しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2020

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 私はこれまで海外に目が向いていたので,日本国内を旅することはあまりありませんでした。また,魅力も感じていませんでした。それでも,いくつか気になる場所はあったので,今行かなければ,きっと将来も行くことはないだろうと,あえて機会をみつけては,足を運んでいました。
 2020年は,まず,1月に静岡県の旧東海道の蒲原宿と二川宿を歩きました。また,その数日後,旧中山道の御嶽宿から伏見宿まで歩き,帰りに明智荘へ寄りました。2月には,念願だった高知県の四万十川と足摺岬へ遠出し,宇和島まで足をのばしました。 また,旧中山道の加納宿から河渡宿,美江寺宿まで歩き,その折に,金華山に登りました。3月になると,余部鉄橋へ行き,帰りに豊岡,福知山城,黒井城へ行きました。そして,その1週間後に,新潟県の親不知子不知海岸へ行きました。また,岐阜県の山県市にある大桑城に登り,さらに,丸岡城,東尋坊,一乗谷,そして,小谷城に行きました。4月のはじめには,岐阜県の妻木と愛知県の新城へも行きました。5月の末は木曽駒高原へ行き,帰りに鳥居峠を歩き奈良井宿へ行きました。7月は北海道,8月は京都府の伊根と滋賀県の木之本,10月には再び木曽駒高原へ足を運びました。
 結構いろんなところへ出かけたものです。そしてまた,特に意識していたわけではないのですが,「エール」と「麒麟がくる」ゆかりのさまざまな場所にも偶然行きました。
 
 そのなかで,もっとも印象に残っているのは,高知県の四万十川です。
 昨年行った岩手県の水沢や花巻とならんで,高知県の四万十川は,私が好きになった場所です。ともに,あの,のどかさが最高です。私は,日本国内では,リピートしたいと思うようなところはあまりないのですが,この二か所は,いつかまた時間をとって,ゆっくり旅をしてみたいと思うところです。
  四万十川は,高知県の東部にある山を水源として太平洋に流れ込む川で, 高知の大自然を象徴する存在となっています。 日本の河川のほとんどは,急流でまっすぐ流れているのですが,四万十川はうねうねと蛇行しながらゆったりと流れています。いかにも自由という感じです。その美しさから,四万十川は「日本最後の清流」ともよばれます。
 四万十川では,遊覧船のツアーや沈下橋を通過する屋形船下りなどを利用して様々に楽しみむことができるし,また,四万十川で獲れる天然の鰻と鮎で地元グルメを満喫したり,山々と川の流れが織りなす手つかずの自然を堪能することができます。
 四万十川に行くにはまず高知市に行くことが必要ですが,高知市も魅力がある町です。駅前には土佐藩の幕末の英雄である武市半平太,坂本龍馬,中岡慎太郎の像が出迎えてくれて,郷土の誇りを感じます。その高知市でおいしいものをあじわうのもまた,魅力です。
 このように,2019年の東北に続き,2020年はすでに書いた北海道の道北とともに高知県の四万十川で,日本の今も残る数少ない自然の魅力を感じることができた年になりました。

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 ここ数年は異常なインバウンドでした。それは日本のことだけだと思っている人も多いでしょうが,世界中の観光地がそうだったのです。それでもまだ,都会を離れれば,交通が不便なだけ,アメリカやオーストラリア,また,ハワイもオアフ島を除けば,観光客も少なかったので,私が行くようなそんな場所のほとんどは,移動途中の空港を除けば,インバウンドの影響も少なく,ストレスがありませんでした。
 それに対して,日本は狭く,公共交通が隅々まで発達しているので,どこもかしこも外国人だらけで,行き場がありませんでした。至る所に観光客があふれ,それまでの静寂は消え去り,温泉に行ってもマナーを知らない客に圧倒され,どこにも行く気がなくなっていました。特に京都は最悪だったので,私は2,3年足が遠ざかっていました。それが,2020年は一変しました。まるで沸点を越えた水がすべて水蒸気となったかのように,観光客が蒸発してしまいました。

 そこで,2020年の春は,観光客の去った京都でゆったりと桜を愛でることにしました。
 多くの人はそれどころではなかったかもしれませんが,実は,今年の春は天気に恵まれ,例年とは違って,満開の桜は散ることを忘れたかのように長い間見ることができたのです。おそらく,こんな落ち着いた京都の春はもう二度と来ることはないだろう,そう思いました。しかし,久しぶりに京都に行ってみてがっかりしたのは,以前の京都と違って,街中にあふれた注意書きでした。無断に入るな,写真を撮るな,などなど。これが,インバウンドの結果なのでした。
 それでも,満開の美しい桜は変わってはいませんでした。

 2020年の秋は「Go To Travel」がはじまって,再び,多くの観光客が京都に殺到しました。私はがっかりして,京都の紅葉を見にいくことをやめました。
 しかし,思いもよらず,期せずして京都に行くことになりました。その事情はすでに書いたので,ここで繰り替えすことはしません。いずれにしても,私が京都に行ったのは,紅葉の時期には少し遅れたので,思ったほどの観光客はいませんでした。
 私は,人混みが嫌いですが,たとえ観光地であっても,早朝かあるいは雑誌などで取り上げられる有名な観光地を避けると,急に人がいなくなります。しかし,そんな場所であっても,行くべきところも見るべき場所もたくさんあります。私は,そんなところを散策するのが好きなのです。こころが落ち着きます。そこで,思った以上に,美しい京都の紅葉を楽しむことができました。
 美しい紅葉もいつもと変わってはいませんでした。
 そんなわけで,春の桜と秋の紅葉,2020年は静寂が戻った京都を楽しむことができた年でした。


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 2020年もあと3日となりました。
 2020年は,2月までとそれ以降で世界が一変したおかしな1年でした。私は,2月にハワイのモロカイ島,3月にオーストラリアのアデレード,6月に白夜のフィンランド,8月にアメリカのアリゾナ州,そして,11月にチェコのプラハに行く計画を立てていたのですが,2月のハワイ旅行以外はすべてキャンセルになってしまいました。
 私が行こうと思っていたこれらのところは,おそらくほとんどの人には参考になる場所ではないと思うのですが,私には,練りに練ったうえで行こうと思った場所ばかりなのでした。私も,若いころは,多くの人と同じように,ニューヨークやパリなどの大都市やカリフォルニアのディズニーランドに興味があって,実際行ったこともあるのですが,歳を重ねると,次第に地球上の大自然に傾倒するようになりました。そこで,そうした場所に出かけて,ある種の孤独を味わいながら自由に過ごすことに魅力を感じるようになってきました。
 これまで出かけた場所で印象に残っているのも,そんな場所ばかりです。

 結局,今年行くことができた海外は,先に書いたように,2月のハワイのモロカイ島だけでした。この旅のことは,今,旅行記を書いています。それ以外行くことができなかったところの代わり,というわけではないのですが,7月に北海道に行ってきました。
 2020年3月に発見されたネオワイズ彗星(C/2020F3 NEOWISE)が急激に明るくなって,7月下旬にはまれに見る明るさとなりました。しかし,連日の悪天候でまったく見ることができず,全盛期を過ぎそのまま暗くなってしまいそうでした。そのために,急に思い立って日本で唯一晴れていると思われた北海道に行ってきたわけです。

 この,突然行った北海道旅行は最高でした。まだ「Go To Travel」がはじまっていなかったという時節柄もあって,観光客がほぼ皆無だったというのがきわめて幸運でした。おそらく,こんなすばらしい旅はまた行ったとしてもできないことでしょう。
 北海道とはいえ,多くの人が考える函館とか札幌とは違って,私が行ったのは留萌でした。そして,少しでも条件のよい場所でネオワイズ彗星をみようと,人のほとんどいない大自然の中をドライブして,サロベツ原野まで行きました。
 夜の北海道を走っていると,以前,深夜のオーストラリアを走ったときのことを思い出して,海外旅行気分を味わうこともできました。また,北海道の小さな町はハワイのモロカイ島の町カウナカカイのようでした。今日の写真の1番目と2番目はハワイ,3番目と4番目は北海道ですが,似ています。
 私は,このように,人のほとんどいないところで過ごすことに究極のやすらぎを覚えるようです。
 もし,予定通りに海外旅行をしていたら,北海道旅行をしていなかったと思うと不思議な気がします。ネオワイズ彗星の鮮やかな姿をみることもなかったかもしれません。
 私にとって,2020年もまた,多くのすばらしい思い出ができた年となりました。

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☆☆☆☆☆☆
 マウイ島ハレアカラ山は国立公園で,入園料が必要です。アメリカ軍の施設があるので,山頂まで舗装されていて,安全で快適なドライブができます。ハレアカラ山の山頂には天文台があるのですが,別の頂で建物の姿は見えますが,公開されておらず,一般の人は近づけません。
 日没時は多くの観光客が訪れるのでごった返しますが,日が沈んでしまうと,ほとんどの人は下山してしまうので,その後に,駐車場で星見を楽しむことができます。ここの星空は雑誌「TIME」で世界で星の美しい場所のひとつとして取り上げられたところでもあり,絶品です。気軽に登れて標高が高く,しかも,晴天率が高いので,これ以上の場所はないと,私は思います。しかし,もっとも残念なのは,ここが北半球ということです。南半球でしか見られない天の南極付近の星空に比べたら,北半球の星空はかなり見劣りするのです。

 さて,このハレアカラ山の麓にクラという美しくのどかな小さな町があります。ここは高台で,マウイ島が一望できます。私は,ここの民家に1泊する機会がありました。いわゆる民泊です。ベランダからは星がよく見えたのですが,深夜12時以前は街灯もまぶしく,がっかりしました。しかも,曇っていたし,夜半すぎには月が昇ってくるので,まったく期待していませんでした。このときの私は,星を見に行ったわけではなかったからです。
 しかし,深夜に起きてベランダに出てみると,先ほどまでの街灯も消え,しかも,雲もなくなって,満天の星が輝いていました。いつものこと,私の運がいいのは,ちょうど目が覚めて星を見たときに南十字星がほんの何十分か地平線から姿を見せていたことです。
 やがて,月が昇ってきましたが,月明かりがあっても,星空が美しく輝いていたのには驚きました。日本で月のない夜よりも,ずっと暗かったのです。

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☆☆☆☆☆☆
 今日からはハワイです。
  ・・
 ハワイのハワイ島とマウイ島には世界中の天文台がたくさん集まっているのですが,まず,ハワイ島からはじめましょう。ハワイ島マウナケア山の山頂には13の天文台があります。その天文台のドーム群が林立している様が見たいというのが私がハワイ島に行った動機でしたが,意外なことに天文台のドーム群を人が住んでいる場所から見ることができるところは限られていて,どこからでも見られるものではないのです。そのひとつはハワイ島の北西ワイメア(Wainea)です。ワイメアから見たマウナケア山が1番目の写真です。サドルロードを走っていると東側にこのドーム群を見ることができて,この姿を見るとちょっと感動します。そして,もう1か所はハワイ島の東ヒロ(Hilo)ですが,これが2番目の写真です。ヒロの海岸からもかろうじてマウナケア山の山頂が見られるのですが,ここは私がはじめてハワイ島に行ったときに見あげた場所です。個人的には,これがもっとも印象に残っているところです。
 2016年,はじめて行ったハワイ島,そして,1日目に滞在したのがヒロだったのですが,ハワイも人が住んでいる街中は結構明るくて星がみれらないのにがっかりしました。しかし,日本の都会とは違ってもともと空が暗いので,街灯が光っているくらいでは星は消えないのです。そこで夜,ハワイではじめて星空を撮影した写真が3番目,また,明け方に写したものが4番目の写真です。3番目の写真にはオリオン座などの冬の星座,4番目の写真にはさそり座などの夏の星座が写っています。ハワイの星空をはじめて見て,私が思ったのは,3番目の写真のように,シリウスがえらく高い場所にあるということでした。

 マウナケア山の山頂は標高が4,200メートルもあるので登るのは大変なことですが,山頂にあるドーム群は,マウナケア山の山頂に行く道路をいくら走って登っていっても,ほとんど山頂にまでたどり着くまでまったく見ることができなのです。そこで,ハワイ島に行った人は多くとも,マウナケア山の山頂にあるドーム群を間近に見た人はそれほどいないことでしょう。
 実際,山頂の天文台に到着すると,その巨大な施設に驚きます。それぞれの天文台が舗装された道路で結ばれています。今や天文学というのは,地球上では,このマウナケア山や,南アメリカのアンデス山脈のような,ほぼ人類が到達できる極限の場所に天文台を建設して研究している状況で,人間の至った学問は限界に達しているように思えます。
 研究者でもなければ,マウナケア山の山頂で星見をすることはできません。いや,研究者は趣味で星見をしているわけでなく,そこでは機器の整備をしているか,遠く離れた都会から遠隔操作をしているわけで,のんびりと星空を眺めているわけではないのです。私のような一般人は,マウナケア山の中腹にあるビジターセンターにある広い駐車場で,星見をするのです。そこで写したのが6番目の写真です。ハワイ島では南十字星は地平線ぎりぎりでしか見ることはできませんが,それでも,はじめて見たときはずいぶんと感動しました。このぎりぎりというのがまた,いいのかもしれません。その逆に,日本では石垣島より北では,ぎりぎりで南十字星は見えません。
 私がはじめてこの場所で南十字星とそのあたりの銀河を見たときは,まだ南半球に行ったことはなかったので,それはそれでずいぶんと印象に残ったものでした。なつかしい話です。

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☆☆☆☆☆☆
 まさか私がウルル(エアーズロック)に行くとは思ってもいませんでした。私には「別の世界」のことだと思っていました。第一,あんな遠いところにどうやって行くのだろうと思いました。それが,行ってみたいという友人がいて,私を誘えばなんとかなるだろうということで,行きがかり上,行くことになりました。
 行きの飛行機が遅れ,乗り継ぎ便に間に合わないとか,まあ,いろんなことがありましたが,幸運にも,今は登ることができなくなった頂上まで登ることもできたし,この時もまた,幸運な旅になりました。
 
 そんなこんなで,星を見るために行ったわけでないので,特別な機材も持っていなかったし,天気も特に気になりませんでした。それでも,滞在最終日の夜,晴れました。
 ウルルのある場所はウルル・カタジュタ国立公園(Uluru-Kata Tjuta National Park)という場所で,国立公園には夜は入ることができません。街灯がないので,もし,深夜に行くことができれば絶品の星空が見られるだろうと思うと残念な気がしました。砂漠のど真ん中なので,宿泊できるのは国立公園からは少し離れたリゾートエリアにあるホテルで,その一帯は街灯がまぶしい場所です。
 滞在最終日の夜,晴れました。私はそのころはもう南半球の星空は見慣れていたので,特に未練はなかったのですが,はじめてという友人に南半球の星空を見せたいと,少しは街灯のない場所まで出かけることにしました。
 そうして写したのが今日の写真です。特別な機材も持っていなかったので,単に三脚にカメラを固定して写しただけのものです。でも,これだけの星空が写ってしまいます。

 あとで考えると,国立公園の圏内に入ることはできないにせよ,ウルルを入れた写真を写すことができる場所もなかったわけでないのですが,それを取り損ねたのがとても残念なことでした。
 行ったのは日本の3月のことで,季節が反対のオーストラリアではまだ残暑が厳しく,観光シーズンではなく,比較的空いていました。観光シーズンは日本の夏のころで,多くの観光客でごったがえします。しかし,このコロナ禍で観光産業しかないこの地が今どうなっているのかが気がかりです。私が訪れたときに働いてた人はどうなっているのでしょう? 親切にされただけにとても心配です。
 この場所もまた,もう行くことはないと思ってたのですが,今思い出すと,また,いってみたいなあ,と懐かしくなる場所のひとつです。

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◇◇◇
Thank you, Santa.

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☆☆☆☆☆☆
 さて,今日からはニュージーランドに続いて,オーストラリアです。
  ・・
 所詮は趣味。お金をかける気もなく,古い機材しか持たない私は,1980年代のまま星見を楽しんでいるのですが,そのころに発行された雑誌の写真を見ると,今の私の作品は1980年代のものと比べれば「いい勝負」をしているのに満足しています。当時はディジタルカメラすらありませんでしたから,それは当然です。おそらく,現在,最新の機材でいくらすぐれた写真を写しても,30年後の世界では,きっと同じようにそれなりの作品になってしまっていることでしょう。
 ということは余談として,ここで書きたいのは,1986年がハレー彗星の接近した年だったということです。このときのハレー彗星は非常に条件が悪くて6等星止まりで,それも北半球では地平線付近にしか見られませんでした。しかし,南半球なら少しはマシな姿が見られるとあって,当時の裕福な天文マニアは大挙して南半球にでかけたものです。今とは違って,行動力もお金も時間もなかった当時の私は,当然,南半球に行くことができなかったのですが,そのころ雑誌に載っていた南半球の情報をずっと覚えていて,歳をとった今やっと,それを参考に頻繁に南半球を旅するようになりました。
 そのなかでも,1986年当時,私が最も憧れたのが,オーストラリアのクーナバラブラン(Coonabarabran)でした。

 クーナバラブランはシドニーから車で6時間以上もかかる場所なので,今でも容易に行くことはできません。当然,ツアーもありません。そんな場所に,自由な身の私は,2018年の春と2019年の春,2度も行くことができました。1度目は立ち寄っただけだったので,2度目は滞在することにしました。そのときに見た星空が,今日紹介する私が今もこころに残る場所のひとつなのです。
 クーナバラブランの郊外にはサイディングスプリング天文台(Siding Spring Observatory)があります。また,クーナバラブランの小さな町は,とても居心地のよいところです。私はその町の最も評判のよいモーテルに数泊しました。
 とはいえ,はやり,街中では満足に星空を見ることはできません。そこで,ここでもまた,あてもなく車を走らせて星のよく見えそうな場所を探しました。そうして到着したのは,街外れの高台にある,今は使われていない飛行場でした。そこに車を停めてしばらく待っていると,やがて日が暮れて,先ほどまであった薄雲もなくなって,空一面にすばらしい星空が輝き出しました。

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☆☆☆☆☆☆
 ニュージーランドのテカポ湖という名前は以前から知っていました。しかし,どういうところかは皆目見当がつきませんでした。実際よりももっと山の中か辺鄙なところだと思っていました。そして,まさか行くとは思いませんでした。
 このごろは,日本でも星空が美しいという名目で観光地化されているところがあるのですが,星空というのはほかの観光地とは異なって,観光地化されて人が増えると,星は遠ざかっていきます。それは,星が見えるのは暗い場所だから当然危険で,そこで,人が増えれば,街路灯ができたり,あるいは懐中電灯を灯したり,車がライトをつけて走り回ります,こうして,星が見えなくなるのです。さらに,満天の星を見たいという日ごろは星空に興味のない人が押しかけて,モラルもなくなります。
 ということで,星が美しい場所という情報が一般に行き渡ると,そこは星が美しい場所ではなくなるのです。

 2016年,はじめてニュージーランドに行ったとき,星のきれいな場所はないかと探して,偶然見つけたのが奇しくも私が地名だけを知っていたテカポ湖でした。クライストチャーチから車で3時間ほどかかりました。
 期待したテカポ湖でしたが,テカポ湖は,まさにそんな観光地化されてしまった場所でした。そこで,晴れた夜ともなると,人が大挙して押し寄せ,収拾がつかなくなります。むやみやたらとライトは灯すし,車がヘッドライトを付けて走ります。さらに,立ち入り禁止の場所もお構いなく入り込みます。だから,そんな場所で星の写真を写そうとすれば,一瞬の空きを見つけてシャッターを押すとか,なるべる人のいない場所を探してそこまで行くとか,そんなたいへんな苦労が必要になってくるわけです。
 それでも,ここでは,亡き羊飼いの教会をバックにして写真を撮れば,銀河が高くそびえ,いわゆる「インスタ映え」する写真が撮れるので,それなりに魅力がある場所ではありました。

 私がはじめてテカポ湖に足をはこんだときは,そのような状況も知りませんでした。ホテルは少なく,団体観光客が抑えていて空室を探すのもたいへんでした。それでも,かなり高価なホテルに宿泊してそれなりに楽しみました。そして写したのが1番目の写真でした。しかし,この写真,なんと,肝心な南十字星のあたりに雲があったのです。 
 帰国以来,私は,このことが満足できず,そこで,2018年,再び,テカポ湖に行くことにしました。とはいえ,私は,重大なことを忘れていました。それは,どんな周到に準備をしたところで,次に行ったときに晴れる保証はないということです。だから,本当は,雲のない写真が撮れる確率なんて,ほとんどないに等しいのでした。
 実際,2度目に行ったテカポ湖の天気は最悪でした。確か3泊したのですが,連日毎晩曇り空でした。しかし,いつものように,私には奇跡が起きました。1日目の夜,わずか数時間だけ雲ひとつなく晴れ渡ったのです。そのとき写した念願の写真が2番目のものです。
 ニュージーランドは自然の美しいすばらしい国ではありますが,天気があまりよくないという点で,星を見にいくには,さほど適したところでないなあ,というのが,私の実感です。

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 私が星を見ることに興味をもったのは,小学校4年生のときに,クラスで創刊間もない「月刊天文ガイド」を購読している級友が数多くいたことから影響を受けて,何も知らないのに夢中になったのがはじまりでした。しかし,みんなと同じようにせがんで望遠鏡は買ってもらったものの,実際に使ったこともほとんどなく,そのうちに壊してしまいました。
 社会人になって車を買って,やっとはじめて星を見にいくようになったのですが,もともといい加減なので,それなりのものでした。
 それから月日が経ち,仕事もリタイヤして,私が今のように気軽に星見を楽しめるようになったきっかけは,2013年11月,期待に反して消滅してしまったアイソン彗星(C/2012S1 ISON)でした。アイソン彗星は消滅してしまいましたが,それ以来,星見の楽しさを知りました。

 やがて,ずっと憧れていた南半球で星が見たくなり,何も知らず,現地がどうなっているかも皆目わからなったのに,2016年,ともかく旅だったのがニュージーランドでした。しかし,南島のクライストチャーチに到着してはみたものの,どこなら星を見ることができるのか見当もつきませんでした。それでも,日が沈み,曇ってはいましたが,ともかく私は車で出かけました。目的地もなく走っていった先は,港が見える道路の駐車帯でした。
 それがどこだったのか今になって調べてみると,そこは奇跡的にクライストチャーチから近い星見には最適の場所でした。真っ暗な場所ではなかったのですがさきほどまでの雲はどこかに消えて快晴,ともかく,その場所で,生まれてはじめて憧れだった大マゼランと小マゼランを見ました。これもまた,ほんとうに幸運なことでした。私の旅はいつもこんなことばかりです。
 今,そのときに写したこの写真を見ると,いろんなことを思い出します。今は,もっと条件のよい場所も知っているし,それ以降,何度もニュージーランドやオーストラリアに足を運んでもっと見事な写真もたくさん撮ったのですが,私がもっともこころに残っている写真ははやりこれです。この写真が一番好きです。偶然にも写真には流れ星も写っています。
 あのころの自分がなつかしいです。そして,またいつか行ってみたいところです。

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☆ミミミ
22日の夕方の木星と土星です。真横に並びました。写真の下の光は東海道新幹線です。

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●野生のニワトリに出会える島●
 今思うと,カウアイ島はなかなかやるじゃない,と感じさせる島であった。そしてまた,書いているうちにいろんなことを思い出してきた。
 わずか数日の滞在だったのに,ずいぶんといろんなところへ行ったようで,ここもカウアイ島だったのか,あれもカウアイ島だったのか,という感じなのである。それなのに,これまであまりいい印象が残っていないのは,ボタンの掛け違いからであろう。

 その,ボタンの掛け違いとやらを説明しよう。
 まず,ハワイは秋に行ってはいけないということだ。1年中常夏のように思えるハワイだが,実際は,ハワイの秋は雨期で天気が悪い。ハワイは春に行くところなのである。しかし,私がカウアイ島に行ったのは秋であった。
 春のハワイ,といっても,私がここで書いているハワイはオアフ島の人工ビーチ・ワイキキやホノルルのことではない。それはたとえば,マウイ島のマケナビーチのようなな場所のことである。
 その時期,マウイ島でのんびりと過ごしているのは,休暇を楽しむ軍人とその家族か,シーズンオフになったフットボール選手か,あるいは,アメリカ本土から来た新婚旅行客などである。
 軍人は大概刺青をしているから区別でき,フットボール選手はでかいから見分けがつく。また,新婚旅行客はいかにもよそ者という感じだからわかると私の友人が言っていた。
 次に,ハワイは海でも眺めながら1日中ボーッと過ごすのが最高の贅沢であって,あくせくと観光をするところではないということだ。コンドミニアムの庭はそうした時間を過ごすのに最適な場所なのである。ホノルルあたりの高級ホテルに滞在して,日夜観光とショッピングに明け暮れる日本人ツアー客がやっているのは正当なハワイの楽しみ方ではなく熱海と渋谷がくっついたテーマパーク・ハワイの観光旅行なのである。
 このころの私は,そうした正当なハワイの過ごし方を知らなかった。
 さらに,これは私自身だけのことだが,私がハワイに行く最大の目的は美しい星空なのである。ハワイ島にはマウナケア山あり,マウイ島にはハレアカラ山がある。しかし,カウアイ島にそうした場所がなかったというのが,カウアイ島に落胆した大きな原因であった。
 しかし,実際は,今日の写真にあるように,カウアイ島の手つかずの大自然はまことにすばらしいのである。ウェストコーストに至る山岳地帯には,太平洋のグランドキャニオンとよばれるワイメア渓谷州立公園(Waimea Canyon State Park)があり,ここの色彩豊かな山肌は言葉を失うほどの光景である。
 また,ノースショアでは,ダニエル・K・イノウエ・キラウエア灯台(Daniel K. Inouye Kilauea Point Lighthouse)に達する灯台への半島はすばらしい海岸が続いている。
 そしてまた,イーストコーストでは,ワイルア川州立公園(Wailua River State Park)があって,ワイルア川に沿ってその昔「王者の道」といって王族や貴族だけが往来できたクアモアロードがあって,その終点にはオパエカア滝(Opaekaa Falls)が見事な姿を見せる。

 ところで,カウアイ島にはやたらとニワトリが目につく。注意して走らないとひき殺してしまうほどだ。実際 カウアイ島にはニワトリが大変多く,野生のニワトリが島中を闊歩していることから「チキンアイランド」ともよばれている。
 カウアイ島にニワトリが増えた理由のひとつにハリケーンがあるという。約25年前,カウアイ島に「ハリケーン・イニキ」(Hurricane Iniki)が直撃し,島に甚大な被害が出た。農場が倒壊してニワトリが逃げ出してしまい,島中に分散した。その結果,ニワトリたちはその繁殖能力と生命力でどんどん増えていき,島のシンボル的存在に登りつめた。ニワトリの天敵であるヘビなどがいないことから安心して育つため,今では島の人口6万人よりも多いのでは? といわれている。


☆ミミミ
21日の夕方の木星と土星です。この晩が最接近でした。高倍率の同じ視野の中に土星と木星がとてもきれいでした。

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 以前,私は次のように書きました。
 ・・・・・・
 アメリカは「担任のいない小学校」のようなところだと思うようになりました。…要するに,欲望のおもむくまま生きているのです。だから,クラスのリーダーがドラえもん(Doraemon)のジャイアン(Big G)みたいなやつでもそいつを支持して,ジャイアンがやっちまえ,と命令すればそれに従ってのび太(Noby)をいじめたりするわけです。そして,しずかちゃん(Sue)にはデレデレなのです。実に単純な世界です。
  …と思っていたのですが,では日本は? と考えて,ハタと思い当たりました。日本は「担任のいる幼稚園」です。だから,担任の先生がこうするんですよ! と言えば,それが正しかろうと間違っていようと,規則であろうとなかろうと,疑問も持たず逆らいもせず従うのです。しかし,正式な規則を越えたそんなご指導は先生次第なのです。そして,先生のご指導に従わないやんちゃな子がいれば,「先生に言いつけるわよ」というマセた,かつ,まじめなだけの女子がそれをたしなめるわけです。日本は「担任のいる幼稚園」と考えれば,その行動はすべて簡単に理解できます。
  ・・・・・・
 そしてまた,
  ・・・・・・
 私がどうしても理解できないことは,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ちです。
 若いころなら,自分にはどれだけ能力があるのだろうかと社会に問うのは,おそらく人としての本能だと思うのですが,そうした時期を過ぎて,しかも幸いにも自分なりに成功し,将来に対する不安もないくらい財を成した人が,せっかく悠々自適に好きなことをして過ごせるようになったのに,どうしてまた,と私は思ってしまいます。
 …それは,自分の身を投げうってまで,世のため人のために尽くしたい,捧げたい,という強い使命感からくるものなのでしょうか? それとも,歴史に名を残したいという名誉欲から来るものなのでしょうか? あるいは,人の上に立って社会を自分の思うがままに操りたいという支配欲からのものなのでしょうか? はたまた,やりたいことがないから暇つぶしをしているのでしょうか?
  ・・・・・・
 とも書きました。

 しかし,どうやら,私の分析は,大間違いだったようです。
 実際は,日本は「担任のいない幼稚園」だったのです。というか,担任の先生はいるのですが,もう,だれも,担任の先生が何を言っても聞きません。それは,これまで,担任の先生はいつもオオカミが来るぞ,オオカミが来るぞ,とさけんでいるだけで,幼稚園のよい子たちは,先生こそ,もっともそれを信じていないということを知ってしまったからです。だから,担任の先生など,いようといまいと関係がなくなってしまったのです。
 それだけならまだしも,先生が,オオカミなど怖くもないと率先して外で遊んでいて勝手放題にやっているからよりたちが悪かったのです。しかし,よい子たちは賢く冷めているから,先生が何をしようと言おうと,反対もしなれば,反抗もしません。しかし,聞くふりをしているだけで,それに従うこともなく,無視して勝手なことをしているのです。
 そしてまた,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ち,というのも私の考えすぎだったのです。実際は,野心などもっていなかったのです。そんな大それた意思などこれっぽっちもなく,コンプレックスの反動で世間を見返してやりたいと,田舎から出てきた教養もなく人に自分の考えをろくに話すこともできない,そしてまた,スマホひとつ使いこないオジサマ方が,単に,各界の一流人と一緒に花見をしたり高級ステーキを食べたかっただけなのです。

 ところで,そんな世間とは一線を画して,私はこれまでずっと「高等遊民」になりたいと願って生きてきました。私自身は高等ではないから,それはあくまで目標であり願望ですが。そしてまた,自由を手に入れることこそが人の生き方の究極の幸せだと信じていました。
 自由を手に入れるには持ち物は少なければ少ないほどよいし,身ひとつでいるのが最高の贅沢なのです。必要なのは「夢と勇気と知恵」であって,根づくだけの家もいらないし,車も故障なく動けばいい。その気持ちは今も変わりません。群れることもありません。だから私は,高級レストランでステーキを食べるくらいなら,スリッパ履きで近所の吉野家にでも出かけて気兼ねなく牛丼をかきこむほうがずっと気楽だし自由だし楽しいと思っています。
 そんな私が思うに,もう,この国はめっちゃくちゃです。表向きは従っているふりをしているだけで,みんな好き放題・やりたい放題・言いたい放題です。国の借金は雪だるま式に膨れ上がり,政治家は専門家の意見を無視し,学問の自由に政治介入し,学校もICT化といいながら,最低価格の性能の悪いコンピュータが数十台あるだけだし,インターネットもなかなかつながりません。講義がオンラインになった大学生も,その多くは高校までの詰め込み教育・プリント学習の成果で自主的に勉強をする習慣すらないから,何をしていいのかわかりません。そして,社会に横行するのは振り込み詐欺やら本人の知らないうちにお金が引き落とされるような〇〇Payとかいうキャッシュレスサービス。テレビをつければ報道番組は不安を煽り,ネット上にあふれる口コミは中傷だらけ。そんなものに接して精神が病まないのはよほど鈍感な人だけです。
 そんな国で自分の身を守るためには,子供がおもちゃ箱をひっくり返したような,そんな散らかった部屋の中で,おもちゃを踏んで足をケガしないで歩く方法をひたすら考えて,自分の身は自分で守ることしかないのかもしれません。

◇◇◇


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●なかなかいいところじゃないか。●
 今,当時写した写真を見ると,カウワイ島はなかなかいいところじゃないか,と思う。しかし,私がカウアイ島にあまりいい印象をもたなかったのは,冷静に考えてみると,それは私自身のせいである。アイスランドも同様だ。
 カウアイ島もアイスランドも再び行くことはなかろうが,もし行くとすれば,今度は満足できる旅をするだろう。その理由の第一は,はじめてカウアイ島に行ったときには,私はハワイというところの本当の魅力を知らなかったから,そこで何をするかということをわかっていなかったということである。第二の理由は,それまで私はコンドミニアムというところに泊まったことがなかったので,そこでの流儀を知らなかったということである。私がはじめてコンドミニアムに泊まったのはカウアイ島であった。
 理由はともかく,リゾートとしてのハワイは,私のような男がひとりで行くところではないのである。
 もしまた海外に行くことができるようになったら,まず,どこに行きたいかと聞かれたことがある。少し考えて,ハワイかなと答えたら,今度は,ハワイで何をするのだ,と聞き返された。
 そうだ,私はハワイに何をしに行くのだろう? としばし考えてしまった。そして思い当たった。そう,ハワイには何もしにいかないのだ。日常を忘れ,海を見て1日中ボーッとするのだ。そして,夜になったら地元の小さなカフェで食事をして,そのあとは,満天の星を見るのだ。
 どうやら,やっと,私はハワイでの楽しみ方がわかってきたというわけだ。

 この旅行記は2020年春に行ったモロカイ島について書くのが目的なのだが,まだ,その序章として,ほかの島々について書き続けていて,モロカイ島へ旅立つところまでもいっていないわけだが,実は,この後で書くことになるモロカイ島でもコンドミニアムに泊まった。というか,それしか泊まるところがなかった。モロカイ島のコンドミニアムは,カウアイ島のコンドミニアムよりずっと古ぼけていたのだが,この時は,カウアイ島での経験があったから戸惑うこともなく,かつ,悪い印象もなかったのは,そうした理由によるものだ。
 しかし,実際は,カウアイ島で,私はずいぶんと楽しい時間を過ごすことができた。ハワイのさまざな島に行った今では,何をしたかということがどこの島のことであったかあやふやになっているほうが多いのだが,よく考えてみると,経験したことの多くはカウアイ島でのことであったことに,いまさらながら驚く。
 カウアイ島に行った後で,私は,ヨーロッパやオセアニアに,はたまた,国内の北海道やらにまで旅した。いつもいきあたりばったりで出かけ,いい加減なホテルに泊まり,計画もたてずに動き回ったが,このごろは,それなりにどこに行ってもそつなくたくさんの思い出を作ることができるのは,おそらく,このころの旅の経験が生かされているからであろう。

 そもそも,人は何を目的として,旅に出かけるのだろうか。
 「Go To Travel」とやらで,この秋は,それまで自粛していた人たちや,はたまた旅慣れていない人までが安さに惹かれて観光地に繰り出したようだが,その多くは,豪華な旅館やホテルに泊まり,その土地の名所・旧跡を見て,食べられないほどの食事を出され,新幹線やデラックスなバスで移動をしたのだろう。
 多くの人には人生すべてがパック旅行なのである。勉強ができなければ塾に通い,スマホがほしければ街のショップに行き,旅行がしたければパンフレットを見て予約する。
 しかし,私はそうした生き方をしていない。塾に通ったこともないし,大学受験のときに模試すら1回しか受けなかった。英語はもっぱらNHKのラジオ講座でテキスト代だけで学んだ。コンピュータも独学である。スマホははじめっから格安SIMをアップルショップで買った iPhone に入れて月2,000円以下で使っている。
 ツアー旅行にもまったく魅力を感じない。私の旅は,もっとまずしくつつましいものである。しかしその一方で,私は,空港ではラウンジで過ごし,飛行機ではワンランク上の座席をとる。そうして,団体のツアー客とは絶対に群れたくないという旅をしている。つまり,多くの人の旅とは,まったくの正反対の行動をしていることになる。だから,多くの人は,こんな私の旅行記を読んだところで,まったく参考にはなるまい。


☆ミミミ
19日の夕方の木星と土星です。月の視直径より近づきました。同じ視野の中に土星と木星が見られるなんて!

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 12月14日月曜日から12月18日金曜日まで,NHKFMで,ベートーヴェン生誕250年を記念する特集番組が放送されました。その内容は次のとおりでした。
  ・・・・・・
●第一夜「交響曲“運命”&ピアノ協奏曲を大解剖!」
 作曲家宮川彬良が交響曲「運命」を独自の視点で分析。さらに作曲家でピアニストの加藤昌則がピアノ協奏曲全5曲の魅力を一挙解説する。
●第二夜「交響曲“英雄”&ピアノ・ソナタを大解剖!」
 作曲家宮川彬良が交響曲「英雄」を独自の視点で分析。さらにピアニストの仲道郁代がピアノ・ソナタの魅力を実演を交えて熱く解説する。
●第三夜「交響曲第7番&ベートーヴェンをリスペクトする名曲」
 作曲家宮川彬良が交響曲第7番を大解剖。さらにベートーヴェンをリスペクトしたロックやポップスの名曲を宮川彬良とともに鑑賞する。
●第四夜「交響曲“田園”&室内楽作品を大解剖!」
 作曲家の宮川彬良が交響曲「田園」を分析。さらにチェロ奏者の長谷川陽子がチェロ・ソナタを中心に室内楽作品の魅力を熱く語る。
●第五夜「交響曲“第九”&声楽作品を大解剖!」
 作曲家の宮川彬良が交響曲「第九」を独自の視点で分析。そのほか歌曲や劇音楽,宗教作品など声楽作品の魅力をご紹介する。
  ・・・・・・

 前半の宮川彬良さんの交響曲に関するお話は初心者向けで,すでにいろいろな場で語りつくされているので,私には目新しい話はなかった,というか,なくてもよかったのですが,後半の深堀の部分がすばらしい内容でした。ピアノ協奏曲,ピアノソナタ,チェロソナタ,それらの曲の分析を聴いて,こうした曲がこれほど深いものだということを知りました。特に,私がこれまであまりなじみのなかったチェロソナタについての長谷川陽子さんのお話はとても参考になりました。このお話を聞いた後で改めてチェロソナタ第3番のはじめの8小節を聴いてみると,涙がこみあげてきます。また,第4番と第5番の対比もとても興味深いものでした。
 すぐれた解説のあとでベートーヴェンの傑作を聴く。こんな充実した時間を過ごすことができるのは,本当に贅沢でしあわせな瞬間でした。
 必要のない情報は遮断するに限る,そして,音楽は目で見るのではなく,耳で聴くもの,ということをしみじみと感じ,実践しているこのごろですが,静かな夜にベートーヴェンの音楽だけが流れる部屋は,この世のものとは思えないほどすばらしい空間となりました。
 音楽の力は,人に夢と勇気と希望を与えてくれるということを改めて感じることができた1週間でした。ベートーヴェンの音楽があって,本当によかった。

  ・・・・・・
 Der bestirnte Himmel über mir, und das moralische Gesetz in mir 
  ・・
 わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律
 -人間は理性という宇宙と感性という宇宙をもっている-
  ・・・・・・
 ベートーヴェンは,自分の日記にカント(Immanuel Kant)が「実践理性批判」(Kritik der praktischen Vernunft)に記したこの言葉を書きとめ,それをよりどころにして,生涯を音楽に捧げました。今日の写真は,私が2018年に訪れたハイリゲンシュタットにあるベートーヴェンの住んだ住居跡にある博物館(Heiligensädter-Testament-Haus)です。

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 萩原という名前は以前から知っていたのですが,県道を自動車で走り抜けるか,名鉄電車の尾西線に萩原駅があることくらいしか認識がありませんでした。
 調べてみるとここが旧美濃路の萩原宿だったところということなので,それがどのあたりなのか調べることからはじめました。
 萩原宿は名鉄電車の萩原駅から北西に少し行った場所にありました。意識すれば車でも行くことができるのですが,県道を車で走っている限り,見落としてしまうのが不思議な場所です。なんだか時空のゆがみに入りこむような感じなのです。そして,その場所に行くと,50年ほど昔にタイムトラベルするような,懐かしさがあります。しかし,現在の萩原宿は,商店街ではあってもそのほとんどはシャッター街となってしまっています。

 当時,萩原宿は本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠屋17軒,家数は約200軒,人口は約1,000人で,美濃路の中では最も規模の小さい宿場でした。 東から順に下町,中町,上町となっていて,中央で曲尺手となっていましたが,それは今もそのまま残っています。
 最も南に高木の一里塚があって,現在は碑が立っています。また,萩原商店街に入る手前の串作庄屋・問屋場佐藤家の跡には,徳川家茂が長州征伐で上洛の折に休憩をとったという名残の憐松軒枝風墳の碑があります。
 萩原宿の本陣は森権左衛門家,脇本陣は庄屋を兼ねた森半兵衛家,問屋場は鵜飼家と木全家が交代で勤めたといいます。いずれも碑だけが残っています。
 本陣跡の西には萩原城があって,豊臣秀吉の姉婿長尾武蔵守吉房の居城でしたがのち廃城となり,江戸時代になると尾張藩祖徳川義直の御茶屋御殿が建てられていました。
 天保年間(1830年代),明石藩松平斉宣の参勤交代の折,暴れ馬を取り押さえようと行列を横切った佐吾平が無礼討打ちにされたという事件が起きました。尾張藩はこの事件を重く見て抗議し,以後,明石藩が尾張藩領内を通行するときは葬式の装いをして 通行したといわれます。

 そんな萩原宿ですが,ここは歌手の舟木一夫さんの生まれ故郷でもあります。
 舟木一夫さんは,1960年代,橋幸夫さん,西郷輝彦さんとともに「御三家」とよばれていた当時のアイドル歌手で,学生服を着て,学園ソングとよばれる高校生活をテーマにした歌で一世を風靡しました。低迷期を乗り越え,現在も活躍を続けています。
 名鉄電車の萩原駅近くにあった生家は残っていませんが,建て直されたアパートの塀には案内板があります。
 私が子供のころ,舟木一夫さんの全盛期に大ファンだった祖母に連れられてリサイタルを見にいったことがあります。子供のころのこうした経験は強烈で,今も強くその記憶が残っています。

  また,萩原町は市川房枝さんの生まれ故郷でもあります。市川房江さんは1893年(明治26年)に生まれ,1981年(昭和56年)に亡くなった婦人運動家であり政治家でした。第二次世界大戦の前後にわたり日本の婦人参政権運動を主導しました。日本史の教科書にも次のように載っています。
  ・・・・・・
 社会的に差別されていた女性の解放をめざす運動は,1911年(明治44年)に平塚らいてうによって結成された文学者団体の青鞜者にはじまり,平塚らいてうと市川房枝らが1920年(大正9年)に設立した新婦人協会の要求など女性の地位を高める運動を進めた。
  ・・・・・・
 私は若いころ,市川房枝さんが母校・名古屋市立女子短期大学の大学祭に訪れたとき,ちょうど大学祭に遊びに行っていてお会いしたことがあります。


☆ミミミ
17日の夕方,月齢2.6の月がかねてから接近中の木星と土星に近づきました。連日の雪で,この日もまた雪雲が漂ってあきらめていたのですが,幸いなことに雲が切れました。

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 2018年,はじめてオーストリアのウィーンに行ったとき,ウィーンからは遠くてとても行くことができないと思っていたザルツブルグにも行くことができました。しかし,もう一か所行きたかったバーデンに行くことはできませんでした。そこで,その翌年,2018年に行くことができなかったバーデンとともに,新たに行きたくなったハルシュタットを目指して再びオーストリアに旅立ちました。そして,その願いがかないました。今日は,ベートーヴェンの生誕250年にちなんだところということで,その中のバーデンについて書きます。
  ・・
 バーデン(Baden bei Wien)は,ウィーン国立歌劇場の前から市電に乗っていくことができます。
 車内からはウィーン郊外ののどかな風景を見ることができました。終点まで乗ればいいと安心していたところ,架線の工事で途中から不通になり,代替バスに乗り替える必要があったのですが,わけがわからず,戸惑いました。親切な人が教えてくれて,といっても,彼のドイツ語はほとんどわからなかったのですが,人はこころがあれば何とななるもので,無事,バーデンに着くことができました。
 余談になりますが,以前,ニューヨークのブルックリンで,やはり,地下鉄が工事で不通になっていて,同じように代替バスに乗り替える必要があった経験がありました。こうした経験が人を強くするのです。

 さて,保養地バーデンはすてきな小さな町でした。ここには,ベートーヴェンが交響曲第9番を書いたという家が保存されていて,博物館になっていました。
 この町でも,私が気に入ったのはベートーヴェンが散歩して,交響曲第9番の構想を練ったという小径でした。昨日書いたハイリゲンシュタットのベートーヴェンの小径同様,歩いていると,自然と交響曲第9番のメロディーが頭の中を流れてきました。
 曲を聴くだけでもすばらしいものですが,作曲家がその地を踏み,その空気に触れた場所を知ると,そのすばらしさがより鮮明になるということを実感しました。私は,バーデンを訪れて,交響曲第9番がより大好きになりました。

  ・・・・・・
 Froh, wie seine Sonnen fliegen
 Durch des Himmels prächt'gen Plan,
 Laufet, Brüder, eure Bahn,
 Freudig, wie ein Held zum Siegen.
  ・・
 喜びをもとう,太陽が 華やかな空を
 飛ぶように走れ,兄弟よ,あなたたちの道を
 喜びを持って,英雄のように
 勝利に向かって
  ・・・・・・


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 ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は,1770年12月16日,神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれたので,今日が生誕250年となります。
 1787年,16歳になったベートーヴェンはウィーンに旅し,かねてから憧れを抱いていたモーツアルトを訪問します。やがて,1792年にはロンドンからウィーンに戻る途中でボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され,ウィーンに移住することになります。それ以後は亡くなるまでウィーンに住むことになります。そこで,ベートーヴェンはボンの生まれではあるのですが,ウィーンの作曲家として,今も,ウィーンにはベートーヴェンの痕跡が数多く残っています。

 私は,子供のころからクラシック音楽を聴くことを楽しみとしていて,特にベートーヴェンは,若いころ,作曲したほとんどの曲を夢中で聴いたことがあるので,あまりにも身近な存在となってしまっていて,今は,ブルックナーやマーラーなど,その長さに疲れたときはモーツアルトやハイドンなどを聴くようになって,あえてベートーヴェンの音楽を聴くことも少なくなっていました。
 しかし,今年,生誕250年ということで,FM放送などで頻繁にベートーヴェンの音楽を耳にすると,やはり,そのよさは格別のものに思えるようになりました。再発見です。マーラーのような甘酸っぱさやブルックナーのような土臭さではなく,ベートーヴェンの音楽はシャキッとしているのです。そして,精神が引き締まります。
 本当にベートーヴェンの音楽があってよかった,としみじみ感じます。
  ・・
 ということで,生誕250年の誕生日にちなんで,2018年と2019年に行く機会のあったオーストリアのウィーンとその郊外で訪れたベートーヴェンにゆかりのある地の思い出を書いてみたいと思います。
 今日はハイリゲンシュタット(Heiligenstadt)です。

 ウィーンに行くまで,ハイリゲンシュタットはウィーンからは結構遠いところにあると思っていました。しかし,実際は,ウィーン中心部からわずか約5キロメートルほどのところで,地下鉄で行くことができました。
 地下鉄のハイリゲンシュタット駅を降りて歩いていくと,緑豊かなウィーンの森に抱かれたブドウ畑が広がる静かな町が続きます。ここには,ベートーヴェンが作曲の拠点とした場所のひとつで,悲痛な遺書を綴った家などがあります。
 私はこのハイリゲンシュタットが大好きになって,2度目のウィーン旅行でもまた訪れたのですが,私がここで最も印象が深いのが,ベートーヴェンが散歩し,交響曲第6番「田園」の構想を練ったと伝えられるシュライバー川(Schreiberbach)沿いの散歩道です。
 交響曲6番「田園」の第2楽章につけられた表題「小川のほとりの情景」の小川が、まさにここなのだそうです。そう思うと、なんだかすごいところを歩いている気がしたものです。そして,自然と頭の中に「田園」のメロディーが浮かんできました。シュライバー川沿いの細い道は,森が広がりとても美しく静かな場所でした。


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 地図を見ると,定規でひかれたような自動車道路を縫うようにして,くにゃくにゃの道があることに気づきます。そうした道の多くは旧街道です。
 地図ではわかりにくいのですが,実際に歩いてみると,とてもわかりやすい道で,人のぬくもりを感じます。ただし,その多くは車がやっとすれ違える程度の幅しかないので,車で走るには適しません。
 残念なのは,そうした道の多くは新しく作られた幅の広い自動車道に吸収されてしまったり,あるいは,橋がない川や新たに無造作に作られた工場などで遮断されてしまったりしていることです。しかし,現存する旧街道のほとんどは観光地ではないので歩いている人もすくなく,とてもこころが落ち着きます。

 美濃路は,起宿を過ぎると木曽川の渡しになります。朝,通勤の車の逃げ道として渋滞するこの道も,通勤時間が過ぎるとめったに車の通らない生活道路に雰囲気を一変します。そうした時間に気の向くまま歩いて行くと,なかなかいい雰囲気です。
 起宿からの渡しは3か所あったということです。その中の一番北の渡しは,現在は神社となっていて,そこには定渡船場跡石碑と,そのとなりに人柱観音があります。この観音は1957年(昭和32年)に作られたもので,慶長年間(1600年ごろ)に木曽川の分流小信川の築止の難工事に人柱として濁流に身を投じたと伝えられる与三と濃尾大橋の架橋工事で亡くなった3人をまつるものです。
 ここから,木曽川の堤防に出る路地があります。現在,木曽川には長い濃尾大橋がかかっていますが,橋がなかった時代,木曽川の川幅約1キロメートルを人力で越えるのは容易でなかったように思えます。旧東海道の大井川は水量が増すと川止めになることで有名でしたが,水量のないときには歩いて渡ることができるほど浅くなります。しかし,木曽川はいつも水量が豊富なので,ここを歩いて渡ることは不可能なので,渡し船が必須でした。

 旧美濃路に沿って南に歩いて行くと,宮河戸跡と船場跡の石碑があります。ここは,起宿の商家が商う物質を対岸に運ぶ船が利用したところでした。旧街道の東側には旧湊屋主屋があります。これは幕末に建てられた商家で,濃尾地震にも倒壊せず残っていて,今は,中で食事ができるようになっています。
 さらに南に行くと,本陣跡と脇本陣跡があります。本陣跡は石碑だけが残りますが,脇本陣は1720年(享保5年)以降世襲した林家の建物で,惜しくも1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊しましたが,大正のはじめに建て直されて,現在は資料館となっています。

 こうした旧街道歩きの楽しみを知らなかった若いころ,日本の古い民家の密集地帯を車で走ると,どこも区画整理もままならず,古い町に落書きをするかのように新しい建物が調和もなく作られていたり,あるいは,入り組んだ道路が縦横無尽に走っていて,なんと計画性のないところだろうと思いました。しかしそれは歴史のなせる業で,第二次世界大戦で空襲を受けて壊滅的な被害を受けた場所以外,日本はどこもそんな感じだということがわかってきました。
 この起宿跡は,現在は商店がほとんどなく民家が多いので,それでも落ち着きがあるのですが,この次の萩原宿は旧街道沿いが明治以降商店街に変わって,今はそのほとんどがシャッターを閉じているので,悲壮感が漂います。日本の町は大都市の中心街を除けばどこもそんなところばかりです。


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 すでに書いたように,2020年4月3日,旧美濃路の墨俣宿と大垣宿を歩きました。
 歩き終えて帰宅して地図を見ると,旧東海道の宮宿のあった名古屋市熱田区から旧中山道の追分のある垂井宿まで,旧美濃路はほぼまっすぐ最短距離で結ばれていたことを改めて確認できました。
 これは現在新幹線が走ってところとおおむね一致しています。しかし,そうなると,新幹線同様,美濃路もまた,現在の岐阜市である加納宿を通らないということになります。確かに岐阜市を経由してしまうと,かなりの遠回りとなります。
 現在建設中のリニア新幹線も,大阪,京都から最短で東京までいくのに,岐阜のどこを通るかでいろいろ議論があるようです。いつものこと,時代が変われど,また同じ議論をしています。人のこころは変わりません。

 ここで余談です。
  ・・・・・・
 現在走っている新幹線は,最短距離を通るために,江戸時代の美濃路にほぼ沿って走っているので,岐阜市を経由しませんでした。そのための妥協策として,岐阜県で唯一の駅として岐阜羽島駅が作られました。
 作られたころ,岐阜羽島駅は田んぼの真ん中で,周囲には何もなく,かつ,そこまで行く公共交通すらなく,代議士だった大野伴睦夫妻の銅像だけが目立ちました。
 その当時,新幹線でここを通るたびに,私の今は亡き父親が,この駅は政治駅だと口癖のように言っていたのを思い出します。
 それからずいぶん経って,現在は,岐阜羽島駅と名神高速道路の岐阜羽島インターチェンジは,愛知県の北西部に住む人にとって重宝すべきものとなりました。
 新幹線の岐阜羽島駅の周囲には多くの安価な駐車場があり,しかも駅自体は規模が小さいので人も少なく,とても便利なのです。さらに,新幹線を利用して大阪方面に行くときは,混雑して車を停めることさえ苦労する名古屋駅から利用するよりもずっと楽だし,東京方面へ行くにも,岐阜羽島駅で乗れば名古屋駅で多くの乗客が降りるので自由席であっても十分に席が確保できます。
 また,自動車を使って高速道路を利用するときは,岐阜羽島インターチェンジで降りればその先の名古屋周辺の渋滞を回避できるよいうように,これほど便利なところはないのです。
  ・・
 1964年に開通した東海道新幹線ですが,建設時,名古屋以西は,もともとは旧東海道を通る鈴鹿越えのルートが有力であったそうです。しかし,鈴鹿山脈を越えるための工事が,当時の技術的障害や建設コスト面の問題,さらに,北陸方面への連絡などで不可能であり,その結果,樽見までが旧中山道ルート,その先が美濃路ルートになったといわれます。これは名神高速道路も同様で,新たに作られた第二名神道路で,やっと距離的に近い旧東海道ルートを通すことができました。
 先に書いたように,新幹線が岐阜市がを経由しないことで地元自治体に猛反発が起き,当時の知事であった松野幸泰と代議士の大野伴睦が国鉄と交渉した結果,羽島市に駅を設置することにより妥協案が成立したかに見えるように裏々で手配したという経緯によって,岐阜羽島駅が政治駅であるとの批判が起きたとされるそうです。
  ・・・・・・

 さて,距離的に便利な美濃路ですが,それでも,江戸時代,揖斐川,長良川,木曽川と大きな三つの川を渡る必要があって,そこには渡しが多くありました。川を渡って愛知県に入ったところからは私の地元なので,あえて行かずとも,いつも通っている場所になります。
 そこで,今日からは,墨俣宿からの続きとして,起宿から稲葉宿までを紹介しましょう。
  ・・
 墨俣宿から起宿に至る場所には現在は渡しのあった場所の跡に碑だけが残っています。その場所から川を眺めると,当時のようすが想像できます。現在は多くの場所に橋が架かっていますが,今でも木曽川には西中野渡に渡し船が運行しています。この渡しは無料ですが,今となっては渡し船は珍しいので,たびたびテレビの旅番組で紹介されています。これからの高齢者社会では,リニア新幹線で速さを競うよりも,こうした昔の交通手段を復活させた方が年を取った人には幸せなのかもしれません。
 そもそも急いでどこかに行く理由がないからです。
 墨俣宿から歩いて岐阜羽島を越え,木曽川を渡り終えると起宿になります。

 起宿のあたりは当時の面影が十分に残っていて,歩いているとなかなかおもしろい場所です。起宿跡には本陣のあったところには碑が建っているだけですが,脇本陣は尾西歴史民俗資料館となっています。また,船着場の跡や渡船場跡などの碑が古い町並みに溶け込んでいます。ただし,街道だった道路は車がすれ違えないほどの道幅にもかかわらず,朝の通勤ラッシュ時だけは車がこの道に殺到して大変な渋滞を起こします。それは,渋滞する一般道を避けるための近道だからです。
 旧美濃路からは1本離れていますが,斎藤道三と織田信長が会見したという聖徳寺跡,そして,起宿から次の萩原宿の間には富田一里塚が残っています。これらは,先日,NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で紹介されたところです。


☆ミミミ
13日の早朝,月が金星に接近しました。この日もまた雲に覆われていてあきらめていたのですが,幸いなことに一瞬雲が切れました。

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●カウアイ島でまた行ってみたい場所●
 私はこれまでにオアフ島は毎回トランジットをしているが,オアフ島で降りて観光をしたのは2016年と2017年の2度であった。
 これまでトランジットして行ったのはハワイ島,マウイ島,カウアイ島,そして,モロカイ島である。ハワイ島には2016年と2019年の2度行った。また,マウイ島にも2017年と2019年の2度行った。
 これらの島をリピートした理由は,オアフ島は真珠湾に行ってみたかったからであり,ハワイ島はヒロをじっくり歩きたかったこと,そして,マウイ島では,クラに泊まりたかったことと,イオア渓谷に行きたかったことが理由であった。このように,1度行って気にいったところは,帰ってからこんな場所に行きそびれたとか,もう1度あそこに行ってみたいという思いがその土地をリピートすることにつながる。しかし,2度行くと,まあ,これでいいや,と,ほとんど場所はそれで満足することになるから,3度以上行くというのは,よほどその地が気に入ったときだけであろう。
  ・・
 それとは逆に,1度でもういい,という場所もまた少なくない。これから書くカウアイ島に私が1度しか足を運んでいない最大の理由は天気が悪かったということにある。これもまた,アイスランドと同様である。
 しかし,今思うに,私がカウアイ島に行ったのは秋のことで,カウアイ島限らず,ハワイの秋は雨期なのだ。だから,違う季節に行っていたら,全く異なる印象をもっていたかもしれない。

 いずれにしても,まあ1度でいいかとずっと思っていたカウアイ島をこうして今振り返ってみると,カウアイ島にもまた行ってみたいとほのかに恋心を抱く場所が少なからずあることに今更ながら気がついた。そのひとつが,カウアイ島のウェストコーストである。
 カウアイ島がいいという人の理由は,観光地化されたオアフ島,アメリカ人の高級リゾートであるマウイ島,そして,ハワイ人の地ハワイ島とは違う素朴さにある。それでも,カウアイ島のノースコーストは最新のリゾートであり,サウスコーストは昔からの古びたリゾートがあり,イーストコーストは繁華街がある。そこで,ウェストコーストだけが未開の地であることが,私を引きつける理由である。
 ただし,私が2020年の春に行ったモロカイ島は,カウアイ島のウエストコースト以上の未開の地であったから,今になって,カウアイ島のウエストコーストへのあこがれは,モロカイ島の魅力によって少し薄れてしまったことは否めない。

 それはともかく,カウアイ島のウエストコーストには,特に何かあるということもないし,道が途中で行きどまりとなってしまうから,その先がどうなっているかも私は知らない。私は,こうした,知らない知らない,に特に興味をもってしまうわけだが,もし,カウアイ島に出かける次があるのなら,私は,このウェストコーストに宿泊してみたいものだと思っている。
 ウェストコーストからはるか西を海を眺めると,ロビンソン一族が住むという禁断の島ニイハウ島の島影を見ることができる。それとともに,天気があまりよくないカウアイ島で,このウェストコーストだけは,青空が広がり,ほとんど人がいない海岸にも魅力があふれている。
 これもまた,ほとんの日本人の知らないハワイなのである。


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●日本にはない魅力あふれる地●
 私がカウアイ島に行ったのは,2017年の秋であった。2016年の春にハワイ島,2017年の春にオアフ島に行ったので,ハワイ3度目であった。
 2020年のコロナ禍は私の想定外であったが,いつ何事かが起きたり病気になったりして行けなくなるかもしれないから,行けるうちに行っておこうと,躊躇せず,ここ7,8年,思い立ったときに思い立った場所に出かけるようにしていたので,行きたいと思っていたところは,ほぼすべての場所に行くことができた。それは本当に幸運なことで,海外に行くことができなくなった今,何の憂いもなく日々を過ごすことができている。
 それにしても,カウアイ島は,2017年の翌年の夏に出かけたアイスランド同様,今思うと,よくもまあ行ったものだ,と思うような場所なのである。そしてまた,こうして振り返るまで,これもまたアイスランドと同様に,また行きたいとは思いもしない場所であった。
 しかし今,こうして写真を見ながら振り返ると,行くまでは思い入れがあったのにいざ行ってみるとほとんど何も覚えていないような場所も少なくないのに,カウアイ島もアイスランドも,いろんな印象が残っているし,ともに短い期間の旅であったにもかかわらず,その地で行くべきところはそのすべてに行ってきたのが不思議なことなのである。そしてまた,懐かしくなって,また行ってみたいなあ,と思いが募ってくるのが私にも意外なのである。
 これもまたアイスランド同様なのだが,カウアイ島は天気が悪かったという思い出しか残っていないのに,なぜかそのときの写真を見ると青空が写っているのだ。どうしてなのだろう?

 とまあ,今日のブログを書きはじめたときには自分でも想像していなかったのに,意外なことに,なぜか,カウアイ島とアイスランドがダブってきた。先に書いたように,この両者,私にはいい印象がなかった。これまでもいろいろと欠点を書き連ねてきた。しかし今,冷静に考えてみると,それはともに,その地に落ち度があったわけではなく,私のほうに問題があったのだ。それは,そこがどういうところか知らなかったということに最大の原因があるということだ。
 そのときより経験を積んだ今の私が思うに,ちゃんと調べて出かけていたら,もっとこれらの地を楽しむことができたに違いないのだ。そして,よくよく考えてみると,非常に魅力に溢れた場所なのである。何よりすばらしいことは,ともに,ほとんど日本人観光客どころかツアー客がいないということ,そして,自然がともに日本離れしているということなのである。
 つまり,日本国内のあらゆる場所を旅しても,これらの地に代わる魅力のある場所は見つからないということなのである。


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 私が見にいったロンドンナショナルギャラリー展ですが,お目当てはフェルメール(Johannes Vermeer)の作品でした。
 現存する作品が37しかなく,それらをすべて見たいという人が少なからずいるそうですが,私はこれまでに,日本にやって来た展覧会と直接現地で見たものを合わせると,18作品になります。残るは19作品で,その内訳は,ニューヨーク7,ボストン1,ダラス1,ロンドン4,アムステルダム1,パリ1,ドレスデン1,フランクフルト1,ハーグ1,ブラウンシュワイク(ドイツ)1となっていて,このうちの14作品は,かつてその都市に行ったことがあるから,そのときに見る機会があったということなので,それを逸したことをとても残念に思います。今回,その中の1作品がロンドンから来ました。それが,現存するフェルメール最後の作品「ヴァージナルの前に座る女」(Lady Seated at a Virginal)です。

 「ヴァージナルの前に座る女」,この絵にはヴァージナルとヴィオラダガンバの2種類の楽器が描かれています。これらの楽器には男女の「愛」や「恋愛」というテーマが込められています。
 楽器は愛の女神であるヴィーナスのこどもたちのアイテムであり、古来より男女関係を表す小道具として様々な絵画に登場しています。
 また,真珠が本作ではネックレスとして描かれています。ダイヤモンドが「権威」など男性的な意味合いを持つのに対し、真珠は「女性の純潔さ」を表す象徴として、ルネサンス期のイタリア人画家ティツィアーノ(Tiziano Vecellio)の作品にもネックレスとして登場しています。
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 この絵の中には「画中画」が描かれています。それが右上に描かれている「取り持ち女」です。この絵のオリジナルはオランダの画家ディルク・ファン・バビューレン(Dirck Jaspersz van Baburen)の作品で、フェルメール家が所持していたものです。フェルメールも同じ題材で「取り持ち女」を描いています。私はそれを先日見ました。
 「取り持ち女」(The Procuress)は娼婦を客に斡旋する老婆で,この作品は金銭や性愛をめぐる人間の欲望がテーマとなっています。このように,楽器が男女の「愛」や「恋愛」を、真珠が「女性の純潔さ」という意味をもつ一方で、画中画には「人間の欲望」という意味が込められているといいます。
 フェルメールはこの絵によって,愛や恋愛のすばらしさや純潔な女性の美しさを表現しつつ、その裏にある人の欲望などを伝えたかったのでは,といわれていますが,私は,人間はこんなものだよ,これが人間のこころだよということを描きたかったのだと思います。

 ところで,私は,日本にやって来た作品だけでなく,海外の美術館でもいくつかのフェルメール作品をみたことがあります。これらの作品は,日本とは違い,自由に写真を写すこともできるし,ほとんど人のいない状態で,独占してゆっくりと鑑賞ができます。
 私は,そのひとつ,というか3つの作品をワシントンDCのナショナルギャラリーで,そして,もうひとつの作品をウィーンの美術史博物館で見ました。中でも,ウィーンの美術史博物館にあるフェルメール渾身の作といわれる「絵画芸術」(The Art of Painting)は私のお気に入りの作品です。
 「絵画芸術」は,製作後売られることなく,フェルメールのアトリエで,顧客へ自分自身の作品を売り込むためのショーピースの役割を果たしていて,フェルメールの死後も,妻は経済的困窮の中にあっても売り払われないように画策したほど価値のある絵画とみなされていたものです。

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 少し前,スーパー銭湯に行ったら,露天風呂にテレビが設置してありました。テレビなど見たくもないのに意識しなくても音が聞こえます。画面も見えます。これは不快極まりない状況でした。そういったものを忘れてリラックスしたいのに,なんだこれはと思いました。もうそこには二度と行くまいと決意しました。
 それと同じように,病院の待合室や理容店など,当たり前のようにテレビがかかっています。一昔前なら,これがサービスだったのでしょうが,今は不愉快なものの代表となりつつあります。見たくもないものを強制的に見させられているわけです。見たくもないものを強制的に見させられるのは,拷問ですらあります。特に,民放のワイドショーや,NHKの報道番組は最悪です。
 ホテルなどの部屋にも,当たり前のようにテレビがありますが,私は近年,つけたことがありません。
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 テレビが押しつけてくる情報は極力遮断することに限る,これがこころ穏やかに生活するための最善の方法だと気づいて以来,娯楽の代表だったはずのテレビが,いまや,私には最も迷惑な存在と化してしまいました。
 いつごろから,こんな状況になってしまったのでしょう?

 ところで,先日,私の見ているテレビが不調になったので,当たり前のように,ついうっかり買い換えてしまいました。とはいえ,私が見ているのは19インチの小さなテレビですが…。このごろは4Kだの8Kだのという大型のテレビが電器店に並んでいますが,いったいそれで何を見ようというのでしょう?
 ということで,新たに小さなテレビが家に来たのですが,そこでハタと,これでいったい何を見るのだろう,と思いました。民放やNHK総合のドラマなら,テレビでなくとも,インターネットで見ることができますので,私は今はそれを iPad で見ています。こうなると,わざわざ時間を決めて番組を見たり,録画することすら面倒になってきました。また,これまで見ていたNHKEテレのクラシック音楽番組も,ラジオで音だけを聴くほうがはるかに快適だとわかってきたので,テレビでは見なくなりました。
 あえて今,テレビでなければ見られないものといえば,NHKBSPで放送されているドラマや科学番組,旅番組くらいのものでしょうか。NHK+ではBS放送が見られないので,仕方なくテレビで見ているわけです。NHKは高い受信料を払っている割にものすごく不便です。受信料などやめて,番組ごとに課金すればいいのです。また,多くのチャンネルがあるのに,地上波とBSで同じ番組をやっていたり,何度見たかわからないような再放送ばかりを流しています。ラジオも,FM放送ではニュースなど流す必要はなく,音楽だけで十分です。
 いずれにしても,この情報化の時代に,テレビはむしろ,情報過多でおせっかいなだけの存在。人を不安に陥れるだけの不愉快な存在。生活を豊かにすることとは相反して,苦痛を与えるものになってしまったのが,まことに皮肉なことです。


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 ロンドンナショナルギャラリー展を開催している国立国際美術館にはこれまで行ったことがありませんでしたが,以前行ったことのある大阪市立科学館のとなりということだったので,場所はわかりました。JR大阪駅からさほど遠くないので,歩いていくことにしました。
 私は,3月以来,飛行機と新幹線以外の公共交通機関に乗ったことがなく,今回,JR京都駅からJR大阪駅まで,はじめてJR在来線の新快速に乗りましたが,空いていたので助かりました。

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 国立国際美術館は独立行政法人国立美術館が管轄する美術館で,第2次世界大戦以後の国内外の現代美術を所蔵,また,今回のような企画展を開催しています。1977年(昭和52年)の設立で,当初は万博記念公園にあったものが2004年(平成16年)に現在地へ移転しました。
 また,ロンドンナショナルギャラリー(National Gallery)はロンドンのトラファルガー広場に位置する美術館です。1824年に設立され,13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵しています。
 ロンドンナショナルギャラリーはコレクションの基礎が王室や貴族のコレクションの由来ではないという点でヨーロッパでもあまり例のない美術館です。私はかつてロンドンに行ったとがあるので,そのときに訪れる機会があったのでしょうが,若き日ゆえ,そのころはまったく興味ががなかったのが惜しまれます。
 ナショナルギャラリーのコレクションの基礎となったのはジョン・ジュリアス・アンガースタイン (en:John Julius Angerstein) が収集していた38点の絵画です。
 他のヨーロッパ諸国の国立美術館と比べてコレクション数は多くはないのですが,西洋絵画が大きな革新を見せた「ジョットからセザンヌまで」美術史上重要な絵画が収蔵されています。
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 私は11時からの予約をしてあったのですが,国立国際美術館に到着したのはそれよりも30分ほど早い時間だったので,外で待ちました。
 やがて時間が近づいたので,入口の列に並びました。十数人程度集まりました。やがて定刻に入場が開始となりました。
 私は,これまで,日本で開催される美術展がいつも黒山の人だかりで全く好きになれませんでした。結構高価な入場料を払って,結局,人の頭を見にいくようなものだったからです。
 美術展ではないのですが,毎年奈良で開催される正倉院展など最悪でした。日ごろ歴史に興味もないような人たちまでバスで大挙して訪れて群がるだけでなく,展示方法が最悪で,鑑賞どころではありませんでした。
 それも,今年のコロナ禍で,私は正倉院展は今年の展示品のほとんどはすでに見たことがあるので行かなかったでわかりませんが,どうやら人数制限が実施されたようで,好ましい状況となりました。

 このロンドンナショナルギャラリー展もまた落ち着いた状況となって,絵画を十分に鑑賞できたのは幸いでした。フェルメールの「ヴァージナルの前に座る女」,ゴッホの「ひまわり」,モネの「睡蓮の池」,レンブラントの「34歳の自画像」といった,今回初来日の作品が目白押しだったのですが,それらの作品を,ほぼ独り占め状態で鑑賞することができました。
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 そもそも,クラシック音楽のコンサートを行うホールにしても,旅客機の座席にしても,美術展にしても,そうした何もかもが,近年は人を不快にさせるほどの詰め込み状態で,利益優先の傾向に歯止めがかからない状態だったように思います。特にこのごろは,許容の限界ギリギリというか,そういう状況にまでなっていました。それを考えると,密をさけるという現在の状況はよほど快適です。
 今年のコロナ禍は,インバウンドによるオーバーツーリズムも含めて,そうした何もかもを,一度立ち止まって考え直すよい機会となったように思います。私も,これまでの,そして,これからの,旅行をはじめとするいろんな楽しみについて改めて考えるよい機会となりました。


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●念願がすべてかなった2度目のマウイ島●
 2019年,2度目のマウイ島に行くことができて,1度目にできなったことがすべて達成できたのは実に幸運だった。ここ数年で,マウイ島に限らず,多くの場所で1度目に行ったときにできなかったほとんどのことが達成できたのは,今では夢のようである。いつも思うが,本当に奇跡であった。特に,ハワイでは「地球の歩き方」のハワイⅡ編に掲載されている中で私が達成できていなのは,マウイ島からラナイ島への日帰りツアーくらいのもので,それ以外のことはほぼ成し遂げたことになる。
 そこで今日は,マウイ島の最終回として,2度目の旅で行くことができたイアオ渓谷とクラでの民泊について書くことにする。

 まず,はじめてマウイ島に行ったときには行くことができなかったイアオ渓谷である。マウイ島の通称は「渓谷の島」。ハワイの中でも天候がくずれやすいといわれるイアオ渓谷なので,御多分に漏れず,私は,1度目のマウイ島旅行では洪水のために行くことができなかった。はじめて行ってこういうことがあると,いつもそうだという印象になってしまうから,今回もまた閉鎖されているのでは,という心配をしていたが,何の問題もなく行くことができたので,逆に拍子抜けした。
 イアオ渓谷は山の中を進んでいくほど気温は下がり体感温度も低くなり,ハワイという感じがなくなる。イアオ渓谷は総面積47,382エーカー(約20,000ヘクタール=200平方キロメートル),全長10マイル(約16キロメートル)の渓谷である。渓谷内には谷底からの高さが1,200フィート(370メートル)のイアオニードル(Kuka‘emoku)があり,写真もあるから行っているのだが,不思議なことに私は見た印象がない。その昔,美しい娘イアオが半漁人の神プウオカモアと恋に落ちた。その恋に猛反対のイアオの父である神マウイは,プウオカモアを殺すと怒り狂ったが,山の女神ペレとイアオが「命だけは助けてほしい」と必死に願い,プウオカモアは殺されることは免れたものの岩に変えられてしまった。その岩がイアオニードルだという。
 イアオ渓谷はたくさんの戦いの舞台となっていて,渓谷全体を見張ることができる位置にあったイアオニードルは見張り台としても使われていた。中でも1790年のカメハメハ大王がマウイ島を征服したケパニワイの戦いは,ハワイ史上最も激戦で辛く悲惨なものとして後世に名を残している。戦いによって,谷底を流れるイアオ川の水は血で赤く染まり,犠牲となった死体は渓谷に流れる小川の流れをせきとめたといわれていることから,この戦争は「せき止められし水」を意味するケパニワイとよばれる。
 また,イアオ渓谷は不思議なエネルギーな宿る場所としても知られている。古代ハワイアンの間では亡くなった人の骨にはマナとよばれる聖なるエネルギーが宿り,特に王や酋長など身分の高い人の骨には強いマナがあると考えられてイアオ渓谷の地に埋葬されてきた。

 2度目のマウイ島で,私は念願のクラに宿泊することができた。
 クラで宿泊するとなると,クラロッジが有名だが,私の探し出したのは,民家であった。つまり,民泊である。クラで最も高台にある民家が一軒ごと貸し出されていて,私は,この広い民家にひとりで宿泊した。窓からはマウイ島が一望できて,特に,夜の星空は絶品であった。
 今この民家で宿泊できるのかどうか不明だが,これは夢の中の出来事のようであった。ハワイに出かけて,どんな豪華なホテルに宿泊した人でも,こんなすばらしい思い出をもつ人はほとんどいないことであろう。


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 お昼間は大阪に行ってロンドンナショナルギャラリー展だけを見て,早々に京都に戻ってきました。
 京都駅で共通クーポンを使って,ほかにお客さんのほとんどいないカフェで昼食をとり,午後は八条口から歩いて東寺へ行きました。
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 東寺は真言宗は真言宗の根本道場であり,東寺真言宗の総本山,教王護国寺ともよばれます。「教王」は王を教化するということで,教王護国寺とは,国家鎮護の密教寺院という意味です。古来より,公式の文書には「東寺」という表記が用いられていて,正式の文書に「教王護国寺」がみられるのは1240年(仁治元年)といいます。
 797年(延暦16年)ごろより,東寺,西寺が造営されましたが,やがて,西寺は火災などもあって衰退し,13世紀には廃寺になったと考えられています。
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 東寺は平安京鎮護のための官寺として建立がはじめられた後,嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され,のち,真言密教の根本道場として栄えました。まあ,民営化というようなものでしょうか。
 平安後期には一時期衰退しましたが,鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになりました。
 1994年(平成6年)「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されました。
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 お昼過ぎということで,観光客が少なからずいて,観光バスも1台停まっていましたが,敷地が広く,のどかな様子は変わりませんでした。
 細かい紹介はガイドブックに譲りますが,東寺でもっとも「インスタ映え」するのは,五重塔と北にある瓢箪池が作る池泉回遊式庭園の紅葉でしょう。この池の周りは人もおらず静寂でした。
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 五重塔は国宝で,東寺のみならず京都のシンボルとなっています。高さは54.8メートルあって,これは木造の塔としては日本一の高さです。これまで4回焼失し,現在の塔は1644年(寛永21年)に徳川家光の寄進で建てられたものです。
 今回,特別公開で内部を見ることができました。内部は,真言密教の中心尊・大日如来を像ではなく塔の心柱とみなして,東面に阿閦如来とその脇に弥勒菩薩,金剛蔵菩薩,南面に宝生如来とその脇に除蓋障菩薩,虚空蔵菩薩,西面に阿弥陀如来とその脇に文殊菩薩,観音菩薩,そして,北面に不空成就如来とその脇に賢菩薩,地蔵菩薩が安置されていました。
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 ところで,東寺といって思い出すのは「DX東寺」です。かれこれ40年以上前,当時勤めていた職場の親睦旅行で,今は亡き上司に無理やりタクシーに乗せられて連れていかれました。いまならパワハラです。
 まだあるのかな? どこなのかな? と調べると,今も存在しているらしかったので,東寺からJR京都駅まで歩いて帰る途中でその場所を探して通ってみました。地味な路地を歩いていると,それは今も営業していましたが,外観はボロボロの場末の芝居小屋でした。入っていないので内部は知りません。
 こうしてまた,ひとつ謎が解けたようでうれしくなりました。

 ところで,このところ何となくいろんな寺に出かけるのですが,どこも人が少ないのでとても充実した時間が過ごせます。このような,古より日本人の仏教信仰やそれに伴って作られた塔や仏像,そうしたものをゆったりと楽しむことができるのは,至福な時間です。
 結局,寺の拝観も,クラシック音楽のコンサートも,美術展も,それがどんなに優れたものであってもどこもがらがらなのは,本当は興味もないのに,人が行くから行く,話題になったから行く,という,群れることの好きな人がほとんどだからなのでしょう。今はその反対で,みんなが行かないから行かない,要するに「群れて自粛している」だけのことで,主体的な行動ではありません。「GoTo何某」がはじまって安くなったら,安全であろうとなかろうと,危険であろうとなかろうと,急に旅行客が増えたり,レストランがいっぱいになることからそれがわかります。
 私はもともと,群れないし,人混みが嫌いだし,ツアー旅行もしないし,お酒も飲まないし,グルメでないから雑誌で話題になったからといって列を作ってまでそのお店で食事もしません。携帯電話もはじめから格安SIMを使っているから政府が騒いでいる携帯電話の料金引き下げも関係ありません。「GoTo何某」で安いからといってそれが動機で出かけることも食事をすることもありません。世の中の出来事とは無縁で,ずっと昔から同じように,自分のペースで好きなことを楽しんでいます。それが偶然,今の行動様式とやらと奇しくも一致していただけのことです。
 しかし,「GoToキャンペーン」があろうとなかろうと行く予定をしていたロンドンナショナルギャリー展に行くために,偶然見つけて一旦利用を決めた「GoToTravel」でしたが,直前に突然対象外となった大阪には意地でも定価で行く気にはならず,行先を京都に変更したために,想定外の京都に行くことになりました。そのおかげで,紅葉真っ盛りの京都でさわやかないい時間が過ごすことができました。
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 夕刻,がらがらの新幹線で帰宅しました。今年はどこも人が少ないので,信州,滋賀,そして,京都と,秋の紅葉をいろんなところで堪能することができした。


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 東福寺の帰りに泉涌寺に寄りました。以前,1度だけ行ったことがありますが,ここは紅葉の名所ということではないので,観光客はひとりもおらず,静寂を保っていました。 
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 泉涌寺は真言宗泉涌寺派総本山の寺院で,山号は東山または泉山といいます。
 平安時代の草創ですが,実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)で,後鳥羽上皇や土御門上皇,順徳上皇,後高倉院の他,北条政子や北条泰時も月輪大師俊芿の下で受戒するなどで勢いが強まりました。1224年(貞応3年)に,後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められたので,鎌倉時代の後堀河天皇,四条天皇,江戸時代の後水尾天皇以降幕末の孝明天皇に至る歴代天皇・皇族の陵墓があって,皇室の菩提寺として御寺とよばれています。
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ということで,泉涌寺は,いとやむごとなき寺院として,ちょっとした厳粛な雰囲気を醸し出しているのです。

 東福寺から北に歩いて行くと,やがて広大な領域に出会います。今回私行きたかったのは,前回行くことができなかった斉明天皇陵でした。ここは,寺の左脇にある道を登った小高い丘の上にあります。
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 孝明天皇は第121代天皇で,明治天皇の父です。「一世一元の制」制定前に即位した最後の天皇であり,生涯を通じて平安京内で過ごした最後の天皇でもあり,写真が残っているはじめての天皇でもあります。
 攘夷派として知られ,幕末,公武合体の維持を望む孝明天皇の考えに批判的な人々からは批判が噴出,岩倉具視は「国内諸派の対立の根幹は孝明天皇にある」と暗に示唆して「孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし,政治の刷新を行って朝廷の求心力を回復せよ」と記しているほどです。
 1867年(慶応2年)35歳で崩御。死因は他殺説が存在し今も議論となっています。泉涌寺内にある後月輪東山陵に埋葬されています。
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 私は歴史好きなので,奈良や大阪,京都にある昔の天皇の陵にはずいぶん行ったことがあります。しかし,孝明天皇,明治天皇,大正天皇,昭和天皇となれば,歴史上の人物というより,直接現代とつながっている生々しさを感じます。私は以前,昭和天皇の武蔵野陵にも行ったことがあるのですが,その壮大さに度肝を抜かれました。
 国の歴史は重く,たとえ政治の制度が変われども不変なものがあります。特に京都を訪ねると,この国が天皇という存在を抜きに語れないということを痛感します。どの国にも,このような,かつてその国のリーダーであった人の巨大な,あるいは荘厳な墓があって,そういった場所に行くと,これはいったい何なのだろうとつねづね考えてしまいます。
 人間を含め,生命なんてすべて単に化学反応の偶然でできただけのもので,上も下も左も右も,まして,存在しなければならない理由もないと思う私には到底理解できない世界ですが,そのような神様のいたずらで偶然できてしまったこの複雑な人間という生命にはこころというやっかいなものがあって,社会の秩序を保つためには,このような存在が必要なのでしょう。その中でも,日本の天皇制というのは世界でもまれな不思議な存在だといつも思います。


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 この秋,京都に行く予定はありませんでしたが,想定外の京都に来ました。
 このブログにたびたび書いてきたように,ここ数年のインバウンドでやたらと海外から旅行者が来て,特に,春と秋の京都は楽しめる雰囲気ではなくなっていました。同じことを考える人も決して少なくなく,京都を敬遠していた人が多くいました。それが突然のコロナ禍で,この春の京都は静寂を取り戻したので,私は,車で毎日のように人のほとんどいない京都に行っては,満開の桜を堪能しました。
 今度は秋の紅葉だと思っていたところ,国がはじめた「GoToTravel」で日本中から観光客が殺到し京都がにぎわっているという話,これでは行く気もなくなってしまいました。
 どうして人は群れたがるのでしょう? 私は,コロナ禍がどうのこうのというのとは無関係に,人混みや群れること,そして飲み会が嫌いなのです。普段と何も変わりません。

 京都ではなく,ずっと以前から私が計画していたのは,ロンドンナショナルギャラリー展でした。まず東京の国立西洋美術館で開催されて,そのあとで大阪の国立国際美術館で開催されることになっていました。東京は混むので大阪へ行くつもりでした。
 コロナ禍で東京での開催が遅れたために,大阪での開催がずれ込みました。時間ができたので,12月3日に行くことに決めて,チケットを入手しました。幸い予約制になっていました。
 どうやって大阪まで行こうか考えていたところ,偶然「GoToTravel」で新幹線利用で大阪往復がとても安く行くことができるのを知りました。ところが,直前になって,大阪が「GoToTravel」の対象からはずれてしまいました。もともと「GoToTravel」 があろうとなかろうと大阪に行くつもりだったのですが,こうなったら話は違います。
 キャンセルになった「GoToTravel」利用での大阪から 「GoToTravel」利用で京都往復をすることに変更しました。お昼間2時間ほど京都から大阪に足をのばせば,これでロンドンナショナルギャラリー展も行くことができるのです。ということで,想定外の京都へ行くことになったわけです。

 これまで,京都の紅葉はほとんどの場所で見たことがあるので,手元には多くの写真があります。今回,特に行きたいというところもなかったので,紅葉が美しく,かつ,なるべく観光客の少なく,京都駅から徒歩で行けるところを考えて,午前中は東福寺と泉涌寺,お昼間に大阪へ行ってきてから,午後は東寺に行くことにしました。
 このごろは温暖化で紅葉の時期が遅れ,今は12月の初旬でも楽しむことができます。また,紅葉は散りはじめのころが一番美しいのです。
 がらがらの新幹線で早朝7時過ぎ京都駅に着いて,八条口を出て東福寺まで歩きました。東福寺は通天橋からの紅葉があまりに有名ですが,通天橋を渡るのは有料です。しかし,境内には無料で入ることができます。以前来たときは,JR奈良線の東福寺の駅からすでに観光客でごった返していましたが,この日は閑散としていました。また,通天橋の紅葉は,通天橋の上からでなく,通天橋を見渡たす臥雲橋からの景色のほうがきれいということも私は知っています。

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 東福寺は臨済宗東福寺派の大本山で,山号は慧日山といいます。京都五山の第四位の禅寺です。紅葉の名所として有名で,「東福寺の伽藍面」ともいいます。臨済宗のお寺には「禅面(づら)」とよばれるものがあります。これは格づけではなく,臨済宗のお寺の特徴をひと言で言い表すものです。
 主要伽藍の北には洗玉澗という渓谷があり,西から東へ臥雲橋,通天橋,偃月橋という東福寺三名橋が架かります。通天橋は本堂から通じる廊下がそのまま屋根つきの橋となったもので,この付近は特に紅葉の名所として知られています。
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 観光客は少しはいたのですが,臥雲橋にはほとんど人影がありませんでした。また,臥雲橋から通天橋を見る紅葉は少し旬を過ぎていましたが,十分楽しめました。
 山門まで来ました。ちょうど寺の門が開く時間だったので,境内に入りました。境内もまた,閑散としていて,まさに理想的でした。早朝は,太陽の光が紅葉に照り,ものすごく神秘的になります。お昼間よりずっときれいです。とにかく何事も人と反対のことをすることが人生を楽しむコツなのです。そしてまた,私の大嫌いな人混みがないのです。
 ということで,皮肉にも,もともとは直接大阪へ行って,ロンドンナショナルギャラリー展だけを見て帰る予定だったのが,まったく来る予定もなかった京都で,今年もまた,紅葉を楽しむことができました。


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●島1周を試みても●
 今こうして振り返ってみると,ハワイのなかでもやはりマウイ島というのは底なしにおもしろいところだった。とにかく何でもある。もしハワイに住むなら,マウイ島に限るように思う。
 今日は,その中で,秘境について書くことにする。ハワイ好きの日本人は多いがその90パーセント以上はオアフ島にいて,残りの10パーセントのうちの果たしてどれだけの人がこうした場所を知っているのだろうと私は思う。おそらく,そんな場所にはツアー旅行をしても決して行くことはできないであろう。しかし,私にとってのハワイの魅力はこうした場所なのだ。

 マウイ島にはハレアカラ国立公園があって,すでに書いたように,ハレアカラ山に登れば雄大な景色と星空が広がるが,ここは舗装した道路が続くので,秘境ではない。
 それより,ハレアカラ山のふもとにクラという町があって,ここがいい。この高台にひろがる美しく小さな町のどこかに泊まってみたいものだと思っていたが,2度目に行ったときに幸いそれが実現した。
 クラもまた秘境ではないが,その先,マウィズワイナリーをすぎたあたりからの南の海岸がすごいのだ。この海岸線に沿って,マウイ島は島を1周することができるだが,レンタカーでの通行は認められていない。というか,自己責任ということになる。要するに道が狭く,また,何かがあっても連絡ができないからというのが理由であると思われる。
 しかし,私が行ってみたところ,どこから先がいけないのかがよくわからないのだった。地図には地名が書かれてあっても,実際行ってみると,地名表示がないから,その地名の場所がどこなのかわからない。私は,まあ,このあたりだろうと思った場所まで行ってみた。そこに何があるということもないのだが雄大であった。
 私が最も印象に残るのは,海の向こうにハワイ島がうっすらと見えて,マウナケア山の山頂にすばる望遠鏡のドームが光っていたことである。この海岸に沿ってさらに進めば,やがて,島の最東端にあるハナという町まで行くことができる「らしい」。

 このハナという街もまた秘境であるが,ここは,バイアから島の北側を海岸にそって行くことができて,その道は,レンタカーでの通行が可能であるということはすでに書いた。とはいえ,この道路もまたずいぶんと大変で,まるで日本の山道のようで,せまくカーブが続く。おまけにつねに天気が悪い。そうしてやっとハナについたときの喜びはこのうえないが,私は行ってみて,どうしてこんな場所に町があって,人が移り住んだのかが理解できなかった。
 ハナは「マウイの果てにある天国のような町」といわれる。ハワイ通を自称する日本人がいたら,ハナに行ったことがあるかどうかを聞いてみるといい。行っていなければ,それは,まがい物のハワイ通である,と思う。

 一方,西マウイには,イオア渓谷州立公園がある。ここもまた,私には秘境であった。それは,1度目に行ったときに豪雨があって通行止めだったので行くことができなかったからである。2度目に行ったとき,ぜひイオア渓谷に行ってみたいものだと期待して足を運ぶことができた。
 西マウイの北側の海岸線もまた,道路は通じているのだが,レンタカーでは途中までしか通行が認められていない。私は,ここまでは行くことができる,というところまでアクセスしてみたが,海に沿って,まるで断崖絶壁に道が続いていた。
 ガイドブックによれば,「レンタカー会社によれば」通行ができない,とあるので,こうした道路を走ってもよいレンタカー会社があるのかもしれないが,私は知らない。


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●マウイ島のビーチ●
 ハワイ6島の中で,もっとも魅力に満ちたビーチがあるのもまた,マウイ島であろうと思われる。人だらけのオアフ島は論外として,マウイ島のビーチは場所によってさまざまな違いがあり,しかも,人がそれほど多くないので,どこもかなり贅沢な時間をすごすことができる。

 まず西マウイには,カアナパリ(Kaanapali)のビーチがある。ここには全長3キロメートルにも及ぶ白砂の海岸が続いている。ただし,カアナバリはリゾートで,宿泊料金は高額であるから,私にはまったく縁のない世界である。
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 南マウイには,海岸線が10キロメートルにも及ぶカマオレビーチパーク(Kamaole Beach Park)がある。このビーチのあるキヘイ(Kihei)にはコンドミニアムがあって,カアナバリと違って大衆向けであるから,それなりに混雑しているのはやむをない。オアフ島のホノルルのように垢抜けていないのが,また,いいという感じが私にはする。
 さらに南に行くと,マケナビーチ(Makena Beach)に至る。マケナビーチはマカオレビーチパークよりさらに南に行ったところで,ここはおそらくハワイにある数々のビーチのなかで最高の場所であろう。広々と続く砂浜に寝転んで,何も考えず,海を見ながら1日を過ごすという,とても日本人にはできない贅沢をすることができる場所である。
 何より,人が少ないのがいい。波が高いわけではないからサーフィンをするような場所ではないが,それゆえに,静かな時間が味わえるというものだ。遠くにはモロキニ島(Molokini Island)が見える。このモロキニ島にはスノーケルクルーズがあって,だれでもスノーケリングが楽しめるという話である。また,時折,クジラがダイビングをするのを眺めることもできる。マケナビーチの北側の高台の向こうには,何とヌーディストビーチがあるということは,知る人だけのささやかな秘密である。
 ここから先は道が狭く,レンタカーでの通行は禁止となる。
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 東マウイの南の海岸線は,ビーチがなく,断崖に沿って延々と島を1周する道路が続いている。途中から先はここもまたレンタカーでの通行は禁止されているが,こんな場所がハワイにあるとは,おそらく,ワイキキビーチしか知らない多くの日本人には信じられないであろう。
 とにかく,マウイ島のビーチは最高なのである。


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 湖東三山は紅葉が美しいところだということはずっと以前から知っていました。しかし,どうしても,秋に紅葉となると,京都まで足をのばしてしまい,これまで行く機会がありませんでした。
 何事も塞翁が馬,今年だからこそできることを探すと,それなりに楽しく毎日がすごせます。私はこうして春から過ごしてきました。そして,今回出かけた湖東三山,それに,知らなかった永源寺も加えて,最高の紅葉狩りとなりました。

 最後が西明寺です。
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 西明寺もまた天台宗の寺院で,山号は龍応山。834年(承和元年)琵琶湖の西岸にいた三修上人は,対岸の山に紫の雲のたなびくのを見て神通力で対岸に渡ると,山の中の池から紫の光がさしていたので祈念すると,池から薬師如来,日光菩薩,月光菩薩,十二神将が出現しました。仁明天皇はこの話を聞いてその地に勅願寺として寺を建立するように命じ,創建されたものだといいます。
 そこで,「西明寺」の寺号は紫の光が西の方へさしていたことによります。
 現存する本堂,三重塔は鎌倉時代の本格的な建築で,とても美しいものです。1571年(元亀2年),延暦寺を焼き討ちした織田信長は,比叡山傘下の天台寺院も焼き払うことを命じます。しかし,寺僧の機知により,山門近くの房舎を激しく燃やして全山焼失のように見せかけたために,本堂や三重塔は焼失をまぬがれたのです。
 兵火の後は荒廃していましたが,江戸時代,天海,公海や望月友閑が再興させ,さらに徳川将軍家などの庇護を受けて徐々に復興しました。
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 境内は名神高速道路によって分断されているために,名神高速道路にかかる狭い橋をわたったところに駐車場があります。以前ここを通った記憶がよみがえり,来たことがあると思いました。
 参道を歩いた先に二天門が建っていました。二天門を入ると,正面に本堂,右手に三重塔が建ち,また,参道の途中左側には池泉回遊式庭園をもつ本坊がある,とても立派な寺です。
 この寺で私がおもしろいと思ったのは重要文化財の二天門でした。入母屋造,杮(こけら)葺きの八脚門で,部材のひとつに1407年(応永14年)の墨書があるそうです。西明寺の二天門には,向って左に増長天,右に持国天が安置されています。増長天像は阿形の像,持国天像は吽形の像です。このように,門の左右に安置される像は二体一対で,二王とも称され,口を開けたのが阿形,口を閉じたのが吽形,「阿吽の呼吸」の語源ともなっていますす。 
 実際は,寺の入口にある門には仁王門と二天門のふたつの種類があり,仁王門は仏教の守護である阿形と吽形の金剛力士像を左右に安置したもので,二天門は門の左右に持国天,増長天,広目天,多聞天のうち二天像を安置したものという区別あるそうですが,私は詳しくは知りません。
 また,百済寺と同じく,大きな草鞋が吊るされていましたが,これは七難即滅を願う信仰からきたものです。七難とは,太陽の異変,星の異変,風害,水害,火災,旱害,盗難のことで,世の中の七つの大難が消滅することを念じ,その願いがかなえば七福が生ずることから七福神の信仰が産まれたのだそうです。人は古より,こうした災いに恐れをなして生きてきたわけです。

 午前11時前,次第に人が増えてきたので,私は帰宅することにしました。
 思った以上に楽しい1日,いや,半日となりました。

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●マウイ島とハワイ島の夕日●
 マウイ島は夕日のきれいな島だが,朝日を見るのはなかなか難しい。それは,マウイ島の東海岸はどこも断崖絶壁で,行くのが困難だからである。最も東にハナという町があるが,早朝にハナにいることが困難である。深夜にハナまで車で走るのも困難だし,宿泊するにも,適当なホテルが少ない。しかも,天気が悪い。ということで,マウイ島でただ1か所,ハレアカラ山の山頂なら最高の日の出が見られるが,ここはあまりの人気で,事前に登録しておかないと,登頂できない。
 それに対して,夕日なら,ハレアカラ山にも事前の予約なく登ることができるし,西側の海岸は,どこも広く砂浜が広がっていて,しかも天気がよいから,絶景を見ることができる。そこで,私は,2度行ったマウイ島で,ハレアカラ山の夕日も西側の海岸からも美しい夕日を味わいつくした。

 ハレアカラ山からの夕日は登るに予約が不要といえ人気があるから,山頂の駐車場はごった返す。少し早めの時間に行って,停める場所を確保することが必要となる。
 西側の海岸は,私が2017年の春にはじめてマウイ島に行ったときに行くことができず,2度目に行った2019年の春に念願を果たした。ラハイナからの日没の景色は,カフェで食事でもとりながら夕日が眺められるという申し分のないシチュエーションであった。ただし,私にとって誤算だったのは,ラハイナからの夕日は,海には沈まず,遠くのラナイ島の島影に沈むことであった。
 と書いているうちに,そういえば,ハワイ島カイルアコナの沖合でクルーズ船から見たのが,私の生涯最高の夕日であることを思い出した。海に,最後の最後まで,太陽が沈んでいく姿は,まさに神々しいものであった。

 強がりでいうわけではないが,日の出に比べて,日没のほうがずっと美しい。それは,朝日は太陽が姿を見せてしまえばあとはまったく美しくないが,夕日は日没前から日が沈んだ後まで,ずっと空が赤く染まるからである。
 いずれにしても,四方が海に囲まれたハワイの最高の魅力は,日没や日の出の景色であると断言できる。

◇◇◇
Beaver Moon to deliver partial lunar eclipse.

11月30日はビーバームーンでしたが,
半影月食となりました。
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