しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2021

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●カウナカカイ桟橋での夕日●
 海を眺めて,時間を忘れて過ぎたモロカイ島の1日の最後は,カウナカカイ桟橋で夕日を眺めることに決めていた。
 桟橋を渡ったところに広い駐車場があるので,そこに車を停めて,桟橋を歩いて戻り,桟橋の途中にあったベンチに腰掛けた。あとは,夕日が海に沈むのを待つだけだった。
 海にには船が浮かび,雲がいい感じに出ていた。
 夕日は,雲ひとつない青空のもとで沈むより,雲に光が反射したほうが,ずっときれいだ。そしてまた,沈むまでが極めて美しいものだ。それが日の出とは反対で,日の出は太陽が昇るまでが美しく,太陽が見えてしまうと,急に現実に戻ってしまう。
 聞こえるのは,波の音だけだった。
 人の少ないモロカイ島は,夕日を眺めるのに最高のハワイの島に違いない。
 太陽が沈み,コンドミニアムに戻ると,コンドミニアムのまえのビーチの向こうにはラナイ島が見えた。砂浜には1組のカップルがいた。


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●パドラーズインで夕食をとる。●
 ベランダにイスを出して,ずっと海を見て1日を過ごしたのだが,今では,この日に何をしたのか,まったく記憶がない。とにかく,何も記録がない。車に乗ってどこかに出かけたこともないし,テレビもつけなかった。
 お昼はいつだったか買ってきたカップヌードルを食べたような気もするが,それがこのときだっだかどうかも定かでない。写真もないからわからない。
 ともかく,何もしないというのはかなり退屈だと思うだろうが,海を眺めていると,時間を忘れるのだ。
 人生暇つぶし。なので,暇をつぶす方法をたくさん知っていることが生きるコツなのだろうが,それがもっとも難しいことのように思う。特に,私のように,普段,何もしないでいるとすぐにイライラするなどという性格は,最も生きることが下手なのだろう。
 しかし,仕事は別として,暇なときに何かをしたとしても,それはしなけらばならないことでなければ,要するに,してもしなくても同じなのではないか,と思うわけで,むしろ,何かをすることで他人に迷惑をかけることも数多くあるのだ,とこのごろ感じるようになった。

 さて,そんなわけで,海を眺めていたら夕食の時間になった。 この旅の最後の晩は,モロカイ島でもっとも贅沢だと私が思っていたパドラーズイン(Paddlers Inn)というバーを併設したレストランに行くことにした。
 これまでここに行かなかったのは,ここが飲み屋だと思っていたことに加えて,「地球の歩き方」にはこの店で使えるクレジットカードがVISAだけと書かれてあったのが最大の理由であった。私は,この旅にはVISAカードを持っていかなかった。
 特に海外では,私は,現金を使うということはほとんどなく,たとえ飲み物1本買うにも,クレジットカードを使う。だから,わずかの現金しか持っていなかったのだ。
 事前の情報では,モロカイ島は,少し前の日本のようなところで,Wifiもクレジットカードも使えないと思ったほうがよいところらしかった。しかし,実際はそう困ることもなく,コンドミニアムではWifiがつながったし,ほとんどの場合クレジットカードが使えた。

 そんなわけで,わずかしか現金を持っていなかったが,これまでほとんど現金を使わなかったために,というか,お金を使うところもほとんどなかったために,手元の現金はまったく減ることもなかったので,この晩,たとえ夕食を現金で支払っても大丈夫という見込みが立ったので, 入ってみることにしたのだった。
 入ってみると,私のほかに初老の夫婦がいただけだった。彼らはカウンタに腰かけて,おいしそうにアルコールを楽しんでいた。
 ここは,オーストラリアの田舎町で入ったことがあるタバーン,つまり,お酒も飲めるレストランという感じのところで,とても居心地がよかった。また,かしこまった場所でもなかった。メニューも高級そうなものはなく,ハンバーガーがいろいろあるくらいのものだったが,それでも,ここはこの島でもっともマシなレストランであった。もう少し遅く来れば,ライブ演奏をやっていることもあるということで,店内の端にはステージもあったが,この晩,それが行われたのかどうかは知らない。
 ライブ演奏といえば,ハワイは,レジャーランドのような日本人観光客のあふれるオアフ島は別としても,ハワイ島でもカウアイ島でもマウイ島でも,なかなか雰囲気のいいライブ演奏のつきのレストランがあって,私もこれまで楽しんだ経験がある。まあしかし,モロカイ島では,それは望めないだろう。
  ・・
  食事を終えて支払いをしようとしたとき,このお店でもほとんどすべてのクレジットカードが使えることがわかり,拍子抜けした。それはともかくとして,最後の晩にいい思い出ができた。そしてまた,私のモロカイ島の,食事をする場所もない,という印象もこれで払拭されることとなった。
 それにしても,次回,もし,モロカイ島に行くことがあれば,連日,朝はカネミツベーカリーで朝食をとり,昼はカネミツベーカリーで買っておいたパンを食べ,夜はパドラーズインで夕食を繰り返すしかないのだろうか。


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☆☆☆☆☆☆
 4月の満月を「ピンクムーン」といいます。ピンクに見えるからピンクムーンではないのですが,27日の月の出のころ,薄い雲に覆われた月が実際ピンクに輝いていて,とても幻想的でした。
 27日は曇るかも,ということと,実際の満月は今日のお昼12時過ぎだったということで,前日の26日にも写しました。26日の月の出は午後5時30分過ぎでしたが,その時間,太陽が西の空に輝き,雲ひとつない空は澄んでいて,それが災いとなって,なかなか月が見えてきません。やっと目を凝らすと東の空に月が見えはじめ,次第にはっきりと見えてきたころ,反対がわの西の空を見ると,沈みかけた夕日がきれいでした。

 毎月,満月には名前がついています。それは,月の満ち欠けとともに生活していたネイティブアメリカンがつけたものですが,近年は,日本でもこのよび名が定着してきたように思います。
 今日は,その名前を紹介します。
  ・・・・・・
●1月:ウルフムーン(Wolf Moon)
 真冬の狼の遠吠えから。
●2月:スノームーン(Snow Moon)
 雪の季節なので。
●3月:ワームムーン(Worm Moon)
 春になって地面から虫が這い出してくる時期です。
●4月:ピンクムーン(Pink Moon)
 春に咲くピンク色の「フロックス」(wild ground phlox)という花に由来。
●5月:フラワームーン(Flower Moon)
 花の季節だから。
●6月:ストロベリームーン(Strawberry Moon)
 野いちごの収穫の季節なので。
●7月:バックムーン(Buck Moon)
 雄鹿(バック)の角が生え変わる時期より。
●8月:スタージャンムーン(Sturgeon Moon)
 「スタージャン=チョウザメ」がたくさん捕れますようにとの願いを込めて。
●9月:ハーベストムーン(Harvest Moon)
 収穫の時期。
●10月:ハンターズムーン(Hunter’s Moon)
 鹿やキツネを狩る月だから。
●11月:ビーバームーン(Beaver Moon)
 ビーバーを捕獲する罠を仕掛ける時期。
●12月:コールドムーン(Cold Moon)
 寒さが本格的になる季節。
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 ちなみに,「ブルームーン」は「同じ月に2回の満月があるときの2回目の満月」のことです。
 「once in a blue moon=めったにない」という意味から「とてもめずらしい月」として使われています。
 また,月は地球の周りを楕円軌道で動いているので,地球との距離が変わります。1年のうちで地球の中心と月の中心が最も近い満月を「スーパームーン」,その反対に最も遠い満月を「ミニマムムーン」といいます。
  ・・
 今年2021年の「スーパームーン」は次の満月5月26日ですが,この日は皆既月食でもあります。


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 私は,マーラーの生涯についてもあまりよく知らなかったので,調べてみました。
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 グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)は,1860年,ユダヤ人のベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler)とマリー・ヘルマン(Marie Hermann)の第2子として,当時オーストリア帝国に属したボヘミア王国のイーグラウ(Iglau),現在のチェコ・イフラヴァ(Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt),現在のカリシュチェ(Kaliště)に生まれました。1860年は,日本ではあと7年で明治維新という幕末であり,ブラームスが生まれた1833年の27年後,ブルックナーが生まれた1824年の36年後です。長男が早世して,グスタフ・マーラーは長男として育てられました。
 父のベルンハルト・マーラーは荷馬車での運搬業を仕事にし,やがて,酒類製造業を開始,ユダヤ人に転居の自由が許されてから家族はイーグラウに移住しました。ベルンハルト・マーラーは強い出世欲を持ち,子供たちにもその夢を託しました。
  ・・
 幼いころから教育を受けたマーラーは,ドイツ語を話し地元キリスト教の教会の少年合唱団員として合唱音楽を歌っていました。1869年,9歳のときにイーグラウのギムナジウムに入学し,10歳となった1870年にはイーグラウ市立劇場での音楽会にピアニストとして出演しました。
 1875年,15歳で現在のウィーン国立音楽大学であるウィーン楽友協会音楽院に入学し,1877年にはウィーン大学にてブルックナーの和声学の講義を受けました。そして,卒業後,1883年に23歳でカッセル王立劇場の楽長となり,音楽祭では指揮者として成功をしました。その後は,プラハのドイツ劇場の楽長,ライプツィヒ歌劇場の楽長を経て,ブダペスト王立歌劇場の芸術監督,そして,ハンブルク歌劇場の第一楽長となりました。
 1897年,37歳で現在のウィーン国立歌劇場であるウィーン宮廷歌劇場の第一楽長に任命され,翌年には芸術監督となりました。さらに,1898年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者となりました。しかし,1901年,40歳のときウィーンの聴衆や評論家との折り合いが悪化し,ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を辞任します。また,1902年には,41歳で当時23歳のアルマと結婚しました。
 1909年,49歳でニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者となりますが,1911年,アメリカで感染性心内膜炎と診断され、ウィーンに戻ったのち,51歳の誕生日の6週間前に敗血症で死去しました。

 マーラーは,こうした多忙な日々の間に,多くの交響曲を作曲しました。
 マーラーにとって,交響曲の作曲は仕事の合間の娯楽のような気がしますが,それらは歴史に残る大きな偉業となりました。
 指揮者のブロムシュテットさんは自伝に次のように書いています。
  ・・・・・・
 マーラーの音楽は(はじめのころは)理解できませんでした。マーラーの交響曲のなかに引用されている民族音楽は,私には感傷的でしかも俗っぽく感じました。こんなものは交響曲のなかにはあってはならないと思っていたんです。
  ・・・・・・
 私も,マーラーの交響曲をはじめて聴いたときには,同じことを思いました。そこには,ベートーヴェンの交響曲のような張り詰めた厳格さとか,ブラームスの交響曲のような緻密に計算しつくされた構成とか,ブルックナーの交響曲のような神々しさはありません。なよ~っとしたグロテスクな感じというか,そんなもののどこがいいのかと思いました。
 しかし,今では,マーラーの交響曲はコンサートの定番となり,多くの人を引きつけているのです。
 作曲は,南オーストリア・ヴェルター湖岸のマイアーニック(Maiernigg)に山荘を建て,主にそこで行なわれました。

 マーラーは上昇志向が非常に強く,かつ,才能に溢れていたようです。こうした人は,人間としては好かれなくとも,その才能から作られた芸術だけは,それを越えて,人々にいつまでも敬意をもって迎えられるようです。ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)もまた,同じようなものでしょう。
 私は,マーラーの作曲した10曲の完成した交響曲と未完の1曲のうち,「大地の歌」(Das Lied von der Erde)が最も好きです。この曲が最高傑作だという人も少なくありません。「大地の歌」を聴くと,若くして病に侵されたグスタフ・マーラーの無念さとともに,自然へ回帰する憧れのようなものを感じます。
 この曲は,悲しみとともに,安らぎと,そして,救いで閉じられます。
 私には,生きる希望が湧いてきます。
  ・・・・・・
 Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz
 und grünt aufs neu!
 Allüberall und ewig Blauen licht die Fernen!
 Ewig... ewig...
  ・・
 愛しき大地に春が来てここかしこに百花咲く
 緑は木々を覆い尽くし永遠にはるか彼方まで
 青々と輝き渡らん
 永遠に… 永遠に…
  ・・・・・・


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 私が若いころは,「ブルックナーとマーラー」というように,このふたりの作曲家は一緒に考えられていました。1曲が長いということや,ともに交響曲を9曲から10曲ほど残した,という共通点があり,さらに,今ほど一般には知られていなかったから,ベートーヴェンを卒業した「ツウ」が聴くものというようなイメージもあって,私は背伸びして聴いたものです。 
 ブルックナーの交響曲もマーラーの交響曲も,はじめはよくわからなかったのに,いつしかすばらしいと思うようになったのですが,それがいつなのかは思い出せません。
 なかでも,マーラーの交響曲は合唱を伴うものが多く,入りやすいこともあって,けっこう早いうちから何とか聞き通すことができるようになりました。しかし,はじめて交響曲第2番「復活」を聴いたときは長くて途中でめげたのを思い出します。
  ・・
 今でもそうですが,はじめて聴く曲は,この曲の何がいいのだろうと思うことが少なくありません。こういったものを聴くのは修行でしかなく,そんなとき,いったい音楽を聴くということは何モノぞ,と自問してしまいます。ある意味,苦痛でしかないからです。しかし,巷で「よい」といわれているものは,不思議なもので,何度も聴いているうちに,はまってきて,そのよさがわかってきます。

 ところで,実際はブルックナーとマーラーを一緒くたに考えるのはまちがっているのですが,それでもあえて比較すると,ブルックナーは自然を相手にしていて,マーラーは人間を相手にしている音楽,あるいは,ブルックナーは人間の精神性を奏で,マーラーは人間の感情を奏でている,またあるいは,ブルックナーは墨絵であり,マーラーは色彩画という感じが私にはします。
 私は,ブルックナーは日常いつも聴きますが,マーラーはコンサート会場で聴くことはよくあっても,日常聴くことはほとんどありません。
  ・・
 一時,マーラーのある種のきらびやかさが嫌いで,しばらくマーラーを聴くことを中断していた時期がありました。そんな私が再びマーラーに向かうようになったのは,ウィーンを訪れて,マーラーの墓を詣でたことがきっかけでした。
 マーラーが埋葬されたのは,ウィーンのグリンツィング墓地です。ここはウィーンの中央墓地とは反対の方角にあって,結構行くのに不便なところです。しかも,ずいぶんと歩いてグリンツィング墓地に着いても,墓地のどこにマーラーの墓があるのかも,行ってみてもすぐにはわかりませんでした。
 やっと見つけた墓碑は小さく地味で,ウィーン中央墓地にあるベートーヴェンやブラームスなどの墓碑に比べて,私は衝撃を受けました。悲しくなりました。それは,「私の墓を訪ねてくれる人なら,私が何者だったのか知っているはずだし,そうでない連中にそれを知ってもらう必要はない」というマーラー自身の考えを反映し,墓石には「GUSTAV MAHLER」という文字以外,生没年を含め何も刻まれていない,ということだそうです。しかし,オーストリアでマーラーという大作曲家がどう思われているか,ということの反映のようにも思いました。
 私は,ウィーンの街はずれのこの墓地あたりの雰囲気とともに,私がグリンツィング墓地を訪れたときに,ちょうどある葬送の列があり,遺体の埋葬に出会ったことも衝撃となって,かなりのショックを受けました。それが,再び,マーラーをしっかり聴いてみようと思うきっかけになりました。

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 私は,人のいない時間に散歩をすることに,この上ない幸せを感じます。そしてまた,日の出,日の入りを直に体験すると,それはすばらしいものです。さらに,街灯のないところが好きです。
 若いころは,1月1日の初日の出といえば,とても朝早いことで,それを見るのは大変だと思ったものですが,実際は午前7時過ぎなので,まったく大変なことではありません。1月のころは,寒いですが朝6時から散歩をはじめても,はじめのうちはずいぶんと暗く,日の出前は神々しく美しい景色を十分に楽しむことができます。その逆に,夜は午後5時を過ぎると暗くなってしまうので,夜の散歩には適しません。
 それが,4月を境に逆転します。
 4月を過ぎると,朝散歩ををしようと思っても,早朝5時には,もう,星が見られません。日の出も日一日と早くなっていきます。その逆に,夜は午後6時を過ぎても明るく,しかも,それほど寒くないので,快適な散歩をすることができるようになります。
  ・・ 
 散歩とは違いますが,星を見にいくときは,冬は,嫌になるほど夜が長く,また,寒く,徹夜で星を見ることはかなりの苦行となるのですが,その反対に,夏は,夜9時くらいまでは明るく,また,午前3時になると,空が白んでくるので,あわただしいです。
 このように,朝,晩の季節の変化を味わうことも,また,おもしろい体験です。

 話は飛躍しますが,緯度の違いによって,この昼間と夜間の長さの違いをかなり感じます。
 夏にアメリカのモンタナ州に行ったとき,なかなか夜暗くならないので,驚いたことがあります。夜10時を過ぎても明るいので,夜になるのを忘れているのかと思ったほどです。
 もっと北に行くと,冬は極夜となり,夏はその反対に白夜が訪れます。私は極夜の経験はありませんが,2月のフィンランドの北極圏にある町ロヴァニエミに行ったとき,午後3時にはもう暗くなるのに驚きました。その反対に,一度,白夜を経験したいものだと,昨年の夏,フィンランドに行く計画を立てていたのですが,残念ながらそれがかなわなかったのをとても残念に思います。


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 昨年の夏,ネオワイズ彗星を見るために北海道へ行ったときに知り合った私と同じ年くらいの男の人がいるのですが,彼は今,軽自動車を改造したキャンピングカーに乗って,日本列島一周の旅をしているようです。
 私の推測にすぎませんが,北海道の稚内に住んでいると,四国地方や九州地方なんてずいぶんと遠いから,おそらくはじめての旅なのでしょう。FaceBook で珍しそうに,行く先々の様子を語っています。おそらく,コロナ禍とは関係なく,日本一周を計画していたのだと思いますが,ちょうど時期が悪かったのです。
 アメリカに長年住んでいて年に一度帰国する友人もまた,日本に帰ってくると,時間を惜しむかのように,日本中を旅しています。

 昨年のコロナ禍以来,定年退職をして,これから海外旅行をしようと楽しみにしていた人とか,大学生になって旅行をしようとか,卒業旅行で外国へ,という人たちが,私には気の毒で仕方ありません。こういった年代の人たちにとって,2,3年のブランクはとても大きいのものです。
 かくいう私も,結構,旅行に行けないね,と気の毒がられるのですが,強がりでなく,私は,ここ4,5年,自分でも制御不可能なほど旅をしたおかげで,国内も海外も,おおよそ行きたいと思っていたところはそのほとんどに行ったので,今,行くことができないことは残念ではありません。むしろ,ブレーキがかかってよかったとさえ思っています。ただし,パスポートがスタンプで一杯になるのを楽しみしていたので,それだけが残念です。まあ,そんな些細なことはどうでもいいですが…。

 実は,昨年の今ごろは,まだそこまでの境地には達しておらず,旅行客が減ったことを幸いに,弘前で桜を見ようとか,山形県の山寺に行こうとか,そういった計画を立てて航空券を購入したたのですが,すべてキャンセルとなりました。しかし,今年は,まったくそんな気がなくなってしまったのが不思議なところです。
 実は私も,昨年の今ごろは,コロナ禍が収まったら,日本列島を車で一周してみようと思っていたのですが,そんな気持ちも失せました。いろいろと冷静に考えてみると,そんな旅にあまり魅力を感じなくなってしまったからです。そしてまた,アメリカのように,予定も立てず旅行をしても,どこでも簡単に宿泊できる全国チェーンの安モーテルも日本にないし,結構めんどうなのです。
 旅というのは,何の気兼ねもなく,何の予定も,こだわりもなく,気楽だからこそいいのです。
  ・・
 そんな私が今思い出すのは,ニュージーランドの雄大な大自然や,オーストリアの古い歴史に彩られた魅力ある景観や,アメリカのどこまでも続く,まっすぐな道ばかりです。それに比べたら,この国で,そんな魅力のあるところなんて,どこにもありません。そしてまた,人の目ばかりを気にする国民性。これでは,気楽な旅などできません。
 とても残念です。


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  掩蔽(occultation)とは,観測している天体と観測者の間を他の天体が通過するために,観測している天体が隠される現象のことをいいます。通常は,観測者から見て近い方の天体の方が見かけの大きさが大きく,遠方にある天体を完全に隠す場合のことをいい,その反対に,遠方にある大きな天体と観測者の間を小さな天体が移動することによって遠方にある大きな天体を部分的に隠す現象を通過といいます。たとえば,太陽の前を水星や金星が通過するものを太陽面通過といいます。
 また,近いほうの天体が月の場合,つまり,月が星の前を通過する掩蔽を,特に星食(lunar occultation),また,恒星の前を通過する星食を恒星食といいます。
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 月の軌道は一定しておらずふらついているので,毎月同じ恒星が恒星食になるわけではありません。恒星はたくさんあるので,恒星食は絶えず起きているように思われがちですが,暗い恒星は月の明るさに消されて月の近くにあると見えなくなってしまうので,観測できる恒星はおよそ9等星より明るいものに限られてそれは約3,500個あまりです。
 しかし,1等星の恒星が隠される恒星食となると,可能性のあるのはしし座のレグルス,おとめ座のスピカ,さそり座のアンタレス,おうし座のアルデバランの4つしかありません。それも,まれにしか起きません。

 4月22日の夕方午後7時前,月齢10の上弦過ぎの月が3.5等星のしし座のη(エータ)星を隠す恒星食が起きました。 恒星が月の暗い縁に潜入して隠れるのは午後5時30分ごろでしたが,まだ日没前なので見えませんでした。月が恒星の前を通過している間に日が沈み,空が暗くなってきて,月の明るい縁から恒星が出現する時点では日の入りの直後となって,空はまだ明るいのですが,なんとか見られるかも,ということでした。
 今回月が隠したしし座η星は,月に隠されることがある恒星としては比較的明るい方ですが,日没後なので,当然,肉眼では見えません。望遠鏡なら見えそうです。そこで私は,写真でも写るだろうということで試してみました。恒星食の起きる時間は観測する場所によって異なります。私の住んでいるところでは,出現する時間は午後6時49分ごろでした。
 幸いこの日は天気がよかったのですが,月はほぼ天頂に近く,望遠鏡を向けるのに苦労しましたが,なんとか月を視野に入れることができました。いつも月を写すのと同じようにして設定をし,月の背後から星が出てくる少し前の午後6時48分から10秒刻みで写すことにしました。
 何枚も写し終えて,後で確認したら,幸運にも,写真のように,確かに恒星の姿を確認することができました。私は,これまで,恒星食など,興味もなかったし,写したこともありませんでしたが,それなりにおもしろいものでした。今回もまた,何事もやってみなければわからないと思ったことでした。
  ・・
 なお,天文年鑑2021には,この恒星食については詳しい説明がありませんでした。その理由として「暗縁への潜入が昼間,明縁からの出現が日没前後と条件が悪いため,予報には示していない」と書かれてありました。


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●極めつけのハワイの過ごし方●
 この日は,朝,ファーマーズマーケットに行って,帰りがけにカネミツ・ベーカリーでシナモンロールを,スーパーマーケットでジュースを買って帰ってきた。
 もはや,モロカイ島でやることも行くところもないので,1日中,部屋のテラスで海を眺めながら過ごすことにした。

 私の好物であるシナモンロール(cinnamon roll)だが,不思議なことに日本ではあまり売っていない。どうしてだろう。
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 シナモンロールは,イースト入りのパン生地を大きめの長方形に伸ばして,表面にバターを薄く塗り,シナモン,砂糖をまんべんなくふりかけてロール状に巻き,それをひとり分ごとに輪切りにして,切り口を上にしてオーブンで焼いたものである。
 シナモンロールは,北欧や中欧,そして,北アメリカで浸透しているペストリー(pastries),つまり,パン生地に油脂を多く加え,パイ状に焼き上げたもので,スウェーデンで発明されたと考えられている。
 焼き上がったものにアイシングとよばれる砂糖衣や砂糖シロップ,または北欧で一般的なニブシュガーという胡麻粒状の砂糖,フロストシュガーなどをトッピングする。
  ・・
 シナモンは,ニッケイ属(Cinnamomum)の複数の樹木の内樹皮をはがし乾燥させて得られる香辛料である。熱帯各地で幅広く栽培され,香り高く「スパイスの王様」とよばれる。
 シナモンには,独特の甘みと香り,そして,かすかな辛味があり,カクテル,紅茶,コーヒー等の飲料やアップルパイ,シナモンロールなどの洋菓子の香りづけに使われる。
 インドネシアと中国が世界のシナモン生産の76パーセントを占めている。
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 以前,カウアイ島に行ったときも,滞在最後の1日,することがなくなったので,ホテルのプライベートビーチで1日海を見て過ごしたことがある。このとき,こんなすばらしい時間の過ごし方があるんだなあ,とはじめて知った。また,マウイ島でも,マケナビーチで半日,海を見て過ごした。
 日本人は仕事以上のハードスケジュールで名所旧跡を見て回ることを旅と考えてることが多いが,西洋でのバカンスというのは,何もしないことが最も贅沢な過ごし方なのである。
 高いお金を出して,しかも,やっと手に入れた短い休日に,外国に出かけて何もしない,ということは,もったいないことのようには思えないだろうか。私もそのひとりであった。さらに,日ごろ,何もしないなどという生活をしたことがないから,どう過ごせばいいのかもわからないし,さらには,罪悪感を感じてしまうことも少なくない。しかし,その一方で,近ごろ,巷では,退職した老人が朝から晩まで,することもしたいこともなく,右往左往している姿をよく見かけたりする。
 しかし,よくよく考えると,あくせく何かをすることがしあわせなのだろうか?
 暇つぶしに何かをしても,それは実際はやらなくても何も困ることではないことがほとんどなのである。

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●ファーマーズマーケット●
☆3日目 2020年2月22日(土)
 それにしても幸運だったのは,滞在3日目が土曜日だったことだ。それは,土曜日の朝はカウナカカイのダウンタウンでファーマーズマーケットをやっているということだったからだ。わずか2泊4日のモロカイ島への旅であったが,ムダのない充実したものとなった。
  ・・
 ファーマーズマーケットは世界中のさままな場所で行われていて,これまでもいろんなところでそれを見る機会があった。私は,こうした場所が好きなのだ。しかし,海外旅行をはじめたころは,その土地の名所旧跡に行くことに頭がいっぱいで,こうした場所があることすら知らなかった。そして,しばらくして興味が出てきたときは,なぜか曜日が合わずなかなか行く機会がなかったが,このごろは,なぜかいつも曜日が合って結構な割合でファーマーズマーケットを訪れるようになった。

 日本でも,高山の朝市など有名なものがあるし,私の住んでいたところでも,昔,開かれていたことがあった。そもそも,四日市とか八日市とかいうのは,市が開かれた日にちが地名になったものだ。しかし,今では,都会はどこも巨大モールができてしまい,欲しいものが欲しいときに手に入るようになったし,流通も巨大化してしまい,生産者の顔が見られなくなってしまった。
 果たしてこれを便利というのだろうか?
 ただし,私は,欲しいものがあれば,そのときだけ,モールに出かけたり,あるいは,ネットでショッピングをするから,衝動買いをするなんていうことはまったくない。
 そこで,旅に出て,ファーマーズマーケットを覗いても,土産ひとつ買う習慣がないから,ひやかし専門である。ただし,こうしたマーケットではそこに住んでいる人たちの様子が垣間見えるからとても興味深いのである。

 このときも期待してマーケットに行ってみたが,そもそも島民の絶対数が少ないから,マーケットといったって数軒の露店があるだけだった。思えば,アラスカへ行ったときにフェアバンクスのマーケットに行ったときも同様であった。というより,モロカイ島よりもっとさびれていた。
 モロカイ島のファーマーズマーケットは,規模が小さいとはいえ, マーケットのの中央では若い女性がふたりフラダンスをやっていたし,軒下でギターを弾いている人がいたりしたから,マーケットらしい雰囲気がなかったわけでもない。

 それにしても思うのは,人は,こうした地産地消の食材をマーケットで吟味して手に入れて腕によりをかけて食事をつくったり,うれしいときには楽器を手にして音楽をかなでたり,あるいは,美しい風景に出会ったらスケッチブックに絵を描いたり,また,人と気軽に触れ合うために言葉をかけたり,そんな生活が,実は,最も幸せなことではないだろうか。
 私は,そんな当たり前の能力の何ひとつももち合わせていないのを恥じるのである。


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 私が子供のころは,「普通に」小学校や中学校へ行って,受験をして「普通に」高等学校へ行って,再び受験をして「普通に」大学を出て,「普通に」就職して,「普通に」老後を迎えるのが「普通」だと思っていました。また,若いころは,老後の心配などしたこともなく,歳を取れば仕事をしなくても暮らせるだけの年金がもらえるものだと思っていました。そんな「普通の」人生をすごすためには,「学歴」というブランドが最大の武器でした。そのブランドさえ手に入れればそれでその先はおよそ安泰だったのです。
 しかし,実際は,どこかで挫折をしたり健康を害したりと,そうした「普通の」人生を送ることは非常に難しいものだと,歳をとってみて,よくわかりました。しかも,今は,運よくそうした「普通の」人生を進むことができても,情報技術(IT)が発達し人工知能(AI)が進化したことで,これまでの仕事がなくなっていき,さらに,少子高齢化が進む現代では,「普通の」老後さえ迎えられない,つまり,「学歴」というブランドがあったとしても,そうした「普通の」人生すら,困難な時代になってしまったのです。

 しかし,学校教育は,そうした現実すら把握できず,相も変わらず,今でも30年前の価値観で教育をしています。それは,教師という職業が「ブラック」だと思われていることも原因のひとつで,優秀な学生は教師にならず,おまけに,再任用で多くの高齢者が教師を続けているからです。そういう人の多くは,時代が変わったことすら認識できず,昔の価値観のままの教育をしています。
 入試のために,以前は,スポーツの秋・芸術の秋にふさわしい10月にやっていた体育祭や文化祭を9月の猛暑に変更したり,たった40台,しかも性能が悪いコンピュータしかない公立の高等学校とか,そんな状況では,先進的な世界の教育にどんどん水をあけられて,世界から取り残された若者しか育ちません。国が教育にかける予算は,日本はOECD30数か国のなかで最下位なのです。
  ・・
 9月の暑い時期に2学期がはじまって体育館に生徒を集めて始業式をしたとしても,その目的が,暑さに耐える訓練をしたいのか話を聞かせたいのか意味不明です。話を聞かせたいのならクーラーの入った教室で放送を聞けはいいのだし,暑さに耐えるためならば,我慢比べ大会でもすればいいのです。
 と昔から思っていたら,コロナ禍で,あっという間にそんな行事が撤退しました。これまでそんな行事をすることにこだわっていた人たちは,いったい何を守ろうとしていたのでしょう。

 そもそも,今の時代,家庭でいくらでも自分のペースで勉強ができるのに,混雑する交通機関を使って学校に出かける意味すらないのです。そういうことを知ってか知らずか,優秀な子供の多くが不登校になっています。まともな思考ができる若者は学校に行く意味がわからなくなってしまったのです。
 また,大学受験のための何とかいう衛星予備校が幅を利かせていますが,そもそも,お昼間に高等学校に通って,さらに夜間に通信教育を受けるようなムダなことをする理屈などありません。そんなことなら,お昼間から通信制の高等学校に行けばいいのに,と思ってしまいます。そしてまた,相も変わらず,マスコミに煽られて大学合格者の数で高校や塾のブランド争いをしていますが,そうした超一流大学を卒業して,官僚となったところで,いったい,そこに何があるというのでしょう。また,予算が削減され衰退した大学の研究機関や劣化の激しい製造業の科学技術では,工場はどんどん海外に移転するし,ジェット機1機,ワクチンひとつ自前では作れません。
  ・・
 といったことを私はずっと思ってきたら,奇しくもコロナ禍が起きて,私の思っていたことが現実となりました。現実に直面してみないと,私が思っていたことの意味がわからなかったのでしょう。突然,「普通の」高等学校は,在宅で学習ができるようにと慌てて準備をはじめました。ならば,通信制の高等学校と何が違うのでしょう。そんな教育は,すでに通信制の高等学校で以前からやっていたことです。
 そもそも,高校受験という目的のために,中学3年生が塾通いに貴重な時間とお金を消費する必要などないのです。それくらいなら,全員が入学できる通信制の高等学校を志願して,塾通いをする時間とお金で,代わりに料理の腕を磨くとかプログラミングを覚えるとか,そういった特技でも身につけたほうがどんなに有意義だろうかと思うわけです。

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といった私の空想が,もはや空想でなく現実となっていることを,どれだけの人が認識しているのでしょうか?

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●ハワイは北緯20度●
 星が美しかったのに気をよくした1日目の夜は寝る前に少し星を見たが,夜半には雲が出たようだった。
 2日目の夜はずっと快晴という天気予報だったので,2,3時間ごとに起きて星を見た。この様子はすでに詳しく書いたので,今日は,ハワイの星空についてを話題とする。
  ・・
 日本といっても,北は北海道から南は沖縄まで南北に長いから,石垣島まで行けば,日本でも南十字星を見ることができるが,ここでは,私の住む愛知県で見る星空を日本の星空としてハワイで見る星空との違いを考えてみることにする。

 私の住むところは北緯35度であり,ハワイは北緯20度である。
 この15度の差のが大きいのだ。 
 今日のブログにある3番目と4番目の写真は夏の南の夜空の星図,さそり座が南中した時点での北緯35度と北緯20度の様子である。また,5番目と6番目の写真は春の南の夜空の星図,からす座が南中した時点での北緯35度と北緯20度の様子である。
 このふたつを比べてみるだけでも,ハワイがうらやましくなることだろう。さそり座のしっぽのあたり,ここは星雲の宝庫なのであるが,これが日本では見られない。あるいは,見られたとしても,地平線に近く,鮮やかに見られない。また,からす座の南,ここにあるのがケンタウルス座であり,さらに,その南に南十字星のある南十字座がある。ここには,鮮やかな天の川が横たわり,まさに絶品なのであるが,これが,本当にちょっとだけ,本当にちょっとだけ日本から見られないのだ。日本では,どんなに条件がよかろうと,この,全天で最もすばらしい星空を見ることが不可能なのである。

 私は,数年前まで,南十字星をひと目見たいと熱望していた。
 若いころ,オーストラリアに行ったとき,シドニーの街中から南十字星を見ることはできたが,なにせ都会であり,そこに横たわる天の川を確認することすら出来なかった。だから,ハワイ島のマウナケア山の山麓で南十字星を見たとき,南十字星はこんなにすばらしい天の川のなかに横たわっていることを知って驚いたものだった。
 南半球に行けば,嫌になるほどこのあたりの星空を一晩中見ることができるわけだが,むしろ,ほんの少しだけ,それも数時間だけこの姿を地平線すれすれに見ることができるハワイは,逆に出し惜しみをしているようで,それはそれですてきではないか。私は,このとき,モロカイ島で,そんな南の空を眺めながらそう思っていた。
 次にこの星空を見ることができるのは,いつのことだろうか。

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 桜が散ると,その次に楽しむことができる花は藤です。
 藤は4月下旬から5月上旬に長い穂のような花序を垂れ下げて咲くつる性の花木ですが,今年は桜と同じく開花が早く,この時期すでに満開で,楽しむことができます。
 私の住む愛知県では,江南市の曼荼羅寺や津島市の天王川公園など,藤の名所があります。また,名城公園にも長い藤棚の回廊があるので,早朝,行ってみました。今年は名古屋城の金鯱がおろされているので,金鯱のない天守閣を背景にした珍しい藤棚の写真を写すことができました。

 藤(Wisteria floribunda)はつる性落葉木本で,藤棚をつくり,鑑賞の対象とします。
 藤のつるは木に巻きついて登り,樹冠に広がります。直射日光の差す場所を好み,花序は長くしだれて,20センチメートルから80センチメートルに達します。また,花は薄い紫色で,いわゆる「藤色」です。
 平安から鎌倉にかけては,松の緑を背景としてそこに絡まって咲く藤の花の美しさが鑑賞の基準とされ,枕草子や万葉集にも記述があります。藤は強い日当たりを好むため,現代では,公園や庭園などの日光を遮るものがない場所に木材や竹,鉄棒などで藤棚とよばれるパーゴラを設置し,木陰を作ります。花が満開ともなると,天気がよい日,藤棚の下を歩くと,幻想的な雰囲気になって,とても癒されます。また,山に行くと,藤棚ではなく,高木に巻きついた藤を見ることができて,思わずびっくりすることもあります。

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 めでたきもの
 唐錦 飾り太刀 作り仏のもくゑ 色あひ深く花房 長く咲きたる藤の花松にかかりたる
 すばらしいものは唐錦。飾り太刀。作り仏のもくえ。色合いに深みがあって,花房が長く咲いた藤の花が松にかかっている景色。
   「枕草子」第84段
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 「アサヒカメラ」に続き,今度は「日本カメラ」という雑誌が休刊となり日本カメラ社が解散してしまうそうです。
 私は「日本カメラ」という雑誌を買ったことはありませんが,日本カメラ社が発行した「京都撮影紀行」という本を購入したことがあります。発行は平成6年5月ということなので,西暦では1994年,今から27年前のことです。
 この本は,今も手元にあって,時折眺めて楽しんでいます。
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 昔はよかった,ではないですが,京都はこのころが一番よかったように思います。その当時,今のように京都に詳しくなかった私は,ニコンF3というカメラを持って京都に行っては様々な寺社仏閣を訪れて写真を写すのを月に一度の楽しみとしていました。
 どこを訪れても適当に観光客がいて,活気と秩序がありました。そんな町を気の向くまま歩いては,今とは違ってフィルムを入れるカメラに単焦点のレンズをつけて,1枚1枚,ゆっくりと構図を決めて自分でピントを合わせてシャッターを押すのです。そして,家に帰ったあとでフィルムをカメラ店に持っていき,仕上がりを待つのです。
 本当にいい時代でした。

 その後,ネットワーク社会が到来して,それとともに,外国人観光客が大量に日本に訪れるようになり,京都もまた,すごい人混みとなりました。そんなころ,カメラもフィルムカメラからディジタルカメㇻになり,やがて,スマホが普及しました。ディジタルカメラでは,ズームレンズをつけて,撮りたいものに向けてはどんどんとシャッターを押して,その場で確認して,納得がいくまで何度も何度も写真を撮り直ずことができるようになりました。また,今では,ほとんど人は,カメラではなく,スマホで,だれでも簡単に写真が撮せるようになりました。
  ・・
 しかし,考えてみるに,私は,当時のフィルムカメラのままの機能と性能で,フィルムが受光素子に代わっただけのディジタルカメラがあれば,それで十分であるような気がします。ピントもオートでなくていいし,ズームレンズも要りません。そのほうが,ずっと写真を写す楽しみがあります。
 京都もまた,そのころのほうがずっと魅力があったように感じます。
 果たして,この27年を「進歩」というのでしょうか? というか,そうした「進歩」が,旅を,また,写真を撮ることをより楽しいものにしたのでしょうか?
 私を含めて,そんな「進歩」に頭がついていけない人があまりに多く,社会は混とんとした様相を呈しているだけのように思います。
 そんな時代に,古きよき時代の友であった雑誌が,またひとつ終わりを迎えました。

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 この国は生きていてある意味,疲れます。自粛だのお願いだと突き放し,結局,何がいいのかいけないのかさっぱりわからないからです。それでも,生まれて以来ずっと暮らしているから,塩梅がなんとなくわかるから何とかなるけれど,外国から来た人は,さぞとまどうことでしょう。つまり,いいことといけないことの境界がわからないのです。
 車で走っていても,交差点は勝手に様々な線やら色で塗りたくってあって,それが道交法で定められたものなのかそうでないのか定かでありません。
 それは,この国の特性なのでしょう。何ごともやったふりであり,責任逃れであり,曖昧であることを旨とするという国民性から来るものでしょう。

 そうしたことが最も顕著にわかるのが,日本語の表記です。こんなあいまいな言語は他にありません。漢字の異体などアルファベットにはありませんし,書き順など,どうでもいいではないですか。さらに,送り仮名のつけ方もコロコロと変わるし,使っていいとかいけないとかも時とともに変わります。私の子供のころは,「表わす」であり「表す」はいけない,「お母さん」はだめで「おかあさん」と書くようにと教わりましたが,いつの間にか変わりました。
 こんな自国語の書き方すらころころと変わるような言語,ほかにあるのでしょうか。
 このごろは,戸籍をデータベース化しようとしても,名前の読み方すら定まっていないということでもめています。フリガナをつけても,フリガナは単なる慣例にすぎず,戸籍にはないからです。つまり,親が「トヨダ」さんで子供が「トヨタ」さんでもいいらしいのです。

 などということを思いながら,新聞を読んでみると,おもしろいことに気づきます。
 それは,数字の書き方やら,単位の書き方など,統一性がないということです。たとえば,公文書でも「2月12日」と書くか「2月12日」と書くか,あるいは,「2月12日」とするか,曖昧なのにもかかわらず,単に自分の流儀で規則を決めて,書き直しを命じたりするバカな上司すら存在します。また,句読点も,横書きでは「、」と「。」なのか「,」と「.」なのか「,」と「。」なのか,曖昧なままです。ちなみに,高等学校の教科書は「,」と「。」となっています。なのに,「、」と「。」だとかたくなに主張する高等学校の教師がいたりします。
 というように,このことこそが,この国がぐっちゃぐちゃであることの反映のように思えます。
 このように,この国は,きちんと決めるということができない人たちの集まりなのです。ならば,そのぐっちゃぐちゃを甘んじて受け入れたほうが,ずっと居心地がいいわけで,私もそうしているのですが,それを受け入れない輩,つまり,きちんとできないのにきちんとしようとする輩がいることが,一番の問題だったりするのです。たとえば,「お礼」でも「御礼」でもいいのに,これは「御礼」でないといけないとか自分で勝手にきまりを作って,それを強制する上司がいたりするわけです。私はばかじゃなかろうかと思うんですが…。
 それもまた,ぐっちゃぐちゃな国民性の反映です。


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 私は,ブラームスの音楽を愛してやみません。ブラームスの音楽は思考を邪魔せず,また,落ち込んだときにこころを地獄には導きません。どの曲もいいのですが,特に好きなのは交響曲第4番とピアノ協奏曲第2番です。
 交響曲第1番が発表されたのはすでに43歳のときでしたが,それ以降の10年くらいの間に多くの傑作が生みだされました。その間に,ブラームスの作った曲は洗練され,それとともに渋くなっていったのですが,それは,交響曲第1番と第4番,ピアノ協奏曲第1番と第2番を比べればよくわかります。私は,はじめのころの作品より,後期に作られた曲のほうがより好きなわけです。
  ・・
 しかし,私には,ブラームスに関して,つねにこころに引っかかる点ができてしまったのが,とても残念なのです。
 そのひとつは,ハンス・ロット(Hans Rott)という作曲家を知ってからでした。ハンス・ロットは,自分の作品を認めてもらおうとブラームスを頼ったのですが,ハンス・ロットがブラームスと不仲だったブルックナーの弟子であったために冷遇し,ハンス・ロットはそれがショックで25歳でこの世を去ってしまったのです。つまり,もし長生きしていたら,人類の財産になったであろう交響曲を数多く生み出していたかもしれないハンス・ロットをブラームスは酷評し,その可能性を消し,世の中から葬り去ってしまったのです。
 ふたつめは,NHK交響楽団第1931回定期公演でブラームスのピアノ協奏曲第2番を聴いてからでした。ピアノの独奏者はボディビルダーの肩書もあるツィモン・バルト(Tzimon Barto)という大柄な男性でした。ツィモン・バルトの演奏は,テンポは異常に遅く,進まず,さらに,ふらふら,進みだすと思えば立ち止まり,シンドイだけでした。これが私の好きなピアノ協奏曲第2番なのかと信じられない気持ちでした。いわば,大好きな食べ物を食べて食あたりをして,それからその食べ物が食べられなくなった,そんな感じです。

 さて,それはともかくとして…。
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 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms)はハンブルグで1833年に生まれました。1833年は,日本でいえば天保年間です。ちなみに,モーツアルトが1756年,ベートーヴェンが1770年,ブルックナーが1824年の生まれです。
 ブラームスの生まれたころは,時代の変革期で,オーストリアでハプスブルグ家が謳歌した時代はすでに過去のものというころでした。ブラームスは7歳でピアノを学びはじめ,すぐに才能を現し,10歳にしてステージに立ちます。ブラームスの生家は貧しかったため,13歳ころからレストランや居酒屋でピアノを演奏することによって家計を支えました。
 1853年というから20歳のころ,ハンガリーのヴァイオリニスト,エドゥアルト・レメーニ(Eduard Remenyi)との演奏旅行でヨーゼフ・ヨアヒム(Joseph Joachim)に会いに行き,ブラームスの才能が称賛されます。ヨーゼフ・ヨアヒムはロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)に会うことを強く勧めたため,ブラームスはデュッセルドルフのシューマン邸を訪ねます。 そこでシューマンはブラームスの演奏と音楽に感銘を受け,ブラームスを熱烈に賞賛し,その後は,作品を広めるために重要な役割を演じることになります。またこのとき,ブラームスは14歳年上のシューマンの妻クララ(Clara Josephine Wieck-Schumann)と知り合い,生涯に渡って親しく交流を続けることになります。
 1862年,29歳のときにウィーンをはじめて訪れた後,ブラームスはウィーン・ジングアカデミーの指揮者としての招聘を受けウィーンに居着くことになり,1871年にカールスガッセ4番地へと移り住みます。そして, ウィーン移住からおよそ10年後の1876年に,43歳で交響曲第1番を完成させます。 最後の交響曲である第4番が発表されたのはそれからわずか9年後の1885年です。
 1896年,生涯親交を保ち続けたクララ・シューマンが死去したのち,ブラームスの体調も急速に悪化し,翌1897年にウィーンで逝去しました。63歳でした。遺体はウィーン中央墓地に埋葬されました。
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 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は,オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ここに私が訪れたハルシュタットがあります。
 ブラームスはこの地に別荘をもち,10回も夏期に過ごし,多くの曲を残しました。
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●コカ・コーラとハンバーガー●
 私が愛してやまない炭酸飲料はコカ・コーラである。
 コカ・コーラを飲んでいるのを友人に発見? されるたびに,驚いたように,「コーラ飲むんだ」とか「さすがアメリカかぶれ」とか言わるが,別に珍しくもなく,私は常にコカ・コーラを飲んでいる。
  ・・
 今から50年ほど前のこと,家の近くのラーメン屋で食事をしていたとき,店員が「今度アメリカからすごい飲み物がくる」という話をしていたのを聞いて興味をもったのがおそらくコカ・コーラを知ったはじめだった。その「すごい飲み物」が何を意味していたのかは不明だが,それがコカ・コーラだと勝手に思っている。
 後日,やっと手にして飲んでみたものの,何,こんなもののどこがすごいんだ,というのがその第一印象だった。しかし,私は子供のころ炭酸飲料が飲めなかったから,どうも話の辻褄があわない。おそらく,時間がごちゃごちゃになって記憶しているのであろう。
 今,調べてみると,コカ・コーラは大正時代から日本では紹介されていたということだが,1957年 (昭和32年)に日本飲料工業株式会社(日本コカ・コーラ株式会社の前身)が設立されて,日本で「コカ・コーラ」の製造が開始され,その後、1963年(昭和48年)までに全国16のボトラー社が次々と誕生したとあるので,ちょうどそのころのことだろう。
 私は,アメリカを旅行して軽食をとるときは,ハンバーガーにコカ・コーラというのが定番となっている。

 さて,ここからは,この日の夕食の話である。
 すでに書いたように,モロカイ島で夕食をとることができるレストランは数えるほどしかない。前日に行ったのがモロカイバーガーである。同じ店もどうかと思い,そのとなりにあったモロカイピザカフェに行くことにした。 
 私はピザは食べないことはないが,あまり好みではない。それは,どうもチーズがだめだからなのである。しかし,選択するほど店がないから仕方がないと思い,意を決した。
 「地球の歩き方」によれば,この店のピザはハワイ6島の名前のついたいろんなトッピングが楽しめるということだった。
 店に入ってみると,メニューはピザだけけでなく,いろんなものが食べられることがわかって安心した。そこで注文したのが今日の写真のようなものである。もちろん飲み物はコカ・コーラであった。
 それにしても,ポテトチップスには落胆した。これでは夕食というよりも,おやつではないか。いくらアメリカの食生活がエサの類を越えていないとはいえ,連日これほど貧しくては,この島では到底生活できないとおもった。ハワイまで行って,毎日,こんな夕食をとっている日本人は私くらいのものだろう。

 時折来る客はみなテイクアウトであり,店内で食事をしているのは私だけであった。
 そりゃそうだろう。私のように観光でモロカイ島に来ている人なんて,ほかにだれもいなし,バカンスで長期滞在をしている人たちは,マーケットで食材を買って,コンドミニアムで自炊を楽しんでいるに違いないからである。

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●ワンアリイ・ビーチパーク●
 夕食までまだ時間があったので,コンドミニアムから東の海岸を走って,ワンアリイ・ビーチパーク(One Alii Beach Park)まで行ってみた。
 とても天気のよい日で,というか,私が滞在した3日間すべて天気がよかったので,私のモロカイ島での印象は最高であった。これが,毎日天気の悪かったカウアイ島との違いである。

 ワンアリイ・ビーチパークは広々としていたが,私以外にはだれもいなかった。車を停めて海岸まで歩いて行くと,向こうにラナイ島がきれいに見えた。
  ・・
 ハワイ8島のうち,一般に観光客が行くことができるのは,ホノルルのあるオアフ島をはじめとして,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島,モロカイ島,そしてラナイ島の6島である。ツアーで行くことができるのは,そのなかで,オアフ島,ハワイ島,マウイ島,カウアイ島の6島で,モロカイ島とラナイ島は個人旅行でしか行くことができない。私は,このときモロカイ島を旅しているが,残念ながら,これまでラナイ島に行く機会がなかった。コロナ禍が起きなければ,今ごろ行っていたかもしれないが,その動機は単に6島制覇がしたいということにすぎず,海外旅行という熱病から醒めてしまった今となっては,もうどうでもいいような気がする。
 率直にいって,私は,ハワイに行っても,もう,やりたいこともなければ見たいものもない。ただしそれでも,ハワイには,夜は満天の星空を見てお昼間は何も考えず海をボーッと見ているだけでも行く価値があるから,そう考えると,モロカイ島こそが私の理想のハワイともいえる。なにせ,うざったい観光客は皆無であり,日本にはない自然がいっぱいある。

 ここで未だ行っていないラナイ島について少し紹介する。
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 ラナイ島はハワイ諸島の中心部に位置する火山島で、面積は364平方キロメートルというから,モロカイ島の半部くらいか。島の愛称はパイナップル・アイランドだが,これは,かつて世界のパイナップル生産高の20パーセントを占めるほどのパイナップル産出島であったことからついたニックネームである。
 2012年に,現在世界第2位のソフトウェア会社であるオラクル・コーポレーション(Oracle Corporation)の創業者ラリー・エリソン(Lawrence Joseph Ellison)がラナイ島の土地をすべて購入し,島の土地の98パーセントがラリー・エリソンの持ち分で,残る2パーセントが国有地となった。  
 島のほぼ中央に位置するラナイ・シティに住民のほとんどが居住していて, 島の大部分は未開発のままである。
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 そこで,私には,現在のラナイ島は,大金持ちが所有してリゾートホテルを経営しているというイメージがするから,あまり魅力を感じない。

 ワンアリイ・ビーチパークには日系移民の碑があった。
 ハワイにおける日系移民の歴史は次のとおりである。
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 1806年(文化3年),ベルセベランス号の船長がオワフ島で8人の日本人を発見した。この8人は太平洋の中で立ち往生していた帆船 から他の外国船に助けられオワフ島に置き去りにされたものだというが,彼らはその後故郷に戻された。さらに,同じ年,別の難破船がハワイに到着したが,他の船に乗って日本に戻された。当時,他の国から戻ることは罪人だったので,こうして祖国に戻された不幸な日本人たちは,拷問に耐えられず自殺したり,仏教の道に入り生涯をすごしたという記録がある。
 1860年(万延元年),カメハメハ4世は,日本の幕府にハワイへの日本人労働者募集養成の書簡を送ったが,将軍は多くの問題を抱えていたので,その要請に即答できなかった。
 1865年(慶応元年)には,ハワイの外務大臣R・C・ワイリー(R.C.Willey)が,翌年日には,その後の継者であるチャーズル・ド・パリグニーが,日本人労働者の導入を急いで行うように書簡を送った。そこで,1868年(明治元年)に,149名の日本人がハワイに渡った。これがはじめての官約移民で「元年もの」とよばれた。しかし,彼らのハワイへの定着度は低かった。
 やがて,1885年(明治18年)に,日本からの移民が再開された。サトウキビ畑の労働力不足に悩むハワイと,失業者対策と外貨の獲得を望む日本政府の利害が一致したからだ。その後,移住の斡旋は1894年(明治27年)からは民間会社に委託され,労働者は農場主と契約を結び,渡航などに伴う諸経費を負担してもらう代わりに,3年間はその農場主に拘束されることになった。
 1900年(明治33年)に,この「契約移民」制度は廃止され,「自由移民」の時代になり,約15万人が海を渡った。その結果,サトウキビ労働者のうち日本人の数は70パーセントに達したという。
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 だれもいないワンアリイ・ビーチパークを歩いていると,馬に乗った人が海岸を散策していたのに出会った。ここは本当にハワイなのだろうか? と思った。


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 3月29日の朝日新聞「文化の扉」に「はまる,ブルックナー 洗練とは無縁,でも真理に触れる響き」という記事がありました。この記事を書いたのは太田啓之さんという人で,朝日新聞には吉田純子さんという優れたクラシック音楽に関する記事を書く記者がいるのに,どうしてまたこの人が,と思いました。調べてみると,太田啓之さんはGLOBEに多くの記事を書いていて,特にクラシック音楽に造詣が深いというわけでもなさそうです。さらに,どうしてまた,脈絡もなく,突然,ブルックナーなの? とも思いました。
 「彼が残した10曲の交響曲は,お世辞にも親しみやすいとはいえないが,一度その魅力に気づくと,驚くべき広がりと深みのある作品世界のとりこになってしまう。私自身もそのひとりだ」と記事にあったので,きっとブルックナー好きが執筆の動機だったのでしょう。
 しかし,この記事読んで,ブルックナーを聴いてみようと思うようなワクワク感は感じませんでした。記事に思い入れがないのです。なんだか,書けと命じられて誌面を埋めただけ,みたいに私には思えました。なので,ちょっと残念でした。

 では,気分を一新して…。
 ブルックナーは実にすごいです。私にとっては別格の作曲家です。特に,歳を重ねた指揮者がブルックナーの交響曲を振ると,音楽が昇天し,この音楽のほかに何が必要だろうか,という満ち足りた気持ちになるものです。だから,ブルックナーの音楽のよさを知らずに生きている人は,たとえどんなに地位が高かろうと,財産があろうと,私にはものすごく気の毒な人に思えます。ですが,その「よさ」を知らない人に伝えるのは,非常に困難なことでもあります。残念ながら。
 先日,私の友人のプロのヴァイオリニストの女性と話していて,私がブルックナーの交響曲さえあればそれでいい,というような話をしたら,とても意外な顔をされました。その理由がわかりませんでした。その後,いろんな人に聞いてみると,特にクラシック音楽好きであっても,ブルックナーは苦手という女性が少なくないようなのです。女優の檀ふみさんもラジオ番組で同じようなことを言っていました。それが私にはとても意外なことでした。ほんとうにどうしてなのだろう?
 ブルックナーの音楽を聴くと,大自然の中にただひとり自分が存在しているような気になりませんか。そして,やがて夜が更け,空を見上げると,そこに見えるのは,満天の星であり,悠久の宇宙であり,しばらくすると,夜明けの美しさが全天を支配します。まさにその音楽は大海であり,宇宙そのものです。だから,私には,もう,それ以上のものは何もいらないと感じられるのです。でも,どうして多くの女性にはそれがわからないのだろう…。

  ・・・・・・
 ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(Joseph Anton Bruckner) は,1824年(文政7年)というから,日本では将軍徳川家斉の文化文政時代であり,ベートーヴェンが交響曲第9番を,シューベルトが「死と乙女」(Der Tod und das Mädchen)を書いた年ですが,その年に,学校長兼オルガン奏者を父として,オーストリアのリンツ(Linz an der Donau)にほど近いアンスフェルデン(Ansfelden)という村で生まれました。ちなみに,ウィーン会議は1814年(文化11年)です。
 晩年,長年の宮廷オルガニストであったブルックナーがヘス通り2番地の4階建て最上階の家の階段の昇降が困難になっていることを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(Franz Joseph I)が聞きつけ,ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere)の敷地内の上部宮殿脇にある平屋建ての宮殿職員用の住居を皇帝より賜与され,死の日までそこに住みました。
 ブルックナーは,1896年(明治29年)10月11日の朝まで交響曲第9番の第4楽章を作曲していましたが,その日の午後に72歳で死去しました。遺言に基づき,ザンクト・フローリアン(Sankt Florian)修道院の聖堂にあるオルガンの真下の(地下墓所)に棺が安置されています。
  ・・・・・・
 私は,ウィーン市内にあるベルヴェデーレ宮殿には行く機会がありました。リンツはザルツブルグに行く途中,電車の窓からその町を見たことがありますが,降りたことはありません。いつか,機会があれば,リンツへ,そして,ザンクト・フローリアン修道院へ行ってみたいと思っているのですが,その願いはかなうのでしょうか。

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 ここ数日すごく寒く,冬に戻ったみたいです。でも,初春の最大の迷惑である黄砂も飛来していないようで,春にしては珍しく星空がきれいです。
 2日前に遠出してアトラス彗星(C/2020R4 ATLAS)の写真を写したので,連日遠出する予定もなく,しかし,あまりに空がきれいなので,早朝4時30分に起きて写真を写すことにしました。
 2日前に星見に遠征したときには月齢25.4の月と木星と土星が美しく輝いていました。その2日後のこの日は,月の出はどんどんと遅くなり,月齢27.4の月が日の出直前に昇ってきます。早起きして写真を写した理由は,この月齢27.4の月がはたして見えるかということに興味があったからです。

 午前4時40分ごろの東の空には木星と土星が美しく輝いていました。晴れているとこうして簡単に見られる惑星ですが,曇ってしまうと,それが夢だったように何も見えなくなります。これがまたおもしろいのです。それにしても,明け方,日の出前の空は,何度見ても本当に神々しいものです。
 やがて5時を過ぎるころになると空が白みはじめて,木星より暗い土星は肉眼で見るのが困難になってきました。こうなると,月が昇るのと土星が見えなくなるそのどちらが早いかの競争になります。
 東の空低く目を凝らすと,薄い月が地平線ぎりぎりに見えてきました。しかし,その一方で,土星は肉眼では見えなくなってしまいました。まだ,木星だけはなんとか見えました。しかし,写真なら,土星もまだ写ります。
 月と木星と土星はけっこう離れているので,画面に入れるには30ミリレンズより広角であることが必要ですが,写真に写すための適正な露出がわかりません。カメラの露出計などまったくあてにならず,手動では,露出をかけると空が白くなってしまうし,露出をかけないと月や土星が写りません。
 そこで,何枚も露出を変えて写真を撮りました。その後,ズームを望遠にして月の写真だけを写しました。家に帰って拡大して見たら,かろうじて月と木星と土星が写っていたので満足しました。

 私は以前,月齢1から月齢28までの月をすべて写したことがあるので,月の写真を写すことには,もう,執着心はないのですが,明け方の細い月は,何度見ても美しいものです。おそらく事前に位置を調べておいて大口径のレンズで狙えば,月齢27といわず,月齢28のような,もっと月齢が過ぎた薄い月であっても写るのでしょうが,今の私にはそこまでの情熱はありません。それは,このごろは,お金をかけてそんなことをするよりも,気軽に小さなカメラと三脚だけをもって,散歩を兼ねて田んぼのあぜ道で日の出とともに消えていく星々を眺めていることの方に楽しみを見出してしまったからです。でも,これはこれで私には十分に幸せなことなのです。


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●「モロカイ島の日々」●
 こうして,私は,滞在2日目にして,モロカイ島を隅々まで走ることができた。レンタカーを借りるとき,島を1周してもガソリンは半分も使わない,と言われた意味がよくわかった。
 それにしても,この島についてはあまりに情報がないのに驚いた。また,情報があってもそれは古い情報で,今はなくなってしまったリゾートだったり,営業をしていないレストランだったりした。

 そんなとき,「モロカイ島の日々 サンダルウッドの丘の家より」という1冊の本を見つけた。この本が出版されたのは2020年10月ということなので,私がモロカイ島に行ったあとのことだ。
 著者は山崎美弥子さんという人だ。
  ・・・・・・
 山崎美弥子さんは,1969年東京生まれで,多摩美術大学を卒業後,東京を拠点にアーティストとして活動していたが,一転して,2004年より船上生活をはじめる。そののち,モロカイ島のサンダルウッドの丘に家を建てる。
 現在はそこから東に数マイル移動し,「島の天国131番地」とよぶその家で,心理学者の夫とふたりの娘,馬や犬たちと海と空や花を絵描きながら暮らしている。
  ・・・・・・
と紹介されていた。
 こういう人を知ると,すごいなあと思ってしまう。私とは生活力が違い過ぎるのだ。

 サンダルウッドの丘というのがどこにあるのかよくわからなかった。おそらくサンダルウッドとはSandalwood のことなのだろう。Sandalwood というのは白檀のことだが,白檀は,ハワイでは1790年代から貿易の対象となっていたということだ。さらに調べてみると,サンダルウッドピット(Sandalwood Pit)というものが見つかった。Pit は穴のことだ。森の中に作られたサンダルウッドピットは,船倉に収まる量を測定するために使用された。収穫したサンダルウッドをピットに入れていき,ピットいっぱいになると,サンダルウッドの丸太は山を下って待っている船に運ばれた。
 そのサンダルウッドピットのあったあたりがサンダルウッドの丘なのだろう。場所は,モロカイ島の東側の山の中である。

 林民子さんという山崎美弥子さんの友人が「モロカイ島の日々 サンダルウッドの丘の家より」を読んだ感想として,次のように書いていたので,引用してみる。
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 ジェシーは歯がなく,白髪のロン毛というまるで仙人のような愛らしいおじいさんだった。私たちはジェシーおじいさんとモロカイの聖地のひとつである森を歩こう! ということになった。森の一番聖なる場所に連れて行ってくれたとき,「持参した法螺貝を吹くから みんな目を閉じているように」とジェシーがいう。輪になり座ってジェシーの法螺貝を静かに聴き入っていると,ある方向から視線を感じ,無性に目を開きたくなった。瞼を上にあげ 周りの木々を眺めると,ある木と木と間からオレンジ色の光がまるで私たちを見つめているかのように輝いていた。法螺貝の演奏が終わった途端,その光は消えた。
 ハワイの島の森の精は「メネフネ」とよぶ。ひょっとしたらその光は森の精「メネフネ」だったのかもねと嬉々として話をした。山崎美弥子さんは,森の精「メネフネ」からお役目を授かり,モロカイ島のネイティブ・ハワイアンの守り継がれてきた文化や精神性を日本に伝える役割を果たす人なんだろうな。
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 なんともすてきな話だ。

モロカイ島


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☆☆☆☆☆☆
 どこへ行ってもたいした星空が見られない日本ですが,頻繁に海外に行くわけにもいかないので,住んでいる以上ここで何とかしようと,私は,多少空が明るくてもなんとなかなる10等星より明るい彗星の写真を写すことに目的を定めて楽しんでいます。
 昨年は,シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P Schwassmann-Wachmann),パンスターズ彗星(C/2017T2 PanSTARRS),アサシン彗星(C/2018N2 ASASSN),ふたつのアトラス彗星(C/2019Y1 ATLAS),(C/2019Y4 ATLAS),岩本彗星(C/2020A2 Iwamoto),スワン彗星(C/2020F8 SWAN),そして,真打の明るくなったネオワイズ彗星(C/2020F4 NEOWISE)と,数多くの彗星を見ることができました。
 しかし,2021年ははずれ年のようで,これまで明るい彗星が接近していませんし,この先も,新しい彗星が発見されない限り,期待ができません。
 そんなこともあって,今年は手持無沙汰な日々が続いています。
  ・・
 そんな中,アトラス彗星(C/2020R4 ATLAS)が10等星まで増光したという情報が聞こえてきました。そこで,4月7日の夜から4月8日の朝にかけて天気がよいという予報だったことと,月明かりがなかったので,久しぶりに星見に遠出をすることにしました。
 アトラス彗星(C/2020 R4 ATLAS)は,わし座にあって,明け方には高度も高くなり条件がよくなります。というわけで,深夜に家を出て,午前1時ころに現地に到着することにしました。

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 アトラス彗星は,2020年9月12日,ハワイ島マウナロア(Mauna Loa)にある口径0.5メートルのシュミット反射望遠鏡を使って,小惑星地球衝突最終警報システム(Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System=ATLAS)調査プログラムで得たCCD画像から発見されたものです。
 小惑星地球衝突最終警報システムというのは,地球に接近して衝突する可能性のある小天体を,数週間から数日前に検出するために最適化されたロボット掃天観測,および,早期警告のシステムです。NASAの資金提供を受けて,ハワイ大学天文学研究所(IfA))が開発・運用しています。現在は2台の0.5メートルシュミット反射望遠鏡をハワイ島のマウナロアとマウイ島のハレアカラに設置して,2015年に観測を開始し,2017年からは完全運用しています。
  ・・・・・・
 しかし,実際には,このような探索をして,もし,本当に地球に衝突する小天体が見つかっても,おそらくはそれを回避するための手段もなく,人類が滅びるのを待つだけでしょう。そんなこと言っちゃうと予算もつかないので,ロケットを打ち上げて軌道を変えるとか,いろいろ考えられているように宣伝はしていますが,私は,実現不可能だと思っています。だから,このような観測をしても,おそらくは,人類の滅亡を先に知るかどうか,だけのことでしょう。
 遠からぬ将来,かつて恐竜が滅んだように,人類も,隕石の衝突やらウィルスやら,はたまた核戦争による自滅やらが原因で,残念ながら,あっけなく滅び,地球は6回目の生物大量絶滅をむかえるのです。所詮,それだけのことです。宇宙の規模で考えれば,人類は別に選ばれた存在でもなけば,存在しなければならないならない理由もないのです。

 私は,このごろは,がむしゃらに彗星や星雲・星団の写真を写す情熱もなくなったので,のんびりと気の向くまま,肉眼で星見を楽しみなが写しています。むしろ,星見よりも,深夜のドライブを楽しんでいるくらいです。
 この晩もまた,彗星は簡単に写せたので,それ以外にも,計画もなく,いろいろと写してみました。
 4月とはいえ,明け方の空に見えるのはすでに夏の星座です。さそり座やいて座あたりは肉眼で見ても美しいのですが,双眼鏡で眺めるとさらにとても魅力のある場所です。やたらと星雲や星団が視野に入ってきます。これらの場所を写した3番目の写真は,いて座の三裂星雲と干潟星雲,4番目の写真は,いて座のわし星雲とオメガ星雲,そして5番目の写真は,それ以外の小さな惑星状星雲と球状星団です。
 星を見た帰り道, 明け方の東の空には月と木星と土星が昇ってきて,とてもきれいだったので,思わず道路際に車を停めて,再び見とれました。私は, いつも,明け方の東の空が世界で一番美しいと思います。

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 私の散歩カメラはシグマの18ミリから250ミリのズームレンズをつけたニコンのD5300 です。これ以上大きくて重たいカメラを持って散歩をしようとは思いません。また,レンズは1本で花から鳥まで写せないと面倒だし,このブログに載せることができる程度の画質があれば十分です。
 D5300 の後継機である D5600 も製造中止になってしまったし,新たに発売された Z50 なんてとても高価でその値段ならD5600が3台も買えます。そこで,私の持っているカメラに代わる製品がないので,壊れたらどうしようかと思案していますが,まあ,カメラは2台あるので,私が元気なうちはこれで持ちこたえるとしましょう。新しいカメラを買う気もないので,壊れたらそれで趣味も終わりです。というより,先に私の寿命がありません。

 ところで,これまでにもいろいろ書いたように,カメラの設定に困っていました。写したいときにピントが合わなかったり,いざというときにシャッターが下りなかったりと,かなり手を焼いていました。オート任せにしても写したいときに満足な写真が写せないのだから,結局,自分で操作しないとうまくいかないということになります。
  ・・
 ということで,いろいろ調べてみたら,鉄道写真家の中井精也さんおすすめのフォーカスの設定というものがみつかりました。今日はその紹介です。
 それは
  ・・・・・・
●カスタムメニューの「f2:AE/AFロックボタンの機能」をAF-ONに設定する。
●カスタムメニューの「a1:AF-Cモード時の優先」をレリーズ優先に設定する。
●フォーカスモードをAF-Cに設定する。
  ・・・・・・
というものでした。
 このように設定すると
  ・・・・・・
【動きのある被写体を写す場合】
 被写体にフォーカスポイントを合わせAE/AFロックボタンを押すとフォーカスが合うので,AE/AFロックボタンを押し続けたままシャッターを切る。
【静止した被写体を写す場合】
 被写体にフォーカスポイントを合わせAE/AFロックボタンを押すとフォーカスが合い,AE/AFロックボタンを離すとAF動作は停止しピント位置が固定されるので,構図を決めてシャッターを切る。
  ・・・・・・
という操作になります。
 私がこれを知らないときは,カメラのオートフォーカスをロックさせたいときはピントを合わせのち,フォーカスをオートからマニュアルに切り替えるという操作をしていました。しかし,この方法だと,フォーカスをマニュアルにしたあと,ピントリングを触ってしまうとピントがずれてしまうという欠点がありました。この方法ならばピントリングは固定されているのでピントがずれません。

 この設定であると,カメラの機能が進化してオートフォーカス機能が多様になっても,そうした機能を使うことがないということになります。結局のところ,焦点を合わせたいときだけオートローカスロックボタンを押し,露出を決めたいときだけシャッターボタンを半押しするという操作方法になります。これでは,これまでの長きにわたり,一眼レフの機能がごちゃごちゃと進化したということに意味がありません。
 一体全体,カメラの進化って何なのだろうかと思ってしまいます。消費者は使わないムダな機能にお金をはらっているということになるわけです。


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●ケプヒビーチリゾート●
 パポハクビーチ,カプカヘフビーチと遠征して,再び,ケプヒビーチリゾート(Kepuhi Beach Resort)まで戻ってきた。
 「地球の歩き方」には次のように書かれてある。
  ・・・・・・
 高いヤシの木がそびえる芝生の敷地に,ポリネシアン風の建物がオーシャンフロントに点在するコンドミニアム,各ユニットのオーナーがウェブサイトを通じて独自に貸し出しをしている。
  ・・・・・・
 また,英語のサイトには
  ・・・・・・
 ここに宿泊しようとすれば,このユニットから気に入ったところを探し出して予約をする必要がある。
 ケプヒビーチリゾートの設備は,オーシャンフロントプール,ピクニックテーブルつきのガスバーベキュー,そして,コインランドリーの施設があって,コンドミニアムは,小さなキッチンエリアとバスルームを備えた部屋となっている。
 近くにはハワイで最も長い白い砂浜がつづくパポハクビーチがあり,リゾートの前には古いホテルや,周辺には廃墟となった建物がある。
 また,古いホテルの両側にあるのがケプヒビーチ。右に行くと,冬の間は素晴らしいサーフブレイクがあり,夏の間は,ビーチからオアフ島に向かうパドリングレースがたくさん開催される。また,夏はシュノーケルや水泳に最適であり,冬はサーフィンが盛んである。
  ・・・・・・
とある。しかし,実際はオーシャンフロントプールは閉鎖されているから,これは正しくない。
 …なんだか,もう,「盛っただけ」のやけくそ,という感じにも思える。

 このコンドミニアムに宿泊したカップルが書いたブログがあったが,その内容は,カウナカカイのスーパーマーケットに食材の買い出しに行ってきて,部屋で食事を作った,というだけのものであった。
 このリゾート,世界の中でも「秘境」のリゾートとして紹介されているくらいの場所だが,「秘境」とはいえ所詮はハワイなので,アクセスするのは難しいことでもないから,こういった「秘境」に憧れる人には最適な場所かもしれない。しかし,レストランすらないから,自炊をするか,カウナカカイまで足をのばす必要がある。
 
 フィンランドのヘルシンキを舞台とした「かもめ食堂」の姉妹編に「めがね」という映画がある。
 「めがね」は
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 春,この世界のどこかにある南の海辺。人生の一瞬にふと立ち止った女性が訪れた場所に流れるのどかな時間と,そこで出会う人々との奇妙なふれあいを通じて,日常の中で忘れていた何かを取り戻していく…。
  ・・・・・・
という映画である。この映画の舞台は与論島だが,この映画を見て,与論島にあこがれて訪れる人があとを絶たないらしい。しかし,おそらく,与論島なんて,行ってみれば,そりゃ,自然破壊の大好きな日本のことだから,あこがれるほどの大自然でもないだろう。それに,どこにいっても群れたがる,そして,騒ぎたがる,そんな日本人観光客が少なからずいるに違いない。そのくらいなら,モロカイ島にでも行った方がずっと素朴でいいと,私は思う。しかし,モロカイ島では人とのふれあいは期待しないほうがいいけれど。


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●カプカへフビーチ●
 パポハクビーチのさらに南にカプカへフビーチ(kapukahehu beach)があるということなので,そこまで行ってみることにした。
 以前行ったカウアイ島もそうであったが,島の西側は未開の地である。それは,波が高く,ビーチとはいえ,泳ぐのには適さないから発展しないのであろう。
 海岸にそって道路はあったが,道路からは海の方向には樹林がひろがっていて,海はみられなかった。道路は一応舗装されれていたが,整備されているとはいい難く,それだけであった。ほどんど,というか,まったく車が通らなかった。そりゃそうであろう。この先行っても人が住んでいないし,観光地もない。だから,店もない。しかし,道路際には花が咲き,とても美しかった。
 こののどかさがたまらない。

 パポハクビーチに関する情報はほどんどない。本当にここもハワイなのだろうか? そこで,かろうじて見つけた英語のサイトから翻訳してみる。 
  ・・・・・・
 モロカイ島の西岸に位置するディキシイマルコーブ(Dixie Maru Cove)には,モロカイ島で最高の海水浴場のひとつがある。砂浜の入り江は両側に溶岩の露出があって,のんびりと水あびをしたり,シュノーケリングをするには最適な場所である。
 ビーチはサンゴ礁に縁取られ,通常,夏の間は穏やかな海となる。ここはこの地域の他のパポハクビーチなどよりも穏やかではあるが,波が高いときは海に近づかないほうがいい。ここには監視員はいない。
  ・・
 ディキシイマルコーブは,日本の漁船の名前「ディキシ丸」から名づけられたものである。日本では「丸」は船名につけられる接尾辞である。
 1920年,日本の帆船「ディキシイ丸」が難破し,その銘板が浜の門の近くに吊るされた。それ以来,この人里離れたビーチは愛情を込めてディキシイマルコーブとよばれるようになった。ハワイの名前はカプカヘフビーチである。
  ・・
 ディキシイマルコーブはモロカイ島のもっとも遠く離れた西海岸にあるため,アクセスするには少し時間がかかる。しかし、ここに続く道は舗装されている。ほとんどの日、ビーチはまばらにしか人が訪れない。
 なお,ビーチにはとげのあるキアベの木があるので,木陰のある場所を探すときは注意が必要である。また,捨てられた釣り針があるので,裸足で歩くのは危険である。
  ・・・・・・
 「ディキシイ丸」の本当の名前は何というのだろうか。これは調べてもわからなかった。

 道路が行きどまりとなる場所がパポハクビーチの入口らしかった。ビーチという看板はあったが,パポハクビーチという地名は書かれていなかった。どこにでも車が停められたので,適当な場所に車をとめて,海岸まで歩いていった。
  ・・・・・・
 どこへ行ってもビーチにはたくさん人がいます。誰もいない美しいビーチへ行ってみたい。モロカイなら「秘密のビーチ」が見つかるかも… 
  ・・・・・・
ということで,ここにやって来た日本人のブログを見つけたが,行ってみて,そう大騒ぎするほどのこともない場所だと私は思った。こんな場所に大騒ぎをするくらいだから,これを書いた人はおそらくハワイのマウイ島にはヌーディストビーチがあることも知らないだろう。
 私は,海まで行って,しばらく波を見ていた。それだけだった。しかし,考えようでは,これは最高の贅沢ではあるまいか。このずっとずっと先に日本が本当にあるのだろうか,と海を見ながら私は思った。

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第30期将棋名人戦img_04EPSON001 (2)q1q2

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 確か小学校の3年生か4年生に将棋を覚えた私は,そのころ勉強などまったくしないで,将棋ばかりをやっていました。才能がなかったのが幸いで,将棋で身を亡ぼすことはありませんでしたが,今でも「観る将」として楽しめるのはそのころに凝ったおかげなのでしょう。
 当時,将棋のタイトル戦でもっとも権威のあった名人戦は朝日新聞の独占で,ABEMAもSNSもない時代,朝日新聞をとっていないと情報はほとんど手に入りませんでした。
 また,東京の有楽町の朝日新聞社前には,名人戦がはじまると大きな将棋盤が特設されて大盤解説をやっていたようですが,名古屋という田舎に住んでいた私には,東京なんてニューヨークより遠いところで,有楽町なんてまさに夢の世界でした。

 将棋欄の名人戦を見たいだけが本当の動機なのに,いろいろと屁理屈をつけて親を説得し,やっと我が家に朝日新聞が配達されるようになったのは1971年(昭和46年)4月のことでした。それは今からちょうど50年まえのことです。
 幸いにも,この年の第30期将棋名人戦は,最後の名人戦挑戦となった升田幸三・当時九段対時の絶対王者・大山康晴名人でした。
 第1局がはじまったのは,1971年(昭和46年)4月7日で,場所は東京・赤坂の「福田家」でした。確か,前日は雨の日でした。毎年,こうして,桜が咲き,春雨の降るころに将棋名人戦がはじまり,セミの鳴くころに終わるのですが,それは今も変わりません。
 「福田家」とか書いてあっても,それがどういうところなのか,想像もつきませんでした。料理旅館とは何ものぞ? 何か,すごいおとなの世界を垣間見たような気がして,ときめきました。

 第30期将棋名人戦は升田式石田流がさく裂して,奇しくも3勝4敗で敗れはしたものの,升田幸三九段が大山名人を一時は3勝2敗まで追いこんだ有名なタイトル戦なので,今でも,多くの書物などで語られています。そこで,第2局から第7局までの棋譜はいくらでも目にすることができます。特に,第3局は升田将棋の最高傑作といわれていて,△3五銀のただ捨ては「天来の妙手」となっています。
 しかし,どういうわけか,どこを探しても第1局がどこにも収録されていないのです。私もスクラップしてあったはずなのですが,いつの間にかどこかに失くしてしまいました。そこで,私は,この第1局を図書館に出かけて朝日新聞の縮尺版から探し出しました。その幻の第30期将棋名人戦第1局が今日の話題です。

 この将棋が歴史的に抹消されてしまっているような感じになっているのは,おそらく,第7局までもつれこんだことで,書物などにはあえて第1局を収めるスペースがないことと,第1局を削除するのは,この将棋だけがこの期の名人では凡局であり,特筆すべきものがなかったからでしょう。しかし,私には,初体験の将棋名人戦。いたるところに定跡とははなれた戦いがあって,へ~,名人戦というのは本にかかれてあるのとは違うこういう将棋を指すものだ,と感動した記憶があります。
 新聞の観戦記を読むと,66手目の△8六歩,そして,それに続く68手目の△7五歩という封じ手前の2手が指しすぎで,この先はもう後手の升田幸三九段は勝てない,とあります。当時の観戦記には最終譜に木村義男十四世名人の講評というがあって,そこにもそう書いてあったし,のち発売された将棋雑誌にも,そのように升田幸三九段が局後に語ったとあります。
 その将棋をAIで調べてみました。
 すると意外なことに,66手目や68手目は当時書かれていたような悪い手ではなく,さらに,その後の83手目まで升田幸三九段が優勢となって評価されるのです。AIによると,84手目の正解手は△3四桂ですが,実際の指し手は△7八銀成で,これで差が縮まりました。しかし,それでもまだ後手有利でしたが,問題は101手目の▲5七同銀に対する応手でした。ここで後手が△6五桂と指せばまだ有望だったのですが,△8八角成が大悪手で勝敗が決定したというのです。これがAIの結論でした。
 意外な結果でした。そんなこと,当時はどこにも書いていなかったし,だれも指摘しませんでした。
 大山・升田,そして,木村という大豪がいう話に口をはさむことができる人なんていないし,観戦記者はいわれたまま書いているだけだったのでしょう。

 先日,第79期将棋名人戦のA級順位戦,羽生善治九段と豊島将之九段戦で,128手目,豊島将之九段の指した△6五歩で,AIは先手の羽生善治九段が勝勢と判断している局面なのに,羽生善治九段が投了したということがありました。それだって,AIがなければわからなかったことです。
 また,それ以外の多くの対局をABAMAで見ていると,終盤戦になると,対局者も解説者も正解手がわからず指せず,1手指すごとに評価値がおそろしく揺れ動くという場面が多々みられます。AIの示す正解手どおりにほぼ指し手が選べるのは藤井聡太二冠だけです。つまり,AIと藤井聡太二冠だけが正解を知っている世界なのです。
 これが,人間の戦いのおもしろさというか,たかだか人間の能力はこの程度と考えるべきなのか,私には,さっぱりわかりません。いずれにしても,これまで,棋士が解説していたことが本当に正しかったのだろうか,という疑いだけが残ります。
 そこで,従来のように手の是非の解説をしていても言っていることに信憑性がないのだからそれを知ったところでむなしいだけなので,そうしたことはAIに譲り,人間は,経験に基づいて,対局者はこの局面ではどう考えているのか,感情的にどんな状況なのか,どんな心理状態なのか,といったような,人のこころの動きやら弱さやらに重点を置いて解説をしたほうが,より魅力的であるように私には思われます。

 新たにNHK杯の将棋トーナメントにもついにAIが導入されました。しかし,残念なことに,新聞の将棋欄を第30期将棋名人戦の将棋欄と比較すると,今の将棋欄は当時よりも文字が大きくなりその分文字数が減っただけで,50年前と何も変わらずです。これでは読む価値がありません。
  ・・
 話は飛躍しますが…。
 コロナ禍はさっさとワクチンを接種すればそれで解決するのにもかかわらず,ワクチンひとつ作れず認可もおそく輸入も後手にまわっているのに,それを棚に上げて,感染者が何人増えたとか減ったとかいう意味のない数字だけをあげつらい,自粛やら気のゆるみやらとグタグタと精神論を並べておいて,そのくせ,自分たちは懲りもせずに宴会やったり聖火リレーやったり,金鯱を降臨させて疫病退散を祈願しています。あげくの果てには策がなくなって,ついに「マンボウ」とかいうおさかなさんまで登場です。それは,大学合格者の数字で学校のレベルを測ることを未だに教育と勘違いしていたり,第2次世界大戦で竹やりで敵の飛行機を落とそうとかバケツリレーで火を消そうとかやがてはカミカゼが吹くとか,そういうのと同じ発想です。マスコミも同類です。そもそもこんな時期にオリンピックをやろうなんて,究極的な気のゆるみです。精神論で解決できるのなら科学技術は必要ありません。昔と何も変わらない懲りない国です。
 新聞の将棋欄の保守性もそれと同じなのでしょうか。

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 今日の写真は,私が40年前にはじめてニューヨークにひとり旅をしたときに写したものです。
 いつごろのことなのか忘れましたが,若いころ,晶文社から刊行された「植草甚一スクラップブック」というシリーズが本屋さんに並んでいました。表紙のデザインと詠みやすそうな装丁,しかも題名が興味を誘い,何冊も購入しては読みました。しかし,そのころ,私は植草甚一という人のことはまったく知りませんでした。
 その当時,海外に行くことはとても大変だったのに,ニューヨークを東京の下町のように散歩して,その様子をエッセイにしてまとめるかっこいいおじさんっていったいどんな人だろうと思いました。そして,憧れました。
  ・・
 私が若いころは,植草甚一さんに限らず,そんなかっこいいおじさんがいっぱいいました。
 たとえば,将棋の升田幸三実力制第四代名人とか,写真家の木村伊兵衛さんとか。今にして思うと,おそらく,実際にお会いしたとしたら,そりゃ気難しい恐ろしい人たちだったのかもしれませんが,若いころの私が知っているこうしたかっこいいおじさんは,あくまで本を通じてのことだったので,物語上の架空の人物と同じ。それがよかったのでしょう。そりゃ,尊敬しました。そんなおじさんになりたいと思いました。その結果,私は不良老人となってしまいましたが,未だ,足元にも及びません。

 なぜか今ごろになって,そんなことをふと思い出して,植草甚一さんについて調べてみました。
  ・・
 私が読んだ「植草甚一スクラップブック」というシリーズものはエッセイ集で,全40巻に別巻が1巻あったということです。1976年から1980年に刊行されて,内容は, ジャズ,映画,小説,ファッション,雑学など様々なジャンルの評論やエッセイで構成されていたようです。
 その中でも,私が興味をもったのは,「ハーレムの黒人たち」「アメリカ小説を読んでみよう」「マイルスとコルトレーンの日々」「ぼくのニューヨーク案内」…。題名を見ただけで,今でもわくわくします。そして,海の向こうの国を歩いているような気になってきます。
 「ぼくのニューヨーク案内」から,すこしだけ引用してみます。
  ・・・・・・
●「いいなあ」「おもしろいなあ」と独りごとばかり言っている
 いましがたホテルの部屋に帰ってきて腕時計を見たら午後6時10分だ。7時40分まで「宝島」の原稿を書いて,それからまた近所へ出かけなければならない。こんな機会があるなんてまったく考えていかなったからだ。
 ぼくは4月1日の午後2時にセントラル・パークの真っ正面にあるプラザ・ホテルに泊まることになっていて,そのときホテルの部屋で30分ばかりジーッとしていたが,たまらなくなって地図で知っていたフィフス・アヴェニューのダブルデー図書館に出かけた。
  ・・・・・・
 これだけで,どきどきしてきます。すでに,こころはニューヨークです。

  ・・・・・・
 植草甚一さんは,1908年(明治41年)に生まれて, 1979年(昭和54年)に71歳で亡くなった欧米文学,ジャズ,映画の評論家でした。通称を「J・J氏」といいました。
 東京市日本橋区小網町(現在の東京都中央区日本橋小網町)で木綿問屋のひとり息子として生まれたといいますから,木村伊兵衛さんと同じ江戸っ子です。
 東京府立第一商業学校では首席。
 1923年(大正12年)に起きた関東大震災で被災し,植草家は没落。植草甚一青年は,旧制第一高等学校を受験しましたが,失敗し,第一早稲田高等学院理科に補欠で入学し,そののち,早稲田大学理工学部建築学科に進学します。
 在学中は新劇に熱中し,池袋のジャージー工場「藤幸」に勤務し,「ヴォーグ」「ハーパース・バザー」などを翻訳します。大学では落第を2度繰り返した後,学費未納により除籍処分を受けます。
 その後,今川小路「銀映座」の主任助手を経て,東宝に入社。
 そのころ,はじめての映画評論「目を閉じて視覚化せよ」を「キネマ旬報」に発表したり,吉岡重三郎のゴーストライターを務めます。
 東宝では宣伝部や調査部などに勤務していましたが,労働争議で退職し,「キネマ旬報」同人となり,「アメリカ映画」の編集委員を務め,ニックネームの「J・J」を使って,映画評論を発表するようになります。また,映画評論の傍らで「クライム・クラブ」の収録作品選定や全巻の解説執筆を担当。「クライム・クラブ」は斬新な作品選択でミステリー愛好家の間で伝説的な叢書となりました。
  ・・ 
 1966年,「平凡パンチデラックス」などの若者向け雑誌で紹介されたことがきっかけで若い世代の読者が急増し植草ブームが到来,本格的な単行本を出版します。その第1冊が「ジャズの前衛と黒人たち」でした。そしてまた,1970年にはエッセイ「ぼくは散歩と雑学が好き」を刊行して若者にサブカルチャーを普及させ,1973年には雑誌「ワンダーランド」の責任編集となります。のち「ワンダーランド」は「宝島」として発展していきます。
 1974年,はじめてニューヨークへ渡り,3か月半滞在しましたが,それ以前から雑誌と本とでニューヨークの街には精通していたといいます。
 1979年,心筋梗塞の発作により没しました。
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 死後、多数のレコードコレクションの散逸を防ぐために,ジャズを愛好するタモリさんが約4,000枚すべてを買い取ったそうです。
 生前,植草甚一さんに私淑したハスキー中川さんは,「植草さんは本屋でもレコード店でも散歩でも基本的にはひとりが好きで,ひとりぼっちの人でした。映画だけは淀川長治さんという理解者がいたけれど,それ以外はたったひとりで自分がおもしろいと思うものを見つけて,たったひとりで楽しんでいた。それを何十年も続けていたんです。植草さんは本当に孤独を貫いた人だったんです」と回想しています。
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 昔も今も日本は変な国だけれど,今の,規格化された,やったふりと責任逃れだけが得意で,実際はだれも何もしない,そして怒らない,しかし,他人を監視してやっかむだけの魂の抜けた社会には,こんなすてきなおじさまたちが生きる場所はどこにもありません。かつての日本には,そんな人の居場所がいくらでもありましたが。

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●パホハクビーチ●
 マウナロアから少し州道460号線を東にもどって左折,つまり北西に向かって海岸線へ降りる道路に入る。その道路の曲がり角には目立たない看板があると「地球の歩き方」には書かれてあったが,すぐにわかった。
 その道路は一応舗装されていたが,でこぼこであった。そのまま4.5マイル,約7キロメートルほど下っていくと,島の北西の海岸線に出た。そこがケプヒ・ビーチリゾート(Kepuhi Beach Resort)であった。
 遠くから見ると,マウイ島にあるような立派なコンドミニアムが立ち並び,プライベートビーチもあった。マウイ島などのリゾートは,よそ者お断り感満々なので,ビジターが車を停めることさえなかなか困難だから,ここも同じように,私は遠慮しがちにビジター用の駐車場をさがして車を停め,少し様子見をすることにしたのだが,すっかり当てが外れて,ここは場末感ただよう寂れたリゾートであった。

 とりあえず,ここはまた来ることにして,その先を急ぐことにして,車に戻った。
 この先,島の西側の海岸に沿って,パポハクビーチとカプカヘフビーチがあるということだったので,ともかく,先に,そこまで行ってみることにした。
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 まず,島の西側を海岸に沿って南に走ると,パポハクビーチ(Papohaku Beach)に着いた。
 ビーチの入口には看板があって,広い広い駐車場が完備されていた。また,ピクニックエリアもあったので,マウイ島のマケナビーチのような感じではあった。しかし,唯一の,しかも最大の違いは,来ている人がほとんどいないということであった。当然,レストランも何もない。
 パホハクビーチはハワイで最も長い白砂のビーチで,その距離は約5キロメートルも続いているという。風が強く波が高く潮の流れも速いので泳ぐことはできないということなので,砂浜でパラソルを広げてボーッと海を眺めるくらいしかすることがない場所である。
 私が行ったときは,一組の家族がいただけだった。
 
 このような砂浜はハワイには結構あるのだが,見ると行くのとは大違いで,砂は深く,歩くのがたいへんなのである。スニーカーなどを履いていても,どんどん砂が入ってくる。さらには,日焼け止めにパラソル,そして,イス,これが必需品で,それがないと,砂浜で立ち尽くす以外どうしようもなかったりするから,憧れるほど楽しいところではない。こんな場所で海を眺めるのならホテルのテラスのほうがずっと快適な気がする。
 ハワイの海岸よりも,オーストラリアのゴールドコーストのほうがずっと快適で美しいと,私は,ゴールドコーストに行ったときにそう思った。
 いずれにしても,ここは,こんな巨大なビーチを独り占めにできる,日本では考えられない場所である。こんな場所を知ってしまうと,オアフ島のワイキキビーチなど,箱庭にすぎない。とにもかくにも,ここは太平洋のど真ん中なのである。


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●不思議な町&謎の町・マウナロア●
 さて,空港から西に行くには州道460,通称マイナロア・ハイウェイ(Maunaloa Hwy.)を走ることになる。この道路もまた,片側1車線ののどかで穏やかな舗装道路であった。約10マイル,16キロメートルほど行った先が,このハイウェイの終点がマウナロア(Maunaloa)の町である。途中はこれといって何もない,赤土が顔をのぞかせる乾燥地帯であった。
 モロカイ島の西側の大部分にあたる広大な54,000エーカー(約220平方キロメートル)の土地はモロカイランチ(Molokai Ranch)の所有地で,かつてはドール社(Dole)と契約し,パイナップルプランテーションとなっていて,マウナロアはその中心地であった。ドール社というのは,日本のマーケットでもよくジュースを見かけるあのドール(Dole)である。
 なお,何度書いても(私が)忘れるので,またまた書くが,3エーカーが約12万平方メートルで野球場1個分である。なお,1エーカーは1224坪だそうだが,何度調べてもまったくもって大きさがよくわからない。
 私は,小学生に英語を教えるのも結構なことだが,そのとき,頭の柔らかいうちに,エーカーだの,インチだの,ポンドだの,はたまた,坪だの尺だのといった,たくさんの単位を教えたほうがいいと思う。それが現在正規で使われている単位であろうとなかろうと,実際には使われているから,アメリカ人と会話をするときに知らないと困るからである。
 学校は死ぬまで使わないようなことはたくさん教えるが,知らないと困ることを教えないのだ。

 1990年ごろから東南アジア産の安いパイナップルの市場進出におされて,ハワイにあるドール社のパイナップル畑は閉鎖となってしまった。モロカイ島だけでなくラナイ島もまた同様であったが,ラナイ島には今もその場所が公園となって残っているが,モロカイ島には何もない。
 ドール社が撤退したのちは,マウナロアには,高級リゾート「モロカイロッジ&ビーチビレッジ」(The Lodge & Beach Village at Moloka'i Ranch)に従事する人が住んでいたが,208年にモロカイランチが閉鎖され,ホテルもクローズしてしまった。 
 そこで,今は死んだような町となってしまい,ほとんどの店は閉店し,1軒のスーパーマーケットと手作り凧の店だけが残っていた。

 マウナロアに関する情報はあまりに少ない。調べても何も出てこない。唯一あったのは,次のものであった。
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 モロカイ島で有名なホテルといえば「モロカイロッジ&ビーチビレッジ」である。泊まることはできなかったけれど,せっかくモロカイ島に来たんだからと,夕食に行ってみた。
 標高1,200フィートの高台に位置するので,すこし気温が低い。建物の雰囲気もハワイとは思えないし,涼しさもラナイ島のロッジアットコエレと似ていた。
 65,000エーカーの広い敷地に22室だけの小さなホテル棟がぽつり。
 見渡す限り平原であった。
 ホテルからマウナロアの中心までは歩いてすぐだが,マウナロアには,映画館,お土産屋,郵便局,スーパー,ガソリンスタンドが1軒ずつあるぐらいで、レストランもない模様。夕暮れ時はお店も閉まっていて、人通りなく,本当に静かだった。ホテル内もゲストがちら。
 こんなに静かな町とホテルを見たのははじめてだった。
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 しかし,この記事は,先に書いたように,ホテルがクローズされた2008年以前に書かれたものである。インターネットというのはおかしなもので,過去も現在も一緒くたにある。ネットにはここにあったリゾートの写真やさらにはホームページまであったが,こんな建物,今はないしホテルもない。マウナロアにはモロカイ島唯一の映画館があるというが,これもまた,今あるかどうかは知らない。ただし,マウナロアには,現在,たった1軒,B&B が営業している(らしい)。

 正直って,私は,この町を何も見ないで通り過ぎてしまった。というより,何もなかった。しかし,今思うに,少し探検すべきであった。つまり,調べても何も出てこないので,何が真実なのかわからないからである。それをこの目で確かめておくべきであった。 
 それにしても,現在この町に住んでいる人は何をして暮らしているのだろう。不思議で仕方がない。


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 こころに残っているミュージカルの最後は「コーラスライン」(A Chorus Line)です。このミュージカルが私の原点です。
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 私が今から40年以上前に,行きの飛行機の中で出会った女性に誘われて「コーラスライン」を見たニューヨーク・ブロードウェイのまさに中心に位置するシューベルト劇場(The Schubert Theatre)は,1913年に開業しました。劇場名は1905年に26歳の若さで不運にも列車事故で亡くなった劇場創設者、シューベルト3兄弟の次男サム・シューベルトに由来します。
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 1970年代に入ると,タイムズスクエア周辺は売春婦や麻薬密売人があふれ治安が悪化しました。次第にこのエリアを人々が避けるようになり,その結果,ブロードウェイの劇場からも客足が遠のく結果となりました。 そんな折,マイケル・ベネット(Michael Bennett)は、これからのショービジネスにはダンス作品が必要であり,ダンサーのための作品を作りたいという信念のもと,原案,振付,演出のすべてを自分自身で手掛けたミュージカル作品「コーラスライン」を作り上げました。そして上演したのがシューベルト劇場だったわけです。
 1975年,「コーラスライン」の公演がはじまると空前の大ヒットとなり,1990年の千秋楽まで15年間で合計6,137公演を行いました。大ヒットした「コーラスライン」は,ブロードウェイへ足を運ぶのを渋っていた人々を再び劇場へよび戻す立役者となりました。
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 私が生まれてはじめてのアメリカへのひとり旅でニューヨークを訪れたときは,まだ,治安が悪く,数ブロックを歩くだけでも怯えていたのを思い出します。特に,ブロードウェイ周辺は,現在のディズニーランドのような雰囲気とはまったく異なり,ポルノショップだらけでした。ショーが終わると,馬にまたがった警官が警備をしていました。
 おそらく,行きの飛行機の中で初対面の女性が私を誘ったのは,このような場所に日本人の女性がひとり,夜のニューヨークでミュージカルを見ることが危険だったからでしょう。
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 そのころのニューヨークは,マンハッタンの繁華街のホテルもそれほど宿泊代が高価でなかったから泊まれたのですが,部屋はとても汚なく,がっかりしたことをうっすらと覚えています。そしてまた,朝,近くのカフェに出かけて,モーニングサービスの朝食を食べながら,まるでニューヨーカーだと自分に酔いしれたこと! そんなこと,今のマンハッタンではできません。

 「コーラスライン」は,まさに,ショービジネスのオーディションをそのまま再現したようなものなので,いわば,究極のミュージカル。こんなミュージカルを作ってしまって,この次は何を作るの,というような感じでもあります。しかし,内容は,私がアメリカ社会をあまり知らなかった当時にはよくわからなかったこともたくさんあったのですが,今,YouTube などでこのミュージカルを見直してみると,何を描きたいのかということがとてもよくわかりかす。
 このミュージカルもまた,ほかのミュージカル同様,アメリカ社会を知らない日本人が見ても,音楽やダンスにこそ感動しても,その本当の意味は理解できないのではないかと思われます。
 今,私が見たときの思い出は,1番目の写真と,そして,2番目のチケットの片割れしかありませんが,そのときの思い出は,こころの中に今も強く残っています。若いころに,偶然,このミュージカルに接することができて,本当によかったと思います。
 ところで,あのときの彼女,今ごろ,どこで何をしているのだろう…。
 あのころは,私も若かったので,なんだ,ミュージカル狂いの女か,こんな女とつきあう男の気がしれん,と思って,ミュージカルを見終わって一緒の写真の1枚も写さず,名前も聞かずお別れしたものですが…。私も愚かな男でした。


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