アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)はモーツアルトが生まれる6年前の1750年,イタリアの レニャーゴで生まれました。生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立ち,ベートーヴェン,シューベルト,リストといった作曲家を育てた教育家でもありました。また,ウィーンで作曲家として,特に,イタリアオペラ,室内楽それと宗教音楽において高い名声を博しました。
死後はその名と作品は長い間忘れられましたが,皮肉にも,戯曲「アマデウス」およびその映画版でモーツアルトを死に追いやった人物として取り上げられて知名度が上昇し,21世紀に入ってから音楽家としての再評価されつつあります。
「サリエリがモーツアルトを殺した」という説は昔からあったそうですが,その後の研究で完全に否定されています。
実際のサリエリは,ウィーン宮廷での活躍が栄光に輝いていたにも関わらず,妻にも先立たれて寂しい晩年を送り,ヒッソリと息を引き取りました。さらに,死後はプーシキンの戯曲で「モーツアルト毒殺者」としてのレッテルを貼られてしまいました。
サリエリは貧しい育ちから宮廷に拾い上げてもらった恩義をずっと忘れずにいたと思われ,貧乏な弟子からはレッスン代を取らずに懇切丁寧な指導をし,若い後輩達から非常な尊敬を受けていたといいます。
サリエリの弟子は優秀な音楽家達が名前を連ねていますが,サリエリは弟子達の催す慈善演奏会にしばしば出演を依頼され出演しました。ベートーヴェンの交響曲第7番,第8番の初演時の演奏に副指揮者として加わっていたというエピソードもありますし,多くの慈善演奏会で,ハイドンやベートーヴェンののオラトリオの指揮をしました。
特に,シューベルトは,「謝礼を免除されて」サリエリの弟子の一員に加わっていました。
ウィーンの中心部にあるシュピーゲル小路(Spiegelgrasse)には,シューベルトの住んだ家の跡があります。シューベルトはこの親友のショーバンの家に居候をして交響曲「未完成」を書きました。そして,路地を挟んで反対側の家にはサリエリが住んでいました。
私は,ウィーンを歩いていて,ここを見つけて,えらく感動しました。
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1816年,サリエリのウィ−ン生活50年を祝う会が大々的に催されました。シューベルトは,この会のために,次の,サリエリに捧げる祝典カンタータD407を作りました。この歌の詞は,サリエリの人徳を称えてやまないものだといいます。
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やさしい人よ,よい人よ!
賢い人よ,偉大な人よ!
私に涙のあるかぎり
そして芸術に浴みするかぎり
あなたにふたつとも捧げよう
あなたはふたつをこの私に恵んでくれたその人だから
善意と知恵があなたから
噴水のように奔る
あなたは優しい神の似姿!
地に降りたった天使のような
あなたの御恩は忘れません
私たちすべての偉大な父よ
どうかいつまでもお元気で!
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ウィーン中央墓地にはサリエリの墓があり,私も2018年に訪れました。台座の石灰岩の原石には「Salieri」と刻まれ,その上に四角錐の墓石があり,十字架が掲げられています。
墓碑銘には次のように記されてあります。
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1750年の生まれ
1825年5月7日宮廷カペルマイスターとして死亡
安らかに憩え!
塵芥から取り上げられて永遠が花開くであろう
安らかに憩え!
今や永遠のハーモニーに君の精神は解き放たれる
魅惑的な音色で彼は語った
いま不滅の美を手に入れようとしている
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☆ミミミ
1月30日,昨日の朝は,前日に降った雪景色が美しく,温められた水蒸気が立ち上り,幻想的な日の出となりました。