しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

April 2022

2019-08-21_16-04-36_2172019-08-21_16-01-29_6662019-08-21_16-09-54_2592019-08-21_17-27-58_556

######
 先日,2022年4月27日,NHKBSPで「ヨーロッパ発駅ロマン-フィンランド・ヘルシンキ」が放送されました。フィンランドの首都ヘルシンキの中央駅を舞台としたさまざまな物語です。私は,2018年2月と2019年8月にフィンランドに行きました。2018年の2月に行ったのは,北極圏近くのロヴァニエミでしたが,2019年8月は,この番組に出てきたヘルシンキ中央駅近くのホテルに宿泊したので,とても懐かしく番組をみることができました。ただし,私がヘルシンキに行ったのは夏で,番組で出てきたヘルシンキは冬でした。
 フィンランド中央駅が作られたのは1919年なので,今から100年以上も前のことです。私が子供のころの名古屋駅などとよく似た感じで,懐かしい気持ちがしたものです。その後,日本の駅舎はどこも近代的な外観となりました。しかし,その内部も最新かといえば,疑問符がつきます。それに比べて,ヘルシンキ中央駅は,駅の外観は古くても,チケットの販売機などは完全に自動化され,最新設備となっていたのは,ウィーンの国立歌劇場同様でした。こうしたことが,ヨーロッパの文化の豊かさと奥深さで,伝統を大切にしながらも,日本よりもずっと先進性をとり入れ利便性を兼ね備えたヨーロッパというところの優秀性を私は感じました。また,改札口がないので,だれでもホームに行くことができます。

 この駅から,フィンランドの各地に多くの列車が発着しています。
 番組でも紹介していましたが,ヘルシンキのヴァンター国際空港にも,ヘルシンキ中央駅から直接行くことができて,とても便利です。
 私がこの駅で特に印象に残っているのは,フィンランドの北,北極圏の町ロヴァニエミまで行く寝台列車サンタクロースエクスプレスの出発シーンですが,もうひとつが,この番組でも紹介されたロシアのサンクトペテルブルグまで通じている国際列車です。私は,ヘルシンキ中央駅の電光掲示板でこの列車の表示は見ましたが,発着シーンは見損ねました。このことを今では残念に思いますが,それは,この当時は,次に来たときに乗るからいいや,と思っていたことによります。
 ヘルシンキからサンクトペテルブルグまでは,東京から大阪に行くよりも近く,わずか300キロメートルほどしかないのですが,国境を隔てているので,車内で検札があるということでした。私は,2020年の夏に三度目のフィンランドに行って,そのときにこの列車に乗ってサンクトペテルブルグまで行く予定をしていただけに,コロナ禍でその旅が実現できなかったことが数少ないこころ残りのひとつとなっています。

 フィンランドの東はロシアです。長い国境線がふたつの国を遮断しています。また,フィンランドの歴史は,ロシアとの戦争の歴史でもあり,植民地化されたこともあります。この番組が,現在のロシアのウクライナ侵略を意識して放送されたのかどうかは知りませんが,このご時世ともなると,こうした事実がかなり深刻な問題として浮かび上がります。果たして,今もサンクトペテルブルグ行きの列車は運行されているのでしょうか?
 フィンランドは,世界で最も幸せな国といわれています。また,教育が充実して学力世界一だともいわれています。実際,この国を旅すると,治安もよく,旅もしやすく,自然も魅力に富み,豊かな国であることを実感します。しかし,未だに徴兵制度があるということを聞いて,平和ボケした日本に住む私は,当時,とても意外な気がしたものです。
 私がヘルシンキに着いたちょうどその日,ロシアからプーチン大統領が来ていて,その車列を見ました。私のわずか数メートル前を,この,面積だけが巨大な国の元首が車に乗って通り過ぎて行ったのです。それは今からわずか3年前のことだったのに,当時は,その国の恐ろしさへの実感は程遠いもので,フィンランドがロシアと陸続きであることを痛感しただけでした。フィンランドの置かれた地理的なリスクが何を意味しているのか,私にはまったく理解できませんでした。
 それが,今や,フィンランドは,隣国の脅威に懸念を抱かざるを得ない状況となっています。
 この番組を見ながら,どうか,将来にわたって,私の大好きな,そして,すばらしい北欧の国の平和がこれからも続くようにと願わずにはいられませんでした。

2019-08-22_22-09-40_301無題


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3092

######
 私は,「悠々自適」の不良老人。
 金の心配もなく,何の憂いもなく,日々,予定もなく,やりたいことだけをやって生きる…,であるはずだったのですが,勝手に忙しくしています。それはやりたいことが多すぎるからです。そしてまた,勝手に毎日やらなけらばならないさまざまな習慣を作ってしまったからです。
 それで,これから,勝手に忙しくしていることがいったい何であるかを順に書いていこうと思うのですが,その前に,今日は,その前哨戦として,「遊びをせんとや生まれけむ」についてのお話です。

 「梁塵秘抄」は平安時代末期,1189年ころの治承年間に編まれた歌謡集で,今様歌謡の集成といわれているものです。まあ,定型化された鼻歌みたいなものでしょう。
 今,「鎌倉殿の13人」で西田敏行さんが扮している「ドクターⅩ」の蛭間重勝のような後白河法皇ですが,ホンモノの後白河法皇は,少年のときより今様とよばれる歌謡を好み,歌の上手を召しては多くの歌謡に親しみました。それらが伝わらなくなることを惜しんで書き溜めて本にし,また,別に,口伝集十巻を残したのが,この「梁塵秘抄」です。「梁塵」というのは名人の歌で梁の塵も動いたという故事から,すぐれた歌のことを意味します。
 しかし,保存したいという意思とはうらばらに,現存するのはわずかな部分のみです。
 そのなかで,最も有名なのが,つぎのものです。
  ・・・・・・
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ
  ・・
 遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。
 遊んでいる子供の声を聴いていると,感動のために私の身体さえも動いてしまう。
  ・・・・・・

 この歌を,「遊び」はアソビメ,「戯れ」はタハレメに通じるとして,遊女が子供の声に触発されて我が身の罪深さを嘆く歌と深読みする解釈もあるようですが,子供の純真な愛らしさを歌ったもので子供の未来に明かりを垣間見たいと願った大人の思いだ,と解釈するほうが一般的です。
 この歌を謡ったのが親にしろ遊女にしろ,もし,親であるなら,子供たちが純真に遊ぶ心を忘れずに健やかに育って欲しいと願う気持ちを,そして,もし,遊女であるなら,子供のころの純粋な気持ちを持ち続けていたいと願うこころがこもっていると考えると,「梁塵秘抄」は,辛いことの多い人の世を生き抜くための安らぎとして,一時の救いとなるような気がします。

無題


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_8262IMG_1641IMG_8323DSC_2231DSC_2230DSC_2228

######
 私は木曽路が好きで,年に2度ほど訪れます。この地は,現在,大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出てきて非業の死を遂げた木曾義仲ゆかりの地でもあります。
  ・・・・・・
 木曾義仲の名で知られる源義仲は,平安時代末期の信濃源氏の武将でした。源頼朝とは従兄弟にあたります。
 以仁王の令旨によって挙兵し,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京しますが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化などによって後白河法皇と不和となります。
 源頼朝が送った源範頼,源義経の軍勢により粟津の戦いで討たれました。
  ・・・・・・
というのは,先日,4月24日に放送された「鎌倉殿の13人」にも出てきました。

 木曾義仲が少年期を過ごしたのは,旧中山道の宮ノ越宿でした。ここには「義仲館」があって,私も訪れたことがあります。
 源氏の家紋「笹竜胆」の幕をくぐると木曾義仲,巴御前の銅像が迎えてくれます。展示は充実していて,木曾義仲の生涯をたどることができます。
 また,「義仲館」から長閑な集落の道を辿って約600メートル,山吹山の麓を流れる木曽川の深い淵があって,そこは「巴ヶ淵」といい,木曾義仲と巴が水遊びをした所と伝えられています。

 木曽福島市街には,萬松山興禅寺があります。木曾家12代信道が木曾義仲の追善供養のため,荒廃していた旧寺を 1434年(永享6年)に再建したもので,木曾家と木曾代官山村家代々の菩提寺となっています。
 墓所には,木曾義仲が巴御前に託したという遺髪が埋められている「木曽義仲公の墓」があります。
 「平家物語」によれば,木曾義仲は,1184年(寿永3年),粟津ヶ原で源義経らの軍勢に敗れ,31歳の生涯を終えました。
 そのとき僅か護衛13騎,その中に巴御前の姿があり「義仲死に臨み女を従うは後世の恥なり。汝はこれより木曽に去るべし」と遺髪を巴御前に託したのです。
 巴御前は,なおも落ちようとしませんでしたが,「最後のいくさしてみせ奉らん」と言い,敵将・御田八郎師重の馬を押し並べて引き落とし,首を切ったのち,鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた,というところで記述は終わり,その後の消息はわかりません。

   ・・・・・・
 五騎が内まで巴は討たざれけり。
 木曽殿「おのれは疾う疾う女なれば,いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば,木曽殿の最後のいくさに女を具せられたりけりなんど,いはれん事もしかるべからず」とのたまひけれども,なほ落ちも行かざりけるが,あまりに言はれ奉つて 「あっぱれよからう敵がな。最後のいくさして見せ奉らん」とて控へたるところに,武蔵の国に聞こえたる大力,御田八郎師重,三十騎ばかりで出で来たり。
 巴,その中へ駆け入り,御田八郎に押し並べ,むずと取つて引き落とし,わが乗つたる鞍の前輪に押し付けて,ちつともはたらかさず,首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち物具脱ぎ捨て,東国の方へ落ちぞ行く。
    「平家物語」
  ・・
 五騎の中までは巴までは討たれなかった。
 木曽殿は 「お前は早く早く,女だからどこへでも行け。 自分は討ち死にしようと思うのだ。 もし人手にかかるならば自害をしようと思っているので、木曾殿が最後の戦いに、女を連れておられたなどと言われるようなこともよろしくない」とおっしゃったけれども,それでも落ちて行かなかったが,あまりに何度も言われ申して 「ああ不足のない敵がいるといいなあ。最後の戦いをしてお見せ申しあげよう」と言って,馬を引き止め待機している所に,武蔵の国で有名な大力の,御田八郎師重が三十騎ほどで出て来た。
 巴は,その中へ駆け入り,御田八郎に馬を並べて,むんずとつかんで引き落とし,自分の乗った鞍の前輪に押しつけて,少しも身動きさせず,首をねじ切って捨ててしまった。その後,武具を脱ぎ捨て,東国の方へ落ち延びていく。
  ・・・・・・

 木曽福島市の郊外には,東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センター木曽観測所があります。ここの主力機である口径105センチメートルシュミット望遠鏡には近年開発された広視野動画カメラと人工知能ソフトウエア群があって,2019年より稼働を開始しました。
 このシステムは「トモエゴゼン」と名づけられました。
 「トモエゴゼン」には84個のキヤノン製CMOSセンサが配置され,観測データを即時に解析し過去のデータと比較することで,天体の明るさや位置の変化を高精度にとらえることができるようになっています。
 今も,木曽谷には,巴御前が生き延びているかのようです。

DSC_3403

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2007DSC_2014DSC_2019DSC_2029

 2022年4月4日,鏡神社へ行ったことはすでに書きました。その帰り道,旧中山道の宿場を南から北に,つまり,京から江戸の方向へ順々に戻ったのですが,そのとき,少し脇道にそれて行ったのが近江八幡でした。 
 ずいぶん前に一度近江八幡に行ったことがあるのですが,今とは違って,町歩きの楽しさを知らなかったので,つまらない町だなあと思ったことを覚えています。若気の至りです。そこで,そのリベンジ? を兼ねてです。
 この日は,幸運にも桜満開でした。すばらしい町で,なぜ,あのとき,そんな失礼な印象をもったのかと思いました。

  ・・・・・・
 近江八幡という地名のもととなったのは「日牟禮八幡宮」ですが,「八幡」だけでなく「近江」を冠しているのは,市制施行時に福岡県八幡市が存在したため,ということでした。ただし,福岡県の八幡市は「やはたし」と読み,「はちまんし」ではありません。
 安土桃山時代の1585年から1590年,豊臣秀次が八幡山に城を築き、碁盤状の城下町を建設するとともに,織田信長が築いた安土城の城下町の人々を八幡城下に移したことでこの町ははじまりました。 豊臣秀次の楽市楽座等による商工業の発展政策はその後の近江商人の活躍の原動力となりました。
 1590年(天正18年)に豊臣秀次が移封(国替え)され,京極高次が城主となりましたが,そのわずか5年後の1595年(文禄4年)には廃城となり,城下町商人としての特権は失われました。
 しかし,その後も,船や街道を利用して多くの人や情報,文化が入ってくる地の利を活かし,先進性と自立的な商法により八幡を本店として江戸や大坂に出店を設けるなど活躍していきます。
  ・・・・・・
 今なお碁盤目状の整然とした町並みが旧市街地に残されていて,特に新町や永原町にはかつての近江商人本宅の家々が立ち並び,八幡堀に面した土蔵群は往時の繁栄を偲ばせます。すてきな町です。
  ・・
 私が行ったとき,桜満開の近江八幡の歴史地区の八幡堀あたりは,多くの観光客で賑わっていました。桜景色は美しかったけれど,私は,こうした人混みが嫌いなので,八幡堀あたりの散策はほどほどにして,歴史地区の町並みに逃げました。少し離れるだけで,ほとんど人がおらず,落ち着いた時間を過ごすことができました。
 それにしても,まあ,どうして人は群れたがるのでしょう。
 インバウンドが去って,少しは静かになるのかと思ったのですが,何も変わりません。
 聞くところによると,京都も,インバウンドでコロナ禍以前は外国人観光客のマナーが問題となっていたのですが,そうでなくても,まったく同じなのだそうです。そういえば,その昔,外国人観光客ほとんどいなかった日本の観光地がマナーがよかったかといえば,そんなことはまったくなかったことを思い出しました。
 私は,そうした賑わいとは少しはなれたところにあったレストランで近江牛丼を食して,静かな春の時間を過ごしました。

 なお,近江八幡市には昔「メンソレータム」という薬で有名だった近江兄弟社と,近江兄弟社グループのヴォーリズ学園という幼稚園・保育園・小学校・中学校・高等学校があります。近江兄弟社とヴォーリズ学園の創立者は,ともに,ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)と夫人の一柳満喜子です。
 1905年(明治38年),ウィリアム・メレル・ヴォーリズは,キリスト教の伝道を志して,近江商人の士官学校・県八幡商業学校に英語教師として赴任したのですが,宗教的な対立で教師の職を解かれ,その後,近江八幡でキリスト教伝道師としてさまざまな事業展開を行いました。
 それらが「近江兄弟社」の前身であり,ヴォーリズ学園となりました。
 私が子供ころ「メンソレータム」という薬は有名だったのですが,近江兄弟社は,創業者ヴォーリズの亡きあと経営が苦しくなり,メンソレータムの販売権を失ってしまい,ロート製薬のものとなりました。そこで,新たに「メンターム」という商品を販売し,再興したということです。

DSC_2037


◇◇◇
4惑星+月

4月25日早朝4時30分。
東の空に,4惑星と月が並んで,幻想的でした。

DSC_9202snx


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5600 DSC_5608 DSC_5606 IMG_3749

 念願だった愛宕山でした。
 ヘロヘロになりながら6時間で往復した私は,まだ,午後1時だというのにもうどこにも行く気がなくなり帰宅することにして,車を走らせました。京都の名所旧跡に寄る気持ちが失せていたのです。しかし,時間は有り余るほどあるので,高速道路で帰る必要もなく,一般道を走ることにしました。
 大津から琵琶湖の東岸を走ってもいいのですが,せっかく来たのだから,いつもと違った道を,ということと,明智光秀にちなんだ愛宕神社に行ったからには,ということで,大津から琵琶湖の西岸を走り,明智光秀の居城があった坂本を通り,琵琶湖大橋を渡ることにしました。

  ・・・・・・
 坂本城は,近江国滋賀郡坂本,現在の大津市下阪本に存在した,明智光秀の居城として築かれた平城です。現在は市街地化によりほぼ消滅しています。
 西側には比叡山の山脈があり,東側は琵琶湖に面しています。また,琵琶湖を経て,織田信長の居城のあった安土と近く,豊臣秀吉の居城のあった長浜を合わせると琵琶湖の西岸と東岸で三角形を成すという,きわめて,戦略的にすぐれた場所となる要塞でした。
 また,坂本は,白鳥道と山中道のふたつの街道が,中世,近世において頻繁に利用され,比叡山の物資輸送の港として交通の要所でもありました。
  ・・
 比叡山焼き討ちの後,明智光秀はこの地を与えられて,築城しました。坂本城は,宣教師ルイス・フロイスの表した「日本史」に「安土城につぐ天下第二の城」と評された豪壮華麗なものだったということですが,築城がはじまったのが1571年(元亀2年)で,黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めて,1580年(天正8年)には亀山城の城主となり,1582年(天正10年)の本能寺の変以後の山崎の戦いで敗れ,焼失したということなので,存在したのは,わずか11年だったように思われます。
 それ以降,丹羽長秀が城を再建し,後に杉原家次,浅野長政が城主となり,そのころに今の町が形成されたようですが,1586年(天正14年)には丹羽長政は大津城を築城して居城を移したので,城は廃城になりました。
  ・・・・・・

 琵琶湖の西岸を走る国道161号線を北に進むと,坂本城址公園があって,桜が美しく咲いていました。駐車場に車を停めて,外に出ました。
 実際に坂本城の本丸があった場所は,坂本城址公園から北150メートルのところにあるキーエンス社の保養所の沖ということで,何もなく,また,入ることもできません。この坂本城址公園は城外にあたるそうですが,おそらくは,観光資源として,何もないわけにもいかないから,適当なところを探して整備したのでしょう。公園には明智光秀の石像や説明板がありました。公園からは琵琶湖に面した風景が見られて,坂本城からの景色がこうだったんだなあという感じがしたので,当時をしのぶことができました。
 本丸跡は湖底に石垣が沈んでおり、普段は水面下ということですが,昨年2021年の11月に琵琶湖の水位が下がり,坂本城跡の石垣が露出したというニュースがありました。坂本城の遺構はほぼ残っていないのですが,琵琶湖に沈んだ石垣は今も存在しているのです。
 このように,何も残っていない,というのが,非業の死を遂げた明智光秀らしいというか,哀愁を誘います。それにしても,戦国時代末期,安土城にしても坂本城にしても,実際に存在した期間はわずか10年足らずなわけなので,現在伝わるような立派な城が本当にあったのかな,実際はどのようなものだったのかな,ということを,いつも私は思います。そしてまた,そんなものを作るために,どれだけ多くの人がその人生を捧げたのかな,と考えると,権力のもつ恐ろしさに震えます。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

2020-02-22_10-03-00_4152020-02-22_10-03-03_0812020-02-23_13-26-59_699

######
 私が近年ハワイに行ったのは,2020年2月でした。それ以降,海外旅行に行けていません。
 それ以前は,毎年のようにハワイに足を運ぶようになっていましたが,ハワイなんぞ,東京へ行くよりもずっと気楽でした。セントレア・中部国際空港からデルタ航空に乗って8時間ほど。ホノルルからはハワイアン航空に乗り替えて,ハワイ島,マウイ島などの島に渡り,空港でレンタカーを借りれば,常夏の島は私のものでした。ハワイは,国際免許証もいりません。そんなこんなで,気楽に外国を味わうことができたのですが,そんなころが懐かしい日々です。
 私はまだ当分は行く予定もないのですが,巷では,どうやら,今年のゴールデンウィークは,ハワイが人気,らしいです。多くの人は,2年も辛抱していたので,いてもたってもいられないのでしょう。とはいえ,そうした人たちの行くハワイは,砂をカリフォルニアから運んだワイキキビーチと銀座と変わらない日本人御用達のホノルルのダウンタウンでしょう。

 私は,そうした,多くの人の夢見るハワイ,とくにオアフ島とは違って,日本人観光客のほとんど無縁なハワイを堪能していたのですが,そうした旅の思い出から,行っておいてよかったと思うところも少なくありません。
 それは,このブログでこれまでも書いたように,カウワイ島では,ワイメア,ワイルア,ハナレイなどの大自然であり,マウイ島では,標高3,000メートルを越すハレアカラ山や古都ラハイナ,さらには,ハナであり,ハワイ島では,何といっても,標高4,000メートルを越すマウナケア山,カイルアコナからの夕景,そして,昭和の日本のようなヒロの町でした。
 しかし,本当に行ってよかったと今でも思うのは,モロカイ島でした。
 この,日本人の皆無な,何もない,しかも,さびれた島は,特に何をする,というものもなく,島をすべて観光しても,2,3日あれば飽きてしまいます。しかし,私には,その素朴さがたまりませんでした。

 中学生のころ,畑中幸子という人の書いた岩波新書「南太平洋の環礁にて」という本を読んだことがありました。
  ・・・・・・ 
 2か月に一度しか機帆船が廻ってこず,椰子からとれるコプラで経済を支えている小さな孤立した珊瑚礁の島プカルア。単身この島に棲み込むこと1年半,自給自足のきびしい自然の中で,島民と生活を共にしながら,彼らの生計のあり方や社会構造をさぐり,外部の近代社会とのつながりがどのようなものであるかをみきわめようと試みる。
  ・・・・・・
というこの本が書かれたのは,1967年のことでした。
 また,森村桂さんの書いた「天国に一番近い島」。こちらは1966年。
  ・・・・・・
 1年中花が咲き,マンゴやパパイヤがたわわに実る夢のような島。
 亡き父が幼い頃に話してくれた「天国にいちばん近い島」。思いがけず南洋の島ニューカレドニアへ旅立った「私」は…。
  ・・・・・・
というものですが,映画化もされました。
 現実はともかく,私は,こうした本が妙に好きで,とはいえ,憧れたのは,単にそんな南太平洋の島の浜辺でボーッと海を見ている姿だけだったのです。
 そうした島とは違いますが,そんな憧れをもっていた私の行きついた,何もない小さな島でボーッと海を眺めることが実現できたのが,このモロカイ島だったのでしょう。
 地球儀を思いうかべ,太平洋の真ん中の小さな島にいる自分を想像するだけでも,こんなしあわせが他にあったのだろか。いまでも,そう思うと,大勢の日本人が押し寄せるワイキキビーチではなく,だれもいないモロカイ島の海岸こそが,もっとも私には贅沢な旅の行先だったように感じます。

IMG_27935c459fe341Jbl7VgeUL199999128701


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3788

######
 4月22日の朝日新聞「いま聞くIntervie」に,大阪公立大教授の酒井隆史さんの「どうでもいい仕事・なぜ増殖」と題した記事がありました。
  ・・・・・・
 「クソどうでもいい仕事(=ブルシット・ジョブ(Bullshit Jobs))はなぜ増えるか」という,ぶっ飛んだ副題の本を書いた大学教授に会ってきた。
  ・・・・・・
から,記事ははじまっていました。
 記事によると,ブルシット・ジョブの定義はつぎのようだといいます。
 「本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある有償の雇用」。そして,この言葉は,デビッド・グレーバーという人が「ブルシット・ジョブ」という本で論じ,それを翻訳したのが酒井隆史教授ということでした。
 これだけではわからないので,もう少しだけ記事から引用すると,デビッド・グレーバーさんは,ブルシット・ジョブを次のように分類したそうです。
  ・・・・・・
 1 取り巻き:誰かを偉そうにみせるためだけの仕事
 2 脅し屋:脅したり欺いたりして他人を操ろうとする仕事
 3 尻ぬぐい:組織の欠陥をとりつくろうためだけの仕事
 4 書類穴埋め人:形式的な意味しかない書類をつくる仕事
 5 タスクマスター:他人に仕事を割り振るだけの不要な上司
  ・・・・・・
 引用はここまでにします。
 ちなみに,ブルシット(Bullshit)とは牛のクソ,転じて,「ばかやろう」「ろくでもない」という感じですか。

 さて,ここからです。
 この記事はとてもおもしろかったのですが,前提が端折っていて,少しわかりづらかったので,調べてみました。
 デヴィッド・グレーバー(David Rolfe Graeber)さんは,1961年に生まれ, 2020年に亡くなったアメリカの人類学者で,アナキスト(無政府主義者),アクティビスト(活動家)だそうです。
 この記事で話題になっているのは,著書「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」(Bullshit Jobs:A Theory)で,wikipediaによると,この本で,無意味な仕事の存在とその社会的有害性を分析し,社会的仕事の半分以上は無意味であり,仕事を自尊心と関連付ける労働倫理と一体となったときに心理的に破壊的になると主張している,だそうです。そして,この本を翻訳したのが酒井隆史さんで,その本が話題となって,講談社新書から「ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるか」を出版した,ということでした。

 今から14年ほど前に出会った,私の生涯で,もっともどうにもならない輩とその取り巻きたちは,まさに,このブルシット・ジョブの権化のようでした。とにかく,やってもやらなくてもどうでもいい仕事にこだわり,それができないと部下をいじめるという,仕事のすべてがそれでできていました。彼らは,今,古希を迎えたころか,あるいは,噂では,すでに鬼籍に入っている者もあるそうですが,その人生の大半を占めた彼らの「仕事」がそういうものだったのかと思うと,哀れにさえ思えます。
 私は,危うさを感じ,そんなことに時間を費やすことがバカらしく,まったく価値観が異なったので,早々にそうした人たちから距離を置き,その後,いわゆるブルシット・ジョブとは完全無縁で楽しい生活をおくっているのですが,そうした今の私の傍観者の目からまわりを見ると,多くの雑多な「仕事」という冠をつけた時間つぶし,つまりブルシット・ジョブがこの世界を作り上げているその現実が浮かびます。
 多くの人は,というより,ほとんどの人は,好むと好まざるとに限らず,また,そうした現実を知ってか知らずかわからねど,早朝の満員電車に揺られて職場に向かい,ブルシット・ジョブで人生の貴重な時間を費やし,夜になると,これもまた,意味もなく残業をしたりして,遅く帰る競争をして,帰路につく,という日常をおくっているのでしょう。そして,その対価として給料を手にしているわけです。
 まあ,要するに,そのすべてがお役人の大好きな「不要不急」といえなくもない。しかも,ブルシット・ジョブの最たるものがお役人のお仕事なのかな? と思うと,もう,これは喜劇を越えて,悲劇でしかありません。

 この記事には,次のようにあります。
  ・・・・・・
 競争させるためには,なんでも数値化して,絶えず評価し,格づけしないといけない。その際,本来は競争になじまない領域まで数値化され,書類化され,評価にさらされる。その過程に生まれる膨大なペーパーワークや管理業務の中で,ブルシット・ジョブが増殖していくのです。
  ・・・・・・
 書類の山,意味のない手続きばかりが必要で,ペーパーレスもキャッシュレスも進まない,世界から取り残された日本では,そうしたブルシット・ジョブをするしか,仕事が,雇用がありません。責任逃れのやったふり。
 だから,そうした社会へ出ていく訓練として,学校教育でのプリント学習,まったく理解できなくても,わからなくても,答えを丸写しして提出すればいい子になれる,そして,観点別評価とやらで認められる,そんないわゆる「ドリラー」が位置づけられているのでしょうか。

無題


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_11842019-11-23_12-36-04_7532020-02-05_08-53-03_615DSC_2110

 日本からは,私の出かけていたアメリカ,オーストラリア,ニュージーランド,フィンランド,オーストリアなどは,どこへ行くにも約10時間と,便利なのか不便なのかわからねど,ほどほどの場所に位置しています。
 日本から桁違いに遠いのは南アメリカやアフリカですが,私には縁がありません。
 同じように,私の住む愛知県からは,北海道も九州も四国もほどほどに遠いのですが,飛行機や新幹線を使えば直接行くことができます。また,東京,大阪などは,近いので,簡単に行くことができます。そこで,ともに,便利といえば便利です。
 しかし,和歌山県,群馬県,茨城県などは,直接行く手段がなく,また,動機がなければあえて行くこともないので,意外と盲点となります。私もこれまで行く機会がほとんどありませんでした。
 
 国内移動は,乗り替えさえ気にしなければ,新幹線や飛行機と決めてしまえばそれだけのことですが,「インチキ富裕層」の私は有り余る時間だけが取り柄の暇人だから,移動にはなるべくお金を使いたくないので,どこに行くにもひと工夫をすることになります。
 そこで,今回は,そんな私が国内を旅するときの交通手段のお話です。

●北海道
 若いころ,青函連絡船に乗って函館から青森へ帰ったことがあります。これがたいへんでした。なにせ,津軽海峡を渡るだけで片道3時間,これだけで,飛行機なら名古屋と札幌間を往復できます。 
 青函連絡船のない現在は,北海道へ行くには空路ですが,昔と違って格安航空があるので,結構安価に行くことができます。
 もちろん,到着後はレンタカーで,ほんのちょっぴりだけ,アメリカ旅行をするような気持ちになれます。
●東北
 東北は,空路でも陸路でも行くことができて,格安航空もあるのですが,それ以上に安価に,だと,東京から夜行バスという方法が存在しますが,名古屋から東京まで夜行バス,そしてまた,東京から夜行バス,というのは,結構大変です。
 私がまず行きたかった岩手県の花巻でした。その次は,福島県の大内宿でした。
 ともに,東京に別の用事があって行ったときに,そのついでに行きましたが,花巻へは夜行バスを利用しました,また,大内宿へは上野から東武鉄道で行きました。ともに,なかなか楽しい旅でした。
 今行きたいのは山形県の立石寺と天童ですが,今は東京へ行く予定もないので,行くときは,直接,空路,FDAを利用することにします。
●北陸
 北陸は愛知県からとても近いです。東海北陸道,あるいは,北陸自動車道を走れば,あっという間に日本海。富山県までは日帰り圏内となります。
 ただし,ものすごく細長い新潟県がたいへんです。私は,特に,佐渡島に行きたいのですが,いったいどういう方法がいいのか,現在,思案中といったところです。
●四国
 意外と行きにくいのが四国,特に高知県や愛媛県の西部です。
 私の住む地方からは,四国八十八か所巡礼をやっている人はバスを使うといいます。大阪まで行けば,その先はバスを使えば,比較的簡単にいくことができるようです。
 私が以前数回行ったときは,交通手段は毎回異なっていて,鉄道やら深夜バス,さらには車を使いました。
 空路もあるようですが,何か,飛行機を利用するには近いので,もったいない,そんな気がしてしまいます。鉄道は,淡路島を通らず,山陽線を経由して瀬戸大橋を渡るというように,くるりと迂回する必要があり,時間がかかるので,意外と不便です。
 いまのところ,行く予定はないのですが,次に行くとすれば,私は,車で行くことになるでしょう。
●九州
 九州はやはり空路です。到着後はレンタカー,これが九州巡りにはもっとも快適だと思われます。
 以前書いたことがありますが,福岡の空港は都心からとても近く便利なところにあるのです。
 九州は,これまで何度か行ったことがあるのですが,その中でも,数年前に熊本からレンタカーで九州を1周したので,今はそれですべて行った気になっていて,十分満足しているので,近いうちにまた行くことはないでしょう。
●沖縄
 私は,日本の都道府県のなかで,沖縄県だけは行ったことがありません。アメリカには50州すべて行ったのに,です。だから,沖縄県はとても遠いところに思えてしまいます。行ったことがないので,何ともいえませんが,沖縄本島には特に行きたいという気持ちがわかないのです。おそらく,行かず嫌いなのでしょう。以前の,その魅力を知らず,ずっと行かなかったハワイと同じです。
 もし,私が沖縄に行くとすれば,離島は魅力的に思えるのですが,沖縄本島の那覇までは航空運賃は安くても,そこから離島までが高く,また,船は船で面倒に思えるので,行くのが難しいのです。
 これまで何度も行こうと考えて,結局,ハワイのほうが楽だ,簡単だ,安い,という結論になってしまっていました。コロナ禍の現在,沖縄の離島にハワイに行く代わりに出かける人が多いそうですが,私の場合,ハワイと行っても,めざすのが多くの人の行くハワイとは違うので,きっと行っても失望するだけだと,自分を言い聞かせています。離島それぞれがもっと大きいといいのですがねえ。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5557DSC_5576DSC_5580DSC_5589

 やっと月輪寺を過ぎて,あとは下るだけ。と思ったのに,まだまだ先が長いのでした。
 下山する道を変えたのは,せっかく別のコースがあるのなら,ということと,月輪寺に寄ってみようということと,こちらのコースは人が少ない,ということが理由だったのですが,すべて誤算に終わりました。
 まず,こちらのコースは,思った以上に険しかったのです。道は狭く,しかもずっと急坂で,休憩する場所すらほとんどありませんでした。また,楽しみにしていた月輪寺にも失望しました。
 さらに,人が少ない,登ってくる人はいない,と聞いていたのに,そうでもありませんでした。
 それにしても,これほどの急坂,私は降りるのにも苦労していたのに,それを登るなんて,考えただけでもぞっとします。

 滑って転ぶと大事なので,ゆっくりと下ります。石段ならともかく,ずっと天然の石の間をかき分けて行く感じなので,大変でした。おそらく登るときよりもはるかに時間がかかりました。
 そしてやっと登り口まで来ました。
 ところが…。
 私は,この先,すぐに車を停めた駐車場だと思い込んでいたのですが,まったくそうではなく,清滝川に沿ってさらに林道を何キロか歩く必要があったのです。
 さすがに,登山道とは違って,歩くのは楽でしたが,それでも,へとへとになりながら降りてきて,さらに数キロ平坦な道を歩くのもひと苦労でした。しかも,午前7時から登りはじめてすでに6時間,お腹もへってきました。とはいえ,清滝の駐車場は車を停める場所があるだけで,食堂すらないのでした。
 やっと車までたどり着きました。まさにたどり着いた,という感じでした。
 この日はとても暑く,愛宕神社は地上よりも気温が10度は低いと書かれてあったので持ってきた防寒具はまったくの無駄に終わり,汗だくになっていました。

 帰り道,桜満開の京都,しかも,このあたりは,愛宕の念仏寺とか,二尊院,清凉寺,大覚寺などの観光名所が目白押しでした。しかも,「カムカムエヴリバディ」で出てきた東映太秦映画村さえあります。お昼においしいものを食べるお店も事欠きません。
 しかし,そういったすべてが,もう,どうでもよくなってきました。
 ということで,まだ,午後1時すぎだったけれど,帰宅することにしました。
 あまりの空腹に,私が食べたくなったのはアンパンでした。そこで,途中でコンビニに寄って,アンパンを買って,それをお昼にしました。
 私は,午前4時に起きて,春爛漫の京都まで行って,往復6時間かけて登山をして,桜の名所にも寄らず,京都の食事を楽しむこともせず,アンパンを食べて帰ってきたのでした。
 何とぜいたくな旅だったのでしょう。これこそが,自他ともに認める京都通の真の楽しみ方なのでした。高いお金を出して,時間を惜しみ,さまざまなお寺を観光して,普段食べなれない京懐石を堪能する,などというのは下々の,普段旅慣れない人のする初心者の旅の姿なのです? くやしいでしょう?!
 こうして,私は,長年の念願だった愛宕神社を見ることできたのでした。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3821sIMG_3824sIMG_3825sIMG_3823s

 以前,このブログに書いたことがある星野道夫さんですが,写真展を開催するというので,見てきました。
  ・・・・・・
 2022年4月14日から2022年4月25日まで,ジェイアール名古屋タカシマヤにおいて,写真展 「星野道夫 悠久の時を旅する 」を開催します。この写真展は,2012年に六本木富士フィルムスクエア,2013年に富士フィルムフォトサロン大阪で開催された同名の写真展に,あらたに代表作を加え再構築するものです。
  ・・・・・・
ということでした。
  ・・・・・・
 星野道夫さんは,1952年(昭和27年)に生まれ,1996年(平成8年)に亡くなった写真家であり探検家でした。
 慶應義塾高等学校在学中に北アメリカ大陸へ旅行を計画し,1968年(昭和43年),16歳のときに2か月間の冒険の旅に出ます。
 慶應義塾大学では探検部で活動し,熱気球による琵琶湖横断や最長飛行記録に挑戦。19歳のときに神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て,掲載されていたシシュマレフ村(Shishmaref)を訪問したいと村長に手紙を送って,その返事をもって,渡航,3か月間を過ごします。卒業後,アラスカ大学フェアバンクス校に入学しました。
 その後,TBSのテレビ番組の取材のため滞在していたロシアのカムチャツカ半島南部のクリル湖畔に設営したテントでヒグマに襲われて死亡しました。
  ・・・・・・

 写真展には,多くのアラスカの写真とともに,星野道夫さん自筆の手紙や使っていたカメラなどが展示されていました。
 私は,アラスカはフェアバンクスとアンカレッジしか行ったことがありませんが,フェアバンクスから郊外に出ると,雄大な平原が広がっていました。また,道路にトナカイなどの野生動物が飛び出てきたりもしました。
 オーロラも見ました。
 しかし,私がフェアバンクスに行ったときは夏だったので,冬の過酷さはわかりません。

 今回の写真展では,動物たちの今にも動き出しそうなその瞬間を捉えた多くの写真に感動しました。今とは違って,機材も未熟な時代に,そうした写真を写すことがどれほど大変なことかはよくわかります。今も健在なら,もっと多くの,そして,現代の機材で,より生々しい写真を残したのに,惜しい人を失くしたものだと思いました。
 こうした写真を写すのが難しいのは,写真の技術はもちろんですが,そうした姿をみることができる場所に行くことがずいぶんと大変だということです。そしてまた,現地に行っても,そうした瞬間に立ち会わないとできません。
 貴重な1枚1枚に,どれほどの時間とエネルギーが費やされたのかと思うと,胸が熱くなりました。

 この写真展はデパートの催事場で行われていました。まあ,いわば,客寄せです。
 そこで,単に招待券をもっている人が大勢入っていて,とても混雑していて,ゆっくりと味わうことができなかったので,少しがっかりしました。このごろは,多くの美術展が予約制になったことで,本当にその絵画を見たい人だけが美術展に訪れるので,とても人が少なく,幸せを感じていただけに,このことだけがとても残念でした。
 星野道夫さんの残した多くの写真はウエブ上なら見ることができますが,大きな画角のプリントをいつもゆっくりと鑑賞できる常設会場があればいいなあと思ったことでした。

top01
◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5499DSC_5504DSC_5529DSC_5524DSC_5526

 私は,登り口に置いてあった「愛宕山登山安全マップ」というチラシを持って登りました。
 登る途中で出会った80歳を過ぎの女性に「帰りはどの道を通りますか」と聞かれたので,何も知らない私は「月輪寺を通る別の道があるそうなので,そちらから降ります」と答えたら,「そうですね,そちらからの方が登っている人と出会わないので,私も好きです」と言われました。ということで,すっかりそれが定番だと思い込みました。
 登りながら,すでに降りてくる人に何度も出会ったので,どうして別の道から降りないのかな? と不思議に思っていました。
 愛宕神社に参詣して,いよいよ下ろうとするとき,7歳くらいの女の子が登ってきました。それも,まったく疲れた顔もしていません。その女の子のおそらくお母さん,あるいは,おばあさん? だと思われる女性がふらふらになりながら遅れて,というか,連れられてついてきました。子供はタフなのです。私は情けなくなりました。

 さて,はじめに決めた下山道ですが,その道がどこなのか見つかりません。ちょうど休んでいる人がいて,何度も登っていそうだったので聞いてみると,社務所の横の目立たない狭い道がそうだと教えてくれたので,下りはじめました。
 少し行くと,今日の1番目の写真の場所に差しかかりました。しかし,私の持っているチラシを見ても,そこがどこなのか見当がつきません。どう考えても,左側のほうが広くて右側がけもの道のように思えたのですが,標識だと右側です。しかし,そこがチラシで10番とある場所だとすれば,左です。私はとまどってしまいました。
 そのとき,下る道がどこかを聞いた人が,確か,少し行ったところで,下に行く方の道があるからそちらへ行くのだよ,と言われたことを思い出しました。
 どうやらそこは,チラシで10番ではなく6番と書かれた場所だったようで,右の狭いほうの道で正解だったのです。

 その先,狭いほうの道は思った以上に急で,どんどんと坂を下ることになって,しかも,登ったときのルートとは違い,道はずっと狭く,険しく,けっこう大変でした。しかも,チラシではすぐ月輪寺に着くように思えるのに,ルートの半分以上を下って行っても,一向にお寺につかず,だんだん心配になってきました。
 このルートは,月輪寺参道というらしいのですが,もう少し整備しないと,私のような一元さんは遭難しかねません。
  ・・
 さらにずいぶんと降ると,やっとお寺というか,古びた民家というか,そんな建物が遠くに見えてきました。それが月輪寺でした。
 私は,もっと立派な寺を想像していて,そこで,一休みをする気持ちでいたのですが,がっかりでした。さらに,まず私が目撃してしまったのは,立ち入り禁止の立て札でした。道にはロープが張られ,この先は寺の敷地だから入るべからず,入るなら拝観料を払え,とか,書かれてありました。立ち入り禁止といっても,そこを通らねば下れません。しかも,寺内は休憩を遠慮しろという言葉さえありました。なんだか,来るなといわれているように感じました。頑固で変わり者の住職がいるか,あるいは,2年ほど前までのインバウンドでわけのわからぬ観光客に手を焼いたのかのせいだったのでしょう。
 しかし,下りねばならぬ私は,こうなると,強行突破しかりません。ということで,お寺を拝観する気持ちもすっかり失せて,立ち入り禁止の紐を跨ぎ,境内を通る道を急ぎ足で通過しました。拝観料を払おうと思っても,お寺にはだれも人がいませんでした。

  ・・・・・・
 月輪寺は701年から703年の大宝年間に泰澄大師が開き,770年から781年の宝亀年間に慶俊僧都が中興した天台宗の古刹。境内からの展望もよく,宿坊に泊りがけですばらしい夜景を楽しみにくるひともいる。
  ・・・・・・
と,帰宅してから読んだ「歩く地図・京都」には書かれてあったのですが,そんな記事とは裏腹に,月輪寺に対する私の印象は最悪でした。これでは,わざわざこちらのルートを選んだ意味もないということです。
 足早に通り過ぎ,寺の境内を通過すると,そこに待っていたのは,野生のシカでした。

Epson_20220411162607


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3710無題2無題3無題4無題22c8d401無題

######
 桜の開花とともに新しい年度がはじまりました。
 将棋界も新年度。2022年4月18日,今年度の第81期将棋順位戦の組み合わせ抽選が行われましたが,こういうものまでYouTubeで放送されるようになりました。
 将棋順位戦の組み合わせ抽選は,次のようにして行われるそうです。
 朝日新聞のウェブページから一部引用します。
  ・・・・・・
 B級1組からC級2組までは,三者が選んだ乱数を抽選ソフトに入力して組み合わせを自動算出する。 
 コンピューターが瞬時に導き出した抽選結果を受け,三者の担当者に連盟職員も加わった読み合わせが入念に行われた。
 コンピューターから一転してアナログなスタイルで選ぶのは10人のみ在籍するA級。
 トランプのカードをめくる方式で対戦順と手番を決める。
  ・・・・・・

 おそらく,コンピュータのなかった時代は,すべてA級のようにして決めていたのでしょう。それではたいへんなので,あるときから,おそらくプログラミングのできる職員がいたのでしょうが,そのおかげでコンピュータによる抽選になって,しかし,A級は箔をつけるために? いまも,旧来の方法が続いている,まあ,そんなところのように思います。
 こうした抽選は,それで棋士人生が左右されることもあるため,厳密であることが求められます。そしてまた,個性豊かな棋士の人たちだから,そこに疑念が生じないようにするのも大変だったことでしょう。トランプでどのように決めているのかよく知りませんが,きっと頭のいい人たちの集団だから,あるとき,くじをつくるならこれで一緒,とかいう理由ではじまったのかもしれません。
  ・・
 私は,こうしたことをプログラミングすることが得意なので,やれと言われれば(言われないけれど)組み合わせ抽選プログラムなど簡単に作ることができる自信があります。これまでも,順位戦の組み合わせではないけれど,このようなことを決めるプログラミングをいろいろ作ったことがあります。
 プログラミングには,乱数という武器があって,それがサイコロの代わりとなり,あとは条件を設定して,その条件に合うように,何度も同じ処理をくり返していけば決定します。
 ただし,その結果が公明正大であることを人間が納得すればそれでいいのですが,一番の問題はそこにあるので大変です。人にはこころがあるからです。

 ところで,先日,ABEMAの3人一組のチーム制早指しトーナメント戦のチームを決めるドラフトというものが行われました。日本のプロ野球のドラフトさながら,指名された棋士が重複したときに抽選をしました。
 そこで,プロ野球のドラフトにおける抽選もそうですが,私が意味不明だといつも思うのが,いきなりくじを引くのではなく,くじを引く順番を決めるくじをひく,ということなのです。
 くじは何番目に引いても当たる確率は同じ,などということは,高等学校の数学で学ぶことなので,だれでも知っています。だから,くじを引く順番を決めるくじなど意味がないのです。しかし,人のこころがそうしたことをしないと納得しないのでしょう。まあ,数学の苦手な人もいることだし。
 先日の将棋のドラフト会議で抽選にもれた渡辺明名人が「敗因ははじめにくじを引いたことだ。当選確率が4分の1しかなかった」と言っていましたが,いかに将棋が強いとはいえ,渡辺明名人は数学はまるでわかっていないことがこれで判明しました。

 確率には,また,別の側面があります。
 それは,くじを引く前はその結果が確率であっても,結果が出てしまえば,それだけが真実ということです。これが,物理学で量子論を説明するときに例にされる「シュレディンガーのネコ」(Schrödinger's cat)というものです。さらには,確率が3分の1のとき,3回行えば1回はできる,ということではない,ということです。よく,野球で3割打者が2打数0安打のとき,次はそろそろヒットが出ますよ,という話をする解説者がいたりするのですが,その人もまた,数学がわかっていないということになります。
 また,当選確率が99パーセントであっても,はずれればそれだけであり,その反対もまたしかりです。だから,全体として集団を考えたときには,60パーセントという当選確率はそのままそれが結果となっても,当事者にすれば,そんなことは関係なく,自分が当選しなければ,当選確率が60パーセントであっても90パーセントであっても結果がでてしまえば関係ないわけです。
 確率というのはそういうものだということを忘れてはいけません。
  ・・
 そこで,こうした確率にやたらとこだわる人もあり,また,全く無頓着な人もいます。これこそが,その人の生き方につながるのでしょう。
 ということなのですが,だれしも明日のことはわからない。だから,人生は何事も運次第ともいえます。そこで,確率にこだわるのでしょう。これが人の常というものです。ただし,運を引き寄せるのもまた実力といいます。
 私は,運を引き寄せることができるかどうかは,その人が行動するかどうかにかかっているといつも思っています。そこで,それをしたことでうまくいくかどうかという確率よりも,それをしなかったときにあとで後悔するかどうかを,つねに判断の基準としています。(たとえ当選確率が低くても)「買わなければ宝くじは当たらない」とかいうCMがあるのですが,それと同じようなものかもしれません。宝くじなど銀行の金儲けに過ぎないし,私は買わなくても後悔しないので買いませんが。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3789

 ######
 2022年4月15日,NHKBSPで「数学者は宇宙をつなげるか?  abc予想証明をめぐる数奇な物語」という番組が放送されました。
 NHKは,ときどき,数学に関するこのような番組を放送します。これまでも,「素数の魔力に因われた人々」と題してリーマン予想について,「数学者はキノコ狩りの夢を見る」と題してポアンカレ予想などがとりあげられていて,とてもおもしろい番組でした。そこで,今回の「abc予想」を私はとても楽しみにしていました。
 番組の内容は
  ・・・・・・
 2020年春,数学の難問「abc予想」を日本人が証明したというニュースが報じられた。京大数理解析研の望月新一教授の論文「宇宙際タイヒミューラー理論」が専門誌に掲載されたのだ。だが数学界では「証明が理解できない」「いや絶対に正しい」と激論が続く。論理を積み上げれば誰もが同じ答えにたどり着くはずの数学の世界で、なぜ主張が真っ向から対立するのか? 前代未聞の議論を追い,数学の魅力に迫る。
  ・・・・・・
でした。
 私は,期待してこの番組を見ましたが,正直言って,がっかりしました。これでは,数学の魅力を伝えるどころか,その反対になりました。
 おそらく,こうした番組を見る人は,数学にある程度の知識と興味があって,しかし,「abc予想」とそれに伴う証明に関する議論が難解なのでよくわからない,だから,番組を見れば,少しは疑問が解けるかも,と期待してでしょう。私もそのひとりでした。
 しかし,残念な結果におわりました。

 がっかりの番組だったという最大の問題は,この番組のテーマである「abc予想」とは何か? ということが説明不足でまるでわからなかった,また,数学における証明とは何か,という説明がなかった,ということに尽きます。
 それは,まず,「abc予想」の説明の前段階で,「かけ算は簡単だけどたし算はむずかしい」という,わかったようなわからないようなことからはじめたのが,番組の内容をわからなくした敗因です。
 「かけ算は簡単だけどたし算はむずかしい」とは
  ・・・・・・
 ふたつの数をそれぞれ素因数分解したものは,そのふたつの数をかけたものと同じ「遺伝子」からできている。たとえば,a=4,b=6 のとき,a=22,b=2×3 となり,aとbは2と3が「遺伝子」。で,そのふたつの数をかけた a×b は a×b=22×2×3=23×3 だから,かけ合わせる前もかけ合わせた後も同じ2と3という「遺伝子」をもっていることになる。
 しかし,aとbをたし合わせれば,たとえば,a=4,b=6 のとき,a+b=4+6=10=2×5 だから,aとbは2と3の「遺伝子」からできていても,a+b は2と5という別の「遺伝子」。だから,aとbを継承していないことになる。つまり,かけ算は同じ「遺伝子」を「受け継いで」いて,たし算は「受け継いで」いないどころか,むしろ壊してしまう。
  ・・・・・・
 そういう内容でした。
 しかし,そんなことは当たり前です。
 かけ算では,元の数a,bも素因数分解しているから,ふたつの数自体もかけ算であって,それをかけたところで同じ因数,つまり「遺伝子」をもつに決まっています。
 それに対して,aとbのふたつの数をたすというのなら,もとのふたつの数も素因数分解ではなく,(ここでは1も素数と考えて)素数の和,つまり,a=4=1+3,b=6=2+3 のように分解して,1,2,3をaとbの「遺伝子」と考えれば,ふたつの数をたす,つまり,a+b=10=1+2+3×2 としたときもまた,1,2,3といった同じ「遺伝子」をもつから,同じ「遺伝子」を受け継いでいることになり,何もおかしくないのです。
 というように,私は,ここで説明したいと思われる本筋を離れて,このような別の思考に走ってしまったので,解せなくなってしまいました。
 よくわからなかったので,もう一度,というか,二度,三度と番組を見直すと,ここでは,フェルマーの最終定理の証明がなぜ難解なのか,を説明したかったということがわかったのですが,これではだめです。

 さて,この番組では,この,かけ算とたし算のよくわからない話の次に,やっと「abc予想」の説明がはじまりました。
 ところが,「abc予想」というのは「c/rad(c)<rad(ab)」だと説明されただけでした。ここで,いきなり「rad」なる記号が出てきても,この「rad」が何を定義しているという説明が一切ないのでした。これもまただめです。番組のテーマは「abc予想」がテーマだから,ます,「abc予想」とは何かをきちんと説明してくれなけれは,見ている人はその先のことがまったく理解できません。
  ・・
 ということで,ここで「abc予想」について説明しておきます。
  ・・・・・・
 a+b=c が成り立つ「互いに素」である自然数 a,b,c を考えます。「互いに素」というのは,たとえば,a=3,b=5,c=8 のように,互いに割ることができない数のことで,たとえば,a=3,b=9,c=12 のように互いに割ることができるものではない,ということです。
 このとき,aとbとcをかけた値を素因数分解して,その因数だけを掛け合わせたものを rad(abc) と書くことにする,と決めるのです。これが「rad」の定義です。たとえば,先に示した a=3,b=5,c=8 であれば,a×b×c=3×5×8=3×5×23 なので,指数部分を考えないで,因数だけをかければ 3×5×2=30 となり,rad(3×5×8)=30 です。
 そこで,「 a+b=c が成り立つ「互いに素」である自然数 a,b,c」となる a,b,c のさまざまな値に対して rad(abc) を計算すると,その値の多くは c の値より大きくなる。つまり,c<rad(abc) が成り立って,c>rad(abc) となることはほとんどない,というのが「abc予想」です。たとえば, a=3,b=5,c=8 であれば,c=8,rad(abc)=30 だから,確かに c<rad(abc) が成り立ちます。
 しかし,a=1,b=8,c=9 のような値では,c=9,rad(abc)=rad(1×8×9)=rad(1×23×32)=1×2×3=6 なので,c>rad(abc) となってしまいますが,こうした例はきわめて少ないといっているのです。しかし,このような場合でも,右辺の rad(abc) を何乗かする,たとえばここでは2乗するとします。そうすると,c<{rad(abc)}2 が成り立つというのです。 a=1,b=8,c=9 の場合も,先に書いたように c>rad(abc) ですが,右辺を2乗すれば,rad(abc)=6 でも {rad(abc)}2=62=36 となるので,c<{rad(abc)}2 が成り立つわけです。
  ・・・・・・ 
 これが「abc予想」ですが,こうした「abc予想」の説明はまったくなく,このことを棚上げしたまま,番組は先に進みます。
 次に,トポロジーなどをさりげなく例に出して,「異なるものを同じとみなす」ということが現代数学の考え方だという説明がされます。このように,「abc予想」とは何か? の説明がなく,見ているほうは,何が問題なのかということがわからないまま,次々に話題が変わっていくのでした。

 では,証明とは何でしょうか? このことをもっと深く説明しなければならないのですが,番組ではすっかり抜け落ちます。
 証明とは,ある適当な数を代入したときにそれが正しくてもだめで,すべての数に対して成り立つことを示さなければなりません。しかし,それが直接できないから,ある種の異なる概念を構築して,それをもとに証明をすることになるのです。だから「abc予想」の証明が難しいのです。
 その難しい証明を,望月新一教授が,自ら提唱する「宇宙際タイヒミューラー理論」(Inter-Universal Teichmüller Theory=IUT)を使って成しえたらしいというのです。しかし,多くの数学者がそれを認めていない,というのが番組のテーマとなっているのです。そこで,望月新一教授がどのような手段で証明を行ったのか? そしてまた,多くの数学者の間でどうしてそれが認められないのか? いったい何が問題となっているのか? ということを説明しなければならないのに,この番組のふたつ目の問題は,そのテーマに対して,内容があちこちに飛びはねているだけで,きちんと整理されていなかった,ということです。
  ・・
 当然,望月新一教授の行った証明は,専門家でも理解が難しいものだから,この番組で証明を説明することは不可能です。しかし,多くの数学者にとって,その証明のどういう点が理解不能なのか? どこに原因があるのか? それについて,一応は,いろんな説明がしてあったとしても,例え話が多すぎ,話がいろんなところに飛躍しすぎて,焦点が絞り切れていないので,私は,まるで把握できなくなりました。
 それでも,わからないまま見ていると,突如,番組では「本当であって本当でない」というような話の説明が,有名な「Russeii's Paradox」を使ってはじまりました。さらには,京都の竜安寺の石庭まで登場しましたが,これでは,めちゃめちゃです。おそらく,ここでいいたかったことは,「望月新一教授が考えていることは,一般の常識からかけ外れた理論だ」ということなのでしょう。しかし,その説明が,本筋とは異なるところまで逸脱してしまうと,見ているほうはとまどうだけです。
  ・・
 ここらへんになって,番組では,やっと,望月新一教授の提唱する「宇宙際タイヒミューラー理論」が出てきました。
 「宇宙際タイヒミューラー理論」の説明は,ふたつの数学世界を用意して,一方の数学世界でのある数ともう一方の数学世界である数を2乗した数を対応させる,というものからはじまりました。そして,それを,この番組のはじめに出てきた「かけ算は簡単だけどたし算はむずかしい」という話につなげてそれを発展させることで「かけ算は成立するがたし算は成立しない数学世界」をつくりあげて,それを用いて「abc予想」の証明をした,という説明になりました。
 そのあとで,他の数学者にインタビューして,その証明を否定するようなコメントがたくさん紹介されていましたが,残念だったのは,多くの当代一流の専門家に取材をしているのに,その専門家に専門の話をわかりやすく説明してもらうのではなく,議論が紛糾したとか,望月新一教授のやり方がまずいとかいうような,きわめて文系的な視点から感想を述べさせていただけだったことです。
 さらに,望月新一教授に1対1で議論をしたピーター・ショルツ(PeterScholze)教授との議論の決裂がそのとどめとなりました。
 さらにさらに,これで終わりかと思いきや,番組の最後に「対象に関する認識論」などというものが出てきて,それがダメ押しとなり,この番組の混乱にさらに拍車をかけました。「対象に関する認識論」というのは「わかるとは何か?」「証明とは何か?」ということに関する説明だと思うのですが,最後になって証明とは何ぞや? に行きついたのです。こんな展開をしてはだめです。最初にやらなきゃ。

 結局,この番組は,焦点が絞り切れないまま,「望月新一教授は一般には容易にわからないおかしな理論を考えていて,たとえそれが正しくとも,それを公で説明しないからその証明が理解されない」といっている(非難している)だけのものでした。
 しかし,この番組でもっとも残念だったのは,はじめに書いたように(くりかえしになりますが),番組の主題である「abc予想」とは何か? についてのわかりやすい説明がなかったことと,証明とは何かという説明がなかったことに尽きます。こんなことになるのも,この番組を作ったスタッフが数学をまったく理解していないからなのでしょう。おそらく,企画はよかったけれど,この番組のスタッフにはテーマが難しすぎて荷が重かったということになります。
 期待していただけに,いろんな意味で,まことに残念な結果となってしまいました。

無題


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1237z星食1星食2DSC_1194zDSC_1237x

######
 2022年4月12日の午後6時30分ごろから午後7時40分ごろにかけて,月がしし座η(イータ)星の前を横切る,いわゆる「星食」(Star eclipse)がありました。
 星に興味のない人には,ただ,月が星の前を通るというだけのことなので,さほど興味もわかないことでしょう。また,星は,当然,星の数ほどあるので,月が星を横切ることなんていくらでもあるように思えますが,明るい星の前を通ることは意外と少ないものらしいのです。今回は,月が3.5等星の恒星を横切るのですが,3.5等星というのは,比較的明るい星の部類に入るそうです。
 明るい恒星による星食といえば,1等星の恒星は,しし座α(アルファ)星「レグルス」(Regulus),おうし座α星「アルデバラン」(Aldebaran),おとめ座のα星「スピカ」(Spica),さそり座のα星「アンタレス」(Antares)の4つしかないそうですが,今年はそのいずれも起きません。
 そこで,今年起きる明るい恒星による星食は,今回のもの以外には,2.3等星のさそり座δ(デルタ)星や2.8等星のおとめ座γ(ガンマ)星などがあります。

 星食の観測はどんな意義があるのでしょうか。
  ・・・・・・
 星食は,まず,恒星の位置を決定するために用いられます。
 恒星の位置は,これまで観測されたものをまとめた「FK5星表」が基準として用いられていました。FKというのはドイツ語のFundamental-Katalogからの略称です。その後,欧州宇宙機関が打ち上げた位置天文衛星「ヒッパルコス」(Hipparcos)によって精密な位置や固有運動が求められましたが,このふたつには系統的な誤差があって,その原因がわからず,このことを明らかにするためには,精度の高い星食観測が必要で,現在は,それを考慮した「FK6星表」が作られました。
 それ以外には,星食観測を継続することで,月の運動や地球の自転などの様々な経年変化をとらえることができます。さらに,月の形状を精度よく求めるために利用することができます。
 また,近年は,コンピュータの発達で,望遠鏡では分離できないほど接近した重星が月に隠されるとき,その光度差を精密に調べることができるようになったので,そうした重星のデータを得ることが可能になりました。
  ・・・・・・
 
 なるほど,という感じです。天文学もこうした地道な観測が大切なのだと納得しました。
 しかし,私は単に暇つぶしをしているだけなので,そのような精密な観測をする気もなければ,というより,できないので,単に,これまで見たこともない星食がどうやって見えるかな? という好奇心だけで見ようとしたのですが,こうしたことを試してみることで,精密な観測がどのように行われるのか,難しいのか,という理解を深めることができて,興味が深まりました。
 月が太陽の前を通るのが日食,惑星の前を横切るのが惑星食で,そうしたメジャーなものは,これまで何度も見たことがありますが,恒星食を見たことはありませんでした。そこで,私の持っている小さな望遠鏡でどれくらい写るのか試してみたわけです。
  ・・
 今日は,実際に写した写真を,「ステラナビゲータ」というソフトウェアで表示されたもの(2番目と3番目の写真)と並べて載せました。星が月に隠されるときは,日の入り直後で,まだ時間が早すぎて空が明るく,まったくわかりませんでした(4番目の写真)。しかし,星が月から出るときははっきりと確かめることができました(5番目の写真,それを拡大したのが1番目の写真)。
 しかし,私の持っているような小さな望遠鏡では分解能が低すぎて,恒星をクリアなイメージでとらえることができないことが残念でした。

 さて,偶然にも,その3日後の4月15日,早くも次のチャンスがやってきました。
 この晩は,午後11時20分ごろから2.8等星のおとめ座γ(ガンマ)星の星食が起きるということでした。月も満月に近く,こちらのほうがずっと条件がよいのです。ところが,ずっと空を見上げていても,天気予報に反して,雲が覆い月が見えません。それでも見ていたら,星食が起きる少し前に,奇跡的に雲の間から月が覗いたので,そのときに写真を写しました。
 そのときのものを「ステラナビゲータ」による予報とならべて載せます。それが,今日の最後の2枚のものです。機材が貧弱なのでなかなかうまくいきませんが,これはこれで,結構楽しいものでした。

無題3DSC_1274tn


◇◇◇
Pink Moon.

翌4月16日は満月でした。
4月の満月は「ピンクムーン」といいます。

DSC_1280n


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_9263IMG_9081IMG_9265IMG_9267

 若いころはアメリカを車で旅し,齢をとったらヨーロッパを鉄道で旅したいと,漠然と思っていたのですが,実際のところは,近年まで,ヨーロッパを鉄道で旅する気持ちはほとんどありませんでした。
 アメリカなら空港でレンタカーを借りればそれでどうにでもなるのに比べて,鉄道の旅では,事前に時刻を調べたり,チケットを購入したりと,いつも無計画な旅をしていた私には,ものすごく面倒なことに思えたからです。
 それが,何度もこのブログに書いているように,ふとしたきっかけで,フィンランドやオーストリアに行って,そして,なんとなく鉄道に乗って郊外まで日帰り旅行を楽しんだことで,ヨーロッパを鉄道で旅する楽しみを知ってしまったのでした。

 ヨーロッパは,知れば知るほど歴史も文化も奥が深く,もっと早くから旅をしていればよかったという想いやら,気楽に旅をするには,やはり,英語だけでなく,ドイツ語やフランス語といった言語をもう少し知っていなくては,という気持ちやらで,複雑でした。
 それでも,この先は,1年に1回くらいずつ,ヨーロッパを鉄道で旅をして,観光地でない郊外の小さな町で宿泊するような旅を実現したいものだと思うようになったころ,コロナ禍になってしまいました。やり残したことがほとんどない私でも,このことだけが少し悔やまれます。

 さて,NHKBSPで,2015年度から16年度にかけて「関口知宏のヨーロッパ鉄道の旅」という番組が放送されました。ヨーロッパ10か国,約2万キロを鉄道で走破し,1国につきおよそ10日間の行程で旅の様子を流すというものでした。
 偶然の出会いを装った,しかし,そのほとんどがやらせ,というか,仕組んだ演出だなと感じられた出会いが番組の核となっていたものですが,ヨーロッパの鉄道事情がわかりました。
 放送されていた当時は,私は,ヨーロッパを鉄道で旅したことがなくあまり興味もなかったので,この番組をなんとなく見ていただけでした。見ていておもしろかったけれど,だからといって,行きたいという気持ちにはなりませんでした。
 毎度のごとく再放送だらけのNHKBSPで,先日,この番組のオーストリア・チェコ編が何度目かの再放送されました。もともとは,2016年の2月から3月にかけて放送されたものです。先に書いたように,この番組がはじめて放送されたあとで,私は奇しくもオーストリアに行ったこともあって,今回は興味があって,再び見ることにしました。
 改めて腰をすえて見てみると,自分も利用したことがある鉄道や駅がたくさん出てくるので,とても懐かしくなりました。

 この番組に限らず,テレビでよく出てくるヨーロッパの様々な国ですが,なぜか,私は,一概にヨーロッパと行っても,オーストリアは何度でも行きたいと思い,若いころに1度行ったことがあるフランスやイギリスには,また行きたいと思わないのです。スペインやイタリアにも興味が湧きません。また,オーストリアに行ったことでその必要性を感じてはじめたドイツ語の勉強なのに,その言葉が正真正銘の母国語であるドイツも,また,まったく興味が湧かないのです。
 北欧も,フィンランドには2度行って,とてもいい国だったのに,それでもう満足してしまい,また行きたいとは思わないし,スウェーデンもノルウェーも特に行きたいと感じません。しいていえば,アイスランドはまた行ってもいいかな。
 そんなわけで,もし,コロナ禍が起きていないくて,ヨーロッパ旅行をすることが可能だったとしても,私は,オーストリアに何度もリピートしていたか,もしくは,オーストリア以外で唯一行きたいという気持ちがあるチェコに足をのばしてていただけだったのかもしれません。
 それにしても,ヨーロッパはどの国もすばらしい文化や古い歴史があるのに,私が特定の国にしか興味が湧かないのが自分でも不思議で仕方がありません。ほんとうにどうしてなのだろう?


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5494DSC_5483DSC_5481DSC_5495

 東京にも愛宕神社があって,ネットで「愛宕神社」と検索すると,むしろ,東京の愛宕神社がヒットします。東京偏重なのは,NHKだけではないようです。
 それ以外にも愛宕神社は全国に900社ほどあるのですが,その総本社こそが私の参詣した京都の愛宕神社です。

 愛宕神社は,701年から704年の大宝年間に修験道の祖である役行者と白山を開いた泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰,つまり,愛宕山の頂に社殿を建立したのがはじまりだといいます。
 さまざまなところでよくきく役行者という名前ですが,役行者というのは,7世紀末に大和国の葛城山を中心に活動した呪術者のことで,生没年不詳です。後世,修験道の開祖として尊崇されるようになったのですが,おそらく,実在というよりも,その類の人たちをまとめて偶像化したものだったのでしょう。
 また,泰澄(たいちょう)は682年(天武天皇11年)に生まれ,767年(神護景雲元年)に亡くなった修験道の僧です。
 まあ,こうした人の名をあげることでお墨つきを得るというわけでしょう。
 そして,781年(天応元年),この地に和気清麻呂,慶俊が白雲寺を建立し,愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられています。
 和気清麻呂は733年(天平5年)に生まれ,799年(延暦18年)に亡くなった貴族です。769年(神護景雲3年),道鏡が皇位をのぞんだとき,宇佐八幡宮の神託をうけてこれを阻止したことは日本史の教科書にも記述があります。そのため,道鏡に皇位を譲ろうした称徳天皇に名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と変えられ,鹿児島県大隅に流されました。大人げない話に聞こえます。のち許され,桓武天皇に仕えました。
 慶俊は奈良時代の大安寺の僧で,756年( 天平勝宝8年)学業を称され律師となります。律師とは,仏教の僧官の職位で,僧正・僧都に次ぐものです。766年(天平神護2年),道鏡によって排斥されますが,770年(宝亀元年)に少僧都(浄土宗における第五級の僧階)となりました。

 東京にある愛宕神社は徳川家康の命で創建されたものです。
 愛宕神社は勝軍地蔵が本尊だったため,中世から軍神として信仰され,徳川家康が愛宕愛宕神社を勧請したのは,軍神だったからです。
 また,古くから火事を恐れる京の人々は火伏・防火への関心が高く,「お伊勢七度,熊野へ三度,愛宕山へは月参り」といわれるほどの信仰を集めていました。愛宕神社で授与される「火迺要慎」(ひのようじん)のお札は,京都でも有名なお札のひとつです。
 明治の神仏分離・廃仏毀釈の荒波で愛宕権現は廃され、天台宗・真言宗両義の白雲寺も廃寺となり,現在は,本宮に伊弉冉尊(いざなみのみこと)など,若宮に迦遇槌命(かぐつちのみこと)などを祀る愛宕神社になっています。

 その昔,標高740メートル付近にケーブルカーの愛宕駅がありました。そして,その付近にはホテルと遊園地があったそうですが,今は廃墟と化しています。歩いていると,この痕跡らしきコンクリートの創造物に出会います。
 その地を冒険した人のブログがあります。読んでみると,荒れた山道をかき分けかき分け,トンネルの跡やら壊れた建物がたくさん出てきますが,私は,それがどこなのかよくわかりませんでした。
 それにしても,どうして日本人はこうした廃墟を作るのが好きなんでしょうか? 使われなくなったら撤去してもとの自然に戻せばいいのに,そうした場所はどこもかしこもこうしてほったらかしになって,そこで,ゴミだめのようになってしまい,美観のかけらもないのがこの国です。
 ということで,一時は740メートルまではケーブルカーで登れたらしいのですが,そこからは今も昔も徒歩で登るしか手段がありませんでした。今は,古と同じく登山口の清滝から歩くしかありません。
  ・・
 私が登ったのは,行きは表参道の清滝ルートでした。
 「歩く地図・京都」には1時間半とありましたが,登山口で,私が車を停めたさくらや青木駐車場で聞くと,徒歩で2時間から3時間ということでした。3時間かけても登れなかったら下山してくださいとのことでした。私は急いで登って転んだり足でもくじくと大事なので自分なりにゆっくりと歩いて,2時間30分ほどかけて到達しました。

 前回も書きましたが,戦国時代,明智光秀は本能寺の変の直前,1582年(天正10年)5月27日,梅雨空の愛宕山に参詣し,山上の太郎坊で三度みくじを引きます。
 翌日の5月28日に愛宕山五坊のひとつ威徳院で連歌の会「愛宕百韻」を催し,「ときは今あめが下知る 五月かな」(その意は,「とき=土岐氏」で光秀のことを表し,「あめ=天下」「下知る=命令」で,「五月雨が降りしきる今こそ私が天下を取るとき」)という歌を奉納したと信長の旧臣・太田牛一の記した「信長公記」にあって,司馬遼太郎さんの「国盗り物語」にそのくだりが描かれてあり,1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」でも,そのシーンがありました。
 また,2020年に放映されたNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも愛宕山参詣のシーンがあり,長谷川博巳さんが演じた明智光秀が愛宕権現の前で打倒信長を誓っている姿が印象的でした。

麒麟


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5417DSC_5442DSC_5470DSC_5475DSC_5480

######
 愛宕山登山は,前半がとてもきつく,5合目を過ぎるころから坂というよりも林道のようになってきて,楽になりました。
 途中はずっと同じような山道で,たくさん写真を写したのですが,それを載せていても退屈なだけでしょうから,残念ながらすべてカットします。
 40分の30を過ぎたあたりから,気持ちが楽になってきましたが,体は重くなってきました。それでも,足を一歩ずつ踏み出せば,確実にゴールが見えてきます。
 不思議なことに,最後は40分の40ではなく,40分の41でしたが,ともかく,黒門が見えてきました。

 黒門を通過すると,さらに参道が続き,ついに社務所に到着しました。
 すでに参詣を終えた人が昼食を食べていたり,あるいは,トレーニング姿でジョギングをしている女性がいたりして,私の日ごろの鍛錬不足を反省させられました。
 いずれにしても,たどり着くことができてホッとしました。
 そういえば,1昨年の春,コロナ禍がはじまって観光客がめっきりいなくなった京都,こりゃチャンスだと連日出かけ,満開の桜咲く醍醐寺へも行き,標高450メートルの上醍醐に登りました。その時もけっこうきつかったのですが,今回はそれとは比べ物になりませんでした。

 心配していた雪はなく,というより,かなり暑く,せっかくパーカーを持ってきたのに,無駄になりました。 
 社務所のある場所からさらに高い石段を登って,やっと愛宕神社の鳥居をくぐることができました。
 本能寺の変のときの明智光秀はたしか54歳くらいでしたが,今とは違って,草鞋を履いて,梅雨時にこの山を登ったのですから,昔の人の体力はすごいものだなあと今更ながら感心しました。今日の最後の写真は,NHK大河ドラマ「国盗り物語」で近藤正臣さんが演じた明智光秀が愛宕神社で戦勝祈願をしたときのシーンです。

  ・・・・・・  
 愛宕山は古くより比叡山と共に信仰を集め,神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られました。江戸時代には,白雲寺の多くの社僧の住坊があって繁栄していましたが,明治の神仏分離によって白雲寺は廃絶されて愛宕神社になりました。
 愛宕神社は,火伏せ,防火に霊験のある神社として知られます。「愛宕の三つ参り」として,3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれるそうですが,3歳児が登れるなんて,私には信じられません。
 明治期には参詣道の途中にいくつか茶店があり,名物の土器投げで賑わったという跡がありました。また,茶店では疲れた客への甘味として、しん粉が振舞われていたといいます。
 昭和初期には愛宕山鉄道の平坦線とケーブルカーが存在し,ホテルや山上遊園,スキー場が設けられて山上リゾート地となっていたそうですが,戦時体制下に撤去され,現在は,再び信仰の山に戻っています。
  ・・・・・・

明智光秀


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_2452IMG_24382020-02-04_12-11-48_169

 では,今日は,念願かなって写すことができた中岡慎太郎,坂本龍馬,ジョン万次郎の像です。

 まず,1番目の写真が室戸岬にある中岡慎太郎の像です。
  ・・・・・・
 中岡慎太郎は1838年(天保9年)土佐藩郷士の子として生まれた幕末の尊攘派志士です。1861年(文久元年),武市瑞山の編成した土佐勤王党に入り,藩主を護衛し上京して尊王運動に奔走しましたが,藩論が公武合体に傾くと脱藩して長州に走り,以後,長州藩で活動しました。
 海援隊の坂本龍馬と並び,中岡慎太郎は陸援隊を結成し,薩長同盟の成立に尽力し,武力討幕の計画を立てていましたが,京都・近江屋で坂本龍馬と謀議中襲われ,殺害されました。ときに30歳でした。
  ・・・・・・

 2番目の写真が桂浜にある坂本龍馬の像です。
  ・・・・・・  
 坂本龍馬は1835年(天保6年)土佐藩郷士の子として生まれた幕末の尊攘派志士です。本名直柔,別名才谷梅太郎,通称龍馬。
 江戸で剣術修行中に知った武市瑞山,久坂玄瑞らの影響を受けて尊王攘夷運動に入り,1862年(文久2年)年脱藩して江戸で幕府の軍艦奉行勝安房守(勝海舟)の知遇を受けました。
 薩摩藩の援助を受けて長崎で洋式銃砲の取り引きを行う貿易商社亀山社中を設立,1866年(慶応2年)薩摩藩と長州藩の間を斡旋して両藩を和解させ,薩長同盟を成立させました。1867年(慶応3年)に脱藩の罪を許され土佐藩に戻り,亀山社中を海援隊と改め藩と密接に結びました。
 討幕派と佐幕派の調停,融合をはかろうと,朝幕連合政権による新体制樹立を謀議中,中岡慎太郎とともに京都・近江屋で刺客に暗殺されました。ときに33歳でした。
  ・・・・・・

 最後の写真が足摺岬にあるジョン万次郎の像です。
  ・・・・・・
 中浜万次郎は1828年(文政11年)生まれの幕臣です。ジョン万次郎ともいい,John Munnとも書きます。
 土佐国中ノ浜の漁師悦助の二男に生まれ,1841年(天保12年),出漁中台風に遭い,南の鳥島に漂着。アメリカの捕鯨船に救助され,アメリカに渡り,勉学ののち捕鯨業に従事し,1851年(嘉永4年)に琉球を経て薩摩に到着します。長崎奉行所で取り調べを受けたのち,土佐藩に送致され,島津斉彬や山内豊信に珍重されました。
  ・・・・・・
 幕末に貴重な人材として,マシュー・C・ペリー来航のときは幕府に出仕して通訳に従事し,その後,軍艦操練所に勤務し,「咸臨丸」の遣米使節に随行しました。明治政府成立とともに徴士(明治初年に藩士や地方の有力者の中から召し出されて政府に登用された者)となり,東京大学の前身である開成学校教授,のち,普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されたりと活躍しました。

 中岡慎太郎と坂本龍馬は僚友としてわかるのですが,どうして,もうひとつの像がジョン万次郎なのかと私は思っていました。それが,ジョン万次郎は足摺岬の地に生まれたということを知って,納得がいきました。
 現在,足摺岬には,ジョン万次郎の生まれ育った家が再現されていて,見学することができます。また,博物館もあります。
 稀有な人生を送った人ですが,漂流してアメリカに渡り,たまたま能力が優れていたために,その機会を生かすことができたことで,その奇跡が起きたのだと思います。もし,台風に遭わず漂着しなかったら,そうした能力も埋もれ,ただの漁師としてその一生を終えたのでしょう。
 「カムカムエヴリバディ」で松重豊さん扮する伴虚無像さん言う「日々鍛錬し,いつ来るともわからぬ機会に備えよ」というセリフがあったのですが,それこそ,その人の生まれつき与えられた能力あってこそなので,そうした人材が幕末の日本に存在したということこそがこの国にとって幸運なことでした。

2020-02-04_11-52-23_445虚無像


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_8856IMG_8857

 4月3日,NHKEテレでNHK交響楽団第1951回定期公演が放送されていました。この公演は,本来は,パーヴォ・ヤルヴィさんの首席指揮者として最後の演奏会だったのですが,来日がかなわず,代わりに下野竜也さんが指揮をしたものです。
 曲目は,もともとはブラームスのピアノ協奏曲第2番とシューマンの交響曲第2番だったのですが,ピアノ協奏曲がシューマンのものに変更になり,演奏者もイゴール・レヴィットさんから小林愛実さんに変わりました。
 NHK交響楽団でシューマンといえば,何といっても,桂冠名誉指揮者だったヴォルフガング・サヴァリッシュさんなのですが,パーヴォ・ヤルヴィさんがこれまでシューマンを指揮したことがないというが驚きでした。
 しかし,それを聴く機会がなくなったことが残念でした。
 私は指揮者が変わってしまったことで想い入れがなかったので,なんとなくテレビで見ていたのですが,すっかり引き込まれました。この日の精神状態なのかどうか,何か,いつも以上にシューマンがとてもすばらしく聴こえました。

 私の受けた音楽教育では,バッハ,モーツアルト,ベートヴェンまでのいわゆる古典派作曲家に比べて,シューベルト,シューマン,メンデルスゾーン,シベリウス,…,といった多くの作曲家を輩出したロマン派は,みなひとまとまりになってしまっていました。そこで,ロマン派の多くの作曲家が作った40分程度の交響曲は,ベートーヴェンの第9番交響曲や,あるいは,それ以降にマーラー,ブルックナーといった1時間を超すような長大な交響曲とは異なり,そのどれもがまあ「ふつう」の作品であり,また,作曲家も,しかめっ面がお似合いのベートーヴェンと違って,苦悩とはかけばなれて幸せ一杯に美しい曲をたくさん作ったように思えました。
 しかし,当然,実際はまったく違っていて,多くの芸術がそうであるように,シューマンの音楽もまた,その苦しみと人生の絶望感の中から生まれたものです。

  ・・・・・・
 ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は1810年生まれのドイツの作曲家です。この時代,ヨーロッパではウィーン会議があり,日本では江戸幕府末期の文化文政時代です。
 ロベルト・シューマンはチェコ共和国にほど近いドイツ連邦共和国ザクセン州ツヴィッカウ(Zwickau)の裕福な家庭に生まれました。ピアニスト志望だったのですが,指の故障によりピアニストを断念して作曲家となり,20代のころから精神障害の症状に悩まされながら,多くの曲を残しました。1854年にライン川に投身自殺を図り,一命はとりとめたものの,ボン近郊のエンデニヒ(Endenich)の療養所に収容され,その2年後に46歳で死去しました。
  ・・・・・・
 2017年私がウィーンに行ったとき,旧市街の路地を歩いていて,シューマンの住んだ家というものを見つけました。
 シューマンは,1838年10月から翌年の1839年4月までウィーンに滞在しました。それは,のちに妻となるクララがウィーンでの演奏会で大成功を収めたことを知り,クララがピアニストとして活動しているウィーンに自分の本拠地を移そうと考えたことによります。しかし,当時のウィーンは反動保守の政治体制下にあって,ウィーンの出版社はむしろ敵意を持ってシューマンを迎えました。
 ウィーン滞在中,シューベルトの兄フェルディナントの家を訪ねて見つけ出したのが,シューベルトのハ長調交響曲でした。今日「グレート」とよばれる第8番の交響曲で,これがシューマンのウィーン滞在中の功績です。

 私は,シューマンになぜかとても懐かしい気持ちがします。こころに染みるのです。
 しかし,FMで放送されるコンサートなどでシューマンの交響曲がかかるとき,解説者の人がきまって話すのが,シューマンの交響曲の管弦楽法についての欠点,つまり,「未熟さ」です。曰く,「オーケストレーションがときに鈍重で垢抜けない」「色彩的には華麗で明快なものではなく,どちらかといえばくすぶったような,曇りがちの天候のような響きを出す」「往々にして暗く重く,3度やオクターヴの平行が多く,楽器の使い方が技術的に問題」などです。実際,それが理由で,リハーサルの段階で各パートのバランスを調整して演奏されることがあるそうです。
 楽器のまったく弾けない私には,そうした専門的なことはわかりません。それよりなにより,私には,シューマンの交響曲は,明るさの中に影があり,快活そうで,影があり,その影がこころのなかにささるのが,とてもすばらしく感じられます。そしてまた,素朴さがたまりません。
 私は,ドナウ川もセーヌ川も見たことはあるのですが,ライン川は見たことがありません。私の好きなシューマンの交響曲「ライン」を聴くたびに,まだ見ぬ雄大なライン川にこころ惹かれます。いつか機会があれば,ライン川とともに,シューマンの墓地のあるボンを訪ねてみたいものです。

IMG_1848


◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5295DSC_5301DSC_5302DSC_5294

 普段山登りをしている人にとっては,たかが標高1,000メートルにも満たない山に登るのにふらふらになっているのをあまりに情けないように思えるでしょうが,日ごろ運動などしたことがない私がトレーニングもしないで登りはじめたのだから,自業自得というものでしょう。それに,この1,2年,すっかり年老いてしまい,体力全般に自信がなくなってしまいました。
 ただ,毎日けっこうな距離を歩いているので,歩くことにかけては何時間でも大丈夫なのですが,坂道はまったく違い,地球が味方をしてくれません。

 2年ほど前,家の近くだったこともあって,大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの明智光秀の遺構を訪ねて様々なところに出かけていたのですが,その多くが標高400メートルほどの山城で,行くまではそんなところとは知らず,登る気もなかったのに,結局全部登って,いつも後悔していました。
 愛宕神社はその倍の標高があります。それでも石段だから山登りとは違うと思っていたし,多くの人が,それも結構年配の人たちが参詣に登頂しています。また,私は2019年に標高863メートルのオーストラリアのエアーズロックに,これもまた登頂する気もなかったのに結局登った,というか鎖にしがみつきながらよじ登ったこともあったので,内心,大したことないんじゃないか,という気持ちもありました。
 しかし,1週間にひとりほど救出者がでるから注意と書かれてあるのを見ると,急に不安になってきます。

 それにしても,こうして山歩きをしていつも感じるのは,日本はどこもかしこも山だらけだということです。
 もともと国土自体の面積が狭いのに,さらに平地がわずかしかないから住む土地もなく,これだけの人口がいては,どんな山の中でさえも,少しでも平地があれば家があります。
 また,標高が500メートルほどのちょっとした山はどこもかしこも山頂には城跡があるので,いかに昔は戦ばかりしていたのか,そして,そんな山城を作るのに,どれだけの人が働かされていたのかを考えると気が重くもなります。
  ・・
 さらに,もっと標高が高くなると,今度は,城跡でなく,その多くは聖地となっていて,修行の場として位置づけされています。
 日ごろの生活だけでも苦であるのに,さらに,苦業を味わうために険しい山の中に修行に出かける,というか,それ以上の苦を味わうことで,日ごろの生活に打ち勝つ「精神」を鍛えるという,そんな自虐的なことが,この国の人の根底にあるのかもしれません。
 それにしても,人の目があるときだけはしおらしく,また,人と同じことを他人にも強いることが得意なのに,その反対に,人の目がなければ何をやってもいいというか,道徳心もなくなり,ゴミを捨てまくり,また,神仏に祈りさえすれば,あとはどうにでもという感じで山を切り崩し,国全体を破壊して,どこもかしこも美観のかけらもないという,傍若無人なこの国の有り様が,私には,まったくもって理解不能です。

 さて,そんな話はともかく,意を決して登りはじめました。
 奥嵯峨の鳥居本にある一の鳥居から山頂までが50丁だそうで,ところどころに目印として石標がありました。1丁というのは約100メートルです。また,清滝の二の鳥居の登山口から山頂までは4キロメートルで,それを40等分して,40分の1からわかりやすいように新しく作られた目印も設置されていました。
 私は,それを励みに登るすることにしました。
 はじめのうちは,これまで登った山城と同じだなと楽観していて,これなら何とななるだろうと思っていたのですが,散々歩いたところがやっと40分の1では,この先が思いやられるものでした。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_2456IMG_24302020-02-04_12-26-45_969

 私が若いころは,本州と九州は関門トンネルがありましたが,今とは違って,北海道と四国は本州とは橋やトンネルで結ばれておらず,船で渡る必要がありました。
 四国に行くには宇高連絡船というものがありました。宇高連絡船は,岡山県玉野市の宇野駅と香川県高松市の高松駅との間で運航されていた旧・日本国有鉄道,現在のJR四国の鉄道連絡船で,実際の距離は11.3海里,21キロメートルほどでした。
 1988年(昭和63年)4月10日,というから,今からちょうど34年前の今日,本四備讃線,つまり,瀬戸大橋が開業しました。そして,宇高連絡船は,1991年(平成3年)3月に廃止となりました。
 瀬戸大橋ができたころは,車で通行するのにはずいぶんと高速料金が高価だという評判で,そのことだけが記憶に残っています。
 
 船を使わなければならなかったとはいっても,高松あたりは昔から身近なところで,岡山を含めた観光コースとして,私も,宇高連絡船を利用して,何度か行きました。また,高知市は「四国V字」といって,高松,高知,松山と巡る修学旅行のコースでした。
 しかし,四国のそれ以外のところは,なかなか行く機会がありませんでした。私が長年行きたかったのは,徳島市,室戸岬,足摺岬,宇和島市でした。
 そこで,私がまず目指したのが徳島市へ行って阿波踊りを見ることでした。まずは,列車で行きました。そして,2度目は淡路島を経由して,車で行きました。ずいぶんと簡単に行くことができるのだなあと思いました。
 次に目指したのが室戸岬でした。
 室戸岬は,徳島市から,あるいは高知市から,ここもまた,車を使えば,比較的楽に行くことができました。それでもなかなか行く機会がなかったのが足摺岬でした。
 そんな足摺岬でしたが,2020年のコロナ禍がはじまる直前に,やっと行くことができました。その折に,四万十川や宇和島市にも寄ることができたことは,すでに書きました。

 室戸岬には中岡慎太郎,高知市の桂浜には坂本龍馬,そして,足摺岬にはジョン万次郎の像があります。坂本龍馬像は有名ですが,おそらく,その次に有名なのは中岡慎太郎像でしょう。私は,若いころにこのふたつの像があると聞いて,ぜひ,見たいものだと思っていましたが,足摺岬にジョン万次郎の銅像があるのを知ったのは,比較的最近のことです。
 しかし,正直,そのころは,ジョン万次郎って,だれ? という感じでした。
 その後,いろんなことを知ってから,ぜひ,この三つの像をすべて見たいものだという想いが募ってきたのでした。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_5288DSC_5289DSC_5291DSC_5292

 今から30年ほど前のこと。
 それまでは仕事が忙しく,ほとんど旅行をしていなかったのですが,突如京都に目覚め,それ以来,毎月のように京都へ行くようになりました。そのときいつも持参していたのが「歩く地図・京都」という小さなガイドブックでした。この本の「清滝」のところに,こうありました。
  ・・・・・・
 西側には標高942メートルの愛宕山がそびえ,その頂上には「愛宕参り」で有名な愛宕神社がまつられている。清滝の集落の北側から険しい山道の表参道が伸び,約1時間半の登山で参拝できる。
  ・・・・・・
 私は,この本に載っていた京都の神社仏閣はほぼ制覇したのですが,今よりずっと若かったのに,愛宕神社は,1時間半ということにたじろいで,いつかは,と思ってはいても,なかなか行くことができませんでした。

 愛宕神社は,太田牛一が書いた「信長公記」に
  ・・・・・・
 5月26日,坂本城を発した光秀は,別の居城である丹波亀山城に移った。27日,光秀は亀山の北に位置する愛宕山に登って愛宕権現に参拝し,その日は参籠した。
 光秀は思うところあってか太郎坊の前で二度,三度とおみくじを引いたそうである。
  ・・・・・・
とあります。本能寺の変が起こったのが6月2日,旧暦の5月は29日までなので,そのわずか4日前の戦勝祈願でした。
 司馬遼太郎さんの書いた「国盗り物語」で,近藤正臣さん扮する明智光秀が何度みくじを引いても凶しか出ないというシーンがあって,それを今でもずっと覚えていて,愛宕神社は一度は行ってみたいと思ってはいました。よほど衝撃的なシーンだったのでしょう。
 齢をとって,私の「やっておきたいリスト」の,そのほとんどはやってしまったのですが,残り僅かな「やっておきたいリスト」の中にある愛宕神社に参詣する,というものを,今やらねば,もうできないという想いが募ってきました。
 しかし,一昨年も昨年も,行きたいと思ったときは暑かったり寒かったりと,なかなか実現しませんでした。今年の3月こそは,と思っていたのですが,例年と違って春が遅く,3月下旬でもまだ愛宕山山頂には雪があるということでのびのびとなっていました。急に暖かくなり,天気もよさそうだったので,ついに4月7日に決行することにしました。

 とはいえ,どこから登るのかもわかりません。
 時節柄,現在私はどこへ行くにも車です。愛宕山への登山口には駐車場があると書かれていたので,やはり,車で行くことにしたのですが,それがどこなのか,どういった駐車場なのかがよくわかりません。各地の日帰り登山をするような場所にある数台のスペースがあるだけの空き地なのか,それとも,観光地化されていて,広い民間の駐車場があるのか…。
 調べてみると,駐車場というのは,「さくらや(青木駐車場)」であることがわかりました。
 とはいえ,この名前からして,「さくらや」なのかホームページにあったように漢字で「櫻屋」なのか,では,「青木」というのは何なのか? それは,今もって不明です。とにかく,怪しげでないことはわかったので,そこに車を停めることにしました。
 駐車場は愛宕山登山口の入口にあるということでした。カーナビを頼りにして,駐車場の開場時間である6時30分をめざして,朝4時30分ごろに家を出ました。弥冨インターチェンジから新名神高速道路経由で走り,京都南インターで降りました。そこから,嵐山を通って北上しました。
 嵐山は桜満開でした。2年前の2020年3月はコロナ禍がはじまったころで,それまで外国からの観光客でごった返していて行く気の失せていた京都に人がいなくなり,私はこれが千載一遇のチャンスだと思って,今年(2020年)こそは京都の春の桜景色を満喫しようと毎日のように通ったのですが,それでおなか一杯になって,今年(2022年)はもう京都の花見をする気にはならず,一目散に清滝を目指しました。清滝の手前,道路が狭くなって,その先は,1車線しかない片側交互通行のトンネルがありました。本当にこの先で大丈夫か? と不安になりましたが,長くて狭いトンネルを抜けると,それこそ,私の目指した「さくらや(青木駐車場)」がありました。午前7時前でした。駐車場はだだっ広い空き地で,すでに車が2,3台停まっていました。
 車を停めて,準備して,さあ,出発です。


◇◇◇
カムカム・ロス

278123701_2010670845786410_7486729853708386437_n


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_1977DSC_1993DSC_1994DSC_1988DSC_1990

 時間があるとき,無計画に旧街道を巡っています。
 2022年の今年はずっと寒く,天気も悪く,最悪な初春でした。4月4日の今日も午前中は雨の予報だったのですが,朝起きるとすでに天候が回復していました。
 これでやっと春が来たと思ったので,思い立って,以前から行きたかった鏡神社へ行くことにしました。
 鏡神社は,2月25日,NHKBSPで「新日本風土記・義経の旅-今も語り継がれる日本のヒーロー義経伝説をたどる旅-」という番組を見て知ったところです。

 以前,旧中山道を関ヶ原宿から鳥居本宿まで歩いたのですが,その先は琵琶湖にそってずっと国道8号線伝いに行くだけだと思って歩く気にならず,そのままになっていました。
 しかし,それは私の浅知恵であって,調べてみると,鳥居本宿の次が高宮宿,愛知川宿,武佐宿,守山宿,草津宿,大津宿とあって,中でも,高宮とか武佐などという名前はJRの駅にもあるのやらないのやら,私ははじめて聞くところでした。
 その中でテレビで紹介していたのは鏡神社や義経ゆかりの場所で,そこは武佐宿の近くのようでした。
 私はコロナ禍以降,公共交通は利用しておらず,そこで,今回も車で巡ることにして,とりあえず,鏡神社まで行って,そこから引き返しながら,宿場ごとに車を降りて歩くことにしました。

 鏡神社近くの道の駅に着きました。到着してみると,鏡神社は武佐宿からはるかに遠く,そこはその次の宿場の鏡の宿というところでした。しかし,鏡などという名前の宿場は旧中山道にはなく不思議な気がしました。さらに奇妙だったのが,鏡の宿には本陣跡も脇本陣跡もあったことでした。
 調べてみると,次のようにありました。
  ・・・・・・
 鏡の宿は東山道八十六駅・うまやのひとつで,平安時代末期から大変栄えた宿場でした。
 やがて,中山道が整備されると宿場の指定から外され,間の宿 となってしまったのですが,本陣と脇本陣は紀州藩の定宿となるなど宿場の機能をもっていました。
  ・・・・・・

 鏡神社よりさらに東に少し歩くと「源義経宿泊の館跡碑」という標示版がありました。
 1174年(承安4年)3月,金売り吉次に伴われて鞍馬寺より奥州に下向する牛若丸が,鏡の里の長であった澤弥伝の旅籠白木屋に泊まり,その夜に元服して源九郎義経と名乗ったといいます。
 また,元服した源義経は鏡神社参道の松枝に烏帽子を掛け参拝し,源氏の再興を祈願したといいます。しかし,烏帽子を掛けたという松は1873年(明治6年)に倒れてしまい,今は切り株だけが保存されていました。
 鏡神社の本殿は,義経より後の室町時代に建てられたものです。
 再び西に歩いて行くと,源義経元服の池があって「東下りの途,当 鏡の宿にて元服加冠の儀を行う。その時使いし水の池なり」と説明されていました。

 「烏帽子折」は能の源流である幸若舞曲の曲名です。作者,成立年次は不詳。題名の初出は1551年(天文20年)で,上演記録の初出は1563年(永禄6年)です。
  ・・・・・・
 鞍馬を出た牛若丸は,金売り吉次一行に加わって,東国に下りますが,その途中,金売り吉次一行を襲う熊坂長範ら群盗と出会います。
 追手を逃れる牛若丸は,鏡の宿の烏帽子屋で変装のために源氏嘉例の左折れ烏帽子を所望し,礼に一刀を与えます。烏帽子折職人の妻が父源義朝の郎等鎌田正清の妹でした。与えられた一刀が父源義朝ゆかりの守刀と知った烏帽子屋夫婦は驚き,餞別にそれを牛若に返します。牛若丸は,その守刀で熊坂長範一味の襲撃をひとりで撃退するのです。
 その夜,牛若丸は元服します。
  ・・・・・・


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_4750

######
 新しい年度がはじまり,入学式や入社式の様子が報道されています。それを見ながら,もし,私が今大学を卒業する年代だとしたら,どんな仕事を選ぶのだろう考えたのですが,考えても考えても何も浮かばないのに驚きました。それはおそらく,いろんなことを知りすぎているからなのでしょう。
 少子高齢化の進むこの国で,財政赤字が進むこの国で,政治も教育も劣化の一途をたどるこの国で,希望にあふれた仕事を探すのは容易ではありません。しかも,実際は,自ら仕事を選ぶというより,何社も受けて,好む好まざるに関わらず,生きていくために,受かった会社に入社するという妥協でしかありません。
 それでも,以前は花形だった新聞記者は将来があるとは思えないし,銀行も先行きが危ういし,これまで大手といわれたような製造業も不正だらけです。また,教育も介護も給料が安く,待遇が悪い状況では魅力がありません。医者や看護師もこのコロナ禍で明らかになったように,大変な仕事です。

 そこで,若い人がどう考えているかを調べてみました。
 昨年12月に発表した学研教育総合研究所のデータによる高等学校1年生のデータが見つかりました。
 それによると,第1位がエンジニアやプログラマー,第2位が公務員,第3位が会社員,第4位が学校の教師と看護師,第6位が医師と薬剤師,第8位が保育士,福祉,運転手,ファッション関係,と続きました。漠然とした会社員とか公務員というのがよくわかりませんが,高校1年生では,まだ,社会の仕組みすら知らず,そこで,身近な存在である職種に目がいく,親のやっている仕事しか仕事の名前を知らない,あるいは,なんとなく会社に入って働きたいというところでしょう。夢のない国です。
  ・・
 学校には進路指導というものがありますが,進路指導といったところで,実は単なる進学指導であり,しかも,最も社会を知らないような教師が,単に模試の成績を見て「君はそれでは〇〇大学には合格できないよ」「もっと頑張りなさい」などと旧時代的なことを言っているだけだから,指導にもなっていません。投資のしろうとが株価を見ながら何を買おうと吟味しているようなものです。
 あるいは,大学の何学科を選ぶか? とか,社会で成功した人の話を聞く,という機会を設けていることもありますが,実際は,成功した人の陰には,その何倍もそうでない人もあり,また,この国では,医療関係以外は特に何科を出なければ就けないということもなく,心理学科を出て銀行に勤める人もあれば,数学科を出て保険会社に入社する人もあるというように,大学は,何学科であっても,大学卒というブランドを手に入れるだけの話です。一部の専門性の高い学科を除けば,大学生は,学問をしているというより,社会に出る前のレジャーセンターを楽しんでいる,あるいは高額の学費を払うためにアルバイトに精を出しているというだけのことです。

 しかも,1番人気のプログラマーといえ,専門性をリスペクトしないこの国では,語学同様,プログラミングができる人というのは,便利屋としてしか扱われず,待遇も悪いので,優秀な人材は,日本から脱出してしまいます。
 これだけ専門性が必要になってしまった現代社会では,本来は,学校教育を見直してすべての教科を再構築すべきなのでしょうが,そんなことをしたら,明治維新のころに武士が失業したように,必要がなくなった教科の教師は職を失ってしまうから,そんなことはできません。かくして,形骸化した教育のなかで若者は育ち,何も身につかず,お金だけを使って,大学卒業という資格を手にし,ロクに学問をする時間もなく就職活動をして,しかも,入社した会社を数年で辞める,ということを繰り返していくのでしょう。
 結局,就職が最終地点でなく,自分が何をしているときが充実しているかを自分で見つけて,絶えずキャリアップをしていくことが必要なのでしょう。それにしては,今の学校の進路指導は,現実とはかけ離れすぎています。そもそも,実社会を知らない世間知らずの教師が職業指導をすること自体,根本的に無理があります。

DSC_0359ss


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_2066DSC_2114IMG_1550DSC_2078

######
 ワシントン・ナショナルズ(Washington Nationals)は,ナショナルリーグ東地区所属のチームです。2004年まではモントリオール・エクスポズ(Montreal Expos)として,カナダのモントリオールを拠点としていました。まったく人気がなく,かなりのお荷物チームでした。
 モントリオール・エクスポズは,1969年の球団拡張によって新設されました。1976年のモントリオール・オリンピックで使用されたオリンピックスタジアムを本拠地としました。1995年のシーズン前に主力選手をほとんど放出してファンの怒りを買い,さらに,オリンピックスタジアムの老朽化で,年間動員がたった64万人と,マイナーリーグ以下となりました。2000年シーズンからは地元メディアの英語によるテレビとラジオ中継が消滅し,フランス語圏のモントリオールでは,フランス語のみになってしまいました。
 私は,こうした場末感が好きで,そもそも陸上競技場でどうやってベースボールをやっているんだろうという興味もありましたし,1980年代の日本のロッテ・オリオンズという球団が使っていた川崎球場のように,ほとんど観客のいないスタンドというのも見てみたいものだと思っていました。そんなわけで,ぜひモントリオールに行ってみたいものだと思っていたのですが,フランス語圏ということも手伝って踏ん切りがつかず,かないませんでした。
  ・・
 当時の写真を見つけました。それが今日の最後から2番目のものですが,観客がまばらなだけで,意外と「まとも」です。それに比べて,最後の写真は川崎球場ですが,こういうのを見比べると,所詮日本はアジアの東の端の貧しい国だと実感します。

 さて,チーム自体は,不人気のモントリオールに見切りをつけて,2005年にアメリカの首都ワシントンDCに移転しました。メジャーリーグサッカー(MLS)のDC ユナイテッドとナショナルズの併用であったロバート・F・ケネディメモリアルスタジアムで当初の3年間ゲームを行ったのち,2008年からは新装なったナショナルズパーク(Nationals Park)を本拠地としました。私は,これまでにアメリカMLB30チームすべてのボールパークに行ったことがあるのですが,2017年,その中で最後に行くことができたのが,このボールパークでした。
 ワシントンDCは政治の中心,アメリカの首都。ボールパークが建設できるような場所があったかな? 一体どこにあるのだろうと疑問に思っていたのですが,それは,ワシントンDCのダウンタウン南部を流れるアナコスティア川(Anacostia River)沿いで,近くにはワシントン記念塔や議会議事堂を望むことができ,地下鉄で簡単にアクセスできるというとても便利な場所でした。
 モントリオール時代とは違って,近年は強豪チームとなり,ワシントン・ナショナルズは人気もあります。ボールパークも美しく,また,非常に親切でファンサービスもよく,すばらしいところでした。30球団すべて見た私の独断と偏見では,チケットが高価でエラそうでファンサービスがいまいちの代表がニューヨーク・ヤンキース,ファンが田舎者で近寄りがたくファンサービスも最悪なのがカンザスシティー・ロイヤルズですが,それとは真逆でした。
 また,治安が悪いといわれるワシントンDCですが,その場所は治安もよさそうで,安心しました。
 しかし,2021年7月17日,ナショナルズパークのすぐ外で銃撃があって,ゲームは6回途中で中断。観客が避難したという痛ましい事件があって,私はショックを受けました。

DSC_2101DSC_2119

◇◇◇

822fc4e2IMG_1845


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_4761DSC_4775CCRL7844 (2)IMG_7160

######
 私は,2016年の秋,2018年の秋の2回,ニュージーランドのテカポ湖(Lake Tekapo)へ行きました。
  ・・・・・・
 テカポ湖はマッケンジー盆地(Mackenzie Basin)の北端に位置し,プカキ湖(Lake Pukaki)とオハウ湖(Lake Ōhau)と平行する湖です。マッケンジー盆地に位置する3つの湖の中で最大面積の湖で,面積は83平方キロメートルあり,海抜700メートルに位置しています。湖水は氷河が削った岩石の粉が溶け込んでいるために青緑色をしています。
 湖周辺は人気の高い観光保養地であり,湖の南に位置する人口300人程度のテカポ湖村には数軒のリゾートホテルや飲食店があります。長距離バスの停留所が設置され休憩地にもなっているため,外国人観光客も立ち寄る機会が多いところです。
  ・・・・・・
と,Wikipediaにはありますが,私の目当ては星空でした。

 ここは,本当にすばらしいところです。ただし,有名になりすぎたために観光客が異常に多かったこと,そこで,なかなかホテルが予約できなかったことが難点でした。コロナ禍の現在は,どうなっているのでしょう。また,日本人観光客相手の星空ツアーは存続しているのでしょうか?
  ・・
 私は,2度ともクライストチャーチ(Christchurch)から車で行ったので,テカポ湖からさらにマウントクック(Mount Cook)まで足をのばすことができました。
 ニュージーランドは日本と似ていて,地震災害が多く,また,天気もさほどよくありません。私が行ったときは,クライストチャーチの大地震の復興途中でした。幸い奇跡的に天気には恵まれて,目的の星空を見ることができました。

 今にして思うに,テカポ湖へ行く途中ののどかなカントリーロードや,小さな町がとても懐かしく思い出されます。いつか,そんな町でゆっくりしたいものだと…。でも,実現しそうにはありません。
 本当に,行っておいてよかったところです。
 それにしても,同じ島国なのに,どうして,日本には,どこへ行ってもこんな風景がないのでしょう。

DSC_4697DSC_4690


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSC_9560無題2無題無題3

######
 2022年2月10日にサントリーホールで行われた井上道義さん指揮,服部百音さんヴァイオリンの読売日響交響楽団特別演奏会ショスタコーヴィチ「ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品77」をテレビで放送していたので見ました。
 まるで能の所作のようにステージに現れた服部百音さんは,ニコリともせず,優雅とはまったく正反対で,何かにとりつかれたかのように,全身全霊を集中して演奏しました。
 時節柄,なのか,いや,それだけではなく,格闘技のような演奏に,私はものすごく感動し,引き込まれました。
 この演奏会について,井上道義さん自身がブログで書いていますので,一部引用します。
  ・・・・・・
 特別な日だった。
 雪がまるでペテルブルグのように街を凍らせ「這ってでもコンサートに来る」人以外に門戸を閉ざした。使ってもいない指揮棒が転がり,百音の肩当ても何故か落ちた。しかし,あそこに息づいて居た人の気持ちたちは,どこかに向かっていた。
 音響的にバイオリンコンチェルトにもショスタコーヴィッチにも向かないホールをものともせず,身の回りで何万もの人々が死んでいったドミトリーの作曲時の嘆きと心象風景は巫女を通じて這い上がり,離れ触れることのない距離にいる奏者達を悪魔的パズル音型を集中力という狂気の共感で繫ぎ合わせた。
  ・・・・・・

 服部百音さんは作曲家服部隆之さんの娘で,服部克久さんの孫娘,服部良一さんの曾孫というから,デビューしたときに,失礼ながら,親の七光りか,と私は思い,さほど興味をもちませんでした。しかし,違う。このすごい演奏は,私の先入観をすべて否定するものでした。
 また,井上道義さんは,現在,日本で最高の指揮者だと,私は思います。ショスタコーヴィッチに関して,この指揮者の右に出る人はいません。その指揮者が振るショスタコーヴォッチがすばらしいものでないわけがありません。
 私は,ショスタコーヴォッチで最も好きなのは交響曲第15番なのですが,最高傑作はこのヴァイオリン協奏曲第1番だと思います。
 ヴァイオリニストのダヴィッド・オイストラフ(David Fiodorovich Oistrakh)に献呈されたこの協奏曲は,第2次世界大戦終了まもない1947年から1948年にかけて作曲されたものですが,ジダーノフ批判(Zhdanov Doctrine)をおそれ,しばらく公にされず,スターリン死後の雪解けの雰囲気の中,1955年に発表されました。ジダーノフ批判とは,1948年に公にされた,ソビエト連邦共産党中央委員会による文化,芸術に対するイデオロギーの統制のことで,この批判を推し進めた人物である中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフ(Andrei Aleksandrovich Zhdanov)にちなみます。
 ロシアの狂気に対する遺憾のようなこの「哀しみの曲」は,重く,暗く,深刻で,まったく救いのないものですが,いたましい戦争の犠牲者への追悼と鎮魂の意をもっているともいえます。まさに,戦争しか能のないおろかな人類の懺悔の曲です。
 なお,井上道義さんのブログにもあったように,服部百音さんが第3楽章「バッサカリア」の最後の長いカデンツァが終わり,汗を拭おうとしてヴァイオリンの肩当てを落とし,第4楽章のはじめの3音が弾けなかったというハプニングがありましたが,それも手伝って,まさに,この演奏は壮絶でした。
 コロナ禍以降,本当に聴きにいきたいと思うようなコンサートがあまりなかったのですが,この演奏はぜひ生で聴きたかったと思ったことでした。行きたかったな。

IMG_1838


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_3645

######
 投資の世界では「10年に1度のバーゲンセール」,つまり,戦争やら財政危機によって,株の大暴落とか為替の変動など相場の乱高下が起きます。そして,にわか投資家だけが泥船から振り落とされ,破産の憂き目をみるのです。
 一方,プロの投資家は,売りから入るか買いから入るかというだけの違いで,とにかく,上がろうが下がろうが変動してくれればどちらでも利益を生むわけで,相場が動かないと何も起きませんから,現在のような「10年に1度のバーゲンセール」は大歓迎でしょう。
 ここ30年くらい眺めていると,いつも思うのは,日本の金融政策はつねに失敗しているということです。そして,だれもその総括をせず,だから,だれも責任をとらなくてもいいのがこの国です。実戦経験のない人が防衛大臣をやっているように,投資をしたこともない人が経済をやっているのだから,どんなに学歴があろうと,所詮は机上の空論。ロクにネイティブと英語で交渉したこともない人が英語の教師をやっているように,みんなしろうとなのです。
 未だ,リーマンショックの後遺症が残っていて,現在も,アベノミクスだとかいって,いつまでも金融緩和を続けている日本では,何か事が起きても,対策がとれません。それは,いつも抗生物質を打っているようなものなので,本当に必要なときに薬が効かないからです。
 私は,円安がけしからんといつも書いていますが,実は,私自身は,円安になるとかなり含み益が増えます。しかし,売り買いをする気はまったくないので,傍観者になって相場を見ていると,わずか数分で資産が5ケタの単位で増えたり減ったりするので,金銭感覚がおかしくなります。きっと,これに騙されて投資にのめり込み,破産する人がいるのでしょう。
 人生は1回きりなので,こういう失敗をする人がいるのです。失敗に学べないからです。また,机上の知識やら丸暗記ばかりをしているような「お勉強」では実践には太刀打ちできません。おそらく,日本の政治家やお役人がそうなのでしょう。

 それよりなによりけしからんと思うのは,金融機関が庶民を手玉にとることです。
 現在,1ドルは120円以上という,常識はずれの高値となっています。冷静に考えれば,こんな相場でドルを買う人はいません。しかし,こんな相場になると,やたらと金融機関はドル貯金を宣伝するのです。あるいは,ドル建ての保険を宣伝するのです。そして,マスコミも,売れればいいから,1ドルは130円まで上昇するとかいう無責任な記事が雑誌を賑わせます。瞬間的にはそうなる可能性もあるでしょうが,そもそも,そういう記事が出たときは終焉です。
 銀行は,円が安かろうと高かろうと顧客が交換を願い出れば両替をするのが商売です。よって,1ドルを80円の相場で交換したものもあれば,120円で交換したものもあるわけです。そこで,含み損のあるドルだけを庶民に売りつけて,含み損を減らすわけですが,日ごろ,経済に疎いのにも関わらず欲に目がくらむ人はまんまと騙されるのです。
 ひとつ言えるのは,知識もなく,自分で考えることもせず,マスコミに煽られ,人と同じことをしている人は,決して相場で利益を得ることはないということです。

DSC_2704


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

IMG_4999

######
 世界に類をみない高齢化の進む日本,IT後進国の日本は,まるで,人生の終焉を迎えるような雰囲気です。こうした現状を見据えて,この先,この国をどうしていくかを考えるべきなのに,経済も教育も高度経済成長のころと同じ施策をしています。会社ならすぐに倒産してしまいます。
 少子化を止めるには,生きていて楽しい国になるようにすることが一番大切なのに,若者が不幸では,子どもは増えません。特に教育は,この国では,お勉強というのは,テストでいい点数をとることだという,未だにそんな教育行政をやっているのだから,懲りないものです。こんな楽しくない国,もう,滅びるしかないのでしょう。

 数年前,新たな大学入試改革とやらで英語をどうするかが話題となりました。
 そもそも,40人の生徒を1クラスに押し込めて,ひとりの教師が,それも,コンピュータ設備もない教室で,週に1回ひとりの外国人ALTが来るだけの環境で授業をして,4観点とかいう,話す,聞く,読む,書くという能力を育成しろということなど,どだい不可能な限りです。本当にそうしたいのなら,もっと予算を出して英語の教師を4倍にして,学習環境を整えることが,入試制度を変えることよりも大切なことなのです。
 現在の英語教育は,例れば,中学校や高等学校でやっているような音楽教育を週に5時間6年間やって,生徒全員が楽譜が読めて楽典が理解できてピアノがひけて歌が上手に歌えて作曲ができるようにしようということと同じです。
 そんなことが不可能だということは誰にだってわかりますしわかっていますが,そうした根本的な問題は話題にせず,入試を難しくすればいいというのだから,うまくいくわけがありません。そしてまた,その入試を乗り越えるために,未だに,補習やら模試やらと単に点を取るだけの訓練を,最も生きる力をつける必要のある10代の若者に強いる高等学校の教育というのは,教育という名のまさに軍事訓練,タケ槍で飛行機を落とすとか,バケツリレーで火事をけすといった第2次世界大戦のころのまま,そんなむだな時間の束縛をしていては,優秀な人材は育ちません。

 日本の学校教育は順位づけが大好きで,偏差値とかいう,摩訶不思議なものが幅を利かしているのだから,人より高い順位を得るために,高い偏差値を手に入れるために,お金を出して何事かに頼ることになります。そこで,教育産業が栄え,その産業に群がる人々の食い扶持につながっていくという,つまり,教育という名を借りた産業の育成になるわけです。そして,教育費を捻出するために,親たちは働きに出るというシステムです。一見,うまいこと社会が回っているように思えますが,それは経済のためのことで,教育ではありません。だから,そういう現実を知る親は子供を作りません。
   ・・
 先日,2022年3月23日の朝日新聞オピニオン&フォーラム「論の芽」に「何のための英会話」と題して,立教大学名誉教授の鳥飼玖美子さんの意見が載っていました。
 今では知っている人は少なくなったことでしょうが,鳥飼玖美子さんは,1969年というから今から50年以上も前,アメリカがアポロ11号を打ち上げて人類をはじめて月に到達させたとき,その同時通訳をやって話題になった人です。私は,そのころに英語の勉強をはじめたので,「英語の堪能な若い女性」にかなりの刺激を受けました。そんな,中学校のときは大好きだった英語も,いわゆる「受験英語」となった高等学校の,アメリカから来た留学生の英語すらろくに理解できない教師が,まるで漢文の読解のような授業を行う英語教育で大嫌いになって,それっきりです。
 コミュニケーションができること,人の考えがわかること,それこそが語学を学ぶ目的でなければなりません。「カムカムエヴリバディ」は,そんな日本の英語教育を皮肉っています。しかし,この番組で出てきた遠山顕先生の「英会話入門」,それに続いた「英会話楽習」も昨年9月で突然終わってしまい,NHKラジオの英語講座も,文法重視ものばかりとなって,楽しく学べるものが少なくなりつつあるのが残念です。
 いま一度,遠山顕先生のモットーであった
  ・・・・・・
  Keep listening
  keep practicing and
  keep on smiling!!
  ・・・・・・
を思い浮かべて,私も,下手な英語が少しでも上達するように,お勉強を新たにはじめるとしますか。

◇◇◇


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

DSCN3160JYTK0366DSC_47282019-08-25_16-10-44_5772019-11-30_19-17-24_804

 2020年の3月以降,海外旅行の機会がなくなってしまいました。私は,2020年2月に行ったハワイ・モロカイ島が最後になっています。
 それまでは,ほぼ10年間,毎年7回程度海外旅行をしていました。私がコロナ禍が起きる2年前まで旅をしていたのは,アメリカ,オーストラリア,ニュージーランド,フィンランド,オーストリアでした。
 今日の写真は,上から,アメリカ,オーストラリア,ニュージーランド,フィンランド,オーストリアで私が写した,ツアー旅行では行くことがない郊外の様子です。
 まず,私がこれまでやっていた旅行についてまとめます。
  ・・
●アメリカ
 アメリカを旅するのに車は必須です。車なしでも何となるのは,サンフランシスコ,ニューヨーク,ボストンなどの都会に限られます。
 そこで,私は,空港に着くとすぐにレンタカーを借り,空港で返していました。
 車の運転は,日本とは違って,道路がきちんと整備されていることや道路標示がわかりやすいこと,そして,運転マナーがすごくよいことなどで,日本よりずっと楽でした。
●オーストラリア・ニュージーランド
 このふたつの国は似ています。
 車は日本と同じ左側通行で,人口も少ないので,レンタカーを借りれば,簡単に旅ができます。
 運転マナーはオーストラリアのほうがよくて,ニュージーランドは荒い印象があります。どちらも郊外は片側1車線ですが,そもそも車が少なく,また,数キロメートルごとに追い越し車線があるので,ゆっくり走っても煽られることもありません。
●フィンランド・オーストリア
 私は,これまで,このふたつの国で車を借りたことはありません。なぜか,車を借りて移動する気持ちにならないのです。しかし,実際は,レンタカーでもさほど問題はないような気がします。
 いずれにしても,公共交通機関を使えば,車がなくても,さほどの不便を感じない国でした。
  ・・
 それ以外には,これまで,アイスランドとカナダで車を借りて旅をしたことがありますが,あまりに人も車も少ないので,何かあったときにどうしようかと,むしろそのことが心配になりました。

 ということで,こうした国々は,日本よりもずっと快適な旅ができたのですが,今は,それも不可能なので,とても懐かしいです。
 では,現在の時点で,海外旅行が可能なのかどうか,少し調べてみました。
  ・・
 まず,日本への帰国時です。
 自宅待機は,2022年3月以降は,3回目のワクチン接種が完了していて,厚生労働省が定めた「指定国」以外であれば,必要ないということです。私が上記に書いた国々は「指定国」ではありません。
 ただし,日本帰国時にPCR検査があります。
 相手国を出国する前72時間以内に実施しなければならないPCR検査では,定められたフォーマットがあって,このフォーマットに適合した証明書でないと,無効となります。また,このフォーマットの様式を満たす証明書を発行する病院によっては,検査が可能な曜日や時間が限られていたり,事前に検査の予約をする必要があるというように,簡単ではありません。
  ・・
 次に,相手国に入国する場合です。
●アメリカ
 出発前1日以内に採取した検体によるPCRか抗原検査の陰性証明書の取得と,日本を出発する空港で航空会社へ提出する英文の宣誓書が必要です。
●オーストラリア
 出発3日以内に受けたPCR検査,もしくはフライト出発時刻の24時間以内に受けた抗原検査の陰性証明書の取得,オーストラリアへ出発する72時間前までにオーストラリア内務省のサイトでデジタル渡航者申告が必要です。
●ニュージーランド
 5月以降は,出国前の検査で陰性で,到着時と5日目もしくは6日目の2回の抗原検査も陰性であれば隔離を免除されるようになる予定です。
●フィンランド・オーストリア
 ヨーロッパは比較的緩く,3回接種証明書があれば入国できるようです。
 しかし,それよりなにより,ウクライナ情勢でフライトが制限されていて,ロシア上空を迂回して航行する必要があるので,長時間かかります。フィンランド航空は北極上空を通り,14時間ほどかかるそうです。

 私は,今はまだ出かける気はないので,調べたのはこれくらいです。
 いずれにしても,無症状でも検査で陽性と判定されるリスクがあります。仮に,日本出国前に実施する検査で陽性ともなれば,旅行はすべて直前でキャンセルとなり,航空券,現地のホテルのキャンセル料が必要となってしまいます。また,日本への帰国前に現地でのPCR検査で陽性の場合,日本に帰国できなくなります。また,コロナ禍以前は,最安値であった航空運賃は高くなっていて,しかも,平常時のようなフライトではなく,便数も限られているそうです。
 というように,仕事でどうしても,ということでなければ,これほどめんどうでリスクがある海外旅行は,まだ当分はできそうにありません。残念な限りです。


◆◆◆
「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
過去のブログの一覧は ここ をクリックすると見ることができます。

このページのトップヘ