私はホノルルのあるオアフ島は,これまで,次の日の帰国便が早く当日で乗り継ぎができなかったので,仕方なく空港近くのモーテルで1泊しただけなのでよく知りませんが,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島などでは,宿泊できるのはほとんどがコンドミニアムです。それでも,ハワイ島やマウイ島ならホテルや民宿も探せばあります。いずれにしても,私のようなひとり旅にはハワイは個人で旅するにはきわめて不向きなところです。しかも,モロカイ島には泊まれるところ自体3か所くらいしかなく,選択肢も限られていました。私の選んだのはそのうちで最もカウナカカイの町に近いコンドミニアムでした。これまでコンドミニアムはカウアイ島で宿泊したことがあるので戸惑いませんでしたが,私ひとりには広すぎる場所です。
・・
到着は午後4時だったので,チェックインにはまだ早いかな,と思いました。とりあえず駐車場に車を停めて,オフィスを探しました。やっと見つけて中に入ってチェックインをしようとすると,オフィスを施錠して帰るところだったスタッフに,チェックインの時間は午後4時までで,もうその時間より遅いのでレイトチェックインのボックスに書類を入れておいたからそれを見るようにと言われました。こういう不愛想さが日本にはないところで,海外ではそういった対応がふつうだということを知らない,甘やかされた日本人には想像ができないことでしょう。
しかし,オフィスの裏にあると言われたレイトチェックインのボックスというのが,なかなか見つかりません。うろうろし,やっと探し出しました。しかし,ボックスに手を入れてみても何もありません。戸惑っていると,先ほど対応した帰りがけのスタッフが来て,何やってるんだ,と怒ったように言いました。もう一度ボックスを探すと,たしかに箱の端っこにくっつくようにして書類が入っていました。開けてみると,中には,部屋の番号とキーボックスをアンロックするナンバーキーの番号と,宿泊の注意事項の書かれた紙と,駐車許可証が入っていました。これだけでした。今にして思うに,もしもう少し到着が遅く,応対した不愛想なスタッフが帰ってしまっていたら,私は,ここで部屋すら見つけられず,いったいどうなっていたことでしょう。ある意味幸運でした。
数々ある棟のなかで一番端の棟で,部屋はその棟の2階でした。階段を上がると入口にナンバーキーのついたキーボックスがありました。指定の番号を押すとボックスが開き,中からルームキーが出てきました。これで宿泊は確保できました。さっそく部屋に入りました。
部屋からは南に海岸が開けていて,窓からは美しい海が見えました。その海の向こうに見えるのはラナイ島,海にはくじらが泳ぎ,時折,潮を吹いたり,ジャンプをするのが見えました。ひろい庭にはバーベキューコーナーもあって,写真で見る限りは別天地に思えることでしょう。
確かに別天地ではあるのですが,ハワイのコンドミニアムで庶民が宿泊できるような -それでも1泊するだけで2万円ほど,しかも,ベッドメイキングも何もなく,帰るときにさらに別途クリーニング代として1万円以上かかるのですが- ところの多くは,高級品としての商品価値のなくなったかなり老朽化したものです。マウイ島などには最新の豪華なコンドミニアムがたくさん建っているのですが,そうしたところに宿泊しようとすると1泊20万円ほどもします。アメリカはこうした格差社会なのです。本当の豪華なハワイなんて,庶民には手が出ない… これが,日本人の95パーセントが行ってハワイと勘違いをしてるワイキキビーチのような「ハワイという名のテーマパーク」ではない,本当のハワイの姿なのです。
部屋も見つかったことだし,荷物を部屋に入れて,さっそく出かけることにしました。このコンドミニアムには美容室とランドリーと自動販売機はあれど,売店のひとつもなく,いったい今晩はどこで食事をすることができるのか,それを見つけるのが,まずは課題でした。
February 2020
特別編・2020春アメリカ旅行LIVE③-ハワイ州モロカイ島
今回の旅もまた期待以上でしたが,たったひとつだけ失敗しました。それは,この時期はシーズンオフだと思っていたのが,天皇誕生日の連休だったということです。今回もまた,アップグレードしてファーストクラスで往復しようと思っていたのに,アップグレード代が昨年の倍ほど高く,どうしてかなあと思ってやっと気づきました。ファーストクラスで贅沢に往復の夢は断念せざるをえませんでした。
実は,この旅のフライトを予約したのは1年ほど前のことで,私はそのとき2月23日が天皇誕生日で24日が振り替え休日だということを知らなかったのです。だから,金曜日だけ休めば,木曜日の夜の便で出発して月曜日に帰るという3泊5日のハワイ旅行は暇な私でなくても可能なのでした。
そんなわけで,機内にはやたらと子供連れが多く,これだけは当てがはずれましたが,まあ,いずれにしても,私の行くモロカイ島にはだれも行かないから,到着してしまえば関係なかったのですけれど…。
眼下に見えたモロカイ島は赤茶けていて,思ったよりも広い島だということとそれほどきれいなところでないなあというのが第一印象でした。機内放送ではソフトドリンクのサービスがあるということだったのに,そんなもの配られる余裕もなく着陸してしまいました。
4年前,はじめてのハワイでホノルルに降りたとき,ぼっちい空港だなあと思ったのですが,トランジットでハワイ島の空港に降りたときは,,その素朴さに感動しました。今回のモロカイ島の空港は,ハワイ島の空港の比ではないほどの素朴感にあふれていました。日本の田舎の駅よりもさらに素朴な木造平屋建てでした。空港内にレンタカー会社のカウンタの残骸はあったのですが,用があれば外に出たところにオフィスがあるから直接そこへという張り紙があって閉鎖されていました。
そこで,荷物を転がして空港の建物の外に出ました。気持ちのよい気候でした。この空港の様子はアラスカのフェアバンクスの空港やオーストラリアのエアーズロックの空港と少し感じが似ていましたが,それ以上に田舎でした。空港のだだっ広い駐車場を横切って,プレハブ小屋のようなレンタカーのオフィスに行きました。
モロカイ島にはAlamoレンタカーしかなく,事前に予約をして料金も払ってありました。オフィスには係の女性がいて,さっそく書類にサインをして,車のキーを受け取りましたが,お客は私ひとりでした。この島は公共交通機関がなく,レンタカーなくしては何もできないので,海外旅行の経験が乏しい人にはかなり敷居の高い島のようです。
返すときにガソリンを満タンにする必要があるのかと聞くと,たった2日なら,燃料は半分しか使わないから,メーターが半分になったところでそのまま返せばいいと言われました。実際,島をすべてまわってレンタカーを返すとき,燃料は半分でした。予約してあったコンドミニアムまでどのくらいかかるかと聞くと20分程度ということでした。
車に乗って空港を出ました。空港から出ると,T字路になりました。そこには道路標示もなく,というか,あったかもしれないけれど,そもそも地名を覚えていないから意味がなく,はたしてどちらに行けばいいのやら…。調べればいいのですがそうしないのがいつもいい加減な私のこと,好奇心も手伝って,まあ,間違ったら戻るだけだと右折しました。
そのまま走っていっても平原が続くだけで海も町もなにもなく,すぐに海岸に到着すると思っていた私は心配になってきました。間違えたかなと思って,路肩に車を停めて,ついに iPhone のアプリで確認してみると,私が走ってきた道は大正解で,そのまま行けばいいということがわかりました。
さらに進むと,やがて,カウナカカイ(Kaunakakai)という小さな町に着きました。これまで,マウイ島やカウアイ島で小さな町というものに行ったことがあるのですが,この町はそれらとは比ではないくらい小さな町でした。しかし,この島にはカウナカカイしか町らしい町はないということでした。なんだかとてもうれしくなってきました。
予約したコンドミニアムはこの町から海岸に沿って東に少し行ったところです。それだけは調べてありました。とりあえず,カウナカカイの町を1周して,といったって1キロメートルもなかったのですが,コンドミニアムに向かいました。まもなくすると,コンドミニアムの建物が見えてきました。
特別編・2020春アメリカ旅行LIVE②-ハワイ州モロカイ島
ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport)に到着しました。毎年来ているので,もう戸惑いません。入国の手続きは,KIOSK端末までは混んでいましたが,そのあとはすんなりと何も聞かれずパスポートに滞在期限のスタンプが押されて,空港から出ました。
この空港のターミナルのターミナル1とターミナル2の建物はつながっているのですが,入国の際は一旦ターミナル2から外に出る必要があるのです。再び,建物の外を歩いてハワイアン空港のチェックインカウンターのあるターミナル1に行って,再びセキュリティを通って建物に入らないといけません。はじめて来たときにはそれがわからず苦労しました。
・・
さあ,いつものとおり,ここでほとんどの日本人はいなくなります。みなさん,空港からホテルのシャトルバスに乗って魅惑のディズニーランド,いや,ワイキキビーチに向かうのです。この日,ハワイに到着した日本人は4,904人だったということですが,そのうちのほとんど,おそらく95パーセント以上はホノルル滞在でしょう。ここから別の島にトランジットをする日本人は果たして2ケタいるのでしょうか?
私は,カリフォルニアから砂を運んだ人工のワイキキビーチにはまったく興味もなく,ホノルルはハワイという名のテーマパークだと思っています。ハワイ好きを自称する芸能人も結局はホノルルを闊歩しているわけで,それは渋谷のセンター街とそう変わりません。
さすがにモロカイ島は,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島とは違って,ハワイアン航空のリージョナル路線を運航するオハナ・バイ・ハワイアンが1日わずか3便就航しているだけでした。私は,セントレアからホノルルまではデルタ航空で,ホノルルからモロカイまではこのオハナ・バイ・ハワイアンでそれぞれ別々に予約したのですが,フライトスケジュールがしょっちゅう変更になるので,これを考慮して,ホノルルでの待ち時間を4時間とりました。そこで,今回のように順調にホノルルまで到着するとずいぶん待ち時間ができてしまうのですが,これは仕方がありません。この時間,ターミナル1に入ってから,搭乗時間までプレミアラウンジで過ごします。私は5回目にしてやっとこの空港の様子がよくわかってきたので,迷わず行くことができるようになりました。
やがて搭乗時間が近くなったのでゲートに行ったのですが,待合いのベンチにはほとんど人がいませんでした。まだ早かったのかなと思っていると,放送で名前を呼ばれました。まだ早かったというのは私の勘違いで,ほかの乗客はすでに機内にいました。
機体は ATR42-500 という42人乗りのターボプロップ双発旅客機で,乗客は80パーセントほどが埋まっていました。私の隣は空いていました。ATR というのはフランスとイタリアの航空機メーカーが合弁事業で興したものです。
離陸をすると,見慣れたオアフ島のダイヤモンドヘッドが眼下にありました。やがて海をこえると,次の島モロカイ島がすぐに見えてきました。こうして,ホノルルからわずか25分余りの飛行で,ついに,別世界のモロカイ島に到着しました。
特別編・2020春アメリカ旅行LIVE①-ハワイ州モロカイ島
去る2月20日から2月24日まで3泊5日で,ハワイ州のモロカイ島を旅しました。すでに帰国していますが,今日からしばらく,この旅の様子について書きます。
すでに何度も書きましたが,私は,アメリカ合衆国50州すべてに行くという目標を立てて旅をしていました。そこで,ハワイ州にも行く必要があったのですが,ハワイなんて! 日本人ばかりで,まったく興味もなく,行こうとも思いませんでした。そもそもハワイ,ハワイと世の人は騒ぐけれど,そんな私は,いったいハワイ州には主な島がいくつあるかすら知りませんでした。唯一惹かれていたのがハワイ島にあるマウナケア山で,その山頂には日本が世界に誇るすばる望遠鏡が鎮座ましまして,せめてそのドームを見てみたい,そして,南十字星を見てみたい,という想いから,生まれてはじめて行くハワイとして選んだのがハワイ島でした。そのときのはちゃめちゃな旅の様子は,すでに,このブログに書きました。
行ってみた結果,ホノルルのあるオアフ島以外はほとんど日本人がいないということを知ってうれしくなり,急にハワイに目覚めてしまったわけです。それ以来,マウイ島にはハレアカラ山という,これもまた星空の美しい島があることを知って,今度はマウイ島に行ったり,カウアイ島がすばらしいと多くの人に言われて,その次はカウアイ島に出かけたりと,毎年,ハワイに行くことになってしまいました。そうなると,今度はハワイの大きな島をすべて制覇しようと思うようになりました。
ハワイ諸島は8つの大きな島と小さな島々,そして環礁によって構成されています。8つの大きな島は「主要な島々」(main islands)といいますが,これらの島々は北西部から南東に順に,ニイハウ島,カウアイ島,オアフ島,モロカイ島,ラナイ島,マウイ島,カホオラウェ島,ハワイ島となります。それ以外に,北西ハワイ諸島はニホア島からクレ島まで主に9つの小さな島が連なり,その他にもモロキニ島など100以上の岩礁や小島があります。それらのなかで,実際に人が生活しているのはオアフ島,ハワイ島,マウイ島,ラナイ島,モロカイ島,カウアイ島,ニイハウ島の7島ですが,ニイハウ島はロビンソン一家の所有で,人々が自由に行き来したり居住できるのは残りの6島です。
ということで,私が目指すのは6島制覇ということになります。なお,ニイハウ島は近年,ヘリコプターツアーがあって行こうと思って行けないこともないそうですが,私は冒険家でないので,除外します。
・・
これまでに行っていないモロカイ島とラナイ島をめざして,今回行ったのはモロカイ島でした。この島のいいところはツアーがなく個人旅行をするしかない,ということで,これだけでも私にはかなり魅力的でした。ハワイ,ハワイとディズニーランドに行くみたいに出かける日本人がいないだけでも快感です。私がこのモロカイ島で果たして何を見,何をしてきたのでしょうか? では,コロナウイルスでかまびすしい日本から出国です。
今回は,遅れてばかりでまったく信用していない名鉄と人混みを避けて,車で自宅からセントレア・中部国際空港まで行きました。空港の駐車場は事前に予約をしておきましたが,がらがらでした。もう私は海外旅行も慣れっこになってしまったので,いつものように,事前にiPhoneでオンラインチェックインを済ませ,出発のわずか1時間前に荷造りをしたバッグはキャリーオンにして,航空会社のカウンタにも寄らず,さっさとセキュリティを越えて,空港では搭乗時間までラウンジで過ごしました。
モロカイ島へ行くといっても,直行便はないので,まず,オアフ島のホノルルまで行きます。ホノルルまでは「ハワイ=オアフ島」と思っているウキウキムードのほとんどの日本人と一緒なのは仕方ありません。
ホノルルまで,行きはジェット気流に乗るのでわずか6時間,四国に行くより近いのです。深夜バスで名古屋から東京へ行くようなものです。食事をしてなんとなく寝ていたら,今回も朝食が配られるのを知らないうちに着陸態勢になって,窓からカウアイ島が見えてきました。その次の島がホノルルのあるオアフ島です。機体が下降をしているときにハワイ湾に潜水艦が運航しているのが見えました。そうこうするうちに,ホノルルに着陸しました。ALOHA!
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66①
●クルーズコントロール●
予定通り,ホースシューべンドとアンティロープキャニオンを巡ることができた。これから再び2時間かけて,フラグスタッフまで戻る。
私は車には全く興味がない。動けばいいと思っている。日本のようないつも渋滞して走ることもままならないような国では車なぞに凝ったところで仕方がない。マナーも悪いから必要がない限り乗りたくない。よって,日本より海外で運転することのほうが多いくらいだ。
左ハンドルと右ハンドルの違いは大した問題ではないが,どう比較しても,海外,といってもアメリカやオーストラリア,そして,ニュージーランドくらいしか知らないが,これらの国にくらべると,日本の運転マナーが一番悪いし,道路標識やら道路整備がひどいから,海外で乗るほうがずっと楽である。日本人は車に乗ると人格が変わるというか,人の目があるときは猫を被ったように消極的なくせに,人が見ていないときや車に乗ると突然狂暴になる。制限時速などあってないようなものだし,制限時速を保って走っていると,ほとんどの場合後ろから煽ってくる。さらに,道路は狭く渋滞ばかりなのに,そこに自転車が走っていて,多くの自転車乗りはさらに傍若無人だし,こんな国で高価な車を買って自慢したり猛スピードを出して走る人の気が知れない。
しかし,アメリカやオーストラリア,ニュージーランドのような,ほとんど信号すらない道を長い間乗るには,SUVのようなそれなりの大きな車のほうが安心だからそれを借りる。走りたいだけ走れるこうした国での運転はすごく楽だが,問題はスピードを一定に保つのが簡単でないことだ。知らず知らずスピードが出てしまうので,絶えずスピードメータを見て制御するのは疲れる。そこで一定のスピードで自動走行する装置であるクルーズコントロールが役にたつ。日本でもクルーズコントロールの装備された車があるようだが,そんなものがあっても日本ではどこで使うのかと思う。しかし,海外では必需品である。ただし,道路が凍結していたりするときには決して使ってはいけない。道路の状況も考えずに加速するからである。
私は,この日,クルーズコントロールをONにして,ずっと同じ速度で走っていたが,私の後ろを,決して煽るという感じでなく,ずいぶん車間距離をとって,ずっと同じ車がついて走っていた。それはそれでいいのだが,背後の車は,フラグスタッフの市街地に入って車線が多くなり,それとともに車が増えてきたら,その車のドライバーはまるで人格が変わったかのように追い越し車線に出て,私をさっそうと抜いていった。私は,一番右の車線を,相変わらず車の流れに従ってのんびり走っていた。
そのうちに,渋滞になったが,それは自然渋滞ではない雰囲気であった。どうやら,その先の交差点で多くの車が事故に巻きこまれてしまったようだった。私を追い抜いていった車がその事故に巻き込まれたかどうかは知らないが,心配になった。そういえば,以前,オーストラリアで,私をさっそうと追い越していったトラックが市街地に入ったところでスピード違反で捕まっているのを目撃したこともある。車は安全運転が一番であると,改めて思ったことだった。
2019夏アメリカ旅行記-アンティロープキャニオン④
●ナバホ族の居留地●
アンティロープキャニオンはナバホ族(Navajo)の居留地にある。
ナバホ族はアメリカの南西部に先した「ネイティブアメリカン」で,アサバスカ諸語(Athabaskan languages=カナダおよびアメリカ合衆国に住むネイティブアメリカンの言語)を話す「ディネ」(Dene=アサバスカ語族を話す人達の自称)の一族である。また 「ナバホ」とはテワ語で「涸れ谷の耕作地」という意味である。 「ネイティブアメリカン」は,コロンブスがアメリカ大陸に到達する以前から住んでいたアメリカ先住民のことを指す。「ネイティブアメリカン」は,領土の侵略を続けたヨーロッパからの入植者と数多くの戦争を経験し,多くの犠牲者が出た。そして,敗戦後もともと住んでいた肥沃な土地を奪われ,Reservationとよばれるインディアン居留地へ隔離された。やがて,1968年に施行された「インディアン人権法」(Indian Civil Rights act)で市民権を獲得したが,今でもインディアン居留地に住んでいる「ネイティブアメリカン」がほとんどである。
ナバホ族は,アリゾナ州の北東部からニューメキシコ州にまたがるフォー・コーナーズの沙漠地帯に居留地(Reservation)を領有している。
アリゾナ州のナバホ族居留地はほとんど開拓されておらず,地平線を見渡せるほどの大地が広がっている。インディアン居留地は,いわゆるド田舎で,徒歩圏内に店はひとつもなく,車がないと生活は成り立たない。車で20分走るとコンビニがあるが閑散としていて,商品に埃が溜まっているという。コミュニティの中心街には必要最低限の店はあるが,しゃれた洋服を売っているような店はない。
また,乾燥砂漠地帯なので慢性的な水不足に悩まされている。モンスーンの季節(季節風がもたらす雨季のことで6月15日から9月30日)以外はめったに雨が降ることがない。そして厄介なのが砂嵐で,結構な頻度で発生するので,インディアン居留地では高級車を所有している人はいないという。
ナバホ族の食べ物としてあげられるのが「フライ・ブレッド」である。「フライ・ブレッド」は,小麦粉,ベーキングパウダー,水,塩をこねて薄く広げたものをキツネ色になるまで揚げたものである。外側はサクサク,中はモチっとしていて,そのままちみつをつけて食べる。それ以外には,タコスのフライ・ブレッドバージョンである「ナバホ・タコ」がある。フライ・ブレッドに,ひき肉,豆,玉ねぎ,レタス,トマトを乗せた料理である。また,羊肉を使用した「ナバホ・シチュー」は,羊肉,ハラペーニョ,ジャガイモ,玉ねぎ,にんじん,コーン等を鍋に入れて,3時間ほど煮立たせ,そこに塩で味つけする料理である。
ネイティブアメリカンで有名なキャラクター「ポカホンタス」で,彼女が身に着けているジュエリーが「ターコイズ」である。ネイティブアメリカンにとって「ターコイズ」はイメージカラーで,コミュニティの結束を固くする石として大事にされている。
「ターコイズ」は 「幸せ」「幸運」「健康」をもたらすと言われている。インディアン居留地のフリーマーケットで「ターコイズ」ジュエリーを購入すると,驚くほどの安価で購入できる。日本では2万円から3万円で売られているネックレスが25ドルほどで手に入るという。
ネイティブアメリカンのコミュニティで定期的に開催されるのが伝統舞踊の「パウワウ」(PAW WOW)で,無料でだれでも入場,見学,参加することができる。ダンスは女性と男性に分かれて,それぞれテーマに沿った衣装で踊りる。各々手作りの羽や鈴をつけた華やかな衣装を身にまとっている。
男性のダンスでは,羽をクジャクのごとくふんだんに使った華やかな衣装を身にまとって踊る「ファンシー・ダンス」が人気,一方,女性は「イーグル・ダンス」とよばれる,羽織ったブランケットをイーグルのように振り回して踊るダンスや,「ジングル・ダンス」とよばれる衣装に鈴をつけたダンスが華やかで見ごたえがある。
「ネイティブアメリカン」のコミュニティにも社会問題が存在する。それは貧困である。インディアン居留地には十分な仕事がないので,働きたくても働けない人が多い状況であり,また,貧困から派生するドラッグやアルコール中毒患者も少なくない。未だにギャング活動が活発な地域もあり,日中もカーテンを閉め切っている家がほとんどなのである。
2019夏アメリカ旅行記-アンティロープキャニオン③
●アンティロープキャニオンの集団行動●
申し訳ないが,このブログは旅のガイドではないので,アンティロープキャニオンに行く参考としてこれを読まれても,あまり意味がない。あくまで私の旅の日記である。
・・
さて何だかさっぱりわからなかったが,多くの観光客がそうしていたから決してぼったくの怪しげなツアーではないだろうと,適当にツアーチケットを購入して,言われるままに車の荷台に乗り込んだ。荷台には私を含めて10人程度が乗っていたが,私以外は同じ仲間であった。話している言葉は英語でなかったし,何語かもわからなかったから,フランス語やスペイン語やドイツ語でなかった。東洋人でもなかった。入り込めなかったので,話しかけることもなく,その意味ではとてもつまらなかった。ひとり旅ではこういうこともままあるが,よいことは,たとえ満員であっても,ひとつくらいは余裕があるので,何とかなってしまうことが少なくないということだ。
乗り込んだ車はなかかな出発しなかった。順番待ちをしているらしい。15分くらいだろうか,そのまま待機して,やっと動き出した。しかし,アンティロープキャニオンまでがまた遠かった。土の河原の上を延々と進んでいく。風でかぶっている帽子は吹き飛ばられそうだったし,揺れるし,まったくもって快適でなかった。
車の走る通路もまた秩序がなく,前を走る車の後方をなぞるわけでもなく,かなり適当であったが,すごい勢いで飛ばしていた。運転手は毎日ここを走っているのだろう。そのうち,ようやく洞窟の入口に到着した。そこには,乗ってきたのと同じような車が数多く停まっていた。
ここで車を降りた。この先は運転手のガイドに従って,集団で行動をするといわれた。
アンテロープキャニオン(Antelope Canyon)はナバホ族の土地に位置するスロットキャニオン(幅の狭い渓谷)である。アンテロープキャニオンは2つの岩層から成り,個々にアッパーアンテロープキャニオンとロウワーアンテロープキャニオンと名づけられている。
アンテロープキャニオンは,周囲の砂岩(ナバホ砂岩)の侵食によりできた何百万年にも及ぶ地層を形成していて,これは主として鉄砲水のほか,風成の侵食によってできた。特に,モンスーンの時期に降る雨水はアンテロープキャニオンの一部である谷間を流れ,より狭い通路を流れるにつれ水は加速して砂を拾いあげる。その後長い時間をかけて通路が侵食されると狭い通路は更に広くなり岩の鋭さはより滑らかにされて,岩の「流れる」ような特徴を形作る。こうして独特の岩の通路が完成された。
夏の期間,アンティロープキャニオン頭頂の開口部から直接入射する太陽光の光芒が美しく見られる。観光客はそれを見たくてこの地を訪れるのだが,私は,何の想い入れもなく,何の計画もなく,ただ気ままにやってきて,この絶景に出会うことができた。いつもながらの幸運であった。
モンスーンの時期には,思いがけず降る雨がすぐにキャニオンを水浸しにしてしまうので危険である。
キャニオン近く及び真上から降る雨が激しい鉄砲水になるのではなく,キャニオンの「上流」となる数十マイル離れた場所で降る雨が突然キャニオンへ注ぎ込んでくるのだ。1997年8月12日,ロウワー・アンテロープ・キャニオンを訪れていた11人の観光客が鉄砲水の犠牲となる事故が発生したが,その日キャニオンにはほとんど雨は降っていなかったということだった。
2019夏アメリカ旅行記-アンティロープキャニオン②
●ここは東南アジアか?●
グレンキャニオンダムは国の重要なインフラなので,ビジターセンターのセキュリティが厳しく,金属探知機,ボディチェックがあり,カメラも持ち込めないと,私の持っている古い「地球の歩き方」の国立公園編に書かれてあったが,まったくそうしたことはなく,普通のビジターセンターだった。ダムの見学ツアーがあって,その呼び出しがはじまっていたし,遠く眺めたダムには人が集まっていたが,私は参画する気もなかったので,景色だけを見て,早々に引き上げた。
再び橋を渡ってペイジの町に戻り,道路標示に従ってアンティロープキャニオンに向かった。私のイメージではずいぶんと奥深い場所にあるように思えたのだが,道路を走っていくと,その先の広場が,アンティロープキャニオン観光をする車の駐車場であった。
私はどこに行くにも適当な目的地を決めているだけで,ほとんど下調べのようなことをしない。到着してから考えるという無謀な旅行をしていることが多い。さすがに事前に現地ツアーを予約しないと難しいときだけ,VELTRAで予約をしていく。
これまでいろいろな現地ツアーに参加してわかったが,ツアーなど参加しないほうが自由度があることも多く,下調べやら考えすぎは意味のないことがほとんどである。行けば大概はなんとななるのである。このアンティロープキャニオンも,私は何の予備知識も持たず現地に着いたが,あとで「地球の歩き方」のアンティロープキャニオンを読んでみると,事前の予約が必要であるように思えてくる。また,ツアーがペイジの中心にあるパウエル博物館から出発していると書かれてあったが,私はそんなことも知らず,道路標示に従って,駐車場に行っただけであった。
多くの国立公園がそうであるように,私は,駐車場の入口にゲートがあって,そこで入場料を払うものだと思っていたが,そんなことはまるでなく,係員が空いた駐車スペースへ案内していただけだった。私もそれに従って車を停めた。
駐車場のかどにバラック小屋があって,そこでアンティロープキャニオンまで行くツアーのチケットを売っていた。混雑していたので,売り切れになると困ると思って,説明も読まず,ともかくチケットを購入することにした。
いくつかの業者があるように思えたが,一番奥のものは中国人相手のもののように思えたので,一番手前の窓口に行った。お昼のツアーは売り切れと書かれていた。そうえいえば,アンティロープキャニオンはお昼の太陽が高いときだけ谷底に光が届くのでこの時間に行くべきだとあったのを思い出した。まあ,別にそれでなくてもいいや,と思ったが,購入したチケットの時間は11時出発とあった。11時ならツアーが1時間30分かかるから,ちょうどお昼じゃないか,これでいいじゃないかと思った。ツアー料金がいくらかなんていうこともチェックしなかったが,みんな参加するからぼったくりでもないだろうとは思った。いくらか忘れたが高いなあ,とびっくりしたのは覚えている。が,ここまできて行かないという選択肢はなかった。チケットの購入はクレジットカードで行ったが,今の時代,クレジットカードの番号を手で書き写していたのにはたまげたものだった。これもまた,後で知ったことだが,ガイドブックにはクレジットカードが使えない,とあった。しかし,ちゃんと使えたのだった。
待っていると,11時発の人は車に乗ってくれ,という声がかかったので,乗り込んだ。車というのは,荷台を改造して座席をつけただけのものであった。興味がないので行ったことはないが,なんだかアメリカというより東南アジアのような感じであった。次第にわかってきたことに,アンティロープキャニオンはどうやらナバホ族が仕切っているようであった。つまり,この観光資源はナバホ族の資金であった。
2019夏アメリカ旅行記-アンティロープキャニオン①
●何だ,この巨大なダムは!●
アメリカの観光といえば,ニューヨークとかサンフランシスコとかの大都会とグランドキャニオンのような大自然であろう。私は,今から40年ほど前にそうしたところに出かけたが,当時のアメリカはどこものどかであった。
飛行機に乗るのも,セキュリティなんてあったのかなかったのかほとんど覚えがないけれど,今のように空港がごった返していることもなかった。当時,飛行機の機内は映画館のようなもので,中央に大きなスクリーンがあって,乗客がみな同じ映画を見た。帰りの機内では,配られる日本の新聞を取り合った。
しかし,アメリカの大都会のダウンタウンはどこも腐敗し,犯罪の巣窟で危険だった。古びたレンガ造りの建物や壊れた水道管から水があふれていたり,ニューヨークの地下鉄は落書きだらけだった。それでも,観光するには今のような混雑もなかったから,その日のツアーに朝申し込んで,そのまま自由の女神に登ることもできた。ワシントンDCへ行けば,ホワイトハウスに入ることもできた。「思い出は美しすぎて」という八神純子さんの歌のように,まさに,よき時代であった。
それに比べたら,今は,どこに行っても人と車だらけ。しかも,いつも書いているように「自撮り棒を持って黒色のガラスの入ったサングラスをかけて大声を出す」某国の観光客の一団がバスで大挙して観光地にやってきてお金を使いまくるという状況が世界中に見られるのだから,昔のようなのどかな海外旅行は望むべくもない。これから旅をしようと考えている若者には気の毒な限りだ。
私がこの日観光をしているのはグランドキャニオンとモニュメントバレーの間にあるレイクパウエルという場所だったから,いわば,アメリカ大自然観光の初心者コースである。だから,どこへ行っても人と車だらけであった。
はじめてアメリカの大自然を見にきたのならそれでも感動するだろうが,私は,混雑がたまらなく嫌いなので,この日に行こうと思っていたのは,まだ来たことのなかったホースシューべンドとアンティロープキャニオンだけで,それ以外の場所に行く情熱はもはやなかった。
アンティロープキャニオンは太陽の光が谷底に届くお昼間に来るのがよいということだったが,まだそれには時間が早かったのと,途中にグレンキャニオンダム(Glen Canyon Dam)があるというので,アンティロープキャニオンに行く前に寄ってみることにした。
ホースシューベンドを出て北に向かって走っていくと,ペイジ(Page)という変わった名前の町に着いた。こんな場所にこれほどの大きな町があるのは意外であった。この町はグレンキャニオンダム関係者の居住区としてできたところだという。
朝食をとっていなかったので,まず,交差点の角にあったマクドナルドに入って朝食をとった。
マクドナルドを出て,グレンキャニオンダムへ向かった。コロラド川にかかった巨大な橋を越えたところにビジターセンターがあった。ビジターセンターのなかに全面ガラス張りの窓があって,そこからグレンキャニオンダムが一望できた。
それにしても,何という巨大なダムであろうかと思った。このダムは,高さ216メートル,幅475メートルで,1956年から1964年にかけて作られた。私は日本の観光地には興味がないので行ったことがない(観光客だらけでうんざりするのは行かなくても想像できる)黒部ダム(通称「黒四」=黒部川第四発電所ダム)は,グレンキャニオンダムと同時期の1956年に着工され1963年に完成したが,高さが186メートル,幅492メートルだから,それと同規模である。アメリカ大恐慌の対策として1936年に作られたラスベガスの東にあるフーバーダム(Hoover Dam)には予想以上の土砂が含まれていてこれがレイクミードの湖底に沈殿してしまった。そこで上流につくられたのが,このグレンキャニオンダムであった。
しかし,「グランドキャニオンより美しい」と称えられたグレンキャニオン渓谷は,このダムの建設によって,地上から姿を消してしまったのだった。
やっと晴れたか!冬2020⑤-美しきたそがれとかはたれ
今日の1番目の写真は,2月11日の夕方,日没前の西の空を写したものです。この日の日没後の西の空には,地平線近くに前日東方最大離隔を迎えた水星,そして,かなり高いところに金星が輝いていました。そして,2番目の写真は,2月19日の明け方,日の出前の東の空を写したものです。日の出前の東の空には,月齢24.9の月と,火星,木星,土星が輝いていました。月のあるあたりはいて座で,写真の構図からははずれていますが,火星のさらに右にはさそり座が見えました。
この2枚の写真を合わせると,太陽系の惑星のうち,水星から土星までがすべて写っています。さすがにこの写真には写っていませんが,1番目の写真の水星と金星の間には海王星もいます。残念ながら天王星は金星よりも高い高度にあって,写真の構図からははずれています。
地球の軌道よりも外側にある外惑星とよばれる火星,木星,土星は一晩中見られるのですが,地球の軌道よりも内側にある内惑星とよばれる水星と金星は太陽からある角度以上は離れないので,深夜には見ることができません。そこで,このふたつの惑星の写真を写そうと思えば,このように,夕方あるいは明け方の空ということになります。
夕方や明け方の空は,みごとな色に変化するので,とてもきれいです。そこで,そうした空に星が輝くのを見ていると時間が経つのを忘れますが,それもわずかな時間,夕方であれば暗くなってしまうし,明け方であれば,空が白んでしまいます。
夕日が沈むのや朝日が昇るのを見にいくことに人は惹かれるのですが,実は,夕日は沈む前も沈んだ後も,しばらくは美しい空の色の変化を楽しむことができます。それに反して,朝日は,日の出前,しかも,日の出の1時間ほど前の空の変化が最も美しく,日の出を過ぎてしまうとまったく美しくなくなってしまうのです。しかし,太陽が昇る1時間ほど前の東の空は,夕焼け以上にほんとうにすばらしいものです。それだけでも美しいのに,そこに,こうして,惑星や月があると,まさに,これ以上すばらしいものがほかにあるのだろうかという気持ちにさえなります。
この写真を撮った2月19日は,この写真を撮るわずか10分前はぎっしりと雲に覆われていて,ほとんど星が見えませんでした。しかし,明け方の空というのはあっというまに雲が消えたり現れたりするのです。そこで,日常生活で,朝起きて窓を開けたとき快晴であっても,その日に日の出がみられたかどうかはわからないのです。また逆に,星を見にいって明け方まで満天の星空が輝いていても,日の出を過ぎるとすっかり曇ってしまうこともよくあるのです。
私は,これまで,いろんなところに出かけたり,星空を見てきたりしましたが,どこに行くよりも,また,深夜に満天の星空を見るよりも,家の近くであっても夕方や明け方の空の変化のほうがより美しいと,このごろ思うようになりました。
・・・・・・
誰彼 我莫問 九月 露沾乍 君待吾
誰そ彼と われをな問ひそ九月(ながつき)の 露に濡れつつ 君待つわれそ
誰だあれはと私のことを聞かないでください 月の露に濡れながら愛しい人を待っている私を
「万葉集」巻10・2240 柿本人麻呂
・・・・・・
「誰そ彼」は「黄昏(たそがれ)」。日暮れ時は精霊の跳梁(ちょうりょう)する禍々(まがまが)しい時。人の見分けがつかないので「誰そ」と問うが,男が女の名前を問うのはプロポーズの意味ももっていた。名を明かすのはそれをお受けしますということ。
・・・・・・
阿加等伎乃 加波多例等枳尓 之麻加枳乎 己枳尓之布祢乃 他都枳之良須母
暁の かはたれ時に 島蔭を 漕ぎ去し船の たづき知らずも
暁の薄明かりの時に島陰を 漕ぎ去った船がなんとも心細く思えることよ
「万葉集」巻20・4384 他田日奉得大理
・・・・・・
夜明け前は「彼は誰(かはたれ)」。夜明け前も人の顔が判別できないので「あなたは誰」と問う。そんな「かはたれ」時に出ていく防人を乗せた船を不安げに見ているという歌。
中山道を歩く-加納宿から美江寺宿まで④
樽見鉄道の美江寺駅から大垣駅に出てJRに乗り替え,岐阜駅に着きました。樽見鉄道では交通系ICカードが使えず,いつもニコニコ現金払い。30年前のよき日本を思いだします。
この日はひさしぶりに岐阜城に登ることにしていました。現在NHKの大河ドラマで明智光秀を主人公とする「麒麟がくる」を放送していて,岐阜城のふもとにある岐阜市歴史博物館では岐阜大河ドラマ館が開催されているということで,ついでに行ってみることにしました
岐阜駅からバスに乗って,岐阜城のふもとの岐阜公園で降りました。岐阜バスも交通系ICカードが使えませんでした。樽見鉄道はともかく,市内バスがこれでは観光地として岐阜を売っているのに片手落ちです。こういうことがいまひとつメジャーになりえない岐阜を彷彿とさせているのです。
岐阜公園で,まず,昼食をとってから,大河ドラマ館を見ました。平日というのに,けっこうな人が来ていました。先日行った明智城もそうでしたが,大河ドラマは10年に1度程度戦国時代が舞台となり,戦国時代となると必ず出てくるのが織田信長で,そうなるといつも岐阜がそれにあやかろうとするわけです。私は,それにあやかって来たきたわけではないのですが,奇しくもブームにのっかって旅をしているミーハーのひとりとなってしまいました。
大河ドラマ館を出て,いよいよ岐阜城です。せめて一度は歩いて登ろうと思っていたのですが,旧中山道を10キロメートル以上歩いてきたばかりで大変そうだったので,帰りだけ歩くことにして,行きはロープ-ウェイを使いました。
岐阜城は金華山の山頂にあって夜もライトアップされどこからでも見ることができて,岐阜のシンボルとなっています。しかし,江戸時代にはすでに廃城であったことから,現在の城郭は単に観光のためのパビリオンにすぎず鉄筋コンクリートで,城という形をかりた展望台の役目しかありません。
この山の上に城ができたのは,1201年(建仁元年)というから鎌倉時代ですが,二階堂行政が砦を築いたのがはじまりとされます。のちに一度廃城となりますが,やがて,15世紀の戦国時代になって,斎藤道三が守護の土岐頼芸を追放し権力を握りこの場所を居城としました。現在大河ドラマでやっているのはこのあたりの時代です。斎藤道三は城と家督を嫡子の斎藤義龍に譲り隠居するのですが,2年後に斎藤善龍に討ち取られてしまいます。しかし,斎藤義龍は急死し,子の斎藤龍興が家督を継ぎ城主となるのですが,織田信長が稲葉山城下に進攻しこの地を手に入れます。織田信長は城と町の名を「岐阜」と改めました。
織田信長の死後,関ヶ原の戦いで子の織田秀信は石田三成の挙兵に呼応し西軍につき,岐阜城に立てこもるのですが落城してしまいした。徳川家康は岐阜城を廃城し,奥平信昌に加納城を築城させ,その際に岐阜城山頂にあった天守,櫓,山中,山麓の石垣などは加納城に,焼け残った御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたといいます。それ以降,岐阜城はかえりみられなくなったわけです。
・・
1910年(明治43年)に,長良橋の廃材を活用し,木造,トタン葺きの岐阜城が再建されました。しかし,これは1943年(昭和18年)に失火のため焼失しました。やがて,1956年(昭和31年) ,鉄筋コンクリート建築で3層4階建ての復興天守が完成しました。これが現在のものです。
岐阜城のある金華山にはいくつかの登山道があります。七曲口といわれる登山道は岐阜城の大手道として使われていたもので,信長や岐阜城を訪れたルイス・フロイスなどが登った道です。この道が岐阜城への登山道の中で最もなだらかといいますが,それでも「道があまりにも険しく大変であったので風景どころではなかった」と古文書に記されています。馬背口といわれる登山道は距離が最も短いのですが,途中四つん這いになって登らなくてはならないところがあって下りは危険ということです。
そうした登山道の情報を観光案内所で聞いて,私が下山に選んだのは水の手口,通称「瞑想の小径」でした。名前に惹かれました。これは北西の尾根を通るルートで,大手道に対して裏側の道,つまり搦め手です。「瞑想の小径」とは名ばかりで,山頂からしばらくは岩場の急斜面が続いたので降りにくく後悔したのですが,ふもとに近づくにつれて次第になだらかになり,岐阜市の北部と長良川の景観が楽しめるようになりました。
山頂329メートル,登山道は約2キロメートル。一度は歩いて,と思っていた金華山も,登りではなく下りでしたが,ともかくまがりなりにも歩くことができて,1時間ほどで下山しました。こうして,今回もまた,やりたかったことがまたひとつクリアできました…ということにしておきましょう。
中山道を歩く-加納宿から美江寺宿まで③
河渡宿をすぎ,長良川を渡ると,急にのどかな田園地帯となりました。旧街道歩きはこういった場所が歩いていてもっとも楽しいところです。まるで江戸時代に歩いているような気がします。
ところで,河渡(ごうど)宿は現在の岐阜市河渡ですが,さらに西に行くと岐阜県安八郡神戸(ごうど)町があります。私は,河渡宿のあった場所が現在の神戸町のあたりだとばかり思っていましたが,どうやら読みが同じだけでまったく異なる場所のようです。
河渡は,かつては江渡,合渡,川戸,河戸,江戸とも書いたようですが,近世末期に河渡に定着しました。長良川の右岸に位置する河渡の由来は「此東なる長良川の川上岐阜の北西にてふたつにわかれて南北に流れ,当村の十町ばかり東に至りて又両川ひとつに合ひて流るゝ故,合渡と名づけし」と伝えられているようです。
神戸は,古代,税を納める集落という意味をもつ「神戸(かんべ)」に由来し, 日吉神社に税を納める集落だったカンベがいつの間にかゴウドと呼ばれるようになった,とか,日吉神社の神官の住む里「郷戸(ゴウド)」が「神戸(ゴウド)」になったとかいわれていて,どちらにしても,戦国時代の古文書にはすでに神戸の文字が出てきているようです。
前回歩いた御嶽宿からずっと関ヶ原宿までは平地が続いていて,少し前に歩いた旧東海道の鈴鹿峠と比べて,中山道のほうがずっと快適です。今は,JRの東海道線も新幹線も名神高速道路も旧東海道沿いではなく,旧中山道沿いを通っています。旧東海道は伊勢に行くためにあえて険しいほうを通ったのでしょうか,あるいは,直線距離が近いからでしょうか,いずれにしても,私が京都に行くなら中山道のほうを選びます。
歩く前は河渡宿でやめるかその次の美江寺宿まで行くか迷っていたのですが,河渡宿を過ぎると美江寺宿までもわけないように思えたので,結局,美江寺宿まで歩くことになりました。
河渡宿から4キロメートルほどで美江寺宿の入口にあたる,樽見鉄道の線路が見えてきました。
樽見鉄道はのどかなローカル線で,一度は乗ってみたいと思っていました。1956年(昭和31年)に国鉄樽見線が大垣駅と谷汲口駅間を走りはじめ2年後には美濃神海駅までが開通しました。しかし1985年(昭和59年)に廃線となることが決まり,この路線の存続を望む応援のもと,第三セクターとして「樽見鉄道」が誕生,さらに,路線は延長工事が進められ,1990年(平成元年)には樽見駅までの全線が開通しました。
大垣駅から樽見駅までの全長34.5キロメートルに19の駅があり,のどかな田畑,根尾川を見下ろす緑ゆたかな渓谷とさまざまな景色が眺められる鉄道です。
美江寺駅は踏み切りを渡って線路沿いに北にわずかに歩いたところにある無人駅で,まず電車の時刻表を見て,電車が来るまで美江寺宿を散策することにしました。幸い? 次の電車が50分後だったので,ゆったりと宿場歩きができました。
・・
美江寺(みえじ)宿は中山道55番目の宿場でした。1589年(天正17年)に豊臣秀吉の下知により問屋場が設けられたのがはじめで,江戸時代になって中山道の宿場となりました。本陣は1669年(寛文9年)に開設され,宿駅制が廃止されるまで山本家が世襲しました。美江寺という名は「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事にはじまる719年(養老3年)創建の十一面観音を本尊とした寺院です。
歌川広重の木曽海道六十九次に描かれた「みゑじ」は美江寺宿の南端から京へ1町(110メートル)ほどの場所で,描かれている川は犀川らしく,この場所から写真を撮ると,現在もその面影を感じることができます。昔から水害に悩まされた地域で,自然堤防のうえに集落が集まっていて,現在,当時の遺構は数件の家を除けば特になにもないのですが,宿場町の雰囲気は十分に残っていて,なかなか風情のあるところでした。旧街道を歩いていて幸せに感じるのは,1時間ほど旧街道を歩いたのちにこうした町に着いたときです。
美江寺宿は大垣藩預りの幕府領で,人口582人,家数136軒,本陣1軒で脇本陣はなく,旅籠が11軒ありました。
中山道を歩く-加納宿から美江寺宿まで②
きちんと保存され,道路も歩きやすいように特別に舗装され,しかも,ほとんど車が通らないので,当時の建物はなかったにせよ,昔をしのびながら旧街道の余韻に浸れた加納宿は,街道の100メートルほど北を平行に走るJR東海道線の岐阜駅を過ぎると,旧街道の北側は,金津園という,往年はソープ街としてさかえた一角が今も残っていました。今も営業をしているようですが外観はほとんど廃墟状態で,それを過ぎると宿場は終わります。
江戸時代,宿場だった場所を出ると周りは田畑で民家はなくなり,そのなかを街道だけが通っていたのでしょう。そうした場所は,現在は道幅が広がって,何の楽しみもない片側1車線の舗装された自動車道路となっているのが常です。
加納宿から次の河渡宿までも,そんな感じでした。今は道路に沿って,外見はさほど裕福でないような家々が続いていました。やがて,旧東海道はJR東海道線のガードをくぐって,西北西に長良川を目指します。県道やら国道は旧街道とは少し離れたところを通っているので完全な生活道路で,路線バスだけがその道を通っています。地図で見るとわかりにくいのですが,歩いていると,自然にこの道を通ることになります。
車がなかったころにできた道というのは,地図上では最短距離でないからくねくねと通っているように思えて,実は,勾配のすくない,あるいは川のない,自然に歩きやすい場所を通っているのです。後年,自動車道が整備されたときに,自動車道は多少の勾配は考慮されず,定規で書いたように直線に作られたので,旧街道はそれにまとわりつくようにくねくねとすすむわけです。
加納宿を出て6キロメートルほど歩くと,長良川の高い堤防が見えてきました。
江戸時代,長良川には渡しがあったので,河渡宿はその渡しの手前にあったちいさな宿場であったようです。今は,当時の建物はほとんど残っておらず,面影といえば道幅くらいのものでした。
今は当然,長良川の渡しもないので橋を越えることになりますが,橋に出るのが難儀でした。車がびゅんびゅんと行き交う堤防道路を横切って,少し遠回りをしてやっと橋の歩道にでました。そして,長良川にかかる河渡橋の歩道を歩くことになります。橋の上からは遠くに西側には伊吹山,東側には岐阜城が眺められて,雄大でした。
・・
河渡宿は中山道54番目の宿場でした。加納宿から河渡宿へは長良川を渡る必要があったので,1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまでは「河渡の渡し」を利用していました。河渡宿は長良川右岸堤下から東町,中町,西町の三町で構成されていましたが,全長はわずか三町,つまり330メートルという短さでした。
なお,町というのは尺貫法での長さの単位です。条里制においては6尺を1歩として60歩を1町と定めました。尺というのは手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さが由来です。1891年,度量衡法により1,200メートルを11町と定めたので,1町は約110メートルということになります。
「本陣は水谷治兵衛,問屋は久衛門,庄屋は水谷徳兵衛が務めていた 」と徳川幕府太平の記録にあり,河渡宿は幕府領で,人口272人,家数64軒,本陣1軒,脇本陣はなく,旅籠が24軒ありました。
中山道を歩く-加納宿から美江寺宿まで①
自宅から30分もあれば行くことができる岐阜市ですが,車で通りすぎたり,電車で乗り換えたりすることはよくあっても,町を歩いたことはほとんどありませんでした。また,ここは中山道の加納宿なのですが,それが岐阜市のどこを通っていたのかも知りませんでした。近すぎて関心もなかったのです。
このごろ,中山道が岐阜県のどこを通っていたのか,ということに興味をもって,前回は御嶽宿から伏見宿まで歩きました。また,今年は大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの場所として岐阜が脚光を浴びています。そこで,暖かかった2月12日,中山道の加納宿の西にある次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿から東に歩きはじめて加納宿まで行き,そののちに岐阜市の観光をすることにして,早朝,家を出ました。
はじめは河渡宿,もしくは美江寺宿から東に向かって歩くつもりでしたが,河渡宿のもよりの駅であるJR穂積駅から河渡宿までは結構な距離があり,その次の美江寺宿のもよりの駅である樽見鉄道の美江寺駅のほうがずっと便利であったことなどから,どちらの宿場から歩きはじめるか迷ってしまい,それなら逆にということで,岐阜駅で降りて,加納宿から出発して西へ向かい,次の河渡宿もしくはその次の美江寺宿まで歩き,どちらかたどり着いた宿場から電車でふたたび岐阜駅に戻って,そのあとで岐阜市の観光をすることにしました。
さて,加納宿です。
加納宿は,JR岐阜駅から少し南に行ったところにあって,旧中山道は,JR東海道線に平行にありました。岐阜駅から少し南東に行ったところが中心だった場所で,私は,例によって,加納宿の東の端まで行って,そこから西に向かって歩きはじめました。
当時の建物はほどんど残っていなかったのですが,道幅は当時のまま,そして,歩きやすいように街道筋だけ別の舗装がしてあって,宿場としてのなごりが感じられるような整備と保存がされていました。岐阜市にこんなところが残っているのに驚きました。
現在の岐阜市の北側は斎藤道三,そして,娘婿の織田信長の時代に栄えたのですが,その後のことを私は知りませんでした。そこで今回調べてみることにしました。
・・・・・・
鎌倉時代,美濃に土着した源氏系の氏族が荘園の現地荘官となり勢力を拡大しました。これが美濃国の土岐氏です。
土岐氏は南北朝時代には守護となり,拠点を現在の土岐市である土岐から岐阜城の南山麓の長森,そして岐阜市南部の加納のさらに南の川手に移しました。次第に守護代の斎藤氏が力をもつようになったのは「麒麟がくる」でも描かれていました。第11代土岐頼頼芸を追放したのが斎藤道三。斎藤道三は美濃国を手中にし,当時井乃口とよばれた稲葉山の山麓に城下町を形成します。斎藤道三の死後,斎藤道三の孫斎藤龍興を追いやり美濃の国を手中にした織田信長は「井乃口」を「岐阜」と改め城下町を発展させました。と,ここまでは有名な話です。
・・
織田信長が本拠地を岐阜から安土に移した後,岐阜城は嫡男の織田信忠に与えられ,さらに織田信孝,池田元助,池田輝政,豊臣秀勝,信長の孫織田秀信が城主となりましたが,1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城は落城し,徳川家康の命により廃城となりました。そして,関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は岐阜を直轄地にして幕府領として支配します。その後,岐阜は幕府領から尾張藩領となります。
一方,徳川家康は豊臣方に対しての戦略の一環として岐阜の南,加納の地に加納城の築城を命じました。これが加納藩の成立です。そして,初代の加納藩主に長女亀姫の婿である奥平信昌を入封させました。このように,現在の岐阜市は,江戸時代はJR東海道線の北側が尾張藩領,南側が加納藩だったわけです。
1602年(慶長7年)奥平信昌は隠居して,家督を三男の奥平忠政に譲りましたが,その12年後に奥平忠政は35歳で先立ち,翌年奥平信昌も死去。家督は奥平忠政の子奥平忠隆が継いだのですが,奥平忠隆も25歳で死去してしまい,奥平氏は断絶します。代わって奥平信昌の外孫である大久保忠職が入ったのですが,明石藩へ移封となり,次に松平光重が入りました。松平光重の後は子の松平光永,そして孫の松平光煕が継ぎましたが,やがて山城淀藩へ移封,代わって備中松山藩から安藤信友が入りました。ところが,安藤信友の跡を継いだ安藤信尹は無能で,家老たちは安藤信尹を幽閉しますが,この騒動が幕府に露見するところとなり,嫡男安藤信成に家督を譲って強制隠居させられました。
1756年(宝暦6年)陸奥磐城平藩へ移された安藤信成に代わって,武蔵岩槻藩主永井直陳が入ります。永井氏は幕末まで続き,最後の藩主永井尚服は戊辰戦争で岩倉具定に帰順して新政府側に与し,版籍奉還により加納藩知事となりました。
加納城には廃藩置県によって加納県となり県庁が置かれましたが,1872年(明治5年)廃城令により廃城処分となり建物は破却,城門などは売却され,今は本丸跡が公園となっていて,郭の形状と石垣だけが残っています。
・・・・・
江戸時代,加納藩では和傘の生産が盛んで,年間50万本も生産されていました。また,中山道の要衝として栄えました。中山道53番目の宿場だった加納宿は,本庄宿,高宮宿,熊谷宿,高崎宿に次ぐ大宿で,人口2,728人,家数805軒, 本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が35軒ありました。
2019夏アメリカ旅行記-奇景・ホースシューべンド④
●もっと山の奥かと思ったが…●
ホースシューベンド(Horseshoe Bend)はコロラド川が蹄鉄(horseshoe)の形に穿入蛇行している場所の名前である。この場所から眺めて,川の左手つまり南に行ったところがグランドキャニオンで,右手つまり北に行ったところがグレンキャニオンである。
ホースシューベンドはグレンキャニオンダムとパウエル湖から下流に5マイル(8.0キロメートル),グレンキャニオン国立レクリエーションエリア内のページという町からは南西に約4マイル(6.4キロメートル)行った場所に位置している。見落としは海抜4,200フィート(1,300メートル),コロラド川は海抜3,200フィート(980メートル)である。岩の形が馬の蹄鉄の形に似ていることからそうよばれている。
ホースシューベンドの展望台に行くアクセス道路の入口には駐車場こそあるが,特にビジターセンターがあるわけでもない。以前は道路際に看板すらなかったため,知る人ぞ知る秘境の地だったというので期待したが,今は,南から走ってくると,州道64にはちゃんと道路標識があるので見過ごすこともないし,駐車場は大賑わいで観光地化されてしまっていて落胆した。
有料の広場のような駐車場に車を停めて,道路とは反対の小高い山のほうに向かって歩いたが,一向に何も見えなかった。広がっているのは360度の平原だけで,このさきに目指す目的地があるのかと疑問になるほどだった。15分くらい進むと一番高いところまできて,そのはるか先に多くの人が集まっている場所があった。どうやらそこがホースシューベンドらしいのだが,周りが広すぎて遠くからではよくわからなかった。写真ではホースシューベンドだけがアップになっているから巨大に思えるし確かに巨大なのだが,それよりも平原が広すぎるのだ。私は,もっと山の中の峠のような場所だと思っていたから拍子抜けした。というより,イメージと違いすぎた。
行ったことはないから本当のことは知らないが,噂では,ケニアのマサイマラ国立公園や,エジプトのピラミッドも,写真では大自然のなかにある雄大な構図ばかりだが,その反対方向を見ると町があったり遠くにビルが立ち並んでいてがっかりするという話だ。
さらに進んでいくと,ホースシューベンドが見えてきた。
展望台があった。いろんな本には何も柵はないと書いてあったが,実際は金網の柵があった。おそらくその昔は何もなかっただろう。そのころは気を許すと崖から谷底に落ちるのも困難なことではなかっただろう。
しかし,柵があるのは展望台だけで,展望台から離れると柵はなくなり,しかも,係員もいないので,飛び込もうと駆け下りようとどうしようと本人次第であるのがまた,アメリカらしいというか。もうこれ以上は行けない! と思うような先端の限界に寝そべってポーズをとっていた中国人の女性がここにもいて,さらにその女性を写すカメラマンがいて,それをはやし立てる観光客がいたりした。
私が行ったときは見られなかったが,はるか下を流れるコロラド川に小さなボートを見かけることがあるという。それはコロラド川の半日ラフティングツアーで,そのツアーに参加すると下からホースシューベンドを見上げて眺めることができるそうだ。さらには,上空からホースシューベンドを見下ろすヘリコプターツアーもあるという。
まったく対象は違うが,昨年の春3月に行ったオーストラリアのエアーズロックを展望台から眺めるのとよく似た感じであった。
・・
多くの観光客がいたが,私が到着したころは,それでも落ち着いた雰囲気だった。しかし,そのうち,例のおなじみの「自撮り棒をもってサングラスをかけ声のでかい,そしていつも集団でやってくる」某国のツアー客が大挙して現れて,雰囲気が一変してしまったのが残念なことだった。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ⑧
高知市に戻ってきました。高知市は3年前に来て市内に宿泊もしたので様子はよくわかります。しかし,そのときは高知城に行くことができなかったので,今回は高知城にだけは行きたいと思っていました。高知城もまた宇和島城と同様「現存12天守」のひとつです。
先日東北に行ったとき,幕末,東北は奥羽越列藩同盟として武力対決をしたのが理由だと思うのですが,明治維新後にほとんどの城は取り壊されてしまいました。それに対して,四国地方には,多くの城が残っているのです。こういったことは,やはり,その地に行ってみないとよくかわりません。
高知城は立派なお城でした。1か月ほど前に和歌山城に行ったことを書きましたが,同じような規模で,また,同じように山の上に立つ城ですが,予想に反してさびれていた和歌山城とはえらい違いでした。これもまた行ってみないとわかりません。それは,城に限らず,和歌山市と高知市をともに歩いてみても同じことを感じました。同じ県庁所在地といっても,ずいぶんと様子が違うものだなあと思いました。
高知城は江戸時代に建造された天守や本丸御殿,追手門が現存しています。戦国時代以前,大高坂山城とよばれた城が築かれていた場所に,江戸時代初期,土佐藩初代藩主の山内一豊によって掛川城を模して現在の高知城が着工され,土佐藩庁が置かれました。
城内には山内一豊と妻の千代,板垣退助の銅像が立っています。
戦国時代に四国を収めていた長宗我部元親ですが,水はけが悪かったため大高坂山城を捨て,桂浜に近い浦戸に浦戸城を築きました。関ヶ原の戦いで長宗我部元親の子・盛親は西軍に与したので改易され,代わって山内一豊が土佐国一国24万2千石を与えられ,大高坂山城後に築城を開始しました。この際,真如寺の僧・在川により河中山城と改名されたのですが,度重なる水害を被ったことで第2代藩主の山内忠義は河中の表記を変更,竹林寺の僧・空鏡によって高智山城と改名,これが省略されて高知城とよばれるようになりました。
1727年(享保12年)の大火で城は追手門以外のほとんどが焼失し,現在見られる建造物の大半はこののちに再建されたものです。
私のような愛知県で育った者には,四国や九州の,いわゆる「落下傘大名」のことは実感がなかったのですが,要するに,よそ者が突然やってきてその地を収めるわけです。であれば,「地のモノ」との軋轢が生まれるのは当然なわけで,そこに多くの悲劇が生まれますが,土佐もまた同様で,私は高知城で,山内一豊が行った数々の悪業を思い出しましたが,この地から幕末多くの志士が輩出したのはその反骨からだったのかもしれません。
それはそれとし,高知城に行くこともできて,今回の四国への旅は終了。帰りのバスは午後8時10分にJR高知駅北口出発なので,それまでに夕食をとることにしました。高知市の繁華街にあるのが,日本三大がっかりのひとつはりまや橋ですが,じょうずにライトアップされていて,けっこういい雰囲気でした。せっかく高知に来たので,食事はカツオのたたきにしました。食事を終えてJR高知駅に行きまた。夜になると駅前の坂本龍馬,中岡慎太郎,武市半平太の像がライトアップされていました。
・・
こうして,今回の旅行は終わりました。
はじめて行った足摺岬と四万十川,そして宇和島市でしたが,予想以上にいいところでした。私は国内で一度は行きたいところへ行く旅をしているのですが,一度行ったらもういいや,と思う場所も少なくありません。しかし,今回行った場所はとてもいいところでした。気に入ってしまいました。また行きたいと思いました。そのときは,もっと時間をかけて,ゆっくりとまわってみたいものです。第37番札所から第39番札所もぜひ歩いてもみたいものです。
四国は遠いところだと思っていましたが,夜行バスを使えば,東京へ行くよりも安価にむだなく旅行ができ,お遍路さんがまわっていることで安価な宿泊先もたくさんあるので,楽しい旅ができるところだということがわかりました。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ⑦
宇和島城を出て,次に向かったのが天赦園(てんしゃえん)という庭園でした。宇和島藩2代藩主伊達宗利が海を埋め立てて造成した浜御殿に,第7代藩主で,100歳まで生きた伊達宗紀が1866年(慶応2年)に隠居所を造るために築庭したものです。園内には伊達家の「竹に雀」にちなんだ大名竹,豊後竹,真竹,孟宗竹など珍らしい十数種類の竹と,伊達家の姓である「藤原姓」にちなんだ大紫藤,白藤,上り藤などがあります。鬼ヶ城連峰を借景とした池泉回遊式の庭園です。
天赦園の名は,伊達政宗が詠んだ漢詩
・・・・・・
馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何
・・
馬上に少年過ぎ
世は平にして白髪多し
残躯は天の赦す所
楽しまずして是を如何せん
・・・・・・
の一節にちなみ,余生を十分に過ごしたいという思いが込められています。
天赦園から南に神田川沿いを歩くと,大村益次郎の住んだ場所,そして,川をへだててイネの住んだ場所の跡があります。
わが国近代兵制の創設者として有名な大村益次郎は1824年(文政7年)長州に生まれました。緒方洪庵の適塾で学び逸材といわれましたが郷里にもどり村医者をしていました。1853年(嘉永6年)第8代藩主伊達宗城の招きによって来藩し村田蔵六という名前で宇和島藩士として蘭学の教授,兵書,翻訳に従事し,また藩の軍制,特に軍艦の研究等にも力を尽くしました。2年半のちに藩主に従って江戸に行ったので,宇和島に住んだのはわずかな期間でした。
大村益次郎はここに住んでいたころ,シーボルトと楠本タキとの間に生まれたイネの師となっています。
NHKの大河ドラマ「花神」で中村梅之助が演じた大村益次郎と浅丘ルリ子の演じたイネとの恋物語はフィクションらしいのですが,この時代と宇和島藩のことがとてもロマンチックに描かれていました。
原作者の司馬遼太郎さんは次のように書いています。
・・・・・・
シーボルトという人がいます。あの人はオランダ人と言っていましたが実はドイツ人でした。長崎で遊妓との間に一子をもうけドイツに帰りました。おイネさんというお嬢さんでした。おイネさんは大きくなり宇和島藩に招かれました。奥方付といった境遇で遊んでいてもいいし学問をしたければしてもいいという境遇にありました。
城下に神田川原という侍屋敷があり,そこの小さな一軒に住むことになったのですが,妙齢のおイネさんひとりで住むのは不用心でした。もうひとりだれか用心棒を住まわせたほうがよいということになり,村田蔵六がいいという話になりました。女の人がひとり住むところへまだ三十手前の蔵六も一緒に住む。大丈夫かと思いますが、「村田蔵六なら大丈夫だ」といわれていたように,堅い人間でした。そういうわけでおイネさんと村田蔵六は一時期一緒に住んだことがあります。
私(司馬遼太郎)があるとき藤野先生(故人・阪大教授)の研究室で雑談していたとき,藤野先生が「村田蔵六がおイネさんと住んでいたころふたりの間に何かあったと思いますか」。私はそんな話題が出るとは思ってもみませんでした。私は自分で考えてみました。「自分だったら大丈夫かな,大丈夫ではないかな。何もなかったでしょう」と答えたのですが,藤野先生は言いました。「私はあったと思います」堅い堅い教授が実にうれしそうな顔をされていました。藤野先生も,言われた蔵六も堅い人です。何かあったかどうかもおもしろいけれど,村田蔵六を書いてみようと思ったのはそれがはじまりのようなものでした。
・・・・・・
また,「花神」には愛川欽也の演じた提灯屋の嘉蔵(のちの前原巧山)も出てきます。伊達宗城はオランダ語の専門書を翻訳しての船の設計を命じ,蒸気機関の製作を,なんと城下に住む提灯屋の嘉蔵に任せ,蒸気船を完成させるのです。
宇和島藩に住んでいた嘉蔵は当時最下層の身分の人で,唯一手先が器用なことから堤灯の張替えを生業にしていました。ある日,ひょんなことから嘉蔵に蒸気船を作れないかという依頼がきます。伊達宗城が黒船を藩独自で作ろうと藩内で人を探していたのです。嘉蔵は黒船(蒸気船)のことを話に聞いたことはあってもそれ以外のことは全く何も知りませんでした。嘉蔵は長崎に留学し苦労しながら蒸気機関に関することを必死で学び,帰藩後,試行錯誤と失敗を繰り返しながらも蒸気機関を独力で開発し,大村益次郎の支援をうけながら国内で2番目の純国産の蒸気船を完成させたのです。司馬遼太郎は「この時代に宇和島藩で蒸気機関を作ったことは現在の宇和島市で人工衛星を打上げたのに匹敵する」と評しています。
私が宇和島というところに来たのは,今から150年ほど前にこんな夢のようなことが起きていた場所に思いをはせていたからなのです。
宇和島市を出て,広見川に沿って来た道を戻り,江川崎から国道381号線を四万十川沿いに四万十町,そして,高速道路に入って,高知市に戻りました。江川崎からの四万十川は上流になるのですが,むしろ四万十市に向かう下流側よりもずっと開けていて人も車も多く素朴さは薄れ観光地化されていたので,私はむしろ下流の四万十市のほうに魅力を感じました。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ⑥
チェックアウトをして,まず,四万十市へ行き,そのあとで宇和島市へ向かうことにしました。
今回の旅では四万十市の観光をする予定はなかったのですが,まったく知らないで通り過ぎるのもと思って,市内をくるりと車でまわってみることにしました。四万十市は小さい町ですが「土佐の小京都」とよばれる町です。室町時代,応仁の乱の戦火を避けるため,関白一條教房が現在の一條神社のある場所に中村御所を構えたのがはじまりです。応仁の乱というのはよほどひどいものだったので,権力者が逃げ延びてきたのでしょう。都を懐かしんだ一條教房は京都を模した碁盤の目状の街づくりをしたのだそうです。鴨川や東山など京都に見立てた地名やゆかりの神社などが残り,「大文字の送り火」や土佐一條公家行列「藤祭り」「一條大祭」などといった京文化の名残りが今もあります。
碁盤の目状といっても,道幅がものすごくせまく,車がやっとすれ違えるほどでした。私はこうした道路を走り慣れてなれていないので信号待ちでは車を家の軒先ぎりぎりまで寄せて停めないと対向車線ができずにすれ違えないことをはじめはわからず,往生しました。日本ではAIだのキャッシュレスだのといってもそれは大都会だけのことで,東京で生活している人にはわからないことでしょうが,地方の中小都市はずっと昭和のままなのです。しかし,それがよかったりもします。
町の高台にお城を模した建物がありました。これは山内一豊の弟・康豊の居城であった中村城跡に作られた博物館ということで,狭い道を登ってみました。朝早かったことで,というかこの日はもともと休館日で博物館は閉館していましたが,高台は公園になっていて,四万十川や市街地を一望することができました。
さて,ここから宇和島市に向けて出発です。
四万十川に沿って上流に向かい,前回書いたように,江川崎まで行って左折して,宇和島市に行きました。四万十川にはところどころ沈下橋があって,それらを眺めながら進みました。高知県から愛媛県に入ると,思ったほど遠くなくやがて大きな町が見えてきました。そこが宇和島市でした。
はじめて来た町は土地勘がないので困ります。道なりに進んでいくと駅があって,駅を通り過ぎると,宇和島城がありました。海外も国内も,車で旅をしていると,町の中では車を停めるのに苦労します。ともかくどこか適当な駐車場に一旦車を停めてあたりを散策してから方針を決めます。幸い,お城の入口に市営の駐車場を見つけたので停めました。あとでわかったことに,宇和島市はどの駐車場も1時間100円でした。これくらいならいいやと,ここに駐車して2,3時間歩いて市内観光をすることにしました。宇和島市に何があるのか知りませんでしたが,私が宇和島市に来たのは,大村益次郎の足跡をさがしてその余韻に浸ることが目的でした。
まずは,宇和島城への登城です。
「現存天守」というのがあります。「現存天守」とは,日本の城の天守のうち江戸時代またはそれ以前に建設され現代まで保存されている天守のことです。現在は弘前城,松本城,丸岡城,犬山城,彦根城,姫路城,松江城,備中松山城,丸亀城,伊予松山城,宇和島城,高知城の12あって,これを「現存12天守」と総称します。このひとつの宇和島城は中世期にあった丸串城(板島城)の跡に藤堂高虎によって築かれたもので,標高74メートルの丘陵とその一帯に山頂の本丸を中心にする平山城です。明治以降は大半の建物が撤去され城郭は「城山公園」として整備されました。
宇和島城は伊達家宇和島藩の居城です。伊達といえば政宗であり,仙台です。しかし,伊達政宗の長男・秀宗は仙台藩を継がず,宇和島藩主となりました。伊達秀宗は1591年(天正19)年に伊達政宗の庶長子として生まれましたが,4歳のとき,豊臣秀吉の人質となりました。1596年(文禄5年)には秀吉の猶子となって元服しました。関ヶ原の戦いでは石田三成方の宇喜多秀家に人質に取られ,その後、徳川家康の人質となりました。
伊達政宗には秀宗の弟として忠宗が誕生しました。1611年(慶長16年)に忠宗が元服し仙台藩伊達家の後継ぎという立場が決定的となったことで,秀宗は後継者から外されてしまいました。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で秀宗は政宗と共に参戦し戦功として伊予宇和島10万石を拝領しました。こうして伊達秀宗は宇和島藩主となったのです。
宇和島藩の財政は厳しく,そのため,仙台藩からの援助が必要でした。しかし,宇和島藩が仙台藩の下に見られることを嫌い,仙台藩との関係を重く見る家老であった山家公頼を桜田元親が家族もろとも皆殺しにしてしまいました。しかも,秀宗はこの騒動を伊達政宗にも幕府にも報告しませんでした。激怒した伊達政宗は,老中の土井利勝に宇和島藩の返上を申し入れ秀宗を勘当してしまいました。土井利勝は政宗をなだめ,伊達秀宗との間を取り成しました。伊達秀宗は「長い人質生活を送らされた上に仙台藩を継ぐこともできなかった。父を恨んでいる」。それを聞いた政宗は怒るどころか伊達秀宗の思いを理解し受け止めました。以後,伊達家宇和島藩は幕末まで続きます。
幕末。宇和島藩は伊達宗城を輩出し,宇和島藩の伊達家は仙台藩の伊達家よりも家格が上となりました。この伊達宗城こそ,長州藩の村医者にすぎなかった大村益次郎を招いた藩主なのです。宇和島藩は,幕長戦争では派兵すれども参戦せず,戊辰戦争では避戦中立ひとりの殉職者も出しませんでした。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ⑤
なんとか三里沈下橋をひやひやしながら渡り終えて,さらに上流にむかって川岸の左岸を通る国道441号線を走って行きました。適当なところで引き返すことにしていましたが,四万十川はこのようにして,ずっと上流に向けて行くことができるのが次第にわかってきました。
調べてみると,四万十川は蛇行を繰り返しながら江川崎という町まで行き,そこで二股にわかれます。というよりも,上流から流れてきた四万十川が江川崎で四万十川と広見川に分かれて,四万十川が南の四万十市へ,広見川が西の宇和島市へ向かい,海にそそぐのです。
四万十川の上流は高知県の山間の谷を流れていて,川に沿って国道381号線が走り,四万十町に向かいます。そこで,明日はまず江川崎から宇和島市に行き,宇和島市から四万十町へ,ずっと四万十川の上流に沿って走ることにしました。
さて,この日は,三里沈下橋を渡ってから少し進んだところにあった「四万十の碧」と書かれた小屋の広い駐車場でUターンして戻ることにしました。車を停めて「四万十の碧」の小屋にあった看板を見ると,どうやらここで屋形船に乗ることができそうでした。四万十川で屋形船に乗れることは「ブラタモリ」でやっていたので知っていたのですが,私は屋形船に乗る予定はありませんでした。
ともかく小屋の中に入って,店員さんに船に乗れるのですか? と聞くと,乗れますよ,乗りますか? と言われました。民宿の到着時間が午後5時30分と連絡してあったのですが,今は午後3時50分。午後4時の船に乗ると乗船時間が約50分ということなので,十分に間にあいます。そこで,急遽屋形船に乗ることにしました。料金は2,00円でした。こうして,今回の無計画な旅もまた,いつものように,望外なほど順調に進んでいくのでした。
時間になったので乗船しました。客は私ひとりで最高でした。説明を聞きながら四万十川を,先に渡った佐田沈下橋あたりまで下っていって,そこでUターンをして戻るコースでした。
私の乗った屋形船には,かつて,蛭子さんや横綱千代の富士だった九重親方も乗船したそうで,写真や色紙が張ってありました。ちなみに,「ブラタモリ」でやっていたのは「なっとく」という会社のもので,それは「四万十の碧」よりもう少し上流にあります。
船から降りて,民宿に向かいました。私が予約をしたのは1泊2食つきで9,000円というものでしたが,評判通り食事が最高でした。また,部屋はバストレイつきでしたが,外風呂というのがありましたので,頼んでお湯を入れてもらいました。外風呂,つまり露天風呂は手作り感満載,寒さに震えながら熱いお湯につかるのもまたかなりの快感でした。
私は国内旅行よりも海外旅行のほうが慣れていて,これまでさまざまなタイプのところに泊ったことがありますが,そのほとんどはモーテルとよばれる安宿です。そうした気楽に泊れるところがどういうところなのか日本ではよくわかりませんでしたが,やっとどうにか慣れてきました。私は,海外でも日本でも大きなホテル,特に日本の温泉にある豪華な大きな旅館,そうしたところに宿泊するのは苦手です。多くの人がいて,温泉にも多くの人が漬かっています。それが嫌いなのです。私にとって日本では家族で経営しているような小さな旅館,あるいは民宿のほうがずっと旅情があり,気楽です。しかもお値打ちであり,食事もおいしいのです。前回岩手県の花巻市に行ったときに泊った花巻台温泉も小さな宿でしたがとてもよいところでした。それに続いて,今回もまた大当たりでした。
深夜過ぎには月も沈み空が暗くなって,明け方には窓から満天の星空が輝いていました。しかし,今の位置は天の川がないので星しか写らないのが残念でした。今度来るときは星見兼ねてもいいかなと思いました。
やがて夜が白みはじめて,朝食を終えてコーヒーを飲んでいたころには美しい日の出が見えました。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ④
ジョン万次郎資料館はとても立派な博物館でしたが,私以外に訪れていた人はひとりもいませんでした。日本の各地にはさまざまな博物館があるのですが,どこも閑散としています。ジョン万次郎資料館はNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放送されたときにリニューアルされたものですが,日本では,こうした何らかの話題性でもないと予算がつきませんが,一旦予算がつくと,あと先を考えずにけっこう立派なハコモノができるのです。しかし,数年もして熱が冷めると誰も来なくなり,手のひらを返して維持をする予算もつかなくなって老朽化していく,というのがお決まりのパターンです。これが文化や歴史をリスペクトしない,単にブームだけで人が動き回るこの国の特性であり,事なかれを旨とする役人です。
海外に行くと,かなり不便なところでも,そして平日であっても,多くの人がこうした博物館に訪れ,また,博物館で行われているレクチャーも一杯の人になります。博物館は金持ちが財団を作りそれをサポートしたり,有志の団体があったりします。日本では企業もそうしたことにあまり投資をしないし,また,余裕のある有志もあまりいません。そしてまた,日本人の旅行というのは,ブームになった場所に,さして興味もないのにツアーで訪れてその場所については何も学ばないで単に記念写真を撮って去っていき,結局はおいしいものを食べてお土産を買って帰る,というだけのものです。食事に3,000円は出費しても,博物館に500円は出せないのです。これが日本の,人と競うだけが目的の点取り教育の成果です。教師もまた,修学旅行で引率しても生徒の見学時間には近くの喫茶店でコーヒーを飲んで雑談しているだけだし,進路指導といったところで「君,その点数では希望する大学に受からないよ」と言っているだけなのですから教育ではありません。
・・
ジョン万次郎という人は思っていた以上にすごい人でした。たまたま漂流した若者が優秀だったということで帰国してから日本の優れた人材となったのですが,この人材が埋もれることがなかったのが幸いでした。この国のシステムでは,全く能力がなくても地盤看板かばんがあって与党から当選して静かにしていれば大臣というブランドが手に入る反面,優秀なのに埋もれている人材も多いことでしょう。
四万十市に戻りました。私の宿泊先は四万十市から四万十川に沿って少し上った上流の川岸にある民宿です。四万十川に沿って上っていくと,沈下橋の道路案内がありました。四万十川が沈下橋で有名なのは知っていましたが,四万十川のどこにあるのか,四万十川というのはどこをどう巡るものなのかは知りませんでした。まだ予定のチェックイン時間には2時間ほどあったので,ともかく沈下橋に行ってみることにしました。
沈下橋というのは,橋の上に欄干がないか,あってもかなり低いものや増水時に取り外し可能な簡易的なものしかついていないものをいいますが,それは増水時に橋が水面下に没したとき,流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水がせき止められ洪水になることを防ぐためです。沈下橋は,自然を押さえつけるのではなくあるがままの自然を受け入れ折り合って生きていこうという,流域にすむ人々の生活様式を象徴するものだそうです。
はじめに着いたのは,もっとも下流にあった佐田沈下橋でした。沈下橋のなかでも一番道幅が広いということでした。沈下橋は車で渡れるということでしたが,恐ろしいので渡る気持ちはありませんでした。しかし,到着してみたら,渡る勇気がわいてきました。震える手でハンドルを握り,ともかく渡り終えました。渡り終えて橋のほうを振り返ると,なんと,手前からトラクター,そして対岸からは乗用車が渡ろうとしているところでした。おそらくは地元の人なのでしょう。ともに譲るという気もなく,両岸から渡っていきます。私はどうなることかと見入っていたら,何事もなく橋の途中ですれ違いました。もし私が乗用車の運転手だったら生きた心地はしなかったことでしょう。
渡り終えて,私は四万十川の反対側の川岸の狭い道路を上流に向かって走りました。次の沈下橋を渡って戻るつもりでした。道はどんどん狭くなり,不安になったころ,次の三里沈下橋が見えました。しかし,さきほどよりもずいぶんと狭い沈下橋でしたが,こうなったら意を決して渡るしかありません。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ③
ついに,念願だった足摺岬に着きました。足摺岬にあったのは,ジョン万次郎の像と,足摺岬の灯台と展望台,そして,金剛福寺でした。
駐車場に車を停めて,まずはジョン万次郎の像です。高知市桂浜にある坂本龍馬の像はあまりに有名ですが,室戸岬には中岡慎太郎の像があると知って感動し,いつかは見たいものだと思い続けて,3年前に対面することができました。足摺岬にジョン万次郎の像があるということを知ったのはずいぶんと後のことだったし,知ったときには,どうしてジョン万次郎なのだろうと思いました。そしてまた,足摺岬はあまりに遠く,実際に見ることができるとも思っていませんでした。
そのジョン万次郎の像が,今,目の前にありました。この像は1968年(昭和43年)に建てられたそうです。その手にはコンパスと三角定規を握り太平洋を見つめていました。坂本龍馬の像と中岡慎太郎の像と,そして,ジョン万次郎の像。高知県は粋なことをするものです。
次に灯台に行きました。この白亜の灯台は 高さ18メートル,光度46万カンデラで,光達距離38キロメートル。わが国でも最大級の灯台のひとつで,1914年(大正3年)に点灯されました。灯台から遊歩道を300メートルほど歩いて,天狗の鼻に行きました。そこからは灯台を眺める絶景が楽しめました。「岬」のことを足摺では「鼻」というそうです。ここは四国最南端。岬は突き出ているので,朝日と夕日が海に沈むのを見ることができるそうです。次回来るときはこの近くに宿泊して,それを見たいものだと思いました。夜には満天の星空も見られます。
近くに食堂があったので,かつおめし丼という昼食をとりました。この時期,ほとんど観光客はおらず,お客さんも私ひとりでした。お店の人に聞くと,このごろはお遍路さんも少ないということでした。人混みの嫌いな私には人が少ないのはとても落ち着くのですが,ともかく,どこも閑散としていました。
ジョン万次郎の像の近くに第38番札所・金剛福寺がありました。822年(弘仁13年),嵯峨天皇の勅願によって弘法大師が三面千手観音を本尊として823年(弘仁14年)にできたものです。こんな最果ての地に今から1,000年以上も前から寺があることが驚きでした。ここは大変立派なお寺さんで,壮大な庭,そして,境内には多宝塔や十三石塔,逆修の塔などがありました。
実はこの第38番札所は「修行の道場・土佐」という名のとおり,霊場を巡る人にはとんでもない難所にあるそうです。なにせ,ひとつ前の第37番札所・岩本寺からは約90キロメートルもあり,徒歩なら20時間以上かかります。そして,次の第39番札所・延光寺まではまた約60キロメートルもあり,徒歩なら15時間もかかるのです。ともに1日ではたどり着けません。これは絶望的な距離です。実際に歩いてきた人がえらく遠かった,と言っていた意味が理解できました。これだけの距離を歩くと,おそらく,こころのなかの何かが変わることでしょう。
私は八十八箇所を巡るつもりはないのですが,もし巡るとしても車で札所だけを巡っても意味がないと思いました。歩くことで何かが変わるのです。私はさまざまな旧街道を毎回10キロメートル程度歩くだけの経験しかしていませんが,それでもそう思うのだから,その何十倍も歩くというのはすごいことです。自分がどう変わるか,歩いてみなくてはまったく想像がつきません。そこで,この第37番札所から第39番札所の150キロメートルだけは,元気なうちに歩いてみたいものだと思ったことでした。というより,歩かなければならないところだと思いました。
・・
足摺岬へ行くという念願がかなってすっかり満足した私は,足摺岬に別れを告げて,次に,土佐清水漁港にあるジョン万次郎資料館に向かうことにしました。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ②
今回の旅もまた,思った以上にすばらしいものでした。では,旅の様子を順を追って書いていきます。
まず,名古屋駅から22時30分に夜行バスに乗りました。バスは1列が3席からなっていて仕切りにはカーテンもあってとても快適でした。途中,四日市でさらに乗客を乗せてから消灯し,翌朝の6時前に徳島のバス会社のターミナルに着きました。ここに数台のバスが停まっていて,四国の各方面に向かうそれぞれのバスに乗り替えます。私は高知市に行くバスに乗り替えて,さらに2時間30分ほどで高知駅に到着しました。
朝8時過ぎに高知市に着くような列車や飛行機はありません。夜行バスが最も安くて,しかも最も便利なのです。それにしても,私には高知市はハワイへ行くより時間的に遠いところです。
9時にレンタカーを借りていたので,その時間まで駅にあったカフェで朝食をとりました。レンタカー会社は駅前にあって便利でした。さあ,いよいよレンタカーで出発です。行先は,ともかくまずは四万十市に向かうことにして,そこから先をどうするかは着いてから考えることにしました。
私は勘違いをしていたのですが,高知県には四万十川に沿って上流に四万十町,下流に四万十市があるのです。もともとは四万十町だけがあって,四万十市というのは昔は中村市だったところが改名したのです。
私は子供の頃から地図を見るのが好きだったので,高知県に中村市というのがあるのは子供の頃から知っていましたが,それが現在の四万十市であることは知りませんでした。それにしても,こんな間違いやすい名前にしてはいけません。地元の人以外は混乱します。どうやら「四万十」というのはブランドらしく,何でも「四万十」と名づければ有名になると思っているようだし,確かにそうです。
レンタカーを借りるとき,四万十までは高速道路があると聞いたので,さっそく高知市から高速道路に乗りました。私はそれが四万十「市」のことだと思っていたのですが,実際は四万十「町」のことでした。高速道路は四万十町までつながっていたのですが,四万十町から四万十市まではその先まだずいぶんと距離があるのでした。ともかく,四万十町で高速道路を降りて,さらに,四万十市に向かって走りました。
私がこの旅で行きたかったのは,四万十川と足摺岬と宇和島市でした。しかし,どのくらいの距離と時間がかかるのかは地図ではよくわかりませんでした。来るまでは,まず宇和島市へ行って,そこから海岸に沿って足摺岬まで行って,宿泊先として予約してあった四万十市に入ろうと考えていましたが,実際に来てみると,宇和島市は遠く,さらに,宇和島市から海岸に沿った道路は狭いので,足摺岬を経由して四万十市に着くのはずいぶん遅い時間になってしまうようでした。そこで予定を変更して,まず,足摺岬に行き,足摺岬から四万十市に引き返し1泊。次の日に四万十市から宇和島市を経由して高知市に戻ることにしました。この変更は正解でした。
ともかく,四万十市に着くと,待望の四万十川が見えてきました。これには感動しました。ずっと見たかった四万十川でした。足摺岬はこの四万十川に沿って河口まで行って,さらに南下するのです。
足摺岬までの途中に,ジョン万次郎の生家というのがありました。
・・・・・・
ジョン万次郎は江戸時代末期から明治にかけてアメリカ合衆国と日本で活動した日本人です。アメリカからの帰国後の本名は中浜万次郎ですが,井伏鱒二が書いた「ジョン萬次郎漂流記」からジョン万次郎という名が広まりました。
万次郎は1827年(文政10年),土佐の中浜の貧しい漁師の次男として生まれ,14歳の頃仲間と共に漁に出て遭難し無人島に流れつき143日も生き延びました。その後アメリカの捕鯨船のホイットフィールド船長により救助され,日本人としてはじめてアメリカ本土へ足を踏み入れました。アメリカでは首席になるほど熱心に勉学に励み,卒業後漂流から数えて11年後に日本に帰国しました。
その後,ジョン万次郎は江戸城へ呼ばれ旗本に格上げされ,日本ではじめての通訳となったり,アメリカの知識を求めてくる幕府の重鎮や維新志士にその経験を伝えたりと様々な功績を残しました。
このジョン万次郎の像が足摺岬に立っているのです。
四国を行く-四万十川と足摺岬と宇和島市へ①
######
四国というのは不思議なところです。近いようで遠く,知っているようで知らない。何度も行っているようであまり行ったことがないし,どういうところなのかよくわからない。…というように,私はほとんど行ったこともないしよく知らないわけです。実際,行こうとするとなかなか大変です。
私の子供のころは橋も架かっていなかったので,宇高連絡船というのを使って四国にわたる必要がありました。そのころ,高松,琴平,道後,松山といった四国の北側は,岡山や広島といった中国地方に行った折に瀬戸内海を渡って行ったことがあるのですが,それ以外の場所となると,わざわざ行こうと思わなければなかなか行く機会がありませんでした。
2016年,徳島市の阿波踊りが見たくなって,電車で夏の暑い盛りに行ってみました。このときのことはブログに書きました。さらに,2017年のちょうどこの時期,今度は高知市に行ってみたくなって,1泊2日で淡路島を経由して車で行きました。しかし,これまで,四国の南西のほうは行ったことがありませんでした。
四国に行くと,「四国八十八箇所」を歩く人をかなり見かけました。
「四国八十八箇所」は四国にある空海ゆかりの88か所の寺院の総称で,「四国八十八箇所」を巡拝することを「四国遍路」あるいは「四国巡礼」といいます。「四国八十八箇所」は単に88の寺院の総称ということだけでなく,それに加えて急峻な山や深き谷を巡りその間にある堂を残らず巡る488里の修行のことですが,現在では,修行が目的の人に加えて,定年になって,観光も兼ねて巡っている人も多いようです。四国の面積は,ハワイ島の約2倍ほどで,山あり谷あり海あり川ありと変化に富んでいるので,どこへ行ってもおもしろいところなのでしょう。
そうして歩いている人から,高知県はえらく広い,と聞きました。地図で見ると,確かに高知県といっても,その西側はかなり遠くに思えました。その先端が足摺岬,岬にはジョン万次郎の像があるのだそうです。私は高知市桂浜の坂本龍馬の像と室戸岬の中岡慎太郎の像は見たのですが,さすがに足摺岬ともなると遠く,私には縁がないような気がしました。そのうちに,四万十川といういまでも自然が多く残っている河川があるとききました。また,大河ドラマで司馬遼太郎さんの「花神」を見て,主人公の大村益次郎が宇和島に縁があることを知って以来,宇和島というのはどこなのかとずっと気になっていました。
そんな感じだったのですが,わざわざ行く気にならないと行けない場所に行こうという私の計画のひとつとして,今回,高知県の西の端に行ってみることにしました。いつものように,できるだけ安価に行く,という方針です。で,調べてみると,名古屋市から高知市まで片道5,600円の夜行バスがあるようでした。そこで,往復夜行バスを使い,高知市でレンタカーを借りて,途中で1泊というのを考えました。本当は車は使いたくなかったのですが,公共交通機関を使ったらどれだけ日数がかかるかわかりません。それに,それほど渋滞することもないだろうと思いました。宿泊先は四万十川沿いにある夕食と朝食込みで9,000円の民宿にしました。これで30,000円でおつりがきます。
おりしも「ブラタモリ」で四万十川を放送していました。この番組を見て行く気になったのではなく,私が行こうと決めた後で偶然テレビの番組があったのです。それにしても,先日は「ブラタモリ」で私が行こうと思っていた東北地方の花巻市をやっていたし,私のマネをするんじゃない!
とまあ,冗談はこれくらいにして,高知県へ1泊2日,いや,1泊4日の旅立ちです。
2019夏アメリカ旅行記-奇景・ホースシューべンド③
●「どんな写真で見ても実物は違う」●
ホースシューベドもアンテロープキャニオンも,具体的にどこにあるのかよく知らなかったが,ともかく,フラグスタッフから北に走っていけば着くらしいから,昨日で目的を達成した私は,足をのばしていってみることにした。
羽田からロサンゼルスの飛行機で隣の席になったのは,ロサンゼルスの住んでいるという女性であった。私は若いころは海外,特にアメリカに住むことに憧れたから,こういった女性がとてもうらやましかったが,いろいろな場所を旅するうちに,そういった憧れはまったくなくなった。
さて,その女性に,ホースシューベンドに行くと話したら,彼女は「どんな写真で見ても,それと実物は違う」と妙なことを言ったので,それがずっと気になっていた。
早朝宿泊先のモーテルを出発してフラグスタッフのダウンタウンを走るオールドルート66を東に走り,町の外れでインターステイツ40と合流するオールドルート66と別れて,国道89を北上していくことになった。国道89に入ると片側1車線になった道路はのどかな森の中を進んでいくことになった。
途中にキャメロン(Cameron)という町があって,そこの交差点を左折して州道64に行けばグランドキャニオン国立公園のサウスリムなのだ。だから,このときもグランドキャニオンに寄ることもできたわけだが,この時の私の頭にはホースシューベンドとアンティロープキャニオンに行くことしかなかったから,グランドキャニオンは通り過ぎた。
帰国してから改めて位置関係を調べると,グランドキャニオン国立公園のサウスリムとノースリムはコロラド川の対岸にあるのだが,橋が架かっているわけではないからそこに行くためには大きく迂回する必要があるわけで,私は19年前にこの道を走ったことがあるのだった。
道の両側にナバホ族の開いている売店があったり,ナバホの人たちの家が続いていた。この日は,キャメロンをそのまま北北上して,ビッタースプリングス(BitterSprings)まで来た。そこで,道が二股に分かれて,左側に行くとグランドキャニオン国立公園のノースリム,右に行くと私のめざすホースシューベンドなのであった。それにしても,このビッタースプリングスというのは不可解な町で,ほとんど車も通らないのに道が片側2車線になるし,2車線になったのに,制限速度が遅くなった。
ビッタースプリングスを過ぎるとそれまで平原だった道が山道になった。私は Google Map をナビゲーターにして走っていたから道に迷うことはなかったが,以前のように地図を頼りに走っているのと違って,どこをはしっているのかさっぱりわからなかった。
やがて,左手に駐車場が見えてきた。そこがホースシューベンドの駐車場であった。入口で料金を払って車を停めた。それほど混雑していなかったが,こんな広い駐車場のある場所にホースシューベンドがあるなんてとても信じられないないようなところであった。
車を停めて,その先の小高い山を登っていった。ずっと進んでいっても,依然としてあるのは道だけ,そのさきにホースシューベンドがあるとはとても思えなかった。私は朝早く来たので大丈夫だったが,日差しがきつく,それこそ真夏に来たらたいへんな場所だろうと思ったことだった。
2019夏アメリカ旅行記-奇景・ホースシューべンド②
●けっこう行くのが大変なのだ。●
19年前の2000年。当時は今ほど知識がなくインターネットも普及していなかったから,海外旅行といえば,旅行会社へ行って航空券を買ったりホテルを予約したり,あるいは,現地で宿泊地を探したりしたから,今から思うと雲泥の差があった。それでも私は旅慣れていると思っていたから,レンタカーを借りて,ロサンゼルスからラスベガスを経由してグランドキャニオンのサウスリム,ノースリム,さらには,モニュメントバレーまで行った。
そして,5年前の2014年。今度はアイダホ州のマウンテンホームからユタ州のザイオン国立公園,ブライスキャニオン国立公園,キャニオンランズ国立公園,アーチーズ国立公園へ行った。
この2回のドライブで,私はアメリカの主だった国立公園はすべて知ったような気になっていたのだった。ところがその後,テレビの旅番組や雑誌の特集でこの地域のことが取り上げられると,ホースシューベンドやらアンテロープキャニオンやらと,私が行ったことがない場所が出てくるではないか。そこで私はまだ知らないところがあることを認識して,そうした場所に何とか行ってみたいと思ったが,以前ほどの情熱もなくなっていた。この旅でフラグスタッフに行くと決めたとき,行ってみたいと思っていたホースシューベンドやアンテロープキャニオンがフラグスタッフから車でわずか2時間足らずで行くことができることを知ったのだが,それでも行くと決めていたわけではなかった。
ところで,「ザ・ウェーブ」(The Wave)というところがある(らしい)。「ザ・ウェーブ」の写真を見ていると,アンテロープキャニオンと似ているので,私はこのふたつを同じものだと思っていた。私がこの「ザ・ウェーブ」を知ったのは,以前サウスダコタ州に行ったときに1日観光を世話してくれた日本人のガイドさんが,後日「ザ・ウェーブの抽選が当たった!」とブログに書きこんだのを読んでからだった。しかし,調べてみても,この「ザ・ウェーブ」というのがどの国立公園のことなのかさっぱりわからなかった。そこでよく似たアンテロープキャニオンを「ザ・ウェーブ」だと混同してしまったということであった。
そこで,今回もまた話は横道に逸れるが「ザ・ウェーブ」について書いておくことにする。
・・・・・・
「ザ・ウェーブ」というのは,ラスベガスから300キロメートルほど行ったアリゾナ州バーミリオン・クリフ国定公園(Vermilion Cliffs National Monument)のコヨーテ・ビュート(Coyote Buttes Permit Area)にある砂岩の層のことである。世界一の絶景といわれる。
「ザ・ウェーブ」が秘境中の秘境といわれるのは,その圧倒的な造形美だけでなく,1日当たりの立ち入り人数が20人に制限されているということにある。手に入れるのが困難であればあるほど欲しくなる,という相乗効果を生んでいるわけだ。渦まく波のような砂岩の層「ザ・ウェーブ」は,砂丘が固まってできた岩を鉄砲水がえぐり,鉄を多く含む地層が露出することでできた。この大自然に刻まれた不思議なグラデーションはここが地球と忘れてしまうほどの神秘的な空間だという。
・・
許可証を取得するには,1日10人を選び出すオンラインと現地の10人の抽選がある。この合計20人限定の許可証が取得できたとしても,実際に行くのがまた大変だ。最寄りの街から舗装された道路を30分から60分走ったのち,さらに未舗装道路を30分から60分走る。そして,そのあとは往復3時間のトレッキングが待ち受けているという次第なので,簡単に辿り着けるところではないのだ。また、天気によっては辿り着けないこともあるという。1月から2月は20人も応募がないそうだから穴場であるが,ハイシーズンの5月,10月は競争率5倍の100人近くになるという話である。
未舗装道路というのは厄介で,レンタカー会社によっては禁止されているし,4WDが推奨されているそうだ。また,ガイドを雇うと1人当たり100ドル以上するそうだから,私のようなひとり旅では行くのが難しい話である。
・・・・・・
そんなわけで,私は今回行くアンテロープキャニオンを「ザ・ウェーブ」だと思って行ったことにしようと自分を納得させることにした。
2019年3月に行って偶然登頂できたオーストラリアのエアーズロックといい,むりやり4,200メートルを車で登ってしまったハワイ島のマウナケア山頂といい,旅というのは,行きたいと思い込んでしまってもそれを実現するのは大変なのである。
やっと晴れたか!冬2020④-14等星の岩本彗星が写った。
次の記事は朝日新聞からの引用です。
・・・・・・
アマチュア天文家の岩本雅之さん(65)が新たな彗星をカメラでとらえ,日本時間の1月16日,国際天文学連合が「Iwamoto」と命名した。
岩本さんは,日中はイチゴ農家として働き、未明には自宅ベランダの400ミリの望遠鏡にカメラを取り付けて星空を撮る。今回の発見は1月9日。午前5時39分,撮影した画像にうっすらと緑がかった天体があることに気づき,1分後に撮った画像と合成するとわずかに東に移動していた。
高性能の天体望遠鏡や人工衛星が増えたことでアマチュアの活躍する場は少なくなった。2019年に発見された新彗星のうちアマチュア天文家によるものはわずかにふたつだった。
・・・・・・
ということで,世界中の大型望遠鏡による大規模天体捜索によって,アマチュア天文家による彗星捜索など時代おくれになった今,このような発見がまだあるのが驚きです。
岩本彗星(C/2020A2)。この彗星は,残念ながら14等星と暗く,この先も明るくなりません。しかし,日本人のアマチュア天文家の発見した彗星ということで,なんとか写してみようと思っていました。それに,どのくらい暗い彗星が写るのかということも興味がありました。
現在,彗星はこと座にあって,明け方の東の空に見えます。2月1日の早朝は晴れそうだったので,早起きして北の方角にある山に1時間かけて行きました。しかし,到着したころには全天が曇ってしまいがっかりしました。春や秋の移動性高気圧とは違って,冬型の気圧配置は北西にある高気圧から風が舞ってくるので,突然曇ってしまうのです。それも快晴だった空がわずか数分で全天曇りになってしまうのです。私はこれまで星見に出かけていって曇ったという経験がほとんどなく,ショックでした。
これであきらめようとも思いましたが,納得がいきません。しかし,連日1時間以上かけて早朝に遠出する気にもならなかったので,先日,国際宇宙ステーションやパンスターズ彗星を写した自宅から15分ほどの場所に行ってみることにしました。そこは単に街灯がないだけで町に近く空全体が明るい場所です。それでも先日星見に行った南の空が暗い場所で,明るい北の空でも15等星が写ることを確かめたので,ひょっとしたら写るかも,という淡い期待がありました。ともかく,何事もやってみなくてはわかりません。
翌2月2日その場所に行ってみたのですが,この日もまた,家を出たときは晴れていたのに到着したら全天曇りでした。こうなると逆にやる気になるというものです。そしてその翌日の3日。この日もまた到着したら薄曇りでしたが,北極星や北斗七星,そして,こと座のベガは見えていました。それでもこれだけ雲があってはどうしようもなくよほど帰ろうと思いましたが,次第に雲が薄くなってきたので,ともかく望遠鏡を組み立てました。
双眼鏡でこと座の1等星ベガのあたりを見ると,なんと,多くの星が見えました。彗星自体は見えませんが,彗星のある場所の星の並びはわかりました。これならと,だめもとで写真を数枚露出を変えて写して帰宅しました。
家で確かめてみると,露出を多めにかけたものは全体に白くなって星が消え,露出をかけなかったものの方が多くの星が写っていました。そして,予報の位置に彗星の像が確認できました。
…というわけで,けっこう明るい夜空で,しかも薄雲の空で14等星の彗星が写るのはかなりの驚きでした。今のディジタルカメラはすごいものだと思いました。これならこの先,気楽に毎晩でも彗星をねらって写真を楽しめそうだなあ,とうれしくなりました。
2019夏アメリカ旅行記-奇景・ホースシューべンド①
●懐かしのヴァリグ・ブラジル航空●
☆3日目 2019年6月27日(木)
この旅で,フラグスタッフには3泊するが,到着した日は夕方で出発の日は朝が早いので,実質,観光ができるのは2日間である。その1日目であった昨日,フラグスタッフに来た目的,つまり,バリンジャー隕石孔とローウェル天文台,そして,フラグスタッフの町の散策は昨日にすべて実現した。そこでこの日は,フラグスタッフから北に,ホースシューベントとアンテロープキャニオンに行くことにした。それを決めたのは,この旅に来る少し前のことで,もともとはそんな予定はなかったのだった。
19年前のゴールデンウィークのことである。
ちょうどその年は2000年問題とかでかまびすしく,フライトの予約がなかなかできないという年であったし,しかも,ゴールデンウィークの旅行ということで,今よりずっと旅行費が高くついたが,それでも,往復15万円程度の名古屋とロサンゼルスのヴァリグ・ブラジル航空の往復航空券をHISで手に入れて,知人に誘われて,ロサンゼルスから車でラスベガスを経由してグランドキャニオンとモニュメントバレーを旅したことがあった。今とは違って,ネットで旅行の手配などできなかったし,名古屋にはセントレア・中部国際空港もなかったが,今より便利だったのは,小牧にある名古屋空港とロサンゼルス間にヴァリグ・ブラジル航空の直行便があった。
…ということだが,これを書いていて当時のことが懐かしくなったので,ここからは余談を書く。そのころは何の知識もなかったが,今調べてみると結構興味のある話がたくさんあるものだ。そして,歳をとってみると,こうした懐かしい思い出をたくさんもっているのは,「仕事人間」でなかった私のもつ財産だとしみじみ思う。
・・・・・・
ヴァリグ・ブラジル航空(Viação Aérea Rio-Grandense S/A)は「かつて」ブラジルに存在していた航空会社である。1927年創業のブラジル最古の国際航空会社で,ブラジル国内のみならず南アメリカで長年の間最大規模も誇っていた。「Viação Aérea」は航空会社を意味し「Rio-Grandense」はヴァリグの発祥地である「リオグランデ・ド・スル州(Rio Grande do Sul)の」という意味であった。
日本への乗り入れは1968年からで,サンパウロ発リオ・デ・ジャネイロ,リマ,ロサンゼルス経由で羽田空港まで運航された。その後,リオデジャネイロよりサンパウロ,ロサンゼルス経由で週4便を成田国際空港に,週3便を名古屋空港に乗り入れていた。1往復するだけで2万マイルを超える世界有数の長距離路線であった。
ヴァリグ・ブラジル航空は,拡大路線により1990年代前半まではブラジルの国内線で1位のシェアをもっており,国際線においてもオセアニアを除くすべての大陸にその路線網を広げていた。しかし,2001年に発生したアメリカ同時多発テロ以降ブラジル人にアメリカのトランジットビザ取得が義務付けられたことから乗客数が激減し,2004年には名古屋線から撤退,その後,成田線も乗客が激減したことで撤退した。さらに,ヨハネスブルグ経由香港線やバンコク線,コペンハーゲン線など採算の悪い長距離路線を燃料効率の悪いボーイング747-400などの大型機で運航するほか,激しい労働組合活動による高コスト体質を改善できなかったことや国内の幹線にローカル航空会社や格安航空会社が次々と参入してきたことから,2005年に倒産してしまった。
やっと晴れたか!冬2020③-二重星団に接近した彗星
☆☆☆☆☆☆
ペルセウス座の二重星団(Double Cluster)はふたつの散開星団が近接して見えるのでこの名でよばれています。2番目の写真のように,双眼鏡でカシオペア座のγ星とδ星を視野に入れてδ星の方向に視野ひとつ半だけペルセウス座に動かすとだれでも簡単に見るけことができますし,空が暗いところなら肉眼でも見ることができます。
1603年,ヨハン・バイエル(Johann Bayer)によって,西側(カシオペア座に近いほう,経度の小さいほう)の星団にh (h Persei),東側(キリン座に近いほう,経度の大きいほう)の星団にχ (χ Persei) のバイエル符号が振られたため,「h+χ」(エイチカイ)ともよばれます。
NGCカタログ(NGC Catalogue)=星雲目録を元にジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel)が作った5,079個の星雲・星団を含む天体カタログであるジェネラルカタログ(General Catalogue)にジョン・ドレイヤー(John Louis Emil Dreyer)が追補して1888年に発表したもの= では西側の星団がNGC869,東側の星団がNGC884,Mel(メロッテ)カタログ(Melotte Catalogue)=フィリベール・ジャック・メロッテ(Philibert Jacques Melotte)がフランクリン・アダムズ写真星図から245個の星団を拾い出し1915年に作成したカタログ= では西側の星団がMel13,東側の星団がMel14となっています。
このふたつの散開星団はペルセウス座OBアソシエーション =同じ起源を持ち重力的な束縛からは解放されているが,未だ宇宙空間を共に移動している恒星で構成される非常に緩やかな散開星団(アソシエーション)のうちO及びBのスペクトル型を持つ10個から100個の大質量星を含むもの= の中核を成していて,誕生してから約1,400万年が経過しています。しかし,二重星団にはメシエ番号がついていないので,「iステラ」のようなアプリにはこの星団が表示されず,とまどうことがあります。
現在10等級より明るく見えている唯一の彗星であるパンスターズ彗星(C/2017T2)がこの二重星団に接近しているので,写真を撮ることにしていたのですが,いつものようになかなか晴れません。なんとか晴れ間が見えた1月29日,自宅から15分くらいの,暗くないのですが街灯がない場所へ出かけました。ところがにわかに曇りはじめて,大急ぎで極軸を合わせ終わったら北極星のあたりは曇ってしまい,それでも幸運にペルセウス座のあたりだけまだ雲がなかったので祈る気持ちで視野に入れて失敗したらもう写せない! と露出したのですが,1番目の写真のようにきれいに写りました。その間わずか10分でした。今日は私が星を写している機材の写真も載せましょう。これが3番目の写真です。
・・
彗星の写真を写した日のお昼間,試し撮りで太陽を写してみました。太陽にはこのところまったく黒点がないので,写しても丸い円がうつるだけで何のおもしろみもありません。今日もだめだろうと思っていたのですが,4番目の写真のように,小さな黒点が写りました。
☆ミミミ
2月1日の月齢は7.4。このとき,月のクレーターの影が文字「X」の形に浮かび上がるので,これを「月面X」とよんでいます。月齢も時間とともに変化します。この晩,午後6時ごろには「X」は浮かび上がっていなかったのですが,午後8時ごろにはあざやかな姿が浮かび上がりました。
中山道を歩く-ローカルムード一杯の御嶽宿から伏見宿③
今年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公は明智光秀。そもそも,織田信長なんてパワハラの権化みたいな人物だし,豊臣秀吉だって成金の野党であり,信長のゴマすり。なのに,明智光秀が悪者とされていたこと自体,歴史が権力者の都合で語られていることの象徴です。もし,自分が日本の歴史上最悪の時代であった戦国時代に生きていたにとしたら,おそらく農民だっただろうし,万一武士であったのなら,あんなパワハラ上司に仕えるのは今以上に大変だっただろうに,なぜか,多くの人は権力者を称賛するのです。ということで,この先,この時代がどのように庶民の側から描かれるかが,私には興味あります。
ところで,明智光秀という人物の生涯はわかっていないところだらけだそうで,どこで生まれたのかも諸説ある。その中のひとつの候補として,明智荘があって,ここにある天龍寺というのが明智家の菩提寺。といっても,菩提寺になったのは昭和だそうなので,そのすべては作り話なのですが,ともかく日本の旅はこころでするものだから,そうした場所を歩きながら昔を夢見るのも悪くありません。
旧中山道の伏見宿から南に30分ほど歩いて行くと,小高い山が見えてきました。そこが明智城跡でした。そのふもとに天龍寺があって,まず,天龍寺に寄って,そのあと,明智城跡に登りました。山の上からは,かつて明智荘とよばれていた場所がよく見えました。
大河ドラマで明智光秀が決まってから急ごしらえで整備された場所だそうですが,おそらく,もう数年もすれば,だれも来なくなってしまうことでしょう。私の出かけた日は平日とはいえ,結構多くのお人が来ていました。本当に〇〇ブームというのが好きな人が多いものです。それでも,さすがに,オーバーツーリズムとまではいかないので,のどかな田園地帯には違いがありませんでした。
この場所は結構不便なところで,公共交通で行こうと思えば,私が出かけたように,岐阜駅から名鉄のローカル線に揺られて行って,明智駅から30分近く歩くしかありません。ということで,多くの人は車でやってくるのですが,この国では車でいわゆる観光地なんて出かけても,何も楽しいことはありません。
私は,帰り,明智駅に着いたとき,時刻表を見ると運よくあと1分ほどで電車が来る時間だったので,幸運だと思いました。ところがいっこうに電車は来ません。もう行ってしまったのかな,とがっかりしました。次の電車は30分先。しかも,周りにはなにもありませんでした。とそのうち,5分ほど遅れて電車がやってきました。
こうして,家からさほど遠い場所でもないのに,ずいぶんと遠くに出かけたような楽しい半日を過ごすことができました。次回は今回行くのをやめた伏見宿から西に太田宿まで歩いてみたいと思っています。
ちなみに,今回行ったのはかつては明智荘といわれた場所ですが,明智というのは現在は地名ではありません。ところで,数年前の朝ドラ「半分,青い。」の舞台は岐阜県岩村町で,そこを通る鉄道こそ「明知」鉄道,しかも,終着駅は「明知駅」ではなく明智町の「明智駅」です。私はお恥ずかしい話,今回調べてみるまで明知と明智ふたつの漢字があるのを知らず,また,今回行った可児市と岩村町の明智を混同していて,同じだと思っていました。
こちらの明智町は,かつて岐阜県恵那郡にあった町で,2004年の合併により恵那市となって自治体名としては消滅しましたが恵那市の町名として明智町が設定されました。恵那郡明智町は鎌倉時代の1247年(宝治元年)に「明知」遠山氏の始祖である遠山景重が「明知」城(通称白鷹城)を築城し,一族は本拠の岩村城と苗木城,明知城を中心に現在の恵那市・中津川市にかけての地域を治めていました。ここの地名はもともとは「明智」だったのですが,江戸時代に「明知」に改められ,昭和の合併で「明智」に戻りました。
というわけで, 明智光秀の出身地は,恵那郡明智町なのか,私が今回行った可児市の明智荘のあった場所なのか,そのどちらかで議論になっているということです。