しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2020

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 山県市は大桑城だけでなく,中洞地区には明智光秀の墓というものもあって,私はびっくりしましたが,ともかく行ってみました。
 明智光秀の墓は桔梗塚といい,白山神社のなかにありました。また,ここは明知光秀の墓だけでなく,生誕地ともされていて,神社の境内には,明智光秀の母が産湯の水を汲んだという井戸が残され,神社近くの武儀川には,光秀を身ごもった際に母が「たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩がありました。
 
 明智光秀は山崎の合戦で死んだのではなく,そのとき死んだのは影武者であり,ひそかに郷里山県市中洞に落ち延びて荒深小五郎の名ですんでいた,ということだそうです。
 神社に次のような説明書きがありました。
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 この地区の伝承によると,明智光秀は土岐元頼と中洞の豪族である中洞源左衛 門の娘との間に長男として生まれたといいます。7歳の時に父が亡くなったことか ら,現在の岐阜県可児市にある明智城主明智光綱のもとで軍学兵法を学び,やがて養子となりました。
 明智城は1556年(弘治2年),斎藤道 三の息子斎藤義龍に攻められ落城,美濃を脱出した光秀はやがて天下統一を目指す織田信長に見いだされ,織田信長の家臣となりました。
 1582年(天正10年),明智光秀は本能寺の変を起こし天下人となりましたが,約10日後に豊臣秀吉の軍と山崎で激突し命を落とした…というのは通説で,実は,合戦で死んだのは影武者であって明智光秀本人は生きていたのです。
 光秀は郷里の中洞に落ち延びた後,身代わりとなった影武者 荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎 と名乗り、中洞の 地で暮らしまし た。
 そして,1600年(慶長5年),徳 川家康の要請で関 ケ原の合戦に向かう途中,増水した根尾川で馬共に押し流されて亡くなったと伝えられています。
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 そこで,この地に明智光秀の墓があるというわけです。桔梗塚の名称は明智家の家紋が桔梗であることに由来していて,今も地域の住民によって毎年2回供養祭が行われているそうです。

 明智光秀についてはさまざまことが伝わっておらす,そのために,今では言ったもん勝ちみたいなところがあって,各地にいろいろなものが残っている,というか,こじつけているのが,まあ,おもしろいというか愉快というか,そのおかげで,私は退屈することがありません。それも家から近いところばかりです。それにしても,こんなに身近な場所にそんな曰く因縁ががあったというのが驚きでした。

☆ミミミ
昨日の月と金星です。ずいぶんと離れてしまいました。
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☆☆☆☆☆☆
 今,夕方の西の空に金星がきれいです。
 金星は大きさと質量が地球によく似た惑星です。公転周期は225日ですが,地球とは違って自転周期は243日と長く,しかも自転の方向が公転とは逆です。また,地球のように大気があるのですが,分厚く覆われているので地表の温度は約摂氏470度もあり,二酸化硫黄の雲から硫酸の雨が降っているといいます。
 金星は地球より内側を公転しているので月と同じように満ち欠けします。太陽の反対方向に見えることはないので,地球と金星と太陽の位置関係から,夕方の西の空(宵の明星)か明け方の東の空(明けの明星)にしか見えません。金星が太陽から東に最も離れて夕方の西の空に最も高く見えるときが「東方最大離角」で,反対に太陽から西に最も離れて明け方の東の空に最も高く見えるときが「西方最大離角」です。
 今年の金星は5月ごろまで夕方の西の空にひときわ明るく輝いていて,3月25日の東方最大離角をすぎると,次第に太陽に近づいていきます。4月28日には最大光度を迎えました。

 金星は,およそ1か月に1回くらいのペースで細い月と並んで見えます。ちょうど今月は25日から27日までがそうでした。3日間にわたって,次第に月が金星に接近するのを見ることができました。金星の輝きはそれだけでも美しいものですが,幻想的な細い月と金星が夕空に並ぶ光景は幻想的です。また,この時期の金星は望遠鏡で眺めると,月と同じように三日月状に見えます。
 この3日間は幸い天気に恵まれたので,写真に収めることができました。今日の2番目の写真の左側が4月25日,そして右側が4月26日です。4月26日は少し雲があったのですが,なんとか見ることができました。そして,最も近づいた4月27日が今日の1番目の写真です。この日はさらに,望遠鏡を使って,月と金星の拡大写真も写すことができました。
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 金星はプレアデス星団M45との大接近も起こります。今年は4月4日ころ,最もプレアデス星団に近づきましたが,そのときに写した写真が3番目のものです。
 この先の見ものは5月24日です。この1か月で金星は急速に高度を下げていくのですが,5月24日は夕方の西の低い空で水星と大接近し,そこに月齢1.7の細い月が並びます。今から楽しみです。晴れるといいなあ。

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 このところ,その気もなかったのに,偶然にも行った先行った先がNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」にちなんだ場所で,そのときに岐阜県山県市に大桑城(おおがじょう)というものがあるのを知りました。
 山県市は私がときどき星を見に行く秘密の場所に近く,これまで星を見るのに適当な場所がないかとそのあたりはずいぶんと車で走り回ったことがあるのにも関わらず,そんな場所が存在したことも知らず,びっくりしました。
 しかし,わざわざ行かずとも今度星を見に行く機会があればついでに大桑城に寄ればいいやと思っていたのですが,暇だったので,3月21日の早朝,車でふらっと出かけてみました。

 Google Maps を頼りに,自宅から車でカントリーロードを1時間,到着してみると,へえー,こんなところがあったのかと思いました。
 大桑城への登り口には立派な駐車場がありました。たった1台,先客が停まっていました。駐車場からは南方向に展望が開けていて街灯もなさそうなので,夜になればここから満天の星空が見えるように思えるのですが,私は,この場所がいくら山奥のように思えても,実は南の空は名古屋の灯りの影響で満天の星空など望むべくもないということを経験上知っています。

 駐車場の北側に小高いと思われた丘があって,そこに大桑城の登山口が開いていました。そこからほんの数分も行けば山頂の城に着くだろうと軽い気持ちで登りはじめたのですが,その考えが甘かったことにすぐに気づきました。
 登山道は「麒麟がくる」の観光客目当てらしく急ごしらえで整備されていて,真新しい白いロープがずっと枝に張ってありました。ロープをささえにすれば登るのに苦労はありませんでしたが,山頂まではずっと急坂が続いていて,黒井城に登ったときとまさに同じように,大変な思いをしました。
 30分以上かけてやっと到着した山頂には張りぼてのようなミニチュアのお城がつくられていて,大変がっかりしました。日本人というのは,どこに行っても,どうしてこういうくだらないことをするのでしょう。意味ないです。あと数十年もすれば,こんなものは朽ち果てて廃墟となることなどだれでも容易に想像がつきます。それを維持管理するような予算はないのです。
 日本人がやることの90パーセントはそんなムダなことばかりで,こうして,この国はどこもかしこも汚くなっていくのです。
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 山頂にはおじさんがひとり登っていて,おいしそうにカップヌードルを食べていました。おそらく,彼が駐車場にあった車の主でしょう。話しかけると,この人はこうして近隣のこの程度の山登りを楽しんでいるようで,ここは人気の山だよと言っていました。
 毎晩盛り場で酒を飲む人もあれば,パチンコが生きがいの人もあり,スポーツジムで汗を流す人もあれば,このように孤独を楽しんで自然の中を散策している人もいます。ハイキングや山登りすら群れないとできない人も少なくありませんが,このご時世,こうした孤独な山歩きのような楽しみのほうがずっと健康的です。
 外出をするなとか言っていますが,それは群れるのが好きな人の発想です。彼らの基準で,盛り場で酒を飲むな,群れるなと言っている話であって,ひとりで渓谷で魚釣りをしたり野山をハイキングをするような人の楽しみなど毛頭知らないのです。そもそも,一番群れるのが好きなのは政治家であり,出世願望の強い人たちです。

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 大桑城は,鎌倉時代から戦国時代にかけて,標高408メートルの古城山(金鶏山)の山頂付近にあった山城でした。古城山の山頂付近から400メートルにわたって本丸から曲輪が連なっていたと推定され,現在も曲輪や土塁などの遺構が残っています。また,南麓には越前朝倉氏の一乗谷を参考にした城下町がありました。
 もともとは鎌倉時代の1250年(建長2年)ごろに逸見義重が承久の乱の功績によって大桑郷を領地とし,その子の大桑又三郎が城を築いたのがはじまりとされます。1496年(明応5年)には守護であった土岐成頼の3男土岐定頼が改築し,その後,土岐頼純・頼芸の居城となりました。
 1509年(永正6年)守護代の斎藤氏の台頭によって,土岐氏は拠点を転々と移し,1535年(天文4年)には,大桑城を拠点とし城下町を開きました。1542年(天文11年)に大桑城は斎藤道三に攻められ土岐頼芸は城を出ますが,織田信秀の仲介で和睦します。しかし,5年後の1547年(天文16年)に斎藤道三が再び侵攻すると落城して土岐頼純は討死,土岐頼芸も本巣に逃れ,大桑城は道三によって焼かれました。
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 時は流れ,1988年(昭和63年)に大桑城本丸跡地にミニチュアの大桑城が造られたということですが,それが私が見たチンケな城の模型です。現在,古城山は登山やハイキングを手軽に楽しめるコースとして親しまれているということです。
 帰りは駐車場から来た道と反対側に降りましたが,降りたところにあったのは,私が一度,星見の場所探しで行ったことがある大桑の集落でした。この集落こそが,かつて一乗谷を模した城下町だったところだったのかと,このとき知りました。

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 私はこれまで山登りとはまったく無縁でした。マラソンで長距離を走るのも当然苦手です。近年旧街道歩きをしていたのは単に運動不足の解消のためでしかなく,もっぱら下り専門,旧東海道を江戸から京にすべて歩くなどというストイックなことはしませんでした。
 当然,流行りの富士登山など考えたこともないのですが,その理由は,登山をしたくないということに加えて,人混みが大嫌いということもあります。NHKBSプレミアムでしばしば放送されている日本百名山のような番組を見ていると,苦労して登頂しても,山頂にいるおじさんおばさんたちの人だかりを見て,私はぜったいしたくないという思いがさらに深くなってしまいます。どうして人は群れたがるのでしょう。
 でありながら,若いころは,誘われて穂高を縦走もしてしまいましたし,利尻富士もなりゆきで登ってしまいたし,伯耆大山も登頂しました。今考えても,そうして山に登ったのは自分ではないような気がします。おまけに昨年は,これもまた誘われて,オーストラリアのエアーズロックにも登ったのですが,死ぬ思いをしました。でも,登って本当によかったと思うこのごろです。

 今年は2月下旬ころからの新型コロナウィルスの流行で,海外からの渡航が困難となり,その結果,ここ数年,インバウンド(これは和製英語です)とかであれだけ多くの外国人が押し寄せていたのがまったくいなくなりました。そこで,私が「インバウンドによるオーバーツーリズム」で混雑して行く気を失くしていた日本のさまざまな場所に人影がなくなったので,そのころの私はこれがチャンスだとばばかりに,車でその場所に出かけては,人のほとんどいない自然を楽しんでいました。公共交通機関も使わないし,ガソリン代と高速道路の通行料と,それに,ほとんどお客さんのいないレストランでささやかなものを食べるだけなので,お金も使いませんでした。
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 そんなこんなで,まず,2月下旬に岐阜の金華山に歩いて登ることを考えました。しかし,登るのは大変といわれ,軟弱な私はそれに従ってロープウェイで登り,帰りだけ歩いて下山しました。一度は金華山に歩いて登りたいものだという好奇心は,妥協して下りを選んだだけのことでしたが,それで満たされました。そのとき,山というのは標高が300メートルから500メートルだと登山道は2,000メートルほどあって,歩くと1時間くらいかかるということを学びました。それで山歩きは卒業のつもりでした。 
 ところが,3月のはじめに余部鉄橋を見にいった帰りに,行く予定もなかった黒井城に行き,駐車場から予想以上に遠かった本丸跡まで登ってしまい,私にとっては険しくて死ぬ思い(オーバーな)をしました。このことはすでにブログに書きましたが,もう,こんなことは二度とするまいと決意を新たにしました。しかし,なぜか,それから1週間とたたない3月12日,今度は,昨日放送された「麒麟がくる」で名前が出てきた大桑城(おおがじょう)に登城というか登頂することになってしまいました。
 今日からはそのときのことを書きます。
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 新型コロナウィルスの蔓延で,今や,ここで書くような近くの山に登ることさえしばらくできなくなってしまったのが残念です。

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 1970年代には多くのすばらしい天文書が出版されました。私もそのころずいぶんと購入したのですが,その多くは今や手元になく残念に思っていました。
 インターネットの普及もあって,容易にそれらの本をオークションであるいは古本屋さんのサイトで見かけるようになったので,見つけては買い戻していくうちに,欲しかったものは再び手元に置くことができました。
 今日は,そうした本のなかでもユニークな存在だった「透視版星座アルバム」の話題です。
 
 「透視版星座アルバム」は,星座ごとの写真に透明なシートをつけ,そこに藤井旭さん独特の星座絵を描いてわかりやすくしたもので,シート越しに見ると星座が浮かび上がり,シートをめくると天体写真になるという凝ったものでした。今思うと,藤井旭さんが数多く出版した星の写真集のうちの最高傑作であり,集大成でしょう。しかし,その割には,今,それほど評価されず大切にされていないようで,とても悲しく思います。
 この本は,30年も前に出版されたものですが,そのときでも定価がとても高くて,私には手が出ませんでした。そしてまた,発売されたころは私にはそれほど魅力的な本には思えませんでした。
 ところが,誕生日のプレゼントとして,予期せずこの本をもらいました。しかし,当時,私は星座というものにはあまり興味がなく,そこでこの本の価値がわからなかったので,それほどうれしくなかったように記憶しています。今思うと,贈ってくれた人に悪いことをしました。
 その後,この本は新版となり,春夏編と秋冬編の2冊にわかれ,製本も変わって扱いやすくなったことだけは何となく知っていましたが,手に取ることもありませんでした。
 そんなわけで,贈ってもらった本も大切にすることなく,いつのまにか自分の手元からなくなっていました。

 南半球に出かけて,日本では見ることができない星空をながめているうちに星座に興味をもち,この本のことを思い出しました。インターネットで探してみると,けっこうきれいなものがかなり安価に入手できることがわかったので,さっそく,旧版と新版をともに入手することができました。
 届いた本をさっそく見直してみました。この本は,それより10年くらい前に出版され,以前このブログに紹介した「星座ガイドブック」の姉妹編ともいえるものでした。しかし,文字ばかりの分厚い「星座ガイドブック」よりもずっと楽しくわかりやすかったので,「星座ガイドブック」を読みながらこの写真を見ると楽しいように思いました。

 先に書いたように,私が星座に興味をもつようになったのは,ニュージーランドやオーストラリアに出かけて,南天の星空を見るようになってからのことです。…というよりも,それまで星座に興味がなかったのは,満足に星すら見ることができない日本では,望遠鏡で星雲・星団や彗星の写真を撮ることはできても,星々をつなげて星座を確かめ,満天の星空を楽しむこと自体が無理だったのが理由でした。
 南天で満天の星空を見て,そして,南天の星座を知るようになったら,今度は,星座に関わる神話がおもしろいと思うようになってきました。そして,南天の星空を星図を参考に自分で写した写真を調べるようになると,この本に載っている藤井旭さんお得意の星座絵で星たちをたどるととてもわかりやすいという,この本の魅力がやっとわかってきました。
 そしてまた,今にして,藤井旭さんが現役バリバリのころにやろうとしていたこと,そして,実際にやっていたことの意味がわかってきました。

 当時のアマチュア天文ファンは今,みんな50代以降の初老になってしまいましたが,この人たちは,藤井旭さんにあこがれて天体写真を写したいとか,池谷薫さんにあこがれて新彗星を発見したいということからはじまって,やがて成人になり,さらにのめりこんだ人は,高性能の望遠鏡を手に入れたり,白河天文台のような観測所を作ったり,あるいは,本気で彗星や小惑星の捜索をしたりといった方向に進んでいきました。そしてまた,それ以外の多くの人は日々の忙しさで星空からは遠ざかりました。
 しかし,さらにのめりこんだ人たちのなかで,本当に星空を「見ること」が好きだった人がどれだけいたでしょう。星空を「見ること」よりも,車とかコンピュータ同様,メカに興味がある人の方が多そうです。写真を写すことよりもやたらとカメラを購入してそれを眺めて楽しむことと同じです。それは,オーストラリアまで出かけて,満天の星空の下で,肉眼で星を見ても感動するでもなく,単に被写体として星の写真を写しているだけの人がいたりすることでもわかります。また,天文学者には実際に星を見たことがないとか,星座を知らないという人が少なくありません。
 それに対して,藤井旭さんは,本当に星の好きな人だったように思います。しかし,そんなこだわりのなかで作られたこの本は,「天体写真の写し方」みたいな本に比べたらそれほど評価されず,また,あまり売れなかったような気もします。

 「透視版星座アルバム」がすごいと思ったのは,1枚1枚の写真の構図です。
 自分でも星野写真を写してみると,この本に載っているようにきちんと構図を決めた写真を写すのがとても難しいということを実感します。それは,日本のような天候にめぐまれず,星を写す場所がないという理由にもよるからなのです。しかも,今のようなディジタル写真ではなく,フィルムを使って長い時間露出して,現像してみなければ出来がわからないという時代にです。これだけの写真を写そうとなれば,ずいぶんと時間と手間もかかります。
 この写真には時には惑星が写ってしまっていますが,それは仕方がないことでしょう。しかし,今,同じような写真を写そうとすれば,惑星以外に,多くの人工衛星やら飛行機やらも写ってしまうから,この当時よりもはるかに困難なことであろうと思われます。
 新版には,南天の星座も載っています。日本で南天の星座について取り上げられた書籍はほとんどなく,この本はとても貴重なのです。
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 今この本を眺めていると,再び南半球の星空を見ることができる日がくるのだろうかと,少し寂しくなってしまいます。

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 海外に行くことができなくなって,私にはあれだけ近かったアメリカもヨーロッパも,宇宙の果てになってしまいました。ここ10年ほどの間,この先いつ行けなくなるかわからないからと,1年に6回以上,行きたかったところにはどんどんと出かけていましたが,今にして,本当にそうしておいてよかったと思うわけです。行けなくなる理由は自分の体力の問題だと思っていたのに,まさか,こういうことがこれほど早く起きるとは思ってもいませんでした。
 そんな次第で,私には何の憂いもないのですが,気の毒なのは,この3月で退職して,いよいよ海外旅行でもしようかと思っていた人たちや,将来を夢見て,留学をしていた若者たちです。学生や年配の人にとれば,1年は貴重です。まして,2,3年となると,取り返しがつくような年月ではありません。

 私は,50代の後半から10年余りの間,世界各地の行きたかったところは,すべて旅しました。
 ニューヨークでミュージカルも見たし,多くのボールパークに行ってメジャーリーグで活躍する多くの日本選手も見たし,フィラデルフィアでロッキーの像と記念写真も撮ったし,ハワイ島のマウナケア山にも登ったし,アラスカであるいはフィンランドでオーロラも見たし,オーストラリアやニュージーランドで満天の星空も見たし,エアーズロックにも登ったし,アイダホで皆既日食も見たし,アイスランドにも行ったし,ウィーンでは国立劇場でオペラも見たし楽友協会のコンサートにも行ったし,…。
 昨年は,ついにパロマ天文台にもバリンジャー隕石孔にも行くことができたし,ヘルシンキにも行けました。また,今年の2月,ハワイのモロカイ島へはきりぎりで間にあいました。
 それは本当に偶然のことだったのですが,もし1年早くこういう状況になっていたら,これらのぜひ行きたかった場所に行くことができなかったことを,きっとずいぶんと悔しがったことでしょう。
 それよりも何よりも,私が気になっているのは,飛行機で親切にしてもらった客室乗務員が今どうなっているだろうか,とか,海外で日本人向けのツアーをやっていた人たちはどうしているだろうか,ということです。本当に,一寸先は闇,だれにも将来のことはわかりませんが,まさか,こんなことになろうとは,1年前には想像もつきませんでした。

 その結果,私がこれまで行ったなかで,行ってよかったなあ,できればまた行きたいなあ,と思うところは,結局,どこもかも,人の少ない,有名でない大自然だったのです。そんななかでも,私が再び行きたいのはハワイのモロカイ島です。そしてまた,アイダホやアラスカなどです。
 どんなに景色きれいなところであっても,観光地と名のつくところは,どこも人が群れていて,一度行けば十分でした。昨年来,日本国内の旅行をしはじめましたが,それもまた,名もない町に行って,人がほとんどいない旧街道を歩いたりさびれた温泉宿に泊まったり,そうしたことの方がずっと安らぎを感じることがわかりました。
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 あと何年先になるかわかりませんが,今の状況が改善されて再び旅ができるとしたら,また行ってみたいなあと思っているところを,今度はもっとゆっくりとめぐってみたいなあと,そう夢見ながら,今はせいぜい英語の勉強でもしようと思っているのです。

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 去る4月19日にNHKEテレで放送されたクラシック音楽館は「いま届けたい音楽〜音楽家からのメッセージ〜」でした。92歳になるNHK交響楽団の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさんのメッセージは
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 今,ルツェルンの自宅で日本の皆さんを思い浮かべている。いつか皆さんのためにコンサートホールで演奏したい。こうしたときだからこそ、私たちは音楽を渇望する…
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でした。
 新型コロナウイルスの感染拡大が続き,コンサートが次々と中止になって,音楽家はステージで演奏ができなくなってしまいました。私も楽しみにしていたコンサートに行くことができなくなってしまいました。
 こうしたとき,音楽家は何の役にも立たないといって自問するようです。しかし,私は,いいえ,クラシック音楽はこころ穏やかに生きるには一番必要なものだよと叫びたくなります。

 私は若いころからクラシック音楽を聴いてきました。特に,NHK交響楽団の定期公演は会場で,また,ラジオのFM放送やテレビで,20年以上にわたってそのほどんどを聴いてきました。音楽にはまったく才能もなく,楽器も弾けないけれど,聴いたことのある曲だけは膨大で,少しは耳が肥えてきました。
 それにも増して,一昨年,昨年とウィーンに行って,その深さを改めて知ることになりました。ウィーンに行くと,そこかしこにベートーヴェンが散歩した小径があります。そうしたところを歩いていると,自然とベートーヴェンの作った交響曲が頭の中に鳴り響きます。また,フィンランドへ行って,シベリウスの作曲した曲のその背景がとてもよく理解できました。そうした経験を経た今,私にとって,クラシック音楽は,何物にも代えがたい大きなこころの財産となっているのです。
 「妻を失くして何も手につかなくなったとき,バッハの音楽だけは受けいれることができた」と書いたのは音楽評論家の吉田秀和さんでしたが,私は,辛かったとき,ブラームスの音楽が救ってくれました。そして今,私は,ブルックナーの交響曲を聴くと,何もかもが満ち足ります。
 自分にとって必要十分な社会の情報だけを知って,それ以外のことは何もかも遮断して,朝から1日中音楽に囲まれて生活すると,どれほどこころが落ち着くことでしょう。そうした音楽を知っていてほんとうによかったと思うのです。

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 ブルックナーの何がそんなによいのか?  音楽のクライマックスが緊張の絶頂であると同時に,大きな,底知れないほど深い解決のやすらぎでもあるということ。その点でまず,彼は比類のない音楽を書いた。
 ベートーヴェンは緊張を急速に高めてゆくために,リズムをだんだん加速させてゆく。その結果,主要主題はそれを準備していた段階にくらべると,もっと大きな迫力を獲得していることになる。ところが,ブルックナーの主要主題は,ひとつの行進の終わり,停止を含まずにいない。私たちは,そこでひと息つき,後ろをふりかえったりさえする。
     「ブルックナー『第九交響曲』」吉田秀和「音楽手帖」(1981年)より
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 私は,自宅で音楽を聴いているだけで,こころが元気になります。ほんとうに音楽はすばらしいものです。
 1日も早く,再び,演奏を聴くことができる日が戻ってきますように。

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 今日は「月刊天文ガイド」のお話です。
 ここでひとつ補足です。これもまた,以前書いたことがありますが,私は自分が趣味としている星見や写真のために使っている望遠鏡やカメラ,交換レンズなどを,今後は新しく買うことをやめました。新たに購入するときは,今使っているものが壊れて買い替えが必要なときだけです。それは,すでに今持っているもので十分に事足りているということもありますが,趣味として楽しんでいるだけなので,新しい技術をひたすら追いかけても,お金ばかりがなくなって,自分の満足とは比例しないということに気づいたからです。モノをもっていても置き場所にも困るし,いらなくなったときの処分も大変です。そこで,そうした新製品の情報が載っている雑誌は,もはや私にはあまり意味のないものですから,ここで書くことは一般の人の評価や感想ではないことをお断りします。
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 この雑誌は,誌面刷新以来,表紙を見ただけで購買欲がそそられるようになりました。しかし,毎月,本屋さんで購入しようとぺらぺらページをめくってみると,結局手に取るのをやめてしまいます。私の知りたい情報がほとんど載っていないということが原因ですが,それは,私個人の問題で,雑誌のできの問題ではありません。
 子供ころ,当たり前のように「月刊天文ガイド」を毎月購入して読んでいました。けっこう多くの友人が同じように読んでいたのですが,そのうちのひとりが,家で父親にこの雑誌を見せたら「なんだ広告ばかりじゃないか,こんなものをお金を出して買うのか」と言われたというのを聞いて,驚きました。子供のころの私には,そんな発想はありませんでした。
 これは何も天文雑誌に限ったことでなく,ファッション雑誌もカメラ雑誌も同様で,要するに,広告の束なのです。民放のテレビ局も新聞も同様です。私が広告がうざったいというSNSも当然そうです。

 それにしても,日本の天文雑誌はその程度が超えています。
 アメリカには「Sky & Telescope」という天文雑誌があります。この雑誌は日本の雑誌のように広告の中に記事があるということもなく,非常に内容が充実していて読みごたえがあったので,日本の天文雑誌にうんざりしていた私は,それをしばらく電子ブックとして購読していました。しかし「Sky & Telescope」誌の経営が傾き,最後のころは,アプリにバグがあってインストールすることもできなくなりました。嫌気がさして,私は購読をやめました。噂では,「Sky & Telescope」社は倒産して,今はアメリカのアマチュア天文学会が発行を受け継いでいるということだったので,調べてみると実際その通りで,今は新しく引き継いだ組織から紙媒体の雑誌を年間契約で購読できるようでした。しかし,以前のことがあって信用がおけないので,今は読んでいません。
 私が求める天文雑誌は「日経サイエンス」のような学術記事の多いもの,あるいは,百歩譲って,昔あった「季刊星の手帖」のようなものですが,残念ながら今はそういう雑誌は存在しないし,もし発刊しても,日本では売れないことでしょう。以前,「月刊天文ガイド」の別冊として「INTERACTIVE ASTRONOMY」という天文機材に関する技術雑誌があったのですが,今の「月刊天文ガイド」はそちらの部類の雑誌です。

 さて,暇つぶしに,「将棋世界」とともに「月刊天文ガイド」を紙媒体で久しぶりに購入したというお話の続きです。
 しかし,「将棋世界」と違って,「月刊天文ガイド」は読んでいても楽しくありません。どうしてなのだろうかと考えるに,要するに,夢がないからなのです。そして,残念ながら,私には,やはり毎月買うほどのものではないなあと再び確信するに至るのです。
 その理由を考えてみました。
 まず,天文に関する情報が少なすぎるのです。星空案内ならばアプリのステラナビゲータで事足ります。「月刊天文ガイド」の5月号にも,「アトラス彗星(C/2019Y4 )が明るくなる」というすでに意味のなくなった情報が表紙を飾っているように,新彗星などの情報は雑誌では遅すぎます。そして,読み応えのある天文情報としては,「ASTRO NEW」が2ページと「天文学コンサイス」という5ページの連載があるだけです。
 今,日本の天文学は,チリに設置されたアルマ望遠鏡やハワイ島のマウナケアに建設されたすばる望遠鏡のような優れた観測装置が世界にあって,日夜最新の研究が行われています。そうした施設でどんな研究がなされているかというような情報を専門家に委託して一般の人にわかりやすく紹介すればいいのに,そうした記事はいつもほとんど皆無です。そしてまた,国立天文台の予算が大幅に削減されて,昨年,ブラックホールの写真をとらえたといってあれだけ脚光をあびた水沢が困っているとか,新しくマウナケアに設置しようと計画されている超大型望遠鏡TMTが地元の反対で5年も凍結されているというような,そんな切実な情報もまったくありません。取材力もないのでしょう。
 それに対して,新しく発売された何十万円もするような望遠鏡やカメラやレンズの性能がどうだとか,これからどんな製品が出るだとか,画像処理の方法だとか,金持ちアマチュアの作った天文台の紹介とか,100万円近くもする日食ツアーの紹介だとか,そんなものばかりがページを埋めています。そうした記事は,おそらく若い頃の私なら憧れたとしても,今の私にはその楽屋裏がわかってしまうので,まったくときめかないのです。
 結局,この雑誌は天文学情報の雑誌ではなく,機材やコンピュータソフト,そして,旅行の広告の束なのです。

 私が最も白けるのは,現在この雑誌を購入している人たちの年齢層です。おそらく,1966年に創刊したときに購入していた読者層のまま,新規開拓もされずに,月日の流れとともに高くなっていったのでしょう。それは読者の天体写真を見ればわかります。かつては彗星を観測するアマチュア天文愛好家の集まりでであった「星の広場」同様に,そのほとんどは50代から60代です。この雑誌を若者が買うとは思えません。
 先日,オーストラリアのゲストハウスで出会ったこの年代の人たちは「月刊天文ガイド」で名を馳せているということでした。お友達と群れてオーストラリアまで出かけていって,お昼間には観光をするでもなく,オーストラリアの文化に触れるわけでもなく,現地の人と交流するでもなく,仲間うちでゲストハウスの庭で固まってお酒を飲んでくっちゃべって,夜になると日本から持ってきた高価な望遠鏡とカメラを使って,観測場所を占領し,肉眼で星を見て感動するでもなく,ひたすら写真を撮っているといった,私財を貢いで星を媒体とした写真を撮ったり画像処理をするのを生きがいとする人たちでした。今や,「月刊天文ガイド」はそうした人たちだけの同好会の機関誌のようなものです。
 望遠鏡1台が車1台ほどの値段もしていながら,それを買っても,車と違ってどれだけ稼働率があるのだろうかと考えてしまいます。さらにまた,日本では手軽に星を見ることができる場所など今やどこにもないのです。であるのに,せっかく購入した高価な望遠鏡を持って夏休みに1度か2度程度山に出かけても,晴れないし人が群れているだけだし…。これでは,若い人は離れます。
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 ということで,ぺらぺらとめくって眺める以外に読むところはほとんどありませんでした。しかし,せっかくひさしぶりに購入した雑誌なので,いつも手元に置いて,新しい号が出たときに本屋さんで素敵な表紙につられて買いたくなったら,家にある雑誌のことを思い出して,買うのを思いとどめるのに利用しようと思います。

IMG_0287 (4)IMG_0294 IMG_0286 (2) きちょう きりん

 私はもともとドラマはあまり見ないし,演劇の興味もないので考えたこともなかったのですが,もれ聞こえるところでは,ドラマは脚本次第,だそうです。
 そういえば,私が好きだった大河ドラマは「国盗り物語」と「花神」に尽きるのですが,その2作とも脚本は大野靖子さんでした。「骨太でダイナミックな群像劇,シャープで乾いた叙事的作風で歴史物や社会派物に強みを発揮」したという大野靖子さんは,司馬遼太郎作品をドラマ化するのに相性がよかったようで,すぐれた作品を残しました。
 現在,日曜日の朝6時からNHKBSプレミアムで「太平記」が再放送されていますが,この作品の脚本が現在の大河ドラマ「麒麟がくる」と同じ池端俊策さんになるものとは知りませんでした。作品の作りや流れが似ています。

 「麒麟がくる」について,池端俊策さんはつぎのように書いています。
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 今回,大河ドラマのオファーが来たとき,室町幕府の後期,つまり戦国時代をやるというのは決まっていました。僕は以前「太平記」で室町幕府を開いた足利尊氏を書いたことがあり,いつかは室町幕府の後期を書きたいと思っていたので、ぜひやってみたいと。
 (中略)
 そんなときNHKサイドから明智光秀の名前が挙がり,僕はそれに飛びついたわけです。信長と義昭をつなげたのが光秀という説もあるし,美濃の出身といわれているので道三との関わりもあるはず。しかも光秀は,戦国時代の裏街道を歩いた人物の代表格です。僕は裏街道を生きた人が大好きなので,これはおもしろくなりそうだと直感しました。
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 「太平記」は1991年に放送された大河ドラマでした。
 吉川英治の「私本太平記」をもとに,鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期を,室町幕府初代将軍足利尊氏を主人公に描いた物語でした。南北朝というのは日本史ではタブーの時代のようで,それまでドラマ化されたことはありませんでした。
 「太平記」と「麒麟がくる」で,池端俊策さんの脚本による大河ドラマは,室町時代のはじめとおわりを描くことになるわけですが,そういえば,「国盗り物語」と「花神」もまた,戦国時代末期と江戸時代末期ということで,ひとつの時代のはじまりとおわりの関係だったのです。

 私は,若いころは大の日本史好きだったのですが,歳を経るにつれて,学校で学ぶ日本の歴史は英雄賛美史,大和朝廷正当化史みたいで,嫌いになりました。それとともに,大河ドラマもまた,関心がなくなりつつありました。しかし,「麒麟がくる」,この作品では,その時代に生きた庶民にも光があたっているし,何より,演じている人たちが上手で,緊迫感があります。帰蝶はすてきだし,斎藤道三も織田信長も最高です。特に,4月12日と4月19日に放送された斎藤道三と織田信長の聖徳寺の会見までの流れはすばらしく思えました。
 この会見の舞台となった聖徳寺があった跡地は一宮市の富田で,家から近いので,さっそく散歩してきました。これまで私は,富田という地名から,聖徳寺は名古屋市中川区の富田にあったとばかり思っていました。
 歴史ドラマでは,やれ史実と違うだの,有名なあのシーンをやらなかっただのという批判をする人がいるものですが,学校で学ぶ歴史教材を作るわけでもなし,人間ドラマとして見ているほうに訴えるものがあればそれでいいと思っています。「麒麟がくる」でも,織田信長の父織田信秀の葬儀で,位牌に焼香を投げつけたという有名なシーンがなかったのが物足りないと書かれたブログがありましたが,池端俊策さんはドラマで人の最期を直接描かないのです。
 つねにこれまで,戦国時代を扱った大河ドラマでは「国盗り物語」の亡霊を見て,がっかりしていた私に,「麒麟がくる」は,はじめてそれとはまったく異なる次元で,かつ「国盗り物語」をはるかに凌駕しているので,どんどんとのめりこみはじめています。最高です。
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 どうかこのドラマが最後まで無事に放送できますように。

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 暇つぶしに,久しぶりに紙媒体の雑誌を購入しました。購入したのは「月刊天文ガイド」と「将棋世界」です。電子ブックのほうが手間がかからずかさばらず持ち出しやすく,小説などを読むにはよいのですが,暇なとき気軽に開くには紙媒体のほうが便利だと気づいたからです。また,紙媒体でなければできないこともあるからです。以前,NHKの語学講座のテキストを電子ブックで購入したのですが,書き込みもできず,まったく使いものになりませんでした。
 そこで,以前これらの雑誌のことをブログに書いたので,改めて,再評価してみることにしました。
 
 さて,今日は「将棋世界」のお話です。
 この雑誌は,あいかわらず,読みごたえがありました。将棋雑誌は,カメラ雑誌や天文雑誌のように広告だらけでないのがいいです。ただし,やはり,私の棋力では,実際に並べてみないと,読んでいるだけでは将棋自体はさっぱりわかりません。詰将棋は難しくて,時間がないと考える気にもなりません。やはり,この雑誌は,旅に出たときに飛行機の中で気楽に読むよりも,家でじっくり読むもののようです。
 そこで,今回は暇なこともあって,将棋ソフトを使って「将棋世界」の次の1手や詰将棋を解かせて,現在の将棋ソフトの実力を調べてみることにしました。使用したのは,いつも私が将棋を観戦するときに使っている「やねうら王」と詰将棋に特化した「脊尾詰」です。
 まず,詰将棋です。これは「脊尾詰」を使えば,ほとんどの問題はたちどころに答えが出てきます。AIはすごいものです。しかし,詰将棋の価値は,こうして答えがわかることには何の意味もないのです。こうして答えをみることは,高校生が夏休みに山ほど出された宿題を,消化不良のまま答えを写して提出するようなものです。かくいう私は,解けない問題にいらいらすることもないので,便利に使えます。本当は,解けない問題を1日中考えることが大切なのでしょうが,もう強くなる気もないので,これで十分なのです。
 それよりも,興味深かったのは次の1手問題です。以前にも書いたことがありますが,次の1手問題は,人間とAIの対決のようで極めておもしろいです。簡単な問題は,AIを使えばちゃんと正解するのですが,四・五・六段コースになると苦戦するのです。たとえば,5月号の219ページに載っている第4問です。興味ある人は試してみるとよいですが,AIの示す候補手と答えがまったく違います。私は雑誌の答えの方が間違っているのかと思って,AIの予想手どおり手を進めていくと,途中でAIは自分の読みにない詰みを見逃して逆転してしまうのです。どうやら現在のAIは,このあたりにまだ限界がありそうです。雑誌を作っている人はここまで考えて出題しているのかどうかが気になります。
 藤井聡太七段応援ブログや YouTube に素人がAIを使った評価値をもとにやんややんやと感想を書いているものが多々あるのですが,将棋の何たるかもしらないでそうしたことだけで批評をすることがどんなに軽率なことであるかということがこれでわかります。確かにAI技術の進歩はすごいけれど,人間はそれを過信することなく,まだ,そうした欠点があるということを知ってAIと向き合う必要があると思います。昨年放送されたドラマ「ドクターX」でもそうしたことを上手に茶化していました。

 しかし,こうしたソフトを使って「カンニング」すると,詰将棋の懸賞問題とか,棋力認定なんて,もう意味がないんじゃないの,と思ってしまいます。もちろんそんなふうにして応募しても何の意味もありませんが,商品ほしさに詰将棋の懸賞問題をAIで解答をみつけて応募する不届きな輩は存在することでしょう。これは良心の問題です。
 「将棋世界」の棋力認定は,未だに往復はがきに応募券を貼るなどという,今から50年前と変わらないスタイルのままです。しかし,それはそれでご老人の楽しみだと思えばいいのだし,将棋連盟は,AIでカンニングして応募したインチキ棋力だろと,本人が恥じるだけで他人が迷惑するわけでもないし,商売上は,むしろ,それによってひとりでもたくさんの人に棋力が認定されて免状が売れればそれでいいわけなので,winwin の世界なのかもしれません。大目に見ましょう。
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 私がこの雑誌で唯一気に入らないのは,マイナビ出版の払込用紙が2枚もページの間に挟まれていることです。これ邪魔です。うざったいです。今どきこんな用紙を使ってお金を払い込んでいる人がいるのでしょうかねえ…。と思ったら,これもまた,往復はがきと同様の旧石器時代の世界だと気づきました。
 昔と変わらぬ,というより,昔よりずっと文字数が減ってしまって,わずか原稿用紙1枚程度の分量しかないから,読んでも何が書いてあるかわからぬ新聞の将棋欄にせよ,評価値などまったく導入する気もなくずっと同じ形式を貫いているNHKの将棋トーナメントにせよ,将棋界は,ものすごい人工知能の洪水に押し流されているようで,実は,50年前とまったく変わらぬ古きよき世界と今もなお共存しているのです。

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 今日からは,暇つぶしの方法です。 
 数年前にふと見たNHKEテレ「旅するドイツ語」が私を変えました。
 その番組は,オーストリアのウィーンを舞台にドイツ語の初歩を学ぶというもので,私はドイツ語よりもウィーンに魅せられました。私はクラシック音楽好きですが,ウィーンは遠い存在で,まさか行くとは思っていませんでした。何よりドイツ語圏であるということが私の足を遠ざけていました。
 その番組で感化されて,ともかく,ウィーンに行って,番組で紹介された場所のすべてに行ってみました。そして今度は,ウィーンに魅了されました。もしその番組に出会わなければウィーンに行くこともなかったかと思うと,とても不思議な気がします。
 心配していたドイツ語でしたが,たとえドイツ語圏であっても,英語さえできればなんとかなりました。しかし,やはり,少しはドイツ語がわからないと,チケットや看板に書かれた文字が理解できないので不便でした。少しでもドイツ語ができればもっと楽しく旅することができるのになあと思うようになりました。

 私は,大学時代,一応,第2外国語でドイツ語を選択し受講しましたが,すぐに挫折しました。というより,大学時代は家ではまったく勉強しなかったので,当然,根気と才能のいる語学をマスターすることなど,どだい無理な話でした。しかし,そのときに少しは授業に出たので多少の知識はありました。
 そこで,50の手習いというより60の手習い,そして,ボケ防止も兼ねて,ドイツ語の「お」勉強を「まじめに」することにしました。そもそも,この歳でドイツ語がマスターできるなどとはまったく思っていません。日本語でも忘れるのに,ドイツ語の新しい単語を覚えることができるとは到底思えません。しかし,そんなことはどうでもいいのです。大学で単位をとるわけでもなし,ドイツ語検定をうけるわけでもないし,単なる暇つぶしなのですから。将来再びドイツ語圏を旅行したときには英語で何とかしようと思っているのでドイツ語を使う気持ちもありません。
 しかし,新たなことをはじめるという,これほど心躍る有意義な暇つぶしがほかにあるでしょうか?

 お勉強の方法は,もっぱらNHKラジオ第2放送の「まいにちドイツ語」の,特に応用編ですが,これを何度も聴きます。そして声を出して読みます。「NHKゴガク」というアプリがあれば,放送時間でなくても何度も聴くことができるのでとても便利です。
 今は,Translator という便利なアプリがあって,スマホやタブレットにドイツ語入力キーボードを設定してそれを使ってドイツ語の単語を入力すればたちどころに英語に翻訳してくれます。当然日本語にも翻訳できるのですが,ドイツ語から日本語よりもドイツ語から英語という変換のほうが語族が同じだけに勉強が容易です。大学時代にこんなアプリがあったらよかったのになあと思いました。
 やる気を見せるために,書籍を2冊,購入しました。
 1冊目は「英語と一緒に学ぶドイツ語」という本です。英語との違いを中心にして書かれた文法書です。ほとんどの入門書は日本語とドイツ語の対比で説明してあるのですが,もともと日本語を英語に頭の中で変換する作業はしているので,むしろ,同じ語族の英語からドイツ語に変換するときに異なるところだけを学べた方が理解しやすいのです。これもまた,大学時代にこんな本があればよかったと思うものです。
 もう1冊は,単なる自己満足のために購入したのですが,それは博友社の「木村相良独和辞典」でした。

 この辞書には,ネット上に次のような書き込みを見つけました。
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 大学の公開講座に行くと,じいさんたちが皆,この辞書をもってきている。… ボロボロの皮表紙もおれば,新品のひともいる。授業がはじまる前に「あなたは何年のですか?」などと見せ合っている。
 私は愛用の「アクセス」を出すわけにもいかず,見栄にかられてこれを買った。
 かわいい。バッグに入れるとちょうどいい。妙になじむ。小さくても信頼できる。評価が決定的であり,辞書にうるさいドイツ文学教官にも覚えめでたい。
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 「アクセス」というのは三修社が発刊している「アクセス独和辞典」のことです。

 この有名で定評のある辞書は大学時代にドイツ語を選択したときに買ったことがあるのですが,どこかに失くしてしまいました。おそらく,2年前に家を売ったときに一緒に処分してしまったのでしょう。この懐かしい辞書はいまは絶版だそうですが,それでも価値があって求めている人が多いということで,古書が定価の何倍もする値段でネット上で販売されています。しかし,私が調べたところ,出版社にちゃんと在庫があって注文したら新品が手に入りました。ネットの情報なんてそんなものです。ただし,手に入れてもおそらく使いこなせないので,お守り代わりです。
 さて,今日も頭の刺激にドイツ語のお勉強を開始するとしましょう。大学時代に舞い戻ったようで,身が引き締まり若返ります。

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 もともと,群れることが嫌いで人混みが嫌い,そして,飲み会が嫌い,酒も飲まずタバコも吸わずオリンピックも高校野球もまったく関心のない私は,いつもと変わらない生活をしているのですが,それでも,家にいる時間が増えました。せっかくの機会なので,これまで以上に快適に家で過ごすために,いろんな工夫をすることにしました。
 時間があれば,ついついテレビをつけたりインターネットを見たりしがちですが,何を見てもコロナコロナでまったく楽しくありません。むしろ洗脳されて病気になりそうです。そこでまず考えたのが,いかに有益で不快でない情報だけを収集するかということです。
 今日は,このことについて書きます。

 インターネット上にはさまざまなニュースのポータルサイトがあります。Google も LINE もそうしたニュースのポータルサイトをウリにしています。そこには種々雑多なニュースがかき集めれらていますが,まさに玉石混交。おそらく,紙媒体であれば売れそうにないものや,その逆に売らんがために興味本位の大きな活字が躍っているような,あるいは,えげつない写真が載せられているような,はたまた,ある種の思想に染まっているような,そうしたものがずらりと並んでいます。そしてまた,そうしたニュースにはコメントができるものがあり,コメントにはヘイトとよばれる類のものがずいぶんと並んでいて,不快なだけです。
 私も,これまで,暇に任せてこうしたサイトを見ていたこともありますが,その結果,それらの情報のほとんどはまったく不要なものであるという結論に至りました。よって,見ないことにしました。これが私の結論です。
 結局のところ,信頼のおける情報は,新聞社の発信しているアプリケーションソフトとNHKニュースのアプリケーションソフトからだけで必要十分なのでした。

 テレビのニュース番組の類は,緊急性のないときは一切見ないことにしました。NHKの報道番組の内容は,NHKニュースのアプリケーションソフトで手に入る情報と同じなのです。わざわざテレビで見る必要もありませんし,おまけに,このごろのNHKのテレビのニュースは大げさに騒ぎ立てて煽っているようで好きになれません。しかも東京偏重です。
 また,民放のワイドショーの類に至っては,売らんがためのおどろおどろしい見出しの並んだ週刊誌同様にどうにもならない代物で,ひな壇とかにずらりとならんだタレントが受けを狙って何の根拠もないコメントをしているだけのものです。それを見て話題にしてレストランにたむろってランチをしならがくっちゃべっているおばさま方を「世間」といいます。
 私は以前入院したとき,テレビという媒体は辛い日々を送っている人にとって安らぎや癒しになるものでなけらばならないと実感しました。あえてテレビを見て不快になる必要などないのです。しかし,文章で書かれた情報なら自分が主体的に取捨選択すればよいのですが,テレビはつければ,その気がなくても目や耳から入ってきます。
 このごろNHK総合で始終表示されているL字のテロップ,あれは字幕テロといって,大迷惑なだけの存在です。情報過多でありおせっかいなのです。そもそも,テレビなど放送されるものをその時間に見ることなどめったになく,録画で見ることがほとんどなので,そうした情報には意味がありません。そんなにニュースを流したければ,アメリカのCNNのように,1日中報道だけに特化した専用チャンネルがあれば,それで事足りるのです。
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 もともと私は,テレビといえば,NHK総合と民放は1,2のよほど気に入った番組以外は見ないし,見ているものはそのほとんどがNHKBSプレミアムです。しかし,NHKBSプレミアムの番組もまた玉石混交です。とても質の高いものもありますが,お笑いタレントやらが司会をして,くだらないコメントをして視聴者を見下しているようなレベルの低いちゃらけたものも数多くあります。そうした番組は見る気もしません。
 このごろは,テレビに加えて,ABEMA もニコニコ生放送も Amazon の PrimeVideo も iPad で自由に見られるようになりましたが,ABEMA とニコニコ生放送は将棋番組以外は私の気に入るものがありません。PrimeVideo のコンテンツはほとんどが映画なので,映画が見たいときだけ有用です。YouTube に至っては玉石混交というよりも玉を探すほうが困難なほど,くだらないものが大量にあふれています。
 そこで私は,これまでもCSスカパーでは CNN/US を契約して見ていたのですが,さらに「スーパー!ドラマTV」を契約してみました。あまり期待はしていなかったのですが,見はじめたら,これがまあ,思った以上に楽しいというか,アメリカのドラマを英語で見るのは,おもしろくてしかも小気味よいのです。英語はいいです。聞いていてうざったくなりません。
 それに加えて,私が最も落ち着くのは,NHKFMのクラシック音楽放送です。やはり,クラシック音楽はいいです。なかでもブルックナーの交響曲は最高です。こころが満ち足ります。

 次に,SNSについてです。私は,Instagram も twitter も FaceBook もアカウントをもっていますが,これらのSNSにふりまわされても,ろくなことはありません。これらは使いかた次第ですが,もっともうざったいのは広告です。どんな広告であろうと,私はすべてブロックします。
 まず Instagram ですが,これは情報としてはほとんど意味がありません。Instagram というのはタレントさんのグラビアが無料で見られる,くらいのものでしかないと思ったほうがマシです。タレントさんのアカウントにはすてきなグラビアが無料であふれています。しかし,Instagram はタブレットやスマホのアプリでは広告の洪水です。これらは家のポストに入ってくるちらしのようなものなのであって,うざったいだけです。インターネットのブラウザで Instagram を見れば広告は一切入らないので Instagram を見たければ,アプリでなくブラウザで見るといいのです。
 Twitter は災害などのときの情報がもっとも早くコリジョンなく手に入ります。そこで,そうしたアカウントに限ってフォローをするととても便利です。しかし,ブログは主体的に自分で探さないと読めないから気に入らないものは読まなくてもよいのですが,Twitter の書き込みは,押し売りのように入ってきます。中には個人の感想を際限なく書いている人がいますが,そんなものを書きたかったら自分のブログを作ってそこに書けばいいのです。その人のくだらない書き込みなどを始終読まされるのはたまったものではありませんから,そうした書き込みはすべてブロックします。さらにうざったいのは広告です。どんな広告だろうと私は見ないでブロックします。ブロックしてもブロックしても,それでも毎日なにやかやと新しい広告が表示されるのですが,それをブロックしながら自分に必要な情報を探すのは,指の運動として,ある意味快感だと思って楽しむことにします。
 Instagram や Twitter に比べれば FaceBook は,広告以外は友達からの書き込みだけが表示されるので一番快適です。特に会う機会のない海外の友人たちと keep in touch できるのが長所です。これもまた,広告はすべて見ないでブロックします。ただし,友達のなかにも,やたらとリンクを張るだけのしょうもない人がいるのは迷惑です。そうした情報もまた,私には意味がないので,すべて非表示にします。あまりにリンクばかりを張るひどい人は友達関係をやめます。
 要は SNS は使い方で,うまく付き合うと快適に毎日が過ごせるというものです。
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 とにかく,情報があふれ出る現在では,不快な情報をいかに遮断するかということの方が大切です。こころ穏やかな毎日を過ごすには,意味のない,必要のない,また,有害な情報を手に入れない工夫をすることだと,私は痛切に感じています。

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 駐車場を出て国道8号線を東に進んでいくと,やがて道の駅に着きました。このあたりが子不知だそうです。
 ここで難所も終わり,先には平地が見えてきました。昔の旅人はほっとしたことでしょう。さらに行くと姫川があって,橋を越えると糸魚川市です。糸魚川市といえば,東北日本と西南日本の境目となる中央地溝帯・フォッサマグナです。小学校で習いました。
 本来なら,私は列車に乗ってこの糸魚川市に着いて,ここから西に親不知海岸に列車で目指す1泊2日の旅をするはずでした。
 車で走っていると,乗るはずだった1両編成の列車が走っているのが見えました。しかし,こうして車であっという間に来てみると,これでは旅情もへったくれももなく,ただ来たというだけのことでした。
 目的は親不知海岸を見てみたいということだけだったので,ここらあたりで引き返すことにしました。目的を達成できて,これはこれで満足しました。
 帰りの途中,市振の集落に差し掛かったので,一旦国道8号線を降りて集落の細い道に入りました。

 松尾芭蕉は「奥の細道」で,次のように書いています。
  ・・・・・・
 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て,つかれ侍れば,枕引よせて寐たるに,一間隔て面の方に,若き女の声二人計ときこゆ。
 年老たるおのこの声も交て物語するをきけば,越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて,此関までおのこの送りて,あすは古郷にかへす文したゝめて,はかなき言伝などしやる也。
 白浪のよする汀に身をはふらかし,あまのこの世をあさましう下りて,定めなき契,日々の業因,いかにつたなしと,物云をきくきく寐入て,あした旅立に,我々にむかひて,「行衛しらぬ旅路のうさ,あまり覚束なう悲しく侍れば,見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。
 衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と,泪を落す。不便の事には侍れども,「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護,かならず恙なかるべし」と,云捨て出つゝ,哀さしばらくやまざりけらし 。
  一家に遊女もねたり萩と月
 曾良にかたれば,書とヾめ侍る。
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 このときに松尾芭蕉が泊ったという宿の跡が残されていました。
 ここはまた,市振の関所があった場所です。市振の関所は1614年(慶長19年)に設けられたものといわれ,加賀藩最大の関所でした。越後に通じる親不知の難所を控え,交通の要所を押さえるように国境に設置されたものです。
 加賀藩はこの地を直轄地とし国境警備に重点をおいたので,ここは全国でも最大級の規模をもつ関所でした。関所には,海辺や海上渡航改めをする浜関所,街道通行改めの関所,海上や山中を不法越境するものを見張る御亭,藩主が宿泊した御旅屋,射撃場,牢屋,役人の長屋などがありました。
 現在は,静かな漁港となっています。

 さて,これで帰宅です。
 せっかく来たので,立山やら黒部やらまで足を延ばしてもいいのですが,特に行くための準備もしていなかったので,立山の姿だけを遠くから見て,行きと同じ東海北陸自動車道で引き返すことにしました。
 立山は雪を被った姿がよく見えました。若いころは,妙高,赤倉,栂池,白馬,八方尾根など,数多くのスキー場に通ったものです。改めて地図を見ると,今回私が来たところは,そうしたスキー場からとても近い場所であることに驚きました。しかし,当時は,こんなことにはまったく興味もなく,朝から晩までスキーをしていただけでした。思えばもったいないことをしたものです。

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 今日は昔話です。
 今から40年以上前のアマチュア天文愛好家は観測所をもつのが夢でした。それは,藤井旭さんが「月刊天文ガイド」で白河天体観測所のことを書いていた影響が大きかったからだと思います。
 おそらく,今と比べれば,そのころは都会でもずいぶんと夜空は暗かったのでしょうが,当時は当時で,都会の空が明るいことが問題でした。さらに,これを書いていて思い出したのですが,そのころ,郊外のいたるところにできたパチンコ屋がその存在を知らせるために,夜になるとサーチライトをぐるぐる回し空を光らせていて,どこかしこもその光害に天文ファンは迷惑をこうむっていました。

 さて,話を戻します。
 私もまた,自分の観測所をもつことに憧れていました。満天の星空さえ見たことがなかったから,当然,観測所で何をするかなど考えたこともありませんでしたけれど…。しかし,私の最大の問題は,そのころはまだ車を持っていなかったことでした。都会に住んでいてしかも車という移動手段がないとなれば,星を見にいくなどというのは,夢のまた夢のことでした。
 そんなころ,大学で一緒だった天文好きの友人から,実家にいい土地があるからそこをアジトにしないかと誘ってきました。場所は鉄道のローカル線の駅の裏でした。家からは列車を乗り継いで2時間ほどかかりましたが,車がなくとも列車を使えばでその場所まで行くことができるのでした。しかし,お金もないので,いきなり観測所を作るわけにはいきません。そこでまず,観測小屋を作ることにしました。そこに望遠鏡を入れておいて,狭いけれど寝袋で仮眠をとれるようにすればなんとなるだろうということになりました。
 そこでさっそく実行に移して,観測小屋ならぬ物置小屋を購入して軽トラックで運んでもらいました。こうしてすぐに観測小屋ができましたが,そこまででした。
 今考えると不思議な話であり,しかももったいない話です。ここまでやれば後は出かけて星を見るだけなのに,わざわざ行くのが面倒になって結局足を運ぶことがなかったのです。こんな観測小屋があっても,夜,現地に着いても始発の電車が来るまでは雨が降ろうと風が吹こうとどうにもならないわけで…。さらに,そのあとすぐに就職して仕事が忙しくなって,結局,観測小屋を作っただけに終わりました。
 このとき私が学んだのは,何かを作ったり企画すると,それを維持することはその何倍も大変だということでした。観測小屋を作れば盗難の心配もあります。そこで,観測小屋を作るという夢を実現しても楽しいものではなかったのでした。
 そのころ,今のような行動力と知恵があったら,その後観測小屋はどうなっていたのだろうと思うことがあります。稼いだお金をどんどん使って観測小屋が観測所になって,観測装置も巨大化して…。で,私はいったい何をしようとしたのでしょうか? 実際にそうした観測所を作った人たちのその後を知った今となっては,それはそれで,それほどうらやましいことでもないような気がします。
 それよりも,今の私のように,きままに,世界中の天文台を見にいったり旅先で満天の星を眺めるほうが,ずっと楽しいお金の使い方だったなあと,強がりでなくそう思います。あの観測小屋に時間とお金をつぎ込まなくて本当によかったことでした。
 どうやら,人は歳を取ると,自分の行動を正当化しようとするようです。でないとみじめです。

 それはそうと,そのときに作った観測小屋がその後どうなったか,ということをふと思い出しました。何度も行ったわけでもないのに,その場所のことはとてもよく覚えていました。そこで,近くに行くついでがあったので,今回,その途中で寄ってみることにしました。
 実際に着いてみると,40年もの月日が経つのに,当時の面影がたくさんありました。今でも夜になればけっこうマシな星空が見られそうで,こんなにいい場所だったのかと,それだけは後悔しました。今でもこの場所に観測所を作れば十分に機能しそうでした。
 それよりなにより,そのときにこしらえた観測小屋が今でも健在だったことに驚きました。今は何に使われているのでしょうか? おそらく畑の物置にでもなっているのでしょう。こうした現実を見ると,月日の流れというものは,つくづく不思議なものだと改めて感じます。
 できることなら,1度でいいからそのころに戻って,一晩中この場所で思う存分星を見たかったと思ったことでした。

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 桜が咲くまでは暖冬だったのに,桜が咲くころになって寒くなり,おかげで花の季節が長くなりました。例年と違って,せっかく咲き誇っていても見る人が少ないのは桜にとっても無念でしょう。
 私は花粉症でないので花粉のことはわかりませんが,春といえば,例年ならこの時期は大陸からのPM2.5と黄砂に悩まされるのに,PM2.5が少ないのはわかりますが,黄砂も少ないのはどうしてなのでしょう。よって,星がよく見えます。

 現在,10等星より明るい彗星が3個,すべて北西の空にあって,日没から捉えることができます=1番目の星図。やっと月明かりの影響がなくなりつつあり,天気もよかったので,4月14日の夕方,彗星の写真を撮ることにしました。
 3個の彗星のうちアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)が世紀の大彗星になるという思ってもみない朗報があって,大いに期待したのですが,月明かりで星が見えなかった時期に,どうやらアトラス彗星は分裂してしまっただの,もうすぐ消え去る運命だのといった残念なニュースが聞こえてくるようになりました=2番目のグラフ。そこで,実際はどうなのかという興味がありました。
 以前にも書きましたが,まずはこの3つの彗星についてのおさらいです。

●アトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)
 2019年12月28日にATLASサーベイによってハワイ・マウイ島のハレアカラに設置された望遠鏡 ATLAS-MLO で発見されたものです。5月にかけて世紀の大彗星になるかと予想された彗星で,現在はきりん座を動いています。
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●アトラス彗星(C/2019Y1 ATLAS)
 こちらのアトラス彗星は,先に書いたアトラス彗星(C/2019Y1 ATLAS)に先立って,2019年12月16日にATLASサーベイによってハワイ・マウイ島のハレアカラ(Haleakala)に設置された望遠鏡 ATLAS-MLO で発見されたものです。
 現在はカシオペヤ座にいて一晩中沈まないのですが,高度が低く,北極星の周りを日周運動で反時計まわりに半円を描いて動きます。時計の文字盤に例えると太陽が沈むと7時のあたりに見えはじめ,夜明けが近づくと4時の方向で消えていきます。つまり,ずっと地平線ぎりぎりの低い高度を這っていくのです。予想より明るく8等星ほどだそうですが,このように高度が低いので,写真に撮るのはあきらめていました。
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●パンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)
 2017年10月2日にハワイ・マウイ島のハレアカラにある1.8メートル Pan-STARRS1望遠鏡で写したCCDの画像から発見されたものです。もっと明るくなるという前評判でしたが,どうやら8等星止まりというところです。しかし,彗星と地球と太陽の位置関係がずっとよく,長い間楽しめています。この彗星も今はきりん座にいます。

 この晩はとにかくはじめにアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)を写すことにしました。きりん座というのは明るい星がないので,私の使っている古い望遠鏡では自動で導入することもできないので彗星のいる位置を探すのにも一苦労です。私にはめずらしく予習をして,事前にどうやって導入するかを調べておきました。おおくま座から順を追ってファインダーに次々星を入れていって場所を特定しました。写してみると,もっと暗くなっているかと思ったのですが,意外に明るく,しかもかわいい尾をひく姿を簡単に見つけることができました=3番目の写真。
 アトラス彗星を写しているときに,地平線ぎりぎりにカシオペア座が見えました。こんな低いところにカシオペア座がはっきり見えるのに驚きました。そこで高度が低くならないうちに急いでもうひとつのアトラス彗星(C/2019Y1 ATLAS)を写すことにしました。場所はカシオペヤ座のγ星の近くなので,すぐに探せました。この彗星の写真を撮ることができるとは期待していなかっただけに,写せてホッとしました=4番目の写真。
 そして,最後にパンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)を写しました。この彗星もまたきりん座にあって,探すのに苦労するのですが,最初に写したほうのアトラス彗星の位置からとパンスターズ彗星の位置から簡単に探すことができました。この彗星はすでに何度も写していたので,この晩は後回しにしてありました。最も明るい時期は過ぎていますが,依然健在で,かわいい姿をとらえることができました=5番目の写真。
 こうして,この晩は写したかった3つの彗星を短時間ですべて写すことができました。5月に太陽に最接近するアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)がどうなっていくかが今後の楽しみです。

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 駐車場に戻ってきました。駐車場から海岸に降りることができる階段がありました。帰りにこの階段を登ることを心配しながら急な階段をずいぶん降りると,海岸まで行くことができました。
 私はこのところ,年甲斐もなく,思いのほか高い山に登ったりこうした階段を降りたりしています。この日も懲りずに登ったり降りたりでした。
 この海岸は「芭蕉も歩いた道」という触れ込みでした。海岸には崖が迫っているので,この先を歩こうとすれば,潮が引いて浅瀬になったときに海の上を歩くほかはありませんでした。冬の日本海は過酷で波も高いので,多くの犠牲者が出たそうです。
 この階段を降りる途中に,不気味なトンネルがありました。しかも,このトンネルはどうやら歩けるようでした。このトンネルを抜けた先が,先に歩いた道路の行きつく先であるようでした。冬場は向こう側のトンネルの先にある展望台が閉鎖されているために,道路の先からトンネルに降りることはできなかったのですが,こちらの階段の途中からはトンネルの向こうまでは行けるのでした。

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 このトンネルは親不知レンガトンネルといいます。1905年(明治38年)帝国会議で敷設が決定され,1906年(明治39年)に富山・直江津間 の実測が始まり,1907年(明治40年)に両端から工事がはじまりました。神戸市の稲葉組が現在の金額換算で約120億円で請け負ったそうです。地質が非常に硬い安山岩であったため,手掘りでは1日平均約58センチメートルしか掘り進められなかったとされています。全長は667.82メートル,幅員4,572メートル,高さ4,700ミリメートルのトンネルは黒姫山の石灰石が北陸一帯に輸送され地域の近代化に貢献しました。
 1965年(昭和40年)の複線化に伴い廃線となり,1974年(昭和49年)に日本国有鉄道から現在の糸魚川市に無償で譲渡され,地域の近代化に貢献した貴重な鉄道遺産として,2014年(平成26年)に土木学会選奨の「土木遺産」に認定されました。このトンネルが歩けるようになったのは2016年(平成28年)ということなので,私は長年来たいと思っていてそれがかなわず,今来ることができたのは幸運だったように思いました。
  ・・・・・・

 こわごわ中に入りました。ところどころに灯りがあったのですが,暗く,入口に懐中電灯が置いてありました。しかし,今はスマホがあれば懐中電灯は不要です。
 トンネル内の足元はぬれておらず,何の問題もなく歩くことができました。それにしても,ほぼ無人の状態でこんなトンネルが開放されているのが驚きでした。興味本位でやってきて,なかでわいわい騒ぐような不届きモノがいても大丈夫なのでしょうか? もしアメリカでこうした施設があるのなら,おそらく,入口にビジターセンターがあって,結構なお金を取って,時間を決めてガイドツアーが実施されたりするのでしょうが,日本でそうしたツアーをやっても,人が集まらないでしょう。多くのブログに,行って来たぞのようなものがたくさんあるので,興味ある人は探してみてください。 
 暗いトンネルの中にときどき灯りがともされていて,そこにレンガの積み方の解説などがかかれた展示があって,私にはけっこう興味深いものでした。
 トンネルを抜けた先に展望台があるようでしたが,先に書いたように,展望台は冬の間閉鎖されていて景色もたいしたことはなく,結局,トンネルを歩いて抜けたというだけのことでした。
 私は再びトンネルを歩き駐車場に戻り,さらに先に向かいました。

 

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 ヒスイ海岸あたりはまだ海岸線はずっと平地で,この先に本当に断崖絶壁があるのだろうか,という雰囲気でした。
 日本海の海岸にそって地元道をくねくねと富山県から新潟県に入ると,急に山が迫ってきます。アメリカの州境も日本の県境も同様ですが,あとで地図で線を引いたような場所はともかく,歴史的に自然に境ができたところは,やはりそれなりに理由があるものだなあというのを実感します。

 新潟県に入るころには一般道は国道8号線に吸収されました。県境を越えたところに市振という集落がありました。この集落はその先の難所を控えた宿場だった場所ですが,いつものとおり私はともかく目的地に到達するのが第一なので,この場所で停車することもなく先を急ぎました。この集落は帰りに寄ってみたので,そのときにまた書きたいと思います。
 市振を過ぎると,突然,海岸線は崖になりました。高台には高速道路が走っていますが,私は,高速道路を走る予定はなく,ずっと一般道の国道8号線を走ることにしていました。
 海岸にそって走る国道8号線は海の迫ったこの場所では日本海の荒波が直に打ち付ける場所で,塩害が強く,走っていると,道路は絶えず補修をしたり,作り直されたりしていることがよくわかりました。断崖絶壁である数十メートルの区間は切り立った断崖をトラバースします。国道8号線は総延614キロメートルにも及ぶ日本海側の大動脈で,多くの車が行き交っていました。覆道あるいはトンネルは多くのトラックが走っていてカーブになるとオーバーハングしてくるので,油断のならない道路でした。
 この場所が断崖絶壁なのは,日本列島の大地溝帯フォッサマグナが南端である静岡県焼津市大崩海岸から続く北端にあたる部分で,北アルプスの山塊が日本海に潜り込む場所だからです。
 車中から眺められる豪快な海岸線はまさに絶景なのですが,よそ見をする余裕はなく,景色を見るのは展望台までお預けでした。
 
 やがて,ようやく待ち望んだ展望台に到着したので,駐車場の車を停めて外に出ました。
 海岸線に続く,車の通行禁止の道路があったので,まず,そこを歩きました。いつものように,私はほとんど下調べをしないで来たので,この場所がどうなっているのかは到着してのお楽しみでした。このときわかったのは,今のような国道8号線ができる前,この展望台のはるか下の海岸線近くに鉄道のトンネルが掘られたということで,今は廃線となったそのトンネルは歩いて抜けることができるのでした。
 ただし,私が今歩いている道路は,トンネルの西の端の入口に続いているのですが,冬場は徒歩でもトンネルの入口へは通行できないということで,途中で引き返すしかありませんでした。
 それにしても,想像以上にすごい風景でした。
  

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 東海北陸自動車道で終点の富山まで行って,北陸自動車道に入りました。
 私はこれまで富山県というところに行ったことがありませんでした。おそらく,石川県に行ったときに県境は越えたことがあるかもしれませんし,あるいは,若いころスキーをするために北アルプスには行っているので,そのときも県境は越えたかもしれませんが,わざわざ富山県を目的地として旅行をしたことはありません。
 私の思う富山県の印象は,冬寒く夏暑いというところです。しかし,大学を卒業して就職をするときに,結局は行きませんでしたが富山県のある会社に内定をもらっていたので,世が世なら富山県に住んでいたかもしれないのです。
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 富山県というのは有数の観光地で,黒部渓谷や立山,そして,蜃気楼,ホタルイカなどが有名なのですが,私は,それを目的にわざわざ行くこともこれまでありませんでした。どうしてなのでしょう? しかし,近い将来,富山県に夢中になる可能性もあるかもしれません。というのも,今回行ってみて,いいところだと思ったからです。

 北陸自動車道を目的地の親不知まで走っていってもおもしろくないので,早々に一般道に降りて,日本海に沿って走ろうと,魚津インターチェンジで降りました。こここから海岸線に沿って,目的地である親不知子不知に向かうのです。
 おそらく,この日の天気が悪かったらまったく別の印象をもったかもしれませんが,私は晴れているからこそ今日来たので,日本海がそれはそれは美しく眺められました。
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 蜃気楼の見えるところという看板が至る所にありました。
 蜃気楼というのは上暖下冷の空気層の間で光が屈折して観察者の目に届き風景が伸びたり反転した虚像が見える現象だそうです。これまでは,富山湾に流れ込む冷たい雪解け水が大気の下部を冷やして上暖下冷の空気層を作ると考えられてきましたが,最近の調査では,下層が冷やされるのではなく,蜃気楼発生時にはむしろ上層に陸地から暖気が流れ込んでくる現象ということです。
 富山湾で蜃気楼が見られるということは知っていたのですが,どのくらいの確率で見られるのかは全く知りませんでした。これを機会に調べてみると,蜃気楼が見られるのは春から初夏の3月下旬から6月上旬にかけてで,2,3日晴天が続き気温が高く海岸で穏やかな北北東の風が吹く日に発生しやすいとされていて,短いもので数分,長ければ数時間にもわたって幻想的な姿を見せるのだそうです。
 オーロラ同様,蜃気楼予報などというものがあるので,これを頼りに出かければひょっとして見ることができるかもしれません。富山など車ではしればすぐそこです。いやいや,また,余分な? ものに興味をもってしまいそうなのでこれ以上興味を深めるのはやめておきましょう。オーロラ,皆既日食などと同様,こういうものは見ようと思って見れらないとトラウマになってしまいます。
 海岸線を走っていると,確かにいかにも蜃気楼が見られそうな海岸でした。

 さらに進むと,今度はヒスイ海岸というところにたどり着きました。
 ヒスイ海岸という通称は,このあたりの海岸線でヒスイの原石を拾うことができることに由来します。ヒスイ海岸ではヒスイ以外にもルビーやサファイアなども見つかるらしいです。ヒスイは,山から姫川や青海川などの流れによって海まで運ばれてきたという説やフォッサマグナでのヒスイを含んだ蛇紋岩層が糸魚川市から富山県朝日町にかけての海底にも分布していて波の撹拌作用によってヒスイが海岸に打ち上げられるという説が存在するそうですが,実際のところはよくわかっていません。昔はたくさんみつかったそうですが,今は,河川の上流から流れ下ってくるヒスイは川に設置されたたくさんの砂防堰堤に遮られて海岸に到達しにくくなり,海岸に置かれた無数のテトラポッドがヒスイ探しの障害となっていて,海岸で1日かけて探しても数個のヒスイを拾うことができるくらいのものだそうです。
 それにしても,美しい海岸でした。私は,オーストラリアのゴールドコーストを思い出しました。

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 新型コロナウィルス騒動でもなければ,私は,ここにもJRで行こうと考えていました。考えていたルートは次のものでした。
 まず,名古屋から中央本で塩尻まで行きます。そこで大糸線に乗り替えて糸魚川まで行くのです。この行程だと6時間くらいで行ける感じでした。そして,糸魚川の確か2,3駅手前に,ひなびた温泉宿を見つけました。そこは雪を見ながら温泉に入れるという触れ込みでした。ならば,雪の深い季節のほうよさそうだなあ,いつ行こうかなあと考えていました。そこで1泊して,翌日,糸魚川からは日本海に沿って「あいの風とやま鉄道」とかいう第3セクターの列車で親不知駅で降り,親不知海岸を散策して,再び親不知駅から列車に乗って富山まで行き,富山からは高速バスで帰ってくるのです。
 今年の冬まで待って,このコースを実現してもよかったのですが,去る3月6日に車で片道4時間以上かけて日帰りで余部鉄橋を見にいった結果,親不知子不知のほうが余部よりずっと近いではないかと思うようになり,ならばついでに行っちゃえということで,すぐに行動に移したのです。
 今回のドライブコースは,東海北陸自動車道を一直線北に終点の富山まで行って,富山からは北陸自動車道でどこから適当なところまで行ってそこで一般道に降りて,日本海沿いを走るというものでした。これまで東海北陸自動車道は郡上八幡のあたりまでは使ったことがあるのですが,その先を走ったことがなかったので,一度利用してみたかったということもありました。そしてまた,富山という町にも行ったこともなかったので,けっこうこの計画は魅力的に思えました。

 ところで,今,この文章を書いていて気づいたのですが,東海北陸自動車道と北陸自動車道って,名前のつけ方がかなり紛らわしいです。知らない人にはわかりません。混乱します。道路に限らず,日本では名前のつけ方に全体を見渡す配慮がなさすぎます。
 話は脱線しますが,政党の名前も同類です。自由民主党と国民民主党,立憲民主党,さらには,前にあった民主党っていう名前も,考えてみれば意味不明です。みんな民主党のあたまに2文字つけただけではないですか。なのに,どうして自由民主党だけ略称が自民党となるのでしょう? ならば,国民民主党は国民党だし,立憲民主党は立民党です。選挙で民主党と書いたら票数は3等分するのでしょうか? 自由民主党だって,そもそも,もともとは自由党と民主党が合併してできた政党です。
 同じように,東海北陸自動車道だって,北陸自動車道と名前が被っています。
 少し話はずれますが,これまで何度も書いたことがあるように,京都に行って名古屋や東京方面のJRに乗ろうとしても,東海道線というものがありません。京都の人は東海道線を「琵琶湖線」とよぶのですが,こんなもの,名古屋や東京の人にはわかりません。それなのに,東海道新幹線はそのままです。京都の人でも琵琶湖新幹線とはいいません。

 話を戻します。
 早朝自宅を出て,東海北陸自動車道に乗りました。あとはずっと北上するだけでした。ずっと以前に走ったときはほとんどの範囲が片側1車線でしたが,今回走ってみて,おおよそすべての区間が2車線に拡張されていたのにおどろきました。
 このごろ日本国内を車で走ってみたら,私が知らないうちにやたらと道路ができていたのに驚きました。確かに早くて便利です。どこへもすぐに行くことができます。こうして車で走ってみると,私はここ10年以上だだっ広いアメリカばかりをドライブしていたので,それに比べて日本の狭さが身に染みます。車を使えばすぐに日本横断なんてできてしまいそうです。
 これまで,列車を使ってちんたらちんたら旅をしていたのでけっこう広い国だと思っていたのですが,列車で旅をすることがすごく非効率なことだと感じます。これでは,私のような,時間つぶしで旅をする人以外にはローカル線もローカルバスも乗らなくなるはずです。
 しかし,こんなにたくさん道路を作ってしまって,そうした道路の維持がこれからもできるのでしょうか? 日本はこの先急激に人口が減ります。そして,しばらくは年寄りだらけになります。福祉の予算もかかるし,労働者が激減します。現状を保つことすら困難になってくるのです。しかし,依然として,国土を壊し,高速道路を作り需要もなさそうな新幹線を建設しています。そんなことをして,この先維持できるわけないじゃないかと心配になってしまいます。

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 今日からは「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という計画の続編で,3月9日に日帰りで日本海の「親不知子不知」に行ったときのお話です。
 行ってからすでにひと月あまりの時間が過ぎました。その間,世界の情勢はさらに悪化し,いつ終わるともわからない不安が増幅してしまいました。わずか数か月前の人が行き交っていた世界が夢のようです。
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 3月6日の金曜日に余部鉄橋の行ったことはすでに書きました。人混みがきらいで週末はあまり出歩きたくないので自宅で過ごし,週明けの3月9日の月曜日,今度は新潟県の「親不知子不知」海岸に車で行くことにしました。雪が心配だったのですが,ぽかぽか陽気で,その心配もなさそうでした。

 私は,長年,ずっと「親不知子不知」海岸に行ってみたいと思っていました。
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 誰もいない(中略)聞えるものは波音だけ。泌み入るようなさみしさである」
  深田久弥「親不知・子不知」より
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というように,北アルプスが日本海に鋭く落ち込み作り出した断崖絶壁に面したわずかな渚である高尾の場所は,明治のはじめまで,そこは越後と越中を結ぶ最短路であり,かつ,旅人が命がけで歩いた道でした。

 また,この場所は,参勤交代をする加賀藩にとっても,最大の難所でした。
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 金沢から江戸に参勤交代するコースは,金沢から北陸道の越後高田を通り,北国街道の信濃追分から中山道を通り江戸へというコースでした。 このコースでは,江戸までの距離は百十九里(約480キロメートル),所要日数は12泊13日なので,1日あたり十里(40キロメートル)を歩いたわけです。旧街道歩きを楽しむ私には実感がわきます。加賀藩の参勤交代行列の人数は最大で4,000人程度,通常は2,500人から3,500人で,日本一大規模なものでした。かかった費用は現在のお金に換算すると5億円とも7億円ともいわれます。
  日本海の荒波が断崖下の道に迫っている親不知は参勤交代道中の中で最大の難所でした。500人から700人の「波除け人足」が麻縄を持ち,人垣を造って藩主を護り,馬は荷物を付けたまま通ることができないので人間が馬に代わって荷を担ぎ,馬は空荷で通しました。そして, 渡り終えると江戸と加賀に注進の特使を飛ばし,難所を無事に通過したことを知らせたそうです。
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 私が「親不知子不知」海岸のことを知ったのは,こうしたものからですが,古より,これだけの困難を強いた場所があれば,そこがどんなところかと一度は見ておきたいと思っていたのでした。

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 醍醐寺からの帰り,京都東インターチェンジまでの道のりに随心院があるので,寄ってみました。お寺の庭には桜の木はないのですが,山門の外には満開の桜が咲いていました。
 随心院は991年(正暦2年)に仁海が曼荼羅寺として創建,1229年(寛喜元年)に門跡寺院となって今の名に改められました。ここは小野氏の領地だったところで,852年(仁寿2年)に小野小町が住んだといわれていています。

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 花の色は
 うつりにけりな
 いたづらに
 わが身よにふる
 ながめせしまに  小野小町
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 訪れているひとも私のほかになく,静かに庭を眺めることができましたが,この寺は仏前結婚式ができるというのがウリだそうで,この日も別室で結婚式用の写真を撮っているカップルとカメラマンがいました。
 随心院は,1973年(昭和48年)には「はねず踊り」を創めたり,2003年(平成15年)には「ミス小町コンテスト」,2008年(平成20年)にライトアップ,2009年(平成21年)には若手アーティスト「だるま商店」による「極彩色梅匂小町絵図」という障壁画を取り入れたり,また,2017年(平成29年)には第12代ミス小野小町の吉川舞がデザインした「小町ちゃん」を公式キャラクターとして登場させたりとユニークな活動でも知られますが,近年のお寺経営もたいへんだなあと思いました。

 この日は最後に,岩屋寺と大石神社に寄りました。
 岩屋寺は大石良雄が隠棲したところと伝えられているので,大石寺とも称されます。今の若い人は知らないかも知れませんが,大石良雄は大石内蔵助として有名な赤穂藩の筆頭家老で,元禄15年に赤穂四十七士を率いて吉良邸に討ち入り吉良義央を斬殺した,世にいう忠臣蔵で有名な人物です。忠臣蔵ではよく山科の地名が出てくるのですが,私は大石良雄が山科のどこにいたのかは知らず,また,岩屋寺も知らなかったので,これまで訪れたことがありませんでした。
 1701年(元禄14年)3月14日,藩主の浅野内匠頭が江戸城で吉良義央に対して刃傷事件を起こし,赤穂藩は取りつぶしとなります。大石良雄も赤穂城を追い出されて浪人となり山科に転居しました。
 大石良雄は「すぐに吉良を討つべし」と主張する堀部安兵衛らの急進派の突き上げをかわしながら藩の再建に奔走するかたわら討ち入りも覚悟していたとされ,翌年4月には妊娠7か月の妻理玖らを実家の豊岡に里帰りさせます。これが世にいう「山科の別れ」です。

 以下は2007年(平成19年)に発見された大石良雄直筆書状です。
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 (理玖らの)豊岡行きには家来の瀬尾孫左衛門を送りに指し添えようとしたがままならず,主税にその代役との考えを先の手紙に記した。
 しかし,仰せのように主税は若年故に心もとなく,また主税では風評様々との貴方様のお考えもごもっとも。さらに瀬尾の代わりに水間伊太夫をとも考えたが,思うにまかせずかわりの適当な人物もいない。
 道中のこと心配だったが,安堵した。ということで,主税派遣のことは中止して,かわりに家来の加瀬村幸七と奥向きの女を妻とくうのために,供として添えたい。そちらのご家来2人は本日無事に到着した。
 書状は今朝したためたもので、主税に持参させるともりだった。  元禄15年4月14日
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 小さな寺ですが,山門までの坂道には満開の桜が見ごろをむかえていました。
 私が行ったときにはだれもほかに訪れている人もなく,ほどなくしてふたり連れの女性と,そのあとでカップルが1組やってきました。しかし,お寺を管理している人がおらず,呼び鈴をならしても誰も出てこなかったので,困りました。どうやら参道を掃除していた女性がそうであるらしく,慌てて参道を登ってきました。ずっといても誰も来ないのに,急に5人ほどの人が来たといっていました。
 本堂には本尊の周りに赤穂四十七士の位牌が並べられていて,別の部屋には大石良雄が使用した文机や鍵付き貴重品箱などの遺品が展示されていました。
 岩屋寺の隣には大石神社がありました。ここもまたはじめて行きました。
 大石神社は,大石良雄が赤穂藩が断絶したのちに隠棲していた場所に1935年(昭和10年)に作られた新しい神社です。この神社には大石桜というご神木の桜の木があります。大石神社が建立される前から立っていたしだれ桜で,社を創建するときに鳥居の横に定植させたものだそうです。大石良雄直筆の書や四十七士の屏風,ドラマや映画で大石内蔵助を演じた方の写真などが展示された無料の宝物殿がありました。
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 こうして,この日もまた,ほとんど人の訪れない場所を選んで,京都の桜を思う存分楽しんで夕刻には帰宅しました。これで改めて京都には封印します。

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 標高が400メートルほどの山で急坂でない限り,登るのはひと苦労でも降りのは簡単だというのはこのところの経験で,上醍醐から私はほどなく下山しました。
 下醍醐の参道に着くと,朝とは違って,満開の桜目当ての観光客がやってくる時間になっていました。ひとひとりいなかった上醍醐から来た私には何か別世界のような気がしましたが,人の流れは伽藍に向かっていました。
  ・・
 おなかが空いたので何か食べることにしました。醍醐寺には高級な食堂もあるのですが,人影のない雨月茶屋という売店のまえに屋台があったので,そこで軽く済ませることにして,うどんを食べ,食後に湯葉まんを追加しました。この屋台,いつもなら賑わうのでしょうが,お客さんは私ひとりでした。お弁当を売っている屋台もあったのですが,気の毒な限りでした。売っている人も暇そうでした。
 その後,霊宝院,そして,三宝院とまわりました。拝観料は伽藍に加え,これらがセットになっています。

 霊宝院というのは博物館です。国宝や重要文化財だけで75,000点以上が収蔵されているということです。こうした醍醐寺の多くの寺宝を保存し公開するために作られた施設で,1935年(昭和10年)に開館したものですが,その後,1979年(昭和54年)に新収蔵庫を新築し,2001年(平成13年)に上醍醐薬師堂の本尊である薬師三尊像を安置する大展示室を増築,また,2004年(平成26年)には上醍醐五大堂に安置されていた木造五大明王像も安置されたということなので,現在は上醍醐に登らずともここで見ることができるようになっていたというわけです。ここもまた,人が少なくて,落ち着いて見ることができました。この霊宝院は,そうした展示に加えて,庭がとてもすばらしく,咲き誇った桜に魅了されました。
 4月4日にNHKで放送された番組はこの庭から中継されたものですが,スタッフはその準備で余念がありませんでした。

 最後に,三宝院に行きました。
 三宝院は1115年(永久3年)に醍醐寺第14世座主勝覚僧正により創建されたもので,醍醐寺の本坊的な存在であり,歴代座主が居住する坊です。庭園全体を見渡せる表書院は寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物で,国宝に指定されています。また,三宝院庭園は1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して自ら基本設計をした庭だそうです。幸運にも,いつもは非公開の弥勒堂,純浄観,奥宸殿が別料金でしたが特別拝観されていて,中に入ることができました。
 お昼過ぎにやってきた団体さんたちは三宝院の入口で「なんだ別料金なんだ」とか言って中に入らず,あいかわらず,土産物を物色したり桜の並木道の下で写真を撮ったりしていたので,人でごったがえすこともなく助かりました。
 この日,晴れの天気予報だったのですが,時折太陽が顔をみせるくらいでほとんど曇っていました。しかし,雨は降っていませんでした。それがなんと,私が三宝院に入った途端に大雨となりました。幸いというか,雨が降っている時間はこの三宝院の建物のなかで過ごすことができて,私が三宝院を出るときにはすっかり晴れ上がりました。

 これで,私の醍醐寺での花見は終わりです。朝一番に来たので,人のほとんどいない境内を思う存分味わって,しかも上醍醐にも登り,さらに,三宝院で特別公開されていた場所にも行くことができました。
 お昼になって,けっこうな人がやってきたようだったので,私は何の未練もなく早々に引き上げることにしました。帰りがけ,駐車場にはめずらしく1台の観光バスが停まっていました。クラブツーリズムと書かれてありました。このご時世にツアーを実施しているんだと驚きましたが,さきほど,三宝院の特別公開をありがたがらずに通り過ぎて行った一行さんだろうと思いました。

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 下醍醐の伽藍を出て,上醍醐の入口である女人堂で入山料を払いました。上醍醐まではどのくらい時間がかかりますかと聞くと,片道1時間,往復2時間と言われて驚きました。
 私はずっと以前,一度上醍醐に登ったことがあります。しかし,すごく大変だったということだけを覚えていて,どうなっていたかはまったく記憶にありません。この日はまったく登る予定などなかったのですが,なにか暗示にでもかかったように,足が向いてしまいました。まさかまた登ることになるとは思っていませんでしたが,こうして,結局,この日もまた懲りずに山登りをすることになってしまいました。

 私はまったく知らなかったのですが,2008年(平成20年)8月24日に上醍醐の准胝観音堂が落雷によって全焼してしまい,しばらくの間入山できなかったそうです。それは私が昔登った後のことです。
 上醍醐には国宝だか重要文化財だかの仏像があって,以前私が登ったときには,偶然それらが何かの展覧会でおろされていて見ることができなくて残念だったというようなことをうっすらと記憶しています。そこで,この日はそれを見ることができるのかな,という期待もありました。
 上醍醐は西国三十三所第11番札所ですが,西国一険しい札所として知られています。登り口に女人堂があるのは,かつて上醍醐が女人結界(=女人禁制)だったからです。
 私はさっそうと登りはじめました。このところ,このくらいの山登りばかりをしているので,気持ちだけは余裕でした。すぐに四丁,五丁という標識が過ぎて,浅はかな私はおそらく上醍醐は十丁だろうと勝手に判断し,もうすぐだ,大したことないじゃないかと高を括りました。丁の意味を知らなかったのです。
 登っている人などまったくいないようだったのですが,先客がいました。この辺りに住むご老人の夫婦でした。途中で追い越すことになりそのときに山頂は何丁ですかと聞くと,なんと二十六丁だと答えるではありませんか。これに私は全身の力が抜けました。そして,甘く考えていた自分を責めました。
 あとで調べると,丁というのは約109メートルのことでした。要するにこの登山道は2,600メートル以上あるということでした。

 それでも実際は,十六丁を過ぎると坂が終わり平坦になりました。そして,十八丁で上醍醐の山門がありました。二十六丁というのはどうやら奥の院までのことで,上醍醐は十九丁でした。山門を過ぎると,平安時代のままに残る国宝の薬師堂,醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿,五大堂などが立ち並んでいました。そして,標高450メートルの山頂には如意輪堂と開山堂がありました。
 薬師堂は醍醐天皇の勅願により907年(延喜7年)に聖宝により創建され,現存の堂は1121年(保安2年)建立されたものです。聖宝は天智天皇の6世孫にあたり,平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で真言宗小野流の祖,また,当山派修験道の祖とされます。薬師堂の内部には,かつて,国宝の薬師三尊像をはじめ,重要文化財の閻魔天像、帝釈天像、千手観音像が安置されていたので,私が見ることができると思っていたのはこれらのものだったようですが,今回行ってみてもそれらが公開されている雰囲気もなく,そもそも私以外にまったく人影すらありませんでした。せっかく登ったのにがっかりしました。これらは現在は下醍醐の霊宝館に移されていて,私はそれをあとで見ることができました。
 五大堂は聖宝が開いた鎮護国家の祈願道場で,現在の堂は1940年(昭和15年)の再建です。如意輪堂は1606年(慶長11年)に豊臣秀頼により再建されたものですが,もとは聖宝により准胝堂とともに建立されたと伝わります。また,開山堂は如意輪堂ともに1606年(慶長11年)に豊臣秀頼により再建されたものです。
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 私はそれらを順に見て回り,そろそろ下山することにしました。
 この先にはさらに奥の院と洞窟があるということでしたが,さすがにこれからさらに30分歩く気力は残っていませんでした。木製の一の鳥居から二の鳥居,三の鳥居を経て,そこから左へ行くと浅い洞窟の奥の院があり,右へ進むと「東の覗き」があってその下は断崖絶壁なのだそうでです。
 今の私は好奇心よりもあきらめのほうが優先するようです。我ながら情けない限りでした。

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Super Moon 2020.

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 4月4日の夜,NHKBSプレミアムで,醍醐寺の桜が生中継されました。出かけられない視聴者のために,来年来てください,桜はなくなりません,というコメントが何度も流れました。しかし,来年の春に新型コロナウィルスの流行が収まっていたとしたら,おそらく,すごい数の人が醍醐寺を訪れて,今年のような静寂な雰囲気で桜を愛でることなどできないでしょう。
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 さて,午前9時になったので早速拝観料を払って,まず,伽藍に行きました。一番乗りでしたが,静寂につつまれた醍醐寺は貴重でした。
 私は,仁王門をくぐり,五重塔,金堂,大師堂,弁天堂と進みました。
 桜の季節でない醍醐寺にはすでに来たことがあるので,目的を桜の咲く醍醐寺の写真を撮ることに絞りましたが,この日は思ったほど天気もよくなくときどき青空がのぞく程度で,風が強く桜の花びらがすでに舞っていて,少し残念でした。

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 醍醐寺は平安時代初期の874年(貞観16年),空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が笠取山頂上に開山し,「醍醐山」と名づけたことがはじまりです。醍醐というのは「大般涅槃経」などに尊い教えの比喩として登場する乳製品のことです。醍醐寺ははじめ上醍醐を中心にして多くの修験者の霊場として発展し,のちに醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とし手厚い庇護を与え,醍醐山麓の広大な平地に大伽藍が発展しました。これが下醍醐です。応仁の乱で下醍醐は荒廃し,五重塔のみが残されましたが,豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに再興しました。
 観光客が醍醐寺として訪れる下醍醐には,本尊の薬師如来像を安置する金堂や三宝院などを中心にした絢爛な大伽藍が広がっています。
 仁王門とよばれる西大門は豊臣秀頼が1605年(慶長10年)に再建したものです。仁王門をくぐると右手に国宝の五重塔が見えてきます。951年(天暦5年)に建立されたものです。醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し,20年後に完成しました。高さは38メートルあります。のち,地震や台風で被害を受けますが,現在の姿は1960年(昭和35年)に修理されたものです。
 左手にあるのは,まず,国宝の金堂です。12世紀後半に後白河法皇の御願寺として紀州湯浅に建立されたもので,。豊臣秀吉の発願により移築し,1600年(慶長5年)に落慶しました。
 さらに進むと不動堂,真如三昧耶堂,祖師堂,鐘楼堂,観音堂と続き,弁天堂で下醍醐の伽藍はおわりです。
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 楓の青葉と桜が弁天堂とともに林泉(池)に映えて,とても美しい景観でした。
 この先は一度伽藍から外に出て,その先にある女人堂を経て,上醍醐への登山になります。
 私は,朝一番に下醍醐の伽藍に入ったのでほとんど人の姿もなく,満ち足りた時間を過ごすことができました。

☆ミミミ
4月6日の午後6時38分,ISS(国際宇宙ステーション)がプレアデスに接近中の金星の上空を飛んでいました。とても明るくきれいでした。
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 醍醐寺に到着したのは開門時間の午前9時より15分ほど前でした。お寺の駐車場は5時間まで定額だったので,そこに車を停めることにしました。一番乗りでした。お寺のまわりにも民間の駐車場がたくさんあったので,普段ならずいぶんと賑わうのでしょうが,この日は民間の駐車場には帰りがけにみても車は1台もありませんでした。
 醍醐寺の境内は無料ですが,霊宝館,三宝院,伽藍に入るには3か所共通券が必要です。そこで,まず,午前9時になるまで,境内を写真を写しながら散策することにしました。開門まえとはいえ,ほとんど人が来ていませんでした。そこで私は引き返すこともなく,醍醐寺の桜を堪能することにしました。
 ほとんどの桜は満開でしたが,すでに少し盛りの時期を過ぎているように思いました。昨日の雨でやられたという話でした。残念ながら,今年は桜が満開となったころから雨が降り,やっと上がったこの日は強風で,これで見納めだろうということでした。

 醍醐寺で有名な桜には次のものがあります。
 三宝院には,太閤しだれ桜と三宝院庭園の紅枝垂れ桜があります。霊宝館には,醍醐深雪桜や白山大手毬という八重桜があります。また,伽藍の金堂横には薬師大枝垂れ桜があります。
 この日,醍醐寺には,それらのしだれ桜に加えて,ソメイヨシノをはじめとして,さまざま種類の桜や山桜が咲き誇っていました。桜というと多くの人はソメイヨシノを思い浮かべます。ソメイヨシノは花が散った後で葉がでます。しかし,吉野山の桜などはヤマザクラで,花と葉が同時にあるので,満開の時期であっても,ソメイヨシノしか知らない人には花の時期がすでに過ぎたように感じます。もともと日本の野山にあった桜はヤマザクラ,オオシマザクラ,エドヒガンザクラであって,それらが自然の中で交雑したものです。ソメイヨシノは150年ほどまえに人工的に作られた,いわば去勢された園芸品種です。「桜=ソメイヨシノ」は「ハワイ=ワイキキビーチ」のようなものでしょうか。
 そこで,おそらく,昔の人が見た桜というのは,われわれが見慣れた桜並木に咲くソメイヨシノとは少し趣が違ったように思います。桜を読んだ歌はソメイヨシノを見て詠んだものではないわけです。私も,若いころは,花だけが咲き誇るソメイヨシノの様のほうがずっと美しいと思ったものですが,年を重ねた今は,どんな桜を見ても,というよりも,花と葉があるほうがむしろ趣があるように思えます。 

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 あらためてなをかえて見む深雪山
  うずもる花もあらわれりけり 秀吉
 花もまた君かためにと咲きいてて
  世にならいなき春にあふらし 淀君
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 深雪山とは桜花爛漫するさまを雪に喩たもので,これ以来,深雪山は上醍醐寺の山号になっています。また,醍醐の花見が行われたのは,現在の伽藍の場所ではなく,その奥の上醍醐のふもとあたりのことでした。

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 3月25日にがらがらの京都へしだれ桜を見にいったことを書きました。予想通り,その翌々日から天気が崩れました。私はもともと人と群れないし人混みが嫌いなので,26日から週末まで,食事や買い物に行くほかは外に出ないでいて,ほどなく新しい週になりました。
 開花宣言が出てから1週間,各地で桜が満開になりました。今年は桜まつりも行われず,桜の木の下で酒を飲む人もないので,人も少なく,かねてから桜の下で宴会などという,そういうことの大嫌いな私にとっては,逆に,心置きなく桜を愛でることができる絶好の年となりました。しかし,あいにくずっと天気が悪かったので,青空の下で桃色の花びらを写すことすらできずにいたのを残念に思っていました。

 4月2日は久しぶりに天気が回復するということだったので,再び封印した京都へはもう行く予定もなかったのですが,名残惜しく忘れがたく,車を使えば家から2時間もかからないので,急にたまらなくなって,早朝のだれもいない京都へ,再び,満開の桜を見にいくことにして,早朝6時に家を出ました。
 調べてみると,この時期,ほぼ京都全域で桜が満開だったので,それならと,ぜひ一度は見たかった醍醐寺を目的地としました。醍醐寺は「醍醐の花見」としてあまりに有名です。しかし,私はこれまで,醍醐寺には桜の咲いていない季節には行ったことがあるのですが,桜を見にいったことはありませんでした。
 しかし,この時期,空いているからこそ出かけるのであって,もし混雑していたら,そのまま引き返すつもりでいました。
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 「醍醐の花見」とは,1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が催した花見の宴のことをいいます。行われたのが旧暦の3月15日,今の暦では4月20日といいますから,今なら桜など散ってしまっています。この時代はもっと気温が低かったのでしょうか?
 醍醐寺三宝院裏の山麓,いまでいう上醍醐のふもとで宴は催されました。子の豊臣秀頼,北政所,淀殿などの近親の者をはじめとして,諸大名からその配下の女房女中衆約1,300人を召ししたがえた盛大な催しでしたが,諸大名は沿道の警備や茶屋の運営などにあたり,花見に招かれたのは女性ばかりでした。
 豊臣秀吉はこの宴の約5か月後に亡くなりました。
 権力者は昔も今もお花見がお好きなようです。
 
 この春3回目の京都となりました。公共交通機関はまったく使わず,すべて車で往復しましたが,次第に車で京都に行くのにも慣れてきました。それとともに,最短経路もわかってきました。名神高速道路を使わず,まず,信号のない長良川の堤防道路を南に走り,国道1号線を経て桑名インターチェンジから名阪高速道路,そして,新名神高速道路と乗り継ぐのが,もっとも早く,しかも交通費もかからないのです。
 今回も,京都東インターチェンジまでは道路も混んでおらすアッというまでしたが,その途中で特筆すべきは虹でした。
 この日の天気予報は前日までの雨が上がり晴れということでした。家を出たときは天気予どおり晴れていました。しかし,亀山を過ぎたあたりから次第に曇ってきて,それとともに,雲に太陽光線が屈折して,北西の空に虹が見えるようになってきました。雲が厚くなるにしたがって虹もまたどんどんと深く濃くなっていき,ついに円を描くようになりました。これほどの虹を見たのは久しぶりのことでした。
 鈴鹿の長いトンネルを抜けると虹は消えていて,そしてついに,甲賀のあたりまで来ると,土砂降りの雨になってしまいました。いったい晴れという天気予報はどうなっているのだろう? と思いました。

 それでも,草津を過ぎ,新名神高速道路が名神高速道路と合流するころには雨も小ぶりとなり,大津を過ぎたらすっかり雨が上がりました。そして,午前8時過ぎ,予定通り京都東インターチェンジで降りることができました。
 醍醐寺は午前9時の開門なので,まだ時間がありました。当初は山科駅のあたりのコインパーキングに車を停めて,醍醐寺に行く前に30分ほど琵琶湖疎水でも歩こうと考えていました。しかし,山科に差し掛かるにつれて渋滞がはじまり,車がなかなか進みません。朝の県道143号線は山科駅前の交差点がネックになるようです。山科駅前の交差点から南に曲がり,醍醐寺まではまだ20分ほどかかるので,琵琶湖疎水を歩くのはやめて,そのまま醍醐寺に向かうことにしました。
 そういえば,桜咲き誇る琵琶湖疎水はずいぶん昔に歩いたことがあるのを思い出しました。それはそれは暖かくてとても気持ちのよい春の日のことでした。桜と菜の花がきれいで,そこはまるで桃源郷のようでした。それもまた,今となってはよき思い出です。
  

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 京都五山の送り火がよく見られる場所として,将軍塚の名があるので,かねてから名前だけは知っていましたが,行ったことはありませんでした。この日も行く予定はなかったのですが,朝,京都東インターチェンジを降りて県道143号線で京都市内に向かっているときにこの地名を見つけて,帰りに寄ってみようと思いました。
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 県道143号線から道路標示に従って坂道を登っていくと東山ドライブウェイに入りました。東山ドライブウェイブウェイは三条通の九条山交差点から五条通の東山トンネルの手前に抜けるたった3.5キロメートルの道路です。途中で道が分岐していて,分岐先には青蓮院将軍塚大日堂と東山山頂公園の展望台がありました。
 東山山頂公園のほうに駐車場があったのでともかくそちらに進路をとりました。というより,このあたりがどうなっているか地図がないのでわからなかったのです。駐車所には多くの車が停まっていました。そして駐車場のさきには東山山頂の古びた公園があって,駐車場の車の台数とは違って,ぱらぱらと数人の人がいました。
 このごろ車で出かけるようになって知ったことは,平日の観光地の駐車場に停まっている車の多くは観光目的ではなく,仕事の休み時間や待ち時間に車のなかで時間つぶしをするのが目的だということです。よって,駐車している車の多くには人が乗っているのです。
 辺り一帯の案内図も何もなかったので,私は依然として将軍塚が何かすら知らず,どこにあるのかもわからず,この展望台あたりのことを指すのかと思い,まず,展望台に行って,京都市内を一望しました。

 展望台を出てから,ネットでさらに調べてみると,このあたりの地名は将軍塚というよりも青蓮院と書かれたもののほうが多く,混乱しました。駐車場の下,先ほど分岐した反対側の道の先には青蓮院という寺の山門が見えました。しかし,私が知る青蓮院というのは,知恩院の北にある寺のことなので,なぜここのあるのか,それもまた腑に落ちませんでした。
 まあ,せっかく来たからということで,坂を下ってそのお寺さんに行って,拝観料を払って中に入りました。驚いたことに,将軍塚は青蓮院の敷地にありました。そして,寺に入ったときにもらった説明書きを読んで,やっとすべてがわかりました。

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 かつて桓武天皇が奈良から長岡,さらに京都へ都を移そうとしたとき,和気清麻呂と共に現在の京都を見下ろして都を置く場所を決めたというのがこの山の上なのだそうです。平安京以前の都であった長岡京は「呪われた都」ともよばれるほど災難や不運が相次ぎ,「今度こそは平和な都を作る」という願いを込めて将軍の像を作り,この地に埋めて塚を作ったのが,直径が約20メートル,高さが約2メートルの円墳型をしている「将軍塚」なのだそうです。この塚はかつて坂上田村麻呂の塚とか花園天皇陵という説もありました。 
 1913年(大正2年)に大正天皇の即位を記念して,北野天満宮の前に木造大建築物「武徳殿」が作られました。1947年(昭和22年)武徳殿は京都府に移管され,警察の武道館「平安道場」となり,一般にも開放され親しまれましたが,1998年(平成10年)に老朽化で解体処分されることが決まりました。
 2009年(平成21年)に青蓮院がその建物を,どうしてそうなのかは知りませんが将軍塚のある場所は青蓮院の飛地だったので,その場所に移築再建することを決定し,5年後の2014年(平成26年)に「青龍殿」として完成,内部に国宝の「青不動」を安置しました。それが現在の青蓮院青龍殿です。
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 青龍殿の外側には清水の舞台の約5倍もある大舞台が作られて,そこから京都市内が一望できるようになっていました。また,境内には中根金作氏作庭の枯山水式庭園があって,そこのしだれ桜が満開でした。
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 こうして,私は,この日,駆け足で観光客の少ないしだれ桜満開の京都をめぐることができました。
 このごろのオーバーツーリズムで嫌気がさしてまったく行くこともなくなっていた京都でしたが,今春は,同窓会のような気分で「いいとこどり」の京都を二度にわたって楽しみました。しばらくぶりに来てみると,京都への想いがまたよみがえってしまいました。しかし,この私の大好きだった京都の姿は,世界が元気を取り戻したときにはまたなくなってしまうのかなと思うと,これが最後だな,という複雑な気持ちがしました。
 これをもって,私は再び京都に封印をすることになるのでしょうか。

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 祇園白川の桜はソメイヨシノなので,しだれ桜よりは開花が遅くまだ7分咲きといったところでした。ここは雰囲気のよいところですが,祇園にしては訪れる人が少ないところです。おそらく,場所がわかりにくいからでしょう。
 祇園甲部は知っていても,祇園白川は知らないのです。祇園宮川町なんて,さらに縁がないことでしょう。
 私にも覚えがあるのですが,京都という町は,初心者には敷居が高くある意味冷たく,というか,それは京都観光に限ったことではないのですが,要するに,ミーハーにはわからない粋なところがたくさんあるのです。
 しかし,そうした場所のよさがわかるには,やはりある種の修行が必要なのであり,それは,学校での「でき」とは無関係なものです。そしてまた,近年興味本位で訪れる外国人には決してわかりません。
 
 白川沿いに歌碑があります。
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  かにかくに
  祇園はこひし寝るときも
  枕のしたを水のながるる
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 この歌は
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  いのち短し
  恋せよおとめ
  赤き唇あせぬ間に
  熱き血潮の冷えぬ間に
  明日の月日はないものを
  ・・・・・・
で有名な吉井勇が詠んだものです。

 白川沿いの石畳の道は,かつてはお茶屋が立ち並んでいた場所でしたが,そのなかで有名だったのは,祇園白川に「大友」あり「大友」に「お多佳さん」ありというぐらい有名なお茶屋「大友」でした。「大友」には夏目漱石や谷崎潤一郎などの有名作家や画家が多く訪れました。
 「お多佳さん」は小説好きで俳句や書画を心得,三味線の名人だったそうです。この歌碑は1955年(昭和30年),吉井勇の古希の祝いに「大友」のあった場所に谷崎潤一郎らが建立したものだそうです。今も毎年11月8日には 「かにかくに祭」が祇園甲部お茶屋組合によって行われています。
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 吉井勇は1886年(明治19年)鹿児島に生まれました。西郷隆盛や大久保利通とともに尊皇攘夷運動に取り組み,明治維新後は元老院議員や枢密顧問官などを歴任した吉井友実の孫でした。吉井勇は第一歌集「酒ほがひ」で祇園や京都の色町を舞台に酒と恋にまつわる人間の悲哀を歌いました。歌碑の歌はこの歌集に収めらているものです。
 歌集「酒ほがひ」によって頽唐文学の先駆者に押し上げられた吉井勇は,酒色へ沈殿していきます。やがて,歌人柳原白蓮の兄・柳原義光の次女徳子と結婚するのですが,放浪癖のある吉井勇と社交好きの徳子が長続きするはずもなく,ほどなくして離婚します。
 世捨て人となって土佐に隠棲した吉井勇を,浅草の料亭の看板娘だった国松孝子が救い出します。1938年(昭和13年)ふたりは京都に戻って居を構え穏やかな晩年の日々を過ごし,1960年( 昭和35年)吉井勇は74歳で没しました。建仁寺の僧堂で行われた告別式には100 メートル余りの道の両側に喪服姿の祇園関係の女たちがぎっしりと立ち並んだといいます。
 吉井勇は京都を愛し京都に愛された歌人でした。

 白川沿いを歩いていると,ふたり連れの若い女性に写真をとってほしいと頼まれました。ちょうど歌碑の前だったので,歌碑と白川と桜を入れて写真を写してあげました。写真のできにかなり満足したようで,私は嬉しくなりましたが,はたして,あのふたりに,私が写した構図の意図と歌碑の歌を詠んだ歌人のことがわかるのでしょうか?
 こういうさりげない「いけず」なことが京都の奥の深さであり,かつ,不良老人のささやかないじわるなのでした。

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 京都に来る観光客の多くは京都駅からバスに乗って清水道で降り,そこから清水坂を登って清水寺を目指すようです。そして,その次に行くのが祇園です。
 実際は,清水寺から北に三年坂を下り,さらに進んで二年坂を降りると「ねねの道」に至るのですが,自然に歩くと三年坂を下るあたりで西にカーブして清水道を下っていくことになるので,三年坂で観光客は半減し,さらに,二年坂を下らずにここもまた西に八坂の塔を目指すことになるので,「ねねの道」に行くにしたがってどんどんと人が減っていきます。
 それでも,近ごろは -といってもオーバーツーリズムで私は京都を避けていたのでここ数年のことは知りませんが- 「ねねの道」でさえも大変な人混みだったから,もっとも観光客の押しかける清水寺のあたりは,まるで,渋谷の交差点のような状況でした。

 この日の私は,ここに書いたのとは反対方向に,二年坂を上りさらに三年坂を上り清水寺に向かいました。
 すでに書いたように「ねねの道」は空ていて,とてもよい雰囲気でしたが,三年坂を上ったあたりから様相が一転しました。観光客のほとんどは日本人でしたが,それでも,ずいぶんな人混みでした。多くは卒業旅行らしき大学生でした。女性のほとんどはレンタルの着物を着ていておじさんの目には美しかったのですが,このごろは男性もまた和装をしていて,それが似合わないというか,着慣れていないというか,まるで七五三みたいで驚きました。
 だれかが日本はコスプレ社会だといっていましたが,天皇即位から成人式,そして,女子大生はいうに及ばず近ごろは小学校の卒業式まで,考えてみればみなコスプレです。

 まあ,人それぞれ好き好きなので何を着てもいいのですが,私は,今年は空ているからこそ京都に来たのであって,こんな混雑の中に身を置くのは,このご時世,危険でもあり,もともと人混みは大きらいなので,御免こうむりたいとしみじみ思いました。そんなわけで,早々に清水寺をあとに,引き返すことにしました。
 清水寺は以前にも何度か桜満開のころに来たことがあるので,まったく未練はありませんでしたが,ここもまた,しだれ桜が満開でした。しかし,このしだれ桜は咲いている場所が悪く,清水寺の山門やら塔と一緒に写真に収めるような場所がないので,写すのに苦労します。
 ここ数年,清水の舞台は足場があって見られなかったのですが,今年はそれも取り払われていたということですが,私は行きませんでした。

 清水寺を早々に引き上げ来た道を引き返して,二年坂に来ると,突然人がほとんどいなくなり,静寂の「ねねの道」に戻ったときはホッとしました。ここらあたりで昼食をとることにしました。なるべく人のいない,そして落ち着くお店をということで探し出したのが「波ぎ茶寮」というおそば屋さんでした。食事を終えて,せっかく来たのだから今度は甘味をということで,抹茶とわらび餅が食べられる,これもまた落ち着いた「洛匠」というお店に入りました。ここは有名なお店なので並ばずに入れるのもまた,今だからのことでした。
 京都に来たときに,こうしたお店で食事やお茶することは,ここ数年,本当にできなくなっていました。京都で贅沢にゆったりと過ごす,なとというのは夢のまた夢の世界になってしまっていたのです。それができただけでも,今年の京都は最高でした。
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 さて,私は朝の8時から京都を観光しているので,かれこれ5時間過ぎたのですが,それでもまだ午後1時でした。しかし,お昼間の「浮世」に私は興味がありません。そこで,帰ることにしました。さあ駐車場に戻ろうと思ったとき,祇園白川の桜を見忘れていたことを思いだしました。そこで,駐車場に向かいながら,途中で,八坂神社を越え,祇園の交差点を渡り,四条通の北側を北西に,祇園白川を目指すことにしました。
 ここでもまた,八坂神社や祇園は人が多く,祇園の交差点北西角の「いづ重」だろうか,そのお店の前の歩道には,いつもように行列が出来ていました。なんというか,人は行列を作るのが好きというか群れたがるというか,グルメでない私には理解できかねますが,このご時世くらい,並んでまで食事をするのを辛抱して避ければいいのにと思いました。咳をしたときに他人に自分の飛沫が飛ぶのを防止する効果はあれどコロナウィルスを防御するような予防効果もないマスクをしてまで,むしろ感染のリスクが高い行列を作ったりと,私にには意味不明のことをする人が多すぎて,頭が痛くなります。
 私は,祇園白川を目指して巽橋に向かって歩いて行ったのですが,四条通をこえて北に行くと,やはり,ここもまたほとんど人はいなくなりました。

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 圓徳院を出て,「ねねの道」を通って,1週間ほど前に来たときと同様,今回もまた,南に南に,二年坂から三年坂を目指して歩くことにしました。前回は高台寺の近くに車を停めたことと雨が降ってきたので,三年坂で引き返したのですが,今回はさらに清水寺まで行ってみることにしました。
 1週間前とは違って桜が咲いているので,もっと混雑しているかと心配だったのですが,「ねねの道」から二年坂,そして,三年坂までは変わらず人も少なく,このあたりの駐車場もずいぶん空きがありました。
 歩いているのは9割以上が日本人で,私が大学生だった40年前の京都にもどったようで,とても懐かしくなりました。

 「ねねの道」から「石塀小路」に入ってみました。
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 高台寺は,徳川家康が財力を惜しまずに援助し,北政所を慰めるために舞芸に達者な女達が多く集められ,この地に住まわせました。それが,江戸時代に下河原遊郭になったはじまりです。また,祇園社の正面,南楼門の門前の一帯は,八坂を中心に茶屋が認可され,1693年(元禄6年)には52軒もの茶屋があったそうです。
 明治末期から大正にかけて祇園の西部は大きく変貌しましたが,東部に当たる下河原界隈は格子戸の旅館や料亭,お茶屋などがそれ以後も点在しました。今も廃絶した下河原遊郭の名残を留めていて独特の雰囲気を伝えています。
 中でも下河原通りと高台寺通りを結ぶ「石塀小路」と呼ばれる細い路地は明治末期から大正にかけて開発された場所で,高級感を出すために石垣を高くし石畳を敷き詰め,貸席を兼ねた高級貸家街として造りだされたものです。
 ここ数年のオーバーツーリズムによって道徳心のない外国人が大挙して押し寄せたために「石塀小路」は静けさが奪われ,いたるところに「写真撮影禁止」の張り紙がされていて,往年の景観も台なしになってしまいました。ここもまた,この日は人がまったく通らず,私が昔来たころの様子が思い出されました。

 「ねねの道」に戻って,さらに進んで,二年坂,三年坂に行きましたが,1週間前と同じように人が少なく,依然としてとてもいい雰囲気でした。
 やがて,八坂の塔が見えてきました。八坂の塔は東山には欠かせない景観で,京都の写真といえばこのあたりの風景が取り上げられていることが多いのですが,八坂の塔は家々の影に隠れてしまって,存外写真を撮るのが難しいところです。しかし,この日は三年坂にかかる一角に1本のしだれ桜が咲いていて,それを入れるとうまく構図をとることができました。
 八坂の塔があるのは法観寺です。法観寺は臨済宗建仁寺派の寺院で聖徳太子が592年に創建したと伝えらえていますが,境内は狭く,塔以外に目だった建築物がなく,ここが寺ということすらわからない感じです。塔の一部は拝観ができるようなのですが,私は入ったことがありません。
 さて,この日はさらに清水寺を目指して進んでいったのですが…。
 

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