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BS-TBSで放送されている「ヒロシのぼっちキャンプ」の影響なのかどうかは知りませんが,アウトドアが「ブーム」なのだそうです。ホームセンターのチラシにも,アウトドアグッズがいっぱい載っています。
何事も,本当に好きな人だけが楽しんでいるときはよいのですが,日本では何かのきっかけで「ブーム」になると,大概はめっちゃくちゃになって終焉を迎えます。自分をもたない,いつもブームに乗っかるだけの多くの人があやかろうとしてマネごとをはじめ,常に金になる材料はないかと商魂たくましいメーカーが,そうした人を対象にわけのわからぬ製品を売り出すわけです。そして,まずは形からと買いあさり,しかし,実際には何もできず飽きて,それで終わりです。
ブームにあやかろうと,テントを買ったりBBQ用品を買ったりした人は,それをほとんど利用しないままで粗大ごみと化するのでしょう。みなさん,よくもまあ,そんなにお金があることです。
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こんなことは,長年生きていると容易にわかります。私は,この繰り返しをこれまで何度見てきたことでしょうか。
かくいう私は,アウトドアというよりも,星空が美しく見られる場所がないかと,昔から山の中を放浪しました。その結果,残念ながら,そんな場所は日本にはどこにもない,という結論に至りました。
アウトドアを扱ったテレビ番組は,風景の一部分だけいいとこ撮りで放送しているから,それはやらせではないけれど,正しい情報ではありません。たとえば,いかにも大自然の中でたったひとりで自由にキャンプをしているかのように見える場所も,実際にその場所に行けば,カメラの写さないところには多くの人が殺到していたり,あるいは,その場所に入るには事前に許可が必要であったりと,実際に行ってみると,イメージとはまったく違ったり,思い描いていたようなところではないこと疑いなしです。
そもそも,日本のような,狭く,自然破壊の大好きな国でアウトドアなんて,所詮は無理です。
アメリカやオーストラリアには多くのキャンプ場があります。そこには,実際に,日本人が夢を抱くような世界があります。
私は,幸運にもどういう縁か誘われて,アメリカでは,そうしたキャンプ場で夜を過ごしたことが何度もあります。オーストラリアのキャンプ場にも,泊まる機会はありませんでしたが,行ったことがあります。そこで体験して思ったのは,こうしたアウトドアに対する訓練を受けていない日本人は無力だということです。自然との楽しみ方もわからないし,何か事があってもまったく対応ができません。自然は美しいけれど,過酷でもあります。
日本にあるオートキャンプ場は,近くに売店があったり,水洗トイレがあったりと,至れり尽くせりで,あんなところは,本当のアウトドアではなく,単なるままごとです。それだけならまだしも,マナーが守れない人が少なからずいて,不快になることが多々あります。しかも,土地が狭いから,ぎっしりと混み合っています。
行政は,自然を守り,そこに人が溶け込んで楽しめるような施設を作ればいいのですが,施設を作る側の人にも知識がないから,結局はわけのわからぬものをこしらえて,その結果,自然破壊となり,設備は朽ちはて廃墟と化していくのです。そんな名ばかりのキャンプ場が近くにもごろごろあります。
また,民間の施設だと,お客様は神様と,わがままな要望を聞くので,安全第一とばかりに,夜になれば街灯を灯し,トレイにはウォッシュレットを設置したり,自動販売機を設置したり,おまけにレストランを作ったりして,手ぶらでキャンプができますよ,などと言い出す始末です。
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まあ,何をするのも人様に迷惑をかけなければ自由ですが,せめて,自然を破壊することや,ゴミを捨てることや,意味のない設備を作ってそれが朽ちるままにすることだけはやめていただきたいものだと,私はつねづね思うのですけれど,そんなことを声を大にして言ったところで,何の意味もなく,懲りずに自然破壊を繰り返していることもまた,長年生きているとわかります。
それが,この日本という国なのです。
March 2021
2020春アメリカ旅行記-モロカイ島探索は続く。②
●クムファーム●
私は,早朝,島の最東端までいてから,カウナカカイまで戻り,今度は,中央部を北に走って,カラウパパ展望台へ行った。その次に,来た道を戻ってく来た道をクラウプウまで戻って,プアディーズ・ナチュラル・マカダミアナッツ・ファームに寄った。
午後は,モロカイ島の西の端,右向きのアユでいえば尾ひれのあたりを目指すことにした。 が,モロカイ島は北の海岸線にも道路がない。西の果てまで行くには島の西側の中央の内陸部を走る州道460号線を終点のマウナロア(Maunaloa)とい町まで行って,そこからさらに,西の海岸に向かって走る必要があるのだった。
プアディーズ・ナチュラル・マカダミアナッツ・ファームがあったクアラルプーの西にモロカイ空港があるが,モロカイ空港の手前に,クムファームという有機野菜をつくっている農園があって,それをショップで販売しているというので寄ってみることにした。
クムファーム(Kumu Farm)は ハワイ州で唯一「遺伝子組み換えでない」種を使ったパパイヤを栽培している 農場である。パパイヤといえばクムファームといわれる。
特に,ストロベリーパパイヤとよばれるここのパパイヤは皮が薄く内側はピンク色で甘くて人気があるという。
クムファームは1981年にモロカイ島の小さな家族経営の農場としてはじまり,当初は地元の市場向けに料理用のハーブやピーマンなどの特産品を栽培していた。30年ほど前からは,フルーツや野菜の栽培を手掛け, できるだけ自然のままで化学的な処理を行わない農法で生産活動を行ってきたという。現在では週に2トン以上のパパイヤ,2,000キログラムに及ぶハーブ野菜などを全米に向けて出荷している。また,生産だけではなく,持続可能で地球と人間にやさしい農業経営を提唱し,農園を訪れる人々や学校,各団体などに30年間に培ってきた経験を惜しみなくシェアしている。
モロカイ島では,有機および従来の方法で栽培されたサンライズパパイヤ,バナナなど新鮮な農産物を栽培しているが,マウイ島でも,マウイトロピカルプランテーションに,2011年からレタス,ケール,トウモロコシ,ナス,ニンジン,バナナ,フェンネルなどのさまざまな新鮮な食材を栽培しているという。
私は,広い駐車場に車を停めて,農場に入り,ショップを見てまわった。
ショップでは,地元の人たちが買い物をしていた。
とはいえ,私はパパイヤを買ったところでどうしようもないので,ただぶらりと散歩をして,この地を後にした。
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Worm Moon.
March’s full Moon goes by the name Worm Moon,
which was originally thought to refer to the earthworms that appear as the soil warms in spring.
This invites robins and other birds to feed - a true sign of spring!
昨日から降り続いた雨もやみ,朝霧の中,うっすらと,沈みゆく月が見えました。
2020春アメリカ旅行記-モロカイ島探索は続く。①
●マカダミアナッツ・ファーム●
お昼になったが,このあたりレストランも何もないので,朝購入したドーナッツが昼食になった。
次に行ったのがプアディーズ・ナチュラル・マカダミアナッツ・ファーム(Purdy's Natural Macadamia Nuts Farm)だった。
カラウパパからカウナカカイに戻る途中に,クララプウ(Kualapuu)という小さな町がある。小さなといっても町の面積が狭いのではなく,広い敷地にポツンポツンと家が建っているところだ。この町の外れにモロカイ高校があって,そこから1本別の道を入ったところに農場の目立たない看板があった。この農場は,わずか5エーカー(1エーカーは陸上トラックの内側の半分くらい)の土地に約50本のマカダミアナッツの木があって,来園者にマカダミアナッツの実のつき方を紹介して,最後に試食をするということを無料で行うところであった。
以前,ハワイ島のコナでロイヤル・コナコーヒー工場&博物館というところに行ったことがあるが,それを小さくしたような感じであった。
1980年より続くこの農園は、アットホームな雰囲気あふれる農園となっていた。
私が行ったときは,すでに来ていた観光客の人たちに説明をしている最中だったので,ナッツを自分で割りながら,しばらく待つように言われた。
やがて,説明が終わり,私の番になった。
モロカイ島で生まれ育ったオーナーのタッディー・プアディー(Tuddie Purdy)さんは,マカダミアナッツやハワイの文化に関する豊富な知識を披露しながら,木になっているマカダミアナッツを取り,殻を割ってテイスティングをしてみたりできた。また, 小さなギフトショップには,ローストしたマカダミアナッツの販売はや,珍しいマカダミアの花か作られるハチミツなども販売されていた。
マカダミアナッツの木は、オーストラリアのクイーンズランド州の熱帯雨林で生まれた。1882年、ウィリアム・パービス(William Purvis)が最初のマカダミアの木をハワイに持ち込み,現在,世界のマカダミアの木の90パーセントはハワイで栽培されている。
果物であるマカダミアナッツは世界中で珍味とみなされていて,人気がある。マカダミアの木が実を結ぶまで約7年かかる。果実は木で熟す必要があり,通常8月から翌年の6月まで手作業で集められる。
この農園の50本の木は1920年代に植えられた。1980年以来、農園は拡大され,現在では数百本の若い木が年間生産量に追加されているという。
マカダミアの木から収穫したナッツは,次のようにして,テイスティングすると説明された。
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まず,マカダミアナッツを実を保持するための溝をつけた平らな岩の上に置き,ハンマーなどでしっかりと叩く。
こうして,殻から取り出されたナッツを湯でよく濯いだのち,ナッツに塩を振りかけ,約30分乾かす。そして,ベーキングパンにナッツを均等に広げ,10分から15分オーブンに入れ,次第にに熱を下げる。このとき,ナッツが均等に茶色になるように,時々回す。
ナッツが黄金色になったら,弱火で35分から45分トーストする。そして,オーブンから取り出し冷ます。
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私は土産を買う気もなかったので,説明を聞いたのち,農園を後にした。しかし,こうした説明も,土産を買ってもらうことが目的だから,私のような客は単に迷惑だけなのかもしれないなあと思った。
20億年後大マゼラン雲と衝突する?-銀河は活動する。③
2021年3月17日の「天声人語」に
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「士農工商の理解が古いのでは」とご指摘をいただいた(中略)▼改めて新旧の教科書を読み比べる。最古の銭貨は和同開珎ではなく「富本銭」に。足利尊氏と教わった騎馬武者の絵は,論拠が弱まり,手元の教科書には掲載がない。「イイクニ」と暗記した鎌倉幕府の成立時期も1992年より早かったとみる記述が増えていた
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とありました。私より若いであろう天声人語子がこんなことも知らずに新聞記者をやっていることに愕然としました。おそらく学生時代は「優秀」だったのでしょうが,それはあくまで点数が取れたからというだけのことでしょうか。
まあ,それはネタだとしても,昔から学校で習ったことなんて,その後の研究でずいぶんと変わってしまうのです。真理というのは日々変わるもので,だからこその研究です。正解といっても,その時点での正解であって,いつまでも正しいとは限りません。
ばかばかしいのは,その程度の正解なのに,テストで出題してその正解とやらを丸暗記させて点数を競うことを教育としていることです。それよりも,人間は今でも何も知らず無力なのか,研究というものがそれを克服するためにどのように真理を追い求めているか,ということを教えるべきでしょう。
おそらく,現在大問題となっている新型コロナウィルスも同様でしょう。わかっていないことや,あるいは,本当は正しくないことを「さも正しいように」吹聴されていることも少なくないと思われます。医者という肩書を利用して,自分が思っているだけで学問的な裏づけのないことをさも真実として語っている人もいます。
と,ここまでは前置きで,今日の話題は「大マゼラン雲がわが天の川銀河と衝突するらしい」という話題です。
私が知っていたことはそれとは違っていて,天の川銀河が衝突するのはアンドロメダ銀河(The Andromeda Galaxy)であり,大マゼラン雲(The Large Magellanic Cloud)は,こののち,現在の軌道にとどまり続けるか、銀河系の重力から遠ざかっていくということでした。それが,英国の研究チームがこのほど天文学会誌に発表した説では,今から20億年後,大マゼラン雲と天の川銀河の大衝突が発生するということです。これまでの研究では,アンドロメダ銀河が今から80億年後に天の川銀河と衝突するということでしたが,大マゼラン雲との衝突はそれよりもずっと早い時期に起きることになります。
大マゼラン雲が天の川銀河の伴銀河となったのは比較的新しく,現在,天の川銀河からの距離は16万3,000光年です。新たな観測の結果,大マゼラン雲の質量はこれまでの推定よりはるかに大きいことがわかったのですが,この質量のためにエネルギーが失われ,銀河系との衝突を引き起こすと研究チームは予想しているわけです。
大マゼラン雲が銀河系にのみ込まれれば,天の川銀河の中心部にあるブラックホールが目を覚まして「活動銀河核」あるいは「クエーサー」へと変えてしまうのではないかと,論文でマリウス・コータン(Marius Cautun)さんは解説します。
宇宙が誕生したのは138億年前で,天の川銀河の誕生はおよそ135億年前。その後,100憶年前に一度別の銀河「ガイア・エンケラドス」(Gaia-Enceladus)と大衝突を起こし,それが生命の誕生の原因のひとつになったとされています。
天の川銀河は,幸い,その後,これまで他の銀河との大衝突を起こしていません。
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ちなみに同じ「エンケラドス」(Saturn II Enceladus)という名前の土星の第2衛星があります。こちらは,生命の可能性を持つ衛星として知られ,1789年にウィリアム・ハーシェルによって発見され,1847年に息子のジョン・ハーシェルが命名しました。
天の川銀河と衝突合体した銀河「ガイア・エンケラドス」は「ソーセージ」(Sausage Galaxy),あるいは「ガイア・エンケラドス・ソーセージ 」(Gaia-Enceladus-Sausage)ともよばれます。「ガイア」はヨーロッパ宇宙機関が2013年に打ち上げた位置天文衛星の名前です。ケンブリッジ大学のベロクロス(Vasilly Belokurov)さんが,ガイア衛星の試験的なデータを用いて銀河の恒星の動きから回転速度と直進速度をグラフにプロットして,天の川銀河のハローにある星々と天の川銀河の円盤にある星々の分布が異なることを見つけ,ハローにある星々の分布がソーセージ状であったことから「ソーセージ」と名づけました。さらに,2018年に公表されたガイア衛星の最新データから,改めて回転速度と直進速度の分布を詳しく調べ,この異なる分布がそれぞれ別の銀河が衝突したことが原因であるという,銀河衝突の全貌を明らかにしたオランダのフローニンゲン大学のアミナ・ヘルミ(Amina Helmi)さんによって名づけたのが「エンケラドス」という名前です。
この大マゼラン雲との大衝突は,太陽系が吹き飛ばされず天の川銀河にいる限り,地球からも観測できるはずだといいます。そうなると,人類の子孫は銀河系の中心部で新たに目覚めた超巨大ブラックホールがものすごく明るいエネルギー放射の噴流に反応する現象をすばらしい宇宙花火として観測できるだろうとカルロス・フレンク(Carlos Frenk)さんは語っているということです。
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というのが,最新の研究だそうですが,どうせまたそのうちに別の学説が出てこの説も覆されることでしょう。
そもそも,そんな将来に人類が生き残っているなんてありえないだろうし,だれも実証できないわけだから,言ったもん勝ち,みたいなものです。であっても,こんな研究で「暇つぶし」ができるなんて,天文学はすてきな学問です。
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やっと晴れたか!春2021④-カシオペヤ座の新星
☆☆☆☆☆☆
亀山市の中村祐二さんが,2021年3月18日19時10分ごろに焦点距離135mmのレンズとCCDカメラを用いて撮影した画像からカシオペヤ座の中に9.6等の新天体を見つけたということです。これが今日の3番目の写真です。
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新天体の位置は散開星団M(メシエ)52の約0.4度南で,約5,500光年の距離にある新星類似型変光星(nova-like variable)「CzeV3217」が新星爆発によって急激に明るくなったものと考えられています。
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新星類似型変光星はこれまで新星爆発を起こしたことがない変光星,つまり,新星予備軍のことです。
通常,新星はそれほど明るくなく,彗星のように美しくもないので,私は撮影しないのですが,今回の新星は6等星から7等星と明るいので,写真に収めようと出かけることにしました。新星のある位置は,夕方と明け方3時以降なら結構高い高度にいることと,月が沈むのが午前3時過ぎなので,快晴だった3月24日の午前3時過ぎに,家の近くの河川敷にでかけて,焦点距離35ミリのレンズでカシオペア座を入れて写すことにしました。それが今日の2番目の写真です。
快晴とはいえ,また,月明かりがなくなった時間とはいえ,都会の光で空は明るく,やっとカシオペヤ座のWにあたる2等星が肉眼で見えるくらいだったのですが,帰宅してからコンピュータ処理をすると,写真のように多くの星が浮かび上がり,新星を特定できました。
なお,1番目は以前望遠鏡で写した新星の近くにあるM52です。当然,新星は写っていません。
新星と超新星は異なります。
超新星(supernova)は,新星よりはるかに明るく輝くもので,核爆発によって,白色矮星のすべてが吹き飛ばされる「Ⅰa」型と太陽の約8倍以上の質量をもつ恒星が一生の最後に起こすⅡ型,「Ⅰb」型,「Ⅰc」 型があります。
新星(nova)は,白色矮星と赤い恒星からなる近接連星において,赤い恒星から白色矮星の表面に降り積もったガスが起こす核爆発によって白色矮星が急激に明るく輝く現象です。つまり,新星というのは,新しい星が誕生するのではなくて,すでに一生を終えて白色矮星なった恒星が再び輝く現象です。
新星は,天の川銀河で 1 年に数個程度発見されていますが,発見されないものも含めると1年に数10個程度の新星が出現していると推測されています。新星は絶対等級約マイナス7等星からマイナス9等星ほどの明るさで輝き,数十日から数年かけて次第に暗くなっていきます。
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ところで,「Ia」型の超新星と新星の原因となる白色矮星ですが,白色矮星というのは、太陽の約8倍以下の質量をもつ恒星が一生を終えた後に残される白く小さい星です。大きさはせいぜい地球程度ですが,質量が太陽程度もあるため,表面の重力は地球上の数10万倍におよびます。白色矮星と赤い恒星から成る接近連星で,赤い恒星から白色矮星の表面に降り積もった主として水素とヘリウムからなるガスは,白色矮星の表面でその強い重力によって圧縮され,次第に温度が上がっていき,やがて,降り積もったガスの温度が1億度程度になると爆発的な水素核融合が起こり,その結果,急激に明るく輝き出します。この爆発現象が新星爆発です。
新星爆発によって降り積もったガスは吹き飛ばされ,白色矮星は次第に暗くなり元の状態に戻ります。こうした新星爆発では,白色矮星はそのまま残されるので,再び普通の恒星からガスが降り積もることにより,この新星爆発は繰り返されることになります。しかし,再び爆発を起こすまでの期間は数千年以上なので,同じ白色矮星が再び新星として観測されることはほとんどありません。
しかし,白色矮星の質量が太陽質量の1.3倍程度と大きく,また,となりの恒星が赤色巨星である場合,10年から数10年程度で爆発が繰り返されることがあります。これが回帰新星(反復新星)です。回帰新星(反復新星)の場合は,水素核融合によってつくられたヘリウムが白色矮星の表面に残り,少しずつ質量が増加します。やがて,太陽質量の約1.4倍に達すると,白色矮星全体が核爆発を起こして吹き飛ばされ,「Ⅰa」型の超新星,または,重力崩壊して中性子星になると考えられているのですが,はっきりしたことはまだよくわかっていないそうです。
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思えば私の原風景③-「宇宙大作戦」オリジナル
私が子供のころ,「宇宙大作戦」というドラマが放送されていました。「宇宙大作戦」とはまたダサい名前で,原題は「Star Trek」でしたが,当時はそんなことまったく知りませんでした。この時代,「スパイ大作戦」という人気のあるドラマがあって,これにあやかってつけたのだと思うのですが,そのころの日本の大人の垢抜けない趣向がわかります。
蛇足ですが,「スパイ大作戦」もまた,原題は「Mission Impossible」です。「実行不可能な指令」という感じ。なお,「Star Trek」の「Trek」とは「困難な旅」という意味なので「星への困難な旅」ですが,「トレッキング」という言葉は日本語としても定着しています。
「宇宙大作戦」はアメリカのSFテレビドラマで,NBC系列において1966年から1969年まで全3シーズンが放送されました。
その後,劇場版やテレビ版の続編などが制作されましたが,私は劇場版や続編にはあまり興味がなかったので,ほとんど知りません。それは映画化された「Mission Imposible」もまた同様で,はじめにテレビで放映されたころの素朴さこそが場末の劇場で大衆演劇を見ているようで,しかも,想像力が掻き立てられるのでよかったのです。
コンピュータグラフィックなどを駆使することで,もともと現実にはありえないことにリアリティさを求めてしまうと,私はついていけなくなります。それに,宇宙人がキモかったし。
そのオリジナル版の「宇宙大作戦」が今「スーパー!ドラマTV」 で土曜日の朝放映されているので,興味深く見ています。子供のころの記憶というのはすごいもので,今でも覚えていることがたくさんあります。
まず,冒頭のナレーション
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宇宙,それは人類に残された最後の開拓地である。そこには人類の想像を絶する新しい文明,新しい生命が待ち受けているに違いない。これは人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立った,宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の驚異に満ちた物語である。
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です。当時は二か国語放送がなかったので,元のセリフがわかりません。調べてみると,実際は
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Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its five-year mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before.
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でした。
話が脱線しますが,「スパイ大作戦」でも同様に
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例によって,君,もしくは君のメンバーが捕えられ,あるいは殺されても,当局は一切関知しないからそのつもりで。なお、このテープは自動的に消滅する。成功を祈る。
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という有名なセリフがありますが,これもまた調べてみると
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As always, should you or any of your IM force be caught or killed, the Secretary will disavow any knowledge of your actions. This tape will self-destruct in five seconds. Good luck, Jim.
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でした。これは,以前ブログに書いたことがありますが,再掲しました。
思えば,宇宙好きでアメリカ好きの私の原風景がこれでした。
「宇宙大作戦」や「スパイ大作戦」を子供ころに見ていて,どうしても理解ができなかったのは,どうしてアメリカのドラマはこんなに暴力シーンが多いのかということと,やたらと偉い人が威張っているのかということ,そして,これほど冒険心が強いのか,ということでした。それからいろいろと経験して,これこそがアメリカなのだということがとてもよく理解できるようになりました。
そしてまた,「宇宙大作戦」で最も印象に残っているのは,どの回だったのかは忘れましたが,ある惑星では,そこに生存する生物が進化しつくして肉体を超越してしまい,生命がエネルギーだけになったというものです。それは,当時,私が進化について思っていたことと同じだったので驚いたことがあります。「2001年宇宙の旅」(2001: A Space Odyssey)でも同じようなことを「モノリス」(Monoliths) として描いているらしいのですが,私はその映画を見たことがありません。
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私の世代はだれしも「宇宙大作戦」に夢中になったようです。
1976年アメリカでスペースシャトルが開発されたとき,その1号機OV-101に, 1976年のアメリカ合衆国憲法発布200年を記念して「コンスティテューション」(Constitution=憲法)と名づけられる予定だったのが,「宇宙大作戦」に出てくる宇宙船「エンタープライズ」(Enterprise)の名前をつけてほしいという手紙が多数届けられたために,当時のジェラルド・R・フォード(Gerald Rudolph Ford Jr.)大統領によってこの名に替えられたということです。
現在,スペースシャトル「エンタープライズ」はニューヨークの「イントレピッド海上航空宇宙博物館」(Intrepid Sea, Air & Space Museum)に展示されています。私も,2013年ニューヨークに行ったとき,この機体を見ることができました。
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人間界では思いつかない手-将棋の神様はいるんだね⑤
3月23日に行われた第34期竜王戦ランキング戦2組,藤井聡太二冠(王位・棋聖)対松尾歩八段戦をABEMAで観戦しました。おそらく藤井聡太二冠が勝利するだろうと,はじめのうちは「ながら見」をしていたのですが,それがそれが,手に汗握る好局となり,途中からは見入ってしまいました。
評価値が80パーセントであっても,藤井聡太二冠の将棋は,つねに,正解手を指せば80パーセント,それ以外は逆転といった,クレパスを避けながら歩くような感じ,あるいは,薄氷を踏んで歩くということになるので,最後までハラハラどきどきです。
この勝負もまた,57手目にただでとれる飛車をとらずに▲4一銀と銀をただで捨てるという手を指さなければ勝負がどう転ぶかわからなかった,という緊迫した局面になりました。
この対局は,解説の藤森哲也五段の話術がとてもおもしろくて,好局に花を添えました。藤森哲也五段曰く,将棋AIが示す正解手▲4一銀は「人間界では思いつかない手」だそうです。プロが思いつかないというのだから,それを藤井聡太二冠が指せば,それは神話になります。
ということで,ここが最大の見どころとなりました。
この手以外にも,同じように,こんな手は並みの人間には指せない,というものが,実際に出てきたものと読みの中だけで出てきたものを合わせてふんだんにあって,酔いしれました。おそらく,こんな将棋を見せつけられたら,ほかの棋士は脱帽でしょう。頭の中,というか,才能が違い過ぎるのです。
藤井聡太二冠の将棋はABEMAで中継されるので,そうした並はずれの棋力を生で体験することができます。だから,これを見たほかの棋士はその力の差を実感してしまうので,実際に対局するとき,戦う前から脱帽し,勝てなくなってしまうのでしょう。
と,ここまでは将棋のお話でしたが,私がそれ以上に興味があったのは,コマーシャル契約をしたサントリーと不二家の商品の扱いでした。まず藤井聡太二冠のカバンから出てきたのは不二家のチョコレート「ON」でした。これをむしゃむしゃ。箱はしっかり横に置かれていました。そして,▲4一銀を指して優位が確定したころに取り出されたのがサントリーの「伊右衛門」。飲み終えると,ラベルがカメラに見えるようにさりげなく置かれました。そして,それ以外の飲み物はコップに注がれて,カバンにしまわれました。
今後,藤井聡太二冠はこうしていつも,不二家以外のお菓子とサントリー以外の飲み物を食べたり飲んだりするのに気をつかわなければならないのかな。将棋だけでも大変なのに,こんな余計な気を使わなければならないのも大変なことだなあと思ったことでした。もういっそのこと,ぽこちゃんの着ぐるみでも着て,あるいは,伊右衛門の恰好でもして対局したらいかがでしょうか。
新年度はまず不二家が主催する叡王戦でタイトルとらなくっちゃね。しかし,タイトルを保持している王位戦は「お~いお茶」がスポンサーなんですけど,どうするのでしょう?
思えば私の原風景②-「やさしいビジネス英語」終わる。
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杉田敏さんが担当する「実践ビジネス英語」がこの3月をもって終了するそうです。
この番組の前身は「やさしいビジネス英語」でした。1987年4月にはじまったのですが,私は,この番組をそのはじめから聴きました。今とは違って,月曜日から土曜日まで毎日20分間の放送で,毎日異なる内容でした。テキストも分厚く活字もとても小さなものでした。
「やさしい」とは名ばかりでまったくやさしくなかったし,内容はとても濃いもので,今から思うと,よくもまあ,毎日聴いていたものだと思います。それも,録音して,速度を早くして,何度も何度も聴き返しました。テキストには真っ黒になるほど書き込みをしました。当時は知らない単語ばかりで,英語というのは,こんなに勉強しなければならないものなのかと思いました。たとえば,今は当たり前となった client など,そのころ日本ではまったくなじみがない単語だったのですが,そういった言葉をたくさん覚えました。
思えば,この講座が私の英語の原風景だったのです。
やがて,1996年以降は,10月から翌年の3月までは4月から9月までの再放送となり,実質,内容が半分に削減されました。そして,2002年4月からは,番組名が「ビジネス英会話」となり,放送時間も15分間に短縮されました。
2003年3月,杉田敏さんはこの番組の講師を辞め,2003年4月からは、田中宏昌さんに代わり,放送の内容も,月と火,水と木,金と土は同内容といった現在のスタイルに変わりました。つまり,またその半分に削減されたわけです。そして,その翌年には講師が日向清人さんに代わりました。
杉田敏さんの時事英語の要素満載のころとは内容も変わり,大学教養課程などの「ビジネス英語」,つまり,How to ものになり,それは私にはまったく興味のないものだったので,聴くのをやめました。実際,リスナーにも賛否両論があったようで,おそらく杉田敏さん待望論が高まったのでしょう。2004年10月から,再び杉田敏さんに講師が戻りました。その結果,日向清人さんは辞めさせられたのでしょう。その後,NHKの語学番組批判を繰り返すことになります。
ともあれ,視聴者には杉田敏さんのカムバックが受け入れられて,それ以来,この3月まで長く続いたわけです。ただし,2008年4月からは名前が「実践ビジネス英語」となり,水,木,金の3日で放送されていました。そして,別の講師が担当する「入門ビジネス英語」がはじまりました。
私は,このごろは,テキストもなく,単にインターネットから気が向いたときに聞き流すだけになりました。それでも十分にわかるようになったのは,私の英語力が伸びたというより,内容が簡単になったのだろうと理解しています。つまり,私には物足りなくなってしまっていたのです。
アマゾンのこの講座のテキスト購入サイトに,次のようなコメントがありました。
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今月で番組が終了と知り寂しい気持ちです。「やさしいビジネス英語」のころから,途中,中断は何度かありましたが,長い間本当にお世話になりました。「やさしいビジネス英語」ってタイトルなのに,私にとっては全然やさしくないレベルで何度も何度も繰り返し聞いてやっと理解できるものでしたが,このごろやっと、あれ? いつの間にかさらっと聞き流せるようになってる! と気がつきました。
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やっと終わるか,いささか遅すぎたという感じ。
「ビジネス英語」というわりには経済,先端テクノロジー,産業全般,国際情勢にまるで弱い内容で,正直,これを読んでる人ってどういう立場の人だろうといつも不思議に思っていた。
現代の生の英語がバンバン飛び込んでくる環境で,お爺ちゃんどうしの茶飲み話のようなこの講座は存在価値がなくなっていた。
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このふたつのコメントはともにまさに的を得て(「的を得る」は「的を射る」の誤用ではありません!)います。つまり,講座に対する要望が異なるのです。
実は,番組名の「ビジネス英語」というのは,看板に偽りありで,時事英語を題材としたビニエット(Vignette)を聴いて,学校ではあまりなじみのないような単語を覚えるという番組なのです。だから,ビジネスの現場で英語を使いたいからという目的で聴いても役には立ちません。そういった,日本流のカルチャーセンターや資格試験のための講座ではなかったからです。むしろ,私のような,英語は,まったく仕事とは無関係で,単に暇つぶしの教養として,また,ときに海外旅行をするために必要なだけの人間には,とても頭の体操となるものでした。おそらく,今の聴視者の多くは,杉田敏さんとともに齢をとり,今となっては,私のような年寄りが暇つぶしに聴いているファンが多かったのだと思います。コメントで「これを読んでいる人ってどういう立場の人だろう」と不思議に思った人,こういう立場の人たちなのだよ。あなたもいつかは歳をとる,そのときわかる。老人は暇なのです。そして知識に飢えているのです。ただし,このごろは,杉田敏さんも,お若いころの新鮮さや内容の斬新さがないなあ,時代についていっていないなあとは感じていましたが…。
いずれにしても,日本の,他人と比べ点数を争うような,あるいは,英語検定に合格することを英語力とみなすような,悪しき教育に毒された人たちからみれば,後者のコメントのような意見になるわけです。「ラジオ英会話」という番組もまた同様に,現在の「ラジオ英会話」は松本亨さんがやっていた流れをくんだおおらかな内容から,すっかり学校のお勉強講座と変わりました。その代わり,従来の「ラジオ英会話」は「英会話楽習」と名を変え,存続しているのが、わずかばかりのNHKの良心というものか。
そもそも,語学に限らず,すべての能力は,基本は紙の上で学べても,その先は実践を積み,失敗し恥をかかなけれらば身につかないものです。点数で測れるものではないのです。しかし,そうした根本的なことがこの国ではわかっていないから,教育に金を出さない代わりに口を出し,入試改革ばかりに時間を割いて塾を繁盛させるといった,「お勉強」と称した点取り合戦となるわけです。その要望に応えるために,こうした講座もまた「お勉強」と化するのです。
しかし,そうした日本の教育で「優秀」とされ「一流」の大学を出た人たちが作っているこの国の今日の劣化を見ても,それが正しくないということは容易にわかることと思います。おそらく,有事が起きても,紙の上の知識があるだけで,何もできないことでしょう。今のコロナ禍がそれを実証しています。それは,車がパンクしたとき,修理をする方法を本で学んで知っていても,実際に手を汚して直せないようなものと同じだからです。
何はともあれ,受験もなく資格もいらない,しかし,金はなく時間ばかりが有り余る私のような現役を引退した不良老人にとって,「人生暇つぶし」の格好の番組がまたひとつなくなることが,寂しい限りです。
◇◇◇
火山の噴火-なぜか懐かしいアイスランド②
火山の島アイスランドで火山が噴火したそうです。場所はファグラダルスフィヤル火山(Fagradalsfjall MASSIVE Volcano)ということで,空港と首都レイキャビック(Reykjavik)の間です。私は行ったことあります。
この火山の影響で,レイキャネス半島南西部の高速道路を避けるよう指示したということですが,この道を走らないと空港から首都へ行けません。この道路はアイスランドには珍しい複数車線のある道路です。
BBCのニュースによると
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アイスランド気象局は19日,首都レイキャビックから約30キロメートル南西にあるファグラダルスフィヤル火山が噴火したと発表した。 気象局によると,レイキャネス半島に位置する火山に噴火で出来た割れ目は全長約500メートルから700メートル。この火山が噴火するのは約800年ぶりという。
(中略)
火山から約8キロメートルのクリンダヴィクに住むランヴェイク・グドムンスドッティルさんは「赤く光る空が窓から見える」「周りの人はみんな車で近くまで見に行っている」とロイター通信に話した。
アイスランドは反対方向へ遠ざかる2つのプレートをまたいでいるため、地震が起こりやすい。
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ということです。
地図のように,レイキャネース半島(Reykjanes)はアイスランドの玄関口ケフラヴィーク空港(Keflavik)のあるところです。
この半島は,多くの旅行者には空港とブルーラグーンがあるだけのように思われていますが,ここにも,世界でまれな地質現象がいくつもみられます。
そのひとつは,ブルイン・ミットリ・ヘイムサゥルヴァ(Bruin Milli Heimsalfa)。これは,地球の表面を構成しているふたつのプレートが隣接する場所です。
ふたつ目は,グンヌヴェル(Gunnuhver)。ところどころ黄色や白色のまだら模様で毒々しく色づく地熱帯です。硫黄泉の匂いがする煙が立ち上り,泥だまりから勢いよく気泡が噴き上がり,現在も活動をつづけています。
そして,三つ目が,エルデイ島(Eldey)。高さ77メートルの巨大な岩礁です。大西洋最大のシロカツオドリの繁殖地として有名で,よく写真にも出てきます。さらに,元祖ペンギンともいうオオウミガラスが1844年にこの地で最後のつがいが殺されて絶滅した場所でもあります。
この半島は,私が行ったときにはレンタカーで簡単に1周することができました。今となってはとても懐かしいところです。日本からは地球の裏側なのに,なぜか,今すぐにでも行くことができるような身近な感じがするのが不思議です。
私が「憧れの3ランド(ランズ)」と名づけ,実際に行ってみたアイスランド,ニュージーランド,フィンランドです。どこも自然が多く,人が少なく,治安もよく,私には憧れの国でした。日本とはまるっきり異なっていて,ほんとうにどの国も落ち着いたすばらしいところです。また,精神的にも物質的にも日本よりずっと豊かです。しかし,アイスランドは火山の噴火,ニュージーランドは地震,フィンランドは寒い,ということで,自然に恵まれているその裏には自然との過酷な戦いがあります。
考えてみれば,日本は,アイスランドやニュージーランドよりも火山も地震も多く,しかも,アイスランドやニュージーランドやフィンランドのような雄大な自然もなければ,どこも人らだけゴミだらけです。さらに,今や,政治も劣化し,これら三つの国に比べて新型コロナウィルスへの対応も非常にまずく,もう,救いがありません。
「憧れの3ランド(ランズ)」にまた出かけられる日が来ますように。そしてまた,アイスランドの噴火が早く収まることを祈っています。
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AFP=時事によると,噴火の様子を見ようと,好奇心旺盛な人々が大勢集まり,真っ赤な溶岩に驚嘆の声を上げたり,残った火でホットドッグやマシュマロを焼く人もいたといいます。
ちなみに,いち早く国民全員にPCR検査を実施したアイスランドでは,2021年は感染者はほぼ0で推移しています。
2021年の春が来た。③-佐和山城登頂
すっかり春らしくなった3月18日,人のいないところをハイキングしようと,佐和山城に向かいました。
昨年の今ごろは「麒麟がくる」の影響も手伝って,近場の山城にずいぶん登りました。その多くは標高400メートルほどでしたが,けっこう大変でした。しかし,ほとんど人もいないので,快適な気分になれました。今年も同じ気持ちを味わいたくなったのです。
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国道8号線を西に走って米原を過ぎ,彦根に向かうとき,彦根市内の手前のところにトンネルがあります。トンネルを抜けた左手に奇妙な廃墟となった建物が見えてくるので,昔から気になっていました。
そこは,知る人ぞ知る「佐和山遊園」です。地元の建築業者である泉巌さんが佐和山城を模したテーマパークを構想し,1976年(昭和51年)に着工したものだそうです。
泉巌さんの父・惣一さんは能を近所の方に指導していた方で,石田三成の伝承を聞いて育った巌さんは佐和山城をいつか再建することを自分の夢とし,建築業と飲食業を営む傍ら佐和山山麓にドライブインを開業,並行して佐和山築城に着手したといいます。
しかし,泉巌さんは2013年(平成25年)他界され,佐和山遊園は未完となりました。
私がこのあたりが石田三成の居城であった佐和山城があった場所だということをこれで知ったわけですが,実際の佐和山城は山こそ見えても,どこから登るものなのかさっぱりわからず,ずっと気になっていました。
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この地は,畿内と東国を結ぶ要衝であり,軍事的にも政治的にも重要な拠点でした。16世紀の末には織田信長配下の丹羽長秀,豊臣秀吉の奉行石田三成が居城とし,関ヶ原の合戦後は井伊家が一時的に入城しましたが,彦根城を作ってのちは廃城となりました。
石田三成が佐和山城主に任じられて北近江4郡を与えられたのは1595年(文禄4年)で,当時荒廃していた佐和山城を大改修して,山頂に五層の天守を築き,「三成に過ぎたるものがふたつあり 島の左近と佐和山の城」といわしめたといいます。ただし,城内の作りは極めて質素で,城の居間なども大抵は板張りで壁はあら壁のまま,庭園の樹木もありきたりで手水鉢も粗末な石だったといいます。
佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため,今は何も残っていません。名残をとどめているのは,石垣の一部,土塁,堀,曲輪,千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡,塩櫓跡です。
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現在,城跡は麓の清凉寺や龍潭寺の所有する山で,龍潭寺の駐車場に車を停めて,そこから山門をくぐり,寺の脇の墓地を通り過ぎて登ることになります。数か月前に行ってみたときは。早すぎて山門が閉じられていたので,再び来てみたわけです。
この日は,午前9時過ぎの到着だったので,山門は開いていました。
ここから結構急な坂を上ることになります。1番高いところで標高が233メートルということだったので,甘く考えていましたが,結構大変でした。齢のせいか,このごろ足がもつれます。もうだめです。それでも,なんとか登頂しました。
山頂にある高台は,天守のあとで,ここから彦根市内や琵琶湖が一望できました。400年以上前に石田三成も同じ景色を見たのでしょうか。
2020春アメリカ旅行記-早朝のモロカイ島⑨
●シュガーミルの跡地にある博物館●
カラウパパ展望台とファリック・ロックへ行った帰り,予定通り,来るときは通り過ぎたモロカイ・ミュージアム&カルチャーセンター(Molokai Museum and Cultural Center)という博物館を訪ねることにした。 ここは,1878年から1889年の11年間稼働していたハワイで最も小さいシュガーミル,つまりサトウキビ工場の跡が博物館として公開されているところである。
マウイ島にもアレキサンダー&ボールドウィン砂糖博物館(Alexander & Baldwin Sugar Museum)があって訪れたことがある。ここはそれとは比べものにならないくらい小さな博物館だったが,それでも,モロカイ島では唯一の博物館であった。屋外は無料で見学できるが,館内は入館料が必要であった。しかし,クレジットカードは使えず,また,館内は撮影禁止,というように,まるで日本の時代遅れの博物館のようなところであった。
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ハワイには,ポリネシア人がやってきたころからサトウキビは存在した。サトウキビはハワイ語ではコー(Kō)という。コーは甘味料としてだけでなく,薬としてカフナ(Kahuna=ハワイ語で聖職者,魔術師,牧師や,職業における熟練者のこと)に用いられた。また固い葉は屋根を葺く材料に,ススキのような花の部分はレイにと,様々な用途に利用されていた。
砂糖産業は,1835年,西欧人によるカウアイ島コロアでの砂糖キビ栽培にはじまる。1848年にカメハメハ3世が行なった土地の分配「グレート マヘレ」(The Great Mahele)により土地の個人所有が認められ,砂糖キビは西欧人による砂糖プランテーションでの大規模栽培に変化していった。特にはハワイ島では土地が広く,また高山から流れ出るいくつもの水源に恵まれたため,島の北端ノース・コハラからハマクア・コースト,そして,島の南部カウに至るまでの広大な範囲がサトウキビ畑として開墾され,最盛期には20を越える砂糖精製会社があったという。
しかし,20世紀後半,南米などで価格の安い砂糖が台頭した事からハワイの砂糖産業は衰え,1996年にパハラの製糖工場が閉まったのを最後に,サトウキビ・プランテーションはハワイから姿を消していった。
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ばらばらとだが,観光客が途絶えることなくやって来た。というのも,モロカイ島で観光地といったところで,ここくらいしかないのであった。館内では,シュガーミルについてのビデオの上映がはじまっていたので,まず,それを見た。館内にはそれ以外に,地元の芸術品や工芸品を販売するギフトショップやペトログリフからプランテーション時代の家具までの折衷的な展示もあった。 壁にはハワイの首長であるカラマと結婚したドイツの測量士である製粉所の創設者ルドルフ・W・マイヤーの孫娘を含む肖像画が並んでいた。
ビデオと館内の展示を見てから,外の展示を見た。
1878年に建てられた製粉所は,博物館から上り坂を歩くと,かつてサトウキビを粉砕する機械に動力を供給していたミュールの周りを回る納屋のような製粉所と屋外ピットが見えた。ここでは,ミュールが駆動するサトウキビ粉砕機や蒸気機関など,砂糖を製造するプロセスを垣間見ることができた。
やっと晴れたか!春2021③-月と国際宇宙ステーション
☆☆☆☆☆☆
このところ,ドクターイエローと国際宇宙ステーションの動画と写真ばかりを写しています。お金もかからず,近場で楽しめ,人と会わないので,最高です。しかも,奥が深いのです。
ところで,私が「撮り鉄」が嫌いなのは,第一に群れること,第二に道徳心がないこと,それが理由です。ひとりで楽しめばいいのに,群れて行動しています。さらには,場所を占有したり,田んぼに入り込んだりと,傍若無人です。
幸い,私の家のベランダから新幹線が見えるので,家から写しているときは平和なのですが,いざ,近くで写そうと架線に近づけば,ドクターイエローが走る日は,カメラと三脚をもった人たちが群れていて気がめいります。私は地元なので,それでも,人が近づかないところを知っているからよいのですが,これには参ります。だから,私は,間違っても「撮り鉄」にはならないのです。
さて,今日の本題である国際宇宙ステーションです。
3月は日が沈んで暗くなってきたころに,ちょうど月がいい位置にあって,連日,月の近くに見ることができます。しかし,毎回なんらかの条件がちがうので楽しいです。しかし,予習もできず,どのように見えるのか皆目見当がつかず,いつもぶっつけ本番なので大変です。
3月17日は,なんと,月の欠けた部分の表面を通り,しかも,太陽と国際宇宙ステーションの位置関係で,月の表面に来るまではまったく見えず,月を通過するときだけ一瞬明るく見える,というとんでもないものでした。このときにどうにか写した写真はすでにこのブログに載せましたが,露出が不足だったので,国際宇宙ステーションが暗くしか写らず,悔いが残りました。
国際宇宙ステーションの撮影には,長時間露出して動く軌跡を写したり,拡大して写したり,動画で写したりと,いろんなパターンがあります。長時間露出で写す場合は,空の明るいところでは,露出オーバーで白くなってしまい,暗い星が写りません。そこで,短い時間の露出を繰り返して,あとでコンピュータで合成するという方法をとることにになります。拡大して写す場合は,その位置を正確に把握しておく必要があります。また,動画で写す場合,私の持っているカメラでは,1コマあたりのシャッタースピードを30分の1秒より遅くできないので,ISOと絞りを工夫して,なるベく暗い天体まで写るようにしなけばなりません。
さらに,今回の写真のように,月と一緒に写真に入れて写すには,月の模様が写る適性露出で,しかも,国際宇宙ステーションも写らなければならない,という条件になるので,結構きついです。
3月19日。この日はもともとは写す気がなかったのですが,「きぼうを見よう」というサイトを検索していたら,私の住んでいるところで,国際宇宙ステーションが月の表面を通るというのを見つけて,急にやる気になりました。しかし,「ステラナビゲータ」で詳細に調べ直すと,どうやら私の住んでいるところでは,月の表面からは少しずれているようでした。そこで,さらにより詳しく調べてみると,今回,月の表面を通過するように見える場所は,北緯35度20分から北緯35度22分の帯状のところだとわかりました。
これまで私は知らなかったのですが,月の表面を通るように見える場所というのは,これほど狭い場所に限るわけです。これには驚きました。そこで,その条件に適したところで写さなければなりません。Google Map を使って,緯度を特定して,しかも,なるべく空の暗いところをいくつか探しだして,下見までしてきました。そうして見つけたのが,家から車で30分行った河川敷のキャンプ場でした。
今回は,動画と拡大写真を写すことにして,機材を用意しました。
そして,現地に到着したのが18時39分。快晴でした。
国際宇宙ステーションは,予報通り18時56分20秒過ぎに月をかすめ,さらに火星に接近して飛行していきました。とてもきれいでした。
この日は,国際宇宙ステーションを動画で写すのに成功しました。中央右上の星が火星,左上端の星がアルデバランです。そして,同時に別のカメラで写真も写しました。私の持っているのは,安価で貧弱な機材でしたが,それでも,なんと国際宇宙ステーションの形も写りました!
本当は長時間露出をした写真も写したかったのですが,さすがに一人三役は無理なのであきらめました。 また,月の上を通過している国際宇宙ステーションもも捉えたつもりだったのですが,家に帰って写真を調べてみても写っていなくて,それだけがショックでした。
しかし,それはそれとして,今回はとても満足しました。大した機材もなく,お金も手間もかけないのに,結構いろいろと楽しめるものです。何事も机上の知識だけではなく経験が大切です。
2020春アメリカ旅行記-早朝のモロカイ島⑧
●ファリック・ロック●
駐車場まで戻った。駐車場からはまっすぐに舗装されたトレイルが先に行ったカラウパパ展望台で,左手の舗装されていないほうのトレイルは,ファリック・ロックが目的地である。ということで,今度は左手のトレイルを歩くことにした。
別のトレイルを行きました。このトレイルは松林のなかの山道で,オーストラリアの岩しかない国立公園に似た感じだった。どうも私はこういうトレイルを歩く楽しさがわからない。おそらく,それはそれで,岩の種類だとか松林の様子だとかにも味わいがあるのだろうが,そうした知識がないのである。おそらくそれは満天の星空も同様であろう。
5分ほど行くと,高さが2メートルほどのファリック・ロック(Phallic Rock)という特別な岩に到着した。この岩は別名を「ナナホアのペニス」(Ka Ule O Nanahoa)という。名前のごとくの形状をしている。
伝説によれば,ナナホアは妻のカワフナを嫉妬深い怒りで殴ったことでペニスのように見える石に変わってしまった。
実際は,石はその外観を強調するために何年にもわたって修正されてきたのだそうだ。 レイの供物を持ってここに来て一晩滞在する女性は妊娠すると言われているという。
こういう話は世界中さまざまなところにあるものだ。
私の住むところの近くにも,田縣神社がある。境内には男根をかたどった石などが多数祀られていて,毎年3月15日に豊年祭が行われる。男達が大男茎形(おおおわせがた)とよばれる男根をかたどった神輿を担いで練り歩き,小ぶりな男根をかたどったものを巫女たちが抱えて練り歩く。それに触れると子を授かるという伝承がある。
この祭事は,男根を「天」,女陰を「地」と見立て,「天からの恵みにより大地が潤い,五穀豊穣となる事と子宝に恵まれる」事を祈願するものである。
また,少し離れた場所に大縣神社があり,豊年祭が田縣神社とは対になっており,こちらは女陰をかたどった山車などが練り歩く。
要するに,日本では,五穀豊穣を祈るお祭りなのであるが,ハワイでは,単に,この岩の形状からそういう話になったように私は思う。
☆ミミミ
3月18日19時42分,国際宇宙ステーションが月の近くを通っていきました。写真は17コマの合成です。明日は18時55分に,また,月を横切り,火星の横を通っていきます。
2021年の春が来た。②-桜咲く。
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「花鳥風月」といいます。花鳥風月を英語に訳すと「beauties of nature」となる,などと書かれていますが,それでは味も素っ気もありません。そして,この言葉にある深い意味合いは,まったく表出されていません。
「花鳥風月」とは,表面的な意味では「美しい自然の景色」のことで,「美しい自然の景色」とは,山や川,花や木といった自然以外にも,虫や鳥などの動物も自然のものとして捉えた景色を表しています。その昔,貴族や武家たちが自然の景色を詩歌にして楽しむ遊びであった「花鳥風月」が語源とされていて,「自然の景色を表現して楽しむ遊び」が意味が転じて,「美しい自然の景色」をこころで感じることを表す言葉となっているわけです。
このように,「花鳥風月という言葉は,「花鳥風月を友とする」とか,「花鳥風月を愛でる」のように,自然の景色が美しいことに加えて,それを楽しんでいることも合わせて表現しているわけです。つまり,「feelings to enjoy beautiful nature」です。
春。この時期の「花鳥風月」の代表はやはり桜です。
私は,桜といっても知っていたのはソメイヨシノくらいのもので,若いころはまったく風流でなかったのですが,このごろ,桜にも多くの種類があることを知って,それを調べてみたくなりました。
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桜は,バラ科サクラ亜科サクラ属(Prunus subg. Cerasus)の落葉木だそうです。
基本野生種は,ヤマザクラ,オオヤマザクラ,カスミザクラ,オオシマザクラ,エドヒガンザクラ,チョウジザクラ,マメザクラ,タカネザクラ,ミヤマザクラ,クマノザクラの10種,あるいは,これにカンヒザクラを加えた11種で,これらから育成されたソメイヨシノなどの園芸品種が200以上もあります。
ではまず,基本野生種から。
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●ヤマザクラ(山桜)
ヤマザクラは日本で最も代表的な桜で,古くから詩や歌に詠まれているのは,この桜です。花と同時に葉が出るのが特徴で,吉野山の桜がそうです。
●オオヤマザクラ(大山桜)
オオヤマザクラはヤマザクラより花や葉が大きいことからこの名があります。寒さに強く北海道の山地によく見られます。ソメイヨシノなどと比べて濃いピンク色の花を咲かせます。
●カスミザクラ (霞桜)
遠くから見た様子が霞のように見えることに由来します。花柄に短い毛が生えているためにケヤマザクラ(毛山桜)ともよばれます。樹高は20メートルを超える高木で,花は大きさが小さく白色。
●オオシマザクラ(大島桜)
オオシマザクラは5枚で白色が多く,淡い香りがします。また葉の成長と一緒に花をつけ,丈夫で成長が早いという特徴があります。桜餅を包む塩漬けの葉はこのオオシマザクラの葉が使われています。
●エドヒガン(江戸彼岸)
エドヒガンの開花時期は,他の桜よりも10日ほど早いものです。楕円形の葉が特徴で,色は薄紅色から白に変わります。丈夫で花がたくさん咲きます。寿命が長く,岐阜県本巣市の根尾谷淡墨桜)は樹齢1,500年以上といわれています。
●チョウジザクラ(丁字桜)
別名はメジロザクラ。花は180度近くまで平たく開き,萼筒も長く,このとき横から見ると丁字のように見えることからこの名があります。
●マメザクラ(豆桜)
マメザクラは別名フジザクラともよばれ,樹の高さが低く,花径も小さく,白色から淡紅色で下向きに咲くのが特徴です。
●タカネザクラ(高嶺桜)
山岳地帯に生えることから別名はミネザクラ(峰桜)。日本に自生する野生種のサクラとしては最も寒さに強い種で,花期は遅く低地で最も早くて5月上旬です。
●ミヤマザクラ(深山桜)
別名をシロザクラといいます。花期は5月から6月上旬で,花は葉が完全に展開した後に咲き,側枝の先に長さ4センチメートルから8センチメートルの総状花序と花がつき,花序軸には褐色の毛が密生します。
●クマノザクラ
クマノザクラは2018年(平成30年)に新種と判断された紀伊半島南部が原産の固有種です。従来から紀伊半島南部にはこの地域に自生するヤマザクラやカスミザクラに似た早咲きのサクラが自生する事が確認されていましたが,これまでは独立した種として区別されていませんでした。
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●カンヒザクラ(寒緋桜)
カンヒザクラは沖縄でよく見られる桜で,次にあげる早咲きとして有名なカワヅザクラの片親です。花は赤紫色で,開花後,釣り鐘のように垂れ下がっていき、最後は花びらがついた状態で落ちます。
カンヒザクラは個体数が少なく,台湾から人為的に持ち込まれたのちに野生化したという指摘があるので,基本野生種に加えることに疑義があるそうです。
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次に,園芸品種のうちの代表的なものをあげます。
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●ソメイヨシノ(染井吉野)
ソメイヨシノは最も有名な桜で,日本固有のものです。江戸末期から明治初期に園芸品種として,当時の染井村の植木職人や造園師がオオシマザクラとエドヒガンを交配させてつくったとされています。
ソメイヨシノはすべてが挿し木や接ぎ木などでの繁殖で増やされたため,一斉に開花するのです。
● カワヅザクラ(河津桜)
カワヅザクラの花はピンク色,または淡い紅色で,樹皮は紫褐色で光沢があります。
カンヒザクラとオオシマザクラの自然交雑種とみられていて,静岡県河津町に移植されたことからカワヅザクラと名づけられました。早咲きとして有名です。花期は1か月と長く楽しめます。
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古来,宮人や貴族が「花の宴」で楽しんだのは山に咲くヤマザクラです。
今では桜といえばソメイヨシノを思い浮かべますが,登場したのは明治に入ってからです。葉より花が先に咲き乱れるという特性が評判をよび,人気が広がったといわれています。
全国に広がるソメイヨシノとは逆に,昔からあったサクラは封建時代のシンボルとして伐採されてしまい,この時に日本の名花の大半は絶滅したといわれています。昭和初期になると,ソメイヨシノの特徴である「パっと咲いてパっと散る」姿が軍人の心意気を示すとされ,兵舎や小学校にどんどん植えられていきました。
このように,調べてみるととても興味深いもので,満開のソメイヨシノの下で宴会をするなという無粋なことからは一線を置き,自然の中でさまざまな桜を楽しみたいものだと思いました。
☆ミミミ
3月17日20時29分,私の住むところでは,国際宇宙ステーションが月を横切るというので観察しました。どのように見えるのかもさっぱりわかりませんでしたが,予報通り,月の欠けたところを通過しました。月を横切るとき「だけ」一瞬肉眼でも明るく輝いて見えました。まさか見えるとは思わなかったので興奮しました。写真も写したことなかったけど,私の持っている機材ではこの程度ですが,なんとか写りました。
2021年の春が来た。①-金鯱がまた地上に
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春が来て,多くの人が外に出るようになりました。それは,気の緩みでもなければ,人間の自然な,当たり前な行為です。気が引き締まっている人は家にじっとしていて,気が緩んだ人が外に出るわけではないでしょう。
ところで,私には,地元であるだけにほとんど興味のない名古屋城ですが,というか,むしろ,見慣れてしまって何の感動もないダサいお城だと思っているのですが,先日,用事があって近くを歩いていると,2番目の写真のように,天守閣の屋根の上に足場が組んでありました。そして,いつも光輝いている名古屋名物の金鯱がないことに気づきました。
調べてみると,3月8日,金鯱はヘリコプターを使って地上におろされたということです。
疫病退散と復興への道に導くシンボルとして,2021年3月20日から4月2日まで「名古屋城金鯱展」を開き,名古屋城二之丸広場で,その次に,4月10日から7月11日まで「名古屋城金シャチ特別展覧」を開き,栄のミツコシマエヒロバスで展示するのが目的だそうです。さらに,「名古屋城金シャチ特別展覧」では,金鯱に直に触れることができるという話です。
現在の名古屋城から金鯱が降ろされるのは今回で3度目ということです,1度目は37年前の1984年で,このときは,名古屋城再建25周年を記念してのことでした。そして2度目は16年前の2005年で,この年に行われた「愛・地球博」と名づけられた万国博覧会の開会式に参加するためにおろされ,名古屋市内をパレードし,その後,名古屋城内で展示されました。私は,「愛・地球博」の開催は反対でしたが,開会式前に招待され,冷凍マンモスも見ましたし,オーストラリア政府主催のグループワークにも参加しました。また,名古屋城に出かけて,金鯱も見ました。それが今日の3番目から5番目の写真です。
そして,今回が3度目ということです。
金鯱にはある「特命」が課せられていて,それは,「コロナ禍の早期収束を願って,市民に感謝とエールを伝えて,少しでも早く元気になっていただきたいと思います」という話だそうです。
天守に鎮座するしゃちほこは,たとえば,2017年,犬山城のしゃちほこに雷が落ちてしゃちほこは壊れてしまったのですが,それ以上の被害がなかった,というような,もともと,城を火災から守る厄除けの意味がこめられていたと伝えられています。
京都の祇園祭は,869年(貞観11年), 当時,疫病が流行し大勢の死者が出る悲惨な状況であった京の町でしたが,それを神仏に祈願することで収めようとして祈った「祇園御霊会」が起源ということだし,それ以外にも,この国で行われている祭や,天守に置かれるしゃちほこなど,それらのもととなるのは,疫病退散。古来より,こうした天災に見舞われて,それを祈ることで何とかしようとしてきたわけです。科学技術が進んだと普段は自慢しているのに,いざとなれば,やっていることは昔と変わりません。
その気持ちはわからぬでもありませんが,密をさけよ,といっておきながら,こうした催しものをわざわざこの時期に行って,あえて密を作り出そうというお役人のやっている意味がわかりません。未だ,疫病を加持祈祷で沈めることができるとでも思っているのでしょうか。オリンピックもそうだし,Go To 何某もそうだし,えらそうに,気の緩みとかいっておきながら,もっとも気が緩んでいるのは,お役人だと私は思います。
春が来て,多くの人が外に出るようになるのは,人間の自然な,当たり前の行為です。しかし,私は以前から,美しい桜は静かに見ればよいのに,どうして桜「祭」にしたいのかずっと謎でした。それどころか,いくら「人生暇つぶし」であるとはいえ,あえてこの時期に,天守の上で輝き人々を見守る金鯱をわざわざ下ろしてこうした催しを行いたいのか,私にはさっぱり理解できないことでした。
こころに残っている小さな町①-クーナバラブラン
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昨年の3月までは当然のように年に何度も世界中を飛び回っていました。いつもいくつもの予定を抱えて,それが実現するのを楽しみに日々を送っていました。しかし,コロナ禍で,海外旅行もままならなくなってしまいました。
そのころのことを思い出すと,距離的には変わらずとも,精神的に世界はずっと遠くなってしまいました。しかし,病気の蔓延はあっというまに世界に広がり,人類は地球上のどこにも逃げ場がないのだから,地球も狭いものだと思います。そしてまた,いつも偉そうな人間もわずか0.1マイクロメートルごときの,マスクの網の目なんて簡単にすり抜けるウィルスにおびえているんだから大したしたことないんだなあとも思うようになりました。ざるでは水はすすくえません。
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さて,そんな,ある意味広く,また,別の意味で狭い世界。行くことさえままらない今,ふと懐かしくなるのが,なぜか,ほとんどの日本人が行ったこともないような小さな町の小さなお店のことです。住んでいる町のカフェですら,1度も入ったことがないところがたくさんあるというのに,こんなお店に,1度ならず,2度も,それも別の機会に入ったことがあるのが不思議です。
今日は,そんなお店の紹介です。
写真は,オーストラリア・ニューサウスウェールズ州の小さな町クーナバラブラン(Coonabarabran)にある1軒のカフェです。多くの日本人には,オーストラリアといえば,シドニーとかメルボルンで,こんな町があることすら知らないことでしょうが,むしろ,オーストラリアのほとんどの町はこの程度です。
こうした町は,メインストリート沿いに必要最小限のお店が並んでいて,町の中央にはスクランブル交差点があって信号機はなく,道路の端はどこも駐車ができる,という感じです。お店は午前9時から午後5時までというのが多く,それより遅いと開いていません。
クーナバラブラン,私はこの町,とても好きなのですが,町にあるカフェといえば,このお店くらいのものです。ということで,私は,2018年と2019年,ここに2度も入ったことがあります。
この先もいつでも行けると思っていたのですが,今となっては,それも幻のような気がして,とても寂しいです。
住民は郊外の広い家に住んでいて,静かで清楚で,町外れには広い美しい公園が広がっています。そして,夕暮れにでもなると,それぞれ好き好きに散歩をしたり,ジョギングを楽しんだりしています。
私は,こうした町にはじめて行ったとき,ここに住む人は何を楽しみに生きているのかな,と思ってしまいましたが,考えてみれば,日本人の生き方のほうがかなり異質なのかもしれません。今では,私もこうした町に行くと,公園のベンチで時間を忘れてぼーっとするようになってしまいました。
外国に出かけられない今,家の近くにこんなくつろげる場所がないものかと探してみるのですが,見つかりません。道路は狭く汚く,町も公園もゴミだらけで,落ち着けるところなんてまずありません。澄んだ川や池もないし,沈みゆく夕日をのんびり眺められるようなベンチすらありません。
私は,若いころから,静かなところに住んで,少し郊外に行けば夜は満天の星が広がっているような街灯のない平原があって,平日は朝の9時から夕方の5時まで残業は一切しないで働いて,別にお金などそれほどなくてもいいから,そしてまた,地位も名誉もいらないから,お休みの日は音楽を聴いたり本を読んだり散歩を楽しんだり,そんな穏やかな生活をおくることができるのなら,それで満足だとずっと思っていたのですが,日本にはそんな場所はどこを探しても存在しません。
…などと書いていたら,なぜか,悲しくなってしまいました。
2020春アメリカ旅行記-早朝のモロカイ島⑦
●未知なるカラウパパ●
カネミツ・ベーカリー&コーヒーショップで朝食をとり,昼食用にドーナッツを買ってお店を出て,今度は島の西側に行くことにした。今日は島の東側を観光し,明日は西側,という予定だったのだが,モロカイ島は思った以上に狭く,1日で周回できてしまうようだった。
島の形を右を向いたアユに例えれば,島唯一の町カウナカカイはおなかのところにあり,これから尾ひれの方向に向かうということになる。しかし,島の西側は,南の海岸線沿いにも北の海岸沿いにも道路がないので,カウナカカイから北上してひとまず北の海岸まで行き,そこから少し戻って右折して島の西側の内陸部を西に進むことになる。
北上する途中にあるのが,この島にやってきたモロカイ空港であった。このように,私は,2日目にしてやっと島のなかにあるもろもろの場所の位置関係がわかってきた。空港を左手に見てさらに北に進むと,クアラプウ(Kualapuu)という小さな町があって,その先にモロカイ・ミュージアム&カルチャーセンターというこれもまた小さな博物館が見つかった。
そこへは帰りに寄ることにして通り過ぎると,その先の突き当たりがパラアウ州立公園(Palaau State Park)の無料駐車場だった。これが島の北端である。駐車場には2,3台の車が停まっていた。つまり,私以外に観光客がいたということだ。私もそこに車を停めて少し舗装した道を歩くと,カラウパパ展望台(Kalaupapa Lookout)に到着した。
展望台からは右手に突き出した半島が眺められれる。その半島こそ,かつてハンセン病患者の人たちを隔離したカラウパパであった。カラウパパへはアクセスする道路はなく,海から行くか,空から行くか,あるいは,狭い山道をカラウパパ・ミュール・ツアーというもの参加してミュールで行くかしかないということだ。
ミュールというのは,馬とロバを交配させて生まれた動物で,それに乗って行くのだそうだ。このツアー,宣伝などどこにもなく,電話で申し込むという話のようだが,私が行った時期はシーズンオフで,ツアーも実施されていないようだった。というか,本当にやっているのだろうか? と,後日調べてみると,2018年12月より土砂崩れの影響によってトレイルが閉鎖中のため現在ツアーは催行されていない,ということであった。
この先は,当然,行かなかったからわからないが,カラウパパについて調べたことを書くことにする。地図と写真は Google Maps からの引用である。
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カラウパパへは3マイル,約5キロメートルの道のりで,26回ものスイッチバックを経て90分壮大な景色の中をミュールに乗って歩いくと,ハワイで最も人里離れた集落のひとつである歴史的な町カラウパパの海面に到着する。カラウパパは風光明媚で,孤立した場所である。
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そうか,本当のハワイ通になるには,このカラウパパと,禁断の島ニイハウ島に行く必要があるわけだ。ともに行ったことがある日本人は何人いるのだろうか?
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カラウパパは,かつて,ベルギーの宣教師であった聖ダミアン(Saint Damien),そして,その後継となった聖マリアンヌコープ(Saint Marianne Cope)が献身的につくした場所であった。
1873年,ダミアン神父は,カラウパパに追放されたハワイのハンセン病の住民の世話をするためにやってきた。16年間の忠実な奉仕の後,ダミアン神父もまた,この病気に屈し,カラウパパの聖フィロメナローマカトリック教会(St. Philomena Roman Catholic Church in Kalaupapa)に眠ることになった。今,そこにはダミアン神父の墓がある。2009年,ダミアン神父は聖人として列聖された。
ダミアン神父の死の数か月前,並外れた精神の女性がダミアン神父の仕事を続けるためにカラウパパにやって来た。それがシスター・マリアヌコープであった。シスター・マリアヌコープは修道会の長であり,ニューヨークのセントジョセフ病院で熟練した病院管理者であり,ハワイのいくつかの病院と介護施設を監督していたが,ダミアン神父の要請で,ダミアン神父が設立した少年や少女のための司教の家を運営し,彼らと生活を送ることを志願したのだった。
シスター・マリアヌコープは1918年に亡くなり,遺体はビショップホームの敷地内に埋葬され,のち,2005年にニューヨーク州シラキュース(Syracuse, New York)に返還された。シスター・マリアヌコープもまた,2012年,聖マリアンヌコープとして列聖された。聖マリアンヌコープを称える銅像は,ホノルルのケワロベイシンパーク(Kewalo Basin Park in Honolulu)にあって,海を見下ろしている。
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こころに残っているミュージカル④-「オペラ座の怪人」
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「オペラ座の怪人」(The Phantom of the Opera)は,フランスの作家ガストン・ルルー(Gaston Leroux)の小説「オペラ座の怪人」(Le Fantôme de l'Opéra)をもとにしたミュージカルです。私は,以前パリに行ったとき,オペラ座は外観だけ見たことがあって,このミュージカルに興味をもちました。
日本にも,よく,古池に河童が住み着いているとか大蛇がいるとか,古城に幽霊が出るとかいう伝説があるのですが,「オペラ座の怪人」という小説もまた,パリのオペラ座の地下に怪人が住んでいるという奇譚小説です。
音楽は時間芸術です。だから,オペラを演じている歌手も,その日の調子によってうまくいったりいかなかったり,あるいは,新人歌手が覚醒して突然人気が出て羨望の的となったり,というドラマが起きます。そうしたとき,そのような人間の力を超越する出来事が起きるのは,きっとオペラ座の地下には魔物がすんでいるからだということになるわけです。「オペラ座の怪人」はそれを小説にしたということでしょう。私も読みましたが,そのときは特に何の感動もしませんでした。
ミュージカル「オペラ座の怪人」は,私がミュージカルに結構熱中していたころ,劇団四季の上演したものを何度も見ました。その後,海外でも,ニューヨークのブロードウェイに限らず,行った先の様々な都会で上演されているのを目撃したので,見ようと思えば,どこでも見る機会があったのですが,なぜか,そこまでの興味が湧きませんでした。それは,そのころには,私のミュージカル熱が冷めていたからでしょうが,今思うと残念なことをしました。
懐かしくなって,YouTube で探すと,ブロードウェイで上演されていたものの全編版や,ブロードウェイ上演25周年記念のガラコンサートなどがアップロードされていました。ブロードウェイで上演されていたものを見てみると,私が劇団四季で見たものとは格段の違いがありました。それは,日本のプロ野球とメジャーリーグの違いというか,とにかく西洋人は体の大きさが違うので,声量やら身体の動きが根本的に異なっていて,その魅力に圧倒されました。また,演じる役者さんの個性がひき立っていました。もし将来機会があれば,ブロードウェイで見たいものだと思ったことでした。
このミュージカルは,物語のあらすじはさることながら,音楽が非常にすぐれています。とにかく傑作です。この音楽性の高さから,ミュージカル「オペラ座の怪人」は,ミュージカルというより現代のオペラのように思えます。以前,フィギュアスケートで,オペラ座の怪人をバックミュージックにするのを競っていたことがあったそうですが,これは,ある種ルール違反のように思われました。その理由は,同じレベルの演技をしたら音楽の魅力で勝ってしまうからです。
さて,本題に入ります。
あらすじはあまりに有名なので,ここでは書きません。ここでのお話は,ミュージカル「キャッツ」同様,「オペラ座の怪人」で何が伝えたいのかということです。このことは,いろいろ議論されているので,そのなかからひとつ引用してみます。
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オペラ座の地下に住む怪人は,今まで誰にも親切にしてもらえず,見た目だけで怖がられたり見せ物にされ笑われたりして屈辱的で孤独な思いをしてきたことから人格が歪んでしまった可哀想な人。
彼はただ誰かを愛し愛されたくて、憧れを抱いたクリスティーヌに優しくします。
オペラ座の怪人が悪人に見えるのは,ただ傷ついていて孤独なだけなのです。だから,この作品は,いかに外見が醜くとも,その人に救いの手を差し伸べれば何かが変わるということを伝えているように思います。
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私は,これを書いた人は甘いと思います。それでは,子供の童謡か小学校の道徳です。どうも日本人は,何事も,こうしてまじめに生きていればいいことがあるよ,的な考えをするようです。そして,美化し,よい子の感想になるのです。しかし,このミュージカルがそんな教訓だけを伝えたいものとは思えません。
人は外見で差別してはならず,どんな人であっても,その人の人格を認めあい尊敬しあうということはとても大切なことですし,当然のことです。しかし,だからといって,その人に愛情を抱くということはまったく別のものです。
醜い外見ゆえにこれまでだれかに愛されたことのない怪人は孤独でした。であるがゆえに性格がゆがみました。そんな怪人がクリスティーヌに好意をもち,やがて恋心を抱きます。愛情を注ぎ,歌を教えます。そこまではよいのです。しかし,クリスティーヌが愛していたのはラウルであって,怪人には歌を教えてもらったという恩があっても,愛情は感じない。それだけのことなのです。しかし,怪人が自分を愛していることはわかっていたから,申し訳ないとせめてキスをしてお別れをするのです。つまり,怪人は醜いがゆえにいくら愛情を注いでも失恋する,というそれだけのことです。そうした怪人の「怨念」がオペラ座には今も脈々と横たわっているんだから,そんな覚悟をもってオペラ座では演じなさい,という物語なのでした。
人の世は不条理であって,それは救いがない。まじめに生きていても報われないこともある。それが現実であり,人間の生きる社会の現実なのです。社会のいたるところには,そんな報われなかった人の「怨念」が息づいている。だから,幸ある人は,常にそのことを忘れずに生きなくてはならないのです。
2020順位戦終わる。-将棋の神様はいるんだね④
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晩年の升田幸三実力制第四代名人は,体が弱かったこともあって,A級順位戦だけ全力で臨み,それ以外の棋戦は,持ち時間をほとんど使わずに対局していました。そして,「順位戦は将棋の本場所」といって,物議をかもしました。
実際,将棋のタイトル戦のなかで,名人戦だけは別格で,これに挑戦するためにはA級でなければならず,A級に到達するためには,C級2組,C級1組,B級2組,B級1組という4つのクラスを昇級しなければなりません。ちょうど,大相撲で幕内力士になるには,序ノ口からはじまって,序二段,三段目,幕下,十両,と上っていく感じと似ています。きわめて日本らしい制度です。かつては,C級2組は四段,C級1組に昇級すると五段,…,というように,昇級しないと昇段もしませんでした。
そこで,実力のある若手が出てくると,在籍するクラスと実力に齟齬が生じます。羽生世代が台頭してきたころ,A級棋士より下のクラスの棋士のほうが実力が勝るという現象が起きましたが,結局は羽生世代の棋士はみなA級まで昇り詰めました。。今は,それ以上に競争が激しくて,下位のクラスの棋士がタイトルを取ったり棋戦優勝をするという現象がめずらしくなくなっています。しかし,順位戦の昇級の機会は1年に一度,しかも,人数が限られているので,抜けるのはとてもたいへんで,せっかく棋士になって実力があっても,C級2組のまま,という人も少なくありません。
囲碁界にはそういう制度はないので,たとえ囲碁名人戦でも,予選を勝ち抜けばだれでも決勝リーグに入れます。よって,特別な将棋の順位戦は年度末になるとファンの注目を浴び盛り上がるので,囲碁の棋士の中には将棋界の制度がうらやましいといった人もいます。しかし,その反対に,将棋界では,順位戦の結果で棋士のランクが決まってしまうので,ものすごく厳しい世界だともいえます。毎年毎年,このような制度の中で戦っていかなくてはならないのは,並みの精神力ではやっていられません。実力と運,私が棋士なら嫌です。
さて,今年もまた年度末を迎え,すべてクラスの順位戦が終了しました。そして,昇級者が決まりました。まさに喜悲こもごもという感じですが,特に,次点で昇級を逃した棋士の人たちの気持ちは察するに余りあります。それは,私が応援していた棋士の結果とはまた別の問題です。
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では,これからは,私が応援していた棋士について書きます。
まず,C級2組です。このクラスには佐々木大地五段,高野智史五段,八代弥七段といった有望が若手が多くいるのですが,ここから抜けるのがたいへんです。抜けてしまえば,連続で昇級する可能性を秘めている棋士だと思うのですが。これらの棋士の中でも,佐々木大地五段は昇級の可能性が高かっただけにとても残念でした。
C級1組では,だれもが応援していた高見泰地七段が,以前,そっくりだといわれていた増田康宏七段とともに昇級を決めました。このふたりとも,最後に1敗してしまったのがとても残念,全勝で決めて実力を示し,来期のB級2組一気抜けの足掛かりにしてほしかったものです。高見泰地七段はC級2組のときに叡王というタイトルを取ったがゆえに,それがプレッシャーとなって,気の毒でした。が,それに打ち勝ちました。増田康宏七段は昨年のABEMA将棋トーナメントで永瀬拓矢王座,藤井聡太二冠とチームを組んで優勝したことがよい影響を与えたと思います。
B級2組は世代交代の交差点のようなところです。B級1組に踏みとどまれなかったベテランと壁に当たってしまった若手棋士が多く,C級2組,C級1組と駆け抜けてきた将来有望な若手にとっては,すべてのクラスの中で,最も1期抜けで昇級がしやすいクラスだと私は思っているのですが,今年もそんな順当な結果となりました。佐々木勇気七段は初戦で藤井聡太二冠と対戦して惜しくも敗れましたが,そのあとをすべて勝ったのがすばらしかったです。
そして,B級1組。大相撲でいえば,十両といったところでしょうか。このクラスがもっとも大変だと思われます。A級で長年活躍した往年の棋士が歳をとって力が衰えてA級から降級したとき,このクラスで踏ん張れるかどうかというのが最大の見どころとなります。また,将来有望な若手にとっては胸つき八丁。実力伯仲,しのぎを削っているので,ある意味,A級よりも白星を積み重ねるのがむずかしいように思われます。また,総当たりなので,くじ運が左右しません。今年度は,やっと,B級1組の主のようだった山崎隆之八段が昇級しました。山崎隆之八段の昇級は,かつて,実力がありながら,いつも星ひとつで昇級を逃し,なかなかA級までたどり着けなかった「羽生世代」の先崎学九段を思い出します。そしてもうひとり「4強」のひとり永瀬拓矢王座が辛くも最終ラウンドで昇級を決め,ついにA級棋士の仲間入りを果たしました。
私は,現在のA級は,藤井聡太二冠が昇ってくるまでは棋界最高のリーグとは思えず,むしろ王将戦の挑戦者決定リーグのほうが最強リーグのように思えるので,名人戦挑戦者争いにはさほど興味がなく,それより,羽生善治九段と佐藤康光九段がいつまでA級で踏みとどまれるのか,ということが一番の関心事です。
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レーティングがどうのとか,そうした数値だけで棋士の実力を測っているファンもいるようですが,これまで40年以上順位戦を見てきた私は,順位戦だけは,そうした将棋の実力だけではなく,将棋に対する想い入れの強さ,一途さ,ストイックさ,そして,将棋の神様に愛されているかが,その結果に強く反映しているように思います。かつての森内俊之九段や現在の近藤誠也七段のように,順位戦にはめっぽう強いという棋士がいます。その反対に,実力がありながら,いつも次点で昇級を逃してしまう棋士もいます。これこそが,AIでは感動できない人間の勝負の世界です。
いずれにしても,将棋の棋士は過酷です。過酷すぎます。私にはこんな人生できません。
やっと晴れたか!春2021②-夜明け直前の3惑星と月
☆☆☆☆☆☆
明るい彗星が見られないこともあり,また,惑星や月の残る夕方日没後や明け方夜明け前の景色の美しさを知ってしまったこともあり,家の近くで十分に撮影できることもあり,しかも,実際に試してみないことには見えるのか見えないのかもわからいということが興味深く,このところ,惑星と月の風景写真を楽しんでいます。
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ここ数日前から,水星,木星,土星が明け方の東の空に見えるようになったので,現在は明け方の東の空をずっと追っかけています。地平線低いところに昇ったところで日の出を迎えるので,本当に見えるのかということに興味をもったことと,このところ家の周りを散歩するようになって家から徒歩5分ほどのところで写真を撮ることが可能な場所を見つけたことが理由です。彗星や星雲・星団を写すのとは違って,身軽にカメラと三脚だけを持って出かければいいので,それもまた,やる気が起きるわけです。
地球からの距離が遠いので木星と土星の位置関係はほとんど変わりませんが,水星は日に日に高度を下げていって,木星に追い越されました。月もまた次第に欠けていって,高度が低くなってきました。
そこで,前回書いたように,水星,木星,土星と月の位置関係がもっとも接近する3月10日に狙いを定めて,その前後を合わせた3月9日から3月11日の3日間はぜひ見たいと思っていました。
3月9日の朝は,まだ月がまだ少し惑星からは離れていました。しかし,雲が多く,満足な写真は取れませんでした。肉眼でもはっきりみることができませんでした。しかし,何とか写した写真を家に帰ってから調べると,奇跡的に月も3つの惑星も雲の間に写っていたのはうれしい偶然でした。それが今日の5番目の写真です。
待望の3月10日は雲が多くまったくダメでした。かろうじて写った写真もあったのですが,ピントが甘く,がっかりしました。あれだけピントには気をつけていたのに…。まだまだ修行がたりません。それが6番目の写真です。
そして,3月11日。この日の月齢は27.1。高度が低く薄っぺらな月が写ればもっけもの,という気持ちで,3度目の挑戦をしました。午前5時10分ごろに到着すると,すでに,木星と土星は肉眼でもはっきりと見えました。そして,待つこと約10分,目を凝らすと,薄く月が見えはじめました。これには感動しました。まだ水星は確認できなかったのですが,月と木星からあらかじめ位置がわかっているのでその場所を凝視すると,水星も肉眼で見ることができました。こうして写したのが今日の1番目の写真です。
家に帰ってから調べると,4番目の写真のように,肉眼では確認ができなかったその5分ほど前に,すでに写真には月の姿が写っているのに驚きました。
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この季節は,さほど早起きしなくても,ちょうど日の出も午前6時くらいなのでその1時間くらいまえの東の空には,このような美しい風景が広がっているのです。
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「不良老人」の暇つぶし⑯-良質な音楽がわかってきた。
この時期の私は,通常だと,新年度の海外旅行の計画を立て予約をするのに忙しいのですが,今年はそういうこともないので寂しい年度末になってしまいました。
とはいえ,実際は,どこかぜひ行ってみたいというところもなく,その代わりの新たな楽しみがたくさんできたことでもあり,相変わらず,日々充実した生活をおくっています。
また,何かを買いたいという物質欲も皆無となったので,ポイント還元セールとかのダイレクトメールが来たところで,そもそも,買わないのだから意味もなく,はたまた,時折送られてくる迷惑メールも,お金に誘惑されないのだから,アホかと軽蔑するだけで相手にもせず,私は,やっと,長年目指してきた「高等遊民」の真似事ができるようになったと自己満足するこのごろです。
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私の朝の日常は,午前5時に起床します。まず空を見て,晴れていれば,ふらっと外に出て,明かりのない田んぼのあぜ道まで行って星を写したりすることもあります。そうでない日はNHK BSPで放送されるクラシック音楽の室内楽を聴きます。その後は,新聞を読みながら朝食をとります。
一時期,紙媒体の新聞を読むのをやめていたのですが,ネットやテレビの煽るだけの押し付け情報にほとほと嫌気がさし,意味がないと悟り,紙媒体の新聞だけに改めました。よほどの自然災害でもない限り,新聞からの情報だけで必要十分であり,これ以外の情報は必要ないと確信するようになりました。どうやら,それは私だけのことではないようで,私の周りの人たちの多くも,もう,テレビの報道番組は不愉快なだけだから見ないよと言っています。
さて,食後は,雨が降っていなければ1時間ほど散歩に出かけます。家の周りは自然がいっぱいで,人とも会わないので,とても幸せです。そして,帰ってからは,コーヒーを飲みながら音楽を聴く,という感じです。天気が悪い日は,音楽を聴く時間が増えます。
こうして,静かに音楽を聴くようになってみると,新たな驚きがありました。それは,音楽のよし悪しがすごくよくわかるようになってきたということです。
これまでは,ノルマのようにNHK交響楽団の定期公演に出かけたり,あるいは,興味のあるコンサートのチケットを買って聴きにいったりしていたのですが,今考えてみると,じっくり味わうという余裕がなかったように思います。それが,今のように,耳から音楽をじっくりと味わうようになると,これまで気づかなかった発見がたくさんあるのです。
このごろ私が聴いているのは,自分の持っている音源やNHK FM放送,さらに,YouTube にあるすぐれた演奏です。通常は「ながら聴き」で,音楽を流して本を読んだりしているのですが,時として,ものすごく上手なものが聞こえてきて,そういうものに出会うと,思わず本を読むのを止めて音楽にのめり込んでしまいます。
あとで知るには,そうしたものは,やはり,もともと評価の高いものが多いのですが,このごろはそのよさがとてもよくわかるようになってきたのです。それはたとえば,ギュンター・ヴァント(Gunter Wand)の指揮するものであったり,パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi)の指揮するものであったりします。同じ譜面で演奏するのに,聴き手にどうしてこれほど感動の度合いの違いが生まれるのか,それがとても不思議なことです。
コロナ禍でほとんどコンサートに行く機会がなくなってしまいましたが,これまでこのブログにも書いたように,その期間に出かけたふたつのコンサートは,そうしたものに比べたら,格段の差があったのが,とても残念なことでした。逆に言えば,これ以前は,それほど気にもしなかったのに,なんとすばらしい音楽をコンサート会場で聴いていたのか,と思うわけです。1日も早く,また,そうした音楽に出会えるようになりたいものです。
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と,ここまで書いていて…
2021年3月7日にNHK Eテレクラシック音楽館で,昨年12月5日に行われたNHK交響楽団 12⽉公演を放送していました。指揮は井上道義さんで,ピアノを松田華音さんが弾きました。演奏会当日にNHK FMで生放送があって,すでにそのとき聴いてすばらしいと思ったのですが,改めてテレビで放送されたので,見ることにしたのです。
このところ,音楽は耳から聴くもの,映像が感動の妨げになると思っていたので,今回も期待していなかったのですが,そんな予想に反して,思わず引き込まれました。ぜひ生で聴いてみたいと思ったコンサートでした。
こうして,本当に久しぶりにすばらしいコンサートに出会いました。でも,一体このように感動できるコンサートは何が違うのだろう,と思いました。きっとこういうのを「オーラ」というのでしょう。このコンサートの様子を見て,コロナ禍以前にコンサートを聴くためにわざわざ東京まで出かけていたときの,今はすっかり忘れていた情熱と感動を思い出しました。
「団地の給水塔大図鑑」-なぜか給水塔,いや,給水党
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いささか古い話ですが,2018年に「団地の給水塔大図鑑」という本が出版されていたようです。
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給水塔の世界はこんなにも華やかだ! 「団地にある給水塔」だけを400基超収録した史上初のデータベース。色も形も個性豊かに,団地の暮らしを支える塔たちの美しい姿をご覧ください!
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というのが紹介で,著者の小山/祐之という人は,団地の給水塔を鑑賞する「日本給水党」をWEB上で結党し,北海道から沖縄まで日本各地の団地にある給水塔を巡り続けているといいます。
給水塔は,団地などの高い建物の水道の水圧を確保するために建てられた塔ですが,現在は技術の進歩で給水塔を使わなくても水圧が確保できるので,減少の一途をたどっていて,いわば絶滅危惧種ということです。
この本によれば,どの建物も画一的である団地のなかで,この給水塔だけがシンボル的な存在として,デザインが工夫されていて,ボックス型,とっくり型,円盤型などに分類されるといいます。
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私はこれまで給水塔など,美観を台なしにするだけの存在だと思っていただけに,これは意外でした。しかし,よくよく考えて見れば,こんな発想はすてきです。目のつけどころがいいです。何でも,この本をきっかけにして,給水塔を見て回る愛好者が増えているとか。愉快な話です。
楽しいことは,身の回りにいくらでも転がっているものです。
いや,今日のブログはこの本を紹介するのが目的ではありません。
給水塔といって私が思い出すのは,アメリカのマザーロード「ルート66」沿いにある小さな町です。「ルート66」沿いには,およそどの町にも給水塔があって,それこそ給水塔がその町のシンボルとなっています。何もない大草原を走っていると,やがて給水塔が見えてきます。それが町に近づいたしるしです。
私は給水塔を意識して写したのわけではなかったのですが,これまで写した写真を改めて探してみると,給水塔の写真が出てくるわ出てくるわ。こんなことなら,キチンと給水塔を写してくればよかったと,少し後悔するこのごろです。
しかし,なぜ,アメリカの「ルート66」沿いの町にはどこも給水塔があるのでしょう。私はずっとそれを疑問に思ってきました。調べてみると,それは次のような理由だそうです。
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そう,砂漠です。骨みたいにカラッカラです。水がないのです。
しかし,その砂漠も,X線探知機で探してみれば,その土地の地下には,hueco(スペイン語で「穴」の意),mesilla(スペイン語で「棚」の意),bolso(スペイン語で「財布」の意)とよばれる湖や川が横たわっています。そこで,土の中から水を汲み上げて貯水タンクに貯めるのです。こうして,貯水タンクには100万ガロン以上の水が溜まっています。重力による水の重さが魔法のように働いて,ポンプやコンプレッサーを使わずに水圧を作り出します。
水が少ないので,町では水の使用は制限され,高価でリサイクルされています。
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ということでした。
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そういえば,オーストラリアも水がないのですが,オーストラリアでは給水塔ではなく,それぞれの家屋に巨大な雨水タンクがあります。おそらく地下にも水がないからでしょう。しかし,あまりに日照りが続くとタンクに水がなくなり,そうなると,水は購入しなければならなくなるそうです。
オリンピックの思い出①-ドン・ショランダー選手
申し訳ないのですが,今騒動になっている東京オリンピック2020,いや,2021には,私はまったく興味がありません。その理由は,スポーツが,選ばれた人だけの特権となってしまていること,そして,それに群がる利権でしかないと今では思うからです。
2月27日の朝日新聞・オピニオン&フォーラム欄にに「森氏発言,気づかされた性差別の核心」として,星野智幸さんが寄稿していました。冒頭の部分を引用してみます。
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東京が招致に名乗りを上げたときから,私はオリンピック開催には反対だった。けれど,でははじまっても観戦しないか,と問われれば,女子サッカーをはじめとして,見ずにはいられない競技がある,と答える。こころの中は引き裂かれて矛盾している。
モントリオール五輪を小学時代に見て以来,私はオリンピックにいつもこころときめかせてきた。今サッカーや相撲のファンであるのも,オリンピックでスポーツを見ることの喜びを知ったからだ。
それなのに,十数年前ぐらいから,次第に嫌気が差してきた。なぜなのか,今回のオリンピック・パラリンピック組織委員会・森喜朗前会長の女性差別発言と,それをめぐる社会の状況を見て,得心がいった。
一言でいえば、オリンピックは選手のためでも見る人のためでも開催地の住民のためでもなく,主催する関係者のごく一部の人の利権が何よりも最優先されるということが,ごまかしようのないほどはっきりしたからだ。
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私も,まったく同意見です。
星野智幸さんより年配の私は,1976年のモントリオールオリンピックではなく,1964年に開催された東京オリンピックをとても熱心にテレビ観戦をしていたので,ずいぶん記憶に残っています。私が熱をあげていたオリンピックは,1964年の東京オリンピック,1968年のメキシコオリンピック,その次の1972年の札幌オリンピックとミュンヘンオリンピックまでです。それ以降はほとんど記憶にありません。
それ以後のオリンピックで唯一覚えているのは,政治的な理由でボイコットしたモスクワオリンピックの次のロサンゼルスオリンピックに相変わらず軍隊調で入場行進をした日本選手団だったのですが,世界はすっかり様変わりしていて,他国の和気あいあいの入場からすっかり浮いてしまい,世界で恥をかいたことくらいです。その次のソウルオリンピックでは,「笑え」などというわけのわからぬ命令が下され,昔も今も変わらぬ,戦前の軍事教練を源とする日本の体育会系集団のアホさに私はつくづくあきれました。
さて,私が子供ころオリンピックに興味をもったのは,競技としてではなく,世界を垣間見ることができたからでした。東京オリンピック当時,私にはアメリカなんて遠い世界のことでした。なかなか勝てない日本とは違って,ほとんどの種目でいい成績を残すアメリカは,なんといっても選手がカッコイイ。そして,表彰式で流れるアメリカ国歌がまた,カッコよかったのです。この憧れが私の旅の原風景でした。
その東京オリンピックで最も印象に残っているのは,水泳のドン・ショランダー(Donald "Don" Arthur Schollander)選手です。その水泳で金メダルを4個も獲得して,一躍時の人となったのが,このドン・ショランダー選手でした。
調べてみると,現在74歳。オレゴン州のレイクオスウィーゴに住んでいて,当時獲得した金メダルは,レイクオスウィーゴ(Lake Oswego)の銀行「バンク・オブ・アメリカ」(Bank of America)で,一般に公開されているということです。オレゴン州なんて近いから行ってこの目でメダルを見てきたい… と昨年までなら思って,すぐに実行するのですが…。ふと我に帰ると,世の中すっかり変わってしまっていてそれも不可能。とても寂しいです。
「不良老人」の日常⑲-ベートーヴェンピアノソナタを聴く。
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ベートーヴェンの弦楽四重奏曲についで,32曲あるピアノソナタについても,きちんと聴いてみようと思いました。
残念ながら,私は楽器が弾けません。将棋で「観る将」という言葉がありますが,私の音楽は「聴く音」にすぎません。弦楽四重奏曲もピアノソナタも,聴くというよりも,自ら弾くということができるのなら,もっと喜びが増すと思うだけに,とても残念です。
しかし,弦楽四重奏というのは,4人の奏者が必要なので,それに取り組むには4人のメンバーが集まらなければならず,これがとても難しいと思われますが,ピアノの場合はひとりでできるわけで,もし,ピアノが弾けたなら,これほど打ち込むことができるものもほかにないように思います。そんなわけで,これが弾ける人をとてもうらやましく思います。
昨年末,NHKFMでベートーヴェン特集を放送しました。その番組の中で,ピアニストの仲道郁代さんが,ピアノソナタについて熱く語っていて,それはそれは本当に至福の時間でした。こうした解説を聴いたあとで,じっくりとピアノソナタに耳を傾けると,その1音,1音がとても輝いて聞こえてきます。すべての音がまるでダイヤモンドのように輝き,こころが満ち足ります。
その番組で,第9番のピアノソナタの音程が4度3度の上がり下がりからなっていて,この音程が第8番「悲愴」でも使われていて,さらに,第30番と第31番にも用いられているというお話をされていました。この4度上がるというのは,第8番の第1楽章では「ため息の形」として演奏され,それに連なる第2楽章では「郷愁をそそるような,懐かしいような,切ないような,寂しいような,けれど,暖かいような」旋律に生まれ変わって,「天使の音程」となっているそうです。
また,第31番では,冒頭に「con amabilità」(愛をもって)と書かれていて,このピアノソナタが,不滅の恋人といわれるアントニー・ブレンターノ(Antonie Brentano)という女性に捧げようとしていたとか,さらに,「嘆きの歌」と題された第3楽章にも「天使の音程」が使われている,といったお話を聞いてこの曲を聴くと,感動して涙がでてきます。
私は,昨年,河村尚子さんのベートーヴェンピアノソナタ連続演奏会の最終回を聴く機会があって,晩年のピアノソナタ第30番,第31番,第32番に直に触れることができました。仲道郁代さんのお話をその前に聴いていたら,もっともっと深く味わうことができたのに,と少し残念に思いましたが,そうでなくても,最晩年の弦楽四重奏曲同様,晩年のピアノソナタは誠にすばらしく,こころに染みわたりました。
弦楽四重奏曲同様,ピアノソナタの優れた解説書を探していたのですが,幸い生誕250年ということで,「徹底解剖! ベートーヴェン32のピアノ・ソナタ」という本を見つけたので,購入しました。
この本では,多くのピアニストがベートーヴェンのピアノソナタについて語っているのですが,これらが,まあ,すばらしいこと。私は,昨年と一昨年,オーストリアに行く機会があって,ベートーヴェンが実際に使っていたピアノを見る機会もありました。そうした私の実体験を踏まえて本を読み,この珠玉の32曲を聴くと,幸せを感じます。
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最後に書かれた第32番のピアノソナタは,ベートーヴェンが,もうこれですべてを書き切ったとばかりに,高音域での長いトリルも伴いながら天に昇るように昇華して終わります。曲を書き終えて,ベートーヴェンはピアノソナタでは,もはや,すべきことはなくなったのでしょう。この曲をもってピアノソナタとは別れを告げ,次に,交響曲第9番を完成し,そして,自分の人生の集大成として弦楽四重奏曲の最後の第12番から第16番を書き上げるのです。
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滅びゆくのかニコン-この会社はどこへ向かうのか?⑧
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これから書くことは,プロのカメラマンやお金持ちのコアなアマチュアカメラマンを対象としたお話ではありませんのであしからず。
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2015年2月というから今から6年以上も前になりますが,マクドナルドが不振でした。しかし,私がこうすればいいというようなことをこのブログに書いて,まさかそれを見たわけでもないでしょうが,おおよそ,私の希望どおりの改革をして,マクドナルドはV字回復を成し遂げました。マクドナルド愛好者としてはうれしい限りです。
その年の12月,今度はニコンについて書きました。その後も何度か書いたのですが,こちらは,私の予想通り,いつまでたっても浮かび上がることなく,今や,会社の将来さえ心配されるほどの惨事となりつつあります。50年来のニコンカメラの愛好者の私としてはとても寂しい限りですが,悲観的要素ばかりが目について,将来に明るい展望が一向に開けません。
その理由はすでにたくさん書いたので,ここで何を書いても繰り返しとなってしまいますが,どうして,そんな素人の私でも予測できるような失敗を繰り返しているのか,ただただ残念でなりません。私は使っていないのでわかりませんが,新しいZマウントのレンズはとてもできがよいのだそうです。であっても,高価だし,それに投資しても会社がなくなったら,宝の持ち腐れとなってしまいます。これでは,手が出ません。
昔からあれだけ熱狂的なニコンカメラの愛用者がいたのにも関わらず,結構高価で大柄でしかも期待したほど互換性のなかったマウントアダプターFTZひとつを発売しただけで,さあさあ,従来のFマウントレンズも使えますから,これからは新しいZマウントのミラーレスカメラに移行しましょうね,でも性能がいいから新しいレンズも買いましょうね,とやってはいけません。これでは,それまでに多くのFマウントの交換レンズを購入した人が気の毒です。Fマウントカメラユーザーは,さらに,この先Fマウントのレンズを買う気にもなりません。
Fマウントとの互換性というのは,要するに,ZマウントのカメラにマウントアダプターFTZをつければ,多くのFマウントレンズを従来のように使用することができるということです。そうであれば,これまでのFマウントユーザーのために,今日の2番目の写真のように,たとえばZ5のようなカメラにはじめっからマウントアダプターFTZを小型にしたようなものを固定してくっつけちゃった「Fマウントの」ミラーレスカメラ「Z5₋F」でどうしていけないのか,私にはわかりません。でもそうだったら,そもそも新しいZマウントなんて必要なかったのかもしれませんけれど。細かな性能は別として。
Fマウントのミラーレスが作れないのはフランジバックの長さが違うからとかいう説明をする人がいますが,そんなことを言っている人は何もわかっていません。作れます。ただし,Fマウントのままではレンズ回りが飛び出て少し不格好にはなりますが,あくまで過渡期の製品であり,先に書いたように,はじめっからマウントアダプターFTZを小型にしたようなものをくっつけちゃったと考えればいいわけです。せっかく新しいシステムにするのだからマウントも新しくして,というのなら,せめて移行期には「Zマウント」の「Z5」とともに,「Fマウント」の「Z5₋F」も作って並行発売したらいいと思うのですが…。ならば,安心してこれまでのFマウントユーザーもボディだけを購入すればミラーレスカメラが使えます。そして,ミラーレスのよさがわかれば,次には新しいマウントのカメラを買うと思うのですが…。そんなことしなくてもマウントアダプターFTZがあるじゃないか,と反論する人もたくさんいるでしょうが,マウントアダプターFTZは大きすぎ高すぎ,しかも,生産が少なく手に入らないというではありませんか。
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昔,この会社にまだ余裕があったころ,オートフォーカスへの移行時にF601というオートフォーカスカメラを発売した折に,オートフォーカスに抵抗があるユーザー用にと,3番目の写真のように,F601からオートフォーカス機能だけを取り除いたF601Mというマニュアルフォーカスのカメラを同時に発売したことがあります。あまり売れなかったけれど,それがニコンの他社にはないこだわりというものでした。移行期ならそれくらいの配慮があってしかるべきです,ニコンなら。さらに昔,ニッコールレンズの「ガチャガチャ」を廃止してAi レンズに変更したときに,4番目と5番目の写真のように,この会社はそれまでのレンズをAi レンズに改造するサービスまでやったのです。確かに新しいモノに比べれば性能は劣るのでしょうが,それで,古くからのニコンユーザーの信用を勝ち得たのです。いつまでも昔からのユーザーを大切にすると。しかし,今や,この会社にはそんな余裕はないのでしょうが,これでは,簡単にマウントを変える他社と同じ。企業にもっとも大切なニコンというブランドの信用をなくします。
現状では,Fマウントユーザーを置き去りにしたような感じに受け取れます。冷たいのです。いくら互換性があるといっても,これではまったく別のマウントに代わってしまったのと同じことだから,そうであれば,いくらZマウントのレンズの性能が従来のFマウントのものよりもよくても,先行きの危ういこの会社にこだわるリスクを考えると,多くのカメラマンが,多少レンズの性能が劣ったとしても将来性の高い別の会社に鞍替えするのは容易に想像ができます。
また,プロのカメラマンやハイアマチュアは別として,これからカメラを趣味としようとするような若い人やお金を十分にもった年配の人たちが,さあ,はじめて1台何かを買いましょう,興がのれば,その先発展させましょう,といって,ニコンのカメラで手が出せるものがまったくないというのが,そもそもの問題です。そのためにZ50を用意しました,ですって? DXフォーマットをこの会社がこの先どうしたいのかも語られず,また,発売されているDXレンズがわずか2本,という状況で,しかも,それもカメラとレンズで20万円也,なんていわれたら,そんなものを購入するでしょうか? みんながお金持ちではないのです。
入門者用にと,広角16ミリから50ミリのズームレンズと50ミリから250ミリのズームレンズというような2本のレンズをつけたセットを発売しているのですが,旅に出るとき,交換レンズを1本余分に持って,それを必要に応じて交換して使うということは,かなりめんどうなことです。これでは入門者は食指が動きません。せめて,多少性能が劣っても,発売予定の18ミリから140ミリというズームレンズがすでにあるのなら,Z50とそのレンズ1本をつけて旅のお供にできるから買おうとも思うのですが,それさえいつ姿を現すのかもわかりません。OEMでも何でもいいからさっさと発売しちゃえばいいのに,きっとまた,満足する性能を出そうと凝りに凝っているのでしょうか。あるいは,高価な売れないレンズの開発が先とばかりに優先順位があとなんでしょうね,この会社の頑固な技術屋さんたちが考えているのは。
しかし,一番の売れ筋だった入門機D5600やD3500を後継機もなくさっさと製造中止にしてしまった今となっては,Z50も将来はこれと同じ運命をたどるとしか庶民には思えませんから,これもまた買うことを躊躇させる要因となります。これまでにも,予告もなく突然やめちゃったニコン1や,発売さえできなかったニコンDLという悪しき前例もあることですし,もう,昔の「古くからのユーザーを大切にした」ニコンとは違ってだれも信用していません。
今や,この会社はお金持ち以外は顧客とは思っていないのです。貧乏人が一生懸命にお金を貯めてカメラやレンズを買って長年ずっと大切に愛用している人なんて客として認めていないわけです。サービスセンターも次々に閉鎖しています。こうして,長年のユーザーを簡単に裏切っているのです。これでは安心して使えません。
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端的にいえば,ニコンのカメラが売れないのは,カメㇻの性能以前に,会社の将来性が危ぶまれることと,会社が何を考えているのかわからないので手が出せないこと,そして,ユーザーを大切にしていないということなのでしょう。会社が売れるか売れないか様子見してから次の手を考えていてはいけません。そしてまた,他社とは違って昔からのユーザーを大切にしますよ,というアピールがなくてはいけません。せっかく古いフィルムカメラのメンテナンスをやる良心は今でも残っているのに,ディジタルカメラでこんなことをやっていれば,日に日にユーザーは別の会社に逃げていくでしょう。私が新しくカメラを買うならそうします。
私は「写真はカメラで決まらない」と思っていて,この先,多少性能がよくても新しいカメラを買う気持ちはまったくないから,もはや会社がどうなろうとどうでもいいのですが,ニコンF3よりも昔からの長年にわたる愛好者として,今の状況は滅びゆく会社の終焉を見ているような気がして,残念でなりません。
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「不良老人」の暇つぶし⑮-写真はカメラで決まらない。Ⅰ
この国には,その建設の是非が問われながら,強硬され作られたものが数多くあります。そして,それらは,建設する目的やら建設することによって失われるものやらなどが,計画されたときには盛んに議論されつつも実際には聞く耳など全くもたず,常に建設が強硬されますが,一旦作られてしまうと,その後はどうなったか,一般にはほとんど報道さえされません。
たとえば,そのひとつに長良川河口堰があります。
長良川河口堰は,海水の逆流を防ぎ,貯めた水を愛知・三重両県と名古屋市の工業・上水道用水として取水することを目的として,長良川下流に設置された可動堰です。1988年に着工され,1995年に運用が開始されました。
旧東海道・桑名宿からその巨大な不気味な姿を見ることができます。
もうひとつは,徳山ダムです。
徳山ダムは,岐阜県揖斐川町の揖斐川上流に建設された多目的ロックフィルダムです。1971年に着工され,2008年に完成しました。ダム湖の総貯水量は6億6000万立方メートルで,奥只見ダムをしのぎ日本最大の容量を誇ります。
徳山ダムを建設したことで徳山村が水没しました。
少しまえ,徳山ダムを見にいく機会がありました。そこで思い出したのが,増山たづ子さんのことです。
増山たづ子さんは1917年(大正6年)に生まれ,2006年(平成18年)に亡くなったアマチュア写真家です。
徳山村で農業のかたわら民宿を営んでいたのですが,徳山ダムの建設が計画されて徳山村が水没することを知ります。個人的にはダム建設に反対であったようですが,「国がやろうと思うことは戦争もダムも必ずやるから反対するのは大河に蟻がさからうようなもの」としてこの事実を受け止め,その後は徳山村の記録を残したいという思いから写真を撮りはじめ,消え行く村の人々の表情,四季,自然,家,建物,風景,祭り,風習,民俗などのありとあらゆるものを撮り続けました。生涯に撮影した写真は8万枚に及んだといいます。
このことがニュースで取り上げられたとき,この愛称「カメラばあちゃん」が使っていたカメラが「ピッカリコニカ」であることに驚きました。写真を撮りはじめた当初はフィルムも入れられなかったのですが,民宿のお客さんに「素人の自分でも写せるカメラはないか」と相談したところ「猫がけっころがしても(蹴飛ばしても)写るものがある」と勧められたからといいます。
スマホでだれでも写真が写せる今とは違って,その時代,写真を撮るのはカメラマニア以外には難しいことでした。コニカ・小西六写真工業(現コニカミノルタ)は,1968年にコンパクト35mmカメラ「コニカC35」通称「ジャ~ニ~コニカ」を発売しました。このカメラは自動露出機能により「手軽に撮影できるカメラ」として女性需要層を核とした新規需要創生に成功しました。それに次いで,1974年,室内撮影需要に応えるべく,世界ではじめて小型ストロボを搭載した「コニカC35EF」通称「ピッカリコニカ」を発売して,販売台数100万台超を達成しました。
私が驚いたのは,たいそうな高級カメラでなくとも,これだけの写真を写すことができるということでした。それまでの私は,写真好きというよりカメラ好きで,カタログを眺めては満足し,高級カメラに憧れていたからです。
・・
今,増山たづ子さんの残した写真はインターネット上で見ることができますが,その写真の上手なこと! 写真の中で,人が息づいています。私は,このとき,自分の愚かさに気づかされました。写真のよさはカメラのよさで決まるものではないのです。
私を含めて,世に多くのにわかカメラマニアがいます。しかし,その多くは,昔の私のように,写真好きというよりカメラ好きで,インターネット上にもそうした話題で盛り上がるサイトが数多くあります。そして,新製品が出るたびに,やれ買いだ買いだと騒いでいます。しかし,私は,それ以来,写真はカメラでは決まらないという思いから,そうしたカメラ好きからは,一歩ひくことにしたのです。
それにしても,私が一向に写真がうまく撮れないのは,増山たづ子さんとは違って,才能がないからでしょう。そしてまた,消えていく自分の故郷を思うようなひたむきさが足りないからなのでしょう。
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Doctor Yellow.
3月5日,家の近くをドクターイエローが走りました。
あいにくの雨模様でしたが,動画を写しました。
今日3月6日も走ります。
2020春アメリカ旅行記-早朝のモロカイ島⑥
●モロカイ島で唯一のパン屋さん●
午前9時ころ,予定より早くカウナカカイに戻ってきた。昨日到着したときはもう遅かったので多くの店が閉店していたから,今日はカウナカカイの商店をウィンドウショッピングしつつ,朝食を食べるお店探しであった。しかし,朝食らしい朝食が食べられそうだったのは,カネミツ・ベーカリー&コーヒーショップだけだった。
カネミツ・ベーカリー&コーヒーショップはモロカイ島で唯一のパン屋さん。翌日の朝に並べるパンを仕込んでいる夜の時間帯に,焼き立てを求めて店の裏側にまわって行列を作ると「地球の歩き方」には書いてあった。
朝7時から店内のカフェスペースで食事ができるということだったので,勇気を出して中に入ってみた。
古ぼけた店内は,地元の人でごった返していた。そもそもこの島にこのような店はここしかないのだから,みんな知り合いのようなものだ。私だって,ここに住んでいたら常連になるだろう。
しかし,いらっしゃいませでもなければ,店員が案内してくれるわけでもない。知った人なら,また来たぞ元気かとかいう声をかけるところだろうが,私のようなよそ者が入るのはまさに場違いな感じで,それは,日本の田舎のカフェもまた同じようなものだ。
適当に座っていたが,一向に店員が注文を取りに来ない。要するに私は空気なのだった。店員はみな忙しくしていて,声をかける間すら見つからない。それは決して感じが悪いとか,ぞんざいということではない。日本のような営業スマイルがないだけのことだ。
少し待って,やっとひとりの店員と目があって,メニューを見せてもらうことに成功した。そして, 私はモーニングセットを注文した。モーニングセットとやらは,写真のようなもので,まあ,マシな朝食にありつくことができたわけだった。
このようにして,ともかく朝食を終えて,お金を払うとき,はじめてこの島に来たと言ったらドーナッツを勧められたので,ひとつ買うことにした。
昭和のころの日本みたいなところだった。
私はこれまでさまざまところを旅行したが,モロカイ島ほど食事に困ったところはなかった。なにせ,島なので,この島になければどこへも行くことができないのだ。
私は日常も食事は質素だし,旅行に行く目的もグルメではないから,おなかが満たされればそれで十分なのだが,そんな私でも困るほどだった。
それにしても,モロカイ島に限らず,アメリカは食事に関してはとにかく最低である。その点,ヨーロッパはすばらしい。ホテルでも,すばらしい朝食が提供される。物価が高いというアイスランドでも,お金さえ出せは満足な食事をとるところはいくらでもあった。むしろ日本のほうがよほど貧弱だ。食後の紙コップにコーヒーなんて,海外では考えられないことである。日本人は,こうして,ある大切な一線を無意識に容易に越してしまうことがある。
話は横道にそれるが,私がときに国内を旅行するときに,伝統的な日本食の朝食が提供されるような温泉宿は別として,バイキング形式の朝食が提供されるような場で,ずいぶん多くの日本人が朝からご飯と味噌汁,玉子焼きに納豆に漬物といった食事をしているのに,私は驚くのだ。こういう人が海外旅行をすれば,そりゃ戸惑うことであろう。
やっと晴れたか!春2021①-続・夜明け直前の3惑星
☆☆☆☆☆☆
2021年,早くも3月になりました。このところ明るい彗星も見えないし,寒いので,しばらく星見に遠出もしていません。その代わり,明け方の空が美しいので,日の出前,毎日のように散歩を兼ねて空を見上げています。
3月3日の早朝は,前日の夜の強風も収まって,快晴となりました。前回,2月26日は東のそらには雲があったので,今度は雲ひとつない空で,木星,水星,土星を写真に写すことにしました。木星と土星の位置はほとんど変わらないのですが,水星が次第に高度を下げています。
カメラと三脚を持って家から出てふらふらと歩いて5分,いつものように,街灯のない田んぼのあぜ道に着いたのが午前5時20分すぎでしたが,すでに東の空には,木星,水星,土星,3つの惑星が肉眼でもはっきり見えました。
昨晩の風で空気が澄んでいたので,こんなに容易に見ることができました。
写真は,露出を増やすと,むしろ薄明で星が消えてしまいます。それは都会で暗い彗星を写すときも同じで,星を写すのに,何も露出時間を増やすだけが芸ではないのです。
なるべく肉眼で見たときとおなじような空の明るさになるように,何度も露出を変えて写しました。
目を反対側に写すと,月齢19.1の月が見えました。この月があと1週間すると,3つの惑星に接近します。3月10日がベストで,その前後3日間がおもしろい構図になります。晴れるといいのですが…。
そうこうするうちに,南の空から天頂を通って北の空に人工衛星が動くのが見えました。見慣れている国際宇宙ステーションより明るいほどでした。先日も,夕暮れ時に散歩していたら,やはり,空に人工衛星が飛んでいるのが見えました。この時期,国際宇宙ステーションは見えないはずなので,どんな人工衛星なのかな,と思いました。
家に帰って,いろいろ検索してみると,明るい人工衛星が見られるリストの載ったホームページを見つけました。どうやら,私が見たのは,中国が打ち上げた「CZ₋4B R/B」というものだったようです。「Chang Zheng 4B」というロケットで,2006年10月23日に打ち上げられ,宇宙環境,放射線とその影響の調査,宇宙物理環境パラメーターの記録およびその他の関連する宇宙実験の実施に使用されているそうです。
通常は約2.5等星くらいで地球上から見え,最も明るくなるときでマイナス0.1等星にまで達するということです。どおりで明るく見えたはずです。
2020春アメリカ旅行記-早朝のモロカイ島⑤
●コキオ・ケオ・ケオ・イマクラトゥス ●
ハラウ渓谷から先は,4WDの車に乗って内陸部に向かって行く道があるそうで,その先は,古代から形を変えないハワイの熱帯雨林・カマコウ自然保護区があり,珍しいハワイ固有種の動植物が生息していたり,また,ワイコル展望台からはワイコル渓谷の見事な姿が目の前に広がるという。また,島の北東の海岸線に沿って,非常に高い岸壁であるノースショア・パリがあって,岸壁の高さとしては世界一で,1,100メートルから1,200メートルにもおよぶということだったが,私は行くことができなかった。
ハラウ渓谷からの帰り,行きに走ったのと同じ南海岸に沿ってカメハメハ5世ハイウェイ(Kamehameha V Hwy)と名づけられた州道450を戻ってきた。
この道は片側1車線の田舎道で,というより,モロカイ島の道路はどこも片側1車線であったが,舗装された,そして,ほとんど車も通らない快適なドライブコースであった。
ハラウ渓谷からカウナカカイまでは27マイル,約43キロメートルで,途中,いくつかの見どころをがあるということだったので,それらを順にと思って,行きはどこにも止まらずにハラウ渓谷までたどり着いたのだが,実際は,見どころといっても,海岸線にそった美しい,というか自然いっぱいのビーチと,たったひとつ小さな教会があっただけだった。
教会の前に駐車スペースがあったが,車は停まっていなかった,というより,人影ずらなかった。
車を停めて教会の小さな入口に向かった。入口は閉まっていたが,施錠はされておらず,戸を開けて中に入ることができた。
その教会はセント・ジョセフ教会(St.Jpseph's Church)といい,1833年建立のモロカイ島最古のキリスト教会であるカルアアハ教会に次いで,1876年にダミアン神父が建てたモロカイ島で2番目に歴史のある教会であった。
教会の建物の傍らには,首にレイがかけられたダミアン神父の像が立っていた。
また,この教会の玄関前の左右にハイビスカスが植えられていたが,ここのハイビスカスはコキオ・ケオ・ケオ・イマクラトゥス (Koki'o Ke'o Ke'o Immaculatus)というモロカイ島固有種のハイビスカスだそうだ。このハイビスカスの白い花が咲くのは,まさに「夕方の朝顔」というように夕方で,それ以外の時間はその花弁を閉じてしまうから,残念ながら,私の行った時間にはその姿をみることはできなかった。
一般に,ハイビスカスというと,ワイキキを中心に世界でよく知られるハワイアンハイビスカスを指すが,これはハワイの在来種と外来種をかけ合わせて造られたもので,固有種そのものはあまり知られていない。実は,ハワイ固有のハイビスカスは何種類かあって,そのなかでもっとも広く分布しているのがコキオ・ケオ・ケオ・イマクラトゥスである。ケオとは咲く花のごとく白のことである。
樹高は8メートルから10メートル,花のサイズは4センチメートルから8センチメートルほどで,固有種のなかではもっとも大きな花を咲かせるという。白い花弁と赤い花柱との鮮やかなコントラストが特徴的であり,花にはとてもよい⾹りがある。
このコキオ・ケオ・ケオ・イマクラトゥスに中国原産のブッソウゲをかけ合わせたものが,ハワイアンハイビスカスとよばれる園芸品種なのである。
ところで,海外に行くと,多くの場所に教会がある。それは,日本の寺と同じだろうが,私は,宗教に疎いので,教会が何たるかという本当のところはよく知らない。どの宗教の信者であろうと,それがどういうものかという知識くらいは,訪れるのなら知っておくべきだろうが,それが書かれたものを読んだことも勉強したこともないから,よくわからない。
そもそも,日本でも,多くの神社仏閣に行くことがあるが,その目的は観光であって,それが何宗かということすら認識がないのだが,それではいけないと近ごろ思うようになった。
今後「不良老人」はいかに生きるか⑮-増々理解できない。
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昨年東京に行って,東京駅からサントリーホールまで,国会議事堂のあたりを経由して歩いていたら,都立日比谷高校がありました。こんなところにあったのか,と田舎者の私はびっくりしました。というのも,昔読んだ,庄司薫さんの書いた「赤頭巾ちゃん気をつけて」の舞台がこの都立日比谷高校だったからです。
1969年に芥川賞を受賞したこの作品は
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風邪をひいて,万年筆を落として,東大入試は流れるという災難に見舞われた日比谷高校三年の薫くん。そのうえ12年も飼ってきた犬に死なれ,左足の親指の爪まではがしてしまった。幼馴染の由美とはささいなことから仲違い。踏んだりけったりのスタートを切った薫くんの1日は…。
真の知性とは何か。戦後民主主義はどこまで到達できるのか。青年の眼で,現代日本に通底する価値観の揺らぎを直視し,今なお斬新な文体による青春小説の最高傑作。
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というものです。そういえば,私も昨年の秋,湖東三山に出かけて,百済寺の庭石に足を取られて左足の親指の爪をはがしました… と,これは余談。
この本で私が忘れられないのは,当時の都立日比谷高校の様子が描かれた部分です。少し引用してみると
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学年の変り目に,なんと生徒の方に,その年とる講義と先生を選ばせる儀式で,(略) つまりぼくたちは。或る朝1学年全員が校庭に集まってきて,それぞれの思惑に従って,1課目ごとに好きな先生を選び,そして好きなクラス担任を選んでその旗のところに集まる。
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というものでした。今の日本の高校の様子を考えると,信じられない世界です。
私の卒業したのも,同じように,補習もなく模試も強要されず,3年生は1月から休みだった自由な学校でしたが,東京にはその上を行く,生徒の自主性に任せた学校があるのかと驚きました。
当時は,そんな学校を卒業したエリートたちが東京大学に入り,卒業後は官僚となっていったわけです。
都立日比谷高校も,そのお隣にある国会議事堂や霞が関の官庁もその場所は変わらずとも,この国の精神はそのころとはすっかり様変わりしてしまったようです。今や,学校では民主主義を習わず,生徒は反抗もせず,社会に疑問も持たず,思索にふける暇も与えられず,教師の指示に従って大量の課題をこなすだけになってしまったし,官僚もまた,忖度やらに神経を費やし,国会議員の顔色を窺って多忙な毎日をおくっているだけの存在となりました。そしてまた,忖度される側のこの国の支配者たちは,自分の言葉で話すことすらできませんし,まれに自分の言葉で話せば,今度は,時代遅れの認識と価値観が暴露されるという結果になるわけです。
以前,ブログに
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私がどうしても理解できないことは,60歳を過ぎて,まだ野心をもっている人の気持ちです。
若いころなら,自分にはどれだけ能力があるのだろうかと社会に問うのは,おそらく人としての本能だと思うのですが,そうした時期を過ぎて,しかも幸いにも自分なりに成功し,将来に対する不安もないくらい財を成した人が,せっかく悠々自適に好きなことをして過ごせるようになったのに,どうしてまた,と私は思ってしまいます。
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と書きました。また,
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功成り名を遂げ歴史に生きた証を残したところで,地球上に人間という摩訶不思議な生き物が生存できる時間などたかがしれていて,そのうち何もかもなくなってしまうのに,そこに何かを残すことなど,まったく意味がありません。そもそも,そうして名を残すことが生きる目的なのでしょうか?
生きること自体が困難で,だれかがリーダーとなってそれを改革しなければならない,という状況下で,リーダーたる能力をもって生まれた人が嘱されて集団を束ねるというのは自己犠牲の上に成り立つもので,立派なことです。しかし,はじめに地位が存在していて,そこに誰かが就いていなければ組織が成り立たないというだけの規格化された今日の社会で自ら手を挙げて俺がその地位に収まりたいというのは,それとは違います。
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とも書きました。
そんな時代に,自らの人生を権力者として捧げる人たちは尊いのでしょうか。そもそも出世願望というのは劣等感の反映です。だから,だれも頼んでもいないのに,そうした地位に就くことが生きる目的だと思うほど自分に自信がなく愚かなのでしょうか?
「週刊朝日」や「サンデー毎日」がやれ〇〇高校から東京大学合格何人だのとはやし立てても,その大学を卒業したその果てに待っているのが,一生出世争いをし,政治家の顔色を伺い,多忙なだけの官僚というものなのでしょうか?
そもそも,このご時世,東京に住んでいるというだけで,幸せの半分を手放しているようなものです。
それにしても,この国の「劣化」は,留まるところを知りません。教育という名のもとで点数争いをしているだけで,若いころに自由を謳歌し,あるいは,生きる意味について悩み苦しんだ経験のある真のエリートを育ててこなかったからこの様です。今の政治家は,まるで「ドクターX」に出くる悪徳医を地でやっているようなものです。そんなドラマが現実となりつつあります。
国民が忘れてならないのは,国にはお金はないということです。国のお金というのは,国民の税金を集めたものと国債とかいう名の借金なのです。そして,国の決めた施策を実行するのも国ではなく企業です。つまり,政治家がやっているのは,予算を決め,その施策を実現するために国民の税金を原資として企業に発注するということなのです。わかりやすくいえば,さまざまな口実を作っていかに多くのお金を国民から巻き上げるか,そして,そのお金を,どのような理由をこしらえて企業に分配するか,ということです。だから,企業は,いかにして国からお金を分配してもらうかということに苦心するわけです。そこに癒着が生まれ,接待が行われるのです。
このように,何ごともやっていることには裏があるのです。だから,作らなくてもいい道路やダムができるし,教育改革といいながら実は教育産業やIT企業に金儲けをさせるために丸投げはするし,コンピュータの知識もないから不完全なアプリを高額で発注し欠陥品を納入するわけです。
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非常事態宣言とかを発令していますけれど,そもそも,自粛をよびかけていたその時期に,忘年会をやって7万円もする料理をおごってもらっただの,県境を越えて移動するだの,仲間の選挙の応援に走り回るだの,そうしたことを率先してやっていた当事者たちが,そういうことをするなという宣言を発令しているのだからお笑いぐさです。それは,酒飲みのおやじが酒を飲まない息子に酒を飲むなと説教しているようなものだからです。
政治家も医者も日ごろから宴会や飲み会,そして,群れることなど「気の緩むこと」が大好きな人たちでしょう。そうした彼らが口癖のように上から目線で偉そうに国民に「気の緩み」などと決して言ってほしくないものです。そしてまた,少し前にGo To Travel とやらを東京を除外して仲間はずれにしたときはそれに抗議をしておいて,今度は東京は非常事態宣言を続けよなんて,よくもまあ,いけしゃあしゃあと言えたものです。そもそも,国が一丸となってコロナ禍に取り組まなけばならないのに,足の引っ張り合いをし,利権争いをし,ごまかすことに全霊を捧げる様を見ていると,若者が新型コロナウィルスを軽視しているなんていえたものではなく,自分たちが一番軽視していることが容易に見てとれます。
まあ,私は,飲み会もしないし,旅行は行き飽きたし,権力争いも興味ないし,利権も関係ないし,忖度もしないし,一向に何も困らないから,欧米や中国,ロシアのように自国でワクチンも作れないエセ先進工業国はワクチン接種すら滞っていることだし,2週間だの1か月だのとけち臭いことをいわずに,いつまでたってもリーマンショックの後始末もできないで金融緩和を続けているのをよきお手本として,永遠に非常事態宣言とやらも続けてもらって,ついでに,利権に群がっているだけのオリンピックも中止しちゃいましょう。そうすれば,以前のようにインバウンドで外国人が観光地に押し寄せて迷惑することもないし,世の中静かで安らぎます。飛行機も新幹線もコンサートホールも空いているしねえ。私はこのほうがいいや。
この国の去勢された国民はそのくらいにしないと暴動なんて起こさないし,そんな事態にでもならなければ,食うに困っていない権力者たちは庶民の苦労なんて絶対わからないのだから。
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以前,「私は理解できない」とこのブログに書いたのですが,それ以降,私は増々,行っていることとやっていることが裏腹な日本の社会が理解できなくなりつつあるこのごろです。
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「不良老人」のたわごと①-2月が短かかったわけは?
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3月になり,春らしくなってきました。春は人事異動の季節で,これまでいろいろないやなことがあったので,この時期はずっと好きではありませんでした。特に夕暮れの時間が来ると思い出してどうもいけません。でも,もう,それも過去のこと。全部忘れました。
子供のころから,2月は28日か29日しかないので他の月とは一線を画していて,人マネの嫌いな私はなぜか親近感をもっていましたが,どうして短いのかずっと疑問でした。そこで,調べてみることにしました。その結果,2月が短い理由は
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●もともとは2月が1年の最後の月であったので,帳尻をあわせるために1日少なかった
●ある事情で8月から1日取られたので,さらに1日少なくなった
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ということを知りました。
紀元前8世紀ごろのローマで使われていた「ロムルス暦」(Calendar of Romulus)は,農耕のために定められたので,1年は「Martius」(英語のMarch,現在の3月)からはじまる10か月で,1週間が8日で38週,つまり304日からなっていて,残り約60日ほどは暦がないという変則的なものでした。1年のはじめの日は農耕に適したときをなんとなく王が決めたもので,特に定められたわけではなかったようです。
その後、ローマ王ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius)が新たに制定した「ヌマ暦」(Calendar of Numa)で,冬の期間にも「Ianuarius」(英語のJanuary,現在の1月)と「Februarius」(英語のFebruary,現在の2月)というふたつの月を追加して空白の日をなくし,1年が12か月になりました。
「ヌマ暦」は月の満ち欠けをもとにしたので1年の日数は355日で,偶数を嫌った「ヌマ暦」では,ひと月の日数を29日か31日で割り振り,最後の2月だけは余った28日としました。しかし,1年が355日では暦と季節がずれていきます。そこで,うるう月を入れて調整をしていたのですが,うるう月が正しく挿入されなかったことによって,ジュリアス・シーザー(Julius Ceasar)の時代には,暦と季節が2か月以上もずれていました。そこで,ジュリアス・シーザーは太陽をもとにして,平年を365日,4年に1度のうるう年を366日とする「ユリウス暦」(Julian calendar)を制定し,紀元前45年から導入しました。
「ユリウス暦」では,3月,5月,……,11月,1月を31日,4月,6月,……,12月,2月を30日というように,奇数月を31日,偶数月を30日としました。しかし,1年の最後の2月を30日とすると1年が366日になってしまうので,2月は平年を29日,閏年を30日とすることで調整しました。さらに,ジュリアス・シーザーは,自分の生まれた7月に名前を残すことにして,それまでキンテイリス(Quintilis=5番目の月の意)とよばれていた7月をユリウス(July)と改称しました。
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ジュリアス・シーザーの後継者で,初代ローマ皇帝となったアウグスタス(Augustinus)も同じように自分の生まれた月の名前に残したいと思い,セクステイリス(Sextilis=6番目の月の意)とよばれていた8月をアウグスタス(August)と改称しました。さらに,自分が生まれた月が30日しかないのは不愉快だったので,31日に変えることを決めて,そのあとの月の日にちも1個ずつずらしたのですが,そうすると1年の日数が1日増えてしまうので,また,1年の最後の月だった2月から1日取ってしまうことにして,2月は平年を28日,閏年を29日としました。これが現在まで続いているわけです。
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ただし,これには別の説があります。
それは,NHK総合「チコちゃんに叱られる」で放送されていたもので,先ほどの説明で,「ユリウス暦」では奇数月を31日,偶数月を30日とした,というのではなく,「ヌマ暦」で29日までだった月をそのまま「ユリウス暦」では30日にしたというものです。だたし,「ヌマ暦」では2月だけは28日でしたが,3月1日からさかのぼって7番目の日である2月23日がローマの守護神テルミヌス(Terminus)を称える日であるテルミナリア(Terminalia)と定めてありました。この定めを「ユリウス暦」でも変えないために,「ユリウス暦」も2月だけは「ヌマ暦」で定めた28日のままにした,というものです。しかし,これでは,閏年は2月を29日にするということの説明がつかないと私は思うですが…。
インターネット上に,なぜ2月だけ短いのかということを説明したものが多くあるのですが,それらの説明を読んみると,ふたつの説が混在しています。それはもととした説の出所がこのようにふたつあるからなのでしょう。
ついでに,月の名前の由来も調べてみました。
●1月(January)
ローマの門神ヤヌス(Janus)が由来。ローマでは戦いで出陣する際に通る門にヤヌスを祀っていたことから物事のはじまりを表すようになった。
●2月(February)
ローマの贖罪の神フェブルウス(februare=ギリシャ神話のプルートPluto)が由来。先代に行われた戦争の死者の弔いをするため,慰霊祭を毎年2月に行っていたことから。
●3月(March)
ローマの軍神マルス(Mars)が由来。
●4月(April)
ギリシャ神話の女神のひとりアフロディテ(Aphrodite)(愛と美の女神としてヴィーナス(Venus)と同一視される)が由来。
●5月(May)
ギリシャ神話の女神のひとりマイア(Maia)が由来。マイアは、全能の神ゼウス(Zeus)と結婚した女神で豊穣の象徴とされている。
●6月(June)
最高位の女神ユノ(Juno=ギリシャ神話ではヘラ)が由来。ゼウスの正妻がヘラ。ユノは結婚のご加護がある神なので6月が「ジューン・ブライド」。
●7月(July)
もとはキンテイリス(Quintilis=5番目の月の意)。ジュリアス・シーザー(Julius Ceasar)にちなんで改称。
●8月(August)
もとはセクステイリス(Sextilis=6番目の月の意)。アウグスタス(Augustinus)にちなんで改称。
●9月から12月(September,October,November,December)
ラテン語でSeptemは「7」,Octomは「8」,Novemは「9」,Decemは「10」を意味することから。2か月ずれたのはあとで1月と2月が加えられたから。
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