,ボロボロになってしまっています。しかし,そうした本の多くは,ネットで探してみると,ずいぶんと安価に古書が手に入るのです。
 そこで,星好きの「バイブル」の続編として,そのような本からいくつかを紹介してみたいと思います。
 今日取り上げるのは「カラーアルバム 星空の四季」です。家じゅう探しても見つからなかったこの本を,ただ同然で再び手に入れました。送られてきた本は,発売から30年も経っているというのに,ほどんど新品であったのに驚きました。
 私がこの本を思い出したのは,この2019年6月末に出かけたアリゾナ州のバリンジャー隕石孔がきっかけでした。この本のなかに,著者である藤井旭さんが,バリンジャー隕石孔(この本には「アリゾナ隕石孔」と書かれています)に座っている写真があったなあということを覚えていたからです。入手した本で改めて探してみると,私が覚えていたその写真だけでなく,フラッグスタッフにあるローウェル天文台の写真もたくさん載っていました。
 こうした場所が私の原風景となって,今でも強く記憶に残っているのですが,今,この本を読みなおしてみると,憧れだったそうした場所に実際行くことができたという喜びが湧いてくるのです。 

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●今年も先発は岩隈久志投手だった。●
 この日の晩はMLBシアトル・マリナーズのゲームを見ることになっていた。ゲームのチケットも,駐車場の予約もしてあった。しかし,インターステイツ5に入った途端渋滞に巻き込まれて,開始時間に間に合うかいな? と心配したが,渋滞から脱してこのまま直接ボールパークへ行けばゲームに間に合いそうだったので,ホテルにチェックインしてからボールパークに行くという予定を変更して,そのままボールパークに行くことにした。
 実は,昨年シアトルに来たときもベースボールを見た。そのときは駐車場は予約していなかったが,値の張る公式駐車場に空きがあったのでなんとか駐車することができた。そのときに停めた駐車場というのが狭いスペースだったが,私はアクロバティカルにバックで駐車して,周りの喝さいを浴びたのだった。今回は,あらかじめもう少し安価な駐車場を予約してあった。

 MLB,昔は駐車場の心配などしなくても無料の駐車場にいくらでも車を停めることができたのだが,近ごろはゲームのチケットを買うよりも駐車場のほうが高いような状況になってきた。いくら高くても車はどこかに停める必要があるので足元を見られているかのようだ
 私は,この数か月後,フロリダ州のマイアミに行ってマイアミ・マーリンズのゲームを見たのだが,事前に公式駐車場の予約をしていなかったために駐車することすらできなかった。仕方なく,民家の庭のスペースを駐車場として営業していたところに車を停めた。これではまるで日本だ。
 駐車場が異常に高いのはなにもMLBに限ることではなく,ダウンタウンにあるホテルに宿泊するときも同様で,宿泊代より駐車場のほうが高いほどなのだ。これはアメリカだけに限らずオーストラリアも同様である。近頃の世の中は本当にどうかしている。

 道路標示に従ってインターステイツ5を降りて,一般道をボールパークに向けて走った。遠くにマウントレイニーの美しい姿が見えた。この季節のシアトルは気候もよく過ごしやすい。私は何度もシアトルに行ったが,いつもこの時期なので天気がよいから,そういうイメージしかないのだが,この町は夏場以外は天気が悪く,冬も寒いという。
 予約をしてあった駐車場は,指定された公式駐車場のなかでも駐車料金が安いところだったので,ボールパークからは道を隔てた少し遠いところにあった。駐車場に着いてはみたものの,どこに停めればいいのかといったシステムがわからず戸惑ったが,近くにいた人に尋ねてなんとか車を停めることができた。尋ねた人もボールパークに行くところだったので,車を停めてから一緒に歩いていった。話をしてみると,なんでも彼はチケットオフィスのスタッフだということだった。「今日は球場お客さんすくないよ。駐車場の料金が安いからわかる」ということだった。駐車料金が需要と供給で変わる,これもまたアメリカらしい話だ。この日のゲームの相手チームはは不人気チームのパイレーツだった。

 昨年見たときの先発は,偶然岩隈久志投手だった。ついていると思ったのだが,その次のローテーションで投げたゲームで,なんとノーヒットノーランをやってのけたので,がっかりした。
 しかし,今年もまた岩隈久志投手が先発だったのには驚いた。こういう偶然というものもあるのだ。私はこうした偶然で,これまで,ダルビッシュ有投手も見たし,前田健太投手も見たし,ランディ・ジョンソン投手もみた。野茂英雄投手だけは登板するまでその地にいて,そして見た。
 シアトル・マリナーズのボールパークの名前は今年から変わったが,このときはセイフコフィールドだった。セイフコフィールドにはお寿司屋さんがある。私はこれまで来たたびにそこでお寿司を買ったので,今回も行ってみた。お寿司を買っていると,店長さんに声をかけられた。そして少しお話をした。それが縁でこの店長さんと知り合いになった。思いがけない出会いというものがあるものだ。
 この日岩隈久志投手は7回途中で降板したが勝ち投手になった。この日もまた,私はゲームの終了を待たず,セブンスイニングストレッチが終わったところでボールパークを後にした。

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☆☆☆☆☆☆
 パークス天文台(Parkes Observatory)はオーストラリア・ニューサウスウェールズ州パークスにある電波天文台です。口径64メートルの電波望遠鏡を核とする電波天文台で,アメリカ航空宇宙局のディープスペースネットワークキャンベラ深宇宙通信施設の口径70メートルに次いで南半球では第2位の口径をもつものです。
 内側の直径17メートルが高精度アルミパネル,その外側から直径45メートルまでは穴のあいたアルミパネル,その外側は鉄線のメッシュになっています。観測可能な周波数は400ミリヘルツから43ギガヘルツです。
 1961年に建てられたパークス天文台は,現在基本的な構造だけを残して最新の電波望遠鏡として機能するようアップグレードされています。特に,パルサーの観測に力を入れていて,世界中の他の電波望遠鏡によって発見されたパルサーの数を全部合わせてもパークス天文台で発見されたパルサーの数には敵わないそうです。
 今年2019年3月,私はシドニーから車で5時間かけてこのパークス天文台を訪れました。パークス天文台の電波望遠鏡こそ,50年前にアポロ11号が月から生中継をしたときの電波を受信したところです。
 もともとはほかの追跡基地をバックアップするための場所だったのに,打ち上げ間際の変更によって,アメリカの正反対の国にあるこの電波望遠鏡が大仕事を仰せつかることになったのです。

 この出来事を元にして2000年に制作された映画が「月のひつじ」(The Dish)でした。
  ・・・・・・
 1969年7月,アポロ11号が人類初の月面着陸を目的に打ち上げられた。アメリカのNASAは世界にその様子を生中継すべく,カリフォルニア州ゴールドストーンの受信設備を当初用いようとしていた。
 しかし、打ち上げのスケジュールがずれ,月がアメリカの裏側にあって電波が届かない時間帯に月面着陸を行うことになってしまった。そこで白羽の矢が立ったのが,オーストラリアのニューサウスウェールズ州の田舎町パークス。羊の数のほうが人よりも多いといわれるところにあるパークス天文台のパラボラアンテナであった。かくして,世紀の一大イベントの中継成否がこの小さな町の天文台に託されたのだった…。
  ・・・・・・

 オーストラリア連邦科学産業研究機構(Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation=CSIRO)によると,当初の計画では、カリフォルニア州のゴールドストーン基地が追跡基地となり,オーストラリアのキャンベラ近郊にあるハニーサックルクリークにある基地は司令船コロンビア号を追跡することになっていました。パークス天文台の任務は月面歩行の間このふたつの追跡基地をバックアップすることだったのです。しかし,打ち上げの2か月前になって変更され,パークス天文台に白羽の矢が立てられたのです。
 月面着陸当日オーストラリア時間午前6時17分,月に降りた宇宙飛行士たちは,予定よりはやく船外活動をすることになりました。そのため,パークス天文台で月からの信号を受信することは不可能かと思われましたが,準備に手間取り船外活動をはじめたために,パークス天文台からの受信が可能になりました。
 しかし,次のトラブルに見舞われます。
 そのころ,パークスの電波望遠鏡には時速110キロメートルの強風が吹きつけていたのです。大きな皿状の望遠鏡は風を受けて後ろに倒れそうになります。安全面での限界を超えていましたが任務は遂行されました。幸い、風は衰えを見せ,バズ・オールドリンがテレビカメラを稼動させた時にはちょうどパークス天文台が信号を受信できる位置まで月が昇っていました。
 こうして,パークス天文台の電波望遠鏡が月からの信号を受信し歴史的瞬間の映像と音声が世界中に送られたのです。

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