しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

November 2019

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 私は旅先ではまず,その地の名物から見る,食べる,やりたいことをやってみるということにしています。おすすめはまず実行してみるのです。そのうちに,土地勘ができてくるのです。
 そこで,今回は,まず,大内宿名物のネギ蕎麦を食べることにして,猿游号の中で紹介された山形屋さんというお店に入りました。ネギ蕎麦というのは高遠蕎麦のことです。高遠蕎麦というのは,保科正之が1643年(寛永20年)に会津藩主となって以来,大根おろしそばのことをそういうようになったとかで,大内宿では薬味の長ネギを箸代わりにして食べるということです。
 私は小学校のころに徳川家の系図というものに興味をもっていて,そこに載っていた保科正之がなぜ徳川家康直系でしかも名君だったのに将軍家が継げなかったのかが,そのときは疑問でした。保科正之というのは日本史上屈指の名君といわれる殿様で, 初代の会津藩主ですが,徳川秀忠の「ご落胤」だったのです。徳川家康の孫で徳川家光の異母弟となります。
 ネギ蕎麦はもちろん箸で食べてもいいのですが,私は長ネギで食べてみました。結構イケる味でしたが,次第にネギが根元になるにつれて辛くなってしまいました。
 猿游号でもらった優待券で栃の実もちがサービスでついてきて,これがとてもおいしかったです。

 お店を出て,次に向かったのが,子安観世音のある高台で,ここから大内宿が一望できるとあって,写真をとるために,多くの人がいました。ここに行くには結構な急な階段を上っていく必要があるのですが,ちょうど雨上がりで,すべっては大変なので,注意して登りました。今や,若いころのつもりでいると,取り返しのつかないことになります。
 高台からは大内宿がすべて眺められました。よく雑誌などに載っている写真はここから撮られたものです。
 大内宿もまた,旧中山道の馬籠宿,妻籠宿,奈良井宿や,旧東海道の関宿のように,昔の宿場のままではなく,昔の景観を復元したところで,悪く言えばテーマパークのようなものです。そして,そうした家並みの多くは土産物店や食事のできる店となっているのですが,大内宿は東北にあるので,観光客といっても,馬籠宿ほどの混雑もなく,外国人も少なく,落ち着きがありました。
 一歩外に出ると,普通の生活を営なむ人の住居や小学校,そしてまた,神社などがあったのですが,それらがまた東北らしく素朴で自然が一杯だのが,私にはむしろうれしい世界でした。
 それほど広いとは言えない宿場で,ゆっくり滞在しても2時間ほどでそのすべてを見て回ることができます。
 私は,食べ歩きをしたり,土産物をみたり,町並み展示館を見学したりして,過ごしました。

 今回ここに来るまで,大内宿のことしか知らなかったのですが,湯野上温泉駅のひとつ手前に塔のへつりという変わった名前の駅がありました。どうやらその駅のあたりは風景明媚な場所らしいことをそのときに知って,帰りに寄ってみることにして,2時少し前の猿游号に乗って,湯野上温泉駅にもどりました。

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 しかし,大内宿というのがどこにあるのか,皆目見当がつきませんでした。地図で見てもあんな遠いところにどうやって行くのだろうと思いました。
 11月22日,東京へNHK交響楽団定期公演を聴きにいった次の日に日帰りで行けないものかと調べたところ,東武鉄道の「リバティ会津」という特急が,鉄道会社をまたいで福島県の会津田島駅まで直通で走っていることを知りました。会津田島駅からは大内宿のもよりの駅である湯野上温泉駅まで会津鉄道が連絡していて,さらに湯野上温泉駅からは猿游号という乗り合いバスが大内宿まで走っているということをやっと見つけました。
 さすがにそれだけではさっぱり様子がわからなかったのですが,ともかく,北千住駅から会津田島駅までの東武鉄道の特急券だけ購入して,あとはなんとかなるだろう,という感じで出かけました。4時間ほどかかるということだったので,朝7時前に出発して,午前11時ごろに着いて,帰りは午後5時くらいなら東京に午後9時過ぎに戻れるだろうという計画でした。

 予定通り,特急「リバティ会津」は北千住駅を出発しました。あいにく東京は雨でしたが,現地の天気予報は幸運にも雨は降っていない様子でした。私は,東武鉄道を利用して日光までは行ったことがありますが,その先はまったくわかりません。
 車窓から見ていると,名前だけは知っている鬼怒川温泉あたりは紅葉真っ盛りで,美しい景色が見えましたが,あの有名な鬼怒川温泉も,大きな旅館のいくつがが潰れていて廃墟となっており,ここもまた,私がいつも目にする日本の姿を目撃して落胆しました。
 それにしても,東京近郊の,あの,絶対住みたくない雑踏と,少し離れるだけで,過疎地となってしまっている東北の姿,これが日本の現状だと思うとかなしくなりました。
 北千住駅では Suica で乗れると聞いたのに,鉄道会社が変わるたびに車内で検札があって,そのうちにこの先は Suica が使えないから現金でチケットを買えといわれたり,戸惑うことばかりでしたが,なんとか3時間ほどで会津田島駅に到着しました。もうそこは東北でした。
 そこで,別のホームに停まっていた1両だけの会津鉄道に乗り換えて,20分ほどで湯野上温泉駅に着きました。湯野上温泉駅は日本で唯一の茅葺屋根の駅だそうです。湯野上温泉駅からは,調べたとおり猿游号というバスが10分ほど待っていたらやってきて,無事,大内宿に到着しました。

 大内宿は,多くの観光バスや自家用車が来ていましたが,紅葉の季節を終わったばかりで,さすがに観光客は少なく,私の心配は杞憂に終わりホッとしました。
 それにしても,私が8月にヘルシンキからムーミンワールドまで電車とバスを乗り継いでいったときと時間もシチュエーションもよく似ていたのですが,日本のほうがわかりにくくかつ不便だったのが,最も印象的な出来事でした。
 日本は都会から離れると,急にICカードが使えなかったり,クレジットカードが使えなかったり,トイレが汚かったりと30年以上昔に戻ってしまいます。つまり,日本は東京からの距離に比例して,時代も古くなるのです。しかし,私がこれまで出かけたフィンランドやニュージーランド,オーストラリアなどは,都会も郊外も,便利さは変わりません。つまり,都会からの距離が遠くなっても,時代はそのままです。

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 私はこのごろ日本国内でこれまで気になっていて行く機会のなかった場所に出かける機会を作っているのですが,11月23日,ついに行きたかった大内宿に行くことができました。

 大内宿というのは福島県南会津郡下郷町大内にあって,江戸時代には会津西街道(=下野街道)の「半農半宿」の宿場だったところです。宿場は1643年(寛永20年)ごろに開かれ,盆地内を北北東から南南西に貫く街道に沿って整然とした屋敷割の街並みが形作られました。
 会津西街道は,北から南に,会津藩の若松城を出ると福永宿,関山宿を経て山岳地に入り,氷玉峠および大内峠を越えて,大内宿に入ります。大内宿からは中山峠を越えて倉谷宿に入り,日光街道の今市宿へと至ります。若松城から江戸までは61里5泊6日ほどの旅程で,若松から5里の距離にある大内宿は本陣や脇本陣が設置され,会津藩の参勤交代や迴米の集散地として重要な宿場となっていました。
 1680年(延宝8年),江戸幕府が参勤交代の脇街道通行を厳しく取り締まるようになったために,大内宿を通る会津藩の参勤交代は途絶え,白河藩の白河城下町経由の白河街道にシフトしました。しかし,3年後の1683年(天和3年)に起きた日光地震によって戸板山が崩壊し,五十里宿および周辺の街道が堰止湖に水没し,代替路として新規開通した会津中街道に,参勤交代だけでなく物流もシフトし,さらに,40年後の1723年(享保8年)の大雨によって堰止湖が決壊すると,会津西街道は復旧したものの主要道は別の街道に移ってしまったために,大内宿は純粋な宿場町ではなく「半農半宿」となってしまいました。
 1868年(慶応4年・明治元年)の会津戦争で戦場となりましたが,宿場は戦禍を逃れましたが,明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位も失いました。
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 1965年(昭和40年)ころから,研究者らが当地の生活調査や建築物調査などで盛んに来訪するようになると,旧宿場の街並みが近代化から取り残されて昔のままの生活が営まれていると評価され,街並みの保存活動がはじまりました。
 1980年(昭和55年)には「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され,同条例で決定された伝統的建造物群保存地区は1981年(昭和56年)に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
 1984年(昭和59年)には旧本陣を復元した建物に「下郷町町並み展示館」が開館し,1986年(昭和61年)より「大内宿雪まつり」を開催,大内宿の最寄りの会津線・湯野上温泉駅がJR東日本から会津鉄道に承継された折に駅舎も茅葺屋根に建て替えられ,それと並行して,1982年(昭和57年)から1988年(昭和63年)にかけて旧宿場に沿って道路を新設して宿場から交通を遮断し,翌年,電柱・電話柱・テレビ共同受信柱・地区有線放送柱を新設道路に移設し旧街道の無電柱化を実現しました。その後,旧街道のアスファルト舗装を撤去して土の道を復元したり,観光駐車場を新設したりして環境整備,こうして,大内宿は,福島県を代表する観光地のひとつとなりました。
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 現在,大内宿は全長約450メートルの往還の両側に道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並んでいて,本陣跡には下郷町町並み展示館があり,民宿や土産物屋,蕎麦屋などが多数立ち並んでいる風情は,江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。蕎麦は「高遠そば」の名で知られていて,箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習があります。

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 NHK交響楽団定期公演,今シーズン私はCプログラムの定期会員です。11月はAプログラム,Bプログラム,Cプログラムとも,ヘルベルト・ブロムシュテットさんの指揮でしたが, すでに終わったAプログラムとBプログラムはFM放送で聴きました。
 11月6日に聴いたBプログラムは,ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」がはじめに演奏されるという変わったものでしたが,いつものとおり,すごくテンポが速くて驚きました。
 現在,ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,来日するたびにベートーヴェンの交響曲を演奏されていて,これで残るは第5番だけとなったのですが,実は,現在のベートーヴェン交響曲演奏シリーズでは数年前にもう第3番は取り上げられています。それ以前にも第3番を取り上げたことは多く,この曲がお気に入りのようです。
 来年はぜひ,第5番を聴きたいものです。
 11月16日にFM放送で聴いたAプログラムでは,ブラームスの交響曲第3番が演奏されました。ブラームスの交響曲は,現在のベートーヴェンシリーズの前に全曲取り上げられたことがあって,今もその録音は私の宝物となっているわけですが,今回,再び第3番が演奏されました。今回の極めつけは,なんと,定期公演にもかかわらず,アンコールとして,交響曲第3番の第3楽章が再び演奏されたことです。もう,これは涙腺が緩みます。私は,この演奏会に行けばよかったとしみじみ思ったことでした。

 そして,私が聴いたのが11月22日のCプログラムです。
 曲目はモーツアルトの交響曲第36番「リンツ」とミサ曲ハ短調でした。「リンツ」は久しぶりに聴きました。とても小規模な編成で,確か,第1ヴァイオリンが10人,第2ヴァイオリンが10人,ビオラが6人,チェロが4人,そして,コントラバスが3人でした。ヘルベルト・ブロムシュテットさんは,モーツアルトの交響曲の演奏で,いろいろな工夫をしていて,以前は,指揮台がなかったこともあります。
 ミサ曲ハ短調は,私はこの曲を2006年2月の第1560回定期公演で聴いたことがあります。第1560回定期公演では,モーツアルトの交響曲第34番も演奏されました。そのときのミサ曲のソリストは幸田浩子さんと半田美和子さん,福井敬さん,河野克典さん,合唱は国立 音楽大学でしたが,特に幸田浩子さんがすばらしかった印象があります。 このときの演奏はいまでも印象に残っているものです。今回は,クリスティーナ・ランツハマー(Christina Landshamer)さん,アンナ・ルチア・リヒター(Anna Lucia Richter)さん,ティルマン・リヒディ(Tilman Lichdi)さん,甲斐栄次郎さん,合唱は新国立劇場合唱団でした。
 今回もまた,前回と同様に,合唱団の人をミサの曲目によって配置換えをするのは同様でしたが,これにどれだけ効果があるのか,と前回のコンサートである評論家が書いていたのを思い出しました。このこだわりこそが,ヘルベルト・ブロムシュテットさんの若さの秘訣だと私は思います。
 家に帰ってから,録音してあったFM放送を聴いてみました。会場以上にバランスのとれたすばらしい演奏に聴こえました。感動で泣けてきました。特に,「リンツ」は,こんなに美しい演奏を聴いたのははじめてでした。
 ヘルベルト・ブロムシュテットさんは来年も11月に来日が予定されています。ぜひ,お元気で,また,演奏会が聴けるのを楽しみにしています。

 それにしても,こうして定期公演に接してると,月日の流れの早さを感じます。わずか10年程度でも,登場する指揮者や独奏者などの顔ぶれがすっかり変わってしまいます。そして,当時を振り返ると,懐かしもあり,寂しくもあります。音楽は時間芸術といいますが,どんなにすばらしい演奏であっても,月日とともに流れていってしまいます。また,当時,自分に知識がなかったために,かなり貴重な演奏であっても,その貴重さがわからなかったものも少なくありません。それがまた残念なことでもあります。
 一期一会といいますが,そのときそのときの音楽との出会いをもっと楽しまなくては,と思います。それとともに,このすばらしい芸術がわからない人を気の毒に思います。

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 NHK交響楽団2019年11月の定期公演の指揮は,待望のブロムシュテットさん。Cプログラムの曲目はモーツアルトの交響曲第36番とミサ曲ハ短調でした。今年もまた,この巨匠の指揮で聴くことができたのをたいへんうれしく思いました。
 私は2002年のシーズンにNHK交響楽団の定期会員になって以来,足しげくNHKホールに通っているのですが,会員になったころは名誉指揮者としてウォルフガング・サバリッシュ,オットマール・スウィートナー,ホルスト・シュタインという名前があって,ブロムシュテットさんは4番手くらいの位置でした。
 当時は,コンサートもそれほど人気があったとはいえませんでした。しかし,月日が経ち,80歳を過ぎたあたりから定期公演でもっとも聴きたい指揮者とみなされるようになり,毎年の来日が待ち遠しくなりました。
 
 NHK交響楽団の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさん(Herbert Blomstedt)は1927年生まれなので92歳になります。最後の巨匠,ではないかと私は思います。
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 スウェーデン人の両親の元,アメリカのマサチューセッツ州に生まれたマエストロは,5歳のときにはフィンランドに移り,再びスウェーデンに戻りました。
 1954年にロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団で指揮者として本格的にデビューし,1975年から1985年までシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者,1985年から1995年までサンフランシスコ交響楽団の音楽監督,1995年から1998年の北ドイツ放送交響楽団の首席指揮者を経て,1998年から2005年までライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者(=カペルマイスター)を務めました。
 1973年にシュターツカペレ・ドレスデンの公演で初来日し,その8年後の1981年NHK交響楽団にはじめて客演し,はやくも1985年に名誉指揮者となり,2016年には桂冠名誉指揮者の称号を贈られました。
 はじめのころはあまり評価されておらず,私もまた,リハーサルの長い指揮者というイメージしかありませんでした。何でも,リハーサルでは演奏よりも話が長かったということを聞きました。それが,歳をとるごとに音楽が若返り,生命力に富んだ弛緩することのない早めのテンポで無駄のないクリアかつシャープな響きを構築するようになってきましたが,これは,これまで巨匠とよばれた指揮者とはまったく反対の流れとなっています。
 徹底した菜食主義者としても有名です。徹底的なこだわりとして,リハーサルの後で出された昼食の蕎麦のつゆが鰹を出汁にしたものであると知って麺のみを食べたというエピソードがあります。
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DSC_2608●バリンジャー隕石孔●
 「バリンジャー隕石孔」というのは,フラッグスタッフの中心部から東南東37マイル(約60キロメートル)に存在する隕石の衝突で作られたクレーターである。このクレーターは,アメリカでは「Barringer Crater」「Meteor Crater」「Canyon Diablo Crater」 と表記されるが,日本では「バリンジャー隕石孔」「バリンガー隕石孔」「バリンジャー・クレーター」「バリンガー・クレーター」「アリゾナ隕石孔」「メテオ・クレーター」「メテオール・クレーター」「ミーティア・クレーター」などとよばれている。
 個人の所有であることが,これといった正式名称が定まっていない原因である。このことから,この場所にはいくつかのクレーターがあるように錯覚したり,その反対に,検索しても見つからなかったりと,紛らわしいのである。
 私のブログでは「バリンジャー隕石孔」とする。

 発音による日本語の表記の違いは別として,このクレーターに多くの名前があるのは次の理由による。    
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 アメリカ地理名委員会(The United States Board on Geographic Names)は,この隕石衝突で作られた場所を認識するために,最寄りにある郵便局の名まえ「Meteor」からとって,「Meteor Crater」と名づけた。
 しかし,この場所は,以前から周辺のディアブロ峡谷(Diablo Canyon)の名を取って「Canyon Diablo Crater」として知られていたが,この隕石孔の周辺からは30トンもの隕鉄の破片が発見されていて,隕石の断片は正式に「Canyon Diablo Meteorite」(キャニオンディアブロ隕石)とよばれていた。
 一方,科学者は,このクレーターが隕石の衝撃によって生成されたことを最初に示唆したダニエル・モロー・バリンジャー(Daniel Moreau Barringer)に敬意を表して「Barringer Crater」とよんだ。
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 現在,この隕石孔は,バリンジャークレーターカンパニーを通じてバリンジャーファミリーが所有していて,彼らは,このクレーターを「地球上で最も保存された隕石クレーターである」(best preserved meteorite crater on Earth)と宣言している。しかし,こうした重要性にもかかわらず,クレーターは国の記念碑として保護されておらず,1967年に国の自然のランドマークに指定されただけである。

 以下は,ビジターセンター内にある博物館とガイドツアーによるバリンジャー隕石孔の説明の要旨である。
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 バリンジャー隕石孔は,海抜約5,710フィート(1,740メートル)に位置していて,直径約3,900フィート(1,200メートル),深さ約560フィート(170メートル)で,周囲の平原の上に148フィート(45メートル)上がる縁に囲まれている。クレーターの中心はクレーターの岩盤の上に690フィートから790フィート(210メートルから240メートル)にわたって横たわっている瓦礫で満たされている。
 バリンジャー隕石孔は,今から約5万年前に地球に衝突した隕石によって形成された。
 隕石が衝突した時代,この場所は現在よりも寒冷湿潤な気候で,マンモスが生息する草原地帯であった。 隕石の直径は約30メートルから50メートルであった。隕石は時速4万キロメートルを超える速度で落下し地上に激突したと考えらえている。激突したときのエネルギーはツングースカ大爆発の3倍を超えると推測される。
 この爆発によって,総重量1億7,500万トンと推定される岩石を掘り起こし,クレーターが出来上がった。衝突によってあらゆる物質が融解・気化し,クレーターのごく近くとディアブロ峡谷では,炭素から生成されたダイヤモンドが発見されている。また,衝突はマグニチュード5.5以上の地震を引き起こし,30トンの石灰岩の塊を突き動かし,衝突地点から半径3キロメートルから4キロメートル以内の生物は死滅した。また,衝突によって発生した巨大な火の玉によって半径10キロメートル以内のあらゆる物質を焦がし,時速2,000キロメートルに及ぶ衝撃波が半径40キロメートル近くまで広がり,半径14キロメートルから22キロメートルまでのすべてを何もない荒野に変えた。
 しかし,この衝撃が地球の気候に大きな影響を及ぼすことはなく,100年ほどで動植物が再び根づいた。
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 バリンジャー隕石孔を最初に発見したのはアメリカ西部への入植者であったが,発見された当初は火山の火口であると勘違いしていた。
 1903年,鉱山技師のダニエル・モロー・バリンジャーが巨大な鉄金属隕石の衝突によって形成されたクレーターであると指摘し,バリンジャーが経営する会社であるスタンダード・アイロン・カンパニー(Standard Iron Company)がクレーターに関する研究を行った。
 1906年,バリンジャーは共同経営者である物理学者ベンジャミン・チュー・ティルグマン(Benjamin Chew Tilghman)と共にその裏付け証拠を示した。その後,衝突によって発生した高温高圧の痕跡がユージーン・マール・シューメーカー(Eugene Merle Shoemaker)の研究によって示され,バリンジャーの仮説が証明された。シューメーカーは木星に激突したシューメーカー・レビー彗星の発見者のひとりである。
 周辺から30トンもの隕鉄が発見されたことから,バリンジャーはクレーターの底から少なくとも1億トンの隕鉄が発見できるものと考え,掘り出して大儲けしようと60万ドル(約1,000万ドル)を費やしながら掘削を続けたが,金になるようなものは出てこなかった。資金繰りのため掘削資金を調達してくれていた投資家たちに掘削中止の電報を打った翌日,心臓発作によりバリンジャーは亡くなったが,今では,隕石のほとんどは衝撃のため蒸発してしまったことがわかっている。
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●もし日本だったら…●
 ビジターセンターには博物館とシアターとテーマパークにあるようなアトラクションがあった。
 まず,シアターに行った。私以外には誰もいなかったが,時間どおりDVDがはじまった。DVDでは,バリンジャー隕石孔についての詳しい解説があって,とても勉強になった。こういうところがアメリカの博物館である。内容もおもしろく高度であって,飽きることがなかった。
 次に,アトラクションに行った。アトラクションはどこぞやのテーマパークにあるような,宇宙船に乗り込んで隕石孔に降りていくというテーマでアニメを見ながら楽しむものであった。これも,私以外にはもうひとりの客がいただけであった。
 それらを見終えても,まだガイドツアーの開始には時間があったから,博物館で時間をつぶしていたが,そのころになると,ずいぶんと客が増えてきた。
 やがてガイドツアーの開始の時間になったので,集合場所に行った。結構多くの参加者が集まってきた。

 ガイドツアーは,ガイドが隕石孔についての概要を説明することからはじまった。それが終わると,ガイドツアー用の建物の出口のカギを開けて,隕石孔の外周のトレイルに出た。
 このごろは,日本でも観光地に行くとボランティアのガイドツアーがある。私も時間があるときは参加するようにしている。それらは多くの場合地元の老人のシニアボランティアであるが,詳しい人もいればそうでない人もいる。
 アメリカではこうしたツアーを行っているガイドはみなかなりの専門家である。参加者もいろいろな質問をするから,非常に興味深いものである。英語が苦手の人には,結構苦痛な時間となることであろう。私はずいぶん旅行をしてこうしたツアーには慣れているので,とても楽しい。ツアーでは,参加しないと行くことができないところに行くことができたりする。
 このガイドツアーのインストラクターは,写真にあるような男の人だった。かなり詳しくて,いろんな説明をしてくれた。

 この隕石孔のビジターセンターには売店もあるしレストランもある。私がこのビジターセンターに来たのは午前7時過ぎで,ガイドツアーが午前9時30分からで,すべてを見終えたのが午前10時過ぎだったから,残念ながら,ここのレストランを利用することはできなかった。
 それにしても,立派なビジターセンターであったし,豪華であった。もし日本に同じような隕石孔があったとすれば,おそらく,そこには集客のために怪しげなアトラクションをつくったり,隕石孔に降りるリフトを作ったり,はたまた,全体を見おろすタワーを作ったり,さらには,近くに金儲けが目的のテーマパークでも作ってしまうかもしれない。そして,やがて飽きられて,それらは無残な廃墟と化すのだろう。
 隕石孔が日本でなくてよかった。
 ガイドツアーを終えたころには,隕石孔はずいぶんとにぎわっていた。次の時間のガイドツアーにはさらに多くの人が参加していた。

フィンランド大聖堂地下のカフェをもって,今回のフィンランド旅行は終わりです。いつものことですが,来るまえは何があるのだろう,といった程度の想い入れでモチベーションも低くやってきたのですが,フィンランドはとてもすばらしいところでした。
このごろの旅はいつも思った以上にすばらしいものになります。それはおそらく,私がガイドブックに載っているような有名なところへ行かないからでしょう。おまけに,観光客が圧倒的に少ないというメリットもあります。
日本から一番近いヨーロッパということで,多くの人が直行便でヘルシンキにやってきます。しかし,そのほとんどはトランジット。空港だけ経由して,ある人はイタリアへ,また,フランスへと旅立っていきます。ヘルシンキで降りる人はとても少ないのです。それがまたいいのです。フィンランドは,もっと多くの人に降りてもらいたいらしいのですが,一旦降りた人はその魅力に取りつかれてリピーターになります。私は,多くの人にその魅力を知ってほしいと思う反面,今や世界中どこも観光客だらけでうんざりするので,フィンランドまで観光客であふれかえってほしくないなあ,という思いも強くあります。

帰りはヘルシンキ中央駅から電車で空港まで行くことにしました。来るときは空港から電車でヘルシンキ市内まで行ける,そんなことすら知りませんでした。わずか数日で,ずいぶん多くのことを知ったものです。
例のごとく,すでにオンラインでチェックインを済ませてあったし,キャリーバッグは機内に持ち込むので,カウンターを経由することもなく,そのままセキュリティを通って,空港に入ってラウンジに行きました。
ラウンジからはターミナルの様子がよく見えました。ヨーロッパの各地からトランジットでヘルシンキにやって来た多くの日本人の団体ツアー客でターミナルはあふれていました。
やがて,搭乗時間が来たのでゲートに行きました。どこぞやの空港のように,やれ,優先搭乗の順番だとか,そういううるさい放送も一切なく,ゲートに長い列が出来ることもなく,搭乗時間になったら,三々五々,機内に入って行きました。このことすら,まったくストレスがありませんでした。
帰りもまた,行きと同じエコノミーコンフォートの最前列で,行きと同じように隣の席は空いていて,快適な空の旅となりました。中央の座席には行きと同じ母娘がいました。

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ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがある,ということをフィンランドに来るまえに知りました。しかし,私はそのことをすっかり忘れていて,2日前に思い出したのです。しかし,もう時すでに遅し。昨日は早朝に出かけてムーミンワールドに行き帰りは夜だったので行くことができず,この旅では行く機会を逸したように思いました。ところが,この日の帰国便の出発が夕方だったので,午前中に行くことができることがわかり,念願がかなったのです。
前日の夜,カフェはすでに閉まっていましたが,場所を探ってみました。ところが,その,カフェというのがどこにあるのかわかりませんでした。目立った看板もないのです。やっと見つけたのは,地下ではなくヘルシンキ大聖堂のとなりにあったカフェを兼ねた土産物店でした。そこでコーヒーが飲めたので,ヘルシンキ大聖堂地下のカフェはここのことだろう,と思いました。
朝,昨日下見をした場所に来てみると,どうもそれは私の探していたヘルシンキ大聖堂の地下のカフェとは違うようでした。さらに歩いていると,別の看板がみつかりました。ヘルシンキ大聖堂の地下に行くには,大聖堂の裏側に行かなければならなかったのです。裏にまわってみると,入口が見つかりました。開店は午前11時ということでした。
…とまあ,ここまでは,昨日書いたとおりです。

時間をつぶしてヘルシンキ大聖堂に戻ってきたのは10時30分でした。まだ時間が早かったので,まず,昨日カフェと間違えた土産物店によってみました。やがて,11時に近くなったので,みやげ物店を出て,ともかく,ヘルシンキ大聖堂に入ってみました。大聖堂に入って左の通路にまわると,そこにも,カフェの入口がありました。外に出て,裏側にまわらなくても,大聖堂の中からも地下に行くことができるようでした。しかし,時間になっても,その入口が開くわけでもなく…。何も起きませんでした。
すると,別の女性の2人連れが扉を開けて,中に入って行きました。要するに,この入口はカフェが開店しても開けてもらえるのではなく,自分で開けて中に入るわけです。私も後から続いて扉を開けて中に入ると,その先にあったのはエレベータでした。そりゃそうです。カフェは地下にあるわけだから,降りなけれはなりません。
エレベータに乗って地下に降りました。そこにあったのは,カフェというよりも広い地下室,というか広間でした。想像していたようなカフェではなく,広い地下の空洞の一角を借りて,ボランティアの人たちがカフェを開いているのでした。
コーヒーとボランティアさんたちの手作りパンで合計3ユーロと安く,とても雰囲気のよいところでした。要するに,これは,カフェというより教会のバザーでした。こうして私は念願のヘルシンキ大聖堂の地下のカフェにも行くことができたのでした。

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旅の7日目。帰国の日になりました。帰国便は午後5時25分発と遅いので,夕方まで時間がありました。最終日も夕方まで観光ができることを考えただけでも,ヘルシンキの旅は楽です。
私が今回の旅でやり残したことといえば,ヘルシンキ大聖堂の地下のカフェに行くことでした。ヘルシンキ大聖堂の地下にカフェがあることを知ったのは,この旅に出発する少し前のことでしたが,うかつにもそのことをすっかり忘れていました。あきらめていたのですが,最終日に行く時間があることがわかり,ホッとしました。これで帰ってから後悔することもありません。
とはいえ,場所がわかりません。昨晩様子を見に来たのですが,朝,改めて来てみて,昨晩見つけたのは私が目指すカフェではありませんでした。気を取り直して探してみると,ヘルシンキ大聖堂の裏側に入口が見つかりました。確認すると,カフェの開店は午前11時でした。そこで,それまでの時間,ヘルシンキの市内を散策することにしました。

今日の1番目と2番目の写真はヘルシンキ大聖堂から少し南に下ったところにあるマーケット広場です。この海岸に面したさわやかな一帯に,ヘルシンキで規模も利用者も最大のマーケットがあります。結局,私はここで何も買いませんでした。というより,旅でまったくお土産を買いませんでしたが,見ているだけで楽しいところです。
このマーケット広場から北側,坂を登っていくとヘルシンキ大聖堂に至るのですが,マーケット広場を見てまわってもさらにまだ早かったので,次に,西に歩いて行くことにしました。
マーケット広場から西に広がるのがエスプラナーデ公園です。このエスプラナーデ公園の先にあるのがスウェーデン劇場。このスウェーデン劇場前からバスがいろんな方向に出ています。ヘルシンキに来たばかりの数日前には,ガイドブックに「バスはスウェーデン劇場の前から」と書かれていてもスウェーデン劇場がどこにあるのかさえ知らなかったのが懐かしい限りです。

このエスプラナーデ公園の北側の通りがポホヨイスエスプラナーデ通りで,その北側にブランド店が立ち並んでいて,ちょうど銀座のような感じです。それが今日の3番目から5番目の写真です。
この通りを北に行くと多くの路地があります。今日の6番目と7番目の写真のように,こうした路地には子供をベビーカーに乗せたお母さんが歩いているのに,よく出会います。この場所に限らず,ヘルシンキでよく目にするのがこうした子供を連れた母親の姿です。
幸福度世界一のこの国は,子どもを育てるにも国の補助が手厚いのです。幸福度世界58位のどこぞやの国のように,少子化が問題になっているにもかかわらず,妊婦さんが医者にかかると診察費が加算されるというような,そんな愚策とはフィンランドは無縁なのです。

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 私は国内の旅で車を利用する気持にはなれないのですが,今回は,電車で行って,さらに,町なかを移動するのがあまりに不便なことと,森町がどういうところかを知りたいだけだったので,車で出かけました。はじめて新東名高速道路を自分の車で走ったのですが,新しい高速道路だというのに,走りやすいわけでもなく,がっかりしました。
 私はこれまで,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,アイスランドをレンタカーを借りて走ったことがありますが,もっとも走りやすいのはアメリカでした。道路標示に例外がなく,意味のない表示もなく,走っている車もまた,マナーがいいのです。カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,アイスランドはもともと車が少ないので楽でした。その点,日本は,道路に意味のない表示が多く,道路にも,何を意味するのかわからないような色やら線やらが塗りたくられていて,注意が散漫になり疲れます。運転もまた,傍若無人という表現がぴったりで,時速をかなりオーバーしたり,車の間を縫うように追い越していったりするものばかりです。
 漏れ聞くところでは,東南アジアやら中国やらと比べたら日本はマシだということですが,それらの国は,行く気もなく,当然,車で走ったこともないので知りません。

 新東名高速道路の遠州森町サービスエリアで降りて,まず,町の地図やパンフレットを手に入れて,そこのインターチェンジで降りました。
 はじめて行った場所は,外国も日本も同じですが,土地感がないので,はじめのうちは,流れにまかせて,まずは様子見,どこへいくということもなく,町を走ってみます。そのうちに町が把握できるようになってきたら,どこかに車を停めて,街歩きを楽しむのがわたしのやり方です。
 この日ははじめに町を抜けて,北に進みました。森町は町の中央を太田川が流れ,その西側に古い町があって,それを越えて北に行くと,北西に森の石松の墓のある大洞院,さらに行くと,三倉トンネルを抜けて山の中に入りますが,そのあたりは,戦国夢街道というハイキングコースが整備されています。また,北東には,太田川ダムがあって,せき止められた場所がかわせみ湖という湖になっていて,キャンプ場やらコテッジがあります。夜には星がきれいそうですが,クマも出そうです。
 まず,戦国夢街道をめざしました。ここまで来ると,山のなか,高台からは展望がきれいで,茶畑があるのどかな場所でしたが,戦国時代には甲斐の武田と三河の徳川が激戦をした場所だそうです。ここまで来れば確かに池谷薫さんが彗星を探すにはうってつけの場所ですが,北側の視界が山で遮られているのが難点です。
 その後,大洞院へもどって,森の石松の墓を見,さらに進んで,遠江一宮小國神社へ行きました。この日は多くの七五三の参拝客でにぎわっていました。山門には茶店もあって,そこでわらび餅を食べました。

 それから再び北上して,かわせみ湖へ行きました。かわせみ湖から先は道路がくずれていて通れないということでしたが,湖まで行くことはできました。
 かわせみ湖は多目的ダムとして作られた太田川のダム湖です。湖の周辺には休憩所や気軽に歩ける散策コースが整備されていました。パノラマビューの展望台や江戸時代から信仰されてきた「大まる様」がある「片吹の郷」,自然観察のできる湖畔広場や野鳥観察エリア,学習の森などもあって,夜は真っ暗,確かに星見の穴場だそうですが,私の家からはちょっと遠すぎます。
 かわせみ湖からの帰り,町の中心部にある歴史資料館へ寄ってから,帰路につきました。
 まだ紅葉には少し早かったのですが,森町はのどかななかなかよいところでした。

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 日本では,どこもかしこも有名なところは混雑してしまっていて,私は出かける気になりません。車で渋滞に巻き込まれるのも嫌ですし,ドライブマナーは最悪,そして,道路標識もわかりにくく,日本で走るのは疲れます。満室の温泉旅館なんて論外です。温泉はひとりでゆったりと入るもの,そして,朝食のバイキングなんて,何を楽しみにせっかくの旅行先で食べ物の略奪競争などしなければならないのでしょう。
 そもそも,写真を撮るとき,必死に構図を選んで写せばなんとか見栄えのする風景になるだけで,実際は,どこに行っても,この国の観光地はさびたガードレールに閉店したレストランやら不人気で潰れた公園といった廃墟だらけ,そして,そういう場所はゴミだめのよう,そんなところばかりです。
 ということですが,そういつも海外に出かけるわけにもいかないし,天気がよければどこかに出かけたいというものなので,日本にいるときは,日帰りか1泊で,人の少ない,少しでも昔の雰囲気のあるところを旅しようといろいろ「穴場」を探しまわっています。
 11月16日は快晴で,絶好の行楽日和の秋の日。そこで今回出かけたのは,前々から気になっていた静岡県の森町でした。

 森町(もりまち)はというのは,「森の石松」で有名な,静岡県の西部,周智郡にある町です。静岡県内では「町」とつく地名で,唯一,森町だけが「ちょう」ではなく「まち」とよびます。 なんでも,合併特例法で袋井市と磐田郡浅羽町との一市二町合併を模索し,当時の町長が町議会の承認を得ずに合併に調印してしてしまったのですが,新しい市名が森町が推していた「遠州市」とならず「袋井市」となることなどで町民が反発し合併が取りやめとなって,それ以降,今も森町という単独の町が存在しているということです。
 また,「森の石松」というのは,私は名前しか知らないのですが,清水次郎長の子分として幕末期に活躍したとされる侠客だそうです。出身地は遠州森町村と伝えられ,それが「森の」石松の由来ですが,浪曲では「福田屋という宿屋の倅」ということになっています。しかし,実際は石松の人物像はおろか,その存在すら信憑性が疑われているということです。
  ・・・・・・
 孤児となった石松は侠客の森の五郎に拾われて育てられ,侠客同士の喧嘩から上州で人を斬り,次郎長に匿われてその子分となりました。病で妻に先立たれた次郎長と共に宿敵を討ち果たし,親分の御礼参りの代参で金刀比羅宮へ出掛けた帰路,次郎長への香典を狙った侠客の都田の吉兵衛に遠州中郡で騙し討ちに遭い斬られて死亡してしまいました。
  ・・・・・・
とあります。
 墓は森町の大洞院にあって,やくざであるという理由から,寺の敷地内ではなく門前に建てられています。石松の墓石の欠片を持っているとギャンブルに強くなるという俗信があって削りとられてしまうので,墓は何度も作り直されていて,現在建っている物はアフリカ産の極めて硬い石材を使用しているということです。
 
 私が森町という名前を知ったのは,森の石松ではなくて,この地に,1965年,当時22歳で「池谷・関彗星」を発見したアマチュア天文家の池谷薫さんが,空が明るくなって星が見えなくなった浜松から移り住んでいるということからでした。しかし,それだけのことで,そこがどこなのか知りたいとか,ましてやそこに行こうとか,そんな気持ちはありませんでした。ところが,今回,森町に出かけたのは,新東名高速度道路ができて,私がときどき利用する高速バスも近年は新東名高速道路を走るようになったら,遠州森町サービスエリアで休憩をとることから,そうか,ここが森町なんだ,と認識したことにあります。そこで,一度は森町に行ってみようと思って調べたところ,とても元気な町のホームページが見つかって,さらに行く気が増した,というのうが,その動機でした。

日帰りのエストニア観光もまた,思った以上に楽しいものとなって,私は,ヘルシンキに戻ってきました。偶然,エストニアで出会った人と親しくなって,タリンではちみつ入り黒ビールを飲んでいたときに,ヘルシンキに戻ったら飲みに行こうという話になりました。こんな幸運なことはありません。ヘルシンキというのは個性派バーでのナイトライフが有名だとかいう話ですが,それだけはひとり旅の私に無縁のものだと思っていました。それが,望外なことに実現するのです。
調べてみると,アテリエ・バーというのが有名だとか。そこで,そこに行くことにして,夜の9時に待ち合わせをしました。フェリーを降りて,急いで待ち合わせ場所に急ぎました。

アテリエ・バーは地上14階建ての高層ホテル「ソロ・ソコス・ホテル・トルニ」の屋上にあって,そこからはヘルシンキの夜景が一望できるという話でした。
エレベータに乗って最上階をめざしました。エレベータを降りると,バーはさらにその上でしたが,この上にバーがあるとは思えないほどの非常階段のような急な階段がありました。疑心暗鬼で上っていくと,上り切ったところにバーがありました。とはいえ,日本の都会にあるようなデラックスなラウンジではなくて,単なる喫茶店のような感じで,室内はさほど広くありませんでした。カウンタで飲み物を注文して,それを受け取って座席に行きます。外に出ることもできて,確かにそこからはヘルシンキの夜景が一望でした。
とはいえ,日本のような夜景とは違って,というより,日本の夜景が異常なのですが,白い街灯が続いているだけのものでしたけれど,私はこうした夜景のほうがずっと落ち着きます。はじめにビールを飲んで,その次に,このバーお勧めのカクテルを飲みました。
こうして,今回のフィンランドの旅は何から何まで思っていた以上の時間を送り,最後の夜が終わりました。

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帰りのフェリーの時間が近づいてきたので,フェリー乗り場に向かうことにして,旧市街を来るときは通らなかった道を急ぎました。もう夕方だったので,来たときの混雑もなくなって,また,別の姿を感じることができました。美しい旧市街がこれだけ便利な場所にあれば,世界中から観光客が増えてくるというものです。そして,帰国してから,エストニアはいいところだったよ,と話すから,これが口コミとなって,さらに観光客が増す,ということになります。行くなら今のうちでしょう。
しかし,外国から日本に来る人も,京都に惹かれてやってきても,その深い歴史や文化にに詳しい人は多くないことでしょう。それと同じように,私は,タリンの歴史や文化を習ったことがないので,よく知りませんでした。私は来てみて,もっといろんなことを知りたいなあと思いました。そうすれば,そのよさをもっと理解できたのに,残念なことでした。

フェリー乗り場は,ヘルシンキに戻る人で一杯でした。日帰りでヘルシンキから観光で来た人に加えて,物価の安いエストニアに,特にアルコールを買いに来るフィンランド人がたくさんいるそうです。やがて,フェリーの乗船時間になったので乗り込みました。帰りはビュッフェを予約してありました。
ビュッフェが開くのを少し待って,ビュッフェに入りました。入口で,ビュッフェの予約チケットを持っている人と持っていない人で列がふたつあったのですが,どちらの列がそうなのか,表示がフィンランド語だけでよくわかりません。私のうしろにならんでいたのがマレーシアから来たという家族連れで,彼らも戸惑っていました。そうしたら,その家族のなかの高校生の女の子がスマホを取り出して,翻訳ソフトで解読をしました。こういうことをさりげなくすることができるのが日本との教育の違いだなあ,と私は思いました。彼女は,今はスマホがあれば何でもできるよ,と言っていました。
ビュッフェは予想に反して空いていて,並ばなくても,いくらでも座席も食べ物もありました。
来るときはずっとラウンジにいたので船内の様子もしらなければ,外の景色を見ていませんでした。そこで私は,食事を終えてから,まず,船の中を探検しました。船内にはカジノもあり,ショーをやるステージもあり,個室もありました。一般席はやはり込み合っていました。
やがて,夕日が沈みかけているのが見えたので,甲板に出てバルト海のはるか彼方に夕日が沈んでいくのを眺めていました。やがて,海の対岸にヘルシンキの街並みが見えてきました。

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タリンの旧市街は城郭のなかにあって,徒歩圏内,歩いてまわることができるくらいの広さでした。旧市街の中心に広場があって,その向こうがお城の高台になっていて,そこに登ると市街地を見渡せます。なにせ私は,タリンの旧市街が美しいということを聞いてやってきただけで,タリンの歴史も見どころも何も知らないので,外見からほんとうにすてきな町だなあと思って歩いただけで,その町の本当のところがわかりませんでした。
常日頃,日本の旅はこころでするものだといいながら,海外に出かけてこんなことでは情けないありさま。これでは真逆です。それは,昨年ウィーンに行ったときも同様で,私は学生のころ世界史をほとんど勉強しなかったので,ウィーンの歴史も何もわかりませんでした。私にとって唯一の救いはクラシック音楽に詳しかったことでした。しかし,ウィーンに行ってみて,ヨーロッパの歴史にとても興味がわいたので,その後,ずいぶんと本を読んだおかげで,詳しくなりました。エストニアもまた同様で,帰国後にその歴史を調べることとなりました。

この日は,旧市街をくまなく歩きまわり,見どころと思える場所に順に入ってみました。ある教会の塔に登っていると,後ろから背の高い日本の人が急ぎ足で上がってきました。話をしてみるとなんと日本人。帰りの船の時間が迫っているので急いでいたということでした。その場で少しおしゃべりをして一緒に写真を撮って別れました。
私はその後,塔を降りて引き続き旧市街を歩いていると,今度は日本大使館がありました。現在,NHK交響楽団の首席指揮者であるパーヴォ・ヤルヴィさんがこのタリンの出身で,また,大相撲の大関だった把瑠都関も現在故郷のエストニアで国会議員をしているとかいう話で,エストニアという国はとても日本になじみがあるのです。
しゃれたお店でお昼をたべてしあわせな気分でさらに歩いていると,再び,先ほど教会の塔で会った人に再び会いました。タリンが思ったよりもすてきな町だったので,帰りの船を変更したという話でした。再会を祝し,これも何かの縁だと祝杯を挙げることにして,一緒にカフェに行って,はちみつ入り黒ビールなるものを飲みました。こうして,思いがけない場所で,あるひとりの日本人と意気投合して話し込んでいるうちに,タリンでの時間があっという間に過ぎて行きました。

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 「源氏物語絵巻」「鳥獣人物戯画」「伴大納言絵詞」と並ぶ4大絵巻物のひとつとされる国宝・信貴山縁起絵巻は,平安時代末期の絵巻物です。私は,日本史の教科書に載っていてその名を知っていたので,一度は見たいものだと思っていました。しかし,奈良に何度訪れても,なかなか信貴山まで行く機会がありませんでした。それは,数年前についに行くことができた京都と大阪の中間にある岩清水八幡宮や生駒山の宝山寺もまた同様でした。こんなことをしていては,ずっと見る機会がないと思って,今回,訪れることにしました。
 しかし,いつものように,いい加減な私は,この絵巻は,信貴山に行けばいつでも見れらるものだと思っていたのだから,お気楽なことです。確かに信貴山縁起絵巻は信貴山朝護孫子寺が所蔵しているのですが,ホンモノは奈良国立博物館に寄託されていて,朝護孫子寺の霊宝館では複製が展示されているのです。
 なのですが…
 いつも強運の私は,今回もまた,現在朝護孫子寺の霊宝館では特別展が行われていて,ホンモノの信貴山縁起絵巻から「尼公の巻」を見ることができたのです。
 こうして期せずしてホンモノに出会った私は,すっかりこの絵巻に魅せられてしまったのです。絵巻に書かれている人物はとても上手で,その姿から当時の人々の暮らし向きがよくわかり,時間を忘れて見入ってしまいました。私は今回見るまで,信貴山縁起絵巻という名前を知っていただけだったのですが,これを機会として,絵巻物にとても興味がわきました。

 信貴山縁起絵巻は平安時代後期の12世紀頃にかかれたとされます。信貴山の中興である命蓮法師を主人公とした霊験譚で,絵巻は「山崎長者の巻」「延喜加持の巻」「尼公の巻」の3巻からなっています。
  ・・・・・・
 「山崎長者の巻」は,命蓮法師が神通力を行使して山崎の長者のもとに托鉢に使用する鉢を飛ばしたところ,その鉢に校倉造りの倉が乗って倉ごと信貴山にいる命蓮法師の所まで飛んできたという奇跡譚です。
 今は昔,信濃国に命蓮法師がいました。奈良の東大寺で受戒をしたのち,「故郷へ帰るよりもこのあたりで仏道に励みながらゆったりと暮らせる場所はないものだろうか」とあたりを見回すと,未申の方角にはるかに霞んで見える信貴山があったので,その山に毘沙門天を祀る堂を建て修行に励みました。
 命蓮法師は法力で鉢を麓の長者の家へ飛ばしその鉢に食べ物などを乗せてもらっていました。ある日,鉢をいつものように長者の家へ飛ばしたところ,長者は「いまいましい鉢よ」と言って鉢に食べ物を入れることもなく倉の隅に放っておきました。長者は鉢のことを忘れて倉の鍵をかけてしまいましたが,やがて,倉がゆさゆさと揺れ始めたかと思うと地面から一尺ほども浮き上がり,倉の扉がひとりでに開き,鉢は浮き上がった倉を上に乗せると山のかなたへ飛び去って,命蓮法師の住房の脇に落ちました。
 長者は命蓮法師に面会し,「鉢を倉の中に置き忘れたまま鍵をしてしまったところ倉がこちらへ飛んできてしまったのです。なんとかこの倉を返していただけませんか」と相談したところ,命蓮法師は「飛んで来た倉はお返しできかねるが,倉の中味はそっくりお返ししましょう」とこたえました。長者が「一千石もある米をどうやって運べばよいのでしょう」と問うと,命蓮法師は「まず米一俵を鉢の上に置きなさい」と言いました。すると一俵を載せた鉢が飛び立ち,残った米俵も続いて次々と舞い上がり長者の家に落ちたのでした。
 空飛ぶ倉を人呼んで「飛倉」といいます。
  ・・
 「延喜加持の巻」では,命蓮法師の加持祈祷の力で病いが平癒した醍醐天皇の使者が命蓮法師に対面し,僧位や荘園を与えようと言いますが,命蓮法師はそれを固辞します。
 都では醍醐天皇が重い病に苦しんでいましたが,さまざまの祈祷や修法,読経をしても全く効き目がありません。ある者が「信貴山に住む命蓮法師を召して祈祷させれば帝の病も癒えることでありましょう。」と言うので,ならばということで,帝の使者の蔵人が信貴山へ行き命蓮法師に面会しましたが,命蓮法師は山を下りず,信貴山に居ながらにして祈祷するとこたえました。「それでは帝の病が癒えたとて,それが貴僧の祈りの効き目であるとどうやってわかるのか」と蔵人が問うと「帝の病が癒えた時には「剣の護法」という童子を遣わしましょう。剣を編み綴って衣のようにまとった童子です」とこたえました。
 それから3日ほど経て,帝が夢うつつでまどろんでいると,きらりと光るものがやってきました。これが法師の言っていた「剣の護法」でした。帝の病はすっかり癒え,帝は「感謝のために僧都,僧正の位を与え,荘園を寄進したい」との帝の意向を伝えるために信貴山へ使いを走らせたのですが,命蓮法師は「僧都,僧正の位などは拙僧には無用です。また,荘園などを得ると管理人を置かねばならず仏罰にあたりかねない」と言って,それを固辞しました。
  ・・
 「尼公の巻」では,信濃国から姉の尼公が信貴山まで命蓮法師を訪ねてやって来ます。
 信濃国に命蓮法師の姉の尼公がいました。東大寺で受戒すると言って出て行ったきり戻ってこない命蓮法師に一目会いたいものよと思った尼公は,奈良をめざして旅に出ました。道行く人に命蓮法師の消息を尋ねるのですが,知っている人もいないので,東大寺大仏の前で「なんとかして弟の命蓮法師の居所がわからないものか」と一夜祈り続けました。すると,夢に「未申の方に紫の雲のたなびく山がある。そこを訪ねてみよ。」という声が聞こえました。目覚めて未申の方をみると,紫の雲のたなびく山がはるかに霞んで見えるではありませんか。
 尼公は信貴山に着き「ここに命蓮はおるか」と声をかけると,堂から命蓮法師が顔を出します。「どうしてここを尋ねあてたのか」と問う命蓮法師に,尼公はみやげに持ってきた衲という衣料を渡します。今まで紙衣一枚で寒い思いをしていた命蓮法師は喜んでこの衲を着ました。その後,姉の尼公も信濃へは帰らず,命蓮法師とともに仏に仕える生活を送りました。
 衲は命蓮法師がずっと着ていたためにぼろぼろになって,倉に納められていました。人々はその衲の切れ端を争って求め,お守りにしたのでした。飛倉も時が経って朽ちてしまいましたが,朽ちた倉の木片をお守りにしたり,毘沙門天の像を刻んで念持仏にした人は皆金持ちになったといいます。朝夕参詣者でにぎわう信貴山の毘沙門天はこの命蓮法師が修行して感得した仏です。
  ・・・・・・

 こうして調べていくと,さらにこの絵巻のおもしろさがわかって,また,ゆっくりとホンモノをすべて見てみたいと思うようになってきました。こうして,私は,いつも,ますますやりたいことしたいことが増えてきてしまうのです。

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 私が奈良でもっとも好きな散歩道は,唐招提寺から薬師寺にかけての界隈と,新薬師寺界隈です。唐招提寺から薬師寺にかけての界隈は,発展? しすぎて,以前のような素朴さがなくなってしまいました。しかし,新薬師寺界隈は,今もなお,以前と同じ静けさと上品さを残しています。
 私は,学生のころから,新薬師寺という名前を不思議に思っていました。
 同じことを思っている人が多いらしく,薬師寺と新薬師寺の違いといったブログも探せばたくさん出てきます。新薬師寺の「新」というのは「新しい」ということでなく,「あらたか」という意味で,新薬師寺が薬師寺のVer.2ということではありません。「薬師寺」は,飛鳥にあった「元薬師寺」のVer.2ですが,「新薬師寺」とはつながりがありません。

 新薬師寺の創建は747年の天平時代で,聖武天皇の眼病平癒を祈願して建てられたといわれています。
 創建当時の新薬師寺は南都十大寺の一つとして繁栄し,その伽藍は壮大であったといわれています。ふたつの塔や金堂などが存在しました。奈良時代以降は次第に衰退し,災害などで多くの建造物が失われました。現在の本堂は奈良時代のものですが,もともとの本堂でなく,残った建物を本堂としている状態です。そこで,今は寺としては規模も小さく,伽藍としてはほかになにもないのですが,その小さなお寺は美しい境内が心休まります。なかでも,その圧倒的な存在が,本堂内部にある本尊薬師如来坐像とそれを取り囲み守護する十二神将像です。暗がりの中にみせるその圧倒的威容に見とれると,時間を忘れてしまいます。この十二神将像は,現在の高円山周辺にあったとされる岩淵寺にその由来を持つともいわれているそうです。
 私がこれまでに見て感動した仏像がふたつ。それは京都広隆寺の弥勒菩薩像とかつて京都勝持寺にあって現在は勝持寺のとなりの願徳寺にある如意輪観音像ですが,ここの薬師如来坐像と十二神将像もまた,それと同じくするものでした。

 この大好きな界隈は東大寺から南に歩いて行くとあります。
 人だらけでごった返す奈良公園を過ぎると,急に静寂が訪れます。数年前,この雰囲気を味わおうと行ってみたのですが,あいにく,新薬師寺は改修工事で入ることができませんでした。今回は,それも終わり,昔の面影が戻っていました。
 この辺りでいいことは,しゃれたカフェがあることです。
 特に平日の午後,時間を忘れて,このあたりを散策し,カフェでゆったりと時間を過ごすのは格別です。そんな場所がいつまでもそのままであってほしいと願うばかりです。
  ・・・・・・
 春日山から飛火野辺り
 ゆらゆらと影ばかり泥む夕暮れ
 馬酔木の森の馬酔木に
 たずねたずねた帰り道
    さだまさし「まほろば」

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 興福寺の広い境内は,ここの駐車場に停めた観光バスから降りてきた団体客でにぎわっています。しかし,その多くは東大寺の方向に向かって歩いて行くので,思ったほどの混雑ではありません。
 興福寺には五重塔と三重の塔のふたつの塔があります。知らない人も多いのですが,塔というのは本来は仏舎利をおさめるためのものですが,実際は,それに倣った別のものがそのの代わりをしています。

 興福寺の五重塔の初代は730年(天平2年)に興福寺の創建者である藤原不比等の娘光明皇后が建てたもので,その後5回の被災・再建を経て,現在建っているのは1426年(応永33年)というから室町時代に再建されたものです。高さは約50メートルで,初層の四方に創建当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像,釈迦三尊像,阿弥陀三尊像,弥勒三尊像が安置されています。

 一方,三重塔は1143年(康治2年)に崇徳天皇の中宮が創建したのですが,1180年(治承4年)に被災,その後間もなく再建されたもので,北円堂とともに興福寺最古の建物です。高さは約20メートルあって,初層内部の四天柱をX状に結ぶ板の東に薬師如来像,南に釈迦如来像,西に阿弥陀如来像,北に弥勒如来像が各千体,さらに四天柱や長押,外陣の柱や扉,板壁にも,宝相華文や楼閣,仏や菩薩など浄土の景色,あるいは人物などが描かれているのですが,通常は閉じられて見ることができません。ところが,この日,なんとその扉が開かれていて,私はそれを見ることができました。扉が開いていたのはどういう理由なのかはわかりませんが,とても幸運なことでした。
 しかし,そんなことはお構いなくオーストラリアから来たという夫婦と地元に住むという女性がいただけで,ほとんど見にきている人はいなかったので,それを承知の人もいないように思われました。地元に住んでいるという女性も,いつも閉じられているのに珍しいですね,どうして開いているのでしょう,と言っていました。夕刻に再び行ってみたときには閉じられていたので,やはり,かなり運がよかったのかもしれません。

 元来,日本における塔は,法起寺のそれのように,屋根が大きく,そして傾斜が緩やかだったのですが,それでは雨が掃けないということで,再建されるたびに屋根が小さく傾斜がきつくされていったようです。興福寺の五重塔も三重塔も新しいので,法起寺とはまったく異なる形をしています。
 そのことがよくわかるのが薬師寺の東塔と西塔です。興味深いのは,古いほうの東塔が屋根の傾斜がきつい再建されたものであるのに対して,近年再建された新しい西塔のほうが,初代のものを模したためにむしろ古い形に作られていることです。薬師寺に行って比べてみるのも一興ですが,現在,東塔は改修工事中で見られないと思います。

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 法輪寺は三井寺ともよばれる聖徳宗の寺で,法隆寺東院の北方に位置します。
 創建は,「聖徳太子伝私記」では,聖徳太子の子である山背大兄王が太子の病気平癒を祈るため,622年(推古天皇30年)に建てたとし,「上宮聖徳太子伝補闕記」および「聖徳太子伝暦」では,創建法隆寺の焼失後に百済の開法師,円明法師,下氷新物の3人が建てたとする,ふたつの説があります。いずれにせよ,発掘調査で,焼失後再建された現在の法隆寺の伽藍に近い瓦と,それよ古い瓦とが出土していることから,創建は飛鳥時代末期の7世紀中頃までさかのぼると考えられています。
 1367年(貞治6年)に炎上,また,1645年(正保2年)には台風に罹災し,三重塔を除く建造物が倒壊しました。その後,伽藍の復興が行われ,さらに,1760年(宝暦10年)には,三重塔が修復されました。しかし,1944年(昭和19年)に三重塔は落雷により焼失してしまいました。焼失した塔は,法隆寺,法起寺の塔とともに「斑鳩三塔」とよばれた貴重な建造物でした。
 現在の三重塔は,幸田文の尽力で寄金を集め,1975年(昭和50年)に西岡常一棟梁により再建されたものです。「五重塔」の作者である幸田露伴の娘幸田文は,1904年(明治37年)に生まれ1990年(平成2年)に亡くなった随筆家ですが,1965年(昭和40年)の夏,法輪寺井上慶覚住職から焼失した三重塔の再建について話を聞いたことをきっかけに,自らも奈良に移り住み,三重塔の再建に尽力しました。

 奈良の古寺を歩くと,私は和辻哲郎が20代の1918年(大正7年)に書いた「古寺巡礼」を思い出します。和辻哲郎は,1889年(明治22年)に生まれ1960年(昭和35年)に亡くなった哲学者です。法輪寺に関する記述は,この「古寺巡礼」とともに,「四十年前のエキスカージョン」にも見つけることができます。
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「古寺巡礼」
 中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や,蓴菜の花の咲いた池や,小山の多いやさしい景色など,非常によかった。法輪寺の古塔,眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり,本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機はたが出してあった。
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「四十年前のエキスカージョン」
 幸いにそのあとわたくしたちは,法隆寺の裏山の麓を北へ歩き出したのである。いかにも古そうな池や,古墳らしい丘などの間を北へ七八町行くと,法輪寺がある。法輪寺の観音は奈良の博物館に古くから出ているが,それとよく似た本尊のある寺である。その法輪寺から東へ七八町,細い道をたどって行くと,法起寺がある。古い三重の塔がある。
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 法輪寺の荒廃ぶりを愛でていた和辻哲郎は焼失前の三重塔を見ていたわけです。

 法輪寺と法起寺はほんの500メートルほどしか離れていないので,法起寺から法輪寺の三重塔が見えるかのように思えますが,林などの陰に入ってしまって歩いている道から見ることはできません。しかし,稲刈りの終わった田園風景はとてものどかで,さらに,この夏の酷暑で咲くのが遅れたコスモスがまだ満開で,それがこの日の快晴の空に映えてとても美しく,私は,忘れていた奈良への想いがまたよみがえってきました。

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 私が今回奈良に行って,とてもうれしかったのは,私が思い続けていた奈良が今もあったことでした。オーバーツーリズムで日本もまたどこも観光客であふれ,そこには,ただ有名だから来たといった無知な人がそれまでの情緒を踏みにじってしまっている場所も少なくありません。私が,京都や奈良,高山といった場所から遠ざかってしまったのは,それが原因でした。しかし,実際に行ってみると,奈良にはまだ多くのそうしたオーバーツーリズムに毒されていない場所が残っていたのです。
 そうしたなかでも,私がずっとイメージしていたのは,秋の法起寺あたりの風景。昔はじめて出かけて以来,虜になっていました。幸い,この日は天気もよく,しかも11月というのに暖かく,周りにはコスモスが咲き乱れていて,私が思い続けていたその姿を見ることができました。

 「斑鳩三塔」といって,奈良斑鳩の地には飛鳥時代から奈良時代以前に建立された法隆寺の五重塔,法起寺と法輪寺の三重塔があります。最も古く,かつ,規模が大きい法隆寺の五重塔はあまりに有名ですが,私はそれよりも,法起寺と法輪寺の三重塔がすきです。しかし,法輪寺の三重塔は落雷のために焼け落ち,1975年(昭和50年)に再建したものです。
 法起寺の三重塔は706年(慶雲3年)頃に完成したもので,高さ24メートル,三重塔としては日本最古のものです。この塔は江戸時代の延宝年間(1673年から1681年)の修理で大きく改造されていまっていましたが,1970年から1975年の解体修理の際に,部材に残る痕跡を元に創建当時の形に復元したものです。

 斑鳩の地に行くと思い出すのが,深代惇郎さんのことです。深代惇郎さんは1929年(昭和4年)に生まれ1975年(昭和50年)に46歳で急性骨髄性白血病で急逝した朝日新聞の記者です。1973年から1975年に入院するまで「天声人語」の執筆を担当していました。深代惇郎さんが書いた最後の天声人語は,「かぜで寝床にふせりながら,上原和著「斑鳩の白い道のうえに」という本を読んだ。・・・いつかもう一度、法隆寺を訪ねてみたい」と結ばれていて,これが絶筆となりました。
 「斑鳩の白い道のうえに-聖徳太子論-」というのは,美術史家で成玉虫厨子研究をライフワークとした上原和さんの著作です。斑鳩の白い道のうえを黒駒を駆って戦さに赴く聖徳太子の姿から,若き日の多感な太子の「血塗られし手」の経験こそ彼の人生の原点とみて,同時に法隆寺創建や勝鬘経講経など深く仏教に帰依した姿を玉虫厨子に描かれてある「捨身飼虎」図と重ね合わせ,そこにまぎれもない捨身の思想を見出すという,歴史の転換期を生きた一人の古代知識人・聖徳太子の華麗にして哀切な運命を描いた本です。
 日本を旅するというのは,今の姿からこうした歴史を思い浮かべることなのです。

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 毎年出かけていたように思っていたのですが,3年ぶりの正倉院展だったようです。
 正倉院展,混雑しすぎです。人の頭を見にいくようなものなので,私はあまり気乗りがしません。毎年同じように展示がしてあるのですが,もっと展示法を工夫して,ゆっくりと見ることができるように改良すればいいのにといつも思います。
 しかし,ついでに奈良のさまざまなところにいくことができることと,秋というもっとさわやかな時期だということが後押しします。
 奈良というのは混雑するのが奈良公園周辺だけだということを考えてみても,この地を訪れる人の多くは,さほど歴史など興味がないのでしょう。おそらくは,正倉院展もまた,それほど興味もない人が,やれ〇〇ブームだとかいうとワーッとそれに群がる人たちが支えているのでしょう。
 地元の人に聞いてみると,平日の夕方に行くと比較的空いているということだったので,今年は11月5日,連休後の平日の午後3時くらいに行ってみました。待ち時間はほとんどなく,これならいいか,と思いました。展示品に対する説明会も聞くことができました。

 正倉院に保存されているもので,有名なものというのは,それほど多いものではありません。有名なものというのは,学校の歴史の教科書で見たことがあるものとか,さまざまな形でどこかで聞いたことがあるもののことです。毎年,そのうちのひとつかふたつをその年の目玉商品? として小出しにして展示しているわけです。おそらく,10年も通えば,そのほとんどは見ることができることでしょう。
 ここで,そうした有名なものを書いておくことにします。
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●「瑠璃の坏」
 22個のガラスの輪の装飾が施されたペルシャ・ササン朝からもたらされた宝物。
●「白瑠璃碗」
 円形の文様が約80個あり,隙間なく敷き詰められたデザインをしているガラス細工。
●「漆胡瓶」
 水瓶。
●「螺鈿紫檀五絃琵琶」
 制作された中国にも現存していない正倉院だけに現存している琵琶。
●「金銀平脱背八角鏡」
 中国の工芸技術が惜しみなく注ぎ込まれた鏡。
●「平螺鈿背円鏡」
●「金銀花盤」
 東大寺の重要な法要で使用されていた皿。
●「紫檀木画槽琵琶」
 正倉院を代表する琵琶。
●「桑木木画碁局」
 碁盤。
●「蘭奢待」
 香木。
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 このように並べてみると,そのほとんどを私は正倉院展ですでに見たことがあります。このなかで今年展示されているのは「金銀花盤」です。

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 恩田陸さんの「蜜蜂と遠雷」を読んだ感想はすでに書きました。そのときに「この人間描写のわかりやすい小説はおそらく近いうちに映画化かテレビドラマ化されることでしょう」と書きましたが,思ったとおり,この小説が映画になったので,見てきました。
 先月から1か月以上上映しているのでこの映画についての感想はすでに多く書かれていています。それらを読むと私と同じような考えのものが多いので,これ以上感想を書くこともないと思うので,ここでは私の感じたことを思いのまま書き留めておくことにします。

 私は,映画を見るまで,本の内容をほとんど忘れていました。覚えているのは,とてもおもしろい本だったなあ,ということだけでした。しかも,映画を見ていても,ほとんど本の内容を思い出せないような状態でした。
 しかし,小説がたいへんおもしろかったという印象は強く残っていたので,映画は小説を読んでいなければ,いくつかの点を除けば,それなりにこころに奥深く染み込むさわやかな映画だっただろうと思いました。
 私は,映画を見終えてから,改めて小説を読み直してみました。そこで思ったのは,この小説は長いだけのことはあって,2時間ほどの映画しようとすれば,ずいぶんと内容を精選しなければならなかったなあ,ということでした。これは大変なことです。この小説で描きたかったこととこの小説を読んだときに感じる精神性を映画に描ききるために,多くの部分をそぎ落とす必要がありました。それだけ,小説の密度が濃いのでしょう。

 そんななかで,映画を見て私がいちばんよかったと感じたのは,音楽を音「楽」として描いていたことでした。
 このごろよくこのブログに書くことですが,私は,昨年ウィーンに出かけて人々が体から楽しく音楽に接している様を体験して以来,音楽というのはずっと楽しいものなんだなあ,そうでなければならないんだなあということを実感しました。だから,コンクールという最もナイーブで深刻な状況であっても,そこに出場する人たちが,そうした緊張を超越して,音楽を心から楽しんでいる様子が描かれていたのが,とてもすばらしいと思ったのです。おそらく「あっち側の人」,つまり,生まれたときから神に天分を授けられた人というのは,そうして人々を楽しくすることができる人なのでしょう。サラリーマンでコンクールに挑戦する高島明石という人物,そしてまた,音楽を音「楽」として表現できないジェニファ・チャンという人物の設定が「あっち側の人」をより印象的にみせる役割をしていました。
 残念だったのは,この映画で栄伝亜夜を演じていた松岡茉優さんが「のだめカンタービレ」の上野樹里さんに似すぎていたことです。そこで,まじめなシーンがおちゃらけに見えてしまうのです。もし「のだめカンタービレ」を知らなかったら,また,別の感動をもったに違いないのですが,どうしても,そのふたつがダブってしまうのが,とても残念なことでした。それと,斉藤由貴さんの演じた嵯峨三枝子という審査委員長が,その不良さを象徴するための演出かどうかはしらねど,ヘビースモーカーだったことです。タバコはいただけない。私はテレビドラマも映画も,タバコを吸うシーンはまったく受け付けないからです。そしてまた,馬の駆けるシーン,これが何を象徴しようとしているのか…。むしろ,何かを象徴するのなら,蜜蜂の飛ぶ姿のほうがよかったのでは…。

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 2019年もやっと秋の気配が感じられるようになった11月4日と5日,1泊で奈良に行ってきました。奈良に行くのは3年ぶりのことでした。
 私はこのところの「オーバーツーリズム」とやらで観光客が多すぎてすっかり嫌気がさし,京都や奈良に出かけるのは敬遠していたのですが,奈良は奈良公園から外れるとそれほどでもないよ,という周囲の言葉を信じて,出かけることにしました。いざ,出かけるときになって,すっかり忘れていたのですが,ちょうど正倉院展をやっている時期だと思い出して,合わせて,それも予定に加えることにしました。
 結果として,やはり奈良は奈良公園から少し外れると,ほとんど観光客がいなくなって,昔の奈良のままでした。これなら毎年この時期に来てもいいかなと思い直しました。私は昔から秋の奈良が好きでしたが,行くときはほぼ毎回日帰りで,しかも,いつも車でした。しかし,私は,車でなく近鉄を使って,しかも,1泊するのがずっと夢でした。ということで,今回はその夢を実現するために,往復近鉄を利用し1泊することにしました。幸い,天気にも恵まれて,最高の奈良の旅となりました。
 そこで,今回から,思いつくまま,この旅をふりかえってみることにします。

 私が今回行きたかったのは,信貴山や斑鳩の里です。斑鳩もまた,法隆寺ではなく,法起寺や法華寺でした。さらに,新薬師寺やささやきの小径といった,私の大好きな場所でした。そして,それ以外には,奈良県庁の最上階から奈良を一望したいと思いました。何度出かけても,そうすることを忘れてしまっていたからです。
 奈良というのは京都と違って,どこも行くのも,結構離れていて不便なのです。それもあって人が少ないともいえます。私は歩くのは苦でないし,むしろ好ましいのです。 
 今日はまず,奈良県庁最上階から見た奈良の姿をご覧ください。
 私の好きな歌に,
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 やまとはくにのまほろば たたなづく青がき山ごもれる やまとしうるはし
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 大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々…。その山々に囲まれた大和はほんとうに美しい。
 Yamato(=Nara) is the best place in Japan. Yamato surrounded the mountains like the blue fences overlapped with green trees is really really beautiful.
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があります。この歌は「古事記」には倭建命の歌として,そしてまた,「日本書紀」には大足彦忍代別天皇(景行天皇)の歌として,
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 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
 夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試
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として記されているものです。
 快晴の空の下,奈良の昔の姿を思い浮かべると,古人にとって,やまとはほんとうにうつくしかったんだろうなあ,と思いました。

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 先日,河村尚子さんのリサイタルを聴いて,すっかりベートーヴェンのピアノソナタにのめりこんだ私は,それ以来,さまざなピアニストで聴き比べをしているのですが,そこで引き込まれてしまった演奏がありました。それは,ホロヴィッツの演奏でした。ホロヴィッツの演奏はすごいを越えていました。
 それを聴いていて,「あること」を思い出しました。ここ数年はこれもまた,ディジタル化してしまいましたが,以前の私は,40年以上前から新聞の興味のある記事を切りとってはスクラップをしていました。それは今もすべて手元にあります。そんなスクラップ帳からやっと探し出したのが,その「あること」に関する記事なのです。
 
 ウラディミール・サモイロヴィチ・ホロヴィッツ(Vladimir Samoilovich Horowitz)は1903年に生まれ1989年に亡くなったウクライナ生まれのピアニストです。
 ホロヴィッツがはじめて来日したのは1983年で,このときすでに79歳を過ぎていました。2回行われたコンサートのチケットは平均4万円という当時としては非常に高額なものでしたが,即日売り切れて話題となりました。しかし,そのコンサートで起きた「あること」が,ホロビッツ以上に吉田秀和という名を一般に知らしめた次の逸話です。
 それは,一説には,プログラムの前半終了後の休憩時間にインタビューを受けた音楽評論家の吉田秀和さんが,ホロヴィッツの演奏を「ひびの入った骨董品」と評したということになっているのです。そして,この批評を知ったホロヴィッツは,帰国後そのことばを気に病み続け,その3年後に再び来日を果たし,82歳という高齢にもかかわらず,今度は演奏会を成功させたというものです。
 しかし,歴史上の出来事というのは,かなりの部分が歪曲して伝わっていることが多いものです。私は,この,休憩時間のインタビューというのは知りません。むしろ,それは後世におもしろく伝えるための創作であって,実際にそんなインタビューでのやりとりがあったというのは事実でないような気さえします。インタビューして,さらに同じ内容の文章を残したとも思えないからです。
 このコンサートで吉田秀和さんがホロヴィッツの演奏を「ひびの入った骨董品」と評したのは事実で,それは当時朝日新聞に月に1回程度連載していた「音楽展望」に書かれたことなのです。私はこれを読んでびっくりした覚えがあります。
 現在,ネット上には,こうした昔の話を,単に聞いた話として伝えていたり,調べもせずさらに引用しているブログが見受けられたりしますので,ここで,その「音楽展望」から引用しておくことにします。…の部分は省略です。

  ・・・・・・
 百聞は一見に如かず。ホロヴィッツをきいている間,私はこの言葉を何度も噛みしめさせられた。その味は,いつも,苦かった。
 … 今度実際に自分の耳と目で経験したものの重さには対抗できなかった。
 重みとは何か。今のホロヴィッツには過去の伝説の主の姿は,一部しか,認められなかったという事実のそれである。… この人にはもっともっと早く来てほしかった。
 私は人間をものにたとえるのは,インヒューマンなので好きでない。しかし,今はほかに言いようがないので使わせて頂くが,今私たちの目の前にいるのは,骨董としてのホロヴィッツにほかならない。骨董である以上,その価値は,つきつめたところ,人の好みによるほかない。
 … だが,残念ながら,私はもうひとつつけ加えなければならない。なるほど,この芸術は,かつては無類の名品だったろうが,今は -最も控え目にいっても- ひびが入っている。それもひとつやふたつのひびではない。
  ・・・・・・

 そして,その3年後のホロヴィッツの再来日の演奏を聴いた吉田秀和さんは,「音楽展望」で次のように書いています。
  ・・・・・・
  3年前この人は伝説の生きた主人公として私たちの町に来た。が,その演奏は私たちの期待を満たすにはほど遠く,苦い失望を残して立ち去った。こんどの彼はひとりのピアノをひく人間として来た。彼は前よりまた少し年老いて見えた。
 が,その彼は何たるピアノひきだったろう!!
 音楽が人生と同じ広さと深さと高さを持ちうるとしたら,このピアニストが今完全に手中にしているのはその一角にすぎない。だが,それは最も精妙な宝玉の見出される一角である。
 … この人は今も比類のない鍵盤の魔術師であると共に,この概念そのものがどんなに深く十九世紀的なものかということと,当時の名手大家の何たるかを伝える貴重な存在といわねばならない。
 … この人が捲土重来,はるばる再訪してくれたことに,心から感謝せずにいられない。
  ・・・・・・

 これらの文章が,「ひびの入った骨董品」というエピソードに関する記事です。
 ところで,今回,こうして,「あること」を調べるために,今から30年ほどまえの新聞のスクラップ帳を開いてみたのですが,そのころの他の記事を見ていると,この国は30年間何も変わっていないのだなあということを知って驚きます。内政,外交,教育などに関わる問題のあらゆることが,今とほとんど同じものなのです。そして,それらはまったく解決されていない。要するに,日本という国は,何も変わらない,何も変えられない国なのです。
 科学技術もまた,大きく進歩したようで,本質は,欧米から押し寄せるディジタル化にあたふたしているだけで,これもまた本質的にはあまり変わっていません。それ以上に,昔はもっと今よりも夢とロマン,そしてそれに割く予算がありました。そう考えると,むしろ今のほうが退化してしまっているような気さえします。
 音楽家の演奏や評論もまた,今に比べたら,当時は,ショービジネスとしての金儲けが目的でなく,もっと深く,そして,高貴なものであったように思います。

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 The Night of the tenth aged Moon.
とうかんや(十日夜)の月

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 以前,私は,家に山ほどの本がありました。それらの本の多くは,実家を売ったときに処分したのですが,ほとんどゴミにしかなりませんでした。何度も読むような大切なものは今も手元に置いてありますが,小説などは一度読んだだけ,というものも少なくありませんでした。こういう現実を知ると,この先かさばる本を買おうという気持ちもなくなってきました。
 旅行に行くとき,電車や飛行機の待ち時間や乗っている時間を退屈しないで過ごすには本を読むのが一番よいのですが,こういうときには難しいものは受け付けません。そこで,一番手ごろなのは肩の凝らない雑誌です。しかし,なるべく持ち物を増やしたくないので,もっぱら電子書籍が重宝します。

 現在,私にとって本や雑誌はそんな立ち位置となっているのですが,今日は雑誌について考えたいと思います。
 私は常々,自分の精神が劣化するような気がするので,興味本位の週刊誌は読みません。なかには真実の報道もあるのでしょうが,書き方がオーバーで売らんがためというのが見え見えで買う気を失くさせます。しかも,書き方が下品で,新聞広告を見るだけで不快になります。そしてまた,日本にはアメリカの雑誌「TIME」のような中身の濃いものがありません。日本ではそんな硬派な雑誌は売れないのでしょう。
  ・・
 私が長年読んできた月刊雑誌が3つあります。それらは「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」です。幸い,これらの本はみな今では電子書籍でも手に入ります。そこで,私は,こうした雑誌で,興味のある記事が載っているときは今も時々購入して,iPad や iPhone に入れて持ち歩いています。しかし,このごろはなかなか買いたいと思う号がなくなってきました。

 「アサヒカメラ」は,これまで,写真というよりもカメラの情報を読みたさに買っていたように思います。そこで,カメラの新製品が出ると,その情報が知りたいので購入していました。しかし,現在のように,カメラ自身に魅力がなくなってくると,それと同時に雑誌自体にも興味がなくなってきました。その昔は,新しいカメラを評価する記事がとてもおもしろかったのですが,時代が変われど,内容が変わらないので,その魅力もなくなってしまいました。今は「ニューフェイス診断室」という連載もなくなってしまったようです。写真の雑誌なのだから,もっと写真芸術に関するおもしろい骨のある記事があれば読みごたえもあるのでしょうが,そんなものはほとんどありません。なにか中途半端で,いったいこの雑誌が何を目指しているのかが今の私にはよくわかりません。よって,まったく買わなくなりました。
 次に「月刊天文ガイド」です。この雑誌がリニューアルしたときにこのブログに取り上げましたが,そのころ私はずいぶんと期待しました。それ以降,表紙は毎号垢抜けていて,紙媒体でも購入しようと書店でなんどか内容を確かめたことがあります。しかし,読んでみると,内容が私の望むものではない,とても中途半端なものばかりでいつもがっかりして,買う意欲を失くしてしまいます。この雑誌もまた,今では私には何を目指しているのかさっぱりわかりません。私の知りたい情報は,何も雑誌を買わなくてもネットで探せますし。私のよく行く書店には毎月5,6冊が納入されるのですが,気の毒なことに,毎月1か月経っても1冊として売れた気配がありません。
 最後に「将棋世界」です。この雑誌は読みごたえがあります。おそらく,今日取り上げた3種類の雑誌の中では,私には一番魅力的な雑誌です。しかし,私にはこの雑誌は難しすぎるのです。将棋の棋譜が書いてあっても,盤上にならべてみなければさっぱりわかりません。よって旅のお供にはなりません。一時,電子書籍としてこの雑誌がアプリで読むことができて,棋譜が画面上で動くという画期的なことが行われたときはすごいと思ったのですが,おそらくこんなことを毎号続けるには異常に手間と費用がかかったのでしょう。いつの間にかなくなってしまいました。そんなわけで,この雑誌は私には読めません。だから買いません。それよりも,ネットで対局の中継やアプリで将棋の対局を見るほうが手軽でおもしろいのです。
 
 このように,以前私が買っていたこれら3種類の雑誌ですが,残念ながら,そのすべてが,私には欲しいものでなくなってしまいました。せっかく電子書籍となっても,それが単に紙媒体のものがPDF化されただけでは意味がありません。これでは今のようなインターネット時代に売れるわけがありません。本屋さんに行っても,ほとんど売れずいつも山積みとなっているこうした雑誌を見るたびにさびしく思います。これもまた,時代の流れでしょうか。それとも,新しい時代に対応できない出版社の怠慢でしょうか。

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今日はエストニアの首都タリンについてです。

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タリン(Tallinn)はエストニア語で「デンマーク人の城」という意味だそうです。人口約42万人で,中世にはハンザ都市のひとつとして栄えた港湾都市です。「ハンザ」とは古高ドイツ語(Althochdeutsch=古ドイツ語のうち第二次子音推移が生じた地域のドイツ語)で,現代のドイツ語の 「ハンゼ」(Hanse)のことで,「団体」を意味します。もともと都市の間を交易してまわる商人の組合的団体を意味します。「ハンザ=同盟」なので世界史で習う「ハンザ同盟」はおかしな訳となり,二重表現となります。
中世のヨーロッパでは,都市同盟が重要な役割を果たしました。周辺の領主に対抗するため独立意識の高い諸都市が連合し皇帝や国王も都市連合を意識して権力を行使しなければならなかったわけです。そのなかでも,いわゆる「ハンザ同盟」は規模と存続期間において群を抜いていました。

1050年,今日トームペア(Toompea)と呼ばれるタリンの中心部の丘に最初の要塞が建設されました。トームペアとはドイツ語で「聖堂の立つ丘」を意味します。13世紀初頭,この場所はドイツ騎士団とデンマーク王らによる北方十字軍によりロシアとスカンディナヴィア結ぶ軍事戦略地点として着目され,また,ノヴゴロドと西欧を結ぶ中継貿易で繁栄を築きました。1219年,デンマーク王バルデマー2世が十字軍を率いて侵攻し,ここにトームペア城(Toompea loss)を築きました。これが「タリン」の名の由来となったのもです。1285年にハンザ同盟に加わりましたが,タリンはハンザ同盟都市としては最北に位置します。
第二次大戦後独立を果たしたエストニアは,ソビエト連邦の崩壊後資本主義社会へ移行し,EU加盟などを機に経済は大きく変貌を遂げています。とりわけ,隣国フィンランド企業のタリンへの進出が盛んで,百貨店のストックマンがショッピングモールを開業させたり,北欧資本のホテルの開業も相次いでいます。IT産業の盛んなエストニアで,タリンは「バルト海のシリコンバレー」ともよばれ,実際に,タリンはカリフォルニア州のシリコンバレーの都市ロス・ガトスと姉妹都市になっています。

旧市街は下町のローワータウン(Lower Town)と山の手のトームペアから成ります。
ローワータウンは、城壁など欧州でも最も保存状態の良い旧市街地のひとつです。そこにあるのは, ラエコヤ広場,旧市庁舎,市議会薬局,聖ニコラス教会,聖霊教会,グレートギルド会館,聖オラフ教会,太っちょマルガレータ(1529年に建てられた砲塔),三人姉妹の家,聖ミカエル修道院などです。
また,山の手のトームペアは石灰岩でできた丘で,トームペア城,アレクサンドル・ネフスキー聖堂,トームキリク,キーク・イン・デ・キョクの塔(Kiek in de Kök)など歴史的建造物が多い地域です。
タリンへは,ヘルシンキ,オーランド諸島,ストックホルムなどからフェリーの定期便が運行されています。

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今回エストニアの首都タリンに行くまで,この国のことなどまったく知りませんでした。NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがこの国の人だということすら,最近知ったばかりでした。さらに,この国は大相撲の大関だった把瑠都関も出身なのですが,そのこともまったく興味がありませんでした。
この国を訪れるのに,そんなことも知らないのは失礼なので,調べてみました。それにしても,まさか,私がエストニアに行くとは思ってもみないことでした。そしてまた,こうした歴史ある国のことをあまりに知らないわが身を恥じました。

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エストニア共和国(Eesti Vabariik)は,面積が九州の1.23倍,人口132万人。エストニア,ラトビア,リトアニアという「バルト3国」のひとつで,欧州連合(EU),北大西洋条約機構(NATO),経済協力開発機構(OECD)の加盟国です。通貨はユーロなので便利です。首都タリンへは,ヘルシンキからバルト海をフェリーで渡るだけで,とても便利なところにあります。
エストニアの公用語はエストニア語で,フィンランド語と同じくウラル語族の言語です。ウラル語族は英語とはまったく異なることばですが,フィンランド同様英語た通用したので大丈夫でした。
フィンランド同様,この国もロシアと陸路国境を接していて,さまざまな問題を今も抱えています。日本もロシアのとなりですが,海を隔てています。領土問題も深刻で,国民はロシア嫌い。こうした問題は日本だけでなく,ロシアと国境を接する国共通のようです。もっと日本人はエストニアやフィンランドのことを知る必要があります。

当時のソビエト連邦に占領されていた歴史があり,独立後,エストニア国籍を持たないロシア人が15%を占めていて,彼らはロシア語を話しますが,看板・広告等でのロシア語表記は制限されています。反露感情の強い国民性なので,ロシア語系住民との融和が大きな課題としてのしかかっているそうです。また,宗教はキリスト教圏ですが,国民の信仰は比較的薄いということです。現在のエストニア軍は1991年の再独立にともなって再創設されたもので,徴兵制度があります。これはフィンランドも同様です。
エストニアの経済状況はバルト3国で最も良好。産業は,外国のIT企業の進出も多くソフトウェア開発が盛んで,最近では「eストニア」とあだなされているほどです。政府が発行する個人IDカードがあって,15歳以上のエストニア国民のほとんどがそれを持っていて,行政サービスのほとんどが個人端末から済ませることが可能,また,早期のIT教育や国際学力調査で欧州の上位国としても知られるなど,日本よりずっと情報先進国です。というより,日本は世界からずっと遅れています。
フィンランドからフェリーで近いので,世界遺産に登録された首都タリンの歴史地区を背景として観光産業が発達し,年間の観光客数は500万人を超えています。

この国の歴史は,ロシアに翻弄されつづけています。
13世紀以降,デンマーク,ドイツ騎士団,スウェーデン,ロシア帝国などの支配を経て,ロシア帝国が崩壊した1918年に独立を宣言。ソビエト連邦やドイツ帝国の軍事介入を撃退して独立を確定し,1920年のタルトゥ条約でソ連から独立を承認され,1921年には国際連盟にも参加しました。
しかし,1940年にソビエト連邦に占領され,1941年から1944年まではナチス・ドイツに占領され,第二次世界大戦末期の1944年には,再びソビエト連邦に占領・併合されました。
ソビエト連邦崩壊直前の1991年に独立回復を宣言,国際連合に加盟し,その後西欧諸国と経済的政治的な結びつきを強固にしていきました。しかし,2007年のタリン解放者の記念碑撤去事件を機に「青銅の夜」と呼ばれるロシア系住民による暴動が起こりロシアとの関係が悪化,同時にロシアからの大規模サイバー攻撃を受け,エストニアのネット機能が麻痺しました。これを契機として,NATOサイバー防衛協力センターが首都のタリンに創設され,将来の大規模サイバー攻撃や国土への武力侵攻に備えて2018年には「データ大使館」をNATO加盟国であるルクセンブルクに設置しました。
2014年エストニアとロシアの領有権問題についてソ連時代の国境線を追認する形での国境画定条約に合意しましたが,その後ロシア側がエストニアの「反露感情」に抗議を繰り返し,現在も条約の批准ができないでいます。

6日目。明日は帰国するので,今日が終日自由になる最後の日。そこで,この日は出発するまえからエストニアに遠出することにしてフェリーの予約がしてありました。私は今回ヘルシンキへの旅を計画するまで,エストニアという国がそんなに近いという認識がありませんでした。そもそも,エストニアという国自体,名前以外に何も知りませんでした。地図を見ると,バルト海を渡るだけでエストニアに行くことができるのを知って驚きました。それは,昔あった青函連絡船で青森から函館へいくよりも近いのです。それに,エストニアの首都タリンは古城の残る美しい小さな街で,ヘルシンキから日帰りで十分に行き来できるところでした。

ヘルシンキとエストニアのタリンを往復するにはフェリーを使います。当日にチケットを購入すればいいようでしたが,行ったこともないので混雑しているのかどうかなど,さっぱり見当がつきません。そこで,BELTRAで事前にチケットを購入してきました。行きは午前9時発。帰りは午後6時30分発。口コミを読んて,さらに,行きはラウンジ,帰りはビュッフェを付けました。
いつものようにホテルで朝食を済ませ,港に急ぎました。フェリー会社のカウンタはまだ空いていなかったので少し並んで待ちましたが,開いたのでバウチャーを見せてチケットと交換しました。ここで行きも帰りもチケットに交換できました。あとは乗船するだけでした。
やがて,搭乗時間になったので乗り組みました。
フェリーは想像以上に大きくて,まるで太平洋を航海するような感じでした。中はものすごく豪華でした。私はラウンジだったので,そこに入ると,空港のラウンジと同じようになっていて,食事も自由にできました。ラウンジは人数制限もあって座る場所がないということはなくとても落ちつくところでしたが,外の景色を見ることができませでした。これは帰りの楽しみとすることにして,ラウンジでゆっくりしました。
やがてタリンの港に到着しました。外に出ると,向こうに旧市街が広がっていました。

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 高校生のころベートーヴェンが大好きでした。多くの人がそうであるように,私もまず交響曲を全曲聴きました。その後,ベートーヴェンは交響曲を作る前にピアノソナタを作り,その次に交響曲,最後に弦楽四重奏を作るというサイクルであったことを知って,ピアノソナタと弦楽四重奏も全曲聴きたいと思いました。
 すべてのピアノソナタと弦楽四重奏曲に触れることができた私は,ピアノソナタも弦楽四重奏も晩年のものが気にいりました。しかし,当時は,録音で接するほかなく,実際の演奏に触れる機会はありませんでした。
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 今回,河村尚子さんがベートーヴェンの晩年の第30番から第32番までの最後の3曲を演奏するリサイタルがあることを知って,行くことにしました。こうした室内楽の傑作を小さなホールで聴くのは至福の時間と空間。私は楽しみにしていました。

 だれもが知る作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は1770年に生まれ1827年に56歳で生涯を閉じました。最後のピアノソナタとなった第30番,第31番,第32番が作曲されたのは1820年から1822年ですが,その翌年1823年に完成した「ミサ・ソレムニス」などの作曲の合間を縫うようにして作られました。ちなみに,交響曲第9番が完成したのは1824年で,その後の3年間に第12番から第16番と大フーガといった最晩年の傑作となった弦楽四重奏曲が作られました。
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 ピアノソナタ第30番イ長調作品109 (Nr.30 E-Dur Op.109)は演奏時間20分30秒です。第29番「ハンマークラビア」でひと仕事を終えたベートーヴェンがその次に書いたのは,大曲を完成した澄んだ心を反映するかのような浄化した主題ではじまる第1楽章でした。このストイックなまでに切り詰められて無駄のない第1楽章に続くのが短く快活な第2楽章で,第1楽章の緊張感からの解放を意味します。そして,これらのふたつの楽章と対比するように,32小節による主題に6つの変奏がつづく第3楽章は大きな広がりをイメージさせますが,アリア風の主題と和声的技巧的な変奏最後の主題回帰はバッハの「ゴールトベルク変奏曲」を思い起こさせるものです。また,ブラームス最後の交響曲第4番の第4楽章パッサカリアにつながるものでもあるように私は感じます。
 ピアノソナタ第31番変イ長調作品110(Nr.31 As-Dur Op.110)は演奏時間18分30秒です。明るい輝きを奏でる簡潔でコンパクトにまとめられた第1楽章は希望を感じさせます。それに続く第2楽章は力がみなぎっています。そして,それらと対照的な広がりと深みのある自由なフーガによる第3楽章がそれまでの2つの楽章との決別を覚悟させます。第31番は第30番と似た形式の曲です。
 最後のピアノ・ソナタとなった第32番ハ短調作品111(Nr.32 c-moll Op.111)は演奏時間26分30秒です。2つの楽章からなるこの曲で,ソナタ形式は極度に凝縮・圧縮され,また,「フーガ」に結実した対位法の試みはソナタ形式の中に取り込まれました。深刻な主題ではじまる第1楽章はポリフォニックな技法を駆使したものです。深く美しい第2楽章は変奏曲で16小節の主題が自由でまるでジャズのような5つの変奏ののちコーダで主題が長大なトリルと和音のトレモロにはさまれながら最後に冒頭の動機を回想して,偉大な作曲家の深淵に迫る旅に永遠の終わりを告げるのです。
 
 今回,私が聴いたのは,東京で行われる「河村尚子ベートーヴェンピアノソナタプロジェクトVol.4」を名古屋にもってきたリサイタルでした。
 河村尚子さんは,ドイツのハノーファー国立音楽芸術大学(Hochschule für Musik, Theater und Medien Hannover)在学中の2006年に,ミュンヘン国際コンクールで第2位を受賞し,翌年にはクララ・ハスキル国際コンクールで優勝を飾ったピアニストです。現在は,ドイツを拠点にヨーロッパで積極的にリサイタルを行う傍ら,世界中のオーケストラと共演をしています。
 力強さに潜む繊細さ。これが河村尚子さんの持ち味だと思うのですが,そうして奏でられた音はまるでホール中を光り輝いて飛んでいる気がしました。すばらしい才能をもったピアニストが渾身の思いを込めた演奏は,これだけでほかには何も要らないという満ち足りた時間となりました。アンコールは,そう,ベートーヴェンのピアノソナタを演奏し終えて何をそのあとに演奏できるのでしょう? と私は思っていたのですが,河村尚子さんも同じことをステージで話されていました。そして最後に再び演奏されたのが,ピアノソナタ第30番第3楽章の最後の変奏と再び主題が回帰する終わりの部分でした。また,こんな演奏会を聴く機会が巡ってきますように,と。
 すばらしい音楽に身をゆだねて,とても幸せでした。

河村尚子

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 すばらしい芸術との出会いはこころを豊かにします。そしてまた,その作品が世界のすべてであるような感動を覚えます。
 私は,そうした感情をしばらく忘れていたようです。
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 愛知県稲沢市にある稲沢市荻須記念美術館で特別展「木村伊兵衛・パリ残像」が開催されているので,見にいきました。
 稲沢市荻須記念美術館は,稲沢市出身でパリを中心に活躍した画家・荻須高徳さんの業績を讃えるために1983年に作られたもので,館内には荻須作品の常設展示と復元されたアトリエがあって,落ち着く場所です。毎年秋に特別展が催されますが,今年は,パリにちなんで,木村伊兵衛さんの写真展となったようです。
 木村伊兵衛さんと荻須高徳さんは同じ年の生まれなのだそうです。
 朝日新聞に元気があったころ,新聞の文化欄には毎月,吉田秀和さんの「音楽展望」が,そして,雑誌「アサヒカメラ」には毎月,木村伊兵衛さんの「街角で」という写真が連載されていました。思えばいい時代でした。私はそうしたものにずいぶんと影響を受けたのですが,いまでも,そのころの評論や作品に接すると,こころが落ち着きます。

 木村伊兵衛さんは1901年に生まれ1974年に亡くなった写真家です。報道・宣伝写真やストリートスナップ,ポートレート,舞台写真などさまざまなジャンルにおいて数多くの傑作を残しました。演出のない自然な写真を撮ることで知られ,こよなく愛したライカを使ったスナップショットにおいては、生まれ育った東京の下町や銀座周辺とそこに生きる人々の日常を自然な形で切り取りました。フランスの世界的なスナップ写真の名手・アンリ・カルティエ・ブレッソンになぞらえられ,和製ブレッソンといわれました。
 今回の特別展で紹介された写真は,木村伊兵衛さんが1954年から1955年にかけて訪れたパリで写したものです。木村伊兵衛さんの作品にはモノクロが多いのですが,原風景がモノクロのようなパリだからこそ,カラーで写したといいます。そのころのカラーフィルムは今とは違って,とても感度が低く,撮影が大変だっだようです。もともと,木村伊兵衛さんの写真は,レンジファインダーの最高級カメラであったライカM3に,F値の明るいレンズを絞りを開放にして写すという手法だったので,切り取った写真はうまく風景がぼけ,遠近感が際立つものとなります。そしてまた,シャッター音の小さいレンジファインダーカメラをつかってさりげなく写すので,写された人物はカメラ目線にならず,自然の姿として写されます。そこで,写真に人物の息遣いが聞こえてくるのです。
 現在は,カメラも優秀になり,また,フィルムからディジタルとなったことで,当時とは比べようもないほど簡単に写真が写せるのですが,そこにあるのは,カメラ目線を意識した写真やら,きれいすぎて生活感の欠けたプラモデルのような町並みでしかなくなってしまいました。
 これらの写真を見て,私は,忘れてしまっていた大切なことを思い出しました。

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