しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

December 2021

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 西の空にある沈みゆく3個の彗星を写し終えたので,今度は天頂付近に望遠鏡の視野を移し,別の3個の彗星をねらいました。
 新たな3個の彗星は,アトラス彗星(C/2019L3 ATLAS),フェイ彗星(4P Faye),そして,チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67P Churyumov-Gerasimenko)という,これまでに何度も写してきた彗星です。
 こちらはこれから高度が高くなるので時間に追われることもなく,いささかのんびりムードでした。この中で,チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星が明るくなって,長いダストの尾を見せているという情報だったので期待しました。

 まず,最も探しやすいアトラス彗星からです。場所はふたご座α星「カストル」の近くです。
●アトラス彗星(C/2019L3 ATLAS)
 これまでに何度も書きましたが,アトラスというのは小惑星地球衝突最終警報システム(ATLAS=Asteroid Terrestrial-impact Last Alert System)のことです。この観測プロジェックはハワイ・マウイ島のハレアカラ (ATLAS-HKO)とハワイ島のマウナロア (ATLAS-MLO)に設置した口径0.5メートルのふたつの望遠鏡を使って,地球近傍小天体が地球に衝突する数週間から数日前に検出するために最適化されたロボット掃天観測システムで,これによって発見された彗星です。
 今回も簡単に写すことができました。

 次がフェイ彗星です。場所はふたご座の隣のいっかくじゅう座です。この時期,このあたりに見られるオリオン座やおおいぬ座などの冬の星座がきれいです。
●フェイ彗星(4P Faye)
 フェイ彗星は1843年にエルヴェ・フェイ(Hervé Auguste Étienne Albans Faye)によってパリ王立天文台で発見された周期7.54年の周期彗星です。
 この彗星,何度写しても私は苦手で,なかなかうまく写ってくれません。今回は楽勝モードだったのですが,写した写真を何度確認しても,彗星が特定できません。また,このあたりは天の川銀河で,ものすごく星が多いのです。自宅に帰ってから確認すると,どうやら9等星の恒星とほぼ重なってしまっていたようです。いずれにしても,この10等星から12等星という明るさの彗星は,等級と写り方が彗星によってまちまちで,写してみなければわからないものです。

 さあ,最後が,今日最も期待していたチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星だったのですが,少しでも高度が高くなるまでと最後にしてありました。この晩は天気が回復基調だったのですっかり安心していたのですが,天気予報に反して,次第に東の空低いところから雲が出てきて,焦りました。
 それでも,なんとか写すことができました。長い尾があって,みごとでした。
●チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67P Churyumov-Gerasimenko)
 これも何度も書いているのですが,チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星は,1969年にクリム・チュリュモフ(Klim Ivanovich Churyumov)とスヴェトラナ・ゲラシメンコ(Svetlana Ivanovna Gerasimenko)によって発見された周期6.57年の周期彗星です。
 2014年,ヨーロッパ宇宙気候が探査機「ロゼッタ」を送り込んだこの彗星は,撮影した画像から,ふたつの彗星がゆっくりとぶつかってそのまま結合したような2重の構造を持つアヒルのオモチャのような奇妙な形状をしていることがわかりました。この彗星がそれなのか,と思うと,特別な感慨があります。

 これで終了です。
 2021年12月28日が終わるころ帰宅したら,すでに空一面雲で覆われていました。


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 このところ,レナード彗星(C/2021A1 Leonard)を追いかけていましたが,レナード彗星以外にも多くの彗星を見ることができます。私は星見の楽しみとして10等星より明るい彗星をすべて写そうと思っているのですが,2021年12月28日の夜はここ数日の寒波も一休み,天気も回復傾向にあったので,遠出して,そうした彗星を写しに行くことにしました。
 調べてみると,この晩写すことができそうな彗星が7個ありました。そのうちのひとつであるパンスターズ彗星(C/2017K2 PanSTARRS)は夜明け前直前の東の空に昇るので断念して,それ以外の6個の彗星を写すことにしました。
  ・・
 今日はそのうちの3個を紹介します。3個の彗星とは,ボレリー彗星(19P Borrelly),ダレスト彗星(6P d'Arrest),そして,コワル第2彗星(104P Kowal2)で,3個とも日没後の西の空,くじら座からみずがめ座にあります。
 私は自動導入などというしゃらくさいモノは持っていませんが,くじら座β星(βCeti)をファインダーで見つけることができれば,あとは赤経と赤緯のどちらかを固定したまま移動していけば簡単に見つかるというとても幸運な位置にありました。
 なお,くじら座のβ星は「ディフダ」(Diphda)といい,アラビア語で「二匹目の蛙」を意味する 「الضفدع الثاني」(aḍ-ḍafdaʿ aṯ-ṯānī )に由来しているそうです。

 くじら座β星は2等星なので簡単に見つかって,そこから経度だけ動かして,ボレリー彗星にたどりつきました。
● ボレリー彗星(19P Borrelly)
 ボレリー彗星は公転周期6.85年の短周期彗星です。1904年,フランス・マルセイユのアルフォンス・ルイ・ニコラ・ボレリー(Alphonse Louis Nicolas Borrelly)がマルセイユ天文台で定期的に天体を観測している間に発見しました。
 ボレリー彗星は,2001年,アメリカの探査機「ディープスペース1」(Deep Space 1)が2,171キロメートルまで接近してその姿を撮影しました。このときの画像が今日の最後のもので,当時の彗星の画像の中では最高の解像度でした。「ディープスペース1」は,アメリカ航空宇宙局(NASA)が1998年に打ち上げたもので,イオンエンジン,自動航法など12の新技術の実地試験を主な任務とし,小惑星ブライユ (9969) とボレリー彗星の近接探査も行いました。

 次がダレスト彗星でした。
 ボレリー彗星から再び経度を下げていくとたどり着き簡単に写せるはずだったのですが,撮影直後にカメラの画像を見ても彗星状の天体が見つかりません。あとで自宅でコンピュータ画像を確認して,何とか見つけ出しました。暗く淡いものでした。
●ダレスト彗星(6P/d'Arrest)
 1851年,ドイツの天文学者ハインリヒ・ダレスト(Heinrich Louis d'Arrest)によりライプツィヒで発見された周期6.56年の周期彗星です。
 ハインリヒ・ダレストは,1846年,べルリン天文台でヨハン・ゴットフリート・ガレ(Johann Gottfried Galle)のもとで助手として働いていました。ヨハン・ゴットフリート・ガレは,ユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier)から「天王星の摂動の原因として存在が予測される新惑星を見つけるために空のある領域を観測して欲しい」という依頼を受け取り,その晩にハインリヒ・ダレストとともに星図にはない天体を見つけたことで有名です。これが新惑星であることが確認されて海王星 (Neptune) と命名されたものです。

 西の空にある3個の彗星の最後がコワル第2彗星です。コワル第2彗星はダレスト彗星(のいるはずの場所)から緯度だけを上げていくと簡単に見つかりました。
● コワル第2彗星(104P Kowal2)
 1979年にチャールズ・T・コワル(Charles Thomas Kowal)によって発見された木星族の公転周期5.90年の周期彗星です。チャールズ・T・コワルは,太陽系での観測と発見で知られるアメリカの天文学者で,ウィルソン天文台とパロマ天文台で,多くの発見をしました。
 2003年,ゲイリー・クロンク(Gary Kronk)とブライアン・マースデン(Brian Marsden)が,1973年にレオ・ブーティン(Leo Boethin)が観測した物体がコワル彗星と同一のものであることに気づきました。フィリピン人司祭神父のレオ・ブーティンは,1949年,ルソン島アブラ州の牧師に任命され,ルソン島の非常に暗い空を利用して,口径8インチ(20センチメートル)の望遠鏡で彗星や流星群を観測しました。

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 これまで4回「精神年齢は(実年齢-40)歳で」と題して書きました。まもなく2022年の成人の日を迎えます。
  ・・・・・・
 私は「人生は40年が2度あって,はじめの40年は2度目の40年の本当の人生の練習だ」と書きましたが,2度ある人生の1度目の20歳を迎える彼らを見ていると,私はいろんなことを感じます。
  ・・・・・・
ということなのですが,そうした2度の人生で,20歳の成人の日よりも大切な節目は30歳なのです。そして,1度目は30歳になったとき,2度目は60歳になったときに,人生の通信簿がもらえるのです。とはいえ,それは,形としての通信簿ではなくて,精神的な通信簿です。
 そういえば,私の時代にはもう,学校でもらえるのは「通信簿」でなくて「通知表」でした。子供のころ,大人はテストも通知表もなくていいなあ,とうらやましく思ったのですが,それは大きな誤解でした。近年は,それどころか,やたらと評価合戦になっていて,組織でも自己評価花盛りですし,ネットショッピングをしても,あとでやたらとアンケートなるものがくるので,とてもうざったいです。これ,まったく意味がないのです。それより,本当に問題があれば,そのときのアフターケアがきちんとされることのほうが重要なのですが,本当にそうした問題があるとき,どこに問い合わせをするのか定かでないことが多く,また,連絡先が書いてあって電話してもつながらないことばかりです。これではモノを買う気もなくなります。
 閑話休題。

 ところで,精神的な通信簿ですが,1度目にもらえる30歳になったときのものは,30年でどれだけ自分に「生きる力」がついたのか,というものです。世間では,たかだか20数年すぎて大学を出たときに「学歴」とやらというブランドを手に入れてそれがその人の力という評価をしてわけですが,そんなものは誤解です。芸能人を見てもわかるように,10代から20代は属したプロダクションの宣伝効果だけで売れますが,30代になったときその人に本当の実力がないと,姿を消してしまいます。
 このように,何でもできる基礎力をつける10代,そして,それに応用力をつける20代のその総決算が30歳でもらえる通信簿というわけです。俗な言い方をすれば,それまでどれだけ経験を積んだか,ということです。具体的には,コミュニケーション能力があるか,とか,コンピュータを使いこなせるか,とか,人にない何かできることがあるか,ということです。これは,何大学を卒業したかということとは関係がありません。

 そして,60歳になったときにもらえる2度目の通信簿は,その先の人生をいかに楽しく生きることができるかという評価です。
 組織に属していたころは偉そうにしていたのに,退職した途端に粗大ゴミと化す人,国内旅行すらできない人などがいますが,そのような人が街で右往左往しているのを見かけます。朝から晩まで近くのモールでたむろっている人もいます。また,図書館へ行って,新聞を読むか転寝をするかしかすることのない人もいます。地方に行くと,昔ながらの喫茶店があって,そこでは,テレビのワイドショーを見て得たくだらない知識を自分の意見のようにして一日中だべっているオジサマ方もいます。
 今から10年も前には,平日の午前中というはどこも閑散としていたのですが,今や,この国には65歳以上の人たちがうじゃうじゃいるわけで,さらには,「団塊の世代」とかが70歳を過ぎ,再雇用の道すらなく暇を持て余すようになったので,平日の午前中は,図書館やスーパー銭湯は場所の取り合いになってしまっているわけです。
 2度目の通信簿こそが,まさに,その人が充実した老後が過ごせるかどうかの試金石となるのです。

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 2021年12月25日,これまで何度も延期されていたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(James Webb Space Telescope=JWST)が南アメリカのフランス領ギアナで打ち上げられ,高度約1,400キロメートルの宇宙空間でロケットから分離,数分後に太陽電池パネルを展開して発電を開始したことが確認されました。スラスター噴射で軌道を調整し,2022年1月の終わりには地球から約150万キロメートル離れた「ラグランジュ点」のL2ポイントに到着します。
 私は,2016年の夏にフロリダ州ケネディ宇宙センターでジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡のモデルを見て関心をもっていただけに,ついに,という気持ちでした。打ち上げのカウントダウンはフランス語でした。
 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は,2010年に退役を迎えるはずだったハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、=HST)の後継機として計画された赤外線観測用宇宙望遠鏡です。名称は、NASAの第2代長官ジェイムズ・E・ウェッブにちなんで命名されたものです。
 当初は2011年の打ち上げが予定されていたのですが,開発が遅れ,2015年以降に打ち上げが延期され,そのために,ハッブル宇宙望遠鏡が延命されました。さらに,2018年以降に延期となり,また,2020年以降に再延期となって,さすがに計画中止を求める声が他のプロジェクトから上がっていただけに心配しました。やっと,2021年12月18日の打ち上げが発表されたのですが,直前になってロケットへの搭載準備中に予定外の振動が生じたので,最終的な打ち上げが12月25日になったのです。

 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の観測目標は,宇宙誕生ビッグバンの約2億年後以降に輝きはじめたとされるファーストスターを観測することだそうです。ファーストスターからの光は赤方偏移により波長が引き延ばされ赤外線に変化すると考えられているので,赤外線域で捜索・観測することによってそれが発見できるといいます。
 現在,ハッブル宇宙望遠鏡は地表から約600キロメートルという低い軌道上を飛行しています。とはいえ,国際宇宙ステーション(International Space Station=ISS)はそれより低い約400キロメートルであり,航空機に至っては約10キロメートルでしかありません。これに対して,ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡は地球から約150万キロメートルという高さで,ちょうど太陽とは反対側の遠距離に置かれることになります。地球から月までは約38万キロメートルなので,それよりも4倍も遠いのですが,その位置は,太陽-地球の「ラグランジュ点」(Lagrangian points)のひとつでL2ポイントとよばれる場所です。「 ラグランジュ点」というのは,ふたつの天体の重力の釣り合いが取れる安定したポイントのことでL1からL5の5か所あります。
 L2ポイントは太陽の反対側にあるために,地球によって太陽が遮られて宇宙空間での観測を行うのに都合のよい場所です。しかし,太陽から発せられる光や電磁波などがノイズになってしまうのでそれを避けるために機体を極低温に冷却したり,太陽や地球から発せられる光を避けるために折畳まれた遮光板を搭載する必要があるそうです。

 ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の質量は6.2トンで,約11トンあるハッブル宇宙望遠鏡の約半分ですが,反射鏡の口径は約6.5メートルもあって,2.4メートルのハッブル宇宙望遠鏡の2.5倍です。ただし,ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の反射鏡はロケットに収まらないほど巨大なので,18枚の6角形セグメントに分割されていて,打ち上げられた後に高感度のマイクロモーターと波面センサーによって正確な位置に導かれて展開するようになっています。

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 空を歩く方法,あるいは,海の上を歩く方法,というものがあります。 それは,左足が沈むまえに右足を出し,右足が沈むまえに左足を出す,という方法です。 あるいは,人数制限のあるエレベータにいくらでも人が乗ることができる方法,というのもあります。 それは,制限された人数を越えたら,その人は飛び上がる,という方法です。これをみんながやれば,床に足をついている人の数だけが人数制限以下ならいいわけです。
 こうしたことが詭弁であることは容易にわかるでしょう。
 今,この国の借金は1,200億円だそうです。しかし,いくら借金があろうと,国債を発行し続けてお金が足りなくなったら借りればいい,というのが,今の日銀のやっている金融緩和という政策ですが,これもまた,詭弁であることは,はじめに書いた例と同じだからです。
 借金が増えればお金を刷ればいいじゃないの,という疑問はだれでもあって,この答えはネットを検索すればいくらでも見つかります。 しかし,その答えは,大きくわけてまったく別の2種類が存在します。そのひとつは,いくらでもお金を刷ることは禁じられているからできないというものです。しかし,そういったきまりを作ったのも人間なのだから,きまりを変えればいい,ということになりますから,これは答えにはなっていません。もうひとつは,お金をどんどん刷れば貨幣価値が下がるから,ハイパーインフレになる恐れがある,というものです。

 現在,この国のやっているのは,まさに,お金をどんどん刷っている状態と同じです。今のところ,それでもハイパーインフレが起きていないのは,いくらお金があっても買いたいものがない,あるいは,将来が不安だから貯蓄にまわすということで,せっかく出回ったお金がふたたび銀行に戻ってしまうのが理由となっています。
 そもそも,お金というモノ自体,多くの人は紙幣を思い起こすでしょうが,実際は紙幣は世を忍ぶ仮の姿にすぎないものです。私のように,ほとんどをキャッシュレスで過ごしていると,単に数字が出入りしているだけで,お金を使うという実感すらありません。そしてまた,人には寿命というものがあるので,それで,どんなに借金があろうと最後はむやむやになってしまうわけです。同じように,国であっても,これまでいくら財政危機に陥っても,国の体制が変わったりすると,それはむやむやになってしまうこともあるわけで,未来永劫おなじ状況が続くわけでもないのです。
 というように,簡単な話ではないわけですが, ただいえるのは,日本の現状は,無節操な金融緩和によって実態とかけ離れた円安になっているということです。賃金が外国より安いとか,物価が安いという報道がされているのですが,その原因は実態とかけ離れた円安なのです。つまり,この国が世界で安売りされているということです。


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 ついに十津川村までやってきました。思ったよりも家が多いのに驚きました。とはいえ,十津川村で何をするという予定もなく,確か長い吊り橋があったと思うになあ,と考えていると谷瀬の吊り橋という道路標識があったので,そこに向かうことにしました。
 ところが,それまでよかった天気が突然崩れはじめ,雨まで降ってきました。吊り橋は思ったよりも遠い所でした。しかし,せっかく来たので,吊り橋まで来て,駐車場に車を停めました。傘をさして,カメラを持って渡った吊り橋は迫力満点でした。
 十津川村観光協会のホームページに次のような説明がありました。
  ・・・・・
 今では十津川村を代表する観光名所になった「谷瀬吊り橋」はもともとは生活用のためのつり橋としてかけられたんじゃよ。
 今から約60年も前の1954年(昭和29年),戦後の復興期のことじゃ。 谷瀬の人々らは川に丸木橋を架けて行き来しておったんじゃが,洪水のたびに流されとった。そこで谷瀬集落の人々は1戸当たり20万円から30万円という大金を出しあい,当時としては思い切った800万円もの大吊り橋を村の協力を得て完成させたんじゃのら。当時の教員の初任給が7,800円で米10キログラムが765円の時代じゃよ。
 今のように物が豊かでなかった時代じゃが,谷瀬の吊り橋私財を投じた先人はお互いを助け合いとても心は豊かじゃった。
  ・・・・・・

 ということで,念願だった十津川村まで来たことだし,吊り橋も渡ったことだし,雨が雪になるまえに帰宅することにしました。
 地図で見ると,ここから海岸に出るには国道425号線で尾鷲市まで行くのが近そうだったので,そこを通ることにした… というのが大きな間違いでした。私は知らなかったのですが,この国道425号線というのは「日本三大酷道」のひとつといわれていて,こんな道路はいくら距離が短くとも,観光で走るような道ではなかったのです。しかも,雨。日も暮れ,あたりは真っ暗でした。この道路は通行止め区間だったのですが,この日は,運よくというか悪くというか通行止めが解除になっていたので走ってしまったのでした。もし,この道路を走る目的でやって来て通行止めだったらそれもまた残念だろうし,私のような無知な状態で走ったというのも,なんというか,不思議なものでした。

 そもそも,私は,国内をドライブするよりも海外をドライブしたことのほうが多いくらいですが,海外にこんな過酷な道路はないので,すっかり油断していたわけです。国土交通省を信頼しすぎていました。アメリカでこんな国道があって事故でも起きれば国を相手に損害賠償請求訴訟が起きることでしょう。勝手のいいときだけ「自己責任」といい,法にないことをぬけぬけと強制しておいて従わなければ名前を公表するとかいういじめをするくせに「お願い」とやらで煙に巻いたりと,名ばかり法治国家の日本には私の知らないことが数多くあって,驚くばかりです。
 途中,何度もこころが折れながら,しかし,途中でやめるわけにもいかず,とにかく走り通しましたが,落石やがけ崩れがなかったのが幸いでした。やっと下北山村まで着いて,この先尾鷲市までさらに国道425号線を走る気力もなくなったので予定を変更して国道169号線,さらに,国道309号線で熊野市に向かい,国道42号線を経由して熊野市に着いて,最後は東名阪自動車道で帰宅しました。
 こうして,無計画な旅は,結局,一度は行きたかった紀伊半島を,海岸線も山の中もほぼ体験することができて終わりを告げました。
  ・・
 ちなみに,「日本三大酷道」とは,国道418号線,国道425号線,国道439号線だそうです。


◇◇◇
レナード彗星。

12月25日,クリスマスの晩。
空が澄んでいて,双眼鏡でもよく見えました。
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 潮岬を越えて,さあ,これからどうしようかと考えながら走っていましたが,そのうちに眠気が襲ってきました。
 眠くなったときの対策は冷たいものを飲むしかありません。それは私が長年アメリカの大地をドライブして覚えたことです。アメリカだとマクドナルドに行って,氷を大量に入れたソフトドリンクを購入すればいいのですが,私の走っているところには,マクドナルドの1軒すらありません。自動販売機で売っているような飲み物ではさほど冷たくないのでダメなのです。
 そのうち,道の駅を見つけたので,車を停めてアイスクリームを買いました。その場所にあったのは橋杭岩という観光地でした。
 日本にもこんな場所があるんだなあと思いました。

 今回の無計画な旅は,走ったことがない紀伊半島・和歌山県の海岸線がどうなっているか,ということが関心事で,この先はこれまで何度か行ったことがあるので,那智勝浦も熊野三山も行く気がありませんでした。
 はじめに考えたのは,志摩半島です。志摩半島もまた何度も行っているのですが,大王崎灯台などはずいぶんと前にいっただけだったので,行く価値はあるように思えました。いずれにせよ,私が行きたいのは人の少ない雄大なところなのです。しかし,日本には期待はしても実際はそんなところはほとんどないのです。
 ところで,私は,紀伊半島は海岸線だけでなく,山間部もまた,どうなっているかずいぶんと気になっていました。何もなさそうで,ありそうで。なかでも,ずっと昔から気になっていたのは十津川村ですが,これはまた別の機会にも,と思っていました。

 走りながらそんなことを考えているうちに,せっかくここまで来たのだし,また来るかどうかわからないから,いっそのこと,今回,十津川村へ行こうという気になってきました。
 地図を見ると,新宮市で左折して山の中に入って行けばよさそうです。途中に熊野本宮大社があるので,道路も整備されているようでした。
 やがて,新宮市に着いたので,左折して,国道168号線にはいると,急にまわりは山だらけになりました。これが紀伊半島なのだなあと思いました。
  ・・
 古来より,この地は霊地でした。奈良から近いのに,山深く,古人にとっては,現生ではない場所だったのでしょう。
 今でも山深く,広い道もほとんどないのに,その時代,どうやってこの山の中に入っていったのでしょう。そしてまた,そのような場所に熊野三山というお社を建てたのでしょう。
 今は熊野古道といって,観光地になっているとはいえ,あまりに広く,また,険しく,旧街道を散策するのとはわけが違い,私には雲をつかむような場所でした。
  ・・
 であったのに,今回の旅は,このあと,意外なことになってしまうのです。

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 ついに潮岬までやってきました。本州最南端だそうです。
 私はこれまで,ハワイ島のアメリカ最南端,フロリダ州キーウエストのアメリカ本土最南端に行ったことはあるのですが,本州最南端に来たのは,おそらく,というのは,子供のころに来たことがあるのかもしれませんがまったく覚えがないので,これがはじめてのことでした。
 ずいぶん前に北海道の松前半島にある白神岬へは行きました。また,数年前には念願だった高知県で足摺岬へ行ったことがあります。潮岬は足摺岬と雰囲気がよく似ていました。
 これで北海島と本州と四国の最南端へは行ったことになるのですが,しかしまだ,鹿児島県の佐多岬,つまり,九州最南端へは行ったことがありません。

 季節が冬なのか,平日なのか,あるいは,まだ,朝早かったからなのかはわかりませんが,潮岬には観光客はほとんどいませんでした。
 昨晩宿泊したゲストハウスで簡単な朝食というか,小さなパンが2個とコーヒーは頂いたのですが,それだけだったので,海でも見ながら朝食をと思っていたのですが,そんなカフェというかレストランの1軒すらないのに落胆しました。たった1軒,古びた喫茶店がありました。中をのぞくと,タバコの煙が充満していました。今時,これはありません。日本には,まだまだ昭和時代のような場所があります。これで私の潮岬の印象は最悪になりました。
 潮岬灯台は中に入ることができました。私のほかに1台も車が停まっていない駐車場に車を停めて,少し歩くと灯台がありました。
 中に入ると急な階段があって,それをぐるりと昇ると,最後は梯子段,あまり急だったので注意して昇りきるとそのが最上階でした。外に出ることができたのですが,強風に立っているのもやっとという状態でした。
 灯台の最上部から見渡すのは太平洋,この先に陸地はありません。かなり波があったのですが,これがいつものことなのかこの日が特別なのかは知りません。

 潮岬灯台を出て,次に紀伊大島に行きました。せっかくここまで来たので,寄ってみることにしたのですが,この紀伊大島,何でも1890年(明治23年)にオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号 (Ertuğrul Fırkateyni) がこの紀伊大島樫野埼東方海上で遭難し,500人以上の犠牲者を出した事件があったところだそうで,このとき,樫野埼灯台下に流れ着いた生存者約10人が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりつき,住民たちが総出で救助と生存者の介抱に当たったといいます。この結果,69人が救出され生還に成功したのです。
 この事件で,紀伊大島の村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ,当時のオスマン帝国の人々は遠い異国である日本と日本人に対し,好印象を抱いたといわれているということですが,それにちなんだ記念碑やら博物館がありました。
 ということで,ちょっと異国情緒ただよう場所でもありました。
  ・・
 帰りがけ,1軒の地元の漁協がやっているという食堂を見つけたので,やっと食事をとることができました。せっかく紀伊半島に来たので,伊勢エビを。

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 朝,すでに雨が上がっていました。白浜町を観光する気は全くなかったので,ゲストハウスを出て,そのまま紀伊半島を先に走ることにしたのですが,そこで目についたのが三段壁という道路標示でした。
 三段壁は千畳敷の南海岸にそそり立つ高さ約50メートルの断崖です。 この大岩壁は南北約2キロメートルにわたって,岩肌に打ち寄せる黒潮が激しくぶつかり合うダイナミックな光景が広がっていました。
 その昔,魚,あるいは鯨の群れを見つけるための監視場,つまり,見段(みだん)があって,これが転じて三段壁とよばれる様になったという説が有力ということです。
 福井県の東尋坊に似ているなあと思いましたが,ここもまた,土産物屋が並んでいたりして,日本の観光地でした。私が訪れたのは朝早かったので,どこも開いていなくて,人混みの嫌いな私にはゆっくりと景色を味わえたので,好都合でした。
 2016年に「恋人の聖地・南紀白浜三段壁」として選定されたそうで,これを機会に三段壁展望台近辺にはハートのモニュメントを設置したり,郵便ポストをピンク色に変えたりと,これもまた日本らしいというか,こうして,この場所もまた,自然を破壊していくのです。

 私が白浜町で訪れたのがここ三段壁くらいのものでしたが,なんとなくハワイにこんな場所がたくさんあったような気がして,ハワイに行きたくなりました。
 三段壁を出て,さあ,紀伊半島最南端の岬灯台をめざします。
 このあたりのなると,今度は四国の足摺岬を思い出しました。こうして走っていると,どこにいるのか錯覚してしまうことが多いのですが,頭に地図を思い浮かべると,こんなところにいるんだという実感がわきます。
 天気は次第に回復して,晴れ間が見えてきましたが,海は荒れていて,高い波が岩に当たって,なかなか壮絶でした。道路の右側はずっと太平洋,そして,左側は険しい山と,平地がありません。そして,時折,漁港があるのは,こんどはまた,日本海の余部へ行ったときと同じような感じでした。

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◇◇◇
レナード彗星。

空が澄んでいたので,夕方の街中の明るい空でも尾まで写りました。
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 日が沈んだころ,宿泊地である白浜町に到着しました。
 白浜町というのは千葉県などにも存在するので,ここは南紀白浜とよびます。奈良時代からすでに温泉街として有名だったそうで,今は,温泉を売りものにする大きなホテルやリゾート施設,企業や団体などの別荘や保養所が多数集まっています。また,パンダが7頭いるというアドベンチャーワールドもあって,全国的に有名な観光地です。
 子供のころ,父親と来たことがありますが,今の私は,こうした観光地にはからっきし興味がありません。
 本来,日本人の観光というのはこのような温泉宿に出かけて,夜は酒と料理,そして,大騒ぎをする,というもので,それは今もあまり変わらず,私の趣味ではありません。
 私が今回ここに宿泊したのは,単に安価なゲストハウスを見つけたから,という理由だけのことです。もっと静かな漁港の食事つきの民宿というイメージもあったのですが,どこに泊まればいいのか調べる気もなかったので,食事は外で食べればいいや,という感じでした。

 ゲストハウスはこの8月にオープンしたばかりのとてもきれいなところで,海外によくあるモーテルのような感じでした。なんでも経営しているのは,中国で生まれた女性ということで,おもてなしは日本風であっても,なんか少し違うというか,そこがまたいいというか,そう思いました。私はこのほうが居心地がいいのですが,このコロナ禍で経営は大丈夫なのかな,と心配になりました。
 市街地からは少し離れていたので,車で夕食をとりに出かけたのはいいのですが,結局,ここに来る人はホテルで食事をするからだろうと思うのですが,食事ができる場所があまりありませんでした。それに今はシーズンオフ,ほとんど人も歩いていません。
 ということで,方針を変更して,せっかく和歌山県に来たのだから和歌山ラーメンでしょう,ということになって,開いていたラーメン店を見つけて入りました。

 和歌山ラーメンというのは和歌山県の大衆食堂で出されるご当地ラーメン,一般には豚骨醤油味で,また,食べ方や店での応対などで変わった風習があるそうですが,私が入ったお店は観光客用だったので,そんな違和感はまったくありませんでした。
 かつては,和歌山の「中華そば」が和歌山独特のものだと認識されることはなく,1990年代後半,東京に出店した「まっち棒」が和歌山ラーメンという名称を用いたのがはじまりで,1998年の元日に放映されたTVチャンピオン「日本一うまいラーメン決定戦」で和歌山市の井出商店のラーメンが優勝したこでブームになったそうです。いわば,全国ご当地ラーメンブームの火付け役でした。
 まあ,私はまったくグルメでなく,食事は,まれにかなりの贅沢をする以外は栄養があっておなかが満たせればそれで満足なので,これ以上のことは知らず,こだわりもなく,夕食をとってゲストハウスにもどり,近ごろはテレビを見る習慣もないので,そのまま寝てしまいました。
  ・・
 静かな部屋で,私のほかに宿泊客もいなかったので快適でしたが,夜中に目覚めたときに外を見ると雨が降っていました。

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「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 私は紀伊半島の西側を海岸線に沿って南にずっと走ってきました。すると,突然,日本離れした白い岩山に出会いました。白崎海岸でした。
 後で調べてみると
  ・・・・・・ 
 和歌山県日高郡由良町にある白崎海岸は,白い石灰岩で囲まれた白崎海洋公園を中心とする絶景スポットです。
 白い岩と紺碧の空と海が織り成す美しい風景は「日本のエーゲ海」とよばれています。
  ・・・・・・
とありました。日本にもこんなところがあるんだなあと思いました。
 白崎海岸は,海に突き出た巨大な石灰岩の岬と紺碧の海とのコントラストが特異な景観をかもし出しているところです。
 オートキャンプ場や道の駅などが作られているので,この異様な白い岩を目玉とした,この町の観光資源なのでしょう。また,ここのシンボルは「立厳岩」(たてごいわ)だそうです。天然の一枚岩が波に侵食され,中央に大きな穴が開いています。

 それにしても,と私は思いました。アイスランドなどにはよく似た場所があります。しかし,そのダイナミックさは到底及ぶものではなく,比較の対象にすらなりません。
 日本人の「無粋」なのは,こうした貴重な自然の景観を,この先もそのまま長く保存するのではなく,破壊することに一生懸命なことです。もっとも景観の美しいところにトイレを作ってしまったり,案内板を立てたり,景観を度外視した展望台やキャンプ場を作ってしまうのです。今はそれでも観光客が寄せるのでよいのでしょうが,何十年もすれば老朽化して,せっかくの景観が廃墟と化してしまうのは目に見えています。そんな場所が至るところにあります。
 自然をそのままにして,少し離れたところに駐車場を作り,そこから景観に調和したトレイルでも作って散策コースにすればよいのです。私はなさけなくなりました。これが日本という国です。

 嘆きつつ,さらに進みます。
 紀伊半島の西側は夕日が沈むだろうから,その時間に海を眺めれば絶景だろうなあ,と思いながら走りました。
 私が旅をした12月16日と17日は,天気の予報がよくなく,雨ということでした。そこで,すっかりあきらめていたのですが,運よく,12月16日は夜まで太陽が見え隠れしていました。この後,私は白浜町で1泊するのですが,深夜になってから雨が降り,翌朝,起きたときに窓から外を見るとすでに雨は止み,その後晴れ上がりました。まだ,晴れ男は健在なのだなあ,と思いました。
 ただし,残念なことに,この夕方は水平線上に雲が出て,美しい夕日が海に沈むのを見ることはできませんでした。

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 これまで,京都,奈良,そして東京以外の日本にはほどんど行く気がなく,私は海外旅行ばかりしていました。
 それでも,京都,奈良,そして東京以外でも,日本のおおよその有名どころはこれまでに何となく行ったことはあるのですが,まだ縁のないところもたくさんあります。しかし,そんなところにわざわざ行こうとは思っていませんでした。
 しかし,そうしたところへ,ここ数年,元気なうちに一度は主に電車や高速バスを使って行ってみようと,東北や四国へ旅するようになったのですが,そんな時期にコロナ禍になりました。それとともに,海外旅行ができなくなりました。
 とはいえ,日本国内を旅することが魅力ある海外旅行のそれに代わるとも思えませんが,なんらかの機会があったら,それを利用して足をのばそうと考えるようになりました。このご時世,公共交通機関でなく自家用車を使ってです。
  ・・
 今回は,大阪市美術館でメトロポリタン美術展が開催されていたので,その機会を利用してかねてから一度は行ってみようと思っていた紀伊半島をめぐってくることにしました。  
 はじめの予定では,紅葉のシーズンの終わる12月の初旬に出かけることにしていたのですが,運よくというかわるくというか,ちょうどその時期にレナード彗星が接近してきたので,レナード彗星を優先して,1週間遅れで,12月16日から12月17日かけて行くことにしました。
 まず,メトロポリタン美術館の予約をとって,その後は,いつものように,何も調べず,行き当たりばったりの旅程ですが,泊まるところだけ予約しようと,白浜町の素泊まりの安価なゲストハウスを見つけました。

 12月16日の午前5時,自宅を出発しました。まずは,大阪市美術館です。予約したのは開館と同時の午前9時30分なので,それに間に合うようにです。
 東名阪道から国道25号線を経由して西名阪道と進み,到着したのは午前8時過ぎでした。心配していた大阪市内の渋滞もほとんどなく,予定より早く到着できて,通天閣近くに安価な駐車場を探して,車を停めました。
 メトロポリタン美術展を見終えた午前10時30分ごろ,いよいよ出発です。
  ・・
 堺市や和歌山市にはすでに行ったので,今回は,松原市,富田林市,河内長野市,橋本市と順に南下して,その後は紀の川沿いに進むことにしました。なにせ,大阪市の南側はこれまで縁がありませんでしたが,どこまで行ってものどかな町にはならず,人と車と家ばかりには幻滅しました。所詮,日本です。
 また,この旅程でも,町の様子を見るために高速道路はなるべく使わないことにしました。が,日本で車を運転するのは,本当に疲れます。道路の作りがいい加減なことに加えて,意味のない表示が多すぎるからです。
 私は,これまで,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,アイスランドで車を運転したことがあるのですが,そうした国とは雲泥の差です。走りながら,だんだんと腹立たしくなってきました。日本では,旅をすることは,日本の醜さを再発見することのようです。日本しか知らない人はそれでも感動していたりもするのですが,どうも,この国は,自然を無計画に破壊することに命を懸けているとしか,私には思えません。潰れたパチンコ店やら廃業したホテルやらが廃墟と化している姿ばかりです。
 さて,紀の川に沿って走り,海南市に着くころ,周囲はやっとのどかになり,あたりはミカン畑ばかりで,さすが和歌山だと妙に感動したりしながら,その先は,なるべく海岸に沿って走りながら,白浜町を目指しました。


◇◇◇
レナード彗星。

昨日より高度が増しました。
雪雲がかかっていたのですが,簡単に写りました。
右上は金星です。
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 2021年12月18日の朝日新聞be版に,高樹のぶ子さんのエッセイ「あれから何処へ」で,タングルウッドのことが書かれてありました。その最後の部分を引用します。
  ・・・・・・
 私の心も,生まれてから長くあこがれ続けてきた自由と繁栄のアメリカを離れ,ヨーロッパへと移っていった。
  ・・・・・・
 タングルウッドはボストン郊外にあって,夏になると,ボストン交響楽団がこの避暑地に移動して音楽祭を行います。高樹のぶ子さんがタングルウッドを訪れたのは,小澤征爾さんがボストンを離れる2001年だったそうですが,私が行くことができたのは2013年のことでした。当然,すでに小澤征爾さんはいませんでしたが,タングルウッドにはセイジオザワホールがあり,また,展示室には,小澤征爾さんの資料がたくさんありました。
 小澤征爾さんはボストンの指揮者として功成り名遂げたので,私はどうしてウィーンに移ってしまうのか,当時は理解ができませんでした。それに,小澤征爾さんはウィーンにはなじまないと思いました。

 エッセイにも書かれているように,私も,アメリカに憧れ,ずいぶん旅行をしたものですが,その後,ヨーロッパにも出かけるようになると,アメリカという国こそが世界に開かれた自由の国,というイメージは幻想であるということに気づきました。そしてまた,アメリカに生まれたとしても,日本人は「よそ者」です。いや,日本人に限らず,私のアメリカに住む,台湾人やプエルトリコ人の友人たちもまた,その生き難くさを時々感じます。おそらく黒人の人たちも同様でしょう。
 アメリカでは,スポーツに限らず,ショーを見にいっても,必ずそこで称えられるのは,星条旗を背にした異様なまでの愛国心です。それが決していけないことではないのですが,その根源に垣間見られる,他を排除するような巨大な壁を感じます。
 このエッセイを読んで,これまで私がアメリカを旅するときになんとなく抱いてきたそうした違和感を思い出しました。そして,その後,2018年と2019年にウィーンに行って,2018年にはウィーン国立歌劇場でオペラも見た私は,今では,その当時の小澤征爾さんの気持ちがわかるような気がします。


◇◇◇
レナード彗星。

太陽を回り、夕方の西の空に現れました。
右上は金星です。
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◇◇◇
Cold Moon.

12月の満月は最遠の月でした。
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 会社は多くの従業員が生活をかけて働いているのだから,その会社で作っている製品が時代遅れになって売れなくなったからといって,簡単に会社を解散するわけにはいきません。そこで,時代の流れを見極めて,その時代にあったものを作るように転換を図る必要があるわけです。
 会社が存在しているのは,その会社でなければ作れない技術力があるという必然的な理由があるはずです。そこで,その技術力が生かせるような転換を図るのならそれは問題はないのですが,そうしたことができないとなると,会社は難しい局面になります。たとえば,カメラのフィルムを作っていた富士フィルムが化粧品を作るというのは同じ技術力が生かせるからそれなりに意味がり,成功しました。しかし,そろばんが売れなくなっても,そろばんを作っていた会社が電卓を作るというのはおかしな話です。

 しかし,製造業ではなく販売業となると,今度は,売れるなら何を売ってもいいとばかりにまったく違うものを売ったりすることになるし,サービス業であれば,サービスを求める人がいるのならこれまでとはまったく違ったものでもサービスする,ということになります。ところが,販売業やサービス業の場合,売れることが第一,という表面的な業績が求められているから,本当にその業種のプロでない場合もまた多くあるのです。そこに,もうかりゃいいという素人商法が存在するのです。
 だから,居酒屋が老人ホームを経営する,ハンバーガー屋がラーメンを売る,学習塾が福祉施設をはじめるということになっていくわけです。そのうち,病院が葬儀場を経営する,みたいなことも起きるかもしれません。
 食べ物やさんのように,たとえそれが素人商法であろうとも,お腹が膨れて食欲が満たされるといったような目的がはっきりしていれば,そして,おいしいという判断ができるものならまだしも,学習塾のようなものになると,なにをもってその塾の評判が高いのかはあいまいで,しかもすぐに結果がでないだから素人商法が成り立ってしまうのです。消費者にはそれが素人商法かどうかを見極める目が必要ですが,それがまたむずかしいのです。


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 大阪市立美術館で開催されているメトロポリタン美術館展に行きました。
 私はこれまで出かけた様々なところで時間があれば美術館に行っていたので,多くの有名な作品を見ているのですが,今,最も興味のあるのはフェルメールの作品です。
 ニューヨークのメトロポリタン美術館にも行ったことがあるので,そのときに今回やってきたフェルメールの作品もおそらく見ているのでしょうが,その当時は興味がなかったので,まったく覚えていません。
 昨年は,今回と同じく大阪でロンドンナショナルギャラリー展が開催され,それを見にいったことはすでに書きましたが,私がわざわざ大阪まで美術展を見にいくそのお目当ては,常にフェルメール(Johannes Vermeer)目当てなのです。
  ・・・・・・
 現存する作品が37しかなく,それらをすべて見たいという人が少なからずいるそうですが,私はこれまでに,日本にやって来た展覧会と直接現地で見たものを合わせると,18作品になります。残るは19作品で,その内訳は,ニューヨーク7,ボストン1,ダラス1,ロンドン4,アムステルダム1,パリ1,ドレスデン1,フランクフルト1,ハーグ1,ブラウンシュワイク(ドイツ)1となっていて,このうちの14作品は,かつてその都市に行ったことがあるから,そのときに見る機会があったということなので,それを逸したことをとても残念に思います。
  ・・・・・・
 と,そのときにかきましたが,昨年見たのは現存するフェルメール最後の作品「ヴァージナルの前に座る女」(Lady Seated at a Virginal)で,これで19作品目となっていました。

 今回来日したのは「信仰の寓意」(The Allegory of Faith)。
 1670年から1672年ごろ,フェルメール38歳から40歳に描いた絵画です。
 私がウィーンで見た傑作「絵画芸術」(Die Malkunst)とともに,フェルメールが描いた現存する2点の寓意画のうちのひとつということで,このふたつの作品はよく似た構成の作品です。私は,「絵画芸術」はフェルメール作品の中でも最も好きなもののひとつですが,その一方,多くの美術史家が「信仰の寓意」はあまり出来の良くない作品であるとしているそうです。
 確かに,「信仰の寓意」は,磔刑図,地球儀,礎石,へび,ガラスの球,十字架,聖書,リンゴと,キリスト教を想起させるものがあまりに多く入りすぎていて,散漫な感じがします。そこで,作品に入り込めない,という点が評価の低さになってしまうのでしょうか。
 実際に見た感想としては,大きい絵だなあ,というのが第一印象でした。その次が,よく修復できているなあ,でした。いずれにしても,フェルメールらしさはいたるところに感じられて,私にはなかなかいい印象でした。さあ,これで20作品目となりました。
 なお,来年は,今話題の,修復された「窓辺で手紙を読む女」(Briefleserin am offenen Fenster)が来日します。

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☆☆☆☆☆☆
 流星群といえば,私は,1946年にアメリカで雨のように流れ星が降り注いだというジャコビニ流星群のことを小学校の国語で習ったとき,そんなすごいものが一度でも見られたらいいなあ,と思ったのを覚えています。その後,1972年に,1946年のときのようなジャコビニ流星群が日本で見れれるのではと話題になったのですが,期待外れに終わりました。
 また,1999年,2000年に,しし座流星群がものすごいといわれ,毎年山まで見にいって予想が外れ,それですっかりあきらめて見にいかなかった2001年に期待以上の流星群が起き,私はそれを見逃してショックを受けたのが今でもトラウマになっているのです。
 実際,2001年のしし座流星群というのは,どんなものだったのか,私には想像ができません。流星群といって,多くの人はどんな状況を期待するのでしょう。10分に1,2個明るい流星がみられるものなのでしょうか。私が期待するのは,1分に10個程度なのです。しかし,調べてみると,2001年雄のしし座流星群でも,そんなすごいものではなかったようなのです。
 そんな幻想もあって,私は,自分のもっている流星群のイメージが現実のものとは違うことを知り,期待もなくなり,また,あまり興味が湧きませんでした。

 このところ,レナード彗星を見ているうちに朝4時に起きる習慣ができてしまい,12月14日の早朝もまた早起きでした。しかも,快晴でした。
 そこで,近場までふたご座流星群を見にいくことにしました。
 私がこれまで流星群をまともに見たのは,ずいぶん前のペルセウス座流星群だけです。このときは意外にもずいぶん多く流れ星が飛んで,結構楽しめました。しかし,星見に行くと大概1個や2個の流れ星が見られるので,流れ星などめずらしくもないし,また,三大流星群といったところで,先に書いたように大したことないと思っていたので,わざわざその日に星見にいくこともありませんでした。
 この晩は,1個でも写真にうつせればいいや,くらいの気持ちでした。
 しかし,流れ星の写真は,雷光の写真と同じくらい難しいのです。見えたときにシャッターを切っても手遅れだし,広い空のどこに飛ぶかもわかりません。また,流れ星がどのくらいの画角で,また,露出をすれば写せるのかも知りません。そこで,今回は,簡易赤道儀に対角魚眼レンズをつけて,ISO1,600にして10秒露出を繰り返すことにしました。

 という次第だったのですが,午前4時30分ごろから30分間挑戦して,結局,30分余りで10個程度の流れ星を見ました。流星群といってもこの程度なのだな,と思いました。たくさん写した写真を後でしらべると,3枚,流れ星が写っていました。今日の写真はその中の1枚です。
 よく報道写真で1コマにたくさんの流れ星のある写真が載りますが,あれは流れ星の写っている何コマかの写真を合成して1枚にしたものです。
 それにしても,実際やってみると,意外におもしろく,今ごろになってすっかりはまってしまいました。次は来年2022年1月4日早朝のしぶんぎ座流星群です。今度はもう少し工夫して,また,挑戦してみようという気になりました。

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 アメリカの南部の中でも,アーカンソー州,ルイジアナ州から東側は特に深南部といい,そこから西側とはずいぶんと雰囲気が異なります。
 それに比べて,ルート66の通るオクラホマ州,テキサス州,ニューメキシコ州などは,日本では考えられない平坦な悠久の大地が延々と続いています。それを走るのを退屈とするか,それとも,何かを思うかは,こうした土地の歴史を知っているかどうかでずいぶんと違います。どんなところにも,その土地を生きた人々の苦悩と喜びが詰まっているのです。
 私はテキサス州もニューメキシコ州も多くの道路を走ったのですが,これまで,ルート66は見事に逃しています。唯一走ったのはサンタフェ近郊だけで,そのころは,こんなところにルート66が走っているんだ,と驚いたことがあります。
 そこで,将来,ルート66を制覇するには,これまで走ったことのないオクラホマ州のオクラホマシティからアリゾナ州までを走らなければならないわけですが,これが並大な距離ではないので,このご時世ではちょっと絶望的です。

 今日の写真は,オクラホマ州の中で私が走ったルート66です。
 オクラホマ州のルート66はとてもきちんと保存されていて,走っていてとても楽しいものです。
 通過する町ごとに,ルート66に対して,リスペクトをもっていることがとてもよく感じられますが,これは,日本で,旧街道を歩くときに感じるものと一致します。
 このブログはルート66の観光案内ではないので,そういった内容他に譲るとして,ここでは,いくつかの私が通過した町について,断片的に書くことにします。
  ・・
 オクラホマ州のルート66を走ると,なだらかな丘とところどころにオイルポンプが点在していて,石油が埋蔵されていることを確認できます。この姿こそ,アメリカ南部であることが実感できます。
 また,そうでないところは,道路の際まで牧場があって,牛がのんびりと草を食べている姿を目撃できます。
 ミズーリ州からオクラホマ州に入ったところにあるのがマイアミという町です。マイアミのランドマークは「コールマンシアター」(Coleman Theatre)です。この劇場でウィル・ロジャース(William Penn Adair "Will" Rogers)のひとり舞台ことを忘れてはならないといいます。マイアミの次の町クレアモア(Claremore)の町の中心から少し外れたところに「ウィル・ロジャース記念博物館」があります。
 また,この劇場には幽霊が出るということで知られているのですが,これらのことは以前ブログに書いたことがあります。 
 ルート66を通る町には,ここだけでなく,幽霊が出るという話が結構あるので,私は興味を惹かれます。どの国でも,こういう話は好きです。

 また,オクラホマ州で生まれたサイラス・アヴェリー(Cyrus Avery)のことを知らずして,ルート66は語れないとさえいわれます。
 サイラス・アヴェリーは石油事業に力を入れ,その採掘のために頑強な道路が必要でした。しかし,その時代,オクラホマ州は道路後進地域だったので,サイラス・アヴェリーは地方行政官に立候補して当選すると,道路を整備することに努力して,1925年,ついにルート66が誕生することになったのです。
 やがて,オクラホマシティに到着するのですが,私は,その先を走っていません。

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 私が中学1年生のとき,つまり,今から50年前,はじめて学校で英語を学びました。ちょうどそのころ,アポロ11号が月に着陸したり,大阪で万国博覧会が開催されたりと,アメリカからいろんなものがやってきて,すごくあこがれました。
 大阪の万国博覧会にオズモンドブラザーズ(Osmonds Brothers)という人気グループが日本にやってきました。
  ・・
 オズモンド家は8男1女で,三男から六男までの4人でコーラスグループを結成,その後,七男のダニーが加わったのがオズモンドブラザーズでした。当時大スターだったアンディ・ウィリアムス(Howard Andrew Williams)のTVショーにレギュラー出演してアメリカのスターとなっていました。 来日したとき,長女マリー(Marie Osmond)と幼稚園児だった八男ジミー(Jimmy Osmond)が加わったカルピスのCMが放送され,ジミーは日本で日本語の歌のレコードも出しました。
 1970年11月,「オズモンズ」(The Osmonds)と改名して,ついに「ワン・バッド・アップル」(One Bad Apple)が全米で大ヒットしました。
  ・・・・・・
 One bad apple don't
 Spoil the whole bunch girl
 Oh, give it one more try
 Before you give up on love
  ・・
 ひとりの悪いコにだまされたとしても,みんなが悪いコじゃないよ。
 もう一度トライしたら…
  ・・・・・・
という歌詞です。
 この曲のヒットで,このグループはアメリカのショービジネスで生き残れたのですね。 私は当時大ファンだったで,「ワン・バッド・アップル」のレコードを買いました。この歌,今も歌えます。
 1970年の大阪万博を中学校の遠足で見にいったときに,偶然,彼らが万国博覧会のホールでやっていたアンディ・ウィルアムスのコンサートに出演していて,ショーの合間の時間に会場を歩いていたのを目撃したことがあります!
  ・・
 その後,七男と長女のダニー&マリー(Donny & Marie Osmond)という兄妹のTVショーが放送されてアメリカで人気を博したという噂を聞きましたが,来日はしませんでした。
 それ以来,日本ではまったく噂を聞かなくなって(実際はラスベガスで活躍していたらしいのですが),気になっていたのですが,なんと,2000年に私がアメリカに行ってロサンゼルスでベースボールを見たときに,始球式でダニー・オズモンドが出てきて驚きました。

 アンディ・ウィリアムスは日本でいえば加山雄三のような歌手で,映画「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tiffany's)のテーマ曲「ムーンリバー」(Moon River)がヒットし,そのころ日本にもたびたび来日しました。紅白歌合戦にも出たことがあります。
 アメリカでは,そうした大スターが晩年,ミズーリ州のブランソンという町で常設の自分のシアターを作って,そこでショーを開いています。ブランソンにはそうしたシアターが一杯あります。アンディ・ウィリアムスもまた,晩年,ブランソンの「ムーンバーシアター」で連日ショーをやっていて,オズモンズも出演していたようです。
  ・・
 私は,何と偶然,2015年にブランソンに行ったのですが,その3年前にアンディ・ウィリアムスは亡くなっていて,ショーを見ることができませんでした。オズモンズはショーを続けていましたが,残念ながら,私の行ったときに限って,ショーがなく,見ることがかないませんでした。
 あとで知ったことには,2009年に歳をとったオズモンズは解散して,それ以降は若い3人だけで続けていたということです。だから,もし私が行ったときショーをやっていたとしても3人だけのオズモンズだったのでしょう。

 オズモンド家はモルモン教徒だったので,2009年のファイナルコンサートはユタ州のソルトレイクシティで行われました。そのときに歌った「ワン・バッド・アップル」の動画と若いときの動画を見比べると私は泣けてきます。これがアメリカンドリームを成し遂げた人生50年のすべてです。同じ年代だし,人生って短いんだよ。何かとても悲しい。
 ファイナルコンサートが行われたというソルトレイクシティの劇場もまた,私は偶然,2016年に行ったことがあるので,これもまた驚きでした。
  ・・
 こうして,私とは,もつれあい,しかし,微妙にすれちがった彼らのグループを思い出すと,切なくも懐かしくもなる,というお話でした。


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☆☆☆☆☆☆
 2021年1月3日,アリゾナ州のレモン天文台(Mount Lemmon Infrared Observatory)でグレゴリー・レナード(Gregory J. Leonard)さんが19.0等星で発見したレナード彗星(C/2021A1 Leonard)は,2021年12月12日に地球から約0.233天文単位(1天文単位は太陽から地球までの距離, 約1億5,000万キロメートル)まで接近しました。2022年1月3日には太陽に最接近します。
 予報では,最も明るくなる12月12日ころにレナード彗星は4等星ほど,ひょっとしたら1.5等星かも,といわれていました。夜明けの東の空に肉眼で美しく尾を引く姿が見えるのでは,と期待したのですが,残念ながらそれまでは明るくなりませんでした。それでも,12月9日には肉眼で確認できるほど明るくなりました。さらに,双眼鏡では尾を引いた姿を見ることができました。
 レナード彗星は秒速70キロメートルの速さで運動しているので,数分でものすごく早く動く姿を確認することができました。
  ・・
 レナード彗星の公転周期は約80,000年であったと考えられ,約3,700天文単位(5,500億キロメートル)の彼方から約4万年をかけてやってきました。2022年1月3日に太陽を周ったのちは双曲線軌道となって太陽系から飛び去っていき,二度と戻ってきません。

 私は,この1週間,天気がよければ早起きしてレナ―ド彗星を追いかけていましたが,12月11日はその数日前よりも明るくなったはずなのに,高度が下がってしまったことと霧が出たので,2番目と3番目の写真のようにむしろ暗くなってしまったように感じました。結局,今日の1番目の写真を写した12月9日のころの姿が最も美しいものとなりました。
 ちなみに,夜明け前に見ることができる最終日12月12日の早朝は曇っていたのですが,西の空から雲が切れてきたので急いで出かけて,午前5時30分ごろに広角レンズでレナード彗星の位置あたりを数枚写してみました。雲が切れるのがもう数分早ければよかったのですが,それでも薄雲の中にレナード彗星が確認できる写真を写すことができました。それが今日の4番目の写真です。
  ・・
 このあとレナード彗星は太陽を回り,12月15日過ぎには夕方西の空低く見ることができるようになるのですが,月が明るいのと高度が低いのと街灯の明るい夕方であることから,期待はできません。
 いずれにしても,この1週間,ずいぶん楽しむことができました。


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 それにしても不思議なのは,2017年というから,今からわずか4年前まで,私は,ヨーロッパに興味がなかったことです。若いころに,歳をとってアメリカをドライブするのがたいへんになったら,ヨーロッパを鉄道で旅しようとおぼろげに夢見ていただけでした。
 私が今のように,オーストリアやフィンランドを身近に感じられるようになったのは,わずかここ3年のことでした。この間にずいぶんとヨーロッパを旅行したのです。しかも,2020年以降は海外旅行もできなくなってしまったから,本当に,たくさん旅をしておいてよかったものです。
  ・・
 ヨーロッパに興味を向けたそのきっかけはアラスカへ行ったことでした。
 2017年8月21日アメリカ横断皆既日食がありました。私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰路に立ち寄ったのがアラスカでした。幸運にもアラスカで思いもよらずオーロラを見ることができてすっかりはまってしまい,ならば,ということで,翌年2018年2月に冬のオーロラを見にフィンランドへ行きました。これでヨーロッパに行くことを覚えました。
 さらに,NHKEテレの「旅するドイツ語」という番組でオーストリアを取り上げていたのを見て,かなり感化されてオーストリアへも行き,そしてまた,なぜかアイスランドにも行き,さらに,フィンランドのヘルシンキへ行き,そのついでにエストニアのタリンに足をのばした,という流れなのでした。
 そもそも,私がアイスランドやエストニアに行くとは自分でも思いませんでした。エストニアに行った動機ののひとつには,NHK交響楽団の首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィさんがエストニアの出身ということもありました。しかし,私がエストニアに行ったといっても,単なる日帰り旅行であり,しかも,行った先は,首都タリンの歴史地区だけですから,これでは,本当のエストニアの姿を知っているとは到底いえません。

 2021年は「日・エストニア友好100周年」ということで,これを記念して,NHK交響楽団の6月公演でパーヴォ・ヤルヴィさんが久しぶりに指揮をしました。そこで,これを機会に,エストニアについて調べてみることにしました。
  ・・
 エストニアは1918年にロシアからの独立を宣言し,日本は1921年にエストニアを国家として承認しました。しかし,エストニアは1940年に再びソ連に併合されます。1990年にやっとソ連からの独立回復を宣言し,日本は1991年にエストニアを改めて国家承認しました。
 エストニアには,こうした悲しい歴史があるのです。
 日本は植民地にこそなりませんでしたが大国ロシアのとなりである条件は似たようなものです。フィンランドもまた同様です。しかし,それにしては,日本人は,こうした諸国のことをあまりに知りません。

 今,多くの日本人がエストニアに関して知っていることといえば「電子国家」だそうです。私は民放をまったく見ないので知らなかったのですが,民放の番組か何かで取り上げていたそうです。
 私は,半日ほどタリンの観光地を巡っただけなのでクレジットカードしか使わなかったのですが,エストニアを歩き回ろうとすれば,まずは,空港に着いたときに,真っ先にコンビニ「R-kiosk」に行って,Suicaのようなものを買ってチャージしないと不便なのだそうです。タリンの市民はIDカードを持っていて,このIDカードだけで公共交通機関に乗ることができて,電車だと改札もなく,乗っていると車掌さんが来て,ひとりひとりIDカードをピッとして回るそうです。
 観光客は当然IDカードがないので,こうしたカードを購入する必要があるわけです。しかし,チャージするためには「R-kiosk」の店舗に行かないとダメで,自動券売機はないし,「R-kiosk」の店員さんは冷たく英語もしゃべらないとか。カードを自分でガシャッと入れて暗証番号を打つというのは,ほかの国でも同じですが,旅行者にとれば思ったほど「電子国家」という感じはしません。とはいえ,エストニアの国民には「電子国家」は身近な存在です。

 日本にも「マイナンバーカード」が導入されましたが,税金をとりっぱぐれないのが本音で,セキュリティにも疑念のある腹黒い日本のシステムではうまくいくわけがありません。
 一方,エストニアの「電子国家」の特徴は,「安全で信頼できる個人情報管理」ということだそうです。まあ,いろいろな国に行った私が思うに,日本だけがITに関していろんな面で諸外国と違うというか遅れている感じがします。日本では,個人情報やその認証を安全に電子化できていないことが問題なわけです。
 「安全で信頼できる個人情報管理」というのは,エストニアの国のもつ歴史から来るものということです。エストニアの個人情報銀行を支える技術は「X-Road」です。これは分散したデータベース間の情報共有を安全に行う技術で,エストニア科学学会(Academy of Science of Estonia)が設立した Cybernetics 研究所を前身とするエストニアの企業 Cybernetica が導入したものです。
 エストニアが独立を回復したときに,大きなデータベースを作るお金がなかったので,分散したデータベースを結合する方法をとったのがそのはじめということですが,作りがぞんざいだったために,独立した後もロシアからのハッキングに悩まされたそうです。これを教訓として,この「安全で信頼できる個人情報管理」が国としての安全性を高めているのです。

 1918年にロシア帝国から独立した2月24日はエストニアの独立記念日です。
 しかし,エストニアにはもうひとつの独立記念日があります。それは,再びソ連に占領され,1991年8月20日にソ連から独立を回復した日です。エストニア民族の歴史は凄惨なのです。この8月20日に毎年ラウルピドゥ(Laulupidu)というイベントが行われ,コイト(Koit=夜明け)という歌が歌われます。これは,自由を獲得したエストニア人のこころの叫びで
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 It's dawn, a royal blaze light's victory wakes the earth.
 The horizon is free, the first ray is falling to the ground.
   ・・
 それは夜明け,王の言霊。
 大地を呼び起こす勝利の光。
  ・・・・・・
と歌います。ロシアの圧政から逃れたフィンランドの「フィンランディア」のようなものでしょう。そしてまた,「電子国家」はエストニアが独立を守り抜くための知恵なのです。
 それにしても,大国ロシアの陰で,エストニアやフィンランドなど周辺の多くの国が,そしてまた,多くの人たちがその苦悩の中で生きてきたという歴史の重みは,私のこころを苦しめます。


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 ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)の小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)から,ルート66について書かれた部分を紹介しましょう。
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 Highway 66 is the main migrant road. 66 - the long concrete path across the country, waving gently up and down on the map, from Mississippi to Bakersfield - over the red lands and the grey lands, twisting up into the mountains, crossing the Divide and down into the bright and terrible desert, and across the desert to the mountains again, and into the rich California valleys.
 66 is the path of a people in flight, refugees from dust and shrinking land, from the thunder of tractors and shrinking ownership, from the desert's slow northward invasion, from the twisting winds that howl up out of Texas, from the floods that bring no richness to the land and steal what little richness is there. From all of these the people are in flight, and they come into 66 from the tributary side roads, from the wagon tracks and the rutted country roads.
 66 is the mother road, the road of flight.
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 ルート66は幹線道路である。内陸を横断するこの道は,上下にゆるやかにくねって,ミシシッピ川からベーカーズフィールドへ至るが,赤くまた灰色の大地を越え,山脈を登り分水嶺を横切って砂漠に下り,さらに山脈に入り,やがて豊饒なカリフォルニアに至る。
 ルート66は逃亡する人たちの道である。老廃した土地から,衰微する所有者から砂漠から嵐から洪水から非難する人たちの道だ。彼らはルート66へと集まってくる。
 ルート66はマザーロードだ。逃亡の道だ。
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 私は今から25年ほど前にシカゴに行ったことはありますが,そのころは,ルート66のことはほとんど知りませんでした。
 人生とはかくも短いもので,かつ,未来はわからないので,あとでふりかえったとき,もっと計画的に旅をしていればよかったと思うのですが,それは無理なことです。
 ということで,私は,そのときの旅でシカゴから西にアイオワ州をめざしてしまったので,シカゴからセントルイスまでのルート66は走っていません。しかし,アイオワ州に行ったために,偶然,フィールドオブドリームズやマジソン郡の橋に行くことができたのだから,それもまたよし,という感じでしょうか。

 今日の写真は,数年前に行ったセントルイスからスプリングスフィールドまでのミズーリ州のルート66です。
 次回書くことになるこの先のオクラホマ州はルート66を大切にしている雰囲気があって,道路標識などがきちんと設置されていたり,当時通った町に多くの看板などがあるのに対して,ミズーリ州はそういうこともないので,十分に準備をしないと道がわからなくなります。それでも,走っていると,当時の面影を感じるところが多くあって,しかものどかなので,なかなかいい雰囲気です。
 このように,ミズーリ州はなかなかおもしろいところです。


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 今週末は大阪に行って「メトロポリタン美術館展」を見て,その後,紀伊半島を下る旅をする予定でした。しかし,レナード彗星が接近するというので延期して,彗星の写真をできる限る写すことに変更しました。
 そうした経緯もあって,とにかく晴れていれば,早朝,レナード彗星を写しに出かけるのです。
 とはいえ,天気が安定しません。そんな状況では遠出する気にならず,空が明るいのは仕方がないと,近場で撮影をしていました。
 そんな中,12月9日は安定した晴天となりました。長年星見をしていると,天気の予測ができるよになります。
 そこで,この晩は久しぶりに遠出することにしました。
 午前3時に出発して1時間,現地に到着しました。私が今回星見をする場所は南はダメですが,東から北にかけては暗く,また,地平線まで開けているのです。

 さっそく望遠鏡を組み立てて,まずは双眼鏡で手持ちで彗星を探し,それをもとに,望遠鏡のファインダーで目的の天体を入れます。自動導入装置といったこじゃれたものは持ち合わせていませんが,これで大丈夫です。
 レナード彗星は非常に明るく,すぐに見つけることができました。今は双眼鏡でもはっきりと見ることができるようになりました。また,目を凝らすと,肉眼でも確認できます。
 こうして撮影したのが今日の写真ですが,わずか30分程度でみるみる動いていきました。
  ・・
 今回は口径10センチメートルの双眼鏡も持っていったのですが,意外とレナード彗星を見つけるのに苦労しました。視野が狭いからです。やっと見つけたのですが,非常に大きな綿菓子状の天体はとても美しいモノでした。
 さらに,焦点距離35ミリの広角レンズでも写しました。
 レナード彗星はうしかい座アークトゥルスよりはるかに下にまで動いていて,かんむり座の東にあるのが写真でよくわかるでしょう。
 この後,レナード彗星はさらに下り,へび座からへびつかい座に達します。この日の午前5時過ぎの状況ではやはり12月12日までは見ることができそうですが,高度は残念ながら4等星止まりでありそうなので,さすがに,12月13日以降の日の出前の明るくなった空で確認するのは難しそうです。

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 「ルート66」はイリノイ州シカゴからカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ全長2,347マイル,3,755キロメートルの道路で,1926年「メイン・ストリート・オブ・アメリカ」の愛称のもと完成しました。
 「ルート66」の名前は,①国道番号を偶数とすること②番号を60からはじめることの2点に基づき,さらには「覚えやすい,言いやすい,聞きやすい」の三拍子が揃うという理由から「66」が割り当てられたということです。
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 1930年代後半,カンザス州,オクラホマ州にかけて大規模な砂嵐が頻発し,難民と化した農家の人々は明るい未来を求めてルート66を通って温暖なロサンゼルスへ向かって脱出を図ったのですが,作家ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)はその模様を小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)で描き,小説の中で「ルート66」を「マザーロード」とよんだことでその名が現在主流となりました。
 翌年には映画化されて,「ルート66」の名前は一躍世界に知れ渡ることとなりました。
 また,「怒りの葡萄」とは関係がありませんが,テレビドラマ「ルート66」も放映されました。

 1956年,アメリカ国内に高速道路交通網(インタ―ステイツ)の建設を目的とした法案ができたことで「ルート66」の衰退がはじまり,1984年,アリゾナ州ウィリアムズでインターステイツ40の最終部分が完成したことによって「ルート66」は廃線となりました。
 現在は,往年の「ルート66」がそのまま残っているところや,近くにインターステイツが走っていることで寂れてしまったところ,あるいは,途中でインターステイツに吸収されてしまったところなどがあるのは,日本の旧街道とおなじです。
 そんな「ルート66」ですが,これもまた,日本の旧街道同様,昔を懐かしむ人たちで,再び保存がはじまって,その道を走破しようと夢見ている人が私を含めて大勢いるというわけです。
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 私は,66歳に「ルート66」を制覇したいという夢があったのですが,このご時世ではできそうにありません。
 しかし,振り返れば,これまでずいぶんと「ルート66」を走ったことに気づきました。
 そこで,これまでに走った「ルート66」を振り返ることによって,走ったつもりになることにしました。

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木星,月,土星,金星とISS。
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 今年の3月,キヤノンのホームページに「世界初,100万画素SPADセンサーの開発に成功」というニュースがありました。以下
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 拡張現実(Augmented Reality=AR),仮想現実(Virtual Reality=VR),自動運転,超高速度撮影,自動ロボット。IT革命によって可能性が大きく広がり,今後の社会を変えていくと期待されるキーデバイスが光を電気信号に変換する「センサー」です。
 キヤノンが開発発表したSPADセンサーは,SPADセンサーとして世界ではじめて100万画素を実現。世界中から注目を集めています。
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 SPADセンサー(Single Photon Avalanche Diode)とはイメージセンサーの一種。イメージセンサーといえば、カメラなどに搭載されるCMOSセンサーを思い浮かべますが,SPADセンサーはCMOSセンサーとは原理が異なります。光に粒子の性質があることを利用することは同じであるものの,CMOSセンサーがある一定時間に画素に「溜まった光の量を測る」 しくみなのに対し,SPADセンサーは,画素に入ってきた光の粒の「ひとつひとつを数える」 しくみです。
 画素に光子が入るとすぐに電荷に変換され、その電子はあたかも雪崩のようにひとつの光の粒をきっかけに倍増し,大きな信号電荷として取り出すことが可能になります。
  ・・・・・・
とあったのですが,このたび,このSPADセンサーの量産化をはじめるそうです。
 このニュースを伝える日本経済新聞には
  ・・・・・・
 キヤノンが暗闇でも高画質でカラー撮影できる画像センサーを開発した。デジタルカメラに使われるCMOSセンサーがぎりぎり感知できる光の10分の1程度の明るさまで認識でき,肉眼では何も見えない状況でも鮮明に撮れる。2022年から量産する。
 自動運転や防犯・監視など幅広い産業用途における画像認識の性能向上につながる可能性がある。
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とあります。こうなると,将来は,天体写真など,手持ちのカメラでだれでも簡単に写せるようになって,今のようなマニアが「天体写真」を趣味とすることはもはや終わってしまうかもしれません。

 思えば,アマチュアによる「天体写真」は,1860年代の半ば,フィルムカメラで天体写真を写すことからはじまりました。フィルムは富士フィルムの「ネオパンSSS」やコダックの「トライX」という白黒フィルムで,当時はASAといった今はISOという感度がわずか400程度でした。そのうち,小西六から「サクラカラーSR400」が発売されました。このフィルムは,Hαの散光星雲が異様に赤く写るフィルムとして評判で,はじめてものになるカラー写真が写せるようになりました。
 その次が,コダックの「スペクトロスコピック103aE」。これは,赤に感度域のあるフィルムで,R64という真っ赤なフィルターを組み合わせて赤い散光星雲がよく写りました。そして,そのまた次が,コダックの「テクニカルパン2415」。これを水素増感すると103aEのように赤い星雲がよく写ってしかも粒子が細かいものでしたが,次第に,一般のアマチュアには難しくて手が出せなくなっていました。
 やがて,写真はデジタルへと変わりました。当時大変だった天体写真も,大した技術も必要がなくなって,今は,コンピュータによる画像処理の時代となりました。
 そして,今流行しているのが「電視観望」。
 これは,CMOSセンサーで星の光を手に入れて,コンピュータを使って画像を再現するものです。このCMOSセンサーが,将来はSPADセンサーに代わろうというのでしょう。
  ・・
 しかし,現在のデジタルによる天体写真というのは,日本の灰色に汚れた夜空で,かすかな星の光を何とか手に入れて,それをITを利用してプログラミングで加工して絵をかいているだけのこと。
 どんなに必死に加工して美しい写真にしても,結局は,私がそうであるように,オーストラリアでろうそくの光ひとつなく澄んだ夜空の美しい満天の星を肉眼で見ることに勝る楽しみはないのです。
 学術研究ならともかく,人の楽しみは,コンピュータの進化とはまた別のものだったりします。


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 これまで,2020年の夏に行く予定だったアメリカ旅行の幻の旅行記を書いてきましたが,今日がその締めとなります。
 ここ数年,アメリカに限らず,その他の国も,はたまた国内も,気が向くまま旅をしていただけに,それができないとなると,一抹の寂しさを感じずにはいられません。
 私の救いは,コロナ禍の前までに,子供のころから行ってみたかったところ,やってみたかったことのほぼすべてを成し終えていたことです。しかし,どこに出かけるにも,それなりの最も楽な方法を身につけ,便利な小道具などもすべて手に入れて,いつでも次の旅ができるようになっていただけに,それらを活用することがなくなったのが今は残念なことですし,使い慣れたキャリーバッグも部屋で眠っています。
 
 それにしても,地球,というか,この世というか,人類はこんなにも狭いところで生きているのかということを実感しました。コロナ禍のように,何かが起きれば,逃げ場などないのです。それなのに,依然として,権力争いやら覇権やらと,何と人類はバカで醜いのでしょう。ワクチンをわずかな期間で作り上げるだけの英知をもっているというのに,情けない限りです。
 私の親の世代は,最も多感な年代を戦争で無にしたために,それを一生背負って,社会をやっかんで生きていました。私も,早期に退職をせず,やりたいこともせずにここ10年あまり生きていたら同じだったことでしょう。この時期にやっと退職して,さあ,これからはやりたいことを,そしてまた,行きたいところに行こうと思っていた人たちは,その夢がすべて無になってしまったのは,耐え難いことでしょう。
 数年前は当たり前だった旅が再びできるようになる日が果たして訪れるのでしょうか。


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 将棋界では,このところ,藤井聡太竜王(王位,棋聖,叡王)の予想を超えるタイトルの獲得で,ついに「藤井一強」といわれはじめていてます。この先,あまりにひとりが強すぎると将棋に魅力がなくなるのでは,という心配まで生まれはじめました。「藤井一強」を生かすも殺すも,これからの将棋界と好敵手の出現次第でしょう。
 私は,はじめは,藤井聡太竜王の活躍で一時は失っていた将棋に関心がもどりましたが,それが動機で,次第に「将棋AI」による人工知能(Artificial Intelligence=AI)に興味をもち,このごろは,将棋よりも人工知能が発達する現代の社会の変化について考えるようになってきました。将棋は,人工知能が社会にどう影響を及ぼしているのかを知る絶好の例なのです。
 そこで,今回からは,人工知能が社会におよぼしている影響について考えたいと思います。

 どうやら,現代の社会は,学歴やら地位やら名誉やら財産やら,そんなものをはるかに超越して,ディープラーニングを伴う人工知能が理解できる人とできない人のふたつの階層となってしまったように感じます。そしてまた,国自体も,人工知能が活用できる国かできない国かが国力となりつつあります。そして,残念ながら,日本はかなりの「AI後進国」です。その中でも,最も遅れているのは,政治と教育です。未だに〇〇大学合格者〇人だの〇〇高校合格者〇人だのといった時代錯誤の塾の広告が新聞に入ったりします。
 よく,藤井聡太竜王は見えている景色が違う,という表現がされるのですが,それはこうしたことがその理由です。それと同じように,たとえば,アマチュアの天文ファンにおいても,今,流行しているのは「電視観望」というものですが,これは,CMOS素子を使って光を集めソフトウェアを用いて画像を再生してディスプレイ上で見るというものです。この方法を使えば,かすかであっても光さえ手に入れれば,あとはソフトウェアでどうにでもできる,というものです。そうであれば,これまで必要であった高価な望遠鏡など必要がなくなってしまうかもしれません。
 こうした技術を理解できない人というのは,藤井聡太竜王の将棋を昔の価値観で解説している時代遅れの棋士と同じようなもので,まったく住んでいる世界が異なるということになります。

 しかし,おそらく,多くの人は,そんな状況であることすら認識できていないことでしょう。現役を卒業した世代ならそれでもいいのでしょうが,これから社会に出ていく若い人がそうした時代遅れの価値観で育ってしまうと,その先に待っているのは「使いもの」にならない将来です。そして,現在は,そうした社会の変化への認識ができていない政治家や教育者が大量に存在していることこそが問題なのです。
 その意味でも,もはや,50年前とほとんど変わらない内容を30年前と同じ手法で教えている教師や,時代遅れの価値観で生きていて部下を罵倒するしかできない無能な会社の上司,さらに,自分の言葉で話せないような政治家は,若者を育てることや,この国の指導者からは引退したほうが害がないのかもしれません。

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 今日の写真は12月4日早朝のレナード彗星(C/2021A1 Leonard)です。
 このような写真を写すことができるのはおそらく12月12日までなので,この1週間が勝負,ということで,晴れていれば毎晩でも写真を写しに行くことにしていました。
 太平洋岸の冬は天気に恵まれるのですが,どうもこの数年は,日本海側のような天気になってしまい,安定しません。絶えず雲が湧き,わずか数分ですっかり曇ってしまったり,また,その反対にすっかり晴れ上がったりします。こうなると,私のような観測所もない単なる愛好家は,わずかな晴れ間を狙うしかないので,早朝に起きて絶えず空とにらめっこです。レナード彗星は午前5時ごろの東の空で写すことができるので,さほど早起きをする必要がないのですが,なにせ寒いです。

 ということで,この日の朝,午前3時ころは曇っていて,まったく星が見られませんでした。ところが午前4時になるとすっかり雲がなくなったので,写しに行くことにしました。いつもの場所に着くと,次第に雲が湧き出てきます。焦りながら望遠鏡をセットしてなんとか雲が切れるときを待ってうつしたのが今日の写真です。
 非常に太陽に近く,動きが早いので,わずか数分でその位置が変わります。
 1番目の写真は球状星団M3と一緒に写したものです。そして,2番目と3番目の写真は動きがわかるように並べてみました。2番目の写真は4時36分,そして3番目の写真は午前5時6分,わずか30分でこれだけ位置がかわります。
 これからますます明るく輝くので,天気がよい日が続くといいなあと思います。

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 アメリカではすごい野球をやっているというのを知ったのは「巨人の星」というアニメだと思うのですが,私がはじめてアメリカへ,というより,はじめて海外旅行をしたのは24歳のときだから,今から40年以上も前のことでした。皆目見当がつかなかったで,ツアー旅行でした。当時のお金で約30万円もしました。今の貨幣価値では60万円ほどになるでしょうか。
 行った先はロサンゼルスとサンフランシスコでした。
 行ってみたかったのは,はじめてアメリカに行くだれしもが同じように,ディズニーランドとドジャースタジアム。
 まだ,東京にディズニーランドがなかったころの話です。
 ベースボールの観戦も,当然,ツアーのオプションでした。チケットの何倍,いや,10倍もする料金をとられましたが,そうでもしなければ行く方法もないので,かなり足元を見られました。そのころの,というか,今もそうなのかもしれませんが,自分で行動する手段がない,そして,言葉がわからないということが原因で,ツアーで海外旅行に行くと,かなりぼったくられます。私がひとりで自由に海外に出かけるようになった今では考えられない初々しさでした。
 そのころの写真が手元にはないので,今日の写真は2018年に行ったときのものです。

 そして,そのときの旅が私の原風景となっているのですが,今でも強い印象として覚えていることがいくつかあります。
 そのひとつはドジャースタジアムのバカに広い駐車場でした。その駐車場も,当時は無料でしたが,現在はかなり高い駐車料金が必要です。車社会のアメリカでは,チケットよりも駐車料金のほうが高いくらいになってしまいました。
 二番目はスタンドの美しさでした。これもまた,今では広告だらけになってしまいましたが,当時はまったく広告もなく,日本の美的感覚のまるでない広告だらけの球場しか知らなかった私にはとても新鮮でした。
 そして三番目はピーナッツ売りのおじさんでした。お客さんがあえて遠くで声をかけると,ピーナッツ売りのおじさんがコントロールよろしく商品を投げてくれます。そして,お金はバケツリレーのごとく,お客さんが次々にピーナッツ売りのおじさんまで手渡しするのです。犯罪社会だと思っていたアメリカの意外な一面を知った気持ちがしました。実際のアメリカは大人も子供のまま,欲望のままに生きているまるで小学校のような国なのです。
 四番目はオルガンでした。いまはほとんどのボールパークではコンピュータミュージックに代わってしまいましたが,ドジャースタジアムでは今も時折やっているようです。
 そして,最後が,セブンスイニングストレッチでした。7回の表が終わると「Take Me Out to the Ballgame.」をみんなで歌うのですが,これは,今もやっています。私も今ではこの歌は歌えます。
 番外として,当時私が知っていたほぼ唯一のプレーヤーであったシンシナチレッズのピートローズ選手(Peter Edward "Pete" Rose Sr.)を見たことでした。ドジャースの対戦相手チームだったのです。

 あれからずいぶんして,2018年に再び,というか,それ以前にも確か2000年ごろにも一度行ったことはあったのですが,アメリカはそのときからずいぶんと様変わりをしてしまい,私はいろんな面で衝撃を受けています。
 思い出は美しすぎて,なのか,40年前のほうがずっとよかったように思うのは,単に私が歳をとったからなのでしょうか。

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 アリゾナ州には多くの天文台があるので,幻になってしまった2020年のアメリカの旅では,そのなかからいくつか行ってみようと思っていました。しかし,実際に行ってみるとすれば,事前にしっかり調べる必要がありそうですが,調べる前にキャンセルになってしまったわけです。
 今,改めて調べていくと,こりゃ大変だという気がしてきました。前々回,前回に紹介した国立公園同様に,あまりに多くのおもしろそうなところがあるからです。
 今では,もし旅が実現していたとしても,行けなかったのではないか,また,この先も行くことができるのだろうか,複雑な気持ちがしています。
 いずれにしても,ここ数年のアメリカ旅行は,毎年,少しずつ行きたいところに行ってみようというくらいで,さほど想い入れがあったわけでもなく,単なる避暑気分の旅をしていたのでした。それもできなくなってしまいました。
 そんなこんなで,今日は天文台について紹介します。

●キットピーク国立天文台(Kitt Peak National Observatory)
 アリゾナ州ツーソン郊外の赤茶けた風景の中にキットピーク国立天文台は建っています。ここにある研究用望遠鏡群は世界最大級の規模と多様性を誇るといいます。
 日中は,敷地内を自由に見学したり,ガイド付きのプログラムや VIP プログラムに参加することができまるそうです。
 さすが,アメリカです。今は変わりつつありますが,かつては,日本では何か研究者は特権階級のように思っていて,一般の人を格下にみて謝絶する雰囲気がありました。
 キットピーク国立天文台では,夜もまた,一般用の観測プログラムがあって,遠方からも多くの参加者があるそうです。それらの中には,ゆっくりと楽しめるダーク・スカイ・ディスカバリー(Dark Sky Discovery)やナイト・オブ・マーベラス・ムーン(Night of Marvelous Moon)といったプログラム,また,オーバーナイト・テレスコープ・オブザービング・プログラム(Overnight Telescope Observing Program)では,専門家の指導の下で遥か遠い宇宙の天体を観察できるほか,3日間のアストロフォトグラフィーワークショップ(Astrophotography Workshop)で夜空の写真を撮影するための基礎を学ぶことができるそうです。
 さらに,トホノオオダム国立文化センターと博物館(Tohono Oodham National Cultural Center & Museum)が近くにあって,この地のアメリカ先住民の文化を学ぶこともできます。また、アリゾナソノラ砂漠博物館(Arizona-Sonora Desert Museum)の植物園では,アリゾナ州の自然史を学べます。
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●マクドナルド天文台(McDonald's Observatory)
 テキサス州西部のデイビス山脈(Davis Mountains)の奥地にあるマクドナルド天文台からは,アメリカ大陸で最も暗い空を見ることができます。起伏に富み,かつ,美しい風景に囲まれた展望台にはビジターセンターがあり,1年を通して見学できるといいます。また,毎週行われるスターパーティーでは,周囲の山々のシルエットを眺めながら満天の星を堪能できます。
 近くにはデイビスマウンテンズ州立公園(Davis Mountains State Park)があって,そこではハイキングやバックパッキング,乗馬などのアドベンチャーが楽しめるということです。また,フォートデイビス国定史跡(Fort Davis National Historic Site)では,開拓軍の駐屯地をガイドなしで見学できます。
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 そのほかにも,テキサス州には,レモン山スカイセンター天文台(Mt. Lemmon SkyCenter), グラハム山インターナショナル天文台(Graham International Observatory),フレッドローレンスウィップル天文台(Lawrence Whipple Observatory)などがあります。


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 2020年に行こうと思っていた旅では,さらに,これまで私が行っていないキャニオンデシェイ国定公園とメサベルデ国立公園にも行ってみたいと思っていました。
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●キャニオンデシェイ国定公園(Canyon de Chelly national Monument)
 キャニオンデシェイとはスペイン語で「岩の渓谷」を意味します。高さ300メートルの垂直な断崖が42キロメートルの長さにわたって続いていて,グランドキャニオンを小型にしたような感じだといいます。ここはナバホ族の居住地で,国定公園でありながら国有地がまったくないそうです。
 かなり辺鄙な場所にあるのですが,2019年,私が化石の森国立公園などに行ったとき,あと数日あれば行くことができたのに,と今では後悔しています。あのころは,いつでも行けると思っていたのに…。
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●メサベルデ国立公園(Mesa Verde National Park)
 メサベルデ国立公園は,今から1400年ほど前にこの地に住んだ先住民の遺跡です。
 今からおよそ1,400年前「緑のテーブル」とよばれるこの独特な地形であるこの地域に住んでいた人々は,高度な文明をもち繁栄していたのですが,約700年のちの14世紀に忽然と姿を消してしまったそうです。
 アメリカにはこんな歴史もあるのです。

 これらの国立公園を巡りながら,そのついでにフォーコーナーズにも寄ってみるつもりだったというのが幻になってしまった2020年の旅でした。
 今日の写真は,化石の森国立公園で写したものですが,このような遺跡がこの場所にもあるということでしょう。
 アリゾナ州というのは,知らないだけでずいぶんと奥が深い場所のように思われます。しかし,今では簡単に行くことができるところでなくなってしまったのが残念です。


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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 2020年に行くはずだったアメリカ旅行でしたが,具体的な予定をたてる前にキャンセルとなってしまったわけです。この旅でなんとなく行きたいと思っていたのが,アリゾナ州の南部にある天文台と国立公園,そして,アリゾナ州の東部からニューメキシコ州にかけての国立公園,そして,フォーコーナーズモニュメントでした。これらの場所は,すべて行くことができるような,または,行けないような,微妙な距離にあります。
 とはいえ,それはいつものことで,もし,この旅が実現できていたとすれば,私は無理やりでもおそらくそのすべてに行っていたことでしょう。アメリカの距離感は日本とはまったく違います。しかし,道路は整備され,交通量も多くないので,かなりの距離が走れるのです。
 では,上記に書いた,行きたかった場所について,順に紹介することにします。

 今日はアリゾナ州の南部にあるサワロ国立公園とチリカワ国定公園です。
 地図を見ると,ともにインターステイツ10に近く,私は,以前,テキサスから西に,エルパソまでインターステイツ10を走ったことがあるので,もう少しだけ西へ走っていたらそのときに行くことができたのにと,今更ながら後悔しています。
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●サワロ国立公園(Saguaro National Park)
 サワロというのはハシラサボテンのことで,アメリカ最大のサボテンです。
 いわゆる,日本人が想像する西部劇にでてくるようなサボテンですが,10メートルを越えるような大きさに成長するのは4000万個のうちの1個ほどだといいます。
 こうしたサボテンは,フェニックスの郊外にも時折みられますが,フェニックスから南に行ったツーソンという町の西側と東側にあるサワロ国立公園に行くと,地平線のかなたまでサボテンだらけなのだそうです。
 そんなサボテンの林を見るだけ,といえばそれだけの国立公園なのでしょうが,しかし,アメリカの他の国立公園同様,行ってみたら期待を裏切ることはないでしょう。
 と書いてたら,ますます行きたくなってきました。
 なお,世界最大のサボテンというのはメキシコのカリフォルニア半島に育つカルドン(Cardon)というサボテンです。根元から腕が伸びるのが特徴で,高さは20メートルに達し,重量は25トンになるといいます。
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●チリカワ国定公園(Chiricahua National Monument)
 ここは,地平線まで広がる砂漠に忽然と緑濃い小さな山並みが見えてくるのだそうです。それは2,700万年前の巨大な火山の噴火の跡で,その際にできた火山岩が浸食されて奇怪な尖塔の群像になったものだといいます。まるで岩の墓場のような不気味な表情は独特なものということですが,訪れる人もほとんどなく,静けさに支配されている… と知れば,これはいつか行くしかないでしょう。 

 以下,次回に続きます。


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