しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

March 2020

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 高台寺には,ねねの道を隔てて,京・洛市「ねね」という建物の2階に,小さな「掌(しょう)美術館館」があります。高台寺の拝観料で入ることができるのですが,ほとんどの人は素通りしてしまいます。私もこの博物館には今回はじめて行きました。
 ことばは悪いのですが,博物館というのはがらくた置き場です。たとえば,遺品などの類はいくら大切なものであっても,倉庫にしまえばそれだけだし,捨ててしまえば貴重な資料がなくなってしまいます。そこで,博物館というものが生まれるのです。アメリカには至るところに航空博物館というのがあるのですが,それは,歴史的にアメリカ人の飛行機好きが影響しているのでしょう。
 高台寺にもまた貴重な資料が数多くあるので,それらを展示してあるのがこの博物館でした。

 さて,高台寺の拝観料は掌美術館込みで600円ですが,圓徳院の拝観料もついた900円というものもあります。その圓徳院ですが,ここには知る人だけが知るAMEXのラウンジがあります。奥まったところにこじんまりと存在し,あえてわかりにくい入口からそこには行くことができて,AMEXを持っている人だけの隠れ家となっています。ここから圓徳院に無料で入れます。
 私はここが好きで,京都に行くたびに利用しています。まず,茶菓子とお茶をご馳走になれます。そのあとで,圓徳院の庭をぼーっと眺めるのは至福な大人の時間で,清水寺の参道できゃっきゃ騒いでいる若い人とは無縁の世界となります。
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 圓徳院は豊臣秀吉の正妻北政所が晩年の19年間を過ごした地に建つ寺です。
 圓徳院は高台寺を建立する前年の1605年(慶長11年),北政所が豊臣秀吉との思い出の多い伏見城から化粧御殿と庭園を移築し,新たに客殿を建立したことにはじまります。この場所には多くの大名や禅僧、文化人が慕って集まり,文化サロンのような一面をもっていたといいます。北政所の死後,1624年(寛永元年)に寺となり,そののち,圓徳院の名をもつようになりました。

 庭園は北庭とよばれ,移築後に小堀遠州が整えたもので,巨石を多く配置した珍しい造りの枯山水庭園です。眺めているととても落ち着きます。伏見城にあったときは水をたたえた池泉回遊式庭園でしたが,この地に移したとき敷地面積が縮小したことから枯池泉座視式に改められました。東の築山から枯滝を枯池に落とし枯池に2島を配置してこれを3本の石橋で結ぶといった,桃山時代の典型的な枯山水の書院庭園の趣をもったもので,全体に巨岩を多数配置した珍しい庭園としても知られます。そう,この庭のみどころは,桃山時代の豪華さ・豪胆さを思い起こさせる巨岩なのです。
 圓徳院の客殿は現在は方丈となり,1994年(平成6年)に解体修理されたもので,写真撮影が可能です。方丈には長谷川等伯による襖絵が納められています。襖絵は「紙本墨画山水図伝長谷川等伯筆大方丈襖貼付32面」といい,1589年(天正17年)の制作です。もとは大徳寺の塔頭・三玄院の方丈を飾っていたものが明治初期の廃仏毀釈によって流出し,圓徳院に山水図32面,京都楽美術館に松林山水図4面が分蔵されました。

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 長谷川等伯は三玄院で襖絵を制作することを懇願していたのですが,住持春屋宗園は修業の場に絵は不要として断っていました。春屋宗園が2か月ほど留守をすることを知った長谷川等伯は三玄院に押しかけ止める雲水たちを振り切って客殿に上がり込みこの襖絵を描きました。のちに事の次第を知った春屋宗園はいたく立腹しつつも絵の出来栄えに感嘆しこの襖絵を認めたといいます。
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 雲母刷りの桐紋様を降り続く雪に見立てていることが特徴だそうです。なお,圓徳院にあるものは高精細複製品であって,原本は京都国立博物館と石川県七尾美術館にあります。また,現在方丈を飾っている襖絵は木下育應や志村正による近代のものです。

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 高台寺を目指して「ねねの道」までやってきました。先週とは違って桜が咲いているのでもっと人がいるのかと心配しましたが,杞憂でした。
 さっそく高台寺に入りましたが,空いていてほっとしました。
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 高台寺は,豊臣秀吉の正室だった北政所(ねね)が秀吉の菩提を弔うため1606年(慶長11年)に開創した臨済宗建仁寺派の寺院で,山号は鷲峰山(じゅぶさん),寺号は高台寿聖禅寺と称しますが,この寺号は北政所の落飾後の院号である高台院湖月心尼にちなむものです。
 秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院で, 霊屋の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられていて,これを「高台寺蒔絵」とよびます。
 1598年( 慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなったとき,北政所は秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し,作られたものです。
 伏見城の化粧御殿が移築され北政所の居所とされたのが高台寺の門前にある圓徳院で,北政所の終焉の地です。
 高台寺は近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈は焼失し,創建時の建造物として残っているのは開山堂,秀吉と北政所を祀る霊屋,茶室の傘亭と時雨亭などだけです。


 高台寺は商売上手です。
 私がはじめてこの寺を訪れたときは地味で落ち着いたところだったのですが,場所もよくイメージがよいので,多くの人が訪れお金もちになったみたいで,訪れるたびに何かしら新しいものができています。
 高台寺は,江戸後期より方丈の前に広がる波心庭のしだれ桜が有名となり,現在のものは4代目です。白砂が美しく掃き清められた方丈前庭の唐門の向かいに大きな枝垂れ桜が優雅に花を開き,この姿を求めて例年春はひときわ多くの人がやってきます。私もこれまでにも何度か来たことがありました。
 波心庭の白砂は,昔は竜安寺や慈照寺銀閣の庭のように地味だったのに年々ど派手になり,来るたびに驚かされるとともに不快になります。いったいそれが誰の趣味なのか知りませんが,私は嫌いです。なんと今年は白砂には色まで塗られてしまいました。こうなると「桜のピンクと砂の白さのコントラストが一段と幽玄な眺めを作ります」などといった風流さや幽雅さはまったく感じられませんでした。

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 京都御苑,本満寺としだれ桜を満喫して,つぎに,円山公園に向かいました。出町柳あたりから鴨川に沿って歩き近衛通を東に行って,聖護院あたりから平安神宮を通り,そこで南に神宮道を下るのがいつものコースです。この日もまた,ほとんど人はおらず,ときおりピンクの花をつけた桜が目を引きます。
 知恩院の山門に美しい桜が咲いていました。私は知恩院はいつも通るだけで,中に入ったのはほんの1,2回ほどです。不思議なもので,何度も訪れる場所もあれば,いつも通り過ぎる場所もまた同じです。遠い海外でも,何度も入ったレストランがあったりしますし,行こうと思いながら一度も立ち寄ったことがない場所もまた同じです。今回もまた,知恩院は山門に咲いた桜を見ただけで満足して,先を急ぎました。

 やがて,円山公園に着きました。わずか1週間まえに見たときはつぼみさえなかったしだれ桜が満開でした。いつもならものすごい人混みなのですが,ここもまた,ほんとうにがらがらでした。
 円山公園で最も人気が高いのが通称「祇園しだれ桜」,別名「祇園の夜桜」です。正式名称は「一重白彼岸枝垂桜」(ひとえしろひがんしだれざくら)といいます。現在の木は2代目で,初代のしだれ桜は1947年(昭和22年)に樹齢200年あまりで枯死,その種子から大切に育てた桜を桜守の15代佐野藤右衛門さんがが移植したのです。この2代目もすでに樹齢は90年を超え,高さは約12メートルもあります。
 私は群れることがきらいです。桜も木の下で宴会をする人たちの気持ちがまったくわかりません。この春の気持ちの休まる落ち着いた雰囲気は,今後二度と味わうことができないでしょう。そう思うと,この快晴の空の下で誇らしげの咲き誇るしだれ桜は,どれだけ見ても,見飽きることはありませんでした。人が少ないのではじめて木のまわりを一周してみましたが,角度によってまったく異なる姿を見せるのがまた一興でした。

 与謝野晶子は歌集「みだれ髪」で
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  清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
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  清水に行こうと祇園を通り過ぎると桜が咲き誇る朧月夜。
  今夜すれちがう人々は誰もみな美しく見えることよ。
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と,このしだれ桜のことを歌っています。

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 3月25日,待ちに待った桜開花の時期になりました。あと2,3日すれば満開でしょうが,天気予報では3月27日から1週間ほど雨だったので,満開には少し早かったのですが,再び京都に行くことにしました。事前に調べたところでは,京都御苑,本満寺,円山公園,高台寺のしだれ桜が満開で,祇園白川の桜が見ごろ近し,ということだったので,京都御苑から歩きはじめて高台寺まで行くことにして,早朝,車で自宅を出発しました。
 今回もまた,名神高速道路は空いていました。京都東インターチェンジで降りて,国道1号線ではなく,県道143号線で山科を抜けて,そのまま岡崎に行きました。到着したのは午前8時少し前でした。岡崎公園から京都御苑あたりのどこかに1日最大料金の指定のある駐車場を探して,河原町丸太町あたりに車を停めましたが,どの駐車場も余裕がありました。

 まず,京都御苑に向かいました。寺町御門から入り,京都御苑の中を北に向かって歩きました。
 これまで何度も京都に来ていますが,京都御苑に来たことはほとんどありません。この広い京都御苑のどこに桜が咲いているのかと思いました。ところどころで8分咲きの桜の木があるのですが,どうも有名な桜はそれらではなさそうです。とはいっても,京都御苑で有名な桜というのが何かすら知りませんでした。
 京都御所の一角を左に見ながら歩き,京都御所の北側に着きました。すると,まばらにですが,あたりにカメラを持った人が集まっていました。そこは近衛邸跡で,そのあたりには数多くのしだれ桜が満開に咲き誇っていました。これを見ただけで,来た甲斐があったと満足しました。
 桜に限らず,観光地というのは人の少ない早朝が一番なのです。たとえば,紅葉の季節であっても,早朝なら渋滞を避けて目的地に着いて,ゆっくり楽しむことができます。また,写真を撮るには,光の加減がもっとも美しいのです。前日の晩ホテルに泊まって,朝はゆっくりホテルで朝食をとって,そのあとで観光に出かける,などというのは,もっとも愚かなのです。
 
 京都御苑を出て,次に本満寺に向かいました。ここは「穴場」です。ガイドブックにも取り上げられていないかもしれません。本満寺は日蓮宗の本山で山号は広布山。京都観光のポータルサイトによると次のように紹介されています。
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 本満寺は室町幕府全盛期の1410年(応永17年)に関白近衛道嗣の嫡子日秀が朝廷より三万坪の敷地を与えられて創建されました。戦国時代初期の1536年(天文5年)に起きた天文法華の乱ののち,1539年(天文8年)に関白近衛尚道の外護により現在の地に移り,後奈良天皇の勅願所となりました。
 江戸時代の1751年(宝暦元年)には35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り,それ以来将軍家の祈願所にもなりました。
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 天文法華の乱というのは日本史上最大の宗教戦争です。京都に進出した日蓮宗(法華宗)の布教は戦闘的で,他宗と激しい論戦をおこなったので,しばしば迫害を受けました。京都の商工業者には日蓮宗の信者が多く,1532年(天文元年)に法華一揆をおこし,浄土真宗の一向一揆と対決していたのですが,1536年(天文5年)に天台宗の延暦寺と衝突し,焼打ちうけて京都を追われました。

 本満寺の場所は出町柳の少し北なので,京都御苑からはさほど遠くありませんが,街中の小さなお寺さんで目立たず,どこにあるのかすぐにわかりませんでした。歩道を歩いていると,ここもまた,まばらですが,カメラを持った人が集まっているところがありました。そこが本満寺の門でした。門をくぐると立派なしだれ桜が満開で,まわりで数人の人が写真を写していました。今日が見ごろだと,知っている人は知っているんだなあと思いました。
 本満寺のしだれ桜は樹齢約90年,このあとで行くことになる円山公園のしだれ桜の姉妹樹です。

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 NHKBSプレミアムで放送された番組「あなたも絶対行きたくなる!日本最強の城 明智光秀スペシャル」は
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 日本の城の魅力を紹介する人気歴史エンターテイメント。今回は大河ドラマの主人公・明智光秀に関わる城を大特集! あなたも絶対行きたくなる最強の城に選ばれるのは!?
 紹介するのは思わず写真に撮りたくなる「フォトジェニックな城」,敵を撃退するための仕掛けがすごい「守りの堅城」,そして運動不足になりがちな冬こそ訪ねたい「アウトドアにオススメの城」。
 光秀が築いた福知山城に隠された謎とは? 天空の山城・黒井城の恐るべき防御力。そして戦国の城に革命をもたらした安土城のインパクト。今回も魅力あふれる名城が続々登場。これを見れば、大河ドラマが何倍も楽しめること間違いナシ!
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というのが紹介でしたが,私は,この番組で「黒井城」というものをはじめて知りました。しかし,まさか行くとは思いませんでした。
 
 黒井城は別名を保月城といいます。氷上郡黒井にそびえる標高356メートルの山頂にあり,全山が要塞化しています。
 建武年間に赤松貞範が築城し,赤松氏が5代にわたり約120年間この地を統治していたということですが,その後の経緯はわからず,戦国時代には赤井直正の居城となりました。
 1579年(天正7年)赤井直義の時代,明智光秀の丹波攻めで唯一抵抗しましたが,4年もの歳月ののち落城しました。のち,斎藤利三が城主となり改修,山崎の戦いの後に堀尾吉晴が入城。関ヶ原の戦いの後には川勝秀氏が城主となりましたが,その後廃城となりました。 
 はじめの予定のように,大相撲大阪場所を見た後で,バスとJRを使って余部,豊岡,福知山と旅をしたならば,おそらく,この黒井城には行かなかったことでしょう。予定変更となって,車を利用したことから,行くことになりました。それでも,福知山城に着いたときには,まだ,黒井城まで足を延ばす予定はありませんでした。
 福知山城にあったこの地方のパンフレットを見て,そうか,黒井城はそれほど遠くないのだなあ,と気づいて,寄り道をすることになったのです。そんな程度の動機だったので,やがて訪れる悲劇? に私は思いを寄せることもありませんでした。

 福知山城から黒井城を目指して,舞鶴若狭自動車を走りました。春日インターチェンジを出て春日町に入ってからは,車がすれ違うこともできないほどの狭い道をたどりました。ほとんど標示もなく,行く人なんているのかと思っていると,やがて,黒井城の登り口にあった駐車場に到着しました。多くの車が停まっていて驚きました。ここに車を停めて登っていくのです。
 私は,駐車場から簡単に山頂に行けるものだと思っていました。
 ところがどうでしょう,ここは「雲海の城」。かなり大変でした。昨年,それもまた,自分だけなら決して登る気もなかったオーストラリアのエアーズロックに登ったよりも,はるかにめげました。エアーズロックに登るときは,はじめから登る支度をし,水の入ったペットボトルを2本も持って出かけました。しかし,黒井城は容易く登れるものだとばかり思っていたので,私が持っていたのはカメラだけで,途中で喉がからからになりました。しかも,服もたくさん着込んでいたので汗だらけになりました。登山道は緩やかに登るコースと急坂コースがあって,つねに緩やかに登るコースを選んだのですが,それでもたいへんでした。
 実は,今回だけでなく,のちに書くことになるのですが,このあと行った様々な場所で,私はまったくその気もなかったのに,このときと同じようにまた毎回山登りをすることになってしまうのは,我ながら迂闊というか,懲りないというか…。
 ともかく,へろへろになりながらどうにか山頂に到着しました。それでも,山頂からは雄大な景色が眺められたので,登ってよかったと思いました。それにしても,昔の人はこんな山に城を作って,しかも今のような服も靴もないのに,登るだけならともかく,ここで命がけの戦をしたなんて,軟弱な私にはまったく想像ができかねました。
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 こうして,私の余部鉄橋を見てこようというだけの動機で出かけたドライブは,わずか1日で,思った以上にいろんな経験をすることができました。日本が狭いこともまた悪くないなあと思ったことでした。

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 豊岡でコウノトリが飛んでいるのを見てから,次に福知山にやってきました。
 京都府や兵庫県といっても,私は内陸側(という表現が正しいのかどうかわかりませんが)のことはほとんど知りません。綾部,福知山,丹波篠山,朝来,豊岡… など,名前だけは聞くのですが,どんなところなのか見当がつきません。しかし,特に福知山というところは立派なお城があって明智光秀が平定した場所だということは昔から知っていて,一度は行ってみたいと思っていました。
 何度も書いていますが,NHK大河ドラマ「麒麟がいく」のブームに乗ってかっているのではないのですが,なんだか,それにつられはじめてしまっているような気がしないでもありません。
 ともかく,私は,福知山城に来ました。お城の周りはきれいに整備されていて,このお城がこの町の観光の目玉商品として重きを置いていることがよくわかりました。広い駐車場はなんと無料で,係員がいて,誘導をしてくれました。
 閉館かなと少し心配でしたが,開館していました。ただし,3月11日からは閉館されてしまったようです。
 駐車場からは高台にある見事なお城がそびえているのがよくながめられました。早咲きの桜がきれいでした。

 お城マニアの人がずいぶんといるようなのですが,私は特に城マニアではありません。しかし,日本国内を観光しようとすれば,どこへ行ってもまずお城です。そこで,これまで結構多くのお城に行きました。
 ここ数か月の間だけでも,高知城やら和歌山城に行きました。こうした都会にある城は町おこしの観光拠点となっています。
 その一方で,小高い山の上にある,いや,あった城跡もまたたくさんあります。ある人が,日本の標高500メートルくらいまでの山登りをすると,どこも大概山頂に城がある,と言っていました。
 しかし,お城といっても,形だけの「なんちゃって城」も多いものです。たとえば,清州城,墨俣城,小牧城,岐阜城のようなものです。それらは当時あった城とはまったく異なるもので,実際は城という名の博物館です。それは,お城のイメージがみな天守閣であったころに企画されて作られたもので,今となっては考えが古いと言わざるをえません。その一方で,実際にあったころのお城の外観であっても,実際は戦禍などで失われ,再建された鉄筋コンクリートのものがあります。名古屋城でも,新たに昔のように木造で作り直そうという機運が生まれても,なかなかそれを実現するには難しい問題がたくさんあるようです。
 現存12天守といって,昔のままの状態を残しているものが日本には12あるそうですが,それらもまた,本当に当時のままの状態ではないものが少なくありません。そもそも,作ったものが何百年もその状態を維持することなど不可能なので,それを補修しながら維持することもなかなか難しいことです。
 
 さて,城マニアではなく不勉強な私が誤解していたのは,福知山城が鉄筋コンクリートのものであったということでした。これだけは残念でした。
 福知山城の御殿では,2018年11月24日から25日にかけて第31期将棋「竜王戦」の第4局が行われたそうで,そのときの記念品が飾られてありました。対局者は羽生善治竜王と広瀬章人八段で,最後まで勝負の行方が分からない熱戦の末,広瀬章人八段が羽生善治竜王に勝利しました。
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 福知山城は平安時代末期の甲斐国の武将である,弓馬術礼法「小笠原流」の祖 小笠原長清の末裔とされる塩見頼勝が掻上城を築城したのがはじまりとされます。塩見頼勝は後に姓を横山に改め,城名は横山城となりました。
 織田信長より丹波平定の命をうけた明智光秀が1578年(天正6年)横山城を攻めます。塩見頼勝の子・塩見信房とその弟塩見信勝は防戦したが破れ,これによって,福山地方に属していた国人衆は明智光秀に降伏し,福知山の平定がなりました。明智光秀は横山城を福智山城と改名し,近世城郭へと修築しました。1582年(天正10年)の本能寺の変ののち,山崎の戦いで明智光秀は破れ,明智光秀の在城期間はわずか3年間だけでした。
 福知山城は,その後は羽柴秀勝,杉原家次,小野木重勝と城主が代わり,豊臣秀吉の没後, 関ヶ原の戦いの論功行賞により福知山城に入城したのは有馬豊氏でした。その後,岡部長盛,稲葉紀通,松平忠房とめまぐるしく城主が代わりますが,1669年(寛文9年)に朽木稙昌が入部してからは1869年(明治2年)に至る約200年間,朽木氏が統治しました。
 1871年(明治4年)に廃城となり,福知山城は解体, 時は過ぎ,1984年(昭和59年)に再建を決定し,1985年(昭和60年)に小天守と続櫓,1986年(昭和61年)に大天守が完成しました。これが現在のものです。

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 餘部駅のひとつ手前,つまり京都方面に鎧駅があります。この駅に行くには国道を離れて海岸にむかって急坂を降りていく必要があるのですが,この道路,ガードレールがなく,よそ見していると崖から落ちます。おそらく,こんな道路を通るのは地元民くらいなのでしょう。
 この急坂,私は,ハワイ島の西海岸カイルアコナから海岸線にそって進む州道11号線から海岸に落ちていく道路を思い出しました。
 ところで,鎧駅は1日の利用客が平均8人ほどだそうです。餘部駅が50人ほどなのですが,ずっと昔は餘部駅はなく,余部の人たちは線路を通ってこの鎧駅まで歩いたということです。鎧駅から餘部駅の方向を見ると,すぐにトンネルがあります。鎧駅の標高で余部まで行くと,余部鉄橋が必要なだけの標高差があるということになります。こんな過酷な自然環境に鉄道を走らせる必要があったわけで,そりゃ,計画された当時は大変な難題だったことでしょう。

 鎧駅から国道に戻らず,そのまま海岸線を進むと,その手前の,つまり,京都方面に平地がひらけます。そこが香住(かすみ)という集落でした。海と山に囲まれ,町の中央部に矢田川が流れているけっこう活気のある町に見えました。日本海に面していて漁業が盛んで,香住港などで水揚げされる香住ガニを求めて観光客が大勢来るので,民宿や旅館が立ち並んでいました。
 私ははじめ列車で余部鉄橋に来る計画を立てたとき,いろいろ調べるうちに,余部に近い香住という町におおくの宿泊施設があることを知りました。しかし,どこもけっこう宿泊代が高価でした。
 こうして実際に,余部,鎧,香住と通ってみると,この地方の様子がとてもよくわかります。やはり,旅をしてみないことには,いくらインターネットや書物で情報を集めてもその百分の一もわかりません。
 いつか,香住の民宿にでも泊まって日本海に沈む夕日でも眺めたいものだと思いました。少し前に行った岩手や福島,そして高知などのあまり有名でない場所に,私がまた行きたくなるような,いい意味でひなびた,そして,何か落ち着くようなところが日本にもけっこうたくさんあるものだとこの頃思います。

 さて,次に目指したのが豊岡です。ここはコウノトリで有名なところだそうですが,実際コウノトリが飛んでいる姿が見られるのかどうかは知りませんでした。
 ところで,私は,トキが飛んでいるところが見たいものだとずっと思っていたのですが,それはまだかなえられていません。佐渡島に行けばだれでも簡単に見られるのでしょうか? 何度か行こうと思ったのですが,そのころ,金沢のいしかわ動物園にもトキがいると聞いて,行ってきました。そのことはすでにブログに書いたのですが,檻のなかではありましたが,私はわずかながらトキが飛ぶのを見ました。ということで,一応見たことにして,今は満足しています。
 では,コウノトリはどうなのでしょうか?
 豊岡には「兵庫県立コウノトリの郷公園」というのがあるそうなので,ともかくも行ってみることにしました。しかし,駐車場に車を停めて入口まで行ったのですが,このご時勢で,「兵庫県立コウノトリの郷公園」は閉園していました。ちょうど来ていた幼稚園の園児たちががっかりして集まっていました。しかし,公園のまわりにひろがる田園にコウノトリが何羽もエサをつついているのが遠くから見えました。するとそのうち,数羽のコウノトリが羽を広げて飛び立ちました。いつも見ることができるのかどうかは知りませんが,こうして,私は,幸運にもにコウノトリが飛ぶのを見ることができたのです。
 赤ちゃんを運んでくるというコウノトリですが,実際のコウノトリは湿地生態系の頂点に君臨する鳥で,大型の淡水魚をはじめとする水生動物からヘビやバッタのような陸生動物まで多様な餌を食べる肉食の鳥。現在では極東に2,000羽あまりしか生息していない絶滅危惧種です。

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 このブログは私が自分の記録用に書いているので,いささか「おたく」化しつつある懸念はあれど,今日もまた月と惑星の接近を書きます。
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 ことのはじまりは,すでに書いたように,3月19日,火星と木星と土星と月が接近するので,その写真を写したらどんなに美しいのだろう,というだけの動機でした。そのことを知ったのは,その少し前のことだったのですが,調べてみると,3月18日から3月20日までを観察して,月が惑星の間を動くのを観察しよう,とかいう記事がたくさんありました。学校も休みだし,望遠鏡もいらず,肉眼で見ることができるので,子供は早起きしてこんな観察でもすれば楽しかろうと思うのですが,そんなことをしている姿は見ませんでした。

 3月18日は曇り空で一応星見に出かけたのですが,薄い雲の間から時折月が顔を出すだけでまったく星は見えませんでした。
 結果として,幸い3月19日から3月22日まではすべて晴れましたが,はじめの目的のように,3月19日に我ながらイメージ通りの写真が写せたので満足しました。このときの写真はすでに載せました。
 この時点まで,私の関心は,月が火星,木星,土星の3つの惑星に接近することだけだったのですが,では,水星はどこ? とさらに調べてみると,なんと,水星も明け方の空に,水星としては高い高度で見られることがわかりました。
 水星はきわめて太陽に近いので,夕方か明け方の空低くしか見えません。太陽からもっとも東側に離れるときを「東方最大離角」,西側に離れるときを「西方最大離隔」といい,東側に離れたときは夕方,西側に離れたときは明け方見ることできます。そして,3月24日が「西方最大離角」だったのです。
 こうなると,3月19日に写した写真に水星を入れ忘れてしまったことを後悔しましたが,歳のせいであきらめがはやくなり,まあいいかと妥協しました。これでやめようと翌日3月20日は目覚ましもかけなかったのですが,目が覚めてしまい,外をみると,美しく惑星と月が輝いていたので,準備もそこそこ,起きたばかりの格好で防寒具だけ羽織って,カメラと三脚だけをかついで外に出て,自宅の近くで,水星は肉眼では見えなかったけれど,この辺りだろうと視野に入れて写しました。あとで確かめると,水星もちゃんと写っていました。
 
 家に戻って,さらにさらに調べて行くと,次第に月齢を上げて薄くなっていく月ですが,翌々日の3月22日には高度の低い水星よりさらに低く昇ることがわかりました。さすがに暗すぎ光度が低すぎ,これを見てみようと書いてあるものはありませんでしたが,こうなると,見えるかどうか確かめてみようと思うようになりました。こんなに低い月ではどこにあるか肉眼では探せません。そこで,月がまだ肉眼でもはっきり見える3月21日に月や水星の位置を確かめておいて,3月22日は同じ場所で同じ時間に地平線ぎりぎりの月を探してみることにしました。
 3月21日はとても空の条件がよく,きれいな朝焼けも見えました。今日の1番目と2番目の写真が3月21日に写したものです。
 そして,待望の3月22日になりました。19日から21日まで連日晴天だったので,さすがにこの日は天気が心配で半分期待はしていなかったのですが,東の空に木星が見えたのでどうやら晴れているようでした。しかし,空全体が灰色に濁っていて,最悪の条件でした。春は春霞といって,暖かい日の空はだめです。いつもの撮影場所に行っても,かろうじて木星と土星が見えるだけ,火星もやっと探し出せるいような空でした。
 前日確かめておいた月の昇ってくる場所を双眼鏡で何度も探しましたが何も見えないので,ともかく位置を決め,画角も決め,ピントをしっかり合わせて,単なる空の写真を撮りました。しかし,写した写真をモニターで何度確認しても,ここにあるはず,という場所なのにもかかわらず,何もわかりませんでした。がっかりしました。この日の月齢は27.2。私は過去に同じ場所で月齢28.4の月を写したことがあるので,写るはずなのです。私が期待したのは,今日の4番目のイメージ写真のような細く美しい月が水星と縦に並んだ姿だったのですが…。
 家に帰って,写してきた写真をコンピュータに取り込んで拡大しながらずっと眺めました。まず,かろうじて水星を見つけました。その位置から探していくこと30分,どうにか月を探し出すことができました。単なる自己満足ですが,それはそれで,やり遂げた感がありました。それが今日の3番目の写真ですが,果たして月がおわかりになるでしょうか?
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 ところで,水星,火星,木星,土星と4つの惑星が明け方の空に並んでいるのですが,残る金星はどこにいっちゃったのでしょうか。
 そう,金星は,夕方の空高く,ひときわ明るく,まるで孤独を楽しむかのように,4月1日の「東方最大離角」を目指して,輝いているのです。そして,その近くには天王星も寄り添っていることは,すでにブログに書きました。なお,海王星は水星と太陽の間にあって,3月22日は月よりさらに高度が低く,つまり太陽に近く,現在は望遠鏡を使っても,まったく見ることができません。
 次の日は新月なので,これで惑星と月を追いかける日々は終わりです。

☆ミミミ
今後は,明るくなるという前評判がどんどん高くなりつつあるアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)を追いかけたいと思います。写真は3月23日に写したアトラス彗星ですが,すでにかなり明るくなって,尾も見えはじめました。

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◇◇◇

DSC_4246s 2020-03-06_08-35-04_9002020-03-06_08-35-20_000 (4)DSC_4282 2020-03-06_08-24-42_669 2020-03-06_08-24-32_100 2020-03-06_08-47-38_604 2020-03-06_09-04-40_300 2020-03-06_09-09-56_700 2020-03-06_09-19-04_600

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 余部に着きました。
 私が余部鉄橋を見たかったのは40年ほど前の思い出をなぞるためだけでした。私は,こんな不便なところまで鉄橋をわざわざ見にくるような人がそれほどいるとは思えず,行くのも恥ずかしかったのですが,予想に反して? 余部鉄橋を見にくる観光客がかなりいるようでした。道の駅があったのですが,そこにはかなりの広さの駐車場がありました。

 現在,建て替えられた余部鉄橋は,餘部駅のホームへ行くためにエレベータが作られていて,朝6時から使用できました。
 私が到着したのは午前8時15分ごろでしたが,まだ,道の駅の売店は開いていなかったので,広い駐車場にはほとんど車はありませんでした。道の駅の駐車場に私は車を停めて,まず,餘部駅のホームに行こうと外に出ました。
 道の駅に鉄道の時刻表が張ってあったのでちらりと見ると,8時17分発の列車があるのに気づきました。今まさにちょうど8時17分でした。この列車を逃すと,次の列車は9時台にはなく,10時過ぎにしか時刻表には数字がありませんでした。それ以上のことをしっかり確認する余裕もなく,慌ててエレベータのある所まで走って行って,エレベータに乗りました。しかし,鉄橋の上に到着したときには列車はすでに行ってしまったところで,とても残念に思いました。せめてあと2,3分早く来ればよかったと後悔しました。

 気を取り直して,鉄橋の上の展望台を散策することにしました。
 新しいほうの余部鉄橋は,当然現役なので,レールがトンネルまで続いています。それと並行に,昔レールがあったほうが餘部駅に向かう通路兼展望台となっていて,その歩道を新しい橋に沿って西側に歩いて行くと展望台は終わり,そこに,無人の餘部駅がありました。
 待合室に時刻表があったので改めて確認してみると,私が道の駅で時刻表で見た8時17分の列車は東に向かう上りで,なんと下りの列車が8時38分にありました。何度も見直しました。なんという幸運! うれしくなりました。しかも,下り列車なので,列車は東側のトンネルから出て鉄橋を渡ってホームにやってきます。
 これを逃すと,その次の列車は11時5分でした。わざわざせっかく遠い道のりを走ってここに来たのだから,列車が通る姿をぜひ見たいものだと思っていたのが実現しました。
  ・・
 しばらく待っていると,トンネルから列車の灯りが見えてきました。列車は鉄橋を渡り,やがてホームに停車しました。列車には数えるほどの乗客しか乗っていませんでした。
 もしコロナウイルスが流行しないで大阪で大相撲を見ていたら,私は大相撲を見たその翌々日に,大阪から足を延ばして,この時間の下り列車に豊岡から乗ってこのホームで降りて,次の10時43分の上り列車に乗って家に帰ることにしていたのを思い出しましたが,その時間を忘れていました。
  ・・
 山陰本線に使用されている列車の色は鉄道マニアには「タラコ」とニックネームでよばれる朱色5号,慣用「柿色」のキハ35系です。この色はディジタルの16進表記では「#CA4F3C」です。
 この色は塗装工程の簡略化を狙ったもので,1975年(昭和50年)に大宮工場で相模線のキハ10系に試験採用したのが最初です。首都圏の線区からはじまったことから首都圏色という通称でよばれていましたが,登場時期が国鉄末期と重なったこともあり,十分な車体洗浄がなされなかったことと色自体が褪せやすかったことで評判はよくなく,卑称として「タラコ」色とよばれ、退色がすすむと「焼きタラコ」と揶揄されました。やがて国鉄が民営化され,ローカル線のイメージアップのためにカラーリングが採用されるようになると,ほとんど姿を消しましたが,JR西日本の米子支社は今も使い続けています。

 列車を見終えて,地上に降りました。
 次に海に向かいました。この季節の日本海は非常に波が高く,恐ろしいほどでした。このあたりはカニ漁で有名なところです。この小さな集落のすこし東には香住(かすみ)という町があって,そこはカニ料理で有名な旅館がたくさんあります。
 関西では香住漁港にだけ水揚げされるベニズワイガニを「香住ガニ」とよびます。 養分が豊富な海洋深層水で育ったカニは身が詰まり甘味が強くみずみずしいので,茹でガニだけでなく鍋,焼きガニ,カニ刺しなど松葉ガニ同様さまざまな調理法で味わえます。また, 松葉ガニに比べて9月から翌年の5月までと漁期が長いのが特徴です。 香住ガニは,生息域が800メートルから1,500メートルと深く,底引き網が届かないため,餌を入れたかごを海底に沈めるカニかご漁で獲られます。
 私は,この海を見ながら,先日行った高知県の足摺岬を思い出しました。ともに漁港ですが,どう考えても,温暖な高知県のほうが住みやすそうに思えました。いろんなところに行ってみると,どんなに自然が過酷でも,それなりに人が住んでいるのが不思議でなりません。ハワイのモロカイ島もまたそうでしたし,アイスランドもそうでした。しかし,高知県は温暖だといっても,夏になると台風が襲うし,どこに住むのが優れているということは一概にはいえません。どこに出かけても,人が生きるって大変だなあと,いつも考えさせられてしまいます。

 海を見てから,道の駅が開くにはまだ少し時間があったので,近くあった地元の古びた喫茶店に入りました。そこには常連客のおじさんたちがたむろしていて,めったに外来の人なんて入らない雰囲気でした。私の入りこむ余地はありませんでしたが,私はこういうところは嫌いではありません。お金を払う段になると,レジが壊れていてなかなか会計ができません。こんな一元さんなんて滅多に来ないのでしょう。
 喫茶店を出ると,道の駅のレストランが開店していたのでお店に入って,朝食を兼ねて香住カニバーガーを注文しました。私はこうして,40年前に一度渡った余部鉄橋のかかる,念願の余部という集落の土を踏むことができたのでした。

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 余部(あまるべ)鉄橋は正式には余部橋梁といいます。兵庫県美方郡香美町香住区余部,JR西日本の山陰本線鎧駅 と餘部駅間にある単線の鉄道橋です。
 初代の橋梁は鋼製トレッスル橋 -末広がりに組まれた橋脚垂直要素を多数短スパンで使用して橋桁を支持する形式の橋梁- でした。1912年(明治45年)3月1日に開通し,2010年(平成22年)7月16日夜に運用を終了しました。現在のものは2代目。エクストラドーズドPC橋 -あらかじめ応力を加えたコンクリート材=プレストレスト・コンクリート(Prestressed Concrete=PC) を使用した橋梁のうち主塔と斜材により主桁を支える外ケーブル構造による形式のもの- で,2007年(平成19年)3月からの架け替え工事を経て,2010年(平成22年)8月12日から使用がはじまりました。 
 私が40年ほど前に鉄道に乗って通ったのは,古いほうの橋梁です。
  ・・
 余部鉄橋は,日露戦争後,山陰本線の東側の区間を全通させるために作られました。香住と浜坂の間は山が海に迫っていて海岸沿いに線路を通すことが不可能で,香住と浜坂の両方から桃観峠を頂点として登っていくしかなく,その途中の余部に300メートルあまりの長く深い谷間があったとしてもそれを回避するわけにはいかず,この谷間を越えて線路を通す必要があったのです。
 1986年(昭和61年)ということなので,私がこの橋を渡った後のことですが,12月28日,香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車が日本海からの最大風速毎秒約33メートルの突風にあおられ,客車の全車両が台車の一部を残して橋梁中央部付近より転落しました。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し,工場は全壊,民家は半壊し,工場の従業員だった主婦5人と列車に乗務中の車掌1人が死亡するという痛ましい事故でした。この事故もひとつの契機となって,新しい橋梁がつくられたわけす。
 このニュースを聞いたとき,私はどうやって古い橋梁から新しい橋梁に入れ替えたのだろうという疑問を持ちましたが,今回行ってみて,道の駅の一部にあった博物館ににそのときの工事の様子が説明されていて,その謎がやっと解けました。

 かつて余部鉄橋が完成した当時は,余部には駅が存在していませんでした。近隣の住民は,最寄の鎧駅まで列車の合間を縫って,橋梁,トンネル,線路を歩いて向かわなければなりませんでした。
 1955年(昭和30年)から繰り返された陳情の結果,1959年(昭和34年)に駅の設置が決定され,余部に駅ができましたが,1930年(昭和5年)に開業した姫新線に「余部」(よべ)という名前の駅がすでにあって,名前の重複を避けるために,駅の名前だけが「餘部」(あまるべ)となっているのです。

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 高瀬川を北上して,左折して,平安神宮に向かいました。
 平安神宮は,1895年(明治28年)平安遷都1,100年を記念して,実際に平安京の大内裏があった千本丸太町に朱雀門の一部復元が計画されましたが用地買収に失敗し,現在の平安神宮の地に実物の8分の5で復元され,平安遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀されたものです。
 平安神宮もまたほとんど人がおらず,閑散としていました。平安神宮の南にある岡崎公園は,あと2週間もすれば桜が咲き,赤い鳥居とともに,極めて美しい,京都らしい景色となります。
 今日の1番目の写真は2016年の春に写したものです。今年はどうでしょうか? 写真では全くわかりませんが,2016年にこの写真を写した日,午前中は暖かく,かつ,快晴で,すばらしい春の陽気だったのですが,実は,その日は午後になって黄砂が押し寄せ,空は灰色,車は泥だらけに急変しました。
 私は,そのとき,はじめて黄砂のおそろしさ,かつ,おぞましさを身に染みて感じました。それ以来,日本の春といえば,桜咲く季節というよりも,黄砂の押し寄せる不快な季節というトラウマに襲われるようになりました。

 この日は,このころから天気が悪くなって,本格的に雨が降ってきました。もう少し閑散とした京都を味わいたかったのですが,早々,帰宅することにして,車を停めてあった高台寺に急ぎました。
 途中で通った知恩院の駐車場,ここは大型観光バスの駐車場として,普段は多くのバスが停まっているのですが,バスは1台もなく,係の人も手持無沙汰のようすでした。
 高台寺の駐車場から少し南に行くと三年坂があります。少しだけ寄ってみました。
 三年坂は正式には 産寧坂といいます。「産寧坂」は,この坂の上の清水寺にある子安観音へ「お産が寧かでありますように」と祈願するために登る坂であることから「産寧坂」とよばれるようになったとか,清水寺に参拝した人がこの坂道を通る際に念願をし,願いがかなうとお礼に再度お参りするときに通る坂であることから「再念坂」とよぶようになったとかいわれます。「三年坂」で転ぶと三年以内に死ぬとか,転べば三年の寿命が縮まるいうのは和歌山市の三年坂通りのお話です。
 三年坂は,狭義には音羽山清水寺の参道である清水坂から北へ石段で降りる坂道のことですが,公式には北に二年坂までの緩い起伏の石畳の道も含みます。近くには,八坂神社,円山公園,高台寺,法観寺の八坂の塔,清水寺があるので,普段は観光客でごった返していて,沿道は土産物店,陶磁器店,料亭などが並んでいます。しかし,この日は,ここもまた,閑散としていました。
 私は一軒のお店でぬれおかきを買いました。「普段は混雑しているので敬遠していたのですが,今は空いているというので久しぶりに来ました」というと,店員さんは「日本の方はみなそう言わはります」と応えました。
  ・・
 帰りは,京都東インターチェンジまで,走りにくい国道1号線をいつものようにうだうだと走り,京都東インターチェンジで名神高速道路に乗り草津からは新名神高速道路に乗り替えて,家路につきました。
 

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 何がすばらしいかといって,明け方,太陽が昇る前の夜空ほどすばらしいものはほかにありません。それに比べたら,太陽が顔を出した後の世界は,たとえは悪いのですが,何か悪夢を見ているかのようです。特にこのごろは世界中が耐え難い不安に包まれています。
 今回とはまったく原因は違うのですが,リーマンショックのときの株価や為替の変動は,今とそっくりでした。あのときもまた,多くのマスコミや政治家やアナリスト,そして無責任なワイドショーのコメンテーターたちが言っていたことはまったくあたらず,冷静な少数の人たちの声なき声が語っていたように相場は動いていきました。おそらく今回もまた,そのときと同じ動きをするのでしょう。
 現在は,どんな対策を打ち出そうとそんなことには関係なく,まるで底なしの泥沼に土をくべていくような感じに思えます。であっても,多くの人が飽き飽きしてきたころになると,やっと入れていく土の量が泥を凌駕してすべてが解決するのです。そのころには,人々は今の危機的状況を忘れすっかりもとの生活に戻って,また,懲りもせず浮かれはじめるのです。
 私は,リーマンショックのとき,つくづくそう感じました。長く生きていると,世界はこんなことの繰り返しだということだけはわかってきました。

 さて,星空のお話です。
 明け方の空には,火星,木星,土星がずっといて,動きの速い -それは地球に近いからですが- 火星がほとんど位置のかわらない木星と土星の間を駆け抜けています。そして,火星よりもまたずっと動きの速い月がそれらを追い抜きながら,姿を変えていくので,それらの姿を毎日眺めていても,決して見飽きるものではありません。
 3月19日の早朝は,木星に接近した火星と,その間を縫って高度を下げた月が土星に接近して,月と3つの惑星を同時に写真に収める構図の写真が撮れるという状況になりました。
 月が昇るのは3時10分過ぎだったので,2時過ぎに東の空の開けた場所に向かいました。

 到着したときはまだ早く,月が昇るまで,アトラス彗星(C/2019 Y4 ATLAS)がM81,M82 銀河に接近しているというので,それを写しながら待ちました。
 やがて,東の空にいつの間にか月が姿を現しました。この朝はあまり大気が澄んでいなかったので,昇ったばかりの月は真っ赤で,その隣にあるはずの土星はなかなか肉眼では見えませんでした。20分くらい待って,月の高度が高くなると,土星も見えてきて,火星,木星,土星と3つの惑星と月,そして,背景に地上も入る角度の写真が写せるようになったときに撮ったのが,今日の1番目の写真です。
  ・・
 2番目の写真は,先に書いたアトラス彗星とM81,M82銀河を同時に収めた写真です。銀河を一緒に収めるために画角の広い180ミリ望遠レンズで写したので,彗星が暗くしか写っていないのが残念です。
 このアトラス彗星ですが,当初の予想からは大きくはずれ,3番目のグラフのように,このところの光度上昇の変化の度合いから,来月4月末には0等星,そして,5月末にはマイナス25等星といった,とんでもない予想がたちはじめました。おそらくそこまで明るくはならないでしょうが,久々の大彗星が見られるかも,といったうわさも聞こえはじめました。
 彗星は,軌道は決まれど,彗星本体がどれほどの大きさであってその組織がどうなっているかがわからないので,太陽に接近したときにどのくらい明るく輝くかという光度の予想は常に水モノです。多くの場合は期待外れに終わりますが,まれに大化けします。さて,今回はどうでしょうか?
 このまま順調にいけば,次第に太陽に近づいていって見えなくなる5月20日ごろまで,しだいに明るく大きくなっていって,北西の夕方の空に尾をひいた彗星が肉眼でも見られるようになることでしょう。

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☆☆☆
次の写真は3月20日午前5時20分の東の空です。昨日とはうって変わって,とても澄んだ空でした。月齢は25.2。月の位置がずいぶん変わったことがわかるでしょう。地平線ぎりぎりには水星も昇ってきました。

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 30代のころ,京都の魅力に気づきました。そして,それ以来,毎月のように,ガイドブックを手に京都に行きました。今でもそのときのガイドブックを使っているのですが,このごろの本とは違って,グルメだかとか土産だとかばかりが大きな写真で彩られたものではなく,細かい文字で京都の文化やら歴史が詳しく書かれてあるので,内容が陳腐化しません。
 今は,京都の「見どころ」にはすべて行ったので,特にぜひどこに行こうということもなくなって,目的ももたず京都の町を散策するようになってきました。それにしても,近年は人が多すぎて,そうした楽しみすらなくなっていたのですが,この日は,以前の気持ちに戻ることができました。

 なんとなく歩いていて,私が最も好きなのは高瀬川界隈です。祇園白川から西に,三条大橋を渡ると,いつも出会うのが「佐久間象山,大村益次郎遭難の碑この先」と書かれた石碑です。その橋のたもとを高瀬川に沿って北に行くと,遭難の碑があります。
 高瀬川というのは,江戸時代の初期に角倉了以・素庵父子によって京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河で,1920年(大正9年)までの約300年間にわたって,京都と伏見の間の水運に用いられました。大阪から淀川を使って運ばれてきた荷物は,伏見で一度おろされるとその日のうちに高瀬舟に積み替えられ,高瀬川を上り京の都へと運ばれていました。
 高瀬舟というのは,日本各地で使われていた底が平らな川舟です。高瀬川には,かつては多くの舟入,船回しとよばれる回転場所がありましたが,今は一之舟入にそのものが残されています。

 私がはじめて「高瀬舟」あるいは「高瀬川」という言葉を知ったのは,森鴎外の短編小説です。森鴎外の短編小説「高瀬舟」は1916年(大正5年)に発表された作品で,江戸時代の随筆集「翁草」の中の「流人の話」をもとにして書かれました。
  ・・・・・・
 京都の罪人を遠島に送るために高瀬川を下る舟に弟を殺した喜助という男が乗せられます。護送役の羽田庄兵衛は,喜助が晴れやかな顔をしていることを不審に思い訳を尋ねると「これまで毎日の暮らしにも困っていたのに島流しになって二百文をもらえたので嬉しい」「兄弟を殺したのは自殺に失敗して苦しんでいたところを死なせてやったので後悔していない」と答えます。
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 森鴎外はこのエピソードを掘り下げ,「病気で苦しんでいる人がいるとき,いつか死んでしまうなら苦しみを長引かせずに死なせてやりたいという情は必ず起こる」とし,「安楽死」について問うのです。

 また,一方,私は,後年,司馬遼太郎の「花神」で,幕末,刺客に襲われた大村益次郎が高瀬川を下る船に乗せられて大阪に運ばれたことを読みました。高瀬川のしずかな流れを見ていると,このときの,船に揺られて大阪にむかう大村益次郎の無念さを思い起します。
 高瀬川に沿って歩いていると「幾松」という料亭があって,幕末に対する想いをさらに深めます。幾松というのは桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人であり,のちに正妻となった木戸松子のことです。この料亭は木屋町にあった寓居の跡にあります。
 今回,私はこの場所をしばらくぶりに歩きましたが,また,いろいろな想いがよみがえってきました。しかし,この先,新型コロナウィルスの流行が収まって,再び,そんな歴史をまったく知らない多くの観光客がもどってきてごった返すようになると,静かにこうした想いを味わいながら散策することもできなくなるのかなと思うと,さびしい気持ちがしました。

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 以前は京都は奈良に比べて無料の駐車場がたくさんあったように思うのですが,それもこれも過去のことになりました。
 話は脱線しますが,野茂英雄投手がメジャーリーグに挑戦したころは,メジャーリーグのチケットも安く,また,多くのボールパークでは駐車場も無料でした。しかし,このごろは,チケットも異常に高くなりましたし,駐車場の料金なんてその高くなったチケット代以上もするようになりました。
 日本もアメリカも,ともに今から40年くらい前を思い起こせばいい時代でした。それに比べたら,何もかも金,金,しかも人だかりで,旅をしても楽しくなりました。

 話を戻します。
 この日,私は城南宮を出て,高台寺の駐車場に車を停めました。ここは比較的安価な駐車場です。城南宮から北に,東大路通を走ってきたのですが,いつもなら全く車が動かない東大路通も空いていて驚きました。
 通称「ねねの道」と,いつの間にかよばれるようになった高台寺前の小路を歩いて北上し,祇園に向かいました。「ねねの道」もまた,何ということでしょう。ほとんど人は歩いていませんでした。
 「ねねの道」は,祇園八坂神社の裏にある円山公園から高台寺,そして,清水寺の方面へと散歩が楽しめる道です。途中には石塀小路に立ち寄る事もできるので人気の場所です。その昔人が少なかったころは,本当にすてきなところだったのですが,そのころの雰囲気が,この日はよみがえりました。

 花見小路に着きました。ここもまた,外国人は姿を消し,異様なほど人が少ない状態でした。「私道で写真を写さないように」とかいう看板が至る所にありましたが,いったい「私道」とは何なのでしょうか? そもそも,花見小路は「私道」ではありません。つまり,これは外国人がやたらと路地に入り込んだり,お茶屋に入り込んで写真を写さないようにと,困った住民が知恵を絞って作った看板だそうです。「外国人には私道も公道もわからないじゃないか」という理屈らしいのです。罰金1万円と書かれてありましたが,当然,法的根拠はありませんし,徴収する気もないそうです。
 京都に春の到来を告げるのは「都をどり」です。花見小路を南に下ったところには祇園甲部歌舞練場があって,例年,舞妓さんたちの艶やかな舞踊を目にすることができます。私もこれまで2,3度見たことがあります。しかし,今年は中止のようです。
 さて,私は,祇園に来ると立ち寄るお店があります。それは「京きなな」というアイスクリーム屋さんです。花見小路から1本入ったわかりにくい場所にある名物店です。開店5分前,4人連れの卒業旅行の女性たちの先客がいました。ここもまた,普通なら並ばないと入れないお店です。

 「京きなな」を出て,さらに花見小路を北上して,祇園白川から平安神宮へ歩いて行くことにしました。ここもまた,異常なほど人がおらず,結婚式の写真を写しているカップルが3組ほどいるだけでした。私が歩いた新門前通は巽橋や辰巳大明神などで知られる新橋通の一筋北にあたります。知恩院の門前町として栄えた町並みは今も風情を残していて,私は祇園といえば,むしろこの辺りのほうが好きです。

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 城南宮は京都市伏見区にある神社です。平安遷都の際に国常立尊を八千矛神と息長帯日売尊を合わせ祀って創建されたといいます。平安京の南にあることから「城南宮」と称します。後代,京都御所の裏鬼門を守る神となったことから,方除けや厄除けの神としても信仰されるようになりました。
 幕末の1863年(文久3年),孝明天皇の攘夷祈願の行幸があり,また,新政府軍の掲げる錦の御旗の前に旧幕府軍が総崩れとなった1868年(慶応4年),鳥羽伏見の戦いの主戦場となったことでも有名です。
  ・・
 鳥羽伏見の戦いで掲げられた錦の御旗というのは,1867年(慶応3年)薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が岩倉具視に委嘱された物で,岩倉具視の腹心・玉松操がデザインして大久保利通が京都市中で大和錦と紅白の緞子を調達し,半分を京都の薩摩藩邸で製造,もう半分を品川弥二郎が長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげたというもので,岩倉具視の策士たる所以のたまものです。 
 これを掲げた新政府軍は「官軍」となり,旧幕府軍は「賊軍」となってしまったわけです。日本らしいお話です。これ以来「勝てば官軍」といいます。
 本殿に向かって正面にある赤い鳥居は変わった様式で,城南宮鳥居とよばれ,柱下に饅頭があり棟の部分に島木・笠木を重ねさらに屋根を葺いていて,その島木の正面中央に神紋の金具が打たれています。

  ・・・・・・
 つたへ来る
 秋の山辺のしめの内に
 祈るかひあるあめの下かな
   後鳥羽上皇
  ・・・・・・

 城南宮に寄ったのはしだれ梅がきれいなところだということからでした。まったく車が停まっていない駐車場に車を停めました。
 梅神苑は有料で,お金を払っては中に入ったのですが,梅はすでに散っていて,ほとんど見ることができませんでした。私のほかに中にいたのは小さな子供を連れた若いお母さんだけでした。
 この梅神苑には,冬に300本の椿が花開きます。椿の季節もすでに終わっていましたが,この時期は苔の上に落ちた「落ち椿」を見ることができました。
 私が城南宮に行ったのは午前9時30分頃だったのですが,午前10時から梅が枝神楽というものが行なわれるということで,待ちました。これは,神楽殿の表舞台で梅の花を冠に刺した巫女が梅の枝を手に持ち神楽を舞うというものですが,集まったのは私を含めてわずかふたり,今年の京都が空いているといっても,これはあまりに寂しいことで,巫女さんが気の毒でした。

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 コロナウィルス騒動が続いていますが,気がつけば3月,もう春です。そしてまた,3月も満月が過ぎて,星見の時期になってきました。
 私は人混みがきらいだし,スポーツジムもライブハウスも無縁で,誰も人がいない空の広い,そして暗い場所で星空を眺めるのがもっとも落ち着きます。しかし,こんなものが流行してしまうと海外旅行をする気にならないのだけが誤算です。
 現在,夕方の西の空に「宵の明星」とよばれる金星が高く輝やいています。実はその近くに天王星がいるのですが肉眼ではまず見えません。そこで,3月12日の夕刻は天気がよかったので,金星と天王星を同じ画面に収めようと,画角を調べてみると180ミリ望遠レンズなら一緒に撮ることができることがわかったので,そのレンズを持って,日没を待って写しにいきました。

 子供の頃,惑星の名前を「水・金・地・火・木・土。天・海・冥」と覚えました。今は冥王星は惑星の座から降りた(降ろされた)ので「水・金・地・火・木・土。天・海」です。
 これを英語では,
 My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas.
というように,惑星のスペリングの先頭の文字で覚えるのだそうです。ちなみに,
 水星=Mercury
 金星=Venus
 地球=Earth
 火星=Mars
 木星=Jupiter
 土星=Saturn
 天王星=Uranus
 海王星=Neptune
 冥王星=Pluto
です。しかし,冥王星を抜いてしまうと文書にならないので,新たな覚え方というのが発案されたそうです。
 それは,たとえば
 My Very Educated Mother Just Served Us Nachos.
 My Very Educated Mother Just Served Us Noodles.
の類ですが,最後の「Nine Pizzas」を別のモノに変えただけです。
 
 さて,水星から土星までは明るく,簡単に肉眼で見ることができるのですが,天王星と海王星は暗いので,簡単には探せません。とはいえ,天王星は意外と明るく,理屈では肉眼で見られないこともないのですが,海王星となるとお手上げです。たとえ,天王星や海王星を位置を調べて望遠鏡の視野に入れても,小さな望遠鏡では単に恒星のようにしか見えないので,それが天王星や海王星なのかはなかなか区別がつきません。そこで,金星が近くにあると,星の並びから容易に探しだせるというわけです。
 ということで,今日の1番目の写真は,この晩に写したものです。
 ちなみに,2017年1月12日に金星は海王星と接近しました。そのときに金星と海王星を同じ視野に入れて写したものが,今日の2番目の写真です。
  ・・
 この晩はこれで目的を果たしたので早々に帰ろうと思ったのですが,せっかくなので,機材を入れ替えて,いつもの望遠鏡でパンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)も写してみました。それが3番目の写真です。この彗星は7月ごろまではまだ今よりも少し明るくなる予報なので,まだまだ写すことができます。
 また,この晩は写しませんでしたが,アトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)が5月ごろに,ずいぶんと明るくなるという予報が出ています。ひょっとしたら大化けするかもしれません!
 それに加えて,3月18日から19日にかけて,明け方の東の空に,火星と木星と土星,それに加えて月が大接近するので,今から楽しみです。午前3時30分ごろ,東の空が開けたところなら,3つの惑星と月が同じころに昇ってくる姿が見られます。晴れるといいなあ。

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私は,星を見ていると,もののスケールや時間のスケールがいつも気になりますが,多くの人はそういうことをほとんど考えません。たとえば,今流行しているコロナウィルスですが,愛知県で感染者が100人といっても,愛知県の人口は750万人あまりだから,感染者は7万人に1人。日本中では感染者が1,500人弱で日本の総人口は1億3,000万人弱なので,10万人に1人ほどです。これは,「年末ジャンボプチ」の1等1,000万円に当選するのと同じくらいの確率です。ちなみに,コロナウィルスほど騒がれませんが,2018年9月第1週から2019年2月第2週までのインフルエンザの累積予想患者数は10,448,891人(約1千万人)でした。
また,マスクを買うのに行列を作っていますが,私はこのご時世,人混みで行列を作っていることのほうがずっと危険だと思うのです。実際,マスクの目の大きさは約5μm,それに比べて,コロナウイルスの大きさは0.05μmから0.2μmで約50分の1ほどなので,マスクの目をすり抜けます。しかし,ほとんどの人は,こうしたことをまったく知りません。マスク洗って何度も使っているいる人,マスクを汚いポケットにしまったり,テーブルに置きっぱなしにして食事をしている人さえいます。屋外や車の中のように,マスクが必要でない場所で貴重なマスクを無駄遣いしている人もいます。さらに,マスクを顎に下げて,コロナウイルスよりよほど有害なタバコを吸っている人もいます。マスクを市販の布で自作している人もいますが,マスクはマフラーとは違います。目の粗い布で作っても,それは,形がマスクであるだけで,マスクの機能をみたさなけば意味がありません。それはたとえば,「倍率100倍の双眼鏡!」のような,双眼鏡の形をしているだけのマガイモノのようなものと同類です。
スギ花粉はマスクの目よりもずいぶん大きくて20μmなのでマスクで侵入を防げるのですが,正しくマスクを使わない人がマスクを買い占めることで,気の毒にも花粉症でマスクが本当に必要な人や,医療従事者のようにマスクの必要な人の手にゆきわたらないということにもなっています。
ちなみに,政治家など言わずもがな,「情報の信ぴょう性」を指導しなけらばならない教育者や「正しい情報の伝達」を最も重視しなけらばならない報道関係者でも,こんなことすら知らない人がいます。また,そうした人に限って,正しい使い方を知らず教えず単にマスクの着用をよびかけたりしているのは,「偏差値」の正しい意味も知らずに進路指導をする教師同様,きわめて嘆かわしい話です。
無題

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 ここ数年,あまりの外国人観光客の多さでまったく行く気を失くしていた京都ですが,新型コロナウィルスの流行で外国人観光客が途絶えたから空いているよという噂を聞き,それが本当か知りたくなって,確かめてくることにしました。
 京都など,道路が空いていれば自宅から車でほんの1時間30分程度なので,月に数回,星見のために山や海に行くより近い場所なのです。しかし,私は日本では車を利用する旅行をしたくないので,よく京都に行っていたころは,もっばら在来線を使ってゆらゆら2時間以上かけて行きました。しかし,今の時期は特別です。公共交通機関は使いたくないので,もっぱら車移動,ということで,3月11日,早朝に家を出て,車で京都に向かいました。
 名神高速道路を使おうと,新名神高速道路を使おうと,どちらであっても草津からは同じ道です。京都が渋滞するのは,大津インターチェンジを過ぎてトンネルに入ってからの高速道路が急に狭く感じられることと,というのは緊急停止用の路肩が狭くなることですが,そして,トンネルを出るとその先に京都東インターチェンジがあって,この渋滞がトンネルの出口まで迫り1車線が使いものにならなくなって動かないので,京都東インターチェンジで降りない車が追い越し車線に車線変更するためにごった返すからなのです。また,京都東インターチェンジで降りるにせよ,京都南インターチェンジで降りるにせよ,その先の京都市内までの道路が走りにくいことが,さらに京都市内に入るのに難儀な原因に輪をかけることになります。特に,京都東インターチェンジから先の国道1号線の走りにくさはいやになります。その昔から,逢坂の関があったあたりは山が迫り,平地がなく,今でも上洛,いや,東から京都に行くには関所のようなところです。
 そんなわけで,電車を利用しても,車を利用しても,京都に行くには,大津で降りて,あるいは車を大津市内の駐車場に入れて,大津からは京阪電車と地下鉄を使って,直接京阪三条まで行く方がずっと楽なのです。JRの京都駅にたどり着いても,今度は京都駅から京阪三条までがまた渋滞して時間がかかるのも,これで緩和できます。しかし,今回は,電車を利用する気はなかったので,車でそのまま京都まで行って京都南インターチェンジで降りたのですが,道路も空いていて,難なく行くことができました。観光バスがいないからでしょう。

 これまでさんざん京都には行っているので,今回特に行きたい場所というのもなかったのですが,目的は京都が本当に閑散としているかの様子見だったということで,まずは京都南インターチェンジの近くにある城南宮へ寄って,そのあと,祇園に向かうことにしました。1年中人が歩けないほど混雑している花見小路が今はどうなっているかをこの目で見たかったわけです。
 結果を先に書くと,この時期の京都は,梅には遅く桜には早い,といういわば穴場の時期には違いないのですが,それでも,これほど観光客のいない京都に驚きました。確かに今から40年も前の京都はそれはそれは落ち着いたいい町でしたが,そのころに舞いもどったような感じがしました。
 しかし,大きく変わってしまったのは,いろいろなところにあった無粋な立て看板でした。やれ,無断で写真を撮るな,とか,街歩きのルールだとか,要するに,道徳心のかけらもない輩が大挙して押しかけてルールもへったくれもなく京都を荒らしまわったその戦禍・痕跡が至る所にあって,私は嘆かわしくなりました。
 いずれにしても,2020年の春の京都は,今後二度と訪れることのない静寂に満ちた季節になるだろう,嵐山の花見の宴のあとのごみの山がないだろうと思うと,この機会を逃すものかと思ったことでした。私は,桜の下でどんちゃん騒ぎをするような「お花見」は好みません。満開の桜の下,人の少ない屋外を散策するのが最も安全です。
 早く桜,咲かないかなあ…。今年の満開の予想は3月26日から29日です。

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 そんなことで,予定が空いてしまいました。しかし,家にいても手持ち無沙汰です。だからといって,電車に乗る気持ちにもなりません。もともと私は人混みが嫌いだし,スポーツジムにもライブハウスにも無縁です。楽しみは,人のいない場所で星を見たり,観光地ではない旧街道を歩くこと。そこで,いつもなら車で日本国内の旅などしたくないのですが,この時期に限っては,車で遠出をすることになりました。
 ということで,天気がよいという予報だった3月6日,私は,取りやめにした余部への旅を車で日帰りですることにしました。自宅から余部までは車で300キロメートル,4時間30分ほどかかるようでしたが,おそらく,今の時期は道路もさほど渋滞はしていないように思いました。
 私は,アメリカやオーストラリアを長距離ドライブすることに慣れていて,1日に1,000キロメートル走るくらいどおっていうことはありません。ただ,日本を走っても楽しくないと思っているだけですが,今は例外です。片道4時間30分ということなら,早朝午前4時に出発すれば,午前9時前には到着できます。帰りに豊岡と福地山へ寄っても,日帰りで行ってくることができそうでした。そこで,午前4時に家を出ました。

 早朝の道路はトラックばかりですが,これも,星見に行くときに走るので慣れっこです。そのまま東名高速道路を走り,米原から北陸自動車道に入りました。唯一心配だったのは雪でしたが,この日は大丈夫そうでした。敦賀からは舞鶴若狭自動車道に入れば舞鶴まで自動車専用道路があるようでした。
 私は日本で長距離を運転することもほとんどないので,新しくできた道路がどうなっているのか皆目見当がつきません。そのわかりにくさに輪をかけているのが,道路の名前のつけ方であり,工事中の道路です。どこまでできているのか,どこがどうなっているのかさっぱりわからないのです。カーナビもまったくあてになりません。アメリカならインターステイツの番号だけで簡単に走れるのに,これもまた「能力と発想の限界」きわめて日本らしき姿です。もっともあてにできるのが iPhone にインストールした GoogleMaps なので,それを信じて走っていきました。
 こうして私は予定通り,4時間余りで余部に到着しました。

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 新型コロナウィルスの流行がさまざなな影響を及ぼしています。
 私は2020年大相撲大阪場所の10日目のチケットを手に入れたので,今年もまた,大阪場所を観戦するのを楽しみにしていましたが,それもなくなってしまいました。
 今年は,大阪場所を観戦したあとで,念願だった余部鉄橋を見にいくことにしていました。これは,このところ実行している「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画のひとつでした。
 以前,このブログに次のように書きました。

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 私は,大学3年生の秋,はじめてひとり旅をしました。目的は山陰地方一周でした。
 当時は,もうJRだったかまだ国鉄といっていたか覚えていませんが,のどかな時代で,周遊券というものがありました。
 まず,名古屋からJRだか国鉄だかの電車に乗って,単線の山陰本線を西に西にと進みました。そして,名所ごとに降りて,その地方の観光をし,ユースホステルに宿泊していくのです。そのなかで私が最も印象に残っているのは,余部鉄橋というところでした。
 私は,余部鉄橋なるものをこのときはじめて知りました。鉄橋に差し掛かると案内放送がかかりました。車掌さんがこんなサービスをすることも知りませんでした。そして,こんなところがあるのかと驚きました。電車の窓から見ると,かなり危険なところのように思えました。後で知ったことに,やはり,この鉄橋ではそれまでいろんな事故が起きていたようです。
 今は新しい鉄橋に建て替えられたようですが,それ以来一度もそこに行ったことがありません。
  ・・・・・・
 私が余部鉄橋を通ったと帰ってから当時存命だった父親に話したら「あそこは危険だ事故が起きている」と言ったのでそう覚えていて「いろんな事故が起きていたようです」と書いたのでが,実際は私が通った40数年まえまでは,事故は起きていませんでした。

 この余部(あまるべ)というところに行ってみたくなったのです。
 調べてみると,余部鉄橋のある兵庫県美方郡香美町香住区余部は,日本海側にあって,もう少し西に行くと鳥取市です。私は,もっと京都に近いと思っていただけに,意外と遠いところだなあ,と思いました。どうやって行けばいいのだろうとずいぶん考えましたが,どうやら大阪から行くのが近そうでした。そこで,大相撲大阪場所にいく機会を利用しようと考えたわけです。
 折しも,NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で,明智光秀ゆかりの地が脚光を浴びていますが,今回もまた,私は,だからというわけではなく,偶然,明智光秀の居城だった福知山城にも,一度行ってみたいと思っていたので,余部に行く途中のこの福知山にも寄ってみることにしました。
 さらに調べてみると,大阪難波から福知山までバスがあることがわかりました。また,福知山から余部までの間に豊岡というコウノトリで有名なところがあることも知りました。そこで,大阪場所が終わった日,夕食後に難波から福知山までバスに乗り,福知山で1泊,翌日は福知山を半日観光してからJRに乗って豊岡に行き,コウノトリを見てから豊岡で1泊,最終日の朝余部へ行って,余部からJRを利用して京都経由で帰宅するという計画を立て,難波から福知山までのバスと福知山と豊岡のホテルを予約したのでした。
 しかし,この2泊3日の旅行の計画も,大相撲の一般観戦中止に伴って,意味がなくなってしまったのです。

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今日はまず,これまで書き忘れていたことを書きます。それは服装のことです。
2月の下旬,日本は冬でハワイは常夏。これが困るのです。昨年8月にフィンランドに行ったときは,涼しいと思っていたフィンランドが予想以上に暑くて,持っていった長袖が無駄になりました。また,6月に南半球に行くときも同様に困ります。半分ずつ持っていけばいい,というものでもなく,どちらかに決断しないと,滞在日数の倍の着替えを持っていくことが必要になってしまうのです。
おもしろいのは現地に到着したときで,空港では,ある人は夏服を着ているし,またある人は冬服,ということになります。
ハワイの場合,夏服だけを持っていけばで大丈夫です。そこで,出発する日と帰国する日の分だけの冬服を余分に持っていくことになりますが,重ね着で対応します。
また,今回は,深夜に星を見るにも半袖と短パンで大丈夫でした。しかし,昨年行ったマウイ島のクラは標高が高く夜は冷えて,半袖しか持っていかなった私は夜寝るときに震えていたので,今回行く前にずいぶんと長考して支度をしたのですが,結局,行きと帰りに夏用のズボンを履いていたことだけが誤算となりました。それは,特に行きの機内がとても冷えていて,夏のズボンでは寒くて仕方がなかったからです。機内が寒いことは当然知っているのですが,予想以上でした。

さて,帰国の日になりました。
来た時と同様,朝早い私は,コンドミニアムのオフィスがまだ空いていない時間にチェックアウトということになりました。もらったプリントに,ルームキーを部屋のキッチンの上に残してロックをして帰ればいいとあったので,その通りにしました。
コンドミニアムを出発して30分,夜も明けきらぬ空港に到着して,レンタカーを返しました。借りるときに言われた通り,ガソリンは半分の消費でした。もう少し付け足すと,返却するときに満タンでないと割高のガソリン代が請求されるのですが,借りるときに満タン返しにしないという契約にすると安価で満タン分のガソリンが購入できるといういうシステムだったのを拡大解釈して,事前に半分だけのガソリン代を安価に支払っておいたということです。
すでに iPhone でフライトのチェックインは済ませてあったので,空港ではセキュリティを通って乗るだけでした。ハワイからの帰国は,一度セキュリティを通ればホノルルで再びセキュリティを通る必要がないので,こうした小さな島から帰国するのはかなり楽です。特に,モロカイ島では30人程度の乗客しか飛行機に乗らないのだから,セキュリティはまったく並ばず,田舎の駅と同じようなものでした。
帰りのモロカイ島からホノルルまでのフライトはちゃんとジュースが配られましたが,飲んでいたらすぐに着陸態勢に入りました。
ホノルルに着きました。空港の窓からパーキングエリアにずらりと並んだリムジンカーが見えました。私はそんな見せかけの虚栄を見てすっかり現実に戻されて嫌になり,まっすぐデルタスカイクラブのラウンジに向かいました。このラウンジの場所が毎回わからず苦労していたのですが,さすがに今回はスムーズにたどり着きました。ラウンジまでのコンコースはいつもとおり日本人であふれていましたが,モロカイ島では決して見ることのない日本人のマスク姿が異様でした。

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そもそも,ウィルスはマスクの目の大きさに比べてとても小さいのだから,マスクにウイルスを遮断する効果はありません。マスクは咳が出る人が,咳をするときに自分の飛沫についたウィルスが外に出て他人が迷惑を受けないようにするためにするものです。これが咳エチケットといわれているものです。また,マスクの目より大きい花粉から守るために花粉症の人がつけるものです。
つまり,そうした症状のない人が予防として(私には何に対する予防なのかわかりませんが)マスクをつける意味が理解できません。マスクをしてもうつります。そもそも,屋外や自家用車の中でマスクをしている人の意味がわかりません。
さらに不思議なのは,ホノルルからセントレアへの帰りの便で,食事が出たとき,マスクを顎にさげて食事をしている人がたくさんいたことです。あれは改めてマスクを口に戻したとき,顎についたばい菌を口に咥えることになるから,むしろ害以外の何物でもありません。また,食事などでマスクを外して手で折り曲げてポケットにしまうのもよくわかりません。手についたばい菌をマスクにこびりつけているわけです。さらに,マスクをしている人に限って,手をきちんと洗わないのです。私は分厚いマスクをしている人を見ると,紙おむつや雑巾を口に咥えているように思えてなりません。花粉症の人には申し訳ないけれど…。
こうした,本質を理解しないで「やったふり」をするのは,10年勉強しても英語ひとつものにならないような意味のない勉強をすることや,本音は金儲けなのに表向けの愛想だけを振りまくような「おもてなし」同様,日本人お得意のポーズだけ立派,まさに責任逃れの世界です。
マスクをしない人に対して「マスクをしないで武漢が歩けるか」という無知な人の口コミがありましたが,そういう人に私は「マスクをすれば武漢が歩けるか」。そもそもマスクにウィルスを遮断する効果はないのだから,ウィルスに接触して抵抗力がなければ,マスクをしてもしなくてもうつるのです。
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こうして私は3泊5日のモロカイ島への旅から戻ってきました。
モロカイ島は思った以上にさびれた島でした。そしてまた,思った以上に,私には気に入った島でした。
子供の頃,森村桂さんの書いた「天国に一番近い島」という,ニューカレドニアを舞台にした旅行記を読みました。また,岩波新書で畑中幸子さんの書いた「南太平洋の環礁にて」という本を読みました。これを書きながら,そういえば,私は,子供の頃,これらの本に書かれた,小さな何もない島に憧れたことがあるのを思い出しました。しかし,今,そうした島に行っても,おそらくは俗化されてしまっていて観光客であふれていると思うのです。それを考えると,今は,このモロカイ島こそが,私が夢に見た島なのだろうと思いました。
それとともに,私が行きたいと思っている鹿児島県の与論島や沖縄県の石垣島よりも,モロカイ島に行く方が雨も少なく,人も少なく,星もきれいだなあと思うと,増々,与論島や石垣島から足が遠のいてしまいます。
それにしても,結果的に,思いもしなかったのに,私はモロカイ島に星を見にいったようなものでした。ハワイ6島制覇まで,残すはラナイ島ですが,ラナイ島は上陸するだけならマウイ島に行った折に日帰りツアーで行けばよさそうです。そして,6島制覇が成ったあとは,再びモロカイ島に行ってみたいと思います。

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モロカイ島3泊目の晩。昨晩2時間ごとに起きて星の写真を写してすっかり満足したので,この晩は特に星を見る予定はありませんでした。しかし,体内時計がそんなサイクルになってしまっているので,午前2時過ぎに目覚めました。せっかくなので星空を眺めることにしました。今日の写真は昨晩写したものですが,この夜に見たのがこの星空でした。

日本では,夏の南の夜空に,さそり座とその左隣のいて座くらいはなんとか見えます。しかし,黄道12星座のひとつで星占いでは有名なのに,てんびん座を見た人はほとんどいないでしょう。てんびん座は星の並びすらよくわかりません。私は,どうしてこれがてんびん座なのだろうと思っていました。
また,東の空に昇ってきた夏の大三角形といわれること座のベガ,わし座のアルタイル,はくちょう座のベガははっきりわかっても,この時期天頂付近に春の大三角形といわれるおとめ座のスピカ,うしかい座のアークトゥルス,しし座のデネボラがあることはよく知らないでしょう。これもまた,空の暗いところなら,すぐに見わけることができ,しかも,夏の大三角形とみごとに対比して輝いているのです。
さらに,空の少しは暗いところに行くと,この時期南西の方向にある,からす座の四角形はよく目立つのですが,その南に明るい星々がたくさん輝いているのは,日本ではほとんど見えません。しかし,そこには,ケンタウルス座とおおかみ座があるのです。
私は,この晩,モロカイ島の星空をずっと眺めていて,てんびん座とおおかみ座とケンタウルス座の星の並びにずいぶん感動しました。
  ・・
まず,てんびん座。
この晩私は,はじめてさそり座のあたまの3つの星の上にある明るい3つの星を,確かにてんびんのようにつなぐことができるのを発見し,てんびん座と名づけられていること納得しました。
てんびん座は,ギリシア神話では正義と天文の女神アストライアーが手に持っている正義を計る天秤だとされます。もともとはさそり座のはさみの部分だったものをてんびん座として独立させたのは紀元前1世紀頃と考えられています。
次に,おおかみ座。
この地味な星座は,日本では半分が地平線の下にあって昇らないので全くなじみがないのですが,全体が見える場所で星々をたどっていくと,しっかりとおおかみの形に見えるのです。そして,とてもかわいいのです。おおかみ座は古い星座で,古代メソポタミアでは,狂犬 (the Mad Dog) またはカバ男(Gruesome Hound)とよばれる人頭獣身の姿が描かれていて,バイソンマン(Bison-man)=現在のケンタウルス座(Centaurus)と対を成すとされました。一方,古代ギリシアでは,おおかみ座はケンタウルス座の一部とされていて,この動物を指す名がなく,単に野獣などとよばれていましたが,ビチュニア(Bithynia)のヒッパルコス(Hipparchus)が紀元前200年ごろにこの星座を分離させてテリオン(Therion) と命名しました。
最後に,ケンタウルス座。
紀元前5千年紀に成立した最も古い星座のひとつで,人頭牛身のケンタウルスは,バイソンマン(the Bison-Man)またはブルマン(the Bull-Man)とよばれます。
古代ギリシャでは想像上の動物ケンタウルスとみなされます。この星座には,有名なω星団やNGC 5128(ケンタウルス座A)=4番目の写真(私が日本で写したもの)があって,そのどちらも日本からは地平線すれすれまでしか昇らないので,日本に住むアマチュア天文家の憧れの天体です。

モロカイ島は何もない島,ではなく,こんな美しい星空を見ることができる島でした。

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夕食の時間になりました。
今日はこの旅の最後の晩なので,この島でもっとも贅沢だと思われるパドラーズインというバーを併設したレストランに行くことにしました。「地球の歩き方」には,この店で使えるクレジットカードがVISAだけと書かれてあったので,この旅ではVISAカードを持っていなかった私はそのレストランに行くのをためらっていたのです。しかし,結局,これまでほとんど現金を使わなかったので,というよりも,食事以外にお金を使うところすらなかったので,手元の現金はまったく減ることもなく,たとえ夕食を現金で支払っても大丈夫という見込みが立ったことにありました。
中に入ってみると,贅沢でもないふつうのお店でした。メニューも大したものはなく,いつものように,ハンバーガー。それくらいしか注文するものもありませんでした。私のとなりの席に初老の夫婦が座っていましたが,かれらはアルコールを選択していました。私は酒の席以外,お酒はまったく飲まないし,それをおいしいとも思わないので,そうした行為すら理解不能なのです。もう少し遅く来るとライブ演奏をやっていることもあるそうで,店内の端にはステージもありました。
食事を終えて支払いをするときに,このお店はVISA以外にもほとんどすべてのクレジットカードが使えることがわかりました。こんなことなら,はじめっからこのお店にすればよかったのにと思いました。

お店を出たとき,ちょうど夕日が沈むころだったので,お店の近くのカウナカカイ桟橋に向かいました。ここは到着した日にも行ったところです。桟橋には数台の車が停まっていて,みな夕日が沈むのをを今か今かと眺めていました。
ハワイ島のカイルアコナは夕日が海に沈むのが眺められるすてきな場所ですが,コナの海岸は泳げるので,水遊びをする子供たちの歓声が聞こえます。また,素敵なレストランは多くの人が食事をしていてハワイアンのライブもあります。とてもハワイらしいところです。しかし,モロカイ島は海が荒く泳げないし,オープンカフェもありません。ここは桟橋で沈みゆく太陽を眺めるだけなのです。その静かさがまた素敵でした。
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私が滞在した3日はすべて天気に恵まれました。
それがいつものことなのか,あるいは運がよかったのかはわかりません。調べてみると,2年前に期待して行ったのに天気が悪く -それは雨期である秋に行ったことも原因でしたが- がっかりしたカウアイ島のリフエの年間降水量が約1,000ミリメートル,ハワイ島の雨が多いというヒロが3,000ミリメートル,マウイ島のいつも天気がよいキヘイが300ミリメートル,そして,今回行ったモロカイ島もまた300ミリメートルということなので,天気はよいのでしょう。
ちなみに,東京は1,500ミリメートル,鹿児島の与論島も1,500ミリメートル,沖縄の石垣島は2,000ミリメートルなので,私が一度は行って1日中ボーッとしていたいと思っている与論島や石垣島に行くより,モロカイ島のほうがずっといいなあと今回思いました。こうしていつも私は日本の南の島に行く機会を逸してしまうのです。
夕日が海に沈むのを見ました。とても美しい景色でした。

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旅をする目的とは何なのでしょう。名所旧跡を訪ねることなのでしょうか? 「何かをする」ために出かけるのでしょうか? あるいは,何もない海岸で,1日中ボーッと海を見ることなのでしょうか? それとも,その土地にしかないおいしいものを食べることなのでしょうか?
それは人それぞれなのですが,モロカイ島に名所旧跡を訪ねる目的で出かけても,おいしいものを食べるために出かけても,「何かをする」ために出かけても,おそらく期待外れに終わることでしょう。モロカイ島は,何もしないという時間の使い方ができない人が出かけたら,とまどうに違いありません。私も,モロカイ島に何もしないという目的で出かけました。
しかし,それだけではありませんでした。私の旅には時として満天の星を見にいくという目的もあるのですが,モロカイ島はそうした目的で行ったわけではありませんでした。ただし,星が見られる可能性があることを考えて,あえて,新月の時期に出かけましたけれど…。そして,奇しくもそれがかなったのです。
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話題を飛躍して,このあとは少し余談です。
日頃,仕事や子育てに忙しくしている人には想像がつかないかもしれませんが,そういった束縛から卒業した人にとって,何もすることがない時間を過ごすというのは耐えられないことなのでしょう。今忙しい人も,やがてはそうした日々がやってきます。
平日,趣味も楽しみもないのでしょうか,朝からボーッとしている老人の姿を見かけます。また,時間をつぶそうと,スーパー銭湯やスーパーマーケット,そして図書館,そうした場所には老人が列をなしています。そうした人たちが最も多くの老人の姿ですが,そうした現実がニュースとして取り上げられることはありません。
その一方で,貧困老人の日常はこれまでよく報道されてきました。しかし,実は,その逆に,使うお金に困らず,贅沢な旅に出て,帰った日にスポーツジムに行き,さらにライブハウスに行き,などと飛び回っている老人もいるわけです。そうした姿はこれまで知られることもあまりなかったのですが,奇しくもこの頃のコロナウィルスの流行で,一躍明るみに出ました。
このように,呪縛から卒業した人たちは,毎日を自分なりに生きるために右往左往しているのですが,今や,この国の人口の半数はそうした人たちなのです。そうした人たちがひとりでも多く心安らかに日々を過ごせる国であってほしいと思います。
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もっともっと話題を飛躍します。私は,動物園に出かけて動物たちを見ると,飼育員さんからエサが与えられることでエサをとるという根本的な日常を奪われた動物たちにとって,時間を過ごすことがどういうことなのかな,退屈しているのではないかな,生きている意味ってあるのかなと思って,切なくなったりします。動物に向かって,ご趣味はなんですか? とこころの中で問いかけたりもします。
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さて,旅の3日目。
今日は土曜日でした。土曜日は,朝,カウナカカイのダウンタウンでファーマーズ・マーケットをやっているということだったので行ってみることにしました。この,週に1回ほど開かれるというファーマーズ・マーケットはアメリカに行くとさままな場所で行われていて,これまでもいろんなところでそれを見る機会がありました。私はこうした場所で何かを買ったということはこれまで一度もなくて,ひやかし専門です。というより,必要のないものは,旅行先であり日常であれまったく買いません。
駐車スペースがないと困るからと早めに行ってみたのですが,私はこの島のことを,まだ,まるでわかっていなかったということに行ってみて気づかされました。まず,島民の絶対数が少ないこと,そして,マーケットといったって数軒の露店があるだけだったからです。車を停める場所なんていくらでもありました。やはりモロカイ島はすてきな世界です。
マーケットのの中央で,若い女性がふたりフラダンスをやっていました。また,軒下でギターを弾いている人がいたりして,ちょっぴりマーケットらしい雰囲気もありました。

その後,コンドミニアムに戻って,今日は,1日何もせず過ごすことにしました。
ファーマーズマーケットの帰り,カネミツ・ベーカリーでパンを買い,マーケットで飲み物を買って,準備完了です。今日1日,コンドミニアムの部屋のベランダで,あるいは庭で,ずっと海を眺めるのです。海にはクジラが泳いでいて部屋からそれが見えるのです。もちろんテレビなどつけません。私がハワイでこうした時間の過ごし方を覚えたのは,昨年マウイ島へ行ったときです。しかし,マウイ島に比べて,モロカイ島は人が少ないだけでもマウイ島よりもずっと快適です。
考えてみれば,私がはじめて海外旅行に憧れたのは,子供の頃,百科事典に載っていたナイル川のほとりにたたずんで川を見ている人の写真を見たときからです。おそらく,私はこころのどこかに,こうした旅にずっと憧れていたのでしょう。それは,観光客で一杯の名所旧跡やテーマパークをあくせくとまわるような旅とはまったく真逆な世界です。しかし,これこそがもっとも贅沢な旅なのでしょう。

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星が美しかったのに気をよくした1日目の夜は夜半には雲が出たようでした。
そして2日目の夜。この晩はずっと快晴という天気予報だったので,2,3時間ごとに起きて星を見ることにしました。せっかくこれだけ条件のよいところに泊って,しかも,お昼間にどこか遠出をする予定もなくのんびりできる場所なので,翌日の心配はありませんでした。この島ではこれが最高の贅沢だと思いました。また,徹夜するということでもないので,体にはこたえません。
ということで,今日は,この晩に写した写真をご覧ください。

まず,1番目から4番目の写真は魚眼レンズで2,3時間ごとに南の空を写したものですが,天の川の位置が変わっていくのがよくわかると思います。
1番目の写真にはオリオン座が空高く写っています。冬の天の川です。そして,2番目から4番目の写真には水平線すれすれを動いていく南十字星が写っています。このように,北緯21度のハワイでは南十字星はこの高さまでしか昇りません。また,4番目の写真のように,夏の星座が昇ってくる明け方の天の川が最も見事です。皮肉にも3番目の写真のように南十字星が南中するころの天の川は,水平線をはっていてほとんど見ることができず張り合いがありません。
そういえば,わずか4年ほど前のことなのですが,南十字星を見たく見たくて,はじめてハワイに行ったときを思い出します。たった4年の間に,それ以来私はもう何十回とハワイで,あるいはオーストラリアで,またニュージーランドで,南十字星を何度も何度も見ることができたのが不思議な気がします。
  ・・
5番目の写真は西に沈みゆくオリオン座です。残念ながら,今回,水平線に,つまり海に沈んでいくオリオン座や,水平線から,つまり海から昇ってくるさそり座といった写真をうつすことはできませんでした。モロカイ島では西側の海岸,あるいは東側の海岸が見られる場所に行けば,こうした,海に沈む,あるいは海から昇る姿を写すこともできそうなので,また,次回,挑戦してみたいものです。
6番目の写真は,私が最も好きな南十字星からηカリーナにかけての天の川の写真です。このあたりの星野は南半球に出かけると最もフォトジェニックな場所としてだれもが魅了されるのですが,ハワイでも十分に堪能することができるわけです。
  ・・
そうこうするうちに東の夜がだんだんと白んできました。そうすると,この時期は,東の空に,火星,木星,土星が昇ってきます。それが7番目の写真です。これまで,日本でこの姿をたくさん写しましたが,日本では惑星は見えても,その背後にあるいて座やさそり座の星々,そして天の川は見えません。特に,いて座の美しいM8,M20 といった散光星雲を同時に写すことができたのがとてもうれしいことでした。

やがて夜が明けて星が消えるころになると,それがわずか数時間前のことだったのに,この同じ空に満天の星空が輝いていたのが夢の出来事のように思えるのがいつも不思議なことです。

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カラウパパ展望台とファリックロックへ行った帰り,モロカイ・ミュージアム&カルチャーセンターという博物館を訪ねました。 ここは,1878年から1889年の11年間稼働していたハワイで最も小さいシュガーミル,つまりサトウキビ工場の跡が博物館として公開されているところです。マウイ島にもアレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館というものがあって行ったことがあるのですが,比べものにならないくらいちいさな博物館でした。そもそもモロカイ島で博物館といっても,ここしかありません。入館料をはらって館内にはいるとシュガーミルについてのビデオの上映がはじまっていました。それを見てから庭の向こうにあったシュガーミルの建物を見学しました。残念ながらここは撮影禁止だったので,写真はありません。モロカイ島の観光名所といっても数えるほどしかないので,ばらばらとですが観光客が途絶えることはありませんでした。
次に行ったのがプアディーズ・ナチュラル・マカダミアナッツ・ファームでした。
クララプウという小さな町のはずれにある農場です。わずか5エーカー(1エーカーは陸上トラックの内側の半分くらい)の土地に50本のマカダミアナッツの木があって,オーナーのプアディーさんというユニークな人が,マカダミアナッツの実のつき方を紹介して,最後に試食をするということを無料で行っていました。以前,ハワイ島のコナでロイヤル・コナコーヒー工場&博物館というところに行ったのを思い出しましたが,ここもまた,それとは比べものにならない規模でした。

来た道を少し戻って,次に目指したがモロカイ島の西の端,右向きのアユでいえば尾ひれのあたりでした。
まず,西側の内陸部を走る州道460号線を終点のマウナロア(Maunaloa)とい町に向かいます。その途中にモロカイ空港があるのですが,モロカイ空港の手前に,クムファームという有機野菜をつくっている農園があって,それをショップで販売しているというので寄ってみました。小さな市場でお客さんが1組いました。私には買うものもないので,ただ眺めるだけでした。
さて,そのあと,マウナロアの町をめざします。マウナロアは,かつて島の西部の大部分を占めるモロカイランチにドール社がパイナップルプランテーションを広げていたとき,その中心となった町です。ドール社は撤退してしまったので,今は死んだような町となってしまいました。ほとんどの店は閉店し,その町にあったのは,1軒のスーパーマーケットと手作り凧の店だけでした。住んでいる人は何を生業としているのでしょう?

マウナロアから少し州道460号線を東にもどると,左折する道路があります。目立たない看板があると「地球の歩き方」には書かれてありましたが,目立ちました。
その道路を下っていくと,島の北西の海岸線に出ることができました。そこにあったのがケプヒ・ビーチリゾートで,一応,遠くから見ると,マウイ島にあるような立派なコンドミニアムが立ち並び,プライベートビーチもありました。私は,ビジター用の駐車場の車を停めて,歩いて海岸まで行ってみました。しかし,ほとんど客もおらず,ビーチも閑散としていました。それにしても,このリゾートは,レストランすらなく,ショップが1軒あることにはあるのですが,「OPEN」と入口にはあれど中は真っ暗で入る気になりませんでした。ここに宿泊していったい何をするのだろうと思われるほどさびれていました。
私は,さらに島の西側を海岸に沿って南に走って,パポハクビーチ(Papohaku Beach)に行きました。
パホハクビーチはハワイで最も長い白砂のビーチです。風が強く波が高く潮の流れも速いので泳ぐことはできないのですが,ボーッとするには最適な場所です。というか,ボーッとするほかすることもありません。広い駐車場とバーベキューエリアがありましたが,駐車場に空きスペースがないほど車が停まっているマウイ島のマケナビーチとは雲泥の差で,停まっている車は数台でした。私がビーチに行ったとき,1組のファミリーだけが砂浜に寝転んでいました。

モロカイ島にあったのは,これだけでした。どこもさびれにさびれていて,それがまたいいというか,これもまたハワイなのだろうか,というか…。これはある意味最高です。そのうち,どこかの大きなリゾート開発会社がこの島に進出して,こうした素朴さをすべて壊してしまうことがあるかもしれませんが,いまのところ,ここは地球に残された「最高の」秘境です。なにせ,30分飛行機に乗ればホノルル,つまり,だれでもすぐに行くことができる場所なのです。この島がずっとこの状態であることを私は祈ります。
カウナカカイの町に戻って,私が宿泊しているコンドミニアムから少し東にある公園に寄ってみました。この公園は海に面していて,広いグランドもありました。居たのは馬に乗った人がひとりでした。ここなら夜になると満天の星空が見られるだろうと思いました。
この日は前の日に行ったモロカイバーガーのとなりにあったモロカイピザカフェで夕食をとりました。ここのピザはハワイ6島の名前のついたいろんなトッピングが楽しめるということでした。私はピザが苦手 -とはいっても食べられないということでないのですが- で,海外に行ってもピザショップには入ったことがないのですが,この店のほかに選択肢もほとんどないので入ってみました。しかし,このレストランは決してピザだけではなく,いろんなメニューが選べたので助かりました。

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午前9時ころ,カウナカカイに戻ってきました。昨日はもう遅かったので多くの店が閉店していました。そこで,今日はウィンドウショッピングです。とはいっても,お店など,数えるほどしかありません。
私が行きたかったのは,カネミツ・ベーカリー&コーヒーショップでした。このお店はモロカイ島唯一のパン屋さんです。「地球の歩き方」によると,翌日の朝に並べるパンを仕込んでいる夜の時間帯に,焼き立てを求めて店の裏側にまわって行列を作るのだとか。私は別にそんな行列を作る気はなかったのですが,朝7時から店内のカフェスペースで食事ができるということで,朝食をとるために入ってみました。店内には地元の人がたくさんいて,みんな知り合いのような感じでした。
私はモーニングセットを注文して,ともかく朝食を終えました。モロカイ島の夜は開いているレストランも限られていますが,お昼間はこうしたお店がほかにもあるにはあります。店を出るときにドーナッツを勧められたので,ひとつ買いました。

お店を出て,今度は島の西側に向かいます。右を向いたアユに例えれば尾ひれの部分です。しかし,西側は南の海岸線には道路がなく,まずはカウナカカイから北上して北の海岸に行きます。その途中にあるのが,この島の空港です。2日目にしてやっと位置関係がわかってきました。
空港を左手に見てさらに北に進むと,クアラプウ(Kualapuu)という町があって,その先にモロカイ・ミュージアム&カルチャーセンターという博物館がありました。帰りに寄ることにしてそれを過ぎると,突き当りがパラアウ州立公園(Palaau State Park)の駐車場で,そこには2,3台の車が停まっていました。車を停めて少し舗装した道を歩くと,カラウパパ展望台(Kalaupapa Lookout)に到着しました。展望台からは右手に突き出した半島が眺められますが,この半島がかつてハンセン病患者の人たちを隔離したカラウパパです。
カラウパパに行く道路はないので,そこには,海から行くか狭い山道をカラウパパ・ミュール・ツアーに参加してミュールに乗っていくかしかないそうです。ミュールというのは,馬とロバを交配させて生まれた動物で,それに乗って5キロくらい行くのだそうです。しかし,私が行った時期はシーズンオフで,ツアーも実施されていないようでした。
  ・・
駐車場に戻って,今度は左手の別のトレイルを行きました。そのトレイルは松林のなかの舗装されていない山道で,5分ほど行くと,高さが2メートルほどあるファリック・ロック(Phallic Rock)に出会います。この岩の別名はナナホアのペニス(Ka Ule O Nanahoa)といって,子供に恵まれない女性がこの岩に触れると望みどおりの子宝に恵まれるそうです。こういうのは万国共通なのだなあと思いました。

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モロカイ島2日目の朝が来ました。
今日は島を巡ることにしました。東西に長細い右を向いたアユのような形をしたモロカイ島は,中央の南の部分が若干の平地となっていて,そこに島唯一の町カウナカカイ(Kaunakakai)があります。東には南の海岸線にそって先端に向かって道が伸びていて,先端近くの海岸がクミミビーチ(Kumimi Beach),そこから島の東の端までは山を登っていって,北東の果てがハラワ渓谷(Halawa Valley)です。まずは東にハラワ渓谷まで行ってから,帰りに見どころを見つけたら車を停めることにしました。
まだ夜が明けきっていなくて,白んだ空を右手に海岸線の片側1車線の道路を走っていきましたが,ほとんど車は走っていなくて,時折すれ違うのはこの辺りに住む人のピックアップトラックだけでした。
コンドミニアムから20マイル,32キロメートルほど走ったころ,先ほど表現した右を向いたアユでいえばエラのあたりで夜明けを迎えました。ちょうど海を眺められる駐車スペースがあったので,車を停めました。幸運にも,今まさに太陽が海から昇るところで,運よく日の出を見ることができました。ハワイというのは夕日が沈むのを見ることができる場所は多いのですが,日の出が海から昇るのを見られる場所は意外とありません。私が知らずに車をとめたところはクミミビーチでした。ここはヤシの木に囲まれた白砂のビーチで,スノーケリングポイントとして有名なのだそうですが,人はだれもいませんでした。

クミミビーチをすぎると,その先,海岸線に沿って道はなくなり,高台に向かって登り坂になりました。道路も狭くなり,曲がりくねっていてカーブが続きました。やがて丘の上まで来ると,そこは,ククイの木がうっそうとするラニカウラ・ククイの森(Lanikaula Kukui Grave)で,マナエ・グッズ&グラインズという小さなストアが1軒ありました。それを過ぎると,プウ・オ・ホク牧場(Puu O Hoku Ranch)があって,なんとこんなところに平原が広がっていました。アユで表現すれば眼の位置です。牧場と道路の境は有刺鉄線で囲われているにもかかわらず,数頭の野生のシカが次々と道路に飛び出してきました。シカは有刺鉄線をものともせず隙間を器用に通り抜けます。私はモロカイ島に野生のシカが生息しているのに驚きました。牧場ではウシがのどかに牧草をほおばっていました。昨晩の夕食のハンバーガーはこのお肉だったのでしょうか。
牧場を越えると,ついに道路は下り坂となりました。車が1台しか通れない道幅となり,海に落ちていくような急坂を下ると,眼下にはハラワ湾が見えてきました。ハラワ湾のまわりはかつては集落があって栄えたということですが,今はもう秘境以外の何モノでもない場所でした。道路もほとんど車が通った痕跡がなくなりました。遠くには滝が見え,湾の向こうには民家が1軒あるのですが,道もみつからず,どうやってそこに行くのかわかりません。以前行ったことのあるマウイ島のハナの町も秘境でしたが,ここに比べたらまったく大したことはありませんでした。
ここがモロカイ島の東の先端,まさに地の果てでした。すごいところに来てしまったような気がしました。しばらくハラワ湾を見ていました。
  ・・
引き返すことにしました。
帰りは途中の見どころをと思っていたのですが,見どころといっても,海岸線とビーチとそれ以外にはたったひとつ小さな教会だけでした。教会の前に駐車スペースがあったので車を停めて教会のなかに入ってみました。その教会はセント・ジョセフ教会(St.Jpseph's Church),1876年にダミアン神父が建てたもので,教会の建物の傍らに首にレイがかけられたダミアン神父の像が立っていました。

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 私は,何事につけ,ムダなことをしたくありませんし,しないように心がけてきました。だから,身につかないような勉強もしなかったつもりだし,必要のない資格もありません。使わないものは買いません。そしてまた,何ごともさりげなくすることが最善だと信じています。何もかも,必要十分を旨とします。
 そこで,旅に出かけるときの荷物も,使わないものは一切持っていかないので,1週間程度の旅でも機内持ち込にサイズのカバンひとつです。
  ・・
 そんなわけで,私が楽しみにしている星見もまた,私が楽しむために必要であると思う最小限の機材しかありません。
 趣味というのは恐ろしいもので,たとえば「レンズ沼」という言葉があるように,欲望は底なしなのです。「レンズ沼」というのは,カメラの交換レンズをいくら買ってもさらに欲しくなることですが,それはレンズに限らず,プロでもないのに,新しいカメラが発売されると「買いだ買いだ」とばかりにどんどん購入する人がいるわけです。

 ということなのですが,貧乏人の私は,もともとほとんどモノを買わないことに加えて,60歳を過ぎたときに,さらに,新しいモノは壊れたときの買い替え以外は一切しないと決めました。
 私が星の写真を撮っている機材は,ハレー彗星が来た1986年ごろ,つまり,30年以上前に20万円以下で購入したものです。今ではもちろん製造中止なので,不具合があれば自分で何とかするしかありません。また,現在市販されているような,自動で星を追尾してくれるオートガイダーなどというものはもちろんついていません。しかし,一応,スイッチを入れると星の動きに合わせて動くし,今売られているものよりずっと作りがいいので,それで満足しています。
 この望遠鏡の問題は電源でした。12ボルトの電源が必要というのは,屋外で使うには結構難問で,毎回重いバッテリーを持っていく必要がありました。私は改造して,モバイルバッテリーの電圧を回路で増圧してUSBで接続しこれで動くようにした(モバイルバッテリーの電圧は5ボルトなのでそのままでは使えません)ので,ものすごく便利になりました。また,アリ溝で簡単に組み立てできるようにもしましたし,パーティノフマスクで簡単に正確にピント合わせもできるし,ヒーターで常に夜露がつかないようにもしてあります。また,カメラは安価な中古ですが,天体用に改造してあります。

 私が星見に出かける空が暗い場所は,自宅から1時間30分程度ドライブする必要があるのですが,これでは頻繁に出かけるわけにもいきません。そこで,都会に近くて空が明るくても街灯さえなければなんとかなるのではないかと探して自宅から15分で行ける場所を見つけたので,そこで試してみることにしました。そうすれば,出かけて15分,観測場所に到着して,望遠鏡を組み立て,極軸と焦点を合わるまで5分という手際で,20分後にははじめることができ,1時間後には帰宅できます。
 そんな次第なので空は明るいのですが,それでも少しでも条件がよいのは明け方です。夜明け前は家から近くとも暗いのです。また,家から近いというのは,明け方に星見をするのにとても楽です。3月1日の明け方も,前の晩に降っていた雨が上がるということだったので,3時30分に起きて,星見に出かけました。予想どおり快晴でした。今日は,そのときに写した写真です。
  ・・
 先日,夕方の北の空にいくつかの彗星を写しましたが,そのうちの岩本彗星(C/2020A2C/ Iwamoto)とアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)は北極星に近く,一晩中沈まず, 明け方の空にも見ることができるので,このふたつを狙いました。ともにとても暗いものなので,写るかどうかわからないのですが,そこが楽しいのです。
 で,その結果,アトラス彗星は今日の1番目の写真のように,かわいい姿を写すことができました。しかし,岩本彗星は写りませんでした。2番目の写真で赤い〇で囲んだ星々がステラナビゲータというソフトで表示される星,そして,緑色の大きな〇で囲んだ範囲に岩本彗星がある「はず」なのですが…。思ったより暗いのか拡散しちゃったのか,あるいは露出時間がまずいのか???
 ところで,今日の4番目の写真は,単に試し撮りとしてこと座のベガを写したものですが,ベガの上左に彗星状の「モノ」が写っていました。こんなところに何の天体もないはずなのに,いったいこれは何なのだろう???

私は通常,夕食は午後5時です。お酒は飲みません。ちなみに起床は午前5時,朝食は6時,昼食は11時です。星見に行くときは午前4時に起きたりします。睡眠時間は5時間ほどです。
歳をとって,海外旅行をしても時差ボケになりません。この日もまた,通常と同じように,夕食は午後5時でしたが,当然,こんな早い時間にレストランに行ってもほとんどお客さんはいませんでした。
夕食を終えて,コンドミニアムに戻って窓から外を見ると,庭ではバーベキューパーティの真っ最中でした。このバーベキューパーティにはお金を払えばだれでも参加できますが,私がひとりでのこのこでかけて行っても入る余地もないので,ご遠慮しました。もう少し若かったら参加したかもしれません。
  ・・
このコンドミニアムは私のような旅行者より,長期滞在をしている老夫婦が多く,要するにお金もちの別荘です。このような人たちは,お昼はベランダでひなたぼっこや読書,あるいはプールで寝そべっているという時間の過ごし方をしています。モロカイ島の海岸は海水浴には適していないので,こうしてプールがあるのです。
どこかへ行くといっても行く場所もないし,ショーをやっているわけでもない,だから,何もないところといえば何もないところだし,それがいいといえばいいわけです。こういった姿を見ると,人が幸せかどうかというのは,その人が自分なりの時間の過ごし方を知っているかどうかだと思うわけす。

ここなら星がきれいに見えるかな,と私は到着したときから期待しました。この旅では,もし星がきれいに見える場所ならと,期待半分で三脚と携帯赤道儀と天体撮影にいつも使っている改造カメラと交換レンズを持参してきました。それは,昨年ハワイ島に行ったとき,クラの宿泊先のベランダから満天の星空を見ることができて,そのとき,三脚だけでも持参してきてよかったと思った反面,赤道儀を持ってこなかったことを後悔したのを思い出したからです。しかし,おそらく使う機会はないだろうなあと思っていました。
それがうれしい誤算となりました。さすがにコンドミニアムの建物は安全のために街灯がありましたが,街灯を背に海を眺めれば,そこには満天の星空が水平線まで広がっていました。そこで,海岸に出て,オリオン座付近の星空を何枚か撮りました。カメㇻを操作しているとき,先ほどまでバーベキューパーティに参加していた人が通りかかりました。満天の星空が見られるというと,驚いていました。せっかく空にこんなすばらしいものがあるのに,それを逃すなんて,もったいない話です。
  ・・
明け方,起床したときにはまだ夜が明けていなかったので,再び,星空を写すことにしました。
今度は昇ってきたばかりのさそり座のあたりの銀河を写すことができました。オリオン座とさそり座を同じ夜に見ることができるのはこの季節ならではのことでした。

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旅をするときは,そこに生活する人とその場所の歴史を知る必要があります。でなければ,旅は単にレジャーセンターに行くのと変わりませんし,それでは何も学べません。
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モロカイ島を訪れる人が知らなけらばならない偉大な人がいます。それは,ダミアン神父です。
モロカイ島は,かつてハワイ史上最大の悲劇となったハンセン病隔離政策が行われた場所なのです。ダミアン神父(Father Damien)はベルギー出身の宣教師でカトリック教会の聖人,本名はヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)といました。モロカイ島で,当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げ,自らもハンセン病で命を落としました。
人類の歴史上もっとも古くから知られ恐れられてきた病気のひとつであるハンセン病は,らい菌(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症で,治療法が確立された現代では完治する病気であり,ハンセン病回復者や治療中の患者さえからも感染する可能性は皆無です。古来,ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから,患者の人たちは何世紀にもわたり社会的烙印を押され,遠く離れた島や隔離された施設へ追いやられ,自由を奪われ,社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされました。
オアフ島のワイキキビーチにセント・オーガスティン教会(St. Augustine By the Sea Catholic Church)があって,その建物の前にダミアン・マリアンヌ記念館(Damien and Marianne of Moloka'i Heritage Center)があるのですが,オアフ島に行く日本人のいったいどれだけの人がそこを訪れるのでしょうか。
私はオアフ島で真珠湾に行ったときに,真珠湾という場所を訪れる日本人があまりに少ないことに衝撃を受けました。鹿児島県の知覧とともに,こうした場所を訪ねることは,日本人の義務だと思うのですが。ハワイは,このモロカイ島の背負った悲劇や,明治以降の移民の歴史,そして,第二次世界大戦での惨劇など,決して浮かれ気分でいくだけの場所ではないのです。
カウナカカイの町を歩いていると,聖ダミアン・オブ・モロカイ教会がありました。この教会は2011年に建てられたもので,ミサの時間には観光客が出入りできると書かれてありましたが,私が行ったときはミサの時間ではなかったのですが開いていたので,中に入りました。教会の中にはダミアン神父の木像がありました。

さて,この日,私はまずカウナカカイのダウンタウンと反対の南の方向に走って,カウナカカイ桟橋に行きました。海岸から沖に800メートルほど突き出たハワイで最も長い桟橋です。この場所は,かつてモロカイ島がパイナップル産業で栄えたときの積み出し港だったところです。ここからは朝日も夕日も眺められます。
その後,カウナカカイのダウンタウンに行って,食事をする場所を探しました。路上のパーキングに車を停めて,いろんな店を見て回ろうと思ったのですが,この町の店のほとんどは午後4時に閉店をしてしまうのです。しかも,週末は休みだったりします。このペースでこの営業時間で商売が成り立つのが驚きです。そもそも観光客なんてほとんどいなし,島の人口はわずか7,000人ほどで,面積は大阪府の3分の1だから,この島だけで生活ができるにはほぼぎりぎりの大きさでしょう。ここに住む人は何を生業として生活しているのか? それにしても,お店も午後4時に終わり週休2日,日本人には考えらられない生活です。
  ・・
「地球の歩き方」に書かれてあったレストランの中には,もうお店がなかったり,営業時間が変わっていたりで,夕食の時間に開店しているところは2,3軒しかありませんでした。2軒ほどあったマーケットは夜までやっているのですが,中に入っても,食べ物は大家族用に大きくパックされたものだけで,パンをひとつで買うこともできません。食事代わりとなるのはカップヌードルくらいのものでした。ともかく,ここでスナック菓子とペットボトルの水を買いました。
そんなわけで,この日私は選択肢もなく,モロカイ・バーガーというハンバーガー店に入りました。このお店は注文を受けてから作るスタイルで,モロカイ産の放牧牛肉100パーセントのバーガーが売りだそうです。私が注文したのはマッシュルームバーガーという牛肉にマッシュルームがのったバーガーとフレンチフライとコーラでした。
幸いこのレストランはクレジットカードが使えましたが,モロカイ島には現金しか使えないお店もけっこうあって,私は現金を100ドルほどの小銭と非常事態のために別に100ドル札1枚しか持っていなかったので,心配になってきました。もちろん,ATMでお金を手にすることはできますが,可能な限りそんなことはしたくありませんでした。それはそうと,日本ではどこでも1万円札を出すような人もいますけれど,日本とは違って,100ドル札というのは受け取ってもらえないお店も多いのです。

食事を終えて,コンドミニアムに戻る前に足をのばしたのが,カプアイワ・ヤシ林(Kapuaiwa Coconut Grave)でした。ここは1860年代,カメハメハ5世が夏の間を過ごした別荘があった場所で,およそ1,000本の椰子の木が植えらえてそれが今も残っているという場所です。カウナカカイからわずか1マイルほど州道460号線を西に行ったところなのです。しかし,行ってみると,一帯は公園になっていたのですが,入口にはロープが張ってあって立ち入り禁止でした。「地球の歩き方」には林の中を自由に散策できると書いてあったのですが,中に入れずがっかりしましたが,老朽化したヤシが極めて危険なのでしょう。
到着わずが数時間にして次第にわかってきたのですが,モロカイ島は,主だった観光地 -といっても観光地すらほとんどありませんが- はさびれていて,レストランなどのショップの多くは閉店していて,日本の客の来なくなったテーマパークやシャッター商店街のようなところでした。

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☆☆☆☆☆☆
 2番目の星図にあるように,現在,夕方の北の空に暗い彗星がいくつか存在します。どれも暗いのですが,まず,西側にあるものから順番に紹介します。
  ・・
●アトラス彗星(C/2019Y1 ATLAS)
 2019年12月16日にATLASサーベイによってハワイ・マウイ島のハレアカラ(Haleakala)に設置された望遠鏡 ATLAS-MLO で発見された彗星です。
 ATLAS( Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System)サーベイは 地球に衝突する可能性のある地球近傍の物体を検出するために設置された口径0.5メートルのロボット望遠鏡で,ハワイ・マウイ島のハレアカラ の ATLAS-HKO とハワイ島マウナロア の ATLAS-MLO があります。
 明るさは10等星ほどで低空にあって,まもなく日本からは見ることができなくなります。
●シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P Schwassmann-Wachmann)
 1927年11月15日にドイツ・ベルゲドルフ(Bergedorf)のハンブルク天文台(Hamburger Sternwarte)のアルノルト・シュヴァスマン(Arnold Schwassmann) とアルノ・ヴァハマン (Arno Arthur Wachmann)が発見した公転周期14.7年の周期彗星です。
 2月ころに増光したそうですが,今は暗くなっています。
●アサシン彗星(C/2018N2 ASASSN)(エイサスエスエヌ彗星という表記もあります)
 2018年7月11日,ASASSN(All-Sky Automated Survey for Supernovae)プロジェクトによって,南アメリカのセロロ・トロロ(Cerro Tololo)天文台にあるカシアス(Cassius)14センチメートルの探査ユニットで発見されたものです。
 ASASSNプロジェクトはオハイオ州立大学の天体検索プログラムで,北半球と南半球の両方に20個のロボット望遠鏡があります。望遠鏡といっても,ニコン(Nikon)の400ミリF2.8の望遠レンズに ProLine PL230 のCCDカメラをつけたものです。
 北極星近くにあるのですが,これからは暗くなって見ることが困難になります。
●パンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)
 2017年10月2日,ハワイ・マウイ島のハレアカラにある1.8メートル Pan-STARRS1望遠鏡で写したCCDの画像から発見されたものです。
 明るくなるという前評判でしたが,8等星止まりというところです。しかし,北極星に近く最も見つけやすい彗星です。
●岩本彗星(C/2020A2 Iwamoto)
 アマチュア天文家の岩本雅之さんが今年の1月16日,自宅ベランダの400ミリの望遠鏡にカメラを取り付けて写した画像から発見したものです。
 14等星という予想より明るく11等星ほどまでになったようです。
●アトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)
 2019年12月28日にATLASサーベイによってハワイ・マウイ島のハレアカラに設置された望遠鏡 ATLAS-MLO で発見されたものです。
 現在は12等星ほどですが,これから5月にかけて太陽に接近して明るくなると期待されています。日本では5月の半ばころまで夕方の北から北西の空に見えます。

 ということで,満天の星空を堪能したハワイから帰国して,天気がよかった2月26日の夕刻,北の空が暗いいつもの山へ星見に出かけました。ハワイには望遠レンズを持っていかなかったので,こうした暗い彗星とは縁がありませんでした。
 現地に到着して慌てて望遠鏡を組み立て極軸を合わせて,西の空に見えている彗星から順番に写していきました。早くしないとどんどん沈んでいきます。
 まず,アトラス彗星(C/2019Y1)を写したのですが,低空で,かつ,空が明るく写りませんでした。次に,シュワスマン・ワハマン第1彗星をねらったのですが,写した位置を間違えました。ただ,うまくその位置を写すことができたとしても,写ったかどうかわかりません。
 気を取り直して,その次に,アサシン彗星を写しました。それが今日の3番目の写真です。かろうじて存在が確認できます。さらに,岩本彗星を写したのが4番目の写真です。この彗星もかろうじて存在が確認できますが,前回家の近くで写したときよりだめでした。やはり,夕刻の低い空に彗星を写すのは大変です。
 さて,いよいよ控えるは期待のふたつの彗星です。
 まずはパンスターズ彗星です。それが5番目の写真ですが,この彗星は他の彗星に比べれば明るく,今回もまた,尾をひいたかわいい姿を捉えることができました。この彗星はもっと明るくなるという予想だったので明るくならず残念ですが,このくらいの姿もまたかわいくていいものです。
 そして,最後がアトラス彗星(C/2019 Y4 ATLAS)です。おおくま座のβ星,つまり,北斗七星の柄杓の2番目の星「メラク」(Merak)の近くにあるので場所は簡単に特定できるのですが,13等星くらいなので写るかどうか,というのが問題でした。それに加えて,この彗星が M97惑星状星雲(ふくろう星雲),M108銀河 と同じ画角に入るということを写すまで知らなかったので,一緒に写せることにびっくりしました。これなら何としてでも写そうという気になってきました。この彗星を写すのは天頂に近いので最後にしていたのですが,なんと,写しだしたら曇ってきました。なんども雲に邪魔されましたが,これを写さなければ帰るに帰れないと祈っていたら雲が切れて,なんとかモノにできました。それが今日の1番目の写真です。
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 このようにして,この晩もまた,美しい星空を堪能することができました。
 日本の濁った汚い夜空は,星野写真を写すには向いていなくて望遠鏡を使って暗い彗星の写真を写すことが達成感があり,一番ストレスのない楽しみ方だなあといつも思います。

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