しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

October 2019

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☆☆☆☆☆☆
 「うすださん」というのは臼田宇宙空間観測所にある64メートルのパラボラアンテナのことで,電波望遠鏡などの受信だけの設備とは異なって,送信設備をもつ通信アンテナ設備です。臼田宇宙空間観測所(Usuda Deep Space Center=UDSC)は,長野県佐久市にある惑星探査機との通信用観測所として設置された宇宙航空研究開発機構(Japan Aerospace eXploration Agency=JAXA)の研究機関である宇宙科学研究所(Institute of Space and Astronautical Science=ISAS)の施設で,JAXA統合追跡ネットワーク技術部が維持管理を行い,宇宙科学研究所が運用を行っています。
 1986年,76年の周期で地球に接近するハレー彗星を観測するため。欧州宇宙機関(ESA)が「ジオット」を,当時のソビエト連邦が「ヴェガ」を2機打ち上げました。アメリカは,それ以前に打ち上げられていた「ISSE-3」を軌道修正しハレー彗星に送り込むことになりました。日本もまた,ハレー彗星や太陽系の各惑星の探査を目指すプロジェクト「PLANET計画」を立ち上げ,「さきがけ」「すいせい」を打ち上げましたが,それらの探査機を操作するための自前の通信設備が必要となったために,いくつかあった候補地から臼田が選ばれたものです。
 この観測所にある直径64メートルのパラボラアンテナは,建設当時東洋一の大きさを誇りました。 
 パラボラアンテナの構造は野辺山にある45メートル電波望遠鏡の開発で培われたものですが,電波測定を目的とする電波望遠鏡とは違って,パラボラ面の裏面にカバーをしたり温度調整や定常的な鏡面精度の測定をしていません。今後の木星探査計画などに対して大幅な能力不足や通信可能時間の不足が問題となり,現在,64メートルアンテナの後継施設として,佐久市前山字立科に54メートルの新しいパラボラアンテナを建設していますが,こちらは,パラボラ面の裏面にカバーをしたり温度調整や定常的な鏡面精度の測定をするものになるそうです。

 臼田のパラボラアンテナは,いわゆる電波望遠鏡とは目的が異なるために,天文雑誌などには取り上げられていなかったのですが,30年ほど前にその存在を知って,見にいくことにしました。今となってはほとんど記憶がないのですが,覚えていることといったら,えらい山の中で,延々と狭い山道を登って行ったら山頂にとんでもない巨大なパラボラアンテナが突然姿を現した,というものです。
 今回,せっかく野辺山に行ったので,そのついでに,再び,この臼田まで行ってみることにしました。
 覚悟していたとはいえ,やはり,今でもとんでもない山の上でした。しかも,残念なことに,1週間前の台風の影響で道が崩れ,公開が中止となっていました。しかし,パラボラアンテナの姿くらいは見えるだろうと,登れるだけ登っていくことにしました。なんとか道路は閉鎖を免れていて,山頂のパラボラアンテナだけは見ることができました。それにしても,よくもまあ,こんな場所が日本に残っていたなあと思うほど,オーストラリアの山の中のような感じの場所でした。
 しかし,こうした設備を見るたびに,日本は土地がなくお金もなく,そんな環境の中でやっとのこと世界と競えるように必死に背伸びをしている様を知ります。しかし,この先の少子高齢化社会ではこのような学術研究が将来もこれまでのように行えるとは思えず,どうなっていくのだろうかと私は心配になります。

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 若いころ,満天の星空に憧れた私にとって,八ヶ岳山麓は憧れの地でした。特に,電波天文学の聖地である野辺山は,電波天文台の大きなパラボラアンテナをひとめ見たいものだと思い続けていたところでした。当時,清里というのは若者のトレンディな地で,清泉寮というところでソフトクリームを食べるのが流行りでした。私も,今から40年近くまえに,その野辺山に行ったことがありますが,それからずっと遠ざかっていました。
 今回,その野辺山まで再び足を延ばしてみました。清里は当時の清里に比べたらずっとさびれていました。また,憧れだった八ヶ岳山麓もまた,私には,ニュージーランドやフィンランド,オーストラリアなどとは比べるべくもない日本の田舎にすぎないところでした。

 野辺山宇宙電波観測所は,日本を代表する電波天文台で,八ヶ岳のふもと長野県南佐久郡南牧村に位置しています。正式名称は自然科学研究機構国立天文台野辺山宇宙電波観測所および太陽電波観測所で,先週私が行った国立天文台水沢とならんで,国立天文台野辺山とよばれています。
 この観測所は,東京大学附属東京天文台の天体電波研究部の観測施設として設立されました。
 水沢VLBI観測所によるVERA計画や宇宙科学研究所による宇宙空間VLBI計画VSOP(電波天文衛星「はるか」),アルマ望遠鏡計画といった現在花形の電波観測は,この野辺山から生まれたものです。
 野辺山で太陽電波観測が始まったのは,西を八ヶ岳山麓,東を秩父山地に囲まれ,放送電波による電波ノイズが少ないこととアクセスのよさ,そして,信州大学の実験農場があったことです。

 野辺山観測所で最も有名なのは,口径45メートルのミリ波望遠鏡で,1981年に完成しました。波長が数ミリの電波(=ミリ波)を観測する電波望遠鏡としては世界最大級のものです。1996年にはBEARS(25-BEam Array Receiver System)とよばれる25素子受信機が搭載され,1度に25点を観測する高速マッピングが可能になりました。近年ではOn-The-Fly (OTF) とよばれる観測領域を掃天しながら短時間間隔でデータを取得する技術が実装されて,マッピングのスピードと精度が大幅に向上しました。この新しい技術によって,いくつもの新星間分子,原始星周囲のガス円盤,ブラックホール存在の証拠の発見など世界的に重要な観測成果を今も出し続けています。

 40年近くまえに来たときと比べて,観測装置がたくさん増え,また,この45メートルの電波望遠鏡も新しい技術を用いて進化を遂げていて,この観測所が今も現役で活躍をしているのを見て,私は嬉しくなりました。
 それにしても,世界中の天文台巡りをしていると,どうして日本のこうした研究施設はこんなにもボロいのだろうか,そしてまた,一般のビジターが少ないのだろうか,ということをいつも感じます。それは,日本では金持ちが財団を作ってこうした学術研究の援助をしないこと,そしてまた,一般の人たちは,学校での学習はテストで点をとることと学歴を手に入れることが目的で,人間の知的好奇心を満たすためだという教育を成長過程で受けていないことが原因であろうと思います。なにせ,今回の大学入試改革を見てもわかるように,日本では教育の「有識者」は,勉強をさせるためには入試を難しくすることだという短絡的な考えしか持ち合わせていないことが明白だからです。その結果,高校生は受験に必要な知識を暗記する作業に貴重な時間を費やすだけで、生きることの目的を考える時間も本を読む時間もないというのが現実です。残念なことです。

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☆☆☆☆☆☆
 何度も何度も書いていますが,今年は本当に晴れません。10月は例年,大陸から移動性高気圧が周期的にやってきて,雲ひとつない夜に満天の星空が楽しめるので,今年も10月の新月のころ25日から26日にかけて長野県木曽駒高原に星を見にいくことにしていました。ところが太平洋岸を北上する台風21号が大雨を日本列島に連れてきて再び雨となりました。それでも何となく深夜になれば晴れるのでは,という淡い思いで,望遠鏡を車に積み込んで出発しました。
 夕方午後5時ごろ到着,やはり雨でした。
 夕食を終えた午後8時過ぎには雨は上がりましたが,一向に雲が切れません。ところが,午後10時を過ぎたころに,突然快晴となり,空には満天の星が輝いていました。

 車に望遠鏡を積んでは来たものの,まったく準備ができていませんでした。あたりは真っ暗で,慣れているとはいえ,望遠鏡を組み立てるのも大変でした。いろいろと手違いをしながら,それでもなんとか準備がすみました。そして,写したのが今日の写真です。
 まずは,彗星。先月,アフリカーノ彗星(C/2019W2 Africano),アサシン彗星(C/2018N2 ASASSN),シュワッスマンワハマン第1彗星(29P Schwassman-Wachmann),パンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)と写したのですが,そのとき,うっかり忘れていた彗星をねらっていました。それが,マクノート彗星(260P McNaught)です。12等星くらいですが,空も暗いので簡単に写ります。
 マクノート彗星は,オーストラリア・サイディング・スプリング天文台のマックノートさん(R.H.McNaught)が2005年5月20日に口径50センチメートルのウプサラ・シュミット望遠鏡で みずがめ座を撮影したサーベイ・フレーム上に17.3等星で発見したものです。2012年5月18日,チェコのMartin MasekさんががアルゼンチンのPierre Auger天文台の30センチメートル反射望遠鏡の遠隔操作で再び地球に接近した17.5等星の彗星を検出し回帰が確認されたことから,260Pという周期彗星の確定番号が付けられました。周期は7.07年です。

 これで思いは遂げたので,この暗い空ならどのくらい写るものだろうかと,ついでにM45を写しました。前回の写真と比べてみてください。
 そのあとは,新たに購入したキヤノンの天体撮影用の改造カメラに35ミリレンズをつけて,試し撮りをしました。それが,2番目から4番目のまでのカシオペア座,オリオン座,ぎょしゃ座の星野写真です。まだまだ調整が必要ですが,次回オーストラリアに行くまでには使いこなせるようにしておきたいと思っています。
 このように,今回は,準備不足でしたが,奇跡的に快晴となって,満天の星空を堪能できました。また,極大期を過ぎたオリオン座流星群の流れ星が時折飛んで,すばらしい星空にさらに彩を与えました。午前1時過ぎに終了して寝ましたが,翌朝はすっかり曇っていたので,私が星を見た数時間だけ晴れたようです。昨晩のことは夢のような気がしました。

まだ夕方の4時過ぎでしたが,ヘルシンキに戻るまで3時間かかるので,ムーミンワールドから帰ることにしました。結局,滞在したのは4時間ほどでしたが,ムーミンワールドはそれで十分な大きさでした。ヘルシンキから遠いのだけが欠点でしたが,なかなかいいピクニックになりました。
しかし,そのおかげで,フィンランドの郊外に電車で行くことができたし,トゥルクやナーンタリという小さくて,きれいな町を知ることができました。なんといっても人が少ないのが最高でした。
おそらく9月になれば寒くなってしまうのでしょうが,私は,2月に北極圏のロヴァニエミに行ったことがあるので,フィンランドの冬というものもおおよそわかります。

ナーンタリのバス停でバスが来るのを待って,まずトゥルクへ戻りました。帰りは,トゥルクの長距離バスターミナルでバスを降りて,線路に沿って歩いて駅に着きました。ちょうどあと10分ほどでヘルシンキ行きの電車が出発するので,慌ててチケットを買いました。ホームには改札がなく,しかし,電車のチケットは車内では買えないので,大急ぎで駅で買う必要があります。また,10月からは現金で買えず,クレジットカードでしかチケットが買えなくなるそうです。
電車の座席は2階建ての2階席で景色がよく見えました。途中で車内販売もきました。乗って,2時間,ヘルシンキに戻りました。この日はちょっと贅沢な食事をと思ったのですが,入ったレストランで頼んだスープがなんとムール貝だらけで,まあ,どうでもよくなってしまって,それを夕食代わりにしました。
さあ,この旅も明日が最後。明日はフェリーでエストニアに行きます。

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ムーミンワールド(Muumimaailma)は,トーベヤンソンの ムーミンの本に基づいたテーマパークです。デニス・リブソン(Dennis Livson)によって設計され,ナーンタリの隣のカイロ島にあります。
私は,フィンランドに来たからにはムーミンワールド,ということではるばるやって来たのですが,昨日まで,ムーミンワードの夏の開園が今日までということすら知らず,ムーミンワールドの園内がどうなっているのかもまったく知りませんでした。昨日ホテルで朝食をとったときに話をした日本から来た母娘のふたり連れに,まったり感満載のいいところだったと聞いただけでした。
ともあれ,ムーミンワールドが紹介されている様々な写真に載っているのはムーミンハウスなので,ムーミンハウスを目指して進みました。園内は想像したより狭く,あっという間にムーミンハウスが見えてきました。多くの人がムーミンハウスの前にいて,そこには,ムーミントロールとムーミンパパの着ぐるみが写真のモデルになっていました。私も年がいもなく一緒に写真を撮って,そのあと,ムーミンハウスに入りました。
ブルーベリー色のムーミンハウスは5階建てで,中は想像以上に広く,手の込んださまざまな内装が作られていました。ムーミンハウスの周りには,ヘミューレンの家,ムーミンママのキッチン,消防署,スナフキンのキャンプ,ムーミンパパのボート,魔女のコテージがありました。 魔女の迷宮のあるトッフルの小道, ハッティファッテンの洞窟, グロッケの家などの多くのアクティビティと幻想的な小道があります。

ムーミンワールドは乗り物がないので,ディズニーランドのようなテーマパークではありません。それよりも,子どもたちが昔の日本の野山をかけて遊んだような,そんなことが自由にできる場所で,入園料以外にお金もかからず,とても落ち着く,フィンランドらしい公園でした。ディズニーランドのような,アメリカ的な金にモノを言わせたテーマパークとは違って,こうした遊びができるフィンランドの子供たちは本当に幸せだと思いました。
入口近くには屋根付きのムーミン劇場「エマ」があって,そこでの公演も自由に見ることができました。また,レストランや土産物店もあって,私はそこで昼食をとりました。
  ・・・・・・
ここであまり多くのことを書くよりも,写真をご覧ください。
また,ムーミンワールドの様子を知りたいと思ったら,埼玉県飯能市にあるムーミンバレーパークへ行くとわかると思います。ただし,日本のような人の多すぎる国で,フィンランドのムーミンワールドのようなまったり感を味わえるかどうかはわかりませんが。

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 私は人が多いところが嫌いです。海外や国内を旅しても,都会には興味がありません。宿泊先も大きなホテルや温泉宿はご遠慮です。大浴場など行きたくもありません。
 以前より,東北にはひなびた温泉があるということをよく聞いていたのですが,それがどこにあるかは全く知りませんでした。そんなところがあるのなら,行ってみたいものだと思っていました。
 今回宿泊したのは,花巻の台温泉というところでした。花巻温泉には大きな旅館がいくつかあるので,多くの観光客でにぎわっているようですが,台温泉はそこからさらに1キロメートル以上先でした。私の乗った無料バスには台温泉まで行くものもあるようですが,私が乗ったのは花巻温泉止まりだったので,そこから歩くことにしました。私は,旧街道歩きを趣味とするくらいだから,歩くことはむしろ好ましいのです。

 やがて,台温泉の温泉街の手前,花巻温泉と台温泉のほぼ中間に岩手医科大学附属花巻温泉病院と調剤薬局がありましたが,閉鎖されているような感じで,まさに期待が膨らんできました。その先に 小さな温泉街が見えてきました。まず,郵便局がありました。ここは台温泉簡易郵便局で,2006年(平成18年)から一時閉鎖となっていたのが2008年(平成20年)に業務を再開していたものだそうです。
 温泉の入口にあった大きな宿は廃業していて,まさしく,ひなびた温泉というのにぴったりのところでした。ここは,台川沿いの谷間に約20件の旅館がひしめくように建っていたのですが,廃業した旅館も多く,また,廃墟となっているものもありました。
 私の予約してあった旅館に着きました。思ったよりずっといいところでした。宿泊客は平日ということもあって私以外に1組あっただけなので,温泉も独占状態で,食事も予想以上に豪華で,まさに最高でした。文字通り,私が夢にまでみた東北のひなびた温泉でした。
 台温泉は,伝説では約1200年前に坂上田村麻呂が発見されたとされますが,史実では約600年前の開湯とだそうです。花巻温泉はもともとは台温泉かからの引湯で造られた温泉地なのだそうです。

 私は,こうして,念願の温泉でゆっくりとした夜を過ごして,翌朝,朝食を済ませて旅館を出ました。
 この日は花巻までバスに乗り,JRの花巻駅から北上駅まで在来線に乗って北上駅で途中下車して,新幹線の時間まで北上市のみちのく民族村を見学しました。サトウハチロー記念館に行きたかったのですが,あいにく休館でした。その後,北上川を眺めながら昼食をとり,北上駅から大宮駅まで新幹線に乗りました。新幹線は那須を過ぎたあたりから満席となって,すっかり現実にもどされました。途中で私のものを含めた客室の多くのスマホから緊急災害警報が流れたのにはびっくりしました。
 運がいいことに,東京から西はずっと雨が降っていたのに,私の旅行中,東北はいい天気でした。大宮から東京まで京浜東北線で移動し,東京では,チケットを持っていたNHK交響楽団の定期公演は聴く気がなくなったのでパスして,そのまま高速バスに乗って帰ることにしました。バスは午後5時過ぎの出発で,午後11時に名古屋に着くということだったのに,大渋滞に巻き込まれて到着したのが午前1時。終電にも間に合わず,名古屋駅のカプセルインに泊る羽目になりました。カプセルインなんてはじめての体験でしたが,それはそれでおもしろいところでした。

 今回のふとした東北の旅はこうして終わりましたが,今回もまた,予想以上に楽しいものとなりました。
 東北はどこかフィンランドに似ていました。そしてまた,昨年行ったニュージーランドのアロータウンにも似ていました。いずれにしても,日本はフィンランドやニュージーランドに比べたら,どこに行っても廃墟だらけで,わびしく汚くボロッちく,キャッシュレスでは生きられない旧時代的なところでしたけれど,食事だけは最高だし,それはそれでいい思い出ができました。
 歳をとって海外に出かける体力がなくなったら,また,東北のひなびた温泉めぐりでもしてみたいものだと思ったことでした。

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 水沢駅では Suica で改札ができません。なにか急に10年くらい昔に戻ったような気がしました。これまで,アメリカやオーストラリア,ニュージーランド,フィンランドなどの郊外を旅しましたが,そうした国々では郊外に行っても,都会との違いは感じません。どこにいってもクレジットカードは都会と同じように使えました。しかし,日本は,都会と田舎の違いがあまりにありすぎます。この国は,首都だけが繁栄していて,郊外に出ると,昭和の時代と違いがないのです。
 JRの花巻駅に着きました。まず,駅の構内にあった観光案内所に行って,宮沢賢治記念館をはじめとする花巻の見どころへの行き方などを聞きました。駅からバスで行くことができるということでした。バスの時間まで駅にあった食堂で昼食をとりました。

 JRの花巻駅から宮沢賢治記念館まではバスに乗るのですが,記念館のあたりには童話村や花巻市博物館があって,期間限定で無料で入ることができる優待券をバスを降りるときに運転手さんに言えばもらえると観光案内所で聞いていたのですが,何も言わなくてももらえました。
 宮沢賢治記念館はバス停からかなりの高台を登ります。どうしてこんな高いところに作ったのだろうと思いましたが,記念館から見た風景がその疑問を消しました。
 眼下に見える風景は,宮沢賢治の抱いたイーハトーブそのものだったのです。

 宮沢賢治記念館は,2015年(平成27年)にリニューアルオープンした新しい建物でした。
 宮沢賢治が法華経を埋納しようとした32の山「経埋ムベキ山」(きょううずむべきやま)のひとつ胡四王山の中腹にあり,多彩な活動をした賢治の世界とのをうかがい知ることができる施設です。スクリーン映像や関係資料の展示,作品に至る創作過程などを紹介しています。
 この宮沢賢治記念館では,賢治の愛用品,原稿など賢治ゆかりのものの展示のほか,ビデオやスライド,図書資料などが豊富にあって,とてもすばらしいところでした。
 私は,記念館を見学したあと,カフェで休憩したのち,南側に位置する「ポランの広場」を下って,宮沢賢治が設計した南斜花壇と日時計花壇を見ながら,童話村へ行きました。

 宮沢賢治は1896年(明治29年)に生まれ,1933年(昭和8年)に早生した日本の詩人であり,童話作家です。稗貫郡川口村(現花巻市)の出身で,文学・教育・農業・地質学・宗教など数々の分野で才能を発揮,盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学し地質調査研究を行ない,卒業後は農学校や羅須地人会で農民の教育・指導にあたりました。また,心象スケッチ(詩集)「春と修羅」,童話集「注文の多い料理店」などを刊行しました。
 郷土岩手をこよなく愛し,理想郷と位置づけ「イーハトーブ」とよび,親しみました。
 この「イーハトーブ」は,作品に登場する架空の理想郷を,郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov)と名づけた造語で,宮沢賢治の心象世界中にある理想郷を指す言葉です。「岩手」(=いはて)をもじった」という見解が定説となっています。

 宮沢賢治の書いた童話がジオラマなどで説明された,ちょうどムーミン美術館のような童話村を見学したのち,そのとなりにあった花巻市博物館に寄りました。その後,徒歩で東北新幹線の新花巻駅まで行って,無料バスでこの日の宿泊先である花巻台温泉まで行きました。
 ふと出かけた東北でしたが,思った以上に心落ち着くところでした。
  ・・・・・・
 もっともっとたくさん
 想い出が欲しかった
 もう一度あなたに会う迄の糧に
 私はいつでも涙うかべて
 あなたの残した大事なCelloを
 一人で守る
   さだまさし「セロ弾きのゴージュ」
  ・・・・・・

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 1899年(明治32年)に臨時緯度観測所として発足した現在の国立天文台水沢ですが,1900年(明治33年),現在の西側駐車場に建てられた観測所の本館は1967年(昭和42年)に記念館とする際に現在の場所に移されて木村記念館となりました。そして,2008年(平成20年)に改修を行い外壁を当時の色にし,2011年(平成23年)に名称を木村榮記念館と変更しました。
 この記念館の内部は,所長室をはじめ,様々な貴重な展示があって,自由に見学できます。私は,興味津々,この博物館で有意義な時間を過ごすことができました。

 木村榮( ひさし)博士は1870年(明治3年)に石川県で生まれ1943年(昭和18年)に亡くなった天文学者,緯度観測所の初代所長です。Z項という地球の緯度変化を計測するための公式を発見したことで知られています。
 緯度の計測は星の動きを定期的に観測することによって導き出されます。従来は星の観測の結果をX項,Y項という公式で計算していましたが,Z項を加えることで,地球上のどこでも正確に計測できるようになりました。
  ・・・・・・
 木村榮博士が初代所長として赴任した当時,地球の南北両極が少しずつ動いていることが知られるようになりました。このため,世界の6か所で共同観測を行うことになり,水沢がそのひとつに選ばれました。
 地球の自転軸の中心は,その方向そのものが星々のある天空に対してゆっくりとまたあるリズムで動いてゆきます。そのため,今からおよそ1万3000年たつと,北極星はこと座のベガになります。この小さな振動が「歳差・章動」です。
 一方,地球の緯度が変わることが数学者のオイラーによって予言されました。緯度が変るのは「歳差・章動」とは全く異なり,地軸が地球そのものに対して揺れることが原因で,こちらは「極運動」といわれますが,この極を動かす原因は,当時何もわかっていませんでした。1899年(明治32年)国際緯度観測事業によって開始された緯度観測の目的は,この極運動を確かめてその実態を明らかにすることでした。
  ・・
 観測が始まって1年余が過ぎた日,水沢の観測は不合格との手紙が国際観測事業の中央局から送られてきました。不合格となってしまい苦境に立たされた木村榮博士は観測方法等の見直しを行いましたが,不備な点は見つかりません。
 ある日,送られてきたデータから各観測所の残差を見直してみると,水沢だけでなく他の観測所にも共通な「おかしな変化」があることに気づきます。それはすべての観測点で同じように緯度が変化するという現象でした。 
 原因がよく分からないこの奇妙な現象を表すために,木村榮博士は緯度変化による極運動を解く方程式の中の未知数x,yに加えて新しくzを加えてみました。すると妙な年周変化は見事に解決されました。この項の発見は世界を驚かし,「Z項」と呼ばれるようになりました。これが1902年(明治35年)の木村榮博士によるZ項の発見でしたが,Z項が生じる原因がわかる前に木村榮博士は死去しました。
  ・・
 1970年(昭和45年)になって,後輩の研究者・若生康二郎によってその原因がつきとめられました。
 それまで,地軸の天空に対する運動である「歳差・章動」の予測値は地球全体を固体と見て計算していましたが,実際は,地球の深部は流体核がありその流れの効果等が重大な影響を与えていたのです。それが「半年周期の章動項に大きな誤差が生まれその誤差が各観測主に共通な1年周期の見かけの緯度変化」として観測されるのでした。このことは力学的には重大な意味を持ち,流体核が地球の自転周期よりも約7分短いところに固有の周期をもつこと,そして,この周期に近い変化をもつ外部の力が加わればそれに共鳴して流体核が大きく振動し,地軸も揺れることを示すものでした。
 流体核の共鳴による半年周章動への影響がZ項の原因だったとする長年のなぞの解明は,世界の天文学および地球科学の研究に大きなインパクトを与えました。

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 結局,喫茶店の1軒も見つからなかったので,JRの水沢駅に戻って,売店でパンとコーヒーを買って駅の待合室で食べました。やがて,9時近くになったので,国立天文台水沢に歩いて向かいました。
 国立天文台水沢は駅から徒歩で20分ほどのところにあります。東京・三鷹市の国立天文台のあたりに雰囲気が似ていました。オーストラリアのパークス天文台とも似ていましたが,パークス天文台とは広さがまったく違いました。日本の研究施設は正直いってどこもボロいです。
 私の手元に,1971年(昭和46年)に発行された「月刊天文ガイド」の別冊「日本の天文台」という貴重な本があります。この本で,現在の国立天文台水沢は「緯度観測所」として3ページにわたって紹介されているのですが,当時「緯度観測所」にあった観測計器は,現在とは違って写真天頂筒や浮遊天頂儀,眼視天頂儀とよばれる地味な機材ばかりでした。現在,それらの機材は木村榮博物館に展示されています。私は,大きな反射望遠鏡や屈折望遠鏡,電波望遠鏡のような機材がないこの観測所にはその頃は関心がなく,そこに行こうとも思いませんでした。
 それが,現在では,巨大な電波望遠鏡が設置された国内有数の観測所となり,また,ブラックホールの撮影に成功したスタッフがこの観測所の人たちであることから私は興味を持ち,一度行ってみたくなったのです。

 1898年(明治31年),国際測地学協会総会で世界共同の緯度観測所が北緯39度8分の線上に6か所置かれることになり,日本では水沢が選ばれました。そこで,1899年(明治32年)に水沢に臨時緯度観測所が発足しました。現在の国立天文台水沢は,この観測所が母体なので,国立天文台で現存する一番古い観測所です。
 それ以来,緯度・経度の観測に加え,総合的な天文学研究を行ってきたところです。現在は,水沢VLBI観測所のVERA]プロジェクトとRISE月惑星探査プロジェクトのふたつの研究グループがあるそうです。

 水沢には口径20メートルと口径10メートル,口径3メートルの電波望遠鏡が置かれています。口径20メートルの電波望遠鏡は水沢のほかに鹿児島,小笠原,石垣島にも置かれていて,それらを組み合わせたVLBI (Very Long Baseline Interferometry=超長基線電波干渉計)として,水沢で遠隔で運用し,データは水沢の相関処理センターで処理,主に銀河系の3次元地図を作成するVERAプロジェクトや月の重力場や地形を詳細に調べるRISE計画などに取り組んでいるということです。 
 また,これらのデータ解析には精密な時刻測定が必要なため,国内では数少ない協定世界時(UTC)を刻む原子時計を運用し,データ解析に活用しています。研究観測から得られたデータは情報通信研究機構などと共同利用を行い,それを基準にして日本電信電話の時報(117),情報通信研究機構のJJY(日本標準時を送信する無線局),日本放送協会(NHK)のラジオ放送の時報などに活用されています。また,この時刻は観測所のNTPサーバーを通じてインターネットへの供給も行っています。
 RISE月惑星探査プロジェクトでは,2007年(平成19年)に打ち上げられた月周回衛星「かぐや」,2014年に打ち上げられた小惑星探査機「はやぶさ2」などに搭載された装置の開発を担っているそうです。
 国立天文台水沢が有名になったのは,史上はじめてのブラックホールの撮影で重要な役割を果たしたことです。
 ブラックホールの撮影を行ったのは水沢の望遠鏡ではありませんが,この撮影を行った国際チームのメンバーが所長の本間希樹さんをはじめとする水沢の所員さんたちでした。ブラックホールを捉えたのは世界6か所の望遠鏡を組み合わせたVLBIで,200人の国際チームには水沢から6人の研究者が参加していました。観測データの画像解析で水沢は大きな役割を果たしました。少ないデータから全体像を推測するため,磁気共鳴画像装置(MRI)などに用いられる手法を参考に独自の解析ソフトを開発したのです。いわば,国立天文台水沢は「ホーム・オブ・ブラックホール」なのです。

 構内には,天体について学べる奥州宇宙遊学館,初代観測所長でZ項を発見した木村榮博士の記念館もあります。奥州宇宙遊学館は,旧緯度観測所の本館を保存したものです。この建物は1921年(大正10年)に竣工した2代目の本館で,現在は奥州市に譲渡されて,奥州宇宙遊学館として活用されていて,内部に展示室や売店などがあります。 
 また,この施設は,宮沢賢治ゆかりの場所でもあります。花巻農学校(現在の岩手県立花巻農業高等学校)の教師をしていた宮沢賢治は,たびたび水沢緯度観測所を訪れて,数々の名著の構想を育んだといわれています。童話「風野又三郎」(「風の又三郎」の先駆作品のひとつ)には,水沢緯度観測所でテニスに興じる「木村博士」が登場するなど,水沢緯度観測所の一文が書かれ,「銀河鉄道の夜」の題材のヒントになったとされています。

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 私はこれまで3度ほど東北へ行ったことがありますが,前回東北に行ったのも覚えがないほど昔のこと,おそらく30年近く前です。そのときは,盛岡からレンタカーで青森県の下北半島を一周しました。それ以前に2回,一度目は40年近く前に東北地方の主だったところを電車で,二度目は福島県の浄土平のあたりを車で走りました。
 私が今回東北に行くことにしたのは,奥州市水沢にある国立天文台水沢の見学と花巻市の宮沢賢治記念館に行ってみたかったからでしたが,東北に行くにあたって私が考えたのは,なるべく安価に済まそうということでした。私は旅行に驚くほどお金を使っていません。国内・海外ともに,できるだけお金をかけず,かつ,地に足をつけた旅をする,ということをめざしているからです。行って帰るだけなら新幹線で事足りるのですが,それではテレビの旅番組を見ているようなもので,おもしろくもなんともありません。いつも書いているように,海外に比べたら美しくもなくゴミだらけ廃墟だらけ人だらけの日本の旅はこころでするもの,つまり,何気ない町屋や「駅前のそばや」が思い出に残るものでなければなりません。

 そこで,できれば東京から夜行バスで往復しようと考えました。私は,今回の旅をするまで,水沢,北上,花巻の位置関係も距離もまったく知りませんでした。岩手県は思っていた以上に遠いところでした。行きの夜行バスは,仙台や盛岡までというものはあるのですが,私の目的地である水沢や花巻で停まるというものがなかなか見つかりませんでした。なんとか水沢で降りることができる夜行バスを見つけたので,水曜日の東京都交響楽団のコンサートの終了後,午後10時50分発の夜行バスに乗って,水沢で降りることにしました。
 帰りも夜行バスでと思ったのですが,バスが見つかりません。それに,連日の夜行も疲れます。そこで,せっかく東北に行くのだから温泉に宿泊するのも悪くないと思い直して,できるだけひなびた安価な温泉がないかと探してみたところ,花巻市の台温泉を見つけて,そこに宿泊することにしました。
 その翌日は夕方までに東京に戻ろうとお昼間のバスやら在来線やらを探したのですが,バスは存在せず,在来線は思った以上に時間がかかるので不可能でした。東海道のように気楽に旅をするわけにはいかないのだなあと思いました。地方では新幹線ができて以来,在来線で旅をするようなダイヤにはなっていないのです。とはいえ,新幹線で東京まで帰る気にもならなかったので,可能な限り短い区間だけ新幹線を利用しようと考え抜いたあげく,北上から大宮の間だけ仕方なく新幹線に乗ることにしました。 

 夜の10時50分,東京でバスに乗車しました。バスは東名高速道路を走る夜行バスのようなデラックスなバスはなく,4列のものでした。
 私は,これだけ頻繁にいろんなところに旅をしていると,バスやら飛行機で寝るのは何の苦でもなく,多少眠らなくても平気です。また,寝たという自覚がなくとも,結構眠っているものです。そんなわけで,今回も眠ったという実感がないにもかかわらず,途中休憩もおそらくあったのでしょうがそれも知らないまま,出発から6時間が過ぎたようで,気づいたたら早朝5時,水沢に到着しました。
 しかし,バスを降りて,私はあぜんとしました。あたり一面の霧,しかも,気温がわずか摂氏5度。えらいところに来てしまったような気がしました。フィンランドの片田舎以上に遠いところに来てしまったように思いました。これが私の今回の旅のはじまりでした。
 この意外性というか,非日常性が旅の醍醐味でもあります。おそらく,こんな体験をしなかったら,この旅は印象深く残らなかったことだろうと思います。

 水沢の駅前だということですが,駅前の雰囲気もなく,まるで北海道の田舎町でした。何か朝食をとも思ったのですが,店の1軒どころかコンビニすらありません。
 私が水沢で降りたのは,東京天文台水沢に行きたいというのが目的だったのですが,開館するのが午前9時ということで,まだ,4時間もありました。そこで,それまでの時間,町の観光をすることにしました。やっとのことでJRの駅前まで歩きました。駅前の大きな看板で,この町が6月にロサンゼルス・エンジェルスのゲームで見た大谷翔平選手の出身地だということをはじめて知りました。
 この町は「みちのくの小京都」。江戸時代は水沢城(水沢要害)に仙台藩の一門・伊達宗利が入り,明治維新に至るまで水沢伊達氏の統治が続きました。江戸時代後期の医者・蘭学者である高野長英,幕末から昭和初期を生き抜いた医師,官僚,政治家であった後藤新平をはじめとする偉人を輩出したところで,江戸時代後期の武家屋敷が多く残っていました。ただし,戊辰戦争で仙台藩は奥羽越列藩同盟をつくって明治新政府と戦ったため,朝敵となり敗戦。水沢伊達氏領は失領し,新政府に接収されたことで,城跡は残っていません。
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 「よく聞け。金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。」 後藤新平

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 芸術の秋。
 10月16日水曜日。美しい音楽が聴きたくて,東京都交響楽団の第889回定期演奏会に行きました。愛知県に住む私はなかなかサントリーホールに行く機会がなかったことと,曲目のワーグナー「ジークフリート牧歌」,ブルックナーの交響曲第7番に魅かれて,聴きにいくことにしたのです。
 18日金曜日の夜にNHKホールで行われるNHK交響楽団の定期公演のチケットを持っていたので,その両日に挟まれた17日は,かねてから行きたかった東北に出かけることにしました。私が東北に行きたかった目的はふたつあって,そのひとつは奥州市水沢にある国立天文台水沢の見学,もうひとつは花巻市の宮沢賢治記念館に行くことでした。このことはまた後日書きましょう。

 奇しくもこのコンサートの日は指揮者の小泉和裕さんの70歳の誕生日ということで,お祝いムードが一杯で,コンサートの最後には花束が贈られて,カーテンコールまでありました。
 私はいつもNHK交響楽団の演奏を聴いているので,東京都交響楽団の演奏会にははじめて行きましたが,以前NHK交響楽団にいたヴィオラの店村眞積さんやコントラバス の池松宏さんがいて懐かしい気持ちになりました。

 「ジークフリート牧歌」(Siegfried-Idyll)はリヒャルト・ワーグナーが妻コジマ・ワーグナーの誕生日とクリスマスの贈り物として作られた曲です。
 1870年12月25日の朝,現在リヒャルト・ワーグナー博物館となっているスイス・ルツェルン州トリープシェンの自宅でこの曲は妻のために演奏され,事前にその存在を知らされていなかったコジマをいたく感激させたというエピソードがあります。妻のための演奏は午前7時30分からはじまりました。演奏はその日のうちに数回繰り返されたといいます。オーケストラが階段上にいたため,5歳だった長女イゾルデと3歳の次女エヴァはこの曲を「階段の音楽」と呼んで親しみました。とても温かみのある音楽で,胸がいっぱいになります。
  ・・
 その次の曲がブルックナーの交響曲第7番でした。アントン・ブルックナーの交響曲第7番は,ブルックナーが作曲した交響曲のなかで,はじめて初演が成功した交響曲として知られています。私の大好きな交響曲第4番と並び,最も人気が高い曲のひとつです。
  この曲の初演が大成功したことによってブルックナーは生きている間に交響曲作曲家としての本格的な名声を得ることができたといわれます。私は,ブルックナーの交響曲のなかでは,深刻でもなくやぼったくもなく,最も都会的な感じのするものだと思います。 ただし,評論家の宇野攻芳さんも書いているように,第7番は第4楽章の規模が小さくさりげなく,少し物足りないのが残念な曲でもあります。
 
 私は,クラシック音楽を聴き,満天の星空を見ることさえできれば満ち足りて,あとは何もいらない,といつも思うので,この日のコンサートは最高でした。特に,この音響のよいサントリーホールで秋の夜長を過ごせたことはとても満足でした。また機会があったら,ぜひまた足を運びたいものだと思いました。
  ・・・・・・
 ところで…。
 いつも日本のオーケストラを聴くと思います。都響のホームページに池松宏さんが「日本のオーケストラは楷書体で,かしこまって弾く空気があると感じています。海外とは文化の違いもありますが,少しわくわくと楽しい雰囲気で音楽をやれないかなと。」と書かれてあったのですが,まさしくそのことです。私は,昨年ウィーンでドイツ・カンマーフィルの演奏を聴いたとき、まさにそれを感じました。どうして日本のオーケストラはもっと楽しく,表情豊かに,体で表現しないんだろうかと。でも,都響はN響よりは楽しそうでした。

ついにナーンタリまでやってくることができました。ここは湘南海岸をもっと人を少なくしたようなところで,ムーミンワールドは江の島のような感じでしょうか。ともかく,ナーンタリの海岸沿いには多くのしゃれたカフェやレストランが並んでいて,とてもすばらしいところでした。ムーミンワールドはナーンタリの海に浮かぶ島をまるごと利用したテーマパークなので,結構長い橋を渡ると入口がありました。
この日の開園時間はお昼の12時,ヘルシンキから往復6時間もかけてはるばる行くようなところなのだろうか,という気持ちもありました。私は,特にムーミンに想い入れがあるわけでもなく,詳しいわけでもないのですが,せっかくフィンランドに来たからには,という一念でやってきました。そしてまた,この日がこの夏最後の開園日ということで,混雑を予想していたのですが,さすがフィンランド,人口が決定的に日本よりも少ないので,それは杞憂でした。

埼玉県にもムーミンバレーパークというのがあるそうです。ネットで調べた限り,フィンランドのムーミンワールドとほぼ同じような感じです。なので,ムーミンワールドがどういうところかと思う人は,日本のムーミンバレーパークに行ってみれはおおよそのことはわかるでしょう。
ただし,当然,アメリカのディズニーランドと日本のディズニーランドの雰囲気の違いと同じようなものが,このムーミンワールドにもあると思われます。で,やはり,本場というか,そうした高揚感は,本場でなければねえ…,と私は思うわけです。
しかし,そんなことよりも,日本では,どこも人多すぎだし,トイレにウォッシュレットはあってもペーパータオルすらないといったなんかを勘違いしたチグハグな日本的な「おもてなし」感,親切にしてやっているじゃないかでも本音はお金儲けという感じとでもいうか…,それが私にはなじめません。口コミなどには,海外に行ったことのない人がその逆のことを書いている場合が多いのですが,そうした日本人の,大人を子供扱いするそして過保護な社会の環境が私には居心地の悪さとなるのです。

入口にチケット売り場があって,事前に購入した人はすぐに入れましたが,私のような当日券を買う人のほうは列ができていました。周りは小さい子供を連れた家族連れがいたので,私は声をかけて,フィンランドの人の暮らしぶりを訪ねたりしていました。私が話していた人のひとりに,子どもが交換留学で日本に行っているという人がいたりして,話が弾みました。
そうこうするうちに私の順番になって,チケットを手に入れて,中に入ることができました。

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私がこの旅に来るまで,ムーミンワールドに行くことはあるまい,というか,できない,と思っていたのは,これまでにも書いたように,その場所がヘルシンキからあまりに不便なところにあるからでした。ヘルシンキから電車でトゥルクへ2時間,トゥルクからさらにバスでナーンタリへ1時間,そして,ナーンタリから徒歩で20分ほど,という場所です。おまけに,ナーンタリへ行くバスはトゥルクの駅前からではなく,トゥルクの街のなかのバス停から出ているということでした。
なんとかトゥルクまでやってきて,しかも,偶然トゥルクにあったシベリウス博物館を見学することもできました。さて次に目指すはナーンタリです。
シベリウス博物館を出てナーンタリ行きのバスが出ている停留所に向かいました。アウラ川にかかる橋を渡り,朝来た反対方向に歩いて行きました。
駅から東に600メートルほど行った場所に長距離バスターミナルがあります。また,駅から南に同じく600メートルほど行った場所にマーケット広場があります。このマーケット広場にナーンタリ行きのバス停があると私の持っていたガイドブックに書かれてありました。

私の行ったシベリウス博物館は駅の南東,ちょうどこの3か所を3頂点とする正方形の4番目の頂点の場所にあります。私は,橋を渡ったあと,西へマーケット広場に向かって歩きました。ところが,マーケット広場がありません。というか,その付近一帯が工事中でした。何が何だかわかりません。また,バス停はかたまっているのではなく,,道路沿いの歩道に点在していて,どのバスがどこへ行くバスの停留所なのかさっぱりわかりません。ナーンタリへ行くバスは6番か7番ということだったので,それだけを手がかりにバス停を探します。
日本人の感覚では,ムーミンワールドという世界的に有名な場所に行くのだから,大きな案内板があるように思うのですが,そんなもの,まったくありません。それは,昨年行ったロヴァニエミでサンタクロース村へ行ったときも同様でした。
さっぱり見当がつきません。歩いている人を探して聞いてみると,どうやら工事のためにバス停が移動してしまっているということで,地元の人さえ,要領を得ません。ここまで来て,ムーミンワールドに行けないのかなあ,とだんだん不安になってきました。歩いていると,やっとのことで7番のバスが停まっているのを見かけたので,運転手さんに聞くと,そのバスは反対方向へ行くバスだということで,私の行く方向のバスのバス停はその反対側,ではなく,もっとず~ッと向こうでした。なんとかバス停の位置がわかりました。運転手さんの行ったとおり歩いていくとやっとバス停が見つかりました。少し待っているとバスが来て,乗り込みました。このバスはクレジットカードが使えず,現金のみでした。

バスはもっと混んでいると思ったのですが,ムーミンワールドに行く人は私のほかに一組の母子だけだったようで,拍子抜けでした。
バスが出発しました。次のバス停に到着すると,日本人の若い女性のグループをはじめとして,多くの人が私の乗ったバスを待っていて,びっくりしました。そのバス停というのは,なんと駅から東に行ったところにあった長距離バスターミナルでした。それならそうとガイドブックに書いてあればいいのにと思いました。女性たちのひとりに,どうしてこのバス停がわかったのか聞いてみると,やはり,街の人に聞いたということでした。
やがて,混雑したバスはナーンタリに着きました。ここで降りて,さらに,ムーミンワールドまでナーンタリの街を歩きます。ナーンタリはこじんまりとしたすばらしく美しい街でした。広い公園があり,港には多くのヨットが停泊していました。ムーミンワールドの近くになると,広い駐車場があって,多くの家族連れが車で来ていました。どうやらこうしてバスで来るのは外国からの観光客,というより,どこにでも出没する中国人はおそらくムーミンを知らないのか皆無で,日本人ばかりのようでした。

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どうにかトゥルクの町までやってきました。ムーミンワールドに行くために寄っただけの町でしたが,ここには偶然シベリウス博物館がありました。私はムーミンよりもシベリウスの方がずっと興味があります。せっかく来たからには,ムーミン博物館に行く前にぜひ,シベリウス博物館に寄ってみようと思いました。
駅から南に歩くとアラウ川が流れていて,橋を越えたところにトゥルク大聖堂,そして,その向こうにシベリウス博物館があると地図にあったのですが,駅から結構歩いても橋に着きません。距離感がつかめないのです。途中で地図をみせながら通りすがりの人に聞いて,どうにか橋を越えました。
トゥルク大聖堂のあたりに結構多くの観光客がいました。私はトゥルクはムーミンワールドに行く中継点だと思っていたのですが,ムーミンワールドが目的ではなく,このトゥルクの町自体が観光地であることを知りました。確かに美しい町,そして,見どころの多い町でした。
教会を越えてしばらく歩くと,シベリウス博物館がありました。シベリウス博物館の開館は11時からで,まだ少し時間が早く,入口ではスタッフが開館の準備をしていました。やがて時間になったので,中に入りました。それにしても,どうしてこの町にシベリウスの博物館があるのかが謎でした。特にシベリウスがこの町にゆかりがあるとも思えなかったのです。
シベリウス博物館(Sibelius-museo)は作曲家ジャン・シベリウスにちなんで名づけられたフィンランドで音楽を専門とする唯一の博物館です。この博物館は,シベリウスに関した展示だけでなく,というよりも,むしろ,シベリウスに関した展示が付属した,世界中から集められた歴史的楽器や楽譜,原稿,録音,写真,コンサートプログラム等,音楽に関する貴重な資料が展示されている音楽博物館でした。そして,建物の奥まったセクションがシベリウスに関するさまざまな資料を展示したコーナーになっていました。

シベリウス博物館の起こりは1920年代に設置されたオーボ・アカデミー大学音楽学部のセミナーでした。現在の建物は建築家のヴォルデマル・ベックマンの設計で,1968年に完成したものです。
シベリウス博物館の建設地は,もともとはトゥルク・ロイヤル・アカデミーの植物園でしたが,1827年のトゥルク大火で焼失してしまいました。 1923年,植物園の土地はオーボ・アカデミー大学へと寄付され,1930年代には植物園を元の状態に復元しようという試みが行われたのですが,その試みは途絶え,園は荒廃してしまいました。
オットー・アンデションが創設間もないオーボ・アカデミー大学の音楽学・民謡学部の教授職に任用された1926年ごろより,のちにこの音楽博物館に収納される資料が集めらはじめて,可能な限り規模の大きな蔵書を備える音楽学部のセミナーを作り上げようということになりました。しかし,1949年以前には博物館には正式な名前がなく,単に「オーボ・アカデミー大学の歴史的音楽コレクション」として知られるようになりました。
ここで1940年代の後半に作曲家のジャン・シベリウスに関する展覧会が開催され,楽譜から書簡,草稿に至るまで様々な品物が展示されました。報道陣が展覧会を「シベリウス博物館」と誤って呼んだことにより,アンデションと大学の楽長であったローセンクヴィストの間で論争が生じ,展示会に関するこれ以上の混乱を避けるためにアンデションはシベリウスに手紙を出し,公式に彼の名前を使用したいと正式な許可を願い出ました。シベリウスはこの申し出を「多大な喜びをもって同意」し,シベリウス博物館となったのです。
博物館ははじめ,現在レストランが営業している場所にあったのですが,この建物で運営を続けるのは難しいことがわかり,博物館専用の建物の建設が望まれるようになりました。1960年代に入って建築家のヴォルデマル・ベックマンがオーボ・アカデミー大学の博物館用建屋の設計を任されることになって,1966年の秋に最終案が完成し,建物は1968年に落成しました。

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5日目の朝を迎えました。今日は,昨日までどうしようかと迷っていたムーミンワールドに行くことにしました。
実は,昨日,朝食を食べていたときに,居合わせた日本人旅行者の母娘連れに,明日ムーミンワールドに行こうと思っているという話をしたら,私たちは昨日行ってきたけれど,まったりしたいいところだったと言われました。私はまったく知らなかったのですが,ムーミンワールドはこの日が今シーズンの最終日なんだそうです。今回もまた,ものすごくツイていました。
ムーミンワールドはヘルシンキからかなり遠く,片道3時間ほどします。ヘルシンキからの日帰りツアーというものがあるので,よほどそれに参加しようと思ったのですが,それは料金が約3万円もします。しかし,自力で行くことができなければ,それでもツアーに参加するしかなさそうです。自力で行くにも,往復6時間,そんな時間をかけてまで行く価値があるのかしら,とも思いましたが,やはり,フィンランドといえばムーミン,あとで後悔したくないので,行ってみることにしました。この日の開園時間はお昼の12時ということなので,朝8時くらいにホテルを出ても十分大丈夫そうでした。
問題はどのくらい混雑しているか,ということでしたが,これは杞憂でした。どうしても日本のテーマパークを想像してしまいますが,そもそも,絶対的にフィンランドは人口が少ないのです。

この日は日曜日で,朝食の時間がいつもより1時間遅かったのですが,今日は朝8時の出発なので,問題ありませんでした。この旅はこのように,何事もツイていました。そんなわけで,早朝時間ができたので,朝食前にホテルを出て,ホテルの北側にあるカイサニエミ植物園の周りを散歩しました。残念なことに,ホテルに近いのに,ついにこの植物園に行くことはできませんでした。それは,私は勘違いしていて,昨日行こうとして,入口がわからなかったのです。この植物園の入口はホテルとは正反対側にあったのをこの朝知ったのですが,開園まえでした。
ホテルに戻って朝食をとりました。幸いにも,この日も快晴でした。この旅では3日目だけが雨でしたが,それ以外は天気に恵まれました。
朝食を終えて,駅に向かいました。ムーミンワールドがあるのはナーンタリという港町ですが,ナーンタリは,ヘルシンキからまずトゥルクという町まで電車で2時間ほど行って,そこからさらにバスに乗って1時間かけて行くという,不便な場所にあるのです。
ヘルシンキ8時37分トゥルク行きに乗りました。トゥルクはタンペレへ行ったときとは違ってインターシティ(特急)で,座席に着くと検札が来ました。名古屋から長野へ在来線の特急で行くようなものです。2時間ほどヘルシンキから西に向かって走って,トゥルクに到着しました。トゥルクは大きな町でした。

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タンペレからの帰り,駅のベンチで電車を待っていると,隣に日本語を勉強しているフィンランド人の若い男性がいました。話しかけると,日本語は難しいから挑戦しているのだとか。彼の持っていた本から,外国人の日本語能力検定というものがあるということを知りました。日本で行われている英語検定のようなものでしょう。1級から5級まであって,彼が持っていたのは3級でした。
私は漢字に書き順というものがあるとか,日本人でも,というか,私は,漢字は読めるけど意外と書けないものだとか,そういうたわいもない話をしました。
やがて電車が来たので彼と別れて,ヘルシンキに戻りました。

ヘルシンキに着いて,駅のあたりで何か夕食を食べようとレストランを探しました。
ヘルシンキにもマクドナルドも日本食のレストランもありますが,アメリカを旅行しているのとは違って,この国ではそうしたものを食べたいと思わないのも不思議なことですが,おそらく,それ以外の選択肢がたくさんあるからでしょう。
フィンランドといえば有名なロバーツコーヒーというチェーン店がありますが,今回の旅では入る機会がありませんでした。次回来るときは,それはおそらく遠い将来ではないでしょうが,ぜひロバーツコーヒーでシナモンロールを食べたいものだと思いました。
ロバーツコーヒーの創業者はロバート・パウリグという人です。7代前の先祖であるビュールストロムはフィンランドで初めてコーヒーを焙煎した人物で,ヘルシンキの市長も務めました。
ロバートの祖父にあたるエドワード・パウリグは「ニッセン」というコーヒーショップを100店舗以上経営し「フィンランドのコーヒー王」と呼ばれました。ロバート・パウリグは祖父のもとで修行を積み,ブラジルでコーヒーに関する基礎を身につけました。アメリカを旅していたロバート・パウリグはアメリカのカフェ文化に感銘を受けてフィンランドでカフェをはじめることを決意し,1987年にヘルシンキの海沿いにある「ヴァンハ・サタマ」でロバーツコーヒーの1号店をオープンさせました。現在は日本にも数店舗進出しています。
この晩は,駅の近くのカフェジャバという名のカフェに入って,写真のようなサラダとコーヒーの夕食にしました。フィンランドではこれが一番です。
こうして私のフィンランド旅行の4日目が終わりました。

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 台風15号に続いて台風19号と,また,自然災害が日本を襲いました。台風に地震,火山の噴火…,いつどこでそうした自然災害が襲うかわかりません。毎回毎回,日本のどこか,それも,いつも別の場所で,そうした被害に見舞われます。だれしも無縁ではありません。
 テレビのニュースを見ていると,いつも新しい家がこれで台無しになっています。この国で家を建てたところで,いつそうした自然災害に見舞われて,全財産を無にするかわかりません。自然災害の頻発する日本では家を持つことは最大のリスクなのです。

 私は,若いころから,もしお金持ちだったら,大きな家を建てたりするのではなく,理想はホテル住まいだと思っていましたが,調べてみると,それは決して空論ではなく,それを実践している,あるいは,していた人が少なくないことを知りました。これまででもそうして生きていた人がいるのですが,特に現代は,スマホさえあれば事足ります。そこで,持ち物は最小限にして,それでも必要なものがあれば,トランクルームを借りてそこに保存すればいいのです。
 ホテル住まいなら,光熱費もいらず,掃除も必要がありません。コインランドリーさえあれば洗濯も大丈夫です。固定資産税も要りません。ホテルにWifiが完備されていて,おまけに朝食もついているのなら申し分ありません。その部屋がいやになれば出ていくだけだし,自然災害で自分の家が壊れる心配もありません。
 究極の断捨離とは,ホテルに住んで,できる限りモノを持たないで,身軽に,そして,身の丈で分相応に生きること,でしょう。難しいことですが。

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 プロのカメラマンでもない私は,単に趣味として写真楽しんでいるだけですが,それでも,昔からカメラというものにたいそう興味がありました。
 家には山ほどカメラがありますし,ずいぶんと長く人間をやっていると,カメラの歴史についても詳しくなります。
  ・・・・・・
 カメラは,昔,ドイツのライカに代表される距離計連動式のものでしたが,家1軒買えるほどの値段でした。やがて,1960年ごろ,日本で一眼レフカメラが実用化されて以来,それがカメラの標準形となって,ドイツに変わって日本のメーカーが世界を君臨するようになりました。
 やがて,オートフォーカスという技術が開発されました。今となっては当たり前ですが,カメラがピントを自由に合わせてくれるようになったのは,その当時は驚きでした。そして,その次がディジタルカメラで,フィルムというものがほとんど姿を消しました。
  ・・・・・・
 こうした新しい技術が開発されるたびに,それぞれのメーカーは,それに見合う製品の開発が急務となり,失敗したメーカーは生き残れず姿を消していきました。生き残ったメーカーは,それそれ,どのようにして新しい技術を採り入れた製品を開発して生き残って来たかを思い起こすと,その会社ごとの遺伝子のようなものがよくわかって興味深いものです。

 そんな経緯をたどって進化したカメラですが,現在は,ソニーが先頭を走るミラーレス一眼の人気が,今までの一眼レフカメラに変わろうとしています。そこで,今回もまた,それに乗り遅れんと,ニコンやキヤノンといったメーカーも新製品の開発をはじめました。
 ただし,これまでの技術革新と決定的に違うのは,スマホの台頭で,カメラ自身の存在が脅かされているということです。つまり,これまでと同じような方法で新しい技術を採りいれた新製品を開発しても,そもそもカメラ自体の存在が危うくなってしまっているので,これから先,生き残れるかどうかはわからないということです。
 ミラーレス一眼というのは,車でいえば,これまでのガソリンエンジンの車から電気自動車に変わるようなものと同じでしょう。しかし,車の場合は車という存在自体は今はまだ脅かされていません。

 そんな折,ニコンから新しいミラーレス一眼カメラ「ニコンZ50」が発表されました。ニコンZ6,ニコンZ7といったミラーレス一眼を発売したころにはまだ定かでなかったこの会社の将来展望が,この製品で明らかになってきました。おそらくは,フィルムからディジタルに変わったときと同じように,この会社は,これまでの一眼レフカメラを,プロ用の高級機以外は潔く切り捨てて,製品のほとんどをミラーレス一眼に切り変えようとしているのでしょう。しかし,カメラ本体もレンズも一眼レフカメラと比べるとかなり割高な価格設定ですし,価格の割に期待したほどでもないようです。こんなんで,果たしてうまくいくでしょうか? 
 私は,あと10歳若かったら,この状況に熱くなって,新しい製品に買い替えることを考えたかもしれません。しかし,今は,これまでに手に入れた機材を売り払ってまで新しいカメラに買い変える気持ちにはまったくならないのです。それは,歳をとったせいもありますが,そうまでして価格の高いミラーレス一眼カメラのシステムに変えるほどの魅力を感じないからです。
 そもそも,これまでの一眼レフカメラも新しいミラーレス一眼カメラも,旅行に持っていくには大きく重すぎます。性能の進化した現在のスマホで十分なのです。その一方,従来のように,写真を楽しむ目的で外出したり小旅行をするのなら,今使っているカメラで何の不満もないからです。特に,星の写真を写すには,どんな高性能のカメラであっても,私が使っている天体用にIR改造されたカメラに比べたら使いモノにならないから,食指が動きません。

 私は,ニコンZ50が発表された奇しくもその日に,新しいカメラを手に入れました。それは,天体撮影用にIR改造されたキヤノンの小型一眼レフカメラキヤノンEOSkissX9です。これまでに使っていた天体撮影用にIR改造されたキヤノンEOSkissX8i が古くなったのでその後継として購入したものです。
 通常,ディジタルカメラは撮像センサーのカラーバランスを調整するために色調整フィルターを内蔵させていますが,この色調整フィルターを赤外域まで透過するクリアフィルターに交換することで,赤く輝く散光星雲などから放たれるスペクトル領域(Hα領域)の感度がアップし,色彩豊かな美しい天体写真が撮れるようになります。これがIR改造です。改造カメラといっても,ホワイトバランスを調整すれば一般の撮影にも十分に使えます。EOSkissX9なら小さく軽いので海外に持っていくにも小型の赤道儀に載せるにも便利だし,それに安価だし,私には,このカメラのほうがニコンZ50よりずっと魅力的です。
 ニコンZ50の発表された次の日,ニコンのサービスセンターに立ち寄ったので,はやばやとニコンZ50に触れる機会がありました。ニコンZ50は,私の求める[モバイルバッテリーで充電しながら使用できて(とサービスセンターで言われたのですが,どうやらそれは間違いでした),Bluetoothで簡単にスマホと連動できる]といった機能がついた魅力的なカメラではありました。しかし,これだけでは使えません。こうした機能に加えて,さらに[三脚座のない現行よりも小さなマウントアダプターnewFTZ]と,発表されたレンズのロードマップにも記載されている[18ミリから140ミリのズームレンズ]ができるだけ小さくて軽いものであること,そして,これがもっとも私には重要ですが,[天体撮影用にIR改造されたもの]が条件です。そうした条件を満たす,いわゆる「ニコンZ50A」が発売されるなら,そのときにやっと,私はこのカメラを欲しいと思うのになあと残念に思ったことでした。

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 「地球温暖化」の影響がいわれています。近年はさらに深刻な状況になっているようにも思われます。
 46億歳を迎える地球は,これまで,今より気温が高かったことも低かったこともあるので,現在の温暖化が人類のせいだけなのかどうかは私にはよくわかりませんが,いずれにしても,人類がその一因となっていることは確かでしょう。この状況が続くと,地球上から人類が滅亡するものそう遠い未来ではないかもしれません。
 地球の温暖化で,日本の四季も昔とはずいぶんと変わってしまいました。「衣替え」という言葉さえ死語と化し,10月の半ばだというのに,夏服で生活できます。台風も,頻繁に日本列島を直撃したのが9月から10月に変わってしまい,また,台風の規模も昔より大きくなっているように感じます。
 昨年の今ごろ,私はニュージーランド旅行をしていましたが,出かける日に台風が来るのではないかとひやひやしたのを思い出します。そのとき,最も役に立ったのが「気象予報士Kasayanのお天気放談」というブログでした。

 ところで,今日の話題は台風情報などの気象番組で頻繁に出てくる「東海」ということばです。特に,東京からの気象番組で「東海」ということばが多く使われます。しかし,東海地方に住む私には,この「東海」ということばの指す地方がどこなのかよくわからないのです。いや,知ってはいるのですが,いまいち納得がいかないのです。
 実は,愛知県に住む人,特に尾張地方に住む人は,「東海地方」というのは,愛知県・岐阜県・三重県のことだと思っています。学校でもそう習いました。しかし,気象番組で出てくる「東海」ということばの指す地方は,愛知県・岐阜県・三重県に静岡県を加えたものだと気象庁のホームページにはあります。台風19号のときのニュースでは,「東海地方,特に静岡県では…」などといういい方をしていたほどです。
 しかし,愛知県に住む人,特に尾張地方に住む人にとって,感覚的に,静岡県というのは中部地方であっても,むしろ関東地方のような感じです。それに,実際には,天気予報で「東海」といったときにその気象が起きる場所は愛知県・岐阜県・三重県・静岡県ではなくて,「中部地方の太平洋岸」,そのなかでも,特に,静岡県の海岸沿いを指しているように感じます。
 調べてみると,東海地方というのは「静岡県・愛知県・三重県・岐阜県のことであるけれど,静岡県を除いた3県を指す場合もある」と書かれています。しかし,愛知県の学校では「愛知県・三重県・岐阜県」だと習うのです。

 子どものころ,テレビの気象番組で,福井県だけ「福井県嶺南地方」というのが謎でした。近ごろは,富山県だけ「富山県高岡伏木」とかいっています。天気予報は,一般の人のだれにでもわからなければならない重要な情報なのに,こうした地方の名前がどこを指しているのか一般の人の多くが知らないというのは問題でしょう。
 気象番組で使われる地方のいい方がどこを指しているのかは,気象庁のホームページには「東海」に限らず,きちんと分類をした定義があるようで,今でこそそれを見ればわかるのですが,おそらく多くの人はそんなことすら知らないでしょうし,学校でも教えません。
 というより,こうした地方の呼び方に限らず,学校で教えることと実際に使われていることが遊離している場合が結構あるのです。先日「チコちゃんに叱られる」で,三重県は近畿地方かというような話題を取り上げていましたが,学校では三重県は近畿地方だとしっかり習います。地図の教科書にもそう書いてあります。「デジタルカメラ」は「ディジタルカメラ」です。高校の「情報」でそう習います。土地の売買では今も「坪」といういい方をしますが,学校では習いません。税金の仕組みや申告の方法もわかりませんし,福祉制度も知りません。この国の教育は死ぬまで使わないようなことはたくさん教えるのに必要なことは教えないのです。
 それが問題にならないのは,おそらく,学校で習ったことなんてみんな忘れているからです。あるいは,テストで点をとること以外に学校で習うことなんて何の意味もない,実生活には役立たないと思っているのでしょう。学校で習ったことを大人になっても覚えていて,それにこだわっているなんていうのはおろかな私だけなのでしょうか? しかし,社会で必要なことは,きちんと学校で教えることが必要でしょうし,教育は現実に合わせることが大切でしょう。

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昼食を終えて,ムーミン美術館に向かいました。
ムーミン美術館は,タンペレホールという大きな建物のなかにあるようでした。タンペレホールというのは,タンペレの中心にあるソルサプイストの南端に位置する北欧諸国で最大のコンサートおよび会議センターで,タンペレホールの向かいにはタンペレ大学の本館があり,タンペレ駅からわずか0.5キロメートルの距離にあって,このホールのメインの講堂の収容人数は1,756席あります。
ムーミン美術館のきっかけは,トーベ・ヤンソンのムーミン作品や原画が,1986年タンペレ美術館に寄贈されたことに遡ります。コレクションはタンペレ美術館ムーミン谷博物館で1987年から2016年まで展示されていましたが,とても小さくて,来た人をがっかりさせていたようです。 で,どこかに大きな美術館を,という話があったそうですが,なかなか適当なところがなかったそうで,それが,このタンペレホールが作られるということで,この場所に移動することができた,というはなしでした。
そんなわけで,オープンしたのが2017年6月。つまり,まだ2年目を迎えたばかりで,ここでも私はツイていました。 
フィンランドに興味を持ち,はるばるやってきても,シベリウスに関する「アイノラ」や博物館が休館だった,とか,ムーミンワールドがお休みだった,そういう人が少なくないのです。私は,そういうことも調べないでのこのことやってきて,昨年の冬にはロヴァニエミでオーロラを目撃し,今回は,見たい,行きたいという場所にはすべて行くことができました。このムーミン美術館は,数年前に興味を持っていたら来ることすらできなかったわけです。
おまけに,フィンランドにはムーミン美術館とムーミンワールドがあるという,その区別もしらず,当然,ムーミン美術館が何を展示されているのかもわからず,という程度でした。これでは,ムーミンが大好き,でもフィンランドに行きたくても行けない,という人には怒られてしまいます。

入口を入ると,チケット売り場ではムーミン美術館に入るチケットを買う人でごった返していました。チケットを購入するのは並ぶのではなく,チケットを購入する順番の番号の書かれた紙を機械で発券して,自分の番号が来るのを待つ,というシステムでした。ここはムーミン美術館のチケットだけでなく,この日は別の展示室で行われていて,この日が最終日だというアンディ・ウォーホール展を見に来た人が多いらしく,それで混雑してるということでした。私はアメリカピッツバーグのアンディ・ウォーホール美術館に行ったことがあるので,なにもフィンランドで見ることもなかったので,特に関心もなかったのですが,外国に来てこういうものに出会うと不思議な気がします。この数か月前にもオーストラリアのブリスベンの科学博物館でアメリカのロケット開発に関する企画展をやっていて,そんなものはアメリカで嫌になるほどホンモノを見たことがあるなあ,と思ったばかりです。
この,世界でひとつのムーミン美術館は,ムーミン本や挿絵でおなじみの人生の知恵,ユーモア,元気いっぱいの冒険心,人の温もりや友情など,世界中のムーミンファンたちに語られている世界を体感することができる,というのがウリでした。
ムーミンの作者トーベ・ヤンソンが手がけたムーミンの物語を,洪水や夏まつりの水上劇場,灯台の島の謎,十一月のムーミン一家失踪ミステリーなど,12冊のムーミン本のとおりに作られたミニチュアの模型とともに見ることができるようになっていました。説明員のなかに日本人の女性がいて,いろんな話を聞くことができました。

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タンペレの町は南北にタンメルコスキ川が通っていて,というよりも,実際はその川が陸地を分断していて,その西側に「◁」形で陸地,というより,実際は川で分断されているのだから,「島」があって,周りが湖で囲まれています。そして,川の東側に南北で鉄道が走っています。
私は朝鉄道の駅を降りて,西に向かって「◁」の南側を歩いてその先端にあるビューニッキ展望台まで行きました。そして,今度は「◁」の北側を歩いて,川まで戻ってきました。
川のほとりにあったのが,旧フィンレイン工場です。この赤レンガで作られた工場は,ジェームズ・フィンレインが1820年に作った綿織物の工場で,1990年に移転しました。今はその跡地が,レストランや映画館,労働者博物館,パブなどになっていて,ここに住む人のショッピングモールのようになっていて,けっこうな賑わいをみせていました。
私も歩いてみましたが,このような場所はどこの国にもあるので,特に興味もわきませんでした。とにかく,日本も外国も,都会というのはどこもそう違いがなく,そこに住む人には便利なショッピング街ですが,観光客にはつまらない場所と化してしまいました。ニューヨークの五番街へ行って,ユニクロに入ってみたところで,売っているものは同じです。

どこかで昼食でも,と思ってそのまま川に沿って駅のほうに歩いて行きました。川を渡って駅を越えると,今日の本来の目的地であるムーミン美術館にたどり着くので,その途中で,というわけでした。
駅前は,日本の中都市の駅前とそう違うものではなかったのですが,そこに一軒の感じのよさげなカフェがありました。そのカフェの雰囲気がとてもよかったので,中に入ることにしました。そして,サラダとコーヒーを注文しました。
このごろ,私はアメリカだけでなく,さまざまな場所を旅行するようになって,ヨーロッパやオセアニアはこうしたカジュアルなすてきなカフェがどこにでもあって,気楽に食事を楽しめることを実感するようになりました。その逆に,こうした気の利いたカフェがないのは,日本とアメリカだと思うようにもなりました。日本は,個人営業の店は高級店で,それ以外はチェーン店ばかりです。あるいは,どこも混雑していて,気が休まりりません。アメリカもまた同様だし,アメリカはチップがいるので,私は,アメリカに行くときはバーガーチェーン店ばかりを利用しているし,日本では,ひとりで入るのは,マクドナルドと吉野家とココ壱番屋ばかりになってしまいました。

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ビューニッキ展望台をあとにして,タンペレの市街にもどりました。この街は,いかにもフィンランドの「森と湖の国」にふさわしいところでした。このあとは街中にある多くの見どころを順に周って,最後にムーミン美術館に行くことにしました。
そこで,まず向かったのがレーニン博物館でした。
私はロシア(ソビエト連邦)の歴史をほとんど知りません。知っていることとはスターリンの粛清でショスタコービッチなどの作曲家が苦労したことくらいです。
  ・・・・・・
ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Влади́мир Ильи́ч Ле́нин)はロシアの革命家です。ロシア社会民主労働党(=ボリシェヴィキ,のちにロシア共産党と改名)の指導者として活動し,十月革命を成功させ,革命政府の人民委員会議議長として史上初の社会主義国家であるソビエト連邦の初代指導者を務めました。その次の指導者がスターリンです。ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン(Ио́сиф Виссарио́нович Ста́лин)はソビエト連邦の第2代最高指導者で,1930年代の大粛清(Большой террор)とよばれる大規模な政治弾圧を行いました。
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レーニン博物館は,フィンランドとソ連の和睦の証として1946年に設立された博物館で,労働会館の3階のフロアにありました。労働会館のビルの入口を入ると,ホールのようなものがあって,この日は何も催しがなかったので,閑散としていて,上に博物館があるとも思えない感じでしたが,ためらいながら階段を昇っていくと,博物館の入口に着きました。
入館料を払って中に入りました。けっこう多くの入場者がいました。この博物館は,ロシア革命からペレストロイカまで,ロシア(ソビエト連邦)の歴史が細かく展示されていましたが,私には勉強不足でよく理解できない博物館でもありました。

次に行ったのがアムリ労働住宅博物館でした。ここは1880年代から1970年代までの労働者たちが住んでいた住宅を(おそらく)移築して保存,公開してある博物館でした。あまざまな年代の多くの住居が一か所に集められていて,それらの中に入ることができます。そして,当時住んでいた人の名前や職業がこと細かく書かれてあって,フィンランドの人々の生活の歴史がとてもよくわかりました。
日本でも古い時代の住居跡が博物館となっているところがありますが,こうして,さまざまな時代の住居が一か所にまとめられているというのは,私はしりません。
私にはなかなか興味深いところでした。どの国も,こうした人々の歴史があって,今の便利な生活があるのだなあ,としみじみと思いました。ここはゆっくり見る価値がありました。

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タンペレはヘルシンキの北,約150キロメートルに位置する湖の半島にあたる場所に開けた町です。フィンランド第2の都市で,歴史ある建物が多く,多くの観光客でにぎわう町でした。とはいえ,ごったがえずほどではなく,ほどよく快適に観光をすることができるところでした。
それにしても,この程度の町がフィンランド第2の都市,というのですから,フィンランドというのは,本当にすてきな国です。ここタンペレは住んでみたいと思うようなところでもありました。
この日は,街歩きの最後にムーミン美術館に行くことにして,そのまえに,タンペレの見どころをすべて順番に訪れることにしました。この街もまた徒歩で十分に歩き回ることができるくらいの広さでした。

マーケットホールからさらに西に,半島の先端が高台となっていて,ここにビューニッキ展望台というのがあるそうなので,行ってみることにしました。その途中に日本料理店があって,ちょっとびっくりしました。展望台までは結構遠く,途中で道に迷いながら,なんとか到着することができました。
展望台はかなり古びた建物でした。まず,エレベータに乗って展望台に登ることにしました。エレベータもかなりの年代ものでした。展望台について,エレベータを降りて,外に出ました。ここは湖に囲まれた半島の先端に位置していて,東側にタンベレの市街地が見える以外はすべて湖。とても美しい景色を見ることができました。
この町の北に公園があって,そこには新しい展望台があるので,この展望台は高さにしても完全に負けているのですが,それでも,この街にはるばるやってきたら,ぜったいこちらのほうがお勧めです。
展望台を降りると1階にカフェがありました。なんでもこのカフェのドーナッツは有名で,フィンランドで一番おいしいという評判だそうです。であれば,これは食するしかありません。
私はドーナッツとコーヒーを頼みました。実際,ここのドーナッツはものすごくおいしくて評判どおりでした。これを食べるだけでも,タンペレを訪れる価値があるというものです。

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☆☆☆☆☆☆
 以前書いたことがありますが,日本は空が明るく水蒸気が多く,満足な星空は望めません。そこで,多くの愛好家はお金と時間をかけて,高級な機材を使いコンピュータを駆使して写真を仕上げます。
 私は,所詮,趣味というのは自己満足と割り切って,お金をかけて高い機材を買う気にもならず,30年前に買った古い望遠鏡で満足しています。そのお金でオーストラリアに出かけて美しい星空を見るほうがいいと思っているからです。コンピュータを使った画像処理も凝ったことがあるのですが,時間ばかりがかかるので,そんなことに手間暇かけるなら,旅行をしたほうがいいと思っているので,それもしません。
 晴れた晩に,往復約2時間,そして現地で2時間ほど,つまり合計4時間ほどかけて出かけて,10等星より明るい彗星を2分の露出で写したり,満天の星空とはいえなくても,双眼鏡で星雲や星団を眺めることに楽しみを絞っています。

 しかし,そんな明るい夜空でも,私が思っているよりも暗い彗星が写せるようです。便利な時代になったものです。
 今日の1番目の写真はこの日試しに写した散開星団「プレアデス」(Open cluster ”Pleiades” M45)ですが,この写真でも14等星くらいまで写っています。そこで,これからはどのくらい暗い彗星まで写せるかを試してみようかなと思うようになりました。
 そんなわけで,この晩は,アフリカーノ彗星以外に,10等星よりも少し暗い彗星がいくつか地平線上にあったので,それらを順に写してみることにしました。
 2番目写真がアサシン彗星(C/2018N2 ASASSN)です。アサシン彗星は,2018年7月11日,ASASSN(All-Sky Automated Survey for Supernovae)プロジェクトで,南アメリカ・チリのセロロ・トロロ(Cerro Tololo)天文台にあるカシアス(Cassius)14センチメートルの探査ユニット=3番目の写真 で発見したものです。
 4番目の写真がシュワッスマン・ワハマン第1彗星(29P Schwassman-Wachmann)です。シュワスマン・ワハマン第1彗星は1927年11月15日にドイツ・ベルゲドルフ(Bergedorf)のハンブルク天文台(Hamburger Sternwarte)のアルノルト・シュヴァスマン(Arnold Schwassmann) とアルノ・ヴァハマン (Arno Arthur Wachmann)が発見した公転周期14.7年の周期彗星です。 シュワスマン・ワハマン第1彗星は,ふだんは16等星ほどの暗い彗星ですが,突然アウトバーストを起こして12等星くらいまで明るくなることで知られています。アウトバーストは頻繁に起きて,1,2週間で16等星に戻ります。これまで,最大で19等級から9等級まで変化したことがあるといいます。アウトバーストは揮発性物質が爆発的に蒸発して起こると推測されていますが詳しいことは不明です。
 そして,5番目の写真がパンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)です。パンスターズ彗星は2017年10月2日,ハワイ・マウイ島のハレアカラ(Haleakala)にある1.8メートルPan-STARRS1望遠鏡で写したCCDの画像から発見されたものです。

 パンスターズ彗星はおうし座にあるので昇ってくるのが遅く,写すことができるまで少し時間があったので,その時間を利用して,みずがめ座とくじら座のふたつの惑星状星雲 NGC7293=6番目の写真 と NGC246=7番目の写真 を写しました。
 惑星状星雲は美しいのですが,小さいので,私の持っているような小さな望遠鏡ではなかなかうまく写りませんが,この写真のように,けっこうマシに写すことができました。
 NGC7293 通称らせん星雲(The Helix Nebula)は,みずがめ座にある有名な惑星状星雲です。距離は約700光年で,太陽系に最も近い惑星状星雲のひとつです。猫のような目の形をしている中心部が「らせん」の名前の由来ですが,最近の研究ではその周囲に淡い環状のガスが広がっていることがわかっています。全体の大きさは満月の約半分くらいまで広がっているという大きなもので,中心部に白色矮星が存在します。
 NGC246は,くじら座にある淡い惑星状星雲です。こちらは地球から約1,600光年離れています。星雲の中心の恒星は12等級の白色矮星です。中心の恒星とその周囲の配置から,この星雲はカシオペヤ座にある NGC 281 とともに,「パックマン星雲」( Pac-Man Nebula) というニックネームがあります。
 「パックマン」(Pac-Man)というのは,ナムコ(後のバンダイナムコ)より1980年に発表されたアーケードゲームのタイトルでキャラクターのことです。

  ・・・・・・
 ずっと天気がよくなくて,半年以上,日本では満足のいく星空を見る機会がなかったのですが,この晩はめずらしくずっと晴れていて,しかも,寒くも暑くもなく,最高の晩になりました。
 それにしても,こんな晩も1日だけ,また次の日からは曇り空,しかも,10月だというのに台風が接近するとあっては,またしばらく星空を見ることもできません。そのうちに冬になってしまうことでしょう。冬もまた,以前は太平洋岸は快晴の日が続いたものですが,今は,日本海側のような天候が多く,満足のいく星空を見る機会が少なくなってしまいました。

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☆☆☆☆☆☆
 2019年は本当に晴れません。お昼間に太陽が雲の間からのぞいていることはあるから,一般の人に実感はないでしょうが,これほど星の見えない年を私は知りません。わずかばかり雲のない夜もあったのですが,そうした日に限って月が明るかったりで,月明かりのない夜に晴れ渡ったことがまったくないのです。これでは,日本にある天文台は仕事ができないでしょう。日本しか知らなかったころはこんなものかと思っていたのですが,ハワイやオーストラリアに出かけるようになると,日本の条件の悪さを実感します。
 そんな日本でも秋は唯一,気候が安定して,空が晴れ渡る季節です。しかし,今年は秋になっても,空が晴れ渡る要因となる移動性の高気圧が日本列島を横切る,その通り道が通常よりも少し北側なので,高気圧の南側には雲がでてきてしまうのです。
 そんな晩が続き,10月もついに新月が終わり,せっかく,久々に10等星よりも明るい新彗星アフリカーノが地球に接近したというのにその最盛期も過ぎてしまい,ついに,これを見ることもないのかなあとあきらめていた10月4日,ついに晴れました。私は,この晩を逃せばもう見る機会がないと,ひさびさに星見に出かけました。

 私の住むところは,もう,星は2等星までしか見えません。何時間もかけて遠出をすればそれでもマシな星空が見られるのでしょうが,そんな時間をかける気にもなりません。そこで,北の空の星空が見たければ1時間ほど北に,南の空の星空が見たければ1時間ほど南に走って,街灯のない,なんとかかろじて天の川が見られる場所に出かけることにしています。
 アフリカーノ彗星はほんの少し前は北東の空に見ることができたのですが,出かけるまえに調べてみると,どんどんと位置を変えて,今はもう南西の空! これにはびっくりしましたが,そこで,南に向かって走りました。
 到着して望遠鏡を構え,ファインダーをのぞくと彗星の位置はすぐにわかりましたが,もう月齢が6まで達してしまっているので,明るい夜空はさらに明るく,月が沈むのは午後10時ころ,それまで待って,写真を撮りました。

 アフリカーノ彗星(C/2019W2 Africano)は,2018年年11月27日,アメリカのグレーラー(H. Groeller)さんが Catalina スカイサーベイプロジェクトで,アリゾナ州のレモン山のすぐ東にあるビゲロー山にある68センチメートルシュミット望遠鏡=2番目の写真 を使って18.2等星として,また,アメリカのアフリカーノ(B. M. Africano)さんがレモン山天文台にある1.5メートルの反射望遠鏡=3番目の写真 で18.3等星としてCCD画像から独立して発見した彗星です。レモン山天文台(Mount Lemmon Infrared Observatory )はサンタ・カタリーナ山地のコロナド国立森林内,アリゾナ大学の北約73キロメートル,海抜2,800メートルのレモン山の頂上にあります。アメリカ航空宇宙防衛司令部のレーダー基地であったのをハイテク赤外線天文台に変換したものです。こうしたプロジェクトで利用する望遠鏡は天文学の研究というよりもむしろ地球に接近する天体を探すという目的で運用するものなので,根本的な性格が異なります。
 NASAのJPLは組織的な地球接近天体捜索を行っていて,これまでにも多数の小惑星や彗星を発見しています。彗星は発見された人の名前をつけるのですが,この頃はスカイサーベイプロジェクトで発見されたものはプロジェクト名がつけられることが多くなりました。しかし,このプロジェクトでは,クレジットは原則として観測者に与えるというアリゾナ大学チームの方針から,自動捜索で小惑星として初期報告された天体を除き,天文台内で発見した個人名がつけられています。
 今回の発見は,グレーラーさんが最初に発見したのですが,アフリカーノさんの方が21分ほど早く天体を通報し,グレーラーさんの通報が到着する前にこの天体が小惑星センターの NEOCP ウェブページに掲載したので,アフリカーノさんの名まえだけが彗星につきました。

 現在,アフリカーノ彗星は太陽に接近していて,これまではちょうど地球も彗星に向かって軌道を進んできたので,地球から見た彗星はあまり位置を変えず太陽と反対側に見れらたのですが,数日前,彗星が地球軌道を越え,さらに,地球も彗星とすれ違うような形で遠ざかる位置になったので,急に見かけ上の移動が速くなりました。この先,彗星は太陽に接近するのですが,地球からは遠ざかり,彗星が太陽の方向になるので見えなくなります=4番目の写真。先週くらいが最も明るく見ることができたようですが,今後は暗くなります。ということで,何とかラストチャンスでとらえることができました。
 家に帰ってから写した写真を見てみると,今日の4番目から6番目写真のようにわずか数十分で星の間を縫うように動いている様を見ることができて,大変おどろきました。

  ・・
 この晩は,ほかにも暗い彗星をいくつか写すことができました。その話題はまた後日書きます。

ホテルに3泊して,4日目となりました。海外に出かける多くの旅では,到着は夕方になるので,3泊しても観光できるのは2日ということが多いのですが,ヘルシンキは到着した日の午後から行動できたので,すでに3日たっぷり観光をしました。そしてまた,なんと3日で10万歩も歩きました。
昨日は,列車に乗ったので,ヘルシンキから郊外に遠出することにも抵抗がなくなりました。今回の旅では,こうして,1日1日,次第に遠くに出かけることができるようになってきました。しかし,それでも,さすがに,まだ,ヘルシンキから列車とバスを乗り継いで4時間近くもかかるムーミンワールドに行こうとは思っていませんでしたが…(結局行くことができました)。そこで,今日は,せめてと思って,列車で2時間ちょっとのタンペレという町にあるムーミン美術館まで行ってみることにしました。

昨日同様,駅に行って,まずチケットを購入しました。やがて指定された列車が来たので乗り込みました。
私はこれまでずっとアメリカを車で旅行していたので,海外で列車に乗って旅をすることはほとんどありませんでした。ヨーロッパには,若いころ一度だけ行ったフランスでTGVに乗ったっきりでした。でありながら,なんとなく,歳をとったら車でアメリカを旅することを卒業して,ヨーロッパを列車で旅したいものだと思っていたのですが,どうやらそれがかなってきました。昨年行ったオーストリアでも,ウィーンからザルツブルグまでの列車の旅をしましたが,なかなか快適でした。海外では,車中から外の風景を見て,そこに住んでいる人を想像するだけで楽しいのです。
今回の旅でも,ヘルシンキから郊外へ行く列車に乗るのもまた,それと同様にとても興味のあるものでした。フィンランドの郊外の風景を見ていると,ほんとうにいい国だということを再認識しました。列車の旅はとてもすばらしいものでした。
やがて,タンペレの町に到着しました。

タンペレには,駅の東出口を出て,線路沿いに南に少し行ったところにムーミン美術館があるのですが,この日は土曜日,平日は9時に開館するムーミン美術館は週末は11時の開館ということだったので,美術館が開館するまで市内観光です。そこで,駅の西口を出て,まず,タンペレの町を歩くことにしました。この日は1日かけて,タンペレを堪能する予定でした。
まず向かったのが,朝早くからやっているというタンペレ・マーケットホールでした。駅を出ると,駅前のメインストリートは工事中でした。工事を何となく見ていると,どうやらトラムの線路を牽いているようでした。この時期に市電を設置するというもの,日本と違ってなかなかのものです。フィンランドという国は日本とは比べものにならないくらいハイテクな国ですが,駅といい,公共交通機関といい,そうしたものの外観は30年前の日本を思い出すようなところがあって,とても落ち着きます。
朝は寒く,半袖の私は少し心配になりましたが,次第に気温が上がったので,これで十分でした。
やがて,タンペレ・マーケットホールに到着しました。お土産を買わない私は,時間的にカフェに入るのも中途半端な時間だったので,ぶらりとウィンドウショッピングをしました。このマーケットホールのとなりに,日本の今風のマーケット,というかデパートがあったのが意外でした。これではおそらく,このマーケットも潰れてしまうのではないかなあと思ったことでした。

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私はヘルシンキカードというものを持ってヘルシンキの観光をしていましたが,このカードは市バス,トラム,メトロなどが乗り放題になるばかりでなく,博物館や美術館などにも無料で入ることができてとても便利でした。ヘルシンキカードには24時間,48時間,72時間のものがあるのですが,値段があまり違わないので,最大の72時間のものを購入して,有効に利用しました。
ヘルシンキ市内では「Hop On Hop Off」という2階建ての観光バスが走っていて,これも乗り放題だということを私ははじめ気づかなかったのですが,ガイドブックを見直してそれを知ったので,機会があれば利用しようと思っていました。
ちょうどヘルシンキ大聖堂の前の広場にこのバスが停まっていたので,大した距離でもないのですが,最後にこれに乗って中央駅まで行ってホテルに戻ろうと思いました。そこで,停まっていたバスに乗ろうと,ヘルシンキカードを見せて,これで乗れるかと聞いたのですが,私の聞き方が悪かったのか,このカードで無料でのれる湾岸クルーズの乗り場はこの近くのマーケット広場のところで黄色いのぼりが立っているからすぐわかると言われました。

なんだかよくわからなかったのですが,ともかく,湾岸クルーズに無料で乗れるなんて思ってもみなかったので,行ってみることにしました。急いでマーケット広場に行ってみると,確かに黄色いのぼりが目立っていました。しかも,クルーズ船はちょうど出発間際でした。ということで,偶然,なんと1時間30分もの湾岸クルーズ「Sightseeing by Boat」というものに乗ることができました。
この船には,1階の船室と2階の観望席がありました。実はこのあと雨になるという天気予報を私は知っていて,確かにすでに雲行きがおかしくなっていました。乗り込んだ人たちはみな観望デッキに急いだのですが,私は雨になるとわかっていたので,1階の客席の窓側に座りました。船は予想以上に遠くまでクルーズをしていきました。私の予想通り途中で大雨になって,デッキにいた人が大挙して客席に避難してきました。
ずっと雨だったので,船室から出ることができませんでしが,船室の窓からも,ヘルシンキ湾が十分に堪能できました。このクルーズ最大の見せ場が船の幅ぎりぎりの運河を通るときで,船が脇をこすりながらすり抜けていきました。

クルーズは乗り甲斐があって非常にお得でした。
今回のフィンランドの旅は6泊8日でしたが,天気が悪かったのはこの日だけ,しかも,朝方の大雨とこのあとに降ってきた雨だけで,幸いお昼間は大丈夫だったので,シベリウスの住んでいた家「アイノラ」まで遠出することができました。残念なことに,この湾岸クルーズは雨になってしまいましたが,まあ,このクルーズはおまけだったということで,やむをないことでした。
船を降りたときは雨はすでにやんでいました。ヘルシンキでは雨になっても,日本と違って,1日中降るというようなことはないそうです。港からホテルまでは,結局歩いて戻ることになりました。ついに,「Hop On Hop Off」バスに乗る機会はありませんでした。今日もまた,ホテルの近くのモールの食べ放題で夕食を済ませました。

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行った場所に住んでいる人の生活を知るには,マーケットに行くのが一番です。というわけで,私は,旅行をするとマーケットに行ってみることにしています。料理もしないので,何も買わないのですが,見て歩いているだけで楽しいものです。マーケットに行ってみると,生きるのに一番必要な知恵は調理ができることだと痛感します。
私が学生時代は,男子は家庭科すらなく,本当にどうしようもない時代でした。という言い訳はさておいて,とにかく若いころに身につけなくてはならない最も大切なことは,食べる手段を身につけることとコミュニケーション能力だと,歳をとって実感するようになりました。

ヘルシンキでマーケットといえば,まずはマーケット広場です。大統領官邸の真ん前にこうしたマーケットがあるというものすてきなことです。マーケット広場のほかにも,さまざまなマーケットがあるので,トラムに乗って行ってみることにしました。
まず行ったのがハカニエミ・マーケットホールでしたが,ここは現在改装中だったのが残念でした。とはいえ,改装中の建物の前の広場に臨時のプレハブ小屋が作られていて,そこで営業をしていました。このなかに,老舗の肉屋さん「レイニン・ニーハ」がありました。感じのよい女性の店員さんがいて,目が合ったので,日本で映画に出てきたお店ですよね,と話しかけたら笑っていました。
次に行ったのが,ヒエタラハティ・マーケットホールでした。ここは,行った時間が悪かったのか,閑散としていました。
そして最後に,オールド・マーケットホールに行きました。ここは改装が終わったばかりで,充実した店内に多くの店がありました。食事をするには時間が中途半場だったのが残念でした。
いずれにしても,ヘルシンキはさすがに野菜は小ぶりのものが多いのですが,魚や肉はいろんな種類のものがたくさんあって,行ってみた甲斐があったというものでした。

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 消費税が8%から10%になって消費が落ち込むことを懸念し,また,電子マネーを促進するという狙いから,ポイント還元とかいうわけのわからない施策を打ちだして,それがニュースでも取り上げられています。そうしたすべては「日本人の知恵と発想の限界」。オリンピックのチケットのときもそうだったし,携帯電話の料金の引き下げや,それ以外にも,これまで政府が何かをしようとして,その結果起きたさまざまなトラブルは,すべて,もう,あほらしさを超えて,逆に,私は,何かが起きたときのドタバタ劇を傍観すると楽しくて仕方がありません。
 私は数年前からずっとキャッシュレスで生きてきて,めったに現金を使わないし,ここ数年 ATM さえ使ったことがなく,現金といえば何かで必要なときのために財布の奥深くに1万円札を1枚忍ばせているだけなので,もはや戸惑いませんが,そうでない人にとっては,ポイントからはじまって,やたらと種類の多いクレジットカード,そして,〇〇Pay と,これまで放任しておいてめっちゃくちゃになっておきながら,今さら政府主導でキャッシュレスといわれても右往左往するだけです。しかも,そうしたことに対する報道もまたすべて,なんらかの利害と絡んでいるので,何を信じていいのかわかりません。そこで,結局,そうした人はそんなめんどうなら現金でいいや,という結論になるわけです。

 世界を旅行していると,日本ほどモノを買うのが面倒な国はほかに知りません。決済方法多すぎ,そして店によって違いすぎです。クレジットカードですら店ごとに使えるものが限られていたりします。中国や韓国,さらに東南アジアや南アメリカ,アフリカ,中東には行かないから,それらの地域のことは知りませんが,私が出かけるアメリカ,オセアニア,ヨーロッパなどでは,モノを買うとき,その 99%は1枚のクレジットカードで事足ります。現地通貨など,まず,使ったことがありません。それが,日本では,現金しか使えない,特定のカードしか使えないということがあまりに多く,そしてまた,札は大きく,コインもかさばるので大迷惑をしています。
 そもそも,ポイントとかいうくだらないものが諸悪の根源。飛行機を利用したときのマイレッジとか家電製品を購入したときのような高額な金額に対するポイントは貯める価値もあろうというものですが,牛丼1杯食べて1ポイントもらっても,たかが1円でしかありません。コンビニなど,スーパーマーケットなら76円で売っているペットボトルが143円もして,そこで1ポイントもらったところで,しょ~もないだけです。さらに,マイナンバーカードを普及させるために,マイナンバーカードで買い物をしてポイントを与えるとかいうことも考えられているそうですが,クレジットカードも持たない人がマイナンバーカードなどという個人情報満載のカードを買い物で使うわけもなく,しかも,そんなものを使えば,個人が何を買ったかという情報を国がすべて把握できてしまうわけだから,普及するわけがありません。
 かくいう私は,実はポイント貯めています。いや,貯めているのではなくて単に使用しています。それは,レジでポイントカード持っていますか,と聞かれたとき,持っていなければ持っていないで作りますか,といわれるのがウザったいので,言われる前にポイントカードを登録した iPhone を差し出すのです。それだけの理由です。しかしこのポイント,有効期限があったり,Tポイントは吉野家のようにカードでなければ使えないとかいう店があったりするすので,さらにウザったいのです。また,ポイントは貯めるものではなく,1ポイントでもあればさっさと使ってしまうに限ります。

 こうした日本のわけのわからないキャッシュレス社会でストレスなく生きぬくには,普段決済手段として持ち歩くのは Suica とクレジットカードを登録した iPhone と非接触型決済が使えないときのためのクレジットカード1枚だけにすることです。これで事足ります。普段は Suica を ApplePay として使用し,Suica にチャージするクレジットカードを紐付けておけばよいのです。Suica なら公共交通機関にも対応できます。私は,使えない店には行きませんし,食料品以外のモノのほとんどは通信販売で買います。
 ○○Pay とかいうのはクレジットカードが使えない店でキャッシュレスをするために導入しはじめたものです。私は LinePay と楽天Pay を2,3回使ってみたのですが,店によって使えるものが違うので不便なだけで必要性を感じなかったので,しばらくは静観です。現在は PayPay が最強のようですが,私は SoftBank をまったく信用していない(前身である日本テレコムに騙されたことがある)ので,使いません。コンビニといえば,数年前はセブンイレブンの nanaco カードが便利で最強でしたが,ApplePay にも登録できずチャージも現金を持って店に行かないとできないので,時代が進んだ今はすっかり取り残され見る影もなくなり,縁を切りました。
 私は,未だに現金を使っている人を見ると気の毒に思います。現金を使う人にも2タイプあって,そのひとつは,いつも1万円を出す時代遅れの人,もうひとつは端数分のコインを必死に探しておつりがないようにして出す人です。いずれにしても,そのどちらのタイプの人も,レジで精算に時間がかかるのは変わりなく,後ろに並んでいる人には非常に迷惑です。
 しかし,これまで現金しか使ったことのないお年寄りには,この国のわけのわからない,かつ,不親切極まりないキャッシュレスシステムは過酷でしかありません。また,海外でも,日本でクレジットカードを使いなれていない多くの人は,日本にいるときと同じように,現金を不慣れな外貨(現金)でたどたどしく使っていたりします。日本で1万円札を出すように,アメリカで大きなブランド品の財布から100ドル紙幣など出して買い物をしょうとするのを見るとはらはらします。
 おそらく,こうして,この国は,この国の人は,さらに世界から遅れていくのでしょう。くわばらくわばら。

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今日はシベリウスの生涯について書きます。
  ・・・・・・
1865年シベリウス(Johan Julius Christian Sibelius)は医師クリスティアン・グスタフ・シベリウス(Christian Gustaf Sibelius)を父,マリア・カルロッタ・シベリウス(Maria Charlotta Sibelius),旧姓ボーリ(Borg)を母としてハメーンリンナ(Hämeenlinna)に生まれました。高校卒業後,ヘルシンキ大学に進学して法学を学びはじめましたが,音楽への興味の方が圧倒的に大きかったのでヘルシンキ音楽院(現在のシベリウス音楽院)に転入,在学中の1888年当時17歳のアイノと恋に落ち4年後に結婚しました。
1892年「クレルヴォ交響曲」(the choral symphony ”Kullervo””)をきっかけとしてシベリウスは管弦楽に意識を向けるようになり,本格的に作曲家の道を歩みはじめ,1899年交響曲第1番を作曲,初演で各方面から好評を博しました。このときの公演プログラムでは,少年と男声合唱のための「アテネ人の歌」(Song of the Athenians)も演奏され,この曲の最後「フィンランドは目覚める」(Finland Awakens)がとりわけ高い人気を獲得したのですが,これがのちに広く知られる「フィンランディア」(Finlandia)です。

1901年から1902年にかけて作曲された交響曲第2番はフィンランドの人々の間に熱狂の渦を巻き起こしました。交響曲の完成後,シベリウスはトゥースラ湖(Lake Tuusula)のほとりに「アイノラ」(Ainola=Aino's Place)と名づけた邸宅を建築し,移り住みました。しかし,1907年のはじめごろからシベリウスは暴飲暴食に耽るようになり,この生活習慣がアイノの健康状態に深刻な影響を与えることとなって,療養施設への入居に至らしめてしまいました。妻が不在の間にシベリウスは禁酒を決意し,交響曲第3番の作曲へと意識を集中させることになりましたが,完成した交響曲は否定的な論評を浴びることとなってしまいました。また,喉の癌の疑いにより大きな手術を受けましたが,この手術が成功したことにより,再びシベリウスとアイノは自宅での幸福を新たなものにすることができました。
1910年のはじめに着手した交響曲第4番は,その内省的な作風があまり前向きに評価されず、賛否両論を巻き起こすことになりました。1915年には交響曲第5番,続いて1919年の暮れには交響曲第6番を作曲し,ともに初演で称賛されました。さらに,1924年のはじめには交響曲第7番が完成,公開演奏は好評を博し,ダンネブロ勲章のナイトに叙される栄誉に与りました。

しかし,交響曲第7番を最後に,シベリウスの創作活動は急激に落ち込み,残りの生涯で規模の大きな楽曲はわずかしか生み出すことはありませんでした。残りの30年の人生をシベリウスは音楽について公に語ることすら避けながら過ごすようになりました。 これが「ヤルヴェンパーの沈黙」(the Silence of Järvenpää)とよばれるもので,シベリウスの存在は神話のようなものとなっていったのです。
1955年,90歳の誕生日を迎えたシベリウスは盛大に祝われたのですが,その2年後の1957年,アイノラにて91年の生涯を閉じました。シベリウスは国葬によって葬られ,アイノラの庭へ埋葬されました。アイノ・シベリウスはその後の12年間を同じ家で暮らし,1969年97歳で夫の後を追いました。彼女も夫の側に眠っています。
1972年,存命のシベリウスの娘たちがアイノラをフィンランド政府へと売却,それ以降アイノアは博物館として公開されているのです。

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フィンランドが独立の機運に湧き始めた19世紀後半から20世紀半ばに,祖国フィンランドの自然や伝承神話などをモチーフに美しく神秘的な作品を数多く残したのが作曲家ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)ですが,シベリウスが妻アイノ(Aino Sibelius)とともに30代後半から死去するまで住み続けていた自邸が,妻の名前にちなんでつけられた「アイノラ」(Ainora)です。
1904年,その当時創作活動が停滞し精神的に追い詰められていたシベリウスを救うため,妻のアイノはヘルシンキから郊外への移住をシベリウスに提案し,ヘルシンキから北へ30キロメートルほど離れたヤルヴェンパー(Järvenpää)という美しい田舎町に5千平方メートルの土地を購入し,丸太造りの2階建ての家屋を建てて移住しました。この家の家具や棚,階段,サウナ小屋などの設計は,建築を勉強していた妻アイノが行いました。また,ピアノの置かれたリビングには,親友であった芸術仲間ガッレン・カッレラによる肖像画や風景画などが掛けられ,イタリア製のシャンデリアやオランダ製の暖炉なども設置されました。

現在,シベリウスが暮らしていた自邸はそのまま保管されていて,毎年夏にのみ公開されています。冬のフィンランドもオーロラなど魅力的ですが,ムーミンワールドをはじめとして,夏でなければ訪れることができないところも多いのです。
敷地内の入口に小さな建物がありました。そこがカフェを併設したミュージアムショップで,そこにまず立ち寄りって入場料を払いました。カフェでは女性がひとり食事をしていました。
広い敷地に出ました。そこには美しい花の咲く庭園があって,私が訪れたとき,ちょうど1組の日本人の家族連れが来ていましたが,それ以外には誰もおらず,静かで落ち着く場所でした。そのまま歩いて行くと,シベリウスと妻アイノが眠っている墓がありました。そこを上がっていくと,自邸に着きました。
自邸には係の女性がふたりいました。挨拶をして中を見学しました。内部は往時のままに保存してあって,リビングやキッチン,書斎,寝室など各部屋に置かれていた家具や日用品,ピアノや絵画が残されていました。まるでその部屋にはシベリウスが座っているような気がしました。この部屋で作曲をしていたんだなあと思うと胸が熱くなってきました。私の頭の中にはシベリウスの作曲した曲が鳴っていました。満ち足りた気持ちになりました。
部屋を自分で見てまわることができるように,解説書が用意されていて,それには日本語版もありました。
一旦外に出ると,自邸には地下室があって,そこではシベリウスの生涯をビデオで見ることができました。
自邸を出ました。自邸の周りはまるでひとつの森のような広大な敷地になっていました。
アイノが手入れを欠かさなかったという美しい花園が今もしっかりと手入れされて広がっていました。そこにはアイノが好きだったリンゴの木もありました。また,自邸の奥にはサウナ小屋が残っていて,その内部も見学できました。
敷地を歩き終えました。ミュージアムショップに戻って,昼食をとることにしました。おいしいサラダとコーヒーの昼食は,この旅で,もっとも落ち着くことができた時間になりました。

私はこれで駅に戻りましたが,アイノラから少し西に歩いた場所にはトゥースラ湖(Lake Tuusula)があって,そこはシベリウスがよく散策をしていたところだったといいます。また,この湖周辺には,小説家ユハニ・アホの自邸やアールトが設計を担当した作曲家ヨーナス・コッコネンの自邸などこの美しい景色に見せられた芸術家たちの住まいがいくつも残っているそうです。この旅ではそうした場所に行くことができなかったのを今にして後悔しています。実際は,この湖畔に立ち寄りながら北上して,ひと駅先のヤルヴェンパー駅から帰るべきでした。
このように,ヤルヴァンパーはすてきな町だったので,また来る機会があれば,今度はここに1泊してみたいものだと思いましたが,それもそう遠いことではないように思えます。

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