しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場・47都道府県を制覇し,南天・皆既日食・オーロラ,空の3大願望を達成した「不良老人」の日記

January 2020

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 御嶽宿から北東,つまり,江戸に向かうと,12キロメートル宿場がなく,険しい山道の峠越えになります。ここは今でも自動車道路がありません。その先が細久手宿,そして,大湫宿です。
 大湫宿から先は歩いたことがありますが,私の感覚ではJR中央線の沿線なので,まったく別の場所のような気がします。つまり,御嶽宿と細久手宿の間がタイムトンネルのような感じで,このふたつの宿場はまったく別の場所なのです。旧中山道沿いのこの間には有名な大黒屋という今も営業している宿屋があって,外国人にも人気です。私もいつか泊まってみたいものだと思っています。

 さて,私は,今回はその反対方向,西に向かって御嶽宿から伏見宿をめざして歩きはじめました。
 御嶽宿は願興寺の門前町として栄えました。28軒の旅籠があり人口は600人ほど,東に向かう険しい山道を控えて多くの旅人が逗留しました。
 御嵩町の立派な図書館の2階にこれもまた立派な郷土館がありました。なかなか充実した展示でした。こうしたものを見ると,その町の文化水準がわかりますし,御嵩町が旧中山道の宿場町としてのプライドをもっていることを実感しました。

 さて,ここからは県道341号線が国道21号線を取り巻くようにして並走したり吸収したりしていて,その道が旧中山道となります。その南には私が乗ってきた名鉄の線路も並走しています。
 旧街道沿いには,鬼の首塚とか一里塚とか願戸城跡とかいったもの以外,ほかに特に何があるというわけでもないのですが,のどかな道路に沿って歩きます。
 ずっと平坦なので,江戸時代はまわりに田畑が広がり,さぞ気持ちのよい歩きだったことでしょう。
 そのうちにやがて町が見えてきました。そこが伏見宿でした。伏見宿というのは明智町。しかし,明智宿とはいわず伏見宿でした。伏見宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠29軒。もともとは間宿だったのですが,木曽川の渡しの場が移動して土田宿が廃宿となったために1694年(元禄7年)に新設されたものだそうです。新設された宿場は大きく発展することはなく,1848年(嘉永元年)に本陣をはじめ26戸を焼失する大火が発生しましたが本陣は再建されることなく明治維新を迎えました。
 伏見宿はペルシャ産のラクダが伏見宿内の旅籠「松屋」に滞在したという記録で有名な宿場です。オランダ商人が幕府にラクダを献上しますが,幕府は受け取りを拒否。ラクダは興業師にわたり,1824年(文政7年),興業師が病気になったために3日間伏見に滞在。このとき2,000人がラクダを見に集まったとかいうお話です。
 伏見宿は特になにもなく,旧街道の面影もそれほどなく,当時の宿場の中心あたりに中山道ゆったり伏見宿という休憩所があるだけでした。休憩所の中にはいると,初老の女性が番をしていました。お菓子をいただきコーヒーをご馳走になり,しばし休憩しました。

 もともとは,中山道ゆったり伏見宿からさらに西に8キロメートルほど歩いて太田宿に向かい,太田宿のある美濃太田駅からのJRの高山線に乗って岐阜を経由して帰るつもりでしたが,今回は明智へ寄り道するために変更して,南の方向に歩くことにしました。

 

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 先日,静岡県の旧東海道蒲原宿と愛知県二川宿へ行ったばかりですが,今度は,旧中山道の御嶽宿から太田宿まで歩くことにしました。
 旧中山道といえば,長野県というイメージがあるのですが,長野県から岐阜県,そして,滋賀県を通ります。ところが,愛知県に住む私には,岐阜県を通る旧中山道が謎に包まれていて,どこを通っているのかよく知りませんでした。そこで,この辺りを探索してみることにしたわけです。こうした旧街道歩きをしている人も少なくないのですが,書かれたものを読んでいても実感がなく,やはり自分の足で歩くに限るのです。
 いつも書いているように,だからといって日本に大して美しい風景があるわけでもなく,観光地でもないのですが,そうした場所を歩きながら昔の姿を想像するのも悪くないものです。なにせ,私の嫌いな人混みがないし,お金がかかりません。

 以前,旧中山道は岐阜県の土岐のあたりから北東へ落合宿までと,大垣市の北の赤坂宿から関ヶ原宿あたりまでは歩いたので,その間も歩いてみようと思いました。最寄りの駅を調べてみると,名鉄電車の各務原線,広見線と乗り継いで御嵩駅で降りて,そこから引き返す形で西に向かって歩くとよさそうでした。しかし,岐阜から西に走る名鉄電車のローカル線なんて,学生時代に鬼岩公園とやらに行ったっきりそれ以来乗ったことがありません。
 さらに調べてみると,どうやら旧中山道というのは,JRの高山本線と今回利用しようと思った名鉄の各務原線と広見線,そして,国道21号線にそって存在していたことがわかりました。
 私は寒いのは苦手でなく,むしろ汗をかかないので,冬は旧街道歩きにはもってこいなのです。
 そうしていろいろと調べているころ,今年はじまったNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀にちなむところということで,明智荘と明智城を紹介していました。で,どこかなと地図を見ると,なんと私が歩こうと思っていた場所の近くではないですか。
 そこで,御嶽宿から太田宿まで歩くのを変更して,御嶽宿から途中の伏見宿,そこから南に旧中山道を逸れて,明智へ行ってみることにしました。
 しかし,こうした場所はテレビで取り上げられただけで多くの人が押しかけるので,ちょっとどうかな,という気持ちがなかったわけでもないのですが,まあ,平日のことゆえ,たいしたこともあるまい,と楽観しました。

 早朝,名鉄電車に乗って岐阜駅に着きました。ここで各務原線に乗り換えるのです。乗り換えたら急にローカルムード一杯になるのがまた,日本です。というか,周りが急に昭和にタイムスリップしてしまうのです。電車は各駅停車で,かつ,数えるのがいやになるほどの駅があるので,たいした距離でもないのに,いつ着くのか不安になるほどでした。
 私は岐阜駅から御嵩駅までの直通の電車があるものだと思っていたのですがそうではなく,途中,新可児とかいう駅で乗り換える必要がありました。しかも接続がわるく30分待ちでした。それに加えて,新可児駅からはICカードが使えない…!
 待ち時間にすることもないので,一旦駅を出て,近くの可児市の市民センターのようなところへ行きました。その建物のなかに観光案内所があったので地図をもらいました。

 やがて,電車が来たので乗車しました。車内には数えるほどの私のような暇な乗客が,どうやら明智を目指して乗っていました。私も帰りに明智に行くのですが,私の目的はあくまで旧中山道歩きであって,明智がブームだからそこに行くというミーハーではありません。というのは自己弁護です。
 さて,御嵩駅に着きました。このさびれた駅舎,最高でした。遠出をしたわけでもないのに,旅情たっぷりでした。御嵩の駅前から旧中山道の御嶽宿が当時のままの雰囲気で残っていました。これもまた最高でした。安藤広重の描いた「木曽海道六拾九次」では,御嶽では宿場の中ではなくその東の細久手宿から御嶽宿に至る街道沿いの木賃宿をモチーフにしています。木賃宿というのは薪代のみを支払い食事は自炊する簡易な宿泊施設のことです。囲炉裏を囲み旅の疲れを癒しながら談笑する旅人たちの会話が今にも聴こえてきそうな様子が描かれているといいます。この図柄のモデルになったと推測される場所は御嵩町謡坂ではないかといわれています。
 宿場の様子は,ほかのブログに譲ってここで詳しくは触れません。ともかく,私はいつもの通り,御嶽宿の端まで行って,そこから西に,次の伏見宿まで歩きはじめました。

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 私が星に興味をもった今から50年ほど前にはカラーフィルムの性能が悪く,感度の高いものはモノクロフィルムしかなったので,星の写真はほとんどがモノクロでした。しかし,モノクロフィルムも赤色の感度が悪かったので,ペテルギウスのような赤い星は3等星くらいにしか写りませんでした。そこで今,ペテルギウスが減光しているといわれても,そして写された写真を見ても,当時の見慣れた写真よりもずっと明るく写るので,別に暗いとも思わないし,私は何か違和感すら感じます。
 それからしばらくして,カラーフィルムがISO400(当時はASA400といいました)という「高感度!」でも実用になりました。一般のフィルムで大きなシェアを握っていたのは「フジ」でしたが,当時フィルムを販売していたもうひとつのブランドであった「さくら」(小西六,のちのコニカ,そしてミノルタと合併してコニカミノルタ)のフィルムは赤色の発色がよいということで,天体写真マニアだけには定評がありました。
 その後,103aEというフィルムがコダックから開発されました。モノクロではありましたが「HⅡ領域」が写るということで,一部のマニアがそれを取り入れて以来,散光星雲が脚光を浴びるようになりました。
 散光星雲(diffuse nebula)というのは,かつては可視光によって観測できる比較的広い範囲に広がったガスや宇宙塵のまとまりである天体をいいました。今では散光星雲は古い用語となって,散光星雲はさらに輝線星雲,輝線星雲と反射星雲,さらには暗黒星雲や超新星残骸まで含めたり含めなかったりというように,用語が混乱しています。
 この,いわゆる散光星雲のうち輝線星雲は,近くに存在するスペクトル型がO型かB型の高温の恒星からの紫外線によって構成成分の水素ガスが電離させられてその原子核と電子の再結合によるバルマー系列の輝線を放射しているもので,電離水素原子を意味する「HII」が存在する領域ということで「HII領域」とよばれています。
 天文学では電気的に中性の原子にはその元素記号にローマ数字の I を,1階電離されている場合には IIを,2階電離では IIIをつけて表記します。そこで,電離された水素原子(陽子)を「HII」というのです。ちなみに学校で習ったように水素の分子は「H2」で,これとは違います。
 この「HⅡ領域」が赤いので,これまではなかなか写真に写らなかったわけです。

 現在はディジタルに変わったので,そうした過去のことはおとぎ話のような気がします。私は当時の最新技術を使って美しい「HⅡ領域」の写真をモノにしていた人たちをうらやましく思っていたものですが,今ではそんな苦労をしなくても,だれでも簡単に,同じような,というより,それ以上の写真をうつすことができるようになりました。ただし,それでもはやり「HⅡ領域」を写そうとすれば,市販のディジタルカメラでは写りが悪く「IR改造」が必要になるのですが,そうした技術的なことはここでは書きません。
 ちなみに,一般のディジタルカメラは撮影された画像のカラーバランスを人間の色感覚に基づいて自然に整えるために,撮像センサー自体のカラーバランスを調整するための特殊な色調整フィルターを内蔵させています。この色調整フィルターを取り除くと撮像センサーに入射する光がカットされなくなるので有効感度が上昇し,特に赤く輝く散光星雲などから放たれる「HⅡ領域」の感度が大幅にレベルアップし色彩豊かな美しい写真が撮れるようになります。これが「IR改造」です。
 このように,天体写真は,今も昔も赤色を写すために葛藤しているのです。
 特にオリオン座の近くには「HⅡ領域」が数多くあって,「IR改造」したカメラを使うと,おもしろいほど簡単に写すことができます。そこで,今日は,そうしたものからいくつか紹介します。
 1番目の写真はIC405,通称「まがたま星雲」(Flaming Star Nebula)です。IC405はぎょしゃ座にある散光星雲です。散光星雲の中心にあるのは不規則型の爆発型変光星であるぎょしゃ座AE星です。この散光星雲は約5光年にわたって広がっています。
 2番目の写真はIC2177,通称「わし星雲」です。IC2177はいっかくじゅう座とおおいぬ座の境界にある散光星雲です。翼を広げた鳥の姿に見えることから日本では「わし星雲」,英語では「Seagull(かもめ)Nebula」の愛称があります。ちなみに,これとは別のM16も「わし星雲」という名でよばれるので混乱します。
 そして,3番目の写真はNGC2237,通称「ばら星雲」です。ばら星雲(The Rosette Nebula)はいっかくじゅう座に位置する散光星雲で,写真に写すと真紅のバラの花飾り(ロゼット)のような姿に見えることからこうよばれています。中心にあるのはいっかくじゅう座12番星を中心とする散開星団NGC2244です。

 さて,こうした写真を撮っていて,これまでずっと気になっていたのは,1分ほどの露出でどのくらい暗い星が写るのだろうか,ということでしたが,特に調べたことはありませんでした。そこで,今回,それを調べるつもりで,北極星付近の星野写真を写してみました。それが4番目と5番目の写真ですが,白黒を反転させてあります。4番目の写真の左の明るい星が北極星で,その右側の「□」で囲ってある部分を拡大してみたのが5番目の写真ですが,この「□」で囲ってある範囲は,天文年鑑の「北極標準星野」(2020年版だと381ページ)に掲載されているのと同じ範囲です。
 これを調べてみると,15等星くらいまでは確実に写っています。私が天体の写真を写している場所は,北の空は本当に条件が悪く肉眼では北極星しか見えないくらいの場所です。南はかろうじて天の川が見えます。そうした場所で,しかも1分ほどの露出で,北の空で星がこれだけ写ってしまうというのが驚きです。これを見ると,14等級くらいの彗星も写るのかなあと思うので,今度,試してみたいと思います。すごい時代になったものです。

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 私はリヒャルト・シュトラウスがわからない,けれど,「4つ最後の歌」と交響詩「英雄の生涯」はわかります。…と以前書いたことがありますが,2020年のNHK交響楽団名古屋公演の演目は,ウェーバーの歌劇「オイリアンテ」序曲に続いて,まさに,この私がわかるリヒャルト・シュトラウスのふたつの作品でした。

 「4つの最後の歌」( Vier letzte Lieder)というのは,1948年リヒャルト・シュトラウスが亡くなる1年前84歳のときに作曲された管弦楽伴奏の歌曲集です。「春」(Frühling),「九月」(September),「眠りにつくとき」(Beim Schlafengehen),「夕映えの中で」(Im Abendrot)からなり, 第3曲までがヘルマン・カール・ヘッセ(Hermann Karl Hesse),第4曲がヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(Joseph Karl Benedikt Freiherr von Eichendorff)の詩に曲づけされています。
 リヒャルト・シュトラウスはまずヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」に出会いこ曲をつけました。その後,ヘルマン・ヘッセの詩集から「春」,「九月」,「眠りにつくとき」を歌曲にまとめました。
 この4曲がセットになったのは作曲者の死後で,だれがそうしたのかは不明です。いずれにしても「作曲家の最後の歌」だとみなされていましたが,のち,「あおい」(Malven)という歌曲が発見されました。
 この最晩年の歌曲は,それまでのリヒャルト・シュトラウスの脂ぎった作品とは異なり,静寂感や肯定感,終わりという感覚に満たされているもので,透明感と哀愁があります。
 今回この曲を歌ったクリスティーネ・オポライス(Kristīne Opolais)さんの透き通った歌声はこの曲にふさわしく,とてもよかったと思いました。

 一方,交響詩「英雄の生涯」(Ein Heldenleben)はリヒャルト・シュトラウスの交響詩としては最後の作品ですが,リヒャルト・シュトラウスがもっとも活躍していたときに作曲された作品です。「大管弦楽のための交響詩」 (Tondichting für großes Orchester)という副題が示すように,ステージ上には所狭しと100人以上の4管編成のオーケストラがぎっしりと乗り,まさにリヒャルト・シュトラウスの作品といった感じです。
 私がリヒャルト・シュトラウス作品が苦手なのは,まさに,この大編成なのです。何を大仰な,といつも思ってしまいます。そしてまた,傲慢な,とも思ってしまいます。大仰でかつ傲慢といえば,この曲の題名である「英雄」というのはリヒャルト・シュトラウス自身を指すといわれています。これがベートーヴェンの交響曲第3番とは異なる点です。
 しかし,そうした大仰でかつ傲慢な多くのリヒャルト・シュトラウス作品とは違い,「英雄の生涯」は曲全体にまとまりと芯があります。特に,交響詩「 ツァラトゥストラはこう語った」のような,出だしは有名でもそのうち何が何だかわからなくなってきて,くっちゃくちゃの旋律が脈絡なくでてくるものとは違うので,私は同化できるのです。 
 そしてまた,今回のコンサートマスターは,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターだったライナー・キュッヒル(Rainer Küchl)さんでした。ある意味,ヴァイオリン協奏曲のようなこの曲のヴァイオンの独奏をライナー・キュッヒルさんでたっぷりと味わうことができたのには感動しまた。

 私は,東京のNHKホールでNHK交響楽団を聴くときは2階の最後尾に席をとるのですが,チケットのとりやすい名古屋では最前列で聴きます。この席では,音がいいとか悪いとかを越えて,ステージ上で聴いているような感じになるので,思わぬ発見がたくさんあります。団員さんはこんな感じで音を聴いて演奏しているんだなあ,と思います。
 ところで,数年前の一時,東京のNHK交響楽団定期公演で,曲が終わったときの静寂を楽しめない人がフライング拍手をしたり,ブラボーとさけんだりということが頻発した時期があったのですが,このごろはそうしたこともなくなり,落ち着いて楽しむことができるようになりました。ならば,名古屋はどうでしょう。ブルックナーやらマーラーやらがプログラムのときはフライング拍手が心配でいつも楽しめないということになるわけですが,まさにその心配は的中します。だから,名古屋の演奏会では最後に静寂を楽しむものは向きません。
 「英雄の生涯」は通常演奏されるもののほかに,静かに終わる初稿版があるのです。指揮者のファビオ・ルイージさんはそちらがお好みだそうなので,心配しましたが,やはり,おひとりの観客がフライング拍手をはじめました。どうしてそんなに拍手を急ぐのでしょう。こうしたとき私はお前の拍手を聴きに来たんじゃない,と思います。ブラボーも同様です。
 余談になりますが,交響曲の楽章間で拍手が起きることがあります。それがタブーかどうか… これにはさまざまな意見があります。私はこれについては別にいいのではないかと思っていますけれど,気にする人は気にします。今回の「英雄の生涯」は交響曲でないのでないので楽章間の切れ間はありません。 
  ・・ 
 しかし私は,海外でも音楽を聴くようになったことと歳をとったことで,まあ,そうしたいろんなことにそれほどストイックにならなくてもいいんじゃあないのと,このごろは少しずつ思うようになってきました。それよりも,もっと楽しく,そして,ステージと客席の精神的な距離がないほうがいいなあ,と感じるようになりました。日本のクラシックのコンサートは,まるで修行のようです。
 団員さんもまた,もっと楽しそうに演奏したらいいのに,と思います。特にNHK交響楽団はそれが顕著で,無表情。まるでロボットが演奏しているかのようです。しかも,体を使って演奏してないので,動きがなさすぎ。これはいただけません。ほかの楽団,特に外国のオーケストラと比べると,これだけは気に入りません。先日,東京都交響楽団のコンサートに行って,昔NHK交響楽団にいた団員さんが数人移籍していたのを見て,こりゃ脱出だ,と思ったのですが,「お高い」と揶揄されるNHK交響楽団は楽しくないのかもしれません。
 NHK交響楽団の名古屋定期,せっかく1年に1回だけ名古屋に来るのだから,開演前に30分程度でいいからステージでトークをするとか室内楽をやるとか,そんな場があってもいいと思うのですけれど。

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 今年は冬もめったに晴れません。星見というのはもっともコストパフォーマンスの悪い趣味で,もともと星に興味のない人が本に書かれたようにして写真を写そうとさまざまな機材をかったところで,お金をどぶに捨てるようなところがあります。また逆に,すばらしい星の写真を写している人のなかにも,星についてはまったく知らないという人もいます。趣味というのも人それぞれです。
 私は,晴れるという予報があれば星見に出かけるようにしていますが,私の目的は,とにかく,面倒なことはしない,お金をかけない,苦労をしない,そして,楽しむ,なのです。
  ・・
 1月21日の晩は,久々に晴れるという予報でした。天気図を見ると一晩中晴れそうでした。しかし,私は深夜には帰宅したので知りませんが,実際は明け方には曇っていたようです。
 私は,ここ数年,南半球に何度も出かけたり,ハワイに行ったり,信州に行ったりという機会がずいぶんあったので,すでに,満天の星空を心置きなく楽しみたいという夢は飽きるほど実現して,以前のような情熱はなくなっていて,それよりも,人のいない,しかも自宅からさほど遠くない場所で,空の条件がさほどよくなくてものんびりと星空を眺めることで満足できるようになってきました。 
 ということで,この晩は,昨年末にも写したパンスターズ彗星とオリオン座,そして,いくつかの散光星雲を写すことにして出かけました。

 パンスターズ彗星(C/2017T2)ははじめの予想ほど明るくならないのですが,それでも9等星くらいなので,簡単に写ります。しかし,この晩は存在するという場所を写した画像をいくら見てもなかなか彗星が確認できません。彗星は思っていたほど大きくも明るくもなく,拡大してやっと見つけました。
 彗星のいる位置が銀河の中で星が多く,見分けがつきにくかったのも理由でした。彗星はこの先もまだ当分見ることできるので,もう少し明るくなるのを期待したいものです。
 望遠鏡の直焦点での撮影を終えて,次に35ミリカメラにレンズをつけて写すことにしました。
 今回から写すシステムを変えたので,その実験も兼ねました。
 さて,ペテルギウスの減光で,明日にでもペテルギウスが爆発するのではないかと話題になっています。しかし,このところ減光も底を打ち,増光に転じたという情報があったので,また,写すことにしました。とはいえ,写真ではそんなことはわからないので,単に記念で写しただけです。オリオン座はちょうど50ミリレンズくらいの画角できちんと収まるので楽です。ただし,オリオン座全体に分布する散光星雲が美しいのですがこれを写すにはちょっとしたコツがあるので,これを捉えるのがまた,おもしろいのです。
 この時期,オリオン座は11時ごろに南中するので,冬の南の星空はとても賑やかです。夏の星空と違って冬は夜が長いので,これまでもずいぶんとこのあたりの写真を写しました。どれだけ写しても飽きないものです。オリオン座のあとは,180ミリの望遠レンズに変えて,いくつかの散光星雲を写してみることにしました。この続きはまた次回。

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 昨年の4月20日,現在の静岡県にあった新居宿から県境を越えて愛知県にあった二川宿まで歩きましたが,このときのことはすでにブログに書きました。夕方二川宿に着いたとき,予想に反して宿場の面影がずいぶんと残っていて驚きました。そして,今度は二川宿をゆっくりと訪ねてみようとずっと思ったので,今回,それが実現しました。
 二川宿は東海道五十三次の33番目の宿場でした。当時は幕府の天領であった場所で,現在の愛知県豊橋市の東部に相当します。JR東海道線は浜名湖を過ぎ,新居町の駅を越えると,豊橋に向かって北西に進路を変え,旧東海道と別れます。旧東海道は新居宿の次が白須賀宿ですが,海側を通っているので交通の便が悪く,現在では陸の孤島のようになっています。そこで街道歩きをすると,JRの新居町から二川駅までの長い距離を歩く必要があります。前回,この間を歩いてそうしてようやくたどり着いた二川宿だったというわけです。

 JR蒲原駅から電車に乗って静岡駅で豊橋行きに乗り換え,JR二川駅に着きました。
 蒲原では小雨でしたが,浜名湖を過ぎたら急に青空になって,すっかり雨が上がりました。
  ・・
 二川宿は,1601年(慶長6年)の東海道設定当初から西側の大岩村と東側の二川村のふたつの村で宿場として人馬継立業務を担当していたのですが,ともに小さな村でしかも1キロメートル以上離れていて負担が大きく,江戸幕府は1644年(正保元年)に大岩村を東に二川村を西に移動させてくっつけて加宿大岩町と二川宿として再構成しました。つまり,むりやり作った宿場というわけです。
 明治になって旧東海道沿いに鉄道が敷設されて,駅が作られることになったのですが,二川宿跡の中心あたりは住民の反対にあって駅は町の西のはずれに作られました。よくある話です。そこで,JR二川駅は西のはずれにあって不便なのですが,皮肉にもそのために町は発展から取り残され宿場町の雰囲気が現在まで残ったのです。
 江戸時代宿場だったところはどこも車がすれ違いないくらいの幅で狭く,宿場を外れると道路が広くなって歩道ができます。そうした宿場町のなかには道路を拡張してしまい,そのために宿場にあった家々が無残に取り壊されてしまったところも少なくないのですが,二川宿は現在県道404号線となっている道路は宿場の中だけはそのままの幅で残っています。しかし,そうした道路にも現在生活道路としてけっこう車の行き交うところとそうでないところがあって,この二川宿は頻繁に車が行き交うので歩いていてとても不快になります。こうした町を歩くときはあえて左側を歩くほうが楽で,右側を歩くと常に車と対面してしまいます。

 江戸時代,二川宿には本陣と脇本陣がそれぞれ1軒,旅籠が約30軒ほどありました。二川宿の本陣は数度の大火に遭いながらもそのたびに再建されてきましたが,明治後も取り壊されずに残った本陣の一部が1988年に改修,復元が行われました。また,本陣のとなりには旅籠も当時のように再現されていて,その両者が「豊橋市二川宿本陣資料館」として公開されています。また,ここにはレストランがあって,手作りの昼食をとることができました。
 食事を終えて,資料館と本陣を再現した建物の中を見学しました。作り直した感がありありなので,昔のままの建物を期待する人には残念でしょうが,江戸時代の様子がとてもよくかわって興味深いものでした。聞いてみると,江戸時代に旅をしていた庶民は意外にも女性が多く,行商などでお金を稼ぐことができたので,それで旅をしていたということです。また,旅籠といっても,1晩に宿泊していた客というのは4,5人程度ということだったので,想像していたよりも快適だったように思いました。
 もし,今,江戸時代にタイムトラベルしたら,いったいどんな感じなのかなあと思うのですが,私の子供のころを思い出すに,それはわずか50年ほど前のことなのに,そのころのお風呂とかトイレを考えると,それを知らない今の若い人は驚くほど旧時代のものでした。電化も自動化もされていなかったのは50年前も200年前もそれほどの違いはなさそうなので,江戸時代は私の子供のころと同じようなものだったのでしょう。ここ50年の変化がすごいのです。
 さらに,二川宿には宿場で有数の商人だった田村家の店舗兼住居の「駒屋」も復原され公開されていたので,見学することができました。

 旧東海道歩きをしていると,静岡県は宿場町を観光用に整備して情報も多いのですが,愛知県に入ると宿場町についての情報も少なくなってしまうのが残念です。そのためにこれまで知らなかった二川宿ですが,ここは,本陣と旅籠屋,そして商家の3か所を見学できる日本で唯一の宿場町となっているいいところでした。

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 ハプスブルグ展を鑑賞してから上野動物園でパンダとハシビロコウを見て,夜はNHK交響楽団の定期公演を聴いたあと小田原で1泊して,翌日は小田原から名古屋まで途中下車をしながら在来線で帰ることにしていました。
 今回途中下車するのは,蒲原駅と二川駅です。ともに,旧東海道の宿場町だったところで,一度は歩いてみたいと思っていたところです。

 蒲原宿は東海道五十三次の15番目の宿場です。現在の静岡市清水区にあって,東京から行くと,富士山の美しい吉原宿を過ぎ,富士川を越えたところにあります。その先は由比宿でさらに西に行くと以前越えたことのある薩埵峠になります。
 蒲原宿は歌川広重描いた浮世絵東海道五十三次の最高傑作「蒲原夜之雪」で有名です。深々と降る雪のなか,人家も遠山に埋もれ静かに眠っているかのよう…。 頭や背中に雪を積もらせた3人の人物が雪道を歩いているだけの絵画からは,雪を踏みしめる音だけが聞こえてきそうな静寂を感じるという旅情あふれるものです。
 しかし,雪の降らない静岡県なので,私は子供の頃から不思議な絵だなあと思っていたのですが,当然,そう感じる人が多く,それを謎としてさまざまに取り上げられています。もともと,歌川広重描いた一連の東海道は,実際の風景というよりも旅情をそそるためのイメージ画としてとらえたほうがよいので,雪景色は蒲原宿を描いたものでなくてもよかったということなのですが,それでも,この絵が鈴鹿峠のあたりなどならば,そうした疑義は生まれなかったのでしょう。しかし,そうした疑義を抜きにすれば,日本人のもつ琴線に触れる人里さびしい雪国の姿として,とても印象に残るものです。

 蒲原宿は現在のJR新蒲原駅から蒲原駅の間にあります。新蒲原駅を降りて,まずは朝食をと思って駅前にあったショッピングモールに行ったのですがまだ開店していませんでした。そこで少し東にもどり,旧東海道から少し外れた場所にある源義経硯水の碑まで行って,そこかでUターンして,蒲原一里塚跡から西に蒲原宿のはずれまで歩きました。
 前日から雨が降っていましたが,この日は雨が上がるという予報でした。しかし,予報に反して小雨混じりのあいにくの日。これでは,雪の蒲原ならぬ雨の蒲原でした。蒲原宿跡のほぼ中央に,この広重の浮世絵「蒲原夜之雪」記念碑があります。歌川広重が蒲原宿を描いたのは,1832年(天保3年),幕府の朝廷への献上使節の一行に加わって京に上った折に描いたものといわれていて,この絵が描かれたと思われる場所に近ごろ建てられた記念碑なのですが,この場所から浮世絵を想像するのは無理で,こころのなかに留めておきましょう。
 蒲原宿は比較的古くから開けた宿場で,富士川を控えていたことから交通の要衝としても重要な地点でした。 もともとは現在の場所よりもう少し海に近く,現在のJR東海道線の南側にあったのですが,1699年(元禄12年)の台風による津波で宿場が流されたために現在地に移転したものです。旧東海道の太平洋岸の宿場にはそうした場所がけっこうあって,日本はずっとこうした自然災害に悩まされていたことがわかります。蒲原宿は,本陣跡や旅籠の建物,大正時代の洋館は今も残り,情緒ある町並みを今も留めています。

 蒲原宿には,東本陣と西本陣のふたつもの本陣がありましたが,現在本陣跡として残っているのは西本陣だけです。西本陣のあった場所に建てられている建物は大正時代のものですが,庭には土蔵や大名が駕籠を置いた「御駕籠石」が残っています。また, 江戸時代に「和泉屋」の屋号で旅籠として使われていた国登録有形文化財には,天保年間当時のままの看板や手すりが残っていますし,旧五十嵐邸は,大正3年に改装された洋風建築で,ガラスと下見板をはめ込んだ独特なデザインで軒蛇腹や軒下の歯型飾りなど洋風の意匠が見られます。また, 志田邸は1855年頃の安政年間に再建されたしょう油・味噌・油などを扱っていた商家で,しとみ戸や店の間・中の間など面影がよく残されているということでしたが,まだ時間が早く,中に入ることはできませんでした。
 蒲原宿はここで鍵状にまがり,そこで江戸時代の町並みは終わります。その先は新しい町なので道路が広がって,単なる道路と歩道が続くので,何も心に訴えるものもなくなります。また,喫茶店の1軒もなく,私は朝食を食べ損ねました。さらに,その先蒲原宿から由比宿まで歩くつもりでしたが,天気が悪く,この先を歩いても特に何もなさそうだったので,私はJR蒲原駅から電車に乗って二川駅に向かうことにしました。

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 2016年に放送されたNHKEテレの「旅するドイツ語」を見なければ,私はおそらくウィーンに行くこともなかっただろうし,ハプスブルグ家について知ることもなかったから,「ハプスブルグ展」に足を運ぶことも,当然なかったことでしょう。縁というのは不思議なものです。
 13世紀から19世紀のヨーロッパの歴史は,神聖ローマ帝国とハプスブルグ家を軸にして考えると理解がしやすいものです。学校で学ぶ歴史ではそうした流れがわかりません。実際は,その時代を彩るさまざまな芸術を味わうことこそが,その時代に生きた人の姿を知ることにつながるのです。
 今回,東京で開催されているハプスブルグ展に展示されているコレクションの多くは,すでに昨年ウィーンですでに見たので行く必要もなかったのですが,昨年はあまり知識もなかったので,せっかくそうした絵画に接したのによくわかっていなかったから,今回東京に行った折に足を運んでみました。

 ハプスブルグ家とこの時代の歴史については講談社現代新書の「ハプスブルグ家」に詳しく書かれています。この本は1990年の発行なので古いのですが,内容がすばらしくて,高等学校の世界史の教科書を読むよりもずっとわかりやすくためになります。
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 ヨーロッパ随一の家柄を誇るハプスブルグ家は,もともとはスイスの片田舎を本拠地とした貧しい貴族でした。13世紀後半,のちにルドルフ1世となった人物こそが,のちにヨーロッパ史の中心として力をふるったハプスブルグ家の起こりです。15世紀になって,ルドルフ1世の6代後マクシミリアン1世がブルグント公国のひとり娘マリアと結婚して領地と莫大な富を手に入れたことから繁栄がはじまりました。マクシミリアン1世は,自分の子,孫を次々と他家の王女,王子と婚姻させることで,スペインやハンガリーも手に入れることに成功したのです。 
 マクシミリアン1世の子,美男子だったのでフィリップ美公とあだ名されるフィリップ4世(別名フェリペ1世)が,コロンブスを支援したことで知られるスペインのイザベラ女王の娘ファナと結婚し,その子カール5世(別名カルロス1世)が神聖ローマ皇帝とスペイン王を継承します。その子フェリペ2世の時代になると,スペインのハプスブルグ家は黄金時代を迎えますが,スペインのハプスブルグ家は近親婚が原因で5代にして断絶してしまいます。
 生前退位をしたカール5世は弟のフェルディナント1世に神聖ローマ皇帝を譲り,オーストリアのハプスブルグ家を継承します。しかし,オーストリアのハプスブルグ家も次第に勢力が後退しついには男系の後継ぎもいなくなり,女性であるマリア・テレジアが相続することになります。ここでオーストリア継承戦争,つまり,オーストリアの領土の分捕り合戦が起きます。この難事にマリア・テレジアはハンガリーの助けを受けて国を守り抜くのです。また,彼女は16人の子供をなし,そのうちのひとりがマリー・アントワネットです。マリア・テレジアは女帝として君臨しますが,次第にハプスブルグ家は落日を迎えてゆくことになります。
 マリア・テレジアの孫のフランツ2世(別名オーストリア初代皇帝フランツ1世)はナポレオンに惨敗し,神聖ローマ皇帝位を失います。フランツ2世の子フランツ・カールに嫁いだバイエルン王女ゾフィは,愚鈍な夫が皇帝となることに反対し,息子フランツ・ヨーゼフ1世を皇帝として継がせます。そのフランツ・ヨーゼフ1世がひとめぼれをしたのがエリーザベトです。しかし,エリーザベトはゾフィのいじめなどで悲惨な人生を送ります。そして,最後は暗殺されてしまいます。夫フランツ・ヨーゼフ1世は在位68年にわたり,国民の敬意を集め政権を維持しましたが,息子のルドルフは自殺,後継に指名した甥フランツ・フェルディナンドも暗殺され,これが第一次世界大戦の引き金となり,やがて,ハプスブルグ家は歴史の表舞台から姿を消すことになります。

 このようなハプスブルグ家に関する絵画を中心としたコレクションが展示されているのが,このハプスブルク展です。2020年1月26日までということで,平日であったのにもかかわらず,予想以上の人でうんざりしました。観覧料はウィーンの美術史博物館と同じほどなのに,展示されているものはその100分の1もなく,私にはかなり物足りない展覧会でした。
 ハプスブルグ家が時代を追ってわかりやすく説明されているのならともかく,ハプスブルク家についての知識があまりない人には,おそらく,その作品のもつ意義なんて,ほとんどわからないことでしょう。いずれにしても,この展覧会に限らず,作品を味わうためには,自分がそれに向き合えるだけの知識がなければ,何もわからない,それは旅と同じだなあと思います。

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 NHK交響楽団第1931回定期公演の曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番とシェーンベルグが編曲したピアノ四重奏曲第1番(通称「ブラシェン」)でした。
 ピアノ協奏曲第2番は4楽章形式ですが,第3楽章の染み入るようなチェロがとてもすばらしく感じられる曲です。ピアノ四重奏曲第1番は,私はコンサートではじめて聴く曲でした。
 今回は交響曲のないブラームスのプログラムということです。

 私はブラームスが好きですが,これまでブラームスの作品がいつ作曲されたのかということはあまり気に留めていませんでした。
 今回演奏された2曲は,ブラームスの若いころと晩年のものということであるということと,このところ世界史に興味をもったので,ここでブラームスの作品の作曲年代について調べてみました。
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 まず,ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)自身の生存年代ですが,ブラームスは1833年に生まれて1897年に63歳で亡くなっています。ウィーン会議が1817年,プロイセン・オーストリア戦争が1866年,ドイツ帝国が成立したのが1871年,日本では1833年は天保の飢饉が起きた年,1894年は日清戦争,そういう時代でした。また,ベートーヴェンは1770年生まれで亡くなったのが1827年なので重なっておらず,同時期に活躍したブルックナーは1824年生まれで亡くなったのが1896年,マーラーは1860年生まれで1911年に亡くなっています。
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 今回のコンサートで演奏されたピアノ四重奏曲第1番は1861年に作られたので,ブラームスが28歳のときです。ピアノ四重奏曲というはピアノ,ヴァイオリン,ヴィオラ,チェロからなるものですが,それを1937年に管弦楽曲に編曲したのがシェーンベルクです。
 また,ピアノ協奏曲第2番は1881年に完成したので,そのときブラームスは48歳で,ピアノ協奏曲第2番のまえのピアノ協奏曲第1番は1857年の完成なのでピアノ四重奏曲より4年早く,ピアノ協奏曲第2番の22年前ということになります。
 ちなみに,交響曲第1番は1876年なのでブラームス43歳のときに完成したもので,交響曲第2番はそのわずか翌年の1877年,その次がヴァイオリン協奏曲で1878年,そして,ピアノ協奏曲第2番をはさんで,交響曲第3番が1883年,交響曲第4番は交響曲第3番完成の翌年1884年から1885年にかけて作曲されました。ヴァァイオリンとチェロのための二重協奏曲は,交響曲第4番のあと1887年に作曲したものです。このように,ブラームスの円熟期は43歳から54歳にかけてということになります。

 と,ここまでが前置きです。
 このコンサートはあとで書かれた交響曲のような大曲であるピアノ協奏曲第2番が先に演奏されて,「ブラシェン」と称されるピアノ四重奏曲第1番が後でしたが,「ブラシェン」が後というのは少し荷が重いのです。小気味よい曲ではあるのですが,ハンガリー舞曲のようなもので,メインプログラムの器ではありません。
 ピアノ協奏曲第2番のピアノの演奏はボディビルダーの肩書もあるツィモン・バルト(そういえば力士だった把瑠都もいました)という大柄な男性で,ちょっと変わった演奏家という評判でした。
 出だし,なかなか個性のある演奏だと思ったのが甘い考えでした。テンポは異常に遅く,進まず,さらに,ふらふら,進みだすと思えば立ち止まり,シンドイだけでした。これではオーケストラがたいへん,7割程度の入りのお客さんの私の周りにいた数人の人はみんな寝ているし,私は途中で帰りたくなりました。
 だいぶ前,NHK交響楽団の定期公演でピーター・ゼルキンというピアニストがブラームスのピアノ協奏曲第1番を演奏したのを聴いたのですが,このときもまた,えらくおそいテンポで今にも止まりそう,聴くほうもたいへんだったのですが,それはそれで芯があって,こころに残りました。それを思い出したのですが,それとも違いました。
 10年以上NHK交響楽団の定期公演を聴いていますが,こんなに私が不快になった演奏ははじめてでした。正直,せっかく期待したブラームスのピアノ協奏曲第2番がまったく別の曲になってしまって残念な気持ちでした。演奏時間約60分,これでは長すぎます。帰宅後,ツイッターの書き込みを読むと,なかには絶賛しているもの,あるいは,私と同じようなことを書いているものなどいろいろありましたが,まあ,何を聴いても絶賛する人の意見はさておいて,これほど賛否のわかれる演奏というのもそうはありません。
 そんな「毒気」にあてられたおかげで,後半の「ブラシェン」がきわめてさわやかな清涼剤となったのもまた,不思議なものでした。荷が重いと思った「ブラシェン」が後でむしろよかったわけです。

 ただし,ウィンナーワルツとか,多くのR・シュトラウスの作品のような,音楽を音として楽しむものと,音楽を媒体としてこころの琴線に触れる楽しみが違うように,私がブラームスという作品を聴く楽しみは後者のほうなので,期待に反して物足りないコンサートとなってしまいました。フィレ肉を食べに行ってテールを出されたようなものでした。
 帰宅後,NHKEテレで放送されていた第1923回の定期公演を見ました。ビゼーの交響曲第1番をはじめ,とてもNHK交響楽団らしいすてきなコンサートでした。指揮者のトゥガン・ソヒエフさんもノリがよく楽しそうで,私は,こうしたコンサートのほうがずっといいなあと思ったものでした。

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 2年前に見た朝日杯将棋オープン戦ですが,今年,2年ぶりにまた見にいく機会があったので,観戦しました。
 チケットの発売日を忘れていて,というか,もう1回見たからいいやと思っていたのですが,発売日当日,ツイッターで発売開始5分後に知って,試しにサイトを開くとすでにほとんどが売り切れでしたが最後列の4枚だけ残っっていたので,購入し(てしまい)ました。
 この日は,ベスト16からのトーナメントで,参加棋士が4人。午前中に2局あって勝者が午後に1局,これに勝ち残るとベスト4進出になります。2年前とは会場が異なっていて,今年は朝日新聞名古屋本社の15階にある朝日ホールでした。ひと部屋が対局場でもうひと部屋が解説会場となっていました。対局会場はひな壇になっていてい,午前中の2局はひな壇の両端で同時進行,両方とも観戦することができました。ただし,2年前は対局後に解説会場にも入れたのですが,今年は,対局会場か解説会場のどちらかしか入れませんでした。
 このように,毎年,試行錯誤状態なのですが,次第に工夫が実り見やすくなってきました。ただし,今年は解説会場が狭く,もう少し広いといいなあ,と思いました。
 朝日杯将棋オープン戦は,持ち時間が40分で使い切ると1手60秒,というのが絶妙で,対局が終了するまで約2時間,しかも,1手30秒とはえらく異なって,考えることができるので,内容が濃くなります。どうやら,藤井聡太七段にはこの持ち時間が向いているらしいのです。

 今年の藤井聡太七段の対戦相手はかなりの難敵で,さすがに朝日杯オープン戦の3連覇は無理だろうと思っていました。そこで,午後の2局目までいけるのだろうかと,ほとんど期待もせず,会場に向かいました。
 藤井聡太七段の1局目の相手は菅井竜也七段で,これまで1勝2敗でした。菅井竜也七段の粘りを打ち破れるかが勝負です。はじめ,少し優勢かな,と思っているうちに,早指しで何やらこちゃこちゃとやられているうちになんかごまかされたようになって,気が付くと不利になっていました。こりゃ2局目はないなあ,と思っているうちに形勢が逆転して,ついに勝利しました。ただし,帰宅後にコンピュータの将棋ソフトで調べてみると,会場で思っていたほど不利でもなかったようでした。それにしても,最後の盛り上げはかなりのものでした。
 2局目は,1局目に三浦弘行九段に勝った斎藤慎太郎七段とでした。斎藤慎太郎七段に対してもこれまで1勝2敗と苦手としています。それもはじめに2連敗,つい先日にやっと1勝をあげたという状況です。この将棋はねちねちと序盤が長く,相撲で言う指し手争いみたいな感じになっていたのですが,そのうちにわずかなスキを捉えて藤井聡太七段が有利となりました。最後は,いつものように受けても勝てるほど優位だったのに,1手勝ちを読み切って攻めていって,そのまま押し切りました。対局者はわかっているのでしょうが,見ているほうはハラハラしました。
 それにしても,以前にも増してさらに強くなったものだと思いました。こうして,これまで分が悪かった相手に対しても堂々と勝てるようになってきて安定感もねばりもあってすごいもんだと思いました。よいものを見ました。

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●アメリカ天文学の聖地●
 ローウェル天文台では広く一般に公開されているので,だれもが宇宙の歴史や現代科学の研究に接することができる。街の中にこうした施設があるので,私はフラグスタッフに住む人をうらやましく思う。また,フラグスタッフは夜空の暗さを守るためにさまざまな規則が設けられている。
 私はチケットを購入して,まず,はじまったばかりのレクチャーを聴いた。その後,ガイド付きウォーキングツアーに参加して,構内を見学することになった。
 まず,レクチャーでは,ローウェル天文台の過去と現在の研究活動に関する説明があった。そしてウォーキングツアーで,天文台の施設を見学した。24インチ屈折望遠鏡は圧巻だった。また,ドームの外では太陽望遠鏡が設置されていて,黒点を見ることができた。ただし,この時期,というか,近年,太陽には目立った黒点が見られず,この日も太陽面にはまったく黒点がなかった。
 このウォーキングツアーでは冥王星を発見した13インチ天体写真儀の見学は含まれていなかったので,がっかりしたが,調べてみると,13インチ天体写真儀は時間を指定して公開されていることがわかったので,指定された時間にドームに行ってみた。
 時間が近づいても私のほかにだれも来なかったので心配になってきたころ,スタッフが現れた。結局,私がこれを見るためにわざわざ日本からやって来たといっても誇張でない13インチの美しい天体写真儀は,私ひとりの独占となった。スタッフの人にいろいろ質問したり,記念写真を写したりと,思っていた以上の体験ができて,大いに満足した。

 夕方になったので,ひとまず天文台を出て,夕食をとってから,ふたたび,天文台に来ることにして,近くあったファミリーレストラン「IHOP」で夕食をとった。
 「IHOP」というのは「International House of Pancakes」の頭文字が店名になっているファミリーレストランで, アイホップといえばパンケーキ,フレンチトースト,ワッフル,卵料理とベーコンというアメリカンフードが食べられるお店である。
 再び天文台に来てみると,先ほどとは違い,非常の多くの人が天文台に来ていて,車を停めるのも苦労するほどであった。
 この天文台では,天気がよければ,毎晩,ローウェルが火星を観測した望遠鏡で天体を見ることができるのだ。ドームには,多くの人が望遠鏡をのぞくために長い列ができていた。また,ロタンダ 博物館では,一般を対象にして,天文学のレクチャーを行っていた。館内はびっしりと人で埋まっていて,かなり難しい内容のレクチャーなのに,関心をもって聞き入っていた。
 この天文台にかぎらず,アメリカのこうした施設は,どこも,こうした一般を対象としたさまざまな企画が行われていて,平日であっても多くの人が参加しているのにいつも驚く。これもいつも書いていることだが,日本の,テストで点をとるだけが目的の勉強とは本質的に文化に取り組む姿勢が違うように感じる。
 こうして,私は,おおいに満足して天文台の見学を終えた。

 天文台から宿泊先のモーテルの戻る途中,フラグスタッフのダウンタウンを散策することにした。このダウンタウン,駐車場はどこも有料で,しかも,なかなか停めるスペースがないのだが,夜になると無料で開放される。私はある駐車場にスペースを見つけて車を停め,駐車場の説明書きを読んでいると,通りかかった人が「無料だぞ」と私に話しかけてきた。アメリカ人というのは,いつもこうして親切だったりするのだ。
 この,かつてルート66が通っていたのどかな町は,夕方,星空を守るために薄暗い電灯がともり,なかなかすてきな雰囲気になっていた。私は,ずっとこの町に来たかった,その願いがかなって,しかも,この日はやりたかったことをみんなすることができたことも併せて,こころからうれしくなったことだった。

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●ローウェル天文台の様々な施設●
 ローウェル天文台はフラグスタッフの町が一望できる高台にあって,構内には,望遠鏡の他にいくつかの施設を運用しているが,天文台といってもそれほど広い場所ではない。
 この天文台で最も有名なのはローウェルが火星を観測した口径24インチ(61センチメートル)の屈折望遠鏡とトンボーが冥王星を発見した口径13インチ(33センチメートル)の天体写真儀である。これらのものについてはすでに書いた。
 これらの他に,公開はされていないが,最新の望遠鏡となる口径50センチメートルのTMT(=Titan’s Mmonitor Telescope )がある。TMTはローウェル天文学者ヘンリー・ローの研究である土星最大の月タイタンに関する天候を監視し,地球の初期の惑星の状態と進化について研究するためのものである。タイタンは地球に似たいくつかの特性を共有するので,タイタンの大気と表面の状態の詳細なデータを収集することによって,地球の初期の惑星の状態と進化に関する手がかりを提供している。
 また,ローウェル天文台の構内には,1916年に完成し1970年代半ばまで図書館として機能したロタンダ博物館があり,この博物館には多くの重要な展示がされている。それらは,トンボーが1930年に発見した「惑星X」に関するもの,1912年にV・M・スライパーによる銀河膨張の発見に関するもの,アポロ計画のために作成された月の精密地図,ローウェルの火星研究の資料や計算器を含む測定器である。また,ドームの天井から吊り下げられているのはロサンゼルス・ライト・カンパニーが1918年に建設したステンドグラス「サターン・ランプ」である。
 パトナムコレクションセンターの図書館やコレクションエリアでは,建物のロビーの展示エリアだけは一般公開されている。そこには,ローウェルが15歳になったとき母親が彼に与えたの最初の望遠鏡,V・M・スリッファーが宇宙の膨張する性質の最初の証拠を捕捉するために使用した分光計,パーシヴァル・ローウェルの手描きの火星儀には運河を含む詳細が書かれている。また,ローウェルの科学者によって,天体の物理的特性を測定するために使用された機器や数十年から何世紀にもわたる古典的な科学書がある。このロビーの目玉はパーシヴァル・ローウェルが使用した1911年のスティーブンス・デュリエア自動車である

 ローウェル天文台は,フラグスタッフ以外にも新しい観測の拠点が作られた。
 1959年,フラッグスタッフの南東約12マイルに位置するアンダーソンメサに新しい観測地が作られた。そこにある口径72インチ(1.8メートル)のパーキンス望遠鏡は,ボストン大学(BU)とジョージア州立大学との共有である。ワーナー・アンド・スワシー・カンパニーによって1931年に建てられたこの望遠鏡は,もともとはオハイオ州デラウェア州にあるオハイオ・ウェスレーヤン大学(OWU)のパーキンス天文台にあったが,1961年にアンダーソンメサに移転し,1998年にローウェル天文台が購入した。この望遠鏡はボストン大学との共同使用である。
 また,口径42インチ(1メートル)ジョン・S・ホール望遠鏡は,アストロメカニクスによって制作され,1970年にアンダーソンメサに設置された。1990年に元ローウェル天文台長ジョン・S・ホールにちなんで命名されたこの望遠鏡は,ローウェル天文台の天文学者が彗星,小惑星,太陽のような星の研究のために使用している。2004年,この望遠鏡はジョン・M・ウルフ財団とローウェル天文台の友人からの資金で,CCD,光電光メトリーおよび分光法が活用されるようにリニューアルされた。
 NSFが支援する太陽星スペクトログラフ(SSS)は、太陽と太陽のような恒星の長期比較研究に使用されている。
 国立学部研究天文台(NURO)の口径31インチ(80センチメートル)望遠鏡は,アストロメカニクスによって建設された。もともとはNASAが所有し,1964年に米国地質調査所(USGS)の月マッピングプロジェクトのためにアンダーソンメサに設置されたものだが,1972年にローウェル天文台が購入し,1990年に改装され,ローウェルの科学者によって,月と惑星の観測のために使用している。
 海軍精密光学干渉計(NPOI)はローウェル天文台,米国海軍天文台(USNO)フラッグスタッフステーション(NOFS),および米国海軍研究所(NRL)の共同研究である。施設の建設は1992年にはじまり,1994年にエンジニアリング試験が始まりました。
 また,ローウェル天文台は米国海軍天文台と海軍研究所のパートナーとして,海軍精密光学干渉計(Navy Prototype Optical Interferometer=NPOI)を運用している。海軍精密光学干渉計は非常に高精度の測定が可能な非常に専門化された望遠鏡である。干渉計は,単一のミラーを使用する代わりに最大6つのミラーの配列を使用する。地球上や宇宙での位置を決定し時間を監視するための基準システムとして使用する空を横切る星の正確な相対的位置を測定する。
 口径24インチ(60センチメートル)ローウェル天文台近地球物体探査(LONEOS)シュミット望遠鏡は小惑星やその他の地球近くの物体を探すために使用された。このシュミット望遠鏡は,1939年にJ.W.フェッカー社によって建てられ、1950年代にパーキンス天文台に与えられ,1990年にローウェル天文台によって購入された。1992年に改装され、1997年にローウェル・アストログラフを開催したドームで最初の光を見たが,望遠鏡の使用は2008年のLONEOSプロジェクトと一緒に終了した。
 フラグスタッフの南東40マイルにあるハッピージャックには,口径169インチ(430センチメートル)のディスカバリー・チャンネル望遠鏡(DCT)があって,ローウェル天文台の主力機器となっている。この望遠鏡はボストン大学,メリーランド大学,トレド大学,北アリゾナ大学とパートナーシップを結んでいる。

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●クライド・トンボーと冥王星●
 クライド・ウィリアム・トンボー(Clyde William Tombaugh)は,1906年に生まれ1997年に亡くなった天文学者である。1930年に冥王星を発見した業績で知られている。
 トンボーはイリノイ州のストリーターで生まれ,高校時代に西カンザスに家族と移り住んだが,そこで農場が雹で壊滅し大学進学を諦めざるを得なかった。しかし,彼は独学で学問を続け,1926年にはじめて天体望遠鏡を自作,その後2年の間に2基の天体望遠鏡を自作して彼自身の腕を磨いたという。
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 トンボーは,ローウェル天文台で台長のヴェスト・スライファーのもと,天王星や海王星の軌道に影響を与えていると考えられた未知の惑星の捜索に携わった。
 新惑星の探索は,撮影時刻の違う同一星野を見比べ,動きがある星はないかを確認することだった。ローウェルが9番目の「惑星X」があると予測した周辺の星野を丹念に精査し続け,1930年2月18日についに「冥王星」と名づけられることになる新惑星を発見した。
 トンボーはのち,カンザス大学に入学,修士号を取得し,再びローウェル天文台に戻った。トンボーはローウェル天文台での観測で,数百の変光星,800近い数の小惑星,2個の彗星のほか29,000にも及ぶ銀河を発見している。
 第二次世界大戦中はアリゾナ州立大学でアメリカ海軍に航法を教えたが,戦後、天文台の財政難のためローウェル天文台に戻れなかった彼は,ニューメキシコ州のホワイトサンズ・ミサイル実験場で働いたのち,ニューメキシコ州ラスクルーセスのニューメキシコ州立大学で教員を務めた。
 彼の遺灰の一部は2006年に打ち上げられた太陽系外縁天体探査機ニュー・ホライズンズのコンテナに納められ,冥王星に到達した。

 1928年から1929年にかけて,パーシヴァル・ローウェルが考えた太陽系の9番目の惑星の名前である「惑星X」の探索をする目的で使われ,のちに冥王星を発見することになるのが,口径13インチ(32.5センチメートル)の天体写真儀である。また,この望遠鏡のドームは,1896年に24インチ(61センチメートル)望遠鏡ドームのために考案したのと同じ基本計画に従って,楽器メーカーのスタンリー・サイクスによって,1928年に設計され建設されたものである。
 望遠鏡とドームを作る主な資金は,パーシファル・ローウェルの弟であり,ハーバード大学の学長アボット・ローレンス・ローウェルから贈られたものである。
 この写真儀は14インチ×17インチ(35センチメートル×42.5センチメートル)のガラス乾板をもち,約1時間の露出で写真を撮影し,写された写真はコンパレータを使用して精査された。なお,ガラス乾板は現在ワシントンD.C.の航空宇宙博物館に貸し出されている。
 
 「惑星X」の発見後,ヘンリー・ギクラスが同じ13インチ天体写真儀でこの天体の運動を調べた。また,「惑星X」の発見に加えて,この13インチ天体写真儀はローウェル天文台の天文学者によって,彗星や小惑星,測定可能な適切な動き(角度運動)を持つ星を研究するためにも使用された。13インチ天体写真儀は,のち,天文台の別の場所アンダーソンメサに移されたが,1990年代初頭に再び現在の位置に戻された。この冥王星を発見した13インチ天体写真儀は今も一般の関心を集め,世界中から10万人の訪問者がやってくる。私もそのうちのひとりである。
 13インチ天体写真儀とドームは1920年代後半に創設されてから90年経ち,ドームの一部の部分が腐り,望遠鏡の部品の一部が摩耗し,他の部分は洗浄または剥離して再塗装する必要があったので,近年修復された。修復には,まず,望遠鏡をこの場所から撤去し修復,そしてドーム内の構造工事と展示の改修,ドームの修理が行なわれた。ローウェル天文台の技術スタッフは,ドーム材の一部を交換し,施設全体を耐候性にする計画を立てた。また,望遠鏡の制御機構,写真乾板ホルダー,その他のアクセサリーの修理や清掃も行った。望遠鏡とドームの改修には155,000ドルの費用がかかったという。

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●パーシヴァル・ローウェルと火星●
 パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,1855年に生まれ1916年に亡くなったボストン生まれの天文学者だが,同時に日本研究者でもあった。ボストンの大富豪の息子として生まれ,ハーバード大学で物理や数学を学んだ。もとは実業家だったが,火星に興味をもって天文学者に転じ,私財を投じてローウェル天文台を建設し,火星の研究に打ち込んだ。
 ローウェルは天文台の建設地としてアリゾナ州フラッグスタッフという天体観測に最適な場所を見出し,天文台は惑星研究の中心地となった。ローウェルは,フラグスタッフの地を見つけるまえに,日本に天文台を作ろうと候補地をさがしていたが,日本のシーイングの悪さが原因で断念した。
 ローウェル天文台の口径24インチ(61センチメートル)の屈折望遠鏡を「クラーク望遠鏡」という。この望遠鏡は世界で最も歴史のある望遠鏡のひとつである。1895年ローウェルはマサチューセッツ州ケンブリッジポートのアルヴァン・クラーク&サンズに最先端の24インチ屈折望遠鏡の建設を依頼し,1896年に20,000ドルの費用をかけて製造され,アリゾナ州まで列車で運ばれた。ローウェルはこの望遠鏡を使って火星の知的生命に関する理論を進め世界的な注目を集めた。
 しかし,ローウェルの最大の業績は,最晩年の1916年に9番目の「惑星X」の存在を計算により予想した事である。実際,1930年にその予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーにより「冥王星」と名づけられる「惑星X」が発見された。今,ローウェルは24インチ屈折望遠鏡のドームの脇の廟に眠っている。

 火星は今でこそ探査機が訪れ,詳しく研究される時代だが,そうしたことができなかったその昔,この惑星は興味津々の対象であった。火星に運河が存在する,そしてまた,火星人がいるということが信じられたことがあった。
 ローウェルの生きた19世紀後半から20世紀前半,火星には運河が存在すると信じられていた。「運河」とされたのは初期の低解像度の天体望遠鏡によって眼視によって観測された火星の赤道付近の地域にある網目状の長い直線であった。「運河」は,1877年イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリ(Giovanni Virginio Schiaparelli)がミラノ天文台の口径22センチメートルの屈折望遠鏡での観測ではじめて記述された。スキアパレッリは火星にあるこうした線を「溝」(canali)とよんだのだが,これが「運河」(canals)と英訳(誤訳?)されてしまったのだ。ローウェルはその影響を受けて,運河は火星の知的文明によって灌漑のために開削されたというスキアパレッリよりもさらに踏み込んだ考えをもち,火星人の存在を唱え「Mars」など火星に関する著書を書いた。しかし,スキアパレッリ自身は,ローウェルのスケッチの細部はほとんどが想像上のものと考えていた。
 また,運河の存在が転じて,火星人の存在が話題となっていって,イギリスのSF作家ハーバート・ジョージ・ウェルズ(Herbert George Wells)が1897年に発表した小説「宇宙戦争」(The War of the Worlds)に登場したタコのような火星人のイメージが世間に定着した。
 ローウェルの死後のことだが,1938年ハロウィーンの特別番組としてアメリカのラジオ局が「マーキュリー放送劇場」(The Mercury Theatre on the Air)を放送した。ウェルズの「宇宙戦争」に基づいたものだったが,この番組は,音楽中継の途中に突如として臨時ニュースとして火星人の侵略が報じられるという体裁になっていて,物語の舞台がアメリカに実在する地名に改変されていた。この生放送は多くの聴取者を恐怖させ,実際の火星人侵略が進行中であると信じさせたのは有名な逸話である。
 また,クラーク望遠鏡で行われた観測に基づくローウェルの著作は,ロケットの専門家ロバート・ゴダードやSF作家のH・G・ウェルズにも影響を与えた。

 後年,24インチ屈折望遠鏡は惑星や月,彗星などの研究に利用され,V・M・スリッファーは24インチ屈折望遠鏡を分光器と組み合わせて使用して,宇宙の膨張に関する革命を起こした。
 また,1960年代,アメリカの月への有人飛行を支援するために,24インチ屈折望遠鏡を使用して月の詳細な地図が作成した。アポロ宇宙飛行士はこれらの地図を研究し,月に行くための訓練の一部としてクラーク望遠鏡を使用した。
 1980年代になると,24インチ屈折望遠鏡の主な用途は教育利用に変わった。それ以来,200万人以上の一般の人が昼間に行われるツアーに参加したり,夜間の天体観測に訪れるようになった。2014年から2015年にかけて,120年前に作られたクラーク望遠鏡は修復され,すべてのナットとボルトが洗浄され大規模な修復を受けたほか,内側と外側に新たに塗装が施され,今日の姿がある。

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●ローウェルが設立した天文台●
 「化石の森国立公園」から戻って,次にローウェル天文台に向かうことになった。これをもって,念願のフラグスタッへ来て,観光1日目にして,私はここに来た目的のすべてを達成することになる。
 旅慣れてくると,こうした要領がよくなってくるのだが,それはそれで,次第にときめきもなくなる。何も知らなかったころは驚きの連続で,どこまでもまっすぐに続く道を走るだけでも感動したものだが,それもあたりまえになってしまった。このごろは,アメリカを旅行しても,数日間東京に行ってきたのと違いがないみたいになってきた。帰国した後で,本当に行ってきたのかという実感すら乏しくなってきたのが,さびしい限りである。

 インターステイツ40を西に走ってフラグスタッフまで戻ってくると,オールドルート66という茶色の道路標示があったので,そのジャンクションでインターステイツを降りた。
 アメリカでは,観光名所の案内標示はすべて茶色で統一されているからわかりやすい。フラグスタッフの町はメインロードがオールドルート66が走っていたところなのだ。
 オールドルート66はダウンタウンを西に進んでいくと突き当りを左折していくが,その交差点を左折せず直進すると狭い道になって,そのまままっすぐに進んで行くと坂道になる。その坂を登っていくとその先にあるのがローウェル天文台である。ローウェル天文台のシンボルである口径24インチ屈折望遠鏡の収められた白いドームは坂の下からも見ることができる。
 ここに来るまで不安だったのが,果たしてローウェル天文台は自由に見学することができるのだろうか? 念願だったクラウド・トンボーが冥王星を発見したという望遠鏡は見ることができるのだろうか? ということであった。ネットで事前に調べた限りでは,朝から夜まで終日一般に公開されているらしいのだが…。

 ローウェル天文台(Lowell Observatory)は,1894年パーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)が私財を投入して設立した天文台である。現在はローウェル天文台財団(Lowell Observatory Foundation)が運営している。歴史的に有名なローウェルが使用した口径24インチ(61センチメートル)の屈折望遠鏡と,クライド・ウィリアム・トンボー(Clyde William Tombaugh)が冥王星の発見に使用した口径13インチ(32.5センチメートル)の天体写真儀があり,ともに一般を対象として公開されている。
 私は,トンボーが冥王星を発見した天体写真儀をこの目で見たくて,この天文台に足を運んだわけであるが,むしろ一般に有名なのは,ローウェルが火星を観測したほうの24インチ屈折望遠鏡で,こちらの望遠鏡のほうがさまざまな本に紹介されている。日本人がこの天文台に行ってブログなどに載せている望遠鏡もほとんどがそちらのほうである。この後で詳しく書くが,私が実際に参加した天文台のガイドツアーも,ローウェルの使用したほうの望遠鏡がメインだし,予備知識がないと,トンボーが使ったほうの13インチ天体写真儀はうっかり見逃してしまうかもしれないから,わざわざこの地を訪れて,ローウェルの使った望遠鏡だけを見学してきた人も少なくないと思われる。

 ローレル天文台に行く坂道の途中に展望台があって,そこからフラグスタッフの町を一望することができた。さらに進んでいくと天文台の門があって,それを過ぎると,その先に広い駐車場があった。結構多くの車が停まっていたが,スペースを見つけて車を停めた。天文台の入口まで歩いていって中に入った。
 扉を開けるとそこに受付があった。見学料を払うと,この日に行われているイベントにすべて参加できるということであったので,さっそく料金を払った。ちょうどガイドツアーがちょうどはじまったところで,受付のとなりの小部屋でレクチャーをしていたので,私も参加した。参加者は十数人といったところだった。レクチャーではビデオを見ながら天文台の説明をしていた。私はものすごく興味があったからとても楽しく聞き入っていた。やがてレクチャーが終わると,いよいよウォーキングツアーがはじまった。

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●ここは「石化の森」だった。●
 何の知識も持たずこの国立公園にやって来た私は,ここは動物の「化石」(fossil)がいっぱい出てくる「森」深い場所だと名前から想像していたが,実際は,動物の化石も出るがそれよりも木の化石がごろごろと横たわる悠久の大地であった。
 調べてみると,この国立公園の名前は「Petrified Forest National Park」 なのだった。「petrified」というのは「化石」ではなく「石化」。つまり,この国立公園の名前は「化石の森国立公園」ではなく「石化した森の国立公園」なのだ。そもそも「化石の森」などという和訳(誤訳?)がいけない。「化石の森」と「石化した森」ではずいぶんとイメージがちがうではないか。私は「化石の森」には興味を抱かないが「石化した森」なら行ってみたいと思うが,それは私だけだろうか?

 私は,ここに来るまで「化石」なぞほとんど興味がなかったから,帰ってからさらに調べてみることにした。が,調べるうちにだんだんと謎が深まってきた。
 そもそも「石」とは何だろう? 考えてみれば「植物の死骸」と「石」の明確な相違さえ知らないではないか。いったい,生物の死骸」と「石」の明確な区別とはなんだろう? などという,これまでは当たり前のように思ってきたことすらわからなくなってきた。
 暇になった私はこのごろ学問に飢えてきたが,若いころにこうしたこだわりをもって勉強していたら,まったく別の人生になっていたかもしれない。何事も調べれば調べるほど興味が増して,謎が深まってくる。
 私が痛切に感じるのは,専門用語におかしな日本語を当てはめるから余計にわからなくなるということだ。原語のまま教えたほうがずっと役に立つ。こんなことをしているから,学生が原書を読むのにも苦労するのだ。
 学生のころ,地学で「デボン紀」やら「ベルム紀」などはカタカナなのに「三畳紀」「白亜紀」などが漢字なのかが気になって,好きになれなかった。なにかうさん臭いのである。「デボン紀」(Devonian),「ぺルム紀」(Permian),「ジュラ紀」(Jurassic),「石炭紀」(Carbon-iferous),「三畳紀」(triassic),「白亜紀」(Cretaceous)である。
 それは,天文学でも「dwarf planet」(「小人惑星」の意)を「準惑星」などという紛らわしい名前にしているのも同様である。
 余談だが,世界史でも「捕囚」(Captivity),「三位一体」(Trinity),「寄進」(Donation),「黒太子」(Black Prince),「未回収」(Irredentism)のように,日本語にされてもなんのこっちゃというものが少なくない。

 さて,「化石」(fossil)というのは「地質時代に生息していた生物が死骸となって永く残っていたもの,もしくはその活動の痕跡を指す」のだそうだ。ここで,「地質時代」(geological age)というは,地球の誕生(46億年前)から有史時代以前の地質学的な手法でしか研究できない時代のことだ。遺骸が地層にとじ込められたのち,肉などの軟質部は通常化学変化により失われるが,骨や殻,歯などの固い組織の部分が鉱物に置換されて残っている。また,「化石」は生物学上の分類にしたがって「動物化石」「植物化石」などのように分類される。

 この「石化の森」は,2億2,500万年前の「三畳紀」(恐竜の繁栄した「ジュラ紀」のひとつ前)のころは緑豊かな土地だったらしい。ゆったりと流れる川には魚の先祖が泳ぎ,森にはマツやスギが繁茂していた。これらの木が,嵐などで倒れ洪水で砂と泥に埋もれた。普通はこの段階で腐敗するのだが,上流からどんどん運ばれてくる泥が丸太の上に何百メートルも堆積したために腐敗を免れた。また,当時,この近くには火山があって泥の中に大量の火山灰が含まれていたために,水の中に溶け出したケイ素(ケイ素は火山灰に含まれている)が木の細胞と反応して石英の結晶を作り出した。やがて結晶は少しずつ成長して丸太全体を包み,ついには木を石に変えてしまった。
 その後,大地は浸食され石化した木「珪化木」だけが残ったのが,現在の化石の森である。ここでは,長かった丸太はたいてい輪切りになっているが,それは大地が隆起したときの圧力や地震によってひびが入り,その割れ目に入った水が凍り膨張して割れ目を広げ,やがて自然に裂けたのだ。いずれはもっと細かく粉砕され砂に戻る運命にあるという。

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●「石化の森」にある珪化木●
 アメリカの「National Park」は「国立公園」という日本語訳になっているから,アメリカの国立公園と日本の国立公園を同じように思う人がいると思うが,これはまったく別のものである。アメリカの国立公園は例外はあるが入園料があって,ゲートを入ると,厳しい決まりがある。
 また,ビジタセンターでは公園について詳しく学べるようになっているし,レストランや売店があるのはビジターセンターだけである。当然,公園内に自動販売機などというものはないし,ゴミを捨てたり植物や動物を採るなどという行為は厳禁である。
 私は富士山は遠くから眺めるのは好きだが,登ろうと思ったことはない。それは,人だらけだということに加えて,ごみだらけだと聞いたことが理由である。入山料をとるとかとらないとかいう議論があるそうだが,入山料がないということのほうが不思議に思える。

 私は「地球の歩き方」の国立公園編に書かれてあったようにして,この南北に広がる化石の森国立公園の北のゲートから入って南に向かった。これは,北のゲートにビジターセンターがあるからというのが理由だと書かれてあったからだが,実際は南のゲートにもビジターセンターはあったし,むしろ,南から北に向かう方が一般的なコースであった。しかし,北のゲートにあるビジターセンターにだけレストランがあったので,私にはこの北からのコースを選んで,結果的によかった。まず,このレストランで朝食をとった。
 朝食後,ゲートで入園料を払ったときにもらった地図を頼りに,公園を巡った。
 この国立公園には見どころが12指定してあって,それらを順に車で走るようになっていた。多くの国立公園ではトレイルが整備されていて,車を駐車場に停めてからトレイルをずいぶんと歩くこともあるが,この国立公園にはそういうトレイルはほとんどなく,駐車場に車を停めて,景色を見たり,なんらかの施設を見学したりと,そういう場所ばかりであった。
 私は,この化石の森国立公園は,名前から,森のなかの国立公園だとばかり思っていたが,実際は,アメリカのユタ州にある多くの国立公園同様,赤茶けた大地が広がる広々としたところであった。
 化石の森国立公園の見どころは,不可思議な色をした砂丘の連なりであり,柔らかい岩が浸食された奇岩群であり,古代先住民の住居跡や岩に刻まれた象形文字-これらはこの3月に行ったオーストラリアのエアーズロックに似ていた-であった。

 では,最後に見どころを北から順にあげておこう。
 はじめにあるのが,ペインテッドデザート(Painted Desert)であった。ここには展望台があって,広がる大地を一望できる。また,1920年代のホテルを改装した博物館(Painted Desrt Inn)がある。こうした建物をきちんと修復して再現してあるところがいい。
 国立公園の周回コースはこのあとインターステイツ40を橋で越えることになるが,その前に,オールドルート66が走っていた遺構があってさびちゃけたトラックの残骸が残っていた。
 インターステイツ40を越えてさらに行くとあったのが,プエルコ先住民遺跡(Puerco Indian Ruin)であった。この遺跡は14世紀のもので,日干しレンガで作った集合住宅の跡や岩絵が残されていた。14世紀といえば日本では鎌倉時代から室町時代だが,もっと古いもののように思えた。
 そこから南へ行くと「化石の森」(次回書くが,ここは「化石の森」ではなく「石化の森」のほうがふさわしい名前だ)らしい丸太の化石がゴロゴロころがっているブルーメサ(Blue Mesa),アゲートブリッジ(Agate Bridge),クリスタルフォレスト(Crystal Forest),ロングログ(Long Logs),ジャイアントログ(Giant Logs)と続いていた。そこにあるのは,作ったかのように思われるような珪化木であった。こられらの珪化木をよく見ると,なかに水晶があったりして,とても不思議な気がした。また,アゲートブリッジというのは,小さな川をまたいで長さ12メートルの珪化木が横たわってまるで橋のようになっているところである。このブリッジ状の珪花木は,この場所国立公園に指定される以前に倒壊を心配してコンクリートで土台を作ってしまったもので,これによって自然が損ねられてしまったという悪評のあるものだ。
 最後にレインボーフォレスト博物館(Rainbow Forest Museum)があって,南のゲートに至る。
 日本のチンケな国立公園とは比べるべくもないが,アメリカの多くの広大な国立公園のなかでは素朴で小規模だった。しかし,思ったよりずっとおもしろい場所であった。石好きにはたまらないところだろう。

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 BS朝日で「迷宮グルメ異郷の駅前食堂」という番組が放送されていることを聞いて,見てみました。はじめのうちは,何じゃこの番組は? 食べ歩いている「ヒロシ」ってだれだ? と思っていたのですが,次第に引き込まれていきました。大晦日には,なんと5時間連続で再放送をやっていたので,録画してお正月に見たのですが,ロクな番組のないお正月に最高の楽しみとなりました。
  私はグルメでないので,旅先でガイドブックに載っているようなレストランに行くことはまずありません。それよりも,場末のメシやで食事をするほうがずっと楽しいのです。が,なかなか適当なお店が見つからなかったり,メニューがわからなかったりと,旅で最も苦労するのが食事です。

 このごろは,テレビで数多くの旅番組が放送されていますが,それらは玉石混交です。私が最もくだらないと思うのは,雑誌のグラビアのような名所を紹介するだけのもの。そして,出演者が無知なものです。その逆に,引き込まれるのは,旅先の空気が伝わるものであり人との交流のあるものです。
 で,「ヒロシ」さんですが,この「ヒロシ」さんというのは,昔「ヒロシです」とかいう決まりことばがブレイクしたタレントさんです。この「ヒロシ」さん,売れなくなった後,数々の職を経験し,結構はちゃめちゃな人生をおくったようですが,人生も旅もやったもん勝ち,そうした経験がこの番組で生かされています。ほとんど言葉もわからないのに,その土地の人に溶け込んでいって,興味のあるレポートをしています。
 このごろ,巷では,やたらとブランドやら高級品志向やらをブームにしたいらしいのですが,それはそのほうが儲かるからです。しかし,そんなもん,はっきり言って,楽しく生きるのに何の価値もありません。むしろ,この番組で出てくるような,庶民が本音で語っているようなところで交わって生きているほうがずっと楽しいのです。

 ということで,この番組は,私が自分ではできない,そして,なかなか行くことのできないところに出かけて,そこに住んでいる人の生活ぶりを垣間見ることができるからこそ,おもしろいのです。
 この60分番組は,東南アジアとヨーロッパの2本立てになっていて,その対比も妙です。おそらく,多くの日本人は,この2本のなかで,日本はヨーロッパのグループに入ると錯覚しているのではないかと思うのですが,実は,東南アジアの姿は日本の地方を表していて,ヨーロッパの姿は東京や大阪などの都市を表しているというブラックジョークなのだと私は深読みします。そして,日本の地方は,東南アジアよりずっと精神的に貧しく,その一方,東京や大阪などの都会は,ヨーロッパよりも,人が冷たく,見せかけだけの,いわば金メッキのようだとしか私には思えません。

☆ミミミ
無題 1月11日の早朝,ISS(国際宇宙ステーション)を動画でとらえることができました。写真では露出時間が5分ほどと長くなるので露出オーパーで写真が白くなってしまいます。かといって,ISOを小さくして絞るとISSが写らなくなります。動画の場合は,その逆に,1コマあたりの露出時間が30分の1秒になるので,ISOを大きくして露出を増やす必要があります。
 月(右下の大きな白い〇)の右上から左上方向に小さな白い点状のISSがゆっくりと飛んでいきます。画面下を動いているのは自動車のヘッドランプです。

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 「このごろ日本国内でこれまで気になっていて行く機会のなかった場所に出かける機会を作っている」と書いていますが,これから20年くらいはまだ旅ができそうなので,ゆっくりと楽しみたいと思っています。そこで,そうした旅をなるべく安価にしようと調べ出したらおもしろくなってきました。
 そこで,今日はそのお話の続きです。

 それにしても安価に旅をしようとすると,どうしてこの国はこんなに不便なのだろうかと思います。JRは高価な新幹線に乗ってくれと言わんばかりです。在来線に乗ろうとする人には,国鉄時代ほどではないにせよ,乗れるものなら乗ってみろと,まるでいじめているかのようなダイヤを組んでいることもあります。
 JRが国鉄という組織だったころ,終着駅に着くとその先の列車が1分前に出発していて,次が1時間後,などというのはざらでした。これこそ,乗れるものなら乗ってみろという意思がありありでした。しかし,そういうダイヤ編成だから乗りたくても乗れないのに,ほとんど人が乗っていないようなところをがらがらの6両編成の列車が走っていたりしていました。
 JRになって効率化が図られてからは,乗客の少ないところは編成が減ったり,あるいは,長距離の路線が減ったりということが起きました。さらに,新幹線が走る区間では在来線が廃止されたりと,逆に不便になりました。テレビ番組の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」という番組では,バスがないので結局歩く旅になってしまうのですが,新幹線でなく在来線で旅をしようと思ってもまた,その接続に悩みます。
 しかし,時間はあれど金がないという老人にとって,あるいは,私のように,新幹線で旅をしても楽しくないと思っている旅人にとって,これは醜い仕打ちです。こうなったら意地でも新幹線なぞ乗るものか,という気持ちがますます強くなってきました。

 私は,国内で,ぜひ行ってみたいと思うようなところはほとんどありません。以前書いたように,少し前には,行きたかったところは,佐渡島でトキが見たい,徳島で阿波踊りが見たい,それだけでした。
 しかし,このごろ「これまで気になっていて行く機会のなかった場所」に行こうと計画するようになってからは,行ってみようという場所が増えてきました。とりあえず,今,行ってみようと思っているのは,高知県の四万十川付近,山形県の山寺や天童のあたり,青森県の弘前の桜,新潟県の親不知海岸,兵庫県の餘部鉄橋,鹿児島県の種子島と与論島,そして,沖縄県の石垣島です。
 そこで,これから,こうした場所にできる限り安価で行こうというわけなのです。
 しかし,容易には行く方が見つからない。そこで頭を悩ませることになったのです。で,私はどうするか? これから,そうした場所に順に出かけていくので,その旅行記をお楽しみに!

☆ミミミ
1月11日の早朝,薄雲ごしに半影月食が見られました。今日の写真は,月食が起きる前の満月と半影月食を並べたものです。
地球と月は太陽の光を反射して輝いているので,地球にも太陽の光による影があり太陽と反対の方向に伸びています。この地球の影の中を月が通過することによって、月が暗くなったり,欠けたように見えたりする現象が「月食」です。
地球の影には「本影(太陽光がほぼさえぎられた濃い影)」と「半影(本影を取り囲む薄い影)」の2種類あって,月の一部または全部が半影だけに入った状態を「半影食」,月の一部または全部が本影に入った状態を「本影食」といいます。また,「本影食」のなかで,月の一部だけが本影に入り込む現象が「部分食」,月の全てが本影に入り込む現象が「皆既食」です。

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 日本で開催される美術展はいつも混雑していて,絵画を見るというより人の頭を見るようなものなので,行くのをためらってしまいます。主催者も何とかしようと工夫していて,少し前に東京でフェルメール展をやったときには入場に時間制限があったので,快適に見ることができました。先月行ったオーストリアのウィーン美術史博物館の特別展も同様のことをしていたので,これが世界標準なのでしょうか。
 それに比べていつも最悪だと思うのは奈良の正倉院展です。時間制限もなければ,展示方法もまた悪くて人が集まると全く見ることができません。もう少し高く展示すればいいのにと思います。

 東京でやっていたコート―ルド美術館展が終わって,1月3日から名古屋で展示がはじまりました。いつ行こうかと思っていたのですが,お正月の明けた1月8日は平日,かつ,朝のうち雨だったので,これがチャンスだと行ってきました。
 開場時間の午前10時に到着すると,拍子抜けするくらい空いていました。この美術展の目玉である「フェリー・ベルジェールのバー」(Un bar aux Folies Bergère)のある部屋まで行くと,絵画は私ひとりの独占でした。
 エドゥアール・マネ(Édouard Manet)が最晩年に描いた「フェリー・ベルジェールのバー」は19世紀パリの文化を象徴するカフェ・コンセールで働くバーメイドを題材として,女性がひとりで生きる厳しさや社会における疎外感を描いた作品です。絵画の大部分を占める鏡像がおかしいと議論されますが,だから絵画であって,その味が謎を秘めているからこそ,作品に奥行きが生まれ,見る人を引き込むわけです。

 余談ですが,私は,音楽に比べて絵画に親しみはじめたのが遅いので,絵画にはあまり詳しくありません。ただし,海外旅行に出かけるたびに美術館には行くので,多くの作品と接した経験だけは負けませんが,何をどこで見たのかあまり覚えていません。記録しておくべきだったなあと後悔しています。
 その程度の知識なので,名前が似ているというだけで,ずっとマネとモネがごっちゃになっていました。今はやっと違いがわかるのですが,ここで,そのふたりの画家について,自分のために書いておくことにします。
  ・・・・・・
 エドゥアール・マネは1832年に生まれ1883年に亡くなった西洋近代絵画史の冒頭を飾る19世紀のフランスの画家です。近代化するパリの情景や人物を伝統的な絵画の約束事にとらわれずに描き出し,絵画の革新の担い手となりました。代表作は「草上の昼食」「オランピア」などがあります。印象派の画家に影響を与えたことから,印象派の指導者あるいは先駆者として位置づけられています。
 一方,クロード・モネ(Claude Monet)は1840年に生まれ1926年に亡くなった印象派を代表するフランスの画家です。代表作は「印象・日の出」(Impression, Sunrise),また,睡蓮を描いた連作で知られています。モネは典型的な印象派を代表する画家で、時間、季節とともに移りゆく光と色彩の変化を追求し続けた「光の画家」ともいわれる画家です。なお,印象派(Impressionism)ということばは,モネの「印象・日の出」から皮肉まじりに揶揄されたことからでてきたものです。当時の保守的な評論家が「あの,印象なにがしとかいうしょうもない絵画を描いている輩たちが…」というような評論をしたわけです。
 ふたりの出会いは1866年に「モネ」が出品した作品が「マネ」の作品と間違えられたのがきっかけといわれています。「マネ」は「モネ」の水の描写する卓越した能力を見抜き「水のラファエロ」と讃えました。
  ・・・・・・

 1時間以上かけて美術展を見ました。見終えて,会場の同じ階にあるレストランでゆっくりと昼食をとりました。休日だと入るのも大変なレストランですが,この日はここもまたほとんどが空席で,落ち着いた時間を過ごすことができました。
 名古屋は何もない都会ですが,それでも,平日に,美術館や東山公園,名古屋港水族館などに出かけて,見学後にゆっくりとお昼を食べ,午後は科学館でプラネタリウムを見たり図書館へ行ったり,夜はコンサートに行くというのは,人も少なくて,とても幸せな時間を過ごせます。こうした,東京や大阪では不可能な落ち着いた楽しみができる街でもあります。

☆ミミミ
 この日の早朝は,北西の空から南東の空に約5分間かけて,ISS(国際宇宙ステーション)が飛行している姿を快晴の空に美しく見ることができました。ISSは太陽の光を反射しながら地球を周回しているので,条件がよければ,結構頻繁に見ることができます。太陽の光を受けて見えはじめるところから地球の影に入って見えなくなるまでの軌跡をすべて収めたいと思っていたので,試してみました。5分間ほど露出しなければならないので,うまく写るかなと思ったのですが,きちんと収めることができました。次は動画に挑戦したいと思っています。

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 私は50年来の念願がかなって,和歌山城に行ってきました。もっと壮大なお城だと思っていただけに,かなり拍子抜けしましたが,行けてよかったです。それとともに,それまでは思っていなかった,どうして陸の孤島のような和歌山市に徳川御三家のひとつがあったのかという疑問がふつふつとわいてきました。いつもそうですが,その地に行ってみないとわからないことがたくさんあるものです。
 あとで調べてみると,私が寂れたところだなあと思った和歌山市は,実際,人口も減っていて,活気のないところのようでした。そもそも,JRの和歌山駅と南海電車の和歌山市駅がずいぶんと離れていて,しかも,その中間にある和歌山城のあたりが市の中心部であるということからして,都市の発展を妨げていますし,これといって産業の目玉もありません。これでは人が流出します。そしてまた,和歌山市から南にいったところで,さらに何もないから,通過点ともなれません。

 もともとこの地にあったのは,JR和歌山駅近くの太田城でした。そのころ,根来寺は寺領72万石,3万兵の僧兵を養い,ここを中心として「紀州惣国一揆」が起きていました。これが紀州征伐の原因となって,豊臣秀吉の水攻めにより太田城は落城しました。その後,1585年,豊臣秀吉が当時若山とよばれていた地に城を築き,豊臣秀吉の弟羽柴秀長にこの地を与え,城が完成すると地名を和歌山と改めました。
 豊臣秀長は城代として家老の桑山重晴にこの城を任せましたが,関ヶ原の戦いで徳川家康に従った桑山重晴の子桑山一晴は大和新庄へ移封となり,代わりに浅野幸長が入りました。1619年,福島正則の改易で浅野幸長が広島へ移り,和歌山城に入ったのが徳川家康の10男徳川頼宜で,これにより紀州徳川家が成立しました。
 徳川家康は,天下を統一したのち,伊達藩など東北への監視として水戸徳川家,関西方面への監視として名古屋に尾張徳川家を置きました。
 ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えたように,種子島や琉球は諸外国との接点でしたが,種子島や琉球には和歌山港から紀伊水道を南下して黒潮に乗って帆船で行き来しました。陸路では広島の毛利家や九州の島津家などの領地を通らねばならず,直接自由に行き来できるものではなかったのです。また,鉄砲の一大製造地であった根来寺は当時砂金も採れ刀など鍛冶職人が多く住み僧兵も根来寺を中心に1万人くらい住みんでいましたし,高野山などの僧兵にも目を配る必要がありました。このように,武器製造地を押さえ,僧兵を監視し,琉球などの海外との接点を独自に管理するための重要拠点として,和歌山の地は重要だったのです。

 幕末。13代の紀州藩主であった徳川慶福が徳川家茂と改名して14代将軍となると,藩主が空席となり,幕命によって,伊予西条藩の9代藩主松平賢吉が紀州徳川家の養子となり徳川茂承と名を改めて14代藩主となりました。徳川茂承は長州征伐に参戦しましたが,戊辰戦争では新政府に恭順,明治維新を迎え,版籍奉還によって和歌山藩知事となりました。

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 堺市役所から,反正天皇陵を通り,仁徳天皇陵経由して,履中天皇陵と3つの天皇陵の拝所を通り,もよりのJRの上野芝という駅まで,ずいぶん歩いてたどり着きました。お昼になったので駅の近くで食事でもと思っていたのですが,お店が何もなかったので和歌山駅まで我慢することにしました。
 阪和線というくらいだから,上野芝駅で乗れば一挙に和歌山市に行けるだろうと思い,そのまま来た電車に乗りました。ところが,電車はふたつめの鳳とかいう駅が終点で,そこで降ろされました。次に来る,前4両が関西国際空港で後ろ4両が和歌山へ行くという8両編成の電車に乗り替えるのだそうです。
 待ち時間が13分でした。この駅に何か食べるところがないかなと探すと,構内にそば屋が1軒あったのですが,わずか10分では食べるのもはばかられ,改札を出たところにコンビニがあったので,バカらしかったのですが,一旦改札を出て,コンビニでパンを買って,これを昼食とすることにしました。

 再び改札を通りホームに降り,電車が来たので乗りました。しかし,今度は,和歌山市には和歌山駅と和歌山市駅があって,その位置関係がさっぱりわかりません。そもそも,駅の名前の付け方からしてよくわかりません。名古屋に名古屋駅と名古屋市駅が,京都に京都駅と京都市駅があるようなものです。そもそも私はこれまで和歌山市にまったく関心がなかったのです。乗った電車の終点は和歌山駅で,和歌山市駅はそこからまた盲腸線のような支線に乗り換える必要があるのでした。
 で,一体,和歌山城は和歌山市のどこにあるのだろうと調べてみると,それは和歌山駅と和歌山市駅の中間あたりでした。ならば和歌山駅から歩けばいいではないかということで,終点で電車を降りてお城まで歩くことにしました。
 降り立ったJRの和歌山駅周辺は,正直言ってかなりさびれていて,想像以上に活気のないところでした。三重県の四日市市のJRの駅の周辺に似ていました。日本の地方都市というのは,どこもみなそんな感じです。栄えているのは東京だけです。日本はオリンピックなんてやっている場合じゃないんです。
 駅前通りのアーケード街は,御多分にもれずシャッター商店街で,人通りもほとんどありませんでした。なのに,景気づけなのか活気づけなのかずっと民謡のような音楽がかかっていてやかましいというか,まったく歩いていて楽しくありません。ここの商店街のお偉い人はこういう趣味なのでしょう。なんだかなさけなくなってきました。
 ずっと西に向かって大通り沿いに歩いて行ったのですが,和歌山城まではかなりの距離がありましたが,やがて,やっとお城が見えてきました。
 和歌山城は,江戸時代,徳川御三家のひとつ紀州家の居所,いわば,老舗です。だから,威厳があるだろうと思っていたのですが,天守閣はかなりの石段を上ったところにあり,私は上るのにへろへろになりました。昨年行ったオーストリアのザルツブルク城はもっと険しかったのですが,ザルツブルグ城と違うのは,和歌山城はおどろくほど閑散としていて,観光客もまばらで,しかも,ぼろっちいお城でした。お城の中の展示もなさけないほどのモノでした。ただし,「和歌山城おもてなし忍者」とかいうかわいいくノ一が数少ない観光客にいちいち声をかけては一緒に写真を撮ってくれたので,それだけはいいところだなあ,と思いました。

 ところで,私が興味があったのが,どうしてこんな辺境の地が,江戸時代には重要な場所だったのだろう,ということでした。そこで調べてみました。
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 その昔,今から50年近くまえの大河ドラマに「国盗り物語」というものがありました。司馬遼太郎作品で,主人公は斎藤道三と織田信長。この作品でかっこよかったのが,林隆三という俳優さんが演じた鉄砲の名手であり,織田信長を苦しめた雑賀孫市でした。その雑賀衆の住んでいたのが和歌山市,だったわけです。そんなわけで,戦国時代から江戸時代のはじめはここは重要な軍事拠点,鉄砲というのが戦国時代の最新兵器であって,その武器庫だったのです。それで納得しました。しかし,今となっては,特に何もないところです。これ以上のことはまた後日書くことにします。
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 お城の帰りに博物館に寄ってから,私は和歌山城を後にして和歌山市駅まで行き,南海電車の乗って大阪に戻りました。南海電車のほうは終点が和歌山市駅なのです。帰りは新今宮駅で環状線に乗り替えました。
 大阪駅に戻る途中,ひとつ前の福島駅で降りて,福島駅近くにある将棋連盟関西本部にある将棋メシの聖地「レストランイレブン」に寄って,「珍豚美人定食」なるものを食べました。この日,ちょうど対局のあった藤井聡太七段の食べた昼食のメニューが同じものだったということを,帰宅後に知りました。
 帰り,東海道線が強風で遅れが生じていたのですが,常日ごろ,うるさいくらい車内放送がかかるのに,電車の遅れやら接続する電車の情報となると全く流れないというのもまた,日本らしい現象でした。要するに,これぞ日本,どうでもいいことはくどいほどの情報を流すのに,必要な情報はいつも全く流れない,というわけなのです。
 しかしまあ,こういった,ある意味どうでもいいプチ旅行というのは悪くないものです。

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 仁徳天皇陵,履中天皇陵,反正天皇陵に行ったので,ここで,この時代の天皇について書きます。
 古代史がおもしろいのは,わからないことが多いからですが,そこで,調べれば調べるほど興味が増してきます。権力者の系譜というのは,それがどこまでが真実であるかということよりも,そうした権威をいかに神聖化するかということが組織を束ねるためのひとつの目的となっていくので,それと史実を同等にはできませんし,それは政治であり学問ではありません。

 初代神武天皇以来,2代綏靖天皇から9代開化天皇までの「欠史八代」ののちの10代崇神天皇からが実在した可能性のある天皇なのですが,その後の15代応神天皇までもその実在性は定かでありません。15代応神天皇の子が16代仁徳天皇,その子どもが17代履中天皇,18代反正天皇であり,このころからほぼ実在していたと思われます。また,今に伝わる天皇家の系図をみると,その後,25代武烈天皇と26代継体天皇に大きな隔たりがあり,26代継体天皇はその5世代前の15代応神天皇までさかのぼったその5世孫の傍系で越前国からやって来たとなっています。
 そこで,学問としての歴史は,王朝交代説を唱えるわけです。私は歴史学者でないので,それ以上のことは知りませんが,ともかく,紀元300年ごろまでになんらかの形で今の奈良県にあたる地方に有力者が生まれヤマト政権を成していて,紀元400年ころに今の大阪府にあたる河内出身の15代応神天皇あるいは16代仁徳天皇とされる有力者がそれに代わり,その正当性を主張するためにそれ以前のヤマト政権と系譜を同一にして25代まで続き,紀元500年ころにまた別の系統の今の福井県あたりからやってきた有力者がとって代わって26代継体天皇の系譜となってそれが今に続くような感じに私はみえます。
 また,後世,50代桓武天皇の母は百済系渡来人氏族和氏の出身である高野新笠です。

 当時の日本のことを伝える中国の文献は,卑弥呼で有名な「魏志」の倭人伝以降「晋書」の四夷伝に266年倭国から朝貢があった,という記述があるのち,「晋書」の安帝紀に413年倭国から安帝に貢物を献ずる,とあるまで,約150年間記述がありません。その時代を伝えるのが後世に作られた古事記と日本書紀だけであることから,この時代は「空白の4世紀」とよばれています。
 この時代の日本は古墳時代で各地に大きな古墳が大量に作られていることから,多くの有力者がその覇権を争っていたことが想像できます。そして,その覇者としての政権が誕生し,「宗書」の倭国伝にみられる「倭の五王」の時代を迎えるわけです。これが百舌鳥古墳群に葬られた天皇の時代です。
 「倭の五王」である讃,珍,済,興,武のうち,済,興,武はそれぞれ19代允恭天皇,20代安康天皇,21代雄略天皇を指しているのですが,讃は15代応神天皇か16代仁徳天皇か17代履中天皇,また,珍は16代仁徳天皇か18代反正天皇のいずれを指しているのか諸説があります。
 いずれにしても,巨大古墳が存在してるのは事実であり,そこに誰かが葬られたことも事実なので,そこにどういった史実があったのかは定かでないにしても,実際に百舌鳥古墳群を見ていると,どうしてこんな巨大なものが必要だったのか,また,そんなものが作れる権力があったのか,あるいは,作る必要があったのかなど,いろんな想像が膨らんできて,おもしろいものです。
 それにしても,その日を生きるのも大変だったのに,よくもまあ,こんな巨大なものを作ったものです。

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 昨年末ごろから,ペテルギウスが減光していることが大きく取り上げられていて,明日にでもペテルギウスが超新星爆発を起こすのではないかと期待? されています。実際,私の写した写真を見ても,ペテルギウスはずいぶんと減光しています。
 星の一生というのは人間の時間感覚とはまったく違うので,明日にでもというのは数百年とか数千年のことなのですが,いずれにしても,ペテルギウスがその生涯の99パーセント以上を終えていることは確実です。

 今から200年ほど前,南アフリカの喜望峰天文台でジョン・ハーシェルがペテルギウスを観測して,ペテルギウスが変光していることを見つけました。それから80年後,アメリカのウィルソン山天文台で,アルバート・マイケルソンが口径100インチの「ヘール望遠鏡」に干渉計を取り付けてペテルギウスの大きさを測定し,太陽の300倍と発表しました。
 そのさらに40年後,パリ天文台での観測により,ペテルギウスの直径は14億キロメートルで太陽の1,000倍あって,しかも,大きさが1億キロメートルも変化する脈動星だということがわかりました。その結果,ペテルギウスはほとんどその生涯が終わっている赤色超巨星であるとされました。
 また,ドイツのマックスブランク研究所では,チリのパラナル天文台にある3台の望遠鏡からなるVLT干渉計で干渉縞を観測した結果から,ペテルギウスは球形ではなく,なんと7億キロメートルものコブが飛び出している落花生形をしていることを突き止めましたが,これは星の中心部まで対流を起こしていることが原因とされました。また,2006年に打ち上げられた日本の天文衛星「あがり」が赤外線を使ってペテルギウスを観測し,ペテルギウスのまわりに直径3光年(30兆キロメートル)にもおよぶ範囲でガスやチリを放出していることがわかりました。
 現在,ペテルギウスはこのような姿で,その生涯を終える日を待っているわけです。

 ペテルギウスが超新星爆発を起こすと次のような姿になると予想されています。
 まず,爆発の3時間後には満月の100倍の明るさになって輝き,昼間も見えるようになります。これが3か月ほど続き,しだいに星のまわりのガスが輝くようになります。やがて,4か月もすると,温度が下がることで星の色が青色から赤色に変わり,まわりのガスが大輪の花のように広がっていきます。その4年後,ペテルギウスは肉眼で見えなくなってしまいます。そうして何百年もすると,超新星残骸として,望遠鏡で観測できるようになるのですが,オリオン座の四角形の星の並びはペテルギウスを失ってしまいます。また,冬の大三角形も存在しなくなります。
 これまでに銀河系内で起きた超新星爆発で,人類が目撃したものは7個あるのですが,そのなかで地球からもっとも近いものは1054年に爆発した現在の「かに星雲」で6,500光年,その次が1572年に爆発した「チコの星」で7,800光年です。それらと比べて,ペテルギウスはわずか642光年と,とても近いものです。
 では,超新星爆発によって放出されるガンマ線が地球に降り注ぐ心配はないのでしょうか?
 ガンマ線が降り注ぐのは,爆発を起こした星の自転軸から5度の範囲です。ハップル望遠鏡で観測したところ,さいわいペテルギウスの自転軸は地球と20度ほど傾いていて,そうした心配はないそうです。

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 まあ,ともあれ,堺駅に着きました。ところが,どちらの出口を出ればいいのかわかりません。観光案内所と書かれた標示があったので,それを目当てに行ったのですが,いっこうに観光案内所も見つかりません。探して探して,あんな標示でわかるものか,という駅の奥まった,しかも階段を降りた場所に,やっと観光案内所をみつけました。
 さあ,ここで体制立て直しです。
 観光案内所の人はとても親切でした。堺の町は思っていたよりずっときれいでした。堺東駅は堺駅からはるか1.6キロメートルほど東だったのですが,私は歩くのはまったく苦ではないので,地図をもらって歩くことにしました。20分ほど歩いて行くと,堺市役所に着きました。エレベータで21階の展望台に行きました。
 世界遺産になった百舌鳥古墳群ですが,教科書や雑誌などでよく見る写真は空から写したもので,あの姿をみることができる展望台はありません。天皇陵を仰ぎ見ることに抵抗があって,展望台を作らないのでしょうか。地上を歩いていてもこんもりとした小山が見えるだけなので,知らずに行ってもおそらくがっかりします。
 唯一高いところから見ることができるのが堺市役所21階の展望台だけということだったので,行ってみたわけです。
 エレベータで昇りました。冬休みということで,平日でしたが,子どもを連れた家族が数グループ来ていました。ボランティアの説明員もいました。しかし,正直いって,展望台といっても21階では高さが足りないので,前方後円墳の形には見えず,がっかりしました。
 それより私が興味をもったのは,どうして奈良でなく大阪にこの時代の天皇が葬られていたのかということですが,それはおそらく,この時代の国の権力者の力を大陸に見せつける必要があったからなのでしょう。今も昔も,日本は大陸,つまり中国の力に怯えて虚勢を張って生きるしかないのです。歴史を知ると,人は何も変わっていないということを実感します。

 展望台を降りて,古墳の周りを歩いてみることにしました。
 百舌鳥古墳群には多くの古墳が今も残っているのですが,なかでももっとも大きなものが仁徳天皇陵として知られている大山陵古墳です。百舌鳥古墳群で,現在天皇陵として指定されているのは,仁徳天皇陵のほかに,履中天皇陵となっている七観山古墳と,反正天皇陵となっている田出井山古墳なので,この3つの拝所に行ってみることにしました。履中天皇と反正天皇は仁徳天皇の子供です。この3つの古墳は天皇陵となっていることで宮内庁の管轄で拝所があり,学問的に古墳を発掘することに制限があるわけですが,そもそも,そうした古墳を天皇陵として特定したのが近年のことであって,それが実際その天皇の陵だったかどうか疑わしいわけです。この3つの陵にしても,特に,反正天皇陵は実際はこれとは異なっているという学説が有力です。私個人としては,本来と違うものを祀っていることの方がよほど無礼だとずっと思っているのですが…。
 いずれにしても,こうして,昔学校で習った百舌鳥古墳群を一度は見てみたいという念願がかないました。堺という町は,戦国時代の遺構はほとんど残っておらず,百舌鳥古墳群以外に大した見どころもなかったので,次の目的地・和歌山城に向かうことにしました。

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 堺という町は,大仙陵古墳と戦国時代の鉄砲で歴史的に有名なので,学生時代から50年ずっと行ってみたいと思っていたのですが,これまで行く機会がありませんでした。また,和歌山城は,徳川御三家のひとつ紀州徳川家の居城ですが,これもまた,行く機会がありませんでした。
 名古屋生まれの私には,和歌山県というのは縁遠く,大阪からほんのわずか行くだけなのに,なかなか行くことができませんでした。和歌山県に限らず,愛知県から縁遠い県というのは,群馬県や茨木県,秋田県などがあります。私は「このごろ日本国内でこれまで気になっていて行く機会のなかった場所に出かける機会を作っている」と書いたことがありますが,わざわざ行ってみようと思わない限り行くことのないそんなところに今わざわざ行かなければ一生行くこともないだろうと痛切に思うようになりました。そこで,昨年2019年12月27日,堺と和歌山城に行ってみることにしました。

 これもまた,いつも書いているように,日本は狭いようで広く,便利なようで不便で,新幹線と在来線の特急を乗り継げばどこだって行くことができるのでしょうが,どこへ行くにも結構高価です。しかし,日本国内の旅にそんなお金をかける気にもなりません。また,そんな旅行をしても楽しくないので,今回もまた,いかに安価に行けるかを考えました。車など使っても高速道路は渋滞し運転マナーも悪いので論外です。
 はじめは大阪までバスで行こうと思ったのですが,思い立ったのが数日前だったので早割チケットは完売。そうした割引がなければ在来線で行っても値段は変わらず,さらに列車のほうが時間が正確なので,始発と終電の時刻だけを調べて在来線で行くことにしました。
 当日は,早朝,始発に乗って出発しました。名古屋から和歌山というのは,いわば,オーストリアでウィーンからザルツブルグ,あるいは,フィンランドでヘルシンキからナーンタリまで日帰り旅行をするようなものなのですが,私には海外でそうした旅をするほうがずっと楽です。それは,日本では,どこも人だらけで混んでいるということ,意味のない車内の放送がうるさすぎること,そしてまた,駅の標示や電車の運行がわかりにくいことなどが理由です。さらに,目的地に着いても,日本はどこの町も同じように雑然としているだけで歩いていてもさほど楽しくないのです。
 
 ともかく,JRの東海道線で大阪までの往復チケットを窓口でクレジット払いで買って出発です。Suica は,JR東海を越えた範囲まで行くときは改札では使えないというバカげた話なので困ります。この例で最もあほらしいのが名古屋から彦根へ行くときです。JR東海とJR西日本をまたぐので Suica が改札で使えず,窓口でチケットを買う必要があるのですが,窓口に人の列ができていると最悪です。チケットを買う時間がないとホームに列車が停まっていても乗れません。
 この日は,早朝だというのに平日でもあり,通勤通学で車内は結構混んでいました。私の乗った列車は大垣止まりで,そこで今度は米原行きに乗り替えるのですが,その大垣から乗った2番目の列車は座る席すらありませんでした。それでも,米原で再び乗り換えた3番目の列車では座ることができて,予定どおりの時間に大阪駅に着きました。大阪駅からはめちゃめちゃ混んでいた地下鉄で難波まで行き,難波から南海電車に乗りました。本当は環状線で新大宮駅まで行ったほうが便利だったのですが,知りませんでした。
 南海電車なんて,これまで乗ったこともありませんでした。私が知っている南海というのは,昔大阪にあったプロ野球球団,鶴岡一人監督と野村克也捕手の南海ホークスとその本拠地であった大阪難波球場くらいのものです。
 私は,南海電車は路線がひとつしかなく,難波駅でそのまま停まっている電車に乗ればすべて堺に行けると思っていました。しかし,ホームに大きく掲示されていた路線図を見ても,私が降りようと思っている堺東という駅がないのです。路線図には堺という駅はあっても,堺東という駅がありません。後で,堺東駅は別の路線である高野線だということがわかったのですが,南海電車の難波駅に大きく掲示されていた路線図はなぜか南海線しか書かれていないのでした。そして,ずらっと並んだホームには,和歌山へ行く南海線の電車ばかりでした。しかも,いろんな種別の列車があって,南海電車では特急は別料金なのかそうでないのかとか,要するに,私の知りたい情報はどこにも書いてなくて,はじめて来た私にはとまどうことだらけでした。ここでもまた,あきらめているとはいえ,大切なことを勘違いしている日本らしい話でした。
 そもそも南海電車のマーク自体,地元の人ならともかく,知らない人にはそれが南海電車だとはわかりません。そこで,表示にそのマークが書かれていても,それが南海電車だということすらわからないのです。まあ,聞けばいいのでしょうが,堺東駅でなくても堺駅で降りてあとは歩けばいいだろうと,停まっていた電車に飛び乗りました。

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 「精神的な断捨離」についてはすでに書きました。今日は「物質的な断捨離」です。
 歳をとると,モノを買うとか,人と比べるとか,そういったことの価値感がまったくわからなくなってきました。
 買うまでは欲しかったモノでも,一旦買えばそれが家にたまるだけで使うこともあまりない,そんなモノがたくさんあります。私の興味のあるカメラでも,新しいシステムカメラを買ったところでそれを使う時間すらあまりないから,結局,使わず家にため込むだけだということが,これまでの経験で身に染みました。私も昔は欲しいモノだらけでしたが,やっとそういうモノを手に入れても,すぐに新製品が出てきて,また新しいモノが欲しくなることはいつものこと。あるいは,売れ行きがよくないと,ユーザーのことなどお構いなしに,そのメーカーが撤退して裏切られることもいつものことなのです。
 そんなことを思い出すと,結局,衝動的に買いたくなるモノで本当に必要なモノなど,ほとんどないことに気づきます。

 といいながらも,周りを見回すと,ここ何十年も使ったことのないモノやら着たことのない衣服やらがいくらでも出てきます。で,これらを断捨離しようと考えると,今度は逆に,捨ててしまったものに限って,ある日突然必要になったりすることも,また,まれではありません。捨てるときには要らないと思っても,何かの事情でそれが必要になることが少なくないのです。それは,捨てるときには必要がないと思ったモノでも,そのモノを買ったときにはそれが必要だという事情があったからで,捨てるときにはそのことを忘れているだけかもしれないからです。だから,断捨離は難しいのです。
 このごろ,終活とかいって,身の回りを整理することが流行っていたりするのですが,これは時間のムダです。いざ本当に処分しなけらばならないとなれば,お金を出して業者に頼めば,一挙に廃棄などできてしまうのです。だから,生きている貴重な時間をそんなことに費やすのは愚というものかもしれないなあと,親の遺品を整理したときしみじみそう思いました。
 お金を貯めるにはお金を使わなければいい,モノを減らすにははじめからモノを買わなければいい。これが大原則なのです。ということで,すでに買って持っているものは大切に使う,そして,衝動買いはしない。何か新たなものが必要になったときには,すぐにモノを買わずに,身の回りにあって今は必要がないと思っていたモノをまず思い出してそれで代用できないかを考えて,そのモノに活躍を場を与える。それさえ心掛ければ,少ない持ちモノでこころ静かに生きることができることでしょう。
 「精神的な断捨離」ができれば「物質的な断捨離」もできる,そしてまた,「物質的な断捨離」ができれば「精神的な断捨離」もできるわけです。

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 私はこれまで国内外,さまざまなところに出かけてみて,その結果,どういったところが一番こころ落ち着くかを知りました。それは,観光客のあまりいない,そして,自然の多い,さらには星のきれいな場所がもっとも楽しいということです。若いころ,グランドキャニオンに行ったとき,人がどんなレジャー施設を作ろうと,所詮は雄大な自然の魅力には勝てないなあ,と強く感じました。旅行をするたびに,そのことを思い出すのですが,歳をとるとそうした気持ちがますます強くなってきます。
 今はオーバーツーリズムということで,有名な場所はどこも人で一杯です。特に,日本は道路も狭く,人が多いことから,観光地に車で出かけるなどというのは最悪の選択です。時間を気にせず,ほとんど人の乗っていないローカル線に乗ったり,のんひりといなかの駅前のおそばやさんで食事をする,そんなことができるところが少なくなってきましたが,そうしたことができる旅のほうが,どれほど贅沢なことかとしみじみ思います。
 海外の場合も同様ですが,それでも,世界的に有名な観光地や大都市さえ避ければ,人の少ないところがまだ結構あるものです。ガイドブックには載っていない,テレビの旅番組でも取り上げない,ほとんどの日本人は知らないけれど,とてもよい場所がたくさんあるものです。そうしたところで,現地の人とおしゃべりを楽しんだり,カフェに入ったり,レストランでゆっくりと食事をするのは最高です。
 そうした楽しみができる場所をさがして,何の気兼ねもなく旅をしたいと思っているのです。

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 日本国内を旅行しようと計画しても,観光地はどこも混雑しているし,公共交通も混んでいるし,道路は渋滞しているし,しかも,高級旅館は高いし,そうでないところは当たり外れが大きいし,地方では未だに現金しか使えないお店が多いし,となって,私はいつも,こんなことなら外国に行ったほうがいいや,という結論になってしまうのです。考えてみれば,ずっとこんなことだから,日本国内でまだ行ったことがないという場所が決して少なくないことに思い当たりました。
 たまに日本を旅すると,電車の乗り方もよくわからず,宿泊先を探すのにもとまどってしまうくらいなのです。しかも,どこに行っても空き地はゴミだらけだし,潰れたテーマパークや廃墟となった旅館,それに,有名なところはどこも外国人観光客だらけ。これでは行く意欲も湧きません。リゾートやらオートキャンプ場やらと,名前だけは立派な施設がたくさんあっても,所詮,海外のそれとは比較にもなりません。
 しかし,いくら期待していないとはいえ,子供の頃から地名だけはよく知っている場所だから,元気なうちに一度は見ておきたいものだと,このごろ急に考えるようになったので,ならば,なるべく時間とお金をかけないで,できるだけ多くの場所に行ってみようと思うようになりました。
 そこで,今日は,時間とお金を極力かけないで,日本国内を旅する方法についてというお話です。

 はじめに考えるのは交通機関です。直接車で目的地に行くなど,日本の旅の楽しみとしてはまったく論外です。高速道路は渋滞し運転は荒く,一般道路はせまく走るのに難儀します。目的地が観光するのに公共交通では不便なところなら,しかたなく現地でレンタカーを借りればいいのです。近場なら在来線や私鉄などを利用し,少し遠くまで足を延ばすときは夜行バスが一番です。
 私は夜行バスに乗るのを苦にしません。夜行バスなら夜出発すれば翌朝到着するので,時間的にも無駄がありません。それに安いです。夜出かけて早朝に到着し,そこで1日観光して現地で1泊,翌日も1日観光して,行きと同様に夜行バスで帰ることにすれば,まる2日現地で十分に楽しむことができます。つまり,1泊4日でたっぷり2日間観光できる,ということになります。しかし,私の住む愛知県からこうして行くことができる場所は,四国や中国地方,北陸地方,そして,東京近郊で,東北地方となると,まず,東京へ行く必要があります。すべて東京中心,これが日本のだめなところです。また,九州はバスではちょっと遠すぎます。
 とはいえ,ビジネスで使うならともかく,観光で使う交通手段として最も意味がないと思うのは新幹線です。先に書いたように,日本の東京を中心とする交通網では,名古屋から東北に行こうとすれば,ともかく東京へ行かなくてはなりません。東北にバスで行こうとしても,まず,東京へ行かねばならず,これではものすごく手間がかかります。新幹線を使えば,東海道新幹線と東北新幹線や山形新幹線,秋田新幹線と乗り継ぐ必要があるのですが,これがまたものすごく高価であり,かつ,夜行でないのでお昼間に時間がかかります。むしろ,名古屋から直接格安航空を利用したほうがずっと早く,しかも新幹線の半額ほどと安価なのです。
 そうしたわけで,日本国内の移動は,在来線と夜行バス,そして,格安航空,これが交通手段の選択肢となります。

 私は,宿泊地として,大きなホテルや旅館は苦手です。大広間でずらっとならんで朝食のバイキングなどというのはできればご遠慮申し上げたいものですし,たかが国内旅行をするのに,何万円も出す気にもなりません。日本の旅館は,素泊まりなら安いのに,温泉と夕食をつけただけで5倍以上に宿泊代が跳ね上がるというのは,トッピングをすると急に高価になるメシやと同じ商法です。ならば,素泊まりにして現地で日帰り温泉を探し,食事も外で食べたほうがずっと安価に済みますし,むしろ,このほうが現地の人と交流できて楽しいものです。
 そこで,地方の都市で1泊するなら東横イン,ここは朝食が混雑するのが難点ですが,それ以外は無駄がなく安価なので満足できます。そして,田舎であれば,小さな家族経営の民宿のような宿をさがして,そこでゆっくりと滞在するのが最高です。そうしたところだと,うまくいけば,ずいぶんと安価においしい食事つきで宿泊することもできます。しかし,これは当たり外れが多いので,行ってみるまでわかりません。まあ,これこそが行き当たりばったりの旅の醍醐味であると思えば,それなりに楽しいものです。
 今年は,海外に出かける合間に,そんな旅もしてみたいものだと思っているのです。
 それにしても,近年は,京都に奈良,高山,伊勢などの観光地は,どこもかもテーマパークのように改造されてしまい,これでは,まったく旅情もなにもあったものではありません。日本の観光地はどこもディズニーランドです。これこそ,おもてなしというオブラートにつつまれた,本音は金儲けが目的なだけで歴史や文化をリスペクトしていない日本らしい姿ですが,このような場所は「自撮り棒をもって黒いレンズの入ったサングラスをかけやたらと声のでかい」某大国の団体さんにお任せするとして,私は,そうしたこととは無縁の場所を求めるのです。

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Happy New Year 2020
◇◇◇

 新しい年になりました。
 2019年は,なかなか楽しい年でした。それとともに,いろんな人と不思議な関わりのたくさんあった年でもありました。海外では,新たにまたいろんなところへ出かけて,さまざまなことを経験しました。国内も,長年行きたかったのに行く機会がかなったところに数多く行くことができました。1年前は「人恋しい病」にかかっていたのですが,それも全快し,それとともに新たな境地になったりと,精神的にとても落ち着いた年になりました。さらに,世界の歴史を調べたり,いろんな国の言葉を覚えたりと,そうした時間がもてるようになってきました。それとともに,海外に出かけても,より深くその国の文化がわかるようになってきました。
 常日頃,水が流れるように毎日を過ごそうと心がけけているのですが,そんな心がけをしなくても,自然に毎日を過ごせるようになってきました。それはまさに「精神的な断捨離」がうまくいったからでしょう。

 さて,この新しい年。今年もまた,いろんな新しい計画を立てて,実際にそれを実現したいものだと思っています。そしてまた,私は,これまで以上に精神的に楽しい年になったらいいなあ,と思っています。それは,美しい音楽を聴いたり,静かな場所でゆったりと本を読んだり,おいしいものを食べたり,気持ちのよい場所に出かけたりといった時間が過ごせたらいいなあ,ということです。
 人がこれまでに築いてきた文化や芸術は本当に奥が深く,知れば知るほどおもしろくなってきます。そうした楽しみを少しでも多く味わいたいものです。人は結局,物質ではなく精神的な幸福を求めて生きているのです。

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