梅雨になり,せっかく月明かりがなく星が見られる時期になったのにまったく晴れず,そのうちに,また,月が明るくなってきました。6月下旬からレモン彗星(C/2019U6 Lemmon)が夕方の西の空に,6等星という明るさで見られるみられるようになってきたのに,毎晩,空を眺めながら,残念に思っていました。
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レモン山天文台(Mount Lemmon Infrared Observatory )はアリゾナ大学の北約73キロメートル,海抜2,800メートルのレモン山の頂上にあります。1970年までは北アメリカ航空宇宙防衛司令部のレーダー基地であったのをハイテク赤外線天文台に変換したものです。天文台には,40インチのカセグレン式望遠鏡とアメリカ航空宇宙局(NASA)と共同運用する60インチのカセグレン式望遠鏡などがあり,地球接近天体の捜索(レモン山サーベイ)を行っています。
2019年10月31日,レモン山サーベイによって,放物線に近い軌道を持つ長周期彗星が発見されて,レモン彗星(C/2019U6 Lemmon)となりました。レモン彗星は2020年6月18日に太陽に最も接近し,現在は6.0等星です。
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6月28日だけなんとか夕方に快晴となったので,レモン彗星の写真を写しに出かけることにしました。とはいえ,彗星は月に近く,かつ,地平線に近く,最悪の条件です。
どうも今年は,先日の明け方の地平線ぎりぎりにしか見られなかった条件最悪のスワン彗星,雲が多く雲の隙間からなんとか見られた月と金星と水星の接近,まったくみられなかった半影月食,薄曇りのなかやっと形だけ捉えることができた部分日食と,なかなかうまくいかないことが続いています。しかし,こうした悪条件のなかで挑戦するのもなかなか悪くありません。
15分ほどで家の近くの西空が地平線付近まで開けた場所に到着しました。月が明るいので,どこに行ってもたいして星は見えないから,空の暗いところに遠出しても意味がないのです。
到着したのは午後7時30分ごろでしたが,夏至に近いこの時期は昼が長く,この時間でも空がまだ明るいのです。
やがて,なんとか北極星が見えてきたので,まず,極軸を合わせました。
私の旧時代の望遠鏡は自動導入装置などついていないので,彗星の近くの星がまったく見えない地平線近くの西の空では,長焦点の視野の狭いレンズでは彗星を入れることが困難です。そこで,今日は視野の広い180ミリの望遠レンズで写すことにしました。極軸を合わせた後で,このレンズを月に向けて,レンズの焦点を合わせました。
さて,彗星の位置はしし座の1等星レグルスと同経度の円周と月と同緯度の円周との交点あたりです。そこで,まず,かろうじて見ることができるレグルスをガイド用の望遠鏡に入れて,そのまま経度線をたどっていきます。月のある位置と同緯度との交点辺りで望遠鏡を固定して,そのあたりを少しずつずらしながら写真を撮っていくのです。彗星は明るいので,ちゃんと画角に入ってれば写るはずです。露出しすぎると真っ白になってしまうので,露出時間を10秒,15秒,20秒と変えながら写真を写しました。
帰宅して調べてみると,淡いながらもちゃんと彗星が写っていたので,ホッとしました。
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スワン彗星とは違って,レモン彗星は,今後,さほど急激には暗くならず,次第に高度を上げていくので,7月下旬にはもっときれいな姿を見せるようになることでしょう。そのころになると,この夏の最大の期待であるネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)が2等星ほどで北西の空に見ることができるようになります。スワン彗星とネオワイズ彗星は次第に接近していくので,夏の夜空が楽しみです。
June 2020
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る⑧
●エンゼルスの大谷翔平選手●
2018年大谷翔平選手がロサンゼルス・エンゼルスに入団した。
私はMLBでこれまで数多くの日本人メジャーリーガーを見る機会があったが,ぜひ見たいと思ったのは,何といってもロサンゼルス・ドジャースに入団した野茂英雄投手であった。本拠地ではなかったが,遠征先のミズーリ州セントルイスでの先発を見る機会があって,何とかその夢を実現した。次に見たかったのはイチロー選手だったが,幸い,イチロー選手の属したすべてのチームで見ることができた。
新庄剛志選手,城島健司捕手,ダルビッシュ有投手,前田健太投手なども,偶然も手伝って目の前で見ることができた。松井秀樹選手は現役時代に見ることはできなかったが,ニューヨークのヤンキースタジアムに行ったとき,偶然,引退試合を見ることができた。
そのころの私は,まだMLBにずいぶんと関心があり,しかも情熱があって,思えばよき時であった。
今の私にはまったくMLBに想い入れもなく,わざわざ見にいきたいとも思わなくなってしまったし,普段,テレビでMLBのゲームを見ることもなくなってしまったが,それでも,なぜか大谷翔平選手(投手?)だけは見てみたいものだと思っていた。
昨年(2018年),私がロサンゼルスへ行くという計画をしたときには大谷翔平選手の入団は決まっていなくて,ロサンゼルス・エンゼルスに決まったときは,また私は運がいいなあと思ったものだが,このときは,運悪くエンゼルスは遠征中で,見ることができなかった。
今年(2019年),別にロサンゼルス・エンゼルスの日程は知らなかったが,旅行の日程が決まった後でロサンゼルス・エンゼルスの日程を調べたら,偶然,私がロサンゼルスに滞在するころはホームゲームが続いていた。しかし,昨年のシーズン末に手術をして,復帰できるかとうか,というところであった(らしい)。「(らしい)」と書いたのは,私はMLBにほとんど興味がなくなっていたので,詳しい情報を知らなかったからである。私は,見にいく予定のゲームに大谷翔平選手は果たして出場するのかしらん? とかなり懐疑的であった。まあ,見ることができれば幸運だ,程度に思っていた。
大谷翔平選手は1994年生まれというから25歳である。私がこの旅のあとで行った奥州市の出身で,投手でありかつ打者,つまり,このふたつを本格的に両立する「二刀流」である。「二刀流」などという居合抜きのようなプレイヤーを私はこれまで知らないから,どうやってやるんだろうと思っていた。
高校生時代は,甲子園の通算成績は14回を投げ防御率3.77,16奪三振。野手としては2試合で打率.333,1本塁打ということである。
日本のプロ野球だけでなくメジャーリーグ球団からも注目され,本人は高等学校卒業後にメジャーリーグへの挑戦を表明したことは知っていた。しかし,北海道日本ハム・ファイターズがドラフト会議で1位指名をすると公表し,私はイランことをするバカな球団だと思った。何を言おうがどんな事情があろうが,北海道日本ハム・ファイターズの自分勝手,金儲けの口実にすぎない。そんなことは,野茂英雄投手が裏切り者同然で日本の野球界を去ったことを思えばわかる。みんな自分勝手なだけだ。北海道日本ハム・ファイターズの会議室で重役やスカウトたちが何を話していたか絵に描いたようにわかる。
いろんな条件をつけて言いくるめ,その結果,かわいそうに,大谷翔平選手は,2013年から2017年までの5年間を日本のプロ野球でおくることになってしまった。私は日本のプロ野球にはまったく興味がないので,この5年間のことはまったく知らない。
2017年末,大谷翔平選手は,ポスティングシステムを利用してメジャーリーグに挑戦する事を表明した。そして,ロサンゼルス・エンゼルスと契約合意に至ったと発表され,背番号は「17」と発表,マイナーリーグ契約を結んだ。2018年スプリングトレーニングに招待選手として参加,オープン戦では投手として2試合で先発登板,打者としても指名打者で11試合で起用されたが,防御率27.00,打率.125,本塁打なしと不振だった。それでもメジャー契約を結びアクティブ・ロースター入りし,開幕戦のオークランド・アスレチックス戦で「8番・指名打者」で先発出場し初打席初球初安打を記録。さらに,オークランド・アスレチックス戦で初登板初勝利した。
この年は打者として104試合(うち代打22試合)に出場し,打率・285,22本塁打,61打点,10盗塁。投手としては10試合に先発登板し4勝2敗,防御率3・31の成績を残し,メジャー史上初の「10登板20本塁打10盗塁」を達成しシーズンを終了した。
私が見にいったのは,その翌年2019年のことである。
今後「不良老人」はいかに生きるか①-日本一周の旅
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世の中が平常に戻りつつあります。というより,無理やり平常に戻しつつあります。でないと,経済が成り立たないからでしょう。
そもそも,人間のやっていることのすべては,死ぬまでの暇つぶしにすぎないわけですが,どうせなら楽しく暇つぶしをするために,さまざなことを生み出しました。それを文化というわけです。
しかし,文化よりも先に,まずは生きるためには食わなければならず,食うためにはお金がいる,お金を儲けるには働かなくてはならない,… というスパイラルがあるので,いつまでも何もしないで自宅籠城をしているわけにはいかないのです。だから,自宅籠城も,せいぜい3か月が限度であって,それを越すと,いろいろと正当化する理由をつけて,平常化してしまうわけなのです。
だから,生きるための生業があって,その次に文化が存在する,という順番になるのでしょうが,文化というものはとかく人によって異なるモノであり,仕事に上下がないのと同じように,本来,文化にも上下はありません。
そもそも,カラオケだって,それをやらない人から見れば危険があるだけだからやめればいい,というし,パチンコだって同じことです。それを,好ましくないと思う人は,これを機会とばかりなんやかやと理屈をつけて,標的とするわけです。これをいじめといいます。
そもそも,いくらマスクをして授業を受けて万一生徒のなかに感染者がいても他人にうつさないような配慮をしても,同じ教室でマスクをはずして昼食をとるのだから,食事中しゃべるなといったところで現実的は無理があるから,そんなことはすべて意味がないわけです。しかし,それよりも台に向かって黙々と人としゃべらずパチンコするほうがマスクなどしなくてもよほど感染の危険が少ないのにもかかわらず,パチンコは危険だと決めつけるのです。それは,学校はみんなが必要だと思っている一方で,パチンコを好ましいと思わない人が少なからずいるから標的にされる,というだけのことでしょう。正義の味方気取りで「自粛警察」をやっているお人の中にも,キャッシュレスとは無縁で未だに細菌まみれの現金を使ったり,顎マスクにしてタバコをふかしていたりする方もおられることでしょう。
つまり,みんな自分勝手なのです。だから,自分の行動は正当化し,自分の嫌いなことは,これ幸いに目の敵にするのです。カラオケもやらず,パチンコも人生で一度もやったことのない私には,そうした騒ぎはすべて他人事ですが,この春,人の本性だけはとてもよくわかりました。
さて,平常化がはじまって,そろそろ飛行機も再び飛びはじめました。
これで私も,海外はまだまだですが,国内であれば旅にも出かけられるというものです。しかし,仕事でやむをえず利用するのならともかくも,乗る前に検温して乗っている間中マスクをしてまで,旅などしたくもありません。旅というのは非日常だからこそ楽しいのです。ただ,当分の間,唯一期待ができるのは,まだ,観光地には人が少ないということです。特に,このところ私が嫌悪感を抱いていたインバウンド,これがないことでしょう。
今年の春,私は,史上最後のチャンスだと,何度も桜咲く京都へ行きました。人が少なく,特に,外国人が皆無で,今年の春の京都は最高でした。桜の季節が終わるころになったら状況が悪化して,県外に行くなといわれはじめました。今になっても,統計的に新型コロナウィルスの感染者のいない岩手県では県外への移動に制限がなくなった今も「県外者お断り」と書かれた店があるといいます。そんな店は,感染が収まったあとでも行ってやるものか,と大人げなく私は思うわけですが,これもまた,日本人の「攘夷」思想の流れでしょう。これまで,あれだけ県外や国外からの人が落とすお金で儲けてきた人たちが手のひら返しをしたわけです。
私は,もう少しして,新型コロナウィルスが収束,いや,終息して,心置きなく旅ができるようになっらたら,日本一周の旅をする夢を抱いています。しかし,漏れ聞こえるところでは,2030年には,最も海外からの旅行者が多かった2019年の3倍もの観光客を呼び込もうと国は計画しているというから,油断もスキもあったものではありません。国は,基幹産業をきちんと整備したり,力のある技術者を育てるといった基礎教育にお金を使わず,海外からの観光客にお金を落とさせて見せかけの好景気を作り出そうという戦略なのです。
そこで私は,再びインバウンドが起きる前に何とか日本一周の旅を実行に移さなければ,と狙っているこのごろです。ただし,「不良老人」の私が旅をしても,その地方の有名な観光地には行かないし,必要のないお金も使わないので,旅先としては迷惑なだけかもしれませんけれど…。ごめんなさい。
大腸内視鏡検査を体験した。-続・経験は人を強くする。
2017年2月に胃カメラを体験しましたが,このことは次のようにブログに書きました。
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今年に入ってから体調で少し気になることがあったので,意を決して病院に行きました。
私は,寿命は神様にお任せし病気はお医者さんにお任せてして,自分でできないことはくよくよ考えず,日々を楽しく過ごすようにしています。どっちみち,人生なんて死ぬまでの暇つぶしです。
身体は神様からお借りしたものなので,タバコなどの害で汚すことのないように大切にして,神様がお呼びになったらそのときは「ああ,楽しかった!」と言ってお返しするつもりです。
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ということなのですが,実際はそうは思ったようにいきません。悩まずすぐにお医者さんに相談… というほど私の精神が頑強なわけでもなく,さすがに今回受診すれば絶対に人生初の胃カメラになるだろうからと覚悟するまでちょっとだけ時間が必要でした。この歳の患者が調子が悪いといって受診すれば,私が医者でもやはり胃カメラを,と言うに違いないと思ったからです。
で,やはり,診断の結果,胃カメラとエコーをします,と言われ,ついに念願の? 人生初胃カメラ体験をすることになりました。
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というのが,当時の文章ですが,あれから3年,今度は,大腸内視鏡検査を受けることになってしまいました。
胃カメラはいつかは,と覚悟していたのですが,大腸内視鏡検査は想定外でした。受けたことのある人が言うには,大腸の曲がった部分を通るのがたいへんだとか。まあしかし,この歳になると,もはや,何でもありです。ある日突然襲ってくる身の不幸,そして,それが人生の終わり。ついにその日がやって来たと思いました。
これまでやりたいことはすべてやり遂げ,行きたいところもすべて行きました。15年前にはアメリカで交通事故に遭って死にかけもしましたから,いわば,今はおまけの人生です。そこで,何の憂いもないので,むしろすがすがしい気持ちではあったのですが,この現実は,何か夢を見ているような,そんな感じでもありました。
検査の説明を聞くと,むしろ,検査自体よりもそれまでの食事制限のほうがたいへんだとか。それで,すっかり安心しました。胃のX線検査のあとが辛いという人も少なくないのですが,私は,まったく問題はありません。だから,同じようなものだろうと…。
ということでしたが,検査自体は,まあ,こんなものか,という感じで終了し,検査の結果もありがたいことに,心配することは何もありませんでした。これで私はモニターを通して,自分の胃のなかも大腸のなかも自分の目で見ることができたわけです。
どんな検査なのかはここで私が書かなくても,すごい数の体験談が多くのブログにあるので,それをご覧いただくことにして,むしろ私がこの検査で今もこだわっているのは「メロンパン」なのです。それは,検査前日に食べていいとされている食事の種類に,なぜか,食パン(ミミを残す),ロールパン,白米,などなどとならべて,わざわざ,メロンパンとあるのです。さまざななブログにも,「なぜかメロンパン」とみな書いています。本当に「なぜかメロンパン」なのです。食パンのミミだって,よく噛んで食べれば問題ないような,メロンパンのほうがむしろ硬くて消化が悪いような,そんな気がします。これは,メロンパン業界のたくらみなのか? はたまた,売り込みなのか? と思ってしまうわけです。私は今後,メロンパンを見るたびに,今回の体験をいつまでも思い出すことでしょう。
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経験は人を強くする,というより,今回の経験は,このメロンパンへのこだわりで終了することとなりました。…というのは冗談ですが,これからも,まだ生きていいよ,と神様がいうような生活をおくっていきたいものだと強く思ったことでした。
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2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る⑦
●リニューアルした古いボールパーク●
ロサンゼルス・エンゼルス(Los Angeles Angels)はメジャーリーグベースボール(MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チームである。2015年まではアナハイム・エンジェルスと称していたが,2016年に球団創設時の名称に戻した。
2010年には全盛期を過ぎた松井秀喜選手が入団,また2018年からは大谷翔平選手が入団して日本での知名度が増した。
本拠地球場はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム(Angel Stadium of Anaheim)で,場所はロサンゼルスの東南,ディズニーランドの近くなので,日本人が観光で訪れるには最高の場所であろう。
1957年,ニューヨークにあったふたつの名門チーム,ナショナルリーグのブルックリン・ドジャースがロサンゼルスに,ニューヨーク・ジャイアンツもサンフランシスコに移転し,西海岸にMLBの球団が誕生し,ロサンゼルス・ドジャースとサンフランシスコ・ジャイアンツは初年度から多くの観客を集め,興行的に大きな成功を収めた。
そのため,アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが検討され,1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき,ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使=angel」から採られた。
初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが,2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りし,1966年にはついにアナハイムにアナハイム・スタジアムが完成した。
こうして1961年,アメリカンリーグの球団拡張によって誕生したロサンゼルス・エンゼルスは,1979年に初の地区優勝を果たし,1982年と1986年にも地区優勝を遂げた。そして,2002年にはワイルドカードでプレーオフに進出し,初のワールドチャンピオンに輝いた。
1997年から2003年までウォルト・ディズニー社が経営に携わっていて,2002年のワールドシリーズ初制覇の優勝パレードはディズニーランドで行われた。
2003年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任した。モレノはチケット,ビールの値下げ,家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し,ファン層の拡大にも力を注いだ。また,2003年以降は大規模な補強により,2004年以降の6年間に5度の地区優勝を果たしたが,その後は低迷気味である。
昨年2018年は開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ,1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切ったが,その後チームは故障者続出もあり地区4位に低迷,ポストシーズン進出を逃した。
2019年2月25日,ロサンゼルスタイムズ電子版がエンゼルスの本拠地の移転候補としてロングビーチ市が名乗りを上げていると報じた。その一方で,2020年で現在の本拠地とのリース契約が終了した後もアナハイムに残る選択肢も検討しているという。
私はMLB30チームすべてのボールパークに行ったことがあるが,ロサンゼルスに本拠地をもつ,ナショナルリーグのドジャースとアメリカンリーグのエンゼルスは,ともにボールパークが古い。さすがにリニューアルをしてはいるが,もともとの設計が古いことは変えることができないから,ほかの新しいボールパークに比べたらかなり見劣りするので,本拠地の移転が考えられるのも当然だろう。
このふたつのチームのボールパークは,ボールパークとしてわざわざ訪れるような魅力もないし,私がここで特質することもない。
藤井七段のダブルタイトル挑戦-「大山王位」のころ
私が将棋を覚えたのは,確か小学校4年生の頃だと思います。もう,今から50年以上前のことです。それ以来,私の生活は,将棋と天文になってしまい,それが今も続いています。しかし,将棋は「観る将」だけでいつまでも弱く,天文も30年以上前に買った旧式の望遠鏡で,暇な時に40年以上前の手法で写真を撮るくらいしかできません。ともにまったくモノにならなかったわけです。
それでも,上昇志向のない私は,自分の生活に楽しみをもたらすものとしてすっかり満足しているのです。
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さて,6月23日の将棋王位戦の挑戦者決定戦で,また,藤井聡太七段が永瀬拓矢二冠に勝ち,棋聖戦に続いて,王位戦でもタイトル挑戦を決めました。私は2連敗も予想していただけに,うれしい,まさに「望外」な結果となりました。
また,前回の対局でファンになった永瀬哲矢二冠にとれば,ダブルタイトル挑戦,そして,うまくいけば四冠も夢ではなかっただけに,さぞかし悔しかったことでしょう。しかし,この精魂こめて戦った2局は,藤井聡太七段に当たっても当たっても跳ね返されるような壁に感じてしまったかもしれません。この悔しさがばねになるといいなあと思います。私は,このふたりの時代を待望しています。
さて,今日は,対局のお話ではなくて,王位戦のお話です。
私の住む地域では,かつて,購読している新聞はそのほとんどの家が中日新聞でした。中日新聞が主催 -というか,正しくは,北海道新聞,東京新聞,神戸新聞,徳島新聞,西日本新聞との共同主催ですが- している将棋の棋戦は王位戦です。当時,中日新聞の将棋欄は夕刊に地味にあったさえないものでした。そして,王位戦は,その第1期からずっとタイトル保持者が大山康晴,時の名人でした。というより大山康晴は5つあったタイトルのすべてを持っていました。しかし,中日新聞からしか将棋の情報が得られなかった私が覚えたのは「大山王位」。なので著書などに「名人大山康晴」と書かれてあったのががとても不思議でした。
そのうちに,どうやら新聞によって載っている棋戦が違うこと,そして,将棋のタイトル戦の最上位にあるのが名人戦で,それを掲載しているのが朝日新聞だということを知りました。それは,4コマ漫画も同様で,まさか,多くの人が朝刊で読んでいる4コマ漫画が「サザエさん」とは知りませんでした。
そのころは新聞購読拡張合戦が盛んな頃で,母親の実家が,それに負けて,ときどき新聞を1か月だけ朝日新聞に変えるのです。それも決まって3月。新聞が変わったときに遊びに行くと,朝日新聞の将棋欄をみるのが楽しみでした。将棋欄にかかれたタイトルには「名人戦」という文字は一切なく,単に「A級順位戦」。何か,東京ではとても特別なすごいモノをやっているような気がしたものです。そして我が家が購読している新聞が田舎の三流紙に思えました。しかし,4月,名人戦がはじまると,母親の実家の新聞は王位戦に戻ってしまうわけです。その時代,朝日新聞では「A級順位戦」が2段組で掲載されていたのが「名人戦」の七番勝負だけは3段組になりイラストが入るのもまた,特別だという気持ちになり,垢抜けていました。しかし,それは読めなかったわけです。
やがて,私の説得に父が折れ,我が家の購読する新聞が変わりました。変えるためにいろんな理由をつけたのですが,私の本当の目的は「将棋名人戦」が読みたいというだけでした。我が家の新聞が変わったのは,幸運にも,ちょうど第30期の将棋名人戦,あの伝説の「升田式石田流」の7番勝負がはじまったときのことでした。その後,時も流れ,将棋名人戦の主催が毎日新聞社に変わり,それとともに私は将棋に興味を失くしました。したがって,私は,谷川浩司九段が名人のときの将棋も,若き日の羽生善治九段の将棋も,ほとんど知りません。
それを考えると,現在,新聞など頼らなくとも,ABEMAで生で対局を見ることができるのが夢のようです。わずか数年前は「斜陽産業」となってしまっていた将棋界,それが,藤井聡太という新星が現れ,まったく時を同じくして,ABEMAが棋士藤井聡太の対局を生放送するという偶然が重なり,よみがえりました。まさに,藤井聡太という棋士はABEMAの申し子であり,その活躍はアニメのストーリーをはるかに超えています。そしてまた,私が将棋を覚えてはじめて知った棋戦であり,地元の新聞社が主催する棋戦ではじめての2日制のタイトル戦に挑戦,しかも,最年長タイトル保持者と最年少タイトル挑戦者というのもまた,できすぎです。
この先,また,どんな新たなストーリーが待っているのかとても楽しみです。
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る⑥
●都会のなかの天文台って?●
ロサンゼルスでは,レンタカーを借りてレンタカー会社の駐車場から出ると,すぐにジャンクションがあって,インターステイツ105に入ることができる。
ロサンゼルスの市街地はものすごく広く,はじめて走るとつかみどころがない大都市である。インターステイツを走っているだけだと,まったくこの町の様子が把握できないのだ。
インターステイツ105はロサンゼルスのダウンタウンよりかなり南にある空港から東に向かって走っていて,やがてはダウンタウンから南東に走るインターステイツ5と合流する。インターステイツ5はアメリカの南北を北はシアトルから南はサンディエゴまで続く主要道路である。また,アメリカのインターステイツの3ケタ番号はわかりやすくつけれていて,下2ケタの主要道路にやがては吸収される。
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私は,今回の旅では帰国まえの2晩をロサンゼルスで過ごし2泊することになっているが,ロサンゼルスの市内観光をする予定はまったくなかった。この旅の計画では,この日の夜はディズニーランドのあるアナハイムでMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見ること,そして,明日は待望のパロマ天文台に行くことであった。そこで,空港とボールパークとパロマ天文台のどこに行くにも便利で,しかも快適で,かつ安価なモーテルを探していて,リンウッドという町に宿泊することにしたのだった。東京でたとえれば,空港が成田でアナハイムが浦安,パロマ天文台が埼玉県の堂平山,そして,宿泊するのが千葉,みたいな感じだろうか。
インターステイツ105を東に走って,途中でインターステイツ710(この道がインターステイツ10の支線であることは番号からわかる)に乗り換え,少し北にいったところでジャンクションを降りて,一般道を西に数マイル行ったところに私の予約したモーテルがあった。
昨年来たときはは少し節約しすぎて,散々なモーテルに宿泊することになってしまったので,今年は昨年よりは宿泊代の少し高いモーテルにしたのだが,改めて調べてみると場所は昨年宿泊したところとさほど離れていなかった。しかし,ずいぶんと町の雰囲気は異なっていて,昨年より断然雰よさそうな場所だった。
予約してあったモーテルは期待通りきれいなところで,インド人のオーナーはとても親切そうな人だった。建物の外観やら,部屋の様子などから,オーナーの性格が几帳面なのがよくわかった。
駐車場に車を停めてオフィスに行って予約してあることを告げると,チェックインの時間は午後3時からであり,私が到着したのが午後2時で,まだ少し早かったが,空き部屋があったので,幸いチェックインをすることができた。
部屋で一休みをしてから,近くにあった「カールズジュニア」というバーガー店まで歩いていってそこで昼食をとることにした。
ハンバーガーチェーンの「カールズジュニア」(Carl's Jr.)は私がおすすめする店である。昨年(2018年)アメリカに来たとき,半分冗談でアメリカのハンバーガーチェーン店巡りをしたことはすでにブログに書いたが,そのなかでも「カールズジュニア」のハンバーガーはおいしかった。日本にもかつて進出したことがあるということだが撤退した。近年,再び進出して関東地方に数店舗店を出しているということだ。
ロサンゼルスはアメリカ西海岸にあって太平洋に面している。
空港から北西に州道1を走ると,マリーナデルレイというヨットハーバーがあり,その北西にはサンタモニカがあるというように,有名な地名が続く。サンタモニカからは州道2を北東に行くとビバリーヒルズ,ハリウッド,そして,グリフィス天文台というように,ロサンゼルス観光の入門コースが続いている。また,その南がロサンゼルスのダウンタウンでりあり,ダウンタウンの北側にはチャイナタウンとリトルトウキョウ,そして,ドジャースタジアムがある。
こうした場所がいわゆる日本人の知るロサンゼルスという場所であるが,ロサンゼルスの観光地は決して治安のいいところでない。私は,ハリウッドのマクドナルドで置き引きにあったこともあり,いい思い出はないので,今は行きたいとも住みたいとも思わない。
グリフィス天文台というのは,19年前に一度,ロサンゼルスの町が一望できる,夜景の美しい場所ということで,行くでもなく行ったことがあるが,ここは「理由なき反抗」「チャーリーズ・エンジェル」といったハリウッド映画のロケ地として有名である。実際は,天文台というより科学館とでもいうべき一般向けの場所であるから,世界中の天文台巡りを趣味とする私には特に興味がない。そもそも,星空の美しい場所ならともかく,夜景が美しい天文台って,一体なんだろうと思ってしまう。
グリフィス天文台は,メキシコの銀鉱で財産を作った資産家のグリフィス・ジェンキンス・グリフィス(Griffith Jenkins Griffith )が1896年にクリスマス・プレゼントとしてロサンゼルス市に寄付したもので,広さ3,015エーカー(約12平方キロメートル)ある公園である。グリフィスがヨーロッパを視察した際に、整備された公園に感激しロサンゼルス市民の憩いの場所として贈ったのが発端である。…と,ここまではいいのだが,グリフィスは,のちにウィルソン山天文台を見学して感激したことで,公園に天文台の建造を企画した。グリフィスが殺人未遂を起こしたため一度は保留になったのだが,のち,グリフィスが遺言で天文台と劇場の建設の寄付を書き残し,グリフィスの死後,1935年に完成したものだ。しかし,そもそも大都会に天文台を寄付するって,何かひとつおかしい気がする。
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る⑤
●不人気車は売れ残る。●
ロサンゼルスのダウンタウンが眼下に見えてきた。大きな学校があった。おそらく高等学校だろう。それにしても豪華だ。専用のフットボール競技場やベースボールスタジアムがある。
こういうのを比較すると,常にいわれるのは,日本は狭いから,という言い訳である。しかし,土地があるかどうかというような問題ではないだろう。日本は教育に金をかけなさすぎるのだから,もうどうしようもない。と,こういう景色を見るといつも思い,絶望的になる。
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やがて,定刻ロサンゼルス国際空港に着陸した。
ロサンゼルスに戻ってきた。
この旅では,来たときはロサンゼルスに到着して,そのまま乗り換えてフェニックスに行ったので,ロサンゼルスの町に降りるのはこれが最初だった。しかし,昨年もロサンゼルスには来たので,昨年は少し戸惑ったが,もう,すっかり勝手がわかっていて,空港ビルを出て,レンタカー会社のシャトルバス乗り場に行った。
そういえば,19年前,知ったかぶりでロサンゼルスに着いた私は,そのときは空港ビル内のターミナルにレンタカー会社のカウンタがあるものと思い込んでいたから,それが見つからず,空港で困り果てた。どうすればレンタカーオフィスに行くことができるかさっぱりわからなかった。仕方なくビルの外に出たが,案内標示もなく,しばらく途方に暮れたのを思い出した。
忘れていることも多いのに,こうした困ったことだけはずっと覚えているのはどうしてだろう?
レンタカー会社のシャトルバスに乗り込んだ。乗ったときは空いていたが,このシャトルバスは,空港のターミナルを巡回して,それぞれのターミナルで客を乗せていくので,次第に混雑してきた。こういうシステムは,知ってしまえば当たり前なのだが,はじめて行ったときはずいぶんと心細いものだろう。
隣に乗り合わせた男性が話しかけてきた。日本と違って,見ず知らずの人とも隣り合うと雑談を交わすのがアメリカ流といったところだ。彼はこれまで78か国に仕事で行ったと言っていた。すごいものだ。もちろん日本も行ったことがあるということだった。
私が行ったことがあるのは…,そう,考えてみると,せいぜい11か国でしかない。
ロサンゼルス国際空港はめちゃくちゃ混んでいたが,これは,空港のターミナルビルが工事中であることと,ターミナルのアクセス道路が空港の中央部分にすべて集まっていて,これもまた工事中であることが原因であろう。これは,2028年に開催されるオリンピックの準備である。
シャトルバスは,やっと空港エリアを出て,まもなくレンタカー会社の駐車場に到着した。ロサンゼルスは空港の周りにそれぞれのレンタカー会社の敷地が別々にあるので,自分の借りたレンタカー会社のある場所を覚えておかないと,返すときにパニックになる。これもまた,昨年学んだことだ。
レンタカー会社のゴールドエリアには多くの車が並んでいて,そのどれを選んでもいいというのもまた,昨年知った。借りるときにインターネットで選んだ車の車種など全く無関係で,車のランクが同じならどれを借りてもいいわけだ。オプションでカーナビを借りたときは,別途出口で受け取ることになる。
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昨年借りたときは車のほとんどがカローラだったので今回もそれを期待したが,カローラは1台しかなかった。それにしようと思ったが,ほかの車も見てみようと物色しているわずかの間に私が借りようと思ったカローラはとられてしまい,後悔した。仕方がないのでニッサンのアルティナにした。
レンタカーもこのようなシステムにすると,自分で車を選べるので便利だし,レンタカー会社もまた手間がかからないからウィンウィンである。しかし,このシステムは車の人気投票という事実を呈する。まず売れ行きがいいのは故障のない日本車である。最後まで残ってしまうのは不人気車であるが,それはいつもヒュンダイであった。
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る④
●アメリカの高速道路は美しい。●
窓際の座席を選んで座ったので,晴れ渡る窓の外にはフェニックスの町がよく見えた。
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すでに書いたように,19年前,私はロサンゼルスから車でインターステイツ15を北東にラスベガスを経由して,国道93を南東にキングズマンへ出て,そこからインターステイツ40でセリグマン,ウィリアムズと東に向かってに走り,ウィリアムズで北上してグランドキャニオン国立公園のサウスリムにたどり着いた。
古いことなのでほとんど記憶にないが,ロサンゼルスからグランドキャニオン国立公園がえらく遠かったことと,ウィリアムズから北に向けて走っていたとき,こんな大草原の向こうにグランドキャニオンという大渓谷が本当にあるのだろうかと思ったことだけは覚えている。
その後,橋のないコロラド川を延々と迂回して対岸のノースリムへ行き,さらに,その先のモニュメントバレーまで行った。そして,南西へ引き返し,フラッグスタッフを経由して,フェニックスへ着いたのだった。
その時の旅では,フェニックスからロサンゼルスまでも車で帰るつもりだったが,さすがに力尽き飛行機を利用した。
当時のフェニックスの見どころは,お昼間は動物園くらいのものであったが,夜はMLBダイヤモンドバックスのゲームを見た。先発はあの有名なランディ―・ジョンソン投手であった。私はいつもツイているのだ。
そのときのフェニックスの印象は,ものすごく暑かったことと,1泊したあと,目覚めたらすでに午後で,こんなに寝てしまったことは人生で後にも先にもなかったということだ。私が当日探して泊った場所は,結構「ヤバい」ところで,周りは古びた家だらけで,昼間から怖そうな男がふらふらしていた…,と当時は思ったが,今考えるとそうでもない普通のアメリカの普通の場所だったかもしれない。
当時はまだアメリカのことは今ほど知らず,なにもかもが怖かった。であるのに,行動は今よりずっと大胆であった。
飛行機の窓から見ていると,そんなことを思い出してきた。
おそらく飛行機はインターステイツ10に沿ってその上空を飛んでいたのだろうが,フェニックスの町を過ぎると,眼下にはオーストラリア大陸の荒涼とした大地のような,砂漠の荒野が広がってきた。どの国でもそうだが,空から見るとそんな景色であっても,地上を走ると結構人が住んでいたりするのが不思議だ。それにしてもいつも思うのだが,地球というのは広いのやら狭いのやら…。新型コロナウィルスのようなたわいもないものが発生するだけで,地球上のすべてがパニックになり,人間の作ってきたシステムはすべて台無しとなり,逃げ場所すらない。
いずれにしても,未開の地などというものはもはや地球上のどこにも存在せず,人間は地球をぐっちゃぐちゃにしすぎた。地球の代わりになるものはないのだから,やがては破壊しつくして地球をぶっ潰してしまうのだろう。それも近い将来…。人類の滅亡も近いかもしれない。そして,人類に代わる新しい生物がまた登場して,同じ愚を繰り返すのだろう。
やがて,ロサンゼルスの広大な市街地が見えてきた。大自然をぶっ潰して作ったアメリカの大都市はどこも高速道路がとても美しく見える。ジャンクションの幾何学的な模様には,いつもほれぼれする。
☆ミミミ
6月21日は,夏至であり,台湾では金環日食,日本では部分日食が見られましたが,残念ながら曇り空でした。雲を通して,なんとか写真を写せました。
「1日1断捨離」を実行する⑦-続・さらば「アサヒカメラ」
久々の,そして最後の「アサヒカメラ」を購入しました。2020年7月号をもって,この雑誌は休刊,実質上の廃刊です。
それにしても,わかっていたこととはいえ,7月号もまた,無残なほど,広告がありませんでした。昔なら,カメラ雑誌には多くカメラメーカーが競って新製品の広告を誇らしげに掲載していたものですが,最後に残ったのはソニーだけでした。そもそも,本の背表紙に広告がないというのは,まさに,屈辱的な最期でした。
カメラメーカーだって,恩も義理もあるだろうし,これまでどれほどこの雑誌の記事が動機となってカメラが売れて儲けさせてもらえたかを考えれば,最後ぐらいは広告を載せてもいいのに,もはや,そんな余裕すらないのでしょう。
家に届いた雑誌をまずは眺めてみました。はじめに思ったのは,写真コンテストのページに載っている入選作の応募者の年齢でした。「月刊天文ガイド」同様,そのほとんどが50歳以上なのです。
そもそも,今の時代,こうした雑誌に入選して写真を世に出す時代ではないのです。未だにこんなことに価値観を見い出しているのは,SNSすら知らない,化石のような人たちだけでしょう。また,雑誌を購入する動機のひとつだった新製品の紹介にしても,雑誌に載る前に,とっくにインターネット上に情報があふれているのですから,雑誌に掲載された時点で,すでに新鮮味のかけらもありません。
その昔,この雑誌は,木村伊兵衛さんとともにありました。木村伊兵衛さんといえばライカ。そこで,木村伊兵衛さんの写真とライカカメラの特集が,この雑誌に色をそえていました。しかし,今となってはもう,木村伊兵衛さんも過去の人,知っているのは60代以降の人でしょう。そしてまた,ライカカメラも,金持ちのミエでしかありませんから,それを愛好しているのは写真好きとは別世界の人たちです。その一方,篠山紀信さんに代表される時折掲載されたヌード写真は,写真の専門雑誌というのが隠れ蓑となって,そうした類の写真が載った雑誌を買う勇気のない人たちが購入層だったのでしょう。それもまた今では,そんな写真は巷に氾濫しているから,隠れ蓑としていた購入層が雑誌を買う必要もなくなり,芸術なのかエログロなのか何なのかその存在意義すらよくわならないヌード写真など,写真雑誌に載せても何の意味ももたなくなってしまいました。
今ほど写真が身近なものになって,だれでもどこでも写真が写せる時代はこれまでにはないのです。でありながら,逆に写真専門雑誌が売れないというのは,そうした市場がないのではなく,新しいニーズに応える編集をしてこなかったということなのでしょう。
ところで,私にとっての「アサヒカメラ」は,「月刊天文ガイド」をはじめて買った1968年の3月号が今でも私の宝物であるのと同様に,はじめて買った1976年5月号の木村伊兵衛特集です。この号の表紙にある木村伊兵衛さん愛用のライカにどれだけ憧れたことか! しかし,私の宝物であるはずの1976年の5月号は,はじめに買ったものを失くし,再び古本屋さんで購入したものもどこかに行ってしまいました。今回,「アサヒカメラ」の休刊に伴ってそのことを思い出し探していたら奇跡的にネットで偶然見つけたので,三度目のこの号をなんとか手に入れることができました。古い雑誌は,他人には紙屑のようなものであっても,ある人には宝物であったりするのです。
雑誌というものは,毎月新しい情報を載せてあるからこそ価値があり,月日が経つと陳腐化していくもののように思えるのですが,実際はその反対で,何か自分に思いのある古いものが手元にあれば,それによって自分の過去の記憶を呼び戻したり,その記憶を留めておく媒体になるものだと思うようになりました。しかし,私の若いころのように紙媒体の雑誌で情報を得ていた時代とは違って,インターネットのような電子媒体から情報を得ている今の若い人には実態が残らないので,歳をとったときに,若いころの記憶が形として残っている媒体が存在しません。そこで,やがて時が過ぎ,若い人が歳をとり昔を懐かしむようになったとき,古い雑誌のような,手元にあるだけで過去を甦らせることができる媒体ないことを嘆き悲しむことになるかもしれません。
自宅籠城の記⑬-何が現実なのかわからなくなってきた。
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そもそも,これまでも基本的にはキャッシュレス生活だったのですが,それでも,現金しか使えない店もあったので,そうした店ではしかたなく現金を使っていました。しかし,新型コロナウィルスの流行で,食べ物以外の買い物はすべて通販を使うようになり,公共交通機関も使わないので駅に行くこともなくなり,そうすると,お店にもめったに立ち寄らなくなったので,よくよく考えてみたら,私は,ここ数か月の間,現金というものを使ったことがありません。
そこで,やむを得ず外出するときは,家と車のキーとETCカードと免許証と,念のための1,000円札2枚とスマホだけを持ち歩くようになって,普段は財布すら持たなくなりました。旅をするときだけは,スマホの QuickPay が使えないときのためにとクレジットカードを2,3枚入れた財布を持っていきます。財布には,念のためにと1万円札が数枚入っているのですが,使ったことはありません。これでは1万円札もカビてしまいそうです。
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3密をさけよだの,アルコール消毒だのといいますが,新型コロナウィルス以外にもどんな細菌がついているかわからない現金,特にコインが一番危険だと思うので,私は触りたくもありません。このご時世,見掛け倒しのマスクをしてアルコール消毒をしても,未だにレジで現金を使って支払いをしているような人を私は信じられません。フードコートやマクドナルドなどでは,入口でアルコール消毒をしても,そのあとで現金を触ったそのキッタない手でマスクを外し食事さえしているのです。
私はこれまで以上に,何かを買ってもすべて電子マネーの取引となるのですが,こうなると,お金といっても,単に数字が動いているだけ状態。そこで,お金を使ったという感覚すらなくなってしまいました。現金でないと無駄遣いをするからクレジットはどうも,という人が日本には多くいますが,私はもともと無駄遣いなどまったくしないので,何の問題もありません。
新型コロナウィルスの流行で,予約してあった旅行がキャンセルになったり,コンサートが中止になってせっかく購入したチケットが無駄になり,その結果ずいぶんとお金が戻ってきたのですが,それもまた,直接銀行口座にお金が入金されているだけで,まったく実感がありません。お金を使った自覚もなければ戻ってきた自覚もないわけです。
国からもらえた10万円,というか,もともとは国民の税金ですが,これまで支払ったそんなタッカイ税金からわずかばかりの返金を受けました。この10万円をもらうための手続きがめんどうだのうまくいかないだのといろいろ批判する人もいますが,私はマイナンバーカードとスマホに入れたマイナポータルを使って申込日初日に難の問題もなく5分で手続きを終えて,とっくの昔に指定した銀行口座に入金されていました。しかし,それさえ銀行口座の残高の欄に並ぶ,クレジット会社への出金やら税金の出金やら年金の入金やら投資信託の分配金の入金やら定期預金の金利の入金やらの数字のなかに埋没してしまっていて,よく見ないと振り込まれたことにも気づかず,欲しいモノもないからそのお金の使い道もなく,手つかずのままです。
市民税などの税金も口座からの自動引き落としだし,さらに,毎年来る車両税とかもペイジ―でクリックするだけなので,お金を払ったという感覚すらまったくないのです。
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投資信託の基準価格が下がったとか,外貨が高くなったとか低くなったとか,株が下がったとかいわれても,そうした資産もまた,持っているだけでもはや儲ける気もないから売りも買いもしないので,どうなっているのか実感がありません。投資といえば,実は,3月ごろにものすごく安くなったオーストラリアドルを大量に買えば絶対儲かるというということは知っていたのですが,いまさら儲けても使い道もないので,何もしませんででした。
さらに,読みたい本はアマゾンコムで電子ブックをワンクリックで購入し,ダウンロードしたものをKindleで読むだけなので,これもまた,本屋さんに行って買ってきたわけでもなく,本という実態を手に取ったわけでもないから,本を買うのにお金を払ったという実感すらありません。
こんな生活をしていると,お金というこれまでは実態だったものが,単に銀行などに入っている口座の数字が上下運動をしているものにすぎなくなりました。もともと若いころから必要なモノ以外買わないし浪費もしなかったので,年金生活になった今では,一生食いはぐれないくらいの蓄えはあるから,普通に生活する分にはお金がいくらあるかを気にする必要もないのです。
自宅籠城をしていると,人とほとんど接しないから他人を気にすることもまったくなくなり,その結果,何が現実なのか何が夢なのかすら,次第にわからなくなってきました。不愉快で不安を煽るだけのテレビのニュース番組は一切見ることをやめたし,世の中で起きている「らしい」現実は,新聞社のアプリなどから知るだけなので,それが本当に起きていることなのか,はたまたドラマの一部なのか,自分で見たわけでもないから定かでないのです。プロ野球が昨日無観客ではじまったらしいのですが,もともと関心のない私はテレビの中継も見ないし,もし,報道されなければ,やっていないのに等しいのです。それは,昨晩夢に見たことが本当にあったことのように思えたり,その逆に,過去に実際にあったことなのに夢のできごとのように思えたり,と同じことです。そもそも,人生すべてが虚構のようにさえ思えます。このブログで書いている旅行記だって,本当に行ったことなのか,あるいは,実際は単なる作文だったりして,みたいな…。
そんなわけで,寝たいときに眠り,起きたいときにはたとえ深夜だろうと起き,夜の6時から朝の6時までだけを現実として活動し,私の生まれるはるか昔の何百光年も過去からやってくるお星さまの美しい光を友とし,お金はキャッシュレスで済ませている私の籠城生活もそろそろ終わりに近づいた今,行き着いたのは,現実と空想の区別がつかなくなったという,まことに奇妙な結論になるのでした。
それは究極的に,とても幸せな生き方です,はい。
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る③
●離陸の順番待ち●
搭時間になった。今回もまたファーストクラスへのアップグレードだったので,先に乗り込んだ。アメリカの国内線のファーストクラスは国際線とは違って,イスが大きいことと,ガラスのコップで飲み物が出てくることと,軽食が配られることくらいしか特典はないが,なぜかうれしい。
わずか1時間程度のフライトだから,窓際席にした。
フェニックスの空港は,スカイハーバー国際空港(Phoenix Sky Harbor International Airport)という。フェニックスの市内,中心部よりやや南東4.8キロメートルにある。
この空港はアメリカ南西部にある大きな空港のうちのひとつで,グレイトレイクス航空とUSエアウェイズのハブであるほか,フロンティア航空とサウスウェスト航空の焦点都市となっていて,北アメリカ,カナダ,メキシコ,中央アメリカ,ヨーロッパの各都市間を15のキャリアが運航しているので,アメリカで利用者数の多い空港のトップ 10 に入るということだが,私にはそんな印象はまるでなく,小さな空港であった。
スカイハーバー国際空港には3つのターミナルがあるが,ターミナルの番号は2,3,4となっている。ターミナル1が1990年に取り壊されたからである。
どの空港もそうだが,フライトの離陸は,同じ時刻に設定された複数のフライトがあって,それらは要するに「早いもん順」に離陸するのである。つまり,離陸の順番は事前に決まっているわけでなく,離陸準備のできた飛行機から滑走路の手前に陣取り離陸にそなえ,順番がくると滑走路に入り飛び立つわけだ。それらの調整を担うのが管制塔である。
大概の空港は滑走路が1~2本で,同じ滑走路を離陸も着陸も使うので,着陸してくる飛行機があると,離陸する飛行機はしばらく待たなけれればならない。そうして,いよいよ離陸の番になると,しずしずと滑走路に向かうことになる。
今日の4番目の写真がまさにそれで,こんな感じで飛び立つ飛行機がずらりと並んで離陸の順番待ちをしている姿はまさに壮観なのであるが,これは窓際席でなければ見られない姿である。大概の乗客は離陸までどうしてこんなに時間がかかるのだろうなどと思いながら,機内でその時間をすごすことになる。
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私の乗った飛行機もこうしていよいよ離陸する順番になった。このころは,海外旅行ばかりしていたので,離着陸で1回のフライトと考えると,私は,1年で平均30回は飛行機に乗っていた勘定になるが,それもまた,今では懐かしい。こんな当たり前だった旅がまたいつかできる日が来るのだろうか?
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る②
●ここは砂漠のど真ん中●
予想通り,フェニックスの市街に近づくにつれて車が多くなって道路は混んできたが,それほどの渋滞に巻き込まれることもなく,午前8時過ぎにはレンタカーセンターに到着することができた。
車を返してから少しだけレンタカーセンターの建物のなかを散歩した。建物のなかにはずらりとレンタカー会社のカウンタが並んでいたが,朝早いこともあって,人がほとんどおらず,閑散としていた。
その昔,アメリカの空港は,ターミナルのなかにレンタカー会社があって,外に出るとレンタカー会社の駐車場があった。今でも多くの地方都市はそうである。
大都市では,やがて空港が手狭になってくると,空港の近くにレンタカー会社が移動するようになった。新しく作られた都市だと,フェニックスのように,レンタカー会社が集められてひとつの建物に入っているところもあるが,古い町では,それぞれの会社がバラバラになっていてわかりにくいところもある。さらにまた,大きな建物にレンタカー会社が集めれているにもかかわらず,そこに入り切れなくなった新興のレンタカー会社だけ別の場所にオフィスがあって,それがわからず混乱することもある。私はニューヨークのJFKでその被害? にあった。
建物を出たところに,空港までのシャトルバスの乗り場があったのでバスに乗り込み,やがて空港に着いた。
フェニックス(Phoenix)はアリゾナ州最大の都市かつ州都である。愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)。日本語では不死鳥のフェニックスから慣フェニックスと表記されるが英語の発音はフィーニクスのほうが近い。
フェニックスは1867年に灌漑事業と共に創設され,開拓者が都市を創設した。 20世紀前半からニューディール政策によるコロラド川の電源開発,ルーズベルトダム,フーバーダム,クーリッジダムの開発によって、無尽蔵の電力を供給,軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展していき,今日では半導体などのエレクトロニクス産業,また観光都市としても発達している。
当初はロサンゼルスやシリコンバレーに後れを取っていたが,1990年頃から安価な労働力と広大な土地,安い税金,精密機械製作には好適な温暖で乾燥した気候,大消費地への近さという条件があいまってカリフォルニア州から大量の半導体,エレクトロニクス産業が流入してきたことで急速に発展した。シリコンデザート(砂漠)とよばれる。
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年間を通して温暖,というより年中暑く,夏は日中は摂氏40度を超える。ただし,非常に暑いが乾燥しているので,日本より過ごしやすい。逆に,フロリダは湿度が高いので,夏にフロリダに行くというとアメリカ人にバカにされる。なら,日本の夏なんてもっともっとバカにされそうだ。冬は日中摂氏20度を超える気温となり,朝晩でも摂氏4度以下に下がることはほとんどないため,保養都市として注目を浴びている。
最高気温記録は1990年6月26日の摂氏50度で,最低気温記録は1913年1月7日のマイナス8.8度ということだ。
この町は砂漠のど真ん中に形成された人口都市である。私はこの町にはじめて来たのは19年前のことだったが,その当時,こんな砂漠のど真ん中にむりやり水を引いて草木を植え,緑の都会を作り上げるアメリカってとんでもない国だと思ったことを思い出す。
そのころはまだ素朴さも多く残っていた。今回はフェニックスの町は通り抜けただけで,その風景は空から見ただけだったが,町はさらに巨大化し,アメリカのほかの大都市と変わらない様相を呈していた。
2019夏アメリカ旅行記-ロサンゼルスへ戻る①
●絶品の夜明け●
☆4日目 2019年6月28日(金)
この旅も4日目となった。
チコちゃんではないけれど,ふだんボーっと生きていると1週間は何もせず終わるけれど,旅に出るとわずか数日間でも,それまで長年ずっと思い焦がれていた経験はすべてできるし,そのときに成しえた思い出はずっと生き続ける。
旅をしないできた人は,そうした蓄積がないから,歳をとったとき,思い出もなく生きるしかない。そんな人の話にば奥行きがない,退屈な話しかできない老人は,そのような体験の少ない人なのであろう。
さて,今日は,フラッグスタッフからフェニックスまで戻って,フェニックスからロサンゼルスへは空路,そして,ロサンゼルスで再び車をレンタルして,夜はMLBロサンゼルス・エンジェルスのゲームを見るという予定であった。
フラッグスタッフからフェニックスまで車でほぼ2時間かかる。フェニックスからのフライトは10時過ぎの出発なので,朝はフェニックスを午前7時くらいに出発すればいいかな,と思っていたのだけれど,来るときにフェニックスの市街地が思った以上に渋滞していたことと,この日は週末でなく金曜日だから朝の通勤時間と重なること,そして,来るときにインターステイツで事故渋滞があったことなどを考えると,もっと早く出発するほうがいいと思いなおし,朝は午前5時に起床し,朝食をとって午前6時にはチェックアウトすることにした。
昨晩買って冷蔵庫に入れておいたビックマックをレンジで温めて朝食代わりにした。チェックアウトといってもキーをフロンのある建物の外にあるキーボックスに返すだけ,ほったらかしのモーテルである。
まだ夜が明けきらず暗いフラッグスタッフのヒストリック・ルート66を,インターステイツ17のジャンクションに向かって走った。
インターステイツ17に入ると,周囲は真っ暗で,自分の車のヘッドランプだけを頼りに走ることになるが,こういうとき,アメリカの道路はとても走りやすい。
私は,よく星を見にいくので,深夜の道路を走ることが少なくないが,日本の道路のひどさは,暗いときとか雨のとき,霧のときに顕著になる。そうした悪条件をまったく考慮しないで整備されているのである。反対に,アメリカの道路は,悪条件になるほど,安全に走行できるように整備されている。これが日本人の「発想の限界」である。
やがて東の空が白んできた。アメリカの大自然は,このときが最も美しい。日本では決して見られない風景が広がってくる。フラッグスタッフからフェニックスまでは緩い坂を下ることになるから,来るときはよくわからなかったが,眼下に広がる景色は想像以上にすばらしいものだった。
順調にフェニックスのダウンタウンに近づいてくると,あたりはサボテンだらけになる。
アリゾナといえばサボテンであろうが,そうした風景がどこで見られるかといえば,すぐには思い浮かばない。19年前,はじめてアリゾナ州に来たときにこの「サボンのある景色」を追い求めてあてもなく走ったことを思い出したが,そのときにどの道を走ったのかは記憶にない。しかし,それほどの道路があるわけでもないから,そのときは,インターステイツでは景色が見られないと思ってそのあたりの一般道をふらふら走ったのだろう。しかし,そんなことをしなくても,実は,インターステイツからとてもよく「サボテンのある風景」は見ることができたのだった。それをこの日知った。
やがて,太陽が昇ってきた。どこかで日の出の写真を写そうと走っていて,ブラックキャニオンシティという田舎町を見つけたので,そこで,一旦ジャンクションを降りた。
ブラックキャニオンシティはインターステイツ17にそった一般道の周りに家が数件あるだけの田舎町だったが,なかなかいい雰囲気であった。こういう町に着くと,いつかこんなところに泊ってみたいものだといつも思うのだが,実際泊ってみると,こうした町には何もなく,夕食をとろうと1軒のレストランを探すのすら苦労することも,私は,これまでの経験ですでに知ってしまっている。
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66⑤
●電子レンジだけは存在した。●
ルート66,インターステイツ40と走って,フラッグスタッフに戻ってきた。これをもって,今回の旅でフラッグスタッフの3泊の滞在は終わりである。
私が滞在したモーテルは,ルート66沿いということだったので,もっとフラグスタッフのダウンタウンに近いところなのかと思っていたが,歩くと30分程度もかかる場所であった。安価なモーテルだからそれは仕方がないとして,このモーテルはベッドメイキングがなく,タオルの交換もないのが気に入らなかった。
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これまではそんな経験がなかったが,昨年の秋に行ったニュージーランドのテカポ湖畔のモーテル,ハワイ島ヒロのモーテルと,このところ,ベッドメイキングすらないモーテルに私は立て続けに泊っている。それでもまだいいほうで,2017年の秋に泊ったカウアイ島のコンドミニアムは,ベッドメイキングも掃除もしてくれないのに,宿泊代以外にクリーニング代とかいう法外な料金を別途1万円ほども請求された。パーキング代が宿泊料金とは別途の必要で,しかもそれがずいぶんと高かったオーストラリア・ブリスベンのホテルもあった。
近頃,エクスペディアやブッキングコムではホテルの宿泊料は安く表示してあっても,実際に宿泊するにはそれ以外の法外な料金が必要なホテルが存在するようになってきたので,ホテルの予約にはかなり注意が必要である。
経験上,1泊15,000円以上出せば,そのようなおかしなホテルはほとんどないが,値段の安いホテルには何が潜んでいるかわからない。そこで,少し割高であってもきちんとしたホテルを予約したほうが結局は安上がりで,「見かけ上だけ」の安価なホテルは予約したほうがいいと思う。
この日はフラグスタッフ滞在の最終日で,私は,マクドナルドに行ってサラダを食べることにした。
まったくの余談だが,春にオーストラリアに行って毎日ステーキを食べて贅沢したり,アメリカでハンバーガーばかりを食べていたせいか,今年の健康診断で中性脂肪値が異常に高くなってしまった。やはり日本人には,ハンバーガーとコーラなどより,寿司とお茶というほうがふさわしいのかもれない。
寿司といえば,アメリカ人も寿司好きのようで,こちらのスーパーマーケットでもパック寿司なら大概売っているのだが,常にワサビが別となっている。聞くところによると,アメリカ人はみなワサビが苦手だという。
しかし,私はワサビが苦手なのではなく,ワサビのつけかたを知らないのではないかと考える。ホットドッグにマスタードとケチャップをかけるようにワサビを使っては,そりゃ大変であろう。
この日私は,サラダとともにビッグマックを買って,それをテイクアウト(アメリカでは「to go」といい「take out」とはいわない)してきた。これは夕食ではなく,明日の朝の朝食にしようというわけであった。泊まったのはサービスの悪いモーテルであったが,部屋には電子レンジは存在したので,これを利用しようというわけであった。
いつも書いているが,アメリカのレストランは,たとえファミリーレストランでもチップがいるので,とてもばからしいのである。そんなところへ行くくらいなら,近くにモールがあれば,モールのフードコートで食事をすれば十分だし,フードコートがなければ,そこらにある全国チェーンのハンバーガー屋ですませばいい。アメリカに行って食事にこだわっても,どうせ大したものが食べられるものではないからである。ヨーロッパを旅行するようになって,増々そう思うようになった。
今回,私が密かに狙っていたのはロサンゼルスで吉野家に行くことであった。ロサンゼルスには吉野家が数店舗あるので,一度試してみようと思っていたからである。結局今回は行くことができなかったけれど。
アメリカに住む日本の人に聞くと,どうも日本の経営者はアメリカでレストランを開くとき,考え違いをしているようだという。ステーキというのは贅沢品だからよいのであって,値段が安いからといっても客は来ない。だから,いきなりステーキをニューヨークで開店してもうまくいかないし,吉野家もどうも評判がよくない(らしい)。また,人種によって,ずいぶんと食事に偏りがあるようなのだ。これはメキシコ人の食い物だからといって白人は見向きもしないものとか,そういうことが多くあるらしい。
しかし,日本人は,そういった,アメリカ人の現実について,知っているようでまったく知らない。余談だが,現在のアメリカの大統領は価値観のすべてが金なのだ。だから日本的な忖度をしても仕方がない。しかし,日本の政治家はそんなことすら知らない。トランプにゴマをすったところで,何も見返りはない。儲け話をしてやればいいのである。
ドラマ「大化の改新」-歴史を正しく知ることは…
NHKの当時のハイビジョンでドラマ「大化の改新」が放送されたのはずいぶん前のことだと思っていたのですが,それは2005年のことでした。もう一度見たいと思っていた幻のその番組が2020年6月13日にNHKBSPで再放送されました。
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西暦636年。23歳の中臣鎌足と26歳の蘇我入鹿は遣唐使の開いた私塾に通う同級生。神事を司る弱小豪族の息子中臣鎌足と,時の権力者,蘇我毛人の跡継ぎ蘇我入鹿は対照的ではあるが深い友情で結ばれていた。しかし,独裁者の道を歩む蘇我入鹿は,敵対勢力である聖徳太子の息子山背大兄王の討伐を計画する。正義なき戦いに進む友を中臣鎌足は体を張って止めるが,蘇我入鹿は耳を貸さず山背を打ち滅ぼす。ふたりの生きる道は分かれた。蘇我入鹿は独裁者として朝廷に君臨し,中臣鎌足は野に下り,中大兄皇子と共に入鹿討伐を決意する。
西暦645年6月12日。中臣鎌足は百済,新羅,高句麗の遣使を歓迎する宴の席で,蘇我入鹿を刺し貫く。
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というのがドラマの紹介です。
この時代をドラマ化したというのが,まずは驚きで,興味深く見た経験がありますが,蘇我入鹿を暗殺する場面が書かれた,以下の「日本書紀・皇極四年六月八日」の有名な記述
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戊申,天皇御大極殿。古人大兄侍焉。中臣鎌子連,知蘇我入鹿臣,為人多疑,昼夜持劒,而教俳優,方便令解。入鹿臣,咲而解劒。入侍于座。倉山田麻呂臣,進而読唱三韓表文。於是,中大兄,戒衛門府,一時倶鏁十二通門,勿使往来。召聚衛門府於一所,将給禄。時中大兄,即自執長槍,隠於殿側。中臣鎌子連等,持弓矢而為助衛。使海犬養連勝麻呂,授箱中両劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田曰,努力々々,急須応斬。子麻呂等,以水送飯。恐而反吐。中臣鎌子連,嘖而使励。倉山田麻呂臣,恐唱表文将尽,而子麻呂等不来,流汗浹身,乱声動手。鞍作臣,怪而問曰,何故掉戦。山田麻呂対曰,恐近天皇,不覚流汗。中大兄,見子麻呂等,畏入鹿威,便旋不進曰,咄嗟。即共子麻呂等,出其不意,以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂,運手揮劒,傷其一脚。入鹿転就御座,叩頭曰,当居嗣位,天之子也。臣不知罪。乞垂審察。天皇大驚,詔中大兄曰,不知,所作,有何事耶。中大兄,伏地奏曰,鞍作尽滅天宗,将傾日位。豈以天孫代鞍作乎。蘇我臣入鹿,更名鞍作。天皇即起入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田,斬入鹿臣。是日,雨下潦水溢庭。以席障子,覆鞍作屍。古人大兄,見走入私宮,謂於人曰,韓人殺鞍作臣。謂因韓政而誅。吾心痛矣。即入臥内,杜門不出。中大兄即入法興寺,為城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造,悉皆随侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是,漢直等,総聚眷属,擐甲持兵,将助大臣処設軍陣。中大兄使将軍巨勢徳陀臣,以天地開闢,君臣始有,説於賊党,令知所赴。於是,高向臣国押,謂漢直等曰,吾等由君大郎,応当被戮。大臣亦於今日明日,立俟其誅決矣。然則為誰空戦,尽被刑乎,言畢解劒投弓,捨此而去。賊徒亦随散走。
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時は皇極4年(645年)6月8日,中大兄は密かに倉山田麻呂臣に「三韓の調が贈られる日に,必ず上表文を読み上げて欲しい」と頼んだ。ついに入鹿を切る為の謀を倉山田麻呂臣は了承したのだった。
12日,天皇は大極殿に出てきた。古人大兄が侍べる。中臣鎌子連は蘇我入鹿臣が疑い多く昼夜太刀を持っている事を知っているので俳優(わざひと)に教えて騙して解かせた。蘇我入鹿臣笑いて剣を解く。
倉山田麻呂臣は進んで三韓の表文を読む。中大兄,御門府に戒めて,12の通門をさしかためて,通行止めにした。中大兄はみずから長き槍をとって殿の側に隠れた。中臣鎌子連達,弓矢を持って護衛。海犬養連勝麻呂に命じて箱の中の二つの太刀を佐伯連子麻呂と葛城雅犬養連網田に「すばやく斯れ」っと告げた。
佐伯連小麻呂達,水をかけて飯を流しこんだが恐ろしくて吐きもどしてしまうのであった。中臣鎌子連はこれと責め励んだ。倉山田麻呂は上表文を読み終わろうとするが,佐伯連小麻呂達が出てこないのが恐ろしく,汗だくに。声も手も震えた。蘇我入鹿臣は怪しんで「なぜゆえにふるえているのか?」と聞いた。 倉山田麻呂は「天皇の近くで恐れ多くて汗が流れ出るのです」と答えた。
中大兄は佐伯連小麻呂達がいるかの威勢に恐れているのを見て「ヤァー!」と掛声とともに踊りでて,剣で蘇我入鹿臣の頭から肩を斬り付けたのだった。
蘇我入鹿臣は驚いて経とうとすると,佐伯連小麻呂が剣で片方の脚を斬った。蘇我入鹿臣はひざまづいて「日嗣の位にいるのは天子である。鞍作(蘇我入鹿臣のまたの名)になんの罪があるのか?」と言った。天皇は立って殿の中に入ってしまった。佐伯連子麻呂,葛城雅犬養連網田は蘇我入鹿臣を斬った。
この日は雨が降っていて,庭は水でいっぱいになっていた。
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が,ドラマでどう描かれているかが,当時の私の最大の興味でした。
このドラマもまた,脚本は,「太平記」「麒麟がくる」と同じ池端俊策さんだったので,やはり,その底辺に,その時代の庶民の姿があり,歴史を題材としながらも大胆な脚色を施しているというものでした。
日本史の勉強には役立てども,この時代をドラマ化するには,やはり,題材が少なすぎるので,大河ドラマにするには荷が重すぎ,というところでしょうか。
ところで,今から40年以上前,私が大学1年生のころは,今と違って,大学1年と2年は教養部というものがあり,理系・文系問わず,さまざまな学問に接することができました。これがよかったのです。
その中で私が最も興味をもって受講したのが日本史の講義でした。受けもった早川庄八という大先生は,この時点では実際は助教授でしたが,いかにも大学教授という感じで,大学生になった私は,大学というのはこういうところなのかと感動しました。講義の内容は「大化の改新はなかった」。これにもまた驚きました。「大化の改新はなかった」これを実際の日本書紀の記述をもとに検証していくわけです。
高校時代,勉強というのはドリルをやって点をとることだと思っていた多くの学生は,こんな講義にはまったく興味も示さず,したがって,講義をさぼりました。そして,最後に試験だけを受けにきたのですが,試験の問題は「大化の改新について論ぜよ」でした。彼らはこの問題に対して,高等学校で習った大化の改新のことを書いて,みな落とされました。私はもちろん「優」で合格しました。
あれから月日がたち,この先生の学説が正説となり,今では,当時「大化の改新」として習ったクーデターは「乙巳の変」と名を変え,教科書に記載されるようになりました。そこで,クーデターを描いているこのドラマもまた,「大化の改新」ではなく「乙巳の変」と名を変えるべきなのですが,それではだれも見てはくれますまい。
ところで,日本書紀に記述された「改新の詔」の原文は次のものです。
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二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
其一曰。
罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民賴之。故重其祿所以爲民也。
其二曰。
初修京師。置畿內國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京每坊置長一人。四坊置令一人。掌按檢戶口督察奸非。其坊令取坊內明廉强直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓淸正强幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿內東自名墾橫河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識淸廉堪時務者爲大領少領。强幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。
其三曰。
初造戶籍。計帳。班田收授之法。凡五十戶爲里。每里置長一人。掌按檢戶口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅步。廣十二步爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。
其四曰。
罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲綿並隨鄕土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈綿絲絇屯諸處不見。〉別收戶別之調。一戶貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随鄕土所出。凡官馬者。中馬每一百戶輸一疋。若細馬每二百戶輸一疋。其買馬直者。一戶布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊每卅戶一人〈以一人充廝也。〉而每五十戶一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戶充仕丁一人之粮。一戶庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。
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1 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉,そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。
2 初めて京師を定め,畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し,駅鈴・契を作成し,国郡の境界を設定することとする。
3 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。
4 旧来の税制・労役を廃止して,新たな租税制度(田の調)を策定することとする。
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私が大学で習ったのは,日本書紀が書かれたのは720年(養老4年)であり,改新の詔が出されたのが645年(大化元年)であるから,およそ80年もまえのことを正しく記載されているとは思えない,ということで,日本書紀の記述の中で当時は使われていなかった用語を紐解いていくという内容でした。そもそも,先に書いた「日本書紀・皇極四年六月八日」にも,大極殿だの御門府という記述がありますが,飛鳥板葺宮の時代にそうした建物があったかどうかも疑問が残るわけです。
私は,昨日のニュースすらその信憑性が定かでないのに,80年前の出来事が正しく記述されているとはとても思えないのですが,歴史というものは,そのすべてが「勝てば官軍」,後世に都合のよいように残されるのです。このことを知ることこそが,歴史を学ぶ最大の意義なのかもしれません。
N響ヨーロッパ公演を見て-エストニアでの「奇跡の公演」
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まさに奇跡的な話です。
新型コロナウィルスの流行で当分海外旅行ができなくなってしまいましたが,私は,ここ数年,何かにとりつかれたように年に6回も7回も海外旅行に行きまくり,行きたいなあと思っていたところにはすべて行くことができました。おまけに,この2年ほどは日本にも目が向いて,一度は行ってみたいと思っていたところに行きました。
海外に出かけた最も近いところは,2020年2月に出かけたハワイ・モロカイ島でしたが,モロカイ島もまた,ぜひ行ってみたかったところだっただけに,ぎりぎり間に合いました。国内では,余部鉄橋や親不知海岸でしたが,これもまた,今年の春,行くことができました。
この先もいろいろなプランはあったのですが,それらは,ある意味,特に行きたかったところというより,無理やり行くところを探していたような感じもあるので,行けなくて残念というほどの思いはありません。
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ということなのですが,オーストラリアやフィンランドなどのヨーロッパ諸国にもここ2年ほど何度も行って,しかも,なぜかそれまで何の関心もなかったエストニアにも行きました。私が行ったのはエストニアの首都タリンですが,ここはおとぎ話に出てくるような町でした。アメリカやヨーロッパのウィーンなどに比べると,少し貧しい雰囲気がありましたが,それもまた素朴で,日本の田舎にいるような安らぎを覚えました。
私がよく聴きにいくNHK交響楽団の現在の首席指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんですが,パーヴォ・ヤルヴィさんの住んでいるのがエストニアであるということすら,恥ずかしながら認識していませんでした。どうしてパーヴォ・ヤルヴィさんがドイツ音楽や北欧の音楽,さらにロシアの音楽までも精通しているのか不思議でした。しかし,実際行ってみると,エストニアという国は,バルト海を渡ればシベリウスの住んでいたフィンランドだし,ロシアとは国境を接しているし,その地理的な位置がヨーロッパのすべての文化の交流点のような場所であるということがとてもよくわかりました。
6月7日にNHK Eテレで,今年3月に行われたNHK交響楽団のヨーロッパ公演でのエストニアでの演奏会が放送されていました。私は,それを見て,とても懐かしくなりました。今も目をつぶるとエストニアのタリンの様子が浮かんでくるようです。
NHK交響楽団がヨーロッパ公演を行っていた時期は,日本で新型コロナウィルスが問題となりはじめていたころだったのですが,まだ,ヨーロッパではほとんど他人事のような時期で,そのため,NHK交響楽団のメンバーの人たちが twitter で,ヨーロッパで写した多くの写真を発信しているのを見て,あらまあ,と思っていました。そして,メンバーが公演を終えて日本に帰国したときには,まだ浦島太郎状態,日本での深刻さがわかっていなかったようで,成功裡に終わった公演の余韻がたくさんアップロードされていました。
であるのに,何ということでしょう。NHK交響楽団の演奏会は,このときの公演をもって,それ以降は,今もすべて中止となっています。ヨーロッパ公演がぎりぎり間に合ったことは幸いで,今ではそれは「奇跡の公演」とまでいわれているのです。
こうしたさまざまなことがあったので,今,エストニアでのすばらしい演奏会をテレビで見ると,いろんなことを思い出します。ふつうに海外旅行をしふつうにコンサートに行くことがこれほど幸せなことだったのか,ということを,そんなふつうなことさえできなくなった今になって,強く感じます。
1日も早く,再び,海外に出かけたり,コンサートを聴きにいったり,そんなあたりまえだったことが何の憂いもなくできる日がきますように。
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66④
●まさか再びこの町に来るとは…●
ウィリアムズを出て,さらに西にインターステイツ40を4マイル(6.4キロメートル)ほど走ると,次のセリグマン(Seligman)という町に着いた。私はインターステイツ40をそのまま走っていったのだが,実は,途中で一度はインターステイツ40に吸収されたルート66が,セリグマンに行く途中でふたたび分岐して,インターステイツ40に沿った形で平行にその北側を走っていたのだった。
いずれにしても,私はインターステイツ40をセリグマンの町に差し掛かったところで降りたので,再びルート66に合流できた。
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セリグマンは人口約500人の小さな町である。チノバレーの北部にあるビッグチノウォッシュと並んで標高が5,240フィート(1,600メートル)という高地にある。
この町が有名なのは,なんといっても今でもルート66が町のメインロードとなっていて,かつての時代のままの町が残っていることにある。
フラグスタッフやウィリアムズは,かつてのルート66をはさんだあたりこそその時代の風情を残しているが,その外側には新しい街が出来ている。しかし,セリグマンにはそれがない。そこがいい。
私は今から19年前,グランドキャニオンに行こうと,ロサンゼスからインターステイツ15を走ってラスベガスを経由し,ラスベガスからはインターステイツ40でキングズマン,セリグマン,ウィリアムズと走って,そこから北上してグランドキャニオン国立公園に行ったことがある。
今思うと,ロサンゼルスから目的地のグランドキャニオンに行くのなら,なにも遠回りになるラスベガスなど通らずとも,ロサンゼルスからそのままインターステイツ40を走ればよかったのだが,おそらくそのときの私は,ラスベガスにも行きたかったからに違いない。そうして遠回りをしたがために,そのときセリグマン行くことができた。
そのときはまだルート66のことは今ほど知らなかったのだが,それでも少しは知識があった。
セリグマンで車を停めた。そこで1軒のみやげもの屋を見つけたので,中に入った。そこは,みやげもの屋を兼ねた床屋であった。で,その店で出会ったのが有名人のエンジェル・デルカディーロ(Angel Delgadillo)さんであった。出会った瞬間,この人テレビの番組で見たことあるぞ! と思った。そして,お話をして一緒に写真を撮った。今にして思うに,それはなんという幸運だったのだろうか。会いたくても会えない人が大勢いるというのに,私は,意識して会いに来たわけでなかったのに,,偶然出会い,話をし,一緒に写真まで写すことができたのだった。
私は,今回の旅で,再びセリグマンに来るまで,かつて,エンジェル・デルカディーロさんに会った町がセリグマンだということすら忘れていたが,町に来て,そうだ,あのときの町はここだったのか! という驚きととともに,人生の不思議さを思った。まさか,またこの地に来るとは思わなかった。
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かつて,ルート66は50年以上もの間セリグマンに繁栄をもたらした。しかし,1978年9月22日,インターステイツ40の開通によって,それまで1日に何千台と通過していた車が一切通らなくなった。それは,セリグマンの生活とビジネスが一瞬にして消え去った出来事だった。それによってセリグマンの人々は厳しい生活を強いられることになり,ビジネスは朽ち果て人々は引越し町は荒廃していった。
そんなとき,セリグマンで床屋を経営していたエンジェル・デルガディーロさんは,アリゾナのルート66沿いの町の代表を集め,ルート66を「ヒストリック・ルート66」にする会議を開き,1987年に「ヒストリック・ルート66」協会を設立し,会長となった。そして,ルート66の土産品を販売,それが現存する最初のルート66ギフトショップとなったのだった。
その後,アリゾナ州政府はセリグマンからキングマンまでのルート66を「ヒストリック・ルート66」と命名,こうして,人々のルート66へ対する関心を駆り立て,ついに人々は再びルート66に訪れるようになっていった。
・・・・・・
あいにく,この日,エンジェル・デルカディーロさんは外出中でお会いすることはできなかった。このことだけが今でも心残りである。
今,このことを書きながら,私はおそらく将来,再びセリグマンに行くことも,エンジェル・デルカディーロさんに会うこともないだろうと思うと,つらくかなしくなる。夢は実現するとうれしいが,しかし,また,実現した過去を振り返ると,切なくもなる。
ルート66はさらに進むとロサンゼルスまで続いていくが,私は,この日,セリグマンを最後に,ルート66を巡るドライブを終えて,フラグスタッフに戻ることにした。セリグマンからの帰路,インターステイツ40に合流するまで,来るときは通らなかったルート66を,いつまでも懐かしみながら走ったのだった。
◇◇◇
「Route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の最後に,The Notting Hillbillies の Feel Like Going Home が流れます。たとえ思いが遂げられず疲れ果てても,安らぎのわが家が待っているよ,帰っておいで,と。アメリカのこころ!
Lord I feel like going home.
I tried and failed and I 'm tried and weary.
Everything I ever done was wrong.
And I feel like going home.
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66③
●古きよきアメリカの町●
ウィリアムズ(Williams)は人口約3,000人,ヒストリック・ルート66とインターステイツ40とアムトラック鉄道が通る町である。グランドキャニオンにアクセスする南端でもあるので,ハイシーズンには多くの観光客が訪れる。
・・
インターステイツ40のジャンクションを降りて南に行くとダウンタウンに到着するのだが,私は間違えて,グランドキャニオンにアクセスする北に向かって進んでいったので,どんどんと町から離れてしまったようだった。やがてウィルアムズの古い町並みとはまったく違う新しいリゾートタウンに到着したので,そこでやっと気づいて慌てて引き返すことになった。
このリゾートはグランドキャニオンへのゲートウェイで,エリアには湖があり山があり,そこで,山登りやスキー,トレイルなどが楽しめる。一方,歴史地区であるウィリアムズのダウンタウンは,1950年代から60年代の全盛期を彷彿とさせる古きよきアメリカ西部の雰囲気が今も残り,それがルート66の哀愁とよく似合っているので,多くの観光客がやってきて,散歩をしたり,カフェでくつろいだりしていた。
1881年に設立されたこの町は,著名な貿易商であり開拓者だったウィリアム・シャーリー ”オールドビル” ウィリアムズ(William Sherley "Old Bill" Williams)にちなんで名づけられた。彼の像は市の西側にあるモニュメントパークにある。 また,すぐ南にある大きな山は,ビルウィリアムズマウンテンとよばれている。ウィリアムズに今もルート66が残ったのは,インターステイツ40が市内に建設されないようと郊外にバイパスを作ったからである。
私は,この町の中心にあった無料の駐車場に車を停めて,しばらく町を散策した。西部劇で出てくるような町の様子は,私が昔あこがれた「栄光と哀しみのマザーロード」で出てきた町そのものであった。この町を歩きながら,そのころはすっかり忘れていた40年前の私のアメリカへの想いが再びよみがえってきて,私は感傷に浸って,すっかり参ってしまったのだった。
ウィリアムズはいい町だった。ああ,これこそが私の夢見たアメリカだよ。そう思った。泣けた。
◇◇◇
「route66~愛と哀しみのマザーロード~」では,番組の冒頭で,Eagles の Desperado が流れます。
・・・・・・
But you only want the ones that you can't get.
It may be raining but there's a rainbow above you.
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たとえ夢がかなわなず
雨が降ったとしても,空には虹が輝くよ
・・・・・・
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66②
2019夏アメリカ旅行記-なつかしのルート66① の続きです。
◇◇◇
●栄光と哀しみのマザーロード●
この旅をしたのは,今から1年ほど前のことであるが,何か,今では遠い宇宙に行ってきたような気がする。
では,宇宙から? の旅行記を再開しよう。
この旅を計画したころは,フラグスタッフに3泊して,滞在2日目と3日目の2日間で,まず,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台に行き,そのあとは,フラグスタッフをはじめとするこの付近のルート66を走ってみようと何となく思っていた。
滞在2日目は,思いのほか予定がはかどって,念願だったバリンジャー隕石孔とローウェル天文台にともに行くことができた。
フラグスタッフからは,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンが近いということを知って,3日目は来るまで予定になかったが,フラグスタッフを離れて,ホースシューベンドとアンテロープキャニオンまで遠出することができた。そして,フラグスタッフに戻ってきても,まだ時間がずいぶんあったので,このあとの時間は,フラグスタッフを越えて,ルート66を巡ってみることにした。
・・
6月下旬というのは,アメリカ旅行をするのに最適な季節である。それは,夏休みには早くそれほど混雑していないことと,夏至に近いので昼が長いことである。
唯一の心配は暑さであったが,来てみると意外なほど涼しかった。
ずいぶんと前,アメリカに憧れていたころ,私はアメリカに関するテレビ番組をほとんど見ていた。そのなかに,CSの旅チャンネルで放送されていた「Route66~栄光と哀しみのマザーロード~」というシリーズものに興味をもった。
当時の私は,ルート66というものが何モノかも知らず,ただ単に,この番組で出てくる広大なアメリカのまっすぐにのびる道と田舎町に魅了され,この道をいつか行ってみたいなあ,と思いながら見ていただけだったが,ルート66がこれほどアメリカ人にとって想い入れのある道だとは思わなかった。
その後,私は,ルート66を目指したわけでもなかったが,アメリカ50州制覇をめざして,カリフォルニア州,アリゾナ州,ニューメキシコ州,オクラホマ州,ミズーリ州といった場所を旅していると,いつも「ヒストリック・ルート66」と書かれた場所にずいぶんと出会うようになった。そして,そのたびに,何か哀愁を感じるようになってきた。
そんなわけで,計画したわけでもないのに,これまでの旅で,私はルート66のおおよそのところはすでに走っているのである。
日本でマザーロードといえば,江戸時代の旧街道のことになるであろう。日本の旧街道は江戸時代,徒歩で行き交う道であったが,それに対して,ルート66は,アメリカのモータリゼーションの発達とともにできた道なので,車で行き交うためのものである。
日本の宿場町のように,ルート66にも道路沿いに町が点在していて,それらの町は,日本の宿場町のようにどこもプライドがあって,それぞれ趣向を凝らしこの歴史的な雰囲気を保存しようとさまざまな工夫をしている。
そうした古きよき時代を今でも最も残すのが,フラグスタッフの周りの小さな町である。そこで,この日は,フラッグスタッフから西の方向にあるこれらの町をいくつか訪ねてみることにした。
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フラッグスタッフのダウンタウンをルート66は当時より車線を広げて走っている。ルート66だったその道をそのまま西に走っていくと,道はインターステイツ40・ビジネスという,インターステイツ40に平行して北側を走る道路になった。ほとんどの車は信号のないバイパス道路であるインターステイツ40を走るので,ビジネス道路はほとんど車が通らない。
アメリカの道路でビジネスと名づけられたものは,市街地を通る,バイパスができるまでは主要道路だった,いわゆる旧道のことなのである。アメリカでは,名前のつけかたに明確なルールがあってわかりやすい。
私は,急ぐ旅でもなく,ルート66の余韻を味わうために,このインターステイツ40・ビジネスをそのまま走っていったのだが,やがて,インターステイツ40に吸収されてしまった。しかたなくその先は無味乾燥のインターステイツ40を西に走っていくと,ベルモント(Bellemont)という町に到着した。
昔の道が残っていないかと,ベルモントでインターステイツ40を降りてみたが,ベルモントには残念ながらルート66らしき道路の痕跡もなかったので,再びインターステイツ40に戻った。さらにそのまま西に進んでいくと,次の町の入口にヒストリック・ルート66の案内標示があったので,その町でジャンクションを降りた。そこはウィリアムズ(Williams)という町であった。
ウィリアムズはインターステイツ40がバイパスとなっていて,ヒストリック・ルート66はそのままの形で残っていた。古きよき町並みが,往年の面影を残していて,うれしくなった。
私は,町の中心にあった無料の駐車場の車を停めて,しばらく町を歩くことにした。
藤井七段史上最年少タイトル挑戦-もっとすごい対局を見た。
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待望の第91期ヒューリック杯棋聖戦の5番勝負がはじまりました。4日前にその挑戦者決定戦のすごい対局を見たばかりなのですが,その余韻さめらやぬ6月8日,はやくもタイトル戦の開始です。
ファンというのは心配性で不安がつきないのです。私は,タイトル挑戦が決まったら決まったで,藤井聡太七段がタイトル戦で1勝もできなかったら… などと心配してしまいましたが,第1局を勝ってほっとしました。
昨年11月19日の王将戦の挑戦者決定戦では,一度は勝ちになったもののそこで致命的なミスを犯し,惜しくも敗れてしまった藤井聡太七段でしたが,もし,その対局で勝利し,王将戦がタイトル戦の初挑戦だったら,契約上ABEMAでの中継もなかったわけだから,タイトル戦初挑戦が今回の棋聖戦だったというのは結果オーライでした。
新記録を達成させようと,無理やりの日程を作った人もさぞかしホッとしていることでしょう。
ところで,藤井聡太七段の対局は,毎度,中盤の勝負所でずいぶん時間を使って考えるので,解説をしている棋士の方々はみな心配しておられるのですが,実際は,必ず7分残して終盤戦になるので心配は無用です。そして,終盤の難所で時間が必要なときも,5分使って最後の2分を残して踏みとどまるのです。これは藤井聡太七段の確信犯ですが,それは,おそらく,王将戦で1分しか時間がなく,それが原因で手痛いミスをしたという教訓が生かされているからなのでしょう。
まわりの人たちが心配するより,藤井聡太七段のほうがはるかに利口でいろんなことを考えているのです。
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さて,この対局もまさにそうしたペースで進みました。
ところが,藤井聡太七段の指した113手目の「3三銀」という手がいわゆる「やっっちゃった」1手で,この手を見て私はかなり心配になりました。「3三銀」ではなく「3三金」ならそれでこの将棋は終わりだったからです。その後,もし,渡辺明棋聖が122手目に「6五香」でなく「6七歩」と指したとしたら,113手目のミスが大いに響くところでした。
しかし,そういった経由があったからこそ,結果的には,最終盤で126手目から30手あまりにわたって,16手連続で王手王手と正確にせまる渡辺明棋聖に対して,すべて正解手を延々と続けなけらば勝てないという,まさに薄氷の上を歩く,ファンにはたまらないスリル満点のしのぎあいを味わうことができたわけです。そしてまた,いつもの勝ち将棋同様,不思議なことに遊んでいたような駒までちゃんと役割をもって光り輝き,最後にはすべての駒が活躍しました。
それにしても,一昔前ならAIによる評価値も次の1手もなかったから,その時代にこの将棋が放送されていたら,きっと詰むや詰まざるやでハラハラし手に汗を握るといった,全く別の将棋を味わうことになっていたことでしょう。しかし,そのときは,勝負がついたのちに,すごいモノをみたということだけはわかっても,どちらの対局者がどこで間違えたのか,とか,正しい指し手は何だったのか,といったことが見ている我々には最後までわからず,不完全燃焼となって,結局,どちらが勝った,ということだけが印象に残ったかもしれません。当時の名人戦,羽生善治対森内俊之戦の終盤は,いつもそんな感じでした。その反対に,その昔,中原誠16世名人若きころの大山康晴15世名人との対局で,今も語り継がれる「大山の8一玉」は,AIがある今であれば,その1手前の「中原の7三飛」の時点で予測されていて,指されるまえからみんなその手の存在を知っているので,大山15世名人が正しい手を指したという印象こそあれど,このときのような感動はなかったかもしれません。
現在の将棋の終盤戦では,AIが先に詰む,詰まないという結論を出してしまうので,観戦している我々はその結論をすでに知っているのです。この将棋も,藤井玉は不詰めであるという結論がでていました。しかし,そのAIの結論を人間が実践で導くには1手も間違えることが許されず,そこで,どうか藤井聡太七段が間違えませんようにと,別の意味でドキドキハラハラしながら次の手を見守る,という,AIのなかったころとはまったく違う観戦となったのです。
実際の対局者である渡辺明棋聖はその結論がわからず指していたようですが,解説者の棋士の先生たちもまた自分たちの力ではその結論がわからず,AIに頼った解説をしていました。結局,詰まないということを知っていたのは,藤井聡太七段とコンピュータだけだった,というのがすごいのでした。
対局後の感想で,藤井聡太七段が「9七玉と上がった時点で詰まないだろうと思った」と言ったようですが,おそらくそれは謙遜で,実際は,もっと以前からすべてお見通しのことだったように思われます。
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今回の対局のように,AIによって結論を知りながら観戦するのと,一昔まえの対局のように,詰むのか詰まないのかといった結論がわからずに観戦するのと,どちらがいいのかはわかりませんが,この将棋では,藤井聡太七段が途方もなく強いということと人間同士の勝負はおもしろいということが認識できたことだけは事実でしょう。
それにしても,4日前に行われた挑戦者決定戦がすごい将棋だったとすれば,今回の将棋はそれを越えるもっとすごい将棋になりました。そして,そのすごい将棋をその時間にABEMAを通して生で味わうことができたことが,私には何よりうれしいことでした。
「麒麟がくる」-はじめて「国盗り」を越える大河を見た②
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大河ドラマ「麒麟がくる」は6月7日の桶狭間の戦いで中断となりました。よくちょうど切りのいいところまで収録できたものです。ここで中断ならば,後半が楽しみです。中途半端なところでなくてよかったです。
1年後,2年後に後半を放送しても大丈夫です。…と私が思うほど,最高の第21回となりました。
このドラマのすばらしいのは,描きたいことがしっかりしていることです。そして,内容が緻密です。
以前にも書いたように,歴史ドラマは日本史の授業をやっているわけではないので,必ずしも史実に忠実である必要もなく,歴史を題材として,人の生きざまを訴える力さえあれば,見ている人は共感します。
私は,これまでこのブログに書いたように,はじめのうちは,意識することもなく,訪ねたところ訪ねたところが「麒麟がくる」ゆかりの場所だったのですが,6月7日の桶狭間の戦いのシーンを見て,翌日の早朝,今度は意識して,さっそく,桶狭間周辺に行ってみました。
どこも道が狭く,駐車場もないので,本当は名鉄電車で鳴海駅まで行って,そこから歩いてまわるのがいいのでしょうが,このご時世,公共交通機関に乗るのを避けていることと,早朝だったことで,車で出かけて,駐車できる場所を探しては少しの時間だけ停めて写真を撮ってきました。
善照寺砦,桶狭間古戦場跡,丸根砦,鷲津砦と行ってきたのですが,驚いたのは,その距離と標高差でした。
桶狭間古戦場跡だけは以前一度行ったことがあって,鷲頭砦の付近も以前よく走ったことがあるのですがこれまで名前こそ知っていたものの意識することはありませんでした。あらためて行ってみて,鷲頭砦はかなり険しい山であったり,これらの三つの砦の間の距離が思った以上に遠いことが一番印象に残りました。やはり,実際に行ってみないと実感がわかないものです。歴史は足で感じるものだと,今回もまた思いました。
このドラマで圧巻だったのは,今川義元を討ち取った毛利新介役の今井翼さんでした。
1999年の「元禄繚乱」で矢頭右衛門七を演じた今井翼さんですが,今回の「麒麟がくる」での毛利新介役の演出は最高でした。空から槍を持って降ってきて今川義元を切りつけるなんて,あんな討ち取り方はこれまでの多くの大河ドラマで扱われた「桶狭間の戦い」史上,もっとも斬新なものでした。
これだけでも見る価値がありました。
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「1日1断捨離」を実行する⑥-さらば「アサヒカメラ」
NHK Eテレでは,NHK杯将棋選手権が中断しているために,アーカイブが放送されています。6月7日は,中原誠16世名人対羽生善治九段という新旧対決でした。
私は,そのひとつ前の新旧対決,大山康晴15世名人対中原誠16世名人のころから将棋を知っているので,なつかしいというよりも,この対局が放送されたのがもうそんな昔のことなのか,という気持ちのほうが強いのですが,現在は,羽生善治九段対藤井聡太七段の対局が世代交代となるわけだから,時間というのは情け容赦なく過ぎていくものです。あと30年もすれば,藤井聡太七段もまた,若者にその座を譲る時代になるのでしょうか?
一方,中日スポーツでは,大相撲が行われていないので,いつもなら夏場所の取組の評論を連載する北の富士さんが,ご自分の昔話を書いていて,それがネットで読めますが,これもまた,私は栃若,柏鵬から相撲を見ていて,北の富士の現役時代はとてもよく知っているので,そんなに昔のことなのか,という感慨に耽ります。
しかし,今とは違い,30年以上前のこの時代は,情報というのは,こうしたテレビや新聞,雑誌からでしか手に入らないものでした。そこで,どうやらそういったものをよく見たり読んだりしていた20代までに起きたことはよく覚えていて,そのあとの30年くらいの月日にあったことは,自分が忙しく,テレビや雑誌を見る時間もあまりなかったこともあって,ほとんど覚えていないようです。それほど,テレビや新聞,雑誌の力が大きかったのです。
さて,今日は,4月に突然休刊した「月刊カメラマン」に続き,「アサヒカメラ」という雑誌が7月号をもって休刊するというなので,このことを書きます。このニュースを知って,今売られれている6月号を書店で見たらペラペラでほとんど広告がないのに驚きました。雑誌など,以前書いたように,民放のテレビ番組同様,要するに広告収入によって成り立っているチラシの束なので,それがなくなったら存在できないのでしょう。それは,雑誌という媒体に広告の価値がなくなったということでもあります。
私は,今になって,むしろ,スマホによる写真よりも,逆に,高倍率のズームレンズをつけた軽い小さなカメラを使って写真を写すほうが楽だし便利だと思いはじめているのですが,カメラメーカーはそんな私の嗜好には目もくれず,高価で重たいカメラしか作らなくなってしまいました。そこで,私のようなささやかな愛好家は雑誌による情報を手に入れる意味をもたないから雑誌を買う意欲もなくしました。また,写真を撮るという楽しみは,カメラ雑誌を読むということとは全く異質なものになってしまいました。これでは雑誌が売れるわけがありません。
この雑誌が休刊,というより,事実上廃刊となっても,ここ何年買ったこともないので,残念にも思わないのですが,30年前を懐かしみ,最終号だけは手元に置こうと予約をしました。
この春の新型コロナウィルスの流行が,「アサヒカメラ」の休刊と関係あるのかどうかは知りませんが,人々の生活や価値感,そして,嗜好が変わったことは事実でしょう。
私は,不愉快かつ上から目線で,人の楽しみを奪い,心の平穏を奪い,必要以上に騒ぎ立て不安を煽るような報道(と称する)番組や,NHK総合テレビのように,娯楽番組なのに同時に不快なニュースをL字テロップで流したり,QRコードを張り付けていることに強い嫌悪感をもつようになったので,テレビはNHK BSプレミアム(BSP)とEテレの一部の文化的な番組,そして,CSのスーパー!ドラマTV以外まったく見なくなりました。私の周囲にもBSPしか見ないと言っている人が少なくありません。
そのかわり,自分なりの別の楽しみを数多く見つけました。そのひとつとして,このところ「将棋世界」を電子書籍として購入しはじめました。そのなかで,今月発売された「将棋世界」7月号に載っていた佐藤天彦九段の文章が私には一番感心し,同意できました。一部引用しておきます。
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人間は衣食住だけではなく,絶対に楽しみが必要です。
大事なのは「正しく恐れる」ことだと思っています。だからネガティブな情報を入手しすぎないほうがいい。(中略)心を病んではいけません。
もちろん初期の段階では多くの情報を集めたほうがいいと思うのですが,ある程度現状を理解できたら,情報の量を減らして質にシフトしたほうがいい。そして結論を決めつけずに考えに幅を持たせて保留し,自分にできることを粛々とする。これが正しい恐れ方だと思うのです。
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若くして名人となった人は,やはり,立派な考え方をするものだと思いました。
私は,以前にもこのブログに書いたように,現代の社会では,情報を手に入れるより必要のない情報を手に入れないことのほうが重要だと思うようになりました。
そうした時代にもかかわらず,新聞,雑誌のような媒体やテレビなどの媒体は,これまでのように,広告収入を母体としているにもかかわらず,それをオブラートのように包み隠し,依然として,知らない情報を庶民に与えてやるんだ,わが社の意見で人を煽るんだといった上から目線の姿勢や,大人が子供をしつけるような物言いをしている,あるいは,情報の押し売りをしています。これではだれからも受け入れられなくなっていくでしょう。いくらでも情報が手に入る今では,そんな目論見はバレバレです。
雑誌の休刊や,通常のテレビ番組がかえりみられなくなっているのは,それが少なからぬ原因のように思います。
☆ミミミ
アメリカでの皆既日食を撮影するために購入した機材を有効利用するために太陽黒点を撮影しています。このところ太陽の黒点が少なく,写しても張り合いがなかったのですが,昨日は結構な黒点が出現しました。
やっと晴れたか!夏2020①-半影月食判らず。
2020年は半影月食が4回あります。日本で見られるのはそのうちの3回です。1回目は1月11日で,2回目が6月6日,そして,3回目が11月30日です。
日食は,皆既日食,金環日食,部分日食がありますが,月食には皆既月食,部分月食,半影月食があります。不勉強な私は今年1月11日の半影月食まで,月食は皆既月食と部分月食だけだと思っていたので,半影月食というものがあることを知りませんでした。
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月食(lunar eclipse)は,地球が太陽と月の間に入り地球の影が月にかかることによって太陽の光が月に当たらなくなることで地球から見たときに月が欠けて見える現象のことです。
日食とは違い,月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できるるので,日食より敷居が低いです。
月のすべての部分が地球によって太陽が完全に隠された部分(=本影)に入る場合を皆既月食(a total eclipse),一部分だけが本影に入る場合を部分月食(a partial eclipse),月が地球が太陽の一部を隠している部分(=半影)に入った状態を半影月食(a penumbral eclipse)といいます。私が以前に写した皆既月食の写真が今日の3番目のものです。
半影月食は半影に入った月面の部分の減光が注意深く観察しなければわからない程度なので,肉眼で見てもほとんどわかりません。
1月11日早朝に起こった半影月食は薄雲ごしに見られました。肉眼ではほとんどわからないのですが,写真で比べると左下の部分が暗くなっていて,半影が判別できました。これが今日の2番目の写真です。
6月6日早朝の半影月食が今回のものでした。半影が最大になるのが午前4時25分ということでした。この晩(6月5日から6日)は月食が起きるので当然満月ですが,6月の満月をストロベリームーンといいます。
薄雲があって,あざやかな満月は見ることができなかったのですが,なんとか写真に収めることができました。明け方3時以降は天気が回復して晴れるという天気予報だったので期待しました。半影月食が起きている4時過ぎという時間は,6月はすでに空はけっこう白んでいるのですが晴れれば月は見えます。しかし,早朝空を見ると,一面雲が出ていてがっかりしました。月は南南西の地平線から30度あたりにあって,月のあるあたりだけ時折薄く鈍く輝くので,そこに月があることだけはわかりました。
そんなひどい状況でしたが,なんとかおぼろげな月の写真を写して,作晩にうつした満月の写真と並べてみたのが,今日の1番目のものですが,半影月食などまったくわかりませんでした。
さて,6月といえば梅雨ですが,私には梅雨入りまえのアジサイとホタルです。毎年,この時期のアジサイはとても美しく,こころが洗われます。特に今年は,例年行われるアジサイ祭りもないので,静かに鑑賞ができ,私にはむしろ好ましいものます。また,ホタルも各地のホタル観賞会が中止となっていて,これもまた,静かな環境でホタルの乱舞を眺めることができます。
ホタルは星空同様,見ることができる場所が限られているのですが,その場所がなかなかわかりません。これもまた星空同様,一般の人が知ってしまうとその場所はもうだめです。さらに,ホタルが飛び交うのを見ることができる期間は短く,また,毎年違い,さらに,見られる状況が異なります。
6月4日の夜,ホタルを見に出かけました。今年はこの時期,あいにく月が明るく条件はよくなかったのですが,なんとかホタルが舞う姿を見ることができました。
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梅雨空で晴れないかもしれませんが,6月21日には部分日食でもあります。さらに,6月下旬からはいくつかの明るい彗星も地球に近づいてきて見ることができるようになるというように,空の上はイベントが続きます。また,場所によってはもう2週間ほど後にホタルが見られるところもあって,そのころは月の光もないので,それも楽しみです。
タイトル戦初挑戦も加わって,対局目白押しの藤井聡太七段の将棋中継も楽しまなくてはならないし,私には楽しい6月になりそうです。
藤井七段史上最年少タイトル挑戦決定-すごい対局を見た。
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6月4日,第91期ヒューリック杯棋聖戦挑戦者決定戦で藤井聡太七段が勝利し,最年少タイトル挑戦者となりました。
対戦相手の永瀬拓矢二冠はバナナを主食とする(?)藤井聡太七段の兄貴分のような棋士です。公式戦初対戦,私は藤井聡太七段に勝ち目がないのでは,と思っていました。
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藤井聡太七段の越えなければならない壁となっていた棋士が4人いました。それは,豊島将之竜王名人,そして,斎藤慎太郎八段,菅井竜也八段,永瀬拓矢二冠です。
斎藤慎太郎八段と菅井竜也八段にはこのところ連勝して克服しました。依然,豊島将之竜王名人には公式戦での勝利がありません。また,永瀬拓矢二冠とは対局がありませんでした。
永瀬拓矢二冠は強敵です。今回のヒューリック杯棋聖戦に続いて,おそらく,王位戦の挑戦者決定戦も対局相手は永瀬拓矢二冠になると思われるので,悪くするとともに敗戦,ということもありえるなあ,と思っていました。
対局は永瀬拓矢二冠の先手で相掛りになりました。これは実は藤井聡太七段の最も勝率の悪い戦法なのです(そのことを知っている棋士もあまりいないみたいですが…)。この戦法に誘導したこと自体,私は永瀬拓矢二冠が藤井聡太七段を知り尽くしている証だと思いました。
私は,少しの期待と,敗れたときにがっかりしないようにと戒めながら,いつものように,ABEMAと将棋実況中継を観戦していました。私はこのごろ,藤井聡太七段がまれに負けると何もかもが嫌になり将棋など二度も見たくなくなり絶望的な気持ちになるので辛いのです。困った話です。
この対局は途中まで僅差で藤井聡太七段の分が悪い状況が続いていました。この差が逆転したのが永瀬拓矢二冠が大長考の末指した55手目です。
しかし,私は,そうした結果よりも,この対局で55手目を大長考する永瀬拓矢二冠と,そして,自分の手番でないにもかかわらず,一緒に局面を読みふける藤井聡太七段の姿に感動しました。この長考時間68分の間,ABEMAで流れていた映像の迫力のあること! これには涙が出てきました。
今は,このようなシーンを映像で見られるというのもすごいことなのですが,その間,お互い全くスキがなく,まるで格闘技のような雰囲気を感じました。ここまで人は没頭できるものなのか,と思いました。
結果的に,この大長考で指された1手がよくなく,将棋は逆転しました。
藤井七段の脅威の終盤力が亡霊となって,勝負どころで放つ藤井聡太七段のぎりぎりの攻めの1手に対して,相手は攻めればいいところで受けたり,あるいは,読みを外そうとして考えすぎの疑問手を指すのです。そして,その瞬間から,なぜか局面はまったく違う姿を見せはじめ,藤井聡太七段のこれまで死んでいたような駒までがきらきらと躍動しはじめ,相手方の駒が凍り付いたように働きがなくなる,という妙なことを,これまで何度見たことでしょうか。
この将棋もまた同じでした。
しかし私は,この68分を見ることができたことで,すっかり酔いしれました。そして,永瀬拓矢という青年棋士のファンになりました。ふたりの年齢差は10歳,少し離れていますが,永瀬・藤井の対局は,昔の大山・升田,米長・中原,そして,羽生・森内に続く,この先,将棋界を何十年も湧かせ,語り継がれるものとなることでしょう。
この将棋は難解すぎて,解説の棋士も解説に困り,AIの評価値も揺れ動くというすごい内容でした。私には,この最高の対局の深い内容はわからずとも,すごいものだということだけはわかる程度の棋力があってよかったと思いました。いいものを見ました。泣けました。
中山道を歩く-要衝かつ難所の鳥居峠を越す。③
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やがて,丸山公園に至る分岐がありました。ここでまっすぐ鳥居峠に行くか丸山公園に行くか迷いました。旧中山道の鳥居峠をめざすので,丸山公園は旧中山道とは別の道のような気がしました。
結局どちらから行っても丸山公園に行くのでしたが,私の持っていた地図はこの辺りの道が詳しく書いてなくて,よくわかららなかったのです。せっかく来たのだから違ったらまた戻ればいいやと,私は丸山公園に行く方を選びました。
実際は,この分岐で丸山公園と書かれた道を選ぶと丸山公園が少し遠回りになって,そのまままっすぐに行って小さな展望台の先の広い分岐点から少し戻って丸山公園に行くほうが楽だったのです。
いずれにしても,この辺りがこの峠の見どころなのでした。
丸山公園は鳥居峠の少し手前の高台にありました。広場になっていて,そこにはさまざまな碑がありました。また,広場からは展望がよく利いて,遠くには御嶽山も眺めることができました。
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松尾芭蕉は,貞享元年の野ざらし紀行と元祿元年の更科紀行の2度,この鳥居峠を越え,その折に次のふたつの句を残しました。
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木曽の栃浮き世の人の土産かな
雲雀よりうえにさすらふ嶺かな
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丸山公園の向こうに,さらに高台があって,そこに行くための木で作られた階段がありました。けっこう険しく登ることを躊躇しましたが,せっかくここまで来たのだからと登っていくと,そこが御嶽神社でした。神社のある場所は鳥居峠よりも標高が高い最高地点です。
御嶽神社(御岳遙拝所)は,古来より御嶽山に登る代わりにお参りすれば御利益があると信じられてきた場所だそうです。両脇にはおびただしい数の仏像や石碑がありました。
御嶽山は山岳信仰の山で,富士山の富士講と並び,講社として庶民の信仰を集めた霊山でした。御嶽教の信仰の対象とされていて,御嶽山の最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社があります。私は子供のころ親が御嶽講の話をしているのを聞いて気味悪がった思い出があります。
鎌倉時代から,御嶽山一帯は修験者の行場でした。当時は登山道も整備されていなくて,山頂の御嶽神社奥社登拝に登るには麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされ,この厳しい修行を行った者だけが年1回の登拝をすることが許されていたといいます。これもまたきわめて日本らしい話です。
・・
日本という国は,山の頂上のような高いところや海に突き出た岬など,地形のとんがったところはどこも社があります。そうした日本人の精神構造は実に興味深く,研究に値します。また,田舎を散歩していると人の住んでいる場所には必ず神社があります。住民はその神社が何を祀っているのやらそういうことはほとんど知らないし習わないのに,なぜか手を合わせたり一礼したりしてありがたがったりするのですが,それは考えてみれば不思議なことだと私は常々思っています。
これだけ自然を破壊し,山を削り,ゴミを捨てるなど,日ごろは散々神をも恐れない行動をしているのにかかわらず,です。
話を戻します。
江戸時代になると,御嶽山には王滝口,黒沢口および小坂口の3つの登山道が開かれたので,尾張や関東など全国で講中が結成されて御嶽教が広まり,信仰の山として大衆化されていきました。江戸時代末期から明治初期にかけては毎年何十万人の人が御岳講で登拝し賑わっていました。
御嶽信仰では自然石に霊神の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習があるので,参道には多くの「霊神碑」があります。各講の先達の魂は霊神となるという「死後我が御霊はお山にかえる」信仰に基づく「霊神碑」が御嶽山信仰の特徴のひとつです。また,この鳥居峠にある御嶽遥拝所にも,御嶽信仰の石碑や祠が設置されています。
さらに,濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していました。
さて,御嶽神社を過ぎると,登山道の周りはトチの木の群生があって,天狗のうちわのような葉っぱが広がっていました。そのなかでも「子生みの栃」として知られるものが有名です。
トチの木の群生を過ぎたあたりがついに鳥居峠でしたが,そこには単に碑が建っていただけで,うっかりすると見逃してしまいそうでした。私は,本当にここなのかな? と思いながらさらに歩いて行くと,ずっと下り坂になっていったので,納得しました。
こうして念願だった鳥居峠までやってきました。あとは下るだけです。下りの鳥居峠から奈良井宿までの道は藪原宿から鳥居峠までの登ってきた道とは違って,昔のままの狭い道が続いていました。やっと,私が思っていた峠の旧街道になりました。
そこで,今回,もし,私が奈良井宿の方から鳥居峠に登ったならば,別の感想をもったことだろうと思いました。先に書いたように,藪原宿からの登りは車が通った跡があるような道で,道幅も広くけっこうなだらかだったのですが,鳥居峠から奈良井宿までの道は狭く急でした。昔の旧街道のままであるとともに,こちらの方が登るのがたいへんそうだったからです。
下りの道は右側がずっと谷になっていました。谷底からは巨大なフジの木が伸びていて,花を咲かせていました。こうして,しばらく周辺が林となっている中を進んでいくと,やがて,林道と交差する分岐があり,道しるべに従って右側に折れて少し歩くと,鳥居峠の休憩施設と水場が見えてきました。ここは江戸時代「峠の茶屋」があって賑わったそうですが,今は辺りに木が生い茂り,眺望も望めませんでした。
さらに下って,武田・木曾の古戦場跡に建つ「中の茶屋」の落書きだらけの古い建物を過ぎると,いよいよ奈良井宿が見えてきました。そこからは石畳の道が2度あって,とうとう一般の自動車道に出ました。自動車道に沿って近道の遊歩道の入り口があり,それをたどると奈良井宿の南の端に出ました。
奈良井宿の南の端には鎮神社がありますが,この辺りから先は昨年秋に歩いたところです。
こうして2時間程度で藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿に到着しました。思っていたよりずっと楽でした。それよりも,到着した奈良井宿には観光客がひとりもいないのに驚きました。奈良井宿は何度も来たことがありますが,まったく観光客がいないのははじめてでした。
人がいないのでツバメが飛び回っていました。ここに住む老人が家の軒先で忙しそうに格子を掃除していました。いいところですねと話しかけると,ツバメの糞が付くので困るという話でした。また,奈良井宿の民家の多くは無人で,観光客相手に商売をしている家だけが住んでいるか通いで来るのだという話でした。そして,今年の春は観光客がが来ないので困っているということでした。内情はどこも大変そうです。
多くの店は閉じていましたが,開いていた土産物店も,当然客はいませんでした。開いていた食堂が2,3軒あったので,そのなかの1軒でゆっくりと昼食を楽しむことができました。客は私だけでした。お店の人がお客さん来てほしい,と言っていました。お気の毒な限りです。
奈良井宿を抜けるとJRの奈良井駅です。
奈良井宿まで歩く途中で,1組の外国人のカップルに会いました。やっと観光客に会ったという感じです。この時期に外国人? と話しかけると,日本在住の,男の人はナイジェリア人のプロバスケットボールの選手,女の人はクロアチア人ということでした。
駅に着きました。当然? ICカードは使えず,電車はワンマンカーで車内で料金を払うということでしたが,駅員さんいて,駅で現金でチケットが購入できました。乗る客は私ひとりで,駅員さんは暇で,駅の階段を上ったり下りたり運動にいそしんでいました。駅舎でしばらく待って,電車の時間になったので急いでホームに行って乗り込みました。2両編成の広い車内に乗客は私を含めて3人しか乗っていなかった電車で次の藪原まで戻りました。
次回は秋以降,すずしくなったら今度は鳥居峠より険しい和田峠を歩いてみたいと思います。
自宅籠城の記⑫-40年前より物価は2倍,学費は10倍
私は人のいない早朝と夕方,カメラ片手に散歩するのを楽しみとしています。私の使っているカメラは50,000円程度のものですが,カメラといえば,このごろは発売されるモノがずいぶんと高価です。こんな高いモノを買う余裕のある人がいるのかなあと思っているうちに,では,昔はどうだったのだろうと,物価を比べてみることにしました。
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モノの値段を比較するために,まず,手元にあった「月刊天文ガイド」という雑誌の値段をみました。1968年3月号は定価がなんと100円でした。そして,2020年5月号は890円もしました。つまり,約50年で9倍になりました。
手元にありませんが,1982年5月号がネットにあったので,それをみると,定価380円と書かれてありましたから,それと比べると2.5倍という感じでしょうか。
ちなみに初任給を調べてみると,1968年が約30,000円,1982年が120,000円,そして,現在は200,000円程度なので,それぞれ約7倍と2倍弱,という感じでしょうか。
この国は1980年ごろのオイルショックで急に物価があがりました。そして今はデフレなので,物価はほとんど上昇していません。
これを基にして考えてみます。
1968当時小学生だった私は,親に天体望遠鏡とカメラをねだって買ってもらいましたが,当時の値段はともに約30,000円ほどでした。そのころの私は,30,000円というのがすべての上限で,それ以上のモノを買ってもらうことはできないと思っていました。そこで,それ以上のものは高価なぜいたく品だったわけです。そのころ,日本光学(現在のニコン)から定価89,500円の望遠鏡が発売されて,なんと高価なのだろうとおどろきました。それは,その時代のアマチュアにとって最も高性能の望遠鏡だったわけです。それとまったく性能は違いますが,現在のアマチュアが憧れる同じような雰囲気の高性能の望遠鏡は1,200,000円程度というところでしょうか。つまり,13倍程度ということになります。豊かになったぶんだけ高級になりました。
すると,当時30,000円だったカメラは8倍すると240,000円ということになるから,このごろのカメラが決して高価なものでもないようです。逆に,私が小学生のころに買ってもらったカメラや望遠鏡というのはかなりの贅沢品だったということで,親にしてみれはとんでもない子供だったわけです。しかし,今でも私の貨幣価値はその基準のままで,30,000円以上のものは高いという認識なのが不思議な気がします。
ところで,大学の学費はそれとはまったく異なります。
私が大学生のときの学費は月1,000円でした。その後石油ショックで学費が一挙に6倍になりました。つまり,月6,000円になりました。しかし,月1,000円の学費のときに入学した学生は留年しても卒業までずっと1,000円でした。
今は国立大学でも,学部によって少し違いますが,学費は月60,000円以上します。つまり,40年前からは10倍,50年前からだと60倍になるのです。
物価が2倍で学費が10倍,こんなことがいいわけがないのです。
教育こそが国で最も大切なことです。国は人があってこそ成り立つのです。学費は10倍になったのに,設備はクーラーが入ったくらいの違いでそれ以外はそれほど変わらず,研究費は当時より減り,研究施設はボロボロ,教授の数は削減…, 何か根本的なことが正しくない気がします。これではこの国の将来が思いやられます。
中山道を歩く-要衝かつ難所の鳥居峠を越す。②
鳥居峠は,奈良井と藪原を結ぶ峠で標高は1,197メートル,旧中山道の難所でした。
愛知県の名古屋あたりから長野県の松本あたりまで行くには,現在も木曽路と伊那路のふたつのルートがあります。現在は中央自動車道が恵那山トンネルを貫き,伊那路のほうがメインルートになっていますが,それ以前は,江戸時代の旧中山道も,明治以降の国道19号線も木曽谷を通るのがメインルートでした。中央自動車道の開通で中津川以北は伊那路のほうが栄え,木曽路は取り残される形となってしまったために,木曽路はむしろ昔ののどかさが残り,旅をして楽しいところとなっています。今もJRの中央本線は木曽路を通っています。
この伊那路と木曽路の関係は古代も同じでした。
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713年(和銅6年),美濃国と信濃国の境で東山道の神坂峠といいますから,現在恵那山トンネルの通っているところですが,そこが危険なために新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが「吉蘇路」(きそじ)でした。吉蘇路の鳥居峠は,かつては「県坂」(あがたざか)とよばれていました。それは,現在とは違って,峠の東側を北に向かって流れる奈良井川と西側を南に向かって流れる木曽川との中央分水嶺と境峠,木曽峠,清内路峠,鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境だったからです。
国境だったために,この場所では,中世には戦いが何度も繰り広げられました。
平安時代後期には,以仁王の令旨を受けた木曾義仲が平家追討の旗揚げをし,県坂の御嶽遥拝所に参拝しここより出陣をしました。英泉の描いた浮世絵「木曽街道薮原宿鳥居峠」の絵には,木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれています。このとき,木曾義元が戦勝祈願のため峠に鳥居を建てたことから,県坂は鳥居峠と呼ばれるようになりました。現在は再建された鳥居があります。
また,戦国時代には,この場所で武田氏と木曾氏の戦が何度も起きました。1549年(天文18年)には武田信玄の軍勢と木曾義康の軍が鳥居峠で衝突し武田軍は敗れました。 1555年(天文24年)には武田信玄が再び木曾軍を攻め勝利しました。武田信玄亡きあとの1582年(天正10年)には,武田勝頼が木曾を攻めますが負け,武田家は一気に崩壊し滅亡する事となりました。木曾義昌と武田勝頼の戦いで命を落とした武田方の兵士500人を埋葬したという「葬沢」が今も残っています。武田家の滅亡後,木曾義昌は織田信長に拝謁し,木曽安堵と松本と安曇を貰い,現在の松本城である深志城の城主となりました。
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さて,今回の道行の話に戻ります。
「飛騨街道分岐点」から旧中山道は右に進み,いよいよ鳥居峠を登りはめました。まずはじめにあったのが「御鷹匠役所跡」です。鷹狩に使う鷹をこのあたりで捕獲したということですが,この高台に立つと,そこは鷹が舞うのが一望できる場所のように思えるので,さもありなん,という感じがしました。
それを過ぎると,鳥居峠にむけて長い登り坂になります。右に水場(水神)がありました。そこの水は今も飲めるというので所望してから,天降社という神社の大モミジを見ながら歩いていくと広い道と交差しました。道を渡った所からは両側がカラマツ林の登山道となりました。案内板があってその先は車の通行が禁止と書かれた遊歩道となって,その道は旧街道の風情が残る石畳でした。
石畳から先はつづれ折りになって標高をかせぎます。
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この先の行程は次回書きますが,ここで,鳥居峠を歩き終えたあとの感想を書いておきます。
藪原から歩いた鳥居峠の道は,私の期待とは異なっていて,正直言って,少しがっかりしました。それは,現在こそ車両の通行が禁止されていますが,かつては,未舗装とはいえ,旧街道は当時の状況より道幅が広げられていて,ところどころ,かつては車が通った道路に改造されていたからです。車が走ったころの轍が今も残っています。そしてまた,私が歩いたときはがけ崩れを防ぐために道路工事が行われていて,そのために工事関係の車やクレーンが旧街道に入っていて,標示も立てられていて,すっかり旅情が失われていたからです。
そしてまた,藪原からの鳥居峠越えは,私が覚悟していたほど険しい道でもなく,おそらくそれは私がこのところもっと険しい山城にいくつか登ったからそう思ったのでしょうが,拍子抜けするくらい楽に峠を越えることができました。
中山道を歩く-要衝かつ難所の鳥居峠を越す。①
旧中山道は,岐阜以西は平たんですが,長野県や群馬県は峠越えの街道でした。それでも,登山とは違って危険はなく,また,ほとんど人がいないので,散歩するにはとても安全で楽しいところです。
旧中山道の峠越えでは碓井峠,和田峠,鳥居峠というのが有名なので,いつか歩いてみたいと思っていました。もう少しすると蒸し暑い季節になって街道歩きも秋までお休みになってしまうので,今が街道歩きの今春のラストチャンスということで,木曽駒高原に行ったついでに,今回は鳥居峠を歩くことにしました。
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長野県を通る旧中山道は,そのほとんどがJR中央線と国道19号線に沿っているので,宿場間を歩いたら,JRで戻ることができます。この鳥居峠は藪原宿から奈良井宿の間ですが,藪原も奈良井もともにJRの駅があります。軟弱な私は,旧街道歩きはつねに楽な下り坂を歩くことにしているのですが,藪原から奈良井と奈良井から藪原はどちらから歩けば標高差が少しでも楽かを考えて,JRの藪原駅に車を停めて藪原宿から鳥居峠を越えて奈良井宿まで行き,奈良井からJRで1駅戻ることにしました。
朝10時前,藪原駅に着きました。駅前は人ひとりおらず,駅前には自由に車が停められました。狭くゴミだらけで汚く人が異常に多い日本にいると,アメリカやヨーロッパ,オーストラリア,ニュージーランドなどの田舎の美しくかつのどかな風景が,今となってはとても懐かしいのですが,それでも,日本の「観光地でない」山里は人もほとんどおらず,ホッとします。
藪原の町はJRの線路の西側にありますが,駅前は東側です。駅からから線路沿いに少し歩き,架線の下にあった歩道を越えると,藪原宿だった町並みになりました。当時の面影が残る家もあり,道幅も旧街道のままで,タイムスリップしたような感じがしました。藪原宿は宿内家数は266軒,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠10軒で。人口は1,500人ほどでした。
長野県の国道19号線沿いの宿場はどこもそんな感じです。自働車道は江戸時代の宿場町から平行に新しく作られたところをバイパスして通っていて,旧中山道の宿場のなかの道はどこも昔のままの幅で残っています。
この宿場の伝統は「お六櫛」です。今も特産品として,それを扱うお店がありました。「お六櫛」というのは,妻籠宿のお六という老婆が藪原宿で始めた「お六櫛屋」が物のよい櫛を売る店として評判だったというのがはじまりのようです。また,藪原宿は,旧街道に沿って,一里塚,明治天皇の記念碑,防火高塀跡,極楽寺宝蔵庫などの旧跡が点在していました。
旧中山道は,藪原宿を過ぎたあたりでJRの線路によって分断されています。この先に行くには再び線路を越す必要があります。線路をまたぐには,歩道橋がありました。それを越えると飛騨街道と中山道の追分がありました。さあこれからいよいよ鳥居峠に入ります。
やっと晴れたか!春2020⑨-続・パンスターズ彗星と銀河
☆☆☆☆☆☆
5月23日に,すでにブログに書いたように,薄曇りの中,念願だったパンスターズ彗星(C/2017Y4 PanSTARRS)とおおくま座の三つの銀河との接近を写すことができました。
・・
その1週間後の5月29日から30日にかけて,それまで自粛閉館をしていた,いつもお世話になっている木曽駒高原のゲストハウスが再開したので,旧街道歩きと星見を兼ねて行ってきました。
29日はお昼間はさわやかに晴れて,人のまったくいない旧中山道の鳥居峠歩きを楽しんだのですが,夕方になって,天気予報に反して小雨が降ってきたのには驚きました。しかし,調べてみると深夜には回復するということだったので,それまで仮眠をしました。午前1時ころに晴れ上がるとのことだったのですが,午後11時に目覚めたら,すでに晴れ上がっていたので,慌てて準備をして外に出ました。こうして,満天の星空も堪能できました。
実は,今年の3月はいつものようにオーストラリアに星見に出かけるはずだったのですが,入国ができなくなったので,オーストラリア行きは断念せざるをえなくなりました。
私がオーストラリアで星見をするときに泊まるゲストハウスは,ブリスベンから約3時間ほど車で走ったところにあります。そしてまた,木曽駒高原の定宿も,私の自宅から約3時間程度で行くことができます。同じようなシチュエーションなのです。そこで,オーストラリアのような景色の美しさやのどかさはまったくないのですが,それでも,信州の山々を眺めながら同じような気持ちに少しは近づけるので,海外に行くことができなかったその代わりとして,それなりに楽しい星見になりました。
この晩は,魚眼レンズや広角レンズで星空の写真を写すつもりでしたが,念のためにと300ミリの望遠レンズも持っていったのが結果的に正解でした。それは,今日の1番目の写真のように,300ミリ望遠レンズを使って写したパンスターズ彗星が,思った以上に長い尾をもった素敵な写真になったからです。やはり空が暗いというのはすごいものです。
1週間前にあれだけおおくま座の三つの銀河に接近したパンスターズ彗星ですが,2番目の写真のように,この晩は銀河からはかなり離れてしまいました。北極星に近づいて一晩中見られたパンスターズ彗星も次第に暗くなっていき北極星方向からも離れていくので,そろそろ見納めです。
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先に書いたように,この晩は深夜から晴れるという予報だったので,私は先に仮眠をとりました。予報より早く晴れ上がったのですが,準備をして望遠鏡をセットして星を見はじめたのは深夜の12時ころでした。この季節は夜が短く,午前3時には明るくなってきます。そこで,わずか3時間くらいしかなかったのですが,こうして,彗星の写真と,さらに,はじめの目的だった魚眼レンズや広角レンズによる星空の写真をたくさん写すことができました。その中の1枚が3番目の写真のような銀河の写真です。地平線に近いところに輝いているのは木星と土星です。
午前2時30分過ぎ,空が白んでくる前に,この晩の締めとして,日周運動をはじめて写すことにしました。赤道儀のモーターを停止して,カメラを北極星に向けて20分露出したのが4番目の写真です。日周運動は簡単に写せるように思えるでしょうが,ディジタルカメラのような感度の高いものでは,実際は,都会のような空の明るいところだと1分も露出するとカブって真っ白になってしまいます。長時間露出してもカブらず大丈夫であるためには,空が暗いことが必要条件です。さらに,絞りやISOをどのくらいにすればいいかなど,試してみないとよくわからないし,試す時間もなかったのですが,なんとか写すことができました。これもまたやはり,空が暗いというのはすごいものだと改めて思いました。