この国は,現在も,江戸時代,特に中期以降のままの状況が続いているように感じます。長く平和の続いた江戸時代に多くの習慣や思想が生まれ,日本人の価値観として定着しましたが,それを日本古来のものだと錯覚しているわけです。
そこで,いかにこの国が民主主義をうたっていても,結局,主権は国民にあるのではなく「お上」とよばれる権力者にあると思っていて,それを江戸時代のごとく,殿様に従順にしたがう「ふり」をして,表立って反抗もせず,したたかに勝手に,しかし,法律で定められてもいないことをお互いの目を気にして縛り合って生きているのです。
しかし,江戸時代以前のこの国は,どうもそれとはまったく違っていたようです。だから,現在の価値観でその昔の歴史を語っても,それはまったく異なったものであったに違いありません。あの世とこの世の垣根なんて,今よりずっと低かっただろうし,一寸先のことは神のみぞ知るだから,ひたすら祈るしかなかったわけです。
おそらく,そのころの日本は,今の外国以上の違いがあったことでしょう。
室町幕府に力がなくなり,ほとんど無政府状態だった,いわゆる戦国時代は,それはそれで人間の本音丸出しだからわかりやすいのですが,それ以前のこの国は,まったく理解不可能です。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」はそんな時代を舞台にしています。
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鎌倉幕府というから,江戸幕府と同じような印象をもってしまうわけですが,もちろん,鎌倉時代に江戸時代のことなど知る由もなく,だから,徳川将軍と源将軍ははまったく異質であったにちがいありません。
以前,鎌倉へ行ったときにふと偶然見つけた源頼朝の墓,そのときに写した写真はどこかにいってしまったので,今日の3番目の写真は足利尊氏の墓ですが,そういったものを見たとき,日光東照宮とのあまりの違いに私は驚きました。
また,今でこそ,源氏と平氏などと色分けしますが,おそらく,そんな簡単なものではなかったことでしょう。とにかく,自分の財産は米をとるための土地であり,その土地を守ってくれる実力者の庇護こそが最も大切だったということに尽きるわです。
鎌倉幕府の成立の記録を今に残す基本史料である「吾妻鏡」は北条得宗家の創りあげたものです。現存するものには,源頼朝の死に関する部分が抜け落ちているし,その直系の将軍であった源頼家,源実朝が非業の死を遂げ,ついには北条政権となったことなどの記述は,どこまでが真実であり,何がでっち上げなのかなんて到底わかるわけもありません。歴史は後世,勝利者が自らを肯定するために作ったものだからです。
そこに,「平家物語」などが記述する平家の滅亡や,能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」で今も語られる源義経など,それらが,日本人のもつ半官びいきの感情と入り組んでいて,ごちゃごちゃでわかりにくく,だから,これまでに何度も取り上げられた大河ドラマも,私は,途中で興味を失い最後まで見ることができませんでした。
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所詮,正しい -といっても何をもって正しいとするのかもわかりませんが- 史実など書けない古い時代のことだから,その時代は単なる媒体として,興味あるわかりやすいホームドラマ,そしてまた,あえてわざとらしい喜劇であれば,私ははじめて,この時代の大河ドラマを見終えることができるだろうなあと期待しています。セリフが現代語であることと,エバン・コール(Evan Call)という人が音楽を担当し,流れる旋律がクラシック音楽のそれであること,このふたつも相まって,今のところは,そういった流れなので,安心して見ているのですが,さて,この先,源頼朝亡きあと北条政子が歴史のカオスを引っ掻きまわすようになったときが心配です。三谷幸喜さんの脚本で,政子を演じる小池栄子のくりくりした眼力ならそうならないだろうと信じていますが…。
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建久六年十二月大廿二日癸酉。將軍家入御藤九郎盛長甘繩家。今夜御止宿云々。
(欠落)
建久十年二月大六日戊辰。霽。羽林殿下去月廿日轉左中將給。同廿六日宣下云。續前征夷将軍源朝臣遺跡宜令彼家人郎從等如舊奉行諸國守護者。彼状到着之間。今日有吉書始。
「吾妻鏡」
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建久6年(1195年)12月22日。将軍頼朝様は藤九郎盛長の尼縄の家へ出かけられました。今夜はお泊りだそうです。
(欠落=この間に源頼朝死去)
建久10年(1199年)2月6日。晴れました。近衛将軍頼家様が先月20日に中将に出世しました。同じ月の26日の天皇の命に,前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで,鎌倉御家人を使って前の通り,諸国を守るように支配してください。とあります。その手紙が着いたので,幕府の新将軍として政務を始める儀式の吉書始め式を行いました。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは