しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

September 2020

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●ジョンストンリッジ展望台●
 北東のルートを降りて,予定どおり次に北西のルートでジョンストンリッジ展望台をめざした。
 北西のルートの入口に行くには大回りをして再びインターステイツ5までもどって,北西のルートに行かなければならない。
 マウントセントへレンズをアナログ時計の円の中心に置いたとき,北東ルートの入口はアナログ時計の3時の位置であり,北西のルートは9時の位置になる。そして,行かなかった南のルートは6時の位置になるのだ。
  ・・
 これから目指す北西のルートの終点はジョンストンリッジ展望台(Johnston Ridge Observatory)である。ジョンストンリッジ展望台は標高1,280メートルの尾根にある,火口に最も近い展望台である。大噴火のとき,ここで観測していて犠牲になった火山学者デイヴィッド・ジョンストン(David Alexander Johnston)の名前からつけられた。
 ジョンストンリッジ展望台から火口までは9キロメートルほどの距離で,馬蹄形のクレーターを真正面から眺めることができるので,一番人気のところである。それに加えて,インターステイツ5からアクセスできるので,便利でもある。

 マウントセントへレンズの火口は,このときは小康状態だったので,何事もなく観光することができたが,火山の活動状況によっては園内の道路が閉鎖されることもある。
 それは,阿蘇山や箱根の大涌谷と同じである。私は幸運にも,阿蘇山も箱根の大涌谷に行ったとき平穏であったが,ここもまた,ともにその1年後は火山活動が活発になって閉鎖され,アクセスできなかった。
 さまざまなブログを見ると,このマウントセントへレンズに行ってはみたがジョンストンリッジ展望台が閉まっていたとかいった気の毒なものもあるので,私はここでもまたツイていたといえるだろう。
 火山活動が平穏なときには,マウントセントへレンズは登頂することも可能だそうだ。しかし,環境保護のため,1日100人に制限されている。こういったことが徹底されているのがアメリカである。登頂は往復で12時間ほどかかるということだが,人気があるのは,南側からのルートということだ。

 北西からのルートは,北東からのルートとはうって変わって,最後まで快適な道路が続いて,難なく到着することができた。また,ここは,北東のルートとは異なり,完全な観光地であり,広い駐車場には多くの車が停まっていた。
 展望台に至る道を登っていくと,ビジターセンターがあった。ビジターセンターの入口も人で溢れていた。私はビジターセンターの横を素通りして,まず,展望台に行った。展望台からは巨大なセントへレンズが間近に迫り,180度にわたって山しかないという光景は,まさに圧巻だった。それにしても,いつも書いているように,ジョンストンリッジ展望台は日本とはまったく違って,意味のない落書きだらけの看板やら赤茶びた老朽化したままの手すりやらも皆無だし,ごみひとつ落ちていない。
 マウントセントへレンズは,噴火以前の姿はまさに富士山と瓜ふたつでtあった。もし富士山が噴火したらこうなるのかと思うと恐ろしくなったことだった。

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💛

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●ウィンディリッジ展望ポイント●
 セントへレンズ火山の登り口は北西,北東,南の3つのルートがあることはすでに書いた。
 セントへレンズ火山は,噴火の際に北西の山腹が大きく崩れたために,山頂が吹き飛んでできた馬蹄形クレーターや溶岩の跡,溶岩ドームなどのドラマチックな風景を見ることができるのは山の北側だけなので,3つのルートのうち,北東と北西に絞って登ってみることにしたのだった。
 よって,南からのルートのことは預かり知らないが,北東と北西のルートのうちでは,北西からのルートが最高であった。しかし,当然,北西のルートは人気があるから,すごい人であった。それにくらべて,北東からのルートは空いていてのどかで,それはそれでよいものであった。

 はじめに登った北東のルートのゴールはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントで,展望ポイントに着くまでの道路は想像以上に大変であった。
 写真で見ると大したことがないように思えるだろう。そしてまた,日本の山岳道路に比べたらそれは美しく快適であるように思えるだろう。が,それでも,狭くカーブが多かった。しかも,途中までは大した風景も見られず,何度もめげそうになった。
 ところが,やっと見晴らしのよいところに出ると,突然,セントへレンズ火山の恐るべき雄大な景色が姿を現した。大噴火の時に爆風で倒れた樹木は無惨な姿をさらし,そのはるか向こうには火口がえぐられた巨大なセントへレンズ火山の姿であった。
 このコースのよいところは,眼下に広がる巨大なスピリットレイク(Spirit Lake)の全体を見ることができることだった。

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 1980年の噴火以前は,スピリットレイクはノースフォークトウトル川と支流の谷を占めていた2本の支流で構成されていた。約4,000年前,これらの谷はセントヘレンズ山からのラハールと火砕流堆積物によって塞がれ,スピリットレイクを形成したのだった。
 スピリットレイクの最長部分は約2.1マイル,3.4キロメートルで,火山性物質で構成された自然のダムを作っていた。また,水位は安定していて,高度は約3,198フィート,970メートルであった。
  ・・
 スピリットレイクは人気のある観光地で,湖畔には6つのキャンプ場とロッジがあったが,1980年のセントヘレンズ火山の噴火で,すべてが一変してしまった。
 スピリットレイクは火山からの側方爆風の完全な衝撃を受け,この噴火に伴う爆風とがれきのなだれにより湖の大部分が押し出された。
 また,湖の北の海岸線に沿った山の斜面の湖面から850フィート,260メートルほどの高さの波が襲った。この波で,約350,000エーカーフィート,430,000,000立方メートルにわたって熱分解した木やその他の植物材料などのがれきや火山灰などが堆積した。この堆積により,湖の体積は約45,000エーカーフィート,56,000,000立方メートルも減少したのだった。
 そして,湖の表面標高は197フィート,60メートルから206フィート,63メートルに上昇,表面積は1,300エーカーから約2,200エーカーに増加し,最大深度は190フィート,58メートルから110フィート,34メートルに減少した。噴火は周囲の丘の中腹から数千本の木を引き裂き,湖に押し流した結果,噴火後の湖の表面の約40パーセントを覆う湖の表面に浮遊ログラフトが形成された。
  噴火後,スピリットレイクには火山ガスが湖底から染み出し,これが非常に有毒な水となり,1か月後には湖水には酸素がなくなった。科学者は,湖はすぐには回復しないだろうと予測したが,1983年には植物プランクトンが再出現し,酸素レベルが回復,カエルやサンショウウオなどの両生類が湖に再植民し,漁師によって再導入された魚類が繁栄したた。
 自然というのはすごいものだ。
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 ようやくウィンディリッジ展望ポイントに到着した。コースの途中もそうであったが,展望ポイントにもほとんど人がいなかった。しかし,とてもすばらしい風景が広がっていた。
 このコースがすいていたのは,このコース以上に北西のコースがすばらしいことと,こちらの方がアクセスがきわめて不便であることが原因だと思われる。しかし,この展望ポイントからの風景を見ないというのは,あまりに残念なことだと思った。

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💛

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●セントへレンズ火山の噴火●
 マウントセントヘレンズ(Mount St. Helens)は大型の活火山である。
 カスケード山脈の一部にあって,先住民族のクリッキタット(Klikitat)からは「煙と火の山」という意味の「ロウワラ・クロウ(Louwala-Clough)」とよばれていたが,18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍の航海士ジョージ・バンクーバー(George Vancouver)によって,友人であった外交官の初代セントヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(Alleyne FitzHerbert, 1st Baron St Helens) にちなんでマウントセントヘレンズと名づけられたものである。
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 セントヘレンズ火山は,1980年5月18日に大噴火を起こした。
 この大噴火によって大規模な山体崩壊を起こし,直径1.5キロメートルにわたる蹄鉄型のカルデラが出現,山の標高は2,950メートルから2,550メートルに減少した。崩壊時に土砂は岩屑なだれとなり,200軒の建物と47本の橋を消失させ,57人の命を奪い,5,000頭のシカや1,100万匹の魚が死亡した。また,鉄道は24キロメートル,道路は300キロメートルにわたって破壊された。
 火山灰や火砕流、泥流、そして岩屑なだれなどの被害は概ね火山学者たちが事前に予測した通りの範囲で起きたが,横なぐりの爆風は予想外であり,大噴火を予測することもできなかった。
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 2004年秋,セントヘレンズ火山の活動は再び活発化した。9月23日ごろ,山頂においてマグニチュード1未満の微小地震が約200回にわたって連続して発生し,9月26日には,この群発地震を危険な兆候と捉えレベル1の警戒が発令された。地震の頻度は9月29日ごろに最大化し,1分間に4回の割合で微小地震が観測された。山頂の溶岩ドームからは水蒸気が立ち上り,警戒レベルが2に引き上げられた。
 10月1日になると水蒸気や火山灰の噴出がはじまり,噴煙は標高3,000メートルに達し,10月2日には,前日よりも強い爆発が起き,警戒レベルが最大レベルである3に引き上げられた。が,10月6日には警戒レベルは引き下げられた。それ以降も,山頂の新たな溶岩ドームは,1秒間に10立方メートルの割合で成長を続け,このペースで溶岩ドームが成長するならば,2015年にはセントヘレンズ火山の標高は1980年の噴火前と同じ高さに達するだろうと推測された。
 翌年2005年の3月8日,セントヘレンズ火山を再び大規模な火山活動が襲い,噴煙が海抜1万メートルにまで立ち上り,マグニチュード2.5の地震が観測された。5月5日,セントヘレンズ火山の山頂にできた新たな溶岩ドームは,最高点の標高が2,339メートルであると発表された。
 この溶岩ドームの活動は2008年1月に止まり,6月10日には噴火活動の終息が宣言された。
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 マウントセントヘレンズは火山灰や軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山で,複式円錐火山ないし成層火山とよばれる内部構造をしている。また,複数のデイサイトの溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩と安山岩の層が含まれている。 
 マウントセントヘレンズから東に約55キロメートル行った地点には標高3,743メートルのマウントアダムス(Mount Adams)が,北東に約80キロメートル離れた地点には標高4,329メートルの最高峰マウントレイニー(Mount Rainier)が,また,南東に約95キロメートルの地点には標高3,429メートルのマウントフッド(Mount Hood)が位置している。これらの山々は飛行機に乗るととてもよく見えて,その山々の雪を被った頂きを上空から見ると,いつも感動する。
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 マウントセントヘレンズの北側に位置するレイクスピリットは,有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。また,マウントセントヘレンズからは3本の河川が流れている。それらは,山の北側から北西側に流れるトートル川(the Toutle River),山の西側に流れるカラマ川(the Kalama River),山の南側から東側に流れるルイス川(the Lewis River)である。

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正代関,初優勝と大関昇進,おめでとうございます。
ずっとこのブログで書いているように,白鵬さえいなければ,大相撲はおもしろいのです。そんな横綱も全盛期を過ぎ,次の主役を求めて,相撲協会も懸命です。
もし,今,稀勢の里関が全盛期であれば,最強の横綱だったことでしょう。白鵬の全盛期と重なったのが不運でした。DSC_3747 (2)

💛

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 あと4日で,2020年も10月が来ます。
 2008年に襲ったリーマンショックのときも,立ち直るのに半年,いや,1年…,などという話で,時が経つのを待ちこがれたものですが,いつの間にかリーマンショックも過去の歴史となりました。今年のコロナ禍もまた,同じように,解決する日を待ちわびていても,気づいたときには過去の歴史となっているのでしょう。
 ただし,忘れてならないのは,こうしたさまざまな問題は,ゲームが終了するように,これで終わり,というときが明確に来るのではなく,なんとなく気づいたときには終焉していて,しかし,終焉したからといっても,それで,世界がバラ色になるわけでも元通りになるものでもなく,また,別のさまざまな出来事が起きて,常にならんらかの不安が世界を襲っているということです。それが人の世です。
 とはいえ,どんな状況であっても,その状況を嘆き悲しんでいても何も変わらず,むしろ,せっかくの時間をむだに過ごすことになります。現実を嘆いていても何もはじまりません。それに,若い人ならともかくも,歳をとると時間は貴重です。
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 自粛自粛と騒ぎたてている人もいますが,目的は感染予防であって自粛ではありません。
 何も身についていないのに答えを写して課題を提出していい子になっている学生さんと同様,100パーセント飛沫が漏れるからムダなだけのフェイスシールドをしてごまかしている人や,早朝だれもいない屋外でマスクをして犬の散歩をしている世間体を気にしているだけで何もわかっていない人たちや,顎マスクをしてタバコをふかしている人たちや,喫茶店で飛沫を防ぐことすらできない自作の目の粗いマスクをして大声で話をしている年配の人たちのグループのように,やったふりではまったく意味がないのですが,これが日本の教育の成果なのでしょう。
 日本で,1日にがんを発病する人は平均して約2,700人います。新型コロナウィルスに感染する人の約5倍です。新型コロナウィルスに感染しても何もしなくても9割の人は治りますが,がんは死に至ります。なのに,新型コロナウィルスの感染を恐れてがん検診を受けない人が多くいるそうです。また,昨年は少なかったとはいえ,ワクチンがあるにもかかわらずインフルエンザに感染した人は約700万人いて,治療薬があるにもかかわらずインフルエンザが原因で死んだ人が約7,000人いました。しかし,インフルエンザでクラスターが発生してひとクラスで10人以上が感染し学級閉鎖が頻繁に起きていてもせいぜい新聞の地方版に小さく報道されるだけなのに対して,新型コロナウィルスで学校全体で数人が感染しただけでクラスター発生と大騒ぎで全国に報道するのは不安を煽っているだけです。ぜひこの冬は,新型コロナウイルスの県別の感染者数を新聞紙上に毎日掲載するのなら,同じように,インフルエンザの県別の感染者数も新聞紙上に毎日掲載してもらいたいものです。そして,感染者の多い県への移動の自粛を要請してほしいものです。

 そんなわけで,このわけのわからない,かつ,人の本性が明らかになった2020年もすでに9か月が過ぎ,また,2020年度も半年が過ぎたので,一体その間に私は何をしたか,ここらあたりで振り返って,今後の糧とすることにしましょう。
  ・・
 まず,1月。やがて来る不安な将来もまだ予感できなかったころ,昨年に続いて,私は朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局で,藤井聡太・現二冠の対局を観戦しました。その後,当時七段だった若き天才棋士はタイトルをふたつも獲得し,再び時の人となりました。私は,タイトルを獲得するまでは,ということで熱を入れて応援していたのですが,そろそろそれも卒業したいと考えています。私の性格では,将棋も相撲もそうですが,勝負ごとに対して熱をあげて応援するのは,ひいきの人が負けたときに疲れ落ち込むだけで楽しむことができないのです。私は勝負ごとの観戦を趣味にするのは不向きなのです。
 2月の上旬には深夜バスに乗って,高知県へ行き,ぜひ行ってみたかった念願の足摺岬と四万十川を訪れました。とてもよいところでした。このことはすでにブログに書きました。そして,下旬には,これもまたぜひ行ってみたかったハワイのモロカイ島に足を運びました。モロカイ島は私にはとても魅力的なところでした。ギリギリ間にあって行くことができて本当によかったです。これをもって,私がどうしても一度は行ってみたかった海外の場所は,ほぼなくなりました。
 3月の上旬になると,すでに,新型コロナウィルスの不安がひたひたと迫りつつあって,日本国内からは海外からの観光客が潮を引いたようにいなくなりました。そんなインバウンドの去った折,私は絶好の機会と思って,車で,ずっと行きたかった新潟県の親不知海岸や兵庫県の余部,豊岡,京都府の福知山,さらには,福井県の丸岡や一乗谷に行くことができました。そして,3月の下旬には,観光客が少ないのを幸いに,連日京都市内に出かけて,満開の桜を堪能しました。この先,こんな機会は二度と訪れないだろう人の少ない生涯最高の春の京都でした。
 さすがに4月になると,遠出をすることができなくなりました。そんな折,空の上には立て続けに明るい彗星が現れ,私は,それをどこで見るか頭を悩ませながらも,日ごろは行くこともない地元の史跡を訪ね歩きました。こうした楽しみを知っていてよかったと思ったことでした。
 5月も終わるころは一度は新型コロナウィルスの感染も収まって,再開した木曽駒高原のペンションに行って満天の星を見たり,旧中山道の鳥居峠を歩き,ひとひとりいない奈良井宿を散策しました。
 そして,7月にはネオワイズ彗星を見たいという一念で,北海道のサロベツ原野まで足をのばしたわけです。ネオワイズ彗星は,私の住んでいる場所は連日の悪天候でまったく見ることができませんでしたが,快晴の北海道で,肉眼でその美しい姿をしっかりとらえることができました。もし1,2か月ネオワイズ彗星の接近が早かったら北海道に行くこともできなかっただろうし,逆に,今の時期なら,7月のころとは違って,多くの観光客がもどってきていて,私がでかけたころのような,人の少ない北海道を楽しむこともできなかったかもしれません。幸運でした。

 実は,本来なら,2020年は,3月の下旬はオーストラリアのアデレード,6月下旬には白夜のフィンランド,そして,8月の下旬はアメリカのフェニックスに行くことにしてあって,航空券も手配済みだったのですが,それはすべてかなえられませんでした。また,定期会員であったNHK交響楽団の定期公演もすべて中止となってしまいました。さらには,山形県の天童や山寺,はたまた,青森県弘前市の桜を見に行こうと密かに計画したのですが,それもかないませんでした。しかし,それらはこれから先でもできること。
 こうして振り返ってみると,私には,この半年は,できなかったことよりも,こういう状況であったがためにできたことのほうがずっと多かったことに気づきます。おそらく,こんな状況でなければ逆に,静寂な京都や奈良井宿を散策することも,ネオワイズ彗星を見るために北海道に行くこともなかっただろうと思うと不思議な気がします。
 それにしても思うのは,人が生きるというのは,どんな状況であっても,精神的に健康でなればならないということです。それが生きるという糧につながります。生涯独房の中で100歳まで孤独に生きても詮ないのです。人は,肉体よりも精神を病むことのほうがより危険なのです。
 私のように普段からひとりで読書や音楽鑑賞や自然を楽しむことが好きならばそれでもなんとか切り抜けられても,そういう人ばかりとは限りません。そこで,生活に制限があるときこそ,楽しみが必要なのです。それなのに,唯一の楽しみはテレビを見ることという病気で入院している人や年老いた人や体の不自由な人も少なくないのに,テレビ番組は,人の不安を煽るようなものばかりでした。娯楽番組までQRコードを常時表示したNHK総合テレビ,これでは逆に精神を病んでしまいます。マスメディアは自分たちが何たるかをまったくわかっていません。

 9月になると,経済活動の限界を恐れて,それまでの自粛要請はどこへやら,国は需要の喚起に乗り出しました。そしてまた,主体性のない,人の目だけを気にして自粛をしたふりをしていた人たちは,もう我慢の限界とばかりに,今になって,GoToキャンペーンとやらで背中を押され,ここ半年外出もままならなかった反動で再び旅行をしはじめて,観光地には人がもどりつつあるようです。こういうときこそ,これまで自粛警察をしていた人は旅行などしないでさらに人々に自粛を促し,かつ,自らが率先して自粛をしなければいけないのではないでしょうか。
 しかし,消費税が10パーセントになった当初に行われたキャッシュレス5パーセント還元も,10万円配るのも,5,000円分のマイナポイントをつけるのも,GoToキャンペーンでクーポンを配布するのも,財源はみんな国民の税金であることを忘れてはいけません。そのうち,巨額の増税が待っています。
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 私は,以前から,人が多い観光地には行きたくなかったし,群れることが嫌いなので,これからはそろそろ巣ごもりにもどりたいと思っています。そうなると,これまで読めなかった本やら,覚えたかった外国語やら,聴く機会を逸していた音楽などが,最高の楽しみとなります。また,星図を眺めていたら,これまではまったく興味のなかった重星や変光星に興味がわいてきました。こうした対象ならば,空が多少明るくても楽しむことができそうです。空の上にも,まだまだ楽しいことは残っているのです。人のまったくいない,寝静まった深夜に星空と一体となるのは,ほかの何ものにも代えがたい楽しみのひとつです。
 それにしても,こうして改めて振り返ってみると,このわけのわからない2020年だったからこそできたことがこんなにたくさんあったことに,今更ながら驚きます。まさに,思想書「淮南子」のいう塞翁が馬です。

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 近塞上之人有善術者
 馬無故亡而入胡
 人皆弔之
 其父曰此何遽不為福乎
 居数月其馬将胡駿馬而帰
 人皆賀之
 其父曰此何遽不能為禍乎
 家富良馬
 其子好騎墮而折其髀
 人皆弔之
 其父曰此何遽不為福乎
 居一年胡人大入塞
 丁壮者引弦而戦近塞之人死者十九
 此独以跛之故父子相保
 故福之為禍禍之為福化不可極深不可測也
  ・・
 砦の近くに住んでいる人で占いに精通している者がいました。
 飼っていた馬が理由もなく逃げてとなりの国の胡に行ってしまいました。
 人々は皆これを気の毒に思ってなぐさめました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして幸福にならないと言えようか」。
 数か月たってその馬が胡の駿馬を連れて帰ってきました。
 人々は皆これを祝福してくれました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして禍となることがありえないだろうか」。
 老人の家は良馬が増えました。
 その老人の息子は乗馬を好み落馬して太ももの骨を折ってしまいました。
 人々はこれを見舞いました。
 しかしその老人が言うことには「これがどうして幸福にならないと言えようか」。
 それから1年が経ち胡の人が大軍で砦に攻めてきました。
 体の丈夫な若者は弓を引いて戦いましたが砦の近くの人で死者は10人中9人になりました。
 この老人の息子だけは足が不自由なことが理由で父子ともに無事でした。
 福が禍となり禍が福となるその変化を見極めることはできずその奥深さを測ることはできないのです。
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💛

無題 (2)

 みつはしちかこさんの叙情まんが「小さな恋のものがたり」の第43集が出版されたとき,これが最後だという触れ込みだったので,
  ・・・・・・
 人はだれもが老いるのです。永遠はありません。だから,終わりがあるのです。
 そういう意味でも,第43集が発行されて,ちゃんとおしまいにすることができたことは,寂しくもあり,喜ばしいことでもあると思います。
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と,このブログに書いたものですが,その後,第44集が出版され,この度,さらに第45集が発売されました。

 「小さな恋のものがたり」は,みつはしちかこさんによる連続したストーリーのある4コマ漫画集で,背が低いことを気にしている女の子チッチ(小川チイコ)と背が高くハンサムなサリー(村上聡)の恋愛模様を描いた作品です。 
 1962年に当時あった雑誌「美しい十代」に連載が開始され,はじめて単行本としてまとめられて出版されたのが1967年というから,連載開始から58年,単行本の第1集の出版からはなんと53年になります。
 単行本は2007年の第41集までは毎年出版されていたのですが,そ以後中断し,4年後の2011年に42集が,その3年後の2014年に第43集が刊行されて,完結したはずだったのです。
 しかし,2018年に第44集が出版され,今回が第45集となります。
 第45集の紹介は次のとおりです。
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 サリーを想いながら過ごす“その後のチッチ"のものがたり。
 1962年に「美しい十代」で連載を開始して以来,ピュアな恋のストーリーと抒情的な描写で多くのファンを魅了し続けている「小さな恋のものがたり」。主人公の高校生チッチは,2014年発行の「小さな恋のものがたり第43集」で突然ボーイフレンドのサリーがスウェーデンに留学してしまい,恋にひとつの区切りをつけることになりました。
 第45集は,サリーを想いながら過ごすチッチの日常を四季折々の風景とともに描いた「その後のチッチ」の第2弾。親友のトンコなどクラスメイトたちとの心温まるエピソードのほか,マリちゃんのお兄ちゃんなど新キャラも。
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 いつも「閉店セール」をしている洋服屋さんのように,「小さな恋のものがたり」は,毎年刊行されていたころより,これでおわりだというようなあとがきがたびたび書かれてあったものですが,そんなことはお構いなしに延々と続き,第43集で「完全閉店セール」となったのにもかかわらず,それでもまだ続いています。
 私の手元には第1集から揃っているので,新刊が出たら揃えるしかないとばかり,この第45集もまた自然にすでに私の手元にあるのですけれど,まあ,今,この本を楽しみにしている人の多くはそんな人なのでしょう。若い人は,この作品の存在すら知らないかもしれません。
 しかし,これで終わりだろうと終わりでなかろうと,何度閉店セールをしようと新装開店セールをしようと,もはやそんなことは一切関係なく,このあわただしい社会の変化もまた関係なく,静かに流れる小川を時間を忘れて眺めて幸せに浸るような,そんな心地よさと変わらぬ安心感を抱きます。
 それにしても,私がわからないのが,どうして突然サリーが去ってしまった先がスウェーデンなのかということです。おそらくは手の届かないほど遠くということなのでしょうが,突拍子もないというか,スウェーデンでなければならない必然性がまったくわからないというか,あまりの意外性にとまどいます。と,そんなことを思いながら現実にもどれば,この時代,コロナ禍でもなければ,地球上のどんな地の果てであろうと,1日もあればすぐに飛んでいけるわけだし,今や,インターネットを通していつでも相手の顔を見ながら直に話もできるわけで,地球上の物理的な距離など遠いものでもありません。だから,これもまた,そんな現実とは無縁の古きよき時代のお話なのでしょう。
 「サザエさん」ともども,漫画の世界では,社会の変化も科学技術も関係ないし,登場人物が歳をとらないことを,ことのほかうらやましく思います。そうそう,朝日新聞の朝刊に連載している連載漫画「ののちゃん」は,絶対に意識してこのコロナ禍の時代にあえてそれをまったく無視して変わらぬ日常の世界を描いている(と私は思っている)ことに共感を覚えます。

◇◇◇

💛

 私はかつて1度だけ「イギリス」に行ったことがありますが,それは「イギリス」に特に興味があったわけではありませんでした。むしろ,若いころ英語を習っていたときにイギリス人の教師に失礼なことをされて以来,私はイギリスが大嫌いです。やたらとプライドが高い(と私が思う)イギリス人は好きではありませんし,行きたいとも思いません。
 しかし,アメリカ以外の国,特にヨーロッパを旅するようになって,やはり,「イギリス」についても知らなければならないなあと思うようになりました。そこで思い出したのが,私はこの国の英語でのよび方がわからないということでした。それは,以前,友人のアメリカ人の友人のイギリス人と一緒に飲んだときに「English people」と言ったら,おれは「Scottish」だと言い返されてわけがわからなくなったことが理由です。
 日本では「イギリス」「イギリス人」と簡単によびます。しかし,英語でどういうかと考えると困ってしまいます。おそらく,ふつうは「イギリス=England」だと思っているのではないではないでしょうか。だから,「イギリス人=English people」だと私は思っていたのですが,これは間違いでした。そこで,今日は,私のために,きちんとしたよび方を調べてみることにしました。こんなことは常識ではないかといわれるかもしれませんが,私はそんなことさえ知らずに歳をとりました。

 日本人が「イギリス」とよんでいる国の正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)です。私はこれは子供のころから知っていました。いわゆる日本人のいう「イギリス」というのは,イングランド,スコットランド,ウェールズ,北アイルランドの4つの「国」から構成されているということですが,このことすら,私はほどんど認識がありませんでした。それぞれの「国」は首都を持ち,それらは,イングランドではロンドン,スコットランドではエディンバラ,ウェールズではカーディフ,北アイルランドではベルファストです。そして,イングランドの首都であるロンドンはイギリス連合王国の首都としての機能もあります。
 いわゆる「イギリス」の英訳は「England」ではなく「Britain」です。だから,「イギリス人」の英訳は,「the British」なのです。
 「England」というのはイングランドを指します。しかし,広義では連合王国全体を指す場合もある,というのが混乱を起こす原因です。「the English」「Englishman」「Englishwoman」は,広義で一般には連合王国の国民を指すそうですが,「Scottish」「Welsh」「Irish」と区別して「イングランド人」(だけ)の意味ともなります。

 では,なぜ日本で「イギリス」というのでしょうか?
 「イギリス」というのは,ポルトガル語でイングランドを指す「Inglez」(イングレス)が語源なので,「イギリス=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」ではなく,「イギリス=イングランド」なのです。しかし,それが日本では元の意味にかかわらず「イギリス=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」全体を指して使われているというわけです。
 先に書いたように,英語では「Britain=グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」として用いられますが,厳密にいえば,「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)だから,「Great Britain」というとそのうちのイングランド,スコットランドおよびウェールズの3つの国を指すもので,北アイルランドが除外されてしまいます。しかし,それでは 「Great Britain and Northern Ireland」といつもいわなければならない必要がでてきます。そこで,まあ,北アイルランドにはごめんなさいとそこは大目にみて,イギリスのオリンピックチームは北アイルランドも含めて「Great Britain」の名称を用いているということになります。
 イギリスの国民は,自らをイギリス人とみなしているか,または,イングランド人,スコットランド人,ウェールズ人,(北)アイルランド人のどれでかあるとみなしています。あるいは,またはその両方であるとみなしています。自分を何人なのかと思う階層が人によって違うわけです。それは, 日本で自分を「日本人」と思っているのと「江戸っ子」と思っている違いのようなものです。
 ややこしくなりましたが,そういったもろもろのことを含めて,結論として,「イギリス」=「Britain」「イギリス人」=「the British」といえば誤解されないでしょうし,皮肉も言われないことでしょう。

◇◇◇
話は違いますが,静岡県の浜松市出身の人に,「静岡ですね?」と聞くと「いえ,浜松です」と言い返されると聞いたことがあります。それは,聞く方は「静岡【県】の出身ですか?」と聞いているのに,浜松の人にとっては,「静岡=静岡【市】」と考え,「静岡市と浜松市は違うぞ」という意識からきているのでしょう。そしてまた,浜松市の人は静岡市に対抗意識を知らず知らずにもっているのでしょう。
それとは逆に,愛知県では,一宮市や津島市など名古屋市近郊に住んでいる人も「名古屋です」と言います。実は私もそのひとりです。しかし,豊橋市出身の人がどうなのかは知りません。

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💛

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●ウィンディリッジへ●
 ☆12日目 8月10日(月)
 今日は,セントへレンズ火山国定公園(Mount St.Helens National Volcanic Monument)に行く。
 標高2,550メートルのマウントセントへレンズは1980年に大噴火を起こした火山。それまでのお椀型の山がこの大噴火で崩れてしまった。この噴火跡を眺めるのが,この国定公園の楽しみである。
 アクセスルートは北西,北東,南の3か所あるが,南のルートは噴火跡が見られないので棄却して,1日たっぷり使って,北西のルートと北東のルートの両方向からアクセスすることにした。
 このふたつのルートは,それぞれ登っていくと最終の到着地点は距離的には近いのだが,このふたつの到着地点を結ぶ道路はないから,ふもとから別々に登っていかなくてはならない。

 朝,ホテルで豪華に朝食をとった。
 これを書きながら思うのだが,旅はほんの少しだけぜいたくすると憂いがなくなる。私は節約旅行をずっとしてきた。そのため,ホテルでは,シャワーでお湯が出なかったり,インターネットが通じなかったりすることはしょっちゅうだった。また,朝食サービスがなく,そうした場合に近くにカフェがなく朝食をとるのに困ったりもした。とはいえ,1泊8,000円程度と12,000円程度の違いにすぎないのだが。
 節約旅行をしていたわけは,今より「当然」若くお金もなく,しかし,いろんなところに行きたかったので,できるだけお金を使わないようにしていたからだ。そのおかげで,人が思うよりたくさんの場所に安価に行くことができた。
 そうした夢がかない,歳をとった今となっては,もっとゆったりと,そして,贅沢に旅がしたくなった。また,旅をしていると,またいつでもその場所に来ることができそうな気がするが,ほとんどの場合二度目はない。またまれに二度行ったところは,はじめて行ったときのときめきがない。だから,その一度というのがほとんどの場合は一生に一度のイベントなのだ。
 と,そんなことを思っていたら,コロナ禍で,本当に,どこにも行かれない日々が訪れてしまった。行きたいところにすべて行っておいて本当によかったと思うこのごろである。
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 余談だが,将棋でも,毎回タイトルの常連である超一流の棋士でもない限り,たまたま調子がよい棋士が何らかのチャンスでタイトル戦の挑戦者にでもなったときには,その機会はおそらくそれが人生で最初で最後の機会となるものだ。あとで振り返れば,そのときが人生最大のイベントだったと気づくであろう。しかし,挑戦者となった時点では,それが自分にとってどれほど貴重な時間であるかということに,さほどの認識がないものだ。
 何事につけてもおそらくそれと同じなのだろうから,その一瞬一瞬を大切にしたいものだと思う。

 さて,ホテルをチェックアウトして,セントへレンズ火山国立公園に向かった。
 まずは北東のコースからセントへレンズの山頂をめざす。山頂にはウィンディリッジ(Windy Ridge)という展望ポイントがある。そこまでの道は,インターステイツ5から東に国道12を走り,セントへレンズ火山を南に過ぎたところで,南に,州道25を南下,そして,登山道に入る。
 登山道は快適だが,まわりは火山の噴火による爆風で倒れた樹木が無残な姿をさらしていた。

💛

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●チェホールズの町●
 ルビービーチからしばらく海岸線を南に走った国道101だったが,再び内陸側に入って,オリンピック半島の付け根に当たるノース湾(North Bay)の根っこにあるアバディーン(Aberdeen)という町を過ぎると道路は湾に沿って方向を東に変え,さらに,南東に国道12を進んでいくと,ついに私はインターステイツ5に戻ってきた。
 オリンピック半島を半時計周りにほぼ海岸に沿って4分の3周したことになる。
 インターステイツ5を少し南下して,今晩の宿泊先として予約してあったのは,インターステイツ5沿いのチェホールズ(Chehalis)という町の,昨日とはうって変わって豪華な新しいホリデーインであった。
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 チェホールズは人口8,000人ほどの,結構大きな町であった。かつてこの地に住んでいたネイティブアメリカンの人々は,この地を「砂の場所」(place of sand)または「砂の移動」(shifting sand)とよんでいたが,それを探検家は「Chehalis」と聞いたことからこの名になった。
 1873年に北太平洋鉄道が建設され,この町が鉄道の横の倉庫の周りの集落として作られはじめた。やがて,近くの森で伐採がはじまり,製材労働者が定住した。
  ・・・・・・

 インターステイツ5に入るまであたりは大草原で,今日の2番目の写真のように,遠くに原子力発電所のような怪しげな建物が見えた。
 それらは,このときは原子力発電所だとばかり思っていたが,今これを書きながら調べてみると,この辺りには原子力発電所はない。あれはいったい何だったのか,それは今も不明である。
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 ワシントン半島に行くまで,私は,ワシントン半島はシアトルに近いのでもっと都会かなあと思って気が進まなかったが,実際のワシントン半島は非常に田舎であることに驚いた。とてもいいところだった。シアトルに行って,さてどこか郊外に観光に行こうと考えると,だれも東側に目が行き,なかなか西側のワシントン半島には関心が向かないものだ。

 のどかだったオリンピック半島とは反対に,これから向かうポートランドまでは非常に多くの車が通る主要道路であるインターステイツ5を走ることになる。夢から醒めたような感じがした。
 ホテルにチェックインして,次は夕食であった。町はほどほど大きいのに,意外にもめぼしいレストランが1件も見つからなかった。レストランを探していくうちに隣の町に着いてしまった。そこにモールを見つけたので入ってみると中にサブウェイがあったので,仕方なくサブウェイで夕食をとることになった。
 私は,アメリカではサブウェイが嫌いで,ほとんど行くことがない。それは,注文がめんどうだからである。日本とは違って,お任せというものがなく,すべて,自分の好みでオーダーするのだが,パンを選べ,ドレッシングを選べといわれてもどんな種類のものがあるか知らないから注文が難しい。本当は,サブウェイは野菜も豊富だし,マクドナルドなんかよりもずっと健康的だと思うのだが…。

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💛

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●美しいルビービーチ●
 国道101は,フォークスを過ぎ,さらに,オリンピック半島の北西の内陸をずっと走っていった。まわりは森林におおわれて単調ではあったが,日本の高原道路とは違って,とても美しかった。
 日本では,こんな山岳地帯の道路でさえ,「動物飛び出し注意」のような意味のない道路標識やらさびついたままになっているガードレールやら,そして,はげたままになっている道路の白線やらだらけで,まったく美しくない。

 さて,そうして内陸部を走っていた国道101だが,突然,太平洋の海岸に出た。そこはルビービーチ(Ruby Beach)であった。駐車場があったので,車を停めて,海岸まで歩いて行った。
 ルビービーチはオリンピック半島最南端のビーチである。オリンピック半島北部の海岸のほぼすべてのビーチと同様に,ルビービーチにも大量の流木が浜辺のいたるところにあって,壮観であった。日本のビーチはどこもかしこもゴミだらけだが,そうしたゴミはひとつとしてない。
 ルビービーチは砂浜にルビーのような結晶があることからそうよばれているという。富山県にもヒスイ海岸というのがあるのを思い出す。
 ビーチからは遠くに点在する島々が見えた。このビーチの美しい景色や沖合の島々は,国立野生生物保護区とオリンピック海岸国立海洋保護区によって保護されている。ルビービーチの北にあるホー川(Hoh Rover)は自然に恵まれているというが,行くことはできなかった。
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 また,ここは野鳥の楽園でもある。ムレや房状のツノメドリなどの鳥の大きな営巣コロニーがあるので,バードウォッチングにも最適な場所で,カモメ,白頭ワシなどの鳥が巣を作り,摂食しているのを見つけることもできるという。
 また,浜辺にはまざまな色のイソギンチャクが見られるのが海岸をハイキングする楽しみとなる。

 アメリカでは,いたるところにこうした大自然があり,すべて,保護され,美しく保たれている。観光をするには,きちんと決められた決まりがあり,キャンプをする場所などもしっかり規制されている。ゴミは捨ててはならないし,持ってきたものはすべて持ち帰るのがルールである。日本とは大違いである。アメリカ人は,夏になるとこうした場所に出かけて,自然を楽しむのだが,多くの人がアウトドアをするので,どこもけっこう予約をするのがたいへんなようである。
 私も,アイダホ州で3度キャンプをしたことがあるが,日本人の考えるようなオートキャンプとはまったく異なっていた。子供のころからキャンプを楽しむことによって,そうした習慣やルールが身につくのだろう。
 キャンプでは,朝は日の出を見て,食事を作り,お昼間はハイキングや釣りを楽しみ,夕方にまた食事を作り,夜は満天の星の下で寝る。そうした人生最大の楽しみを日本人は知らないし,日本にはキャンプをする場所すらない。

💛

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 私が岐阜市をよく知らなかったという理由は,愛知県から岐阜県に向かうとき,木曽川を越すと,どの道もなんとなく岐阜市に着くのですが,どの橋を通ればどこに着くのかがよくわからなかったということにあります。たとえば,岐阜市に行くには,名古屋市と岐阜市を結ぶ国道22号線,通称名岐バイパスという最も車線の多い道路を通るのが一般的ですが,この道路で岐阜市に行っても,岐阜市の中心街を通りません。しかしまあ,それ以外のどの道を通っても,木曽川を渡れば,なんとなく岐阜市のどこかには着くのです。
 そんなわけで,私は,岐阜市がどのように位置しているのか,考えたこともないし,計画的に走ったこともないので,土地勘がなくよくわからなかったのです。

 そこではじめた岐阜市探訪,金華山に登り,美濃路を歩き,加納城跡に行き,さらに鷺山城に登って(というほど鷺山は高くもなかったのですが),そして今回がその最終回で,川原町(かわらまち)というところに行ってみました。
 私は,川原町というところを知りませんでした。川原町は岐阜の鵜飼の出発地点ということなので,鵜飼を見たことがある人にとっては有名なところでしょうが,そもそも私は岐阜の鵜飼を見たことがないのです。鵜飼は,大昔,京都の宇治川では見たことがあります。というか,見た記憶があります。しかし,宇治川の鵜飼は,職場の職員旅行とやらで出かけて,宴会のあと,へべれけになって乗ったので,何も覚えていませんけれど…。
 かつて一度,川原町のあたりを偶然車で通りかかって,岐阜にもこんなところがあるんだ,と驚いたことあるのです。そこで,人のいない早朝に訪ねてみました。

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 川原町は岐阜市の長良橋南の通りの地域一帯の通称です。
 長良橋のたもとにある鵜飼観覧船事務所から南へ延びるこの通りは湊町,玉井町,元浜町地域を横断し材木町へと続きます。江戸時代より長良川の重要な港町として,奥美濃からの木材や美濃和紙の陸揚げが多くそれを扱う問屋町として栄えました。なかでも美濃和紙は,岐阜提灯,岐阜和傘,岐阜うちわなどの伝統工芸に欠くことのできないものでした。
 奇跡的に第2次戦世界大戦の岐阜空襲を逃れることができたので,現在も格子戸のある家屋や狭い間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねています。空家や倉庫として使われる建物が多くさびれていたのですが,近年整備が進み,賑わいがもどっています。
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 私が生まれ育った名古屋の下町は,家の前の道路が車がやっとすれ違えるほどの幅で,古い民家が軒を並べていたところだったので,子供のころは古臭くて大嫌いでした。しかし,今になってみると,日本の家並みというのは,こういった姿がもっとも落ち着きます。その多くは,明治維新以後,中途半端に破壊されてしまっていたのですが,近年,整備が進んでいる場所も少なくありません。本当は,車が行き交うバイパスは,どこもこのような家並みを避けて作られ,昔の町並みはそのまま残っていれば,ずっと日本も住みやすく美しい国だったのに,と思います。
 このごろ,こうしてさまざまな近場を訪れると,この地方でも,岐阜市の川原町や美濃市のうだつの上がる町並み,愛知県の犬山市の城下町など,のんびりと歩くことができる場所が残っている,また,整備されているのを知りました。こうした,人のぬくもりが感じられる町に数時間滞在するのが,最も楽しい町歩きだなあ,と思うこのごろです。

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💛

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●セキウ,フォークスという町●
 今のようにインターネットが自由に使えたら,この旅でフラッタリー岬の先端まで行くことができたのに,実に惜しいことをした。
 思えば,私が頻繁に海外旅行をしたここ10年足らずの間,インターネットをはじめとする情報機器の進化はすさまじいものがあった。はじめのころは電話を借りるのもたいへんだった。それが今では iPhone 1台ですべてが賄えるようになった。
 特に,アメリカは日々進化していて,昨年のシステムが1年経つとまったく変わってしまう。新しいものを取り入れる力はすごい。それに比べると,日本は10年どころか30年何も変わっていない。これでは世界から遅れるはずである。
 今はコロナ禍で在宅勤務だの,オンライン授業だのといわれるが,コロナ禍がすぎれば,すべてなかったものとして元に戻ってしまうだろう。

 さて,この旅では,フラッタリー岬にいくことを断念して,私は,ネアーベイから州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って南東に引き返し,途中で右折して州道113に入り,フォークス(Forks)という町で国道101に入って,オリンピック半島の西海岸沿いに南下して,次の目的地であるポートランドをめざすことになった。
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 州道112でオリンピック半島の北海岸に沿って戻るとき,左手の海岸には漁港が見られた。そこはセキウ(Sekiu)という変わった名前の集落であった。セキウは釣りやカヤック,バードウォッチング,ダイビングなどを目的とした人が夏に訪れる観光地として知られている小さな町である。
 セキウを過ぎると州道112は南に進路を変え,やがて,州道113に吸収され,さらに,州道113もまた,国道101に吸収されると,ソルドク川(Sol Doc River)にかけられた橋を渡る。橋を越え,南に,内陸の林の中を単調に走り続けると,やがて町が現れた。この町がフォークスであった。
 フォークスは人口が3,000人程度の町で,町の経済は地元の木材産業によって支えられていた。
 近年は小説「トワイライト」(Twilight)シリーズに関連した観光でも知られるという。「トワイライト」はアメリカの作家ステファニーマイヤー(Stephenie Meyer)による吸血鬼をテーマにした4つのファンタジー ロマンス小説のシリーズである。2005年から2008年まで毎年発行された4冊の本は,ワシントン州フォークスに引っ越したエドワード・カレン(Edward Cullen)という104歳の吸血鬼に恋をした少女イザベラ・スワン(Isabella "Bella" Swan)の 10代後半を描いたものだそうだが,私は読んでいないのでこれ以上のことは知らない。
 このように,フォークスは,現在,木材産業の衰退に伴い,観光業にシフトしているようだ。また,サケやニジマスを釣るスポーツフィッシャーに人気の目的地であり,また,オリンピック国立公園を訪れる人たちの玄関口ともなっているという。

💛

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 2020年の春から夏にかけてコロナ禍でいろいろなことができなくなったおかげで,さまざまなことを見直すことができたのは幸いでした。
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 旅行は,自分が本当に行きたかったところがどこなのかがわかってきました。
 私は,これまでの数年間で,奇跡的に,国内外共に,行きたいと思っていたところはほぼすべて行くことができましたし,やりたいこともすべてやってきました。これまで行ってみた中で,できればまた行きたいと思うところは少なくないのですが,これからはじめて行きたいと思うところも,行きたかったのに行けなかったというところも,行きつくしやり終えた今となってはもうありません。そうしたときにコロナ禍が襲ったのは幸運なことでした。
 また,欲しいなあと思っていたものは,冷静に考えてみると,手に入れたところできっと使わないなあ,と思うものばかりでした。欲しい欲しいの熱病が冷やされて,余分な散財をしないで済みました。そして,改めて身の回りを見直してみると,使えるのに使っていなかったものが多々あって,それらを有効に使ってみればいいということもわかりました。さらに,不具合があっても時間がなくてそのままになっていた家庭のLANなどの配線も直すことができました。
 これまでは気晴らしにカフェに立ち寄ったりしていたこともよくあったのですが,それもまた,この時期,わざわざ出向いても気晴らしになるどころか,むしろ気が重くなることのほうが多いので,自宅でコーヒーでも飲みながら読書するほうが楽しいということに気づきました。
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 そうした多くの見直しの中でも,私が最も関わり方が変わったのはマスメディアに対してでした。
 本や雑誌の類も,テレビの番組も,また,インターネット上の情報も,知らないほうがいいと思うものがほどんどだということがわかりました。結局,名目上はニュースという名で伝えられているものの,実際は不安を煽り,なんらかの金儲けの手段にすることが真の目的であるとしか思えないものばかりでした。
 特に,テレビは新聞などとは違い,目や耳からこちらの意思に関係なく入ってくるので,テレビをつけておけば,情報が流れるのを防ぎようがありません。とても迷惑なメディアだということを思い知らされました。そして,知りたいニュースは,テレビなどは使わずに,こちらが主体となって,インターネットや紙媒体で手に入れればいいということをしみじみ思い知りました。
 ニュース番組ならはじめからニュースを見ることが目的だからともかくも,娯楽番組を見ていて,そこにニュースが侵入してくるのは,よほどの緊急ニュースでもない限りは暴力でしかないということを痛感しました。娯楽番組に出現するL字テロップなど最悪の代表です。せっかく嫌なことを忘れて楽しもうとしているのにこれでは気が滅入るだけです。NHKの総合テレビがまさにその筆頭でした。そんな情報は必要な人だけがdボタンを押せばわかるようにすれば事足りるでしょう。見ている人全員に情報を伝えてやろうという傲慢さとおせっかいに満ち満ちていました。常時画面に表示されるQRコードといい,さらには,学校の生活指導部のような「ご指導」といい,上から目線で庶民を小ばかにしているようで腹立たしくなりました。
 今ごろになって,コロナ禍によって精神を病み自殺者が増えているという報道をしていますが,その原因を作っている一因はテレビにあるのをご存知だろうか? よって,私は必要なニュースのほとんどはインターネットや紙媒体の新聞にして,テレビはNHKBSPとNHKEテレしか見なくなりました。それも,見たい番組は事前に番組表で調べて録画してその番組だけを見ます。あるいはNHK+で十分です。それでも,先日,NHKEテレのクラシック番組の途中で臨時ニュースのテロップが出て,それだけならともかく,音楽を遮断して警告音まで加わっては,番組がすべて台なしになりました。いい加減にしてくれ,という怒りがこみ上げてきました。
 また,インターネット上のニュースのポータルサイトこそ,まさに玉石混交。中でも最悪なのはYahooニュースのようなコメントのあるものでした。コメントはまったく無意味で,百害あって一利もありません。読んでいても不愉快極まるだけのものでした。
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 時間をもてあましたので,1か月 Kindle Unlimited を契約してみました。
 1月980円で12万冊の和書が読み方という触れ込みでした。しかし,読み放題だったのは,単独では売れないような雑誌や旬をすぎた単行本ばかり。で,そこにあった多くの雑誌を手当たり次第読んでみました。しかし,すべて,2週間くらい読んだら食傷気味となり,いやになりました。読まないほうがいいようなものばかりでした。これでは,暇つぶしに間食をしたらおなかを壊したようなものです。

 この半年,精神的に健康に生きるためにわかったのは,いくら安かろと,不快になるモノとは関わらないこと,関わりをもつのは十分に時間とお金をかけた良質のモノだけで,それをきちんと自分で選んで主体的にお金を出して手に入れること,それが私の結論でした。

💛

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 少し前のことになってしまいましたが,このブログで,世界で再び活躍しはじめた3台のシュミット望遠鏡について取り上げました。その話題の最後に,今日は,アマチュア用のシュミット望遠鏡について書いておきましょう。こちらのほうは今もよみがえっていませんので,そうした願望と懐かしさを込めて,です。
  ・・
 かつて,広瀬秀雄という東京大学の教授で東京天文台の台長さんがいました。私が持っている著書は,1975年(昭和50年)に中央公論社の自然選書で出版した「望遠鏡-美しい星の像を求めて-」という本ですが,それより27年も前の1948年(昭和23年)に「シュミットカメラ」という本を著した人です。
 この時代,視野の広い天体写真儀として考えられたのはシュミット望遠鏡のほかになく,広瀬秀雄教授が主体となって作られたのが,日本の天文学者が熱望した東京大学木曽観測所のシュミット望遠鏡でした。

 同じころ,天体写真がブームとなったアマチュア天文愛好家もまた,それに感化されて,シュミット望遠鏡にあこがれました。そして,日本特殊光学という会社が,ついに,アマチュア用のシュミット望遠鏡を発売しました。
  ・・・・・・
 愛知県幡豆郡に天体機材メーカー「理科教材社」がありました。この会社の創業者である山田坂雄さんがハイレベルアマチュアのためにはじめたのが,シュミット望遠鏡の研究開発でした。
 それまで,シュミット望遠鏡は補正板の研磨が困難なために量産品の実用化は不可能と考えられていたのですが,ついに成功し,1977年(昭和52年)に日本特殊光学(JSO)を設立し,売り出しました。発売当初,高い評価を受けたのですが,残念ながら創業者の後継がなく,会社は廃業しました。
 とはいえ,この会社を創業したときに山田坂雄さんはすでに59歳で,しかも個人経営に近く後継者がいないとなっては,企業として成り立つものではありません。
 天体望遠鏡の会社というのは,そのほかにも愛知県刈谷市にあった旭精光研究所などもまた,個人経営のような会社だったから経営者の趣味の域を出ていないようなものでした。
 古きよき昭和の時代ならともかく,今の時代には,もうそんな会社の存在は困難でしょう。
  ・・・・・・

 シュミット望遠鏡の特徴は視野が広いことと画像の周辺までピントがきちんと出ることとFが明るいことです。一般の望遠レンズで星を写すと,中心部はともかく周辺までピントが合うようなレンズは,当時はありませんでした。天体は「点」なのでとてもシビアなのです。レンズは光が通過したときにコマ収差,色収差などさまざまな収差ができて,特に,焦点距離が短いレンズほどそういった収差が大きいのです。今は,特殊な光学ガラスを使ってそれを克服しているのですが,値段が高くなります。私の使っているような安価な望遠レンズだと,周辺の星は丸く焦点せず,矢印のようないびつな形になってしまいます。
 シュミット望遠鏡はこうした欠点を補うことができたわけですが,しかし,短所は焦点距離の割に大きいことと使い勝手が悪いことでした。特に,像を結ぶ焦点が平面でなく球面になるので,焦点板(当時はフィルムを使っていました)を球面に加工しなければならないのです。現在の天文台のシュミット望遠鏡はディジタル化されているのでフィルムは使いませんが,焦点板に使うCCD受光素子を球面に配置してあります。
  ・・・・・・
 日本特殊光学が当時発売したNTP16Bというシュミット望遠鏡は,口径が160ミリメートルで焦点距離が400ミリメートル,つまりF2.5と明るいものでした。焦点部分,つまり筒の真ん中にフィルムをセットしました。フィルムは市販のものは使えないので,平版の大きなフィルムを暗室や暗箱で手作業で丸くカットして,それを球面に湾曲させ,専用の丸い金属ホルダーに入れました。
 また,普通の望遠鏡やカメラでは,レンズや鏡は「筒」に直接取りつけるのですが,シュミット望遠鏡は気温の変化によるピントのずれが著しいので,それを防ぐため,多少の温度変化では延び縮みしないインバーという特殊な金属棒でつなげ,筒から独立した構造になっていました。そして,筒の横の覗き穴から100分の1ミリメートル単位でメモリの数値を見て試写し,データと照らし合わせてピントを出しましたが,それを行うには,シュミット望遠鏡は眼視ができないので,眼で見てピントを合わせることが不可能でしたから,いろいろと状況を変えて試写を繰り返してデータを集め,いちいちピントを合わせていました。
 とまあ,書いているだけでも気が遠くなる作業です。こんなに手間をかけなけらばならないので,この機材を使いこむことができた人は,ひとりいたかいなかったかだったという話です。
 一体,何台のアマチュア用のシュミット望遠鏡が製造され,その中で現物が何台現存しているのでしょうか? 私は見たことがありませんし,現物の写真すらほとんどありません。
  ・・・・・・
 現在は,レンズの性能が格段によくなったこととディジタルカメラになったことで,広い視野が得られ,かつ,周辺まで星が点像になるものが製品化されているから,シュミット望遠鏡のような大変なものは必要ありません。しかし,考えてみれば,天文台のシュミット望遠鏡のように,フィルムを使わないで,焦点板にCCDを球面にして配置して固定すれば,いちいちフィルムを入れ替える必要もなく,また,簡単に写した画像が確認できるから,シュミット望遠鏡の欠点はすべて補えるわけです。そこで,当時のシュミット望遠鏡をディジタル化すれば,結構おもしろいものができそうです。

 なお,シュミット望遠鏡によく似たライトシュミット望遠鏡というものがあります。
 シュミット式望遠鏡では補正板の製作が難しいこと,焦点の像面が湾曲すること,全長が焦点距離の倍になること,焦点面の位置が取り扱いに不便であること,といった短所を軽減するために編み出された光学系です。これは,アメリカのF・B・ライト(F.B.Wright)とフィンランドのユルィヨ・バイサラ(Yrjö Väisälä)が,補正板を主鏡に近づけ,焦点が補正板の中心と一致する場合について独立に研究し,主鏡を楕円の短軸を回転軸とした回転面,すなわち偏球面にすることを思いついて実用化したものです。
 ライトシュミット望遠鏡は,扱いが簡便であり周辺像も極端な悪化をしないといった長所があります。しかし,シュミットという名前で誤解をしますが,これはシュミット望遠鏡とはまったく違うものです。実際,像が全体的に甘く,コントラストも低いという欠点があり,私も,一時手に入れましたが,すぐに失望して手放してしまいました。

💛

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●行くことができなかった岬の先端●
 レイククレセントを出て,さらにオリンピック半島を州道112を通って北側の海岸を西に,半島の北西の端まで行くことにした。
 私は,こうした半島を走ると,海岸線に沿って1周してみたくなるのだ。
  ・・
 アメリカ旅行をするようになる前,私は北海道に憧れていた。そして,北海道を海岸線に沿って車で1周することを企てた。しかし,北海道で海岸線が通れないのが,知床半島であった。ここは途中で道がなくなり,半島の真ん中を通る知床横断道路を走る必要があるのだった。知床半島を海岸に沿って行くためには,道なき道をクマに襲われるのを覚悟で2泊3日歩く必要があるという話だったが,私は冒険家でないから,そういうことはしなかった。
 走っておもしろかったのは松前半島と亀田半島で,ここはお勧めである。海岸に沿って1周するという目的でもなければ,函館から札幌に向かうのには,何も海岸に沿って遠回りして走る必要はないから,この道が作られた目的は,その海岸線に住む住民のためのものだろう。この追分ソーランラインという名前の松前半島を海岸線に走る国道228号線と,亀田半島を海岸線に走る国道278号線は,高台にかなり立派な道路が作られていて,景色がよい。
 私はこの半島の道を走った数年後に,同じ思いをしようと,今度は青森県の下北半島を海岸に沿って走ってみたが,これは,期待とはまったく違い,がっかりした。
  ・・
 その後,ハワイに行くようになって,日本人ばかりのオアフ島は抜きにして,今度は,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島,モロカイ島といったそれぞれの島の周りを車で1周しようと企てた。
 しかし,ハワイ島こそほぼ島を周回する道路があったが,マウイ島は道路はあれどレンタカーでの通行が禁止されている部分があり,断念した。また,カウアイ島には一部道路がない。さらに,モロカイ島に至っては,海岸まで崖になっている部分がほどんどで,当然,周回などできなかった。
  ・・
 アイスランドに行ったときも島を1周しようと一度は考えた。アイスランドは北海道の1.3倍ほどの面積である。
 しかし,アイスランドは島の4分の3は不毛な土地でほとんど人が住んでおらず,車が故障でもしたらと思ったら怖くなった。せめて10歳くらい若かったら試みたかもしれない。結局,私は,島の4分の1程度しか走れなかった。

 さて,話を戻す。
 私が目指したオリンピック半島の北西の端の岬をフラッタリー岬(Cape Flattery)という。
 このとき持っていた地図で調べると,フラッタリー岬に行くにはオリンピック半島の周回道路から外れて,盲腸のように狭い道を走っていかなければならないようだった。が,実際は,道が続いているようないないような…。地図がいい加減でよくわからなかった。遠回りをしてでも行ってみようと試みたのだが,私は,ネアーベイ(Neah Bay)という町で道に迷ってしまった。
 ネアーベイのあたりは,道がアメリカにしては狭く曲がりくねり,ブレーキを頻繁に踏む必要があった。ネアーベイは岬に至る手前の北側の付け根の町である。ここからケープフラッタリーロード(Cape Flattery Road)という道を南西に行くと,今度は,岬に至る手前の南側の付け根の町ワアッチ(Waatch)に着いた。この道を走っていると,私と同じように,岬まで行こうという車らしき姿を頻繁に見かけたが,みなネアーベイやワアッチでウロウロしていた。
 結局,私は道が見つからずフラッタリー岬に行くことを断念して,ワアッチから再びネアーベイまで戻り,小さなレストラン「Warm House Restaurant」を見つけたので,やっと昼食にありついた。それがまあ,食べたハンバーガーが殊のほかスモーキーでおいしかったこと! こんなにおいしいハンバーガーをこれまで食べたことはなかったと思うほどだった。このレストランの駐車場から展望が開けていて,海の向こうにカナダのバンクーバー島が美しく見えた。
 レストランのウェイトレスに「フラッタリー岬まで行こうと思ったのだが」と話すと,「そう,岬までの道はないのよ。皆さんここでウロウロしている」といって笑っていた。
  ・・
 あれから5年。今では,当時はわからなかった情報が,インターネットで簡単に手に入る。
 調べてみると,フラッタリー岬の近くまで,ちゃんと自動車で行くことができる道路があるし,先端近くには駐車場もあるではないか。実は,この道路は,ネアーベイではなく,ワアッチから岬までつながっていた。が,そんなこと,この時代にはわからななった。レストランのウェイトレスが言っていたのは「ネアーベイからは岬に行けないよ」ということだったらしい。
 インターネットでは,フラッタリー岬の写真まで見ることができるではないか。そこで,フラッタリー岬の写真を今日の最後に載せておくことにする。しかし,行くことができると知ると,それはそれで,行けなかったことが余計に悔しくなる。惜しいことをした。そして,それを知ると行ってみたくなる。シアトルなぞ,普通なら行こうと思えば東京へ行くくらいの気持ちでどうにでもなるが,このご時世ではそれが実現するのはいつのことになるだろうか。

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💛

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●高い透明度を誇る湖●
 ハリケーンリッジロードを下って,ポートアンジェルス(Port Angeles)の町まで戻ってきた。途中,道路の端には多くのシカがいた。
 シカなど,今では日本でも山道を走ればいくらでもいるし,見通しの効かない道路の真ん中に立っていることもあってドキッとするが,この旅をしていた2015年のころは,今ほどシカを頻繁に見たことがなかったので,珍しかった。
 この翌年の2016年,ワシントン州から走ってモンタナ州のグレイシャー国立公園に行ったときの帰り道で,巨大なシカが私の運転する車に体当たりしたのも,今では懐かしい。思えば,これまで本当にいろんなことがあったものだ。今考えると危機一髪の出来事も少なくないが,すべてなんとか切り抜けてきた。そうしたすべてが夢のような気がする。

 ポートアンジェルスはオリンピック半島の北海岸中央部に位置する町で,半島における中心都市。人口は約20,000人ほどである。ここにはオリンピック国立公園の本部が置かれていて,国立公園への玄関口ともなっている。
 この町はアメリカとカナダの国境になっているファンデフカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に面していて,山が海に迫る地形のため水深が深いのに加え,西側から東に向かって形成されている砂嘴が天然の防波堤の役割を果たしているので天然の良港となっている。
  ・・
 ポートアンジェルスから次に向かったのはレイククレセント(Lake Crescent)という湖であった。クレセントという名前のごとく,この湖は高い透明度を誇り,湖の底まで見渡すことができた。ここに着くころにはすっかり天気も回復していた。
 レイククレセントの最大水深は624フィート(190メートル)で,ワシントン州ではレイクシュラン(Lake Chelan)の1,486フィート(453メートル)に次いで2番目に深い湖であるが,湖全体の水深測量調査を実施した結果,1,000フィート(300メートル)を超える非公式の深度が測定されたという。
 なお,このあと行くことになるオレゴン州のクレーターレイク(Crater Lake)は最大水深1,949フィート (592メートル),日本では,田沢湖は430メートル,摩周湖は200メートルほどである。
 レイククレセントは藻類の成長を阻害する水中の窒素の欠如によって引き起こされる鮮やかな青い色と並外れた透明度で知られている。

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 レイククレセントは氷河が深い谷間を切り開いたときに形成された。
 1849年,ジョン・サザランド(John Sutherland)とジョン・エベレット(John Everett)がふたつの湖を見つけ,レイクサザーランドとレイクエベレットと名づけた。その後,レイクエベレットはレイククレセントと改名された。それは,1890年,Port Crescent Improvement Company が湖の近くに町を作ろうと宣伝し,M・J・キャリガン(M.J. Carrigan)がPort Crescent Leader を立ち上げてそれを後押しし,湖をレイククレセントとよんだことによる。
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 1937年,ハリー・イリングワース(Hallie Illingworth)というウェイトレスが行方不明になった。3年後,死後体重が減り死体が水面に浮いていたのを地元の漁師によって発見された。死体は氷点下に近い湖の温度によって完全に保存されていたが,彼女の肌は「アイボリー石鹸」とよばれる物質に変化していた。これは鹸化とよばれるもので,体脂肪と相互作用する湖水中のミネラルによって引き起こされたのである。彼女の夫であるモンゴメリー・ J・ "モンティ"・イリングワース(Montgomery J. "Monty" Illingworth)は殺人罪で有罪判決を受け,1951年に仮釈放されるまでの9年間,刑務所に留まったという。
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●標高2,000メートルを越えると…●
☆11日目 8月9日(日)
 今日は,オリンピック国立公園を見学しながら,オリンピック半島の北海岸に沿って北西の端の岬まで行く。
 その次の日は,岬からは西海岸を太平洋沿岸に沿って南下し,行きどまりのノース湾で入り江の湾岸にそって東に進み,オリンピック半島をほぼ1周したら,インターステイツ5に入って南下し,翌日にセントヘレンズ火山国定公園に行くことができるように,途中の町で宿泊するという計画であった。
 オリンピック国立公園は,アメリカ大陸の一番北西にあるオリンピック半島全体が国立公園になっている。半島の中央は2,400メートル級の山々が連なっていて,その外周をクルマで巡るというのが見学コースである。

 私が宿泊していたスクイムの街は半島の一番北東の町である。スクイムの町はとてもよいところだったが,私の宿泊したのがさえないモーテルだったのだけが残念だった。
 朝7時にチェクアウトして,まずはじめにオリンピック国立公園のハリケーンリッジ(Hurricane Ridge)という展望台に向かうことにした。この日の朝食はどこで何を食べたか,今では全く記憶にないが,あのモーテルに朝食がついていたとはとても思えないので,おそらく,この日は朝食ぬきで出発したのだろう。
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 今にして思うに,私がこれまでに行ったほとんどのアメリカ旅行は,かなり貧しい旅の連続であった。ともかく,何事も安価にするというのが私の旅の基本であった。
 そこで,宿泊する場所も,寝られればいいというところばかりだったから,相当にひどいところに泊まったことも少なくない。駐車場にコンボイがずらっと停まっているようなモーテルにはしょっちゅう泊まったし,隣部屋になったハーレーに乗ったおじさんたちと仲良くなったりといったこともあった。食事だって,夕食はハンバーガーばかりを食べていた。朝食ぬきだの,昼食抜きだの,あるいは,どこぞやのコンビニで菓子パンを買って,それをかじりながらドライフしただのということは日常茶飯事であった。
 だからこそ,私はお金もないのにアメリカ50州制覇という夢をかけ足で達成することが可能だったのだろうが,私の旅は普通の人が考える海外旅行とはかけ離れたものであった。しかし,この先,また再びアメリカを旅できるときがくるのなら,今度は,せめてもう少しは贅沢な旅をしてみたいものだと思う。

 さて,この日は,まず,スクイムから半島の北側を州道101で西に走って,ポートアンジェルス(Port Angeles)という町で南に左折してハリケーンリッジロード(Hurricane Ridge Road)を通って山へ登っていった。終点のハリケーンリッジ展望台は,ハリケーンリッジロードを一気に標高1,500メートルまで登っていくとあるが,道路のまわりは美しい山々が連なっていて,それを見渡しながらの運転はとても気持ちがよかった。スクイムのホテルを出たときは小雨が降るような天気だったが,さすがに標高が高く,展望台まで登りきるとそこは雲の上で快晴だった。気温は10度くらいでとても寒かったが,すばらしい展望を楽しむことができた。
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 この旅のあと,私は,頻繁にハワイを旅するようになり,ハワイ島の標高4,205メートルのマウナケア(Mauna Kea)の山頂にも2度登ったし,マウイ島の標高3,055メートルのハレアカラ(Haleakalā)にも数回登った。
 そのときわかったのは,どうやら雲というのは標高2,000メートルあたりの位置に発生していることが多く,その標高を越えると,雲の上に出て天気がよくなるということである。
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 ハリケーンリッジ展望台に到着した。
 ここにはレストランがあったので,朝食をとろうと考えた(らしい)。しかし,朝早すぎて,まだ,レストランは開いていなくて中に入ることができなかった。

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●すばらしきアメリカの小さな町●
 スクイム(Sequim)は人口約4,000人の町である。スクイムはラベンダーの生産地として知られているということだが,私がこの町に滞在したわずかな時間では,ラベンダーを見る機会はなかった。近年は退職者を中心に急激に人口が増加し,往年ののどかな田園都市的性格を失いつつあるそうだが,アメリカのこのような町はどこもそんな感じがする。
 「思い出は美しい」というが,実際,どう考えても,私がアメリカを旅しはじめた20年前のころのほうが,大都市の治安以外は,いろいろな面で今よりずっとよかったように感じるのは,やはり,「思い出は美しい」からだろうか?
 しかし,退職者が住みたいと思えるような静かな町があるだけ日本よりよいと思う。日本では退職後に住んでみたいというような町は皆無である。スクイムのあたりによい働き口が多くあるとは思えないが,退職者にとれば,シアトルなどの大都会よりずっと過ごしやすいように感じる。
 この地はオリンピック山脈の影響で乾燥していて,年間降水量が少ないということだ。確かに私が行ったときも晴れ渡っていたが,雨の多いシアトルとは大違いだから,これだけでも過ごしやすそうだ。
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 今,この町について書いていて,なんだか,とてもいい町だったなあ,などという感慨にふけるるのだが,それは何もスクイムだけでなく,このようなアメリカの小さな町すべてに私が抱く感情である。
 日本の地方都市はどこもさびれてしまっていて,しかも,気の利いたレストランなどもほとんどないか,駅前には古びた飲み屋があったり,あるいは,それが閉店したままになっていたりして空き家だらけでさえない。こうしたアメリカの小さな町は日本には存在しないのである。

 私がスクイムに滞在したのは偶然土曜日であった。
 スクイムの小さなダウンタウンの中心にあるシティホールプラザでは,スクイムファーマーズ&アーティザンマーケットが5月から10月まで毎週土曜日に行われるという。
 この晩も,シティホールプラザは全く盛り上がりに欠けるススクイムファーマーズ&アーティザンマーケットの真っ盛りであった。というより,もともと町民が少ないから,こんなものだ。
 スクイムに限らず,アメリカのこうした小さな町では,住んでいる人たちが三々五々夕暮れになるとこうした場所に車で集まってきて,のんびりと過ごす。駐車するスペースはいくらでもある。私はこれまで,多くの町でこうしたものを見たことがある。そして,いつもうらやましく思った。日本だと,お盆のころにお祭りをやるが,やたらと屋台が並び,混み合っていて,しかも,終わった後はゴミの山である。
 こうした集まりには暗黙のルールがあるようで,騒音公害になることもなければ,終わった後にゴミだらけになることもない。また,ちゃんと午後9時になると終了して,めいめい挨拶を交わして車に乗って帰っていく。私も混じって楽しむことにした。ステージで歌っていたカントリーはすごく上手だった。こういうのが日本にはないすてきな人生の過ごし方だと思う。
 終了後ホテルに戻ってテレビを見た。放送されていたのは,あの,伝説になったサイモン&ガーンファンクルのセントラルパークコンサートだった。かつて,こうした音楽を聴いてはアメリカに憧れたこともあったなあと思った。今,実際,そのアメリカにいる,と思うと胸が熱くなった。

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 家から岐阜市は近く,また,よく車で通るのですが,これまで,通り過ぎるだけで岐阜市自体に行ったことはほとんどありませんでした。50年近く前の大河ドラマ「国盗り物語」でも,主人公が斎藤道三と織田信長だったことで,たびたび岐阜が取り上げらえていたのですが,当時はそれだからといって岐阜市を観光したこともありませんでした。
 岐阜市は今年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台でもあるので,時間があるときに,少しずつ岐阜市をめぐることにしました。たびたび私がブログで書いているように,先日は金華山に登り,また,その後に加納城跡に行き,旧中山道の加納宿あたりを歩きました。そして,やっと,岐阜市のことが少しずつわかってきました。
 
 今回9月6日に行ってみたのは,前々から気になっていた鷺山城跡でした。
 鷺山城跡は,加納城跡とともに,名前は知っていても,そこがどこにあるのかをまったく知りませんでした。調べてみると,私がよく走る岐阜市の環状線の西北のカーブに当たる場所に近く,こんな場所にあったのかとびっくりしました。そんな場所に小高い山というか丘があるとは思えなかったからです。そこが鷺山で,かつて,その頂上に鷺山城がありました。
 鷺山は標高が68メートルといいますから,この春,登る気もなく標高が400メートルほどの山城にたびたび登った私は,大したことはないと思いました。

 Google Maps の指示に従って走っていくと,市街地の中に,突然森が現れました。それが鷺山でした。近づいてみたものの,あたりの道路は非常に狭く,どこに車を停めていいのかさっぱりわかりません。案内標識もまったくありません。観光地にしたいのなら,それなりに何とかすべきだと思いました。ふもとの北側に白山神社があって,神社の駐車場があったので,そこに車を停めました。
 なんとなく付近を歩いていたら,鷺山公園と書かれた古びた小さな標示があって,そこから登れるようだったので,歩いていきました。
 わずか標高が68メートルなので10分もすると山頂に着いたのですが,蒸し暑く,結構汗をかいたのは想定外でした。
 山頂には鷺山城跡の碑がありました。また,山頂から少し南に行ったところに展望台があって,そこから岐阜城が見えました。
 南側にも道があったので,帰りはそこから降りました。
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 南側のふもとには鷺山公園と北野神社がありました。また,北野神社には斎藤道三公を弔う碑がありました。結構立派で,今年の大河ドラマの影響でしょうか,旗が建てられれいて,それなりに,観光客を意識しているようでした。しかし,この神社は駐車場が整備されているでもなく,鷺山公園も駐車場らしき土地はあれどどこから入ればいいのかわからず,これでは,訪れる人が困ります。
 家に帰ってから調べてみると,やはり,出かけた人はみな,私同様に,どこに車を停めていいのかがわからず,付近をうろうろして困ったようでした。

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 鷺山城は,平安時代末期または鎌倉時代から戦国時代にかけて機能した鷺山の山頂に作られた城です。1548年(天文17年),斎藤道三が家督を息子の斎藤義龍に譲ったのち,隠居した城ということで有名です。「麒麟がくる」で出てくる帰蝶は,1549年(天文18年)にこの鷺山城から尾張の織田信長に嫁いだといわれてます。
 1555年(弘治元年),斎藤義龍は,父の斎藤道三が斎藤義龍の弟である斎藤龍定に名門一色姓を名乗らせたことから弟に家督に譲るつもりだと思って,斎藤道三を鷺山城から追放してしまいます。「国盗り物語」や「麒麟がくる」などの大河ドラマでは,斎藤義龍は斎藤道三を実の父でないと思ったというのが理由になっています。そして,翌年1556年(弘治2年)に,斎藤義龍は斎藤道三を長良川の戦いで攻め滅ぼしてしまうのです。
 この戦いの後,鷺山城は廃城となりました。
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☆ミミミ
鷺山城跡からの帰り,長良川畔を東に走ってみました。岐阜公園を過ぎてしばらく走っていくと,富田学園がありました。富田学園といえば,以前,このブログにカルバー望遠鏡のことを書いたときに出てきた学校です。また,「月刊天文ガイド別冊・日本の天文台」にも紹介されていたところです。
今は,学校にはその望遠鏡はありませんが,学校の名前を見て驚きました。富田学園はここにあったのか,という感じでした。
こうして近場を気ままにドライブをしていると,これまでの謎がいろいろと解けてきて,なにかとても楽しいのです。

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 2016年,アメリカ合衆国50州制覇を遂げるまで,ほぼ,アメリカ以外には興味がなかった私は,その呪縛が解けて以来,まず目を向けたのが,南半球の星空とハワイでした。さらに,NHKEテレで放送された語学番組「旅するドイツ語」の舞台となったオーストリア・ウィーンを見て,急に行きたくなったヨーロッパでした。
 そこで,2017年から2019年にかけて,アメリカ本土に加えて,南半球のオーストラリアとニュージーランド,ヨーロッパのオーストリア,フィンランド,エストニア,そして,ハワイのマウイ島,モロカイ島など,何かにとりつかれたように,足を運びました。
 コロナ禍の今にして,この3年間で,私は,行きたいと思っていた海外の場所のそのほとんどに行くことができたのは,まさに,奇跡でした。
 それらの場所の多くは,また,行く機会があれば,ぜひ行ってみたいと思うところでしたが,その中でも,とりわけ奥が深い,魅力のある場所はオーストリアでした。

 旅行とともに,私が大好きなのは,クラシック音楽を聴くことです。モーツアルト,ベートーヴェンなどの古典派の作曲家はもちろんですが,私がよく接する曲は,ブルックナー,ブラームスなどの作曲家の作品です。以前,ブルックナーとマーラーが同じように語られたことがあって,私も,その影響で,マーラーの音楽を好んで聴いていたことがあるのですが,墨絵のようなブルックナーの音楽に比べて,色彩豊かなマーラーの音楽からは,しばらく遠ざかっていました。
 2018年にはじめてオーストリアのウィーンに出かけて,マーラーの住んだ家や,墓,また,マーラーが指揮者として活躍していたウィーン国立歌劇場などに訪れて以来,再び,マーラーに対する興味が戻りました。このころはまだ,クリムト,シーラなどの美術も知らなかったし,学生時代に世界史をほとんど習わなかった私は,ハプスブルグ家もわかりませんでした。それが,そうしたことに触れ,また,世紀末ウィーンという,それまでは言葉くらいしかしらなかったこの歴史を知るにつけ,この地の文化の奥深さに感動し,それとともに,マーラーの音楽が,そうした時代すべてを反映していることに驚くとともに,そのすばらしさを再発見したのです。

 そんな折に知ったのが,岩波現代文庫「マーラーと世紀末ウィーン」という本でした。
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 マーラーの作品の真の新しさやおもしろさは,世紀末ウィーンの文化史全体に目を広げてはじめて明らかになる。著者は同時代人クリムト,ワーグナー,フロイト,アドラーらの活動をも視野に入れ,彼らの夢と現実のありようを描きだす。また,現在,彼の音楽のどのような側面が注目され,それが現代文化のいかなる状況を表現しているのかを問う。
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という内容のこの本は,私が知りたかったことが網羅されたすばらしいものでした。
 この本はすでに絶版となっていますが,幸運にも私は,新古本を手に入れることができました。
 読んでいると,この時代の文化が私のこころの中に溶け込んでくるようで,本当に幸せになれます。ウィーンで,音楽だけでなく,多くの美術品なども見てきて本当によかったと思うし,マーラーの音楽の本当の意味もやっとわかりかけてきたように感じます。
 この本は,いつも持ち歩いていて,時間があれば,手に取ります。そうすることで,少しでも,この時代のかおりを味わうことができる気がするからです。

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●トレーラーハウス●
 食事を終えて,今日の宿泊先にチェックインをしようとしたのだが,このモーテルを予約したのは失敗であった。この町に着いてみたら,私が予約したものよりもずっと立派な全国チェーンのモーテルが多数あって,事前に予約しなくともどこでも泊まることが可能だったからだ。
 私がアメリカ旅行をはじめたころは,いつも当日ホテルを探して直接フロントで交渉して宿泊したものだった。今でもそれで問題ないのだが,エクスペディアなどで事前に予約ができるようになったことで,その方がホテルを探す手間がないので,事前に予約するようになった。それでも,全国チェーンのホテルならまず無難だが,そうでない場合,失敗することが少なくないのだ。もっともあてにならないのが口コミで,あんなもの,いくらでも操作ができるから参考にしないほうがいい。

 この日予約したホテルは,まず,フロントに人がいなかった。そして,いないときは電話をしろと書かれていたが,これが面倒なのだ。そもそも,日本からやって来て,気軽に電話などできるものではない。いまでこそ自分の持っているスマホでなんとかなるが,5年前はそうではなかった。
 なんとかスタッフが見つかったのでよかったが,これで,テンションがかなり下がってしまった。そして,別の多くの立派なホテルを見て,後悔した。
 旅というのは宿泊するところでずいぶんと印象がかわる。そして,それが,その国に抱くイメージにまで影響するのだから,ホテルというのはかなり責任重大なのである。
 私がいまでもアイスランドによいイメージを抱かないのは,すべて泊まったモーテルのひどさが原因であった。あれは本当にひどかった。そもそも,アイスランドのような観光後進国に,アメリカやオーストラリアのようなホテルを期待した私の方が悪かったかもしれないのだが。
 そういえば,ニュージーランドも,ホテルに関してはやはりまだ,観光後進国といえる。もちろん高級ホテルに宿泊するのなら,どの国も問題ないのだが,私のように,安価で民宿に毛がはえたような場所に泊まろうとすると,それが顕著なのである。
 おそらく,日本に来る外国人も同じであろう。高級ホテルならまったく問題はないだろうが,やたらと高価である。
 ビジネスホテルなら,部屋が異常に狭く,バストレイもまた,牢獄のように感じるだろう。また,温泉宿は外国にはありえないシステムだ。民宿程度の旅館やら民泊,さらにゲストハウスとなると,いったいどういった感想をもつのだろう。ただし,日本では,やたらと外国人に親切だから,私が海外で困るようなことは起きないかもしれない。

 ともかく,この旅では最も悪いホテルとなってしまったが,これも天災と考えることにしょう。晴れの日もあれば嵐の日もある。
 どうにかチェックインを済ませ,町を散策することにした。
 ホテルの裏はトレーラーハウスが並んでいるエリアだった。アメリカの町には大概どこも,こうしたトレーラーハウスが並ぶエリアがある。それは,日本でいう古びた長屋のような場所である。特に治安が悪いとは思えないが,低所得者が住んでいる感じ満載なのである。それでも,ぼこぼこの中古であっても車はあるし,雑草が生い茂っていても庭もある。こういう家を見ていると,アメリカという国に生まれて,こうした家に住んで生活する人のことをいつも考えてしまう。
 私にはこうしたところに住む友人がいないのでその実態はよくわからないし,アメリカに住む友人たちに聞いても,トレーラーハウスの並ぶエリアがどういう場所なのか,どういう人が住んでいるのかよく知らないという。その実態は今も,私には謎である。

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●「テリヤキ」とはいかなるものか?●
 さらに北に向かって走っていくと,オリンピック半島の北東の端にあたる場所にあったスクイム(Sequim)という町に着いた。ここが今日の宿泊場所である。地図で見るとシアトルからとても近いのだが,シアトル湾をはさんでいるだけで,思った以上に遠く感じた。
 スクイムはのどかなアメリカらしい田舎町であった。私はこうした町が一番落ちつく。アメリカの多くの町はこんな感じなのであるが,日本から観光でアメリカに行っても,おそらくこうした町には行かないであろう。したがって,多くの日本人はこのような町の存在を知らない。
 まず,夕食をとることにした。なぜか,ワシントン州には「テリヤキ」と看板に書かれた日本料理店がやたらとあるのだが,一体全体「テリヤキ」とは何ものであろうか? 日本料理の何某かであることはわかるが,アメリカ人はこの「テリヤキ」で,どういう料理を想像するのか,私にはさっぱりわからなかった。そこで,興味半分で「テリヤキ」と看板に書かれた1軒の小さな店に入ってみた。
 大概,こうした日本料理店を経営しているのはチャイニーズかコリアンなのであるが,日本料理と書いたほうが受けがいいのかもしれない。アメリカで日本料理はブランドなのである。しかし,日本の中国料理とかイタリア料理などと同じように,これらはその国の料理ではない。

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 「照り焼き」というのは,醤油を基本にした甘みのあるタレを食材に塗りながら焼く調理法である。タレの糖分により食材の表面がツヤを帯び「照り」が出るのが名前の由来である。
 日本では魚。または肉の調理に使われる技法であるが,日本以外の国では主に肉の調理に使われる。
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 ということで…
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 「照り焼き」は米国でも人気があり「teriyaki」が辞書に載るほど定着している。しかし,アメリカなどでは「teriyaki」とはテリヤキソース(teriyaki sauce)を用いて下味付けをした肉料理を指す。それは日本の「照り焼き」調理法とは異なり,料理に照りを出す調理法ではない。あらかじめ食材をテリヤキソースに漬け込んで調理したり,グリルで焼いた肉類にテリヤキソースをかけたりして食する。
 このため,アメリカで日本語の看板には「テリヤキ」とカタカナで表記されている。日本料理に傾倒しているレストランでなくても肉類の照り焼き料理を供する所があり,また,スーパーマーケットなどでも瓶詰めされたテリヤキソースが販売されているが,日本人の感覚からするとそれは甘過ぎたり余分な香辛料が入っていたりすることが多く,日本の「照り焼き」とアメリアの「teriyaki」は別物である。
 しかし,その事実はアメリカ人には知られておらず,「テリヤキ」は純粋な「日本料理」だと思われている。
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●わざわざ行かなくては行かれない。●
 この旅はわずか5年前のことだというのに,何と楽しそうだったのだろうと,今では思う。憧れが半分,不安が半分,そして,ときめきとともに期待が一杯であった。そして,少しはアメリカのことを知っているというおかしな自負とゆとりがあった。
 「思い出は美しすぎて」というが,おそらくそれだけではなく,このころの旅は本当に楽しかった。
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 またアメリカに行くことができるのがいつのことになるのかわからないが,行けるようになったとしても,そこがおおよそどういうところかわかってしまうし,もう,ときめきもなくなってしまった。
 人の幸せというのは,結局,なにか夢を見て,それを実現しようとしているときにあるのだろう。そして,それを実現してしまうと,そうした夢を見ていたころを懐かしがって生きるしかないのかもしれない。

 さて,1番目の目的地であったマウントレイニー国立公園の南西の出口を出て,その次は,2番目の目的地であるオリンピック国立公園を目指した。
 オリンピック国立公園はワシントン州の最西部にあるオリンピック半島にある。シアトルのさらに西にあたる場所である。
 地図で見ると都会に近く思えるので,今回行くまではけっこう都会のような気がして,あまり魅力的には思えず気が進まなかった。しかし,実際は,想像以上にのどかな田舎,しかも,風光明媚であった。
 この半島は,いわゆる「トドのつまり」であって,わざわざ出向かなねれば行くことがない場所である。私は,同じことを青森県の下北半島に行ったときに思った。そして行ってみて,下北半島は,核廃棄物処理場とか砕石場などばかりで,言葉は悪いが,結局,日本列島のゴミ捨て場のような位置づけのの場所であった。
 それに比べて,オリンピック半島は,とてもとてものどかな,美しいところであった。このブログを書きながら思い出していると,また行ってみたいと思う気持ちが深まってきた。

 オリンピック半島はUの形に湾が入り込むシアトル湾をはさんだ西側にあるから,北側からオリンピック半島に行くにはシアトル湾にかかる橋を渡る必要がある。何度も書いたように,シアトル湾の東側,つまり,シアトルの市街を北上すると,インターステイツ5は絶えず渋滞している。そこで,それを避けて,湾の根元にあたるシアトルの南のタコマから地上を通ってオリンピック半島に行き,半島の東海岸沿いに北に走り,反時計周りで半島を海岸沿いに1周することにした。
 途中でウォールマートやドラーツリーショップ(日本でいう百円ショップ)に寄りながら北上した。こうした何気ない日常に接することこそ,アメリカを旅する楽しみである。決してツアー旅行では行くことがないから,多くの日本人は知らない姿であろう。
 この日,いや,次の日もそうであったが,車で移動している時はずっと曇り,さらには,時折雨が降っていたが,オリンピック半島の北海岸に向けて走っていくうちに晴れ上がり,遠方の山々が美しく浮かび上がってきた。

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 スポーツ総合雑誌「Number」は読みごたえのある記事と美しい写真がウリで,私もこれまでMLBを特集したものを数冊購入したことがあります。そのスポーツ総合雑誌が藤井聡太二冠ブームに乗っかって将棋を特集したということで話題になっています。
 めったに雑誌を購入しない私ですが,どんな内容か興味をもったので,発売前にAmazonで予約して手に入れました。

 これまでもこのブログに書いているように,私は,小学校のころから将棋,というよりも,むしろ将棋界に興味をもっていたので,およそのことはわかります。若い棋士や将棋ライターよりもむしろ詳しいくらいです。
 大山康晴十五世名人対升田幸三実力制第四代名人最後の名人戦となった1971年(昭和46年)の第30期将棋名人戦をどきどきしながら新聞で読んだ経験もあります。また,中学生のころは「Number」に載っていた板谷四郎九段の開いていた板谷将棋教室に入り浸りで,板谷四郎八段に2枚落ちで教わったこともあるし,石田和雄九段に声をかけてもらったこともあります。

 おそらく,多くの人は,藤井聡太二冠の活躍で興味をもった将棋界のことを知りたくて,この雑誌を手に取ったことと思います。しかし,私は,多くの人が知りたいと思っているようなことは珍しくないので,むしろ,この本には,それ以外の「何か」私が興味をひかれる記事があるだろうかという思いで,読んでみました。
 その中で,買ってよかった,と純粋に思った記事の筆頭が,先崎学九段の書いたエッセイ「22時の少年-羽生と藤井が交錯した夜-」でした。先崎学九段の書く文章はいつも本当におもしろいのですが,単におもしろいだけでなく,人のこころの繊細さが緻密に描かれているのがすばらしいのです。特に,この雑誌に書かれてあった文章は秀逸でした。
 藤井聡太二冠が棋士になって半年くらいしたときのこと。とある企画で羽生九段と対局するのですが,そこで,藤井聡太二冠があることをするのです。私はそんなことがあったことをまったく知りませんでした。
 このエッセイの最後がいいです。
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 あの日のことはすべて,春の夜の夢だったのではないかと,たまに思い出す。
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 このエッセイのほかに,私が興味をもって読んだのは,鈴木忠平さんの書いた「羽生を止めろ。-七冠ロード大逆転秘話-」でした。
 この文章に書かれた1995年(平成7年)の第53期将棋名人戦第1局が京都洛北の宝ヶ池プリンスホテルで行われていた日,ちょうど私はそのホテルにいたのです。対局は広い庭園の中にある茶寮で行われていました。直接対局を見ることはできませんでしたが,茶寮の開いた窓から,白い着物を着た若き挑戦者森下卓八段の姿が見えました。思えば,あの将棋名人戦は,森下卓八段一世一代の大勝負だったのです。なぜか,あのときの,私が感じたなんともいえない雰囲気を今も思い出します。

 私がこの雑誌を買ってよかったと思うもうひとつの理由があるのですが,それは私のささやかな秘密にして,あえてここには書かないことにします。
 いずれにしても,たかが将棋,されど将棋。長年,将棋界を興味をもってみていると,この世界で起きた悲しいことばかりを思い出します。それはおそらく,勝負に生きる人は,その敗者の姿も美しく,かつ,記憶に残るものだからなのでしょう。

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 今日はちょっと趣向を変えて,数字のお話です。  
 岩波新書に「零の発見-数学の生い立ち-」という有名な本があります。40年以上も前に出版された本ですが,今も現役です。
  ・・・・・・ 
 インドにおける零の発見は,人類文化史上に巨大な一歩をしるしたものといえる。
 その事実および背景から説き起こし,エジプト,ギリシャ,ローマなどにおける数を書き表わすためのさまざまな工夫,ソロバンや計算尺の意義にもふれながら,数学と計算法の発達の跡をきわめて平明に語った,数の世界への楽しい道案内書。
  ・・・・・・
というのが,この本の紹介です。
 0を発見したおかげで位取りが可能になり,数学の発展につながったということが書かれている本です。

 さて,ここからが今日の本題です。
 表計算ソフトの Excel,日ごろ何気なく使っているこのソフトウェアは,1,048,576ある行は1から順に番号がふられていますが,16,384ある列は行と区別するために,数字ではなく,A から XFD までの文字がふられています。
 このとき,列を示す文字は次のような規則で記述されています。
  ・・・・・・
 26個のアルファベット A,B,C,……,Z を用いて,数字のように位取りをしていきます。このとき,1番目を A として,アルファベット順に並べ,26番目が Z です。そして,その次が AA となります。つまり,AA は27番目(=1×26+1)ということになります。この規則で書き表していくと,702番目(=26×26+26)が ZZ でその次の703番目(=1×26×26+1×26+1)は AAA となり,16,384番目(=24×26×26+6×26+4)が XFD となります。
  ・・・・・・

 この,文字の表記は自然に受けいれることができるので,何の疑問も感じないと思います。しかし,実は,数字の場合と文字の場合を比較してみると,大きな違いがあることに気づくのです。
 数字の場合 1,2,3,4,5,6,7,8,9,0 の10個の数字を使って数を表していますが,1からはじまって9の次が10です。10の次が11,……,19の次が20,……,そして99の次が100となります。こんなことは小学生でも知っています。
 では,1,2,3,4,5,6,7,8,9,0 の10個の数字を A から J の10個の文字で置き換えてみましょう。
  ・・・・・・
●まず,数字を「1=A,2=B,3=C,……,9=I,0=J」のように考えてみます。
 すると,列番号A,B,……,J,AA,…… を数字で置き換えてみると,1,2,3,4,5,6,7,8,9,0,11,…… となってしまいます。
  ・・
●数字が0からはじまると考えて「0=A,1=B,2=C,……,8=I,9=J」のように考えるほうが理に適うのでしょうか?
 そうすると,今度は,列番号A,B,……,J,AA,…… を数字で置き換えてみると 0,1,2,3,4,5,6,7,8,9 の次は「10」でなく,「00」になってしまいます。この規則で続けていくと,「09」の次が「10」,さらに「99」の次は「000」,というようになります。
  ・・・・・・
 エッ! 0とはいったい何だ?
 考えれば考えるほどわけがわからなくなってきます。

 では正解を書きます。
 実際は 1=A,2=B,3=C,……,9=I の次は,
  「10=J」
とするのです。そうすれば,列番号 A,B,……,J,AA,…… を数字で置き換えたとき 1,2,3,4,5,6,7,8,9 の次は「J=10」,その次が「AA=11」となります。ただし,この考え方だと,0は文字で置き換えられません。
 ここではわかりやすいように,1から10までの10個の数字を A から J までの10個のアルファベットで置き換えて説明してみましたが,Excel の列番号では1から26の26個の数字を A から Z で置き換えています。やはり0は文字では置き換えられないことがわかるでしょう。
 そこで,本来は,数字の0と9個のアルファベットAからIで表すのほうが理にかなっているのでしょう。そうすれば A,B,C,D,E,F,G,H,I,A0,AA,……,AI,B0,BA,…… というように,うまくいきます。
 これだけのことを考えても,「0」というのは,不思議な数だということがわかるでしょう。1から9の数字とは性質が違うのです。こんなことを考えだすと,夜も寝られなくなるかもしれません。

 このように,数字と文字とでは,考え方が異なるわけです。先に説明したように,数字を文字で代用するときは「1,2,3,4,5,6,7,8,9,0」の10個の数字ではなく「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」の10個の数字を「A,B,C,D,E,F,G,H,I,J」と置き換えて考えるわけです。つまり,A から J の10個の文字で書き表すことを考えると,
  「10というのは2桁ではなく,1桁の仲間」
なのです。
 たとえば,1クラスに40人の生徒がいて,出席番号が1から40までふられているとします。このとき,この生徒を出席番号順に4つのグループに分けると,はじめの10人は,1から9の1桁の出席番号の生徒ではなく,1から10の出席番号の生徒です。この例からも,10というのは2桁ではなく,1桁の仲間と考えたほうがわかりやすいのです。

💛

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●トレイルを歩く。●
 パラダイスに到着して,車を駐車場に入れた。涼しく爽やかな日であった。標高1,647メートルのパラダイスのビジターセンターからは次のようないくつかのトレイル(Trail)が続いていた。
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●ニスカリーヴィスタ(Nisqually Vista)
 ニスカリーヴィスタトレイルは ,全長1.2マイル(約1.9キロメートル),起伏200フィート,所要時間45分の舗装されたトレイルで,マウントレーニアの雄大な姿とさまざまな野生の草花を見ながら散歩ができる。また,途中,この山では5番目に大きいニスカリーグレーシャー全体を見ることができる。
●デッドホースクリーク(Dead Horse Creek )
 デッドホースクリークトレイル は,全長2.5マイル(約4キロメートル),所要時間1.5時間で,ニスカリーヴィスタトレイルの起点の右横からはじまりグレーシャーヴィスタまで平坦な箇所と上り坂が続く。ニスカリーヴィスタよりも変化に富んだ地形と遠くはマウントセントへレンズまで見渡せるパノラマビューが楽しめる。標高差は400フィートある。
●スカイライン(Skyline)
 スカイライントレイルは,全長5マイル(約8キロメートル),所要時間4時間の,グレーシャーヴィスタとパノラマポイントまで続くトレイルである。マウントアダムス,マウントセントへレンズ,ニスカリーグレーシャーを見渡すことができる。
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 アメリカの国立公園にはこうしたトレイルが完備されていて,景色を味わいながら歩くのが最大の楽しみとなる。トレイルはどこもゴミひとつ落ちていないし,意味のない看板もガードレールもラバーコーンもない。また,さびついた街灯やらモニュメントもなく,自然のままの姿になっている。
 こんな楽しみを知ってしまうと,日本で山歩きなどしたくなくなる。
 私はこの中で,ニスカリーヴィスタトレイルを歩いた。
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 ニスカリーヴィスタトレイルでは,夏場は公園内のあちこちで野性動物の姿を見ることができるという。実際,冬場は冬眠しているマーモットが,短い夏を満喫するかのように草や花,木の根っこを懸命に食べ続けている姿を身近に見ることができた。また,リスや野鳥、バンビを連れたシカのファミリーも木陰に見え隠れしていた。かわいい姿だが,マウントレイニーの動物たちは過酷な自然の中で必死に生きているのだ。
 また,ラッセルルピナス(garden lupin)やピンクマウンテンヒース(pink mountainheath )の花が美しく咲いていた。ラッセルルピナスは,紫・藤色・樺色・紅・白などの花を咲かせる,夏に休眠する耐寒性の宿根草だが,暑さに弱い。アメリカ北西部の原産で,草丈150センチメートル以上になる。ピンクマウンテンヒースはアメリカ北西部と西部カナダの北アメリカ西部の山岳地帯に生息する常緑高山低木で,赤紫色の花を咲かせる。
 マウントレイニー国立公園最大の魅力であるナラダ滝(Narada Falls)は,マウントレイニーハイウェイのふたつの層の間の横切っていて,簡単に見ることができる。滝は168フィート(51メートル)と20フィート(6.1メートル)のふたつの層からなっていて,188フィート(57メートル)の落下をする。上層はほぼ切り立った崖の下のいくつかのストランドに落ちる馬尾状になっていて,垂直な峡谷に落ちる。下層ははるかに小さなプランジ状である。透き通った流れはいかにも涼しげであった。滝壺では若い女性がふたり,びしょ濡れになりながら遊んでいた。

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 国道365号線沿いは,かつて1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いのあった場所で,石田三成陣地跡をはじめとして,多くの史跡があります。私の家からさほど遠くはないのですが,これまで,それほど興味があったわけでもないので,古戦場を巡ったことはありませんでした。
 子供のころ,学校で関ヶ原の戦いについて習ったときに行ってみたいと思ったのですが,私が連れていってもらったのは,関ヶ原ウォーランドというところでした。
 そして,そのとき,この場所(だけ)が関ヶ原の戦いのあった場所だと思ったのがかなり浅はかなことでした。そこは,関ヶ原の戦いを題材としたテーマパークでした。
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 関ヶ原ウォーランドは関ケ原町にある博物館です。1964年(昭和39年)に開館しました。 敷地は約30,000平方メートルあって,関ヶ原の戦いを200体以上の戦国武将のコンクリート像で再現しています。また, 屋内には武具甲冑資料館もあります。
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 実際に戦いの起こった場所は,当然,もっと広範囲に及びます。
 先日,関ヶ原から草津まで旧中山道を歩いたとき,西軍の大谷吉継陣跡に通りかかったので,寄り道して行ってみました。それ以来,関ヶ原の古戦場に興味がわいてきました。そこで,この日,木之本からの帰り道,国道365号線を走っていると,石田三成陣跡という道路標示があったので,寄ってみることにしたのです。
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 決戦の当日,東軍の総大将である徳川家康が最初に布陣したのは主戦場から東に離れた桃配山の中腹でした。桃配山はJR関ヶ原駅から東へ2キロメートほど離れたところにあり,すぐ近くには山内一豊の陣跡もあります。
 開戦からしばらくして,徳川家康は本陣を前進させ,笹尾山から約600メートル離れた平地まで近づきます。現在,その地は陣場野公園とよばれていて「徳川家康最後陣跡」の碑が建っています。この場所は前方には笹尾山,背後には毛利秀元隊が3万ほど布陣していた南宮山があり,関ヶ原古戦場の中心地となりました。 
 笹尾山こそ,この日私が行った西軍のリーダー・石田三成の本陣があったところす。ここには現在,合戦当日の様子を再現した馬防柵が設けられています。
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 笹尾山の石田三成陣跡のふもとに広い駐車場があったので,車を停めて外に出ました。ふもとからは関ヶ原一帯を見渡すことができました。笹尾山は小高い丘のような要塞で,簡単に登ることができるのですが,さすがに猛暑,軟弱な私は登るのは次回ということにしました。
 前回行った大谷吉継の陣跡は,この笹尾山から直線距離では1キロメートル程度のところにあります。石田三成の盟友として名高い大谷吉継は,東軍への内通が疑われていた松尾山城の小早川秀秋陣を見張るような形で,この地に布陣しました。
 合戦の当日,疑いどおり裏切って松尾山を下った小早川勢は,真っ先に大谷勢を襲撃します。大谷勢は幾度か小早川勢を押し返し,奮闘を見せたのですが,ついに抗しきれず崩れます。自害した大谷吉継の首は陣より北側の山の中に家臣の手で葬られました。現在,その地には墓碑が建てられています。
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 関ヶ原の戦いの勝敗の行方を大きく左右した小早川秀秋が布陣した松尾山城は,大谷吉継の陣からさらに南へ行ったところです。石田三成陣跡を出て,家に帰ろうと国道365号線を名神高速道路をくぐって走っていたら,この松尾山の登山口への道路表示を見つけたので行ってみました。
 しばらくその道路を進むと,登山口が見つかりました。この登山口からは,小早川秀秋が陣を置いた山頂まで40分ほどの登山道が続いていました。松尾山城は相当な山城で,登山道には土塁や曲輪が残っているということです。もともと,ここには南北朝時代から城が築かれていて,西軍はこれを改修して陣にしていたのですが,合戦前日に小早川秀秋の軍勢が乗り込んで,すでに陣をひいていた西軍の守備隊を追い出して布陣してしまったといいます。そして,小早川秀秋はこの松尾山城から戦況を見守ったすえ,結局裏切り,東軍の一員としてその勝利に貢献したというわけです。
 さすがに,この猛暑では,笹尾山すら登る気のなかった私は,当然,40分もの山道を登るわけもなく,今回はここに登るのも断念して,また,涼しくなったら来てみようと思って関ヶ原を後にしました。
 涼しい秋になったら,また行ってみたいところがたくさん増えました。

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 私が大学生のころは秋休みがありました。また,就職活動は今とは違って大学4年生の夏以降でした。そこで,大学3年生の秋休みは山陰地方をひとり旅したのですが,大学4年生の秋休みは遠くへの旅行ができませんでした。そこで私が考えたのが琵琶湖1周の日帰り旅でした。しかし,車を持っていなかったので,鉄道を乗り継ぐことを考えました。
 琵琶湖の東岸は北陸本線,西岸は湖西線で,琵琶湖の北の近江塩津で乗り換えです。しかし,接続が不便で,乗り換えができません。ずいぶん連絡方法を考えました。そのときに私が知ったのが,北陸本線の木之本という名前の駅でした。
 結局,私は琵琶湖1周の旅を達成しました。楽しかったという思い出だけは今も新鮮です。しかし,不思議なことに,連絡の不便だった湖北をどう移動したのかだけは記憶にないのです。おそらくバスに乗ったような気がします。
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 その後,何度も車で北陸に行ったときに,いつも高速道路でこの辺りは通過したのですが,木之本の町自体には行ったことがありませんでした。とても美しい町だとは聞いていたのですが,町自体は高速道路からは見えず,町がどのあたりになるのかも知らなかったので,ぜひ,一度は行ってみたいと思っていました。
 そこで,今回,余呉湖に行った帰りに寄ってみることにしました。

 余呉湖から国道365号線を南に下って左に曲がり,北陸自動車道をくぐると,JR北陸本線の木之本駅に出ました。駅の南に踏切があって,その踏切を越えて東に行くと坂になって,坂伝いに古い町並みが見えてきました。ああ,ここなのかと思いました。坂を上っていくと,北国街道に出て,北国街道に面して美しい町並みが広がっていてびっくりしました。予想以上にいいところだなあと思いました。
 車を停めて,少し町を歩くことにしました。
 木之本は「やなぎもと」とよばれた昔からお地蔵さまの門前町として栄えました。町の中心にあった大きな寺が木之本地蔵院とよばれる浄信寺でした。
 中に入ってみました。
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 浄信寺の歴史は古く,白鳳時代までさかのぼるといいます。空海,木曽義仲,足利尊氏,足利義昭が参拝した記録があり,賤ケ岳の合戦では,豊臣秀吉が陣を置いたということです。
 浄信寺は目の仏様として知られる時宗の寺です。「身代わりカエル」の伝説があって,寺の池に棲むカエルが地蔵尊の願いにより目を患った旅人に片目を与え,旅人は旅を続けることができたとの昔話があって,いまでもお寺に棲むカエルは片目をつむっているといわれています。
 また,浄信寺は境内に立つ6メートルもの大きな地蔵像「木の本のお地蔵さん」が有名です。地蔵は昔,大阪湾に流れ着いた本尊を祚連上人がこの地に祀ったと伝えられています。
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 浄信寺を出て,北国街道を町の一番北まで行って,そこから折り返すことにしました。
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 北国街道は北陸と近畿を結ぶ陸路として古くから開けた道路で,金沢城下から中山道の鳥居本宿までをさします。木之本宿には本陣,問屋,伝馬所などが設けられていました。木之本宿は,現在は宿場の中央に流れていた小川埋め立てられてしまって,商家の家並みだけが昔の情景を残しているということですが,それでも,十分に面影が残るきれいな町並みが続いていました。
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 私がはじめに見つけたのが木之本牛馬市跡でした。室町時代から昭和の初期まで,毎年2回街道の民家を宿として牛馬市が開かれていました。江戸時代には藩の保護を受け,地元近江をはじめ,丹馬,丹波,伊勢,美濃,越前,若狭などから数百頭以上も牛馬が集まり盛況を極めたそうです。あの山内一豊が妻の備えていた金子で買い求めた名馬もここで買ったものだといういい伝えがあります。それを知ると,何か街道歩きも楽しいです。
 次にあったのが,旧本陣でした。この場所に住む当主は,日本で第1号の薬剤師となったそうで,古い薬の看板が今も残っていました。
 その向こうには,杉玉が軒先にある家が目につきました。杉玉は酒屋の軒先に看板として出され、真新しい緑の酒林は新酒が出来た事のしるしです。杉玉は,昔は運搬時の防腐剤として酒樽に入れられたとも伝えられているということです。

 木之本宿からは北国脇往還も通っていました。この街道は,木之本宿から,名古屋,江戸方面へ向かう旅人が中仙道鳥居本宿を経ずに関ヶ原宿へ向かう近道として賑わいました。また,賤ヶ岳の合戦の際には,豊臣秀吉が大垣から木之本間の13里,約52キロメートルを約5時間で駆けつけ柴田勝家軍との戦いに勝利しました。これは後世「大垣大返し」とよばれ,有名な山崎の合戦の際の「中国大返し」とともに,秀吉の二大大返しとして有名なものです。
 タイムスリップしたような町でした。今度また,ゆっくり来てみたいと思いました。

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●マウントレイニー国立公園●
 マウントレイニー国立公園(Mount Rainier National Park)はワシントン州ピアース郡の南東部からルイス郡の北東部にかけて位置する国立公園で,1899年にアメリカ5番目の国立公園として設立された。公園は953平方キロメートルの面積があり,これは東京23区の1.5倍ほどである。
 成層火山であるマウントレイニーの標高は4,392メートルで,これはカスケード山脈の中で最高峰である。アメリカの先住民は,この山の神々しい姿を畏れTahoma(神の宿るところ)とよんでいたという。また,シアトルやタコマに移民した日系人たちはふるさとの風景を懐かしんで「タコマ富士」とよんでいた。
 マウントレイニーの高さはアメリカのすべての山の中で17位であるが,そのうちの12はアラスカ州にある。それを除いた最高峰は意外と知られていないが,マウントホイットニー(Mount Whitney)の4,421メートルである。マウントホイットニーについては,すでにこのブログで「2018夏アメリカ旅行記」に書いたことがある。
 例年だと,およそ130万人がこのマウントレイニー国立公園を訪れ,そのうちの約1万人がマウントレイニーへの登頂を目指し,25パーセントだけが登頂に成功するのだそうだ。

 マウントレイニーは,公園の97パーセントが原生地域として保護されている。マウントレイニー国立公園の地域で人類の最も初期の証は,ベンチレイクトレイル沿いで見つかったおよそ紀元前4,000年から5,800年の有舌尖頭器であるという。
 1番の見どころはパラダイス (Paradise)という場所である。パラダイスはマウントレイニーの南斜面,高度1,647メートルの地域で,,マウントレイニー国立公園を訪れた人に最も人気のあるエリアである。パラダイスという名前は,1885年夏,ヴィリンダ・ロングマイヤー(Virinda Longmire)によって,この地に映える野生の草花を見て名づけられたものである。
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 パラダイスにはジャクソンビジターセンター(Jackson Visitor Center)とパラダイスイン(Paradise Inn)というホテルがある。私は,パラダイスに着いてここに着いて車を停め,まず,ジャックソンビジターセンターの中にあるカフェテリアで昼食をとることにして,ハンバーガーを注文した。
 昼食後,ジャクソンビジターセンターのとなりにあるパラダイスインのロビーに入ってみた。パラダイスインの創業は1916年。堂々たる石造りの建物の1階にはダイニングルームやお土産店,暖炉もあって温かい雰囲気だった。
 泊まったわけではないので,部屋の中は見ていないが,一般的なホテルに比べると小さめで、テレビやインターネットのアクセスもないというこのホテルは,旧きよき時代を思いつつ大自然の懐に抱かれることができるという。私は,アメリカのほとんどの国立公園に行ったが,国立公園内ホテルには泊まったことがない。いくら贅沢をしても一度は体験してみたいものだったと,今にして思う。

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 Harvest Moon 2020.
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●すばらしいアメリカの国立公園●
 マウントレイニー国立公園(Mount Rainier National Park)には次の四つの出入口がある。
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●ニスカリー(Nisqually)
 公園の南側のロングマイヤー(Longmire)から公園内の標高1,647メートル地点のビジターセンターやロッジのあるパラダイス(Paradise)につながる,南西のニスカリー・エントランス
●スティーブンズキャニオン(Stevens Canyon)
 州道123から公園の南東部にあるオハナペコシュ(Ohanapecosh)のビジター・センターを経由して入るスティーブンズキャニオン・エントランス
●ホワイトリバー(White River)
 公園北東部の標高1,950メートル地点サンライズビレッジ(Sunrise)に続くホワイトリバー・エントランス
●カーボンリバー(Carbon River)
 公園北西部のカーボンリバー・エントランス
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 この中で最も人気が高いのは1番目のロングマイヤーとパラダイスにつながるニスカリー・エントランスなのだそうだが,私は,シアトルから南下してきたから,2番目のスティーブンズ・キャニオン・エントランスから入って,1番目のニスカリー・エントランスから出た。
 入園料を払って国立公園に入ると,ずっとマウントレイニーの雪を被った美しい山が見えてきた。展望台に広いパーキングがあったので,車を停めて外に出た。天気がよく,すばらしい眺めであった。

 今,これを書きながら,改めて,何とアメリカの国立公園はすばらしかったのだろうという記憶がよみがえってきた。
 それは,自然が美しいだけでなく,道路や駐車場,そうした設備すべてが自然に溶け込んでいることである。日本のようなさび付いたガードレールやらラバーコーンやら,至る所にすてられている空き缶やら,意味のない看板やら,そういったものが一切ないのである。このブログを書きながら,そうした忘れていた記憶がどんどんとよみがえってきて,また行きたくなって危険なのである。
 容易に海外に行くことができない今は何とか国内に目を向けようと思っていたのに,実際出かけると幻滅することばかりであったが,そうした矢先に,アメリカのすばらしかった国立公園を思い出して,しきりに行きたくなってきた。実に困ったものだ。

 再び車に戻ってしばらく進むと,リフレクションレイク(Reflection Lakes)が見えてきた。リフレクションレイクは小さな湖だが,名前のごとく,湖面にマウントレイニーが反射して,美しい姿を見せるのだという。しかし,私が行ったときは,湖面に藻が浮いていて,あまり反射した姿を見ることができなかったのは残念であった。
 それでも,マウントレイニーの美しい姿を湖の向こう側に見ることができた。

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●日本にはない雄大な国立公園●
☆10日目 8月8日(土)
 今,この2015年の旅を5年後に振り返っていると,本当にいい旅だったなあ,また行きたいなあ,という気持ちがどんどんと深まってくる。
 さて,ワシントン州には北からノースカスケード,オリンピック,マウントレイニー,セントへレンズという国立公園があり,そのどれもがすばらしいところだ。
 ノースカスケードはこの旅の1年後2016年にモンタナ州のグレイシャー国立公園とともに行くことになるのだが,2015年のこの旅では,ノースカスケードを除いた三つの国立公園と,さらに,オレゴン州のクレーターレイク国立公園に行くことができた。
 この日がこの旅での国立公園めぐりの第1日目で,マウントレイニー国立公園をめざすことになる。

 朝,ホテルで朝食後チェックアウトして,早速マウントレイニー国立公園に向かう。
 シアトルからインターステイツ5を南下して,マイルマーカー142のジャンクションで降りて,州道18,州道410と,合計110マイル,180キロメートルほど走ると南東の入口に到着する。ここから国立公園に入って,マウントレイニー国立公園の南側に沿って西に向かって走り,南西のゲートから出るという計画であった。
 この日の天気予報はあいにく曇り午後から雨で,早朝ホテルを出たときには,シアトルもどんよりと曇っていたが,幸い,マウントレイニーに近づくにつれて晴れ上がった。ワシントン州は山脈をひとつ越すと全く違う天気になる。
 途中でガソリンを入れた。そのガソリンスタンドがいかにもアメリカのド田舎で,いやがうえにも期待が高まったが,そのうち,森林に囲まれた直線道路から,国立公園の雄大な山々が見えるようになってきた。

 このあたりを走っていると,かれこれ20年くらい前に,ここと同じような景色を見たことがあるなあと思った。それは,2000年,カナディアンロッキーに行ったときのことであった。アメリカの国立公園は,こうした山々の美しいところもあれば,ユタ州の多くの国立公園のように,赤茶けた悠久の大地が広がっているところもある。カナディアンロッキーは,アメリカの国立公園のうちで山々が美しいところの延長線上にあるようで,同じような景色が見られるのだ。
 こうしたアメリカの国立公園は確かにすばらしいのだが,日本にはぜったいにありえない雄大さを求めていくと,観光シーズンはものすごく車が多いので,期待外れになるかもしれない。本によれば,夏が終わった9月以降は人も少なくてとてもいいと書かれてあるが,この季節に旅行をしたことは,私もこれまでに1回しかない。…などと書いているうちに,また,9月に行ってみたくなってきた!
 やがて,国立公園の入口に近づいたが,入園料を払う車の列で渋滞していた。

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9月に入ったのに,昨日も猛暑。夜はすごい雷雲でした。
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