しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

January 2022

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 太平洋岸に住んでいるので,冬はいい天気が続くはずなのですが,ここ数年,北国のような気候に変わって,1日中曇っていることが多くなってしまいました。
 太陽の光がないと気分も落ち込みます。また,寒いので,コロナ禍であろうとなかろうと,どこへも行く気がなくなります。そんなわけで,家にいることが多くなってしまいます。
 こんな状況では,そもそも,欲しいものがないうえにグルメでもないので,さらにお金を使わなくなってしまいました。

 そんな生活をしているのですが,何もせずともおなかが空くのが不思議なことです。しかも,3度の食事をとっても,午後3時ころになると甘いものが食べたくなります。おやつとはよくいったもので,どうしてこのけだるい午後になると甘いものが食べたくなるのでしょう。
 Wikipediaには次のようにあります。
  ・・・・・・
 日本では古くは食事は朝夕のみの1日2食であったが,農民たちが体力維持のために休憩時に軽食をとり,これを中食,間食などとよんだ。
 元禄時代には1日3食が一般化したが,このころから「おやつ」の語が出現する。昔の時刻のよび方で「八つ時」に食べたことからこうよばれた。
 おやつで食べるものは,大抵は甘いものである。たとえば菓子類,果物類,ケーキ類などである。
  ・・・・・・

 ということなのですが,空腹を満たすことと気分転換には甘いものが必要なのでしょう。
 とはいえ,おかしの類を家に置いておくと際限ないので,私は,気が向くとおやつ目的にだらだらと散歩に出かけることがあります。「いんちき富裕層」の私は贅沢が禁物なのですが,そんな私のささやかなぜいたくはケーキです。しかし,ケーキはカロリーが高いので最も危険なおやつだと私は自覚しているので,本当にその気になったときだけにして,我慢します。
 で,私がお気に入りのおやつは,なんといっても「たい焼き」です。
 家の近くに「日本一たい焼き」というお店があります。ここのたい焼きは一回り大きくて,当然,一回り? 値段が高いのですが,あんこがいっぱい入っていて,とてもおいしいです。
 そんなたい焼きを1匹 -写真には2匹写っていますが- お茶とともにいただくときの幸福感は最高です。
 たった200円の浪費で得られる幸せ。
 「インチキ富裕層」の私にはこれに勝る贅沢はありません。

◇◇◇
月,金星,火星。

1月30日。日の出前の快晴の東の空。
月齢27.1の月と金星,火星が幻想的でした。
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 バスは,クイーンズタウン(Queenstown)から快調にワカティブ湖(Lake Wakative)の東湖畔を南下していきました。このあたりまで,あいにく天候がよくなくて,周りは霧,景色はほとんど見えませんでした。先に書いたように,まず無理だといわれていたのですが,私には行けるという確信がありました。それは,この日のミルフォードサウンド(Milford Sound)の天気予報が晴ということだったからです。
 行程の途中, ゲートがあって,このゲートが締まっているとミルフォードサウンドには行くことができず,そこで引き返すことになるということでした。ゲートに来ました。私は,祈る気持ちでいましたが,すんなりと通りすぎて,やった! と思いました。
 さらに進んでいくと,テ・アナウ湖(Lake Te Anau)を過ぎて,今度は険しい山岳地帯になりました。
 途中,氷河で浸食したU字谷の美しい景色が見られたり,「ケア」と鳴くからケア(Kea)と名づけらた鳥に遭遇したりと,ミルフォードサウンドに到着するまでにも,日本では見ることもできない絶景が次から次へと広がっていきました。ケアはマオリ語でのよび名で,ミヤマオウム(Nestor notabilis)のことです。
 こんな風景を見てしまうと,日本で「秘境」といわれる場所がすべてむなしくなってしまいます。
 やがて,最後の難関であるホーマー・トンネル(Homer Tunnel)に差しかかりました。
 ホーマー・トンネルはこの国道94最大の難所で,1935年から1953年まで実に18年を要して作られたそうです。狭いトンネルなので一方通行で,運が悪いとずいぶんと時間待ちをする必要があるのだそうですが,これもまた,運よくすんなりと抜けることができました。 国道94はホーマー・トンネルを抜けるとやがて下りはじめ,ついに,ミルフォードサウンド観光船の出るターミナルに到着しました。

 ミルフォードサウンドは晴れ渡っていました。ここは1年のうちで300日は雨で,年間降水量は6,000ミリメートル以上なのだそうで,こうして晴れていたのは奇跡的だということでした。 やがて観光船が来て,さっそく乗船しました。甲板の上に出ると,そこには写真などでよく見る風景が広がっていました。そのスケールはものすごいものでした。 ミルフォードサウンドは,ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling)という作家が「世界で8番目の不思議」(Eighth Wonder of the World)とよんだ場所です。
 ミルフォードサウンドはフィヨルドランドとよばれる地域にあって,690ヘクタールに及びます。1ヘクタールは100メートル四方なので,690ヘクタールは26キロメートル四方ということになります。ちなみに,東京ドームは4.67ヘクタールです。ミルフォードサウンドは世界遺産ですが,日本にあるようなチンケな世界遺産とは全く違っていて,正真正銘,これぞ世界遺産とよべる場所です。 周辺の地層は古く,一部は4億5,000万年前のものだといいます。4億5,000万年前というのはオルドビス紀(Ordovician)といわれる時代で,地球上に魚類が出現したころになります。また,このあたりのフィヨルドの海は2層に分かれていて,上の部分は山から流れてきた淡水,それより下は海水で,それらは混ざり合うことなく層をなしているそうです。
 船は1時間ほどでタスマン海(Tasman Sea)まで出ました。この先にオーストラリアがあります。船はここでUターンをして再びミルフォードサウンドの波止場に戻ることになります。途中にレディ・ボーエンとスターリング(Lady Bowen and Stirling Falls)というふたつの滝がありました。また,岩の上にはオットセイを目撃することもできました。
 それにしても,何と雄大な景色だったことでしょう。ここを見ずしてニュージーランドを語ることはできないと強く感じました。それとともに,偶然,天気がよい日にこの地を訪れることができた幸運を感謝しました。
 これが,奇跡に奇跡が重なった私の2度目のニュージーランドの旅でした。

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number (2) 雑誌「Number」#1044の将棋名勝負特集!「藤井聡太と最強の一手。」を読みました。
 雑誌「Number」はスポーツを話題にする雑誌ですが,2020年の夏に恐る恐る将棋特集をしたら「望外」に売れて,それで気をよくしたのか,時折,将棋特集をするようになったように思います。
 私は,子供のころ,将棋を指すことに夢中になったことはありますが,現在は完全な「観る将」です。というのも,このごろは将棋ソフトが強すぎてまったく歯が立たないことに加え,将棋を指す時間がもったいないと思ってしまうからです。というのは言い訳で,本当は,私は,将棋というゲームを指すことの本当のおもしろさがわからないのでしょう。
 そんな私でも,藤井聡太竜王の活躍もあって,今はプロの棋士の将棋を見ることは楽しいのですが,それよりも,棋士という一風変わった人たちの生きざまに興味があります。そこで,今回の雑誌の特集も一気に読んでしまいました。

 その中で印象に残ったのは,まずは,「竜王を手繰り寄せた”異常”な終盤。」という記事の中の
  ・・・・・・
 藤井は将棋の神に愛され過ぎではないかとさえ思います。
  ・・・・・・
という文章でした。それは,終盤で,奇跡的とさえ思えるように,盤上の全ての駒の配置と持ち駒がいつも藤井聡太竜王が勝つようになっていることを指しているのですが,私は,藤井聡太竜王の将棋を見ていると,終盤で想定されるさまざまな可能性をあらかじめ読んだ上で,そうした配置になるように,まるで,序盤から長手数の詰将棋をつくるかのごとく将棋を組み立てていると感じるので,奇跡的ではないと思っています。将棋の神に愛されているというより,だれよりも将棋の神を愛しているのでしょう。
  ・・
 今回の将棋特集では,藤井聡太竜王だけでなく,さまざな棋士の話題が豊富でしたが,私がおもしろかったのは,「藤井聡太の”最強の一手”とは?」と題した若手棋士の鼎談と,もうひとつは「毒と理想のはざまで。」という永瀬拓矢王座を取り上げた記事でした。私は,こうした若い棋士たちが藤井聡太竜王の出現で脚光を浴び,その中でもがいている様に魅力を感じます。
 それとは別の意味で,「不屈の王の最後の呟き。」という大山康晴十五世名人を取り上げたもの。時の絶対王者だった大山康晴十五世名人,晩節の悲愴は,私がずっと印象に残っているものですが,最晩年になっても,まだ,若手の前に壁となり立ちふさがっていたその姿を,当時の私は,いい加減にしてよ,と思っていたのが正直な気持ちでした。それが今となっては,晩年の大山康晴十五世名人といったって弱冠68歳のことで,今の私の年齢と大差ないことに,別の衝撃をうけるのです。

 さて,今回の特集は,読みどころ満載だったのですが,この記事を書いた人の多くは,将棋ジャーナリストといわれる人たちで,新聞の観戦記なども書いています。
 毎日連載をしている新聞の観戦記は,何十年もまったく変わらず,というより,昔は結構読みごたえがあったのに,新聞の活字が大きくなったのに面積が変わらないものだからめっきり字数が少なくなってしまい,今や,1日の分量が400字詰め原稿用紙たった1枚程度で,30年前にくらべると約半分。また,このブログの10パーセントから20パーセント程度でしかありません。これでは,書きたいことのほとんどは書くことができないから,「観る将」の人には指し手の解説だけではおもしろくないし,棋士の心理描写を書くだけでは棋譜を記録として読んでいる往年のファンには評判が悪いというように,だれを対象として何を伝えたいのかわからないという中途半端なものに成り下がっているように感じます。
 この特集でこれだけ魅力的な記事が書ける将棋ジャーナリストといわれる人たちの文章力が,薄っぺらな将棋の観戦記ではほとんど発揮できないことのほうが,私には気がかりです。もったいない話です。

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 2020年の春までの2,3年の間に出かけたところのそのひとつでも実現していなかったとしたら,今ごろはずいぶんと後悔していただろうなあと考えると,それらのすべてが実現したのは本当に奇跡的なことに思えます。
  ・・
 私は2018年の秋に2度目のニュージーランドに行きましたが,それは,1度目に行ったニュージーランドの南島にあるテカポ湖で写した星の写真の一部に雲がかかっていて満足できず,快晴の星空の写真が写したいという一念で出かけたものでした。
 それにしても,あとで考えると,というか,かなりいい加減な話なのですが,2度目に出かけたら今度は快晴の星空が見られるなどという確信があったのもまったく保障のないことだったわけです。私はそのことを,なぜかうっかりしていました。
 しかしまあ,幸運なことに,2度目の旅では本当に奇跡的に晴れて,雲ひとつない星空の写真を撮りたいという夢は実現してしまったのです。

 さらに,このときの旅ではもうひとつぜひ行ってみたいと思っていた場所がありました。それは,南島のミルフォードサウンド(Milford Sound)でした。
 しかし,調べてみると,ミルフォードサウンドもまた,行くにはかなり困難なところだったのです。近くに町がなく,最寄りの町であるクイーンズタウン(Queenstown)からは車で行くには遠すぎました。
 探しに探して,なんとか現地ツアーを見つけ出すことができたので参加しましたが,前回書いたオーストリアのハルシュタット同様に,今思い出すと,現地ツアーを見つけ出したことも奇跡的な話で,行くことが実現できたのが夢のような話だったのです。それは,遠いだけでなく,ミルフォードサウンドはいつも天気が悪く,気象条件によっては道路が閉鎖されて,途中で引き返さなければならないことが少なくないということだったからです。私が行ったのは10月で,気候が日本とは反対のニュージーランドはまだ初春。観光シーズンは11月だったのです。事実,私が行った日も途中までは雪混じりの天気で,出発するときには,まず無理だといわれていたのです。そんな事情だったのにも関わらず,幸運にも道路は閉鎖されておらず,しかも,到着したらすっかり晴れていました。
 たとえ行くことができたとしても,ミルフォードサウンドが晴れる確率は1割もないということでした。これもまた,オーストラリアのエアーズロックに登ることができたことと同様,奇跡的なことでした。もし,行くことができていなかったら,今ごろ,ずいぶんと後悔していたことでしょう。

 ちなみに,サウンドというのはニュージーランドの英語で「入り江」のことです。
 最寄りの都会であるクィーンズタウンからミルフォードサウンドまでは直接距離は100キロメートルほどとそれほど遠くはないのですが,山また山で最短距離で行く道がなく,道路はクィーンズタウンからUの字に迂回していて,片道,有に4時間以上かかりました。そこで, ツアーは早朝7時出発で帰りは夜の7時到着ということでした。しかしそれでも,バスに乗っている時間が8割で現地の観光が2時間弱しかなかったのです。であっても,行く価値は十分ありました。

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 京都の龍安寺のつくばいに「吾唯足知」(吾れ唯だ足るを知る)と刻まれています。
 「吾唯足知」は「仏遺教経」に書かれた「知足の者は賎しとも雖も富めり」「不知足の者は富めりと雖も賎し」からとったものだそうです。つまり,こころが満ちたりていれば貧しくも豊かであり,こころが満ち足りていなければ豊であろうと実は貧しい,ということでしょう。
 また,孔子は「足ること知るものは心安らかなり」と書いています。
 こういう言葉をすぐに説教くさく「贅沢を考えずに不平不満を持たずに今あるもので十分ということを知りなさい」と説く人がいますが,そうした人ほど煩悩に満ち満ちていたりします。
 それよりも,あるブログに「自分が満ち足りていることを知っている人」こそ, 実は贅沢ができる余裕もあるし, 「必要なものがすべてすでにある」という状態こそが 爽快で,私はこんなふうに宇宙と一緒に生きたい,と書かれてあったのですが,まあ,そんな気楽な状態だと捉えればいいのかもしれません。

 「吾唯足知」は,私が以前
  ・・・・・・
 朝起きたときに「何もすることがない」という生活が理想だと憧れていたのですが,そんな理想の生活ができるようになってきました。さらにには「何も欲しいものがない」という状態こそがもっとも幸せだとも思っていたのですが,これもまさに実現しつつあります。
  ・・・・・・
と書いたことと通じる言葉であると気づきました。
 「何もすることがない」と「何もしたいことがない」とではまったく意味が違い,「何もすることがない」とは「何もしなければならないことがない」ということであり,朝起きて,その日に「やりたいと思ったことが何の束縛もなく自由にできる」ことが最も幸福だということです。
 また,「何も欲しいものがない」というのは「何も持っていない」ということとは違い,「何も欲しいものがない」というのは「自分に必要なものを手に入れた上での状態」です。ここで,「自分に必要なものを手に入れた上での状態」こそが,「吾唯足知」です。

 何かを手に入れると,それ以上のものが欲しくなり,そうした欲望は際限がないのです。しかし,自分の大きさも与えられた時間も限りがあるから,その中で何が必要かがわかるというものです。つまり,何事も「必要十分」な状態を知るという,きわめて当たり前のことをいうのです。

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 ウィーンに憧れ,行ってほれ込んでしまったオーストリアでした。行けるとも思っていなかったザルツブルグ(Salzburg)も望外に訪れることができて,さらにほれ込んで,2度目の2019年晩秋にはハルシュタット(Hallstatt)にも行くことができました。
 「地球の歩き方」を読んでみると,オーストリアには,さらにさらに魅力的なところがたくさんあるのですが,アメリカと違って,車を借りて走り回れるとはどうも思えず,かといって,公共交通機関を使って旅をするには,かなりの計画性が必要だなあ,と思っていました。そんな折にコロナ禍になってしまい,旅は中断したままとなっています。
  ・・
 「3度目の壁」。
 これまで,いいなあと思ってリピートしたところは世界中に数あれど,3度目のリピートをするほどの魅力のあるところは少ないものです。しかし,これまで2度行ったオーストリアはすばらしいところ,また旅ができるようになるとは到底思えないこのごろですが,もし可能になったとしたら,「3度目の壁」を越えて,真っ先に行ってみたい国です。
 また,私にはオーストリアは高値の花でもあります。それは,美しい女性を遠目で見るだけなのと同じで,なかなかその実態がわからないということです。その理由は公用語がドイツ語ということも理由です。気楽にオーストリアの山岳地帯の民宿に泊まれると思えないと,怖気づいていて,どうも英語圏のように気楽に旅ができないと思ってしまうのです。若いころにもっとまじめにドイツ語を勉強しておけばよかったと後悔しています。

 歴史的に見れば,オーストリアは大国でした。戦争に敗れ,小国となり,現在,オーストリアは自治権をもつ9つの連邦州(Bundesländer)からなる連邦国家です。
 州には独自の司法制度をもたず,また,立法も,外交・国防や金融財政から商工業・文化・医療などにわたるまでが連邦政府の専権事項となっているので,州といってもアメリカのような独立したものではありませんが,州民の郷土意識は強いといいます。
 9つの州は次のものです。
  ・・・・・・
 ①ブルゲンラント州(Burgenland)
 ②ケルンテン州(Kärnten)
 ③ニーダーエスターライヒ州 (Niederösterreich)
 ④オーバーエスターライヒ州 (Oberösterreich)
 ⑤ザルツブルク州(Salzburg)
 ⑥シュタイアーマルク州( Steiermark)
 ⑦チロル州(Tirol)
 ⑧フォアアールベルク州( Vorarlberg)
 ⑨ウィーン(Wien)
  ・・・・・・

 私がオーストリアで,ウィーン,ザルツブルグの次に行きたかったのが,このハルシュタットでした。ところが,ハルシュタットという名前は有名なのに,調べても,どこにあるのか,それが地名なのかさえ,なかなか把握できませんでした。私がハルシュタットに行こうとしてやっと見つけて参加した現地ツアーも,ザルツカンマーグートへの旅,とありました。今度は,ザルツカンマーグートって何だ? という感じでした。
 調べてみると,次にことがわかりました。
 ザルツカンマーグート(Salzkammergut)は地方の名前で,先に書いた9つの州のうちオーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地です。ザルツブルク市の東方に位置します。ザルツカンマーグートは「塩の御料地」の意味で。かつて,この地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来しています。
 私が憧れた,そして行くことができたハルシュタットは,オーバーエースターライヒ州に属する小規模な基礎自治体「ゲマインデ」(Gemeinde)のことで,ザルツカンマーグート地方の最奥に位置する景勝地ということでした。ハルシュタット湖(Hallstätter See)の湖畔にあって,周辺は,ザルツカンマーグート地方のハルシュタットとダッハシュタインの文化的景観」として、ユネスコの世界遺産に登録されています。
  ・・
 「世界で最も美しい湖畔」といわれるように,期待どおり,素朴で美しいところでした。
 ウィーンから日帰りで行くには遠く,一時はあきらめていただけに,本当に行くことができてよかったと思います。それに加えて,私がこころに残るのは,その途中のバスの中から見たアルプスの景色でした。こんなに美しい山村があるのか,と思いました。

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JWST reaches its final destination a million miles from Earth.

The James Webb Space Telescope has reached its final destination, almost a month after launch.
JW

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 すでに2年近くになろうとしているのに,世界は未だに新型コロナウィルスに翻弄されているようです。それで本当に困っている人も多くいるのに,これが金儲けのチャンスだとばかりに不安を煽りそれを利用している人もまた少なくないのは,いつもの常,これが人の世です。
 そしてまた,それに踊らさて,怪しげなものを首から下げている人とか,意味もない品々を買いあさっている人も見かけます。このときとばかり,名を売るために真しやかな「学説」を唱える学者から,効用も定かでない何がしかの「製品」を売る業者,そして,大した知識もないのにさも詳しいように「私見」を書くマスコミ,不安を煽るような「記事」を書いて売上げを伸ばそうと企む雑誌など,この2年間でその姿の本質が次第に明らかになってきました。
 吉田兼好の書いた「徒然草」の時代から人はまったく進歩していません。学校で何を学んでいるのやら…。
  ・・・・・・
 世に語り伝ふる事,まことはあいなきにや,多くは皆虚言なり。
 あるにも過ぎて人は物を言ひなすに,まして,年月過ぎ,境も隔りぬれば,言ひたきまゝに語りなして,筆にも書き止めぬれば,やがて定まりぬ。
  「徒然草」第73段
  ・・
 この世の中に語り伝えられている事は,真実そのままに語ってもつまらないからだろうか,多くの話は嘘八百である。
 人は事実よりも大げさに物事を言う傾向がある上に,ましてや,年月を経て,遠く離れた場所の出来事であれば,言いたい放題に語られる。書物などに記録されてしまえば,もはや嘘は真実に書き換えられてしまう。
  ・・・・・・

 人の世なんて,だれにも明日のことはわからない。であるけれど,できる限りそうしたリスクを避けようと考えるのが人というものなので,その心配を利用し,不安を煽ることがビジネスチャンスとなる,これもまた,人の世です。
 しかし,自分の力ではどうにもならないようなことを耳に入れたところで意味がなく,自分でできることをする以外は,人の世が不条理に満ちているからこそ,先のことなどなるようにしかならないから心配しても仕方がないのです。ということで,私は,寿命は神様にお任せして,病気はお医者さんにお任せして,自分ではそんな心配は一切しないと決めて生きてきました。つべこべ言わずに行動するしかない,行動しなければ運はつかめない。これが私がこれまでの人生で覚えたことのすべてです。
 そして,今自分ができることは,このコロナ禍では一刻も早く3回目のワクチン接種を受けることで,これをしようと,1月19日に接種券が届いたその日にLINEで集団接種を予約して,1月24日の朝,終了しました。しかも,1回目,2回目がファイザーだったので,3回目はモデルナ,これがベストだということだったので,そうしました。幸い,私は,これまでも今回も副反応とは無縁です。
  ・・
 この日が集団接種の初日とあって,私の接種した会場である県営名古屋空港には,県知事が視察にくるわ,テレビ局やら新聞記者が接種者以上に殺到するわでごった返し,まさにお祭り状態でした。おそらく,ワクチン接種に限らず,どんな報道も同じような有様なのでしょう。以前私が観戦した朝日杯将棋トーナメントも同じでした。
 それにしても,感染が落ち着いていた1か月前に3回目のワクチン接種を実施していればよかったものを,これで終結とかいった何の根拠もない神頼みをしてしまうのも日本人の特質で,その後,暢気に2回目の接種8か月後だのとこれまた根拠のないことを決めておいて,何事かが起きると慌てて前倒しだとかでそれをはじめるのもまた,いつもように,やったふりの得意なこの国の行政です。
 それと同じくして,自分で考えもせずデマに踊らされ言われるままそれをうのみにして行動する多くの人たち。
 そうしたあり様は,奇しくも,今,再放送をしているNHKBSPの「マー姉ちゃん」で描かれている日本の太平洋戦争時の状況,つまり,軍の力で威張り散らす輩だの,隣組だといって異論者を村八分にする世間だのといった様子や,日本には神風が吹くだの,敗戦でアメリカ軍が日本に上陸して女子供を連れ去るだの,といったデマを流して人を不安にするような騒動を見れば,この国の人々のもつ変わらぬ本質がどういうものかとてもよくわかるというものです。

◇◇◇
2022年1月24日現在,日本の新型コロナウィルスワクチン接種3回目完了者は2,363,995人,人口の1.9パーセントです。
また,2022年1月24日までに日本で新型コロナウィルスに感染した人は2,224,982人で,接種3回目完了者より少ないのです。しかも,そのうちの約90パーセントは軽症か症状なしです。

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 ビリー・ジョエル,ウィリアム・マーティン・ジョエル(William Martin “Billy” Joel)は1949年ニューヨーク州のサウスブロンクス出身のシンガーソングライターです。1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発しました。
 私が英語を勉強したり,アメリカに興味を抱いた1960年代末から1970年代は夢のような時代でした。アメリカはあこがれであり,アポロ11号の月着陸や大阪で行われた万国博覧会で最も魅力的だったアメリカ館など,日本とはかけ離れた巨大で豊かな大国に一度は行ってみたいと思ったことでした。その一方で,危険な香りが一杯の国でもありました。
 そのころ私が耳にしたのがビリー・ジョエルの音楽でした。
 中でも,「ストレンジャー」(The Stranger)。この曲の冒頭と最後は,私の頭の中に暗くすさんだニューヨークの姿を想像させるのに十分でした。ビルとビルの谷間の暗くゴミだらけの路地に靴音だけが不気味に響く…。
 「ストレンジャー」は日本ではCMソングとして起用されたことで大人気となったのだそうです。
 そして,「ニューヨークの想い」(New York State of Mind)。ビリー・ジョエルがソロデビューして以来活動の拠点としていたロサンゼルスから生まれ故郷のニューヨークに戻るときの想いを歌った楽曲で,曲の歌詞が私に大陸横断の夢を与えました。西海岸から長距離バス・グレイハウンドに乗ってニューヨークに向かうとき,遠くに摩天楼が見えてくるときめき。それを一度は味わってみたいものだとずっと思ってきました。
 それ以外にも「ピアノマン」(Piano Man),「素顔のままで」(Just the Way You Are),「オネスティ」(Honesty)と,今聴いても切なくなってきます。
 そして,そうした私の想いがすべて実現した今となって,憧れだったアメリカは,あのころの自分の懐かしさに変わりました。
  ・・
 なお,ビリー・ジョエルは1985年にクリスティ(Christie Brinkley)と結婚し,娘のアレクサ・レイ・ジョエル(Alexa Ray Joel)が誕生しましたが,娘のミドルネーム「レイ」は,ビリー・ジョエルの憧れの存在だったレイ・チャールズ(Ray Charles Robinson)にあやかってつけたものだったということです。朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」にも似たような話が…。

 NetFlix や ABEMA や AmazonPrime など,いくらでもそれに代わる有料放送が存在する現在,ほぼ強制的に高額な受信料を徴収するなどという時代錯誤を未だにやっている NHK は,その高額な料金にも関わらずチャンネルばかりたくさんあっても大したコンテンツもなく,再放送ばかりでお茶を濁していることが腹立たしいのですが,1月27日の早朝は,NHKBSP でビリージョエルのヤンキースタジアムライブを放送していたので,録画して見ました。しかし,ここで放送されたのは1990年のコンサートだったのに,私の期待していたものとは違って好きな曲目もほとんど演奏されず,がっかりしました。
 それよりも,私が別の意味で懐かしくなったのは,ヤンキースタジアムでした。
 そのころのヤンキースタジアムは,現在の新しいヤンキースタジアムの隣に建っていたものです。
 私がはじめてニューヨークに行ったのは1981年のことだったのですが,ハドソン川の対岸にそびえる巨大な建物は,私が感動するに値する建物の姿でした。しかし,1997年,2度目のニューヨークで実際にヤンキースのゲームを見にいったとき,スタジアムの建物は老朽化し壁が落下したとかでごった返し,また,ボールパークの周りの治安の悪さと不気味さにも度肝を抜かれました。
 なにせ,ヤンキースタジアムのあるサウスブロンクスは悪名高きところで,ゲームの途中に何が起きようと想定内のことでした。私が見にいったゲームでも,その途中で,ストリーキングが出没し素っ裸の男がグランドを駆け回りました。また,ヤンキースタジアムの近くの有料駐車場は,停めるのはいいけれど,何があっても知らないよ,状態だったし,車で行けば通らざるをえないハーレムは麻薬を売買する住民がたむろしていました。また,マンハッタンからハーレムの地下を抜けてハドソン川を越えてサウスブロンクスで地上に出た地下鉄は,落書きだらけでした。
 しかし,今となっては,そんなすさんだニューヨークならまた行ってその姿を見て味わってみたいものだと思うのは,私が「ストレンジャー」を聴いて感じるその哀愁からなのでしょうか。

billy


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 ウィンスロップ(Winthrop)はシアトルから北東,カスケード山脈の懐に残る西部開拓時代を偲ばせる田舎町です。市街地は1890年代のゴールドラッシュに沸いていたころの建物が並び,まるで西部劇の世界に入り込んだ気分になります。ディズニーランドにこのような町の真似事がありますが,そんな「おもちゃ」ではなく,ここは正真正銘の町です。

 2016年,私は,モンタナ州のグレイシャー国立公園からワシントン州のカスケード国立公園に向かう途中で,この町に寄りました。  
 ここで私はホテルを探してチェックインしました。
 ワシントン州にはこんなすてきな町があるのです。私が忘れられないのはこうした田舎ののどかな小さな町なのです。
 ワシントン州の壮大なメソウ渓谷(Methow Valley)を走るノースカスケードシニックバイウェイ(the North Cascades Scenic Byway)に位置するこのウィンスロップの町は,旧中山道の馬籠宿のように,新たに歴史的な町を模して作られたところです。

 メソウ渓谷は,1833年ゴールドラッシュの時代,多くの白人の入植者が来ました。そのうちの代表的な3人がジェームス・ラムジー(James Ramsey),ベン・ペーリジン(Ben Pearrygin),ガイ・ウェアリング(Guy Waring)でした。特に,ウェアリングがこの地の「父」とよばれます。
 町の名は冒険家であり作家であったテオドラ・ウィンスロップ(Theodore Winthrop)にちなんで名づけられたものです。
 1893年,ウィンスロップに火災が起きて,町は壊滅的な被害を受けましたが,1972年に州道20がこの町を通ることになったとき,キャサリン・ワグナー(Kathryn Wagner)と夫のオットー(Otto)がこの地に西部劇のような町を再建するというアイデアを思いつきました。

 ウィンスロップには数件のモーテルやマーケットがあって,私はそのうちのアビークリークイン(Abbycreek Inn)というモーテルに部屋を見つけて,チェックインをしました。
 チェックイン後,町を歩くのに十分な時間があったので,1軒のオープンカフェを見つけて軽い夕食をとりました。その後,川のほとりを散歩しました。
 歩いていると,お年寄りの女性が話しかけてきました。雑談をしながら美しい夕日が沈むのを眺めていました。
 ここはのどかで素晴らしい,桃源郷のようなところでした。
 夜は,近くのスーパーマーケットで買い物をしたりして過ごしましたが,緯度が高いので,いつまでたっても暗くならない。本当に夜が来るのかしらんと思いながら眠りにつきました。ふと深夜に目覚めると,さすがに日が沈んでいたのですが,外に出てみると,満天の星空が広がっていました。
 翌朝,モーテルの部屋の窓を開けると,そこには野生のシカがいてエサの草を食べているところでした。住んでみたい町です。

aaa


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 2018年春,第76期将棋名人戦の第5局が名古屋大須の万松寺で行われました。その前日の夜,前夜祭が近くにホテルで行われ,参加費を払って行ってきました。
 一度は行ってみたいと思っていただけにその機会ができて,とても楽しい時間が過ごせました。
 その後はコロナ禍になってしまい,こうした機会もなくなって,本当にあのとき行っておいてよかったと思ったことでした。

 2018年というのは今からわずか4年近く前のことなのですが,それ以来,将棋界はずいぶんと様変わりしたものです。
 このときの対局者は名人が佐藤天彦さんで,挑戦者が羽生善治さんでした。この名人戦で勝って羽生善治さんが100回目のタイトル獲得となる筋書きだと思っていたのですが,その予想は外れました。
 まだこの時期は,今輝く藤井聡太現竜王のブームがはじまったころで,名人戦に登場するのはずいぶん先のことのように思えました。また,羽生善治さんは絶対王者でした。

 前夜祭は,はじめに参加した棋士の紹介にはじまり,懇談会,そして,最後に一緒に写真を撮ることができました。
 テレビでしか見たことがない棋士の人たちといろいろとお話ができたのがとてもうれしいことでした。
 これも将棋界ならではの話で,他のスポーツやタレントさんではこうはいきません。
 なかでも,藤井聡太竜王の師匠である杉本昌隆さんとお話ができたのはよかったです。

 将来,また,こんな機会が一日も早くできるようになればいいなあと思います。それとともに,この機会を逃さなかかったことに,今更ながらこれもまた幸運だったものだとつくづく思うのです。
 運は周りにいくらでもあるのですが,それを手に入れることができるかどうかは自分の行動にかかっているのです。


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 こころに残っている小さな町,今回はモンタナ州の州都ヘレナ(Helena)です。小さな町といっても州都なのでそこそこに都会です。
 私は2013年にモンタナ州のビュートに行ったとき,少し時間ができたので,インターステイツ15を北に走りました。まったく人家もない山の中のインターステイツ15をずっと北に向かって走っていって,この先は地の果てだとおもったら,忽然と広大な大地にヘレナの町並みが見えてきました。このときの驚きは忘れられません。
 そのときはそのまま引き返したのですが,あの美しい町並みにひとめぼれして,ずっとこころに残り,いつかぜひゆっくりと滞在してみたいという想いが募って,2015年に再びヘレナに行ってみました。

 ビュートからヘレナまでは100キロメートル,1時間というところです。
 先に書いたように,ヘレナは,モンタナ州の州都です。人口はわずか約25,000人。19世紀後半のゴールドラッシュによってできた町です。
  ・・・・・・
 1864年「4人のジョージア人」とよばれるジョン・コーワン(John Cowan),D・J・ ミラー(D. J. Miller),ジョン・クラブ(John Crab),ロバート・スタンレー(Robert Stanley)の4人組がラスト・チャンス・クリーク(Last Chance Creek)で砂金を発見したことで町は創設されました。
 はじめ「4人のジョージア人」のひとりジョン・クラブの名を取ってクラブタウン(Crab Town)と名づけられたこの町は,やがて町名変更の機運が高まって,ジョン・サマービルが自分の生まれ故郷であるミネソタ州セント・ヘレナ (St. Helena) の名をつけることを提案し,そのうちに「セント」が落ちて「ヘレナ」のみが残って町の名前となりました。
  ・・・・・・
 1888年ごろは,およそ50人の億万長者がヘレナの町に住んでいて,人口当たりの億万長者の数は世界一であったといいます。

 ヘレナの高台にモンタナ州会議事堂とモンタナ歴史社会博物館があります。モンタナ州議会議事堂(Montana State Capitol)の庁舎は1896年から1902年にかけて建設され,1909年から1912年にかけてウイングが増築されました。
 私が行ったときは,この州議会議事堂はセキュリティがとても緩く,というか,まったくないのも同然で,何のチェックもなく自由に中に入ることができました。今はどうなのか知りません。中に入ると観光客用のカウンタがあって,親切なおじさんがいました。私が日本から来たというと「歴史概略とセルフガイドツアー・モンタナ州庁舎」と書かれた日本語のパンフレットを持ってきてくれたので,私は,そのパンフレットに書かれたように,セルフガイドツアーをしました。

 州議会議事堂の東側,博物館を出たところに,ラスト・チャンス・ツアートレイン(Last Chance Tour Train)というヘレナの見どころを2時間くらいで巡るガイドつきツアーバスの乗り場があったので乗り込んで,町の観光を楽しみました。
 ヘレナは思った以上に奥の深い町でした。
 官庁街の西側にはゴールド・ラッシュ時代の歴史的な建築物が多くあり,また,そのはるか向こうにはロッキー山脈の大自然や原野が広がっていました。ゴールドラッシュで栄えた町だから,大邸宅が並んでいて,治安もよければ,町も美しいところでした。
 ヘレナという町を観光して私が感じたのは,アメリカという新大陸にやってきて成功した人間の強さと弱さでした。アメリカには,日本人の知らないすばらしい町があるのです。

へれな (2)


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 私がアラスカ州のフェアバンクス(Fairbanks)に行ったのは2017年の夏のことでした。この年の8月21日にアメリカ横断皆既日食があって,私はそれをアイダホ州で見たのですが,その帰りにアラスカ州まで足をのばしました。
 アラスカ州まで行ったのは,その当時,アメリカ合衆国50州制覇を目指していて,アラスカ州に行った理由はそのためでした。
  ・・
 ワシントン州のシアトルからアメリカ国内線でフェアバンクスまで行きました。
 フェアバンクスはアラスカ州の中央部に位置する都市で,人口は約3万人。アラスカ州ではアンカレッジに次ぐ第2の都市ですが,それでも小さな町でした。 北緯65度あたりにるるので,北緯66度3分7秒の北極圏からは約160キロメートル南に位置しています。
 フェアバンクスの面積は約85平方キロメートルなので,9キロメートル四方ほどでしょうか。車で走ってみるとあっという間に市街地を抜けて大平原に出ます。市内をチェナ川(the Chena River)が流れ,すぐ南でタナナ川(the Tanana River)と合流していて,夏の間はチェナ川を下る外輪船クルーズが運航していて,私も乗船することができました。

 フェアバンクスのダウンタウンは人が少なく静かな町ですが,スーパーマーケットやレストランなどがたくさんあって,生活しやすいところです。
  ・・・・・・
 1900年ごろ,カナダ・ユーコン準州で金が発見(Klondike Gold Rush)されるとともにゴールドラッシュに沸き,町が整えられました。現在もなお複数の金山が稼働しているということです。 
 町にはテーマパークやら動物園やら博物館やら公園があり,郊外にアラスカ州を縦断するパイプラインもあって,見どころには事欠きません。日本人にとってはオーロラの最もよく見える町として知られていて,郊外にはオーロラの見られるリゾートタウンもあります。
  ・・・・・・

 私はこのとき,見ることができればもっけもの,でも無理だろうとまったく期待していなかったオーロラを見ることができたのですが,オーロラは別としても,今にして,このフェアバンクスという町にまたたまらなく魅力を感じて,ふと,また行きたくなるのです。
 北極圏といえば,私はその後,フィンランドのロヴァニエミに行ったのですが,おなじ極北とはいえ,フィンランドとアラスカではまったくイメージがちがいます。印象では,フィンランドのほうがあか抜けた都会で,アラスカのほうが田舎,というか悠久たる大自然です。
 私はアウトドアが苦手で,というか,都会に生まれたのでそういう習慣がないのですが,その反対に,人はこうした大自然の中で生きる術を学ぶべきだと,できないからこそ思います。今でも忘れられなのは,フェアバンクス郊外で見た大きな住居です。あんなところで生活する自分はまったく考えられないのですが,そんなことができたら,何と幸せなことでしょう。
  ・・
 冬のフェアバンクスは行ったことないので,私には謎の多い町です。
 冬のフェアバンクスにも行ってみたいのですが,あんな寒冷地,おそらく無理でしょう。でも,フィンランドのロヴァニエミで摂氏マイナス30度は経験したので,なんとなく様子はわかります。しかし,いつも思うのは,世界にはこうした町があるということを体験しない人生というのは,ものすごく大切なことを知らないでいるということです。
 フェアバンクスは,私がいまでもこころに残っている小さな町のひとつです。

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 2022年1月16日の朝日新聞のコラム「日曜に想う」に「「地球冷却化」を懸念する人々」と題して ヨーロッパ総局長の国末憲人さんがアイスランドの自然の驚異について書いていました。
 一部,引用してみます。
  ・・・・・・
 アイスランドの小規模火山標高385メートルのファグラダルスフィヤル(Fagradalsfjall)が噴火したのは昨年3月。危険の少ない,極めて平穏な火山活動だった。「自然が手のひらを返すと,私たちは吹き飛んでしまいます。その規模に比べ人間はあまりに小さい。「母なる自然」への畏怖(いふ)の念を忘れてはなりません」
 この国の厳しい環境に身を置くと,その言葉が真に迫る。人類の限界を認識しつつ,しかし運を天に任せることなく,「地球冷却化」に備えたい。経験と教訓を豊富に持つ日本は、その強力な牽引役となるだろう。アイスランドの人々は、そう期待していた。
  ・・・・・・

 この記事は,奇しくも,この記事の前日に,南太平洋のトンガ諸島沖の海底火山の噴火が起きてしまったことで話題になりました。人間は傲慢で,さも地球の支配者のような顔をしていますが,地球の46億年の歴史のわずか1万年にもならない間に生息しているにすぎません。恐竜の生息したいた期間よりはるかに短いのです。46憶年の地球の歴史の中には,大規模な火山の噴火はもとより,大陸移動,隕石衝突,全球凍結があり,それらは人間の手に負えるものではありません。それに比べたら,人間など塵のようなものです。
 そして,世界というか,宇宙が存在していることがわかるのは,自分が生存しているからこそであり,その自分の生存している時間はわずか80年程度のものです。自分の生存しているその塵ほどの瞬間を大過なく過ごすために日々格闘しているのです。
  ・・
 私は,2018年に,この記事のアイスランドに行ったとことがあります。アイスランドに行ってみて,自然の雄大さと脅威を目の当たりにしましたが,それに比べると,この日本という国に住む人は,地震や台風などの災害には常に直面しているとしても,その本当の脅威を知らなさすぎるのではないかと思います。それは,果てしなく続く地平線や不毛の大地を見たことがないからです。
 そこで,人間の力で克服できると錯覚し,護岸工事に精を出し,祠を建てては神に祈り,地鎮祭をやって神の怒りを鎮めたふりをする一方で,平気で破壊を繰り返してるのです。
  ・・
 世界から見れば,この記事にあるように,日々自然の災害に直面している日本は,そうした自然の脅威を克服するために大きな力を持っていると思われるのは当然のことでしょう。であるから,自然の脅威を克服するために積極的に指導的な役割をするように期待されているわけです。
 しかしながら,世界で唯一の被爆国であるのに核兵器の廃絶に先頭に立つことをしないのと同じように,首都東京の再開発には膨大な予算を使い復興五輪とかいう名目でオリンピックまで行っても,災害を受けた地域の復興すらままならず,未だに十分に完了していないのです。
 また,山を崩して土壌が痛んで災害が増すだけなのに宅地開発を推し進めたり,森木を切り開いて太陽光発電所を建設したり,人口が減少してこの先の成長が見通せないのに相変わらず新たな道路や鉄道を作ることに邁進したりと,災害に対して目をつぶり,傍観者となってしまうのはいったいどうしてなのでしょう。

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 2021年12月26日にNHKEテレ「新日曜美術館」で,「ピカソ「ゲルニカ」〜実物大8K映像の衝撃〜」が放送され,2022年1月16日に再放送されました。NHKのホームページに次のように紹介されていました。
  ・・・・・・
 (8Kの実物の)大迫力と繊細な筆遣い。ピカソはどんな思いで描いたのか? わずか1か月で完成! しかし猛烈な批判にさらされた知られざる物語。天才ピカソが遺した最後の謎めいた言葉とは?
  ・・・・・・
 スペイン内戦(Guerra Civil Española)は,第2次世界大戦直前の1936年から1939年まで第2共和政期に発生した内戦です。左派の人民戦線政府右派の反乱軍とが争いました。
 このスペイン内戦で,反政府側のフランコ軍を支援するナチス・ドイツ軍が1937年にスペイン北部バスク地方の町ゲルニカを無差別爆撃し市民を巻き込んだ殺戮をパブロ・ピカソ(Pablo Ruiz Picasso)が描いたのが「ゲルニカ」(Guernica)です。「ゲルニカ」では,戦闘場面ではなく戦争によって与えられる恐怖や苦しみや悲しみなどの人間の感情が示されているといいます。
 人は現実で生きているよりも,精神で生きています。そこで,絵画にせよ,音楽にせよ,精神に訴えるものはいつまでの残ります。現実からうける精神の姿をひとのこころに訴えることができる実在の作品として残せる人はすごいです。
 
 私は1981年の夏,生まれてはじめてひとり旅でニューヨークに行きました。そして,滞在の最終日,どこに行こかと迷っていたときに,だれだったか忘れたのですが,私に「ゲルニカ見ておいで,ニューヨークにあるよ」と言われて見てきたのが,この正真正銘の本物の「ゲルニカ」だったのです。当時「ゲルニカ」が展示されていたのはニューヨーク近代美術館(The Museum of Modern Art)だったのですが,このとき私にアドバイスしてくれることがなければ,この絵を見ることもなかったと思うので,今でも感謝しています。
 今,「ゲルニカ」はスペインの国立ソフィア王妃芸術センター(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía)にありますが,これを機に,そのいきさつを調べてみることにしました。
  ・・
 「ゲルニカ」は,1937年のパリ万国博覧会においてスペイン共和国館に展示するために制作されたものです。スペインが民主国家になるまでは返さないというピカソの信念によって委託展示されていたのがニューヨーク近代美術館というわけでした。
 1960年代後半,アメリカでベトナム戦争参戦が誤りだったという論調が趨勢を占めるようになるとともに「ゲルニカ」が注目され,反戦のシンボルとして使用されるようになりました。そして,アメリカによるベトナムでの残虐な軍事行動で,アメリカが「ゲルニカ」を手元に置いておく権利がないという考えが生まれました。
 1978年,スペインとアメリカの政府は,絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し,ピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館や絵画の主題の対象地となったゲルニカ,ピカソの出生地のマラガ,ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先として候補になりました。そして,1981年にスペイン返還が決定し,9月10日にマドリードのプラド美術館別館「カソン・デル・ブエン・レティーロ」(El Cason del Buen Retiro)に運び込まれました。
  ・・
 ここまで調べて驚いたのは,私が「ゲルニカ」をニューヨークで見たのは1981年8月4日だったから,このわずか1か月後にはすでにニューヨークにはなかったので,私が見ることができたのはまさに奇跡的なことだったわけです。
 やがて,マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると,「ゲルニカ」はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移されました。guernica


◇◇◇
Wolf Moon.

1月の満月は2022年の最遠の月でした。
同じ日の太陽を同じスケールで並べてみました。 aaa


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 今日の1番目の写真はずいぶん前に写した国際宇宙ステーションの写真です。自らは光らないので,月と同じように太陽の光を反射して夕方の太陽が沈んがあとと明け方の太陽が昇る前に予報通りの時間に簡単に見ることができます。国際宇宙ステーションは巨大なので,1等星よりずっと明るく,都会でも確かめられます。
 写真を撮るには,見えはじめてから消えるまで5分程度あるので,そのまま5分間露出をしてもよほど空が暗い所でなければ露出オーバーになってしまいます。そこで,20秒ほどの露出で何枚も写して,後で画像処理をして写真を合成することになります。
 写真を撮る以上に,肉眼で見たときに,そこに人が乗っていると思うと,それだけで感動的です。
  ・・
 ということですが,夕暮れ時に散歩したり望遠鏡で星を見ていると,国際宇宙ステーション以外に結構多くの人工衛星を目撃することがあります。しかし,これまでは関心もなく,また,そうして見ることができる人工衛星が何であるかも知りませんでした。

 国際宇宙ステーションを見飽きたこともあって,そうした人工衛星に興味をもつようになったので調べてみると,見ることのできる人工衛星のさまざまなデータが載っているサイトを見つけました。
 そうした中で,ハッブル宇宙望遠鏡が肉眼で見ることができることがわかりました。これはぜひ見て見たいと思いました。そこで「百聞は一見にしかず」ということで,ハッブル宇宙望遠鏡を撮ってみることにしました。
  ・・・・・・
 ハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope=HST)は,1990年4月24日に打ち上げられた地上約600キロメートル上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡です。長さ13.1メートル,重さ11トンの筒型で,内側に反射望遠鏡を収めていて,主鏡は直径2.4メートルです。地球の大気や天候による影響を受けないので,地上から困難な高い精度での天体観測が可能です。
  ・・・・・・

 データを見ると,幸運にも,1月10日くらいから1週間ほど,毎朝,明け方の南の空で見られるということがわかったので,連日期待しました。早起きしてカメラを構えます。ところが,雪雲があって,なかなか晴れません。
 なんとか雲が切れてその間から星が見られたのが1月15日の早朝でした。
 南の空にはからす座の四角形が見えていました。
 ハッブル宇宙望遠鏡は,そのあたりを西から東に飛行するようですが,これまで見たことがないので,どのように見られるかわかりません。時間になったので凝視していると,雲の間を約2等星ほどの星がゆっくりと動いていくのが見えました。これが待望のハッブル宇宙望遠鏡でした。こちらは人間が乗っているわけではないのですが,これがあの有名なハッブル望遠鏡かと思うと,別の意味で感動しました。
 思っていたよりよく見えた,というか,国際宇宙ステーションよりかなり暗かったというか,そんな感想をもちました。やはり「百聞は一見にしかず」で,どのようなものかもよくわかりました。こうして,この日写したのが2番目の写真です。合成をしたものですが,薄雲に隠れてしまって,ちょっと残念な結果となりました。拡大してみると,記入した矢印の先に細い線のように見えるのがハッブル宇宙望遠鏡です。
  ・・
 これでは満足できないので,翌日に期待しました。
 1月16日早朝。昨日とはうって変わって快晴になりましたが,あいにく月齢13.0の月が沈みきらず,西の空に明るく輝いていました。月明かりは空を白くし,星や人工衛星を見るには大敵です。それでも,思ったより明るいハッブル宇宙望遠鏡がゆっくりと南の空を西から東に進んでいくのが見えました。それが今日の3番目の写真です。
 肉眼で見ていたときは気づかなかったのですが,この写真には同時に何か別の人工天体が写っていました。それが何か,調べてみてもよくわかりません。
 ということだったのですが,ハッブル宇宙望遠鏡がどのように見られるかがわかったので,これからまた作戦をねって,さらに満足な写真が撮れるように色々と工夫をしていきたいと思います。またひとつ楽しみが増えました。

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 2022年1月15日に放送されたNHK総合の「ブラタモリ」のテーマは和歌山でした。
 私の住む愛知県から和歌山県というのは,縁遠い場所です。あえて行こうと思わないとなかなか行くことができないところです。その和歌山県の県庁所在地和歌山市へ,あえて行ってみようと,2019年に出かけたことはすでにこのブログに書きました。
 現在の和歌山県,江戸時代の紀州藩は,徳川御三家のあったところです。立派な城があり,私はぜひ行ってみたかったところでした。実際に行って,和歌山市というのは,言葉は悪いのですが,さびれた都会でした。現在は大阪市のほうに目が向いてしまい,発展する要素があまりないように感じました。また,江戸時代の御三家のひとつである紀州藩の城が平城というよりもけっこう険しい丘の上の城であったことにも驚きました。
 私は,江戸時代にどうしてこの地が重要だったのか,ということに疑問をもって,和歌山城に行ったときに,そのことを聞いて納得した覚えがあります。
 そしてまた,この1か月前,私は,紀伊半島を1周する旅に出て,今度は紀の川を下ってみました。番組で説明していたように奈良から平地を南に下ると簡単に紀の川に出られるし,紀の川を使って紀伊山地から木材を運搬していたこともまた,実際に川の姿を見て納得しました。
 「どうして和歌山に御三家が置かれたのか?」 それが今回のテーマだったので,私は興味をもってこの番組を見ました。番組の紹介は次のように書かれてありました。
  ・・・・・・
 江戸時代に御三家のひとつだった紀州藩。江戸から離れていながら全国有数の大都市となった秘密をタモリさんがブラブラ歩いて解き明かす!
 「ブラタモリ#195」で訪れたのは和歌山県・和歌山市。紀伊国で旅のお題「和歌山に御三家が置かれた鍵は?」を探る。
 ▽紀の川で和歌山の立地の秘密を解き明かす!
 ▽カギは中央構造線?
 ▽豊臣秀吉がたった3か月で和歌山城をつくることができた理由とは!?
 ▽結晶片岩の石垣で考える。和歌山には巨大な砂丘があった?
 ▽その成り立ちとは?
 ▽梅干し・みかん…
 ▽徳川頼宜が和歌山にもたらしたものは?
 ▽そして,徳川家康と頼宜・父子の絆。
  ・・・・・・

 実際に歩いてみると,この番組で説明されていたことがとてもよくわかりますし,和歌山城がどうして平城というよりも小高い丘の上の城だったのかということも納得できました。
  ・・
 水は高い所から低いところに流れる。
 これが人間の築いた歴史のすべてです。だから,地図帳を眺め,そして,その地に行ってみれば,私の抱いてた疑問はすべてわかるのです。すべては,必然のなせる業なのです。だから,紙の上で学ぶ知識よりも,体験することのほうがずっと重要だということを身にしみて感じるわけです。
 先月行った和歌山で,丘の上のいたるところにミカン畑があるのも,とても自然に思える風景でした。南を向いて日当たりがよく,しかも,平地が少ないから,そこにミカン畑を作るというのは当然の成り行きだったのでしょう。しかし,今は,ミカンだけでなく,白桃もたくさん作られているようで,「ミカン,桃」と書かれた販売所がたくさんありました。
 桃のほうが高額なので経済効率がいいからなのかな?
 このことに関連して,話は飛躍しますが,ニュージーランドでは,近年,需要の少なくなった羊を飼うことより,馬や牛を飼うことに移行しつつあるというのもまた,実際に行って見てくるとわかることです。これもまた「和歌山=ミカン」「ニュージーランド=羊」などと参考書から丸暗記したところでわからない現実の姿なのです。
  ・・
 今,日本は共通テストやらの真っ最中。新聞に載っている問題の量を見るだけでめまいがします。
 今どきコンピュータを使えば簡単にわかる情報や過去の入試問題の解き方を,貴重な若者の高等学校の3年間という時間を費やして覚えさせた結果がこれ。これでは日本がさらに劣化します。人と比べたり点数争いばかりをさせれば,若者の精神が病むはずです。
 体験のない知識は絵にかいた餅以下です。

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 単にボケ防止と暇つぶしにNHKラジオ第2放送「まいにちドイツ語」を聴いている私ですが,ラジオ講座のテキスト以外に,前回書いた「英語と一緒に学ぶドイツ語」「英語から覚えるドイツ語単語」とともに購入した本があります。それは,講談社現代新書の「はじめてのドイツ語」という本です。この本はすでに絶版となっているのですが,古書を買うことができます。
 アマゾンコムにつぎのようなコメントがあったのが購入したきっかけでした。
  ・・・・・・
 (格変化という点で)ドイツ語は英語やラテン系諸語に比べてひとつ難しい要素が増えているといえなくもないのですが,本書ではこの名詞の格変化とそれと密接に関係する動詞による格支配および基本文型についての説明が充実していて、かつ、非常にわかりやすい!
 (中略)とかく難しいといわれるドイツ語をぐっと身近なわかりやすい存在に引き寄せてくれている。
  ・・・・・・
 実際に手に取って読んでみると,私には非常に難しい本で,期待していた内容とは違いました。
 再びコメントを読んでいくと,次のものがありました。
  ・・・・・・
 文法重視で「はじめて」にしては難しく,最後まで読めませんでした。もっとドイツ人の習慣とか,コラムでもいいのでドイツ語やドイツ人が身近に感じられる内容が欲しかったです。
  ・・・・・・
 私の感想は,むしろこれに近いものでした。
 想像ですが,講談社の編集の人は,おそらく,ドイツ語を知らない人が興味を持つような平易なものを期待して執筆を依頼したのではないかと思います。が,完成した原稿は,そうではなかったと。とはいえ,だからといって,この本に価値がないということではありません。

 ピアノの練習やスイミングスクールなども同じですが,そこには,自分の生まれ持った才能が歴然とした大きな壁となり,そのために,プロにになりたいという意欲が生まれる人から単に楽しみでいいと悟る人まで,その到達目標がさまざまになるわけです。そこで,自分の到達目標にあう教材が必要である,ということです。
 不思議なのは,学校教育では,だれしもが学者になるようなカリキュラムになっているということです。だから,学生のころ,そうした内容の勉強をしてきた,というか,させられてきたことになります。ところが,テレビの教養番組のそのほとんどは,見ている人を小ばかにしたような低次元のものばかりなのです。このことは私の友人も同じことを言っていました。しかし,実際は,見ている人の多くは本当に何も知らない。であれば,学校教育というは,単に点数争いをしているだけで,何もものになっていないし身についていない,それだけならともかく,むしろ,嫌いにしているだけ,ということになります。そうならば,学校教育というのは大いなる時間とお金のムダ使いをしているわけです。まあ,日本の教育行政は,塾とか参考書などの教育産業の育成のためにやっているようなものですから。
  ・・
 2018年,はじめてオーストリアに行ったときに隣に座った人がドイツ在住の日本人で,当然のことながらドイツ語ができるというのに,私は驚きました。大学に入ってはじめて学んだ第2外国語,こんなにおそく,それも週に数単位だけ講義を聴いたところでどうしようもない,と当時の私は思ったのですが,実際は,そのころに勉強をはじめてもものになることがあるんだなあ,というのが衝撃でした。多くの人にとって第1外国語である英語すらまともに使いこなせないというのに…。
 しかし,ドイツに住んでいるというのならともかく,また,職業で使うという人は別として,それ以外の人でドイツ語を学んだところでそれが必要になるという人がはたしてどれほどいるのだろうか,とも思っていました。私も,ドイツ語圏のオーストリアに行ったとき,ほとんどは英語で事足りました。ただ,乗っていた列車が途中で不通になっていて,代替のバスに乗らなければならなかったときと,利用した公共交通機関のチケットに書かれたドイツ語がわからなかったときだけ,ドイツ語を知っていたらよかったのになあ,と思ったくらいです。しかしそれもまた,スマホを使えば簡単に翻訳できました。
 だから,自己満足と暇つぶしで楽しく接することができればそれでいいのかな,どうせ,ボケ防止が目的だから,とまったくできるようにならない私は強がっていたのですが,実際は,それを越えて,これまで知らなかったドイツ語圏の文化やら歴史に触れることができたのが,すごく興味深く,ためになるのでした。言葉の勉強は実はその言葉を話す人たちの文化を知ることだったのです。ならば,学校教育でも,世界史とか地理とか音楽とか美術は,語学教育とからめたほうがずっと効率的だし魅力的です。
 それでも,ドイツ語は,しみじみ,難しい言葉だなあ,というのが,今の私の気持ちです。ドイツ人のもつある種の厳密さが,自らの言語を窮屈にしているような,そんな気にさせられます。それは,日本語のもつあいまいさといい加減さの真逆な世界です。
 だからこそ,この先もずっと楽しめそうです。なにせ,いくら取り組んでも,さっぱりものにならないけれど,これまで知らなかった世界があまりに広いことに気づいたからです。

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◇◇◇
大雪。

昨日1月14日の早朝は大雪でした。
光を当てて写真を撮ると,こんなに幻想的になりました。
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 2018年,2019年と2回オーストリア旅行を楽しんだ私は,ドイツ語がわからない不便さを感じて,せめて駅の掲示板くらいは理解できるようになりたいと,ドイツ語を勉強するようになりました。とはいえ,NHKラジオ第2放送の語学講座「まいにちドイツ語」を聴いているだけのことですが…。
 このごろはラジオ放送の語学講座は,インターネットで時間を気にせず,気の向いたときに聴くことができるので大助かりです。私は,語学の才能はまったくないのですが,毎日こうしたことを続ける才能だけは持ち合わせているのです。
 しかし,まったく身につきません。
 もともと,ボケ防止がほんとうの目的で,身につけようという気持ちがさらさらないのが原因なのですが,それでも楽しいものです。
  ・・
 私が大学生のころは第2外国語を学ぶことが当然の時代だったので,ドイツ語を選択したのですが,それは,クラシック音楽が好きだったのが動機にすぎず,まったくできるようになりませんでした。それなのに40年も経ってからまたはじめたのですから,懲りないものです。
 私は,もし,今,大学生だったら,何らかの生業とする専門以外には,英語とドイツ語,Pythonというコンピュータ言語,車の運転,苦もなく料理が作れる,そして,何かひとつ楽器が弾ける,これだけを身につければ,将来,日々楽しい生活がおくれると思うのですが,40年以上経ってもそのほとんどができないわけで,人生は思ったより短く,かつ,できるようになる能力を持ち合わせず,なかなかままらないものです。

 ということなのですが,そうしたいい加減な私のドイツ語の「お勉強」で,最も不便だと思うことを今日は話題にします。
 それは,はじめて英語を学ぶときと同じように,ドイツ語の学習でも,もととなる言語が日本語だということです。どうしてなのだろう?
 ドイツ語を学ぶ人のほとんどはすでに英語を学んでいます。また,ドイツ語は日本語よりも英語の方が近い仲間の言語です。であれば,英語との違いをもっと強調してして学習する方がずっとわかりやすいのになあ,単語にせよ,文法にせよ,英語との違いを知るほうがずっと理解しやすいのになあ,といつも思っていたということです。そこで,そんな本がないかと探していて1冊の本を見つけました。それは「英語と一緒に学ぶドイツ語」という本でした。そこで,早速購入してみました。この本では,英語の文法と比較して,ドイツ語の解説がしてありました。
 この本を読んで,やっと納得のできたことが数多くありました。
 次に探していたのは,日本の高校生が使っている英語の基本単語集にドイツ語もついているような本でした。「英語と一緒に学ぶドイツ語」の姉妹編として「英語と一緒に学ぶドイツ語単語」という本があるにはあるらしいのですが,私の欲しい本とは内容が少し違うようでした。
 私が欲しいのは,英語の基本単語,およそ3,000語ほどが,英語の単語と対比させてドイツ語ではどういうのかが書かれてあるものでした。当然,品詞や用例など,英語と全く異なるものも少なくはないのですが,そういう細かな話は覚えた後の話として,日本語の単語からドイツ語の単語を覚えるよりは英語の単語からドイツ語の単語を覚えるほうがずっと簡単です。と思って探していたら「英語から覚えるドイツ語単語」という本(古書)を見つけて,これもまた購入しました。

 こういうことを書くと,多くの専門家やら「まじめな」人は,邪道だといっていろいろと批判をします。それは,どうも日本人は「お勉強」といえは,本格的に専門家になるためにするものだと思っているようだからです。あるいは,「お勉強」の目的は何らかの資格試験に合格することがすべてだったりします。こうしたことになってしまうのは,きっと,順位争いばかりしている,そしてまた,大学入試に合格することが目的となってしまっている学校教育で洗脳された結果からくるものでしょう。そこで,上記の本についても否定的なコメントが目につくわけです。
 しかし,車の運転を学ぶときも,だれしもプロの運転手になるわけでなく,料理を覚えるのも,プロの料理人になるわけではないのと同じように,語学もまた,多くの人には,検定試験で合格するとか,プロの翻訳家になるのではなく,旅行のついでに不便を感じない程度の能力が身につけばいいのです。言葉など人とコミュニケーションをする手段にすぎません。
 きっと「英語ができるようになりたい」というようなほとんどの人にとって,語学を身につけたいという目的はその程度でしょう。だから,英語もそうですが,英語だけでなく日本の外国語学習は,もっと容易に,また,楽しんで学習できるような工夫が足りないのではないかといつも思います。
 …などと,生意気なことを書いてはみたものの,私は今もって,まったくドイツが覚えられません。

bbb


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 「食わず嫌い」ではないけれど,私は,ほとんどのドラマを第1回から見はじめないのです。それは,番組の宣伝だけでつまらなそうだ,といった先入観をもってしまって,見るのを避けてしまうからです。今回の連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」もそうでした。何を今さら英会話? と思いました。 しかし,一度,ふと何かの機会で見たときに,そのすばらしさにすっかりはまってしまいました。
 これはおもしろい。
 ということで,2020年にはまっていた「エール」以来何作目かで,また,朝が楽しみになりました。
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 「カムカムエヴリバディ」は,2021年度後期放送のNHK「連続テレビ小説」第105作として,11月1日から放送されている日本のテレビドラマ。京都,岡山,大阪を舞台に,昭和から令和の3つの時代をラジオ英語講座と共に生きた祖母,母,娘の3世代のヒロインの一世紀(100年)におよぶ家族の物語をハートフルコメディーとして描く。
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ということですが,ドラマの感想は,いろんな人がいろいろと書いているので,ここではやめて,その代わりに,ラジオ英語会話番組の草分け「カムカムエヴリバディ」にちなんで,NHKのラジオ語学講座の思い出について書きます。

 私は,中学校1年生ではじめて英語を学んだとき,すすめられたのがNHKラジオ第2放送の「基礎英語」という番組でした。私は,毎日かかさずこうした講座を聴く,といった継続が得意なのです。現在に至るまで,多くのラジオ語学講座にお世話になりました。もともと能力が不足しているので身についたとはいえませんが,それでも,ほとんどお金をかけず,いろんなことを学びました。
 さて,私が12歳ではじめて聴いた「基礎英語」の講師は,調べてみると北村宗彬という慶応義塾大学の先生でした。と知ると,名前に憶えがあります。さらに調べてみると,北村宗彬先生に大学で習ったという人のブログがあって
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 (北村宗彬先生が言うには)英会話のためには文法なんて中2程度+(would like to などを含む)仮定法で十分だ(ということだった)。これは本当にそうだ。今,大学でこういう話を学生にすると大いに反発するのだが実際これで十分だ。そして,だからこれから「話す方法を学ぼう!」。
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と書かれてありました。この北村宗彬先生の「基礎英語」で聴いた中で今でも覚えているのは発音です。それは,英語には[オ]という短母音はなく,[ア]と[オー]のどちらかだと習ったことです。たとえば,longという単語は,[ロング]ではなく[ラング]だというわけです。
 ところで,私は,これもまたいつものように背伸びして,はやくそのあとに放送されていた「英語会話」という番組が聞けるようになりたいものだと思っていたのですが,その「英語会話」の前身が「カムカムエヴリバディ」だったのです。
 「カムカムエヴリバディ」は第2次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)2月から1951年(昭和26年)2月までは平川唯一さんが担当し,「カムカム英語」として親しまれたということは,私は,ずいぶん以前から知っていましたが,こうした番組がはじまると,そのときやっと脚光を浴び,マスコミが騒ぎ立て,終わるとともに忘れさられるというのがこの国のミーハー的社会の姿です。だから,いつも私はまたか,何やっとるの… と思ってしまうわけです。

 さて,中学校の2年生になった私は「基礎英語」を卒業して「続・基礎英語」に挑戦しました。「続・基礎英語」の講師は安田一郎という有名な人で,「基礎英語」とはうって変わって,文法重視,言い換え練習を繰り返す,リズミカル,かつ,ハードな番組でした。でも,ためになりました。初学者にはこうした練習が大切だったのでしょう。
 そんな「お勉強」中心だった「続・基礎英語」もそこそこに,中学校3年生で,待望の「英語会話」を背伸びして聞きはじめました。この番組はその後,ずっと聞き続けました。そのときの「英語会話」は松本亨という人が講師だったのですが,松本亨先生は 1951年(昭和26年)4月から1972年(昭和47年)3月までという21年間も「英語会話」を担当した英語教育のカリスマのような人でした。松本亨先生の次が東後勝明先生で,すごく発音がよかったのが印象に残っています。
 一般の人を対象としたこのころの「英語会話」という番組は,学校の英語とはまったく違った非常におおらかでのんびりしたものでした。私は英語の専門家になるわけでなく,語学というのはコミュニケーションが取れればいいというのが目標だったから,いわゆる受験英語とはまったく違ったこうした番組を楽しむことができたことがとてもよかったと,今にして確信します。

  ・・
 資格試験も入学試験も順位争いも無縁で語学の才能のまるでない私が「お前の英語は一般の日本人の話す(学校で習ったような)英語と違う」とネイティブに言われるブロークンな英語でもちゃんと意思の疎通ができて,海外に出かけては多くの友人と国籍も言葉の違いも関係なくお話をしたり食事を楽しんだりできるようになったのは,語学ならぬ語楽だったからこそであり,また,これぞ,こころがあれば通じるという「カムカムエヴリバディ」の流れをくむ初期のラジオ「英語会話」で知らず知らず身につけたコミュニケーション能力のたまものなのでした。
 思えば,これが私の原風景でした。
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 英語は勉強ということではじめるクセがついている
 それではダメです
 英語は口真似遊びという遊びで覚えないと大成しない
  平川唯一
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 今日の写真は,私が長年夢だったサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジとニューヨークのブルックリンブリッジを歩いたときのものです。

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 私はお笑いタレントというものが苦手です。彼らが出演するテレビ番組を見たいとは思わないのです。しかし,現在,民放はもとよりNHKでも,教養番組などの進行役でさえそのような人たちが出ていない番組を探すほうが困難な状況になってしまいました。そんなわけで,もとからテレビの報道番組はまったく見ないので,限られたドラマや「コズミックフロント」以外見るものがなくなり,次第にテレビをつけることから遠ざかりはじめました。
 そして,静かになった日常では,音楽を聴くことがさらに幸福だと感じるようになってきました。
 そんな音楽で,私が好んで聴くのが,ブルックナーの交響曲であり,ベートーヴェンの弦楽四重奏曲ですが,それが発展して,このごろは,ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲にはまりつつあります。

 ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲は15曲あって,ベートーヴェンの16曲,シューベルトの15曲,ドヴォルザークの14曲に匹敵します。また,第1番が作曲されたのが32歳で,すでに交響曲第5番を作曲したあとであり,最後の第15番は,ショスタコーヴィッチ亡くなる前の年に完成されているということで,ベートーヴェンの弦楽四重奏曲に似ています。
 しかし,ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲は演奏会でとりあげられるようなものではありません。それは,そのほとんどは暗く,切なく,そして,理解が困難だから,聴衆うけしないからです。たとえば,最後の第15番は「恐怖の暗黒音楽」とさえいわれ, 全6楽章が変ホ短調で,すべてアダージョからなっています。変ホ短調なんてフラット記号が6個もついていて,私は楽器が弾けないのでわからないのですが,演奏はかなり大変そうです。しかも,大変なのに,実際に演奏しても,聴く側はまったく理解できないとあっては,苦労のし甲斐もないというものです。

 ショスタコーヴィッチは旧ソビエト連邦で苦労した作曲家であることはあまりに有名ですが,もし,その才能をもって,オーストリアなどで生まれていたら,はたして,どんな音楽を書いたのだろうかと思います。しかし,ある意味,ショスタコービッチの狂気すら感じる魅力は,皮肉にもソビエト連邦の悪政があったからこそ生まれたのかもしれません。
 交響曲では旧ソビエト連邦の体制から多くの批判を受けたのですが,私は,この地味な弦楽四重奏曲で,作曲家のこころを吐露しているのではないだろうか,と聴きながら思います。お前たちのような下世話な人間にはわからないだろう,と報復をしているかのような感じです。そしてまた,ショスタコーヴッチの現世に対する執念と怨念は,自分のためだけに書いたと本人が言っていたとしても,実際は,聴く耳をもった聴衆だけが理解し楽しめるように作られたものだからです。
 してやったりとほくそ笑んでるショスタコーヴッチの笑い顔が浮かんでくるようです。私も愉快です。

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 自分の楽しみで日々空を見上げているだけなので,高価な機材を持っているわけでもなく,買う気もないのですが,それでも,長年楽しんでいると,安価であっても愛着のあるものがけっこうあります。
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 そのひとつが2017年8月にアメリカ・アイダホ州で皆既日食をみるために買った小さな屈折望遠鏡です。それだけで役目を終えるのも気の毒なので,写真用の三脚に微動装置のある架台に載せて,太陽や月を写すのに使っています。
 今日の写真は2022年1月9日の朝写した日の出ですが,大きな黒点があったので,ピントを調節して,少し高度が高くなった時に再び写してみました。
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 太陽活動領域(solar active regions)は太陽フレアなどが発生するコロナ中の局所的な発光領域のことですが, アメリカ海洋大気庁 (National Oceanic and Atmospheric Administration=NOAA)によって1972年以来,番号づけがされています。
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 この日の黒点は,上側のペアが12924で,下側の小さなほうが12925です。
 太陽には活動周期があって,2020年ころはほとんど黒点がなくなってしまったのですが,このごろは結構大きな黒点が見られるようになったので,それなりに楽しめます。

 ふたつめは,オーストラリアで南半球の星空を写すために購入した簡易赤道儀です。海外に持っていくためになるべく軽いものということで選んだのですが,こちらは広角レンズや魚眼レンズで星野写真を写すのが目的でした。
 この機材もまた,海外旅行ができないこのご時世,遊ばせておくのもかわいそうだと思っていたのですが,レナード彗星(C/2021A1 Leonard)が夕方の西空低く見られるようになったので,少し荷が重いのですが,180ミリの望遠レンズをつけたカメラをこの機材にとりつけて,1秒程度の露出で写るかを試してみることにしました。
 とはいえ,まったく恒星が見えない街中なので,頼るのは水星,土星,木星といった惑星です。まず,この3つの惑星が入る広角レンズで構図を決めてレナード彗星のある位置を特定してからレンズを交換して写すことにして,数日楽しみました。こうして数日写した結果,レナード彗星の位置が地上の景色を基準にしてわかるようになりました。
 今日の写真は2022年1月8日のものです。もう,ほとんど限界だったのですが,なんとか写りました。それが3番目のものですが,これではわかりにくいので,レナード彗星のあるあたりだけ拡大したのが4番目のものです。なお,3番目の写真には,レナード彗星の位置のめやすとなる2つの恒星が写っています。左側のものがつる座のガンマ星GSC7494.1748(γ Gru)で,上右がみなみのうお座のイオタ星GSC7490.1839(ι PsA)です。また,4番目の写真の右上の恒星はみなみのうお座の暗い恒星GSC7493.1118です。
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 GSCはガイドスターカタログ(Guide Star Catalog) といって,ハッブル宇宙望遠鏡が軸外の恒星を捉えるのを支援するために編集された星表です。15等星までの約2,000万個の恒星が含まれ,さらに,21等星までの9億4,559万2,683個の恒星が加えられました。これは,外宇宙の航行のために特別に作成された初の全天の星表です。
 また,昔からあるバイエル符号(Bayer designation)は,ドイツの法律家ヨハン・バイエル(Johann Bayer)が1603年に星図「ウラノメトリア」(Uranometria: Omnium Asterismorum Continens Schemata, Nova Methodo Delineata, Aereis Laminis Expressa =ウラノメトリア:新しい方法で描かれ銅版印刷されたすべての星座の図を集めたもの) で発表した恒星の命名法で,星座ごとに原則として等級順にギリシャ文字の小文字α, β, γ, …… と名づけたものです。
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月,木星,土星,水星。

1月10日。日没後の快晴の西の空。
月齢8.6の月は天頂に。
水星が地平線ぎりぎりに写りました。
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 鵜沼宿から加納宿まで旧街道に沿って車で走ってみることにしました。ここは歩くと約17キロメートルあるので,4時間程度かかります。しかし,ずっと平地で,現在は国道21号線,JRの高山本線,名鉄の各務原線に沿っている市街地です。そこで,江戸時代のころは田んぼのなかを単調な道がつづいているだけの楽なところだったのだろうと思っていました。しかし,実際は,観光パンフレットによると次のような場所でした。
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 鵜沼宿の西は3里,12キロメートルにわたって「かがみ野」という場所で,ほとんど人家がなく,山賊が行き来する人々を狙っていたために,旅人にとっては恐ろしく難所だったようです。
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 現代の風景しか知らない私には意外でした。平地は山賊が出没し,山は険しい峠越え,川は川止めになるというように,当時の旅は過酷なものでした。

 また,鵜沼宿から加納宿までの旧街道は現在
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 この区間はほとんどが国道21号線やその旧道と重複しているため,往時の面影を求めようとするには非常に困難なものがあります。
 かつては「かがみ野」の原野を通っていたのですが,現在は交通量も多く,商店街などの街並みに変わってしまい,中山道の面影はほとんど残されていません。
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とあるのですが,走ってみるとそんなことはなく,家々の間を車がやっとすれ違えるほどの車幅の道が続いていて,明らかに旧街道だった雰囲気がしました。

 途中,新加納に間の宿がありました。カギの手になった場所や石造りの道標が残っていました。
 こんな長い距離,途中に間の宿があるのは当然か,と思いました。
 そうこう走っていくと,以前,歩いたことがある加納宿に到着しました。そのころ,その先に伊吹山が雪を被ってとてもきれいに見えるようになってきたので,その姿を追い求めてさらに走っていくと,いつのまにか墨俣まで来てしまいました。
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 コロナ禍以降,歩くこともしばらくなかった旧街道でしたが,今回,こうして行ってみて,また,歩いてみようかな,と思いはじめました。

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 前回書いたように,鵜沼宿から東の太田宿までは登り坂で,うとう峠を越す必要があります。このあたり,以前歩こうとして地図で調べたことがあったのですが,よくわかりませんでした。そこで,今回,実際はどうなっているか,少し車で走ってみることにしました。
 うとう峠は観光案内には次のように書かれています。
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 「うとう坂」とよばれたこの峠道は難所で,(その先の)御嶽宿から細久手宿に向かう途中の「謡坂」と同じ名前ですが,こちらの「うとう」は謡うではなく「疎う」。きっと疎ましいほどの場所であったのでしょう。
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とありました。
  ・・
 現在,この急坂の途中までは団地として造成されていました。この坂の上の住宅は高級そうですが,私は,こんな坂の上に住むと老後がたいへんなのに,と思ってしまいます。車がないと出かけることもできません。
 それはさておき,団地の先は自動車が通れる道はありません。さらに奥は「日本ラインうぬまの森」とかいう公園になっていて,その先,旧中山道は木曽川まで石畳がひかれて整備されているようでした。 
 まあ,いわば,ここは各務原市の観光資源のようです。かつ,地元の人の散策コースなのでしょう。私は,またいつこの先の旧中山道を歩いてみたいものだと思ったことでしたが,今回はここまでです。

 さて,鵜沼宿に戻って,お昼をとることにしました。国道21号線と鵜沼宿の入口の交差点に小ぎれいな喫茶店があったので久しぶりに入ってみました。若いころは喫茶店もずいぶんと行ったものですが,このごろは行くこともなくなっていました。平日のお昼前なのに,けっこうなお客さんがいました。まだモーニングサービスをやっていたので,遅い朝食,といったところでしょうか。
 私も以前は新聞や雑誌を読むのが目的で喫茶店に入ったものですが,もう,私の世界では,そうしたものは存在していません。紙媒体の新聞こそ,デジタル版だけ購読するより「紙+デジタル」のほうが実は安いので,まだ家には届きますが,読むのはデジタル版だし,雑誌などは情報として価値が低いので書店に行っても全く読まなくなってしまいました。また,そうでなくとも,このご時世では,他人の読んだ新聞や雑誌など手に取るのも不気味です。しかし,店内では,さすがに20年以上前のように店内にはタバコの煙が… というものはなくなっていましたが,私が10年以上も前に目にしていた風景,つまり,モーニングサービスを頼んで,雑誌や新聞を読みふけっている…,というのがそのままありました。
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 こういうところを見ると,この国では,デジタル化,だとか,人工知能,だとかいったところで,何も変わらない世界が大半なのだということを思い知ります。喫茶店でなくとも,マクドナルドでも,座席でモバイルオーダーすればいいのに,注文カウンタの前でスマホ片手にずらりと並んでいる人がたくさんいて,私には??? 疑問が絶えません。これでは世界から遅れをとるはずです。日本はまだまだ昭和なのです。
 お店を出るとき,きっと現金しか使えないだろうと覚悟をしていたのですが,PayPayで支払えるのに,今度は逆に驚きました。レストランにある,空気の流れを妨げ汚いだけのアクリル板といい,この寒い季節に摂氏33度を示すだけで不正確で意味のない体温計といい,いつものように,やったふりばかりの摩訶不思議な日本。どうやら,私は,もはやこの国では生きていけないのかもしれません。

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 気が向いたときに旧街道をきままに歩いています。少し前に御嶽宿から西に太田宿まで歩こうと出発したのですが,途中で明智へ寄ったので,伏見宿まででした。その後,今度は加納宿から西へ美江寺宿まで歩きました。ということで,その間の加納宿から伏見宿までが未踏破となっていました。
 先日,国道21号線を走っていたときに鵜沼宿を見つけてそれ以来気になっていたので,今回,鵜沼宿あたりを散策することにしました。
 鵜沼宿からその次の加納宿までは約17キロメートルもあって,歩くと5時間ほどかかりそうです。その間は平地で,JRと名鉄が通っています。そこで,無計画に出かけて電車に乗りながら歩こうと考えていたのですが,コロナ禍でそんな気もすっかりなくなってしまい,今回は,鵜沼宿だけ行って,後は,車で旧中山道を加納宿まで走ることにしました。鵜沼宿は未踏破の加納宿から伏見宿までの間にあります。
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 なお,鵜沼宿から東の太田宿までは8キロメートルですが,ここは登り坂,うとう峠という難所があります。ここを歩く計画を立てていたのですが,これはあとまわしです。そしてまた,私は,坂は下るに限る,という信念? から,もし将来歩くときは太田宿から出発して鵜沼宿に到着するプランを立てることになるでしょう。

 さて,鵜沼宿です。
 旧街道はどこも昔のままであれば車がすれ違える程度の幅しかないので,車両が通行禁止だったりあるいは一方通行だったりするのですが,鵜沼宿はそんなこともなく,車で通行できました。そしてまた,駐車場も広く,無料でした。ということで,無料の駐車場に車を停めて,散策開始です。
 鵜沼宿に残っているのは4,5件の住宅だけなのですが,この住宅が宿場の雰囲気をよく残していました。また,脇本陣が建て直されていて,無料の博物館となっていました。
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 脇本陣の東にかつては本陣があったそうですが,持ち主が経済的な理由から売り払ってしまい,そこに分譲住宅が経ってしまっていました。宿場の保存計画がもう少し早ければそんなこともなかったのにと,博物館で説明をしていただいた係の人が言っていました。
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 鵜沼宿は日本橋から52番目の中山道の宿場です。
 江戸時代は尾張藩領で,南へ約2キロメートルの木曽川対岸に犬山城があります。 鵜沼宿には,神社や石造物,旅籠の面影を残す住宅などが残るものの,周辺の近代化が進んできたために,町屋館(旧武藤家住宅)の修復,脇本陣の復原,宇留摩庵の修復,景観重要建造物(古い家並や酒蔵)の保存改修などが行われ,せせらぎ水路の設置,電線の地中化,案内板の設置,道路の美装化や安全対策が図られ,往時を偲ばせる宿場町として再生されました。
 また,一里塚もかつては三箇所にあり,現在は,「山の前の一里塚」は岩の上に石仏が安置されているだけ,「六軒の一里塚」と「新加納の一里塚」は標識が残っているのみになっています。
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ということですが,歩いていると,なかなかいい雰囲気でした。
 私は,この国では,こうした風情がもっともこころが落ち着きます。

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月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢4.6の月。東方最大離角の水星。
その周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 オクラホマシティ(Oklahoma City)からアリゾナ州までのテキサス州とニューメキシコ州のルート66はほとんど走ったことがありません。
 唯一,サンタフェ(Santa Fe)あたりだけは,ルート66の標示を見つけて,こんなところを通過するのだと驚いたことがあります。
 その先,アリゾナ州のルート66はなかなかすばらしいところです。私が行ったのはフラグスタッフ(Flagstaff)で,インターステイツ40に並走してルート66が続いています。インターステイツ40を走っているとき,私が借りた車のカーナビの画面にはずっとルート66とかかれた道路が表示されていて,横を見ると,確かに,何度か写真でみたような風景があるのにうれしくなりました。

 フラグスタッフから東には,このブログに何度か書いたバリンジャー隕石孔(Meteor Crater National Landmark)と化石の森国立公園(Petrified Forest National Park)があって,私はインターステイツ40を走ったのですが,ずっとルート66が並走していました。
 また,その逆に,フラグスタックから西へもルート66が一部インタ―ステイツ40と交わりながらも,ほぼ並走し,ウィリアムズ(Williams),セリグマン(Selogman)といった,ルート66通には有名な町を通っています。
 その中心にあるフラグスタッフは,私はその町で1日を過ごすのをずっと夢見ていたのですが,その夢を2019年に実現させることができました。このことも別のブログに書きましたが,私のこころに残る町の中でも,特に大きな意味をもっているところです。

 ウィリアムスは古きよきルート66をほうふつとさせる町。多くの観光客で賑わいを見せています。
 観光地といえば確かに観光地化しすぎているのですが,それなりにおもしろいところ,日本でいえば高山のようなところです。
 その一方で,セリグマンは小さな町で,あっという間に町を過ぎてしまうのですが,ここには有名なお土産屋さんがあるのです。それにしても不思議なのは,こんな小さな町なのに,私は,偶然,そこに2度も訪れたことです。こんな奇跡的なことがあるのでしょうか?
  ・・
 そんなわけで,フラグスタッフのあたりのルート66は,ルート66の制覇ができなくとも余りあるすばらしいところでした。

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◇◇◇
月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の快晴の西の空。
月齢3.6の月の周りの惑星,そして,レナード彗星。
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 2022年1月4日の早朝,夜明け前。2021年12月,ふたご座流星群を見てから流星群に興味が出て,もし晴れていればしぶんぎ座流星群を見てみよう,と思っていたその当日。
 しかし,あまりに寒いので,すっかりやる気がなくなりました。なんとか気力を振り起し,出かけたのはいいのですが,30分くらいで帰宅しました。その理由は寒かったことに加えて,ぜんぜん流れ星が見えなかった,ということにありました。
 私が写した写真がかろうじて今日の1番目のもの,これでは情けない限りです。とはいえ,ネット上にあるような写真は6時間も粘って写してそれを合成したとか,私とは別世界の話です。
 いずれにしても,ニュースではいつも流星群と大きく取り上げられているのに私は疑問をもっていて,その記事を書いた人は実際に流星群を見たことがあるのかなあと記事を見るたびに思います。日ごろ星ひとつ満足に見られない自然を破壊された日本。この国のマスコミもまた,みんなこの程度です。
 愚痴が出たところで,今日はしぶんぎ座流星群が満足に楽しめなかったので雑感でした。

 「3大〇〇」というのは語呂がいいのでいろいろありますが,ここでも「3大流星群」というのだそうです。国立天文台のホームページによれば
  ・・・・・・ 
 毎年ほぼ安定して多くの流星が流れる3つの流星群「しぶんぎ座流星群」(Quadrantids),「ペルセウス座流星群」(Perseids),「ふたご座流星群」(Geminids)は「3大流星群」とよばれます。
  ・・・・・・
ということでした。
 「ペルセウス座流星群」は8月の中旬なので見やすいのですが,この時期は晴れません。それに対して,「ふたご座流星群」と「しぶんぎ座流星群」は天気はよいのですが,とても寒いです。若いころ,こたつに入って寝転んで流れる星の数を数える,といった観測方法が当時の「月刊天文ガイド」に載っていたのですが,こんなことは尋常ではありません。風邪をひきます。それに,前回も書いたように,ビュンビュンと流れるのならともかく,5分に1個程度では耐えられません。やはり,私には,流星観察は性にあいません。

 ところで,しぶんぎ座ですが,こんな名前の星座はありません。
 Wikipediaによると
  ・・・・・・
 しぶんぎ座(Quadrans Muralis)は1795年にフランスの天文学者のジェローム・ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande)が設定した現在使われていない星座のひとつ。現在のりゅう座・ヘルクレス座・うしかい座の境界付近にあった。
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とあります。「四分儀」(Quadrant)というのは,天体の位置を観測するために使われた機器で,360度の4分の1,つまり,90度まで測れるわけです。同じように,「六分儀」(Sextant)「八分儀」(Octant)があって,それぞれ,360度の6分の1と8分の1,つまり,60度と45度まで測れるというわけですが,これらは,星座にあります。
 ろくぶんぎ座(Sextans)はしし座とうみへび座の間にある地味な星座で,日本から見えます。しかし,はちぶんぎ座(Octans)は天の南極にあって,ちょうど天の北極に当たるこぐま座の反対ですが,これもまたすごく地味な星座です。今日の2番目の写真はハワイ,3番目の写真はオーストラリアで写したものですが,改めて見ると,とてもなつかしくなりました。数年前,毎年オーストラリアに出かけていたころは,極軸を合わせるために,この地味な星座にずいぶんと詳しくなったものですが,今では,これもまた,遠い世界の出来事のようです。

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月,木星,土星,水星,
レナード彗星。

日没後の西の空。
月齢2.6の月の周りの惑星,そして,レナード彗星が幻想的でした。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 2021年12月30日の朝日新聞から「住まいとかたち」と題したシリーズがはじまりました。2022年1月1日からはじめるのならともかく,どうしてこの年末の時期からこうした特集が? というのが私にはなぞでしたが,それはさておき,12月30日のこの記事にあった「小さな家」というものに,私はえらく感動し,かつ,うらやましくなりました。
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 玄関で靴を脱ぐ。1歩踏み出せば、そこはもうソファのあるリビング。見上げると、寝床のロフトが目に入る。水回りを加えれば、それが折出裕也さん(25)の住まいのすべてだ。
 「ここに住み始めたからこそ、見えてきたものがあったんです」
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からはじまるこの記事では,この小さな家の間取りが書かれてありました。私もこんな生活がしてみたいと思ったことでした。

 日ごろ散歩をしていると,いろいろな家が目につきます。ずいぶんとお金がかかっているだろうなあ,という家も少なくありません。その一方で,狭い土地をさらに輪切りにした見た目不便なだけの分譲住宅もたくさんあって,こんなもの売れるのかな,そうまでして持ち家がほしいのかな,と私はいつも思います。この国の景観の悪さは不動産屋さんと住宅デザイナーが原因だと私は確信しています。。
 しかし,そうまでして苦労して手に入れた家の多くは,持ち主が齢をとったころには老朽化し,子供も独立すると,やがては住むには広すぎ,直すにはお金がかかり過ぎとなってしまっていることが少なくありません。空き家もすごくたくさんあります。
 要するに,身の丈を越えているのでしょう。
 家に限らず,狭く,混雑した道路しかないこの国に,まったくふさわしくないような車がたくさん走っています。これもまた,身の丈を越えているのでしょう。

 私は齢のせいか,何もほしいものがなくなってしまいました。動けばいい,を越えた車を欲しいとも思わないし,家を見ても,こんな広い家に住むのは不便だ,と思うようになりました。要するに,若いころに欲しかったもののそのほとんどはいらないものだということが身に染みてしまったのです。
 つまり,人として最大の幸福である「自由であること」が地位や名誉とは正反対のものであるように,ものについても,結局は「断捨離」こそが最大の幸福だったのです。本当に必要なのは,健康とともに知恵だけだったのです。
 なお,今日の写真は京都の下賀神社に復元されている吉田兼好の庵です。


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 2021年12月13日に行われた将棋新人戦記念対局が昨日2022年1月2日にABEMAで放映されました。2021年度の新人王となった伊藤匠四段の対戦相手が時の人藤井聡太竜王でした。
 このふたりは子供のころからのライバルということで話題となりました。この先,このふたりがタイトル戦で対戦するようになれば,将棋界としては万々歳だと,みんなが期待しています。でないと,盛り上がりません。
 思えば,わずか3年前,2018年度の新人王は藤井聡太当時七段で,記念対局の相手として選ばれたのは第一人者豊島将之当時二冠でした。このころから豊島将之九段は藤井聡太竜王に対して,他の棋士と対戦する以上の気合をみせていたといいます。今回もまた,そのときと同じように,藤井聡太竜王は将来のライバルとなるかもしれない伊藤匠四段に非公式戦とは思えない白熱した対局をしたということです。

 それにしても,急に一般の関心を集め出した将棋界というのも大変です。
 以前なら愛好者だけの関心事だったので,古きよき時代ののんびりさやら,演出がありました。将棋界は商売上手で,藤井聡太という棋士のデビュー戦が加藤一二三九段というのも,意地悪な予測をすれば,演出気味だったし,最年少タイトル獲得というのも,コロナ禍でその達成が絶望視された中で苦し紛れのスケジュールの中で行われたものだと思うのですが,それでよしとしたものです。
 それが,新たなファンが殺到したものだから,これまではそれほど話題ともならなかった記録というものが,プロ野球のように重きをなしてきたわけです。そこで,録画で放映するNHK杯とか銀河戦などがその時間差から放映されるまで記録に含まないという古きよき伝統があるので,さまざなな議論が生まれていたりもします。収録から放映まで2週間程度のNHK杯ならまだしも,3か月も前に収録するような銀河戦の扱いは,やはり,今の時流からは問題かもしれません。
 今回は,現在までの伊藤匠四段の年間勝率が藤井聡太竜王より上回っているとかで,さらに盛り上がっていたのですが,実際は,その勝率にはすでに対局が行われたのに未放映の銀河戦が含まれていないので,それが勝ちであろうと負けであろうと,実際は32勝7敗ではないわけです。さらに,あるサイトによると,未放映の銀河戦のことではなく「4月11日に放映されたNHK杯での伊藤匠四段の負けが記録に含まれていないから実際は32勝8敗」とあるのですが,その対局は放映日が今年度であっても収録は2020年度だと思うので,将棋連盟のミスではなく,そのサイトの間違いでしょう。
 ということで,以前ならほとんどの人が興味のなかったことがかまびすしくなっている状況なのです。

 さて,私は,そんな記録よりも,「Floodgate」(コンピュータ将棋連続対局場所)のほうにむしろ興味があります。これは,コンピュータソフト同士による将棋の対局の場だそうですが,今,ここで最も話題となっているは,先手が既出のさまざな戦法を用いても,AIによる将棋では究極的にはみな千日手になってしまうで,これを打開するための革新的な初手,たとえば▲6八玉といった手を指す必要があるといった話です。
 そこで私は思うのですが,この先,量子コンピュータなるものが実用化されてしまったとき,本当に将棋の結論が出てしまうのではないか,ということです。つまり,あらゆる手を順番に樹形図として書いていったときに,必然的に結論が出てしまう。もし,その結論が先手必勝だったとしたら,後手がどんな手を指しても,樹形図にしたがって先手が最善手を指し続けていけば,その結果,必ず先手が勝ってしまうし,もし,結論が千日手だったとしたら,やる意味がない。であれば,将棋というゲームは終焉を迎えてしまうわけです。そのときにまだ人間の将棋の対局があったとしても,コンピュータの結論を人間が暗記できるかどうか,というだけの話となります。つまり,ミスをしたほうが負け。
 しかし,そこまではいかずとも,今すでに,プロ棋士がAIの示した最善手をいかに正しく指せるか,みたいなことになりつつあるわけで,今回の新人王戦の記念対局でも,何度か「これは人間には思い浮かばない」というAIの示す最善手を藤井聡太竜王が指して,解説者をうならせていました。現在はそれでみんな感動するのですが,このことは「藤井聡太という高性能コンピュータ」の指し手に対して相手がミスをすれば負け,みたいな状況になっているようなものです。
 いずれにせよ,コンピュータのハードウェアとソフトウェアの急激な発達で,将棋の終焉は思った以上に早くやってきてしまうのかもしれません。


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 2022年1月1日,NHKEテレでウィーンフィルハーモニー管弦楽団(Wiener Philharmoniker)のニューイヤーコンサート(NEUJAHRSKONZERT)を放送していました。私はウィンナワルツやポルカにはあまり興味がないのですが,ウィーンの雰囲気を味わえるので,毎年楽しみに見ています。
 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公式ホームページには次のようにあります。
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 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートは今や世界中で知られており,本楽団によるシュトラウスの楽曲の演奏は「ワルツ王」の時代,つまりウィーン・フィルの歴史の始まりまで遡るという印象を与えているかもしれませんが,史実は異なります。
 実際のところ,楽団員は長いこと当時作曲された最も「ウィーン的」なこの音楽を取り上げてきませんでした。彼らは「娯楽音楽」と関係することで「フィルハーモニー・コンサート」により向上した社会的地位が脅かされると考えたようです。
 シュトラウス一家に対するこの姿勢は徐々にしか変わりませんでした。
 この姿勢を変えた決定的なことは,フランツ・リスト,リヒャルト・ワーグナー,ヨハネス・ブラームスなどの偉大な作曲家が,他に例を見ないこの作曲家一族の二人を大変高く評価していたという事実に加え,ヨハン・シュトラウス二世と何度か会うことで,楽団員がこの音楽の意義やヨーロッパ中を魅了していた作曲家の人柄を知る機会を得たということにありました。
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 幸運にも2018年と2019年の秋にウィーンに行くことができたので,ウィーンの様子はよくわかります。2018年には楽友協会にも行くことができましたが,楽友協会で一度ライブ演奏を味わってみると,その楽しさが一段とよく理解できるようになります。私がいろいろと旅をした中で,ウィーンは最高です。

 さて,コロナ禍以降,私の好きなクラシック音楽も,コンサートでは十分に楽しむことができなくなってしまいました。2021年は,NHK交響楽団の名古屋定期公演に1度行っただけです。しかし,私は聴きには行けませんでしたが,NHK交響楽団の10月の定期公演にヘルベルト・ブロムシュテッドさんが来日できたことが幸運でした。あと2か月遅かったら実現しなかったことでしょう。2022年も10月の来日が予定されていますが,実現できることを祈っています。
 コンサートに行くことが少なくなったかわりに,2021年はこれまでなかなか聴くことができなったハイドンやモーツアルトの交響曲,モーツアルトのピアノ協奏曲,ベートーヴェンのピアノソナタや弦楽四重奏曲,ショスタコービッチの弦楽四重奏曲などをじっくりと味わうことができたのは幸いなことでした。そして,結局,そうした音楽を何度も聴いたあとで,私が再び聴きたくなったのはブルックナーの交響曲でした。結局,好きなものは好き。楽しみは元に戻ってくるようです。
 現在,大規模な曲は演奏されないことがほとんどなので,ブルックナーの交響曲をコンサートで聴く機会がないのが残念ですが,これまでに放送されたものの多くを録音しているので,しばらくはそれを楽しみに聴いてみたいと思っています。
 こうした楽しみを味わいながらいつも思うのは,できることなら,また,ウィーンに行ってみたい,ということです。

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 2020年は,コロナ禍がはじまる前に予約してあった旅行や,すでに購入してあったコンサートなどがあったことと,海外からの旅行者がいなくなったのを幸いにこれが好機と出かけては春の桜や秋の紅葉を楽しんだのですが,2021年は,そうしたこともなく,また,飽きてしまって,要するに,何もイベントもない1年となりました。10月に富士山麓から木曽路へドライブしたことと12月に紀伊半島を1周したことが唯一の旅行らしい旅行でした。
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 それまでの私は,海外旅行とクラシックのコンサートと星見を楽しみに過ごしていました。
 しかし,海外旅行はまったく行くことができなくなりました。
 クラシックのコンサートは2,3回行ってみたのですが,これまでにも書いたように,以前のように楽しくなくなってしまいました。
 星見の楽しみは今も変わりませんが,天気が悪いと行くことができないので,それが欠点です。

 それよりもむしろ,2021年は,これまでの私の楽しみを,一旦立ち止まって考えるよい時間になりました。
 それは,これまでにやりたかったこと,行きたかったところ,そのほとんどを成しえていたことが幸いして,落ち着いてそれらを振り返ることができたのでよしとするのですが,その結果,この先,再び,以前のようにさまざなことができるようになったとしたら,そのとき改めて何をするかということがだんだんとわかってきました。ただ,残された時間が少ないのだけが心配です。
 まあ,過去を振り返っても詮ないだけなので,前向きに生きましょう。

 さて,2022年は果たしてどんな年になるのでしょうか。
 ひとついえるのは,新しい年に社会がまた2021年の愚を繰り返すようだったら,人間は大したことないということです。


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月と火星とアンタレス。

2022年元日,初日の出前の東の空。
月齢27.5の月と火星とアンタレスが幻想的でした。
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Happy New Year 2022.
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 2022年になりました。
 私の手元にある山川出版社の高等学校教科書「詳説日本史B」は2013年に発行されたものですが,その50ページに次のようにあります。
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 飢饉・疫病などの社会的不安のもと,仏教を厚く信仰した聖武天皇は,仏教のもつ鎮護国家の思想によって国家の安定をはかろうとし…
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 そしてまた,57ページの欄外に小さな活字で次のようにかかれています。
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 光明皇后が平城京に悲田院を設けて孤児・病人を収容し,施薬院を設けて医療に当たらせたことも仏教信仰と関係している。
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 光明皇后というのは,聖武天皇の皇后です。
 同じく,私の手元にある山川出版社の高等学校教科書「詳説世界史B」も2013年に発行されたものですが,その142ページに
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 14世紀にはいると気候が寒冷化し,凶作や飢饉,黒死病(ペスト)の流行,あいつぐ戦乱などで農業人口が減少した。
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とありますが,第1次世界大戦のころに流行したといわれるスペイン風邪についてはまったく記述がありあません。
 おそらくこの時代,庶民にとっての大問題は,教科書に大きなスペースをとって記載されているような政権争いやら戦争よりも,むしろ疫病だったのでしょう。しかし,教科書のこれだけの記述では何もわかりません。

 2020年から今までの世界を体験したとき,「未曾有のパンデミック」といわれる新型コロナウィルスのような「疫病」は,これまでに,何度も人類が経験したことなのに,いざ,それが起きると,あたふたするだけで,上に書いたように,歴史からは何も学んでいないので,同じことを繰り返しているのです。そして,いざ,現実になると,そのときはじめて,実は過去には同じようなことが… といわれだすのです。
 リーマンショックのときもそうでした。
 このときは,1929年からはじまった世界恐慌を引き合いに出し,その対策として1932年にアメリカの大統領に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策が話題になりましたが,そのうちに,ニューディール政策は必ずしも成功していなかったなどとの論評があったりと手のひら返しをして,私は,人間は歴史から何も学んでいないのかと落胆したことを思い出します。
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 450ページ近くある分厚い歴史の教科書に事細かに記述してある内容は,受験生を苦しめますが,それを学んだところで,歴史から何の教訓も学べないのなら,意味がありません。邪馬台国がどこにあったかよりも,人の生死にかかわる出来事にどう対処したかということのほうがずっと重要です。
 経験したことのない出来事だから,政治家がうまくできなくてもやむを得ないという人もいますが,それでは政治家は素人であって,プロではありません。政治家は,自分の権力を花見をすることで誇るものではないのです。
 平時ならだれがやってもうまくいきます。むしろ,教員免許更新のような害しか生まれなかった政策のように,何もしてくれなかったほうがよかったことも少なくありません。そうではなく,何か予想外の出来事が起きたときに,それに対処できるように,普段から投資をしたり準備をして,万一,そうしたまさかのことが起きたときにはできる限り的確に判断を下し,それを実行することができるように準備を怠らないのが政治家の仕事でしょう。
 昨年私が感じたのは,そんなことだけでした。


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