しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2021

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 アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)はモーツアルトが生まれる6年前の1750年,イタリアの レニャーゴで生まれました。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立ち,ベートーヴェン,シューベルト,リストといった作曲家を育てた教育家でもありました。また,ウィーンで作曲家として,特に,イタリアオペラ,室内楽それと宗教音楽において高い名声を博しました。
 死後はその名と作品は長い間忘れられましたが,皮肉にも,戯曲「アマデウス」およびその映画版でモーツアルトを死に追いやった人物として取り上げられて知名度が上昇し,21世紀に入ってから音楽家としての再評価されつつあります。

 「サリエリがモーツアルトを殺した」という説は昔からあったそうですが,その後の研究で完全に否定されています。
 実際のサリエリは,ウィーン宮廷での活躍が栄光に輝いていたにも関わらず,妻にも先立たれて寂しい晩年を送り,ヒッソリと息を引き取りました。さらに,死後はプーシキンの戯曲で「モーツアルト毒殺者」としてのレッテルを貼られてしまいました。
 サリエリは貧しい育ちから宮廷に拾い上げてもらった恩義をずっと忘れずにいたと思われ,貧乏な弟子からはレッスン代を取らずに懇切丁寧な指導をし,若い後輩達から非常な尊敬を受けていたといいます。
 サリエリの弟子は優秀な音楽家達が名前を連ねていますが,サリエリは弟子達の催す慈善演奏会にしばしば出演を依頼され出演しました。ベートーヴェンの交響曲第7番,第8番の初演時の演奏に副指揮者として加わっていたというエピソードもありますし,多くの慈善演奏会で,ハイドンやベートーヴェンののオラトリオの指揮をしました。

 特に,シューベルトは,「謝礼を免除されて」サリエリの弟子の一員に加わっていました。
 ウィーンの中心部にあるシュピーゲル小路(Spiegelgrasse)には,シューベルトの住んだ家の跡があります。シューベルトはこの親友のショーバンの家に居候をして交響曲「未完成」を書きました。そして,路地を挟んで反対側の家にはサリエリが住んでいました。 
 私は,ウィーンを歩いていて,ここを見つけて,えらく感動しました。
  ・・
 1816年,サリエリのウィ−ン生活50年を祝う会が大々的に催されました。シューベルトは,この会のために,次の,サリエリに捧げる祝典カンタータD407を作りました。この歌の詞は,サリエリの人徳を称えてやまないものだといいます。
  ・・・・・・
 やさしい人よ,よい人よ!
 賢い人よ,偉大な人よ!
 私に涙のあるかぎり
 そして芸術に浴みするかぎり
 あなたにふたつとも捧げよう
 あなたはふたつをこの私に恵んでくれたその人だから
 善意と知恵があなたから
 噴水のように奔る
 あなたは優しい神の似姿!
 地に降りたった天使のような
 あなたの御恩は忘れません
 私たちすべての偉大な父よ
 どうかいつまでもお元気で!
  ・・・・・・

 ウィーン中央墓地にはサリエリの墓があり,私も2018年に訪れました。台座の石灰岩の原石には「Salieri」と刻まれ,その上に四角錐の墓石があり,十字架が掲げられています。
 墓碑銘には次のように記されてあります。
  ・・・・・・
 1750年の生まれ 
 1825年5月7日宮廷カペルマイスターとして死亡
 安らかに憩え! 
 塵芥から取り上げられて永遠が花開くであろう
 安らかに憩え! 
 今や永遠のハーモニーに君の精神は解き放たれる
 魅惑的な音色で彼は語った
 いま不滅の美を手に入れようとしている
  ・・・・・・


☆ミミミ
1月30日,昨日の朝は,前日に降った雪景色が美しく,温められた水蒸気が立ち上り,幻想的な日の出となりました。DSC_7385


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 時折出版されるその道の偉大な人が書いたエッセイほどおもしろいものはありません。とにかく,経験に基づく優れた慧眼に思わずハッとさせられ,また,賢くなった気がするからです。
 そんな本が朝日新聞の書評にあったので,久しぶりに本を購入して読んでみました。題名はエッセイ集「物理村の風景」。著者は亀淵進,筑波大学の名誉教授,専攻は物理学ということです。
  ・・・・・・・
 坂田昌一に師事し,朝永振一郎に傾倒した物理学者のエッセイ選。湯川秀樹,ボーアのみならずさまざまな人との邂逅を洒脱なタッチで描き出す。
  ・・・・・・
というのが,本の紹介で,朝日新聞の書評には,東京大学教授で宇宙物理学を専攻する須藤靖さんが次のように書いていましたので,抜粋して引用します。
  ・・・・・・
 第2次世界大戦下にあっても,日本の素粒子理論物理学者は独創的な研究を継続していた。その薫陶を受けた世代は,その後,欧米に渡り世界的に活躍できた。そのひとりが93歳になられる著者で,東京教育大学で朝永振一郎とともに素粒子理論研究室を主宰した。
 本書は,物理学の巨人たちと著者との個人的な交流を縦糸,趣味の音楽を通じて知り合った人々との出会いと別れを横糸として綴られた色とりどりの織物のような珠玉のエッセイ集だ。
 古きよき時代に研究人生を心から楽しまれた様子が「物理村」というタイトルに凝縮されている。私にとっては教科書でしか知らない歴史的物理学者たちが、等身大の「村民」として登場することに驚かされた。
 それにしても,ゆったりと流れる時間の下で生活を楽しみながら研究できていた,半世紀以上前の物理学者たちが心底羨ましい。
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 話は飛躍しますが,このような立派な人は,こうした書物からだけで知っているほうがいいなあ,と私はこのごろ思うわけです。それは,もしお会いしたとしても,実際はものすごく怖い人だったりするかもしれないし,私のような底の浅い人間では,お話するような話題もないからです。私の尊敬する吉田秀和という音楽評論家の大先生も,実際はとても厳しい人だったと聞きます。
 というのは余談としても,何かに秀でた人は生きること自体が真剣で深みあるから,専門のことだけでなく幅広い教養があるので,そうした人の書いたものがつまらないわけがありません。
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 この本に書かれたものの中で,「ウィンストン・チャーチルが私の存在を認識したこと」という一文がありました。ある日,著者がロンドンで歩いていて黒塗りの車にぶつかりそうになって,車の中を覗き込んだらウィンストン・チャーチルが乗っていた,というお話です。すると彼は「「これはどうも失礼」と言わんばかりに,私に向かって軽く会釈したのである」とあって,最後に「ロンドンでは,こういう偉い人に偶然出会うことがしばしばだったが,東京では皆無である。どうしてなのか」と結ばれていました。これを読んで,私はあることを思い出しました。
 昔,学習院大学で開催されたある会議に出席したとき,講堂を出ると,ガードマンに止めるめられて,今から宮様が通られるからそれまで待つように,と言われたのです。それは,当時の皇太子,現在の天皇陛下が,ビオラの練習で大学を訪れたということでした。そして,車を降りた皇太子は,私が立ち止まっているのをご覧になって,まさに,「「これはどうも失礼」と言わんばかりに,私に向かって軽く会釈したのである」ということがあったのです。
 つまり,必ずしも,「東京では皆無である。どうしてなのか」というわけでもないのです。
 自分の経験を一般論に広げてはいけませんよ,先生(笑)。というのは冗談として,私にもよく似た出来事があったということだけで,先生と何かお近づきになれたような気がして,とてもうれしい文章でした。


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●ハワイ王国の滅亡●
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④カメハメハ4世 1854年から1863年
 アレキサンダーリホリホはカメハメハ3世の養子として幼少の時を過ごし,米国人宣教師による英語による教育を受けた。そして,15歳のときに欧州へ旅をした。1855年,王位に就き,翌年,カワイアハオ教会で英国の血が4分の1流れているエマ・ルークと結婚した。
 オアフ島ホノルルの北ヌーアヌの谷の高台に建つ「エマ王妃夏の離宮」は,私は行ったことはないが,カメハメハ4世の7軒の私邸のひとつであった。喘息の持病のあったカメハメハ4世はこの家によく静養に行っていた。息子アルバート王子を4歳という若さで亡くした翌年の1863年,カメハメハ4世も29歳で亡くなり,その後はエマ王妃がこの家で暮らした。
 1860年,日米修好通商条約批准のために日本の使節団がサンフランシスコに向かった。これに随伴した咸臨丸は,帰路,石炭と水の補給のためにホノルルに寄港し,代表の木村摂津守喜毅がカメハメハ4世に謁見し,日本からの移民受入れについて言及したという。このとき通訳を務めたのはジョン万次郎であった。
  ・・
⑤カメハメハ5世 1863年から1872年
 1863年,カメハメハ4世の兄,ロット・カプアイヴァが,カメハメハ4世の死を受けてカメハメハ5世となった。そのころのハワイは,捕鯨が盛んであった時代が終わり砂糖産業が主力となっていたが,砂糖農園での労働力不足に直面し,1864年に移民局が創設された。それが日本人のハワイ移民につながっていく。
 1872年,カメハメハ5世は亡くなる前の病床に,カメハメハの末裔にあたるビショップ氏の妻バニース・パウアヒ王女をよび後継を頼んだが,その望みは受け入れられず,後継者を選ばずして42歳で亡くなった。カメハメハ直系の終焉であった。
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⑥ルナリロ 1873年から1874年
 カメハメハ直系の孫にあたるカメハメハ5世が亡くなった。
 「アウヘア・ケカウルオヒ」はカメハメハ大王の姪であったので,その子「ウイリアム・チャールズ・ルナリロ」が王家の血筋の中でもっとも高位に位置する人となった。カメハメハ5世が後継者を指名せずに他界したため,「ウイリアム・チャールズ・ルナリロ」が憲法の定めるところにより,1873年,王家の血の流れる人の中から議会の選挙で選ばれた王となった。
 ルナリロはリベラルな考えの持ち主で,高い教育を受け音楽や文学にも造詣が深かったが,健康を害し,わずか1年の在位で39歳の若さで亡くなった。
  ・・
⑦カラカウア 1874年から1891年
 ルナリロも後継者を指名せずに亡くなったため,議会で選挙が行なわれ。カラカウアがハワイ王国7代目の王になった。カラカウアは,アメリカとの互恵条約締結を成功させ,砂糖産業で国家の隆盛を成し遂げた。
 在任中に世界一周旅行をし,日本に立ち寄ったときには明治天皇にも謁見し,ハワイへの日本人移民受入れを申し出た。これが1885年にはじまる官約移民のきっかけとなった。
 様態が悪くなりアメリカで静養するためにサンフランシスコに到着したが,1891年に客死した。
  ・・
⑧リリウオカラニ 1891年から1893年
 兄であるカラカウアの後を継いで8代目の女王になった。
 2年の在位中,西欧人中心の経済界とハワイアンの人々との対立が激化した。アメリカの砂糖輸入への関税が撤廃されたため,アメリカとハワイとの間で結ばれていた互恵条約が意味を失い,砂糖農園所有者の間で,王権が維持されることにより自分達の土地が没収されるのではないかとの警戒心が広がって,やがて,アメリカへの併合を希望する力が強くなっていった。
 1893年,リリウオカラニは新憲法を発布しようと試みたが同意が得られず,退位を迫られることになった。こうして,ハワイ王国が消滅しハワイ共和国が誕生した。
 1895年,王政復古を求める武装蜂起が起き,女王の邸宅の庭から武器が発見されたという理由で,リリウオカラニは反逆罪の罪で逮捕され,イオラニ宮殿で幽閉を宣告された。「アロハ・オエ」はこの間に作曲したものとも伝えられている。
 大統領が民主党のクリーブランドから共和党のマッキンリーに代わってアメリカの政策が変わり,1898年,マッキンリー大統領がハワイの併合法案に署名した。その結果,イオラニ宮殿でハワイ国旗が降ろされ,星条旗が掲揚されることになった。そして,1900年,ハワイはアメリカ合衆国の準州になった。
 リリウオカラニはホノルルで余生を過ごし,1917年この世を去った。
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●カメハメハ大王●
 ハワイを旅行するには,やはり,その地の歴史を知る必要があると思うので,調べてみた。そこで,今日は旅行記をお休みして,私自身のためにハワイ,特にハワイの王朝の歴史をまとめておくことにする。
 ハワイ王国(Aupuni Mōʻī o Hawaiʻi)は,日本では江戸時代の後期から明治時代にかけての1795年から1893年まで,ハワイ諸島に存在した王国である。1893年にアメリカ合衆国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり,1898年にハワイ準州 (Territory of Hawaii) として併合されて消滅した。

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①カメハメハ1世(=カメハメハ大王)1795年から1819年
 ベートーヴェンが生まれた8年後,アメリカが独立した2年後,日本では徳川家治が将軍だった1778年,イギリス海軍のクック船長の一行が3回目の太平洋探検でハワイ諸島を発見し,島々は西欧で知るところとなり,その影響で各島に存在していた首長間の争いに変化が起こった。
 その中で勢力を持っていたのがハワイ島のカメハメハ1世。カメハメハ1世はカメハメハ王朝の創始者で,ハワイ島コハラの首長の家系に生まれた。カラニオプウ大首長の死後,内戦状態にあったハワイ島であったが,西欧人の知恵や武器を利用し,1795年,ハワイ島からマウイ島,オアフ島までがカメハメハ1世の手中に納まり,1810年,カウアイ島まで8島すべてを統一した。
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②カメハメハ2世 1819年から1824年
 1819年,カメハメハ1世(大王)が他界し,長男のリホリホがハワイ島カイルアで2代目の王になった。そのころ,ハワイには「カプ」という社会規範があり,そのひとつが男女は共に食事はしない習慣だった。カメハメハ1世の妻のひとりであったカアフマヌがカメハメハ2世にカプ制度をやめるように求め,カメハメハ2世は他の王族の前で女性と席を共にして食事をしたことで「カプ」は崩壊し,ヘイアウ (祭祀場)と神々の木像が破壊された。これがキリスト教への道を開く結果となった。
 1823年,カメハメハ2世はカママル妃とイギリスの捕鯨船に乗りロンドンへ向けての航海に出たが,到着したロンドンでカママル妃とカメハメハ2王は,はしかと思われる病気で命を落とした。
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③カメハメハ3世 1825年から1854年
 カメハメハ2世の20代での死を受けて,カメハメハ2世の弟カウイケアオウリが10歳でカメハメハ3世となり,最長の30年間ほど在位した。この間,ハワイは専制君主国から立憲君主国へと変貌を遂げ,首都をマウイ島ラハイナからオアフ島ホノルルに遷都し,憲法を制定し,宗教の自由化,土地所有権を認めるなど,ハワイを急速に近代化させた。
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 ここで,話を少し横道にそらせて,プリンセス・ナヒエナエナ(Nāhiʻenaʻena)について書く。すでに以前マウイ島のラハイナを訪れたときの旅行記で書いたが,まとめる意味でここに再掲する。
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◎ケオプオラニとナヒエナエナ
 マウイ島の古都ラハイナには「ワイオラ教会」(Waiola Church)があり,教会に隣接するのがワイオラ墓地(ワイネエ墓地)である。この墓地にはカメハメハ1世の第1王妃ケオプオラニとプリンセス・ナヒエナエナの墓がある。
 カメハメハ1世には多く妻がいたが,その第1王妃がケオプオラニである。ケオプオラニは大変身分の高い生まれで,カメハメハ1世でさえ顔を上げて話をすることを許されなかったという。
 カメハメハ1世とケオプオラニの間には,のちのカメハメハ2世と3世となる男子が生れたが,その妹として生まれたのがナヒエナエナである。
 ナヒエナエナは実の兄カウイケアオウリ(後のカメハメハ3世)と愛し合っていて将来結婚することになっていた。今の常識とは違い,当時のハワイアンの習慣として,近親結婚,特に高貴な血を受け継ぐ者同士の結婚はその血筋を守りまた高めるものとして尊重されていた。したがって王とその高貴な妻とのふたりの兄妹は生まれながらにしてその道をたどる運命であった。
  ・・
 ところが,そのころヨーロッパからの宣教師がハワイへ布教を始め,王族の中にもキリスト教を崇拝するものが多くなってきた。ケオプオラニもキリスト教の教えに傾倒していったひとりである。こうして宣教師の影響は次第に王朝の政治にまで影響を及ぼすようになった。
 キリスト宣教師が始めてハワイに到着したとき,ナヒエナエナはたったの5歳であった。ハワイ貴族の娘として育ってきた彼女は宣教師から押し付けられた生き方に賛同することを拒んだ。彼女はイエス様を崇拝することよりも,海の神,風の神,火山の神,自然の神たちを崇拝することを選んだのだ。しかし,母親ケオプオラニが洗礼を受けキリスト教徒になってからは母親からキリスト教を押し付けられることになる。
 ナヒエナエナが表向きだけでもキリスト教を受け入れることになったのは,ケオプラニが死を目の前にした病床での遺言であった。
 「これからは宣教師に育ててもらい,立派なキリスト教徒になるのよ」
 こうして,否応にもキリスト教徒になることを受け入れることになったのだが,それでも古代ハワイアンのしきたりを完全に捨てることができなかった。そして,わざと昔ながらの服を着続けただけではなく,宣教師たちの反対を押し切ってカウイケアオウリと結婚した。
 が,結婚するやいなや宣教師からこんな手紙が彼女の元に届いた。
 「君は最大の罪を犯した。その罪は重く、君は母親のいる天国には行けないだろう」
 それがきっかけで心の病にかかり,かなりな量のお酒を飲み続けた。
 そんな人生の中でも明るい光が差したのは息子を身ごもったことであった。ところがその幸せも長くは続かず,赤子は産まれて数時間のうちに他界した。その事実に耐えられなかったナヒエナエナもまた,その3か月後に21年の短い生涯に幕を打ったのだった。カメハメハ3世として王朝のトップに立ったカウイケアオウリは他の女性と結婚したが,たびたびラハイナにあるナヒエナエナの墓標を訪れていた。
 …今もプリンセス・ナヒエナエナは,母親ケオプオラニと共にラハイナのワイオラ教会の片隅で眠っている。
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 近年の将棋ブームで,プロの棋士が,将棋を指す姿だけでなく人間的な様々な姿を見る機会が増えました。スナックでお酒を呑みながら将棋の話をするというニコニコ生中継もありました。私は,プロ棋士のこうした姿を見ると,本当にこの人たちは将棋が好きなんだなあとしみじみ思うとともに,あれだけひとつのことに打ち込めるということがうらやましくもあります。それほど熱中できれば,暇で困るということは決してありますまい。おそらく9時間飛行機に乗っても,ずっと詰将棋でも解いていれば時間がつぶせることでしょう。
 ところで,私の亡くなった両親は何かに夢中になるということを嫌った人たちで,私が子供のころに興味をもったことに夢中になると叱りました。それは,子供の可能性を潰しただけの,いわば毒親の行為だったと今の私には思えるのですが,そうして育ったために,何かに打ち込むことは悪いことだというトラウマができました。その結果,私には,何をしても80点主義,そして飽きっぽいという性格が形成されました。そんな性格では,大学で研究をするとか,何かのスポーツに打ち込むとか,そういう仕事は不可能です。まあ,それは私の負け惜しみであって,おそらくは,それ以前に,才能がないというのが実は一番の問題なのでしょうけれど…。

 私のことはさて置いて,本題に戻します。
 朝から晩まで頭の中に将棋盤があって,それを考えていれば幸せ,という生き方は,私には想像ができません。それが仕事だろう,といってしまえばそれまでですが,仕事とはいっても,始終そのことを考えていれば楽しいというのがすごいことです。そして,うらやましいことです。
 ところで,はじめに書いたスナックでお酒を呑みながら… を見ていて,そこに出演していた棋士の先生を,はじめはうらやましく思っていたのですが,そのうちあることに気づきました。
 将棋というのは学問ではなく勝負の世界なのです。したがって,結果が出ます。結果が悪ければ,挫折もします。だから,この人たちは,その結果を忘れさるために酒が必要なのです。そのことに気づいたら,棋士の悲哀を感じずにはいられませんでした。何かに打ち込むというのは,実は悲しいことでもあったのです。
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 将棋に限らず,どんな世界でも,超一流,という人がいます。それは,神様がその天分を授けた選ばれた人なのでしょう。そんな天分を授かった人だけが,凡人には見えない世界に到達できるのであって,凡人がそうなりたいと思ってどれだけ努力をしても,それは無理なことなのです。もともと,人が鳥のように空が飛べないのと同様,人間の質そのものが違うのです。
 しかし,そうした天分があって,その世界で何かを成し遂げるということが人生のすべてとなることが,私にはうらやましくはあっても,本当に幸せなのかなあ,どこかで飽きてしまうということはないのかなあ,と,飽きっぽい私はそんないらぬ心配をしてしまうのです。


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ブドウ

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 きょうはイソップ童話のお話です。
 まずは,「北風と太陽」です。これはとても有名なので,何もコメントをする必要もないでしょうが,私の大好きなお話で,このブログ「しない・させない・させられない」の根底に通じるので,載せておきましょう。
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 北風と太陽が,どちらが強いかで言い争っていました。
 議論ばかりしていても決まらないので,それでは力試しをして旅人の着物を脱がせた方が勝ちと決めようという事になりました。
 北風がはじめにやりました。北風は思いきり強く「ビューッ!」と吹きつけました。旅人は震えあがって,着物をしっかり押さえました。そこで北風は,一段と力を入れて「ビュビューッ!」と吹きつけました。すると旅人は「うーっ,寒い。これはたまらん。もう1枚着よう」と今まで着ていた着物の上に,もう1枚重ねて着てしまいました。北風は,がっかりして「きみにまかせるよ」と太陽に言いました。
 太陽はまずはじめに,ポカポカと暖かく照らしました。そして,旅人がさっき1枚よけいに着た上着を脱ぐのを見ると,今度はもっと暑い強い日差しを送りました。ジリジリと照りつける暑さに,旅人はたまらなくなって着物を全部脱ぎ捨てると,近くの川へ水浴びに行きました。
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 さて,話を本題に戻します。私が書きたいイソップ物語は「北風と太陽」ではなく「キツネとブドウのふさ」のお話です。
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 「お腹が空いたよう」とキツネが森の中を歩いていました。すると,おいしそうなブドウがブドウ棚からたくさんぶら下がっていました。キツネは,何とかして取ってやろうと思いました。でもブドウ棚は高くて,どうしても手が届きません。
 するとキツネは「ふん。あのブドウは,まだ酸っぱいのさ」とひとりごとを言って,どこかへ行ってしまいました。
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 この,プライドの高い人と負け惜しみの強い人と無知な人に対する戒めとなるお話は,だれにもありがちなことです。 
 「日本はすばらしい」とこころから信じている人がいます。実際に世界を多く見てきて,その結果そう思うのならよいのですが,中には,本当は旅立ちたいのにそれができないのを強がっていることも少なくないのです。で,「日本はすばらしい」と強がるわけです。そして,この国はいい国だいい国だと自分にいい聞かせているわけなのです。
 あるいは,コンピュータが使えない,スマホが使いこなせない人が,そんなものは害である,となるわけです。これもまた同じことです。
 人は歳をとると頑固になりがちです。そして,自分のできないことを,このようにして強がって正当化しようとします。そうしたときに,この寓話を思い出して,頭を柔軟にできればいいなあ,といつも思います。


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●カラウパパの悲劇●
 モロカイ島は「カラウパパの悲劇」を背負った島である。島の北部にあるカラウパパ半島は,19世紀当時,不治の病とされたハンセン病患者の移住地とされた。
 ハワイでのハンセン病患者が記録に残されている最初は1848年で,王室の保健委員会がハンセン病対策を取り上げたのは1863年であった。1865年には患者の隔離が法制化され,患者たちは船でカラウパパに運ばれて隔離された。
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 人類の歴史上もっとも古くから知られ恐れられてきた病気のひとつであるハンセン病は,らい菌(Mycobacterium leprae)が主に皮膚と神経を侵す慢性の感染症で,治療法が確立された現代では完治する病気であり,ハンセン病回復者や治療中の患者さえからも感染する可能性は皆無だが,古来,ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから,患者の人たちは何世紀にもわたり社会的烙印を押され,遠く離れた島や隔離された施設へ追いやられ,自由を奪われ,社会から疎外された状態で生涯を過ごすことを余儀なくされた。
  ・・・・・・
 1864年,ベルギー出身の宣教師ヨゼフ・デ・ブーステル(Joseph de Veuster)がホノルルに到着し,神父に叙階された。ダミアン神父(Father Damien)である。
 ダミアン神父は1873年モロカイ島に入り,絶望的な病に侵された患者たちのために尽力し,心身の救済に当たった。
 16年後の1889年,同じ病のためにダミアン神父は49歳でその生涯を閉じた。2009年,バチカン市国において,ダミアン神父は聖人に列せられた。現在では,ハワイで最も尊敬されている人物のひとりである。

 オアフ島のワイキキビーチにセント・オーガスティン教会(St. Augustine By the Sea Catholic Church)があって,その建物の前にダミアン・マリアンヌ記念館(Damien and Marianne of Moloka'i Heritage Center)があるということを,私は,モロカイ島に行ったあとで知った。以前,オアフ島で真珠湾に行ったことがあるが,そのときに知っていれば,ダミアン・マリアンヌ記念館にもいったのに,と残念に思う。
 ハワイは,このモロカイ島の背負った悲劇や,明治以降の移民の歴史,そして,第2次世界大戦での惨劇など,決して浮かれ気分でいくだけの場所ではない。

 カウナカカイの町を歩いていると,聖ダミアン・オブ・モロカイ教会があった。この教会は2011年に建てられたもので,「地球の歩き方」には,ミサの時間には観光客が出入りできると書かれてあった。私が行ったときはミサの時間ではなかったが入口が開いていたので,中に入ってみた。教会の中にはダミアン神父の木像があった。
 また,のちに行くことになるが,モロカイ島にはカウナカカイから11マイル,約18キロメートル離れたカマロという町に,1876年,ダミアン神父が建てたセント・ジョセフ教会(St.Joseph's Church)があり,その教会の傍らに,ダミアン神父の像が立っている。

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●カウナカカイの狂った市長●
 カウナカカイ桟橋でしばらく海を眺めていた。こんな世界があるんだなあ,と思った。私にとっては,ワイキキビーチよりもこの場所のほうがずっとくつろげるし心が休まる。この桟橋からは朝日も夕日も眺められそうだ。また来てみようと思った。
 そのあと,夕食をとる場所を探すついでに,カウナカカイの小さな町を歩くことにした。ともかく食事をしなければならない。「地球の歩き方」には適当なレストランがいくつか記載されていたから,それを頼りに,カウナカカイのダウンタウンに行って,食事をする場所を探すことにしたのだが,このときはまだ,私はこの島の真実をまったくわかっていなかったのだった。

 カウナカカイ(Kaunakakai)は人口約3,000人,「モロカイ島で最大の町である」と書かれてあるが,最大も何も,モロカイ島にカウナカカイ以外に町があるのだろうか? カウナカカイには約1,000軒の住居があり,住民のうち白人は9パーセントほど,アジア系は30パーセントほど,太平洋諸島系も同じく30パーセントほどである。また,1世帯あたりの平均収入は3万5千ドルほどで,65歳以上の高齢者の10パーセント以上が貧困線以下の収入で生計を立てているというが,この島で何を仕事とするのだろう。
  ・・
 1800年代半ば,当時のハワイ王国の王であったカメハメハ5世は夏をカウナカカイで過ごしたという。 カウナカカイのメインストリートであるアラマラマアベニュー(Ala Malama Ave.)は,カメハメハ5世の夏の別荘にちなんで名づけられている。
 ところで,1935年,カウナカカイは「カウナカカイの狂った市長」(The Cockeyed Mayor of Kaunakakai)という歌で有名になったという。この曲は、アカデミー賞を受賞したワーナー・バクスター(Warner Baxter)が休暇中に訪れたカウナカカイで,名誉市長となったカウナハハイ(Kaunahahai)を祝うために書かれたものというが,これ以上の情報を探しても見つからない。今となってはそんな歴史は埋もれてしまって,もはやどうでもいいことなのかもしれない。

  ・・・・・・
 He wore a malo and a coconut hat
 One was for this and the other for that
 All the people shouted as he went by
 He was the cockeyed mayor of Kaunakakai
  ・
 He was just a lazy malihini haole boy
 But all the girls were crazy
 To share his fish and poi, Oh
  ・
 He wore a lei and he wore a smile
 He drank a gallon of oke to make life worthwhile
 Then he made 'em laugh 'til he made 'em cry
 He was the cockeyed mayor of Kaunakakai
  ・
 The horse he rode was skinny
 A broken down old female
 So he placed a big panini
 Right under that horse's tail, Oh
  ・
 He made her buck and he made her fly
 All over the island of Moloka'i
 You could hear the kanes and wahines cheer
 As they gave him a lei of kÃ?®kania
  ・
 Now you've heard my story
 About the mayor of Kaunakakai
 All his fame and glory
 On the island of Moloka'i
  ・・・・・・


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 2020年9月27日のブログに「今後「不良老人」はいかに生きるか⑥-塞翁が馬の2020年」と題して,
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 (2020年)1月。やがて来る不安な将来もまだ予感できなかったころ,昨年に続いて,私は朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局で,藤井聡太・現二冠の対局を観戦しました。その後,当時七段だった若き天才棋士はタイトルをふたつも獲得し,再び時の人となりました。私は,タイトルを獲得するまでは,ということで熱を入れて応援していたのですが,そろそろそれも卒業したいと考えています。私の性格では,将棋も相撲もそうですが,勝負ごとに対して熱をあげて応援するのは,ひいきの人が負けたときに疲れ落ち込むだけで楽しむことができないのです。私は勝負ごとの観戦を趣味にするのは不向きなのです。
  ・・・・・・
と書きました。

 それ以降,私は4か月余り,将棋を見るのをやめてしまいました。ちょうどそのころ,藤井聡太二冠は王将戦の挑戦者決定リーグでは苦戦し,B級2組の順位戦では全勝を続けていたようです。また,NHK杯将棋トーナメントは木村一基九段に公式戦初の負けを記し,その一方,銀河戦では優勝をしました。
 藤井聡太という棋士の強いのは,本人はすべて全力投球をしているのでしょうが,たまに負けても重要な対局だけは星を落とさないということなのです。これまでの対局で,唯一,後に響くという意味で負けてはいけないのに負けたのは,2019年2月5日のC級1組順位戦,対近藤誠也・当時五段との一戦だけです。
 そして,2021年の1月に,再び朝日杯将棋オープン戦の名古屋対局がありました。そこで,私もそろそろ将棋の観戦に復帰することにしました。ただし,自粛しているわけではないのですが,今年は観戦に行く気にならなかったで,ABEMAで見ました。今日の1番目の写真は昨年のものです。
  ・・
 私が少し冷却期間を置いたのは将棋を観戦するのに疲れてしまったためでした。将棋に限らず,この時期から,私は自分の楽しみであるほとんどのことに対して冷却期間をつくりました。それはある思いから「精神的な断捨離」をすることにしたのが理由でした。それはまた,本当に好きなことなら,そのうちに再びその気になるだろうと思ったからです。
 そしてやはり,昔から好きだったことは順に復活しました。新装開店という感じでしょうか。

 さて,今回の朝日将棋トーナメントの豊島将之竜王との対局は,画面の表示では,途中まで藤井聡太二冠の評価値がよく,一時は81パーセントに達したのですが,3七角と打った時点で逆転してしまいました。しかし,その直後,8六歩,8七歩という連打が「コンピュータ越え」の手筋で,8七歩を豊島将之竜王が同金と取ったのが悪い手で再び優勢となった,という流れのように,AIは分析していました。
 私は,以前ならそれで満足していたことでしょう。しかし,冷却期間を置いてリニューアルした私が感じたのは,確かに評価値だけを見ればそういうことなのでしょうが,人間の考えることというのは,それでは割り切れないということでした。こころのないAIが判断した手がこころのある人間には最善とは限らないということです。
 そして,8六歩という,AIが第一候補してあげていなかった妙手が指されたとき,瞬間にその意味を理解して感動し,その感動を視聴者に伝えた解説の高見泰地七段はすごい,と思いました。私もそこに感動しました。こういう解説があるからこそ楽しめるのです。そしてまた,豊島将之竜王も人間だったと思いました。

 冷却期間に思ったのは,つくづく私は将棋が好きなわけではないということでした。将棋が好きなわけではなくて,昔から,ある特定の棋士の将棋が好きなだけなのです。それは,今から50年ほど前なら升田幸三実力制第四代名人,その後は米長邦夫名誉棋聖,そして,それに続いて佐藤康光九段,今は藤井聡太二冠です。それ以外の棋士の将棋にはおよそ興味がないのです。こういうのは,本当の将棋好きというのとは違うのでしょう。
 と,ここまで書いていて思い出したことがあります。
 50年ほど前,将棋は新聞の将棋欄で見るくらいしか方法がありませんでした。そこで,A級順位戦で対局する升田将棋だけを見たさに朝日新聞を購読していた私は,対局者が升田幸三・当時九段でなければ,ほとんど将棋欄は読み飛ばしていました。しかし,升田将棋以外で2局,対局者がだれだったのは忘れてしまいましたが,強烈に記憶に残っている対局があるのです。そのひとつは,相横歩取りで,後手が7六飛と歩を取り返したときに当時の定跡であった7七銀ではなく7七歩と打って,意表を突かれた後手はその後の指し手がわからずあっという間に負けてしまったもの,もうひとつは,角換り腰掛銀で,軽率にも3二金を上がらずに6三銀と上がったことで苦戦し,わずか数十手であっけない終局を迎えたものです。
 ずいぶんと昔のものなので,正確には思い出せないのですが,おぼろげな記憶からイメージした図面を作ってみました。今となってはどこかに埋もれてしまっている対局ですが,当時はA級順位戦の将棋でも,今と違って,時折,とんでもない駄作がありました。それは,いかにも人間臭く泥臭く,ある意味,魅力的でした。
 将棋に限らず,半世紀前の日本は,何もかも,そんな状態の国でしたが,いまのような,規則規則で縛られる時代,何でもコンピュータで緻密に計算される時代,人間が機械のようになってしまった時代に比べたら,別の意味でよほど楽しかったこともたくさんありました。それも今となっては懐かしい思い出です。


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 ベートーヴェンが生まれたのは1770年12月16日です。ということで,昨年が生誕250年のベートーヴェンイヤーだったわけです。
 すでに書いたハイドンが1732年,モーツアルトが1756年の生まれなので,ハイドンより38年,モーツアルトより14年遅く生まれたことになります。1770年というのはアメリカが独立する少し前,オーストリアではマリア・テレジアが在位していたころ,日本では田沼意次が権力を握っていた時代で,ちょうど,変革時にあたります。

  ・・・・・・
 ベートーヴェンは神聖ローマ帝国のケルン大司教領であったボンに生まれました。父は宮廷歌手でしたが無類の酒好きだったので収入は途絶えがちで,ケルン選帝侯宮廷の歌手だった祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていたので,祖父が亡くなると生活は困窮しました。
 1787年,ベートーヴェンはウィーンに旅し,モーツァルトを訪問しましたが,母マリアの危篤の報を受けてボンに戻ります。母の死後は父に代わって家計を支えるという苦悩の日々を過ごしました。
 1792年,ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められて弟子入りし,ウィーンに移住。ピアノの即興演奏の名手として名声を博することになります。
 20代後半頃より難聴が悪化し,絶望感から1802年には「ハイリゲンシュタットの遺書」をしたためて自殺も考えたのですが,この苦悩を乗り越え,多くの作品を世に出しました。
 晩年の約15年は全聾となり,さらに持病にも苦しめられますが,そうした苦悩の中で交響曲第9番や「ミサ・ソレムニス」といった大作を書きあげました。
 1827年3月26日に56歳で生涯を閉じましたが,その葬儀には2万人もの人々が参列したといいます。
  ・・・・・・
 このように,ベートーヴェンはボンで生まれたためにドイツの作曲家とされますが,主に活躍したのはオーストリアです。そこで,オーストリアにはベートーヴェンの足跡を残す場所が多くあります。
 ハイドンやモーツアルトとは違って,ベートーヴェンの音楽を味わうには,ベートーヴェンの小径とよばれる自然の中を散策するにかぎります。この自然と一体になった音楽が,いまでも我々のこころを打つのだと私は実際に行ってみて感じました。
 
 早いもので,今から22年前の1999年8月,私は皆既日食を見るためにハンガリーに行きました。
 今にしてとても残念なのは,その当時の私は,せっかくハンガリーに行ったのに頭の中には皆既日食のことしかなく,ブタペストなどには多くの歴史的な史跡があるのに,まるで興味がなかったことです。こういうのを「猫に小判」というのでしょう。そもそも,私は学生のころ,ほとんど世界史を学ばなかったので,ハンガリーがヨーロッパの中でどういう位置をしめていたのか,全く知らなかったのです。
 幸い,皆既日食当日は晴れて,私ははじめて皆既日食を見ることができました。そして,その翌日,ブダペスト郊外にあるマルトンバーシャール(Martonvásár)に行って,現在はベートーヴェン記念館となっているベートーヴェンが何度も滞在した城に行く機会がありました。しかし愚かだった私は,どうしてハンガリーにベートーヴェンなんだ,と思ったのでした。
 かつての私がそうであったように,人は歴史や文化を知らないと,輝いているものも輝いて見えないのです。
 私は,旅をするとき,いつもこのことを思い出します。

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☆ミミミ
1月21日,月が接近中の火星と天王星の近くを通りました。普段は見わけがつきにくい天王星を簡単に見つけることができました。IMG_0469ns


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●モロカイ島の真実●
 荷物を部屋に入れてさっそく出かけることにした。
 今日から3泊するコンドミニアムはかなり古びていて,美容室とランドリーと自動販売機だけが一応あったが,レストランどころかカフェも売店もなかった。
 私は,こうした,およそ名ばかりのリゾートを旅するようになってきて,旅どころか人が生きるということの意味すらよくわからなくなってきた。

 日々仕事に追われて多忙な人はそんなことを考える暇もないだろうが,そうした多忙な仕事だって,考えてみれば,生きるためのお金儲けにすぎない。そのために,本当はいらないものを宣伝をすることで物質欲を煽りそれでモノを売りお金を稼ぐという作業をしていたり,本当は必要のない知識であってもそれを学ばなければ進学ができないということで順位争いをさせそのために学生は多忙な日々を過ごしていたりする。
 その逆に,時間をもて余し何もすることがないしたいことがないというのもまた,それ以上に辛いことだろう。そんな老人が巷にはあふれている。
  ・・
 ところで,このごろ「不要不急」といわれるが,何がいったい「不要不急」なのだろうか? おそらく,今それをしなければ命に関わること以外は「不要不急」ということなのだろうが,しかし,一見「不要不急」だと思われることであっても,ある人にとればそれは自分の精神状態を健康に保つために必要なことなのかもしれない。その反対に,原稿を棒読みするだけならそんな演説もまた「不要不急」以外の何ものでもないし,質問にまともに答えないのなら記者会見も「不要不急」だろう。人を不安にするだけのワイドショーやら大げさな見出しで購買欲を煽るだけの週刊誌など,不要不急を通り越して,不必要以外の何ものでもない。
 しかし,生まれて死ぬまで家の中に監禁されていて,食事だけ与えられているという一生だったとしたら,人が生きるということにどういう意味があるというのだろう。「不要不急」な営みこそが文化であり,それこそが人が生きるということなのである。
 
 閑話休題。
 着いたばかりで島がどうなっているかもわからないので,ともかく島を散策しながら,ついでに今晩食事ができる場所がないかを探すことにした。
 コンドミニアムを出て,再びカウナカカイの町をめざして西に向かって海岸線を走っていった。
 州道450号線は途中で自然に右に曲がっていってカウナカカイの小さなダウンタウンに行きつくが,地図によると,町に入るところでその反対の南の方向に狭い道があって,そこを走っていくとカウナカカイ桟橋に行きつくらしい。
 カウナカカイ桟橋というのは,海岸から沖に800メートルほど延々と突き出ていて,ハワイで最も長い桟橋だという。それは壊れたヘイアウとよばれる神殿の石を積み重ねて作られたものだそうだ。
 このカウナカカイ桟橋は,かつてはモロカイ島がパイナップル産業で栄えたときの積み出し港だったところだが,今は,島民やほかの島からのボートやヨットが係留されているだけのさびれたハーバーとなっている。また,マウイ島から観光フェリーが1日2便ほどあるのだという。ならば,ラナイ島だけでなく,このモロカイ島もマウイ島を足場として観光ができるのだろう。だから,私のような,わざわざモロカイ島だけに滞在するためにやってきたもの好きな日本人なんて,ほかにはいないのかもしれない。


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●なんとか部屋に入れた。●
 空港を出発して,モロカイ島唯一の町カウナカカイをあっという間に通り過ぎ,海岸沿いに東に少し進むと,私が予約してあったコンドミニアムがすぐに見つかった。
 そもそも,モロカイ島には,私の宿泊したモロカイ・ショアーズ(Molokai Shores),その東にあるちょっと高級そうなアクア・ホテルモロカイ(Aqua Hotel Molokai),そして,島の最西端にあるケプヒ・ビーチ・リゾート(Kepuhi Beach Molokai)の3つの宿泊先しか存在しない。しかも,この中で,ケプヒ・ビーチ・リゾートは各ユニットのオーナーがウェブサイトを通じて独自に貸し出しをしているそうなので,予約がたいへんだから,私のような一見さんの選択肢はモロカイ・ショアーズとアクア・ホテルモロカイしか選択肢がない。
 モロカイ・ショアーズとアクア・ホテルモロカイは,ともに1泊20,000円近くもする。この旅をしていたころは何かに取りつかれていかのように旅をしていたので,行きたかったモロカイ島にも勢いで出かけたが,現在のように冷却期間ができて我にかえると,よくもまあ行ったものだとしみじみ思う。そもそも,これまでもアメリカ50州制覇をするという目的だけで,何をするでもないアメリカの深南部を旅行したり,物価が異常に高いアイスランドに出かけたり,かなりのことをしてきたわけだが,本当に勢いで行ってみてよかったと思う。人生一度っきり。こんな旅は二度とできない。
 今なら,そんなお金を使うのなら,ウィーンに出かけて,芸術に浸るか,ニュージーランドに行って美しい大自然を堪能するか,はたまた,日本の田舎で,しがない温泉宿に泊まるか,そんな旅がしてみたいと思うようになった。

 さて,コンドミニアムだが,これは1部屋を借りることになるから,家族連れで行くのなら,それほど宿泊代は高価ではないだろう。しかし,部屋にはキッチンがあるから食事は自炊だし,ベッドメイキングもないから,素泊まりとなるわけで,ひとり旅の私にはかなりムダなものだ。そもそもひとり旅で行くようなところではない。
 それに加えて,モロカイ島には,泳げるような海岸がさほどあるわけでもないし,子供が楽しめるアミューズメントパークがあるわけでもないし,女性が楽しめるショッピングエリアがあるわけでもないから,1日中部屋のべランダで海を眺めながらボーッとするか読書をすることに喜びを感じないのなら,何もすることはない。

 到着したのが午後4時過ぎで,まだ早かったかな,と思ったのは大間違いであった。このコンドミニアムのフロントは午後4時にクローズしてしまうのだった。それ以降に到着した場合は,レイトチェックインのポストにキーがあるということだったのだが,そのポストがみつからない。ちょうどオフィスを施錠して帰るところだったスタッフがいたので聞くと,不愛想に教えてくれた。この不愛想さが,お客様は神様の日本には理解できないであろう。
 なんとかポストは見つかったが,手を入れても中に何も入っていなかった。再び帰ろうとしていたスタッフを見つけて聞いてみると,何やってるんだ,と怒ったように言われた。もう一度ボックスを探すと,たしかに箱の端っこにくっつくようにして書類が入っていた。開けてみると,中には,部屋の番号とキーボックスをアンロックするナンバーキーの番号と,宿泊の注意事項の書かれた紙と,駐車許可証が入っていた。
  ・・
 まあ,今回もいろいろあったが,ともかく,私は部屋に入ることができた。部屋は古ぼけていたが,ベランダからは広くきれいな庭とその先の海を見ることができた。いずれにせよ,ここは多くの日本人の考えるハワイとはまったく違う世界である。


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 2018年,私がはじめてオーストリアに行ったとき,目的地はウィーンだけの予定だったのですが,期せずしてザルツブルグまで足をのばすことことができました。ウィーンもザルツブルグもモーツアルトに関する場所がたくさんありました。そして,どこも多くの観光客が訪れていました。
 そうした場所の中で,私が最も印象に残っているのが,ウィーンにあるモーツアルトが埋葬されたというザンクト・マルクス墓地(St.Marxer Friedhofspark)です。
 1791年に35歳で亡くなったモーツアルトはこの墓地の共同墓穴に葬られました。このシーンは映画「アマデウス」(Amadeus)に,かなり衝撃的に描かれています。
 正確な埋葬位置は不明なので,モーツアルトには墓すらないと聞いていたから,どうなっているのだろうと,かなり興味ありました。

 ザンクト・マルクス墓地は,ウィーン市街から路面電車に乗って中央墓地(Zentralfriedhof)に行く途中にあります。中央墓地の入園が午前8時からで,ザンクト・マルクス墓地は午前6時30分ということだったので,中央墓地へ行く途中で寄ってみることにしました。
 最寄りの停留所あたりは,ハイテク企業や自動車販売店などがあって,通勤で行き交う人や車であわただしいところでした。道路の端を歩いて約10分,路地に入り込んだ場所にザンクト・マルクス墓地はありました。これだけでも,ムード満点でした。
 門をくぐって中に入って進むと,モーツアルトが埋葬されたと推定される場所に,天使像が寄り添う円柱形の記念碑がありました。朝早かったからか,訪れる人も私以外にはなく,静かな場所でした。記念碑はとても美しく,「アマデウス」のシーンが払拭されてこころが救われた気がしました。

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 モーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)は,1756年,ハイドンの生まれた24年後に,ザルツブルグに生まれました。1781年,ザルツブルグ大司教の宮殿を飛び出して翌年にはシュテファン寺院でコンスタンツェ・ヴェーバー(Costanze Weber)と結婚式を挙げ,ウィーンに住みました。
 ウィーンで,モーツアルトは住居を転々としましたが,現存するのは,現在モーツアルトハウス(Mozarthaus Vienna)として公開されているところだけで,ここにモーツアルトは1784年から1787年まで暮らしました。この家で歌劇「フィガロの結婚」を作曲したといいます。
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 建物の階段を上っていると,モーツアルトが降りてくるような気がして,とてもすてきな場所でした。

 モーツアルトの生まれた町としてあまりに有名なザルツブルグは,ウィーンから電車に乗ると2時間30分程度で到着します。はじめて日本に来て,目的地が東京だったのに,新幹線を使えば日帰りで京都まで行けるということを知って行ってきた,という感じでしょうか。ともかく,私がザルツブルグに行くことができたのは,今から考えると幸運なことでした。この町の空気を知らずしてモーツアルトは語れません。
 ザルツブルグにはモーツアルトの生家(Morzarts Geburtshaus)があります。現在は博物館として公開されていて,多くの観光客で賑わっています。モーツアルトはこの建物の4階で誕生し,1756年から1773年まで暮らしました。
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 オーストリアでは多くの作曲家が生活し,活躍しましたが,その中でもモーツアルトは特別な存在だということが,行ってみてわかりました。そしてまた,いかに今もモーツアルトが愛されているか,また,その生涯が,短い中にも波乱に満ちたものだったかを痛感しました。

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●のどかな島モロカイ●
 ついにモロカイ島に到着した。いい天気であった。
 小さな空港を出ると,そこは未舗装の駐車場があった。そのさきにアラモレンタカーの小さな建物があった。客は私ひとりであった。というか,私が乗ってきた飛行機に観光客は私ひとりだった。
 ハーツのレンタカーなら会員だからフロントに寄らずにいきなり車に乗って出口で免許証を提示するだけでよいのだが,アラモのレンタカーを借りたのは久しぶりで会員ではないので,フロントで受付をした。

 レンタカーはどの国でもガソリンを満タン返しにする必要があるが,事前に借りるときに安価にガソリンを購入しておけば満タンで返す必要がないというのがアメリカやニュージーランド,オーストラリアなどでレンタカーを借りるときのシステムである。
 ということで,ここでもそういうシステムにしようと思っていたが,フロントで「何日滞在するのか」と聞かれて「3泊」と答えたら「それならガソリンは半分も使わないから半分だけ買ってください」と言われて驚いた。ウソ~と思ったが,この島はそれだけの広さしかなかった。
 したがって,私はモロカイ島でガソリンスタンドに行くことはなかったし,実際,返却するときに確かにガソリンは半分しか使っていなかった。

 さて,「地球の歩き方」のモロカイ島のページを見ると,モロカイ島を満喫する旅のモデルプランに「できれば3泊したい」とあった。要するに,3泊もすれば十分すぎる,ということである。だから,私はこの島で3泊するという予定を立てたのだが,3泊もすれば島のすべてを見ることができるということなのだろう。
 モロカイ島に限らず,私はこれまでにアメリカのロッキー山脈のふもとの小さな町やオーストラリアの内陸部など,そんなところにずいぶん行ったが,いつも思うのは,こういうところで暮らす自分が想像できない。私は旅行者だからいいが,こうしたところで暮らすというのはどういうことなのだろう,といつも思う。
 テレビ番組に「ポツンと一軒家」という人気番組があり,私は,Amazon Prime Video でたまに見るが,その番組では,日本の山奥の1軒家で暮らす人がおもしろおかしく紹介される。しかし,たかが日本の山奥の1軒家なんて,いくら遠くとも数時間走れば町に行くことができるから,大したことはない。それに比べれば,アメリカやオーストラリアのド田舎ではそうはいかない。何を楽しみとして暮らすのだろう,日々,何をするのだろう,と思ってしまう。
 それとも,日本のような「密」だらけの国に生まれ,いつも時間に追われて生きるほうがずっと異質なのだろうか。さらに思うのは,人が生きるのに必要なことは何なのだろうということだ。人が生きるということは何なのだろう? などと私は考えてしまうのだ。

 レンタカーを借りて,早速走り出したのだが,場所がまったくわからない。しかし,道は1本しかないから迷いようがない。と思って,地図を見ないで走っていた。空港のアクセス道路を出たらT字路に差し掛かった。どちらに行くのかが判断のしどころであった。なぜかこのとき地図を見る気がなかったのは,ある意味,冒険がしたかったからだろう。こんな狭い島,道を間違えても引き返せばどうにでもなる。
 私はそのT字路で右折した。しばらく走っていくと町に出た。どうやら正解であったようだ。そこがこの島唯一の町であるカウナカカイ(Kaunakakai)なのだろう。


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●友情の島●
 モロカイ島(Molokai)は愛称を友情の島(The Friendly Island)という。ちなみに,ハワイ島は大きな島(The Big Island),オアフ島は集いの島(The Gethering Place),ニイハウ島は秘密の島(The Mystery Island/The Forbidden Island),マウイ島は神の島/渓谷の島/魔法の島(The God Island/The Valley Island/The Valley Island/The Magic Island),カウアイ島は緑の庭園の島(The Garden Island),カホオラウェ島は禁断の島(The Forbidden Island),ラナイ島はパイナップルの島(The Pineapple Island)である。
 ほかの島の愛称はよくわかるのだが,モロカイ島の愛称の意味がちょっとわからない。しかし,ハワイ6島に行った人に「1番好きな島はどこか?」と尋ねると「モロカイ島」と答える方がたくさんいるそうなので,そこから愛称の意味が想像できそうだ。私はラナイ島だけ行っていないが,やはり,モロカイ島が1番好きになった。

 モロカイ島の大きな特徴のひとつは,島に住む人口の半分以上がハワイ先住民の血をひいているということだ。だから,モロカイ島はハワイ州の中で「最もハワイアンな島」といわれている。
 島の面積は約670平方キロメートルで大阪府の3分の1程度。島は東側を頭にしたアユまんじゅうのような形になっていて,その中央部に島唯一の小さな町がある。人口は7,500人程度で,人が生活するための施設が整った最低限ギリギリの島であるように思った。
 モロカイ島はオアフ島から東に約40キロメートル離れた場所に位置にしていて,オアフ島から最も近い島で,飛行機でわずか数十分で到着するから,ワイキキからホノルル空港までシャトルバスで移動する時間より短い。私はいつものようにハワイアン航空のサイトで予約をしたので,ハワイアン航空のリージョナル路線を運航するオハナ・バイ・ハワイアンを利用したが,もうひとつ就航しているモクレレ航空は超小型の飛行機で,機内の席数はたった8席だそうだ。両サイドに4席ずつ並んでいるというから,これは旅客機というよりマイクロバスだ。次回行くことがあればぜひ利用してみたいものだ。

 オアフ島が見えなくなってすぐにモロカイ島が見えてきた。茶色の大地はほとんど民家もなく,なんだかうれしくなってきた。そのうちにすぐ着陸態勢に入った。
 モロカイ島の空港は島の中西部にある。モロカイ空港はその地名をとってホオレファ空港(Hoolehua)という。滑走路が1本だけの小さな空港である。
 この旅に来る1年前に私はオーストラリアのウルル(エアーズロック)に行ったが,このときの空港もまた素朴であった。どちらもよく似ているので,いまでは,どっちがどっちかよくわからくなっている。しかし,観光客がほとんどいないという意味では,モロカイ島のほうがずっと快適な気がする。

 やがて着陸した。タラップを降りて,歩いてターミナルに向かった。ターミナルは木造のひなびた作りで,これはまるで田舎の電車の駅と変わらない。空港からはまったく公共交通機関がないので,もし,レンタカーが利用できないのならタクシーを利用するしかないのだが,タクシーも当然停まっていないから電話をかけて予約するしかない。しかし,タクシーを使って宿泊先に行ったとしても,そのあとどうするというのだろう。歩いて行けるところなんて,どこもない。…と書いているうちに,やはりこの島に車を運転したこともない人がのこのこと出かけるのは容易なことではない気がしてきた。
 さて,私はいつものようにレンタカーを利用するわけで,事前にアラモ(Alamo)のレンタカーを予約してあった。とはいえ,「地球の歩き方」にはターミナル内にレンタカーのカウンタがあると書かれてあったが,そんなものは閉鎖されていて,ターミナルの先にあった小さな建物がレンタカーのオフィスと駐車場になっていた。そこまでカバンを転がして歩いて行くわけだ。アラスカのフェアバンクスや先に書いたオーストラリアのウルルも同じような感じであったから,それを思い出していた。


☆ミミミ
1月15日の夕方午後5時45分ごろの月と水星と木星です。月齢3.1。日に日に日が長くなり,空が暗くなるのが遅くなるのが実感できます。もう,土星は見納め。木星もみえなくなってきました。

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 今日書こうとするお話は,私の無知を告白するようなものですが,このブログは私の覚書のようなものなので,気にせずすすめます。
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 これまで,私は,ガイドブックに載っているところはもちろん,載っていないところも含めて,京都と奈良の一般に公開されているか,あるいは特別公開したお寺には,ほとんど行きました。また,博物館もたくさん行きました。そして,そこで多くの仏像を見ました。
 しかし,その姿には感動しても,如来だとか菩薩だとか天だとか,そういうものが何を意味するのか,というようなことはほとんど興味もなく,また,調べても頭に入らず,過ぎてきました。だから,真言宗は大日如来が本尊で,浄土真宗では阿弥陀如来が本尊だということも,大日如来と阿弥陀如来がどう違うかということも,さっぱりわかりませんでした。
 それが,歳のせいか,そういうことに興味がわいてきました。

 先日,京都に行った折,東寺を訪れたら,特別公開で五重塔の内部を見る機会がありました。また,講堂でも多くの仏像を見る機会がありました。帰ってから,なんとなくテレビ番組を見ていたら東寺が取り上げれていて,講堂内部に安置されている仏像や,東寺の五重塔の内部を紹介していました。しかも,東寺の五重塔の内部が普段は未公開だと知って,えらく貴重な経験をしたものだと,いつものことですが,私の強運に驚き,これを機会にきちんと知りたくなりました。
 ということなのですが,ここでそれを紹介したところで,そんなことはほとんどの人は知っているでしょうし,また,きちんと紹介したブログも山ほどあるので,ここに書くつもりはありません。そうでなくて,私がここで書きたいのは,極楽浄土もまた階級社会なのか,とがっかりしたというお話です。いや,階級社会というのはおそらくは私の誤解なのでしょう。が,誤解だろうが何だろうが,私はそう思いました。

 九州・佐賀県の吉野ケ里遺跡に行ったときに,すでにその時代に,職業によって階級社会ができていることに驚き,また,ショックを受けたことがあります。現代の社会でも,人は平等の権利をもってはいても,生まれながらにして平等の能力はもっていません。だから,能力の違いによって差別されるべきではないのです。それよりも,自分がもって生まれた能力を十分に生かして楽しく生きているかどうかを問うべきだと私は思います。
 また,極楽浄土に行くためには,生きている間に善を積むことが大切,といわれても,ならば,生きるというのは極楽浄土に行くために勤務評定をされるところなのか,と思ってしまいます。もしそうなら,そんな窮屈な人生は嫌いです。
 たとえ罪を犯しても,その償いは生きている間になされるわけだから,生を全うしたときは平等であると私は思います。つまり,罪を犯したら天国に行けないぞ,ではなくて,罪を犯せば生きているときに罰をうけて償わなければならないぞ,であるべきでしょう。そして,生を全うしたら,現世では善人であっても悪人であっても平等に極楽浄土に行って,阿弥陀如来さんのやさしい保護のもとで,みんななかよくわけへだてなく,というものであるべきだと思うわけです。でないと,救いがありません。
 なのに,横綱の土俵入りでもあるまいし,如来さんは菩薩さんを従え,また,多くの仏を眷属(けんぞく=従者)とする,なんて,まるで実社会ではないですか。現世を背負った来世,考えるだけでゾッとします。救いを求める宗教の価値観がそういうものであるとすれば,何かすごいショックです。


☆ミミミ
1月15日の夕方午後5時35分ごろの月と水星と木星です。月齢2.1。とても美しい姿を見ることができました。
昨日は月齢1.1でしたが,写すことができませんでした。しかし,それを実際に確かめたことに意義があります。

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 2021年になって早くも半月が過ぎました。改めて,1年前に書いた「2020年がやってきた」を読み返してみると,あのころから早くも1年が過ぎてしまったんだなあ,という感慨とととも,いろんなことがあった1年だったんだんあ,という思いがあります。
 2020年,最も変わったのはほとんど海外旅行に行けなかったことですが,それ以外はけっこういろんなことができた年でした。それまでも,ただでさえ精神的かつ物質的な「断捨離」をずっとしてきたので,おまけに,海外旅行に行けなかった副産物として,お金をほとんど使わずに済んでしまいました。
 しかし,私のような生き方をしていたら国の経済は成り立たなくなってしまうだろうから,ここに書くことは決して参考にせず,これを読んでいるみなさんは,せいぜい無駄遣いをしてください。

 では,改めて,2020年を順に振り返ってみます。
  ・・ 
 まず,2020年に立てた「安価に国内旅行をする」という目標ですが,これは実現しました。遠くに出かけた国内旅行は北海道だけでしたが,往復格安航空を使い,現地ではレンタカーを利用しました。東京のコンサートと大阪の美術展,これは,新型コロナウィルスが流行する前に立てた計画だったのですが,奇しくも「Go To Travel」が実施されていたおかげでその恩恵を受けて,ものすごく安く新幹線を利用して行くことができました。
 それ以外には,バスや列車などの公共交通を利用してさまざまな場所に行く計画を立てていたのですが,すべて,自家用車に切り変えて,早朝家を出て日帰り旅行をすることになりました。その結果,新潟県の親不知子不知海岸,兵庫県の余部鉄橋をはじめ,行きいと思っていたところはほぼ行くことができました。
 山形県と青森県にも行く予定を立てて,航空券まで手配したのですが,ともにキャンセルとなってしまって行くことができなかったことだけが心残りでした。しかし,この先行くことができるだろうから,こんな時期に行かなくても慌てることもないと思っているのですが,今ではあまり行く気さえなくなってしまいました。
 いずれにせよ,結果的に「人混みには行きたくない」が実現してしまったのは,皮肉なことです。そしてまた,時折,人のいない辺鄙な場所で星見を楽しむのが最も気の休まる時間です。
  ・・
 次に,「断捨離」ですが,まず「物質的な断捨離」としては,欲しいモノがまったくなくなってしまいました。その結果,キャンペーンをやっていようがいまいが,クーポンがあろうがなかろうが,そもそも何も買わないのだから,そういった類のことは私には全く関係がなくなってしまいました。
 また,情報は手に入れないほうがいい,と悟ったことで,雑誌等の類は買うどころか,まったく読まなくなりましたし,書店にも行かなくなりました。必要な専門書をインターネットで購入するだけです。
 好きだったカメラも,ミラーレス一眼とやらにメーカーの製品開発が移行して,やたらと高価なので,私にとっては「あちらの世界」のものになってしまいました。ミラーレス一眼はこれまでのものより性能がいいという話ですが,所詮,私には単なる趣味の世界です。
 プロでもないのに50万円も出費してどれだけ使えるというのでしょう。2,3年もすればディスコンになるだけです。私にはその性能を生かす能力もないので,必要ありません。その結果,まったく興味がなくなりました。私には今使っているもので十分なので,これを壊れるまで使います。そして,壊れたらそれまでです。
 そんなわけで,生きるのに必要な食べ物と衣服以外に何も買わなくなりました。
  ・・
 「精神的な断捨離」については,先に書いたように,情報をすべて遮断することにしたら,極めて快適になりました。インターネット上のニュースのポータルサイトとそれに付随するコメントやテレビのワイドショーは最悪です。特にテレビのワイドショーは百害あれど一利もありません。一時期,将棋ブームでその話題が取り上げられていたときに少し見たことがありますが,そのときにこうした番組の質が理解できました。そんな番組ばかりを見ていると精神が病んでしまいます。また,NHK総合のように,別の番組まで侵入してくる画面のL字テロップも同様です。まさに情報テロ,そんなものを見たくてその番組を見ているのではありません。
 テレビ局が情報を発信したければデータ放送があります。何のためのdボタンなのでしょう。
 私にとってテレビは暇つぶしの娯楽にすぎません。以前は楽しいものだけを選んであらかじめタイマー録画しておいて早朝に見ていたのですが,今日では多くの番組がインターネットで見られるので,そちらに移行しつつあります。それ以外の時間は,ほぼ,クラシック音楽を楽しみます。
 それに加えて,私がボケ防止でやっているのがラジオによる語学講座ですが,これは英語とドイツ語を聴いています,もう齢なのでまったくモノにはなりませんが,そんなことは私には問題ありません。しかし,いつの日か,片言のドイツ語でも,旅に出かけて役に立つときがまた来るのでしょうか?
 結果として,教養としての学問と芸術と,娯楽としてのフィクション,これが穏やかに生活するための糧となりました。これもまた,そんな楽しみをみつけたら,ムダな出費は一切不要となりました。
  ・・
 まあ,いずれにせよ,2021年の私は,行きたいところも欲しいモノも何の予定も計画もないので,気楽に楽しく毎日を過ごすことにしましょう。

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●結構きついダイヤモンドヘッドの登山●
 今日は,モロカイ島へ行く機内からみたオアフ島のダイヤモンドヘッドについて書く。
 私は,はじめてハワイに行ったときにやはりダイヤモンドヘッドには登っておかなくては,ということで何となく行ってみたが,名前こそ知っていても,そこがどういうところか,全く知らなかった。その後,ハワイに行って,空から何度も見る機会があって,やはり,どういうところなのかくらいは知らないと,と思って,今頃になって調べてみることにしたわけだ。

  ・・・・・・  
 ダイヤモンドヘッド(Diamond Head)は火山活動で噴出した火山砕屑物が火口の周囲に積もり丘を形成した火山砕屑丘である。標高はわずか232メートルであるが,直径は1キロメートル近くもある。
 ハワイの先住民は「マグロの額」という意味のハワイ語「レアヒ」(Lēʻahi)とよんでいる。海に突き出した山頂部分がマグロの額に似ているからとも,山頂から魚の群れを見つけたからともいわれ,かつては漁業の安全を祈願するヘイアウ(神殿)がクレーター内にあり,身分の高い人しか立ち入ることを許されない神聖な場所であった。ハワイにはそうした場所が多くある。19世紀にイギリスの水夫たちがこの山に登ったとき,火口付近の方解石の結晶をダイヤモンドと間違え「ダイヤモンドヘッド」と名づけたといわれる。1898年にアメリカがハワイを併合した後は軍事上の要衝となり,山頂には「トーチカ」とよばれるコンクリートの見張り台が作られ,現在もアメリカ軍の管轄下にある。
 ハワイ諸島は西から東に造山活動が移っていて,ハワイ8島の中で最も西にあるカウアイ島の造山活動は古く,現在活動が活発なのは最も東にあるハワイ島である。
 西から2番目のオアフ島の東部を形成したコオラウ火山は260万年前に活動開始し,その後約100万年にわたって休止したが,その後,独立単成火山群を形成する火山活動がはじまり,この活動のひとつとして、約40万年前から50万年前に生まれたのがダイヤモンドヘッドである。
 もっとも新しい活動期は3万年前頃で,将来新たな噴火が生ずる可能性は否定できないという。
  ・・・・・・

 私が行ったときは,空港から The Bus に乗って最寄りの駅で降りて,標示に従って登山道の入口に向かった。入園料を払って登山を開始した。はじめはコンクリート舗装の歩きやすい歩道が続いていたが,やがて舗装が途切れてなだらかな上り坂になり,さらに,山道がジグザグに登りはじめた。この山道はクレーターの内側をぐるりとまわりながら山頂をめざして進んでいた。
 約20分ほど登ると,黄色く塗られたコンクリートの階段があった。ここを登りきり洞窟のようなトンネルを抜けると,狭い壁に挟まれた急階段と迂回する階段の2つのルートにわかれるが,行きと帰りに別の道を歩くことにした。
 最後に登山道終点からコンクリートのトーチカ内をくぐり,さらに階段を20段ほど上がると360度の眺望が広がる山頂展望台に着いた。ここからの眺めは最高で,右手にはワイキキビーチと高層ホテル群,左手には大海原に横たわるクジラのようにも見えるココヘッドが見渡せた。
 標高はさほど高くないのだが,暑いのには参った。
  ・・
 私は,機内からこのダイヤモンドヘッドを見るたびに,このときのことを思い出す。


☆ミミミ
1月13日の夕方午後5時35分ごろの水星と木星と土星です。わずか2,3日なのに,水星の高度は高くなりましたが,日没は遅くなり,ほとんど肉眼では確認できなくなりました。それを実際に観察することに意義があります。

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●優雅なプロペラ機●
 やがて搭乗時間が近くなったので,ラウンジを出て搭乗ゲートに向かった。ターミナル1の待合所は結構狭いので,搭乗前には人があふれているのだが,今回はモロカイ島ということで,少し勝手が違った。
 搭乗口には私が乗るフライトの掲示があったが,だれも人がいなかった。こんなに乗る人が少ないのか,まだ早かったのかと思ったら,放送で私の名前がよばれているではないか。
 まだ早かったというのは私の勘違いで,ほかの乗客はすでに機内にいた。こんなことは私には珍しいことだった。危うく乗り損ねるところだった。

 搭乗したのは ATR42-500 という42人乗りのターボプロップ双発旅客機であった。乗客は80パーセントほどが埋まっていたから,約30人というところか。私の隣は空いていて助かった。
 ATR (Avions de Transport Régional)はフランスのアエロスパシアル(Aérospatiale)とイタリアのアエリタリア(Aeritalia)が1982年に興した共同事業体である。アエロスパシアルはエアバス・グループに,アエリタリアはレオナルド S.p.Aに合流し,現在はエアバス・グループとレオナルド S.p.Aがそれぞれ半数の株式を所有する。
 ATRのラインナップはターボプロップ機のATR 42とストレッチ型(機体を長くしたもの)のATR 72である。ターボプロップとは,ターボプロップエンジン(turboprop engine)のことで,ガスタービンエンジンの形態のひとつ。そのエネルギー出力の大部分をプロペラを回転させる力として取り出す機構を備えたエンジンで,小型の航空機用動力として利用される。
 プロベラ機に乗ったのは,ニュージーランドでクライストチャーチからクイーンズタウンまで乗ったとき以来だ。日本ではリニア新幹線の建設が進んでいるが,飛行場を飛ばした方がいいと私は思う。国土を掘り返すのはもうやめてほしい。日本は廃墟だらゴミだらけだ。

 今,この旅行記を書きながら,よくもまあ,ここ数年でこれほど多くの行きたかったところに行くことができたものだと思う。勢いというのは恐ろしい。何かにとりつかれたように,動き回っていた。一旦ブレーキがかかってしまった今となっては信じられないことだ。
 私が海外旅行に夢中になっていたときは,ちょうど,インターネットでほとんどすべての予約ができるようになったころであった。そこで,毎年,なにがしかの新しいシステムが生まれ,そうしたものを利用して旅行をした。もし10年早く生まれていたら,あるいは5年遅く生まれていたら,こんな旅行はできなかったに違いない。そしてまた,新型コロナウイルスの流行があと5年早かったら,私の旅は,そのほとんどができなかったであろう。
 幸運だった。そして,思い切って行っておいて本当によかった。

 プロペラ機は優雅である。速度も遅く,高度も低いが,これがまたいい。
 離陸をすると,窓からは,まず,見慣れたオアフ島のダイヤモンドヘッドが眼下に見える。そして,やがて,海をこえると,まもなくモロカイ島が見えてくる。ハワイに来てよかったと感じるのはこのときである。


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 NHKBSPで1月9日に放送された「謎の民バイキング」-「残忍で凶暴」それは作り上げられた物語だった- という番組を見ました。
  ・・・・・・
 大航海時代のはるか昔,大海原を誰より自由に旅したバイキング。どう猛で,強欲。略奪の限りをつくした荒くれ者。しかし,最新の研究が明かすのは,全く未知の姿だった!
 「凶暴で残忍」バイキングのイメージが最新の研究によって次々と覆されている。そこから見えてくるのはバイキングの先進的な社会とビジネスマンとしての姿だ。大航海時代よりはるか数百年前,バイキングは巧みな航海術で大海原を誰よりも自由に旅をした。男女平等が進んだ実力社会だった可能性が。集会の話合いで争いを解決,平和を求めていた姿も。世界各地で相次ぐ新発見を徹底取材,謎の民バイキングの知られざる姿に迫る。
  ・・・・・・
というのが,番組の紹介でした。

 なぜ今バイキングなのか? と思ったのですが,私は,アイスランドに行ったときに,この国を作ったのはバイキングだったということを知って以来,バイキングに関してあまりに知識がなかったので,興味をもって見ました。もっとアイスランドのことが出てくるのかと思ったのは期待外れに終わりましたが,それでも,アイスランドが取り上げられていたので,少し満足できました。
 そもそも,バイキングもアイスランドも,日本では伝えられなさすぎです。高等学校の世界史の教科書はいうに及ばず,資料集でも,バイキングはわずか半ページほどしか載っていないし,教科書などのヨーロッパの地図にはアイスランドが省かれてしまってさえいます。よくこれでアイスランド政府が苦情を言ってこないものだと思うくらいです。
  ・・
 それはともかく,この番組を見て,アイスランドがとても懐かしくなってきました。
 ここ1年近く海外旅行をすることができないので,これまで行ったさまざまな場所を断片的に思い出しては懐かしさにふけっています。その中でも,とりわけ,人のいない悠久な大地が懐かしいのはなぜでしょう。アイスランドに対しても,帰ったころはまったくそんな想いはなかったのですが,最果てであればあるほど,手が届かないところであればあるほど,また行ってみたいという気持ちが強くなるのが,自分でも不思議なことです。

 「定住の書」と訳される「ランドナゥマボゥク」(Landnámabók),アイスランドの定住に関して書かれたこの本は,874年,この島に移り住んだとされる最初の北欧からの永住者に関する情報が書かれた宝庫的歴史書です。この本によると,最初にアイスランドに上陸したバイキングはノルウェーから来たナドッズルといわれています。その後,インゴール・アルナルソン(Ingólfr Arnarson)が現在の首都であるレイキャビックを作りました。そして,番組でも取り上げられていたように,930年,「アルシング」(Alþingi)という世界でも最も古い民主議会を発祥させました。現在も,アイスランドでは,国会議事堂を「アルシング」とよんでいます。
 私はなぜか,昨年の7月に行った北海道の稚内市でアイスランドのレイキャビックを思い出しました。似ているのです。そして,どちらも,今はとても懐かしいのです。


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 あまりにも寒いのと明るい彗星が見えないので,このところ,星見に遠出することもないのですが,冬は夜が長いのと空気が澄んでいるので,星がきれいです。
 私はこのご時世とは関係なく,もともと人と会いたくないので,日没から日の出までの夜の時間が好きで,散歩もその時間にします。この時期の夜の7時ころは,西の空には夏の大三角,そして,東の空には冬の大三角が見えるのですが,実際にそれを見ると,名前のつけ方の妙を感じます。
 昨年の春にハワイのモロカイ島に行ったときにも,コンドミニアムの庭を歩いていて夏の大三角と冬の大三角を見つけたとき,同じことを考えたのを思い出しました。モロカイ島で見た星空とは,星の数が星の数ほど違いますけれど。

 前回,夕方の西空に木星と土星と水星が接近しているという話題を書きました。今日の1番目の説明のように,現在は太陽を挟んで,金星だけが明け方の空に見えます。
 この数日は明け方の空には雲がなく,東の空をみると金星がとても美しく輝いています。また,月齢が大きくなりつつあるので,次第に月が細りながら金星に近づいてきました。
 星空を見るたびに,夜明け前,白んできた東の空は本当にきれいだと感動します。夕焼けとか朝焼けとかいいますが,赤みがかった空は夕焼けのほうがずっときれいです。しかし,明け方の白んでくる空は,また,別な意味で美しいもので,神々しささえ感じます。
 日の出は日没とは違い,ずいぶんと夜が白んでから訪れますが,これは,日が沈んでからもまだしばらく赤みがかった空になる日没とはまったく違います。

 私は,ここ数年で世界中の様々なところへ出かけて,満天の星を見ることができたので,星空はもうおなか一杯なのですが,それでも,今も,夜晴れているとつねに星を見に行きたくなって,家の中にいるのが惜しく思われるという,困った習性があります。そこで,曇っていて星が見えないほうが気持ちが休まるという困ったことになります。
 このごろは,満天の星が見られなくとも,たとえ数個の星しか見えなくとも,夕方や明け方の静寂の中を散歩していて空を見上げれば,それで満ち足りるようになりました。それにしても,どうして,多くの人は,空をこうこうと照らす人口の明かりによって無残にも星空の美しさがなくなっていくことに憂いがないのでしょう。百万ドルの夜景などといいますが,どんなに美しい夜景を作り出そうと,星空の美しさにはかなわないと私は思うのですが。
  ・・
 やがて夜が明けて,科学技術の象徴である新幹線が走るのを見ると,そんな幻想も吹き飛んで我に返ります。


☆ミミミ
1月10日の夕方午後5時35分ごろの木星と土星と水星です。雲の隙間にかろうじて写すことができました。

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☆☆☆☆☆☆
 昨年12月下旬,木星と土星が大接近をしましたが,その後はともに西空に低くなってきました。また,水星は明け方の空から夕方の空に移ってきました。そこで,2021年早々,1月上旬から中旬ごろ,夕方の西南西の低空に木星,土星,水星が大接近して見えるようになりました。最も接近するのは1月10日から11日ごろで,直径3度の視野の中に3つの惑星が収まってしまうほど近づきます。とはいえ,日の入り30分後の水星の高度はわずか5度ほどと低く,西南西の空が開けたところでないと見ることはできません。
 幸い私が住んでいるところは,東から南,南から西が開けているので,冬は日の出から日没まですべて見ることができます。また,西の空は,明かりがなく,山があるだけなので,3度くらいの高度以上なら見渡すことができます。ただし,冬場の西空は雲が出ます。

  ・・・・・・
 水星(Mercury)は太陽に最も近い公転軌道を周回している惑星です。岩石質の「地球型惑星」で,惑星の中で大きさと質量はともに最小のものです。直径は4,879.4キロメートルで地球のわずか38パーセントしかなく,木星の衛星であるガニメデ(Jupiter III Ganymede)や土星の惑星であるタイタン(Saturn VI Titan)よりも小さいのです。
 水星の見かけの明るさは,地球からの位置によってマイナス0.4等から5.5等まで変化します。また,水星は太陽に非常に近いために,ほぼ2か月ごとに日の出前と日没直後のわずかな時間しか観察できません。太陽の周りを88日で公転し,地球から見たとき太陽からもっとも離れても28.3度に過ぎないためです。
  ・・・・・・
 とはいえ,そんな知識がいくらあろうと,見えるか見えないかは実際に見てみないことにはわかりません。そこで私は1月8日から水星を探していたのですが,1月8日は西の空だけ曇っていて,水星どころか土星も見えませんでした。ただし,木星だけはかろうじて沈む直前に確認できました。
 そして,1月9日。太陽が沈むところは見えたので大いに期待して木星が見えるほど空が暗くなるのを待ちましたが,やはり,西の空には雲がありました。そのうちに木星,そして,土星が見えるようになってきましたが,やはり水星は雲に隠れているようで,確認できませんでした。
 やがて,水星が沈む直前,その姿が見えたときは感動しました。写真にもしっかり写りました。

 知らなければ何も写っていないような写真ですが,私には見たとおりに木星と土星と水星を写すことができてとてもうれしいものでした。そしてまた,どのくらいのものが見られるのかということが実証できたことが,それ以上にうれしいことでした。
 1月10日はさらに水星の高度が高くなって木星と土星に接近するので,雲が切れるのを願っています。


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●アメリカに入国する。●
 このころは毎年のようにホノルルに来ていたので,はじめのころのように戸惑うこともなくなっていた。ハワイといえどもアメリカという大国への入国には違いないが,入国の手続きは,ESTA登録者には事務的であった。そうでもしなければ,大量の入国者がさばけない。手続きはKIOSK端末で入国情報の登録を行い,あとはパスポートにスタンプを押されるだけだ。
 このごろアメリカ本土での入国は,特に若い女性のひとり旅だとなかなか面倒なことがあるらしいが,観光でハワイから入国して,ハワイから国内線でアメリカ本土に行くとたやすいかもしれないなあと思ったりする。私の友人にいわせると,アメリカは何事も厳密なようでどこか抜けている。
 KIOSK端末まではごった返していたが,そのあとはすんなりと何も聞かれずパスポートに滞在期限のスタンプが押されて,空港の建物から外に出た。

 ホノルルの空港はターミナル1とターミナル2,そしてモクレレ航空のみの離れのターミナル3があって,ターミナル1とターミナル2のふたつの建物はつながっていて通路があるのだが,何度来てもこの構造がいまひとつ私には把握できない。それは,入国の際は入国審査を終えると自然とターミナル2から一旦外に出てしまう構造になっているからだが,別の島に行くために乗り替えるハワイアン航空の便はターミナル1から出発するので,再び,建物の外を歩いてハワイアン空港のチェックインカウンターのあるターミナル1に行って,再びセキュリティを通って建物に入るという面倒なことになる。

 アメリカ本土のおもな空港では,入国審査を終えてそのまま再びターミナルに入って乗り換えができるのだが,その点,ホノルルは不便である。ただし,帰りはそのまま建物の中を通って乗り替えることができるのだが,私は一度外に出てしまって,再び混雑するホノルルでセキュリティを通ることになってしまった苦い思い出がある。
 また,ハワイアン航空では,荷物を預けると別料金が発生する。はじめて来たときにはそれがわからずとまどい,また,ターミナル2を出てからターミナル1へどう行くかも不明でずいぶん苦労した。

 …などということは,私以外のほぼすべての日本人観光客にはまったく関係ないことであろう。日本人観光客のほぼ100パーセントは空港からホノルル市内に,ホテルのシャトルバスに乗って向かうからである。この日,ハワイに到着した日本人は4,904人だったそうだが,おそらくそのうちの4,900人くらいはホノルル滞在だと思うのはオーバーだろうか?
 しかし,ここから私のように別の島にトランジットをする日本人なんて見たことがない。それどころか,いまからモロカイ島に行く日本人なんてこの日入国した日本人4,904人の中で私くらいのものであっただろう。なにせ,私はモロカイ島でひとりの日本人にも会わなかった。

 モロカイ島は,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島とは違って,ハワイアン航空のリージョナル路線を運航するオハナ・バイ・ハワイアンが1日わずか3便,そして,小型機のモクレレ航空が就航しているだけだ。
 オハナ・バイ・ハワイアンのフライトスケジュールが変更になることを考慮して,ホノルルでの待ち時間を4時間とった。しかし,フライトスケジュールは変更がなかったので,ずいぶん待ち時間ができてしまったから,この時間,ターミナル1に入ってから,搭乗時間までプレミアラウンジで過ごすことにした。このプレミアムラウンジも,私は5度目にしてやっとその存在がわかったのだった。


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●再び行ける日は来るのだろうか?●
 飛行機は,夜,セントレア・中部国際空港を離陸して,太平洋をジェット気流に乗って飛んでいくのだが,地球の自転方向に朝に向かって駆け抜けることになるから,寝る間もなく朝がくる。雑ないい方をすれば,6時間分をスキップする。つまり,6時間で12時間が過ぎるわけで,夜がなくなる。そうしたことから,日本人が海外旅行をするとき,私は,ハワイが最も過酷な行先だと思う。
 最も楽なのは,もちろん時差のないところだから,オーストラリアなど南に向かうときであろう。ニュージーランドは,ハワイと経度がさほど違わないのだが,オーストラリアを経由して行くことにすれば夜は時差がない。オーストラリアに到着して朝になってからニュージーランドへ向かえば,お昼が3時間ほどスキップされるということになる。だから,オーストラリアとニュージーランド間のお昼間の3時間の旅と考えれば,さほど苦痛ではない。
 逆に,西方向に向かうヨーロッパは,東に向かうのとは逆に,夜を求めて飛ぶことになり,時間が過ぎない。つまり,夜が明けない。そこで,結果的に夜が長くなるので,さほど大変ではない。
 いずれにしても,私は歳をとって普段でも睡眠時間は5時間程度なので,今は海外旅行をしても時差ボケとは無縁になってしまったが,若い人はたいへんであろう。
 それに加えて,ハワイに限らず,海外旅行で最も問題なのは,エコノミークラスの座席の狭さである。そもそも,飛行機の座席は詰め込み過ぎなのである。9時間も座るのに新幹線より座席が狭いなんてありえるだろうか? 私は,今や,エコノミークラスは使わず,多少お金がかかろうと,とはいえ,ほとんどの場合はマイレッジを使用してグレードアップするが,ともかく,エコノミークラスより,よりランクの高い座席を予約するようになったので快適になった。でないと体がもたない。さらに私は,機内で過ごすのに,映画を見たり本を読むこともおっくうになって,今では音楽を聴くのが一番快適になってきた。

 さて,機体は着陸態勢に入って下降をはじめた。ボーッとした寝起きのまま窓のシールドを開けて外を見ると,陸地が見えてきた。いよいよハワイである。
 まずカウアイ島が見え,カウアイ島を過ぎると,ホノルルのあるオアフ島である。オアフ島の家々が見えてくると,次が,真珠湾である。今回は,真珠湾に潜水艦が運航しているのが見えて,得をした気になった。日本人にとってのハワイは,今は観光地であるが,アメリカにとれば,それ以上にここは軍の重要拠点である。日本にとれば,明治以降の移民からはじまり,太平洋戦争と,悲しい歴史がその根底にある。
 そうこうするうちに飛行場が見えてきた。そこが到着地ホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港(Daniel K. Inouye International Airport)である。アメリカの空港はどこも何がしかの航空会社のハブ空港になっているから,特定の航空会社の飛行機が大量に停まっているのが常だが,ホノルルは一応はハワイアン航空のハブ空港だとしても,それ以外の世界中の航空会社が乗り入れているから,これほど多くの会社の機体を見ることができる空港は他にはないだろうと私は思う。飛行機好きにはたまらない空港かもしれない。
 このときは,ああ,また来た,くらいにしか思わなかったが,それもまた,今となっては夢のようだ。次にここに行くことができる日はいつのことだろうか?


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 再び海外に行くことができるようになったとしたら,まず行きたいのはオーストリアです。この国の歴史と芸術は底が見えません。そして,オーストリアは,ウィーンだけでなく,どこも美しく,落ち着きます。
 そんなオーストリアですが,私はこれまで2度足を運んで,多くの作曲家の史跡を訪ねることができました。行ってみて思ったのは,私は,作曲家の名前はもちろんのこと,多くの作品もなじみがあるのですが,その生涯は意外と知らないものだなあ,ということでした。そこで調べてみることにしたのです。
 オーストリアにゆかりのある作曲家を年代順に。今日はハイドンです。

 私はハイドンの作曲した作品をこれまでほとんど「まじめに」聴いたことはありませんでした。
 ハイドンはえらくたくさん交響曲を書いたという印象しかなく,交響曲も「時計」とか「驚愕」とか,ベートーヴェンなどの作品と比べるとウケ狙いの二流品のような気がしたものです。それでも,何でも全部してみたい私は,ハイドンの作曲した交響曲もすべて聴いてみようと聴きはじめたのですが,正直退屈でした。
 しかし,2018年にウィーンに行ったときに,楽友協会でパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)指揮ドイツカンマーフィルハーモニー管弦楽団(Die Deutsche Kammerphilharmonie Bremen)の演奏によるハイドンの交響曲第101番「時計」を聴いて以来,考えが変わりました。ハイドンの交響曲ほどウィーンの空気に溶け込むすてきな音楽はないのです。それをきっかけに,ずいぶんいろんな作品を「まじめに」聴くようになったのですが,よく味わうとなかなかおもしろく,かつ,さわやかで,今ではお気に入りです。

  ・・・・・・
 交響曲の父とよばれるフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は,1732年(日本では江戸時代中期の享保の改革のころ)に現在のオーストリア北東に位置するニーダーエスターライヒ州ローラウ村に生まれました。父はその土地を支配していたハラハ(Harrach)伯爵に仕える車大工,母も伯爵に仕える料理女でした。
 音楽学校の校長をしていたおじ(父の妹の夫)に音楽の才能を認められ,6歳のときに音楽の勉強をはじめたといいます。そして,8歳でウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められてウィーンに住み聖歌隊の一員として9年間働きましたが,変声のため解雇されました。その後はしばらく定職をもたず,ミヒャエル教会付近の建物6階の屋根裏で自活しながら,教会の歌手をつとめたり,ヴァイオリンやオルガンを演奏したりして生計を得ていました。
 1757年ごろ,ボヘミアのルカヴィツェ(Dolní Lukavice)に住むカール・モルツィン伯爵(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就き,1760年にはマリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚しました。しかし,結婚生活は幸福ではなく子供もできなませんでした。エステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ夫人(Luigia Polzelli)との間に子供をもうけたのではないかと言われています。
  ・・
 やがて,モルツィン伯は経済的に苦しい状況になり,ハイドンは解雇されてしまいましたが,1761年,西部ハンガリー有数の大貴族エステルハージ家の副楽長という仕事を得ました。
 ハイドンはエステルハージ家の楽団の拡充につとめるとともに副楽長時代に多くの交響曲を作曲し,やがて,楽長に昇進しました。
 1780年ごろにはハイドンの人気は上がり,エステルハージ家以外にも作曲をしたり,ウィーンのアルタリア社やロンドンのフォースター社などと契約を結んで楽譜を出版するようになりました。
 1790年,エステルハージ家のニコラウス侯爵が死去,その後継者アントン・エステルハージ侯爵は音楽に関心を示さず,音楽家をほとんど解雇し,ハイドンも年金暮らしにさせてしまいました。
  ・・
 ウィーンに出てきたハイドンは,興行主ヨハン・ペーター・ザーロモンの招きによりイギリスに渡って新しい交響曲とオペラを上演することになり,1791年から1792年,および,1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めました。この時期に多くの傑作が作られたのです。
 1794年,エステルハージ家ではニコラウス2世が当主になり,ふたたび楽団を再建しようとハイドンを再びエステルハージ家の楽長に就任させましたが,学長となったあともウィーンからは離れず,1793年にはウィーン郊外のグンペンドルフに家を建ててここを晩年の住居としました。
 1809年,ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻による占領下のウィーンで,77歳で死去しました。はじめ,ウィーンのフントシュトルム墓地に葬られましたが,1820年に改葬され,現在はアイゼンシュタットに葬られています。
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 今日の写真のように,私がウィーンで見つけたのは,ミヒャエル教会と,その付近でハイドンが住んでいた建物のプレート,グンペンドルフに建てて晩年に住居としたところ,そこは現在博物館となっていました。ハイドンの住居跡の博物館は,予想に反して,私以外に訪れている人もなく,多くの観光客で賑わっていたザルツブルグのモーツアルト住居跡とはあまりに違うのに驚きました。


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 再放送ばかりのテレビ番組ですが,その中でも,旅番組がずいぶん多いものです。が,玉石混交です。
 私にとって,はじめて見た旅番組は「兼高かおる世界の旅」(KAORU KANETAKA'S "THE WORLD AROUND US")でした。「兼高かおる世界の旅」は,1959年から1990年にかけて30年10か月もの間,TBS系列局で毎週日曜日朝に放送されたものです。旅で収録してきた映像を会話形式で振り返りながら見るという番組でした。今にして思うに,海外渡航が夢の時代に世界中を訪れてさまざまな体験をした兼高かおるさんは,すごい女性でした。そもそも,当時,外国語を自由に操るという人がとてもうらやましかったのを覚えています。
 その次が1975年から1980年までTBS系列で放送された「おはよう720」もしくは「おはよう700」という番組の中の「キャラバンⅡ」のコーナーでした。この番組は今でいう朝のワイドショーなのですが,そのなかのコーナーで,車1台で,ポルトガルのリスボンから東京といった距離を横断する番組でした。そのころは,私が子供だったというだけでなく,お金があってもだれもが自由に海外旅行ができるという時代でなかったから,外国が本当に遠かったのですが,そうした時代にこれらの番組を見ては,いつかは行ってみたいとあこがれたものでした。今,当時のテレビ番組を記録した写真を見ていると,そのころの夢いっぱいの自分を思い浮かべて涙がでてきます。

 私の子供のころは,こうした,できないことをうらやましいという気持ちが夢を育てたのです。しかし,現代はその逆に情報があふれていて,やる気になればなんでもできるから,夢を夢と思わなくなっているので,その点では,むしろ今の若者のほうが不幸なのかもしれません。
 そしてまた,私の親の世代は,憧れても実現できなかったのですが,ちょうど私くらいの年代は,子供のころに憧れたことが大人になって実現できたというとてもいい時代だったのです。そこで,私はその夢を実現して,行きたかったところのそのほとんどに行くことができたわけです。
 ところが,2020年のコロナ禍で,私が憧れていたあの時代よりも,さらに外国が遠くなってしまいました。そうした折,テレビをつけると,そのほとんどが再放送ですが,旅番組が目白押しです。しかし,そうした旅番組を見ると,国内,国外にかかわらず,その多くは本当につまらないものです。
 その理由はふたつあります。
 そのひとつめは,レポーターが無知な場合です。旅というのは,その人のもつすべての経験や知識が反映されるものです。そこで,あまりに不勉強な人や騒がしいだけの人がレポーターをやっても,不快ななだけなのです。そこで,こういう番組に出演する芸能人はリスクだらけだといえます。ドラマなら台本があるので,虚像が作れますが,旅番組ではその人の能力,つまり実像が問われるからです。旅番組でイメージが崩れてしまった芸能人が私には少なくありません。
 ふたつめは単に名所や旧跡,食べ物屋を紹介するものです。そんなものなら,ガイドブックを見れば事足りますし,そのような番組は山ほどあるので,いい加減見飽きました。特に,お笑いタレントが受けを狙ってやっているようなものは最低です。

 ということで,私が今おもしろいと思って見ている旅番組は,NHKBSPの「にっぽん横断こころ旅」と「世界ふれあい街歩き」です。前者は日本国内の,そして,後者は主に海外のさまざまな場所を対象としています。ともにいえるのは,その地に住む人との触れ合いが主となっていることです。そして,どちらも,名所・旧跡の紹介でないということですが,私が行ったところが出てくるとうれしくもなります。ただし,「にっぽん横断こころ旅」での火野正平さんの喫煙シーンは止めてもらいたいし,「世界ふれあい街歩き」はやらせ感満載ですけれど。
 私は,これまでさまざまな場所に出かけましたが,観光客が群れる名所・旧跡はもうどうでもよく,思い出すのは,むしろ,無名な場所の小さな食堂であるとか,そこに住む人との会話とか,そんなことばかりです。


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●旅慣れた道●
 前回書いたように,新型コロナウイルスで騒がしくなりかけた直前の日本からの出国だった。今回は人混みを避けて,公共交通は使わず,車で自宅からセントレア・中部国際空港まで行ったが,そうでなくとも,名鉄電車でセントレア・中部国際空港に行くのはかなりリスクがある。
 これもいつも書いているように,事故や故障で不通になることがほんとうによくあり,そのときに代替バスの手配が遅いこととタクシーが捕まらないことなど,対応がまずく,もしそうしたアクシデントがあれば絶望的だからだ。しかし,車だと,今度は駐車場の問題があるし,空港まで道路が名古屋を抜けるまで,異常に混雑するのだ。
 つまり,公共交通機関については,名鉄以外に手段がないことが問題なのだ。もし,不通になったら,伊勢湾を船で渡る以外には人が通行できない有料道路しかアクセスする方法がないから,徒歩で行くことすらできない。そんなことは,せめて名鉄が不通のときだけは徒歩で道路を通行できるような歩道を作るだけのこと。
 また,名古屋市内の渋滞は,名古屋高速の車線案内標示に問題がある。これは走ってみればわかるのだが,どの車線を走ればいいのか,はじめて走るとさっぱりわからないから,疑心暗鬼になって意味のない車線変更が多発するから渋滞が起きる。一度アメリカのハイウェイを視察してくればいい。
 まあ,今回は,道路も混んでなかったし,駐車場も事前に予約をしておいたのだが,がらがらだったから,大過なかったからよかったけれど。

 これもまた,いつものように,事前に iPhone でフライトのオンラインチェックインを済ませておいたので,そのまま出国ゲートに向かえばよかった。出発のわずか1時間前に荷造りをしてきたバッグは小さいものだから機内に持ち込むので,航空会社のカウンタにも寄らずセキュリティを越えた。
 ただし,日本では海外に行くときは出国手続きをしたあとで,再び出発ゲートで事前に航空会社の係員に申し出てパスポートチェックをしなければならない。そんなことなら,オンラインチェックインなんて意味がないとさえ思える。フィンランドやアメリカなら,そんな必要もなくいきなり搭乗ゲートに行って乗り込むことができるわけで,これだけをみても,日本では意味のない仕事をしているということが明白だ。やったふりばかりで,本当に日本はムダだらけの変な国だ。
 ともかく,私は搭乗時間までいつものようにラウンジで過ごしたが,ラウンジもまたがらがらだった。人混みのきらいな私にはこのほうがいい。

 ハワイのオアフ島にあるホノルルまで行く日本からの直行便は,毎度「ハワイ=オアフ島」と思っているウキウキムードの日本人ツアー客と一緒である。
 ハワイは赤道に近いので,ジェット気流の影響を受けやすく,追い風となる行きはずいぶんと早く着くのだが,向かい風となる帰りは時間がかかる。よって,行きはわずか6時間ほどで到着するから,深夜バスで名古屋から東京へ行くようなもので,名古屋から四国に行くよりはるかに近い。昨年はファーストクラスにアップグレードしたので,今年もそのつもりだったが,昨年よりファーストクラスの料金が高かったのでそこまでの価値がないのであきらめて,コンフォートクラスにした。ハワイなど近いから,エコノミークラスでさえなければ,ファーストクラスでなくともコンフォートクラスなら同じようなものだ。
 食事をしてなんとなく寝ていたら,朝食が配られるのを知らないうちに着陸態勢になった。ということで,朝食を食べ損ねた。客室乗務員が日本人だと起こしてくれることもあるが,アメリカ人ではそんなことは期待できない。これは国民性の違いというやつだ。
 ハワイまでは,ずっと海の上を飛んでいて,着陸態勢になるころにやっと陸が見える。それがハワイである。まずはじめに見えてくるのが最も西にあるカウアイ島で,その次の島がホノルルのあるオアフ島だ。


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●不安な足音が聞こえてきたころ●
☆1日目 2020年2月20日(木)
 前置きが長くなったが,いよいよ今日から2020年2月20日から2月24日まで3泊5日で行ってきたハワイ州モロカイ島の旅行記を書く。
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 2015年ころから,私はまるで東京に行くような感じで年に6回も7回も海外旅行をしていた。ハワイも毎年春に行くのが慣例となっていた。
 はじめにハワイに行ったときの戸惑いはもうどこへやら。セントレア・中部国際空港からデルタ航空の直行便でホノルルまで行って,ホノルルからハワイアン航空に乗り換えて,さまざな島に行くのを楽しみにしていた。
 
 ハワイの島々の中で,観光で行くことができるのは6島。そのうちで,モロカイ島とラナイ島はツアーがないので,私には魅力的だった。そこで,これまでに行っていなかったモロカイ島とラナイ島のうち,まず,2020年はモロカイ島へ行こうと計画した。結果的にこれがよかった。
 聞くところでは,モロカイ島は素朴な島。そして,ラナイ島は島全体がリゾートで,ホテルはすごく高価ということだったので,私はさほど興味がなかった。ラナイ島に行く動機があるとしたらハワイ6島制覇のためだけであったが,ラナイ島はマウイ島から日帰りで往復できるということだったから,モロカイ島に行ったその次の年,つまり今年2021年に3度目のマウイ島に行って,その折に日帰りで往復するつもりだった。というより,前回2019年マウイ島に行ったときに足をのばしてラナイ島に行っておけばよかった。
 しかし,こうなってしまうと,いつ実現することやら…。まあ,今ではラナイ島など行けても行けなくてもどっちでもよくなってきたので,いつかコロナ禍が収まって,そのときにまだその気があれば行ってみようと思っているところである。

 私はもともとツアー旅行などしないので,ツアーで行くことができないというのはどおっていうことはない。しかし,いつもハワイ島やカウアイ島,マウイ島に行くような感じで同じようにインターネットでオアフ島からモロカイ島までの航空券とモロカイ島の宿泊先を予約する段になって,この島はちょっと違うぞ,と思いはじめていた。
 まず,島間を飛んでいる便が異常に少ない。しかも,すべてプロペラ機であった。そして,宿泊先を探す段階になって,あまりに選択肢が少ないことに驚いた。2,3のコンドミニアムしかないではないか。それでも,なんとかコンドミニアムの1室を確保することができた。そして最後に,これもまたいつものハーツでレンタカーを借りようとしたのだが,この島にハーツの営業所がないのは衝撃であった。あるのはアラモだけだった。いや,正しくは,もうひとつ地元の会社があるらしいが…。
 まあ,いずれにしても,鬼が住んでいるわけでもあるまい。私は勢いでアイスランドまで行ってしまった男だ。公用語は英語だし,ハワイ州には違いないし,どうにでもなる。それにしても,多くの日本人がハワイ,ハワイと騒いでいても,モロカイ島に行ったという話は聞いたことがない。これだけでも,私は,ワクワクしてきた。

 やがて,出発する日が近づいてきたが,そのころになって,世の中が騒がしくなってきた。なんとハワイ帰りの日本人が新型コロナウィルスに感染していたとかいう話が伝わってきたのだ。しかし,私が行くのは観光客で群れるオアフ島ではないから何とかなるわい,と出発を決意した。が,いつものようにセントレアまで名鉄電車で行く気にはならず,車で行くことにして,空港内の駐車場を予約した。
 空港に着いた。このころは,今ほど厳戒態勢でもなく,体温を測るためのサーモマネージャーがあり,チェックイン時に中国に行っていないかと聞かれたくらいであった。まだ,新型コロナウィルスが何ものなのかもよくわかっていないころであった。


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 1月2日,NHK総合で「ラ・ラ・ランド」(La La Land)が放送されました。
 今や,テレビ番組という時代遅れの放送形態を当てにしなくても,Amazon Prime Video などでいつでも見られるし,私はすでにそれで見たので,もはや「お正月はテレビ」という時代でもないと思うのですが,ちょうどいい機会なので,今日,この映画を取り上げることにしました。
 「ラ・ラ・ランド」は,2016年に公開された,俳優志望とピアニストの恋愛を描いたアメリカ映画です。この年の最高の映画のひとつとして大好評を得て,第74回ゴールデングローブ賞ではノミネートされた7部門すべてを獲得し,第89回アカデミー賞では史上最多14ノミネートを受け,監督賞,主演女優賞,撮影賞,作曲賞,歌曲賞,美術賞の6部門を受賞しました。
 「ラ・ラ・ランド」は映画の舞台であるロサンゼルスのニックネームで,「現実から遊離した精神状態」(being out of touch with reality)を意味するといいます。
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 夢をかなえたい人々が集まる街ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミアは女優を目指していたが,何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日,ミアは場末の店で,あるピアニストの演奏に魅せられる。彼の名はセブ(セバスチャン),いつか自分の店をもち大好きなジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがてふたりは恋におち,互いの夢を応援し合う。しかし,セブが店の資金作りのために入ったバンドが成功したことから,ふたりの心はすれ違いはじめる…。
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というのがあらすじです。

 アメリカというのは実に単純明快で,映画も,「ラ・ラ・ランド」のような恋愛ものと,やたらと暴力シーンが出てくるものと,ロードムービーにわけられます。だから,日本人には,こうした趣向が好きな人にはおもしろく,受けつけない人には何がおもしろいのかわからない,ということになります。
 アカデミー賞の受賞のときにずいぶんと話題になったので,いったいどういう映画なのだろうかと気になっていたのですが,特にあらすじに深みや複雑な要素はなくて,「ラ・ラ・ランド」は「マジソン郡の橋」や「ユー・ガット・メール」のような媒体にミュージカルの手法を加えた感じでした。大人のディズニー映画です,これは。でも,とてもいいです。たとえると,ホテルの最上階でジャズをバックに夜景を見ながら好きな人とお酒を飲んでいるといった感じです。
 私は,こうした映画,嫌いでないです。主演の女優エマ・ストーン(Emily Jean "Emma" Stone)さんがきわめて魅力的なこととロサンゼルスの雰囲気がよく出ていて,心地よくて,しかも,映画のラストが気に入って,楽しく見ることができました。

 それにしても,アメリカというのは,こうした純粋なこころときめくおとぎ話ができるのに,その反対に,なんときな臭い暴力的な別の面があるのだろうと,いつも思います。しかし,根底は同じような気がします。悪い表現ですが,幼稚なんです。死ぬまで子供なんです。みんな何らかの1等賞を目指していて生きることに冷めていないのです。
 男女平等といいながらも,実は,女の子はつねにシンデレラストーリーにあこがれているし,男の子は力の強いことにあこがれているし,老人はいつまでも夢を追いかけています。やはりこの国は「担任のいない小学校」なのです。
 それはそうと,私は,この映画を見て,またいつか,ロサンゼルスのフリーウェイやダウンタウンを走ってみたいと思いました。昨年までは毎年当たり前のように走っていたのに…。


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 家に籠っていると,何が実話(ノンフィクション)で何が作話(フィクション)なのか,次第にわからなくなってきます。
 テレビを見ても,放送している番組は,そのほどんど,といってもいいくらい再放送ばかりなので,旅番組も,収録した月日がテロップで流れてはいても,それがいつのことなのか実感がわきませんし,音楽番組も,すでに亡くなっている人が歌っていたり,何年も前の若いころの姿だったりします。ニュースで報道されていることも,それが本当のことなのかどうかなんて,実際はわかりません。すべてフェイクなのかもしれないのです。ある巨大な黒幕組織があって,世界中の報道機関がグルになって嘘を現実として報道しているだけなのかもしれません。
 SNS では,実在しない人物を作り上げて,その架空の人物とメル友になることもできます。それどころか,これまで出会った人も,個人情報の保護とやらで,今は,どこに住んでいるかすらわからないので,実際に接しているとき以外は,その人が本当に実在しているのかさえ定かでありません。
 映像や写真も,今日の写真のように画像処理によって加工されたものだから,それは実際に見た景色とは異なる姿で再現されるので,その画像では,実在しているものなのか作られたものなのかどうかすら不明です。
 私は,お金の管理もそのほとんどすべてをキャッシュレスで行っていて支払いも現金をまったく使わないので,アプリの上で数字が動いているを確認するだけで,お金という実感すらありません。

 そもそも,人の聴覚はすべての音が聴けるわけではないし,視覚もまたすべてが見えるわけでもありません。触覚だって触っても感じないものもあります。しかし,これまでは,人が耳で聴くことができ,目で見ることでき,手で触って感じることができることが「現実」だったのです。それが,科学技術の発達で「現実」を越えてしまったときから「超現実」がはじまったのでしょう。
 だから,ブラックホールの写真を写した,といったところで,所詮は膨大なデータから画像処理をして絵を描いただけのことですし,未知の素粒子の存在がわかったといったところで,ほんのわずかな異なる信号からそれを推測しているだけのことで,実態が見えたわけではないのです。ひょっとしたら,このブログで書いている旅行記もすべて単なる作り話かもしれませんし,このブログを書いている人物すら架空の存在かもしれませんよ(笑)。

 そんな難しいことよりも,私が日々とても不思議だと思っていることは,現在,保存されているもののそのほとんどすべては単に,仮にわかりやすくするために0と1と表現される膨大なディジタルデータにすぎないのに,よくもまあ,人はそれを「現実」としてとらえているなあということです。たとえば,ここで書かれてある文字ですら,実際は0と1と表現されるディジタルデータの集まりをソフトウェアがある規則に基づいて文字として再現しているだけのことだから,それを異なる文字に変換される別の規則ができたら,異なる文章になってしまうかもしれません。銀行に預けた貯金も,ある規則に基づいたディジタルデータとして保存されているだけのことだから,万一それを異なる数字に変換される別の規則ができたら,すべてのお金がなくなってしまうかもしれません。つまり,実体がないのです。
 現代の社会は,そんな危うい実体のない土台の上に成り立っているのですが,こうなると,何が真実なのかすらわからなくなってきます。ひょっとしたら,現実など存在しないのかもしれないとさえ思えてきます。
 しかし,すべては架空の出来事かもしれない,あるいは,すべてが虚構なのかもしれない,そんなことを思うと,なぜか,私はとても愉快になってきます。すべてが虚構の世界だと考えると,何が起きようが「まあ,いいか」という気楽な気持ちになってきます。
 人は所詮,ディジタルデータで作られた海の中で泳いでいるだけなのかもしれません。


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Happy New Year 2021
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 2021年になりました。
 何の予定も計画もない珍しい年明けです。今年は「自由人」と「不良老人」の道を究めるためにひた走ろうと思います。目標はめざせ「高等遊民」です。
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 何もない真空がゆらいで空間が宇宙となり,その中で何らかの化学反応が起きて生物なるものが出現し,それが創造主も予想しなかったほど複雑怪奇に進化して人間が誕生しました。とはいえ,そんな宇宙も,自分が生まれたことでその存在が認識できるというだけのことで,自分がいなければ,宇宙があろうがなかろうがわかりません。しかし,宇宙自体も単なる偶然の産物であって,それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。だから,たとえ人類と人間たちがよぶこの不可思議な生物が滅びようとどうなろうと,そんなことは宇宙からみればどうでもいいことであって,人間のこしらえた社会のさまざまな仕組みも,そのすべては傲慢な人間が考えた価値観にすぎないわけです。
 名を残そうと人を負かそうと功をとげようと,そんな人間の欲望のすべては究極的には意味をなさないわけで,人がそうしたいのは,自分が生きているその時間を自分が納得するためにすぎないのです。しかし,人は「生きている」のではなく「生かされている」のです。そして,宇宙からみればほんの一瞬にすぎない「生かされている」時間だけがすべてです。

 などということを,私は昔からずっと思ってきたのですが,先日,ふと「般若心経」を読んでいたら,先人はそんなことはとっくにお見通しだったことを知って驚きました。
 私は宗教家ではありませんから詳しくは知りませんが,おそらく,どんな宗教であろうと,それはそうした人の在り方を納得できるようにと考えられた思想なのでしょう。「摩訶般若波羅蜜多心経」(まかはんにゃはらみったしんぎょう)いわゆる「般若心経」もまた,自分が存在することの意味を説いています。
 曰く,
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  観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 (かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ)
  照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく)
  ・・
 私(=観音菩薩)は「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについてとことん向き合った末に,ひとつの真実にたどり着いた。
 私たち人間という存在は,身と心によって成り立っている。だから,私は,自分とは何かを知るために,この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。しかし,物質的な肉体も,視覚・聴覚といった感覚作用も,それを受けとる知覚も,あるいは,意思や認識といったあらゆる精神作用も,すべて,どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。確固たる自分は,どこにも存在しなかったのだ。
 つまり,「自分」という実体は,実はこの世界のどこにも存在しなかったのである。
  ・・・・・・
 そのあと,身と心についての解釈が延々と続き,最後にこう説きます。
  ・・・・・・
 能除一切苦 真実不虚 (のうじょいっさいく しんじつふこ)
 故説般若波羅蜜多咒 即説咒曰 (こせつはんにゃはらみったしゅ そくせつしゅわく)
 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 (ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか)
 般若心経 (はんにゃしんぎょう)
  ・・
 あらゆるものは「空」である。
 この真実を本当に知る者は,どんな苦しみも,それが概念でしかないという,自分が築き上げた概念であることに気づくだろう。だから,苦しみから逃れようとして苦しむことなどない。
 この真実を見抜く般若の智慧を,次の呪文で讃えたい。言葉の細かな意味は知らなくてもいい。「尊ぶ」という心でもって唱えるだけでいい。
 「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
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 しかし,「般若心経」と同じようなことを考えていても,私は,すべて所詮は「空」だから苦しむことなどないと割り切る強さはありませんし,難しいことなど考えずに呪文を唱えてひたすら祈ればいいという宗教的な結論にも至れません。
 人にこころというやっかいなものがある以上,こころがやすらかでない限り,生きていても辛いだけです。人は肉体が病むことより精神が病むことのほうがずっと重いのです。だから,人を不安にし生きる希望を奪うことが最も愚かな行為なのです。人がこころやすらかに生きるためには,希望こそがその力となるのです。そこで,人に希望を与えることこそが最も尊いし,また,希望をもつことが生きる力となるのです。
 たとえ明日世界が滅びようと,それを不安がって時間が過ぎるのを待つよりも,滅びるまで希望をもって楽しく生きたほうがいいではないですか。
 人生,所詮は死ぬまでの暇つぶし。今年も楽しく生きよう。


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