しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

August 2020

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●先発は岩隈久志投手であった。●
 私は通常はMLBを見るとき安価な席しか購入しないのだが,というより,近年,チケットが異常に高価になってしまったのだが,この日はひとりでなかったので,けっこういい席を手に入れていた。
 シアトル・マリナーズといえば,日本では何といってもかつて在籍したイチロー選手で有名になったのだが,このころはすでにシアトルにはいなかった。しかし,ボールパークの外壁にはイチロー選手の写真がレジェンドとしてそのときも掲げられてあった。
 シアトルという町はNFLのシアトル・シーフォークスが強く,また,ファンが多く,創設以来優勝したことがない弱小球団のシアトル・マリナーズは,不人気ということではないが熱狂的なファンがおらず,したがって,観客もシアトル・マリナーズのユニフォーム姿の人はほとんどおらず,冷めている。チームもまた,この時点では永久欠番の選手もおらず,在籍した実績ある選手を必ずしもリスペクトしているとはいえなかった。
 私は,あれだけの記録を残したイチロー選手の引退後のシアトル・マリナーズでの処遇が心配だった。結局,こののち,チームはイチロー選手の功績をうまく残すことができたのは幸いであったが,それはこの旅のあとのことである。
 こうしたことを知ったのは,この旅のあとだが,このころの私は,まだそうしたさまざまなチーム事情も知らず,MLB30球団すべてのホームグランド巡りに夢を追いかけていた。

 さて,この年のシアトル・マリナーズは,投手としては日本から来た岩隈久志投手が絶好調であり,野手としてはニューヨークからトレードされてきたカノ―選手が活躍していて,いいムードだった。
 しかも,何とこの日の先発は岩隈久志投手だった。私はなぜかとてもツイていて,この翌年にもシアトル・マリナーズのゲームを見たのだが,そのときの先発もまた岩隈久志投手だった。こんな幸運は確率25分の1である。
 このボールパークにはお寿司屋さんがある。そこで,食事は,岩隈投手にちなんだ「クマコンボ」というお寿司にしたのだが,その翌年,このお寿司屋さんのオーナーと知り合うなどということは,この時点ではまったく知らなかった。
 ゲームは結局,シアトル・マリナーズの逆転勝ちで,静かだったゲームが終盤に盛り上がった。岩隈久志投手には勝利がついたのだが,逆転後の7回を抑えたときの嬉しそうな顔は忘れられないものだった。

 前回書いたように,車を駐車した場所がボールパークから近かったので,ゲームの終了後は混み合うこともなく,すんなりとフリーウェイに入り,この日宿泊するホテルに戻ることができた。
 とてもすばらしいゲームだったので大満足だったのだが,実は実は,こののち,とんでもないことが起きた。それは,このゲームの5ゲームあとの岩隈久志投手の次のローテーションで先発した岩隈久志投手がノーヒットノーランを達成したことだ。このニュースを聞いたときは大いに悔しくなった。こんなことがあるのだろうか,と思った。これもまた,今となってはよき思い出だ。
 私はこれまでずいぶん多くのMLBのゲームを見たが,ゲームの内容を覚えているものなんてほんのひと握りだ。しかし,ゲーム開始前のことやら,ゲームが終わった後のボールパークの景色やら,そういったものの多くは,今も目に浮かんでくる。
 さあ,これで,この日の日程は終了して,次の日からは国立公園巡りである。

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●駐車するのに苦労した。●
 この2015年の旅のあと,私はシアトルには2016年,2017年と,結局3年連続で行くことになった。だから,2015年のこの旅のあとで,シアトルにはずいぶん詳しくなったわけだが,この時点では,いまのようにシアトルがなじみの都会になるとは思わなかった。
 しかし,知っているより知らないほうが,ずっと夢があるような気もする。
  ・・
 さて,やっとスペースニードルに着いたものの上ることもできず,次の目的地のセイフコフィールドに急ぐことになった。
 スペースニードルからダウンタウンまではインターステイツ5も一般道もかなり渋滞していてクルマが動けず,大変な思いをしたが,なんとか開始2時間前にはボールパークに到着した。
 この日はひとり旅でないのでいろいろと豪華で,ボールパークの駐車場も,一番便利なところが予約してあった。
 かつては,アメリカのボールパークはどこもまわりに広い駐車場があって,何の不便も感じなかったし,さすがアメリカだと思ったが,都市の再開発で,ボールパークがダウンタウンのど真ん中に新しく移転するようになって,ダウンタウンに宿泊していれば徒歩圏内なので便利なのだが,車で行くには駐車場に苦労するようになった。今では,ボールパーク料金よりも駐車料金のほうが高価なくらいだ。
 ロサンゼルス・ドジャースの本拠地ドジャースタジアムなんて,昔と同じ場所にあって周りは広い駐車場に囲まれているのだが,この駐車場は以前は無料だったのに,今は有料になってしまった。
  ・・
 さて,シアトル・マリナーズの本拠地セイフコフィールド(Safeco Field),現在のT-モバイルパーク(T-Mobile Park),のオフィシャルパーキングの中で最もボールパークに近い駐車場は便利なのだが駐車スペースが狭かった。アメリカの常であるように,車を頭から突っ込んで停めると,出るときがたいへんだったので,日本で習ったように,車をバックで停めることになった。これがまあ,1台当たりの幅が狭く大変であった。アメリカで車を停めるのにこんなに苦労するとは思わなかった。しかし,日本では慣れっこの私は,巧みな? ハンドルさばきで一発で車を入れたものだから,周りの人が拍手喝采であった。
 ちなみに,このとき借りていたのはアメリカ仕様の新型カローラであった。
 
 さて,ボールパークに入ると,すでに,ゲーム前の練習が終わるところであった。ベンチの近くにファンが集まっていた。目的はサインボールである。まあいわば大相撲の入り待ちのようなものだ。
 以前なら,気軽にサインをしてもらえたのだが,このごろは,こうしたものすら金儲けの対象となってしまっていて,そこに行くには別料金をとるようなところまで現れてきた。それとともに,私は,次第にメジャーリーグに興味を失いだした。やっていることが純粋でないのである。そして,のどかさが失われてしまったのである。
 それはそれとして,MLBは,ゲームの開始前が最も楽しいのだ。ああアメリカに来たなあと実感するときである。日本と違って,客席がグランドに近く,また,フェンスが低いのが驚きなのだ。また,ボールパークでは,コンコースが広く,ぐるりと一周できるので,コンコースを歩きながら,食べものを買ったり,ときには併設されている博物館を見たりといった楽しみを味わうことができる。これが,日本との違いである。
 日本人は精神的に余裕がないのだ。噂では,コロナ禍で延期になった,いや,私は中止になると思う東京オリンピックの会場として新しく作られた国立競技場も,せまくひどいものだそうだ。

☆ミミミ
昨晩,南の空に月と木星と土星が並んで輝いていました。
月と惑星は同時に写真に撮ると,どちらかが露出不足か露出オーバーになってしまい,うまく写せません。そこで,ちょっと加工をしてみました。
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 いろいろ寄り道をしましたが,やっと目的地の琵琶湖の北岸まで来ました。
 この場所は,ずっと以前に来たことがあります。調べてみると,それは2007年5月なので,今から13年も前になります。そのときはもっとのどかで広々とした印象があったのですが,今回来てみると,ちょっと意外でした。きっと,私自身のもつ広さとか大きさの感覚が変わってしまったのでしょう。
 ともかく,この日本ではほとんどありえない,静かで人が少なく,自然が多く,かつ,きれいな場所を求めて,ここまでやってきましたが,この程度で妥協することにしましょう。

 到着したころはまだ天気が悪く,空一面に雲がありました。琵琶湖の北岸ではつりを楽しんでいる人が数人いました。
 こうした場所をさがして来てみると,私と同じことを考えている人が少なからずいるようで,車を停めてひとりぽつんとボーッとしている人や,木陰で寝転んでいる人に出会います。
 この国は,私を含めて,こういう人には無常な国です。こうして自然の中でのんびりできる場所がほとんどありません。日本人は自然をリスペクトしていないのです。

 琵琶湖の北岸を周遊してから余呉湖に行きました。余呉湖を1周するうちに天気が回復してきました。空には虹が見えました。
 余呉湖は,琵琶湖の北,標高422メートルの賤ケ岳で隔てた場所にある周囲6.4キロメートルの小さな湖です。琵琶湖を「大江」とよぶのに対して,余呉湖は「伊香小江」(いかごのおえ),もしくは,湖面が穏やかなことから「鏡湖」ともよばれます。かつては琵琶湖の一部であったものが約3万年前に分かれたとされます。
 JR余呉駅に近い北岸には羽衣伝説で天女が羽衣を掛けたといわれる「天女の衣掛柳」があったのですが,2017年の台風により倒壊してしまいました。ここは日本最古の天女伝説の地といわれます。また,湖に入水した菊石姫の龍伝説もあり,菊石の投げた龍の目玉の跡がついたという「目玉石」,蛇身の菊石姫が休んだといわれる「蛇の枕石」も知られています。
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  衣手に 余呉の浦風 さえさえて 己高山に 雪降りにけり
    源頼綱「金葉和歌集」
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 姉川の古戦場跡をすぎて,国道365号線をさらに進むと,小谷城に到着しました。
 去る3月17日,福井県の丸岡城,一乗谷とドライブした帰り道に,私はこの小谷城という険しい山城に,期せずして登りました。そのときは何も知らず,ふもとから徒歩で登っていたら,登山道に沿って車道があって途中まで車で登ることができることを知って,愕然としたものです。
 今回の目的地は奥琵琶湖だったから,小谷城に登る予定などまったくありませんでした。こんな暑い時期に登山など無謀なことです。ただ,前回知った小谷城に登ることができる車道がどうなっているのか知りたいという好奇心から,少しだけ寄り道をすることにしました。

 いつも書いているように,はじめて行くときはそこがどういうところなのかという塩梅がまるでわからないので,どこへ行ってもそれなりにおもしろく,かつ,興味深く,いつまでも記憶に残ります。そうして試行錯誤したことがいい経験となって,まさに「百聞は一見に如かず」で,どれほど本を読んで下調べをするよりもいろんなことがわかります。
 ところが不思議なことに,そこへ再び行ってみると,もうそこをすっかり知ったかのようになっていて,はじめて行ったときのときめきがまったくなくなっているのです。このときもまた,ああ,あのときの小谷城はこういう状況だったのか,ということが明確になりました。そこで,また来てみたいと思うには,新しい発見が必要なのですが,はたして小谷城はどうでしょうか?
  ・・
 前回あれほど苦労して登ったのに,車で行くとあっという間でした。しかし,道は車がすれ違えないほど狭かったし,景色もよく見えませんでした。驚いたのは,途中,少し広い駐車スペースがあったら,そこでキャンプをしている人がいたことです。何もこんなところでホームレスのようにキャンプをしなくても,と思いました。キャンピングカーを道の駅に停めている人もそうですが,そもそも,この国でアウトドアは無理です。アメリカやオーストラリアのキャンプ場を知っている私は,こういうのを見ると,かなしくかつせつなくかつなさけなくなります。
 まあ,いずれにしても,小谷城は,やはり,車ではなく,歩いて登らなければ,この山の魅力はわからないし,意味がないと思ったことでした。前回徒歩で登ったときに一緒になった人もそう言っていました。
 小谷城からは,遠くにかすんだ伊吹山が見えました。浅井長政は,そして,この地に嫁いだお市の方はどんな思いでこの景色を眺めたことでしょう。琵琶湖の東岸には,戦国時代に栄えた浅井家の史跡が多く残っています。この地に住む人のこころには今でも浅井家という存在があるのだなあ,と思いました。

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 今年2020年は梅雨明けまではまったく晴れず,しかし,蒸し暑くもないすごしやすい日々が続きました。
 蒸し暑くなかったので,実際は気持ちのよい日々だったのですが,あいにくちょうどその時期にネオワイズ彗星という大物が地球に接近したものだから,星好きの私は星が見えず困りました。そのおかげで,予想もしなかった北海道旅行を楽しむことができたのは望外でした。
 ところが,梅雨が明けるとそれまでの状況が一変して,突如猛暑となりました。私はお昼間は家に籠って行動しないので,猛暑とはいえクーラーの効いた部屋にいるだけだから特に問題はないのですが,体を動かさないでいると運動不足になりそうで,それだけが気がかりでした。ときには外に出て,人のいない郊外を散歩して楽しみたいのですが,春先のように,日暮れどきでも暑く近場を散歩する気にもなりません。熱中症も心配です。
  ・・
 そこで,たまには,お昼間,人がいない,すずしい,自然が多い,という条件でどこか出かけるところがないものかと地図を広げては熟考の日々。そして,いくつか候補を見つけました。
 その候補の中から,先日,8月3日に伊根の舟屋に行ったことはすでに書きました。そのときは,もともとは奥琵琶湖に行くはずだったものが,ものの弾みで思わぬ遠出となったわけです。
 そこで,8月18日火曜日,今度こそはと,奥琵琶湖をめざして,早朝5時に出発しました。

 奥琵琶湖までは,あえて高速道路など走らなくとも,一般道を,養老,関ヶ原,と走って,関ヶ原から国道365号線を北上すれば,1時間と少しで行くことができます。名神高速道路で米原を経由して北陸自動車道路に入るより,三角形の斜辺をたどることになるので,むしろ,距離的にもずいぶんと得をする感じになります。
 その途中で寄り道をして,伊吹山ドライブウェイを登ろうと思っていたのですが,出発したときはいい天気だったのに,関ヶ原あたりから曇ってきました。これでは山に登っても霧で何も見られないので,伊吹山は次回まわしということでパスしましたが,天気はさらに悪くなって,小雨さえ降ってきました。
 やがて,国道365号線は姉川に差し掛かりました。琵琶湖東岸のこのあたりは,関ヶ原の古戦場跡とか,小谷城跡など,戦国時代の史跡が満載の場所なので,日本の旅はこころでするものという私はこころ躍ります。姉川といえば,だれしもが知る有名な姉川の戦いの起きた場所です。古戦場跡は,探さずとも,国道365号線を走っていけば,だれでもすぐにわかります。
 ここで車を停めて小休止することにしました。

  ・・・・・・
 姉川の戦いは,1570年(元亀元年)6月28日に,織田信長と徳川家康の率いる29,000人の兵と浅井長政と朝倉義景が率いる18,000人の兵が戦ったものです。
 この年1570年の4月,織田信長は上洛参集の要求を拒んだ越前の朝倉義景に侵攻を開始しますが,妹のお市の方を嫁がせて味方と思っていた浅井長政が織田信長から離反し,織田軍の背後を襲いました。挟撃される危険に陥った織田信長は撤退を余儀なくされます。これが世にいう「金ヶ崎の退き口」です。
 一世一代殿を務めた豊臣秀吉の働きなどで九死に一生を得て逃げ帰った織田信長は,兵を立て直し,浅井長政の居城である小谷城の城下を焼き払い,小谷城とは姉川を隔てた南にある横山城を包囲し布陣,徳川家康も援軍に加わります。一方,浅井長政方にも朝倉景健率いる援軍とともに,小谷城の東にある大依山に布陣します。
 戦闘がはじまると,浅井方も姉川に向かってきて「火花を散らし戦ひければ,敵味方の分野は,伊勢をの海士の潜きして息つぎあへぬ風情なり」と信長公記にいう激戦になりました。浅井・朝倉連合軍の陣形が伸びきっているのを見た徳川家康は榊原康政に命じて側面から攻勢に出ます。これをもって,まず朝倉軍が敗走し、続いて浅井軍が敗走。結果的に織田・徳川側が1,100余りの兵を討ち取って勝利しました。
 この勝利によって,織田信長の畿内における覇権がほぼ決定します。浅井長政,朝倉義景はこの敗戦により次第に勢力を失い,やがて,織田信長によって滅ぼされました。
  ・・・・・・
というものです。

 若いころはこのような歴史は物語としか思わず,こうした場所に来るとウキウキとこころ踊ったものですが,今は,こうした古戦場の跡を見ると,むなしくなってきます。その討ち死にした兵が自分だったかもしれません。人はどうしてこんなにいつも争わなければならないのでしょう。ここで命を落とした多くの人の無念さに,私はこころを痛めます。
 古戦場跡にかかる橋が老朽化によって通行止めになっていました。それを見るだけでも,なにか切なくなりました。

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●旅ができなくなったとき…●
 この日の予定は,ボーイング社の工場見学に続いて,スペースニードルの見学,そして,シアトル・マリナーズのベースボール観戦であった。ベースボールはすでにチケットが購入してあった。
 自分ひとりならもっといいかげんだが,今回は人を案内するので,予定もきめ細かく,かつ,豪華であった。
  ・・
 私はこの旅の前,すでに,2000年,2004年,2006年と3回シアトルの地を踏んだことがある。私がボーイング社の工場見学とスペースニードル,そして,ベースボール観戦と,この旅で選んだ場所と同じ行程で旅をしたのは2006年のことであった。10年ひと昔というが,2006年はこの2015年の旅の9年前,そして,今から数えたら14年も前のことになるわけだ。

 このごろはいろんな場所を旅しても,旅をしたことすら忘れてしまっていることも多いのだが,不思議なことに,2006年の旅についてはよほど印象が深くかつ楽しかったようで,ずいぶんいろんなことを今も鮮明に覚えている。
 私は,歳をとって体が不自由になって,今のように旅ができなくなったときに後悔したくないという一念で,ここ数年,1年に6度も7度も,行きたいと思っていた場所にどんどん出かけて,そして,ついに,行きたいと思っていたところはほぼすべて行くことができた。これで後悔はないなあ,この先はどこに行こうか? と思っていたときに,コロナ禍が訪れた。ほぼすべての場所に行った後に起きたことで,ある意味,幸運であった。
 しかし,行きたかったところに行ってしまえば,旅をすることがままならなくなったとき,思い出だけで生きていかれると思っていたのは間違いであった。行くことすらままならなくなった今になって,また行きたいなあ,行くことができればいいなあという想いが日に日にどんどん募ってくる。おそらく逆に,行っていなければ,行った場所を懐かしいとも思わないから,そうした辛さは感じないことだろう。
 これが現実なのである。人はいつまでも強欲なのだ。困ったものだ。

 さて,前回シアトルに行った2006年の感覚で2015年の旅をしていた私は,それがまったく役立たないことに気づく。アメリカは1年もあれば何もかもが変わってしまう国なのである。
 2006年当時は,スペースニードルのあたりは広い空き地があって,そこに大きな駐車場があった。私はこの駐車場に車を停めて,そこから公共交通機関を利用してシアトル観光をしたのだった。ところが,2015年のこのとき,スペースニードルのあたりはすっかり様変わりををしていて,あのときの空き地はすでになく,豪華な遊園地ができていた。車を停めようにも駐車場は少なく,また,ほとんど満車の状態であった。なんとか並んで車を停めることができた。が,今度はスペースニードルに行こうとしたら,ものすごい行列になっていて,昇るのに2時間もの待ちが必要だった。要するに,ここもまたオーバーツーリズムなのだった。
 コロナ禍の今はどうなのか知らないが,コロナ禍以前は,世界中の観光地はどこもそんな状況であった。行きたいといういう気持ちより,こんなに混雑していては行きたくないという気持ちが勝ちかけているほどのありさまだった。このオーバーツーリズムのバブルはコロナ禍によってはじけたと思っているが,果たして,この先はどうであろうか。今出かけられない反動で,よりオーバーツーリズムが激化するのだろうか?
  ・・
 さて,この日はそんな状況だったので,2時間並んでスペースニードルに上っていてはベースボールに間に合わないということになってしまった。そこで,スペースニードルはあきらめて,ベースボールを見にいくことにした。しかし,おまけに,インターステイツ5の南向きは大渋滞をしていた。シアトルのインターステイツ5の南向きの渋滞は実際はダウンタウンの手前で解消されるのだが,このときの私はそんなことは知らないから,これでは間に合わないと焦って,インターステイツ5を降りて,一般道を走ることにした。ところが,それがさらに裏目に出て,一般道はインターステイツ5以上に渋滞していた。果たして,ベースボールには間に合うのだろうか?

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●ボーイング社の工場見学●
 予定より遅れたが,何とか会うことができて,ほっとした。
 この日の予定はボーイング社の工場見学だった。事前に見学時間を予約してあったが,待ち合わせが遅れたので,予約した時間に間にあうかどうか微妙なところであった。
 シアトルは南北に長い都市である。西は海,そして,東には山が迫っている。空港のあるタコマは南側,そしてボーイング社の工場は北側にあるのだが,その間のインターステイツ5は慢性的に渋滞している。車線を増やそうにも土地がない。
 私自身は,前回来たときにすでにボーイング社の工場見学はしたのだが,はじめて来た人が観光する場所としてふさわしいと思って案内したのだった。 
 さまざまなところに行ってみると,はじめて行ったときの感動は忘れがたく,もう一度行きたいと思うところも少なくないが,その多くは2回行くと,まあ,これでいいかと満足する。要するに,納得するには2回必要ということだろう。それは勉強も音楽を聴くのもすべて同じことだ。しかし,はじめて行ったときの感動は2度目では味わえないものだ。
 また,より魅力的な場所であれば,何度でも聴きたい好きな音楽のように,そこに何度も行くことになる。これが常連というものである。

 渋滞による遅れを心配していたが,この日,道路は北向きはそれほど混雑していなかったので,幸い,時間に間に合って到着することができた。
 それにしても,生まれてはじめてアメリカに来て,いきなり車に乗って,日本にはない片側4車線も5車線もある広いアメリカのインターステイツを車の洪水の中,時速117キロメートルで走る体験は,きっと驚きに満ちていたことだろう。
 とにかく,何事もこの国は日本とはスケールが違いすぎる。そしてまた,アメリカ人のアグレッシブさをどう表現すればいいのだろう…。

 残念ながら,ボーイング社の工場見学は内部の写真撮影ができないので,今日の2番目から4番目の写真は,駐車場からの外観と豪華な受付だけである。
 この時期,つまり今から5年前の2015年のころは,航空産業は絶好調で,工場の中では多くの航空機が組み立てられていた。1機200億円以上もする航空機だが,買いませんか,というジョークが案内放送されていたのには驚いた。ボーイング747,777,787などの旅客機がそれぞれの機種によって別のセクションで組み建てられていたが,その工場のバカでかさは圧巻であった。
 その後,ボーイングの航空機はトラブル続きでただでさえ大変だったのに,そこにコロナ禍が加わって航空機需要は減り,逆風が吹き荒れている。今,この工場の見学がこのときのように行われているのかどうか私は知らない。

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●入国するのも楽じゃない。●
☆9日目 2015年8月7日(金)
 宿泊したホテルは空港に近いので,早朝のフライトに間に合うようにはやくチェックアウトをする人が多いから,朝食は午前4時からとることができた。アメリカの大都市はダウンタウンよりも空港近くのホテルのほうが安くサービスがよいが,シアトルもまた同様であった。いずれにしても,アメリカのホテルは,日本円にして1泊10,000円を境としてえらく差がある。
 今日の朝,友人の息子さんが日本から来る。朝9時に空港に迎えに空港に行くので,それまでゆっくりと過ごしてホテルを出た。
 シアトルタコマ国際空港はパーキングが広く,停める場所がなく困るというほどのことはないので,わかりやすい場所に車を停めて,空港の建物に入った。
 待ち合わせは空港のバゲジクレイムに降りるエスカレータのところにした。
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 アメリカの空港はそれぞれシステムが異なるのではじめて行くとけっこう迷うことが多い。広いシアトルタコマ国際空港は,ターミナル間の移動には地下鉄が走っている。移動の間,カバンを持たなくてよいように,入国手続きを過ぎたら再びカバンを預けると,出口にあるバゲジクレイムまで運んでくれるようになっている。はじめて来たころは私もそのようにして再びカバンを預けていたが,旅慣れてカバンが小さくなったので,今ではそのままカバンを持って地下鉄で移動するようになった。そうすれば,バゲジクレイムからカバンが出てくるのを待たなくてもいいからである。
 いずれにしても,このバゲジクレイムは,空港の出口にあって,そこに降りるエスカレータも1基なので,集合場所としてはもっともわかりやすく便利な場所である。

 バゲジクレイムは再会を喜びあい抱き合う姿が繰り広げられていて,ああアメリカだ,と思う場所であったが,今はどうであろう。
 この旅のころはいつもフライトが遅れていたが,このときもまた,予想通り? フライトの到着が遅れているらしく,なかなか姿がみえなかったが,予定の時間よりだいぶ遅れて会うことができた。フライトの到着が遅れたことに加えて,入国審査で戸惑っていたということだった。
 実は,近年,アメリカは,私のように何度も入国している無害なひとり旅のおじさんはすぐに入国できるのだが,はじめての入国,しかも若者となると,入国が簡単なものではない。聞くところでは,アメリカの市民権目当てで中国から若い女性が偽装結婚による不正入国を試みることが多発しているかららしい。そこで,中国人に限らず,日本人でも,若い人,特に女性が個人旅行でアメリカへ入国するのは非常にたいへんということだ。

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 1番目の写真は2018年に行われた朝日杯将棋オープン戦名古屋大会での大盤解説会場の様子です。このときは,まさかその2年後に,木村一基対藤井聡太というタイトルマッチが見られるとは夢にも思いませんでした。
 その翌年,無冠の帝王だった木村一基九段が涙の初タイトル王位を獲得しました。そして,その流れを受けて,2020年に行われた王位戦で,藤井聡太新王位が誕生となったわけです。
 2番目から4番目の写真は,勝敗を決した王位戦第4局の将棋史に残る伝説の封じ手△8七同飛車成,twitter上で「同飛車大学」とトレンド入りした話題の局面です。
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 昨年の木村一基王位の誕生から今年の藤井聡太王位の誕生というあらすじは,フィクションとして書いたらおそらくありえないと酷評されるような,いわゆる劇的以上のものでした。
 もし,昨年,木村一基王位が誕生していなかったら,今年の今ごろは豊島将之竜王の名人,王位,叡王のトリプルタイトルマッチだったかもしれず,また,豊島将之竜王にこれまで1勝もしていない藤井聡太棋聖がどういった戦いをしていたかもわからず,と,まったく違った流れであったことでしょう。

 思えば,加藤一二三九段が1983年に念願の名人位を獲得し,翌年,新鋭の谷川浩司に敗れたとき,また,米長邦雄永世棋聖が1994年にこれも念願の名人位を獲得して,翌年,これもまた新鋭の羽生善治に敗れたときのように,将棋の神様は,実績あるベテランに1度だけ御褒美をあげて,その翌年,世代交代の任を担わせるのです。
 名人戦ではありませんが,今回の王位戦もまた,それと同じ流れになりました。つまり,昨年の涙の初タイトルは,今年の王位戦を盛り上げるための序章にすぎなかったわけです。
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 現在の藤井聡太二冠は,角換り腰掛銀のスペシャリストである豊島将之竜王とか,1手損角換りのスペシャリストである丸山忠久九段とか,あるいは,横歩取りのスペシャリストである大橋貴洸六段とか,そういった藤井聡太二冠以上の知識のある得意戦法をもつ棋士と対峙したときに負けることがあります。
 つまり,藤井聡太二冠に勝つには,ある戦法のスペシャリストになって自分の研究範囲に持ち込み,序盤から中盤にかけて意表の1手を指してリードを奪い,藤井聡太二冠に極端な長考を強いるしか方法がないのです。終盤の読み比べであるとか,得意の受けで凌ぐのが持ち味,というタイプの棋士には勝ち目がないのです。だから,私は,藤井聡太挑戦者は木村一基王位には勝てると思っていましたし,実際,結果はそうなりました。

 明るい話題の少ない今,マスコミは絶好のネタとして,二冠獲得の翌日,藤井聡太二冠誕生の話題を多くのテレビ番組が取り上げていました。
 普段から民放はまったく見ない私ですが,この話題をどう伝えるかに興味があって,すべて録画をして,藤井聡太二冠関連のものだけを後で探しだして見てみました。番組には,ゲストとしてさまざまな棋士が登場していました。将棋を知らない視聴者に将棋の魅力を伝えようと,それぞれの棋士はずいぶん苦労をしていました。その姿はほほえましいものでした。
 番組の制作者が,将棋を知らない視聴者を相手にわかりやすく説明しようとしていることは理解できるのですが,しかし,それにしても,将棋は「指す」であって「打つ」ではありません。また,「定跡」であって「定石」ではありません。こんな基本的なことも正確にキチンと伝えられていない,その程度のワイドショーの司会者やスタッフは勉強不足で,いつもながら思いやられます。知らないことがあれば,専門家であるプロの棋士をゲストによんでいるのだから,事前に確認すべきです。将棋の棋士はものすごい才能をもった人たちですが,そんな専門家をお笑いタレントのように扱っていること自体,専門性にリスペストを払っていない証拠です。
 報道は正確さと言葉が命なのです。しかし,こうしたことから考えると,おそらく,このようなワイドショーで伝えているニュースは,みなこの程度のレベルなのでしょう。きっと,新型コロナウィルス関連のニュースもこの程度のいいかげんさで伝えているのです。
 私には,そのことを再確認したことの方が,ずっと興味深いものでした。

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チームバナナ優勝!

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 このごろは,星見が目的でなくとも,日が暮れたあとにドライブをすること自体が楽しくなってきました。それは,この猛暑,お昼間に外出したくないことと,どこに行ってもきたないだけの日本のありのままの風景を見なくてもよいのが理由です。さらに,夕暮れや明け方は空が美しいことも魅力です。
 8月20日木曜日。
 しばらく続いた晴天もどうやらこの日まで。天気予報では来週はずっと曇りでした。そこで,お昼間はABEMAの将棋チャンネルで王位戦第4局を観戦し,念願の藤井聡太二冠達成を見届け,夕食をとったあと,星見に出かけました。
 しかし,日暮れどき遠くの山がかすんでいて空が澄んでいるとはいえなかったので,きれいな星空はまったく期待できませんでした。そこで,何を見るでもなく,夜のドライブを楽しむつもりで,今回は海岸に行きました。
 好きな音楽を聴きながら夜の海辺をドライブするのも,なかなかのものです。

 さて,星空の話です。
 このところ,立て続けに出現した明るい彗星もみな暗くなってしまい,空の上は特に見るべきものがなくなりましたが,私は,11等星より明るい彗星はみな写そうと思っているので,暗くなったとはいえ,この晩は,ネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE),ハウエル彗星(88P/Howell),レモン彗星(C/2019U6 Lemmon)を写そうと考えていました。
 しかし,観測場所に着いても,思った通り,晴れてはいても空は灰色で,とても満足な写真など撮れるようには思えませんでした。これには落胆しましたが,ともかく,写してみることにしました。
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 まず,一番先に沈んでしまうハウエル周期彗星(=1番目の写真)からはじめます。
 ハウエル彗星は,周期5.5年の周期彗星です。1981年8月29日,カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)のエレン・ハウエル(Ellen Howell)女史が,パロマー天文台の口径18インチ(46センチメートル)シュミット望遠鏡(=2番目の写真)で得られた写真用プレートで発見したものです。エレン・ハウエル博士の研究対象は,小さな太陽系天体である小惑星,彗星で,可視から電波までの範囲の波長でさまざまな観測ツールを使用して,これらの天体の体の組成,サイズ,形状,および表面構造を研究してきました。
 ちなみに,口径18インチのシュミット望遠鏡は,現在はパロマ天文台のビジターセンターでその余生をおくっているものです。
 ハウエル彗星は,地平線に近いため思ったより暗かったのですが,なんとか写真に写りました。
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 次は,おなじみのネオワイズ彗星(=3番目の写真)です。
 2020年3月27日,赤外線観測衛星「NEOWISE」の観測から発見されたこの彗星もまた,ずいぶん暗くなってしまいました。まだ,立派な尾が見えますが,そろそろ見納めです。せっかく明るくなったのに,明るかった時期が短かったことと,梅雨空で晴れず,多くの人が見ることができなかったのが残念です。
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 この日の最後はレモン彗星(=4番目の写真)。
 2019年10月31日,レモン山天文台のサーベイによって発見されたこの彗星もまた,けっこう明るくなったのですが,梅雨空でその時期に見ることもなく,暗くなってしまいました。
 前回8月14日,私が星を見にいったときに,ネオワイズ彗星とパンスターズ彗星は写したのに,レモン彗星がこのふたつの彗星の近くにいたのにすっかり忘れてしまっていたので,この晩,写しました。淡く,ぼんやりとした姿でした。
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 さあ,これで,ほとんど晴れなかったこの夏の星見も終わりです。来月は,空気が澄んで気候も安定する星の美しい秋がいよいよやっとやってきます。

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●スターバックス1号店●
 シアトルを訪れる人の多くはスターバックスの1号店に行きたいらしい。この旅の数年後に再びシアトルに行ったときに知り合ったシアトルに住むEさんは,日本から友達が来るとだれもがまずスターバックスの1号店に連れていってくれと言うと迷惑がっていた。
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 世界規模で展開するコーヒーのチェーン店スターバックス(Starbucks Corporation)は,1971年にシアトルで開業した。現在はおよそ90の国と地域で営業を展開し,店舗数は23,000店もあるという。
 スターバックスは,ジェリー・ボールドウィン(Jerry Baldwin),ゴードン・バウカー(Gordon Bowker),ゼブ・シーグル(Zev Siegl),アルフレッド・ピート(Alfred Peet)によって開業された当時はコーヒー焙煎の会社にすぎなかった。1982年,のちに会長兼CEOとなったハワード・シュルツ(Howard Schultz)が入社すると,コーヒー豆のみならずエスプレッソを主体としたドリンク類の販売を社に提案したが受け入れられなかった。
 1985年にスターバックスを退社したハワード・シュルツは,翌年,イル・ジョルナーレ(Il Giornale)社を設立し,エスプレッソを主体としたテイクアウトメニューの店頭販売を開始,これがシアトルの学生やキャリアウーマンの間で大人気となった。そこでハワード・シュルツは,1987年,スターバックスの店舗と商標を購入し,イル・ジョルナーレ社をスターバックス・コーポレーションに改称し,スターバックスのブランドでコーヒー店チェーンを拡大したのだった。
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 店名の由来は、ハーマン・メルヴィル(Herman Melville)の小説「白鯨」(The Whale)に登場する捕鯨船ピークォド号(Pequod)の副長スターバック(Starbuck)1等航海士とシアトル近くのマウント・レーニアにあったスターボ(Starbo)採掘場から採られたので,企業ロゴに船乗りとの縁が深いギリシヤ神話のセイレーン (Seirēn)が用いられている。
 シアトルの1号店は開店当時の色調とデザインを採用しているので,ほかのチェーン店とは異なるロゴとなっている。
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 私はスターバックスの1号店に入ってみたいということは特に思わなかったが,どこにあるのだろうという興味だけでその地に行ってみた。店の前は店内に入ろうとたくさんの人であふれかえっていた。人混みが嫌いな私は当然並ぶわけもなく,外からそれを眺めただけだった。
 私の性分で,どういうところかわかって納得すればそれで事足りる。オリジナルグッズを土産として買うような趣味もない。スターバックスの1号店があったのは海岸近くの高台,シアトルでも下町の雰囲気満載の場所であった。ここにはファーマーズマーケットなども立ち並んでいた。今は移転してしまったが,東京に行って,以前の築地市場に出かけて,吉野家の1号店を見にいくようなものだろう。そういえば,私の家の近くには,カレーハウスCoCo壱番屋の1号店というものもある。
 スターバックスの1号店はともかく,このあたりの町の雰囲気がおもしろかったので,その付近をしばらく散策してから,ホテルに引き上げた。

 一旦ホテルに戻ってから,夕食をとるために再び外に出た。
 私の泊まるような安ホテルにはレストランが併設されていることはまずないので,いつも夕食には結構苦労する。たまには豪勢に夕食をとることもあるが,通常は,食欲が満たされて野菜が取れればそれでいいと思っているしアルコールも飲まないから,近くにモールでもあればそこのフードコートで済ませるか,そうでなくても,ちょっとしたファミリーレストランがあればそこで済ます。しかし,何もないと,マクドナルドなどのハンバーガーチェーンということになってしまう。これは,日本国内を旅行するときも同じである。
 この日は幸い,ホテルの隣にIHOPがあったので,ここで夕食をとることにした。
 アイホップ(IHOP)は,朝食メニューがユニークなアメリカのレストランチェーンである。メニューにはハンバーガーやフライドポテト,スープ,サラダのような品目も当然用意されているが,ここのウリはパンケーキ,ワッフル,フレンチトースト,オムレツ、ブリンツのような朝食向きの食べ物である。しかし,私はアイホップは夕食でしか利用したことがない。
  ・・・・・・
 アイホップは,1958年,ジェリー・ラピン(Jerry Lapin),アル・ラピン(Al Lapin)とアルバート・カリス(Albert Kallis)がシャーウッド・ローゼンバーグ (Sherwood Rosenberg)の援助を受け,ロサンゼルスのトルカレーク地区に「The International House of Pancakes」(だからIHOP)を創業したのがはじまりである。アメリカ全土に店舗を展開し「アメリカのアイコン」を自称している。店舗数は1,300店あまりである。一時,ハンバーガーの提供開始時にブランド名を「IHOB」に改名したがすぐに元に戻したという。日本にも進出したことがあったが,現在は撤退した。
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 食べ物にうるさい日本に進出して外食産業を続けるのはむずかしい。

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藤井聡太新王位誕生

最年少二冠達成,おめでとうございます。

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 「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめたが,8月18日の朝日新聞に,「デスバレーで最高気温54.4度の新記録」という次のような記事があったので,今日は「2015夏アメリカ旅行記3」を中断して,代わりにデスバレーの思い出を。
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 89年ぶりの世界記録か?
 カリフォルニア州の国立公園デスバレーで16日午後,気温54.4度(華氏130度)を記録した。世界気象機関(World Meteorological Organization=WMO)によると,専門家の検証を経て,公式記録として認証されれば,1931年以来の記録的な気温となる。
 アメリカ米西海岸では熱波の影響で記録的な暑さが続いている。
  ・・・・・・

 私がデスバレーに行ったのは2018年6月27日のことだった。
 デスバレーは私がアメリカ旅行をはじめたころから行ってみたかった場所だった。
 今考えるに,私には,ぜひ行きたかったという場所と行ってみたかった場所というのがあったようだ。ぜひ行きたかった場所というは,ニューヨークだったり,ボストンだったりだが,何としてでも行きたいと願い,そして,実際にまず行った場所であった。そして,行ってみたかった場所というのは,興味はあるが,行けるとは思えないからあきらめよう,という場所であった。
 幸い,私は,どちらの場所もそのほとんどすべてに行くことができた。これは奇跡で,自分の幸運に感謝する。もし,今のようなコロナ禍の状況になって海外旅行に行くことが不可能になったのがあと数年早かったら,私はそうした場所の多くに今も行くことできずにいて,後悔だらけであっただろう。
  ・・ 
 すでに「2018夏アメリカ旅行記」に書いたように,デスバレーに行った2018年,私はアメリカ国内の天文台を見てみよう計画の一環としてウィルソン山天文台とパロマ天文台をめざして,ほんとうに久しぶりにロサンゼルス国際空港に降り立った。そして,その旅の「ついで」に,ロサンゼルスからならなんとか行くことができるデスバレー国立公園とセコイア国立公園に寄り道をしようと思ったのだった。
 このふたつの国立公園では,セコイア国立公園のほうが,デスバレー国立公園よりも,より行ってみたかった場所であったが,いずれの国立公園も,ロサンゼルスから決して近くはなく,この旅に出るまでは,できれば行ってみたい,という程度であった。

 このブログには,旅の話題と星見の話題が多いので,私が始終そういう行動をしているように思われるだろうが,実際は,そのどちらも,家を出るまでは,結構気が重いのである。面倒だなあ,と思うのである。特に,星見のほうは,曇ってほしい,そうすれば行かなくて済むからあきらめもつく,などと祈ってしまうのだから,かなりの重症である。これを果たして本当の楽しみといえるのだろうか?
 それに対して,旅のほうは,実際に出かけるときには,やはり,気が重く面倒だなあといった気持ちになっても,旅行に行く計画を立てチケットやホテルの予約をする段階が嫌いでないので,ついつい軽率に予約をしてしまうのだ。そこで,出かけざるをえない状況になっているから,なんとか重い腰をあげることができる。しかし,旅で出かけた先で具体的に何をするのか,ということを事前に調べる気にならないので,到着してから,やっと,何をしよう? と考えるといった無謀なことになる。
 この旅もまた,同様であった。

 ロサンゼルス到着後,ともかく,セコイア国立公園とデスバレー国立公園のある北西の方向に走っていった。今でも覚えているのは,その途中で,行けるかな,でも,遠いしなあ… と思いながら,6月にもかかわらずものすごく暑かったロサンゼルス郊外の田舎町のモーテルで散々迷っていたことである。このときの記憶は鮮明によみがえる。なにせ,ロサンゼルスから400キロメートル以上,5時間もかかるのだ。その間,ほとんどの場所は見渡す限りの荒れ地の中を道路だけが続いているのである。
  ・・
 それでも,セコイア国立公園は到着さえすればいいのだが,デスバレー国立公園に行くのに心配だったのは,その遠さ以上に,気温であった。それも,自分の身体が持つか,ではなく,車が持つか,ということであった。私はメカに興味がないので,実際,車がどのくらいの気温まで異常なく動くのか,どういった設計になっているのか全く知らない。気温が摂氏60度を越すような炎天下でも問題なく動くように車は設計されているのだろうか? 調べてみても,室内の温度がどれだけ高くなるかというようなことは書かれているが,車自体の耐熱性がわからない。
 しかし,ラジエーターがオーバービートするだの,炎天下でパンクしただのといった恐ろしい話はたくさん書いてある。いずれにしても,気温が摂氏50度になるような場所で車が動かなくなったり,パンクでもしたら,命が危険である。結局,私は,水を一杯買って詰め込んで,しかも,早朝に出発して,気温が50度にはならない午前10時までに観光を終えるという条件を決めて,デスバレー国立公園に出かけた。
 幸い,私が行ったときの気温は午前10時で華氏109度であった。華氏109度ということは,摂氏42.7度。これが私が経験した最高気温であった。車も身体も特に何ということもなかった。
 軟弱な私はこれで引き揚げたが,そのあとも,デスバレー国立公園を目指してぞくぞくと車がやって来たのには驚いた。アメリカ人はタフだ。この日の最高気温は,確か,華氏120度,摂氏48.9度程度であったらしい。それでも何の事故も起きていないから,華氏120度は問題ないらしい。

 そんなわけで,私は華氏109度について語ることはできるが,この記事にあったおそるべき華氏130度という温度について語る資格はない。
 私の住む近くにある名古屋市科学館に極寒ラボというのがあって,そこではマイナス30度が経験できる。寒いほうは,実際私はフィンランドのロヴァニエミでマイナス30度程度は経験したが,着こめば大したことはないのでなんとかなる。これは断言する。しかし,極暑ラボというのはない。それは,こちらのほうが身の危険があるのからだろうか?
 ともかく,デスバレーは湿度が低いので,日本の夏の猛暑とは暑さの質が違う。私が経験した,たかが華氏109度の経験からいえば,この温度はフライパンの上の目玉焼き状態のようなものであった。しかし,寒さは服を着こめばなんとかなるが,暑さは服を脱いだところで直接体が暑くなるだけだから,どうしようもない。
 いずれにしても,たとえ気温が華氏109度止まりだったとしても,この暑さを味わうことができたのはいい体験であった。一度の人生,暑さも寒さも経験するに限る。
  ・・
 なお,私がデスバレー国立公園に出かけたときの顛末はこのブログの「2018夏アメリカ旅行記」をお読みください。

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●コロナ禍で絶滅したもの●
 2015年のこの旅まで,シアトルは3回通った行ったことがあるが,滞在して観光をしたのは前回がはじめてであった。そのときには,ボーイング社の工場やスペースニードル,航空博物館を見学した。また,旧市街のアンダーグラウンドツアーにも参加したし,シアトル・マリナーズのゲームではイチローや城島健司捕手も見た。
 およその見どころには行ったことになるが,美しい海に面しているのに海からの景色をまだ見たことがないし,まだ行っていないところもあったので,機会があればまた行ってみたいと思っていた。
  ・・
 シアトルのほかにも,そんな思いでリピートした場所も数々あるが,どこも,はじめて行ったときの思い出に勝るもはないのが常である。それは決して2度目が劣るというわけではないが,はじめてのときの思い出が強すぎるからなのだろう。はたしてシアトルはどうであろうか?

 今回のシアトルは,念願のハーバークルーズからはじめることにした。
 太平洋岸に面したシアトルは海が美しい都市である,夏を除いては天気が悪く,決して過ごしやすいところでもないという話だが,私は気候のよい過ごしやすい季節しか行ったことがないから,これまでも,シアトルは過ごしやすい都会だと思っていた。ハーバークルーズで海に出ると,風がすずしく,とりわけ気持ちがよかった。
 シアトルのウォーターフロントは波静かなエリオット湾に面していて,ピアとよぶいくつもの埠場は南のピア48から北のピア70まであって,それぞれが独特の風情をもっている。
 私は適当な駐車場に車を停めて,ピア57番桟橋から出航する1時間のシアトル湾クルーズを楽しむことにした。
 アメリカでは,あるところでは海,また,あるところでは湖や川で,このようなクルーズを楽しむことができる。私がこれまで経験したものでは,シカゴのミシガン湖クルーズもすばらしかったし,ハワイ島のサンセットクルーズも最高であった。また,バーモント州バーリントンのシャンプレイン湖のクルーズも思い出に残るものだった。また,ミネアポリスで乗船したミシシッピ川クルーズも楽しかった。
 ディナークルーズもあるし,天気さえ恵まれれば,これ以上の旅の楽しみはない。この日もまた,絶好の天気に恵まれた。

 以前なら,国内も国外も旅はどこもとても楽しかった。しかし,2015年を過ぎたあたりから,そうした楽しみをまったく台なしにする傍若無人な「色の黒いサングラスをかけ声がやたらとでかく自撮り棒をもった」某国のグループが世界中に蔓延するようになった。
 こうしたクルーズもまた同様で,彼らが団体で乗船するようになって以来,状況が一変した。特に彼らのうちで生意気なのが子供と女性だが,彼らは人の席は勝手に奪うし,人のカバンに腰かけるなどというのは珍しくもない。そうした輩がクルーズ船の狭い乾板を占拠するものだからたまったものではない。
 現在はコロナ禍で彼らの姿は消えてしまったが,コロナ禍が収まれば,ウィルスに代わって,また彼らが世界中に蔓延するに違いない。そして,その蔓延はマスクをしようとワクチンを投与しようと防ぎようがない。入国禁止以外に方法はない。海外はともかく,せめてその姿が再び現れる前に,日本国内を精力的に旅しようと私は考えている。
  ・・
 さて,このクルーズもまた,乗船すると,そうした状況が繰り広げられた。我先に甲板に昇って,眺めのよい席を集団で占拠する。私が席に座っていると,隣に,たとえば4人がけだと,さらに詰め詰めで4人座ってきて押し出される。そして,席を確保してしまうと,そこに荷物やらなにやらを置いて,席を立って,大声で歩きまわるわけだ。腹立たしいが,私は我慢してクルーズを楽しむことにした。
 甲板の状況とは裏腹に,海上から見たシアトルのダウンタウンはまことに美しい景色であった。遠くにはMLBシアトル・マリナーズのボールパークと,そのとなりには,NFLシアトル・シーホークスのスタジアムが見えた。私はこの数年後に,シアトルでフットボールを見ることになるのだが,そんなことができるとは,このときは夢にも思っていなかった。
 また,遠くにはマウントレイニーの姿が見られた。この数日後,私はこの山に登ることになる。

☆ミミミ
連日快晴という天気予報だったので,金星と月の動きを楽しむために写しています。
8月18日の早朝4時20分の東の空の月と金星です。前日より月の出がさらに遅くなりました。この日の月齢は28.1。あすは新月直前の月ですが,はたして晴れるか? 月は見られるか?
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●日々変化するアメリカ●
☆8日目 2015年8月6日(木)
 復習をして,私の記憶もよみがえってきたので,いよいよ2015年の3度目のアメリカ旅行の続き,第2部をはじめる。
  ・・
 3度目のアメリカ旅行では,まずアイダホ州に行って,6月末の2度目のアメリカ旅行で送っていった親戚の子供たちと再会した。そのあと車を借りてモンタナ州をドライブしたり,キャンプをして楽しんだことはすでに書いた。これが3度目のアメリカ旅行の第1部であった。
 私の友人の息子さんが大学生になったのを機にアメリカを体験してみたいということになり,私がそのお手伝いを買ってでた。これが第2部である。
 彼とは8月7日にシアトルのタコマ国際空港で落ちあうことになっていた。私は,ボイジーを離れ,その1日前の8月6日にシアトルに行って,落ちあう前日にひとりでシアトル観光を楽しむことにした。
 そんな次第で,私はボイジーからシアトルに移動する。3度目のアメリカ旅行の第2部がはじまるわけである。

 アイダホ州の州都ボイジーは小さな落ち着いた町である。
 アメリカではこの程度の町が最も過ごしやすく快適である。というより,これ以上の大都市は,どこも車の洪水で,かつ,人も多いから,アメリカらしい雄大さを求めるには不似合いである。
 しかし,ほとんどの日本人の旅行者は,おそらく,ロサンゼルスやサンフランシスコ,ニューヨークのような大都会しか知らないし,住んでいる人のほとんどもそうした大都会である。
 マスコミのアメリカ支局もまた,そうした大都会にある。したがって,日本に伝わってくるアメリカの情報というのは,かなりの偏りがある。まあ,日本でも,東京のことばかりをさも日本のように報道している某全国放送があるから,同じようなものではあるが。
 ボイジーは,空港もまた,この程度のほかの都市の空港と同じように,手ごろで楽である。セキュリティで長い列ができるということもない。
 ただし,ボイジーもまた,ハイテク企業の誘致で活況を呈しているから,この先のことはわからない。

 ボイジーからシアトルまでは空路1時間30分程度であるが,時差があるので,西に行くときは時間としては30分ほど進むだけになる。アメリカ旅行をするときは東から西に向かうと1日が25時間になってなんだか得をした気になるが,その反対に向かうと1日が23時間しかなくなるから,あわただしいことこの上ない。
  ・・
 私はデルタ航空のゴールドステイタスなので,アメリカの国内線を利用するときは,まずほとんどファーストクラスにアップグレードされる。といっても,座席が広いくらいだ。距離が長いと食事が出ることもある。今回もファーストクラスで快適な空の旅を楽しんでシアトルに到着した。
 この2015年の旅のあと,私はどういうわけか縁あって何度もシアトルに行ったので,今はシアトルのタコマ国際空港はセントレア・中部国際空港よりよほど詳しくなったが,この旅のころはそれほどもなかったから,いろいろ新鮮だった。
 シアトルではレンタカーのオフィスは空港から少しはなれたところにある別のビルに集中されていて,そこまでシャトルバスで行くことになる。この旅のころはアメリカではレンタカーを借りるときは事前に予約をしておくと指定された車が事前に駐車場に用意されていて,ガレージの上部に名前が表示されていたが,その後,何十台もの同じグレードの車がひと区画に集められていて,そこから好きな車を自由に選ぶように変更になった。このように,アメリカというところは日々変化していて,前回がこうだったというのは,ほぼ通用しない国だ。

 さっそくレンタカーを借りて,まず,予約しておいたホテルに行ってチェックインをした。
 ひとりだけならもっと安価なホテルに泊まるが,今回はふたりだから,私が泊まる中では上級ランクのホテルにした。アメリカのホテルは通常,ひとりでもふたりでも値段が変わらないから,ふたりだと贅沢ができるというわけだ。 今夜はこのツインルームにひとりである。
 チェックインは,フロントで予約票を見せるのではなく名前を聞かれることがほとんなので,まず「予約をしてある〇〇だが」とフロントで問いかければ事が済むのだが,ファーストネームとファミリーネームが混同されていることが多いので注意が必要である。日本では近ごろパスポートの表記の姓名が名性から姓名に変わったようだが,これではクレジットカードと順番が逆になってしまうから問題は生じないのだろうか? 日本人の名前は海外に行くと,どちらが姓でどちらが名なのかごっちゃになっていて混乱が生じる。このときもまた,コンピュータに表示されたリストには姓と名が反対だったらしく,なかなか私の名前が見つからなかった。
 なんとかチェックインが終わり,今日はこのあとシアトルを散策する。

☆ミミミ
8月17日の早朝3時30分の東の空の月と金星です。前日より月の出が遅くなりました。このところ急に天気がよくなり連日の快晴。この雲のない美しい夜明けの空を知らぬとは,なんともったいないことか,と思います。
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 「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめる前の復習の続きである。が,今日の話題は,2015年の旅行のときのことではない。前々回,ブランソンについて書いたときに思い出したことがあって,それがとてもなつかしくなったので,そのことを取り上げる。
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 なつかしくなったのは,メドラミュージカルである。
 アメリカといっても,ノースダコタ州を訪れた日本人はきわめて少ないであろう。いや,アメリカ人でも,行ったことがない人が多いらしい。ノースダコタ州は,北はカナダに国境を接するアメリカの中央部の最も北の州である。アメリカを東西に横断するインターステイツは,南からインターステイツ10,インターステイツ20,……,とある。1番北を走るインターステイツ90は,西はワシントン州のシアトルからはじまり,東に向かって,アイダホ州,モンタナ州と通っていくが,ノースダコタ州の手前で,まるでノースダコタ州を避けるかのように進路を南東に変え迂回して,サウスダコタ州を通りイリノイ州のシカゴをめざすのである。これを見ただけでも,辺境の地であると想像できる。
 私がノースダコタ州を訪れたのは2012年の夏であった。そのころは,まだ,アメリカ合衆国50州制覇は頭になかったが,ノースダコタ州に行こうと思ったのは,ある本に,アメリカ合衆国のすべての州に行くのが目標だというカメラマンの記事があって,その記事の中に「最後に残ったのがノースダコタ州であった」というのを読んだのがきっかけであった。

 何にもない州だと覚悟して行ったのだが,当時,ノースダコタ州はリーマンショックの真っただ中にも関わらずシェールオイルの発掘で好景気に沸いていて,労働者が殺到し,泊まる場所を探すのがたいへんであった。
 私がそこで見たのは,テオドア・ルーズベルト国立公園であり,そのふもとの街メドラで夏の間開催されているミュージカルであった。特にミュージカルは,夏の夜,テオドア・ルーズベルト国立公園を借景にした屋外劇場で行っているものであった。ニューヨーク・ブロードウェイのミュージカルやヨーロッパの野外劇場には詳しくても,そんなものがあることを知っている日本人はほとんどいないであろう。私だって,現地に行くまでまったく知らなかった。
 これは,私がアメリカで見た数々のショービジネスのなかでも,ブランソンとならんで印象に残るものであった。
  ・・
 ミュージカルは今も行われている。コロナ禍の2020年も元気に開催されているらしい。
 私は,ニューヨークでもロンドンでも本場のミュージカルを見たし,サンフランシスコやウィーンでもオペラを見たが,なぜか,このメドラのミュージカルが忘れられない。
 できることならば,もう一度見てみたいものだと,このころ,とてもなつかしく思い出す。

 最後に,当時の旅行記から抜粋しておこう。
  ・・・・・・
 劇場は,メドラの町の西はずれにあった。チケットを購入したみやげ物店を過ぎたところを南に曲がると,町に沿って南側に鉄道が走っているので,その踏み切りをわたり,小高い山を登っていくと,広い駐車場に出た。その先がスキー場のゲレンデのように坂になっていてそこに客席があり,谷を見下ろすような形に野外劇場があった。
 その向こうには国立公園で見たものと同じ景色が広がっているという,すばらしいロケーションであった。
 午後7時半になって,ステージツアーがはじまった。
 ステージツアーの参加者は20人くらいだっただろうか。
 ミュージカルがはじまる前の客席に集まって,まず,このミュージカルがはじまった歴史やら演目やらといったことの説明を受けた。そしていよいよステージツアーが開始された。
 ステージに案内されて,様々な舞台層装置やらを見ることができた。
 楽屋にも入ることができた。
 楽屋裏には,大道具とともに,当日登場する馬が数頭,おいしそうにえさを食べていた。ステージのはるか向こうの山の頂には,このミュージカルで重要な役割をする生きたムースが1頭いた。
 やがてツアーが終わり自分の席に着いた。平日にもかかわらず,9割くらいの座席が埋まっていた。
 開始時間まで飽きないようにとさまざまな趣向があり,やがて時間になったので,国歌の演奏がありそれをみんなで歌って,いよいよミュージカルがはじまった。
  ・・
 ミュージカルの内容は,この地の歴史を劇にしたもので,難しい内容でなく,きっと,英語がまったくわからない人にも十分に楽しめたであろうというものだった。
 本物の馬やらムースも出てきた。日が沈み,だんだんと空が暗くなって,舞台はさらに感動を深めていく。途中に休憩があって,後半のはじめには,有名(であろうとおもわれる)コメディアン,ジョージ・ケーシーの漫談もあった。
 出演した歌手は12人,それと,主役の女性と年配の男性だった。
 ステージの右手には6人のメンバーからなるバンドがいて,特に,バイオリンを弾くアンベリー・ローゼンという名の女性がきわめてすてきだった。ずっと踊りながらバイオリンを弾き続けていた。
 最後に花火も上がり,ミュージカルは午後10時30分に終わった。
  ・・・・・・

☆ミミミ
8月16日の早朝4時の東の空に,月と金星がならんで輝いていて,それは美しいものでした。夜空を見ていると地上のいやなできごとはすべて夢のような気がします。DSC_5820 (4)m

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☆☆☆☆☆☆
 2020年,梅雨の間はまったく晴れませんでした。
 梅雨が明けてもなかなか星空は戻らず,7月31日にようやく晴れたのを見て,月明かりの中,ネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)を写しに行ったことはすでに書きました。そのそのときに写真に収めたのは,ネオワイズ彗星とレモン彗星(C/2019U6 Lemmon)でした。その後は,雨は降らねど,ほとんどが曇り空でした。そして,再び星空がもどった8月14日は月明かりもないので,気楽にネオワイズ彗星を写しにいくことにしました。
 レモン彗星は現在11等星ですが,前回写したので今回はパスしました。この晩は,パンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS)がネオワイズ彗星からわずか5度ほどの場所にあって,私が使っている360ミリ望遠鏡の直焦点で1枚の写真に収まります。

 久しぶりの快晴でした。透明度もよく,街灯りでいつもなら空が明るい南の空にもさそり座がきれいに輝いていました。天の川もよく見えました。まず思ったのが,月明かりがあるのとないのとではこれほど違うのか,ということでした。
 ネオワイズ彗星は西の空,うしかい座にあって,アークトゥルスから順に追っていくと簡単に探せます。また,前回探せなかったパンスターズ彗星もわかります。
 こうして写したのが今日の1番目と2番目の写真です。1番目の写真では,左側がネオワイズ彗星,右側がパンスターズ彗星です。
 ネオワイズ彗星は予報では7等星なのですが,予報よりはずっと明るく,双眼鏡でも尾までよく見えました。パンスターズ彗星は11等星。長い間楽しめたのですが,そろそろ見納めです。

 8月12日はペルセウス座流星群が極大になった日でした。しかし8月12日は天気がよくなく,この日に少しは見られるかな,と思って,カシオペア座からペルセウス座にかけて,ずいぶん写真を写してみた(=3番目の写真)のですが,残念ながら流星はまったく写りませんでした。それでも,これ以外の場所に目を移したとき,北斗七星のあたりを,北斗七星よりの長く星が流れたのは感動しました。
 私が星を見にいくと,毎回,結構明るい流星を見るのですが,いつも別の場所の写真を写していて,それを収めることができないのがとても残念です。帰宅して写真を整理していたら,試しにうしかい座の付近を写した1枚に,ネオワイズ彗星とともに流星が写っていましたので,これで満足することにします。
 いつも思うのですが,日本はどこも明るくて満足に星も見えないのに,都会でもこの日に限って流れ星がビュンビュン飛ぶような報道をしているのが,私にはよくわかりません。
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 このところ暑いこととコロナ禍で,お昼間に外出する気がまったくなくなってしまったのですが,そうでなくても,日が暮れたあとの世の中はとても落ち着きます。今や,星を見るのでなくても,深夜の人が少ない時間に車を走らせるほうが気持ちがいいです。
 それにしても,夜になっても気温は30度くらいあって,星を見ながら汗が出てくるような経験は珍しいことでした。

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 「2015夏アメリカ旅行記3」をはじめる前の復習を続ける。
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 2015年6月下旬,2度目のアメリカ旅行ではサンフランシスコに行った。
 私の従姪(じゅうてつ=従妹の子)がアメリカ人と結婚してアイダホ州に住んでいる。子供が3人いて,毎年夏休みに子供たちを連れて帰国するのだが,この年は現地の学校の関係で子供たちのうちのふたりだけを先に帰国させるということで,私が付き添ってその子供たちをアメリカまで送っていくことになった。そのためだけのアメリカ往復だった。
 今はコロナ禍で海外は地の果てほど遠い存在となってしまっているが,そうでなければ,私にとってアメリカへ行くのは東京へ行くのとさほどの違いはないので1泊3日で往復してもどおっていうことはないから,そのまま帰ろうかとも思った。しかし,せっかくなので,帰りにサンフランシスコに寄ることにした。
 アメリカの大都市はほぼすべてに行ったことがあるので,どこの都市もおおよそ雰囲気はわかる。また,ツアーでは行かないので,大都市のダウンタウンにある豪華なホテルには泊まったことがないが,その反対に,路地裏まで知っているし,現地のスーパーマーケットへ出かけて買い物をしたりもするから,どういう人がどのようにして生活しているかも想像がつく。今では,特にどこか行ってみたいと思うようなところもなくなった。しかし,サンフランシスコだけはもう一度行ってみたいと思っていた。私がサンフランシスコに行きたいと思ったのは,サンフランシスコでメジャーリーグが見たかったからだった。

 私が前回サンフランシスコに行ったのはこの年2015年のさらに35年も前のことだった。ずいぶん昔のことだったから,その後サンフランシスコがどうなっているか,想像がつかなっかった。
 結局,わずか数日の滞在だったにもかかわらず,念願かなってサンフランシスコに本拠地をもつメジャーリーグのふたつのチーム,オークランド・アスレチックスもサンフランシスコ・ジャイアンツもともに見ることができた。それだけでなく,ゴールデンゲートブリッジも歩いて渡ることが実現したし,さほど安全でないダウンタウンもチャイナタウンも,危険だ近づくなといわれたテンダーロイン地区もふらふらと散歩した。さらに,私の同級生がプロのバイオリニストになって現地に住んでいて,久しぶりに彼女と再会を果たして一緒にオペラも見た。
 ニューヨークをはじめとして,アメリカの多くの大都市はどこも再開発がすすんで,私がはじめて行ったころの治安の悪さや不気味さは薄れ,街中を気ままに散歩することもできるようになったが,サンフランシスコは,意外にも,40年前の不気味さが未だに残る都会だった。充実した旅であったが,そのことが一番の驚きだった。

 このときの旅で,唯一の誤算,というか,うれしい誤算は,私が訪れたとき,サンフランシスコは偶然,プライドのパレード(San Francisco Pride Parade)真っ盛りえということだった。プライドというのは,毎年6月,ゲイプライド月間に開催されるレズビアン,ゲイ,バイセクシャル,トランスジェンダー(LGBT)の祭典のことである。無知な私は,そんなお祭りがあるとは知らず,6月のサンフランシスコなんててっきりシーズンオフだとばかり思っていたから仰天した。そのため,宿泊できるホテルがなかなか見つからなかったし,やっと見つけても高すぎて泊まれなかった。ふたつ星のホテルが1泊50,000円くらいした。どうにかこうにかサンフランシスコ国際空港から歩いて20分というところに私の財力でも泊まれるホテルを見つけて,毎日,そこから地下鉄でダウンタウンを往復することになってしまった。
 そんなわけだったが,行こうと思っても行く気にならないこの時期に,知らぬが仏とでもいうべきか,私はサンフランシスコにのうのうと行ってきた。そして,プライドの祭典に遭遇した。これが私のこの旅でのサンフランシスコの一番の思い出となった。静かな地方都市だと思って徳島市に出かけたら阿波おどりの真っ最中だった,みたいなものだ。
 旅というのは,観光地なら,いつ行っても堪能できるし,お金さえ出せば,どんなおいしいものでも食べることもできる。しかし,こうした祭典だけは,そのときでなければ経験できないものだ。偶然とはいえ,ほんとうに幸運だった,と今では思う。

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 「2015夏アメリカ旅行記その3」をはじめるにあたって,まずは復習から。
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 2015年5月,この年1度目のアメリカ旅行として中南部をドライブした。
 このころの私はアメリカ合衆国全50州制覇を目指していて,何かにとりつかれたかのように頻繁にアメリカを行き来していた。以前,ピッツバーグ,シンシナチ,クリーブランドなどをドライブしたときにセントルイスだけは行ったことがあったが,それよりもさらに「深い」アメリカの中南部は行ったことがなく,私には縁遠いところだった。
 当時,MLBに夢中だった私は,カンザスシティ・ロイヤルズという,いわば地の果てにあるようなチームの本拠地をぜひ見たかったし,ルート66も走ってみたかった。そこで,なんとかカンザスシティに行ってみようと思ったのだが,フライトの接続が悪くどうやって行こうか,考えあぐねていた。
 なぜかそのころは,何度飛行機を利用しても,いつもなにがしかの小さなトラブルが起きた。この2015年春の旅でも,苦労してフライトスケジュールを組んで旅に出たものの,カンザスシティからの帰り,デトロイトまでのフライトが離陸後にトラブを起こし引き返してしまったので,デトロイトで日本への帰国便に乗り遅れてしまった。
 苦労をした旅であったが,そんなハプニングでもあったほうが,後で記憶に残っているものだ。
 カンザスシティ・ロイヤルズのゲームも見たし,ルート66も走ったが,その中でもとりわけ深い印象を残したのがブランソンという町であった。そこで今日は,ブランソンについて書くことにする。

 ブランソンという町は2015年春の旅に出かける少し前に知った。
 ブランソンには多くの劇場があって,そこでは毎日さまざまなショーが行われていた。ブランソンには,日本では無名でもアメリカでは有名なタレントが多くいるが,そのなかでも,ショージ・タブチさんのことはすでにこのブログにも書いたように,実際に会ってお話することもできた。アンディ・ウィリアムスさんの劇場もあったが,残念ながらその数年前に亡くなってしまい,見ることがかなわなかった。
 ここで見たダットンズ(Duttons)のショーもまた,すばらしかった。メンバーの人と話をすることもできた。ダットンズは,今もアメリカ各地でショーを行っているということだが,私がブランソンで懐かしく思い出すのがこのダットンズのショーである。日本の演歌歌手のショーみたいなものなのだが,これぞ古きよきアメリカ,という感じがした。
 ダットンズは,の公式ホームページには次のように紹介されている。
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 ダットンズ(Duttons)はブルーグラス音楽を演奏するダットン一族のアーティスト集団です。これまで,アメリカのフィドリングコンテスト,クラシックバイオリンコンクール,および,スタジオミュージシャンとしての賞と評価を獲得して,そのショーはバイオリン,ギター,ベース,ビオラ,バンジョー,マンドリン,キーボード,ハーモニカ,ドラムなどさまざまな楽器で行われます。また,器楽の妙技に加えて,歌手やダンサーとしても熟練しています。
 今日,ダットンズは,ブランソンに独自の劇場を所有しており,年間300以上のショーを行っています。また,劇場に関連するホテル,レストラン,ギフトショップを所有しています。さらに,アリゾナ州のメサにも別の劇場を所有していて,ここでは,12月から4月にかけて上演をしています。
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 できることなら,いつか再びブランソンに行ってみたい。そしてこんなショーをまた楽しみたい。なぜか,このごろそう思うのである。

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●当時の自分がまぶしい。●
 2015年というから,早いもので今から5年前のことになるのが夢のようだ。
 この年,私は5月から8月にかけて3度もアメリカ旅行をした。当時,このブログに,
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 旅行の様子は「2015春アメリカ旅行記」「2015夏アメリカ旅行記」として,後日詳しくお伝えする予定です。
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と書いた。しかし,「2015春アメリカ旅行記」は書き終えたが,「2015夏アメリカ旅行記」は途中で中断している。それは,そのころ頻繁にアメリカを旅していた私は,それ以外の旅の旅行記で書くことがあまりに多く,続きを書く時期を逸してしまっていたからである。
 コロナ禍でしばらく海外旅行もできそうにないで,この機会を利用して「2015夏アメリカ旅行記」の続きを書きたいと思う。

 2015年に旅をしたあとも,私はずいぶん多くの旅をし,いろんな経験をした。その間には思わぬ出会いもたくさんあった。2015年の時点では,私はその後に夢中になったハワイも,オーストリアやフィンランドといったヨーロッパの文化も,オーストラリアやニュージーランドで見た南天の星も,2017年の皆既日食も,そしてまた,ロヴァニエミやアラスカでのオーロラも知らない。
 今,2015年の旅を思い出すと,ずいぶんと自分が未熟であることに気づく。今なら,もっとスマートに旅ができるはずである。しかし,当時の感動やときめきは,今では決して味わうことができないとも感じる。あのころの自分がまぶしく,そして寂しくもある。
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 ということなので,この旅行記の続編は,単に旅行の足取りを追うのではなく,現在の自分からみた5年前の姿を書いていくことにしたい。

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 天王星,海王星,冥王星の話題の最後は準惑星です。
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 太陽のまわりを公転する天体は,惑星(planet),小惑星(minor planet),彗星(comet),惑星間塵(interplanetary dust cloud)に分類されます。また,小惑星(minor planet)はさらに,準惑星(dwaft planet)と「それ以外のもの」からなります。「それ以外のもの」とは古典的な小惑星(従来小惑星(asteroid)とよんでいたもの)(classical asteroid)です。準惑星は冥王星と従来小惑星とよんでいたものの中から特別な条件をみたすものだけが格上げされて冥王星の仲間となったものです。
 日本語では,minor planet と classical asteroid をともに小惑星というので混乱が生じています。
 また,それとは別の分類として,準惑星(dwaft planet),古典的な小惑星(classical asteroid),彗星(comet),惑星間塵(interplanetary dust cloud)を合わせて太陽系小天体(small Solar System body = SSSB)といいます。
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●小惑星の発見
 1802年以降,「セレス」(「ケレス」ともいう)(Ceres)「パラス」(Pallas)「ジュノー」(Juno)「ベスタ」(Vesta)などの天体がメインベルト(main belt=火星と木星の間に軌道をもつ)に数多く発見されましたが,惑星ほどの大きさがなかったために,小惑星(asteroid)とされました。
●太陽系外縁天体の発見
 1992年代以降になると海王星軌道より外側の領域にも冥王星以外の天体が発見されるようになりました。
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 海王星軌道より外側の領域にある天体を太陽系外縁天体(trans-Neptunian object = TNO)といいます。
 太陽系外縁天体(TNO)には,エッジワース・カイパーベルト天体(Edgewaorth-Kuiper Belt object = EKBO)とその外側の散乱円盤天体(scattered disk object = SDO)があり,さらにその外側にはオールトの雲(Oort cloud)があるといわれています。
 エッジワース・カイパーベルト天体(EKBO)には,彗星(comet)と小惑星(minor planet)があります。小惑星(minor planet)は,先に書いたように,準惑星(dwaft planet)と古典的な小惑星(classical asteroid)に分類されます。
 従来は,エッジワース・カイパーベルト天体(EKBO)とその外側の散乱円盤天体(SDO)を合わせてエッジワース・カイパーベルト天体(EKBO)とされていました。また日本では,エッジワース・カイパーベルト天体(EKBO)のみを太陽系外縁天体(TNO)とよんでいたころもあり,ここでもまた用語の混乱を生じています。
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 さまざまな天体が見つかるようになって,それらの天体を定義して新しい名前をつけても,そのあとでそれが当てはまらないことが起きて…,ということがごっちゃごちゃになっている理由です。
 また,日本では,たとえば dwaft planet を小型の惑星とでもすればいいのにあえて準などという英語とは意味の異なる別の日本語名にするから混乱します。漢字の表現には言外の意味が生じるのでたちが悪いのです。また,日本語名をつけるならそれならそれで,minor planet に格上げされたとき新しい名前をつけず従来の「小惑星」のままにしておくことも問題です。だから日本語の小惑星にはminor planetとclassical asteroidが混在しています。そしてまた,これは余談ですが,高校生が習う英語の単語集には,従来のまま「小惑星=asteroid」などと書かれていて,さらに,天文学を知らない教師がそれを教えるものだから,誤解が生じます。

 では,準惑星と現在準惑星の候補となっている古典的な小惑星(classical asteroid)である太陽系小天体(small Solar System body = SSSB)を紹介します。
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●準惑星に格下げされた冥王星
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星,太陽系小天体
●「セレス」
 =メインベルトにある小惑星,準惑星,太陽系小天体
 1930年に惑星として発見された冥王星は,離心率や軌道傾斜角が大きく異なること,地球よりはるかに小さいことなど,他の8つの惑星と性質が大きく違っていました。
 1992年に発見され,のちに「アルビオン」(Albion)という名前のついた小惑星は,太陽系外縁天体(TNO)でした。それ以降,冥王星を惑星とよぶべきかどうかをめぐり様々な議論や論争がなされるようになりました。
 一方,1999年以降,マイケル・ブラウン(Michael E. Brown)博士がパロマ天文台にあるサミュエル・オシン望遠鏡(The Samuel Oschin telescope) で太陽系の新しい惑星を発見しようとする試みをはじめました。そして発見したのが,太陽系外縁天体(TNO)である「クアオアー」「セドナ」「マケマケ」「ハウメア」「エリス」でした。その中でも,「エリス」(Eris)は冥王星よりわずかに大きいと考えられ,冥王星を惑星とみなすことへの疑問の声が広まりました。
 2006年8月24日に開かれた国際天文学連合 (IAU)の 総会で惑星の定義を定めるとともにdwarf planet(日本ではこれを準惑星と名づけた)という分類を新たに設けることが採択されました。そこで,小惑星(asteroid)は小惑星(minor planet)と名称が変更になり,そこに類する天体から新たに準惑星(dwaft planet)が定義されました。
 これによって,これまで小惑星(asteroid)であったもののなかからも,「セレス」Ceres)が新たに準惑星(dwaft planet)に格上げされました。そして,格上げされなかったものはそのまま以前の小惑星(classical asteroid)という地位に残ります。また,冥王星は惑星の座から小惑星(minor planet)に格下げされ,新たに準惑星(dwaft planet)となりました。
 再分類されたのち,冥王星は小惑星(minor planet)の一覧に記載され小惑星番号134340番が与えられました。小惑星番号は小惑星(asteroid)から小惑星(minor planet)に引き継がれます。
 現在,冥王星は,太陽系外縁天体(TNO)であり,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星(minor planet)であり,準惑星(dwarf planet)です。また,太陽系小天体(small Solar System body = SSSB)です。
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●「クワオアー」(Quaoar)
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星候補,太陽系小天体
 「クワオアー」は現在準惑星(dwarf planet)候補です。エッジワース・カイパーベルトに位置し太陽の周りをほぼ円軌道で公転しています。2002年6月4日に発見されました。
 名前はロサンゼルス周辺のアメリカ先住民であるトングヴァ族に伝わる神話の歌と踊りで神々と生物を作った創世神クワオアーに因んで名づけられました。
●「セドナ」(Sedna)
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星候補,太陽系小天体
 「セドナ」も現在準惑星(dwarf planet)候補です。2003年11月14日に最初に観測されました。
 北米極北地方に住む原住民族カナダのイヌイットに伝わる海の女神セドナに由来しています。
 なお,「クワオアー」と「セドナ」が準惑星(dwarf planet)と分類されるには,「自身の重力が剛体力に打ち勝って静水圧平衡(球体に近い形)を保つのに十分な質量を持っていなければならない」ことが実証される必要があります。
●「マケマケ」(Makemake)
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星,太陽系小天体
 「マケマケ」は準惑星(dwarf planet)です。2005年3月31日に発見されました。
 イースター島の創造神マケマケにちなんで命名されました。
●「ハウメア」(Haumea)
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星,太陽系小天体
 「ハウメア」も準惑星(dwarf planet)です。スペインのシエラ・ネバダ天文台でホセ・ルイス・オルティスらのグループが2003年に行った観測を2005年に再分析したことによって発見し,2005年7月29日に公表しました。マイケル・ブラウン博士らのグループも,2004年5月6日の観測を元に12月28日にこの天体を発見しました。
 ハワイ諸島の豊穣の女神ハウメアに因んで命名されました。
●「エリス」(Eris)
 =太陽系外縁天体,エッジワース・カイパーベルトにある小惑星,準惑星候補,太陽系小天体
 「エリス」も準惑星(dwarf planet)です。2003年10月21日に撮影された画像に写っているところを2005年1月5日に発見され,同年7月29日に発表されました。
 発見当初,発見者チームはこの天体が惑星である可能性を考慮して,創世神話に由来する名前を提案しました。国際天文学連合 (IAU) は惑星かどうかはっきりするまで命名はしないと発表しました。やがて,2006年8月24日にIAUで惑星の定義が決定され,これによって準惑星(dwarf planet)とされたことから,「エリス」(Eris)と名づけられました。エリスはトロイア戦争の遠因となったギリシア神話の不和と争いの女神です。「Ellis」と綴られる小惑星「エス」とは別の天体であるので,注意が必要です。
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 今日は,冥王星の衛星の発見についてです。
 現在,冥王星には五つの衛星が発見されていますが,最大なものはカロン(Chron)です。カロンは冥王星の7分の1もの質量をもつ巨大な衛星です。
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●カロンの発見
 カロンは,1978年6月22日,ジェームズ・クリスティ(James Walter Christy)さんが,フラグスタッフ郊外のアメリカ海軍天文台にある口径61インチ(1.5メートル)の反射望遠鏡で写した冥王星の写真から発見しました。
 発見したジェームズ・クリスティさんは,この衛星の名前に,妻の名前 Charlene のニックネーム Char に当時元素の名前などの語尾に on をつけるのが流行していたことから,Chron とすることを思いつきました。Chron という言葉を調べてみると,それは,ギリシア神話の冥府の川・アケローンの渡し守カローンのことだったのです。偶然にも,冥王星が冥府の王プルート(Pluto)の名にちなむことから,この名前は冥王星の衛星にふさわしい命名だったわけです。
 この名前の由来を知っている人たちは,いまでもカロンをジェームズ・クリスティさんの奥さんの名前であるシャーロンとよんでいるのだそうです。
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 カロンは衛星にしては惑星に対する質量があまりにも大きく,また,冥王星とカロンの共通重心が冥王星とカロンの間の宇宙空間にあるため,冥王星とカロンは主従関係でなく,二重惑星であるとの解釈もされています。
 また,冥王星とカロンは互いに同期回転しているため,カロンは常に冥王星に同じ面を向け,冥王星もカロンに対して常に同じ面を向けています。よって,冥王星およびカロンから互いを見たら,空の1点から動かないように見えるそうです。

 なお,カロンの発見ののち,冥王星には,ハッブル宇宙望遠鏡によって,さらに四つの小さな衛星が発見されましたが,それらはカロンが生じるきっかけとなった冥王星への天体の大衝突で飛び散った氷の溶岩が、冥王星を公転する軌道に乗っかったものが起源であると考えられています。
 まず,2005年10月31日に発見されたのが「S/2005P1」と「S/2005P2」です。「S/2005P1」は後にヒドラ(Hydra),「S/2005P2」はニクス(Nix)と命名されました。ヒドラはギリシア神話の地下を守る怪物ヒュドラからつけられたもの,ニクス名はギリシャ神話の夜の女神ニュクスよりつけられたものです。これらの名前は冥王星探査衛星ニュー・ホライズンズの頭文字N・Hにも因んでいます。
 次に,2011年7月20日「S/2011P1」が発見され,のちに冥界の番犬であるケルベロス(Kerberos)と命名されました。さらに,2012年7月11日「S/2012P1」が発見され,冥界と現世の間を流れる川および女神であるステュクス(Styx)と命名されました。

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 私が子供のころ,太陽系の惑星のうちで,水星から土星までと比べて,どうして天王星,海王星,冥王星だけ名前が異質なのか疑問をもったということを書きました。それは,水星から土星までは肉眼で容易に見えたから発見された惑星ではなく,天王星から冥王星までは「発見」された惑星だったからですが,天王星と海王星の発見についてはこれまでに書いたような経緯でした。
 冥王星は14等級以下でアマチュアの望遠鏡でも見ることが困難なので,私の子供のころに読んだ天文書にはアマチュアには見ることができないと書かれていて,そのの知識のまま今もそう思っている私の知人がいます。
 私は,機会があれば,一度は写真に収めたいと思っているのですが,もし,写ったとしても,それが冥王星であるという見わけをすることはずいぶん困難なことでしょう。

 さて,今日は冥王星の発見についてです。今では,冥王星は惑星としての地位を追われてしまいましたが,私には,今も,冥王星はその後に発見され,準惑星とされるケレス,エリス,マケマケ,ハウメアなどとは一線を画す存在です。
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●冥王星の発見
 準惑星である冥王星(Pluto)は,かつては太陽系第9惑星とされた天体です。1930年にクライド・トンボー(Clyde William Tombaugh)によって発見されました。
 発見された新天体に「Pluto」という名前を最初に提案したのはイングランドのオックスフォード出身で当時11歳の少女ヴェネチア・バーニー(Venetia Katharine Douglas Burney)でした。トンボーは、偶然にも,冥王星の存在を予言したパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)のイニシャル「P.L」ではじまるこの名前をいたく気に入ったといいます。
 日本語名の「冥王星」は日本人の野尻抱影が提案した名称です。1933年に中国でも「冥王星」(míngwángxīng)が使われるようになりました。
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 ウィリアム・ヘンリー・ピッカリング(William Henry Pickering)とパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)は,天王星の軌道における摂動の分析からその存在が予測され発見された海王星と同じように,海王星の軌道もまた他の未発見の惑星「惑星X」によって乱されていると推測し,そのような惑星が存在する可能性のある天球座標をいくつか提唱しましたた。
 1905年,ローウェル天文台では「惑星X」を捜索するプロジェクトを開始しました。プロジェクトはパーシヴァル・ローウェルが1916年に死去するまでの11年間続けられました。
 1929年,プロジェクトが再びはじめられ,当時の天文台長であったヴェスト・スライファー(Vesto Melvin Slipher)がクライド・トンボーにこの仕事を預けました。
 クライド・トンボーは,ローウェル天文台の口径13インチ(約33センチメートル)の天体写真儀で空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し,その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。そして,撮影した膨大な写真を丹念に精査した結果,ついに,1930年2月18日,同年の1月23日と1月29日に撮影された写真乾板の間で動いていると思われる天体を見つけました。
 なお,2枚の写真を比べて新天体を発見する方法は今も行われていますが,クライド・トンボーが行っていた当時とは違って,コンピュータが自動的にそれを行っています。
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 しかし,クライド・トンボーが発見した「惑星X」は,海王星の軌道の摂動の原因となるにはあまりにも小さすぎたのです。実際は,19世紀に天文学者が観測した海王星の軌道の計算との食い違いは「惑星X」によるものではなく,海王星の質量の見積もりが正確でなかったためのものでした。
 それにしても,パーシヴァル・ローウェルが予測した「惑星X」の位置は,クライド・トンボーが発見した実際の位置にかなり近いものでした。不思議な話です。イギリス人の天文学者アーネスト・ウィリアム・ブラウン(Ernest William Brown)はこれを「偶然の一致」だと結論づけました。
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☆ミミミ
この写真は,2018年5月にオーストラリアに出かけたときに私が写した写真から冥王星を探し出したものです。14.3等星です。
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金星_海王星 _20170112海王星海王星発見の位置海王星発見望遠鏡

 今日は海王星です。
 海王星は7.7等星より明るくなることはなく,肉眼では見えません。写真で簡単に写せますが,写っていても恒星に埋もれてしまって見わけがつきません。そこで,見わけがつくように,先日,私が,金星が接近したときを狙って写したのが,今日の1番目の写真です。
 天王星に比べて,海王星の発見には多くの物語がありました。
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●海王星の発見
 太陽系第8惑星である海王星(Neptune)は,1846年9月23日,フランス人のユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier)が予測した位置の近くに,ドイツ人のヨハン・ゴットフリート・ガレ(Johann Gottfried Galle)とハインリヒ・ルイス・ダレスト(Heinrich Louis d'Arrest)によって,望遠鏡を用いて発見したということになっています。
 ユルバン・ルヴェリエは,発見後すぐに「Neptune」という名称を提案,天文学者フリードリッヒ・フォン・シュトルーベ(Friedrich Georg Wilhelm von Struve)が支持することを表明し,国際的に受け入れられるようになりました。
 ローマ神話では、名称の元となったネプトゥーヌス(Neptūnus)はギリシア神話のポセイドーン(Poseidōn)と同一視される海の神です。中国語ではこの名称を「海王星」と訳し,日本でも用いられました。
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 海王星が望遠鏡を用いて観測されたもっとも初期の記録は,1612年12月28日と1613年1月27日にガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が,木星の観察中に偶然スケッチで描いたものです。しかし,ガリレオ・ガリレオは木星の近くにある恒星と誤って認識していました。
 1781年,アンダース・レクセル(Anders Johan Lexell)は,発見されたばかりの天王星の軌道を計算した結果,その不規則性に気づき,天王星の軌道に摂動を与える別の惑星があることを示唆しました。また,1821年,アレクシス・ブヴァール(Alexis Bouvard)はニュートンの万有引力の法則に基づいた天王星の軌道予想表を出版しましたが,実際に観測をするとこの表からかなりの逸脱があることが明らかとなり,摂動を与える天体を仮定するに至りました。
 イギリスのジョン・クーチ・アダムズ(John Couch Adams)も,天王星の軌道の不規則性から,天王星の観測データと万有引力の法則を用いれば,別の惑星の軌道を推定することができると信じていました。1844年2月13日,これを聞いたケンブリッジ天文台長のジェームズ・チャリス(James Challis)は,ジョン・クーチ・アダムズのために王室天文官のジョージ・ビドル・エアリー(Sir George Biddell Airy)に,天王星の位置のデータを要求しました。このデータをもとに,ジョン・クーチ・アダムズは1845年9月18日に計算を完了しました。一方,フランスのユルバン・ルヴェリエもまた,1845年11月10日,天王星はそれまでの理論ではその運動を説明できないことを示し,仮想の摂動天体についての位置を示しました。
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 イギリスでは,王室天文官のジョージ・ビドル・エアリーは,ジョン・クーチ・アダムズとユルバン・ルヴェリエの結果の類似性に気づき,秘密裏に惑星の探索を試みようと,1846年7月,ケンブリッジ天文台長のジェームズ・チャリスに,至急惑星を観測するように提案し,7月29日に捜索がはじまりました。ジョン・クーチ・アダムズは研究を続け,間違った空域を探していたケンブリッジ天文台長のジェームズ・チャリス率いるイギリスのチームに新たな解を提供しました。
 一方,フランスでは,ユルバン・ルヴェリエは,8月31日,位置のほかに質量と軌道の情報を得ましたが,フランスの天文学者は関心をもたなかったので,データをベルリン天文台のヨハン・ゴットフリート・ガレに郵送しました。ヨハン・ゴットフリート・ガレは,1846年9月23日に手紙を受け取りすぐに観測を開始し,指導する学生のハインリヒ・ルイス・ダレストとともに,探しはじめてからわずか1時間以内の午前0時直後に,予測された位置からわずか1度以内の場所に新惑星を発見し,新惑星の発見を公表しました。
 その後,ケンブリッジ天文台長のジェームズ・チャリス率いるイギリスのチームが,新惑星の発見が公表された1か月前の8月8日と8月12日に,すでに新惑星を観測していたことが明らかとなりましたが,最新の星表を持っていなかったために,それが惑星だと気づかなかったのです。
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 海王星の発見に用いられたのはベルリン天文台の口径9.6インチ(約25センチメートル)屈折望遠鏡でした。この望遠鏡は現在,ミュンヘンのドイツ博物館(Deutsches Museum)に移設され展示されています。

水金地火木土 月b天王星天王星ハーシェル望遠鏡

 2019年の6月,念願だったローウェル天文台に行って,冥王星を発見した望遠鏡を見てきたことは,すでにブログに書きました。
 ここで,天王星・海王星・冥王星について,私の知識を整理したいと思います。
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 私が子供のころの惑星の名前の覚え方は「水・金・地・火・木・土・天・海・冥」でした。その後冥王星が準惑星と新たに分類されて惑星から脱落してしまいましたが,それはともかくとして,水星から土星までは自然な名前なのに,どうして天王星,海王星,冥王星の三つだけ名前が異質なのか,子供のころ気味悪く思ったものです。
 ところで,この惑星の覚え方ですが,英語では「My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas.」と覚えたのだそうですが,現在は,冥王星に加えて,新たに準惑星となったケレスとエリスを含んで,「My Very Exciting Magic Carpet Just Sailed Under Nine Palace Elephant.」と変わったそうです。 ちなみに,準惑星は冥王星,ケレス,エリスの三つに加えて,さらに,マケマケとハウメアのふたつがあります。
 水星から土星までは肉眼ではっきり見えるので,古から惑星として認知されていたのに対して,天王星,海王星,冥王星はのちに望遠鏡で発見されたもので,そのとき名前がつき,それを日本語で別の表記をしたことから,異質なものになったというわけです。

 では,これからは,天王星,海王星,冥王星の発見物語を書きます。今日は天王星です。
 天王星は最大等級が5.6等なので,そのときは肉眼でも見えることができるといいますが,ほかの星と区別がつかないので,もし見えても,それが天王星だということは容易にはわからないでしょう。
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●天王星の発見
 太陽系第7惑星である天王星(Uranus)は,1781年3月13日,イギリス人のウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel)によって発見されました。「Uranus」という名前は,ヨハン・ボーデ(Johann Elert Bode)が提案しました。これは,ギリシア神話における天の神ウーラノス(Ουρανός=Ouranos)のラテン語形で,これを中国で「天王星」と訳したものが日本に広まったのです。
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 天王星は,1690年,ジョン・フラムスティード(John Flamsteed)がおうし座34番星として記録したものが最古の記録で,それ以後も何度も観測されていましたが,惑星とは認識されていませんでした。
 1781年3月13日,ウィリアム・ハーシェルが自宅でこの星を見て「新彗星」であると思いました。しかし,その後の観測から軌道を決めるとき,彗星であれば,まず,放物線と仮定するのですが,それではうまくいかず,アンデル・レクセル(Anders Johan Lexell)が円軌道と仮定して軌道を求めたところ観測結果を説明することに成功し,求められた軌道は長半径が土星のはるか遠方の巨大な天体であることがわかりました。これ以後、新天体は惑星と見なされるようになりました。
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 天王星を発見したと思われる,1781年にウィリアム・ハーシェルが自作した口径7フィート,約21センチメートルの反射望遠鏡のレプリカは,現在,ロンドンから電車で2時間ほどのバース・ニュー・キング・ストリート19番地にある彼の自宅を改築して作られたウィリアム・ハーシェル博物館(William Herschel Museum)にあります。一度見てみたいと思い続けているのですが…。

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 食事を終えて,車に戻りました。この後は,遊覧船に乗ってみようと思っていたのですが,どこで乗るのかもわからなかったし,どのくらいの間隔で船がでるのかも知りませんでした。
 毎度のこと,何も下調べをせずに旅をしているのですが,乗れれば幸運,乗れなければまた来ればいいか,という感じです。 
 昼食前は伊根の東の端まで歩いたので,今度は,西に向かって,海岸線を車を走らせました。
 西側にも雰囲気のよい集落がずっと続いていて,こちら側を歩いてもよかったなあ,と思いました。バス停があって,数人の人がバスを待っていました。車がなければ,ここまでバスで来ることができるのだと思いました。調べてみると,天橋立から25分ほどで来ることができるようでした。

 さらに走っていくと,進行方向左手に駐車場と建物がありました。駐車場の入口で係の女性が交通整理をしていました。建物は遊覧船乗り場で,どうやら,ここで車を停めて,遊覧船に乗ることができるようでした。
 時間は午後12時40分でした。
 聞いてみると,遊覧船は30分ごとに出発して,次が午後1時ということでした。湾内を1周25分でめぐるのだそうです。
 車を停めて,チケットを購入しました。そんなわけで,何も知らなかったのにも関わらず,今回もまた,とても調子よく観光をしています。

 30分ごとに出発できるほどのお客さんが集まるのかな,と思いましたが,私の乗る時間はほぼ30人程度のお客さんが乗り込みました。これもまた,このご時世なので,程よい程度の乗客だったようで,気持ちのよい船旅となりました。
 私は,これまで世界各地で船の遊覧を楽しんでいるのですが,これもまた,例の国の人たちのグループと乗り合わせると,かなりストレスがたまります。これまでずいぶん嫌な思い出があります。おそらく,インバウンド華やかなりしころはすごい数の乗客だったことでしょう。
 船上からの景色はすばらしく,天気もよく,気持ちのよい風が吹き,最高でした。船のまわりには,海鳥が乗客のもつエサを求めて飛びかっていました。

 遊覧船での伊根湾めぐりを終えて,帰宅することにしました。
 私は日帰りのこうした小旅行は,いつも,朝早く家を出て,夕方5時には帰宅します。帰りに天橋立に寄ってもよかったのですが,それはまた次回ということにしました。楽しみは取っておくに限ります。
 こうした観光地は,午後になると人出が増えます。私のご遠慮タイムです。朝いちで到着し,昼食も午前12時まえに済ますのが楽しい旅をするコツです。
 伊根は予想以上に楽しいところでした。また,機会があれば行ってみたいと思いました。

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 観光案内所で散策マップをもらって,伊根の見どころを聞きました。伊根湾に沿って集落を歩くと舟屋のさまざまな美しい風景を写すことができるということでした。そして,なんといっても海からの景色が格別なのでぜひと言われました。海からの景色を見るには海上タクシーを利用するか遊覧船がいいという話でした。
 いつものこと,私はまず,足でその地を確かめることにしました。そして,海からの景色は後にして,観光案内所から集落の東の端まで歩いてみることにしました。東の端まで続く道は途中で狭くなって,車ではUターンがたいへんなこと,そして,歩いても20分くらいで端まで行けるということだったので,歩くことにしました。
 こうした場所を楽しむには車でなく,歩くのに限るのです。そして,その場所の生活感を味わったり音を聞き,においを感じることです。

 東の端の高台には慈眼寺,海福寺があって,そこからの景色は,舟屋の屋根の入り組んだ姿が独特でお勧めということだったので,そこまで登ってみました。高台から写した写真が今日の1番目のものです。
 高台から眺めた景色は確かにすばらしいものでしたし,雑誌やネットではあまり目にしたことがありません。しかし,急坂を上るときに,かなり汗をかいてしまいました。平坦なところを歩いているときは海風が心地よく気づかなかったのですが,確かに今は真夏であることをうっかりしていました。ずいぶんと日焼けもしてしまいました。
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 そこからの帰り,まず,舟屋の中を公開している家が二か所あったので,二か所とも見学しました。そのあとの街歩きがまた,なかなかすてきでした。
 こうした生活感を味わうことこそが伊根の醍醐味なのでしょう。ここは観光地であっても,現役の漁港です。漁業協同組合があって,この土地の生活感が満載でした。
 漁業協同組合の建物を過ぎると,舟屋日和という一角がありました。そこにレストランとカフェがありました。伊根のよいところは,こうして訪れた人がくつろげる場所があるということです。私は,先ほど坂を上ってかなり暑くなってしまっていたので,カフェに入ってコーヒーとケーキで一服することにしました。カフェは2階にあって,窓からは日本海が美しく眺められました。おそらくここも,普通ならかなり混み合う場所でしょう。しかし,この日は,ときどきお客さんが訪れるだけで,とても落ち着くことができました。

 再び歩きはじめて,観光案内所まで戻りました。観光案内所の2階は食堂でした。昼食は6種類あって,どれも1,500円とお値打ちでした。せっかく来たので,ここで食事をすることにして,舟盛定食を選びました。こうした場所で食べる新鮮なお刺身は最高です。昨年からこれまで何度か日本海の沿岸に来ました。いつもこんな場所でお魚を食べたいものだと思っていたのですが,この日その念願がかないました。

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 「一度は行きたかったでもわざわざ行かなくては行かれない場所に行ってみよう」という国内の旅の続きです。
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 私が国内に目を向けたのはコロナ禍で海外に行くことができないからではなく,それ以前から,国内で行ったことがない場所があまりに多いことに気づいた結果ですが,奇しくもこのご時世で国内には海外からの旅行者がほとんどいなくなって,昔の日本が戻ってきて,かつ,人混みのきらいな私には,好ましくなりました。
 暑い夏。少しでも涼しくて,人が少なくて,景色のよい場所がないかなあ,と探してみつけたのが伊根の舟屋でした。雑誌の類を読まない私は,具体的にはどういうところかは知りませんでしたが,海に面した風光明媚でのどかな漁港らしいので,そのうち一度は行ってみたいと思っていました。

 8月3日月曜日のこと。
 この日は,伊根ではなくはじめは奥琵琶湖に行こうと早朝家を出ました。梅雨が明けて晴天だと思っていたのですが,家を出るころは雨がぱらつくという意外な天気でした。しかし,琵琶湖に近づくにつれて天気が回復しました。
 奥琵琶湖は自宅から1時間と少しで着きましたが,到着したのがまだ8時すぎと早かったことで,もっと先まで行く気になって,予定を変更して,かねてから行ってみたかった伊根まで足をのばすことにしました。伊根まではさらに車で2時間かかります。
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 私は,学生時代に山陰地方1周というひとり旅をしたことはすでに書きました。そのとき,天橋立には行きました。また,列車で余部鉄橋を越えました。そのとき通った余部を懐かしくなって,昨年再び出かけたこともまた,すでに書きました。しかし,伊根までは足をのばしたことはこれまで一度もありませんでした。

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 伊根の舟屋としてその景観が有名なのは,京都府与謝郡伊根町の伊根地区にある伊根湾沿い立ち並ぶ舟屋群のことです。伊根の集落は舟屋とよばれる独特な形をしていて,それが重要伝統的建造物群保存地区となっています。
 舟屋は江戸時代中期ごろから存在しているものとみられ,現在でも200棟ほどあります。舟屋は伊根湾の海面にせり出して建築されていて,1階に船揚場,物置,作業場があり,2階が居室という構造になっています。こうした舟屋が湾を取り囲むように立ち並んでいて,近年ではその景観が観光資源となり,「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」や「釣りバカ日誌5」などの映画や連続テレビ小説「ええにょぼ」などのテレビ番組のロケ地としても知られています。
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 私は,iPhone の GoogleMaps に従って走って,午前10時30分ごろにようやく伊根に到着しました。
 思った以上に遠いところでした。途中の天橋立までは走っている車も多かったのですが,天橋立を通り過ぎてからは車の数も急に少なくなり,丹後半島の絶景を眺めながら海に面した道路を気持ちよく延々と進みました。さすがにこんなに遠いところはいくら観光地とはいえ,訪れる人は少ないだろうと思いながら走りましたが,とてもいい場所で,爽快でした。
 やがてひと山超えると,目の前に海が広がりました。そして,伊根の舟屋が見えました。
 ちょうど湾の中心付近に駐車場と観光案内所がありました。駐車スペースはかなり空いていました。車を停めて,まず,観光案内所に行きました。もっとひなびたところを予想していたのですが,私の予想に反して,広い駐車場もあったし,きれいな観光案内所もあったのが意外でしたが,観光に力を入れていることがよくわかりました。
 あとで知ったのですが,ここは決して訪れる人が少ないのではなくて,通常なら毎年30万人近い観光客が訪れるそうなのです。だから,この時期は,こんなご時世でなければ内外の観光客でもっとごった返していて,外国語が飛び交っている場所だったのです。先月行った旭山動物園同様,今年来てよかったと思いました。

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  わかめ刈る 与佐の入海 かすみぬと 海人にはつげよ 伊禰の浦風
    鴨長明
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 引き続き,現在も使われているシュミット望遠鏡の紹介をします。
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 今なお現役で最も口径の大きいシュミット望遠鏡は,前回書いたパロマ天文台の口径126センチメートル「サミュエル・オシン望遠鏡」(The Samuel Oschin telescope)ですが,その次がオーストラリアのサイデンスプリング天文台にある口径124センチメートルの「UKシュミット式望遠鏡」(UK Schmidt Telescope)です。そして,それに次いで東京大学木曽観測所にある口径105センチメートルのシュミット望遠鏡となります。
 今回はその中で,まだこのブログで取り上げられていないサイデンスプリング天文台のシュミット望遠鏡について書きます。

 パロマ天文台と木曽観測所のシュミット望遠鏡は雑誌などで多くの写真が掲載されているので,子供のころから親しみがあるのですが,サイデンスプリング天文台のシュミット望遠鏡は謎でした。どういう形をしているのか,写真ですら見たことがありませんでした。
 私は,2018年と2019年の2回もサイデンスプリング天文台に行く機会がありました。しかし,パロマ天文台もそうですが,サイデンスプリング天文台もまた,最も大きい口径3.9メートルの反射望遠鏡は公開されているので見ることができますが,シュミット望遠鏡は一般には公開されていません。しかし,サイデンスプリング天文台の展示室にこの望遠鏡のことがパネルで紹介されてあったので,私はこの望遠鏡について知ることができました。
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 それにしても,木曽観測所が名古屋から車で2時間,パロマ天文台もまた,サンディエゴから車で2時間もあれば行くことができるのに比べて,サイデンスプリング天文台は都会からかなり遠いのです。この天文台のあるのは私の好きな町クーナバラブランですが,クーナバラブランは最も近い都市であるシドニーまでは,なんと500キロメートル近くもあり,車で5時間30分もかかります。オーストラリアは雄大過ぎるのです。

 この天文台にある口径124センチメートルF2.5 のシュミット望遠鏡は「UKシュミット式望遠鏡」といいます。望遠鏡の外形はパロマ天文台の「サミュエル・オシン望遠鏡」に非常によく似ています。
 「UK」というのはイギリスのことですが,それはもともと,この望遠鏡は1973年にイギリスによって建設され運営されていたためです。1988年にオーストラリア天文台と合併され,2010年にイギリスが撤退したので,現在はオーストラリアが運営しています。
 南半球にあることから,南天の星空の調査に使われています。
 当初は,35センチメートル四方の正方形のガラス製の写真乾板に6度角四方の視野から像を結んだ写真を,宇宙望遠鏡科学研究所によってディジタルスキャンして, ハッブル宇宙望遠鏡のガイドスターカタログとデジタイズドスカイサーベイを作成するのに使われていました。
 この望遠鏡もまた,ほかのシュミット望遠鏡同様,1990年代後半に大規模な電子CCD検出器に置き換えられました。さらに,2000年以降は,シュミット望遠鏡の優れた光学系と広い視野を生かして,6度という広い視野をもつシステム(=6dFシステム)が構築されました。このシステムで,100個以上の天体のスペクトルを同時に取得できる「多物体光ファイバ分光装置」として活用されています。
 また,2001年から2005年にかけて「6dF Galaxy Survey」プロジェクトを実施し, 南天全体で120,000を超える銀河の赤方偏移を測定し,その中で最も明るい10,000の銀河についてより詳細な測定が行われました。また,2003年から2013年にかけては,銀河の約50万個の星について半径方向の速度と物理パラメーターを測定しました。
 さらにその後,この望遠鏡はリモート操作が行えるように改造され,新しい調査プロジェクトがはじまっています。
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 このように,私が知らなかっただけで,このシュミット望遠鏡は南半球に設置されている利点を生かして,今も充実した研究に使用されているのです。

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旭山動物園で過ごすうち,はじめは快晴だった空が次第に曇ってきました。しかし,旭山動物園から留萌市に戻ってきたときは昨日以上の快晴が続いていました。道北も,日本海側と内陸部ではずいぶんと天気が違うようです。
ネオワイズ彗星も見たし,旭山動物園にも行ったし,もう,すべてが満足でした。
ただ彗星見たさに,それ以外は何の計画もなくやってきた北海道でしたが,ものすごく充実した旅となりました。今晩は北海道らしくおいしいお寿司でも食べてゆっくりするつもりで,ホテルの近くのお寿司屋さんに行きました。土曜日ということもありお店はかなり混んでいてずいぶんと注文したお寿司が出てくるのを待ちましたが,ともかく,本場のお寿司をおいしく食べることができました。
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この晩は何もせずに過ごすつもりでしたが,昨晩以上の快晴だったので,再び,彗星を見にいきたくなりました。しかし,さすがにサロベツ原野まで行くのは,翌日の早朝に新千歳空港まで行かなけばならないから断念して,こちらに来た日に下見をした小平町を過ぎたあたりの海岸で見ることにして,出かけました。
この晩もまた,美しい彗星を見ることができました。昨晩見て,彗星がどのように見えるかはわかっていたので,この晩は,彗星の姿を画面一杯に入れた写真を写すことにしました。それが,すでにブログに載せた写真です。

7月19日日曜日。
朝は午前5時にホテルを出ました。新千歳空港発午前9時40分のスカイマークでセントレア・中部国際空港に帰ります。
午前8時にレンタカーを返すことになっていたのですが,営業所に着いたのが,まさに午前8時ちょうどでした。 スカイマークはジェットスターとは違って,とても感じのよい航空会社でした。帰りもまた窓際の席をとってありました。機内からは富士山が見えました。
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こうして私は,突然決めた,ネオワイズ彗星を見ることだけを目的とした3泊4日の北海道の旅からもどってきました。 おそらくあと数日遅かったら,「GoToトラベル」(通称「強盗トラブル」)とやらのために,北海道はもっと混雑していたことでしょうし,逆に,数か月早かったら,北海道に行くことはできなかったことでしょう。とても幸運でした。
私が帰ってからも,依然として晴れる日がなく,自宅からはネオワイズ彗星が見えません。しかも,北海道も天気が悪くなり,晴れ間がなくなってしまったようです。
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 2020年はおかしな年です。まるで,天が人類を試しているかのようです。
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 梅雨入りをしたら,まったく晴れなくなりました。日照時間は例年の3割だそうです。そしてまた,まったく台風が発生しませんでした。
 何かすべての歯車が狂っているようです。それはおそらく,世界を作った神様のプログラムにバグがあったからなのでしょう。
 そんな中,人類が慌てふためく姿を天が視察に来たかのように,突然,明るい彗星が立て続けに地球に接近しました。

 そのはじめがアトラス彗星(C/2019Y4 ATLAS)でした。4月に明るくなって肉眼でも見えるということで,大いに期待しましたが,予想に反して明るくなりませんでした。
 次がスワン彗星(C/2020F8 SWAN)だったのですが,この彗星の軌道から,南半球ではその明るい姿が見えたものの,北半球では明け方と夕方の,まだ空が暗くならないころに地を這って見えただけでした。しかも,月明かりが邪魔をしました。
 その次がレモン彗星(C/2019U6 Lemmon),そして,極めつけがネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)でした。しかし,レモン彗星もネオワイズ彗星も,最も明るかったころはずっと天気が悪く,いずれも,雲がその姿を覆い隠し,見ることがかないませんでした。
 特に「2020年の大彗星」となったネオワイズ彗星は残念でした。私はその姿見たさに北海道まで足をのばすことになりましたが,幸い,北海道でその美しい姿を見てきたことは,すでに書きました。

 さて,7月31日。ついに晴れました。自宅で青空を見るのは1か月ぶりのことでした。すでに7月の新月はとうの昔に終わり,南の空には,1番目の写真のような月齢10の明るい月が星の光を隠していました。いつもなら,こんな月の明るい時期に星見などしません。しかし,久々にやってきた晴空だったので,ネオワイズ彗星を見にいくことにしました。
 ネオワイズ彗星は,2番目の写真のように,さすがにもうずいぶん暗くなっていたのですが,それでも簡単に双眼鏡で見ることができました。北海道で見てきたときとは位置も変わり,4番目の写真のように,今はかみのけ座にいるので,もし,月明かりがなければ,かみのけ座の銀河団とともに,その姿を美しく捉えることができたことでしょう。それがとても残念でした。また,3番目の写真のように,そのお隣にいるレモン彗星は,すでに9等星まで暗くなっていました。
 それでも,このふたつの彗星を,やっと自宅から1時間ほどの場所で写すことができて,この晩は満足しました。そして,月明かりを恨めしく思いました。おそらく,北海道に行っていなければ,この日がネオワイズ彗星を見る最初の晩となったことでしょう。そして,非常に残念に思ったことでしょう。

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かねてから話題の旭山動物園ですが,まさか来るとは思ってもいませんでした。この旅でも頭の端にもなかったからです。
思えば,私は,これまで世界中の多くの動物園に行ったものです。それも,どこも,別に行きたいと思っていたわけでもなく,それぞれの場所で時間つぶしをするために行ったようなものです。でありながら,ぜひ行ってみたいと思っているウィーンにあるシェーンブルン動物園にはまだ行ったことがないし,というか,いくらでも行く機会があったのにもかかわらず,見逃してしまっているし,この旭山動物園も,今回の旅で,どういうわけか旭川市に行こうと思わなければおそらく行かなかったことでしょう。要するに動物園には想い入れがないのです。でも,動物園が好きなのです。きっと。
今回は,旭山動物園があることに気づいたのが幸運でした。そして,気づいたときにはすぐに行動に移すのが何ごとにつけ大切なのです。

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旭山動物園は日本最北の動物園で,1967年(昭和42年)にオープンしました。
1994年(平成6年)に,エキノコックス症によって園内のニシローランドゴリラとワオキツネザルが相次いで死亡したことから来園者数が減少するなどの大きな打撃を受け,一時は廃園まで検討されたといいます。
旭山動物園の園長や飼育員,市職員たちのアイデアや創意工夫などにより見事に再生を果たし,2004年(平成16年)には,上野動物園を抜いて日本一の月間入園者数を記録して,日本中の注目を浴びました。再生計画では,園長や飼育員たちのアイデアによる14枚のスケッチなどから,従来の形態展示をやめ,行動展示や混合展示を導入することで,動物たちが自然界で動き,泳ぎ,飛び,生きる本来の魅力を間近に見られるおもしろさが一般的にも評価されたといわれます。
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旭山動物園は旭川市街のさらに東にあったので,思ったより時間がかかり,午後2時過ぎにやっと到着しました。私がさらに幸運だったのは,この時期,旭山動物園もまた,コロナ禍の影響で,入場者が非常に少なかったということです。私が行ったのは土曜日だったし,快晴で,おそらく,普段ならごった返しているはずなのに,動物園に最も近い無料の駐車場に車を停めることができました。園内もまた,まったく待ち時間もなく,ストレスを感じない,ほどほどの人がいて,また,インバウンド華やかなりしころに見られた,群れて大声ではしゃぎまわる傍若無人な某国のツアー客もおらず,とてもよい雰囲気でした。
愉快な動物園でした。いろいろな工夫が凝らされているのがとてもよくわかりました。勉強にもなりました。日本の動物園は,欧米やオーストラリア,ニュージーランドなどの動物園に比べて狭く,汚いのですが,ここは,ほどよい広さであり,それぞれの展示が本当に凝っていて,とてもためになりました。しかし,せっかく丁寧にいろんなことが説明してあるのに,それを見ることなく通り過ぎていく人がほとんどなのが残念でした。
楽しい午後の時間を過ごすことができました。
それにしても暑い日でした。私はソフトクリームで涼をとりました。あれだけ望んだ青空が,今度はうらめしいなんて,私はなんという罰当たりなのでしょうか。

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